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無資格手術と「ネプチューンの法廷」〜潜水艦シルバーサイズ

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ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「ガトー」級潜水艦、
「シルバーサイズ」の哨戒を順に語ってきました。

進水以来日本近海と太平洋で日本と戦ってきた「シルバーサイズ」。
最初の哨戒での銃撃戦で戦死者を出し、
哨戒途中に盲腸患者の緊急手術を行ったかと思うと、
敵に見つかり極限の深度まで沈んで敵をやり過ごして
助かったと思ったら今度は魚雷が管に詰まってさあ大変。

これでもかというほどの危機を乗り越えて4回の哨戒を終えました。

ところで、4回目の哨戒で行われた盲腸の手術ですが、
別の記述が見つかりましたので写真と共に挙げます。


■第4回パトロール:無許可の手術

哨戒に出て四日目、クリスマスの二日前のことです。
我々の消防士の一人、ジョージ・プラッターが腹痛を訴え始めました。

「ドク」トーマス・ムーアは、彼が虫垂炎であることに気づき、
すぐさま手術室の設備のある大型艦に彼を移すか、あるいは
どこかに上陸して陸上で手当を受けさせるべきだと考えました。

問題は行くにしても戻るにしても、その100マイルの航路上、
周りに敵しかいないということでした。

ムーアは戦前に受けた医療訓練の過程で手術を何十回も見ていましたが、
もちろん自分ではやったことは一度もなく、というか
医師ではない彼には手術をする資格はありません。

しかし、プラッターは虫垂切除しないと死んでしまいますので、
艦長と本人の同意を得た上で手術を決行することにしたのです。

そこで我々は「シルバーサイズ」を潜航させ、
海中に止まることで動揺しない手術室を彼らに提供しました。

虫垂を切除する手術のために士官用ワードルームが用意され、
テーブルが手術台になりました。
ムーアは手術に必要な器具を全て持っていなかったので、
リトラクター(開創器)の代理としてスプーンを二つ曲げて代用しました。
海軍は、こういうことが起こることを全く想定していなかったのです。


我らが副長、ロイ・ダベンポートがプラッターを眠らせるため
エーテルを管理し始めた時から、オペレーションの写真を撮りました。

このことは、軍法会議が行われていたら関係者に不利をもたらしたでしょう。
(ばっちり証拠写真となるからですねわかります)

幸運なことに手術はうまくいき、プラッターは無事に回復し、
6日後には任務に復帰することができました。

わたしたちが持っている写真はこの時のものだけですが、後から聞いたところ、
「違法手術」は、この後2回、潜水艦内で行われたのだそうです。

*「ドク」ムーアはファーマシスト・メイトでした。

一般的に潜水艦任務は医師や看護師など、高度な技術を持つ人を配置するには
危険すぎるとされ、(それだけ生還の可能性を低く見られていたということ)
衛生兵と同様の訓練を受けたファーマシスト・メイトが乗務しました。

彼らの仕事は、医療援助ができるようになるまで、
とにかく乗員を生かしておくこととされました。

手術以外にプラッターを生かしておく方法が何かあれば、
ムーアはそれを選択したでしょうが、虫垂炎の場合は、それは
手術という方法しかなかったということです。
もちろん無資格なので建前上彼は手術をするべきではありませんでしたが、
結果が良かったのと、場合が場合なのとを考慮され、
ムーアはお咎めなしだっただけでなく、ファーマシストメイトの
チーフに昇進したということです。

「ドク」というあだ名は、最初からついていたのではなく、
プラッターの手術後、乗員がそう呼び出したのに違いありません。


おそらくダベンポート副長が撮影したに違いない、
このときの「手術クルー」(患者含む)の記念写真が残されています。
説明がありませんが、「ドク」ムーアは帽子に手をやっている人でしょう。

手術で命を助けられたプラッターは左から2番目。
彼が抱えているのは、ホームメイドの彼専用おまるなんだとか。

おそらく手術後の安静時に彼のために仲間が制作してやったのでしょう。

( ;∀;) イイハナシダナー

■5回目の哨戒



4回目の哨戒は虚実ないまぜに(笑)戦果も盛りだくさんだったのですが、
5回目の哨戒では旭日ペイントは一つだけです。

「シルバーサイズ」第5次哨戒は5月17日から開始され、
哨戒範囲はソロモン諸島地域、第一の任務は機雷敷設であり、
敷設場所はニューアイルランド島沖となっていました。

6月4日夜、予定通りニューハノーバーとニューアイルランド間にある
ステフェン海峡北口付近で機雷敷設を実施。

その後、「シルバーサイズ」が撃沈したと認識することになる
輸送船を発見することになります。

●輸送船 10,000トン

🇯🇵
6月10日
スコールの中で3隻からなる輸送船団、第2082船団を発見し、1日かけて追跡

6月11日
日付が変わった直後、北緯02度42分 東経152度00分、
トラックの南200海里の地点で浮上攻撃により魚雷を4本発射

特設運送船「日出丸」(栃木商事、5,256トン)に
そのうち3本が命中したものと判断される

駆逐艦「朝凪」が発砲してきたので、
艦尾発射管から魚雷を1本発射して戦闘海域を離脱

この間に「日出丸」は沈没した

🇺🇸6月10日から11日の夜、5,256トンの貨物船「日出丸」を沈めたが、
そのために激しい深度充電に耐えることを余儀なくされた。
栃木商事の特別運送船「日出丸」がトラックで雷撃により戦没したのは
記録にも残されており、撃沈の認識は正確だったことになります。

ただし、実際のトン数が5,256に対し1万トンとほぼ倍盛っていますが。

■ 世にも珍しい事件?(言うほどではない)

5月28日、哨戒中の「シルバーサイズ」で珍しい出来事が発生しました。
第5回戦争哨戒報告書には次のように記されています。

指定された位置に向かって海面を進んでいた28日、
敵のフリゲートバード(艦載機)が我々に高高度爆撃を行ったが、
それはOOD(Officer Of the Deck、甲板士官)であるビエニア中尉の

裸の頭(bare head)とひげに直撃(direct hit)
と記録された。

攻撃はレーダーによる表示はされなかった。

まず、この件で死者はもちろん怪我人も出なかったことから、
「直撃」というのは、髭と「裸の頭」をかすめたことを指すのでしょう。
髭はともかく裸の頭を直撃したらもうあかんのでは?と思いますが。


7月1日、シルバーサイズは44日間の行動を終えてブリスベンに帰投し、
7月16日からブリスベンで改装を行いました。

■ イニシエーション「ネプチューン王の法廷」

さて、この第五次哨戒は、初代艦長、バーリンゲーム少佐にとって
最後の勤務となり、この後、艦長は
ジョン・S ”ジャック”・コイに交代しますが、
バーリンゲーム艦長時代の「シルバーサイズ」のこんな逸話が
博物館の「シルバーサイズ」の写真に添えられているので最後に挙げます。

「水上艦であるティン・カン(駆逐艦)では、
新入りの水兵(polliwogs・オタマジャクシ)に
『ネプチューン王の法廷』なるイニシエーションが行われますが」
特にアメリカでは駆逐艦のことを「ティン・カン」(ブリキ缶)と呼びます。
新入り水兵のことをオタマジャクシと呼ぶのは初めて知りましたが、
これはそのうちカエルになると言うことで説明は要りませんね。
イニシエーションとは「通過儀礼」のことです。
しかし、

「我々の『シルバーサイズ』には
それをする場所がありません」

さて、それではこの「ネプチューン王の法廷」ってなんですか、
ってことなんですが、とりあえずこれを見てください。

King Neptune's court in session during Shellback Initiation ceremony aboard USS I...HD Stock Footage
こんな感じのイベント、どこかで見たことあるぞ、と思いませんか?
そう、帝国海軍でも行われていた「赤道祭り」です。

英語ではこの儀式を「ラインクロッシング」と呼びます。
一般に、海軍の伝統やそこで使われている言葉には、
受け継がれてきた神話が元になっているものがたくさんあります。
例えばオデッセイの「セイレーン」や海の怪物、
「ボースンズ・コール」と言う言葉もそうです。
海軍の伝統は何百年、何千年も前にその源流があるのです。

「ネプチューンの秩序」とも言われるライン・クロッシング・セレモニー。
いつ、どのようにして生まれたかは、よくわかっていません。

しかし、少なくとも400年以上前の西洋の航海術にさかのぼります。
わたしも、これまでは「赤道祭り」は赤道を越えた記念の儀式、
と言う認識しかなかったのですが、本来は、
「まだ赤道を越えたことがない」船乗りのオタマジャクシから、
ネプチューンの息子または娘とも呼ばれる信頼すべきシェルバック
(Shellback、ベテランの船乗り、赤道ごえを経験した水兵、  シードッグ”Seadog”とかバーナクル”Barnacle”ともいう)
への変身を見守るという意味合いを持つ儀式なのです。

そしてこのイニシエーションは、船乗りが航海に耐えられるかどうか、
を試すために慣例的に行われるようになったのです。

上のビデオを見ていただくと、登場人物はネプチューン王、
そして、なにやら手を二人一組で繋がれた水兵さんがいて、
ネプチューンは艦長らしき人に法廷が開かれることを宣言しています。

一般的に、船が赤道を越えると、ネプチューン王が乗り込んできて、
おたまじゃくし、ポリーウォッグが船乗りを装っているだけで、
海の神にきちんと敬意を表していないという罪を裁く、
というのがこの儀式のあらすじとなります。

船の中でも地位の高い者や「シェルバック」歴の長い者は、
凝った衣装を身にまとい、それぞれがネプチューン王の宮廷人を演じます。

軍艦ではあまり見たことはありませんが、民間船では
船長がネプチューン王を演じることもあるのだとか。

目的は、お祭りを通じて、乗組員同士の親睦と団結を深めることです。


帽子の形から、1900年〜1920年頃でしょうか。
ネプチューンとその付き人を演じる3人の階級が知りたい(笑)

おそらく右で腰に手を当てている人が艦長でしょう。



文字通りの「ティン・カン・セイラー」駆逐艦乗りのポリウォークが
赤道を越えた時の「法廷」の様子です。

駆逐艦なのであまり凝った衣装が用意できなかったのか、
とりあえずな感じが否めませんが。

この写真のDD401 USS「モーリー」は、写真が撮られた42年5月は、
珊瑚海海戦にて「ヨークタウン」と「レキシントン」を支援した後、
その後ミッドウェー海戦に参加しています。


■ライン・クロッシングの儀式を行う方法

船ごとに伝統やニュアンスは異なるかもしれないが、
基本的な構成は次のようなものとなります。

赤道通過の前夜、ネプチューン王と王妃、デイヴィ・ジョーンズ、
王室の赤ん坊、その他の高官たちが船に到着します。


ネプチューン王(左)とその王妃(右)

ここからが問題です。

ポリーウォッグはタレントショーで王室をもてなさなくてはなりません。
ダンス、歌、寸劇、詩など、盛りだくさんの内容ですが、
自分たちへの裁きを甘くしてもらおうという懐柔策です。


ショーが終わると、おたまじゃくしたちは、デイビー・ジョーンズから
法廷への召喚状を受け取るのです。

思い出してください。これは「法廷」の前夜祭ですよ。

召喚場を受け取ったおたまじゃくしたちは、翌日法廷に立ち、
シェルバック(ベテラン)の告発に答えなければなりません。

そして当日の朝、なぜか彼らは食べられないくらい辛い朝食をとり、
ネプチューン王の前に出て、裁きを受けることになります。
これに対してポリウォグたちはこれも伝統のパフォーマンス、
服を裏返しに着たり、甲板を這ったり、
食べられない朝食を取り除くなど、色々とやって見せなくてはいけません。
これは一説によると、祭りの1ヶ月前からポリウォーグは
シェルバックから散々馬鹿にされ続けるので、
頭に来て反乱を起こすということの表現なのだそうです。

次に、ポリウォグたちは王の前にひざまずき、
油で覆われた王室の赤ん坊のお腹(意味不明)にキスをします。

そして最後に海水を張ったプールで入浴し、そこで初めて
シェルバックになったことを宣言され、その証書を受け取るのです。

大海原ではこの時のネプチューン王の権威は絶大で、艦長はもちろん、
たとえ大国の指導者であっても例外は認められません。

1936年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領もまた、
海神の前に出頭し、敬意を表するよう召喚されています。

その時の罪状は以下の通り。

海の伝統を無視したこと。
ネプトゥヌス・レックス陛下の魚類を勝手にに扱ったこと。

ネプトゥヌス=ネプチューンになったのがレックスという人だったのかな。
それにしても一体何をやったルーズベルト。



現代の「ネプチューンの法廷」
おそらくロイヤルネイビーのみなさん


■「シルバーサイズ」の”ネプチューンの法廷”
さて、潜水艦「シルバーサイズ」ではこの儀式をする場所がない、
と言うところまでお話ししました。

「しかし、バーリンゲーム艦長が、わたしたちを楽しませることを
決して止めるはずがありませんでした」
お、・・・おお?
「艦長はポリウォグたちに、1日中食べ物を手で食べるように命じ、
その上で夕食にはチャプスイを作らせました」
チャプスイと言うのは、アメリカ人の考えるところのチャイニーズ料理で、
広東料理、炒雜碎(チャーウチャプスイ)が語源です。

モツまたは豚肉や鶏肉、野菜を炒めてスープを加え煮た後、
水溶き片栗粉でとろみをつけ、主菜としてそのまま、
あるいは白飯や中華麺に掛けて食すものですが、
流石にこれを手で食べるのは、手掴み上等のインド人でも辛かろう。
しかしこれ、「ネプチューンの法廷」となんか関連あるか?
「何人かのポリウォグたちは頑張ってこれに耐えました。

そして新入のトム・キーガン中尉は、
24時間どこにいても命令をされました。
コニングタワーにいる艦長とダベンポート副長に
『コーヒーと砂糖』を持ってこい!と命令されましたが、
キーガン中尉はバーリンゲーム艦長には砂糖の代わりに塩が渡され、
ダベンポート副長はかろうじて『コーヒーと砂糖』を手に入れました。

ただし、『コーヒーの粉と砂糖』のみ、お湯無しです。

キーガン中尉は、ダベンポート副長に、

『水を持ってくるようにという命令は受けていません』

と答えました」

水兵だけでなく、潜水艦勤務が初めてなら士官も
ポリウォグ扱いされたってことがわかりました。

しかし、重ね重ねこれって「ネプチューン」と無関係よね?
単なる「パワハラvsとんち」合戦になってないか?


続く。

MK学生寮の下見と美味しいエスニック料理〜ベイエリア滞在

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サンフランシスコに到着し、サンマテオの住居に落ち着き、
翌日はとりあえずMKの新しい住居となるレジデンスを見に行きました。

マスターを取ることになった大学は、偶然ですが、
彼が高校生のとき参加していた業者主催のITキャンプ開催地の一つです。

何年間か連続で同じキャンプに参加し、この周辺に住んだお陰で
わたしも地域や大学の中にもとても詳しくなっていたのですが、
そのときは、また帰ってくることがあろうとは思っていなかったので、
(MKは規模の大きすぎる大学を避けて受験もしなかった)
こうやってここにいる今となっては、何やら縁を感じずにはいられません。



キャンプの時にはこの教室でやったとか、
週末の「ショーケース」(展示日)にはあそこで表彰式をやったとか、
そしてショーケースの日は外で待機させられて死ぬほど暑かったとか。

そんな思い出を話しながらレストランやスターバックス、
人気のジュース屋さんのある一角までやってきた時でした。

わたしがふと思い出したことがあります。

「そういえば、キャンプの教室に忘れ物をしたかなんかで、
連絡したら、学生さんがここに届けてくれたことあったよね?」
と言うと、驚いたことに、MKはそれを覚えていたどころか、

「あの人、大学助手でまだここにいるよ」

なぜそのことを知っているのか聞くと、その時、
忘れ物の受け取りのやりとりをメールでしたのでアドレスを持っていて、
今回、ふと思いついて検索したら、本人の情報が出てきたそうです。

その人はMKと同じエンジニアリング専攻だったということで、
これもなんか縁を感じるなあと思ってしまいました。

忘れ物がなんだったかも忘れてしまいましたが、その時の彼の、
頭の良さそうな雰囲気と容貌に、内心感嘆した覚えはあります。



これからしばらく自分が生活し、勉強する場所になるという気持ちからか、
どうしてもMKの歩調は「ホームスピード」的に速くなってしまうようで、
わたしたちを置いてスタスタ先に行こうとします。
この後、広くて品揃え豊富なユニバーシティショップに立ち寄って、
大学のロゴが入ったコーヒーマグと散歩用のサンバイザー、
フーディとTシャツ(別名;親馬鹿セット)を買い込みました。


そして忘れちゃいけない、大学院生の寮の位置をチェックすること。
Googleマップで既にそれが、キャンプの時に毎日通っていた
道沿いにあることは既に確認済みですが、やはり実際に見たいよね。

ただし、引っ越しの日になるまで部屋はどこになるかわからず、
学生証もその時に受け取るので、中に入ることはできません。

それにしても、これが大学院生の寮ってすごくない?内部には食堂やカフェなどがあって、一歩も外に出なくても生活できるとか。引っ越しの日に中を見るのが楽しみです。
■ 美味しいエスニック料理


着いてすぐ、家から車で5分の所にあるモールに行きました。
MKは服を買うことに全く興味がなく、何か買ってやると言っても
あるからいい、と言っていつも同じ服を着ているタイプです。

しかしまあ、さすがにお洒落と関係なく膝が破れたジーンズとか、
肘が抜けて襟の端が破れてきたシャツは良くないと思ったのか、
この際、着るものを買い揃えると言い出し、さらに、
『カリフォルニアは日差しが強いから』と言って、
度付きのサングラス(レイバン)を誂えることにしたのです。

このモールは昔、やはりMKの服を買いに一度来たことがありますが、
久しぶりに来てみたらリノベーションと増築がされたばかりで、
新しくなってお店もずいぶん気の利いたものが増えていました。

ついでにあちこちに猫とかウサギとかを象った妙な石像が・・・。
ジーンズを買うことにして、最初にあったラッキージーンズに入って、
そこにいたやたらプロフェッショナルな店員さんに相談しながら、
気に入ったジーンズをあっという間に2本お買い上げ。

続いて、ノードストロームでカーキのパンツ、
バナリパで上に着るシャツをお買い上げ。
好き嫌いがはっきりしている彼の買い物は決断が早く、
瞬時も迷わないので、あっという間に済んでしまい、付き添いは楽です。



この日、モールのフードコートに行ってみたら、なんと
KURO-OBIという名前の中身一風堂ラーメンの店がありました。

ニューヨークでも人気でしたが、ここにも進出していたとは。



早めの夕食を食べてしまおうということになり、
3人がそれぞれ別のラーメンを選んで食べてみました。

普通に美味しかったです。

ピッツバーグの知人とお別れディナーをした時、

「カリフォルニアに行ったら美味しいものがたくさんあるからいいわね」

と言われたのですが、本当にここは、巷に美味しくて安価な店があり、
毎日の外食に全く困りません。
特に、メキシカン、インディア、チャイニーズの「三大エスニック」!

この日のお昼は家族でやっているような小さなお店のインド料理。
MKは迷わずバターチキンカレーを頼んでいましたが、
わたしは適当に選んだカレーが辛すぎたので交換してもらいました。


小さな店内で客はわたしたちだけでしたが、時間がかかったのは
もしかしたらナンとロティを手作りしていたせいかもしれません。



家の近所を検索しただけで、美味しそうな店が
次々と出てくるのが、ここベイエリア。
この日のメキシカンは大当たりでした。
メキシカンというと安価で庶民的なイメージですが、
ここは少しだけお洒落で少しだけ高級なイメージ。

大きな壁画の前のグループは、お誕生日のテーブルを囲んでいて、
最後にはケーキが出されていました。




どこでも食べられるウワカモーレですが、ここのは
チップスの歯応えからして違っていて、まずここで衝撃です。



わたしは全ての日本人と同じくあまりメキシカンに詳しくないのですが、
MKがそこそこ友達との交遊で知識があるため、
メニュー選びはほとんどお任せにしています。

これは彼が選んだ「セビーチェ」。
南米風の魚介マリネのことで、これは三種類の味が楽しめます。


名前は忘れましたが、サフランライスを使った魚介のパエリア的料理。
マッセル(カラス貝)も入っていて豪華版です。


見るからに美味しすぎなシーフードタコス。
野菜と共に混入しているのはそれぞれフライしたエビやタイです。

これだけ美味しいところならデザートも期待できるよね?
と3人で頼んでみた渾身の?チュロス。

チュロスというと、わたしを含め多くの人は
ディスニーシーで食べるあれしか知らない向きが多いかと思いますが、
こんな風にお洒落デザートになって出てくると、別物のようです。

いうて基本は同じ揚げたパンには違いないんですけど、
何が違うのか、チュロスなのに高級風なかほりがしました。


■ U-BOXとの再会
荷物の中に入れておいたAirTagのおかげで、ピッツバーグを出発し
今どこにいるのか刻々と追跡することができたU-BOXの引っ越し荷物。
順調に西海岸に向かって進んでいましたが、
われわれがピッツバーグからサンフランシスコに移動した時、
ちょうどわたしが写真を撮っていたあたりにいて、
追い越していたことが後でわかりました。

その後荷物がベイエリアのハブであるヘイワードに到着、そこで一泊して、
動き出してレッドウッドシティに到着したことを確認した次の日、
U-HAULから正式にコンテナの到着を通知してきました。

早速中身の確認と必要なもの(わたしも荷物を入れた)
の取り出しに、レッドウッドシティに駆けつけます。

ピッツバーグと違い、敷地のほとんどが駐車場で、そこでカスタマーは
わたしたちがやったように荷物を車からBOXに入れたり、
また出したり、とにかく自由というか勝手にやるというシステムです。

わたしたちの近くでは、テキサスナンバーの車の3人の親子が、
BOXに荷物を詰め込んでいるところでした。

うちのBOXは荷物が少なくて上がガラガラでしたが、
本来はここの家族のように家具やベッドのマットレスなど、
それこそ空間がなくなるくらい詰め込むものなのです。




オフィスにBOXの取り出しを依頼すると、このお兄ちゃん
(便宜上ジミー・ブラウンと命名)が、手足のようにフォークリフトを操り
BOXを車の後方にまで持ってきてくれます。

このフォークリフトはTOYOTA製で、ジミーは乗る前に
青いガスボンベのようなもの(おそらくLPガス)を積んでいました。



というわけで、ジミー・ブラウンが持ってきてくれたBOXと
ピッツバーグ以来の再会です。

大陸を(北東部からとはいえ)横断してきたと思うと、
滅多にこんな体験をすることのない日本人には感無量です。

いざ!と鍵を開けようとしたら、ドアが釘でシールされていました。
移動中ドアは開けていませんよという印です。
ジミー・ブラウンは、持ってくるだけ持ってきて、
全く封印については言及せず行ってしまったのみならず、
開けるように頼んだところ、持ってきたねじ回しの大きさが違い、
巨体でのそのそと事務所に取り替えに戻ったりしていました。

なんというのか・・・これもまた西海岸っぽい。


扉を開けて、荷物に異常が全くないことを確認後、記念写真。
この後、わたしが手荷物を入れたコンテナと、
MKがプアオーバーを入れるための道具を取り出しました。

わたしのコンテナには蓋にマークをしておいたので
(ピッツバーグで向かいにあったドーナツ屋さんの猫シール)
すぐわかりましたが、コーヒーのグラインダーなどをどこに入れたか
透明のケースなのに全くわからず、いくつかの箱を出して
蓋を開けては戻すということをしなくてはなりませんでした。
今後の教訓として、引っ越し荷物には中に何が入っているか、
外側にラベルで明記することにします。

果たして今後があるのかどうかは謎ですが。



家族三人でいられるのももう後わずかとなったので、
できるだけ三人で散歩も行っています。
かつてわたしが一人きりで開拓した西海岸のトレイルを順に巡るのですが、
また今回も、このコヨーテポイントにやってきました。

コヨーテポイントは、以前ここでも何度かご紹介した、
戦時中にマーチャント・マリーンの養成学校があったところで、
今はゴルフ場、キャンプ場とヨットハーバーになっています。



空港にまで漂っていた「レッドウッド」の林の中を歩くコースは
公園利用料(6ドル)を支払う価値は十分です。
今回久しぶりに行ってみると、キャンプ場は美しく整備され、
ビーチには海水浴客のために砂浜が整えられていました。



こんなところで誰が泳ぐんだ?とわたしなど思ったりするのですが、
(昔ここには遊園地があってプールも併設されていたが、
あまりの寒さにプール利用客がなく、それだけでは理由ではないけれど
閉園になってしまっている)波の穏やかなこの日、なんと
沖を見ると泳いでいる人がいるのを発見!

実は、この後散歩が終わって車に帰ったら、横に駐車していた人が
バスタオルで体を拭いていたので、さっき泳いでた人かしら、
とこっそり横目で様子を観察したところ、年齢は六十代、
筋骨隆々というほどでもない普通の白髪の男性でした。

「元オリンピックの水泳選手とかかな」

「フェルプスじゃない?」

「フェルプスもっと若い。顔もフェルプスほど長くないし」

などと失礼なことを言い合いました。
(単にアメリカの水泳選手の名前を他に知らなかっただけです)

わたしの西海岸在住の友人の隣人は、昔NASAにいて、
アポロ計画に関わっていたという素性の人なんだだそうですが、
そういう経歴の人が普通にたくさんいるのがアメリカという国。

この人がオリンピック選手で、ミュンヘンオリンピックに出たことがある、
という過去を持っていたとしても全く不思議ではありません。



食べ物の画像ばかり上げるので、外食ばかりしていると思われがちですが、
もちろん、材料を買ってきて家で料理を作って楽しんでいます。

アメリカは普通にオーブンが大きくて使いやすいので、
この日はMKが検索したレシピにより、チキンと野菜のグリルを作りました。

味のポイントは、MKがこちらで気に入って使っている、
MOMOFUKUのピリ辛ソースをブロイルの前にかけて味付けをするところです。

モモフク(Momofuku)はニューヨークを本拠とするレストラン・チェーン。
韓国系アメリカ人のシェフ兼実業家デイビッド・チャンが創業したブランドでニューヨークを中心に実店舗を展開していますが、
麺やソースなどの販売も、全米でおこなっています。

コリアン・アメリカンなのになぜ日本語の名前を?と思うのですが、
創業者曰く、日清食品創業者、安藤百福へのオマージュであり、
ラッキーピーチ(桃福)はおめでたい意味だからなんだとか。

ただし、この人は日清食品または安藤氏とは全く無関係です。
もしかしたら単に「日本系の食品会社と思わせたい」
ということなのかもしれません。知らんけど。

ちなみに、モモフクの商品はターゲットなどでも買え、
インスタント焼きそばなど、よく日清を研究していると思いました。

さて、わたしたちのここベイエリアでの生活はもう少し続きます。
最大のイベントは、MKのドームへの引っ越しです。


続く。

ジャック・コイ艦長就任〜潜水艦「シルバーサイズ」第6、7次哨戒

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潜水艦「シルバーサイズ」の哨戒の履歴を
第1次から第5次までたどってみました。

6次からは、艦長がクリード・C・バーリンゲーム少佐から
ジョン・S・’ジャック’・コイ少佐に変わります。


この写真は、「シルバーサイズ」の艦長室なのですが、
さすがは潜水艦、どんなに頑張ってもこんな範囲しか写りません。

これならiPhoneの広角で撮るんだったと激しく後悔しています。
サンフランシスコに展示されていた潜水艦「パンパニート」などは、
乗員の部屋に女性のフォトフレームが置いてあったり、
大抵の水上艦の艦長室には制服がかけてあったりと、
それなりの演出がされているものですが、「シルバーサイズ」には
そういった名残を感じさせるものは一切ありません。
■ 新司令の元に(第6次からの哨戒)


5回のパトロールが終了しました。

バーリンゲーム艦長とダベンポート副長は移動で『シルバーサイズ』を去り、
我々は新しい艦長、ジョン・C・コイ少佐と
ボブ・ウォーシントン(Worthington)副長を迎えることになりました。

上の写真には、「勤務初日のコイ艦長」とキャプションがあります。
コイの名前は John S. "Jack" Coye, Jr.で、
我々には聞きなれない変わった苗字ですが、イギリス系の家系の名前です。

時々男子のファーストネームとして使用されることもありますが、
ファミリーネームとしてはイギリスでも珍しい名前だそうです。

ここで艦長は上下逆さまにした「戦利品」の旗を持っていますが、
おそらく漁船の船名であろうと思われる「徳島」が読み取れます。
(昔は旗の根元から右に向かって読んだため)
続きです。
ウォーシントン少佐は、下士官(junior officer)からスタートして
潜水艦副長にまでなった人です。

ジュニア・オフィサーは「尉官」と訳されることもありますが、
この場合は、ウォーシントンが下士官出身、旧海軍の特務士官、
世間で言うところの「叩き上げ」であると解釈すべきでしょう。

帝国海軍では歴然とした士官学校卒とそれ以外の「身分差」があり、
下士官からオフィサーになっても「特務士官」と色分けされましたが、
アメリカ海軍は、実力次第では(特に開戦以降の潜水艦は)
副長にもなれた、ということのようです。

そういえば、映画「ハンターキラー」でも、主人公の原潜艦長は
兵学校卒ではなく、叩き上げの下士官出身でしたっけ。

最初はずいぶん兵学校卒の副長に反発されていたようですが。


「コイ艦長は6次にわたる哨戒と、その間の
オーバーホールの期間を通じ、
我々を率いて、敵船14隻の撃沈スコアを挙げました」

■ 6回目の哨戒

「可愛い魚雷」が寝ております。
シュールですが、なかなかキッチュで和むデザインですね。

第6次哨戒では、魚雷を1発も発射しなかったってことでしょうか。

見ていきましょう。

🇺🇸
6回目の哨戒では、新任のジョン・S・"ジャック"・コイJr.中佐のもと、
7月21日から9月4日までソロモン諸島とカロライン諸島間をパトロールした。

魚雷の不調と目標の少なさに悩まされ、手ぶらでブリスベンに帰還した。
英語の記録ではこれだと攻撃を全くしなかったように書かれています。
ただ、これがわたしにはなぜなのか、ちょっとよくわからないのです。

なぜなら、日本側の記録によると、以下の通りだからです。

🇯🇵
7月21日、シルバーサイズは7回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。

8月2日朝、シルバーサイズは、北緯04度36分 東経149度20分の地点で、
13ノットから16ノットの速力で航行する神川丸級輸送船に対して
魚雷を4本発射し、次いで浮上して砲戦を行おうとしたが、
間もなくスコールが目標をかき消してしまった。

8月5日には、北緯01度53分 東経153度32分、
ラバウル北北東340海里の地点で敷設艦「津軽」を発見し、
艦尾発射管から魚雷を4本発射して2本を命中させ撃破する。
いや、これ・・・魚雷全く寝てないんですけど。

敷設艦「津軽」

このとき撃破されたという「津軽」の艦歴を見てみましょう。

敷設艦「津軽」は、ラバウルで空襲を受け、
その修理を横須賀で行って、再びラバウル、ブイン、トラック泊地間で
魚雷輸送任務等に従事していました。

8月4日、トラック泊地を出撃してラバウルに向かったところ、
8月5日、米潜水艦「シルバーサイズ」から雷撃されて損傷し、
ラバウルで応急修理後、再び横須賀で修理と整備を実施しています。

「津軽」は機雷敷設艦ですが、ある時は航空隊の無線で
戦艦だと認識されていたことがわかっているくらい大型艦でした。

そこでさらに疑問が湧きます。

機雷敷設艦といえども、この大型艦に雷撃で損傷を与えたことは、
彼らにとって誇るべき記録のはずです。

なのになぜ、当時の「シルバーサイズ」は、魚雷を眠らせていたとし(笑)
さらに英語の記録でも、このことが全く書き残されていないのでしょうか。
「津軽」撃破後は、確かに不調だったようですが。
🇯🇵
「津軽」撃破後はなかなか攻撃の機会がなく、
8月21日に北緯05度00分 東経149度50分の地点で病院船
「ぶゑのすあいれす丸」(大阪商船、9,625トン)を確認した。



この時の「ぶゑのすあいれす丸」は、潜望鏡を通じて
このように写真が撮られています。

Periscope Photo
Hospital ship, that's safe,
cargo ship that wasn't
(病院船は見逃すが、貨物船はそうはいかない)
というキャプション、そして次のこの写真と共に。


貨物線ではなく漁船に見えますが

さて、この後も、日本側の記録は続きます。

🇯🇵
8月29日
北緯04度30分 東経150度48分地点で
9ノットで航行する輸送船を発見し、浮上して追跡を行う。

8月30日
日付が変わった未明、北緯02度40分 東経150度00分の地点で
「シルバーサイズ」は水上攻撃で魚雷を6本、20ミリ機銃による射撃を行う。

やがて5つの爆発音が轟き、間もなくレーダーの反応もなくなったが、
目標を沈めたとは判断されなかった。

うーん、おかしい。おかしすぎる。
これまでの戦歴では、もっと曖昧な確認でも「撃沈」「撃破」認定したはず。
なぜ今回はこんなに認定に慎重だったのでしょうか。


いずれにしても、結果的には目標と遭遇するチャンスがなく、
たまの機会もそもそも魚雷が不調だったりして、
「戦果はなし」と言わざるを得ない状態だったのは確かです。
実際そうだったかどうかはともかく、初代艦長のバーリンゲームは
初回哨戒から派手に戦果を上げたとされていたので、
後を引き継いで新しく艦長になったコイ少佐は、
内心プレッシャーを感じていたのは確かだと思います。

しかし、攻撃を仕掛け、爆発音を確認し、
レーダーから敵が消えたのにも関わらず、撃沈撃破としなかったのは、
この新艦長の慎重さと、自己評価に対する厳しさ、
あえて言うなら誠実とか正直と言った言葉を彷彿とさせる、
その人物像にもつながるのではないかと思うのですが、
果たして実際はどうだったのでしょうか。

9月12日、
「シルバーサイズ」は53日間の行動を終えてブリスベンに帰投しました。


■ 第7次哨戒



● TAIRIN MARU 7,600 TONS

● FREIGHTEN 7,000 TONS
●JOHORE MARU 6,182 TONS
● KAZAN MARU 7,000 TONS
● FREIGHTER 5,000 TONS

まず、第7次哨戒の英語Wikipediaは非常に淡々と記されておりますが、
判明している船名は一部正確で、艦内のペイントと一致します。

🇺🇸「シルバーサイズ」は10月5日に第7次哨戒に出航し、
ソロモン諸島からニューギニア沖にかけての海域で敵艦4隻を撃沈した。

10月18日には貨物船「タイリン丸」
10月24日には貨物船「テンナン丸」「フウリン丸」、
客船・貨物船「ジョホール丸」を相次いで沈没させる果敢な攻撃を行った。

艦内ペイントは「カザンマル」、戦後記録は「フウリンマル」・・・?

なぜここで武田信玄。

さて、それでは今のところ最も正確な(喪失した側ですのでそれも当然かと)
日本側の記録を見てみましょう。

🇯🇵
10月5日
「シルバーサイズ」は7回目の哨戒で
「バラオ」 (USS Balao, SS-285) とともにビスマルク諸島方面に向かった。



「バラオ」は「バラオ」級のネームシップです。

10月17日午後
「シルバーサイズ」は北緯00度23分 東経142度03分の地点で
5隻の輸送船と2隻の護衛艦からなるソ406船団を発見し、
「バラオ」と連携して船団の追跡を開始。

やがて「バラオ」が先に攻撃を仕掛けたらしく、
「シルバーサイズ」は爆雷攻撃の音を聴取します。

日没後浮上し、「バラオ」から船団の様子を聞いた上で追跡を再開。

10月18日
北緯00度20分 東経143度02分のアドミラルティ諸島北西300海里の地点で
船団に追いつき、魚雷を6本発射して2本が命中するのを確認。

この攻撃で陸軍船「大倫丸」(大洋海運、1,915トン)を撃沈する。


「シルバーサイズ」が撃沈地点付近を捜索すると
 "TAIRIN MARU KOBE" 
と記された浮遊物を発見します。



喜色満面で海から浮き輪を引き揚げる乗員



浮き輪から顔を出しているのは新艦長のコイ中佐。

この後も10月19日まで「バラオ」とともに船団追跡を行うが、
スコールや爆雷攻撃で時間を取られ、いつの間にか引き離される。

10月22日
夕刻、南緯00度10分 東経147度39分の地点で、
ラバウルからパラオに向かっていたオ006船団を発見し、
再び「バラオ」とともに追跡を開始する。

オ006船団に対する攻撃も「バラオ」が先に行うが、
船団を一時的に乱したものの駆潜艇の制圧で退散してしまう。

次いで「シルバーサイズ」が攻撃する番となり、
魚雷を4本発射して爆発音を聴取するが、
船団に変化はなく命中しなかったと判断された。

浮上して追跡を続けるが、そのうち「バラオ」とは離れてしまう。

10月23日深夜
レーダーによりオ005船団を再び探知し、魚雷を6本発射。
6つの激しい爆発音と物体の圧壊音、爆雷攻撃の音を同時に聴取した。

この攻撃により、

海軍徴傭タンカー「天南丸」(日本製鐵、5,407トン)を魚雷2本で撃沈、
陸軍船「華山丸」(関口汽船、1,888トン)、
陸軍船 「浄宝縷(じょほーる)丸」(南洋海運、6,182トン)撃破

あっ、「火山丸」じゃなくて「華山丸」だったのね。
風林火山じゃなかったのか。

攻撃を受けて撃破された陸軍船2隻は、最終的に自沈処分されたわけですが、
「シルバーサイズ」はどうやら一隻にとどめを刺したと見られます。

🇯🇵
爆雷攻撃の音が遠ざかり、潜望鏡深度に戻して観測すると、
航行不能状態で漂っていた「華山丸」と「浄宝縷丸」を発見。

「シルバーサイズ」が浮上して周囲を捜索すると、
「華山丸」の名が入った救命浮き輪を発見しました。

そのとき「華山丸」は「シルバーサイズ」から約1,400メートル離れた場所に
自沈処分されて浮いていましたが、間もなく沈没しました。

浮いていた「浄宝縷丸」に、「シルバーサイズ」が
4インチ砲と20ミリ機銃の射撃および1本の魚雷を撃ち、
北緯02度45分 東経140度41分の地点で沈没しました。

10月26日未明
「オ005船団の残党」と思しき輸送船団を発見し、
最初と二番目の目標に対して艦首発射管から4本、
船団最後尾の目標に対して艦尾発射管から2本と魚雷を計6本発射し、
爆発音と最後尾の目標から発せられる閃光を確認し、
魚雷は1本が命中したと推定された。
これが、「シルバーサイズ」のワードルーム戸棚に、
「貨物船」5,000トン、と書かれていた日本船のことです。

7回目の哨戒では魚雷が寝ていた(に等しい)と自己評価した
「シルバーサイズ」ですが、8回目になって大船団に出くわすといった
幸運に恵まれて、大がつくほどの戦果を挙げることに成功しました。

初の哨戒で不本意な結果に終わったコイ艦長は、
これでようやくプレッシャーから解き放たれたのではなかったでしょうか。

ちなみに、どの記録においてもニューギニア北方で雷撃により
撃沈されたことが一致している「大倫丸」ですが、
「シルバーサイズ」が7,600トンと認識しているのに対し、
実際は1,950トンとほぼその4分の1くらい小型となります。

何をどう勘違いしたらこんな誤認が起きるのでしょうか。


11月8日、「シルバーサイズ」は36日間の行動を終え、
主に改装のため真珠湾に帰港しました。

続く。



サンフランシスコの一日

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MKの大学院入学のために、西海岸にやってきました。
間にコロナ禍があったため、実に3年ぶりのベイエリアです。

着いて早々に、かつて住んでいたサンフランシスコに行くことにしました。

MKがバックパックの買い替えのためにセレクトした店があり、さらに、日本酒専門店、お茶の専門店にも行ってみたい!
ということで、車で30分ほど走って市内に到着です。
■ピークデザインのバックパック


まず、バックパックを購入するためヘイズエリアへ。

ここはシンフォニーホールやジャズ音楽院があって、
アーティスティックな人たちが集まる活気のある界隈です。

お洒落なお店が並ぶ一角に、オリジナルのカメラバッグ専門店があります。


peak designというこのブランドは、日本でも商品購入可。
売りはバックパック型のカメラバッグです。

「2010年、アメリカのキックスターターで資金募集を成功させ、
一躍その名を世界の写真業界に轟かせた」

という企業で、カメラマンである 創業者が、
アウトドアでの撮影時の不満を解消するための画期的なものだとか。

「スキーをしながら写真を撮りたいと思ったとき、止まり、
ストックを地面に刺し、バックパックのストラップをはずし、降ろし、
カメラを取り出す。撮り終わったらその逆…
毎回そんなことはしていられなかった。
撮りたいと思った瞬間はあっという間に去ってしまう」

彼はその経験から、いつでもすぐに簡単にカメラにアクセスでき、
かつ安全にそれを持ち運ぶ方法を考え、デザインし、製品化しました。

peak design

こちらで買うと、日本の代理店よりはもちろん安価です。

軽くて中には仕切りがあり、レンズなどを入れるのに便利。
MKは軽さと完全防水と仕切りの多さでこれを選んだようです。
実際に見て、グレーのバックパックが気に入ってお買い上げ。

昔、中高生くらいの時にもう少しルーズな形の
オリジナルバックパックを買ったTIMBACKの本店は、
偶然この向かいにありました。
Timbackはもういいの?と聞くと、MKは「卒業した」と答えました。


■ 日本酒専門店 TRUE SAKE



さて、次はTOとMKの希望で、日本酒専門店、
TRUE SAKEへ。



「True Sake」はピークデザインの道を隔てて向かい側。
アメリカ国内唯一の本格的な日本酒専門店です。

日本からお酒を送るのが大変なので、ここから何度かアメリカ国内に
(お礼とかMKのお祝い用とかで)お酒を送ってもらったことがありますが、
実店舗に行ったのは、もちろんこれが初めてです。

わたしはお酒を飲まない飲めない体質なので、
二人が選ぶのをぼーっと横で見ていただけですが、結局、
「作」 ZAKU ざく 穂乃智 ほのともというお酒をを購入したようです。


「ZAKU」は、世界一おいしい日本酒を決める、
世界最大の日本酒コンペティション「SAKE COMPETITION」にて第1位に輝いた、三重県 清水清三郎商店の定番純米酒です。




買い物を済ませて車に戻ろうとすると、街角に
「かき氷(シェーブドアイス)の店 NAYA」というお店がありました。

ジャパニーズカレーというメニューもあったので日系の店かと思ったら、
かき氷は日本風ではなく・・どこだろう?とにかく南国風です。

まずこの「氷」ですが、水を凍らしたものではなく、
なんだか物凄くふあふあしていて甘いのです。

「なんだこれ・・・甘い」

「練乳凍らしてるのかな」

何かわからないままに三人で美味しく食べてしまいました。
後で調べたら、練乳混じりのかき氷は台湾風なんだそうです。


■ SONG TEAでお茶の葉購入
さて、次はピッツバーグで贔屓にしていたコーヒー専門店、
「コンステレーション」のクリフとエイミーおすすめの、
お茶専門店、SONG TEAのあるサッター通りへ。


「コンステレーション」で、わたしたちは時々
コーヒー以外のお茶なども楽しんでいたのですが、特に気に入ったのが

「佛手 ブッダズパーム(仏の手のひら)」

という紅茶のように甘い美味しい台湾烏龍茶でした。

彼らに、それを仕入れている店がサンフランシスコにあると聞いて、
ぜひ行ってみようと前々から言っていたのです。



するとその前の教会から見たことのない民族衣装の人たちが
大量に出てきたので、思わずなんだろうとそちらに注目したら、
教会には「マセドニア・バプテストチャーチ」とあります。

「マセドニア・・・マケドニア・・?どこのことだっけ?」

マケドニア文明というとギリシャ的なイメージがあるから、
あの辺の人たちなのかしら。

しかし、やっぱりアメリカっていろんな人種が暮らしているんだなあ。

SONG TEAでは、烏龍茶「佛手」の他に、
人参茶、マシュマロ茶、などのノンカフェインセットを買いました。

MKがお茶を飲むための急須と湯呑みが欲しいと言っていましたが、
ここで扱っている陶器は作家ものなのでお値段に手が出ず。

「どこに行ったらあるかな」

「やっぱりジャパンタウンでしょう!」


■ ジャパンタウン

ということで、この後ジャパンタウンに車を停め、昔からある
ジャパンタウンの荒物屋さん、「SOKO」(倉庫)に行きました。


SOKOで湯呑み3個と急須を買いました。
湯呑みの模様の処理が日本で売っているものにはない雑さですが、
これはアメリカだから仕方ない・・・のかな。

この日ジャパンタウンに行ってびっくりしたことは、
普通のモールにはあり得ないようなその人の多さ。
今まで何度もここに来たことがありましたが、
こんなに人が溢れかえっているのを見るのは初めてです。

日本人にとっては扱っている商品はともかく、その佇まいも
実に昭和な感じの臭みみたいなのがあって、
決して居て心地の良い空間というものではないのですが、
どこに行っても金太郎飴のように判で押したようなアメリカのモールに
飽きた人たちにとっては、たまには来てみたいところかもしれません。

それにしても、この日は人大杉。一体ジャパンタウンに何があった。

「もしかしたら鬼滅の刃のヒットとか関係あるかな」

「鬼滅とは限らないけど、まあ、日本のアニメとか文化に
興味を持つ人が前より増えたってことなんじゃないかな」



なぜか突如現れる大阪城。
訪れている人の人種は圧倒的に東洋系が多いのですが、
これが皆日系とは思えないんだよなー・・・。


文化祭のデコレーションみたいなこのチープ感よ。



夕ご飯にはここでうどんを食べようということになりました。

お店の入り口には名前を登録するiPad状のものがあり、受付は無人。
時間が来た時に前に戻っていれば案内してくれるという仕組みです。

雰囲気は昭和ですが、この辺は普通にハイテク日本です。(意味不明)

しかし、予約時間に店の前に全員が揃っていなければ入れてくれません。
後から一人くるから、という言い訳は一切できない厳しい掟でした。
(TOが時間に帰ってこなかったのでしばらく入れなかった)

で、頼んだうどんですが・・まあ普通か、ちょっとその下くらいかな。
30分も待って食べる価値があったかというと、もちろんそれはありません。

ここがアメリカだから我慢して食べてやるというレベルでした。

MKが頼んだカレーうどんの方が美味しそうです。

■サンフランシスコ北西岸


今回サンフランシスコに来て、とても残念なニュースを知りました。

映画「1941」の冒頭で、三船敏郎艦長の日本の伊号潜水艦が浮上し、
その時に潜望鏡に全裸の女性が捕まっていたシーンで有名な(有名かな)
サンフランシスコの右肩部分海岸にあった絶景レストラン、

「The Cliff House」

が、2020年12月31日に閉店していたのです。

理由はやはりCOVID-19による影響ですが、
家主である国立公園管理局(NPS)が長期リースを遅らせたせいです。

ただ、サンフランシスコの象徴的な建物であり、場所なので、
サンフランシスコ監督委員会はNPSに対し、テナントを探す一方で
レストランの業者をすぐに見つけるように促す決議案を可決しました。

公園管理局はそれを受諾したので、次に来た時には
素敵なレストランがオープンしてくれていることを祈ります。

レストランがオープンしていないと、車を停めるのだけは楽ですが。


ボードはあまり見えないので、皆ボディーサーフィンの人のようです。

「ボディサーフィンというスポーツをやると、多くの人が、
詩人か馬鹿者あるいはその両方になる可能性がある」

この日はいい波が来ているらしく、たくさんの詩人か馬鹿か、
あるいはその両方が、波間に浮かんでいるのが見えました。


■ ゴールデンゲートビーチ



サンフランシスコに来たら一度は行かねばならぬ。
それがゴールデンゲートビーチのクリッシーフィールドです。

ジャパンタウンとは別の日、散歩を目的にやってきました。



アルカトラズも健在。



日差しは強いですが、空気が冷たいので本機の散歩には絶好の日和です。
歩きながらバードウォッチングも楽しめます。



ヒッチコックの「めまい」のシーンにも登場する岸壁の鎖。
これは、人のためというより車が飛び込むのを防止しています。

経年劣化で鎖どめにレイヤーケーキのような層が現れていますが、
これってそろそろ車が突っ込んだら倒れるんじゃないだろうか。


その昔、この建物、パレスオブファインアーツの横に
サンフランシスコの科学館があって、サマーキャンプに参加したものです。

この一角は、1915年サンフランシスコ万国博覧会の用地として
土地を埋め立て平坦にし、この壮麗な建物もそこに建造されました。

科学館はその後フィッシャーマンズワーフの並びの埠頭に移転しました。


■残念だったミッション地区のディムサム



レストラン探しは主にMKの検索能力とカンに頼ることが多く、
それは概ね成功していつも美味しいご飯を食べているこの頃ですが、
この時行ったミッション地区は、レストラン以前に、
街が少し物騒なところなので、それがちょっと問題でした。

どう物騒かというと、ホームレスがやたら多く、その結果、
街角を一人で歩くのは無理、という雰囲気です。
おそらく夜になったらもっとやばいことも起こっていそうな気配が。

サンフランシスコはホームレスが路上で楽に生息できる気候なので、
その結果、ダウンタウンの目抜き通りを一筋外れると、
昼間でも女性一人では怖いくらいそこここに人が座り込んでいます。

問題は、夏場は雨が降らないので一帯が物凄い臭いになることですが、
ミッション地区繁華街もそういう地域の一つです。



この時の中華点心は、確かにとてもおいしかったでのすが、
トイレに行くとgの死骸が転がっていたり、最初に通されたテーブルも
真横に子供用のハイチェアが積み重ねてあったり、
それが嫌で外のテーブルにしてもらうと、下水臭い空気が漂ってきたりと、
まるで中国本土の食堂のような猥雑さが、わたしには今ひとつでした。


■ かつて住んだ地区モールの変貌



昔住んでいたストーンズタウンという街の横には、
閉店した大型本屋のあるモールがありましたが、今回横を通りかかると
ここになんとWhole Foods Marketができているので、驚きました。

かつてこの隣に住んでいた時は、サンフランシスコ中心に二つしかなく、
わたしは買い物のたびにそこまで車を走らせていたのですが、
もしその頃ここにあればどんなに楽だったことか。



おそらくここは、メイシーズか何か、
大型デパートがあった場所で、異常に店内が広々しています。



そしてもっと驚いたことに、モールの一角に丸亀製麺が登場していました。
うどん県香川とはなんの関係もないという丸亀製麺、
そして香川の人には滅法評判が悪いという丸亀製麺ですが、
サンフランシスコなんぞに出店するまでグローバル化していたとは。

香川の人は決して行かないでしょうが、わたしたちは行ってしまいました。



カウンターを進みながら基本のうどんにトッピングを足す方法は
日本国内と同じシステム。

やはりお客さんはアジア系が多いように思われます。



で、肉うどんを食べてみました。
まあ、ジャパンタウンよりは美味しい気がしましたが・・・
そもそも丸亀製麺で食べたことが2度しかないわたしには
評価のしようがなく・・・というかちょっと辛めで辛かったです。
(からめでつらかったと読んでください)
■ やよい軒@ヒルズデール
実際、アメリカで食べた日本食で美味しかったことはほとんどありません。

日本人だから何かと粗が目に付くし、当然ながら点数も辛くなるし、
アメリカ人にはわからない小細工も容易に見抜けてしまうしで、
行ってはみたものの、いつも期待を裏切られるのが常です。

ラーメン店だけはなかなかのレベルのところが多いような気がしますが、
それはラーメンという料理の素材が地域を選ばないからでしょう。
そして、失望するかもしれないと思いながら、
パロアルト店に引き続き、またしても行ってしまった、やよい軒。



お昼を大分過ぎた時間で、店内はガラガラでした。
注文はパロアルト店と同じiPadで選ぶ方法でしたが、
ここではお運びもロボットがしてくれるシステムを導入していました。
このロボットの横をウェイターが付き添って歩いてきて、
テーブルに料理を置くと、ロボットは帰っていきます。

ウェイターの腰には優しい技術かもしれんね。



サバ塩焼き定食を頼んでみました。
副菜が少なすぎ!そして辛い!
どうしてアメリカの日本食はどれもこれも味つけが濃いのか。


緑の餃子も、日本の食堂で出るものと寸分変わりない味でした。
(美味しかったとは言っていない)


結論:日本人はアメリカの日本食に期待してはいけない。
決して。


続く。

映画「軍医ワッセル大佐」The Story of Dr. Wassell 前編

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海軍軍医が主人公であり、さらに舞台は日本が侵攻していたジャワ、
という大変珍しい戦争映画、

「軍医ワッセル大佐」The Story of Dr. Wassell
をご紹介します。

この珍しい映画は、古い戦争映画ばかり、作品解説を一切廃して
低価格に抑えたシリーズの中の収録作品の一つでした。

このシリーズ、これまで3セットを購入してきたのですが、
いわゆる誰でも知っている名作が一つもないのが特徴です。

あえてマイナーな作品ばかりを集めているため、
中には「OKINAWA」のような世紀の駄作も混じっているとはいえ、
「僕は戦争花嫁」とか、この「軍医ワッセル大佐」のような、
変わった視点からの戦争映画も混じっているので、侮れません。


さて、本作「軍医ワッセル大佐」は、1944年作品。
時期的にも国威発揚プロパガンダ映画ということになります。

ゲイリー・クーパー演じる主人公海軍軍医ワッセル大佐は実在の人物で、
映画制作当時本人もバリバリ生存中でした。


■コリドン・マクアルモント・ワッセル博士

コリドン・マクアルモント・ワッセル(1884- 1958)は、
アメリカ海軍の軍医としての活躍で知られる医師であり、
劇中でも触れられている通りアーカンソー州リトルロックに生まれました。

ワッセルは大学で博士号種取得後、医師として活動を始めますが、
これも映画にある通り、医療宣教師として中国に渡っています。

その後1936年、ワッセルは米国海軍予備軍でサービスを開始。
第二次世界大戦中の1942年には、海軍中佐として、ジャワ島で
USS「マーブルヘッド」の負傷者の連絡役を務め、
ジャワ島で日本軍に捕まる寸前の重傷者12人を救い、
安全なところまで導いた功績で海軍十字章を受章したのでした。

ワッセル医師の功績について、ルーズベルト大統領が
ラジオ演説で取り上げたことをきっかけに、この映画が制作されることになり
ワッセル大佐をゲイリー・クーパーという超大物が演じることになりました。

ちなみに、ワッセル大佐は映画でも描かれていたように、
自分を前に出さず、控えめで無私の人物で、映画の撮影では
技術顧問を務めましたが、タイトルに名前は出さないようにと依頼し、
さらに映画で得た収益を、地元の盲ろう者病院に全額寄付しています。

ただし、寄付のことも技術顧問のことも本人が黙っていたので、
ひ孫の証言によって初めて余人の知るところとなりました。

というわけでこの映画ですが、ワッセル博士の功績はともかく、
全体的にポピュリズムに傾いていて、何のことはない
戦争を舞台にした恋愛映画みたいになっているのがちょっと残念です。

まあ、実際に起こったことだけでは、ワッセル博士が真面目すぎたせいで、
映画にするにはあまりにもネタ不足だったのが本当のところかもしれません。



まず、「錨を揚げて」が延々とタイトルをバックに流れたのち、
アメリカの当時の町医者を表す馬車が象徴的に現れます。

新しい命を迎え、人の最後を看取り、
人々に愛され、信頼される医師。
ワッセル博士はそんな医者の一人でした。


アメリカ海軍とオランダ軍が帝国海軍との厳しい戦いに挑んでいた頃、
ワッセル博士は海軍の軍医としてジャワにいました。


そしてその戦いに負けたアメリカ海軍の軽巡洋艦「マーブルヘッド」。
必死のダメコンで沈没は免れましたが、大きな被害を出しました。


ジャワの港に着き、降ろされてきた「マーブルヘッド」の負傷者を
岸壁で迎えたのは、赴任したばかりの海軍軍医ワッセルでした。


ワッセルはここで奇遇にも旧知の人物に声をかけられました。
中国で研究助手をしていたピンは、「マーブルヘッド」に乗り組んでいて
不運にも重傷を負っており、助かる見込みがなさそうに見えます。


そして、ワッセル中佐は中国赴任で思いを寄せていた看護師、
マデリンにも偶然再会しました。

まだこの段階では事情は明かされませんが、二人は辛い別れをしていました。
挨拶もそこそこに、ワッセルの汽車は出発してしまいます。



移動の列車の中で負傷者たちの診察が始まりました。
アイダホのカウボーイ、フランシス。
フォンデュラク(ウィスコンシン)出身のクラウス・シュラプネル。

アンダーソンという水兵はマサチューセッツ出身ですが、
オランダ人の看護師、ベッティーナはこれが読めません。

「僕は戦争花嫁」でもフランス人がこれを読めずに苦労していましたが、
Massachusetts、アメリカ人にとっても普通でないスペルらしく、
(二つあるはずのSが一つしかないので子供が書いたとバレるとか)
何かと間違いがネタにされる州です。



「ホッピー」というあだ名のホプキンス水兵には輸血が必要ですが、
ジャワ人の看護師、トレマティニと血液型が適合しました。
トレマティニを演じているのはアメリカ人女優。
アメリカ人から見てそれらしく見える容貌の人が選ばれたようです。

アメリカ男たちは、すぐに彼女に
「スリー・マティーニ」とあだ名をつけて呼び始めました。


ワッセル中佐は、同じアーカンソー出身のホッピーの治療をしながら、
問わず語りに、故郷で巡回医をしていた頃、
子豚が診療代替わりだったこともある、などと思い出話を始めます。


調子に乗った?ワッセル、その頃アーカンソーの新聞記事で見た
在中国の従軍看護師に一目惚れしてして、
会いたさ見たさで中国まで行ってしまった、という話までしてしまいます。

むむ、これは先ほど登場したマデリン看護師ではないですか。

いくら何でも雲をつかむような話だと思うけど、医師と看護師なら
向こうで必ず会えるはず!とか思ってしまったのね。



さて、ジャワの病院に落ち着いた海軍兵と医療スタッフですが、
映画の進行上、自然発生的にカップルが出来上がっていきます。

ホッピーに献血してから彼と今や一体だと信じているスリーマティーニは、
早速アーカンソーで一緒になりたい、とアプローチを始めました。

他の患者のケアもしろよって話ですが。



アンディは美人のオランダ人看護師ベッティーナにデレデレです。


ジョニー、こいつはとにかく若い美人なら誰でもいい肉食系。


その時、ワッセルは同僚の中国人医師から、
シンガポールの海軍基地が日本軍の攻撃に陥落したと聞かされます。


そしてその後、我が方の5倍の兵力の日本軍が
ジャワに上陸したニュースに司令部は不安を募らせます。
侵攻してきたら、現在の42人の傷病兵をどうするかが問題です。


しかし、兵隊と一部の看護師は呑気な限りで、病室で歌ったり踊ったり。
3マティーニに至っては、白衣を脱いで半裸になり、
ジャワの踊りとやらを男たちに囲まれて得意になって披露し始めました。


ホッピー、それにむしろ興醒めの様子。
なんか見てはいけないものを見てしまった的な?

トレマティーニはすぐにワッセルに職務怠慢を叱られます。


両手が使えないホッピーにワッセルは故郷から来た手紙を読んでやりました。
女名前の手紙の送り主に、トレマティーニの目がキラリと光ります。

音読していたワッセルは途中で読むのをやめ、目で追ってから、
彼女が彼の同僚と結婚するらしい、と告げました。


その時都合よく?警報が鳴り出しました。
全員で緊急時の避難を行います。

「マーブルヘッド」副長は逃げ隠れはしない!と妙な虚勢を張りますが、
有無を言わせずベッドの下に押し込まれてしまいました。



傷病者は避難壕に入れないので、皆ベッドの下に避難です。



目をやられたクラウスはすっかり音だけで機種がわかる名人です。
ジョニー「そうだな、そして操縦士は出っ歯だ」←おい

あのさー、この人種差別的な表現、いい加減やめてもらえないかな?
日本人が出っ歯というイメージ、どこから出てきたんでしょうか。

プロパガンダ漫画では、東條英機も昭和天皇も出っ歯に描かれていますが、
どちらも全くそうではないんですけどね?



皆、爆撃の中、不安に顔を引き攣らせながら冗談を言ったり、
音楽を演奏したり、ワッセルの陰口を叩いたりして過ごしていました。

マードックが、ワッセルが中国から去ったのは怖かったからだ、
という噂を広めているので、かつて助手だったピンは語り始めました。
ここからは(瀕死の)ピンが語るワッセル軍医のこれまでです。どうして映画では瀕死の人間が滔々と語り続けるのか。



看護師マデリンに一目惚れし、会いたいという不純な理由だけで中国に渡り、
期待しながら現地で疫病の研究をしていたワッセルでしたが、
ある日、ついに病気の子供たちを引率してきたマデリンに出会うことに。


もうこれは運命?
勝手に決めてかかり、一人で静かに盛り上がるワッセル。彼女はワッセルの助手を務めるようになり、二人は急激に接近します。
良かったですね。



しかし、好事魔多し。

ワッセルは派遣医師会の命令で、長子への転勤を命じられました。
ここで離れてたまるものかと、彼はマデリンを同行することを主張しますが、



彼の後任に来たウェイン医師は、仕事でもワッセルの競合相手というか、
同じような研究をしていて、まあ言うたらライバル関係です。

そのウェイン医師、ワッセルの言い分を聞いていたと思ったら、
おもむろに、長子というところは前線で疫病もあり危険な場所だよー?
と気のせいか楽しげに言い出すではないですか。

それを聞いたワッセルは、あっさりと前言をひるがえし、
マデリンを連れて行くことをやめてしまいました。
ウェイン医師はむしろこれにはびっくりして、

「連れて行かなくていいのか?私は彼女に興味を持っているぞ」

置いていったら俺が彼女を取っちゃうよという意味でよろしいか。
それでも仕方ない、とワッセルは一人で出発していきました。
ていうかさー、あんたたち、女性の方にも選ぶ権利があるって思わないの?
連れて行くとか行かないとか、それ以前に、
ウェイン医師の、自分がその気なら、即自分のものになるの決定!
みたいなこの自信は一体どこから?




とここまで話した時、爆弾が至近距離に落ち、
爆風で倒れた鉄材に体を貫かれてピンは死んでしまいました。
それまでも瀕死の状態だった割には
ほっぺたがツヤツヤ光っているのは言いっこなし。


こちら、オランダ人看護師ベッティーナに恋してしまったアンダーソン。

直接本人に告白する勇気がないものだから、
マサチューセッツにいる恋人に送る手紙を口述筆記させるふりをして、
自分の彼女への想いの丈を切々と語っております。

書き留めるベッティーナが彼に同情的なのに調子づくアンダーソンですが、
現実はそんなに甘いものではなかった。


そこに颯爽と洗われたオランダ人士官(イケメン)。
ベッティーナはペンを放り出して彼に抱きつくではありませんか。

彼女はオランダ陸軍のディルク・ヴァン・ダール大尉と付き合っていました。
アンダーソンなどまるでいないも同然のベッティーナが、
目の前でヴァン・ダール中尉とキスを交わす様子にアンダーソン呆然。


しかも残酷なことに、アンダーソンをただの患者としか思っていない彼女は
筆記の続きをヴァン・ダール大尉に頼んでいくではありませんか。
「悪いのだけど、この患者さんの手紙の代筆の続きをお願いできる?」

「いいよ。やあ、こんにちは」
挨拶する大尉にあきらめ悪く聞いてみるアンダーソン。

「もしかして彼女の・・・お兄さんだったりします?」
兄妹が人前でディープキスなんかしないっつーの。

彼の態度から、アンダーソンがベッティーナを好きなのだと気づいた大尉は、

「戦時中だからこれからどうなるかわからないけど、
終戦後、運がいい男が勝ちだ。
生き残った方が彼女を守ろうじゃないか」

と男前なことを言い、アンダーソンを感激させます。

しかし、大尉がアンダーソンに言わず、
ベッティーナだけにオランダ語で伝えていたことがありました。

「ここにいる米兵たちはもうすぐ帰国する予定だ」
ふーん。
何を言おうが横恋慕しようが、すぐにいなくなるって思うからこその余裕か。
っていうか、ヴァン・ダール大尉ってば、なかなか人が悪いっすね。



ヴァン・ダール大尉がベッティーナに伝えたニュースは本当でしたが、
ワッセルたちにとって問題だったのは、命令には続きがあったことです。

それは、

「帰国できるのは自力で歩くことができる者のみ」



しかし帰国のニュースはあっという間に駆け巡り、皆興奮の坩堝に。
ニューヨーク出身のジョニーがしている一発芸、「自由の女神」。


「歩けないものは連れて帰れない」

この一言を、皆の興奮と先回りした喜びにかき消され、
なかなか言い出せないうちに、ワッセル中佐は密かに決心しました。

軍の命令がどうあっても、こいつらを連れて帰ってやる!と。


たった一人、ホッピーを失うかもしれないトレマティーニだけが、
必死に、一緒にアメリカに連れて行ってくれと彼に懇願します。

「私たち二人を離さないで!
でないとあなたたち全員不幸に見舞われるわ」
現地の女性の報われない愛への怨念が何かを引き起こすってか?


そして移動の日がやってきました。

各艦船に兵を割り振っていきますが、ワッセルは負傷兵たちに
歩けないと思われるな、健康そうに振る舞え、と一生懸命注意を与えます。
そりゃそうです。歩けなきゃ置いて行かれるんですから。



しかし、歩けないと船に乗せてもらえないという命令を知らない彼らは
何が起こっているのかわからず、現状に不信感を持ち始めていました。



そこに船一隻が到着したので、ワッセルは躊躇うことなく
残った負傷兵を全部積み込んでしまうことを決心します。


しかし、やってきたオランダ軍輸送担当大尉に、
歩けない者を担架で運んでいるのを見つかってしまいます。

「担架の者は乗船させるなという命令だ!」


ワッセルは食い下がりました。

しかしオランダ軍大尉も、輸送船は敵の標的になりやすいから、
彼ら全員を海で死なせることになるぞ、と負けていません。

断固として命令を覆さない(というか上官が海の上なので覆せない)担当。

わたしも兵と一緒に残る、とさらに食い下がるワッセル中佐に、
じゃあ、残って何があっても彼らと行動を共にしろ、と言い捨てます。

「数分後に君はジャワ当唯一の米海軍将校になる。幸運を祈る」


こうなったらもうヤケクソです。

ワッセルは、健康な兵を全員「ペーコス号」に乗船させてから、
初めて今まで言えなかった命令を彼らに伝えました。

「実は歩ける兵だけが帰国できることになっている」







彼らが船に乗り込もうと必死で無駄な努力を続けている間に、
「ペーコス」号は舷門を上げ、出航してしまいました。



岸壁に取り残され、呆然と出航していく船を見送る負傷兵軍団。

唯一歩けるのはジョニーですが、彼は女性を口説いていて
出航の集合に間に合わず置いていかれたという相変わらずのていたらく。
この人は健常者なのに、いわば性癖に問題があったといえます。



自嘲する者、悔しがる者。
しかしそんな彼らにワッセル中佐はいうのでした。

「我々はアメリカ海軍だ。
生きている限り米国海軍の一員として振る舞え。
私の命令に従い、行動してほしい。
海軍兵であることを忘れるな。

これから我々は病院に戻る。そして・・・」

「・・日本軍を待つ(笑)」

即座に誰かが混ぜっ返します。
彼らの絶望した眼差しの中、夕陽に包まれた輸送船が
港を出ていくのが見えました。

さあ、どうなる?ワッセル軍医と負傷者軍団!

続く。


映画「軍医ワッセル大佐(改め少佐)」The Story of Dr. Wassell 後編

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日本軍が侵攻してくるジャワ島に取り残された傷病兵と、士官一人、
出航に間に合わなかった間抜けな一人の兵士。
彼らを率いる海軍士官は、もはや軍医ワッセル中佐だけになりました。


しかも病院に戻ってみると、中は砲撃で無茶苦茶な状態でした。



残骸の影に、スリー・マティーニことトレマティーニが潜んでいました。
他のものがオランダ軍と山中に逃げてしまった後も、
彼女は彼らが戻ってくることを予想して待っていたのです。

翻訳はされていませんが、彼女を見つけたワッセル中佐は、

「(それを予想するとは)水晶占いコンテストで優勝だな」

と言っています。
これ、ちょっとした民族侮蔑表現じゃないか?



スリーマティーニが会いたかったのは、ホッピーでした。
彼の方は会えて嬉しいと口で言いつつそんな嬉しそうではありません。

そりゃそうでしょう。

彼にすれば、トレマティーニは単なる戦地の看護師。
ここに残るつもりはもちろん、連れて帰るつもりも全くなく、
現地でちょっとお戯れする相手くらいの認識だったのですから。


病院に戻った兵たちは疲労困憊し、なぜワッセルの元に残されたのか、
呪うように言うマードックのような者もいました。

ワッセル中佐だって、(自分が選んだとはいえ)
こんな状況になって誰よりも困っているのに、まあ酷いもんです。

つい神に祈る心境になっているワッセルに、ゴギング副長が声をかけました。

「君は成功を信じていない・・・。
昔の失敗をいつまでも引きずっているように見えるよ。
中国で何があったんだ。女か戦争か」

この副長は、戦艦の副長にしては歳を取りすぎていて変ですが、
中国人のピンが死んでしまったので、今、
ワッセルのこれまでを語る唯一の相手として、
そこそこ大人な年齢のもののわかった男性として描かれています。

待ってましたとワッセルは語り始めました。

「両方です。豚に故郷を追われ、カタツムリに中国を追われた」


豚というのは、アメリカの村にいたときに、豚を積んだ車にぶつかり、
その拍子に目にした新聞にマデリンの写真があって、
それに一目惚れして中国に渡ってしまったという意味ですが、
それではカタツムリとは。


ピンが死ぬまで語っていた話の続きです。

ワッセルは、ウェイン医師に煽られてマデリンを同行することを諦め、
一人で赴任した長子で、流行っていた疫病の原因を研究しておりました。
しかし研究は遅々として捗りません。
そもそも病原菌となる媒体が全く不明なのでした。

ある日ワッセルは運河で通り過ぎるボートに乗っていた中国女のネックレスに
カタツムリの殻が含まれている(気持ちわるっ)のに気がつきます。

そこで彼らの船の船端に付いているカタツムリをもらって研究したところ、


なんと!吸虫を発見したのです。


ワッセルと助手のピンの二人が夢中で研究していると、
後ろのドアが開き、そこにはマデリンが立っていました。

マデリンさんたら、治安の悪く疫病の多発する長子に単身やってきたのです。
これは、ワッセル医師を追いかけてきたということでしょうか。

ワッセルは顕微鏡を覗いていて全く気がつかないままだったので、
ピンは気を利かせて二人の再会場所を池のほとりに設定しました。


そこがこれ。
あまりムードがあるとは思えませんが、まあいいでしょう。



ポケットチーフまでピンにコーディネイトしてもらったワッセル、
池のほとりで彼女といい雰囲気になり、もう少しでプロポーズという時、
ピンが彼に電報を持ってきました。

それを読むなり彼の様子が変わります。



何があったの?と聞くマデリンに、ワッセルはいきなり
僕は海軍に志願するつもりだ、と言い出すではありませんか。

ワッセルの意図はよくわかりませんが、マデリンは
二人の男を張り合わせるつもりか、ワッセルに求婚させるつもりか、
こんなことを言って行動を迫ります。

「ウェイン先生には求婚されているの」

しかし、それに対し、あっさりと、

「二人の幸せを祈る」

と言い放つワッセル。
マデリン、無念の作戦失敗。
ショックを受け、彼の元を去っていきました。

一体この電報の何が彼を変えたのでしょうか。

原因は、電報に書かれていたニュースでした。
ウェイン医師が、フォーク状の尾を持つセルカリア吸虫を発見したという。

自分もついさっきそれを見つけたばかりなのに、タッチの差で
ライバルに一足先を越されてしまったのです。

よりによってそのライバルが求婚している相手と自分が会っている時に。
ウェインに学者としての業績で負けたワッセルは、
女性も同時に諦めてしまったというわけです。
そして、それは同時にじぶんが中国にいる意味も無くなったということなので、
そこを去る理由として海軍に入隊することを咄嗟に決めてしまったのです。

これが「カタツムリに中国を追い出された」の意味でした。


そこまで話し終わった時、副長がトラックの走行音を聴きました。
偵察に出かけたワッセルは、山中で不恰好な巨大仏像と遭遇します。


彼は思わず仏に祈っていました。

「近づいてくる兵力が日本軍でありませんように」

これが本当の「神も仏もない」ってやつです。



その甲斐あって?隊列から英語の歌が聞こえてくるではありませんか。
彼は「アメリカ海軍の一人として」仏に丁重に礼を言って去りました。



近づいてきた車列はイギリス軍でした。
ワッセルは車上で眠っている唯一の将校を叩き起こし、
10名の怪我人を乗せていいか聞くと、あっさり「どうぞ」。

この将校、60時間寝ていなかったこともあり、適当に返事したようですが、
それをいいことに、ワッセルは彼から
全員をトラックで連れて行ってくれるよう言質を取るのを忘れません。


さて、負傷兵たちを港に輸送する手段は確保しました。
これであとは港に行けば、停泊している護衛艦に乗せてもらうだけです。


負傷兵を乗せたトラックを運転するワッセルに伝令が伝えてきました。

「日本軍が橋まで攻めてきており、砲弾を撃ってくるから、
各車両は45メートル間隔で速度を保つように」
この後「君が代」をアレンジしたスリリングな音楽が流れますが、
これが音楽的になかなか馬鹿にできないクォリティです。



ワッセルの前を走っている車両に砲弾が直撃し、一瞬にして消え失せました。
咄嗟に道を逸れ、斜面を牛を蹴散らしながら突っ切って逃げます。


荷台の負傷者軍団は阿鼻叫喚ですが、なぜかその中で
ハーモニカ(『草競馬』フォスター作曲)を演奏し始めるやつあり。

平常心って大事・・・なのかも。



負傷者軍団を優先すると、全員が一台のジープに乗り切らなかったので、
この時、ホッピーとインドネシア人看護師トレマティーニだけは、
彼女が強く主張した結果、二人で後ろのジープに乗っていました。

ところが彼らのジープは運悪く砲撃を受け、谷底に転がり落ちていきました。



トラック運転手は即死!
ホッピーはただでさえ重症だったのに、さらに車の転落で両足骨折。
しかしトレマティーニは不気味なくらい無傷でピンピンしています。



ホッピーのジープが姿を消したことに皆が気づき、
ワッセルは一人で車から降りて探しにいきました。


戻ってみると、目の前で橋が崩落していきました。
これで彼らと合流する可能性は永久になくなったということです。

「・・・さよなら、アーカンソー(ホッピーのこと)」

ホッピーと同郷人のワッセルは、悲痛な面持ちでつぶやきました。



橋が崩落したことをトレマティーニから知らされたホッピーは、

「ジャワからは二度と出られない気がしていたよ」

と自嘲的につぶやきます。
とにかく彼と一緒に居られればいいトレマティーニは、嬉しげに

「わたしがアーカンソーを忘れさせてあげる」

などとむしろ嬉しげに言いますが、それが彼の心を逆撫でしました。

そら怒るわな。

「聞け、アーカンソーの一握りの土が、お前ら千人より値打ちがある!」

ここで彼の気持ちになって考えてみましょう。

もしこの現地の女性が自分に執着して、余計なことを言い出さなかったら、
彼は間違いなく仲間と同じトラックに乗っていました。
少なくともこんな形で置き去りにされることはなかったのです。

彼女の存在が疎ましく思われたとしても、それは当然かもしれません。


しかし、諦めというのは人の心に変化を与えるものです。
すぐに彼は反省し、酷いことを言ったのを謝りました。

しかし、彼女が「愛してる」というのに対し、彼の返事はただ
”So do I. ”(俺もだ)

その後二人はジャングルで人影に囲まれ、軽機関銃で銃撃戦を行いますが、その結果どうなったかは描かれないままです。

彼は最後まで彼女に「愛している」とは言わずに死んだでしょう。




ワッセルたちがやっとのことで港に辿り着くと、
まず駆逐艦「ペーコス」は敵駆逐艦が近づいたので出港してしまっており、
40名乗りの船に何百人も既に乗せた民間船も、
天候が悪く雷が鳴ってるので、出港して沖に停泊していました。

とにかくあれに乗ろうと、ジャンク船で接近を試みます。



しかしここまできて、オランダ人艦長は負傷兵の乗船を拒否してきました。
理由は、敵から攻撃されるのは必至なので、
足手まといで助かる見込みのない負傷兵は乗せられないというのです。



しかし、押し問答している間に後ろでこっそり負傷兵の積み込み完了。
乗ってしまえばもうこっちのもんです。

いつの間にか乗り込んで手を振っている負傷兵軍団を見て艦長呆然。
「オランダ人は天国で歓迎されますよ、艦長」



しかしマサチューセッツのアンディ(アンダーソン)は、傷が深く、
船に乗り込む気力が残されていません。

それを励ましたのが、乗船補助をしていた恋敵?ベッティーナの彼氏、
オランダ軍将校のディルク・ ヴァン・ダール大尉でした。
「見たまえ、ベッティーナが乗っているぞ。
私は任務でここに残るが君が船に乗って彼女を守ってやってくれ」

やっぱりいい奴だった、ヴァン・ダール大尉。



ワッセルが船上でアンディの手当てをしていると別の医師がいました。
相手を見ると、あら、恋敵で仕事のライバル、ウェイン先生ではないですか。

ワッセル医師にとってウェイン医師は、吸虫の発見で先を越され、
好きな女性も譲ったという訳ありの相手です。

ところが向こうは、

「ああ・・確かあなたは・・・ウィッスル先生」

ちげーし。
っていうか、名前も覚えてないくらい相手にされてねーし。

ワッセル先生、極力平静を装って、

「お、奥様はお元気で?」

すると相手は10分前までは元気だったですよ、と事もなげに言います。
つまり彼女は同じ船に乗っているということですか。
内心の動揺が思わず顔に出てしまうウィッスル先生でした。


身動きできない船内で鮨詰めになっている負傷兵たちに、
一つのニュースがもたらされました。

彼らを置いて出港して行った駆逐艦「ペーコス」は、敵に襲われ、
撃沈してしまったというのです。

皆呆然としました。
戦友たちが乗っていた船。
もしかして自分達が乗っていたかもしれない船です。



その時、船はヴァン・ダール大尉からの無線を傍受しました。
恋人のベッティーナも特別に無線室でそれを聞きます。

ヴァン・ダール大尉は守備隊で日本軍の大艦隊を迎え撃っていました。

「輸送船7隻、軽巡洋艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦6隻です!」

陸地への砲撃に続き、上陸用舟艇が14隻沿岸で待機中、
1隻の船に100人ほどの兵が乗っているという知らせに
人々は真っ青になります。

絶望的なことに、それを見ている守備隊はヴァン・ダール大尉一人でした。



なぜ一人なのに退避しない?と誰もが思っています。
そして彼はすぐに敵に発見されました。

「さようなら、皆さん!」

続いて機関銃の音が・・・・。



「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン・・・」
(-人-)
そのセリフで言われているところのクィーンも先日崩御されました。



またしても軽快な東洋風旋律が始まり、日本軍の攻撃が近づいてきました。
当然ですが、艦長の指令各種は全てオランダ語で行われます。

戦争映画でオランダ海軍が出てきたのは初めて見ました。


甲板にもデッキにも人が満載なのに、そこに零戦が襲撃してきました。



子供を連れた母親が銃弾に斃れました。



その時、ウェイン医師が撃たれたという知らせを受け、
ワッセルは急いで彼の元に駆けつけます。

「今すぐ奥さんを呼んでください!」

「なぜ僕の妻を呼ぶの?」(´・ω・`)

「なぜっていい看護師だから」

ウェイン医師の妻が看護師のマデリンであるとワッセルは信じきっています。



え、ウェインの奥さんって・・・・。



「え」

ということは・・・。


「よかった〜!」

「な、妻に何を」(怒)

「いや、お会いできて嬉しくて」

「そうみたいだね(怒)」



しかしその後がよくありません。
マデリンは沈没した「ペーコス号」に乗っていたのです。


その時、視力を失ってやたら耳が鋭くなった彼が、
B-17の編隊の爆音を聞きつけました。



「助かったぞ!」


B-17のつもり。



さて、その後彼らはなんとか無事に帰国の途につきました。

最後の場面は、ワッセル中佐がバスタブで熟睡しているところから
始まるわけですが、どうでもいい逸話が残されています。

このシーンで、ゲイリー・クーパーは、
胸毛を剃って欲しいというスタッフの依頼を拒否
したというのです。

まあ確かに度を越して濃い胸毛ではありますが、
剃ることを拒んだクーパーの気持ちはわからないではありません。そして剃って欲しいと頼んだスタッフの気持ちは確実にわかります。

そこに、海軍大将が呼んでいる、と伝えにきた士官に彼は、

「なんで呼ばれたのかわかってるよ」

力無く答えました。
なぜなら、ジャワの負傷者脱出を独断で行っていたからです。
軍法会議にかけられるのだろうと思っているわけですね。



しかし全くこの副官(大尉)、顔に表情を出さず何も言わないので、
ついおどおどしてしまい余計なことを喋るワッセル。

「私が愚かだったかな?」

「イエス、サー!」

副官、なぜそこでその返事を?

と、このシーンに来て、わたしは思わず目を疑いました。
映画を通じて彼の袖章を初めてこのシーンで見たわけですが、

ワッセルって少佐じゃないですか〜!

どうりで「コマンダー」と呼ばれていたわけだ。

ルテナント・コマンダーの意味だったのね。
字幕では「司令官」と翻訳されていたのでなんか変だと思っていたの。

ということは、邦題の「ワッセル大佐」って全くの間違い?
いや、これなんとかしようよ。
というわけで当ブログタイトルだけなんとか訂正を試みました。


何を言ってもイエスサーしか言わない無表情の副官。
彼に連れてこられたところは、



ベタ金の大集合。

「お・・・・・・・・」
思わず絶句するワッセル少佐。(わかったからには今後少佐でね)


奥から出てきたのは少将。

「私のしたことについて・・」

「その話をワシントンから聞く」

「わ、ワシントン・・・?」
部屋の奥には国旗の前にラジオがどーんと置かれています。
アメリカでも玉音放送みたいにラジオを拝聴するんですね。



彼が案内されて椅子に座ろうとすると、



自分の名前を大統領が呼ばわったので慌てて途中で立ち上がり。

「飾らない内気な人物だが祖国のために志願し
その後海軍少佐に任命された」

あ、少佐って言ってますね。


ワッセルが振り返ると、そこには見たことある将校が・・・。
ジャワで苦楽を共にした「マーブルヘッド」副長ではありませんか。

あの頃はボロボロだったのに、随分と見違えてご立派に・・・(涙)



彼に助けられた負傷兵たちもラジオ放送を聴いていました。



アンディがカンガルーの仔を抱いているということは、
ここはオーストラリアです。

横にはベッティーナがいました。ヴァン・ダール大尉が亡くなったので、アンダーソンの横にいるのね。


まだ全員完全に怪我は治っていないようですが。



彼を知るオランダ軍の兵士たちもそれを聞いていました。



同じ時刻、輸送機B 24(たぶん)。



海上から救出された「ペーコス号」乗員を乗せた飛行機でも
大統領のスピーチを聞くことができました。


傷病兵を助けて大統領がスピーチに取り上げられている軍医、
その名前を聞いてマデリンは驚きの表情を浮かべます。


その後アメリカで、ワッセルのネイビークロス授賞式が行われました。



傷病兵軍団、副長なども顔を見せています。
副長は車椅子ですが、その横にはマデリンもいます。
二人は再会し、結ばれたということでよろしいか。



ちなみに、実在のワッセル少佐の海軍十字章の内容は次のとおりです。

「 1942年3月1日、オランダ領東インド、ジャワ島で、敵軍と遭遇し、
敵機の攻撃を受けているとき、担当するアメリカ海軍の負傷者を看護し、
避難させるために、特に功労のあった行為、職務への献身、
自身の生命の安全を顧みぬ勇敢な行為に対してこれを授与する」

ワッセル少佐が観客席に目をやると、負傷兵軍団は
皆彼に向かって微笑んで見せました。

目の見えないクラウスには、ジョンが説明してやっています。
クラウスって下士官だったのね。



そしてワッセルの胸に今輝くネイビークロス。



彼が目をやると、そこにはマデリンの美しい微笑みが・・。



授与者の名前はフランク・ノックス海軍長官です。



クラウスが仲間に訊ねます。
「軍医の様子は?」

「もう最高さ」

映画は兵たちの様子で終わります。



最後に、実在のコリドン・ワッセル少佐の写真を。
ワッセル少佐は見ての通り、1942年当時はすでに58歳でした。
ゲイリー・クーパーのロマンスは何から何まで全くのフィクションです。

ワッセルの叙勲とラジオ放送ありきで制作された映画なので、
各種恋愛模様も、映画のための創作だったのは間違いありません。


それにしても、考えずにいられないのは、
あまりにも不運なホッピーとトレマティーニの二人のこと。

彼らに実際のモデルがいなかったことを祈るばかりです。


終わり。





地獄のヒートウェイブ〜アメリカ西海岸滞在

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さて、わたしのアメリカ滞在における最大の目的である、
MKの大学院寮への荷物運び込みの日が近づいてきました。

元々このベイエリア地域は湿度が低いため、
霧の多いサンフランシスコを除いて夜間涼しく昼間は暑い
(日陰は涼しい)という砂漠型気候であるわけですが、
その昼間の気温が、引っ越しが近づいた頃異常に高くなりました。


この日は、サンマテオの山側に面した貯水池沿いの
長大なトレイルを家族三人で散歩に行ったのですが、
10時を過ぎると日差しがキツくて苦痛を感じるほどでした。

ベイエリアにトレイルはたくさんあるのですが、ピッツバーグのように
森林の木陰だけを歩くような場所が皆無であるため、
散歩は朝早くに済ませないと、地獄を見ることになります。


さて、MKの入居する大学院寮に引っ越しする日がやってきました。

無事大陸を半分横断して西海岸に着いた荷物を出すため、
U-HAULに行ってU-BOXを出してもらったところ、
扉の前にわざわざこんなものが置かれていて、一同呆然。

右側の牽引用のU -BOXは元からそこにあったものです。
「他にもいくらでも空いている場所があるのに、なぜわざわざここに」

「しかも扉の前に」

「嫌がらせかな?」

家族で呆れながらも、とりあえず積み込みを始めました。

荷物が全部コンテナであることと、レンタカーのゴールデンクラブで
インド人の係員が配車してくれたフォードのSUVの搭載力のおかげで、
どうやら引っ越しは2往復で済みそうです。


この頃、MKの大学キャンパスは、人気がなく閑散としていました。

寮への引っ越しは届出をして決められた日に行うのですが、
その日1日を通じて、引っ越しをしているらしいグループはほとんど見ず、
寮の周辺も学生らしい人はあまりいません。


その理由は明確で、セメスターが始まるのが9月26日だからです。
これは普通のアメリカの学校にしては特に遅い開始となります。


キャンパス内で、マスク推奨のポスター発見。

今はブースターショットを受けた人は基本マスク着用は免除されていて、
ヒートウェイブ下のここベイエリアでマスクをしている人は、
もちろん皆無ではないものの、あまり見ることはありません。

おそらくこのポスターは、COVID-19蔓延中、
特にカリフォルニアが酷かった時期に制作されたものでしょう。

MKの卒業した大学は、黒いスコッチテリアという
文句なしに可愛らしいマスコットがいて、何かと和ませてもらいましたが、
この大学のマスコットは・・・。

あまり可愛げがなくて気の毒だなあ、とかねがね思っていましたが、
こうしてみると、木のマスコット、悪くない。いやむしろ可愛い。

マスコットの可愛さは対象そのものではなくデザインが決めるのか。

・・・・とここまで書いたとき、ふと学校のデータを見たところ、
この大学にはマスコットは「ない」と書かれていました。

「ない」って・・。



キャンパスの歩道沿いには大学シンボルである木が植わっていますが、
この気候には、南国を思わせるヤシ科のフェニックスの方がお似合い。

大学院寮であるこの建物も、そこはかとなく南欧風です。
それにしても引っ越しをしているグループは、わたしたち以外に
1〜2組見たくらいで、そもそもあまり構内で人を見ません。

授業が始まるのが9月26日なので、アメリカ人の学生は、親元にいるか、
旅行をしたり、インターンシップをしたりしているのでしょう。



しかし外国人学生であるMKは、インターンシップが終わった今、
行くところもないので入居するしかありません。

居住区の鍵には学生証を使うことになっていますが、
この日、オフィスに取りに行ったらまだできていなかったので、
仕方なくアナログなキーを貸してもらうことになりました。

学生証を作るための期日に間に合わせるために、
親が出動し散々苦労してI-20を取ったというのに。
ちなみにI-20(アイ・トウェンティ)とは、
留学生が必要とされる書類で、入学許可証としての機能を持つほか、
入学後は在学証明書としての役割も果たします。

また、アメリカへの(再)入国審査の際にも必ず提示を求められるもので、
その大学の学生であることを証明する正式な書類です。

写真はこのキーでガチャガチャやっている最中のMKですが、扉開かず。
結局、隣の建物と入り口を間違えていたことが判明しました。



寮のロビーは冷房が効いて涼しく、ほっと息をつきました。
車から、事務所で借りたカートに荷物を積み込んで、いざ入寮です。


この廊下の広さよ。
ちなみに廊下のエンドには会議室、ゴミ捨て室があります。

そして、廊下もひんやりと空調が効いています。



ここが大学院寮(一人部屋)だ!
最近できた建物らしく、何もかもがピカピカ新しい設です。

フルキッチンに大型冷蔵庫、部屋に備え付けのソファ、大きなベッド。
いいなあ・・こんなアパートで学生生活を送りたかった。



普通のアパートのように食器洗い機はありませんが、
大型のオーブンがあるので、料理のできるMKにはありがたい作りです。

ただ、ドアを開けてすぐある大型の冷蔵庫扉が右開きなのはいかがなものか。



キッチンのエンドには小さなカウンターがあって、食事ができます。
一人の部屋なのでダイニングテーブルはありません。


ベッドの大きさはクィーン、机の奥行きはたっぷり。
そしてさすがは今時の大学生用アパート、コンセントがたくさんあります。



こんなに床が広いのに家具を置くことはできない洗面室。
日本では考えられないことですが、バスタブがなく、シャワーのみです。


部屋は自分で選ぶことはできず、自動的に割り振られるので、
眺めとか何階にあるとかは全くの運で決まります。

ここは7階ですが、大学のアイコンとなるタワーは部屋からは見えません。


アパートの一階の駐車場からようやく見える位置関係です。



窓はスライドして外気を入れることができますが、
網戸を開けることはできず、窓を開けるときには網戸下部に設けられた
台形の小さなドアみたいなところに手を突っ込んで行います。

つまり部屋の窓から絶対に人や物が落ちない設計です。

これは大学の寮としては実は大事なポイントかもしれません。



とりあえず荷物を運び込みます。

UーHAULとの往復はきっちり2往復ですんだのですが、
もしあと1つケースが多かったら3往復しなくてはならないところでした。

ここは大学院寮といっても、10階以上の高さのが4棟あり、
寮だけで日本の都心の大学よりよっぽど敷地が広かったりします。

MKの今回の部屋はこの中で最も小さいタイプで、
世帯持ちの院生のためにはファミリー向けの部屋も完備してます。




広大な敷地内ではペットがいなくなることもあるようです。
キャンパス内は結構野生動物もうろうろしているので、
飼い主はさぞ心配していることでしょう。

情報によるとこの猫はマイクロチップを埋め込んでいるようですが、
なのにどこにいるかわからないものなのでしょうか。



週末、ロビーにはちょっとしたパーティでもあったのか、
食べ物やなんかが乱雑に置かれていました。(日本のお菓子もあり)

ちなみにこのアパートには棟ごとに一室ずつ「音楽室」があり、そこには
ピアノが置かれていて、練習などで自由に使うことができます。



■ 各種ヨーロッパ料理

さて、ここで唐突に恒例のベイエリアグルメ紹介ですが、
今日はベイエリアで味わったヨーロッパの料理を。
🇮🇹イタリア

この日は引っ越しの荷物積み込みを終えたということで、お祝いムード。
レッドウッド・シティの中心街にある評判のイタリアンに出かけました。

MKのレストランの探し方は、とりあえず星4.5以上に絞り、
そこから家族の意見を聞いて選ぶというもので、
この日は中華でも、もちろん日本料理でもなく、レッドウッドシティにある
ちょっと華やかで美味しいピザを出すお洒落めの店となりました。


レッドウッドシティは、昔、日系移民の技術革新により、造園業が盛んで、
中でもアメリカ初めての菊の生産地として有名な地域だったのですが、その後日系人の強制所収容により、産業は廃れ、今日に至ります。

しかし、その名残なのか、サンマテオの中心街は今でも和食を出す店が多く、日系が経営しているらしい店構えだったりします。
(うちはもうアメリカの日本食に期待していないので行きませんが)


元々は先住民族を追い出した(?)スペイン人が移住していた関係で、
米墨戦争の後、カリフォルニアがアメリカ合衆国になった時も
メキシコ人の大金持ちが広い荘園を持っていたという土地です。

古い建物も多く、レストランの向かいにある図書館なども築100年超えです。
オリジナルの図書館は、アンドリュー・カーネギーが1万ドル寄付して
1904年に完成したのですが、1906年の地震で倒壊してしまいました。

そこでカーネギーがもう一度寄付をして建て直したのが、現在の建物です。

このことにより、レッドウッド公立図書館は、同じ敷地で
2回カーネギーの補助金を受けた全米唯一の図書館となりました。


わたしが選んだメインは魚とたっぷり野菜。

この日のイタリアンですが、経営しているのはもちろん、
ウェイトレスも間違いなくイタリア系の人たちでした。

こういう安心感というか、単にムードのために、ジャパニーズレストランは
そう見えるだけのアジア系店員を雇うのかもしれません。

それを思うと、アメリカの各種民族料理は、その国の人たちにとっては
必ずしも外国人が思うほど評価されていないのかもしれないと思ったり。



皆で取り分けるために頼んだスモールディッシュ、ズッキーニ。



家族の誰かが頼んだエビの一皿。

ピザは、テーブルの面積を節約するために工夫された
専用のスタンドに乗せられてサーブされます。

まずいピザは耳を食べる気にならないのですが、これは
生地がモチモチしていて端まで美味しく食べられました。


ここまでほぼ満点だったので、きっとデザートも美味しいに違いない、
と頼んでみた一皿目のパンナコッタ。
こちらはなかなかというレベルでしたが、


ティラミスは衝撃的に美味しかったです。
家族三人、夢中になって食べてしまいました。
🇪🇸スペイン

この日はベルモントにあるスペインのタパスへ。
レストランの名前から、おそらくイベリア地方の料理かと思われます。


昔バルセロナ旅行のためにスペイン語をちょっと勉強しましたが、
その時覚えたフレーズでいまだに忘れられないのが
「ウナス・タパス・サブロサス」(美味しいおつまみ)という言葉です。

タパスを「おつまみ」と訳すかどうかはちょっと疑問ですが、
要はタパスとは小皿料理のことだと思います。

バルセロナでは、TOのアメリカの大学の同級生と再会し、
彼におすすめのタパス、「パタータ」の店に連れて行ってもらいましたが、
ここでほとんど同じパタータ(ポテト)が食べられました。
まさにこれが「ウナス・タパス・サブロサス」でした。

そしてスペイン料理に来たら食べずにはいられないパエリア。
お鍋の大きさは、三種類くらいあって、これは三人用です。

後ろの席は六人でテーブルくらいある巨大なパエリアを完食していました。

出てきた時は自分が何を頼んだのかわからず、一瞬考え込んでしまった、
外側が岩のように硬いアイスクリームです。

🇬🇷ギリシャ



ギリシャ料理レストランにも行ってみました。

地中海沿いの国は総じて野菜中心のヘルシーな料理というイメージですが、
ここのサラータもオリーブオイルと調味料だけで唸るほどの美味でした。

ちなみにテーブルについてくれたウェイターは若い長身の男性でしたが、
この人が、額から鼻先までほぼ一直線の典型的なギリシャ鼻でした。


これね



ギリシャのデザートといえば、バクラヴァ。

フィロ生地の間に刻んだクルミ、ピスタチオ、ヘーゼルナッツ、
アーモンドなどをはさみ、焼き上げてから濃いシロップをかけたものです。
昔パリで食べたバクラヴァが激甘すぎた記憶があり、躊躇しましたが、
ここはアメリカ、ちょっと洗練されているかもと思い、
三人で一つ頼んでみたら、これが甘さ控えめで大変結構でした。



アメリカのハーブティは、ポットにティーバッグを入れたものが多いですが、
ここは本物の葉っぱを使っているらしいので、
食後に頼んでみたら、面白いトレイに載せて持ってきました。

携帯を取り出したら、ポーズを取ってくれたので
(この人はギリシャノーズではなかった)
ウェイターさんごと撮らざるを得なくなりました。



上から見ると◯、下から見ると□のポット。
流石はギリシャです。
何がさすがかわかりませんが。

■ヒートウェイブと大学の開始時期の関係


この頃、ベイエリア一帯には、ヒートウェイブ注意報が発令されました。

何しろ、MKの大学構内では気温が43度にまで上がりました。
外に一歩出たら辛くてヒーヒーいわずにいられないくらいの熱です。
日本よりマシなのは、湿気が皆無であることですが、
これで日本並みの湿度なら、まんま熊谷市です。
湿度がなく高温なので山火事が自然発生していました。


そういえば、ピッツバーグからサンフランシスコまでの機内から
地上で火事が起こっているらしい現場を目撃したんだよなあ・・。



さて、繰り返しますが、MKの大学は4セメスター制で、
9月下旬と他と比べて遅い時期に学期が始まります。

MKの寮でヒートウェイブの間過ごした時、あまりに暑いので
部屋のクーラーをつけてくれるようにMKに頼んだのですが、
しばらくスマホで何か調べていたかと思ったら、

「冷房ないんだって」

部屋にあるエアコンと見えた空調は、
10月から3月いっぱいまでの期間暖房をすることしかできませんでした。
フロントや廊下にはひんやりと冷気が来ているので、
そのシステムがビルに備わっていないわけではないのですが、
とにかく学生の個室にはクーラーというものはないのです。

その時、わたしは気づいてしまいました。

この学校は、夏の間、学生がいることを想定していないことを。

昔キャンプで来ていたときから、このキャンパス内の夏の暑さが
とにかく過酷で、異常ですらあるなと思っていたのですが、
だからこそ、大学はその時期を勉強に向かないと切り捨てて、
9月下旬始まりの4セメスター制としたのに違いありません。

知らんけど。



それにしても、誰もいない時期、廊下とロビーだけが
ガンガン冷房されているのは何故なんだろう。
謎は深まるばかりです。


続く。



潜水艦「シルバーサイズ」第8次哨戒〜潜水艦のクリスマスと余暇

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さて、第二代目艦長であるジャック・コイ中佐の指揮の下、
第7回目の紹介を成功裡に終えた潜水艦「シルバーサイズ」。

続いて、第8回哨戒以降を検証していきます。

■ 第8次哨戒〜自分へのクリスマスプレゼント?


第8次哨戒の日付を書いていて、「シルバーサイズ」が哨戒中に
クリスマスを迎えていることがわかりました。

戦争中なので、クリスマスだからといって休んでいいわけもなく、
ましてや戦争している相手はキリスト教ではない日本。
第一次世界大戦の時のドイツとフランスのように、クリスマスは停戦して
その日は中間地帯でサッカーして次の日は戦いましょう、
みたいな心温まるアクシデント的融和があるはずもなく、
イブだろうがクリスマスだろうが、粛々と戦争遂行するしかなかったのです。

戦時中に生まれ、現在も歌い継がれているスタンダードナンバーには、

You'd be so nice to come home to(帰ってくれたら嬉しいわ)1942年

Helen Merrill with Clifford Brown / You'd Be So Nice To Come Home To
I'll remember April(四月の想い出)1941年Jo Stafford ~ I'll Remember April

など、戦地に行った兵士を思う歌が数えきれないほどありますが、
特にこのクリスマスを家で迎えることを夢見る兵士とその家族のために
特別にクリスマスソングが生まれたりしました。

I'll Be Home For Chiristmas(クリスマスを我が家で)
Have Yourself a Merry Little Christmas(どうぞ楽しいクリスマスを)

などは彼らのために書かれたものですし、ビング・クロスビーの

White Christmas(ホワイトクリスマス)

も戦時中の兵士と留守家族の心を捉えてヒットした曲です。
現代のアメリカ海軍潜水艦の皆さんは、
次のような雰囲気でクリスマスを祝っているようです。
'Twas the Night Before Christmas - Submarine Style!

この年、「シルバーサイズ」の乗員たちは
どんな形でクリスマスを祝ったのでしょうか。

さて、クリスマスの話はともかく、第8次紹介の戦果です。
例によって、「シルバーサイズ」戸棚のペイントから参ります。




● タンカー 7,000トン
●輸送船 5,500トン
●貨物船 3,500トン
●貨物船 3,000トン
●タンカー 6,000トン

これまでの哨戒で「シルバーサイズ」は、撃沈撃破の認定もさる事ながら、
結構いい加減な船名を確信的に記していたわけですが、
今回は怪しげな確定を全く行わず、船種だけの記述に留めています。

艦長が2代目のジャック・コイ中佐に代わり、
実際は撃破していたのにそれを撃破とせず、

「戦果なし・魚雷の発射もなし」

と妙に腰の引けた報告をしていたことから想像するに、
このコイ艦長は、超慎重な指揮官なのではと思ったのですが、
今回、そうでもなかったことがのちに判明します。


それはともかく、まずアメリカ側の記述でこれがどうなっているか見ます。

🇺🇸
シルバーサイドは第8次哨戒でパラオ諸島沖を哨戒し、
1943年12月29日に敵の貨物船団に大打撃を与え、
「天保山丸」、「七星丸」、「リュウトウ丸」を沈没させた。
それでは、日本側の記録です。

🇯🇵
12月4日
「シルバーサイズ」は8回目の哨戒でパラオ方面に向かった。

12月26日
午前にパラオ西水道付近で病院船を目撃した後、
午後には北緯07度37分 東経134度29分の地点で
5,000トン級輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、
魚雷は全てサンゴ礁に命中して爆発した。

珊瑚礁を傷つけるな〜!!!(怒)


12月29日未明
北緯08度13分 東経134度05分のパラオ北西400海里の地点で
オ806船団をレーダーにより発見。

未明1時50分、北緯08度00分 東経134度00分の地点で
まず艦尾発射管から魚雷を2本ずつ計4本発射し、この雷撃を
陸軍輸送船「備中丸」(日本郵船、4,667トン)は、
1本は回避したものの、もう1本が命中して損傷する。

これは、アメリカ側の記録にはありませんが、
おそらく戸棚の2番目の輸送船(5,500トン)のことでしょう。
撃沈させていませんし、相変わらずトン数を盛っていますが。

2時48分頃から3時頃にかけて
北緯08度03分 東経134度04分の地点で魚雷を3本ずつ計6本発射し、
陸軍船「七星丸」(興運汽船、1,911トン)
の右舷に魚雷2本を命中させ轟沈させる。



4時前後には北緯07度50分 東経134度21分の地点で
五度目の攻撃として魚雷を3本発射し、
海軍徴傭船「天宝山丸」(菅谷商事、1,970トン)
の船倉付近に1本を命中させて撃沈。

明け方には北緯07度54分 東経134度08分の地点で魚雷を計3本発射し、
輸送船「隆東丸」(中村汽船3,311トン)
の中央部に2本命中させて撃沈した。

「七星丸」「天保山丸」「隆東丸」と、珍しく
アメリカの記録と日本の記録が3隻も一致しました。


問題は、戸棚の一番上に書かれた7,000トンのタンカー撃沈です。

「シルバーサイズは、年が明けた1944年1月5日に、
北緯11度15分 東経135度08分の地点で2隻のタンカーを発見し、
魚雷を4本発射していますが、いずれも命中せず、逃しています。


もし7,000トン級のタンカーを撃沈していたら、
潜水艦にとってはもう大金星のはずですが、残念ながら、
それに相当する撃沈された船について日本側の記録はありません。

他の船ならともかく、タンカーを仕留めたかどうかは
かなり明確にその結果がわかると思うのですが、
どうして魚雷がかすりもしなかったタンカーを撃沈したことにしたかな。

艦長もえらく大きく盛っちゃったもんですが、

あっ・・・もしかしてクリスマスだったから
自分たちにプレゼントしたとかか?

1月15日、シルバーサイズは42日間の行動を終えて、
この時はミッドウェー島に帰投しました。

■潜水艦でのエンターテイメント


クリスマスの話が出ましたので、ついでというか、
「シルバーサイズ」におけるエンターテイメントについてお話しします。

乗員の中には、2ヶ月以上日光を見ない人もいます。
当然のことながら、退屈はすぐに艦内に蔓延します。

そのため海軍は、私たちを満足させ、士気を維持させるために、
わたしたちに最高のものを提供することに労を惜しみません。

まだ一部は劇場で公開されていない映画のコレクション。
自分たち専用の映画館と全く同じ機能の素晴らしい映写機などです。
(あまり一般の人には言わない方がいいかもしれません)

艦内の図書館にはゆうに200冊以上の書籍や雑誌 が あり、
しかもそれらは寄港するたびに新しいものに入れ替えることができ、
プレーヤーとあらゆるジャンルの膨大なレコードもあります。



わたしたち乗員のほとんどはトランプを持っています。
艦内では皆がポーカーやエーシー・ドゥーシー・トーナメントをやります。

Acey-deuceyとは、テーブルゲームの一種です。アメリカの潜水艦を見学したことがある方なら
乗員用の食堂のテーブルにプリントされている模様を見たことがあるはず。

あれはバックギャモンですが、これと似たゲームのようです。


第一次世界大戦以降、アメリカ海軍、海兵隊、
商船隊(つまり海の軍隊ですね)のお気に入りのゲームとなっています。

ところで、こういうゲームの時に、大型艦の艦長と違い、
何かと腰の低い(海軍なのに階級差が見かけ厳格でない)潜水艦長は、
頻繁に下士官兵とこの手のゲームを楽しみ、そして
他の兵士と同様よく負けると言うのが定番になっているようです。

そのことを、ここの説明では

「素晴 らしい イコライザーでした!」

と称賛しているのですが、イコライザーというのはどういう意味でしょうか。

平等をもたらすものと意味で用いられているとすれば、
やはりここは潜水艦らしく、艦長といえども狭い潜水艦の中では、
規律はあれど目線はあくまでもフラットに、言い方を変えれば
水上艦よりは見かけ階級差が緩いことを表しているかもしれません。

そもそも、艦長が兵士とトランプをするということ自体、
戦艦や空母などではほとんどあり得ないのではないでしょうか。

ましてやその艦長が負けがちだなんてことも。

艦長が私室でアロハシャツ、これもある意味潜水艦ならでは。
他の水上艦でこんな格好をすることは許されませんが、潜水艦ならありです。

「潜水艦では規律が破られることは決してないが、
ユニフォームの件に関してはその限りではない」
だそうです。

まあ、そもそも暑いと何も着ない水兵さんも多いしな。


さて、狭い艦内での窮屈な勤務に与えられた特権。
しかしながら、エンターテイメントに関しては、誰にでもそれが
無尽蔵に許されているかというと、決してそんなことはありません。

「完全な資格」を持っていない乗組員は、与えられたテストに合格するまで
映画を見たり、トランプをしたり、本を読むことすら許されません。

そのために彼らが這いずり回ってメモや図を作成し、
全てのパイプ、 リベット、ワイヤー を検査することで
テストに合格しようと頑張っている姿は鑑内でよく見られます。


■ ダベンポート副長のトロンボーン演奏


艦内にはレコードプレーヤーがありましたが、よくしたもので、
必ず乗員にはギターやハーモニカの演奏ができる人がいたし、
歌の上手い人も時々はいました。

我らが副長のダベンポートは、トロンボーン奏者でしたが、
彼の演奏に対する評価は人によりまちまちでした。

わたしたちがオーストラリアに寄港後出発した時、
ダベンポート副長はオーストラリアで人気のある国民歌、
「Waltzing Matilda」を演奏し(ようとし)たのですが、
乗員は皆困った顔をするのみで、誰も歓声を上げませんでした。


ところで、帰国後、バーリンゲーム艦長は、わたしたち乗員が
皆酔っ払いで、しかもずっとその状態だと思われていることを知り、
指揮官として大変心を悩ませていたので、ダベンポート副長は、
艦長をリラックスさせようと、彼の好きなブラームスの「子守唄」を
レコードプレーヤーを先生にして練習し始めました。

そしてある夜、ダベンポートが練習をしようといつもの席に着くと、
艦長は既にカーテンを引き、明かりを消してしまっていました。

副長は、艦長がもう寝ていると思い、トロンボーンを片付けましたが、
1〜2時間後、別の場所でゲームをしている艦長が発見されています。

それ以来、他の士官たちはトロンボーンの「止め方」を知ったのです。

ダベンポート副長・・・(T_T)




ところでこの写真のキャプションには、

「Another Pastime: Creating sewing」
(別の暇つぶし:創造的お裁縫)
とあるわけですが、彼らが縫っているもの・・・ご覧ください。
 旭日旗ではありませんか!

はっ・・・・もしかして?



もしかしてこの時の旭日旗・・・・?

とりあえず暇つぶしで旭日旗作ってんじゃねーし(怒)


続く。


シリコンバレーの地下高騰とリモートワークの関係〜ベイエリア滞在

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さて、MKの大学寮の部屋に荷物を入れる仕事が終わりました。


なべて男の子というのは(全てがそうかどうかはわかりません)
パソコンの設置やデバイスの配置などには滅法熱心ですが、
自分のものであっても他の所持品(特に洋服の類)には全く無関心です。

全てをケースから取り出し、ハンガーにかけたり、
引き出しに畳んで入れたり、並べたりという仕事は、母親に任せっぱなし。
「引き出しの上はTシャツ、一番下はジーンズとかね」
「ん」
「ダウンはいつ使うか分からないから袋から出さないでおくね」

「おけ」
といった調子で、何を言ってもその答えは一言。
つまりどうでもいいのです。
わたしなど、ホテルにチェックインしたら、どんなに疲れていても、
トランクから荷物を出してクローゼットと引き出しに収納しないと
気が済まないタチですが、こいつは、もしわたしという母親がいなければ、
全てを引っ越しケースに入れたままにしておいて、なんなら
必要になったらその都度出して使うつもりではと疑われました。

MKと同じような留学生のお子さんをお持ちの方によると、
日用品の買い物なども、彼らは母親に丸投げ?しがちなのだとか。

これが女の子だと自分でやってしまう傾向にあるということなのですが、
男の子供に対しては母親が世話を焼いてしまいがち。よって彼らは、どこかでそれが当然と思う傾向を持つのかもしれません。
これが重篤になってマザコン化しないよう、うちもそろそろ放置かな。



引越しといえば、仕事でロンドンに住んでいた知人は、
向こうで、ヤマトの「らくらくパック」という、荷造りから運び込み、
梱包も全てやってくれるプランを使って、滅法楽だったそうです。

この日は前を走っていた「米国ヤマト運輸」のトラックを発見。
アメリカに赴任する日本人ビジネスマン家族御用達のようですね。

引越しらくらく海外パック


■ レイバー・デーの弾丸往復飛行

今回の旅行中、一番キツかったのが、帰国寸前の

「サンフランシスコからピッツバーグまで行って、28時間の滞在で帰ってくる」
という弾丸ツァーでした。

どうしてこんなことになったのか、実はいまだによく理解できないのですが、
つまりカードのポイントで取ったチケットを変更しようとして
その結果起こったシステム上のバグみたいなものだと思います。

最初に予定していたサンフランシスコからの帰国を、
諸々の理由により早めようとしたところ、セットで注文していたため
日本行きだけを変更するということができず、やむなく

「ピッツバーグ→サンフランシスコ→日本」

をセットで新たに予約するという形になりました。

どういうことかというと、日本に帰るためには、
「ピッツバーグ→サンフランシスコ」からやり直すのです。

というわけで、まずピッツバーグに戻るわけですが、基本的に
サンフランシスコ→ピッツバーグは直行便が少なく、取れたチケットは23時発。

到着したら朝7時なので、空港近くのホテルにチェックインし、
翌日の朝、サンフランシスコまで帰るという文字通りの弾丸飛行です。

しかも出発の日、アメリカはレイバーデイの真っ最中で、
のちのニュースでは、過去最高というくらい人が移動したらしく、
空港は激混み、深夜便は満席という状態でした。



ホテルは、これも貯まっていたポイントを利用して、
マリオット系列の空港ホテルを二泊分予約しました。
朝7時に到着してそのまますぐ仮眠を取るためです。

28時間の滞在なので必要ないかと最初は思いましたが、
色々考えて、レンタカーを借りることにしました。
ピッツバーグ空港のレンタカーは空港ビルのすぐ隣にあって、
ホテルまでのシャトルバスを待つよりずっと楽と思ったのです。

ところが、車をゲットした後IDチェックしてゲートを開ける係が来ておらず、
誰か来るのをただひたすら待つ羽目になりました。

7時に空港に到着し、30分には車に乗っていたのに、
アフリカ系の眠そうな女性が出勤してきたのは8時10分です。

「10分遅刻しとるやないかい」

「いや、アメリカでは10分は定刻の範囲内」

「しかし眠そうな顔してるね」
「レイバーデイなのに働かされて疲れてるのかな」

などと言いながら、彼女が起動してゲートを開けるのを待ち、
その後ホテルにチェックインしました。

そこでフロントでの第一声、「ハウアーユー?」の挨拶に、こちらも慣例的に
「グッド、ハウアーユー?」と返したのですが、フロント係の中年女性から、

「I’m tired.」

という変則的な返事が返ってきたのには驚きました。

レイバーデイは、労働者の祝日、いわゆる勤労感謝の日なんですが、
夏の終わりの大々的な連休でもあるので、民族大移動状態になります。

日本のお盆や大型連休と同じ状態ですが、今年のレイバーデーはCOVID-19の規制がほぼ全面的に撤廃され、
空港でもマスクは強制されなくなったということもあって、
交通機関を利用して移動した人口はここ何年かで最高だったそうです。

ただし、これも日本と同じで、そういう期間中、ホテルや飲食業、
サービス業のレイバーはいつもより忙しく働かなくてはならないので、
彼女もこの期間、目の回るような忙しさだったのに違いありません。



この日はレイバーデー明けの月曜日だったので、
ポイントでアップグレードもしてもらえました。

「ゆっくり部屋でお休みください」
とフロントに声をかけられてチェックインし、
一寝入りして起きたらお昼の2時。

せっかく車を借りたからには、ピッツバーグ市内にご飯を食べに行かねば。

その頃西海岸は記録的なヒートウェイブでちょっと参りましたが、
こちらは曇りで涼しく、ほっと一息つきます。




車はとりあえず、先日まで住んでいた地域へと向かいます。
借りていたAirbnbの部屋の前を通ったら、電気がついていました。
すっかりおなじみになったアパートの周りを一周通してみたら、
角の家の黒猫、”でんすけ”と再会することができました。



ピッツバーグで一度だけ食事を許されるとしたら、何を食べるか?

この問いに、わたしたちの答えは決まっています。住んでいたバトラーストリートのはずれにあるタイ・キュイジーヌ、
「プサディーズ・ガーデン」(Pusadee's Garden)一択です。

ピッツバーグ最初の日に訪れ、最後にも行き、
そしてまた今回も来てしまうくらい、このレストランには夢中です。

そして、わたしたちが愛してやまないロティをまず注文しました。


十七種類の食材を使ったサラダというメニューを見つけ、注文しました。
サーブする人が目の前で混ぜ合わせてくれます。



いつもは一つのカレー皿を二人でシェアするのですが、
この日はキッチンのないホテルに泊まっていたということもあって、
次の日に食べるために、多めに頼むことにしました。

アメリカのレストランでは、残した料理を持ち帰ることが可能で、
入れ物も快く提供してくれますので、最初からそのつもりで多めに頼み、
次の日レフトオーバーを温めたりアレンジしたりして食べる人も多いのです。

日本では食品衛生法第6条の縛りで、店が責任を取らされるため、
持ち帰りはできないというのが一般通念となっていますが、
食品廃棄物も出ないし、無理して食べなくても持って帰れるこのシステムは
お店にとっても客にとってもいいことづくめだと思うんだけどなあ。
写真の奥はいつものパンプキンカレー(Kabocha入り)、
手前は初めて頼んだベリーのカレーパスタです。

次の日、出発前に部屋で食べましたが、びっくりしたのは、
一晩経ってレンジで温めたものなのに、完璧に美味しかったことです。



■ ユニバーシティ・ストリート


サンフランシスコのミッションディストリクトを走っていたとき。

この地域は、古い有名なスペイン時代の教会もあって、
ビクトリアン様式の邸宅なども公園の前に並んでいたりするのですが、
このクィーン・アン様式の立派なお屋敷の前を通ると、
家の前に掲げられたユニオンジャックが半旗になっていました。

もしかしたらイギリス大使公館でしょうか。イギリスのエリザベス女王陛下が崩御されたと報じられてすぐのことでした。




MKの大学のある地域は、地価が高いので有名ですが、
そういう地域の中心街には、お洒落で美味しい飲食店がひしめいています。

MKの大学のキャンパス内からまっすぐ続いている、その名も
「ユニバーシティ・ストリート」沿いは、この地域のおしゃれスポット。

現在、アメリカでそのストリートがどれだけホットかどうかは、
スターバックスではなく、Apple Storeがあるかどうかで決まりますが、
当然ここにもそれはあり、しかも美味しくない店は、どんどん淘汰されて
新しい店に代わっていくという、飲食店の「激戦区」となっています。

COVID-19発生以降、ベイエリアの飲食店は外にテーブルを置くようになり、
そのせいで車を置く場所がどんどん足りなくなっているのですが、
この日お昼を食べに行ったこのカフェも、外のテーブルまで満席でした。



そして、写真に写っている人を見ていただければお分かりのように、
このゾーンには太った人は滅多にいないという特色があります。
総じてカリフォルニアの都市部はその傾向にありますが、特にこの地域、
そしてこの通りを闊歩するアメリカ人は、ほとんどがスマート。

太っている人も勿論全くいないわけではありませんが、
それは失礼ながら、ほとんどこの地域の労働者階級のように見受けられます。

少なくともこんな店に客できて、スパークリングウォーターを飲みながら、
「ブッダボウル」をつついている男性が、太っているわけはないですが。

刺身レベルのツナを使った(と豪語する)アヒツナ、ブラウンライス添え
映画版のSATCで、ニューヨーク在住の主人公がLAに来て、
昔の男友達と食事を食べたところ、彼がステーキを口に含んで噛んだ後、
ナプキンに吐いているので激怒したら、逆ギレされて、
ここでは太ったら人間扱いしてもらえないんだ、とか言うシーンがありました。

カリフォルニアの「ルッキズム」を批判した表現でしたが、
この地域の人々は、いわゆるアッパークラスの人種が多く、
金持ちとエリートにデブなしという法則通りなのだと思います。

ついでに余談ですが、最近リブートされたSATCの
「And Just Like That..」を、今回わたしは
国内便のオンデマンドとアパートのケーブルTVで全部観ましたが、
その出来があまりにも酷くて衝撃を受けました。
世間の評価も低くて10点中1がスコアのほとんどという惨憺たる結果。
多様性の話題をぶち込みすぎてつまらなかった、の一言です。

ミランダの新しい相手になるのが、LGBTQのヒーローみたいな、
新キャラの”チェ”とかいう女性(?)で、わたしはこの人が大っ嫌い。

この背脂が浮いたような女の演説が始まると、迷いなく早送りしていましたし、それでなくても、大学の教授やら黒人女性とか、富豪のセレブ夫人が
判で押したように黒人ばかりとか、そんな世界ある?
もううんざり、勘弁してくれって感じ。

そんなに多様性多様性いうなら、シャーロットの養女、リリー以外のキャラに、
もっとアジア人を使えば?って思いました。

(ちなみにもう一人の彼女が産んだ娘はいわゆる性同一視障害で悩んでおり、
それを宥めるユダヤ教の女性ラビまでが同性愛者。OK、パーフェクト!)



閑話休題。アヒ・ツナのタコスなどというメニューも「ここ」ならでは。
ユニバーシティストリートですが、小洒落たカフェばかりではなく、
美味しいエスニック系のレストランももちろん、たくさんあります。

一度驚いたのが、NAGIというラーメンの店にお昼を食べに行こうとしたら、
三重に折り返すウェイティングの列ができていたことです。

ものすごい人気なのは分かりましたが、口コミサイトを見ると、
日本式のラーメンを知っているらしい人の評価は概ね辛口で、
チャーシューは「合成肉」で、脂っこく、値段は高いということでした。
二人で食べて四千円って、まあ高いよね。



ヒートウェイブが来ていたころ、お昼を食べに行ったユニバーシティ通り沿いのカフェ風レストラン、「スウィートメープル」。



全体的にメニューにやたら牛肉がついてくる印象だったのですが、
この肉が・・・なぜか塩辛い。


『OMU-RICE』と名前だけは日本風のメニューなのですが、
これにもなぜか肉。(食べてないけど、これも多分辛かったと思う)
「ははーん、コリアン系の店だな」
メニュー構成とか、ところどころに見える「プルコギ」という文字、
そして何を食べても辛いこの味付けから、わたしはそう判断しました。

居抜きで買ったらしい店の内装はカフェ風で悪くないのですが、
どうも肝心の味がイケてない。というかはっきり言って美味しくない。
おしゃれなカフェ風の内装、店名、雰囲気だけはいいのですが、
肝心の味が全く「スウィート・メープル」らしさを感じさせないのです。

これはあかん、と思ったのは化粧室に行く時にキッチンの前を通ったところ、
それが、雑然として清潔とは言えない状態だったのを見てしまった時でした。
おしゃれなカフェのキッチンどころか、それはまるで
場末の中華料理屋の厨房のようだったのです。がっかり。


清潔そうな整理されたキッチン、そして綺麗なトイレ。
いいレストランは必ずそのどちらもを兼ね備えているものです。

勿論、これらを兼ね備えつつ「美味しくないレストラン」は存在しますが、
どちらも兼ね備えていないレストランが美味しかった試しはありません。
おそらくこのレストランは、この激戦区で長くは保たないでしょう。
次に行った時に、まだあるかどうか・・・。

逆に、せっかく味は美味しいのに、時代についていけなくて、
撤退を余儀なくされたらしい店もありました。

このタイ料理の店は、以前も一度食べにきたことがありますが、
本場の味を出していて、トムヤムスープは絶品と言ってもいいものです。



デザートもここでしか食べられないような変わったもので、
大変美味しかったのですが、店内に客がいないのが気になりました。

確かに、タイには本当にこんなレストランがあるんだろうなと思わせる
異国情緒溢れる内装といえば聞こえはいいですが、
初代店主の写真(多分遺影)や、素人(多分店主の絵)を飾ったり、
全体にあまりにもエスニック色が濃すぎて、飽きられたのかもしれません。

それを裏付けるように、デザートのお皿の下のお知らせには、
10月いっぱいでお店をクローズすることが書かれていました。

おそらく、地価が高くなりすぎて、家賃が払えなくなったのでしょう。
何しろ、このお店の隣にはApple Storeができてしまったのですから。


■リモートワークによる『人口流出」はあるか

最近のシリコンバレーの地価の高騰は凄まじいとここ何年か言われてきました。

それもあって、コロナが蔓延してから、AppleやGoogleなどの社員は
リモートワークを理由に帰ってこなくなってしまったくらいです。

それどころか、ピッツバーグの知人の娘さんのように、
カリフォルニアのIT企業の仕事を入社以来ずっとリモートで行っていて、
入社のインタビューですら、オンラインで済んでしまい、
一度もカリフォルニアに行ったことがないなんてケースもあります。


ところがです。

これはApple社の話ですが、当社に限っては、明らかに
リモートになってからの方が生産効率が落ちているのだそうです。
会社としては、なんとかして社員を現地に呼び戻そうとしているのですが、
笛ふけど踊らず、誰も戻ってきたがらないので困っているのだとか。
(日経新聞情報ですので念のため)

しかし、仮にもしあなたがアーカンソー出身だったとして、
アーカンソーに住みながら、カリフォルニアの給料が貰えるとすれば、
誰が好き好んで、高い家賃、高い食費、高いガソリン代、
朝夕の通勤渋滞を我慢して、ベイエリアに住もうなどと思うでしょうか。

そこで、わたしなど、

「リモートワークがこれだけ進んで、人口が減ったなら、
地価もそれを反映して安くなりつつあるんじゃないの」
という考えに至るわけですが、ここまで高騰したベイエリアの地価は、
テック企業の社員が少々逃げ出したくらいでは、びくともしないようです。


続く。


「沖縄丸」撃沈・第9・10回次哨戒〜潜水艦「シルバーサイズ」

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さて、ミシガン州マスキーゴンのミシガン湖沿いに係留展示されている
潜水艦「シルバーサイズ」の哨戒行動を順に検証しています。
ところで、ピッツバーグ在住の知人にこの話をしたところ、
彼らはマスキーゴンという地名を全く知りませんでした。

まあ、アメリカ広いんで、全ての地名を知っている人なんていませんが、
アメリカに生まれ育った人が、全く耳にしたことすらないというほど、
マスキーゴンというのは知名度がないことだけは確かです。


■ 第9次哨戒と”ダチョウ”?


さて、「シルバーサイズ」の哨戒活動について、そのワードルームの
棚の扉にペイントされた、「乗員が哨戒中描いた撃沈撃破敵船マーク」。

第9次哨戒のそれは冒頭写真のものとなります。
● 貨物船 3,000トン

●貨物船 4,000トン
という彼らが撃沈したとする2隻の日本船を表すマークとともに、
ダチョウのシルエットが描かれています。

第9次哨戒は、1944年の2月15日から4月8日まで行われました。
英語の資料は次のようになっています。

🇺🇸
2月15日、9回目の哨戒のため「シルバーサイズ」は真珠湾を出港し、
マリアナ諸島西方海域に進路を取った。

3月16日、貨物船「コウフク丸」を撃沈。

この「コウフクマル」が、戸棚に書かれた2隻のうちの一つでしょう。
それでは、日本の資料を見てみます。

🇯🇵3月5日
グアムアプラ港を偵察して港内に2隻の輸送船がいるのを発見
パラオ方面で哨戒をするも攻撃の機会はなかなかつかめなかった。

しかし、3月15日未明に至り北緯07度12分 東経134度30分の地点で
千鳥型水雷艇と3隻の駆潜艇らしき艦艇に護衛された
3隻の輸送船団を発見する。

船団がラバウルかウェワク方面に向かうと判断し、浮上して追跡を行う。

幾度となく行われた爆雷攻撃をかいくぐって、
3月16日午後に北緯04度28分 東経136度56分の地点で魚雷を3本発射。

魚雷は
陸軍船「光福丸」(大光商船、1,920トン)
に2本命中、これを撃沈した。

「光福丸」の記録は戦没戦時徴用船のデータにも残っていて、
沈没地点はビアク島北東沖、となっています。             
戸棚に描かれた3,000トンの輸送船が「光福丸」を指すと思われます。

攻撃後はマノクワリ近海での哨戒に転じ、3月28日午後には
南緯00度55分 東経134度20分で日本陸軍の海上トラックに対して
魚雷を4本発射し、1本の命中を得て撃沈した。
この時の「海上トラック」については、それ以上の資料はありません。
海上トラックとは、おそらく揚陸艦の一つである
陸軍の機動艇のことであろうかと思われます。

陸軍機動第19号艇


4月8日、「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えます。
その後ブリスベンに帰投した訳ですが、ここで今一度、
艦長がコイ少佐に交代してからの哨戒行動を見てみます。


第9次哨戒の航路をわかりやすく青で上書きしました。
真珠湾は赤い丸、そして「光福丸」を撃沈した地点が
塗りつぶした赤い丸で示しました。

というわけでダチョウです。

オーストラリアにダチョウっていたのか・・・と思ったのですが、
ふと、「オーストラリアの国鳥(非公式)はエミュー」と気付きました。



なるほど、シルエットはブリスベーンに戻ったことから、
エミューのつもりだったんですね。


■ 「撃沈ペイント扉」が無くなった第10次哨戒

ここであることに気がつきました。

ワードルームの物入れの扉を利用した「シルバーサイズ」撃沈艦ペイントが、
第9次のエミューを最後に、なくなってしまったのです。

写真を隅から隅まで見ましたが、他の部屋にもそれはありません。

その理由を考えてみたのですが、単に
哨戒数がペイントするための扉の枚数を超えた
ということに過ぎなかったようです。

哨戒が始まった時には、ワードルームの両側に並ぶ扉を
撃沈ペイントで埋めていくというのはいい考えと思われたでしょう。

ただ、そのことを決めた初代艦長はじめ、誰一人、
扉が9枚しかないということ、つまりそれを使い切ってしまったら
その時はどうすればいいのかを考えもしなかったようなのです。

哨戒の回数がそれ以上になる可能性について、
初代の乗組員と艦長は誰も言及しなかったのでしょうか。
そうかもしれません。

このことは、あの戦争で、潜水艦任務という任務に身を置く彼らが、
自分たちの運命に対してさえ恬淡と有ろうとするあまり、
むしろそのことは暗黙の了解のもとに誰も口にしなかったのでしょう。

ペイントするべき扉がなくなる第10次哨戒まで
「シルバーサイズ」が駆逐艦や航空機の爆雷に遭わずにいられるか。

不慮の事故や触雷もせずに生き残ることができるかどうか。

10枚目の扉が必要になるまで、この艦が沈まず生き残れるかどうか。

彼らはむしろその先について、考えることをやめたのだと思うのです。



それでは第10次哨戒を、日米の記録から検証します。
第10次哨戒は、ブリスベーンを4月26日に出発し、その後
マリアナ諸島海域へと哨戒海域を定めました。

🇺🇸
5月10日
貨物船「沖縄丸」
客船・貨物船「御影丸」
砲艦「第二長安丸」
を沈没させるという快挙を成し遂げた。

🇯🇵5月8日
北緯13度42分東経144度22分の地点で
5隻の護衛艦がついた6隻か7隻の輸送船団を発見。

艦尾発射管から魚雷を4本発射して
5,000トン級輸送船に1本の命中を得たと判断される。

日本側の記録にあるこの5,000トン級輸送船については、
相当する船名がわかっておらず、さらには
アメリカ側の、つまり「シルバーサイズ」の行動日誌にも残されていません。


5月9日
アプラ港外で東松七号船団(往航)から分派された輸送船団を追跡開始。


5月10日
朝に北緯11度26分 東経143度46分の地点で魚雷を6本発射する。
魚雷は、

輸送船「沖縄丸」(広南汽船、2,254トン)
特設運送船(給炭油)「第十八御影丸」(武庫汽船、4,319トン)
特設運送船「第二号長安丸」(東亜海運、2,631トン)

にそれぞれ命中して撃沈した。

■ 撃沈された船団

まず、「第二号長安丸」は、昭和2年から10年まで
神戸と天津の間を往復していた貨物船ですが、
昭和11年に陸軍に徴用されてからは関東軍隷下で兵の輸送を行い、
その後戦争が始まったので三菱重工で艤装工事を加えて
昭和16年には軍艦旗を掲揚する特設砲艦となりました。
「シルバーサイズ」の攻撃を受けた時は、特設運送船として
トラックの第四艦隊の第四根拠地隊に所属していました。
「第十八御影丸」は船歴などは検索できませんでした。
特設運送船(給炭)、特設運送船(給炭油)は、
海軍に徴用された5千トン以上の貨物船のことを言います。

この時撃沈された「第十八御影丸」ですが、「シルバーサイズ」が
少なくとも48発あった爆雷攻撃の後浮上してみると、
周囲海域には、そのバラバラになった残骸が漂っていたということです。

「沖縄丸」についてはちょっと説明が必要です。
皆様は、日露戦争関連でこの船名に聞き覚えはないでしょうか。

「沖縄丸」は日本の逓信省に所属した海底ケーブル敷設船で、
日本最初の本格的海底ケーブル敷設船でもあります。

明治維新後、日本の対外電信線の敷設は、
デンマークの大北電信会社が独占して行っていました。

これに対し日本は国内線の海底ケーブルの敷設を決め、
1890年(明治23年)に敷設を成功させていましたが、日清戦争で獲得した台湾に、海底ケーブルによる電信敷設することが
喫緊の情勢となったため、イギリスに本格的海底ケーブル敷設船、
受注し建造させたのが「沖縄丸」でした。

ちなみに船名の由来は、台湾への経由地である沖縄県という説の他、
「沖の縄」で海底ケーブルの意味だとする説もあるそうです。

「沖縄丸」は、最初の任務として台湾軍用線のために
日本本土と台湾の間で全長1935kmの海底ケーブル敷設を行いました。
そして、日露戦争が勃発します。

「沖縄丸」は、徴用船に準じた扱いで日本海軍の指揮下に入り、
正規海底ケーブル敷設船として、戦場各地の軍用通信網の整備を行いました。
開戦が約1か月前に迫っていた1903年(明治36年)末、
「沖縄丸」正体を偽装するための工事を施され、
(機密保持のため、乗員は誓約書を提出させられている)
船名も「富士丸」として作業を行います。
与えられた任務は、朝鮮半島の木浦(八口浦)と佐世保、
馬山浦(鎮海湾)と対馬を結ぶ軍用電信線を敷設することでした。
開戦後は旅順要塞付近で軍艦による護衛を受けながら、
あるいはバルチック艦隊の来航に備えて、
対馬海峡周辺の海軍望楼などを結ぶ海底電信線の敷設も行いました。

「沖縄丸」の活躍により構築された濃密な警戒網は、
日本海海戦における日本海軍の勝利にも貢献したとされ、
船尾に日本海軍軍艦の艦首と同様、菊花紋章の飾りが取り付けられ、
1905年の東京湾凱旋観艦式には海軍艦船以外で唯一参加しています。
wiki
日露戦争後に撮影された沖縄丸の船尾には、
菊花紋章の飾りが見えています。

第一次世界大戦に日本が参戦すると、「沖縄丸」は再び
軍用通信線の敷設に動員され、青島の戦いに際しては、
防護巡洋艦「新高」や「笠置」援護の下、海底電信線を敷設しました。
その他の活躍により、第一次世界大戦後の観艦式は
再び海軍艦船以外で唯一参加を許されています。

第二次世界大戦が始まったとき、「沖縄丸」は老艦になっていました。
一度は記念艦として保存が検討されたこともあったようですが、
戦況が切羽詰まってくると、海軍に徴用されることになります。

最後は松輸送の東松7号船団に参加して、5月6日にサイパン島へ到着、
さらに別の船団に加わってグアム島経由、ヤップ島に向かう途中、
「シルバーサイズ」の雷撃を受けて沈没したのでした。

■ 第10次哨戒のその後
その戦果を記すべき戸棚の扉を持たなくなった「シルバーサイズ」が
おそらくそれ以前の全ての哨戒をはるかに凌駕するほど、
日本の艦船を次々と撃沈し続けたのは皮肉なことです。

🇺🇸
その10日後、またもや
砲艦「松清丸」(998トン)を沈め、戦果を挙げた。
5月29日には、貨物船「昭建丸」「蓬莱山丸」
を魚雷で撃沈する。
最終的にマリアナ諸島沖で
敵艦6隻、総トン数14,000トン以上を撃沈した。
🇯🇵5月20日

北緯13度32分 東経144度36分の地点で大型輸送船と護衛艦4隻に
魚雷を4本発射して2本が命中したと判断される。

5月28日
輸送船2隻と第16号海防艦からなる第3519船団を発見、追跡。

5月29日
北緯16度19分 東経145度21分のサイパン島西岸沖で
魚雷を3本ずつ計6本発射。

陸軍船昭建丸(東和汽船、1,949トン)
海軍徴傭船蓬莱山丸(鶴丸汽船、1,999トン)

を撃沈し船団を全滅させた。

5月30日
北緯15度33分 東経145度23分の地点で新たな輸送船団を発見し、
ピンタド (USS Pintado, SS-387)、
シャーク (USS Shark, SS-314)、
パイロットフィッシュ (USS Pilotfish, SS-386) 
からなる別のウルフパックを呼び寄せて攻撃を行う。

ウルフパックを召喚した時には戦果に結びつけることはなかったようです。

この時、「シルバーサイズ」は連続してフィーバー状態だったため、
魚雷が底をついてしまい、哨戒を切り上げて帰ることにしました。


第10回哨戒において、「シルバーサイズ」が文字通り
阿修羅のように日本船を撃沈しまくったのは、赤丸の地点となります。

6月11日、「シルバーサイズ」は47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。

メア・アイランド海軍造船所に回航されオーバーホールを行った後、
9月12日に真珠湾に帰投しました。


続く。




帰国〜アメリカ滞在

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わたしたちがピッツバーグからの「弾丸飛行」(ジョン・グレンのじゃないよ)
を済ませてサンフランシスコに帰ってきたそのころ、
まだベイエリアは絶賛ヒートウェイブの真っ只中でした。

高速道路を走ると、電光掲示板に、「ヒートウェイブ・注意」とあります。

一体何をどう注意するんだと思ったのですが、これは要するに、
極力スピードを抑えてガスの排出を抑えましょう、ということらしいです。

その後ヒートウェイブは去り、わたしたちが帰国すると同時に
現地の気温は昼間23℃、夜間17℃というレベルに下がりました。
これで湿度の低いベイエリアは過ごしやすくなるだろうと思いきや、
現在は雨が続いているのだとか。
アメリカでは、すでに台風で浸水の大被害が出た地域もあり、ここでも異常気象などという言葉が囁かれているようです。

さて。
わたしがピッツバーグに行くまでに、寮への荷物運び込みと整理を済ませ、
ついでに基本的な食材も一緒に買い物に行って買い整えてやったので、
さっそくMKは新しい寮での新生活をスタートさせ、自炊も始めたようです。

しかし、いかに料理が好きといっても所詮は学生の「男の料理」ですから、
百戦錬磨の主婦ほどの応用力も素材を見分ける力もなく、
最初に挑戦した料理は失敗してしまったようです。
初めてオーブンを使って野菜と肉をグリルしてみたようなのですが、
冷蔵庫にトレイのまま手付かずで残っているのを見て聞いたら、

「肉が硬くてすげー悲しかった」
ということでした。

どうやら敗因は肉の種類に合った調理法をしなかったことです。
(煮込み用の肉を叩かずにさっとグリルしてしまったとかね)
MKよ、まあこれも勉強だ。
次からはどうやったら美味しくなるか工夫するんだね。



■イエロージャケット・スカベンジャー



ある日、MKが検索してくれて、ゴルフ場併設のレストランに行きました。
まだヒートウェイブ真っ最中の頃でしたが、夕方なのと、
日陰のテーブルなので、外でご飯を食べるくらいなら大丈夫です。
わたしはゴルフをしないのですが、アメリカのゴルフ場を見るたび、
もしアメリカにずっと住んでいたらやっていたに違いない、と思います。

日本のゴルフ場はたいてい山の中とかにあって、
プレーしない人がグリーンを目にすることはありませんが、
アメリカは街からそう離れていないところに、しかも公園の道沿いとか緑地、
道沿いにあって、ほとんどは周りに柵もありません。

文字通り敷居が低そうで、手軽に始められそうですし、
おそらくは日本でするよりフィーも安いでしょうしね。
このレストランからも、壮年、主婦らしい人、老人、若い人と、
雑多な年代や男女問わず気楽にコースを回っていて、
プレーをしているのが見て楽しめるようになっていました。



このレストランは普通のアメリカ料理がメイン。
MKのリクエストでフライドチキンを一皿頼みました。
料理そのものは普通。
とにかく目の前に広がるゴルフ場のグリーンが目に気持ちよく、
ほとんど場所に価値のあるレストランという感じでしたが、
外ということで、時々虫が飛んでくるのです。
チキンを食べていると、黄色と黒の蜂が一匹、しつこく周りを飛び回り、
手で払っても払っても、すぐに戻ってきて困りました。
(チキンの骨閲覧注意)
あまりにしつこく周りを飛び回るので、全部食べ終わったこともあり
追い払うのをやめたところ、確信的にチキンの骨部分に止まりました。
骨に取り付いて一生懸命何かやっています。

家族三人で、つい観察してしまったのですが、なんとこの蜂、
フライドチキンの骨から、ガシガシっと肉を食いちぎっているのでした。

「もしかしてこの蜂、肉食いちぎってない?」
「うえー、ほんとだ。肉を外してる」

「蜂ってチキンなんか食べていいの?食物連鎖的に」
「奈良で鹿が観光客の捨てたフライドチキン食べてるの見たことあるけど」
「こいつ、この肉を巣に持っていくつもりなのかな」

「こんなの持っていったら女王蜂に追い出されるんじゃない?」
そうして見ていると、大きな肉の塊を食いちぎった蜂は飛んで行き、
そして、2〜3分経った頃、また戻ってきて、
全く同じところに止まり、同じように肉を食いちぎっています。

(次:虫閲覧注意)
後で調べたところ、これは北米に生息するハリナシミツバチ種の一種で、
その名もハゲタカバチという種類の鉢であることがわかったのです。

ミツバチは蜜と花粉から栄養分を得るのに対し、ハゲタカバチはその名の通りハゲタカのように、彼らは花粉の代わりに
死んだ動物の死骸の肉を食べ、肉を集め、肉の蜂蜜?を生産します。


こういう生物をスカベンジャー(屍肉食動物)と言いますが、
この蜂も、ゴルフ場に隣接したピクニック場のゴミ箱などを目当てに
近くに巣を作っているのだと思われます。
彼らの最も好物なのはまさにこの鶏肉で、なぜかというとそれは
タンパク質の摂取のためと言われています。
英語で黄色い蜂のことを「イエロージャケット」と言いますが、
それこそこいつらをヒーロー戦隊もの風にいうなら、

「イエロー戦隊・スカベンジャーズ」
といったところでしょうか。


■ 友人との再会〜噴火しない溶岩ケーキ

サンフランシスコに住んでいた時からの友人と、3年ぶりに会いました。
コロナ蔓延以降、そもそもわたしが西海岸に行けなくなったので、
それが再会した今年、何としででも会いたかった人です。
彼女の夫はアーバインに本社がある有名なゲーム会社のアーティストで、
LA近郊に家があるのですが、彼女自身はアート関係の仕事を引退し、
今は物件を持って賃貸業を営んでいます。

テナントがサンフランシスコ市内にあるので、いつもわたしが渡米すると
彼女は、仕事がてら7時間の距離をドライブして会いにきてくれていました。

今回はそれに加えて、娘さんがサンフランシスコの大学にいるため、
彼女の引っ越し手伝いと、彼女のボーイフレンドに会うという用事を兼ね、
わたしの滞在に合わせてやってきたのでした。



彼女がきた時、家族三人と合計四人で昼ごはんを食べに行きました。

サンマテオの中心街にある、アメリカン・ダイナーとカフェの間みたいな、
ハンバーガーもイタリアンも食べられるというレストランです。
皆で突っつけるように小皿料理をいくつか取りました。
これはそのうちの一つ、ニョッキです。


野菜たっぷりのハンバーガー。これはTOが頼んだもの。



わたしが頼んだのはツナのステーキ(ミディアムレア)。



デザートの一つ、クリームブリュレ。
薄いお皿上のプリン(的なもの)の表面をバーナーで焦がして仕上げます。


「Lava cake」とメニューにあったので、これに目がないMKのリクエストで
頼んでみたんですが、出て来たのを見て、MKがっかりして一言。

「ラーバ、噴火してないし」
アツアツのチョコケーキにフォークを入れるt、
中からあたかも溶岩(ラーバ)のようにチョコレートソースが出てくる。
これをラーバケーキ、日本ではフォンダンショコラと言ったりします。

コロナの影響で閉店してしまったザ・クリフという太平洋沿いのレストランは
ラーバケーキが自慢で、MKはいつもこれを食べたがりました。

ところが、ここのは、そもそもチョコレートの溶岩が流れる前に
クリームソースをかけて固めてしまった状態。
いわば噴火前で、ラーバと呼べる要素はどこにもありません。

「これ・・・もしかしたら失敗したんじゃない?」

「中まで焼けてしまったので、溶岩が流れず、代わりにソースをかけた?」
ヒソヒソ言いながら全員で突っつきましたが、
味は普通にチョコレートケーキでした。

ちなみに、彼女の娘さんとMKは小さい時かなり仲が良く、
わたしたちが会っている間、ほとんど恋人同士のように戯れあっていましたが、
そんな彼らもある夏から急に他人行儀な付き合い?になりました。

そして、今は彼女にも母親に紹介するようなBFがいるというわけです。
(ちなみに前彼は医者志望で、MEDにも合格した優良株だったけど、
あまりにも束縛してくるので嫌になって別れたらしい)

MKには今のところそれらしい気配はありませんが、
彼と同じ年頃の娘息子を持つアメリカ在住の知人たちからは、
いきなり息子が大学からGFを連れて帰ってきて家に泊めたとか、
いつの間にかBFと一緒に暮らしている、などという話を聞かされます。

昔も今も、アメリカの青年たちというのは、気軽にお付き合いを始め、
結婚するしないに関わらずステディな関係を親に公言するのね、とそのオープンさには文化の違いを感じずにはいられません。

日本もこんな感じなら、少子化はもう少しマシだったのかな、
などとつい考えてしまいました。


■ スタイリッシュ・インディアンキュイジーヌ

日本に帰国する前夜、家族でオシャレ系インド料理に行きました。


一口にエスニック料理のレストランといってもさまざまで、
前回の家族経営のインド料理屋は、キッチンから大きな声で
英語ではない会話と笑い声が筒抜けに聞こえてくるような小さな店で、
まるでインドの家庭の台所でご飯を食べているような気分でしたが、ここのはバーリンゲームの一等地に新しくできた、謳い文句も

「スタイリッシュ・アップスケール・南インド料理」
upscaleというのは、高級という意味。そして店名は「サフラン」Saffron と何やら趣味のいい感じです。
昔、ミシュランの星を持っていたこともあるとかで、
(なぜそれが今は無くなったのかはわかりませんが)
家族で食べるアメリカ最後の記念すべき夕食に相応しいという気がしました。



インド料理でエディブルフラワーをあしらったお皿を初めて見ました。

これは、ビーツを使ったサラダで、本来は山羊チーズが乗っていますが、
わたしたちは苦手なので抜いてもらいます。
店内もお花のお皿にふさわしく看板通りのスタイリッシュさ。

来ている客層も、近所のリッチそうな白人ばかりの奥様グループ、
シリコンバレーのテック関係っぽいインド人とアメリカ人の男性、
完璧な英語で会話している白人とインド人のおしゃれな女子、
と、いかにもバーリンゲームという高級住宅街の住人らしき人ばかり。



「Our Secret Recipe」(当店秘伝のレシピ)で作られたという、
お店のシグネチャー、バターチキンは外せません。

一皿25ドルとお高いですが、三人でたっぷり食べられて、
スパイスが効いたスモーキーな味わいのするこのチキンカレー、
お値段以上の価値があると思われました。



追加で頼んだロティとガーリックナンをつけて、
いくらでも食べられてしまうカレーです。



せっかくなのでデザートも頼んでみることにしました。
青のりを乗せたたこ焼きではありません。
こちらでいうところのパフクリーム=シュークリームです。

上の青のりの正体は多分チョコレートだと思います。



■ 出国

次の日、サンマテオのAirbnbをチェックアウトして、
三人で空港に向かいました。


このAirbnbの良かったところは、一にも二にも清潔さ(土足厳禁)。
Whole Foods Marketに近い、280と101どちらの高速にもすぐアクセスできる、
家の前に駐車スペースがある、バストイレが二箇所、とたくさんありますが、
何と言っても空港まで10分で行けるという安心感でした。

MKの寮生活はもう始まっていましたが、偶然この日から二泊、
サンディエゴの知人の家に招待されていたこともあって、しかも
たまたま出発時間がわたしたちの国際便とほぼ同じだったため、
前の晩は家族三人最後に一緒に過ごすことができたのです。



MKを国内線乗り場で降ろして、別れの挨拶をしました。

「ちゃんと野菜食べなさいよ」

「野菜食べるわ」

母親というのは、顔を見れば息子に
野菜を食べろと言わずにいられない生物であると彼は心得ています。

その後レンタカーを返し、チェックインを済ませると、
搭乗時刻まで新しくできたユナイテッドのポラリスラウンジで過ごしました。



ここは中に、オーダーしたものを持ってきてもらえるレストラン
(もちろん無料)があったので、試しに入ってみました。



おすすめは、特別のミートを使用したハンバーガー、とあったので、
一つ頼んでみましたが、これはおすすめというより、
「忙しいキッチンと給仕をする人のためのメニュー」という気がしました。
美味しくないことはなかったですが。



デザートも、あまりに普通。

わざわざ入っておいてなんですが、外のカウンターの料理やデザートの方が
何だか美味しそうで、そっちにすればよかったと思ったのはここだけの話。

さて、いよいよ出発です。



これから滑走路へアプローチ。


離陸。空港の建物が瞬く間に眼下へと。



二本線になって横切っている道路は280号線。
手前の街並みはサンブルーノ市街となります。
ついでに、手前右下のビルはウォルマート地域本社です。


あっという間に西海岸線が見えました。(この間2分くらい)
パシフィカと総称する海岸線です。



最後に見るアメリカ大陸は、ペドロポイントと呼ばれる岬でした。


さて、海の上に出たら窓を閉め、早速映画鑑賞です。
「マーヴェリック」が機内上映されていたので当然これを選びます。



「マーヴェリック」の興行収入は前代未聞というくらい良かったそうですが、
確かに、面白い。
面白いだけでなく、このシーンで一度は涙ぐんでしまいましたよ。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、
これはおそらくフォトショしまくった写真のアイスマンです。


トム・クルーズのファンだったことは一度もないわたしも、
この映画を観て、不覚にも良いなあと思ってしまったほど。

それから、中国資本ということで懸念されていましたがご安心ください。
マーヴェリックのボマージャケットに、ちゃんと日本の国旗ありましたよ!

やっぱりこういうことをちゃんとしたからこそのヒットでしょう。

細部は専門的な目で見ればツッコミどころも多いのだと思いますが、
エンタメとして近来稀に見るよくできた作品だと思います。

今はアマプラなどで有料配信しているようですので、
ぜひ迷っている方は騙されたと思わず、ご覧ください。
このわたしが自信を持ってお勧めいたします。


ここで恒例の機内食シリーズです。
相変わらず全く美味しそうに写っていませんが。



ちょっとはマシかなと思って、写真を撮る時だけ窓を開けてみました。



鯖の煮付け・・・ヒルズデールのやよい軒のより美味しかったです。



朝食は魔がさしてパスタを選んでしまいました。

オリーブオイル主体のトマトソースが液体状だったのが災いして、
パスタ(カネロニ)がソースに落下し、
サンフランシスコのリサイクルショップで買った新品のロロピアーナの
(しかも白)タンクトップの胸にシミがついてしまいました。
悲しかったです。
■入国



さて、わたしたちが帰国したほんの二日前のこと。
日本政府が、3回目のブースターショットを受けた人に限り、
PCR検査を免除するという措置をとることになりました。

しかし、成田に到着した時の機内アナウンスは、前と変わらず
降機したら係員の指示に従って云々、というもの。
まさかまた唾をはかされるんじゃあるまいな?と思っていたら、
途中で書類を回収し、何やらQRコードを入れさせられて、
それでもこれまでからは考えられないくらいスムーズに出ることができました。



途中でこんなものももらいましたが(なぜか赤だったのが今回は青)
入国審査を今は自動受付で行うため、誰にも見せずじまいでした。

というわけで、帰ってきたわけですが、帰った途端、MKから
iPhoneの新しいアップデートで、写真が切り抜けるよー、
というお知らせが入りました。

健康カードと検疫カードは、その新しい機能を試したものです。



こんなこともできるわけだ。





ところで前に住んでいたアパートの道向かいにあった、
このダイナー兼カフェ兼レストラン。

バタージョイントという名前のこのレストランをMKは滅法気に入っており、
わたしたちがいる時も、何かにつけて行きたがり、
ときには友達を誘って、最後の最後の日までリピートしていました。

家族三人で行ったときには、ウェイトレスのお姉さんと世間話をし、
お姉さんは大学院進学おめでとう、向こうで頑張って、
などと激励してくれている様子を見るに、彼はアパートでの一人暮らしで
ここによっぽど通い詰めたんだなと思ったものです。
勉強で忙しい時は、自炊もままならないので、
毎日のようにお世話になったのかもしれません。



おそらく彼にとってのピッツバーグの心の故郷の一つなのでしょう。


アメリカ滞在シリーズ終わり
おまけ;


日本に帰ったら、マンションの入り口で早速お出迎えしてくれた
同じマンションの住民の飼い猫、ひめちゃん。

猫の世界では、目を凝視するのは失礼ということになっているので、流し目しながら「おかえりー」と挨拶してくれました。



「彼女は群狼作戦に加わったのか」第11次哨戒〜潜水艦「シルバーサイズ」

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ミシガン湖はマスキーゴンに係留展示されている、
第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」について、その哨戒活動を順を追って検証してきましたが、今日は
第二代艦長、ジャック・コイJr.少佐の最後の指揮となった、
第11回哨戒を取り上げたいと思います。



「シルバーサイズ」は第10次哨戒から帰還後、直ちに
生まれ故郷であるメア・アイランド海軍工廠でオーバーホールを受けました。

入渠したのが1944年の6月11日。
オーバーホールを終えて真珠湾に帰還したのが9月12日とされていますので、
およそ3ヶ月の間、乗員たちは戦闘に出ない日々を過ごしたことになります。


■第11次哨戒の目的

真珠湾に到着してから12日後、「シルバーサイズ」は出撃しました。
目的は東シナ海。
台湾の北東と九州を結ぶ海域の哨戒で、「シルバーサイズ」は
哨戒活動の他に重要な任務を請け負っていました。

それは、マイク・ミッチャー中将率いる第38任務隊が予定している
台湾と沖縄での大々的な空襲の間、
海上に墜落した航空機のパイロットを救出することです。


ミッチャー中将

ミッチャー中将が司令官となって創設された第38タスクフォースですが、
「シルバーサイズ」が日本海域に到着したと思われる頃、
(つまり10月1日前後)大規模な空襲が行われたという記録も、
「シルバーサイズ」がパイロット救出活動をしたという事実もありません。

しかし、英語の方の記録には、この時「シルバーサイズ」が
姉妹潜水艦の救助を行った、と書かれています。
その前に、この時「シルバーサイズ」が
どういう形態で現地の哨戒に当たっていたかを説明します。


■ ウルフパック(群狼作戦)

ピッツバーグのMKの住んでいたアパートのすぐ近くに、
「ウルフパック・トレーディング」という名前の家電中古販売店があって、
前を通るたびに、一人で密かにウケていたわけですが、
ここの店主がどういうつもりでこの名前を選択したのか、
果たして本当の意味を知っての上だったのかは、気になるところです。


群狼作戦(独Wolfsrudeltaktik ヴォルフ・シュルーデル・タクティク)は、
第二次世界大戦中、ドイツ海軍潜水艦隊司令(BdU)
カール・デーニッツ少将によって考案されました。

当ブログでも一度説明したことがありますが、
ドイツ海軍では、潜水艦のことを「灰色の狼」と称していたことから、
複数の潜水艦が協同して敵輸送船団を攻撃する戦術をこう呼んだのです。


元々これが生まれたドイツ海軍における群狼作戦は、
複数の潜水艦(3隻以上)で行うことになっていました。
やり方は至極シンプル。

先発の潜水艦が、偵察機の情報を元に
敵船団が侵攻してくるであろうと予測される海域で待ち伏せをし、
船団が来たら、残りの潜水艦で周りを包囲し、撃滅するという方法です。
これに対し、アメリカ海軍潜水艦の群狼作戦の攻撃方法は、3隻1組で行うというのはUボートと同じですが、
包囲殲滅よりも、波状攻撃を主としていたようです。

事実アメリカのはドイツの群狼作戦のパクリなので、
オリジナルをそのまま翻訳した「ウルフパック」という名称は
現場で普通に使われていたのですが、さすがに公式にはあからさまにできず、

コーディネーテッド・アタック・グループス
(coordinated attack groups )
「調整攻撃グループ」
という名称にしていました。

しかし、現場でこのお役所的なイケてない名称は使われることなく、
誰もが「ウルフパック」で通していたものと思われます。

アメリカ海軍で最初にウルフパックを指導したのは、
チャールズ・モムセン(Charles Momsen)という軍人なのですが、
この「マンセンorモムセン」という名前に聞き覚えはありませんか?

潜水艦の事故における人命の確保のために発明されたアクアラング、
「マンセン・ラング」の発明者です。


こんな顔が後世に残ることになった水兵くん気の毒すぎ

モムセンが艦長クラスとその上官たちに伝授したウルフパックの戦術とは、

●3隻の潜水艦を1組とする

●1隻が船団に対し最初に攻撃を仕掛ける
この1隻を「トレーラー」と称する

●その後残りの2隻が左右から交互に攻撃を行う
というものでした。

「トレーラー」には先任の指揮官が乗艦しており、
基本的に残る2隻は統制に従うということも決まっていました。

そしてモムセン本人は1943年10月13日、

「グレイバック Grayback(SS-208)」 
「セロ Cero(SS-225)」
「シャド Shad(SS-235)」

からなるアメリカ初のウルフパックを率いて出撃しています。
チャールズ・モムセン少将(最終)
ところで、昔も今も、潜水艦の任務は全てが謎に包まれています。
潜水艦そのものが秘密の塊であるとともに、その行動も秘匿され、
同じ海軍同士でも潜水艦については知らされないことも多そうです。
もちろん我が海上自衛隊でもそれは同じで、
昔水上艦の乗組員とお話をした時、

「潜水艦は不思議ですね。
出港先で『あれなんでこんなところにいるの』
なんてところにいてびっくりさせられたりします」

と聞いたことがあります。

当時、アメリカ海軍は軍機漏洩禁止の目的で、潜水艦に限らず、
個人が日記をつけることすら禁じていました。

今なら乗員の個人的なSNS禁止というところです。

少し前、艦艇乗組の自衛官が自分の艦の入港先をSNSで発信してしまい
大騒ぎになったとかいうニュースがありましたが、
コンプライアンス以前に、この頃の漏洩は命に関わることでした。
従って、日記禁止も決して厳しすぎる措置ではなかったと思われます。
個人の日記だけでなく、潜水艦は戦果報告も60日後と決められました。
これは、ある時、政治家がうっかり報道陣に対して

「日本海軍の爆雷調定深度は浅いため、アメリカ潜水艦の被害は少ない」

と軍内部から聞いたことを喋ってそれが報じられてしまった途端、
アメリカ潜水艦が10隻立て続けに撃沈されたことがあったからです。

とにかく、念には念を入れた個人への記録禁止の結果、
アメリカ軍の群狼作戦については、公式記録以外の、
つまり詳細な現場からの記録はほとんど残っていません。

ところが、一人、いたんですねー。
群狼作戦について記録していた乗組員が。


当ブログで昔アップしたサブマリナーシリーズの扉絵ですが、この右上、
「ラッキー・フラッキー」とあだ名された、

ユージーン・B・フラッキー(Eugene B. Fluckey)少佐

が艦長を務めた、「バーブ(SS-220)」の魚雷員が、
こっそり日記をつけていたというのです。この日記の内容は、フラッキーの著書『サンダービロウ!』に残されました。


英語の書評です。
大胆不敵な艦長ジーン・フラッキー大佐の指揮のもと、「バーブ」は
第二次世界大戦中アメリカの潜水艦の中で撃沈総トン数最多だっただけでなく、
潜水艦が獲物を追跡して撃沈する方法を永遠に変えた。

フラッキーは、記録、報告書、手紙、インタビュー、そして
最近発見された魚雷員の一人による違法な日記をもとに執筆している。

そして本書には、当時のアメリカ軍の群狼作戦についてが書かれています。
1チームは3隻、最大で4チーム12隻で行う
群指揮官は序列に関係なし

作戦海域を区切ってパックごとに割り当てる

敵を発見したら協同で攻撃
僚艦との会合は主としてレーダー波による誘導を用いる
アメリカ式の、
「1隻が正面から待ち伏せ攻撃して怯ませておいて、
もう2隻が横から波状攻撃を加える」
というやり方は、フラッキー少佐が「バーブ」で行った戦法でした。


■ 僚艦「サーモン」救出
さて、「シルバーサイズ」の第11次哨戒に話を戻します。

延々とウルフパックについて説明したのは、この時「シルバーサイズ」は、

「サーモン」 (USS Salmon, SS-182)

トリガー (USS Trigger, SS-237)


の3隻でウルフパックを組み、哨戒を行うことになった、
と「シルバーサイズ」の艦歴に書かれていたからです。


ちなみにこの時、もう一隻ウルフパックに予定されていたのは
「タング」 (USS Tang, SS-306) だったということになっています。

つまりわざわざ4隻で作戦にあたらせようとしたことになりますが、
これを読んで、ウルフパックの基本は3隻なのに、おかしくね?
と思ったあなた、あなたは正しい。

これが史実だったかどうかについても、今回は検証します。

「タング」の艦長は、当ブログでも似顔絵を描いた
(ので無理やり出してくる)
リチャード・オカーン(Richard  O'Kane)艦長

でした。
のちに日本軍の捕虜になった時、捕虜の権利を国際法の観点から捲し立て、
取り調べ者が呆れて尋問を諦めたという逸話のあるオカーン艦長は、
「タング」を指揮して錚々たる戦果を挙げた猛将でしたが、
この群狼作戦に指名された時も、

「一匹狼で暴れることのできる台湾海峡を単艦で哨戒することを選んだ」

ため、「タング」は別行動となりました。
艦長の判断で作戦を断ったりできるのかどうかは少々疑問ですが。


しかし、この選択をした結果、「タング」は、哨戒1ヶ月目の10月25日、
船団攻撃中に護衛艦の1隻第46号海防艦によって探知され、
しかも、回避行動中に自らが発射した魚雷が
自分の艦の後部魚雷室に命中し、沈没してしまうことになります。

自分で自分を撃沈してしまうって、一体どういう状況なのか、
お分かりになる方、おられますか?

海上に脱出したオカーン艦長は他の8名の乗員と共に救出され、
日本の捕虜収容所に収監されて戦後生還しました。

なお、日本側は「タング」の沈没地点が浅いことから、
捕獲を試みましたが、失敗に終わっています。

さて、この時のウルフパックがどうなったかというと・・・?

まず英語による「シルバーサイズ」の記録から見ていきましょう。

🇺🇸
「シルバーサイズ」の第11次哨戒は非生産的であったが、
この時、被災した姉妹潜水艦の救助に協力した。

「サーモン」(SS-182)は激しい深度充電で大破する中、不利な砲戦で
敵の護衛艦と戦いながら浮上し、脱出を試みていたのである。

ウルフパックの僚艦である「サーモン」が被災したとあります。

それでは日本語では?

🇯🇵10月30日
僚艦の「サーモン」が都井岬の沖合い130海里の海上で、
補給部隊の護衛、第22号海防艦と砲戦の末、大破する。

この部隊は、エンガノ岬沖海戦に出動した機動部隊
(指揮官小沢治三郎中将)への補給を行っていた。

群狼作戦によって、「サーモン」はこの時すでに
タンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)
を北緯29度18分 東経132度06分の地点で航行不能にしていました。

「シルバーサイズ」はこれに対し魚雷を6本発射して、
おそらく1本を命中させて沈没させたと書かれています。
(この部分、覚えておいてね)

「シルバーサイズ」は「サーモン」を守るため、
砲撃の閃光によって護衛艦の注意を引いてからすぐに潜航して逃れ、
群狼作戦の僚艦、潜水艦「トリガー」(SS-237)、
そしてそれにスターレット(SS-392)とともに、
被災した「サーモン」を警護しながらサイパンに護送し、
11月3日に無事に到着を果たした。

はて、「スターレット」はいつの間にここに現れたのか?

ウルフパックの戦果が文書で残されなかったせいか、
よくわからないことになっているので、ここで
助けられたという潜水艦「サーモン」の記録を見てみます。

■「サーモン」視点

「サーモン」の記録によると、11回目の哨戒で彼女が群狼作戦を組んだのは
「トリガー」および「スターレット 」 
となっています。

そう、「シルバーサイズ」とは最初から組んでいなかったということですね。

この群狼作戦でモムセン少将のいうところの「トレーラー」だったのは
潜水艦「トリガー」だったと考えられます。

10月30日、「トリガー」は小沢治三郎中将機動部隊の補給部隊を発見し、
まず「たかね丸」(日本海運、10,021トン)に魚雷を2本命中させます。

「サーモン」は群狼作戦のセオリーに則り、続いて「たかね丸」を攻撃。
魚雷を4本発射し、2本を命中させました。

ちなみにこの時護衛についていた4隻の中に、過去に
サム・ディーレイ艦長の「ハーダー 」(USS Harder, SS-257) 
を仕留めたことのある第22号海防艦、
のちに「トリガー」の撃沈を幇助した第33号海防艦がいました。


「サーモン」は直ちに護衛艦らによる激しい爆雷攻撃を受け、
深度300フィート(90メートル)の深いところまで潜航して、
そこで一旦は水平になって耐えていたのですが、損傷を受けていた上に
続けての激しい爆雷攻撃を受けたため、さらに
500フィート(150メートル)まで潜航することになりました。
おそらく潜水艦映画でお馴染みの、艦体が圧力で軋む音と、
爆雷の振動に全員が息を潜めて天井を見るという、
あの光景が実際に「サーモン」の中で行われていたのでしょう。

しかし(ここからの展開も実に映画的なのですが)漏水が始まり、
ついに深度の維持をコントロールできなくなったため、「サーモン」のナウマン中佐は、浮上して戦闘を行うことを決定しました。

現場で「たかね丸」乗員を収容していた第22号海防艦は、
浮上してきた「サーモン」を発見するや、全速で追跡してきました。


第22号海防艦

しかし、慎重に第22号海防艦が潜水艦の様子を覗っていたため、
「サーモン」は数分で艦の傾斜を修正し、数カ所の損傷を修理しました。

座して死を待つのではなく、戦うつもりで浮上した「サーモン」は、
相手との距離をジリジリと詰めながら、
4インチ砲や20ミリ機銃を準備して戦闘体制を取りました。

第22号海防艦も、抜かりなく第33号海防艦を援護に呼んでおいて、
12センチ高角砲や25ミリ機銃を構えて接近していきます。

先制攻撃は「サーモン」の方でした。

敵側面から50ヤード以内を通過し、20ミリ砲と甲板砲で彼女を攻撃し、
両艦は500メートルもない至近距離で砲撃戦、銃撃戦を展開します。

至近距離での銃撃戦となると、乾舷の高い海防艦は、被弾により
乗員4名が戦死し、24名が負傷する他、艦橋部分も損害を受けます。

そこに第33号海防艦が到着し、ウルフパックではありませんが、2隻で「サーモン」を挟んで攻撃を加えてきました。

「サーモン」は第33号海防艦にも果敢に反撃しながら、
友軍潜水艦に対して戦闘位置を連絡し救援を求めました。

この時それを傍受したのが「シルバーサイズ」であったと考えられます。

「シルバーサイズ」視点では、彼女が中心となって戦い、
彼女の働きで「サーモン」が生還したかのように書かれているのですが、
実際は「サーモン」は、援護があったからというより、
ほぼ単独で強力な海防艦2隻を相手にして一歩も引かず、
おりからのスコールに紛れて自力で逃げ切っています。

友軍潜水艦「トリガー」「スターレット」「シルバーサイズ」が
救援要請を受けて駆けつけた時、「サーモン」は爆雷による損傷以外に、
海防艦からの砲撃で艦体の117箇所に損傷を負い、満身創痍の状態でした。

そして、先ほど、「たかね丸」にとどめを刺して沈めたのは
「シルバーサイズ」であった、とわざわざ赤字で書きましたが、
「スターレット」の記録によると、とどめを刺したのは「スターレット」で、
「シルバーサイズ」ではありません。

最後に、念には念を入れて、沈没した「たかね丸」の記録を見てみます。

■タンカー「たかね丸」視点

「たかね丸」は、
「第22号海防艦」「第29号海防艦」「第33号海防艦」と共に
第1補給部隊を編成し、1944年10月21日に徳山を出航、
23日に古仁屋沖に到着の予定で奄美大島に向かった。

任務はレイテ沖海戦に参加する小澤機動部隊への補給だった。
部隊は古仁屋沖に23日午後6時に到着し、
28日から29日に海戦後の小澤機動部隊に対して、
奄美大島で約9500トンの燃料の補給を行った。

 補給後、部隊は奄美大島東口を出航したが、(略)
「たかね丸」の後部機械室付近右舷に2本が命中し、
同船は航行不能となった。 
この時「たかね丸」を雷撃したのは米潜水艦「トリガー」だった。
最初に艦首発射管から魚雷6本を発射したが命中せず、
次に艦尾発射管から魚雷4本を発射して
全てを命中させて航行不能にしたという。

これに続いて米潜水艦「サーモン」が「たかね丸」に
魚雷4本を発射して2本を命中させたという。

 2隻の米潜水艦のうち「サーモン」は護衛艦の爆雷攻撃で損傷し、
浮上して戦闘を行うことを決意した。

「第22号海防艦」と「サーモン」は大砲や機銃で激しく撃ち合い、
両艦共に被弾したが、「サーモン」はスコールを利用して
燃料を流しながら戦場を離脱した。

交戦した「第22号海防艦」はこの戦闘で戦死者5名、
負傷者20数名を出し、艦首付近に若干の浸水を生じた。

 米潜水艦と海防艦が交戦中、
「たかね丸」は右舷中部に魚雷(3本と推定)を受け
重油に引火し大火焔をあげて沈没した。

これは米潜水艦「スターレット」による雷撃だった。
同艦は魚雷6本を発射し、4本を命中させたという。


「シルバーサイズ」ははっきり言って何もしてません。


潜水艦の個人的記録が禁じられていたのと、戦果報告が
2ヶ月も後という措置がとられたせいで、この期間に
色々と書き換えやら記憶違いやらが起こった結果でしょう。

わたし個人も、状況から考えて、「シルバーサイズ」は
単にたまたま「サーモン」からのSOSをキャッチして駆けつけ、
サイパンまで警護していっただけで、ウルフパックどころか
攻撃も行っていないのが真実だと考えます。


ちなみにこの時「サーモン」と死闘を演じた第22号海防艦は
艦首が大きく沈み、排水作業を行いつつ11月1日に呉に帰投しました。

その右舷には「サーモン」との激戦による無数の弾痕が残されていましたが、
この後も船団護衛などに従事しつつ、無事に終戦を迎えています。
続く。



新艦長ジョン・ニコルズ中佐の謎〜潜水艦「シルバーサイズ」

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ミシガン湖沿いに現在係留展示されている潜水艦「シルバーサイズ」。

彼女が第11回哨戒において、「トリガー」(SS-237)
「スターレット」(SS-392)ともにウルフパックを組んでいた
「サーモン」の救援要請を受けて現場にかけつけ、
第22号海防艦との死闘で傷ついた「サーモン」をサイパンへ護送した。
(ただし相手との戦闘は一切していない)

ということを前回検証しました。

繰り返しになりますが、「シルバーサイズ」の艦歴には、

「シルバーサイズ」は「サーモン」「トリガー」と群狼作戦を行い、
「サーモン」が魚雷を打ち込んで瀕死の状態のタンカー、
「たかね丸」に魚雷を打ち込んでトドメを刺し、
第22号海防艦と死闘を演じて傷ついた「サーモン」を庇って、
自らが囮になり敵の目をくらまして離脱に成功させ、
無事にサイパンに送り届けた功労者である
と解釈するしかないことが書かれています。

しかしながら、それはほぼ創作に近いストーリーだったのです。

わたしのような素人が、ネットの情報を突き合わせただけでも
簡単にその矛盾点から真偽が突き止められるようなことが、
なぜ堂々と真実としてまかり通っているのでしょうか。

あまりにも事柄が瑣末すぎて誰も検証しようとしなかった?

それともベテランに配慮して戦果にケチをつけられなかった?

あの頃はよくあることとして見逃されてきた?

さて、どれでしょう。


11月3日無事「サーモン」をサイパンに送り届けてから20日後、
「シルバーサイズ」はミッドウェイ島に帰還し、第11次哨戒を終了しました。


■ 艦長交代〜ニコルス艦長という人物

第11次哨戒は、第二代目艦長、ジャック・コイJr.中佐の最後の指揮でした。
第12次紹介から、「シルバーサイズ」は新艦長を迎えることになります。

ジョン・カルバー・ニコルス中佐
(John Culver Nichols)
については、uboat.netという潜水艦サイトに名前と軍歴があるのみで、
写真などは全くネットに残されていませんでした。

しかし、その軍歴を見て、わたしはまたしても
ある歴史の「どうでもいいが不穏な真実」に気がついてしまったのです。

今日はそのことについてお話しします。

ニコルス中佐は、アナポリスの1934年クラス。
(1934年卒業。アメリカは卒業年次でクラスを呼ぶ)で
ランク昇進年度は以下の通りです。

1934年5月31日 少尉
1937年5月31日 中尉
1941年7月1日 大尉
1943年3月1日 少佐
1944年2月1日 中佐

これをみる限り、ごくごく一般的な昇進をした軍人です。
中佐を最後に軍歴はストップしており、これは、
戦争が終わると同時に退役したということを表しています。

ちなみに、「シルバーサイズ」艦長就任時の中佐のランクは、

 T/Cdr.

と記されているのですが、この「T」が何のTかご存知でしょうか。
戦争中ということで、特に付けられたタイトルかな?
そして、艦長としての職歴なのですが、これが問題なのです。
とりあえず、ご覧ください。

  USS「マーリン」(Marlin) 205 1943年5月〜1944年5月 少佐

USS「ソーリー」(Saury) 189 1944年8月26日〜1944年8月30日 中佐

USS「スティールヘッド」(Steelhead )280 1944年10月15日〜10月26日

USS「シルバーサイズ」(Silversides )236 1944年11月29日〜

これを見て、不思議なことに気が付きませんか?
赤字で記した「ソーリー」の艦長就任期間はたった5日、
2カ月後に就任した「スティールヘッド」艦長職は12日で辞めているのです。

そこで潜水艦「ソーリー」の歴代艦長就任期間を調べてみました。


          CommanderFromTo          1Lt.Cdr. George Warren Patterson, Jr., USN3 Apr 1939Jul 1941          2Lt.Cdr. John Lockwood Burnside, Jr., USN10 Jul 1941Jun 1942          3Lt.Cdr. Leonard Sparks Mewhinney, USNJun 194217 Apr 1943          4T/Cdr. Anthony Henry Dropp, USN17 Apr 194326 Aug 1944          5T/Cdr. John Culver Nichols, USN26 Aug 194430 Aug 1944          6T/Lt.Cdr. Richard Albert Waugh, USN2 Sep 1944Oct 1945          7Allen R. Bergner, USNOct 1945
彼女が6年間の就役中、7人が艦長を務めましたが、
ニコルス以外の全員が、普通に約1年前後の任期をこなしています。

そして「スティールヘッド」を指揮した艦長は3名。
しかしニコルス中佐以外の二人の任期は、どちらも長めで約2年と1年半。   
CommanderFromTo              1T/Cdr. David Lee Whelchel, USN7 Dec 1942 15 Oct 1944
              2T/Cdr. John Culver Nichols, USN15 Oct 1944 26 Oct 1944
              3Robert Bogardus Byrnes, USN26 Oct 194429 Jun 1946

書類上の都合でたまたま数日間艦長を充てる必要でもあったのか?

という考え方もできないでもありませんが、変ですよね。
それぞれの潜水艦の艦歴にも、ニコルス艦長のことは一切書かれていません。
その艦歴によると、ニコルスが「ソーリー」の艦長になったのは、
「ソーリー」が第10回目の哨戒から帰ってきて3日目のことでした。
次の哨戒に出た時には、ニコルスの次の艦長に代わっていたのです。

どうも、就任して5日の間にに何かあったとしか思えないのです。

そして、「スティールヘッド」の艦歴によると、彼女が新しく
司令塔部分を換装する工事期間、ニコルス中佐は艦長に就任。
しかし12日で辞めてしまい、次の哨戒を指揮したのは
ニコルスの後の艦長となります。

一体この人、「ソーリー」と「スティールヘッド」で何をやらかした?


こうなると俄然気になりますよね。
ニコルス中佐ってどんな人だったのか。(どんな顔をしてたのか)

この写真には、

「1944年、コイ艦長は新たな乗員を育成する任務で艦を去りました。
ジョン・ニコルス艦長は、カメラに写るのが苦手なのに、頑張っています」

という不思議なキャプションが付けられています。


「海軍の写真撮影の法則」によれば、艦長は前列の真ん中と決まっています。

この写真は端が切れていて、誰が真ん中なのかわからないのですが、
おそらくこの三人のどれか(そして多分真ん中の人)が
問題のニコルス艦長なのではと推察されます。

ニコルス艦長は、1944年8月から11月の三カ月の間に、
3隻の潜水艦の艦長になるという不思議な経歴でここにいるわけですが、
それにしてもこのキャプションも変ですよね。

「写真嫌い」(Though he was camera shy)
「頑張って写っている」(did very well)

一体これはどういう意味なのでしょうか。
おそらくこれは、新艦長を迎えて最初の全体記念写真だったと思われます。
全員が軍服を着て、しかも、彼らの後ろに見えている
「偽装のために手作りした日の丸と旭日旗」から見て、
おそらく室内で行われた壮行会だったのではないでしょうか。

就任記念&哨戒壮行会で「頑張って写っている」艦長とは一体・・・。
■沈没潜水艦から生還していたニコルス
ここで、「シルバーサイズ」博物館のパネルに、気になる部分を見つけました。
「シルバーサイズ」乗員の一人が語っているという設定で
写真のところどころに付け加えられたキャプションです。

それには、「シルバーサイズ」がいかに優れた指揮官に恵まれたか、
ということを称揚・自賛する形で書かれていました。

戦争中、わたしたちは素晴らしい指揮官に恵まれました。
バーリンゲーム艦長とコイ大尉はいずれも後に提督になりました。

(副長の)ロイ・ダベンポートは、「シルバーサイズ」を去った後、
2隻の潜水艦を指揮し、海軍十字賞を授与された最初のセイラーになりました。
キーガンとウォーシントン(副長)も、後に艦長になっています。

「シルバーサイズ」は多くのサブマリナーにとって故郷であり、
キャリアを積むための試練の場となったのです。

さて、わたしはあえてニコルス艦長の記述を飛ばしました。
彼について書かれていたのは以下の一文です。

「ニコルズ艦長は、もちろん、
10年前の『スクアーラス』沈没を生き延び、すでに有名でした」

何がもちろん(of course)かわかりませんが、
ニコルズ中佐の艦歴に書かれていなかった、
潜水艦「スクアーラス」USS Squalus (SS-192)

の事故についてはかなりのことがわかっています。

海軍調査局が学生と行員向けに制作した歴史書からの抜粋になりますが、
「スクアルス」事故については以下の通り。

USS「スクアーラス」(SS-192)は、ポーツマス海軍工廠で建造され、
1939年3月1日に就役したディーゼル電気潜水艦。

同年5月23日0740、ショールズ島沖で試験潜航中、
致命的なバルブ不良に見舞われ、水深40ファゾム(240フィート)で
キールダウンの状態で静止した。

海軍の潜水士と救助船が、翌日生存者を救出する作戦を行う。
当時乗員32名、民間人一人が艦前方の区画で生存していた。

5月24日11時半、USS「ファルコン」(ASR-2)が、
チャールズ・B・モムセン中佐の発明したモムセンラング潜水鐘を改良した
新開発のマッカン・レスキューチャンバーを下ろし、
その後13時間かけて生存者33人全員を救助した。

その後艦体は引き上げられて一旦退役し、1940年、
「セイルフィッシュ」と改名して同年再就役した。

引き揚げられたドックの「スクアーラス」
つまり、ニコルズはこの沈没潜水艦から生還した32名の乗員の一人でした。
「乗員の日記」は、「スクアーラス」の事故を10年前としていますが、
これがニコルス艦長就任時と仮定すると、10年前ではなく、5年前です。
これがなぜ間違っているのかが気になりますが、それはいいでしょう。

ニコルスは「スクアーラス」事故に遭遇した時、海軍中尉でした。

「スクアーラス」は乗員55名の潜水艦で、艦長は少佐だったことから、
おそらく彼は水雷長とか機関長とか船務士兼通信士とかだったのでしょう。

最新鋭のチャンバーが投入され、貴重な人命が救われたこの事故は、
当時海軍の中で知らぬ人のないショッキングな出来事であり、
生還した人たちは、おそらく海軍中の注目を浴びたことでしょう。
その冷静沈着さと幸運な生還はヒーローと称えられたに違いありません。
然は然り乍ら、「シルバーサイズ」に乗務したところの
他の歴代艦長や副長が、全員その後の出世を称えられているのに対し、
ニコルズ艦長については、このことしか言及されていないのです。

ニコルズ中佐は「シルバーサイズ」を降りてから退役し、
その後の出世はもちろん、戦時に潜水艦に乗っていたというのに
勲章の一つも叙勲されなかったので、材料がなかったのかもしれませんが、
海軍軍人として誉められる点が「沈没潜水艦から救助された」ことしかない、
というのは、何かちょっと問題です。
稀有な体験と修羅場を乗り切ったサブマリナーであれば、
それを自分の指揮官としての強みにできなかったのでしょうか。

それとも、二つの潜水艦で、あまりにも短期間に艦長職を降りたのは、
その経験が逆に何かマイナスとなって現れる出来事でもあったのでしょうか。



それでは次回、この謎の艦長ニコルズ中佐の元で、
「シルバーサイズ」がどのような哨戒活動をしたのかを見ていきます。


続く。


撃沈されていた「馬来丸」〜潜水艦「シルバーサイズ」第12次哨戒

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さて、潜水艦「シルバーサイズ」のウォー・パトロール(哨戒)を
残された資料から検証していく作業も終わりに近づいてきました。

前回は、第3代目艦長となったジョン・ニコルズ中佐の
不可思議な軍歴について取り上げてみたわけですが、
潜水艦「スクアーラス」の沈没事故から生還した後、艦長となって、
「ソーリー」「スティールヘッド」の任務を、それぞれ5日、12日という
非常な短期間で辞めてしまったその理由についてはわからないままです。

そもそも本人の軍歴が「シルバーサイズ」でストップしているため、
何をどう推測しても、今や真実が明らかになることはありません。

ただ、第11次哨戒を終えてコイ艦長が艦を降り、艦長就任して1カ月後、
少なくとも普通に次の哨戒に出撃するに至ったことから、
ニコルズ艦長と「シルバーサイズ」乗員の間には、
前2隻のクルーとの間に軋轢などは起こらなかったことは確かです。


■ ニコルズ艦長指揮下最初の哨戒


ニコルス艦長の指揮下行われた哨戒は、合計3回。

いずれも判で押したように、真珠湾かミッドウェイからサイパン、
そしてそこから東シナ海付近で行動して、帰るという同じコースです。

これは何を表しているかというと、日本軍が死守しようとした
サイパンが、1944年7月に玉砕して、ここを足がかりに、
米軍が本土と近海への攻撃を激化させていったということでしょう。

ここまでアメリカ有利に来れば、哨戒にやってくる潜水艦にとっても
ある程度のプライオリティは約束されていたわけです。

ゆえに、真珠湾から太平洋を通過し、オーストラリアに寄港するまで、
強力な護衛艦と航空機の攻撃を絶えず受けながら、
輸送船団を探して哨戒していたバーリンゲームとコイ艦長の頃に比べると、
言うてはなんですが、段違いに楽勝な任務という気がします。


■デパーミング(船体消磁)


しかし、口で言うほど戦時哨戒とは簡単でも楽でもないのは当然です。
これは、残された実際の「シルバーサイズ」の行動日誌の1ページですが、
潜水艦の行動日誌というのは、何かあっても何もなくても
分刻みでその記録を残さなければならないものなので、
正直、気が遠くなりそうなくらい辛気臭い記述が続きます。

念のために、このページを解説を入れながら翻訳しておきます。
第12次哨戒が開始された最初のページであり、それは
11回目の哨戒の終了と、艦長交代について記すところから始まっています。

(A) 前記
「シルバーサイズ」は11月19日に第11回目の哨戒を完了した。
通常の再任務は、ミッドウェイ潜水艦基地と、
第61潜水艦隊のリリーフ・クルー(交代した乗員)によって行われた。

入渠

11月19日、ジョン・C・ニコルズ(USN)中佐は、
ジョン・S・コイJr.(USN)中佐を指揮官として解任した。

「ニコルズ中佐着任、コイ中佐転出」を形式的に書くとこうなります。
[A relieved B] と書くと、まるでAがBを辞めさせたように見えますが、面白いので?そのまま直訳してみました。

1944年12月8日、乗組員と士官が乗艦。

12月9日、サウンドテストを実施。

12月11日、8日間の訓練期間が開始され、演習用魚雷を6基発射。

12月19〜20日、2日間の積み込み期間完了。
署名後はデパーミング、ワイプせず。

「デパーミング」については説明が必要です。

この用語は艦艇乗り組みの海上自衛官ならご存知のことと思いますが、
「船体消磁」主に軍艦の艦体を消磁(磁力を消す)することです。

軍艦は、磁気を帯びた艦体のままだと、敵に発見・攻撃される恐れや、
磁気感応式機雷に反応するリスクが高まるので、それを行うのです。
わたしたちが普通に生きていたら一生知らないことの一つですが、海上自衛隊は、横須賀に「消磁所」なる設備を持っており、
そこで船体の永久磁気を定期的に消磁する作業を行っています。

そして、日本では「デパーミング」というと、
特に水上鋼鉄艦艇の艦首艦尾方向の消磁のことを言います。

具体的にどうやるかというと、船体外周に大きなコイルをゆっくりと通して、
電流の極性を変えながら徐々に弱くしていくことで、磁気を消すのです。

横須賀消磁所で絶賛消磁中の「すおう」(wiki)
しかし「シルバーサイズ」の頃と違い、現代の潜水艦は、
あらかじめ誘導磁気を打ち消す、船体永久磁気を付けているそうです。

また、垂直方向の消磁作業のことを「フラッシング」と言います。



さて、話を戻して、「シルバーサイズ」行動日誌、続きです。

1944年12月21日 出港準備。

士官二名転勤、新士官二名着任。

修理は潜水艦師団242リリーフクルーによって完了す。

●修理中の主な変更点

1、 ピコメーターとログ・ロッドメーターのポジティブストップ

2、 4インチ砲を後方に移動しアンテナを前方に移動


え?4インチ砲ってこれのことですよね。
やっぱりこれは、元々後方ではなく、前方にあったものなのか・・・。


確かにこれは前甲板であるように見えなくもありません。

ちなみに、この写真は第一回目の哨戒で漁船と銃撃戦になった時のもの。

砲弾を装填しているハービン水兵が、この直後、
機関銃の弾に当たって死んだ、ということについては先に述べました。



ということは、このプレートは、本来、ハービン水兵が亡くなった場所、
前甲板に置かれるべきだったのではないのかしら・・・。

まあいいや。よくないけど。
続きです。

B)ナラティブ

12月22日 

0800
COMSUBPACの作戦命令413−44に従い、
USS「タウトッグ」(Tautog)と共に第12次哨戒開始。
サイパンに向かう。

0845-0925
ツリムダイブ実施。

12月22日〜30日
毎日の潜水訓練、レーダー追跡訓練、
レーダーと潜水攻撃のシミュレーション、銃撃テスト、
サイパンまでの航路でウルフパック訓練コード周波数、
VHFとSJ信号でCWと音声による通信の演習を行う

12月22日
180度子午線を越え、12月23日を暦から落とす

12月25日
🎅クリスマスを祝う🎄
ホノルルの赤十字社から寄贈されたプレゼント🎁は、
USS「エーギー」(Aegir、潜水艦母艦?)の従軍司祭を通じて受け取り、
乗員全員には大変感謝された。👏

12月30日
0677(77ってこの時間は何?)
USS「PC 1126」と、サイパンへの西回り安全な航路でランデブー。
1303右舷側を「PC 1126」に接舷。
給油艦「フルトン」に「パイプフィッシュ」「タウトッグ」共に接舷。

12月31日
USS「フルトン」から29,340ガロンの燃料油を補給受ける

まあ、こんな感じで行動日誌は延々と続くわけです。

■ 第12次哨戒



「シルバーサイズ」第12次ウォー・パトロールは、ミッドウェイを出発し、
サイパンを経て東シナ海の哨戒活動を行いました。

「積極的な探索にも関わらず、彼女は価値ある目標を
全く見つけることができないまま1ヶ月が経過しました」

と、日本側、アメリカ側ともに同じ記述があります。

「しかし、ようやくチャンスが訪れ、
『シルバーサイズ』は、それを最大限に活かしました」

先ほどの行動日誌より、この日のページの内容を書き出してみます。

●攻撃データ

USS「シルバーサイズ」魚雷攻撃No.1
第12次哨戒 1945年1月25日 1350北緯31度18分 東経130度09分
ターゲットデータ 撃破

●ターゲット詳細(EU)

縦列2隻の貨物船が海岸より0.5マイルの位置にあり、
ピート(零式観測機)1機、フランシス(銀河)1機、
ベティ(一式陸攻)1機の航空援護あり。

先導1隻、大型AK(貨物船)同型エンパイアクラス、6,800トンAK、
他の船は小型の沿岸AK
●沈没・・・・・・・・・なし

損傷を与え、沈没させた可能性あり・・・・大型貨物船(6,800トン)

ダメージは次のように判断される;
2つの明確な強い衝撃、
最初の激突音の後、プロペラ音が消滅。
のちに1つのプロペラ音が復活する。
列2番目の船と判断される。
●ターゲットドラフト(省略)

●自艦データ

速度3ノット、コース057 深度六十五フィート 角度3ダイブ

●射撃管制と魚雷データ

タイプ:日中水中攻撃

発砲開始時:デプスコントロールが失われる。
最初の2発は狙い通りに広がり、
最後の狙ったポイントから1.5乖離にシフトした。

5番と6番の魚雷発射管故障。
5番発射管は再装填できず、6番も発射せず。

夜間浮上時に詰まっていた魚雷を排出する。

発射に際するバラストタンクからの気泡の排出で
ターゲットになる恐れがあった。
●アタックデータ(下図)



●対潜対策と回避戦術

全ての船団のサイトは低高度で近接カバーを可能にする空中援護あり。
わずか1隻の水上護衛が坊ノ岬付近で確認される。
大船団は確認されず。

ある夜、ダンジョ・グントウの西で、2隻の小型護衛艦からなる
「ハンターキラー」らしきグループあり、
絶えずピンを打っているのが確認された。

ハンターキラーというのは映画のタイトルにもなりましたが、
軍事用語で、航空機や艦船を組み合わせて行う、
対潜水艦掃討作戦、またはそれを行うグループを指します。

ダンジョグントウとは男女群島のことだとすれば、
これは五島列島福江島の南南西およそ70kmの東シナ海に浮かぶ島嶼群です。

陸上レーダーを使用して多くの接触が行われたが、
攻撃後の瞬間を除いて、我々が検出されることはなかった。

レーダーを搭載した夜間探索機に満月の夜の前後発見され2回爆撃を受けた。
夜間飛行機は300mcsのレーダーを搭載していた。


■ 第12回哨戒の戦果〜「馬来丸」撃沈

行動日誌を見ると、「シルバーサイズ」は、貨物船に損害を与え、
魚雷が1発は命中したように思える、と認識していましたが、
実は、この時攻撃した戦時徴用船、

輸送船「馬来(マレー)」丸(八馬汽船、4,556トン)

は、戦没していたのです。

「馬来丸」

「馬来丸」は陸軍に徴用され、1945年1月、満州の陸軍第三大隊を乗せ、
やはり陸軍部隊を乗せた「くらいど丸」「明秀丸」と共に出港、
「明秀丸」が引き返したため「くらいど丸」と船団を組み、航行していました。

そして鹿児島県久志湾口北側付近を航行中、
第12次哨戒中でそれまで全くターゲットに恵まれていなかった
「シルバーサイズ」に補足されてしまうのです。

「シルバーサイズ」の放った最初の魚雷は、監視兵に発見されますが、
その直後右舷二番艙付近に、そして第二弾が船橋下部に命中し、
「馬来丸」は、1353、海中に没しました。

「シルバーサイズ」の記録によると、攻撃開始が1350、
つまり攻撃が始まって3分後には轟沈していたことになります。
「戦時徴用船」のページによると、この時の状況は以下の通り。

湾の沖で大きな爆発音が二回して地響きが起こり、大爆発と共に
水柱をたてて海中に沈んでいくのが山の畑からも見えたという。

しかし、このような状況だったのにも関わらず、
「シルバーサイズ」が撃沈を認識していなかったたのはなぜでしょうか。

推察されるその理由は、「シルバーサイズ」の行動調書にあるように、
この時の攻撃が水中からのものであったからです。

水中に居ながらの攻撃で、魚雷がヒットしたかどうかは、
激突音とか、プロペラ音が消失したとか、聴覚に頼るしかなく、
その時は、最初の魚雷の激突音と同時に轟沈していることなども、
確認のしようがなかったのであろうと思われます。
加えて、当時の天候は「北寄りの風が吹き、波浪が高く、
水平線一帯に雪が混じった降雨」であったことから、
潜望鏡を出しての確認も不可能だったのでしょう。

この時の「シルバーサイズ」の戦果は、せいぜい撃破とされていましたが、
戦争が終わってから、実は撃沈であったことが明らかになり、
戦果も訂正されることになりました。


また、「戦時徴用船」のページには、こんなことも記されています。 漁師達は一勢に船を駆り出して救助に向かったが、
その日は雪まじりの悪天候で風・波ともに強く、
村人の必死の救助にもかかわらず、時化と寒さで作業は困難を極め、
救助を待ち切れずに亡くなっていったらしい。
一帯の海岸には多くの将兵の遺体が並び荼毘に付された。
乗船部隊・船砲隊・船員 1,612名が戦死。


鹿児島県の坊津町には、この時「シルバーサイズ」に撃沈されていた
「馬来丸」の戦没者慰霊碑が建立されてます。

碑文は以下の通り。

碑文

大東亜戦争の苛烈を極めていた昭和二十年一月、
陸軍輸送船馬来丸(四、五五六屯)は、
ソ連国境警備隊から南方転進を命ぜられた第十二師団隷下部隊
(関門周辺で編入された部隊を含む)の兵員二、〇五五名を乗せ、ほかに軍馬、軍需品を満載して門司港を出航し、
途中、海軍艦艇の護衛を受け、伊万里湾、牛深港に仮泊のあと、
同月二十五日午後一時五十分、鹿児島県川辺郡坊津町久志湾の沖合を航行中、
突如として、見張兵が敵潜水艦の雷跡を発見、
「魚雷」と絶叫した瞬間、第一弾は、右舷二番船倉付近に大音響を発して命中、続く第二弾も、船橋下部付近に命中し、
船体は急速に右舷に傾斜して沈下しはじめ、
輸送指揮官が総員退船を命じたときは、既に船首より鯱立ちとなり、
午後一時五十三分、船影は完全に海中に没したのであります。 沈没地点、北緯三一度一八分。東経一三〇度一〇分、水深一二六米 当時、海上は北寄りの風強く、波浪高く、
水平線一帯に雪まじりの降雨という、視界不良の悪天候でありました。
天地を揺がす爆発音によって、馬来丸の遭難を知った地元久志湾沿岸の住民は、直ちに、あらゆる発動船、漁船を出動させ、
枕崎湾から馳せつけた軍用救助艇と共に、
必死の救出活動を展開したのでありますが、時化と寒気に阻まれて、
作業は困難を極め、実に、          
一、船体と運命をともにし、再び浮上することなく、
或いは、脱出後、海中に呑まれて戦死。一、四九九名。          
一、陸地に漂着して遺体が確認され、或いは、陸地で力尽きて戦死。七六名。          一、殉職した船員。三七名。
併せて、一、六一二名の尊い犠牲を強いられたのであります。


戦う術のない徴用船の船員たちは、敵の襲来があれば、
それによって死を覚悟するしかありませんでしたが、
しかし、それ以上に、逃げ場のない船倉にただ詰め込まれたまま、
沈没する船と運命を共にすることを知った時、「馬来丸」の陸軍軍人たちが
最後に直面した死への恐怖は、いかほどのものだったでしょうか。

この日から2月12日まで、「シルバーサイズ」には戦闘はなく、
50日間の行動を終えて、ミッドウェー島に帰投しました。


続く。




「シルバーサイズ」二人の艦長と一人の副長

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ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている
第二次世界大戦次の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。
その哨戒活動を研究する試みも、いよいよ最後となりました。

謎の艦長ジョン・ニコルズ中佐の指揮のもと、第12次哨戒で
当事者は確認できぬまま、陸軍輸送船だった「馬来丸」を撃沈していた、
ということを前回検証しましたので、今回は、前回とほぼ同じコースで
哨戒活動を行った、第13次哨戒からです。

しかしながら、またもやちょっとした資料を見つけてしまったので、
まず、これまでにも登場した「シルバーサイズ」初代艦長、
バーリンゲーム中佐と、コイ中佐について、その軍歴を記すことにします。

■ クリード・カードウェル・バーリンゲーム少将

1941年12月15日、メア・アイランドで行われた
「シルバーサイズ」の就役式に出席したバーリンゲーム中佐
Creed Cardwell Burlingame
 (February 27, 1905 – October 21, 1985)
 Rear Admiral in the United States Navy
ニックネーム  バーリー
1905年2月27日生まれ
ケンタッキー州ルイビル
1985年10月21日没(享年80歳)
アーリントン国立墓地にて埋葬
所属・支部 米国海軍
在籍年数 1927-1957
階級 少将
担当コマンド USS Roanoke
潜水艦部門 182
USS「シルバーサイズ」
USS S-30
USS S-36
賞 海軍十字章 (3)
シルバースター (2)
レジオン・オブ・メリット

1927年6月、海軍兵学校卒業
戦艦USS「ユタ」乗組
1930年にコネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業

1936〜1939 USS 「S-36」艦長
1939〜1940 ニューロンドン潜水艦基地
1940〜1941 USS 「S-30」艦長
1941年12月15日〜1943年7月20日 USS「シルバーサイズ」艤装、艦長

ここまでが「シルバーサイズ」艦長までの軍歴です。
「シルバーサイズ」指揮については以下の通り。
一応アメリカ海軍公式の記録となります。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1942年4月4日
試運転と初期訓練を終え、真珠湾に到着した。

1942年4月30日
第1回哨戒のため真珠湾を出発した。
日本本国海域の紀伊水道沖の哨戒を命じられる。

1942年5月7日(位置33.14、150.58)
マーカス島の北約540海里、北緯33度14分、東経150度58分で、
警備船第五戎丸に砲撃を加えて損害を与えた。

1942年5月17日 (位置 33.28, 135.33)
本州南部、潮岬沖で、兵員輸送船鳥取丸 (5973 GRT) と
商船テームズ丸 (5871 GRT) に魚雷を撃ち、損害を与えた。

1942年5月22日(位置33.30、135.27)
紀伊水道の河口、一夜崎と潮岬の間、33°30'N、135°27'E位置で
輸送船旭山丸(4551 GRT)を魚雷攻撃し、損傷させた。

1942年6月21日
真珠湾にて第1次哨戒を終了。

1942年7月15日
第2次哨戒のためパールハーバーを出発した。
再び日本本土の紀伊水道沖の哨戒を命じられた。

1942年8月8日(位置33.33、135.23)
北緯33度33分、東経135度23分の一夜崎付近、紀伊水道で
商船日経丸 (5783 GRT) を魚雷で沈没させた。

1942年8月31日 (位置 33.51, 149.39)
北緯33°51'、東経149°39'の太平洋北部で、漁船2隻を砲撃で沈める。

1942年9月8日
真珠湾にて第2次哨戒を終了した。

1942年10月3日
第3回目のパトロールのため真珠湾を出発した。
カロリン諸島方面への哨戒を命じられる。

1942年11月25日
オーストラリアのブリスベンで第3次哨戒活動を終了した。

1942年12月17日
第4次哨戒のためブリスベンを出発した。
ニューアイルランド沖の哨戒を命じられる。

1943年1月18日 (位置6.19、150.15)
トラック南西約90海里、北緯06度19分、東経150度15分の位置で
タンカー東栄丸 (10022 GRT, offsite link) を魚雷で沈め、轟沈させた。

1943年1月20日 (位置 3.52, 153.26)
北緯03度52分、東経153度26分の位置で、
トラックの南約290海里の日本軍輸送船明王丸 (8230 GRT)、
スラバヤ丸 (4391 GRT) とシンデン丸 (5148 GRT) を魚雷で沈没させた。

1943年1月31日
パールハーバーにて第4次哨戒を終了。

1943年5月17日
オーバーホールの後、第5次哨戒のためパールハーバーを出発した。
ソロモン諸島方面での哨戒を命じられる。

1943年6月4日
ニューハノーバー、ニューアイルランド間ステファン海峡に機雷を敷設する。

1943年6月10日 (位置 2.43, 152.00)
北緯02度43分、東経152度00分、ニューアイルランド北部で
輸送船日の出丸 (5256 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年7月15日 (位置 -2.36, 150.34)
軽巡洋艦長良は、南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖で触雷
(1943年6月4日に「シルバーサイズ」または
オーストラリアのカタリナ飛行船が設置した可能性)により損害を受ける。

1943年7月16日
ブリスベンでの第5回哨戒を終了した。


「乗員」が自慢していたように、バーリンゲーム中佐は、その後、

1943〜1945年 潜水艦第10082師団長
1944〜1945年1月 潜水艦第18戦隊司令官代理
と、潜水艦隊で出世していっていますが、それは戦争中の
「シルバーサイズ」の哨戒を成功させたからに他なりません。

公式な記録として残されているその戦績は、

5回の哨戒で、8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈

となっています。
バーリンゲーム艦長指揮下で、艦と乗組員は大統領表彰を受け、艦長として
2つのシルバースターと3つの海軍十字勲章を獲得しています。

第二次世界大戦後、もバーリンゲームは海軍でのキャリアを歩み、
1957年に退役すると同時に少将の階級となりました。

■ ジョン・スター・『ジャック』・コイ少将



John S. Coye Jr.
(April 24, 1911-November 26, 2002)
 Rear Adm. in USN 
次に、やはり少将にまでなったというコイJr.についてです。
二次世界大戦中、潜水艦U.S.S.「シルバーサイズ」艦長として
6回の哨戒を行い、それに対して各種勲章を受けた海軍士官とされます。

「シルバーサイズ」艦長として記録されている軍歴は以下の通り。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1943年7月21日
第6回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島とカロリン諸島の間の哨戒を命じられた。

1943年8月5日(位置1.53、153.52)
ラバウルの北北東、01°53'N, 153°52'E の位置で
機雷船ツガルに魚雷で損傷を与える。

1943年9月4日
ブリスベンでの第6回哨戒を終了した。

1943年9月16日 (位置 -2.36, 150.34)
補助砲艦「セイカイ丸」(2693GRT)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に「シルバーサイズ」が1943年6月4日、設置したもの。

1943年10月2日 (位置 -2.36, 150.34)

Kavieng沖の02°36'S, 150°34'Eの位置で日本の掃海艇W-28触雷損害。
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

1943年10月5日
第7回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島/ニューギニア方面の哨戒を命じられる。

1943年10月18日(位置1.00、143.16)
ニューギニアのWewakの北、北緯01度00分、東経143度16分の位置で
貨物船Tタイリンマル(1915 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年10月23日 (位置2.30, 144.45)
ビスマルク群島の北西でタンカー天南丸 (5407 GRT) と
貨物船ジョホール丸 (6187 GRT) と華山丸 (1893 GRT) を撃沈。
02度30分北、144度45分Eの位置。

1943年11月4日 (位置 -2.36, 150.34)
貨物船「リョウサン丸」と測量船「筑紫」(1400トン)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に、
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

また、軽巡洋艦五十鈴と日本の駆逐艦五十風も損害を受ける。

8 11月 1943
パールハーバーで第7回哨戒を終了。

1943年12月5日
第8回目哨戒ためパールハーバーを出発した。
パラオ沖の哨戒を命じられる。

1943年12月29日(位置8.09、133.51)
パラオ沖の日本軍輸送船団に対する攻撃中に、
北緯08度09分、東経133度51分の位置で輸送船天保山丸(1970トン)、
北緯08度00分、東経133度51分の位置で貨物船七星丸(1911トン)、
北緯08度03分、東経134度04分の位置で商船龍虎丸(3311トン)
を魚雷攻撃して沈没させた。

また、陸軍の貨物船、備中丸に損害を与える。

1944年1月15日
パールハーバーで第8回哨戒を終了。

1944年2月15日
第9回目のパトロールのために真珠湾を出港した。
マリアナ諸島西方への哨戒を命じられる。

1944年2月22日(位置-2.36、150.34)
日本の補助潜水艦29(130トン)が触雷沈没。
Kavieng沖の位置02°36'S、150°34'Eに
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

パラオの南東約225海里、北緯00°28'、東経136°56'において、
貨物船コウフク丸 (1919 GRT) を魚雷で沈没させた。

1944年3月28日
ニューギニアのマノカワニ沖で上陸船SS-3 (948トン)を魚雷で沈没させた。

1944年4月8日
オーストラリア・フリーマントルで第9次哨戒を終了。

1944年4月25日
第10次哨戒のためフリーマントルを出発した。
マリアナ諸島沖の哨戒を命じられる。

1944年5月10日 (位置 11.26, 143.46)
グアムの南南西約120海里の日本輸送船団に対し、魚雷を撃ち、
敷設船沖縄丸(2221GRT)と日本の補助砲艦第2長安丸(2632GRT)
と第18御影丸(4319GRT)を沈没させる。


1944年5月20日 (位置 13.32, 144.36)
サイパン沖の北緯13度32分、東経144度36分の位置で、
補助砲艦松星丸 (998 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1944年5月29日 (位置16.23、144.59)
サイパンの北北西約100海里、16°23'N, 144°59'E の位置で
輸送船蓬莱山丸 (1998 GRT) とショウケン丸 (1942 GRT) を魚雷で沈めた。

1944年6月11日
真珠湾にて第10回哨戒を大成功に終える。
オーバーホールのため、メアアイランド海軍工廠に送られる。

1944年9月12日
オーバーホールを終え、真珠湾に帰還する。

1944年9月24日
11回目哨戒のためにパールハーバーを出港した。九州沖の哨戒を命じられる。

1944年11月15日 (位置 30.10, 137.23)
USS「スターレット」とともに、
警備船第12那智隆丸(97GRT)に損傷を与える

1944年11月3日
ミッドウェイでの第11次戦時哨戒を終了した。

以上です。
ついでと言ってはなんですが、コイ提督の「墓碑銘」は以下の通り。

コイ少将と彼の乗組員は、太平洋で3位となるトン数を沈め、
彼は「並外れた英雄的行為に対して」2つの金星を持つ海軍十字章を受けた。

ジャックは、5人の孫と2人のひ孫の訪問を楽しみながら、
カリフォルニア州オーハイで、91歳の生涯を閉じた。

1775年にマサチューセッツ州レキシントンでミニットマン隊の隊長を務めた
ジョン・パーカーの直系の子孫、5番目の甥である。


1933年に米国海軍兵学校を卒業後、35年間、
潜水艦、重巡洋艦、水陸両用軍団、NATOの司令官の任務に就いた。
1968年、カリフォルニア州コロナドに引退し、30年間、
自身のヨットCal-25「シー・ドッグ」でセーリングとレースを楽しんだ。

生涯の趣味は、オルガン演奏、木工、世界一周クルーズの写真撮影。


■ コイ少将の娘



ちなみに少将の娘、ベス・コイ(Beth Coye)
も海軍軍人になりました。
父親の転勤のため、彼女はほとんど1年ごとに転校させられていました。
海軍軍人の妻の中には、転勤しない(つまり夫を単身赴任させる)
人もいましたが、彼女の母は一緒にいることを選んだのです。

彼女は当然のように父の後を追って海軍に入りました。
彼女自身がインタビューで、
「自分の血は青と金でできている」
と言っていることから考えても、彼女に
父親の仕事に対する反発はなかったものと思われます。



アメリカでは、昔から、海軍軍人の親を持つ海軍軍人のことを、
「ネイビー・ジュニア」と言います。

陸軍では陸軍軍人を親に持つ人のことを、
「Born, Raised, Transferred」で「BRATSーブラッツ」と言い、
海軍でも「ネイビーブラッツ」と呼ばれることもあるのですが、
ベス・コイはまさにネイビージュニアであり、ネイビーブラッツでした。

超難関ウェルズリー大学卒の優秀な軍人で、情報将校を務めましたが、
当時は女性ゆえ、その能力に対し出世の道は限られていました。
60年代前半の当時は、女性が出世するチャンスはあまりなく、
35歳になって初めて下級幹部になることができるという状態。
今はそんなことはありませんが、当時はそういう時代だったのです。
さらに問題?だったのは彼女がゲイだったことでした。

海軍での女性の扱い(彼女は常に男性軍人の中でもトップだったが、
優秀な男性軍人がたどるようなコースには決して乗れなかった)
に限界を感じていた彼女が、41歳の時、
ゲイであることをカミングアウトして海軍をやめると言ったとき、
コイ准将は、娘に、
「ベス、お前は海軍にいるべきだ。
少なくともキャプテンになれるし、女性提督にだってなれるんだから」

と言って引き止めましたが、彼女は自分の意見を変えることなく退役し、
外側から海軍の同性愛者の人権のためにロビー活動を続けました。
彼女が後に、その「戦い」についての本を出版する計画を立てた時、
父コイ少将は、軍での自分の立場もあり、反対したと言います。

ベス・コイによると、父少将は、娘が本を書くのであれば、
自分が乗っていた「シルバーサイズ」について書いてくれることを
望んでいたというのですが、最終的には娘の意思を尊重し、
本の出版費用を1万ドル出資しています。

My Navy Too: A Political Novel Based on Real Life Experiences
■ロイ・ダヴェンポート副長



もう一人、趣味のトロンボーン演奏で「シルバーサイズ」総員を
恐怖のどん底に陥れたことが個人的に忘れられない、
ダヴェンポート副長のその後についても書いておきます。

Roy Milton Davenport
Rear Admiral in United States Navy
June 18, 1909〜December 24, 1987 (aged 78)

「シルバーサイズ」は、その第二次世界大戦中の哨戒を成功させ、
戦果を挙げたことから、指揮官は悉く出世していますが、
(第3代艦長ニコルス中佐のぞく)
副長だったダヴェンポートがもしかしたら一番有名かもしれません。

その紹介には次のような一文があります。

He is the first sailor to be awarded five Navy Crosses, 
the United States
military's second highest decoration for valor.
「セイラー」というのは彼が兵卒だったという意味ではありません。
念のため。


■「シルバーサイズ」副長として
海軍兵学校を1933年卒業したダヴェンポートは、
戦艦USS「テキサス」乗組後、
コネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業します。

第二次世界大戦が勃発した1941年、USS「シルバーサイズ」で、
クリード・バーリンゲーム中佐の下、副長として勤務。

4回の哨戒を終えた時、バーリンゲーム中佐は、
優秀な彼を自らの指揮下に入れるよう推薦しています。
彼の優秀さについてはいくつも逸話が残されているようですが、
時にはその機転が乗員全員の命を救ったこともあります。

「シルバーサイズ」がその紹介で艦船攻撃を行った後、
日本機に直接3つの爆弾を落とされたことがありました。

直撃は免れましたが、「バウ・プレーン」(艦首部の潜舵)が
何らかの原因で固まってしまったまま急速潜航し、
そのため艦体が設計深度を超えて沈んでいったのです。

そのまま海底に激突するかと思われた最後の瞬間、
ダヴェンポート副長は咄嗟にコッター・キー?を外し、
潜水艦を水平にすることに成功し、危機から脱出しました。

また、(これは当ブログでも取り上げましたが)
魚雷が発射室に半分詰まってしまい、再射撃を行うことになった時も、
副長は艦長と共に冷静に問題を解決しました。

また、ある時は、サイコロゲームでイカサマをされたと思い込み、
酔っ払って暴れた砲手を取り押さえ、銃を取り上げるというような仕事も
ダヴェンポート副長は無事に治めています。

(この水兵は拘束衣を着せられて潜水艦から降ろされることになりました)

コイ中佐、「シルバーサイズ」では、少なくともトロンボーン以外では
満点の副長として皆に信頼され、尊敬されていたことがよくわかります。



潜水艦隊司令ロックウッド少将に「シルバーサイズ」哨戒に対し
授与されたシルバースター勲章を付けてもらうダヴェンポート副長。

冒頭の写真で、ダヴェンポートはおそらく
真ん中のバーリンゲーム艦長の左側にいる人物だと思われます。

■「シルバーサイズ」以降の指揮

「シルバーサイズ」の任務を降りたダヴェンポートは、
アート・テイラー中佐の後任として、USS「ハドック」艦長に就任しました。

ちなみに、このテイラー中佐は、当時現場の潜水艦指揮官クラスから
絶賛不評だった当時の潜水艦隊司令、ロバート・イングリッシュ少将と
その側近を批判する文書(subversive literature破壊文学と書かれている)
を流したとして、解任されたという話があります。

「ハドック」では3回の哨戒を率い、
第一次哨戒でのパラオ諸島沖で「東洋丸」・「有馬丸」を撃沈。
第2次哨戒では5,533トンの「サイパン丸」を沈め、
初の海軍十字章を、そしてその次の哨戒で2度目を授与されました。
3回目の哨戒では3隻、合計39,200トンを撃沈。

4回目の哨戒では、2隻のタンカーを撃沈したと報告し、
第二次トラック哨戒で護衛艦を含む5隻32,600トンの撃沈、
1隻4,000トンのダメージを主張しています。
が、これらの被害は、戦後にJANACで照合したところ存在しませんでした。

しかし、ダヴェンポートと彼の副官らは、最後まで日本側が、連合国に、
タンカーが健在であると思わせようとしていたと考えていたようです。
てか、そんなことをして今更日本に何の得があるかって話なんですが。


ちなみに、JANACによる「シルバーサイズ」の現実の戦果は以下の通り。
括弧の中青字は、「シルバーサイズ」の戦時中の主張です。

哨戒次数 14
撃沈数23隻(26隻)

撃沈撃破 総トン数90,080t (143,700t)

撃沈数だけはまあまあ近い線行ってますね。

「ハドック」を降りたダヴェンポートは、USS「トレパン」艦長に就任。
1944年9月から1944年12月まで、10回の哨戒を行い、「トレパン」での通算成績として、
合計22本の魚雷を発射し、4隻35000トン撃沈を主張しましたが、
戦後にこれは13000トン、魚雷3本という数に減らされました。

■その後の経歴と引退

艦を降りたダヴェンポートは陸上勤務を希望し、
アナポリスで海事工学の教官を務めました。

彼は、ディック(リチャード)・オカーン(オケイン)などの
名誉勲章受賞者を除けば、潜水艦部隊で最も勲功のある軍人と言われました。

彼が少将に昇任したのは、やはり退役と同時のこと。
1987年のクリスマスイブに78歳で死去したということです。



続く。

潜水艦「シルバーサイズ」最後の哨戒

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さて、ニコルズ艦長の指揮下で、案外無事に12回目の哨戒をこなした、
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。
前回、ふとしたきっかけから、「シルバーサイズ」の、
歴代艦長と副長のその後の華々しい軍歴に話が及んでしまいました。

今日は改めて、第13次哨戒から検証します。


■ 第13次哨戒1945年3月9日〜4月29日

🇺🇸
13回目の哨戒で、「シルバーサイズ」は
「ハックルバック」(SS-295)、「スレッドフィン」(SS-410)
と共に九州沖を哨戒し、連携攻撃群の一員となった。

🇯🇵
3月9日
「シルバーサイズ」は13回目の哨戒で
「スレッドフィン」 (USS Threadfin, SS-410)、
「ハックルバック 」(USS Hackleback, SS-295) と
ウルフパックを構成し日本近海に向かった。

僚艦2隻とウルフパックを組んだということになります。
「シルバーサイズ」行動調書の13回哨戒プロローグは次の通り。

「シルバーサイズ」は1945年2月12日にミッドウェイで12回目哨戒を完了。
通常の改装は、USS「エーギル」(Aegir)と潜水艦部門241が担当した。


Aegirはeagreというスペルもあり、
「潮の流れが原因で起こる高波」という意味を持ちます。
「エーギル」なのか「イージア」なのか読み方はわかりませんが、
潜水艦テンダー、つまり潜水母艦です。

潜水母艦は、前進根拠地や泊地などにおいて潜水艦を接舷させ、
食料、燃料、魚雷その他物資の補給を行う役目を持ちます。
「イージア」(エーギルかも)がそうだったように、
補給だけでなく修理・整備能力を持つものもあります。

ミッドウェイでは本格的な設備がないので、
「エーギル」(イージア)と現地の部門で改装を行いました。
改装した部分は右舷サウンドヘッドの更新

SJAレーダートランスミッターを新しいユニットに変える

耐圧外殻を通す全ての回路に、
ドレインホールを備えた追加のジャンクションボックスを設置する

燃料バラストタンクベントバルブの上に
ワイヤースクリーンケージとデッキハッチを設置

前方燃料油充填接続の取り外し
JPソナーマウントの解放の防止

ダミーログとして使用するためのピットログへの変更

チューブ・ポペットバルブのトリップ機構にローラーを取り付け
艦内の排気管機ターミナルを撤去

一応翻訳してみましたが、なんのことかさっぱりです。
なんとなく雰囲気だけでもお伝えするために、書いておきました。
改装は二週間ほどで完成しています。

改装後、士官と乗員は艦に戻り、2月27日2月2日、
全ての装置、音響設備のテストを実施し、潜水、
演習魚雷6発を発射するなどの訓練を行いました。

次の士官は修理及び訓練期間中に離職しました。

CF・リー中佐(USN) 副長兼航海長
CC・エイデル予備大尉(USNR) 機関長
WJ・ツェウィンスキー少尉(USN) 砲雷長

次の士官はこの期間の乗艦が記録されます。

 中佐 WC・ヴィックレーJr. (USN)
予備大尉 LLT・アレン(USNR)
少尉 LJR・ハモンド(USN)
面白いのは、転勤した機関長が予備大尉であり、
新しい機関長もまた同じ予備大尉であることです。

機関士官は、特により専門的な知識を必要とするため、
大学で工学などを専門に学んだ予備士官が充填されたのかもしれません。


🇯🇵4月6日夜
潜水艦USS「スレッドフィン」が探知した、
戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊(伊藤整一中将)を、
情報に基づいて捜索したが見つけられず、都井岬方面に引き返した。

通信を受けた時には大物の捕物に関われるチャンス!と盛り上がったのに、
結局空振りとなって、さぞがっかりしたことでしょう。

この部分、「シルバーサイズ」行動日誌からです。

0525 都井岬沖で日中哨戒のため潜水
0900 数隻の漁船を南西で視認
1028 正体不明の単発エンジン偵察爆撃機北方コース上空
1125 210−245に漁船数隻
1727ー1923 いくつかのはっきりした爆発音が東方から聞こえる、明瞭
1955 海面に浮上、コース艦首方向に設定
2130 「スレッドフィン」からの内容報告を受信、
敵の位置、進路、速度を表す内容
速度を最大に上げコースを変更
(略)
SJが正常に作用していないと確信する。
サンドスウィープのために遅くなる。コンタクトなし。

現在の機機動部隊は今夜浮上した地点、
ヴァン・ディーメン海峡方面に向かっている。

現在FOXのスケジュールで多くのコンタクトを取得しているが、
全ては時間が経過した情報なので、我々の手の及ばないところにある。

一部の報告は不明瞭なため、位置が特定できなかった。

こっちは一生懸命やりましたが、「スレッドフィン」の報告が不明瞭で、
そのため、機動部隊に近づくことはできませんでしたよと。

そう言いたいわけだな?

🇯🇵4月11日深夜
北緯30度45分 東経131度57分の種子島近海で
特設監視艇「白鳥丸」(愛知県、269トン)に魚雷を3本発射したが回避され、
さらに4本発射し1本を命中させて撃沈。

「シルバーサイズ」の方では、この相手を

「ゴールポスト2つ、煙突ひとつの2,000トン小型貨物船」
ついでに
「タイプD ・シュガー・チャーリー・ラブ」
(Type D: Sugar Charlie Love)
と識別しています。

「シュガー・チャーリー・ラブ」ってなんですか?と思って調べたら、
戦争中アメリカが、日本の民間船につけていた認識名でした。


肝心のタイプDの船体の絵がありませんご容赦ください


「シルバーサイズ」日誌によると、
このシュガーチャーリーラブに2300に魚雷発射し、失敗。

翌日0012に2本目を発射、爆発音を聞き、内部で爆発したらしく、
すぐに沈没を始めたことが確認されたようです
🇯🇵
4月19日
北緯32度57分 東経145度03分の小笠原諸島海域で
特設監視艇「海龍丸」(大澤半兵衛、180トン)を砲撃により破壊した
「海龍丸」についての撃沈記録は、
「シルバーサイズ」日誌によると以下の通り。

「艦首から4基の魚雷を発射。震度3フィート、
レーダーレンジとTBTベアリングを夜間水上攻撃にセット。
発射前のソリューションはTDCとプロットによって完全にチェックされた。
最初の魚雷、ヒット。
ターゲットは爆破されて沈没。

命中部分は船体中央部わずか後方の位置。
深度のために1.1節のスピード補正を使用した」
アメリカ側の記述によると、簡単に、

🇺🇸
この時も価値のある目標はほとんど見つからなかったが、
4月29日に真珠湾に戻る前に、大型貨物船に損傷を与え、
トロール船を沈めることに成功した。

撃沈させられた船が2隻もあるというのに、
「価値ある目標はほとんど見つからなかった」
とはご挨拶ですなあ。(嫌味)


■ 第14次哨戒 1945年5月30日〜7月30日

さて、名実ともにこれが「シルバーサイズ」最後の哨戒となりました。



ニコルズ艦長になってから、ほぼ同じ海域に3回出動し、
ほぼ同じ地域での哨戒となっていたわけですが、
第14次哨戒は、真珠湾からサイパン、紀伊水道と四国の下側を哨戒し、
そこからサイパンに戻ったところで終了しています。

その理由は、7月30日に第14次哨戒を終了し、
サイパンで次の哨戒の準備をしていたら、終戦になってしまったからです。

それでは、最後の2ヶ月、彼女はどのような活動を行ったのでしょうか。

この時期、日本はもうほぼ海運手段を破壊され尽くしており、
(そもそも聯合艦隊すら消滅していたという状態だったので)
潜水艦の哨戒任務は通商破壊ではなくなっていました。
むしろ、今後のことを考えたアメリカ首脳部によって、
民間船舶の攻撃は禁じられていた頃です。

そこで、哨戒と言いつつ、潜水艦は、本土空襲の支援で、
海上に撃墜されたパイロットの救出を行ったり、
機雷の処分といった補助作業に終始していました。
哨戒中「シルバーサイズ」が救出したパイロットは二人。
この時のことは、行動日誌に以下のように記されています。

7月22日
0430 USS「スキャバード・フィッシュ」の通信をキャッチ。
(『スキャバード・フィッシュ』はこの時7名のパイロットを救出している)

0544 ピート(ゼロ式観測機)を視認。

1030 ピート、『S(?)tono岬』近くの航空基地に着陸

1243 B-29数機、ムスタング戦闘機を視認する

1415 ボーイング戦闘機が激しく攻撃を受けているという通信を受ける

1418 パイロットが機体よりベイルアウトするのを視認。
その直後、機体は海にダイブしてクラッシュ。
パイロットの救出に落下地点に直ちに急行する。
イマージェンシー・スピード。

1434 パイロットを救出、
ジェームズ・E・〇〇NKIE中尉、
陸軍認識番号0-829861 、USAAF。

少々の外傷と打身の痕を除き、外見は問題なし。
救命ボートは壊れて沈んだとのこと。

(その後ライフガードステーションに搬送)

7月24日
1238 パイロットが沖ノ島近海で救助要請という通信を傍受
救出に向かう

1430 乗っていた飛行機はもう沈んでおり、
パイロットは海上で我々の救出を待っている状態と連絡あり

1435 V.●URTOH大尉、125053 USNRを救出。
USS「インディペンデンス」艦載機乗組。
健康上の問題なし。

パイロットの名前が悉く伏字になっていますが、
別に彼らの個人情報に配慮したというわけではありません。

この頃の日誌を清書した時のタイプライターのインクカートリッジが
切れかかっていて、インクが薄くて字がかすれて読めないのです。

パイロットの名前だけでなく、至る所文字を解読するのに苦労しました。いくら哨戒中でも、インクのカートリッジはちゃんと取り替えて欲しいです。

🇯🇵7月14日
北緯33度57分06秒 東経136度21分02秒の地点で
450トン級トロール船に対して魚雷を2本発射したが命中せず、
この哨戒唯一の攻撃は成功しなかった。
このことは行動日誌にこう記されます。

攻撃タイプ:晴天、波穏やか、白波立たず。中位のうねり。
ターゲットは潜望鏡によって補足される。
ジグザグ航行はしていないが、前進全速で航行中。

魚雷を深度6フィートにセット。
ターゲット、魚雷発射に対して警報なし。

魚雷は普通にターゲットの下方を通過、
ターゲットは木造で選手と船尾が丸みを帯びており、
丈夫構造物の側面に191の文字が描かれているように見えた。

船は100度の曲線の外にあり、
ダイオウサキからミキサキ?までのコースで
高速で海岸線を下っていった。

再び接近して攻撃することは不可能であった。

トルネード管の故障は、インターロック・システムの
「発射準備」レバーを上げることができなかったために起こった。
このチューブの発射を試みた。
このため、次回の改装時に調査する予定である。

魚雷がうまく発射できなかったのは、
レバーを上げることができず、故障してしまったからです、
という言い訳でよろしいか。

ともあれ、この哨戒唯一の失敗した魚雷発射が、
第二次世界大戦の強豪艦「シルバーサイズ」の最後の攻撃となりました。

■ PEACE!(終戦)



ところで冒頭のこの写真は、「シルバーサイズ」が
第14次哨戒を終えて、サイパンではなくグアムにいたとき、
日本が降伏するという知らせを受けてのち撮られた記念写真です。

終戦となって初めて撮られた写真というのに、
写っている人の誰一人、笑っていないのが不思議です。
全員で戸惑っているんでしょうか。
まだ実感がないのか、それとも気が抜けたのか。

ピース!

14回目のパトロールを終えたわたしたちは、
グアムに創設された新しい潜水艦基地でのんびりしていました。

わたしたちの任務はそれまでと変わり、人命救助になっていました。

既に壊滅状態だった補給船の攻撃はむしろ禁じられることになり、
その代わりに、墜落した機体のパイロットを救出するのです。

今回の任務でも帰還までに二人を救出した「シルバーサイズ」は
15回目の紹介に向けて修理が行われていました。

乗員たちは誰もが、日本本土への上陸について話していました。

ヨーロッパで疲弊した連合軍の部隊は、
「最後の一押し」のために太平洋に送り込まれていました。

その時、広島が一発の閃光の元に消え去り、
数日後には長崎も同じ運命が訪れました。

日本はついに陥落し、わたしたちは家に帰ることになったのです。



そして、帰還の時の記念写真。
「潜水艦勤務に伴う興味深い『副作用』のひとつ、
それは『髭コンテスト実施』でした」



そして、ニコルズ中佐の件で一度アップしたこの写真ですが、
その節は失礼しました。間違いでした。
これは哨戒前の壮行会の写真ではなく、このパネルによると、

「戦争が終わり、『シルバーサイズ』が退役することになったので、
その『デコミッショニング・パーティ』をした時のもの」

あったことがわかりました。

最後の方は老体に鞭打って働いていた感のある「シルバーサイズ」ですが、
戦争も終わったことなのでもうお役目ごめんとなったのです。

本来ならばスクラップになって次の軍艦に生まれ変わるところですが、
彼女は違いました。

「彼女が残した偉大な記録は、彼女を廃棄から救い、
訓練艦としてもう一働きするためにシカゴに曳航されていきました」

さて、次回ですが、ここでまとめの一つとして、
「シルバーサイズ」の評価と日本の潜水艦との比較を行います。




続く。



「サイレントパトロール」で語られる潜水艦「シルバーサイズ」

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Torpedoed By USS Silversides (SS-236), The Japanese Ship "Johore Maru," Burns, Sinks, 10/43 (full)
ミシガン湖沿いに係留展示されている潜水艦「シルバーサイズ」。
その誕生から戦時哨戒14回を修了したところまで検証してきました。

ここであらためて動画を検索したところ、
「シルバーサイズ」がその第7回目の哨戒で、
浄宝縷丸(じょほうるまる 淨寶縷丸)南洋海運
に攻撃をし、それが爆発炎上する映像が見つかりました。

これは、「シルバーサイズ」艦上から撮影されたものです。
動画を撮影できる機材を潜水艦に持ち込んでいたことに、改めて驚きます。
■炎上イコール沈没?

「シルバーサイズ」に発見された時、「浄宝縷丸」はオ006船団として
「天安丸」「華山丸」など5隻の輸送船と航行していました。

この時、ラバウルを出港してきた「浄宝縷丸」は、
ガダルカナルで戦死した兵士の遺骨三千柱を搭載していたということです。

「浄宝縷丸」が受けた魚雷は一発だけでしたが、
動画ではそれが命中した後から始まっていて、追加の攻撃はありません。

これは後述しますが、潜水艦攻撃では割とよくあることで、
大体一発魚雷が当たると民間船は火災を起こし、爆発、
それから沈没となることが多かったので、「シルバーサイズ」は
撃沈の確認をするためだけにビデオを撮っていたと思われます。

動画を見る限り、後半で派手に爆発しているので、
このまま沈むのだろうなと思っていたら、結局そこで終わります。

結局、「シルバーサイズ」が去るまで「浄宝縷丸」は沈むことなく、
生存者が退船を済ませてから駆潜艇によって砲撃処分されました。

この場合は、「シルバーサイズ」側の記録では「撃破」となり、
「撃沈」という扱いにはならなかったものと思われます。

それにしても気になるのは船内に積まれていた遺骨の行方です。

総員退船まで猶予があったとしても、物理的に船員たちが
沈む船から三千柱の遺骨を持ち出すのは不可能だったはずですから。

ところで、この動画を紹介していたサイトによると、
「シルバーサイズ」の攻撃について、このような解説がされています。

「シルバーサイズ」は非常に「効果的な」潜水艦で、
主に日本のタンカーや輸送船を餌食にしました。

「シルバーサイズ」の乗員が撮影したビデオ、

「Torpedoed by USS Silversides (SS-236) (United States Navy)」

でも見ることができるように、彼女が沈めた船の多くは
潜水艦の攻撃によって火災を発生し燃え上がるという経緯をたどりました。

前述したように、「シルバーサイズ」が撃沈した船の多くは、
一度火がつくと、ほぼ間違いなくそのまま沈んでしまいました。
海上での火災は非常に消し止めることが難しいからです。

また、かつて「シルバーサイズ」の指揮を執ったことのある人物は、
「一旦攻撃によって致命的な損傷を与えたら、船は沈むに任せて放置し、
その間、もう次の目標の砲撃にかかっていることが多かった」
と話しています。

こういった場合の撃沈認定は、船が沈むのを見届けるまでもなく、
ほとんどは燃料に火がつくと必然的に起こる爆発によって確認されました。

■ 超”優秀艦”だった「シルバーサイズ」
潜水艦「シルバーサイズ」は、第二次世界大戦中、
その戦績においてトップクラスに入る成功した潜水艦でしたが、
「深海棲艦」であったがゆえに、就役中かなりの危機を経験しました。

「シルバーサイズ」の行動記録には、自艦からそれほど遠くない場所で
他の潜水艦が爆発していたことが、複数記録されています。

「シルバーサイズ」は、幸いにも、最後までその戦闘能力に
決定的な損傷を受けることなく、終戦まで生き残ることができました。

そして、その戦果の多さによって有名になりました。
これは第二次世界大戦の海軍の公式年表で簡単に見ることができます。

その優秀さは、第二次世界大戦中、潜水艦の挙げた記録44件のうち、
28件が「シルバーサイズ」の作ったものだった、という事実にも表れます。
■日本海軍潜水艦の戦法

危険な海域で自ら生き残りながら、相当数の敵艦を沈めたことが、
「シルバーサイズ」の評価となり、その名声を高めることになりました。

一方、日本海軍の取った、対アメリカ軍の潜水艦のための多数の方法、
その強力な方法の一つは、

「浮上している潜水艦を見つけ、認識される前に航空機爆撃する」

というものでした。

潜水艦はその構造上、素早く反応し潜ることができないので、
航空機から爆弾が投下されたことが分かった時にはもう遅いのです。
(その時敵に手を振って相手の虚をつき、誤魔化して逃げた、
板倉光馬艦長という人がいましたっけ。『敵機に帽を振れ』

もう一つの日本海軍が行った潜水艦破壊の方法は、
機雷原をうまく利用することでした。

これに飛行機による爆撃を組み合わせるのは大変有効な方法で、
実際、USS「シルバーサイズ」の姉妹船、
USS「ワフー」S S 228 Wahoo
は、日本軍の用いたこの戦法によって、日本海に沈むことになりました。
ワフーの最後

一般に日本軍は対潜戦に潜水艦を使う攻撃を好みませんでした。

このことは、当ブログでも、映画の解説ついでに書いたことがあります。
大西洋でのアメリカの潜水艦とUボートの海中での一騎打ちはなかった、
という史実についての説明でしたが、日米潜水艦の間の戦闘も、
ほぼ同じような理屈であまり行われなかったと言われます。

その理由は、まず、潜水艦同士だと、
敵からの反撃がすぐさま返ってくること。
一方、その逆説のようですが、

潜水中の潜水艦を、別の深度から潜水艦が攻撃するのは難しく危険

というのが、世界の潜水艦業界の常識?だったからです。

結局、日本海軍は、敵潜水艦を排除するための第4の方法として、
最も効果的な深度爆雷(デプスチャージ)を取りました。
(もちろんこのことは日本海軍の専売特許ではありませんが)

深度爆雷とは、通常駆逐艦が投下する機雷のことで、
一定の深さに到達すると爆発するように設定されています。

爆雷の爆発による威力は水圧によって大きく倍加され、
潜水艦周囲のエアポケットに集中するため、非常に危険なものとなります。つまり、爆雷を直接艦体に当てる必要はなく、
潜水艦の近くで爆発させるだけで沈めることができるのです。


■ アメリカ軍が恐れた人間魚雷「回天」

「シルバーサイズ」は強力な艦でしたが、日本海軍の潜水艦艦隊は、
世界で最も多様性に富み、強力と言われていました。

第二次世界大戦という戦争では、ある意味、どちらもが
最高の潜水艦を競うのにふさわしい相手であると任じていましたが、
日本海軍にはアメリカには真似のできない方法があったからです。

このサイトには、日本の潜水艦と戦った「シルバーサイズ」の
弱点がこのように明言されているのです。

率直に言って「シルバーサイズ」の弱点は
「回天」を持っていなかったことである。

以下その説明です。


日本のC1型潜水艦は、「回天」魚雷を装備していた。
「回天」は、一人の人間が自らを犠牲にして、
目標まで操縦する大型の有人魚雷である。

combinedfleet.comによると、
「回天」クラス魚雷は、セオドア・クックによって、

『艦というよりも、非常に大きな魚雷に人間を挿入したようなもの』

と評された。

これらの魚雷は通常通りに武装され、人間が魚雷をリダイレクトして、
ターゲットに当たる確率を大幅に増加させることができるものであった。

これらの魚雷は、本質的に水中の神風パイロットであり、
命中率を高めるために自滅を余儀なくされるものであった。

回天魚雷は、複数の米艦を効果的に沈め残酷なほど効果的であった。
魚雷に人を乗せるという倫理的な懸念はあったが、効果は絶大。

「シルバーサイズ」はこの自己目標魚雷を持たなかったために
不利な状況に置かれたということもできる。

弱点というか・・・・もしかしたらこれ、嫌味ですか?と思ってみたりするのですが、決してこのサイトには揶揄の調子はなく、
むしろ、「回天」の武器としての有効性については称賛するかの勢いです。

戦後、アメリカ海軍の艦艇乗組の指揮官が、
日本との戦闘で、最も警戒すべきかつ心理的恐怖を与えられたのは
「回天」だった、と語っていたことを今ふと思い出しました。

続きを見ていきましょう。

日本軍の乗組員はまた、その点非常に献身的であった。

日本社会では歴史的に名誉が非常に重要であり、
それは第二次世界大戦でも大いに発揮された。

日本人の乗組員たちは、自分たちの名誉のためであれば、
どんなことでもやるというのが一般的だった。

だから回天は強力だったのだ。

回天に乗る者は、大日本帝国のために命を捧げることこそが
大きな名誉であると信じていたのだ。

「回天」の誕生に関わる数々の逸話、そこにいた若者たち、
その生と死に直面した時の彼らの覚悟と残したもの・・。

心ある日本人であれば、彼らがただ単に自分の名誉のために
狂信的な考えに取り憑かれ喜んで死んでいったわけではないと知っています。

しかし、それはそれとして、その、私を捨て去り、
公に殉じた自爆攻撃が、相手を震え上がらせた事実は動かせません。

ここは素直に、「回天」が戦法として承認されていると考えましょう。
だからと言ってアメリカ人がこれを賞賛しているとは限りませんが。


「シルバーサイズ」のもう一つの欠点は、航続距離であった。

C1級潜水艦が14000海里というかなりの航続距離を誇っていたのに対し、
「シルバーサイズ」は補給なしでは11000海里ほどしか進めない。
一般的に潜水艦は、沿岸ならば、過ごす時間が短ければ短いほど
敵艦に潜水艦の位置を知られにくく、逆に
航続距離は、長ければ長いほど有利となります。

航続距離の短い艦は遠くまで移動できないため、
一度の索敵で位置を推測される可能性が高くなるからです。

このように、USS「シルバーサイズ」は、日本のC1級潜水艦と比較して、
明らかにいくつかの欠点もあったのです。

■ 「シルバーサイズ」の長所


シカゴに寄稿した「シルバーサイズ」
【小型が生む海中での静音性】

「シルバーサイズ」の大きな強みは、水中での移動能力でした。
海軍歴史遺産コマンドによると、この艦の水中変位は2,424トン。

同規模の日本の潜水艦C1の水中排水量3,561トンよりかなり少なく、
つまり「シルバーサイズ」は、水中で占めるスペースが小さいので、
機雷や魚雷が当たりにくく、攻撃するのがより困難とされました。

日本の船、特に「C-1」級潜水艦は非常に大きいので、
発見されれば簡単に標的にされてしまいますし、
その大きな船体は、まず、音を反射しない小型の潜水艦よりも
ソナーで簡単に位置を特定されてしまいがちです。
ちなみにここでの「C-1級」とは、伊号16級と同義であり、
「伊16」「伊18」「伊20」「伊22」「伊24」等を指します。
「シルバーサイズ」の強みは、裏返すとC1級潜水艦の欠点でもあります。

C1級潜水艦の第二の欠点、それは艦体が大きいので、同じ速度を出すのにも、
小さな艦体よりはるかに多くの馬力が必要であることです。

「シルバーサイズ」もC1級も、潜航速度は8ノット程度でしたが、
「シルバーサイズ」の小型の艦体でこの速度に達するには、
より少ないトルクで事足りました。

「シルバーサイズ」が8ノットに達するためにはの11,800馬力とすれば、
日本のC1潜水艦では同じノット数に対して12,400馬力が必要です。

今更ですが、馬力を上げるためには、モーターのスピードを上げて
プロペラをより速く回転させる必要があるため、その結果、
必然的により多くの騒音が発生することになってしまいます。

この大きさの違い=静音性により、「シルバーサイズ」は
伊号より攻撃されにくく、したがって若干の優位性を持っていたのです。


【機雷の使用】

また、USS「シルバーサイズ」の日誌によると、
自前の機雷を使って敵船を沈めたという記録が散見されます。

機雷は、設置されている場所への敵のアクセスを、触雷への恐怖から
それだけで封じることができる非常に強力なツールです。

日本海軍は機雷敷設艦が別に存在していたため、
C1級潜水艦は機雷設備を備えていませんでした。

もちろん潜水艦が機雷を備えていたからといって、
一対一の戦闘で役に立つことはありませんが、重要な航行区域に、
前もって機雷を敷設する能力は、いざという時それなりに有利だったのです。


【乗員の練度(民族性含む)】

乗組員の質を考慮に入れずに両潜水艦を効果的に比較することはできません。

「シルバーサイズ」の乗組員は慎重かつ正確で、
魚雷の発射を見逃すことは滅多にありませんでした。

日本海軍の乗員がその能力を欠いていたということはありませんが、
彼らがあまねく備えていた、何があっても降伏しないという
非常に強い名誉意識は、しばしば、彼らの潜水艦を
自ら沈めてしまう傾向にあったということは否定できません。

アメリカの乗組員は「生き残ること」に常に慎重で、
そのためにリスクを極力回避することを優先する傾向にあり、
このことが結果的により多くの任務を遂行することにつながりましたが、
何かとアグレッシブな日本の乗員たちは、任務を遂行する際、
その安全度より優先度の高い目標を選択した結果、
生き残れない場面が多々あったというのです。
もう少し言うと、名誉を何より重んじるという教義に自縛されていた彼らは、
何があっても命令を遂行することを優先しすぎた結果、機会を逃したり、
危険な状況に自らを破滅させることがあった、という意味です。


まとめると。

「シルバーサイズ」はステルス性と安全性で優位に立ち、
C1型日本潜水艦は火力と潜航能力で優位に立っていました。


各艦の長所と短所を比較すると、かなり拮抗しており、もし両者が
ガチの戦闘を行ったとしたら、決定的な勝敗はつかなかったでしょう。

その勝敗を決めるのはただ、「運」の一言に尽きます。
どちらが先に魚雷を発射できるか、運だけがそれを左右するのです。



■ 映画で観る「シルバーサイズ」物語
今日の最後に、とっておきのショートムービー、
「シルバーサイズ・ストーリー」をご覧ください。

これは、戦後アメリカで放映されていた、
「サイレント・パトロール」というテレビ番組のために制作されたもので、
退役した元提督(レギュラートーマス・ダイカーズ少将)が司会を務め、
第二次世界大戦中の有名な潜水艦を取り上げて、
俳優を使った映画風ストーリー仕立てでその足跡を紹介します。
潜水艦の戦時活動と、彼らが「いかに戦ったか」を広報する目的でした。

最後には必ず当時まだ現役だった指揮官などが呼ばれ、
実際にその時のことを言葉少なに語るという視聴者サービスもあります。

この映像におけるタイムラインを書き出しておきましたので、
ぜひ我慢して?飛ばしながらでも最後までご覧になってください。

わたしがこのブログで順を追ってお話ししたことが
映像で網羅されているのでおすすめです。
出演:マイク・ハービン、レーン(語り手的な主人公)、
バーリンゲーム艦長、ダヴェンポート副長、プラター
(全員を役者が演じている)

USS Silversides 'The Silversides Story'
1:21
「シルバーサイズ」出港前、乗り込む水兵たちの会話
ハービン水兵が「ラッキーブッダ」を持ち込み、皆がバカにする

6:47〜
初戦闘、日本海軍の潜水艦(本物)内部が映る
「シルバーサイズ」に一発で撃沈される
8:23
日本貨物船を魚雷攻撃、爆発沈没
「妙義丸」の船名、海に漂う日本人船員の遺体が映る

9:32
武装漁船(さっきと同じ海軍士官が映る)との戦い
マイク・ハービン水兵銃撃によって戦死

14:30
爆雷に耐えている時、プラターが盲腸で苦しみ出す

15:38
ファーマシスト「ドク」、俺が手術するよ!と力一杯宣言

16:28手術開始

18:57魚雷攻撃していたら6本目が詰まって出ないのに気づく
上から爆雷がジャンジャン来てピーンチ

21:44
チーフが魚雷を排出するため発射室に残る「決死隊」を募集、
定員3人に対し全員が手を挙げる
ブッダのお腹を撫でて魚雷排出成功
一同ホッとして笑い合う

23:47映像は終わり、ゲストのクリード・バーリンゲーム少将登場
最後の、司会とバーリンゲーム少将の会話を翻訳してみました。

「クリード、見た限り、
シルバーサイズの哨戒には一瞬の退屈もなかったようですね」

「物事を色々やらかす人が集まってたんでしょうね」

「その通りですが、色々やりすぎというか、
盛り込みすぎな場面もあったように思えます」

「と言いますと?」

「プラターの手術だけでも大変なのに、そこに爆雷が降ってきて、
魚雷が詰まって、結局どれも無事に切り抜けてしまうとは」
「そうですね。多分あなたのいう通りです。

魚雷がチューブに詰まること自体、もし他の艦長だったら
この事態を(他の方法で)クリアできたかもしれないし、
この深刻な事態に対処できたかもしれない。

ただ、我々はその時爆雷の攻撃を受けていましたからね。
その時弾頭が爆発しなかったのは幸運だったとしか言えません」
「事実、それらを実行決断するあなたの才能は、
『シルバーサイズ』の大きな遺産となり、
その成績は傑出したものになりました」

「はい、すべての潜水艦の中で、撃沈成績は3位となりました」
「本当に素晴らしい艦でした。
あなたと、あなたを補佐したジャック・コイ大佐には、
おめでとうございますと言わなければなりません」

「しかし、我々の乗員の偉大な協力があってのことだと
忘れてはいけないと思います」

「この先ずっと、そのことに誰も異論はないでしょう。
今日はどうもありがとう、クリード」
「ありがとうございました」
司会者とものすごく近くに座っているのに、
全く目を合わさずセリフを棒読みしているバーリンゲーム少将・・。

ちなみに、繰り返しになりますが、爆雷下での盲腸手術について、
前述の潜水艦サイトではこう書かれています。

また、「シルバーサイズ」は緊急手術の場となったことで有名である。

第3次哨戒中、ジョージ・プラターは虫垂切除手術が必要となったが、
問題は医師が乗艦しておらず、当時「シルバーサイズ」は
安全に立ち寄れる港の範囲内にいなかったことだった。

結局、汚れのないスチール製の食事テーブルの上で、
本来は救急隊員が担当する手術を行うことになった。

手術がより安定した環境で行われるように、クルーは部屋を徹底的に掃除し、「シルバーサイズ」は揺れを少なくするために水中に先行した。

麻酔に難があったものの、手術は成功し、
「シルバーサイズ」が港に到着すると、そのニュースはすぐに広まった。



続く。

アメリア・イアハート(と上顎洞炎)〜スミソニアン航空博物館

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今日は久しぶりにスミソニアン航空宇宙博物館の展示をご紹介します。


国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館の航空界のレジェンド、
ミリタリーに対して一般の部の代表は以下の人々です。



リンドバーグ夫妻(夫婦でレジェンドってすごくない?)
ドーリトル、そしてアメリア・イアハート。

ちなみに、ここに挙げられているのは上段から下の通り。
アメリア・イアハート

ウィリアム・パイパー
(航空機メーカー、パイパーエアクラフト創業者)

ロバート・ゴダード
「ロケットの父」

ジミー・ドーリトル

ヘルマン・オーベルト(ドイツ)
ロケット工学者

チャールズ・リンドバーグ

コンスタンチン・ツィオルコフスキー(ロシア)
ロケット工学者「宇宙旅行の父」

クラレンス・ギルバート・テイラー
(初期の航空起業家 航空事故死)
アン・モロー・リンドバーグ

この中で、航空に詳しくなくとも写真だけで誰かわかるのは、
リンドバーグとアメリア・イアハートの二人でしょう。

今回は、スミソニアンの展示から、アメリア・イアハートを取り上げます。


■ アメリア・イアハートとロッキード・ヴェガ

スミソニアンには、彼女のトレードマークとなった真っ赤なヴェガが
そのまま展示されて実物を見ることができます。


「この飛行機で、アメリア・イアハートは二つの偉大な
航空記録を打ち立てました。
1932年の大西洋横断飛行とアメリカ大陸無着陸横断飛行で、
そのどちらもが女流飛行家としては初めての記録でした」
アメリア・イアハートってどんな人?

●当時最も有名だった飛行家の一人

●記録を打ち立てたパイロット

●航空業界のプロモーター

●メディア界のスター、セレブリティ

●女性にインスピレーションを与えるロールモデル

●永遠の謎の中心である悲劇の伝説のヒロイン

ロッキード5B ヴェガ

ヴェガはその後の偉大な航空機会社の一つとなった
ロッキードエアクロフトによって製造された最初のモデルです。

頑丈で、広い居住性を誇り、合理化されたシステム、高速で
革新的なヴェガは、速度、距離でさまざまな記録に挑戦していた
当時のパイロットたちに熱い支持を受けるようになりました。

イアハートは、1930年から1933年まで、
この真っ赤なヴェガを所有していました。
■ アメリア・イアハートのバイオグラフィ


アメリア・メアリー・イアハートは1897年カンザス州アチソン生まれ。
父親のエドウィン・イアハートは弁護士になろうとしていましたが、元連邦判事で、アチソン貯蓄銀行の頭取であり、町の有力者という
母親の父は、当初娘とこの男性の結婚に賛成していなかったそうです。

一族の慣習により、2人の祖母の名前をとって
アメリア・メアリーと名付けられたイアハートですが、
そんな古き良き慣習を持つ家系でありながら、
母親は子供たちを「いい子」に育てようとは考えていなかったため、
例えば女の子がスカートを履くのが当たり前だった当時、
彼女ら姉妹は自由に動けるという理由でブルマーを穿かされていました。

祖母たちはもちろん孫のブルマーにはいたく不満だったようです。

【おてんばアメリア】

イアハート家の姉妹は冒険心いっぱいの幼少期を過ごしています。毎日近所の探索に出かけて木に登り、ライフルでネズミを狩り、
そりを「腹ばいにして」滑降して長時間遊び続けました。

まあ、この頃そういう幼少期を過ごす子供は珍しくもないと思いますが、
多くの伝記作家は幼いイヤーハートをおてんば娘と評したがるようです。

姉妹は「ミミズ、ガ、キリギリス、ヒキガエル」を飼い、
外出のたびにそのコレクションは増えていきました。

ある時彼女は、セントルイス旅行で見たジェットコースターを模して作り、
道具置き場の屋根にタラップを取り付けて、実験を行いました。

この「初飛行」はソリが破壊され、劇的な幕切れとなってしまいます。

しかし、彼女は唇に怪我をし、破れた服で、
ソリ代わりの壊れた木箱から「爽快な感覚」を味わいつつ、出るなり、

「ああ、ピッジ、まるで空を飛んでいるみたいだった!」

1907年、父親はロックアイランド鉄道の保険金支払担当者に転職したため、
家族はアイオワ州デモインに転勤したのですが、
ここで彼女は初めて複葉機を見ています。

父親が飛行機に興味を持たせるために載せようとしたのですが、
彼女はメリーゴーラウンドの方がいいと冷淡でした。

後に彼女は複葉機については

「錆びた針金と木のもので、全く面白くなかった」
としか思わなかったようです。
なんか思ってたのと違った、って感じだったのでしょうか。
飛行機に対してはそう過大な期待も持っていなかったようですね。

幸せな子供時代を過ごした彼女ですが、父親はアルコール依存症で
家計は困窮し、家と家財道具を売るまでになります。
そう言った家庭環境が影響したのか、彼女の高校の卒アルには、

「A.E・・・いつも一人で歩いている『茶色ばかり着ている子」
という、彼女の隠キャぶりが窺い知れる言葉が書き込まれています。
彼女は問題の多い子供時代を過ごしながも、決して自暴自棄にならず、
将来のキャリアについてはそれなりに夢を持っていました。

映画監督や制作、法律、広告、経営、機械工学など、
主に男性向けの分野で成功した女性について
新聞の切り抜きをスクラップブックにしていたということです。
【看護助手として】

第一次世界大戦が激化した頃、イヤハートは
帰還した傷病兵を目の当たりにして、赤十字で看護助手としての訓練を受け、
陸軍病院のヴォランタリー・エイド分遣隊で働き始めました。

仕事内容は、厨房で特別食の患者のために食事を用意したり、
病院の診療所で処方された薬を配るというものでしたが、
ここで彼女は将来を決定する大きな出来事に遭遇します。

帰還してきた軍のパイロットから話を聞き、
飛行に興味を持つようになるのです。

【スペイン風邪と上顎洞炎】

1918年にスペイン風邪が大流行した際、イヤハートは
陸軍病院での夜勤を含む過酷な看護業務のせいで、肺炎になり、
続いて上顎洞炎を経験しています。

ちょっと驚いたのは、何を隠そうこのわたしも、
歯性の上顎洞炎のため、帰国後に入院手術を予定しているってことです。

というか、皆様がこれを読んでいるときには、
手術が済んでいる頃となります。

今回、たまたまお中元のお礼の電話をかけてくれた知人の医師が
ほとんど同じ症状で今から病院に行くところだと聞き、
何たる偶然の一致、と驚いていたのですが、その後、まさか、
アメリア・イアハートと自分が同じ病気だったと知ることになろうとは。

彼女がこの症状を発症した原因は 1918年11月初旬にかかった肺炎でした。

発病から2ヶ月後の12月には退院したのですが、副鼻腔炎を併発してしまい、
片目の周りの痛みと圧迫感、鼻孔と喉からの多量の粘液排出を見ています。

わたしの場合は、昔の歯医者の歯根の治療がいい加減だったため、上の奥歯の根の先が溶けて、と薄い骨一枚で隔てられている上顎洞に虫歯菌というか細菌が入り込んで炎症を起こしたものです。

アメリアのように痛みや圧迫感はありませんでしたが、
ヨガなどしていて長時間俯いていると、粘液がつつーっと出てきて
鼻の奥の異臭に「あれ?」と違和感を感じだしたのがきっかけです。

手術を受けるに至ったきっかけは、足首のアザでした。

ある日、両足首外くるぶしの上に、綺麗にお揃いのアザができてしまい、
すわ、急性骨髄性白血病か?夏目雅子か?と調べてみたら、
副鼻腔炎で脚にアザができることがある、と書いている医師がいたのです。

念の為検査したところ、血液の方には異常がなかったので、
この大元はもしかしたら副鼻腔炎で、咽頭を通過して体に吸収された膿は
引力の法則で体液に混じって下の方に運ばれ、
足首にアザを作っているんではないかと自分なりに診断したわたしは、
(二人の医師に持論を展開してみたところ、それは違う!と言われましたが)
これは放置してはいかんだろう、とまず大学病院に行くことにしました。

手術の前に一応抗生物質を飲んで様子見したのですが、効かなかったので、
アメリカから帰ったら手術でバッサリやってしまうことにしたのです。

アメリアの場合は抗生物質がまだ普及していない時代だったので、
彼女は根治のため患部の上顎洞を洗浄する、痛みを伴う手術を受けています。

この頃の副鼻腔炎の手術がどんなものだったのかはわかりませんが、
わたしの予定している内視鏡による手術でも、入院は一週間と
かなり大変そうな感じなので、多分彼女はもっと辛かったと思います。

しかも彼女の手術は成功せず、頭痛はさらに悪化したそうです。

こののち彼女がいわゆるセレブリティ、時代の寵児になってからも、
慢性副鼻腔炎は後年の飛行や活動に大きな影響を与え、

「小さな『ドレインチューブ』を隠すために
頬に絆創膏を貼らなければならないことがあった」

と書いてあるのを見てひえええ〜と怯えました。

電話の医師も

「昔は外から穴をあける手術しかなかったんですよ」

とおっしゃってましたが、まさかパイプを頬から外に出していたとは・・。

辛かったねアメリア・・・。



■ 飛行機との出会い
イアハートは後年、

「私がコロンビアで経験した最初の冒険は、空中を飛ぶことだった。
図書館の最上階に登り、それから入り組んだトンネルの中に降りていった」

と自分と飛行機との出会いをこう語っています。

ある日イアハートは若い女性の友人と一緒に
トロントで開催されたカナダ国立博覧会の航空フェアを訪れました。

その日のハイライトは、第一次世界大戦のエースによるデモでしたが、
上空のパイロットは、人々から少し離れたところで見ていた
イヤハートと彼女の友人二人に向かって飛んできたといいます。

誰だかわかりませんが、彼はきっと自分に言い聞かせたのでしょう。

"Watch me make them scamper "
(あの娘たちがびっくりして逃げるのを見よう)

と。

パイロットも所詮は若い男性。
クラスの気になる女の子にきゃーと言わせたい的な、
子供っぽい悪戯ごころのなせることだったのに違いありません。
しかし飛行機がが近づいてきても、イヤーハートは動きませんでした。

「聞き取れなかったけれど、あの小さな赤い飛行機は、
通り過ぎる時、わたしに何か言っていたと思う」
彼は後年、自分が目をつけて脅かした若い女の子が
歴史に残る飛行家になったと知っていたでしょうか。


彼女は1919年にはスミス大学への入学を準備していましたが、
気が変わり、コロンビア大学の医学部などに入学しています。
どちらの大学もいくら当時でもそう簡単に行けるところではありません。
(スミスはリンドバーグ夫人となったアン・モローの大学です)

ところがわずか1年後、カリフォルニアの両親のもとへ行って
一緒に暮らすために、大学をやめてしまいました。

この即決ぶりは、よっぽど学校が肌に合わなかったんだろうな。


■『わたしは空を飛ばなければならない』

1920年12月28日、イアハートは父親とともに、
ロングビーチで行われたドーハ「エアリアル・ミーティング」に参加して、
そこで父親に体験飛行と飛行訓練について質問してもらい、早速翌日、
10分間で10ドルという体験飛行を予約しています。

この時彼女を乗せたパイロット、フランク・ホークスは、
イヤーハートの人生を永遠に変えることになる乗り物を彼女に与えました。

「飛行機が地上から60-90m離れたとき、
わたしは空を飛ばなければならないと思いました」
と彼女はのちにこの時のことをこう語っています。

 ネータ・スヌークとイアハート1921年頃

翌月、イヤーハートは女流飛行家、
ネータ・スヌークに飛行のレッスンを受け始めます。
それまでに写真家、トラック運転手、地元の電話会社の速記者など、
様々な仕事をしながら、飛行訓練のための1000ドルを貯めていました。

1921年、ロングビーチのキナーフィールドで最初のレッスンを受けたとき
スヌークは訓練に、復元した墜落事故機である
カーチスJN-4「カナック」を使用しました。

エアハートは飛行場に行くために、バスで終点まで行き、
そこから6kmの道をテクテク歩いて通っていました。

彼女は飛行を始めてから、 イメージチェンジのために、
他の女性飛行士がよくやっているスタイルを真似し髪も短く刈り上げました。

わずか6か月後の1921年の夏に、イアハートは、
まだ早いのでは、というスヌークの助言にも関わらず、
明るいクロームイエローのキナーエアスターの中古複葉機を購入し、
「カナリヤ」とあだ名を付けています。


初の単独着陸に成功した後、彼女は新しい革製の飛行コートを購入し、
早速飛行に着用しますが、新品なのでからかわれてしまったので、
コートを着て寝たり、航空機用オイルで染めたりして「熟成」させました。



ここにはそんなレザーコートの一つがありますが、
これが「アメリアが一緒に寝たコート」かどうかはわかっていないそうです。
アメリアはお洒落だったので、きっと革コートも
何着も持っていたはずですから。
裏地はツィードが張ってあります。

■ アメリア・イアハートという女性


子供たちにサインするアメリア
アメリア・イアハートは、全米各地で講演やインタビュー、
展示飛行を行い、航空や女性の社会的・政治的問題の普及に努めました。


彼女は、挑戦とインスピレーションを与える遺産を残しました。

彼女は必ずしも「最高の」パイロットではありませんでしたが、
必要に応じて再飛行や自己改革を行う勇気と意欲を持ち、
夫であり実業家ジョージ・パトナムの助けを借りて、広報活動を行いました。

また、講演、執筆、事業など多方面で活躍し、
「最も賞賛される女性」と言われることもあれば
「最も着飾った女性」のリストに常に名を連ねるなど、
その複雑な人物像は、彼女に永続的な人気を与えることになります。


彼女のキャリア、フェミニズム、人生、そして謎に満ちた死は、
数え切れないほどの本、記事、演劇、映画、エッセイ、広告キャンペーン、
特集の題材となって繰り返されています。

そう、私たちは彼女に何が起こったのか知りたいのです。

なぜか?

アメリア・イアハートがあえて人と違うことをした女性だったからでしょう。

続く。(と思う)



「シルバーサイズ」のタブーとその戦後

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ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「シルバーサイズ」。

その精強さは第二次世界大戦中の米潜水艦トップレベルだっただけあって、
数多くの伝説が残っている上、
調べればいくらでも後世作成された映像資料などが出てきます。
今日はまず、スミソニアン歴史センターが作成した、
「シルバーサイズ」最初の哨戒における漁船との戦いをご覧ください。
ちゃんと漁船の名前「恵比寿丸」も明らかにしています。
A Surprisingly Tense Battle Between a U.S. Sub and a Fishing Boat

東洋系の役者の数が揃わなかったのか、銃手ともう一人しか
「恵比寿丸」の乗員が登場しませんが、この銃手がイケメンなので許す。

問題があるとすれば、「恵比寿丸」は民間漁船なのに、
なぜか乗員が海軍の略帽を被っていることですが、
「シルバーサイズ」が最初に犠牲者を出した戦闘の迫力は伝わります。

ちょっと注目していただきたいのは、1:30〜から、
元海上自衛隊海将の香田洋二氏が登場して英語でコメントしていること。

「彼らが基本的に武装していたのは、
主に機関銃と、2~3個の深海爆雷ですね。
そしてもちろん、無線機も。
『シルバーサイズ』は、この船(漁船)のミッションを
正しく理解していなかったんじゃないでしょうか」

第一次哨戒について取り上げたときにも書きましたが、
「シルバーサイズ」はこの漁船と遭遇したとき、
まさか相手がこれほど重武装しているとは想像していませんでした。

このブログ読者の方を驚かせるほど、莫大な無駄弾を放ち、反撃し、
ようやく相手を倒したときには、貴重な砲手を一人失っていたのですが、
番組制作(スミソニアン)は、その痛い失点を、
「シルバーサイズ」が初めての哨戒で相手を単なる漁船だと思い込み、
侮っていたせいだった、ということを結論づけようとして、
わざわざ香田氏にこのようなコメントを求めた気がします。



■潜水艦の「Superstition 迷信」

当ブログではすでに何度も?取り上げている気がする、
「シルバーサイズ」のお守り、金色の布袋さんことラッキーブッダについて、
博物館の別のコーナーで「迷信」として取り上げていたので、
繰り返しになりますが書いておきます。

【仏像】

「シルバーサイズ」で最もよく知られていた幸運のお守り、
それは金色の小さな仏像です。
Robert Trumbull の著書「シルバーサイズ」によると、
仏像を持ち込んだ人物については二つの説があり、
一人はあの水兵、マイク・ハービンだったというものです。

彼が最初の哨戒で武装漁船の銃撃の弾を受け亡くなったのは、
わずかその10日後のことでした。

そしてもう一人はというと、艦長のクリード・バーリンゲームだった説。

ハービン、バーリンゲーム、どちらの人物も仏教徒ではなかったので、
彼らのどちらが持ち込んだかについても謎のままかもしれませんが、
ただ一つわかっているのは、この仏像が「シルバーサイズ」の現役中、
常に後部魚雷室に搭載されており、乗員は魚雷を発射する前に、
願を懸ける意味を込めて、お腹をこすっていたということです。


その「迷信」は戦時中製作された国策潜水艦映画でも再現されました。
実際の仏像を参考にしたのか、大きさも形も全く同じです。

最初の哨戒が成功した直後、魚雷室勤務の乗員たちは
オリジナルと同じ仏像を木彫りで作ってもらい、
それをバーリンゲーム艦長にプレゼントしました。
バーリンゲーム艦長は、それを元にして、オリジナルと全く同じ仏像を
キャストで二体制作させ、一体を司令塔に、そして
前後の魚雷発射室に1体ずつ「装備」するように命じました。

こういう場合に取り上げるにふさわしい言葉かどうかわかりませんが、
「鰯の頭も信心から」といわれるように、森羅万象に神を見る我が日本では、
なんでもない路傍の石や木でも、ある日誰かがそれらしいしつらえをすると、
そこはあっという間に信仰の対象となり、人々が立ち止まって頭を下げ、
拝み、賽銭を投げるようになって、そのうち社殿が建つそうです。

アメリカ人にそんな「慣習」はありませんが、「シルバーサイズ」では、
戦争という状況の中で「具体的な祈りの対象」が必要とされたのでしょう。
そして「シルバーサイズ」が、その哨戒で幾度となく危機を脱し、
もう最後という状況から生還するというような「奇跡」が重なると、
男たちの仏像に対する「信仰心」はいや増していきました。

哨戒の数が重なってくると、乗員は、この布袋さんのために神棚を作り、
のみならずそこにペニーのお賽銭を入れるブリキ缶まであったそうです。

三体の仏像は、14回の哨戒全てに「同行」しました。

乗員の中には、「シルバーサイズ」が終戦まで生き残り、
素晴らしい成績を上げたのは仏像のおかげと思っていた人もいたでしょう。
彼らはおそらくが全員キリスト教徒だったはずですが、主への祈りより、
この仏像の「ご利益」をあてにしていたかと思うと、不思議な気がします。

いずれにしてもこの類のことは、戦時中ならではで、
平常時では決して起こらなかったに違いありません。

【哨戒中の”ジンクス”】


「シルバーサイズ」初代副長ダヴェンポートは、
当時の若者にありがちな「カメラが趣味」の人でした。

普通では後世に残ることがない、哨戒中の無資格手術のシーンも、
その後無事に盲腸を切ってもらった人と切った人の記念写真も、
全てダヴェンポート副長が熱心にシャッターを切ったものです。


これはどこかはわかりませんが、USS「ポラック」Pollack SS-180が潜望鏡越しに撮影した、日本の本土の写真です。



USS「プランジャー」が潜望鏡越しに撮った船が沈む光景。
検索すると、潜望鏡越しに撮った、船が沈む写真がいくつか見つかります。
ダヴェンポートはこんな風に記録を残したかったのでしょう。
しかし、この写真撮影については、ある時からタブーとなりました。
船団攻撃の後は決して潜望鏡越しに写真を撮ってはいけないという
「ジンクス」が、「シルバーサイズ」に生まれたのです。


ある哨戒で、「シルバーサイズ」が船団攻撃を行なった後、
ダヴェンポート副長は、バーリンゲーム艦長に、
潜望鏡を通して海面の写真を撮らせてほしいと頼みました。

攻撃後の船がどうやって沈んでいくか記録に残し、
その戦果を確実なものにしようと考えたのです。

しかし、ダヴェンポートが写真を撮るために潜望鏡を上げた瞬間、
船団を援護していた護衛艦がその潜望鏡を発見し、
爆弾を降らせ、危うく「シルバーサイズ」は粉々になるところでした。

しかも、ダヴェンポート副長は急いでいたせいか、
その時フィルムを表裏逆に装填していたため、
高価なフィルムを全てダメにしてしまったというおまけ付きです。

バーリンゲーム艦長はこの後、誰に対しても
潜望鏡越しの撮影を許可しなくなりました。

ただし、コイ艦長、ニコルズ艦長の時代には、ジンクスはなくなり、
事実、潜望鏡越し撮影をしても特に悪いことは起こらなかったそうです。

わたしが気になるのは、この潜望鏡事件でトラウマを持ったはずの
ダヴェンポート副長が、後に艦長となったとき、
部下に潜望鏡撮影を許したかどうかですが・・・。

■ 戦後の活躍:1945年~1969年

グアムで終戦を知った「シルバーサイズ」は1945年9月15日、
パナマ運河を通過し、9月21日にニューヨーク市に到着しました。

コネチカット州ニューロンドンに転属後、1946年4月17日に退役し、
1947年10月15日まで予備艦としてイリノイ州シカゴで
海軍予備役訓練艦として使用されていました。

シカゴ到着時の「シルバーサイズ」
艦隊の凹みが目立つ

1949年に乾ドックで最後にオーバーホールを受け、残りの期間、
定置訓練船としてシカゴで海軍予備役訓練の支援にあたりました。

その後予備役艦隊に入り、真鍮製の固体プロペラが取り外されました。


1962年11月6日、「シルバーサイズ」は、係留中のまま
船体分類記号AGSS-236、補助潜水艦に再分類され、
1969年6月30日に海軍船舶登録簿からその名前が抹消されます。
シカゴではしばらく道路に放置されていた模様

本来ならここでスクラップになるところですが、
彼女の戦争中の功績が大きい「殊勲艦」だったため、シカゴの商工会議所が中心となって、
「シルバーサイズ」をシカゴで保存するよう海軍に要請し
1980年代半ばにシカゴの海軍区画で保存し、商工会議所は、
速やかにアメリカ海軍省に「シルバーサイズ」の保存を申請しました。

■1973年-現在



「シルバーサイズ」は 1973 年 5 月 24 日にイリノイ州シカゴの
五大湖海軍連合協会の一部となりました。

そして、その輝かしい歴史と技術的な驚異に惹かれた
献身的なボランティアの小さなクルーによって、
何年にもわたって管理されてきたのです。

彼らは、何万時間もの修復作業を行い、自費でメンテナンスを行い、
説明員や付き添い役も務めました。
しかし、保存が正式決定されるまでの「シルバーサイズ」の状態は
最善のものどころか、お世辞にも良いとはいえませんでした。

973年5月24日、当時五大湖海軍協会の所有物だった
「シルバーサイズ」の艦内に入ったボランティアが見たものは、
長年放置されたおかげで船体内部の至る所がかび臭く、
腐食した箇所から浸水した艦内の惨状で、
塗装がはげ落ちた艦内外には、ガラクタが散乱していました。


冷凍室は長い年月を経て、ミリ単位ではなく、
数インチ単位で測れるほど厚く成長していましたし、
前部のコンパートメントには水害の跡が残っていました。
かろうじて後部のコンパートメントはそれなりに良い状態だったとはいえ、
後はデッキも上部構造も相当傷んでいました。
上面では、デッキは風化し、部分的に摩耗しており、
上部構造のいくつかの部分は錆びていて交換が必要と思われました。

ボランティアは総力を挙げて、「シルバーサイズ」の腐食した箇所を
徹底的に修理し、腐ったロープが交換され、船は桟橋に再び固定され、
ビルジはポンプで乾燥され、電力と熱が船内に供給され、
3番魚雷発射管の漏れが塞がれました。

最初に行われた大改装は、水線までの船体の剥離、下塗り、再塗装です。

この作業はミシガン州の厳しい冬の間は中断され、数カ月を要したものの、
完成すると艦体はほぼ新品同様の姿に生まれ変わりました。

デッキの下は、艦体の洗浄と一般的な修復が行われました。

艦内のあらゆる場所に光が届くように配線が大幅に変更され、
配管はかつて凍結したパイプからの漏れを調査し、修復しました。
1975年には主機関の
フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン
を再稼動させることに成功しています。
1979年7月、1946年以来初めて主機である3号エンジンが、
4号は1984年の米国潜水艦退役軍人大会に間に合うように修復されます。

1979年には海軍区画にとりあえず移動させたのですが、
この間、非営利団体と行政側に収入に関するトラブルが発生し、
司法が介入してゴタゴタが起こってしまいます。

このため「シルバーサイズ」の復活に貢献したボランティアは
最終的に行政側と決別する1985年まで、
行政側からのひどい侮辱?を受ける事態になりました。

1987年、この潜水艦は現在のミシガン州マスキーゴンに移され、
五大湖海軍記念&博物館の目玉として展示されることになりました。

シカゴ・トリビューン紙(Silversides gets Hero's Welcome)によると、
マスキーゴンに到着したとき、この有名な軍艦を新しい居住地に迎えるために
大勢の人が集まり、歓迎の大きな旗が掲げられたと言うことです。

しかしながらここに艦体を移動した際、「シルバーサイズ」内部の備品等
(つまり盗品)が行政側によって売りさばかれるという醜聞がありました。

当時シカゴでは新しい海軍博物館が1億5千万ドルで計画されていましたが、
(多分わたしが最初に見たU-505の展示してある博物館のこと)
「シルバーサイズ」の保存はいずれにせよ行政の眼中にはなかったようです。

その後「シルバーサイズ」の所有権は移り、新たな所有者のもとで
1991年に再改修を施されましたが、吃水線下はひどい状態のままでした。

■ 保存活動

シルバーサイズは以上の経緯で、記念艦として
マスケゴンの潜水艦記念館で保存されています。

通常、アメリカ海軍の潜水艦は現役の間は5年ごとに乾ドックに入ります。
「シルバーサイズ」の保存維持間隔は25年ごととなっていますが、
「シルバーサイズ」が最後に乾ドックで修復されてから55年後の2004年、
記念館と元潜水艦乗組員による退役軍人協会が保存のため、「シルバーサイドを救う」という名称の基金を設立し、
退役軍人グループと軍事出版物を通じて、寄付を募り始めました。
この先例としては、ウィスコンシン州マニトワックに係留保存されている
「コビア」 (USS Cobia, SS-245) の基金集めがあります。 ■ 映画「ビロウ」出演
また、当ブログでも紹介しましたが、「シルバーサイズ」は
2002年映画『ビロウ』に出演しています。

わたしがシカゴからわざわざ車でこれを見にきたのも、
そもそも「ビロウ」で取り上げたことがきっかけだったわけですが、
実際に内部を見て、その艦内のあまりの狭さに、
映画で撮影された艦内のシーンは、ほとんどがセットだと確信しました。
(機関類とかの前の撮影はもしかしたら本物かもですが)

当初一体どこの部分で彼女が出演していたのか不思議でもあったのですが、
実は結構大掛かりな話で、「シルバーサイズ」は、
劇中、架空の潜水艦「タイガーシャーク 」(USS Tiger Shark) として
わざわざマスキーゴンからミシガン湖まで曳航され、
海上を航走するシーンを撮影しているのだそうです。
この時「シルバーサイズ」を実際に使ったと思われるシーンをあげてみます。







しかし、
この映画は興行的に全くヒットせず、
収入はわずか58万9000ドルと芳しくない結果でした。

ついでに専門家からの評価もかなり辛辣だったということですが、
その理由は、当ブログの紹介欄を読んでいただければ、
どなたでも「あ、・・・・察し」となるのではないでしょうか。
これだけ大々的に潜水艦を稼働させる話なんて滅多にありませんから、
潜水艦保存協会としては思わず飛びついてしまったのかもしれませんが、
それにしても契約する前に、もう少し映画の脚本を読もうよ・・・。
他でもない、「呪われた潜水艦」の話に出演させたとわかったら、
かつての乗組員たちだっていい気はしないと思うぞ。


■ 週末のキャンプ


実はわたくし、「シルバーサイズ」シリーズを始めてから、
博物館のライブカメラのサイトをしょっちゅう覗いています。

大抵は時差の関係で真っ暗な中、光が揺れていたりして、
そんな時も艦内には明かりが灯っているらしいのが見え、
週末の昼には見学者の姿があるのを確認してはちょっと安心したり。
ある週末、何気なく早朝のライブカメラを覗いてみたら、
艦内から毛布を持った子供が出てきたので驚きました
そういえば、「シルバーサイズ」では、週末に
潜水艦の中で一泊というお泊まり体験ができるんだった。
Overnight Encampment
『USSシルバーサイズ潜水艦に一晩滞在する』

シルバーサイズ・ミュージアムでの宿泊

USSシルバーサイズ・サブマリン・ミュージアムの歴史的な艦船に
一晩乗り込み、歴史を再現するツアーです。
甲板を歩き、潜水艦とカッターを探検し、
かつて勇敢な男たちが国に奉仕した寝台で眠ります。

どんなグループにとっても忘れられない体験となるこの宿泊プログラムは、
スカウトや青少年のグループ、家族や大人だけの
チームビルディングのイベントにも適しています。

宿泊のご予約は、1グループ20名様以上からとなります
宿泊キャンプは5歳以上であれば誰でも参加できます。
USSシルバーサイズは、最大72名の宿泊参加者を収容可能です。
USCGC McLaneはさらに38名まで収容可能です。
ご予約後10日以内に$200.00のデポジット
(返金・譲渡不可)をお支払いください。

宿泊のための最終デポジットは、実際の宿泊日の60日前
(60日以内に予約された場合は30日前)までにお支払いください。
最終手付金は、参加者数×宿泊料金から
200ドルの手付金を差し引いた金額となります。
ノーショーの場合、払い戻しや交換はできません。

価格と登録
金曜日~日曜日: $40.00
月曜日~木曜日: $35.00
20名様以上のご予約が必要です。

価格は1人1泊の料金で、食事は含まれません。

年に一度、70年以上前に任務を終えた後も、
この潜水艦が動くことを証明するために
モーターを始動する特別イベントも開催されています。



どうやら朝起きて解散らしく、甲板に子供と親がいたのは7時ごろ。
見ていたら、通りかかった貨物船に皆で手を振っていました。

こんな体験が実際の軍艦でできるなんて。
アメリカの子供が羨ましくなるのはこんな時です。


続く。

映画「金語楼の海軍大将」前編

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観終わってからとんでもない作品を選んでしまったと後悔しました。

果たしてこのような馬鹿馬鹿しい作品をあらためて紹介する意味があるのか、
とすら考えずにいられなかったのですが、基本当ブログでは
そういう誰も取り上げないキワモノにこそ光を当てる、ということに、
一種の使命を勝手に感じておりますので、やっぱり取り上げることにします。

あらすじは冒頭のイラストを見ていただければ、
柳家金語楼扮する三等水兵が、なんの因果か海軍大将の格好をして
本物と入れ替わり、怪しげな中国人の悪漢と絡む、
というものであることはお分かりになろうかと思います。

本作品は、あの大倉貢制作による新東宝らしさ満点の喜劇で、
終戦後、雨後の筍のように製作された軍隊ものです。

終戦によって日本人の権威に対する価値観が全く変わり、
軍を批判、あるいはパロディにしても叱られなくなった創作界では、
反戦ものや、この作品のような軍隊喜劇が作られ、人々は
記憶にまだ新しい戦争と軍隊を笑い飛ばすのを大いに楽しみました。

本作は、既に落語界の重鎮となっていた柳家金語楼演じる三等水兵が、
海軍大将に入れ替わってしまうという「入れ替わりもの」です。

1901年生まれの金語楼は映画製作時、既に58歳。
海軍大将役はともかく流石に三等水兵は無理すぎ、と思うのですが、
そこはそれ。

思い切ってこの不条理を楽しんでしまいましょう。


タイトルは、水兵風味のコスプレをしたお姉さん方が、
軽やかなルンバのリズムの「軍艦行進曲」をバックに、
それらしいポーズを決めて「静止」しているというものです。

スチル写真を使えばいいのに、なぜか静止画像風にじっとしているので、
時々片足上げたお姉さんがフラついているのがわかります。

けしからんことに、映画は実写の艦隊航行シーンから始まります。



艦橋に立つ海軍大将、その姿は紛れもなく柳家金語楼。

「皇国の荒廃この一戦にあり!各員一層粉糖努力せよ!終わり」



Z旗が翩翻と翻り、今度は普通に「軍艦」が鳴り響きます。



尾翼越しに見えているこの空母、なんだかお分かりですか?



「参謀!空母信濃より通信が入りました」

「長官!第一次攻撃隊は敵地爆撃に成功し、損害を与えました」

「長官!第二次爆撃隊により全市火の海であります!」
この参謀、丹波哲郎じゃないですかー。
相変わらずいいところだけちょっと出てくるいいとこ取りの丹波である。

それにしても、なぜ軍艦の上なのに、全員陸戦隊の兜着用なのか。
その理由はこれが夢だからですが、それはともかく。

「長官!第三次攻撃隊の原子爆弾により敵軍事施設は全滅!」

おいおい、原子爆弾落とすなよ。

「長官!第四次攻撃隊により敵戦艦50隻轟沈!」

「ちょーおかん!敵国は早くも降伏を申し出たようであります」

「いや、しかし無条件降伏以外は」

「絶対にダメでありますか!」

「そうだ・・イエスかノーか!」
もうわたしはここで爆笑だったのですが、普通は笑うところじゃないかも。


そして場面はいきなり戦勝凱旋祝賀会に。
会場にはアメリカ合衆国を含む万国旗が飾られています。


記者会見もそこそこに綺麗どころに囲まれる海軍大将。


山下元帥のお目当ては「ミチコ」こと「みち奴」ですが、
髭の千葉という男もちょっかいをかけてきます。


ダンスをするうちに積極的に次の間に強引に連れ込まれ、
強引に押し倒されたと思ったら、



それは上海陸戦隊三等水兵山下源太郎の夢でした。


夢で邪魔だった髭の千葉三等軍曹に叱られながら釣り床収めです。



上海陸戦隊がいるくらいなのでここは上海。
なのですが、ロケを横浜中華街で行った可能性が微レ存。



ここで真昼間から銃撃事件が起こりました。



さて、ここは上海方面指令長官水原権五郎海軍大将の官舎。



ここに、先ほどの銃撃事件の報告をしてきた人物、それは
光機関の(なんかわかりませんが諜報機関的な?)杉浦大尉。
殺されたのは重慶に暗躍するテロ団の情報を持っている人物でした。

(さすこの頃の映画、ちゃんと『だいい』と発音してます)



電話を受けているのはやはり光機関の杉浦大尉の部下、巴静香。

どこかでお見受けした女優だと思ったら、万里昌代。
確か「スパイと貞操」で水責めされていた女スパイの役の人じゃないですか。



この大将、どうも女に見境がなく、つい手を出さずにいられない体質らしい。


特務機関に務める巴御前相手についやっちまって、投げ飛ばされる始末。
かくすればかくなることと知りながら已むに止まれぬ助平魂。
そしてこの困った性癖が水原大将の危機を招くのです。

海軍大将になろうかという軍人であれば、いかに好きであっても、

「ホワイト(素人)に手は出すな、ブラック(玄人)とさっぱり遊べ」
という海軍の掟を若い頃から叩き込まれている上での出世でしょうから、
こんな醜態を世間に曝すこと自体あり得ないのですが、
そこはそれ、映画はこうでなくては話が進みませんからね。

ところで、杉浦、水原といえば、この頃の野球に詳しい方なら
ピンとくる名前ではないでしょうか。
杉浦清、水原茂。いずれもプロ野球選手です。
この映画の登場人物の多くは野球選手から名前を取っています。



そこに大将官舎の雑用をする当番兵が連れて来られました。
山下敬太郎と桑田三等水兵の二人です。


最初の仕事はお洗濯。
大将の3人の妾、一筒(イーピン)二萬(リャンワン)三竹(サンソウ)
の下着です。



大将の現地妻一筒(小桜京子)は餃子屋。
他の男の面倒を見ながら電話で砂糖の横流しを頼んでます。

酒保から砂糖を持って来るのも登板兵の役目。

次に電話した美容師の二萬(リャンワン)も怪しげなマッサージ中。



女優の三竹(サンソウ)は歌手で女優です。
若い男とイチャイチャしながら、電話では

「ワタシパパが恋しくて恋しくて死にそう・・・」



なんだよこの助平親父(死語)とうんざりする山下水兵。


さて、ここは横浜埠頭・・・じゃなくて上海の港のどこか。


特務機関の杉浦大尉と巴の元に、中国人の垂れ込み屋、
清一色が情報を持ってきました。
今日、重慶の秘密工作員がテロ団の仲間と会うというのです。

杉浦大尉のグループはテロ工作を追って活動していました。



清が外に出た途端、



車から銃撃されました。



ちょっとお待ちください。

ここに見えているの、横浜税関本間庁舎(通称クィーンの塔)ですよね?位置関係から見て、現在の象の鼻パークから見ている感じかな。



その夜、横浜中華街の?ナイトクラブに出演する
歌手の三竹のステージを、山下三水をお供に見にきた水原大将です。



このナイトクラブで剣舞を行う芸人の白飯(パイパン)は、
どういうわけだか山下三水に瓜二つの男でした。



ショーを観ている大将に、清は妖艶な女性を引き合わせました。
有名な伯爵の未亡人、紅明蘭というその女は、
美人に目のない大将にあからさまなアプローチをかけて・・。



カルメンをステージで踊っている愛人の三竹がそれを見て怒り心頭。
おいおい、あんた大将のこと嫉妬するほど好きだったのかい。



三竹、舞台裏でアイロンがけさせられていた山下に八つ当たり。
とばっちりもいいところです。



その頃、山下公園埠頭(でロケしたところの上海港という設定)では、
情報を元にデート中の恋人同士を装った杉浦と巴が張っていました。

ターゲットに男が近づいてきます。


こちらを見られたので慌てて抱き合う二人(笑)



見ていると、ターゲットは埠頭で大勢の怪しい人たちに囲まれていました。



ところで、ここに写っている建物はついこの前までありました。
今ガンダムがあるのと同じ埠頭です。

実は、清のナイトクラブの裏では悪巧みが進行していました。

彼は親日家のふりをして、嘘の情報を流し、最終的には
上海陸戦隊に食い込んでこれを壊滅させるのを目的としていたのです。

そこで集めた仲間ですが、まず明蘭は女好きの大将を色仕掛けで落とす役目。
今入ってきたリーチ(李痴)という男は、さっき埠頭で
清を襲うふりをして杉浦大尉らを欺く手助けをしていました。

要するに日本軍を追い出す組織の手先というわけです。


次の日、門限を過ぎて帰隊した山下水兵を、
鬼軍曹の千葉(巨人軍の千葉茂より)が叱責していました。



千葉軍曹も山下も酒保の「おばさん」みち子が大好きです。

「あたし、一眼でいいから山下さんが海軍大将の軍服着たとこ見たいわ」

つい雑談からそんな伏線を敷くみち子。

「夢じゃいつも海軍大将なんだけど・・」

それはいいのですが、せいぜい18歳くらいしか見えないこの女優に、

「いつも山下さんと夫婦になっている夢見るのよ」

「あたし夫婦になったら毎日甘いもの作ったげるわ」

なんて言わせるのは、あまりに無理がありすぎです。
何度も言いますが、金語楼、この時58歳ですよ?
下手したら孫ってくらいの娘相手に何やってんだ。

しかし、お汁粉を作ってもらったという設定で、
お椀の餅を伸ばして食べる所作は、さすが落語家の風格(笑)

・・・という風に、この映画は、筋書きをこのように述べても
そのおかしさというのは微塵も伝わってきません。

落語家金語楼のちょっとした所作や表情、
おそらく当時は流行語であったらしい言葉の端々から、
当時の空気を思い、今も残る昔の横浜の映像を楽しみながら観る、
これが正しい鑑賞の仕方だと思う次第です。
紹介しておいてなんですが、実際見ないと何も伝わらない映画ですので、
ぜひ機会があったら一度死んだ気でご覧になることをお勧めします。

本作における悪者中国人一味は、重慶からの指令で帝国海軍陸戦隊を
一刻も早く爆破するというフェーズに入っていました。

そして、上海全体を混乱に陥れるという作戦です。

全員中国人なのに、なぜか皆片言の日本語で会議しています。

同じ大倉貢の作品でも「北支那海の女傑」(だっけ)では、
主人公の女性が中国人という設定もあって、何人もの日本人役者が
頑張って中国語で会話していたものですが、ずいぶん手抜きです。



彼らは一味の清が経営するナイトクラブに、
特務機関の巴静子が潜入しているのを発見しました。

この頃の上海は文字通り「魔都」であり、
若い頃、父上(政治家犬養健)の秘書役として大陸におられた
犬養道子氏によると、ダンスパーティで、
ダンサーの手のひらに仕込まれた小さなピストルが
音もなくターゲットの胸に撃ち込まれるなどということが
ほぼ日常的に起こって問題にもされないというような物騒な都市でした

犬養氏の父上犬養健氏は、当時大陸で政府の命を受け、
秘密裏に和平工作を行なっていた時期がありましたが、
有名な美貌のスパイ、鄭蘋茹(ティンピンルー)丁黙邨の暗殺に失敗し、
処刑された事件にも関わったことが、氏の著書に書かれています。

この頃の新東宝系の映画には、やたら上海を舞台に、
中国人の怪しいグループが登場しますが、その頃の混沌の中に、
大衆が嗅ぎ取っていた一種の浪漫みたいなものを映像で表すのが、
創作の世界では流行っていたということなのかもしれません。

それはともかく、中国人グループは、特務機関の巴を
とりあえず始末する計画を立てました。



その方法というのが斬新です。

一味の催眠術師、四(スー)アンコー(平凡太郎)が、
その辺の男に催眠術をかけると、あら不思議、
男はインプットされたターゲットを殺したいほど憎み初め、
さらに自分は不死身であると錯覚し始め、結果、
「不死身の殺人マシーン」となって、殺人の任務を遂行するというもの。

どうでもいいけど、もう少し簡単な方法はなかったんかい。


ここは現在横浜の観光スポットと成り果てたところの赤レンガ倉庫です。
当時は本当の倉庫だったので、全く人気はありません。
撮影のために人払いしたのかもしれませんが。



ここに巴静子が一人で歩いてきました。
何者かに追われる気配を感じ、足早です。

そしてその後を思い詰めた風の男が追ってきます。



大変お節介ながら、同じ場所の写真を撮っておきました。
右側のビル一階はパンケーキカフェ「ビルズ」(美味しい)があります。



赤煉瓦の前に大きなキャプスタンのようなものが並んでいます。



催眠術をかけられた男に襲われる巴。
マシーンとなっているので、ピストルの弾が当たっても、
しばらく気づきません。
ってそんなわけあるかーい。


不死身のように見えましたが、巴に投げ飛ばされ、
銃弾を2発くらって初めて昏倒。(ってか死んだんだよね)
さて、というわけで一味は巴暗殺に失敗したことになるのですが、
この後どんな手を使ってくるのでしょうか。

というか、この連中の悪巧みって、全く方向性がなく、
行き当たりばったりで計画性もないんだよな。
こいつら一体何がしたいのか(笑)


続く!



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