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映画「金語楼の海軍大将」後編

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さて、おそらくこれを読んでいる方々の9割以上が観たことがなく、
これを読んでもそのさらに9割9分が観ようとは思わないであろう戦争喜劇、
「金語楼の海軍大将」後半です。


さて、クラブで水原海軍大将に異常接近してきたのは美形未亡人明蘭。

本来ならば、自分のような男にこんな美人が近づいてくるかどうか疑ったり、
自分の立場を鑑みて、多少なりとも相手の下心に用心するものなのですが、
とにかく水原大将、世の中の女は全て自分に好意を持つものと信じています。
なので、ちょっと色目を使われたら、ホイホイと官舎にご招待。水原大将の官舎に呼ばれてやってきた明蘭は、
中国4000年の珍しい精力薬と偽って、睡眠薬を飲ませ、



あっさり大将を熟睡させてしまいました。
そして待ち構えていた仲間を呼び入れ、トランクに大将を詰め込んで
拉致しようとしていたら、誰かやってきました。



当番兵の山下三水です。



こいつも「精力薬」の偽パッケージに騙されて、ついつい
眠り薬を飲んでしまい、その場で昏睡。
てか精力剤飲んでどうするつもりだったんだ。

おかげで悪者たちはノーガードで大将の誘拐に成功してしまったのでした。


次の日です。

山下水兵は陸戦隊の分隊士、葛城中尉に呼ばれました。
(この名は当時オリオンズにいた葛城隆雄から)

葛城中尉を演じているのは、新東宝の「ハンサムタワーズ」
(なぜ"タワーズ"かというとご想像通り皆背が高かった《172-182cm》から)
として、菅原文太らと同時に売り出された、吉田輝雄という役者です。

この人もほんの一瞬の出演ですが、この士官たちを含め、
この映画は、脇役に無駄にイケメンを多用しています。

最初の山下水兵の夢にだけ登場する参謀役が丹波哲郎で驚きましたが、
これは、お正月映画と言いながら、主役が金語楼と坊屋三郎では
あまりにも茶渋のようなツヤのない画面になってしまうことから、
脇役にいい男を配して若い女性客に媚びているのでしょう。



さて、なぜ山下が呼ばれたかというと、彼が大将の当番兵だからでした。
葛城中尉は、司令長官が行方不明になった事情を山下に尋ねました。

拉致されたことを知らない山下は、てっきり水原大将、
雲隠れして未亡人の明蘭といいことしていると思い込んでいて、

「こればかりは事が事だけに、ここでは言えない!」

となぜか庇いだてを試みますが、葛城大尉は全くそれを相手にせず、
とにかく長官を連れ戻すよう頭ごなしに命令しました。
「それがどこかは知らんが、とにかく水原閣下を連れて帰れ」

「復唱!」

「復唱はいい!」



一国の軍隊の地方部隊司令官を拉致する。

これだけで、もうこいつらは日本軍の殲滅対象決定ですが、
逆にこんな簡単に拉致される海軍大将ってどうなのよ。

という感想はともかく、一体何のために彼らは大将を誘拐したのでしょうか。
明蘭は、縛られている大将に、

「陸戦隊本部にある機密書類をよこしなさい!」

と言い出します。
はて、確か彼らの当初の目的は陸戦隊を爆破することじゃなかったっけ。
機密書類どこから出てきた。



まあいいや。そんなことは突き詰めてはいけません。

こちら大将の捜索命令を受けた山下、
早速大将が(明蘭と)『シケこんで』いそうなところを探すことにしました。
とはいえ、思い当たるのは二人が出会った先日のキャバレーしかありません。

しかしキャバレーの門番がペーペーの水兵を入れてくれないので、
自分とそっくりの中華芸人、白飯のふりをして、堂々と正面突破。


入り込んだはいいものの、何をどうしていいかわからず
ウロウロしていた山下を、いきなり物陰に引き込んだ男がいます。

それは特務機関「光」の杉浦大尉でした。脊髄反射で敬礼してしまう山下。(まあ一応帽子は被ってるし)

そして大将が誘拐されたらしいと杉浦大尉から聞かされ、
てっきり明蘭と遊んでいると思っていた彼は仰天します。



その拉致された海軍大将水原ですが、
「一つ、至誠(すせい)に悖るなかりしか。
一つ、気力に欠くるなかりしか。
一つ、無精にわたるなかりしか。」
平静を保つため五省を唱えておりますと、明蘭がやってきて、

「情報を渡す決心はついた?」

だから何の情報なんだよう!
しかし腐っても海軍大将、自分の命と引き換えに陸戦隊を売るわけもなく。

「わすは日本人だ!
水原権五郎海軍大将、死して(すすて)護国の鬼(おぬ)となる・・っ」


彼らが去った後、監禁現場に山下が忍び込んできました。
どうでもいいけど見張りくらい置いておけよ。

二人の着ているものを交換し、自分が身代わりになってここにいるから、
脱出したら救援を寄越してください、と必死で頼む山下を尻目に、

「サイナラ〜〜!」

と軽やかに去っていく水原大将でした。


しかし水原大将、案の定、ナイトクラブの門を出たところで、
美女にウィンクされてしまったものだから、


せっかく出てきたキャバレーに戻って、飲み始めてしまいました。
アホなのかこの海軍大将は。



客を遠目に見てヒソヒソ言い合う悪者たち。

「あの男・・大将に似てね?」

大将の監禁現場を見に行くと、それらしい人影が。

「ちゃんといるじゃないか」



遠目には・・・いや、全く似てねーし。


そして悪人たち、海軍大将の有効活用法について会議しています。

日本語による会議の結果、大将のポケットに水素爆弾(!)を入れて
陸戦隊に返し、基地ごと爆破するということに決まりました。
そもそも最初から何のために大将を拉致したのか、
目的が全く定まっていなかったということですねわかります。


爆弾は金庫の中に「時限爆弾」と貼り紙されて格納されています。
はて、時限式爆発を起こす水素爆弾(金庫収納式)とは。
ところで水素爆弾って、アメリカの機密事項で、
いまだにどうやって作るのか正確にはわかっていないんですってね。(雑談)



爆弾を仕掛けられる運命となった、偽海軍大将の山下水兵、
水原大将が早く帰隊して救出してくれることを祈っています。



が、同じ頃、大将は同じナイトクラブの席で居眠り中。
さっきの女にサイフをスられていました。

山下水兵の財布ですから、お金が入っているわけもなく。



女はふん、とばかりに席を立ってしまいますが、
大将、今度は別のホステスにデレデレ。



悪者一味は、ここでまたしても催眠術師の四暗刻(スーアンコー)を使って
大将の格好をした山下に、陸戦隊を爆破する暗示をかけさせました。

四暗刻は大将を拉致するメンバーではなかったので、
いつの間にか大将が山下と入れ替わっていることに気が付きません。

明日の朝7時にセットした爆弾をポケットに入れられ、
すっかり自分を見失った山下、彼らの車で基地に送られて行きます。



そして車は陸戦隊基地の前に停められました。

ところで、この後ろの白いビルですが、



前にもお見せした、今ガンダムになっている場所です。

このGoogleマップの写真は少し前のもので、その後ビルは取り壊され、
ガンダムの隣はバス駐車場になっているということが判明しました。

それはともかく、この撮影は現在の山下公園付近、
マリンタワーの近くで行われたことがわかります。

舗装されていない道と草の生えた空き地。
当時の横浜ってこんなところだったんだ・・・。


車から下され、頭を覆っていた布を取られて、
ほれ、あっち、と指さされたところにふらふら歩いていく山下。



そこは上海陸戦隊でした。



警衛の水兵は、元帥の制服を着た山下を見てハッとして背筋を正し、
捧げ銃を行い、



喇叭手は将官に対し用いられる喇叭譜「海行かば」を吹鳴し始めました。

後年、映画「トラ!トラ!トラ!」では、三船敏郎演じる山本長官が
乗艦の際、楽団が楽曲の方の「海行かば」を演奏して、
心ある人々の失笑を買ったそうですが、さすがはこの頃の映画界。
腐っても軍隊経験者が社会に現役だったことから、
こんな無茶苦茶な喜劇でさえも、抑えるところは抑えています。

まあ、海軍大将が門を一人で入っていく状況が実際にあったのかとか、
その時にも喇叭譜は演奏されたのかとか、色々不思議な点はありますが。


喇叭譜が響く上海陸戦隊・・・・。
と言いたいところですが、どう見ても上海の建物じゃないよね。



皆が立ち止まって敬礼する中、腰のポケットをチクタク言わせながら、
ただ歩いていく山下三等水兵。



真っ先に気がついたのは山下の親友、桑田三等水兵でした。

「班長殿、あの大将は山下であります!」
「あれ・・このやろー!」



「こら山下!ふざけやがって!」

鬼の軍曹は山下を怒鳴りつけますが、その時、



新任の隊長中川大佐が飛んできて軍曹を逆に叱りつけました。
二日前転勤してきたばかりの大佐は、水原大将の顔を知らないのです。

叱責された千葉軍曹は慌てて大佐に、

「この男は山下三等水兵であります!」

と言いますが、中川大佐、聞く耳持たず。
「無礼者!閣下の軍服が目に入らぬか!」

「えっ・・・」

中川大佐は水原大将だと思い込んでいる水兵に向かって、

「閣下、御無礼を申し上げました。
してご用件は何でありますか」

「ソウイン、シュウゴウセヨ」

「はっ!」



♩ソドドミド〜〜〜ソドドドミドドドソドドドミド〜



爆発予定時刻まであと3分。



山下の同僚の水兵たちは皆ざわつきます。

「あの大将山下じゃないのか」

「山下だよ」

「じゃなんで敬礼しなくちゃいけないんだ」

そこで桑田水兵が一言。
「それは大将の軍服を着てるからだよ」

それはある意味至言・・・なのかな。



「大将閣下に奉り、かしら〜なか!」



「んぐ・・あ。」

挙動不審すぎる海軍大将。
何を思ったかその場を立ち去って行きます。



「?」

悪党の本部では爆破のカウントダウンが始まっていました。
爆発まであと1分。
水爆が爆発したら君らも確実に死にますけどね。



そこに、いきなり陸戦隊から姿を消した山下が
ばーん!と戸を開けて、
「陸戦隊は全員集合したんですが、後がわからないから帰ってきました」


「ひいいいいい〜!」



山下の上着を奪い取り、窓から下に投げたら、
そこはキャバレーの客席で、まだ水原大将が気持ちよく寝ていました。
上着は持ち主の元に帰ったというわけです。

それで目が覚めた水原大将、我に帰って、

「しまった!山下を助けなければ!」

ここで上着を持った大将と悪者一味のドタバタ追いかけっこが始まり、



このどさくさで壁で頭を打って正気に戻った山下でした。



それにしてもなぜ爆発しないのか。爆弾。



山下に向かって、

「ちょと上着見ちてくれまちぇんか?」

「どうぞどうぞ」



1時間、セッティングを間違えてたことがわかりました。



その時です。

中華街に・・・じゃなくてナイトクラブ前に、
上海陸戦隊の一個小隊がトラックで乗り付けました。



葛城中尉率いる上海陸戦隊が救出にやってきたのでした。
水原大将、何とか連絡をとったものとみえます。



杉浦大尉、葛城大尉、巴静子、そして桑田三水も駆けつけて、
救出作戦はあっさりと終了し、一味は一網打尽となりました。





そして年が明けました。



水原大将が訓示を行なっております。

そしてなぜか死んでもいない山下三水に、
二階級特進の栄誉が与えられる運びになりました。

海軍大将が訓示の時に腰に手を当てるのはいかがなものか。



新隊長はじめ杉浦大尉、葛城大尉、巴静子も顔をそろえています。
訓示が行われているのはどこかのビルの屋上で、
後ろに見えている風景はどう見ても戦後日本。



一筒、二萬、三竹、水原大将の3人の妾さんまで勢揃い。

今回の活躍のご褒美に、山下は、二階級特進だけでなく、
今日「一日大将」となることを許されました。

「海軍大将山下敬太郎閣下の号令のもとに、
祖国日本の方角に向かって新年の敬礼を行う!」

「日本全国の国民諸君に対し、ささげー」



「つつ!」


この年のお正月、この映画を見た人は、
さぞかしこの馬鹿馬鹿しいお笑いを楽しんだことでしょう。

そして、この種のパロディが許される世の中になったことを以て、
戦後を肌で感じ取ったのではないでしょうか。

終わり。



ブラック・ウィングス「パス・ファインダー」〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアンの「ミリタリー・ウィングス」のコーナーにある
とても印象的な版画です。


「ラウンデル」と呼ばれる、イギリス空軍のマークを翼にあしらった
航空機のパイロットが愛機のプロペラの向こうに見る美しい女性。

彼女は果たして彼の空戦を勝利に導く女神なのか、それとも
彼の運命そのものを見守る死の天使なのか・・・。



と言うわけで、今回取り上げるのは、まだ人種差別が行われていたアメリカで
パイロットとなったアフリカ系アメリカ人の記録です。

「ブラック・ウィングス」と言う言葉はこれまでにも何度か
アメリカの航空博物館の展示をご紹介する過程でこのブログでも使いました。

内容も、取り上げる人物も重複することは避けられないのですが、
そこは「スミソニアンでの展示」という違う視点をお楽しみください。



飛行機の発明は、現代の技術に革命を引き起こしました。
大衆の心の中で、新しい航空時代は冒険とヒロイズムに結びついていきます。

アフリカ系アメリカ人は飛行に対する熱意を幅広く共有しましたが、
当時のアメリカではパイロットや整備士としての訓練を行うにも
その導入の段階で拒否されると言うのが通常でした。

1920年代以降、少数の固い決意を持った空を愛する黒人たちが
人種差別に異議を唱えました。
白人でも簡単なことではなかった当時の航空界。
その並ならぬ困難と障害にもかかわらず、彼らは空を飛ぶと言う夢を
決して諦めず、それを実現させていったのです。

モニターにちょうど映し出されている航空機は、
イタリア戦線に出撃した第332戦闘機群のP-51マスタング。
当時最新鋭とされた戦闘機です。
第332戦闘機群は、通称「タスキーギ・エアメン」と呼ばれた
黒人パイロットで構成されていました。

このパネルでは、ここからブラックウィングスの展示が始まることを
予告しており、6名の名前が記されています。

ベッシー・コールマン

ウィリアム・J・パウエルJr.

ジェイムズ・ハーマン・バニング

コルネリウス・コフェイ
ノエル・F・パリッシュ

ベンジャミン・O・デイビスJr.


ここの説明によると、「初期のパイオニア」は
アフリカ系女性として初めてパイロットになったベッシー・コールマン。

彼女以降、同族の航空愛好家が増えていくことになります。
ウィリアム・パウエルJr.は「ブラック・ウィングス」の著者です。

彼は飛行家としてロスアンゼルスで飛行クラブを組織しました。

またジェームズ・ハーマン・バンニング、
C・アルフレッド・アンダーソンとアルバート・E・フォーサイスは
長距離飛行で記録を樹立する飛行家になりました。

コルネリウス・コフェイは、シカゴに黒人飛行士のための
新しいセンターを設立するという働きをしています。

それでは最初に、このパネルの横に立っている
革コート、革ブーツに皮のヘルメットといういでたちの女性、
ベッシー・コールマンからでご紹介しましょう。
■ベッシー・コールマン
「初のアフリカ系女性パイロット」


「The Pathfinder」パスファインダーは「道を切り拓く人」、
または開拓者という意味があります。
彼女のタイトルには敬意を込めてこの言葉が掲げられています。

コールマンは1920年代の航空ショーで、
バーンストーミング(barnstorming)パイロットとして活躍し、
人種偏見の逆風に逆らって飛び続けました。

バーンストーミングとは、チャールズ・リンドバーグの時に説明しましたが、
つまりエアショーなどで技を披露するアクロバット飛行パイロットです。

1920年代という、彼女の人種と性別に最も不利だった時代に、
彼女は誰よりも早く地位をベンチマークすることに成功しました。

バーンストーマーとして認められた彼女は国内をツァーで周り、
全米の航空ショーで曲技飛行を行いました。

しかし、彼女の飛行キャリアは短命でした。

1926年、彼女は飛行機事故によって34歳で亡くなりましたが、
その事故の様子は次のとおりです。

「1926年4月30日、フロリダ州ジャクソンビル。
彼女はカーチスJN-4(ジェニー)をダラスで購入したばかりで、
彼女の整備士ウィルズはダラスから飛行機を飛ばしたが、
整備不良のため、途中で3回強制着陸をしなければならなかった。

関係者は彼女にこの飛行機に乗ることを危険だと忠告したが、
彼女は拒否し、整備士の操縦する機のコクピットに乗り、離陸した。

彼女は翌日にパラシュートジャンプを計画しており、
コックピットから見える地形を調べようと思っていたのである。

離陸から約10分後、飛行機は地上1000mで不意に急降下し、その後スピン。
コールマンは610mの高さで機体から投げ出され、地面に激突して即死。

ウィルズは機体の制御を取り戻すことができず、地面に落下し死亡。
飛行機は爆発し、炎に包まれた。
後にエンジンの整備に使ったレンチが操縦桿を詰まらせたことが判明した。
葬儀はフロリダで行われた後、彼女の遺体はシカゴに送られた。」
彼女が死亡したのは、チャールズ・リンドバーグが
「スピリット・オブ・セントルイス」で歴史的な大西洋横断を行う
わずか一年前のことでした。
活動期間はわずか5年だけだったにもかかわらず、
彼女は最初のアフリカ系アメリカ人女性の才能ある飛行家として、
同じアフリカ系のコミュニティにとっては、航空界でのキャリアを模索する
ロールモデルとなり、永続的な一つのシンボルとなったのです。


フランスで取得したベッシーコールマンの航空ライセンス

彼女がフランスのコードロン・ブラザーズ航空スクールで
国際的に認可されたパイロット免許を取得したのは1921年6月15日です。

免許には航空帽に航空眼鏡をつけ、パイロット姿の彼女の写真の下に
彼女自身のサインがされています。

彼女がフランスにわざわざ行かねばならなかった意味がお分かりでしょうか。

それはもちろん、彼女の人種と性別にその理由がありました。
当時のアメリカではアフリカ系の女性を受け入れる
航空の訓練施設はまずあり得なかったのです。

そこで彼女はまずフランス語の読み書きを勉強することから始め、
フランスに渡ってパイロットの国際免許を取得して、
それでアメリカ国内を飛行する手段を得ることを選んだのです。

説明はありませんが、おそらくこれは
フランスの航空学校の学生証というものではないかと思われます。
まだ学校に入る前なので、航空とは無縁の服装で写っていますが、
その表情も気のせいかかなり不安そうで自信なげに見えます。

学校に入って翌年、彼女は見事ライセンスを取得しました。
結果、彼女は男女問わず、史上初めて認可された
アフリカ系アメリカ人パイロットになりました。



しかしいくら彼女自身にガッツがあっても、フランスへの旅費や
学校の授業代、生活費など、アフリカ系の若い女性が
どうやって用意することができたのでしょうか。

ネイリストだった彼女は、第一次世界大戦から帰還した航空兵から
戦時中の飛行の話を聞き、すっかり空に魅惑されました。
そこでパイロットになることを決意した彼女は、レストランで働き、
マネージャーにまでなって必死でお金を貯めたのです。

彼女を支援したのは、まずアフリカ系の弁護士で、
「シカゴ・ディフェンダー」紙(現在もオンライン配信で継続中)の創立者、
ロバート・S・アボットで、彼女に留学を勧めたのもこの人です。

そしてやはりアフリカ系の銀行家、ジェシー・ビンガ(多分写真の人)
とディフェンダー紙などが金銭的な支援を行いました。
いわば彼女はアフリカ系の希望の星として、フランスに発ったのです。
自分を応援するコミュニティのためにも、猛烈に勉強したのでしょう。

1922年9月4日、ロングアイランドのカ=ティス・フィールドで、
エアショー終了後、彼女にブーケを渡すのは、
エディソン・C・マクヴェイ(Edison C. McVey)
というアフリカ系のスタントパイロットだった人です。



シカゴに当時あった「エリートサークル」(なんて名前だ)と、
「ガールズ・デルーズ・クラブ」が、コールマンに敬意を表して
「エアリアル・フロリック」(空中散歩)の出資を行いました。

彼女はこんな風に航空を目指したその動機を語っています。

「空は偏見のない唯一の場所です。

アフリカ系の男性にも女性にも飛行士がいないのを知っていたので
この最も重要な分野で人種を代表する必要があると思いました。

だから、命をかけて航空を学ぶことが、私の義務だと考えました」

■「ザ・ビジョナリー」〜ウィリアム・J・パウエルJr.


The visionaryとは、「先見の明」とでも言いましょうか。
先を見通す目、またそれを持つ人という感じです。

ウィリアム・J・パウエルJr.(William J. Powell Jr.)
は、初めて「ブラック・ウィングス」という言葉を世に生んだ人です。
彼はアフリカ系がパイロットや整備士としてこの航空の時代に
あるべき場所を見つけることができる世界を夢見ていました。

それこそが、彼のブラック・ウィングスというビジョンそのものでした。


これはいわゆる販促用リーフレットとでもいうもので、
「Black Wings」の発行を宣伝しています。
パウエルJr.は黒人が飛行を行う能力を欠いているという決めつけを
永遠に終わらせるため、若いアフリカ系アメリカ人の若者を
航空業界に採用させることを目標にしました。
「黒人のための100万の仕事」

ブラックウィングスを読む

黒人は南部で分離されて鉄道やバスに乗ることを止めるつもりか?

ブラックウィングスを読む

黒人は飛ぶことを恐れているか?

ブラックウィングスを読む

なぜごく少数の黒人しか産業やビジネス界に携われないのか?

ブラックウィングスを読む

こんな感じの宣伝です。


これがその「ブラックウィングス」実物。
扉裏にはベッシー・コールマンの写真が。


パウエルJr.は、1920年代、ロスアンゼルスにおいて
黒人ばかりの航空愛好家の小さなコミュニティを設立し、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」
と名付けます。

そして最初の黒人によるエアショーを後援しました。
彼はアフリカ系がパイロット、メカニック、あるいはビジネスリーダーとして
航空の世界に参加していくことを目標に、運動を行います。

その一つが、「ブラック・ウィングス」と題された本を出版することであり、
ドキュメンタリー映画を制作するなどの広報活動を通じて
アフリカ系アメリカ人の若者を航空の世界で羽ばたかせるために
弛まぬ努力を続けました。

当時は大恐慌で経済的に困難な時期だったのにもかかわらず、
パウエルは航空を志す者のための奨学金の基金を作り上げました。



パウエルがアフリカ系コミュニティ内の航空への進出を促進するために
1930年代後半に発行した「クラフツメン・エアロニュース」。

この雑誌では、黒人航空愛好家を対象に、パイロットや整備士を育成する
訓練の機会についての最新のニュース、メカニックに関する記事、
そしてさまざまな通知や情報などを提供しました。



空の世界を夢見る黒人少年の図。

多くのアフリカ系アメリカ人の若者はパイロットや整備士を志し、
航空に対して憧れと熱意を持っていました。

これはクラフツマン・エアロニュースに掲載された挿絵です。

■ 黒人ばかりの航空映画「フライングエース」


1927年には大変希少な、全てアフリカ系キャストによる航空映画、

「The Flying Ace」

は、陸軍航空部隊を背景にしたメロドラマです。
ポスターには「オールカラードキャスト」
(全て有色人種による出演)
となっているのが異様な感じです。



本作は、リチャード・E・ノーマン監督がアフリカ系キャストだけで製作した
1926年の白黒サイレントドラマです。

本作のように、アフリカ系観客のために黒人キャストだけで撮った映画を
「人種映画」(race films)と呼びます。
ノーマン・スタジオはこの時代多数の人種映画を制作しています。

黒人映画の市場は未開拓な上、本流で仕事がもらえない
才能ある黒人パフォーマーが多数いたことで需要と供給が成り立ちました。

ストーリーは、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
主人公のストークス大尉(ローレンス・クライナー)が帰国し、
故郷で鉄道警察という戦前の仕事に戻って、活躍する中で、
駅長の娘ルース(キャサリン・ボイド)が飛行機で攫われたり、
ストークスがそれを助けたりして、最後は恋を打ち明けるというものです。

ちなみにヒロインのルースという役柄は、女性パイロットで、
ベッシー・コールマンをゆるーくモデルにしています。

自分をモデルにした映画が撮られることを知っていたコールマンは、
ぜひ映画に出演したいと制作元に希望を表明していたのですが、前述の通り、
1926年4月30日に航空機から落ちて命を落としてしまいました。

この頃の「レース・フィルム」で現存するのは本作ただ一つであるため、
現在でも無声映画祭や映画館でも上映が繰り返されており、
さらについ最近となる2021年には、

「文化的、歴史的、また美学的に価値がある」

として、アメリカ議会図書館によって国立映画レジストリに保存されるよう
選定されたばかりだそうです。
The Flying Ace (Norman, 1926) — High Quality 1080p


高画質の本作フィルムがYouTubeで見られることがわかりました。
全部は無理でも、一部雰囲気だけでもぜひご覧になってください。
攫われたルースの救出方法が、別の飛行機から縄梯をおろし、
それを登らせて脱出させるというのも非現実的ですが、
これは実際に飛行機を飛ばして撮影していないのでできることです。
また女性のヘアスタイルが、当時最新流行の「フラッパーヘア」なのに注目。
黒人女性もフラッパーにしてたんですね。



映画といえば、パウエルJr.は1935年、ドキュメンタリーフィルム
「ベッシ・コールマン・フライングクラブ」の制作もおこなっています。

映像には、フライングクラブに所属した黒人フライヤーたちが総出演。

アメリカ人であればおそらく誰でも知っている(と思う)、
「褐色の爆撃機」(The Brown Bomber)こと、
史上二人目の黒人ヘビー級ボクシングチャンピオン、
ジョー・ルイス(左)夫妻が、
1938年パウエルJr.の航空教室を訪れた時の写真です。

パウェルJr.は大変宣伝上手で、飛行クラブを有名にするために
こうやって他にもデューク・エリントンなどを招待し、宣伝を行いました。

■ パウェルJr.という人

アフリカ系アメリカ人のパイロット、エンジニア、企業家である
ウィリアム・パウエルが若かった1934年当時、米国では
パイロット18,041人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか12人、
整備士8,651人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか2人だったそうです。

しかも航空会社はアフリカ系を乗客として認めませんでした。

パウエルはこの状況を変えようと、飛行の黄金時代(1920年代と1930年代)
高い意志を抱いて活動しましたが、早世し、
航空業界のパイオニアとしてのキャリアを閉じることになります。

パウエルは1897年シカゴの中流アフリカ系アメリカ人居住区で育ち、
イリノイ大学で電気工学の学位取得を目指す優秀な学生でしたが、
第一次世界大戦が勃発します。
彼はアメリカ陸軍に入隊し、人種隔離された第317工兵連隊、
そして第365歩兵連隊に中尉として従軍しました。

戦地で毒ガスを浴び帰国し、工学の学位を取得しています。
第一次世界大戦中、アメリカ陸軍の軍服とロングコートを着用した
ウィリアム・J・パウエル。

卒業後、彼はシカゴでガソリンスタンドや自動車部品店を持ち、
成功する傍ら、やはりリンドバーグに夢中になり、
空を飛ぶことを夢見てパイロットになることを目指します。

しかし、それは簡単なことではありませんでした。

飛行学校では、人種を理由に断られ、陸軍航空隊にも断られ、
ようやくロサンゼルスの多国籍学生のための飛行学校で
パイロット免許を取得することに成功します。

しかし彼の夢はパイロットになることだけではなく、
アフリカ系アメリカ人のために航空業界の機会を作ること。

彼は飛行機事故で亡くなったベッシー・コールマンに敬意を表して、
「ベッシー・コールマン・エアロクラブ」を創設し、1931年に初めて
アフリカ系パイロットによる初航空ショーを開催し成功させました。


パウエルの『ブラック・ウィングス』は、パウエル自身が、
また他のアフリカ系アメリカ人がパイロットになるまでの苦闘を、
ビル・ブラウンという架空の人物の目を通して描いた自伝です。

彼は、アフリカ系アメリカ人の若者たちに、

「空中を黒い翼で埋め尽くそう」

と呼びかけ、パイロットだけでなく、飛行機の整備士、航空技術者、
航空機設計者、そして産業界のビジネスマンになるよう奨励しました。

パウエルは、空はアフリカ系アメリカ人の若者にとって
新しいチャンスに満ちていると確信していたのです。

その理由は、航空はちょうど成長期を迎えており、
まだあまり人がいない今のうちに参入すれば、航空の成長とともに
黒人たちも成長することができるからというものでした。

しかし、彼は1942年、わずか45歳で早世しました。
第一次世界大戦で毒ガスを浴びた後遺症
のためとも言われています。

しかし彼は、何百人ものアフリカ系アメリカ人が
航空界に参入する道を最初に切り開いたのです。

彼の死後も黒人差別は全くなくなりはしませんでしたが、
タスキーギ・エアメンと呼ばれる黒人飛行士が
第二次世界大戦で活躍するのを、彼は死ぬ前に目撃したことでしょう。

続く。



大統領夫人を乗せて飛んだ黒人パイロット〜スミソニアン航空博物館

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飛行の黎明期、アメリカ大陸を航空機で横断することは、
航空の世界の一つの金字塔となりました。

初めて飛行機による大陸横断を成功させたのは、1911年、

カルブレイス・ロジャースCalbraith Perry Rodgers、
1879-1912

ライトフライヤーEX型を使用し、
ニューヨークからカリフォルニアまで総所要時間84日間、
実際の飛行時間は3日と10時間14分でした。

カルブレイス。この直後エアショーでバードストライクによる墜落死

アメリア・イヤハートは無着陸でアメリカ大陸を横断した最初の女性となり、
ジョン・グレンは初めて超音速機で大陸を横断したパイロットとなりました。
しかし、なぜかジェイムズ・ハーマン・バニングの名前は、
大陸横断を成し遂げた飛行士として大きく記されることはありません。

それはなぜか。

彼の記録が、「アフリカ系アメリカ人として初めて」
という特殊な注釈なしでは語れないからです。
■ ジェイムズ・H・バニング


1932年、黒人飛行士による初の大陸横断飛行を成功させたのは、
優秀なバーンストーマー(アクロバットパイロット)であった
ジェイムズ・ハーマン・バニングと、彼のメカニック、
トーマス・アレンで、飛行時間は41時間27分でした。

ロサンゼルスからニューヨークまで飛行したバニングは、
黒人パイロットとして初めての記録を樹立し、
後に続く他の黒人航空記録達成者への道を開いた飛行家と称されています。


バニングとメカニックのアレン

バニングは1932年、アレクサンダー・イーグルロック複葉機で、
メカニックのトーマス・C・アレンと最初の大陸横断飛行を行いました。

この歴史的な挑戦は、黒人飛行士によって行われる
一連の長距離飛行につながっていくことになります。
長距離飛行は、アフリカ系アメリカ人パイロットが
その飛行技術を披露するための劇的な方法となりました。

当時何人かのアフリカ系パイロットが長距離飛行を行いました。
バニングらはその飛行実績をもとに、アフリカ系アメリカ人の社会において
航空への進出を盛り上げるための道作りをしたといえるかもしれません。

彼ら黒人パイロットがこうやって飛行に成功するたびに、
その技量が白人に全く引けを取らないことが証明されることになります。

そして、航空は人種に関係なく、すべての人に対して
平等に開かれたものであるべきだという考えが広まっていきました。


飛行機はアレンと共に余剰部品(スクラップ)を集めて作ったものです。
横断飛行の時に財政的支援を募らなくてはいけなかったので、
彼らは「フライング・ホーボーズ」(空飛ぶ浮浪者)
と屈辱的なあだ名で呼ばれていました。

ものもらい、という意味だったのでしょうか。
彼ら的にはオッケー・・・じゃなかっただろうなきっと。
実際、彼らは一つのフライトが終わって、次のフライトを計画しても、
その度に資金の調達に走り回らなければならなかったため、
フライトとフライトの間には最低でも21日間が必要だったといいます。


バニングは、いわゆる「航空の黄金時代」に多感な時期を過ごし、
空に憧れた「フライボーイ」の一人でした。
■バニングはなぜ墜落死したのか


「ミス・エイムズ」というのがバニングの愛機の名前です。
機体には「バニングと共に飛ぶ」と、飛行機が擬人化された文句が。
この写真は1929年、アイオワで撮られたものです。

バニングは史上最初の黒人飛行士としてライセンスを取ったうちの一人でした。
アイオワ州立大学でエンジニアリングを学んだ後、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」創設者の
(前項でお話しした)ウィリアム・パウエルとロスアンジェルスで会い、
一緒に活動を始めました。
しかしながら、歴史的な飛行からわずか4か月後の1933年2月5日、
サンディエゴのキャンプ・カーニー軍事基地で行われた航空ショー中、
ジェイムズ・バニングは飛行機事故で死亡しました。
その事故には、微妙に人種問題がまつわっていて、
実に後味の悪いものになっています。

バニングは、そのショーで、二人乗りの複葉機を使用する予定でしたが、
エアテック飛行学校の教官が、彼の飛行機の使用を拒否したため、
仕方なく、バニングは海軍機械工兵二等航海士、
アルバート・バーガート(もちろん白人)が操縦を行い、
自分は横に乗ることしか許されませんでした。

この「拒否」の理由は少なくとも見当たりませんでしたが、
どこにも説明がないということは、白人の教官の拒否の理由はただ一つ、
彼がアフリカ系であったことしかないでしょう。

当時はそれが許されるというか、もしそうしたとしても
何ら咎め立てされるような社会ではなかったのです。

彼が操縦しないなら、何のための航空ショーかという気がするのですが、
操縦席に座れないのならば、助手席に乗って飛ぶしかありません。

おそらく航空ショーには金銭がからむので、
そんなら俺は飛ばねえ!と拒否することもできなかったのかもしれません。

おそらく、彼は助手席から主操縦席のバーガード二等兵に
自分がやっているマニューバに従い飛行指示を出したのでしょう。

ショーが始まり、飛行機は離陸して400フィート上昇した後、
失速して回復不可能なテールスピンを起こし、墜落していきました。

この惨劇を目の当たりにした何百人もの観客が
恐怖のどん底に陥ったことは言うまでもありません。
バニングは残骸から回収され、1時間後に地元の病院で死亡しました。

人種偏見から、黒人が操縦することを禁止した教官によって、
無理やり操縦桿を握らせられた(であろう)バーガードも亡くなりました。

この人にとってもとんだとばっちりですが、
この事故の責任は果たして誰が取ったのでしょうか。
誰もとらなかったんだろうな。

直接事故を起こしたのも白人だし、
事故の原因を作ったのも白人でしたから。



■ アルフレッド・アンダーソン

ローレンス・フィッシュバーンが主人公を演じた、
黒人ばかりの戦闘機部隊「タスキーギ・エアメン」を描いた映画、
「レッドテイルズ」で、フィッシュバーンの飛行機に
視察にきたルーズベルト大統領夫人エレノアが無理やり乗り込んで
操縦させてご満悦、と言うシーンがあったのを覚えていますか。
その実際の逸話で飛行機を操縦したのが、
タスキーギ・エアメンのC・アルフレッド・アンダーソンでした。

アンダーソン(左)とフォーサイス
フィラデルフィア出身のC・アルフレッド・アンダーソンは、
1930年代でおそらくは最も才能のある黒人飛行士の一人でした。

彼は、ニュージャージー州アトランティックシティの医師であった
アルバート・E・フォーサイスとチームを組みました。

パイロットとしての技術はアンダーソン、財政的支援はフォーサイスの担当。

このタッグによって、彼らはバニング-アダムスのように
「フライング・ホーボー」とならずに済んだと言うわけです。

そして彼らは長距離飛行記録の樹立によって名前を上げました。
この頃の黒人飛行士たちは、先駆者として
アフリカ系アメリカ人コミュニティで航空の関心と、
裾野を広げるなどの動きを促進するために意識して
こういった「派手な」フライトにあえて挑戦していました。
■ ザ・グッドウィル・フライト

「飛行の黄金時代」であった1920年代、30年代のキーワードの一つは
「ロング・ディスタンス・フライト」でした。

そして、大陸や海を横断する長距離飛行など、多くの挑戦が生まれます。


たとえばこの航路ですが、フロリダのマイアミからカリブの島伝いに
キューバ、ジャマイカ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、
そしてスペイン領トリニダードからブラジルへと飛ぶコース。

誰も行ったことがないコースを飛び、成功させ、名を挙げることが
当時の飛行家たちの夢となったのです。
アンダーソンとフォーサイスは、1933年、まず大陸横断飛行を成功させ、
次いで、1934年に、上のカリブ海航路を飛ぶことに挑戦しました。

バハマ到着後、現地知事の歓迎を受ける二人
このときの飛行は「The Goodwill Flight」と呼ばれました。

ここにすでに「南アメリカグッドウィルフライト」の文字が見えますが、
グッドウィルの意味を図りかねていたわたしも、これを見て気づきました。

「グッドウィル」は、フライトのスポンサーとなった
「インターレイシャル・グッドウィル航空」
のことだったんですね。納得。
さて、グッドウィル・フライトの目標は、
黒人飛行士のスキルを世界に示すこと。
そして人種への理解を深めることでした。

グッドウィル・フライトは最初ということもあってスリル満ちていました。
その頃バハマには陸上飛行機用の空港がなく、夜間到着した彼らは
自動車のヘッドライトに照らされた未舗装の道路に着陸を行いました。

しかし、彼らは冷静かつ大胆な操縦でそれを成功させたため、
地元にはセンセーションを巻き起こし、大きく報道されました。

彼らの目的は十二分に達成されたと言っていいでしょう。


黒人として初めて民間航空局で航空運送事業の免許を取得した彼は、
その後結婚して家庭を築きながら飛行の仕事をしていましたが、
黒人医師であるパイロットのアルバート・フォーサイス博士と出会い、
一緒に黒人による航空の世界への進出を切り拓く夢を共有します。

この免許は、彼がタスキーギ・エアメンに入隊する前、
ハワード大学の民間操縦プログラムで飛行教官をしていた時のものです。


大陸横断飛行に挑戦中、カンサス州ウィチタで飛行機を降り、
地図を見ているフォーサイス医師とアンダーソン。

遠くから見ても、どちらがフォーサイスかよくわかりますね。
というか、飛行機に乗るのにスーツにネクタイって。

右下の封筒は、彼らのクロスカントリー飛行の記念です。
ニューアークから故郷に宛てて出したもののようです。

ロスアンジェルスに到着し、アトランティックシティに戻るため
飛行機に乗り込むスーツ姿のアンダーソンとフォーサイス。

飛行機の状態は、白黒写真でも大変手入れが行き届いていており、
彼らの飛行が資金の調達を潤滑に行っていたことが見て取れます。
彼らの使用したランバート・モノクープは、洗練された、
かつ信頼性の大変高い民間航空機で、彼らはさらにそれを証明しました。

アンダーソンとフォーサイスは、ナッソーに飛んで、そこで
先ほどのような空港のない島に着陸することに成功しています。
■アンダーソンとフォーサイスのその後
アンダーソンはその後黒人ばかりを集めた陸軍の航空プログラムに採用され、
飛行教官のチーフを担当することになります。
彼のニックネーム「チーフ」はこの頃の呼び名が定着したものです。

大統領夫人エレノア・ルーズベルトを乗せたのもこの頃です。
せっかくですので、繰り返しになりますが、経緯を書いておきます。
1941年4月11日、その日エレノア・ルーズベルト大統領夫人は
アラバマ州のタスキーギ研究所にあった小児科病院を視察していました。

何気なく窓の外を見た彼女はそこに飛行機が飛んでいるのに気づき、
チーフ・インストラクターに会いたいといきなり言い出しました。

そのインストラクターこそがアンダーソンだったわけですが、おばちゃん、
失礼にもアンダーソンに向かって、

「有色人種は飛行機の操縦なんてできないと聞いていたけれど、
この人は飛べそうじゃないの」
と言い出し、慌てる周囲を尻目に

「あなたと一緒に飛んでみたいわ 」

とさらにとんでもないことを言い出すではありませんか。

アテンドの陸軍軍人たちも警護も畏れながらと異議を申し立てましたが、
言い出したおばちゃんはもちろんのこと、
アンダーソンもファーストレディの申し出を断ろうとはしませんでした。
40分後、空から戻ってきた乗客は、

「Well I see you can fly, all right!」
(なんだ、飛べるじゃないのあんた)

と軽〜く言い放ったと伝えられます。

この時の事件は「歴史を変えたフライト」として知られています。

なぜなら、黒人はまだその時点で陸軍航空隊で飛行したことがありません。
ルーズベルト政権は、黒人のパイロットを養成できるかどうかを
タスキーギ飛行士を使っていわば実験を始めたばかりだったからです。

この時の彼女のおばちゃん的行動とその結果が、たまたまだったのか、
それとも実は仕組まれたもので、彼女は最初からそうするつもりだったのか。

もっと深読みすれば、もしかしたらアンダーソンもその整備士も、
薄々それを何処かから聞かされていたという可能性もありますが、
まあ、今はそこまで勘繰るのはよしにしましょう。

いずれにせよ、タスキーギ・エアメンの実戦投入への過程において、
大統領夫人の気まぐれ体験が追い風になったのは間違いありません。

アンダーソンはその後、教官として、のちに黒人で将軍にまでなる
ベンジャミン・O・デイビスJr.やダニエル・"チャッピー"・ジェームズsr.
といった有名な軍用航空のパイオニアたちを訓練することになります。

アンダーソンは戦後もタスキギーで教官を行い、
多くの黒人のみならず白人の航空要員を育て上げました。

1967年には、世界で最も古いアフリカ系パイロット組織である非営利団体
「Negro Airmen International(NAI)」を共同設立し、
後進の育成に尽力しています。

アンダーソンは1996年タスキギーで静かに息を引き取りました。

生前、自分の業績に対して何の名声、評価、富をも求めず、
民間・軍人を問わず何千人ものパイロットの人生に影響を与え続けました。

フォーサイス博士はアンダーソンとのグッドウィルフライトの後、
本業に専念したのか、航空業界の一線からは姿を消しましたが、
妻となった看護師のフランシス・T・チュウは、彼の歴史的偉業を
後世に残すべく、1989年の彼の死後も尽力しました。


セントルイスのランバート国際空港には、歴代の黒人飛行家を描いた
「Black Americans in Flight」があります。



この一番左端には、バニングとベッシー・コールマン、
そして肩を組むアンダーソンとフォーサイス博士の姿が描かれています。



続く。

ブラック・ウィングス フライング・イン・シカゴ〜スミソニアン航空博物館

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アメリカに大恐慌が起こったのは1929年から1933年です。
この間、航空界はリンドバーグの大西洋横断の余波もあって
この恐慌とは関係なく安定して盛り上がっていました。

特にシカゴは、アフリカ系アメリカ人の航空の本拠のようになり、
それは西のロスアンジェルスの隆盛に匹敵しました。
そのシカゴでのブラックウィングスを中心となって率いたのは、

コーネリアス・コフィー
(Cornelius Coffey)1902−1994

とう伝説の黒人アビエイターでした。
■コーネリアス・コフィーのパイロット養成学校



コーネリアス・コフィーは元々熟練の自動車整備士でした。
航空の時代がまさに訪れているのを目の当たりにした彼が
パイロットを夢見たのも当然の成り行きだったといえましょう。

1931年、彼は同じ航空を目指すアフリカ系の同士を集め、
カーチス・ライト航空学校で航空を学ぶために始動を行います。

そして自身が航空技術を身につけた後は、地元シカゴで
アフリカ系が飛行する機会をさらに拡大するため、
「チャレンジャーズ・航空パイロット協会」を組織しましたが、
地元ではなかなかうまくいかず、結局彼らはイリノイ州に出て

「コフィー・スクール・オブ・エアロノーティクス」
という航空養成学校を開設します。

そこが軌道に乗ると、シカゴでも訓練クラスを設立し、
民間パイロット訓練プログラムからフランチャイズを得ました。
彼とその仲間のこの働きによって、黒人飛行家が排出されます。
その中には、後述するショーンシー・スペンサーとデールホワイト、
そしてタスキーギ・エアメンとなる多くのアフリカ系パイロットがいました。
彼の飛行スクールは黒人のみならず白人も排出しており、
航空における人種分離政策の終焉を目指す目的を持っていました。  コーネリウスと女性パイロット訓練生。
連邦政府が資金提供し、コーネリウスがフランチャイズ契約した
シビリアン(民間)パイロット・トレーニングプログラム(CPTP)は、
基本セグレゲートつまり人種分離されたものではありましたが、
それでも黒人に前例のない飛行訓練の機会を提供しました。
コフィーがシカゴのCPTPのフランチャイズを取得したのは
第二次大戦の前夜となる1939年のことです。

政府が、当時の世界情勢から「いざ鎌倉」(って言っていいのかな)のために
航空分野の裾野を広げようとしていたらしいことが窺い知れます。
■ ウィラ・B・ブラウン


ウィラ・ベアトリス・ブラウン(Willa Beatrice Brown 1906 - 1992)
は、 パイロット免許を取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性です。

彼女の先駆だったベッシー・コールマンは、人種差別の壁ゆえ、
免許をフランスまで行って取らざるを得ませんでしたが、彼女は
アメリカで免許を取得し、これが黒人女性初となったのです。

のちに彼女はアフリカ系アメリカ人女性として初めて連邦議会に立候補し、
民間航空パトロール隊の最初のアフリカ人幹部となり、
パイロット免許と航空機整備士免許を同時に持った最初の女性となります。
ウィラ・ベアトリス・ブラウンはケンタッキー生まれ。
インディアナ州立教員学校を卒業しました。
10年後、名門ノースウェスタン大学からMBAを取得しています。

卒業後、秘書、ソーシャルワーク、教師など様々な仕事をするうち
コーネリウスが創設したアフリカ系アメリカ人のパイロットグループ、
「チャレンジャーズ航空パイロット会」に入会することになりました。

【航空界でのキャリア】

1934年、ブラウンはコーネリアス・コフィーのもとで学び始めました。
1938年に自家用操縦士免許[10]、1939年に事業用操縦士免許を取得し、
米国で両免許も取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性となりました。

ウィラ・ブラウンはコーネリアス・コフィーらと共同で
のちに全米飛行士協会となる全米黒人飛行士協会を設立します。

彼らの主な使命は、航空への関心を高め、航空分野への理解を深め、
両分野へのアフリカ系アメリカ人の参加を増やすことでした。

ブラウンは同協会のシカゴ支部長兼全国幹事を務め、広報を担当し、
アフリカ系アメリカ人に飛行機に興味を持ってもらうために、
大学を訪問したり、ラジオに出演して語ったりしました。


彼女は、当時隔離されていた陸軍航空隊と民間パイロット養成プログラム
(CPTP)に黒人パイロットを統合するため政府に働きかけました。

1925年、アメリカ陸軍士官学校の研究はこう結論づけました。

「アフリカ系アメリカ人は飛行に適さない」

どういう研究の結果こう結論が出されたのかはわかりませんが、
彼女らはこの結果に反証せんと務め、そして
アフリカ系アメリカ人のパイロットを養成する
CPTPの契約を結ぶよう連邦政府に働きかけました。

その努力が実り、1940年、彼女はまずCPTPのシカゴユニットの
コーディネーターに任命されます。
彼女が知的で優秀だったことはもちろんですが、この結果には
その美貌も手伝ったのではと思うのはわたしだけでしょうか。

穿ったようなことを言いますが、彼女の顔貌は黒人といっても、
鼻筋が通り、唇が薄く、いわゆる現代のハリウッド映画に
ポリコレ配慮で出てくる主役級黒人女性と同系統のものに見えます。
彼女が自分の美貌を十分に認識し、それを十二分に活用していたのだろう、
と思われるこんな記述があります。

「スタイル抜群の若くて褐色の肌をしたウィラ・ブラウン(Willa Brown)、白い手袋、体にぴったりした白い上着を着て、白いブーツを履いた、そんな彼女が1936年、私たちのニュースルームに足を踏み入れたとき、全員が息を呑み、すべてのタイプライターが突然静かになったほどだった。

他の訪問者とは違い、彼女にまったく怖気付く様子がなかった。
自信に満ちた態度で、そのハスキーな声には決意が感じられ・・・」

彼女がこれほどの、つまり白人にも通用する基準の美人でなければ、
ウェストポイントの研究結果を一夜にしてひっくり返したり、
ここまで話をうまく運べただろうか、とふと考えてしまいます。

まあ、いつの時代も圧倒的な美は時として歴史を変えるってことでしょうか。
当時の黒人航空界が彼女を得たことは、一つのチャンスでもあったのです。
この記述をしたのは、シカゴ・ディフェンダー紙の編集者かもしれません。

彼女は宣伝のため、アフリカ系アメリカ人パイロットの航空ショーに
編集者を招待し、実際に彼をフライトに乗せたことがあるからです。
この時のフライトと彼女の魅力が、この編集者によって忘れ難いもので、
その筆によって大いに宣伝されたのはいうまでもありません。


さて、彼女のおかげかどうかはわかりませんが、その後
コフィー・スクールはアメリカ陸軍航空隊のパイロット養成プログラムに
黒人学生を提供するための供給校として選ばれました。

この結果、同校から約200人の学生がタスキーギ飛行隊に送り込まれ、
「レッドテイルズ」として活躍し、黒人の将官を生むまでになります。
彼女自身ももちろんその後、黒人女性として栄光を手にします。

コカコーラを飲むブラウン中尉(マニキュアもしてます)

1942年、彼女は民間航空パトロール隊613-6で中尉の階級に達し、
民間航空パトロール隊で最初のアフリカ系アメリカ人将校となり、
その後、民間航空局の戦争訓練任務コーディネーターに任命されました。


彼女は生涯、航空分野と軍における男女平等と人種平等の擁護者でした。
1945年にコフィー・スクールが閉鎖された後も、ブラウンはシカゴで政治的、社会的な活動を続けました。
1946年と1950年には連邦議会予備選挙に出馬し、
2回とも白人男性に敗れましたが、出馬自体がアフリカ系女性初となります。

その後は1971年に65歳で引退するまでシカゴ公立学校で教鞭をと理、
退職後、1974年まで連邦航空局の女性諮問委員会の委員を務めました。

上から;

航空での彼女の多くの業績は認められ、
ケンタッキー州ルイビルにゲストとして招待されました

注意、市民航空パトロール副官、全国空軍協会事務局長、
市民航空管理のための戦争任務コーディネーター。
ブラウンはまるで今でも飛行機に乗り空中回転をしているようです
彼女の飛行学校は空軍への黒人の試験的受け入れを実地するため、
陸軍と市民航空局によって選定されました


このムーブメントに、多くの黒人パイロットが参集してきましたが、
その中には女性もいました。

ジャネット・W・ブラッグ(Janet Bragg)1907-1991

は、シカゴで看護士をしていたとき、航空に魅せられ、
コフィーの航空プロモートに加わりました。

彼女の財政的支援は、シカゴの飛行クラブが
最初の飛行機を購入することができるほどでした。

彼女が資金提供できたのは、看護師として働きながらさらに大学院に進み、
キャリアアップしていくつかの病院で正看護師として働き、
十分なお金を貯めていたからでした。
苦労して商業免許を取得し女性航空隊WASPsに入隊しようとするも、
肌の色を理由にあっさり断られています。
戦後も彼女は飛ぶことを諦めず、自費で飛行機を購入し、
クロスカントリー飛行で多くの記録を打ち立てました。


ここに、「チャレンジャーズエアパイロット協会」の集合写真があります。
ここに写っているのが当時のシカゴ黒人航空界の主流メンバーです。

右上の写真はおそらくベッシー・コールマンでしょう。
真ん中にいるのがブラッグ、その左か右がブラウンでしょうか。
■黒人によるエアショーの開催


「エア&グラウンドショー」
第二回有色人種空中&地上ショー
9月24日日曜日午後2時より

出演 ドロシー・ダービー嬢(クリーブランド)
アメリカ唯一の女性パラシュートジャンパー

ジョージ・フィッシャー少佐
シカゴ、デアデビルのベテラン
1万フィート上空巨大飛行機からのセンセーショナルなパラシュート降下
アクロバット飛行

ピーター・コンスドルフ
燃えるような木製の火の壁をオートバイで通り抜ける決死の挑戦

レイ・ブリッチャーズ(チャタヌガ)
トンプソンブラザーズ・バルーンアンドパラシュートカンパニー

場所:(省略)
ご来場はお早めに 軽食付き

演奏:キャプテンカリーズ・コンサートバンド
入場料:大人35セント 小人10セント



「マンモス・エアショー」

特別出演;ウィリー’自殺’ジョーンズ
世界記録に挑む 飛行機からのパラシュート降下

どちらも、バイクによるスタントを加えて飽きさせないよう
イベントを色々見せようとしている感じです。

最初にも書いたようにこの頃アメリカは大恐慌に見舞われていましたが、
ロスアンジェルスとシカゴの黒人飛行クラブは
観客を動員するエアショーを後援し開催させることができていたのです。
■シカゴの名パラシューター、
ショーンシー・スペンサー


シカゴの黒人エアショーでパラシュートジャンプを決めた
ショーンシー・スペンサー(Shauncey Spencer)の勇姿。

スペンサーはシカゴで最も有名なバーンストーミングパイロットでした。



1939年、フロイド・ベネットフィールドで
シカゴからニューヨーク、ワシントンD.C.と飛ぶデモ飛行中のスペンサー。

スペンサーはこの時ワシントンD.C.で、当時
ミズーリ州の上院議員だったハリー・S・トルーマンや、
その他の政治指導者と会っています。
このことも、航空における人種差別に終止符を打つためでした。


スミソニアンにはスペンサーの飛行スーツとメガネ、
航空帽が展示されて今でも見ることができます。

これらの装備は、当時オープンコックピットの飛行機で飛行するために
必要不可欠なものでした。

ショーンシー・スペンサー(1906-2002)は
バージニア州リンチバーグに生まれたアフリカ系アメリカ人の飛行家です。

母親はハーレムルネッサンスの詩人アン・スペンサーでした。

スペンサーは11歳の時に初めて飛行機の飛行を見ました。

家族の友人で、再建後初の黒人下院議員であるオスカー・デ・プリーストは、
スペンサーにシカゴの彼の選挙区に移動して飛行訓練を受けることを提案し、
彼はアフリカ系の飛行士たちと全米飛行士協会(NAAA)を組織しました。

彼はシカゴのレストランの厨房で働きながら、
週給のほとんどを飛行訓練に充てていました。

その後、数人の仲間とともに旧式の飛行機を購入し、フライトを行います。
スペンサーとホワイトの飛行が黒人新聞に掲載されたことは、
第二次世界大戦前の民間人パイロット養成プログラムに
黒人を加えるよう議会を説得するための布石となったのです。


1939年、スペンサーが行った飛行は
民間と軍の航空界における人種平等を推進する一つのきっかけでした。



スミソニアンはなぜかデール・ホワイトとスペンサーが
鳥になって木に止まっているクリスマスカードを保存しています。
枝に止まっている本物の小鳥が『?』となっているのが可愛い。


そしてそのカードの中身です。
シカゴ-ワシントンD.C.フライトが書かれています。

1939
シカゴーオハイオークリーブランドーピッツバーグーニューヨーク
フィラデルフィアーボルチモアーワシントンD.C.ーバーモント
コロンバスーフォルテウェインーシカゴ

「つがいの『鳥』が飛び回っています・・
地上で多くの時間を過ごしていますが、
風が変わり、陽気な季節がやってくると、私たちは囀ります

『メリークリスマス、そしてハッピーニューイヤー』

スペンサー ホワイト

・・・・・1940?」
1940年にはまた別のフライトを予定していたのでしょうか。詩的な言葉が、やはりなんというか、詩人を母に持つ息子っぽいですね。


続く。



エスケープ・トランク・ハッチ〜潜水艦「シルバーサイズ」SS-236

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さて、開始以来、その哨戒活動を順を追ってお話ししてきた、
ミシガンミシガン湖マスキーゴンに渓流展示されている
第二次世界大戦時の潜水艦「シルバーサイズ」。
今日からは、いよいよ実際の艦体を見学して、
その外部内部をご紹介していこうと思います。
まずは乗艦したデッキから始めたいと思いますが、
「シルバーサイズ」の哨戒について調べ終わった今、
最初に挙げた画像の意味がわかったので説明しておきます。
冒頭写真は敵撃沈数マークなどがペイントされたセイルタワー部分。

ペイントされているマークの数は、あくまでも、「シルバーサイズ」が
現役当時撃沈撃破したと信じるところの数に準拠していますが、
この撃沈数も、同じ情報を彼我の資料でざっとくらべただけで、
かなり違っていることがわかってしまったわけです。

ただし、国のために命をかけて戦ってきたベテランに対し、
多少の瑣末な結果の違いより、彼らの認識を尊重すべし、
ということになりがちなのがアメリカの戦争遺跡のリアルですので、
この辺はめくじら立てず、暖かい目で見守ろうと思います。

さて、そしてこれなのですが、今やその意味もわかりました。

まず左の機雷マークの中に書かれた16は、「シルバーサイズ」が
戦争中、各所に敷設した機雷の数となります。

この付近に「シルバーサイズ」が機雷によって
触雷沈没した日本船も確か何隻かあったはず。
そして右の落下傘に書かれた数字、2。

これは、ニコルズ艦長になってから、通商破壊作戦がなくなり、
その任務をパイロットの救出に切り替えて以降の哨戒で、
彼女が実際に海上から救い上げたパイロットの数です。

一人は陸軍航空隊のパイロット、そしてほぼ同時に
「インディペンデンス」の艦載機パイロットを助けたことも、
当ブログではすでにご紹介済みです。


とスッキリしたところで、乗艦するところから始めます。
「シルバーサイズ」の見学には、岸壁からかけられたラッタル、
ほぼ岸壁と同じ高さとなっている甲板に上がっていきます。



甲板に上がると、対岸まではすぐそこです。

「シルバーサイズ」は、ミシガン湖と、ミシガン湖から流れ込む
マスキーゴン湖をつなぐ運河沿いに係留されています。
運河にはタンカーや貨物船、民間船やヨットなども頻繁に行き来します。
運河の向こう側は緑地帯(キャンプ場が広がっている)、
さらにその向こうは広大なミシガン湖となっています。


「シルバーサイズ」に乗艦する見学者に真っ先に与えられる注意は、
以下の通りとなります。

「『シルバーサイズ』艦上の多くのシステムは、可動します。
ノブやスイッチ、ダイアル、レバー、ホイールなどを
決して触らないでください」

ディーゼルエンジン式の潜水艦の艦底にあるバッテリーは、
展示艦となったとき、「シルバーサイズ」から外されました。

大量のバッテリーを除去した前後の艦底部分には、
バランスを取るためコンクリートブロック代わりに設置されています。

このことからも「シルバーサイズ」には、往年と同じような、
潜ったり浮かんだりの動作は無理であることは明らかなのですが、
注意書きによると、電気関係と主機能のエンジンはほとんど生きています。

特にエンジンに関しては、ボランティアの奮闘努力により、
現役時代と同様稼働することができるようになり、
年に一度、戦没将兵へのメモリアルデーに、退役軍人によって
エンジン始動するイベントが博物館の目玉になっています。
ちなみに(興行成績としては大失敗だった)映画「ビロウ」に出演したとき、
USS「タイガーシャーク」こと「シルバーサイズ」が
海上を航走しているシーンは、艦体を曳航して撮影されました。

しかし「システムの多くが生きている」というのは本当です。


上部甲板の中央に立って見る艦首部分です。


舫の置き方は・・・・まあ普通。
乱雑ということはありませんが、海上自衛隊のほど芸術的でもありません。

過去の「シルバーサイズ」見学者が挙げた写真ではこんな置き方です。こんな時代もあったようですが、人が変わったか、面倒になったのかしら。
■ エスケープ・トランク


「シルバーサイズ」内部にはここから入っていきます。
ボランティアによって修復されたデッキには、
見学者のための入り口がまず設置されました。



サンフランシスコに係留してある「ガトー」級潜水艦の「パンパニート」が、「ダウン・ザ・ペリスコープ」という
潜水艦映画に出演したことがあり、当ブログでも紹介しました。

原子力潜水艦に乗せてもらえず、ディーゼル艦に罰ゲーム的に乗せられた
「落ちこぼれ軍団」が、原潜と対戦するという痛快ドラマ?ですが、
このとき、乗員が最後に「パンパニート」の甲板の
観客用の手すり付き階段からゾロゾロ出てきたシーンがありました。

もちろん、映画評価サイトではあり得ないそのシーンが
「goofs」(間抜けともいう)として指摘されていましたが、
常識的に考えて、現役の戦闘艦が、
一般人の乗降に親切な設計なはずがありませんから、
見る人が見ればすぐにわかってしまうのです。
当然「シルバーサイズ」も、その現役中は、
手すり付きの階段などというものは設置されていませんでした。
それでは乗員はどこから出入りしていたかというと、
上の写真の手すりの向こうに見えているハッチからです。


この写真の位置関係でお分かりだと思いますが、見学者用の出入り口は、
ハッチチューブの横から階段で入っていけるようにしたものです。



この部分の正式な名称は現地の説明によると、

「Escape trunk hatch」
(脱出用トランクハッチ)

となっています。
エスケープトランク、脱出トランクとは、潜水艦が沈没して水中にあるとき、
乗組員が脱出するための潜水艦の小さなコンパートメントです。

今日はこの装備について説明します。

「エスケープ・トランク」とは、エアロックと同様の原理で動作し、
圧力の異なる 2 つの領域間で人や物を移動させるというものなのですが、
とりあえず次の図をご覧ください。               
映画「ビロウ」でも、海中の艦内から外に出ていくシーンがあり、
また、最後には霊の存在によって精神に異常をきたした副長が、
アクアラングなしでここから海中に出ちゃってましたよね。
で、この図を見て気が付きませんか?
見学者の出入り口って、位置的に「エスケープハッチ」なんじゃないの?

通常、陸上水上での乗員の乗り降りはアッパーハッチを使い、
艦体が水中にあるときのみ、エスケープハッチを使うことになります。


そういえば、この「マンセン・ラング」を着用した水兵さんが
体を乗り出しているのが、ズバリ、エスケープ・ハッチです。
マンセンラングを着用して海中に脱出するところを再現していたんですね。

これをみていただくと、艦によって多少の違いはあれ、
エスケープハッチがこの位置関係に存在したことがわかります。


■ エスケープ・チャンバー(脱出室)のメカニズム

ここでエスケープ・チャンバーのメカニズムについて説明しておきます。

潜水艦が水中にあるとき、外側のハッチの水圧は、
常に潜水艦内の気圧よりも大きく、従って、
ハッチは決して開かないようになっています。

ハッチを開くことができるのは、
エスケープ・チャンバー内の圧力が海圧と等しい場合のみです。

コンパートメントは潜水艦の内部から密閉されており、
水中に出る人は、まずエスケープチャンバー内に入ります。

この後、チャンバー内の圧力を海圧まで上げてから、
エスケープ用のハッチ(斜めに出ている部分)から外に出るのですが、そのオペレーションについて、順を追って説明します。
1.排水バルブを開く

2.コンパートメントから残留水が確実に排出される

3.潜水艦の内部と脱出トランクの間の圧力が均等になる

4.排出弁を閉じる

5.水中に出る者がスタンキーフードなど、
水中での呼吸装置をつけてチャンバー内に入る
スタンキーフード
6.海水バルブを開いて、チャンバー内に水を入れる

7.チャンバー内の空気が圧縮され、海圧と等しくなると、
チャンバーの浸水が止まる
水位は、図の水色の破線より高くなるようにする。

8.追加の空気が高圧空気供給からチャンバー内に排出される

9.空気圧が上昇

10.チャンバーの上部にある空気の泡は、外に出る順番を待っている間、
内部の人が呼吸するために残されたままにする

11. スタンキーフード内の圧力は、周囲の空気/水圧と同じにする

12.最初の脱出者は脱出チューブを登り、ハッチを押し開ける。
チャンバー内の圧力が海圧と等しくなるまで、ハッチを開かない

13.チャンバーの外に出ると、スタンキーフードの空気の浮力により、
脱出者はすばやく水面に運ばれる

14.浮上すると、周囲の水圧が低下し、
肺とフード内の空気が膨張するため、
脱出者は、肺から膨張する空気を放出するために、
水面までずっと息を吐き続けなければならない。

15.最後に出る人は、外側のハッチを押して閉める。

16. 脱出が終わると、内部ではドレーンバルブが開かれ、
チャンバーから水が排出され、潜水艦内の圧力と等しくなる

17.チャンバー内は、圧力により、
水が排水バルブから急速に押し出される

18.チャンバー内の圧力を下げると、潜水艦の外の海圧が高くなるため、
外側のハッチも強制的に閉じられる

19.まだ全員の脱出が終わっていなければ、
その後、全員が潜水艦を離れるまで、この手順を繰り返す。
昔は海の中に脱出した乗員が助かる率は大変低かったのですが、
その生存率を引き上げたのがDSRV、

Deep Submergence Rescue Vehicle
(深海救難艇)

です。

それまでは、レスキューチェンバーによる救助が主流でしたが、
1963年に起きた原子力潜水艦「スレッシャー」の沈没事故では、
沈没した深度がレスキューチェンバーの限界を超え多ところだったため
全ての救助手段は失われ、乗員は全員死亡したことから、
本格的なDSRVの開発が始まったのでした。


続く。




スーパー・ストラクチャー(上部構造物)〜潜水艦「シルバーサイズ」

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潜水艦「シルバーサイズ」の艦内ツァーにやっとこぎつけたと思ったら、
エスケープチェンバーことエスケープ・トランクのことを話し出してしまい、
またもや上甲板から降りていく前に、1項を費やしてしまいました。

しかも今日は上甲板全体についてお話しします。
なかなか中に入っていきませんが、我慢してお付き合いください。



艦内のパネルによれば、甲板全般にあるもののことは「スーパーストラクチャー」と言えばいいことがわかりました。

さて、ここで「ガトー」級潜水艦のシルエットが出たので、
現代の潜水艦と第二次世界大戦中の潜水艦について一言。

それらは時代の違いが一眼でわかるため、
大きく形も違っていると我々は思いがちですが、
「ガトー」級潜水艦の艦体形状は、実は(あるものを取り除けば)
現代の核攻撃型潜水艦と非常によく似ているのです。

我々が両者を「大きく違う」と判断するその大きな理由、
それこそが「スーパーストラクチャー」です。
「The stuff on top」を意味し、日本語では上部構造物と言います。



これは近代の原子力潜水艦ですが、さっくり言って、
「ガトー」級の潜水艦との違いはスーパーストラクチャーの有無です。
ここでいきなりですが、エスケープハッチを利用して作られた
見学者用の階段を降りていくと、あなたはこんな景色を目にします。

階段の左側の景色です。
まず、写真右側に見えるのがエスケープ・チューブの外側となります。

いかがでしょうか。
実にクラシックな葉巻形状の船殻外側が下部にご覧いただけます。


この頃の潜水艦が、ほぼ薄っぺらなオーク材の甲板によって
艦体をカモフラージュされたものであること、
しかるのちに、圧力球の上に色々な構築物を
「乗せた」にすぎないものであることが一眼でわかります。

実際、水密圧力艦体のほとんどは、艦内では喫水線より下にあります。
そしてボートの最大外幅は27フィートですが、
水密部分の乗員の居住区の内幅はわずか16フィートしかありません。

そして階段を降りながら右側を撮影したのがこれ。
水密区画の外側に色々と構造物があるわけですね。

写真左上部分には魚雷のローディング・スキッドが見えます。
そして、注意深く見ていただければ、スキッドの下側に
前方潜水機構のギア機構らしきもの、圧縮空気タンク、
そしてバラストタンクのエアベントなどもここにあるのがわかります。

これらは全て艦体の中に収める必要のない、
「水没可」のものであるということです。


ところで「シルバーサイズ」を使って撮影された、ホラー映画「ビロウ」で、
不可思議な現象を解明するために、何人かが海中で
ハッチから艦の外に出て、こんな空間に入っていくシーンがあります。


そこは海中でありながらこのような海水の溜まった空間で、
ここで霊の存在によって一人が命を失うことになります。
こんな部分が実際の潜水艦に存在するのかが気になっていましたが、
少なくとも実際の甲板下を見る限り、どこにもなさそうですね。
ハッチを出てしまったら、そこは全て水没しているはず。
なぜってそれがこの時代の潜水艦だから。

万万が一、本当に映画の「ビロウ」のような空間があるなら、
それはもちろん水密区画の外側となるわけですが、
そこは当然「ガトー」級独特の、船殻に穿たれた穴によって、水没します。



そして甲板。
潜水艦が水面にある間、そこは足場であり作業場であり、
銃撃戦の戦場となりました。


デッキの武装は、

4インチ.50 キャリバー・デッキガン
ボフォース40ミリ機関砲、


エリコン20ミリ対空機銃
が装備されています。


現代の潜水艦には存在しなくなった甲板銃は、当時のボートに
「弱い敵」に対する水上戦闘能力を与え、
魚雷を使うよりある意味ではこちらが好まれました。

その理由は砲弾は魚雷より格段に安価だったからで、
「弱い」の基準は「潜水艦を沈めるほどの力を持たない」という意味です。

しかし、この最初の哨戒において、「シルバーサイズ」は
この「弱い敵」(実は武装漁船)に機銃攻撃を仕掛け、
苦戦した上、乗員を失うという手痛い教訓を得たのでした。

「トルピード・ローディング・スキッド」。
魚雷装填のためのスキッドは滑り台のようなレールです。
先ほど甲板下の階段から見えていたその入り口です。


クレーンで岸壁から持ち上げた魚雷を、この上まで運び、
スキッドという滑り台から内部に下ろしていくわけですが、
ほぼ手作業でこれらの積み込みを行うのは結構な重労働ですね。
哨戒に出るとき、「シルバーサイズ」は18本もの魚雷を搭載しましたので、
その作業に丸々1日はかかったに違いありません
潜水艦が魚雷攻撃を受けるのはえてして夜間浮上しているときでした。

バッテリーをチャージするためのディーゼルエンジン、
そして乗組員たちには大量に新鮮な空気が必要不可欠だからです。

こんな当時の潜水艦を、「Submarines」(潜水艇)ではなく、
「Submersibles」(潜水することができる艇)だろ、
というツッコミも当時からあったそうです。

まあ、そういう当時の問題を一気に解決したのが
水没したまま永遠に潜航(これが本当のスティル・イン・パトロールってか)
できる原子力エンジンだったわけですが、ディーゼル艦との大きな違いは
エンジンが空気を必要としないこと、これに尽きます。

しかも原潜は、二酸化炭素スクラバーの存在によって、
艦内で生活する人間に必要な空気も常に新鮮に保つことができます。
その結果、艦体がどうなるかというと、
カサ張る上部構造を必要としなくなります。
当然、艦体の合理化が進み、現在の潜水艦の形となるわけですね。
おまけに上部構造物がなくなるということは、水の抵抗はなくなり、
それだけで水上航走時速21ノット、水中9ノットだった頃より
格段の速さが約束されることになりました。


今更ですが、デッキの上のこの構造物を「セイル」と呼びます。
司令塔を多い、水上航行中には士官が立つ「ブリッジ」を形成します。

ブリッジの床にあるハッチは、水面からかなり高い位置にあるため、
航行中、唯一、慣習的に常時開けてあります。

実際にはどこにあるのかわかりませんでしたが、
ブリッジの上には回転トランスデューサーに取り付けられた
二つのターゲット方位トランスミッタ双眼鏡があり、
これで司令塔にある魚雷データコンピュータに視覚的方位を送信します。

ブリッジの上に突き出た垂直のシャフトの配列、
これは英語で「shears」(シアーズ?)と呼ばれます。

二つの潜望鏡、複数の種類のレーダーアンテナ、
そしてラジオマストを支えています。


見張りが立っていたのは、このマストに備え付けられたリングの中でした。
映画「ビロウ」では、海中にアクラングなしで出ていった副長?が
なぜかここに引っかかっていましたっけ。

そして哨戒を成功させて帰還してきたとき、「クリーン・スウィープ」として
慣習的にほうき🧹をシアーズに立てました。



セイルの周りから突き出すようにしてある、これ、

Ammo Scuttle(弾薬台)
だということですが、この名称を主張しているのは、今のところ
検索して見つかった一人のアメリカ人だけだったので、
これが正確な情報かどうかはわかりません。



Ammo Cylinders Protrude(弾薬貯蔵シリンダー)

です。

甲板の兵器に補充する弾薬は、この下に保管されていて、
上部で弾薬が必要になった時には、この下にあるシュートに装填され、
それが手でメインデッキに押し上げられます。



「シルバーサイズ」最初の哨戒での戦闘シーンです。

マイク・ハービン(装填している人)水兵が、武装漁船銃弾に倒れる直前、
どこから弾薬を持ってきていたかというと、
それは間違いなく、この弾薬庫からだったはずです。

そして、今まで気づきませんでしたが、写真左の乗員がいるのは、
このアーモ・スカットルあるいはシリンダーのある場所で間違いありません。

つまり、ハービンと、この人が、交代で弾薬から、
押し上げられてくる弾薬を受け取り、砲に装填していたことになります。(もしかしたら右側端の乗員も同じことをしていたかもしれません)

この時はたまたまハービン一人が犠牲になって死亡しましたが、
同じ任務について弾薬を運んでいた水兵は、おそらく彼の死後、
ちょっとのタイミングの差で、彼は死に、自分が死ななかったことを、
不思議な気持ちで考えずにはいられなかったでしょう。



司令塔の後方にはオープン・ストレージ・エリアがあり、
掃除用具、ペンキの空き缶、バケツ、ヘルメット、
そして大型の・・・通風装置?
とにかくいろんなものが雑多に置かれているわけですが、
実はここのことを、

「ボースンズ・ロッカー(boson's locker)」
といい、当時から物置として使われていました。

現在でもボランティアの道具置き場となっています。




「ガトー」級の艦尾にしばしば見られるこの構築物、
これはおそらく艦体を衝撃の破壊から守るためのものだと思いますが、
正式な名称は分かりませんでした。

なんだろう・・・「艦体ガード?」
これもまた現代の潜水艦には片鱗さえもないものです。

しかし、ディーゼルエンジン潜水艦の「スーパーストラクチャー」は、
古い帆船の時代と、現代の高速攻撃型原子力潜水艦の間の、
進化を如実に表すものであるということがお分かりいただけるでしょう。


続く。



前部魚雷発射室 2種類の魚雷〜潜水艦「シルバーサイズ」

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さて、というわけでいよいよ「シルバーサイズ」に乗艦です。
■入艦


階段を数段降りたところにエスケープ・チャンバーがあり、
ドアを開けて中が見える状態になっていますが、中には入れません。

急いでいたこともあって、この中の写真(特に天井とか)
を撮らなかったことは痛恨の極みです。
(痛恨の極み多すぎ)


「シルバーサイズ」のパンフレットでは、その名も「BELOW」としてこのような構造図を紹介しています。
この「ビロウ」はあの「ビロウ」とは別だと思うのですが、
映画にかけた可能性も微レ存。

ここで水密コンパートメントの解説があります。

「シルバーサイズ」には、9つの水密コンパートメントがあります。

各コンパートメントは、防水ハッチによって
隣のコンパートメントから隔離されています。
以下の図はこの区分を図に表しています。

そして、下の潜水艦図に示されている区画のほとんどを
あなたはこれから歩いて通過していくことになります。
1. フォワード・トルピード(前方魚雷室)
2.オフィサーズ・ワード(士官居室)

3. コントロール・ルーム(制御室)
コニング・タワー(司令塔)

4. クルー・クォーターズ(乗員食堂)

5. フォワード&アフトエンジン(前後方エンジン室)

6. マニューバリングルーム(操作室)

7. アフター・トルピードルーム(後方魚雷発射室)

「シルバーサイズ」のスペックも一応書いておきます。

全長 95.02 m
全幅 8.31 m
排水量 1,526トン(水上)
    2,426トン(水中)
乗員:士官8名 兵員72名(平時)士官、兵員70名
(戦時)士官、兵員80-85名

起工(keel laid)1940年11月4日
就役(Commissioned)1941年12月15日
退役(Decommissioned) 1946年4月17日

除籍(Stricken from Naval Resister)1969年6月30日
国定記念物指定(Declared a National Landmark)1986年
マスキーゴン係留(Relocated to Muskegon)1987年
「シルバーサイズ」鑑賞のポイント:

USS「シルバーサイド」SS-236は、
第二次世界大戦で生き残った最も有名な潜水艦です。
彼女は非常に多くの船を撃沈しました(30隻沈没、14隻撃破)。

また、2名のアメリカ軍パイロットを救出し、
個々のパトロールでは16基もの機雷を敷設しています。

「シルバーサイズ」は盲腸の切除手術をその管内で、
しかもファーマシストメイト(薬剤科員)の手によって行った
史上唯一の潜水艦として有名であり、このエピソードは
ケーリー・グラント主演の映画、

「デスティネーション・トーキョー」

の中でも描かれています。

また、映画「ビロウ」の撮影にも使われました。

そういえば「デスティネーション・トーキョー」、
まだ取り上げたことがなかったですね。

検索してみたら、ちょうど盲腸患者が出るシーンが見つかりました。

Destination Tokio (1943) - Cary Grant

ファーマシストが俺が手術してやる、というと、
盲腸患者の水兵は痛み以上にドン引きしています。(4:08~)

実際の彼も、このときもう俺オワタ\(^o^)/と思ったに違いありません。



階段を降りながら写真を撮りました。

前方魚雷室(Forward Torpedo Room)です。

最初の区画ということで、注意書きがあります。
内容は、上にあったのとほぼ同じで、

USS「シルバーサイズ」(SS-236)へようこそ!

注意

「あなたとわたしたちの安全のために、
バルブ、レバースイッチなど、機器を操作したり、
ハッチやキャビネットを開けたりしないでください。

この潜水艦に搭載されているすべての機器はまだ稼働しています。
メインエンジンやその他の機器も定期的に作動させています。
作動イベントのスケジュールはギフトショップでお求めください。

保護者と成人の方はお子様から目を離さないようお願いします。

皆様のご協力により、この歴史ある潜水艦を
後世に残すことができるのです」

■前方魚雷室


私がここに降りたとき、ちょうどここには
「CREW」と背中に書かれたボランティアらしい若い人(高校生?)
が魚雷チューブの前に佇んで何かをしていました。
そのせいで、近くに行って中を覗き込んだり、
その天井部分の写真を撮ることができませんでしたが、
これはもう致し方ないでしょう。


最初のコンパートメントである前方魚雷室には、
前方の先に6つの磨かれた真鍮の魚雷発射管があります。


魚雷の後ろにあるのが長さ22フィートの
Mark XIV(14)魚雷のラックで、これが魚雷の乗った状態でです。


Mk.14は大戦始まりからずっと使われていた魚雷ですが、
何かと問題が多く、ある日撃っても当たってもさっぱり不発の魚雷に、
こんな魚雷で戦えるかあ!と、業を煮やした
ガトー級潜水艦「ティノサ」のローレンス・ダスピット艦長が
ニミッツ提督に直訴して、改良されたものが普及するようになりました。

意外と温厚そうなダスピット少将(最終)
第三図南丸花魁事件

ちなみにこの第三図南丸を攻撃した時の、
絶望を感じさせずにはいられない不毛な魚雷攻撃は、
ダスピット艦長によって次のように報告されました。
「ティノサ」が5本の魚雷を命中させているのに、
全く沈む気配のない船に全員が『?』となってからの記録です。

10時11分:8本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
10時14分:9本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
目標は潜望鏡の視界内にあり、魚雷は正しく航跡を描いている。
ネットの有無を観測したが見当たらない。
10時39分:10本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
10時48分:11本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
この魚雷は船尾側によく当たり、そのたびに水柱を作っている。
そのあと、タンカーの船尾方向に右へと曲がり、
100フィートほど水面上に出る様子を観測した。
私はこの様子を見ているが、納得することは難しい。
10時50分:12本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
11時00分:13本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
反対側で射撃を行っているようだ。
11時22分:高速のスクリュー音を探知。
11時25分:艦首正面方向に、接近しつつある駆逐艦のマストを発見した。
11時31分:14本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
11時32分30秒:15本目の魚雷を発射。命中。何ら影響は見られない。
駆逐艦が1000ヤード以内に入ってきたため、深深度潜航に移る。
魚雷は確かにタンカーに命中し、航行する音も止まったことを確認した。
潜望鏡も下げたが、まったく爆発しなかった。
基地で検査を行うため、最後に残った魚雷を保持することとした。

これはどんな温厚な人物でも激怒しますわ。

写真の印象のみならず、ダスピット艦長は実際にも冷静で、
日頃動揺のかけらも見せないタイプと思われていたのですが、
その彼に直接キレちらかされた太平洋艦隊潜水部隊司令官、
チャールズ・A・ロックウッド中将も、

「ダンの怒りは相当なものだったように思う」
と(控えめに)述べています。
結論としては、Mk.14型魚雷の磁気信管と爆発尖の不良が原因で、
ターゲットに直角かそれに近い角度で命中すると、
雷管につながるピンが折れて爆発しなくなることがわかりました。

これを受けてアメリカ海軍では早速改良を行うわけですが、そういえば、この魚雷改良についてのエピソードも、
過去当ブログで取り扱った潜水艦映画で取り上げられていましたよね。

ジョン・ウェインの「太平洋機動作戦」”Operation Pacific”
アメリカの戦争映画のエピソードは、戦中戦後問わず、実際の
世間の耳目を集めた軍事ストーリーを取り入れがちなんですね。


ただし、この改良は最後までうまくいかず、結局「シルバーサイズ」も
おそらくMk.18という電気魚雷を採用していたと考えられます。


後半では魚雷発射のメカニズムについて概要をお話しします。


続く。

魚雷発射の仕組み〜潜水艦「シルバーサイズ」

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さて、潜水艦「シルバーサイズ」の魚雷についてお話ししています。
■2種類の魚雷

「シルバーサイズ」は蒸気式と電動式、2種類の魚雷を搭載していました。
Mk.14が蒸気式、Mk.18が電動式とご理解ください。
「シルバーサイズ」がMk.14をどれくらい搭載していたのかわかりませんが、
少なくとも、潜水艦「ティノサ」のように、
撃っても撃っても艦体に突き刺さるだけで全く爆発せず、
おかげで相手はまるで花魁のかんざしのように魚雷を突き刺して帰還した、
というような特殊な例には遭遇しなかったのは確かです。

これは、魚雷の当たる角度に助けられて、
信管の故障を疑うほどの失敗に至らなかったせいかもしれません。

残念兵器とまで言われているMk.14ですが、「ティノサ」の例は特別で、
少なくとも「シルバーサイズ」では普通に搭載していたようです。

そして、この後魚雷を装填してから何が行われるかの説明となりますが、
「蒸気式」とあることから、Mk.14についてのものだと思われます。

長さ22フィート、重量3,000ポンドのスチーム「フィッシュ」は、
時速45マイル、有効射程は2,000ヤードを超える
350馬力のアルコール・タービンエンジンを搭載しています。
魚雷は装填されてから、発射管の外側にある各種レバーによって、

●深度(逆回転プロペラの横にあるベーンによって制御)
●速度(高速か低速か)
●ステアリング ジャイロ(ラダーを制御する)

の設定を行います。


トーペックス(torpex、torpedo Explosive)爆薬
は艦首の近くにあり、その後ろには大きな圧縮空気ボトルがあります。
この圧縮空気で、高圧を発射管に送り込むのです。

これが発射バルブとなるのですが、発射バルブを開くのは、手動か、
ソレノイド(導線を巻いたコイル)と呼ばれるレバーを使います。


魚雷プロペラは指示方向と逆に回転します。
ちなみに電気魚雷と蒸気魚雷の違いは、速度です。
電気魚雷は遅いのですが、蒸気の跡が残らず、
音響ホーミングヘッドを取り付けることによってステルス性は高くなります。
コンパーメント内に、親切なことに魚雷発射についてわかりやすく、
何が起こっているか書いたパネルがありましたので、それを書いておきます。
フロアデッキの下にはメイン バラスト タンク(MBT)#1、
ウォーター ラウンド タンク(WRT)、
さらにフォワード トリム タンクがあります。

MBTは潜水・浮上装置の一部、WRTは魚雷発射管への注水用水、
前部トリムタンクは魚雷発射後の重量減少を調整するためのものです。

では、魚雷はどのように発射されるのでしょうか?



まず、魚雷発射口を閉じた状態で、魚雷をローラーに載せて
ブロックとタックル(ロープ的な)で魚雷管内に引き込む。

その後、ブリーチドア(後部ハッチ)が閉じられるとチューブベントが開き、
チューブとWRTの間のドレインバルブが開き、
WRTが加圧されて水が引き込まれ、魚雷発射管内は浸水する。

コニングタワーの魚雷データコンピュータで決定された速度、深度、
ジャイロ角度を、チューブ側面の格納式ピンで設定する。

魚雷発射は、コニングタワーから電子制御で行われ、
発射ドアが開き、魚雷が発射される。
魚雷はプロペラに引き継がれる前に、圧縮空気を吹き付けて発進させる。

発射管から出ると、魚雷は正しい深度と速度を想定し、正しい方位に旋回し、そこからはひたすら直進する。

管内に別の魚を再装填するには、外扉を閉め、ドレーンバルブを開き、
管内を加圧して管内の水をWRTに押し流し、ブリーチドアを開ける。



他のコンパートメントと同様、前部魚雷室は窓もなく、
窮屈で混雑した暑い作業空間でした。
この部屋を見ていると、ここで勤務していた乗組員の勇気、技術、
献身にただ驚かされるばかりです。
文章で理解するのが面倒!という方にはこれを。
最初はマーク14型の残念ぶりを説明していますが、
7:00~からは構造と発射の仕組みが
↓【ゆっくり解説】欠陥魚雷Mk14・構造としくみ


ところで、前方魚雷室は、圧力船体の前方40フィートを占め、
ボートが水面にあるときもほとんどは水中にある部分です。

ほとんどの潜水艦のコンパートメント同様、
このコンパートメントにも特に重要な部位がぎっしりと詰め込まれています。
先ほど、「前方にチューブは6つある」と書きましたが、

「ガトー」級潜水艦の、前部コンパートメントの断面図をご覧ください。
6つのチューブの後部3分の1だけが見えており、
残りは前方のトリムバラストタンクに埋まっています。(黒部分)


また、潜舵、バウ・プレーン・ティルトのシャフトは、
ティルトの機構とともにチューブの上にあります。

これが正直どこを指すかよくわからんのですが、おそらくチューブの上の、
白くて大きな管の内部にシャフトがあるのではないでしょうか。
(ちょっと適当)


また、魚雷チューブの上部をご覧ください。


クロム製のベントとブロー・マニフォールドというものがあり、
これで魚雷発射前に管から空気を排出して、管の内部を水で満たします。

魚雷の間にはグリーンの小さなスツールがありますが、
レバーの管理をする乗員の定位置です。


また、高圧空気弁は、発射後に管から水をブローつまり吹き飛ばします。
一発撃つごとにこれだけの準備と、撃ってからも一定時間を必要とするので、
一方の魚雷発射室には6基ものチューブが必要になってきます。

チューブの後ろには、長さ22フィート(約670cm)の魚雷ラックがあります。
ご覧の通り、魚雷発射室は乗員の寝室を兼ねていて、
魚雷の上下にバンクと呼ばれる兵員用ベッドが配置されています。


ウォー・パトロール、戦時哨戒に出発するときには、
合計18基の魚雷を満載していくのが通常だったので、
乗員は別のところ(どこだろ?)で寝なくてはなりませんでした。

部屋の中央頭上に配置されているのは、
油圧モーターを駆動するための電気モーターです、
これらの油圧モーターは、前方の潜水面を傾けたり、
あるいはリグを出し入れしたり、錨を上げ下げするのに使われます。
そして、その後方に、写真には写っていませんが、ここにも
エスケープ・トランクがあります。(図の甲板に続く部分)

沈没した潜水艦から脱出できる耐圧コンパートメントで、
「シルバーサイズ」には二箇所これがあります。

また、この後方には、魚雷を甲板から前部コンパートメントに積み込むための
装填ハッチ(トルピード ローディング ハッチ)があります。


装填ハッチの下が、これ。
そう、ヘッドとシャワー室です。
その他、二つのクロム超音波ソナーシャフト、
多数の電子制御および機械制御がぎっしりと詰まっています。



続く。

タスキギー・エアメンの父 ノエル・パリッシュ准将〜スミソニアン航空博物館

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今まで何度か黒人ばかりの航空部隊、タスキギー・エアメンについて
彼らを描いた映画を取り上げつつお話ししてきましたが、
今回はスミソニアン航空博物館展示からになります。

ちなみに、日本語では「タスキーギ」と書かれることが多く、
わたしも今まで「タスキーギ」と書いてきたのですが、
アメリカ人の発音とスペルを見て、「タスキギー」が正確かなと思い、
今後はそのように表記することをお断りして始めたいと思います。



航空の黎明期に人種偏見を跳ね返し、空を飛ぶ夢を叶えてきた
アフリカ系飛行家の先駆となった人々を紹介する
「ブラック・ウィングス」のコーナーの最後は、なんと言っても
タスキギー・エアメンを持ってこなくてはいけません。

このパネルには、タスキギー出身でのちに将軍にまでなったデイビスと、
タスキギー創設の立役者となったパリッシュをバックに、
モニターではタスキギー航空隊の動画がエンドレスで流れています。

「多くの若いアフリカ系アメリカ人が軍航空に参入することを熱望しましたが
ことごとく人種的な理由で拒否されることになりました。

アメリカ陸軍航空隊はついに1941年、アラバマ州タスキギーで
黒人のための訓練プログラムを開始し、
その中でずば抜けて才能のあったノエル・F・パリッシュが
基地司令になりました。
戦争中、パリッシュは訓練課程に対し、
創造的なリーダーシップを提供することになります。

ベンジャミン・O・デイビスJr.は、陸軍士官学校卒。
黒人ばかりの第99戦闘飛行隊の指揮官となります。デイビスはその後ヨーロッパの戦場でタスキギーエアメンを率いました」

■ 国土防衛〜ノエル・F・パリッシュ



ノエル・フランシス・パリッシュ
Noel Francis Parrish 1909-1987

なぜこの白人さんがアフリカ系パイロットの指揮官に?
と誰しも思うわけですが、当時の飛行隊は黒人の部隊でも
指揮官まで黒人が務めるわけではなかったということです。
パリッシュはタスキギー航空隊の白人指揮官として、
プログラムをうまく運営し、成功させたという功績を持ちます。
映画「レッドテイルズ」の白人指揮官は、記憶に残る限り
それほど黒人たちの側に立っていなかったような印象ですが、
おそらく映画より実物の方が、黒人航空隊の司令官として
彼らにシンパシーを持っていたのではないかという気がします。

というのは、彼は以前紹介した黒人パイロット&教官、
コーネリアス・コフィーと個人的に親しく、
シカゴで開催されたチャレンジャーズ・エアパイロット協会のプログラムを
非常に評価していた人物の一人と言われているからです。

【なぜ”タスキギー”だったのか】

陸軍に生活のために入隊後は騎兵隊から出発して
下士官として航空パイロットの資格を取ったパリッシュは、
飛行教官、飛行学校監査官、訓練部長と順調に飛行畑で出世しました。
そして、1941年、アラバマ州のタスキギー基地に黒人だけの飛行部隊、
タスキギー陸軍飛行学校のが爆誕したとき、
大尉であったパリッシュは、指揮官に就任することが決まりました。

黒人部隊創設を後押ししたのは、公民権団体や黒人記者たちの圧力であり、
ここが「タスキギー実験」の実験場として軍に選ばれたのは、
タスキギー研究所が元々航空訓練に力を入れていたためでした。

施設、技術者、教官、そして年間を通じて飛行できる気候、と、
実験を行うための好条件が揃っていたこともあります。


スミソニアンに残された1941年の陸軍航空隊のプレスリリースですが、
こちらを全文翻訳しておきます。

「ニグロからアメリカ航空隊へ」
歴史上初めて、来週空軍は飛行士官候補生として黒人を募集します。
(最終的な計画はまだ未定、正確な日付は月曜に確認)

有色隊員は白人と全く同じ条件で採用されます。
身体テスト、適正テストも同じに実施されます。
黒人隊員の選択は空軍が現在白人に使用しているシステムと同じ条件で行われ
募集は軍団管区、特にその管区の飛行場で行われます(場所は未定)

優先される入隊者はCAAトレーニングを受けたことのある者です。
これまでのCAAはKomingニグロパイロットを訓練してきました。

彼らはタスキギー研究所近くの飛行場で訓練を受けます。

陸軍省はフィールドの建設をまだ開始していないので、
おそらく来年の秋まで実施はできないでしょう。

入隊者は現場で基本から高度なトレーニングを受けます。
予備訓練は承認された契約校で行われ、
地上要員はシャヌート飛行場で訓練を受ける予定です。
パイロットの最初の受け入れ人数は33名。
訓練を行うのは白人教官です。

卒業した者は少尉に任官することになります。

カラード・トレーニングプログラムを継続する場合は、
有色人種の士官としてインストラクターを務めることになります。

黒人の士官候補生は、毎年40人から50人になる予定で、
彼らの先頭中隊は、白人部隊から分離されます。
航空隊の関係者はその考えにうんざりしているようで、
皆あまり良い感触を持っていないようです。
なぜなら彼らはニグロの飛行能力に疑問を持っているからで、
特に軍の航空は民間とは違う、という指摘もあるようです。

黒人たちはもちろんこれを歓迎しています。
最後に何やら不穏な報告がされています。
後述しますが、黒人飛行隊については、各方面から
反対意見があらゆる時点で巻き起こることになります。



1941年、エレノア・ルーズベルトがタスキギーの視察中、思いつきで
チャールズ・"チーフ"・アンダーソンが操縦する飛行機に乗り、
基地周辺を40分間遊覧飛行したときの写真です。

ルーズベルト夫人がこの「古代から飛行機に乗っていた人」
とあだ名される超ベテランチーフの飛行機に乗ったことは、
後世の人が思うように偶然や気まぐれの産物ではなかった、と、
わたしは今回確信しましたので、その理由を説明します。
まず、戦争の激化に伴い、飛行要員に有色人種を採用するという案は、
おそらく国家単位の組織から生まれてきたものだと思うのです。

飛行要員の訓練は、長期間を要し、人員の確保が難しく、
しかも本格的に戦争に投入されるとなると、当然予想される、
激しい消耗をどう補うかという問題が起きてきます。
「ブラック・ライブズ・マター」は黒人の人権問題ですが、
本音で言うと、当時二流市民であった黒人の命ならば、
多少の権利を付与したとしても、戦争に投入させるのは
十分見返りがあると考えた結果ではないでしょうか。

しかし、その「多少の権利」というのが問題でした。

それまでの彼らに対する社会的な扱いの低さが酷すぎたため、
この計画は、まず入り口に立ちはだかる人種差別の印象を
なんとか跳ね除ける必要があったわけです。
そこで、大統領夫人が突如気まぐれを起こし、
黒人パイロットの操縦する飛行機にのってフライトを行い、
大統領夫人は大変ご満悦であった、というカバーストーリーを
誰かが描いたのではないか、というのがわたしの想像です。

この事件が、世間の印象を変え(たように報じられ)、
その後、タスキギーのプログラムは拡大され、
第二次世界大戦中のアフリカ系アメリカ人の航空の中心となり、
部隊のメンバーはタスキギー・エアメンとして知られるようになりました。

黒人部隊を創設したい上層部にとっては、
その道筋をつけたこの事件は(もし仕組んだものであったら)成功でした。

だからこそわたしはエレノアの事件が「やらせ」だと信じるわけです。
おそらくこの事件がなければ、創設に漕ぎ着けるのは不可能だったでしょう。

しかしながら、創設の道筋がついた後も、
黒人ばかりの飛行隊に対する反発は凄まじく、
我々が思う以上に問題が山積していました。まず、当初から起こってきた問題を見ていきましょう。

【初期の問題】

タスキギーに黒人航空要員養成学校ができるというニュースが広がると、
案の定、この地域の白人たちは、猛烈な反対を唱えました。

黒人の憲兵が白人を取り締まったり、軍用武器を振りかざして(と見える)
町をパトロールしていたことも、彼らの「癪の種」だったようです。

これに対し、初代指揮官ジェームス・エリソン少佐は(勿論白人)、
黒人憲兵を保護する立場でしたが、そのせいですぐに指揮を解かれます。

その後に来た大佐は完璧な分離主義者で、早速分離政策を取りました。

黒人系のメディアがこれに抗議すると、上層部は大佐を昇進・異動させ、
ノエル・パリッシュが「訓練部長」として指揮を執ることになったのでした。

タスキギー基地はこの間のゴタゴタで配属が滞り、そのせいで、
任務を持たない黒人士官が過剰になる事態となっていました。

着任したパリッシュは、結果として大規模な人種差別撤廃を断行します。
しかしそれは「逆差別」的な甘やかしではありませんでした。

人事はプロ意識と個人の能力、技術、判断力を基準としたもので、
黒人の訓練生に白人と全く同じように高い水準のパフォーマンスを求め、
その基準に達しない者は遠慮なくプログラムから外されるというものでした。

また、これまでレクリエーションが顧みられない状態だったので
パリッシュは有名人の訪問や公演を手配するなどということもしています。


ジャズシンガー・レナ・ホーンとパリッシュ(右)
左も多分有名な人

タスキギーに慰安のため招聘されたアーティストは、アフリカ系が中心で、

レナ・ホーン、ジョー・ルイス、エラ・フィッツジェラルド、
レイ・ロビンソン、ルイ・アームストロング、ラングストン・ヒューズ

などジャズに詳しい人が見たらレジェンド級の眩い顔ぶれでした。


【タスキギー陸軍飛行場司令官 パリッシュ】
左から2番目:パリッシュ
右へ:飛行教官ルーク・ウェザーズ大尉、
ベンジャミン・O・デービスJr.少佐
タスキギーインスティチュートプレジデント フレデリック・パターソン博士

陸軍航空隊は、1941年、アラバマ州タスキーギ研究所近くに
ついにタスキーギ陸軍飛行場を設立しました。

タスキギー陸軍飛行場(TAAF)の開発と建設などにも
黒人系の建設・施工・土木業者が選ばれたということです。
(これはもしかしたら白人系が引き受けなかった可能性もありますが)
1941年1月にはついに黒人航空部隊の編成が発表され、
すぐに部隊は活動を開始しました。

1942年末にタスキーギ陸軍飛行場司令官に昇進したパリッシュは、
プログラムの成功に重要な役割を果たすことになります。

まず、最初のクラスから5人の生徒が1942年3月に卒業しました。
彼らのうち最初に将校飛行士候補者となった12人は、黒人記者によって

「この国の有色人種の若者の頂点」

と称されるなど、このプログラム自体が黒人の身分にとって画期的でした。

おいっちにーさーんしー
ほとんどの訓練は白人教官が指導することになりましたが、
この体育の授業らしきものは、黒人教官がおこなっているようです。

250名を越える入営者は、訓練を受ける最初の黒人のグループとなり、
2年後には地中海作戦地域に戦闘配置されることになりました。

「タスキギーエアメン実験」を構成したのは黒人パイロット、教官、
整備・支援スタッフ、そしてそれを統率する指揮官でした。


【タスキギー飛行士実験の成果】

「タスキギー飛行士実験」は、黒人が、指導者としても戦闘員としても、
優れた能力を発揮できることが最終的に証明されることになりましたが、
この成果を得ることができたのは、パリッシュの功績でもあります。

この計画が軌道に乗るまで、黒人飛行士官の育成には
人種偏見からくる大きな抵抗があったことは先ほど書きましたが、
司令官として、パリッシュがこれに苦しまなかったわけがありません。

人は人種ではなく、能力によって判断されるべきだと考えていた彼は、
しばしばワシントンDCから落ち込んで帰ってくることがありました。
彼がタスキギーエアメンの直接の指揮を執ったのは、
実は1945年の第二次世界大戦の終わりから1946年8月まで、
わずか1年間にすぎません。

この間、戦争は終わり、その代わり、今度は
アメリカ軍の人種統合の闘いが加熱していました。

そして、事実上すべてのアメリカ軍の部隊司令官が、

「黒人は白人に比べて訓練に時間がかかり、成績が悪い」

とする報告書を提出していたことはあまり知られていません。

これは公民権運動が勃興する何年も前でもあり、白人ばかりの軍上層部は
相変わらず拭いがたい分離の壁をほとんどが築いていました。

しかし、ノエル・パリッシュはそうではありませんでした。

彼は、繰り返しますが、黒人の能力を黒人というだけで切り捨てず、
公平な報告書を提出した数少ない司令官のうちの一人でした。

例えば、パリッシュの報告書には、次のように記されています。

「ヨーロッパで爆撃機のパイロットが不足したとき、
戦闘機の操縦には、爆撃機の操縦とは全く違う技術が必要なのに、
十分に訓練された黒人の爆撃機のパイロットがいるにもかかわらず、
代わりに白人の戦闘機のパイロットが送り込まれたことがあった」

「陸軍航空隊の将校は、その科学的な解決力も卓越しているとされる。
工学的人事問題についての知見はなんら問題はないとされるのに、
彼らは得てして人種や少数派の問題に対して、最も非科学的な独断と
偏見を持った態度でアプローチするのにはがっかりさせられる事実だ」

「我々が黒人を好きであろうと嫌いであろうと、
彼らは他の市民と同じ権利と特権を持つアメリカ合衆国の市民である」


戦争が終わり、公民権運動の嵐も過ぎ去った数十年後のある日のことです。
タスキギーでタスキギー飛行隊の同窓会が行われました。

会場でノエル・パリッシュ准将の名前が呼ばれると、
そこにいた全員がスタンディングオベーションで彼を迎えました。

黒人である彼ら自身が、この司令官の公平性をよく知っていたのです。


戦後、第二次世界大戦中はあくまでも実験的だった
AAF(アフリカ系航空隊、アフリカンエアフォース)
ですが、軍はその経験から、運用方針を見直す必要があると考えました。

AAFの指導者たちは、黒人と白人の両方のグループを共存させ、
討論し調整することで、積極的な取り組み、リーダーシップ、機会の平等、
より費用対効果の高い軍隊を生み出すという結論に至ったのです。

つまり、タスキギー飛行隊実験は成功しました。

それを受けて、1948年、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊における待遇と機会の平等に関する大統領令に署名します。


【ノエル・パリッシュ准将】
The Rice University alum who became part of history with the Tuskegee Airmen 
パリッシュが卒業し、PhDを取ったライス大学が製作した
「パリッシュなくしてタスキギーエアメンなし」のビデオです。
ちなみにこのビデオでは「タスキーギ」と発音されていました。
だからどっちやねん。


パリッシュは2度結婚しており、2度目の妻は
フローレンス・タッカー・パリッシュ=セント・ジョン博士。
詳しいことは分かりませんが、どうも医師だったようです。

パリッシュはペンネームで雑誌記事を書き、音楽と絵にも関心を持ち、
40歳にして大学で博士号を取るなど向学心にもあふれた知的な人物でした。外見も魅力的で機知に富み、好感の持てる男性で、
年齢よりも若く見え、女性に大いにモテてもいたようです。

彼はタスキギーに赴任するまでは、黒人の運動などに関わっていません。
が、彼の生まれは全くその問題とは無縁な土地ではなく、少年時代、
3マイル歩いて黒人がリンチされた場所を見に行ったりしています。

後年、黒人のパイロットや整備士を訓練するプロジェクトについて
彼が関わることになった時、その話を聞いた白人たちが、
しばしば「奇妙で心配そうなある種の笑い」を浮かべるのを目にしたり、
ヨーロッパでは、イギリスの飛行エースが、

"Messerschmitt on his tail than to try to teach a Negro to fly".
「黒人に飛行を教えるくらいならメッサーシュミットに追われる方がマシだ」

とまで言い放ったのを実際に耳にしたと告白しています。

ノエル・パリッシュは1964年10月1日に空軍を退役し、准将となりました。

博士号を取得した母校ライス大学の歴史学教授として教壇に立っていましたが
1987年4月7日、心停止によりメリーランド州で死去しています。

彼の葬儀で、黒人将官、デイヴィス・ジュニア中将はこう述べました。
「パリッシュ准将は、黒人が飛行機の操縦を学べると信じていた
当時唯一の白人だったかもしれない」



1948年、ハリー・トルーマン大統領政権下、
アメリカ軍の差別撤廃が決定しました。



タスキギー・エアメンの最高賞は、その名を冠して、
「ノエル・F・パリッシュ准将賞」と名付けられています。

ノエル・パリッシュが、その賢明なリーダーシップと、
黒人士官候補生に対する厳正で公平な扱いによって変えたものは、
軍隊における人種的分離状態だけではありませんでした。
それは、黒人飛行士たちの士気、彼らの生活条件、軍内の黒人と白人の関係、
および黒人と軍隊との関係全てにとどまらず、タスキギーの町における黒人と白人の関係さえも改善したといわれます。


続く。

海上自衛隊フリートウィークが始まりました

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わたしが入院したり退院したりしている間に、
自衛隊のフリートウィークが始まっています。
フリートウィーク|令和4年度国際観艦式|海上自衛隊
自衛隊観艦式は、通常3年に1回行われる海上自衛隊の一大イベントで
自衛隊の最高指揮官(内閣総理大臣)が艦隊を観閲することにより、
部隊(隊員等)の士気を高め、
国内外に自衛隊の精強さをアピールするイベントです。

当ブログでお馴染み、Kさんが今年も元気いっぱい
イベントに突撃されておりました。
送っていただいた写真をイベント宣伝がてらお借りすることにしました。
まず、土曜日の横須賀編。
今となっては懐かしい景色
「ひゅうが」かな
通常よりやはり人少なめ?

艦内は単なる通路のようです

今も昔も基本的には変わらない横須賀ならではの艨艟


この日公開されていたのは「いずも」「ひゅうが」「あさひ」とか。


そして日曜日、木更津に突撃されたKさんの
秋の蒼天に映える護衛艦の写真を楽しみましょう。

最新鋭艦「もがみ」、姉妹艦の「くまの」に乗艦されたそうです。


確かにこの形はまごうことなき新鋭艦・・・。
特に最近は実際の自衛艦にご無沙汰していたので、余計に新鮮。


1番艦と2番艦が綺麗に並んでいます。
シンプルすぎて不安になるほどの上部構造物の形状です。これ一本で足りるんか?


Kさん、「もがみ」に乗艦。
あまりにもステルスすぎて壁に何もありません(小並感)


かつての最新鋭艦も、今は昔。
この日の木更津には「あたご」も来ていた模様。
昔観艦式で「あたご」乗ったなあ。


満艦飾が秋の雲に映えていかにもめでたいフリートウィーク。

と言うわけで、人の撮った写真を紹介するシリーズでしたが、
フィリートウィークの催しは来週が本番です。

最初に貼った通知にスケジュールが書かれていますので、
お天気が良ければ、皆様是非足を向けてみられてはいかがでしょうか。



フリートウィーク3日目

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今年は退院後のせいで、予定していた呉のカレーフェスにも行けず、
フリートウィークもKさんの写真を見ているだけのわたしです。
さて、そのKさんですが、フリートウィーク三日目となり、
またしても横須賀に出撃されました。



遊弋中の潜水艦。
セイルの上にマスクをした乗員の姿が見えます。
こんなところでもマスクしないといけないのか・・・。

まあ潜水艦の中は普段でもしたほうがいいかもですけど。



掃海母艦「ぶんご」。
前に乗艦させていただいたのは確か四国高松だったかな。



そして練習艦「しまかぜ」が出航を始めたのです。



これはすごい。
一気に大移動が始まった?



これは「しらぬい」でしょうか。
改めて見るとかなりこれも丈夫構造物の形が斬新です。


同型艦「あさひ」とのツーショット。
一緒に浦賀水道を目指していったということです。

思わぬ出航ラッシュに遭遇し小躍りしたというKさんですが、
これらの艦艇は、国際間鑑識に参加する外国艦艇の係留場所を空けるため
出港していったということでした。

ということは今日にも外国艦艇がやってくるのかしら。


アデン湾では大活躍だった110「たかなみ」。


3・11では支援物資は建築資材の輸送の主力を担った
4003「くにさき」も今から出港です。
タグボートが今から艦尾に向かいます。



しばらく横須賀には足を向けていませんが、
新しい商業施設COASKA(コースカ?)がもうできてるんですね。
あまりの早さにこっちが驚き。

その前で回頭しているのは新鋭潜水艦のようです。
改めて見るとセイルがこじんまりして丸い感じなのね。

アップにしてみるとフィンの上にも立ってる人がいるぞ(しかも二人)



制服が正装っぽいのはもしかしたら観艦式モードでしょうか。
それにしても、この画像を見てつくづく思うのが、
従来の潜水艦との外観、特に素材の違いですね。

全くツヤがなくて、まるでゴムみたいです。
そして、海面から出ている潜舵の形も明らかにこれまでと違う!

今回の観艦式はご存知のように一般応募による参加は全くなしで行われます。
もちろん疫病対策を講じたためです。



(おまけの潜水艦)



人の写真ばかりで気が引けるのですが、これは
カレーフェスに参加した知り合いが送ってくれたもの。


潜水艦のつもり・・・・なのかな。






観艦式フリートウィーク4日目

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Kさんのフリートウィーク参加による写真続きです。


外国艦艇が横須賀に入港してきました。
写真はマレーシア海軍のフリゲート「クランタン」。
ドイツ製だそうです。
最近マレーシアはチャイナの海洋進出に対抗して、新鋭艦を装備しています。
冒頭は横須賀港の外国艦艇配置図ですが、


そのほかはこのようになっているそうです。


それにしてもこのキャラが猛烈に気になってしまうわたしである。

「感染予防 マスク着用 
手洗いうがいの励行を厳となせ」

だそうですよ。




なんと観艦式に潜水艦で参加ですか。
これって珍しいんじゃないでしょうか。

オーストラリア海軍の「コリンズ」級潜水艦が来ているようです。



これが「コリンズ」級のHMAS「ランキン」だそうです。
海上自衛隊の潜水艦とはずいぶん素材が違いますね。
全く水を弾かなくなったおばあちゃんの肌みたいになってます。
それから、セイルの上に乗員が足をぶらぶらさせて乗っているのが
何とも緊張感ゼロな感じです。

「コリンズ」級の建造はもう20年前に終了しており、引退していく老艦で、
wikiには、

「コリンズ級は設計の段階から様々な問題が指摘されており、
導入後も技術的な問題やオーストラリア海軍の人員不足から
運用に支障が生じるなどした。
オーストラリアのメディアから厳しい批判をあびている」

「コリンズ級は優れた潜水艦とは言えず、騒音は劣悪で、信頼性は低く、
故障も頻発し、時には運用可能な潜水艦がわずか1隻という時すらあった。
オーストラリア国内では、コリンズ級の開発は「失敗」とする意見もある」

と散々な書かれよう。
後継艦を導入するに当たっては、ご記憶の方もおられるように、
日本製に決まりかけていたのに、ひっくり返されて、
フランス(シュフラン級原潜)に取られたーと思ったら
あれよあれよとアメリカとイギリスが出張ってきて、
おいオージー、うちらが原潜の技術供与してやんよ!と言い出したので、
オーストラリアはフラフラ〜っとそっちに行ってしまい現在に至る。
今回来ているのがコリンズ級の6隻のうちどれかはわかりませんが、
もう引退なので、最後に日本観光でもさせてやろうってことなんでしょうか。

潜水艦を観艦式で他の国に見せるのは滅多にないと思いますが、
もうこういうのなら何の秘密もないので、何でも見てちょうだい、
何なら写真も撮ってあげてね、みたいなノリかもしれません。
知らんけど。



4日目は曇って寒く、こんな日にも出撃されたKさんを案じるほどでした。


「いずも」と「ひゅうが」の違いをご覧あれ。



そして誰もいなくなった。

横須賀軍港は観艦式の予行でフネが出払ってご覧の有り様に。
続く(のか?)

国際観艦式 フリートウィークに伴う外国艦艇公開〜HMNZS「アウテアロア」

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フリートウィークが始まり、参加されたKさんから送っていただいた
艦艇と横須賀などの写真を見るうち、
久しぶりに実際に艦艇を見たい気持ちが無性に湧いてきました。

それをKさんにメールした後のことです。
長年イベントに一緒に行っていた知人が、
疫病発生以来初めて連絡をしてきました。

「昨日私は横須賀に行きましたが、艦艇公開行かれました?」
あまりにも久しぶりすぎて(携帯番号がこの間変わっていたらしい)
誰から来たかもわからず、そのままにしていたら、電話がかかってきました。

明日の外国艦艇公開に行かないかというお誘いです。

病気のせいですっかり億劫になっていたイベント参加ですが、
気候も良さそうだったし、それじゃ行こうかなという気になりました。

早速、カメラの電池を充電しとかなくては、それからおっと、
(何度かやらかしている)メモリーカードの入れ忘れ厳禁、
と久しぶりのイベントモードに脳内が切り替わろうとしたところ、
カメラがいつものところにないのに気がつきました。

あれっと思ってクローゼットをひっくり返し、
それでも見つからないので必死で記憶をたどったら、アメリカから帰ってから
メモリーカードを抜いたままでデスクの横の棚に放置し、
元に戻していなかったことが判明しました。

この調子だとまたカメラの操作も失敗しそうだなと案じたのですが、
結局この予感は当たることになります(伏線)


翌朝、ガチイベント勢の知人の、

「9時の開門に合わせて1時間前から並んでいるから開門までに来てください」

というありがたいお言葉に甘えて、8時半に横須賀基地に向かったところ、
すでにヴェルニー公園の横の歩道には長い列ができていました。


並んでいる人がほとんど若い男性、時々おじさんあり、高齢者なし


横須賀駅ロータリーの横くらいから並んで、
列が動き出したとき、潜水艦が出航準備を始め、
周りが歩きながら盛んにシャッターを切っていました。

わたしはアメリカ帰国以来始めてカメラを使ったので、
前回のモードがそのままになっていています。

知人に直してもらいましたが、ISO感度が高すぎて、ご覧の通り
どれもこれも散々な出来ですのであらかじめご了承ください。



入場のためのチェックは、2段階で行われます。
まず、いつもの手荷物検査のところでは手のアルコール消毒と、
自動検温器による体温のチェック。
そのテントを出て、今度は荷物検査場に向かいます。


これは他の人の顔が写っていたので、加工なしで

ゲートの前で前の人たちが手を挙げさせられては、集団が進んでいきます。

これは中で外国の船に絶対悪いことをしないと誓う宣誓の儀式とかではなく、
列の前から5列目までにいる人たちに手を上げさせ、
上げた人だけが、荷物検査カウンターに進んでいくという仕組みです。

検査は手前で金属探知棒を持った人にチェックされ、
テーブルで鞄の中を見せるというものでした。

この日艦艇公開を行った外国海軍艦艇一覧です。

アメリカ軍はいつものことなので特に公開なし、
それから韓国海軍は(韓国の)国民感情の関係で?
見えるところに係留すらしておりません。

これはKさんの送ってくれた写真ですが、
その辺をうろうろしてはいるようです。
(まあ、目立たないところにこっそり係留してるんですけどね)

こいつらの面倒臭いところは、参加するだけして、艦艇公開はもちろん、
開催国に来ても満艦飾もせず日本国旗も挙げず。
参加が決まってからも旭日旗に敬礼するしない云々で大騒ぎしてましたが、
何というか、本当に困ったちゃん国家ですね。

「あそことは国同士ではともかく、海軍同士は仲がいい」

と何年か前、海自の中の人に聞いたことがありますが、
その肝心の海軍がこの調子では、それも実際どうなんだろうと・・・。

まだ前の観艦式の時は、横須賀に入港する際にも
皆に手を振るくらいの愛嬌を見せていた気がするんですけど・・。

Kさんもおっしゃっていましたが、今回のこういうのを見ていると、
あまりにも色々拗らせすぎたこの国家、プロトコルという点でいうと
中国の方がまだずいぶんマシではないかとさえ思えます。




手荷物検査を終えると、後はどこから見ても自由です。
連れが「奥から見るのがいいのではないか」という意見だったので、
特に何の意見を持たないわたしとしては、これに従うことにしました。

この日は前に貼った配置図とは係留場所が変わっていて、
検査場の近くにはタイ海軍のフリゲート艦
「プミポン・アドゥンヤデート」
(どこかで聞いたなこの名前)がおり、その向こうには、
カナダ海軍の
「ウィニペグ」と「バンクーバー」が並んでいます。



「ウィニペグ」上部構造物。

今回の撮影、失敗して何でもブルーがかかって見えてしまうのですが(爆)
カナダ海軍の艦の塗装は本当にブルーがかったグレーです。

生息する海の色によって塗装が違うのかもしれません。



「ウィニペグ」というのは空港もあるカナダの都市名です。
甲板にはヘリを搭載してきていました。   
向こうに並ぶのはインド海軍とオージー海軍(等)の艦です。
着物を着た人の姿が桟橋に写り込んでいるようにみえますが、
これは写り込んでいるのではありません。


知人のご意向により、このコーナーから攻めることにしました。
それにしても斬新なくらい同じ海軍なのに艦影や塗装が違うのね。


どれもオーストラリア海軍の艦なのに?
と思ったら・・・。



よくよく見ると、

「HMNZS」=His Majesty’s New Zealand Ship

オーストラリアとニュージーランドの国旗があまりに似ている上、
同じ岸壁に目刺しになっているので、てっきり全部
オージー艦だと思っていたのですが、違いました。

一番右の、斬新な形の艦は、ニュージーランド海軍のだったのです。

しかし、あなたはどちらか見せられた時、
すぐにオーストラリアかニュージーランドかわかりますか?
わたしならどちらを見せられてもオーストラリアと言ってしまうでしょう。

イギリス国旗の下に大きな星のあるのが豪州、ないのがニュージーです。
ついでに、「His Majesty」で表されるところの、
ニュージーランドの現在の国王は誰かというと、
イギリス国王であられるチャールズ3世陛下ですので念のため。
ところで、艦名の

「アオテアロア」AOTEAROA

という言葉は、我々日本人にはあほとんど馴染みがない言葉ですが、
ニュージーランドにとって、日本の「大和」「倭」「大八洲」のような
国を表す別称・美称なんだそうです。

いまだにそのものの意味はわかっていないらしいのですが、
ニュージーランドの原住民(って言っちゃいけないのか)
マオリ族の言葉で、ニュージーランドそのものを指し、
国歌の別題のようにもなっています。

ニュージーランド国歌
神よニュージーランドを守り給え(アオテアロア)
そして、ニュージーランド海軍の正式名称も、
Royal New Zealand Navyで略称はRNZNとなります。
ニュージーランドについて思わぬところで詳しくなってしまった。
今まで人間より羊が多いのと、検疫が厳しいことしか知らなかったZE。



ゲートにいた乗員さんに、写真撮っていい?と断ると、
快くポーズを取ってくれました。
水兵さんのTシャツのスクエアカラーがなかなかマドロスっぽくて粋ですな。女性の方は士官かしら。



さて、「ニュージーランド」こと、この「アウテアロア」です。

まず全体像を見てみます。

建造者が現代重工業だってんでちょっと驚いてしまうわけですが、
動力はロールスロイスのハイブリッドシステムを搭載しています。

就役は2020年7月とのことで、ほぼ新鋭艦と言っていいかもしれません。
HMNZS Aotearoa

HMNZS Aotearoaは、現代重工業によって建造された
極地級維持管理船です。

アオテアロアは、戦闘活動、人道支援機能、作戦、
および訓練支援に真価を発揮するために、目的に応じて建造され、
技術的に強化された資産です。

主な任務は、船舶および航空燃料、乾物、水、スペアパーツ、
弾薬の補給を通じて、ニュージーランドと連合の海上・陸上・航空部隊、
および国連の安全活動にグローバルな支援を提供することです。

最大22個の20フィートコンテナ、
大容量の淡水生成プラント(1日10万リットルを生成可能)、
自己防衛システム、航空・船舶燃料貨物タンク、
デュアル全電気式洋上補給装置、
SH-2G(I)シースプライト・ヘリコプターまたはNH90ヘリコプター、
統合通信・ブリッジシステム、統合プラットフォーム管理システム、
一部の上甲板微熱、氷に対し強化された船体と海底金具など、
冬装備など多くの能力を備えています。

世界初となる海軍の「エンビロンシップ」鉛直船首設計を採用しています。



また、ディーゼル電気とディーゼルを組み合わせた推進プラントは、
旧型船に比べて燃料の排出量が少なくなっています。

また、南極観測やマクマード基地、スコット基地への物資補給など
南極での活動に対応するため、ポーラーコードの安全規則を遵守し、
ポーラークラス6相当の耐氷構造になっています。

ホームポート ニュープリマス、タラナキ
シップスポンサー Dame Patsy Reddy GNZM、QSO、DStJ

指揮官 Dave Barr司令官

となっております。

艦種はAuxiliary ship、補助艦、つまり給油艦となります。

容積 26,000 t (26,000 長トン)
全長 173.2 m (568 ft 3 in)
ビーム 24.5 m (80 ft 5 in)
と、ニュージーランド海軍の保有する最大の艦船です。


早速ラッタルを上っていきましたが、驚きました。
今まで外国艦艇がこんな気前よく内部を公開したことがあったでしょうか。

今年は観艦式に一般からの参加を載せないことになったので、
その分サービスをしてほしいと要請されたのかもしれません。

公開といっても外国艦艇はせいぜい甲板くらいだろう、と思っていたわたしは
来て見るまでこれほどオープンとは夢にも思っていませんでした。
あまりにも甲板が広くて、ハンガーの入り口が狭く見えます

こちらiPhoneで撮った写真。



格納庫の片隅にあるこの黒い器具は何をするもの?

バスケットゴールと二階の各種トレーニング用マシン。
どうもこの二階は全てのスペースをジムとして使っているようです。



甲板に出てきました。
搭載機は SH-2G(カマンのシースプライト)、
NH90(仏独蘭伊の共同開発軍用ヘリ)、
A109LUH(アグスタ)のどれかだそうです。

RNZNのシースプライト



お隣に係留しているオーストラリア海軍の「ストールワート」から
「アオテアロア」搭載の救難艇がよく見えます。

オレンジの完全密閉型ボートは、パルフィンガーマリーン社の、
タンカー用の最新式ライフボート「ネプチューン」です。21〜150人を搭載でき(最小人数が決まっているのはなぜ)る大型仕様。

タンカー搭載に特化しているのは、万が一、火災など
緊急避難や事故の場合、乗員全員が脱出するためのものです。

「アウテアロア」は大型艦ですが、乗員は98名なので、
このボートに全員が余裕で一度に乗れるというわけです。

完全密閉式によりオイル火災などが起こっても、
乗員全員が乗り込んで、救命艇が海面に降ろされてから
油圧式オンロードフック解放機構により、
救命艇をダビッドからリリースすることもできるそうです。

パルフィンガーという会社は元々クレーンやアーム系の製造会社で
港湾関係の製品を多く開発していることから、ダビッドも作っており、
その流れでこういう製品展開になっていったのかと思われます。

作業艇はまだ新しくてピカーっとしています。
連れの知人によると何とかいう映画で主人公が乗っていたそうです。
(これじゃ何のことかわかりませんね)

そして当たり前のようにFURUNOのレーダー搭載。

作業艇の収納場所を内側から見たところです。

作業艇に乗り込むための階段。
この二つの写真はiPhoneで撮りました。
iPhoneの広角優秀。



隣の「ストールワート」の艦橋から見た「アウテアロア」。
輸送艦であるため、コンテナを爆積みしています。


積載量は積載量 8,000トン ディーゼル、1,500トン 航空燃料、
最大6.7メートル×6.1メートルのコンテナを格納可能、とあります。


ところで、この日朝から横須賀に出撃したわたしですが、
まだ体調が本調子ではなかったらしく、開始して2時間で
この日の埠頭の猛烈な陽射しの下、マスクをしているのが苦しくなって
脱落を余儀なくされたため、見学はごく限られた艦だけで終わりました。

この後のご報告は、外国艦艇全てではないことを
あらかじめお断りさせていただきます。

続く。

国際観艦式 フリートウィークに伴う外国海軍艦一般公開〜RANの赤いカンガルー

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さて、当初全く参加のつもりがなかったにもかかわらず、
ぶっちゃけノリで行ってきた外国艦一般公開の報告続きです。

この日は素晴らしい秋晴れ、絶好の艦日和となりました。
しばらくぶりの大々的な艦艇公開であることもあってか、
長らく「ネイビー愛」を封印されていたファンがどっと繰り出してきた結果、
この日公開されたほとんどの艦は、開場して1時間後には
乗艦するのに100分という、ディズニーランド並みの待ち時間になりました。

わたしの場合、連れが早くから並んでくれていた上、
埠頭の奥に並んでいる艦から見るという提案が功を奏し、
ニュージーランド海軍の「アウテアロア」には全く並ばずに乗艦できました。
そして「アウテアロア」が、オーストラリア海軍艦2隻と並んで
3隻目指しにして係留してあった関係で、
これら全部を一気に見学をすることができたのです。


■ オーストラリアとニュージーランドの国際関係

ところで、今回観艦式に参加した国の中には、
国際関係が良くない国同士も含まれます。

ぶっちゃけ日本と韓国なんかが典型的なそれなんですが、
一応は「同じ側」という建前なので、参加を招聘すればきちゃうわけです。

いっそ中国海軍のようにきっぱり参加を拒否すればイイものを、
イヤイヤやってきてはプロトコルを無視して笑いものになったりするのです。

なんで友好を深めるつもりもないのに来るのか。

それは、全く売れないのに日本の自動車市場に臆面もなく何度も参入してくる
ヒュンダイ自動車の目的と同じだと思いますよ。ズバリ偵察、情報収集。(技術者の引き抜きと技術の盗み出しも)

前回の観艦式では、わたしも韓国海軍艦を目撃しましたが、
受閲されているのにも関わらず、逆に甲板や艦橋に何人も立って
海自艦艇の航行をカメラで撮影していた姿が忘れられません。
こんなでも、日本政府は韓国との間には領土問題は存在していない、
という立場をとっている以上、表向き友好国ということになっています。


しかし、今回はそんな生ぬるくはない関係の国同士も来ています。
それがパキスタン海軍とインド海軍です。

両国は元々イギリスの植民地から独立した一つの国でした。

しかしその際、イスラム教と仏教という宗教の違いで国を分かち、
その後、カシミール地方を取り合って紛争が勃発。
思想面でもレッドチーム(印)とブルーチーム(パ)に分かれ、
米中両国をバックにつけて代理で資源争い・・と、
全く仲良くなる要素が見当たらないくらい仲が悪いのです。

もう、埠頭でガンつけたとか肩が当たったとか(不良かよ)いう理由で
喧嘩が始まっても全く不思議ではないくらい一触即発の関係。

何なら、アメリカでも、インド料理と称していても
ほとんどはパキスタン人が経営していて、
互いに嫌いあってるとか、まあ色々あるようです。
(日本のインド料理レストランも実はほとんどパキって知ってた?)

自衛隊もそこのところは気を遣って、
同じ岸壁には係留させていませんが、それでもY-1とY-3ですから
ちょっと埠頭を歩けばお互い出会ってしまうわけですよ。
これ本当に最後まで何も起こらないで済むのかしら。


さて、この印パのように、隣りあった国で仲が良い例はほぼない、
というのが世界の常識となっているわけですが、
その極少ない例外が、ニュージーランドとオーストラリアです。

国は近いとはいえ、どちらも島国で、しかもどちらも先祖が同じ。
互いの国への行き来もビザ不要で無期限なので、実質交流は盛んです。

まあ、スポーツでは、ラグビー、クリケット、ホッケーなど、
お互い絶対に負けられないというライバル意識はあるみたいですが、
少なくとも歴史問題や領土問題は過去にも存在しない平和な関係です。

第一次世界大戦ではガリポリの戦いで一緒に戦って勝っていますし、
いまだにその戦勝の日を両国が祝ったりしているそうですから、
国防の面でも完全な「同盟国」なのでしょう。

そして今回、この二カ国海軍が一つの岸壁を仲良く使っているのを見て、
改めて良好な両国の関係を確認したわたしでした。

(現地で『アウテアロア』を豪州艦だと思いこんでいたのはここだけの話だ)


■ オーストラリア海軍の”ホワイトエンサイン”


HMAS 「スタルワート」STALWART A-304

は、RAN(ロイヤル・オーストラリアン・ネイビー)の
「サプライ級」(補給級とはこれいかに)2番艦です。
2021年11月就役ということなので、まだ1年も経っていない新鋭艦です。

オーストラリア海軍がこの「スタルワート」という名前の間を持つのは、

HMAS 「スタルワート」H14
1919〜1925年、駆逐艦

HMAS「スタルワート」D215
1968〜1990年、駆逐艦母艦
に続く3隻目となります。

「stalwart」を英語で発音すると、ほとんど「スターウォー」と聴こえます。
オーストラリアでは非常に良いイメージの言葉らしく、

「忠実な」「断固とした」「強力な」「堂々とした」
「ある組織や大義を堅く支持する人」「強靭な人」「勇敢な人」
「忠誠を誓う人」「しっかりした体格の人」

という意味を持ちます。
日本語だと「丈夫」(ますらお)とか「漢」みたいな感じでしょうか。

語源は、アレクサンダー大王の軍隊で、世界の果てまで喜び従った、
忠実で屈強な兵士たちの名称から来ているという説もあります。

そのイメージから、軍用車や警備会社、金庫などの商品名、
学校の名前にもよく使われていて検索するとたくさん出てきますし、アメリカには、南北戦争の後、共和党急進(ラディカル)派の
「スタルワーツ」という名称の政治団体が存在したこともあります。
ニュージーランド海軍「アオテアロア」甲板から見た「スタルワート」。



赤いカンガルーのモチーフが目を惹きます。
やっぱりオーストラリア、シンボルはカンガルーなのか。

と早速感心しながら通り過ぎたのですが、赤いカンガルーは
ロイヤル・オーストラリアン・ネイビー、RANのインシグニア、徽章です。

ところで、英連邦海軍がだったオーストラリア海軍が
正式にジョージ5世の承認により、
Royal Australian Navy、RANであると決まったのは1911年のことです。
つまりRANが発足して今年で111年目ってことなんですね。

同時にRANはジャックスタッフとして豪連邦の旗↓
Naval jack(艦首旗)
そして艦首旗として、ホワイトエンサイン、ナーバル・エンサイン
を掲揚することが正式に定められました。

しかしRANとなった1911年にはまだ本体が英連邦海軍であったので、
同じ王を戴く海軍としてイギリス海軍と同じ、
十字の入ったホワイトエンサイン↓



を使用していました。
ちなみに現在のRANが掲げているホワイトエンサインはこれ↓です。



現在の艦尾旗は1967年から使われるようになったのですが、
これにはちょっとした事件がありました。

ベトナム戦争の勃発です。

この時オーストラリアはベトナム戦争に参加することになったのですが、
イギリスは全く関与していません。(そうだったっけ)

そのためRANはちょっと困った事態に陥りました。

イギリス海軍と同じ旗を揚げることによって、事実上他の国、
戦争に参加していない国の旗の下で戦うことになってしまったのです。

そんな折、RANを英海軍だと誤認していた相手との間に戦闘が起きます。
(つまり相手はまさかの英海軍が撃ってきた!みたいな状態だった?)

オーストラリア議会でも、戦時配備された海軍の艦船が
他国の艦尾旗を使用しているってそもそもどうなんよ、と、問題視する議員が声を上げ始めました。
その上ベトナム戦争で、RANは、アメリカのミサイル駆逐艦を運用し、
共に行動していたため、米海軍艦と間違えられることもあったりして、
これも国のアイデンティティに関わる問題と認識されました。

そこでRANには独自の艦尾旗が必要だということになったのです。

その後、ユニオンフラッグを残した現在のデザインが承認され、
エリザベス二世陛下による王立許可を受け、制定されました。
正式な切り替えは1967年3月1日に行われ、
その日にすべての船舶と施設が新旗を掲揚しました。

ちなみに、RANの艦船のバトル・エンサイン(戦闘章)、
つまり戦闘中の旗の掲揚は、艦首マストとメインマストに
ホワイトエンサインを挙げることになっています。

■ オーストラリア海軍と赤いカンガルー🦘
イギリス軍と同じ艦尾旗を挙げていた頃、特に戦争中、
RANの乗員たちは常に誤認される心配をしていました。

第一次世界大戦中、HMAS「パーラマッタ」Parramattaは、



オーストラリアの国旗の上に王冠の代わりにカンガルーを付けて、

「俺らオージーでイギリス海軍じゃないのでよろしくNE」

とアピールしていた、という記録が残っています。
また、朝鮮戦争の時にも、HMAS「アンザック」Anzacは、
真鍮で切り出したカンガルー🦘を目立つところに掲げていました。

第二次世界大戦中も ML802の見張り中水兵さんの後ろ


HMAS「 クィーンズボロー」1955
手のひらマークの上、煙突に描かれたカンガルー

このフリゲート艦「クィーンズボロー」が、ファンネル=上部構造に
カンガルーをあしらった最初のRAN軍艦だと言われています。
ちなみに手のひらのマーク(アルスターの赤い手)は
英国海軍第6フリゲート艦隊の印で、オーストラリア海軍が
イギリスと同じ海軍旗を使用していた頃のことです。

「クィーンズボロ」は、その印の上に(上、というところがミソ)
あえてオーストラリアを表すカンガルーが来るようにしたのです。

そうしていつの間にか、「赤いカンガルー」は
オーストラリア海軍のシンボルの一つとなっていきました。


中東からの任務から帰還したHMAS「キャンベラ」は、
赤いカンガルーの横に中東から帰ってきたことを表すため、
赤いラクダのマーク🐪を付けて入港しました。

海軍のユーモアはRANにも堅持されています。

■その他のRANシンボル(ブーメラン関係など)

観艦式とは関係ないのですが、ちょっとこれが面白いので、
オーストラリア海軍のその他のシンボルを紹介しておきます。


1976年、RAN潜水艦隊の「オーベラン」Oberang級潜水艦は
分隊章として「Oの字にブーメラン=オーベラン」を導入しました(左)。

「オーベラン」と「ブーメラン」が韻を踏んでいることから
あえてカンガルーの代わりにブーメランを採用したに違いありません。
そう思った理由は、右側の黄色い「E」です。

これは潜水艦隊戦闘効率シールド獲得艦に与えられるマークですが、
(米軍艦にEEEEなどと描かれているあれと同じ意味です)これも

「イーベラン」Eberang  「イーメラン」E-merang

ブーメランと同じライム(韻)なのです。



今回の観艦式にもおいでいただいている、HMAS「ランキン」。

ちょっと話にも出ましたが、「コリンズ」級潜水艦は、
マークに「オーベロン」の「O」を「C」に変えたものを使っています。

並んで係留されている同じ「コリンズ級」の
HMAS「ファーンコーム」Farncomb SSG 74
のマークを(ちょっとデザインが違うのが気になりますが)ご覧ください。

そう、「コリンズ」級潜水艦のマークは、その名も
「Cメラン」(シーメランと読んでね)なのです。



こちらネームシップ、HMAS「コリンズ」の皆さん。(強豪だぞ)
セイルに描かれた「シーメラン」にご注目。

どうでもいいけど「コリンズ」の皆さん、全員体格が立派すぎない?
そんなので息切れしないのだろうかとか狭いのにすれ違えるのかとか(略)

さて、あとはいろんな海軍の舞台章をお楽しみください。




水陸両用部隊のマークは王冠に錨と剣、カンガルーと盛りだくさん。
写真はHMAS「トブラク」Tobruk L-50。



RAN 警備隊徽章はカンガルーとシドニーハーバーブリッジ。
HMAS「アドバンス」Advance P-83は「アタック」級パトロールボート。
シドニーが拠点です。



マカジキに数字の2はケアンズ拠点の巡視艇部隊。
HMAS「バリケード」Barricade P-98、これも「アタック」級。



HMAS「ラウンセストン」Launceston
ケアンズがベースのパトロール部隊です。
マークはブルーマーリン。


RANには、哨戒艇が地域間を移動した時、
ファンネルの徽章を交換するという慣習があるそうです。
こんなでかいもの交換してどこに飾っておくのか心配になりますね。

左の写真で交換しているのはダーウィンの巡視隊のバッファローホーンと
西部オーストラリア部隊のブラックスワン。

右はやはり水牛とマカジキの交換シーン。
半ズボンが正式な軍服とは、さすが南半球の海軍です。

巡視艇部隊は地域特有のタスマニデビルとか、
オーストラリアカササギをあしらったりして地域色を出しています。




掃海艇は、機雷マークに赤いカンガルーがデフォルトとなります。
(機雷のデザインがちょっとずつ違う)

「トン」級(オーストラリアの艦級って名前が皆ヘン)掃海艦、
HMAS  「カーレウ」Curlew M1121。




科学部隊を自認する観測艦のHMAS「クック」Cook GOR 291/A 219。

「クック」の当時の艦長が、休暇中に訪れたゴルフ場のレストランの
ビアマットに描かれたタツノオトシゴを見て気に入り、
これを我が艦の徽章にしよう!と思いついたことからこうなりました。




最後に、ハートウォーミングなこの徽章を。

HMAS「キンブラ」kimbra が就役したのは1956年3月26日のことです。
「キンブラ」はRANの最後のレシプロ式蒸気機関動力による防衛艦でした。

どんなに頑張っても時速10ノットしか出せないこの艦を、
RANは愛情を込めて「カタツムリ」と呼んで最後まで可愛がっていました。

そして彼女に晩年与えられた唯一無二のファンネルマークも、
「カタツムリ」🐌
だったのです( ;∀;)
そして1985年2月15日までの29年間で、363,038マイルを
カタツムリの速度で駆け抜けて「キンブラ」は退役しました。

写真はシドニー湾に入港するHMAS 「キンブラ」の最後の姿です。
ファンネルは黄色いカタツムリが描かれています。


「赤いカンガルー」についての原文は、RAN公式ページからのものです。
こちらもよければご覧ください。

The Origin of RAN Squadron and National Insignia
続く。

HMAS「スタルワート」の観艦式進行表〜フリートウィークに伴う外国艦公開

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オーストラリア海軍の艦艇に乗った話をしようと思ったら、
今まで全く知らなかったRAN(ロイヤル・オーストラリアン・ネイビー)
の艦尾旗の歴史、赤いカンガルーとその他の徽章など、
面白いネタが次々と出てきてしまい、一項を費やしてしまいました。

今日は気を取り直して、HMAS「スタルワート」に乗るところからですが、
その前に、前回部隊章、インシグニアの特集をしたので、
ニュージーランド海軍の徽章についても言及しておきます。


これが今回参加したRNZNのHMNZS「アウテアロア」の徽章。
真ん中にあるのはおそらく昔の錨なんだろうと思います。
ニュージーランド海軍の正式なマスコットが「錨」だからでしょう。

錨がマスコットというのもなんか違う気がしますが。

今回一隻だけの参加となったニュージーランド海軍。
海軍全体の人口は2,334人、艦隊は、
フリゲート2隻
洋上巡視船2隻
陸上哨戒艦2隻
水陸両用戦艦 1隻
補給艦 1隻
潜水支援船 1隻
が全てという規模ですので、
逆によく貴重な補給艦を送ってこられたなと思うくらいです。

(ただし、第二次世界大戦の時には全部で60隻保有していたそうです)

元々、ニュージーランドは1840年から大英帝国の植民地であったため、
海岸線の防衛はずっと英国海軍が責任を持っていました。

第一次世界大戦の時も正式なニュージーランド海軍は存在せず、
イギリス連邦軍のニュージーランド部門として参加していました。

第二次世界大戦の時にはニュージーランドは自動的にイギリス側として
ドイツに宣戦布告を行いました。
ニュージーランド海軍がHMNZSのプレフィックスを戴くようになったのは
1941年、第二次世界大戦中のことです。
軽巡洋艦HMNZS「リアンダー」は、この時
ニュージーランド遠征軍を護衛して中東に向かい、
その後帝国海軍の「神通」の撃沈を支援しています。
「神通」を攻撃するHMNZS「リアンダー」とUSS「セントルイス」
そして戦争が終わった1945年から、ニュージーランド海軍は
同じくドミニオン(被占領国)海軍だったオーストラリア海軍と同じように、
イギリス海軍のホワイトエンサインを使っていました。↓



オーストラリア海軍が独自の艦尾旗を制定したのと同じ1968年に、
ニュージーランド海軍もオリジナルを制定しました。

RANの艦尾旗変更の理由は前回お話ししましたが、
RNZNの変更理由も、

あるドミニオンと敵対関係にある国が、
別のドミニオンとは敵対していないという状況が
独立した国家の外交政策の足を引っ張るから
というものでした。

オーストラリア海軍が独自の軍旗を制定したのと同じ1968年、
ニュージーランド海軍も艦尾旗を独自のものに変更しました。

ユニオンフラッグのトップクォーターはそのままに、
英国海軍旗にある赤いセントジョージクロスを、
国旗にも使われている南十字星に置き換えたものです。


つまり国旗を白くしただけという話も


余談ですが、ニュージーランドは核を持たない国の一つで、
同時に左派政権下では明らかに反核思想を持つ国でもあります。

1973年、フランスがムルロア環礁で核実験を行った時、
ニュージーランドはフリゲート艦HMNZS「カンタベリー」と「オタゴ」を核爆心地に送り、それぞれの艦に核実験の間近での監視を命じました。
まさかニュージーランドともあろう国が、自国海軍に特攻を命じたのか?

とこれだけ書くと勘違いされそうですが、ご安心ください。
HMNZS「カンタベリー」Canterbury F-421は、
当時最新鋭のフリゲートであり、RN 監視レーダーと ESM を備え、
核汚染からも効果的に隔離されうる機構を持ち、
遠隔操作で無人化できるビームレアンダー蒸気プラントを装備していました。

つまり、核爆発地域での作戦において、
密閉した城塞を提供できる軍艦だったのです。

ニュージーランド政府が「カンタベリー」を核実験場に送った理由は
核実験に対する抗議行動でした。

「カンタベリー」は搭載したコンピュータで付近の放射線レベルを測定し、
電子機器はすぐさまフランス軍のP-2ネプチューンが
付近を「掃除」しているのを検知しました。

また、1971年の「メルポメーヌ」実験も観測し、それを公表。

ニュージーランド海軍は、「カンタベリー」の存在は
フランス政府に政治的・作戦的に大きな困難をもたらしたと信じています。

それが本当だったかどうかはともかく、これ以降、フランスは
大気圏内における核実験をやめ、地下実験に切り替えたのは事実です。



クック海峡のRNZN艦隊

ニュージーランド海軍はペルシャ湾でのアメリカの不朽の自由作戦に参加し、
アフガニスタンでのアメリカおよび同盟国の活動を支援しました。
海軍は正規軍と予備役で構成され、それぞれの人数は
2014年6月30日現在でRNZNは正規軍2,050名、海軍予備役392名です。

民間人が RNZNVR に参加できるのは行政、海務(陸上巡視船への勤務)、
海上貿易組織(旧海軍船舶管理)の部門に限られています。

特殊なのは、RNZNの財政で、国会の「投票」で資金調達が決まることです。
それでは軍事装備取得などの大型プロジェクトはというと、
やはり国防省が行っているようです。

■ HMAS 「スタルワート」
自衛隊の案内には「ストールワート」と表記してありますが、
発音が「スターウォー」なので、あえて「スタルワート」とします。

どちらにしてもカタカナ表記は言語と全く違うので、どっちでもいいかと。

ちなみに前回書いたように、「スタルワート」は
「サプライ」級給油艦の二番艦ですが、それでは一番艦はというと、
やっはり「サプライ」というそうです。

艦名が、「補給」。
うーん、それってどうなの。



「スタルワート」には、隣の「アウテアロア」の甲板に掛けられた
階段を昇って移乗していきます。

「スタルワート」はニュージーランド海軍最大である「アウテアロア」より
これだけ甲板が高いということになります。

幅が狭く一人しか通過できないので、係が常駐していて
向こうから来る時には反対側を通行止めしなくてはなりません。

わたしがここを最初に渡ったときには全く待ちませんでしたが、
帰りには多くの人が下で待つ事態になっていました。
その時まだ10時頃だったと記憶しますが、昼頃にはどうなっていたことやら。


さすがはオーストラリア海軍の給油艦。

この作業艇も、



この救命艇も、階段の上から撮ったものです。



甲板にはテニスコートが二面くらい取れそうなスペースがあります。

補助艦であって戦闘艦ではないからということなのか、
甲板から続く細くて険しいラッタルを昇ったり降りたり、
(運動靴で来なかった人は絶対無理なハードモード)
なんと艦橋の高さまで昇らせてもらえました。



ふう、やっと艦橋のウィングにたどり着いたぜい。

日頃歩いているので階段を登るのは全く平気ですが、こういう時は
カメラが重いし、iPhoneも手に持ったままで大変なのよ。



ウィングにあるパネルは出入港時に何かを操作するものですが、
このパネルに書かれている「NAVANTIA」ナバンティアというのは、
「サプライ」級給油&補給艦のシップビルダーです。

スペインのマドリードに本社を持つ造船業者で、
2005年に会社を立ち上げたばかりなのに、既に
最新鋭のイージスシステム搭載フリゲートや潜水艦の開発、
大型強襲揚陸艦の建造が可能な技術水準を持つ実績をあげています。
オーストラリア海軍のためには、今回一緒にきている「ホバート」の
「ホバート」級駆逐艦、「キャンベラ」級強襲揚陸艦を建造しています。
元々「サプライ級」は、ナバンティアがスペイン海軍のために建造した
「カンタブリア」型補給艦をベースにしています。

スペイン海軍「カンタブリア」A-15

と「スタルワート」・・・あまり似ていないのだが
というわけで、「スタルワート」も隣の「ホバート」も、
実はスペイン生まれであったことがわかりましたね。
でっていう話ですが。


生まれて初めてオーストラリア海軍艦のブリッジに足を踏み入れる

なんと「スタルワート」、なんでも見てくださいとばかりに、
ブリッジですらどんどん人を入れて見学させているではありませんか。

ところで正面のパネルには、12.9mという数字が見えます。
これは、つまり岸壁からの距離ということでよろしいか。

こちらiPhoneの写真。
見張り?も二人だけというおおらかさです。



そして、この艦橋の広いこと。
そして操舵システムとパネルが一列に並んだコンソールの美しさを見よ。

色は全体的に黒で、インテリアはシックです。
パネルの配置もとにかくまず見た目がすっきりしていました。

椅子も黒革調でスマートで、事務的だけではない、
スペインらしい華やかテイストがそこはかとなく匂うゴージャスな作りです。

最近の建造ですから、コクピットは全て最新式のコンピュータ搭載、
その分ミニマイズされているということでしょう。


「フリート・エクササイズ」つまり観艦式のことですが、
プログラムが几帳面な字で書かれ掲示されていました。
ところでその下にあるヘッドセットの赤の色使いがとっても素敵です。



せっかくなのでこのプログラムを公開してしまいましょう。

艦隊航行プログラム

HMAS「スタルワート」

1000-1100 READY FOR SEA(出航準備)

CHECKS(点検)

1100−1130 EN EMBARK(出航)

1130 DEPARTURE BRIEF(出航後ブリーフィング)

1500 PILOTAGE(水先案内)

1415 PROCEDURE ALPHA(アルファ進行)

1500 BERTH(バース・着岸)

CN DEPARTS(誰かが下艦)

1600 DRESS SHIP(満艦飾)
2030 SELF DEFENSE FLEET RECEPTION(海上自衛隊艦隊レセプション)

時々わからない用語がありますが、概ね了解しました。
CNというのは「Chief of Navy」のことぢゃないかと思うがどうか。


環境からは隣の「ホバート」が見えます。
こ、これは駆逐艦・・・・っ!



Y-3桟橋のパキスタン海軍の艦が見えています。
なんて盛りだくさんな眺めなの。



艦橋レベルから甲板まで降りてきました。
ところどころに木製ベンチがしつらえられていてちょっと和みます。

乗員の休憩に使うらしく、これが結構あちこちにあるのですが、
縄で繋いで倒れないようにしてある光景は自衛隊では見られないものの一つ。

そしてベンチの右側のメッシュのバッグには紙コップが装備されていました。

ところで、Kさんは観艦式本番前日、横須賀での抜錨を見てから
車で先回りして観音崎展望園地でお見送りをされたそうです。

送っていただいた写真に「スタルワート」もいました。



赤いカンガルーと南十字星のホワイトエンサインが確かに。
この甲板を歩き、艦橋に足を踏み入れたのか・・・・。
この時艦艇の皆さんは本番前に相模湾で一晩待機したようです。


続く。



HMAS「ホバート」の艦歴〜国際観艦式に伴う外国艦艇一般公開

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オーストラリア海軍の補給&給油艦、「スタルワート」の艦橋から下を見ると
そこには紛れもなく駆逐艦らしき艦がいました。



HMAS「ホバート」HOBART DDG39

です。
イージスシステムを搭載していることは艦橋に装着された
8角形のAN/SPY-1Dレーダーを見れば一目瞭然。
艦橋前のMk41垂直発射機は海上自衛隊の護衛艦でお馴染みですが、
RANの駆逐艦でこれを搭載しているのは「ホバート」級だけになります。

あとは全てフリゲート艦ですが、よく言われる
フリゲート艦とデストロイヤーの違いは、一言で言ってサイズです。

フリゲート艦は駆逐艦より小型で、対潜水艦に使用され、
全てではありませんが駆逐艦は対艦・対空誘導弾向きです。
フリゲート艦は自衛隊には長年存在しなかった言葉で、
「くす」型護衛艦(アメリカ海軍のタコマ級フリゲート)の
「かや」以来ご縁がなかったわけですが、

最上型護衛艦、Mogami Class Frigate
が建造されて、半世紀ぶりにフリゲートを持つことになりました。
艦種となるFFMはフリゲートを表す「FF」に機雷の「M」からきています。

少し前、掃海部隊の規模縮小と掃海艦の引退がありましたが、
従来型と違い、機雷戦能力を導入した「もがみ」型は
この部分を埋めるタイプとして機雷戦能力を搭載しています。
「もがみ」と「くまの」

「もがみ」級の命名基準は一目瞭然、「河川」です。
今後続々と就役する予定の「もがみ」型護衛艦の名前は、

FFM-3「のしろ」
FFM-4「みくま」
FFM-5「やはぎ」
までが決まっており、さらにはFFM-10までが将来的に計画されています。
どんな名前が付くかも楽しみですね。(個人的には『しなの』『くま』(球磨)『あぶくま』なんかが欲しい)


おっと、閑話休題、「ホバート」です。


名前が掲げられています。


とりあえず「ホバート」甲板に立ってみました。
赤いカンガルーが眩しい。


これは「赤いカンガルー」シリーズから貰ってきた、
多分ファンネルのカンガルー。

カンガルーの向きが逆ですが、どっちに向けてもいいみたいですね。
この辺がおおらかというか、オージーらしい(単なるイメージ)というか。


「ホバート」はRANの航空戦艦の主力艦です。
前回も触れたように、隣の「スタルワート」と同じく、建造者は
ナバンシアNAVANCIAというスペインの会社で、
ナバンシアが「ホバート」のベースにしたのは、

「アルバロ・デ・バサン」級フリゲート艦
Fragatas clase Álvaro de Bazán

でした。


2番艦 F-102 アルミランテ・ファン・デ・ボルボーン
ちなみに、バサン級一覧

F-101  アルバロ・デ・バサン
SPS Álvaro de Bazán
F-102 アルミランテ・ファン・デ・ボルボン
SPS Almirante Juan de Borbón
F-103 ブラス・デ・レソ
SPS Blas de Lezo
F-104 メンデス・ヌーニェス
SPS Méndez Núñez
F-105 クリストーバル・コロン
SPS Cristóbal Colón
どれも名前長すぎ。
こちら「ホバート」
ちなみに今時の造船は全てそうなのかもしれませんが、
「ホバート」もプレハブモジュールを組み立てる方法で建造しました。

ただし、この工事でモジュール(ブロック)は建造が遅れたため、
結局三か所に分けて同時進行で工事を行い、艦首部分のブロックだけを
建造責任であるナバンティアが建造したという話です。

遅れた理由というのが、途中でキールブロックが歪んで着底したからで、
その原因は設計者ナバンティアの図面が間違っていたからでした。

結局「ホバート」の建造は予定より30ヶ月も遅れてしまいました。
もちろん予算も超・超過してしまったとか。

そしてオーストラリア海軍に引き渡されたのは2017年6月。

まだ就役して日の浅い艦なので、実績らしい実績はありませんが、
2019年に北部と東南アジアに展開する(つまり”対C国”ですな)
RAN機動部隊の旗艦を務めていますし、
2020年には、リムパックにRANから唯一の参加を果たしています。


目隠し加工にマスクを使ったらすごく不気味になってすみません
「ホバート」は乗艦はさせてもらえましたが、ラッタルを渡った瞬間、
回れ右して帰ってくるようなスペースしか公開していませんでした。

これは、海自の一個連隊がラッタルを通過するのを待っています。
この後、「ホバート」から「スタルワート」に戻った瞬間、
「ホバート」の乗員が何か呪文を唱え出したのでビクッとして振り向いたら、
ちょうど偉い人が下艦していくところでした。

サイドパイプが吹鳴されるはずなのですが、聞こえませんでした。
ロイヤル・オーストラリアンネイビーではやらんのか?
と思って調べたのですが、やらないということはないようです。


手のひらを立てるのがオージー風
ちなみにオーストラリアとニュージーランドでは、
∠( ̄^ ̄)はイギリス式だと思うのですが、
この写真を見る限り肘を横に張る陸軍式に見えます。

呪文が聞こえて立ち止まって見ていると、
いかにも偉そうな金ピカがやってきて通り過ぎたのですが、
あまりにも近くを通って行かれたので、カメラを向けるのは遠慮しました。

ちなみにわたしが聞いた乗員の「呪文」は、
「Piping the side」
に類することを言っていたはずですが、今回わかりませんでした。



さて、現在の「ホバート」は、RANにとって三番目の同名艦となります。



初代「ホバート」(I)は英国海軍のHMS「アポロ」を譲り受けたもので、
第二次世界大戦勃発後は地中海掃討作戦の支援に従事していましたが、
日本の参戦後は極東海域に移動し、日本軍の激しい爆撃に耐えました。

連合軍艦隊の一員として活動した際には、13回もの攻撃を受け、
当時の「ホバート」艦長は、その時のことを

「爆弾は、炸裂の赤い閃光が見えるほど近くに落ち、
爆発の熱を顔に感じることができた」

と書き遺しています。

「ホバート」はその後珊瑚海海戦に参加し、1942年5月7日には
日本軍の魚雷爆撃機8機と重爆撃機19機の標的にされましたが、
戦闘機の援護がない中、回避行動で3機を撃墜し、何とか被害を免れました。

1943年7月20日には、ついに日本軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け、
13人の将校と水兵が死亡し、さらに7人が負傷しています。

その後終戦を迎えた時、唯一のオーストラリア艦船として
東京湾での歴史的な日本軍の降伏に立ち会いました。

そして1962年「ホバート」は退役してスクラップになりました。
売却され解体したのは何の皮肉か日本の企業だったそうです。

二代目となるHMAS「ホバート」(II)は、RANのために米国が建造した
「パース」級誘導ミサイル駆逐艦(DDG)3隻のうちの1隻でした。

1965年ボストン海軍工廠で就役し、母港シドニーに翌年係留されてからは
ベトナムに3回派遣され、米第7艦隊の「砲列」で艦砲射撃の支援や、
米空母打撃群の見張りや護衛を担当しました。

1967年7月29日、空母「フォレスタル」の火災事故が発生したとき、
「ホバート」は同艦の支援に向かっています。

また、同艦の2度目の配備となった1968年6月17日には、
米空軍機が誤って同艦に向けてミサイルを3発発射し、
乗員2名が死亡、他数名が負傷する事故が発生しています。

この時被害を受けた上部構造物と犠牲になった電気技師長ヘンリー・ハント

ちなみに、この事故の時、「ホバート」と一緒に行動しており、
航空発射ミサイルの被害を受けたと申告したアメリカ海軍艦がいました。

それがなんと、わたしがこの夏、ミシガン湖畔で見学した駆逐艦、
USS「エドソン」です。

まさかRANの記事で、実物見学したばかりの米軍艦の名前を見ようとは。
その後「ホバート」は改装と近代化を重ね、誘導ミサイル発射システム、
バルカンファランクス近接武器システムの搭載が行われ、
1999年には、就役以来100万海里の航海を達成し、
これはRANの艦船としては3番目の快挙となりました。

そして2000年、同艦は艦名の由来となった都市ホバートを最後に訪問し、
退役して南オーストラリア州のヤンカリラ湾に沈んでいます。



■ HMAS「ホバート」(III)


GROW WITH STRENGTH


現在の3代目HMAS「ホバート」(III)は、
「ホバート」級誘導ミサイル駆逐艦3隻の一番艦です。

姉妹艦は、

HMAS「ブリスベーン」 Brisbane (III)
HMAS 「シドニー」Sydney (V)


「ホバート」は、沿岸部の陸上部隊やインフラに加え、
随伴艦の護衛、ミサイルや航空機に対する自己防衛を行います。

最新鋭のフェーズドアレイレーダーAN/SPY 1D(V)を搭載した
イージス戦闘システムは、SM-2ミサイルとの組み合わせにより、
150km以上の距離から敵機やミサイルを交わすことができる
高度な防空システムを海軍に提供しています。


東オーストラリア演習場において、ハープーン爆破実験

「ホバート」には監視・対応用ヘリコプターが搭載されており、
水上戦では、長距離対艦ミサイルや、陸上部隊を支援するための
長距離弾薬を発射できる艦砲を今後搭載する予定です。

水中戦に対する備えとして、最新のソナーシステム、デコイ、地表発射魚雷、
効果的な近接防御兵器の数々を装備する予定です。

マリナー・スキル評価期間への出発前、シドニー湾でのHMASホバート

「マリナースキル・エバリュエーション」
とは、安全な乗船作業に必要な能力を備えていることを証明するために
海軍のシー・トレーニング・グループから
数日間にわたって受ける厳しい評価試験のことです。

海上における船舶の安全維持に必要な様々な能力、
緊急事態を克服する能力を試すもので、最初は艦隊基地で、
その後出港して海上で実施されます。

評価対象は、乗艦するチームだけでなく、チームを送り出すボートクルー、
情報を提供するオペレーションスタッフ、
チームを支えるロジスティックスタッフ、チームが準備する武器、
ボディアーマー、無線を割り当てるその他のスタッフ全てとなります。


マリナースキル評価期間を終了しシドニー湾に入港する「ホバート」
「ホバート」前方でローレベル・フライパストを行うリアジェット35。

HMAS Hobart's Combat System Ship Qualification Trials
イージスシステム、VLS発射の映像に

「THAT'S LETHALITY」(それが致命的)
「思考する海軍 戦う海軍 あなたのオーストラリア海軍」

というロゴが現れる「ホバート」のイメージビデオです。

立ち入り禁止だった「ホバート」の後甲板を見ると、
勤務をオフしているらしい乗員さんたちが、
Tシャツに短パンで甲板から海を眺めていました。


最後に、Kさんからいただいた写真から、
観艦式のために観音崎を通過する「ホバート」の美しい姿をどうぞ。


続く。

船首形状いろいろ〜国際観艦式に伴う外国艦一般公開

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さて、外国海軍艦の一般公開、開場と同時に入場し、
オーストラリア海軍の「ホバート」の甲板までを見終わりました。



「アオテアロア」のハンガーを通り抜けて下艦します。



バスケットゴールの向こうには充実のジムが。
この後、ラッタルを降りて下艦したのですが、
このラッタルがすごかった。

説明しにくいのですが、「アオテアロア」備え付けのラッタルが
もっと低い岸壁に係留するための仕様なのか、
階段部分の角度が傾いてしまい、その上を歩くわたしたちは
まるで鉄のハシゴを渡るようなスリルを味わうことになりました。

靴との接地点が少なく、しかも踏み板は下に向かって傾いているので、
手すりを持たないで歩くのは不可能。
下にネットは張ってありましたが、段と段の隙間は大きく、
足を滑らせたら色んな意味で人生終わると思われました。

軍艦がバリアフリー仕様でないことくらいは百も承知ですが、
それにしてもこのラッタル、今まで自衛艦とアメリカの展示艦を
たくさん見てきたわたしにとっても、特にスリル満点なものでした。

この写真を見る限り、乗艦は上甲板階に、
下艦はその一階上から梯子を降ろしているように見えます。

ということは、上甲板と格納庫は同じ階ではなかったということか・・・。


さて、というわけで、RANとRNZNの3隻の軍艦を見終わりました。
これはKさん写真ですが、わたしがいたのと同じ時間っぽいです。

埠頭に出たわたしたちは、というかわたしの連れが、
この奥の艦を見ようといい出したので、左手に向かって歩き出しました。

そこでこんな光景を目撃したのです。
■「スタルワート」のバルバス・バウ



「スタルワート」の作業艇が、錨の塗装をしていました。

観艦式においでくださったお客様に対してこんなことを言うのもなんですが、
このとき見学した「アオテアロア」「スタルワート」「ホバート」、
どれもつい最近建造されたにも関わらず、艦内を歩くと
結構いたるところにサビが目立つので驚いた直後のことです。

海の上に浮いている鉄の塊・軍艦がすぐに錆びるのは当然とはいえ、
我が海上自衛隊の執念と思えるくらいの行き届いたメンテナンスと、
特にイベント前には彼らが必ず化粧直しすることを知っているので、
ついついこういうサビが目についてしまうわけです。

連れと、観艦式に呼ばれた時くらいはきれいにしてから来ようよ、
などと軽口を叩きながら甲板を見て回った後に、この光景を見たのです。


オーストラリア海軍、展示の間は暇だからか、観艦式を前に、
目立つ錨だけはきれいにしておくことにしたらしいのです。

作業艇にはペンキがかからないように、ちゃんとカバーがかかっています。



指揮官はオーストラリアンハットの人かな?



あっという間に錨を塗り終えて去っていく作業艇。
錨より、その収納部分に頑固にこびりついたサビを何とかしろと。



というところで、この「横顔」です。
まず「スタルワート」のバルバス・バウをご覧ください。

バルバス・バウ(Bulbous Bow)は日本語だと球状船首ともいい、
船が進む時の造波抵抗を小さくするための構造です。

バルバス・バウだとどうして造波抵抗が小さくなるかというと、
突き出している「球根」部分は艦体より先に進んで波を作り、
その波が艦体部分で位相が逆になって打ち消されるという原理です。

お分かりいただけただろうか



ところで「スタルワート」の艦体に描かれているコレですが、
「この先→バルバスバウあり〼」
という注意喚起に違いありません。(確信アリ)

錨を塗り替え真っ最中の写真をもう一度ご覧ください。

後ろに見えているのはフリゲート艦「ホバート」の艦体ですが、
よく見るとここにも「バルバスバウあり〼」のマークが見えます。(これがそのマークだとすればですが)


素敵すぎるバスバスバウの有効利用 HMAS「キャンベラ」



■ 環境配慮型”エンビロンシップ”「アオテアロア」


前回さらっと流して書いた、この「エンビロン・シップ」という言葉ですが、
あまりピンと来る方はおられなかったのではないでしょうか。

これは一般名詞ではなく、ロールスロイスの製品名となります。

船首部分を細くして前方の浮力を小さくするデザインは
隣のバルバス・バウとは全く違う思想で抵抗を小さくするもので、
一般的にウェーブ・ピアシング・ハルWave-pirecing hullといい、
「アオテアロア」の艦体は初めてこれを採用したものです。
環境問題という言葉を、英語では

Environmental Problem

といいますが、「エンビロン・シップ」は、要するに艦艇建造に
環境配慮&次世代型コンセプトを盛り込んだ計画ということができます。

ロールス・ロイス社の「Environship」コンセプト
について説明しておくと、まず、CO2排出量についての取り組み。

搭載されているベルゲンBシリーズのリーン・バーン・ガスエンジンは、
ディーゼルエンジンに比べてCO2排出量が約17%少なくなっています。

また、このガスエンジンの採用により、
窒素酸化物(NOx)排出量は約90%削減され、
硫黄酸化物(SOx)排出量もほぼないと言えるほど少なくなりました。

これらの排出量は、2016年に施行される予定の
IMO(国際海事機関)の第3次環境規制
の制限値内にすでに収まっています。

ロールス・ロイス社独自のプロマス推進システムは、
舵とプロペラを一体化したもので、これだけでも
船舶の効率を5~8%向上させることができます。

そして、この「アオテアロア」で目を惹く革新的な船首形状。

この船首形状と船型は、抵抗を最大8%低減するため、
燃料消費と排出をさらに削減することができるのです。

隣のバルバス・バウとはあまりに違うその形状は、
「垂直」。
見れば分かりますが、もうとんでもなく、空前絶後に垂直です。

軍艦で、海面とキッカリ垂直のバウを持つ船は、寡聞にして、
後にも先にも、この「アオテアロア」しか見たことがありません。

たまたま隣にいるオーストラリア艦のバルバス・バウは、
2段階に波を起こし、打ち消して抵抗を減らすという思想ですが、
垂直船首形状は、それに加えて荒波の中でも速度を維持することができます。
これを波浪貫通船首といいます。

この画期的かつ特徴的な波浪貫通船首、世界をリードするガスエンジン、
革新的なプロマス推進システムを組み合わせることで、
ロールスロイスは燃料効率を最大18%向上させることを可能にしました。
さらに「アオテアロア」は、南極での厳しい気象条件下での活動があるので、
艦体には耐氷性の強化および寒冷地対策が施されており、
推進システムもポーラーコードに適合させていることを付け加えておきます。

ポーラーコードは北極と南極における船舶運行に関する取り決めで、
IMO(国際海事機関)によって定められたガイドラインです。

ニュージーランド海軍が、この度「アオテアロア」という
最新式の環境配慮型軍艦を持ってきてくれたことそのものについて、
我々はもう少し注目してもいいかもしれません。


桟橋を歩きながら後ろを振り返ってみました。
手前の「ホバート」がバルバス・バウを持っているようには見えません。


■ パキスタン海軍の軍楽隊



「スタルワート」の艦橋からY-3桟橋に係留している
パキスタン海軍の「シャムシール」を撮っていると、
目立つ白い軍服の一団が整列しているのに気が付きました。


この雰囲気は軍楽隊じゃないかな?と想像。



この後、そのパキスタン海軍の艦を見学するつもりで、
桟橋を歩いていると、向こうからその人たちがやってきました。
やっぱり軍楽隊で、手に楽器ケースなどを携えています。



桟橋は区切られていて、この右側がパキスタン艦、
左側がシンガポール海軍の「フォーミダブル」見学ラインにつながります。
真ん中は退出用の通路です。

続々と向こうから歩いてくるパキスタン海軍軍楽隊の皆さんですが、
カメラを向けるのはこれも失礼な気がして、
下の方にカメラを持ったままさりげなくシャッターを押しました。
(つまり隠し撮りってやつです)

この時、軍楽隊は、横須賀中央通り、ドブ板通りで開催された
「横須賀パレード」に参加するために移動していたことがわかりました。

このパレードには停泊している海軍艦艇の軍楽隊はもちろんのこと、
防衛大学校儀仗隊、横須賀消防音楽隊、そしてフィナーレには
海上自衛隊横須賀音楽隊がマーチングを行ったということです。

パキスタン海軍軍楽隊@ドブ板通り

ところで、パキスタンの音楽隊ってどんな曲を演奏するのでしょう。
西洋音楽とかは全く演奏されたり聴かれたりしないでしょうし、
と思って調べてみました。
'Ceddin Deden' by Pakistan Army - Ottoman Empire Song


オスマン帝国の「ジャッディン・デデン」らしいです。
パキスタンとトルコってなんか関係あったっけ?
と思いあらためて地図を見ましたが、地理的にも結構離れているし、
歴史的にもあまり絡みはなさそうだし、なんで演奏しているんだろう?

音楽センス?に通じるものがあるのかな?と思って別の音源を探してみましたが・・・

Pakistan Navy Brass Band:パキスタン海軍軍楽隊演奏(カラチ)
 
練習とかその辺でやっていたと言うわけではなく、
何かのイベントで演奏しているところに海外協力隊の方がたまたま居合わせて撮影したようです。

うーん・・・わからん。

続く。

PNS「ナスル」「シャムシール」とパキスタン海軍〜国際観艦式外国艦艇一般公開

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観艦式はもうとっくの昔におわたのに、相変わらずのんびりと
外国艦艇一般公開についてのレポをお送りしている当ブログです。

さて、前回で南太平洋艦隊を見学し終わったわけですが、
知人が桟橋を奥に進み、次はパキスタン海軍の列に並ぼうと言ったので、
特に考えもないわたしはそれに従うことにしました。

オーストラリア海軍のHMAS「スタルワート」艦橋から見たところ、
パキスタン海軍からは大小の2隻が来日していました。



その名も「ナスル」と「シャムシール」。
(看板の説明を熱心に点検しているお子あり)

わたしが知る期間だけだと、パキスタンからの観艦式参加は初めてです。
せっかくこうやって日本においで頂いたのも何かのご縁。
我々日本人がほとんど知ることのないパキスタン海軍について、
今回はその歴史について語ることを試みます。

っていうか、これはわたしにとって全く未知の領域。
皆様の中にも興味のある方がおられるにちがいない・・と信じて。


■ パキスタン海軍 波乱含みの誕生 

【パキスタンとインドの分離独立】

1947年8月15日にイギリスから独立した英領インドが
主に宗教上の理由でインドとパキスタン王国に分離します。

パキスタン海軍は、そののち、消滅したインド海軍から移管された
人員と装備でスタートしました。

パキスタン海軍の最初の装備は、スループ2隻、フリゲート2隻、
掃海艇4隻、海軍トロール船2隻、ハーバーランチ4隻というものです。

この譲渡の時から、インドとは早速悶着が起こりました。

インドは分離独立したパキスタンに対し、ボンベイ造船所の機械はもちろん、
たまたまパキスタン国内にあった機械すら譲渡を拒否してきたのです。

発足当初のパキスタン海軍の人員は200人の将校と3,000人の水兵のみ。
最上級は大佐で、しかも軍人としてほとんど未経験。
士官のうち20名がインド海軍の執行部出身で、機械技術者は6名のみ、
兵器システムや艦船全体専門の電気技術者等は皆無という状態です。

パキスタン海軍は、創設早々から、人員不足、運用拠点の不足、
財政的支援不足、技術的・人的資源の不足に悩まされることになります。

当時三軍のうち陸軍と空軍の力が強く、防衛計画も予算も
陸空軍中心に組まれたという事情があったからです。
造船所もなく(当時地域唯一の造船所はボンベイにあった)、
次世代を担う人材の育成をする場所にすら事欠く国内事情も加わり、
パキスタン海軍の出だしには暗雲が立ち込めていました。


PNS「シャムシェール」
1947年インド海軍から譲渡されたパキスタン海軍の最初のフリゲート艦
訓練艦として使用された

今回来訪しているフリゲート艦と同名ですね。


■ 始動1947年~1964年
【第一次印パ戦争】

イギリスから分離独立したインドとパキスタンの間には
カシミール地方をめぐって1947年から第一次戦争が始まりました。

戦闘は陸空で展開したため、ほとんど出番のない海軍は、
駆逐艦でパキスタンからインドへの移住者の移送などを行っていました。

新海軍のトップはイギリス海軍から送られた英国人将校が占めていました。

ただ、このお陰で第一次戦争が終わった後、パキスタンは
イギリス海軍から寄付と譲渡により多数の護衛艦を得ることになります。

【イギリス統治が続くパキスタン海軍】

1950年、ついに海軍の国有化が行われることになります。
陸空軍から多くの将校が海軍に志願し、下士官は将校として任官しました。

政府は海軍のトップにパキスタン人を任命するよう交渉しましたが、
体制が覆ることはなく、その後も指揮権はイギリス人少将に、
パキスタン人は参謀長以下にしか任命されることはありませんでしたし、
非戦闘任務全てが常に英国海軍の支援監督の下に行われました。

政府は1954年、潜水艦を調達するためにイギリス政府に働きかけましたが、
貸与すら拒否されたため、パキスタンは、自国海軍の近代化のために
アメリカに、駆逐艦の貸与と金銭的な支援を求めて交渉を持ちかけました。

1955年、これを受けたアメリカ海軍の顧問がパキスタン海軍に派遣され、
パキスタン海軍に踏襲されていた英海軍の影響は一掃されました。

Royal Pakistan Navy から「ロイヤル」という接頭辞は削除され、
名称は『Pakistan Navy』PN に変更されることになりました。

三軍の優先順位も、海軍-陸軍-空軍から陸海軍-空軍へと変わります。

しかしその後も、どこから軍艦を調達するかなどの折衝をめぐって、
陸海軍の間に激しい内部対立が生じるようになってしまいました。

まあどこの国にもよくある話なんですが。
その後パキスタン政府が反共チームに参加した結果、
英米からは駆逐艦2隻、沿岸掃海艇8隻、油送船1隻が調達されました。



■ 印パ戦争とその後の戦時配置1965年-1970年

「パ海軍初の潜水艦『ガージ』取得」

海軍近代化のために潜水艦をなんとしてでも調達したいパキスタン海軍は、
カラチにある海軍工廠に英国関係者の指導を要請、同時に
インド洋で作戦展開するための訓練支援をアメリカ海軍に要請しました。

1963年ごろは、ソ連海軍がインド海軍に潜水艦を貸与する、
という情報があったため、潜水艦調達に対して米英は協力的だったのです。

当時西側がピリピリしていた反共というポイントをうまく利用し、
の協力を取り付けた結果、1964年、ついに待望の
PNS「ガージ」Ghazi が就役しました。


1965年、戦場でのPNS「ガージ」

 アメリカ海軍の「テンチ」級潜水艦USS「ディアブロ」Diablo S S-479
として就役し、その後パキスタン海軍に貸与されて
PNS「ガージ」として就役させることになったのです。

そんな折の1965年、カシミール侵攻が勃発します。
これにより印パの間で第二次戦争が勃発。

配備された最初の長距離潜水艦「ガージ」は、
インド海軍の空母INS 「Vikrant」の脅威に対し情報収集を行います。

その後パキスタン艦隊はインド空軍のレーダー施設、
ボンベイのインド海軍西部海軍司令部に対して砲撃作戦を展開しました。


その頃、パキスタン海軍は海軍航空の設立について、
戦闘機とそのパイロットが海で失われることを恐れ反対する派と、
この考えに敵対する航空AHQスタッフとの間で、対立が起こっていました。

そして、パキスタンには東パキスタン(現バングラデシュ)
との間の外交問題も起こっていました。

パキスタン海軍が戦争に対して準備不足で、
戦略は現実から切り離した結果でしかないのは明らかでした。


■ 第三次印パ戦争とPSN「ガージ」沈没

第三次戦争のきっかけは東パキスタンに起こった災害でした。

当時実権を西パキスタンに握られて植民地状態だった東パキスタンに
サイクロンが起きて国土が水没したのですが、中央政府の対応をめぐって
住民の不満が爆発し、独立運動が起こってしまったのです。

パキスタン軍が出動してこれを抑えるため制圧をおこなうと、
難民がインドに流れ込んでしまい、これにインドが怒って
第三次戦争が起こってしまったのでした。

【印パ海軍の戦闘】

戦闘が始まると、インド海軍はパキスタンの海上国境を突破し、
ソ連製の「オーサ」級ミサイル艇 で最初のミサイル攻撃を成功させました。

 このとき発射されたのは対艦ミサイルであるスティックスで、
時代遅れのパキスタン軍艦はこれに対する防御の術を持たず、
結果、軍艦2隻を沈没で失い、1隻が修復不可能な損傷を受けました。
さらにパキスタン軍の兵舎を狙ったインド海軍のミサイル地上攻撃では
1700名が死亡するという大惨事となり、
パキスタン海軍には心理的なトラウマを抱えると共に、
その後の戦闘能力を大きく低下させていくのです。

しかし対するパキスタン海軍は、潜水艦「Hangor」が
インドのフリゲート艦INS「 Khukri」を沈没させたこともあります。

INS「ククリ」

これは第二次世界大戦後初の潜水艦による軍艦の撃沈となりました。
インド海軍はこの沈没で18人の将校と176人の水兵を失いました。

そんなときパキスタン空軍のF-86 戦闘機が、
フレンドリーファイアーで海軍艦を攻撃するという事件が起こり、
パキスタン海軍 の作戦能力は事実上消滅し、士気は急降下しました。

そして、この戦争で配備されていた海軍唯一の長距離潜水艦
「ガージ」が、謎の状況下で沈没してしまったのです。

この沈没理由を、パキスタン側は機雷の爆発により沈没したとし、
インド海軍は撃沈したと主張して、いまだ原因は明らかではありません。

ともかくも、これが心理的に決定打となって、
パキスタン海軍は士気を明らかに喪失してしまうのです。

実際この戦争で海軍は従来の半分の戦力を喪失することになりました。

【パキスタン軍の敗北の理由】

後年の研究者によると、このときのパキスタン海軍の敗北は、
最高司令部が海軍の役割を定義することをせず、
海軍を『軍隊として考える』ことに失敗したから、とされています。

どういうことかというと、為政者が、海軍を軍として十分に理解せず、
またシーレーンを守ることの重要性も理解していなかったため、
海軍が本来持つべき力を発揮させられなかったということでしょう。

第三次印パ戦争ではインドの圧倒的な勝利となり、
東パキスタンはバングラデシュとして独立を果たしました。

■近代海軍への再編成と構築 1972年~1989年
戦後、海軍の近代化が押し進められます。
1972年ブット政権は、海軍の上級提督5人を解任し、人事を刷新。

1977年にアメリカから旧「ギアリング」級駆逐艦「エッパーソン」、
PNS 「タイムール」Taimur を取得。

PNS「タイムール」

1974年には、ついに海軍航空部門が設立されます。
イギリスからウェストランド・シーキング・ヘリコプターが供与され、
1979年にはインド海軍に対抗し、偵察機から陸上発射できる
地対艦ミサイル・エクゾセの試射を実施。
南アジアで初めて陸上弾道ミサイル搭載の長距離偵察機を保有しました。

潜水艦は、フランスの「アゴスタ70A」級潜水艦を購入、
「ハルマット」「ハシュマット」として就役し、このことは
インド海軍に対する海底での優位性をもたらしました。

当時アメリカはレーガン政権で、経済復興と安全保障支援を目的とした
32億ドルの対パキスタン援助案をアメリカ議会に提出し、
海軍はハープーンシステムの入手交渉に成功しましたが、
アメリカ国内におけるインドの強いロビー活動の妨害があったそうです。

こうして互いに軍備拡張を競い合った結果、インドとパキスタンは
互いに相手を封じ込めることができると確信していました。

やがてパキスタン海軍は、中東諸国への戦時展開を開始し、
アメリカ海軍を支援するためにサウジアラビアに戦力を展開しました。

■ 自立・交戦・秘密作戦(1990年-1999年)

1989年にロシア軍がアフガニスタンから撤退すると、
ブッシュ政権は秘密裏に行われていた原爆開発計画の存在を暴露し、
パキスタンに対する武器禁輸措置を発動します。

1990年にリース期限切れの装備を全て返還させられ、
海軍はいきなり資金調達の問題に直面してしまいました。

この禁輸措置は海軍の活動範囲を著しく狭めることになります。

ちなみに潜水艦の取得先を中国で検討していましたが、
あまりに静謐性がないためこれを断念したという話です。

どうも大人の事情というのか不可思議なのですが、アメリカの
禁輸措置にもかかわらず、米海軍はパキスタン海軍との関係を維持して、
原潜や空母の運用に関わっていたようです。

パキスタンもアメリカと繋がって損はありませんから、ソマリア内戦では
米軍の行動に参加し、ソマリア沿岸で戦時哨戒を行っています。

その後米国議会で禁輸が解除され、海軍は哨戒機を譲渡されました。


パキスタン海軍のP3Cオライオン

1999年8月10日、インド空軍が海軍航空隊を撃墜し、
将校を中心とした16名の海軍関係者が死亡する事件が発生。

1999年8月29日にはP3Cオライオンが事故により失われ、21名が死亡。

撃墜の件でパキスタン海軍はインドを国際裁判所に提訴しましたが、
後に裁判所の権限が過大であるとして請求は棄却されています。

 ■アフガニスタンでの対テロ戦争と北西部での作戦
(2001年~)

海軍は潜水艦への核兵器搭載を検討しましたが、実現していません。

2002年から2003年にかけて、パキスタン海軍はインド洋に展開し、
海上からのテロに対抗するための海軍訓練に参加し、最終的に中国と
誘導ミサイルフリゲート艦の設計・建造技術の獲得のための防衛交渉に入り、
F-22P誘導ミサイルフリゲート艦が2006年から建造されました。

2004年以降、インド洋に展開し、多国籍軍基地NAVCENTで
重要な役割を果たし、CTF-150やCTF-151の指揮を執るとともに、
「不朽の自由作戦」にも積極的に参加しています。
■ PNS 「ナスル」

今回国際観艦式に参加しているPNS「ナスル」Nasr(左)。

2008年には、インド洋でアメリカ海軍と共に、海上テロ防止のための訓練
「インスパイヤード・ユニオン」に参加した艦歴があります。

PNS 「ナスル」Nasr (A47) は、パキスタン海軍の905型補給艦です。
中華人民共和国の大連造船工業公司で建造され、1987年に就役しました。

連れの言葉に従って、「ナスル」の見学をしようと列に並んだのですが、
並んでいるわたしたちに、自衛官が、

「ナスルはグループごとに乗組員が付き添う形で乗艦します」

「艦内の写真撮影は禁止されています」

と注意しているではありませんか。
いうてなんだが、1987年建造の中国製補給艦のどこに、
撮影禁止にしなければいけないような機密があるというのか。

艦体錆すぎ

と思いましたが、桟橋一つ置いて宿敵海軍が停泊しているのだから、
日本人のふりをしてスパイする人がいないとも限らない、
と慎重になった結果かもしれん、とその時は思ったのです。

で、並び出したのはいいですが、列が全く進まんのよ。

グループごとに乗員が一人付き添って中を案内、
おそらくカメラは全部カバンに入れるか没収?
付き添いはこっそり写真撮らないか見張るため?

いずれにしてもピリピリした感が満載です。

なんならそういう非日常を味わうためにも乗ってみたかったのですが、
あまりに列が動かないので、堪え性のないわたしは離脱してしまいました。

ちなみにKさんによると、パキスタン海軍、終始マイペースで、
こんな状態で長蛇の列ができていても全く意に介さず、
誰か来たら見学者を止める、お祈りの時間になったら
全てを放棄して見学客を放置して甲板で祈り出す。

うーん、面白すぎるぞこの海軍。

「ナスル」の艦歴をざっと見てみたところ、

1998年、カラチで商業タンカーに突っ込まれたことがある

2004年のインド洋地震・津波ではモルディブへの救援活動を行い、
外国勢として初めて現地で救助活動を開始した

そしてまたしても面白すぎたのが、

2014年にオーストラリアで行われたカカドゥ軍事演習に参加したとき、
ダーウィンで乗組員が脱走するという事件があった。

すぐに見つかって連れ戻されたそうですが。


浦賀水道を航行する「ナスル」 K氏写真

乗員:士官26名、下士官兵120名
搭載武器:ファランクスCWAと37ミリ二連装銃、12.7ミリ機銃
艦載機:ウェストランド「シーキング」、
エアロスパティアル「アルエットIII」SA316


 ■ PNS「シャムシール」Shamsheel



「ナスル」の隣に係留してある小さな艦艇が
パキスタン海軍のフリゲート艦であることがわかって、
見学者の撮影を禁止したわけがようやくわかったわたしです。


「シャムシール」は2009年に就役したフリゲート艦で、
近代的な電子装備を全て保有し電子戦も行えます。

この建造も中国海軍で、もしかしたら撮影禁止は
中国からの意向もあったのかもしれないと思ったり。


Kさん提供

「シャムシール」、今回、日本の観艦式に出席する途中、
荒波のため行中の乗員二人が怪我をしていたことを知りました。

かなりの怪我だったらしく、同艦はフィリピンに遭難信号を出し、
サンタアナ港に臨時寄港して負傷者を搬送していたのです。

うーん、知らなかったわ。


横須賀を出港する「シャムシール」 Kさん提供


現在のところ、パキスタン海軍はインド洋での作戦範囲を拡大し続けており、
2013年に原子力潜水艦のプログラム構築を開始すると先に発表し、
また、トルコとの防衛交渉に成功したと報告されています。


Kさん提供
出待ちのパキスタン海軍軍楽隊の皆さん。
マスクをずらして楽器を咥えている人がいます。

続く。

インド海軍INS「シヴァーリク」と「カモルタ」〜国際観艦式外国艦一般公開

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お気づきのことと思いますが、今回の外国艦一般公開で
わたしが内部を見学できたのは、オーストラリアとニュージーランド、
合計3隻だけだったので、実は内部観覧報告は終わりです。

パキスタン海軍は列が進まないので脱落し、ここならいけるだろうと
並び出したカナダ海軍の列は、開場して1時間だというのに
もうすでに「待ち時間100分」の告知が出されていました。

とりあえず並び出し、列を一往復進んだところで
暑さとマスクの息苦しさに耐えられなくなって戦線離脱。

あとを頼む、と知人を置いてとっとと帰ってしまいました。

しかし、このイベントに全て参加し、あるときは木更津に、
あるときは田浦に、あるときは横浜に、あるときは観音崎に、そして
千代ヶ崎砲台跡まで見学されたスーパーお元気なKさんが、
その全行動を写真に収めて送ってきてくださっています。
(これがあったから当方の戦線離脱が早かったという噂もあり)

ここから先は、Kさんの写真にわたしの写真を申し訳程度に混ぜながら
ともかくも最後までご紹介していきたいと思います。

■ インド海軍



先日、パキスタン海軍の歴史を調べたところ、
その歴史はそのままインドとの戦争の歴史といってよく、わたしの思っていた以上にシリアスで洒落にならん関係でした。

海軍同士のつながりというのは国家間の関係とはちょっと別、
という言葉もありますが、実際最近までやり合っていた同士、(しかも2001〜2002年には不穏な睨み合いもあったらしい)
よく同じところに錨を降ろす決断をしたものだと・・。

ここは、海上自衛隊がいい意味で空気読まずに、
インドには「うちの観艦式、パキスタン来るけど来ない?」(・∀・)
パキスタンには「観艦式、インド来るけどお宅も来るよね?」(・∀・)と声をかけて、

「何っ、インドが行くなら出ないわけにはいかん!」
「パキスタンだけにいいカッコさせられるか!」

となるように競争心を煽ったのではないかとすら思えます。
ただ、観艦式の順番とかそれこそ係留する埠頭の位置とか、
自衛隊はかなり神経使ったんじゃないかと思うがどうか。

インド海軍

パキスタン海軍は分離独立を果たしてから、
インド海軍が分かれてできたような経歴ですが、こちらは
植民地化されてからずっとイギリス海軍としての歴史があります。
第二次世界大戦ではイギリス軍でしたから、
それこそ日本海軍からも猛烈な通商破壊戦で何隻も喪失しました。
この頃の保有軍艦は8隻でした。

オーストラリア、ニュージーランドと同じく、
ロイヤル・インディアン・ネイビーとして、1950年から2001年まで
このようなホワイト・エンサインを使用していました。


2001〜現在

現在のインド海軍は

「他の連合国軍と連携し、戦時・平時を問わず、インドの領土、国民、
海洋権益に対する脅威や侵略を抑止・撃退すること」

「インドの政治、経済、安全保障上の目的を推進するため、
インドの海洋権益地域に影響力を行使すること」

「インド沿岸警備隊と協力し、インドの海上責任水域における
良好な秩序と安定を確保すること」

「インドの近隣海域で海上支援(災害救援を含む)を行うこと」

を使命に掲げています。



■INS「シヴァリク」


INS 「シヴァーリク」 (F47) 

は、「シヴァーリク」級ステルス マルチロール フリゲート艦で、
インドが建造した最初のステルス軍艦です。

国産で、2001年に建造が開始され、2009年に完成し、
2010年4月29日に就役しています。

前級である「タルワール」級よりもステルス性と陸上攻撃性を向上させ、
また、インド海軍の艦艇としては初めて、

CODOG(COmbined Diesel Or Gas)推進システム

を採用しました。
ディーゼルエンジンとガスタービンエンジンを組み合わせた推進方式です。

全長142.5m
ビーム16.9m
喫水4.5m
標準積載時 約5,300トン
満載時 約6,200トン

乗員 約257名
うち士官37名

兵装は、ロシア、インド、西側の兵器システムを混合装備。

3インチ (76 mm) オートメララ海軍砲

超音速対艦ミサイル Klub と BrahMos

対空ミサイル Shtil-1

RBU-6000 対潜ロケットランチャー

DTA-53-956 魚雷ランチャー

近接武器システム(CIWS)32セルVLS発射のバラックSAMとAK-630
艦載機 2機のHAL Dhruv Sea King Mk.42Bヘリコプター


■ インド海軍の国際的立ち位置
日本との関係で言いますと、2012年、INS「シヴァーリク」は
インド海軍の駆逐艦とフリートタンカー4隻編成で、

JIMEX 2012(日印海洋演習)
に派遣され、インドにとって初の日本との海上共同訓練を行なっています。
自衛隊からは、護衛艦2隻、哨戒機1機、ヘリコプター1機が参加しました。
このときインドから参加した4隻の艦船は、東京に日間滞在しましたが、
この訪問は、日印国交樹立 60 周年の記念行事となりました。

その後定期的に行われているらしいJIMEX(後欄参照)に関しては、
在インド日本大使館のページなどでも紹介されており、令和2年度は
「かが」「いかづち」などが参加したと報じられています。

日印共同訓練令和2年
安倍晋三元首相が提唱した日米豪印クァッドQUADの設立時、
インドだけはこれが中国包囲網とかではないということを言明しました。

確かにインドと中国の関係性は我々が思うより密接です。

たとえばINS「シヴァーリク」も、日本の訪問の後中国に立ち寄りましたし、
青島で人民解放軍海軍 (PLAN) の 65 周年記念式典が開催されたときは
インド海軍も出席して、中国、インドネシアと共に
ハイジャック対策を含むハイレベルな演習を実施しています。
また、2014年には、ロシアと、海・陸軍対テロ演習である
INDRAウォーゲームに積極的に参加しています。

元々インドは勢力図で言うとレッドチーム寄りで、
パキスタン海軍がブルーチームだと言われていましたね。

ただ、インド海軍が頻繁に他国との軍事演習を行うのは有名?な話です。
これまでインドが行ってきた多国間防衛訓練を表にしてみました。
お節介ながら冷戦時の西側諸国を青、東側諸国を赤で記しておきました。
カタールは冷戦時まだ独立していなかったので黒のままです。

Milan Multilateral 1995~2022 10回
VARUNA 🇫🇷仏海軍 1983〜2019 17回
KONKA 🇬🇧英海軍 2004〜2019 14回
INDRA 🇷🇺ロシア海軍 2003〜2021 12回
MALABAR 🇺🇸米海軍 🇯🇵海上自衛隊 1992〜2020 24回
SIMBEX 🇸🇬シンガポール海軍 1994~2020 27回
IBSAMAR 🇿🇦南ア海軍 2008~2018 6回
SITMEX 🇸🇬シンガポール海軍 🇹🇭タイ海軍 2019~2020 2回
SLINEX 🇱🇰スリランカ海軍 2012~2020 8回
NASEEM-AL-BAHR 🇴🇲オマーン海軍 1993~2020 12回
AUSINDEX  🐨オーストラリア海軍 2015~2019 3回JIMEX 🇯🇵海上自衛隊 2012~2020 4回
ZA'IR-AL-BAHR 🇶🇦カタール海軍 2019~2019 1回
SAMUDRA SHAKTI 🇮🇩インドネシア海軍 2018~2019 2回
BONGOSAGAR 🇧🇩バングラデシュ海軍 2019~2020 2回Zayed Talwar🇦🇪 UAEアラブ首長国連邦海軍 2021~2021 1回
Al-Mohed Al-Hindi 🇸🇦サウジアラビア海軍 2021~2021 1回

趣味:他国との軍事演習というくらいの実績でしかも相手を選ばず。
いろんな国を巻き込んで軋轢を作らない方向性というか、
インドにすればこれが宿敵パキスタン包囲網のつもりだったりするのかも。
で、一応念のために確認しておきますが、
インドは冷戦時はレッドチームだったんだなこれが。
■INS「カモルタ」



INS「カモルタ」Kamorta P 28
は、インド海軍のために建造された
対潜水艦「カモルタ」級ステルス コルベット

で4隻建造された同級のネームシップです。

先ほど、インドが世界中の海軍と演習をしまくっていることを書きましたが、
インド海軍は「真のブルーウォーター・ネイビー」を目指してきており、
現在は晴れてそのブルーウォーターネイビーの一員と目されています。

外洋海軍、ブルーウォーターネイビーは、反対の意味の地域海軍が、
その国の沿岸のみで活動する海軍力しか持たないのに対し、
広範囲での制海権を行使する海軍力を持つとされます。

艦船や潜水艦を国内で設計・建造することができる、というのも
ブルーウォーターネイビーの条件であり、このためにインド海軍は
自国艦建造の自立を目指し、「カモルタ」建造もその重要な一歩でした。

同級は、2003年に承認されたプロジェクト28の一環として、
GRSEによって設計・製造され、2010年進水、2014年に就役しました。

INS 「シヴァリク」と同様、インド産の高級鋼材を使用した、
インド初の国産対潜コルベット、初の国産ステルスコルベットです。

鋼材には、国営インド鉄鋼公社がビライ製鉄所で生産する
独自開発の特殊級高張力鋼 (DMR249A)が使われました。


「カモルタ」はインドのニコバル諸島にある島の名前です。
ちなみに同級の名前は

「カドマットkadmatt」「キタンKitan」「カヴァラッティKavaratti」
で、命名基準はインドの島の名前です。
■「カモルタ」の最新性能

当クラスの特徴は、そのステルス性ですが、もう一度写真を見てください。
2枚めの右側の艦体と、この上の写真からお分かりのように、
艦体と上部構造が、途中のくびれた「X」字型なのがお分かりでしょうか。この傾斜側面のため水中音声信号やレーダー断面が低くなります。

また、インド海軍艦として初めて炭素繊維強化プラスチックで建造され、
重量を軽減、ライフサイクル・メンテナンス・コストを削減しました。

センサーや兵器システムの大部分は艦体に包含されており、
これらもインド国内の各企業が手掛けました。

赤外線抑制、音響静粛システムなどのステルス機能も強化されています。


コンピュータで作成した、プロジェクト28カモルタ級コルベットの設計図
また、折りたたみ式のハンガードアも特徴です。
(あああ〜見学したかった)

推進力は5,096馬力 (3,800 kW) のディーゼルエンジン4基を
1,050 rpmで搭載しており、最高速度32kn (59 km/h; 37 mph) が可能。

乗員は約180名、将校は15名。



BELRavathi レーダー これもメイドイン・インディア



L&T RBU-6000 ASW ロケットランチャー(爆雷)
原型はソ連が開発、L&Tはインド企業


バラット・エレクトロニクス社(インド)開発の火器統制レーダー


流石にこれだけはイタリア製オトーメララ

ここまで調べて、わたしにはわかってしまいました。

つまり、今回のインド海軍、世界に、特に宿敵パキスタンに、
この自他ともに認めるブルーウォーターネイビーの証を見せびら・・
おっと、見せつけるために、自慢の国産艦を、
内部まで惜しみなく一般公開したのに違いありません。

って、観艦式=軍事パレードと考えるならどこもそれが目的なんですけどね。


続く!

シンガポール海軍と「フォーミダブル」〜国際観艦式に伴う外国艦艇一般公開

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日本国海上自衛隊主催、国際観艦式三カ国海軍艦艇を
大体見た順番に紹介していっています。
というわけで、今日は、見学しようと思ってちょっと並んだだけの
パキスタン海軍の「ナスル」「シャムシール」と同じ埠頭に係留していた
シンガポール海軍の、

RSS「フォーミダブル」Formidable F68
から見ていくことにしましょう。

「フォーミダーブル」というその名に聞き覚えのある軍艦は、
艦艇公開だけで終わった前回の観艦式にも来日しており、
反対側の岸壁で係留していた自衛艦の甲板から外観だけ見学しました。

今回も同じ軍艦を寄越すのには何か理由があるのでしょうか。

それではまず、今回の恒例として、シンガポール海軍について
概要というかちょっとした歴史を調べてみました。

■ シンガポール海軍

シンガポールというのは、教育はじめテクノロジー対応についても
イノベーションの点でも何気にスペックの高いスマートな国ですが、
正式な国名が、

Republic of Singapore (シンガポール共和国)

であることについては知らない人も多そうです。(わたしもな)
その海軍、シンガポール共和国海軍は、

Republic of Singapore Navy 

であり、略称はRSNですが、すべての就役艦に付されるのは
Republic of Singapore Shipを意味するRSSとなります。

【植民地海軍の発祥と『若鷹』】

シンガポールが植民地だった1934年、イギリスの王立海軍の予備軍として
たった2隻の哨戒船を保有するシンガポール海軍は生まれました。
正式名称は、

The Straits Settlements Royal Naval Volunteer Reserve
海峡植民地 王立海軍 志願予備軍(SSRNVR)
の、シンガポール部門という扱いです。
第二次世界大戦中はシンガポールの戦いを経て日本に占領され、
昭南島とこの期間だけ名付けられていたシンガポールですが、
戦後はその勢いでイギリスから自治権を獲得し、自治州となります。

そして1963年、マレーシアが独立した際、シンガポールは
連邦制の下でマレーシアの州の一つとして同時に独立を果たします。

この時、海軍はまだマレーシアの一部であったため、

ロイヤル・マレーシア海軍
 Royal Malayan Navy

と改名しました。

このとき正式に英国海軍の指揮下からマレーシア海軍に移管され、
「シンガポール義勇軍」(SVF)として起つわけです。

そのうちマレーシアはインドネシアとの間に対立が起こります。
(そういえば、今回の観艦式にはどちらも参加していましたね)

その間、シンガポール義勇軍は侵入者や妨害者から南部国境を守る役割を担い、
またインドネシア海軍に対して局所的な小交戦を行うこともありました。

1965年、マレーシアから分離独立を果たしたシンガポールは、
独立共和国を建設し、それまでのシンガポール義勇軍(SVF)は、
マレーシア海軍の隷下にありながら、事実上新国家の海軍部隊となりました。

分離後、シンガポールに残った艦艇は3隻でした。


漁船ぢゃないよ RSS「パングリマ」1988

そのうちの1隻、RSN最初の軍艦だった

RSS「パングリマ」Panglima(P68)

は、そのままシンガポール海軍義勇軍艦として再就役しています。
後2隻は「ペドック」「シンガプーラ」と言いますが、
みなさま、この「シンガプーラ」たんの最初の姿をご覧ください。


「若鷹」だった頃の「シンガプーラ」
「若鷹」は1941年、播磨造船所で建造された「初鷹」型敷設艦の3番艦で、
1942年からバタビヤ方面、ラバウル(ニューブリテン島)、
ショートランド泊地、パラオなどで船団護衛に従事しました。

戦後はマニラ、サイゴン、高尾、シンガポール、沖縄、
パレンバン、バンコク、香港などとの復員輸送業務に従事し、
戦後補償の一環としてシンガポールでイギリスに引き渡されました。

シンガポール海軍の最初の軍艦になったのはこれが下げ渡されたからで、
まずマラヤ連邦所属となってからは、

ラブナン(HMMS Laburnum)

と命名され宿泊艦として使用されました。

1965年シンガポール所属となり同国義勇海軍の練習艦となった「ラブナン」は1967年5月5日シンガプーラ(RSS Singapura)と改名し、
同国義勇海軍の旗艦となった、という経緯です。
「ペドック」も、同じくフローティング司令部として就役しました。

ちなみにRSS「パングリマ」は、1988 年に練習船となり、
1991 年まで現役を続けました。

■ シンガポール海軍始動


新しいシンガポール海軍の海軍旗が初めて掲揚されたのは
1967年5月5日のことで、当初の名称は

The People's Defence Force – Sea
海上人民防衛軍

でした。

当初のシンガポール海軍は新兵教育のために
ニュージーランド海軍の教官を招聘し、
士官教育をオーストラリア、イギリス、カナダ、ニュージーランドの
既成の海軍に留学させるという方法を取りました。

海上戦闘力の対象は海賊や密輸の撲滅です。

1968年、イギリスから6隻の「インディペンデンス」級哨戒艦が購入され、
これが1海軍が保有する最初の専用軍艦となります。

ちなみに、シンガポール海軍の戦略的な必要性が証明されたのは、
1974年に発生した

日本赤軍のテロリストによるブコム島石油施設における
「ラジュー号」シージャック事件

でした。
『シンガポール事件』

この事件の際、RSS「シーホーク」、RSS「インディペンデンス」、
RSS「ソブリン」、RSS「デアリング」の4隻の艦艇が海洋警察とともに
逃走するフェリーを包囲し、逃亡を防ぐなど、活躍したのです。

1975年4月1日、海上司令部はシンガポール海軍と改名され、
それ以来その名称が維持されています。

■艦隊の近代化


1975年からシンガポール海軍に6隻の「シーウルフ」級ミサイル砲艦が就役し、
ベトナム戦争の難民流入のパトロールを行いました。
そして、米国から「カウンティ」級戦車揚陸艦6隻を、
1隻1ドルで購入しています。

また、機雷戦の脅威に対して「ブルーバード」級掃海艇2隻を購入し、
水中機雷処理作業を行うフロッグマン第一陣の訓練も始まります。

しかし、RNSはしばらくの間シンガポールに三軍における海軍の優先順位が
一番低かったということもあり、人員の不足から信頼を失い、
危機的状況に陥っていました。

その後、マラッカ海峡と南シナ海の海上交通路を確保するために、
海軍当局が政府を説得したこともあり、
1990年から海軍は復権を果たします。

その結果、「ビクトリー」級ミサイルコルベット6隻、
「フィアレス」級哨戒艦12隻、「エンデュランス」級揚陸艦4隻を取得し、
スウェーデンからは中古の「チャレンジャー」級潜水艦4隻を獲得しました。
■ 国際紛争など

マレーシアとシンガポールの間にも領有権紛争がありました。
ペドラブランカという島の領有権をめぐる両国の紛争は
国際司法裁判所によってシンガポールのものと決定される2008年まで
29年間続いていたわけですが、その間、シンガポール海軍は
パトロールを通じて島周辺の海域でプレゼンスを発揮していました。


RSNはまた、シルクエアー185便の捜索のために
「ベドック」級地雷対策艦を派遣していますし、
1999年の独立を問う住民投票後の人道的・治安的危機に対処するため
オーストラリア主導で東ティモール国際軍に参加しています。

また、ペルシャ湾のイラクの主要施設周辺の海上警備を担当する
多国籍軍イラク連合軍の一員としても活動しました。


■ 安全保障

RSNは「アーチャー」級潜水艦、「フォーミダブル」級フリゲート、
「インディペンデンス」級沿岸任務船を新たに導入し、
周辺海域の緊張が高まる中、抑止力を高めています。

シンガポールもまた少子化が進む国の一つですが、
海軍は海軍の人員不足に将来的に対応するため、
特殊海上艇(Specialized Marine Craft)哨戒機や、
護衛艦(Protector USV)など、武器の無人化を推し進めています。

海賊対策活動においても、RSNは近隣諸国とマラッカ海峡で
多国間における連携を行い、任務部隊の一員として活動を続けています。

シンガポールとマレーシアとの問題は他にもありました。

2018年、シンガポールが自国と主張する埋め立てた海域に
マレーシアが権益を拡張して沿岸警備隊と政府船を配備し、
RSNは対抗して警察沿岸警備隊とともに24時間365日現地に駐留。

結局両者は最終的に交渉に成功してこの地域から撤退することで治りました。

■今後の調達計画

海軍は2019年、最初の新造「インヴィンシブル」級潜水艦を進水させ、
さらに3隻を建造中です。

マルチロール戦闘艦(MRCV)(無人資産のための「母艦」)
と合同マルチミッション船(JMSS)、また、
新がクラスの哨戒艦を2026年に就役させる予定です。
■ RSS「フォーミダブル」

Kさん撮影:観艦式から帰投する「フォーミダブル」
「フォーミダブル」級マルチロール・ステルス・フリゲートのネームシップ、

RSS「フォーミダブル」Forumidable R68

「フォーミダブル」級はRSNの最新の水上プラットフォームであり、
フランス海軍の「ラ・ファイエット」級フリゲートの多用途艦です。
シンガポール海軍は老朽化した「シーウルフ」級の後継を募集し、
入札によってフランス海軍がこれを請け負いました。

設計と建造

前回の観艦式で「フォーミダーブル」を見た人が、
これを生まれて初めて生で見たステルス軍艦だと言っていました。

ステルス仕様のため、「フォーミダーブル」の艦体側面は傾斜させてあり、
レーダー反射断面積(RCS・Radar cross-section)低減を図っている他、
ブルワーク(舷檣、上甲板の外舷に沿って立ち上げた波の侵入を防ぐ囲い)や、
洋上補給装置を低RCSカーテンで隠すなどの設計がなされています。

なお、後部の上部構造は全鋼材で構成されています。

■センサーとシステム
MBDA(旧ユーロサム)のアスター防空システムを搭載しており、
艦対空ミサイルとしてSylver垂直発射システム(VLS)を装備しています。

「フォーミダーブル」級フリゲートは、約370kmまでの影響範囲を持ち、
海上で海軍の移動作戦司令部として機能し、
範囲内に配置された僚艦や航空機から情報を受信することができます。

これのシステムだと「センサー」から「シューター」までのループが短いため、
敵に反応する時間をほとんど与えることがありません。

■兵装

ボーイング・ハープーンミサイル
オトーメララ76mm砲
ハープーンミサイルは射程130km、アクティブレーダー誘導方式、弾頭227kg。
艦の中央部には24基ものハープーンミサイルを搭載するスペースがあり、
このクラスで最も武装が充実した艦となっています。

砲は6kgの砲弾を最大射程30km、毎分最大120発の発射速度で発射。

EDO社 アクティブ低周波曳航式ソナー
長距離潜水艦の探知と分類を可能にする。
ユーロトップA244/S Mod 3 軽量魚雷
ブルワークの後ろに隠された2基のB515三連装発射機から発射される。

艦載機:
Sikorsky S-70B海軍ヘリコプター

ヘリコプターはシンガポール共和国空軍の飛行隊が運用し、
空軍のパイロットが操縦することになっていますが、
システムオペレーターは海軍が行うことになっています。


続く。

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