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地方総監部訪問記~地方音楽隊庁舎での『出会い』

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地方総監部での海将との会談(やっているのがわたしであることを除けば
本当にそんな感じで進んだ)が終わり、海自公用車で音楽隊庁舎まで
送っていただき、中を見学という運びになりました。 

 

見よこれが地方音楽隊の練習室である。

ちょうどお昼時間だったので楽団員の皆さんは楽器をそのままにして
全員席を外しているところでした。 

練習中であれば音楽隊長は案内できなかったということなのですが、
もしかしたらそのときは隅っこで練習を聴かせてもらえたのかもしれません。

そこでこの練習室の様子を仔細に眺めてみると、オケのためのひな壇は
ステージの前に一段低いステージを設えてつくってあります。
さすがは自衛隊の音楽練習室だけあって、床には塵一つありません。
おそらく朝には練習までに皆で清掃をすることから始まるのでしょう。

コードリールもちゃんと巻き取られたものが一所に固められているし、
タオルがかごにまとめて入れて置いてあります。

管楽器奏者の椅子の足元を見ていただければ
一枚ずつタオルが置いてあるのにお気づきでしょう。
管楽器を一定時間吹いていると先から唾液が滴り落ちるのですが、
それを受けるためのタオルなんですね。

先日、晴海埠頭で練習艦隊の帰国行事が行われましたが、
そのとき、一連の遺骨帰還の儀式の間中「海行かば」を演奏していた
東京音楽隊のクラリネット奏者の楽器からは、長時間に亘る演奏の途中、
埠頭に水分が盛大に滴っているのをわたしは目撃しました。

さすがに演奏会でこういうことはしませんが、毎日練習する場所なので
専用のタオルを使うことになったのでしょう。
さすがは自衛隊。ってなにがさすがなのかわかりませんが。

設えた中段のステージの下はスペース利用で、大型楽器の
楽器ケースを収納する場所になっているようです。

この桜松館が出来た当初というのは、奥のステージで時には
音楽会なども行われたに違いないのですが、今ではここは
音楽隊の練習以外に使われることはなくなったのかもしれません。

ステージの後部にはついたてが立てられ、 
後ろにも楽器ケースなどがまとめて収納する場所になっている模様。
専用の練習室ではないので、プロオケのような「楽器庫」などは
おそらく無いものと思われます。

 

ステージ中央の上部のレリーフは音楽隊の紋章です。
「呉」という図案化された文字が桜の花に描かれ、
葉と共にあしらわれた意匠は・・・楽器?

と思ったのですがなんとこれ、

「砲塔と錨」

なんだそうです。



遠目にクラリネットだと思っていたのですが(笑)
言われてみれば砲塔でした。
「どこが錨?」という疑問も、アップにして初めて解明しました。
葉は実がついているのでどうやら南天のよう。
リボンの影に喇叭の吹き口らしきものも見えます。
「呉」という字の周りにも実のようなものが見えますが、これは
桜のめしべを表現しているものと思われます。

呉に鎮守府開設以来創設された軍楽隊をわたしは過去ログで
「呉軍楽隊」と書いているのですが、正確には

呉海兵団軍楽隊

という名称で、横須賀海兵団で最初訓練を受けた軍楽兵たちが
呉に派遣され結成されたものです。
最初の公式演奏は、1890年の呉鎮守府の開庁式におけるものでした。

このマークは勿論呉海兵団軍楽隊のシンボルとして制定されました。

この音楽隊を訪問すると渡される資料では、この軍楽隊時代のことは
全く触れず、いきなりプロフィールが

「海上自衛隊呉音楽隊は、1956(昭和31)年に創設」

から始まっているのですが、隊章がそのまま引き継がれているということが
示すように、当音楽隊の前身が呉海兵団軍楽隊であることは明らかです。

この歴史が全くなかったことのようにされているのはなぜなのか・・・。

少し軍楽隊の歴史に付いて述べておきますと、海軍には
1871(明治4)年に海軍軍楽隊が発足し、1878(明治11) 年には
軍楽隊員の一般公募が開始されるようになります。
1889(明治22)年には数々の諸条例、規則が制定され、
海軍軍楽隊の制度が確立された翌年、呉海兵団軍楽隊は生まれました。
つまり呉鎮守府の開庁に合わせて創立されたということですね。

この時同時に佐世保海兵団軍楽隊も配置されています。
これが現在の佐世保音楽隊の前身です。



この練習室を横切り、反対側の道に面したドアからは外に出ることが出来ます。
そこ広がる風景が冒頭写真。

この道は「美術館通り」という名前が付けられており、
道を挟んだ向こう側には入舟山公園と並んで呉市美術館があります。



「美術館通り」という名に相応しく、道の両端にはこのような
ブロンズの彫塑などが点在しています。
ヴァイオリンを弾く女性像。



同じ作者によるフルートを吹く女性像。
楽器を演奏しているモチーフである理由は勿論、
この通りに面して音楽隊の練習室があるからです。

「この練習室は防音装置が付けられていないんです」

と音楽隊長。

「そして道に面した部分はガラス張りです。
ここを通りかかる観光客が立ち止まって見ることができるように」 

つまりこの通りは

「練習室から流れて来る音楽隊の演奏」

というのも「風景」のひとつとしているからなのです。 
桜やツツジの名所でもあり「日本の道百選」にも選ばれたとか。 



次は音楽棟の中を案内してもらいました。
まだ練習が終了していないことを、
この無造作に置かれた楽器が表わしています。

左のフルートはおそらく14金製だと思いますが、プロの好む材質で、
大きなホールの演奏に向いた輝きのある音質が得られる、
と言われています。

尚、わたしがある楽器に目を止めて「こんなところに置いてある」
と何気なくいったところ、隊長はそれを見て

「手入れが悪い!」

と言い切りました。(; ̄ー ̄A いいのかな



(画像に意味なし)



続いてこちらはちゃんと防音設備のある練習室です。
わー、何だか学生時代を思い出す眺め^^

せっかく防音材を壁に貼っているのに、天井に穴が開いていては
あまり意味がないと思うのはわたしだけだろうか。



こういうのも懐かしいなあ。
メトロノームは練習室の必需品です。

緑のフェルトは管楽器の唾液受け()用ではなく、おそらく
コントラバスのエンドピン用だと思われます。
カーペットがボロボロになってしまうんですよね。



「基本奏法の反復演練」

えんれんと打つと真っ先に「遠恋」が出てくるのですが(笑)
「演練」という単語はちゃんと存在して、その意味は

「本番さながらの演習。訓練。」

というものです。
基本奏法即ちスケールなどを「本番さながらに訓練」せよと。


ところでこの練習室の壁を見ながら、わたしは海軍軍楽隊の厳しさについて
ある話を思い出したのでふと隊長に聴いてみました。

「音楽隊の練習は厳しいんでしょうか」 
「厳しいと言いますと」
「海軍軍楽隊みたいに、練習室の壁が血で染まるとか」

途端に隊長と同行の1佐が声を合わせて

「それはありません!」
「そんなことしたら大変なことになります!」

勿論言ってみただけです(笑)
でも海軍時代にはこれ本当のことだったんですよ。
間違ったらバッターで殴られるとか(なんでやねん)。
罰直で全員が自分の楽器を頭の上に掲げて中腰とか(もっとなんでやねん)。


戦後の音楽教育、特にブラスバンドの体育会気質、というのが
海軍軍楽隊のこの「軍隊式」から来ているというのが、いくつかの書物で
その世界を垣間みたわたしの考察なのですが、
少なくとも自衛隊音楽隊においてはその気質は規律にのみ残り、
体罰パワハラの類いはむしろ御法度であるということのようですね。



見学が始まった練習室前の廊下にもう一度戻ってきました。
そこにはガラスケースがあり、資料が納められています。

前に一度このブログで書いたことのある河合太郎軍楽隊長の
使った指揮棒が無造作に置かれています。
大和ミュージアムでは河合太郎の特別展が行われたようですね。



上段左から:

日本海海戦を記述した昭和2年発行の本。

東郷ターンが図解されているページです。
右のレコード盤は、

海軍軍楽隊録音のレコード

呉海兵軍楽隊のものかはわかりませんが状況的に多分そう。

下段:

河合太郎を主人公とした映画「海ゆかば」の脚本
戦艦「三笠」?の上の軍楽隊と河合の写真




戦後自衛隊音楽隊が創設されてからの写真です。

上段は「高山隊長」来隊記念、
下段は「河合先生」指導、

とあります。

左の丸い写真立ては、

トルコ軍艦遭難100周年記念

つまり、エルトゥールル号が1890年に和歌山県串本沖で遭難してから
100年後の1990年に、何か記念行事が行われ、それに音楽隊が
演奏で参加したということだと思われます。



音楽隊録音によるCD。
一番右は当音楽隊庁舎入り口ですね。



ブラスバンドの世界では有名な作曲家、
ジェームズ・チャールズ・バーンズ氏来隊記念色紙。

アルヴァマー序曲(←いい曲)などが有名です。


 
この地方総監部に勤務していたある海将補が、当音楽隊に寄贈した記念。

海将補閣下は楽器を能くし、音楽隊の演奏会にエキストラ参加を、
しかも後ろの「奏でた日々」を見る限り何度もされていたようです。

これは、その方が転勤でこの地を去るときに寄贈していったもので、
フルートとホルンのミニチュア、演奏の足跡と転勤で要らなくなった
(昇進されたってことですね)海将補の肩章が、写真等とともに納められています。

五線に描かれているのは、行進曲「軍艦」のフルートのパート、最初の4小節部分。

おそらく実際に着用していた肩章をこうやって残して往くほど、
海将補閣下にとって音楽隊は特別な存在だったに違いありません。


ところで。


この音楽隊を検索すると、必ずあるトロンボーン奏者の個人名が
同時に引っかかって来ることをご存知でしょうか。



じゃーん。

はい、この方ですね。

写真集「国防男子」発売以来、すでに全国区で有名なので、
今さらご尊顔を揚げても良かろうと判断致しました。男前だし。

この音楽隊員の検索に関してはわたしにもちょっと責任があって、
昨年の自衛隊音楽まつりでヴォーカルソロを務めていたことから、
自衛隊内の情報網をつてに名前やら経歴やらを突き止め、
それを当ブログエントリにアップしたこともあるのです。

調子に乗って勝手に「海自王子」なんてあだ名をつけたりとかね。

 
どうしてお昼休み時間で隊員が誰もいないのに、ピンポイントで
王子だけがこうやって微笑んでいるのかと言いますと、
当音楽庁舎に到着後、音楽隊長や総監部の1佐と雑談をしていて、
TOが

「自衛隊に歌手はいないんですか?」

と、わりと今さらなことを質問したのに対し、わたしが受けて

「何を今さら。三宅由佳莉 二曹がいるでしょう」

というと、TO、

「いやあの写真集の『国防男子』に、確かいましたよね?歌手」

音楽隊側、

「あ、あの『国防男子』、うちのトロンボーンなんですよ」

というわけで、気を利かせてこのM海曹を呼んで下さったというわけ。
せっかく呼んでもらったのだからと、まずは音楽まつりの感想を述べ、
さらにはテレビの「ハモネプ」での成り行きを改めてお聴きし、
その”イケ面”をカメラに収めさせていただいた次第です。

「国防男子以降、騒がれて色々と大変だったんじゃないですか?」
「はあ・・・」

肯定も否定もせず微笑みつつ曖昧に返事するM海曹。
別ルートから聞いた話によると、ハモネプの頃には特定の「おっかけ」
がいたというくらいですから。
すると音楽隊長が、

「彼、もう結婚して10年になるんですよ」

それはたしか不肖宮嶋さんの写真集にも書いてあったので知ってます。
というかわたし、おっかけの話を聞いたときに、

「いたことも『ある』と聞いたけど今はいないようなので、
おそらくその間、M海曹が結婚して解散したにちがいない」

と予想したりしていたんですが、当たってたってことなんですね。
しかし結婚10年ってことはもう30前半って感じ?
さすがは王子、若く見えるわー。




隊長が「せっかくですから三人で是非」と撮ってくれました。
どうも彼は、当音楽隊の「顔」になりつつあるようです。
今年の音楽まつりでも活躍が期待されますね。



見学が終わって庁舎を辞するとき、このような
記念品セットを頂きました。
中には呉音楽隊のパンフ(海上自衛官募集コールセンター電話番号付き)、
ミニタオルやうちわ(丸くて仰げるように指を入れる穴があるのでたぶん)
ボールペンなどが入っていました。


この歴史的な建物を見学することは、実は以前からの希望でした。
今回地方総監部への訪問と音楽隊庁舎見学が同時に実現し、
さらには噂の王子様に合い見(まみ)えることまででき、
いっぺんに色んな望みが叶ったというわけです。

旧海軍の名残りをあちこちに残すこの呉での海自体験。
古い建物だけでなく、旧海軍の伝統をいたるところに受け継ぐ
海上自衛隊の今の姿を目の当たりにし、
あらためてその血脈の濃さを感じた訪問でした。


ただ、ひとつだけ。

旧海軍の歴史を後世に過たず伝えて行くのも、
また海上自衛隊の使命であるとわたしは思います。
音楽隊の歴史を語るのなら海兵隊軍楽隊から始められるべきでは?
という提言をひとこと付け加えてさせていただき終わりにします。





 


平成26年自衛隊音楽まつり~フォーカスがかかっている理由(わけ)

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この週末は素晴らしい秋晴れに恵まれましたが、その一日、
わたしは武道館で行われた「自衛隊音楽まつり」に行ってきました。

去年初めて観てそのパフォーマンス力、メッセージを持った
ステージの完成度の高さ、何よりも音楽隊の練度の高さに、すっかり
音楽まつりファンになってしまったわけですが、それはわたしだけにあらず、
人気が高すぎて、入場券の応募倍率は10倍というのが近年の状況です。

去年は一般公募の部に青少年券を応募し当選しましたが、今年は
いつの間にか葉書代が値上がりしていたのを知らずに出したので
往復はがきが料金不足で差し戻されてきて、面倒なので80円の切手を
貼って出したらまたどういうわけか差し戻されて、そうこうするうちに
応募期限日が過ぎてしまいました。 (ノ・∀・)ノ =====┻━┻

orz状態になっていたのですが、捨てる神あれば拾う神あり。
ふたを開けてみれば某所からチケットを頂けることになりました。
政府関係の主賓挨拶を含む招待者だけの公演だそうです。m(_ _)m

10時からの公演なので、北の丸公園の第1駐車場に車を停めるため、
オープンの8時30分より少し前に現地到着。
駐車場の開場待ちで道沿いに並んでいる車の列最後尾で待ちます。



車を停めてからとりあえず第3入り口を目指して歩きました。
吉田茂翁の銅像を朝日が照らしています。



会場前に携帯椅子を置いて並んでいる何人かの人がいるので

「ここに並ぶんですか」

と自衛官に聞くと、

「これは2時からの公演の順番待ちの列です」

なるほど、2時のは一般公演なので席を自分で確保するために
みんなこんな朝早く(8時半)から並んでいるのか。
10時公演はもう開場されていました。
つまり今回は全く外で並ぶことなく入場できたのです。



チケットを見せながら入って行くと、自衛官が人数を聞いて
順番に席を割り振っていくので、自分で選んで座ることはできません。
わたしの席は政府関係者並びに外国武官関係者、その他関係者の
紫色チケットの両脇の「赤の席」でした。



一部だけ非常に混雑していますが、これも座る席が皆決められるため。
おそらく緑色チケットの招待客だと思われます。
つまり招待客は朝早く並んでもあまり意味がないってことらしいですね。



さて、席に落ち着いたのでお茶を買いにロビーに出ました。
チケットには招待者の名前による区分があり、たとえばわたしのは
「本部長招待」になっていましたが、ここには「空幕長招待席」とあります。

なぜ「陸幕長・海幕長」が無いのかというと、持ち回りで
今年の主催が空自だったからだと思われます。



各自音楽隊の音楽隊長のインタビューが流されていましたが、
それによると、今年の総合指揮を行ったのがこの水科2等空佐。
メインを受け持つ隊は毎年交代で、今年は空自だった、
つまり観閲式を行う隊が音楽まつりも主導するということなのでしょう。



水科空佐が出たのでこちらもご紹介すると、東京音楽隊の
隊長である手塚裕之2等海佐。
今年の2月に退官した前隊長の河邊2佐の後任です。

「海上自衛隊は必ず行進曲『軍艦』で錨のマークを描くのを
毎年の恒例としている」

と海自のパフォーマンスの予告をしていました。



お茶を買いにロビーに出てみると、立ち入り禁止部分で控えている
音楽隊のメンバーがいました。
まだ青い作業着(っていうんですか)を着ています。
着替えはギリギリにするんですね。



これが開演10分前の状態。
招待客だけで満席です。



そして開演。
公演に先立ち、防衛大臣政務官の挨拶。
この石川ひろたかという議員は創価大学出身の公明党議員です。
そのせいなのかどうか、会場には公明党の山口なつお党首も来ていました。

この石川政務官の挨拶をわたしは自衛隊イベントで初めて聞きましたが、
何ともいえない公明党らしい雰囲気の人物だと思いました。

物腰柔らか微笑みを湛えつつ、もっともなことをいっているのだけど、
「エンドウ豆の上に寝たお姫様」という童話でいう「羽枕の下のエンドウ豆」
のような「何か」が、柔らかな物腰の一番奥底に感じられるとでもいいますか。

怖いのでこれ以上言及しませんが。

因みに、こういうイベントには必ず公平に?各党の議員を招待するようですが、
最後に紹介された民主党の聞いたこともない女性議員(しかも本人欠席で代理)
のときには、周りの拍手がいきなりなくなりました。
そしてなぜか空気も大変微妙なものに・・・。

今解散したら、おそらく民主党は消滅するに違いない、
とわたしはこの会場の反応から思いました。



そして開演。
恒例に従って最初に、陸上自衛隊第302保安警務中隊による国旗入場です。

ところで今日の写真にはどれもこれも、なぜやたらとフォーカスがかかっているの?
と不思議に思った方はおられますか?

よくぞ気づいて下さった。

実は、航空祭の後、レンズの手入れをちゃんとしていなかったわたし、
駐車場待ちの時間を利用して、車の中でレンズクリーンしようと思ったのです。

しかし!

使ったことのないレンズクリーナーを車の中などで使用したため、
押し出し過ぎた液がレンズの上に水たまりを作ってしまったのです。
すぐに拭けばおそらく問題なかったんですが、万事に遺漏のあるわたし、
こんなときに拭き取りの布を忘れていて、それを拭くすべがありません。

アルコールなのでほっとけば勝手に乾くだろう、と思ったときに

車が動き出したのでそのままレンズキャップを閉めて

次にカメラを取り出したときには、ふた締めて中で15分蒸らせば
出来上がり、じゃなくてあら不思議、レンズの内側に水滴が。

レンズとレンズ胴の間には隙間がある、とこのときに知りました。

というわけで、この日の写真には全てこれ以降ソフトフォーカスが。(T_T)

まあ、フォーカスレンズで撮ったと思えば、こんなもんだよね?
と画像加工をしながら開き直っているわたしです。 



国旗に対して皆起立し、国歌斉唱を行います。
別に心配になったわけではありませんが、山口なつおくんは
ちゃんと君が代を歌っているのだろうか、とそちらを窺うと、
周りの人よりも大きな口を開けてちゃんと歌っていました。

公明党は靖国参拝には反対ですが、国旗国歌法に賛成の立場です。



オープニングセレモニーではまずゲストバンドが紹介されました。
今年の海外からのゲストは、同盟国アメリカから在日米陸軍、沖縄の海兵隊、
そして初参加のフィリピン海兵隊軍楽隊、2度目のオーストラリア陸軍軍楽隊。



オーストラリア陸軍の敬礼の仕方が目を引きました。
完璧に手のひらを外に向けてするんですね。
なんだろう・・・オリジナリティ追求の結果?



オリジナリティといえば、この騎手の気をつけの仕方も
大変目を引きました。
極限まで肩をいからせるのがオージー風のようです。



本日のテーマは

from Japan (第一章)


to Asia(第二章)


to the world (第三章)

となっています。
三部構成で去年は「陸」「空」「海」だったと思うのですが、
毎年アプローチも変えているんですね。
毎年毎年こういうことを企画する部署というのは
大変だろうなあと思います。 



第一章ではこれは例年通り陸自の方面音楽隊から始まります。
去年はたしか沖縄から第15旅団音楽隊が参加して「島唄」を演奏しました。

今年は思いっきり北の北海道から、北部方面音楽隊が参加して、

「季節の中で」(松山千春が北海道出身だから?)
「故郷」
「虹と雪のバラード」(札幌オリンピックテーマソング)

を演奏しました。



東部方面音楽隊はまずオープニングで銀杏の形を作ります。
(ですよね?)



ドリル演奏では、MOVE ONと朧月夜。



このような陸自の制服を見たのは初めてです。
一瞬海自から借りて来たのかと思いました(笑)
しかも、男性二人のデュオ。

昨日一昨日と呉にある音楽隊の訪問記を挙げましたが、それはこの
音楽まつりの予告編としての意味も兼ねていたつもりです。
特に、去年このようにデュオで美声を披露した海自のあの男性歌手が、
今年もてっきり参加するものだと思ってのことだったのですが、
今回の音楽まつりで彼の姿を見ることはありませんでした。
去年歌手を務めた隊員も必ずしも今年歌手として出ているわけではなさそうです。


つまり、去年は海自から男性デュオを出したので今年は陸自、という風に
こういう出演グループもどうやら持ち回りでやっているらしいのです。

前にも言ったことがありますが、管楽器奏者は息を使うのが仕事ですし、
ピッチを息で調整する楽器も多いため、音程、声量ともに歌手レベル、
つまり普通に歌のうまい人がゴロゴロいます。
10人いれば6~7人は上手くて普通という世界なのです。

なので、決して不思議なことではありませんが、自衛隊における
「潜在的歌手」は出番に行列ができるくらい層が厚いらしいのが
あらためてこれで明らかになりました。

自衛隊音楽隊恐るべし。



続きます。 

 

平成26年自衛隊音楽まつり~防大儀仗隊の紅一点

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先週末武道館で行われた自衛隊音楽まつりの参加報告、続きです。
その前に、前回の記事で

第四章 for Japan 

を書くのを忘れていたことをおわびいたします。
森のくまさんからご指摘を受けたのですが、パンフレットを折ったまま
あの部分を書いていて次のページにある第4章を飛ばしてしまってました。

第4章はおなじみ自衛太鼓『陣』とフィナーレで、一番盛り上がったというのに。
これじゃ本当に行ったのか疑われてしまいそう(意味深)



第1章の「from Japan」では、ゲストバンドの

アメリカ海兵隊第三海兵機動展開部隊音楽隊

がドリル演奏を行いました。



何と驚いたことに(会場で驚く人はあまりいなかったかもしれませんが)
彼らがドリル演奏に選んだ曲は、

行進曲「黎明」 黛敏郎作曲

防衛大学校のために作曲されたこの曲を、海兵隊は今回、
我が日本国自衛隊に敬意を表して選んでくれたようです。
「黎明」は黛の作曲らしく民族主義的な色合いを残す、
ドラマティックで憂愁を帯びた旋律が印象的な名曲です。

前にも一度書いたことがありますが、昔学生同士で

「知ってる?黛敏郎って右翼なんだって」

という会話をしたことがあります。
今「黎明」の作曲年月日を調べる為にwikiをみていたら、
黛敏郎について別に知らなくてもいいこんなことを知ってしまいました。

 楽壇では珍しく保守派文化人となり、1970年代後半に結成された
保守系団体「日本を守る国民会議」議長を務めた(現:日本会議)。
だが、このため左派色が強い楽壇からは事実上排斥され、(略)
純音楽の創作は極端に少なくなった。
 

黛が保守派に「なった」のは1970年頃からとありますが、
「黎明」の作曲は1964年ですし、「急になった」というのも変な話です。
元々保守思想の持ち主だったんじゃないでしょうかね。

wikiでなければネタかと思ってしまいそうな

カンタータ「憲法はなぜ改正されなければならないか」(1981)

なんて作品があるのも知ってしまいました。
いや、わたしも憲法は改正されなければならないと思ってますがね。

・・しかし、カンタータにしちゃうかなー。


という面白い話はともかく、この「黎明」をドリル演奏する
海兵隊の皆さん、かっこいいですよね。
海兵隊の軍服姿の格好良さは異常。
何を入れるのか知らないけど赤いウェストバッグがまたよろしい。

岩国基地の海兵隊を訪問した際、H−16ドライバー夫妻ののお家に
遊びにいって、お二人の結婚式の写真を見せてもらったことがあります。
この新郎側の友人がこの格好で出席し、サーベルの下をくぐってました。

こういうときに最も絵になるのが海兵隊のこの軍服なのですよ。
おまけに結婚式会場上空にはホーネットが祝賀飛行を!(一機だったけど)
自衛官の結婚式もメスジャケットでよろしいですが、さすがに自衛隊は
一隊員の結婚式にF−2飛ばしてくれないだろうしなあ。

いつかこの二人のこともお話ししたいと思いつつ1年経ってしまいました(; ̄ー ̄)



過去の映像からどうやら海兵隊得意のパフォーマンスとみた。
打楽器群並んで技炸裂。

 

そして、海兵隊の歌手はこのトロンボーン奏者。
無茶苦茶上手かったですよこの人。
「管楽器奏者」+「先天的に音感のいいアフリカ系」
で最強です。何が最強かようわかりませんが。

彼が歌っているのは

「Happy」 ファレル・ウィリアムス

ファレルもアフリカ系で、リズムのノリはもう本家、って感じ。
なかなかハッピーな曲なのでご存じない方はぜひ聴いてみて下さい。


Pharrell Williams-HAPPY-日本語訳&歌詞



第1章のラストは在日米陸軍軍楽隊。
座間キャンプから来ております。
スーザホンのフジヤママークは在日米軍オリジナル。



今年も出ました米陸軍音楽隊の歌姫。
去年は男性歌手とのデュエットでM.ジャクソンの「ユーアー・ノットアローン」、
EXILEの「ライジング・サン」を聴かせてくれたのと、同じ人だと思います。
髪型が変わっているので断言はしませんが。

歌は「スキヤキソング」こと、「上を向いて歩こう」です。
このスキヤキソング、英語の歌詞もありますが、

「もしあなたがここにいて涙を取り去ってくれたら
太陽はもう一度輝いてわたしはあなたのものになるのに
でも現実にわたしとあなたはそんなことには決してなりっこない
あなたはわたしの愛をすっかり持って行ってしまったの」

という実につまらない失恋ソングになっていて、
同じ失恋でも

「涙がこぼれないように上を向いて歩く」

という原曲の洒落たひねりのある歌詞とは全く次元が違います。

ただ、メロディは文句無く美しいので、未だにアメリカでは
何人もの歌手がカバーをしていますね。




続いてはもの凄く安定感のある(見た目も音も)サックス奏者が
ビートルズの「ヘイ・ジュード」のソロを。



「ナーナーナーナナナッナーーーナナナッナーヘイジュー」

の部分をアカペラで観客にも歌わせながら歩き回って手を振る演出。



「なーなーな」が続いている間に後ろのカーテンが開き、
自衛隊音楽隊とゲストバンドの皆さんがなだれ込んできました。



全員で「なーなーな」を繰り返しつつ隊形を作ってしまいました。



この並び方を見ても全くアトランダムなのに、どうやって
いつのまにか隊列を組めてしまうのか。
おそらく合同練習なんてせいぜい2~3回だと思うのですが、
さすが全員がドリルを本職にしているだけのことはあります。


と妙なところでわたしが関心している間にも曲は盛り上がりを迎え、
そのまま第一章は終了。



音楽まつりのいいところは、コンサートなのに途中休憩がないことです。
次々と目の前に濃い内容のパフォーマンスが展開され、
全く退屈したり厭きたりする間もなく一気呵成に2時間が過ぎて行きます。

黙って座って音楽を聴くコンサートが苦手な人でも音楽まつりなら好き、
という人は多いのではないかと思われます。
耳だけでなく目でも楽しめる工夫が濃縮されて詰め込んであるからですね。

その代表が防衛大学校儀仗隊によるファンシードリル。

流されていた紹介ビデオでこんな映像がありましたが、こういった
夏服バージョンでも儀仗を行うのでしょうか。
それとも単に夏場の練習風景?



項末にYouTubeをお借りしてきましたので
ぜひ通して観て下さい。

十字が一回転する度に一人ずつ加わって大きくなって行くフォーメーション。



このあとはガーランド銃を回したり投げ上げたりの一連の演技。
この写真は画面が特に幻想的なフォーカスがかかっていますが、
その理由は前回お話ししたレンズの曇りです。

レンズクリーナー液をレンズの上にぶっちゃけたまま蓋をしたため、
レンズ内に液が入り込んで曇りをつくってしまったのです。

因みにこの後、わたしはよんどころない用事の為、千葉県浦安にある
某ディズニー系娯楽施設に行かなければならなかったのですが、
曇りは一日取れることはなかったのでディズニーでの写真も皆フォーカス掛けです。

これはレンズ買い替えるしかない、と内心あきらめていたところ、
次の日の昼頃には乾いていました。ひとまず命拾いです。





まだ大学生だからか、彼らを見るとまず「かわいい」と思ってしまいます。
きびきびした動きはかっこいいし、凛々しいのも確かなんですが、
寸分の狂いもない動きを正確にこなすこのドリルを見ていると、
「鉛の兵隊さん」という言葉を思い出したりして。



防衛大学校儀仗隊は、ご存知の通り防大の儀仗兵です。
防大に来校されるVIPに対して儀仗を行うことが存在意義です。
ファンシードリルを練習、訓練するのは、メインの任務である儀仗を
行う為の技量の維持・向上の意味があるのです。

つまり、ここでやっていることは「最終目的ではない」ってことです。



後ろから4番目は女子学生ですね。
去年の防大開校記念祭で、近くに座っていた防大生の母親が
グラウンドで行われているファンシードリルを見ながら

「うちの子は(儀仗隊に入るのは)あかんかってん」

と話しているのを小耳にはさんで、どうやらこのメンバーになるには
全員が必須科目として課業で行い、その中から特に適性のある生徒を
選抜して編成するのではないかと思われました。




この女子生徒は今年の編成で一人だけ入ったメンバーだそうです。
どのように選抜されるのかが分からないので、彼女が志望したのか、
それとも一人は女子を入れようということでそうなったのかは不明。



一番右の隊員が敬礼をしながら銃を回すシーンで観客は大いに湧きます。
しかし、何度か防大の儀仗を見てきましたが、今まで失敗は
2年前の記念祭での儀仗で一人が銃を落としたときしかありません。
音楽まつりでは映像も含めて失敗を見たことがないのですが
地味に凄いことだなあと感心します。

やはり全校生徒の中から適性で選び抜かれているからなんでしょうか。



演技の間ずっと演奏を続けているパーカッション。
音楽隊員ではありませんから、これも一般の学生からの選抜です。



銃床を地面に奥と同時に取るこの態勢。
文句なしにカッコいいこの決めポーズ、よく動画を見ると、
必ず銃を回す前に足で軽く蹴っているんですよね。

そしてこの写真を見てもお分かりのように、膝は地面につけるのではなく
左足のアキレス腱部分に乗せているのです。

真っ白なズボンの膝を決して地面に付けたりしません。



後半のクライマックス、「銃潜り」が始まります。



儀仗隊長が向かい合った隊列の真ん中を歩いて行き、
その直前に銃が空中で交換されるという大技です。



指揮は第4学年の生徒が年々受け継いで行くようです。
これをやる指揮隊長はさぞ気分が高揚するだろうなと想像。

歩くだけだから一度やってみたいと思うのはわたしだけ?



銃潜りは向こうまで行って折り返して帰って来て終わり。



そしてフィナーレ。
全員で敬礼しながら銃をぐるぐる回し。(何と呼ぶのかわかりません)

これも写真を見て気づいたのですが、一瞬手を離して持ち替えているんですね。
しかも左手で、手許も見ずに。




平成26年度 自衛隊音楽まつり 防衛大学儀仗隊ファンシードリル

YouTubeを最初から見ていただくとお分かりかと思いますが、
防大ファンシードリルは第2章の「to Asia」の最初のプログラムで、
その心は、というと

「防大はアジアからの留学生を迎えていて、かつて儀仗隊のメンバーに
留学生がいたこともある」

というこじつけ?です。

何度もいいますが、毎年違うプログラム、テーマを考え、
各参加部隊をそのテーマに結びつけたりして構成を考える
企画・演出部隊(というのかどうかは知りませんが)は
本当に苦心しているに違いないとお察しします。


続く。

 

 

平成26年自衛隊音楽まつり~空・海・陸の「カラー」

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自衛隊音楽まつり参加報告記、3日目です。
留学生がいるからという理由で無理矢理()この第2章
『to Asia』に入れ込んできた防衛大学校儀仗隊による
若々しく凛々しいファンシードリルの演技が終わり、
これは正真正銘アジアからのゲストバンド演奏となりました。



フィリピン海兵隊音楽隊。

去年インドネシアからのゲストバンドがムエタイを披露し、
大きく広げられた両国の国旗は観客を感動させました。
アジアからのゲストは毎年変わりますが、フィリピンからは初めての参加です。



そもそもフィリピンには軍楽隊がひとつしかないそうです。
それだけでもかなり不思議なのですが、wikiによるとフィリピン軍は
統合運用だそうで、それも「陸海空」。
沿岸警備隊はあっても「海兵隊」というのが何処を探してもないのですが、
これは一体どうなっているのでしょうか。



どうやって身体に装着しているのか見ても謎だったグロッケンシュピール。
ソロを取っていました。



演奏曲は

「マラゲーニャ」「ザ・ビギニング」

で幕を開けました。



この軍服はアメリカ海兵隊をかなり意識していますかね。



「ザ・マジックトランペット」のときに取った面白いフォーメーション。
円がだんだん縮んで行き、隣の人の左腿に腰掛けました。



何処に隠し持っていたのか、小さい両国の旗を振りながら退場。
日比友好~~!



続いてはがらりと雰囲気が変わり空自のステージです。
陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊に相当する
防衛省直轄の空自音楽隊は

「航空中央音楽隊」

といいます。

その航空中央音楽隊の演奏、いきなり尺八の音色で始まりました。
尺八を吹いているのは、なんというか陸自にも海自にもいないタイプ。
なんと痩身、眼鏡、口髭の自衛官です。

海自の口髭は古株の海曹長、陸自はコワモテ師団長というイメージですが、
空自の髭は、言っては何ですがまるでジャズ喫茶の粋なマスターみたいです。



そのマスターが奏でる尺八の音は、「オリエンタルウィンド」。
久石譲の曲だったかと思います。



航空中央音楽隊は平成4年、J.P.スーザ財団の授けるその年の
最優秀軍楽隊賞、

「ジョージ・ハワード大佐顕彰優秀軍楽隊賞」

を受賞したという輝かしい経歴を持っています。



続いて演奏された「風薫る」は、航空自衛隊創設60周年を記念して、
航空中央音楽隊所属の田中裕香士長が作曲したものです。
平和な日本の空とその空を悠々と飛ぶ航空機の雄姿をイメージしています。

空自のカッコいい航空機が出て来るこのYouTubeはおススメ。

 
『風薫る』



「敬礼の仕方」が前エントリで話題になっていましたが、
空自トワラーガールズの敬礼は眉間を押さえるスタイル。
これ、空自の敬礼とも違いますよね。 

さて、航空自衛隊60周年を記念して作られた曲は
「風薫る」だけではありません。
続いて演奏された空自の去年の「テーマソング」だった

「翼を下さい」

に続いて演奏された曲もまた、空自音楽隊員の手によるものです。

『蒼空』


航空中央音楽隊所属の和田信2曹が作曲しました。

正面に座っていればよかったなと思ったこの瞬間。
5人の隊員が航空機の描かれた大きな布を楽隊の上に「航過」させました。



そして布のエンドに描かれた「60th Anniversary」
の文字を見せます。
いつも通りスマートな空自のパフォーマンスでした。
続いては、 




海上自衛隊!

今年は床にプロジェクタを投影するという技を取り入れたので、
たとえば日本の地図の部隊所在地に隊員が立っていたり、
ゲストバンドの国旗が大きく写されたり、このように人文字で
「M」、フロアに残りの「aritime」を映すという演出がありました。

下の回の右寄りからだと、文字がわかりませんね。
やっぱり上の階の方がよかったのかな・。



「アジア」を意識した海自のオープニングは

「シルクロード」 喜太郎。



ドラムメジャーは前嶋淳1等海曹。
去年とは違う人です。
ドラムメジャーとは隊長の指揮下で楽器演奏の指揮をとる隊員です。

軍隊的にいうと、指揮をするのは必ず1尉以上の幹部自衛官であり、
ドラムメジャーを行うのは曹と決まっています。
ちなみに、プログラムには指揮とドラムメジャーの名前だけが記されます。

たとえ独唱をしたとしても歌手の名前は載ることがありませんが、
これは「軍楽隊の慣例」によるものです。



指揮は音楽隊長ではなく、1等海尉が行いました。
2番目の曲は海自らしく、

「マゼランの未知なる大陸への挑戦」

海上自衛隊東京音楽隊 Tokyo Band マゼランの未知なる大陸への挑戦

ブラスバンドの楽曲というのはその中でのみ有名なものが多いのですが、
これもそういう中の名曲の一つです。
つまりブラバン出身なら誰でも知っている曲です。
海自はやはりこのテーマに親和性を感じてか、この曲をしばしば
演奏会レパートリーにしており、かつ得意曲にしている模様。



そして、三曲目。
海自は唯一音楽隊に専門の歌手を持っています。
ご存知三宅由佳莉三曹そのひとなのですが、自衛隊まつりでは
彼女の歌手採用以来、必ず「歌付きプロ」がスタンダードになりました。



今回歌ったのは「STAND ALONE」。
NHKドラマ「坂の上の雲」のテーマソングです。
この選曲はつまり海軍軍人が主人公ということからですね。



平成26年度 自衛隊音楽まつり 三宅由佳莉三等海曹



海上自衛隊音楽隊の重要な任務の一つに

「遠洋航海への乗り組みと停泊地での演奏」

というものがあります。
プロジェクタに映し出されていたのは5月の遠洋航海出航式典ですが、
このときに旗艦「かしま」にも音楽隊が乗り組み、約6ヶ月の航海中
至る所で必要な式典、祝賀、親善、儀式の演奏を司りました。



これも恒例、行進曲「軍艦」に乗せて行われる錨のフォーメーション。



一回転して定位置です。
「歌手」と「軍艦」。
もちろんどちらも、特に海自のファンには水戸黄門の印籠のような

「待ってました!」

という高揚と興奮をもたらすもので、決してそれをすることに異論はありませんが、
これを必ずやるという「縛り」は、ただでさえ時間が短いパフォーマンスの
文字通り「縛り」にならないかなあということを、なぜか今年は考えてしまいました。



何故そう思ったかと言うと、おそらく次の陸自中央音楽隊の演奏が良すぎた?からです。
陸自の選曲は

「おお、運命の女神よ」(オペラ:カルミナブラーナより、オルフ作曲)
「カッパドキア」(八木澤教司作曲)
「2002年ワールドカップ アンセム」

という、知っている人なら渋い!とうなる通好み。



とくに吹奏楽曲作曲家の八木氏の作品「カッパドキア」は、
聴いていただければわかりますが、楽器によっては「苦しくて死ぬ」
と中高生ならいうくらい息を使う曲。
これを完璧に演奏しつつそのテンポでステップ踏みまくりーの隊形変えまくりーの、
おそらく中高生ブラバン部員が見たら「神」と称えるであろう完成度の高さ。

これも巻末に演奏を挙げておきましたので、とくにその点を見てください。



陸海空各音楽隊には明らかに「カラー」があって、たとえば空自が
ひらひらしたものを持って踊る女性トワラーに代表されるなら、
陸自には全くイメージ通りの「地に足の付いた」剛健さを感じます。

「カッパドキア」のリズムはまさに陸自らしさが遺憾なく発揮されており、
そういった点からも最高の選曲であると思われました。

自衛隊の音楽隊というのは「基本ブラスバンド」ですから、ブラスバンドとしての
完成度を追求するこのようなステージ運びは、望むところというか、
プロ吹奏楽団である彼らにとって「会心」のものになったのではないでしょうか。



陸自には歌手もトワラーもいませんが、その代わりに
純白の制服に身を包んだ長身イケメン集団()の第302保安警務中隊がいます。
彼らの儀仗演技を「花」としてそれに相応しい凛とした楽曲を選ぶ。
これが陸自音楽隊の本領(カラー)なのだと思わされました。



2002年ワールドカップのために作られたアンセム演奏中。

「アンセム(Anthem)」とは「讃歌」「応援合唱詩歌」とか「~を代表する歌」
という意味です。
もともとは「聖歌隊の賛美歌」という意味ですが、「国歌」のことは
「ナショナル・アンセム」といいますね。
この場合は「讃歌」でいいと思います。


FiFa World Cup Official Anthem (2002)

美しい曲ですね。
あのワールドカップは史上最低だったといわれていますが()






「おお、運命の女神よ」「カッパドキア」「2002年W杯アンセム」
陸上自衛隊中央音楽隊 


わたしが今年最も評価した陸自音楽隊のステージ、
よかったら動画で確かめてみて下さい。


続く。 

平成26年自衛隊音楽まつり~歌姫たちと自衛太鼓

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平成26年自衛隊音楽まつり、続きです。
第三章の「to the world  」。

オーストラリア陸軍軍楽隊の演奏で幕を開けました。

 

自衛隊音楽まつりには2階目の参加となります。
精緻な教練によるドリルの確かさに定評のある音楽隊で、
オーストラリア独特の旋律と野性味を加味したエキサイティングなステージが
前回も好評を博したということです。



ドラムメジャーは准尉(下士官の最高位)が務めます。
海自のドラムメジャーは毎年若くて背の高いイケメンを選んでいるようですが、
こういう叩き上げっぽいおじさんドラムメジャーもかっこいいですね。



オーストラリアと言えば?

そう、ワルツィング・マチルダ。
陸自音楽隊の「カルミナ・ブラーナ」もそうでしたが、この軍楽隊は
海自の「軍艦」のように必ずどこかでこの国歌を入れることにしているらしく、
よくよく聴けばワルツィング・マチルダのメロディ混入が感じられる、
という程度にメロディを混ぜ込んで使用していました。
よく聴かないと聞き逃した人もいるかもしれません。

いつの間にか曲は「スターウォーズ」のジェダイのテーマになっていました。



英国の影響が見られます。
バグパイプの通奏低音を模した部分を持つ行進曲、
「Parade of the Tail Ships」などで、足運びもこの通り。



オーストラリア陸軍の歌手は前回もその歌唱力で会場を沸かせたそうですが、
そのときと同じ歌手でしょうか。

オーストラリア陸軍の歌姫登場。



「Spinning Around」「On a Night Like This」

彼女が歌ったのはオーストラリアのロックシンガー、
カイリー・ミノーグのナンバー二つ。 



ノリのいいテンポの曲で、リズムセクションもイケイケです(笑)



この日出場した女性歌手の中で、最もパワフルでリズム感に溢れ、
実力があると思われたのがこの人でした。



声も立派なら体型も大変立派です。



日本に取っての「故郷」に相当すると思われる、オージー心の歌、
「I Still Call Australia Home」が最後に演奏されました。


I Still Call Australia Home 2004 Director's Cut



続いて、東日本大震災のあと、日本のために世界のトロンボーン奏者が
チャリティの為に作った曲があります。
それがこれ、「A SONG FOR JAPAN」。
HPにはこのときの演奏が収録されています。



自衛隊音楽祭り2014~A SONG FOR JAPAN~



つづいては陸海空合同音楽隊によるおなじみ「テーマソング特集」。

「陸軍分列行進曲」「海をゆく」「空の精鋭」ときて、最後に
『君が代行進曲』という安定の選曲です。

海自は「軍艦」をドリルに入れるのが恒例になっているので、こちらでは
「海自テーマソング」である「海をゆく」が使用されますが、
必ずこのとき歌手が歌を添えます。

去年は三宅三曹と川上二曹のデュエットでしたが、今年は川上二曹のソロでした。



戦車、護衛艦、そして航空機の形を象ったドリルがあるのもいつも通り。
ことしはテーマに因んで、「JAPAN」と、



このような人文字が描かれました。



そしてこの日最も印象的であった全軍合同演奏による、映画「FROZEN」の

LET IT GO

が、これも女性歌手を全楽隊から一人ずつ出して競演。
何とゴージャスなのでしょうか。
フィリピン海兵隊音楽隊からは出していませんが、そもそも軍楽隊に
女性は一人もいないようでした。



全員による伴奏は壮観です。



まずワンコーラスを日本語で歌い、ツーコーラス目を英語で。
ここでもむっちゃ目立っているオーストラリアの歌姫。

海兵隊からも女性歌手を出してきましたが、彼女は
遠目からなのでよく分からないものの、東洋系の容貌をしていました。





日本も空自、陸自の歌手は「兼業」で、海兵隊と米陸軍もそうなのですが、
もしかしたらこのオーストラリアの姫だけは「専業歌手」なのではないかと
思ったくらいです。

しかし、あらためてYouTubeの演奏を聴いてみると、皆うまいですねm(_ _;)m



Let It Go



手を振りながら退場する歌姫たち。
こういう競演が見られるのは音楽まつりだけです。
文句なく得した気分になりますね。

この後全部隊によるドボルザークの「新世界より」最終楽章で
第3章のフィナーレとなりました。




続いて自衛太鼓。



いつもこの自衛太鼓に参加している女性自衛官に注目しますが、
結構な割合できりっとした凛々しい美人がいる気がします。



これが自衛官で、普段どんな任務に就いているのだろう、と
彼らの写真を見ていると興味をそそられます。
実戦部隊が多いというイメージがありますが、自衛隊というのは
ありとあらゆる職業が存在する社会の縮図のようなところですから、
歩兵がいれば給養員とか会計任務とかもきっといるに違いありません。



聞いた話によると、これだけ自衛隊の広報に役立っているにもかかわらず、
自衛太鼓は「クラブ活動」という扱いなので、太鼓の維持費や衣装は全て、
隊員たちの持ち寄りによって賄われているのだそうです。

このあたりは厳しい自衛隊ですから、断じて公私混同はしません。
かつてオートバイに航空機のガワを被せてパフォーマンスを行う
「ジュニア」で、官品の帚を折って使用した為おおごとになった、
という話がありましたっけ・・。



全国から馳せ参じた自衛太鼓の部隊。
ほとんどの幟がいわゆる歌舞伎字体ですが、「エイサー隊」だけは
パソコンのフォントを大きくしただけのような・・・・気のせいかしら。








エイサー隊は衣装も少し他と違います。
持っているこの太鼓も沖縄の民族楽器でしょうか。



そして、部隊の右と左で交互に各太鼓部隊がショートパフォーマンス。
演奏中に反対側でスタンバイをして音は途切れることなく続きます。



演奏している間、プロジェクタには部隊名が書かれ、
日本地図の部隊所在地の部分がメラメラと燃えるという趣向。
これは去年と同じでした。



そして陣太鼓。
参加者全員による一糸乱れぬパフオーマンス。
今まで一度もないので見たこともありませんが、だれかがつまづくとか
バチを落とすとか、そういうミスは勿論のこと、音の乱れや
狂いも全くありません。

これだけの大小の太鼓が同時に響き渡ると、広い武道館が
まるでそれ自体太鼓の皮のように共振し、振動し、
地鳴りに身体がつつまれているようになりました。

太鼓の音というのは実にプリミティブな音楽経験をさせてくれます。
楽器演奏というものが太古の昔、太鼓から始まったように、
人間の原初的な感覚を呼び覚ましてくれるようです。


と、全く同じ文句を去年の音楽まつりの感想に書いたのですが、
同じことを思ったので同じことを書きます。

息子の宿題の手伝い(金曜日までに第二外国語の本を一冊読むというもので、
3日前なのにほとんど何もしていなかった愚息が途方に暮れていたので
取りあえずわたしが自動翻訳に一冊全部を打ち込んでプリントアウト)
をしていてエントリ制作の時間がなくなり、大変焦っているということは
何の関係もありません。



今年はこの振動に身を委ねながら、ここにいる彼らが「軍人」であることを考えました。

この全員が一条の流れに沿って躍動しつつ秩序のある轟音を作り上げて行く。
そのバチ捌きには少しの狂いもなく、生み出されるのは力強く確かな音。
この狂乱の音の巨大な塊を全員で作り上げて行くため、
しかし確乎たる信念を持って彼ら一人一人はここにあるということを。

それはことあらば自らの命を顧みず国民の生命と財産を守る為に、
日頃から弛まぬ訓練を黙々と行う自衛官たちの精神そのものです。

「もし日本と戦争をしようという国の人間がこれを見たらきっと恐ろしいだろうなあ」

なぜかふとこのようなことを思いました。



続く。







平成26年自衛隊音楽まつり~遠き山に陽は落ちて

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自衛隊音楽まつり鑑賞記、最終回です。
第3章のテーマは「to the world」なのですが、そのラストに
ドボルザークの「From The New World」を持って来たということに
気づいた人はこの会場で何人いたでしょうか。

「TO」と「FROM」じゃ全く意味が全然違ってくるだろこれ、
とわたしなど思ってしまいましたが。

 

というようなことはさておき、その第3章が終わり、第4章のテーマは

「for Japan」。

いかにもじゃぱーん!な自衛太鼓で幕を開け、フィナーレへとなだれ込みます。
その前に、国旗が通る赤絨毯を敷く迷彩服の隊員たちを紹介するのも
毎年の恒例となっているようです。


東部方面隊から選抜された隊員で構成した部隊で、

演技支援隊

と名付けられています。
大きな楽器や大道具の出し入れなど、音楽まつりの円滑な実地の為
あらゆる仕事をする縁の下の力持ち部隊。

縁の下のといえば、本日の音楽まつりはストリーミング配信されています。
こういったことや写真、動画の撮影は

陸上自衛隊第301映像写真中隊

が請け負っているそうです。
後日この様子はDVDにして販売するので、その意味でも重要な任務です。



まず本日出演した4カ国の国旗が入場してきます。
オーストラリア、日本、フィリピンそしてアメリカ。

ふと気づいたのですが、日本以外は大戦時同盟側だった国です。
あれから70年、時は流れ、かつて太平洋で戦火を交えた4カ国が
かつての彼らの敵国である日本に会して同じ音楽を演奏しているのです。

平和って実に素晴らしいですね。



全出演音楽隊での合同演奏はまず映画「マン・オブ・スティール」
(スーパーマンシリーズ最新作)のテーマより、

What Are You Going To Do When You Are Not Saving The World?
(もし世界が救えないと知ったとき君はなにをするか)

が演奏されました。
この曲は「パイレーツオブカリビアン」、「バックドラフト」、
「ザ・ロック」「ダークナイト・ライジング」などの作曲で有名な
ハンス・ジマーの作品です。

 Hans Zimmer - What Are You Going To Do When You Are Not Saving The World? 
 


演奏の間、楽器を演奏しない隊員たちは起立して待機。
先ほど「Let It Go」をロングスカートにしろジャケットで歌った
三宅由佳莉三曹は、全身黒のパンツスーツ型制服に着替えです。
海自から二人男性歌手が出ていますが、彼らも去年とは違うメンバーです。

歌手というのは専業ではないため敢えて固定せず、上手い人には
機会を与えてできるだけたくさんに歌わせようという方針なのかもしれません。



去年は全員合唱の曲としてあの「花は咲く」が選ばれました。

皆に歌わせるため、各部隊の団員が観客席通路に並んだりしていましたが、
自衛隊側が思っているほどこの歌を歌える人というのがいなかったため、
全員が声を合わせて大盛り上がり、という目論見は「不発」でした。
自衛隊なのに。←顰蹙

余談ですが、今日たまたま車の中で海自の「花は咲く」が鳴ったとき、
(というか自分のiPodに入れているんですが)改めて気づきました。
この歌詞、もしかしたらこれを語っている人って・・・・・、
すでに「この世を去った人」=「災害で亡くなった方」なんじゃないですか?

「叶えたい 夢もあった 変わりたい 自分もいた」
「わたしは何を残しただろう」

なんで過去形で語っているのかというと、もうこの人には未来がない、
つまりもう肉体はこの世にないからではないのかと。
復興ソングのようで実は死者の立場で語る「鎮魂歌」であると。
だとしたら・・・・・・・
ちょっと評価しなおしてもいいかな、この曲。
などとひねくれ者のわたしは思ったりするのだった(笑)

しかし、だとしたら、さらに音楽まつりの最後に
皆で声を合わせて歌う曲としては相応しくないってことになりますが。



などという問題提起はともかく()去年その「花は咲く」であったところの、
「最後に皆で声を合わせて一緒に歌いましょう」的なフィナーレ曲は、

「RESTART 」。

知らねー(笑)

東日本大震災後、雨後の筍のように生まれた復興チャリティソングの一つで
(刺があるかしらこの言い方)
TUBEの元メンバー(あ、今もか)が作曲したのだそうです。
テレビを見ている人は、もしかしたら知っているのかもしれませんが、
わたしは最初の

「さあ、その顔を上げて」

の部分に聞き覚えがあると言う程度でした。



わたしがその程度の認識ってことは、会場で歌えるほどこれを知っている人は
皆無と言っていいほどだったのではないかと思います。
現に、周りの人は誰一人歌っていませんでした。
はっきりいって去年の「花は咲く」より知名度ないよこれ?

まあ、良い曲かそうじゃないかというといい曲なんでしょうが、
わたしはいいたい。
何でいつまでも復興チャリティソングなの?

「復興応援」はトロンボーンの「ソング・フォー・ジャパン」で
十分、というかあれはあれで大変効果的かつ感動しただけに、
今年の選曲ははっきりいってもう少し別のものはなかったのか、
と思わざるを得ませんでした。


いわゆる「チャリティソング」というカテゴリの音楽に対して
そのあざとさとか『一緒に感動しましょう!』みたいな下心が鼻につくので、
いつも辛辣な目と耳で評価してしまう、わたしのような人間だけかもしれませんが。



自衛隊の音楽まつりというステージの構成上、ここに持って来る曲は
「そういう曲」が無難というか定石であるのはよくわかります。

個人の好き嫌いとは全く別に、音楽まつりは隅から隅まで、
勿論この部分もこういう風に考えさえしなければ完成度が高く、
エンターテインメントとして完璧に満足いくものでしたが、
あえてこの傾向に、わたしはここでひっそり苦言を呈しておこうと思います。



今年は陸海空から各4人ずつ出された歌手が
少しずつソロを取り声を披露しました。
空自の男性歌手はどちらも長身の男前です。



出演部隊が総出で手振りを付けて歌います。
防大儀仗隊の中に去年ノリノリの君がいたので今年はどうかなと
探して見たら・・・・いました。



第302保安警務中隊だけが何もしません。
彼らはこんな瞬間にも起こるかもしれない不測の事態に備え、
特に政治家のいる中央席を警戒する必要があるからです。
まあ,ここでだけは起こらないでしょうけど。不測の事態。



そこの防大儀仗隊の君ー、
そこは拳を合わせるだけで、においを嗅ぐのではありませんよー。



ともかく、自衛官たちの素顔らしきものが垣間見られるのがこのパートの楽しいところ。
こちらは歌わずとも、十分楽しませてもらえます。



空自の旗ふりガールズ。
正確には

航空自衛隊演技隊

と名前がついています。
頂いたコメントによると、20代の隊員に声をかけて選抜するようですね。
衣装は毎年同じなので、取りあえずこれが着られるのが最低条件。
メイクも、たとえばアイシャドウにブルーを使って工夫しています。 



ピアノ、ハープ、ドラム、パーカッション、シロフォン、ベース・・。
ドリルを行わない音楽隊もしっかりステージで演奏を支えました。



復興チャリティソングが終了した後は、なぜか

「タラのテーマ」

で退場となりました。



なぜこの曲?と首を傾げた人も多かったと思いますが、
単に「風と共に去りぬ」→「去りぬ」→「退場」→\( ̄▽ ̄;)/

ではなかったかと・・・・。
タラのテーマはいつのまにか團伊玖磨の

「祝典行進曲」

に代わり、厳粛な雰囲気を取り戻して終わりです。



祝典行進曲の似合う第302保安警務中隊。
彼らの白い制服とドリル演奏が見られるのはこの音楽まつりだけ。



2008年、保安中隊は方面総監直轄部隊から防衛大臣直轄の保安警務中隊となり、
司法警察職務任務が付与されるようになりました。

保安中隊時代には広報活動の一環としてファンシードリルを行っていましたが
保安警務中隊への改編に伴い行なわれなくなったため、
この音楽まつりにおけるドリルの参加は一般の目に触れる唯一の機会です。

ですから一層貴重な彼らのドリル演奏をわたしは食い入るように見てしまいます。
目の保養とか、そういうつもりじゃありませんからね!///



全部隊がフロアからいなくなった後、イングリッシュホルンとバスーン奏者だけが
そこに残って、「新世界より」の第二楽章「家路」のメロディを奏でます。

その静かな響きの中、はためく日の丸の前まで歩んだ空自音楽隊長は
最後の敬礼をして音楽まつりの終了を告げます。

来年は海上自衛隊がメインとなるわけですが、またそのご報告を
ここで出来ることを祈って平成26年度音楽まつりのご報告を終わります。



というわけで今年最も印象的だった一節は?

♪ すこーしも寒くないわ ♪(ち~ん)





大和ミュージアム・進水式展~記念絵葉書「やがて悲しき」

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大和ミュージアムで行われている「進水式展」です。
冒頭は戦艦「長門」の進水式記念と書かれたパンフレット。

「長門」は八八艦隊計画の第一号艦として1919(大正8)年11月9日、
進水式を行いました。

「八八艦隊計画」とは、日露戦争後に行われた艦隊整備計画です。
このころ世界の経済は、第一次世界大戦の戦争景気のなかにあり、
これを背景に計画されたものですが、この計画において日本は
アメリカ海軍を仮想敵としていました。

八八とは、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を基本とするという意味です。 

それにしても、このパンフの意匠・・・・なごみますね。
特に右側の、日の丸の中に描かれた水兵さんとお髭の士官の顔が。

こういうのを見てふと思うのですが、帝国海軍というのは、
現在の海自が萌え系で国民に親しんでもらおうとするのと
同じような努力を当時からしていたのではなかろうかと。

陸軍の印刷物にこんな絵があったかどうか調べたわけではないので、
これが海軍だけの傾向だったのかどうかはわかりませんが。



右側は戦艦長門の姿と、大正天皇。
葉書のバックにあしらわれたくす玉と思われる模様などに、
ちょっとアルフォンス・ミュシャを意識したアールヌーヴォーの影響が見えます。
切手を宛名の方ではなく葉書おもてに貼っているのですが、
スタンプは大正天皇の”かんばせ”に決してかからないように押されています。


左は長門進水式の際の立食パーティ入場券。

服装はフロックコート、モーニングにシルクハット、
和装ならば紋付袴がドレスコードとなっています。
パーティは命名式の後に行われ、それに続く支鋼切断並びに進水は
食事の後のお楽しみ、ということになっていたようです。

入場券には紹介者、つまり海軍の関係者の署名と捺印がないと、
無効となり、会場入り口で入場をお断りすることもある、とあります。 

わたしは「ふゆづき」の出港式のときにこのような祝賀会に参加し、
「海軍伝統の祝賀会料理」を頂いたことがあるのですが、



卓のうえにはこのような国旗と護衛艦旗をクロスさせて置くための
専用の旗立てがありました。
おそらくこれも、三井造船に戦前から伝わるものであろうと思われます。

長門の三井造船で行われたものではありませんが、「長門」のときも
おそらく同じように行われたのであろう「海軍立食」に参加したことは、
わたしにとって5本の指に入るくらい印象的な「海軍体験」でした。



前にも書きましたが、このころは写真よりも絵が葉書には多用されたため、
このような味のある長門の姿が描かれ、残されることになりました。

葉書の左側は進水式での長門(構造物が乗っていない)だと思うのですが、
これは当日の写真から画家が絵を作成して、葉書を作ったものでしょう。

上の左、青い葉書は、左が小栗呉工廠長、右が加藤呉鎮守府長官の写真。
加藤は加藤でも友三郎ではなく(こちらは1913年まで長官だった)
加藤定吉海軍大将(のち)のことです。

加藤大将は海上勤務が大変豊富だった軍人ですが、
いわゆる典型的な「艦隊派」「条約反対派」で、ワシントン軍縮条約では
反対派をあおるなど、「元祖大鑑巨砲主義」であったことでも有名です。

「長門」建造の計画となった八八艦隊計画は、加藤大将の頑張り虚しく、
一部破棄の結末に至っています。

このときに、「長門」は完成していました。
しかし、八四計画において同じ「長門型」の「陸奥」は・・・・・・。



はい、ちゃんと進水記念の品だって配られ、絵はがきもあったってことは、
ちゃんと完成していたんですが、これは大変やぶぁいタイミングだったんですね。

「陸奥」の起工は1918年。進水は1920年に行われました。
1921年の軍縮条約で、イギリスとアメリカは

「未完成艦は廃艦とする」

とされた会議の結果を受けて「陸奥」の廃艦を主張しますが、
日本側は「陸奥はもうできている」と突っぱねます。

会議は11月1日から始まったのですが、日本は「陸奥」をその1週間前、
10月24日に無理矢理就役させてしまいました。

しかし実際は測距儀などの備品調達は全く間に合わず、公式試験も省略したまま。
海軍に引き渡されたときには85%しかできていなかったという証言があります。

米英もそこで引き下がらず、調査団を送ってきたのですが、
日本が接待を装ってあの手この手で調査を妨害したため、
かれらは結局確証を掴めないまま「陸奥」の廃艦はお流れになりました。

いやー、日本人もいざとなればこんな狡猾な手を使うことができたんですね。
ちょっと安心しました(笑)





さきほどちょっと「ふゆづき」の話をだしてきたのは
「ふゆづき」進水の際の進水支鋼(真ん中白いロープ)がここにあったからです。

記念品の支鋼といえば太くて短いものばかりだと思っていたのですが、
こんな洗濯ロープみたいな状態で残すこともあるんですね。

実際の支鋼そのものの長さはかなりあります。
しかし、こういうところで見るそれは皆短く切断されてしまっています。
それは縁起物としてたくさん配るためなんですね。

では、なぜ「ふゆづき」の支鋼が「安産お守り」なのでしょうか。

安産の言い伝えとして、妊娠五ヶ月後の最初の戌の日までに腹帯を拝んでもらい、
その腹帯に支鋼を入れておくと、お産が楽になるといわれているからです。

わたしは戌の日に腹帯をほんの形だけ巻いてお茶を濁しただけなので、
そんな言い伝えは今初めて知るわけですが(笑)、これには、
無事に海に滑り落ちた船の誕生に赤ちゃんの誕生をあやかる、
という意味があるそうです。

右上の酒瓶は「いづも」の命名記念と進水式パンフ。
左にあるのは潜水艦「こくりゅう」の支鋼、右上が「けんりゅう」の支鋼です。

いずれもここ1~2年以内の進水式を行ったフネばかりですね。




浅香丸は日本郵船の所有していた貨物船で、竜田丸は豪華客船でした。
パンフレットによると、どちらも豪華客船のように見えますが。
船内にはプールがあって、まるでタイタニック号のようです。

この竜田丸ですが、1941年12月8日、真珠湾付近に向けて航行していました。
 開戦の報を受けるなり急遽Uターンしていますが、これは
真珠湾攻撃の企図を隠すため、平然を装って出航したものという説があります。



佐世保海軍工廠で昭和13(1938年)進水が行われた
工作艦「明石」の進水記念の品。

船の帆の形をした小皿は、もしかしたら深川製磁製でしょうか。

「明石」進水当時は、戦局の拡大が予想されていました。
そのため「明石」の進水準備は灯火管制の元で
いかに建艦を進めるかということの実験を兼ねたものとなっていました。

工作艦というのはいわば「浮かぶ海軍工廠」。
艦内に17もの艦艇修理の工場を持ち、その全部に内地の工廠にもないような
ドイツ製の最新工作機械を装備して、戦地を駆け回り、修理に携わりました。

工作艦はその整備・補修能力の高さから、
『最重要攻撃目標』として敵からマークされていたくらいです。

「明石」はトラック島の空襲で大破し、その後、日本の艦艇は
修理を内地に送り返して行うしかなくなりました。



杯の中の模様が旭日旗。
これいいなあ。欲しい。

ところで「駆逐艦3番および4番」ってなんですか?
杯には「三番進水記念」「四番進水記念」とどちらもかいてあります。



さてそれでは、これは何の進水式の様子だと思いますか?



航空母艦「翔鶴」のものなんですね。
進水支鋼と、記念品の杯。

「翔鶴」は1937(昭和14)年、横須賀海軍工廠にて起工し、
39年の6月1日に進水式を行っています。

その2年後、つまり1941年8月に就役した翔鶴は、
11月には単冠湾に出撃しています。

そう、12月8日の真珠湾攻撃に参加するためです。



「翔翮」は1944年のマリアナ沖海戦において戦没しました。



記念絵はがきは抽象的で、真ん中の絵はがきに
飛翔する鶴を三羽あしらっているところが名前に
因んでいる様子がわかるくらいです。

あと、使われている切手が東郷平八郎の顔をあしらったものであること・・。




駆逐艦「天津風」の記念絵はがき。
進水が1939年であり、長門の頃のアールヌーヴォー風は影を潜め、
わずかに挿絵風というか、イラスト風の描写となっています。

進水式では様々な進水記念が作られ、配布されました。
支鋼切断に使われた斧や鎚、支鋼のほか、掛け軸の風鎮、
文鎮、湯のみ、徳利、杯、皿、メダルがありますが、これらは
主に関係者に配られる「特別な」記念品でした。

一般人が手にすることのできた記念品が、絵はがきです。

郵政省が私製の葉書を使用することを許可したのが1900年、
その5年後に、初めて葉書を記念品としたのは「筑波」のときでした。

進水絵はがきは進水式のときに配られるものなので、
船とはあまり関係のない自然の情景を描いたものや、
名前に関するモチーフなどが図柄として選ばれましたが、
中には「完成予想図」を描いたものもありました。



軍艦「千歳」の進水式絵はがきでは、遠景やアオリ、
さらには搭載されている水上機ごしに眺めた艦体など「具象派」の典型的な作品です。



駆逐艦「萩風」の進水記念は、何と封筒が波の形に
カットされているという懲りよう。

こういう絵を、海軍はどうやっていたかといいますと、それは
今の自衛隊と同じなのです。

そう、海軍内部で募集していたのです。

海軍内部といっても、工廠の建造担当部門からの募集なので、
設計担当でちょっと絵も描いてしまう、みたいな人は
結構たくさんいたのではないかと思われます。

なるほど、設計に近い部門の人ほど、「予想図」を
的確に描くことができるというわけですね。



しかし、一般的に絵はがきは軍艦についてあまり関係ないというか、
むしろ軍事から遠いイメージの、優しげで爽やかで平和的な、
むしろ目指そうとしたのは芸術だろ?と思えるようなデザインがほとんどです。

たとえば「翔翮」はマリアナ沖で没しましたし、謎の爆発を遂げた
「陸奥」、外地で戦没した「明石」、そして「長門」・・・。

戦没や事故で没した戦艦や空母の、進水式のときに配られた記念品や、
艦の無事を祝って行われた儀式の名残をこうやって見ると、
その後を知っている者としては何とも言えない気持ちになるのですが、
特に絵はがきの、一種長閑とも思えるこのデザインを見ていると、
「面白うてやがて悲しき」という句の一節が浮かんできてしまいます。

 


次回は、戦艦大和の進水式についてです。



大和ミュージアム・進水式展~戦艦「大和」の進水

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大和ミュージアムで開催中の「進水式展」からです。
ここは「大和」ミュージアムなので、戦艦「大和」の巨大模型ががホール中央に
どどーんと鎮座しております。



展示室内部は写真撮影不可となっていますが、こちらはOK。



子供が立ち入り禁止のスクリューのところにいるような気がしますが・・。



大鑑巨砲に寄せる日本国民の信頼は計り知れないものでした。
「大和」は勿論その存在すら国内に秘匿されていましたが、
「長門」「陸奥」の巨砲が太平洋に向いている限り日本は大丈夫、
とたとえば兵学校の生徒なども信じきっていたといいます。



向こうにいる3人のグループは一人がコケイジャン(白人系)です。

前回は気づかなかった搭載機。
尾翼の1/200って、もしかして縮尺率?



水上機が艦橋を向いていますが、カタパルトから発射するときも
この向きなんでしょうか?



以前来たときも

「この大和の模型に乗っている人の制服がおかしい」

ということについて突っ込んだことがあります。
たしか海保の制服を着た人が乗っていたのですが、
これは・・・・海保でも自衛隊でも、旧軍でもないし、
もしかしたら、駅員さん?

さて、現在行われている「進水式展」では、勿論のこと
「大和」の進水に関する資料もありました。



まず、現存する「大和」進水式のアルバムです。
くれ海軍工廠造船部部員のために編纂されたものであるとのこと。



これは、「大和」を建造している船渠、つまりドックの山側、
「大和」の艦首と向かい合うような形で設置された進水式台。

進水式台は呉海軍工廠造船部長・庭田尚三海軍造船少将が設計した
総ひのき造り、純白のキャンバスをはり廻らせた社殿風の立派なもので、
この進水台で「大和」という名前の命名、及び支鋼切断が行われました。



海軍機関学校卒の超エリート技術者たち。
眼鏡装着率が高い気がします。 

これは上写真の進水台の下で撮影されたもので、
前列左から3人目が、
戦艦「大和」設計主任であった牧野茂海軍造船中佐、
6人目が、造船部長庭田少将、
2列目右から3人目がこのアルバムの寄贈者であった
高橋正徳海軍造船中尉です。



「大和」進水記念の風鎮。
風鎮と言われても殆どの方はピンと来ないかもしれません。
床の間に掛ける掛け軸の錘にするものですね。

この風鎮をデザインしたのは、進水式台の設計も行った庭田少将。
勿論絵も庭田少将の手によるもので、多才な人だったんですね。
これは有田焼で(おそらくこれも深川製磁が製作したと思われ)
進水式のときに関係者に配るために500セットが用意されたのですが、
まだその時点では艦名が何になるかの情報がなく、「大和」「武蔵」
になるだろうという予想のもとに、奈良県(大和の国)にある橿原神宮、
東京都(武蔵の国)にある千代田城二重橋の絵が対に描かれました。

ごく少数の関係者に配るつもりだったのですが、秘密保持のため
それも許されず、竣工後、直接の工事関係者にのみ

「皇紀二千六百年の記念」

と背面に記して配られたそうです。



風鎮と同じく、進水式記念のために作られた湯のみ。
正面には庭田少将が設計した進水台の絵が描かれ、
背面には「進水記念 呉海軍工廠」と記されています。
湯のみの蓋の裏には造船部のマーク。

勿論この湯のみも、配ることを許されませんでした(T_T)



建造写真のアルバムから。

13年8月30日
造船船渠上家第一、二、三、柱及合掌山手移動前ノ姿

とあります 。



造船船渠上屋(大屋根)建造写真アルバムより。
戦艦「大和」は昭和12(1937)年11月4日に起工され、建造が始まりました。

建造秘匿するため、船渠(ドック)両側の鉄骨に
トタンやシュロで編んだムシロがぶら下げられました。

これで海側や陸側の平地からは中を窺うことができなくなりましたが、
山側の宮原地区の民家や道路からは丸見えであることが判明。

そこで昭和13年になって、大屋根を作ることが決まりました。

施設部の建築技術者が、風速60mにも耐えられる構造で設計し、
造船部が建築工事を担当し、
第3船台で鋲打ちをして組み立ててから取り付けられました。

外部に工事を発注するわけに行かなかったからですね。



昭和13年8月31日
上家工事一、二、三柱及合掌組合セ完了セルモノヲ
山手予定位置迄 約27m移動ス

ワイヤカムの上にさり気なく置かれた小さな帚にご注目~。
いちいちこんな部分を帚で掃いていたってことですね?

それに、27m動かしたとかなんとか、これも逐一
写真に残して記録する(しかもアルバムにまでして・・)。

余談になりますが、韓国が言っている慰安婦の連行とやらもですね、
もし軍が主導して何十万人も連れて行ったのなら、
日本軍がその何の記録も残さないない、なんてことはありえないんですよ。

こんなことを言うと「皆証拠は隠滅した」って言うんでしょうけど、
一人や二人の証拠ならともかく、そんな大々的なものなら隠滅するにも
限度というものがあるでしょう?

日本人の記録魔ぶりを舐めたらあかんよ。



さてそれではこの辺で、「大和」の進水式についてお話しします。

「大和」は、前にも説明したように、「注入進水」、即ち船渠に
海水を注入する方法が取られました。
約4万トンの巨体だから、ということですが、姉妹艦の「武蔵」は
進水台を滑り落ちる「進水台進水」を行っているので、
この決定の基準は今ひとつ分かりません。

しかし「大和」の船体の甲鉄の重量は余りに大きく、
海水注入して曳船で外海に引き出すこの方法は、
ドックをさらに1m掘り下げなくては行けませんでした。

また、揚重機能力の向上、側壁の階段の削除、機密保持のため
目隠しの塀、4分の1部分には新たに大屋根が設けられました。


この写真は呉工廠で初めて進水式を行った「扶桑」のものです。
大正3年進水の、国産初の超弩級戦艦でした。

以降、大型艦艇は同じ造船船渠で建造され、進水します。



「大和」の支鋼が切断された瞬間。

昭和15年8月8日、「大和」進水の日、市街では防空演習が行われ、
市民には外出禁止が言い渡されていました。

支鋼切断を行うのは平時であれば賓客の夫人などですが、
このときその儀式を行ったのは呉工廠長の砂川兼男でした。
写真の赤い毛氈の台の奥にいるのが砂川です。


「大和」は、最大満潮時に進水しています。
建造時から重量バランスを計算され、進水時には

「機関部搭載と2基の主砲未搭載のアンバランス」

を解消するため、前部に3千トンが注水され、
バランスを保ちながら曳船でゆっくりと引き出されていきました。

庭田少将の進水式の様子を描いた「戦艦大和建造秘話」からです。

午前8時過ぎ、御名代久爾宮殿下が、ご乗艦の「常磐」から
極めて非公式に工廠桟橋にお着きになった頃、にわかに港内に黒煙、
白煙立ち昇り海面を覆うて煙幕が展長せられ、
これは何事かと思う間もなく殿下には、公式のご資格となって
自動車で式場にお成りになり、午前8時20分、司令長官日比野中将のご案内で
玉座にたたせられました。
工廠長砂川中将(以下略)のみ参列してお迎え申し上げ、海軍大臣代理として
司令長官は

本艦を大和と命名す

という命名書を小声で読み、型のごとく工廠長から造船部長の私に
進水命令が下され、進水主任の芳井造船中佐の号笛指揮により
進水作業は開始せられましたが、滑水式の進水とは違って

【一】用意

【二】纜索(らんさく:船をつなぐための綱)張り合わせ
   前後左右の繋留索の固縛を解いて、各索に十人充ての作業員が
   綱を持つ

【三】曳き方始め 港務部長が静かに曳船に曳き方を命じ、
   艦首の纜索に張りがかかるのを見て進水用意よしと工廠長に報告

【四】支鋼切断 式台上の支鋼を金斧で切断すると、渠頭に設備してある 
   「ギロッチング・シャー」の支鋼がゆるんで、重い刃先が
   その下を通してある張り切った紅白の艦首纜索を一挙に切断する 

の順序によって、軍艦大和は、静々と折から展張せられた煙幕の中を
渠外に向かって曳出されたのでした。
勿論軍楽隊の演奏もなく、ただ薬玉が割られて七羽の鳩が舞い上がり、
五色の紙吹雪だけが圧搾空気で吹き出されて景気を添えたのが
せめてものはなむけでした。 



進水前に行われた、砲塔積み込み作業の写真です。
写真前方の第1主砲塔は、内部艤装中。

砲塔中央の隔壁手前には、15m測距儀(日本光学、現ニコン製)が
装備されます。
写真手前の第2主砲塔は、給弾室まで搭載完了です。

「大和」最大の機密がこの46センチ主砲の搭載と配備です。
 主砲塔各部の艤装終了後、小屋掛けされ、主砲塔の大きさを機密にして
進水は行われました。

山本五十六が「何人たりともお見せすることはできません」
といって主砲を見るのを断られたって話もありましたねそう言えば。

 
艤装中の「大和」。
写真左奥艦首部分には船腹が視認できないようにする簾をかけ、


(加古) 
(衣笠)   (間宮)
             
                 大    

           (鳳翔)     
          和  

 

こんな風に周りに艦艇をカムフラージュのために配置していました。
 



「大和」の重量配分は船殻28.3%、甲鉄および防御鈑33.1%で、
「陸奥」「金剛」に比べて船殻重量は小さく、甲鉄重量が大きい 

重防御艦

です。
VH鋼鈑は進水前には4枚だけ付けられ、残り60枚は
進水の後に取り付けられました。



最大中央の断面図。
赤い印は、舷側のVH鋼鈑取り付けの箇所。




ここになぜか、呉工廠製の手鏡が展示されていました。
兵器の材料で鏡を作ってしまいましたー、な製品です。
海軍工廠もNASAみたいなことをやってたんですね。



信管魚雷の部品として試験開発中にして将来益々
用途増加の望あり、とあります。

「大和」の遺品も展示されていました。



「大和」の長官公室にあったサイドテーブルだそうです。
公室とは聯合艦隊司令長官が、来客接待や作戦会議に使用した部屋です。

「大和」が昭和17年2月に聯合艦隊旗艦になってから1年間、
司令長官山本五十六海軍大将が「大和」の公室を使っていました。

このサイドテーブルは、戦局悪化と共に可燃物を艦内から運び出したため、
こうして元の形で今日残っているのです。




この黒板は、戦艦大和の第19分隊長が使用していたものです。
鹿児島県甑島海域で昭和22年操業していたカツオ船の船員が、
波間に漂っているこの黒板を発見しました。

船員はこれを持ち帰り、その後ずっとこの黒板は

宮崎県日南市のある焼酎倉で使用されていました(おい・・)



第19分隊とは、発電機や各種ポンプ類など、主機関である
蒸気タービンの運転に必要な補助機会を担当する分隊でした。

分隊長が実際に指示、連絡事項を記すために使っていたものです。

それにしても、不思議なことが二つあります。

まず、三年近く波間に漂っていたのに、この黒板はほとんど
その後の使用に耐えるくらいダメージがなく、裏書きされた墨字が
全く褪せていないこと。

そして、第19分隊のあったのは大和の左舷中央の最も船底の部分でした。
19分隊の乗員は間違いなく全員死亡したと思われるのですが、
大和の船体が海底で折れるように崩壊したとき、本来ならば
決して見つかる筈のない船底にあったこの黒板だけが浮かび上がり、
そうして平成26年の現在、ここに存在しているということです。




(次回は戦艦「武蔵」の進水式)



大和ミュージアム・進水式展~戦艦「武蔵」の進水式

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大和ミュージアムで行われていた「進水式展」について
お話ししてきたわけですが、最後になります。

前回戦艦「大和」について語ったからには・・・・・。
そう、戦艦「武蔵」についてです。


冒頭画像は戦艦「武蔵」竣工記念に作られた香盒(こうごう)です。
香盒とは、香をを収納する蓋付きの小さな容器のこと。

茶道具の一種でもあり、仏具の一種でもあります。

茶道で香盒を使うときには、 茶を点てる前の湯を沸かす時に
炉等で焚くための香を、あらかじめ香合に3個入れておき、
その内2個を炭の近くに落とし入れ、薫じさせ、
残り1個はそのまま拝見に回します。

いずれにしてもそのような場合に使われるものを配るというのは
実に雅でもあり、もののふと自らを任じているようにも思われます。

輪島塗でできた香盒には蓋の部分に桜と錨、裏には

竣工記念

貳六〇貳

三菱長崎造船所

とあります。
貳六〇貳は、紀元2602年、即ち昭和17(1942)年、
「武蔵」は就役したからです。 




ところで、「武蔵」は進水を長崎で行いましたが、
その後艤装は呉に運ばれて行われました。

なのに何故竣工記念「三菱長崎造船所」の名前が入っているかというと、
「武蔵」に対する非常に強い思い入れを持っていた三菱の渡辺賢介が、
わざわざ当時輪島塗の第一人者であった職人に依頼して制作させたからでした。

香盒セットは関係者にこっそり配られたそうです。



戦艦「武蔵」は戦艦「大和」と同型艦としてほとんど同じように建造されました。
第一号艦である「大和」が建造している間、「武蔵」の建造関係者は
呉にいて「大和」の建造技術を学んでいました。

原図の描き方から始まり、鋲の打ち方にいたるまで、「武蔵」には
「大和」と全く同じ技法が取り入れられました。

上の写真のゲージは、武蔵を含む艦艇建造時に使用された、

鋼厚さ用(左)

鋲孔皿計用(右)

で、当時の関係者が使用していたものです。




進水式のときに実際に使われたホイッスル。
なんと関係者の徳本良蔵氏の手作りです。
戦艦「武蔵」にかかわったら、ホイッスルを作った人の名前まで
後世に残してもらえるのです。

これが「ピー、ピー、ピー」と鳴らされる中、
戦艦「武蔵」を進水させるために、幾多の人々が走り回っていたのですね。

そう、この進水がね・・・・・大変だったんですよ「武蔵」の場合。



それはあとでお話しするとして、このバッジ。
進水式当日、及川古志郎海軍大臣が付けていたものです。

及川海軍大臣は、これを胸に着け

「戦艦武蔵」

と命名書を読み上げました。
ここにはそのときの命名書も展示されています。
命名書は軍極秘の赤いハンコが押され、そのせいなのか(笑)
なぜかそのケースだけが「撮影不可」になっていました。

こんないきなり「撮影不可」とか言われても、
流れで?つい撮ってしまい、撮ったあとに気づいて慌てる人が
絶対にいると思う。

となぜか力強く断言してしまうわけですが()命名書には
赤のハンコの下にも「秘密厳守」みたいなことが書いてあり、
さらには三菱重工で建造中の戦艦は次のように命名す、「武蔵」
となっていて、この存在そのものが秘匿されていた様子が窺えます。

でも、何故この命名書が撮影不可なのかは分かりませんでした。



こちらも進水式のときのバッジで、牧野茂造船官が付けていたもの。
牧野造船官といえば戦艦「大和」で中心となった技官ですが、
二番艦の「武蔵」にも深くかかわっていたことがわかります。

むさし 進水入場章

という字は、下の39とは明らかに違い、
マジックペンで書かれたように見えますが、博物館での分類のため
裏だからと書かれたものでしょうか。



「武蔵」は「大和」が行った注入式潜水(ドックに海水を入れる)
ではなく、なんと進水台から滑り落ちる進水台進水を行いました。
つまり、「武蔵」は進水台を使った最も大きな船ということになります。 

しかし、その大きさ故一つ大問題がありました。
進水台(右側)から滑り落ちた「武蔵」が635m以内に
行き脚を止められなければ、対岸に激突してしまうのです。

このため、武蔵には左右両舷に260トンずつ、合計520トンの
制動用の鎖と錘が搭載されました。
滑走距離340mで重量抵抗100%となるように計算されたのです。



その甲斐あって、進水式当日、海上に滑り出した「武蔵」は
505.8m の位置で静かに停止しました。

見ていた関係者はまさに息をのみ天に祈る思いだったでしょう。

船体重量にも耐え、重心もほとんど移動することなく、
「武蔵」の巨体はあと130mを残して止まったのです。

上の図は実際のこのときの「武蔵」の航跡ですが、対岸には
あと105mのところにワイヤが張ってあったようですね。
また、「武蔵」は最終的に少し左舷に触れるように止まったようです。 



さて、その進水台の設計図です。
こちらは青焼きの断面図。



こちらは印刷された横からの図面。

進水台は巨大戦艦の重量を転倒しないように支えるもので、
固定台の上に213mの滑走台を滑らせます。
滑走台は船体の艦首、艦尾とぴったり合うようにできていて、
進水台を滑るときに決して剥離しないように強力に結束されています。

つまり、進水式のときにはこの滑走台も一緒に進水するのです。
これは付けたままにしておき、艤装岸壁で初めて取り外されます。



「武蔵」もその建造を徹底的に秘匿されました。
周りを覆うために莫大な量の棕櫚が必要で、こっそり大量買いしたため
悪質な買い占め事件として警察が動いたくらいです(笑)

棕櫚の目隠しが船台に貼り巡らされると、
付近の住民らは

「ただならぬことが造船所で起きている」

と噂し合い、「お化け」「魔物」とその船体を呼んでいたとか。

この写真は、手前がアメリカ及びイギリス大使館です。
向こうに三菱造船所の船渠が見えていますが、目隠しのため、
大使館の前には造船所を遮るように2棟の倉庫が建てられました。

この写真は当時のものでなく、昭和30年代に撮られたものです。
ずっと残されていたんですね。



大和型大型戦艦の建造が決定すると、昭和13年8月をめどに、三菱造船所では
第一船台、第二船台の改造が開始されました。

改造では船台の拡張と補強が行われ、
ガントリークレーンも延長されました。

最終的に、進水時船体と船台の構造物鉄柱との間は
わずか80センチしか空いていなかったといわれます。



これは、呉工廠から長崎まで、46サンチ砲や砲塔などを
海上輸送するために建造された特務艦、

砲塔運搬艦「樫野」

の設計図です。

また、甲鉄類を運ぶのに、特務艦は呉から三菱まで
51回の運搬を行いました。



大和型二番艦を建造するには、まず船台進水が可能かどうか、
ということから検討に入らねばなりませんでした。

耐圧、沈下、滑走試験など、気の遠くなるような回数の
各種試験が繰り返され、多数の進水計算、予備実験、
進水台の試作などと共に、重量3万トンの船体が進水台を滑走し、
船尾が海中で浮揚する瞬間、艦首部の船台には最大の加重がかかります。

この部分の補強も行われました。



「武蔵」の20年も前に船台進水した、

巡洋戦艦「霧島」。

この当時の超弩級戦艦は、大型戦艦の大量建造の、
いわば嚆矢となるものでした。

先ほども書きましたが、一番艦の「大和」建造のために、
長崎からは大量の技術者が派遣されました。

会場のモニターでは大和と武蔵の進水式にまつわる映像が流され、
その周辺はことごとく撮影が禁止になっていました。




ジャムリベッター(左)と絞鋲ハンマー(右)。
いずれも、49キロ、32キロの重量があります。
持ち上げるだけでも大変な器械ですが、作業を行う場所は狭く、
熱した鋲を両側から打ち合うという作業なので騒音も凄まじいものです。



少し分かり難いですが、下の三人がこの鋲打ちをしています。
船体強度材を結合するための鋲打ちには慎重を要し、
合格検査も大変厳しいものだったということです。

このような重労働で作業に関わるものは激しく
体力と気力を消耗したため、一日に打てる鋲はせいぜい
60~70本が限度だったということです。


設計の技官たちは勿論のこと、こういった鋲打ち一つにも、
当時の造船関係者の心血が注がれて、彼女らは進水式を迎えることができたのです。

艦の建造に関わった大勢の人々が手塩に掛けた彼女らの進水を見守るとき、
一般人のそれを遥かに凌駕する、心の底からの祈りがあったことでしょう。

「進水式展」に展示された、艦艇の無事を祈り、完成を寿ぐ
ゆかりの品の数々は、あらためてそのことを思わせました。


皆様も、もし興味をお持ちになりましたら、ぜひ・・・・、
といいたいところですが、9月23日に特別展は終了したとのことです。
わたしは呉に偶然用事があって本当に幸運でした。

そのうち三菱造船所の資料も是非見に行きたいと思っています。


(進水式展シリーズ終わり)
 

「里帰り零戦」を見てきた

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読者の佳太郎さんから情報をいただき、さらにkyari3さんからも
公開の詳細を教えていただいた「里帰り零戦」を見に行ってきました。


前売りは教えていただいたように、どの時間枠も売り切れるどころか
最後まで「残り少ない△」にすらなっていなかったため、
わたしは最終日に安心して当日券で入ることにしたのですが、
やはり1時間見学するのに2500円、前売りでも2000円というのは
高いと考える人が多かったということでしょうか。

それなら「ファン」と言われる人であれば安い安くないに関わらず
何をおいても駆けつけたのか?
というと、その辺は微妙な「ファン心理」とでもいうのか、
必ずしもそうではなさそうだ、とわたしは感じました。

今回の見学はつまり、その理由について考えることでもあったのです。

お断りしておきますが、わたし自身は元々「零戦」そのものを、
当時の日本の技術力の象徴とか、歴史的な航空機であり、
海軍の使用機であるという観点でのみ関心を持っていると言ってよく、
決して「零戦ファン」と呼べる範疇に自分がいないのを自覚しています。

それが証拠に?スペックや性能についての薀蓄を全く持ちませんし、
また、零戦の他の機体への優位性についての興味もあまりありません。 

 


今回わたしがわざわざ現場に行ったのは、むしろかつて
実在した「零式艦上戦闘機」と今回公開される「里帰り零戦」の間には
いわゆる「隔絶」があるらしいとその反響から察し、
それを確かめるためだったとも言えます。



さいたまアリーナというのは、都心から続く高速を降りてすぐのところにあり、
今までこの方向に車を走らせたことのなかったわたしは、今回
あまりの便利さに驚いたのですが、他のイベント(アイドルコンサート)
があるにもかかわらず、地下の駐車場に簡単に車を止めることができ、
見るつもりだった回の30分前には、チケットを買うことができました。

時間制で、予定の時間までは隣の部屋で展示物などを見ながら
待つという仕組みです。

まず、この零戦のかどうかはわかりませんが、動的展示できる
ゼロファイターのポスター、そして日本公開されなかった映画、
「レッドテイルズ」のポスターが貼ってありました。

「レッドテイルズ」は黒人だけの飛行部隊、「タスキーギ・エアメン」を
主人公にしたルーカス監督作品で、わたしもエントリに書いたことがあります。

「タスキーギ・エアメン」と「レッドテイルズ」



ここにある零戦の復元前の写真がパネルで展示されています。



全く無塗装の零戦。
テスト飛行ということは塗装は一番最後に行うものなのですね。
しかし・・・ジュラルミンであたらしく成型された機体は
新品のようにピカピカです。(←伏線)



来場者は皆こういった写真を手持ちのカメラに収めていましたが、
これらの写真もすべて販売しており、一枚7,000円也だそうです。



ジュラルミンの機体主翼外板は、持ったり触ったりできます。
裏面には当時の工員が記した鉛筆の跡が確認できるそうです。
(が、写真を見て初めて知ったので確認してません)
厚みはなんと0.8ミリ。厚紙くらいしかありません。

本プロジェクトに協力した中村泰三という「計器板製作者」
の名前が記された紙があります。
この人の名前をググってみると、どうも「計器板研究家」のようです。



隔壁部分。
実際の機体から取り外された部品の数々が展示されています。



ステンシルの機体番号が書き込まれた部分には、
マジックインキで「Thank you」とか「Best wishes」などの
アメリカ人名による書き込みがあります。 
アメリカでレストアに関わった技術者たちでしょうか。 



22型用の第二隔壁部計器部分。
さすがは計器研究家のコレクションだけのことはあります。



中島62型用の計器盤。
木でできていることに注意。
金属の計器盤で計器の位置を確定する前の試作だそうです。



こちらが本番?の計器盤。

計器盤のコレクションには他に「雷電」のものが展示してありました。



水平衡目盛りがついていますが、車のハンドルのように
手を離せば真っ直ぐに戻るという機能はなかったのでしょうか。



尾翼部の外板。
下の写真で、ブルーの線で囲まれた部分です。



陸軍の97式戦闘機用のフラップだけが。
倉庫に未使用で保存されていたものだそうです。

さて、そうこうするうちに時間になり、待合室にいた客は
自室のホールに移動しました。



今回のエキシビジョンは「画期的かつ史上最初で最後」と主催者のいうところの
三分割展示が売りとなっていました。

冒頭写真は見学が始まってしばらくしたら今回の企画をした
会社の社長という人が零戦の上でマイクを握って
これまでの経緯と経過、ここまで来た苦労とこれからへの
支持を熱く訴えているところなのですが、その説明によると、
この零戦は非常に前から日本に里帰りさせ、日本の空を飛ばす、
という執念を持ったこの社長が「3億5千万の私財を投じて」
ここまでこぎつけたのこと。

しかし、リーマンショックに始まり東日本大震災と、実現も危ぶまれるほどの
アクシデントのせいで思ったようにことは進まず、
やっとのことで横浜に着いてからも手続きのいろいろで倉庫で3ヶ月間、
組み立て前の状況で留め置かれていたということでした。

ちなみに取得から今日までの間に7年間が費やされています。

「三分割で展示するということは初めての試みであり、
今後も決してないと思われますが、内部の様子を多くの人に
見ていただくためにはこの方法が一番いいと思いました」

と語っていましたが、わたしは組み立て前の状態でやってきたので、
組み立ててしまう前に一度展示会をするべきだと判断したのではないか、
と穿ったことを考えていました。 



というわけで、三分割のひとつはプロペラと発動機部分。



この零戦はパプアニューギニアで発見されたものだそうです。
ということは、ラバウル航空隊と称される海軍航空隊のうち

「251空」「204空」「261空」「582空」「201空」

のいずれかの所属ということになろうかと思われます。



これが発見当初機体に付いていた発動機とプロペラ。



まあ、戦後何十年もジャングルにあったエンジンが
そのまま作動させられるわけがないとはいえ、この零戦は
要するに「当時の機構で飛ぶわけではない」ということです。
残骸のほとんどを作り変え、痕跡だけを残して飛べるようにする、
ということなのです。



これをどう考えるかですね。

実は、当ブログに頂いた里帰り零戦への裏コメントの中には

「もう零戦は休ませてあげてもいいのではないかと思う」

といった意味の、この企画に対する否定的な意見もありました。

もし何から何まで発見時のまま、最小限のレストアで飛ばすつもりなら、
わたしはそれはそれで価値のあることだと思います。(無理だと思いますけど)
しかし、現場でこの外された栄型を見た瞬間にこのように感じました。

「中身を全部取り替え、外装も作り直して、形骸だけを飛ばしたとして、
それは果たして本当にかつての零戦が飛んだと言うのだろうか」


資産を投じてこの零戦を飛ばせるという一念でこの事業を立ち上げた
この方には大変冷たい言い方になるのかもしれませんが、
それはすでにかつての零戦ではなく、動物でいうと剥製みたいなものです。
零戦を零戦たらしめていた駆動部分がこうやって取り出されてしまった以上、
それは「飛ばせるべきもの」ではなく博物館に収められるべきものではないのか、と。



ただ、簡単に「博物館に収める」ということにならないのは理由があって、
この機体の維持費というのが、こうなってしまった以上常にかかってくるので、
こうやって展示をし、寄付を募り、「実際に飛ばす」という目標を設け、
関心を持ってもらうことを恒常的に続けなくてはならなくなっているようです。



こちらが現行の発動機部分、横から見たところ。



見たところパーツの一つとして元の零戦のものはありません。
当たり前ですね。



これが三分割の真ん中部分、主翼とコクピット。
わたしたちが入って行った時、誰かがコクピットに
乗らせてもらっていました。

周りの人たちが

「乗れるのこれ?」

と囁いていましたが、この時に乗ることができたのは
プロジェクトへの大口スポンサーだったようです。



翼の上には弱いところがあり、足を乗せるところが
決まっていて、そこにステップして乗り込んでいました。



石塚政秀さんというのが、この零戦のオーナーです。
現在、飛行可能な零戦を所有している唯一の日本人ということです。



どこからどこまでが本物でどこがレストアなのかわかりませんが、
隔壁やフットレバーはそのままであろうかと思われました。


長くなってしまったので明日に続けます。




 

「里帰り零戦」に思うこと

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さいたまアリーナで先週末連休に公開された「里帰り零戦」を
見学してきたことについてお話ししています。



さて、いずれにせよ、パプアニューギニアでこの零戦に乗って出撃し、
この座席で戦死した海軍搭乗員がいたというのは確かなことです。

その零戦がここにあるということは大変意味のあることだと思います。



計器板研究家の協力を得た、と控室に書いてありましたが、
ということは、この部分は完璧に作り変えたということらしいですね。
計器そのものと「加速」「回転」「過荷」などのプレートは
元の機体から取って付けているようですが。



後ろから計器類がよく見えるようにシートは取り外され、
さらにランディングホイールも立った高さから中が見られるように
たたんだ状態で床に置かれています。




これが三分割の最後尾。




水平尾翼は取り外されています。
小隊長機の赤い線を一本巻いていますが、
取得した零戦のペイントに残っていたのでしょうか。





尾翼の部分をこんな風に展示していたのは興味深いです。
4枚の錘が見えますが、これによって後輪が下がるのでしょうか。



NX553TTというナンバーは、当時のものではなく
たとえばアメリカで飛ばす時に必要な機体の番号として
あらたに与えられたものではないかと思うのですが、
詳しいことはわかりません。
もしかしたらエンジンなどに刻まれていた識別番号かもしれません。



こういう外側も、ほとんど作り直されているように見えます。
一体どの部分がオリジナルだったのか詳しく知りたいと思ったのは
わたしだけではありますまい。



アップして思ったのだけど、この部分はおそらく本物でしょう。



来場者はやはりほとんどが男性でしたが、子供を連れたお母さん、
ボーイフレンドや連れ合いと一緒に来たらしい女性も
ごく僅かでしたがいることはいました。
主催者の報告によると、

「12.3歳の頃、零戦の部品を勤労動員で作っていた」

というおばあちゃんたちが訪れ、感激したそうです。

女性一人で来ている人は・・・あまり意識しなかったけど
ほとんどいなかったかも・・。



翼端灯。
今まで復元零戦をいくつか見てきましたが、
ここにライトがあるのには初めて気が付きました。



翼端灯を下から撮ってみました。
向こうにずらりと並んでいるのは、翼の上でオンステージしている
主催者のスピーチを聞いている人たち。
別に前に立たなくても、言っていることはもれなく聞こえるので、
耳をそちらに向けながらせっせと撮影を続けます。



会場の外側ではこういう復刻ボマージャケットを販売していました。
「フクチャン」という部隊があったらしいのにはびっくり。
赤城の艦載部隊がこんなの着ていたんですかね。



主催者はもともとフライトジャケットのメーカーのオーナーで、
その関係から世界の航空関係者、米空海軍、英国空軍、
ハリウッド映画の製作衣装製作などを行ってきたのだそうですが、
8年前から、会社経営の傍ら、零戦の日本里帰りの活動を進めて来ました。

真ん中にあるポスターで零戦と写っているのがオーナーです。



なんと中華民国軍(フライングタイガースかな)の
フライトジャケットまであります。
日本でこれを買う人は・・・さすがにいなさそうだなあ。



演説が終わって零戦を降りる主催者。
いわばこの人の一念でこのプロジェクトはここまできたと、
まあそういうことなのです。

日本政府というのは、特にこういうことには一切関わりたがりたがらず、
歴史的な航空機を保存することすら、実際には惨憺たる状態なのは、
わたしがかねがね嘆くところの鹿屋の二式大艇の例を出すまでもなく
明らかです。

だから、この人が私財を投げ打ってニューギニアの零戦を
里帰りさせてくれたことには素直に感動し、さらには
ありがたいことだとは思うのです。

これらのプロジェクトがこの人にとって金儲けでも売名でもなく、
純粋に一人の日本人としての義務や責任感、誰かがそれをやらねば、
という使命感から生ずる情熱だけでここまでやってきたらしいのも、
会場に来てみて初めてそれがよくわかりました。



しかし、それに共鳴する人間はあまりに少ないというのも事実です。

HPによると、2015年2月4日までに2000万、という集金目標に対し、
現在の達成額は257万、まだ8分の1といったところです。

主催者によると、最終目標はこの零戦を「日本の空で飛ばすこと」
なのですが、たとえばその操縦を誰がするかということひとつ取っても、
日本国内ではパイロットがおらず養成も不可能であるため、
アメリカから零戦パイロットを呼んでこないといけないのだそうです。

故坂井三郎氏は戦後アメリカで零戦の操縦席に座ったことがあるそうですが、
たとえば3~40年前なら、こういうイベントを行うことは、沢山生存していた
零戦搭乗員たちのためにも行う意義は大きかったと思われます。

パイロットも・・・・免許のない坂井氏は無理だったとしても、
当時の自衛隊に零戦の元搭乗員は沢山いたのですから。

しかし、彼らのほとんどが鬼籍に入ってしまった今、前項でも言ったように

「零戦のレプリカをアメリカ人に操縦させて飛ばせる」

ということにすべての日本人が意味を見出すかというと、そう思わない人も多い、
という現状がこの寄付金の集まり方の悪さに現れているような気もします。

しかもそのその零戦は・・・・、会場に来てみて初めてわかったのですが、
それを「本物」と呼ぶのかというと

「飛べるようになった時点でもう元の零戦とは言えない」

という二律背反の命題みたいな状態にあるわけです。



会場ではスタッフによる翼端の跳ね上げが行われています。
艦載機ですので、空母のエレベーターに乗るのにギリギリの
この部分が跳ねあげられればよかったみたいです。



オーナーの説明によると、この零戦はロシアのキエフで
ほとんどの工程を仕上げたということでした。
アメリカからロシアに渡ったというわけです。

うろ覚えなのですが、翼にあるネジのマイナスをきっちりと合わせて
仕様してくれたのは、おそらくロシアの技術者が

「日本人はこういうところをきっちりするものだから」

という考えでそこまでやってくれたのだと思い、
『やるなあ』と感謝している、というようなことを言っていました。

この写真に写っているのはガソリン注入口?(適当)



これも翼の中央に付けられた翼灯。



エルロンを動かす実演もしてくれました。



会場ではその場で急募して、一人5000円出せばコクピットに乗れる、
というサービスをしていました。
兄妹まとめて5000円かどうかはわかりません。



乗りたい!と思った人は、このおじさんに申し込めば、
その場でお金を払い(領収書なし)座って写真を撮ってもらえました。
(もちろん自分のカメラやデバイスで)

「コクピットに乗れるのはここだけです!」
「今回だけです!」

とスタッフは強調していました。
愛知県の三菱でも機会があれば乗れるような気がしたけど・・まあいいや。
確かに風防を閉めてもらえるのはここだけかもしれない。

というわけで、躯体のどういった部分がオリジナルなのかわからないので
わたしにはこの零戦をどう評価していいのかいまひとつ
立つべき位置が定まらない、というのが正直なところです。

あの戦争で、そのとき操縦していた海軍搭乗員と共に南洋の地で果て、
命を終えた零戦は「里帰り」させるだけで以って冥すべしで、
ましてや発動機から何から新しく作り上げてそれを「飛ばす」のは
後世の人間の思い入れが先走りした「余計なお世話」であり、
コメントのように「もう休ませてあげるのが一番」という考え方もあります。 

これとは全く逆に、とにかくも零戦の形を保った機体が日本の空を飛翔する、
その姿を眺めてせめて往時の姿を偲びたい、と熱望する人も多いでしょう。

確かに博物館で静かに余生を送らせることを決めた途端、
その零戦が空を飛ぶ可能性は永遠になくなるわけですから、
それは一回でも空を飛ばせてからでも遅くない、というのもわかります。


ただ、そのために三菱の技術者が作ったエンジンを外し、
12、3歳の女の子が勤労動員で作った部品のほとんどは取り替えて、
新しくジュラルミンで外装を作り上げ、上から鮮やかな緑を塗った時点で、
このプロジェクトはニューギニアで何十年もそこにあった零戦の
元の姿を、永遠に消し去ってしまったという言い方もできるのです。


というと否定的な意見を持っているかのように思われるかもしれませんが、
しかしとりあえずわたし自身は、気持ちだけでも寄付をさせていただくつもりです。

日本の空にそれを飛ばせたいという一念で、私財を投げ打ってまで
零戦に熱情を傾ける人々の意気に「心情的には」大いに共鳴するという意味で。




 






ディズニーランドの秘密 「クラブ33」

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皆さん、おとぎの国ディズニーランドは園内でのアルコール禁止ですが、
唯一お酒を飲むことができる、あたかもアメリカの禁酒法時代、
女傑、テックス・ガイナンがマダムをしていた(知ってるかな?)
脱法バーみたいな秘密のゾーンがあるのをご存知でしょうか。

という風に書くととても後ろめたいことのようですが、なんのことはない、
ごくごく限られた人しか入ることのできない会員制のレストランがあって、
そこでのパーティなりお食事は普通のレストランと同じく
お酒も飲むことができる、というだけのことなのです。 

そんな話は聞いたことがないぞとおっしゃるあなた、それも当然です。
秘匿性を維持するために、このクラブは一般には公開されず、
会員の公募もしておりません。

しかも世界に二つ、アメリカのカリフォルニアと東京のみ。


もともとアメリカのクラブ33は、ニューオーリンズスクエアに、
ウォルト・ディズニー本人が客人を招待する目的として作られました。
ウォルトの死後は、会員制の専用レストランとなっているのですが、
どういうわけかウォルトの死後できた、ウォルトの嫌いだった(←)
ニッポンのディズニーランドにも同じクラブが存在するわけです。

クラブ33の名前は、ニューオーリンズ・スクエアでの番地が
33番地だったことから名付けられていますが、当初のメンバー企業が
33集められたという説もあるそうで、メンバー企業とは
ユナイテッド、エッソなどアメリカの有名老舗超巨大企業ばかりです。


ところでなんでこんな話をしているかというと、わたくし、
先日ここに行ったからです。

ディズニーランドのファンでもなんでもなく、どちらかというとここでも
何度かその「黒さ」について語ってきたくらいで、従ってこのような
「ファン垂涎の秘密クラブ」があることなど夢にも知りませんでしたが、
TOが

「こんなパーティの招待来たけど、行く?」

とメールをくれたので(うちは夫婦のやり取りはメールで行うことが多い)
そんなものがあるのなら話の種に行ってみようではないか、と、
参加申し込みをしたというわけです。

しかし気づいてみればその日は自衛隊音楽まつりと同日。
音楽まつり終了が12時、パーティは12時半から。
そこで何のためらいもなく、TOと息子に

「パーティには終わってから遅れて行くから、二人で先行って」

自衛隊音楽まつりとディズニーの秘密クラブ。
あなたならどちらを取りますか?

「音楽まつりを早く切り上げるという選択肢はないのね」

と尋ねるTOに

「ない」

ときっぱりと即答するわたしでした。



そして音楽まつり終了。

うまくいけば10分くらいの遅刻ですむと思ったのもつかの間、
案の定こんな時に限って高速の降り口を間違え、30分遅れて
完璧にふてくされモードでディズニーランド到着です。

駐車場のゲートでクラブ33に行くことを告げると、特別のスペース、
入り口に最も近いところに案内されてまずびっくり。

夢とおとぎの国にも厳然と身分の上下があり、それによって
扱われ方も違うと、こういうことでよろしいでしょうか。

まあ、汚い身なりの平民のシンデレラでは、舞踏会にいくこともできず
したがって王子様に近づくチャンスすらなかったわけで、
妖精のチート魔法で身分を偽装したからこそ王子様をゲットできたんだしな。

だいたい、ディズニーのプリンセスストーリーって、支配階級が
当たり前のようにヒロインだったり、あるいは成りあがったりするんですが、
その前提でヒエラルキーの存在を肯定しているんですよね。
(あ、でもそういや『アナスタシア』というのもあったっけ・・まあいいや)



それはとにかく、車の駐車スペースが特別なら入っていくゲートも特別。
上の写真がクラブ33メンバーとその関係者だけが通過できる
ゲストリレーションと「秘密の入り口」だって、みなさん知ってました?

ここではチケットを購入するのに列を作ることも、手荷物検査も必要ありません。
駐車場と同じく、

「クラブ33での何々の(メンバー名)パーティに参加する誰々です」

と名前を言うと、名簿と照合したのち特別仕様のチケットを売ってくれます。



それがこれ。
普通のチケットがどんなのか記憶にないけど、なんか違う気がする。
というかミッキーマウスって指が4本しかなかったのか・・。
(軽くショック)



園内に入ると、さすがは週末のディズニーランド、
ミッキーと写真をとるだけのために長蛇の列ができています。
なるほど、今ミッキーはここにいる、と。(伏線)



大きなツリーやいたるところにデコレーション。
クリスマスシーズンのディズニーランドは本当にワクワクします。
さて、このアーケードを歩いて行き、ツリーのところで左に曲がると、



このようなところに出ます。
ちょうどバンドがツリーの前でのパフォーマンスのためにやってきました。
聞きたいけど、ただでさえ音楽まつりで遅れて到着しているので
そんな暇は残念ながらありません。



ど~~~~ん。(効果音)

見よ、これがディズニーの地下組織じゃなくて秘密クラブ、
クラブ33の入り口である。
TOはこの「33」を

ミッキーの「みみ」→「33」→ヾ( ̄∇ ̄)ノ

だと思っていたというのですが・・・。

この入り口の脇に目立たないように小さなインターフォンがあって、
それを押して待つように言われていたので、待ちます。



メイドさん登場^^

というわけで、写真はここまでです。

なぜか?

それはあなた、SNSで写真をアップできたなら、
我も我もとツィッターやらブログやらで画像がばらまかれ、
ただのレストランにすぎないことがばれてしまう、じゃなくて
超特別クラブの秘匿性が担保できないじゃーないですか。

「写真はご自由にとっていただいて結構ですが、
それをSNSに上げることはなさらないでください」

実はわたしが到着する前、パーティのメンバーはクラブ側から
しっかり五寸釘を刺されていたことが後から判明しました。

まあ、十分予想されうる対処と言えましょう。

この程度の口頭注意しかないなら、今時「バカッター」といわれるツィッターで、
写真をこっそり(のつもりで世界中に)ばらまく輩がいそうですが、
ディズニーを法的に敵に回すということ即ち社会的な身の破滅を意味する、
ということが、とくにクラブ33に足を踏み入れる人々であれば
怖いくらいわかっているからということに他なりません。

たぶんですけど。

でも、なんだか写真の載っているまとめサイトもあることはありました。
いいのかな~いいのかな~いいのかな~



さて、そこで、「世間の噂」を集めてきました。

◆法人会員(公式スポンサー)で接待等に利用され、
関連会社役員や大物政治家、一部有名人など、限られた人間しか会員になれません。

そうかもしれませんが、今回のパーティの主催者は、そのどれでもありません。
「絶対」はないのではないかという気がします。

 
◆入会金と年会費が(年会費数百万)高いためそもそも個人会員は少ない。
(全国で法人個人合わせて1000件らしい)現在は会員の募集はしていない。

アメリカでは会員になるのには30年待ちで、
会費は月々3800ドルと聞きましたが、詳しくは知りません。

◆全てのアトラクションに秘密の通路から横入りできる

会員ご当人が企画したパーティでしたが、ご本人が来ておられなかったので
そういうことは聞けませんでした。
ユニバーサルスタジオの「特別待遇」は社員の知り合い程度にも適応されますが、
ディズニーではこの会員を優遇するため、一般庶民には縁のない特典です。

◆ミッキーのところにいくのではなく、ミッキーが会いに来てくれて
部屋で二人っきりになることも可能。

当日ミッキーはクラブにいませんでした。 
わたしが園内に入った時には写真に撮られる仕事をしていたので。
ミッキーは一匹しかいないので、同時に2カ所に現れることは決してありません。

◆名前が刻まれたマッチ型のシールがもらえる

本当です。
わたしがひとり遅れてクラブ33のドアをピンポンすると、
ホテルリッツのような重厚な雰囲気のロビーを抜けてエレベーターに乗り、
会場に通されると、ちょうど皆オードゥブルが終わったところ。
つまり、ほとんどダメージなく皆に追いつくことができたのです。

テーブルにはうちの家族、そしてこの参加の返事をファクシミリで
送る前に

「こんな機会がなければわたしたちには一生行けないから、
一緒に参加させてもらっていいですか」

と頼みこんで乱入してきたTOの勤務先の女子が二人、そして
同じ勤務先のやはり招待者ではなくその部下の女子二人が座っていました。
クラブ33で女子会。確かに一生に一度かもしれないね。

それはともかく、わたしのための席に、それが置いてありました。



これが噂のマッチ型のシール?
なんでもこれ、昔は本当にマッチだったのだそうですが、
マッチ=タバコにクレームがついたのか、ガワはそのままに
シールになったという微妙な記念品です。

消してありますが、日付とわたしの名前が刻まれています。



中はミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィー、そして犬の
(名前知らん)シールが5枚ホッチキスで留められています。

きゃあうれぴー!
ミッキーとミニーとドナルドとグーフィーと犬のシールかわいいい!

と全く思えない人にとっては、さらに微妙。
もしかしたらヤフオクで売れたりする?

◆クラブ33でしか入手できない特別なグッズが購入できる

クラブのロビーには本棚のようなガラスケースがあって、そこに
ミッキーとミニーの大きなぬいぐるみ始め、5~6点の
「特別記念グッズ」が展示されています。
ミッキーの刻まれたワインボトル、ワイングラス、
腕時計、財布や小銭入れなどの革製品がありました。

食事終了後、ロビーでそれを見ながら注文すると、メイドさんが
裏から商品を持ってきてくれ、ゴー☆ジャスなソファーに座ってお会計。

見れば女子たちは今生の記念にと(冗談抜きでそんな感じ)、
タンブラーやバッグなどをきゃっきゃと購入しています。

「わたしも何か買おうかなー」

それを見ていて、なんとなくそういう気になったわたしも
バッグとタオルハンカチを記念に買いました。



クラブ33の金文字が刻まれている以外は、
小さいただのナイロンバッグです。

「これたぶん原価5円ってところだよね」
「しっ、そんなこと言わないの」




これは使いやすいかもしれない。少し大きめのタオルハンカチ。
クラブ33のカラー、深いグリーンの袋に入れてくれます。

「これもたぶん原価5え」「しーーーっ」

バッグの値段は忘れましたが、ハンカチは確か2500円(消費税別)だったと思います。

さて、というわけで、このエントリがオリエンタルランドの優秀な
ネット警邏隊の目に止まったりするかもしれないので、
あまりぶっちゃけたことばかり書くのはやめて、普通に感想を言うと、
小さなパーティルームで出されたお料理は、どれもこれも
超一流ホテルに引けを取らないお味でたいへん結構でした。

たとえばメインは魚か肉か選べますが、
こんなところで食べると往々にしてがっかりさせられがちな魚料理も、
お世辞抜きにおいしかったです。
アメリカのクラブ33のHPではシェフは有名な人のようです。

Desneyland Club 33 非公式ホームページ


そして雰囲気は落ち着いた一流ホテルのそれ。
上の非公式HPを見ていただくと、わりと雰囲気がわかるかもしれません。

ご覧のように装飾も重厚でありながら要所要所に夢を感じさせ、
女子ズはもう側で見ていて微笑ましいくらい感激していました。
うちのTOなど、

「こんなに喜んでもらえるんだったら下手にゴルフ会員権なんか買うより
よっぽど有効に接待に使えるよね」

などと妙なところに感心し、ついでに何を思ったか

「絶対なんか(横入りの)方法があるはずだ。
会員になることを真剣に目指そうかな」


たとえ妖精のチート魔法でなれるとしても、
その時にはこのわたしが全力で阻止する。





 

女流パイロット列伝~キャシー・チャン「Great Expectations」

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この「女流飛行家列伝」では、一度、アフリカ系アメリカ人の
ベッシー・スミスを取り上げ、人権が認められているどころか 南部では
「奇妙な果実」(住民が木に吊るして処刑した犯罪者)と呼ばれる
私刑(リンチ)さえ行われていた当時のアメリカで、飛行家として成功
(あれを成功と呼ぶのならですが)した彼女の戦いについてお話ししました。


そもそも、女性の地位すらアメリカにおいても同等ではなかった当時、
女性で、しかも有色人種が飛行機で飛ぶというのは、限りなく不可能に近い話。
そんな中でも決して希望を捨てず空に挑んだ彼女は、
まさしく挑戦し続ける壮絶な人生を歩んだ勇者であったといえましょう。

そして、その構図は当時世界どこにいっても似たり寄ったりで、
まず女性であるというだけで全ての可能性は大きく損なわれ、
飛行機に乗るという機会が訪れるような女性は、社会のほんの一握り、
さらに言うと、一人いるかいないかという国だってあったわけです。


本日の主人公キャシー・チャンの国、中国では少なくともそうでした。


ヒラー博物館の「女流飛行家」のコーナーの説明によると、彼女は

広東出身の中国人
中国系女性で初めてアメリカにおいて操縦を習得した人物


であるということです。

彼女は1927年にアメリカに来て、南カリフォルニア大学で1931年までに
単位を修得し、ピアノに習熟していました。

正式に留学してちゃんと卒業し、プロではないが玄人並みにピアノが弾けたと。
これは、当時の中国において特権階級というか、
よほど裕福な家庭に生まれたと考えるのがよさそうです。

おそらくアメリカに来てから、彼女は飛行機に興味を持ったのだと思われますが、
母国の中国には飛行学校はあっても、女性の入学は許されていなかったことから、
彼女はこの4年間にアメリカで飛行免許を取り、そして中国に帰って、
中国で女性も参加できる飛行学校を作ることを決心します。


今現在アメリカには、共産党幹部の関係者やら富裕層やら特権階級やらが、
アメリカでその文明を自分だけが享受しようと、
イナゴの群れのように押しかけて移民になっているわけですが、
一般に中国人というのは、自らが得た富を決して母国のために使おうとしないし、
また、自国を良くしていこうという考えも全く持たず、ただ己の満足のために
いとも簡単に生まれた国を捨ててしまえるようです。

それはキャシーの時代でも似たようなものでした。
中国人の欲望の吹きだまりの象徴ともいえる中華街は、
アメリカ始め世界の(韓国を除く)どの国にもあります。

しかし彼女はそんな中国人とは違っていました。

アメリカで4年も過ごせば、おそらくあとは何とかしてそのまま
アメリカに住みつくことしか考えないであろう大多数の中国人とは違って、
自分のように「空を飛びたい」と考える同胞の女性のために、
自分がその先駆となって祖国で道を切り開こうとしたようです。

そのため、彼女は猛烈に勉強しました。
何しろ、当時はアメリカでも、パイロットは総人口の0.1パーセントだった時代です。

そんな中彼女は中国系女性として(中国系アメリカ人ではありません)
初めて航空免許を、そして、1932年には将来開く学校のために
インストラクターの免許まで取ってしまうのです。



1935年には、これも東洋系女性では初めての商業パイロットとなり、
彼女は飛行でお金を稼ぐようになります。

そして、いくつかのエアレースや、エアショーにも出演し、腕を磨き、
将来のために資金をためていきます。
1937年、彼女は西海岸の中国系コミュニティで飛行を披露し、
目標に向かってまず70万ドル(当時のか現在の価値でかは不明)を
調達することに成功しました。



このころには東洋人女性としてはもちろん初めて、
西海岸の女性飛行家のクラブ99’sにも名を連ねるようになります。



そのお金で彼女は念願のライアンSTトレーナーを購入しました。

これは、彼女が中国に帰って始める飛行学校の、
大切な練習機の第一号になる予定でした。

wikiでは若干このあたりの記述にヒラー博物館との違いがあるのですが、
ウィキによると、彼女が帰国の決心をしたのは日中戦争の開戦(1937年)で、

「彼女は中国の勝利のために自分の飛行機を使おうと思った」

となっています。

おそらく、こんなマイナーな人物のウィキを制作するのはどこの国だろうが
まず間違いなく中国系だと思いますので、
まあ、中国人的にはそうだったんだなと思うしかありません。

だって、このウィキによると日中戦争のことを「日本が侵略してきたので」
とあっさりひとことで日本悪玉扱いですから。
これも中国からすればそうなのかもしれませんがね。


さて、彼女が中国に出発する前、まだ免許を取っていない練習生が
なぜか彼女のトレーナーを操縦してみたいと言い出しました。
これもウィキによると「彼女の男の友達」ということになっています。

友達であるから、免許がなくても乗せてあげようと彼女は考えたのでしょうか。
まさかその友達が、自分の新しい飛行機を墜落させ、

修復不可能なまでに壊してしまう

とは考えもしなかったのは確かです。

さて、この後、彼女は彼を訴えたでしょうか。
普通のアメリカ人であればおそらくそうするように。

おそらく彼女の事情と、立場を考えればそれは決してなかったでしょう。
そしてその「男の友達」とやらも、彼女に対し、
機体を弁償するなどという償いをしようとはしなかったようです。

彼女はただ「その事実に絶望し、失意のまま本国に帰っていった」
とあるからこれもおそらくそうだったのでしょう。



それにしても、この男の友達の行為。
特に事故を起こしてからの無責任さに、どこかキャシーを
「侮った」ようなものを感じるのは私だけでしょうか。
そもそも、彼女の飛行機に乗らせてほしいと言い出したことからしてそうです。
少なくとも、アメリカ人の所有機、しかも新品のものであれば、
たとえ女性のものでも、免許のない自分が飛ばしていいものかどうか、
自分がそれを賠償するだけの財力も覚悟もないのなら、ためらう、あるいは
遠慮するというのが普通なのではないでしょうか。



彼女が中国にそのまま帰った理由は、もう一つありました。

どうやら超大金持ちだったらしい彼女のパパが、その事故のことを聴いて
急に娘の安全が心配になり、彼女に飛行機をあきらめさせたのでした。

冒頭画像は、彼女がその機体のプロペラに手を置いているところですが、
彼女は実に幸せそうで、少しおどけたそのポーズから昂揚と誇らしさが
写真を通じても痛いくらい伝わってきます。
これは念願かなって手に入れた愛機との、
初めての記念写真だったのではないでしょうか。


彼女の夢はこの飛行機を失ったときに終わり、
彼女はそれっきり、二度と空をとぶことはありませんでした。



つまりそこまでのキャリアでしたが、中国では有名人だったようです。

彼女は戦後夫と共に二軒の花屋を経営し、
2003年に99歳の大往生を遂げました。 

死因は癌だったということですが、
・・・・・・・この年になれば「老衰」でいいんじゃないかしら。

きっと最後までタフな婆ちゃんだったんだろうなあ。


合掌。
 


 

パシフィックコースト航空博物館~スカイホークとハリアーの「難度」

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サンフランシスコの北に面するソノマ地方にある、
パシフィックコースト航空博物館。
残りの航空展示を一気にご紹介して行きます。



A−4E SKYHAWK   McDonnel Douglas

マクドネル・ダグラス社のこのA−4Eタイプの機体が見られるのは
どうやらここだけのようで、wikiのページにはこの写真が載っています。

それはいいのですが、写真につけられた説明が
「太平洋岸航空博物館」て・・・・。
確かに直訳すればこうなるんですが、そもそもなんで訳すのか。



大きな特性として、「アビオニクスパック」を胴体上部に備えたことがあります。
それまでのスカイホークにはなかった仕様です。
このスカイホークは海兵隊所有のものだったのですが、
アビオニクスパックの部分には

「ダイヤモンドバックス」

とわざわざ大書してありますね。

Diamondbackというのは背中にダイヤ模様のある蛇とか、
あるいはダイヤ柄の甲羅を持つ亀のことなのですが、
航空機に搭載する電子機器、つまりアビオニクスを亀の甲羅のように
背中に背負ったことから名乗った飛行隊のニックネームなのだと思われます。


なお、2001年宇宙の旅の原作者であるSF作家、アーサー・C・クラークが
このアビオニクスパックのことを、まるで男性の股間だと言ったとか言わないとか、
怪しげな情報もありますが、調べても分かりませんでした。(調べるなw)



またこのスカイホークE型は、ハードポイントを5カ所に増やしました。
(それまでいくつだったのかはわかりません。いずれにしても
スカイホーク自体は最初から完成度の高い機体だったといわれます)

ハードポイントは読んで字の通り重量強化点ですが、同時に

「機外兵装ステーション」

のことでもあります。
その一つがこれ。
wikiには搭載できるとは書いていなかったのですが、
これはAH−1コブラが積んでいるハイドラ70ロケット弾ですよね?



緑色のは汎用爆弾Mk82ではないかと思われますが、
黒いのはちょっとよくわかりません。
Mk81の方かな。



機体の影にあったなにやら面白そうな記号解説。

ホイスティング・ポイントとか、給油口とか、
酸素取り込み口とか?そういったあたりです。

機体性能が安定していて使い易いのでこの機体は
「ブルーエンジェルス」 の使用機種となっていますし、トップガン
(戦闘機兵器学校)ではアグレッサー(他国の航空戦術を模倣する教官)
によって仮想的役を務めることもありました。

スカイホークは映画の「トップガン」にも教官機として出演し、
映画「ライト・スタッフ」では、



スコット・グレン扮する海軍のテストパイロット、アラン・シェパードが、
空母に着陸するシーンにこのスカイホークが使われていました。
 
「ホセ・ヒメネス」は シェパードお気に入りの「ネタ」です(笑)



AV-8B( Harrier )

フロリダはペンサコーラにある海軍航空博物館から貸与された機体です。
アリゾナ州のツーソンで現役を引退しました。

ハリアーという名前はトヨタの車にも使われていますが、
オスプレイと同じくこれもタカ科の猛禽類です。(チュウヒ) 
ネーミングとしては航空機の方が合っていますね。

なぜなら、鳥のオスプレイとハリアーには 、

「向かい風でホバリングすることが出来る」

というイメージだけではない「名前を採用された理由」があるからで、
空中でホバリングできるVTOL機にはこれ以上ないネーミングといえます。 

1962年頃からNATOは垂直離発着戦闘機の研究を始めましたが、
実際にはその2年後にイギリスのホーカー・シドレー社が、
実験機である「ケストレル」を製造しました。

この「ケストレル」というのもハヤブサ科の『チョウゲンボウ』
の英名で、この鳥もホバリングすることが出来ます。


このケストレルの実用型は英空軍に「ハリアー」の名で配備されました。 
アメリカでは海兵隊が「AV-8A」の名前で採用したためか、
この博物館の表示には「ハリアー」という文字は見えません。

米軍も「ハリアー」と呼んでいたと思うのですが。


ついでに、スペイン空軍ではこれを
「マタドール」(闘牛士)という名称で配備していました。
なんで闘牛士なのか。




1982年に起こったフォークランド戦争に、AV-8Aは英空軍機として
出撃し、自己無損失に対しアルゼンチン空軍の戦闘機を20機撃墜し、
その優秀さを世界に知らしめることになりました。 

現在は後継機のハリアーIIに移行され、殆どが姿を消しましたが、
「マタドール」だったスペインのハリアーはタイ空軍に譲渡され、
またインド海軍でも練習機としての使用が行われているのだそうです。 



エアインテークのカバーには・・・・・

ロールスロイス?!

どうやらロゴは本物のロールスロイス社のものらしい・・。
当機はなんとエンジンはロールスロイス社製
ペガサス Mk.103 推力偏向ターボファン・エンジンを搭載しています。





ハリアーは機体側面に合計4つのエンジンノズルを装備しています。

これがそうなのですが、ノズルの周囲には、「0」「10」「55」
等と書かれたメモリがつけられていますね。

この目盛りはエンジンノズルの角度を測定するためのもので、
角度を変えることによって、VTOLを可能とします。

角度は0度(普通の推進)から98,5度までの可動域があり、
(写真の目盛りも90度の次は98度となっている)
98,5度のときにはノズルは真下よりも若干前を向くため、
わずかながらバックすることも出来る仕組みとなっています。 


ハリアーはVTOL機のため、固定翼機とは操縦の方法が全く異なり、
修練者は、必ず回転翼機の操縦を並行して学ぶことを義務づけられています。

操作はしかも大変複雑なもので、垂直離着陸のためにボタンを30個、
常に操作していなければならないのだそうです。

この煩雑さが仇となって、何と45人もが操縦ミスで死亡しています。

もしかしたら、「オスプレイは危険だ!」と騒いでいる連中は、
実はたいしたことがないオスプレイの事故比率ではなく、
こちらの事故をオスプレイだと思って騒いでいるのではないかと思うくらいです。

あるいは「同じ垂直離着陸機なのでオスプレイも危険なんだろう!」
と決めつけているような気がしますね。

じゃオスプレイの操縦は簡単なのか?といいますと・・・

難しいんです(きっぱり)

どれくらい難しいかというと、人間には操縦不可能なくらいです。
しかし、だからソフトウェアで飛ばすんですね。ええ。
フライバイワイヤといいまして、飛行制御コンピュータが計算して
複雑な操作を皆やってくれるんです。
だから30個のボタンをいつも脂汗垂らして操作しなくてもいいのです。

この方式が採用されるようになってから、飛行性能が良くても、
操作性や安定性が悪くて乗れなかった航空機が、簡単に乗れるようになりました。

勿論、停電の危険や、操作に対する応力(手応え?)がないため、
戦闘機などではとくに限界Gを越してしまう、などの欠点はありますが、
いずれにしても反対派が騒ぐほど「難しい航空機」ではないのです。

元海幕長の赤☆氏もおっしゃってました。

「オスプレイは絶対に安全です」 



バックギャモンを思い出す尾翼の模様。



ハリアーの機体に駐機中の「ハニービー」。

武器は尾翼に搭載されていますが、一度だけしか使用できません。
しかし垂直離着陸、ホバリングが可能で、事故知らずの制御装置付きです。



続く。




パシフィックコースト航空博物館~オペレーション・ハブ「イチバン」

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パシフィックコースト博物館シリーズ、
今日でようやく展示機の全紹介となります。

このフィールドの写真の空の色をご覧になっても分かるように、
この日のサンタローザは焼けるような陽射しが容赦なく照りつけ、 
帽子とサングラスなしには数分と立っていられないくらいでした。





T-33A SHOOTING STAR  T-BIRD (LOCKHEED)

この辺りになって来ると写真の撮り方も適当になってきて、
サングラスを外さずにファインダーを見ていたりしたので、
ノーズの先が欠けてしまっています。

ロッキードのT−33については、入間基地の自衛隊機墜落事故を

「入間T−33A墜落事故~流星になった男たち」

というエントリに書いたこともあり、
どうしてもそれを思い出さずにいられないのですが、
あの事故を想起しつつ機体を眺めると、まずその小ささが目につきます。
搭乗者はほとんどゴーカートに乗っているような感覚でしょう。

大きければ恐ろしくないなどとは思いませんが、それにしても
生身の人間が全く保護されていない感覚のまま、その機体が
暴走し出したとき、一刻も早く機を捨ててベイルアウトしたい、
そう思うのが人間の本能だろうと思います。

しかし彼らはそれをしませんでした。
住民の巻き添えを防ぐために、機を完全に立て直しきるまで・・。

話で聴くだけでは実感できない搭乗者のそのときの視点、
そして何より恐怖というものが、実際の機体を見ると
あらためて感覚として真に迫って来るのを感じ、
わたしは入間から遠く離れたサンタローザで厳粛な気持ちに見舞われ、
彼らを思うと、いつのまにか頭を垂れずに入られませんでした。




表示の「Tバード」ですが、これも米軍でのあだなだったようです。
日本ではむしろ「サンサン」と呼ばれることが多かったとか。
これも防衛省は「若鷹」という愛称を公式に制定したのですが、
現場には使ってもらえなかったようです。

「わかたか」・・・・・いいにくいよね(´・ω・`)



翼端に黒い増槽(燃料タンク)がついているのが
デザイン上の大きな特色になっています。

今気づいたのですが、この写真もノーズが欠けていますね。
どうしてこの機体の写真はことごとく同じ部分が写っていないのか、
不思議で仕方ありません。



Tー38 TALON  (NORTHROP)

ノースロップ社は、航空軍事支援プログラムを通じて
西側同盟国に機体を供給するため、操作性に優れた高性能の
軽量戦闘機を製造することにし、1950年半ばに、
民間のベンチャー開発プログラムを開始しました。

米空軍はノースロップNー156Tとして開発された練習機に
興味を示し、YT−38へと発展させて採用することになります。

ちなみにこのときに同時に開発された戦闘機型のNー156Fは、
その後ノースロップF−5の原型となります。




この機体にはステップが掛けられていたので、
上に登ってコクピットの写真を撮ってみました。

 

シート右手に黄色と黒のストライプのレバーがありますが、
これがイジェクトシートの作動レバーだと思われます。

座席になぜか木切れが置いてありますが、これは意味不明。



この機体もトップガンではアグレッサーを務めています。
後ろから突き出したものはマイクでしょうか。

名称の「タロン」というのは猛禽類のカギツメのことです。
双発ジェット練習機としては大変優秀だったため、1000機以上が
生産され、数カ国の軍隊で使用されている他、アメリカでは
NASAが宇宙飛行士の訓練用や連絡用の飛行機として採用しています。

なお、空軍の模擬格闘戦では。最新鋭のF−22に勝ったこともある模様。



UH-1H IROQUOIS  (HEUY)

ヒューイヒューイと呼んでいますが、実はこれも
正式名称は「イロコイ」といいます。

ヒューイというのは最初のタイプ「HU-1」の「1」を「I」と呼んで
「ヒューイ」と呼び出したのが始まりだそうです。
日本軍がP−38を「ぺろはち」(3を”ろ”と読んだ)と呼んだみたいですね。 

この機体は1967年に米軍がベルヘリコプター社から購入したもので、
ベトナムでも配備されたことがあります。
が、ピックアップのときにメインローターが大破するという事故を
2回起こしています。
のみならず、敵の攻撃により、ホバリング中メインローターを2度破損。

もうメインローターのお払いをしてもらった方がいいんじゃないか?
というくらい同じような事故を繰り返しているヘリコプターなんです。

というか、メインローターってそんなに破損し易いんですかね。 



ベトナム戦争終結後は、カンボジアでの作戦に参加。
71年に帰還し、テキサス・ナショナルガード(州兵)の所属に。

その後陸軍に行ったりウェストバージニアのナショナルガードに行ったり、
ローターが何度もやられた割には丈夫であちらこちらたらい回し。

最後にはなんと落雷による損傷まで受けたというのですが、
その後も修理してしれっとカリフォルニア州兵の所属となり、
現在ここで余生を送っています。

まさに百戦錬磨の古兵として引退をしたヴェテランと言っていいでしょう。




背中にスペードをつけた蜘蛛をノーズにペイントしたのは
このうちどの部隊だったのでしょうか。



さらにこれ。
ビートルズの曲、

「Lucy In The Sky With The Diamond」

と、当時の「サイケデリック」なロゴで書かれています。
このロゴを見てもおわかりかとおもいますが、
この曲は「LSD」(幻覚剤)によるイリュージョンを描いた、
といわれており、このヒューイの当時の乗員たちも
悪ノリしてこれをわざわざ機体に描いたのかと思われます。

アメリカの若者のヒッピー文化はベトナム戦争への反対運動として生まれ、
高揚や悟りや覚醒を求めるという手段に薬を用いましたが、
現にベトナムにいる兵士たちがこの曲をシンボルにしていたというのは
戦争に参加している当の兵士たちの間にも「反戦」「抵抗(レジスタンス)」
の空気があったということでしょうか。

現在、アメリカはベトナム戦争でベトナムに負けたのではなく
国内の反戦に負けたとする説もあります。



FIGHTING FALCON  F−16N VIPER

かっこいい飛行機!と思ったら名前もかっこよかったでござる。

ファイティングファルコン!
ヴァイパー!

なんとなく中二病的な匂いさえしてくるわけですが、この名称、
空軍士官学校のマスコットが鷹(ファルコン)であることから
ファルコンにしたかったのだけど、すでにビジネスジェットに
同じ名称が使われていたことから、「ファイティング」をつけ加えました。

ヴァイパーというのはこちらは非公式な愛称、あだ名で、
ヘビの総称のように使われる言葉です。

フライバイワイヤを採用し、軽量の戦闘機として開発されましたが、
対地攻撃にも優れており、「マルチロール機」の走りとも言えるでしょう。

NATO諸国の空軍の「ホットロッド」の海軍版、とあだ名されます。



キャノピーの形状を見て頂ければおわかりかもしれませんが、
全周が視界良好であるため、初めて他の機から乗ったパイロットは、
加速時にまるで振り落とされそうな気がするのだそうです。



ヴァイパーはMig-29にその性能が酷似していたそうです。
もともとこのN型は、アグレッサー部隊の異機種戦闘機訓練用に作られ、
訓練用ということで空対空ミサイルなどは搭載しません。

ぱっと見たときに妙にすっきりしたシェイプだと感じたのは
どうやらこのせいではないかと思われます。

当博物館はF−16Nを所有するたった3つの民間博物館のひとつで、
それというのも米軍、特に海軍からは

非常に高い評価を受けているからである

とHPには誇らしげに記されています。 



F−5E TIGERII

前にも一度ご紹介していますが、真正面から見た
このフェイスがウーパールーパーみたいなのでもう一度。



Tー37B TWEET  (CESNA)

セスナエアクラフトは、ターボジェット駆動の練習機として
軍用規格に対応したこのTー37を開発しました。
「ツィート」とはご存知のように鳥のさえずりですが、
このあだ名は実際にこれを練習機に使用した搭乗員から賜りました。



パイロットとインストラクターが並んで乗る並列複座式。
これは全体から見ると少数派になります。



ノーズ先の尖った部分にはテニスボールが差してありました。



空軍で運用されていた機体ですが、練習機であるせいか、
クッションカバーの選択にのんびりしたものが感じられます。




さて、というわけでフィールドの航空機を全て紹介し終わりました。

滞在時間をできるだけ短縮するため、説明はほとんど読まず、
機械的に写真だけを撮りまくったのですが、それだけでも
たっぷり1時間は要しました。
この建物は、ボランティアのメカニックたちの詰め所のようです。



おじさんたちが4人くらいで昼食中。

 

帰りも売店と資料コーナーのある建物を通ります。
ガレージのようなところには、展示なんだか整備中だかわからないものが。

これはただの箱に見えますが、なんとSR−71ブラックバードの搭載していた

ASTORO-INERTIAL  NAVIGATION SYSTEM (ANS)

つまりナビゲーションシステムです。
下の方に「レーダー」と書いてありますね。
「NO STEP」がなんだかシュールです。



ブラックバードの「おむつ着用問題」について前お話ししたのですが、
どんなスタイルで乗員が乗っていたかwikiで見つけました。
これではまるで、宇宙の旅・・・。



さらに、嘉手納基地に配備されていた頃の

「ハブ作戦」(Oparation Habu)

のポスター。
右下には「ICHIBAN」と書かれています(笑)

いやー、何かと話題の多い機体ですね。ブラックバード。
航空機とその周辺のネーミングについて語ることの多かった本稿ですが、
これをして話題性における優勝としたいと思います。




最後に、当博物館渾身の手作り飛行機。
隣に犬小屋がありますが、これとあわせて

「スヌーピーセット」 

であると思われます。
(ここはソノマカウンティ・チャールズ・シュルツ空港ともいう)


この博物館については、またいずれ館内の資料室について
あと一回お話しして、おしまいにしたいと思います。


続く。




 


海軍兵学校同期会@江田島~水交館

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海軍兵学校の同期会が江田島で行われたのは、
今回を以てこのクラスは「解散」、つまり最後の会合だったからです。

集まった元学生の様子を見ていても皆さんまだまだお元気 そうで、
あと5回くらいは余裕で開けそうに見えましたが、それはわたしが
今回だけ参加したからそう思っただけで、毎年のように回を重ねて来ると
1年のうちに逝去する同級生が次第に加速度を付けて増えてきて
今元気な自分も来年は、というようなことを考えてしまったり、
幹事の負担が心理的にも身体的にも増してきたのかもしれません。

というところでちょうど今年入学から切りのいい数字となったので、
これを以て打ち止めとなったのでありましょう。

そして、最後のクラス会ともなると、海上自衛隊はその遂行のために
惜しみない協力をするものなのですね。

前日の懇親会から第一術科学校と幹部学校の校長が参加し、
当日は到着のときから控え室にはお茶を用意し、気のせいか
別嬪のWAVEさんを会場には配して万全の態勢です。

6つのグループに分かれて午前と午後で違うコースを見学する
参加者のために、敷地内をマイクロバスが走り回り、
それを運転する隊員、団体に付き添って解説をする隊員、
至る所に警衛係と支援役員という役職の隊員がトランシーバー完備で
配され、警戒、誘導各種心配りも完璧。

「広報が任務の自衛隊」にとって本職と言えないこともありませんが、 
一般の見学ツァーとの対応のあまりの違いに、正直驚いてしまいました。

高齢の方々に対する自衛隊側の気遣いは大変なもので、
わたしのグループには車いすで参加した方がいたのですが、
この夫婦のためだけに自衛隊は車いすごと乗れる小さなバンを用意し、
この人だけを運ぶ係が割り当てられていたくらいです。


この車椅子の方は、そういう状態であっても、いやそうなったからこそ、
最後の同期会と江田島を見ておきたかったのかもしれません。


参加したことのある方はご存知のように、一般の見学ツァーは
一人の自衛官と入り口近くのスタート地点から歩いて、
大講堂、赤煉瓦、教育参考館見学までがワンセットのコースです。

しかし、この同期会の江田島訪問では、自衛隊側は「特別コース」
を用意してくれていたのです。
つまり、こんな機会でもないと行けない場所、入れない建物、
目にすることのない施設を目にすることができたのです。

術科学校長と幹部学校校長のお二方と話をさせていただいたとき、

「また別の機会に見学に来られるのでしたら、そのときには
普段はお見せしない部分にもご案内しますよ」

と嬉しいお約束をしていただいたのですが、おそらくそれは
今回の「特別コース」のことかと思われます。
(来年にもご招待に預かることになりそうです)

さて、その「特別コース」、それがまずご紹介する

水交館

です。



午前中の見学でわたしたちは教育参考館を見ましたが、約半数は
先にこちらのコースを見学したようです。
昼食をした「第一食堂」の真ん前にはマイクロバスが待っており、
我々はそれに乗り込みました。

教育参考館からも見える武道場の横を通って行きます。
要所にはちゃんと警衛係(警備を自衛隊的にはこういうらしい)が
肩からレシーバーを下げて立っています。



途中の道は必要最小限の舗装しかされておらず、ほとんどが
昔のままの土の道です。

おそらくこれも兵学校時代からある防火用水プールでしょう。
どうやって水をためているのか分かりませんが、罰ゲームで
幹部学校生徒が放り込まれたりしないように(たぶん)、
周りには鉄線の柵が巡らせてあります。


バスに乗るからには遠いのかと思ったら、わずか2~3分で
赤煉瓦の瀟洒な建物の前に到着しました。



これが水交館です。

水交館は、明治憲法公布の前年、明治21年(1888年)に「集会所」として
建築されたもので、江田島地区で現存する最も古い建築物です。

通称「赤レンガ」と呼ばれる有名な海軍兵学校生徒館は、
日清戦争の前年、明治26年(1893)、その5年も前の竣工で、
兵学校の築地からの移転と同時にまずここが立てられたことがわかりますね。


エントランスは昔のこういった様式のものに違わず、
車寄せのためのアーチが設えてありますが、ここに車が停まったのは
おそらくごく最初の頃だけだったのでしょう。
今では両脇にツツジや紅葉などの植栽が大きく育ってその跡も見えません。



アーチのカーブに白いレンガを挟んで装飾にしています。
築地の兵学寮の設計と、ここ江田島の赤煉瓦は同じイギリスの
建築家の手によってデザインされていますから、おそらくここもでしょう。



ただ、たとえばレンガ一つとっても、生徒館のそれと比べると、
ご予算の点で質には若干差があったらしく、経年劣化が見られます。
見学ツァーでは必ず赤煉瓦の建物の近くまで行って、その表面が
ツルツルしていてまったく劣化していないことを確かめるのですが、
要するにこちら側が普通で赤煉瓦は特別だということです。

外側のメンテナンスも丈夫なのをいいことになにもしていないようですが、
そのせいでこんなところ(エントランス上部側壁)に草が生えてますね。



エスコートの自衛官と語らう元生徒。

本来なら兵学校生徒は卒業前のマナー実習をここで行いました。
全員が盛装して遠洋航海を始め士官として必要な洋食のテーブルマナーを
実際に料理を供されながら実習するというイベントがあったのです。

このマナー実習は生徒たちにとって大変な楽しみでした。
しかし、今回江田島訪問をした生徒たちはそれを経験していません。
彼らが最上級生になる前に戦争が終わってしまいましたし、
そもそも戦争末期には物資不足でマナー教室に供するような
コース料理を作る余裕もなかったのです。

それではどうやったかというと、ここ水交館にテーブルセットをし、

「料理が出ているつもりで」

スープの飲み方、肉の切り方などをレクチャーされたのだそうです。

こんなマナー教室は楽しみどころかやらない方がまし、
という生徒の怨嗟の声もあがったものだそうですが、
おそらく彼らの在学中にはそんな「まねごと」すら
廃止になっていた可能性もあります。



装飾の一切ない真っ白な漆喰の壁がいかにも兵学校の建物らしいとはいえ、
飾り彫りの階段の手すり、赤絨毯などに優美な雰囲気を残します。

二階には上がれませんでしたが、これまで見たこの時代の建築の
例で言うと、二階もやはり廊下の両側に小部屋が並んでいるのでしょう。



一般には公開していないこの建物とはいえ、現在でも
国内外の来賓の接遇等に使用されているため、内部は
大変手入れが行き届いています。

壁も絨毯も何度も替えを行っているようでした。



部屋の内部。
このテーブルにカットグラスや洋皿が並べられ、
しゃちほこばって生徒がシルバーを使うこともあれば、
図書館として使われていた時期もありました。



「海軍兵学校沿革」という蔵書の明治21年の項を見ると、

四月 江田島ニ新築中ノ建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成ス

と書かれています。
この年に兵学校は

八月一日 本校ヲ安芸国江田島に移サル汽船旧東京丸を以テ学習船と称し
船内ニ於テ同月十三日ヨリ開聴シ校務を処弁ス 江田島丸ヲ受領ス

と書かれているように夏に江田島移転をしています。
それに先駆けて作られた建物の中には、この「水交館」もありました。

記述の中にある「文庫」がここを指します。
ここが「水交館」という名称になったのは海上自衛隊に返還されてからです。



「返還された」というのは、そう、終戦後には進駐軍が接収していたからですね。
進駐時代にはここは牧師などが宿泊していたということです。

テラス越しに臨む庭園はいまでも樹木の手入れが行き届いています。



我々グループを案内してくれたのは長身剃髪(というかスキンヘッド)、
明るく大きな声で姿勢の良い士官でした。

彼の後ろには今までに贈呈された記念品が飾ってあります。



この額はピントがボケていて細部が読めなかったのですが、
右側は東京消防庁から贈られた「纏」の意匠です。
何か交流行事が行われた記念でしょう。

この部分にはかつて本物の薪をくべる暖炉があったものと思われます。



ランプ等の照明器具は取り替えられたものと思われます。
雰囲気を壊さないようなデザインのものが選ばれていますね。



廊下にはずらりと並んだ帽子掛け。
生徒や海軍軍人たちは、ここに軍帽と短剣を掛けたのでしょう。
冬には海軍マントも・・・。



こういう古い建築物に異様な執着を持つわたしとしては、
皆が行かない隅までのぞいてみないと気がすみません。

一番奥に行ってみると、まるで理科実験室のような部屋がありました。
冷蔵庫や食器、調理台もあることから、ここはキッチンですね。



スプレーにセロファンテープ???????
何となく道具がその辺に雑然と置いてあるのがリアル。



天窓も空気切りとして開閉できたようです。
白い格子の窓ガラスを填めた美しいドア。



レンガの部分には修復の形跡は全く見られません。
江田島で最古の建物といっても、たかだか126年。

わたしはイギリスの田舎で中世に建てられた古城で行われた
知人のイギリス人同士の結婚式に出席したことがありますが、
かの地では数百年前の建築物を使い続けるのはごく普通のこと。
何百年も前の幽霊が出るのをステイタスにしているくらいです(笑)

この当時のイギリス風建築で建てられた水交館がいまだに
びくともせず使用に耐えていても当然のことと思われます。
 




一段上の裏側から見た「水交館」。
古い雨樋などをなぜかそのままにしてありますが、
いたるところ排水等の修繕がされたらしい外観です。

窓のアーチ部分の白いレンガがアクセントとなっていますね。

「文庫館」として建てられた水交館は、その後、同時に落成した
ほとんどの建物が建て替えられてもレンガ造りのため残され、
(やはりレンガ造りの理化学講堂はまだ残っている)
その間

「図書館」→「会議所」→「将校集会所」

と使用目的を変えつつ終戦を迎え、進駐軍からの返還を経て
現在も江田島の第一術科学校校内にその優美な姿を留めています。



建物の見学を終えて外に出た一同を、案内の自衛官は先頭に立って
次の見学場所に誘導して行きました。
なんとこの自衛官が

「わたしはここに在学していましたが、その間はもちろんのこと、
そして勤務している現在も、ここに来たことがありませんでした。
つまり、これを見るのは今初めてなんです」

と感慨深げに述懐したところの

賜さん館

です。
今調べてみましたが、ここだけは見学ツァーは勿論のこと、
どういうわけか第一術科学校のHPにすら記述が見当たりません。

さぞ貴重な見学になると思われますが、さて。


続く。



「雪風」進水!

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とある当ブログ読者の方に、東京模型ショーの入場券を、
例によって名前を明かさずにアドレスだけで物をやり取りできる 
便利な宅配を使って差し上げたことがあります。

今までのやり取りから模型がお好きなのだろうと思い、
それまで裏米でのお付き合いで知っていたメールアドレス宛に
送らせていただいたのですが、そのお礼に、なんと

組み立て前の模型が

送られてきたのです。
東京模型ショーで「たまごヒコーキ」シリーズに萌えまくり、
これが欲しいとお星さまにお願いしたところ、たまたま近くに
模型を作れるお星さまがいたので作っていただけることになった、
ということを模型ショー体験記に書いたら、ちびつながりで
こちらの方は「雪風」を下さったというわけです。



そしてある日我が家に届いた宅配便。
何も考えずにびりりと包装を破ってから気がつきました。
それが「要冷蔵」であることに。

宅配便は冷蔵扱いで配送されていなかったので、

「これはネタとして扱え、とそういう意味であるな」

と送り手の意図を鋭く察知したエリス中尉、カメラを持ってきて
その破いた包装の状態から記録することにしました。
「中山道宿本舗」が一体なんの会社であるかまでは
面倒なので調べませんでしたが、何しろこれも大事なネタです。



要冷蔵の包み紙の下からは、畏れ多くも軍艦旗が!
思わず台所の隅で冷凍庫の上に置かれたその物体に対し
威儀を正し海軍式敬礼をするエリス中尉。

というのは嘘ですが、心の中で敬意を表しつつ、
ついでに

「ネタのためにここまでやるか」

と心底呆れながら、中身を取り出したのでした。



ちび丸艦隊シリーズはフジミ模型というやはり静岡の会社が発売していて、

「大和」「金剛」「赤城」「榛名」「霧島」「武蔵」

という、超有名どころの種類があります。
(今見たら大和は売り切れてました)

ところで、模型の会社がどうして静岡に集中しているのかというと、
その理由らしきことを、先日模型ファンから伺いました。
模型会社というのは、大抵が学校教材の製作会社から出発していて、
今のような素材がなかった時代は、木を使っていたというのです。

静岡といえば、ヤマハ、カワイなどのピアノメーカーが、
ことごとく浜松にあるわけは、浜松が

「比較的木を扱うのに適した気候」

ということもありますが、なんといってもヤマハの創立者、
山葉寅楠が会社を構えたのがここだったという理由が大です。

カワイの創立者河合小市は11歳でヤマハの技術者だった人(!)
ですから、会社をその近所に作ったわけですしね。
ちなみに、戦時中、ヤマハもカワイも、ご時世柄ピアノを作れず、
その間木製のプロペラなんかを作っていた時期があって、わたしは
「河合」と名前の入った軍用機プロペラの写真を見たことがあります。

もひとつついでに、ヤマハの歴史のコピペを貼っておくと、

ヤマハの歴史 
・最初は輸入ピアノの修理→楽器関係作る 
・楽器やってた流れで電子楽器も作る→DSPも作る 
・DSPを他に利用しようとして→ルータ作る 
という流れで、楽器、電子機器、ネットワーク関係の製品を作るようになった。 

発動機・家具製造の歴史

・ピアノの修理で木工のノウハウが溜まる→家具を作る→住宅設備も作る 
・戦時中に軍から「家具作ってるんだから木製のプロペラ作れるだろ」
といわれて戦闘機のプロペラ作る→ついでにエンジンも作る 
・エンジン作ったから→バイクも作る 
・エンジン作ったから→船も作る→船体作るのにFRPを作る 
・FRPを利用して→ウォータスライダー→ついでにプールも作る

つまりこのような会社がひしめき合う浜松には木材が集まる
→小さな木材を使う教材制作会社は便利→そこで営業しているうち
模型が専門になる→教材をやめても会社はそのまま←イマココ

という理由なのだろうと思われます。
多分間違ってないと思いますが、違ってたら誰か訂正してください。

さて、届いた「ちび丸艦隊_雪風」ですが、蓋を開け中を見て、
瞬時にわたしには自分がこれを作る技術も時間も根気もないということを
悟ってしまったのです。
あまりにも絶望したせいで、部品の写真を撮るのを忘れましたが、
今ネタのためにも撮っておけばよかったと激しく後悔しています。

「もしかしたらこれは何かの嫌がらせだろうか」

お礼にもらっておいて、(しかも今改めて値段を見たら結構高い)
この言い草はなんだ、と思われそうですが、そのとき
脳裏をかすめたのがこんな考えでした。


ところで「たまごヒコーキ」を作ってもらえることになった方から
ちょうどそんな時に連絡が入りました。

「たまごヒコーキと普通のバージョンのブラックバードできました」



というわけでうちに嫁入りしてきたブラックバーズ。
たまごヒコーキの方はピトー管ありません(笑)

ピアノの黒の上に置くと、あんまりブラックバードの黒が映えませんね。どうも。



部隊マークや機体ナンバーは実在したものでしょうか。



ついでにこのとき遊びに来ていた、こちらはブラックキャット。

ところで、このブラックバードのやり取りをしている時に、
「ピコーン」と閃いた考えがありました。

「ついでに『雪風』も作って貰えばいいのではないか」

たかだかこんな小さな模型くらい、比較的器用なわたしにできないはずはない。
作ってみれば案外簡単かも?しかも失敗したらしたでブログネタにもなるし。

という考えもあったのですが、面倒臭さがチャレンジ精神を凌駕しました。
その依頼を快く引き受けてくださった件の「お星様」は、
制作の途中経過として、

 

「あなどれません」

というメールを送ってきました。
それによると

「このフジミというメーカーはタミヤやハセガワに比べると、
パーツの合いが甘いのですが、ちび丸艦隊はなかなかしっかりしています。
デフォルメで武装や電探(レーダー)が強調されていて、
これらのパーツはもっと大きなスケールのキットよりメリハリがあり、
面白いキットです。侮れません。」

それはともかく、わたしはこの説明書に書いてあることを読んで

「自分でやろうなんて早まった考えを起こさなくてよかった」

と胸をなでおろしたのです。

「説明書の番号の部品をニッパーで丁寧に切り取ります」

こんな小さなニッパーなんてわたし持ってませんし。
さらには

「海面に苦労しています」

ということでした。
一応海面模型にもなるので、海面を作って下さろうとしたようです。



ちなみにこんな感じですね。
力作だ~!
思わずボートの中で中腰になっている要救助者もいいですが、
それよりこの湖面のような海面に立つ白い航跡がいいですわー。
こんな海面を作ってくれるのかな?
わくわく。



そして、製造元からは完成した「雪風」と製造元所有の「大和」を並べて
「最後の出撃!」と遊んでいる様子が送られてきました。
ちょっとアスペクト比がおかしいですが、実際の対比も
1キロくらい離れればこれくらいになったのではないかと思われます。
 


というわけで、「雪風」が届きました。
思わず白黒にしてしまったのですが、どうやら製造元では
海面の出来上がりに満足がいかず、妥協を許さない職人気質は
そういうものを人に渡すわけにいかん!ということで、
プラスチックの海面板を送ることにしたようでした。



画像をソフトで加工してみました。



他に海面らしいものはなにかないかと探したところ、「MIKIMOTO」の
ブルーの紙箱が色といい波といい、ちょっといい感じだったので使ってみました。
ブラーで海面をぼかしたのが冒頭画像です。



ここでふと「水に浮かべられる!」というのを思い出し
ガラスボウルに水を張って浮かべてみました。
よく考えたらこれがこの「雪風」にとっての進水式です。
進水方法は海面に直接進水する「投げ込み式」です。

まっすぐ進まないのでよく見たらなんだか右舷側に傾いております。

 

よくよく見たら、ちゃんとパーツがはまっていませんでした。
それでも全く問題なく浮いているのでバランスとか大したものだと思いました。

武蔵だって進水式の時は最終的には左に触れましたよねー。(←覚えたての知識)

 

しばらく見ていたらだんだん沈んできたのでやめました。
「雪風」は決して沈まず。



他に何かないかと思って部屋を見回したら、昔息子が宿題で
ジオラマを作ることになったとき、その「予行演習」として
買ってきたジオラマキットがあったので、無理やり
川を航行させてみました。

川の真ん中に大きな岩があって、座礁しているところです。



ここまでやって来れたのが奇跡。
「雪風」が船頭多くて山に登るを体現しているの図。

ところで、この「雪風」のとき、わたしは厚かましくも、
別口でもらっていたけどどうしたらいいのかわからない
飛行機の模型がもう一点あったのを思い出し、これも
また託して作っていただいたのでした。



それがこれ。
滑走路がなく、道路に不時着したところです。

複葉機で「報国号」と機体にあることから、
戦時中の寄付で作られた飛行機であることだけわかりましたが、
これがなんであるかは作った方もわからないとのことでした。
ちなみに二枚羽は前後に少しずれている仕様です。

海軍機か陸軍機かもわかりません。

これ、なんだかご存知の方おられますか?



今から不時着するというこの飛行機が、山の頂上に
機体をこすりながら突っ込んでいく様子。

これ、「あゝ陸軍隼戦闘隊」の特撮よりはいい線いってないか?



なぜ墜落させたし。

というわけで、散々楽しませていただきました。
関係者の皆様、本当に有難うございました。
模型の世界って楽しいですね!

自分自身は何一つ作らずにこんなことを言うのもなんですが。

 

海軍兵学校同期会@江田島~賜さん館とダンディ

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前回のこのシリーズでご紹介した「水交館」。
一般公開されておらず、このような海軍兵学校関係の催し以外では
近くで見ることもできない貴重な機会を得て見学してきました。

インターネット検索すると、中には

「水交館で自衛官のお手前によるお茶を頂いた」

という羨ましい報告(!)もあるにはありましたが、
そういう特殊な訪問でもなければ、出て来る写真はHPの公式写真か、
さもなければ

「特別に頼みこんで?撮らせてもらった」
「敷地外(裏山←うらやましくない)から撮った」

という曰く付きのものがほとんど。
しかし、皆さん、こんなもので驚いてはいけない。
水交館でもこれほどレアなのに、今日お話しする

”賜さん館”

は、さらに秘密のベールの奥にあり、なんとこの日エスコートした
幹部学校卒士官ですら

「実はわたしもここに来るのは初めてなんです」

と感慨深げに言ったくらいです。
ちなみに皆さん、「賜さん館 江田島」で画像検索してみてください。
該当する建物は全く引っかかってこず、わりと上位に
当ブログの記事「あゝ江田島羊羹」の挿絵なんかが出るだけですorz

「水交館」は非公開とはいえたまーに見ることの出来る人もいるが、
こちらはほぼ実質的に内部ですら秘匿されているらしいのです。

どうしてこのような非公開の建造物を我々が見られたかについては、
おそらくですが、当同期会が今回を以て解散するということから、
海自が特別に見学を取りはからってくれたのだと考えます。

それにしても、一体どういう理由でこの建物を
一切公開しないことにしているのでしょうか。



自衛隊の幹部候補生は着任第一日目に学校内の関連施設を巡る
「校内旅行」によって江田島を見学して歩くそうです。
その行程には「八方園」があり、日本の各地の方位を示した
「方位盤」もこのとき見ることになっています。


兵学校時代、たとえ親が危篤であっても海軍に奉職した身である生徒は
帰ることができないときにはここで故郷の方角に祈りを捧げたといいます。


幹部候補生、術科学校生、つまり現代の海軍軍人である彼らですら、
旧海軍軍人の念の残っているに違いないこの場所に来ると、
気分が悪くなったり脚が重くなったりして、
「拒絶されている」と感じる者が必ず現れると言います。

そんな特別な場所を、一般の観光客に公開しないのは当たり前ですが、
「賜さん館」は、八方園とは別の理由で秘匿されているようなのです。


そもそも「賜(し)さん館」という建物の名称です。

まず「賜さん」って何なんでしょう。
「さん」に相当する漢字はおそらく旧字体なので表記できない、
というのはわかりますが、それでは「しさん」って何、
と調べてみても、相当する単語は見つかりません。

第一術科学校のHPにすら建物の説明も写真もないのですから、
その正体については外部には明らかにされていないということです。

わたしの持っている「海軍兵学校沿革」は、詳しい歴史の記述
(何年にどんな先生を海外から招聘していくら払ったとか、
生徒の誰々が不適格な行動により免生徒になったとか)
はなぜか大正8年までで、あとは成績順の卒業名簿、
というものなので、この建物については述べられていません。

その後国会図書館まで調べに行ったところ、賜さん館は

昭和11年、昭和天皇のご行幸を記念して建てられた

ということが判明しました。 



兵学校写真集から、昭和11年の天皇陛下ご行幸の写真を探してきました。
兵学校64期から67期までが在学していた時代です。
写真は教育参考館前の石段で、陛下はこれから観兵式に向かわれるところです。



呉到着の際の陛下。
目的は海軍兵学校のご視察でした。

 

校内の奉迎の様子、と写真のキャプションにはあるのですが、
(毎日新聞社発行・江田島)
海軍軍人だけでなく、紋付袴の一般人(子供)も随所に見えるので、
校内ではなく呉市内ではなかったかと思われます。


正確な日にちは昭和11年10月27日。
陛下はお召し艦愛宕にてご行幸遊ばしたとのことです。

この日付から考えて「賜さん館」は陛下の校内での御座所として、
ご行幸に合わせて前もって建てられたということです。



陛下の御為に建てたものであれば、その後うかつなことに使えませんし、
かといって使わずに傷ませてしまってはよろしくない。

しかも、この建物の建築費用は「陛下の私費」から賜ったという理由もあり、
戦後はこれを維持しつつも「アンタッチャブル」のまま現在に至る、
というのではないかというのがわたしの推理ですが、皆様どう思われますか。 



さて、その賜さん館に向かっては、水交館から坂を上る形で
歩いて行きます。
わたしたちには何でもありませんでしたが、80半ばの方々には
結構こういう行程はきつかったようで、後でお話しした方は

「今日はさんざん坂道を歩かされて疲れた」

とぼやいておられました(笑)

それにしても、賜さん館に続くこの道の風情、いかがですか。
今時こんな道があるだろうかという舗装されていない道。
おそらく陛下はこういうところも車で行かれたことと思います。





この道の途中に、このような小さな建物がありました。
まるで戦前にタイムスリップしたようです。
江田島の中そのものが時が止まったように変わらない中で、
壮麗な講堂や教育参考館などとはまた違う、「当時のままの空気」が
そっくりそのまま凝固しているような空間です。 


皆ちらっと見るだけで無関心に通り過ぎましたが、
わたしは目を爛々と輝かせ、建物に見入りました。

警衛の隊員が敷地に入らないように前に立っていましたが、
それがなければ近づいて行ったかもしれません(笑)

これ、なんだと思います?
まず注目していただきたいのが家の横に停めてある車。
自家用車ですね?(公用車ではなく)

わたしの聴き間違いでなければ、ここは幹部学校か術科学校の
誰か偉い人(ぼかしてます)の居所であるらしいのです。
二棟ありますが、おそらく右の方は昔の方式で言えば「御不浄」?

一軒家とはいえ、どう見ても仕切りのないワンルームのようですし、
窓ガラスの内側にはロッカーなど使われているものが見えていても
カーテンがないところを見ると、寝起きしているわけではなさそうです。


今になってこれが何なのか気になって仕方がないのですが、来年、
あらためて術科学校訪問が実現したら、そのとき聴いてみます。



賜さん館のまえに到着しました。
タイルと花崗岩があしらわれた白とクリーム色が基調の外壁、
屋根の瓦は薄いグレーでアクセントにはエメラルドグリーンが配され、
全体的に大変モダンで瀟洒な雰囲気の漂う建築です。

桁行き11間、梁間5間の木造平屋建てで、外壁は小口タイル張り、
基礎は花崗岩で作られています。



賜さん館の建っている敷地を「踊り場」だとすると、
ここからさらに上に上がって行く坂道が始まるのですが、
その「入り口」である鉄扉の門柱だけが残されていました。

この上にあるのは高松宮邸だけで、宮様が御在所のころには
この鉄扉は閉ざされ警衛が立っていたものと思われます。



中に入ってもいい、と言われて何人かが入りました。
外装のアクセントに使われたペールグリーンと同色の敷物が
真ん中に敷かれていて、ここは踏んでも大丈夫だとのことです。

まず、画面左手の壁面に御注目下さい。
大講堂の台上中心にも同じ仕様が施されていますが、
これは玉座の置かれる御辺り。

なるほどー。

この玉座仕様あらばこそ、賜さん館は一般公開されず、今でも
ゆめゆめヨガ教室などに使用できないというわけですね。
でも、いかにもダンス教室に使われそうな大鏡が二つもあって、
これは一体何の目的なのだろうと考えてしまいます。

それにしても床は見るからに張り替えられたばかり。
部屋の雰囲気を壊さないような大型クーラーも入れられ、
ここで何かフォーマルな行事が行われたのかと思われます。



ちなみにこれが改装前。
なんと、突き当たりは左が鏡で右は小さなドア。
ここを窓にしてしまったんですね。

天井はなんと蛍光灯が吊られています。
当初はもちろんシャンデリアだったはずですから、
この辺りは「復刻」したのでしょう、



窓も腰高で、床は組み木。



玉座部分。
ここにデザインの変更はなされていないようです。




普通の施設ならウェディングパーティなんぞに使われそうです。
その気になればかつて兵学校の生徒が卒業式の後にやったように
ガーデンパーティができますし、現在でも水交館の庭では
行われていると聴いたこともあります。
が、ここに限ってそんなことにはなりますまい。




昭和11年当時、超モダン建築だったに違いありません。

モチーフとして何度も現れて来る○がアクセント。
鎖の留め具はよく見れば菊の形をしているので、もしかしたら戦前
中央の大きな丸い部分には菊の御紋が入れられていたのではないでしょうか。

進駐軍の時代、おそらくここではそういうものを排除して、
畏れ多くも(笑)ダンスパーティなどが行われていたのかもしれません。



こうして見ると、雨樋や軒の部分などは 新たに、
しかも最近作られたような感じがしますね。
彫刻を施した優美な軒下飾りは当時のものでしょう。



出入り口の両脇と同じ「隅石」。
これがため、石張りのように見えますが、実は偽石です。
軸組みが木造であるため、左官仕上げによってこのように
「演出」したものだと考えられています。

窓の下部の窓台は石材で、大変丁寧な仕上がりとなっています。

建物の裏に停めてある自転車にも注目。
なんと、色を合わせており、建物の外観に溶け込んでいるような?

このエメラルドグリーンはやはり「海軍」ならでは。

ついでに、床下の通風口にかぶせられた鉄の格子にも注目。
美は細部に宿る。
さすが陛下の御座所として造られただけあって細かいところも
神経が行き届いたデザインとなっています。

東京目黒の庭園美術館(わたしはここが大好きでよく行きます)には、
アールデコの名作、朝香宮邸が現存しますが、この賜さん館は
同じ宮内省内匠寮が設計しています。



ここと反対側、つまり水交館の場所から見上げた賜さん館。



ところで、余談です。

賜さん館の見学を終わり、この後我々は坂を上って
高松宮邸を見学するのですが、終わって帰ってきたら、
賜さん館の前に並べられていたパイプ椅子でさり気なく
座って休憩している元生徒。



この方、生徒さん達の中でも際立って若く見え、
矍鑠と言う言葉さえ失礼なダンディさんでした。

皆さん、この方80歳半ばに見えます?

ダンディなので、たとえ歩いて疲れてしまっても、
へたり込んだりなさらず、脚など組んでダンディに休憩なさっておられます。



というわけで、この方はこちらの紺ブレチノパンの元生徒と共に
この日のダンディ・ツートップ賞に(わたしの中で)輝きました。

お二人に共通するのはどうやらゴルフがお好きだったらしいこと。
(前者は持っているカバンから判断、後者はネット検索で判明)

同じ年代の集まりにおいて、次第に若さに個人差が出て来るのは当然ですが、
それが何によって決まるかというと「如何に歩いているか」ではないか。

クラスの半分が既にあの世へ旅立った中でのダンディ・ツートップを
興味深く観察させていただいて立てた仮説です。




続く。 

 

キャッスル航空博物館~WAFと「アメリカの正義」

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今日はアメリカ時間での真珠湾攻撃の日なので、
アメリカ軍とアメリカについてお話しします。(なんでだ) 



キャッスル航空博物館のHPでは「現在のプロジェクト」というページで
今レストアして展示準備をしている航空機の写真が見られたり、
「未来のプロジェクト」として、これから展示する予定の機を紹介していたり、
さらには今後のハンガー(格納庫)設置予定キャンペーンとして、
現在屋外展示されている航空機のほとんどを屋内に、天井から吊るしたりして
劇的に展示するという計画があります。

ページを見ていただいた方は、そのどのページにもドネート、つまり
寄付をするための窓口が設けられているのがお分かりでしょう。
こういった博物館が個人大口のスポンサーによる寄付で成り立っているのは
アメリカでは当たり前の現象なのです。

 先日はニューギニアで取得された零戦のレストア、里帰り、日本での維持、
これ全て篤志による寄附を募るもその進捗状態ははかばかしくない 、
ということを話題としましたが、 そのときにも少し触れた、
鹿屋の航空基地にある、世界でたった一機現存する二式大艇は、
アメリカから引き取るときに金銭面で難航し、
船舶振興会の笹川良一が乗り出して何とか引き取ることができたものです。
(引き取らなければ廃棄処分になるところだった)

その後も「船の博物館」が民主党の仕分けで機体の管理をできなくなり、
現在の鹿屋で安住の地を得たのはいいのだけど、
屋外展示のため劣化する一方。

ここに展示してある全ての航空機は雨ざらしで、
どういうわけかメンテナンスも海上自衛隊がやっているらしいのです。

アメリカのように大々的に寄付を募り、大口の法人寄付に対しては
スポンサーを明記して宣伝するようにすれば企業としても広告となる、
とわたしはかねがねここでも何度か語ってきたのですが、
先日の里帰り零戦に対する世間の動きを見て、
たとえそういうことができるようになったとしても、おそらく
維持に足るほどの喜捨?は集まらないような気がしました。

アメリカの民間団体が保持している零戦などの旧日本軍機も、今までの例から

「日本に帰したらサビだらけに放置して屑にしてしまうから」

という理由で日本には決して戻ってこなかったと言います。




これは、おそらくレイテ湾海戦を描いているのではないかと思うのですが、
うっかり説明を撮り損なったのでわかりません。
地形から見てスリガオ海峡の海戦かな、と。(適当です)

「頭上の敵機」ですっかりおなじみのB-25ミッチェルが、
今弾薬庫をぱかっと開いて投弾した瞬間。



ノーズのこれでもかな搭載銃が実に下品な飛行機ですね。(偏見)

この絵、勿論アメリカ人が描いたわけですが、だからといって
やられている飛行機が皆日本機、というような小さい印象操作はしません。
このあたりがどこかの国とは違うところです。
下で火を吹いているB-25はあきらかに冒頭の零戦にやられています。

まあ、下の方で撃沈されているのは間違いなく日本のフネですが。



これもうっかり説明文を確かめるのを忘れたので、詳細はわかりません。
わざわざマネキンまで置いて再現したいくらい大事なことに違いありません。
ラバウルとか、南洋に侵攻したアメリカ軍かな?
あんなところに行かされる将兵もたまったもんじゃありませんが、
あなたたちアメリカ人はまだ補給が途絶えなかっただけましだったのよ?



「サバイバル・オン・ランド・アンド・シー」

僻地に駐留する予定の米海軍の皆さんには、このようなサバイバルブックが
わざわざスミソニアン協会から手渡されていたことでもあるし。

ちなみにこの「エスノジオグラフィック」というのは
「エスノグラフィー」(民俗学)と「ジオグラフィー」(地理)の造語でしょう。



いわゆる「ヴェテラン」のちょっとした懐古コーナー。
第二次世界大戦と朝鮮戦争のヴェテランであるミラーさんの遺品と、
当時乗っていた航空機(トムキャット、コルセアなど)の写真の展示です。

 

軍人グッズも寄付した人の写真付きで飾ってあります。
映画でおなじみの「軍帽の上からヘッドフォン」ですが、
このヘッドフォンを「クラッシャー・キャップ」(帽潰し)
といったそうで。

ダレスバッグはW.S.L.の頭文字入りです。



ヴェトナムからの手紙・・?

 

サンダーバード、というとアメリカのエアアクロバットチームですが、
このスティーブ・ドゥエル大尉は、ヴェトナム戦争のヴェテランで、かつ
チームのソロポジションを47フライト務めました。

ここに展示してあるのはドゥエル大尉のサンダーバード時代の装備品で、
バッグには

「キャプテン ドゥエル ソロ」

と描いてあります。

サンダーバードは2004年、百里基地と浜松基地の航空祭に来日しましたが、
いずれも雨が降って飛行展示をせず帰ったというので語り種となっているそうです。
サンダーバードのモットーは

「Once a Thunderbird, Always a Thunderbird」

ん?どこかで聞きましたねこの台詞。




第一次世界大戦二三戦したヴェテランの遺品が本人の遺族によって
寄贈されたようです。



この手榴弾はピンを抜いたら使える?
ガスマスクは「塹壕」とともに、第一次世界大戦の象徴です。



この鉄兜は左イギリス軍、右ドイツ軍のものだと思います。



J.R.Pearson Jr.と書かれたトランクには、まだゴーグルや下着が納められたまま。
靴下は官品ではないようですが、黄色がカーキのアクセントとしてはイケてます。



この色をカーキ、と何の疑いもなく読んでいたわたしですが、ある日、
「それは新鮮だ」(つまり全くの間違い)と言われました。
言われて初めて気づいたのですが、我が自衛隊ではこの色をカーキと言わず、
オリーブドラブ色、略してOD色と呼んでいることを知りました。

この「カーキ セット」は、カミソリのジレット社が、戦地の将兵用に
グルーミングセットをカーキ、つまり軍服の色に合わせたケースに内蔵し、
軍に調達したものと思われます。
分解できるカミソリに、ケースはおそらく替え刃入れだと思われます。
ジレット社も戦争に参加してたんですね。

向こうにちらっと見えるのはソーイングセットです。
自衛隊でも入隊して最初にするのがお裁縫、つまり自分の階級だの名前を
縫い付ける仕事なのだそうですが、アメリカでも事情は同じ。



写真はLST703というタンカーで、左はライフベスト。
このフネについて調べていて知ったのですが、アメリカではこういった
艦船に乗っていた生存者がアクセスして、自分で連絡先を書き込む、
「同窓会ページ」のようなサイトが存在します。
このタンカーの場合、生存していてかつこのサイトを見つけることができ、
名前を登録したのはわずか6人だけのようですが(そのうちeメール記載は二人)
こういうページがきっかけで再会するということもきっとあるのに違いありません。



この一角は、W.A.S.P、つまり

Woman's Air Force Servise

のコーナーです。
当ブログでは、最初の女子飛行隊を作ったジャクリーン・コクランと、
ナンシー・ハークネス・ラブについて別々に語った後、

まずコクランがエレノア・ルーズベルトの助力を得て

WAC  陸軍婦人部隊 (Women's Army Corps)

を創設し、その後、それとは別にハークネス・ラブが隊長である

WAFS 女性補助輸送部隊(Women's Auxiliary Ferrying Squadron)

と、コクランの

WFTD 女性飛行練習支隊(Women's Flying Training Detachment)

を統合して、

WASP 空軍女性サービス・パイロット(Women Airforce Service Pilots)

になった、という話を延々と?したのですが、今WASPで検索すると、
案外あっさりと「コクランが作った」ということになってしまっています。
これはコクランの方が政治的権力があり、押しも強かったってことでOK?



現地の説明によるとコクランもラブも全く名前が出ておらず、
ただ、ラブが渡洋輸送をしようとしたときにギリギリにしゃしゃり出て
それを止めさせたということで当ブログ的には有名になった(?)
ハップ・アーノルド少将が司令官だったことしか掲載されていません。

日本のように「何かあったときに女が参加していたと知られるのは恥だから」
という理由で女子の飛行隊参加を絶対に認めなかったというほどではないにせよ、
彼女らが関わったのはあくまでも輸送業務、しかも国内だけで、
まあいわばハワード・ミラーの描いたあの有名な絵、

「ロージー・ザ・リペッター」

のような、国民の士気高揚のための象徴的存在だったのではないでしょうか。



アイコンですから、やはり制服はお洒落でかっこ良くないとね。
なにしろ仕掛人は富豪の後妻で元エステティシャン、
現在は化粧品会社の社長だったりしますから、この辺ぬかりはありません。




WASP隊舎での和気藹々とした生活が、ライフを始めあらゆる媒体で
お洒落に、かっこ良く報じられ、若い女性の憧れを誘います。

女性の航空隊に所属した隊員はおよそ1100人いたということです。

男子選手が皆戦地に行ってしまったのでその代わりにと創設された
女子野球リーグなどを見ても思いますが、アメリカとて
ドイツや日本と戦争するのに片手間でやっていたわけではなく、
それなりに「国民総動員」であたっていたんですね。



編み上げ靴ですが、わずかに踵を高くしてあるあたりが
「ちょっとお洒落」を意識しています。
しかしこのデザインは今日でも普通に通用しますね。
皮の質もいいし、今すぐの使用に差し支えないという感じです。
(というか、これ欲しい)





MAAF Merced Army Airfield

WACとWASPをまとめた総称をMAAFと言います。
あくまで男性パイロットのカウンターとして、補助の仕事をしました。
航空機の輸送、ターゲット・ドローン(無人機)の曳航、そして
新型機のテスト飛行などが彼女らの仕事でした。

ここでもB-24リベレーターが活躍していた模様。
上の写真はB-25ミッチェルかな?



どこの航空博物館にもある模型コーナー。
TBM/TBFアベンジャー。



同じくグラマンのF−14 トムキャット。



そして必ずこういうところにはある、旧日本軍機。
本当にどこの博物館にもありますが、
使用模型はきっとハセガワのものだと思います。(個人的思い込み)

水上機は「瑞雲」、右側「隼1型」(だそうです)。



一式陸攻だと思っていたのですが、「連山」(だそうです)。
これはハセガワ1/72モデルである可能性大。(だそうです)



キャッスル航空基地所属の空中給油機。
B−29が給油機仕様にされていたんでしょうか。(でかいから)

とおもったらこれはBー36の改造機。(だそうです)
給油ノズルを延ばしていっております。



ガッチャ!

小動物を爪で引っ掴んで飛んでいく鷲みたいな図ですね。 



ノズルは後方にもあるということでしょうか。
べつの写真では上にノズルを伸ばし、下方にタンク口のある飛行機に給油していました。

というか、ご指摘があって気づいたのですが、
1、2枚目と3枚目、飛行機が別ですね。(い、いつの間に!)
プロペラの向きがいつの間にかうしろになってるぜい!

えーとこちらがB-29改であることは間違いなさそうです。



ヴェトナム戦争で使用された銃など。



こういうのを見ると、ヘリからヴェトナム人の女子供、年寄りを狙って撃ちまくり、

「なぜかって?逃げるのが遅いからな」

とうそぶいた兵士が描かれていた映画「フルメタルジャケット」を思い出しますね。
いやいや、あのときのアメリカさんもなかなか皆さん鬼畜でしたなあ。
それ以上に恐れられていたのは韓国軍の兵士だったそうですね。
必ず女性を残虐に強姦して殺してしまう部隊としてヴェトナム人は米兵より恐れたとか。

フォンニィ・フォンニャットの虐殺

タイヴィン虐殺

ゴダイの虐殺

今、この韓国がアメリカの議員を買収してあちこちに旧日本軍を糾弾する
「慰安婦の像」を建てていますが、
日本軍は組織的に売春婦を拉致したわけでもないのに、
どうしてこんな鬼畜野郎どもに、
しかもヴェトナム戦争より前のことを責められんといかんわけ?

だれか論理的に説明できる人がいたら教えてほしいもんだわ。





という話はともかく、この銃を見ていただきたい。
台座のところに斬り込まれたスリット、ここに分解した他のパーツを
収納して一本で持って歩くことができる便利グッズです。

これでヴェトナム人の虐殺も捗りますね。

 

勿論彼らだって軍人として命令されたからヴェトナムに行き、
どこからかは知らないけど「女子供、老人も殺せ」という命令を受けたから
ソンミ虐殺で糾弾されたウィリアム・カリー中尉は裁判でそう言った)
そうしただけで、結局戦争という異常現象の中では仕方なかった、ということで
納められてしまっているんですね。

つまりアメリカという国は歴史上「戦争犯罪で裁かれたことがない」国なんですよ。

だからこそ、国民のほとんどが

「アメリカは正しい、日本は悪かったから原爆を落とされた」

などということを平気で言って憚らない傲慢な国になってしまったわけです。




これらの写真はヴェトナムをB−52で絨毯爆撃したときに不時着したかなんかで
捕虜になっていたアメリカ人たちのもの。

勿論、彼ら一人一人は悪くありません。



だからこそ解放されて帰国したときには愛する父であり夫である彼らを
こうやって涙ながらに迎える家族がいるというのはよーくわかります。




こうやってヴェトナム戦争に参加した軍人に勲章を与えて顕彰するのも
戦争に行かせた国としては当然のことでしょう。

ただ、その一家の父や夫、それどころか女子供、赤ん坊に至るまで
まるで虫けらのように殺したアメリカ兵が何のとがめもなく、
ソンミの指導者であるカリー中尉ですら終身刑で、
しかもすぐに釈放されて市民生活を送ることが許されるというような国に、
果たしてアメリカ以外の国は正義があると思うか、って話ですね。

しかもこの事件を政府は反戦運動に繋がるのを恐れて隠蔽し続けました。


しかしながら、アメリカ人の名誉のために、これが全てではなかったことを
最後に説明してこの項を終わりにしましょう。
あの戦争の中、人間の良心に従って行動する者が確かにいたことを。

ヒュー・トンプソン・ジュニア准尉は、ソンミ村虐殺の真っ最中、
OH-23偵察ヘリコプターで村落上空をたまたま通過したため、
眼下に多数の死者と民間人への「オーバーキル」を目撃しました。

彼はただちに上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、
さらには中隊の虐殺行為を止めさせようと妨害を試みたそうです。

トンプソン准尉はソンミ虐殺の裁判で証言しましたが、この行為に対する
アメリカからの顕彰がなされたという話はどこにも残っていません。





海軍兵学校同期会@江田島~高松宮記念館

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さて、元海軍兵学校生徒と巡る江田島ツァー、
天皇御行啓に際してあらたに造営された「賜さん館」の次は、
そこからさらに坂を上って行ったところにある

高松宮記念館

です。
勿論戦前はそういっていたわけではないと思います。
海軍兵学校の歴史年表をひもとくと、大正9年の項に

10月 特別官舎新築

とありますが、これが高松宮記念館のことであろうと思われます。

高松宮邸であるからには高松宮宣仁(のぶひと)親王
の御ために造られたことは明らかですが、問題はその時期です。

宣仁親王が海軍兵学校に入校なさったのは大正9年(1920)4月。
兵学校52期で、同期には源田実、猪口力平、淵田美津雄などがいます。


兵学校学生は、平日を校内の宿舎で寝起きしますが、週末には
江田島内の指定民家に「下宿」することになっていました。
この下宿制度は今でも行われており、幹部自衛官候補が
広く世間への視野を広げるという意味があるそうです。


殿下の前後には、

博忠王、朝融王(49期)、博信王(53期)萩麿王(54期)

などの皇族のかたがたが在籍しておられ、いずれも下々の者とは
別に起居するための特別官舎に住まわれていたわけですが、おそらく
「社会勉強のため」週末には下宿に足を運ばれたものと思われます。


しかし、宣仁親王といえば次期天皇陛下の弟君。

さすがにそこまで下々と交わり賜うには畏れ多くお迎えする方も大変、
ということを(たぶん)入校直後になって学校側も気づいたため、
このような一軒家が半年後になって設けられたのではないでしょうか。

これは高松宮殿下の下宿つまり「ウィークエンドハウス」だったのです。



さて、その高松宮記念館を見て行きましょう。

官舎といっても親王の御在所ですから、まるでお屋敷の造りです。
瓦屋根の設えは大変凝ったものですし、軒下の空気抜き?は、
まるで工芸作品のように手のこんだ飾り彫りがしてあります。
外に面したガラス窓は戦後、桟(さん)ごと新しくしたようですね。



「入ってもいいですよ」

案内の幹部に言われてたくさんの人々(女性多し)が
わたしに続いてぞろぞろと中に入って行きます。
実は「入っていいか」と聴いたのも、真っ先に入って行ったのも
何を隠そうこのエリス中尉でございました。

わたしは、ほら、何と言っても皆さんとこの貴重な体験を、
こうやって共有したいという、アツい使命感に燃えておりますから。

で、カメラを構えたわたしに続いて、こういうことには滅法興味を示す
年配の女性陣が+(0゚・∀・) + ワクテカ +しながら入って行きます。

でもなんだか・・・・

とても大正時代のかしこきあたりの御在所というよりは、
昭和50年代に建てられた築30年以上の物件、という風情?

壁は合板ベニヤみたいだし窓はアルミサッシだし、
天井も照明器具も・・・。



わざわざ「洗面所」なんてプラスチックのプレートを貼るなんて、
一体誰の為に?何の為に?

どうもこの様子を見る限り、ここは昭和の末期頃、
明らかに使用することを目的に改築されたような感じ。

特別宿舎として使われていた時期があったようなのです。



脱衣所の床、洗面ボウル、蛇口等は新しいですが、
(といっても30年は経っていそうですが)
浴室の壁面や浴槽、窓などはそのままのようです。



女性陣は一様に風呂に興味を示しましたが(笑)、残念ながら
土足で見学する為に敷かれた白いシートが続いていなかったため、
洗面所から奥には入れませんでした。

大正9年当時に於いてタイル張りの浴室、というのは
大変先端を行っていたのではないかと思われます。

浴槽に入る為に段がわざわざ設えてありますが、
風呂は釜式で、外に薪を焼べて沸かしたもののようです。

「あらー、五右衛門風呂なのねえ」

同行の奥様が興味深げにつぶやきました。
竣工当初は美しいブルーの塗装がなされていたものと思われます。



居室も観ることができました。
というか、入ってすぐ洗面所だったってことは、こちらはいわゆる
勝手口(お勝手はないけど)というやつだったのね。

廊下越しに同行の人々が見えていますが、
「別に見なくてもいいや」という感じでスルーした人たちです。
実際にここで過ごしたことがあるなら興味を持ちそうなものですが。

「わざわざ入ってみなくても、どうせあんなものだろう」

という予想が、身体を動かす億劫さを後押しするのかもしれません。
残念ながら年を取るということは、どんな人間にとっても
好奇心を失うということと同義なのかとふと思いました。



部屋はもっと暗かったのですが、露出を上げてみました。
廊下が長く続いており、見ることの出来たのはごく一部で、
正面玄関や寝室等も別にあるようです。



鴨居の上にあった謎の物体。
コードも見えないし、これ何でしょう。



建築からすでに100年近く経っているのに、
浴室等もそのままであるのは、おそらく高松宮殿下が在籍の4年間、
しかも週末だけしか使われなかったせいかと思われます。


高松宮記念館について検索してみると、「賀陽さんも使用」と
書いてある記述を見つけました。

昭和18(1943)年、賀陽宮治憲(はるのり)王がご入校後、
終戦までの2年間、やはり下宿になっていた、というのですが、
ここで疑問が二つ湧きました。

一、王が入学した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、
 王は岩国分校で教育を受けた(つまりここにはいなかった)とWikiにある

一、今回同行した兵学校の期生が「賀陽宮と同じクラスだった」
 というのを聞いたが、これもwikiによると賀陽宮の期は別である

まさか当のクラスメートが同じ分隊にいた殿下のことを
間違えて覚えてるわけがないし、しかもその生徒は岩国分校ではなく
江田島にいた、と明言しているのです。


??????


これ、どうなっているんでしょうか。
ちゃんと調べる必要があるような気がしてきた・・。



障子紙はすでに黄ばんでところどころ破れがあります。

同行のおばちゃまたちが

「まあー素敵ー」
「いいおうちよねー」
「もったいないわあ」
「住まわないと家って傷むのよねー」

などと口々に言い合っていました。



床の間の掛け軸に焦点を合わせるのを忘れました・・orz
殿下はここで食事等をなさったのだと思われますが、
果たしてクラスの者が遊びに来るなどということは許されたでしょうか。

誰か来るとしても校長(鈴木貫太郎当時中将)とか、偉い人ばかりで、
さぞ窮屈でおられたのではと心配してしまいますが、
やんごとなきお生まれの方は、意に介することもなかったかもしれません。




さて、というわけで中を見学してきた人たちは外に出て、
次の見学場所へと移動して行くわけですが、
そこで大人しく皆と一緒に行かないで、反対側に行く人がいるんです。



はい、それはわたしです。

だって、もしかしたら最初で最後のチャンスなんですよ?
人の流れを一人抜け出し、わたしは小走りに建物の裏手に回りました。

これが建物の裏全景。
やはり「勝手口」の部分は、外壁も新しくなっていますね。



格子の細かい左手の窓が洗面所、奥が湯殿の窓です。
うーむ、明らかにこれは当時のまま。

雨樋は新しく造ったようですが、なぜか古い雨樋を除去せず、
(建物にがっつりくっついているから?)そのままにしています。



建物の基礎部分がレンガ積みであるあたりが兵学校風。



さらに浴場に沿って建物を回り込んで行くと・・。
まだ向こうに棟が連なっていました。
こちらも窓をアルミサッシに変えたりしてあります。

木のついたては何だったのかなあ。
兵学校は全校水洗トイレ完備だったわけですから、当然ここも
そうなっていた筈ですが・・・。

さて、急いでこれだけ写真を撮り、わたしは今度は全力で
皆の後を追いかけました。
一般ツァーでは、ツァーガイドは必ず移動するときに誰も残っていないか
確かめてから次に進みますが、今回はそういう不審な行動を取る人間が
いないという前提ですから、案内の自衛官は自分が先頭に立って
とっとと次に進んで行ってしまいます。
(まあバスの中で人数を数えるんですけどね)



一人で坂をバタバタ走りながら撮った写真がこれ。
皆さんもうとうに賜さん館の前に集合しておられました。(ぜいぜい)

さて、この後我々は再びマイクロバスに乗り込み、
大講堂から陸奥の砲塔、表桟橋を見学しました。


続く。


 

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