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パシフィックコースト航空博物館~”歴史的航空人”の顔ぶれ

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サンフランシスコの北、サンタローザにある
パシフィックコースト航空博物館についてお話しするのも最後になりました。

おそらく、サンフランシスコ在住の飛行家だった
ジョセフ・アーサー・グラッソの寄贈したと思われる装備からです。



昔の飛行家が使用していた装備も展示されていました。
だーれ?「Google」とつい読んでしまったのは。(・_・)/ ハーイ



1930年代にすでに度付きゴーグルがあったんですね。

日本の場合はパイロットが努力の末、「昼間でも星が見えるようになった」とか、
「箸で飛ぶハエを捕まえられるようになった」とかいう神話が
まことしやかに(ほんとだったのかしら)語られたぐらいで、
つまり飛行機搭乗員というものはマサイ人のように目が見えるもの、
ということになっていたので、ゴーグルに度をいれることなど
需要もないし誰も思いつきもしなかったのだと思われます。



Resistolというのはアメリカのカウボーイハット専門の
会社ですが、宣伝用に作られたゴーグルということでしょうか。



説明の写真を撮るのを忘れましたorz
ヘルメットとゴーグルと酸素マスクです。
そんなこと改めて書かれんでも見れば分かる?



朝鮮戦争時代にアメリカ軍で使用されていた医療箱。
ちょっと驚いたのは左上にバンドエイドがあること。
アメリカではもうこの頃にバンドエイドが発売されていたんですね。



売店の壁にかかっていたイラスト。
この博物館で最初に説明した「911ファーストレスポンダー」が
絵になっているわけですが・・・・・。

それにしても、この絵・・・・モクモクと煙を吹き上げ、
まさに次の瞬間倒壊予定のワールドトレードセンタービルですが、
29.99$になったところで、一体こんな絵を誰が買うのか。
何を思ってこんな絵を描き、しかも売っているのか。

かろうじてこれが売れのこって安売りになっているあたりに、
まだしもアメリカ人の良識は死なず、というのを見る気がしますが。

 

昔ここにあったサンタローザ陸軍航空基地の鳥瞰図。
オブジェとしても行けそうな凝ったデザインです。



ふと目を留めたポスター。
「イーグル集合」という題がついています。
伝説の航空機と、有名なパイロットが大集合。



左の方にはサビハ・ギョクチェンや、黒人だけの飛行隊、
レッドテイルズのデイビスJr.空将なんかもいるのですが、
後の飛行家の名前は写真が遠すぎて確認できませんでした。

エーリヒ・ハルトマンやレッドバロン、リヒトホーフェン男爵はいませんし、
アメリア・イアハートもチャールズ・リンドバーグもいませんので、
今ひとつ選定の基準というのが分かりません。
いわゆる「戦闘機エース」とかではなく、特定の飛行機に乗っていたとか、
歴史的に意味のあることを為したとか、象徴的だったとか、
まあそういった基準ではないかと思われます。

右の方には、

南極到達を果たした
ロバート・”ファルコン”・スコットJr.大佐!(イギリス海軍)、

日本人には「ジパング」でもおなじみ(だったっけ)、
レイモンド・スプルーアンス大佐!(アメリカ海軍)

(表記がウィリアムになっているけどこれは間違いです)




エノラゲイからノルデン照準器覗いて広島に原子爆弾を落とした
(えええええ~)
トーマス・W・フェレビー少佐!(アメリカ陸軍)

エノラゲイを広島上空までナビゲーターとして導いた
(えええええええ~)
セオドア・ヴァン・カーク少将!(アメリカ陸軍)



そして、音速を超えた男チャック・イェーガー!の上に海軍旗と共にいるのが、

昼間に星が見えるくらい視力を鍛え、さらにはSAMURAI!の著者として
世界的に有名になった零戦搭乗員、
坂井三郎中尉(大日本帝国海軍)!


ほかにも、アポロ計画で最初の宇宙飛行士となったジョン・グレンが
この下に描かれていました。

それにしてもエノラゲイの搭乗員が二人もいるって、どういうことよこれ・・・。



ふと天井を見れば、そこには零戦とB52が。



21型は小隊長機のマークを巻いています。
よく見ると中にちゃんと搭乗員もいるぞ。



尾翼の「虎」は、261空所属機という意味です。
これにも日本人らしい(そりゃそうか)搭乗員が乗ってます。



P−39エアコブラ。
こういうところのスペルもこまめに間違っていますね。

エアコブラの下に見えるのは、そのP−39の宣伝広告。
戦闘機の宣伝広告があるとは知りませんでした。

機体に隠れて内容が見えなくなってしまったのが残念ですが、
右下には

「航空史を創る!」

みたいな決め文句が書いてありますね。



ブラックバードの裏?



P−38ライトニングのコーナー。
妙なポーズをしている搭乗員のブロンズ像は
説明がないので何を意味しているか分かりませんでした。



日本軍の対人爆弾。
持ち主のスワン中尉は、

テニアンで自分のテントにこれが落ちたけど不発弾だったので良かった

という、一行ですむ説明を長々と文学調に書いています。
書きたいという気持ちは分からんでもないですけど。



日本人に取っては「へーそう」としかいいようのない
「俺たち同盟国」のポスター。

英、中、露(このころはね)豪、カナダ、コスタリカ、
キューバ、チェコ、ドミニカ共和国、エチオピア、フランス、
ギリシャ、インド、ニュージーランド、メキシコ、ユーゴ、
南アフリカ、ユーゴ、ポーランド、マレーシア、そして、


イラク!(爆笑)

 

カウンターにおじさんが見えていますが、この方は
わたしがさようならを言って外に出たとたん、一足遅れて外に出てきて、
ピカピカにレストアされた真っ赤なビンテージのムスタングを
これ見よがしに羽箒で磨き始めました。(磨く必要はなさそうだったけど)

ご自慢の愛車を滅多にこない女性客に見せたかったのかもしれません。



というわけで、パシフィックコースト航空博物館、
丁寧な手作り感あふれるいわゆる「おらが町の博物館」ですが、
細部まで行き届いた展示の内容は、航空ファンとして大変評価できます。

展示物に間違いが多いですが、それはまあ、ご愛嬌ってことで(笑)



シリーズ終わり


日系アメリカ人~描かれた強制収容所生活

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第二次世界大戦が始まったとき、西海岸に住む日系人は
国籍を持たない一世も、アメリカ国民である二世も、
「Alien」「Non-alien」として全て住処をを追われ、
全部で10カ所あった強制収容所に送られました。

全部で10万人以上の日系人が強制収容所での生活を送りましたが、
その中のイラストレーターは、収容所生活をこのように描いています。



食べ物の配給。
手前の子供は両手にジャガイモを抱えてご機嫌です。
建物の右から列を作って中で受け取り、
もう一回並びなおして再び食べ物をもらう人多数。

映画「アメリカン・パスタイム」によると、収容所に入る前に
彼らは銀行で有り金を皆下ろし、身につけてきており、
ときには街に出て、見張り付きではあっても買い物をし、
生活に必要なものを手に入れることはできたようです。

そのあたりは日本やドイツと違い、腐っても金持ちの文明国、
収容所で日系人たちが餓えるようなことはありませんでした。 



彼のいた収容所、ポストン戦争強制収容所は
アリゾナ州のユマにありました。

ここは年中このような嵐に見舞われ、竜巻の発生しやすい場所です。
絵には西部劇でおなじみのタンブルウィードが見えていますが、
これはオカヒジキ属のロシアアザミという植物です。
株はボール状に成長し、秋に果実が成熟すると風によって茎が折れ、
ごらんのように原野の上を転がるというわけです。

つまり、こういう気象条件の、ほとんど人も住まないような土地を
切り開いて、収容所は作られたのでした。 



ここに集合センターから運ばれて来る日系人たちは、
ガラガラヘビのいる、サボテンの砂漠地帯を、クーラーもないバスで
すし詰めになってやってきました。

あまりの暑さにバスまでもがぐったりしています。



日系人たちを運ぶトラックに手を振っているのはネイティブアメリカン、
即ち我々が「インディアン」と呼んでいた人々です。

ある日系人の医師はこのように述べたそうです。

「歴史の皮肉とでも言うのか、ポストンに収監された日系一世と二世は、
アメリカインディアンたち、砂漠に集められてインディアン居住区に
住むことを余儀なくされたインディアンたちが、19世紀から20世紀に遭遇した、
それと全く同じことをいまや経験することになったのだ」



たとえ命を奪われるような過酷なものでなかったとしても、
そこには精神的な迫害と圧迫に押しつぶされそうな生活が待っていました。



たとえばトイレ。
そこには個室どころか仕切りもない空間に便器が並んでいるだけ。
衣食住が保証され、命の危険さえなければ人は生きることはできますが、
人としてのこんな形で尊厳を奪われた状態が、果たして彼らにとって
精神をまともに保てる生活と言えたでしょうか。



絵の題は「化学実験室」。
熟練の教師も、学校教育に必要な教材もそこでは不足していました。
ランドリールームが化学の教室として使われ、作者のジャック・マツオカは、
水道から滴る水を教師が「H2O」だと教えたのを記憶しています。



鉄条網に囲まれた収監者子弟のための学校では、
毎朝、星条旗への忠誠の誓いが行われていました。

「リバティ・アンド・ジャスティス・フォー・オール」。

それを指導するアメリカ人教師は「全ての者のための自由と正義」
という言葉を、どう噛み締めていたのでしょうか。



この収容所のバラックにはガラガラヘビが出たそうです。
ところが驚くことに、各バラックではそれを捕えて、
ペットとして飼育していたのだそうです。

好奇心か、それともスリルを求める気持ちか・・。
この異常な状態では、だれもその答えを知ることはありませんでした。



サソリも出たようです。
これって無茶苦茶危険だったのでは・・・。



酷暑の夏、アリゾナの収容所ではアイスクリームを求めて
住民が長い列を作りました。



キャンプでの食事は常に混乱の中で行われた、とジャックは回想します。
そこでは余りにも多くの人が一度に食事をするため、
家族や友人と一緒に食事をすることはおろか、テーブルマナーも
全く顧みられないカオスであったということです。



食事はこのようにして配られていました。
女性は得することもあった・・・・のかな?



収容所の壁はまるで紙のように薄く、従って壁の向こうの話は
手に取るように聴くことが出来ました。

どんな状況にあっても若い男女は異性のことが気になるものですが、
男性が「ホットチック(イカした女の子?)は誰か」と
品定めするのを、やはりそれが気になる女の子たちが耳をそばだてて
聴いています。

これらの曲の題を見てピンと来る人は、オールドジャズファンですか?

まず、左上には「チャタヌガ・チューチュー」の歌詞が書かれています。

「ムーンライト・ビカムズ・ユー」
「センチメンタル・ジャーニー」
「ビギン・ザ・ビギン」
「ユール・ネヴァー・ノウ」
「アト・ラスト」(マイハート・カムズ・アロング) 

どれも1943年から45年にかけてヒットした曲ばかりで、
おそらく日系アメリカ人たちはこの曲を聴くと
収容所の想い出が浮かんで来るのに違いありません。 

 

「アメリカン・パスタイム」でテーマとなっていたのが
「ジャズと野球」です。
日系アメリカ人たちはどういうわけか、野球を非常に好み、
収監されていたときもチームを作り、決してそれをやめることはありませんでした。

このイラストでは

「全ての者が収容所のブロックごとに何らかのチームに入っていた」

少女チーム、Jr.少年チーム、青年チームA、チームB(1軍と2軍?)
「オールドタイマーズ」、「補欠、レフェリー、ハッパをかける人、コーチ」
「ウォーター・ママ」(試合中の水補給専門)「いつも置いてけぼり」・・。 



日系アメリカ人のカップルの写真は、顔は日本人なのに
その佇まいがすでにアメリカ人のそれになっているのを感じます。
この時代の日本人の男女はおそらくこんな写真の取り方をしないでしょう。



タキシードにフルロングドレス。
クリスマスパーティの装いですが、これも
とても日本人の雰囲気ではありません。

日本風の名前のミドルネームを持ち、一世の父母に育てられても、
アメリカしか知らない彼らは、アメリカ人なのです。



家族の肖像。
彼らも全員収容所に入り、そして戦後は解放されました。



アメリカ人として軍隊に志願した日系人は、442部隊などで
歴史上最も勇敢なアメリカ陸軍部隊と讃えられました。

軍隊でアメリカ人の兵士たちと写真を撮る日系2世。
(写真右上)



収容所の三世たち。
日本ではなかったカラーフィルムでの写真です。
一番右の子供は縦笛を吹いていますね。
帽子にスカーフ、ジーンズのサロペットにブーツ。
女の子はデニムのつなぎを着ています。



このカラー写真も驚くことに、女の子たちが全員
振り袖の着物を着ているのです。
たった一つずつしかトランクを携行するのが許されなかったのに、
どの親も娘の晴れ着をその中に入れてきたということでしょうか。
これらの染めの着物は全て日本から持ってきたものでしょう。

しかし不思議なのは、どうみてもこれは晴れ着で、
見ている親たちも冬の装いなのに、
説明には「ボンオドリ」とされていることです。



ボーイスカウトが高校の行事で、スカウト旗とともに
星条旗を掲げて行進しています。



ルーズベルトが1942年2月19日にサインした

大統領令9066号、
通称『防衛のための強制移動の権限」

は、1976年になって、フォード大統領のサインにより廃止されました。
遅すぎないか、って?
意外なことに、かつての収監者たちがアメリカ政府に賠償金を請求する
運動が起こったのも1970年頃からのことでした。

収容所に入っていた日系アメリカ人たちは、そのことを忘れたいのか、
新たな問題を起こしてまた国の敵になりたくないという思いか、
賠償金の請求に賛同する者は、当初大変少なく、発起人がその正当性を
「勉強会」というかたちで説いて回らねば、
誰もそのことには触れられたくない、ほっといてくれといった調子だったそうです。

アメリカで生まれ育っていていても、このメンタルは実に日本人らしい
遠慮というものに思えます。



写真は、戦後アメリカ人の権利を「復権」した彼らが 、
「アメリカ人の誓い」を集団で行っているところです。 



1943年に最高裁判所は強制収容所の合法性を認める判決を出しましたが、
その判決を導くために、連邦検察官は証拠を偽造していたそうです。

そのことを突き止め、司法の場で明らかにしたのは、
他でもないアメリカ人の弁護士たちでした。
日系アメリカ人たちの賠償金請求運動を援助したのも、彼らだったのです。




さて、明日からはその収容所の日系人を描いた映画
「アメリカン・パスタイム_俺たちの星条旗」
についてお話ししていきます。


 

映画「俺たちの星条旗」~American Pastime 「Let it go!」

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サンノゼの日系アメリカ人博物館の見学記を連載しましたが、
その総仕上げ?として、映画「アメリカン・パスタイム」を観ました。

「俺たちの星条旗」というのが邦題なのですが、これはどう考えても
出演している中村雅俊の往年のヒットTVドラマ「俺たちの旅」から
題を決めたというかんじで、内容との違和感が否めません。

やはりここは原題の「アメリカン・パスタイム」で行ってほしい。

ところでこの「パスタイム」ですが、語源はフランス語。
「passe-temps」(気晴らし、暇つぶし、娯楽)を英語に直訳したものです。 

「アメリカの娯楽」とは何ぞや?

そう、このころは映画、そしてジャズと野球ですね。
アメリカの典型的な娯楽を副題に、ストーリーは展開します。
 

今までこのブログでは、何回かに亘って日系米人の
強制収容に至るまでの事情をお話ししてきましたので
詳細はそちらを見て頂くとして・・。

真珠湾攻撃の2ヶ月半のち、ルーズベルトのサインによって
「日本の血を持つ国民も(alien)非国民(non-alien)も」、
全ての日系人は決められたエリアに住むことが決まります。

日系人の強制排除が始まったのです。 

 

全ての日系人はセンターにまず集められたのち、強制収容所に移されました。
「黄禍論」などで日系人に反感を持っていた白人たちは
ここぞと息も荒くそれに賛同しました。

しかし、たとえばこんな写真の人とか、黒人女性が初めて大学に入った時、
入学者第一号者の後ろを罵声を浴びせながら歩いている女性なんかは、
そういう自分の姿が、差別の時代の証拠記録として未来永劫残ることについて、
後年どのように思ったのでしょうか。



舞台はユタ州にあったトパーズ強制主要所。
ここに収容された日系アメリカ人の家族、ノムラ一家が主人公です。

ノムラ家の家長、カズ(中村雅俊)は
2歳のときに両親にアメリカに連れて来られた一世です。
妻のエミ(ジュディ・オング)も、その名前から一世でしょう。
二人の息子、レーンとライルはロスアンジェルスで生まれ、
どちらも野球とジャズを愛する二世です。



収容所の中は男女が一緒くたの生活です。
連れて来られるなり着替えに戸惑う日系人たち。
取りあえず男女別の方向を向いて着替えていると・・・

 

おかまいなしに収容所の看守がやってきます。
収容所所長ワトソンは、実際にモデルがいたのかもしれませんが、

「お互いに協力していこう。ゆっくり休んでくれ」

などと極めて穏やかな、友好的な態度です。
わずかながらも、ほっとする収監者たち。



看守の一人、軍曹でもあるビリー・バレル。

彼は地元のマイナーリーグの捕手で、中心選手です。
昔からメジャー候補といわれつつも、すっかり盛りを過ぎ、
今ではすっかりあきらめモードですが、
それなりにマイナーでは活躍中。

 

房のリーダーとなったノムラは、

「ここをもっと住み良くしたいので皆で協力し合おう」

バラックに手を加えたり、お金を出し合って
買い物し、生活を改善することを提案します。

 

ビリーともう一人の看守、マックが、街のグロサリーに
ノムラ親子を買い物させに連れてきます。
ここの店主、ジョー(左)は温厚な人物ですが、床屋のおっさんは
日系人にあからさまな敵意を隠しません。

「奴らに金をやっているのか!」

憎々しげに言い放つ床屋のおっさん。
彼は嫌悪のあまり決して面と向かって話そうともしないのです。

「自分たちの貯金を下ろしてきたんだ」

あくまでも穏やかに相手に説明するノムラ。



「ギンガム」という単語が読めなかった、しかし気のいいジョーは、
面と向かって彼らに敵意は見せませんが、店にはさり気なく
日本人排除のポスターがあります。
(もしかしたら床屋のおっさんが貼ったのでは)
そこにはこう書かれています。

「ジャップ狩り許可証 売り切れ 無料サービス!」

観念での差別意識を持ち、日系人は追い出すべきだ、と思っていても、
いざ付き合うと全くそれとは別に、目の前の人間を個人として見るタイプ。
特に日本人はこちらのタイプが殆どで、床屋のおっさんのように
態度にまで表わしある意味「ブレない」人間は少数派かもしれません。

 

「我々は何か法律を犯したのか?憲法は?
ドイツ人やイタリア人はどこだ?回答を求める!」

日の丸の鉢巻きをし、所内をアジ演説してまわる一派。
これもお話ししたことがありますが、収容所内の最右翼
(アメリカから見ると右翼とは呼びませんが)であった「祖国派」、
WRAという組織です。

WRAというのは元々

War Relocation Authority (WRA)

戦時強制収容所委員会とでもいうべき管轄の略称の筈ですが、
それをもじったのか、彼らは自分たちをこのように称していたようです。
残念ながら何の略かはわかりませんでした。

実際の収容所でもそうであったのですが、
収監者たちは彼らにどちらかというと非難と嫌悪の目を向けます。

確かに彼らの主張は間違ってはいまいが、
だからといってここでそんなことを主張してどうなる?
そもそも戦争を起こしてきたのは日本じゃないか?
余計なことをして我々の立場を悪くしないでほしい。

彼らを白い目で見る日系人の心理はこんなところでしょう。
良くも悪くも、日本人のメンタリティを強く感じる話です。

彼らは翌朝、トラックで何処へともなく連れ去られていきます。
実際は監視の厳しいツールレイク収容所に送られたのですが、
残された者は

「何処に連れて行かれるんだ」
「腐ったリンゴを集めてアップルサイダーを作るのさ」

などと会話します。



収容所内では酒の密造、賭けも頻繁に行われました。
所内には「カジノ」がこっそりと開設されたといいます。
日系人部隊のモットーになった「Go for broke!」はピジン原語
即ち接触原語の類いで、日系人たちのなかでのみ通じる言葉です。

ブロークとは「破産」を意味し、主にハワイの日系人たちが
賭けをするときに「全財産突っ込め!」という意味で使っていました。



ノムラ家の長男と次男、レーンとライル。
この二人、本当に兄弟といわれても信じられるくらい似ています。
ただ二人とも、特に兄役のレオナルド・ナムなどはその容貌のせいか、
何を言っているときにも無表情に見える大根演技が困りもの。

総じてこの二人の主人公の容姿が日本人らしくなさすぎる
(二人とも韓国系アメリカ人)のが、日本人的には残念な映画です。 

監督のデズモンド・ナカノはまぎれもない日系人で、
映画で追悼されているレーン・ナカノは(長男の名前は彼へのオマージュ)
前にもお話しした映画「日系部隊」に出演した俳優です。

日系アメリカ人の人口自体が少ないアメリカでは、
ネイティブ並みの英語を話せる日系人俳優がいなかったため
このようなことになったのかと思われます。 



父親に中村雅俊を起用したのは、一世であれば英語が訛っていても
不自然ではないし、むしろ日本語がしゃべれることが必須だったからです。
それは母親役のジュディ・オングも同じで、ただしこの二人は
英語に堪能であったことでキャスティングされたようです。

中村はボーナストラックで、英語のインタビューに答えています。



次男のライルは兄と違って大学に進学し、野球で奨学金を取りました。
サンフランシスコ州立大学に行った、と本人が冒頭説明します。
我が家がサンフランシスコ在住のときには隣の敷地がこの大学で、
住人には学生がルームシェアなどで住んでいました。

そして、趣味以上の熱意を注いでいるのが、サックスです。



ピアノをやっていてボランティアで収容所内の
子供たちを相手に演奏をする、ビリーの娘、ケイティ。



ライルが彼女の演奏中にちょっかいをかけます。
彼女は腹を立てながらも彼に惹かれるものを感じ・・。
(ありがち)



ケイティの両親。
多くの野球選手が招集されていくというニュースを見て
妻は夫にメジャーへの可能性を焚き付けます。

「チャンスよ!戦争で変わったわ」



収容所ではかつて独立リーグの選手で、ゲーリックや
ベーブルースとも試合をしたことのあるノムラが主導し
野球チームが作られます。



ウクレレをバッターのように振りながら登場、
ハワイから来たバンビーノ・ヒロセ。(リロイ・ブッダヘッド・テオ)
アフリカ系ですが、日系の妻がいるためここに送られてきました。



収容所で行われたダンスパーティのステージに
ライルに引っ張り上げられて演奏するケイティ。
クラシックピアノのお嬢さんにこれは普通無理という奴ですぜ。

しかしさすがは映画、ライルがサックスでリードすると、
たちまち彼女はアドリブソロが取れるようになってきます。

ありえねー。

 

ここで事件発生。
自由時間に野球をしていたビリーと看守のマック。
転がった野球のボールを捕虜に投げさせたら、中継越えのどストライク。

驚いた看守Aは「ビリーを三振させたら5ドル」の賭けをもちかけます。

 

収容所内でサックスを吹くライルにいきなり悪態をついたオヤジ。
今ではいつの間にかライルの師匠のようになっています。

「ボールを取ってくれ」

とビリーに言われても

「わたし英語分かりませーん」

と嘯いたくせに、ライルが最初のストライクを取ると

「いいぞライル!こいつは野球で奨学金を取ったんだぞ!ハッハー」

とペラペラしゃべり、ビリーに

「もう英語を覚えたのか、”トージョー”?」

(この”トウジョウ”は翻訳されていない)
と突っ込まれて

「スコシ。じゃすたーりーーとぅびー!」





いきなり2球続けてストライク取った後、
続く見逃しの2球をボールだと言い張るアメリカ人二人。

「じゃすたーりーるびーはーい!」「りーるびーはーい!」

とモリタの発音を真似しながら馬鹿にします。



その様子を上の監視所から見ている、もう一人の看守B。
(伏線)



結局勝負はアメリカ人がストライクを認めなかったため
ライルの負けとなりました。

「やめろ」(日本語で)

ライルに何も言わせず、すたすたと歩いていって、アメリカ人に
2倍になった掛け金の10ドルをわたすモリタ。

「見事な腕とスポーツマンシップの披露、ありがとう」

痛烈な皮肉です。

そしてお辞儀をしながら

「我々の国ではこれをこういう。マルメノアホウサマ」
(丸目の阿呆様?) 

鼻白むアメリカ人たち。
このあとモリタはライルに向かって二回こういいます。

「Let it go. Let it go.」 

・・・・・誰ですか?節をつけてしまったのは。
 
そう、わたしが「レリゴー」のあれを「ありのままの」
と訳すのは変じゃないか、というのは、こういうときに
使うのが正しい用法だからなんですね。

この場合のレリゴーは

「ほっとけ」「あきらめろ」

というニュアンスなんです。 

まあ、迂回していけば

「仕方がない」→「あきらめる」→「このままにしておく」
→「ありのーままのー♪」

となるので大間違いではないんですが、意識の方向性という点では
まるで逆なんではないかと、映画のヒット以来わたしは思ってます。 



親と対決したと思ったら今度は娘(笑)。
クラシック畑のケイティにジャズピアノの弾き方を教えるライル。

上手く弾けない彼女の手を取って曲調はアップテンポから
いつのまにかバラードへと。そして・・・・(ありがち)

 

そんなおり、ソロモンに出征しているビリーの息子、
ケイティの兄が戦死したという知らせが届きます。

ビリー、怒りのドラム缶バットで100発。

 

不気味なキモノ3人娘(着付けがヘン)が
クリスマスソングを歌うパーティ席上、ノムラ家の長男レーンが
陸軍に志願したことを両親に告げます。

「もうここにはいたくない。
みんなと同じアメリカ人であることを証明できる」

ほとんどの日系軍人が全く同じ理由で陸軍に志願しました。

ついでに彼は

「みんな何かしら失っているが泣いたり文句を言ったりしない。
お前以外は」

と弟の態度をなじります。

 

収容所の母親たちが赤い糸をつないだ千人針。
それを出征に際し受け取ったレーンは父親と

「一番!」
「おかげさまで」

という謎の日本語でのやりとりの後出発していきます。

息子を送り出した夫婦は、鉄格子の見える広場でお弁当を広げ、
どちらからともなく歌を口ずさみます。

♪ しゃぼんだま とんだ やねまで とんだ ♪

そ、その歌は・・・・・。

野口雨情が流産してしまった子供を思って作った
といわれるこの曲。
「シャボン玉」は早世した子供の象徴でもあるのですが、
そのことをこの夫婦は、というか、
日系人監督ナカノはそのことを知っていたのでしょうか?


後半に続く。 
 

映画「俺たちの星条旗」~American Pastime 「Welcome back, Sir!」

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映画「アメリカン・パスタイム」続きです。

冒頭写真はノリ・モリタ。(セス・サカイ)
収容所内の対決で「じゃすたりーるびっと」とやっていたおやじの
若き日のお姿です。



彼の情報は英語でもあまり見つからなかったのですが、
この写真によると軍籍にあったときには伍長で、
1950年代にNYの部隊にいたこと、ハワイ出身で、この写真は
上官に送られたものであることがわかります。

「ユア・パイナップル・ソルジャー」

という署名が、上官との親密さを彷彿とさせます。

この役名「モリタ」はパット”ノリユキ”・モリタの名前をデディケートしています。
(カラテキッズのあの人ですね)
モリタはこの映画製作の直前に亡くなりました。

彼は2007年5月、つまりこの映画の日本公開の2日前に死去しています。
その遺体は「日本式に」火葬されたということです。


さて、ストーリーに戻りましょう。



日系人社会ではいくつもの野球リーグがありました。
収容所の中ですらチームだらけ、というのがマンガになっていたくらいです。

その理由の片鱗がこの映画では父親カズが息子に向かって
このように語られます。

「わたしは小さい頃アメリカにやってきた。
英語が話せなくて近所の子に笑われたよ。
ある日野球を知った。
そして上達した。誰もが認めるほどにね。
するとその子たちはバカにしなくなった」

 

日系442連隊の訓練の様子は、逐一全米に報道されていました。
日系部隊の設立そのものが世界に、特に日本に向けて
「我々は人種を差別していない」
と弁明する為のものだったのですから、当然かもしれません。

 

「祖国アメリカとその理想を守る為に」
「民主主義と平和を守る為に」

そんな言葉が彼らに対して捧げられ、アナウンサーは

「彼らの健闘を祈りましょう」

と締めくくるのが常でした。



出征前の彼らの様子を、父母たちは収容所の映画館で観ました。



ライルとケイティは人目を忍んで逢い続けていました。

ライルは彼女と外で会う為、奨学金制度を利用して
外部の大学に行くことを計画しました。

 

ところがなぜか父のノムラはいい顔をしません。
ライルの本当の目的を知っているからです。
奨学金そのものにも反対し、

「みんなの噂になってる。白人は駄目だ!」

と厳しく言い渡すのでした。

 

いつもの「ジョーの店」に買い物に来たノムラ親子。
収容所の手作りのギフトをジョーに渡すと、
気のいい彼は

「サンキュー、カズ!」

と嬉しそうに受け取っています。

 

外に出ることを反対され、一人で拗ねていたライルですが、
なんと床屋のオヤジ、エドと相棒に襲われ、負傷します。

床屋のオヤジがどうしてここまで日本人を憎むのかは
説明がされないのでわからないのですが、この
「何の意味もなく」というあたりがリアルです。

差別心や敵愾心に根本的な理由などありはしません。
差別するものは最初に差別心ありきだからです。

ましてやこの時代、日本とは戦争していたのですから、
このような人間はそれこそいくらでもいたのでしょう。

 

442部隊がヨーロッパ戦線に投入されました。
山中に取り残されたテキサス大隊211名を、その4倍、
800人の死傷者を出して救出したという知らせは
すぐに全米に報じられました。

 

収容所には、戦死した442部隊の兵士たちの名が掲げられています。
それを苦渋の面持ちで眺める看守ノリス。

ライルとビリーの勝負を見ていたノリスには、
ビリーがライルの球を打てずにボールだとごまかしたのも
分かっていたのだと思われます。

ノリスはビリーに向かって

「彼らは皆トパーズ出身だ」

といいますが、ビリーは何も答えません。

  

そして、そのトパーズから442部隊に志願したレーンが
ある日、床屋のおっさんの床屋に現れます。

「トパーズに帰る前にさっぱりしたいから切ってくれ」 



無視を決め込んでいたおっさんと、以前一緒にレーンを襲った
仲間の男は、軍服姿にたじろぎながらも、

「日本人はお断りだ」

 

そこに図ったように迎えにやってくるノリス。
ノリスはコーポラル、伍長ですから、負傷して中尉になった
レーンは階級にして11階級上官です。
ビリーの軍曹と比べても10階級、軍隊的には雲の上の人。

ノリス伍長は「ルテナン・ノムラ」と呼びかけ、
サー付けで「お迎えにきました」
憮然とした様子の彼らを尻目に答礼。

「At ease.」(休め)
「Welcome back, Sir.」

絶対これ、おっさんに聞かせるため言っただろノリス伍長(笑)

 

収容所の門をくぐるときも門番は車に最敬礼です。
生きて無事に帰ってきた息子と彼を抱擁する母、
二人をもの思わしげに眺めるノリス伍長。(伏線)

ノムラ中尉は左足甲から先を義足にする負傷をしていました。



床屋のおっさんの告げ口でライルと逢っていることが
父親にばれ、収容所行きを禁じられたばかりでなく
軟禁状態のケイティ。

一人で街を出ることを決意したとライルに言います。



ライルを見つけて近づき、レーンの様子を聞くノリス伍長。

「彼はたいした奴だ(He's a hell of a guy.)」

「シルバースター勲章のこととかじゃないぜ。
俺が彼を迎えにいった日のことだけど、
床屋であったことを誰にも言ってないみたいなんだ」

「床屋って何だ?」

「君にも言ってないのか」

ノリスに教えてもらって、自分をあの日殴った男が、
兄のレーンを辱めた男であり、今度収容所チームが
試合をする相手チームの選手であることをライルは知ります。

 

その頃ビリーの家。
ビリーが、デラウェア州立大学に合格し独り立ちしたいという娘に

「うちを出るな、ジャップとも逢うな」

と言い放ったことからケイティはキレて、

「兄さんを殺したのは収容所にいる人の誰でもないわ。
兄さんを殺したのはパパよ。
自分のようにさせようと嫌がる兄さんに野球をさせ、
兄さんはそれが厭で、パパが嫌いで海軍に入ったの!
そして殺された。
パパが兄さんを殺したの!」



お父さんショックで泣いてます(T_T)


そして収容所の野球チームと、彼の属するマイナーリーグ、
ビーズの親善試合が行われることになりました。

どうなるお父さん?



最終回に続く。




映画「俺たちの星条旗」~American Pastime 「Go for broke!」

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さて、収容所チーム「トパーズ」対地元「ビーズ」の試合の日です。
ビリーにとっても妻のシャーリーにとっても、ヤンキースのスカウトが来る
今日の試合は、負けられないものとなりました。



試合前、モリタは収容所全員、1万人から集めたクォーター、
2500ドルを相手に見せ、これを賭けようと持ちかけます。
当時の2500ドルは新しいキャデラックが買える金額。



「金を見せびらかしてる」

と的外れの反発をする床屋のおっさんとビリー。
アメリカ人たちにモリタは言います。

「金がないならそれだけの価値のあるものを出してもらおう」



というわけでそれが何かは映画のラストのお楽しみ。
試合開始となりましたが、球場のアナウンサーが酷いんですよ。

「皆小さい!いや本当に小さい。
ほとんど一抱えの小人(midget)がそこにいるようです」

に始まって、

「自分的には小人はおもわず蹴っ飛ばしてしまいそうです」
「小人を見ると笑ってしまうから」 

へらへら笑うアメリカ人の観客と、それに対して眉をひそめる収容所席。



試合開始。いきなり因縁の対決です。
自分を殴った床屋のエドと対峙するライル。

初級で頭を狙って相手をカッカさせ、
ここぞと三振に打ち取ります。

こいつを叩きのめす為にライルは今日ここに出てきたのです。



2番バッターはビリー。
ビリーを紹介するとき、このクソアナウンサーは(失礼)、

「こんなに試合に対し誠実な選手を見たことがありません。
ビリーには脱帽です。心から尊敬します」

などと彼の野球に対する真摯さを誉め称えます。(伏線)

ストライクを取られ、思わず「今のが?」とアンパイアにいうと
すかさずモリタが

「公平にやると少し(little bit)違うだろサージャント-サン?
じゃすたりーるびっと、じゃすたりいいいいーるびっと!」

と野次を飛ばします。



点の入らないまま試合は進み、

「次のバッターは・・・・えーと、Take-a-sita?」

まったくこのクソ・・・おっと(笑) 



試合は点が入らないまま進みますが、妻のシャーリーは
ヤンキースのスカウトが来ていないらしいのが気がかりでなりません。
気のいい食料品店のジョーに頼んで探してもらいにいき、
どうやらいるらしいという報告を受け、夫婦で抱き合ったりするのですが・・。

 

均衡を破る1点は、ハワイの独立リーグの猛者だった
バンビーノ・ヒロセのバットが叩き出したホームランでした。



7回が終わったときにイベントをするのは昔からの慣習です。
アメリカではこのとき、

"Take me out to the ball game"

を全員で合唱します。
アナウンサーは日系人たちが試合を見るのは初めてかもしれない、
などと侮ったことを言っていましたが、ここでは
彼らもちゃんとこの歌を歌っているのでした。
彼らは生まれたときからアメリカ人で、アメリカの娯楽(パスタイム)
と共にこの国で育ったのですから、当たり前です。



久しぶりに会えた二人。
ケイティが街を出ることをライルに告げます。

 

するとちょうどそこにやって来るご両親。
というか、こうなることくらいわかりそうなもんだが。



いざとなると女の子の方が度胸がありますな。
落ち着き払って普通にボーイフレンドを紹介する口調で

「ママ、ライルよ」
「初めまして、バレルさん。お会いできて嬉しいです」

ここでびっくりなのがビリーの態度。
怒るでもなく手に持ったプレッツェルの袋にわけもなく指を入れ、

「初めまして、ライル」

という妻の横顔を黙って見ているだけです。



そこにまたまたびっくり、ボーイフレンドの両親も登場。
こんどはライルが普通にガールフレンドを紹介する口調で

「お父さん、お母さん、ケイティだよ」
「こんにちは」

日本人の両親は黙って頭を下げます。

ここでビリーが何の反応もしなかったのは、あの日
娘に対する執着はもうやめると思ったせいか、
あるいは自分の人生のかかったこのあとのイニングに
はっきりいって娘どころではなかったのか・・。

 

試合再開後、床屋のおっさんのエドがヒットエンドランの際
わざとライルを突き飛ばしていくなどという小物臭あふれる
お約束をやってくれたあと、ついに。

1球目を強振したビリーのバットは、ボールを球場の外へ・・・。



完璧なホームランでした。
娘のことなど気にせず打撃に集中した甲斐がありました。

しかし、帰ってきたジョーが悲しいお知らせを。

「スカウトは今日来ていなかったんだ」

 
3対1で迎えた9回の裏。
2アウトからバントでトパーズは走者を出し、
続いてデッドボールで二人目の出塁。



ここで我らがノリス伍長の登場。
なんと、ビーズが賭けに供出した「もの」を知って、
トパーズチームに25¢をわざわざ賭けにきたのでした。

「賭けに参加していいかな」



「カモン、トパーズ、わたしたち賭けているのよ」

そんな声がかかる中、レーンが立ち上がり

「ライル、ゴー・フォー・ブローク!」



観客の「ゴー・フォー・ブローク」の合唱が始まりますが、
アナウンサーには彼らが

「何を言っているのかわかりません」。



ベンチも一緒に「Go for broke!」
ライルのライナーによって走者二人生還し、同点に。

いやー、野球は9回の裏からとはよくいったものです。



何が何でも勝たなければならない床屋のおっさん(伏線)。
ビリーが次のバッター、バンビーノを敬遠しろと投手に忠告するも、

「いーや、絶対にやっつけろ」

などとけしかけます。



敵にすればこんないやなタイプはなさそう。
ピッチャーが振りかぶったとたん、三塁にいたライルがホーム強襲。
キャッチャーのビリーはタッチアウトの直後ボールを落としますが、
審判には気づかれず、アウトがコールされます。




「タッチしてなかったじゃないか!
ドコミテルンダヨバカヤロー(日本語で)!」



狂乱の中、ビリーの冷静な声が。

「ホームにタッチしたか?」
「・・・したよ」
「そうだろうな。ゲームオーバーだ」

なんと彼は審判も見落としていた自分の落球を
自分から申告して試合を終わらせてしまったのでした。
審判も戸惑いつつトパーズの勝ちをコールします。

 

勝利に沸くナイン、そしてスタンドの兄と母。

 

騒ぎの中、ライルはビリーを見つめます。
収容所での対決では顧みられなかったビリーの「野球人としての誠実」が、
今、このとき彼に立ち返ってきたのは何故かを思いながら。

それは、自分が彼の娘の恋人だと知ったことと関係あるでしょうか。


ライルにはヤンキースのスカウトのことなど知るべくもありません。
ですからもし、スカウトが本当に会場に来ていたら
ビリーは今のような場合どうしたか・・、
やはり正直に落球を告白したのか、それともスカウトの目を気にして
黙っていたのか、という疑問は持つこともなく、ただ
彼の行動に対し感じ入っていた、ということになるのですが・・。

皆さんは、これ、どちらだったと思いますか?

わたしがノリス伍長の存在と共になごんだのは、最後まで
職務に当たって公正で、かつ収容者に同情的であったこの収容所長です。
モデルがいるのかどうかはわかりませんが、実際にも
このようなアメリカ人は決して少なくなかったのです。

所長夫妻は収容者の側の席にあって終止トパーズの活躍に声援を送り、
今や「Go for broke!」を立ち上がって唱和しています。



自分の愛する男たちの勝敗を眺める母娘。
彼女らはどちらも父を、夫を誇りに思ったに違いありません。



「Go for broke!」の合唱を聴くライルの目に初めて涙が・・。



そして、賭けに負けたビーズの供出したものとは?



関係者全員が見守る中、行われているレーンのヘアカット。

つまりこの勝負、ノムラ兄弟を辱めた床屋のおっさんに
収容者全体で仕返しをするというのが、賭けの賞品だったのです。

まあ、ビリー・バレルにとって、床屋のおっさんのプライドなんぞ、
自分の野球人としてのプライドとでは
天秤にかけるまでもなかったってことなんだと思います。


普通にこいついやな奴だし・・・って、結論がそれかいっ(笑)




終わり。

海軍兵学校同期会@江田島~赤煉瓦にはドアがない

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海軍兵学校同期会の江田島訪問参加記、続きです。

午前中に教育参考館を見学、お昼ごはんを挟んで午後からは

水交館、高松宮記念館、賜餐館

の見学まで進みました。
賜餐館の前に待たせてあったマイクロバスに乗り込み、もう一度
教育参考館の前で降ろされます。

「ここからはバスが通れないところなので歩いて行きます」

一般コースでも同じところを歩きます。
元生徒が後から

「長い距離歩かされて疲れた」

とぶーたれていたのは、おそらくこの行程のことに違いありません。



まず、赤煉瓦の学校庁舎(校舎とは言わない模様)を
横から回り込むように沿って歩きます。

案内の自衛官は色々と説明しておられたのですが、
不思議なことにどんな説明だったか

全く記憶にありません。

おそらく説明のほとんどがもう既に知っていることばかりで、
そうだったのか、と驚いたりすることがなかったせいでしょう。



わたしも4度目ですので、初回のときのように

「写真で見たあの通りだ!」
「あ、ここも見たことがある」
「ああ、ここで兵学校生徒たちが・・・」

などといちいちジーンと感激しなくなっていました。
初回の文字通り心臓が音を立てんばかりの感動はいずこへ・・。


ところで写真の入り口の右、壁に沿ってまっすぐ伸びているのは、
なんとこれ雨樋なのです。

雨樋と言えば管を壁に沿って取り付けるのが普通ですが、
生徒館の雨樋は壁に埋め込んであるんですね。
出っ張りがなく、管の劣化もしにくいというわけです。

樋を伝う雨水は完璧に地下の水路に流されます。

さらに、近づいて覗き込まなくては分かりませんが、
窓枠の石の桟には、下部裏に細く長い線が一本刻まれています。
この小さな仕掛けのおかげで雨水は壁を伝いません。

いつまでもこのレンガが美しいのは、レンガそのものが
大変高価で上質なものだけあって焼きが固いので、
水が染み込みにくいからですが、それだけではなく、
こんなちょっとした工夫が半永久的な美を保っているのです。



裏庭に面した回廊。
今回、この中にも入って行けるかと期待していたのですが、

「今稼業が行われているので申し訳ありませんが・・・」

ということでした。
週末なら見せてもらえたのかしら。

この回廊はよく映画のシーンに登場してきました。
たとえば先般お話した中村吉右衛門主演の「あゝ海軍」では、
吉右衛門が兵学校の教官として、ここで生徒に檄を飛ばしますし、
「海兵四号生徒」では、渡辺篤史が扮する4号生徒が
卒業して行く1号に頼んで最後の鉄拳修正をしてもらうのもここです。

この写真では分かりませんが、吊り下げられたランプには、
錨の模様が小さく入っています。



右手にグラウンド、左手に生徒館を見ながら歩いて行きます。
ところでこの写真見ていただけますか。



兵学校時代の起床後の発声タイム。
多分同じ場所だと思うのですが、見ていただきたいのは側溝。
当時と全く同じものがありますね。
この、蓋をしていない側溝というのも珍しく、
わたしは最初に来たときから気になっていたのですが、
雨水の水はけを良くする為にあえてこの仕様なのでしょうか。

兵学校の中というのは細部に至るまで特別だったのだと
こんなところでも関心させられます。



ここをマイクロバスが通れなかったのは、この立て札が
あったからですね。
グラウンドから表桟橋、つまり兵学校的には「正門」を臨む。

道路に面した門は「裏門」であり、海側が正門とされています。



グラウンドに錨発見。
おそらく旧軍艦のものだと思われますが、遠くてわからず。



一行は赤煉瓦の

旧海軍兵学校生徒東生徒館

の前に到着しました。
一般ツァーはいわゆる裏門から来ますから、逆向きのコースです。

移転前、兵学校は築地にありましたが、そこにあった生徒館も
同じイギリス人建築家、ジョン・ダイアックが設計しました。
先日お話しした裏手にある「水交館」も同じ建築家の手によるものです。



現在ここは海上自衛隊幹部候補生学校庁舎となっています。

幹部候補生学校は、海上自衛隊の初級幹部自衛官として必要な、
知識と技術を習得する為の教育機関です。
年間役600名の一般幹部候補生、幹部予定者、飛行幹部候補生たちが
教育を受けた後、3等海尉として任官し、巣立って行くのです。



いつ見ても1893年(明治26年)の建築とは思えない美しさですが、
実はこの庁舎、割と最近(工事期間1992~2004年)、大改修が施され、
創建当初の輝きを取り戻したばかりなのだそうです。
そういえば、呉の旧鎮守府庁舎も改修後でしたね。

最初に来たとき、桜に錨のマークが妙に金ぴかだなと思ったんですよ。


ところで、行ったことのある方もない方も、気づいておられました?
生徒館の裏手の写真をもう一度見て下さい。
そしてこの写真の中央入り口を見て下さい。
何か気がつきませんか?

そう、生徒館にはドアがないことに。

正面玄関も廊下の出入り口も、開けっ放しのまま。
風が吹けば風が、雨が降れば雨が吹き込んできます。

これには理由があります。

生徒館の建物は横に長いですが、これは兵学校がこれを

フネ(艦)に見立てているから

なのです。
「どんな気候状態にあっても常に対処できる」つまり、
「海の上でどんな気候にあっても心身が翻弄されない」
対処と心構えを教育機関の段階から身体に叩き込むためです。

なるほど、たとえ入り口から風が吹き込んでも、埃や塵が舞うことなど
床が常日頃からピカピカに磨き上げられていれば、ありえません。



最初に来たときも目を奪われた避雷針のデザイン。
何と繊細で流麗な意匠なのでしょうか。
美は細部に宿ると同じセリフをまたしても繰り返したくなります。

ちなみに屋根は建築当初、和風の瓦葺きだったそうですが、
明治38年に安芸大地震が起こり、破損したのを契機に
天然スレート葺きに全面的に代えられて、今日に至ります。



ここでちょっと案内してくれた士官(2佐)に注目。
バスに乗り込んできて自己紹介したときに皆が拍手すると、

「そんな拍手されてしまうと、バスの中でも解説をしなくては・・」

と照れておられました。
大変声が大きく明るい雰囲気の素敵な方です。



写真に撮ってみると、いつも手を動かしています。
しゃべるときに手を動かす癖のある人っていますよねー。

うちわにシルエットで描かれても誰か分かってしまう議員とかね。

あんなものと自衛官を比べるな!と叱られてしまいそうなので
名前は出しませんが、とにかくこの方も同じ傾向のようです。
彼が手に持っているのは説明用の資料。



ツァー中床においてあったので、急いで写真を撮りましたが、
急ぎすぎてピントぼけぼけになってしまいました(´・ω・`)

こういうときにエスコートをする自衛官というのが
どういう部隊の所属なのかは皆目検討着きませんでしたが。
この自衛官が潜水艦隊の徽章をつけているのだけはわかりました。


さて、ここ江田島の海軍兵学校跡。

今まで何度も来て、さらに今回、一般公開されない建物も
同行の皆様のお陰で特別に見ることができたわけですが、改めて思うのは、
どうして海軍は巨額の国費を投じてここまでの一流建築を求めたかです。


敷地内にある建物は、煉瓦造り、煉瓦鉄骨石造り、鉄筋コンクリート造り。
設計も外国人によるものだったり、海軍内設計であったり、外注したり。
さらにネオバロック風、ギリシャ風、バシリカ風、ロマネスク風など様々な、
というか統一性のない建築様式で、要するに一見統一性無くバラバラです。

ただひとつ言える確かなことは、どれもこれも世界基準で見て、
壮麗で立派で威圧的ですらあるということです。

この理由は、海軍の沽券とか権威主義とか、ましてや派手好き 、
などというものから来たのではなく、明快な一点に集約されます。

ここを巣立って行く海軍士官たちが、たとえ世界の何処に行っても、
どんな荘厳で麗々しい建物を目にし、そこに招じられることがあっても、
決して臆することなく、平静を保つことの出来るように。


海軍士官たるもの華美に堕することなく質実剛健たれ、というのは
兵学校心得にも書いてあることですが、一流の建築物の中に身を置くことで
世界の(特に当時は欧米の)何処に出ても堂々と振る舞うことの出来る
平常心を養うこと、というのも、この一群の建築物を教育機関に配した
海軍の「想い」であったようなのです。


続く。


 

呉の「2014イルミネーションくれ」

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今、訳あってまたもや先日来たばかりの呉に来ております。
3年ほど前、江田島見学をするために初めて呉に来たわけですが、
それから何度もの、しかもそのことごとくが旧海軍・海自関係の
目的による訪問を重ねて今回に至ります。

つまりこのブログをやっていなかったら来ることもなかった街。
しかし今やすっかり心の故郷(海軍的な意味で)である街。

今回の目的についてはまた別の日にお話しすることにして、
今日はここ呉で見た年末イルミネーションの写真をご紹介します。

またまたひょんなことから呉に用事ができたわたし、
いつものようにフットワークも軽く、呉阪急ホテルに投宿するや、
空いた時間を利用して「大和のふるさと」の山手側にある
「歴史の見える丘」と観光的には名付けられている、
なんのことはないただの石碑のある一角に同行者を付き合わせ、
さらに先日行ったばかりの呉海軍墓地に、撮り損ねた写真を撮りに
これも無理やり同行者を付き合わせました

「歴史の見える丘」はそれこそいくつかの碑があるだけの一角で、
5分あれば全部写真を撮っておしまい、なところだったので、
そこから海軍墓地に移動するのに、電話でタクシーを呼びました。

やってきたのは中年の気さくなおばちゃん運転手で、
車中ちょっとした呉の案内もしてくれたのが嬉しかったです。
車に乗ったのがちょうど5時だったのですが、

「イルミネーションが今ついたから」

と、この「2014イルミネーションくれ」の横を通ってくれました。



「イルミネーションって、神戸のルミナリエみたいなのですか」
「あんな立派じゃないですけど・・・」

横を通った時車窓から見えたのは・・

「ああ~!大和だ」
「さすがは呉。イルミネーションに大和とは」

運転手さんは

「零戦もあるんですよ。
でもね、昨日乗せたお客さんが『あれは零戦違う』てね。
なんか別の飛行機やいいましたよ。
あれはなんてゆうてたかな・・・し・・・とかせ・・・とか」

そのときちらっと緑色の飛行機型のイルミネーションが見え、
わたしたちは

「零戦でいいんじゃないですかー」

と適当なことを言っていたのですが、そのあと車がどうみても

空母

に見えるイルミネーションの横を通った時、それまでのいい加減さをかなぐり捨て、

「空母だ!」
「あ、飛行機が飛び立ってる!」
「何?あの空母、何?」
「赤城じゃないと思う」←

と盛り上がり、わたしは、

「じゃわたし、ホテルからこの後歩いて確かめにきます!」

と相手に宣言したのでした。
で、そのあと、カメラを片手に寒空を歩いて撮りに行きましたよ、写真。
冒頭写真がその「しとかせとかの飛行機」なのですが、
これ、イルミネーションで何か分かる方いますか?

そう、紫電改なんですね。
「し」というおばちゃんの記憶はそこだけは確かだったということです。



こんなものをイルミネーションにするのは呉を置いて他にあるまい。

ところでなんで紫電改だったんでしょうか。
紫電改というのはご存知のように川西航空機の製造で、
工場は呉とは関係無い兵庫県西宮市にありましたし、
今は以前ほどではないとはいえ零戦ブームみたいなものですから、
零戦を作るのが王道といえば王道だったと思うのですが。

呉と紫電改の関係、と強いて言うのなら、これを使っていた
源田実司令の343航空隊が、呉の空襲の時に邀撃に出て、
隊長の鴛渕孝大尉と、先日NHKでもドラマ「撃墜 三人のパイロット」
で主人公だった武藤金義少尉が戦死している、ってところでしょうか。

なんか無理があるなー。

二人の竟の地は呉ではなく豊後水道付近だったわけだし。



まあ、大和、赤城ときたらあとは戦闘機を作りたかったんだな。
そう思うことにしました。



で、問題の空母。

これはもしかしたらこのイルミネーションでわかってしまうという
信じられない能力を持った人もいるのかもしれませんが、
正解は

航空母艦赤城

でした。



ちゃんと写真まで載せた説明がなされてます。
呉海軍工廠で建造進水しているので、これはわかる。

呉は海軍を語らずして語れませんからね、
この下には海軍工廠の説明があります。

1889年、呉鎮守府創設と同時に造船部が設置される。
当初造船は神戸にあった造船所に頼っていたが、
徐々に呉での設備を拡充。
1903年に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。
その後は東洋一と言われるまでに設備を充実させた。

工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を
超えるほどで、ドイツのクルップと比肩しうる世界の
二大兵器工場であった。
戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、
日本海軍艦艇建造の中心となった。



車窓から見た発艦する飛行機の図。
イルミネーションなので本当に飛び立っているようです。
いいなあこういうの。



なぞの部分。
これなんのつもりですかね。



砲座も極限までデフォルメされているものの、ちゃんとそれとわかります。
このイルミネーションのポイントは「青色LED」でしょうやっぱり。



艦載機も丁寧に作られています。
さすがは呉。こういうところに手を抜きません。
この製作は呉の商工会議所が中心になっているようですが、
きっと楽しんで企画したんだろうなと思います。



甲板部分横から。
艦載機は飛び立っているのも含め4機います。

ちなみに「赤城」の説明もあり、

1920年12月巡洋戦艦「赤城」としてくれ海軍工廠において起工
1925年4月進水
1927年航空母艦として竣工
1942年6月ミッドウェー海戦にて大破、駆逐艦の雷撃により処分
同9月25日除籍

と淡々と艦歴が記されています。


さて、他にもクリスマスのとか平清盛とかのイルミネーションもありましたが
興味がないので写真も撮らずにホテルに帰ってくると、
「海軍さんのコーヒー」やら「海軍カレー」やらが売っているロビーの、
エレベーターの横に、



なんと当ホテル調理スタッフ作成による戦艦「大和」が!

まさか、まさかとは思うけど製菓担当がケーキを作るノリで?



素材は・・・マジパン(製菓材料)ではないよね?
しかしこれもよくできてるなあ。
さすがは呉、海軍お膝元のホテル。

そういえば昔「海軍士官コスプレ企画」をやっていたのもココでした。



キャプスタンと錨鎖みたいなものも見えます。
菊の御紋は少し手抜きかな。



主砲が・・・主砲が折れている!
そして主砲上部にあったらしい砲座も紛失した模様。



後方の40サンチ砲は無残にも全滅。
誰だ大和の主砲を折ったやつは。



ところでこの写真は、呉大和ミュージアムにある、
産業遺産にも指定された10分の1大和なわけですが、これをよく見てから



こちらをご覧ください。
頑張ってるよね、呉阪急ホテル製菓部スタッフ。

イルミネーションといい、戦艦をお菓子作りのスタッフが作って
ロビーに飾ってあることといい、今さならがら

「他の町ではあり得ない」

と驚いてしまいますが、そういえばタクシーの運転手さんも
イルミネーションの説明をしながら言ってましたっけ。


「呉はほら、海軍さんあっての街だったからね」



 



 

海軍兵学校同期会@江田島~「兵学校の松」と「伊藤長官の桜」

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赤煉瓦の生徒館は、一般ツァーで巡るときには必ず近くに寄って
そのレンガの表面に触れさせ、いかにツルツルしているかを説明し、
レンガの由来(イギリスから運ばれてきたと長年言われてきたが、
実はこの近くに産地があったことが近年分かった)などを説明するのですが、
このツァーはほぼ全員が過去のクラス会で一度くらいは来たことがありますし、
何と言っても在学していた兵学校生徒たちですから、そのような説明は
一切ないまま、建物に近づくこともありませんでした。

普通の説明をしたあとは、エスコート士官はあっさりと次の場所、
大講堂に向かって歩いて行きます。



右手に見えている松は、松とは思えないくらい真っすぐに伸びていますが、
おそらくこれも兵学校時代からの松に違いありません。
チャップリンが映画「ライムライト」で「日本の松のように身体を折り曲げて」
といいながら松のふりをするシーンがありましたが、
(あの映画、チャップリンの映画なのになんだか説教臭かったですね)
その日本の松なのにどうしてまっすぐなのかという理由については

「毎日生徒たちにかけられる号令を聞いて育っているから」

というのが通説になっています。

まあ、あるかもしれませんね。
ハードロックを聴かせると音源を避けて育つ植物が、
モーツァルトを聞かせると寄り添い包み込むように伸びる、
なんていう実験もあることですし。

ただ、海兵団とか飛行隊とか、他の軍施設の松はどうだったのでしょう。
陸軍士官学校にもおそらく松の一本くらいはあったはずですし、
防衛大学の松はやはりまっすぐなのか?とか()ちょっと気になりますね。



大講堂の方へ向かって歩いて行く右手に見える建物は
最初に到着したときにお茶を頂いた庁舎です。
これは第一術科学校の庁舎だということが今分かりました(笑)

この建物は、戦前の江田島の建築物の中では新しく、
昭和16年(1941)に海軍兵学校庁舎として建設されました。



雨のかからないような車寄せ、建物の角には暖炉でもあったのか、
煙突のようなものが見えます。

終戦になってすぐさまここにはアメリカ軍が進駐したわけですが、
彼らが接収したときにはここはまだほぼ新築の状態だったのです。



第一術科学校とは、艦艇に乗り込み、

砲術、水雷、船務、通信、航海、気象・海洋、
掃海・機雷、運用、応急及び潜水艦

などの配置で勤務する自衛官に対して専門教育を施す期間です。



大講堂一部。

アップにして気づいたのですが、この半円のガラス窓は、
太陽の放射線を象ったモチーフで装飾されており、明らかにこれは
旭日軍艦旗のイメージが取り入れられています。
山形の屋根の頂上には金色の飾りがあり、どうもここにも桜に錨が
刻まれているように見えますが、小さくてわかりません。



外壁には国会議事堂と同じく瀬戸内海産の花崗岩が使われています。
鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年(1917年)に兵学校生徒の入校式、
卒業式また精神教育の場として建築されました。

柱のような壁面のモチーフの上部は、先日見学した呉の
呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)とよく似た型式です。



扉上部の格子のモチーフは、たとえば通風口等にも使用されています。

約60年前、彼らは真新しい兵学校の軍服に憧れだった短剣を佩し、
希望に溢れてこの大講堂での入校式にいました。
もしかしたら、彼らにとって人生最後に見る江田島の大講堂。
当人達の気持ちは、とても戦後生まれの他人には想像もつかないものですが、
せめてこのときどのような感慨を持ったのか、聞いてみたくもあります。



青銅の門扉。
扉には取っ手がなく、内側に向かって開くので、ここを開けるときは
どこかを押すことになるわけですが、やはりそういうときには
いくつか見えるように指の跡をつけることを恐れ、右扉の大丸か、
小さな丸を選んで押しているような形跡が見えます。



内部はドーム式。
マイクのない時代、壇上の声が隈無く聴こえるように、
壁素材(内部に和紙が使われていると聞いたような気がする)と、
この天井の形状は工夫されているのだそうです。
当初あまりに音が響きすぎて、少し押さえたという話もあります。

画面右上のバルコニーは窓二つ分で仕切りがあり、
ここにはやんごとなきお方が式典に出席するとき、
たとえばご子息の入校式、卒業式に参列する皇族の方々が
座ることになっていました。


戦後、ここに無理矢理?特例で座った唯一の人物は、
卒業する幹部の父兄として参列した、当時自民党の小沢一郎でした。



舵輪を象ったシャンデリア。
苦労して真下から撮っていたら皆出て行ってしまいました。
それでもちょっと歪んでるし・・。



90年間劣化の見られない大講堂の内部正面。
玉座は菊の紋の装飾があり、壇上部の飾りのモチーフは
「知恵の象徴」といわれたフクロウです。
知恵の女神ミネルバのペットであることからそうなったんですね。

ご存知のように卒業式では成績優秀者5人が恩賜の短剣を受け取り、
それ以下の生徒たちもきっちりと前からハンモックナンバーの順に
並んで座るので、参列者には互いに成績が丸わかり状態です。

かつて何度かここに来て元自衛官の解説を聞きましたが、必ず

「わたしは後ろの方に座っておりましたが」

と言うので今日はどうかなと思っていると、やっぱり
本日の自衛官氏も

「わたしはもう、ずーーーっと後ろの方に」

とお約束のように付け加えたのでなんだかおかしかったです。



1917年から100年近くが経ち、多くの海軍軍人が、
この床を踏みしめてここから巣立って行きました。

歴史の重さを目にする度に感じずにはいられない石の床。



わたしたちが見学を終えて外に出たら、前にマイクロバスが
ちゃんと横付けされていました。
入るときには邪魔にならないように姿を消していたのに。

ここからバスに乗って、いよいよ最後の見学場所、
表桟橋に移動するのです。



さて、というところで少し行程を遡るのですが、
赤煉瓦の庁舎を見学する前、第一術科学校学生館と赤煉瓦の間に
前に来たときにはなかった植樹がされているのに気づきました。

細い苗木を見ると、まだこの木が植えられて間もないようです。

「これは『父子桜』(おやこざくら)といいます」

案内の自衛官が説明しました。
父子は父子でも、小沢一郎親子とは断じて全く決して関係ありません。
ええ関係ありませんともさ。





「父子」とは誰のことかと言うと、戦艦大和に乗艦し、
戦死した旧海軍第二艦隊の伊藤整一司令長官と、やはり特攻隊員として
出撃し、戦死した長男叡(あきら)中尉のことなのです。

杉並の大宮八幡宮の近くにある屋敷からは、今でも二本のソメイヨシノが、
通りに向かって枝を太く幾重にも伸ばしています。
一本は伊藤長官が自ら植えた、樹齢八十年を超える親桜。
もう一本は戦後にその根っこから芽が生えた子供の桜です。


伊藤大将の出身地、福岡県みやま市の住民たちは遺族から枝を譲り受け、
苗木になるまでそれらを1年余り育て、伊藤整一の母校である
旧海軍兵学校の庭に咲かせようと、海上自衛隊第1術科学校に贈りました。


この桜の苗木はいずれも高さが2mのものが7本。
写真は、術科学校に訪れた5人の発起人たちが、
徳丸伸一学校長たちとともに構内に苗木を植樹しているところです。

伊藤整一は1945年4月7日、沖縄への海上特攻の途上で
米軍機の攻撃を受け、大和の乗組員たち約3千人とともに散華しました。


ところで、映画「聯合艦隊」では、兵曹長である父(財津一郎)の乗り組む
大和を航空機で護衛する息子(中井貴一)が

「あなたより少しだけ長生きするのがせめてもの親孝行です」

と去り往く大和に敬礼を送り、その直後特攻で戦死する、
というストーリーがあったのを覚えておられますか。


このモデルが伊藤整一中将親子であることをご存知でしょうか。

映画では機関兵曹長の父に兵学校卒士官の息子でしたが、
この二人はどちらもここ江田島出身で、
長男・叡(あきら)は海軍兵学校(第72期)を卒業しています。

大和特攻当時、叡は戦闘機乗りとして九州の出水基地にいました。
 

天一号作戦に出撃した第2艦隊には15機の援護機が付けられましたが、
宇垣纏中将はその一機に、せめてもの配慮として伊藤中尉機を加え、
叡は第二艦隊長官であった父の最後を零戦から見送っています。


そして大和特攻から3週間後、航空特攻隊の援護を志願して
再び飛び立った伊藤中尉は、伊江島上空で戦死を遂げました。

昭和20年4月20日、享年21歳。
そのとき伊藤中尉は、まるで父の後を追うため、
死に急いでいるような様子であったといわれます。


東京都杉並区の伊藤家は東京大空襲で焼けてしまいましたが、
伊藤の植えた桜の木は残りました。
戦後、まるで息子の生まれ変わりのようにこの根元から生えてきた芽が育ち、
並んで花を咲かせるようになります。

これを伊藤長官の最後を描いた中田整一氏(伊藤長官と同じ名前?)
がその著書「四月七日の桜」で「父子(おやこ)桜」と呼びました。

この父子桜を、彼らの海軍軍人としての魂のふるさとである江田島に
根付かせ、いつかそこで花を咲かせて欲しい、とこの植樹を計画した
発起人の一人、岡部拳(あぐる)さん(81)は

「この地に桜が根付けば2人とも喜ぶはずです」

と感激をあらたにし、また徳丸学校長も

「伊藤整一長官ゆかりの桜を大切に育てていきたい」

とこのとき述べたということです。

兵学校の松は「日本の松」なのに天を目指して真っすぐ育ちます。
兵学校に植えられたこの桜は、杉並の「父子桜」が不思議とそうであるように、
やはり伊藤長官の命日である4月7日に、花を咲かせるでしょうか。




続く。

 


呉「歴史の見える丘」~呉かあらぬ

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呉の観光案内などで必ずと言っていいほど見るのが
「歴史の見える丘」という名前。

海軍の街呉に、海軍の縁(よすが)を求めて度々来ている
わたしとしては、一度くらいここを押さえておこう、と、
例によって来呉してすぐ、タクシーに乗りました。

歴史の見える丘公園は、戦艦大和を造ったドックと、
まさにこの丘から大和の艦尾を隠すために作られた大屋根のある
ジャパン・マリンユナイテッドを見下ろす小高い斜面にあります。

前もって地図で確認すると地名は「大和神社」となっていました。
そこで、呉駅前からタクシーに乗ったとき、行く先を告げるのに

「歴史の見える丘お願いします。大和神社というところ」

というと、運転手は不機嫌に

「神社なんてあらへん!」

地図でそれを確認したばかりのわたしが

「いや、あるんですよ」

というと何をムッとしたのか黙り込んでしまい、
料金を払うときもありがとうはもちろん一言も発しませんでした。
実際にも「神社」なんてないので、おっちゃんは

「ないものはないんじゃい!」

と機嫌を悪くしたんでしょうけど、そこは観光客に
あたったりせず、文句があるなら呉観光協会に言ってくれ。

 



実際に行ってみると何が歴史の見える丘やねん、
と思わず大阪弁で毒づいてしまうくらい、そこは
とってつけたただの碑を並べただけの道路脇の一角で、
もし目の前に広がる港湾がなければ、とても観光客が
ここにわざわざ来るような場所ではありません。

真横は幹線道路で車がブンブン通るし、碑以外は
散策する道も休憩するベンチも、何にもなし。


この写真のような、おそらく空襲でも焼けなかった家などが
周りに立ち並ぶ、住宅街と幹線道路を離すためだけにある、
といった位置関係です。

しかし。

ここを一通り見終わった後もその感想に変わりはなかったのですが、
写真を撮って帰ってきて、このエントリをアップするために
各々の碑のいわれを調べ終わった時、それらが本当に呉の歴史にとって
重要であったことどもを記念するものであり、歴史の出来事を
端的に集めたものであったことがわかりました。
つまり、呉の歴史を知りたければ、この丘に来て碑を見れば
一目瞭然、というわけです。

あなどっていてすみませんでしたm(_ _)m


それにしてもこの写真のお宅はすごいですね。
これだけ古い家ですが、ちゃんと現役で住まわれているようです。
まさに歴史の見える丘に建つ、歴史を見てきた家? 




まずは海軍とは関係のないこちらから。

「宮原地区風水害犠牲者 慰霊碑」

これは、枕崎台風の被害者の鎮魂のために建造されたのですが、
枕崎台風というのは、1945(昭和20)年9月17日、
つまり終戦からわずか1ヶ月後にここを襲っていたことがわかりました。

ここ呉も1、156名と、多くの犠牲者が出ましたが、
終戦直後で、しかも原子爆弾の爪痕も生々しい頃、
なんの防災体制もなく、それまでなら出動していた軍も解体されていたため、
広島県全体で、死者行方不明者合わせて2、000人が出るという、
稀に見る大惨事となったのでした。

この時に陸軍病院が全壊し、医療従事者、治療中の被爆者、
そして京都帝大から来ていた調査団の、合わせて100名が死亡。

京都帝国大学は、原爆が投下された直後から理系学部の教官が
現地に赴き、被爆状況の調査や被爆者の治療に当たっていました。

敗戦後の9月中旬になって京大はこの調査を全学的・組織的に進めるため
「原爆災害総合研究調査班」
を設置し、医学部から教授を派遣した直後でした。

京大関係者が現地に到着してすぐ、最大瞬間風速史上6番目という
強い台風が現地を襲い、調査団は教授をはじめ11名が殉難したのです。


しかし、この台風のさい、原爆の後現地にあった
放射性物質が暴風雨によって吹き飛ばされ、このおかげで
広島がすぐに住めるようになったという説もあるようです。



ここにもある正岡子規の句碑。
明治28年3月9日、子規は友人の古嶋一雄が、
軍艦「松島」で日清戦争の従軍記者に自分より一足早く
行くのを見送った際、呉に滞在してこの句を含む3句を読んでいます。

あと一つは兵学校同期会の帰りのバスが「アレイからすこじま」
を通った時に目撃したのでまたそのうち触れるとして、
これは
  呉港

呉かあらぬ 
    春の裾山
      灯を灯す
               子規

出征する友を見送りに広島市・宇品港から小舟で訪れた子規は、
沖合から見た裾山の灯を

「呉かあらぬ」

と詠みました。
「かあらぬ」は変わらぬではなく、「呉か あらぬ」でしょう。
これは呉だろうか、という驚きが表れています。

裾山の灯、すなわちそれは軍港の、海軍工廠の光です、
まだこのころは呉工廠はできておらず、鎮守府造船部と言いました。

当時、一般家庭にはまだ電気は普及しておらず、
夕暮れの裾山が灯した灯は、造船部のそれであったのです。



ところで、このことを調べていて例によってあの朝日新聞が、
突っ込まずにはいられない呉の歴史案内をしているのを見つけたので
ちょっとご紹介しましょう。 


のどかな商港だった呉浦は1889(明治22)年の呉鎮守府開庁で
軍港に様変わりした。(略)

呉海軍工廠が設立され、第2次大戦中の工員はピーク時で約10万人。
呉市の人口は40万人を超えた。
戦時中、軍港をのぞむ高台は立ち入りが規制された。
度重なる空襲警報や灯火管制で、市民は暗がりのなかで息をひそめた。

呉市は三方を山に囲まれている。
「九嶺(きゅう・れい)」から「くれ」に転じた、という説もある。
もっとも高い灰ケ峰は標高737メートル。
頂上からの夜景はいま中四国で屈指といわれる。

 
どうですか。
この記事、単なる呉の観光案内なんですよ?
観光案内における郷土史にすら、
軍批判の色合いを混ぜこまずにいられないのが朝日風?

「のどかな商港」が
「軍港になって様変わりしたおかげで市民がひどい目にあいました」?
皆何気なしに読み飛ばしつつ、ネガティブイメージを刷り込まれる、と。 

まあ確かに事実をそこだけ取り上げればその通りです。
これも朝日に言わせれば

「広義の軍による市民への暴挙」

ということになるのでしょう。
ただ、被害にあった人からだけの視点で記事を書くのは
全く公正中立であるはずの社会の木鐸としてどうよ、って話です。


世界でも二大兵器工場と言われた呉工廠は(もう一つはクルップ)
呉の住民のほとんどが従業員だった、というくらいの規模でしたし、
「立ち入りを禁止され」たり「空襲で息を潜め」たりするだけの
朝日の言うところの「一般市民」とやらより、下手すると海軍と工廠、
そして海軍出入りの関係者の方が多かったかも?って街ですから。

第一海軍の街であることを、呉の人々は代々誇りにしていましたし、
今は今で、最大の観光資源は「大和ミュージアム」。
海自基地も造船会社も相変わらず多いここは、今でも昔のまま
「海軍の街」。

街を行けばあちこちに見える看板には

「海軍さんの珈琲」「海軍さんのお好み焼き」(笑)「海軍さんのカレー」


朝日の記者ともなると、こういうのが習い性になっているのかもしれないけど
とりあえず沖縄みたいに「軍」vs,「市民」の構図を作り上げるような
書き方を、こんなところでわざわざせんでもいいのではない?

と、こんなことを書くと

「考えすぎですよ」

というご意見をいただきそうですが、朝日記者というのはもはや
「確信犯」(本当の意味での)なので、ことに「軍」とつく記事は
このようにまとめるという風にDNAレベルで洗脳されている、
ということなのだとわたしは思いますね。

しかもこの記事、「灰ケ峰からの夜景」 というタイトルで、
つまり灰ケ峰の「観光案内」なんですよ観光案内。 
こういう細かいところでさりげなく印象操作をせずにはいられない、 これこそが朝日の真骨頂であるとわたしはつくづく感心しました。(嫌味)



同行者と「誰これ?」「聞いたことないね」
「スポーツ協会ということはそういう功労者?」

などといいつつスルーして終わってしまったこの碑。

「澤原為綱翁之像」

と書いてあったことも現地ではあまり気に留めませんでした。
つまり「像」なのにその像がない、単なる台座なのです。

どこやらの国では今後受賞する予定のノーベル賞受賞者の像を
設置するための空の台座だけがずらずらと校庭に並んでいる、
というホラーな光景もあるようですが、これは予定ではなく

「かつて像があった台座」

です。
まあ普通はそうですね。
台座の横には像の主である澤原為綱の功績が書いてありました。

明治~大正時代の公共事業家で、貴族議員になってからは
呉の上水道敷設、そして呉海軍工廠の建設に尽力した、という
まさに呉の歴史にとっては重要な人物です。

で、なぜ肝心の像がないのかという理由。

澤原翁が死去してから10年後、二河公園の一隅に
この人物の銅像が建てられていたのですが、その後
大東亜戦争中の金属供出によって像は撤去されて、
台座だけが残されていたものを保存したのだそうです。



もちろん澤原さんの功績は呉にとって重要なものですが、
それより何より、この空の台座は、郷土の偉人であった人物の
銅像すら溶かして使わなければならなかったという、
戦時下にあった呉の生々しい歴史の証拠そのものとしてここにあるのです。


この「歴史の見える丘」、あなどれん。



というわけで、後半の「海軍編」に続きます。


 

地方総監部訪問記~自衛官の結婚と「約束の海」

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もうすっかり昔のことになってしまいましたが、
わたしが地球防衛協会の顧問に就任して、地方総監部に表敬訪問を行い、
地方総監とお会いするところから続きです。

一体何ヶ月前の話をしているのか、って?
実際にあったことをここで報告する場合、直後だと色々と
双方に人物特定されてしまう危険性を少し考慮して、
わたしはあえて日にちをぼかすということをよくやるのですが、
これもその一環とご理解くだされば幸いです。



さて、少し前に庁舎に案内され、二佐や幕僚長と話をしていたところ、
明るい第一声とともに部屋に入って来られたのは
9月付けで新地方総監に着任した海将でした。

「初めまして、本日はわざわざよくお越し下さいました」


ところでわたしは三月の「ふゆづき」引渡式の祝賀パーティで、
前総監であったM海将ににご挨拶させていただいたのですが、
そのM海将に、この日あらためて総監部でお会いするものだと
前日まで勘違いしていたのです。

今回地球防衛協会(仮称)は、新総監に、やはり就任したばかりのわたしを
紹介するためにここに派遣してくれた、という形だったのですが、
本人があまりその構図を理解していなかったということですorz




さて、海将が正面に座り、会談開始。
ところで、このときの配置を図で示すと、

◎ 海曹長              
                   
◎ 幕僚長              
           ◎ エリス中尉    
◎ 海将               
           ◎ TO              
◎ 管理部長1佐

◎ 人事部長2佐


前にずらりと自衛官が並んだだけではありません。
ふと気づくと管理部長の1佐は、会談の内容を
なにやら専門のノートに逐一筆記しているではありませんか。


これはうかつなことは言えない。
ここでしゃべった一言隻句が、すべて防衛省の
記録として未来永劫残るのだわ。(たぶん違う)

とにかく、思ったよりはるかにおおごとになっているのに
ビビりまくるエリス中尉。



しかしながら、海将がそのお人柄らしい、
明るく磊落な調子で話し始めると、すっかりそのことは
頭から抜け落ちて、いつもの通りしゃべっていました。



海将との会話は意外なことに?自衛隊の「婚活問題」から
始まりました。

実はその伏線として、海将がお見えになるまで、2佐や海曹長との間に
自衛官には出会いの場がない、という話題が交わされていたことからです。


ちょうどその日、わたしは外国籍の妻を持つ自衛官が800人いて、
その7割にあたる600人が中国人であるというニュースを目にし、
あらためて衝撃を受けていたのですが、その記事には理由として、

「自衛隊の基地はたいてい田舎か郊外にあり、
女性自衛官が増えたといっても、まだまだ男ばかり。
日常のなかに男女の出会いなんてほとんどない。
それで、斡旋業者を介して外国人女性と結婚したり、
盛り場の飲み屋で知り合った外国人女性と結婚する
ケースが増えているのです」(陸上自衛隊関係者)

という声を紹介していました。

以前コメント欄で「飲み屋のお姉さんと結婚する自衛官は多い」
という現状を雷蔵さんから伺ったことがありますが、
その相手が日本人ですらないという例が急増しているらしいですね。

特に海上自衛官の場合、長期の航海などで日本を離れる機会も多く、
さらには2年ごとに転勤という勤務状況が、
結婚相手を探すのに障害となっているのが実情です。

ちなみに現在の日本に於ける一般の外国籍女性との結婚率と、
自衛隊内での外国籍妻を持つ隊員の割合はほとんど一緒です。
いつも言う通り、自衛隊もまた社会の縮図ということなのだと思いますが、
国防という職業の性質上、それは決して好ましいこととは言えません。

実際に、自衛官の中国人妻が絡んだ機密漏洩事件が起こっている以上、
自衛隊上層部としても、この問題を非常に重く見ているらしいのが、
2佐の話し振りからも、海将がその話題から始めたことからも窺えました。

まあ、単につかみにしやすい話題だったからという説もありますが。



しかし、自衛隊側としても何も対策をしていないというわけではなく、
このときに同席しておられた海曹長は、定期的に婚活パーティを開いて
自衛官と一般女性の出会いの機会を設けているとのことですし、
基地・駐屯地主宰のそういった催しも行われているのだそうです。


ところで、海将は最近婚活市場で自衛官が注目されている、
という傾向をご存知なのでしょうか。


「テレビで取り上げられたりして、最近はずいぶん変わってきましたが、
わたしたちの頃は、世間はバブル景気でね。
ああいう時代に自衛官なんて職業全く相手にされなかったですよ」


大災害での活動によって世間がその存在を認知したこと、
国際情勢がいやでも国防に注目せずにはいられない事態であること、
そしてバブル時とは対極の経済不安。
そして何と言っても大災害において国民に広がりつつある
物質重視社会への倦厭感。

こういった事象が、公務員である自衛官という職を、あらゆる面
(婚活含む)でクローズアップしているというのが昨今の構図です。

つまり、社会が不安定になるときには世間は自衛隊に注目する、
という吉田茂の言葉そのままの現象が起こっているのです。



話は少し変わります。

前任のM海将もまた潜水艦隊司令でしたが、
新総監も潜水艦出身です。
潜水艦、といえばわたしにはどうしても山崎豊子の小説

「約束の海」

を思い浮かべます。
海将のご感想などお聞きすべく、さりげなく?話題に乗せてみました。

「ああ、あれはね」

打てば響くような返事。

「読んだとたん思いました。
俺が疑われる、って(笑)」

山崎氏は、晩年の体の不自由な中、取材リストを編集スタッフに依頼し、
その様子を撮影させたDVDは200枚に上ったということですが、
小説の主眼が「なだしお」と釣り船の衝突事件であったということで、
海上自衛隊からはかなりの人数がその取材に協力しています。

ちなみに取材協力者は「海上自衛隊」として

沖縄基地隊、海上幕僚監部広報室、幹部学校、
幹部候補生学校、呉地方総監部、潜水艦おやしお、
潜水艦教育訓練隊、潜水艦隊、第1術科学校、
第5航空群、第46掃海隊、米太平洋艦隊司令部連絡官

という各部隊の名が本書巻末に記載されています。




海将はこのときに取材を受けていないということですが、
小説を読んだときにまず、その内容があまりにリアルで、現場の状況と
当時の人物像などについても新に迫った部分が散見されたため、

「これほどのことを知っているとなると真っ先に
その直前まで実際に乗っていた人間が疑われるでしょう」

海将がまさに疑われるべき経緯の持ち主だったということです。

別の自衛官から聞いた話ですが、あの小説発表後、
事故に近かった自衛官の間では、ちょっとした「犯人探し」
の雰囲気があったそうで、なんとならば、
小説に書かれた「くにしお」艦長の性格などや現場の様子が
まさに当事者しか知り得ぬことであったりしたからなのだそうです。

しばらく疑心暗鬼の微妙な空気が現場に立ち込めだしたため、
偉い人()が、うちには取材に応じた人間はいない、
と発表する隊も現れるなど、とにかくあの小説は、
自衛隊にその当時、ちょっとした波紋を呼んだようです。

ここでもう一度取材協力者のリストを見ると、
モデルになった「なだしお」の名だけがないのに気づきます。



ここでその「なだしお」事件について聞いてみました。

「あの事件でのマスコミ報道はどのように思われましたか」
「憤りましたね。なんて報道をするのかと」


あの頃、溺れる人を艦の上に立って平然と見殺しにしているかに
「たまたま」見える写真が大きく新聞を飾りました。

その様子がまさに糾弾の意図を持ってテレビでも新聞でも繰り返され、
世間はまんまとその情報操作に乗らされて、それこそ一億が総出で
「非人間的な自衛隊」をバッシングしたのです。


ところが、何の因果か、海将はその後、潜水隊司令を経て、
海幕総務部総務課広報室長となり、自衛隊の広報として
マスコミと直に接触する部門を経験することになります。

「なだしお」のときに怒り心頭というくらいであったマスコミへの印象も、
そのときには、


「実際に付き合うとね・・・特に個人的には、
気のいい人物ばかりなんですよね」

と変わっていったそうです。
海将、わかります。
わたしもNHK職員の個人的な知り合いが二人(以下略)


海将の話はまだまだ続きました。
わたしは最初に海将が、

「わたしたちの(婚活)時代は・・」

とおっしゃったことから、主人公が海将と同年代である

「約束の海」の記述をいくつか思いめぐらせました。

潜水艦乗りの身辺調査は,厳しい。
機密保持にシビアな分、徹底的に調べられる。
本人や親兄弟はもとより、親密に交際している友人にも
調査は及び、外国人と抜き差しならない関係にある場合などは、
潜水艦乗りから外される。


また、主人公の花巻が、フルーティストの頼子に職業を聞かれたとき、
過去、自衛官だといったことで何度か女性に拒否されたことを
思い出し、一瞬忸怩たる思いになるというシーンなどは、


自衛官と口にしただけで、身を引かれてしまった経験が
一度ならずあった。
一年近く付き合った女性の家に、挨拶に訪れた際、
母親からは冷たい視線を浴び、都庁に勤務するという父親からは
「君らがまた戦争をおっぱじめたい連中の予備軍か!
懲りない税金泥棒!」と面罵されたこともある。
そう言う思いは、もうしたくない。



いずれにしても海将は現在の自衛官が持て囃されている風潮を
「昔からは考えられない」と語りました。


しかし、わたしなど思うのですが、
メディアで取り上げられるようになればなるほど、
自衛官という「記号」に過剰な夢を見たり期待をする女性が増え、
それゆえ勝手に失望したりトラブルの元となったりしそうです。


それでは自衛官が婚活相手として何をおいても人気の職業であるかというと、
まだまだ世間全般で考えると、そこまでは言えないというのがが現実ですし、
そもそもこういう時期、

「自衛官と結婚したい。何が何でも!!」

と意気込む女性には、当の自衛官たちも嬉しいどころか、
身構えたり、少し引いてしまうのではないかという気がします。


出会いがない自衛官が、近づいて来る外国人と何となく結婚してしまう。

これは依然として解決すべき深刻な問題ではありますが、
反面、婚活市場が「氷河期」であるときほど、自衛官の身分ではなく、
その人個人を見て結婚してくれる相手と巡り会うことができるとも言えます。

だいたい自衛官を夫にしている女性は、

「気がついたら夫は自衛官だった」

という人が大多数なのではないでしょうか。
それこそ他の職業の夫を持つ妻とほとんど変わりない割合で。

メディアの過剰な持ち上げは時として本末転倒の婚活を生み、
自衛官の嫁不足そのものを解決することにならないのでは?
・・とわたしは実のところ少しばかり憂慮しないでもありません。


ただ、自衛官たちは世間と隔絶している分、自分たちが
どんな形でも「評価されていて」、さらに「応援してくれる人がいる」
ということを知るのは無条件で嬉しいというのも事実です。

そのあたりの需要と供給のバランスが自然に落ち着くときには、
自衛官の結婚問題はかなりうまくいっているといえるのでしょう。




呉「歴史の見える丘」~噫戦艦大和之塔

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戦艦「大和」を建造したドックのある港湾を一望するとはいえ、
ただの碑をここに全部集めただけ、と思われた呉の
「歴史の見える丘」ですが、一つ一つの碑のいわれについて知ることで
すなわち呉の歴史がわかる「お好きな方にはたまらない」場所でした。

わたしとて、それを知ったのは写真をこうやってじっくりと眺め、
それらについて調べてから後のことです。

「観光ガイドに載っているから」という理由で訪れても、
で、それが何か?で終わるのが大半の反応で、
わざわざ後から碑の由来について調べるなどという人は
それこそ一部の「お好きな方」 に限られましょう。

しかし、何の関心も持たず通り過ぎて行くばかりの人生よりは、
自分の好きなことだからこ小さなこともこだわり続ける方が、
今まで知らなかったことを知る喜びがある分、少しお得な気がします。
 

さて、そんな「歴史の見える丘」、まず目に付いたのは
船渠の内側にある石段でした。 




横浜のみなとみらいには、「ドックヤードガーデン」といって、
元からあった横浜船渠のドライドックが、市民の憩いの場として、
また同時に国の重要文化財指定を受けるという形で残されています。

横浜は船渠として港が使われなくなったためですが、
この石段があった船渠は、海軍工廠創設の最初からこの目の前にあって、
1971年まで、ちょうど60年もの間休みなく使用されてきました。

71年に最新鋭のドックに作り変えられるまで、この船渠の石は
ここで造られた艦艇をその完成まで揺籃する守りの壁だったのです。



海軍工廠時代の呉。
この船渠の大きさは270×35×11mで、当時東洋一でした。
止水用の粘土や、底に敷き詰める砂利や砂などの船渠の材料も厳選され、
この石材は国会議事堂の壁にも使われている倉橋島産が選ばれました。



右から左に「造船船渠」と書いてあります。



その横には、いかにも幾つかの起工礎石を取ってつけたような、
というか本当に取ってつけたんですが、オブジェのような
記念碑があります。

呉市ではこれを「記念塔」と称している模様。
取ってつけただけではどうにも格好がつかないので?
上に生やしたポールに彫塑家に依頼した鳩を付けてみました。

一番下は読みにくいですが、「第九工場」とあります。

下部に見えている縁石は、境川にかかっていた二重橋のものを
利用しているそうです。



このレンガは、開庁当時の呉鎮守府(現在地方総監部)のものを
そのまま使いました。
初代呉鎮守府庁舎は芸予地震(1905年)に全壊してしまい、
そのあとに竣工したものです。



明治の「明」、まるで象形文字ですね。
デザインでこうなったのか、一文字だけ見せられても
「工」以外全く読めません。(わたしは)
上が「明治?五年起工」下が「明治?六年竣工」
なのですが、?の部分がわかりません。
一、二、三、四のどれかなのだから、三、かな?



この記念塔の残念なところは、こうした起工、竣工が
一体なんのものであったのか全く資料が残されていないことです。

一番上の「明治22年起工」は呉鎮守府庁舎かなと思うわけですが。



ここでちょっと異質の碑登場。

渡辺直己(なおき)という明治の歌人の句碑ですが、


ほそぼそと虧けたる月に対ひつつ戦は竟に寂しきものか

渡辺直己(1908~1939)という名前を検索すると
「反戦歌人」というタイトルが付けられていることがわかります。
ネットで集めてきた渡辺の支那戦線での句を列記してみました。
 

照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に

頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ 

退きし敵は谷間に集りて死屍埋め居りと斥候の言ふ 

担架決死隊幾組か出しが尽く傷きて暗し屋根形山に 

血に染みて我を拝みし紅槍匪の生々しき記憶が四五日ありき 

我に逼りし紅槍匪を咄嗟に殪せしは歩兵一等兵伝法谷金策君なり 

剰すなき掠奪暴行の跡ならむ薬莢が落ち血に染みし上衣がなげすてられたり 

狙撃せし八百の直射弾が命中して屋上の敵がころがり落ちぬ 

巧みなる日本語の反戦ポスターが堆くありき阜寧の城に 

帝大出の補充兵が我に捧銃して歩哨に出て行きたり 

十二月十二日午前一時にこの陣を奪取せしは水戸工兵隊なありき 

妙齢の女が居り新しき自転車がありき匪賊のむらに 

射抜かれし運転手をのせて夜の道を帰りつつ思う共匪の強さを 

炕の中にひそみて最後まで抵抗せしは色白き青年とその親なりき 

壕の中に座らせしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま 

涙拭いて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき 

負傷せる匪賊の足が吾が入りし隣の部屋の入口に見えき 

吾が砲に尻打ち抜かれ魚の如倒れて居りし若き匪賊が 


うーん・・・・。

皆さん、これお読みになってどう思われます?
渡辺直己という歌人は「反戦歌人」なんでしょうか。
戦場のリアリズムをまるでスケッチのように五七五に閉じ込め、
ただその目は冷徹にそこにあったことを写しているだけで、
別に「反戦」でもなんでもないという気がするんですが。

「戦争歌人」という括り方もあり、こちらの方が
公平で的を射ているとわたしなど思います。

戦争の悲惨を冷徹に描写すると戦後その手の人たちが喜んで
「反戦歌人だ」と持ち上げる(しかし実は違う)という構図は
与謝野晶子だけではなかったようで・・。

渡辺は歩兵少尉として中国戦線(天津)にあったとき、
わずか31歳で、

「洪水により戦死した」(wiki)

ということですが、洪水で・・・・戦死?
天変地異による災害死も、戦線にあったからってことでしょうか。

何しろ、本人は死んでしまったにもかかわらず、これらの句は
上官の手によって破棄されることもなく知人の手に渡り、
戦時中にもかかわらず彼らの手で出版もされているわけです。

「検閲の目をかいくぐり」

とそれらを記すある文章にこうありましたが、検閲によって
これらがアウトになるなら、そもそも彼の句集は
日本に帰ってくることすらなかったでしょう。

わたしが戦時中の軍製作による国威高揚映画などを見て
その感想で何度もいうように、我が国において当時「戦争の悲惨さ」を
そのまま述べることは、決して反戦的とは取られていなかったのです。

何と言っても当時から渡辺は反戦歌人とは言われていませんでしたし。



さて、というわけでいよいよこれが「大和神社」?
「噫戦艦大和之塔」です。

冒頭の写真は裏側で、こちらが表となります。
塔はそのまま「大和」の環境を象っており、基部は
これも大和の断面の形をしています。



塔の正面が「大和」の正面を模しているので、
もしやと思ったらやっぱり裏側にこれがあったのは
スクリューがあるべきところだからというわけです。

しかしペンキは剥げ、銅の部分は緑青が浮いて、
建立以来なんの手入れもされていないようです。



「戦艦大和主砲徹甲弾」。

その反対側にまるで雪洞のように対で据えてあるのが・・、



「戦艦長門主砲徹甲弾」。



二つの徹甲弾を比較できる画像。
大和がご存知のように直径46センチ、長門のは41センチ。
長さは大和が1m98、長門が1m75。



仮称「第1号艦」として起工が始まる前、
艦型が決定される昭和11年7月20日から、
天一号作戦で鹿児島沖に戦没する昭和20年4月7日まで、
「大和」の短い歴史が刻まれています。

最後の欄には

「燃料片道決死隊矢矧以下駆逐艦8隻を率い」

とあります。
産経新聞に大和の測距義兵だった人物のインタビューがありましたが、
この人物の証言によると、夜間暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、
乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油していたのだそうです。

「何をしているんだ」

と驚いて聞くと、駆逐艦の乗員は

「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われた」

と答えたそうで、つまりこれは沖縄特攻に向け、
艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということのようです。

 

当時、海軍の駆逐艦など護衛艦には、燃料不足のため
粗悪な菜種の油などが代替燃料として積まれていたといいますが、
それではとても戦闘で能力を発揮することはできません。 

 

大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、
最期の特攻に臨む準備をしていたのだということです。



「大和」新造当時の主要要目表。
いまなら諸元 、とかスペックというところです。



「併しながら、明治維新以来80年間、
日本海軍が研究を積み重ねてきた製鋼、機械、電気等の
重工業並びに各種産業ことに 造船技術は戦後いち早く
その実力を表し、いまや わが国は造船王国として
世界に雄飛するに至っている。
これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」
といわれる所以である。

とあります。
昭和44年当時、日本の造船は「王国」の名をほしいままにし、
今では諸事情によりそもそも「造船王国」
という言葉が死語になっている感がありますが・・。

さてそこで発起人の名前を見ていただきたいのですが、
旧呉海軍工廠造船部長としてあの庭田尚三の名がありますね。

ここで読者の「お節介船屋さん」のコメントから、
庭田尚三造船部長の「スペック」をいただいてきました。


大正4年東京帝國大学造船学科卒海軍造船中技士、
昭和14年11月から17年9月まで呉海軍工廠造船部長、
11月に技術中将、
12月予備役、
18年1月三井造船常務取締役玉野造船所技術副長、
20年10月依願退職

されています。
戦後も岡山に在住され、息子さんが呉の千福に居られた関係から
時々呉に行かれ、海上自衛隊の技術幹部に
講習も実施されていたと思います。

という方ですね。
昭和44年当時、このようなことで呉と相変わらず関係が深く、
そのため発起人に名前を連ねることにもなったのでしょう。
っていうか、当時の造船部長で「大和」進水の時、
進水台まで設計しているのですから、当然ですね。



そこでふと気付いたのですが、昭和44年当時の記述にして、

呉商工会議所会頭 海軍少佐
呉桜星会 会長 海軍少佐
水交会 呉市部長 海軍少佐

と、旧軍の階級とともに氏名が記されているのです。
もちろん庭田尚三造船部長も

「海軍技術中将」

と最終位がタイトルにつけられています。 

面白いのはさりげなく?「海将」が旧軍階級に混じっていて、
しかも名前が「50音順」なので序列が無茶苦茶なことです。

ちなみにこの中で一番「上位」なのは海将の筈なんですけどね。
さらに旧軍の序列なら

少将→少佐→技術中将

となる(はず)です。

ただ、この旧軍階級記載も昭和44年当時だからできたわけで、
もしこの碑の建立がもう少し後なら、
そういったことに五月蝿い集団に「配慮して」、
まず旧軍の階級など記されることはなかったに違いありません。










 

海軍兵学校同期会@江田島~旧海軍兵学校の七不思議

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海軍兵学校某期同期会、最後に江田島で行われた「解散式」に
参加し、元海軍兵学校生徒たちと共に、海上自衛隊の計らいによる
「特別見学」を果たしたエリス中尉です。

何回訪れても一般コースでは決して見せてもらえない建物、
入れない庁舎の中、そして近づきたくとも叶わない場所・・。

特に一般人には子息が幹部候補生学校を卒業して遠洋航海に出るのを
見送るときぐらいしか近づくことの出来ない(ですよね?)
表桟橋の一帯が見学できると知ったとき、わたしはどれだけ興奮したか。

大講堂の見学が終わり、講堂前に横付けされていたバスに乗り込むと
グラウンドに沿った道を回って表桟橋に送り届けてくれました。



A地点が大講堂、バスの進行は「→」で示しました。
バスの窓から見逃すまいとカメラを構えて観ていると、
「B」地点で先ほど遠くから撮った錨の横を通り過ぎました。 

モードを間違えてこんな写真しか撮れませんでしたが、これは

 護衛艦「いそなみ」(昭和33年竣工、昭和62年除籍)

の首錨だったようです。

「いそなみ」は「あやなみ」型護衛艦の2番艦として
昭和30年度計画で新三菱神戸造船所で建造され、横須賀地方隊に所属、
呉に転籍となってからは練習艦としてTV−3502の艦番号を負っていました。

退役した艦の主錨をこうやって江田島に持って来るというのは
時々あることのようで、今回検索の段階で、道路に面した裏門を
入ったところに、2011年に除籍になった

護衛艦「ひえい」DDH-142

の錨が1年くらい前に設置されていたことを知りました。
前回お話しした「父子桜」もそうですが、 江田島も歴史を重ね、
時を重ねつつ少しずついろんな海自の名残が増えて行くのです。 




さらに、グラウンド「C」地点にさしかかったときに
船舶のマストがあるのに気がつきました。
防衛省のHPにはこういう細かい展示まで紹介されていないため、
何のフネのものか知るのは難しいと思われましたが、
意外なサイトでその正体がわかってしまいました。

それを説明する前に結論から言うと、これは

防護巡洋艦「明石」 (1899~1930)

のマストです。
「明石」は日本海大戦にも参加したことのある艦で、 最後は
急降下爆撃の(ってことは艦爆ですね)実艦標的となって沈没しました。
 
廃艦するときに艦というものは可能なものはリサイクルするのですが、
そのときについでに取り外したマストを破棄せずに展示しているのです。
 



廃墟マニア(気味)のわたしが横を通り過ぎるときに
思わずごくりとつばを飲み込んだ物件。

陸奥の砲塔の並びにあります。
今使われていないのは建物の周りを立ち入り禁止にしていて
中に全く気配がないことからそのように判断したのですが。

これ・・・、凄いですね。
建築様式から見てまず間違いなく戦前のものだと思うのですが、
中は今どうなっているのでしょうか。
このどんよりとした古い建物、夜にはまず近づきたくないですね。
しかもこの写真を仔細に眺めると、



階段の吹き抜けらしい部分に不思議な光が見えてるし・・・。
火災警報機とか防犯ランプかな。
しかしそもそも電気がまだ通じてるんでしょうかこの建物。

というのは実は単なる伏線としてのお話。(だったのよ)

先ほどの「明石」のマストの話に戻りますが、何処を検索しても
なかなか出て来なかったこのマストの正体、

「第1術科学校・幹部候補生学校(海軍兵学校跡地)の七不思議」

というタイトルの記事に引っかかってきたんですね。
こういう歴史的な場所にはありがちなオカルティックな噂で、

 グラウンド南方、生徒隊隊舎前の「明石」のマスト上部の見張り台で
手旗を振っている人影を見ると、半年以内に命を落とす。 

とか、

夜になると骸骨のような白い人間が手旗を振っている

とかいう話でした。
細部が違うのは口伝えられているうちに変質したのかもしれませんが、
いずれにしても「手旗」というキーワードは共通です。

戦没したわけではないので因縁があるのはおかしい、
という説もありますが、「明石」は日露戦争同じ年の1904年呉、
旅順港で触雷し大破した艦歴を持ちます。

ところでこの、

「日本海海戦に参加して無事だったのに旅順近郊で沈没」 

というパターンに何か凄くデジャブを感じると思ったら、

「高砂の松、吉野の桜」

でお話しした巡洋艦「高砂」「吉野」の運命と酷似しているんですね。
ことに「高砂」とは同じ巡洋艦で同じ海戦に参加してその年の同じ12月、
同じ場所で触雷するという全く同じパターン。

「明石」が両艦のように顕彰されなかったのは大破したものの
沈没しなかったからでした。 

話がそれましたが、「明石」も触雷で大破した際、犠牲者が
当然ながらあった筈で(航海中でしたから)、何が言いたいかと言うと
そのときに亡くなった明石の乗員の幽霊が手旗を振ってもおかしくない、
とまあ、こう思うわけです。

幽霊が実在することが前提っていうのもどうよって話もありますが。 



さて、マイクロバスは表桟橋のある埠頭に到着しました。
何気なく立っているこの埠頭もすべて、昔のままの地面。
昔何かが据え付けてあったらしい土台の跡が手前にあります。
写真で検索していると、ここには割と最近まで
『何かがあった』ようなのですが、何かはわかりません。

向こうに見えているのは92式4連装魚雷発射管です。
終戦間際、「雑木林」と言われた「植物シリーズ」、
橘型の駆逐艦「梨」に搭載されていたものです。

「梨」と言えば当ブログでは「駆逐艦『梨』物語」というタイトルで
エントリに書いた話ですが、燃料がなくてやはり雑木林の「萩」と一緒に
山口の海岸に停泊していたところ、目の前に米軍の水上艇が着水して
グラマンの乗員を悠々と救出していくのを指をくわえて見ているしかなかった、
という屈辱的な出来事の僅か数週間後、
まさにその水上艇の情報を受けた米軍機に、訓練中撃沈されてしまいました。

説明板には

「この魚雷発射管から発射される魚雷は、
日本海軍が精魂を傾けて製作した93式魚雷であり、その射程、
雷速及び破壊力ともに世界に卓越したものであった」

と書かれています。
戦後史観に「配慮」した腰の引けた態度には厳しいエリス中尉ですが、
だからといってこの説明には(´・ω・`)な顔になってしまいます。

確かに間違ってはいません。
93式魚雷の破壊力は、たとえばミッドウェーで伊号19が発射した
一度に発射した魚雷が、「ワスプ」「ノースカロライナ」「オブライエン」
に命中し撃破撃沈せしめたという史実にも窺えるように、強力なものでした。

ただ、「梨」に搭載されていた92式発射管の説明なのに、そこで
93式魚雷の自慢?をされてもねー、と思ってしまったのはわたしだけ?

そもそも「梨」は着工から就役までわずか4ヶ月、配備されてから
沈没するまでもわずか4ヶ月。

しかもその間、カタリナ飛行機が目の前に降りてきても
見ているしかなかったくらいで、つまり実戦はおろか訓練でも
この魚雷発射管が実際に93式魚雷を撃ったことは殆どなかったのではないか、
というのがわたしの想像です。

 「梨」の装備なんだからもう少し「梨」について書こうよ。
そう思って次にわたしはこんなことに思い当たりました。

沈没していた「梨」を戦後にわざわざ引き上げ、 自衛隊は
それを「わかば」と名付けて護衛艦として使用しました。
つまりこれらの装備は、海から引き上げた「梨」をもう一度
使えるように改造し兵装もしなおしたときに外したものです。

「梨」の死者は38名、行方不明者12名以上。(正確な数はわかっていない)
この数字は何を意味するかと言うと、1954年、なんと沈没から9年後、
引き揚げられた艦体からは、38名分のご遺体が発見されたということでしょう。

「海軍の血統を引く存在である」ということを証明する為、海自は
引き揚げた旧軍艦をわざわざ修復してまで使ったのだといわれますが、
そのために乗員の亡骸と一緒に海底に9年間も眠っていた艦を
わざわざ現代に蘇らせてしまったのです。


もしかして結果論だけども、そのことを海上自衛隊は後悔し、
その存在そのものが「負の歴史」となってしまったのではないか。

とふと考えました。 

「梨」の装備は全て交換されましたから、ここには
高角砲も展示されています。

海自が「わかば」を負の歴史としているのではないか、というのは
勿論、史実から受ける印象から導き出された想像に過ぎません。


ただ、実際「わかば」では、

 船中作業服を着た兵士、あるいは制服を着た士官が、
「苦しい、苦しい・・・」といって艦の通路を歩いていた。

こんな話がまことしやかに今でも言い伝えられていて、
海上自衛官であれば誰でも知っているのだそうです。
(関係者の皆様、知っておられました?)


高角砲を反対側から見ると、内部が見えるように
立て割りの状態になっていました。 

1971年に退役した「わかば」は呉の鉄会社に払い下げられ、
解体されてその生涯を終えました。

兵装部分は9年間海水に浸かっていた上、ここに展示されて
さらに40年が経過し、老朽化が激しくなったため、平成25年に
「大和ミュージアム」にある10分の1スケールの「大和」を製作した
呉市の山本造船株式会社が請け負って修理改修がなされたということです。

そのときに劣化の激しい部分は取り替え、中を公開したわけです。 



砲弾を装填する筒の部分はそのままです。


ちなみに、話が出たのでついでに捕捉しておきますと、
「兵学校の七不思議」は、先ほどの「明石」の手旗信号の他には、


1、幹部候補生学校自習室(赤レンガの建物・旧兵学校生徒館)廊下 
 03:00頃、帝国海軍の煙管服を着た人影が多数走り回る。 
 日清・日露の戦役で使用した艦艇の甲板材を床材として使用している。 

2、学生隊隊舎(旧兵学校第2生徒館) 
 自習室の2階東側の廊下をカッターが走る。 

3、グラウンド~教育参考館間の通路(屋外) 
 02:00頃、50人規模の行進の足音が聞こえる。 

4、教育参考館 
 脱靴・脱帽せずに足を踏み入れると、後日、
 階段からの転落事故を起こす。 


などというものだそうです。
えー、ちょっと突っ込んでもいいですかね。

1、煙管服っていうのはフネの缶焚きが掃除のときに来たもので、
当時の服なのにフードがついているものです。
いくら甲板の材料を床材に使っていても、兵学校の校舎を
缶焚き下士官兵が走り回ることはないような気が・・・。


2、すぐ傍に海があるのだからカッター漕ぐならそこでやれ。

3、これはわからないでもない。

4、教育参考館に入ったときには自衛官が脱帽を促しましたが、
靴は脱がされたことがありません。
昔の映画、「ハワイ・マレー沖海戦」等を見ると、兵学校生徒は
必ず靴を脱いで階段を上がって行っていますから、
昔は(おそらく大理石の石段に赤い絨毯が敷かれる前)
靴を脱ぐことになっていたのだと思われますが、これによると
我々は全員階段からの転落には気をつけないといけないようです>.<


ただし「わかば」には出没したといわれる「梨」乗員の霊は、
その「住処」であった艦体が無くなってからは成仏したらしく
高射砲や魚雷発射管のある江田島には出ない模様です。

・・・・え?

「七不思議というならあと2つあるじゃないか」って?
それはまたのお楽しみ。


続く。
 



「ベイマックス」~ハリウッドの「反日と親日の振り子」

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週末、家族で映画を観に行くことにしました。
少し前にコメント欄で話題になった「フューリー」を、
一応戦争映画ウォッチャーとしては押さえておくべきかと思い、
最初はこの映画を観に行くことを消極的ながら主張したわたしでしたが、
家族の、

「そんなの()より、『ベイマックス』観ようよ」

という言葉に、あっさりと考えを変えました。
「あの」ディズニーが「フローズン」(アナ雪です。一応)の次に
ピクサーと組んで出した新作は、なんと主人公が日本人の少年。
発明にかけては天才少年であるヒロ・ハマダと、彼の死んだ兄、
タダシが遺していった「ケアロボット」、ベイマックスの物語。

これだけでも観たくなるのに、さらに物語の舞台は東京とサンフランシスコ
をモデルにした「サンフランソウキョウ」。 
さらに、「ビッグヒーロー6」という、日本のスーパーヒーローを
描いた無名のマーベル作品を基にしているというではありませんか。

 

で、結論から言うと、良かったです。

下敷きになったマーベルの漫画は、日本政府によって結成された
「ビッグ・ヒーロー6」こと、

・リーダーで炎を操る「サンファイア(ヨシダ・シロウ)」 
・『Xメン』のウルヴァリンの婚約者の異母兄弟
  「シルバーサムライ(ハラダ・ケンイチロウ)」 
・世田谷区出身の超天才少年「タカチホ・ヒロ」 
・ヒロが作ったスーパーロボット「Baymax」 
・内閣情報調査室の美人エージェント「ハニーレモン(ミヤザキ・アイコ)」 
・宇都宮の元暴走族「ゴーゴータマゴ(タナカ・レイコ)」

が主人公、となっています。
映画ではベイマックス、ヒロ、ハニーレモン、ゴーゴーというメンバーは残し、
話も一から作り直しています。
この原作を選んだ監督のドン・ホールは

「 この漫画が日本のポップカルチャーへのラブレターみたいなもの」

と語っています。



出てくる「サンフランソウキョウ」 ですが、原作では「京都」の
「サンフランシスキョウ」であったということ。
とにかく東京とサンフランシスコどちらも知っている者には

「新宿だ!」「新橋のガード下だ!」「お台場だ!」
「チャイナタウンだ!」「ベイブリッジ!」「ケーブルカー!」

どこかで見たような光景ばかりが次々と出て来て、それだけでも
その既視感にワクワクするというお楽しみ付き。



で、可愛いんだよ。このベイマックスが。

アメリカ制作のアニメは、日本のように「可愛いものは声も可愛い」
ということをあまりしません。
(魔女の宅急便の英語吹き替えでは、黒猫のジジが
おっさんの声になっていて驚いた人は多いかと思います) 

で、このロボットも普通のおじさん声なんですが、
そのため「可愛いでしょう」という押し付けがましさを感じず、
安心して萌えることができる気がしました。

ベイマックスは外側がふわふわしていて、ナード(オタク)
ばかりのヒーロー6人組も、その感触には癒されっぱなし。
主人公のヒロくんもぎうっと抱きしめられて和んでしまうわけですが、

「ふわふわは愛である」 

というのがこの映画の実に説得力のあるテーマの一つでは有るまいか。


ストーリーを言ってしまうとネタバレになるので控えめに述べると、
わたしはこれを見終わって、何度目かの涙をぬぐいながら、
(ピクサーの最初の短編がまた犬好きならきっと泣いてしまう良作) 
あの名作「アイアン・ジャイアント」がベースにあると感じましたね。

アイアン・ジャイアントについてはブログ開設当初、特攻隊と
その自己犠牲について関連させてお話ししたことがあります。
おりしも米ソ冷戦の頃、自分を拾ってくれた少年の住む街に、誤って
水爆が落とされてしまうという危機が訪れたとき、アイアン・ジャイアントは
愛する少年とその街を守るために、水爆に体当たりします。
そう、お分かりかと思いますが、このストーリー、
何をトリビュートしているかというと、日本のアニメーション、
「鉄腕アトム」なんですね。

愛するものを救うために自己犠牲を厭わないというのは、決して日本の
専売特許ではないけれど、 自分の命を引き換えにそれを完遂しようとする
という行為を語ろうとすれば、究極の自己犠牲である日本の特攻隊を
語らないわけにはいかないというのも厳然たる事実であります。


主人公とその周辺に「日本」を選んだ時、このアメリカ人製作者たちは
「こう終わるべき」
というある一つの自己犠牲の形が見えたのではなかったか。

わたしはそんな風に思うとともに、どこからかの政治的意図によって
素人監督、しかし名前はすでに超有名な女優である女性に監督させることで
話題にし、あわよくば賞を取らせるためにつくった荒唐無稽反日映画、
「アンブロークン」が、賞らしい賞に今のところノミネートが一つもない
(つまり映画評論家が誰も全く評価を与えていない)
ことに、映画人たちの良識(金銭によっても)いまだ犯されず、
と胸をなで下ろしているのです。

だいたいね。

クリスマスシーズンに見る映画かい?これ。
クリスマスというのは、「愛を知る日」なんですよ?
この広い世界の、誰かが自分のことを愛してくれていて、
自分もまたその相手を愛している、ということを考える日なんですよ?

プレゼントを選び、相手の喜ぶ顔を思い浮かべることによって
自分もまた幸せになることができる、そんな季節なんですよ。

こんな時期に「70年前の戦争で捕虜が日本人に生きたまま
肉を食らわれた」なんて、しかも実に怪しげな与太話を
わざわざ映像で見たい人なんて、親日反日関係なくいるんですか?


ユニバーサル社は、なんとこれを日本に配給しようとしているそうですが、
まあ、日本という国はこれでなかなか懐が広いというか、
一部自虐好きとか日本嫌いもいる国ゆえ、こういうのを歓迎する向きも結構あるので、
完璧に総スカンということにもならないような気もします。

あの「パールハーバー」も、ネタとしてつい見に行ってしまった、
という日本人が当時それなりにいたみたいですので。

そういえばあの映画公開の時に、監督のマイケル・ベイは

「これは日本を貶めようというのが趣旨ではなく、恋愛ものである」

なんていう噴飯(可笑しくてご飯噴き出すという意味ですよ)
コメントを残してさらなる非難を浴びたようですが(笑)、今回、
ユニバーサルの幹部は、新聞のインタビューに対して

「映画は『希望と立ち直る力』を表現している。
強調したかったのは人間の精神力であり、日本軍の捕虜への行為ではない」

とかなり苦しい言い訳をしているようです。
希望と立ち直る力を表現するのに 日本人に食人の習慣があるなんてことを
でっち上げてまで強調しないといけない理由がどこにあるのか全くわかりませんが。


ところで、実際に食人の習慣があったとされる()中国ですが、
ここのところ、反日映画やテレビドラマが大人気らしいですね。
2012年だけで200以上の作品が制作され、そのドラマの中では
常に最後は「水戸黄門」の印籠開陳に相当するクライマックスとして、
憎っくき日本将兵たちがバラバラにされたり八つ裂きにされたり、
信じられないパワーで真っ二つにされたり(笑)しているらしいです。
もちろんあの「パールハーバー」も中国では大ヒットしたそうです。

今回、原作の「アンブロークン」はすでに中国語に翻訳されており、

映画も相当の売り上げを

ユニバーサルでは見込んでいるとのことです。

ふーん。
なるほどねえ。(ニヤニヤ)

そういえば、パールバーバーも、ディズニーの目的は

「中国市場での儲けだった」

とわたしはこの映画についてエントリを書いたとき看破したつもりですが、
やっぱりそれなりに美味しい思いをしたってことなんですね。

人口の多い中国で、皆が憎い日本人が鬼畜生に描かれている映画を
喜んで見てくれるわけですから、そりゃあユニバーサル社が、
同じようにやってみたいと思っても仕方ないかもしれませんねー。(棒)


おとなしくて自虐傾向のある日本には、こう言い訳しておけばOK、
とばかり、 ユニバーサル社側は、今回の中国での公開について

「中国での反日感情を煽っているとみられるのは本意でない」

としているそうです。
反日感情を煽っていると見られているという自覚はあるのね。
それなら何が本意なのか、ちゃんと説明してもらおうじゃないの。 

いや、それをわたしが説明して差し上げよう。

前回、アカデミー賞どころか「最も金のかかった駄作賞」
を取り、ラジー賞には全ての部門でノミネートされた「パールハーバー」
を制作したディズニーピクチャーズは、今回、日本の文化に対しての
「ラブレター」と制作者のいう「ベイマックス」を世に出しました。

対して、前回自衛隊とアメリカ海軍がタッグを組んで地球外生物と戦う
「バトルシップ」をつくったユニバーサル・ピクチャーズが、
「アンブロークン」で日本の戦争中の行為を糾弾しているのです。

この役柄をまるでスライドしたかのような二つの会社に通じるのは
日本との親密度を示すことと、思いっきり日本を糾弾すること、
この振り子が振れるがごとき両側への極端な振れによって、
中国という美味しい市場で儲けることと、日本というコンテンツの
安定した市場を逃さないというバランスを取っているということです。

つまり、ネタの枯渇気味のハリウッドというところは、
アニメや漫画、日本人クリエイターから時としてそのまま
アイデアを取ってこなくてはいけないくらい、カルチャー的に
自分たちとは違う発想の、しかし汲めども尽きぬアイデアに満ちた
日本のコンテンツとは今や密接な関係にあるわけです。

古くは「マッハGO!GO!GO!」の放映にはじまり、
ライオンキングの盗作事件、 ポケモンや遊戯王などのヒットや、
最近では進撃の巨人の大ヒットが証明するように。

しかし、彼らにとっていまだに中国というマーケット、
そこでのヒットもまた、たとえそれで日本の不興を買うことになっても、
多少であれば引き換えにするに足る魅力があるということなのでしょう。

もちろん、前にコメント欄でも述べたように、
かつてあのアイリス・チャンを影で動かしたような資本を持つ「勢力」の
介入というのも実際にあったと思います。


さて。

ところでディズニーといえば、夏には空前のヒットとなった
「フローズン」という超駄作がありましたね。
わたしはいまだにあの映画の内容に全く意味を感じません。
そもそも全くその真意がわからないのです。

エルサは自分の「なんにでも氷に変えてしまう」
という能力に悩んで大きくなったわけですが、
それがある日国民にばれて城を飛び出し、
「レリゴー」を歌いながら自分の好き放題やっているうちに

「別に誰に迷惑かけているわけじゃないし、
このままで(レリゴー)いいじゃん!」

と開き直ってしまい、それからはスカートにはスリットが入るし、
ドレスはいきなりボディコンシャスになるし、表情までがビッ◯化。

世間ではなんであのレリゴーが「前向きな歌」とされているのか、
とわたしはまず不思議でなりません。
自分の「ありのまま」が、要は傍迷惑なものにもかかわらず、
吹っ切れたからにはやりたい放題、ってことでしょあれ。

で、自分ではその能力をコントロールできなくなったエルサの
魔法が解けるのは「真実の愛」に気づいたとき、というわけなのですが、

自分でうっかり凍らしてしまった妹のことを嘆いたとたん

魔法が溶ける、すなわちこれが真実の愛?
これ、へんじゃね?
だって、エルサってアナのこと嫌ってたわけじゃないし最初から愛してたよね?
これが今更「真実の愛」としてカウントされるんだったら、
最初に妹に怪我させて嘆いたときに魔法が解けてるはずなんじゃ?

会ったその日に結婚したがるようなお尻の軽すぎるお姫様も妙だし、
騙すつもりで近づいてきた王子が彼女に指一本触れなかったり(←)
もう、なんちゅうか、いちいち話のツメが甘~い!
とわたしがプロデューサーならダメ出ししそうな雑な話なんですよ。

子供だってその辺の辻褄の合わなさというのは気付くよ。
子供は大人が思っているほど子供ではありませんから。

でまあ、あのヒットはつまり「レリゴー」始め音楽の力がほとんど、
とわたしは断言してしまうわけですが、この「ベイマックス」、
話の緻密さと、子供にも受け入れられる明快さ、キャラの可愛さ、
しかも鉄腕アトムがそうであったように、ベイマックスが

「決して人を殺すようにプログラムされていない」

ということが大きなストーリーのコアとなっているあたり、
実に道徳的にも教訓となりうるストーリーではあります。

ではこれがヒットするか、というと・・・しないんじゃないかな。
その理由。

1、プリンセスが出てこない。

2、主人公が男の子、しかも日本人である。

3、テーマソングが日本の歌( AIのSTORY)である。



でも、能力という点でいえば、ベイマックスの「ヒロ」は
天才的な才能を持っているけど、それを怒りのパワーで
とんでもないことに使おうとして、ベイマックスに「癒され」、
自分の間違いを知るわけです。

エルサもヒロも自分の能力の正しい使い方を愛によって知る、
というのは映画の完成度に天と地ほどの差はあれど、
これもまたディズニーらしい落としどころではあるとは思います。


ところで、日本にアンブロークンは入ってこないという話もありますが、
中国で日本人が主人公のベイマックスは果たして配給されるのでしょうか。 

アンブロークンの「ブロークンな」内容より、
ベイマックスの汎世界的な価値観により共鳴する中国人だって
全くいないわけではないとわたしは信じたいのですが。 




NORADのサンタ追跡サイト

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メリークリスマス!

今年のイブは暖かくなりそうで、関東地方でのホワイトクリスマスは
望めそうにありませんが、 いかがお過ごしですか?

少し前のエントリでNORAD(北アメリカ航空防衛宇宙司令部)
について書いたとき「まるでSFに出てきそうな名前」などと
言ってみたわけですが、そのとき突っ込んでくれた雷蔵さんが
このNORADがやっている「サンタ追跡サイト」を教えてくれました。

NORADはアメリカとカナダ政府が大統領と首相をそれぞれ
最高指揮官として共同で運営している組織で、その使命は
おそらく地球防衛軍と全く同じ、

北米上空の航空や宇宙に関して観測または危険の早期発見

ということになっております。



ウィキに載っていたNORAD地下司令部入り口。
一体何と戦っているのか、という要塞ですが、つまりは
設立されたのが冷戦まっただ中で、当時は米ソ共に
この地域を核爆弾を積んだ戦略爆撃機をウロウロさせていたため、
「核爆弾の監視」というのが国防において重要事項だったんですね。
(来年アップ予定の『成層圏の要塞』でお読みください)

というわけでおそらくこのドアを閉めることによって
地下要塞のここは完璧に核の影響から逃れることができるのですが、
最近の世界情勢はその頃と随分事情が違ってきているため、
ここは昔ほどの「最前線」ではなくなっているはずです。

で、その冷戦構造まっただ中の出来事です。

アメリカにはどこのショッピングモールでもお目にかかる
シアーズというデパートが、クリスマスシーズンに子供に向けて

「サンタクロースホットライン」

を設置しました。
おそらくプレゼントは何がいい、というようなことを子供が
サンタクロースにお願いしているつもりで、実は
シアーズに商品を注文させるという意図があったと思うのですが、
そのホットラインのお知らせ広告に、シアーズは間違って

CONAD(NORADの前身)の司令長官へのホットライン


の番号を載せてしまったのです。

リーンリーンリーン
シャウプ大佐「ヘロー」
子供「ヘロー!あなたはサンタクロース?」
大佐「いや、違いますけど」
子供「ホットラインにかけたんだけどなぜサンタがでないの?」
大佐「ホットライン?」
子供「シアーズのサンタクロースホットライン だよう!
   サンタクロース出してよう!」
大佐「え・・・・いや、サンタは・・・・。
   ここは航空宇宙司令部で・・・」
子供「サンタクロースはどこ?」
大佐「えーとね、サンタは・・・
  わかった、今から部下にレーダーで確認させるよ」


大佐が咄嗟に子供を傷つけまいとついた嘘。
それから60年も続いている「NORADのサンタ追跡任務」
が生まれた瞬間でした。

子供「今サンタクロースはどこに居るの?」
大佐「レーダーで調べた結果、サンタは北極から南に向かったそうだ」
子供「レーダーにサンタのソリが写ったの!?」
大佐「そうだよ。
君がいい子にしていれば、24日の深夜から25日の朝にかけて、
君の住む街に到着して、プレゼントを渡す予定にちがいない」

おそらくこんな感じで大佐はその場を切り抜け、それから以降、
次々にかかる間違い電話にCORAD司令部は、サンタの現在地を
刻々と伝えていったのでした。

その3年後の1958年、カナダと米国の両政府は北米航空宇宙防衛司令部、
通称 NORADとして知られる北米防空組織を創設しました。
そしてそれがサンタ追跡という伝統も引き継いだというわけです。



クリスマス・イブの日、すべては「北部警告システム」と呼ばれる
NORADのレーダーシステムで始まります。
これはカナダ北部からアラスカ 全域 47カ所を結ぶ、強力なレーダーシステム。

NORADは毎年必ずクリスマスの時期が近づいてくると、
サンタ・クロースが北極を出発する様子をレーダーで確認します。
サンタが飛び立ったのをレーダーがとらえた瞬間、
普段北米に向けて発射されるミサイルがないかを知らせる
空中警告のために使う人工衛星と同じ衛星を使って追跡を始めます。

イージス艦も、もちろんこの追跡に協力しますよ。

ところでNORADがサンタのソリを見つけるのに目標とするのは
トナカイのルドルフの「赤い鼻」なのです。

人工衛星は、ロケットやミサイルが打ち上げられるときに発する
熱を察知するための赤外線センサーを搭載していますが、
ルドルフの鼻はミサイルの発射に似た赤外線反応を示します。
 
つまり、ミサイル発射の発見と、ルドルフのいるサンタのソリを
見つけるのは同じ機構を利用しているということになります。 




そして、戦闘機をカナダのユーコンからメキシコシティまで飛ばして、
アメリカ領内にいるサンタのソリを追跡するのです。

「カナダ側のNORAD戦闘機パイロットは、CF-18機を操縦しながら
ニューファンドランドを飛び立ち、北米を訪れる サンタを歓迎します。
そして、カナダのさまざまな場所で、CF-18機のパイロットたちが
サンタをエスコートしていきます。

アメリカでは、アメリカ側のNORAD戦闘機パイロットたちが
F-15、F-16およびF-22を操縦しながら、
サンタとトナカイたちとのスリル満点の飛行を楽しみます。

それらのトナカイとは:ダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、
コメット、キューピッド、ドナー、ブリッツェン、そしてルドルフです。
サンタはジェット戦闘機よりも早く飛びますが(サンタは実際、
我々が彼をエスコート出来るようにスピードを落としてくれるのです)
これらすべてのシステムによって、NORADはさまざまな場所を訪れる
サンタの映像を継続的にとらえることができるのです。」

(サンタトラッキングサイトより)



この日の任務のために一堂に会した米加軍人たち。
皆真剣にサンタの追跡に関する情報を分析しています。



このスタッフにはやはりいろどり?も必要ということで、
重責を負わされたに違いない女性軍曹。



これらの情報を提供しているのは民間のボランティアたち。
問い合わせに対し、メールや電話の応対を請け負います。

この日、カナダ人および米国人の現役軍人と国防総省の民間人職員
1,250 人以上が世界中から寄せられる何千件もの電話やメールに
ボランティアとして対応しています。
このプログラムを支える企業(もちろんGoogleもね)からの寄付に加えて、
NORADにはプログラムの管理を担当するプロジェクト責任者が2名います。

 

インターネットが普及してからは、ノーラッドのサイトでは
クリスマスイブのサンタ捕物の様子が動画で中継されます。
24日の昼4時ジャスト、ノーラッドがサンタトラッキングを始めるのですが、
ちょっと皆さんも覗いてごらんになりませんか?

NORAD  Santa Tracker





 

クリスマスのターキー バージョン2014

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皆様、サンタ・トラッキング、ご覧になってますか?



わたしが見たときにはサンタは「ホニアラ島」を通過していました。
・・・・ホニアラ島?
どこかで最近すごく聞き覚えがあるような・・・。

そう、海上自衛隊練習艦隊が、ここに寄港し、その際、
現地で遺骨収集団が採取した日本軍将兵のご遺骨を乗せ、
晴海埠頭にそれを迎えにいくということがあったのでした。

サンタは何しろ戦闘機の100倍のスピードで飛翔するので、
たまたまわたしがこのトラッキングを除いた瞬間、
そこがホニアラ島であったことがとても不思議な偶然に思われました。

次に見たとき、ちょうど日本にいたので、スクリーンショットを
撮っておきましたよ。



名古屋。琵琶湖が見えます。



富士山上空。



東京湾の上。




ぐるりと向きを変えて、相模湾。
左下にある「配達されたプレゼント」
の数はすごい勢いで増えていきます。




紀伊半島。



淡路島と四国。



そして九州・・・・あれ、北海道って行ったっけ?

軍機扱いで公開できなかったコメントで、

「これでは速すぎて迎撃できません!」

と泣きを入れてきた基地司令がいましたが、そらあなた、
HPによるとサンタのスピードは戦闘機の100倍だってんだから。

というか、サンタを迎撃せんでよろしい。迎撃せんで。


さて、それはともかく、今年も我が家ではターキーディナーを
イブの夜に楽しみました。
去年一昨年と朝から料理を始めランチにいただいていたのですが、
今年は平日なのでTOが夜にしかご飯を一緒できなかったためです。



今年のターキーはもとまちユニオンで購入。
念のため行く前に電話であるかどうかを確かめたところ、

「年中置いています」
 
とのこと。
幾つかの種類の中で、去年と同じ、ベビーターキーを選びました。
小さいので解凍も1日あれば十分。

まあ、本当は冷蔵庫の中で1週間くらいかけたほうがいいのでしょうが、
何しろ買うことを思い出したのがイブの2日前だったもので・・・。

そのまま冷蔵庫に入れず、室温で1日置きました。

 

ご対面~。
去年のと違って、ネックの皮が残されています。



横を向いてもらいました。
血を落とすために中も水洗いしてしまいました。
今年はレシピに頼らず、自己流でやる覚悟です(笑)

去年一昨年とmizukiさんのレシピを参考にしてやってみて
少しは全貌がわかってきたつもりなので。
要は相変わらずのいい加減料理ですがどうなることやら。



体の中から内臓を引っ張り出します。
去年のはこれらがパッキングされて入っていましたが、
今年は一つ一つ引きずり出さなくてはいけません。



塩胡椒。
アメリカ滞在中に買ったヒマラヤンソルトをたっぷり。



脇の下にも忘れずに。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」では、顔にクリームを塗った後、
次の部屋で「耳にも塗りましたか」というメモと小瓶があって、
迷い込んだ紳士二人は塗り残しに気づきましたが、
ふとそれを思い出しました。



今年は、塩胡椒のあと、オリーブオイルを表面に塗って
皮がカサカサになるのを防止します。

去年のように無印良品の「ローストチキンの外側に塗るもの」
があれば楽だったのですが、なくても別に問題はありません。



ネックは硬くて刻めないので切れ目を入れるだけ。
内臓の類を細かく刻みます。



玉ねぎと人参をみじん切り。
本当は一番先にニンニクをオイルで炒め、香りが出たら
玉ねぎを先に炒めることになっていたのですが、
うっかり混ぜてしまったので、もうこのまま炒めてしまいます。

料理なんて結果が良ければいいのよー。



オリーブオイルで炒めます。



内臓を入れて炒め、香り付けにバターを少し投入。
このあと適当な量水を入れて適当な時間煮込みます。(圧力鍋で)



煮込んでいる間、お茶を一杯。
というか、この深川製磁の自衛隊カップを自慢するためだけの画像。



自慢といえば、わたしにはこんな自慢のカップもあるのだった。
海上自衛隊の錨のマークに・・・・・三ツ桜。



ふっふっふ、これが一体何を意味するかおわかりかな?



といいながら説明しないで次に行ってしまう。
今年は初めてスタッフィング(ターキーのお腹に詰め物をする)を
やってみようと思い立ったので、



お米をまずオリーブオイルで炒めます。
このお鍋は、バーゲンで購入してこの日届いたビタクラフト。
ビタクラフトは鍋界のメルセデスみたいなものです。



お米に圧力鍋で炊いた野菜と内臓を投入。
混ぜてこれも適当に水を加え、(本当に適当だなあ)



適当に蓋をして弱火で煮込むのだった。
この画像は単なる鍋自慢。
そして適当な時間に覗いてみると出来上がっていたので、詰めます。



ここに・・・・・うーん、なかなかグロ、いやなんでもない。



詰めました。
スタッフィングには味をつけていませんが、
まあそんなものだろうとやはりいい加減にそのまま。



脚を針金やタコ糸で縛るのが本当なのだと思いますが、
どちらもなかったのでホイルでまとめてあげました。
そしてオーブンに投入。



途中でオーブンを開けてジャガイモを隙間に押し込みました。
わずか22分で焼き上がります。
誰でも失敗なく焼ける火加減コンピュータ任せ。



付け合わせはインゲンとブロッコリー。
インゲンをバターで炒めているお鍋は、フィスラー。
フィスラーは鍋界のBMWといったところ。
最近、たまたま人と待ち合わせたところにフィスラーの専門店があって、
しかもバーゲンをしていたので買いました。

しかし買って二日目に油断していて焦げ付かせてしまい、
涙目で磨きまくって復活させたというかわいいお鍋です。

さて、わたしの腕とは全く関係なくオーブンが仕事をしてくれたため、
ターキーは見事に焼き上がりました。
ありがとうヘルシオ。



肉汁が思ったより受け皿に垂れていなかったので、
少しだけのその汁を全体的に注ぎかけて出来上がり。

その頃帰ってきたTOが、切り分けてくれました。



本人曰く「去年よりうまく切れた」とのこと。
わたしはブレストをいただいたので、これは息子に。
息子はこの後ペロリとブレストも食べてしまいました。



息子がココアを入れるというので、そのために
生クリームを泡立てて作ってやりました。

「ケーキ食べるんだからココアはどうかなー」

とわたしはカロリー的にかなり逡巡したのですが、
息子が悲しそうな顔をするので

「じゃ少なめで・・・」



そして今年のクリスマスケーキ。
これも毎年宅配の「地球人倶楽部」でお願いしている
レジオンというパン屋さんのケーキです。



漂白していない小麦を使っているので、
スポンジの台そのものに大変旨味があります。
今や家族全員のクリスマスの楽しみになっています。



これは今年の夏、サンフランシスコ空港のMOMAショップで
見つけて買ってみたケーキカッター兼サーバー。
ホールのケーキを食べることが滅多にないので、本日、
初めて使用することになるのですが、これがすごい!
くさび形の部分をケーキにさっくりと上から落とし、



そのままお皿に運んで少し広げるだけ。
ナイフで切ってサーバーですくって、というアクションを
一瞬でやってしまえる優れものでした。



こんな形をしています。
こんなにお役立ちだったとは・・。




クリスマスのツリーは今年は飾らなかったのですが、
馴染みのお菓子屋さん(パリ帰りの女性パティシエがお母さんとやっている)
に行った時にジンジャーブレッドのヘクセンハウス(魔女の家)
があったので、買ってしばらく飾って楽しんでいました。

すごく凝っていて、時間もかかるので少ししか作っていないそうです。

セロファンでカバーしてあったのですが、外すとジンジャーの
いい香りが漂ってきました。

息子はクリスマスプレゼントに念願のiPadAirをもらってご機嫌。
わたしは・・・・皆の感謝の言葉だけで十分。
一緒に食卓を囲めることが何よりのクリスマスプレゼントです。

それではみなさま、よいクリスマスをお過ごし下さい。




 


クリスマスinディズニーシー2014

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呉から帰ってきた次の日、息子とディズニーシーに行きました。
息子と出かけた、という話などしているとき、息子よりもう少し年上の
子供を持つ父親である知人に

「いいですねえ。うちのなんかその歳だと壁に穴あけてましたよ」

と言われてちょっと吃驚したものです。
ティーンエイジャーの息子は母親なんかと出かけたがらない、
という説もありますが、うちの場合は一人っ子だし、
勉強部屋ではなくいつもダイニングテーブルで勉強している関係で
わからないことなどを尋ねてくることもあったり、あるいは
自分が学習の段階で知った蘊蓄を得意になって聞かせたがったり、
チェロの練習の時にはわたしが必ず伴奏者として付き合う、
という非常に「実利的」な親子関係でもあるので、断絶とか齟齬とか、
ましてや反抗期などというものはないまま、いつの間にか
大人同士のような会話を(政治問題含め)するようになりました。

結構その点話の通じるやつなので、
ディズニーに一緒に行くのは昔より楽しかったりしますが、
さすがに息子はそろそろ友達と行きたがっているようですし、
わたしはわたしで友達同士で行ってくれると助かるなあという気持ちから、
最近はいつも今回が最後、と思いながら行っています。

今年もそういっているうちクリスマスシーズンがやってきて、
またまた二人で行くことになりました。

「ディズニーは大嫌い」

と公言して憚らないエリス中尉ですが、こんな奴に限って、
クラブ33などという秘密クラブに嬉々として行き、
その行程をこうやって逐一お知らせせずにはいられないという・・。



ところで、先週寒さのあまりそれがニュースになった、
というくらい寒い日があったのを覚えておられますか。 
その日がすなわち我々がよりによってディズニーシーに
いた日だったのですが、いやー、寒かったですよ~。まじで。

この日のために日頃は見向きもしない某ユニ黒の、
ヒートテック素材の下着を息子のために買い与え、
念のためモンベルのゴアテックスの折りたたみコートを
カバンに入れさせました。
夜になってさらに気温が下がり、びゅううと肌を突き刺すような風が吹く度に
周りの女子高生が「きゃあああああ」と叫び出してから(なぜ叫ぶ)
ダウンコートの上から着させたところ、

「顔と脚以外全然寒くない」

とのこと。
わたしもこんなこともあろうかと買っておいた、こちらは
プラダのゴアテックスとダウンの二重構造のコートを着て、
寒いのでずっと毛皮のトリミングの入ったフードを
エスキモーのようにずっと被っていました。

コートについているフードは実用だったんですね(笑) 

おりしもディズニーでは、全体的に今年驚異的なヒットとなった
「アナと雪の女王」、略して「アナ雪」(なぜ略す)が
園内でも何度もモチーフとして登場していましたが、
この日ばかりは、この歌に

「♪すこーしも寒く・・・・・・寒いわっ!」

といちいち突っ込まずにはいられないくらい辛かったです。
ええ、原題は「フローズン」ですからね。寒いんです。

TDRは埋立地にありますから、海からの風が半端なく厳しい。
遮蔽物の少ないシーはなおさらです。

どうしてこんなに寒い日に、ここにはこんなに人が来ているのだろう。
自分もそこにいながらいつもながらディズニーの驚異的な集客力には 
毎回ほとほと感心するわけですが、わたしみたいな自称ディズニー嫌いが
なんだかんだ言いながら暑さ寒さ雨も厭わず何度も行ってしまうというのが、
あそこの凄さなんだろうと思います。

 

園内に入るなり、何か様子が違う・・・。
と思ったら、なんと工事中でした。

「なんだろう。何を作ってるんだろう」

息子は興味津々。

「岸壁を触っているようだから、たぶんだけど
水上のショーを見る観客を効率的に座らせるための
リフォームななんじゃないかな」



着いて早速おやつタイム。
ポートディスカバリーのスタンドで売っているパイが
息子は大好きなのですが、アプリコットが今回は
別の味に変わってしまっていたので、ミートパイにしました。

中はアツアツです。



テーブルに座って食べていたら、横からリスが出てきました。
着ぐるみの仕事はこんな日には暖かくて快適かもしれません。



ミッキーマウスのショーの抽選をするためにケープコッドを
歩いて行きました。



大きなクリスマスツリー。 
こうして写真に撮ると、本物のケープコッドの雰囲気そのままで
本当によく研究して再現されていると感心します。



ここからニューヨーク。
前にも写真に撮りましたが、SSコロンビア号は今から出航、
という設定なので(あれ?帰港したのかな)、
タグボートが控えています。



園内で一番巨大なクリスマスツリー。
シーズンオフにこういうものをなおしておく
巨大な倉庫があるそうです。
これを聞いたのはディズニーではなく、USJの中の人でしたが、
おそらくこちらも同じでしょう。 

 

 今回初めて気がついたこの銅像。
その服装と錨のマークからコロンブスではないかと予想したところ
大当たり。
ここは「ニューヨーク」と、運河のある「ベニス」の境目なので、
イタリア人でアメリカ大陸を発見したコロンブスの像があるそうです。

 

ニューヨークに移民してきた日系人のレストラン「サクラ」
の横のハーバーには、船が停泊しています。
「St. ELMO」という名前の、まるでリバティ船のような形の船。

今まで気に留めたこともありませんでしたが、
この船も信号機をあげているのに気付きました。

 

上から「T」「D」「S」・・・つまり?

「Tokyo Desney Sea」!

左側のは隠れてしまっていますが「P」で、

「出航準備中、乗員は帰船せよ」

です。



コメント無し。



スチームボートはこの日運行していなかったようですが、
おそらく風が強すぎたせいではないかと思われます。
この日はアトラクションも全て花火無しで行われたようです。

で、ハーバーの横を通ったら、なんと珍しい。
船舶の点検をする一団がお仕事真っ最中でした。



屋根の上に上がって板をはがしたり、メモしたり、
その様子をちゃんと写真に撮っていました。

ディズニーでこんな「裏方のお仕事」を見たのは初めてです。



ロストリバーデルタの川沿いにこんなものを発見。
東京ディズニーシーだけで購入できる(らしい)
いかにも日本の女の子が好きそうなぬいぐるみ、
ダッフィーをここに置いて、写真を撮るためのスポット。
なんとこの「ダッフィーのフォトスポット」、園内の
主要地点にいくつかあるらしいです。

椅子には「子供を乗せないでください」とありました。
そりゃそーだ。



とか言っていたら、実際にダッフィーを座らせている女子高生発見。

猫も杓子もダッフィーを抱えているTDSの異様な光景に
「世界広しといえどもこんなものが流行るのは日本だけだろう」

と確信を持っていたわけですが、改めてダッフィーについて調べたところ、
2004年頃から売り出されたぬいぐるみで、これがあまりに受けたので、
オリエンタルランドが、

ミニーがミッキーにプレゼントした手作りテディベアである。 ダッフルバッグに入れてプレゼントされたため、“ダッフィー”と命名された。 ダッフィーと名付けられたぬいぐるみは、ミッキーのお気に入りである。

 というストーリーを付加して現在に至るとわかりました。
ストーリーも何も、最初からぬいぐるみってことじゃん!
などときっと高校生時代のわたしなら鼻で笑うところですが、
いやこれ、多いですよ。持っている女の子。

しかし、園内では女の子の二人に一人は持っていそうなこのぬいぐるみ、
これはTDSの中だけの現象らしく、街中では見ませんよね。
つまり、TDSの中だけで堂々と持つことを許されるのか?

さて、TDSの楽しみは何と言っても食事です。
クラブ33の中でもない限りファストフード的なものしかない
ランドの方と違い、こちらは色々とレストランが本格的。



悩んだ末、アラビアンコーストのカレーにしました。
列が外まで溢れていて、カレー人気を実感しました。
ここはあの家のマークの食品会社がやっています。
ご飯もナンもどちらも付いてくるのがお得な感じ。

ここは食べ終わったトレイは従業員が片付けるのですが、
わりと身なりのいい60くらいの爺さんが、片付いていないテーブルに
おい!と大きな声で叫んで従業員を呼びつけたので周りは皆振り向き、
近くに座っていた女子高生たちは一斉に顔をしかめました。

派手な水商売風の奥さん?が一緒にいたけど、
この人は旦那のこんな横柄さを何とも思わず今日まできたのかしら。
それとも「奥さん」じゃないから他人ごと?



そのあとは真っ先にファストパスを取った、
360度回転のジェットコースター、「レイジングスピリッツ」。
毎度毎度思うのだけど、怖かったのって最初だけで、
今や毛ほども感じなくなりました。

急スピードで坂をダウンする「センターオブジアース」も然り。

さて、散々楽しんで、またもや「晩御飯何にしよう」
の相談が始まりました。
寒いので実は早く帰りたかったのですが、最後のファストパス、
インディジョーンズ・魔宮の伝説が取れていたのが9時35分。
とりあえずそれまでは帰るわけにいきません。

そこで考えついたのが、SSコロンビアの中のダイニング。



入り口で尋ねると「60分から90分待ちです」
普段ならパスしてしまうところですが、
順番待ちの列が船内(室内)の階段にできていたので、
こんな過酷な厳寒日にはそれもよかろうと、ここに決定。

並び始めてからここにたどり着くのにきっちり90分。
どこでも時間が潰せるデバイスがあれば楽勝です。



昔一度昼に来たことがありますが、
そのときにはアメリカ人男性がピアノを弾いていました。
今は特別の時でないと演奏は入らないようです。

ここはいわばクラブ33レベルのお食事がいただける、
しかしグルメを売りにしたTDSの中ではあまり珍しくないレストランで、
一皿のお値段が大体2,000円前後、特別コースで5,850円。

つまり結構いいお値段なのですが、驚くことに
そういうレストランでも、皆(わたしたちもね)90分並ぶんですよ。

ただ、このお高めのお値段設定のおかげで見事に外国人は無し。
しかも90分並ぶということもあって乳幼児なし。
ほとんどがカップル(若~初老)や女性同士のグループで、
レストランの中に喧騒というものは全くありませんでした。



息子がローストビーフを食べてみたい、というので、
一つクリスマス特別コースを頼みました。
前菜、スープ、メインにデザートという内容です。



わたしは単品でチキンとシーザーサラダを頼みました。
こちらは正直もう一つかなという残念なお味でした。
ローストビーフのように切り分けできるお皿の方が無難だったかな。

というわけで、ゆっくりディナーを愉しんで外に出たら、
インディジョーンズの時間まであと1時間となっていました。

時間つぶしのためにショップを見て歩き、従兄弟の家に送るクッキーや
CD(琴や尺八で奏でるディズニーソング『和楽器ディズニー』)
などを買います。



いつの間にか(多分コロンビアで並んでいたとき)ショーは終わり、
ミッキーの帽子にもなる三角錐のスクリーンがツリーになっています。
今は工事中で見えるところが激減しているため、
さぞ席の取り合いは過酷なものとなったのではないでしょうか。

わたしたちは今のシーのショーはあまり評価していないので、
わりとどうでもいい感じで見逃してしまいました。



ホテル・ミラコスタ前のツリーも去年と同じです。

この頃になると風が一層強くなってきて、あまりの寒さに、
車のある駐車場までほとんど走るように戻りました。

「ああ寒かった」

車のドアを閉めたとたんホッとして叫ぶくらいの寒さです。

「でも楽しかったね」
「うん、コロンビアのディナーも美味しかったね」

イベントが終わった時にうちでは必ずこうやって
いかに楽しかったかを確認しあうのですが、
こうすることによって心から楽しかった、と思えるから不思議です。

いや、実際楽しかったんですけどね。



 

 

2014年度 年忘れ漫画ギャラリー

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さて、今年もあっという間に残り少なになってまいりました。
ブログ創設当初は1年に一度「ネイビーギャラリー」として、
その年にアップした海軍軍人の絵をまとめて展示していたのですが、
最近はブログの内容そのものが変化してきて、その頃ほど
絵をアップすることが少なくなってきたので、去年はお休みさせていただき、
今年は2013年度、2014年度に描いた絵をまとめてみました。

というわけで、2013年の自民政権奪回直後に描いた「ジミンガーシリーズ」から。
これはそのときのテーマによって微妙な違いがあって、

まず「日本は日本人だけのものじゃない」バージョン。



この当時の国会質疑から色々とネタを拾ってます。
そしてブーメラン刺さり隊バージョン。

 

そして冒頭のせいけんこうたいバージョンへと続きます。
懐かしいですね(棒)

ブーメラン戦隊ジミンガー『特命!民主予算を執行停止せよ』



ちなみに冒頭ジミンガーでは「ジミンガーピンク」を辻元清美にしましたが、
その後、元大臣のもう一匹のピンクが(ヒーロー戦隊は基本人間ではないので匹扱い)

「民主政権時代に自分たちが下したパチンコ屋への予算を、
無駄なのになぜ停止しないのか」

と噛み付くという大ブーメランをかましてくれたので、そのときに
また改めてジミンガーシリーズを加筆させていただきました。

先般の選挙で、もう少し民主党が殲滅されるであろうと
予測をしたのですが、なぜか不思議な力が選挙に働いたらしく、
民主党のほとんどの上層部はあれだけ総スカンだった菅直人含め、
どうやら「抹殺された」らしい海江田万里を除き全員当選。

不思議でしたねー。

あちらこちらで次世代の党の票がなくなったり、
選管が勝手に「日本」という票を共産党にしていたり、
田母神閣下の立候補した選挙区の選挙開票では、
明らかに無茶苦茶に票を重ねて一番上に
共産党立候補者の票を乗せて集計所に提出してましたね。

東京都の開票は機械による自動読み取りを職員が拒否した地域が
多かったということですが、どうして手間のかかる開票作業を
自分たちの手で何が何でもやらなくてはいけなかったのか。

選挙が公正に行われなくなるなんて、
日本っていったいどこの後進国なんだろう、と実のところ
肌が泡立つような恐怖を感じた選挙結果でした。

個人的な見解ですが、共産党は自民には太刀打ちできないので
次世代を「狙い撃ち」したのではなかったのでしょうか。




「水野義人と操縦適正」











飛行機というものが我が国に導入された当初、操縦適正を
「金槌で殴って15秒で失神から覚めれば合格」
としていた、という信じられない話を漫画化してみました。

ついでに、大西瀧治郎長官が海軍に雇い入れた「霊能者」
水野義人氏の不思議な能力についてお話ししています。


秋山参謀の「奇行」









天才と紙一重の変人と誉れ高かった?秋山真之の奇行を、
日本海海戦シリーズのエントリー制作の息抜きとして
楽しみつつ描かせていただきました。

食事の後のテーブルで水虫の足に薬を塗っていたのを
大変嫌な顔をしていたのが、あの「船乗り将軍」
といわれた上村彦之丞大将でした。

喧嘩っ早くて手も早い上村大将が、部下のこんな所業を目にしても
ろくな文句も言えなかったというあたりに、秋山真之の
海軍での実力というか、いかに皆が普段の秋山には
まるで腫れ物に触るような扱いをしていたかということが
うかがい知れますね。 



「その2」















出物腫れ物ところ構わず、というのも秋山のモットー?でした。
あまりというか、全く人の目を気にしていなかったといえます。
しかし、この天才参謀の軌跡を知れば知るほど、その知恵は
日本海海戦の勝利となって結実したというほかないのに気付きます。

秋山真之がいなかったら、日本海海戦の勝利はなかったのではないか、
と思われるのですが、また近いうちにお話ししてみたいと思います。


元陸幕長とお会いした~「歩兵の本領」







もう退官されたある陸幕長の壮烈鬼隊長時代の逸話。

元副官の1佐がご本人を目の前に話していたので
まず間違いなく実話であろうかと思われます。 

 



小型の海防艦でありながら、ソ連との警備海域の第一線にあったため、
交渉をすることを踏まえて菊の紋章をいただいていた占守型海防艦。

そのため艦長は中佐以上大佐となっていて、他の鑑より上位でしたが、
艦隊の小ささと無名が仇になり、欠礼されることも多かったそうです。

本当は二番鑑の「国後」ですが、駆逐艦「子日」に

「貴艦ハナニユエ本艦に敬礼サレザルヤ」

 といちゃもんつけられた国後の艦長(中佐)はたった一言

「我国後ナリ」

と返答し、子日の艦長は慌てて謝りに向かったというお話。


 

さて、こうして集めてみると、特に本年度は
4コマ漫画をあまり描かなかったなあと反省しております。
イベントへの参加とそのご報告が忙しかったせいです。
来年はもう少し絵入りでお届けできればなあと思っていますが、
果たしてどうなりますことやら。




 

年忘れ映画ギャラリー その1

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年忘れギャラリー、映画編です。
これも、2013年度後半からお送りしたいと思います。
まずは・・・・・
って、これ映画でもなんでもないですね。



アメリカで読まれている坂井三郎の伝記小説「SAMURAI!」を、
日本の「大空のサムライ」では全く触れられていないロマンス部分だけ
抽出して翻訳した一連のシリーズのまとめとして、
勝手に配役をしてポスターをつくったというだけの絵です。

というかなんでゼメキス監督なんだよー。


それはともかく「大空のサムライ」では語られなかった坂井三郎の
恋人フジコとの出会いと別れ、最初の妻ハツヨとの結婚式、
そして彼女の奏でたピアノ・・・。

「大空のサムライ」の「秘話」のようなこれらのロマンス、
一挙に翻訳してみましたので、ご存知なければ是非読んでみてください。
ただしわたしの翻訳なので至らぬ点もあるかと思いますが。

因みに「SAMURAI!」では坂井と笹井中尉はそれほど親密ではありません()


その1「大空のSAMURAI!」

その2「フジコとサカイ」

その3「フジコとの別れ」

その4「ハツヨとサカイ」

その5「ハツヨとの結婚」

その6「モーツァルトと月光」




「ライトスタッフ」

 

かなり入れ込んで解説したお気に入りの映画。
「実話」「男たちが集団で何かを達成する」
というわたしの好きな映画の要素が満載されている上、アラン・シェパードを
演じたスコット・グレンとエドはるみじゃなくてハリスはわたしの好きな俳優。

スコット・グレンの艦載機ドライバー姿も拝めます。

しかし、こういう映画を見て思うけど、あらためてアメリカってすごい国だなあ・・。

その1 空の男の(Right Stuff)資質とは

その2 「妻たちのマーキュリー計画」

その3 空に挑んだ男たち





「頭上の敵機」(Twelve O'clock High)



「東京上空30分前」で懲りて食わず嫌いになり
観ていなかったアメリカ国策映画ですが、ほんのはずみで
そのことをコメント欄で言ったところ、

「そんなことはない!」

と読者の方々に説得?されて観てみました。
ただの国策映画ではなく人間ドラマに焦点を置いているため
思ったより深みがあっておもしろかったです。



テーマが飛行隊長の「戦闘ストレス」というのがちょいと異色ですが、
これには実在のモデルがあったということが判明しました。

そしてこの映画でも強調していた

「ピンポイント細密爆撃」=「だからアメリカは正義」

について調べたところ、出るわ出るわ(笑)
結構これもアメリカらしい「建前」で、相手が日本になると途端に
正義をかなぐり捨てて無差別攻撃、つまりは細密爆撃をしていたのは
単に効率の問題だったという証拠がずらりと出てきてしまい、あらためて

「戦争に正義はない」

と認識することになったありがた~い(皮肉です)映画。

映画「頭上の敵機」~Twelve O'clock High
映画「頭上の敵機」~Twelve O'clock High 「アメリカの正義」


グレゴリーペックといえば、海軍軍人が遠洋航海でアメリカに行った時、
彼らと一緒に写真におさまっていて、それを見たことがあるのですが、
異人種かというくらい、って別人種なんですけど体型が違い、
まるで子供の中に大人が一人立っているみたいな図になっていました。
180センチくらいはあったみたいですからねえこの人。

当時のアメリカ人が日本人の背の低さをいかに揶揄したとしても、
残念ながら返す言葉なし、と完膚なきまでに思わされた一枚でした。


「あゝ陸軍隼戦闘機隊」



あの加藤隼戦闘機隊、隊長に佐藤充抜擢です。
「隼はい~く~」というあの有名な歌は、まだ加藤隊長が
存命の時に作られたのだとこのとき調べてわかりました。

しかも別の部隊の別の隊長が、プロに依頼して作らせた歌を
隊歌にしていたところ、加藤建男の映画を作ることになった会社が
それをテーマソングにしたために、これ以降この歌は「加藤隊長の歌」
となってしまったという・・・。


わたしが当初の作曲依頼をした丸田隊長だったら、
ちょっと、いやカナーリ嫌な気分になると思います。




加藤の部下、木原少尉の父を演じるのが、その問題の映画で
加藤建男その人を演じて一躍スターになった藤田進。
これも何かの縁なのか。

とにかくこの映画、実際に見ると「なんじゃあこりゃあ」感満載ですが、
当ブログ的には、この一連のエントリは我ながら傑作だと思っています。
(芸風的な意味で)
こんな映画に(失礼?)、しかも突っ込みどころに真面目に突っ込んでいるのは、
当ブログだけだと自信を持って言います。

騙されたと思って読んでみてください。結構笑えます。

あゝ陸軍加藤隼戦闘機隊その1
あゝ陸軍加藤隼戦闘機隊その2



「燃ゆる大空」



先ほどの映画「あゝ陸軍隼戦闘機隊」の劇中でも使われていた歌、
「燃ゆる大空」。
軍歌の中では飛び抜けてリズムがモダンで、(弱起始まり!)
長調のメロディは、特にサビの部分に明るさがあります。
今にして思えば「ウルトラマンのテーマ」に雰囲気がそっくりなのですが、
つまり当時は「超先取的」な戦時歌謡だったと言えましょう。
「空の神兵」もこういった系統の名曲で、こちらが高木東六、
「燃ゆる」は音楽界の重鎮山田耕筰の作曲です。

その「燃ゆる大空」をテーマソングとして生まれたこの国策映画。
曲は明るいのに、内容は思いっきり悲壮で、予科練飛行兵となった
4人の少年たち(といっても俳優の平均年齢30くらい)は、
お話が進むにつれて一人減り二人減り、最後に一人を残して
三人目が戦死する今際の際に軍人勅諭を唱える、という、
あらすじだけ聞いたらそれだけで気が重くなるようなシリアスなものです。

主にこの映画については「国策映画」とは何かということに焦点を置いて
語ってみました。

その1 日本戦争映画の「ドラマツルギー」

その2 「陸軍航空機総出演」

その3 「失われた名場面」



戦時中、慰問映画にするために、リールを軽くするため&「女性が紅涙を絞るような」
シーンを割愛するためにごっそりカットされてしまった(らしい)
この映画のクライマックスシーンを、想像で再現してみました。


その4 「死生一如と軍人勅諭」



国策映画で最後に軍人勅諭を唱えて死ぬ、なんて
おそらく左寄りの人間が観たら(見ないかな)
軍靴の足音でうなされること必至のゴリゴリ戦争賛美だろう、
というのは簡単ですが、その「軍人勅諭」だって、軍人が唱えたから
戦後無茶苦茶言われているだけで、内容を見る限り
特に好戦的なことはいっとらんじゃないか、たとえば自衛官になるときにする
服務の宣誓と比べても、あまりその本質に違いはないのではないのか、
とこの傾向に真っ向から「弁明」してみました。

また、映画のテーマである「よく死ぬこと」=「死生一如」
と解釈してみました。

勢い余って監督の阿部牧男、主役の大川平八郎の英語ネームから

その5 ヘンリーとジャック

というタイトルをつけ、彼らのアメリカでの経歴や映画人としての心情にまで
言及しております。





明日に続く。

年忘れ映画ギャラリー その2

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2013年、2014年度の映画エントリの為に描いた挿絵ギャラリー、
二日目です。
まずは戦争映画の傑作と言われる「ハワイ・マレー沖海戦」。

いやー、このシリーズは楽しみましたね。
もともと一部に熱烈なファンがいるという程度の認識だったこの映画ですが、
細部にこだわってお話ししていくと、実に奥が深く、語れども尽きず、
映像からもストーリーからもネタが溢れ出してくるようでした。

なんと、このシリーズで一つの映画につきエントリを12本制作するという
破格の入れ込みようを見せております。
この辺りから「こだわりすぎて話がなかなか進まない」
という当ブログの特徴が顕著になってきた気がします。

1 予科練生活

2 理想世界と白いリボン

この映画の中で唯一思わせぶりな主人公義一の夢について解説。
予科練のシーンで棒読みのセリフを言っていた若い俳優、
あまりに下手なので「本物の予科練生か」と書いたところ、コメントで
なんとあの木村功の若き日であったことを教えていただきました。



3、九段の母

この映画の批評にあまりにも「国策映画なのに」「国策映画だから」
という冠をつけているものが多いのこの傾向に疑問を持ち、
「国策映画とはなんぞや」ということをわたしなりに考察してみました。

「国策映画にしか出てこないような母親」という批評に対しては、
生身の人間らしい演技で子を戦争にやる母親の内心の悲痛を表現した
この女優、英百合子の演技に言及し、さらにそのことから、

「国策映画においても戦争が悲劇であることは否定されていない」

と定義してみました。



4、日中開戦

5、立花中尉と友田二飛曹の会話

「燃ゆる大空」で無名度を反映して真っ先に戦死してしまい、
なおかつ個人のどころかwikiのクレジットにすらその名がなかった、
本作の主人公義一役、伊藤薫。

容姿は実に平凡で、演技もうまいとはいえませんが、
生きていればそれなりに着実にキャリアを積んで、
戦後、安部徹のようなバイプレーヤーとなっていたかもしれません。
しかし、彼はこの2作だけを残して応召され戦死してしまったため、
俳優としての彼の名前はこの映画に残るだけとなりました。

わたしは劇中、若々しい肉体で演技をしている伊藤薫を見ると、
その後、命を失うことになった戦場で、彼はこの映画に出たことを
どのように思い返したのだろう、などと考えずにはいられません。

その伊藤薫の、この映画中最も美しかった表情を絵に描いてみました。



6、開戦前夜

この映画の魅力の一つに、主人公の姉を演じているのが
原節子であるということがあります。
美しい女優さんというのはいくらでもいますが、
こんな、まるで周りの空気さえ変えてしまうような佳人というのは
原節子をおいて他にないのではないかと思われました。

絵を描いてみて少しでも線が狂うと全く別人のようになっていまい、
どれだけ完成度の高い顔なのか、と妙なところで思わされました。

まだご存命なのですよね。

7、皇国の荒廃繋りてこの征戦にあり

この激励伝聞を作成したのは宇垣纏中将でした。
「どうひねってもこんなのになってしまう」
と本人が嘆いたところの「日本海海戦」の二番煎じ風味の電文。

しかし当映画ではなんと大胆にも、「皇国の荒廃この一戦にあり」と、
おそらく一般大衆向けに、秋山真之考案の文章を採用しています。

しかし、宇垣中将本人が「大和」艦上でこれを見るということがわかったため、
(予想ですけど)慌ててスタッフは長官(大河内傳次郎)の後ろに
宇垣電文をチョークで書いてお茶を濁す、という作戦に出ました。

映画の画面からふとしたことでわかった、制作の裏事情を推理していくのは
とっても楽しく、ブロガー冥利に尽きるエントリでした。




8、「接吻映画」と映画界の左翼化

劇中行われていた「艦名当てクイズ」で、分隊士が

「なんじゃ自分の嫁さんの名前忘れてどうするんじゃ!
これはお前の目標じゃろうが!」

と言っていたのに触発されて描いた漫画です。

それはともかくこの項では、真珠湾攻撃前にラジオで得た現地の情報から、
この分隊士が

「今アメさんは女子と抱きおうて踊っとるのじゃ!」

といって皆がどっと大笑い、という反応をしていることから踏み込んで、
当時の日本人の倫理観、さらにはその倫理観を瓦解させるために、
GHQがわずか戦後1年で日本映画にキスシーンを無理やり入れさせ、
日本人を3S政策でコントロールしようとしたこと、ついでに、
戦後映画人の多くが「左派」になった理由を激しく考察しています。

ここまで話を無茶苦茶に展開させるとは、我ながら恐るべし。
これを書くために久しぶりに読んで、自分に感心してしまいました(笑)



しかもこれで終わらず、古いフィルム原盤に挟まれていたらしい
「あれ」の脚にまで言及した

9、真珠湾攻撃と・・・

ようやく10項目にしてマレー沖海戦にたどり着き、
このときにはすでに戦死していたZ艦隊発見の功労者、
帆足正音少尉のことを知って感激した、

10、敵艦隊見ゆ

やっとクライマックス、

11、Z艦隊轟沈

補足として読者の解説者による写真(実写)に出てきた
軍艦の解析をした

12、付録~軍艦写真解説

まで、なんと12エントリを費やしております。
でも、いろんな意味で大変勉強になった映画でした。
語ることであらたな疑問点が出てきて、それに触発され
周辺のことにも興味を向けることになったのですから。


あゝ特別攻撃隊



ネタ映画なのでとっとと説明してさっさと終わろうとしたら、
いざ始まってみるともうノリノリで突っ込んでしまったのだった。
でも、下手によくできている映画よりこういう抱腹絶倒系(失礼?)
の方が、よっぽど楽しめると思ってしまいました。

自分に迫ってくれないからって空襲の最中外に飛び出して死ぬ女といい、
上空に敵機が来ているのに搭乗する部下と殴りあう上官といい、
もう、これは戦後のお花畑な頭の中にしか存在しないファンタジー戦争物。

兵学校卒士官<予備学生士官という決めつけからして
当時から結構反発されたんではないかなあと思う映画でした。


「あゝ海軍」



本映画の主演は最初市川雷蔵に決まっていましたが、
がんを発症していたため、代役に立てられたのが
二代目中村吉右衛門でした。

本稿は、映画会社の裏事情などにも触れつつ、しかし
どちらかというと大変好意的に解説を進めています。



前半後半に分けるつもりが長くなってしまったので三編になり、
そのために最初の絵を加工してタイトル画を水増ししました。




主人公の平田がラバウルで山本長官機の護衛につき、
むざむざそれを目の前で落とさせたという創作といい、
全体的に映画的なずさんさは見られるものの、特に後半の
兵学校教官となってから、江田島を去るラストシーンは、
この手の映画に辛辣なわたしを妙に感動させました。

個人的には好きな映画です。


「不沈艦撃沈」



戦意高揚ものを撮るしかない当時のご時世で、
このテーマの映画を引き受け、その制限の中で
見事なエンターテインメント作品を作り上げた監督マキノ雅弘。

面白いか面白くないか、というと、わたしのような映画の見方を
するわけではない一般の方々にとっては全く面白くありません。

しかし、制作の裏側事情やら、それまで左翼系劇団にいたという
俳優の小沢栄太郎の堂々たる海軍大佐ぶりやら、
当時の日本人の戦時における覚悟のあり方など、
考察するには全くもってこいの題材だったと言えましょう。




「戦争物」ではありませんから、女優さんもふんだんに出てきます。
井上正夫という俳優の、三歩歩いてセリフ一言だけという
大物演技から、この人が重鎮だったらしいこともわかりました。
現在全く名前が残っっていないというのはご本人にとっても無念でしょう。

1、工場班長の語る「抑止力」

2、沈黙の海軍

3、開戦




アメリア 永遠の翼



「女流パイロット列伝」シリーズで扱ったこともあるアメリア・イアハートですが、
その資料調べ段階で映画があったことを知り、購入しました。
ドラマとしてよくできているし、映像が美しいのでとても見やすかったです。



2、アメリアとジーン

夫であったジョージ・パットナムとの関係について、
映画でも語られた愛人、ジーン・ビダルを交えて語ってみました。

ついでに、教えていただいてアメリア役をしたヒラリー・スワンクが
性同一視障害の女性の愛と死を描いた映画、
「ボーイズ・ドント・クライ」を知ることになりました。
これは・・・確かにショッキングな映画でしたが。 




3、KHAQQ, Can You Hear Me?

4、ラスト・フライト
 

そしてその最後の飛行と、アメリアの死後のパットナムの行動から、

「アメリアが死んだことで彼らの物語は最も美しい形で終わった」

と結論付けてみました。


映画について語るのは、自分でも見えていなかった部分に気づかされることもあり、
大変知的興奮を伴う作業です。
絵を描く楽しみもあるので、これからも新しく発見した映画を
みなさんと語りながら考察していくのを楽しみにしています。


 

 

年忘れ人物ギャラリー(付・坂の上の雲シリーズ)

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年忘れギャラリーシリーズ、人物編です。
まずは、映画「マリリン七日間の恋」の為に描いた
マリリン・モンロー本人の絵。
この映画はマリリンを演じた女優がいまいちだったので、
というか演じられる女優は今後も決して現れないということを
証明するだけの映画になってしまった感があります。
キャストを引き受けた女優さんの勇気もさることながら、
あの女優にマリリンを演じさせようとした制作も大概だと思います。

この映画のことをチェックするために検索したら、その後、
実写フィルムと証言と女優がマリリンの書き残した日記を読む、
という構成で作られた映画、「瞳の中の秘密」というのが
制作されていたことを知りました。


  『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』[HD]映画予告編

観るならこっちでしょうね。 
ついでにわたし的に不評だったこちらのトレーラーも。


  映画『マリリン 7日間の恋』予告編(120秒版)

今トレーラーを初めて見たのですが、イギリスでの記者会見で、記者が

「マリリン、夜は何を着て寝るの?」

とあえて二番煎じの(最初はあの『シャネルの5番よ』だった)質問をし、
彼女はそれに対して、

「ヤードレイ(イギリスの石鹸会社)のラベンダーだけよ」

と答えていたのに気がつきました。
字幕は「あなた好みの香りよ」になっていてがっかりです。



鄭成功。

と言いながら実は某公共放送局が当時脚本家に、
皇室のことを「王家」と乱発させて日本人視聴者に挑戦していたので()
それに当てつけというかパロディをしてみました。

鄭成功は台湾中興の祖で、オランダに統治されていた台湾を
取り戻すために台湾人を率いて戦った国の英雄です。

台湾旅行をした時にこの人物の名を冠した南部の名門大学、
成功大学の横のホテルに泊まったことから名前を知り、
調べてみたところ、近松門左衛門が「国姓爺合戦」の主人公にしたのが
まさにこの人物で、しかも彼の母は日本人であったことがわかりました。
「日本を取り戻す」どころか、

「日本を売り渡したがっている」

としか言えないような反日的、売国的な放送内容が今でも目につく
この某公共放送。
鄭成功が目指した「国を取り戻す」をテーマに、
日本と関わりの深いこの人物を金城武に演じさせる大河ドラマ、
こんな番組はおそらく天地が裂けても制作されないだろう、
と確信を持ってパロってみました。

でももしやってくれたら絶対観ます。(監視するためにな)
NHK制作の方、もし見ていたらご一考を。





台湾旅行の後で、現地で吸収したことが多くネタになっています。
これは、台湾のいたるところにある蒋介石像の秘密から、
蒋介石とその妻宋美齢の悪行を主に暴くことを目的にしました。

わたしは日米戦争が起こったきっかけの一つに、この悪女
宋美齢が米国高官たちを色仕掛けで(これ本当)味方につけ、
大衆の前で泣いたりしてアイドルになり、世論を動かした、
という可能性があることを今でも疑っています。

アメリカでもこの人物は決して英雄扱いされていないらしく、
(ルーズベルトは抱き込めたけど、トルーマンは毛嫌いしており、
毀誉褒貶が激しいのはアメリカにとっても同じであった模様)
夏に息子のサマースクールで滞在したボストンのウェルズリー大学では、
こんな有名な卒業生であるにもかかわらず、大学としては全くそのことを無視、
別にメモリアルを作るわけでもなくスルーしていたので、
日本人のわたしとしてはこの大学の見識に感謝した次第です。

アメリカ人から集めた寄付金を夫婦で自分のために使い込んでいた
(特にヨメの方は身なりの贅沢に服やら宝石やら)とか、
戦後台湾での悪行のこともバレていたのかもしれません。

蒋介石と忠烈祠

フライングタイガースと宋美齢とシェンノート

フライングタイガースというのも結局宋美齢が作ったようなもんです。
シェンノートに媚びて、どうも息のかかった女性を斡旋していたのでは?
(シェンノートは糟糠の妻を離縁して若い中国人女性と再婚した)
とわたしはこの辺りも疑っております。

一言で言って日本の天敵、稀代の悪女というやつですね。


 台湾総督総監 後藤新平



「匪賊」「風土病」「阿片」「生蕃(原住民)」

これらの問題が山積していた化外の地、台湾を統治した時、
児玉源太郎と後藤新平の黄金コンビは、実に見事な
『生物学の法則に則ったやり方」(by本人)でその問題を解決し、

「日本は台湾に偉大なことをした」

と李登輝元総統に言わしめる善政を布きました。
台湾にとっても日本にとっても、真にこの人物の功績は彼を
偉人と称えるにふさわしいものだと私は信じるのですが、
戦後日本の自虐史観はそれを決して許さず、従ってこの人物の名は
教科書に載るどころか、媒体で取り上げられることもありません。

特にNHKでは(笑)

なぜそうなのか、ということを、たとえば台湾という国と
日本との関係を語るとき、必ず「植民地支配は悪いことだった」
と当の日本人が思い込んでいることについて、その見えない
束縛を少しでも解いてくれる人がいればいいなと思って、
この項を作成しました。 

当ブログを読む人なら釈迦に説法というやつだったかもしれませんが。 
 

「明日地球が滅びようとも今日君はリンゴの木を植える」 




エントリの内容自体は、石原慎太郎の国会での質疑(というか演説)
をそのまま聞き書きしてその内容に補足しています。

石原氏がホーキング博士の講演に行った際、博士が

 『地球並みの文明をもった惑星は非常に自然の循環が悪くなって、
宇宙時間で言う瞬間的に生命が消滅する』

といい、さらにその地球時間とは100年であるともいった、
ということから、冒頭の言葉

「明日地球が滅びようとも」

を引用して、環境問題への日本の取り組みとその覚悟について
提言したというものでした。

その中で石原氏はこの言葉を

「開高健が色紙に書いていたので誰のかと聞くと、
ゲオルグの言葉だと答えた」

と言っていたのでそのまま書いたのですが、
コメント欄で、この言葉はコンスタンチン・B・ゲオルギウが著書で紹介した
マルチン・ルターのもので、さらに石原氏はこのゲオルグを
ゲオルグ・トラークルという全く別の詩人と勘違いしている、
ということを教えていただきました。

どなたか石原氏に話の通じる方がおられましたら、ぜひ
この勘違いに対して訂正をして差し上げてください。



リーツェンの桜~ドクトル肥沼を知っていますか




何かの検索をしていてふとしたきっかけで知った人物です。
ドイツに留学しそこで堂々と日本人の優秀性を説き、
自身はポーランドのリーツェンというチフスに乗っ取られた街に
一人とどまり、時には無報酬で彼らの診療にあたり、
そして自らがチフスになって客死した日本人医師がいました。

肥沼信次

です。
日本人である街の恩人の顕彰のために、リーツェン市では「肥沼杯」という
柔道大会が毎年行われ、さらには日本からその後贈られた桜が
街の通りに毎年花を咲かせているのだそうです。 


「秋山真之」



坂の上の雲シリーズのためにとりあえず秋山真之と、
演じた本木雅弘を並べて書いてみました。

このNHKのドラマには、司馬史観への突っ込みも
色々とさせていただき、ネタ元として猛烈に感謝する次第です。



「ニコライ二世の憂鬱」

ニコライ二世、ボリス・ビルキツキ、そしてアリアズナなど
「ロシア関係」について語ってみました。(←自信作)



「坂の上の雲」の二人の女たち

このドラマで秋山真之をめぐる幼馴染みの律さんと、
妻の季子の間に起こった(であろう)女同士のさや当て。
こんな創作をするNHKってどうよ、という抗議の意味も込めて
突っ込んでみました。(←ある意味自信作)



「義和団事件は大国の謀略 by NHK」

ついでにNHKの自虐史観炸裂した場面について
こまめに突っ込んでおきました。
義和団事件という、清朝末期の秘密結社が大国に宣戦布告し、
それを西太后が利用した事件を、NHK、なんと大胆にも

「大国がかわいそうな中国国民を弾圧した」

ということにしてしまっています。

ええ加減にせーよ、ええ加減に。(怒)

今絵につけたキャプションを見て気づいたのですが、
小学4年生を騙って解散を批判した民主党つながりの奴といい、
「父はあの日から帰ってこなかった」と蹲る子供を使った社民のポスターといい、
集団自衛権全般でも沖縄でも同じような構図を見るのですが、
一体左翼というのは、どうして常に子供を盾にするのでしょうか。

このシーンだって・・・・あっ(察し)



「語られない歴史」

なぜか東郷司令長官がロジェストビンスキーの見舞いをしたことや、
水師営の会見など、日露戦争を描いたもので日本人が見たい!
と思うシーンをことごとくカットして、幼馴染と妻の女の戦いやら、
主人公のPTSD(ポストトラウマチックストレスディソーダーズ)
やら虐げられた中国人の人権やらを強調してくれたNHK「坂の上の雲」。

なぜこれをカットしたか?

そういうことにこだわると、
この放送局が目指す方向が、自ずと見えてくるような気がしました。

ついでに、日露戦争についてかなり詳しくなりました。
防衛省の戦史資料によって、新たに分かった
(というか司馬良太郎に騙されていたと分かった)こともあり、
大変な勉強をさせていただくことになったと感謝しております。


いや、決して皮肉ではなく。


続きます。

 

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