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平成26年度富士総合火力演習〜装備展示(+自衛隊報道問題)

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さて、楽しくお話ししてきた(ほんとーに楽しかった!)
平成26年度富士総火演のレポートも終わりに近づきました。
フィールドにはヘリに続き戦車が次々と並べられ、同時に
バンプの回り、装備の回りに杭が立てられ立ち入り禁止の
テープが貼られたりという準備が整っています。

準備の間、会場に行く人はわたしの横の通路に集まって、
今や遅しと通行が許可されるのを待っています。

周りを見回してみると、座っているのはわたしだけ(笑)

そしてなぜかゴミが入っているらしいポリ袋がポツンと
たった一つだけ、横に置かれています。
もしこれが放置されたゴミだったら拾って行こうと思って
わたしはずっとそれが気になって仕方がありませんでした。

 



それはともかく、わたしはこの装備展示の準備を見ていて、
実に日本的な光景であると思いました。


展示のまえに点検と同時に戦車を丁寧に布で拭っているのです。 
習志野の訓練展示の直後は戦車を洗車していましたし。

おそらく彼らにすれば毎日の、当たり前の作業に過ぎないのですが、
世界的に見てこれが標準というわけではないと思われます。

台湾ではパトカーやタクシーですら何日も洗車していなさそうな
泥だらけの車が走り回っていたくらいです。 
アメリカでは・・・洗車とか自分たちではやらなさそうですし。



90式の準備も丁寧に行われています。

この角度から見ると、90式戦車の特徴であるテールの張り出しが
良くわかるかと思います。
後ろに向かってテールがかなり高めになっていますね。
自衛艦の「オランダ坂」の逆です。

「ヒトマルとキュウマルの違いがイマイチわからない」

とお悩みの方はここを見れば一目瞭然、見分けがつきます。



鉄杭を打って黄色い立ち入り禁止のテープを貼る作業も
並行して行われています。

後ろにいたオタっぽい男性二人が、

「ああ〜ヒトマルにも立ち入り禁止貼るのか〜」
「ヒトマル触りてえ〜!手形付けてええ〜!」

と実にオタっぽく咆哮しておりました。
やっぱり触りたいっすか。(理解不能)



明らかに汚れのなさそうな部分をも丁寧に布で拭います。

この74式は制式から今年で40周年を迎えた長老。
16年後に制定された90式とこの一番大きな違いは

74式は停車しないと砲撃ができない

のに対し、

90式は自動装填装置によって移動しながら砲撃が可能

ということです。
この最大の利点は攻撃しながら反撃を受け難いということ。
10式のスラロームや後方に下がりながら撃つ「後退行進射撃」は
この90式の利点をさらに進化させた点なのです。

戦車の最も重視される火力についてはコンピュータの搭載も含め
ほぼ一線としても(この辺あまり調べてませんが)、そこで
戦車を小型&軽量化したというのは世界でも日本だけ。
そこでなぜ小型化か、というとこれはおそらくですが、日本の地形を
鑑みてそこで運用することを視野に入れた改変でしょう。

だいたい、自衛隊が戦車を日本本土以外で運用することなど、
憲法をたとえ改正したところでありっこないのです。


そもそも小型軽量化のついでに機能を変態的に向上させる、というのは
日本の技術の最も得意とするところですが、軽量化による駆動性能のアップは、
世界の何処にもない「ヘンタイ戦車」として10式を歴史に残すのでしょうか。

まあ、国産ヘリのOH−1ニンジャもそのあまりなヘンタイぶりに
優れたヘリコプターに贈られる「ハワードヒューズ賞」を貰いましたし、
「ニッポン式ヘンタイ技術」はいまや世界の趨勢です(適当)



展示会場になだれ込む人がいる一方、帰路を急ぐ人たちも。
手前の白い帽子はどうみても女物。
野球帽の下にタオルを被っている人、陽射し対策は万全です。

10式の前にはすでに人垣ができつつあります。



しかしその他の装備には今のところ見学者なし。
88地対艦誘導弾システムの回りもこの通り。


この説明板に

「洋上において敵艦船を遠距離から撃破するために使用する」

とあるのですが、これではまるでこの設備を洋上に配備するみたいです。

「洋上にある敵艦船を遠距離から撃破する」

の方が正しいと思うのですが・・・(おせっかい)




ちなみに画像から勝手に人物だけ切り取る仕組みが
わたしのデジカメにはついております。




地対艦ミサイルに内蔵されているのは、

誘導弾脱着工具(これはわかる)

ショベル1 バチツルハシ1 おの1

・・・・・・・?????



雷蔵さんいわくこのSSMは

「なんでこんなものを作ったの?」な不思議なシステム

なんだそうで、その理由は

ミサイルの射程は150kmもあるのに、
レーダーは20kmくらい先しか見えない

帯に短したすきに長し?ちょっと違うか。

つまり陸自の装備らしく?ネットワークシステムについては全く不問状態で、
この装備も引退寸前まで行っていたのですが、南西諸島の不穏化に伴い、
急に脚光を浴び、データリンクの計画が進行中だそうです。



皆は向こうの方に他のヘリを見るために歩いて行っています。
わたしは最近陸自の装備に関しては見慣れたせいか、
そのためにこの暑い現場をこれ以上うろうろすることにヘタレてきてしまったので、
ヘンタイ大賞じゃなくてヒューズ大賞を取ったニンジャだけをカメラに収めました。



そしてわたしは最後に10式(に群がる人々)を観察に。
こちらは後ろ側なので人がいませんが、砲身が見える部分には
オタ共がびっちりと張り付いております。



説明&警備のために立っている隊員は大人気。
あれこれと質問攻めにあっている模様。
皆、気持ちは分かるけどSSMの隊員にももう少し質問してあげて・・・。



10式がこれだけ熱い視線を集めていても、いまだに
いややっぱり90先輩(byやわらか戦車)の方がいい!
というファンだっているようですね。(ネット情報による)

この迷彩ズボンにOD色シャツ、タオルには日の丸入りの父は、
息子二人を戦車後尾に立たせて記念写真を撮っていました。



90式の後ろに立っていた隊員も大人気。
向こうの方にいる人垣は全部左の10式を見ているようですが。



どこにでも見かける「自衛隊員に質問する中高年」。
いったいどんなことを質問しているんでしょうかね。

わたしは今度の装備展示でSSMの隊員に

「データリンクが採用されたら司令部いらなくなるんですか?」

(by雷蔵さん)
って聴いてみようかな。
隊員さんはこういうのどこまで知っているんだろう。




さて、わたしの隣に放置してあったゴミ袋についてですが、

通行が許可され人が動き出したとたん、小学生の子供がやってきて
ちゃんと袋を持って行きました。
シートの上には見渡す限り放置されたゴミは全くありませんでした。


ところで先日、荒川区の花火大会で散らかされたゴミの写真が

「日本人がゴミを出さないというのは外国でだけ」

という記事と共にネットのニュースとなりました。
わたしはまずこの「ゴミだらけの花火大会」に違和感を覚えました。

あの大規模な大曲の花火大会ですら、わたしが見たところ
座席や通路には全くゴミは残されていませんでした。

もちろん集積所にはあふれんばかりのゴミが積まれていましたが、
ニュースの写真はそれがあふれたところをわざわざ探し出して
そこだけ撮ったという感じで、
中国の観光地や韓国のW杯惨敗後の客席のような、全面にわたって
手の付けられない散らかり方とは全く違うものでした。
 

あのニュースは、一体なんだったんだろう、と今にして思います。


朝日新聞の件で、メディアやマスコミの報道というのは
「事象」ではなく、「自分の報じたいこと」であり「思想」である、
というのがようやく世間の常識となってきましたね。

たとえば最近インド国内の犯罪についてのニュースが増えたと思いませんか?
インドのモディ首相と安倍首相との歴史的な対談の内容は報道されなかったのに。
モディ首相は

「日本に戦犯などおらず全員無罪、パール判事は我々の誇り」

という発言をしています。

また、あまりにも嘘くさくて話題にもならなかったけど、ちょっと前には
小野寺防衛大臣のキャバクラ通いの話なんかも、中国機が自衛隊機に
異常接近し、防衛大臣が非難声明を出したのと同時に出てきましたよね。

こういう記事に隠された、アカラサマに日本を貶めたいという真の意図を、
わたしたちはネットのおかげで見抜くことができるようになってきています。


今年の4月、セウォル号の事件で、責任者が皆現場から逃げだしたことが、
世界中に非難されていた頃、朝日新聞はも3年前の原発事故に吉田調書を
わざわざ捏造して、

「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」

という記事を書きました。
これははっきりと、

「日本人も危機の際には真っ先に命を惜しんで逃げ出すじゃないか」

という、セウォル号への非難への「カウンター」だったと言われます。
それとは比べるべくもない小さな記事ですが、この「花火のゴミ記事」も、

「日本にはゴミは落ちていない」「日本人は清潔好きである」

という世界的な評価を面白く思わない連中が書いた匂いがします。
さて、それはどういう者たちでしょうか。

そして、常時非常時を問わずマスコミが大騒ぎするのが、
そう、自衛隊の不祥事です。

防大の帰化人学生によるスパイ問題は、国会で質問されたのにも係らず
全く報じられないのに、同じ防大の苛め問題は騒ぐ。
つい先日はレンジャー訓練の「最悪の想定」に対する画像が
流出し、またもやそれに対して騒いでいるようですね。

いかなる組織にも正負の両面が存在しますが、マスコミは
それがほとんどである正の面は全く報じず、負の面だけを
まるでゴミ集積所にあふれたゴミだけを写すように、切り取って
さらにクローズアップし、それが全てであるかのように報じます。


これに関してはほぼ一線である既存マスコミに対し、
おもにネット言論は(たとえばおこがましいですが当ブログのような)
カウンターとなって自衛隊の支持と応援を担ってきました。

何十年か前には堂々と行われていた自衛隊差別は当時ほどではなくなり、
ここに至って世間の趨勢はずいぶん変わってきたような気がします。

根が反自衛隊であるメディアは相変わらずの調子ですが、 最近では
「自衛隊人気」に追従する既存マスコミの動きすら見えてきました。 


防大や陸自の苛めも、昨日今日から行われていたことでなければ、

「じゃあなぜ今出てきたのか」

という「報道の意図」を国民はそろそろ読むようになってきます。
この報道に乗っかって「自衛隊は最低の集団」とことさら声を荒げる人は、
おそらく集団自衛権にも特定秘密法案にも反対しているでしょう。

マスコミが情報を独占し、恣意的にそれを流していたころには
低かった自衛隊の地位が、ネットで情報を検証し、
取捨選択できるようになった今、かなり改善しているということは、
この構図をはっきりと証明しているではありませんか。


次回最終回に続きます。 

 



 


平成26年度富士総合火力演習〜「ありがとう お疲れさまです∠(`・ω・´)」

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さて、延々とお話ししてきた平成26年度富士総火演、
いよいよ最終回となりました。
この日、10式戦車が最後に観客の前を手を振りながら装甲する様子が
ニコニコ動画に上がっておりましたのでキャプチャしました。



わずか40秒の映像ですが、10式の走行の軽さ、速さが実感できるかと思います。

さて、フィールドを歩き、あまり熱心にではありませんが、
少し装備展示を見てから帰ることにしました。



89式走行戦闘車も、遠目には小さく見えましたが、
近くで見ると決して小さいというわけではありません。
自衛隊ではこの装備を、防衛省謹製の愛称を相変わらず拒否して
「ライトタイガー」ではなく「FV」と呼んでいますが、
これは「歩兵戦闘車」を意味する

Infantry Fighting Vehicle

から当初「IFV」と呼んでいたことに起因します。
わざわざ「I」を外したのは、これが「歩兵」という意味だからで、

日本には歩兵は存在せず、普通科と称することから

なぜか「FV」(ファイティング・ヴィェクル)になったのです。
Infantryがなくなったらfighting にも当然意味が無くなるのでは?
Fighting Vehicleでは「戦う車」になるがかっこわるくないか?
とわたしなど思うのですが、まあ、日本だから仕方ありません。

先日お会いした元陸幕長も普通に「歩兵出身」と言っていたように、
「歩兵」は公式あるいは文面では無くなっただけで、「駆逐艦」「士官」
のように口語では現行ですけどね。

しかし屈折した「軍隊」だなあ・・・あ、これも駄目なのか。



そしてここに警備のため立っていた隊員なのですが、
多くの自衛隊員のように結婚指輪着用でらっしゃいます。
そしてその左袖には

FUJI SCHOOL BRIGADE MARTIAL ARTS INSTRUCTOR

と書いてあります。
これ・・・どういうことですか?
気づいたのが写真をアップしてからなので、本人に聴くわけにもいかず。

そこで息子に聞いてみることにしました。

息子は、この夏サンノゼを車で走っていたとき、わたしが上空を指して
「見て、軍用機」というと、ちらっと見てただけで
「あーC−2だね」と機種を即答し、わたしを驚かせました。
軍用機になど全く興味を持つ様子もなさそうなのに・・。
ゲーム関係で色々と仕入れて来る知識の一環かもしれません。
というわけで、

「これなに?」

と聴くと

「だからカラテかなんかのマスターだよ」

えーだからなんでカラテマスターが戦闘車の前に立ってるのよ。

「知らね」



確かに武道の教官といわれても違和感のない体躯ではありますが・・。

マーシャルアーツに他の意味があるとかいう事情を
ご存知の方、ぜひ教えて下さい。



軽装高機動車は、公式愛称「ライトアーマー」、部隊では
「LAV」、または「けいき」などと呼んでいます。

なぜかこのラヴだけ、「接写撮影禁止」と貼り紙がされ、
小窓からは中が見えないようになっていました。

予想ですが、(撮影禁止だったので遠慮して近くでも見なかった)
助手席のモニターかなにかに機密があったのではないでしょうか。



そんな機密よりわたしが興味深かったのは、これ。
なんと

純正ショベルと専用ショベル収納システム!

あんまりショベルが使われた形跡がありませんが、こんな場所に
きちんと装備するからには重要な備品なのだろうと思います。
にしてもよく考えられてますよねー。



96式多目的誘導弾システム

は中をのぞいてもいいようです。
ガン見する彼氏にそれを見守る彼女。

愛称は96マルチ。
曲射弾道を描いて飛翔する長射程の大型誘導弾です。



10式ほどではないけど大人気、地雷原処理車。

90式くらいになると道無き道を切り開くことも可能ですが、
いかに戦車でも地雷があっては動けません。
本日の演習でも白眉といえたのがこの地雷原処理車の展示でした。

因みにまわりに迷彩服がいっぱいいますが、自衛官は奥の一人だけです。



地雷原処理車の俯仰を行う部分は、このような
蛇腹状のもので覆われているようです。
何か飛んできて挟まったら元に戻せなくなるからですね。



このころになると、多くの人が装備の回りにたくさん。
「接写禁止」と書かれたラヴの車窓は、案の定それが
興味を引く結果となり、皆が覗き込んでいます。

逆効果だったのではないかと思うのはわたしだけ?



人垣の間から自走砲の砲身が綺麗に並行して見えています。



90式先輩はなんと今気づきましたが囲いなしです。
これなら手形つけられますよ〜。


超余談ですが、「やわらか戦車」で90式先輩が好きになるのは
女性らしい曲線を持った74式の戦子さん(弁当屋)です。



オーロラビジョンの画面にはずっと自衛隊広報ビデオが流されています。
わたしたちは帰るだけですが、自衛官たちの仕事はまだ終わっていません。
実はわたしはパスしたのですが、この後には夜間演習の展示があり、
おそらく昼間以上に大変な任務をこなさなくてはいけなかったのです。

警備や整地を含めて大変だったことと思います。



今これを見ていて思ったのですが、自走砲と戦車の見分け方は
単純に自走砲の砲身は長い!でいいかもしれませんね。



自衛官の説明を熱心に聞いているのはほとんどが男性です。
女性のこういうイベントへの参加が増えた昨今でも、
スペックや実際の昨日についてのオタ質問をする女性はさすがに
まだまだ希少種かもしれません。



この辺で見学を終了し、わたしは出口に向かいました。
観覧席のステージに向かって左側は自衛官の待機場所で、
このような偽装網を掛けたテントが立っています。
偽装網はわずかでも暑さを凌ぐ役目があるのかと思いました。



もはや巧みの技と呼びたいくらい。
斜面には車両がミリ単位の車間で停められています。



この、一段高いところにあった外の見えるテントですが、
もしかしたら来賓の観覧する席だったのかもしれません。
雨や陽射しをよけつつ、全面が見渡せる場所だからです。



そしてテントの前の小高くなっている一角が報道席。
三脚が立っていますが、カメラはなく、カメラマンは今
外に出て撮影をしているのかと思われます。



バラックのような建物ですが、アンテナが立っているここは通信班。



偽装網ですっかり隠されていましたが、中からはいろんな音が聞こえて
かなりたくさんの隊員が詰めているテントに思われました。



そんな観察をしながら駐車場に向かいます。
行きは何とも思わなかったのに、帰りの坂道の斜面が
あまりにも急だったことに気がつきました。
隣を歩いていた人が、

「あれ、この坂道こんな急だったっけ」
「行きは気づかなかったな」

と全く同じことを言っていたのでおかしくなりました。
朝、一刻でも速く現場に到着しようとして気がせいているときには
誰でも全くそんなことは意識にないくらい懸命に歩くものなのですね。

全てが終わって疲れと気が抜けた状態で歩く身には、
全く別の道のように感じられました。 


さて、興奮と感激のうちに終わった総火演。
わたしにとって生まれて初めての実弾による陸自演習でした。
我が日本国自衛隊の精鋭ぶりを目の当たりにし、
あらためて彼らの日頃の鍛錬に頭が下がる思いでしたが、
最後にこんな隊員たちの姿を紹介して、
この総火演編をおしまいにしたいと思います。




ヘリが次々と着陸し、展示のための戦車や自走砲などの装備が
走行して所定の位置に付けられているあいだ、
このような一団がフィールドをくまなく歩き回っていました。

一番前の隊員が持っているのはゴミを挟むトングですが、
あとは全員な長い棒と、背中にランドセルのような器具を背負っています。

どうやら不発弾や燃え残りなど、フィールドに危険物を残さないように
点検して回っている部隊のようでした。



10式戦車でスラロームした隊員にも、ローラーで地面を均した隊員にも、
こうやってフィールドを歩いて点検にあたる隊員にも。

この日任務にあった全ての自衛官たちに、心からの敬意と感謝を。 

 

 

終わり。

 

フィッシャーマンズワーフのアシカとゴミ問題

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アメリカからの帰国前日にフィッシャーマンズワーフを訪ね、
そのとき、新しく出来たジャパニーズレストランでお昼を食べた、
というご報告をしましたが、そのときのこと。

海に面した特等席で外を眺めて行き交う船や人を眺め、
好き勝手なことを言い合ったり、



海を渡るペリカンを撮ったりしていたら・・・



いきなり海面にアシカが顔を出しました。
こんなところにアシカがいるんだ、と二人で大変驚いたのですが、
実はこの後もっとびっくりすることになりました。

日本料理の店を満足して出たあと、二階を歩いていると。



何と。
このようなデッキが現れたではありませんか。

何回もここに来たことがあったのに、この一角に
「シーライオンウォッチングポイント」があることを
この日まで全く知らなかったのです。

フィッシャーマンズワーフを、ただ埠頭にあって、
水族館を併設しており湾内観光船が出るだけのモールのようなものと
今までわたしは考えていたのです。

すみませんでした。(←アシカに言ってる)



ここには人間の作ってやったアシカの一大群生地ができています。



多くのアシカたちのオエッ、オエッ、と独特の鳴き声が響き渡っています。
ついでになんともアシカ臭い?匂いも漂ってきます。



アシカたちは大抵大勢固まって、互いの体を枕にして
寝ていたりするのですが、たった一匹でここにいた孤高のオス。

もしかしたらこのなかで唯一雌と交尾する権利を持っている
最強のボスアシカかもしれません。


カリフォルニアアシカはハーレムを形成する習性を持っています。
毎年5〜6月の出産シーズンを控えると、オスは、
陸地や海中の地形を利用して縄張りの境界線を作り、
その中に20〜30頭のメスを集め、ハーレムを形成するのです。

ボスアシカはハーレムのメスが逃亡しないか、他のオスが侵入してこないか、
縄張りを守るために、エサも食べずに終始パトロールを行うそうです。

夏の終わり頃にハーレムは解かれ、アシカたちは再び個別の生活へ移る、
ということなのですが、このフィッシャーマンズワーフでは、ボスアシカが
どうやって他のオスを排除したハーレムを作るのかは謎です。

もしかしたらこの人口のアイランドがハーレムとその他を区別するのかもしれません。

ちょうどこの情報によるとこの写真を撮ったときにハーレムは解かれる頃ですが、
もし、このオスがボスだとして、まだハーレムがあったのだとすれば、
アイランドにハーレムを作ればいいわけですから、ボスとしては
見張りは比較的楽だと思われます。



吹き溜まり、という言葉がふと浮かびました(笑)
下から顔を出しているのは若いメスに見えますが、
好奇心から覗いているだけで登るつもりはなさそうです。





どうやらここの区域がその他大勢のオスのアシカのたまり場である模様。
全体的に活気がなくオス特有の首の太いアシカばかりですが、
表皮が苔むしたようになっている個体ばかりです。

手前にはすっかり出世を諦めたおじさん風のアシカ。





ボスになれなかったオスたちが
仲間と気ままに楽しむエリア(想像です)



ということはこれはメス同士ってことか・・。



たしかにこのあたりにいるアシカたちはみんなピチピチです。



若いので動きが非常に活発。

 

しかし肌が苔むしたようなご老人もいることはいます。
これはかつてのギャルであると見た。

かつてのイケイケギャルも今やトドのようになってしまって・・

・・・・・ん?

 

出来心を起こすような元気はとっくの昔に枯れ果てた、
といったアシカはこうやって余生を寝て過ごします。



この幸せそうな解脱の表情。
夜も寝ないでハーレムを見回るボスアシカとどちらが幸せかというと、
圧倒的にこちらだと思うのですが。



枯れていない若いアシカたちはメス同士でも色々大変みたいです。



顔を掻くときは足のひれを使います。



横に「アシカについて学ぶコーナー」がありました。
アシカの骨格。
骨だけいきなり見せられたらアシカとは思いつかない形状です。

この隣にはレクチャールームがあり、ちょうど子供たちが
係員にスライドでアシカの生態について学んでいるところでした。



ここに生息していたアシカで、首にプラスチックの輪がはまり、
そのまま成長してしまったので食い込んでしまった個体を
救った課程を写真に残しています。

パネルの若いオスアシカは、2012年、首にプラスティックの輪がはまった姿を
ここピア39の生息地で発見されました。



当センターのスタッフはこのアシカを救うために
麻酔銃を使って彼を眠らせ、輪を切断することに成功。
輪は肉に食い込み、すごい傷になってしまっています。

酸素マスクを当てられて寝ている顔も心なしか痛そう・・。



彼にはスタッフが「ブロンディ・ボマー」(金髪の爆撃手?)
という名前を付けました。



ブロンディは傷がいえるまで人間の元で暮らし、
今では仲間の元に戻されて暮らしているそうです。


そう言えば、昔うちの母は、小さいころに首輪をしたまま捨てられたのか、
その首輪がずれて脇の下に、斜めにたすきがけになったまま成長してしまい、
首輪がブロンディのように食い込んでいた野良猫を発見し、
わざわざ餌とハサミを持って追い回して捕まえ、切ってやったことがあります。

猫にも恩人だと分かるのか、その直後から感謝されて懐かれていました。
「たすきちゃん」と名前を付けられた猫はその後母が通るたびに
出てきて挨拶していたようです。 


たすきちゃんは特殊な例ですが、海に投棄されたプラスチック製品は、
しばしば海洋生物の大きな脅威となります。
漂うビニール袋をクラゲと見間違えて食べてしまい、
胃が閉塞して死んでしまうウミガメやイルカなども後を絶たないのだとか。

このパネルには

「あなたにもボマーのような野生動物を救うことが出来ます」

というタイトルで次のようなことが書かれています。

「海に漂うゴミの90%が捨てられたプラスチックです。
あなたがプラスチックの使い捨てを減らし、できるだけリサイクルすれば、
そしてあなたの周りの道、広場、川辺や海岸に落ちているプラスチックゴミを
拾ってリサイクルゴミ箱に入れれば、それは野生動物たちを
助けることに繋がるのです」

消費は美徳のような風潮をまだまだ引きずっていたころ、
アメリカでは「何をどう捨ててもOK」でした。
仕分けをするのは捨てる人ではなく、ゴミ処理場で働く人たち。
フードコートで何か食べるときには、使いもしないのに
片手一杯の紙ナプキンを取ってきて、未使用のものを
ゴミとして散らかしたまま帰るような光景はモールでおなじみのものでした。

しかし、ここ最近、わたしはアメリカが変わってきたのを感じます。

昔から買い物に自分のバッグを持ってくることを推奨していた
オーガニックスーパーのホールフーズは、もしマイバッグで来た場合、
5セントを

「ドネートorバック?」

つまり、合算から引くか、各種募金運動に寄付するかと聞いていましたが、
アメリカ全体から見るとこの姿勢はどちらかというと特殊でした。

 しかし、カリフォルニアではこの7月から、全ての物販店で
プラスティックバッグ、紙袋が有料になったようです。
何も言わなければそのまま品物をよこしてきますし、
袋に入れて、と頼めば5セントですがいいですか?と断ったうえで袋に入れます。
街に設置されているゴミ箱も仕分けしていない方が少なくなりました。

京都議定書を未だに批准しようとしないアメリカ政府ですが、
民間の意識は随分変わってきたと思います。

しかも、このようにゴミの投棄が生物の命を脅かす、などと
と啓蒙されれば、そういうことには特に敏感なアメリカ人は、さらに
ゴミ問題、エコロジー問題に真剣になっていくでしょうし、
この流れは加速しそうです。


まあもっとも、今のところ

「納豆を食べたら紙カップとプラシートを
それぞれ洗って分別してゴミに出せ」

といわれて粛々と皆がそれに従うのが普通の日本人から見ると
まだまだ「甘い」ですけどね(笑)


パシフィックコースト航空博物館〜サンダーストリーク「世界最速の三輪車」

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RERPUBLIC F-84F THUNDERSTREAK

ジェット機が登場して初期の機体にはこのような
ノーズインテーク(ノーズがそのままエアインテーク)が多いのですが、
これもまた典型的なノーズインテーク型。
豚さんの蚊取り線香と同じですね。



これが当機のエアインテークでございます。
うーん・・・・これはさぞバードストライクが多かったのではないか。 

パイロットたちにはこの形状から

“a hole sucking air"(空気吸引穴)


などというあだ名を奉られていたようです。
 
それにしてもこのインテークの中など、妙にピカピカで綺麗です。
まだレストアしたばかりなのに違いない、と思って調べると、
1997年にチャイナレークの武器庫から引き取られたあと、
当博物館に引き取られ、2004年に復元されたということです。

機体そのものは1954年に製造され、まずイギリス空軍の装備となりました。
この後1958年から61年にかけてヨーロッパでは、

「ベルリン危機」

が起こります。

「ベルリン危機」とは東ドイツから西に亡命するインテリ層が増え、
危機感を感じた東ドイツ政府が、物理的にこれを阻止することを考え
「ベルリンの壁」を築くまでの一連のシーケンスを指しますが、
このときにフランスのシャンブレー空軍基地に所属していた当機は
この動きに呼応して出動したそうです。

説明がないのでどういう立場で出動したのかはわからなかったのですが。

その後、米海軍に返還された当機は、いくつかの基地配属を経て、
その役目を終え、チャイナレイクで訓練標的になろうとしていたところ、
身柄をこの博物館に引き取られたというわけです。



先日F−86についてのエントリで、元々このF−84サンダーストリークは
MiGに対抗するには余りにも速度が遅く、空戦で勝てなかったため、
それに対抗するためにF−86が生まれた、とお話ししました。

速度の遅い原因はエンジン出力の問題でした。
そのためMiGに対抗できるどころか、離陸にすら困難をきたし、


"The world's Fastest Tricycle"(世界最速の三輪車)

とか

”The Lead Sled"(錫のソリ)

とか、最も酷いのになると

"Ground Loving Whore"(地面大好きな娼婦)

などというありがたくないあだ名で呼ばれていたようです。



そこでこの機体に描かれているノーズペイントをご覧下さい。

この話を知って見ると、まるでこの「ミス・マリア」が、
「地面を離れようとしないあばずれ」なのか、と思われてしまいそうですが。
どう見ても地面に寝っ転がってるし。

しかし、ここまでいいところなしみたいな飛行機であっても
乗員にすれば可愛い愛機であることには違いなかったようですね。

あれかしら、「馬鹿な子供ほど親は可愛い」というやつかしら。(失礼?)


F−84を「ホアー」と自虐したのも、勿論当のパイロット達だと思うのですが、
この機体の搭乗員は自分たちの愛機に「マリア」という名前を付けたのです。
酷いあだ名に対する精一杯の抵抗だったのではと思うのは考え過ぎでしょうか。


というわけでこのマリア嬢ですが、

それにしても下手である。

マリアさん、しかも最初は右手も左と同じように体の下に垂らしていたようです。
一体どういう状況でポーズしてるんだよ!と描いた人がいわれたのか、
右手の位置を描きなおしたあとが見えていますが、それを考慮しても下手。

先日たまたま

「迷彩塗装機は塗料により機体重量、空力的な抵抗、それにかける時間が増加」

するため、無塗装派が増えたにもかかわらず、ノーズペイントは減らなかった、
というコメントを頂いたわけですが、アメリカ人は本当にこういうの好きですね。


まあ、最近では痛車とか、場合によっては痛戦闘機などが存在したことのある
我が国ですので、これを「国民性」で片付けるのはやめておきましょう(笑)

ただ、日本にはこんな素人臭いノーズペイントを人目に曝して
平気でいる搭乗員も、メカニックもいません。(断言)




ところで、機体そのものの機能についてはさんざんなことを言われた
このサンダーストリークですが、改良に次ぐ改良が重ねられた結果、
最終型は信頼するに足る機動性を持ち、同盟国に多数供給されました。

そして、このF−84、初期の頃からこんな特技を持っていました。



海外のwikiからお借りしてきました。

早い時期から空中給油能力をもっており、1950年には
ターボジェット単座戦闘機として、初めて空中給油による
北大西洋の無着陸横断に成功しているのです。

給油する方はおそらくB−52かなんかだと思いますが、
給油の様子はまるでコバンザメみたいですね。



 

さて、ところでこのブログの一年前からの読者の方であれば、
もしかしたらこの画像に見覚えがあるかもしれません。

これは、ここベイエリア、サンフランシスコからベイブリッジを渡って
向かい側にあるオークランド空港の片隅にある

 Western Aerospace Airmuseum

のさらに片隅にあったレストア前の残骸。
このとき、この残骸が放置されたまま少なくとも3年は経っているらしい、
と偶然アメリカのサイトを発見して知ったのですが、これは
F−84の偵察機バージョンである

RF-84Fサンダーフラッシュ(Thunderflash)

だったんですね。
残骸なりに元の姿を想像して頂きたいのですが、まずこれは
同じF−84の機体でありながら、ノーズインテークがありません。
これは、その部分にカメラが埋め込まれたためで、
ノーズインテークは翼の根元の三角形の部分になります。

埋め込まれたカメラの数はなんと計6台にもなりました。

この角度からは分かりませんが、機体をひっくり返すと
ノーズ下部に穴が計6個確認できます。

本当にひっくり返したのではなく、プラモをテーマにしている
あるブログの模型写真で確認したんですけどね。



ところで模型が出たついでに全く本テーマのF−84とは関係ないのですが、
少し気になったのでお断りしておきます。

先日、ハセガワ製1:72スケールのイントルーダーの模型が
ネットのサイトで10000円であることに心から驚いてそれを書いたのですが、
その後、それはなんと

1000円を0を一つ多く記載したための

間違いであることが判明しました。

訂正後のページはこちら

モデラーの費用対効果についての常識というものに全く不案内である
わたしとしては、

「お好きな方ならそれくらいでも金に厭目はつけん状態」

なのね、と納得していたのですがそうじゃなかったんですね。
そこで改めて1:72という数字について調べてみると(何調べてんだ)
実はモデラーに取ってこの数字は

1:72スケールは飛行機モデルの原点であり、
国際的にも幅広く認められ、世界各国で親しまれています。

というモデルの基本となるスケールで、メジャー3メーカーのこのスケールの
モデルの値段設定はだいたい800円から1500円といったところ。

いくらプレミアがついたとしても10000円は

「そんな値段で売れてくれたら模型メーカーはホクホクです」

というくらい非常識な?値段であった模様。


でも、1:72で検索していたら、そのスケールのモデルになんと
2万5000円というとんでもない値段がついている商品を発見しました。

なんだなんだ、と見てみるとそれは

1/72 STARWARS ミレニアム・ファルコン

でしたとさ。
何となく興味を持って切り離し前の部品(専門用語知りません)
の画像を開けただけでめまいを覚えた、
プラモデル製作系が実は苦手のエリス中尉でございます。



もうひとつついでに、先日から当ブログコメント欄で話題となっていた

「自衛隊仕様のオスプレイ」

ですが、ちゃんと限定生産されていました。
海自、陸自塗装も作ってほしいと思います。(リクエスト)

 

 

しまなみ海道〜村上水軍の城

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しまなみ海道をご存知ですか。
正式には西瀬戸自動車道という、本州と四国を結ぶ道路で、
間に点在する島々を広島県尾道から今治まで繋がっています。

今回、わずかな時間ではありますが、ここをドライブしてきました。 



といっても、わたしが運転したのではなく、全て地元の方にアテンドされ、
すべてお任せのらくちんドライブです。

現地には前日夜から入りました。
夕食は、某コンツェルンの会長と税理士さん、TO、わたしの4人で
舌がとろけそうなTボーンステーキを頂きながら会話を楽しんだのですが、
この会長さんの話が面白くて、話は大盛り上がりでした。


このグループの業務は多岐にわたりますが、その一環として
「交通」があります。

関西に有名な猫の駅長がいますね。

グッズの売り上げだけで年間6千万、経済効果11億、
しかも何の要求もしない。(会長曰く)
会社に取って「最優秀社員」であり「神様お猫様」。

この方はその「仕掛人」です。 

仕掛人ならではの内部情報をここで少し公開すると・・・。

小さいときに売店のおばちゃんがポケットに入れて育てた。
最近メディアで有名になって「おばちゃんの化粧が濃くなった」。
おばちゃんは「この猫は私が育てた!」状態。
さらにはそのおばちゃんにおじちゃんの影が・・・(内縁の夫?)
という生々しい()話になっている。
初代駅長はもうお年(15歳)なので、
二代目三代目を育成しているのだが初代ほどのスター性がない。

なかでも一番笑ったのが、猫駅長に、和歌山名誉県民の申し出があった話です。
その話が和歌山県から来たとき、会長は恐る恐る聞いたそうです。

「ありがたいですが、他の名誉県民はたとえば誰が・・」
「松下幸之助先生と」
「ちょちょちょっとそれはご辞退させて頂けますか」



という楽しい夕べの次の朝、ホテルから庭を見下ろしたらこんな眺め。



朝ご飯はバッフェです。
昨日の夕食を頂いた外のテラスが見えています。



出発は11時。
まずは因島に行きます、ということで
機嫌良く車窓を眺めていたら、
「しまなみ海道→」という表示が通り過ぎました。

「今しまなみ海道って見えたんですけど」
「いや、大丈夫です・・・あれ?うーん・・」

車内でわたしたちがリクエストして、この方の息子さんのCD
(結構メジャーなビジュアルバンドのメンバーだった)
を聴いていたのがどうやら集中力を欠いた原因だったようです。

「ビジュアルロックに気を取られすぎました・・・」 (社長)



というミスで時間を少し無駄にしながらも、なんとか生口島(いぐちじま)に到着。
広島県尾道からは3つ目の島に当たります。



瀬戸内は思ったより小さな島がたくさんあります。
明らかに誰も住んでいない一軒家サイズの島も。



生口島の有名な観光名所の一つ、
平山郁夫美術館に来ました。



常設展示だけでなく、時々は展示が入れ替わるようです。
生涯たくさんの作品を残した平山先生ですから当然ですね(棒)

この二つの絵は、現代の京都を描いています。
どう見ても平安時代のような街並なのに、よくよく見ると、
ビルもその中にちゃんと描かれているのです。
どちらも巨大な絵でした。




美術館入り口。
平山郁夫がまだ生存中の1997年に出来たといいますから
もう17年も経っているのですが、大変新しく見えました。



このロビーの「気」が良いので心が静まって行くようです。
庭園の緑がまことに目に鮮やか。
エントランスには皇太子殿下ともうお一方、皇室の方(お名前失念しました)の
植樹がありました。



この美術館で特筆すべきは平山の幼少時の絵画が飾られていることです。

見たところ小さいときの絵はピカソやダリのように天才を感じさせるものはなく、
上手いけど所詮子供の絵だなという感じですが、13歳からいきなり上手になります。

しかし、芸大在学中の絵も正直「上手いんだろうけど・・」という感じ。
芸大生ならこれくらい描く学生はいくらでもいるだろうというレベルです。
そして有名になってからは「皆あの調子」。

つまりわたしはこの画家を評価していないらしいことがわかりました。
好きか嫌いかでいうと好きなんですけどね。


ところで、展示作品の一つに「瀞」という絵がありました。
瀞八丁は和歌山から奈良県にまたがる峡谷で、
瀞峡(どろきょう)は渓流下りの名所です。
実はうちの両親が新婚旅行に行った場所だったので、うちには
そのときに買い求めたという瀞峡の小さな油絵がずっとありました。

ところが絵の題名「瀞」の英訳は「A POOL OF RIVER」、
つまり「流れ溜まり」のような題になっていました。
わたしは帰りにこっそり一人で受付に行って、

「あれは和歌山の瀞八丁のことなので、英題は『DORO』だと思います」

とお節介ですが進言してきました。



美術館を出て、取りあえずお昼ごはんを食べることにしました。
歩いて行くと、かわった城壁のようなものが。




何とも不思議な佇まいです。
甍のしゃちほこ?は妙な形の魚。
白壁は至る所剥げて倒壊寸前といった感じです。
よく見ると、旧式のアンテナらしきものも見えます。





さらに区画沿いに歩いて行くと、ごらんのような洋館が。



しかもこれが・・、



お寺の一角に建っているのです。

「何でしょうか。シュールなお寺ですね」



まるで台湾にあったお寺のような・・。

このお寺の正体は「耕三寺」(こうさんじ)といい、
大正・昭和初期に鉄鋼業で財を成した大阪の実業家金本耕三が、
幼少期に過ごしたここ生口島に、まず母親の住居を建て、
それに「潮聲閣」という名前をつけました。

どうやらこのモダンな洋館は彼が母親のために造った家だったようです。



その母親が亡くなると、彼は出家して、
母の菩提を弔うための寺をここに建立したのだそうです。



それに加え、金本はかねてより、この地に誇りうる文化財のないことを
残念に思っていたため、母のために造った家の回りに、
日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める計画を立てました。

つまり、ここに「ハウステンボス」や「ヨーロッパ村」のような
「なんちゃって寺院村」を作ろうとしたのです。



工事は完成までに30年を要し、1936年(昭和11年)に創建が始まり、
最後の宝物館が出来上がったときには1968(昭和43年)になっていました。





寺院というより、博物館というのがメインだったようです。
しかし自分の名前を寺院名にしてしまうとは・・。



これは日光東照宮を模した孝養門。
奥には平等院鳳凰堂を模した本堂などもあります。

時間があれば是非見てみたかったのですが、
もう一つくらい島に行ってみたかったので涙をのみました。



境内?はいたるところ蓮の巨大な鉢植えで埋められていました。
さすがに蓮池は造れなかったようです。
一つ一つの実は丁寧に布でくるまれていました。
耕三和尚の母親が好きだった花なのかもしれません。



お寺の向かいに飲食店がいくつかありました。

「穴子専門店とたこ料理専門店、どちらにします?」

どちらか決めかねて、TOに

「わたしが勝ったらタコ、負けたら穴子」

と決めてじゃんけんをし、勝ったのでタコ料理にしました。



こういう飾りのあるところには不安がないでもなかったですが。



TOはなぜか穴子定食。



タコの刺身、タコ天ぷら、タコ飯、タコのおひたし、
タコづくし定食です。
TOとシェアして、穴子も一口貰いましたが、
やはりタコ専門店であるせいか味付けは今ひとつ(辛かった)でした。 

さすがにタコはお刺身と天ぷらが特に美味しかったです。



壁に貼ってあったレトロなアサヒビールのポスター。
復刻版のようです。



さりげなく部屋の片隅に平山郁夫先生の自筆色紙が!



年代物らしいおかめさん。

さて、この後わたしたちは車に乗って、本土に戻り、
尾道から一番近い島、因島に向かいました。

目的?

わたしの希望で、因島の村上水軍城を見るためです。



村上水軍は、南北朝時代から室町・戦国時代までを活動していました。
瀬戸内の水路を臨む島々に砦を築き、「海賊衆」と呼ばれ、
この海域の一大勢力を誇っていました。



村上水軍の「村上」は因島村上家のことで、瀬戸内海の中心で
11万4500石を領有した「海の大名」でした。

数百年間にわたってこの地域の制海権を握り、
たくさんの合戦に参加したのは勿論、遣明船の警護も行っています。

特に有名なのは6代目の村上新蔵人吉充で、
1555年、厳島の合戦では毛利氏側について、
織田信長率いる織田水軍を壊滅させた実績を持ちます。



瀬戸内の海は古くから
我が国の経済と文明の一大動脈であった その
海を制した村上水軍
自由と熱血の歴史 ここに眠る 奈良本辰也

奈良本辰也は吉田松陰など、幕末の歴史研究家です。



なぜかここに置いてある大小の錨。
いわゆる普通の錨は「ストックレスアンカー」なんですけど。



この日は夕方土砂降りになったのですが、そのせいか
朝からムシムシして陽射しの辛い一日でした。
車から出ると汗が噴き出すくらいです。

その中を

「ここまで来たんですから上りましょうか」
「上りましょう」
(わたしのパンプスを見て)
「奥様大丈夫ですか」
「大丈夫です」(きっぱり)

日頃7センチヒールなんてハイヒールじゃない!と豪語しているので
こんなときも口だけは威勢がいいエリス中尉。
そして登り始めたのですが・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

やっぱり傘をさしてパンプスで写真撮りながらこの傾斜はきついわー。
60歳の会社社長に距離にしてこれだけ引き離されております。



どうなるかと思ったとき,ようやく頂上に到着しました。
上に資料館ができたのは比較的最近のことです。
中は撮影禁止でしたが、鎧や兜、武器の数々と
ジオラマなどがまとめられていて充実していました。


こんな水軍ならではのデザインの兜とか。

面白かったのは水軍の戦法要領、という
いわゆる艦隊戦のフォーメイションが書かれた紙です。


(パンフより)

また船上で戦う武器として、長い竿の先がかぎ状になっていて、
それで敵の鎧などを引っかけ、水に落としたり、
海上を漂う敵をそれで引き寄せて首を取るためのものがありました。



しかし水軍の殿様始め兵達はどれだけタフだったのか。



ところで頂上に登っても海は全く見えません。

「はて」
「ここから見下ろしたというけど、全く海らしきものもない」

首を傾げていたらこんな看板で親切にも説明されていました。

つまり、昔とは地形が変わってしまって,深く入り組んでいた入り江が
今は全て陸になってしまっていたのです。 



なぜかというと、この看板にもあるように、入り江を耕地にするために
埋め立ててしまったからでした。



水軍の城は、いまやその痕跡が地面に残るだけになり、
これらの城も資料館として1983年(昭和58年)に建てられたばかりの、
「おそらくこんな感じだっただろう」というイミテーションにすぎません。

残された資料から、できるだけ史実に忠実に作られている
・・・・とは思うのですが、全然違うかもしれませんね。





ところで、冒頭の写真を撮ってから、ズームしてもう一度撮った
この写真を見比べ、この数秒の間に窓が開いていたのに気づきました。



丸の中に「上」の入った甍を拡大しようとして気づいたのがこれ。
ここは観光客が開けてもいいような窓だったのでしょうか。



空港に着いたとたん土砂降りになったのですが、東京でも
空が荒れていて、着陸態勢になったとき恐ろしいくらいの
タービュランスがありました。

「積乱雲が空港上空に立ちこめているため、
別方向からの侵入を試みます」

とパイロットのアナウンス。
しかし、タイミングと、他の飛行機の侵入順番を待って、
羽田上空でたっぷり30分は遊覧飛行を楽しみました。

結局大雨と積乱雲で1時間は到着が遅れましたが、
パイロットは優秀らしく、何のストレスもない
ビューティフルランディングを決めてくれ、
わたしは無事帰って来ることが出来たという次第です。


というわけで、わずか6時間くらいでしたが、充実の旅でした。
しまなみ海道をのんびりドライブ、あるいはサイクリングで渡り、
瀬戸内海の水軍の名残を訪ねる旅も悪くなさそうです。
みかんを始め、美味しいものがいっぱいあるようですし、
今度は道後温泉まで行ってみようかな。





リバティシップ「ジェレマイア・オブライエン」機関室

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リバティシップ「ジェレマイア・オブライエン」。
上甲板部分の船室を見た後は機関室に入って行くことにします。



どんな船も機関室は狭くて暗くて油臭いものですが、
このたった56日で造られたリバティ船の機関室もまた
独特の空気のよどみと匂いが立ちこめていました。

前回、アメリカがリバティ船を急増することになった主な理由は
ドイツと交戦状態に入ったイギリスが海上輸送に困難を来していたから、
と説明したかと思いますが、このJOは、イギリスに供与されています。







これも当時からあったものでしょう。

ALERT!(警告!)と書かれた下には

your skill and devotion(君たちの技術と職務への献身が)

WIN THE WAR(戦争に勝利する)

とあります。
先日、「浮沈艦沈没」で民間工場の「戦争」についてお話ししましたが、
ジェレマイアに乗り組んでいたのは軍人ではなく民間人でした。

この船はどうもコーストガード、沿岸警備隊の隷下にあったらしく、
この標語の一番下にはその表示があります。

イギリスに供与されたのにコーストガードとは、と言う気もしますが、
その辺のことについては英語のWikipediaにも書かれていません。



機関室を上の階から見下ろしてみました。
右手のシルバーの部分がエンジンです。



ボランティアの活動ですべてを賄っている組織なので、
船内には案内のガイドは勿論関係者は見た限り一人だけでした。

そんな状態ですので、当然危険は自分で回避して下さいね、
怪我をしてもこちらは一切責任取りませんから、というお願いです。



アメリカのお店にはときどきこの同工異曲な貼り紙があります。
この場合は

「我々はエンジンルームへの立ち入りを拒否する権利を保持しています」

ですが、つまりアメリカでは接客業や販売業の従業員の
最低限の権利というものが保証されている、ということを
あらためて客に向かって宣言していることが多いのです。

「お客様は神様です」

というのは日本ではあくまでも提供側の「心構え」であり、
客の側が自分を神様だという権利は全く無い、というのは
日本では「常識」として皆が暗黙の了解をしていますが、
ここんところを改めて表明するのがアメリカなんですね。

たとえばこんなときには日本なら

「畏れ入りますが立ち入りをご遠慮いただく場合もあります」

などと、イラストと共に書いたりするところですね。
いずれがいい悪いではなく、

「言わなくても理解する文化」



「言わなくては分かってもらえない文化」

の違いかもしれません。



というわけで、転がり落ちても自己責任、ということを
重々自分に言い聞かせ、この急な階段を下りて行くことにします。
どこの船もそうですが、階段の幅が狭いので、体を横にして
一段ずつ足を横にして降りて行かなくてはなりません。



そしてこういう通路を歩いて行くわけです。
下が見えて恐いなどというレベルではありません。

わたしは高所恐怖症だと自分で思っていましたが、案外
こういうところは平気でした。
手すりが無いのも転がり落ちたらもうオワタなのも、
この間の自然公園と条件は同じなのですが・・・。



スチームのためのメインバルブ。
JOは3シリンダートリプル拡張レシプロ蒸気エンジン(直訳です)で
現在でも動的展示が公開されているだけでなく、時々は
クルーズも行われています。



エンジン。
これは当時のものではなく、レストアしたときに新しく付け替えられたものでしょう。
できてあまり年月が経っていない様子がわかります。



ジェネレーター。



謎の足あと(笑)



この辺りもレストアのときに新しく作り替えられた部分でしょう。



最近のものではないように見えます。
エンジンとボイラーの機構の相関図。



実はこの一番下の階には立ち入り禁止でした。
理由は、今でもここで操作が行われているからです。

黒板には日付とオペレーションについての予定が書かれています。



机の部分を拡大。



オイルの配管図がそのまま残されています。
ちゃんと人間が書かれているのがこだわりを感じますね。
これはもしかしたら見学者(ここまで来れる)への説明用かもしれません。




アラームベルや就航時の勇姿、そして小さな勲章とともに
映画「タイタニック」の一シーンの写真があります。

JOのエンジンルームをバックに撮影が行われ、
またCG素材として活用されたそうです。

ちょうどこのアメリカ滞在のとき、テレビで
「タイタニック」を放映していましたが、機関室のシーンは
大型船という設定のせいで、この機関室の10倍はありそうに見えました。


こういうところに一人で閉じ込められていると、
とくに戦地に出動した船の場合、どうしても「最悪の場合」を
空想してしまいます。
そして、その仮定をしてみて、わたしは心の底から震撼しました。

たとえば、このJOが沈没することになったとして、
機関室の乗員が逃げる道は、人が一人ようやく通れる狭い階段だけ。
あの映画のように機関室から逃げ出せる可能性は万に一つもありません。

従って機関室の乗組員は、常に死の覚悟をしていたに違いありません。



おそらく稼働時にはここが蒸気を受けるのかもしれません。
あきらかに油ではない液体で全体がぐっしょりと濡れている感じでした。



油差しと刷毛。
このようなもので機械に油を注すのでしょうか。

・・・いまだに?



わたしが訪れたのは8月6日だったことがばれましたね。

毎日この黒板はチェック事項を書き換えているようです。
ちゃんとエンジニアのサインをする場所もあります。



平衡度量器?




ジェレマイア・オブライエンはアメリカの海事依託のために
メイン州サウスポートランドにあるニューイングランド造船会社によって
1943年の6月に造られた、ということが書かれています。

ジェレマイア・オブライエンというのは南北戦争時代、
最初にイギリス海軍の艦船を捕捉した人物だそうです。

イギリスに提供する船にそういう人物の名前をつけてしまう、
さすがは空気読まないアメリカさん!
そこに痺れる憧れる〜(棒)



続きます。

「男たちの大和」と海上自衛隊

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先日表敬訪問した海上自衛隊地方総監部の新総監の経歴は

海幕指揮通信情報部長←情報本部情報官←海幕情報課長
←海幕総務課広報室長←潜水艦隊司令

と、潜水艦を降りてから(上がってから?)は情報畑一筋です。
その時代の話を色々と伺っていると、

「『男たちの大和』の、特典映像見られましたか?」
「映画は観ましたが・・(特典映像は覚えがない・・)」
「あれに僕出てるんですよ。映画に海自が協力したのでその解説で」
「うちにDVDがあるので、帰ったら観直します」

ところが観ようと思って探してもDVDが見つかりません。
もしかしたらレンタルだったのかと思ってAmazonの記録を見たら
確かに購入していました。

しかし海将に観ますと言った以上、何が何でも観なければ。
いや、観たい。
というわけで、もう一回「男たちの大和」を購入したわたしです。


因みに、DVDを探していて気づいたのですが、夏に感想を書いた
「浮沈艦撃沈」もなぜか2枚ありました。
どうやら買ったことを忘れてまた買っていたようです。

わたしはボケ老人か。

二つあっても仕方がないので、もし「浮沈艦撃沈」のDVDを欲しい、
と言う方がございましたら、第2弾読者プレゼントとします。

ご希望の方はコメント欄でお申し込み下さい(T_T)



今日はその特典映像で海将が説明しておられたことを
取り上げたいと思います。

冒頭写真は、2005年に公開された映画の制作中ということで
おそらく今からちょうど10年前の海将のお姿。
ヘアスタイルなどに大変こだわっておられる様子が窺える、
なんともスマートな海軍さんぶりです。



参考までに、これが10年後。

最後にTOと3人で海将を真ん中に写真を撮ったのですが、
そのときに

「顔がマズくてすみませんね^^」

などと、どう突っ込んでいいのかわからない冗談を言われました。
しかしわたしにははっきりいって顔がマズいとかマズくないとか、そもそも
そういう評価をする必要もない堂々たる男ぶりにお見受けしました。

冒頭の1佐時代はおそらく45〜6歳といった歳だと思われますが、
脂の乗った男の働き盛り、といった感じで実にかっこいい。



大和はかくして蘇った
ー海上自衛隊全面協力ー

これが映像特典のタイトルです。
「全面」がなぜ必要なのだろうと言う気もしますが、
この辺りが映画製作前、「軍国主義礼賛!」と反対する左巻きの
突っ込みどころとなったのかもしれません。

しかし実際の映画は

決して戦争を美化している訳ではなく、
艦内で懲罰として振るわれる暴力や、愛する人を失った女性の悲しみ、
労働力である成人男性を徴兵されて疲弊していく農漁村の姿も強く描かれており、
当時の日本の精神主義偏重を批判する台詞が多く登場し、
大東亜戦争肯定論とは一線を画している。(wiki)

という内容となっています。
わたしなどはむしろこちらに主張の重きを置きすぎて、
実際に戦いにあった人々の覚悟や国を護るという挟持については
ほとんど「なかったこと」にしてないか?などと思ったくらいです。


わたしは前にも書いたように、取ってつけたようなご都合主義の
この人間関係に全く必然性を感じないので、やはりwikiの

要所要所に現在の敦の視点が挿入され、過去のできごとが
今の大人たちの記憶だけに偏らないよう配慮がなされており、
この映画をより秀逸な重厚味ある作品に仕上げている。
敦が船を操縦するシーンでラストとなり、完成度の高いエンディングとなった。

というような手放しの共感は得られなかったのですが、
この海将の出演している「海自協力の記録」を観た今は、
「現代」を描くことは映画のスタッフに取って「全面協力」の
自衛隊への謝意を表わす意味でも不可欠だったのかという気がしています。


そう感じたのは映画冒頭、海上自衛隊の補給艦「ましゅう」が
舞鶴地方総監部の港に入港して来る一連のシーケンスです。



「ましゅう」は、2004年から2005年にかけての

「対テロ作戦支援任務によるインド洋派遣」

を終えて母港である舞鶴基地に帰還した際、出迎えの様子が
撮影され、それが映画の最初のシーンとなりました。



このときに「ましゅう」の帰還の様子が映画に取り入れられたのは、
撮影の時期と帰国がたまたま同時期であったという理由によるものですが、
この「ましゅう」と大和は大きさがほぼ同じで、

「何か因縁めいたものがあるのかなと」

思う、と海将(当時1佐)じゃ映像では述べています。



これが撮影された素材部分。
音楽隊の演奏に始まりましたが、音楽隊のシーンは
映画には採用されていませんでした。



「ましゅう」入港シーン。
こちらは映画のシーンです。



なぜかそれを見ている内田二曹(中村獅童)の養女(鈴木京香)。
繰り返しますが

ここは舞鶴です。

鈴木京香はまず呉の「大和ミュージアム」を見学し、
同じ洋服を着て舞鶴で「ましゅう」の帰国行事に立ち会い、
それから大和沈没点まで行く船を依頼するため、
瞬時にして鹿児島県枕崎漁業組合に現れます。

このフットワークの軽さにはエリス中尉も真っ青です。

「ましゅう」の舷側に整列する自衛官たち。



行進しながらラッタルを降りて来るのは、映画の主人公が
おもに若年兵であったことからでしょうか、若い海士たちです。



隊司令の挨拶も映画ではカットでした。
海幕長と司令が敬礼を交わす瞬間だけが採用されています。



素材の方でとても目立っていたカップル。
人目がなければお互い抱き合いたいに違いありません。
女性は海曹の制服の袖をつかみ、海曹は彼女の頭をなでなで。

日本人って、本当にこういうときの感情表現が控えめですが、
見ている者にも彼らの気持ちは痛いくらい伝わってきます。

実際映画で採用されていたのはその右側の、
ネイビーストライプのシャツを着た女性の夫とその子です。



このシーンはよく見ると、後ろに海曹と海士が、それぞれの
家族に出迎えを受けている様子が捉えられています。
この女の子も今は小学校高学年。
このときのパパのだっこを覚えているでしょうか。




波切りの部分をCG合成の素材として使うため、
護衛艦を実際に走らせるという協力もしています。

このときのインタビューはまだ制作の途中に行われたため、
1佐は

「ぜひそれで素晴らしい映像を作って頂きたいと思う」

と述べています。



艦上から見る巨大戦艦の起こす航跡も、
この「ひえい」を空撮した映像から取られました。



説明がなくて少し分からなかったのですが、どうやら
「みねゆき」も素材として撮影されたようです。

 

実際に「ひえい」の波切りがどのように「大和」に使われたか、
映像を並べてみました。

 

同じく「ひえい」から合成された大和航行シーン。



写真に残る大和の航跡を再現するために、実際に護衛艦を
蛇行させて航行するということまでやっています。

(今、ふと思ったのですが、まさか海自は無料で協力したのでは・・)

 

合戦のシーンで使われたはめ込み画像。



海上自衛隊の協力はそれだけではありません。
なんと、出演者にはエキストラも含め、体験入隊を行って、
敬礼や号令など、所作指導一般を行ったそうです。



これは特別年少兵たちの訓練シーンのリハーサル。
体験入隊ではなく、太秦撮影所での様子です。



えー・・・これ、誰でしたっけ?松山ケンイチ?

とにかく、こういう本物の所作指導が行えるのは
帝国海軍の良き伝統の継承者である海自ならではである、
ということを1佐は強調しています。

かつて海軍軍人として戦い、そして散華した人々に、
海上自衛隊がその精神を受け継いでいるということを
「わかっていただきたい」(原文ママ)
と1佐は述べています。



乗組員を大和まで運ぶ内火艇のシーンも、
海上自衛隊の協力なしには実現しませんでした。



さらに、年少兵たちが最初に大和に到着するシーンには
掃海母艦「ぶんご」が使われました。

 

CG加工用に側面にはブルーシートが掛けられています。



これが加工後。



勿論呉でも撮影は行われました。
呉潜水艦基地で撮られたのは、大和が特攻に向かうときの乗艦シーンです。



ロケ地としてほとんどそのまま撮影できるくらい、
建物が往時のままに残されていることから選ばれたようです。

さすがに衛兵の立つ見張り所と掲示板はセットでしょう。



このシーンの主役、唐木二曹(山田純大)。



唐木の妻(みれいゆ)が「あんた!」と夫を呼び、



唐木は彼らに狂ったように帽子を振ります。



ちなみにこのときのエキストラ赤さんは大泣き(笑)
そりゃ耳元で叫ばれたら怖かったでしょうとも。



冒頭の「ましゅう」の乗組員が、妻から愛児を受け取り抱き上げるシーンは、
まさにこのシーケンスの伏線として採用されたということがわかります。

わたしは恥ずかしながらこのシーンをもう一度観て、
それに気づいたとたんつい涙があふれてしまいました。



インタビューは制作の途中、呉地方総監部で行われました。



1佐が腰掛けているのは、尾道市の日立造船所跡に、6億円を掛け、
原寸大で再現された大和の甲板部分。

6億ですよ。6億。

これが一瞬しか映らないセットに掛ける金額として高いとか安いとか、
わたしは全く言及するつもりはありませんが、富士総火演で消費された
弾薬の総費用が3億5000万、というのは、
どう考えても後者が安すぎないか、と思ったことだけ言わせて下さい。

映画のセットより、花火大会より安い一国の実弾演習。
関係ないものを比べんな、といわれりゃそれまでですが(笑)

このセットはその後資料館として一般公開され、造船所の再稼働のため
取り壊しの期限が来たときにも存続を望む声があったそうですが、
惜しまれながら閉館したそうです。






呉は大和のふるさと、という大きな看板のある造船所のドック跡。

海将はこのインタビュー時市ヶ谷勤務だったはずですが、
「大和」の制作のために呉に詰めていたのかと思われます。
今回呉に戻ってきた海将を表敬訪問したことは、
このインタビュー映像によってより印象的なものとなりました。

インタビューで海将はこんなことを述べています。


海上自衛官としては旧海軍の良き継承者と自ら任じている。
その立場で「大和とは何か」と考えると、大鑑巨砲主義とかいう非難はともかく、
やはりそれは、当時造られた世界一の船は海軍の、
延いては日本のシンボルであったと思う。

その意志の伝統があってこそ、今の我々があるのだと言う意味でも、
大和は我々にとっての「象徴」であるといえるのだ。




リバティシップ「ジェレマイア・オブライエン」〜銃座とラインガン

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さて、リバティ船「ジェレマイア・オブライエン」シリーズ続きです。
機関室を見学した後は甲板に参りましょう。



まずは甲板から見たアルカトラズ島。
画面の右下の海面に何か見えていますが、
これは海鳥が餌を求めて海面すれすれを飛んでいます。



右側に目を転じればベイブリッジが。
左手の白い部分が最近完成した部分だと思います。



マスト。

JOは第二次世界大戦中を通じ、7回の航海を行っています。
それはオーストラリア、インド、イングランド、北アイルランド
そして南米に至りました。

ノルマンディに参加した、というのは人員や物資を運んで
11回にわたりイギリス海峡を航海したことを指します。



他の物資輸送のための艦船を見たことがないわたしには
どこがどのように違うのかは全く分かりませんでした。



ただ、軍艦でないというのはこういうところにも現れています、
救命用のゴムボートが甲板のほぼど真ん中に設置されていました。



キャプスタンは当時からのものでしょう。

日本でも戦時標準船は完成までの時間短縮のために、
「ブロック工法」で造られていますが、リバティ船もまた
このブロック工法が採用されています。

従来のリベット打ちによる工法では、時間と、
なによりリベット工の熟練を要しましたが、この方法だと
溶接による接合なので、簡単でかつ誰にでもできます。

前々回、「ロージー・ザ・リベッター」がこの船を造った、
と入り口のパネルにわざわざ大書していたことをお話ししました。

「女性もまたこの造船に手を貸した」

というイメージだけのために引き合いに出したロージーですが、
そもそもブロック工法でもって造られているリバティ船には
リベッターのロージーは全くお呼びではなかったということになるのですが。



と思ったらリベットの跡発見。
ロージーさんはこういうところを担当したんですね。



船尾部分にも色々とものが迫っていて、
とても狭苦しい感じがします。
輪状のものが三つ(4つかな)床にはめ込まれていますが、
これも何をするものか見当もつきません。

ネットは博物館として航海されるようになってからつけられたものでしょう。



船尾に立って後ろを見た様子。
巨大な伝声管?と時鐘があります。
右上の草色の部分は、どうもツバメが巣を造った模様。



船首に立ち、左手を見やるとそこにはゴールデンゲートブリッジが。



艦首部分から完備に向かって立つとこんな感じ。
細い柱で支えられた一段上階のはしご段を
上で見学していた人が降りてきています。
上の一団が全員降りて来るのを待って、
わたしも上に上がってみることにします。



aft、というのは海事用語で「船尾近くの」という意味です。
どうもここの担当はマッカーフェルティさんというらしい。
彼が責任を持ってこの辺りの管理をしているようですが、
海自の艦船を見慣れた目には全てが随分雑然としていて
しかもまったく手入れが行き届いてないように見えます。

こればかりは海上自衛隊が特殊なのかもしれませんけど。 




甲板から一段上がってみると、帆船のマストらしきものが見えました。



もう一段上の銃座のある階からみてようやくこれだけ見えました。

これは、1886年に造られた

横帆船Balclutha(バルクルーサ)

です。
バルクルーサは、1スコットランドのグラスゴーで建造され、
ウェールズやオーストラリアから石炭などを西海岸に供給し、
そのかわり輸出する小麦粉やワシントン産の材木などの運送を行いました。

来年はこれを見学して来ようかな。(見られるならですが)



ここには対空銃座が二つ備え付けられています。
襲って来る航空機に対抗するためです。



ここに上がったとき、一人で来ていたドイツ人らしい男性が
スマートフォンの写真を撮ってくれと頼んできました。
銃座と一緒に撮りたいのかと思ったら
そうではなく、アルカトラズを入れてくれと言います。
せっかくなので、男性とアルカトラズのこちら側に
銃を入れて撮って差し上げました。



この円形の三段の囲いはどんな意味があるのでしょうか。



照準を覗くとこんな感じ。
真ん中の十字に銃撃目標を捉えます。



一応艦首と艦尾に対空砲も持っています。
決して大きくありませんが、航空機には脅威となったかもしれません。
砲身の上部にはカモメが停まらないようにたくさんのトゲトゲが(笑)
この砲を使用する可能性などゼロのはずなのに、渾身の仕様です。

よっぽどここに鳥が停まられては困る事情でもあるんでしょうか。



旗旒信号の意味はもちろんわかりません。
バース信号なのかもしれないなと思ったり。



ゴムではない救命ボートはここに。



持ち運びできそうな小さな砲(に見えるもの)もあります。
これは

「ライル・ライン・ガン」

と称する船の装備で、武器ではなく、溺者やボートなどに向け、
ロープを遠くに飛ばす必要があるときに発射されます。

海軍軍人だったデイビッド・ライルが考案したため、
その名が冠されています。



昔は無かったと思いますが、今は至る所に
見学者が休憩したり、座って海を眺めるためのベンチが設えてあります。
そのうちの一つ、このベンチには、アメリカの公園でよく見るような
遺族の寄付による故人の名前が刻まれています。

「ドクター・ジョン・ウィンハム・ドスの想い出のために」

錨のマークが配されているところを見ると、ドクターは
この船でかつて船医を務めた人物なのに違いありません。



探照灯。



何か分かりませんが、全体的に張り巡らされたロープが
凄まじいですね。

ここは船のちょうど真ん中あたりです。



そして、船首付近の銃座。
ところで、この銃座の壁をご覧下さい。
この「形になってりゃいいんだよ!」と言いたげな投げやりな仕上げ。

これこそが短期間の工期でやっつけ建造された
リバティ船の本領発揮です。

銃座の壁など多少がたがたでも機能に関係ないのだから、
それより一秒でも早く仕上げることの方が問題だった、
という建造事情がこの辺りに表れています。



こちらの壁なんかもすごいですね。
ろくに隙間も埋まっておりません(笑)

先日「不沈艦沈没」で開戦に間に合わせるため、
合格台だけで平常時の10倍の魚雷の部分を
造ることを海軍から要求された民間工場の話をしましたが、
アメリカの国民も頑張っていたのです。

リバティ船の最短工期記録は、起工後わずか4日と15時間29分で進水、
というとんでもないものでした。
これはさすがに記録のための記録であったようですが、
一般的なリバティ船の起工から進水までの写真が
英語のwikiにありましたので、お借りしてきました。

2日目6日目

10日目14日目

24日目。進水準備おk。

それこそ「夜業」どころか24時間態勢でないと無理だったでしょう。
アメリカ人のパワーというのはこういうところにあります。
たとえそれがやっつけすぎて突然まっ二つに割れるような
軀体だったとしても・・・。



もう一つの銃座からは銃がなくなっていました。



船首部分のマスト越しに向こうに見えるのは、
サンフランシスコの象徴的な建物であるコイトタワー。



観光船が近づいてきました。
おそらく、サンフランシスコ湾巡りの船でしょう。
パンパニトとJOについて説明し、
この後は帆船を紹介してゴールデンゲートブリッジの下を
くぐって来るのだと思われます。



船首の砲座銃座のある階からまっすぐ船尾を見た様子。



使われていない(もしかしたら使われたこともない?)
砲身は今やすっかりサビが回ってしまっています。 



一番高い部分からサンフランシスコの街を臨む。



もう一度左側。
ベイブリッジでオークランドに渡る途中に見えている島は
トレジャーアイランド(宝島)という名前です。
ここは普通に人が住んでいるので、サンフランシスコに来るとき、
一瞬ですが住むことをかんがえたことがあります。

Googleが秘密のデータセンターをここに構築している、
という噂もありますが、どうなのでしょうか。



最上階から眺めた潜水艦パンパニト。



これがアメリカの船首旗?
赤いストライプが無く、星だけ。
この星は州の数(50)だけあるのかな。



メンテナンスの途中なのか、塗装前の部品が床に置かれ、
ぶら下げられて塗装されたものがそのまま乾かされています。

それにしても、アメリカの船っちゅーのは整理整頓がなっとらん(笑)
え?何度もしつこいって?



続く。


三井造船資料室〜潜水艇救難母艦「ちよだ」とロシア救難艇事故

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三井造船資料館には全てではありませんが、
ここで建造された船の写真、模型、資料などが展示されています。

写真は

潜水艦救難母艦「ちよだ」JS Chiyoda, AS-405

潜水艦救難母艦とは、潜水艦救難のための深海救難艇(DSRV)と
深海潜水装置(DDS)を装備し、かつ潜水館母艦の機能を備えている艦艇で、
このタイプが造られたのは日本では初めてのことでした。

先日、この三井造船でやはり初めて建造された呂型潜水艦「呂44」など、
戦時中の潜水艦とその運命についてお話ししたわけですが、
戦線に投入された呂号潜水艦の寿命は、最長でも1年2ヶ月、
早いものでわずか4ヶ月(初陣で戦没するとこういうことになる)。

敵との交戦で戦没するだけでなく、浮上できないなどの事故で、
行方が分からないまま戦没認定された艦が非常に多いことを見ても、
消耗が激しい、つまり乗組員の立場で言うと、いつ死んでもおかしくない、
危険な兵器であったことは、まず間違いのない事実でしょう。


佐久間大尉の事故に見るまでもなく、訓練中の事故も少なくありませんでした。
引き上げ(艦体ごと提灯釣りという方法で浮き上がらせる方法)
によって九死に一生を得た乗組員たちもいますが、なかには伊33潜のように、
引き揚げられないまま戦後まで放置されていた艦もあります。


いずれにしても、潜水艦乗りは死の覚悟なくしてなるものではありませんでした。
昔は、一旦事故が起こってしまったら、艦体をサルベージするしかなかったので、
たとえ艦内に浸水がなかったとしても、サルベージに時間がかかれば
生存はまず絶望的でしたし、そもそも、戦線に投入される潜水艦は
もし何かあっても、助けにくる見込みはまずないからです。


しかし近年は潜水艦の安全管理に目が向けられるようになり、
科学の発達と共にその方法も進歩しました。

非常時の救難体制が確立していないことには、潜水艦という
兵種に従事する当事者たちの士気というものが上がりませんし、
人員を集められなくなってしまいます。



わが日本国海上自衛隊の潜水艦救難のためのプロジェクトは、
昭和30年と、早い時期に始まりました。

大東亜戦争中、あまりにも多く失われた潜水艦乗員の命。
海軍の末裔である海自は、それを決して忘れていなかったのです。

昭和30年というのは、海自がアメリカから潜水艦
「くろしお」SS-501を貸与された年に当たっており、この時始まった研究は
5年後には初代「ちはや」ASR-401の建造によって実を結びました。

「ちはや」を建造したのもここ三井造船玉野です。

このときに採用された方式は

潜水艦救難用チャンバー(Submarine Rescue Chamber)

というものでした。
開発したのはアメリカで、開発は1925年。
30年前の技術ですがそれでもこのころ最もポピュラーな方法でした。

アメリカでチャンバーの研究が始まったのも、ある日遭難した艦の乗員33名が、
手をこまねいて見ている間に、全員窒息死してしまった、
という潜水艦事故の悲劇を受けてのことだといわれています。


これはどのようなものかというと、母船から遭難した潜水艦の
脱出用ハッチの上に釣り鐘のようなチャンバーをかぶせて、
脱出した乗組員をそこに収容するという仕組みです。

潜水艦は自艦の位置を知らせるために、ちょうど脱出ハッチからワイヤーを
海面に出すので、それをチャンバーと結びつけ、沈降していけば、
ちょうどハッチの真上にチャンバーを降ろすことができます。

このレスキューチャンバーを搭載していたのが初代「ちはや」で、
昭和36年には就役し、呉に配属されていました。


しかしこの方法にはいくつかの難点がありました。

ワイヤーとチャンバーを接続する作業は、救助チェンバーから作業員が
飽和潜水によって海中に出て、人力で行っていましたが、
飽和潜水には深度に限界があり、また人員の加圧・減圧に時間がかかったのです。

さらに、遭難している潜水艦の深度によっては、
救助された乗組員は、いきなり圧力の変化を体に受けることになります。
「ちはや」は変圧装置も装備していましたが、これも限界があったということです。

さらに、チャンバー方式は、潜水艦が出すワイヤーがたよりなのですが、
海流でワイヤーが流されたり、潜水艦が傾いて鎮座していた場合、
チャンバーの固定が困難になるケースもありました。



そこで開発されたのが、冒頭の「ちよだ」から搭載された

Deep Submergence Rescue Vehicle (DSRV)

でした。
ディープサブマージ、と言い切っているのが実に頼もしいですね。
釣り鐘を降ろすのではなく、小型の潜水艇を上に付けて、
そこに乗り移るという仕組みです。



アメリカの「アバロン」という救難艇です。
三つのボール状のものが見えますが、これは「耐圧球」で、互いに
接続されています。
真ん中の耐圧球の下にはスカートを履いていますが、この部分を
潜水艦の脱出ハッチに接合させます。
(潜水艦もちゃんと接合できるような規格になっている)

そしてまずスカートの中を減圧・排水し、それから両方のハッチを開き、
遭難した潜水艦の乗員を移乗させ、収容するのです。

規格といえば、この救難艇の規格は世界共通になっていて、
どこの潜水艦であっても救難できるように統一されています(伏線)



「ちよだ」の搭載しているDSRV。
周りの乗組員との大きさを比較していただくと、規模がわかるでしょう。
基本的にこのような小さなものなので、航続距離は期待できませんが、
場合によっては潜水艦と母艦の間を往復することもあります。


さて。

ここでやはりこういう話題になると、触れないわけにはいかないのが
韓国でこの春に起こったフェリー沈没事故です。

日本政府は、直後から海上自衛隊の出動協力を申し出ていました。
案の定韓国政府はその申し出を断り、しかも当初韓国マスコミは
そのことを報道しなかったため、韓国の世論は

「日本はどうして助けに来ない」

などという声が相次いだのですが、安倍総理は、

「子どもたちを早く助ける意味でも支援を受けてくれたらうれしいのに」

と、オフレコの食事の席で語り、韓国マスコミが隠したがっていた
「日本の協力」があったことを明らかにすることに成功しました。
(策士ですね)


韓国政府が日本の協力を断ったと知ったとき、
遭難者家族からは絶望のあまり悲鳴が上がったといいます。

いかに反日に勤しんでいても、日本の海難救助の実力を
ただでさえ海難事故の多い韓国が知らないわけがありません。

その後案の定インターネットでは

「日本が来ていたとしても、たいした技術もないのに何ができた。
おまけに来るのは自衛隊だ。何しに来るのか分かったものじゃない」

などという負け惜しみのような言論がわき起こっていたようですが、
もし実際にパク大統領が救難を日本に要請していたら、海保の「海猿」か、
この「ちよだ」が現地に向かうことになったでしょう。



彼らが「酸っぱいブドウ」で、たいしたことがないなどという
日本の海上自衛隊の救難技術ですが、これが実際にいかに優れているかは、
国際的な訓練で上げた優秀な成績が証明しています。


救難艇を国境を越えて共同利用するために、
大西洋周辺で潜水艦を運用する国家が、共同で

「西太平洋潜水艦救難訓練(Exercise Pacific Reach、パシフィック・リーチ演習)」

というものが行われています。
日本からは、自衛隊が今まで行われた訓練全てに参加してきているのですが、
その内容を簡単にここで書いておきましょう。


第一回 米国海軍の救難装置が海上自衛隊の潜水艦「あきしお」から乗員を収容。

第二回 「ぶんご」が総指揮艦となる。潜水艦救難艦「ちはや」、潜水艦「あきしお」
    のほか護衛艦、航空機も参加。
    時化に遭い、韓国海軍は全ミッション実地ならず。
    対して海上自衛隊と米海軍のDSRVは全ミッションを成功させた。

第三回 「ちよだ」と潜水艦「ふゆしお」が参加。
    ちよだ」のDSRVが韓国海軍の潜水艦「チョイ・ムーソン」に接合し、
    乗員3名の救出を実演した。
    
    遭難艦へ接合できず救難に失敗する国も出る中、
    海上自衛隊は優秀な成績を示している


「おわかりいただけただろうか」。


つまり海自の潜水艦救難の技術は、世界でトップレベルと評価されており、
当の韓国海軍は、そのことを何よりよく知っていたと思うんですよね。

軍トップは「どうして日本の申し出を断った」と頭を抱えたかもしれません。

もっとも韓国海軍が、その後、無理無理出動したということを強調するために、
なぜか定員20人の救助艇に、120人乗せて頑張ってます!アピールするなど、
努力の方向が斜め上だったことを考えると、買い被りちうやつかもしれませんが。


さて、この「ちよだ」、今回は出動がなりませんでしたが、かつて
外国の潜水艦からの救難に出動したことが一度あるのをご存知でしょうか。


2000年の8月12日、ロシア海軍の原子力潜水艦「クルスク」が、
バレンツ海において演習中、艦首魚雷発射管室の爆発が原因で沈没し、
乗員111人が全員死亡したといういたましい事故がありました。

爆発時に電源が喪失し、外部への通信手段が失われたため、
僚艦が「クルスク」の事故に気づくのが翌日になったのが、救助の初動を
大幅に遅らせる結果になり、ロシア海軍だけでなくイギリスからも救援隊が
出動しましたが、引き揚げられたとき、艦内は海水で満たされていたそうです。



自衛隊が出動することになったのは、この5年後の2005年、やはりロシアの、
深海救難艇A−28が、カムチャッカ沿岸で身動きが取れなくなったときです。

深海救難艇が要救助って、何のジョーク?という気もしますが、
何でも古い漁網が絡み付いてしまったということで、そういうこともありましょう。

事故発生時、ロシア海軍はおそらく「クルスク」事故の教訓から、
いきなり外国に救難を要請しました。
プライドにこだわって300人もの人命を見殺しにした韓国政府には
ぜひ爪の垢でも煎じて飲んでいただきたいですね。 

このときに遭難したのが、海軍の潜水艦ではなく救難艇であったので、
機密に配慮する必要がなかったこともその理由でしょうが、何と言っても
遭難したロシア救難艇が、それをまず希望したのだと思われます。

ロシア海軍が救援を求めたのは、アメリカ・イギリス軍、そして自衛隊でした。

事故発生の翌日、8月5日のロシア海軍からの依頼を受けて、海上自衛隊は
国際緊急援助隊派遣法に基づき直ちに自衛艦の派遣を決定、

命令から一時間後の12:00には

命令から一時間後の12:00には

命令から一時間後の12:00には

横須賀基地からこの「ちよだ」が現地に向けて出動しました。

と   こ   ろ   が  。


そもそも自衛隊の潜水艦というものは、現行の憲法の縛りのため、
日本近海だけを航行するという建前があります。
したがってその潜水艦を救難する方も、近海を行動するという前提で
設計・建造されています。

そのため「ちよた」の航行速度は決して速いものではありませんでした。

せっかく素早く初動を立ち上げたのに、「ちよた」がえっちらおっちら
カムチャッカまで向かっている間に、現場に一番に到着した英海軍の
無人探査機「スコーピオ」が絡まった鋼線を切断し、A−28は自力で
浮上することができたのでした。
つまり、自衛隊が現場に付く前に、全てが終わっていたのです。

取りあえずよかったですけどね。∩( ・ω・)∩ばんじゃーい



我らが自衛隊にとっては、これが初めての国際救援任務となったわけですが、
実際のところ、課題も残しました。
せっかく救難訓練で優秀な成績を残すだけの技術を持ち、
命令から1時間後には出動が可能な法体制も整ったというのに、
肝心の行き脚が遅いというのは、時間の制約があり、少しでも
迅速な展開が求められる潜水艦事故の対応への遅れにつながります。

wiki

やはり同じ三井造船玉野工場で建造された「ちはや」。

1985年就役で、もう20年経っている「ちよだ」より15年若く、
速力も「ちよだ」の最大速度17ノットに比べ20ノットと、
かなり改善されてはいます。

「ちはや」はハワイ沖で米原潜「グリーンヴィル」に衝突され沈没した
漁業実習船「えひめ丸」事故の際、引き上げ支援を
「災害派遣」(海外だから)という形で行っています。

実際に引き上げを行った米国海軍への支援、海中での遺品捜索のために、
「ちはや」が搭載した救難艇は、百数十回もの潜航を行うことになりました。

先ほどお話しした「国際潜水艦救難訓練パシフィックリーチ002」にも、
この「ちはや」は参加し、

荒天にもかかわらず全てのオペレーションを成功させた

他、救難艇は当初予定のソフトメイト(沈没潜水艦への達着)だけでなく、
ハードメイト(ハッチを開ける、より実際的な救難訓練)も成功させています。


つまり自衛隊の救難技術は世界一ィ!なのです。


後はアメリカやイギリスの「スコーピオ」のような無人探査機を持てば、
これはもう鬼に金棒というものではないかと思うのですが。

「ちよた」はすでに就役後、20年近くが経過していることから、
平成26年度概算予算要求において、後継艦としてDSRVを搭載する
26年度潜水艦救難艦ASR(5,600トン型)の取得が表明されています。


この予算要求の32ページを見ていただくと、救難艇の調達に対しては、

費用対効果の観点から、災害派遣等多目的に対応する救難艦の建造にあたって
民生品の使用や装備品の仕様の見直しにより48億円の節減を見込んでいる

などと言うことが書かれています。
国民の皆さんの税金を無駄遣いしないように工夫しているというわけですね。
でも、節約ばかりではなく、いざというときの備えに対する支出であれば
国民は納得すると思いますよ。

(一部の政党と思想の方々を除く)


さて、この「ちよた」「ちはや」は共に日本の古城から名前を取っています。
「ちはや」は「ふしみ」の後継型ということで、これもお城ですね。
それでは26年度予算で新しく建造される救難母艦の名前は何になるのでしょうか?

んー・・・そうだなあ。
「ひめじ」?
は嫌かな。関西出身としては()
「あずち」?・・・なかなかいいかも。
そうだ、

「あおば」

なんてどうかしら。
旧軍艦にもあったし、「青葉城」は有名だし。

今までの例をみると、自衛艦の名称はあらかじめ防衛省が候補を用意し、
それを政務次官が選んで「命名者」となることが多いようですね。

それは昔から同じ構図で、戦艦「大和」は、命名時、天皇陛下には
「信濃」「大和」という二つの名からお選びいただいたといわれます。

歴史にイフはないといいますが、もし「大和」が「信濃」だったら、
どうなっていたでしょうか。

「信濃特攻」
「戦艦信濃」(映画)
「戦艦信濃の最後」
「男たちの信濃」
「信濃ミュージアム」
「宇宙戦艦信濃」

つくづく天皇陛下に大和を選んで頂いてよかったと思わざるを得ません。

って何の話だ(笑)


 

 

ボストン美術館〜本堂再現とパフォーマンス系芸術

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ボストン美術館は日本美術のコレクションが充実しているので有名です。
それに貢献したアメリカ人はこの3人、

モース、フェノロサ、ビゲロー。

モースは大森貝塚の発見者として日本でも有名ですが、
遺跡の発掘は彼に取って専門ではなく、偶然の産物でした。

モースとフェノロサの出身はボストン近郊の町セーラム。
ここは過去魔女狩りがあったせいで現在では
「魔女の町」を観光の売りにしており、年がら年中町がハロウィーン状態です。


東京大学の政治学の教授にフェノロサを推薦したのはモースでした。
岡倉天心と共に、明治維新以降軽んじられる傾向にあった
日本美術の偉大さを日本人に説いて回りました。


ウィリアム・ビゲローもまたモースの知り合い、つまり
日本美術をアメリカに紹介した3人は友人同士です。

医師であったビゲローは二人の友人を訪ねる旅行のつもりで来日し、
その際日本の全てに魅せられ、7年間滞日することになりました。

和服や日本食を好み、仏教に帰依して門徒になるほどの知日であった彼は、
在日中のコレクションをここボストン美術館に寄付します。
当館の浮世絵コレクション5万4千点 のうち6割が彼の寄付によるものです。

昨年、日本の甲冑を一同に集めた「サムライ!」という特別展があり、
そのときの写真をここでご紹介しましたが、
あれもまたここの日本美術のほんの一部です。



中国由来の仏像と違い、日本の、特に快慶や運慶の作品は
いずれも躍動感とただならぬ威容があり、
深い精神性とともに畏怖を感じずにはいられません。

この阿修羅像(だっけ)には額に仏眼といわれる「第三の目」があります。

これは普通に「アジア美術」の回廊にあった仏像ですが、
進んでいくとまるでお寺の本堂のようなスペースに、如来は阿修羅が
三体、ご本尊状態で展示してありました。



しかし中で撮った写真がことごとく失敗していましたorz
しょうがないので外から撮ったものを。
この入り口に入ると、まるでどこかのお寺です。
解説には、

「出来るだけ忠実に日本の寺院を再現してみました。
線香やろうそくを立てるわけには行きませんが、祈りの場を
そのまま体験していただくために座るところを設けましたので
ぜひそこに腰をかけて、日本の寺にいるような気分で鑑賞して下さい」

と書かれ、ここから入って左側のベンチには
何人かの人が腰をかけて、静かに仏像を眺めていました。



ライティングもドラマチックです。
小さいとき仏像、中でも仁王像や阿修羅像が怖かったのを思い出しました。
外国人にもこの感覚が「畏れ」として感じられるでしょうか。



ただの天井も気づいてみれば展示スペースとなっています。
この部分には飛翔する人が。



気がついたらあちらこちらにいます。



さらに雲があることに気づきました。
現代美術でもこのようなものは作品として認められるのですが。 



どうもパフォーマンス系のやつは

「何やっても芸術にしてしまえるならやったもん勝ちじゃないですか」

といった、列に横入りした人に対して感じるような
釈然としない感想を持つのではわたしだけでございましょうか。

たとえば、会場で放映されていたこのビデオ。
人の口に土のついた花の苗を一生懸命植えています。
何らかの意味あってのことなのでしょうが、
これがわざわざボストン美術館で公開されるほどのものか・・。

モデルになって口の中に土を入れられた人には
お気の毒としか言いようがありません。
口を開けっ放しで上を向いていると、歯科治療のときのように
唾液を飲んでしまいますから、さぞ苦しかったでしょう。



さらにこれ。
白いシャツに黒いズボン、髪型(スキンヘッド)も眼鏡も、
自分と瓜二つの人形を吊るし、それを大変な時間をかけて動かないようにし、
おもむろにバットを出して、脚から殴っていきます。

何度か殴ると脚がもげ、そこから赤い筋と粉が出てきます。
両足をもぎ終わり、胴体に入ると、そこからは次々と
胃やら腸やら、内蔵の形をしたものがぼろぼろ出てきます。

「なんなんでしょうかこれは」
「見ていてただ不愉快なだけなんですけど」

わたしもTOも早々に観るのをやめましたが、
最後まで観ていたらどういう結末だったのか・・。

確信を持って言いますが、もし最後まで観たとしても、

「で?」

という感想しかなかったでしょう。
この「で?」に対して誰か納得のいく、

「ああそれならこれが芸術と呼ぶに相応しいパフォーマンスだ」

と思わせる説明をしてほしいものです。

やっぱりこういうのはわからないな。
日本の仏像美術に圧倒的な説得力を観た直後のこれは、
どう好意的に解釈してもまやかしとかごまかしとかひとりよがりとか、
いずれにしてもそれに「感動する」こととは別の世界って気がします。



たとえばこの絵。

近くで見ればテキスタイルのようですが・・・、



離れてみればこのとおり。
こういう「騙し絵」みたいなのは面白いからよし。




ぱっと見た目、オレンジ、サーモン、黄色と紫のグラデーションに支配された
美しい色彩で、解説がなければここで起こっている惨劇には気づかなかったでしょう。

ターナー作 「奴隷船」

奴隷商人は荷物のように黒人奴隷を船で運んだのですが、
船上で過酷な状態に置かれ死亡した奴隷を、
彼らは海に放り込みました。
中にはまだ生きている奴隷もいたそうで、それは「溺死した」ということにすれば
保険金が降りたからだそうです。

画面の右下では、投げ捨てられた奴隷の体をむさぼるために群がる
海の魚とカモメが描かれています。



人間の体として認められるのはこの脚だけですが、その足首には
鎖がまだついたままになっています。
両足を鎖でつないでいた名残です。

この奴隷船は「ゾング」という名前の船で、このとき投げ捨てられた奴隷は
132人であったということもわかっています。 

ターナーといえば夏目漱石の「坊ちゃん」でも名が登場した英国の画家ですが、
彼は1781年に起きたこの事件を憤り、奴隷廃止をこの絵で訴えました。
奴隷制度は1815年、ウィーン会議(会議は踊る、のあれ)で廃止が合意されました。

ロンドンのナショナルギャラリーにも同じ構図の「奴隷船」があります。





杖を持っている人が嵐を起こしているの図(適当)。

晴れているような曇っているような嵐の空がドラマチックだなーと思って。



宗教画というのは、聖書の1シーンが描かれたものが多いですが、
殉教した聖人の処刑シーンというものも非常に多いですね。

有名なところでは至近距離から矢で射られたセバスチャン、
石打ちの刑になったステファノ、逆さ磔になったペトロ。
名前は忘れましたが、こういった宗教画で観たことのある殉教シーンは
おもりと一緒に水に落とされるとか、やっとこで歯を抜かれるとか、
火あぶりや斬首など、ありとあらゆる残酷な方法が取られています。

勿論ドラマチックにこれらを描くことが画家の腕の見せ所なのですが、
もしかしたら画家には、残虐なシーンや死体を見たい民衆の心理に
こういう絵を描くことでアピールする下心があるのではないでしょうか。

好むと好まざるにかかわらず、インターネットには事故の瞬間や、
それによって人間が死ぬ瞬間の映像、甚だしきに至っては
遺体写真などがあふれています。

なぜあふれるかと言うと、それを見たい人がいるからでしょう。

インターネットのない時代、こういう残虐なシーンを描いた宗教画が
人々のそう言った興味を満たす役割を果たしていた、
という面もあったのではなかったでしょうか。


この八つ裂きの刑に遭っているのは聖人ではなさそうです。
殉教しようとする聖人の頭に必ずさしている後光が描かれていないからで、
この「聖人」「後光」はほとんどお約束の画法となっていたからです。

斬首される何人もの聖人に後光が射しているだけでなく、
すでに切られた首にもむりやり?後光が描かれている絵もあり、
これはちょっといかがなものかと思ったことがあります。


馬に引かれている受刑者の両手両足はすでに真っ青になり、
その顔は苦痛に耐えてかっと両眼が見開かれています。
出来るだけ早くこの業苦が終わるようにと願っているのでしょう。

左端には処刑を見守る何人かがいて、そのうち一人は王冠を被っていることから、
王様が自ら見守っているらしいことがわかります。
おそらく、彼は反逆罪で処刑されているのではないでしょうか。

この手間のかかりそうな処刑法を日常的にするはずもなく、
現にフランスでもイギリスでも、名前がはっきり残るほどしか、
すなわち為政者を殺害、あるいは殺害を企てた者にしか
この方法で処刑は行われていないからです。

この絵は中世の作品なので(タイトルを撮らなかったのが悔やまれます)
アンリ3世を殺害した犯人か、アンリ4世の殺害を企てた犯人か、
あるいは本当にアンリ4世を殺害した犯人か(アンリ4世って嫌われてたんですね)。

いずれにしてもフランスで5件、スペインで2件、
イギリスでも2件しか行われていない刑罰です。

フランスで最後に行われたダミアンの処刑では、あまりの残酷さに
処刑人のガブリエル・サンソン(有名な処刑人の家系)は
このあと引退してしまったといいますから、行う側の負担も大きく、
よほどのことがないとこんなことをできなかったのでしょう。

ダミアンの処刑を最後にこの処刑法はその残虐性から廃止になりました。
かわって

「最も科学的で苦痛のない方法」

と開発者のギヨタンがいうところのギロチンが主流となるのです。
映画「グリーンマイル」を見るまでもなく、大抵の処刑法が
実は受刑者に苦痛を与えるらしいことがわかっていますが、
一瞬で命を絶つこの方法は生きている者の感覚から
「残酷である」とされ、廃止になっています。

この絵のような八つ裂きの刑は究極の「苦痛を伴う死」であり、
その苦痛はすなわち王の死を企てたことに対する報復とされます。
しかし、死刑は報復ではないというのが基本精神となっている現行の死刑は
それにもかかわらず受刑者に結構な苦しみを与えているわけです。




ボストン美術館所蔵の有名作品のうちの一つ。
エドガー・ドガの

14歳の小さな踊り子

オリジナルはワックスに彫刻されたもので、鋳造されたものも
オリジナルのようなチュチュを着用しています。

 

ドガはバレリーナを多く描いたことで有名ですが、当時のバレリーナは
オペラ座では「小さなネズミ」と呼ばれていました。
芸術家として扱われる今日と違い、当時のパリではバレリーナは
貧しいが美しい女性がパトロンを見つけるための「水商売」で、
バレエを観る男たちは「品定め」に来ていたようなものだったそうです。

この踊り子はわずか14歳でそういう道に入らねばならなかったわけで、
幼くして身売りされた昔の芸者のような境遇だったと言えます。

バレリーナやバレエを描いた画家はドガが最初だったそうですが、
それというのも彼女らの地位の低さにあったといわれています。

もっとも同時代のロートレックは酒場や妾館の女を描いています。
この時代からそういうリアリズムが彼ら写実派によって
「芸術」ともなる傾向が生まれたのかもしれません。



モネ作「睡蓮」。

モネの「睡蓮」は全部で200作以上あるそうです。(大量生産?)
この睡蓮は彼のジヴェルニーの自宅庭にある池のもので、
彼が1890年にジヴェルニーに家を購入し、3年後に池を造り、
それから彼の作品には睡蓮をテーマとしたものが増えます。

「日本の橋」が描かれている作品もありますが、これも実際に
モネが造らせたものでした。

日本の美術に当時の多くのフランス人芸術家と同じく傾倒していた
モネは、同時に日本びいきで、日本からの来客はいつも歓迎したそうです。



オーギュスト・ルノワール作

ブーシヴァルのダンス

ルノワールは同じ構図で「都会のダンス」「田舎のダンス」そしてこの作品という
「ダンス三部作」を描いていますが、「都会」とこの「ブーシヴァル」でモデルになった
シュザンヌ・ヴァラドンは、ドガの「踊り子」たちのような育ちでした。

シュザンヌ自身が私生児で、13歳からあらゆることをして金を稼ぎ、
15歳で画家たちのモデルになっていましたが、これも踊り子たちのように
同時に、多くの画家たちと「恋愛関係に」ありました。

これが描かれた当時、彼女は17歳でしたが、ルノワールと関係があったと言われます。
シュザンヌ自身、モデルを務めるうちに絵を描くようになり、
そのデッサン力にはルノワールも驚いたといわれていますが、
彼女が父親を明かさぬまま生んだ息子は長じて画家になりました。

モーリス・ユトリロ。
父親がルノアールである可能性は非常に高いと言われています。



窓から差し込む光と人物の背中、そしてドアに映る光の照り返しが
何とも魅力的な作品。


今年の訪問で眼についた作品を何点か紹介しましたが、
だいたい美術館で写真が自由に撮れるというのもじつにおおらかというか
太っ腹な展示だなといつも思います。

日本だと、たいしたことのない作品でも撮影はまかりならず、
それはたぶん版権とか著作権とかそういうことなんでしょうけど、
美術作品は現物を観ることに意義があるのであって、
いくら写真が出回っても本物の価値を損なうことにはならない、
そういう観点からおそらくボストン美術館もルーブル美術館も、
つまり世界の殆どの美術館は写真を撮ってもいいことになっているのでしょう。


膨大な作品群をいつも入れ替えて展示しているボストン美術館は
何回行っても決して同じ展示ではありません。
来年はどんな作品が見られるのでしょうか。

 








 

サンノゼ・ジャパンタウン〜「1942年2月19日」

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アメリカ在住の友人と会うことになったとき、
わたしは滞在前に読者の方との間で話題になっていた
日系アメリカ人の資料館を一緒に見学したいと思い、
検索したところ、サンフランシスコとサンノゼにある
日系アメリカ人記念ミュージアムがあるのを知りました。

友人はサンノゼの妹さんの家に泊まっているということだったので、
サンノゼで待ち合わせることにしました。

HPで調べたところ、ここにあるミュージアムはまだ出来たばかり。
資料も大変豊富で展示も凝っているらしく、期待が持てます。

取りあえずこの前で待ち合わせた我々ですが、開口一番

「お腹すいたから先に何か食べようか」
「わたしもお腹空いた。朝ご飯食べてなくて」
「わたしも〜!」

と意見の一致を見たので、レストランに入ることにしました。

 

ここはサンノゼ・ジャパンタウンとして昔から
日系人が住んできた地域です。
とはいえ、中華街と違って街が清潔でオープンな空気。
最初にアメリカに移民してきた「イッセイ」からの街ですから、
100年くらいの歴史があると思うのですが、街並には
排他的なものは一切感じられません。



車を停めた向かいにあった「スシマル」に行くことにしました。



なんと、小規模な回転寿し。
とはいえ、中には板前が3人いて、日本にある回転寿しよりも
「ちゃんとしている」感じ。
ボストンのヒスパニック回転寿しなどとは全く次元の違うスシ屋です。
おそらく随分昔からここには日系人のために寿司屋があったのでしょう。



流れて来るお寿司をみても、マトモなものばかり。
リッツカールトンのバッフェの不揃いなスシとは大違いです。

中にいる板前さんは完璧に日本人で(おそらく日本から来ている)
わたしたちが日本語で話をしていると、こちらに向かって

「お好みのものがあれば握りますので言って下さい」

と声をかけてくれました。
おお、これこそが日本の寿司屋らしいやりとり。



とりあえず流れてきたイカを取ってみました。
身に包丁が入り、シソの緑が透けて見える新鮮なイカ。
ヒスパニック板前にはおそらく思いつきもしない仕様です。

因みに冷凍イカの見分け方は「切り目の有る無し」ですよ皆さん。



太巻きも、リッツのと違ってノリの端がガタガタではありません。
てかこっちが普通なんですけどね日本では。
しかし、アメリカ人のいい加減なスシを見てきた目には
このきっちりとしたスシのシェイプはもはや芸術に見えます。

しかもこの極限にまで具を詰めた巻き方の美しいこと。
タマゴが大きく、味のバランスも最高でした。



この近くには「サンノゼ豆腐」という有名なお豆腐屋さんがあり、
友人の妹さんもそこでいつも豆腐を買うのだそうですが、
友人曰くここのもそれを使っているのではないかとのこと。

アメリカは豆腐がどこでも買えるのですが、なぜか微妙に美味しくないので
(たぶんニガリの量とかの配分のせいだと思う)
殆ど食べることはありません。

ここなら、と頼んでみた冷や奴。
鰹節、小口切りのネギ、針のように細く切ったノリ。
このようなものと共に供された豆腐は、木綿風でしたが
柔らかくしかも味わいがあって日本で食べる豆腐よりも
もしかしたら美味しいのではないかと思われました。



次の休みのとき、息子をこのスシ屋に連れて行ってやろうと思い、
またサンノゼに来てみたのですが、日曜休業でした。
そもそも、この商店街の飲食店は殆どが休んでいました。

案外知られていないことですが、日曜の午前中、
アメリカ人は教会に行く人が多いため、たとえばボストンなどでも
お昼くらいまでモールですらオープンしていないところがあります。

ここでも飲食店は物販店と共に休むのだろうと思われます。




このブディスト・テンプルには周りにたくさんの車が停まっていて
日曜の礼拝が日系人の間では昔と変わりなく行われているらしいことが
わかりました。

日本ではそのような習慣はキリスト教の信者以外にはないので、
やはりアメリカにおいては日系人の生活はアメリカ風になるのだなと
思った次第です。



唯一?開いていたお店はラーメン屋でした。
息子はラーメンが好きなので全く異議はありません。

お店の前に人がたむろしていますが、これは
外で順番を待っているのです。
もしかしたら「行列のできるラーメン屋」?

じゃなくて他の店がやってないので皆がここに来るんですね。


ここにいる人たちは全員英語をしゃべり、見かけも
どちらかというと東南アジア系の雰囲気でしたが、
どうもこれがサンノゼの日系人の若者である模様。

陽射しが強いところで生まれ育つと、日本人も
こんな風になるんだなあと思いました。



息子は醤油ラーメン、わたしは何となく中華冷麺を頼んでみました。
特に美味しいとかなんとかではなく、全く「日本の味」でした。

神田の古本屋街にひっそりとあって、中国人のバイトが配達している、
そんな店と全く同じ味です。



そしてこの厨房の汚さも全く日本風。
新宿の学生街にありそうなラーメン屋のそれです。
店内に入ったとたん妙な匂いが鼻を突くところも同じ。
お金を払ったその手でドンブリを持ったりチャーシューを触るのも同じ。
おそらく夜中にはゴキブリが運動会しているのも同じでしょう。

ただ、化粧室だけはとても清潔でした。
日本人のかかわるところのトイレは、どこも掃除が行き届き、
街中のスターバックスなどよりずっときれいにしています。

これも国民性かなあと思ってみたり。



さて、友人との一日の話に戻ります。
ごはんを食べ終わり、いざミュージアムに!と思ったところ、
建物に鍵がかけられ、なんとオープンは「木金土日のみ」
であることが判明しました。

「なーんだ」

そこでサンノゼの街を見学することにしました。



サンフランシスコ滞在中、ここに科学博物館があったので、
何度かきたことはあります。

これはサンノゼ大学。
友人の妹夫婦がここで働いているそうです。
彼女の旦那さんは白人でここの数学の教授をしています。



いいカフェはないかと入ってみたサンノゼ美術館。
カフェは建物の割にたいしたことがなかったのでやめて、
美術館を観ることにしました。

この建物も、昔の建物に新しくビルをくっつけて建てる、という
ボストン美術館と同じ工法で建てられているらしく。
今ここに映っている壁はかつて外壁だったところのようです。



で、わたしたち見学中。

後ろのクジャクの羽のついた帚のようなものは、
風の当たり方で姿を変えるというオブジェ。

友人は、ここだけの話ですが絵本作家です。
日本でも彼女の作品は何点か輸入されていて読むことができます。
つまり、アーティストです。
ついでに彼女の夫もアーティストで有名なゲームのキャラデザインをしています。

そのアーティストの彼女がただいま鑑賞中。

「うーん・・・」

彼女、何を言うのか。

「なんかこういうのって、自己満足だよね」

ですよねー。



この作品のタイトルは「空港のショップ」。

「アイデアだけでここまでやっちゃうという・・・」
「これを芸術というなら森羅万象全てのものは芸術だよね」



「何か意味があるんだろうけど。持ってるナイフで髪を切るつもりとか」
「意味を付けてそれを表現みたいなのが現代美術なんだとする風潮って、
意味が無ければじゃーただのがらくた?みたいなのって多いよね」
「これを観て感動する人がいるのかという・・」
「自己満足だよね」



「なんでこれがアートなの?」
「ミニチュアの写真を撮っただけの芸術・・」
「こんなのにお金払ってるんだこの美術館」
「ボストン美術館にもこの手のアートもどきはあったけど、
あそこは何と言ってもコレクションが他にあるからねえ」
「ここはこれだけ・・」
「ここは、だめだね」

彼女が貶すのでわたしも安心して一緒に貶しまくり。



美術館に見学にきた子供たちの作品。
一枚ずつ観ながら

「こちらの方がずっとアートしている気がする」(笑)



子供たちが絵を描くためのテーブル。

「これも作品かと思った」(笑)

というわけで、散々楽しんで美術館を出ました。
(楽しんだのか?)



サンノゼのダウンタウンは荒んだ感じがして、あまり雰囲気が良くなく、
わたしたちはもう一度ジャパンタウンまで帰ってきてお茶を飲むことにしました。
ここは街の中心にあるカフェ。
普通のカフェでしたが、むかし日系人の「ロイ」さんがここで
ガソリンスタンドを経営していた跡地だそうです。
ロイさんが引退したので名前をそのままにカフェにした模様。



街を歩いていて、鋭く「土産物屋」を見つけたわたしたち、
ここに突撃してみることにしました。
ちなみに隣のジャパニーズレストランは中国人の経営で、
スシマルが大賑わいに対しガラガラ。
店の外に立っただけでフィリピン人の店員が飛び出してきて
店に呼び込もうとしていました。

アメリカ人ならこの店でも入るのかもしれませんが・・。



土産物屋は二階にあり、また例の饐えたような匂いが鼻を突きます。
空調もなく人気も無かったのですが、わたしたちが店にいると
店主が出てきてクーラーを入れ、音楽をかけました。

「こういうところって一日どれくらい売り上げがあるんだろうね」

ひそひそ言い合うわたしたち。
しかし、店主には日本語はさっぱり分からないようでした。
日系人というのは案外日本語を全く理解しないようです。

そう言えば「カラテ・キッド」のパット・モリタ氏と話したとき

「わたしは日本語が全く話せないのです」

となまった英語でおっしゃっていたのを思い出しました。



こ、これは・・・。

アルミのお弁当箱です。
中にはおかず用の仕切りケースがありました。

「一体いつからあるんだろう、これ」
「昭和30年ってとこじゃないですか」
「うちにこんなのあったなあ」



「何してるのこの箸置きの二人は」
「おふねーはぎっちらこ、ぎっちらぎっちら♪ってやつじゃない?」
「キッチュだね〜」



「だ、誰が買うのかこのこけしを」
「47ドル出してこれ買う人いるのかな」
「いないからまだあるんじゃない?」
「にしても高い」
「まあ、メイドインジャパンの手作りですから」



ポケモンやその他日本のアニメが積み重ねられた上には、
これも誰が買うのか「子供の遊び」のフィギュア。
コマ回し、羽根つき、凧揚げ、竹馬・・。

「いまや日本人の子供も知らない遊びだよね」

日本でなら懐古ブームで売れそうです。

ここで散々楽しんでちょっとしたカードなどを買い、
出てきた二人の感想。

「サンノゼ美術館よりずっと面白かった!」



ロイの店の斜め向かいに、日本人街のモニュメントがありました。
このカーブを描く柱が何を意味するのかまではわかりませんでしたが、
その柱の中央付近に、



こう書かれているのに気づきました。

「1942年2月というと、開戦後日系人が収容所に送られることが決まった日かな」

調べてみると、この日はルーズベルト大統領が

「陸軍に危険人物を強制的に立ち退きさせることができる権限を与える」

大統領令第9066号に署名した日でした。
3月から強制立ち退きが始まり、最終的に12万人の日系アメリカ人が
強制収容所に送られることになります。



それらの歴史についてはミュージアムの見学記のエントリにゆずるとして。

わたしたちはそこで別れ、わたしはスタンフォードに戻りました。
途中にあるサンノゼの空港は「ミネタ・エアポート」といいます。

「ノーマン・Y・ミネタ」は日系人して初めてアメリカで閣僚となった
ノーマン・ヨシオ・ミネタ(元サンノゼ市長・下院議員・商務長官・運輸長官)。

現在サンノゼ市は、空港のマーケティングのため、名称に
「シリコンバレー」
を入れることを検討しているそうですが、ミネタの名前は残し、

「サンノゼ・シリコンバレー・ミネタ国際空港」

となるようです。

 

パシフィックコースト航空博物館〜MADE IN JAPANのRF-86Fセイバー

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     The Pacific Coast Air Museum


今時の航空博物館はどこも大変充実したHPを持っていて、
展示航空機についての詳細もこれを見れば一目瞭然。

なのですが、やはりここパシフィックコースト航空博物館のように
動的展示可能な機体が多く、しかもしょっちゅうメンテナンスをし、
企業のスポンサーを集めて来れるようなある意味「実力のある」
ミュージアムは、その所有並びに展示機もしょっちゅう変わります。

先日問題になったA6の件も、つまりはあの機体が来たばかりで
まだ情報の書き換えがされていないために起こった当方の勘違いでした。

HPの機体情報には

「展示航空機の何か新しい情報が入れば随時更新します」

と書いてあり、正しい情報を常に発信しようという姿勢は窺えるものの、
やはり追いつかないことも多いのかと思われます。

冒頭のYouTubeは、HPの紹介ビデオを誰かが上げてくれていたので
拝借してみました。
おじさんたちがしゃべっている合間に館内の映像が入りますので
アメリカの航空博物館の雰囲気を味わいたい方はどうぞ。



NORTH AMERICAN SABRE JET

F−86は1940年代の後半に開発されたアメリカ初の後退翼機です。

ノースアメリカン社は、1944年の初頭、日本海軍に対抗するための艦載機を
海軍に提案(というか売り込み)していたのですが、それを受けてノ社は
後のFJ−1フューリー(怒り)である試作機を開発します。

こちらは皆さんもご存知のように直線翼の飛行機ですが、
この開発の最中降伏したドイツの占領地で、アメリカ軍は大量の
後退翼についての研究資料を手に入れます。
その資料から、ノ社は開発中の戦闘機に後退翼を導入することを決め、
陸軍にその許可を得て後退翼戦闘機を受注することに成功します。

(海軍はそのままだったのでそれがFJ−1になるわけですね)

そうこうしているうちに戦争は終わり、アメリカ陸軍航空軍は
陸軍から独立してアメリカ空軍となったため、
それに伴い航空機の名称も変わって来ることになります。

それまで戦闘機はPursuit(追撃)の”P”がつく番号が割り振られましたが、
Fighter(戦闘機)の”F” がつくようになったのはこのときからです。



この機体はCalifornia Air National Guard、即ち
米軍の空軍民兵であるカリフォルニア州陸軍修州兵のユニットである州軍の
所属であったことがわかります。

州兵は日本の予備自衛官と同じような位置づけで、任務は、
アメリカ国内における災害救援、暴動鎮圧などの治安維持のほか、
アメリカ軍の予備部隊としての機能を果たすことです。

州兵は、大統領命令において戦闘任務を含む各種任務を担当します。
このセイバーを使っての戦闘任務もまた当然行われていたということです。



塗装は青の部分だけが残り、あとは剥落してしまっています。
つなぎ目にシルバーのダクト用テープが貼られているのが
なんだかしみじみとした風情を感じさせますね。



ご存知のようにセイバーのエアインテークはノズルインテーク。
覗いてみるとまさにその部分はインテークそのものです。
当たり前か。

セイバーが活躍したのは朝鮮戦争です。
当時金日成が率いた北朝鮮空軍には空軍力はなく、

F-51D
F4U コルセア

なども投入されていたといいます。
F−51もコルセアも第二次世界大戦の航空機です。
ところが中国人民解放軍の後退翼機MiGが登場し出すと、
直線翼の航空機では対抗できないと判断したアメリカ軍は、
ここに同じ後退翼を持つF−86が投入されることになり、
ここに史上初の後退翼同士の戦闘機対決が幕を切って落とされます。

基本性能ではMiGが一枚上手だったといわれていますが、
根性、ではなくパイロットの技量ではセイバーが勝ることもあり、
加えてレーダー照準器などの性能が優れていたため、
キルレシオ(撃墜対被撃墜比率。
空中戦を行った際に、彼我に発生した損害比率を示す)では10、
具体的には78機損失に対して800機以上を撃墜するという結果を上げました。



NORTHAMERICAN RF-86F SABRE

F-86でWikipediaを検索するとこれと同じ機体が掲載されています。
ここにある機体ナンバー24913が空を飛んでいるところなのですが、
これはおそらくワインカントリーエアショーでの一こまでしょう。

それにしてもいつも思うのですが、こういうエアショーで
引退したウォー・バードを操縦し、実際に飛ばすパイロットというのは
一体どのような資格で、しかもトレーニングもままならない機体の
操縦を行うのでしょうか。




さて、このセイバーは、南カリフォルニアにあるチャイナレイクの
装備倉庫からここサンタローザにやってきました。
当ミュージアムが引き取ることになるまで、
ミサイルのターゲットドローンとして使用されることが決まっていたそうです。

R(reconnaissance)と頭につくこの偵察用のセイバーですが、

「工場ではなくエアフィールドで開発された」

といわれています。
朝鮮戦争で偵察機はその速度の遅さからMiG15の危険にさらされるようになり
その役目を果たすために偵察に飛ぶことすら不安な状態でした。
金浦に基地のあった第15戦術偵察隊にとってそれは死活問題でしたが、
誰も他人事として注意を払ってくれません。

そこで第15偵察隊は同じ航空基地にあった第4戦闘機隊の司令官を説得し、
基地内にスクラップとして廃棄所に放置してあったF−86の胴体を
自分たちの「遊び」のために使わせてもらう許可を取りました。

まず本体についていたいくつかのガンを取り外し、
カメラを設置する場所をいくつか発見します。
そののち、当時日本にあった極東航空本部の司令に
F−86Aにカメラをインストールすることを納得させ、
偵察仕様のRF−88Aは(なんと)

立川基地で初飛行を行ったのでした。

このHPの説明も、また英語でのRF−88のWikipediaにも
このときに「日本で作られた」ということにしか言及していませんが、
日本のwikiによるとこの計画は

「ヘイメーカー計画」(oparation haymaker)

つまり米俗語で 「強力なグーパン計画」という名称のもと、

1953年当時、アメリカ軍立川基地兵站部に勤務する日本人技師チームに、
F-86Fをベースとした写真偵察機の製作の設計を命じたもの

であったことが書かれています。
ところがHPにも 

It was done at Tachikawa in Japan and
the first RF-86A’s flew in the winter of 1951.

と書かれてはいるのに、それが日本人技師による設計・施行であった
とは全く書かれていないのです。

確かにそれを思いついたのは偵察隊のメンバーかもしれませんが、
これだけの仕事をさせておいて、全く日本人の手によるもの、
ということに触れないのはアメリカさんもなんだか大人げなくない? 



試験成功した偵察機セイバーはF−86戦闘機の中に一機だけ、
つまり混成編隊で飛び、司令が何より欲していた敵基地内の
捕虜収容施設の写真を撮って来ることに成功し、味方を喜ばせました。

この結果、偵察仕様のセイバー、F−86Aが6機追加制作され、
これまでのF−80と併用で偵察任務に投入されることになります。 

 


この「ほっぺたの膨らみ」を、アメリカのサイトでは
「チップスマンクビューグル」(リスの膨らんだほっぺた)と呼びます。
朝鮮戦争に投入された少なくとも最初の3ヶ月間のRF−88Aにはこれはありません。
より精密な写真を要する偵察に投入するため、ここには
40インチのスプリット・ヴァーティカル・カメラが搭載されました。

いつからこの「りすのほっぺた」が投入されたのかは、実は
あまり明らかにされていないのだそうです。
少なくとも小牧基地から朝鮮半島に機体が運ばれた1954年、
このバージョンはまだ導入されていなかったという証言もありますが、
つまりこれはまだ当事者が語ることをしないため明らかになっていません。

国家安全保障局(NSA)によって情報がクリアになるまで
軍人は公に任務、特に偵察任務について語ることを自重するものなのか・・。




ここにある24913について、博物館のスタッフは空軍の
個体認識情報を所持しているそうですが、少なくともそれによると
この機体は朝鮮戦争では全く使われた形跡はなく、
偵察機に改装された時期も明らかではないそうです。

しかし、確かなことはこのRF−86Fは

日本国航空自衛隊が

配備していたことで、その証拠は米軍のペイントの下に
明らかな空自時代のペイントが光の加減で確認できることです。
(上の写真でそれが分かる方がおられませんでしょうか。
わたしにはわかりませんでしたが)

航空自衛隊には主力戦闘機としてF−86F、Dを合わせて557機、
そのうち18機がこの偵察機として配備されています。

空自ではこの機体に「旭光」と正式名称をつけ、
また東京オリンピックではプルーインパルスの初代機体として
開会式の五輪を空に描いたことで有名になりました。
現場での愛称は「ハチロク」。

このセイバーは朝鮮戦争という舞台に置いても殆ど
未知の飛行機とされてきました。
唯一つの偵察飛行隊、第15飛行隊によって飛ばされましたが、
それも運用の実態は秘匿され、マーキングも戦闘機のセイバーと
全く同じようになされ、第4戦闘機隊と行動を共にしていたそうです。

偵察機ということで慎重を期したのだと思いますが、
だからこそ日本の技術者に搭載を任せたのでしょうか。

いずれにしても、偵察機セイバーは全部日本で作られていました。
つまりここにあるのは「メイドインジャパン」なのです。




 

 

 

ゴールデンゲートブリッジの鳥たち

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西海岸から帰ってきて1ヶ月になります。
最近ではようやく涼しく快適な気候になってきましたが、
帰国当初は毎年、どうにも湿気で体となにより気力に精彩を欠いてしまい、
そして実は未だにそれを引きずっています。

体はそうですが、帰ってからあまりにいろんな行事があったので、
1ヶ月前とは思えないくらい昔のことのような気がします。

今日は、サンフランシスコ滞在中何度か訪れたゴールデンゲートブリッジの
下にある自然公園、クリッシーフィールドの、主に鳥たちの写真をどうぞ。



ゴールデンゲートブリッジとアルカトラズを臨む
サンフランシスコ湾。
このクリッシーフィールドには、毎日たくさんの観光客が訪れますが、
殆どがアメリカ人ばかりです。



彼らは大抵こうやって自転車を借りて、この一帯を
サイクリングして楽しみます。
日本人がこのような観光をしているのは見たことがありません。

フィッシャーマンズワーフもいいですが、サンフランシスコに来たら
必ずここには一度は来てみてほしいと思う公園です。

ただしこのサイクリングロードは砂地のため、自転車のタイヤが滑って
よく転んでいる人を見ますので、注意して下さい。

このときも、小学生の男の子が急に自転車を止めたので、
後ろを走っていた人がブレーキを踏んだとたん派手に転んでいました。
男の子の父親が慌てて「大丈夫ですか」と近寄ったのですが、
転んだ女性は返事もせず不愉快そうにそこを走り去りました。

気持ちは分かりますが、休暇中なのだからもう少し心を広くね。
しょせん子供の失敗なのですから・・。



この辺にいる鳥はわりと種類が限られていて、冒頭写真とこの
スズメの大きさの鳥はおなじみです。

この鳥は、かねがねこの、



テリムクドリモドキ(ブリュワーズ・ブラックバード)のメスではないか、
と思っていたのですが、今回見つけたアメリカの鳥類検索サイトで
それが正しいことが証明されました。

いつも一緒にいるのでそう思ったのですが、やはりそうだったようです。
にしてもメスオスで人相が違いすぎないかい?



と思ったら初めて見る鳥もいました。
どうもブラックバードの羽の色だけが違う鳥のようです。



ブラックバードの群れといつも一緒にいるので多分同種かと。



乳幼児にしてはあまりにもしっかりした顔つきの子供。
親は玩具を与えて砂場に放置していますが、
見ていない間にどうも砂をせっせと舐めている模様。



車いすの人が乗るバンの駐車優先区画。



犬の散歩業者です。
契約した家を回り、犬をバンで一台に数匹ずつ乗せて
こういうところに連れてきて、全部多いときには7本くらいの
リーシュを持って散歩させています。

自分が散歩に連れて行けない人がこんなにいるとは(笑)

アメリカではこの散歩業者はとても流行っているようです。
大きいのも小さいのも、全部を一度に引っ張って歩くため、
犬に取っては決して楽しい散歩をしているように見えませんが。

尚、こういう業者は人目があるため、決して犬の落とし物を
そのまま放置して逃げるようなことはしません。

日本だと、朝早く人目がないとよく逃亡してるみたいですけど。
本当に多いんですよね。
片付けるのは人目があるからで、誰もいなければ放置、という人。

ということでわたしは愛犬家を基本性悪説で見ています。



右の女性と真ん中の男性は先がスプーンのようになった
『犬のためのボール投げ器」
を持っています。

おそらく、女性が投げたボールを、男性の犬が拾ってしまったのでしょう。
笑いながらボールを持ち主に返しています。



基本的に犬は水に入るのが大好きです。
ここは河から海に流れ込んでいる水ですが、浅いので
犬たちはここを喜んで渡って楽しんでいます。



なんとこの女性は5匹もの犬連れ。
業者だったら必ずつないだまま連れて歩くので(逃げたら大変だから)
おそらくそうではないとは思うのですが、それにしても5匹・・。
しかも皆懐いている様子ですね。



前にも一度お見せしたお気に入りの犬の写真。
こんな一カットにも各々の犬の性格が現れているように見えます。



超拡大。



わたしはこの茶色くんみたいな子、好きだなー。



シロツメクサに似た花をつけるこの辺りの野草。
日本では見られない植物ばかりです。



シギのような鳥が一本脚で建っているのを発見。



すぐ近くにこの辺りに生息する鳥の紹介がありました。
マーブルド・ゴッドウィット、日本名は

アメリカオオソリハシシギ

だそうです。
シリコンバレーの鳥のエントリで別のソリハシシギを紹介しましたが、
このシギはカナダなどで繁殖し、カリフォルニアで越冬するそうです。

この写真を撮ったのは8月ですが、越冬に来て住み着いてしまったのでしょうか。

それにしてもこの"Godwit"=神の知恵、ってすごい名前ですね。



この反り返った嘴を「神の知恵」と呼ぶほど、
命名者が感心していたのでしょうか。

ところでこのシギは嘴の反り返り方が逆のような気が・・・。




先ほどの鳥がブラックバード一家であることを疑わせる?写真。



向こう側のブラックバードの顔が狂気じみてて怖い(笑)



これがブラックバードの雌。(確認用)



この一帯は昔複葉機全盛の頃の飛行場で、その後陸軍が駐留していました。
付近の建物は、殆どが当時のハンガーをそのまま利用しています。

スクールバスからお揃いの青いTシャツを着て降りてきた
小学生の一団は、おそらくサマーキャンプの生徒たちで、
これから自転車を借りてここを走るのだと思われます。

左のハンガーは見てすぐわかるように、レンタサイクル。



前にも一度挙げた写真ですが、陸軍航空隊がいた頃のものです。
おそらく写っている二人が必要以上にイケメンだったことから
選ばれた写真ではないかと言う気がしますが、この写真は巨大なもので、
ハンガーの軒にずいぶん昔からこうやって飾られています。

下にあるボロボロの看板はおそらく昔からのもので、

「FIELD MAINTENANCE

WHEELED AND TRACKED BRANCH」

ここが飛行機や車両のメンテナンス部であったことがわかります。



傾斜が実におさまりのよさそうなカモメ専用杭。





ブリッジの下に近づいてきました。
このお子様はいっちょまえにサングラスをしています。



ここはブリッジのビューポイントで、皆ここで写真を撮ります。



観光バスは上がオープンになっているものが主流。
夏場雨が降ることは決してないので、屋根は要りません。

バスはこのままブリッジを渡り、対岸のビューポイントまで行って、
橋を歩きたい人は歩くというコースです。
わたしは一度だけ話の種に歩きましたが、寒いし風は強いし
何処まで行っても同じような景色だったので一度で懲りました。



風が強く流れが速いので、ここではヨットのワールドカップが行われます。
これは個人所有のリゾート用ヨットだと思われます。



実に安定感と存在感のある神々しいお姿(笑)



こちらで釣りをしている人が桟橋の二人を眺めていますが、
この二人は前にも一度紹介したことがあるカップルで、



アフリカ系の彼氏がブイの上でこうやってポーズを取って、
いつまでも

「俺、決まったぜ!」

みたいな感じで陶酔しているのを、白人のガールフレンドが
彼のバスケットボールを持ってやりながらいつまでも眺めている、
という具合。

どんなポーズを決めていたかというと、たとえば



こんな感じ。
なんでしょうか。
腕の筋肉などを見ても彼がかなり鍛えていることはわかりますが、
スポーツのイメトレとかではなく、見ていると(見てたんです)
一つのポーズを決めたらずっと姿勢のまま・・。

● 単なるナルシスト
● 役者志望でオーディションに向けて役作り中
● 彼女にイケてる俺様アピール

さて、どれでしょう。



カモメはだいたい人を全く怖がりません。
のみならず、何か美味しいものがかすめ取れそうな場所には
こうやってしっかりとスタンバイしてチャンスを待ちます。



この中学生のキャンプは、何の実験なのか、
アイスクリームのバーみたいなものを銀の絶縁テープでまとめて、
それをたくさんベンチの上に並べていたのですが、それに
カモメさん興味津々で首を伸ばしながら近づいて行きます。



ついには我慢できなくてベンチに乗ってみましたが、
ご覧の通りのものしかありません。

これを見ていた中学生たちが皆完璧にスルーしていたのが
アメリカだなーという光景でした。



こちらカップルでお昼寝中。



絵になるツーショット(笑)



この海でこんな無謀なスポーツをしている人を初めて見ました。
これはカイトサーフィンといい、凧の推進力で滑走するものですが、
この人を遠目に見てもお分かりのように、ウェットスーツに専用の
ハーネスを装着するので、ライフベストはつけていません。

マイナーな競技ですが、どんなマイナーなスポーツでも必ず日本には
競技者がいるもので(笑)、なんとプロ協会があるのだとか。

こんな冷たく流れの速い、しかも常に強風の湾をたった一人で
セイリングしているからには、この人もプロに違いありません。



向こうに見えているのはエクスプロラトリウム。
例のオッペンハイマー基金で作られた科学博物館です。


三方が海に面している街、サンフランシスコ。
この北岸は、埠頭やこのような海岸沿いの公園によって
海はとても「開かれたもの」となっています。

夏でも決して海水浴が出来ないからこそ、この海岸は
必要以上の資本の流入が防がれ、自然と人間とが
程よく付き合うことの出来る一帯となっているのです。

「バードサンクチュアリ」ならずとも、鳥たちが保護されて
幸せに生息する権利を保障されている街でもあります。


呉地方総監部訪問記〜第一庁舎

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ブログを開設してからもう少しで4年半が経ちます。

わたしが海軍に興味を持ち出したのとこの年月はほぼイコールですが、
いつの間にか海軍というより自衛隊と国防問題が主なテーマとなっている
当ブログでございます。


今過去のエントリを調べたところ、最初に自衛隊について言及しているのは
開設して半年後の秋。
陸上自衛隊主催による観閲式についてでした。
単にYouTubeの動画を見て、菅総理をおちょくっただけのエントリでしたが、
このエントリ作成のときには、実際にこういった行事を見に行くことなど、
まるで遠い世界のできごとのように思っていました。

ところがいつの間にか、自衛隊の中の方やら賛助団体やら、
芋づる式にご縁が(あまり適切な表現ではないかもしれませんが)でき、
自主的に参加するのは勿論、ときおりはご招待で行事に参加することが
増えて来たきたここに至って、主に「対自衛隊」としての正式な身分、
つまり「役職」=「肩書き」が向こうから歩いてやってきたのです。


社会人となっても自由業で組織に属したことがなく、
学校の委員以外は「役」というものに無縁であったこの人生において、
まさか自分が「自費製作でない名刺」を持つことになろうとは
夢にも思っておりませんでした。

そのタイトルとは、

「地球防衛協会日本支部顧問」(仮称)


地球防衛協会とは、地球の防衛意識の普及を図るとともに、
自衛隊の健全な育成発展に協力することを目的とする団体で、
その事業内容は

1 防衛に関する意識を高揚する事業
 (講演会、映画会、音楽会、見学、機関紙、パンフレットの発行等)  
2 自衛隊の諸行事等に対する協力  
3 隊員に対する激励、慰問ならびに除隊者の就職援護 
4 自衛隊関係団体の行事等に対する協力  
5 地球防衛協力連合会の事業に協力  
6 その他、目的にふさわしい事業


となっています。
とにかく、わたしはこのタイトルと名刺・・・はまだ出来ていないので、

「名刺を切らしておりまして」

という堂々たる言い訳を引っさげて、地方総監部に乗り込んだのでした。
その目的は・・・・、

「地方総監を表敬訪問」(T_T)v

これも4年半の読者の皆さまの御指導ご鞭撻の賜物です。
というのも、当ブログをやっていなければ、
この流れはまずありえなかったからです。

このブログを通じて学んだこと、教えて頂いたこと、
その興味に導かれるうちに、向こうからやってきた色んな偶然とご縁が、
いつの間にかわたしをこのような場所に連れてきてくれました。




面会当日、朝6時台の新幹線に乗って広島へ。
約束の20分前に呉に到着という、実にスリリングなスケジュールです。
海将との面会時間は、わずか30分と決められていますから、
万が一どこかで事故があったら、もう一巻の終わり。

しかし、この日は何事もなく、優秀なJRの鉄道は時間通りに
わたしたちを呉に運んでくれました。



何度も来ている呉駅ですが、いつもと違った眺め。
どうも改装工事中のようです。

駅構内に海曹が何人かいたので、後ろ姿を写真に撮りました。
戦前も戦後も、この駅にはいつも「海軍さん」の制服姿があります。



駅構内を走り抜けながら、色々と突っ込みどころが多い光景に
なぜかシャッターを切ってしまいました。

◎はっぴを着、うちわを腹に差したた仮面ライダー的な人形。
(このライダー、ブーメラン戦隊ジミンガーの参考にしたやつだ)

◎巨大なくまモン。ここは広島です。



駅前からタクシーに乗って、呉地方総監部に向かいます。

「関係者以外立ち入り禁止」

と書かれた立て札がありました。
非常に風情のある、古いレンガの門柱のようなものが見えるので、
もしかしたら昔は海軍関係の建物があって、現在もこの奥には
自衛隊の官舎があったりするのではないかと思われました。
車止めは左だけが稼働可能です。



などと相変わらずどうでもいいことを観察しながら、正門前に到着。
海上自衛隊呉地方総監部の金文字も重厚な門、
どうやら最近塗り替えたりしましたか?



映画などでおなじみの赤煉瓦の建物が奥に見えています。
エントランスの両側にある街灯は、実に趣のあるアンティーク。

車が止まったときから、左の、自衛隊にはどこにも同じようにある
警備隊の詰め所に立っていた海自迷彩の隊員は、こちらに注目しています。

朝霞駐屯地のように、受付で名前を書いて札を貰うのかと思ったら、
すでにそこにはわれわれの名前は告知されており、

「お待ちしておりました。どうぞ」

とだけ言われて、わたしたちは奥に向かって歩き出しました。



当時からあるらしいよどんだ色の池があります。
大きさといい形といい、なんだか意味不明な池です。



途中にあった駐車場。



ノーズに桜のマークを付けた公用車もスタンバイ中。

ー後で自分自身がこれに乗ることになるとは、
このときのわたしには知る由もなかったのであるー(ト書き)

それにしても、こちらもそれなりに古そうな建物ですね。



しかし、こちらの風格に敵うものではありません。
この建築物は何と1890年(明治23年)、海軍が呉鎮守府を
ここに置くことが決まった年に起工式を行い、
17年後の1907年(明治40年)に竣工しました。

地下1階、地上2階建て、延べ1,990?。
レンガと御影石で造られたレンガ構造物です。

外壁はイギリス積みと呼ばれるレンガの積み方で造られ、
2階には柱頭に桜を彫刻した石柱が両側に見えます。



海軍を描いた映画には時々出て来る建物で、
近いところでは

「聯合艦隊司令長官山本五十六〜-太平洋戦争70年目の真実-」

(長すぎるんだよこのタイトル)のロケがここで行われました。
その際、エキストラには海自隊員が出演したのだそうです。

http://www.mod.go.jp/msdf/kure/info/facilities/img/isoroku3_L.jpg

陸軍の兵が銃を構えるシーンが撮影されたため、やはり一般人よりも
そういう扱いに慣れている隊員が、駆り出されたということみたいです。

ところでたった今知ったのですが、海外の映画祭で上映されたとき、
この映画のタイトルは

”ISOROKU”

だったんですって。
・・・まあ長過ぎる日本のタイトルよりはましかもしれませんが。 



同じ建物ですからなんら変わるところはないのですが、
一つだけ大きく違う部分があります。



そう、ファサードに取り付けられた海上自衛隊のマークですね。
昔は菊の御紋章も海軍の徴も付けられていませんでしたが、
戦後になって初めて「桜に錨」が掲げられたのです。

 

しかし、この平成12年の写真を見たところ、この時点でも
ファサードには何もありません。
どうやらここ最近、このマークはここに付けられたようです。


ところでなぜかネットで調べても全く出て来ないのですが、
実はこの庁舎、一度「焼失」した、とここの説明には書いてあるのです。 

昭和20(1945)年7月 米軍機 呉を空襲 
  庁舎焼失 ドーム破壊 

このようにはっきりと。

アメリカ軍は戦後の占領を視野に入れて、こういった歴史的な
洋風の建物は一切爆撃しなかった、という通説があります。

現にそのおかげで、この呉鎮守府の管轄下であった江田島の
海軍兵学校の校舎は、全くダメージを受けずに残りました。
てっきりこの庁舎もそういう配慮があったから、現在に至るまで
その姿を留めているのだ、とわたしもまた思い込んでいたのですが、
どうやらそれは違ったようなのです。



呉地方総監部が開庁したのは、サンフランシスコ講和条約で
日本が独立した昭和27年の2年後です。

大戦末期、米軍が瀬戸内海などに投下した機雷を除去する掃海作業が
敗戦後からずっと、掃海部隊等によって続けられていたので、
呉の「海軍」は常に機能し続けていたことになります。

しかしその間、この焼失&破壊された鎮守府庁舎はそのままだったようです。
改修工事が完了したのはなんと戦後54年経った

平成11(1999)年11月

でした。

ちなみにわたし以外には何の意味もない話ですが、
わたしが息子を出産したのと全く同時期のことです。 
何となく縁があるように思えて、ちょっと嬉しかったりします。


もしかしたらそれまでは、さきほどの建物が呉地方総監部庁舎として
使われていたのかもしれないのですが、
何処を探してもわかりませんでした。





さて、わたしたちが建物に向かって歩き出したとき、
霧雨が降っていたのでわたしは傘を差していました。
入り口に近づくと、なんと警備から連絡が行ったらしく、
本日のエスコートをしてくれる2佐はじめ、警備の海曹たちが
整列注目しているではありませんか。

「なんだかおおごとになってるんですけど」
「・・・・傘、他になかったの」
「まずいすか」
「色がね・・」

天気予報を見て、朝適当に軽そうなのをバッグに入れた結果、
よりによって間に合わせで買った派手なピンクの傘。
傘の色くらいどうでもいいだろーと思われるかもしれませんが、
制服の自衛官たちが直立不動でこちらを見ているこの状況では、
ちょっとというかかなり恥ずかしかったです。




そう思いながらも入り口の脇にこんなものを見つけ
つい指が動いて写真を撮ってしまうエリス中尉。

ええい、自衛官の皆さんが整列してこちらを見ていると言うておろうが。

えー、これは旧海軍の砲には違いありませんが、
説明がないので何か分かりませんでした。

後ろには夜間のライトアップのためのライトが見えます。
本年4月から、ライトアップは夜10時まで毎日行われているそうです。



「どうも本日はわざわざありがとうございました」
「遠いところをよくおいで下さいました」

ご挨拶の後、2階の応接室に案内されました。
部屋に通されてびっくり。

廊下に沿って横に長く、ドアが二つあり、低い一人用ソファが
コーヒーテーブルを挟んで2列に並べられている配置。

この春、護衛艦「ふゆづき」の引渡式に出席したときに通された、
三井造船の貴賓室に瓜二つの部屋だったからです。


三井造船の迎賓館が建てられたのがおそらく1917年。
ほぼ同時期の西欧風建築においては、配置やインテリアにも
一定の法則があったものと思われました。


そしてわたしたちはあらためて2佐と海曹長に挨拶し、名刺交換の儀式を。

「名刺ができあがるのが間に合いませんでしたので・・」

名刺を頂く度、律儀に同じことを繰り返します。

そしてあらためて部屋を見回すと、そこには・・・、




聯合艦隊が開戦前の最後の打ち合わせを行った後の、
有名な記念写真が額に入れられて飾ってありました。

ここに写っているのは、有名な軍人だけでも

山本五十六
南雲忠一(山本の二人隣)
塚原二四造(南雲の右隣)
井上成美(前列右端)

草鹿隆之介(二列目左から3人目)
宇垣纏(その一人置いて隣)
大西瀧治郎(その右隣)

黒島亀人(3列目右から4番目、顔半分)

などなど。

このうち南雲忠一は、呉鎮守府の長官として、
この建物で執務にあたっていたことがありました。

また、呉鎮守府の長官として

中牟田倉之助、加藤友三郎、伊地知季珍、
鈴木貫太郎、野村吉三郎、山梨勝之進、
嶋田繁太郎、豊田副武

などの歴史に残る海軍軍人がその職を務めています。

ということはこれらの人物が生きて歩き、座り、日本の
戦況について語ったのであろう全く同じ空間に(改装したとはいえ)
今、わたしは時空を超えて存在しているということなのです。


夏前に陸上自衛隊の駐屯地を訪問しましたが、そこは全く
「戦後自衛隊」そのものでした。
敷地内の記念館や当時の池など、旧陸軍のゆかりも勿論あるのですが、
それはあくまでも史跡として残されているのみ。

江田島の幹部学校も、この後訪れた呉音楽隊も、ここ地方総監部も、
(横須賀の米海軍もそうですが)旧海軍の建物をそのまま維持し、
しかも現在も機能し続けているのです。

この歴史的な建物で行われた、わたしにとって初めての正式な表敬訪問は、
海上自衛隊がまさに「海軍の末裔」であることをあらためて思わせました。



続く。



 

呉地方総監部訪問記〜「縁は異なもの」

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呉地方総監の歴史的な建築物、第一庁舎は、
毎週日曜日には一般公開されているそうです。
艦艇見学と共にぜひお奨めしたい観光コースですが、
建物の中も見学できるのか?というと、どうもそうではないようです。

ネットに挙がっている写真やいくつかのブログも確認しましたが、
どのツァーも、正面玄関からの写真が精々でした。
どうも、建物の周囲をぐるりとまわって説明を聞くだけみたいですね。
 


ということで、あまりネットでは見ることが出来ない冒頭の光景。
正面のエントランスを入ると、立派な石の階段があるのですが、
それを上って行くと踊り場から階段は左右に分かれます。
その踊り場に大きく切られているのが、この美しい窓です。




海軍兵学校もそうですが、ここも海に面した方を「正門」として造られています。
つまりこちらは海軍的には「裏側」ということになるんですね。

この日は外側を見ることは出来ませんでしたが、
一般見学では「正門側」に回ってそこから庁舎を見るのだそうです。


窓から見えるのは、呉鎮守府の正面側だった方向。
遠くには赤と白の目障りな鉄塔もあるにはありますが、
優雅なバルコニー風の手すり越しに見えるのは、
いまだに目にも鮮やかな緑の木々ばかりです。

呉鎮守府の主たちは、応接間の奥、二階の端にある
司令長官室に向かうために、そして一日の執務を終えたのち、
この窓からの景色を必ず目にしながら階段を昇り降りしました。





さて、海軍5分前どころか海軍15分前に現地に到着してしまったので、
海将とのアポイントの時間まで、お相手?を2佐が務めてくれました。


2佐も、一緒に接待下さった海曹長も掃海艇出身です。
ここ呉は、戦後、海軍が解体した後も掃海艇を瀬戸内海に派遣し、
掃海隊群の直轄艦艇である掃海母艦の「ぶんご」も呉基地所属。
だから掃海艇出身隊員が多いのでしょうか。

今回呉基地への訪問について、窓口となって下さった2佐ですが、
わたしが存じ上げている元海将が掃海隊群司令だったとき、
その隷下におられたことがあるそうです。


前にも言ったように、狭い世界にわたしが首を突っ込んでいるだけなのか、
という説もありますが、

「知り合いの元海自将官に教えていただいた曲の作詞者が、
わたしが仕事でかかわった会社の創業メンバーで、元海軍軍人だった」

という、単に狭い世間というだけでは説明のつかない偶然を体験した以上、
やはり「縁(えにし)」というものはあるのだと思わずにはいられません。



のみならず、最近では当ブログをきっかけに、本来なら一生お会いする
可能性もなかった方々と、ある意味家族より「濃い」交流をしつつも
お互いを見たことがない、という不思議な人間関係ができました。

「海のさきもり」の作詞者との縁のように、海軍と海自、
そしてわたし自身を結ぶ因縁は、実際の人間関係と、インターネットでの
相手の顔を知らないままに始まる関係が複雑に絡み合い、
ある日突然こんな形で明らかにされあっと驚くこともしばしばです。

「縁は異なもの」とはまさにこういうことをいうのでしょう。



応接室の中の写真を、会談の前に撮らせて頂きました。
ずらっとならんだ盾の数々。
比較的新しいものが多いような気がします。



右側はうわじま型掃海艇「まきしま」の除籍記念。
言っては何ですが、少し製作に手抜きが感じられます。
「まきしま」は2014年、今年の4月に除籍になったばかり。


左側は2012年に竣工したやはり掃海艇「えのしま」。



横須賀港の「えのしま」です。
わたしも「軍港廻り」でここにいた「えのしま」を撮ったことがありますが、
ここが定位置なのかもしれません。



左から、わたしがこの3月引渡式に出席した「ふゆづき」、
2011年に就航した「いせ」、潜水艦「けんりゅう」。

「けんりゅう」のマークは、「剣と龍」でそのままです。
シンボルが絵にし易い艦名です。

後ろは左から、

「あけぼの」(2002年就役)


「あさかぜ」(2008年退役)


一番右は艦名が見えませんが、

「ICEBREAKER」

とありますから、砕氷船「しらせ」の就役記念か、あるいは
一代目「しらせ」の退役記念だと思われます。




国際軍交流の徴に他国軍から贈られたものもあります。

左前からアラブ首長国連邦海軍、後ろ左はよく分からないのですが、
先代の呉地方総監M海将への贈呈であることから、
米海軍からの呉地方隊への親善のためであるかと。

その右側の鳥居に潜水艦隊章は、第7艦隊潜水隊からやはり
前任者のM海将に贈られたもの。
その右、「70」が見えるのも第7艦隊の戦闘隊、とあります。

まえの右側は敷設艦「むろと」の就役記念。
敷設艦というのは機雷を敷設する「機雷敷設艦」と、
通信ケーブルを敷設する「電纜(でんらん)敷設艦」がありますが、
「むろと」はこの「電纜敷設艦」で、2012年に二代目が就役したばかりです。

ケーブル敷設装置や海洋調査に関わる各種水中機器を装備しており、
できるだけ船価を押さえるため、かなりの部分が商船構造となっています。



手前「はるゆき」。
「むろと」は向こうにちらっとみえています。

というか、Wikipedia「むろと」のページの写真がこれしかないって・・。



部屋の突き当たりにもコンソールがあり、色々と飾られています。




まず、両側のミサイル発射写真は、どちらも「いせ」からのもので、
右は短SAM装置SQT、左は垂直発射式アスロック。

VLAというのはVLS、垂直発射「システム」が「アスロック」
となったという違いがありますが、簡単に言って、甲板に設置された
チョコレートバーのようなセルから発射されるのがアスロック、
VLSの方は、たいてい非常に高いところに発射口があって実際には
セルを全く目にすることが出来ません。

護衛艦「さみだれ」の見学でも「あそこから発射されます」
と指を指されて「は?あの塀の上ですか?」という感じでした。


そして、画面左の方にある金色の星マーク。
これは、人民解放軍の青年将校が研修団を派遣してきた、
ということがあったようですね。


元陸幕長や元海幕長の話などを聞いても思うのですが、
自衛隊はトップレベルで頻繁に中国人民解放軍と交流があるようですし、
このように研修団も受け入れているようです。
ただ海自の研修団が人民解放軍に派遣された、という話はあまり聴かないので、
もしかしたらこちらが受け入れているだけかなという気もしますが、
とにかく、どんな形であっても軍同士の顔通しを良くしておくことは、
「相手に隙を見せない」ということ以上に「いざ」という事態を
未然に防ぐための有効な手段なのかもしれません。



さて、わたしたちが窓を背に向けて二人並んで座っていると、
2佐と海曹長につづいて、幕僚長が入室してきました。

たかが「なんちゃって地球防衛軍顧問」の表敬訪問に、
海上自衛隊というところは幕僚長まで投入してくるのかと驚くわたし。


しかも、2佐と

「いや〜ご縁ってありますね!」

などと人の縁の結ぶ偶然について感嘆し合った直後に現れた
この幕僚長との間にも、ちょっとした奇縁があったのです。

なんと、この幕僚長は当ブログ読者の知恵蔵さん(仮名)の同期なのです。

前もってそのことは伺っていたわたしですが、
まさか幕僚長が本当に出て来ると思わなかったため、
そう言う意味で二重に驚かされたのでした。

「あの、つかぬことをうかがいますが」

「今名刺制作中」といいながらのご挨拶をすませるなり、
わたしは幕僚長にさっそく切り出しました。

「片岡さん(仮名)という方と同期でいらしたとか」
「片岡というと・・・・片岡千恵蔵(仮名)ですか」
「はい。実はまだわたしもお会いしたことはないのですが」
「・・・はっ?」
「何といいますか・・・・ネット上でお付き合いを頂いておりまして」
「はあ・・・ネット上の・・・」

幕僚長、あまりそういう世界にはなじみがないと見えて
何となく腑に落ちないご様子。

うちの息子など、顔も見たこともないオンラインゲーム上の知り合い、
しかも10歳は年上の地球の裏側の国の人間を「俺の友達」と言い切り、
家族構成から家庭教師の曜日まで知ってたりしましたが(笑)
この世代は「顔を知らない友達」ができるソーシャルネットワーク上の
人間関係というものに対し、たとえそういう付き合いがあると知っていても
イマイチ信頼感を持てない、という人が多いのかもしれないと思いました。


まあ初対面の人間の口から思わぬ知り合いの名前を出されれば
幕僚長ならずとも思考停止になったとしても無理からぬことかもしれません。


こちらにしても、横にTOが控えているため、
「ブログの読者」という説明が全くできないことにそのとき気づき、
さて、このあと話をどう持って行くべきかと考えを廻らせたとたん、
応接室のドアが開きました。
管理部長の1佐を伴って入ってきたのは、9月に着任したばかりの新地方総監です。

「どうも初めまして。ようこそおいで下さいました!」



あれ・・・?
この方・・・・・・・どこかでお見かけしたぞ。
・・・どこかで・・・。




このときかっ・・・・!



またしても偶然の結ぶ縁に軽く驚いたわたしでした。



続く。









ジャパニーズ・アメリカン〜「イッセイ」の入植とその生活

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アメリカは移民の国です。

当たり前のことなのですが、国家は他民族の集団で成り立っています。
我々日本人はアメリカ人といわれて金髪だったり赤毛だったり、
要するにああいう「白人」を思い浮かべるわけですが、白人といっても
金髪はドイツ系かもしれないし、赤毛はアイリッシュのことが多いし、
イタリア系は黒い髪が多いといった具合に、民族は様々です。

アングロサクソンが国の中心だったことから、アメリカも区分的には
「アングロサクソンの国」という位置づけですが、だからといって
アングロサクソンネームが大多数かというとそんなことはない。

独立当時は、確かに60%がアングロサクソンでしたが、いまや
その割合はアメリカ全体の11%に過ぎず、
なんと今一番多い人種はドイツ系だといわれています。
そして現在進行形でヒスパニックと中国系が急増しています。


というわけで、ここでは何系であっても国民としての権利が保障され、
社会はダイバーシティを謳っているわけです。(建前上は) 



その特性の上に生活の活路を見出す移民の子孫はたくさんいます。
たとえばこの、わたしが住んでいる頃から贔屓にしていた
フランス人の経営するベーカリーカフェ。

フランス本場のパンを売り物にしているので、自らを

『ブーランジェリ』

と称して、アメリカ人にとても人気があります。
初代の女主人はどうもこの10年の間に亡くなってしまったようですが、
その亭主(カウンターの中)がフランスなまりの達者な英語で

「クイニーアマンが今焼けたけど、試してみないかい?」

などとセールストークをしてきます。




昔はこの隣の小さなスペースで営業していたのですが、
人気が出たので隣のレストラン跡を買い、
4年くらい前に移転して、さらにご繁盛の様子です。



メニューはフランス語表記で書かれ、壁には
ロートレックのポスターなどを貼って雰囲気もたっぷり。

外の狭い歩道に無理矢理いくつかテーブルを置いて、
おそらくフランス人は国を思い出すに違いありません。



オープンサンドイッチに付け合わせは
グリーンサラダかクスクスか選べます。
この欠けたお皿といい、ドンブリで飲むカフェオレといい、
細かいところまでフランス風(笑)


アメリカ社会の中のフランス人、というのは、
フランス人ではないので実のところは分かりませんが、
非アングロサクソン国のわりには優遇されてきたのではないか、
と思うことがあります。

戦時中はドイツに占領され、つまり敵の敵は味方で、
料理やファッション、芸術の分野で新興国のアメリカの
コンプレックスみたいなのを微妙にくすぐる立ち位置だし。



立ち位置といえば、日系アメリカ人というのが、今アメリカの中で
どんな立ち位置にいるのかが、日本人としては気になります。

そして、彼ら日系人は我々が思うほど日本に帰属意識がない、
という話も聞いたことがありますが、どうなのでしょうか。

たとえば韓国系米人が、米人政治家を抱き込んで慰安婦像を建てたとき、
彼らは我々日本人のように憤りを感じたのか、それとも
今はアメリカ人でありルーツがそこであるというだけの彼らは、
単に「別の国」が非難されているに過ぎないと感じているのか。


それを少しでも想像するには、彼らの過去から知らねばならないでしょう。
というわけで、わたしは一度行ったら閉まっていて見られなかった
サンノゼの日系アメリカ人博物館を訪ねてみました。



サンノゼに向かう道の途中で楽しそうなお店ハケーン。
どうもミリタリーコスチュームのお店、
アメリカの「中田商店」であるようです。



右から水兵帽の海軍さん、トップガン、
ファイアファイターの防火ジャケットもあるぞ。



ずらりと迷彩服。
右から2番目はもしかして、スカート?
「POLICE」のキャップと共にあるのは、SWAT
(Special Weapons And Tactics)つまり火器戦術部隊の制服。

アメリカにもこういうのを買って趣味で着る人がいるんだなあ。
冷やかしで入ってみたいけどこれは勇気がいる・・。 




閑話休題、約15分でサンノゼに到着。
この間来たばかりなので高速も降り口を間違えずに到着しました(T_T)

受付で記名を求められるのですが、それを見ていた女性が
綺麗な日本語で

「日本から来られたのですか」

と訊ねました。
そうだ、というと、彼女は

「それは嬉しいです」

といい、解説が要るかどうかとまた訊ねてきました。
解説員として呼ばれたのは、その受付ホールに座っていた若い男性で、
どうやらボランティアであろうと思われました。

眼鏡をかけてヌーボーとした、秋葉原にたくさんいそうなタイプ。

わたしはすっかりバイリンガルだと思い込み、
まず日本語で話しかけてみたのですが、やはりというか
かれは三世で、日本語は全く理解できないようでした。

というわけで、日本人に見える説明係と、日本人の見学者は
どちらもなまった英語で会話しながら
(彼の英語もパットモリタ氏のようにアクセントがあった)
日系人についての資料を見て歩くことになったのでした。



日系アメリカ人の最初の入植は、1880年(明治13年)に始まりました。
展示はまずこの頃の日本人が渡航の際荷物を入れた行李から始まります。



彼らは横浜と神戸から出航し、シアトル、サンフランシスコ、LAに着きます。
当時、明治維新の土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかり、
アメリカに職を求めて渡った日本人たちでした。



最初に書かれたmiyagawa という表記は

「これでは荷物が紛失するから大文字で大きく書け!」

とでも言われたのでしょうか、わざわざ消して書き直しています。
多分小文字でも大丈夫だったと言う気がしますが。




出航前にまず神戸の港町にある、客船の客専門の旅館に泊まったようです。
旅館でありながら、外国汽船貨物取り扱い所を兼ねていたようですね。
電話は元町六六六番、などと言う表記も見えます。



このころアメリカに渡った「イッセイ」たち。
彼女たちは、渡米後すぐに着物で写真を撮り、
現地で洋服を調達してから皆でもう一度同じ配置で
「使用前使用後」の写真を撮りました。

真面目な顔をして写っていますが、若い女性達らしくこの後は
きゃっきゃうふふと写真を見て盛り上がったのに違いありません。



日本から持って行った着物と、それを収納した洋風のタンス。



「沖田兄弟商会」と漢字で書かれた店の名前。
3人兄弟はここでファニッシング、すなわち家具などをセットする
インテリア関係の会社を持ったようです。
窓際にはたくさん皮のトランクが見えていますね。



タイプライターはこちらで購入したものらしい。
当時の高額商品(でも必要)ではなかったでしょうか。



アメリカにもあった紀伊国屋商店。
全員ぱりっとしたコートやスーツに身を固め、
ハットに口髭とダンディです。
後ろに「マーケット」とありますが、関東にあるあの「紀伊国屋」と
同じ店でしょうか。



勿論歯医者さんもおります。
歯科助手の仕事は患部を電球で照らすこと。



博物館に歯科医師から寄贈された治療台。



グロサリー。
ひびの入ったガラスをテープで止めているのが慎ましやか。



自家用車を持つほど経済的に成功する一世も現れてきます。
新車が来たので、娘たちと記念写真。
娘3人はガールスカウトのいでたちです。

車のノーズにはちゃんとアメリカ国旗が飾ってあることに注意。



日系移民は日本で農民だったため農業に就く者が多かったという話ですが
彼はその収穫を馬車に乗せて搬送しています。

この博物館には、日系一世たちが農作業や運搬に使った道具も
納屋のようなところに展示してありました。



移民の中心になったのが若い男性たちです。
彼らは家族でアメリカに渡り、「兄弟会社」を作りました。
トラックに積んであるのは小麦粉でしょうか。
会社の名前は「オクダ・ブラザーズ」です。



日本から持って来られなかったものでも、現地で作ってしまいます。
餅つき用の杵とうす、和太鼓は・・・ちょっと日本のと作り方が違うかな。



今いるジャパンタウンの古い地図、
解説員の手があるところから下には中華系がいたそうですが、
中華系は日系が住み着くと同時にいなくなってしまったとか。



移民の中には職人もいますから、こういうものも作ってしまいます。
ザルと風呂桶。 



ホーロー引きの台所用具。



日系社会のスポーツ事情に関する写真のコーナーです。
まげを結った相撲取りですが、褌の下に下着をつけています。
米国では褌一丁でスポーツをするのは憚られたということなのでしょうか。



合気道教室。



サンノゼにあったバスケットボールチーム。



サンノゼには「アサヒ」という本格的な野球チームがありました。
日系社会にはいくつか野球チームがあって、リーグを構成していたのです。

「アサヒ」はそのリーグで何度も優勝した強豪で、何度も日本ツァーを行い、
1925年には明治大学野球部に勝ったこともありますし、
なんと1935年には東京ジャイアンツに3対2で勝ったこともありました。




1936年、最強だった頃のアサヒナイン。
ジョージ・イチシタ、ハリー・ヨシオカ、ジャック・オータ・フジノ・・。

顔もファミリーネームも日本人ですが、全員がアメリカ風の名前です。

彼らはすでに二世世代で、殆どがバイリンガルであったと思われます。



子供も野球をして遊びました。
本当に日本人は今も昔も野球が好きな民族ですね。

 
本格的なユニフォームを着ていますから、
リトルリーグのようなものもあったのではないでしょうか。


アメリカの地で亡くなり、アメリカの土に還る一世も出てきました。



日系アメリカ人の葬儀における記念写真。
正面の建物は寺らしく、花輪の影に石灯籠が見えます。
中央に置かれた棺の上にはたくさんの花が置かれ、欧米風。



池上サダメという名前から、亡くなったのは入植した一世でしょうか。
周りを取り囲む日系米人たちは、棺の正面にいる僧侶以外全員洋装です。

二階に入り口のある不思議な造りの建物ですが、二階はお寺、
一階は寺付属の小学校であるらしいことが看板から分かります。



日系人の宗教生活。
仏教だけでなく様々な宗派の教会が生まれ、
コミュニティごとに彼らは精神的なよりどころをそこに求めて集いました。



日系人の作った金光教教会。


決してアメリカ人から歓迎される存在ではなかった日系人たちは、
コミュニティを作ってそこで生活して行くしかなかったのですが、
勤勉で才覚のある一世たちはおもに農業などで成功し、
全体的に生活レベルが低く蔑まれていた中国系より豊かな生活をしていました。

しかし、そのことがアメリカ人たちの反感と恐れを生むことにもなります。
当時日本は中国に兵を進め、そのことがアメリカ社会には大いなる脅威として
取りざたされ、ついには「黄禍論」なる言葉も生まれました。

真珠湾攻撃は彼ら日系人を迫害するきっかけに過ぎなかったのです。



ジャパンタウンの再開発のときに土中から発見された、
和食器のかけらを含む土隗。

こんなに古くからここには日系が住んでいたということの名残りです。



1977年の再開発の際、1931年当時の街並の記録を残そうと、
このような地図が書かれました。
当時は半分がチャイナタウンだったため、中華系の人々が建てた建物もあります。



漢字で説明がありますが、鮮明でないのでよくわかりません。
「教会」「行列」という字が読み取れます。 



ボンネットに乗って兄弟二人の記念写真。
お揃いのセーターを着ています。



おそらく、農場で働く青年でしょう。
彼がまたがっているのはバイクです。
バイクというより電動アシスト自転車に見えますが。

アメリカでは外国人土地法というのがあり、国民ではないとされた
日系人は土地の取得を制限されていましたが、
彼らは規制をかいくぐりながら農園、牧場、苗木のための土地を
何とかして手に入れ、そこで懸命に働いて財を成したのです。



お寺に併設されていた二世のための日本語学校。



印刷屋兼時計製造。
従業員一同の記念写真でしょうか。





子供たち。

下の写真はオーチャードスクールの小学生。
この学校は元々アメリカ人のための学校でしたが、この近辺の
農場の子供たちは日系人であってもここに通っていました。

一つのクラスに色んな人種がいるのはそのためです。





ブラスバンドも盛んだったようです。
下は1934年に撮られた「ブディスト・チャーチ・バンド」のメンバー。
彼らの持っている旗らしきものに、卍の模様が見えます。





「黄禍論」は、最初中華系が対象だったのですが、日系人が成功し、
裕福な層が現れて来ると、次第にその矛先はそちらに向かいました。

取りあえず中華系より脅威であったということなのでしょう。
折しも大陸での緊張状態があり、「信用できない人種」であると
アメリカ人たちは反感を強め、日本からのスパイのように見なしたのです。

連邦政府はそのころ、日系移民一世と二世について

「開戦の際危険であるか否か」

の報告書をまとめましたが、その結果は意外なことに

「日系移民は他のどの団体と比べても、特に危険度は高くはない」

というものであったそうです。
ほどんとの一世は、合衆国に少なくとも消極的ながらも忠実で、
二世は、アメリカ市民としての強い自覚を持っている、
というのがその報告書の内容でした。

しかし、実際に1941年12月7日がやってきた後、
そう言った報告があったにもかかわらず、日系人たちは
アメリカから手酷い迫害を受けることになります。




続く。

三井造船資料館〜「おおすみ」事故対応の「ワンボイス」

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サンフランシスコのジェレマイアオブライエン、パシフィックコースト博物館、
サンノゼの日系人記念館、呉地方隊訪問記、
全てのプロジェクトが現在進行中であるわけですが(笑)
「ふゆづき」自営艦旗授与式の日に見学した、三井造船の資料館に戻ります。



ここ三井造船資料室には、写真とパンフレットなどの資料、そして、
さすがは造船会社、博物館レベルのハイクォリティな模型が飾られています。
造船会社ですから設計起工の段階でこのような模型を普通に制作するのです。
つまりこれは最初から展示用だったわけではなく、「実用」なのですね。

冒頭写真とこれは

「ましゅう」JS Masyu, AOE-425。




平成12年度の中期防衛力整備計画に基づいて建造され、
2004年から就役している定繋港舞鶴の補給艦です。

「ましゅう」は就役直後の2004年、さらに2006年、2008年、2009年と
4回にわたってテロ対策防止措置法における補給任務のためインド洋に派遣されています。
一度派遣に出た自衛艦は、3〜5ヶ月間の任務を終えてから帰国します。



「ましゅう」は、第二代目の砕氷船「しらせ」が2011年、砕氷作業中座礁して
動けなくなったとき「おおすみ」とともに緊急出動することが検討されましたが、
19日後に「しらせ」が自力で氷を割って脱出することができたため、
行かなくてすみました。(笑)

しかし、砕氷船すら座礁して動けなくなるような海域に、「ましゅう」のような
普通仕様の補給艦を行かせて何かあったらどうするつもりだったのか、
この決定がよほど切羽詰まったものだったとはいえ、不思議でなりません。



さて、その「南極に行かなくてもすんだ」もうひとつの

補給艦「おおすみ」LSTー4001

「おおすみ」といえば、まず2013年の11月に起きた衝突事故を思い出します。

実は、先日呉地方総監部を訪ね総監とお話をしたとき、
この事件の話が出たのですよ。
まあ、出たっていうか、わたしが振ったんですけどね(笑)

まずは、「なだしお」事件の際の報道のされ方、そして
海幕長が「にやにやしているように見える顔をしていて」それが
顰蹙だとまたマスコミが騒ぎ立てた事件(何だっけ)などを他山の石とせず、
海将が広報担当だったときに対マスコミにおいて心がけたのは

「常にワンボイス」

ということだったそうです。
自衛隊としての意見は必ずアウトレットを一つに絞り、
あちらこちらから声が出て来ることのないように、いわば
「情報統制」し、その上で総意を表明するようにしたのだそうです。
そのときの薫陶が「おおすみ」の際も生かされていたということでしょうか。

「あれは見事でしたね」

事故後対応についての評価をお聞きしたところ、
にやりと笑って海将はきっぱりといいました。

「すぐに報道が止んだでしょう」


確かに。


当初マスコミは「おおすみ」の巨体にはまず不可能なドリフト航跡まで偽造して(笑)
何とか自衛隊を悪者に仕立て上げようとしていましたが、
ある時期から海将のおっしゃるように、ピタリと報道を止めました。 


報道が無くなったということは、どうやらプレジャーボートのミスで
「おおすみ」には過失はないらしい、と我々は理解しましたが、
それもこうして聴くと、どうやら自衛隊側の「作戦勝ち」の面があったようです。

もしこの海将の「ワンボイス主義」が今回の報道対応に生かされたのなら、
報道対処の作戦において自衛隊は経験値をあげたことになります。

それにしても、相変わらず学習していなかったのがマスコミです。

航跡から漁船がおおすみに近づいていったらしいことが明らかになるや、
亡くなった船長が救命胴衣を全員に付けさせていなかったことも触れず、
船長の内縁の妻をカメラの前で号泣させて、

「あの人はそんな人じゃない」

のお情けちょうだい作戦まで発動しましたからね。
(しかし、内縁の妻という立場と、本人がなんというか、
余りにも怪しい雰囲気だったせいか、作戦は全く功を奏しませんでした)

マスコミにすれば、あることないこと叩いて世間を追従させ、
「なだしお」事件のバッシングよもう一度、というところでしょうが、
インターネットの普及と、何よりもマスコミ自身に対する不信のせいで、
いくら恣意的な報道で世論誘導をしようとしても、たとえば今回もそうですが、
国民が全面的な「自衛隊推定有罪」のムードになってしまうような、
そんな時代はもう終わってしまったのですよ。

マスコミ人諸氏はそろそろ現実を知って、
事実をそのまま伝える報道にシフト
するべきではないでしょうかね。

朝日新聞の件もあることですしね。(嫌味です)


 


「おおすみ」はまた、当ブログで「戦艦伊勢の物語」という項にも書いた
フィリピン湾の台風被害に、急遽予定されていた訓練を中止して参加しています。
この訓練は沖縄での離島防衛訓練でしたが、
「おおすみ」が拠点となる予定であったため、その欠落を埋めることができず、
訓練そのものを中止することになりました。

防衛訓練より人命救助。

いかにも日本国の軍隊である自衛隊らしい決定です。
ちなみにこの救助作戦はフィリピン語の「友情」という意味である

オペレーション・サンカイ(サンカイ作戦)

と名付けられました。
我々があの東日本大震災後、米海軍第7艦隊の

オペレーション・トモダチ 

にどれほど感激し、日本国自衛隊もまた、いついかなる時でも
災害に打ちのめされた国に対しそのような存在であろうとしているかが、
その受け継がれた意思とともに、この言葉に表されています。


ところで、わたしはこの「サンカイ作戦」という言葉、
報道ではなく後からWikipediaを見て初めて知ったのですが、どうして
報道はこういう活動について相応の報道をしないのでしょうか。

プレジャーボートとの事故のせめて10分の1くらい熱意をもって
国民に希望を与えるような自衛隊の活動についての報道もしていただきたい、
と思うのですが、マスコミ的には何か不都合でもあるんでしょうかね。
(勿論嫌味です)
 





シュモクザメのようなこの物体、

自立航行型海中ロボット「AQUA EXPRORER 2000」

といい、海底敷設ケーブルの調査、各種観測 ・ 点検用に開発された
水深 2 000 m まで潜航可能な自律型ロボットです。
 
三井造船の水中機器開発は40 年前には始まっています。
1970 年代は海洋石油 生産に関連する重作業機能を有するものから、
テレビカメラによる観察用小型機械、1990 年代には自律型水中ロボット、
また最近では水上無人機の開発も手がけています。 

無人機の発展が何よりも役に立った場面と云うと、
やはり2011年のあの東日本大震災における原発事故でしょう。

福島第一原発において、航空無人機が上空から撮影した 原発建屋の写真や、
遠隔操作式陸上ロボットが撮影した建屋 内のビデオカメラ映像。

無人機は人が近 付くことができない危険な場所に行き、
観測データの収集や 大型のものであれば重作業をすることもできます。

東日本大震災では、また水中・水上無人機が投入され、
例えば水中小型カメラロボットが、被災地支援として
津波後の三陸沖海底調査を行い、また無人機によって、
福島原発沖の海水の放射性物質のモニタリングが行われています。

他にも海底資源の宝庫といわれる我が国の海域を海底調査するため
海底探査機「かいこう」(1台目は海底で部品を喪失したため2代目)が
2015年から本格的に指導を始めることになっています。



海底探査船「ちきゅう」

防衛省でも民間企業でも海保でもない独立行政法人が運用しています。
正確には

独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)の一部門である
地球深部探査センター(CDEX)
 
で、一言で言うと先ほどの無人機にも関係あるのですが、

科学掘削船(深海掘削船)

です。
目標は人類未踏のマントルへの到達。
科学のロマンを感じるこの壮大なプロジェクト、何が目的かというと、

● 巨大地震、津波の発生メカニズムの解明

●地下に広がる生命圏の解明

●地球環境変動の解明

いずれも明日あさってどうにかなるという問題ではなさそうですが、
地震国で常に大地震災害と戦ってきた我々日本人であるからこそ、
このような一見明日役立つようなことでない壮大なプロジェクトに
邁進する意味があり、その動機もあるのです。

「ちきゅう」の掘削能力は現在でも世界一を誇り、
水深2,500mの深海域で、地底下7,500mまで掘削する能力を備えています。
世界最高の掘削能力であり、マントル物質や巨大地震発生域の試料を
採取することができる のです。

こんなところにも日本の「世界一」が・・・・。

製作は(ここにあるのですから勿論のこと)三井造船によるものです。



映画「海猿」第3作では、天然ガスプラント施設の大事故がテーマでしたが、
ついあれを思い出しました。

フジテレビが制作しただけあって、なぜかこのプラントは日本と韓国が
共同運用しているという設定になっていたと記憶します。

どうして日本の海域の天然ガスを韓国が一緒になって取っているのか。
普通に考えたらただでさえ島の領有でもめている国同士なのに、
どう考えてもありえませんし、今にして思えばもしあの映画のような大事故に
共同運用しているプラントが見舞われたとき、彼らがどのような行動をとり、
その結果日本人との間にどのような惨事が巻き起こるか・・・。

その実証となるようなフェリーの沈没事故が起こってしまった今、
考えただけでぞっとしますね。

さて、あのプラントは「レガリア」といいましたが、こちらは


ホテルバージ「ポリコンフィデンス」

です。
ホテルバージ?ポリコンフィデンス?

どっちの言葉も全くなんなのか理解の糸口にもならないのですが、
驚くなかれ、これ、1987年三井造船が建造したもので、
自動位置保持機能を備えた世界最大の半没水型双胴船型の

居住区プラットフォーム

なのです。
つまり海上ホテルですね。

モルジブで、海の上に一室ずつ高床式のように建つコテージに泊まりましたが、
夜は打ち寄せる波の音がうるさすぎて寝られなかったのを思い出しました。
波の音って、遠くで聞くからいいのであって、そのただ中にいると
こんなに騒々しいものかと驚愕したものです。
ここもかなりうるさいと思いますがどうなんでしょうか。

さて、このプラットフォーム、

ヨーロッパ風のホテル並みの設備と内装を有しており、
収容人員は800人となっている。

そんなホテル見たことも聞いたこともないぞ、って?
きっとセンチュリオンクラブに頼んでも無理でしょう。

なぜなら、これは確かにホテルとして稼働しているのだけど、
どこにあるかというと・・・・・ノルウェー。
んじゃノルウェーに旅行に行けば泊まれるのか?というとそれも駄目で、
何となればこのホテルは

ノルウェーで活動する掘削工たちの宿泊施設

なのですって。
そう思ってみると、ヘリポートがあり、ボートダビットらしきものがあり、
ホテルは全部で4棟建っているように見えます。
さすがにリゾートホテルになりようがないのは、四方が海でとてもではないけれど
風光明媚ではないことと、モルジブのホテルと違ってすぐに陸地に行けないので
自然災害に対して非常に不安だからでしょう。

玉野の造船技師がやっているブログにこのホテルについて唯一の記述があったのですが、
それによると

あらゆる面で当時の最新最高システムが装備されていた。
ホテル部分は、超一流5つ星並みのグレードであった。 

ということです。
海の上のリッツカールトン。
しかしそれでもやはり掘削の仕事に携わるから仕方なく?泊まるのであって、
いくら豪華でもここに客は呼べないと思いますね。

その方は造船技師としてこのバージ建造に携わったらしく、

 固定された掘削リグに橋を渡して乗り移るため、
ホテルバージは海上に浮かびながら固定されなければならない。
激しい潮流や強風の中でもバージを一定の位置に保持するために採用された
システムがDPS(ダイナミックポジショニングシステム)である。

とその工法についても触れておられます。 

うーん、三井造船、こんなものもつくっておったのか。
たしかに企業理念は

「社会に人に信頼されるものづくり企業でありつづけること」

だそうだけど。
造船会社だからといって船ばかり作っているというのでは、今の世の中
とてもやっていけないし、培われた技術を様々に転用するのは当然のこと。

というわけで、三井造船。

船舶関係だけでなく、プラントのエンジニアリングや
建設工事(石油精製、石油化学、無機化学)、廃棄物処理、水処理、
ガス処理関連、発電プラントなどにも事業を展開しています。


「海猿」の「レガリア」が三井造船の建造であっても全く驚きません。


 


 続く。

日系アメリカ人〜強制収容所と『ノーノー・ボーイ』

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1942年2月19日、それは真珠湾攻撃の報を受け、暗然として
我が身の行く末を案じていた日系人たちに取って悪夢の始まりとなりました。
フランク・デラノ・ルーズベルト大統領が、

「軍事活動に重要とみなされる地域からいかなる人物でも追放できる権限」

を軍に与える大統領発令9066号に署名したのです。



日系人の追放が始まりました。
前エントリ最後にも書いたように、政府の報告書では、日系人たちは

「開戦したとしても危険性はなく、とくに2世は合衆国への忠誠を誓っている」

とされていたはずなのですが・・。



これはアメリカ陸軍省と西海岸の政治家たちからの圧力があったためでした。
報告書にもあった日系人の忠誠心はここではなかったものにされ、
彼らは一様にその危険性だけを強調し、

「この地域からすべての日系人を排除することが軍事上必要である」

として、大統領発令の1ヶ月後には追放が始まりました。



今まで住んでいた土地を追われ、彼らは収容所に送り込まれました。
日本国籍のままの1世はもちろん、2世も、まだ子供である3世も、
日本人の血が流れる者は、アメリカ国民であろうがなかろうが、
全てがその対象となったのです。



まるで家畜のように貨物列車に乗せられ、彼らは収容所に収監されました。
アメリカ政府は「アメリカ国民」である日系人についても、
後ろめたさからか「非外国人」(NON-ALIEN)という言葉で欺瞞したのです。



" all persons of Japanese ancestry, both alien and no alien, will be evacurated"

 日本人を祖先に持つ、全ての者は、外国人、被外国人を問わず、
ここにはそのように書かれています。 



これを見ると、どうしてもドイツに置けるユダヤ人の強制収容所を思い出します。

最近は「ホロコーストはなかった」という説を信じる人たちもいて、
つまりナチスもユダヤ人を絶滅させようとしたのではなく、
アメリカにおける日系人のように、人種政策によって「追放」が
法律的に決まったため、一所に集めていたのだけど、衛生状態が悪くて
結果的に伝染病のため大量死させてしまった、というのがその弁明です。

つまり、迫害はしたが、絶滅計画はしたことがない、と。

ナチ「ガス室はなかった」

日系人の強制収容は戦後アメリカ政府によって謝罪と人権の復活があり、
今日そのことを問題視し騒ぐ日系人はいません。
なぜ同じような目的の収容所であったのに、片や大虐殺となり、
片や誰も死なない平和な監禁のように認識されているのか。

それはなんと言っても、それが敗戦国で行われたことか、
戦勝国でのできごとだったか、に尽きると思います。

わたしはガス室の有無についてはあまり関心がありませんが、
日系人たちとユダヤ人、どちらもが国家によって弾圧を受けていながら、
戦後それを行った政府への評価が全く逆のようになっているのには、
そこはかとない薄気味悪さのようなものを感じずにはいられません。

そして慰安婦問題や南京など、「無かったことをまるであったかのように」
国を挙げて非難するうちに、既成事実化しようとする動きが現実にある以上、
これもまた「勝者による情報コントロール」の一環だったのではないか、
ナチスが絶対悪だとする戦後の「常識」というのは、神の視点で見ると
決して公平ではないのではないだろうか、と今では疑っています。



彼らのまず収容されたのは「集合センター」と名付けられた、
バラックで出来た掘建て小屋です。
その後、人里離れた場所にある常設強制収容所に移されました。




緑が収容所、黄色は陸軍、オレンジは司法局の場所です。
収容所は全部で10カ所。
収容人数は12万人にも上りました。

わたしに説明をしてくれたボランティアの男性の両親は、
どちらも収容所に収監されているときにそこで出会ったのだ、
と言いました。



典型的な収容所の水道。



人々はここで洗濯をし、顔を洗い、野菜を洗いました。



ワイオミングにあったハートマウンテン・リロケーションセンター。
広大な土地にバラックが建ち並んでいます。



ヘイワードで収監を待つ祖父とその孫。

連邦政府は彼らに対し忠誠登録を行いました。
収監がいつまでも続かないであろうことを見越して、
このような資格によって解放するという動きを見せたのです。

しかしこれはかえって日系人たちの間に齟齬を生むことになりました。
自身のアイデンティティとアメリカへの忠誠を、
これによって疑われたと感じた日系人が多かったということです。



収容所の中で、彼らは生活の改善のための作業が許されていました。
このあたりは、ユダヤ人の強制収容所にはなかったことかもしれません。

しかし、収容所は常にこのような見張り塔の上から銃を持った
陸軍兵によって見張られていました。

脱走を企てない限り生命の危険がなく、生活にも楽しみがあったとはいえ、
日本人の血が流れているというだけで自由を奪われていることに
彼らが苦しまないわけがありませんでした。



収容所の中ではあらゆる職業の者がいましたから、家具を作ることも
難なくやってのけました。



女性が作ったブローチなどのアクセサリー。

「手慰みというか時間つぶし(kil the time)の意味が大きいですね」

ボランティアはそのように言いました。



全部で10カ所の収容所の名前とトランクが
キルト作品になっています。
マンザナ、ツールレイクなどは皆さんもお聴きになったことがあるでしょうか。
トパーズの収容所は、ここを舞台にした映画が撮られています。

「AMERICAN PASTIME」(邦題:俺たちの星条旗)

という映画で、日本からは中村雅俊とジュディオングが出演。
(この邦題は、中村雅俊のかつてのヒットドラマ
『俺たちの旅』から来ているのかも)

この映画についてはまた別の日にお話ししようと思います。



ポストン戦争強制収容センターはアリゾナ州ユマにあった収容所。
ここには、彫刻家のイサム・ノグチが収監されていたそうです。
ノグチは母親がアメリカ人でロスアンジェルス生まれでした。



地面に掘りごたつのように掘られた居住スペース?



アリゾナ州フェニックスにあったヒラリバー収容センター。
わたしが話をしたことのある映画俳優のパット・モリタは
ここに収監されていたそうです。



アメリカという国の嫌らしいところは、人道的に決して虐待していない、
これは戦争しているから仕方なくやっているけれども、連邦政府は
決して日系人たちを根本から否定するものではない、ということを
こういう形でわざわざアピールすることでしょう。

大統領夫人のエレノア・ルーズベルトがなんと慰問に来て下さってます〜!

黒人ばかりの飛行隊「レッドテイルズ」にもここぞと現れたり、
まあ、大統領夫人による内柔政策、というやつですね。

でも、なぜ日系人がここにいるかというと、お宅の旦那がサインしたからですけど。
わかってるのかなこのおばちゃんは。



さて、皆さん。

わたしは個人的に大変盛り上がってしまったのですが、この収容所では
なんとモデルシップの制作を請け負っていたという事実があります。

しかも、玩具なんかじゃないんですよ?

依頼していたのは他でもない米海軍だったというのです。
「軍艦識別プログラム」のために必要であった
モデルシップを、ここでは海軍のために作っていたというのです。



今のモデルでも面倒くさがりのわたしには展開図を見ただけでお手上げですが、
当時のモデルは今よりずっと制作に手間がかかりそうです。

しかし、その手間のかかる作業を、日本人ならではの器用さで
緻密にやってのける能力が買われたものと思われます。

というわけで、詳しい方にお聴きしますが、この日系人が作っているのは
いったいどこのフネですか?



驚いたことに、海軍からは青色設計図をそのまま渡され、
それを元に模型を作っていたようです。

敵国民であると認識していたら、まずこれはないような気がします。


因みに、日系人は有名な442部隊で9,486名が戦死し、
どのアメリカ人部隊よりも勇敢に戦った英雄となり、賞賛されました。

そして、戦争中、日系人によるスパイ行為や破壊活動は
ただの一件も報告されていません。



仕事か、時間つぶしか。
見事な彫刻を木に施す一世。



ビクターの「ヒズ・マスターズ・ボイス」の犬のよう。
飼い主はこれからヒラリバーの収容所に送られます。
最後のお別れに、愛犬の手を握る飼い主、ヘンリー・イシノ。



映画「アメリカン・パスタイム」でも、中村雅俊とジュディオングの
二人の息子のうち一人が、442部隊に志願します。

写真のタカハシ家は、息子のチェットが陸軍に出征するため、
最後に記念写真を撮りました。
母親は目を伏せています。



マーガレット・フロスト先生は、ツールレイクとミネドカの収容所で
子供たちに勉強を教えていました。



シアトルにある小学校では、日系の子供たちが去った後、
下のように殆どの机が空いてしまいました。



収容所に日系人を乗せたバスが到着しました。
この中の一人がこのときのことを書き遺しています。

「シアトルタイムズのカメラマンがわたしたちに言った。
『笑って!』
言われるがままに笑ったら、写真にはこんなキャプションが付けられていた。
『東京に帰ったときのために笑う練習』」



有名なマンザナー強制収容所。

強制収容の最も非人間的だったこととして、彼らがその財産資産を
全て没収され、それが国に奪われたことがあります。

マンザナーでは1942年12月6日に暴動も起きました。
そのときに歩哨が銃撃した犠牲者の二人の慰霊塔が写真左下に見えます。



マンザナーはシエラネバダ山脈を望む地にあり、
非常に冬の寒さが過酷であったとされます。



マンザナーにはドイツ人も収監されていました。



テキサスにあったクリスタルシティ。

なぜポパイかというと、ここの農園ではほうれん草を作っていたからです。
ホウレンソウの生産量は全米一の地帯でした。



ここではスポーツも盛んで、ドイツ人チームとの間に
対抗試合が行われていたそうです。



誰が描いたか、ポップなクリスタルシティの地図。
カメレオンや亀が可愛い。



ジャーマンセクションというのは、ドイツ人のインタニーの居住区です。
右下には「ホスピタル」という部分も見えますが、



ここではなんと日独混合医療チームが治療に当たっていました。
なんだかすごく信頼の置けそうな病院ですよね。



ツールレイクでの男性収監者の扱い。
「監禁の際にはまるで動物のように扱われた」
と書いてあります。



IDの写真が若いときのままの老女。



移送されてきた日系人たちが収容所の門をくぐるところ。



忠誠登録をするためにはたとえば

「アメリカ軍に参加するか」
「天皇への忠誠を破棄するか」

このような質問に答えなくてはいけませんでした。
その二つに「NO」「NO」と答えた日系人は「ノーノーボーイ」と呼ばれ、
アメリカ政府に不忠誠と見なされて、監視度の高いツールレイクに
移送されることになったのでした。

ノーノーボーイたちはアメリカ国籍を破棄し、
戦後、荒廃した日本に送り返されるという目に遭います。

写真の4人は、アメリカ政府によって出された「排除法」に
訴訟を起こし、最高裁まで争った「抵抗者」です。

ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツの3人はこのときの判決により
「政府の命令に従わなかった」として有罪になり、
女性のエンドウの訴訟は、最高裁の判事によって

「いかなる政府も国家に忠実な無実の市民を拘束する権利はない」

という判決が出され彼女は釈放されたのですが、
同時に判決はアメリカ政府が違法であるとはしませんでした。

このときの判事が、司法の中立と国家からの圧力の狭間で
出来るだけどちらにも忠実であろうとした結果だと思われます。



サンフランシスコピア37から船に乗って日本に向かう日系人たち。
しかし、彼らのほとんどは戦後アメリカ国籍に再び戻りました。

荒廃した戦後の日本には彼らの居場所はすでになかったともいえます。



収容所の中の「最右翼」であったWRAの居住所。
アメリカ政府に不忠誠を表明し、日本へのみ忠誠を誓い、
朝の5時に日本の軍歌を歌ったりして、収監者には嫌われていたようです。

彼らをモデルにしたらしい一派が、
映画「アメリカンパスタイム」に登場します。
収監者を紊乱せしめたという理由で、「どこか」に送られたという設定でした。

実際はそういう「危険人物」は、監視の厳しい
ツールレイクに送られたそうです。



日系人で初めて閣僚まで上り詰めたノーマン・ミネタ。
彼の名を冠した空港がこの近くにはあります。

ミネタは1988年に日系人の強制収容に対する、アメリカ合衆国政府による
公式の謝罪及び賠償を規定した

Civil Liberties Act(市民の自由法 )

の成立の立役者となりました。



法案が成立し、1988年、当時の大統領ロナルド・レーガンが、
サインをしているのを見守る日系議員たち。

その法案は強制収容された日系アメリカ人に謝罪するもので、
現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行い、
また、強制収容についての教育をアメリカ国内の学校で行うために、
総額12億5千万ドルの教育基金が設立されました。


レーガンの左側にいるのがミネタ、後ろに立っているのが
やはり日系議員のボブ・マツイです。




続く。

全日本模型ホビーショー〜たまごひこーきに萌える

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秋晴れの展覧会日和・・・というにはまだまだ暑かった昨日、
東京ビッグサイトで行われた模型ホビーショーに行ってきました。
この日は業者対象でしたが、中の方からご招待チケットをいただいたのです。

実物の武器装備について色々と感じたことを書くというブログの性質上、
博物館などでいつの間にか模型というものを目にする機会が増えますが、
模型「そのもの」については全く知識がありませんでした。

普通の女の子はプラモデル作ったりしませんしね。

しかし、このご招待も何かのご縁。
未知の世界への案内状を握りしめ、わたしはお台場に車で向かいました。



「柔らか戦車」の鬼塚曹長がコミケに参加していたシーンで
後ろに描いてあったので、辛うじて知っていたビッグサイトの建物。
勿論来るのは始めてです。



ところが初めてが災いして、駐車場の表示を読み間違え、
慌てて右折車線に入った際、黄色の線をまたいでしまったらしく、
後ろにいたバイクに違反で捕まってしまいました。orz

後ろでせっせと反則切符を作成しているお巡りさんを
バックミラー越しに記念写真。



待っている間に前方の景色も記念写真。
反則点1点、罰金6000円也でございました。

・・・・おそらが・・・・きれいです。



気を取り直して会場に突入。
頂いた招待券はそのままネームタグに入れてもらい、入場券代わりにします。

業者対象なので「名刺をタグに入れて下さい」と言われましたが、
わたしは何度も言うように地球防衛協会の名刺を制作中。
出来ていたとしてもこの肩書きはホビーショーにあまり関係ないと思うので、
おとなしく名前だけを書いてそれを胸にぶら下げました。



1/440の大和と向こうは長門。
いずれもお値段は1万9千円でございます。
ちなみに本日はホビーショーなので、販売は行っておりません。



「ウォーターライン」というのは、喫水線から上の部分のモデルのこと。
たとえばこの「赤城」の甲板下の部分なども、実際の写真は
海面から見上げた角度しかないので、こういう細部を設計するのは
いろいろとご苦労があるのだそうです。



ここでいきなり「永遠の0」のテレビバージョンの宣伝。
映像の特撮でハセガワが協力したということで、コラボ企画があるようです。
宮部久蔵のフィギュア付き零戦52型の模型かな?



というわけで、宮部久蔵役の向井理が着用した衣装が飾ってありました。

スピットファイアー。




AV-8B ハリアーII。
飛行機のモデルはここまで大きいと、「粗い」という感じがします。



海外からの輸入モデルのコーナーにあったバイク。
後ろの皮の物入れの丁寧な造りにびっくり。
・・・これだけ欲しいなあ。(実は小さい物好き)



所々には組み立て前の部品現物が展示されていました。

「これ、自分で切り離すんですか」
「そうです(当たり前だろ)」
「こんな小さいのも?」
「そうです(当たり前だっつーの)」
「切り離すときに壊したりしないんですか」
「たまにそういうこともありますが、修理します」

部品切り離しの段階でわたしなら絶対壊すな。
そして、パーツが紛失して探しているうちに嫌になるな。
よしんば切り離し作業ができたとしても次に組み立て、色づけがあると・・。

はっきりいって、自分でこれをすることは、脅迫されでもしない限り
今生ではありえないと確信したエリス中尉でございました。



でも見るのは大好き(笑)
こういうモデルファンがいてもいいじゃないか。

ここには日米独英露以(←イスラエルのこと)の、
現役空軍機の代表選手が集められております。

日・・・F−2、Tー4ブルーインパルス
米・・・ストライクイーグル、ライトニング、グラウラー
独・・・ユーロファイタータイフーン
英・・・ユーロファイタータイフーン
露・・・フランカー
以・・・ファイティングファルコン

このような妥当な陣容となっております。



こういう企画も楽しいですね。
「撃墜王7人のパイロットフィギュアと愛機のセット」シリーズ。
たった7人の撃墜王にだれを選んだかという選択も含めて。



帝国海軍からはやはり零戦搭乗員の岩本徹三。

フィギュアがなかなか男前にできております。
こだわりがあったらしく、士官にしか許されなかった長髪を、
「実力者」ゆえ下士官なのに周りに認めさせていたそうです。
このとき、

「現在のパイロットがほとんど短髪なのはヘルメットで蒸れるからで、
この時代とはいえ長髪だったというのはよほどのこだわりかも」

という話が出ました。
そりゃまそうですが、この時代はヘルメットではなく皮の飛行帽だし、
地上ではともかく上空ではそんなに暑くなかったのでは・・。



イタリア代表、フランコ・ルッキーニ。
フォルゴーレを駆ったシチリアの猛将だそうです。
フィギュアのポーズがさすがはイタリア人。
(頭掻いていただけだったりして)



おなじみペロハチことP−38ライトニングのリチャード・ボング。



メッサーシュミットとドイツの撃墜王エーリッヒ・ハルトマン。
撃墜数352って、何じゃこりゃ。



当シリーズにはボーナスとして、「スターリングラードの白百合」
こと、リディア・リトヴァクのフィギュアもあります。



なぜかこれだけ完成品があったので接写してみました。
この大きさはせいぜい2センチくらい。
リトヴァクの乗機はありません。



三菱の極地戦闘機「雷電」。
赤松貞明も乗っていたという飛行機ですね。
今調べたら、台南空にも配備されていたのだそうです。



戦場漫画シリーズで「スタンレーの魔女」から、三菱一式陸攻。
「我が青春のアルカディア」のメッサーシュミットはこのとき
どこかに持っていかれてここにありませんでした。



ゲーム「エースコンバット」シリーズのシリーズ。



なぜこんなものが、と思いきや、意外と人気で、
改造派モデラーの間で熱い盛り上がりを見せているというトヨタのサニートラック。

もう、こういう世界を見せられると、「なぜ」という言葉も出てきません。

メーカーが主宰して購買者のための展示ショーのようなものを
最初は行うものだそうですが、すでにこの世界では
サニートラックモデル愛好家が自主的にそういう会を持っているそうです。



車高の高さとか、ホイールに特別バージョンを使うとか。
興味のない人から見ると「それがどうした」ですが・・・、



こういう縮小の段ボール箱を見ると、わたしにはその魅力が
とてもよくわかります。
これは、本物のロゴをどんどん縮小していってつくります。



これから発売されるモデルのお知らせはこのような
写真パネルで行われます。
広島県警にはコスモのパトカーがいたのか。

しかし、この柄を見て、先ほどパトバイに捕まったことを思い出し、
気持ちが暗くなるわたし。



P−3Cの後継ということでアメリカが購入しているP−A8ポセイドン。
オライオンの後継がポセイドンって?
オライオンはポセイドンの息子なんですが、順序が逆でないかい?

ところでP−1にはなぜ愛称がないのでしょうか。
この流れからいくと「ガイア」か「タイタン」が妥当ということになりますが。

それはともかく、P−8、MADがついていないとこのとき聞きました。
「これでどうやって潜水艦を探すつもりなんだ」状態だそうです。



これも発売予告、イスラエル空軍のコブラ。
コブラだからって機体にコブラを描く直球です。



アメリカ海兵隊仕様オスプレイ。



日本国陸上自衛隊仕様(予想)オスプレイ。



裏までは見られないので作れません。
このモデル業界の話で驚いたのは、現実に存在しない
(もう無くなってしまった)航空機や船のモデルを作るのに、
写真などから想像で図面を書き起こすということでした。

だから、見学することの出来ない部分は予想するしかないのです。
たとえば建造中で公開されていない船でもある程度外部から見えることもありますが、
見えていない反対側の舷はやはり「できない」のです。

「そういった取材が許されれば、棒を持っていきます」
「それは先にカメラを付けて差し入れるとか?」
(これを聞いたのはわたしではありません)
「いえ、スケールの為です」

 

ところで、冒頭のブラックバード、可愛くないですか?
これは、ハセガワ社の「たまごひこーき」シリーズ。
この世に存在する航空機を、全て無理矢理タマゴ型で表現しようという、
無茶な企画です。

しかし、このたまごひこーきが、可愛いのツボをキュンキュン刺激するの。

小さいと可愛い。丸いと可愛い。

このような人間の萌えのメカニズムを熟知した仕様に、
細胞レベルまで刺激されそうなこの商品。

マンガで8等身の主人公がいきなり3頭身になる、
とかいうデフォルメの延長のようなもので、マンガの世界を
実際に形にして、さらに商品にしてしまうという、恐るべき企画です。



トムキャット、ハリアー、ホーネット・・。
サンダーバーズもブルーエンジェルスも、たまご化すればこのとおり。



F−15イーグルも、過去現在のブルーインパルスも、
釣り上げられた小さなフグのようになってしまって・・・(T_T)


そういえば小さいとき父が釣りに行ってその釣果の中に
3センチくらいの小さなタコがあったのですが、見ているうちに
小さい→可愛い→可哀想になってきて号泣したことを思い出します。

「これはイイダコといって赤ちゃんじゃないのよ」
「どうせもう死んでるから」

いくら言っても収まらないので、両親はわたしにタコのご遺体を渡し、

「お墓を作ってやりなさい」

と庭に埋めさせました。
わたしは10センチくらいの石にマジックで
「たこちゃんのおはか」と書き、懇ろに弔ってやったのです。

やっぱり子供って馬鹿なんですね。



たとえば左奥のコルセアの羽をご覧下さい。
どんなにタマゴ化しても、一目で見て原型がわかるように
デザインする、というのがデザイナーの腕の見せ所なのです。



萌えキャラ風の女の子を乗せることも出来ます。
どうもコクピットにはヘルメットだけ備え付けてますね。

ところで左奥のあんころ餅のような物体は何?



もうすぐ引退になる、日本で現存する最後のボーイング747。
戦闘機系より縮尺に無理があるので、異常なくらい可愛いです。

「いやっ、これかわいいですう〜」
「ひゃあがわいい〜欲しい〜」
「これ欲しいなあ〜難しいですか?」

すっかり目をお星様状態にして歳不相応の可愛いモードに突入。
しかしそのかいあって?たまごひこーきブラックバードかオスプレイ、
同行の方に作って頂けることになりました!

いやーぶりぶりしてみるもんだ。

ところで、Amazonでたまごひこーきシリーズを調べていたら
ハセガワではありませんが、

「ちび丸艦隊シリーズ 雪風」
「ちび丸ミリタリーシリーズ 10式戦車」

などというとんでもない商品があるのを知りました。

かわいい〜!欲しい〜!

・・もうええっちゅうの。


 

全日本模型ホビーショー〜ジオラマとミニチュアに萌える

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東京ビッグサイトでこの週末行われた模型ショーについてです。



会場には何人かの外国人バイヤーが英語の案内人に
アテンドされて見て回っていました。

しかし、昨今は日本の製造会社と契約して輸入したものより、
オンラインで注文する方が安いという「Amazon現象」があるため、
会社との契約そのものの件数が減る傾向にあるのだと
現場の方が話していました。



模型、というとシップモデルや航空機モデルなどだけではなく、
このような線路を電車がぐるぐると走るジオラマも含みます。

ジオラマ。

そういえば息子の学校の課題、ジオラマ制作では燃えたなあ(主にわたしが)。
(主にわたしの)努力の甲斐あって、あの作品は今でも優秀作品の見本として、
学校に飾ってあるそうです。

やったことのある皆さん、あれはやりだすと夢中になりますよね。 



田舎のおじいちゃんのうちに息子娘の2家族が集まり、
お天気がいいので外にテーブルを出してごはん(カレーらしい)
を楽しんでいるの図。
こういうドラマが盛り込まれているジオラマには、
時間を忘れてつい見入ってしまいます。



日本全国どこにもありそうな駅前の街。
駅前に公園があり自転車放置が可、という街なので、
もしかしたら昭和の時代を表わしているのかもしれません。



作っていてさぞ楽しいだろうなあと思われる田舎の線路沿いの光景。



つくづくと見ていたら、信号機が倒れているのを発見(笑)



さて、さらに歩いていくと、巨大なテーブルの展示スペースに、ずらりと並んだ
喫水線モデルが。
ここは何と、



「艦隊これくしょん」通称艦これとシップモデルのコラボ商品コーナー。

「ゲームをする人とモデルを作る人は一致しないと思っていましたが」
「そういう層も取り込もうということでしょうな」

今までのモデルのパッケージに「艦娘」をあしらう、というだけですが、
それでもこういう売り方をすると自分のご贔屓の艦娘なら買ってしまう、
という提督もいるのかもしれません。

元からこの世界になじみがあれば尚更のこと、おかげで
子供のとき以来何十年ぶりにプラモを買うという人だっていそうです。

ただ、こういうファンは模型よりも「艦娘フィギュア」に走りそうだなあ。
見ませんでしたが、その手のフィギュアもどこかで展示されていたようです。



愛宕さんをお持ちの提督も確か読者にはおられましたか?
冒頭画像の「間宮」は割烹着に籠に抱えた間宮羊羹、
艦内で作っていたというアイスクリームを・・・。



大和が「非理法権天」のソックスをはいているとは知りませんでした(笑)



パッケージはこのような感じ。
ところで後ろに積まれているパッケージに
「すずつき」「あきづき」などの自衛艦が見えるのですが、これらも
まさか「萌えパッケージ」・・・・?



と思って調べましたが、取りあえず現行の護衛艦は
普通のパッケージで売られているようです。

ほっとしました(笑)

写真は「ひゅうが」とその隣の「いせ」。



不知火、阿武隈、霞が並んでいました。
確かにこういうのを見ても思いますが、絵があるとないでは
ぱっと見訴えかけてくるものがかなり違いますよね。



東京マルイは模型メーカーですが、どうやらこれを見ると
メインはトイガンのようですね。
迷彩の人はサバゲーの常連かな?

後で調べると、他にはラジコンを得意としている会社のようです。

さすがにここに立ち寄っている女性は一人もいませんでした。



「セメダイン」のコーナー。
そういえばわたしは小さいとき、接着剤のことを
商品名とは知らず「セメダイン」と呼んでいたのを思い出しました。



同行の方と後半盛り上がったのがここ。
なんと、すでにある程度形の出来ている紙のパーツを
接着剤で組み合わせて作る模型のお店です。



このコーナーにはジブリシリーズでこの
「千と千尋の神隠し」の「湯屋」、「さつきとめいの家」、
「魔女の宅急便の時計台」などが展示してありました。



これが盛り上がった一因。
いかにも古いかんじのビルに、黄色いテキサン。

「航空情景シリーズ」と称して、たとえば海自の創成期の
航空機と指揮所などのモデルを発売していたのです。

説明もちゃんとしていました。

海上自衛隊の航空隊は昭和28年9月に旧海軍館山基地で
創設された,海上警備隊館山航空隊から始まります。
翌29年海上自衛隊へと名称が変わり、同年9月米軍の指導のもと、
館山基地で訓練を受けたパイロットによって鹿屋航空隊が編制されました。

当モデルは現存する写真を元に、現存する海上警備隊の編成当初より
館山基地飛行場で航空基地指揮所として使われた建物を再現したものです。

昭和34年には新造管制塔の傍へ位置を移し、解体撤去される
平成8年まで任務を支えました。




ハンガーの中は床が鏡のようになっていました。
飛行機は都合により出払って一機もおりません。



「はつゆき」のヘリコプター甲板部分だけ。
お店の人に聞いたところ、あくまでも「飛行情景」なので、
関係のある部分だけを抜き出したのだそうです。



この部分を水面の上に於くのはいかがなものか?とか、
この格納庫にこのSHは入れないよ?というツッコミはなしです。

これは確かに同行の方(関係者)ならずとも欲しい(藁)
ただし1万2千800円というのは高いなあ。

この細密なカッティングは、レーザーによる紙加工が
自由になってから以降可能になった技術です。

このTKワークスという会社は京都にあるボードパーツを使った
模型の専門店だそうです。
この航空情景シリーズは今年の11月から発売開始。



航空レーダーをぐるぐる回す仕組みもあります。



そしてこれ。
小さいとき「ミニチュアの台所用具」などを集めていたわたしは
筋金入りの「小さい物好き」。
その小さい物好きの血が騒がずにいられません。

写真に撮ると大きく見えますが、実はこれどれも3〜4センチのもの。
蚊取り線香など、表現力にリアリティすらありますね。



楽器シリーズもありました。
譜面台の楽譜は拡大しても何の曲か分かりませんでしたが、
何かの伴奏譜で、オルガンの曲でないことは確かでした。(笑)



11月発売の札を持って立っているロボットが可愛い。



わたしがもし何か一つ選んで作らせてもらえるなら、これかな。
ピアノの内部や椅子の造りががびっくりするくらいリアルです。

これならわたしにも最後まで出来る。(といいな)



比較的簡単かなと思われた「昭和の街並シリーズ」。
スケールが大中小と3種類あって、これが一番大きなものです。
大作としては姫路城などのお城シリーズもありました。



最後に大御所タミヤコーナーを見学。
零戦だけでこんなにあります。
皆何かしら違うバージョンなんですよね?



コルセア。
これも大きなものですが、先ほどの輸入モデルより精密な気がしました。
お値段も多分よろしいのでしょうね。



どうも羽がたためるようです。
このモデルはターンテーブルの上で回って展示されていました。



機体に描かれている「爆弾投下マーク」によると、このパイロットは
今までにちょうど100発の爆弾を投下するミッションを行っているそうです。
よくよく見るとマスクを被ったとてもリアルなパイロットもいます。

かなりの上級モデルと見た。



出口近くにあった大型のラジコン模型の会社。



この日は模型を買うことは出来なかったので、「タミヤ」の売店で
くまモンキャンディとショカコーラ(チョコレートらしい)を
お土産に買って帰りました。

どちらも中身より、入れ物が欲しくて選んだものです。


というわけで生まれて初めての模型ショー、
こんな世界があることを初めて知ることになりました。
それにしても、

「本物を縮小した、限りなく本物のようなもの」

に、人が心惹かれずにいられないのはなぜでしょうか。
わたし自身がそういうものを見るのが大好きなので、
この世界に夢中になる人たちの気持ちというのはよくわかります。


何しろこのわたしをして、

「簡単なのならちょっと作ってみてもいいかもしれない」

と思わせたくらいですから、その奥の深さ恐るべし(笑)




 

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