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年忘れ人物ギャラリー(航空人編)

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人物編は、ここ2年くらい集中して連載した女流飛行家を中心にお送りします。
まずは、

サビハ・ギョクチェン(「大統領令嬢は戦闘機パイロット」

ウムラウトのついているこの苗字の読み方、「ゴクチェン」
と何処かで見ましたが、わたしがこの夏トルコ人のじいさんと話した時に
ギョクチェンと発音していたので、これで正しいようです。

トルコ建国の父である大統領、ムスタファ・アタルチュクの養女であり、
彼からほぼ強制されるようにして「世界初の女性戦闘機パイロット」
となったサビハ。
与えられた名、ギョクチェンとは「空」を意味していました。

アタルチュクの「英雄伝説の彩り」として彼女は養父に創造された
存在ではなかったか、というわたし自身の推測を、
日本とトルコの関係を語る上で欠かせない「エルトゥールル号事件」
とトルコ政府の「恩返し」と共に語ってみました。



映画「アメリア 永遠の翼」についてお話ししたのは
つい最近のような気がしていましたが、夏だったんですね。
最近時が経つのが妙に早く感じるのですが皆様はこの一年、
あっという間でしたか?それとも・・・、

と時候の挨拶につながってしまいましたが、まあそういうことです。
来年もよろしくお願いします。




ルース・エルダー(「アメリカン・ガール」

いつの時代も女性は美人だと得をすることが多いものです。

彼女は、美人ゆえ太平洋横断の女性第1号に挑戦し、
(といっても横に乗ってただけ)失敗したものの女優になって、
しかし南部なまりのため大成せず、とかなんとか言いながら
女性飛行界の重鎮となって、死ぬまでに6回も結婚しました。

おそらく、本人的には楽しい人生だったんじゃないかと思います。

本稿ではそんな彼女の人生と「美人税」というか、美人ゆえに
褒貶の貶もあったよね、ってなことを語ってみました。

ちなみに、その後女性で初めて「乗客となって大西洋を横断した」
のが、ご存知アメリア・イアハートです。

  

リディア・リトヴァクとマリナ・ラスコヴァ

「スターリングラードの白薔薇」とあだ名された
ソ連軍の女性エースパイロット、リトヴァクと、
「ナハト・ヘクセン」(夜の魔女)とドイツ空軍が恐れた
女性飛行隊を率いたラスコヴァ、ブダノワについてお話ししました。

ソ連という国はある意味共産主義なので男女平等なのか(適当)、
能力のある女性を戦闘機に乗せ戦わせるということをしたため、
彼女のように何人かの女性エースが誕生しています。

アメリカでは、後に出てくるナンシー・ラブがそうだったように、
戦地に輸送業務で向かおうとしただけで

「万が一戦死することがあったら責任を問われる」

という考えから、軍はそれを決して許しませんでした。
日本の場合は

「もし女が飛行機に乗っていることがわかったら、
日本は女の手を借りて戦争をしているといわれる」

というのが女性拒否の理由でした。
日本はまず無理だったでしょうが、もしアメリカでそれが許されたら、
「スコードロン・ナイト・ウィッチーズ」とかリトヴァクのような
美人のエースが出てきて、それはそれで後の戦史が面白くなったのに。
(顰蹙?)



ジャクリーン・コクラン(「レディ・マッハ・バスター」

そのアメリカの航空隊に女性が関わった例となると、
この人の名前が真っ先に出てきます。

ベッシー・リー・ピットマンという水車の修理工の娘が、
ベッシー・コクラン、そしてジャクリーン・コクランと
出世魚のように名前を変えながら成り上がり、
エステシャンから玉の輿にのって富豪の妻に収まって、
趣味でやってみた飛行機で今度は女子飛行隊を作って名声を得る。

絵に描いたようなシンデレラストーリーですが、その割には
彼女の名前は今日アメリカでもそう有名なわけではありません。

晩年、欲をかきすぎて政治家を目指して落選したのが彼女の
人生における唯一の挫折だったと言われていますが、
思ったほど後世に名を残さなかったのも生前の彼女の誤算でしょう。

しかし、音速を超えた最初の女性(マッハバスター)とか、
あるいは母艦着艦した最初の女性、などというタイトルを見ると、
実力はあるのに、逆にどうして英雄として讃えられないのかは、
あるいは彼女の出生にあるのではという気もします。

実績があれば男はむしろ成り上がりであることは勲章ですが、
女の成り上がりには性を利用したという誹りを免れないためかなあ、
とふと考えてしまいました。



ナンシー・ハークネス・ラブ(「クィーン・ビー」)

飛行機に乗るのが好きな良家の子女が航空士官と結婚し、
ふとしたことから女子飛行隊の隊長になりました。

コクランのようなガツガツした出世欲もなく、ただ
飛行機会社を経営していたことから、軍に女子飛行隊を作ることを
提案したところ、夫の上司の引きでトントン拍子に話は進み、
彼女は女子飛行隊の初代司令(女王蜂)となるのでした。

コクランのライバルとされていたラブですが、実際には陸軍は
最初にラブを選び、コクランの力技も後から考慮した結果、
コクランを練習支隊の司令に任命し、全ては丸く収まりました。

コクランがマッハを破ったり選挙に出たりして変わらずハッチャケている間、
ラブは家庭人に戻り、マーサスヴィンヤードの彼女のうちには
かつての部下が彼女を慕ってしょっちゅう訪れていたということです。



ルイーズ・セイデン(「タイトルコレクター」

野心がないといえば、野心のなさとその実力がこの人ほど反比例していた
飛行家はいなかったのではないでしょうか。
可愛らしくて人受けするタイプだったらしい彼女はビーチクラフト社の
ビーチ社長に気に入られ、飛行機に乗り始め、さらには飛行機製造業の
ハーバート・フォン・セイデン社長と年の差婚をして、
女性だけの飛行レース「パウダーパフ・ダービー」であっさり優勝。

さらには男女混合のペンデックストロフィーレースでは、
同じく女流飛行家のブランシュ・ノエスとワンツートップ優勝。

「タイトルコレクター」の名を欲しいままにした彼女は、
頂点であっさりと引退し、見事な引き際を見せました。

パウダーパフレース出場者

の面々を見ると、(ルイーズは左下)美人のエルダーさんは別格として、
彼女が可愛らしいタイプの女性であることがわかるでしょう。
ちなみに、左上がシリーズで扱ったこともある

フローレンス”パンチョ”バーンズ、(「リアル・キャラクター」

そしてルイーズの右隣の写真が

 

ボッビ・トラウト(「プレーンクレイジーとフライングフラッパー」

です。
ボッビのライバルで、どちらかというとこちらの方が有名だった、



エリノア・スミスとともに「女性同士にライバル関係は存在するか」
ということをテーマにお話ししてみました。
「サンビーム・ガールズ」

結論は・・十分予想できることですが、もし気になったら読んでみてください。

 

パク・ギョンウン(「日本人・朴敬元」

日帝統治時代、朝鮮半島出身で初めて女流飛行家となった彼女ですが、
それゆえ本国では現在、全く名前を無視されています。
彼女の生涯に枕詞のように付けられる「偏見を跳ね返し」という言葉は
実はそれこそが偏見ではないのか、そして彼女が飛行家になれたこと
そのものが、今韓国のいう「過酷な日帝支配」とは矛盾していないか。

そんなことを語ってみました。



有名な飛行家ではありませんが、当時の女流飛行家に
いかに綺麗な人が多かったかということをいうためだけに
この人の絵を描いてみました。

でもって、痩せてるんですよね。このころのアメリカ人。



映画「ライト・スタッフ」の長丁場エントリのために描いた
音速を破った男、チャック・イェーガー。

これを描いた頃まだ元気だったのですが、その後訃報を聞いていないので
まだまだお元気の様子です。(2014年12月31日現在91歳)

ちょうどその頃、89歳で音速を超えてるんですよねこの爺さん・・。
今際の際に「音速を越してくれ。そのまま逝くから」って頼みそうだなあ。




全く航空人ではありませんが、「大空のサムライ」つながりで。

「大空のサムライ」では全くないことになっていた主人公坂井三郎のロマンス。
日本以外で今も発行されている「SAMURAI!」には、片面1ページに
坂井氏の最初の妻であった従姉妹の「ハツヨさん」の写真があります。
この写真は紛れもなくその結婚式のために髷に結い、
角かくしをつける前のハツヨさんの写真です。

彼女はこの著書の前書きでも坂井氏が語っているように、
戦後すぐに病没してしまいました。 



その「SAMURAI!」に掲載されていた扉絵の坂井三郎。
零戦の日の丸をバックにしており、まさにこの本には
ぴったりの写真だったのでしょう。
ちなみに当初は現在でも再版を重ねており、
少なくともアメリカでは今も好んで読まれているようです。 



佐村河内事件を音楽関係者の立場から語ってみる。

人物といえばこんな人物も描いてますね。
今年のわたしにとっての一番の修羅場といえば落馬して手首を骨折し、
一時は右手の使えない人になっていたことですが、
お休みしている間にサムラゴーチ事件が起こり、ちょうどいいやと思ったので
復帰第1作としてこの絵を描いてみました。

復帰第1作が佐村河内というのはどうよとその時も描いたのですが、
気が付けばこのエントリが今年最後、つまりこの絵が
今年最後にお見せする絵になってしまうわけです。 

それも如何なものかと思わないでもありませんが、
わたしにとっての今年の10大ニュースは

1、落馬して骨折
2、練習艦隊のレセプションに招待される
3、日本将兵のご遺骨を晴海埠頭でお出迎え
4、地球防衛軍顧問に就任
5、その流れで地方総監表敬訪問
6、富士総火演初参加
7、朝霞駐屯地訪問
8、艦上慰霊祭に参加
9、音楽まつりに参加
10、三つ桜の刻印されたカップを拝受する

・・・・それ以外は自衛隊関連以外思いつかない、
というくらい、この骨折はわたしにとっておおごとだったので、
その復活第一作であるこの絵を持ってくるのは、今年を振り返るのに
たいへん意味のあることなのだと、無理やりこじつけて終わります。


ちなみにこのエントリ、「いいね!」が95もついて、
自分の考えが世間にご賛同いただけたらしいことが嬉しかったです。


それではみなさま、来年もよろしくお願いいたします。
どうぞ良いお年を。




 


謹賀新年 「いせ」の艦内神社と大宮司の揮毫

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皆様。
あけましておめでとうございます。
これまでのご愛読ならびにご指導ご鞭撻に心から感謝するとともに、
今年も精進して参る所存ですので何卒よろしく御願いいたします。



昨年、護衛艦「いせ」に慰霊祭のため乗艦させていただきました。
海上自衛隊がフィリピンのレイテに海外派遣されたニュースを受け
「戦艦『伊勢』の物語 」というエントリを書いたところで、
その「伊勢」の慰霊祭に参加させていただけるなんて、
不思議なご縁と言わずしてなんというのでしょうか。

お誘いくださった方には衷心より感謝する次第です。

その時のご報告はそのうちさせていただく予定ですが、
元旦なので「いせ」の艦内神社の話を少々。

昔の戦争映画を見ると、「赤城」から出撃する艦載機の搭乗員などが
出撃前に頭を下げて神棚に祈りを捧げるシーンが必ずあります。
軍艦の中に鎮座する「艦の守護神」である艦内神社です。

日本人のこういう信仰のあり方について全く理解していなかった
映画「パールハーバー」では、乗員たちが仏壇とも神棚ともつかない
御神体のようなものを船室に飾り、それに酒ビンだの経典だの、
数珠やローソクなどを備えている無茶苦茶なシーンがありましたが、
どうもマイケル・ベイ始めあの映画のアメリカ人スタッフたちは、
自分たちの武運長久を祈願するための「お守りグッズ」として
あの「マイ神棚」を各自が持ち込んでいると思っているようでした。

艦内神社というのが「艦の神様の居所」であり、それとて
個人の利益繁栄をお願いするためにあるものではない、という
日本人であれば生まれながらの血で理解できるこの一事が、
どうやら彼らには全く理解できなかったやに思われます。
 

さて、大東亜戦争期の日本の軍艦のうち、戦艦、空母、重巡、
軽巡洋艦は、地名由来の艦名が付けられています。

「比叡」「榛名」「日向」「長門」「陸奥」「霧島」。

「大和」「武蔵」そして「伊勢」ももちろんその法則に則ったものです。
それらの艦に備えられた艦内神社は、艦名にゆかりのある地域の神社から
御祭神が分霊されており、地元の氏神様がそうであるように、
その地域ならぬ「艦」の守り神となっていたのです。

「伊勢」の艦内神社は言わずと知れた三重県伊勢市の「皇太神宮」から
分霊されたものでした。



実はこの日の「いせ」には、この

「帝国海軍と艦内神社」

の著者である久野潤氏が乗艦しておられまして、



生まれて初めて作家の名前入り贈呈本をいただいたこともあり、
呉に行く飛行機の中で読破してから臨んだだわけですが(; ̄ー ̄A 
この「帝国海軍と艦内神社」は、著者が日本中の関係神社を
くまなく訪問し、神職や旧軍人への綿密な取材を経て書き上げた、
今までない新しい視点(帝国海軍と神々との関係)からの海軍史で、
皆様には是非一読をお勧めしたい良著だと思うわけです。

同著の中から「伊勢」について書かれた部分によると、

伊勢の神社(全125社)における中心とも言えるいわゆる「内宮」は
「伊勢」以外にもあらゆる軍艦に別大麻(お札のようなもの?)を
奉賛(授与)し、伊勢湾に軍艦が投錨した際には旭日旗を奉じ、
艦長以下陸戦隊の服装で特別参拝が許可された。

ということです。
さらに、神宮と「伊勢」との絆は、大正9年、伊勢神宮の別大麻を戴き、
館内に伊勢神社が「分祀」されるに及んで一層緊密なものになり、
乗員は暇あるごとに朝夕参拝するのが慣例となっていきました。

さらに同著からです。

「伊勢」の乗組員は毎朝参拝して1日の作業を遂行することを誓い、
また競技や戦技そして重大な作業や戦いに臨むときにも
必ず参拝し、成功や必勝を祈願したという。





「いせ」の艦内神社。
現代の護衛艦にも変わらずゆかりの神社から頂いた
「別大麻」によって分祀された艦内神社があるのです。

観艦式で「ひゅうが」に乗艦した時に、
「ひゅうが」艦内の神社に目が留まりました。
もし、この現代の護衛艦にも帝国海軍の「日向」と同じ
御祭神が祀られているのであれば、「ひゅうが」には
宮崎県都農神社か宮崎神宮の御神礼があったはずです。

「ここにご挨拶することはあるんですか」

近くに警衛のために立っていたセーラー服の海士に
写真を撮ってから尋ねたところ、彼はとんでもない、
というように笑って

「ありません」

と即答しました。
まるでこんなものは単なる飾りか、そういうことになっているので
一応作ってあるだけで全く意味はない、とでも言いたげで、
わたしは微かながら残念な気分を味わったものです。

護衛艦や海上自衛隊とのあいだには、帝国海軍の時代から
「船と神々との関係」がいまだに連綿と受け継がれているのですが、
失礼ながら彼らのような立場ではそれを知る機会すらないのでしょう。

艦内神社が政教分離の憲法違反であるという観点から、

「神社からもらってきた札などを艦内に『祭る』のは問題なのでは」

などというモノ知らずの学者(一般常識の点でも)が新聞で騒ぎ、

「戦前の帝国海軍で普通にお祀りしていた艦内神社は実は
よくないことで、海上自衛隊はそんなことしません」

と防衛省に言い訳させるような社会風潮、それを後押しするメディアが
存在するということである。(帝国海軍と艦内神社)

のが現状であれば、海士くんのこの態度も当然といえます。



「いせ」の舷門、護衛艦の玄関に当たるところには、
このような立派な艦名が書かれた木の看板があります。

「これを触るといいことがあるそうですよ」

とその時に聞きましたが、わたしは遠慮してしまいました。
この揮毫は伊勢神宮大宮司によるもので、使われている板は、
遷宮の際に取り払われる社殿の木材が使用されています。

今回「いせ」に乗ることを前もって内情に詳しい方に報告していたところ、 
その方からこの揮毫の件で「いせ」と大宮司との仲を取り持ったのは、
ある一人の元女性自衛官であることを教えていただきました。

比留間峰子・元1等海佐がその人です。

比留間元1佐は、学習院大学卒業後30期一般幹部候補生となり、
心理適性幹部、情報幹部として活躍しました。

大学時代文学部心理学科で学んだ経験を情報分析や教育関係の職務に生かし、
阪神基地隊の副司令を務めたあとは舞鶴教育隊の司令にも就いていたそうで、
仕事、結婚、子育てを全うして定年まで勤め上げたパーフェクトな女性。
「海自きっての秀才」と言われていたという話もあります。

彼女が結婚した 2期先輩の海上自衛官(防大21期)比留間宏明さんが、
渋谷にある金王八幡宮の長男であったため、退官後二人そろって
國學院大學の専攻科に進み神職の資格 を取りました。

海上自衛隊退職後は、金王八幡宮の権禰宜(ごんねぎ)として、
宮司のご主人、ご子息、そして国学院大学神道学専攻科を
ご一緒に終了されたオーストリア人の4名でお務めをしておられます。

彼女は神道学習院出身ということもあり「ハイソな方々にお顔が広く」、
皇族や元華族等々ともお友だちつきあいがある方だそうですが、
また伊勢の大宮司とも懇意にしていたことから、この縁がつながり、
揮毫を依頼するということになったのだとか。

金王八幡宮は渋谷駅近く、
そういえば「金王神社前」というバス停もありましたね。
「いせ」のご縁に結ばれたことでもありますし、
是非新年のお詣りをさせていただこうかと思っています。



 

今年の初詣

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元旦の初詣のご報告です。
大晦日のディナーを銀座で済ませたわたしたち、
年が明けて・・



東京駅近くのフォーシーズンズホテルでおせちをいただきました。
レストランの「Ekki」は正月いっぱいで改装に入るため、
おそらくこれが最後の利用になります。

午前中、周りのテーブルはほとんどが外国人旅行客で、
皆が慣れない手つきでお箸を使いおせちに挑戦していました。


 
外国人にもわかるよう、おせち料理の意味を英語でレクチャーしています。

"The Ebi", a lobster is representing long  life."


とかね。
わたしは正直もともと保存食でもあるところのおせち料理を
どれもこれも辛いばかりで美味しいと思ったことはないのですが、
こういうところのおせちだから好きになったか?というと
やっぱり縁起物としていただくと自分で納得しつつ食べたという感じ。

つまりやっぱりあまり好きになれません(笑)

日本人ですらこんな人間がいるのだから、ましてや外国人には
全くもって異次元の食べ物で口に合わないどころではないのでは、
とわたしは周りのテーブルの食事の進み具合を見て思うのでした。

ただ、ここで画期的だったことは最も苦手だった昆布巻きが

「黒ではなく緑色」

をしていたことで、これはどういうことかというと辛くなかったのです。

「小さい時に食べさせられた昆布巻きがせめてこんな色ならば
嫌いにならなかったかもしれない」

そう呟くと、TOは

「それ、全く同感」

と言いました。
息子はそれを聞いてへえ、と一つ食べていましたが、
これでも辛かったのか残りは箸をつけませんでした。


さて食事の後、車をホテルに駐めたまま初詣に出かけました。 



まずは恒例となった靖国神社。
粉雪がちらつく寒い日でしたが、たくさんがお参りに来ています。
しかし、人出は去年に比べるとだいぶ少ないように見えました。
去年は直前に安倍首相が参拝したため、その影響だったようです。

安倍首相が参拝しようがしまいが、行く人は行けばいいと思うんですが。
そもそもニュースになったら行って、ならない年には行かない、
っていうのは、最初から行かないのより宜しくないと思うのはわたしだけ?

今年も獅子舞が出て、みんな頭をかじってもらっていました。
左側の男の子は顔を輝かせて駆けていきます。
時代は変わっても子供の獅子舞に見せる表情は変わりません。



うっかりして家に届いていた昇殿参拝の券を忘れたのですが、
崇敬奉賛会の会員であることを申し出ると参拝させていただけました。
神職に読み上げてもらう名前(代表者はこういうときにはわたし)
を御心付を入れる封筒の表に書き、係に提出して待ちます。



待合室ではテーブルに着くと、すぐさまお茶とお菓子が運ばれてきます。
こちらの方も去年と比べると、随分落ち着いていて、
待ち時間も10分くらいでした。 

手と口を清め、まずお祓いのため拝殿に上がり、
それから御神体の鏡のある本殿で祈祷を受けます。
去年はちょうどわたしたちが拝殿で待っている間に新藤総務大臣が
本殿に上がったので、それを拝殿から眺めることになりました。

今年はどの閣僚も元旦の参拝はしなかったようで、
それで人も少なかったのかななどと思ったり。

・・・・これも何だか変な話なんですけどね。

とりあえず、ほとんど待つことなく参拝が終了したのは良かったです。
本殿では一人一人代表者の名前が神職によって読み上げられるのですが、
名前の語尾がいちいち「ィ」になるのが不思議でした。

「あんどうたかしーい、はらりえこーぃ、株式会社◯◯しょうてんーぃ」

こんな感じです。
ひとり、ドイツ系アメリカ人らしい人の名前が呼ばれていました。

「ラインハルト~ダビッド~い」

こんな感じです。
これも「い」で終わるか。

靖国神社の参拝の後は、「いせ」でご縁ができた「金王八幡宮」です。
タクシーに乗ると、

「まだなったばかりであまりよくわからない」

という若い運転手さんで、TOがiPhoneで指示しながら到着。

「勉強になりました」

と降りるときに感謝されました。
ちなみに神社前から拾った帰りのタクシーも

「今日で二日目なんです」

という新人運転手で、偶然にしても不思議だなあと思った次第です。




金王八幡宮は渋谷の駅の近くですが、そこだけ静かな、
まるで時が止まったような趣のある一隅でした。

現在の社殿はなんと慶長17年(1612年)の造営で、
春日局と青山忠俊の手によるものです。
渋谷区で最古の建物とされ、指定有形文化財となっています。

関東大震災でも部分修理ですみ、戦災に焼かれることもなく、
当時のままの姿を現在にとどめているのですが、
その歴史ある八幡宮の宮司夫妻が海上自衛隊出身というのは
何かこれも縁を感じさせ神秘的なことのように思われます。

我々はさっそく拝殿参拝を申し込みました。
つい最近経ったような新しく快適な待合室で待っていると、
ちょうど前の祈祷を終えて出てこられたのが、
話に聞いていた女性自衛官出身の宮司です。

間近を通られましたがこんなときに声をかけるのも憚られ、
目で追うだけで終わりました。

わたしたちのご祈祷をしてくださったのは、目元も涼やか、
すらりと背の高い大変ハンサムな若い宮司と、
こちらもまた声だけ聞いていれば日本人と信じて疑わないくらい
見事な祝詞を聞かせてくれたオーストリア人男性の宮司で、
何かとてもゴージャスな(笑)気分の参拝となりました。

このお二人が大変美しかったことで、必要以上に
参拝にご利益のありそうな気になったものです。



いちいち写真がボケていますが、この日はカメラを持たなかったため。
息子はiPhoneで写真を撮るのが得意ですが、
わたしは全く慣れていないため、そもそも水平に撮ることもできません。

ともかく、境内にはこの古い八幡宮の宝物殿があり、
昔から伝わる資料やこのようなお神輿などを見ることができました。

 

境内ではお札のお焚き上げをしていました。
お振る舞いのお汁粉の紙カップを捨てている人もいて、
それを見た息子が同じように捨てようとしたのを

「ここはゴミを焼くところじゃないよ」

と慌てて止めました。



靖国神社ではお振る舞いは甘酒だけでしたが、
ここではお汁粉、綿あめ、お神酒と三種類から選べます。

息子に綿あめ食べる?と聞くと言下に「いらない」と拒否。
今時の子供は綿あめなんて食べたいと思わないのでしょうか。
息子だけかな?



神社の背景にそびえ立つビルは「ボッシュ」の社屋。
そういえばうちの食器洗い機はボッシュ製です。
もう国内販売をしていないので、うちにあるのが
日本最後のモデルということになります。
これも何かの、と無理やりご縁を結びつけて考える。

ところで靖国神社でおみくじ券をいただけるので
引いたところ、5等商品にこんなのがありもらってきました。



台所用のキッチンクロス。
なぜ女性自衛官が萌え絵で・・・・。


 

天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め・前半

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女性パイロット中心にお送りしているこの「飛行家列伝」ですが、
つい思い立ってリンカーン・ビーチェイについて書いたあと、
「アラメダのホーネット」のエントリを書くために写真を点検していたら、
艦内の一室で大々的にでこのユージーン・イーリーが紹介されていたのに
今頃気がつきました。

それによるとイーリーがビーチーと同時代の「カーティス・プッシャー」
を乗機としていたので、ちょっとした偶然を感じ、調べてみることにしたのです。


エリソンEllisonは、これもたまたまイーリーElyを調べている最中、
ただ単に名前が似ているというだけで 名前が目に止まったのですが、
ほとんどあてずっぽうで今回の題材に選んでから、あらためて調べてみると
この二人の怖いくらいの因縁と、海軍を媒介にした関係の緊密さ、
不思議な一致に至るまで・・・・・・。

自画自賛みたいになってしまうのですが、数あるパイロットから
彼ら二人を選び出したことは我ながら凄いカンだったと驚いています。



この同世代の飛行家たちの生没年を並べて見ますと

エリソン   1885~1928

イーリー    1886~1911

ビーチェイ 1887~1915

一年ごと、順番に生まれたこの三人の男には、
飛行機乗りとして先駆であったというだけでなく、
こういう共通点がありました。

海軍のために飛んだこと、そして、飛行機事故で死んだこと。



ホーネットの艦内展示にあった模型。

こうやって写真を撮ったのにもかかわらず、
リンカーン・ビーチェイのことを調べていて見つけたこの写真、



これとこの模型が、全く同じときのものであることに気づきませんでした。
飛行機黎明期のアクロバットパイロットであった

ユージーン・バートン・イーリー

が、アメリカ海軍にとって、歴史的な飛行を行ったときの記録写真です。
イーリーに授けられたタイトルは、

「世界で最初に飛行機で離着艦をした男」

というものでした。

1911年1月18日。

米海軍にとってこの日、大きく歴史が変わろうとしていました。
サンフランシスコ湾に停泊したUSS「ペンシルバニア」の甲板に
飛行機をランディングさせること。

これが成功したら、海軍は飛行場がなくても飛行機を発着させることができ、
ビーチェイが説いたように、海上基地を拠点とした爆撃を行うことができます。

成功すれば、今までの戦闘の概念をすら覆すことになる画期的な挑戦でした。


このとき「ペンシルバニア」の表甲板は、飛行機の滑走のために工事が施され、
遮蔽物夾雑物を一切無くした「浮かぶ板」のようにされました。
甲板は全長40メートル、幅10メートル弱。
マストの前にはキャンバス地の幕が張られ、飛行機の壊滅的破損と
マストが折れることを防ぐ工夫が施されてます。

そして、民間パイロットで、当時アクロバット飛行のショーをしていた
イーリーがその歴史的実験飛行に挑むことになったのです。



彼が被っているのはフットボール用のヘルメット、
そして体に巻きつけたのは自転車のタイヤチューブで、
これは衝撃から身を守るためのものです。




前年の1910年11月、イーリーはカーティス・プッシャーを駆って、
「バーミンガム」から離艦することにすでに成功していました。




しかし着艦はまだ果たせていません。
当時の飛行機は木と布でできており、もちろんブレーキもありませんでした。
パイロットにできることと言えば、進路を車の運転のように操舵することだけ。

そもそも機体が完全にストップするのに、どんなに短く見積もっても
ペンシルバニアの甲板の全長と同じ40メートルを要するのですから、
彼のような名人といえども着艦は不可能やに思われました。



しかし、何としてでも船の上で飛行機を運用させたい海軍は、考えました。
そして思いつきました。

「そうだ、甲板にロープを貼ればいい!
それに飛行機のホイールが引っかければ、
短い滑走距離で飛行機は止まるじゃないか!」

空母の着艦ロープシステムがこの世に生まれた瞬間です。



サンドバッグを結びつけたロープを多数渡した甲板に機が侵入してきます。
三度目のアプローチののち着艦したイーリーの機は、かろうじて
一番最後のロープにホイールがかかり、停止しました。
マストの前に貼られたキャンバスのバリアーまで、
あと数メートルの距離だったと言います。


イーリーはその後インタビューに答えてこう嘯(うそぶ)きました。

「まあ簡単だったかな。
10回やれば9回は仕掛けが効いてくれると思う」



ユージーン・バートン・イーリーはアイオワ生まれ。

大学卒業後SFに移り、スポーツカーのテストパイロット兼セールス
(つまりテストレーサーともいいますが)をしていましたが、
結婚後ポートランドでグレン・カーティスの出資者である
ヘンリー・ウェンムのために働くようになったことから人生が変わります。

ウェンムの買った飛行機のテストパイロットとして、彼は経験を積み、
数えきれないほどの事故を経て、その飛行技術を芸術の域まで高めたといわれます。
1910年に州の飛行機免許を取り、
彼は正式にカーティスのテストパイロットになります。

その年11月、彼は、米海軍に積極的に飛行機を導入するための投資を進めていた
ワシントン・チェンバース大佐に会い、話の流れで()海上の艦船上から
カーティスの複葉機で飛び立つという挑戦をすることを承諾します。


(バーミンガムからの離陸)

このときに使用されたのはUSS「バーミンガム」で、賞金は500ドル
(今の1万ドル、つまり100万円くらい)であったといわれます。

このとき賞金を受け取っていたことが、彼の世間での評判を落とすことになり、
前述の「ペンシルバニア」への着艦の際も、海軍との癒着を噂されたりしました。

しかし、幸か不幸か、彼はその汚名を
自分自身の命を以て返上することになります。
ペンシルバニアへの着艦成功から9か月後の1911年10月、
彼は再び海軍の要請で、ジョージア州のメーコンでの着艦デモを行いますが、
この時、彼の乗った機体はロープを飛び越えて海に落ちてしまいました。


彼は海への墜落を避けるために、飛行機から甲板に飛び降りましたが、
その判断は彼の命を奪うことになります。

このために身に着けていたチューブもヘルメットも役に立たない箇所、
つまろ首の骨を折ったため、事故発生の数分後に死亡しました。

ユージン・バートン・イーリー
1911年10月19日、死亡
享年25歳

合掌。

明日に続きます。 

天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め・後半

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アメリカ海軍航空隊事始めシリーズ、続きです。




イーリー(右)と、「カーティス学校」の同門である

陸軍パイロットのジョン・ウォーカー・jr.

(左)に囲まれた

”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉。


洋の東西を問わず海軍の軍服というのはかっこいいですね。
このころの海軍の制服については調べていないのですが、
エリソンはまだ海軍兵学校の生徒であるような気もします。

エリソンの名前にある「スパッズ」というのはAKA、つまり通称で、
彼が赤毛であったことから付いたあだ名だったのだそうです。
「エリス中尉」と似ていてわたしとしては親近感がわくのですが、
 それはともかく、彼はこの写真でもわかるように、
パイロットとして海軍を代表する立場にいました。

のちに彼に与えられた称号は

「海軍パイロット第一号」。

彼はアメリカのみならず、世界の海軍にとって、
大きな功績の数々を残しています。
その一つが、カタパルト発進の開発をし実施に成功したことです。



また、パイロットにとって適正な服装や装備も、
自身の経験をもとにエリソンが提案して、開発が進められました。

民間のパイロットではなくエリソンが海軍軍人であったことから
これらの開発も「話が早かった」ということだったのでしょう。 




これが、スパッズ・エリソンの初めての飛行の時の勇姿。
にこやかに笑いつつ操縦席に座る彼は実に楽しそうです。

カーティス・プッシャーの「グラスカッター」での初飛行ですが、
このときのエリソン中尉の技術は、はっきりいってまだまだだったので、
実際は低空をほんの少しの間滑空したに過ぎないということですし、
この後、エリソンの機は風で流されて左側に落ちたそうです。
幸い怪我はありませんでした。

低かろうが短かろうが、これが海軍軍人が空を飛んだ初めての瞬間だったので
「海軍第一号」の称号が彼に与えられたというわけです。




エリソンはアナポリスの1904年卒で、一年先輩には
あのチェスター・ニミッツがいます。
海軍兵学校の「コレス」は33期で、この期生には豊田副武がいます。

ちなみにわたしが先日海軍兵学校の同期会で知り合った方は
この期にご尊父がおられました。
たまたま夏に花火大会でお会いし、こちらでも会食をした
Mという輸入食糧品会社の社長をなさっている方も
たまたまその同じ期生で、仲が良かったそうです。

話をしてみてあまりにも色々とつながっているので
そのご縁の不思議さに驚いた出来事でした。


ところで、チェスター・ニミッツは若い頃はハンサムで通っていましたが、
写真に観るエリソン中尉もなかなかの好男子です。

卒業後、艦隊乗り組みを経てから、海軍から選抜されてカーティスの元に
「飛行研修生」として派遣され、「海軍で最初に飛行機に乗った人物」として、
彼はわずかの研修の後に、海軍の航空部門の先頭に立って、後進の指導、
そしてアナポリスでの航空科の設立に携わります。



エリソンは訓練の段階で水上機の操縦も習ったため、
艦艇からの史上初の発進も行っていますが、 
彼はまた水上機でアナポリスからバージニア州までの 
最長距離無着陸記録も作りました。

そして卒業後は潜水艦に乗りんでいた経験から、 対潜水艦部門でも
駆潜艇隊のための戦術を考案し、その功績により海軍十字章を受章しています。


アナポリスの多くの卒業生の中からたった一人白羽の矢を立てられただけあって、
エリソンは真に優秀な人物であったようです。

しかし実のところ彼の起用には、前述のイーリーの着艦が無関係ではありません。

つまりイーリーの結果を受けて、海軍は初めて「空に錨を下す」ことを決意し、
本格的に海軍航空隊運用にむけて「舵を切った」といえるからです。 


第一次世界大戦前後のエリソンは、駆逐艦艦長や艦隊司令として、
どちらかというと「艦隊勤務」ばかりが続いたせいか、
現役の海軍パイロットとして任務に就くことはなかったようです。

彼は、艦隊勤務の合間に5年ほど航空基地司令を務め、
メキシコ海軍で航空隊設立に携わったのち、空母「レキシントン」の
艤装艦長などを経てその後また航空隊司令となりました。


つまり彼がパイロットであったのは若い時のごく一時だけで、
だからこそ、航空ショーで毎日のように飛行機に乗っていたイーリーや
前述のビーチェイより「長生きした」のだと言えます。


しかし不思議なことに、彼はやはり空で死ぬ運命から逃れられませんでした。


1925年2月27日、この日は彼の43歳の誕生日でした。

当時大佐になっていたエリソンは、司令を務めていた基地で、
娘が重い病気にかかったという妻からの報を受けます。
海軍軍人の常で、彼は家族をアナポリスに置いて単身赴任だったのです。

一刻でも早く娘の元に駆けつけてやりたいという気持ちからでしょう、
エリソンはローニング-OL7型機を、しかも夜間に出し、
自ら操縦して娘の元に向かいました。

それっきり彼の乗った機はそのまま消息を絶ち、
アナポリスに着くことはありませんでした。

エリソンの乗機行方不明になって一ヶ月以上経った4月になって、
チェサピーク湾の岸に打ち寄せられている彼の遺体が発見されました。

皮肉な偶然とでもいうのか、彼が見つかったのは、
かつて偉大な先輩飛行士、ユージン・イーリーが「バーミンガム」から
人類最初の航空機による離艦を行った場所でした。

つまり、彼が航空の世界に入るきっかけとなったできごとが起こった、
その同じ海岸で彼の身体は発見されたのです。


彼は航空隊司令の現職のまま事故死扱いとなり、特進はなかったようですが、
その後、1941年に就航した

USS「エリソン」DD454

にその名が残されました。

「エリソン」は日本とも縁があり、戦後自衛隊に貸与され、
あさかぜ型護衛艦「あさかぜ」として就役したという経歴を持ちます。

そしてその後、台湾海軍に譲渡され、最終的には
戦争映画のロケに使われて沈められその生涯を終えました。

合掌。


ところで「エリソン」就航の際、その進水式でシャンパンを割ったのは、
エリソン少佐の一人娘であるゴードン・エリソン嬢でした。

ということは、あの日重病だった少女は、その後回復したのです。
父親が自分の命と引き換えに、娘を救ったのかもしれません。



海軍軍人だったエリソンは、在任中に海軍十字賞を受けていますが、
これは先ほども書いたように航空に対してのものでなく、
駆潜艇の基地にいたとき、数々の戦術を考案したことに対しての賞でした。

彼がパイロットとして初めて受けた賞は、1962年になって
航空の発展に寄与した人物に与えられる「グレイ・イーグル・アワード」で、
これは「海軍パイロット第一号」というタイトルに対して授与されています。



海軍軍人はなかったたため、死後も海軍から公式な顕彰は行われなかった
ユージーン・バートン・イーリーですが、1933年、
時の大統領ハーバート・フーバーは、

「彼の挑戦はその後の航空界の発展にとって大きな意味があった」

とし、
フライング・クロス勲章を授与して彼のの功績とその犠牲を称えました。

彼が事故死してから実に22年後の叙勲でした。

 




 

東京裁判のアメリカ人弁護人たち~ベン・ブルース・ブレイクニー少佐

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映画「東京裁判」を最初に観たときに最も衝撃的だったのは
アメリカ人の弁護人がまるで本国の法廷にいるように
手振りを加えながら、こう言った瞬間でした。

「我々は、原爆を投下した者の名前を挙げることができる」

今ほど近代史についての知識がないあの頃でも、
東京裁判が戦勝国の側に立ったいわば「見せしめのためのリンチ」
であることくらいはと理解していたので、
戦勝国=正義という前提のこの裁判において、
原爆投下を何れにしても非難の色合いで述べるなど、
いかに日本側の弁護人であっても許されるのか、とショックでした。


陸軍の軍服に身を包んで弁論火を噴くがごとく
流麗な弁舌を繰るその人の姿は、こういうことに至極敏感なわたしにとって
「かっこいい」の一言につきたのです。

その後、東京裁判そのものに興味を持つようになったのは
もしかしたらこのブレイクニー少佐への衝撃が理由だったかもしれません。


通称東京裁判、極東国際軍事裁判が開廷されることになったとき、
早々に陣容を整えていた判事、検事側に対し、弁護側は
開廷直前になっても主任弁護人の人数は揃わず、
二人の被告を兼任する者もいたという実情で、
なんの準備もできないまま本番突入という心許ない状態でした。

これは何を意味するかというと、弁護人は裁判の体裁を整えるためにすぎず
裁判の形を取っているだけで目的は戦争を起こした日本を体良く
戦争犯罪国に仕立て上げることにあったということです。



日本側にとっても、敵国人であったアメリカ人弁護人たちが、
日本人被告人を誠心誠意弁護してくれるのか、
という疑問は被告始め誰にとっても同じようにありました。

しかし、また後日お話しする予定のジョージ・ファーネス弁護人を
はじめとして、何人かの(あくまでも何人かの、です)米人弁護人たちは
裁判を通じて自分信念にも法の精神にも誠実であろうとしました。


1946年5月3日の極東国際軍事裁判開廷後から一ヶ月経った頃、
アメリカから到着したばかりの弁護人が5人、
一挙に辞任を申し出て帰国するということがありました。

いずれも本国では一流と言われる腕利きだったそうですが、
彼らにはふた通りの理由がありました。

ある者は日本に来てから、報酬を知りました。
「ニューヨーク並みの収入は保証できない」といわれて
それならば、と踵を返した者がいたのです。

また、帰国組の一人、ガイダー弁護人が言った

「我々は、単なるショーウィンドウのドレスになりたくない」

という言葉から窺えるように、裁判の一方性を見抜き、
弁護人の仕事はないとして仕事を忌避した者もいました。
もちろんそのどちらもが理由だったという人もいたでしょう。

残った弁護人たちはつまり、本国の収入がたいしたことがなく、
見せしめの裁判で形だけの弁護人になるのもやむなしと割り切った者か、
あるいはブレイクニーたちのように、そのような裁判の中においても、
法律家としての良心に恥じぬ任務遂行を決意した者、ということになります。

日本人の主任弁護士だった清瀬一郎博士は、

「これらの弁護士は、誠によく働いてくれた。
最近まで敵国の指導者であった者を、本当に弁護できるかどうか、
疑う向きもないではなかったが、いったん弁護を引き受けた以上、
自国の本国政府に反しても、弁護士たる任務を尽くすことに
躊躇しない気魄を示した」


と書いています。

わたしが映画「東京裁判」で感激したあのシーンで、ブレイクニーは
梅津美治郎被告の弁護人として、スチムソン陸軍長官が
原子爆弾仕様の決定をしたことを証明する証拠を提出していました。

これは大変なことでした。

もしこの証拠提出が許されていたら、原爆投下はこの戦争中の
最大の人道的戦争犯罪として問題にされていたことになるのです。

この申し出がブレイクニーから出されたとき、イギリスの
コミンズ・カー検事は立ち上がって異議を申し立てました。

「連合国において、どんな武器が使用されたかということは、
本審理になんの関係もない!」

ブレイクニー弁護人の答えはこうです。

「もし検事がハーグ条約第4をご存知なら、そのうちの
陸戦法規にある、一定の種類の型の武器、たとえば毒ガス、
細菌など、非戦闘員にも傷害を及ぼす武器の使用を禁ずる、
という条項をご存知のはずである」

原子爆弾、すなわち非戦闘員を殺戮したこの武器は、
ハーグ条約に抵触しているという主張です。

裁判長のウィリアム・ウェッブがこれを受けて
ブレイクニー弁護人とやりとりを始めました。

ウェッブ「かりに原子爆弾の投下が戦争犯罪であると仮定して、
それが本件になんの関係があるのか」

ブレイクニー「その一は、報復の権利である」

国際法では、敵が違法行為をすれば、これに対して報復、
(reprisal)の権利が生ずるので、これが認められるならば
日本の「戦争犯罪」も許されるという意味です。

ウェッブが、このリプライザルが成立するのは原爆投下後、
終戦までの3週間しかないことに言及すると、
ブレイクニーは、原爆投下以前の「アメリカの国際法違反」
については

「他の証拠で立証する」

と言い放ち、投下後の三週間、

「この期間にかかる検事側の証拠書類はあった」

としたのですが、裁判長は無理押しにこの証拠申し出を
却下してしまいました。

裁判の性質を考えると当然のことでしたが、
しかし仮にリプライザルが適応されていたら、その間の
「戦争犯罪」として糾弾されていたいくつかのBC級戦犯の
命は助かっていた可能性があるのです。


さて、今でこそ原爆についてどこで誰が原爆を決定したか
知らぬものはありませんが、当時はH・スチムソン長官が
原爆の製造と使用の決断を全て管理していたことは
世界の誰も知りませんでした。

ついでに、このスチムソンは、日系アメリカ人の強制収容を
推進した人物でもあり、また、原爆投下後は自ら

「 原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、
100万人のアメリカ兵の生命が救われた」

という談話によって国内の人道的非難を早々に回避しています。
未だにアメリカという国の原爆に対する見解となっているこのセリフは、
この人物のオリジナルであったということです。

投下予定の一つに盆地で実験結果がわかりやすい京都があったのを、
「文化保護の理由から」頑強に外させたのもこの人物ですが、
これは彼の人類文化に対する敬意というよりは、この計画が
自分の頭越しに行われたため排除しただけ、という見方も濃厚です。


さて、東京裁判で日本が何か得たものがあったとすれば、
ブレイクニーらの働きによって、日本が真珠湾を攻撃することを
ルーズベルトが前もって知っていたということが明らかになったことでしょう。

これも今では周知のことですが、未だにそれを「陰謀論」で片付ける一派がいて、
それではこの裁判でのやり取りはどう解釈するのかと首をひねってしまいます。



この件についてジョセフ・キーナン検事が、アメリカ国務省の顧問、
バランタインを尋問した際、ブレイクニーが反対尋問を行いました。

ブレイクニー「大統領の親電を発したのは12月7日の通牒(通達)
を知ってからか?
6日の午後3時には、その前触れであるパイロットのメッセージを
国務省は入手していたのではないか?」

バランタイン「そのパイロットのメッセージは、日本側の外交関係
断絶を示すものではなかった」

親電、とはルーズベルトが天皇陛下に直接物申したもので、

「約1世紀前に国交が始まって上手く行ってきた日米関係だけど、
両国の平和を喪失せしめる自体が発生している。
これは悲劇の可能性をはらんでいるが、日本は
日華事変をさっさと終わらせて、それから
陛下もこの危機を一掃する方法をお考えください」

とさっくりいうと(さっくりしすぎ?)こんな内容でした。
この親電は、結局陛下には届かなかったわけですが、つまり
アメリカ側は戦争が起こったことを前提にこれを書いているのです。


さらには、


ブ「12月7日の通牒は、宣戦布告でもなければ最後通牒でもない
というが、ルーズベルト大統領は ”これは戦争を意味する”
と言わなかったか」

バ「そういうことを聞いたことがある」

ブ「ワシントン政府首脳は、電報を傍受して事前にそう思ったのか」

バ「それは知らない。
日本の通牒を受け取った時にはすでに日本は真珠湾を攻撃していた」

ブ「だが、11月26日、アメリカが回答を発する以前から、
大統領はじめ首脳部は、日本の行動を予測していたのではないか」

バ「自分の知る限りではコーデル・ハル長官は、
”日本は攻撃に移るかもしれない”と言ったことがある」

ブ「それでは日本の12月7日付の通牒が来つつあることを知ったとき、
これに重大な意味を認めたのではないか」


バ「日本が台輸送船団を6月に南下させたとの情報と関連していると
考えた」

ブ「つまり宣戦布告と見なかったのか」

バ「それは知らない。とにかく、自体は旧速度に展開したから」


バランタインの証言によれば、大統領が天皇陛下に向けた親電は
6日午後9時に発出されている、すなわち、

日本の最後通牒が渡される前

だったということになります。
傍受したパイロット・メッセージ(機動部隊の)により、
最後通牒が来ることも米首脳は予測していたということなんですね。


日本は最後通牒を手交するのが大使館の手違いで遅れてしまい、
1907年のハーグ条約、

「開戦前、ある時間をおき国交断絶または最後通牒をなすべし」

に条約違反してしまったということになるのですが、
これについての本裁判の判決は、意外や、「不問」でした。


何となれば、それ以前に

「日本は侵略戦争をしたことにより犯罪を犯しているから、
開戦前の通知で条約違反を問う必要はない」

という理由です。
侵略という大犯罪の前には、最後通牒の遅れという条約違反など、
喩えていうならば、殺人犯が逃走するときに赤信号を無視したことに
交通違反を科すようなもの、というわけですねわかります。


弁護団の方針は一にも二にも「天皇陛下にご迷惑をおかけしないこと」
でありましたが、アメリカの占領政策にもかかわることなので
結果としてはこれを勝ち取ることができました。 しかし、

「日本の立場を明らかにし国家的見地に立って、
侵略の汚名を払拭し、後世の誤解をなくすること」

という第一義的な弁護方針については全くこれを
否定される判決となったわけです。

ま、最初からこういう判決を出すための裁判だったんですけどね。


ちなみに、ブレイクニー弁護人はこの後も、
開戦に踏み切る前に日本が戦争を回避しようと努力したことを
証明しようと敢闘を続けました。



ベン・ブルース・ブレイクニーは1908年、オクラホマに生まれました。
オクラホマ大学、ハーバード大学を卒業し、弁護士活動をしていましたが、
1942年からは陸軍に入隊し、 日本課および戦時俘虜尋問班のチーフを務め、
そのために日本語も理解できたということです。

 wikiからの転用ですが、原子爆弾がリプライザル適応であるとしたときの
ブレイクニーの弁論をあらためてここに挙げておきます。

 

「戦争は犯罪ではない。
戦争法規があることが戦争の合法性を示す証拠である。
戦争の開始、通告、戦闘の方法、終結を決める法規も
戦争自体が非合法なら全く無意味である。
国際法は、国家利益追及の為に行う戦争を
これまでに非合法と見做したことはない」

「歴史を振り返ってみても、戦争の計画、
遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。
我々は、この裁判で新しい法律を打ち立てようとする
検察側の抱負を承知している。しかし、
そういう試みこそが新しくより高い法の実現を妨げるのではないか。
“平和に対する罪”と名付けられた訴因は、
故に当法廷より却下されねばならない」

「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは法律的に誤りである。
何故ならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、
個人に対してではない。

個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである。
戦争での殺人は罪にならない。
それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからである。

つまり合法的人殺しである殺人行為の正当化である。
たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われなかった」


ここまでブレイクニーが陳述したとき、なぜか
同時通訳が停止し、日本語の速記録にはこの部分に
「以下、通訳なし」と記載されました。
わたしが映画を見て衝撃を受けたのが、まさにこの部分でした。 

文書の記録はありませんが、アメリカの映画会社によって
撮影されたフィルムに、ブレイクニーのこのときの弁論も残されたのです。
 

「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、
我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。
投下を計画した参謀長の名も承知している。
その国の元首の名前も承知している。
彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。
我々もそう思う。
それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、
戦争自体が犯罪ではないからである。
何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。
原爆を投下した者がいる。
この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。
その者達が裁いているのだ。
彼らも殺人者ではないか」


胸が詰まるくらい、正論です。
しかし、ここが正論を述べて受け入れられる法廷ではなかったことは、
後世の歴史が示す通りです。


ブレイクニーは東京裁判終了後も日本に留まりました。
東京大学で英法を講義しながら、番町に弁護士事務所を開き、
民事刑事の弁護を引き受けて活動していたのですが、
仕事のために自家用のセスナを操縦して沖縄に向う途中、
伊豆半島の天城山の山中に衝突して死亡しました。

1963年3月4日没、享年55歳でした。


東京裁判での弁護人としてかつて「共闘した」三文字正平や清瀬博士は、
政府に申し出、かつての敵国人であったこの「日本の恩人」には、
法廷で堂々と法の正義を訴えた功績に対し勲二等が叙勲されました。

日本人弁護人たちはブレイクニーの郷里オクラホマにその勲章を送り、
その死を悼んだのです。




     

海軍兵学校同期会@江田島~「陸奥砲塔の幽霊」

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「江田島の七不思議」のうちの5不思議までを説明したので、
今日はもう一つの不思議、「陸奥砲塔の幽霊」についてです。


ところで、実はその後、わたしたちはこのツァー中知り合った
(というかわたしにお声をかけてくださった) 元生徒の何人かと
日を改めてこちらでお会いする機会に恵まれました。

そのお一人に伺ったところによると、兵学校の卒業生、特にこの学年は
途中で終戦となって僅かの間しか在校しなかったにもかかわらず、
齢八十を超えてもな元気なうちは結構な頻度で集まっているそうです。

そして、

「ヨイヨイになって現れたら元気なものまで意気消沈するから、
そうなった者は速やかに会を辞退すること」

という申し合わせをしていると笑っておられました。
そのとき印象的だったのが、その方はかつての級友のことをいまだに

「隣の分隊だった男で」

などという枕詞をつけて説明していたことで、つまり
お互い、元兵学校学生のままで60年間つきあってきたということなのです。


ちなみにこの方、Sさんは、戦後、旧制高校から入り直して東大に進みましたが、
どうやら東大の同級生とは、このような付き合いはしておられない様子。
兵学校の出身者は、他では決して得られない強い連帯感を
「同期の桜」に対して一生持ち続けるのではないかと思われました。

ところで、

「兵学校の出身者は戦後無試験で旧帝大に入れた」

という噂も世間にはあるようですが、これは大きな間違いです。
なぜなら、GHQの「旧軍パージ」の一環として、旧軍人はことごとく
公職追放に遭いましたし、旧帝大、特に東大には一定の割合以上旧軍関係者を
(10%と言われている)入学させない、という措置が取られました。

今現在東大が

「卒業式に君が代・日の丸を留学生に配慮して廃止する」

などというとんでもない大学になってしまったのも、こういう措置とともに
公職追放になった大学総長や教授の席に空席に入り込んできた連中の殆どが、
戦前は「取締の対象」であった「共産主義者」であったからです。

なかでも総長南原繁は、当時の吉田首相の単独講和論に対し「全面講和論」、
要するに対米講和だけでなく、支那やソ連、果ては朝鮮とも
講和条約を結ぶことを主張していた、筋金入りのの共産主義者でありました。
戦前にはコミンテルンのスパイであったともされています。

(蛇足ですが、ハルノートを作成したのはハル長官ではなく、
ハリー・ホワイトという共産党エリートであり、ソ連のスパイで、
日米間に戦争を起こそうしたのはコミンテルンの謀略でもあった、
とされる証拠となっています)

南原の次の東大総長の矢内原忠雄は共産主義者ではなかったようですが、
皇室廃止論者でもありました。


そんな学長をいただいた戦後の東大が、たとえ卒業していないとしても、
一旦兵学校に籍を置いたことのある若者を無試験で入れるわけがありません。
S氏は、しかも父親が海軍中将。

アニメーション「火垂るの墓」では、海軍軍人の息子、清太が
戦争で両親を失い辛酸を舐める、というストーリーで、当ブログでも一度

「火垂るの墓と海軍」

という一項を設けてその関係性を考察してみたことがありますが、
このとき、未熟なわたしには考えが及ばなかった一事があります。
それは、

「戦没した軍艦の艦長の家族がそれを知らされず、よって路頭に迷う」

ということなどおそらく実際にはあり得なかった、ということです。
いかに日本の敗戦を国民に隠していたとはいえ、戦死した大佐の家族に
それを伝えないということはまずあり得ませんし、
戦死によって階級は特進(清太の父であれば少将になる)し、
叙勲され、それによって遺族に恩給も支給されたはずだからです。

ことほどさように「親が軍人」というのは当人にとって、そして
戦後の「軍パージ」をする方にとってもそれは大きなことでした。

というわけで、S氏は本来ならば、海兵陸士生徒であれば「スライド試験」、
つまり形だけの口頭試問で入れるはずの東大を、面接で不合格にされました。
もちろんその理由は父親が中将であったこと、そしてS氏の兄もまた
海軍兵学校卒の航空士官で戦死していたことです。

そのため、S氏は旧制高校からもう一度やり直すことにしたというわけです。



さて、そんな方と知り合いになるきっかけとなった江田島ツァー、
表桟橋付近に展示されている兵器などの見学が続いています。

この角度からの写真は、一般の見学ツァーでは決して撮れない写真。



くだんのS氏、この写真ではかつての同期生の未亡人の
肩に手を置いて写真を撮っておられます。
戦前の男、しかも軍人の息子でありながら、当人のいうところの

「プレイボーイだった」

というイケイケぶりが、こんなさりげない仕草にも滲み出ています。

このタンクかと思うくらい巨大な砲塔は、戦艦「陸奥」のもの。

ワシントン軍縮会議において、あやうく廃艦になりかったものの、
その時点で完成しているかどうかを視察に来た英米の査察団を
権謀術数を巡らして煙に巻き、就役にこぎつけた、あの「陸奥」です。

「陸奥」「長門」といえば、戦前の男子の憧れで、戦艦を覚える語呂合わせも

 陸奥,長門,扶桑,山城, 伊勢,日向,金剛,比叡,榛名,霧島

むつ、ながと
ふそう、やましろ
いせ、ひゅうが
こんごう、ひえい
はるな、きりしま

といった具合にその二つから始まっていたりしました。



Googleアースで上空から見た砲塔をキャプチャしてみました。
タンクの上にはまるで蟹の甲羅のような覆いがかけられており、
いかに巨大なものであるかがお分かりいただけるでしょうか。



これはそのときに幹部学校か術科学校の学生が
近くの芝生上で円になって何かをしているのが写っていたので
ついでにキャプチャしてみました。

なんだろ・・・・軍歌演習?


とにかく、戦前戦中の男子の憧れであったところの戦艦陸奥ですが、
実際の戦歴はほとんどありません。
なぜかというと、「大和」「武蔵」のように、もちろん「長門」もですが、
序盤は温存されていたためです。


1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦に参加しましたが、
このときには色々とあって反転し、第二次ソロモン海戦でも
米軍と交戦することはなく、第三次ソロモン海戦でも「大和」と一緒に
後方に待機していたというふうに、一度も戦わぬまま、
1943(昭和18)年、6月8日、広島県柱島沖に停泊していた「陸奥」は
三番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、
一瞬のうちに船体が2つに折れ、右舷に傾斜して沈没してしまいます。

このときに、この写真にあるのと同じ大きさの第三番砲塔が
艦橋と同じ高さまで爆発で噴き上げられたという目撃証言があります。


原因は直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が
行われる寸前で、その容疑者が起こしたものだとする説があり、
四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたとも言われています。
しかし真相は未だに明確になっておらず、この他、スパイの破壊工作、
三式弾の自然発火による暴発、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火
などの原因が取りざたされています。


このとき乗員1,474名のうち1,121名が爆死した大事故だったにもかかわらず、
海軍は陸奥の爆沈をひたすら秘匿しました。

「長門」と並ぶ国民のアイドルであった「陸奥」が、一度も敵と戦わぬまま
原因不明の爆沈を起こしたとあっては、国民に与える影響はあまりにも大きく、
戦争中の日本人の士気に関わる、という理由からの隠蔽でした。

海軍内でも「陸奥」に関して発言することを禁止され、事故については
噂が囁かれるのみで、日本人は戦後まで、その事実を誰も知りませんでした


「火垂るの墓」の清太少年の父がたとえば「陸奥」の艦長なら、
(陸奥艦長の三好輝彦大佐はこの日殉職した)確かに戦後まで
父の死亡を知らずにいたわけですが、「陸奥」の場合
事故を乗員の家族にも知らせないため、事故後もずっと変わりなく
給料が支払われていたということですから、清田少年はどちらにしても
生活に困窮することにはならなかったということになります。


さて、ここでもう一度例のオカルティックな

「旧兵学校の七不思議」

に話を戻します。
じつはそのうちの一つに、こんな話があるのです。

戦艦「陸奥」の主砲塔 

グラウンド西方端にある戦艦「陸奥」の第三主砲塔の下部ハッチから
帝国海軍の煙管服を着た人影が覗く。 
「陸奥」は知ってのとおり、昭和18年に柱島泊地で爆沈事故を起こしている。 
特に悪さをするとは聞いていないが、日没後は近づくな。



下部ハッチ、って、このドアみたいなののことですよね?

この怪談話の全てを検証?したわけではもちろんありませんが、
こうやって真正面から取り組んでみると、いかにこういった話が
信憑性のないものであるかがよくわかります。


噂があるということは「誰かが何かを見た」ということも
長い歴史のうち1度くらいはあったのかと思いたいのですが、
まず、この情報がとてもアヤシイ。

まず、

「第3主砲塔の」

とありますが、ここにある砲塔は「第4主砲」です。
爆発の時に艦橋まで爆風で噴き上げられた第3主砲塔は、引き上げられておらず、
柱島沖から引き上げられたのは「第4主砲」なのです。

「ほら、やはり爆沈した『陸奥』の主砲なんじゃないか。
第4砲塔からは『犯人』の遺骨がでたとさっき書いていたし、
その幽霊がこの砲塔から顔を出すなんていかにもありそうな話じゃないか」

と思われた方、この砲塔の横に置かれた説明を読んでみてください。

「この連装砲は、かつて日本戦艦『陸奥』の4番主砲として搭載されていた
40センチ砲であり、昭和10年(1935)海軍兵学校生徒の教材として
当地に移設されたものである」


昭和10年・・・・?

兵学校生徒の教材として・・・・?


続けましょう。

「1922年、ワシントン条約は英・米・日保有戦力の比率を5・5・3とし、
主力艦の砲を「40,6センチ以下」に制限した。
その後昭和5年(1930)ロンドン条約が締結され、巡洋艦など補助艦兵力が
制限されたが、両条約はいずれも若干の排水量増大を見込む
現有戦艦の改装を認めた。

よって日本海軍は戦艦の数の劣勢を質によって補うため、

主砲の仰角増大
防御鋼の添加
機関の換装
飛行機射出機の新設
艦橋の改造
艦尾の引き伸ばし

などの工作によって全主力艦の活性化を図った。
この40センチ砲も、その改装の際に「陸奥」から撤去されたものである。


 つまり・・・・

お分かりいただけただろうか。

・・・じゃねーよ!
これ、全然爆沈事故関係ないじゃん!

「陸奥」は知ってのとおり、昭和18年に柱島泊地で爆沈事故を起こしている。 

って、何が「知っての通り」だっていうの。

というわけで、ここに陸奥乗員の幽霊が出る意味もなければ
由来もない、ということがお分かりいただけただろうか。

出るというのなら、

大和ミュージアムの前にあるスクリューと「砲」の前
同じくミュージアム前の「錨」
江田島町にある「ふるさと交流館」の遺品展示室

こういうところに出てくるのが筋ってもんでしょう。
いやまあ、そっちはそっちで出てるのかもしれないけど、
少なくとも江田島のこの砲塔に出るのは筋違いってやつ、
この話の信憑性もまた甚だ怪しいということなのです。




自分が爆死したことを顕彰するどころか、家族にまで
死んだことを知らせてもらえなかった1,121名もの「陸奥」の乗組員が、
自分の「幽霊」に対し海軍が長年給料を支払い続けていたことを以って
海軍を恨むべきか恨まざるべきか「迷い続けていた」←
という可能性はおおいにありますが。



 



続く。






緊急寄稿「戦艦陸奥主砲里帰り」のお知らせ

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昨日「陸奥砲塔の幽霊」というタイトルで、江田島の
第1術科学校にある陸奥の旧4番砲塔についてお話ししたところ、
ある知人からこんなメールをいただきました。

陸奥艦長 三好大佐(少将)のお孫さんが、サントリーホール総支配人だと
お伝えしたことがあるでしょうか。
もしまだお話ししていませんでしたら、
明日にでも書き物をお送りしたいと思います。

また、サントリー会長の佐治さんのお父さん、佐治敬三さんの夫人は、
平賀技術中将の娘、そしてサントリーホール館長・堤剛さんの嫁は
佐治敬三さん の後妻の娘で、佐治忠信さんとは義兄弟ということになります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E6%95%AC%E4%B8%89

陸奥に関してもう一件。

蓮舫の仕分けにあったお台場の船の科学館に保管されている陸奥の四番砲塔を
横須賀に移設するプロジェクトが進んでおり、
その資金の寄付活動が行われています。

実は本件に関して、浄財の寄付をお願いしているところです。
ご参考までに添付します。



今までお台場の「船の科学館」にあったこちらは正真正銘
爆沈した戦艦「陸奥」の4番主砲(砲塔ではない)を、今度
横須賀に移設する、という動きがあるというのです。

これも何かのご縁と感じ、ここで急遽この

「戦艦陸奥里帰りプロジェクト」

について皆様にお知らせする次第です。

まず、なぜ「船の科学館」から横須賀に移すのかというと、
公にはなっていないようですが、たどっていくとそれは

「蓮舫の仕分け」

につながるということで・・・多くは申しませんが(怒)
おそらく二式大艇のように管理ができなくなって
維持が難しくなり、廃棄か?というところを、有志が立ち上がり、
ここに「陸奥の会」を発足させ、署名を募って
(公財)日本海事科学振興財団から無償譲渡の承認を取るところまでは
なんとかこぎつけたということなのだと思われます。

そしてこの後どこに持っていくか?ということなのですが、
やはり「陸奥」が生まれた横須賀海軍工廠のある横須賀の、
あのヴェルニー公園に設置するという計画を立てているところのようです。

HPを見るとまだそこまでは正式に決まっておらず、とにかく今は
2016年の移設に向けた費用を捻出すべく、全国各地の企業に
協賛金の募集活動を展開している最中であるということです。



パンフレットより、「陸奥の会」の発足経緯です。
 
戦艦陸奥は1921年(大正10年)、横須賀海軍工廠で
長門型2番艦として当時の日本の造船技術の粋を集めて
建造されました。
1936年(昭和11年)横須賀海軍工廠で大改修がなされ、
その際新たに搭載されたのが本主砲であります。

(このときに外された第4主砲が昨日お話ししたものです)

陸奥は不幸にも太平洋戦争末期、原因不明の爆発によって
瀬戸内海柱島沖で沈没し、乗員1121名が艦と運命を共にしました。
戦後1971年(昭和46年)陸奥の引き上げと同時に
4番砲塔も引き上げられ、その主砲1門が船の科学館に展示され
現在に至っています。

私どもは、是非とも陸奥誕生の地である横須賀に本主砲を里帰りさせ、
海洋立国日本を支えてきた先人の遺構を後世の若者にも引き継いでいく
義務があると思っています。

もし2016年に主砲が横須賀に帰って来れば、
80年ぶりの里帰りとなります。
また横須賀には日本の近代化の歴史を牽引してきた遺産、記念物等、
そして現在、将来の海洋資源、安全保障問題に取り組んでいる施設、
組織もあります。

(これはもしかしたらですが海上自衛隊のことではないでしょうか棒)

まさにこれらを融合し、海の風を肌で感じ、海洋立国日本を若者に
少しでも啓発できる発信基地となれば幸いです。

本事業をその一里塚とすべく、ここに

「陸奥主砲里帰りを支援する会(陸奥の会)」

を立ち上げるに至りました。

パンフに掲載されていた資料より。






一般向けのパンフレットより。



おばあちゃんとちびむつちゃん(なんだこの名前は)の
ほのぼのとした漫画で親しみを持たせる作戦です。

が(笑)

一コマ目、おばあちゃんの

「横浜海軍工廠で戦艦を造っていたって話を話したでしょ?」

のセリフに対してちびむつちゃんが(これむっちゃんでいいのでは・・)

「うん、覚えているよ!戦艦陸奥が事故で沈んじゃったんだよね」

というのですが、これ話が全然繋がってなくね?

・・・・と、日頃の習性でついツッコミを入れてしまうエリス中尉であった。



おお、さりげなく人寄せパンダ的に(失礼?)
小泉進次郎議員に協賛を仰いでいる。


これが横須賀に帰ってくるというわけですが、
砲塔ほど大きなものでもないし、ヴェルニー公園には
それくらいの余地は十分ありそうですね。


「陸奥の会」では、企業向けには協賛金額一口10,000からですが、
一般には最低金額を設けない浄財を募っています。

「陸奥の会」一般用寄付受付先

企業向けには10口寄付すれば、

銘板に企業名を記載してくれる

というのですが、もしこれが個人名でもいいのなら、
陸奥主砲と共に自分の名前を未来永劫刻んでもらいたい、
という人は結構いるのではないかと思うのですが。

・・・・・・たとえば、わたしとか(笑)






海軍兵学校同期会@江田島~「米軍機搭乗員の飛行靴」

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江田島の海上自衛隊第一術科学校で行われた海軍兵学校同期会の
「解散式」江田島ツァー、続きです。

この期生は終戦時兵学校生徒として在学していましたが、
この江田島ツァーの前夜行われた懇親会でもわかったように、
大所帯の学年で、江田島だけでなく分校に分かれていました。

兵学校生徒の学年数が時節の影響を受けて増え出すのは、
昭和10(1935)年以降のことです。
一学年が1000人を突破するのは昭和17年、昭和20年度の入学者は
4000人を超えていました。
 
このため分校を開校する運びとなったわけですが、
最初の分校は、現在海上自衛隊及び米軍海兵隊の基地となっている
岩国航空隊が、まずその場所として選ばれました。

それまで江田島にいた1号生徒73期の160名、2号生徒230名が
このときに岩国に移されたのです。
このときに入校した75期3480名の入校式は、大講堂に
全員が入らないため、校庭の「千代田艦橋」前で行われました。

今は撤去されてありませんが、昔は「いそなみ」の主錨があった場所に
「千代田」の艦橋が号令台として置かれていたのです。

入校式を終えたうち300名の生徒はそのまま岩国に移動しました。

そして、76期と77期、この学年の試験は昭和19年7月、
同時に行われて一挙に7,300名が採用されました。

7,300名!

つまり、一挙に採用して、生年月日を昭和3年4月以前と以後で分け、
76期、77期に振り分けたというわけです。


この学年は昭和17年以降の大量採用の真っ只中の在校生で、
だからわたしなど、

「この時期の兵学校生徒といっても玉石混合なのではないか」

などと失礼なことを今まで思っていたのだけど、実際に会に参加し、
その生ける証拠を目の当たりにして思わず

「すみませんでした!」

と土下座してしまうくらい彼らの戦後は錚々たるもので、
もちろんご本人たちの苦労や努力あってのことだったとはいえ、
戦後日本を牽引して繁栄を作り上げてきたトップ集団にいた、
という話を一度ここでしたかと思います。



とはいえ、急激に、千人単位で増えた生徒に対応ができるはずもなく、
折からの戦局の悪化もあって、物資面であまりにも困窮したことで、
指揮官を育てるための「ジェントルマン教育」は実質行き渡りませんでした。

戦局の悪化は、実務重視、即戦力にのみ目標を置くがごときとなり、 
江田島の誇りとも言える指揮官育成のための精神教育は二の次となり、
さらに三学年制となり、一号生徒の卒業時期は繰り上げられ、
十分な教育も訓練もされないまま、最後の頃の兵学校とは
ただ戦場に送り出すための人材即成機関のようになっていたことは否めません。

そんな時勢の中、少年たちは海軍兵学校への憧れを持って入校してきました。
憧れの遠洋航海、憧れの短剣、憧れの赤煉瓦。 

海外への遠洋航海は67期のハワイ航路で最後となっていましたが、
せめて腰に短剣を吊り、赤煉瓦の校舎で学ぶ自分を夢見ていた生徒の
多くが、分校勤務を命じられ落胆したと言われています。

しかも最後の77期生徒は、海軍士官の象徴の短剣すら支給されず、
上級生のを借りて大講堂にすし詰め(雨だったので)の入校式を行う、
といった有様だったのです。


そして、終戦と同時に学業半ばで兵学校から去ることになったのでした。 



「大量採用・中断組」は本当の江田島教育を受けていない、
と戦後「レッテル貼り」されて、唇を噛んだ元生徒も
今回江田島を訪れた中には、もしかしたらいたのかもしれません。

しかし、戦局厳しく、呉上空にも米軍機が飛来するようになっても、
ここでは海軍軍人の基礎訓練として、入校と同時に短艇(カッター)
訓練は何をおいても行われていました。


戦艦「陸奥」の砲塔、「梨」の高角砲や魚雷発射管が展示されている
江田島湾を望む埠頭の並びに、短艇の吊るされたボートダビッドがあります。



こうやって見ると、張られたロープは完璧に並行線を描き、
その先できっちりと撓みなく巻き取られ結び付けられており、
現在の幹部候補生学校での短艇訓練も、海軍の頃からのやり方通り、
整然と行われているのが伺い知れます。



ボートダビッドの下で江田島湾を眺める元生徒のご令室。
(お一人なので未亡人かも)

彼女の足元に白い楕円が描いてありますが、これはおそらく
ボートを上げ下ろしする際にこのサークルの中に立つ、
みたいに決まっているのかと思われます。



兵学校時の短艇訓練は、号令により生徒はまず短艇に乗り込み、
それからボートは海面に降ろされます。
そして教官か一号生徒・最上級生の号令で櫂をを構え、
一斉に漕ぎ始めます。

最初にこの訓練が始まると、臀部の皮膚は座席との摩擦で皮膚が裂け、
白い作業着が血まみれになるという話を読んだことがあります。
海軍ならではの厳しさだろうと思っていたのですが、某大卒業生の口から

「皮がむけたお尻に互いに夜赤チンを(という時代の人)塗りあった」
「剥けてベロベロになったところがまた訓練でまた剥けて」

というホラーな話を聞いて以来、その伝統は連綿と現在の海上自衛隊に
受け継がれているらしいと知りました。



兵学校を撮ったことで有名な写真家、真継不二夫氏の作品には、
夕靄に煙るこの表桟橋付近を歩く作業着の学生たちの姿と共に、
沖を航行する当時の船舶が映し出されているものがあります。

明らかに現代のとは違う形とはいえ、同じ江田島湾を
一般の船が行き交い、やはりその湾内に若々しい生徒の
短艇を漕ぐ掛け声が溌剌と飛び交っていたのであろう瞬間が、
ここにこうやって立つと、ありありと想像されます。



その真継氏の写真に残る短艇訓練において皆が操るオールは
普通の木製に見えますが、どうもこの写真によると
現代のオールは素材がファイバー入りとかになっているのか、
細くて軽そうです。
海中に落としても見つけやすいようにか、赤い色がつけられています。

当時のカッターは長さ9メートル、幅2.5メートル、深さ0.8メートル、
重量は1.5トンとされました。
重量は随分軽くなっていそうですが、大きさは同じではないでしょうか。

毎年5月には三週間の「短艇週間」という集中時期があり、
この期間はたとえ雨天でも中止されない猛訓練が課されました。

そして、宮島遠漕というレースは、ここから宮島まで(!)
だいたい1時間半漕ぎ続けるという猛烈過酷なものでした。

短艇を繰ることは海を仕事場とする海軍軍人の基本。
力任せではうまく進まず、同乗者との息をぴったりにしないと
いい結果は残せない、つまり集団でことに当たる、
「船乗り精神」も学ぶことができます。

今でも防衛大学、そしてここ幹部学校ではカッターが必須ですが、
実際に現在の自衛隊で手漕ぎボートが実際に投入されることなど
まずありません。

なのになぜカッターなのか。
それは、何人かで一つの船を操ることで知る真の意味での
共同作業と、生身の人間では海の上で思うようにならない、
太刀打ちできない、ということを体に叩き込むためという説があります。

昔とは違って、今は海面に降ろしてから乗り込むようですね。


さて、この兵学校クラス会の後、わたしたちは縁あって、
ある元生徒にご交友を頂く僥倖に恵まれました。

ちなみに後日お宅に遊びにいったあと伺ったのですが、この方は、
実はこの大量採用の大人数クラスで、3号が終わった時
ハンモックナンバーが5位だったということです。
それはどうしてわかったかというと、全てが序列で決まる兵学校、
3号が終わって2号になったとき、この方は

「501分隊の先任」

つまり、上から5番目であったことがこれに歴然と現れていたからで。

「ぼくは人生で後にも先にもあの一年ほど勉強したことはない。
皆が週末に倶楽部(民間の下宿)に行っているときにも
一人で自習室に残って勉強していたんです。
平日はどんなに頑張っても皆と同じだけの時間しか取れないから」

だから一目そのハンモックナンバーの書かれた資料をこの目で見たい、
と「わたしに」おっしゃったのですが、この話はまた別の機会にして、
その優秀な生徒さんが、この岸壁にいるときにある話をしてくれました。

それを書く前に、また例の「兵学校の七不思議」に戻ります(笑)



あれはいちいち話のツメが甘くて怪談話としてもイマイチだったろ?
とおっしゃる方、わたしもそう思いますが、話の構成上仕方無く。
 
七不思議最後はこういうものです。

7.砲術科講堂(「陸奥」主砲塔の並びにある建物)沖の海面 
 帝国海軍の煙管服を着た人影が多数浮かぶ。 
 兵学校沖で大破横転した艦の戦死者の霊が彷徨っているのかも知れない。


江田島湾が空襲に遭ったのは昭和20年、複数次にわたります。
この江田島近辺で「大破横転」した軍艦は全部で5隻。
まず「榛名」「 出雲」そして標的艦だった「摂津」。

いずれも多くの乗組員が戦死しているのですが、
「兵学校沖で大破着底した船」とは重巡「利根」と「大淀」です。


それにしても文中の「煙管服」、七不思議にしょっちゅう出てくるのですが、
そもそも煙管服というのは、炭をボイラーに放り込むための、
主に日露戦争当時の缶焚き(機関室)勤務の「つなぎ」です。
動力が重油に変わっても「掃除の時に」着用されていたそうですが、 
どうしてことごとく機関室の掃除の格好の幽霊ばかりが出るのかとまず疑問。
しかも日露戦争・・・。




ところで、元兵学校生徒の重大な歴史的証言を聞いてみましょう。
この方が戦後あるところに書かれたエッセイからです。

「自ら江田湾に座礁し砲台と化した巡洋艦、利根、
大淀と敵機の戦闘だった。
しばらく続いた戦いが終わってふっと静かになった時、
大勢の血みどろの負傷兵が運ばれてきた。
翌日、何事もなかったように晴れ渡って穏やかなポンツーン
の傍に、遙か太平洋を越えて渡ってきた高級な飛行服が
一つ半長靴を履いて浮いていた。」



「利根」と「大淀」は、兵学校の対岸である能見島側に、
3月の空襲で損傷を受けてから移動してあったのですが、7月24日、
そして7月28日の空襲の時には「浮砲台」となって米軍機動部隊と
激しく戦闘を行いました。

空母からやってくる艦載機は、目標地点上空に飛来すると、
空戦そのものはたった「4~5分」しか行わず、爆撃機は一度投下したら、
銃撃は行わず空中で待機して、全機揃って帰っていきます。
そしてそのあと「第二波」がやってくる、といった具合だったそうです。

兵学校の岸壁に挙げられた遺体は、その時に艦砲射撃によって
撃墜されて飛行機ごと江田島湾に墜ちた飛行士のものだったようです。


帰りのバス車中、後ろの席に座った同期生同士でまたその話が始まりました。

「あ、それ俺も見た」

ほとんどすべての兵学校の生徒たちにとって初めて見る敵国兵の戦死体でした。
片方だけの半長靴は新品らしくピカピカで、大変上等に見えたということです。
水揚げされた米兵を、皆が遠巻きに見るようにしていた中、
(兵学校生徒は立ち止まるどころか、視線を落とすことすらを許されず、
行進しながら目の端でで見ていたらしい) 兵学校の内勤をしていた女性が
ためらわずに屍体に触れ、運搬の用意を始めたのを見て、 

「女の人は強いなあとそれを見て思った」

と、先ほどとは違う生徒が、まるで昨日のことのように話していました。



ちなみにこの空襲で大破した「榛名」は、迎撃の際、B24「タロア」と
同じく「ロンサムレディ」を撃墜しており、この時に捕虜になった
「ロンサムレディ」の乗員は機長以外、全員広島の収容所に移されて、
10日後の原爆投下で全員死亡した、という話を当ブログで扱ったことがあります。

「Bー24リベレーター ロンサムレディの乗員」 



さて、所詮面白おかしく(怪談だからちょっと違うかな)語り伝えられる
「七不思議」とはいえ、整合性がないと「真実味」とか、何より
(幽霊話に真実味もへったくれもないだろ、って?まあまあ) 
怪談としての精彩を欠き、あまり怖がる気にもなれないわけですが、
今後、もし、

「飛行靴を片方だけ履いたアメリカ兵の幽霊が岸壁に立つ」

という「不思議」が加わるようなら、
これだけはわたしが出処を保証しましょう。



元生徒はこの飛行士について話し終えた後こう言いました。

「アメリカに生まれた若者が、わざわざこんなところで
撃墜されて屍体になって・・。
この男にも家族がいるんだろうにと考えましたね。
ちゃんと見られなかったので顔は覚えていませんが、
あの上等の飛行靴だけはは今でもありありと思い浮かびます」





続く。 


 

 

戦艦「伊勢」慰霊祭~いざ乗艦

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「護衛艦『いせ』での艦上慰霊祭に参加しませんか」

このブログをするようになって、海自の情報を交換するようになった
ある友人から耳を疑うようなお知らせをいただいたのは去年の晩秋。

わたしも旧軍自衛隊関係イベントにはよく出かける方ですが、
そのわたしが「この熱意には勝てん」と思うくらい全国にイベントを求めて
東奔西走しているのがこの人です。

「昨日は北海道にいました~。寒さが違いますよね」

呉のホテルで慰霊祭の前日にお会いしたとき、
陸自の恵庭基地に行っていたというのでまず驚いたのですが、
さらにすごいのはこの方、移動を時々とはいえ夜行バスで行うということ。
あちこちに行く交通費を節約するためだと思うのですが、よく体が持つなあと
一回夜行電車に乗った時一睡もできず死ぬほど辛かったヘタレのわたしは
つくづくとその情熱と行動力に感心するのでした。

彼女はその前の日から所用で呉入りしていたため、その日
わたしたちは「歴史の見える丘」の見学の後ゆっくり語り、
あらためて同好の士同士のニッチな会話を楽しんで、
翌日のイベントに備え英気を養いました。

「明日雨らしいですよ」
「え・・・どうしよう」
「きっと大丈夫ですよ」

何が大丈夫なのかわかりませんが、わたしが参加するイベントが
結構な確率で大雨に見舞われるということに最近気付いてしまい、

「わたしのせいで雨になったのかもしれない」

と割とマジで気に病みつつ・・・開けて次の日。

・・・・雨です。orz

なんとなく甘く見て雨具を何一つ持っていなかったわたし、
ホテルの近くのコンビニで傘とレインコートを買いました。

 早起きしたのでゆっくり朝ごはんを食べ、宿泊していたホテルのロビーで
同行することになっていた一団と待ち合わせてから現地に行きます。

この一団というのは私を誘ってくれた方が所属するもので、
今回の「いせ」艦上での「伊勢慰霊祭」に招待された人々。
歴史学者あり、歴史ナビゲーターと称する郷土史家あり、
護衛艦の後援会(というものがあるとは今まで知りませんでした)
の会員あり・・・・。
わたしのようにブログを主催していてそこで政治問題や歴史を
語っている、という人、艦艇の写真をアップしているという人、
とにかく「お好きな方」ばかりです。

それが最初にわかったのが、ロビーでの出発までの時間、
ある女性が、お爺さんが伊勢に乗っていた海軍さんで、
秘蔵のアルバムをわざわざ持ってきてくれたと知った時です。

ロビーで立ったまま目を輝かせて黄ばんだアルバムをめくる一団。
わたしももちろん横ににじり寄って行って覗き込んだのですが、
 
「これはすごいよ!」

一人が感嘆した一枚の写真。

「これ、観艦式の写真じゃない?」 




「あ、本当だ」

皆がわらわらと寄ってきて、写真を撮り出したので、
わたしもわからないながらに一枚(笑)

ちなみに上のセーラー服を指して別の人が、

「おじいさん彫りが深いねえ」
「これ祖父じゃないんです。観艦式のときにいた外国の水兵さんで」
「そういえば軍服が違うな」

当時の観艦式も今と同じように外国の海軍を招待していたんですね。

「そりゃそうですよ。我が海軍の力を外に見せないといけないもの」



主砲の上に立ってそこから観閲のため編隊を組む
後続の艦隊を写しているんですね。

空には3機の複葉機が飛行しています。

「これは・・・貴重な写真だねえ」

このあとも護衛艦に乗り込んでからこのアルバムが散々話題になったのですが、
とにかくわたしはここでこのグループのヲタ度に気がつきました。

まるで、このブログにコメントくださる方が集まっているみたいです。
もしこのブログのオフ会をやったらこうなるに違いありません。
各々が知識に基づいて語り、疑問もすぐさま誰かが解決してくれ・・。

これはとんでもないメンバーだぞ、とわたしは内心狂喜したのですが、
そこで時間となり、岸壁まで移動することになりました。



女性軍に置いて行かれたわたしは、比較的体の大きな男性ばかり
三人とタクシーに乗ることになりました。

「ぼく体大きいから前に乗せてね」

と誰かが言っていたような気がしますが()初対面の男性と
後部座席でぎうぎうになるのはさすがに遠慮したかったので、
わたしはこの際前席に滑り込ませていただきました。

しかし初対面とはいえ皆興味を持っている方向が同じ、
となれば車の中でも話が弾む弾む(笑)
参院選の後だったので、
あの結果はおかしい!という話で盛り上がりました。

「あちらこちらで無効票になってたしねえ」
「田母神閣下の得票数と比例の得票数が合わないし」
「僕のブログでもかなり反応があったのですがねえ」

お一人は田母神氏と実際にお会いになる立場の方のようでした。



あっという間に岸壁に到着。

雨なのにバイクが多いのは、自衛官の通勤用だから?
立て札には「くろべ駐輪場」とあります。
「くろべ」は訓練支援艦で、ここ呉に配備されています。

タクシーから降りて岸壁を歩いていくのですが、
ここが結構長いので、傘を買ってよかったと思いました。

グループは別地方から来た人が多く、何人かは
艦に乗り込むまでの辛抱、と思ったのか傘なしで歩いていました。

ごめんね・・・わたしのせいで。(と真剣に思っているエリス中尉)





岸壁では輸送艦「くにさき」が積み込み作業をしていました。

おお、また会えたね、「くにさき」。
観艦式で「ひゅうが」に乗ったとき、隣に停泊していたので、
先に出航していくのを見送ったということがありました。

「くにさき」はあの映画「聯合艦隊司令長官山本五十六ー太平洋戦争
70年目の真実ー」(長いんだよこのタイトル)の撮影に使われ、
それについて当ブログでも一度お話ししたことがあります。

また昨年5月からカンボジア、フィリピン、ベトナムで医療活動を行い、
文化交流も行い、7月に帰ってきたのだそうです。

お疲れ様でした。

バケツリレー方式で積み込んでいるのは、



お弁当には見えないなあ。
この緑の作業合羽を着ているのは自衛官でですよね?

まあ、輸送艦だからいろいろ運ぶものもあるのでしょう。


 

大八車を二台引っ張っている人がかわいい。
護衛艦の朝は本当にいろんな作業があるようです。



「いせ」登場~~!

「おおすみ」と一緒に台風被害を受けたフィリピンに
「サンカイ(現地語で友情の意)作戦」に従事し、

「70年目のレイテ突入」

が人命救助であったということについて、わたしは偶々

「戦艦伊勢の物語」

というエントリでお話ししたところだったんですね。
「あの」!「いせ」にこんな早く乗艦することができるとは。



ふと隣にドック入りしている護衛艦を発見。
意味もなく末尾の番号を消してみました。
「むらさめ型」の駆逐艦なんですが、わたし、この艦も
大変馴染みが深いというか、実際に乗ったことがあるんですよね。

修理中の護衛艦を見るのは初めてですが、
マストのてっぺんまで綺麗に覆ってしまうのね。 

護衛艦は1年に必ず1度、定期点検でドックに入るそうですが、
このむらさめ型の補修はわりと大々的で、定期点検には見えません。
4年に一度くらいの「大補修」なのかもしれません。
どなたかご存知の方、教えて下さい。 



兵装という兵装は皆取り外されていますし、このように
立入りさえできないくらいあちこちが作業中です。

こういうとき、この艦の乗員はどこで何をしているんだろう、
とふと心配になってしまうのですが、このあと「いせ」で聞いたら
ドック入りしている間も普通に「艦隊勤務」は行われるそうです。
海保ではドック入りすると完全休養なのだそうですが、
艦は乗員の「オフィス」なので、いつもと変わることなく、
定時に「出勤」してきて、任務につくということです。

部署にもよりますが、この間は訓練よりデスクワークなどをするので、
休みの日に休みを取れるという公務員のような(公務員ですが)
勤務体制で、少しはみなさん楽な模様。(たぶん)





うむ、この角度から見る「いせ」が一番かっこいいかも。
停泊中なので艦首旗が上がっていますよ。



錨はもうすでに上げられた状態。
航行するときにはもっとぴったりとなるはずなので、
これは「半揚げ」状態?



真横から一枚撮ってみました。



昨日「歴史の見える丘公園」から眼下に臨んだ
ジャパン・マリンユナイテッドの「大和」ドックのある方向です。
向こうに停泊している大きな船はクレーンを積んでいますから、
車などを運ぶものでしょうか。

手前の小さなタグボートらしいのが出動中。
色がグレーではないので民間用だと思いますが。



「いせ」の向かいには「うみぎり」が停泊中。
「うみぎり」といえば!
護衛艦カレー対決のあの日、売店でなぜか「うみぎり」の
パッチを買って帰ったという因縁。

自衛隊なのにドクロのマークを使っているのが頼もしく?
しかもそれがとても可愛らしいという・・。

第9次ソマリア派遣 うみぎり パッチ

大した縁ではないとはいえ、こう周りに縁のあるフネが
勢ぞろいしているとなんだか嬉しくなるではないですか。

「あ、あれも知ってる」「あ、これはあのときに」

などと言いながら護衛艦を見るのは、まるで百人一首で
下の句がすらりと出てきたような達成感があります。



「ひゅうが型」のラッタルは低いところから入っていくので
傾斜があまりなく、大変楽です。
上がっていくと、そこには自衛官が何人か立っていて、
一人一人に

「おはようございます!」

と爽やかに挨拶をしてくれます。
いつも思うのですが、自衛官の挨拶というのはどうしていつも
こう人の気持ちをほっとさせるというか、和ませてくれるのでしょうか。

その様子にはマニュアルでそうなっているから、だけではない
日頃の鍛錬が彼らの背筋を一本線で通したような折り目正しさと、
いい意味で個人をなくしたプロフェッショナルが醸し出す
「おもてなしの心」が感じられます。


中ではいろいろあるとかいろんな人がいるさとか、
誹謗中傷や個人の噂をわざわざ某大型掲示板などで
自衛隊のイメージを悪くするために書き込む人もいるでしょうが、
少なくともそんなことは一般人には全く感じられません。

どんな組織にも内部に問題点はあるものですが(いじめや自殺など)
対外的にこれだけ印象がよいのならそれは「内部の問題」に過ぎません。

今まで縁あってお話ししたり案内して頂いたりした自衛官たちは
陸海問わず(空自は残念ながらまだ知り合いなし)掛け値なしに
素晴らしい人たちばかりでしたし、いずれの出会いもそのあとは
自衛隊という組織を前より好きになっているというくらいでした。

自衛隊を嫌う人は自衛隊を知らない。

わたしはこのように断言するものです。



一度お話しした、伊勢神宮大宮司の揮毫による銘板。
ひらがなのせいか、温かみのある筆致に大宮司の
お人柄さえ見えてきそうです。



ラッタルを上がったところ、舷門の奥にありました。
艦歴を記すところには、まだこれだけしか記述がなく、
館長の名を記すプレートにはまだ三人の名前しかありません。

艦歴の最新情報は去年の6月行われたRIMPACへの参加、
そしてその上にはこうあります。

平成25年11月18日~平成25年12月20日

フィリピン共和国台風(ハイエン)災害
国際緊急援助活動に従事
(オペレーション SANGKAY)

 
あのとき、フィリピンに援助活動に行った「いせ」そして
隣に停泊していた「くにさき」らは日本の誇りでした。
その「いせ」にこれから乗り込んでいくのです。いざ。


続く。 





 


海軍兵学校同期会@江田島~表桟橋は「表門」

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昨年秋、ふとしたご縁で同行させていただいた
海軍兵学校同期会解散記念ツァー、続きです。

陸奥砲塔のある江田島湾に沿った岸壁近くには、
一般ツァーでは正面を見ることができない
第一術科学校の正面玄関があります。

旧江田島海軍兵学校を、現在こちらの名称で呼ぶことが多いのですが、
ここには「第一術科学校」と「幹部学校」は独立した学校組織として
別々に存在しているのです。

昭和31(1956)年に連合軍が接収していた施設が返還されたとき、
当時横須賀の田浦にあった術科学校が江田島に移転してきました。

旧海軍時代は例えば「砲術」「水雷」といった学校があり、
「砲術学校」だけで見ると、初級士官(少尉)訓練のための普通科、
砲術士官訓練のための高等科(大尉、少佐対象)、予備士官(高等商船学校)
のための練習科、下士官を錬成する予科が併設されていました。

現在の術科学校は幹部、海曹士ともに、部隊配置の合間に5週間から
最長1年間、専門教育を施す教育機関となっています。
例えば幹部であれば、

任務過程(3尉~2尉)・・5週間
中級過程(1尉)・・・・18週~1年
専攻科過程(3佐)・・・1年

と、最低三回はここに帰ってくるということになります。
「第一」というからにはそれ以下もあって、海自の教育隊は
このあと「第4術科学校」までがあります。
第1術科学校はこの中でも艦艇デッキ部門(砲術・水雷・運用など)を担当し、
年間を通じて常時、幹部・曹・士約600名がここで教育を受けています。

わたしが時折このブログで語っている、台南飛行隊の笹井醇一中尉が、
兵学校67期の同分隊の仲間と撮った卒業記念写真は、明らかにこの建物、
当時は新館であった西生徒館の窓越しであり、
初めて江田島に一般ツァーで訪れてこの建物を見たときには感激して、

「建物はそっくりそのままだが窓枠だけ変えたようだ」

と書いたことがあるのですが、今回これが、平成17年に新しく
建て替えられていたということがわかりました。



建て替えられたと言えば、レンガの生徒館も同時期に、
基礎から補修をやり直して改装されていたらしいですね。

わたしには「あのまま」と思われたこの建物ですが、
元兵学校生徒から見ると、練兵場から見た「西生徒館」は
「何かが違う」と一目でわかる変化があったようで、
というのも当時は3階建だったのが4階になっているのです。
白黒写真なのでそのニュアンスも伝わりにくかったわけですが、
壁もクリーム色で、現在の白亜の壁色とは違っていたそうです。

江田島にある他の建造物が歴史的に保存の価値があるとされ、
改修も往時の姿を保持したまま行われたのに対し、
この建物はその対象には入っていませんでしたし、調査の結果
基礎の劣化が酷く、保存するより新築してしまった方が安い、
ということになったため、建物のデザインをそっくりに、
元の建物を取り壊して作り直すということになりました。

当然、外部、特に兵学校出身者などからは猛烈な反対が起き、
関係者はその対応に大変な腐心をしつつも理解を求めることに
心を砕いたと言われています。

この改修の意義と経緯、旧館との違いについては、
兵学校75既卒の方が詳しくお話ししているページがありますので、
もしご興味がおありでしたらそちらをお読みください。

海上自衛隊第1術科学校(海軍兵学校第1生徒館・西生徒館)大改修物語



さて、陸奥砲塔横のボートダビッドを左に見ながら岸壁を行くと、
兵学校の、そして今でも江田島の「表門」である「表桟橋」があります。
ここを「正門」、通常の入り口を裏門と称する文言もときどき見かけますが、
ある自衛隊幹部の見解はこのようなものです。

門の呼称については諸説ありますが、
わたしが気に入っているのは次のような解説です。
敷地の東側、通常守衛が立っている入り口は「正門」
敷地の西側、宮ノ原地区の入り口は「裏門」
そして表桟橋は「表門」

艦艇の舳先側を「おもて」と言いますが、
艦に見立てた生徒館(赤煉瓦)の正面が海に面しており、
その海側の出入り口が「おもて門」というふうに、
自然と呼称されたように感じます。


ところで、この写真を含め、これからの3つの写真を見ていただくと、
江田島湾を右から左まで見渡すことができるわけですが、
何かに気づかれませんか?

そう、ここからは外洋への切れ間、水平線がないのです。
この写真の右手は湾のたった一つの切れ目である津久毛瀬戸という
海峡につながっていますが、江田島湾というのは周りを陸に囲まれ、
まるで湖のような入江なので、ご覧のように波が全く立たないのです。
兵学校がこの地を東京の築地から移転させた理由は

「第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ
海軍の志操を堅実ならしむるに在り。
第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け
精神勉励の一途に赴かしむるに在り。
第三、生徒の志操を堅確ならしむるため
繁華輻輳(ふくそう・集まっていること)の都会を避くるを良策とす」

つまり、都会の誘惑から生徒を遠ざけるという意味だったようです。
アメリカ東部の全寮制名門高校のほとんどが田舎にあるのも同じ理由ですが、
当時の江田島には漁村があるのみ。

兵学校のドキュメンタリー映画「勝利の礎」を撮るためにやってきたスタッフは
当初、島で一軒しかない宿屋に寝起きして撮影をしていましたが、
あまりの生活にすぐに根をあげて、広島から毎日船で通うことにしたそうです。

俗といえば俗過ぎる娑婆っ気の塊であった映画スタッフにとっては
せめて仕事以外は「世間の風」に吹かれたかったのでしょう。
それほどこの江田島というところが世俗離れしていたということなのですが、
なぜ江田島だったか、については、英語の教授だったセシル・ブロック先生が

「江田島という島は、ほぼY字形をしている。
兵学校は、ほとんど完全に陸で囲まれた江田内という湾を見下ろす
Yの字の分枝の内側に位している。(略)
古鷹山の頂上から見下ろした兵学校の景色や、ここから眺めた瀬戸内海の姿は、
こよなく美しいものである」

と著書に書いたように、この土地の美しさも選定の理由でした。

そして、この表桟橋が入江に位置し、
例えば遠泳やカッターなどの訓練に最適だったからだと思われます。



この桟橋も何時改修されたものか、大変美しく、
おそらく生徒館の大改修のころにまとめて行われたようです。
しかし手すりなどは昔の写真の雰囲気に似ています。

もっとも昔の手すりは地面に衝立のような手すりを置いただけ
といった風に見えますし、地面は無舗装です。

ここは兵学校時代から「表門」とされ、江田島で学んだ海軍軍人は
この表桟橋から巣立っていったものですが、今現在も、
幹部候補生学校を卒業した学生がこの桟橋を使用するのはただ一度、
練習艦隊出航の時なのです。

通常は国賓や特別なVIPしかここから入校するとは許されません。



ボートダビッドの方角を向いて撮っています。
この向こうにあるのが「陸奥」の砲台です。
岸壁も工事されているようですね。

岸壁といえば、兵学校時代、許可された時間外に学校を抜け出して、
分からないうちにまた忍び込んだ生徒の一派がいたのですが、
それがばれて学校側に呼び出されました。
彼らの計画は、

「潮の満ち引きの時間を調べ、干潮時に岸壁沿いに忍び込む」

というもので 、どこの部分のことかはわかりませんが、
おそらく干潮時には地面が出る地帯があったのでしょう。
ところが学校側はなぜか、

「干潮時を調べて行動するとはいかにも兵学校生徒らしい」

と妙なところで彼らの計画に感心し、叱責だけで放免となったとか。
おそらくこの表桟橋の海峡よりの海岸だと思うんですが、
表玄関側から堂々と忍び込むというのも、
もしかしたら海軍的にポイントが高かった点かもしれません。



案内係は、一つの団体に一人が付きました。
全体で4つくらいの団体に分かれたので、こういう幹部が
少なくとも4人は用意されていたということです。

通常科長職にある2佐が案内を務めることはありませんが、
このときには兵学校の先輩方に敬意を表して失礼のないように
シニアな幹部が指名されたようです。

ところでこの、前回も触れたように「身振り手振りが激しい士官」
ですが、目元を隠していても彼の経歴がわかる方が教えてくれました。

それによると彼は機雷掃海幹部であり、現在第一術科学校の潜水科長である
杉山重一2佐で、いわゆるEOD、水中の爆発物、すなわち
機雷の人的処理が専門のベテランなのだそうです。

胸につけている徽章は、上側が「潜水徽章」下が「艦艇徽章」。
潜水艦徽章と前回書いてしまいましたが、正しくは「潜水徽章」ですね。

3.11の時には、掃海艦「つしま」の艦長として、被災地に先陣を切った
勇猛果敢な幹部自衛官でもあり、

「めまぐるしいほどせわしい仕草と大きな声も、
彼のトレードマークです(*^o^*)」

とのことです。(メールより)
これはもう杉山2佐でほぼ間違いないとこの文章で確信しました。

 


この写真を撮った時に杉山2佐(仮定)が説明していたのは、
今年の練習艦隊、つまりわたしが晴海で見送り、
同じ晴海でガダルカナルで収取された旧日本軍将兵のご遺骨と共に
帰還を見届けた平成26年度練習艦隊の出航のときには、
安倍首相夫人が来賓として卒業式に出席し、それを見送った、
ということでした。

安倍昭恵さんのFacebookでこの件を検索してみると、
彼女がアップした大講堂の写真は二階席の正面に向かって
右の上の席から撮られており、戦前は「皇族専用」であった席は
今はVIP来賓のために使われていることがわかりました。

ちなみに、このとき杉山2佐(仮定)は、安倍夫人のことを
「安倍ゆきえさん」と連呼していたのですが、
皆意味はわかっているようだったので、指摘しませんでした。




さて、桟橋付近岸壁の見学の後、もう一度マイクロバスで
教育参考館の前に、今度は団体写真の撮影のために集合です。



石段の上に並んで立った時の眺め。
彼らが本日の同期会ツァーのためにいろいろと
お世話してくださった自衛官たちです。

カメラを提げているのは写真中隊の海曹ですが、
写真の専門家というのはどんなときにもこのように
安定した立ち方が習い性となっているものなのでしょうか(笑)



しかし、メインのカメラはこちらではなく、旧西生徒館、
第一術科学校の屋上の角にいます。

「あちらから撮りますので皆さんカメラの方を向いてくださ~い」



わかりやすいようにカメラマンが帽子を取り手を振ってご挨拶。
皆もニコニコと手を振り返します。



それから歩いて大講堂の裏に移動しました。
これから、最後のイベントである、呉音楽隊によるコンサート。
呉音楽隊といえば、先日音楽庁舎を訪問し、練習場を
音楽隊長の案内で見学させていただいたばかりです。
ただそれだけの縁ですが、すっかり馴染みになったようで
コンサート会場にはワクワクしながら向かいました。

向こうに見えているのは学生が寝起きする官舎だと思われますが、



見てください。
古鷹山の下にその姿を見せているのは、一般ツァーではもちろん、
今回の特別ツァーでもついに見ることができなかった

理化学講堂

です。
貼り付けたページの解説によると、春の一般公開の時には
近くまで行くことはできるようです。
しかし、内部を見る限り使われている形跡がないとのこと。

1904年の建造という歴史的な建物。
このまま保存、修復作業をして記念館にでもしてくれるといいのですが、
生徒館や第一術科学校の大改修のときにも予算が上がらなかったようなので、
今後どうなるのかとても心配です。




皆が案内されて次々と吸い込まれていく建物は、後から地図を見たのですが、
どう考えても位置的に教育参考館の裏側のように思えて仕方がありません。



建物の屋上にはまるでギリシャ神殿の円柱のような部分があり、
このテイストはどうも教育参考館のそれなのですが・・・。

もしかしたら、今流行りの「下は歴史的建造物、上に近代的ビル積み」
というあの「ツギハギ建築」の「上下」ならぬ「前後」ツギハギなんでしょうか。
ここが一体なんなのか、もしご存知の方、教えていただけませんでしょうか。


続きます。


 

「伊勢」慰霊祭~「伊勢」と「いせ」

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というわけで、「いせ」艦上での戦艦「伊勢」慰霊祭に
参加し、いよいよ「いせ」に乗り込みました。



さすがに就役してまだ三年未満というだけあって、
艦内はまだピカピカした感じです。
それでなくても「清潔・整理・整頓」の海自ですからね。
いうまでもありませんが、この3Sは海軍からの伝統です。
(伏線)

艦内に通されたわれわれは、信じられないくらい狭い階段を
それこそ何段も上がり、士官室へと通されました。



これからの予定を説明する1等海尉。(たぶん)



席に着くなり待機していた乗員が熱いコーヒーを持ってきてくれました。
カーテンの向こうは何かわかりませんでした。
簡易キッチンとか?
それより、入ったところにある鏡にご注目!

沈みゆく「音戸」のガンルームから、士官が鏡を持ち出し、
それが大和ミュージアムに展示してあったのを見ましたが、
旧軍の昔から鏡はかならず士官室の入り口にあるものです。

海軍士官たるもの、常に自分の姿を鏡に映して点検する、
これもまた海軍時代からの伝統です。(伏線)



命名書が金縁の額に入れられてかけてありました。
浜田靖一議員が防衛大臣だった時代というのは
麻生内閣のことですね。
護衛艦に命名がされるのは進水式の時ですから。

今艦歴を見て驚いたのですが、「いせ」の就役は2011年3月16日、
なんと東日本大震災の5日後のことです。

あの未曾有の大災害の直後でも予定は延期されなかったようですが、
当初四月に行われるはずであった一般公開の行事は、
呉地方総監部が被災地支援に忙殺されたため、7ヶ月遅れました。




これは・・・たぶん伝統ではないと思いますが、
幹部の奥さんともなると、同僚に差し入れなどの
気遣いもしてしまうものなのですね。

「整備士官Bの奥さま」とありますが、この”B”って仮名ですか?
それともアルファ・ブラボーのB?



今まで見てきた日米海軍の()公的部分には、このような
心理カウンセリングを呼びかけるポスターがどこにもありました。

このポスターはそのものズバリ、「自殺防止」が目的の
カウンセリングのサポートダイヤルです。
24時間対応しているというのが、アメリカで見た

「スイサイド・ホットライン」

と同じです。
むしろ夜にこそ需要があるものなのでしょうしね。
で、ポスターの絵柄がかなりやっつけなのですが、
なぜ招き猫?という疑問はさておき、頭を抱えて
悩んでいる猫の耳が寝ている(猫は不快な時に耳を伏せる)
のがなんとなくそこだけリアル・・・。



さて、慰霊祭まで時間があるので艦内をグループで
案内していただきました。
エスコート係も最初から決まっているらしく、
お誘いくださった方が「イケメン士官です」と
予告してくださっていた通り、まるで洗濯したばかりのような
爽やかな幹部自衛官が先頭に立って説明をしながら歩いてくれました。

最初はいきなり艦の動力を司る機関室です。



見よこれが最新鋭護衛艦の機関室である。
モニターに映っているのは艦橋ですかね。

観艦式の時には「ひゅうが」の機関室に入れましたが、
データの書かれた部分にちゃんと紙が貼られていました。
今回はそれほどの人数ではなく、おそらく乗艦する人員の
素性が確かであることから、そこまでの警戒はしていない模様。



隊員食堂を通り抜けました。
柱に巻いてある激突防止&掴まり用の何本もの柱は、
広い空間でたとえば食器を持って歩いているときに
ぐらりと揺れた場合を想定してあります。



椅子は床面に置きません。
アメリカの空母などだと、これが作り付けというか、
机と一体になっていて引き出すような形のものでしたが、
日本の場合は収納してしまうことにしています。



親子三人が熱心に?テレビを見ていました。



部屋の隅にあった冷凍ケース。
何も入っていないのはシーズンオフだからと思ったのですが、
「完売」のお知らせが貼られています。

「アイスクリームは完売いたしました。
お買い上げどうもありがとうございました。
 専任海曹室 厚生係(アイス担当)

そんな部署本当にあるんですか。
と一応真面目に突っ込んでみる。



テーブルの一つに置いてあった三宝。
これはもしかして慰霊祭で使う・・・・?




10時までの乗艦が義務付けられていましたが、
ここでふと時計に目をやると10時過ぎでした。
もちろん出航はまだまだ先です。
壁がことごとくクッション性のある材質で覆われているのに注意。



なんだかすごく大事そうな一角に注目。

国旗と自衛艦旗の下に、最高指揮官である安倍晋三の名、
続いて防衛大臣、海幕長、自衛艦隊司令官。

自衛艦隊司令官は昔の聯合艦隊司令長官ですね。
ん?だとしたら海幕長は軍令部総長?

続いて護衛艦隊司令官・第4護衛隊群司令・護衛隊司令・艦長。
藤原秀幸一佐は三代目の「いせ」艦長です。

ついでに(なんて言っちゃいけないか)指導方針を書いておくと、

「精強・即応」「伝統の継承」

伝統の継承ですよ伝統の。(伏線)

艦隊司令官の指導方針はそれに加えて

「日米共同・統合運用の進化」

と妙に具体的です。
同盟国であるとか以前に、日米海軍って仲良いですよね。
ガチでやりあった相手とは友情が芽生えるというあれなのか。 

ちなみに第4護衛隊(これは第四艦隊ね)群指導方針は 、

「伝統の継承・変化への挑戦」

ふむ、ちょっと一捻りしてきましたね。
伝統墨守だけが海自ではないぞ、ってとこでしょうか。 
そして第四護衛隊司令のは

「誠実・柔軟」

アングルバーよりフレキシブルワイヤたれ、というアレですね。
というか、こういうのも結局昔から変わりばえしていない気が。

良き伝統の継承、しかしフレキシブルに変化、米海軍と仲良く。

みんなまとめてこれで統一すればいいんでない?(適当) 
唯一艦長の指導方針だけがちょっと異色で、

”強い「いせ」”

「強い」のひとことにあらゆる意味が込められていると見た。


ところで、海上自衛隊の任務の三本柱は

国防・海外協力・災害派遣

であることは説明するまでもないことと思います。
それらを骨子に、輸送、教育、そして不発弾の処理にいたるまで、
任務の全ては「国を守る」ということにつながっていくわけですが、
もう一つ、大事な任務として「礼式の実地」があります。

これは防衛省のHPによると「国家的行事の礼式」。
このカテゴリに含まれる自衛隊の大切な任務に

「慰霊」

があることを、我々はあまり知らされていません。

陸自の朝霞駐屯地を訪ねた時、朝霞周辺の基地で殉職した
隊員の慰霊碑を見せていただきましたが駐屯地だけでなく
防衛省の市ヶ谷庁舎敷地にも、こちらは全体での殉職慰霊碑があり、
欠かさぬ顕彰が続けられています。

「年に一人や二人ではない」

と言われる自衛隊の殉職者が、組織によって祀られるのは当然ですが、
自衛隊は近年のものにとどまらず、旧軍の将兵の霊をも
途絶えることなく顕彰し続けているのです。

たとえば毎年行われている初級幹部のための遠洋航海。

昨年の遠洋航海出航と帰国行事に立ち会わせていただき、
特に今回は南洋で遺骨収集団が採取した旧日本軍将兵のご遺骨を
現地から日本に送り戻すという、歴史的な任務を負った練習艦隊を
晴海埠頭に迎えたという身にあまる光栄でしたが、
こういう特別な任務が行われる前にも、練習艦隊は必ず
大東亜戦争の激戦地海面では「慰霊行事」を行うのです。

たとえば2008年度の練習艦隊では太平洋上で一度、地中海で一度、
合計二度の慰霊祭を行っています。

また、たとえば愛媛県の三机には真珠湾攻撃の際
特殊潜航艇で突入した「九軍神」の碑があります。

これは、真珠湾の地形に似通っていたここ三机で、
開戦前特殊潜航艇での訓練が行われていたことからだそうですが、
海上自衛隊には練習艦隊が寄港した時には、幹部たちが
碑を訪れ、慰霊を行うという習慣があります。




ところでたまたま見つけたこのユーチューブに、
こんなコメントが寄せられているのでご紹介します。


私も海上自衛隊のファンですが、率直に申し上げまして
この種の行事は不適切であると思います。
このような事がなされている、ということも今回初めて知りました。
今さら申し上げるまでもございませんが、
組織上現自衛隊は旧軍とは何の関係もありません。
心情的には大いに理解するところですが「有志」の形が
望ましいのではないでしょうか?

言葉は丁寧で「心情的には理解」と言っている割には、
この人物は実は海上自衛隊についてほとんど何も知らないし、
知ろうともしておらず、反感を買われないために
とりあえずお追従のように海上自衛隊のファンといっているだけ、
ということがよく分かる文章ですね。

要するにこの投稿者は、

戦後の自衛隊が第二次世界大戦で戦死した旧軍軍人を慰霊する、
イコール旧軍回顧である。ゆえに不適切だ。

といいたいのでしょう。
今回同行された歴史学者久野潤氏の著書に書いてあった

「護衛艦に神社を”祭る”(ママ)のは政教分離がフンダララ」

と、支那の新聞、じゃなくて信濃新聞に寄稿していた学者と
全く同類の匂いがします。


「海上自衛隊は旧軍と何の関係もありません」

たまたまですが、先日コメント欄でこういったことが話題になりました。
この人が言う通り、確かに

「海自と海軍は別組織」

であることは明白です。

しかし、敗戦によって海軍が消滅した後も戦後掃海部隊の活動、
警察予備隊の創建と、海上自衛隊は、バックボーン、シーマンシップ、
実際には操艦の際の掛け声から指揮系統から習慣から呼称から、
全てを海軍のそれを基に成り立っているわけです。

つまり海自は自らが海軍とは別の組織でありながら
血統は色濃く受け継いでいるということになろうかと思います。



この人も「旧軍の慰霊をすること」が気にくわないのなら、
別の組織だのなんだの、もってまわった言い方をせず
ただそれだけを非難すればいいのです。


あまり多くの人に見られている動画ではないらしく、
この意見に対する反論を寄せたのは二人だけでしたが、
そのうちの一人はぼかしているもののどうやら自衛隊関係者のようです。

「今日、海上自衛隊で行われている様々な訓練や行事は、
そのほとんどが旧海軍のすばらしい伝統を相続しているのです。
呼称や制服は違ってもその中身には、
脈々と海軍の伝統が今も息づいているのです。
ですから、旧海軍の偉大な先輩方に敬意を表するのは当然であります。
今後も継続していただきたいと切実に願っております。」



ところでね。
士官室(っていうのかどうか知りませんが状況的に)
の壁にこんな絵がかけてあったんですよみなさん。

 

 

それが冒頭の絵。

波を切って進む海上自衛隊の護衛艦「いせ」。
その艦尾からVLSが発射された瞬間なのですが、
まるで「いせ」を護るかのように背後に浮かび上がるのは
戦艦「伊勢」の姿なのです。

わたしは比喩でもなんでもなく、この絵の前に立ったとき、
思わず鼻の奥がツンとして涙が滲みました。

この絵を「いせ」に贈ってくれたのはロッキード・マーティン社。

現代の護衛艦「いせ」が帝国海軍の戦艦「伊勢」の継承者であることを
かつて日本と戦った敵国の兵器会社がこうやって
デディケートしてくれているのです。

これは”どんな国の軍隊でも先達に敬意を表すのが当たり前”という
この点健全な考えを持っているアメリカ企業ならではで、
自衛艦は旧軍の戦艦とは何の関係もありません!
などと言いだす上の投稿者のような一部の人間に配慮する日本企業では、
おそらくですが、このようなオトコマエはやってくれないでしょう。



さて、海上自衛隊の護衛艦が、呉の音戸町坪井沖に
終戦の年の7月24日、浮砲台になっているところを空襲され
大破着底した戦艦「伊勢」の慰霊行事をすることになったのは、
「いせ」が就役してから以降のことだそうです。

いかなる事情でこのような行事が慣習化したのかは、
少し内部の事情もあって、ここでは説明できないのですが、
戦後初めて「伊勢」の名を引き継いだ「いせ」としては、
546名もの乗員が戦死したその現場で慰霊を行うことは、
その名の継承者として、当然のことなのです。



ところで、なぜロッキード・マーティン社が「いせ」に
この絵をプレゼントしてくれたのかというと、
「いせ」がロ社の「クライアント」だったからですが、
一体どこの部分を購入したのかご存知ですか?

そう、発射しているVLSを見ればお分かりかと思いますが、
この絵は「海上自衛隊様当社製品ご使用中の図」なんですね。
そもそも護衛艦のイージスシステムは、RCA社という
ロッキード・マーティン社の前身が開発したものなのです。

かつての戦争で自分の国が屠ったその同名艦に、戦後の友好関係のうちに
「護りの盾」という名を持つイージスシステムを装備する。

アメリカ人たちのこういうちょっとした「感慨」が、
この絵の意匠に繋がったのでは、というのはわたしの考えすぎでしょうか。


続く。 





 

戦艦「伊勢」艦上慰霊祭~「いせ」出航準備

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護衛艦「いせ」で行われた戦艦「伊勢」慰霊祭の模様です。
控え室になった士官室で見た「伊勢をでディケートした『いせ』の絵」
が他ならぬアメリカの巨大武器企業からプレゼントされていたことで
ついつい熱く語ってしまいました。

しかし、あれがもし「伊勢」ではなく「日向」だったのなら、
ロッキードマーチン社が依頼した画家に、

「わたしの『鼻の奥ツーンを返せ』」

とちょっとだけいちゃもんつけてみたい気もします。
それはともかく、今日は出航の模様をお伝えします。



控え室で一息ついていると、グループの一団を
一人の士官が率いて艦内ツァーに連れて行ってくれました。
その過程で艦内神社も見せていただいたのですが、
同行の方でやはりブロガーである「来島屋旗振り男」さんが、
そのとき賽銭箱にお賽銭を入れているわたしの手を写真に撮って
アップしておられました。 



このとき賽銭箱があったので反射的に入れてしまったものの、
後から、そもそもあれは賽銭箱として機能しているのか?
それこそ単なる飾りと化しているのではないか?
と思わないでもありませんでしたが・・・・。
まあ、お花代の足しにでもしていただければ本望でございます。

あ、神社はお花飾らないんだっけ。


さて、階段を上がって上がって上がって・・たどり着いたのは艦橋。
小官、恥ずかしながら息が切れましたorz
昔も今も艦橋にはエレベーターなんかで上がりません。
旧海軍のフネの艦長も、乗り込んだ司令官も、自分の足で
この艦橋の階段を上ったり降りたりしたものです。

護衛艦に乗り込んで一度でも艦内をウロウロしてみると、
移動するだけこんな激務なら、艦隊勤務の海軍軍人が皆スマート
(体型的な意味で)で当然と誰でも思うでしょう。

ところがあんな階段を上り下りしていてもマシュマロ体型を
維持していた指揮官が帝国海軍にいたってんですから驚きます。
そう、「人殺し多聞丸」こと猛将山口多聞中将ですね。

その理由は二つあって、山口多聞は生まれて死ぬまで一度も風邪を
ひいたことがないという驚異的な健康優良児だったこと。
もう一つはその上でよく食べたからです。

山口中将は他の鑑(大和とか) でご飯をよばれても「量が少ない!」
と文句を言い、「うちの方が多い!」と自慢していたというくらいで、
自分の乗るフネの食事は常に「質より量」を重視させていたということです。

運動量を上回るくらい食べれば誰でも太るのです。(訓戒)
 



艦橋には背中に「飛行長」「支援管制官」と
配置が背中に書かれたチェアがあります。
どちらも大きくて安定感があって、長時間座っていても楽そうですが、
こうしたレイアウトはアメリカ海軍から来たものだと思われます。

先ほど、映画「ファイナル・カウントダウン」についてのエントリを
完成させたばかりなのですが、この映画には原子力空母「ニミッツ」
の艦橋での指令シーンがしょっちゅう出てきます。
全機発進のシーンでは、この「AIR BOSS」の椅子に座った飛行長が
指令を下すところが描かれていました。 

ただし、空母ホーネットの艦橋ツァーをして知ったのですが、
あのような巨大空母の艦橋には司令室らしき部屋が別の階にわたって
合計3つくらいあり、「いせ」のように全てがコンパクトに
同じ部屋の中にあるわけではありません。



艦橋から臨む後甲板。
出航作業中に甲板に出ることは許されなかったと思います。

手前に見えている白いものは、スーパーバード衛星通信アンテナのレドーム。
向こうのグレーの丸い方はUSC-42 衛星通信アンテナと思われます。
まるで釣竿のようなホイップアンテナも、
インマルサット衛星通信アンテナらしきものも見えますね。
そこで一句、

「護衛艦 アンテナ無ければただの船」



艦橋の窓ガラスにワイパーがあるとは気づきませんでした。
雨が結構強く降っていますが、停泊中は動かさないようです。



ここは旧呉軍港ですから、現在もそのほとんどは海自使用です。
周りを見渡せば全てこれ海自艦艇。
隣は掃海艇の桟橋らしく、手前に「まえしま」がいます。



うわ、なんだか知らないけどかっこいい構図!
赤い丸の中心が、「いせ」の現在艦位を示している模様。
下にずらりと並んだ緑とオレンジのボタンは、まるでつい最近見た
「地球防衛軍」のミステリアンの宇宙船の中にあったような・・。




ここで一度移動。
あまり記憶にないのですが(汗)一度控え室に戻ったかもしれません。
何しろ、護衛艦の出航作業とは時間のかかるものだと思いました。
実はそれ以上に時間がかかったのが入港作業で、わたくし実は、
この時間が全く予想外に長引いたため酷い目に・・・・・。

その話はまたおいおいするとして、艦内の廊下を移動中。
前を行くのが今回慰霊祭への参加をお誘いくださった方です。



次の写真がこれだったので、どうもまた出港間際になって
もう一度艦橋に登ったようです。
確か「出航作業を見に行きましょう!」と誘ってくれた方がいたような。

艦橋では心なしか先ほどより緊張感があふれていました。
とにかく皆で何をしているかというと、

見張り、見張り、見張り。

出航作業とはこれすなわち「見張ること」であると思われました。



何もしていないように見える隊員もいますが、この人たちは
きっと後で何かすることがあるに違いない。



青いストラップをかけているのが艦橋配置の幹部たち。
艦長でなければ副長以下幹部全員が青ストラップの双眼鏡です。



この日は乗艦した一般人が比較的少なく、従って「いせ」側も
出航作業の間我々に見学することを許可してくれたのですが、
それでなくても決して広くない艦橋を、このように関係ない者が
ウロウロしたり間から覗き込んだり写真を撮ったりして、
さぞかし邪魔になったことでしょう(笑)

ここに写っているお二人はわたしのように自衛隊に関係する
ブログをやっておられるということでしたので、それだけ
気を遣って動いておられたとは思いますが、そうはいっても
物理的に場所ふさぎなのに変わりなし。

しかし自衛官たちはそんなことなど慣れっこなのか、
思っていても顔に出さないことを厳守しているのか、
見学者の存在がまるで全く見えないかのように淡々と作業を行っています。



後ろからでも赤いストラップでわかる「いせ」艦長のお姿。
「ふゆづき」の艦長は2佐で、赤と青の双眼鏡ストラップでしたが、
「いせ」は1佐が務めるので赤一色なのです。

「長門」の艦長をしていたことを、他の役職の何より
誇りにしていた知人のS氏の父親(海軍中将)でしたが、
現代でも、たとえその後の出世はできなくとも、「いせ」「ひゅうが」
そして「いずも」のような大きな鑑、あるいは「こんごう」などの
艦長になれたら海上自衛官として本望かつ思い残すことはない、
と考える人も結構いるんではないかなあと思いました。

わたしは所詮「外の人」ですので、その辺はあくまでも想像ですが。



こちらでも見張りは続いています。



「まえしま」の向こうにいたのは「みやじま」でした。
今出航していきます。



海曹・海士のストラップは白です。
他の階級の「専用仕立て」ではなく、既製品に
上からわかるように白い布を縫い付けているだけに見えます。
白とわかればよろしい、という感じですが、汚れることを考えれば
これが妥当な気もします。(←主婦感覚)



間から作業を覗き込む一般人。
ただしこの一般人は「歴史ナビゲーター」の肩書きを持った、
とんでもない海軍海自歴史オタだったりします。

緑色の海図が見えるのはレーダー指示器というやつでしょうか。



ついこんな風にウィングに出て乗組員に混じってしまう(笑)



「まえしま」の向こう側を出航していくのは・・・



「いずしま」でしたね。
バックで出航していきます。



同じ桟橋の反対側に停泊していた「うみぎり」を上から。
こちらの出航作業は今日は無い模様。

錨の錨鎖がどこにどうつながっているのかが、
よくわかる角度ですね。



あちらこちらで出航が始まっているようです。
向こうの大きな船はなんでしょうか。



ウィングに女性の乗組員がいました。
それも一人ではありません。
「ひゅうが」に乗ったときも女性の乗組員が目につきましたが、
「いせ」は「ひゅうが」と同じく女性専用居住区を持っており、さらにそれは
将来の女性自衛官の増加に対応するだけの余裕を持たせているということです。

増加していくんですかね、女性隊員。



出航合図用のラッパ発見。
どんな近代化され、コンピュータを駆使したイージス艦でも
出航の合図は海軍時代と同じ喇叭譜によって行われるのです。



自衛隊用語でイマイチわたしが理解できないのがここにもある
「航海支援」の「支援」。
「支援戦闘機」というのが「攻撃戦闘機」のことで、
攻撃という言葉が使えないための言い換えだということは知っていますが、
この場合の「支援」って、旧軍でいうと何なのでしょう。

それとも純粋に「サポート」の意味?



さて、色々と言っているうちについに出航ラッパです。
暗いのは重々承知でしたが、出航ラッパを吹く海士くんに
フラッシュを焚くのは失礼な気がしてそのまま撮りました。

喇叭が鳴り終わった途端、その喇叭を艦内マイクで拾っていた
女性自衛官が、同じマイクで即座に

「出航用~~意!」

と掛け声をかけ、さらにそれに変わった別の女性自衛官が

「ただいま本艦は岸壁から最後のロープを離し、出航しました。
それではしばしの航海をお楽しみください」

といったので驚きました。

女性が出航の合図をしたこともですが、「お楽しみください」とは。
まるでクルーズ船みたいです。


この後の出航作業については次回お話しします。


続く。 



 

備前長船「刀剣の里」~刀打ち初めと陸軍軍刀

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1月13日、当ブログに「第一空挺団降下始め」の記事を求めて
来てくださってくれた多くの方々、誠に申し訳ありませんでした。

年頭の自衛隊行事としてすでにご報告が恒例化しつつあった習志野駐屯地の
降下始め、昨年末までは行くつもりで、主に防寒グッズを中心に
準備万端気力も調整、ウォーキングの時には入場してから場所取りに
全力疾走するために時々走り込んだりして(笑) いたのにもかかわらず、
同じ日に始めは始めでも別の始めの予定が飛び込んできてしまいました。

岡山県の長船というところにある

備前長船 刀剣の里

という刀剣博物館で、神事でもある「刀剣打ち初め」に、
槌で刃を鍛えるための最初の打ち出しをやらせてもらえることになったのです。



9時に開始ということで、前日は岡山市内に宿泊、ローカル線で
無人駅からタクシーに乗って刀剣の里に到着。

オープンまでまだ30分あったのですが、ここの学芸員の方と
当地の市長さんからのご招待でもあったので、その旨をいうと
戸を開けて中に招じ入れてくれました。



何台か車の車がもう到着しています。
周りは日本の田舎にはどこにでも見られるような
二階建ての瓦屋根の民家がぽつんぽつんと建っている感じ。



紋付に白袴の男性が佇んでいました。
もしかしたらこの日の祭祀を執り行う神職かもしれません。



刀剣の里、というのは観光的な名称で、正式には

備前長船刀剣博物館

です。



映画の撮影用に作られたものか、鎧兜が二体お出迎え。



今のNHK大河にも刀剣の分野で協力しているようですね。
「花燃ゆ」のポスター。
みなさん、観てらっしゃいますか~?

わたしは当然見ておりませぬが、サブタイトルの

「幕末男子の育て方」(笑)

とこのポスターの構図だけでげんなりしてもうお腹いっぱいです。

そして真ん中!

エヴァンゲリヲンと日本刀展

のポスター。



内容はURLを見ていただくとして、このコラボ企画、
ヨーロッパでの巡業を終え、帰ってきたばかりだそうです。
今なら松江歴史館で見ることができますので近隣の方是非どうぞ。



えー、わたしは知らないのでこの絵の正体がわからないのですが、
まあそういうことです。よろしくお願いします。



時間があるのでこのコーナーを見学させていただくことにしました。



形を作ってから刀を研ぐ砥石の数々。
研ぎ師という人たちは刀剣を研ぐことだけを仕事にしていますが、
例えば日本刀を一本研いで有名な人は何百万円、という
研ぎ代を取るのだそうです。

問題は日本刀を研ぐ仕事が1年に何度くらい来るのかですが。



日本刀は加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼き入れ」
という工程を行いますが、その際、焼場土(やきばつち)を刀身に盛る
「土置き」を行ないます。
その土置きのための器。



 
日本刀の材料になる鉱物を「玉鋼」(たまはがね)と呼びます。
玉鋼は日本独特の製法である「たたら吹き」という方法で作られます。
叩いて熱いうちに切れ目を入れてそこで折り返したりして、
なんども焼締め、硬い刃を作っていくのです。

「鉄は熱いうちに打て」

はこの作業から生まれた言葉です。 
ちなみに「たたら」とはその際火を起こすふいごで、
それを踏む有様が、

勢い余って踏みとどまれず数歩歩むこと

という意味の「たたらを踏む」という言葉に残されました。 



「実際に持ってみましょう」コーナー。

前に靖国神社遊就館の刀剣展で持ってみたことがありますが、
実際に持ってみるとその度に重さに驚いてしまいます。

「よくこんなの振り回せるよね」
「二刀流ってどんだけ力持ちなのよ」

その時にしたのと同じような話をまたしてしまいました。 



さて、というあたりで9時となりました。
鍛治場や刀の鍛錬場などのある中庭に出てみます。

左の建物で打ち初めの神事が行われるので早速そちらに向かいますと、



純白の衣装に身を包んだ二人の神職が、
神棚の前に用意を整えて待機していました。



しばらくして祝詞奏上が始まりました。
この刀剣の里に詰める刀職人全員と、市長が前に立ち祝詞を受けます。

 

水茎も鮮やかな文字による祝詞が肩越しに見えました。



私の立っているところの前には焼きに必要な
道具が整然と並んでいます。



参列者が一人ずつ榊奉納をします。
当地の市長が奉納を終えて帰ってくるところ。



最後に紙吹雪のようなものをパーっと撒き、神事は終了しました。 

続いて浄火(きよめび)の準備が始まります。
火を起こすことをこういうのですが、みなさん、
こういう時どうやって火を起こすのだと思います?
マッチやライターなんて絶対に使わないんですよ。



刀工は鉄の棒の先端を打ち合わせ、摩擦熱を先端に集約したのち、
そこから出る火花で一瞬にして火をおこしてしまいます。
これも長年の鍛錬で簡単にできるようになるのでしょう。

煙が出てきていますね。

打ち初めを行う職人さんは赤い布をかぶります。
この無色の空間で、なかなかこれはオシャレ的にイケている気がします。



火花から起こった火花はあっという間にこんな風に
火床(ほど)に燃え盛るので、その中に玉鋼を入れて熱します。



最初の打ち初めをするのはこの職人さん。



最初に招かれて玉鋼を打つのは市長です。
スキンヘッドですがまだ若く40代とのこと。

任期は2期目ということですが、今までこの儀式は例年成人式と重なり、
来たいと思いながら来られず、今回が初参加とのことです。
市長の打ち初めが終わって・・・、



ん?

どうしていきなり写真がこんなに火床に近くなっているのかって?
実は、市長の後、私たち一家の名前が呼ばれ、市長に続いて
一般人の先陣を切る形で打たせていただくことになったのです。

一人が打てばもう一回玉鋼は炉に入れられ熱を入れられます。
それを待っている間にせっせと写真を撮るわたし。



家長であるTOがまず4発。



TOが4発だったので息子もなんとなく4発。



というわけでわたしも同調圧力で4発。
内心あまりの重さにびびっています(笑)



打つというより上に持って行ってまっすぐ落とすという感じ。
ちなみにこのとき着ているのはフォクシーのダウンコートで、
エレガントなラインでありながら暖かいのに信じられないくらい軽く、
旅行に来ていくには本当にありがたいお役立ちアイテムです。
(ここだけファッションタグ)



指名された私たち一家が打ち初めを終了した後は、皆に呼びかけて、



第1号。
日本人はこんなとき周りをうかがって様子を見るのですが、
一人が名乗りをあげるとすぐに行列ができました。



なかなか槌の振り上げが高くていらっしゃる。



子供第1号。



女性第1号。



女の子第1号。
彼女には一回り小さな槌が用意されました。



親子で一緒に第1号。



おばさん第1号。



女性は皆へっぴり腰になってしまっていますが、
それはそれだけ槌が重いのだとご理解ください。



彼女は後ろからボーイフレンドが携帯で写真を撮ったのですが、
遠慮して後ろからだったので顔が写っていなかったらしく、
後から

「顔が全然写ってない!」

と怒られていました。(´・ω・`)
どこから撮っても多分顔までは写らないと思う・・。



さらにへっぴり腰・・・。
もうこうなると「槌で玉鋼を触る」というレベルです。



この人はもしかしたら道路工事でツルハシでも日頃
扱い慣れているのかと思うくらい、スイングが大胆でした。
大抵の人が腰から下に落とす感じになってしまうのに、
頭の上まで槌を振り上げ、思いっきり玉鋼を強打しています。

とはいえ全く正確に叩くわけではなく、毎回数センチずれるので、
前にいる人はさぞ怖いだろうなとちょっと思いました。



槌の可動範囲20センチくらい?
おしとやかです。



腰が入っています。
本職が叩く時を見ていると、足を前後において
体重の移動を行いつつ槌を振るっていたので、
彼女の足のポジションはかなり的確ということです。



皆、3回からせいぜい5回叩いていましたが、この方は
「その辺で」と言われるまで叩いていました。

ツルハシのおじさんは数えていたところ9回で、この人も
止められてやめていました。



男性が叩いている時、玉鋼を抑えているやっとこの
ネジのところを槌が直撃してしまったことがあり、そのとき
職人さんは「あ」と一言言って、そのまま金槌で叩いて
歪みを直していました。

行事だから素人が叩くのはしかたないけど、せめてあんまり張り切って欲しくない、
というのが本職の本音ではないか、とこの時見ていて思いました。



というわけで打ち初めの儀式は一旦終了。



鍛治場の反対側。
人間国宝であった刀匠・隅谷正峯(1921-1998)の
使用していた鍛治道具が、遺族の贈呈によってここに展示されています。

 

中庭に出てみると、お汁粉が振舞われていました。



せっかくですので一杯いただきました。
熱々でお餅は少し焦げがあり、香ばしくて美味しかったです。



中庭には、各職人の仕事場が動的展示されている建物があります。
この方は研ぎ師。



エヴァンゲリヲンの関係か?色紙が多数。
ここ刀剣博物館は色々とコラボを行っていて、
「戦国 BASARA」というのともやったとか。

帰りに乗ったタクシーの運転手さんが

「エヴァンゲリヲンのときは女の子が押し寄せて、
それにつられて男も来て、大変な賑わいだったが、
そのほかのは全然ダメだった」

と言っていました。



柄を装丁する職人。
他の客との会話で

「年間せいぜい200万円しか収入がないので家族を養えない。
だからこの仕事、後継者も何も人に勧められないので」

とおっしゃっていたのが耳に止まりました。(´;ω;`)
後継者不足はこういう伝統職人の世界にも顕著です。

新卒は就職難だという話と大変矛盾するようですが、現代の日本の
価値観があまりに画一的に過ぎることも原因の一つかもしれません。

誰もが大学を出て当たり前、という社会では、職人に敬意を払う、
という日本社会の美点も今後段々薄れてくるのかと残念な気がします。



カタログ?のようなものを見せて説明しています。



柄を巻くだけにも職人がいるとは知りませんでした。
柄は鮫皮を巻くそうです。



この方は鞘をつくる鞘師。(そう書いてますね)



ちょうどこの鞘師さんが軍刀の話を前の人としていたので、

「家に伝わる刀を軍刀に作り変えるという仕事もあったんですってね」

と話を振ってみると、手元にあったこの刀を出して見せてくれました。
陸軍軍刀だそうです。



柄と鍔の部分に桜の紋様が入れられています。



柄巻きのこの部分にも桜。

「潜水艦に乗るときは長剣は持たないんですよ。狭いから。
それから、背の低い人だと合わせて切ることもあります」

「刀を切って短くするんですか!」

「そう、こんな風に(腰に当てて立つ)なると、
足の短い人だと格好悪いんですよ」

こと話が軍になると目を輝かせて色々と質問するわたし。

「遺品を装丁し直す依頼などはありますか」

「たまにありますね。これもそうですよ。
真剣のままだと届けがいるので、飾るために中を
抜き身にしてしまうという依頼は結構ありますし」

遺品の処分に困ってここに刀を持ち込む人は結構多く、

「中には亡くなってすぐに一抱え持ってきて『買ってくれ』
なんて言ってくる人もいましたね。
寄付ならともかく、一週間前に亡くなったばかりで・・。
『悪いことは言わんから思い出に持っときなはれ』って言いましたけど」

ちょっと呆れたように笑いながら話しておられました。



ところで作業場の隅にわたしは目ざとく、
キャットフードの入った立派なお皿を発見。
刀剣の里公認猫がいるに違いない!と思っていたら、



駐車場のところを悠々と歩いていくのを発見。
写真を撮ろうとしたら、前半でメモリを使い果たしておりました。
連写と動画を撮りすぎたんですね。

「ああ~待って~!いらないの削除してメモリ空けるから」

と声をかけども耳には届かず(そらそうだ)
すたすたと歩いて行ってしまわれます。



追いかけながらやっとの事で削除を完了、
1シャッター入魂で撮った刀剣の里お猫様の写真。
ちゃんと赤い首輪をしていました。


続く。(続くのか?)









 

備前長船「刀剣の里」~刀打ち初めと瀬戸内のエーゲ海

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備前長船の刀剣博物館での神事、「打ち初め」の続きです。

9時からの打ち初めも滞りなく終了し、刀職人さんたちの
各職場を見学もして、さて帰ろうとタクシーを呼んで待っていると、
本館に挨拶に行ったTOが、

「刀鍛冶さんたちが本物の鍛錬をするから見ていってくださいって」

と戻ってきました。



前半の観客参加型鍛錬は、神事の後のいわばサービスで、
それに使われた玉鋼は「使い物にならない」ので(たぶん)
お供えするだけなのだそうです。
後半のもいわば「縁起」なのでおそらく実際にこれで
刀を打つことはないと思われますが・・。

11時から始まると言われて5分前から待っていると、
1分違わず浄火・きよめび(先ほどの火はすでに消されていた)
が開始されました。

刀鍛冶の仕事場というのは今回初めて見たわけですが、
昔小学校唱歌だった「村の鍛冶屋」の歌詞、

暫時(しばし)も休まず槌打つ響き
飛び散る火の花走る湯玉
ふゐごの音さえ息をもつかず
仕事に精出す村の鍛冶屋

を思わせます。
金物鍛治と刀鍛冶を一緒にしてはいけないのかな。



燃え盛る火に石炭投入。
「火の花」は思わず吸い込まれそうなほど神秘的です。



ちなみにこの絵になる光景を撮るために、時間前には
ニコンやキャノンの上級機種をがっつり構えた人たちが
周りを陣取っていました。

右側の二人が赤熱したブロックを叩く「鍛錬」を行います。



ちなみに向こうの刀鍛冶が前半の打ち初めで横に立っていたので、
かるーく質問などしてしまったのですが、この状況を見るに
こちらの方がここで一番偉い刀匠だった模様。



鍛錬が始まりました。
二人の刀匠が代わる代わる槌を頭上まで振り上げて
確かな無駄のない動きで玉鋼を打っていきます。
それは真に阿吽の呼吸。



向こうが匠(横座)、こちらが弟子(先手)。
交互に刀身を鎚で叩いていくことを「向こう槌」といいますが、

「相槌を打つ」

という言葉はこの様子から来ているのです。



さすが本職の打ち方にはまったく迷いがありません。
見ていると、打ち込む時に前足のつま先を上げ、
体重を後ろから前に移動するようにして槌を下ろしていました。
火花の飛び散り具合をごらんください。

彼らはだいたい5年くらいで一人前になるとされ、
刀工が弟子入りすると、この大鎚といわれる槌を自前で用意し、
毎日切り株を相手に叩く練習をします。

動きを車のピストンのようにすると、あまり力を要さず
楽に叩けるようになるということです。

刀工になるためには5年間の修行と文化庁の開催する講習を受けなければなりません。



というところで刀匠の「打ち初め」も終了。
またしても一般人に叩かせてくれるようです。
が、先ほどほとんどが叩いてしまったので、なかなか
名乗りをあげる人が出てきませんでした。
ようやく出てきた第1号。



第2号は・・・おおっと、海外からの観光客だ! 

この日、外国人観光客は結構いました。
ただし欧米系の人たちばかりで、
中国人や韓国人は全く見かけませんでした。
岡山のホテルの朝食会場では日本人はわたしたちだけか?
と思うくらい中国語が飛び交っていたのですが、
彼らはこういうところには足を向けないようです。

「日本刀」「神事」というだけで彼らの方が避けてるのかもしれないし、
あるいはむしろそういう団体客に来られては困るので、刀剣博物館の方も
あえてそちら方面にはインフォメーションを流さないのかもしれません。

差別?いえ、区別です。



ところでお汁粉を作っていたおばちゃんが、この少し前、

「お汁粉まだの人食べてくださ~い」

と呼びかけにきたのですが、彼ら外人軍団に

「オモチ! オモチ!」

と食べる真似をして連れて行ってしまいました。
オモチで十分意味は通じていたようです。



体はでかいがアクションはおとなしめ。



鍛錬する金属は、さっきまでやっとこで掴んでいたのと違い、
柄とつながっているものです。
やっぱりこちらは本当に刀にするのかもしれません。

こちらも叩かせてもらったらよかったかな。

向こうに見えている灰はもち米の藁の灰。
これをまぶしてから火に入れます。
表面を土と灰で覆うことで、鋼を火の中に入れた時に
表面だけでなく中まで均等に熱を入れることができるのだとか。

鋼は鍛錬するほどに均質化し、硬度も上がってくるのですが、
回数が多すぎると逆に均質がしすぎて「面白味がなくなる」ということです。

そのあたりの塩梅を見定める目も刀工には必要なのです。



続いて先ほどの男性のお連れ様。
彼女は慎重派で、何度も隣の刀鍛冶に
槌の持ち方や振るい方を確かめていました。



なかなか勢いがありますね。
前の男性とこの女性は数人の外国人グループにでしたが、
(でないとこんなところに来ないよなあ)
同行の日本人が写真を撮りたいというので場所を代わってあげました。

日本刀を打たせてもらうなんて、ちょっと普通ではない
貴重な日本文化の体験となったに違いありません。




さて。

なんだなんだ刀鍛冶場からいきなりエーゲ海?
と思われた方、驚かしてすみません。

これはですね、長船から車で20分ほど行った、
瀬戸内海を望む牛窓というところにあるホテルです。

例の市長さんが「こんなところもありますので是非」
とご案内くださった風光明媚なリゾートホテル。
寒さに震え上がるほど風の冷たかったこの時でさえ、
写真にとってみれば地中海に見えないこともありません。

牛窓というところは地中海気候に似た瀬戸内気候なので、
オリーブの栽培が盛んで、自称「瀬戸内のエーゲ海」。
さらにそのオリーブ畑から見下ろす瀬戸内の眺めは素晴らしく、
そこには「ローマの丘」という広場が・・。

うーん。

こういういかにも欧米崇拝型「地方銀座」的なネーミング、
「日本のハワイ」とか「日本のエーゲ海」とかって、はっきり言ってすでに
「憧れのハワイ航路」の時代のセンスという古臭さが拭えません。

しかも、 




このローマの丘も、なぜローマかというと、ここにはまるで
ローマの神殿のような6本の柱があるからなんですが、
この柱、なんと

岡山空襲で被災した旧三井銀行岡山支店の瓦礫

を移設したものなんですって。
つまり「戦跡」なんですが・・・それを「ローマの丘」。

これが本当のローマンチックってやつか?
いや、戦跡をローマンチックはまずくないか?



確かにこれでは瀬戸内のエーゲ海としか言いようがありませんが。
ホテル専用のヨットがあり、乗ることができる模様。



ここにも、こちらはギリシャをイメージしたエンタシスが・・。
こうして写真に撮るとそれなりですが、実際に見ると
経年劣化による部分部分の綻びはどうしても隠せません。

「これは・・・1990年前後、バブル終わり頃のセンスですね」

とわたし。
後でホテルの人がまさに

「当ホテルはバブルの終わり頃にできまして」

とそのままの言葉をおっしゃっていたのでおかしかったです。
オープン当初は、近くのヨットハーバーは豪華なヨットで溢れ、
ホテルにも毎日のように観光バスが列をなして、人々が訪れたそうです。

しかしつはものどもが夢の跡、諸行無常の響きあり。
往時のバブリーな建築だけが栄華の名残を残すのみで、今や
地元の老人会の謡教室発表会が行われる(本当にやっていた)
地元密着型の庶民的な会合の場へと・・。


さらに牛窓観光協会のHPを見たところ、瀬戸内交流フェスタとやらで

「朝鮮通信使行列や、サムルノリとプチェチュム(扇の舞)」

という、瀬戸内とそれ、なんか歴史的に関係ありますか?的な、
ねじ込まれ(たらしい)ヤケクソ(にしかみえない)イベントが・・。

バブルが消えたので次は韓流ですか?
韓流、流行ってませんよ?わかってますか?

と思わず観光局を叱咤してしまいそうな迷走ぶりです。
だいたい地元の子供にわざわざ朝鮮通信使の格好なんぞさせるなよな(−_−#)



昔は全席が毎日3回転ずつしたのかもしれないダイニング。
なんとこの状況で強気にもアラカルトなしのコースのみ。

昼時でとなりのカフェは結構人がいたのに、こちらは私たち三人だけでした。
手前はここ自慢のオリーブソーダ。



しかし、食材が新鮮で美味しいのはもちろんのこと、
シェフも腕利きなのかお料理はなかなかのものでした。



「広島の牡蠣より美味しい」と地元の人が胸を張るカキフライは、
TOが注文したコースのアペリティフ。



薄い仔牛のカツレツはこの日食べた中で一番美味でした。
これも名産であるレモンがあしらわれています。



メインはスズキのクリームソース。
上に乗っているのはマッシュルームを飾り切りしたもの。
粒胡椒が味を引き締めていました。



食事が終わって、フロントマネージャーに部屋を見せていただきました。
日曜日の午後で、宿泊客はチェックアウトしてしまった後とはいえ、
あまり部屋の稼働率は良くなさそうに見えました。



ハイシーズンなどはそれなりに賑わうのかもしれませんが・・。
折しも怪しくなってきた雲がかかり始め、寒々とした海は
なんだか余計に「もののあはれ」を感じさせます。

バブルと前後して起こった「ペンションブーム」の頃は賑わったそうですが、
とりたてて大きな観光地があるわけではない地方が、
観光で栄えるというのは、ここに限らず難しい時代なのも事実です。

それでも、新しいセンスでリノベーションすれば、
都会からそれなりに人を呼べると思うのですが、
何しろそれに先立つものが・・・、という状態なのでしょう。

先ほどの市長さんもこの市を盛り上げていくにはどうしたらいいか、
頭を悩ませている毎日なのではないかと思われました。

「日本のエーゲ海」「日本のローマ」とかではなく、
「刀剣とエヴァンゲリヲン」とのコラボに見られるような
伝統文化と今を融合させる試みの方がはるかに人を呼べると思うのですが、
恒久的な集客には繋がらないのが辛いところです。



食事が終わって、最寄りのJRまでタクシーでまた20分。
ここも無人駅で、駅前には喫茶店どころかコンビニもありません。
駅前のコインランドリーで寒さをしのぎ、
1時間に2本くらいある岡山行きの電車を待ったわたしたちでした。



ー糸冬ー






 


海軍兵学校同期会@江田島~呉音楽隊演奏会「艦隊勤務」

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まだまだ続いている海軍兵学校同期会の江田島訪問です。
この江田島旧兵学校シリーズ、ご自分がかつてそこにいた、という方や、
息子さんがいた、あるいはいる、という方々から楽しみにされていると知り、
こちらとしても大変やりがいを感じております。


さて、一般の人々が入れない「特別コース」の見学がすみ、
記念写真撮影をした後には、海上自衛隊呉音楽隊による
演奏会が行われました。

その演奏会のために案内された場所を見てびっくり。
まるで本日の演奏を行う呉音楽隊の練習場所である「桜松館」の
現代版といったらいいのでしょうか、ステージを備えた雛壇式の客席を持つ、
とても立派でしかも新しいオーディトリウムがあります。

写真を見てもおわかりのように最近施工したばかりのようで
少なくとも5年以内の建築かと思われます。

前回、「ここはなんでしょうか」と最後にお聞きしたところ、
「映写講堂」という昔から変わらぬ名称が使われている視聴覚講堂で、
当時からそれは同じ場所に同じ目的であったらしいとわかりました。




参加者が順次席に着くのを待っている間、すでに音楽隊は待機していて
その様子をこうやって眺めています。
これも普通の演奏会にはあり得ないことで、客入れが全部済んでから
音楽隊が入場するのを客が迎え入れるというものでしょう。


元陸幕長とお話をした時、自衛隊はいつも「国民に対し下から目線」
であろうとしている、とおっしゃったのが印象的だったのですが、
特に今日の一行は、自衛隊の皆さんにとって「ただの国民」ではありません。
彼らがその精神の後継者であると任ずるところの、海軍の元軍人なのです。



演奏会に先立ち、第一術科学校長の徳丸海将補が挨拶をしました。
この前日の懇親会の挨拶でも思いましたが、この方、お話が上手い。

通り一遍でない、何か心に残ることを簡潔にスピーチに入れ、
しかも歯切れよく短時間で喋り終えてしまうのです。
このときの海将補は、

「皆さんが兵学校に入学してから70年が経ちます」

と、まず出席者の戦後の日本での活躍を讃えた後、

「わたしども海上自衛隊は、戦後もここ呉では掃海活動を通じ、
いわば途切れることなく皆様の遺志を継いでやってきました。
そして来年、戦後終戦から70年になるわけで、これも歴史と考えると
ようやく同じ歳月を経て皆様方に追いつくことになったのであります」

正確ではありませんが、こんな感じの導入の後、

「これからも皆様の思いを受け取ってそれを絶やすことなく
やっていきたいと思っております。
どうか海上自衛隊をこれからも可愛がってやってください」


可愛がってやってください、という言葉は非常に印象的だったので、
これだけは間違いなくそのまま覚えているわけですが、
現代の海上自衛隊ならではの一言だなあと微笑ましい気持ちになりました。


もう少し昔、まだ軍人世代が社会の第一線だった時には
当然ながら自衛隊の中にも旧海軍軍人がたくさんいました。

海軍出身の上官は厳しく、当たり前のように体罰も行われ、
さらには訓戒やお説教のとき何かにつけて出る「海軍では」
の言葉に、「海軍を知らない子供たち」は随分反発したものだそうです。

それらの人々が一線を退き、さらに年月が経ちました。
今となっては自衛隊にも、海軍軍人の薫陶を直接受けた者すら、
少なくとも現場からはいなくなりつつあります。

だからこそ、まるで祖父に甘える孫の言葉のような、

『可愛がってやってください』

が何の違和感もなくなったと言えるのかもしれません。



続いて兵学校元生徒側の代表による挨拶。

前夜の懇親会でもこの生徒が挨拶をしていたので、
おそらく同期会の会長のような方でしょうか。

ちなみにこの期生からも、海上幕僚長を一人出していますが、
この方が退官の際には、

「最後の海軍軍人出身の海幕長」

として朝日新聞に取り上げられたのだそうです。
今なら朝日は、海幕長の退官などを記事にすることもしないと思われますが。



プログラムは印刷されたものもいただきましたが、
前に大きな字で書かれたものが立ててありました。



「君が代行進曲」の勇壮な調べからコンサートは始まりました。
ご存知のようにこの曲は「君が代」のメロディを拍の頭にして、
別のメロディでつないでいく方式で作られており、
わが国歌「君が代」があまりにしめやかなので(笑)ここはひとつ
士気を鼓舞させる勇壮なバージョンも作っておきましょう、
という意図で作曲されたのだと思われます。 



トロンボーンを演奏する海自の王子様発見。
M海曹、今日は何か歌ってくれるのかな?



司会進行役は音楽隊員ではなさそうなWAVEさんが行いました。
このPAが、上手い!
こういうときに喋り慣れているとしか思えない流暢さで、
プロのアナウンサー顔負けの進行をしてくれました。

本当に自衛隊って人材が豊富だなあ。



続いて、プログラム2番、「艦隊勤務」。


隊員の歌でお楽しみくださいというので、すわ、M海曹出番か!?
と色めき立った(一人で)わたしですが、なんと、
別の男性歌手が二人でこの曲をデュエット始めました。

彼らが歌い出してすぐ、どうしてM海曹でなく
この人たちが歌ったのかその理由がわかりました。
もう、声とか歌い方とか、もしかしたらこういう曲を歌うために
生まれてきたんではないか?という折り目正しい歌唱法、
それはあたかも東海林太郎の若い頃のような・・。


若い人たちが観客であればM海曹の「艦隊勤務・ゆず風」
というのも(個人的に是非聞いてみたい)いいのでしょうが、
本日の観客は80歳半ばの元海軍軍人。
M海曹ではなく、こういう「声楽的美声」の歌手に歌わせる
というのはなかなかの演出であると思われました。

いやー、やっぱり歌手の層が厚いわ、海上自衛隊音楽隊。

ところで、わたしがこの日仲良くなった(というのも変ですが)
元海軍軍人から、この「艦隊勤務」を作曲した江口夜詩(よし)
息子がこの同期生で、戦後音楽大学に入り直し作曲家になって

「忘れな草をあなたに」
「下町の太陽」
「京都雨情」

などのヒット曲を生んだ江口浩司であることを聞きました。
父親の夜詩は海軍軍楽隊から流行作家になりましたが、
息子も海軍軍人から流行作曲家になったというわけです。

「よく若い時には一緒に遊んでたんですよ」

とのことですが、映画の主題歌などを作った流行作曲家と
「一緒に遊んだ」というのは、さぞかし派手に遊ばれたのかなと。

「少し前に死んじゃったけど」

作曲家・江口浩司は2010年、83歳で肺臓癌のため亡くなっています。
死後、日本レコード大賞は江口に功労賞を贈りました。 
生きておられればこの日にお目にかかれたのかもしれません。

そして、音楽隊がこの曲を選んだ理由も、
作曲者の息子が在籍していたからではなかったかと思われました。 


ちなみにこの艦隊勤務の有名な歌詞、
「月月火水木金金」ですが、日露戦争の後も休日返上、
「勝って兜の緒を締めよ」とばかりの猛訓練をしている海軍をして

「これじゃまるで月月火水木金金じゃないか」

とあの「伝説の男」、津留雄三大佐が表したのが嚆矢とされます。

もうひとつ、わたしはかねがね「艦隊勤務」を聞くと、
どうも「憧れのハワイ航路」を思い出してしまうというか、
どちらもよく知らない時にはごっちゃになってしまっていたのですが、
たった今、どちらも同じ江口夜詩の作曲であったことがわかりました。

だからだったんですね。
なんか、すごく腑に落ちました。

ちなみに「憧れのハワイ航路」の長い長いイントロが終わった後、
「あーさーだーよーあけーだー」と続けてみてください。
あまりにも違和感がないのに驚かれるでしょう(笑)



続いては、かつての兵学校生活を懐かしんでもらおうと、
「同期の桜」に続いて巡検ラッパが響き渡りました。

その前日の懇親会で、元生徒から

「巡検ラッパ聴くとね、涙が出るんですよ」

という思い出話を聞いたばかりです。
しみじみとした響きはそのまま「海行かば」にかわり、
いつの間にか「愛国行進曲」となっていました。



トランペットのソロ。



この歌手はチューバ奏者なのですが、この清潔なルックス?と
戦前のポリドール専属歌手のような歌い方が評価されたとみえ、
もう一曲、今度はソロで歌いました。
なんと、「青い山脈」。

司会のPAは

「戦後このメロディが人々を勇気づけた」

というようなことを言っていました。
1949年の同名映画の主題歌として爆発的にヒットした
この「青い山脈」ですが、その当時、生徒たちは
中途で絶たれた海軍軍人への道を戦後に向けて新たに切り開き、
大学や旧制高校の門をくぐって社会人として巣立ったころです。

かれらにとってはまさに「青春の一ページ」を彩る曲であったはず。
かつていた江田島で聴く「青い山脈」はどんな感慨を呼び起こしたでしょうか。



この楽器なんだか知ってますか?
吹いていると顔が見えない(ことが多い)ユーフォニアムです。
ユーフォニアム奏者がソロをとったのは、

「川の流れのように」。



美空ひばり、という選択も、こういった年配の視聴者に対しては
意味を持ってなされたことなのだと思います。
いったい誰がこういうプログラムを考えるんですかねえ。

音楽隊長かしら。



最後のプログラム「江田島健児の歌」を皆で歌うため
全員起立しているところ。
ニコニコと眺めているのが音楽隊長の北村1尉です。
先日音楽隊を見学した時にはご案内していただきました。

余談ですが、それこそ色んな自衛隊の方に名刺をいただいた中で、
Eメールアドレスが記載されていたのは隊長のだけでした。


演奏会が終わった時、わたしとTOは隊長にご挨拶に行ったのですが、
わたしたちの前に、隊長に向かって、

「巡検ラッパのCDないのCD」

と聞きに来ている元生徒が・・。
わたしたちの世代なら「インターネットで検索すれば聴けますよ」で済みますが、
80代の老人、しかも海軍の先輩に対してググれksというわけにもいかず、
隊長はなんとていねいにも

「CDならご自宅にお送りしますよ」

と名刺を出して住所を書かせているのです。
どんな役所もどんな企業も、こんなことまでしてくれないよなあ・・。
元生徒が住所を書いている長い時間、横で待ちながら思いました。

「先日はどうもありがとうございました」

音楽隊訪問からそう日が経っていなかったとはいえ、
そう声をかけると隊長はわたしたちを覚えてくれていたらしく、
にこやかに返事をしてくれました。



演奏開始。
これこれ、元生徒さん、脱帽しなさい脱帽を。

プログラムには「江田島健児の歌」が載っています。
1番から6番までを全部歌いました。
もちろんわたしにとっては初めての経験です。

わたしは一度、この詩を書いた50期の神代猛雄という兵学校生徒の
短かった一生と、「大空のサムライ」の仕掛け人であった
共同出版社の社長福林正之との縁について書いたことがあります。

江田島健児の歌



しかし、もちろんこれで終わるわけがありません。
鳴り止まぬアンコールの拍手に応えて演奏されたのは、というか、
自衛隊音楽隊はこの曲で必ず演奏を終了することになっているため、
たとえアンコールがなかったとしても演奏をしたはずの、

行進曲「軍艦」。

わたしの前の席にいた女性がハンカチを目に当てているのは、
「江田島健児の歌」を最後にここ江田島で歌った感激か、
あるいは行進曲「軍艦」の響きに何かを思い出したからか・・。


音楽隊の演奏によって、江田島訪問は実に感動的な終焉を迎えました。



続く。


 

戦艦「伊勢」慰霊祭~「いせ」出航作業

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「ただいま出航いたしました」というアナウンスの後、
矢継ぎ早に艦橋では乗員たちの声が飛び交います。

「内角5度~!」「内角5度!」
「右後進最微速翼角整定!」「右更新最微速翼整定!」



そのとき艦首では、喇叭と同時に降下された艦首旗を
たたんでいるのが見えました。

続いて

「内角7度~!」「内角7度」
「両舷ていーし」「両舷停止っ」



こちら航海長でしょうか。
今ここにいるのは、艦長が立ち確認するのを待っている模様。

その間もその後ろの乗組員たちの真剣な声が飛び交います。
冒頭写真はその様子ですが、真ん中にいる先任伍長に、
わたしはその少し前ご紹介を受け挨拶をしました。

「こんな格好をしてますが普通の男です」

と笑いながらおっしゃったので思わず和んだのですが、実のところ
こちとら「こんな格好」を見慣れているため、先任伍長の言葉に

「いやすみませんが十分普通の人に見えますけど」

などと内心思っていたのでした。

ところが出港後の艦橋で見かけた先任伍長は、もしさっき合わなかったら
同じ人とは思わなかったかもかもしれない、というくらい、
その雰囲気や顔つきまでもががらりと変わってしまっていたので、

「今がその”普通でない瞬間”なのね」

と深く頷いた次第です。
いやー、かっこよかったですよこのときの先任伍長。美声だし。
「取り舵」の指示を出すのが先任伍長の役目のようです。

「両舷後進両角整定」「両舷後進両角整定」

ぼ=====、ぼ=====(汽笛)

「とーりかーじ」(先任伍長)「とーりかーじ」
      「とーりかーじ」   「とーりかーじ」

大事なことなので三回復唱します。

「取り舵15度っ」「取り舵15度」

「30度」「30度~~!」

「取り舵30度」「取り舵30度」

「両舷後進びそーく」「両舷後進微速」



ちょうどこの時ウィングの艦長。
厳しい眼差しを見せる横顔が絵になります。



岸壁に立つ見送り。
こういうときにもちゃんと整列するんですね。
帽触れはこういうときにはしません。



タグボートもお仕事しています。
自衛隊的にはタグボートは「支援船」(またでた、”支援”!)の
「曳船」というのが正式名称です。
海上自衛隊の所有ですが、「自衛艦」ではありません。
つまり自衛艦所有のゴムボートにさえつけられる自衛艦旗を
付けることはないということになりますが、ごらんのようにちゃんと
艦首旗・・・・じゃないですよね。なんていうのかしら。
とにかく日の丸をはためかせて巨大な「いせ」の出航作業を補助しています。



押し終わったらしく、曳船は「いせ」から離れていきます。
艦体を押す舳先にクッションのようなものをかけていますね。
拡大してみると、操舵室にいるのは三人でした。



曳船はつねに二隻一組で曳航作業を行います。
一仕事終わってこうやって並んで(必ず前の船の航跡を追っている)
帰っていく姿に萌え~。



曳船から目を転じるとそこには雨雲に煙った呉の山々が。
わたしなどこういうとき、かつて先ほどと同じ出航作業の声によって
出航していった海軍の軍艦がここにあったときのことを彷彿としてしまい
つい70年以上前に想念を辿らせてしまうのでした。



ちょうど眼下の後甲板では、出航と同時に降納された自衛艦旗を
たたんで手にした降納係?の海曹二人が歩いて戻ってくるところ。



気がつくとジャイロコンパスレピータの前に艦長がいました。
右に左に目を走らせ、双眼鏡を当てて、を繰り返します。
ジャイロコンパスレピータは

「ジャイロコンパスの指度を指示するレピータ」

という定義が防衛省の資料に示されています。
別のところにあるジャイロコンパスの指度を、たとえば
無線室など、自動操舵装置の機器やブリッチ以外の場所に
転送して表示するものです。



このとき、出航作業の「山」は越したのか、艦内に向けて再び
先ほどの女性海曹がアナウンスを始めました。

「ここで『いせ』の誕生について説明いたします。
『いせ』は『ひゅうが』型ヘリコプター搭載護衛艦の2番鑑であり、
従来のヘリコプター搭載護衛艦から格段に向上したヘリ収納能力、
及び最新型装備を導入した最新鋭護衛艦として、平成23年、
IHIジュアパンマリンユナイテッド横浜工場で完成・・・」

それを聞いていたわたしが

「横浜だったんだ。そういえば磯子っていうところがあってね」

と隣にいた知人(誘ってくれた人)に話しかけたところ、
ちょうど同時に彼女が

「航海長の”いただきます”が生で聴けました」

とこちらに向かって言いました。
彼女は放送ではなく全く別のものに注目していたのです。



レピータの前の艦長と交代するとき、航海長は「いただきます」
と必ず言うことになっているのだそうですが、
ちょうどそれがわたしが喋り出すのと同時だったようです。

というわけでわたしはそのとき聞き損なったわけですが、
こんなこともあろうかと(嘘)動画を撮っていたので
この部分を後で見直してみたところ、わたし自身の声と後ろの
「両舷停止」にかき消されて
全く聞こえませんでした・・・orz



そういえば、昔軍艦が文字通り「操舵をもらう」であった頃、
それもまた帝国海軍時代のことですが、ミッドウェー海戦の
旗艦「赤城」艦上で南雲忠一長官が艦長に「もらうぞ」と操艦を代わり
あっという間に魚雷を8本回避して総員を驚かせたという話を思い出しました。

今でも「もらいます」「いただきます」なんですねえ。



見学者が皆で超盛り上がった瞬間。
「そうりゅう型」潜水艦が海面航行しています。

そう、この写真をアップしていいのかどうかを以前
読者の皆さんにお聞きしていたんですよ。

海面から上は普通にどこでも見られるので大丈夫、
ということでしたので安心して出すことができます。
ただ、スクリューの形が丸見え状態だったので(そりゃそうだ)
配慮するべきかどうかわからないまま一応配慮して
スクリューの写っていないものにしました。

乗員は前に10人、司令塔に4人、フィン?に一人、
中央に10人、後ろに7人と32人見えています。
「そうりゅう型」定員は64名とのことですが、ちょうど半分。
内と外に半分ずついるってことでよろしいでしょうか。

どうして皆上に立っているかというと、そう、「いせ」に挨拶してたんです。
わたしのいる場所から聞こえませんでしたが、「いせ」からは
答礼として喇叭が吹鳴されていたようです。


護衛艦いせ そうりゅう型潜水艦の敬礼に対し答礼



この写真もスクリューだけ消しておきました。
もしかしたらそこまでする必要なかったかな・・。



最新鋭型護衛艦ですもの、全てが電子化されていて
紙のチャート(海図)なんぞすでに使っていないのでは?
・・・・とは別に考えたこともありませんでしたが(てへっ)、
やはり「いせ」でも紙チャート健在。
どうも下の製図作成器みたいなのから出てくるらしい。

電卓と大きな定規を使って書き込んでますね。 
ENC(Electronic Navigational Chart)は使わないのかな。

護衛艦という船のシチュエーションによってはGPSが
必ず使える状況とは限らないので、いざというときのために
マニュアルで日頃からやっているんですねわかります。

もちろん艦橋内には電子チャートもありまっせ。

先日88歳の方を助手席に乗せたとき、(若い時にはそれこそ
ギラギラのスポーツカーを乗り回し、BMWがまだ日本に
輸入されていなかった頃にすでにオーナーだったという)

「ナビを使うようになって、車に地図も置かなくなりました」

「でもあの地図でこの道を行こうとか考えるのが楽しいんですよ」

「そうなんですが、日々のことになるとどうも・・・、それに
地図を見なくなると地図の見方が下手になりますね」

「使わない能力は退化しますからね」

という会話をしたことを思い出しました。
レベルの違う話かもしれませんが、何でも簡易化させていけば、
それを扱う人間の能力はそこから一歩も動かず、たとえば護衛艦でも
いざとなったら大海原の中でGPSの使えない中、最悪の場合は
天測もろくにできない乗組員ばかりがおろおろする結果になります。

出航作業に帝国海軍時代そのままの掛け声を使い、
プリレコーディングではなく人間の吹く信号ラッパを合図にする。

頑なに海自が海軍のやり方を守るのにも、旧習墨守や懐古ではなく、

「フネを動かすのは、人」

という根本がそこにはあるからに違いありません。



続く。




 

海軍兵学校同期会@江田島~「嗚呼同期の桜」orz

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さて、呉地方音楽隊の演奏会によって感動的な終わりを告げた
海軍兵学校同期会@江田島。 

演奏会が終わり、わたしたちが席を立ち会場を後にする間、
音楽隊は普通のコンサートのように楽器を片付けたりせず、
ただじっと微笑みを浮かべつつその様子を見ていました。
始まるときにもすでにステージにスタンバイしていましたし、
普通の音楽会と比べるとその様子は少々異質に感じられます。 

ここでは自衛隊はあくまでも「お迎えし、歓迎する立場」
であろうとしていることをこんなところからも感じました。



会場を出て左手に見える建物はこれも生徒館。
あの赤煉瓦の生徒館の後ろに並行して建っているものですが
・・・・・なんというか思いっきり「普通」。
出身高校の校舎もこんなだったなーという感じです。

もっとも、真継不二夫カメラマンの写真集にも
これとそっくりの建物があるので、もしかしたらこれも
昔の雰囲気を残して復刻した建物かもしれません。 



そのあと我々はスタンバイしていた帰りのバスに乗り込みます。
TOはそのまま仕事で現地に残ったので、わたしは一人で
夜の飛行機に乗るグループのバスに座っていました。

すると、バスの窓越しに、演奏を終えた音楽隊員たちが楽器を手に手に引き上げてきます。
この後ろに停まっているバスは「KURE BAND」と書いてあり、
彼らも練習場までこれで帰るのですが、なぜかバスに乗り込みません。

 

そこにM海曹発見。
当ブログでは音楽まつりで彼がソロを歌ったときに実名で写真を挙げたことがあるのですが、
結構たくさんの方が彼の名前を検索してやって来られます。

おそらく「国防男子」以降、増えたと思われる全国のファンのために、
彼を中心に写真を撮っておきました。



はいどうぞ。
いつ見ても笑顔がさわやかですね。

ところで今気づいたのですが、向こうで手を腰にしているのって音楽隊長ですよね?


さて、 わたしが音楽隊員の写真を撮りまくっていると、
このツァーに参加するきっかけを作ってくださった方が、
息急き切って?バスに乗り込んできました。

ん?確かこの方は新幹線で帰るコースのため、別のバスのはず。

「赤煉瓦の中、入れますよ!」

ハアハア言いながらその方がわたしに教えてくれたのは、
演奏会場からバスの駐留しているところの間に、
赤煉瓦校舎の中庭を臨む場所にあるお手洗いがあり、
バスに乗り込む前にトイレに行きたい人をそこに案内している、というのです。

「横にあるんですよ、あの『同期の桜』が!」

ご存知、「同期の桜」は、元々「戦友の歌」といい、
西條八十が最初に書いた詩は

    君と僕とは二輪の桜
   積んだ土壌の陰に咲く
   どうせ花なら散らなきゃならぬ
   見事散りましょ皇国のため 

というものだったそうですが、このメロディに兵学校71期の
帖佐裕生徒がいわば「替え歌」として

「貴様と俺とは同期の桜」

という歌詞をつけて兵学校関係者に爆発的に広まり、
いつの間にかこちらが有名になってしまった、という経緯があります。

つまり、西條八十はこの曲に関しては後塵を拝すというか、
「貴様と俺」「同期の桜」というインパクトに完全に
お株を奪われた状態であるわけですが、それはともかく、
その「同期の桜」と名付けられた桜が中庭にあると。

「今なら間に合いますよ!見て来られたらどうですか」
「行ってきます!」

その方の言葉が終わるか終わらないうちにわたしは
カメラだけを持ってバスを飛び出しました。
飛び出しながら、これでお別れだったのにその方に
お礼どころかご挨拶すらしなかったことに気付きましたが、
今はそれどころではありません。m(_ _;)m

昨日も海軍墓地で全力疾走し、ここでもまた・・。

普段ぐーたらしている人間ですが、こんなときには
一体どこからこんな瞬発力が生まれるのだろうと我ながら
不思議なくらい動作が機敏になるものです。



言われたところに走り込み、とりあえずそこで走りながら
なぜか「女子便所」を撮るエリス中尉。
ああっ、わたし動揺してる?

トイレの前に立って不審そうにこちらを見ている女性は
ツァー客ではなく、何かの時のために配されている
学校関係者であったように思われます。

彼女が驚いたようにこちらを見ていますが、トイレに向かって
一直線に血相変えて走ってくる人がいたら、普通理由はひとつ。

今にしてこの写真を見たら

「よっぽど切羽詰まった状態の人が全力で走ってくる」

と思われていたらしいことが薄々というか良くわかるのですが、
そのときは全くそんなこと考えもしませんでした。

どこ?同期の桜はどこ~~~!



何かわからないけどここは紛れもなく、
あの数々の映画に登場し、写真でも見た生徒館中庭。

ああ、感激・・・している場合ではないのよ、今は。

どれが同期の桜かはわからないけど、とりあえず
桜の木みたいなのがあるからこれを撮っておこう!

後から「同期の桜」をググったところ、現物はこれではなくorz、
もう少し中央寄りに、根元に近づけないように煉瓦で円を描いてある木が
そうであったとわかりました。(T_T)

まあ、一般ツァーでは入れないここ中庭に入り、この写真を撮れただけでよしとしよう。

そう思ってふと振り返ると、なんと後ろには、
息急き切ってトイレに全力疾走していく参加者の身を案じて、
2~3人の自衛官が付いてきてこちらを見ているではありませんか。


・・・・・・・・・・・・・・。


しかしね。
そのときはなぜかそうは思わなかったのですよ。
振り向いて付いてきていた自衛官たちを見たときに、てっきり

「立ち入り禁止区域に入り込んで写真を撮ろうとしている
不審者に見られたので追跡された」

と思ってしまったのです。
まあ、そういう風に思われた可能性もゼロではありませんが、
後から考えて、この日の自衛隊側の参加者に対する細やかな、
そして万全の態勢で見学を恙なく楽しんでいただこうとする
気遣いと心配りの数々を慮れば、これはどう考えても

「心配してくれた」

というものでしょう。(だといいな)
しかし、後ろを振り向いてびっくりしたわたし、それ以上
「同期の桜」がどこにあるのかなど尋ねる勇気を持たず

「ああっすみませんでした用事は済みましたから戻ります」

とばかりにUターンし、そそくさとバスに戻ったのでございます。

あのとき聞けば、多分「同期の桜」の写真、撮らせてもらえたと思うんですけどね。

人員点呼に遅れることなく席に戻り、息を弾ませ、
(; ̄ー ̄A 汗を拭いていると、バスが動き出しました。



ふと車窓を見ると、音楽隊員が帽子を振っています。
おお、もしかしたら海上自衛隊は「帽触れ」でわたしたちをお見送りしてくれるのか!?



息を弾ませるのも忘れて?動くバスから写真を撮りました。
彼も音楽隊員です。



音楽隊員はバスに乗り込む前に我々が出発ということで、
手荷物を持ったまま見送ってくれている人もいます。



バスは一般見学客が知らない裏の門から出るらしく、
武道場の方に向かって動き出しました。
西生徒館の前の通路、側溝の蓋の上に()綺麗に勢ぞろいした自衛官が皆で「帽振れ」。
こういうときに並ぶのも、「序列」があるらしく、



だんだん右に行くにつれて金線の数が増えてきていました。
確か徳丸校長もいたと思うのですが、写真を撮りそこないました。

バスの窓からそれを認めたとき、車内の参加者は「おお!」
とめいめいが言葉にならない感激の様子を表しました。
窓際に座った人たちは皆手を振ったり、自分も帽振れをして
それに答えています。

この写真の真ん中辺にいるスキンヘッドの士官は、
わたしたちのグループを案内してくれた杉山1佐(仮定)です。
徳丸校長に前夜の懇親会でついてきていた副官もスキンヘッドだった記憶があるので、
もしかしたらこの人が、と思うのですが、それなら校長の近くに立つかもしれませんね。



海軍のOBだからこそ、自衛隊側は海軍伝統の帽振れで見送って、
最後の最後までこうやって敬意を表してくれたのでしょう。
今回「海軍OB」の一行の一員としてこのツァーに参加したことを、
わたしは身にあまる光栄として、一生の思い出にしたいと思いました。

バスは武道場の前を通りかかります。

手を振っていた幹部たちの列はとうに視界から消え、
警衛のために要所に立っている海曹が、
やはり最後の一台が通り過ぎるまで帽振れしているのが見えました。


5台のバスのうち、わたしの乗った空港行き以外の4台は、
そのまま島を左回りして、元来た切串港からフェリーに乗ります。
わたしたちは飛行機が夜の7時と時間を持て余すので、
地道を通って車上観光をしながら広島空港まで向かうことになりました。

ところで本稿の「同期の桜」の部分を書くために検索したのですが、
兵学校の時代から、この校内には大変桜の木がたくさんあるのに、
そのうちの一本だけを「同期の桜」としたのか、その撰定の理由は
どこを探しても載っていませんでした。

どなたかこの事情をご存知の方はおられませんでしょうか。



続きます。(えっ?)



 





 

 

海軍兵学校同期会@江田島~最後の帝国軍人海幕長

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江田島の海上自衛隊での一日が終わりました。
真白い制服に身を包んだ自衛官がバスの通る道ぞいに
きっちりと整列し、5台のバスが全部門から出て行くまで
「帽振れ」をし見送ってくれたことは、わたしにとってもですが、
わずか1年半の間海軍軍人であった彼らにとっても、
さぞ感激であったことと思われます。


教育参考館から赤煉瓦前の道をバスが通ることは許されていないらしく、
5台のバスは、切串港のフェリーに乗る4台も、音戸の瀬戸を回って
地続で広島まで渡る我々のバスも、同じように裏門から出ました。
この裏門は一般公開の見学客が決して通ることがないので、
たとえば



このような校内からの眺めもご存知ないでしょう。

皆さん、この可愛らしい自衛艦、なんだかご存知ですか?
YTE12とYTE13、ちょっと艦橋が違う二隻の船。
これは練習艦、すなわち江田島で学ぶ自衛官たちのための
トレーニングシップなんですね。

幹部候補生や術科学校の課程で使用されるもので、
江田内ではよくこのどちらかが目撃されるそうです。
左の「12」が110トンクラス、右「13」は170トンクラス。

突堤には車が2台停まっていますが、これは両艦の艦長の車?
停泊していましたがこの日は平日で艦長は在艦しているはずですから、
多分そうだと思われます。 

このようなものが見られるというのも中々役得だわ、
と喜んでいたら・・・



うおおおおー!

古物現物唯物懐古教の熱心な信者であるところのエリス中尉歓喜。

こっこっここっこここれは!ってニワトリじゃないんだから。
これは間違いなく戦前からあったと思しきトタン張りの
倉庫のような秘密基地のような・・・。

トタンは錆びて木で作られている窓枠もそのまま、
そしてこの黄色いトロッコ?みたいなものは?
もしかしたら魚雷のような武器兵器を運んだりとか?


 
運用実習講堂。

「運用実習講堂」「江田島」でググると、三番目くらいに
当ブログの先日の記事が出てくるわけですが(笑)
それくらいしか記述がないのでそこから引用すると、

「海軍兵学校沿革」という蔵書の明治21年の項には

四月 江田島ニ新築中ノ建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成ス

と書かれており、この「運用講堂」がここだったのではないかと思われます。
もちろん明治21年の建物がこれだとは思えないのですが、
当初から運用講堂の場所がここであったことは十分推測できます。
おそらく昭和になってから建て替えられたのでしょう。

この、非常に原始的な?機構の引き戸には張り紙がありますが、
赤丸にペケで「禁止」となっているのはどうも携帯電話の模様。

もしかしたらライターとかタバコかもしれませんが、
走るバスから撮った写真なので惜しいところでわかりません。



クーラーは窓を中途半端に開けて設置されており、
この窓の佇まいを見ても間違いなく兵学校の遺物でしょう。
何でもかんでも壊して新しくしてしまう日本人ですが、
ここ江田島はおそらく昔からのものに手を入れることに
厳しく制限がかかっているのかとも思われました。

でなかったら、いくら使えるとはいえこんな建物、
壊して建て替えたっておそらくOBにはわかるまいし、
とっくの昔になくなっているはずだからです。

でも、いいですよねー。

ここが何で具体的にどう使われているのかぜひ知りたいものです。
っていうか「運用講堂」って何を運用するんです?



グーグルアースで見たところ、半分が茶色く錆びた屋根がこの
「運用講堂」のようです。
なぜ半分だけ綺麗になっている・・・。

そういえば大和の大屋根(旧ドック)も、半分だけこのように
塗り替えられていて変なのですが、同じ理由でもあるのでしょうか。




ここは運用講堂の横なのですが、つまりこれも
自衛隊の施設ということになります。
ヨットのような船がグーグルアースだと8叟見えていますが、
それがこれ。
こんな船も実習に使われるのでしょうか。
(それともクラブ活動?)



グーグルアースを見ていると、所々に紺色の点々が
規則正しく並んで行進しているらしいのが見て取れました。
さすがは自衛隊、ちゃんと列を作って歩くんですね。



術科学校の「裏門」は、こちらの方は本当に形だけのような警衛詰所が、
ポツンとあって、そこを通るときも自衛官が帽を振っていました。

こうして完璧に江田島を後にしたのです。



地元の釣り船などが停泊していました。
牡蠣の養殖業者もいるので、そういったところを回るための船でしょうか。




対岸にある山のように見えますが、実はこちらと地続きで、
津久毛瀬戸という細い細い海峡は、この山を向こうに回り込んで、
対岸との間に走っています。
江田島湾とは本当にここにだけ切れ目がある湾ですから。
どうりで波が全く立っていないわけです。

さて、わたしたちのバスはフェリーに乗るその他4台とすぐに別の道に
別れました。
今から音戸の瀬戸方面に回るので、わたしたちのバスだけが
もう一度術科学校の玄関(裏門、ね)の前を通ることになったのです。



到着の時に気付いたのですが、学校前の街灯は
錨のデザインがなされています。
なんどもここに来ていながら今まで気づかなかったのは、
この街灯の高さが歩いていると気づかなかったからで、
バスの車窓からはちょうどいい位置に見えました。



今見ると大変不思議な写真。
バスが学校の門の前を通過し、こちら側の警衛の自衛官が
やはりみんな帽振れをしてくれたので、バスの中の人々も
みんなで手を振っているのですが、どうしてバスがこの時
完璧に学校の中に向かっていくように見えているのか・・・。


運転手さんは女性で、観光案内もしながら走ってくれたのですが、
最後にバスのノーズを学校の門に向けてくれたのかななどと考えました。


さて、前回も少しお話ししたのですが、この期からは
「最後の海軍出身海幕長」が出ています。
第16代海上幕僚長の長田博氏がその人なのですが、
この人のことについて少しお話ししておきます。

長田海将は兵学校に「四修合格」しています。
当時、中学校の就業期間は5年で、兵学校には4年を終了した時に
受験することができ、それを「四修」と呼び、
5年生を卒業して合格した者を「五卒」と称していました。

前にも一度「ネイビーシリーズ」で書いたことのある大野竹好中尉はこの
「四修」組、すなわち兵学校の中でも「できるやつ」という位置付けだったわけですが、
長田生徒は柔道の稽古中骨折していたため、体力検査ではねられ、
次の期であるこの学年に入学したのでした。


戦争が終わり、長田氏は他のこの期の生徒たちと同じように
「生徒を免ずる」という辞令を受け取ります。

その際、1号は旧制大学の1年に、2号は旧制高校か、あるいは
旧制専門学校の2年生に転入学できるということになっていました。

入学の時に5卒であった、今回わたしの仲良くなった件のダンディ生徒が、
旧制大学を受けたものの、面接ではねられたため旧制高校に行った、
という話をしたことがありますが、この時にGHQの方針で、
旧帝大には10パーセント以上の軍校出身者を入れるな、とされたため、
軍人(しかも高官)を父に持つこの生徒が不合格になったのも
まあ当たり前といえば当たり前であったと言えましょう。

長田氏は進路を決めるとき農林水産講習所の関係者から

「将来もし海軍が再建されたら、遠洋漁業科卒業生は
海軍に戻ることができるであろう」

と聞き、躊躇することなくここに入学を決めました。
現在の東京海洋大学です。

その後長田氏は海上自衛隊の道を幕僚長まで歩いて退官し、2年前に死去しました。

その長田氏が一等海尉で、呉第7艦隊、護衛艦「あけぼの」に
砲雷長として勤務していた時のことです。

第一護衛隊群の訓練で津軽海峡を航海中、当直の哨戒長だった長田1尉は、
出撃配備に占位する前に艦橋に上がってきた「あけぼの」艦長(兵学校69期)に、
信号で「右の端」と指定された占位位置を誤って「左の端」と報告してしまったのです。

艦長は占位運動中CIC(戦闘情報センター)からの報告により、
その位置が間違えていることを知り、
正しい位置に戻す際、同じ訓練中の「いなづま」に衝突してしまいます。

当ブログで

「いなづまに巡る因果」

というエントリを起こしてこの事故について触れたことがありますが、 
これはこの衝突によって「いなづま」 の乗員2名が死亡、そしてそれのみならず
衝突の応急処置のためドック中だった「いなづま」の艦内で火災が発生し、
合計6名が殉職するという、海上自衛隊史上に残る大事故だったのです。

審判は函館で行われました。
長田1尉は事故の責任はすべて自分にあるとし、退職を覚悟したそうです。
しかし「あけぼの」の艦長は、

「操艦していたのは自分であるから全責任は自分にある。
砲雷長には責任は無い」

と主張し、審判の結果、衝突の原因を作った長田1尉は不問に付せられました。 

艦長はそのまま艦を降り、二等海佐のまま退官したそうです。
そののち長田氏が海幕長に就任した時に、新聞のインタビューで

「尊敬する先輩は?」

という質問に対し、長田海将はその艦長の名前を挙げました。
事故の原因を自分一人が負い、若い部下の失敗をも引き受けて、
自衛隊をひっそりと去った人の名前を。

そのインタビューが新聞に載ってからしばらくして、長田海将は
かつての艦長から手紙を受け取りました。
それには

「君の活躍をいつも嬉しく思って見ていました。
しかし自分から連絡することで、君に迷惑をかけてはいけない、と思い、
陰ながら応援していました。
先日、君の記事を読み、そして身にあまる言葉をもらい、
驚きと感謝の気持ちでいっぱいになり、迷った末手紙を出すことにします」

という出だしに続き、やっぱりあの事故の責任は自分にあった、
ということとともに

「わたしの自衛官としての人生は幸せでした」

という言葉が添えられていました。

あの事故の時、普通にその責任の所在を長田1尉ひとりに被せたとしても、
事故を起こした艦長が、自衛隊で出世することはなかったと思われます。
しかし、たとえ自己防御の意識からそうしたところで、
誰にもそれを責められることはなかったでしょう。

ただ、確実に言えることは、もし「あけぼの」艦長がそれをしていたら、
「長田海上幕僚長」はおそらく生まれることはなかったということです。

制服を脱いだあと、この元艦長は、長田氏の順調な昇進を応援しながら、
「自らの身を顧みず」、事故の全責任を一身に負ったことで
この未来を守ったのだ、という充実感を味わっていたのかもしれません。

そして、その思いが彼をして「自分の自衛官人生は幸せなものだった」
と言わしめたのではなかったでしょうか。


長田海将はこの手紙を読んだ後、こう誓ったのだそうです。

 「あけぼの」艦長の言葉や行いは、海軍の良き伝統の上にこそ生まれた。
  ”最後の海軍経験者”として、このような生き方を示し
  後世に伝えていくことこそが、私自身の使命である。

と。 



そして「今、あの艦長に対して恥ずかしくない自衛官であるか」
を常に自分に問いかけながら、海上幕僚長として自衛官人生を終えました。

長田海幕長が退官した時、朝日新聞はそのことを伝える記事で、彼を

「最後の帝国海軍軍人海幕長」

と呼んだそうです。

 

続く。 


 

戦艦「伊勢」慰霊祭~艦内見学

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さて、護衛艦「いせ」は戦艦「伊勢」の慰霊祭のため
呉港某岸壁(詳しくは知りません)をようやく出航しました。

これから、「伊勢」が大破着底した海域まで航行するのですが、



その音戸町坪井沖は実は呉からはこういう位置関係。
赤で線を引いたのが江田島の術科学校です。
渋滞のない海上をまっすぐ行くのですから、どちらにしても
あっという間に着いてしまいます。

「いせ」の中にいた時間のほとんどは出航と入港のための
作業に費やされたといった感がありました。

さて、慰霊祭以外の時間、我々はエスコートの自衛官に
案内されて艦内を見学したり、控え室である士官室に
飾ってあるものを見学したりして過ごしました。

出航作業を艦橋で見届けた後また部屋に帰ってきました。
何しろこの日はわたしのせいで雨だったので、
(知人よると晴れ女である彼女のパワーを上回るラスボス雨男がいたとのことですが)
甲板に出ることは誰もあまりしようとしません。(寒かったし)
そもそも慰霊祭も甲板では行われないのではないか?という
不穏な噂が飛び交い、皆が不安になっていたくらいです。

まあ結局行われなかったんですけどね。


さて、士官室の記念品コーナーには冒頭写真に上げた
これも「いせ」と「伊勢」の海上モデルがありました。 
こうして並べてみると、甲板の幅はともかく、「いせ」より
「伊勢」の方が実は全長は大きかったのだと気づきますね。



手前の木箱は何が入っていたのかわからなかったのですが、
式年遷宮の際建て替えで不要となった木材は「御用材」
として神宮内やその摂社・末社をはじめ、全国の神社の造営等に
リサイクルされるのですが、こういった「小物」も作り、
記念品のように配られることもあるようです。

むこうにあるお神楽の面のようなものは「何々神宮」の
「何々」の部分がどうしても解読できず<(_ _;)

状況から考えて「伊勢」しかないと思うのですが、
これがどう見ても「伊勢」に見えなかったもので・・。



「いせ」に搭載されているのはSH-60K。
ローターの先が波打ったようになっているのが「K」です。
今回は格納庫にももちろん甲板にも姿がありませんでした。



飾ってあったわけではありませんが、帽子置き場に置かれた正帽。
同じ幹部の帽子なのに、あまりにも違うので撮ってみました。

「抱き茗荷」の色が右=金、左=銀ですねー。
碇や碇鎖の形も全く別だし。
一つずつ手作りだとこうなるんですね。



さて、というあたりでお昼になりました。
前もって申し込んでおいたお弁当が配られます。
当初、

「1時に着岸予定なのでその後ゆっくり食べましょうか」

などと言っていたのですが、結局、お弁当で正解だったのです。

実はこの日、ある事情で着岸作業が予定より遅れに遅れました。
ゆっくり食事どころか、わたしは呉から広島空港までタクシーで
行くしかなかったくらいで・・・いくらかかったか思い出したくもない(−_−#)

フネのイベントがらみのブッキングはくれぐれも時間に余裕を持つこと、
そして変更不可能なチケットをこんな時に使わないことですね(自戒)



ご飯を食べたテーブルの横には大きなモニターがあって、そこでは
おそらく参加者のために「いせ」とその他自衛隊関連のビデオが
流されていました。
これは「いせ」が就航した時のものと思われます。



おお!これはもしかしてフィリピン派遣の時の?
赤十字の腕章をつけている医療チームは陸自部隊。
今からヘリに乗り込むところみたいですね。

そのほか、あの「国防女子」の撮影の様子がなんとDVD化されていて、
宮嶋カメラマンは全く登場していなかったのですが、
制服を着てきりりと、あるいはオフタイムでお化粧をして
バーでカクテルを一杯やっている妖艶な大人の女、みたいな図を
イメージビデオ風に撮ったものが流れていました。

そうかと思えば、同じ国防女子でも、観ている人たちが

「これ・・・・女の人?」「女・・・だよねスカート履いてるし」

と思わず口にしてしまうボーイッシュ(というのも甘いくらいの)
な隊長にしごきまくられる新人女性自衛官のドキュメントなども。
そのインタビューで、新人さんの一人が

「どうして自衛隊に入ったかというと、『海猿』を見て憧れてー」

と答えた途端、横にいた某さんが

「あー、一番嫌いこういうパターン」

と憎々しげに(笑)言い放ちました。(; ̄ー ̄)」 まあまあ

さて、ここらで士官室をもう一度出てみます。



なんとっ!

いきなり艦長室を公開か?
それにしても無駄に写真が大きくてすみません。
ドアを開けたところにプライバシー用にカーテンの仕切りが。
まるで病院の個室みたいです。



壁が電話だらけ。
これじゃどれが鳴ったかすぐにわからないのではないか、
と思ったけど、今時の電話は鳴ればそれが光るので無問題。
さっき「おおすみ」のバケツリレーで皆がかぶっていたもの、
それからそうりゅう型の甲板に立っている乗員がかぶっていたのと同じ緑色のヘルメット。
どうやら自衛隊の安全ヘルメットは最近これらしい。

そして机の角には・・・・灰皿!

どうもタバコを嗜まれる模様。
艦長だけは部屋で吸ってもいいようです。



別の角度からもう一枚。
普通の会社の事務所との違いは、やはり大きな鏡があること。



ちょっと失礼しますよ。
ココが艦長室のバスルームだ!。



バスタブは、その辺のワンルームのよりずっと広くて
深く、なんとすのこにお風呂イスまでついた洗い場あり。
さすがはニッポンの護衛艦です。

アメリカの軍艦なら水兵だろうが長官だろうが、シャワーだけでしょう。
本当にアメリカ人って、お風呂に浸からないんですよね。
バスタブのないシャワーだけのホテルもたまにあるくらいです。



ベッド下に引き出しを備えたベッド。
「バウムクーヘン」と言われるたたみ方でシーツと毛布が
ピシッと置かれていてその美しさに唸ってしまいますが、
これも、艦長が自分ででやるんですか?それとも従兵?



艦長のバスルームが出たのでついでに。
護衛艦の中のトイレに行ったことがありますか?
水は海水を使用しているのですが、タンク式ではなく、
その都度レバーを(というかバルブだったけど)捻って
必要なだけ流して止める、という方式です。

海の上には海の上のルールがある。

そういうことですねわかります。



これはなんとなくわかる。
アメリカのホーネットにもこんな部屋がありましたっけ。
飛行科隊員の控え室?
ブリーフィングのできるモニター(昔はホワイトボード)と、
いかにも座り心地の良さそうな大きな椅子は万国共通。



おっと、どんな音楽を聴くのか知らないがスピーカーはBOSEだ。
(これ、うちのより上級機種だと思う・・)



ブルーのシートが張り巡らされた部屋(ここも食堂?)には
雨なので行く場所のない人たちがテレビを見て時間潰しをしていました。
わたしたちは案内がいたからうろうろしていたのであって、
案内なしに勝手に艦内を歩くことはできなかったのかもしれません。



どうも「いせ」は就航以来毎年必ず二つ以上の「優秀艦」
表彰を受けている模様。
この優秀艦というのが毎年何隻受賞するのかはわかりませんが、
「対潜優秀艦」とか「術科競技(航海)優秀艦」と言われると、
「お、凄そう」と思いますね。

「(衛生)優秀艦」とか「給食業務優秀艦」とかは、
一体どうやって決めるのだろう、とか不思議ですが。

因みに自衛隊では護衛隊群で優秀隊員というのも選定しており、
例えば

第3護衛隊群 平成20年度優秀隊員

などのように、各部門にわたって個人技の優秀さを競う模様。
海技試験資格保持者とか、戦術試験資格保有者とか、
スペシャリストであったり、あるいは艦対抗の競技で優秀な成績を修めたり。

山のようなキャベツを刻んでいる給養員がいるかと思ったら、
「パソコン等情報システムのプロ」と称されるナードタイプがいたり。
誠に自衛隊は多様な職種の集合体であると改めて感心します。

わたし個人的には「パソコンのプロ」秋吉海士長の眼鏡が気になりました。



後ろにはメニューが出ていますが、通りかかった海曹が

「何かつけましょうか」

と言ってくれたので、わたしと知人が

「これ、RIMPAC2014(だったかな)ってヤツにしてください」

というと、

「これ、まっっっっっっったく面白くないですよ」

いえいいんです、とつけてもらって始まることしばし、わたしと知人が
すごーいとかうわーとか小並感あふれる嘆声を発しながら見入っていると
もう一度さっきの海曹が通りかかりました。

知人「これ、面白いですよ」わたし「わたしも面白いです」
海曹「はあ・・・・(´・ω・`)」

彼の顔にはありありと「変な奴ら」という表情が・・・。


画像の海士君はこのときたまたま通りかかったのですが、
なかなかのイケメソ(というか俳優みたい)だったのでモデルをお願いしました。
最初普通に立っていたので、

「すみません、手をグーにしてグーに」

とお願いしてモデル立ちならぬ海軍立ちのポーズを注文。
星を被せましたがそれでも隠しきれない涼やかな目元が素敵でしょ。


続く。 



 

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