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日系アメリカ人~442部隊・「アメリカによる」ダッハウの虐殺

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歩兵第100大隊は442部隊に編入され、イタリアのヴェルベデーレの戦闘に
参加しました。



なんと、従軍牧師も日系アメリカ人のようです。
イタリアのオーチアーノで行われた礼拝。
この24時間後には彼らは戦闘に入り、何人もの命がそこで失われました。



イタリア人の捕虜を引率して歩くサム・ヨシハラ。



左からウォラース・ヒガ、ジェームス・イシモト、ジツオ・コガ。
イタリアの山中で、迫撃砲を敵に向けてセットしているところ。 



「想い出のアルバム」的なもの。
皆が洗濯や掃除をしている写真のキャプションには

「いつも掃除ばかり」

と書かれていて、これはもう日本人のDNAなんだとおかしくなります。



戦後になって明らかにされた話ですが、442部隊隷下の野戦砲兵大隊が、
ドイツ軍との戦闘の末、ダッハウでユダヤ人強制収容所を発見しました。



実際に解放を行ったのは彼らではなく、白人の部隊です。
日系人部隊は、そこに至るまでの掃討作戦でドイツ軍を倒しました。



因みにこの収容所でもガス室によるユダヤ人の殺戮があった、
と陸軍は発表していますが、実際にはガス室はダッハウにはありませんでした。

ユダヤ人の大量な死亡の原因は殆どが餓えとチフスによるものです。



本当の虐殺はアメリカ人の手によって行われました。

アメリカ人部隊はダッハウに乗り込み、所長を始めとするドイツ軍人を
拷問・リンチの末裁判なしの処刑によって多数を殺戮し、これは

アメリカ陸軍によるダッハウの虐殺

という事件になっています。
日系人部隊は、勿論この虐殺には参加していません。

アメリカがこの事件を糊塗するために言い出した「ガス室」が、
戦後一人歩きし出して事実化した、という疑いもあるのです。



彼らがダッハウ付近の戦闘によってドイツ軍を駆逐したことは
戦後長らく秘匿されていました。
このことが明らかになったのはなんと40年経った、1992年、
ジョージ・W・ブッシュ政権でのことです。



終戦後、イタリアでリー将軍の閲兵を受ける442並びに100大隊。
彼らの持つ旗には

「GO FOR BROKE」

という彼らのモットーが書かれています。
意味は「やるしかない」「撃ちてしやまん」といったところでしょうか。
文法的に全く間違っているのですが、これは日系人の「ピジン原語」で、
賭けのときに

「やるっきゃない!」「全財産突っ込め!」

といったニュアンスで使われた言葉なのだそうです。


 

U.S.O、というのは横須賀の米海軍ベースツァーに参加したときに

United 
Service 
Organizations

米軍内部へのサービス組織であることを知りました。
いやー、本当に見学したものが知識となって役立ってます。

この「ウソ」が、なぜハートマウンテンの収容所にあるかというと、
それだけこの収容所には出征兵士が多かったということでしょう。
なんと、強制収容所の中に、米軍軍人用の施設を作っていたってことなんですね。

軍人の家族もこのサービスを受けられるということで、
彼女だか奥さんだかも、喜んでその恩恵に浴しているところです。

米軍軍人になったとたん、扱いがガラリと変わったということですが、
しかし、そこは依然として鉄条網に囲まれた強制収容所の中なのです。


なんという皮肉な特権なのでしょうか。



日系二世のWAC(女性兵士)もいました。
ミネソタのフォートスネリングで、和やかなひとときのワックたち。



「アメリカの勝利のために」志願した日系アメリカ人たち。
レイを首からかけているのはハワイ出身でしょうか。



しかし、彼らの多くが戦いにたおれました。
イタリアで戦死したカズオ・マツダ軍曹に贈られたメダルを
スティルウェル将軍から掛けられているのは、妹のメアリー。



ハワイから出征した歩兵第100大隊の兵士も多くが戦死しました。
しかし、彼らの戦闘の証は、多くの差別的な法律の撤廃の動きを
加速させる結果となります。

まず、アメリカ国籍が取れなかった彼らの両親たちが、
アメリカ市民になることが出来たのです。



強制収容所の中で何度も行われた「おなじみの」光景。
442大隊で出征し、名誉の戦死を遂げた息子に、
オナーメダルと共にその報せを持ってやって来る陸軍軍人。

リサク・カナヤ夫妻に、従軍牧師であるオールズ大佐が
シルバーメダルを授けています。



彼らの息子、ウォルター・E・カナヤ上等兵は、
1944年10月17日、フランスのブリュイエールの戦いで戦死しました。

この戦闘でドイツ軍からブリュイエールを解放した442部隊への
感謝の式典は今日も続けられ、村には「442大隊通り」があるそうです。

オールズ大佐が強制収容所にメダルを持ってやってきたのは、
終戦後の1945年8月25日のことでした。



トルーマンは戦後442部隊を閲兵し、その際

「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。
(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」

とその功績を讃えました。



ここまで日系アメリカ人の解説員の解説を聞きながら観終わりました。

「よかったら感想を書いていって下さい」

とノートを指されましたが、わたしは見ただけです。
ほんのときどき日本語による記述もありましたが、殆どが
英語での感想で、書き込んでいる名前も日系ではなさそうでした。

たとえばこの11歳のホセ・レゼンディスくんは、ヒスパニック系ですね。

「クール・ファクツ&ピクチャーズ」

という感想がいかにも11歳と言う気がしますが(笑)

マイノリティがアメリカ人として同等に生きる権利を持つ
現在のアメリカに生きる彼らにとって、そう遠くない昔に起こった
これらの悲劇はどのように映ったでのしょうか。


サンフランシスコ上空

シリーズ終わり。


USJ特別待遇ツァー~「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッター」

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息子の学校が休みだったので、ユニバーサルスタジオ大阪に
家族三人で行って参りました。 
例年この休みのときには息子が誕生日を迎えるので、
バースデイプレゼントとしての旅行でもあります。 



何処に泊まるか色々考えたのですが、(TOが)
8月にオープンしたばかりの大阪キタにある
インターコンチネンタル大阪にしました。
再開発がここ数年で飛躍的に進み、行くたびにガラッと
都市の様子が変わっている一帯にあります。
昔はこの辺操車場で、夜になると誰もいなくなり、
一人で歩くのも怖いような地域だったそうですが。

ホテルの前の空き地は、公園になるそうです。
昔再開発の計画が決まったときそんな話も聴きましたが、

「まさか大阪人が大阪駅の前に公園などという
『ゼニカネにならんもん』など作るはずがない」

などとと皆で言っていたような気がします。 
侮っていてすみません。(大阪人に言っている)  



部屋はコーナーを予約しました。(TOが)
決して広くないのですが、部屋がたくさんあるという作りで、
ホテルというより高級マンションの雰囲気です。
ちなみに隣に見えているのは高層マンションである模様。

 

しかしその広くもない空間に、なぜかこんな
オブジェ的な家具が置いてあるのだった(笑)
これがねえ。
微妙にいやな感じなのよ。
下の方が広がっているので、わたしも息子も、
普通に歩いていて脚をぶつけてしまうし、TOにいたっては、

「このザラザラした表面と無駄な体積が生理的に厭だ」

といって毛嫌いしていました。
チェックアウトのときに滞在の感想を聞かれましたが、
文句を言ってもどうなる問題でもないし、黙っていましたが。



どうしてお風呂の扉を全面的にガラスにするのかも謎。
こちらに洗面所とトイレがあるんですよ?
せめてシャワーブースだけでも囲うべきだと思うがどうか。



息子の誕生日であることを言っておいたら、支配人(フランス人)
からプレゼントとカードが届いていました。

 

クラブフロアが使える部屋だったので、食事もお茶も、
全てここで戴くことができます。
朝昼夕、アフタヌーンティー全て、ここで賄えてしまうのだった。
夜はお酒も飲み放題の模様。



夜は部屋にバースデイケーキを届けてもらいました。
ケーキの上にコーヒークリームのポーションが乗ってる!
と思ったら、飾りでした。
お味は、とにかく甘かったです。
あまりの甘さに数匙でギブアップしたくらいでした。m(_ _)m



次の日、チェックアウトしてUSJに向かいました。
さようならインターコンチネンタル大阪。 



そして到着。
こんにちはユニバーサルスタジオジャパン。
なんだ、こりゃオフィスじゃないのかと思われた方、あなたは鋭い。

本日の訪問は、いつもとは違うんです。

「中の人と行くユニバーサルスタジオジャパン!
最新アトラクション、ハリーポッターから誰も知らないバックステージまで、
裏話を聴きながら巡るノーストレスフルな一日のトリップ!」

と旅行会社なら銘打つであろう、特別なツァー。
マイケルジャクソンでもない我々には、一生に一度あるかないかの機会です。



ディズニーランドはどうなのか知りませんが、USJは、
このような特権が本社の人間に限り認められているようです。
皆がそんなことしたら目立って顰蹙を買わないかって?

これはディズニーもそうですが、こういうテーマパークの従業員は
その殆どがパートタイムで、正社員そのものの数は想像するより
ずっと少ないものなのだそうです。 


実はこのツァー、最初のお誘いをいただいたのが今年の3月でした。
しかしわたしがその1週間前に骨折したため、半年延びて今回になったのです。

しかも今回の訪問の1週間前、わたしはその骨折の際入れた
手首のプレートを取る手術をしたばかりで、包帯をしたままでした。

何だか因縁を感じます。



ここで案内下さる「中の人」と合流し、荷物を預かってもらい、
ハリーポッターのオブジェが飾ってあるオフィスから、
廊下を抜けて外に出ると・・・・。

いきなり中に入ってきてしまいました。



この季節はいつも、テーマパークはハロウィーン一色です。

キティちゃんやよく分からない着ぐるみ(失礼)が出ていましたが、
ディズニーランドのように、列を作ってまで写真を撮ることはありません。
ディズニーのあれは、言っちゃ何だけどまるで宗教みたいな・・・

おっと。



まず早い目にランチを食べましょう、ということで
連れて行ってもらったのがここ。

 

スープを運んできたキャスト(ウェイトレスじゃないのよ)が、
パラパラと何やら金の粉のようなものを振り入れました。

「あ、星の形をしてる!」

ディズニーランドで掃除をしているキャストに、何を集めているのか
聞くと「星のかけらです」と答えるという「神話」を思い出しました。
せっかくなので参考までに、その話を中の人にして差し上げました。

空気読まないTOは、

「ここで掃除をしている人に『何を集めているんですか』と聴いたら
『見てわかりまへん?ゴミでんがな』って答えたりして」

・・いくら大阪でもそれはないわ。



メインはハンバーグステーキをチョイス。
とても美味しかったのですが(これ本当)、朝ご飯が遅く、しかも
早い目のお昼だったので、半分しか食べられませんでしたm(_ _;)m



さて、食事の後、早速我々は「ハリーポッター」に案内されました。
わたしたちの誰一人として映画を観ておらず、本も読んでいないので、
この映画のシーンを再現したこういった部分を観ても、わかりません。



映画では、誰かが車で木にぶつかるんですねたぶん。
ロシア人らしい夫婦が車と似合っているなあ。



ここがハリーポッターの世界の始まり。



この日はどういうわけか真夏のように陽射しが強く、
寒くないようにと厚着してきた人たちは汗だくになっていました。
しかし画面に映る限りそこは雪のつもる街。
デフォルメされた家々が妙な遠近感を持ち、実際に観ると
不思議なくらい広いような錯覚を起こさせます。



これも映画を観ていたらおなじみの駅。
時々汽車はもうもうと蒸気を吹き出します。



ハリーポッターの敷地は、元は駐車場であったそうで、このスペースを
確保するために立体駐車場を作ったということでした。
平日ですが大変な人です。



ハリーポッターの世界では郵便はフクロウが運ぶものなので、
「オウル・ポスト」です。



ここには休憩のためのベンチの上にフクロウの剥製が多数。



剥製かと思ったらこちらは本物。

「オレンジのすごい綺麗な目をしてるんですよ」

周りから写真を撮りまくられても平然と首を動かしている
このフクロウさんの顔を撮りたかったのですが、失敗。



煙突からは煙が。
細かいところまで凝っています。
洗面所のなかでは、登場人物らしき女の子のおしゃべりが聴こえ、
これも映画を観ていればわかるのだそうです。



ホグワーツ魔法魔術学校もご覧の通り。
ここにハリーポッターのアトラクションがあります。
アトラクションには長蛇の列ができていましたが(140分)、
わたしたちはまずエクスプレスの入り口から入り、さらに
その先の通路をすっ飛ばしていきなりライドまで到着。

ライドは、横並び四人掛けのシートが実際の動き
(最大90°回転)と映像を組み合わせる方式で、
ハリー・ポッターの帚が先導して空を飛ぶというものです。

映像とリンクするライドが苦手な人は酔ってしまうそうですが、
わたしもどちらかというとこういうのは苦手です。
ただ、映像や、途中に出て来る恐竜が吐く息が生暖かいなどという
ディテールの面白さに気を取られているうちに終わってしまいました。


このライドの仕組みは世界最新式のものだそうで、
アメリカ以外では初めて日本に作られました。
ハリウッドですら2015年のオープン予定だそうです。 



湖の畔に建つ岩の上の魔法学校の佇まいも、
映画を忠実に再現しているのだとか。



湖に逆さに写る建物も、ストーリー的には重要です。
(だそうです)



普通にその辺を歩いている魔法学校の先生らしき人発見。



そして、いたるところに魔法学校の生徒が・・(笑)
これも聴いたところによると、ガウンは14000円、魔法の杖は
3800円するのだそうです。

USJの当事者ですら、言外に「高いのに」という含みを
持たせていたくらいですから、 たった一日ここで着るためだけに
それだけを投入してしまう人がたくさんいる(しかも高校生多し)
というのは、ちょっとわたしには不思議な気がしました。

今USJはデュバイに建設中だそうですが、ここならともかく(笑)、
アメリカ人が、わざわざ一回着るためにこのガウンを購入しているとは
(しかもこんなたくさんの人が)とても思えません。

この日はハロウィーンのため、気合いの入った仮装をして
園内を練り歩く人が多かったのですが、
(5人組のセーラームーン戦隊とか、囚人とかミニスカポリスとか)
これもその一環としての仮装でしょう。

ただ、この日は暑かったので皆さん大変な苦行だったと思われます。



並ぶと言えば、この列はお土産ショップに並んでいる人々。
「ハニーデュークス」というキャンデーを買うために列を作っています。
2時間くらいは皆並んでしまうのだとか。

このあとわたしたちは敷地内にあるジェットコースターに乗りました。
こちらは何処の遊園地にもありそうな、普通のローラーコースターです。

わたしたちは元々こういう絶叫系ライドが好きな方ですし、
「中の人」はこういう案内を年に何度かしているため、(これも仕事です)
どれもこれも慣れてしまって何とも思わなくなったそうですが、
TOは観察したところ、このアトラクションで完全にグロッキーになっていました。

普通ならパスするライドでも「中の人」への気遣いと、
全く並ばずにすいすいと乗れるということからかなり我慢していたようです。
まあ、彼に取っては仕事みたいなものだったんですね。


この「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッター」ですが。
企画の段階であの東日本大震災が起こり、そのために
コースターのレールに使う鉄が高騰したり、人手がいなくなったりしたため
計画が一時中断されていた時期があったのだと聞きました。


しかし、去年のオープン以来、入場者はうなぎ昇りで、業績的にも
「V字回復」といってもいいくらい好調だそうです。
この季節わたしたちは何度も来ていますが、今回は入ったとたん
空気が違うというか、以前感じた「うらぶれた感じ」がさっぱりと
消え失せているのが目に見えてわかりました。

流れが変わると言うのはこういうことなのだなあと肌で感じた次第です。


続く。

USJ特別待遇ツァー~「中の人などいない!」

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中の人と行くユニバーサルスタジオジャパンツァー、報告二日目です。
案内して下さった方は、メモに案内してくれるアトラクションを書いて、
それを見ながらさくさくと予定をこなしていきます。

並ぶ時間がどれもゼロですから、予定はきっちりと時間通りに進んでいきました。



ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッターの後は、
わたしたちが「バックドラフト」と並んで評価する
「ウォーターワールド」。

繁忙期には一日5ステージあるというこのアトラクションですが、
あの消耗が激しいアクションを全ステージ務めるのでしょうか。

「そんなときには交代でやります」



ここも、左側で待つ人たちを横目で見ながら入って行きます。
向こうで係員が手を挙げていますが、エクスプレスチケットを買えば
一般の人も並ばずに済みます。



おなじみ、ショーが始まる前の「仕込み」タイム。

「悪役の「ディーコン」が出てきたら皆でブーイングしましょう!」
「あっ、ディーコンだ!」
「ぶーーー」 

と言う流れです。 




そしてこれもお約束、一番前に座っている命知らずの二人に、
代表して水をかぶっていただく時間。
今日のように暑くて、しかも生け贄が野郎二人の場合は
かける方も全く遠慮しません。



もしかしたら「仕込み」かもしれないといつも思うのですが、
帰り、たまたま近くを歩いていたこの二人の様子を見る限り、
単なる一般客でした。



ショー開始。

ヒロインのヘレンさんはいつも白人系の役者です。
いつもこんな人をどこから見つけてくるのだろうと思うのですが、
彼らは日本だけでなく、アメリカのユニバーサルスタジオ本社が
オーディションをして選んだ役者で、世界中のUSで同じショーをしているのです。

演技と、何よりアクションができないといけませんが、 アメリカには
こういう下積みっぽい役者はそれこそ掃いて捨てるほどいるので、
人材に事欠くことはまずありません。

アクションをする役者が白人ばかりなのはそのせいです。 



このディンギーと水上スキーの二人組もアメリカ人。



彼の腕を見て下さい。
どんだけ鍛えてるんだって感じの筋肉です。



簡単そうに見えますが、そう広くもないこのプールで縦横無尽に、
しかも客席にわざと水をぶっかけるように滑るのは
なかなか難しいことではないかと思われます。



今日は暑いからいいけど、真冬でもやってますからね。



ホースの水が綺麗な虹を作っています。



このショーは、爆発したり水しぶきがあがったり、
危険なシーンが満載で何しろ派手です。



悪の帝王ディーコンを演じるのはいつもスキンヘッドの日本人。
なぜかというと、セリフがある役だからですね。
アメリカ人の主人公たちのセリフは全てプリレコーディングですが、
この人だけは客席をいじるというショーの進行上、アドリブができないと
いけませんし、聞いたところアクションも自分でやっているというのです。

このことについて、今回あることに気づいてしまったのですが、それは後ほど。



このちょいと太めのおじさんが主人公マリナー。
映画では確か若き日のケビン・コスナーでしたね。



ヘレンさんもこうして見ると逞しいですなあ。
このロープ渡りのシーンは今まで何度も見ましたが、
今回鮮明な写真を見て初めて、手首に命綱を巻いていたのを知りました。



命綱といえば、この写真で見ても、
手前の手下役のアクターはちゃんと手首を輪で固定しています。



この逆さ吊りされているのもアメリカ人ですが、
いつもこんなに長い間逆さに吊られていて大丈夫なのかと心配します。
この人は毒物のタンクの中に放り込まれて死ぬ運命。(-人-)ナムー



お、こうして見るとなかなか男前じゃないかい?



彼のこのアクションも、「ターミネーター」のバイクとは違い、
実際にボートを操作しています。
アメリカではスタントの専門役者かもしれません。



しかもうしろでは火を伴う爆発。
坂の手前でボートが転覆したら役者はこの火で大やけどです。



後から息子と「どうやってあの飛行機飛ばしてるんだろうね」
といつも言い合う、クライマックスの飛行機乱入シーン。
カタパルトが塀の向こうにあるのだとは思いますが、
毎回毎回きっちり図ったようにここに落ちるというのもよく考えたら凄い。



そして、最後の大立ち回りが始まります。
ディーコンがこのあとマリナーと格闘し、
身体に火がついて水中に転落するシーン。

このアクションについて中の人に「スタントですか」と聞いたところ
「本人がやっています」
という答えだったので凄いなあと思っていたのですが・・・



♪あーちーちーあーちー燃えてるんだろか~♪

はい、燃えてます。
いつ見ても凄いですね。
映画の撮影用に使う、ジメチルエーテル(ミラクルファイアー)で、
ガソリンを被ったときのように肺直撃すると即死亡、
というようなことは絶対にないとは知っていますが、
それでも人体に火がついていると恐ろしくて胸がきゅっとします。

だいたいこれ、頭に火がついてないか?



そしてそのまま水中に落下・・・・
・・・・・あれ?



こちら、演技中のディーコン。
何か色々と、背丈とか脚の長さとか顔とか違うような。
というかこれ別人がゴムのマスク被ってますよね。




落下するディーコンは耐火スーツとマスク、
よく見ると手袋まで着用している完璧なスタントです。

中の人が「本人がやっています」とおっしゃったのは、
彼女が知らなかったのか、それともそう答えるのが
中の人としての使命だからか・・。

しかし、今回こうやって写真を撮って拡大して
初めてわかったことで、実際に見ている限り、人が変わっていて、しかも
ゴムのマスクを付けていることなど一度として遠目からは気づきませんでした。



そして惜しみなく消費される火薬の類い。
大団円はとにかく爆発です。
ディズニーランドでは決して行われないこれらの「映画的」ショー。
ゆえにこちらの方が好きというファンは多いかもしれません。



たまやー。

というわけでおしまい。



ショーが終わってカーテン?コール。
役者全員ずぶぬれですから、何度もいいますが冬は大変かと・・。

さて、お次は今までわたしたちがいつも「濡れるのでパス」していた
ジュラシックパークに挑戦です。

この濡れ加減も、パーク側では天候によって配慮しているのだとか。
つまり今日のような暑い日には・・・・・



ジュラシックパークゾーンに入ると、中の人が、

「あ、これは恐竜が出てきますね」

と立ち止まりました。
見たところ周りに異変はなく、音楽が変わったくらいなので、
今まで一度も気づかなかったのだと思いますが、
ここには本の時々恐竜が出没するのだそうです。



あまりにも自然に現れすぎて全く気づいていないおばちゃんたちがシュール。



中には尻尾に触ろうとする不届きものがいるので(本当にいた)
係の人はそれを制止するのが任務です。

実に恐竜らしい動きをしているのでわたしが

「中に入っている人は大変ですねえ」

というと、中の人は

「中の人などいません!」

ときっぱりと言いました。
はい、そうですね。



ベビーカーのお子さんにも襲いかかりますが、子供によっては
全く平気(左)なのとギャン泣き(右)するのがいるので、
彼らに対するケアも係員の大事なお仕事。



この後、わたしたちも乗りましたが、猛烈に濡れました。
暖かい日で良かったです。
最後にティラノザウルスが出て来なかった、と中の人は言っていましたが、
わたしたちには初めてなので全くわかりませんでした。


余談ですが、割と最近、神戸大学の学生ら三人が、常習的に悪ふざけして
それをツィッターに上げたため炎上し事件になったことがありましたね。
あれは、このライドで安全バーを緩めに下げておいて、途中で身体を出し、
怪我をしたことを自分でツィッターに上げてしまったのですが、
彼らは年間パスポートでそれをやっていたため、パーク側ではかなり早くから
ブラックリストに挙げてチェックしていたのだそうです。

ただ、キャストが顔を覚えているわけもなく、手をこまねいていたところ、
犯人が自分で自分の正体を世間に公表してしまったと・・。

そのことについては中の人の話は「守秘義務」に抵触する部分もあるので
全部ここに書けないのですが、ただ、調停の段階でパーク側は
世間的にはちゃんとした地位の親たちの「ある一面」を見て、

「この親にしてこの子あり」

の感想を持った、ということだけお話ししておきましょう。



と、ここでもまた見つけました。
「USJのピンヒール」(当ブログ同タイトル参照)を。

脚に合わないためグラグラして足首から下が斜めになっています。
この靴を生脚で履くという命知らずの女性。
しかも一緒の彼氏は彼女の辛そうな歩き方に全く気づかないのか、
先に立ってすたすた歩いて行きます。

お節介ながら、色んな意味で大丈夫か?と思ってしまいました。



この部分はフィッシャーマンズワーフ。
つまりサンフランシスコです。



フィッシャーマンズワーフにあるチョコレートの「ギラデリ」。



プレシド、サウサリート、サンラファエル、ナパ、
サクラメント・・・・。

どれもサンフランシスコ在住者にはおなじみの地名。

ちなみにスパイダーマンのアトラクションは「NY」の区画にあります。



ここでわたしたちの好きな「バックドラフト」。
これは「裏の通路」で、ここを抜けたらもう入り口です。



おやつ休憩ではここのワッフルを食べました。



ハロウィーンのカボチャ衣装を着けたスチールドラム軍団。
ドラムの音の高低でメロディを奏でてしまいます。

セントトーマスに旅行したときに、そこが本場だと知りました。



「スパイダー麺」というインスタント麺があるのは知っていましたが、
これは初めて知りました。
スパイダーまん。
ちゃんとブラックスパイダーまんもおります。



そのアメージング・スパイダーマンですが、通常の入り口の左側に、
このような扉があり、待っていると係員が開けてくれます。
ここを通って、通路にはいると、何とびっくり、そこはもう
後はライドに乗るばかりのプラットホーム上でした。

因みに、写真に写るポイントですが、スパイダーマンがカメラを出して
写真を撮るときじゃないんですって。
今までそこで「決めポーズ」をしていたのは何だったのか・・。



ハロウィーンのパレードに遭遇。
何年か前の人垣の全くなかったパレードのときとは違います。



こういう「山車」の類いは、皆オフシーズンには
衣装や小道具も含めてみな倉庫に直してあるそうです。



「ディスピカブル・ミー」のミニオンのポスター。
2015年に何かアトラクションができるのでしょうか。



さて、というわけで本日のメインイベント、ジェットコースター。
今まで何となく乗る気になれなかったのですが、並ばずに済むなら
是非この機会に体験したい。

というわけで、「わたしは結構です」と辞退したTOを下界において、
乗ってみました。



「レールが太くて走行が大変滑らか、車が安定しているので
ある意味怖くないです」

と聞いていた通りでした。
脚が宙に浮いた状態で乗るのですが、カーブの頂点を超えるとき、
身体がふわっと浮く瞬間があって、それが何とも言えず
「恐気持ちいい」感覚で、わたしはすっかり気に入りましたよ。

サンダルやローファーがこのときに脱げてしまうので、
そういう靴を履いている人は係員がゴムバンドを渡してくれます。

何台かに一台は後ろ向き走行のカートがあるのですが、これは本当に怖いそうです。
わたしはこういうコースターのとき必ず進行方向を確かめ、
それでかなり恐怖が軽減されるのですが、後ろ向きはそれができません。
でもいつかは試してみたいと思いました。



「ジョーズ」も、ドアをくぐったらそこは乗り場。
全く一日、楽させていただきました。
ありがとう、中の人。



すずめたちもここではごはんに困らなさそうです。



というわけで、一日のVIPツァーを終えました。
並ばなくても良かったからというのもありますが、USJって
こんな楽しかったんだ、と再認識することになりました。 
何と言っても初めて体験したアトラクションが
思ったより面白かった、ということが大きいです。 

何でも食わず嫌いせず試してみた方が、こんなところは楽しめますよね。

というわけで、


(シュワちゃん揮毫)


 

練習艦隊帰国~日本軍将兵の遺骨帰還・引渡式

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半年前の5月、同じ埠頭でわたしは練習艦隊の出国行事に立ち合いました。
海上自衛隊の初級士官の実地訓練として行われるこの練習艦隊は、
太平洋、アメリカなどの11カ国に寄港し、訓練を終えて無事帰国してきました。 

出国行事の後、出席をご手配下さった海将から

「ぜひ帰国したら迎えてやって下さい」

と言っていただいたのですが、国民の一人としてお見送りをすることはあっても、
帰国行事は、隊員の家族の為にあるのではないか遠慮する気持ちから、
(そのことを元自衛官に話したところ『それは違う』と言われましたが)
当初この行事には、行かないつもりをしていました。

しかし、その後ブログでも書いたように、練習艦隊はニューギニアに寄港の際、
遺骨収集事業の団体がガダルカナルで収集した旧日本軍将兵たちのご遺骨、
137柱を「かしま」に乗せ、それを持ち帰ることが分かりました。

恒例の帰国行事に先立ち、ご遺骨の引渡式が埠頭で行われるというのです。

その出席をお取り計らいいただけることになったので、
わたしは謹んで行事に参加させていただくことにしたのでした。



今回は車に乗ったまま埠頭へのゲートをくぐりましたが、
セキュリティの自衛官は、ほとんど瞬時にしてナンバーを確認したらしく、
車を停める間もなく中に誘導されました。 

見れば艦ナンバー3508が半年前と同じ場所に停泊しています。



車を停めたところはちょうど「かしま」の艦尾の前でした。
後甲板には初級士官たちが待機しています。



わたしが到着したのは前と違い式典の時間ギリギリだったので
わかりませんが、家族たちは早い時間に一度は会っているのかもしれません。



この家族たちの落ち着いた雰囲気を見てそうではないかと思っただけですが。



車を停めて受付に向かう途中に、ご遺骨の献花台と、
白菊の飾り花が名前付きで設えてありました。
安倍首相始め、政治家のものがほとんどです。

前にも書きましたが、安倍政権では戦没者の遺骨収集について、
「戦没者遺骨収集推進法」案をまとめました。

この法律案では、戦没者遺骨の収容を「国の責務」として位置づけ、
厚生労働省、外務省、防衛省の協力を条文に明記しています。
政府はこの秋の臨時国会での法案成立を目指して準備をすすめており、
今回の「かしま」による帰還は、法律制定に先駆けて行われた、
政府の姿勢を示すものであったといえましょう。 

 

ご遺骨への献花のための菊花が置かれているのに気づきました。



来賓席はこのようにナンバーが振られています。
受付で名前をいうと、指定の席まで案内していただけました。

式典が始まって周りを見ると、来賓席には空きがあったのですが、
練習艦隊の隊員の家族証を付けた人々は、後ろに立ったままでした。
立った方がよく見えたということだったのかもしれませんが。



なぜこんな中途半端な写真を撮ったかというと、
来賓が付ける胸の花を皆さんにお見せするためです。
政治家と全く同じリボンで、偉くなったような気がしてちょっと嬉しい(笑)



帰って来ると、ちょうど乗員の下船が始まったところでした。



儀仗隊はこの間不動の姿勢。
士気刀を構えた背筋が伸びて、実に凛々しい構えです。



東京音楽隊が演奏するのは、勿論行進曲「軍艦」。



全員が下船するわけではなく、実習幹部が主となります。
「かしま」の乗員は要所に配備中。



覚えてますか?軍艦旗のマークの付いた祝砲。
今回の航海において、この祝砲は13カ国の各地で活躍しました。



見送りの時には純白の制服に身を包んでいた彼らが、
ネイビーブルーの(黒だと言い張ってたけどもういいや)ダブルに
身を包んでいます。





ラッタルの上で進捗状況を見ている練習艦隊司令官以下、艦長たち。



彼らの向こう側のテントには出迎えの家族がいます。



女子隊員、WACたちも下船完了。



こちら貫禄の海曹たち。



と、サイドパイプの音が鳴り響きました。
艦隊司令と艦長の下船です。
湯浅秀樹海将補を先頭に、森田1佐、東2佐、川内2佐。



来賓席前方には、厚生労働省のお役人が待機中。
遺骨帰還事業をは厚労省の管轄です。

遺骨収集にまつわる「不祥事」についての対応において、
そのお役所体質をちょっと一言言及させていただきましたが、
今回の帰還はこの厚労省にとっても明るい材料だったのではないでしょうか。

不祥事が起こったと言ってもそれは今まで国が「国の責務」
としていなかったため現場での活動に歪みができてしまったわけで、
決してお役人の責任ではありませんからね。



来賓席の右手のテントは、厚労省の職員と遺族の席でした。
父親だったのか、兄弟だったのか、それとも夫だったのか・・。
皆が様々な思いを胸に、この場にあります。

「かしま」に乗せられたご遺骨は、彼らが戦地に赴くため
日本の港を発って行ってから70年後の今日、これから、
初めて故国の土を踏む瞬間(とき)を待っているのです。



朝の空気を緊張で揺るがすような海曹長の掛け声がかかりました。
総員が挙手注目の礼を行います。



総員じゃなかった(笑)
海曹海士は正面を向いたままです。



そして今、ガダルカナルから帰還したご遺骨が、
「かしま」乗員の腕にしっかりと抱かれて、日本の土を踏みます。



自衛隊HPに掲載されていた、ホニアラ島での「かしま」ご遺骨乗艦の様子。

今回、参列のため必要な連絡を取って下さった海幕の1佐に、
御礼のメールをさせていただいとところ、そのお返事には

「練習艦隊関係者から聞いたところでは、
帰国のための航海中も、御遺骨に手を合わせる乗組員が
昼夜を問わず後を絶たなかったと聞きました。

 実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」

と書かれていました。
「かしま」艦内では、日本にお送りさせていただくという気持ちの元に
総員が ご遺骨を丁重に、最大限の敬意を払って接したということです。 



音楽隊がご遺骨をお迎えするために奏楽したのは、
「海行かば」でした。

その調べを聴くうちがいつしか万感胸に迫り、
わたしは恥ずかしながら涙をこらえることができなくなっていました。



「かしま」から日本の地に降り立ったご遺骨は、これから
「引渡し」の儀式によって海上自衛隊から日本に送還を完了します。



先頭に立ち歩いてきていた「あの」海曹長。
隊員を待つのは厚労省の職員です。




まず、自衛隊から「国」たる厚労省の職員に手渡されるご遺骨。



そして、厚労省職員の手で献花台に安置されます。



台の前には二人の職員が立ち、白木の箱を受け取ります。



全員が白い手袋を付け、丁重に受け渡しを行います。



白木の箱は全部で10。

先の大戦で海外戦没者およそ240万人のうち、ご遺骨が収容されたのは
約127万柱、未収容のご遺骨は約113万柱と数えられています。

収容された御柱は、複数人のご遺骨で1柱を成しているとも言われているので、
実際はもっと多くの御柱が収容されていると見込まれており、
今回もそのような状況ではないかと思われます。



ご遺骨の引渡式が済み、全員で黙祷を捧げました。



厚生労働省副大臣、長岡桂子氏が一番に献花を行います。



防衛副大臣、左藤章氏。



参議院議員、宇都隆史氏。
ご存知のように宇都議員は元自衛官です。

遺骨収容事業については、

「党遺骨帰還に関する特命委員会事務局長」

として実現に奔走し、外務大臣政務官として
現地でのご遺骨の「かしま」への乗艦の儀式に立ちあいました。
本日ここにあっておそらく胸中は感無量でありましょう。




遺族会の代表。



献花は測ったように等分に供えられています。



参議院議員、佐藤正久氏。

 

佐藤氏の献花のやり方だけが他の議員、というか誰とも違い、
花を両手で持ち歩んでいたのが印象的でした。



宇土議員といい佐藤議員といい、元自衛官議員はどちらも男前ですよね。

昔、防大1期で空将から政治家になり、影で「ジェネラル」とあだ名されていた
田村英昭という議員がいましたが、戦後の自衛官出身の政治家では
佐藤議員は唯一の佐官となります。



西村真悟氏。
後ほど参列議員が一人ずつ紹介されたとき、

「ご苦労様でした!」

と大きな声で言い、自衛官たちに頭を下げました。



続いて、遺族の献花です。



遺族のほとんどが年配の方でした。

来年、終戦から70周年を迎えますが、遺骨収容が法案化したあとも、
実際のところ一刻の猶予も残されていません。
熱帯雨林に眠るご遺骨は早くしないと土に還ってしまうからです。

そして、ご遺族がご存命のうちにご帰還させられるものはさせたい、
これは事業に関わるもの全ての悲願でもあるのです。



前回ここで練習艦隊を見送ったときには横浜地方総監であった
武井智久海将が、今回は海幕長になっていました。

就任は10月14日、なんと10日前に海幕長になったばかりです。



そして10日前まで海幕長であった河野克俊海将。
海幕長退任後、第5代統合幕僚長に就任しています。

統合幕僚長(Chief of Staff, Joint Staff)とは、
統合幕僚監部の長であり、陸海空の自衛官の最高位となります。




式典開始前は和やかなご様子で談笑されていましたが、
献花のときはごらんのような悲痛な表情でした。



献花が終わり、厚労省職員がふたたび白木の箱を抱え上げました。
これからご遺骨を厚労省の安置所まで運ぶのです。



10名の職員たちは列を作り、用意されたバスに乗り込んで行きました。
この後、千鳥ヶ淵戦没者霊園にお納めするのでしょう。

千鳥ケ淵戦没者墓苑は、大東亜戦争の折に国外で死亡した
軍人、軍属、民間人の遺骨のうち、身元不明や
引き取り手のない遺骨を安置しています。



バスの中に姿を消すご遺骨に対し、共に一ヶ月を過ごし、
毎日その慰霊を続けてきた練習艦隊のメンバーは、敬礼を続けています。


海幕の1佐から頂いたメールには、さらにこうありました。

昨日の我が国将兵御遺骨並びに練習艦隊帰国式典にご参列頂き
誠にありがとうございました。
我々の大先輩であり、また現在の我が国の礎を
命を賭して築いて頂いた将兵の皆様のやっとのご帰国が叶い、
日本国民、海上自衛隊員として胸が熱くなる思いが致しました。


また、式典の途中、参列者の中から大きな声があがりました。

「お帰りなさい!」

お帰りなさい、あなたたちが生を受け育まれた故郷へ。
お帰りなさい、あなたたちが命を賭して守ろうとしたこの国へ。
お帰りなさい、あなたたちの国、日本へ。


わたしは、この場に英霊の御霊は必ず在って、
このときにも奏楽されていた「海行かば」の調べを
共に聴いておられたのだと信じて疑いません。 


 


平成26年度航空観閲式@百里基地(概要)

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平成26年度自衛隊記念日に行われた、

防衛省・自衛隊60周年記念航空観閲式

に行ってきました。
2年前の海自観閲式に始まり、去年の陸自、そして今回と、
これで全観閲式を制覇したことになります。

観閲式というのは富士総合火力演習などとは違い、
応募したら誰でも見ることができるというものではなく、
自衛隊と何らかの繋がりがないとチケットが手に入らないらしい、
ということも三回目にして分かってきたわけです。

日を分たずして行われる入間の航空祭と、この航空観閲式は
全く趣旨が違うもので、航空祭が世間一般へのお披露目であり、
空自を知ってもらうための広報が主目的だとしたら、
観閲式は、自衛隊最高指揮官である内閣総理大臣の「観閲」を受けるもの。
言わば内部行事なんですね。

というわけで、入場の資格があるのは「自衛隊と関係ある者」
に限られてくるわけです。

因みにわたしがいただいたチケットですが、入手の段階で姓名を申告し、
その当人の使用に限り有効である旨明記されていました。

「招待状を譲渡された場合無効になります」


ところがヤフーオークションでこんなページを見つけてしまいました。

航空観閲式招待券三枚
即決価格一枚3万円
10月23日終了
落札価格一枚2万9500円×2 一枚3万円×1

出品者の素性がわからないのでURLを貼るのは控えますが、
つまり防衛省から関係者として手に入れた招待券を売って、
この人は計8万9千円を手にしたってことなんですね。

こういうのって、どうなの?

わたしなんか、招待券2枚頂いていたのですが、仕事が入っていけなくなった
TOの分を知り合いに譲ろうとして「譲渡無効」の記載に気づき、
相手にごめんなさいしたうえ、涙を飲んで一人分無駄にしたというのに。

ヤフオクって、出品者のIDは追跡できるわけですから、
この出品者は、今後防衛省の監視対象になってしまったりしないでしょうか。
それとも「譲渡無効」っていうのは有名無実だってことなんでしょうか。

そもそも2枚のチケットに5万9000円払う人がいるっているのが驚きです。
よっぽど二人で行かなければならない切羽詰まった事情でもあったのかしら。





と、いきなり殺伐とした(?)話題になってしまいましたが、
気を取り直して始めましょう。

会場へは石岡駅の前からシャトルバスで行きました。
百里基地というのは家から遠すぎて、とてもではないけど
朝いちで乗り込みたいわたしには可能だとは思えなかったため
駅前のホテルを取って、前日に乗り込んだのです。

別に一番乗りしなくても、会場は全てが雛壇式のスタンド席で、
何処に座っても普通に観覧できたのですが、
当方何しろ初参戦で、状況がわからなかったものですから。

滑走路のこちら側エプロンには航空機が20機、
ずらりとノーズを揃えて展示されています。
さすがは空自の観閲式です。



その20機とは別のところにこのような展示が。
こちらは次期戦闘機F−35Aのモックアップ。
はしご段がついているのは、安倍首相に見せるためで、
一般見学者のためではありません。



そしてMV-22オスプレイ。
アメリカ海兵隊の所有機ですので、岩国から飛んできたようです。
早くからこのコーナーは観客の注目の的になっていました。



ほとんどの展示航空機はおなじみのものばかりでしたが、
これは初めて見ました。

E− 767 早期警戒管制機。

ボーイングのこの機体は現在世界に4機しかありません。
その一つがこれで、製作年である1997年の「7」を頭にした
「74−3503」というシリアルナンバーを持っています。


格納庫の中にはF−2などが展示されていて、上に設えた場所から
コクピットが撮影できるようになっていました。
さすがに乗せることはしません。



というわけで、式典に先立ち観閲部隊の入場が始まりました。
このとき10時25分。入場してから3時間経ったときです。

陸自観閲式のように行進がメインではないので、防大や防医大、
工科高等学校、看護学校などの教育部隊の受閲はありません。
シンプルに陸海空、総員700名ほどが観閲を受けます。



陸海は全く同数の120名が参加しました。
P3−Cと艦載ヘリSH−60Jの前の海自部隊。
やっぱりこういう正式の式典で見る制服は、海士のセーラー含め
海自が一番かっこいいと思ってしまいます。

陸自が一番かっこいいのは作業着つまり迷彩の戦闘服のとき。
空自は何と言ってもパイロットスーツでしょうか。



観閲式執行者たる航空総隊司令官、中島邦祐空将入場。



栄誉礼、三宅由佳莉二等海曹による国歌独唱に続き、
観閲飛行が行われました。

観閲飛行は陸海空の順で、陸海は3種類ずつ、空自は12機の飛行です。



この日茨城の天気予報は午後から雨になるということで、
わたしはこのために防水レインコートを買いましたが(笑)
午前中は晴れたり曇ったりの繰り返し。
観閲飛行のときはどんよりと曇り、あまり上手く写真が撮れませんでした。

日の丸と赤のストライプが美しいこのスマートな飛行機は、

B−747−400 特別輸送機。
政府専用機、正式な英語名称はジャパニーズ・エアフォース・ワンです。
ただし、日本国はこの機体を2基所有していて、
2機目を「エアフォース・ツー」と呼びます。



続いて空自移動部隊展示走行。
エプロンには航空機の向こうにこの展示用車両がありましたが、
パック3などの高射隊を先頭に、基地防空隊、移動警戒隊など
6個部隊が車両展示を行いました。

駐在武官などの観覧席の隣には、車いすの専用場所があります。



最高指揮官たる観閲官の巡閲が始まりました。



誰とはいいませんが、どんな民主党のボンクラ首相でも
礼装の胸にこうやってシルクハットを当て、自衛隊の前に立つと
それなりに格好がついているように見えたものですが、
安倍首相のこういうときの格好よさは異常です。



安倍首相が観閲官訓示を行い、栄誉礼が行われた後、
(栄誉礼はこういう式典では何度となく行われる)
展示視閲が始まりました。

まず観閲官の前を車両部隊が通過します。



続いて航空機地上滑走。
これは凄かったです。というか凄い構図だと思いません?
二機ずつ静々と滑走して来る戦闘機。

展示機の手前、エプロン上を航空機が受閲のため滑走するのです。

航空祭では決してない展示で、今回これを見られたのが最大の収穫でした。



アナウンスでも言っていましたが、これらの戦闘機が走行するとき、
微かに「キーーン」という音の混じる猛烈な轟音が響きます。
飛んでもいないのにこんなにエンジン音が大きいとは知りませんでした。 



F−15とF−2が通過して行きます。
なぜ戦闘機なのかと思ったのですが、これらは航空展示で
瞬時にして空を通過してしまうので、パイロットにじっくり?
観閲部隊指揮官の観閲を受けさせるという意図かもしれません。



スクランブル発進の展示もありました。



F−15による機動飛行。
機動飛行とはマニューバ・フライトと訳されます。

これ、機体が白い気体に包まれているんだが。



F−15の裏側。
ノーズが下に曲がっているのがよくわかりますね。



排気が翼にかかって上面はこの通り。

機体が排気に包まれる現象についてアナウンスで説明がありましたが、
肝心のところを聞き逃しました。



練習機T−4の編隊飛行。
静浜基地では富士山の形を描いたりするTー4ですが、
今日は「60」です。
自衛隊60周年記念の観閲式であるからですね。



そしてお待ちかね、ブルーインパルスの展示飛行。
気がつけばいつの間にか会場には、いかにもトップガン的な
チューブラーベルズを多用したかっちょいい音楽が流れていました。
もしかしたら数あるブルーインパルスのテーマ曲の一つでしょうか。



1番機だけが後ろに次世代ブルーを乗せて発進。
全機揃ってのほぼ同時離陸で、これだけでも凄い技術です。



本日は航空祭、あくまでも観閲式なのでマニューバの数は半分くらい。
ショー的要素を持つ演目は控える傾向にありました。

ハートを描いたり、ギリギリの距離ですれ違ってみせるなどもなしです。



背面飛行はあり。



写真を撮るために会場の周辺にもカメラを設置している
マニアの姿がちらほらとありましたが、相変わらず雲が多く
真っ青な空にスモーク、という図にならなかったので、
彼らとしても残念な日だったのではなかったでしょうか。



観閲式を終えて退場する安倍総理。
一番外側にSP、総理の周りを防衛省のお役人と、
エスコートの空自隊員が囲みます。



安倍首相は、何もないときには結構難しい顔をしていましたが、
駐在武官席の前に来たときに敬礼する武官たちに答えて
微笑んだのが上の写真です。

安倍首相のような立場の人って、こういうとき何を考えてるんでしょう。



観閲官退場をもって式次第は終了になります。
この後、観覧席の前のエプロンに立ち入りが許され、
観客は地上展示の見学を楽しんでいました。



というわけで、駆け足でこの日の概要をお伝えしてきましたが、
明日以降、例によって詳しく見たことを最初からお話ししていきます。



続く。



平成26年度航空観閲式@百里基地~「陸海空弁当」を頂く

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それでは、10月26日に茨城県は百里航空基地で行われた
空自主宰の航空観閲式について詳しくお話ししましょう。
その前に。



モックアップが展示されていたということで話題になった
F−35Aですが、ちゃんともう手元に所有されている方が、
わざわざ画像を送ってきて下さいましたm(_ _)m

ちゃんと空自仕様で日の丸がついているのがいいですね。



地上展示で何だかつまらない機体だなあと思ったのですが、
その理由は何も描かれていないからだったんですね。
個人的意見ですが、この日の丸がついてさえすればどんな機体でも
デザイン的にサマになってしまうような気がします。



さて,前日現地の駅前ホテルに一人で宿泊したわたし、
当日の朝、石岡駅前のシャトルバス発着所には7時に到着しました。

空自の係員の先導で列を作って壁際に並んだまではいいのですが、
そこにちょうど喫煙所があり、何人もタバコを吸いにくるのです。
子供二人連れの家族にも煙をもうもうと吹きかけて全く意に介しません。
喫煙者はこういう状況でも、あくまで「吸う権利」を行使するようです。

隊員は「喫煙所だから吸うなというわけにもいかないし」とばかりに
放置でしたが、その周りだけ列を並ばせないようにすればよかったのでは。  




前日の深夜から並ぶ列ができていたという富士総火演と違って、
今回は観閲式で入場者が少なく、7時に並び出したところ
始発のバスに乗ることができました。

百里基地まで40分とガイドさんは言っていましたが、
体感的に20分くらいだったように思います。

わたしは茨城県に着たのは初めての経験ですが、
百里基地の周辺は田園風景が広がり、なんとものんびりした風情でした。
そのせいか一軒家がどれも大きいこと。



基地のゲートをくぐるところに一団の見物人がいました。
12時から始まる展示飛行のために、7時過ぎからここに陣取っているのです。

こんなに熱心な人がたくさんいるくらいですから、
一枚三万円で招待券を競り落とす人がいても不思議ではありませんね。



石岡からのバスに乗ってきた人たちは一旦降りて、
受付ゲートまでさらに別のバスに乗り換えて移動です。

しかし、こういうときの自衛隊の人さばきには、
長年のノウハウがあるとはいえ、その手際の良さにいつも感心します。



途中に空自の公用車をハケーン。
海自の車がネイビーブルー、陸自がOD色、そして空自は
やはり「ブルー」をカラーとしているんですね。



バスから降りた一団を「おはようございます!」と明るく誘導する係員。



スタンドはチケットの「階級」によって色分けされています。
わたしは観覧席Dに座りました。
各スタンドの入り口には必ず3人の隊員がいて、首から下げた
入場券の色を見せないと、中に入れてもらえません。



待機する警備隊らしき空曹たち。

大変言い難いのですが、空自の制服というのはどうも駅員ぽいと言うか、
お巡りさんみたいというか・・。
士官のシルバーのラインが入ったものになると、少しイメージも変わるのですが、
どちらにしても正直、少し華に欠けるデザインのような気がします。

駅員との差異化をはかるため、次回のデザインにはたとえば
袖とかズボンにグログランのテープをあしらうとか、ダブル前にするとか、
腰の位置で切り替えてもう少しラインを絞るとかの工夫がほしいと思います。

かっこいい制服が着られる、というのも戦前の兵学校、
並びに海軍への志望の多い理由だったんですよ?



さて、思ったより簡単に席につくことができたので、
荷物を置いて売店にお弁当を買いに行きました。
朝早くチェックアウトしたのでホテルの朝食を食べられなかったのです。



一番端のテントに、日本郵便の出店がありました。
郵政民営化されて今やこんなところに店を出すようになったんですね。
何を売っているかと言うと、航空観閲式記念の切手シートでした。
シール式の切手で、あって困るものでもなく、
このシートを本日の唯一のお土産に買って帰ることにしました。

「シート一枚下さい」

もしかしたらわたしが最初の客だったのかもしれません。
お店の人はやった!売れた!という内心の声が聞こえそうな表情で、

「空自の偉い人にもお墨付きをいただいたんですよ。よくできてるって」


航空観閲式と書かれたF−15の大きな写真はシールとして利用できます。



席に戻ってきてお弁当を食べます。
こんなところで食べるものは栄養バランスとかは二の次、
という投げやりな気持ちからあまり何も考えず、
「陸海空弁当」というのをネーミングだけで選んだのですが、
(どうせならブログネタになるものを、という下心もあり)
買うときろくに中身をチェックしなかったのが裏目に出ました。

ごはん。牛肉(陸)。鮭(海)。唐揚げ(空)。以上。

牛肉に一切れタマネギの繊維が見えるような見えないような、
わかめ、それどこ?
という究極の野菜抜き弁当だったのです。
おかずが副菜なしで主菜のみ。
ある意味こんな徹底的なタンパク質オンリーの弁当は初めてです。

蓋を取るなり憮然としたものの、頂きました。
陸海空(牛鮭鶏)に感謝を捧げながら・・。

っていうか、何故鶏が空なのか(笑)



売店のテントから格納庫の裏の道を撮ってみました。
各国駐在武官のマイクロバスはここに停まるようです。



格納庫で展示されている飛行機。
コクピットが見下ろせるような台が設えてあります。



展示飛行機はF−15、F−2、そしてUH−60J救難ヘリです。




いずれもドアやコクピットを開けて見やすくしています。
F−2の台に上がるのに、この時点でもう30分の行列ができていました。



格納庫の前にわざわざ紅白の柱を4本立てて、
花を飾りエントランスにしてあるのが招待者控え室。
国会議員や駐在武官が、開始までワイングラスを片手に
オードゥブルなどをつまみながら談笑しているわけですね。



さて、朝ご飯も食べたし時間はたっぷりあります。
地上展示されている航空機の写真を撮ったりして時間つぶし。

まず空自仕様C−1。中型輸送機です。



こちらも空自迷彩のCH−47Jチヌーク。
陸自迷彩よりベージュ部分があるせいで明るく見えます。



エプロンに面した航空隊の入り口に父兄らしい二人がいるので
息子に会いにきたのかと思ったのですが、隊員は奥から
掃除用のブラシを持って出てきています。

何か掃除をすることが必要な非常事態が起こっていたのかもしれません。 



右側の白いテントは仮設の救護所。
ご覧のようにこの日は曇ったり晴れたりの不安定な天気でした。



会場に人が増えてくるに従って、警備のための隊が
各ポイントに配備されて行きます。
一個小隊が歩いているので写真を撮っていたら・・、



90°向きを変えてこちらに歩いてきたのでびっくりしました(笑)



こちらでも警備のための小隊が指示を受けています。



制服の隊員と記念写真を撮る光景もあちこちで見られました。



C−130H 輸送機。
C−1が「中型」なのに対し、こちらは「大型」ってことですね。
イラクの復興支援の際にはこの輸送機が現地に向かいました。



E−767という、やはりお皿を背負った早期警戒機をご紹介しましたが、
このお皿はレドーム、つまり中身は強力なレーダーで、回転するディッシュ型。
このE−2Cにも搭載されていて、同時に250個の目標を追尾し、
30の要撃行動を管制することができます。


強烈な電磁波が乗員の身体に影響を及ぼさないように、
どちらの機体にも窓がありません。

日本が両機を購入することになったきっかけは、ベレンコ中尉亡命事件でした。
あれはたかがミグ一機に侵入を許してしまったと言う点で、
日本の防空態勢のお粗末さが露呈されてしまった事件でした。

当時の日本には低空で侵入された場合、
どこにもそれを捕捉するレーダーがなかったのです。

で、この事件を受けて慌てた日本がノースロップ・グラマン社に発注したのがこれ。 

という流れを見てふと考えたことがあります。

ベレンコ中尉の亡命の理由というのは、結局よく分からなかったといいますが、
あれだけのことをやってのけるのにさしたる理由もなく、って変じゃないですか。
ベレンコ中尉、

実はノ社の回し者だったって説は当時どこからも出なかったのかしら。



続く。



 

平成26年度航空観閲式@百里基地~自衛隊の野望

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平成26年度航空観閲式、続きです。

まずは、今回エリス中尉が会場で座る席を決めるのに奔走した話。
地球防衛軍顧問という肩書きではまだまだ紫チケットが貰えないからですね。
チケットをくれた人がもし今回ご同行下さっていたら紫だったのになー。



チケットを見せると、女性隊員が半券部分をもぎって、
首から下げたタグにそれを入れてくれます。

タグの色はそのまま区分けされた席の色ですので、
スタンドのゲートでチェックしている隊員も一目でわかるというわけ。
しかし、タグの色とリボンの色を一致させるため、入り口では
必ずチケットの色も見せなければなりませんでした。



ここでファイル付きのプログラムと空自の広報パンフが貰えます。

現地到着が7時過ぎ、観閲式が始まるのは11時で、
その時刻には席についていなければなりませんが、4時間もの間
何もすることがないので、わたしはまず席を慎重に選びました。
着いた時間が早かったので結構よりどりみどりだったのです。



まず最初はここ。
ゲートを入ってすぐのE席です。
早いとはいえ、皆ここから座っていき、上段から埋まってしまっていたので、
反対側の最左翼Aに座ってみました。
陸自の観閲式と違い、航空観閲式は何処に座っても眺めに大差ありませんが、
そこはそれ、暇なのでこだわりまくります。



EからAに偵察に行き、Eに荷物を取りに行って

「まてよ、やっぱりこちらの方が高くて眺めがいいかも」

やっぱりこちらにしよう、と思い返し
もう一度確保のために置いたコートを取りにAに戻りました。



A席に戻って気づいたのですが、なんと上から2段目が空いていました。
ここなら高さも十分。
やっぱりここにしよう!ともう一度Eに荷物を取りに戻ります。
(当人すっかりエクササイズのつもり)

ところが!
Eに戻る途中、D席が青用に半分確保されているのに気づいたのです。

「ここも青チケットの席ですか」「そうです」

気づかなかっただけなのか急遽調整されたのか。
入ってみるとまだ誰も気づいていなかったようで、ガラガラです。

というわけで、わたしは今度こそEの荷物を引き揚げて、
ここに落ち着くことにしたのでした。
高さも観閲台からの距離も申し分ありません。

しかし、後に三宅二曹の国歌独唱が始まったとき、
それがA席からでないと見えなかったことがわかりました。orz

まあ、結論から言うと航空観閲式は何処に座っても大差ありません。
安倍さんとか幕僚長のファンとかでもない限り、中央に座っても
一番上でも航空展示は同じ眺めだからです。

滑走路のタキシングが見たければ上段、三宅さんが見たければレフトウィング、
入場して来る車が見たければライトウィング、ってところでしょうか。
あと、陸自機、海自機の前には陸海部隊が整列します。

今後のご参考までに。


それでは展示に戻ります。

当ブログ的にはおなじみ、P−3Cオライオン、海自の対潜哨戒機。



初等練習機Tー7。
静浜基地には人気のTー7ジュニア、つまりバイク軍団がいますよー。
配備は12年前です。



こちらはブルーインパルスと同型のTー4。
Tー7もそうですが、練習機だから編隊飛行訓練のために
尾翼と翼の先に蛍光でマーキングがしてあるんですね。



時々滑走路には離陸してきたり、こうやって移動する飛行機が行き交っています。
ブルーインパルスのクルーを「ドルフィン」といいますが、
それはこのTー4の機体、特にノーズにイルカを彷彿とさせるものがあるからです。

このTー4自体にも「ドルフィン」というあだ名がついています。



C−130Hは降下始めなどで陸自の降下訓練を支援しますが、
陸自ではなく空自の所属機です。

ハーキュリー、つまりヘラクレスというあだ名に相応しい力持ち。



駐在武官ならびに横田、厚木、横須賀、岩国からのお客様席。
紫チケットというのはこういう人たちが対象なのです。
しかしこうして見ると、空軍も海軍も一目でそれと分かる制服ですね。
ここに写っているのは全員アメリカ軍です。



女性の空軍士官が登場したので、周りは一斉に注目していました。
ウィングマークが見えることと、袖の線が4本あることから、
オーストラリア空軍のグループキャプテン、即ち大佐クラスで、
パイロットであるらしいことが分かります。



米空軍の制服を見たのは初めてですが、真ん中の
重量級同士で握手している右側の軍人さんの、
沿岸警備隊の制服を見たのも初めてのような気がします。



ところでこの写真、軍人さんたちの制服や手前の男性の背広に、
ここから見ても分かるゴミのようなものがついているんですがこれはなに?

うちに遊びに来る猫も草むらでゴロゴロした後には、
よくこんな草の実を体に付けていますが・・・・。



ところで草むらで急に思い出したのですが、ここにずっと座っていると、
時々えも言われぬ有機系の香りが鼻を突くのが気になっていました。
「?」と思っていると、後ろの母息子二人が
(彼女は昔自衛隊に関係のあった感じ)

「また臭くなってきたね」「いつもこうだよね」

などと話していたので、いつものことらしいと知りましたが、
あとで検索してみると、これはやはり百里特有の「田舎の香水」、
即ち堆肥の匂いであることがわかりました。

ついでにこれを調べたときに、この観閲式のための予行演習は
なんと7月にも行われていたことも同時に知りました。

事前公開は一週間前の19日だったそうです。



会場を隈無く歩く、黒服を着て目つきの悪い三人組。
きっとあなたたちは首相のSPね。違ったらごめんなさい。



会場に着いてから3時間。

10時5分きっかりから(なぜ5分)空自音楽隊の演奏が
20分に亘って行われました。

長時間待っている皆さんにサービスといったところです。
何しろ、会場にはずっとインストで

「花の街」「夏の想い出」「牧場の朝」

といった、何というか女性合唱団の基本レパートリーのような、
善良で毒にも薬にもならなさそうな、それはそれで大変結構な名曲が、
しかし3時間もの間、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返され、
職業柄音楽をどうしても耳に留めずにいられないわたしなど、
まるで最後の頃には拷問されているような気分になっていたので、
それが終わっただけでもほっとしたのです。

百里基地の関係者の方、もしここを見ていたら、
世の中にはこういう人間もいるので、CDを交換できないのであれば
いっそBGM無しにされることを、国民の一人として切にお願いしておきます。


空自音楽隊の演奏は、マーチが中心で、「美中の美」、
自衛隊の依託作品などの調べが、始まりを今か今かと待つ人々の
耳を楽しませてくれました。


演奏は20分で終わり、それと同時に観閲式が開始されました。




まずは観閲部隊の入場です。

観閲部隊は陸海が120人ずつ、空自480人、計720名で、
北は北海道から沖縄まで、全国の基地駐屯地から参加しているそうです。

入場してきた海自部隊。
自衛艦旗の圧倒的な美しさに感動を覚える瞬間です。



観閲部隊が整列を終わって、観閲執行者が入場します。
航空観閲式の場合、実地責任者は航空幕僚長で、
執行者は航空総隊司令官がその任を負います。

というわけで今回パンフレットで初めて空幕長と司令官の
ご尊顔を拝して思ったのですが、何というか「空自タイプ」だなあと。

海自と陸自について将官クラスにも各々の「タイプ」が見られる、と
折りにつけ考察をしてきた当ブログですが、かねがね垣間みて
空自は陸海のどちらとも違う雰囲気があると思っていました。

当の自衛官に言わせると「最も自衛隊らしくない」のが
空自であるというのですが、まだわたしには観察の機会が少なく、
どう自衛隊らしくないのか言及することはできません(_ _;)



統合幕僚長に就任したばかりの河野前海幕長も入場。



ここで空自の係員に誘導されてエプロンにドヤドヤと入ってきた
マスコミご一行様。
皆が注目している中なので一応の節度を保とうとしているようでしたが、
最後の瞬間、いきなりカメラの場所をなりふり構わず取り合う様子が、
すっかり観衆の笑い者(?)になっておりました。

彼らが写真に撮ろうとしていたのは、訓示する安倍首相の姿です。



というところで女性自衛官に伴われて車から降り立つ安倍首相。
SPの目つきが鋭い。



まず第一回目の栄誉礼。まず「巡閲の譜」が奏楽されます。



儀仗を行うのは陸上自衛隊第302保安中隊。
市ヶ谷駐屯地に所在する東部方面警務隊直轄の警務科部隊です。
儀仗隊は101名で編成され、隊員になるには身長制限があります。

元映画俳優だったロナルド・レーガン大統領が来日したときに
儀仗隊の前を歩いている写真がありますが、
レーガンが小さく見えるくらい全員が高身長です。



儀仗が行われている間の安倍首相。

栄誉礼の目的とは、

栄誉礼受礼資格者が自衛隊を公式に訪問し若しくは視察する場合
又は防衛大臣の定める場合に、栄誉礼受礼資格者に敬意を表するため行う

ものであり、儀仗は

受礼者に対し捧げ銃を行い、その間音楽隊は「栄誉礼冠譜」を奏楽する

という次第です。

ちなみに、自衛官でこの栄誉礼を受けられるのは、統合幕僚長と
陸海空幕僚長のみとなります。


栄誉礼が終わった後は、国歌独唱が行われました。
独唱。
そう、前回の陸自主宰の中央観閲式では行われていないので、
もしかしたら今年からの試みかもしれませんが、
観閲式における国歌奏楽を、自衛隊はアメリカのように
アカペラのボーカルソロで行ったのでした。

歌手は海上自衛隊東京音楽隊の、 三宅由佳莉二等海曹です。

わたしは当ブログで以前、

「東京オリンピックの国歌独唱は彼女がしてはどうか」

と書いたことがあるのですが、それは彼女が歌手としてどう、
ということではなく、国家を代表する歌手が自衛隊員である、
ということになればいいなあという「願望」から来た発言です。

しかし今回彼女の「君が代」を聴きながら、わたしは自衛隊が
本気でそれを「取りにいくつもり」ではないかと思いました。
最高指揮官である内閣総理大臣の出席する観閲式という大舞台で
三宅二曹にこれからオリンピックまでの間「経験を積ませ」、
政府関係者にもお披露目をしておくというのが狙いではないかと。

歌手の声が出来てくるのはどんなに早くても30からと言います。
6年後に向けて自衛隊がそれを計画していても不思議ではありません。 

三宅二曹の名前がアナウンスされたとき、周りが一斉に

「ああ」「海自の歌姫ね」

などと声を上げ、すでに彼女への認知度が高いのが窺い知れました。

ソロの君が代は正直なところ、彼女の声量ではまだ少し荷が重そうでしたが、 
自衛隊が計画している(かもしれない)ように、6年経験を積めば、
彼女が世界を舞台に国歌を歌っても恥ずかしくない歌手に育っている
可能性は大いにあります。
というか、この自衛隊の野望、是非実現して欲しいですね。

って勝手に野望にしてるし。



続く。


 

平成26年度航空観閲式@百里基地~慰霊飛行と観閲官訓示

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航空観閲式、海上自衛隊音楽隊歌手、
三宅由佳莉二曹による国歌独唱が終わりました。



陸上自衛隊第302保安警務中隊による儀仗が終了し、退場します。
儀仗隊は100人の隊員(+隊長1名)で構成されます。

かつて保安中隊という名称であった頃には広報活動として
ファンシードリルを行っていたのですが、2008年、
それまでの東部方面隊直轄から東部方面警務隊直轄の
第302保安警務中隊に改編されてからは行われなくなりました。

特別儀仗専門の部隊になったということですね。

続いて慰霊飛行が始まりました。
殉職した自衛官の魂を顕彰するもので、客席は起立します。



映画「ライトスタッフ」でも登場した「ミッシングマン・フォーメーション」。
4機のF−15の編隊から一機だけが天を目指して飛び去り、それが
ミッシングマン、つまり死者を表わすというフォーメーションです。

この時間はご覧の通り雲が低くたれ込めていたのですが、
この低い雲が思いもよらぬ効果となりました。
離脱した一機が機首を上昇に転じたとたん、機体が雲の中に吸い込まれ、
全く姿を消してしまったのです。


本来は抜けるような青空の中、何処までも高みを目指して飛ぶ
「ミッシングマン」が感動を誘うところですが、これもまた
突然失われた命への喪失感を表わすようで、感動的でした。



続いて観閲飛行が始まりました。
まずは陸自のヘリコプター群から。

対戦車ヘリコプターAH-1コブラに、続いては
観測ヘリOH−1ニンジャ。



このちょんまげシルエットは(笑)アパッチ。



海自からはSH−60哨戒ヘリコプターに続き
救難コンビのUS−1AとUS−2。



そういえば最近の「余命3年時事日記」にいつぞやの辛坊治郎氏と
他一名救出の件が書かれていました。

引用します。

海保が出動、また要請があって自衛隊からP−3C、US−2が救助に飛び立ち、
台風影響下一次出動チームは帰投せざるを得なかったものの、
二次出動US−2飛行艇は薄暮、強風18m、波高4mの悪天候の中、強行着水し、
波高により4発エンジン1発停止にもかかわらず、遭難者2名を救助、
無事厚木基地に帰投しました。

US−2の能力を超える着水条件の中、100億円の機体と、11名の乗員の命かけての
強行着水救出劇は無謀の誹りを免れないでしょう。
しかしながら、この場面での救出断念帰投は、悪天候下、
体温低下等で遭難者の命が助からない可能性が高く、
強行着水はUS2という飛行艇の能力への信頼、チームの訓練、練度の自信、
そして命を救うという使命感からの機長の決断だったと思われます。



そのときにP−3Cも出動していたのは知りませんでした。
あらためてこのときの救難隊のメンバーに敬意を覚えずにいられません。

ただし「余命3年」はその後、辛坊氏の最近の番組での発言をして

この命がけの救出で助けられた人間が日本人を貶め(略)最悪の裏切りです。
海保や自衛隊は怒りに満ちています。
中でも自身の命を張って救出した11人の救助隊員の怒りは
半端ではないことをお伝えしておきます。

と激しく非難をしています。
最後の一文から察するに、筆者は内部の事情を知っているようですが・・。



陸海に続いて空自の航空機群が観閲のため通過します。
順序は

UH−60J 救難ヘリ

CH−47J チヌーク 輸送ヘリ

U−125A 捜索救難機

C−130H ハーキュリーズ 輸送機

C−1 中型輸送機

ときて、この

E−2C早期警戒機が現れました。



続いてやはりお皿を背負った

E767 早期警戒管制機、続いてはこの

KC−767 空中給油/輸送機。

これはわたしも見るのは初めてです。
給油用のノズルは展示用に伸ばしていますが、
離着陸のときには収納します。当たり前か。



B−747−400特別輸送機。

1993年から、つまり20年間政府専用機であった747ですが、
2014年の8月に、後継機がボーイング777-300ERに決まりました。
交代は5年後の2019年です。



続いて戦闘機群。
F−15、そしてこのF−4EJ改、F−2で観閲飛行は終わりました。



次は観閲官訓示。

報道カメラマンが目の色変えて場所取りをしていたのは、
このときの安倍首相の写真を撮るためでした。

去年、わたしは陸自主宰の中央観閲式で観閲官訓示を聴き、

「内容のほとんどであった自衛隊員への慰労と励まし、
隊員家族に対して隊員の命に責任を持つという部分は全く触れず、
ほんの一言の言葉尻を以て各社一斉に『中国への牽制』とした」

ということに、マスコミのご注進気質を見たと書いたわけですが、
今年もこの点においては相変わらずでした。


(平時でも有事でもない)グレーゾーン事態から集団的自衛権の行使まで、
切れ目のない新たな安全保障法制を整備していく」と述べ、
安保法制の早期整備に改めて意欲を示した。

日米同盟の深化に向け、自衛隊と米軍の役割分担を定めた
防衛協力のための指針(ガイドライン)改訂や共同訓練の推進を訴え、
沖縄県の基地負担の軽減に「全力で取り組む」と語った。
「内向きな一国平和主義であってはならない」と述べ、
自衛隊による国際貢献の重要性を強調した。


日経新聞からの引用ですが、他紙も全くと言っていいほど同じ内容です。
こういうの、誰がひな形を作成するんでしょうね(笑) 

文言のわずかな違いはあっても各社共通だったのが

「切れ目のない新たな安全保障法制を整備」

という言葉。
朝日を見ても「切れ目」、読売、共同、地方紙も「切れ目」。
今年のマスコミ的キーワードは「切れ目のない」です(笑)

要するにマスコミの関心は第一が集団的自衛権の推進、そして
中国に対する懸念に言及したか否かにしかなさそうでした。

去年のように「力による現状変更は許さない」といえば
「中国を牽制した」となり、今年弾道ミサイルとサイバーテロにしか
触れなければ「首脳会談を控えて中国に配慮したと見られる」。

どれだけ中国好きなんだよ、って感じです。



さて、マスコミが全く報じなかった部分に、隊員と家族への
感謝と労いがあるのは、これもいつも通りだったわけですが、
それ以外に、産經新聞が

南スーダンの国連平和維持活動(PKO)への女性自衛官派遣などを取り上げ
「女性の力が自衛隊にとって新たな活力の源となっている」と強調した。

と報じた訓示内容について捕捉しておきますと、首相はこのとき、
海自の初の女性艦長二人(東・大谷二佐)を取り上げ、東2佐が

「艦長になったとき、娘が一番喜んでくれたのが何よりの喜びだった」

と就任に際して語ったいうエピソードを紹介していました。
これは安倍政権の「女性が輝く日本へ」と銘打った成長戦略を
念頭に置いての言及であろうと思われます。



観閲官訓示中の空自観閲部隊。
U−4のブルーラインのスマートな機体と空自はよく似合う。
そしてブルーに掛かる鮮やかな日の丸が美しい。

日の丸と言えば、モックアップのF−35の機体に何も描いてなかった!
と前々回のエントリで書いたのですが、



よく見たらありましたorz
モックアップにサービスで日の丸入れてくれてたんですね。
見落としていてすまんねアメリカ。



訓示中の観閲部隊は整列休め。
彼らの「休め」「気を付け」の動きのキレはハンパなく鋭く、
一同が号令と共に態勢を変えるときには周りが

「ほう」「すげー」

などと軽くどよめいていました。 




海士たちのネービーブルー(これが本当のネービーブルー)
のセーラー服、白いセーラー帽が美しい。
やはり海軍伝統の軍服はデザインに文句の着けようもありません。



戦闘機群の前の空自部隊を写してみました。
今回陸自が遠かったので残念ながら写真はありません。



観閲官の訓示終了に続き、再び(三度かな)栄誉礼。
敬礼を行うのは部隊先頭の士官のみです。
観閲部隊の先頭には女性部隊の隊長が一人含まれます。


この後観閲式は展示視閲へと続きました。


続く。




平成26年度航空観閲式@百里基地~老兵(ファントム)未だ死ねず

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観閲官である自衛隊最高指揮官、内閣総理大臣の訓示が終わり、
それに対する栄誉礼が行われた後は、展示視閲となりました。



展示視閲とは観閲の一環で、それまで会場にいて観閲を受けていた
空自装備が観閲官の前を通過するものです。

まずは高射隊のAN/MPQ-53フェーズドアレイレーダーから。
目標の捜索、追跡の他IFF(敵か味方か認識する)ミサイル誘導
等を行います。

車体の上のうっすーい板状のものが稼働時には屹立します。



ランチング・ステーションLSつまり発射機が通過。
地対空誘導弾ペトリオットです。
よくパック3って聴くでしょう?あれですよ。

因みに、民主党時代、当時の防衛大臣であった田中直紀(別名真紀夫)は
PAC3のことを「ピーサンシー」、つまりP3Cだと勘違いしていたようでした。
まあ、似てるから間違えても仕方が・・・・ないわけないだろ!

全く悪夢のような政権でしたねえ(遠い目) 
C−3POと間違えなかっただけましだったと思うことにしようっと。 


PATRIOTを日本ではパトリオットと読みますが、空自では英語発音の
「ペイトリオッ」に近い「ペトリオット」を採用しています。
米軍との会話で混乱しないためだと見た。



おそらく移動用の通信装置で、車上の半月形がパカッと開いて
レーダーになるんだと思うな。(小並感)

移動用多重通信装置(OH)J/TRQ-502

ではないだろうか。
だとしたらこれは移動通信隊の装備でしょう。



移動気象隊という部隊が空自にはあるんですよ。

航空気象隊とは、気象予報、気象観測及び気象情報の収集、
伝達等の各業務を実施する部隊なのです。

気象通信用端末装置(WECOM)により、空自だけでなく
陸上・海上自衛隊の飛行場(航空基地)からも気象情報を収集し、
提供を行うのが任務です。

この車両は移動気象レーダー(MROS)で稼働時には、こちらは
R2D2みたいなレドームがひっくり返って立ち上がります。

清掃車みたいだと思ったら、本当に移動警戒隊の吸引清掃車でした。
このバキュームスウィーパーの役割は重要で、空自移動部隊に随伴し、
航空機の経路を清掃して安全を確保するのが任務です。

実はこの他にも車両は数多く視閲のための走行を行ったのですが、
全部写真に撮ることができませんでした。



車両が通過してのち、部隊長が視閲を受けます。
車両の順番は

高射隊
移動通信隊
移動気象隊
移動管制隊
移動警戒隊
基地防空隊

だったのですが、この視閲は高射隊だけの模様。



デジタル迷彩にヘルメット。
ブルーのマフラーは空自ペトリオット部隊です。

隊長が思いっきりコワモテである。



車両のあとは、概要でもお伝えした戦闘機の展示視閲。

F−15は三菱重工業がライセンス生産し、F−15J(単座タイプ)が165機、
複座であるF−15DJ、48機が導入されました。



2機来るからには両タイプだと思ったのですが、
単座のF−15Jだけでした。
戦闘機の場合複座は教育用なのかもしれません。

搭載されているブルーのミサイルは、99式空対空誘導弾です。



前を通過したときにパイロットに思いっきりズーーム。
観閲官席の前では安倍首相に向かって敬礼をしたのでしょうか。



続いてやってきたF−2も、F−2AとF−2Bがあり、
Aが単座。Bが複座です。

F−15と同じブルーの空対空ミサイルを搭載しています。
これが目の前を横切るのですから、それはもう凄い迫力です。
カメラを持参していないVIP席の人たちも思わず携帯を取り出して(笑)



観閲式で飛行を行うのは、空自の腕利きの中でも
とくに優秀とされるパイロットに違いありません。



そういえば空自にはこんな戦闘機もまだあったんですね。

F−4EJ”改”。

読んだことはありませんが、昔「ファントム無頼」というマンガがありまして、
物語の舞台はここ百里基地だったそうなんですねー、ええ。

主人公はF-4EJ ファントムに乗る凄腕パイロット神田2尉。

「何人ものナビゲーターを病院送りにした問題児」

ってどういう意味かしら。
このマンガはF−15が導入されるまで、ファントムが空自の主力戦闘機だった
1978年から84年にかけて掲載されていたとのことです。
興味が出てきたので今度これ読んでみようっと。


と、ここでまた出て来るベレンコ中尉事件(笑)

F-4は、J型において戦闘機として当時世界初の
ルックダウン能力(低空飛行の探知能力)を備えた機体だったはずなのですが、
この亡命事件で、地上のレーダーとF-4EJの双方が領空侵犯機、
(つまりベレンコ中尉機)を見失うという事態が発生してしまい、
ルックダウン能力の決定的な不足が露呈されてしまったのです。

それで前にも書いたように、早期警戒機の導入と相成ったわけです。

だからといってF−4がダメ戦闘機ということではありません。
やはり餅は餅屋と言うか、戦闘機の限界だったってことなんだと思います。

しかも、戦闘機としてその後、F−15、F−2が導入された平成26年現在でも
これまだバリバリの現役なんですよ。

現行の機体はF−4EJ「改」という名の表わす通り改造されたものですが、
その改造だって主目的は能力向上というより「延命」だったというくらいで。




夏に見学したパシフィックコースト航空博物館のファントムの
「スプリッターベーン」について詳しくお話ししたのを
もしかしたら覚えておられる方はいませんか?



境界層をインテークから吸い込まないように孔があけられている、
というレトロなシステムが取り入れられています。

かの地のF−4のインテークには北ベトナム空軍機を意味する星が4つ描かれ、
ベトナムで4機撃墜した機体であることが誇らしげに書かれていましたっけ。



観閲式が終わって展示機の前に説明のために立っていた空自の隊員も

「ベトナム戦争に行ってるくらいですから。
アメリカではもう使ってませんね」

と言っていましたが、ベトナム戦争どころか、これ冷戦期の開発ですから。


当のアメリカでは1996年(16年前!)には全機退役していますが、
聴けば日本だけでなく、いまだにイスラエル、トルコ、ドイツ、ギリシャ、
エジプト、韓国、スペイン、イランの9空軍で配備中です。

ということは、このファントム、掛け値なしに
戦闘機として傑作と呼ぶに相応しい名機ということなんですね。

開発以来生産された総台数は全部で5,195機。
F−16が4,500機を以て「ベストセラー」と呼ばれていることを考えると、
セールス戦略においても非常にうまく行った飛行機だったということです。


とはいえ、いずれにしてもこのF−4EJ「改」はもう56歳。
自衛官だと1佐ならもう定年の年齢です。
当日この会場では次期主力戦闘機予定のF−35戦闘機のモックアップが
展示され、話題を集めていました。
往年の名機もいよいよ

「老兵は死なずただ消え往くのみ」

の秋(とき)を迎えた・・・はずなのですが。

ところがどっこい問屋が下ろさず、後継機F−35は、
諸事情により開発が遅れていて配備が2017年以降となり、
したがって


F-4EJ改の運用スケジュールは
耐用年数見直しの上で
変更される可能性もあるとされる。


つまり、もう少し楽隠居は先のことになりそうなんですね。
頑張れファントム爺さん(笑)



続く。

 

平成26年度練習艦隊帰国行事~最後の乗艦

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しばらく平成26年度航空観閲式のご報告を行っていましたが、
晴海埠頭に寄港した練習艦隊について、もう一度お話しします。

前回のご報告は、わたしがこの日是非この目で確かめたかった
ガダルカナルで収容された日本軍将兵のご遺骨の帰国、上陸、
そして引渡式についてまででしたが、それは今回、海軍の直系である
海自艦隊によってご遺骨が日本まで運ばれたという、意義深いできごとでした。

「何よりの士官教育になったと思う」

とある自衛隊幹部が述べたように、この任務は1957年から始まった
戦後練習艦隊の歴史の中でも特に重要な1ページとなった筈です。



遺骨が「かしま」から下ろされ、慰霊のための一連の行事が済んで、
ここで初めて、練習艦隊帰国行事が始まりました。

今回の遺骨返還事業に大きな役割を果たした国会議員、
宇土隆史氏の「練習艦隊への感謝の辞」に対し敬礼する湯浅司令。

元自衛官との間で、湯浅司令官の立ち居振る舞いは大変「カッコいい」
ということで二議一決したことがあります。

百里の航空観閲式で「空自の将官にはタイプがある」と書きましたが、
湯浅海将補の場合、この伝で言うとまさに「海自タイプ」だと思うわけで。

それでは「海自らしい」って何なんだろう、というと、陽焼けした肌とか、
極限まで整えられた身だしなみとか、きびきびした立ち居振る舞いとか、
まあそれはどの自衛隊にも共通したことではあるのですが、
敢えてその上で「海自らしさ」を言うならば「諧謔」に通じる闊達な、
フレキシビリティから生まれる一種自由な空気を纏っていること。

・・・と無理矢理言葉にするとこんなイメージです。



ところで、最近元海自の方と話していて大変印象的な話を聞きました。

海自艦艇で「いじめ」が多発するのは、組織としての
「淘汰」である、という説です。

フネは旧軍の昔から、たった一人のミスが原因で海に沈む
(あるいは敵にやられる)という運命共同体です。
勿論ミスが命に直結するというのは空自や陸自の飛行機も同じ。

しかし、航空機の操縦は「ダメな者」はそもそも携わることも出来ないし、
パイロットになった後もダメならすぐに切られてしまう。

ところがフネの場合、乗員の総数こそ艦の大きさによって差はあれど、
海上自衛官になれたという者が、その能力の如何を問わず、
優秀な者からそうでない者まで一つの艦に混在することになります。

そして一人の失敗が最悪の場合に及ぼす被害は、あまりにも大きいのです。



空自は先ほども言ったように「飛行機」という特殊な兵器は
資格を持ち、さらに訓練を積んだ者だけがそれを繰ることが許され、
陸自にはそもそも「フネ」に相当する運命共同体的な職場がありません。
たとえ落ちこぼれる人間がいても、彼または彼女は去り往くのみであり、
そもそもその方によれば、陸自はそういった者に対しても
極力手を差し伸べて引き揚げようとする傾向のある組織だというのですね。

しかし、フネの場合はそうはいきません。
「下に合わせている」場合ではないのですから。

いじめの原因については、個々に理由は色々あるとしても、
少なくとも(これは想像ですが)能力があって仕事ができる者なら、
そもそも苛めの対象にならないのではという気がします。

「虐められる者にも原因がある」

などというと一般社会では語弊があるかもしれないけれど、
海上自衛隊のフネで発生するいじめは、危険となる要因を排除するという
運命共同体としての防衛本能なのではないだろうか。

まあ、ざっとまとめて、ついでにわたしなりに捕捉すると
こんなお話だったわけですが、妙に腑に落ちた気がしました。



「帰国行事」の段になって、海幕長の訓示が行われました。

「諸君の遠洋航海での行動は高く評価されている。
これは湯浅司令官の卓越した指揮統率のもと、全隊員が自己の使命を
よく自覚し、心を一つにして任務に邁進した賜物であり、
我が国と訪問国との友好親善に大きく貢献したものと確信する」



「また、先の大戦の激戦地であるソロモン諸島において
献花は遺骨引渡式を通じ、散華された英霊たちに想いを致し、
日本人としてのアイデンティティを再認識してくれたものと確信する」



出航行事のときと同じく、艦隊司令と各艦長に花束が贈呈されました。
贈呈者の顔ぶれも5ヶ月前と同じメンバーのようです。



公式の「帰国行事」はここまで。
遺骨引渡式に出席した招待者や国会議員などはここで解散し、
この場から離れてもいいというようなアナウンスがありました。




わたしはこの後何が行われるのか見届けるために、大半が席を立ち、
出口に向かう中、その場に留まることにしました。

東京音楽隊はこの後始まる行進のために待機しています。
彼らの後ろをバスが通過していますが、これは列席者の団体のため?



帰りの車に乗り込むために移動する議員たちの中から
周りに挨拶しながら歩く宇土議員をパチリ。

先日ある元陸幕長の職場を訪問し、お話させていただいたのですが、
この方は、宇土議員を後援しておられます。

実は、この方の紹介でわたしは「地球防衛協会」とはまた別の、
「某国協会」の末端にも名を連ねているのですが、
今度何か機会があれば、そのことをネタに接近してみます。
(実はちょっとファン)



招待者が引き揚げる中、練習艦隊の実習幹部の「かしま」への
「最後の乗艦」が始まりました。

しかし「最後の」ということを、わたしはこの少し後まで知りませんでした。
このときには、このあと「かしま」は実習幹部を乗せて出航するのだろうか、
なんてことを思っていたのです。



彼らがこの帰国行事を以て練習艦隊を終了し、
各自の任務地に向かうのだということを、
現場にいた自衛官に訊ねて初めて知りました。

彼らは一旦全員が「かしま」に乗り込み、その後「艦を降り」るのです。



乗り込んだ彼らは、一旦後甲板に整列します。
そして、「かしま」乗員と別れを交わしつつ下船します。



埠頭に整列していた乗員が乗り込んだ後で、艦長と湯浅司令は
来賓に求められて写真を撮ったり、このように父兄席の前に行き、
皆に挨拶をしたりしていました。

湯浅海将補の後ろに控えるのは阿川副官ですね。

そのお人柄がすっかり父兄を魅了しているらしい湯浅司令。
皆さんが司令官を見る親しみを込めた熱い眼差しをご覧ください。
敬愛を感じこそすれ、決して畏怖しているようには見えません。

こういうのが「海自的将器」というものでしょうか。



サイドパイプの中、最後に乗艦する湯浅司令。



実習幹部の関係者は、彼らが整列している後甲板付近に集まっています。
やはり妙齢の女性が多いような気がしました。



一番最後に儀仗隊が乗艦しました。



デッキで何人かの乗組員が自衛艦旗を持って待機しているのに気がつきました。



わたしはこのとき、柵の前にいた海曹に彼らが全員これから
船を降りるのだということを聴きました。

「降りて何処に行くんですか」
「各自の任務地に向かうんですよ」
「自宅に一旦帰らないんですか」
「この近くに住んでいる隊員なら一緒に帰るかもしれませんが、
 基本的にはまっすぐ任地に行きます。
 横須賀とかならいいんですけどね」
「ということはもしかしたら北海道とか沖縄とかも?」
「いるかもしれませんねー」



練習艦隊の乗員は舷側に全員が整列しています。
これから、5ヶ月間共に航海をし、その成長を見守り手助けし、
ときには叱咤した実習幹部を見送る儀式が始まります。

海幕長が彼ら艦隊の乗員にかけた労いの言葉とはこのようなものでした。

「練習艦隊の乗員諸君。
諸君が長期に亘る過酷な環境の中、任務達成に邁進したその姿は、
若き実習幹部たちの良き手本であった。
伝統ある遠洋練習艦隊は、彼ら実習幹部にとって海洋武人としての経歴を
踏み出す第一歩となるものである。
諸君がこの瞬間に携わったことを誇りとし、自信を持って
今後の任務に邁進することを期待して止まない」



旗旒信号はおなじみの国際信号旗、

「ご安航を祈る。I wish you a pleasant voyage.」

が揚げられました。
彼らは船を降り、各任務へと向かいます。
つまり、皆が船に乗るとは限りません。

しかし、海自ではその行く末を「ヴォワイヤージュ」と称するのです。
なぜなら、海上自衛隊において自衛官となった者は須く、
海幕長のいう、「海上武人」となるからです。



練習艦隊音楽隊が自衛艦旗の元に待機しています。
これから、下艦する幹部たちのために「軍艦」を演奏するのです。



儀式、という固さは見られず、リラックスした雰囲気で
見送りのときを待っている様子。



「軍艦」が始まりました。
2尉から順に、敬礼する乗員の前を通り過ぎて行きます。



見送りの乗員たちは皆作業着です。



気がつけばデッキの自衛艦旗が大きく振られていました。
自衛官によってこのように振られる旭日旗を見たのは初めてです。



敬礼しつつ皆整然と降りて行く・・・・筈なのですが(笑)
顔見知りやお世話になった幹部には言葉を交わしたり礼を言うために
立ち止まってしまうらしく、列はすぐに動かなくなりました。



ところで、先ほどの「護衛艦の苛めは淘汰」説を伺った
元海上自衛官から、彼らについてのこんな話を聞きました。

晴海に入港する2~3日前、それは艦隊が沖縄付近を航行する頃だそうですが、
実習幹部たちは、初めて自分の配置を知らされるのだそうです。

つまり、希望した配置に配属されたかどうかによっては
内心狂喜乱舞、ガッツポーズの幹部もいれば、
がっくり肩を落とすことになった者もいたということなのです。

わたしは艦上で行われたレセプションで、一般大卒の女性幹部と話し、
回転翼のパイロット志望であるという話を聞いたのですが、
彼女は果たして希望通りになったでしょうか。

元から護衛艦を希望している者にとっては練習艦隊は「実戦即応」です。
しかし、航空や他の部署を希望する者にとっての「フネ」というのは
狭いし揺れるし閉塞感があるしその他色々な理由で

「練習艦隊でフネはもう最後にしたい」

くらいに思っていて・・・、つまり「嫌い」ってことなんですが、 
だからこそ他の部署に希望を出したのに、
よりによって嫌いな艦隊勤務になってしまってどよーん、
みたいな人も中にはいたかもしれないってことなのです。


「そういえば」


そのことを元自衛官から聴いたとき、わたしは膝を叩きましたね。
(比喩的な意味で) 

「海幕長が訓示で『どこに配置されても海自の基本は海だから』
みたいなことを言っていたんですよねー。
それでなのか・・・・」 

正確に記載すると海幕長はこんなことを言っていました。
 

「諸君は本日から部隊勤務の第一歩を踏み出すことになる。
海上自衛隊の全ての発想の基本が海の上にある
ことを肝に銘じ、この海上実習で得たものを忘れることなく、

いかなる配置にあろうとも、
いかなる配置にあろうとも、
いかなる配置にあろうとも、

海の上を基本としたものの見方、考え方を持ち続けてもらいたい」


大事なことなので三回書きましたが海幕長は一回しか言ってません。
念のため。



そういう悲喜こもごもも、こうやって見ている限りはわかりませんが。

そういえば、

「フネは大嫌いだった」

にもかかわらず艦乗りになって、それから数十年後、海上自衛隊の最高位に
上り詰めた方も、わたしの知る自衛官の中にはおられます。
たとえ希望通りにならなくても、その後の自衛官人生はその人次第ってことです。

遠洋練習航海は海上自衛官の原点なのです。
海上武人の心は常に海にあることを忘れず、頑張って頂きたいと念じ、
せめてものはなむけに代えさせていただきます。 



ところで、下艦がいつ終わるか見当もつかないのでわたしはこの辺で
失礼することにし、この横に停めていた車に乗り込んだところ、
自衛官が飛んできて

「お花を返却して下さい」

胸に着けていた招待客用のリボン、返すの忘れてた・・・orz
というか、こういうのは記念に持って帰るものじゃないのね。
(残念)



終わり

平成26年度航空観閲式@百里基地~ブルーインパルス

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茨城県の百里基地で行われた平成26年度航空観閲式シリーズ、
続きです。

展示飛行が終わり、展示視閲のプログラム「緊急発進」、
即ちスクランブルが行われました。



観閲台に設えられた緊急発進を知らせるベルのスイッチを
観閲官である安倍総理がぽちっとします。
疑うわけではありませんがこのスイッチ、本物なんでしょうか。

とにかくそのとたんりりりり・・・と警告音が鳴り渡り、



何秒か後にはスクランブル発進されていました。
スクランブル発進のためにF−2、F−15は24時間態勢で待機しています。
実際のスクランブルは5分以内に発進すべしとなっているそうですが、
正確な時間は防衛機密上明らかにされません。

防空識別圏とは領空の周辺にあり、領空侵犯の恐れのある国籍不明機が
侵入したときにスクランブルは行われます。
スクランブル基地は全国に七カ所あり、ここ百里基地もその一つです。



スクランブル発進してからは、国籍不明機の真横を飛び、相手に
翼を振って「我に従え」と意思表示をしてのち先に立って誘導しますが、
その間相手から撃墜されるポジションを飛ぶことになります。
そこで後ろに僚機が追随し、ミサイルを発射可能にし、
国籍不明機がリーダー機に何かしたときに正当防衛する意志を示します。

つまり、リーダー機は常に被撃墜の危険を負っているのがスクランブルなのです。

勤務は24時間交代だそうですが、3回スクランブルを行ったら
体力に限界が来るので、24時間以内でも交代となります。

Gスーツを着用しているといえども9Gの重力を受けながら
死の危険と隣り合わせの任務。

統合幕僚監部が発表によると2013年度(2013年4月~2014年3月)の
航空自衛隊の緊急発進回数は、前年度と比べ243回増となる810回。
年間平均で一日に2~3回、日本のどこかで緊急発進が行われたということです。

これは1958年に航空自衛隊が対領空侵犯措置を開始して以来、
56年間で9番目に多い回数となったそうです。

推定を含む緊急発進回数の対象国・地域別の割合は、
中国機が約51%、ロシア機が約44%、北朝鮮機などその他が約5%でした。



概要でも写真を挙げた、F−15による「機動飛行」。

白煙を背負っているように見えますが、これは「ヴェイパー」
(vapor、蒸気という意味)といい、戦闘機が運動するときに、機体の一部(
この場合主翼の付け根)からこぼれた空気が急減圧されることによって、
空気中に含まれる水分が凝結作用を起こし、発生する現象をいいます。



このヴェイパーは翼端から発生しています。
「空気中に含まれる水分が凝結」ということはですね、
空気中に水分が多い、つまり湿度の高いときにはヴェイパーは
発生しやすいのではないかと思うのですが、このときは
昼遅くに夕立のような雨が降ったくらいで、条件は整っていました。

この日は「ヴェイパー日和」だったのです。



特にこのF−15の機動のときにはヴェイパーが目立ちました。



下から見た写真には全く写っていませんが・・・、



表面はこの通り。
まるで綿布団でも背負っているように、翼全面に見えます。



プログラムには複座であるF−15DJの名前も書いてありましたが、
写っている写真は全てパイロットは一人でした。
ブルーインパルスもそうですが、複座戦闘機に
一人しか搭乗しないということはよく行われるのでしょうか。 



何かの拍子にヴェイパーが全くなくなった状態。



続いての展示視閲はRF−4E/EJによる航空偵察。
写真は撮り損ないましたが、前回お話ししたファントムの偵察型です。



つづいてはF−2戦闘機による対地攻撃。




F−2のミサイル攻撃は富士総合火力演習で見たばかりです。
あれは戦車や火砲でどっかんどっかん撃ちまくってもいい山の中の
演習場だから見られるのだと思っていたのですが、
こんな飛行場の芝生部分に、それも何発も落とすとは思いませんでした。

その近くに航空機が並べてあり、次のプログラムで飛行をする
ブルーインパルスの6機がもうこのときには滑走路の端にいます。

手元が狂って1機120億円のF−2戦闘機を壊してしまうなどということが
絶対に起こらないとは、あの速さを考えると言い切れないと思うのですが。



というような心配をよそに、2機のF−2は恐ろしいくらいの正確さで
全く同じ地点に爆撃を加えました。



うーん。何か妙な既視感を感じる。
と思ったらこれどちらもC−1の形っぽいじゃないですか。 

展示視閲の「試験飛行・技術、実用試験」という演目?で、
このC−1がおめでたになったような体型の赤白輸送機は
C−X(Cは輸送機、cargoのC)のXC−2という次期輸送機。

「2」というのは第2次のC−Xという意味で、第1次C−Xは
1960年代に開発され、今C−1と呼ばれている、あれです。

前にも一度お話ししたことがありますが、C−1というのは開発の際、
左巻きの人たちがやいやいと口出しをしたため航続距離が短く、
それがここ最近に来て諸要件の変化に対応できなくなってきたので
後継機が開発されたのです。

臨月の妊婦さん状のお腹は、貨物室をできるだけ広く取るため
胴体側面及び底面の補強のための張り出しで、このために
空気抵抗が高そうに見えますが、主翼の形状の工夫と大推力エンジン
(ゼネラル・エレクトリック、GEのCF6-80C2型エンジン)
を搭載することによって高速航行を可能にしました。

C−1の全長が29mで、これはなんと43.9m。
いかにこのXC−2の機体が大きいかおわかりですね?

左側で一緒に飛んでいるのは、試作機ではないかと思います。



これ思い出しました。




さて、いよいよブルーインパルスの演技が始まりました。
各国軍の飛行機乗りたちもこれを楽しみにしてたのではないかしら。

まず4機がテイクオフします。
これを「ダイヤモンドテイクオフ」といいます。



角度が全く同じ。
写真をアップすると、2番機のパイロットは前ではなく
右側の3番機だけを見ているのが分かります。



1番機だけが後席に一人乗せています。
後ろに乗っているのは「次世代ブルー」で、前席とは「師匠・弟子」の関係。
ブルーに選ばれたパイロットは、最初こうやって演技を後ろで「見学」し、
駆動を身体に叩き込むようです。



雲が多く、スモークが曇天に埋没してしまって
なかなかいい写真が撮れなかったのは残念でした。



ひねり込み?



ファン・ブレイク。

1番機から4番機までのダイヤモンド隊形で、会場の左側から右側に、
60度から70度程度のバンク角で抜けていくフォーメーション。
機体同士の最短間隔は約1メートル。
走行中の車同士で1mの距離に接近することを考えても、
大変な技術であると思わずにいられません。

これは全課目の中でも最も密集する隊形なので、スモークは使用しません。



フォーポイントロールだったかと思います。

右ロールを90度ずつ4回に区切って繰り返して元に戻ります。



単機での技として、もう一つ代表的なものに、6番機が約10秒をかけて
ゆっくりと右ロールで1回転する「スローロール」がありますが、
一見容易そうで実はエレベーター・エルロン・ラダーの調整が難しく、
難易度の高い課目とされています。

ブルーインパルスの演技が始まってからは、会場に
ブルーのテンーマソングが流され、いやでも雰囲気は盛り上がります。



チェンジオーバーターンを正面から見たところだったかな?
左から2番目のブルーの角度が良くないような気が・・。



フォーシップ・インバートの最初の隊形。
滑走路端でまず4機のうち2機が背面飛行に入ります。



しかるのち残りの2機もターンし、全機が背面で通過。



ブルーインパルスの演技も観閲式では「展示飛行」となります。
「航空祭と違い派手なプログラムはなく、演目も半分なので面白くない」
とよく見聞きしましたが、そんなことはありませんでした。

航空祭は航空祭、観閲式はあくまでも公式行事で、観閲式でないと
見られない場面はあまりにもたくさんありますし。



全機が背面飛行に移った瞬間。
一番機の動きを見てからターンオーバーするので、
後ろに行くほど動きが遅れる模様。



コーク・スクリュー。
会場右前方からほとんどまっすぐ侵入してきたので、
生憎の雲もあって効果は少し残念なものでしたが、
これがプログラムのハイライトとなっていました。



演技を終えて離陸。タッチダウンの瞬間をズームしてみました。

そういえば、11月3日は入間で航空祭が行われますね。
この日曇りでブルーインパルスに限らずあまりいい写真が撮れなかったので、
リベンジに行くつもりをしていたのですが、予報ではこの日と同じような天気だとか。

それに、招待制の観閲式でちょっと楽な観覧をしてしまうと、
去年のような殺人的な人ごみを体験してまで入間で見なくてもいいや、
という気持ちが芽生えてしまうというのは観閲式の意外な副作用?でした。


最終回に続く。


平成26年度航空観閲式@百里基地~首相体調不良『捏造』説

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平成26年度航空観閲式の式次第はブルーインパルスの演技で終了し、
観閲官安倍総理大臣が退席します。



ところで皆さん、先週、フライデーという老舗ゴシップ写真誌が
流し、各マスゴミがすぐさま追随したこの記事をご存知ですか?


「安倍首相」疲労困憊で体調不良?
自衛隊・航空観閲式で立っていられずしゃがみ込んだまま... 

SPに促されても座席にヘナヘナ...。
公邸には防衛医官が24時間待機 

閣僚たちの政治とカネの問題が続出するなか、
ここへきて安倍首相の体調不良情報が多くなってきている。
『フライデー』は10月26日に開催された航空観閲式で、
オープンカーに乗っていた安倍首相が突然しゃがみ込んでしまったと報じている。 

「本来ならば、安倍総理は立ったまま車上から自衛隊員を激励するはずなのに、
ヘナヘナと座席に座り込んでしまったんです。
SPから促されても、また立っていられなくなってしまう。
よほど体調が悪かったのでしょう。
この日はずっと顔色が悪く、訓示の声も張りがなかった」(防衛省担当記者)

自民党幹部もこう話す。
「最近の安倍さんの様子は明らかにおかしい。
(略)定期的に官邸で点滴を受けているという話もあります」

為政者の体調情報がこれほど出てくるのは、
単なる政局がらみではないのではないか。
安倍が倒れれば次は麻生だ、いや谷垣だと喧しいが、各誌の報道を見ていると、
安倍首相の病状は確実に悪化しているのではないかと見るがいかがだろう。


わたしはこの記事を読んで、わたしが先日見た観閲式のことかと、
思わず記事の日付を二度見してしまいましたよ。

この際はっきり書いておきますが、赤字で示した、

「立っていられなくてSPに促されてもへなへなと座り込んでしまう」

などということは全くありませんでした。
当日会場で車上の安倍首相から一瞬も目を離さず
見つめていたわたしや、この日の観衆全員が証人です。



ところで、先週の国会で民主党の枝野幸男議員が

「誹謗中傷合戦は『撃ち方やめ』だと側近にいったそうだが本当か」

と質問したところ、安倍首相は即座に

「そんなことは言っていない。朝日の捏造だ」

と答弁したということがありました。
これに対し、一体何処の国の新聞かと兼ねてから評判の朝日新聞は、

「NHKやネットで中継されている国会で、首相が 
特定の新聞社の報道を取り上げ、「捏造」だと決めつける。 
いったいどこの国の話かと思わせる答弁が続いている。」

と逆ギレしたわけですが、言ってもいないことを裏を取らずに「言った」と、
しかも否定的に伝えることを「捏造」というのではないでしょうか。

朝日は自分の飛ばし記事が「捏造」と言われ、「反安倍は朝日の社是」が
国会の場で首相の口から明らかにされたことに明らかに逆上したようですが、
首相があえて「誤報」ではなく「捏造」という強い言い方をしたのは、
今回の報道に明らかな悪意が込められているのは、誰が見ても明白だったからです。

わたしはこれを聴いていておもったのですが、安倍首相は
インターネット世論に自分の「味方」の存在を確信し、ここに至って、
朝日始め反自民報道機関と正面から戦うことにしたようですね。



マスコミは、政権交代前の時のように、漢字の読み間違いやバー通い、
カップラーメンでは、民主党に懲りた国民を煽るのは不可能だと悟ったのか、
いつの頃からか、安倍首相本人の体調の不調をことさら報じ出しています。

そういえば就任当初、 新聞社などが

「お腹が痛くなって総理の責任を放棄したくせに」

という論調で、その辺のジャーナリスト()に薄っぺらい責任論をぶたせ、
総理大臣の資質を問うという形で叩かせていたのを思い出します。

今度も逃げる準備をしているのだろう、というのを落としどころに、
やたら体調不良説を言い立てるようになったとわたしは見ていたのですが、
そこに持ってきて今回の百里での「座り込んで立てない」です。


それを書いたのは、あのとき躍起になって安倍首相の写真を撮る場所取りをしていた
たくさんのマスコミ各社の中で、フォーカスただ一社でした。
続々と出た「安倍首相不調説」はすべてフォーカス記事を引用したものです。


それにしても皆さん、おかしいと思いませんか?
あのときに居並ぶメディアは、フォーカスが書いたような安倍首相の
目に見えるくらいの体調不良をなぜどこも報じなかったのか?

もしフォーカス記事のような異常があれば、特に安倍の葬式はうちが出すと
豪語している新聞社であれば、愈々か!と狂喜乱舞して、
その不調の様子を嬉々として報じていそうなものですよね。

しかもですね。

あの!一流写真雑誌であるところのフォーカスともあろうものが、

「激励するときに座り込んで立てずにSPに促される」

様子を記事にしておきながら「フォーカスできなかった」みたいなのです。
当たり前です。そんなことなかったんですから。

もうひとつ突っ込みどころは「SPに促されて立ち上がった」の部分です。

常識で考えてたとえば総理が車で座り込んでしまったと したら、SPの仕事は
「おらおらちゃんと立って挨拶しろよ」と総理に立つことを促すことではなく、
首相に何か異常があったと考え、注意警戒の態勢を取ることです。

YouTubeを見直してみましたが、安倍首相は車に乗り込んでから一旦腰掛け、
同乗の空将に「お立ち下さい」と言われたらしく1秒以内に立ち上がっています。

「SPに促され」というこの文で、すでにこの記者の嘘は露呈してるんですよ。


昔なら、

「顔色も悪く座り込んで促されても立てなかった」

と刊行物でまことしやかに書かれれば、実際にそこにいた者でもない限り
確かめようがないため、読んだものは「そうなのか」と思うところですが、
どっこい今日はYouTubeを皆が投稿していてそんな記事はすぐに検証され、
嘘を書いても瞬時にばれてしまいます。

よってマスコミの信用はずんずんと地に落ち、

「捏造」

とたとえ首相が国会で言っても誰も批難しないどころか、

「だってその通りじゃないか」

と納得してしまう世の中になってしまったのです。
自業自得って奴ですな。

朝日が今窮状に陥っているのを見ても明らかなように、
今や「マスコミの葬式は国民が出す」ことができるのですよ。



退場した安倍首相を乗せた車はそのままF−35のモックアップと
米海兵隊から来たオスプレイの前に向かいました。
これから関係者の説明を受けるものと思われます。

現場は立ち入り禁止のため、警備の隊員が2重に周囲をガードします。



ここでも安倍首相の写真を躍起になって撮るマスコミ。
その後何処を探してもこのときの、

「オスプレイと安倍」

という、一部の人々が発狂しそうな構図の写真が出て来なかったのは
何故なんでしょうか。 

そういえば、オスプレイ反対運動には、枝野議員が献金を受け取って、
「その結果警察の捜査に圧力を加えた」と安倍首相から指摘されていた
殺人集団(公安監視対象)革マル派も堂々と旗揚げて参加してますよね(棒)

因みに革マルのマルはマルクスのマルね。これ常識。



というわけで首相が会場を後にして警備が解かれると、
地上展示を見るためにエプロンに降りることが許され、
観客は航空機の前で写真などを撮っていました。



せっかくだからオライオンの写真を近くで撮っておこうっと。



うーん、いい角度だ。



青いタグを吊ったセーラー服の男の子。
お父さんは海上自衛官で護衛艦勤務に違いない。



振り向いて観覧席を撮ってみました。
怪しい雲が出ていますが、この1時間後、当地には大雨が降る予定。



何と言っても皆の興味はF−35とオスプレイに集中していました。
前に立つためにロープが張られて順番を待つようになっています。

ただし、遠くから見ていた限り、安倍首相はコクピットを見るために
階段を上がった様子はありませんでした。


一瞬座っただけで「体調が悪い」とこじつけるより、
むしろここに上がらなかったという件を

「安倍首相は体調が悪く、コクピットに着けられた階段を上がれなかった」

とでも書いておけば、誰も検証できず嘘も露呈しなかったのではないでしょうか。
フライデーの記者さん、ぜひ今後のご参考になさって下さい。



F−35後ろから。
これを持ってくるところを見たかったなあ。
XC−2のお腹に入れてきたのだとわたしは思うのですがどうかしら。



岩国から飛んできた海兵隊のオスプレイ。
実はわたしは岩国基地に行ったときオスプレイを見たのですが、
そのときには同行者に言われたため写真は撮れませんでした。

ここなら堂々と撮れて嬉しい。
皆前から動かないので、後ろに回ってみたらこちらはガラガラでした。



尾翼に「竜」の文字が。



さて、わたしもそろそろバスに乗ることにしましょう。
というわけで、会場から駅までの直通バスに乗り込みました。
人の流れを、ずっと警戒車からにらんでいる隊員あり。

前席隊員の顔をアップしてみるとこちらを見ているのですが、
思わずごめんなさいしてしまうくらい目つきが鋭いマジ怖い。

警備隊の皆さん一日任務ご苦労様です。m(_ _;)m



バスに乗ってから基地を出るときに撮った写真。
これはF−104「栄光」というあれですか。

ここには「雄飛園」という歴代航空機を展示しているスペースがあり、
一般に公開されています。

ところで、この「栄光」の尾翼についているお花のマークは、
百里基地206飛行隊の部隊章です。



ところで実はあれから注文した「ファントム無頼」が届いたので、
エントリ作成の合間に12話まで読み進みました。

いやー、面白いです。
何が面白いって、ツッコミどころ大杉なところ。
「なわけないだろ!」なぶっ飛んだ話の数々。
主人公たちが乗りたいときにいつでも勝手に搭乗したり、
遊びにきた海兵隊のパイロットがハリアーで一般人を救出したり。
自分たちで行き先を決めたりシロートにバンバン操縦させたり。

日本国自衛隊の話とは断じて思えませんが、設定が自衛隊なので
航空隊が百里基地であるということはしょっちゅう語られます。

あるエピソードで、百里にやってきた鬼教官が視力を失い、
基地を去ろうとしたところ、隊員たちが編隊で部隊章を空に描き、
見えない筈の教官はそれを音で聞き分けるというシーンがあったのですが、
そのときに描かれたのがこの花の形のマークでした。

これ、このあとどうなるんでしょう。
ワクワクしながら読んでおります。


というわけで、お伝えしてきた航空観閲式シリーズ。
来年は海自の順番が巡ってくるのでいよいよ観艦式が行われますが、
その報告をまたここでできることを祈りつつ、終わります。




 

海軍兵学校同期会@江田島~「同期の桜」

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先日、海軍兵学校同期会に出席した話に戻ります。


呉で行われた海軍兵学校在学者(卒業していないので)の同窓会。
初日の夜は懇親会が行われました。
来賓の自衛隊幹部学校長、第一術科学校長が帰ってからも、
会場ではあちらこちらに人が行き交い、互いに旧交を温めあったり
名刺交換をし合ったりの和気あいあいで、余興など全く必要ない盛り上がり。



わたしはその間も会場の様子を抜かりなく観察していました。
今回が最後の同期会ということですが、今まで1年に一度、
というペースで行われてきたせいか、久しぶりの再会に驚く、
という場面はあまりないように見受けられました。

平均年齢もあるのでしょうが、実に落ち着いた宴会です。



この宴会では、「元海軍軍人」との出会いもありました。

わたしの右側がその方ですが、どうですか皆さん。
顔をぼかしていても窺い知れるノーブルなお顔立ち、
御歳80半ばとは到底思えない姿勢の良さ、この年代には珍しい長身、
そして一目で分かる上質のジャケットの粋な着こなし。
一言で言うとこのように美しく老いたいという見本のような老人です。

ただ者ではない!

実はわたくし、この日の前半、このスタイルに野球帽を被り、
白髪に髭の、まるで高級別荘の宣伝に出てきそうなこの元生徒を見るなり
こんな風に思っていたのです。

ところが何たるご縁、よりによってその方が知人の遠縁で、
(親戚同士が結婚していたため)ご紹介いただくことに。

この方は、父上が海軍中将(だから知人はわざわざ紹介してくれた)で、
大佐時代の1年間、「長門」の艦長も務めていたことがあります。
(戦艦の艦長はだいたい任期が1年単位で、大佐が務めます)

しかし、「長門」といえば陸奥と並んで「日本の護り」と言われた戦艦。
優秀な人物でなくてはとても艦長にはなれなかったでしょう。

その息子であるこの方が、他にも父親の乗ったフネは数あるのに、
わざわざ「長門に乗っていた」ことを初対面の我々におっしゃるというのも、
息子にとって「長門艦長だった父」は何よりも誇りだったからでしょうし、
そして父上も「長門」艦長を命じられることは
軍人人生において、最も高揚する任務だったのではなかったでしょうか。

ちなみに最後の戦艦「大和」艦長を命じられた有賀幸作は、
海兵団にいた息子への手紙の宛名に、軍極秘もガン無視で

「大和艦長 有賀幸作」

とデカデカと書いていたそうです。
よっぽど嬉しかったということです。

有賀が「大和特攻」を打診されたとき、軍人としての死処が「大和」であり、
「最後の大和艦長」として歴史に永劫残るということは
むしろ願ってもないと考えて、それを引き受けたことは想像に難くありません。

話がそれましたが、この方自身、戦後は東大に進み、
(ご本人は『旧制高校に入りなおした』とだけ言っていた)
卒業後は建築家として、受賞歴多数、数々の実績を上げて来られた大御所で、
後で検索したところ「無茶苦茶偉い人」であったことがわかりました。


いやー、何と言っても海軍兵学校ですから、皆さんさぞ戦後も
洋々たる人生を歩んで来られたに違いないとはいえ、
このクラスになると、分校含め生徒は何千人もいたわけで、
中には失礼ながら、それほど優秀でない人材も混じってたかも、
などという失礼な考えもあったのですが、それはここで吹っ飛びました。

テーブルをご一緒した方も、未だ現役のお医者様でした。
しかも

「僕は殿様分隊だったの」

つまり、同期だった賀陽宮と同じ分隊、ということは
学習院出身の、しかも成績優秀素行良好な生徒だったってことですし、
後日知人から添付にて送られてきた「江田島」という画集で
素人らしからぬ油絵を披露していた「元生徒」は、戦後京大工学部を出て
燃料学会と石油会社の取締役にもなった経済界の大物。

会場におられる方々を見回しても皆さん、いかにも社会の第一線で
バリバリと働いてきて今日がある、といった余裕のある風情です。

やっぱり海軍兵学校って何だかんだ言っても超エリート集団だったんだ、
とわたしはあらためて確認しました。


 
ちなみに知人は、このイケメン建築家(なんと現役です)に

「こちらの方は大変旧海軍に興味をお持ちで・・」

とわたしを紹介して下さったのですが、そのときこの方は

「ほう、それは嬉しいですねえ」

と上品に微笑まれました。(くーっ、かっこいい!)


その後、一人の「元生徒の奥さん」という方 とも
お話をさせていただいたのですが、彼女によると、

「かつて兵学校で勉強していたり、軍人だったりした人たちが
戦後の日本をここまでの国にしたんだと思いますよ」

少し調べただけで、彼らがそうそうたる肩書きを持っており、
この言葉が決して誇張でも何でもないことがわかります。
彼女はそしてこのようにも言っていました。

「最近のことですが、若い人が海軍とか戦争のことを聞いてくるんですよ。
昔はそんなことに興味を持つ人なんていなかったものですが」


この学年の「元海軍軍人」も半数はもうこの世を去ってしまいましたが、
戦争を知っている人にその体験を聞くことは、
何年か後には完全に不可能となってしまいます。

今回この会合にお誘い下さった知人は、
義父上がこの学年であったのですが、その方も2年前に亡くなりました。
今まで会合に一度も参加したことがなく、義母と妻を見送るだけでしたが、 
今回わたしたちが参加することになったので

「興味がわいたので初めて来てみた」

のだそうです。
そして、わたしに向かってこういいました。

「義父が生きていたときに、もっと話を聞いておけば良かったです」


さて、宴たけなわとなったとき、またもや壇上に
司会進行役が上がりました。

「ただいまより軍歌演習を行う~!」

デタ━━☆゚・*:。.:(゚∀゚)゚・*:..:☆━━━!!

出たよ軍歌演習。

バスの中で軍歌が始まったので狂喜したわたしでしたが、
なぜか後が続かず3曲で終わってしまって、残念に思っていたのです。



「我と思わんものは壇上に!」

何人かが上がったものの、この期に及んでマイクの押し付け合い(笑)
壇上の者が何か言う度に会場から

「聴こえん!」
「声が小さい!」

と叱責が上がります。
4号生徒のときに散々これで油を搾られて、俺も1号になったら、
と切歯扼腕していたのに、1号にならぬまま終戦を迎えた彼らは、
その点だけでもさぞ悔しい思いをしたことでしょう(笑)



実は卓上には人数分の軍歌帳が配られていました。



後から壇上に上がって来る人あり。
場内でポニーテールにしているのはこの週番生徒だけでした。

書道家とか陶芸家とか・・?



最初の歌は、何と、またしても「如何に狂風」。

バスの中でも真っ先に出てきたし、大和の甲板でも
2000人が最後に一緒に歌ったのがこれだと言うし、
よっぽど海軍軍人のハートを掴んでいた曲には違いないのですが、
皆さん、前回わたしがアップしたYouTubeでこの曲を聴いて

「よく分からない曲だなあ」

と思った方はおられませんか?
ご安心下さい。本職のわたしもそう思います(笑)

楽曲形式が全く西洋音楽のそれを踏んでいないことや、
とりとめのないメロディ、しかも第5和音から開始するという
異色の導入部で、覚え難いこと甚だしい。

しかし、

「如何に敵艦多くとも 何恐れんや義勇の士
 大和魂充ち満てる 我らの眼中難事なし」

というこの歌詞こそが、当事者の魂に深く沁み入ったのでしょう。
大和の2000人が、最後の戦いに臨んで滂沱の涙を流しながら歌ったのが
この曲でなければならなかった、というのはよく分かります。



「次に!」

バスの中でも音頭をとっていた司会の方が声を張り上げ

「兵学校数え歌を歌う!」

ちょっとちょっと、おじいちゃん、それはさっき歌ったでしょ。
しかもさっきと全く同じところで歌詞を忘れてるし(笑)

でもきっとこの歌はこの元生徒の「テーマソング」みたいなもので、
この人は戦後も何かにつけ、一杯機嫌のときやお風呂の中や、
勿論宴会でも、この歌を必ず歌ってきたんだろうなあ。


そしてその次は。

「江田島健児の歌を歌う!」

ああついに「江田島健児の歌」。

本物の江田島健児によって歌われるこの「実質校歌」を聴く、
おそらく最初で最後の機会でしょう。
バスの中では歌われず残念に思っていたのですが・・・・。



この後ろ姿は「殿様分隊」だったお医者様でいらっしゃいますが、
右手に「軍歌帳」と書かれた紙を持ち、その場足踏みで歌っています。
壇上の一番左の方も同じように、このスタイルこそが軍歌演習そのまま。

冒頭写真の軍歌帳には、軍歌演習行進中の生徒の様子が印刷されていますが、
この写真は67期の生徒たちのものです。

「江田島健児の歌」に続いて、「海軍機関学校校歌」が歌われました。
機関学校に在学していた生徒もいるからですね。
ちょっと驚いたのですが、兵学校生徒たちも普通に一緒に歌っていました。

そして・・・。

「最後に全員で『同期の桜』を歌う!
 全員隣の者と肩を組め!」

おお、兵学校とは関係のないわたしたちもですか。

というわけで、わたしは左のTO、右の知人のご母堂、
即ちかつての海軍生徒の未亡人と肩を組み、
おそらく人生で最初で最後の「元海軍軍人たちと歌う同期の桜」を
声を張り上げて歌ったのでございます。

♪貴様と俺とは同期の桜・・・♪

こういう状況で歌う、三番の

「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」

この一節は、あまりにも感動的でした。

思わず胸にぐっと込み上げてくるものがあり、ことに
「やすくーにじーんーじゃー」
のくだりで鼻の奥がツーンとしてきたのですが、
組んでいた腕を下ろしたとたん、隣の未亡人が目頭をそっと
押さえているのが目に入りました。

わたしのとは全くその意味合いにおいて違う涙なのだとは思いますが。


歌い終わった後、全員に何とも言えない無言の時間が一瞬訪れ、
ほうっとため息が漏れた瞬間、一人の元海軍生徒が大声で

「もう一曲!最後に『軍艦』を歌う!」

海軍軍人的な軍歌「軍艦」とは、「仇なす国を攻めよかし」
で一節が終わった後、雅楽の東儀さんという方のご先祖の
東儀季芳が作曲した「海行かば」の部分もちゃんと歌うのです。

「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍
 大君の辺にこそ死なめ 長閑(のど)には死なじ」 

最後の「かえりみはせじ」の部分を「長閑には死なじ」とするのは
属日本記にこのような記述もあるということからだそうです。


この部分も音楽的にはかなり無茶苦茶と言うか、「如何に狂風」とは
違った意味での歌いにくい部分なのですが、この後の展開で
建築家元生徒とお話ししていたところ、この方が

「あの部分を歌うとね、戦死した人たちのことが万感迫って
わたしは涙が出てくるんですよ」

とおっしゃったのです。

単なる話のネタとして、雅楽を西洋音楽にコラボしたこの曲の
音楽的な「無理筋」を、茶化して話題にしようとしていたわたしは、
このとき自分の愚かさに心から恥じ入りました。


この方の父上であった海軍中将は、終戦時には既に予備役だったのですが、
やはり兵学校を出て、零戦隊の飛行隊長をしていた兄上は、
終戦直前に九州で戦死しているのです。

 

さて、宴はお開きになり、皆三々五々部屋に引き揚げます。
明日はいよいよ本ツァーのメインイベントである

「江田島訪問」

が行われるのです。


続く。 

 

海軍兵学校同期会@江田島~「古鷹山下水清く」

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ふとしたきっかけから海軍に興味を持って4年半。

不詳エリス中尉、自分が海軍軍人とともに「同期の桜」を歌いながら
感極まって涙ぐむというようなことが起こるとは、4年半前まで
夢にも思っていませんでしたが、人生、何が起こるか分からないものです。

兵学校在学中に終戦を迎えた、この学年の最後の同期会に
縁あってご一緒し、懇親会で感動の宵を過ごした次の日のこと。



泊まったホテルは真ん前に広島城がありました。
一日目も二日目も呉での予定だったのにもかかわらず、
宿泊地が広島だったのは、これだけの大人数を収容できる
ホテルが呉になかったからだと思われました。



朝ご飯を昨日の宴会場で頂いた後、ロビーに集合し、
割り当てられたバス6台に分乗して江田島まで行きます。
この江田島行きだけに参加する人もいたとのことで、
総員は200人くらいになりました。



途中広島市役所の前を通ったのですが、その敷地に
何やら遺跡のようなものを発見。
これは被曝した当時の市役所庁舎で、地下室への入り口であり、
そこは今でも保存されて、資料展示室となっているそうです。



今まで広島から江田島までは呉まで電車で行き、
大和ミュージアムの横の港から船に乗って行ったのですが、
宇品港からバスごとフェリー船に乗り込みました。
さすがに年配の方が殆どのツァーなので、極力脚を使わせません。



出発の時間までターミナルに行ってみました。
ロビーにはドイツ人らしき団体観光客がたむろしていました。
平和記念公園を見学し、この後、松山で温泉というコースでしょうか。


彼らが眺めている綺麗な形の山は、
宇品の前にある似島の「安芸小富士」です。

「コフジというのはクライン・フジ・バーグという意味である」

なんてガイドから聴かされたかもしれません。



通勤用のフェリーが到着しましたが、接岸と同時に係員が
外に飛び出してきて舫をかけ、次の瞬間にはもう車が
次々と艀を渡り始めたのには驚きました。

日常の移動手段というか、電車やバスのような感覚で
フェリーはこの辺りの人々の生活に溶け込んでいるようです。



我々の乗ったバスがフェリーに乗り込んでいます。
前に3台、さらにその前の2台のバスは全て兵学校ご一行様のもの。



ほんの20分くらいの航行中、車内で過ごしてもいいと言われましたが、
フェリーでは車から降りるものと思っていたので、これも驚きです。
エンジンをかけてクーラーを入れなくても中で過ごせる季節なので、
歩行や階段の上り下りが億劫な方は、車内に残っていたようでした。



フェリー後部から広島方面を臨む。



似島の近くにある峠島という無人の島の横を通り過ぎます。
明らかに廃墟となった建物と、なぜか鳥居がありました。



車内に残る人もいましたが、殆どの方達はバスから降りて
船内で立ったまま、写真を撮ったり談笑して過ごしていました。
とても80歳半ばの人たちの集団とは思えません。

こういう人たちだからこそ、今まで元気で来られたということなのかも。 

その後バスは江田島の切串港に到着しました。 
切串は、呉からフェリーの到着する小用港とは別のところにあり、
上陸したバスは今まで見たことのない道を走って行きます。

これは元兵学校生徒たちにとっても同じだったらしく、

「なんか見たことのない道だねえ」

と彼らの一人がつぶやいていました。
兵学校生徒たちは、必ず小用から江田島に出入りしてきたため、
他に港があることを知らない人もいるのかと思われます。 



そして海上自衛隊第一術科学校、旧海軍兵学校跡に到着。

思えば江田島には過去三回()来ているわけですが、そのいずれも
一般見学者としてであったので、受付を経ず、しかも車のままで
こんな内部まで入ってこられたのは初めてです。

一般見学者が待機する建物の向かいにあるこの古い校舎。
建物上部に、当時使われていたらしいスピーカーが今も残ります。



この建物の由来についてはわかりませんでしたが、
戦前からの建物であることは間違いなさそうです。
ただし台湾の成功大学にある日本統治時代の建物などと違い、
手入れが行き届いて、どこもかしこも清潔にしてあるので、
実際の経年数よりは新しく見えるのだと思われました。



一行がここにまず案内されたのは、簡単な歓迎レセプションのためです。
テーブルにはペットボトルのお茶と江田島の案内パンフが用意され、
わざわざ歓迎の大きな横断幕が掛けられていました。

 

ここが普段何に使われているスペースなのかはわかりませんが、
部屋の隅には記念絵皿やスポーツ大会の楯を納めたガラスケース。
右の皿は「さみだれ」と「きりしま」の銘入りです。



一行は大人数のため、一旦ここからツァーを始めるのですが、
二手に分かれ、午前と午後で見学場所を交代する仕組みです。
ここでは設えの割に実に簡単に、案内の自衛官がツァーの説明を
するだけでした。
旗を持っている海曹は、

「グループはさらにバスごとにFまで別れるので、
グループごとに旗についてきて下さーい」

などと説明しています。



一般ツァーでは入り口から最後まで歩きっぱなしですが、
このツァーは高齢者が多いので、そんなことは断じてさせません。
敷地内の移動はすべてマイクロバスで行います。

まずグループAの人たちから立ち上がって、出発です。



我々のグループは午前中は教育参考館の見学です。
いつ見ても立派で壮麗な教育参考館のエントランス。

石段を上って行ったブロンズの扉の後ろに、東郷元帥のご遺髪が
納められた部屋がありますが、一般には公開されていません。
説明の自衛官は

「よっぽど特別な人でない限り見学はできない」

と言っていました。
実は今回、見られるかと少し期待していたのですが、
兵学校の卒業生でもだめだったようです。
というか、誰なら見られるんだろう。


扉の左手にはドアがあり、そこは特別展示室につながっていて、
ご遺髪は、分厚い金属の球体の中に納められているそうです。





昼ご飯をいただいた向かいの建物二階から見た教育参考館。

館内では、僭越ながらTOの音声ガイドを務めさせてもらいました。
何度目かの訪問ですが、行くたびに新しい知識が増えているため、
前回には目にも留まらなかった展示に新たに気づかされます。

どんなことでもそうなのですが、いくら色々とわかったつもりでも、
この世界、知らないことばかりだといつも思い知らされるのです。



一階を右に行った部分に、全卒業生の卒業写真が見られるようになっている
コーナーがあるのをご存知でしょうか。
この学年は卒業していないので、在学中に撮られたものになりますが、
ちゃんとこうやって全員の写真が残されています。

ここに来た人たちは皆、自分の身内の若き日の姿を探し求め、
あったあった、と普通にカメラや携帯に納めています。
教育参考館の中では写真撮影禁止、と建前上はなっているのですが、
ここだけは治外法権のようになっていました(笑)

わたしがこの写真を撮ったのは知人の義父上が写っている、
と聞いたからですが、どういうわけか改めて探しても
相当する名前の生徒は見つかりませんでした。



手前は「三景艦砲弾」。

みなさん、三景艦って聴いたことあります?
艦これ関係のかたは「三景艦娘」なんてのをご存知と思いますが、
聴いたことないという方、それでは日本三景ってどこだか覚えてます?

松島(宮城県)
厳島(広島県)
天橋立(京都府)

ここから名前を取った「 防護巡洋艦」、つまり

「松島」「厳島」「橋立」

これを「三景艦」と呼んだのです。
砲弾は共通だったということですね。

ちなみに3番艦の「橋立」は国産艦です。

向こうに見えるのは「大和」の

「九一式鉄甲弾」。
言わずと知れた46サンチ砲の砲弾で、直系46cm、
艦載砲弾として現在でも世界最大のものです。

そのうしろにあるのが真珠湾攻撃に参加した
5隻の特殊潜航艇のうちの一隻です。



教育参考館の見学を終えた後、全員が参考館向かいの建物の
2階に案内されました。
要所要所には自衛官が立ち、案内と手助けなどをしています。
お手洗いには左の建物に行かねばならないため、そこにも
ちゃんと一人配備されています。



隊員の集合にも使われるらしい大変広い部屋に、一行
総員200名ほどが一時にお弁当を食べる用意がしてありました。
席は決まっていませんが、だいたいグループごとに座るので、
周りはほとんどバスの中で一緒だった顔ぶれです。



仕出しのお弁当は大変な量で、わたしは勿論のこと
周りのの誰一人として全部食べきった人はいませんでした。

ところで、わたしのお弁当の向こうに、前に座っていた方の
ベースボールキャップが見えていますが、わたしはせっかくなので
この方にも何か想い出をお聴きしようと思い、

「お話を伺ってもよろしいですか」

と断ってから、

「終戦の勅をお聴きになったときのことは覚えておられますか」

と質問してみました。
誰しもが昔の想い出、特に戦時中の体験を
人に聴いてもらいたがっているとは限らないので、
こういう席であっても、話しかけるには少し勇気がいるものです。
しかしこの方はどちらかというと話すのを歓迎しておられる風で、

「軍歌演習する練兵場で整列して聴いたけど、
そのときにはよくわからず、上級生が泣いているので、
どうやら負けたらしいと皆で言い合った」

などと話し出すと、周りの人々(元生徒の夫人や海機だった人)
は一斉に会話モードに(笑) 

「原爆投下のときのことは覚えておられますか?」

「8時に稼業が始まって化学の授業を受けていたら、
いきなりものすごい爆風が来た。
音は聴こえなかったので、しばらく何か全然分からなかった」

原爆投下の話を振ったのは、さっきこの会場に入る前、
古鷹山(冒頭写真)を2階の踊り場から撮りながら、TOと

「あれに登るってキツくないか?」

などと話をしていたら、後ろから来た元生徒さんが、

「あの山があったから、兵学校は無事だったんだよ」

と声をかけて来られ、山の向こう側は熱線で木が焼けていた、
という話を伺ったところだったからです。

わたしの前に座っていた生徒さんによると、

「その後広島駅に行ってみたら、駅舎だったところが全部
瓦礫の固まりになっていて、線路だけが残っていた。
服がそれしかないので、作業着を来て故郷に向かうんだが、
(その方は中部地方の出身)、復員は電車賃が要らないんだよ。
で、それをいいことにそのとき電車で全国を一周した奴がいたなあ」

「何のためですか」

「さあ・・・・このチャンスに旅行してみたかったんじゃないかな」


この元生徒さん、さぞ見聞が広がったことでしょう。
そんな話をしていたら、テーブルの少し向こう側から、

「古鷹山があったから、兵学校は無事だったんだ」

と、ついさっき聴いたばかりのことをおっしゃる方が。
と思ったらさっきの方でした(笑)

年配の方の想い出というのは、何十年も昔のことになると
そのとき強烈な印象を残し、戦後も何度となく人に話していたことだけが、
鮮やかに いつまでも刻まれていて、周りの人たちには

「また始まった」

というくらい同じ話ばかりになってしまうものなのかもしれません。
わたしの前に座っておられた方も、しばらくしたら、

「広島駅に行ってみたら駅舎のあったところが瓦礫になっていて」

と全く同じ話を始められました。

そんなとき往々にして持つ、微笑ましいような、物悲しいような、
曖昧な感情とともに、そのときの情景がいかにこの元生徒の記憶に
強烈な印象を与えたかが窺えて、わたしはそのような意味でも、
繰り返される言葉をひどく貴重なものに感じていました。



続く。



 

大和ミュージアム・進水式展~「筑波」の進水式失敗

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大和ミュージアムで偶然遭遇した「進水式展」。
限られた時間の中では写真を撮って来るのが精一杯でしたが、
こうやって後から画像を見ると、新たに知ることも多く、
全部語り終えた頃にはきっと「進水式博士」になっているのではないか、
というくらい充実したものであるのに驚いています。

しかも、写真撮影が自由!

この大和ミュージアムの太っ腹な計らいのおかげで、
こうしてここで説明をしつつ自分自身も知識の拡充ができるというわけ。

いやー、正直なところ、博物館や展覧会会場で見て終わるのと、
こうやって細部を点検して後からそれについて調べるのでは、
得るものに全く大きな違いがあるものです。



この重巡洋艦「筑波」についても興味深いことが分かりました。
前回、

「進水式で沈没するなんて中国ぐらいのものだろう」

みたいなことを書いたのですが、なんと我が海軍軍艦にも、
進水式の事故がないわけではなかったのですね。

その一つがこの「筑波」の事故。

戦艦に準ずる戦闘力を持つ巡洋艦として、計画後急造され、
わずか1年で進水式に漕ぎ着けたまでは良かったのですが、
進水時に船体が滑り落ちる進水台のうちの一つ、
海中に設置されていた台の錘が作業中に落ちてしまい、
進水式当日、台が水中に浮き上がってしまったのです。

それが分かった時点で、造船部長はすぐさま進退伺いを提出しましたが、
工廠長はそれを許さず(そらそうだ)、進水式の中止を決定しました。

うーん。
これが中国だったら気づかないか、気づいていても適当に台を沈めて
無理矢理進水させて事故を起こすかでしょうが、さすがは日本。

しかし、この進水式にはよりによって皇太子殿下(後の大正天皇)
のご臨席を仰ぐという事態になっていたのですから、
関係者の心痛はいかばかりであったかと慮られます。

その後、報知新聞にこのような記事が掲載されました。

筑波艦進水式
  故障の為め失敗

●進水式の責任者

去る12日をもって呉軍港に挙行せらるる可き筈なりし
筑波艦の進水式が、不時の天災の為に失敗に了りたるは、
公然の事実なり。

不時の天災とあらばやむを得ずとは云ふものの、
東宮殿下の御臨場を仰ぐまでその故障を発せず、
愈々臨御の後ちに於いて、始めてこれを発見したりと云ふに至りては、
実に恐懼に絶へざる次第なるが、此の失態に対しては、
誰が果たして其の責めに任ずるものぞ。

山田呉海軍工廠長は勿論、現場に臨める山本海軍大臣も、
断じて其責を辞すること能はずと、某貴族院議員は語れり。


まあ要するに、殿下には大変申し訳ないことをしたけど、
事故なら仕方ないよね、といっておるわけですね。
某貴族院議員が本当にいたのかどうか、もしこれが現代の新聞なら
大変疑わしいところですが、此の時代ですのでおそらく
新聞記者もそんな飛ばし記事は書かないと思われます。(勿論皮肉です)


何と言っても不具合を発見した段階で中止したという英断によって、
事故を未然に防いだのですから、非難のしようがありません。

今のマスコミならおそらく責任の所在をあげつらって

「永田町の周辺からは、今回の事故についての防衛省の
管理責任について見直しを問う厳しい声も聞かれる」

なんてやっちゃうところでしょう。ああ目に見えるようだ(笑)

この後、筑波の進水式は2週間後に改めて無事に行われました。
造船部長、辞めてる場合じゃなかったってことですね。



進水式そのものとは全く関係ないような気もするけど、
展覧会ならではの特大模型もこれ見よがしに展示されていました。

余りにも大きいので、5mくらい離れないと全部写りません。
これは航空母艦「伊勢」。



せっかくですので進水記念はがきをもう一度。
左の進水記念の図柄ですが、カモメを三羽手前に描いて
肝心の伊勢は一番奥に小さくいるあたりにセンスを感じます。

近年この手の意匠は、全て細密部までわかる写真に代わり、
それが当たり前となっていますが、ここにある葉書の
それぞれ創意工夫を凝らした図柄を見ていると、写真だけというのも
少し味気ないような気がしてくるのは、わたしだけでしょうか。



こちらは長門。

建造された1920年(大正9)当時の世界最新型でした。
のみならず数ある海軍艦の中で、ある意味最も国民に親しまれた、
海軍軍艦といってもいいかもしれません。

今は戦艦といえば「大和」ですが、なんといっても大和型は
国民に情報が秘匿されていたため、親しみも何も其の存在すら
知られていませんでした。

そして、長門は海軍の戦艦の中で可動可能な状態で生き残った
たった一つのフネとなり、その数奇な生涯は

「戦艦長門の生涯」

という著書にまでなっています。


東日本大震災における自衛隊の目覚ましい活躍は
まだ記憶に新しいところですが、戦後の自衛隊が「国民の為に」
を何よりも第一義に掲げているのに対し、戦前戦中の軍隊は
まるで国民に対して強圧的で威張り散らしていたような、
そんなイメージを持っている方はおられませんでしょうか。

それは全く戦後のイメージ操作によって齎された間違いで、
戦前の軍隊もまた、「天皇」という首長を象徴とする
「国民」のためにあろうとしていたのに違いはないのです。

あの関東大震災が起こったとき、長門は、そのとき行われていた
演習を中止し、最大速度で救援物資を積み被災地に向かいました。
当時長門の最大速度は機密のため低めに公表されており、
それを無視して最大速度を出すというのは長門幹部たちにとって
処分覚悟の英断であったそうです。

国民は長門の勇姿に熱狂し、それ以来一層長門は陸奥と共に
「国民のアイドル」となったのでした。



この「ネガポジ旭日旗」の正体がすぐ分かる方はおられますか?
これは、戦艦「長門」の先任旗です。
先任旗とは、同港内に2艘以上の軍艦が碇泊し、司令長官又は司令官が不在のときに、
先任艦長が後檣頂に掲げる旗です。(檣=しょう・ほばしら)
先任旗は代将旗の紅白を交換した配色になっています。


この旗を当ミュージアムに寄贈したのは俳優の石坂浩二氏。

戦後、戦艦「長門」を接収した米軍人がこの旗を持ち帰ったのですが、
石坂氏が司会をされているテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に、
同じく持ち帰っていた戦艦「長門」の「軍艦旗」と「少将旗」とともに
3点が鑑定に出されました。

  それを石坂氏が個人で購入し、「軍艦旗」と「少将旗」の2点については、
すでに平成18年に大和ミュージアムへ贈呈していたのですが、
平成26年7月9日、講演のため来呉していた氏がこれも贈呈したのです。

氏の贈呈した軍艦旗は、現在大和の10分の1モデルの横で展示されています。 



伊号72潜の進水式で配られた記念の置物。
潜水艦のモデルというのは、水面から上だけのものが多いですが、
右上はさらにそれが波を受けて走行している様子を表現しています。

裏側には、昭和10年12月15日に、三菱重工業の神戸造船所で
この伊潜が進水式をしたことが刻印されています。



以前お話ししたことのある戦時徴用船、「あるぜんちな丸」。
徴用されて改装を施され、昭和18年航空母艦「海鷹」になりました。

船団護衛任務でサイパンやフィリピンなどに出撃していますが、
そのときは全く無事で、終戦の年に呉港で爆弾を受け、
その後触雷し、終戦直前に直撃弾を受けるなどの被害により、
放置された末、戦後3年経って解体されました。

しかし、なぜここに「海鷹」の写真があったのかわかりませんでした。
進水式に関して言えば、「あるぜんちな丸」のときには行ったでしょうが、
「海鷹」のときにはすでに海に浮かぶことは実証済みだし、どうしたのでしょうか。



1/100スケールの空母「瑞鶴」。

わたしがこれを観ていると、近くにいた母娘が説明を観て

「これなんて読むんだっけ」「えーと、これは確か・・・・」

と悩んでいたので、差し出がましいかと思いましたが

「ずいかくです」

と教えて差し上げました。
最近はこういった層もこのような展示に興味を持つのか、
と感心したのですが、その母娘は、娘が大学生くらい、母親は大変若くて、
ちょっと見お姉さんかな?というくらい歳が近く見えました。



甲板の上もこのリアリティ。
甲板脇にネットが張られていますが、これは何の為でしょうか。
こんなもので飛行機を受け止めることなどできないと思うのですが。



飛行隊の離艦を帽振れで見送る甲板整備員たち。
たった一人だけ、帽振れをしていない飛行服の人物がいますが、
飛行隊長でしょうか。

上部にラインのある旭日旗は中将旗。
将旗は、指揮権を帯びた将官が乗艦した際揚げます。

昭和19年10月のレイテ沖海戦の際、瑞鶴は小沢治三郎中将が指揮する
第一機動艦隊の旗艦として出撃、同25日に戦没しました。



Wikipediaより。
総員発着甲板の命令が下り、降旗する軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達。
この直後、総員で万歳をする写真も残されています。




たった今気づいたのですが、瑞鶴の沈んだ10月25日は息子の誕生日です。

それだけなら別に何でもないのですが、息子の名前には
瑞鶴の「瑞」の字が含まれるので、ちょっとした縁を感じます。



一等巡洋艦「利根」士官室の鏡。

もうこの辺りになって来ると、進水式のことは
あまり関係のない展示が増えてきます。

「利根」はレイテ沖を生き残り、江田島の海軍兵学校で
練習艦となっていましたが、昭和20年終戦2週間前の空襲で大破着底。

その際、 士官次室にあったこの鏡を、ガンルームの住人であった
海軍少尉が、沈み往く船体から持ちだしました。 

海軍軍人は身だしなみにいつも気を遣うことを旨としており、
少尉・中尉など若手士官の居住室であったガンルームの入り口の鏡は、
部屋を出入りするたびにそれを見て身なりをチェックしたものでした。



本品ハ重巡利根備品ナリシモ
昭和二十年七月二十八日本艦沈没ニ際シ取出セリ

落合國雄

本時 海軍少尉 二十二才
 
「魂」「重」 

この余白に不規則な向きで書かれた魂と重という文字は、
いかなる意味が込められたものでしょうか。


続きます。




 


Loop The Loops~リンカーン・ビーチェイとモントゴメリー教授

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金髪にハンチングを被った若いハンサムなこの青年は、まるで
「華麗なるギャツビー」を思わせる雰囲気に満ちています。

飛行家、リンカーン・J・ビーチェイ。

日本人である我々には殆ど馴染みのない名前ですが、
飛行機操縦の歴史における先駆者として当時大変な名声を獲得した人物です。

映画「頭上の敵機」では米陸軍の実機が数多く登場しましたが、
このとき、降着装置を出せずに強行着陸するシーンのために操縦した
有名なスタントパイロット、ポール・マンツは、1915年、12歳のときに
このビーチェイが初めて単葉機を飛行させるのを見てパイロットを志しました。

 
この名前が日本ではwikiにも見当たらないくらい無名なのは
不思議というしかありません。(ポール・マンツはあるのに・・)
しかし、皆さんも、彼の偉業を端的に表すこのタイトルを見れば
彼が航空界の偉人であるということに同意下さるでしょうか。

「人類で初めて飛行機で宙に弧を描いた(Loop the loops)男 ”




サンフランシスコ空港から南に車で10分ほど国道を下ったところに、
このヒラー航空博物館はあります。
いつぞや、この名前の元となったヘリコプター開発の早熟の天才ヒラーについて、
その業績をお話ししたことがあるのですが、この博物館のすごいところは、
このような航空黎明期の「人力」「風力」飛行機も展示されていて、
一通り見終われば1800年代からの航空史を立体的にも学ぶことができることです。

飛行機の時間(フライトの待ち時間と興味の両方)があるなら、
ぜひ一度訪れてみてください。


今回シリーズは、ビーチェイについてお話しする前に、かれが発明した
「スタント飛行」以前の、つまり人類に於ける直立歩行以前の飛行機について、
ここの展示をもとにご紹介します。



羽につけられた一本の横木にまたがり、自分の脚で滑走して、やはり脚で着地する。
これってハングライダーそのものですよね。

 

なぜネクタイをしているのかと言う気もしますが、それはともかく、
この飛行機の仕組み・・・。

 

木の棒にまたがってるだけって・・・。
魔女の帚じゃあるまいし、こんなものでもし地面に激突したらどうなるのか。
何かあればすぐに体は機体から放り出されるわけだけど、それで命の危険は?

こういうのを見ると、つくづく人間と言う動物は命を失う危険を冒してまでも
何としてでも空を飛びたかったのだとあらためて呆れるというか感心すると言うか。
しかしながらこの無茶を顧みず探求する情熱あらばこそ、
百年後には人類は宇宙に行くことをも可能にしたのであり、
つまりスペースシャトルもステルスも、
この無謀なる飛行機馬鹿たちの死屍累々の上にあるのだと言わざるを得ません。

死屍累々といえば、先ほど紹介したポール・マンツも、
本日の主人公ビーチェイも、飛行中の事故で亡くなっています。


この飛行機は、1858年にジョン・ジョセフ・モントゴメリーという、
アメリカにおける正真正銘航空の先駆者によって開発されました。





見物に25セント(子供1セント)徴収することが書かれていたり 

「翼のある人間が空を一掃する!」
「鳥にレッスン受けました」

こんなことが書かれたポスターを見ると、どう見てもサーカスとか見せ物の類いですが、
当時の飛行機と言うものはそもそも「乗るもの」ではなく文字通りの
「見せ物」でしたからそれも致し方ないことかと思います。

しかしモントゴメリー自身は決して怪しい人物ではなく、
それどころかサンタクララ・カレッジで航空工学の研究をしていた人物、
自作のこの飛行機で、アメリカ航空史上初めてグライダー飛行を行なった、
というまごうかたなき先駆者、パイオニアです。

さらにポスターを見て下さい。



飛行機の下に胃のような形の巨大な袋がありますが、
これはこの興行のとき、熱気球で上昇したのち気球を切り離し、
約900メートルの高さからグライダーを操縦して着陸する、
ということを行なったことを示しています。



この状態で上昇していき、高度が上がったところで気球を切り、
あとはグライダーで地上へ・・・・。

そんな無謀な、と思われた方、あなたは正しい。



真ん中がモントゴメリー教授で、この写真は彼の勤務先である
サンタクララ・カレッジの近くで撮られたものだそうですが、
教授の右側のタイツ男にご注目。



このグライダー飛行によるショーを行ったダニエル・J・マロニー(Daniel J. Maloney )。
元々こちらは正真正銘のサーカス芸人で、パラシュート降下を見せ物にしていました。
博士は自分のグライダーの興行のために彼を雇い、グライダーの訓練をさせました。

1905年のことです。



動画もありましたが、これがいつ撮られたものかまではわかりませんでした。
よ!ってかんじで手を上げて、なかなかなごやかな雰囲気ではあります。

初回は3月、このときは18分間の飛行に成功しました。
二回目の実験は4月で、このときはさらに高度を1200メートルに上げることに成功。



こんな原始的なもので高度1000以上から飛ぶなんて、
考えただけでお尻がぞわぞわしますね。
今の感覚で見るとその無謀さに、もしかしたら馬鹿?とすら思ってしまうのですが、
実際飛行機馬鹿なんですからしかたありません。

ライト兄弟だって、初代飛行機馬鹿のオットー・リリエンタールが
自作のグライダーで墜落して死亡したからこそ、動力飛行機の研究を始めたのです。


このグライダーは翼を見てもお分かりのように「サンタクララ」と名付けられました。

そして皆さんの嫌な予感はやっぱりあたり、三回目の飛行となる7月に、
マロニーはこのサンタクララで墜落し、死亡してしまいます。

合掌。

モントゴメリーはこれに懲りず(?)あちこちの航空顧問などを務め、
このグライダーを改良した飛行機を開発します。



1000メートルの高度から降下するのに人間の脚ではやはり無理がある、
とどうやら博士はマロニーの事故で悟ったようですね。
着陸を4輪で受け止め、さらに操舵できるようにしたもので、これを
エバーグリーン号、と名付けました。




その初飛行の写真が残されています。
まあ、高度もこれくらいならせいぜい脚の骨を折るくらいですむかもしれません。



カリフォルニアというのはこういう丘陵地形のなだらかな場所が多くあり、
高い木や森も沿岸地域には無いことが多いので、こういった実験には
もってこいの地域だと思われます。
アメリカの航空機や飛行士が殆ど最初はサンフランシスコを中心とした
地域の誕生であることはこの辺からきているようです。



操縦しているのもモントゴメリー本人。
地面に線路のようなものがあるような気がするのですが・・・。



写真でもそうですが、モントゴメリー教授、こんな格好で実験していたんですね。
落ちたら危ないちゅうに。

などと言っていたら、案の定教授はマロニー死亡事故から6年後、1911年に、
このエバーグリーン号で飛行中、墜落して死亡してしまいました。

合掌。

この頃にはすでに



この、カーティス・ブラックダイヤモンドなどという飛行機も登場していますし、
ライト兄弟はこの何年も前に動力飛行機の飛行を成功させていますから、
はっきりいってモントゴメリーの「エバーグリーン」での死は、
自分の過去の栄光に拘って最新科学を無視した末の無謀が招いたものであった、
というのはいささか先駆者に対し厳し過ぎるでしょうか。

マロニーに死をもたらしたのと同じ理由でエバーグリーンと彼の身に
遅かれ早かれ事故が起こることを、彼は予測できなかった・・・・・、
というかそのころは「アメリカ航空界の重鎮」となっていて、
新しい技術を認めたくなかったのかもしれません。 



せめてこのタイプなら・・・・。
ソリのような先端がまだしも事故を防ぐかもしれません。
(1910年ごろのグライダー)

ところで、ここにある最古の飛行体は、モントゴメリーのグライダーではありません。



現在、これが空を飛ぶとは何人たりとも思わないと思うのですが、
当時はどうもこれが垂直に飛び上がることを期待して作ったようです。
この滑車でうちわをぐるぐる回すことによって方向を制御し、
あわよくばまっすぐ飛翔していく飛行体を。

考えついても実際に作ってしまうというのが信じられませんが。
これは「Platens」と名付けられたエアロサイクロイドです。



パイロットがレバーを操作することによって上部の「プレート」が傾き、
(あ、それでPlatensっていうのか)それによってサイクロイドは
前、あるいは後ろに動きます。

こんなもの、飛んだのか?いやその前に動いたのか?と思われるでしょう。
このエアロサイクロイド、7馬力のバイク用エンジンを積んでいたんですね。



発明者のJ・C・アーバイン博士。
この人もサンフランシスコの大学教授です。



せっかくなので顔のアップ。目がありません。こわい。



ついでにモントゴメリーのグライダーにまたがっている人アップ。
もみ上げが情熱的なラテンの雰囲気を醸し出しています。



きっと女性の弟子がヒゲをつけてコスプレしているに違いない。
アーバイン博士の助手。
こんなもの飛ぶわけないじゃない、って顔をしています。

そしてこの助手の懸念は大当たり。
7馬力のパワーではこの巨大なものを垂直に持ち上げるには十分ではなく、
この「クラフト」はびくともしませんでした。

しかし、これと全く同じ機械を、第二次世界大戦中にドイツの科学者が
もっと大きなパワーのエンジンを使って上昇させることに成功しているそうです。

「リミテッドサクセス」

という説明しか無いので、どの程度の成功だったかは分かりませんでしたが。
アーバイン博士は勿論、ドイツの科学者たちも、こんなものを飛ばせて
一体何の役に立てるつもりだったのか・・・・・。

ヘリコブターの原型みたいなものとはいえ、謎は深まるばかりです。



ともあれ、冒頭のビーチェイが自作の飛行機「リトル・ルーパー」で
人類初の曲芸飛行を行なったのは、このときからわずか6年後のことでした。



(続く)




 

栄光無き天才飛行家 リンカーン・ビーチェイとその時代

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ヒラー航空博物館の展示を元にお送りしている、

「飛行機黎明期の華麗なる飛行馬鹿たち」

ですが、その無謀なお馬鹿さんたちの中でも彼、
リンカーン・ビーチェイは最も当時成功をおさめ、
センセーショナルな話題を集めた人物でした。
ここで、ざっと彼の業績を挙げておきましょう。

●ストール(失速)からの回復方法を偶然編み出す

●逆さま飛行した最初の人物

●ビルディングの中を飛んだ最初の人物

●落ちているハンカチを翼端で拾い上げた

●宙返りを最初にした

●テールをスライドさせた最初の人物(故意だといわれている)

●「木の葉落とし」といわれるマニューバを最初にした

●というか、アクロバット飛行そのものを発明した人間

●垂直降下を最初にした

●ナイアガラの滝の上を飛行し、

 「世界の8番目の奇跡」と讃えられる

●カーティス、ライト兄弟、エジソンに
 「世界最高のパイロット」と言われる

●米国史上最も多くの観客を集める


飛行機がまだ動力を得たか得ないかのころ、写真のような原始的な飛行機で
これらのスタントをやってのけたというだけで十分彼の偉業は伝わります。

1911年と言えば、前回お話ししたグライダー発明家のモントゴメリー教授が、
自作の「エバーグリーン」で飛行中墜落して死んでいる年でもあります。

いかに彼の技術が傑出していたかということであるのですが、
加えてかれは、冒頭写真でも十分伝わるように、まだ20代の、
しかもとびきり魅力的な美青年で、そういったエンターテイメント的要素もあって
絶大な支持を得たのでしょう。

さて、ビーチェイの話の前に、またいつものように寄り道になりますが、
ここヒラー博物館に展示されていた航空黎明期の乗り物に付いて、
もう一つだけお話ししておきます。



飛行機じゃないだろ?船だろ?
と皆が思うこの機械。

昔はこれを飛ぶと信じて真面目に作った人がいたということらしいです。
というか、どうやって飛ばすのか想像すらつかないんだが。 




向こう側に見えている、もしこれが赤ければ、マン・レイの
「恋人たちの時間」の唇みたいな物体は、
フレデリック・マリオットというイギリスの発明家が飛ばした

Hermes Avitor Jr.です。

マリオット

ちなみにこの日本人が「エルメス」と読んでいるところのHermesですが、
アメリカでは「エルメ」と言わなくては通じません。
なぜかと言うと、本場フランスの発音に準じて、同じだからですね。
フランス語では語頭の「H」、語尾の「S」はいずれも発音しません。
日本では語尾はともかく「S」を発音することに誰かがしたらしく、
世界のどこにも無い「エルメス」というブランド名で呼んでおります。

それはともかく、この場合はイギリス人の命名なので
「ハーメス」と読むのが正しいでしょう。
ヘルメスはローマ神話の「神のメッセンジャー」です。




1868年に飛ばされたこの飛行体は無人で、つまりこれをもってハーメスは

「アメリカで飛ばされた最初の無人飛行体」 

という称号を得ました。
 


ハーメス模型。
エンジンは1馬力の蒸気です。
内部は水素が充填されました。

 





このときの実験の写真が連続で残されています。
いい大人が何やってんだ、ってかんじですが、何しろこれが
アメリカ発の無人飛行隊初飛行。歴史の一瞬でもあったのです。



この実験の成功に刺激され、空を飛ぶことを志した人物の中には
他ならぬモントゴメリー教授もいました。





さて、リンカーン・ビーチェイの話に戻りましょう。

この、カーティス・プッシャーに乗って、超人的な飛行技術で有名になり、
名声とともに大変な富を得たのが、ビーチェイでした。

彼は1887年、サンフランシスコに生まれました。
幼少の頃は、彼が後年スターパイロットになることなど想像もできなうような
ぽっちゃりした無口な少年だったそうですが、実はこのころから
その大胆でスリルを不適にも楽しむような資質は備わっていたと見えます。

フィルモアストリートというのはサンフランシスコの、
ゴールデンゲートブリッジのあるサンフランシスコ湾から市内に向かって
縦にたくさん伸びている通りの一つですが、
(最近はお洒落なブティックやカフェが集中するにぎやかな通りでもある)
この辺りの道に例外無く、常にアップダウンが激しい部分があり、
場所にもよりますが、車で降りるのも怖いような坂です。

この坂を子供の頃の彼はこの通りを、
ブレーキも付いていない自転車で下ったそうです。



長じてかれは飛行機整備士としての職を得ました。
後に彼は自分が乗るために飛行機の設計もしていますから、
おそらく整備士としても優秀だったのだとは思いますが、
実は自分が操縦するチャンスを狙っていたのです。

1911年、彼が24歳のときにそのチャンスは訪れました。
彼が整備していたロスアンジェルスの航空ショーのスターパイロットが怪我をし、
そのピンチヒッターとしてかれが操縦を任されることになったのです。

その飛行で、彼の操縦する機がまっすぐ上昇して3000フィートの上空に達したとき、
機はいきなりストール(失速)し、落下しながらスピンを始めました。
一度こうなったらこの体勢から生きて帰ってきたパイロットはいません。

ところが彼は今までのパイロットが誰もやったことのないことをやってのけました。
機をコントロールすることでスピンから機を立て直し、無事に着地させたのです。

それからというものビーチェイはスーパースターへの道をまっしぐらに歩みました。
僅か4年の、しかしどんな王侯貴族も得られはしないだろうと思える栄光と名声の日々を。



その人気は留まることを知らず、全米の人口が9千万だったころ、1700万人が
わずか一年の活動期間の間に飛行演技を見たと言われています。



ナイアガラの滝を飛んだのも、その名声を確固たるものにしました。
アメリカーカナダカーニバルの主催は、ナイアガラの滝上空を飛んだものに
1000ドルを懸賞金として出すという広報を出しました。
滝の上空を飛ぶなぞ、いまや観光でもやっているくらいですが、
当時の影響を受けやすい飛行機では、
そのこと事自体危険極まりないチャレンジでした。

このとき、ビーチェイはカーティスの複葉機で15万人の観客の見守る中、
しかも小雨の降る天候を押してこの飛行に挑戦、みごと成功させました。
滝の上を何度も旋回し、水面の6メートル手前まで急降下で近づき、
そのあとは近くの橋の下をくぐるというサービスぶりに聴衆は湧きました。



その他、走っている列車の屋根にタッチさせたり、ハンカチを拾わせたり。
先日お話ししたざーますマダムのブランシュ・スコットの所属していた
カーティスの飛行チームと行ったフライトでは、
優男のビーチェイは女装し、スコット嬢のふりをして
墜落しそうな体勢からリカバーする演技までやっています。


最初にも書いたように、彼は 飛行アクロバットの技を編み出した最初の人間でした。
その名声と栄光を見て同じ技に挑戦したパイロットはたくさんいましたが、
当時の飛行機でそのようなことができたのは結果的に彼だけでした。
つまり、彼の真似をしようとしたパイロットは全て失敗して死んでしまったのです。

第二のビーチェイを夢見てあまりに多くのパイロットが事故死したため、
ついには彼に飛行させることを禁止すべきだという世論までが出たといいます。
死亡したパイロットの中にはかれの親友もいました。
このことはビーチェイにとって非常なショックだったらしく、
この事件をきっかけに彼は一度は引退を決意します。

彼はその活動期間の4年の間に三回「引退」しているそうです。



このころ、彼の名声は留まることなく、その飛行は芸術であるとされ、
ライト兄弟の弟、オーヴィルやエジソンが、飛行機開発者、
そして科学者の立場からも否定しようがないその飛行技術を
手放しで称えたといわれます。

彼自身は一時引退中の身で全米を講演して回り、
自分の飛行技術の解説をしたり、

「いつの日か我々は誰もが飛行機に乗ることができるようになる」
「今は無理だが、そのうち大西洋も横断できるようになる。
誰もやらなければわたしがやる」
「飛ぶことはすべての人々にとって普通の出来事になる」
「戦争においても空が中心となるだろう」

このような予言をして人々を驚かせていました。

彼の言ったことは今日すべてその通りになっています。
彼の予知能力が優れていたのではなく、これは航空界に身を置く彼、
音をたてんばかりに発展していく科学技術の進歩を肌で知っている彼にとっての
「常識」とでもいうべきことで、彼のようなスーパースターが口にしたからこそ、
初めてその言葉に世間の人は耳を傾けたということにすぎません。


そのころ彼は、アメリカ合衆国にもっと航空への投資を増やすように働きかけ、
政府に見せるための個人的なデモンストレーションを企画しますが、
彼の招待に対し、内閣からエキジビジョンを見に来たのはたった二人でした。

普通のやり方ではダメだと悟ったビーチェイは荒っぽい手に出ます。
これはほとんど「伝説」の類だそうですが、そのまま記します。


ある日、ホワイトハウスの執務室にいたウィルソン大統領は、
遠くから彼の居室めがけて徐々に近づく飛行体に驚きます。
それは轟音と共にまっすぐこちらに向かって向かってくる飛行機でした。
驚きと恐怖で見開かれた大統領の目と、飛行機を操縦していたパイロットの目が
お互いをしっかり認識したと思った瞬間、飛行機は操舵を上昇に転じ、
大統領はその翼に書かれた「BEACHEY」という文字をいやでも認識しました。

ホワイトハウス上空を蹂躙するように彼の飛行機は町一帯を縦横に駆け、
ワシントンの記念塔から、地面に向かってほぼ垂直にダイブしました。
まるで、翼に書かれた彼の名前を大統領に読んでくださいといわんばかりに
そちらに向けながら・・・。

そして空を見上げている議員たちに翼を振って挨拶しました。
(つまりかれは飛行機の意思表示である『バンク』を最初にした人物です)
そして、エンジンが止まったようになった飛行機はまっすぐ墜落していきました。

「大変だ!リンカーン・ビーチェイが事故死したぞ!」

大慌てで陸軍病院から救急車が事故現場に駆けつけました。
しかし、そこには手も足もピンピンしたビーチェイが

「事故?事故ってなんだ?わたしはいつもこうやって着陸してるんだが」

とニヤニヤしながら立っていたのでした。
そして、

「今の飛行でわたしが爆弾を落としていたら
はたしてワシントンはどうなったかな?
さあ、よくわかっただろう。
軍に航空機を導入する時がやってきたってことを」

とダメ押しの一言。
航空機の発展を推進していた各関係者は彼の行為を絶賛し、
多くの議員は、空軍力の必要性を認識させてくれた彼に感謝し、
航空に関する政府のポストを彼に用意することを提案したのですが、
そのときすでに世界の博覧会などでの出演が決まっていた彼は
それに就くことを断りました。

それまで彼の飛行パフォーマンスを「クレイジー」「危険すぎる」
などと非難していた層は、例外なく政府が彼のことをこうやって認めた途端、
その口をつぐむことになります。
国内の有名飛行士はこぞってビーチ-の強力なリーダーシップを支持し、
新聞はかれを「マスター・オブ・ジ・エアー」と称えました。



こんな彼にはたったひとつ、十分予想されることですが欠点がありました。
「女性」です。

若くてハンサム、比類なきスーパースターであるパイロット。
今や名声も富も、そして世間の尊敬も20代にして手にした男に、
女性が群がってこない方がおかしいというものですが、案の定
このミラクルなタフガイには、女性が熱狂的にすり寄ってきました。

「港港に女あり」ではありませんが、彼は各飛行場、
というか各主要都市ごとにそういう関係の女性がいたといわれます。
今と違って、1900年初頭のアメリカでは、深い関係になるためには、
まず男性から「結婚の申し込み」をしなくてはなりませんでした。
ビーチェイはそのためにベストのポケットに

いつも求婚用のダイヤの指輪を忍ばせていた

と言われます。
つまり、いい女!と思ったら、ダイヤをポンと渡して「メリーミー」。
これで即女性ゲット、みたいなことをあちらこちらでやらかしており(笑)
自分はあのリンカーンの婚約者だと自称する女性が
ネイションワイドに存在していたということらしいです。

これ・・・どうするつもりだったんでしょう。

いつも命ギリギリで生きている人間の刹那的な熱情であったと解釈すれば、
この多情と性急さは、肯定はしませんが決して理解できないことではありませんし、
最終的には「本当に結婚するつもりで婚約した」相手も
いたにはいたらしいのですが。

ともあれ彼は若くして独身のまま死んでしまったことで誰も不幸にせず、
誰も争わず、ただ全米の「婚約者」たちが偽りの未来の夫を失っただけだった、
という意味では本人にとっても不幸中の幸いだったと言えるのかもしれません。



さて、そのリンカーン・ビーチェイの死はあっけなくやってきました。
その実にお粗末な事故は、生前の彼の最大にして最後の失策と言ってもよく、
この死に様があまりにあっけなかったせいで、生前の栄光がほとんど
帳消しになってしまった感さえあります。

1915年、ビーチェイの故郷であるサンフランシスコで展覧会が行われました。
彼はそのために自作の新しい単葉機で臨んだのですが、
いつもの背面での宙返りの際、彼は突如自分のミスに気が付きました。
高度がたった2000フィート(600メートル)しかなく、
それをするには高度不足であったことに。



しかし、彼がそれを悟った時には彼の機はまっすぐサフランシスコ湾に突入し、
衝撃で彼の単葉機の両翼は飛ばされていました。

海面に突入した機体は、最終的に約9メートルの海底に、
彼の体もろとも突き刺さり、そのまま浮かんでくることはありませんでした。

彼を救出するために戦艦オレゴンから16名のダイバーが派遣されました。
皮肉とでもいうのか、彼はかつてオレゴンを模した模型の船に
航空爆撃のシミュレーションを行ったことがありました。

捜索開始三時間後引き上げられた機体からは、
彼の体がシートに座ったままで発見されました。
遺体には抜け出そうともがいた痕跡があり、彼が墜落によってではなく、
溺死したことが倍検によって明らかになりました。


全米はその死を悼み、大統領は弔電を打ち、陸軍のハップ・アーノルド中佐は
(あれ?この人、確かナンシー・ラブの大西洋横断移送を邪魔した人ですよね)
葬儀の司会をし、ある飛行家は彼の好きだったピンクのバラを事故海域に投下し、
・・つまり人々は一時、大々的にセンチメンタリズムに浸りました。


その後、全米を大恐慌が襲い、次いで第一次世界大戦が起こります。
そこではビーチェイの言葉通り航空機が投入され、
人類は史上初めて航空戦を行うことになるのですが、人々はもはや、
それを最初に予見した人物の名前をこの戦争の影で思い出すこともなかったのです。

そして、それから12年後の1927年、リンドバーグが大西洋横断に成功し、
空が新たなヒーローを迎えて人々が熱狂するころには、
この黎明期の天才の名は、人々の記憶から完全に失われていたのでした。

リンカーン・J・ビーチェイ
1945年3月14日 サンフランシスコ湾にて墜落死
享年28歳と11日


合掌。
 






平成26年入間航空祭~ブルーインパルス

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今年の入間航空祭でのブルーインパルスです。

ちょっと待て、今年の入間には行かなかったんじゃないのか、
と思った方、あなたは正しい。

わたしは確かにその直前の(つっても約1週間前ですが)航空観閲式で
空自的イベント参加に必要な気力とエネルギーをごっそり消耗してしまい、
その日は朝からぼーっと空を眺めて、

「お天気がよくて航空祭日和だな~」

などと他人事モードで一日を過ごしたのですが、後から
読者の佳太郎さんが参戦していたことが分かりました。

コメント欄で写真を見せて下さいとお願いしたところ、
2~3枚くらいという予想に反して大量の写真が送られてきました。
これはぜひ皆様と共に見せて戴こうとお許しを得て、
今回のエントリ作成と相成ったわけです。



最初にこういう写真をタイトル的にくれるなんて嬉しいですね。

このマークは自衛隊60周年記念のために製作されたのでしょうか。
やはり空自のシンボルはブルーインパルスです。



通路で隊員がずらりと並んでお出迎え。
子供を中心に、皆とハイタッチしています。

しかしこれを見ても思うのですが、今年は通路に余裕があるなあ・・。

去年はね、この3倍くらいの人口密度だったんですよ。
格納庫の間の通路を、お弁当等を買う人たちが行き来するときには
隣の人とびったり身体を密着させ、満員電車の中のような状態で
すり足をしながら自分の行きたい方向に進むしかなかったのです。

”テレビ番組「空飛ぶ広報室」の影響で初めて来てみました!”
な人が多くて、ブルーインパルスの演技中は興奮した女子が

「あぎゃあああすごーーい」
「むきゃああああ」

と叫びまくって周りの失笑を誘っていたり、人大杉で
これから先どうなってしまうのかと不安になった去年の入間。
こんなだったから、今年はあまり行く気になれなかったんですよ実は。

しかし、空自も対策を講じてシート禁止にしたりしていたようですし、
渦中だった去年とは違いブームが沈静化していたようで何よりです。



テイクオフ前のアプローチ。



ぎゅいーんと空を切る一機。
少し観客の頭が写っているのがいいですね。



スモークの陰影がきれいです。



この写真のスモークを見て上空は風が強かったのかな、
とふと思いました。



コークスクリュー。
これを見てあらためて気づいたのですが、コークスクリューのとき
直線に飛ぶ飛行機は背面飛行するものだったんですね。



青空の一日だと思っていましたが、こうして写真に撮ると
けっこう雲も多かったようです。

6番機は5番機を中心に三回の「バレルロール」を行います。 





この写真はバックが真っ青でとても綺麗。
ローリング・コンバット・ピッチかな。

F-86F・T-2時代から継続されている課目で、1番機から4番機までが
会場左側からエシュロン隊形で進入、緩やかに上昇した後に、
1番機から順に250度の右ロールを行う技です。





バーティカル・クライム・ロールで垂直上昇し
その後頂上で折り返したところかと思われます。

最大高度に達するときには飛行機は失速寸前になっているとか。



わたしはこういうときどうしても機体にズームしてしまうのですが、
こういう風に引いてスモークを主役にした構図はいいですね。

ファインダーのフレームから外れる失敗もなさそうだし。

次からの参考にさせていただきます。"φ(・ェ・o)



ワイド・トゥ・デルタループ。

1番機から4番機と6番機が会場の右からデルタ隊形で進入し、
そのままループに入っていきます。
写真は上昇しながらにデルタの間隔を縮めていっているところ。

進入時にはデルタの1辺は230mくらいですが、
ループの頂点では40mにまで縮めていくそうです。



頂いた写真の中でわたしが一番好きなのがこれ。



単機の演技ですね。
逆タカ落とし?(そんなのないって)



このあいだ航空祭で最初にF−15がやった慰霊のための
ミッシングマン・フォーメーションに似ていますが・・。

行かれた方、ミッシングマンという説明はされていました?



この後6番機が移動してバックトゥバックになるのかな?



トレール・トゥ・ダイヤモンド・ロール。

この構図もいいですね。
青空に雲一つないし、壁紙になりそうです。






そういえば、ニコンのカメラ教室「航空祭を撮る」というのがあって、
先生にレクチャーを受けてから皆で入間に行く企画だったのですが、
実は参加することをわたし真剣に検討しましたよ。

いつまでも自己流なので一度こういうので習っておくのもいいかもと思って。
でも、どうも一眼レフ持ちが対象ではないかと思われたので諦めました。

これに申し込んでいたら航空祭の後でも行っていたと思います。



会場の様子。
去年より余裕があるように見えます。
やっぱり行けば良かったな・・。



さてここからは・・、



皆さんお待ちかね、「キューピッド」が始まりました。
「キューピッド」と一口に行っても、垂直にハートを描く

「ヴァーティカル・キューピッド」

斜め旋回する

「スラント・キューピッド」

水平にハートを描く

「オリジナルレベル・キューピッド」

と、ハートの角度によって三種類あるのです。



わたしが入間で前回見たのはヴァーティカルだと思うのですが、
今回はどうも「スラント」ではないかと思われます。
ハートの角度が斜めですから。
ハートの角度は、おそらく当日の風によって決められるのでしょう。

水平に描かれる場合、4番機の「矢」は参加しません。



この日、ヴァーティカルではなくスラントになった理由は、
おそらく風が強かったからではないかと思います。
角度が直立しているほど、ハートが早く見えなくなってしまうからです。

この写真を見ても分かるように、まだ最後まで描ききっていないのに、
ハートの始まり部分がもう消えてしまっています。



4番機の矢が飛んできましたが、すでにシェイプが怪しい・・。
ヴァーティカルよりハートが大きいんですね。



これでは、一旦スモークを切ってからハートを射抜いたように
再びスモークを吐くという演出はなかったのではないでしょうか。

(目撃者の情報求む)

それでも佳太郎さんの報告によれば、この日ブルーは
全てのプログラムを無事に行ったということです。

50周年記念のために開発された、全機が小さい円を描く
「サクラ」という課目があったと思いますが、
今年60周年記念に特別に行われた演技はあったのかな。



これは皆が座っているので始まる前かな。
写っている飛行機はここの所属のフライトチェッカー、
飛行点検隊のYS−11。

「点検」→「チェック」→「チェッカー」ヾ( ̄∇ ̄ )ノ バンザーイ
という流れで尾翼にチェッカーの模様を配しています。
このチェッカーフラッグはもともとFIAの決めた自動車競技用の旗。



検索して過去の自分のブログから拾ってきた(笑)写真。
左側の部隊章はチェスの駒のナイトを中心にしたモチーフで、
これもチェスの「王様を取ること」のチェックをかけています。




入間の航空祭は基本的に皆同じ入り口から同じように入場し、
ごくわずかの関係者が建物の二階などで見学することが出来ます。

先日の航空観閲式もそうでしたが、航空祭の場合は

「観覧場所に見え方の上下なし」

なので、無理して自衛隊のつてを頼る必要はないんですが、
まあこういうところに通されれば椅子に座ったまま鑑賞できる、
というのがお得な点でしょうか。

で、佳太郎さんがなぜこの写真を送って下さったかと言うと、
わたしがここにいるかもしれないと思ったから、だそうで。

というわけでわたしはいませんが、実はここには雷蔵さんがいたのです。
どっとはらい。



おまけ:

模型ショーのときに作っていただくことをお約束したブラックバードの
たまごヒコーキバージョン、なんとお父さんを連れてきました!

この写真もうちに来る前に製作した方が撮って下さったものです。
資材納入の模型メーカーハセガワ様共々、この場をお借りして
厚く御礼申し上げる次第です。

ところで、ブラックバードがうちに来たその夜、「ファントム無頼」の
続きを読んだら、その最初が、

”本土上空に現れたSR−71を、主人公の「神・栗コンビ」が
ちょっとずつ右と左の翼を撃って百里に誘導する”

『黒いクリスマスツリー』というエピソードでした(笑) 

こんな偶然もあるのかとちょっとびっくりしたのでご報告。



佳太郎さん、黒鳥関係者の皆さん、ありがとうございました。 





パシフィックコースト航空博物館~カール・ノルデンの憂鬱

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ソノマカウンティにあるパシフィックコースト博物館、
先日展示航空機を全て紹介し終わったわけですが、
この博物館には建物内にも資料展示コーナーがありました。

売店のところにいる受付兼任のおじさんに、撮影していいか聞き、
勿論いいよと許可を得たので例によって残らず写真を撮ってきました。



まずは、ジョセフ・アーサー・グラッソという、サンフランシスコの
航空黎明期の飛行家のコーナーがあります。

グラッソは1900年に生まれ、30年代から40年代にかけて
スタントなどで大変活躍した飛行家だったそうですが、
残念ながら歴史的に有名な飛行家ではなかったらしく、
詳しい資料を見つけることはできませんでした。

この博物館がグラッソに「感謝」しているのは、
ここの展示の多くが彼の所蔵していた写真によるものだからです。

グラッソ自身の飛行機の操縦免許や、飛行機と一緒の
貴重な写真も彼自身の寄付によるものだそうですが、
博物館のオープンは1989年。
グラッソさん、一体どれくらい長生きしたのか・・・。



動力飛行機の発明家、ウィルバーとオービル・ライト兄弟。

ここに、彼らの父親の証言として、

Neither could have mastered the problem alone.
As inseparable as twins, they are indispensable to each other.

『彼らはどちらも一人では問題を解決できませんでした。
まるで分ちがたい双子のように、彼らはお互いが不可欠だったのです』

と書いてあるのですが、実はこの部分、
inseperableとか、 indespensableとか、スペリングのミスが二つも・・。
アメリカ人もこういう場所で間違いをやってしまうのだなあと、
少し安心?しました。




初めて海軍の船を飛行機で発艦したのが誰かをご存知ですか?

その歴史的瞬間がこれ。
飛行家、ユージーン・イーリー(1886~1911)が
1910年、USSバーミンガムからカーティス・プッシャーで
離艦することに成功した瞬間の写真です。




冒頭写真は、その一年後、離艦に引き続いて着艦を成功させた
後のユージーン・イーリーの勇姿。

周りの人物と比べて、かなり長身であったことが分かります。

スーツを着ているのが時代を感じさせますね。
この頃は「飛行服」なんてものはありませんし、靴も普通の革靴です。
せめてもの衝撃吸収のつもりか、スーツの上に上着を着て、
身体に自転車のチューブを巻き付けています。
そして頭には皮のヘルメット。

今日の目で見ると、その後ろにある飛行機の、
まるで自転車のようなコクピット(と呼べるなら)といい、
この装備といい、あまりにも無防備で危険なものにしか見えません。


現に、イーリーはこの直後、着艦に失敗し、
自分で飛行機から甲板に飛び降りた際、首の骨を折って死亡しています。



史上初の発艦から一年後、イーリーは史上初の着艦に成功たときの写真。
この連続写真で甲板の両脇に見えているたくさんの砂袋は、
このとき初めて使われた降着装置、つまり着艦ロープです。

飛行機にフックを付け、そのフックがロープにかかるようにして着艦する、
という今日も使われている仕組みが、人類史上最初に使われた瞬間でした。



こちらは、イーリーと同年代の海軍軍人、
セオドア・ゴードン・エリソン中尉が、カタパルト発進に成功した瞬間。
1912年のことでした。

イーリーとエリソン中尉のことについては、別項、
「天空に投錨せよ」というエントリを設けてお話しする予定です。
どうかお楽しみに(予告)



1942年4月18日、東京空襲を行うため、
USSホーネットを離艦するドゥーリトル飛行隊のB−25。



ベトナム戦争で墜落した飛行機を発見した米艦艇でしょうか。

この横には、

Modern Adverseries(近代のライバル関係)として、

朝鮮戦争時代
   F−86 セイバー
   ミグ15 ファゴット

ポスト朝鮮戦争時代
   F−104 スターファイター
   ミグ21 フィッシュベッド

ポストベトナム戦争時代
   F−15 イーグル
   ミグ25 フォックスバッド

と書かれたパネルがありました。



前にも一度説明したことがありますね。
ノルデン爆撃照準器。
ドーリットル隊の飛行機にも搭載されていました。

情報を入力するといつ爆撃すればいいかを器械が教えてくれる、
というもので、当時のこの最高機密には、15億ドル相当の
国家予算がつぎ込まれたそうです。

この最高機密に関わる人間は、極秘の扱いとともに、決して
この器械について何人にも情報を漏らさないことを、
末端の搭乗員や兵員までが宣誓させられ、運搬の際には
基地の中であってもそれとわからないように布をかけました。

宣誓の内容には、

 ”機体外への脱出など緊急時には
自らの命を代償にしてまでも処分を優先させること”

が含まれていたということです。 


アメリカ政府はこの器械に大枚を投じて9基購入しています。


発明者のカール・ノルデンはスイス人で、熱心なクリスチャンでした。
彼によるとこの発明は

「ピンポイントで爆弾を落とし、
できるだけ人の命を救うための人道的な装置」

だったそうです。

しかし、この期待の装備はアナログコンピュータだったので、
使う方にも大変な熟練が必要とされました。
爆撃手任せの精度、しょっちゅう故障する機械。
ノルデンの計算通りに戦況が展開する筈もなく、
たとえば雲が出ただけでお手上げ、という代物だったのです。

おまけに、ノルデンの弟子は買収されてナチスに設計図を渡してしまったため、
ドイツでは早々に同じものを作ることに成功していました。

まあ、ドイツにとっても役立たずの代物だったわけですが(笑)

ちなみに、日本軍も鹵獲した飛行機からこの照準器を見つけ、
しっかり同じものを作っています(笑)
日本軍は使わないうちに終戦になってしまいましたが、
実際にどんな精度かわかったら、きっと使わなかっただろうと思われます。


最後に。

あの「エノラゲイ」の爆撃手は、ノルデン照準器を使って
1945年8月6日、広島に原子爆弾を落としました。


しかし皆さん、考えていただきたいのですが、
そもそも原子爆弾投下に正確な「照準」など必要あったのでしょうか?

「不要の殺人を防ぐための平和的な発明だ」

と胸を張っていたカール・ノルデンにとって、
街の上空で炸裂しさえすれば、何十万人を一瞬にして殺すことのできる
原子爆弾の投下に自分の発明品が使われたのは、
あまりにも痛烈な皮肉だったと言えはしませんでしょうか。 


しかもこのとき、エノラ・ゲイの爆撃手が爆弾投下した地点は
相変わらず目標から250m照準がずれていたと言われています。



 

続く。

呉地方総監訪問記~音楽隊庁舎「高砂の松、吉野の桜」

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8月末に訪問した地方総監部の訪問記、
行事が間に色々とあって長らく中断してしまいましたが続きです。

我々が旧鎮守府庁舎に到着したのは面会予定時間の15分前。
部屋に案内されて担当の2佐、海曹長と話をしていたところ、
10分したら海幕長が現れました。
海幕長の投入に驚いたわたしですが、ほんの5分話したところで
時間きっちりに総監が入室して来られたわけです。

会談が終了し、何気なく部屋を出るときに何気なく時計を見て
わたしは驚きました。
海将が部屋にいたのは1分の狂いもなくちょうど30分だったのです。
全てが分単位で決められその通りに動くのが自衛隊だと
改めて実感したものです。


さて、今回の訪問には嬉しいサプライズが用意されていました。
地方総監との会談終了後、ここ呉にある音楽隊をご案内下さるというのです。

これは、訪問が決まって連絡窓口になってくださった2佐とのやり取りで
わたしが音楽関係者であること、そしてこの音楽隊と関係の深い自衛官を
たまたま存じ上げていたことから取りはからってくださったのでした。



地方総監庁舎の赤い絨毯が敷かれた階段を下りて行くと、
嗚呼見て驚けごらんのような光景が。 
次の訪問地まで、海自の桜のマークの付いた公用車で
お送りしていただく手配がされていたのです。
これも時間通りに車が前に回され、カートを引きずっていた
わたしのために車のトランクは開けた状態。

「ふおおおお~~」(内心驚いているエリス中尉)

地球防衛協会の一地方支部とはいえ、顧問に就任してよかったと
わたしはこのときほど思ったことはありません。
ええ、所詮小物ですからこんなことが嬉しいんですよ。 

それに、ここだけの話ですが、このなんちゃって表敬訪問の後、
当支部にはその後総監部からのお誘いが以前より明らかに増えた、
と地区統括協会長はおっしゃるのです。
おそらく単なる偶然だとはいえ、そう思ってもらえるだけで嬉しいです。 



そして乗り込んだ車の中。
清掃が行き届いた快適な車内の足元をご覧下さい。

自衛隊的には佐世保で買った「礼式」によると、車内に置ける
「上座」はこの席なので、足元に赤いシートが(絨毯のつもり)
敷いてあるというわけです。

本日の表敬訪問者は実はTOではなくこの「わ・た・し」。

本来ならばわたしがここに座ってもいい筈なのですが、
そこはそれ、「かしま」での艦上レセプションの招待状も
わたしは「ご令室」扱いになっていたように、夫婦単位では
自衛隊は夫であるTOを「上位者」として扱うのでした。



運転手は海曹が行い、案内役の2佐は助手席に座ります。
車が一瞬も停められることのないように、進行のスピードに合わせて
警備の隊員が車止めをどかせている様子が見えます。

今気づきましたがTOの席の前にモニターがありますね。
移動中にニュースを見るような場合に備えてでしょうか。



5分も経たないうちに車は音楽隊練に到着しました。
入り口は階段を上がって行ったところですが、そこには・・・



もうすでにお迎えの隊員が起立(拳はグー)していました。
「今からそちらに向かう」という連絡が行ったようです。



敬礼でお迎え。(じーん)
奥からはここでの管理部長である1佐が出て来られました。

ところで、この実に趣のあるレトロな庁舎、
これは「桜松館」(おうしょうかん)と呼ばれる建物です。



この敷地には現在海上自衛隊呉集会所がありますが、かつてそこには
明治年間に建てられた「海軍下士官卒集会所」がありました。

そこに日露戦争で活躍した巡洋艦「吉野」「高砂」両艦の功績を
伝えるために図書館等を備えた木造建築が建てられ、それに

「桜松館」

という名前が付けられたのでした。



軍艦「吉野」。

二等巡洋艦で、明治26年に英国アームストロング社で竣工されました。
イギリスから回航してくるときには秋山真之も同行しています。
建造費用は国民の寄付によって賄われました。

1904年の日露戦争の際には、旅順攻略作戦に参加し、2月25日、
鳩湾でロシア駆逐艦ウヌーシテリヌイを砲撃により擱座させ、
その後自沈せしめました。

殊勲艦だったのですが、その3ヶ月後、山東角沖で哨戒行動中、
濃霧のため後続艦の一等巡洋艦「春日」と衝突し沈没しました。
「春日」の方は無事で、1945年横須賀に停泊していたところを
米軍艦載機の爆撃を受け大破着底しています。



二等巡洋艦「高砂」。

この巡洋艦も「吉野」と同じくアームストロング社製で、
設計者も同じサー・フィリップ・ワッツ技師です。

日露戦争では「吉野」と同じく旅順攻略作戦、黄海海戦にも参加し、
2月9日には旅順沖でロシア汽船「マンチュリア」(満州の意)
を捕獲するという殊勲を立てました。

しかし、「高砂」もその年の12月、やはり旅順での哨戒中に
機雷に接触し沈没してしまいました。


この写真の入り口の左には桜、松の若木が植えられていますが、
これは「高砂の松」「吉野の桜」と親しまれていたそうです。

パンフレットには「功績をたたえて」とありますが、それよりも
どちらも戦功を上げながら別の理由で喪失してしまったことを惜しむ気持ちから
特にこのよく似た巡洋艦をこのような形で顕彰したのだと思われます。



その後、木造の建物が老朽化したため昭和4(1929)年に現在の
鉄筋コンクリート造り地下一階、地上2階の建物に生まれ変わりました。



それが現在の「桜松館」です。



上の写真を一部アップしてみました。
アーチ上部のランプからランプをつなぐ線が見えますか?

説明によると、この彫刻がこのエントランスの唯一の「装飾」だそうです。
この建物はアール・デコ様式で創られているのですが、
その一時代前のアール・ヌーボーより簡潔さと合理性を目指したとされる
この様式の、いわば象徴的な部分でもあるといえましょう。


地形を利用したためこのような特殊な造りになったようですが、
呉集会所の中庭の南端にまず石段を9段昇り、狭い踊り場から
さらに10段登ったところに猫の額ほどの広場があります。 



そこには隊員の手によるト音記号の芝生アートが!
いかにも隊員が自分たちでやったらしい素人っぽさが可愛いらしい。



ここが音楽棟として設えられた当初から、エントランスのアーチ下には
このようなト音記号がタイルで描かれていました。

ト音記号を書くときには上の芝生ト音記号のように
カーブからまっすぐ線を引き下ろして書くのが定石ですが、
このデザインはあえて中央線を右に寄せて全体のバランスを取っています。
当時デザインをしたのが誰かはわかりませんが、
なかなかの造形センスの持ち主であったらしいことが窺い知れます。 

わたしが敬礼に迎えられてエントランスにこのト音記号を見つけ
大はしゃぎしていたら、迎えて下さった1佐が

「こっちにもありますよ」

と教えてくれたのが芝生のト音記号だったのでした。 

 


建物内に通されたわれわれは、入ってすぐの応接室で簡単に
挨拶を交わし、しばし雑談をしました。


音楽隊長の1尉、そして管理部長の1佐が案内して下さるようです。
録音もここで行われるらしく、「録音中」を示すランプの付いた 
合奏場のドアを開ける管理部長。
音楽隊の練習室にいよいよ潜入するときがやってきたのである。

そこで我々を待ち受けていたものとは・・・!
そして、噂の「あの人物」が・・・・・・・!



次回に乞うご期待。



ところで。

どこを調べても記述がなかったのですが、現在の桜松館の敷地には
「吉野の桜」と「高砂の松」はまだあるのでしょうか。

 

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