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日系アメリカ人〜外国人土地法と日系人

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サンノゼのジャパンタウンにある日系アメリカ人博物館の展示を
彼らが日米開戦時に置かれた状況を盛り込みながらお話ししています。



1942年の3月から始まった強制移動は、通知が来てからわずか1週間から
10日以内に今の住居からアッセンブリーという集合センターに
移らなくてはいけないというものでした。

携帯を許されたのは、自分で持って行けるトランクだけ。



少しでも多くの私物を持って行こうと、皆は出来るだけ
大きなトランクに必要最小限の荷物と、貴重品を詰め込みました。

持って行くことが出来なかったものは、知人に預けたり、
あるいは教会の地下に隠しましたが、戦後になって帰ってみると、
それらは姿を消し、自宅や農園も略奪され、あるいは横取りされていて
一世たちが苦労して作り上げた資産財産は全て無に帰していたのです。



収容所で手に入れたらしい鉛筆セット。
1940年のものだそうですが、ほとんど使われていません。



子供用の絵入り図鑑。



実際に収容所に持ち込まれ、戦後解放されたときに
再び手荷物を携えて帰ったトランクの数々。

日系人の、特に一世たちの戦後は酷いものでした。
差別の激しい西海岸は諦め、東海岸などに新天地を求め
移住していった人々もいました。
意外なことに、そこでは歓迎されることもあったということです。



強制収容所に送られる日系人たち。
その服装が、彼らの豊かな生活を表わしています。

西海岸で日本人が疎まれていたことの理由に、勤勉な彼らが一代で財を成し、
成功したことが、アメリカの中産階級の嫉妬を誘ったという構図があります。



博物館の中には、在りし日の収容所が再現されていました。
この部屋の中で、赤の他人の何家族もが共同生活をするのです。



この鏡付きの箱のようなものは、携帯式のストーブ。
ローラ・アベの私物であったものを、中国系のアーティストが
オブジェにしたようです。



アイロン台、薬棚。
小さなホーローの桶で入浴をするとき、
自分たちで吊ったカーテンを引いて目隠しをしました。
一部屋に男も女も一緒に収監されていたのです。

何も努力しなければ、まるで囚人のように動きの取れないこの空間では
たちまち全てが無秩序になってさらに精神を蝕んだでしょう。
彼らはその中でも精一杯清潔を保ち、人間の尊厳を守ろうとしました。


「日系の囚人が入ったあとは前よりも綺麗になる」

ということで、他の国のインタニーと、
収監場所がローテーションされていた収容所もあったくらいです。



こんな生活でも、いやこんな生活だからこそ、絵を描き、
それを飾るための額を作った収容所の日系人たち。

写生するべき景色がたとえバラックの並ぶ殺風景なものであっても・・。



ツールレイクに収監されていたノリオ・ヤマモト(多分一世)が
作ったクローゼット。



ユダヤ人たちのように囚人服を着せられなかったのは
まだしも幸運だったといえましょう。
大抵の収容所は山間部の、冬は極寒の地にあったからです。



タンスの中に貼られた「日系人追放のお知らせ」。



部屋を出ると、外に見学路は続いていました。
納屋のような展示場所が設えてあります。
日系人たちが農場などで使用した道具が展示されているのです。

写真は、エイイチ・サカウエ(一世)が発明した、

「梨の選別機」。

ベルトコンベアの上に乗せると、大きさを選別する仕組みです。
農民や市井の人々ですら、こういった工夫発明を楽々とやってのけ、
しかも真面目で勤勉、骨身を惜しまぬ労働ぶりが、
アメリカ人たちに取ってはさぞ脅威でもあったでしょう。



農場で使われていた木製コンテナ。



イチゴ農家はオフシーズンにはこういったクレートを造っていました。
できるだけ釘を使わない方法で作られた箱は需要があったのです。



ブロッコリーを同じ大きさにカットする機械まで・・・。



トラクターや鋤などの農耕機具。



馬に引かせて農地を耕す器械。



驚いたことに、当時の車も全く手入れをされていない状態で
展示されていました。
リパブリックモーター製のトラック。
1913年に発売されていたものです。



1916年から18年にかけて使用された車のナンバープレート。



フォード車の「Tフォード」。
1918年発売されたもので、この車の登場によって、
アメリカの中産階級が自家用車を持ち、それで旅行をするという
ライフスタイルを手に入れました。
ラインのある工場で組み立てられ、大量生産された最初の車でもあります。



前に二人しか乗れないのに、どうやって家族でドライブするかって?
ご安心下さい。
車の後部にはちゃんと3人くらいなら乗れる引き出し式のシートが。

というか、これじゃあまりご安心できない気もしますが。
一旦事故ったら、まず後ろに乗っている人たちはアウトです。



種まき機。
車の後ろに入れられた種が少しずつ下から撒かれる仕組み。



レタス、ナス、ブロッコリ、アスパラガス・・・。
種まき機に入れて撒かれた種。



イチゴをピックアップして収納する棚と、販売するときのコンテナ。
昔はイチゴは必ずこのケースで売られていたそうです。



ふと上を見上げると、当時使われていたカートンのボックス、
子供に作ってやった玩具の車などが天井から吊り下げられていました。



これも当時の規格であったイチゴ用ケース。
アメリカではこの頃からプラスチック製品が一般的だったのですね。



蒸気式?動力のトラクター。



これはおそらく荒れ地用のトラクター。



農耕用に使われた固定エンジン。



4頭立ての馬車で、市場に出す農作物を搬送します。



全員ベストにネクタイ着用。
農地に腰掛けているので作業中だと思うのですが、
なぜに皆このような格好を・・。

耕作は馬に鋤を引かせて行いました。



農作物用の秤も勿論手作りです。


日系人たちの大規模勾留は、それまで築き上げた彼らの
こういった農場も、全て人手に渡るかあるいは荒廃するままに
放置されてしまうということを意味していました。

もともと、外国人土地法というのは、日本人移民に
アメリカ西海岸地域での農地を購入、または借入を禁じたもので、
その理由というのは人種差別的なものと、経済的理由の双方でした。

白人たちは西海岸地域は自分のものであるとして、一世が荒地を
次々に実り豊かな農場に変えていくのに敵意を抱いたのです。

しかし、法律であからさまに日系人を対象にするわけにもいかず、
土地法は非常に欺瞞的な表現がなされました。

「市民権を取得できない外国人は農地を購入、または借り入れができない」

連邦移民法によると、市民権とは

「自由身分の白人」と「アフリカ人の血を引いた者(元奴隷)」に与える

ものでした。
市民権を取得できない外国人とは、アジア系とヒスパニック系です。

しかしヒスパニック系や、アジア系では中国系その他の場合は、
そもそも土地を取得して農地を開墾しようなどという者が皆無でした。
つまり、実質この法律は、日系人だけを対象にしたものであったのです。


一世がそれを回避するためには、親日家のアメリカ人から土地を借りるか、
あるいはアメリカ国民である二世の、つまり子供の名義で
土地を買うしかありませんでした。

しかも、そういう「抜け道」を塞ぐため、外国人土地法は一層厳しくなり、
そしてついには追放令によって、住み慣れた土地すら追われることになるのです。

真珠湾攻撃に続く日米開戦は、西海岸の白人たちに取って
ある意味日系人を駆逐する素晴らしい大義名分となったのでした。

ユダヤ人への嫌悪からその排除を謳うナチス党とヒットラーを
熱烈に支持したドイツ国民と、この時代の西海岸のアメリカ人は
公平な目で見ると、全く同罪であったといえます。


収容所から解放された日系人たちが再び土地を取得できたのは
1950年台になって、外国人土地法が撤回されてからのことでした。



続く。
 


映画「アメリア 永遠の翼」

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「女流パイロット列伝」シリーズでも、アメリア・イヤハートについて
一度書きましたが、そのときに観たアメリアの伝記映画

「アメリア 永遠の翼」(原題Amelia)

についてです。
航空機の歴史や歴史そのものに興味があれば、アメリア・イヤハートの
名を知らないはずはない、とわたしなどは思い込んでいましたが、
世の中そういう人ばかりではないので、特に日本ではこの映画は
ほとんど話題にもならなかったですね。

日本での認知度が低いからという説もありますが、未だに彼女を
航空黎明期のヒーローと評価しているアメリカで、
この映画がどれくらい 興行的に成功したのか知りたいところです。 



場面は、アメリアが命を失うことになる最後のフライトに
今から飛び立とうとするところから始まります。

1937年5月21日、カリフォルニア、オークランド。

わたしが去年見学した「オークランド航空博物館」のあった、
あの飛行場です。

これからアメリカとナビゲーターのフレッド・ヌーナンが、
赤道上世界一周旅行を達成するためテイクオフをするのです。

映画は、この出発の瞬間に始まり、彼女が遭難することを
示唆して終わるのですが、その飛行に、アメリアが
操縦しながら回想したこととして過去が描かれると言う手法です。



場面は変わって、ありがちな回想シーン。
少女のアメリアがカンサスの草原に飛来する飛行機を観て
空を飛びたくなった瞬間です。

次の瞬間には大人になったアメリアがその飛行機を駆って
同じ場所を飛んでいます。

彼女が初めて自分の飛行機を持ったのは24歳のときでした。



1928年、アメリア31歳のとき、彼女は運命の出会いをします。
夫となり生涯を通じてのスポンサーであった、ジョージ・パットナム
(リチャード・ギア)から

「大西洋を飛びたいと思いますか」

という電話を受けたのでした。



この映画では、大西洋を飛びたい、と言い出したのが
アメリアである、ということになっています。

パットナムは、

「3人もの女性が挑戦し、全員が事故死しているので、
もし成功したら女性初の快挙だ」

と言います。
そして、スポンサーの篤志家であるエイミー・ゲスト夫人は

「容姿端麗で話し上手な女性を捜してほしい」

と厳命した、と。
この時代、女性が空を飛ぶのにはよほどの実力か、
優れた容姿がなければスポンサーがつかなかったのです。

しかも、以前にアメリアについて書いたときにも述べましたが、
この飛行の操縦もナビゲーターも男性飛行士で、
女性は「パッセンジャー」。

それでもとにかく飛行機に乗って大西洋を越えれば

「初めての栄冠」

が手に入るというわけです。
しかし、ただの乗客では世間にアピールしないので、
女性が「指揮官」ということにする、と彼は嘯きます。

 

パットナムは飛行士をネタに金儲けを考えているだけで
彼らに対する敬意は全く持ち合わせていません。

「リンドバーグ?あいつには耐えられん。
上品ぶった頑固な男だ」

 

彼に反発するアメリア。

「わたしの言う通りにしていれば君はスターだ」 
 「つまりやらせね。わたしの夢見たことと違うわ」



現実での飛行は、ガンビアを横断しています。
ガンビアは西アフリカ西岸の国。
大西洋の横断は一瞬で終わったようです(笑)

アフリカの草原を群れをなして走るキリンやオリックスを
上空から眺めるアメリアとフレッド。



回想はパットナムが、大西洋横断のために操縦する
男性飛行士たちとアメリアを会わせるところにと飛びます。

1928年、マサチューセッツ州、ボストン。

大西洋横断の初飛行は水上機で行われ、
ボストン特有の湿地のような沿岸から出発したようです。

ナビゲーターの”スリム”・ルイス・ゴードン。



操縦士のビル・スターツ(シュトルツ)。
あからさまにうさん臭げな視線を彼女に向ける男たち。
腕利きと言われる彼らは「やらせ司令官」に反発しているのです。



初飛行の前に、万が一のことを考えて、と家族への手紙を
アメリアはジョージ・パットナムに託します。

「わたしを信用してくれるのか」

反発されていると思っていた彼は少し驚き、

「成功を祈って幸運を呼ぶおまじないをして」

というアメリアを可愛い女性だと意識するのでした。(たぶん) 

 

時々この映画は、白黒フィルム(実際のアメリアの映像)が挿入されます。
役者の容姿があまりにも本物とかけはなれていたらできない手法ですが、
この主役のヒラリー・スワンクはまるで生まれ変わりのように、
アメリアと似ているので何の無理もありません。

ちなみに、ヒラリー・スワンクは、この映画の製作総指揮者の一人です。

 

安全を期してフロートを履かせた機体は
重量オーバーで飛び上がることすら困難なのです。

 

案の定重すぎて機体が水上から飛び立つことが出来ません。

「指揮官、どうしたらいいか指示をくれよ」

シュトルツの皮肉っぽい言葉がアメリアに投げつけられます。

 

要するに、要らない重量=乗客であるアメリアのせいで飛ばない、
と彼らは彼女の存在を否定しているのでした。
関係者相手に

「鳩も飛ばせない女イヤハートに乾杯!」

などと酒の席で馬鹿にされているのを聞き、
アメリアは何事かを決心します。

そして天気図と現地の風向をチェックし、

 

二日酔いで寝ている男共を叩き起こします。

「飛ぶわよ!
追い風が吹いているから燃料を減らして離陸すれば大丈夫」



燃料を減らして飛ぶなんて、と渋るストルツに

「わたしが操縦するわ」

彼を置いてアメリアが正操縦士を務めるというのです。


自分も行く、というタイミングを失い、
岸に立つストルツに向かってアメリアが一言。

「 離陸するのはこのレバーを引いたらいいの?」

 

つまり、彼に参加するきっかけをあたえてあげたのです。
呆れた、と言った顔でにこりと笑い、飛行機に乗り込むストルツ。



今回は飛び立つことが出来ました。
しかし機体を軽くするため燃料を半分にしたのが災いし、
後1時間で燃料が切れるというときにタービュランスが。

 

木のドアが開いて落下しかけるというおまけ付き。
アメリアは着水すれば船舶の救助が受けられる、というのを

「だめよ!それだと失敗になるわ」

と受け入れません。



しかしそのとき陸地が見えてきます。

「ナイスワーク!」
「ホーリーハレルヤ!」

口々に健闘を称え合い、頭をなでなでしあう三人。
あんなに険悪だったのが嘘のようです。



陸地からボートが彼らを迎えにきます。
男性陣はちゃんとネクタイをして乗り込みます。
今のアメリカ人からは考えられませんが、当時の男性は
ネクタイをしていなければ失礼という時代だったのでしょう。

 

歌で三人を迎えるこの土地の人々。

「歌で迎えるのはアイルランドの習慣なの?」

訪ねるアメリアに、迎えにきた警官は

「それは知りませんな。ここはウェールズだから」

彼らの目的地はアイルランドのニューファンドランド島でしたが、
実際にたどり着いたのはウェールズ(対岸)だったのです。



ともあれ「女性最初の大西洋横断」は成功しました。
ニューヨークにパレード凱旋、そして一躍アメリアは
「時の人」として注目を浴びます。

何度も言いますが、このときアメリアが直後のインタビューで

「操縦はストルツがしたの。
わたしは乗ってただけの芋の袋みたいなものよ」

と自嘲したように、彼女を有名とした快挙は単に

「大西洋横断する飛行機の後部座席に乗っていた」

ことにすぎません。
映画ではあたかもアメリアが男2人を叱咤し、
持ち上がらない飛行機を飛ばしたように描かれていますが、
これも本人が直後にそう言ったり書いたりしたならともかく、
実際彼女は芋の袋以上でも以下でもなかったのですから、
これは映画用の演出だと考えた方がいいかもしれません。

これも何度も言いますが、アメリアはその地位に
決して満足しませんでした。


とはいえ、この快挙でインタビュー、執筆依頼、講演、CM出演、
写真の撮影などの依頼が彼女に殺到することになります。

仕掛人パットナムの戦略が功を奏して。



モデルのように飛行服でポーズを取るアメリアに
プロデューサーとして以上の好意で世話を焼くパットナム。



アメリアを有名にし、稼ぎどきとばかりパットナムは
あらゆる広告媒体への出演を彼女に要請します。

「操縦席の下に隠しておいたラッキーストライクだ。
この宣伝をする」
「わたしは吸わないけどあなたは吸って、って?」
「ストルツたちに金が入らん」

否応もなくサインをせまるパットナム。



大西洋横断の後、アメリアは次々と記録に挑戦します。

オートジャイロ(ヘリコプターの前身のようなもの)で
高高度達成をした、とここにはありますが、これに留まらず、
その障害で達成した記録はつぎのようなものです。

 

女性による達成高度の世界記録:14000フィート(1922)
  女性として世界初の大西洋横断(1928年)
  オートジャイロで飛行した最初の女性(1931)
  世界で最初にオートジャイロで米国を横断(1932)
  女性初の空軍殊勲十字章授与者(1932)
  女性としては最初に東海岸から西海岸までを飛行(1933年)
  女性による大陸横断最速記録(1933年)


かつての自分のエントリから引っ張ってきました(笑)



ジョージ・パットナムとアメリアは、成功の美酒に酔い、
陶酔の中で互いに相手を異性として意識するようになります。



最初にきっかけをつくったのはアメリアでした。
宿泊したホテルで、パジャマの上にコートを引っ掛け、
パットナムの部屋を訪ねるアメリア。



「踊ってちょうだい」

というわけで、そういうことになります。
このきっかけもおそらくジョージパットナムの書いた

「ラスト・フライト」

という本の記述ですから、鵜呑みにはできません。
何しろ彼は

「本を売るためなら多少の嘘は構わない」

ということを常日頃からモットーにしていたわけですから。



以前当ブログで「エリノア・スミス」という女流飛行家について
二日に分けてエントリを書いたことがあります。

この映画には、ニューヨークにかかる4つの橋の下を飛行機でくぐり、
「フライング・フラッパー」とあだ名されたエリノアが、
「第二のアメリア」を目指す野心家として登場します。

「パットナムさん、わたしを売り込んで下さい。
ナンバーワンの女流飛行家になりたいのです」

実際にエリノアはアメリアに会っており、 

「人に惑わされず、不可能と言われてもあきらめないこと」

というアドバイスを受けています。



1931年、ジョージ・パットナムはアメリアに求婚し、
2人は結婚します。

映画では、後にアメリアの不倫相手になるジーン・ビダルと
アメリアがパーティで話しているのを見たジョージが
その晩プロポーズをするということになっています。


アメリアはここでも「わたしは一人でやっていける」と
それを断るのですが、ジョージは

「君の夢をわたしに叶えさせてくれ」

と説得しています。
実際にもアメリアはその結婚について

「二重のコントロール」との「協力」

と称していたと言います。
結婚によって縛られたくない、束縛されたくない彼女は

「誠実な夫であれとわたしは強要しない。
わたしには古くさい貞操観念も持っていません。
1年経っても幸せを見出せなければ離婚して下さい」

こういう約束をして、ジョージと結婚したのでした。

彼女の言ったという「二重のコントロール」というのは、
プロデューサーとしてのコントロール、そして
法律上の夫としてのコントロールという意味でしょうか。

だとしたら、その「協力」というのは全て、飛行家として彼女が
自由に空を飛ぶための「妥協」であったと考えるべきかもしれません。

彼女はジョージに恋をしたから結婚したのではなく、
飛行機に乗るためのスポンサーと夫婦契約をしたのであって、
本当に彼女が恋いこがれていたのは、「空を飛ぶこと」だったようです。

この本音は彼女の汚点でも何でもなく、飛行家イヤハートの
むしろ勲章ではなかったかとわたしなどは考えてしまうのですが・・。

 

そんな彼女の追想を乗せながら、彼らのロッキード・エレクトラは、
アフリカのマリに到着します。




続く。 

 

 

映画「アメリア 永遠の翼」〜アメリアとジーン

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女性として初めての大西洋横断(ただし操縦はしていない)
という快挙を成し遂げ、一躍時の人となったアメリア。

プロデューサーであるジョージ・パットナムと、
互いを縛らないという「契約」をして、結婚しました。

その意図や内実はどうあれ、彼女は「パットナム夫人」となったわけで、
やはり人気があった日本でも、「アメリア・イヤハート」というよりも
「パットナム夫人」で通っていたこともあるくらいです。

前にも何度か、当時の女性で飛行家を目指す者は、大なり小なり
「女」を売り物にしてパトロンがつかないことには、
そのきっかけもつかめない、と書いたことがありますが、
この結婚もまた、彼女が飛行家として夢を叶えるための「手段と契約」
であったと考えるのが妥当でしょう。


そういうのが「真実の愛」というのかということはさておいて、
パットナムとアメリアの間の「男と女の部分」というのは、
その殆どが飛行機をなかだちとした「利害の一致」のうえに、
まるで添え物のように派生してきたといえます。

 もちろんそれはいい悪いで語れることではありません。

世の中にはそういった結びつきも珍しくはないですし、なにより
お互いを必要とすることが「愛」なのだとしたら、
この夫婦の間にも確かに愛が存在したと言えるからです。



さて、お話に戻りましょう。
このブログでもルイーズセイデン、パンチョバーンズ、ルースエルダー、
これらの飛行家たちを語るとき、必ず触れてきた女子だけの飛行レース、

「パウダー・パフ・ダービー」

の様子が描かれます。
アメリアの隣はこれも当ブログでお話ししたことのある天才飛行家、
エリノア・スミス。



実際のダービー参加者の服装をかなり正確に再現しています。



「たぶんわたしが勝つわ」

野心家のエリノアがパットナムに言い放つと、彼は

「アメリアが優勝すれば女性パイロットに有益だ。
世間も男と同様に扱うようになる」

と暗に邪魔をするなと言いたげに切り捨てます。
アメリアを演出するために策士ともなったパットナムの
「黒い」一面を彷彿とさせます。

 

これは実際のパウダー・パフの映像より。
このレースのオーガナイザーそのものがアメリアだったことが
このときわかりました(笑)

墜落している飛行機からはパイロットが這い出していて、
彼女が無事だったことが分かるのですが、実はこのとき、
アメリアは一度機を墜落させているのです。

このレースは9都市を9日間かけて飛ぶものだということですが、
おそらく飛行場に到着したとき、先着のパイロットとの時差を計り、
次の日の出発のときにハンディをつけるという方法だったと思われます。
飛行機がすぐに修理できれば遅れは取り戻せます。

墜落したのに3位にまで追い上げることができたというのは、
パットナムの力であり、また彼女の実力だったということでしょう。




観客の中には、パイロットの家族が。
女の子を抱いているのが一位になったルイーズ・セイデンの夫、
「セイデン」を作った飛行機会社のオーナー、フォン・セイデン。
さすがに似た俳優を配しています。

ルイーズもアメリアのように、財力があり社会的にも
力のある男性の庇護があって初めて空を飛べたのです。
彼女はビーチクラフト社のビーチ社長に気に入られたのが
きっかけで飛行機の世界に入ってきた女性でした。



左側の女性はおそらくパンチョ・バーンズという設定でしょう。
彼女については「リアル・キャラクター」というサブタイトルで
このブログでもお話ししました。



アメリアが優勝を讃えているときのルイーズ・セイデン。
家庭的な女性ということを強調したのかもしれませんが、
華奢でボーイッシュな写真が残されているルイーズとはかなりイメージが違います。

 

このときに、アメリアの主導で「99’S」(ナインティナインズ)
という女性パイロットのクラブが作られたことを知りました。

ナインティナインズは現在も女性のパイロットの組織、
教育機関として存続しています。

The Ninyty-Nines

彼女は自分だけが傑出していればいいとは考えず、
常に女性パイロットの地位を向上させることを
主目的に活動をしていたようです。

勿論その中で自分がトップであるという自信があってのことでしょう。



さてこちらはパットナム家。
朝食を終えたパットナム夫妻がくつろいでいます。

新聞を読む夫に向かって妻が言い出したのは、

「ソロで大西洋を飛びたいの」

このとき、パットナムは

「リンドバーグから5年経つが、単独飛行に成功した者はいない。
14人が挑戦し、そして死んだ」

とその申し出を否定します。
しかし、

「口先だけの人生なら死んだ方がましだわ」

というアメリアの決意に、パットナムもその夢を叶える気になるのでした。

 

ここで実写フィルム挿入。
飛行機の左に立つのがアメリアで、右がパットナムだと思われます。



1932年5月20日。
アメリア・イヤハートは、今度こそ「乗客」ではなく、
実際に操縦桿を握り、たった一人で大西洋を飛ぶことになりました。

 

14人が亡くなっている大西洋単独飛行への挑戦。

「わたしならできるわ」

言い切ったアメリアの技術を信じているとはいえ、パットナムは
これが最後になるかもしれない彼女の姿を食い入るように眺めるのでした。

今度も目標はニューファンドランド島です。



しかし強い北風と氷および機体の不調に翻弄されます。
恐怖で涙ぐむような夜が開け、朝日と共に彼女が見たのは・・

 

陸地でした。

最初の「荷物」として飛んだときにはウェールズに降りましたが、
今回もまたニューファンドランドではなくアイルランドに流されました。
つまり、二回とも若干「行き過ぎた」ということになります。

彼女がアイルランドに着陸したと聞いたパットナムは
震える声で

「ワンダフル、ワンダフルニュース!」

と叫びます。





すぐさま船でアメリアを迎えにヨーロッパにやってくるパットナム。
2人はホテルのロビーで固く抱き合います。

 

さて、それからが大変(笑)

アメリアを使ったありとあらゆるコマーシャルが作られました。
話題となった人物をアイコンとして商品広告に使うという現象の
いわば走りであり、2014年現在でも

「アメリア・イアハート効果」

という、つまり

「最初の成功ではないが、切り口を変えれば
最初に成功したのと同じ、あるいはそれ以上の成功とされる」

というモデルケースに喩えられることもあります。

このときのアメリアの広告媒体への露出はそれほど凄まじかった、
ということの証明といえましょう。

 

彼女が実際に出演したコマーシャルフィルムの再現と思われます。
地球儀が振り向けばそれはアメリア・イヤハート。
イーストマン・コダックカメラのCF。



彼女の露出は凄まじいものでしたから、動画も含め
数多くの写真が残されています。
実際の彼女の服装を再現したシーンも多数。

当時のアメリカ人の中でドイツ系の彼女は目立って背が高く、
しかも華奢でモデル体型。
顔のアップ写真より、動画等で全身像を見ると、
すらりとした長身から醸し出される雰囲気は実に魅力的です。

当時の彼女がアイドルとして絶大な人気があり、
企業という企業が「イヤハート効果」をあてにしたのも
当然と言えましょう。

そして、そんな彼女の演出を手がけたのが夫のパットナムでした。
次の挑戦への資金稼ぎとして広告収入を必要とするアメリアにとっても
この現象は歓迎すべきだったのです。


 

いまやセレブレティのアメリア、大統領夫人のエレノア・ルーズベルトも
この国民的英雄には近づくことの出来る存在。
彼女をパーティの席から夜間飛行に連れ出し操縦席に座らせ、
一瞬手を離して「操縦させてやり」おばちゃんおおはしゃぎ。



「貞操観念は持っていない」

と結婚に際して宣言したアメリア。
世界の有名人となり、人妻にもかかわらず近づいて来る男性も。

ウェストポイント士官学校で航空学の教官であったユージーン・ヴィダル。
彼の写真は見つかりませんでしたが、作家となった息子のゴア
(この映画にも子供時代のゴアが登場する)はかなりの美男であるので、
ジーンもまた魅力的な男性だったのでしょう。
演じたユアン・マクレガーはその雰囲気を伝えているに違いありません。

彼はそれだけでなく10種競技でオリンピックにも出たスポーツ万能。
口先で金を稼いできただけの夫が彼と比べて男として見劣りした、
と考えられなくもありません。

ジーンもまた、エレノアに

「写真で見るよりずっと美しい」

などといいますが、これは先ほども書いたようにエレノアは
皆にそう言われていたようです。

   

あるホテルでお酒と音楽に酔い、2人はそのまま・・・(ありがち)



しかしそれが夫に気づかれないわけはありません。
いくら「自由にさせること」を条件として結婚したとしても、
ジョージにだって男として、夫としてのプライドってもんがあります。
ジーン親子をパットナム家に泊めた後、

「わたしのいないときだけはやめてくれ」

と苦渋の表情で言い渡すジョージ。
まあもっともですな。

 

そのことを思い出し涙を浮かべる「現在飛行中」のアメリア。

「貞操観念は問わないで自由にやらせてくれ」

という彼女の申し出に了承したのはジョージなのですが、そこで
開き直ることができなかったのは彼女の善良さというものでしょう。

結婚が自分の飛行の夢を叶えるための手段と嘯こうと思えば
このときもおそらくできたはずですが、彼女は
それをしませんでした。



そんなある日、遠征先に電話をかけてきて、アメリアが書いた
ジーンへのラブレターを見つけ、電話で本人に朗読して聞かせる夫。

「今日あなたの手に触れ顔を見る喜び(中略)
あなたと過ごした温かな夜の星を思い出す・・。
美しい詩をありがとう。
・・・・・・But I've never see it.」
(わたしは見たことがないが)」



それだけでしたが、アメリアはジーンに別れを言い渡します。
ジョージを愛していたから、とも言えますが、それより
ジョージの存在は彼女に取って

「空を飛ぶ夢を叶えるために必要」

で、恋愛と空を飛ぶこと、どちらかを選べと言われたら、彼女は
何のためらいもなく恋愛を切り捨てることができたのです。



危機は去り、互いの必要性を認識し合う2人。
何度も言うようですが、これもきっと「愛」。



さっそくやり手のパットナムは世界一周用の飛行機のための資金を
ある大学の協力を取り付け調達してきます。
何と8万ドル。

感激してアメリアはジョージに抱きつきます。
ジーンと別れて帰ってきた甲斐がありましたね(棒)



ジーンは世界一周の計画が危険だと忠告に来ます。
何が何でも挑戦したいアメリアと、妻をこの男から
取り返してやったぜ!状態のパットナムは彼の進言を一蹴し、

「いつもアメリアの心配をしてくれてありがとう。
夕食でも一緒にどう?」

と余裕たっぷりに言い放つのでした。

結果として実際はこのときのジーンの忠告通りのことが起こり、
アメリアは命を失うことになるのですが・・・。



夫婦の元を去っていくジーン。

「彼には理解できないよ」

彼に理解できないこと、とは、世界一周への挑戦の意義か、
アメリアが自分を捨てた理由、どちらの意味だったのでしょうか。



世界一周は単独ではなく、腕利きのナビを雇うことにしました。
それが、アメリアと共に太平洋で永遠に姿を消すことになる
フレッド・ヌーナンです。

空中給油が不可能だと悟ったアメリアは、フレッドが
給油のためにそこに着陸できなければ命はないという
長さ3キロの島を見つける使命をこのナビに託すことにします。



赤道上最長距離を一周する飛行に飛び立つアメリアの
ロッキード・エレクトラ。(実物)

 

世紀の瞬間を捕らえるため、記者がわざわざハワイまで
出発の様子を見に来ています。

 

ハワイのフラダンスに送られて搭乗し、離陸しようとしますが、
懸念された通り燃料が重すぎて滑走路でクラッシュ。

  

一瞬にして絶たれた夢。
呆然とするアメリア。
しかし、パットナムがそれを許容し、「夢を叶えるため」
かれらは彼らの「最後のフライト」に向けて歩を進めるのでした。

壊れた機体を修理しての挑戦です。



「自分の力量にあの事故で不安を感じませんか?」

記者会見に置ける記者の質問も今回は辛辣です。



そしてついに1937年6月1日がやってきました。
フロリダ州マイアミからアメリアとヌーナンの乗った
ロッキード・エレクトラが出発する日が。

「これを飛んだら引退ですか?」

そういう質問に対し、彼女は

「命のある限りわたしは飛び続けるわ」

と答えるのでした。
命のある限り。
それは本当のことになります。



出発前の最後のひととき、喧噪からはなれて2人で
別れの言葉を交わし合います。

「元気で戻ってきてくれ」
「約束する」

そしてアメリアは飛び立っていきました。
二度とジョージの元に戻ることのないフライトに・・・。



続く。













 


 



 

映画「アメリア 永遠の翼」〜「KHAQQ, Can you hear me?」

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アメリアとフレッド・ヌーナンが、最後の飛行に出発しました。



彼らが見たであろう景色が次々と息をのむような美しさで
画面に登場します。

アメリアは8mm映写機を携え、給油と休息のために立ち寄った
それぞれの土地で、撮影をしていました。
最後のフライトの前、重量を軽くするために彼女はそれらを
パットナムの元に送り返していたそうです。



アメリアの世界一周への飛行を告げるラジオの前の
ジーンの息子、ゴア。

ゴア・ヴィダルは長じて小説家、脚本家になりました。

「ベン・ハー」「パリは燃えているか」

手がけた映画ではこれらを知らない人はいないでしょう。
アナーキーな行動と同性愛者であったことでも有名です。



その姿を見るジーン・ヴィダル。

危険だと進言したのを「元恋人の横やり」のように
捉えられた彼としては複雑だったでしょう。



パプアニューギニアのラエに到着。
ラエ、というと、日本の海軍航空隊基地があったところです。
ここを前線基地として戦闘をしていたのが、あの台南航空隊ですが、
それもこの後数年後のことになります。

そして、このラエが、アメリアとヌーナンの最後の中継地となります。

ここで不可思議なサイドストーリーが紛れ込んできます。



ヌーナンは酒に問題がある、という人物評を聞いていたアメリアですが、
本人の「仕事に影響を及ぼしたことはない」
という言葉を信じてナビに採用した経緯があります。



最初の大西洋横断のときのパイロットが二日酔いだったとき、
彼女は自分の父の酒癖が自分をいつも失望させてきた、
と強い調子でなじったというシーンがありました。
本当だったかどうかは分かりませんが、この映画ではそれが
このシーンへの伏線となっています。



このとき、酔ったヌーナンはアメリアに

「あんたは夫に誠実ではない」

とジーン・ヴィダルのことを仄めかし、

「結婚相手を愛していてもそう言う関係はアリだろう?
大抵の男たちにそれが可能なように」

と、暗に自分と関係することを誘うのです。

アメリアとフレッド・ヌーナンはこのあと太平洋に没し、
世界一周のこの飛行中、二人の関係がどうであったかは
二人しか知りません。

なのに、結果的に最後の夜となったこの日、ヌーナンが
こういう形でアメリアを侮辱した、とするこのエピソードは、
随分フレッドを馬鹿にしているようにも、また下種の勘繰りとも思われ、
この映画に対する評価に微妙なものを与えます。

大変深読みするならば、ヌーナンは本能的に自分の死が
間近にある、あるいはこの飛行が成功しない可能性が
非常に大きなものであると感じていたがため、
刹那的な「男の本能」としてそれを求めた、という表現かもしれません。

それが本当だったとしても、男はともかく女のアメリアには、
とてもそんな気にはなれなかったでしょう。



侮蔑と非難の目を男に向けるアメリア。
彼女自身も、夫を裏切っていたという「脛に傷持つ身」であるため、
一方的に相手の無礼を切り捨てられないというジレンマがあります。



ちょうどそのとき、夫のジョージ・パットナムから
無線の連絡が入りました。



心から相手を心配している夫の声に触れ、
ざわめいていた彼女の心は感謝であふれます。



しかし彼は彼女がヌーナンのことを言うとき声が沈んでいる、
ということを微妙に察知します。

パットナムはこういうことも含めて後に本を書いています。
もしかしたらこういうアメリアの小さな異変に
何かがあったのかもしれないと悟ったのかもしれません。


確かに彼らの結婚は、女流飛行家とその夢を叶えるための
スポンサーの結びつきでしたが、だからといってそれが
本当の愛ではないなどと一体誰に言えるでしょうか。

パットナムの著書によると、この無線でアメリアは

「これを『ラストフライト』にするわ」

終わったら飛行機を降りるから二人で暮らそう、と言ったとされます。



次の日、お酒が覚めて我に返ったヌーナンとアメリアを乗せ、
飛行機は東へ、ハウランド島へと向かいます。

全長3キロしかなく発見に困難を極める島。
ここで給油できなければ生還は不可能であるが故に
腕利きのヌーナンが雇われたのでした。



出発直後から無線での連絡が取れなくなります。
パットナムは無線連絡を沿岸警備隊の協力を得て行っていました。

アメリカの沿岸警備隊は海軍と同様の組織で、階級も同じ、
制服もセーラー服と同じです。



中継地であるハウランド島沿岸には飛行支援のために沿岸警備隊アイタスカ号が
停泊し、割り当てコールサインKHAQQを用い、通信を行っていました。



KHAQQをコールするときには、

King, How, Able, Qween, Qween

と発音します。
この「キング・ハウ・エイブル・クィーン・クィーン」
が最後まで絶望的な響きで何度も何度も繰り返されるのです。 



アイタスカ号の通信海曹はパイプを吸いながら
アメリア機との通信業務に当たっています。



この見張り水兵は、上官が来るまで居眠りをしていました。
やって来た上官は方向探知器が切れたままになっているのに気づきます。

「いつからだ・・・バッテリーが切れている」

これって、もしかしてアメリアの遭難の原因が
この若い水兵の居眠りにあったってことなんでしょうか。



イヤハート機からはアイタスカに何度も無線が届きます。
しかし、アイタスカからの音声をアメリアは聞き取ることが出来ません。 



無線トラブルであると判断した海曹は、モールス信号を
送ることを決定します。 

そして、彼らとアメリアの間に生存を賭けた必死の呼びかけが始まります。

「キング・ハウ・エイブル・クィーン・クィーン、聞こえますか」 

「こちらキング・ハウ・エイブル・クィーン・クィーン」 

「こちらアイタスカ号、キング・ハウ・エイブル・クィーン・クィーン聞こえますか」 


・・・・・・・・。



最終回に続く 。




映画「アメリア 永遠の翼」〜ラストフライト

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映画「アメリア 永遠の翼」最終回です。

アメリアとフレッド・ヌーナンの乗ったエレクトラ号と、
沿岸警備隊のアイタスカ号の通信室は、互いを捕捉するため
絶望的な交信を繰り返していました。


アイタスカが受信するエレクトラの無線は非常に強い感度でしたが、
逆にエレクトラは全くアイタスカの電波を捉えることが出来ないのです。



このシーンは飛行しているエレクトラ号を実際にに空中で撮影
・・・・したのはいいのですが、よく見ると機体に
撮影をした飛行機の機体が写っています。 

 

今アメリア機はアイタスカ号の上空にいるはずなのです。
フレッド・ヌーナンがきっちりと方位を特定し、
現在位置も正確であったはず・・・なのですが・・。

もう今の彼にはナビとしてする仕事はなにもありません。
ただ無線がつながることを祈るだけです。 



アメリアの声ははっきり聴こえているのに、
向こうにはアイタスカからの送信が全くとどかないのです。

アイタスカは何度も周波数を変えて送信しますが、
その変えた周波数もエレクトラ号に届くことはありませんでした。 

 




「アイタスカ、
こちらキング・ハウ・エイブル・クィーン・クィーン。
そちらの声が聞こえません。島も見えません。
当機の位置を確認願います。
ハウランド島まで100マイル」



アイタスカ号のトップデッキからは発煙筒が炊かれます。
通信士は何度も何度も呪文のように

「キング・ハウ・エイブル・クィーン・クィーン」

と呼びかけますが、アメリアには聴こえません。
聴こえなかった、というのは「おそらくそうであっただろう」
という後世の推測です。

もし少しでも聞こえていたらはすぐに返答があったはずだからです。

因みにこのころ無線はまだ未公開の装置で、イヤハート機には
政府から特別に搭載を許されて装備されていました。

極秘の装置であった故に、このとき使用された
無線航法探知器と誘導電波発信器は、電波が微弱で、
それゆえ通信が困難であったと言う説があります。




このとき、ジョージ・パットナムはどういうわけか

「イヤハート機との通信に成功した」

という知らせを受けています。
間違いだったのか、一瞬聞こえただけのアメリアの声を以て
通信成功としたのか、それはわかりません。


いずれにせよ、ジョージ始め一同はこの知らせに安堵の色を浮かべます。

 

イヤハート機からの通信が入るたびに一喜一憂する通信士たち。
ハンサムな若い水兵とこの髭の海曹の演技も見物です。

 

アイタスカ号の艦長も通信室に現れ、

「方向探知機はどうなっている?」

などと気遣います。
海曹はバッテリー切れをしていること、そして

「一晩動いていたのでもう使えません」

と報告します。
これも極秘の、未発表の装置であったため、だれも
そのケアに知悉していなかったということです。



呼べども呼べども一向に通信は入ってきません。
ついに涙ぐむアメリア。



視界にはただ太平洋が茫と広がっているばかり。
いつもは空からその美しさに感嘆しつつ上を飛んだ海は、
このときの彼女に取ってあまりにも広く、果てしなく、
絶望の色をして見えたことでしょう。



このときの様子は同時中継されていました。
ラジオ放送に聴き入るジーン・ヴィダル。



ヌーナンはこれから起こる最悪の事態に恐怖と絶望で
呼吸も困難になっています。



そのとき、アメリアの声をアイタスカの通信室が捉えました。

「当機は157°〜337°の交線上にいます。
現在南北線状を飛行中!」

やったぞ、とばかり顔を見合わせてアメリアの声が切れるなり
無線のマイクに飛びつき、


「聞こえます!聞こえます!そちらは聞こえますか?」

 

しかしその必死の呼びかけもイヤハート機には届きません。
その飛行機は、たった一機、太平洋の上を飛んでいきます。

わたしがこの映画をもっとも評価するのがこの部分です。

彼女の絶望の表情と迫り来る海面を写すだけで、
それ以上の描写をせず、襲い来る悲劇については観るものにその描写を任せ、
余韻を残すこの手法は秀逸です。



すでに残存燃料で飛行できる時間は過ぎました。
呆然とするパットナムとそれを見守る周りの人々。

 

海曹は相変わらず呼びかけを続けますが、もはやそれは
生存を信じている人のものではありません。
あきらめと深い憔悴とが、その力のない声に漂います。








最後にアメリアの残したその姿が写真や動画で現れます。
左は最初の大西洋横断のときのパイロット、ストルツ飛行士。



日本に来たこともあります。
彼女は日本でも「パットナム夫人」として人気がありました。

 

フレッド・ヌーナンと。
後ろはおそらく事故機となったロッキード・エレクトラでしょう。



そして、ジョージ・パットナム。
パットナムはアメリカの夫として有名になりましたが、
企業人としても真に実績のある実力者でした。




女性パイロットを旗を揚げ率いるアメリア。
この写真のアメリアのポーズは

「民衆を率いる自由の女神」

そっくりです。




翼の上を降りて来る姿が動画で残されています。
右側にいるのはジョージ・パットナム。

男たちは彼女に同時に手を差し出します。

今度飛行機から降りたとき、その手をしっかりと握って
そのまま自分の懐に彼女を抱きとめたまま離さない、
二人はそう約束したはずだったのです。



パットナムはアメリアの死後2年経った1939年、

「アメリア死亡宣言」

をして再婚しています。
アメリアがそもそも2番目の妻であったわけですが、
その3番目の妻も6年後には離婚、4番目の妻とは添い遂げましたが、
それは彼が1950年に亡くなるまでの5年間というだけのことです。


 

実は映画未公開シーン集には、パットナムの妻が登場しています。
ジョージ・パットナムは1929年、つまりアメリアと知り合って1年後に
このドロシーと離婚しています。
この妻は19歳下の男性と不倫をしたため(!)このときには
すでに仲は険悪だったということです。



凱旋パレードのとき。

 



アメリアに皮肉の一つも言ってみたりとか。



「わたしたち、もうおしまいね」
 

 

映画では妻の登場シーンは全てカットされていました。
プロデューサーが女性(しかもアメリア役をしたヒラリー・スワンク)
なので、この辺情け容赦ありません。


さて、果たしてアメリアが生きて帰ってきていたら、二人は
一生を添い遂げる平穏な結婚生活を送れたでしょうか。

有名人である妻のプロデューサー兼パブリッシャーとして、パットナムは
世間体と便宜上決してアメリアを手放すことはなかったでしょうが、
アメリアはもし帰って来られたら引退して飛ばないつもりをしていたのですから、
彼女の方にパットナムを必要とする「理由」はもはやないのです。

このパットナムの結婚歴や、アメリア自身の「結婚は夢を叶えるための手段」
という言葉を穿った考えで捉えると、彼らのその後の結婚生活は決して
「ハッピーエバーアフター」とはならない可能性が高かったのではないでしょうか。


つまり「アメリアとジョージの物語」は、アメリアの死によって
最高に美しい形で幕を降ろしたということになります。



アメリアとヌーナンを乗せた「エレクトラ号」が消息を絶った後、
アメリカ政府は、沿岸警備隊、アメリカ海軍、そして
隣接していた地域を依託統治していた日本からは帝国海軍が協力し、
それらで組織された捜索隊は、当時で考えうる限りの手を尽くし
彼らの行方を探しました。

帝国海軍からは 水上機母艦「神威」(かもい)と艦載機、
海洋調査船「甲州」が参加しています。

しかし、何もその痕跡を見つけることは出来ませんでした。

アメリアの遭難は未だに謎に包まれたままです。 

 


(終)




 

戦没者遺骨収集事業〜海自艦艇による遺骨帰還

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大東亜戦争において、海外で戦没した日本人は240万人に上ります。
そのうち未帰還の遺骨は約113万柱。

113万人もの日本人が故国に骨を埋めることも出来ず、
無念のままに戦後の永きを費やしてきたということになりますが、
この間も厚生労働省の管轄で、継続した遺骨収集が行われてはいました。


ところで、以前にも書いたことがありますが、あるNPO団体が、
フィリピンでの遺骨収集において、現地人に対価を払って集めさせたため、
その結果フィリピン人の墓が暴かれ、骨が盗まれるという事件が起こりました。

ルソン島のある小さな村で、遺骨が盗まれるという事態が続発し、
隣村の連中が骨を掘り出しているという話があったので、隣村の村長を問いただすと、
『盗んではいないが、掘り出した骨はすべて日本のグループに渡した』
と答えたというのです。

いや、それを盗んだというのではないか?

というツッコミはさておき、フィリピン人にも言い分がありました。
日本人が遺骨を探していて、持っていったらお金をくれると知った
あるフィリピン人が、戦中の遺骨があると祖父から聞かされて知っていた
洞窟に彼らを案内しました。

ここにはフィリピン人の骨も混じっていると聞いていたので 

「 全てが日本人のものかどうかわからない」

 といったのにもかかわらず、日本人たちはお構いなくそれを集め、
男性に5万円(彼の年収の半分に相当する大金)を渡したというのです。

もともと政府は戦友会などから戦争体験者を現地に派遣して
収集を行っていたのですが、彼らの高齢化とともに同行が困難になり、
さらには、次第に見つけ出される遺骨が減少したことを受け、
民間の団体に「丸投げ」する形で依託を始めました。

その団体の一つが、現地のフィリピン人に報奨金を出して
遺骨を集めさせるという「鵜飼い」の手法を取ったため、
このような事件に発展してしまったというわけです。

ダイアモンドオンラインの記事によると、このときに
この団体が政府から受け取った委託費は、4700万円に上ったそうです。


ミンドロ島ではこんなことも起こりました。
ここで戦死した日本軍の将兵は400人単位といわれていますが、
ここでこの団体が集めた遺骨は数千にも及びました。

団体はフィリピン人に「これは日本人の骨である」と宣誓書を書かせ、
しかも形だけ鑑定させて「間違いはない」としてしまうのです。
死んだ数よりたくさん骨が集まっても当然のことでしょう。

鑑定というのも、骨のかけらを「見て」人種を鑑定することは不可能です。


しかし、この民間団体はむしろこれに対して開き直り、

「こんな方法でも国がやらないんだから仕方ないじゃないか」

と取材記者に対して言い放ったそうです。
さらに政府側の対応はというと、厚労省の担当者はそのことを知っており、
しかしながら取材に対しては、

「 改めるべきところは改善をしていきたいと思いますけど、
いま、時間が非常に短い話なので具体的に何をするのか、
どうするのかということを言われも、すぐに右です、左です、
という形での回答は申しかねますので」

という見事なお役所答弁に終始し・・・・・、
つまり、政府は民間団体の、民間団体はフィリピン人のせいにして
責任のなすり付け合いをしているという状態になってしまっているのです。



ところでジャーナリストの野口健氏は、
産經新聞への寄稿でこう述べています。

戦没者の遺骨収集活動に携わって約10年。
痛感させられたのは遺骨収集に対し国の姿勢が消極的であること。
厚労省の遺骨収集は昭和48(1973)年頃に事実上の打ち切りとなった。
海外戦没者の約半数である113万人のご遺骨がいまだ帰還していないにもかかわらず。
それ以降は民間団体からの情報が入れば収集に行くという
民間任せのスタンスが目立つ。

では、アメリカはどうか。
硫黄島で米軍側の戦死者は約7千人。
その1人が行方不明のままであり、その1人を必ず見つけると
アメリカは多数の調査員を硫黄島に派遣し捜索活動を続けている。

また、諸外国は遺骨の身元確認のために積極的にDNA鑑定を行ってきた。
驚いたことに2007年、オーストラリア陸軍は
第一次世界大戦中にベルギーで戦死した自国兵士の身元を割り出した。

映画「硫黄島からの手紙」で監督のクリント・イーストウッド氏が驚いたのは
日本人の出演者で硫黄島の戦いについて詳しく知っている者が
一人もいなかったことだ。

(註:それどころか主要軍人役の一人は在日朝鮮人俳優だった) 

「2万人近い命を失っておきながらそのことに全く関心がない。
アメリカでは考えられないことだ」と。
無関心なのは国や役者だけではない。日本中がそうなのだ。

麻生内閣の時、石破茂氏(現地方創生相)に
「どうしてこの国は祖国のために戦い亡くなった方々に冷たいのですか」
と嘆いたことがある。
 
目をつぶり、じっと僕の話に耳を傾けていた石破氏は
「遺骨収集が国家の責務になっていない。
国家の責務としなければ予算も人員も増やせないし、
国の責任で帰すのだという責任感も生まれてこない。まずは議員立法で何とかする」。
その直後、自民党は下野。ガックリさせられた。
あれから5年。今年に入り新聞に大きく
「自民党、遺骨収集を『国の責務』と明記する議員立法を秋の臨時国会に提出する」
と報じられたではないか。

国のために命をなげうった人を国の責任で帰すのは当然であり
国家としてのプライドの問題だ。
そういう決意があるかどうか今まさに試されようとしている。



安倍晋三政権は遺骨の帰還に力を入れており、自民党は今国会で
関係省庁の連携強化などを定めた法案の準備を進めています。



ところで、この春の海上自衛隊練習艦隊出港式に先立って行われた
艦上レセプションの席上、わたしはジャーナリストの笹幸恵氏と
お話をさせていただきました。

笹氏は、靖国神社崇敬奉賛会の講座で(わたし的には)おなじみでしたが、
直接お話ししたのは初めてです。
ちなみに、先日表敬訪問した呉地方総監である海将は

「僕が広報のときに彼女を紹介して練習艦隊の取材をしてもらったんですよ」

とおっしゃっていました。(ここでもご縁が・・)

氏は遺骨収集をテーマに行動するとともに執筆・周知活動をしており、わたしが

「硫黄島で今も自衛隊が使っている滑走路の下には遺骨がたくさん眠っている」

ということを初めて知ったのも、氏が進行役で参加していたセミナーでした。

滑走路下の遺骨については、2013年で終了する予定の
戦没者遺骨収集事業の集中期間を5年間延長し、
2018年までとすることを、安倍内閣は先頃決定しています。


その笹氏が参加する、ガダルカナルの遺骨収集事業が
その決定とほぼ日を同じくして終了しました。
JYMA(日本製年遺骨収集団)からも何人か参加し、
HPにはその報告が載せられています。


これらを、わたしも最近ある方から教えて頂いて知ったのですが、
あらためて調べてみると、わたしがあの日笹氏を「かしま」艦上で
お見かけしたことと無関係ではなかったのです。

わたしはそのとき氏が『かしま』にいた理由を『関係者の関係者』
であるからだとのみ思っていたのですが。

産經新聞、6月24日の記事をご覧下さい。


海上自衛隊が、政府が戦没者慰霊事業として実施している遺骨収集事業に
初めて協力する方向で調整を進めていることが23日、分かった。
遠洋練習航海に出ている部隊が9、10月、先の大戦の激戦地だった
ソロモン諸島のガダルカナル島から日本に遺骨を輸送する計画で、
遺骨収集事業に政府全体で積極的に取り組んでいる姿勢を示す。

(略)

一方、海自は幹部候補生学校を卒業した初級幹部らを対象にした
半年間程度の遠洋練習航海を毎年行っている。

今年は練習艦「かしま」など3隻が5月に日本を出国。
太平洋を周回する形で米国やパナマ、オーストラリアなど13カ国に寄港し、
10月24日に帰国する予定だ。

 練習航海では9月19、20両日にガダルカナル島のホニアラに立ち寄る予定で、
政府や民間団体が同所で遺骨収集事業を実施する時期と重なったため、
海自艦艇で集めた遺骨を日本まで運ぶ計画が浮上した。
政府内の調整で、防衛省は「協力できることは協力したい」
と前向きな意向を示している。

自民党は遺骨収集事業を「国の責務」と位置づけ、
外務省や防衛省の協力義務を定める議員立法を秋の臨時国会に提出する方針で、
今回の海自の協力をモデルケースとしたい考えだ。

 
これはすごいことです。
ガダルカナルの御遺骨は、海上自衛隊の、
つまり日本の海軍の艦船に乗って祖国まで帰ってくるのです。

日本から遠く離れ身を朽ち果てさせ、無念の思いを異国の地に留まらせていた
将兵たちの霊にとって、これに勝る喜びの帰国はあるでしょうか。


さらに、9月30日のニュースでは

日米両国が先の大戦から70年となる来年以降、
戦没者の遺骨の身元確認などで連携する本格的な共同作業を
検討していることが29日、分かった。
日本政府関係者が明らかにした。
両国の戦没者の遺骨が混在している可能性があることから、
情報を共有し鑑定などを共同で進める狙いだ。
かつて激しく戦った両国の共同作業が実現すれば、
東日本大震災の救援活動に続き、日米新時代の礎を強化する
「第2のトモダチ作戦」となりそうだ。

共同作業は、今年に入って米側から日本政府に打診があった。
戦死者の遺体回収や遺族への返還などを専門的に行う米軍の常設機関
「統合戦時捕虜・行方不明者調査司令部」(JPAC)が要請した。

JPACは約400人のスタッフが
「全ての兵士を故郷に帰す」をスローガンに活動。
太平洋地域など日米両国が激突した戦地跡でも作業に従事しているが、
両国の兵士が折り重なって戦死したケースが少なくない。
米側はかねて「日本側が焼骨を行う前にDNA型鑑定を行いたい」
「遺骨の場所を特定するため戦史情報を共有したい」との希望を持っていた。

日本政府高官は産経新聞の取材に対し、
米側の要請があったことを認めた上で「前向きに検討している」と答えた。
JPACは、今月上旬に訪米した次世代の党幹部との交流でも
共同作業への協力を要請した。



日本に取ってありがたいのは、遺骨の収集、つまり国のために戦った
人を祖国に返すということにかけては、日本とは温度差の違いすぎる
アメリカが共同作業を申し入れてきたということです。

フィリピンの遺骨収集におけるスキャンダルに対しての役人の自己保身、
事なかれ主義を見るまでもなく、「国の責務でないことはやらない」
という考えが骨身に染み付いてしまっている日本の役所も、

「たとえ最後の一人になっても最後まで遺骨を国に戻す」

という熱意と誠意を持って事に当たっているアメリカと組む事で、
今まで遅々として進まず、誤ったやり方で不祥事を生むような
遺骨収集事業の問題点がクリアにされ、かつ進捗にも弾みがついていくでしょう。 


実は、この事を教えて下さった方から、ホニアラ島での
練習艦隊への遺骨乗艦の写真を送っていただきました。
個人の写真なのでここではお見せできないのですが、
真っ白な第二種夏服に身を包んだ「かしま」の海曹、海士たちが、
純白の布にくるまれた骨箱を掲げて厳粛に歩むその画像を見て、
わたしは思わず目頭が熱くなったものです。

先頭に立ち進むのは、あの出航の日写真にも撮ったお髭の海曹長でした。



「かしま」艦上で、遺骨収集事業の話を伺ったとき、笹氏は

「骨の事しか考えていない、って良くいわれます」

と笑いながら答えていました。


こうするべきだ、こうならねばならないと口で言うのは簡単ですが、
誰かがやらねばならないことを、実際に行動できる人間はそう多くありません。
この事業に実際に携わったボランティアの学生さんたちを含め、
彼らの実行力に対し、わたしたちは、ただありがたさに頭を垂れるばかりです。


戦後69年目に、ようやく帰還するガダルカナルの将兵たちの御遺骨。
彼らはようやく日本の土に還ることができるのです。

英霊たちの御霊にとっていつまでもそこが安らかに眠ることのできる
平和な安寧の国であることを願って止みません。 






 

 

大和ミュージアム・進水式展「進水式まで」

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呉の海上自衛隊総監部に表敬訪問に行った日、
帰りの新幹線待ちの時間を利用して、大和ミュージアムに行きました。



前にも一度見学し、その様子をここでもお話ししましたが、
あれから2年くらい経っているわけですし、その間、
こちらの知識もちょっとはレベルアップしている(はずな)ので、
今の視点で見ると、また違った発見があるに違いありません。

駅前に荷物を預け、タクシーでわずか5分。
近すぎて運転手さんには悪いかな、と思いましたが、
大和ミュージアムまで乗る人はたくさんいるのだそうです。

呉という街は大和ミュージアム以前はとくに観光施設もなく、
昔から「海軍の街」であったため、その名残を求めて立ち寄る人が
いる程度でしたが、ミュージアムが出来てから、
これが思いもよらぬ「観光資源」となり、人が集まって来るようになりました。

呉の人々に取っては「大和ミュージアムさまさま」というわけです。

わたしは、呉駅の発射合図に「宇宙戦艦ヤマト」のメロディが使われているのに
帰りのホームで気づき、この駅への大和の「貢献度」を改めて知りました。


さて。

今回、大和ミュージアムの前に降り立ち、わたしは人知れず快哉を叫びました。

「進水式展」

特別展示として、このような企画が行われているではありませんか。
常設展展示は写真撮影禁止ですが、この特別展は写真可です。

しかしこの、写真の許可不許可というのは何処で決まるのでしょうね。
特別展の中にも「これは撮らないで下さい」というものがありましたし、
流れているビデオも撮影不可でした。

展示は、まず「進水式は何か」の説明から入ります。
しかし、「進水式とは何か」の前に(笑)進水式が
船の完成仮定のどこに入って来るものか、という説明があります。

現地でじっくり見ている時間はなかったので、
わたしも帰ってきてから初めてこの言葉の定義について知ったのですが、
進水式とは、

船の命名を行い、船が海上に浮かぶかどうかの実験と、
誕生を祝う式典を兼ねたもの

です。

すごく基本的なことなんですが、進水式のときに全ての船はそれまでの
陸上から、初めて海の上に浮かべられることになるわけですから、
もしかしたら浮かないかもしれない、という可能性もあるわけです。

それにしても、あったんでしょうか。進水式での沈没。

まさかそんなことが、と思ったんですが、あったんですね〜。
3年前の2011年、中国の黄河で、豪華客船「酒鋼号」進水式のこと、
群衆が見守る中、突如船尾から沈んでいき、船首を30度立ち上げて
綺麗に「タイタニック式沈没」をしてしまったということが。

当局の説明によると「操作ミス」だったというのですが、
後から説明するように、進水第から滑り落とすだけの操作の
一体何をミスしたら船尾から沈んでいくというのか・・。
中国4千年の謎です。

まあこれは特殊な例だと思うのですが(思いたい)、
沈没まで行かずとも、進水台から滑り落ちる際、台が破損して
その木片が飛んできたり、といった事故は結構あるようです。


さて、そう言った話は後回しにして、呉大和ミュージアムの
特別展、「進水式とは」のコーナーに戻りましょう。 
呉海軍工廠では、1897年(明治30)年、通報艦(というのがあったのですね)
『宮古』の進水式が最初に行われて以来、終戦の8月20日までの間に
未製艦6隻を含めて139隻の船が進水式を行いました。

その中の一つ、戦艦「陸奥」の設計から竣工までの過程です。 

 


 


 


 


 


 

お恥ずかしいことにわたしはこれを見て初めて知ったのですが、
進水式というのは偽装前に行うものだったのですね。
言われてみれば当たり前なのですが、艦橋やら煙突やらが
設置された状態で、進水台を滑り落とすというのは無理です(笑)
あくまでも進水式は船が浮かぶかどうかの実験であって、
もしそこで何かあったら上に色々乗っける前に対処しなくてはいけません。

というわけで、おつぎは進水の方法です。
「陸奥」は後ろから滑り降りていったようですが、進水式、
で映像を探すと、横向きに落ちるタイプもあります。


後ろ向きに落ちていく方法が最もポピュラーで、これを

船台進水

といいます。
傾斜を付けた台の上で建造をしておいて、滑り落とすというわけ。
支台の中央には盤木という支えがあるのですが、進水式直前に
これは全ての支柱とともに取り外されて、

「トリガー」

という金属の滑り止めで船体を一時的に留めておくのです。
進水式で

「支鋼切断」

がされると、船が滑り落ちる仕組みです。
支鋼切断については説明をまた後に譲るとして、
呉海軍工廠で行われた船台進水の二例をご紹介しましょう。 



いずれも明治時代に行われた進水式で
戦艦「安芸」ならびに戦艦「摂津」のものです。
この他、呂号潜水艦などもやはり同じように船台進水を行ったようです。

もう一つの方法は

横向進水

というもの。
船が海水面に対して並行に置かれ、横滑りして進水します。
これを行うと、水面に落ちた後もあまり船が動かないので、
場所があまりない、たとえば河川添いの造船所で行われます。



呉海軍工廠では横向進水も行われたようです。
水雷艇「雲雀」。これも明治年間の進水です。

日本ではあまりありませんが、海外では横向きがスタンダードです。



アメリカのウィスコンシン州で行われた進水式の様子で、横向きです。
木片がカメラマンに向かって飛んで来る怖いビデオですが良かったらどうぞ。
この人、無事だったんでしょうか・・・。


進水の方法にはもう一つのやり方があります。

船渠進水

といって、船を滑り落とさず、ドックに海水を注入すると言うやり方。
これだと事故は起こりませんね。
巨大な空母や戦艦大和などはこの方法で行われました。



航空母艦「赤城」、同じく「蒼龍」。
この他戦艦「扶桑」、水上機母艦「千歳」もこの方法です。



「ふゆづき」の進水式を見た方が、進水台から滑り落ちるときの、
まるで雷鳴のような轟音を聞いて驚き感動した、と言っていましたが、
注入式ではこのようなスペクタクルは望めないので、
いまひとつ観ている方は感動に欠けるかもしれません。


さて、それでは、進水式の標準的な式次第を説明するために、
当館では1952年に呉で進水式を行った

タンカー船「ペトロ・クレ」

(クレって呉のクレ?)の進水までの様子が写真で挙げられていました。
ペトロ・クレが建造されたのは、戦艦「大和」と同じドックです。
それくらい大きなタンカーであったということで、
当時世界最大のタンカーの就航に世の中は湧きました。





命名式で名前を述べているのは、昭和天皇の第4女、
池田厚子さんです。



支鋼切断も池田厚子さんが行いました。



このときの進水式には大変多くの人が集まり、
船の安全航行を願いました。

この展示では、ここで進水式を行った船にまつわる資料の、
貴重な現物が惜しげもなく公開されていました。


また折りに触れて他の展示をご紹介していきたいと思います。


続く。 

サバイバル番組「Naked and afraid」〜"fire"

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アメリカの「変なTVショー」をここでいくつかご紹介しました。

子供のビューティコンテストに血道を上げる人の姿や、
ゴミを溜め込んでしまった人の救済プログラム。
どうしても痩せられない人を痩せさせるビフォーアフターや、
自分が引っ越しした後の家に後から入ってきた住人が
かつての自分の家にリフォームしたのにケチをつけたり、
二つの家族の主婦だけを一週間交換する企画。
公開で子供のDNAテストをして父親が誰か明らかにする企画。

それこそ、視聴率に喘ぐ日本の番組プロデューサーが

「もしそれが日本で許されるならぜひやりたい」

と膝を乗り出すような、きわどい番組がてんこもりです。
しかも、プライバシーやら恥やら恥ずかしい体型やら、
いろんなものが世間様に明らかになるという趣旨が殆どなので、
たとえ番組そのものが顰蹙を買わず社会問題にならなかったとしても、
それに出演してくれる人が日本ではまず見つかるまい、
というものばかり。


なかでも、2013年から始まったこの番組は



その強烈さにおいてすべてを凌駕しています。

Naked And Afraid、ネイキッド&アフレイド。

「全裸と恐怖」ってなんですか?ってことですが、
この内容は読んで字のごとく、文明社会に生まれ育った人間が、
一糸まとわない姿のままで、恐怖と戦うのが趣旨。



しかも、彼らが全裸で放り出されるのは、アマゾンやアフリカ、
国内のジャングルや無人の荒野、山間地帯。

これは怖い。

服を脱がなくては行けない場所、お風呂に大きな蜘蛛が出たとき、
着衣のときの数倍怖い、という感覚ってありませんか?

これはそれどころではなく、虫やらヘビやら得体の知れない草やら、
暑さ寒さ荒天雨天に、全裸で挑戦しなければならないのです。



挑戦の期間は21日間。3週間です。
3週間の間、何の装備もなく自然の中で食べ物を探し、
寝るところを確保して、とにかく生き抜かねばならないのです。



今までこの手の「自然挑戦もの」は、アメリカのテレビ業界において
さして珍しいものではありませんでした。
誰も頼まないのに一人でジャングルやなんかに挑戦して、
その辺の虫やらなんやらを食べる男のサバイバルものは、
思いつくだけで数種類の番組を挙げることができます。

ところが、この番組の画期的だったことは



全裸で自然に挑戦するのが、見ず知らずの男女であることです。
皆さんこれ、信じられますか?

独身だったりすることもありますが、たいていは
パートナーがいる挑戦者ばかりなのが驚きです。

本人がいくら割り切っていたとしても、だいたい彼らのパートナーは、
自分の恋人なり伴侶なりが赤の他人の異性とそういう状況で
3週間も過ごすことに耐えられるのでしょうか?



番組の冒頭で、それぞれの男女は「出会いの地点」から離れた場所で
全ての衣服を脱ぎ捨てます。

そして、出会い地点に向かって歩いていき、ジャングルなり山中で
いきなりネイキッドなパートナーと初対面となるわけです。

人によってその出会いのテンションは全く違いますが、
この二人はいきなり初対面の相手と全裸でハグしあっています。
これはどちらかというと少数派で、大抵は握手か、挨拶だけか、
・・・・いずれにしてもお互い遠慮があるのが普通です。

皆さん、それにしてもあらためてアメリカ人っちゅう連中は、
と呆れてしまいませんか?
いくら放送時には肝心なところにぼかしを入れてもらえるとはいえ、
こういう映像を世間に曝して平気という意味で。

じつはこの写真は、ぼかしが入っておらず、ブログに乗せるのも
ためらわれたため、後から画像処理をしたものなのですよ。



身につけて良い、あるいは携帯してもよいものは
ディレクターから渡されたアクセサリーを除き、たった一つだけ。
男性はサバイバルナイフを持ってくることが多く、
女性はライターや磁石などであることもあります。
番組から渡された一つの布袋に、その大事な道具を入れて持ち運びます。



二人のバッグの中にはこのような地図もあります。
いつ見ても漠然としすぎてこんなのでわかるのかと思うのですが。



取りあえず二人は第一日目を過ごす場所を求めて移動。
アメリカ人は初対面同士は大変友好的ですが、だからといって
気が合う確立は日本人と同じようなものでしょう。

まだこの段階では何も分かりません。

というか、そういう相手に自分の全てをいきなり見せるこの状況って。



このレイティングですが、今までの人生における経験値とか
タフネスとかを10段階評価して、それがサバイバル後に
どのように変化するかが再評価されます。



全員がどういうわけか、この形のネックレスを着用しています。
推測ですが、これにはICチップが埋め込まれているのではないでしょうか。

決してこの番組はやらせではないので、万が一の事態に備えて
このような保険をかけているのかと思われます。



初対面の相手に対する感想などをハンディカムに録画します。
第一印象はたいがいそう悪くはなく、海兵隊出身の男性の
パートナーは、そのことについて

「何だかロマンチックな期待をしてしまったわ」

と述べています。
もっとも彼女の

「ソルジャーなら自分のことを極限の状態でも守ってくれるかも」

という期待は、後に粉々に粉砕されることになるのですが。



互いに知恵を出し合って、とにかく生きていかなくてはいけません。
なにしろ、衣服のみならず、水も食料もなく、サバイバルの為には
まずそれらを確保することが先決です。

こういった行動が始まるや否や、彼らは相手に対する
最初にわずかに芽生えた異性としての興味を失います。
それは画面で見ていてもはっきり分かるほどで、
生きていく為の能力の高さに男女はありませんから、
案外だらしない男性に女性が苛立つケースは多いのです。

そうなってくると最初から服を脱いで現れている相手には
何のセクシュアルな欲求も起こらなくなってくるようです。

いかに人間の初期的な性的欲望が、
空想力で補われたところに構築されるかがわかる実験ですね。



上手くやっていけるかどうかは全く相性です。
あとはどんなときにも落ち込んでしまわない明るさでしょうか。

さて、酷暑の島に流された二人と違ってジャングルや砂漠組は、
何らかの方法で火を起こすことから始めます。
ライターを持ってきているカップルはあまりいないようで、
夜に気温が下がったり、あるいは猛獣が出るような地域では
火を起こすことが最初のイベントとなります。



最初の仕事は今夜のシェルター、そして、火。



こういう作業もある程度娑婆で経験を積んでから来る男性も多く、
ごくごく少数のカップル以外は案外簡単に火を手に入れます。



火を起こすことに成功した二人。
すっかり和やかな雰囲気に。



ハンディカムに語りかけながら、思索的な命題に
自分で迷い込むサバイバーもいます。
極限状態におかれ、生きていくこと、そのために
他の命を奪うことについて考えずにはいられなくなるのです。



パートナーとそのような話をする人はいません。
なぜなら、パートナーとは根源的な生への疑問や、
平時なら起こるかもしれない相手への興味ですら、もはや何の意味もない、
サバイバルの為の同志であり、この原始生活では
形而上の空想に遊ぶより先にすることがあまりにもたくさんあるからです。

もっとも、アメリカ人でなければそういう人もいるのかもしれませんが(笑)



この二人も火を起こしています。
適当な木が見つからず、かなり苦労したのですが、

 

火を手に入れたぞー!ということでこちらも抱き合う二人。
アメリカに住んでいると日本人であるわたしも普通に挨拶には
ハグをするのですが、
何も着ていないのに彼らはしょっちゅうビッグハグします。

いつもの習慣であることに加え、互いが裸体であることなど
この段階では何とも思わなくなってくるのかもしれません。



下にごちゃごちゃと字がありますが、このとき見ていたのは
ニューシリーズ、つまり再放送ではないバージョンで、
そのときには番組宛に同時進行で感想が送られるのです。

みんなでツッコミを入れながら楽しむという趣向ですね。



ちなみに黒地に白字は、わたしが聞き取りの為につけている
ディザーブルモード、すなわち身障者用の字幕です。
ネイティブの発音などなかなか聴き取れないので、
わたしはアメリカにいるときにはいつもこれのお世話になります。

彼女は言っています。

「やっと火がついたわ。
これからわたしたちのために何か食べ物を考えないと」

そう、食べ物。
生きていくには食べ物がないと。

しかし、この大自然の中では大変なんだ。これが。



続きます。 

 


サバイバル番組「Naked and afraid」〜"food"

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アメリカのテレビショー、Naked and afraid、続きです。
なんとこれを制作しているときに知ったのですが、
アメリカでシリーズが始まって約1年、アメリカで人気が出たせいか、
日本でもディスカバリーチャンネルで放映が始まるそうです。

なんと、今月15日から。一週間後ですね。



「日本ではこんな番組はぜったい作れない!」

と断言したのですが、このインパクトの強さはやはり

「作れないからこそ見てみたい」

と日本の視聴者も望むほどなのです。
去年アメリカで開始したばかりの番組を見たときは
あまりの企画に思わず目が点になってしまったのですが、
いまやわたしも息子もこのシリーズが始まるとチャンネルをあわせ、
お互いに自分の作業をしながら時々画面に目を走らせて

「わー、これはいやだなあ」
「ああ、虫に・・・あんなにさされて」
「わたしどんなお金貰ってもこんなのに出るなんて信じられない」
「俺も絶対やだ」
「どんな人が出演引き受けるんだろうね」

などと好きなだけツッコミを入れながら楽しむお気に入り?です。



さて、彼らのサバイブする場所は様々です。
アフリカ、南アフリカ、国内と、それこそ人間を寄せ付けない
大自然は果てしなくどこにでもあるのですから。

今回はキリンがいるところを見ると多分アフリカ。



おさるかな?

と思ったら女の人でした(笑)
これねー。
何言ってると思います?
男性がどうも仕事をしないんですよ。へたれちゃって。
で、女の人が一人で色々と食料を探したりしていて、
その不満をハンディカムにぶちまけているんです。

何編かこのシリーズを見て思ったのは、男というのは
存外打たれ弱いと言うか、脆いということ。
こういう状況におかれたとき、勿論女性にも想定外の状況に
精神的なダメージを受けてパニクる人もいないではないですが、
男性の場合、パニクりはしないものの、身体的な不快感(餓えや寒さ、陽射し)
に耐えるのが精一杯で、パートナーを助けるどころか落ち込んでしまい、
何もできなくなってしまう人が案外多いのです。

女性はその点、精神的な克服さえできれば環境に順応するのも、
割り切って、というかわたしがやらねば誰がやる!みたいになる
サバイバーが多いようです。

これはアメリカ人だからかもしれませんが。



夕焼け小焼けのあかとんぼ・・・・・
にしては赤すぎないかこのトンボは。
何やら邪悪ですらある赤とんぼです。



こういう鳥もとても食料になってくれそうにはありません。
というかこれ何? 



華氏63°ってことは17.2℃。
案外アフリカって暑くないのね。
しかしこれでは昼はかなり暑く、夜は無茶苦茶寒くなりそう。 



罠を仕掛けて、「ハングリーでグリーディな」獲物を
取ろうとしているようですが・・・。



シカの死体を見つけました。
やった!
と思ったものの、死体はすでに腐敗して、食べたらお腹壊しそう。
というか、腹痛でですめば奇跡というレベルです。
ここでこれに手を出さないのは、所詮しばらくしたらこのゲームは
確実に終わると知っているからです。

もしも、実際に無人島に流されたサバイバーであれば、ためらうことなく
この腐った肉に火を通してでも食べるに違いありません。

 

川岸に巨大なカメ発見。

今まで見た中では、一度、カメ捕獲に成功したカップルがいました。
カメは甲羅ごと火にかけられ、鍋要らずで便利です。

 

と、彼女は大きな鳥の巣を見つけました。
(とコメントに書いてあります)

Hello,と礼儀正しくそこにいたヒナにご挨拶したのち
食料になっていただくべく、テイクアウト。



女性に狩りをしてもらい、食料を手に入れた男は、

「我々の栄養になるための犠牲になってくれて
ほんとうにありがとうございました」

と、こちらも礼儀正しくお礼を。

自分の命もまた他の命に生かされているという、
自然界の摂理が、一層身に沁みますね(適当)



「お母さん鳥が帰ってきたとき、ヒナが皆
いなくなっていることを考えて、心が痛んだの」



女性に取ってきてもらった食べ物に舌鼓を打つ暢気な男。
勿論彼女の葛藤に思いを寄せるはずもなく。



えーと、これ・・・・・なんですか?
食べられるかどうかで言えば、とても無理そうな・・。



虫見っけー!
これは貴重なタンパク質ですよ。
長野の方ならよくご存知だと思いますが。



このパーティの女性は、実はベジタリアン。
こんなところに来てまで肉を拒否しとるわけです。

そもそも虫って肉なのか?とゲシュタルト崩壊しそうになりますが。




コメントがちょっと面白いと思ってしまった(笑)

「ベジタリアン」と韻を踏んで、「frexitarian」(融通の効く、に
タリアンをくっつけた造語)にならなきゃ、とあります。



「彼女はタンパク質を取るべきだと思う」

こんなところで娑婆のように健康の為とか主義主張とか
言ってる場合じゃないでしょ、ってことですねわかります。



散々逡巡の末・・・、



死んだ気になって、というか死んだら困るので、
虫を口に入れて食べる彼女。
とたんにコメントが

「やった!彼女が食べたぞ!」


でも、一口食べたらもうおしま〜〜い〜〜♪
(人食い土人のサムサムのメロディで)

新たな食べ物を探しにいくことになりました。
このパーティの男性は非常にアクティブで、先ほどの男性ほど
モラトリアム化したりしません。



男性も女性も、葉っぱや見つけたもので腰を覆っています。
着るものも、現地で調達するなら何をどうしようと自由。
最後まで全くおかまいなしの人もいますが、
大抵は時間もあることだし、色々工夫して身につけるものを作成します。



アウチ。(トカゲ的に)



やったわー。
やっぱり男はこうでなきゃね。みたいな?



彼が持ってきた一つのガジェットはナイフだったんですね。
というわけでまたも抱き合う二人。



焼き上がりはウェルダンで。

喜んでるってことは、彼女はフレキシタリアンに転向済み?



この表情、マジで美味しそうに食べてます。
空腹に勝る香辛料なしとはよくぞいったものだ。



この二人はアリをつまんで食べています。(たぶん)



食べ物の獲得がうまく行ったパーティは、
雰囲気も最後まで悪くないまま終わります。



時間つぶしの昼寝も心なしか気持ち良さそう。



男性がへたれてしまったパーティの例。
海岸沿いの熱帯地帯に放り出されたこの二人、男性の方が
強烈な陽射しで全身を灼かれ、火傷状態になってしまいました。

動くこともできなくなり、女性が食べ物を探しにいっている間
深く穴を掘って少しでも体温を下げようと必死の努力。



なのに、女性は彼にわずかな侮蔑の眼差しを・・・(T_T)
海兵隊出身と聞いていたのに話が違うわ、と女性は思ったのかもしれません。



この女性の娑婆でのお姿。
やはり普段は山岳トレーナーとか、ヨガの先生とか、
フィジカルな関係の仕事に就いている人が多いようです。

 

陽焼けで戦線脱落した男性は、復帰した後もなぜか妙なこだわりを見せ、
パートナーとの関係もぎこちないものになってしまいました。



女性は葉っぱで見事な帽子を編み上げ、自分のだけでなく
男性にも作って上げたり、努力するのですが。



さて、夜になったとき、彼らはどうやって過ごすのか。

 

このパーティは、大きな葉っぱを布団のように掛け、
みの虫になって就寝。
大抵は猛獣よけに火を焚いてその近くで休みます。



砂が熱すぎて歩けないので枯れ葉でサンダルを作ってみました。



彼(アダムというらしい)はかなり足を保護することに
こだわっていたようですね。



女性の方はサンダルが役に立たなかったようです。



こんな酷い怪我をしてしまいました。
これは痛そうだー。



それにこれ。

わたしが息子との意見で真っ先に一致したのは、

「何がいやといって、裸で虫に刺されまくりなのが一番いや」

トライポフォビアで太宰治の「皮膚と心」には膝打ちまくりだった
わたしとしては、こんな映像を見ただけでもう駄目。
これを見た息子とわたしの会話。

「出演料、いくらだったら出る?」
「1千万でもいやだな」
「1億なら?」
「・・・そんな番組ないから」

いったい皆どういう条件で出演を承諾しているんでしょうね。

 

こちらの男性は娑婆ではこのような方。
なんか同一人物には見えませんね。
番組では勿論サバイバーが日頃一般社会で何をしているか、
その人となりも紹介されます。



動物の糞を半分にして中を点検し、

「毛が入っているがこれは補食した動物のものだな」

なんて言っています。
文明社会の人間と言っても、ある一線を越えたら、
こんなことくらい平気でやってしまえるものです。



21。
これはこのサバイバーたちにとって長い長いサバイバル生活が
終わりを告げる日を意味する素晴らしい数字です。



21日目に、かれらは地図の「脱出ポイント」を目指して移動します。

「ここでポイントにいけなかったらどうなるんだろ」

なぜか今までそのような事故は起こっていません。
しかし、もしかしたら色々問題がありすぎて放映できなかった、
というパーティもいくつかあったのではないかとわたしは踏んでいます。



もう寒さ暑さに耐えたり、空腹をしのぐ為のゲテモノ食いもしません。
彼らはただひたすら、文明への帰路を急ぎます。



こんなところにも舗装していないとはいえ車道のようなものが・・。
もしかしたら案外人が行き来する道路かもしれない、
と思うのはわたしだけ?



ヘリコプターの音が聞こえるやいなや、それはただ喜びだった(直訳)。



こちらの二人(ベジタリアン彼女のパーティ)は、
やはり幹線道路?でトラックのお迎え。



”この挑戦はありえないくらい普通でない体験だ。
サバイバーたちの結びつきは特別なものだね。”



てなことをおっしゃる視聴者もおられますが、ところがどっこい、
こういうパターンもあるわけで。

これは予告編の映像で、わたしは結局見なかったのですが、
どうも相手と相性が悪すぎてそれが最大のストレス、
というサバイバーもいたようです。



例によって、相手の気に入らないところをカメラに向かって訴える人。
ここまで酷くなくても、うまく行っているように見えるパーティで、
こんな風にカメラに相手への不満をぶちまける人は多いのです。

アメリカ人というのはこれが全米放映される(日本でもね)
ことや、当然相手もこれを観るであろうことは
あまり考えないんでしょうかね。

こういうのを見ても、日本人には決して作れない番組だと思います。

 

ヘアバンドとベジタリアンであるせいで、
彼女は「ヒッピー」とあだ名をつけられてしまいました。
このパーティは最初から最後までうまく行った方で、
問題があるとすれば彼女が菜食にこだわったことだけだったので、
この視聴者は彼らを「グレイト」だったと評価しています。

ついでに「ワールドピース」(笑)



ネイションワイドで身体を放映されるので、
特に女性はスタイル自慢の人が多いようです。
中でもこの女性はトップレベルでスタイルよし。

普段マシュマロ系とかに甘んじている人はそもそも
こんなものに出てきませんので、それも必然ですが、
一度だけ、えらくお腹の大きな女性が出演していたのを
見たことがあります。

全裸の場合、局所にはぼかしが入るのですが、彼女の場合

「ついでなら、このおなかにもボカシをかけて上げた方が」

と余計な感想を持ってしまいました。



彼らが最も幸運だったことは、なんといっても
サバイバル中に天然のバナナを見つけたことでしょう。
迎えの車に山ほど積まれた青いバナナはお土産にするつもりでしょうか。



このように万事がうまく行くばかりではありません。
何回に一度はどちらかが倒れてしまい、現地に医者が駆けつけて、
ドクターストップとなり、そのまま連れて帰るということも起こります。
女性が倒れたときより、男性がいなくなって女性が
たった一人で残される場合、そのあとのサバイバルは悲壮なものになります。



バナナ、売るほど取ってるし(笑)

「ニカラグア直送のバナナですよ〜」

てか?



番組の最後に、どういう基準なのかそれまでの彼らが
どれくらい経験値を上げたかが数値で表されます。

この二人の場合、男性が6.7から7.1に、女性は8.3にグレードアップ。
きっとベジタリアンがフレキシビリタンになったからですね。 



というわけで、はからずも宣伝みたいになってしまいましたが
(本当に偶然です)日本では「ネイキッド」というタイトルで 
放映されるようですので、興味を持たれた方はどうぞ。


実際に見て、わたしがこのエントリで、彼らの情報について
わりと適当に言っていることがわかっても、全力でスルーして下さい(笑)

"NAKED AND AFRAID" ホームページ



「男たちの大和」と海上自衛隊

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先日表敬訪問した海上自衛隊地方総監部の新総監の経歴は

海幕指揮通信情報部長←情報本部情報官←海幕情報課長
←海幕総務課広報室長←潜水艦隊司令

と、潜水艦を降りてから(上がってから?)は情報畑一筋です。
その時代の話を色々と伺っていると、

「『男たちの大和』の、特典映像見られましたか?」
「映画は観ましたが・・(特典映像は覚えがない・・)」
「あれに僕出てるんですよ。映画に海自が協力したのでその解説で」
「うちにDVDがあるので、帰ったら観直します」

ところが観ようと思って探してもDVDが見つかりません。
もしかしたらレンタルだったのかと思ってAmazonの記録を見たら
確かに購入していました。

しかし海将に観ますと言った以上、何が何でも観なければ。
いや、観たい。
というわけで、もう一回「男たちの大和」を購入したわたしです。


因みに、DVDを探していて気づいたのですが、夏に感想を書いた
「浮沈艦撃沈」もなぜか2枚ありました。
どうやら買ったことを忘れてまた買っていたようです。

わたしはボケ老人か。

二つあっても仕方がないので、もし「浮沈艦撃沈」のDVDを欲しい、
と言う方がございましたら、第2弾読者プレゼントとします。

ご希望の方はコメント欄でお申し込み下さい(T_T)



今日はその特典映像で海将が説明しておられたことを
取り上げたいと思います。

冒頭写真は、2005年に公開された映画の制作中ということで
おそらく今からちょうど10年前の海将のお姿。
ヘアスタイルなどに大変こだわっておられる様子が窺える、
なんともスマートな海軍さんぶりです。



参考までに、これが10年後。

最後にTOと3人で海将を真ん中に写真を撮ったのですが、
そのときに

「顔がマズくてすみませんね^^」

などと、どう突っ込んでいいのかわからない冗談を言われました。
しかしわたしにははっきりいって顔がマズいとかマズくないとか、そもそも
そういう評価をする必要もない堂々たる男ぶりにお見受けしました。

冒頭の1佐時代はおそらく45~6歳といった歳だと思われますが、
脂の乗った男の働き盛り、といった感じで実にかっこいい。



大和はかくして蘇った
ー海上自衛隊全面協力ー

これが映像特典のタイトルです。
「全面」がなぜ必要なのだろうと言う気もしますが、
この辺りが映画製作前、「軍国主義礼賛!」と反対する左巻きの
突っ込みどころとなったのかもしれません。

しかし実際の映画は

決して戦争を美化している訳ではなく、
艦内で懲罰として振るわれる暴力や、愛する人を失った女性の悲しみ、
労働力である成人男性を徴兵されて疲弊していく農漁村の姿も強く描かれており、
当時の日本の精神主義偏重を批判する台詞が多く登場し、
大東亜戦争肯定論とは一線を画している。(wiki)

という内容となっています。
わたしなどはむしろこちらに主張の重きを置きすぎて、
実際に戦いにあった人々の覚悟や国を護るという挟持については
ほとんど「なかったこと」にしてないか?などと思ったくらいです。


わたしは前にも書いたように、取ってつけたようなご都合主義の
この人間関係に全く必然性を感じないので、やはりwikiの

要所要所に現在の敦の視点が挿入され、過去のできごとが
今の大人たちの記憶だけに偏らないよう配慮がなされており、
この映画をより秀逸な重厚味ある作品に仕上げている。
敦が船を操縦するシーンでラストとなり、完成度の高いエンディングとなった。

というような手放しの共感は得られなかったのですが、
この海将の出演している「海自協力の記録」を観た今は、
「現代」を描くことは映画のスタッフに取って「全面協力」の
自衛隊への謝意を表わす意味でも不可欠だったのかという気がしています。


そう感じたのは映画冒頭、海上自衛隊の補給艦「ましゅう」が
舞鶴地方総監部の港に入港して来る一連のシーケンスです。



「ましゅう」は、2004年から2005年にかけての

「対テロ作戦支援任務によるインド洋派遣」

を終えて母港である舞鶴基地に帰還した際、出迎えの様子が
撮影され、それが映画の最初のシーンとなりました。



このときに「ましゅう」の帰還の様子が映画に取り入れられたのは、
撮影の時期と帰国がたまたま同時期であったという理由によるものですが、
この「ましゅう」と大和は大きさがほぼ同じで、

「何か因縁めいたものがあるのかなと」

思う、と海将(当時1佐)は映像で述べています。



これが撮影された素材部分。
音楽隊の演奏に始まりましたが、音楽隊のシーンは
映画には採用されていませんでした。



「ましゅう」入港シーン。
こちらは映画のシーンです。



なぜかそれを見ている内田二曹(中村獅童)の養女(鈴木京香)。
繰り返しますが

ここは舞鶴です。

鈴木京香はまず呉の「大和ミュージアム」を見学し、
同じ洋服を着て舞鶴で「ましゅう」の帰国行事に立ち会い、
それから大和沈没点まで行く船を依頼するため、
瞬時にして鹿児島県枕崎漁業組合に現れます。

このフットワークの軽さにはエリス中尉も真っ青です。

「ましゅう」の舷側に整列する自衛官たち。



行進しながらラッタルを降りて来るのは、映画の主人公が
おもに若年兵であったことからでしょうか、若い海士たちです。



隊司令の挨拶も映画ではカットでした。
海幕長と司令が敬礼を交わす瞬間だけが採用されています。



素材の方でとても目立っていたカップル。
人目がなければ、お互い抱き合いたかったに違いありません。
女性は恋人の制服の袖をつかみ、彼は彼女の頭をなでなでしています。

日本人は一般に、こういうときの感情表現が控えめですが、
この二人の気持ちは観ているこちらにも痛いくらい伝わってきます。

実際映画で採用されていたのはその右側の、
紺の背広の男性の向こうに隠れている赤ちゃんを抱いた若夫婦でした。



このシーンはよく見ると、後ろに海曹と海士が、それぞれの
家族に出迎えを受けている様子が捉えられています。
この女の子も今は小学校高学年。
彼女はこのときのパパの抱っこを覚えているでしょうか。




波切りの部分をCG合成の素材として使うため、
護衛艦を実際に走らせるという協力もしています。

このときのインタビューはまだ制作の途中に行われたため、
1佐は

「ぜひそれで素晴らしい映像を作って頂きたいと思う」

と語っています。



艦上から見る巨大戦艦の起こす航跡も、
この「ひえい」を空撮した映像から取られました。



説明がなくて少し分からなかったのですが、どうやら
「みねゆき」も素材として撮影されたようです。

 

実際に「ひえい」の波切りがどのように「大和」に使われたか、
映像を並べてみました。

 

同じく「ひえい」から合成された大和航行シーン。



写真に残る大和の航跡を再現するために、実際に護衛艦を
蛇行させて航行するということまでやっています。

(今、ふと思ったのですが、まさか海自は無料で協力したのでは・・)

 

合戦のシーンで使われたはめ込み画像。



海上自衛隊の協力はそれだけではありません。
なんと、出演者にはエキストラも含め、体験入隊を行って、
敬礼や号令など、所作指導一般を行ったそうです。



これは特別年少兵たちの訓練シーンのリハーサル。
体験入隊ではなく、太秦撮影所での様子です。



えー・・・これ、誰でしたっけ?

とにかく、こういう本物の所作指導が行えるのは
帝国海軍の良き伝統の継承者である海自ならではである、
ということを1佐は強調しています。

そして、かつて海軍軍人として戦い、そして散華した人々に、
海上自衛隊がその精神を受け継いでいるということを
「わかっていただきたい」(原文ママ)と・・・。




乗組員を大和まで運ぶ内火艇のシーンも、
海上自衛隊の協力なしには実現しませんでした。



さらに、年少兵たちが最初に大和に到着するシーンには
掃海母艦「ぶんご」が使われました。

 

CG加工用に側面にはブルーシートが掛けられています。



これが加工後。



勿論呉でも撮影は行われました。
呉潜水艦基地で撮られたのは、大和が特攻に向かうときの乗艦シーンです。



ロケ地としてほとんどそのまま撮影できるくらい、
建物が往時のままに残されていることから選ばれたようです。

さすがに衛兵の立つ見張り所と掲示板はセットでしょう。



このシーンの主役、唐木二曹(山田純大)。



唐木の妻(みれいゆ)が「あんた!」と夫を呼び、



唐木は妻と子の名を呼びながら、狂ったように帽子を振ります。




ちなみにこのときのエキストラ赤さんは大泣き(笑)
そりゃ耳元であれだけ叫ばれたら怖かったでしょうとも。



冒頭の「ましゅう」の乗組員が、妻から愛児を受け取り抱き上げるシーンは、
まさにこのシーケンスの伏線として採用されたということがわかります。

わたしは恥ずかしながらこのシーンをもう一度観て、
それに気づいたとたんつい涙があふれてしまいました。



インタビューは制作の途中、呉地方総監部で行われました。



1佐が腰掛けているのは、尾道市の日立造船所跡に、6億円を掛け、
原寸大で再現された大和の甲板部分。

6億ですよ。6億。

これが一瞬しか映らないセットに掛ける金額として高いとか安いとか、
わたしは全く言及するつもりはありませんが、
富士総火演で消費された弾薬の総費用が3億5000万。
これはどう考えても後者が安すぎないか?と思ったことだけ言わせて下さい。

映画のセットよりも、大曲花火大会よりも安い、一国の規模最大実弾演習。

関係ないものを比べんな、といわれりゃそれまでですが(笑)

このセットはその後資料館として一般公開され、多くの人が訪れました。
造船所の再稼働のため、取り壊しの期限が来たときにも、
存続を望む声があったそうですが、結局惜しまれながら閉館したそうです。






かつて大和が建造された造船所のドック。

海将はこのインタビュー時市ヶ谷勤務だったはずですが、
「大和」の制作のために呉に詰めていたのかもしれません。

今回、呉に「戻ってきた」海将を表敬訪問したことは、
このインタビュー映像によって、より印象的なものとなりました。



特典映像の最後で海将はこんなことを述べています。


海上自衛官は、旧海軍の良き継承者であると自ら任じている。
その立場で「大和とは何か」を考えてみると、
当時造られた世界一の戦艦たる「大和」は、海軍の、
延いては日本の精神的なシンボルであったと思う。

「大和」から受け継がれた精神と伝統があってこそ、今の我々がある。
大和は我々にとっても「象徴」であるといえるのだ。




大和ミュージアム・進水式展~支鋼切断の儀式

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大和ミュージアムで現在も(たぶん)行われている、
「進水式展」の展示からお話しています。
実際に現地でご覧になった方もおそらくおられるかと存じますが、
わたしもそうであるように、実物を見るのと細部をモニターで見るのでは
また違うことに気がつかれるかもしれません。



たとえば、こういった工程表。
これは川崎130号艦「大鳳」のものですが、これは日誌ではなく
最初に「予定」として計画されたものです。
4月から11月まで、びっしりと書き込まれた予定は、
残念ながらピントのボケだけでなく字が走り書きのせいで
何が書いてあるのか分かり難いのですが、何回も

「ポペット」

という単語が出て来るのが目につきます。
ポペットとは蒸気機関に用いられたバルブのことで、言葉は
「パペット」と我々が呼ぶ「操り人形」のことです。

操縦者のリモート操作によって一定の動きを行うマリオネット
ポペットバルブの単調な往復運動が重ね合わされるため、
このような名前がつけられたんですね。



進水式は実は大きな船体を短時間で海上に移動させる、
というその性質上、大変危険なものなのです。
しかも行事として、そして船の行く末を占うという性質上、
絶対に失敗は許されません。(お隣の国では失敗することもあるようですが)

そのため、進水式に備えて当日の船の状態は勿論のこと、
天候、潮の流れ、進水台の強度、進水時の船の復元性能、
全てを入念に計算し抜かりなく準備を整えるのです。



これは第2911、2912艦の進水作業表です。
上に見える曲線が潮位のグラフ。
進水式の前日から行われた海水注入が下の直線です。



英国ヴィッカース社の公式アルバムから絵はがきにもなった、
軍艦「香取」進水の瞬間。
偽装前なのでこれが「香取」だと言われてもピンときませんね。
デッキにたくさんの人が確認のために乗っていますが、
これは船会社の社員にとっても結構な恐怖に違いありません。

近年進水式で沈没した中国の客船には、幸いなことに
誰一人として乗船していなかったそうですが、
やはり何となく「乗るな危険」という予感でもあったんでしょうか。




おなじみの?軍艦の進水記念の際配られた
現物のカードや招待状を観ることが出来るのも、
この展覧会の目玉となっているところ。

戦艦「伊勢」の資料には、起工式の様子(右上丸囲み写真)、
造船崖(ドックのこと?)上の伊勢等の姿が。
海上の伊勢の写真には「戦艦伊勢ノ雄姿」とあります。

 

ドックから滑り降りる進水式の「伊勢」。



こちらは進水時の「薩摩」です。
地縛霊のような人の影が写っていますが気にしないで下さい。



先ほどの第2911・12艦の進水式に置ける人員配置図。
不思議な記述だなと思っていたのですが、この日、なんと
第2011艦と第2912艦は、

二隻同時に進水式を行った

ということらしいのです。
作業員の人数や指揮官、補佐の人名とともに、前日の段取りなどが
細かく記されていますが、さらに2隻同時の進水ともなると
大変な準備が必要だったと思われます。



進水主任 西島技術中佐

という記述が見えますが、この西島亮二技術中佐は、
戦艦「大和」の建造にも携わった人物です。

配備されているのは技術士官とその補佐が多いですが、
「艦上指揮官」「艦内調査係」「式場整理係」「警戒係」
などの任務にあたっているのは兵科士官です。




戦艦「加賀」の進水式場案内図。
「加賀」は大正10年(1921)神戸川崎製鉄所で進水を行いました。



一部を拡大してみます。
席の区分は「いろはに」で分けられており、おそらく「い」席は
VIP席、「ろ」「は」は関係企業の代表などではないでしょうか。
今も自衛隊はこう言った行事に懇切丁寧な誘導を行いますが、それは
おそらくこのころからその基礎が決まっていたことを思わせる誘導図です。

図上の白丸は軍楽隊の位置、十字は救護班、赤丸は消防隊。
ついでに、黒い長方形マークはトイレです。
仮設トイレがこの時代にもあったんですね。

入場券と共に食事飲食券がありますが、食堂の場所もちゃんと示してあります。





駆逐艦「霰」(あられ)の進水記念絵はがきのたとう紙。
図に描かれているのは、木で組まれた進水台と、
紅白のリボンで縁取られた手すりの「支鋼切断」台です。

ここに支鋼切断の仕組みが書いてありますので、抜き書きしてみます。



ちょうどいい説明が、駆逐艦「初雪」の進水記念絵はがきにもついていました。



「工場長の振りかざしたる銀斧は八ヶ月の苦心をこの一揮にこめて
切断台上(イ)の繫索をはっしと切る」(国定教科書より)と、
紅白の支鋼は切断せられ、
白色の把輪は錘(ニ)の(ロへの)落下によって回転し
これに取り付けられている緑色の水厭弁(ハ)が開かれる
そこから管を通って水が「トリガー」(チ)という水厭筒に送り込まれる
回転した把輪が、停めていた水を(ハ)の部分に押し戻す

そして

進水!


・・・とまあ、そう言われてもはっきり言ってよく分からんのですが(笑)
支鋼切断が合図とか「フリ」ではなく、本当に船の進水のための
作業であるということだけはわかった。



なるほど、この二等巡洋艦「大淀」の進水式に使われた
支鋼と支鋼台を見れば、なぜ支鋼切断をすると錘が落下するのか
よく分かりますね。

しかしそれにしても、いくらなんでもこの斧で
一から太い繫索を切ったりすることはありませんよね。
おそらく、髪の毛一本分残して、大部分を切っておくんじゃないかな。
でも、斧が入る前にプツっと切れてしまったら大事だし、
このあたりの加減にも細心の注意が・・・・・。
知れば知るほど裏方は大変な神経を払う行事です。

下の銀の斧は、「青葉」の進水式に使われた斧。

斧の表面に3本の筋があります。
前にも説明したことがありますが、裏側は4本筋があり、
3本の溝は三貴子(みはしらのうずのみこアマテラスツクヨミスサノオ)、
4本の溝は四天王を表しています。

なぜ斧を使用するかというと、斧には古来から
「魔を払い神の加護を仰ぐ」力があると信じられているからです。



実際に使用された支鋼線の数々。
こういうのは誰がどこに保存しておくんでしょうか。

左から空母「伊吹」空母「葛城」「伊180潜」
下空母「阿蘇」「伊37潜」そして重巡洋艦「鈴谷」。

空母はあまりなじみのない名前ばかりだなと思われません?
「伊吹」は未完成のまま終戦を迎えましたし、
帝国海軍が最後に建造した空母「葛城」は、決号作戦のために
温存されたまま終戦を迎え、「阿蘇」に至っては進水したものの、
進捗率40%を残して工事中断。
特攻用新型爆弾「さくら弾」の実験の的にされて沈没という最後です。

終戦間際でも海軍は一応空母を作ろうとはしていたんですね。
上に乗せる航空機はどうするつもりだったのか、と聞いてみたい。 



一等巡洋艦「鈴谷」の進水式の招待状。(木村半兵衛様宛)
この真ん中に「来賓心得」として、ドレスコードが書いてあります。
もしかしたらこれをお読みの方に今後、新造艦の進水式に行かれる方が
おられるかもしれませんので、これを書いておきます。

陸軍武官は通常服装
海軍武官は通常服装
文官その他はフロックコート、高帽子もしくは紋付羽織袴
夫人は白襟紋付

・・・これは平成の進水式には役立たないかもしれませんね。

続いて、会場での諸注意をば。(現代文に直しました)


案内状及び立食場入場券は当日ご持参の上、担当の係に
お見せになるか、お渡し下さい。

当日は9時から進水式が始まりますので、8時半までには着席のこと。

進水式挙行の後は案内の指示に従って立食場まで移動して下さい。

造船部構内規定の場所以外では喫煙を禁止します。

宮中「ペスト」予防規則第3条により、ペスト発生地に居た者、
該当地域に立ち寄った者、またはそれらの人と同宿した者は、
沐浴、更衣をしなければ式場に入ることを禁止します。


日本では1899年にペストの感染が国内で発見されましたが、
このような条例によって1926年には収束をみています。

鈴谷の進水式は1934年で、かなり昔に落ち着いていたはずですが、
人の集まる場所では呼びかけるのが慣例となっていたのでしょう。



続きます。




海軍兵学校同期会@江田島~大和ミュージアム

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海軍兵学校が閉校して、69年になります。
かつて兵学校で学んだ青年たちは、戦後の日本の復興と、経済発展の
中心となって働き、結婚し、子孫を生み、そして今や老いて、
一人また一人とこの世を去っていきます。

彼らにとって海軍兵学校とは若いうちの4年、終戦間際の学年においては
たった2年、1年、人によっては数ヶ月しか存在しなかった学び舎ですが、
しかしながらその精神形成に大きな影響をもたらした「原点」であり、
また、俗な言い方ですが「輝ける青春の一こま」でもあったのです。

わたしは、今回ご縁があって、かつての兵学校の期生が一同に会する
最後の機会に立ち会い、それを目撃することになりました。

「最後の」というのは、入校から区切りのいい数字となった今年を最後に
同期会を解散することになったためです。


大正生まれの元生徒たちは、かつては一人で参加してきた人も、
80も後半になり、遠距離の旅行に付き添いが必要な年頃になってきていました。

そのためか、一人の元生徒に対し、一族郎党が付き添ってきていたり、
また、本人はとうに鬼籍に入っているけれども、故人のよすがをもとめて
遺族がこれまた一族郎党で参加しているという場合もあり、
今回の同期会は、全部で200名くらいの大イベントとなりました。

「これで最後」の同期会ですから、それは江田島の旧海軍兵学校で行われます。
この一泊二日のツァーに、わたしはTOと一緒に参加してきたのでした。



関東在住組は、旅行社の手配によって羽田から同じ飛行機に乗ります。
わたしはTOがどうしても仕事を離れられず遅れて参加したため、
一人で空港の待ち合わせ場所に向かいました。

待ち合わせの目印は・・・・・軍艦旗です。

実はわたしは、この旅行社の人たちが、たちの悪い某国人やサヨクに
絡まれたりしないかと要らない心配をしてしまいました。
この2年ほど、某国が、この意匠を巡っていちゃもんを付け始めたため、
そんなことを考えてしまうこと自体が、実に腹立たしい。



旅行社の人は、軍艦旗を目印に先導します。
軍艦旗に先導されて旅行するなど、おそらく最初で最後だろう、
とこんなところでも感無量です。

参加者はここからバスに乗って、広島市内に向かいました。



直接ホテルに行く人を下し、バスは大和ミュージアムに到着。

大和ミュージアム・・・・というとつい最近来たような。
来たも何も、昨日もここでやっていた「進水式展」について
お話ししたばかりですね。

わたしは案の定このツァーの内容をほとんど頭に入れないまま
当日ぼーっと参加しておりましたので、
最初の行程が大和ミュージアムだと知ったときかなり驚きました。



顔を入れて写真を撮るパネル。
なぜ五代進の顔だけがくり抜かれているのか謎。

ちなみに、わたしが今お話ししている「進水式展」は、
このときにはとうに終了していました。



つい先日来たばかりなので、前回とは違うアプローチで見学しました。
10分の1模型も、三階から撮ってみたり。



このとき気がついたのですが、海自の海曹が大和の脇に立っていました。
おそらく彼もまたミュージアムの見学に来たのだと思うのですが、
どういうわけか周りの人にいろいろ質問されていました(笑)

 

こんな角度で撮ってみたり。
喫水線の目盛りは50から140まで記されています。



後方から。



全部画面に入れるには後ろの壁に貼り付かねばなりませんでした(笑)



この軍艦旗は、戦艦「長門」に掲げられていたものです。
「進水式展」には同じく「長門」の長官旗も展示されていましたが、
これらはいずれも俳優の石坂浩二氏の寄贈によるものだそうです。
「長門」は最終的に水爆実験の標的にされて沈んだわけですが、
接収されたときにアメリカ軍人がこれらの旗類も持ち帰っていました。

石坂氏は司会を務める「何でも鑑定団」に出されたこれらの旗を
自費で買い取り、さらにミュージアムに寄贈したということでした。



ところで、今回のツァーには、大和前の写真をご覧になってもお分かりのように
かつての兵学校生徒、海軍の生き証人が多数参加しておられます。

その生の声が聞けるというおそらく最初で最後のチャンスですから、
わたしは日頃の人見知りに鞭打って、できるだけお話を聞いてきました。

その中には何と!お父上が海軍中将でこの戦艦「長門」に乗っていた、
という方や、「大和を実際に見た」とおっしゃる方もおられました。
その方は乗船実習で乗っていたフネから、航行する大和を眺めたのだそうです。

「そのとき乗っていたフネはなんだったんですか」

と訊ねると

「えーー、あれは・・・・確か・・・利根だったかな?
練習艦でね、明治時代にできたっていう・・・・」
「八雲ですか」
「ああ~そうだったかもしれない」

この学年は、兵学校生徒のときに終戦を迎えており、
実際の海軍経験は殆どないに等しいので、70年が経った今日、
特にこういった記憶が薄れても致し方ないことでしょう。



大和の資料室で今回初めて気がついたことがあります。
それは、展示品は写真撮影ができることでした。
先日見た進水式展と同じで、基本的には撮影可なのだけど、
ときどき「不可」とされているケースがあったりするので、
そもそも撮影をしていいのかどうかわからず、係員に聞いたところ、

「不可と書かれているもの以外は可」

というごもっともな返事でした。

実に中途半端な規則である。
同じケースの中に「可」と「不可」が並んでいたりするわけで、
一体何が基準になっているのかも分かりませんでした。

ともあれ、写真を撮っていいことが分かったので、まずは大和設計図を。
真ん前に貼り付いている人がなかなかどかないのでそのまま撮りました。

設計図には「後部艦橋構造」と書かれており、右上には

「近代産業遺産」

という当時の経産省大臣甘利明の名前で出された認定書があります。




「大和のタンス」の引き出し裏。
長官の寝室にあったタンスで、「大和」が旗艦になっていた頃、
即ち山本五十六の下着類が収納されていたタンスということになります。



最近来たばかりなので、今回は全部見るのに40分かかる

「戦艦大和・遺族・生存者の証言」

も全部観ることができました。
その中で、写真左から2番目の中島武少佐(海軍機関学校卒・戦死)
の妹さんは、

「兄は海軍に入って良かったと言っていました。
『街を歩いたら皆が振り返って見る』と言って」

と、スマートだった兄の想い出を語っていました。
しかし、

「結婚してすぐ大和特攻になった兄が、最後の上陸のときに
わたしたちには何も言わなかったけど、妻に向かってだけ
『本当は行きたくない』と言ったらしい」

という証言も・・・。

中島武大尉の右側の岩佐尚少佐(戦死者は1階級特進)は
海軍軍医学校卒で歯科士官でした。
なぜ大和特攻に歯科医を乗せていく必要があったのだろう、
と不思議な気がしますが、いずれにせよ岩佐大尉は出撃し、
そして戦死しました。

息子の死があきらめきれない父親は、息子の残していった軍服を
服の上から着て、泣きながらよくお酒を飲んでいた、ということです。



「戦艦伊勢の物語」というエントリで、「伊勢」の壮絶な最後について
お話ししたことがありますが、音戸沖で着底した「伊勢」の写真が
3mくらいの大きなパネルになっていました。

展示写真の上部からスポット照明が当たっていますが、
今際の際に「ドンと一発」、主砲を撃って逝った「伊勢」の最後を
知っている者にとっては感慨深い、ドラマチックな展示です。
 

 

今まで一度も出たことのない「潜水艦デッキ」に出てみました。
向かいにある自衛隊の「てつのくじら館」の潜水艦「あきしお」が見えます。

全景を納めたかったのですが、精一杯後ろに下がってもノーズが切れてしまいました。
前にこの潜水艦をここに設置した過程について説明したことがありますが、
帰りのバスの運転手さん(女性)は、これを設置するときに前で見ていたそうです。

「設置前迄は艦体に貝の殻とかがついてましたよ」

とのことです。
ここに備え付けてから塗装を行ったってことですね。



行ったことのない場所に、「大和プリクラ」を発見。
ここでアップする、それだけのために、プリクラ撮りました(笑)
ショールの裏地のオレンジとバックの色を合わせたところがこだわりです。
でもこうしてみると、敬礼の上手い下手ってやっぱりありますね。

わたしはどうも「敬礼アプリ」で練習しないとだめっぽい ∠(・_・ )



海軍兵学校とはあまり関係ない内容になってしまいましたが、
ここまでは各自行動だったので仕方ありません。

バスに帰ってきて、次の予定地に移動になったのですが、
車内で週番の腕章を付けた御歳80ウン歳の生徒が
資料を配ったり、旅行社の係員が説明をし終わったとき、

「バスの中で何もしないのはもったいない!」

と大声が上がりました。

「ただ今より軍歌演習を行(おこの)う!」

キタ━━━(≧∀≦)ノ━━━ !!!!!

来たよ軍歌演習。

「戦艦大和の甲板で最後に総員が涙を流しながら歌った
『如何に狂風』を歌う!」

そうそう、そうでした。
「大和特攻」の際、総員が乗艦前に2日の休暇をもらい、
家族や親しいものに別れを告げて再び乗艦してから、
総員(といっても3分の2の2000人)が甲板に集められ、
皆でこの歌を泣きながら歌ったという話・・・・・

あれ?何でわたしこの話を知ってるんだろう。

思い返してみると館内で「遺族・生存者の証言」を観たとき、
隣にご老人がずっと座っていたような気がしたけど、
あの方がこの声の主だったのかも・・・。 

「前へ~~~進め!」

 【軍歌】如何に狂風

わたしが最初の部分を一緒に口ずさむと隣の方が
(義父上が海兵卒)

「歌えるんですか!」

と驚いておられました。
ええ、悲しいくらい歌えてしまうんです。
軍歌集さえあればおそらく完璧に。

それにしても感無量でしたよ~。
本物の「生徒さん」と一緒に軍歌を歌うこのひととき。

続いて歌は「兵学校三勇士」「兵学校数え歌」となりました。
写真の艦内帽の元生徒は「数え歌」を熱唱しておられます。
作詞者不詳(ということは生徒の誰か)のこの歌詞、
内容が面白かったので、探してきました。


♪ 兵学校数え歌

一ツトセ広島県下の江田島は
明日の日本のバロメーター
ソイツァ 豪気だネー

ニツトセ踏んだり蹴ったり殴ったり
攻撃精神棒倒し
ソイツァ 豪気だネー

三ツトセ三ツ星おろして入れた位置
古鷹山の上に出た
ソイツァ 豪気だネー

四ツトセ夜な夜な捻るこの腕で
一号殴った夢を見た
ソイツァ 豪気だネー

五ツトセ粋な短剣伊達じゃない
魔よけ虫よけ女よせ
ソイツァ 豪気だネー

六ツトセ無理もへちまもあるものか
殴り殴られ偉くなる
ソイツァ 豪気だネー

七ツトセ泣き事言う奴ブンなぐれ
にやにやする奴ははりたおせ
ソイツァ 豪気だネー

八ツトセやさしい心もないじゃない
弥山山頂月を見る
ソイツァ 豪気だネー

九ツトセ漕ぎも漕いだり十浬
宮鳥遠漕半殺し
ソイツァ 豪気だネー

十トセとうとう卒業の時が来た
追い出せ蹴り出せ叩き出せ
ソイツァ 豪気だネー

 
彼らの歌を聴きながら、バスは次の目的地に着きました。
そこは、海軍軍人の御霊を鎮めるために墓石や、
軍艦などで戦没した乗員たちの慰霊碑が置かれた長迫公園、別名

呉海軍墓地でした。 


続く。
 

海軍兵学校同期会@江田島~海軍墓地

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旧海軍兵学校の生徒たちを乗せたバスは、
大和ミュージアムから一路旧海軍墓地に向かいました。

海軍墓地は明治22年7月1日、呉鎮守府開庁に伴い、
戦没などによる海軍軍人ならびに軍属の埋葬地として、
翌年の明治23年に、用地8,503坪を海軍が買収して設置したものです。

戦前戦中は毎年一回秋に慰霊祭が執り行われてきたのですが、
大東亜戦争終結により廃止になってしまいました。

終戦直前の7月には戦災に遭ったうえ、終戦後の9月に台風がこの地を襲い、
無惨に荒れ果てていたのですが、その後復員局や有志、近隣の人々、
団体などの奉仕により、修復と清掃、そして供養は絶やさず続けられたのです。

昭和46年には「呉海軍墓地保存協力会」が組織され、
それからは環境整備と慰霊の式典が欠かさず行われることになりました。 

パンフレットより、綺麗に虹のかかった海軍墓地。

周囲には普通に民家が建ち並んでいますが、
ここに住む人たちは昔から海軍墓地への清掃奉仕などを
地域の取り組みとしてずっと続けて来られたということです。

墓石、慰霊碑は、整地された傾斜の石段に並び、
坂を頂上に向かって上がっていく道沿いにそれらを見る形です。

わたしもこの道を上ってみましたが、非常に整備が行き届き、
墓石慰霊碑が整然と斜面に並ぶ様は、いかにも整理整頓規律を重んじる
旧海軍の墓地に相応しいと、妙に納得してしまいました。

パンフレットで知る処によると、平成9年から3カ年計画で
整備を施し、擁壁の石積みと参拝道があらたに拡充されているそうです。 



現地に着いたら、バスから公園内にある建物に案内されました。
入り口で配っているのは冷たい缶コーヒーです。 



事務所に併設された展示室では、この墓地に慰霊碑のある
軍艦の写真が壁の一面に貼られていました。



反対側の壁には開戦時の艦隊編成が毛筆で書かれた巨大な紙。
よくぞ筆でこれだけ狂いなく全艦隊の艦船名を書けたものです。 



貴重な当時の写真も。
これは宮崎県で昭和16年に行われた「日本最後の特別大演習」。 



おそらくこの海軍墓地に墓石がある戦死者でしょう。
葬儀のときの様子、嶋田繁太郎や古賀峯一から寄せられた
弔辞とともに、海軍旗の前に置かれた水兵帽、
寄り添うように置かれた桜の花・・。

なぜか本人の遺影はどこにも見えませんでした。 



全員が集まったところで、当墓地の係員であり、どうやら今回訪れた
兵学校生徒と同期であるらしい方が、
(わたしも明日江田島に行きます、と言っていた)解説を始めました。



当墓地の来歴に始まり、ペリリュー島の慰霊、そこでの戦いの逸話など。
ペリリューでの激しい戦いは、スピルバーグが監督をしたテレビ番組
「ザ・パシフィック」でも描かれていましたが、アメリカ軍の戦死者は
1,794名、負傷者の8000人余り、精神に異常を来したもの数千名。

日本軍は戦死者 10,695名、捕虜202名、生存者、34名。

「どちらの国にとっても意味のない戦いだった」

と解説の方は言いつつ、前にここでも書いたこの話をしてくれました。

【日本兵と親しくしていた島民たちが、戦況が日本に不利となってから、
「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが、
「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と一蹴された。
日本人からそんな目で見られていたのかと落胆しつつ、
船に乗り込んだ島民たちが島をいざ離れるときに見たのは、
その隊長を含め手を振って浜へ走り出てくる日本兵の姿だった。
彼らはその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。】

この話は、船坂弘の著作「サクラサクラ」に書かれたもので、
信憑性については定かではありませんが、いずれにしても
この逸話は、これだけ激しい戦いがありながら現地人の被害が
僅少であったことをあらわしています。



これもかつてお話ししたことのある、チェスター・ニミッツの言葉の碑。

日本軍の洞窟陣地は次々と陥落され、更に食料や水もなくなります。
ついに司令部は玉砕を決定、幹部が割腹自決した後、玉砕を伝える
「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝「万歳突撃」が行われました。

ニミッツの碑についても解説がありました。

「敵将がこのような言葉で我が軍の犠牲を称えてくれています。
『 旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし。
ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』」

「英国水兵の墓」についての説明もありました。
1907(明治47)年、香港駐在の英国船「アラクリティー」が
戦艦「安芸」進水式に参列のため呉に回航中、その2ヶ月前に
乗り組んだばかりの18歳の2等水兵、ジョージ・ティビンスが
宮島沖を航行中海中に転落し、そのまま行方不明になりました。

日本政府と海軍は、後日見つかった水兵の遺体を
この海軍墓地に礼式に準じて葬ったのですが、その十字架を
戦中、心ない者が「敵国兵の墓だ」と損壊したため、
海軍は墓を鳥かごのようなケージで保護しました。
現在もそれは、そのまま歴史を語るものとして残してあるのです。



ここには日英同盟100周年の記念樹もあり、英国からは
駐在武官や国会議員などもしばしば訪れます。
ある国会議員が数年前に訪れたとき、英国水兵の墓の説明を聞いた彼女は
涙を浮かべて

「Thank you bery much indeed!」

と繰り返し礼を述べた、ということでした。 



戦後の海軍墓地の慰霊は、戦友会、墓地顕彰保存会などが中心となって
絶えることなく行われてきましたが、慰霊祭は必ず自衛隊が執り行います。

海上自衛隊は海軍の血を濃く受け継ぐと自負するが故、
先達の慰霊には必ず海軍の礼式を以てこれを鎮めることになっているのです。




海自は、たとえば練習艦隊がかつての激戦地を航行する際には、必ず
洋上で慰霊祭を執り行うのですが、去年の11月、フィリピンの台風被害に際し
緊急援助活動のため派遣された護衛艦「いせ」の甲板では、
ご覧のようにレイテ湾において洋上慰霊際が行われたようです。

当ブログではこの派遣に際し「戦艦伊勢の物語」という一項を
この派遣部隊の活躍に対してアップさせていただいたのですが、
そのときに、

瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田という空母が一度に失われるというこの海戦で、
「伊勢」は敵航空機の集中攻撃を「弾幕射撃」と操艦で悉くかわしただけでなく、
戦闘の最中にエンジンを止め、
海面に漂流する「瑞鶴」の乗員を救助しているのです。

という風に、レイテ湾沖の戦いについて、つまり同じ名前を持つ
護衛艦「いせ」が、戦後の永きを経て今、人命救助の尊い任務を帯びて
そこにあることの因縁についてお話ししました。

海自の派遣部隊はその海で洋上慰霊祭を行い、先達の霊を顕彰したのですが、
そのときの様子を記した写真が、ここ海軍墓地に奉納されていました。



年に一度、秋分の日に行われる海軍墓地の追悼式は、
「合同」と銘打って、ここに弔われる全ての海軍軍人たちの霊、
そして一人の英国軍人の鎮魂を行います。



先日表敬訪問をさせていただいた呉地方総監も、
着任して最初の海軍墓地追悼式において献花を行っておられました。

にこやかで闊達、ユーモアたっぷりにお話していたあのときとは
全く違う、厳粛で儼乎たるご様子です。

海軍墓地での追悼式典は、海上自衛隊呉地方総監部に取って
大変重要な任務であるということなのでしょう。

こういった公式の行事のほかにも、自衛隊員はここでの
清掃奉仕なども定期的に行っているそうです。 



解説を聞いた後、少しの自由時間があり、一行は集合写真を撮りました。
しかし、

♪ わたしを~お墓の前で~探さないで下さい~
そこに~わたしは~いません~写ってなんか~いません~♪

そう、この瞬間、不肖エリス中尉、後方に見える墓地の斜面沿いに付けられた
参道を、一つでも多くの碑を写真に収めるべく

全力疾走していたのでございます。

というわけで、次回、その碑石の写真を中心にお送りします。(ぜいぜい)


続く。 

海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「海軍生徒の墓」

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今回、この海軍兵学校生徒だった80歳台の「元青年」たちと
一泊二日の行程を共にして彼らを見て思ったのは、
本当に人間、80年も生きていると足腰がまず弱るということです。

かつて江田島でカッターをこぎ、棒倒しに水泳に武道と、
若々しい肉体を謳歌していた同じ人々が、杖をついていたり、
車いすだったり、一人で歩けても足元がおぼつかないのが殆どで、
たまに普通に歩いている人がいると目を引いてしまうくらい。

全員の移動はですから大変時間を要するものになりましたし、
ここ海軍墓地で、小高い斜面沿いの参道を上がろうとする人はゼロでした。

もっとも、その夜行われた懇親会で聞いたところによると、
この学年の同期の半分がすでに物故したとのことで、
つまり今ここに来て歩いていられるだけでも、同期生の中では一握りの
「健康優良爺」(けんこうゆうりょうじ)であるということになります。



わたしは皆が集合写真を撮り、全員がバスに乗り込むまでの時間、
意を決して斜面を駆け上がり、ほとんど小走りに移動しながら
碑石を写真に納めてきたわけですが、そんなことができるのも
まだ若く健康な肉体を持っているからだと、墓石に近づくこともままならず
ふたたびバスに乗り込む元海軍生徒を見てあらためて思いました。


さて、冒頭写真は軍艦日向の慰霊碑。
昭和44年に建立されました。
ここにある碑は一部を除いて、戦後、生存者や遺族ら有志が
建てたものが殆どです。



航空母艦「信濃」の碑。
「呉と海軍墓地」という当地で配られた小冊子には、「信濃」について
幾ばくかの記述があります。
それによると・・・・、

「信濃」は「大和」型の三番艦でしたが、ミッドウェーで空母を
4隻喪失した海軍は、これを急遽空母として建造しました。

横須賀空襲が想定されたため、建造の途中で呉に回航したのですが、
その途中、米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷を受け沈没しました。

乗員1965名のうち885名が死亡。
生存者は戦後ここに白木の墓標を建てましたが、その後
有志の協力によりこの碑が建立されました。 



空母「雲鷹」の碑。
「雲鷹」は、日本郵船の客船「八幡丸」を改造した空母でした。
1944年、船団護衛任務の途中で、米潜水艦「バーブ」の魚雷により
撃沈されました。
艦長の木村行蔵大佐も戦死しています。

碑石の揮毫は、

「参議院議長 徳永正利」

となっています。
徳永正利は日本遺族会の議長を務めていました。



「男たちの大和」をご覧になった方は、この「大和の碑」が
映画のシーンに登場していたのを覚えておられるでしょうか。

 

ひときわ立派な自然石を使った碑の根元には、
在りし日の大和の姿が写真に刻まれています。
飲み物が二本供えられていますが、遺族が訪れたのでしょうか。



大和の死者は2736名。
「大和」とまさに運命を共に、水漬く屍となって散華しました。

大和の生存者で作った「戦艦大和会」の会長だった
細田久一氏は、いつも口癖のように

「私だけが生き存えて申し訳ない・・・命ある限りは」

と沈痛な面持ちで語り、やはり生存者の石田直義氏と二人で、
毎日のように墓石の管理をし、毎年4月7日には欠かすことなく
慰霊祭を主宰していたのだそうです。

細田氏が亡くなった後は、世話人会が遺志を継いでいます。



戦艦「伊勢」の碑。
「大和ミュージアム」に、米航空機に停泊中攻撃され、
着底してしまった姿が大きなパネルにされていましたね。



これです。
「音戸沖」とありますが、今回のツァーでは「音戸海峡」を渡ってきました。 



その向こうに見えていた重巡洋艦「鈴谷」の碑。
ミッドウェー海戦のときに『鈴谷」艦長であったのは、
キスカ救出作戦で有名になった木村昌福大佐でした。
沈没を免れたフネが「熊野」の「我に続け」の信号を揚げ西進離脱する中、
「鈴谷」だけは「我機関故障」と伝達して、艦長独断で「三隅」の生存者の
救出に向かったという経歴を持ちます。

「鈴谷」は1944年10月のレイテ沖海戦で米軍機の攻撃により航行不能になり、
「雪風」「沖波」が見守る中、沈没しました。

生存者はこのあと総員「雪風」らに救出されたものの、
戦死、行方不明者、合わせて654名となっています。

 

軽巡洋艦「天竜」の碑。
第一次ソロモン海戦にも参加した小型の軽巡で、
1942年、マダン上陸作戦のときに米潜水艦アルバコアの雷撃を受け
沈没しました。 



特務艦「間宮」戦没者慰霊碑。
給糧艦であった「間宮」では18,000人の3週間分の食料補給、
艦内での加工食品の製造などが可能でした。

そんな給糧艦であらば、もしものことがあった場合、
前線の将兵たちに与える士気の低下は計り知れないものがあることから、
駆逐艦も厳重に援護を行ったといいますが、
防御機能がその分食料の搭載に回された給糧艦は狙われやすく、
1944年、「間宮」は米潜水艦「スピアフィッシュ」の雷撃により戦没しました。

 

軽巡洋艦「阿賀野」慰霊碑。

ミッドウェー海戦を経て、日本が戦況のターニングポイントを過ぎた頃、
「阿賀野」 を旗艦とする水雷戦隊、第十戦隊が組成されました。

しかし 軽巡洋艦が水雷戦隊を駆使しての戦闘はほとんどなく、
最前線で戦う機会は訪れませんでした。

1943年、輸送任務についていた「阿賀野」に、ブーゲンビル島沖海戦への
出撃が命じられますが、「阿賀野」は米潜水艦「スケート」の魚雷を受け、
阿賀野型軽巡の最初の戦没艦となってしまいました。


”水雷戦隊旗艦として建造された阿賀野型軽巡洋艦は、
結果的にその本領を発揮する場を与えられず、相次いで戦没することとなった。
その高性能とは裏腹に時代に合わぬ用途を背負わされてしまった艦の悲劇とも言える”
(Wikipedia)


写真を見て初めて気づいた、海軍生徒の墓。

兵学校在学中に死去した人たちということになります。
手持ちの「海軍兵学校沿革 海軍兵学校編」で調べたところ、
右の二つの墓石の主は、いずれも明治41年に死去しています。
このことから、明治40年入学の第38期生徒を探したところ、
ドンピシャリで「柏原静登生徒」、続いて36期に「飯島清生徒」が
在籍していることが分かりました。

学校史によると、 このころ(明治41年)、校長は島村速雄少将、
11月17日には

「成績優秀にして学術優等章を受けたる者」
「品行善行章を受けたる者」 

のどちらにも、井上成美という名前が見えます。 

同年9月23日、墓石にも書いてあるように、

「第39期生飯島清呉海軍病院にて死亡す」
(25日午後三時呉海軍練兵場にて海軍葬儀教官は
過半生徒は特殊の代表者54名会葬)

さらには9月27日、

「飯島清死亡に付きその補欠として愛知県平民
三輪成美入校す」

とあります。
生徒が一人死亡したからと言って補欠を入学させるとは・・。
入学した方もなんだか複雑な気持ちにならなかったでしょうか。


そして、12月22日、

「第38期生柏原静登大阪府下浜寺に転地療養中死亡す」

とあります。
このころの青年の死亡原因はその殆どが結核だったのです。
そして12月30日、

午後4時故生徒柏原静登の海軍葬儀を江田島教法寺に於て執行、
(呉海軍墓地埋葬)

となっています。 


兵学校在学中の病没や事故による殉職を逃れたとしても、
戦線に赴き大半が戦没してしまった学年もありました。

兵学校に在学中戦争が終わったこの期生は、辛うじて戦線に往くことなく
戦後の平和と日本の繁栄を享受し、その半数が齢80を半ばも越すまで
元気で過ごすことができたのです。

まことに人の運命とは紙一重だと思わざるを得ません。
 



続きます。

日系アメリカ人~442部隊・ロストバタリオン救出

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日本人の血が流れているというだけで、「危険・監視対象」とされ、
日系アメリカ人たちは強制収容所の生活を余儀なくされました。

西海岸の多数のアメリカ人が元々持っていた人種的な偏見と嫌悪は
政治家と陸軍を動かし、強制収容所への追放という悲劇を生みましたが、
この非人道的措置に対し、反対を唱えるアメリカ人もいたのです。

その一人が、FBI長官のジョン・エドガー・フーバーであり、
また、大統領夫人であったエレノア・ルーズベルトでした。

フーバーの反対は非常に論理的で、国内の危険人物は真珠湾攻撃後、
既にFBIの手で拘束したから、必要がないというものでした。

エレノア・ルーズベルトは人道的な面から、夫に法案への署名をしないよう、
プライベートで訴えていたのですが、それは聞き入れられなかったそうです。
(旦那のしたこと分かってんのかなこのおばちゃん?とか言ってごめんなさい)

その他にもコロラド州知事であったラルフ・カー、駐日大使も務めた
エドウィン・ライシャワー博士も反対を表明しています。
カー知事はこの立場を取ったため、後に政治生命を絶たれることになりました。



日系人の中には、強制収容所から出ることが出来た人たちもいました。
忠誠心があると認められた日系人は、外での農作業(ただし、
戦争で人手の取られたアメリカ人の農場など)が許されましたし、
アメリカ人の人道主義者や宗教団体なども、声を上げていましたから、
その助けで、二世の大学生は学業に戻るというケースもあるにはあったのです。

そして、収容所を出ることのできる確実な方法がもう一つありました。
アメリカ軍の兵士として入隊することです。



第2次大戦中、収容所を出て兵役に就いた日系アメリカ人は3万3000人いました。
太平洋地域に赴いた日系兵士の任務は、諜報が主なものでした。
アメリカ軍情報部に訓練を受けた二世の言語専門家は、入手書類を翻訳し、
捕虜を尋問しました。



日本兵を尋問する日系兵士。
戦争中、日系アメリカ人の諜報に関する活動は最高機密とされ、
その訓練段階から世間からは厳密に秘匿されたそうです。



日本人捕虜を尋問しているハリー・フクハラ。
いかにも切れ者のような容貌のフクハラは、後に大佐まで昇進しています。



ブーゲンビル(山本五十六の乗機が撃墜された地です)を
訪れたカイ・ラスムッセン大佐と現地の日系人将兵たち。
ここでラスムッセン大佐は、ロイ・ウエハラ、ヒトシ・マツダらに
敵の攻撃についてのより詳細な注意を与えたそうです。

敵とは、他でもない日本軍のことです。



アメリカ政府は敵を知るため、日系人を使って徹底的に情報収集を行いました。
彼らは日本の書物、パンフレットを英語に翻訳する作業をしています。
その数は何千冊にも及びました。



陸軍第162ランゲージ・デタッチメント部隊。
言語専門の特殊部隊です。
こういった部隊に所属する日系兵士たちは、日本人兵士に向けて
戦意を失わせるようなビラをまいたり、投降を呼びかけるときの
アナウンスをしたりといった任務に就きました。

しかし日本側の記述による日系の通訳たちの評判はいいものではありません。
東京裁判における彼らの同時通訳は非常に拙いもので、
何を言っているかわからないと怒り出す被告もいたということです。

国際裁判の通訳をするからには、彼らの中でも優秀な人物が選ばれたはずなのですが。

山崎豊子の小説「二つの祖国」では、日系アメリカ人として育ち、
東京裁判に通訳として出廷する主人公が登場します。 



通称442部隊、名称

第442連隊戦闘団(The 442nd Regimental Combat Team)

は、日系アメリカ人ばかりを集めた部隊でした。
大隊長以下3人の指揮官は白人の士官で、後は日系人です。

指揮系統の上の士官には日系人が昇進して就きました。

映画「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)では、
志願して442部隊に出征した主人公が、名誉の負傷で収容所に帰還したとき、
陸軍兵曹である看守たちが、かつての「囚人」に、
「サー」「ルテナント・ノムラ」と敬礼する様子が描かれています。



日系兵士の制服。
彼らを差別せず、アメリカの軍人として対等に扱ったことは、
4442部隊の日系人たちの士気を高めることになったと思われます。



「白人支配からの解放」を大義名分にしていた日本に、
アメリカの日系人排除を非難されたことに対して、
アメリカが反駁する必要から生まれたのが「日系人部隊」でした。

日系アメリカ人たちの立場から言うと、収容所を出ることができるうえ、
政府によって親が強制収容所に監禁されている中、祖国のために
生命の危険を犯すことで、忠実な市民として認められるチャンスでもあったのです。




「プリズンキャンプからアーミーキャンプへ
おめでとう 君たちは100大隊/442大隊の一員だ」

と題された写真。
第100歩兵大隊の士気が高く、訓練で高い成績をあげたことも
アメリカ政府が彼らを重用した理由でした。



漢和辞典、コンサイス英和辞典に混じって
さり気なく置かれた勲章?



「ペン習字書範」という本の上に置かれた認識票。



水筒、背嚢、ベルトポーチ、軍靴。



携帯用の鍋にもなる食器セット。
「アリイ」と書かれた背嚢にはカードが付けられていますが、
そのカードには、10カ所あった強制収容所が書かれています。
もしかしたら、収容所に帰還する日系兵士たちの荷物を
送り先を間違えないようにチェックするカードだったのかもしれません。

 



ミシシッピーのシェルビーで訓練中の442部隊。
隊長も小隊長も日系人だけです。



イタリアのサレルノに上陸した歩兵第100大隊の兵士たち。
カメラを見て微笑んでいます。

彼らはこの後ドイツ国防軍との戦いで初の戦死者を出しました。



日系の隊長が握手しているのは、イタリア軍人のように見えます。
後ろにはがれきの山。



サレルノの戦いで山中に陣地を構築する日系人部隊。



彼らがアメリカ陸軍最強の部隊となったのは、「ロストバタリオン」
となっていたテキサス大隊を救出したことでした。

敵に囲まれ孤立した211名の「テキサン」を、442部隊は
それを上回る214名の犠牲と、600名の負傷者を出しながら救出しました。



このときの戦いは、アメリカ陸軍の10大戦闘のうちのひとつに数えられ、
彼らの勇敢さは、日系人全体に対するアメリカ人の見方を変えることに
少しは成功しました。

「少し」というのは、これだけの犠牲を払ってアメリカのために戦っても、
戦後、帰ってきた彼らをアメリカ人は相変わらず「ジャップ」と呼んで
白眼視し、彼らはろくに職に就くこともできなかったからです。

皮肉なことですが、1960年代になって公民権運動が高まりを見せると、
アメリカ人は急に「模範的なマイノリティ」である日系人たちを
持て囃し出しました。

黒人たちの激しい人権復興運動の嵐に驚いた彼らは、
そういう方法ではなく、自分たちを犠牲にして国のために戦い、
アメリカ国民として認めてもらおうとした日系人たちを見直し、
あらためて評価する気になったのです。

勝手なものです(笑) 

 



続く。


海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「無名兵士の墓」

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ここ呉海軍墓地にあるほとんどの慰霊碑は、
戦後になって生存者や遺族が建立したものです。

戦後建てられた最も古い碑は、写真に撮ることはできませんでしたが、
昭和22年、戦後すぐ建てられた「大東亜戦争戦没者之碑」です。

各碑石の建立年月日を調べたところ、これを最後に昭和20年、30年には
唯一つの碑さえも建てられた様子はありません。

生存者も遺族も、戦後の自分たちの生活で手一杯で、
慰霊を形にする余裕が生まれたのが高度成長期後半の
昭和40年代頃であったということなのだろうと思われます。

ちなみに、「大東亜戦争戦没者之碑」以降、一番古い慰霊碑は

「伊363潜殉職者之碑」(昭和41年10月29日)
「駆逐艦島風戦没者之碑」(昭和41年11月11日)

そして先日写真をアップした

「軍艦信濃戦没者之墓」(昭和41年11月29日)

となります。

手前の「軍艦天龍遭難死者記念碑」は、戦前に建立された
11基の追悼碑のひとつで、明治31年となっています。
「天龍」は大東亜戦争に参戦し戦没しているのですが、この碑は
1897年(明治30年)11月26日 台湾方面警備に従事中に発生した
船艙火災による殉職者の慰霊のため建てられました。

つまり建立したのはまだ健在だった「天龍」の乗員だったということになります。

対してむこうに見える「軍艦鹿島有終之碑」は、建立が平成9年です。
練習巡洋艦「鹿島」は第4艦隊の旗艦を務め大戦中はずっと就役していながら
戦後まで無傷で生き残った運の強い艦でした。
「有終之碑」という碑銘はそのことを表わしています。

手前にあるのが「第531海軍航空隊慰霊碑」。



「隊歴」はこの碑に併設されたものです。
天山部隊であったこの航空隊が全機を失った後、
マーシャル諸島で飢餓に耐えながら終戦を迎えた様子が書かれています。



「秋月」「涼月」「磯風」「谷風」「雪風」「嵐」「舞風」・・。

駆逐艦の名が「阿賀野」を囲む策に記されています。
おそらく見えていない石柱の向こう側には

「輝月」「初月」「天津風」「時津風」などがあるのでしょう。



ソロモン諸島ショートランド島の生存者・遺族によって建てられた
「ショートランド島戦没者慰霊碑」。

日本軍は開戦と同時にここに泊地を創成し、
ガダルカナルの戦いに於いては駆逐艦のほとんどが
ここから出撃していきました。



呉鎮守府13防空隊、そして呉6特南海砲台員の慰霊のために
昭和46年に建立されました。



一番右は駆逐艦「陽炎」の碑。
駆逐艦は全部碑があるわけではありません。
「陽炎」は真珠湾攻撃のためにヒトカップ湾を出航していますし、
その後ラバウル、ミッドウェー、キスカ、ガダルカナルと
武運強く戦いましたが、ブインからの輸送任務の際、
米軍の機雷に触雷して沈没しました。

一番むこうにある緑の石碑は明治年間の建立で

「軍艦広丙(こうへい)遭難哀悼碑」。

黄海開戦の際、清国から接収した防護巡洋艦「広丙」は、
戦利品として日本海軍の艦籍に入りましたが、
わずか9ヶ月後、台湾沖で任務中座礁して沈没してしまいました。

イギリスから開戦当日接収されて「勝鬨丸」になったものの、
日本のものになるのを拒むように不具合を起こし続け、
ついには米軍の魚雷1発であっさり沈んだ「ハリソン号」みたいですね。 

彼女はどうしても敵国のものになりたくなかったのでしょう。 

 

前まで行けず柵ごしに撮った

「第参号輸送艦戦没者慰霊之碑」

輸送艦の碑はこれともう一つ、

「第113号輸送艦慰霊碑」

というのが2基あります。
第3号輸送艦の同型艦は全部で22隻、
113号は「103号型」といい未完成の ものを含め176隻ありました。
3号輸送艦はミンダナオで座礁しているときに、米潜水艦に発見され
魚雷を受けて戦没しています。


 
駆逐艦綾波戦没者之碑。

「綾波」は吹雪型駆逐艦の11番艦。
第3次ソロモン海戦の夜戦において、ちょっとした手違いで(笑)
たった一隻で米艦隊に突入していった「綾波」は、
砲撃をことごとく敵艦に命中させ、米艦隊に大打撃を与えました。
自らもこのとき沈没したのですが、大戦果に高揚していた乗員たちは
海に漂いながらも軍歌を歌い続けていたそうです。

そんな生存者ですから、おそらく「綾波」の乗員であったことを
全員が何よりも誇りにしていたのだと思われます。 
碑石の揮毫は源田実に頼んでいることからも(源田実、達筆!)
それが窺える気がしますし、碑石を取り囲む小さな石碑には
かつての「綾波」の行動記録が逐一記されています。

例の「サボー沖海戦」は一番右に。
(敵艦船撃沈については一切述べられていない)
輸送船団の護衛で33名を救助したことや、パレンバン(落下傘部隊の輸送?)
にも参加していたことなど、wikiには載っていないこともここに書かれています。

 

少し奥まったところに、

「上海 満州事変戦没者之碑」

があります。
この碑は昭和8年に建立されたもので、昭和6年の満州事変、
翌7年の第一次上海事変 のあと、武力衝突で戦死した海軍将兵の
霊を慰めるために建てられたものです。

この後上海事変は、以前感想を書いた映画「上海陸戦隊」 でも
えがかれていたように、昭和10年から12年にかけて
中国による海軍軍人殺害事件が続けて三件起こり、
中国政府軍による攻撃によって、ついには第二次上海事変が起こります。


この慰霊碑は、第二次上海事変の前に建立されたことになりますが、
第二次事変の戦没者もここに顕彰されているのかもしれません。 



戦前に建てられた碑はたった11で、戦後の碑の数は
今やこれを大きく上回るようになったのですが、
戦後に決して増えないのが、個人の墓碑です。

古くは明治23年のものから、最後に葬られたのは
昭和20年8月までで、全部で158基あります。
このうち1基が、先日もお話しした英国水兵ジョージ・ティビンスのものです。

英国水兵の墓

時間がなくてこんな角度からしか撮れませんでした。



大東亜戦争中はそれこそ多くの海軍将兵たちが亡くなったのでしょうに、
なぜここに157基しかないのか、逆にここに葬られるのには
どんな理由があったのか知りたいところです。

潜水艇の事故で亡くなった佐久間艦長はこの場所で荼毘に付され、
このどこかに葬られているのだそうですが、そういった
有名な軍人でない、若い水兵や兵曹などの墓も多いのです。



たとえばこの手前の墓石。
明治33年と言うと義和団の乱のあった年ですが、
3月に戦闘は行われていません。
機関兵曹の死因はなんだったのでしょうか。

あと一つ注目していただきたいのが向こうの墓石の主、

「海軍一等船匠手」

船匠手というのは海軍の階級ですが、「船匠」だと船大工です。
明治時代に存在した船のメンテナンスを請け負う部署でしょうか。
この船匠手の死亡年月日に「帰天」と書かれていますが、これは
彼がカトリック教徒であったことを意味します。

十字架を掲げた英国水兵の墓があるように、この墓地には
宗教による分け隔てはないということがわかります。 




わずか22歳で亡くなった4等機関兵の墓。



この3基の墓は、いずれも海軍機関兵曹のものです。
故人は三人とも30過ぎのベテランで、全員が叙勲されています。
やはり軍人として自らの命を惜しまず任務に殉じた、といった
理由が在る者だけがここに埋葬されているのかもしれません。


軍艦や事変、部隊の慰霊碑とは違い、個人の墓には、
海軍墓地だけでなく先祖代々の墓にも葬られていたり、
縁故が死に絶えて遺族ですら訪れなくなってしまったため、
だれも訪れなくなってしまったものもあるのではと、
そのひっそりとした佇まいからそんな気がしました。

ですから、若くして戦死した無名兵士の墓石の前に
花が一輪手向けられているのを見て、ほっと安心させられたのです。

続く。

リバティ船ジェレマイア・オブライエン~「アベンジ・ディッセンバー7」

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サンフランシスコ湾で動的展示公開されている、
アメリカの戦時リバティ船「ジェレマイア・オブライエン」。
夏に見学してきて、それについて語るのも最終回となりました。



取りあえず甲板から上を全部見学し終わったところに、
ミュージアムの指差し看板があります。
甲板の一階下が博物館として公開されているようです。

さっそく狭い階段を下りて行きますと・・・。 



いきなり記念写真のコーナーが。
海軍の水兵さん、海兵隊士官、そしてロージー・ザ・リペッター。
縮尺の関係でロージーが巨大になってしまいました。



前にも機関室の写真と共にこの船の動力が

3シリンダートリプル拡張レシプロ蒸気エンジン

であることをお話ししたと思いますが、JOのエンジンは
動的展示されているため、ここにあるのはレプリカです。
レプリカではありますが、動かそうと思えば蒸気で稼働するそうです。

この横にあった看板には、長々とエンジンの動力の仕組みについて
機構を説明してありましたが、現場では面倒なので読まず、
後で写真を点検したら、一番最後に

「50¢入れたら2分間実際に動きます」

と書いてあったのに気がつきました。
・・このときちゃんと読んでいれば動くのを見られたのに・・。



映画「タイタニック」にJOの機関室が使われたことも
パネル展示で説明されています。

ちなみにタイタニック号のエンジンは、レシプロ蒸気エンジンと
タービンを組み合わせたものでした。

ボイラーで作られた蒸気はレシプロ蒸気機関を動かし、さらにそれが
低圧になって出てきて直結タービンを回すという仕組みです。



一般的なリバティシップの船内見取り図。

中央の赤部分がエンジンで、そこから船底のやはり赤で表わされた
シャフトトンネルに配された動力を伝って船尾のスクリューに伝わります。

船首と船尾のブルーの部分は「ピークタンク」。

船首および船尾の隔壁(衝突時に沈没を防ぐ)の前後にあり、
船の縦方向の傾斜の調整(トリミング)を行うタンクです。
このタンクに注排水をすることにより,前・後部の喫水調整を行います。




中央にはイベント等を行うスペースがあり、皆が座って
上映されているビデオを見ていました。



かつて実際に使われていたJOの備品。



ふと画面を見ると、かつて現役だった(今も現役といえば現役ですが)
JOの映像が流れていました。



彼女が航行した航路が全て線で記されています。

ノルマンジー上陸作戦のときが緑の線。
その他、上海、フィリピン、パプアニューギニア、オーストラリア、
南米にも一度ボストンから向かっています。



第一次世界大戦時、アメリカは一隻でも多くの船を必要として、
そのために様々な取り組みを行いました。

「我が祖国は船を必要としている」

「船は出来うる限り早く、完全な姿で建造されねばならず、
このためには全ての人々が毎日より一層の労働を果たせば、
船の出来るのが少しでも早くなるのである」

このような煽り文句が書かれたポスター。
実際に、この頃から26年後に、リバティシップは急増の最盛期を迎えます。




第二次世界大戦時、大量に建造された船にかかわる資料。

護衛艦 565、ビクトリーシップ(貨物船)534、
そしてリバティ船2710隻。



タンカー697隻、護衛空母124隻、戦車揚陸艦1152隻。

世界一の金持ちの国が威信を賭けて船を建造すると、こうなります。
こういうのを見ても、この相手に勝てるわけなかったとつくづく思いますね。



第一次大戦時、船建造の必要性を上からあの手この手で説いていた米政府ですが、
この日を境に、持って回った宣伝文句は不要になりました。

「復讐 12月7日」

真珠湾を奇襲した日本への憎しみを煽ることが、すなわち
アメリカ国民の労働への惜しみない挺身に繋がるというわけです。

しかし、これを観て思ったのですが、一般の歴史博物館なら
もう少し中立の立場で「こんなことがあった」と述べるだけの説明が、

「なぜ我々は建造という戦いに挑んだのか」

船舶、航空機、タンカー、銃・・
そして我が国の青年たちに,この閉ざされた世界に
勝利と平和をもたらすことが求められた

ですからね。
今でも全く立ち位置は「アメリカが正義、日本は悪」のまま。

まあ知ってましたけど。



”不注意な一言・・・・不要な沈没”

「ケアレスワード」が何を意味するのかイマイチ分かりませんが、
小さなミスによってもたらされる被害は余りに大きい、ってことでしょうか。

ここに、大戦中の喪失船舶についての資料が掲げられていました。

戦没した戦時徴用船員 8,431人
戦没した武装警備隊員 2,193人
沈没した商船 674隻 その内のリバティ船 243隻    

戦没した民間船 世界全体で 3,304隻



「JEEP ON A LIBERTY」

こういう書き方がいかにもアメリカ人ですね。
「リバティ船に乗っていたジープ」っていうことなんですけど。

リバティ船が輸送したのは車両、兵員、食料、武器、燃料などでした。



足踏み式動力のオルガンは、前線での礼拝の為に
リバティ船に乗り込んでいた神父が使用したものです。

艦内の郵便ポストもJOの艦名入りで現存。



DーDAY、ノルマンジー上陸作戦を再現した大ジオラマ。
これはすごい迫力でした。
手前に見えているのがジェレマイア・オブライエンですね。
船から降ろされた兵員たちがボートで次々と岸に向かっていきます。



黒々としたノルマンジーの海の色と白波。
大きさは縦5m、横3mといったところでしょうか。
アメリカにもこういう模型製作のプロがいるんですね。



「鳥だ!飛行機だ!」とおののく船上の人々。

ヒトラーのV1、と説明に書かれたこの飛行体は、第二次世界大戦中、
ドイツが開発したミサイル兵器のことです。



ただしこれは2000発つくって、英仏海峡をちゃんと越えていったのは
全体の6.5%くらいにすぎなかったそうです。


こちらはV2。
初めて使用されたのはベルギーの港アントウェルペンでした。
「V」というのはヨーゼフ・ゲッベルスの命名で、

Vergeltungswaffe 2(報復兵器2号)

の略称です。
V1は失敗でしたが、こちらは一定の効果を上げたため、
戦後、この脅威のミサイルを我が物にしようと、
アメリカとソ連の間でV−2の残りと技術者の獲得競争が起こりました(笑)



爆撃をするため低空飛行してきたドイツ機は、
バルーンの紐に引っかかり墜落したそうです。まじか。



”Fooling Hitler”

ヒトラーを騙す、と題された絵。
同盟国イギリスは、ノルマンジー作戦のときに、ショートカットである
フランスの沿岸に偽の戦車や飛行機を置いてドイツ軍を騙し、
現地への援軍の到着を遅らせました。

5人で戦車を運んでおる(笑)
ベニヤか紙でできてるのかな?



「インスタントハーバー」。

補給物資を効率的に揚陸するため、「マルベリー」と呼ばれる人工港湾施設を
アメリカ軍とイギリス軍がそれぞれ1つ準備しました。

この「マルベリー」は潜函(ケーソンと呼ばれるコンクリート製の箱)、
浮橋(ポンツーンと呼ばれる、40t用と25t用など数種類有る)消波ブロック、
沈船を組み合わせたもので、ル・アーブル港を使用できるようになるまで、
燃料を始めとする約120万tの補給物資の揚陸に用いられることになりました。



アメリカ軍、イギリスそしてカナダ軍が「オマハビーチ」「ユタビーチ」
等と名付けられたノルマンディー地方の沿岸から上陸しました。

この作戦にかかわった人々は3百万人にのぼります。

 

オマハビーチで回収された上陸作戦の際のボート。
爆撃を受け粉々に粉砕され、乗員は戦死したことが分かっています。

そんな貴重なものにガムテープで説明を貼るアメリカ人。



船団を攻撃したのはドイツ軍のコンドル(フォッケウルフ)。
対するアメリカ側はリベレーターB24。

このモデルはアメリカ軍のパイロットが敵味方識別のトレーニングに
つかったものだそうです。
そのさい、モデルのスケールは1/72が基準とされました。



これも認識トレーニングの為に使われたもの。
右から駆逐艦、戦艦ティルピッツと姉妹船ビスマルク、
重巡洋艦プリンツオイゲン、戦艦シャルンホルスト。



展示はこれで終わりです。
展示コーナーを抜けるとかつての兵員居住区がそのまま
現在も使われている状態で公開されていました。



カセットのビデオ、「DーDAY」「THE LONGEST DAY」があるので、
全部Dデイ関係の映画かと思いましたが、007カジノロワイヤル、
NO WAY BACK(邦題逃走遊戯)など、全く関係ないものもありました。

このブロック棚は水兵たちが私物を入れるのに使用されていたものです。




キャンバス式の船員ベッド。
今でもJOは、体験宿泊を時々行っており、こういうところでも
希望すれば一晩寝ることが可能です。



空調がないというのは本当らしく、巨大な扇風機がありました。
このころは軍艦は勿論一般の船にもクーラーはなかったようです。
ボイラー室で働く人々はいったいどんな状態だったのでしょうか。




さて、というわけでリバティシップ、ジェレマイア・オブライエンの
見学を終了しました。
この狭いラッタルをまた降りていくことにします。 



ラッタルの一番上から船体を撮ってみました。



ラッタルを降り、船尾を臨む。






潜水艦パンパニトとは、岸壁の隣同士に係留されています。
いつも思うのですが、こんなサンフランシスコで最も賑わう観光地に
戦争の遺跡をこのように展示公開するなど、日本では考えられません。


いずれにせよ、JOの資料に添えられた説明を読んでみても、彼らはいまだに
あの戦争は正義の為の戦いで、アメリカは悪と戦ったのであり、
全国民が一丸となって勝ち取った勝利は偉大だったと信じているようです。

日本の現在の歪な国家意識は全て敗戦から来ているのは確かですが、
万が一勝っていたら、日本もこんな国になっていたのかもしれません。

現にアメリカというのは日本やドイツに勝った後も、
朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争で懲りたかと思いきや全く懲りず、
湾岸戦争だイラクだアフガニスタンだと、こまめに世界中で
戦争を繰り返しています。

その度にアメリカ人の命もまた失われていくわけですが、
繰り返される戦争を経ても国民に疑問を抱かせない為には、
戦争そのものの是非を国民に考えさせないことが必要となります。

過去の戦争を語るときのアメリカ人が、いまだに当時の価値観に
留まっているように見えるのも、つまりは過去の戦争に疑問を抱くことなく、
その行為を「愛国」という言葉で讃えることを
国家から連綿と教えられてきたが故の思考停止というものかもしれません。

国単位で言うならば、それは「勝者の奢り」と呼ぶべきものでしょう。



こういった戦争の痕跡において、衒いもなく自らの戦いを讃えて憚らない
アメリカ人を見ると、何となく我々としては、そこに
見てはいけないものを見たような戸惑いと、微かな苦々しさを感じます。

敗戦によって国家観を歪にされてしまった国民の僻みかもしれませんが。

 


(シリーズ終わり)
 

海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「大東亜戦争と太平洋戦争」

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在学中に終戦を迎えた兵学校の最後の同期会旅行に同行し、
そこで見たことをご報告しています。

大和ミュージアムに続いて訪れたのは呉市長迫町にある、
呉海軍墓地でした。
ここには明治年間からの慰霊碑が11、個人の墓が158基、
そして戦後になって建立された慰霊碑が90あまりあります。



墓地の正面にはこのような案内板があり、何処に何があるか
示してくれていますが、個人の墓に関しては資料は出しておらず、
たとえば佐久間大尉の墓にお参りしたければ、事務所で場所を聞かねば
どこにあるかはわかりません。

これは、ここに顕彰されているのが我が国の繁栄、安泰を祈願して
悠久の大義に殉じた海軍軍人戦没者の英霊、御霊であり、
その魂に上下はないという考えから来ているものと思われます。

艦艇艦船のみならず陸上部隊や航空基地、事変や事故による犠牲者、
このような戦没者を合わせると13万余の御霊が祀られていることになります。 



階段を上がっていったところに見えるひときわ大きな碑は

「大東亜戦争戦没者之碑」。

昭和22年に戦後初めて建てられた慰霊碑です。
碑にはそのように書かれているのですが、案内板にはなぜか

「太平洋戦争の碑」

と記されています。
呉海軍墓地は、明治23年(1890年)に海軍軍人の戦没者、殉職者の埋葬地として
建立され、以来、海軍呉鎮守府の管理のもと、毎年、
慰霊祭が丁重に行われてきましたが、我が国の敗戦により
慰霊行事は総て廃止となってしまいました。

折からの台風の被害と相まって荒れ果てていたこの墓所を、とにもかくにも
再生し、「大東亜戦争」戦没者の慰霊碑を建てたのですが、
その後日本を席巻した贖罪史観のせいで「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と
言い換えることが無言の圧力の結果浸透してしまいました。

碑銘が「大東亜戦争」なのにもかかわらず案内板の表記が
「太平洋戦争」となっているのはこの風潮に対する配慮かと思われます。

碑文の揮毫は戦艦「大和」の艦長も務めた森下信衛。

天才的な操艦技術を持っていたと言う森下は坊の沖海戦、
即ち大和特攻にも参謀長として乗っており、そのあまりの格好良さに
最近はイラスト業界を中心とする神格化現象もあるくらいです(笑)

森下は大和沈没後、気を失って海を漂っていたところを救出された、
数少ない将官クラスの生存者で1960年まで健在でした。


画面右下に見える小さな石碑は

「大東亜戦争海軍戦没者柔道部員の碑」

です。



ここにはその他にも

「呉所管海軍看護合同碑」

とされている、「呉所管看護長・看護師・看護手・看護」の
慰霊碑があります。
「看護婦」という書き方は当時からこのような場合には
行われなかったのでしょうか。




「軍艦高砂戦死下士卒墓」

この慰霊碑も明治年間に建立されたものの一つ。
防護巡洋艦「高砂」は日清戦争後に日本が英国から購入したもので、
旅順攻略作戦、黄海海戦にも参加しています。

1904年、旅順港で哨戒中触雷し、副長以下273名が戦死。
なぜここに「下士卒」の慰霊碑しかないのかは謎です。



「軍艦吉野戦死者之碑」

これも戦前(昭和13年)に建てられました。
「高砂」とは同じ設計者のイギリス製でこれも防護巡洋艦です。

日露戦争時、濃霧の中「春日」と衝突し、艦長以下360名が犠牲になりました。
僚艦同士の衝突事件ではありますが「戦没」扱いになっています。

ちなみに、イギリスから回航時の「吉野」には秋山真之も乗り組んでいました。
「坂の上の雲」でも確か描かれていましたよね。



「駆逐艦早蕨(さわらび)殉職者之碑」

戦前建立の碑が続きます。

「早蕨」という駆逐艦の名前をわたしも初めて知ったのですが、
若竹型駆逐艦の8番艦として1923(大正8)年建造されたものの、
昭和7年台湾海峡付近を荒天下航行中、行方不明になりました。

重量を追加されトップヘビーで複元できなかったための
転覆事故だと見られています。



個人の墓だと思うのですが、不思議だと思いませんか?
「旅順港沖強行封鎖中」ということは、閉塞作戦のことだと思うのですが、
戦死の年月日が明治37年12月13日なのです。

旅順港閉塞作戦の第一次行動が行われたのは明治37年2月。
第三次作戦は同年5月2日です。

12月13日というのは作戦が終了して半年以上経っています。

この三次作戦ではロシア軍の陸上砲台からの攻撃を受け、
多数の将官下士官兵が亡くなっているのですが、もしかしたら
この作戦時行方不明扱いになっていて、12月になってから遺体が見つかり、
このときを以て戦死と認められた乗員だったかもしれません。

墓碑の戦死者氏名を写真に撮っていれば調べられたのですが・・。




日米戦争の転換期となったミッドウェー海戦では、日本軍は
4隻の航空母艦を喪失しました。
その一つが「加賀」です。
この個人墓石の主は「加賀」の機関長であったようで、ということは
海軍機関学校を卒業した士官であったということになります。

このときの同期会は舞鶴、つまり機関学校のコレスも一緒でした。
兵科士官と機関科士官の間には「機関科問題」と呼ばれる
根深い対立の構図があったわけですが、機関科士官の不満の一つに

「艦上勤務が機関長どまりであることから、
乗艦の際に号笛の栄誉が受けられない等の礼式上の格差」

があったこと、というのがありました。

この日同期会を行った学年は人数が多く、いくつかの分校に
分かれていたせいもあり、戦後の集まりにおいても
舞鶴(機関学校)もその一つという風に捉えていたのか、
少なくとも「機関科問題」は全く影を落としていないようでした。



殆ど参道を走破しながらシャッターを押していたので、
いい角度を探して写真を撮ることがこの辺になると全くできていません。
分かり難いのですが

「軍艦衣笠慰霊碑」。

青葉型重巡洋艦の2番艦です。
開戦から約一年後の1942年11月行われた第三次ソロモン海戦で
空母「エンタープライズ」の艦載機の攻撃により沈没。

艦長始め511名が戦死しました。



その「青葉型」一番艦の重巡「青葉」。

「青葉」はルソン沖で潜水艦の攻撃により大破し、
曳航されて呉に繋留され、防空砲台として使われていたのですが、
昭和20年、終戦まであと三週間というときに空襲を受け
呉沿岸で大破着低しました。



「軍艦矢矧殉職者之碑」。

軽巡洋艦「矢矧」は前回お話しした「阿賀野型」の3番艦です。
坊ノ岬沖海戦において大和と運命を共にしたフネなのですが、
この慰霊碑は意外なことに大正9年の建立となっています。
調べたところ、その「矢矧」ではなく、
明治45年に建造された「筑摩型防護巡洋艦」の「矢矧」でした。

しかし、「矢矧」が大正9年ごろインド洋の通商保護任務にあった、
ということしか今回はわかりませんでした。
その間乗員が多数「殉職」するような事故があった筈なのですが・・・。



第15駆逐隊 夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎慰霊碑

開戦時第二水雷戦隊の編成によると、「陽炎」は最新鋭駆逐艦で
第18駆逐隊所属だったのですが、ルンガ沖夜戦のときから
「陽炎」は15駆逐隊に編入されました。
(一つだけ名前が『潮』でないのはそのためです)

戦後の自衛隊潜水艦の命名は駆逐艦隊からきていたのですね。 




大東亜戦争においては南洋諸島防衛を目的に編成された艦隊、
それが第4艦隊でした。

この慰霊碑も実は戦前に建てられたものです。
この「遭難殉職者」が何を意味するかと言うと、有名な

「第四艦隊事件」

事件などというから何事かと思ったら、これ単なる

台風の被害

のことなのです。 

つまり昭和10年の台風の際引き返すことをしなかった艦隊の
全艦艇が何らかの損害を受けたという「事件」という扱いです。

この「事件」以降の艦艇設計の思想に大きな変更があった、
というくらいの大きな損害で、沈没・転覆したフネはありませんでしたが、
「初雪」はこのときに艦首を切断され、54名が殉職しています。

この慰霊碑は、その54名の殉職者のためのもので、
事件から1年後の昭和11年11月に建立されました。



さて、ここまで写真を撮りながらきましたが、窺うとすでに全員が
バスの中に戻っていった様子です。
上の段には今までお話しした倍くらいの墓石や碑がありましたが、
今日はここまで、とあきらめ、車に戻りました。

すると、戦艦「大和」の碑の前でかつての生徒が
写真を撮り合っている様子が目に入りました。(冒頭写真)

彼らは在学中に終戦になったため、実際の艦艇には
練習艦でしか乗艦していません。
それでも練習艦から「大和」を目撃し、70年経った今日も
その威容をはっきりとまぶたに留めているのだ、と彼らの一人は語りました。



続く。





 



キャッスル航空博物館~アブロ・カヌック「グレート・ズラの木の葉落し」

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以前この「キャッスル航空博物館」シリーズで、
アブロ・バルカンをご紹介したことがあります。
このアブロ・カナダは、カナダにできたアブロ社ということのようです。

ロングレンジの全天候型ジェット戦闘機。
このCF-100は、カナダ国内で設計から生産まで、全行程生産されたものとしては
初めてで最後の戦闘機となりました。 


この機種を装備しているのはカナダとベルギーだけなので、本来なら
よっぽどのチャンスがないと目にすることはできないと思われますが、
1981年に退役して、これもキャッスル航空博物館所蔵のアブロ・バルカンと同じく、
1982年に、カナダから飛んできて以来、ここにずっと展示されています。

バルカンはイギリス政府からの「無期限貸与」ですが。この機体は 

カナダ政府からの贈り物(a gift of the Canadian government)

であるとのこと。
退役した飛行機を、スクラップにするならどうぞ、と寄付してくれたんですね。



カナダというのは地域にもよりますが、フランス語とのバイリンガル国です。
フランスとイギリスがほぼ同時に入植し、戦争してイギリスが勝ったのですが、
ケベック州などにフランス人の入植が集中したので、
ここだけは公用語はフランス語ということになっています。
あとは英語ですが、どちらもしゃべれるバイリンガルが多いのです。

モントリオールに行ったことがありますが、かの地では
英語でしゃべっていた人が横を向いた途端、
同じくらい流暢なフランス語でしゃべりだし、びっくりさせられたものです。

カナダという国自体が、裕福で文化的でG7にも入っているのに、
国際的には、実はどんな国だかわからないようなところがあるのですが、
実際に行ってみると、英語圏でもフランス語圏でもない、
独特の雰囲気があるのに気づくでしょう。

あの混沌とした空気が、カナダと言う国なのだと肌で感じたものです。

それはともかく、こういうバイリンガル国家では、国として何かを行う際、
さぞ言語の違う同志でモメたりするのだろうなと思うわけですが、
軍隊もまたどちらの言語でも対応せねばならないため、
機体にはこのように、楓の両側に、わざわざ英語とフランス語で

「統合軍」

と表示してあるのです。
どちらのスピーカーも、もちろんフランス語も英語も分かるのですが、
要するに

「なんでフランス語が(あるいは英語が)無いんだ!」

などとモメルことになるので、このような仕様になっているのかと思われます。


いやー、どちらも立てなくてはならず、なかなか大変そうな社会ですね。




このアブロ・カヌックの「カナック」ですが、
「カナダ人」という意味があります。
この機体には「Clack」というあだ名もあり、
これは「ドスン」とかいう擬音の意味です。
図体がでかいことからつけられたあだ名かもしれません。

名は体を表すという言葉通り、カナックは、
今まで地球上に存在した戦闘機の中で、最も大型の種類に属します。

全長16.5メートル、全幅17.4メートル。

ちなみに、零戦21型の全長は9.05m、全幅は12mですから、
カナックのほぼ3分の2スケールしかないということになります。



冷戦時代、カナダはソ連に対する「最前線」という地勢上の関係で、

NORAD,(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)

という、まるでSFアニメのような名前の組織を作り、
アメリカとの防衛体制をとって、前線で敵と対峙していました。


このCF-100は、ソ連の「トランス‐ポーラー」、
つまり極圏航路からの核爆撃に備えて、
ロイヤルカナディアン・エアフォースが使用していました。

「カナック部隊」は、場所柄、非常に視界の悪く、
しかも悪天候の状況下で飛ばなければならないことが多かったそうです。


 

1950年代に生産が始まり、70年までの間に、
仮想敵としてのシミュレーション飛行に使われるほかは、
カナックはNORADのテスト機として活躍していました。




ところで、カナダのアブロ社には、

ヤーノシュ・ズラコウスキー

というテストパイロットがいました。
技量抜群の凄腕であったと誉れ高かったそうです。

ズラコウスキーは、ただでさえ大きな戦闘機(二人乗り)に乗って、
アブロ社のテストパイロットとして航空ショーに出場したのですが、
そこで見せたマニューバの

「木の葉落し」(Falling leaves)

は、満場の観衆を唸らせました。

木の葉落し、というのは、航空機のマニューバの中でもおそらく、
「インメルマンターン」についで、日本人にはよく知られているのではないでしょうか。

機動性に優れ、機体の小さな零式艦上機ならではの「得意技」だったからです。

御存じない方のために一応説明しておくと、「木の葉落し」とは、

敵に後ろを追随されている状態で急上昇し、直後にストールをする
敵機はそれを追うことによって、半径がより大きな弧を描くことになる
機体を失速させた機を、自機を追い越した敵機の後ろで失速から回復させ、
いつの間にか後ろに回り込んで優勢な位置を占める

というもので、繰り返しますが、これを零戦が得意としていたのは、
駆動性に優れ機体が小さいという特性をもっていたからこそです。

その「木の葉落し」を、零戦より二回り大きなこのカナックでやってしまう、
というのが、このズラコウスキーのすごいところで、観衆はもちろんのこと、
この大技を目の当たりにした航空ショー出席の航空関係者、技術関係者は、
一様に彼を

「グレート・ズラ」と

「グレート・ズラ」と

「グレート・ズラ」と

褒め称えたと言われています。

なぜ三度繰り返したかと言うと、別に大事なことというわけではないのですが、
単にズラコウスキーの通称が「ズラ」というのにウケたからです。

「ズラコウスキ」という名前の人がいれば、日本人ならほぼ間違いなく
「ズラ」とあだ名をつけるのだと思いますが、カナダでもそうだったんですね。

こんな名前なら日本でもたちまち話題になるでしょうに、
かれは「アブロ社」という一企業のチーフパイロットに過ぎない身。

活動がカナダ国内だけにとどまった、というのが残念でたまりません。

って、全然カヌックの話と関係ありませんが。





海軍兵学校同期会@江田島~「喇叭譜 君が代」

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海軍兵学校在学中に終戦を迎えたこの学年の、最後の同期会。
一日目の行程「大和ミュージアム」→「呉海軍墓地」を終了し、
一行は呉の大ホテルに全員が投宿しました。

ちょうどこの日、前日に東京で婚礼の披露宴を済まされた
高円宮典子様が我々一行と前後して当ホテルに到着されるとのことで、
バスの中で待機するかもしれないという予告を受けていましたが、
向こうは一足早くお着き遊ばされたため、
バス2台で観光したこの日の60名は待たされずに済みました。

後で聞いた所によると、この観光に全く加わらず、
ホテルに直行して休んでいた元生徒もいたということです。
取りあえずバスに乗って観光できるというだけでも、彼らの中では
元気な部類であったらしいことが分かりました。

ところで、海軍墓地を出たときに旅行会社の人が、

「点検したところ、どういうわけかこのバスの人数が一人増えています。
どなたかバスを間違えた方いませんか?」

とアナウンスしたのですが、どこからも返事はなし。

「全体の人数は合っているんですが・・・・。
幽霊でも乗り込んでるんでしょうか?」

車内はどっと笑いましたが、わたしは密かに

「さっきの海軍墓地から乗り込んできた”海軍さん”だったりして」

とちょっと楽しい想像をしてしまいました。



ホテルで小一時間休憩の後、ホテル内で懇親会が行われました。
行ってみて驚いたのですが、観光参加したのは全体のごく一部で、
この懇親会から加わる組、さらには翌日の江田島訪問だけ参加する組、
と人数が増えていき、最終的にはバス6台(200人くらい?)
でのツァーになっていたことです。



受付デスクには、参加者の名札が各自用意されていました。
立て札は「江田島」「大原」「岩国」の各分校、そして
海軍機関学校を意味する「舞鶴」の分類のために置かれています。

海軍三校のひとつ、海軍経理学校の「築地」はありませんでした。


受付を務めているのも「元生徒さん」で、赤い腕章は「当直」。
受付を訪れるかつての級友との再会に、驚きと嬉しさの混じった表情が見えます。




席は決まっていないので、同行の方が取っていて下さったテーブルに着きました。
司会進行を務めるのは、同じバスで「兵学校数え歌」を熱唱していた生徒さんです。



大宴会場に円卓が12~3は設えられていたでしょうか。
生徒であったとはいえさすがは元海軍軍人、予定時間のかなり前には
全員が席に着いて会の開始を今か今かと待つ状態に。

海軍について詳しくなり、我が家的に良かったことの一つは、

「海軍5分前」

がモットーとして徹底されるようになったことでした。
息子など、アメリカでキャンプに到着する時間ですら

「海軍5分前に(と必ず言う)間に合った~!」

という具合に定時少し前を心がけるくらいです。



さて、最後のクラス会が愈々始まりました。
やはり海軍兵学校の会合ですから、まず最初は何をおいても
喇叭譜で幕を開けます。

参加者が持ち込むのか、会場に喇叭譜「君が代」が響き渡ります。



元海軍は全員挙手注目の礼。
海軍が無くなって69年、その間敬礼をすることなど、
自衛隊に入隊してでもいなければなかったはずですが、
どなたの敬礼もそれなりに海軍風になっている様子。



開会の辞を述べる元生徒。
卒業していない学年ですから「クラスヘッド」(ハンモックナンバー1位)
はいませんが、それに相当する優秀な生徒だったのかもしれません。

このハンモックナンバーですが、知り合いに頼まれて、例の「兵学校変革」
という本で、その方の縁故の兵学校時代の成績を調べたことがあります。
120位くらいで、全体数から見るとかなり上位だったのですが、その方は、

「学科だけならもっと上だったんですが、航空実習で飛行機を墜落させたので」

この順位になった、と残念そうにおっしゃっていました。
つまり兵学校ちうところは、ペーパーテストだけでなく、こういう実習や、
武道などの教科も皆含めてできる、文武両道の超秀才スポーツマンしか、
成績上位になれなかったということなんですね、ええ。

「陸士海兵一高」

と戦前の難易度を謳われ、中学4年でこれらを全部合格したら

「四修パーフェクトゲーム」

と言われ、受験界の頂点に立てたといわれる陸士海兵ですが、
一高との大きな違いは「学問だけが評価されるわけではなかった」
ということで、今にして思えば凄い人材が集まっていたのですね。

さらに陸士の場合は、3分の2が高級将校の子弟や華族などの
「コネ入学」で、残りの50ほどの椅子を一般が受験したということなので、
実質の競争率は100倍くらいになったそうです。



乾杯の前に数人が壇に立って挨拶をするだけ、
非常にクラス会はシンプルで、余興の類いは全くありません。

去年は東京で行われ、皆でスカイツリーを見学した後、
東京音楽隊の演奏会が行われ、同隊所属の三宅由佳莉二等海曹が
「ふるさと」などの歌を歌ったと聞きました。

海軍の後継者である海自に今や女性歌手がいるという事実は
元海軍軍人たちにどのような感慨を与えたのでしょうか。



海軍漫才をしているのではありません。
本日の司会進行役が来賓を紹介しているのです。



本日招かれた主賓とは・・・。

そう、明日訪問する江田島にある第一術科学校と、
幹部候補生学校の校長です。
海兵関係者以外は、この校長ズと彼らの副官、合計4人の自衛官が
来客として出席していました。



こういう場では旧軍の昔も必ずプレーン(背広)を着たように、
海将補のお二人は制服を着ておられません。



来賓の挨拶ということで壇上の術科学校長。

「海自で出世するには話が上手くないとだめ」

とどこかで聞いたような気もしますが、しかも教育部隊の長である海将補、
話が無茶苦茶上手です。

色々とおっしゃっていましたが、

「尖閣で今起こっていることに対し、海保ばかりが、と
海自の活動について知らされていないためにもどかしい思いを
しておられる方がいるかもしれないが、それは間違いです∠(・`_´・ )」

という話と、

「皆さんの後継者としてその遺志を継いで海上自衛隊はこれからも
国民のために頑張る所存なので応援して下さい(^x^)ゝ」

という最後の言葉が印象に残りました。 

さて、来賓挨拶も終わり、幹事が

「今宵は大いに飲み大いに語らって昔に戻って下さい」

と挨拶をしたのを皮切りに、フリータイム・スタート。
というわけで早速わたしとTOは海将補の元に突入(笑) 

しかし・・・・!

わたし「あ」
TO「どしたの」
わたし「また名刺忘れた」
TO「あまり意味のない肩書きだからいいんでない?」
わたし「こんなときに配らずにいつ配るって言うのよ」 



わたしとTOの間で腕章を直している週番生徒は、
今日お昼に「大和を練習艦から見た」と話していた方です。

「大和」をどのフネから見たのかとお聞きしたところご記憶にないらしく
「明治時代にできたフネで・・」とおっしゃるので「八雲ですか」
と聞いてみたのですが、後で調べると「八雲」はこのころ
すでに練習艦ではなくなっていたようなので、もしかしたら
「平戸」のことだったかもしれません。

わたしの横の、前に立っているためアスペクト比が増大している人が
術科学校校長の海将補閣下です。


早速名刺交換するTOと海将補。
わたしもにじり寄っていって名刺いただきました。

「地球防衛協会日本支部の顧問です。
名刺を切らしておりまして」

・・・なんぼのもんじゃ~い(笑)

ところで、「海将補」って英語で"rear admiral"なんですね。
海将補の名刺を頂いたのは初めてだったので初めて知りました。

ちなみにこの写真は、海将補の影のように付かず離れず、
常に様子を窺うのが仕事である副官が、
わたしがシャッターを押そうとしたら背後から音もなく忍び寄り、

「お撮りしましょうか」

とおっしゃるので、お言葉に甘えて撮ってもらいました。


このあとは、幹部候補生学校長の海将補にご挨拶。
自衛隊で偉くなろうとしたら、変わった名前が時として有利、
みたいな話を本当か嘘か聞いたことがあります。
かつて「火箱」、直訳すると「ファイアーボックス」という
名前の陸幕長がいたことからそんな話になっているようですが、 
この海将補も、名前と名字を音から直訳すると(何で直訳なんだ)

「Go! John」

で(ちょっと違うかな(; ̄ー ̄A ) 、一発で覚えてしまいました。
海将補になられた理由の0.0001%くらいに「名前のシンプルさ」が
あったのではないか、などと考えてみる。

それはともかく、わたしたちはこのインパクトのある名前の
海将補にもご挨拶したのですが、このとき、TOと海将補の
息子さんの間に奇縁が(ってほどでもないか)あったことが判明。

ぜひぜひこれからもよろしくお付き合いのほどを、という
状況になり、術科学校校長にも

「ぜひ江田島にご案内いたしますからいらしてください」

という運びになりましてございます。
呉地方総監にも

「潜水艦に乗せて上げますよ」

とお約束いただいたし、(ほんとかしら)自衛隊って千客万来、
来るものは拒まずのオープンな組織だったんですね。
お近づきになるまでは全く知りませんでしたが。

「え、本当に遊びにいってもよろしいのですか」
「勿論です。 我々の大切な任務の一つに『広報』があります。
民間の方に少しでも自衛隊を知っていただきたいのです」

と術科学校校長。

知っていただく、つまり招待されてそこで見たこと聞いたことを、
こうやってブログで世間に広めるのは彼らの望むところ。

このように解釈していいですか。
たとえ社交辞令のつもりでも、相手が悪かったとあきらめるがよい。
本当に行っちゃうよわたし?なにせ地球防衛協会顧問だし。
 

さて、宴もたけなわとなったころ、江田島のご一行様は

帰りの最終フェリーの時間が迫ってきたので

途中で拍手に送られて帰っていきました。<(`・ω・´)<(`・ω・´)

海将補、明日の江田島見学、どうぞよろしくお願いします 。


続く。 

 

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