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平成27年富士総合火力演習 近距離、ヘリ、そして対空火力

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平成27年総火演、迫撃砲までの装備紹介が終わりました。
続いて、対戦車誘導弾の演習が行われました。

この対戦車部隊は、87式対戦車誘導弾、96式多目的誘導弾システム、
中距離多目的誘導弾の三種類の装備で構成されているのですが、
いずれもレーザーや赤外線照射によって目標を狙い撃ちします。





オーロラビジョンには観客から見ることのできない射撃の様子が映し出されました。
赤帽の人は耳を押さえていますが、もしかしてイヤカバー無し?


しかも、弾道は直前で浮き上がり、相手戦車の上部、つまり
もっとも装甲の弱い部分を破壊するという鬼畜さ(笑)

防衛省の公開している拡大映像には、すべての目標を難なく
ぶち抜く恐るべき瞬間が映っています。

が、しかし。

この日、何度か、言い方は忘れましたが

「目標が確認できないから撃つのやめ」

ということがあって、皆あらあら、となってしまったのです。
実は総火演の何日か後、元陸自の方とお話をする機会があって、そのときに
感想を聞かれたためこのことをいうと、

「雨が降ると視程確認ができないので撃たないことがあるんです」

と言われてなるほど、と思いました。



この96式多目的誘導弾というのは

情報処理装置(IPU)73式大型トラックに搭載。 射撃指揮装置(FCU)高機動車に搭載。目標選定等担当。 地上誘導装置(GGU)高機動車に搭載。ミサイル誘導担当。 発射機(LAU)高機動車に搭載、乗員2名。 観測機材(OPU)高機動車に搭載。前身観測担当。 装填機(LDU)73式大型トラックに搭載、予備弾も含む。

とこれだけ、「車両6両で1セット」という数え方をします。
ここからは推測なのですが、前身観測の段階で視認できなかった場合、
目標選定ができないわけですから当然発射中止になるのではと・・・。 

 

続いて近距離火力の装備紹介です。
指向性散弾というのは、扇状に散弾が発射される近接戦闘用装備で、
接近する敵歩兵を一瞬で制圧することができます。
あらかじめ敵の来そうなところにセットしておいて、
離れたところから操作する、地雷みたいなものですかね。



敵歩兵に見立てた紅白のバルーンがまるで風船のように割れて・・・
・・・って風船やないかい!




小銃小隊が96式装輪装甲車で侵入してきました。



これから撃つので赤旗をセット。



96式40ミリ自動擲弾銃は我が国の開発した軽量小型の銃です。



これも接近する敵歩兵に見立てた黄色い風船を射撃。



お見事。全部割れました。



続いて、12.7mm重機関銃での射撃。

一分間に400-600初を撃つことができるということなので、
見ていると赤い火花のような銃弾がバラバラと目標に向かうのがわかります。




旗を緑に付け替えてから、すぐさま96式は前へ!の号令がかかり、
前進を始めますが、同時に後ろのハッチが上から手前に倒れ、



内部に乗っている射撃手が戦闘用意。



射手2名、赤帽と青帽が一人ずつ計4名が走り出てきました。



06式小銃擲弾で狙うのは青いバルーン。
これは、直接狙うというより上に向かって打ち上げる感じで、
だいたい10秒くらい後に着弾してから破裂する仕組みです。
画面右側に着弾した瞬間、左から二つ目のバルーンはもう割れています。



着弾の瞬間をアップしてみました。



89式5.56小銃で狙った人型は手前でぼーぼー燃えてます。



こちら84ミリ無反動砲。



弾着後の炎がすごすぎ。
続いてこちら個人携帯対戦車弾が射撃を行います。



これで撃った着弾跡はこうなります。
対戦車砲なので破壊力も対人用とは桁違い。


続いてどこからともなく撃たれる発煙弾。




いつの間にか「+」の描かれた白い目標が消えている・・・・。
たしかベニヤのような大きなボードだったと思うのですが、粉々に?

これ、肩に担いで個人が目視で合わせるんでしょう?
射撃正確すぎ。



発煙弾はもちろん視界を遮るために撃たれるもので、
派手に煙が上がっております。

弾着の時には「命中!」というアナウンスが、発煙弾の時には
「効果あり!」となっていました。

こら確かに効果あるわ。



続いて89式装甲戦闘車が進入してきました。



計4台の89式機関砲が一つの弾着目標に向かって各3発ずつ撃たれました。
音でいうと「ドウンドウンドウン!」って感じです。



「+」マークに到達する直前。
もちろんこのあと「+」のボードは木っ端微塵粉の運命です。




89式が離脱している間に、上空には対戦車ヘリが進入してきました。



AH-1S「コブラ」と・・



なぜか偵察のOH-1は姿を見せず、コブラに付き添ってきたのはカイユース。



コブラの対戦車ミサイルが火をふくぜい!

ちなみに

「こちらコブラ、目標を攻撃する」「コブラ、離脱!」

という感じで、コブラは自分で自分のことを「コブラ」と言っておりました。



コブラが離脱した跡は、同じく戦闘ヘリのAH-64D、アパッチ・ロングボウです。
この日は雨まじりで湿度が高かったせいか、ヘリのローターに
このようなvaporのトレースができていました。



アパッチの30ミリ機関砲射撃中の様子。
射撃目標は、地表に立てたやはり大きな「+」の布幕のようなもの。

続いては対空火力、つまり敵航空機に対する火力装備です。



87式自走高射機関砲。
「ガンタンク」とか「ハエたたき」とか言われているアレです。
例によって防衛省の公式愛称は「スカイシューター」ですが。

写真ではわかりませんが、このちょんまげのような部分がレーダーで、
くるくるといつも回っていて結構可愛らしい奴であります。

フィールドの真ん中に出てきますが、これはみんなにその姿を見てもらうためで、
実際の射撃は常に左右の専用台のようなところから行われます。



撃(GEKI)!

という陸自限定せんべいが確かあったと記憶しますが、
陸自の射手は発射の時に声を出したりはしないんでしょうか。



しかし今年はこうしてみると時々発射の瞬間がちゃんと撮れています。
初回だった去年より次に何が起こるかだいたいわかっていたのがよかったみたいです。

雨が降っていなければ、もう少しいい瞬間が捉えられたような気もするのですが、


続く。


 


平成27年富士総合火力演習 10式と76式の履帯外れ事故

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ところで、今年の総火演では大変なトラブルが起こっていたんですね。
まず、 砲弾の破片が客席まで飛んで観客2人が軽いけがをした件。
現地にいると、しょっちゅう砲撃の際何かが飛んでくるから気をつけてください、
というアナウンスがあるのですが、そういう注意勧告も2日違いで参加した
花火大会と全く同じであることに気がつきました。

いくら気をつけていても、飛んできたらどうしようもないってところも同じ(笑)

幸い、「軽いけが」といっても、何か飛んできて「いてっ」という程度だったようで、
それが証拠に、こういうことなら針小棒大に騒ぎ立てるメディアが、

「このため23日の(事故は22日だった)10式戦車実弾発砲を急遽取りやめた」

と報じるに止まりました。
毎日新聞など、よほど悔しかったのか(?)

「(演習に)使われた弾薬は約36トン(約3億9000万円相当)。

 さらに演習後、観客が残っている前で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)
に所属する米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ1機が上空を飛行した。
陸自は2018年度までにオスプレイを配備する予定で、
安全性をアピールするため陸自が米軍に飛行を要請していた」

などと付け足していました。

「さらに」ってなんだよ「さらに」って(笑)
前もってアナウンスしなかったから反対派が会場周りで騒げなかったってか?

それより、この件よりネットで騒がれていたのは、

 

10式戦車のキャタピラが外れてしまったことでした。
まあ、どんな装備にも事故はあるのですから、その現場と修復を目の当たりにできた
22日の出席者は、ある意味めったに見ることのできないシーンが見られたわけで、
当初22日のチケットを手配してもらっていたわたしなど、正直残念でたまりません。


ところで、富士学校音楽隊が作業が始まってすぐ演奏を始めるのですが、
9人がかりで必死にキャタピラに貼り付いている中、「涙そうそう」が鳴り響くのが
なんだかシュールだったのと、作業が終わってキャタピラを引きずった10式が
ドナドナされていく姿に思わずこちらも涙そうそうとなりました。

しかし、履帯外れは10式だけではなかったのです。

74式戦車の履帯脱落と回収作業 富士総合火力演習 第1学校予行


17日早朝の予行で74式の履帯も外れてたんですね・・。(T_T)
こちらのシーンの見所は、同僚の74式が至近を通りかかっても、
まったく声をかけてはいけない雰囲気でスルーしたことですが、
まあこれは実際には肉声で会話できるような状況ではなかったのかも。

それと、こちらは10式と違って完全に離脱した状態だったので作業は少し楽だったようです。
履帯が外れた時には自分で引っ張らせるための用具があるらしいことも発見でした。


今回の演習で二回もそのようなことが一般人の目の前で起こってしまったのは
偶然なのかはたまた天候のせいなのか(といっても戦争に天候は関係ないしな)。
というか、戦車の履帯ってこんなにしょっちゅう外れるものなんですか?

74式は、もう40歳超えている超高齢の老兵だからこんなこともあると思うけど、
それでは10式のは一体何だったのかと・・。

ただ、90式戦車回収車愛称「リカバリー」というマイナー装備が日の目を見たのは
国民に装備紹介をするというこの総火演の意義を思えば良かったんじゃないかと。
さらにリカバリーが映像の1:20には早々に到着している手際の良さにワロタ。

国民の声のなかには、

「ディズニーランドでなにかアクシデントがあっても、とっさの機転で
ナレーションが見事にごまかしたりするのに」

という声もあるそうですが、商業娯楽施設と自衛隊をいっしょにするなとあれほど(略)
陸自だって、どこかの駐屯地祭の模擬訓練で転んだ歩兵を、負傷したことにして
とっとと後送あつかいにしたっていう「とっさの機転」があったんだぞ!



今回、別の日には偵察のバイク、「オート」の隊員が一人転倒したものの、
即座に起き上がって見事に復帰したというシーンが見られたという話もありますが、
わたしが見た日には、そんなアクシデントは何も起こりませんでした。

それ以前に座った場所の関係で、オート隊員のジャンプなんか全然見えなかったし(−_−#)


というわけで、装備紹介の戦車の部ですが、74式軍団が進入する様子。



この、砲塔のなめらかなラインがお弁当屋の「戦子さん」のモデルになった所以です(多分)
ところで彼女はお付き合いしていた「90式先輩」の16歳も年上ってことになるわけです。



目標は左の赤い「+」が描かれた部分ですが、当たれば木っ端微塵になる
板などではなく、弾薬がすり抜ける素材のように見えます。

右側に向かって弾薬が上昇して行っていますがこれは何?



続いて90式登場。



こちらは徹甲弾と榴弾、異なる2種類の砲撃を行います。
走りながら徹甲弾を撃って相手戦車の装甲を破り、続いて対戦車榴弾で撃破。




右手に向かって走りながら正面に向かって徹甲弾を撃ち、
左に進路変更して前に進み、前方で戦車榴弾砲を一発。

ちなみに「止まれ」の合図で停止するとき、車体は激しく前のめりになります。




こんな写真が撮りたかった。
これはモニター映像をキャプチャしたもの。
前列で頑張っていた白レンズの君はこんな写真が撮れたかな?



90式の砲塔にいる人は、離脱のときちょうど蓋が邪魔して見えないのですが、
何かのはずみに一人だけ写真を撮ることができました。


続いて観客お待ちかねの10式戦車ですが、10式の「戦い方」の強みというのは、
逃げ足が速くてスラローム射撃ができるということ以上に、
ネットワークシステムを搭載しているというハイテクにあります。

というところを見せるため、まず、目標を発見した10式戦車が、
後続の10式2台に情報を転送し、その後続車が、前進しながらスラローム射撃、
続いて後退しながらの射撃を行います。



こちらが先に敵を発見したヒトマル。
ネットワークシステムを使って、情報を送ります。

「どこそこに敵発見。ネットワークシステムにより敵位置を確認せよ」



このスラロームがさすがはヒトマルというくらいで思ったより速くてですね(笑)
頑張ったんだけどフレームに全然収まらないのよ。
レンズを付け替えていればもう少しなんとかなったと思うんですが。



スラローム射撃、防衛省のHPより、(戦)車載カメラ映像。



同じく(戦)車載カメラ。
下手したら相方のヒトマルに当たってしまっても不思議ではない角度ですが・・。



わたしの位置からはスラローム射撃の瞬間はもれなく観客が写り込んでしまいました。



後進していてブレーキをかけたとき、戦車の車体は激しく傾きます。
あれ、これ外に人が出てますよね?



戦車というものは例外なく激しい黒煙を噴き上げるのですが、
ふと動力ってなんなんだろうと思って調べてみたら、ディーゼルエンジンなんですね。
ガソリンよりも燃焼効率がいいそうですから、それも納得ですが、
昨年買い換えたわたしの愛車は、メーカーも謳っているように「クリーンディーゼル」となっており、
C02排出量も少なく、さらにディーゼルの欠点である「PM」や「NOx」などの
有害物質の排出も技術によってクリーンになっているわけですが、まさか、
戦車にそんな機能が搭載されているとも思えないし・・・。

戦車の台数なんて10台単位の話だし、そのためにこんな人里離れたところで訓練してるんだし、
環境に対しては配慮なしってことでよろしいでしょうか。
いや、別にわたしはなんの文句もありませんが。



あ、手を挙げている。

アナウンスによると、このスラローム射撃の技術は名実ともに
「世界最高レベル」ということでした。
世界最高技術を持った戦車長の面構えは遠目にも眼光鋭いですね。


ところで、世界最高レベルの駆動性とネットワークに胸を張る防衛省ですが、
10式についてはとにかく「防御が甘い」という指摘は前からあったようです。

例えば車体側面のサイドスカートと言われる部分の鋼鉄製装甲板の厚さは
わずか数ミリで、分厚いものになると10㎝の戦車も海外の軍隊にはある中、
ほとんどペラペラというのが、この写真でもわかりますね。

戦争が絶対起こらないという想定のもとで、抑止力だけを目的に訓練を行っていると、
実戦を真に想定していないと言えなくもない装備が生まれてきてしまうのだろうか。


とわたしは素人なりに大変僭越ですが、つい考えてしまいました。
(どなたか10式の能力について安心材料をお持ちでしたら教えてください)

ある軍事評論家の意見によると、徹甲弾の搭載も「市街戦を想定していない」、
つまり富士山麓で撃ちっぱなしをやることしか考えていないからということですし、
アメリカなどと違って、真剣に戦闘効果(実戦での殺傷能力)を考えた装備導入をしなかったり、
現場で負傷者が出たらどうするのか、みたいな想定すらまともにしないため、
もし本当に戦闘になったら、訓練だけやっていた隊員には予想もできないことが
次々と起こるであろう、 という意見すらあるようです。

優れた技量で富士山は描けても、殺し殺される場面でそれが役に立つのかって話でしょうか。

まあわたしなど、それもこれも自衛隊には何の責任もないと思うのですが、これつまり
日本国が「武力」を忌避するあまり、防衛に必要な真に迫った戦闘の想定すらまともにできず、
一部勢力によって装備の拡充を阻止されているせいなのだとしたら、深刻な問題だと思います。


今回の履帯外れは、おそらく隊員の練度とは何の関係もないところで起こったことですが、
これが、いかに訓練を積み重ねても、日本全体を(防衛関係者も漏れなく)うっすらと覆う
平和ボケの基準で全てが賄われている軍=自衛隊ならではの脆弱の表れ、
というものではなければいいが、と思ってしまったことも事実です。



それはそうと、破片が飛んできて怪我したとかいう男性二人は、おそらく
陸自からその後、下にも置かぬ対応で終始扱ってもらったんだと思うのですが、これを
いいなあ、羨ましいなあ・・・・なんて一瞬でも考えたわたしは馬鹿たれ者ですか。



続く。


 

空母「ホーネット」艦橋ツァー〜「錨を上げて」

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空母「ホーネット」に2年前に続きもう一度アイランドツァーのために
訪れ、前回とは少し、どころか全く雰囲気の異なるボランティアの解説員、
ウィル元中尉、通称「Sさん」の解説を聞くことになりました。

前回も書きましたが、このたびの解説員は80歳を超えており、歳格好といい、
長身の痩身で髭を生やしたイケメンぶりといい、日本に残してきた(笑)
元兵学校生徒の「Sさん」にわりと瓜二つ(日米の人種が違うだけ)なので、
わたしが勝手に心の中で「Sさん」呼ばわりをしております。



さて、プライマリー・デッキに続き、前回見損なった航法室を見学したあと、
その一階上の管制室を見た後は、操舵室へ。
ここは、メインの操舵室となります。


さて、このときわたしはたまたま「Sさん」の次の次に部屋に入ったのですが、「Sさん」は
わたしの前の男性とわたしに、

「皆に説明するからあなた(男性)はこれを(金色の輪っか)を持ってください。
あなた(エリス中尉)はこちらの前に」



ドラムの右と左に手前に引くためのレバーがついてる動力装置の前に立たせました。
え、もしかしたら何か皆の前でやらされるの?
と一瞬キョドってしまったのですが、「Sさん」、それを見て

「怖がらなくていいですよ。立ってもらうだけだから(笑)」

見ると、レバーは赤い金具で動かないようにガッツリと固定してあります。
もしかしたらこんな状態でも動かしたら何かが起こるってことでしょうか。
装置の下部にあるウィンドウには

「エンジン・レボリューション・インジケーター」

と書かれ、これによって変速していくことがわかります。





解説が始まりましたが、本当に立っているだけでした(笑)
だって、舵輪とちがって何も動かないんだもーん。

水平に置かれた黒い計器には水が入っていて、文字盤が動いていました。
これは推測するに水平に対する艦の角度を知るものでしょう。
どこかが浸水してフネが沈没しそうになったとき、傾いているのがわかって便利です。


その上にある計器が「 Rudder Angle Indicater」、
「舵角計」とか「舵角方向指示器」と訳せばいいのでしょうか。

しかし、「舵角指示器」を逆翻訳すると「ラダーセンサー」、
「舵角計」は「ラダーメーター」となって、どちらも一致しませんorz



操舵室はここと「secondary conn」があります。
connというのは海事用語で、操舵ですが、これは動詞でもあり、三人称単数現在形だと
「conns」となります。

うしろに「Helmusman」(ヘルムスマン)という聞きなれない言葉があるので調べてみたら、
これが「操舵する人」(ヨット用語)のことでした。
ヨットをする人、そうですよね?
ついでに知ったのですが、これに対してヨット用語で「艇長」を「スキッパー」というそうです。




天井の赤いレバーは警笛。
なぜ二本あるのかはわかりません。

写っている見学客が二人とも東洋系なのですが、野球帽の人は白髪の女性を交えた
三人組で、もしかしたら日系アメリカ人ではないかと思われました。

こちらを向いている人は、男性二人連れで、こちらは何系かわかりませんが
彼らもアメリカ人であることが喋り方でわかりました。



こちらの緑のレバーは・・・・・何だか忘れましたorz
パイロットハウスに繋がっている警報機で、何かあればこれで
総員出動体制を知らせるというものだったかもしれません。



この操舵室の横には「キャプテンズ・シー・キャビン」が備えてあります。
艦長が四六時中ここにいるのかどうかまでは聞き逃しましたが、
ここでずっと待機できるように寝台はもちろん、シャワートイレまであります。
シャワー室の中に机が見えますが、これはたまたまこのときに、
床のペンキを塗り替えたばかりだったようです。

空母は艦内が広大なので、仮に毎日あちこちをこまめに手入れしていっても、
一巡するのに何年もかかりそうですね。



そこを出てすぐ岸壁側に接した小さな部屋には、高い椅子があり、「Sさん」は
一人で参加していた女性にそこに座るように促しました。

「キャプテンになってください」

「ふーん、キャプテンの椅子って眺めが良くてなかなかいい気分だわ」

などと、なかなかノリのいい女性です。
ところでここの説明に書いてありましたが、艦長というものは一旦航海に出たら

1日18時間から20時間

艦橋にいるものだそうです。
航海中ずっと4時間〜6時間しか寝られないって言う意味ですかこれは。
それとも先ほどの仮眠室で寝ている時間も含めてでしょうか。
いずれにしても艦橋でのほとんどの時間を、艦長はこの椅子で過ごし、
航空機発着や離着岸についての指示を出します。




さて、ここは、

「Auxiliary Conn Station」(補助操舵室)略称AUX CONN

名前は補助ですが、補給のために岸壁にアプローチするとき、ここには
キャプテンを必ず含む士官が全員集まるのだそうです。
他の操舵室、メインとセカンダリーには一人だけが残ります。

なぜ着岸のときここが使用されるのかというと、おそらくですが、
岸壁に面した窓があるからではないかと思われます。



このボードは「マニューバリング・ボード」というそうです。
艦隊行動を監視し観察する操舵手、レーダーマン、ジュニアオフィサーのために
機動部隊の配置が書かれていました。

ちなみに「ホーネット」は旗艦でしたから、いつもこの中央に位置して書かれていました。



この透明ボードは、操舵室の計器と、補助操舵室の壁の間にあり、
外からだけ読むことができるようになっていて、

ブリッジ 057 レンジ 15900 タイム 1709 CRS 

わかる人にはわかるであろうこんなことが書かれております。
CPAはわかるとして、SKUNKってなんなのかしら・・。

ところで、メインの操舵室で説明を聞いていたとき、いきなり大音響で誰かの携帯がなりました。

♪フンバラパッパフンバラフンバラフンバラパッパッパー
♪フンバラパッパフンバラフンバラパーパーパーパー

おお、この曲には聴き覚えが・・いや、それどころではありません。


これだ!

Anchors Aweigh、「錨を上げて」。

1906年にアメリカ海軍中尉であったチャールズ。ツィマーマンが作曲し、
アメリカ海軍の事実上の公式歌(行進曲)となっているこの曲。 
やはり本海軍軍人さんは、着メロにもこだわっておるのう。 
見つけてきたこのYouTube、とにかくかっこいいのでご存知の方も観てみてください。

なぜか1:20に、海上自衛隊からオライオンの友情出演があります(笑)
面白いので元YouTubeでどんなコメントがあるのか探してみたところ、

●「グレイトビデオ!だけど1:20は日本のP-3で、翼にレッドライジングサンが見えるよ」

→「これはロッキードマーチンのP-3Cオライオンで、カワサキがライセンス生産してるんだよ」


●「I found your video  Japanese Navy (JMSDF) aircraft P-3! Thanks :)」(日本人のコメント)


●「日本の飛行機がチラッと見えた(spy)ぞ」

→「ほんまや」

→「墜とせ!そいつはspy planeだ!」 

 

 

いや、一応同盟国なんですけど、日本とアメリカ・・。

というわけで、「錨を上げて」が朗々と鳴り渡った操舵室。

「あ、私の携帯です」

そういってポケットから電話を出し、皆を待たせて悠々と会話を始める「Sさん」。
まあ、ボランティアだからそれもよしとしましょう。
この曲が鳴り響いたとき(Sさんは耳が遠いので大音響だった)、
皆は何も気に留めないように振舞っていましたが、思わずわたしは小さな声で

「Nice.」

とつぶやきました(笑)

実はこのあと、ツァーは終了してしまい、前のもこんな短かったっけ、
と拍子抜けしたのですが、解説員の「Sさん」とのご縁はここで終わらず、
わたしはほんの少しだけですがこの元母艦乗りパイロットと話をする機会があったのでした。


続く。
 

空母「ホーネット」艦橋ツァー カタパルトとウィル中尉

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2年前に続き、見損なった艦橋ツァーの残りを見るため
サンフランシスコの対岸にあるアラメダに繋留している
空母「ホーネット」を訪ねたときのご報告をしています。 

補助操舵室(AUX CONN)の説明をした後、ボランティアの元海軍中尉、
通称「Sさん」(海軍兵学校元生徒のSさんに激似していたため)は、
ツァーに参加した10人余りの一団を率いて、甲板レベルまで降りてきました。

「みなさん、アイランドツァーはこれで終わりです。
でも、今日は特別に甲板の飛行機について解説しますので、
お時間と興味のある方は残ってください」

そして「Sさん」ことウィル元海軍中尉は、これは「informal」です、と付け加えました。

歩くのを見ていると、右足を引きずっており、狭い艦橋の階段を
登ったり降りたりを繰り返すのはさぞかし難儀であると思われましたが、
おそらく彼は海軍に奉職した人生を誇りにしており、
空母艦載機のパイロットであった自分の経歴を、ボランティアを通じて
人々に少しずつでも伝えていくのを人生の最後の生きがいにしているのでしょう。

見学の途中で鳴り出した携帯の着メロが「錨を上げて」という、海軍の実質上の
(公式ではない)公式歌であったことで、わたしは一層その確信を深めたのですが、
こうして決して体力が有り余っているわけでもないのに、エキストラのツァーを
行ってくれるというのです。

ほとんどの客はそこで解散してしまい、「Sさん」の呼びかけに応じたのは
どうやら日系アメリカ人らしい高齢の男女3人組と、わたしの計4人となりました。



そのエキストラツァーとやらがなかなか始まりそうにないので、
甲板の艦載機エレベーターの工事を見に行きました。
前回来た時にはここは完璧に閉じられていたと記憶しますが、
1.5mほど降下させた状態で、甲板とエレベーターを接続する面を修復しています。

昇降機の向こうに見えているのは多分S-2B「バイキング」。哨戒機です。



ふと、艦橋ツァースタート地点に、新しいグループが集まっているのに気付きました。
解説員を見ると・・・・、お、これは2年前のツァーの人じゃないか?

その時は髪を長くしていてまるでお茶の水博士みたいだったのですが、
今年はイメージチェンジしておられます。
この人も元海軍軍人だということは解説の端々でわかりましたが、
このツァーに参加した時には、この時の倍くらい参加者がいたため
わたしは最初の彼の自己紹介を聞き逃してしまい、彼が海軍でどんなことをしていたのか
結局分からないまま終わってしまったのでした。 


さて、甲板を撮っていたら「Sさん」が三人の参加者とともに歩き出すのが見え、
慌てて彼らのところに走って行きました。
「Sさん」はどうやらカタパルトの説明をしてくれるようです。

歩いていて、ふと「Sさん」がわたしの横を並んで歩いている状態になったので、
思い切って声をかけてみました。

「わたし、日本から来たんです」

「おお、そうですか。それはようこそ」

「ボノム・リシャールにも乗っておられたんですか?」

「はい、乗ってました」

これは、「Sさん」の着ていたボマージャケットの背中に、強襲揚陸艦でなく
空母「ボノム・リシャール」の ワッペンがあったので聞いてみたのです。

「ボノム・リシャールは日本にもいたことがありますよね?」

 朝鮮戦争の時には北朝鮮の空爆に参加したという記憶があったので聞いてみました。
「Sさん」は確か自分の軍歴について最初の自己紹介で

「ベトナム戦争に参加している」

と言っており、80歳くらいと仮定しても朝鮮戦争の頃は
まだ軍隊に入ってもいなかったはずですが、それを聞くと、

「わたしは『ボノム・リシャール』乗組のときに横須賀に行きましたよ」

と話を合わせてくれました。
ベトナム戦争の時、日本政府(佐藤栄作政権)は、後方支援のために
沖縄、佐世保、横須賀、横田などの軍事基地を提供していますから、
「ボノム・リシャール」が横須賀に補給のため寄港していたということは十分考えられます。



どうですか元パイロットの海軍中尉、かっこいいでしょ?
8月も半ばというのに皮ジャンパー着用しておりますが、
これはこの辺りの気候の特異性を考えると全く不思議ではありません。

この日は燦々と陽の高いいつも通りの天気で、車から降りたら
帽子なしではとても歩けないくらい強烈な暑さだったのですが、
そんな日中でも日陰に入ればひやっとするくらい。
空気が乾燥していて(今年は雨不足で一層)、寒暖の差が激しいので、
皮ジャンパーの人とタンクトップの人がどちらもいるような、
それがベイエリアの夏の気候というものなのです。 

右腕には「LSO pacific fleet」 というパッチがありますが、
この「LSO」は、「Landing Signal Officer」、甲板の信号員のことのようです。
「Sさん」は信号員ではなかったと思うのですがこれは一体?

とにかくこのジャンパー、長年着込んでいるらしく、
裾のゴム部分が伸びきって破れているのが印象的でした。
わたしが奥さんだったら、これくらい直して差し上げるのに・・・・。


もしかしたら、夫や父が海軍にいたことなどあまり関心を払わない家族に囲まれていて、
このジャケットも、ボランティアの解説に出かけるときだけ出してきて着込んで行くだけの
「仕事用ユニフォーム」となっているのかもしれませんし、そもそも
連れ合いがいたとしても、まだご健在かどうかと訝られるほどのご高齢ではありますが。


さて、それはともかく、このフェンスのようなものは、
「ブラスト・スクリーン」という説明だったので、つまりこれはカタパルトの後方、
航空機がジェット噴射を受ける部分にあり、狭い甲板上で甲板員が
発進の際のブラストを受けないようにするための防御壁だと思います。

今のカタパルトは、これが発進に際して立ち上がるようになっていますが、
このころのは垂直に突き出してくるようになっているように見えます。

いずれにしても航空機の射出のたびに出したり引っ込めたりできないと、
タキシングの邪魔になってしまいますね。



カタパルトの上にセッティングされているのはF-4でした。
塗装の塗り替え中のようで、全身真っ白のファントムIIです。
ファントムIIは「ホーネット」では運用されたことがないようですが
そんなことはどうでもよろしい。

床部分から伸びてきた「ブライドル」といわれる牽引具が、
黄色い接続具によって機体にジョイントしています。


カタパルトで航空機に推進力を与える動力は二種類あります。

スチームの圧力を送り込む「スチームカタパルト」、そして第二次大戦時、
アメリカが採用していたのが「油圧式カタパルト」です。
エセックス級空母から、改良型の油圧式カタパルトが採用されるようになったので、
ここにあるカタパルトは油圧式の初期の形ということになります。


圧搾空気でオイルをシリンダーに高圧の作動油として送り込み、
滑車やケーブルでその動きを拡大し、甲板の溝にはめこまれたシャトルを引っ張る 

というのが油圧式カタパルトの仕組みですが、これは

 

肝心のカタパルトトラックとどうつながっているのか、写真のポイントが甘くて(−_−;)
写っておりません。 すみません。
とにかく、これは「Holdback Pendant」ということですので、
誤作動による航空機の射出を防ぐために接続しておくもののようです。

まあ、誰も乗っていないのにいきなりシャトルが走り出したら、
機体を海にぶん投げることになりますから・・。 



U字型に見えているロープは、その先が「シャトル」と呼ばれる
溝にはめ込まれた牽引具に連結されています。



シャトル拡大図。
航空機が空中に射出すると自然にロープは外れる仕組みですが、このとき
ロープが海に飛んでいかないように(多分)、ロープは金具と紐で固定されています。



シャトルが引っ張るブライドルは、航空機の下に付いているフックに掛かっているだけ。
実際に見ると、よくこんなのが射出時にうまいこと外れてくれるものだと思いましたが、
シャトルがレールの端まで走行して到達すると、航空機にはすでに慣性の法則で勢いがつき、
必ずこのフックからロープは外れるようにできているようです。

何かのはずみでロープがかかったまま離陸してしまい、次の瞬間甲板に機体が叩きつけられ、
という事故が一度もなかったらしいのはさすがアメリカの技術力といえましょう。



そういえばここに転勤する士官のブーツを乗せて「射出」している
お茶目な写真があったなあ、と思いながら、わたしはこのことを
説明している「Sさん」に聞いてみたくて仕方がなかったのですが、
あまりにもくだらなくて理解してもらえないかもしれないと思い、
すんでのところで堪えました。

カタパルトの説明が終わった後、「Sさん」はわたしたち4人を
艦橋の前方に置かれているF-8、クルセイダーの前に連れて行きました。



いくつかある甲板の航空機の中で、わざわざこの前に来たわけは、
彼が

「わたしは、現役時代この飛行機に乗っていたんです」

といったことでわかりました。
気のせいかもしれませんが、「Sさん」はこのことを言うとき、
他の三人ではなく、明らかにわたしの方を振り向きました。
日本からわざわざ(っていうわけでもないけどまあ一応)、アメリカ海軍の
史跡を見に来て、しかも「ボノム・リシャール」の読み方も間違えなかった
(何も知らないアメリカ人ならおそらく『ボンオム・リチャード』と読む)女性、
しかもエキストラツァーにまで参加しているとなると、

「よほど海軍について関心があるのだろう」

と彼がこの時点で思ったとしても不思議はありません。
まあその通りなんですけどね。


その後は、まあ当たり障りのない航空機の説明があり、同行の男性が
何やら少し分かっている風の質問をしていましたが(よく聞き取れなかった)、
すぐにそれも終わってしまい、皆で艦橋に向かいました。

わたしはここでせっかくのクルセイダードライバー、ベトナム戦争のベテランという
海軍史の生き証人を目の前にしているのだからと、引っ込み思案に鞭打って(笑)
思い切って話しかけてみました。

「クルセイダーもやはりMiGと戦うために開発されたのですってね」

「そうですよ」

「もしかしたら、クルセイダーでMiGを撃墜したナージ中尉をご存知ですか?」

2年前にこの甲板で見たチャンス・ヴォートの「救世主」であるクルセイダーについて
書いたことがあり、しかも、サンダウナーズという日本人にとっては
微妙な感慨を抱かせる飛行隊にいたMiG撃墜のエース、アンソニー・ナージの名前を
記憶していたわたしは、なんとなく尋ねてみました。

すると、「Sさん」の表情が大きく動き、

「ナージ・・・・わたしは彼を知っていますよ」

こんどはわたしが驚く番です。

「実際にお会いになったことがあったのですか!」

アンソニー・ジョン・ナージ中尉は1940年生まれ。
1963年に海軍兵学校卒業です。
ベトナム戦争であげた功績、

「空中戦における卓越した飛行技術、模範的な勇気とその決断力に対し」

シルバースター勲章、十字勲章二回を授与されている海軍軍人は、
もしかしたら「Sさん」と同じくらいの歳かあるいは少し下でしょうか。

「彼は・・・いい人(good man)でした」

わたしの知らない海軍基地の名前をいい、そこで会った、といいます。

「驚いたな(exciting)、どうして彼の名前を」

「先月ニューヨークの『イントレピッド』に行ってきたのです」

正確には、その少し前、「イントレピッド」とナージ中尉について調べ、
ブログのためのエントリを書いたばかりだったんです、 なんですが(笑)

しかし、この「Sさん」、解説員としてもあまり立て板に水というタイプでもなく、
訥々と喋ってはすぐに

「何か質問は」

と見学者に丸投げしてしまう傾向があり(笑)、おそらくはもともと
無口な人らしく、エキサイティングとかいうわりに話はそれ以上にもならず、
わたしはさらに無口な人と会話を弾ませるほど英語が堪能なわけでもないんで、
話はそこで終わってしまいました。

同行の3人が、Sさんにお礼を言って、ハンガーデッキへの行き方を
尋ねたため、会話が中断されてしまったこともあります。

しかし、この短い会話は、どうも「Sさん」にはそれなりに印象的だったようです。

わたしが同行の三人に押される形で狭い艦橋の入り口を入り、
ハンガーデッキに降りるためのエスカレーター(今は動いていない)の前で
最後に後ろを振り返ってみたら、三人の頭越しに背の高い「Sさん」は、
しっかりわたしの目を見て、明らかにわたしに向かって手を振っていました。

「Thank you.」

わたしも手を降り返し、心の中で、どうぞいつまでもお元気で、とつぶやきました。
 

 



 

 

平成27年富士総合火力演習 後段演習

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少し他の話題をお送りしていましたが、本年度の総火演において、
15分の休憩を挟んで行われた後段演習の様子をお話ししておきましょう。

本来ならここで音楽演奏が行われることになっていたのですが、
このときも、開始までの間も、雨脚が強くなったため音楽隊は出演しませんでした。
この日の音楽隊は、すべて演習が終了し、展示装備の準備ができるまでの間、
雨がこのころは上がっていたのでようやく出番となったしだいです。

履帯外れ事故のときのように、いつ出演が要請されるとも限らないので、とにかく
何があっても現場に待機していなくてはいけないというのが彼らの宿命なのです。



予行演習ではありますが、観閲式の時のように「総理大臣」と大きなプラカードを下げた
偽物を使うのではなく、ちゃんと防衛政務官を招待しておりました。

これらの演習は、政府の視察の元に行われるという建前があるからです。

で、周りのお嬢さん方が「誰?」「あれ誰?」とひそひそやっていたこの人物、
どこかで見たことがあるなあと思ったら石川博崇防衛政務官じゃありませんか。

このいつも張り付いたような笑いを浮かべている創価大学出身の公明党議員が、
よりによって防衛大臣政務官であるというのはなんだか微妙な気がしますが、
ご本人のモットーも「備えあれば憂いなし」だそうなので(笑)良しとしましょう。



本番は知りませんが、こういう政府関係者がだらだら挨拶をして
陸自隊員たちの士気を削ぐということは総火演ではやらないので助かります。
到着したら、司令官である陸将補が演習の準備ができたことを報告し、
これをもって総火演の始まりとなします。



ところで、休憩はわずか15分しかないのですが、その間に席を離れ、
帰ってきたのはいいけれど、自分の居た場所がわからなくなって立ち往生する人が
結構な割合で(わたしの横の通路では3組、延べ人数6名)いたのでした。

演習が始まってから人々の視界を遮る夾雑物と仮す前に、なんとか席に
戻ってもらおうと、案内の係の自衛官は必死の誘導を続けます。

中には故意犯?なのか、「どこにいたのかわからなくなった」といいながら
始まる寸前まで通路に立って話をしていた三人組もいましたが、

「始まりますので早くお戻りください」

と注意されて渋々?後ろの方に戻っていきました。
ぜんぜん前に座っていたんじゃないじゃん。



後段演習が始まる少し前から、フィールドにはすでにいくつかの装備が配置されていました。



中距離多目的誘導弾のうちの「発射装置」がこれ。



12式地対艦誘導弾システム。
SSMと呼ばれる昼夜兼用の対艦ミサイルを搭載しています。



こうやって集めた情報がSSMに送られると、



SSMから放たれたミサイルは、山や谷などを迂回し、それらを越えながら進み、

 


低高度で進入して目標艦艇を撃破するというわけです。

うーん、今どき艦隊戦なんて行われるわけないというのがよくわかる。 




中距離地対空ミサイル。(中SAM)

想定においては航空機を射撃し、撃破するために配備されています。
中SAMの実射はもちろん行われません。
スクリーンでこれも射撃の様子を見せてくれるのですが、高く打ち上げたミサイルは、
飛来している航空機を、上部背面からまるで豆腐のように楽々と打ち抜きます。

というかあの映像でぶち抜かれる飛行機は、どうやって操縦されていたのか。



演習に先立ち、もう何度も見ているような気がするこのような
島嶼防衛における我が国自衛隊の統合及び機動についての説明があります。

シナリオはもちろん、畑岡地区が我が国固有の島であり、そこに敵部隊が
海上から侵攻してくるということを想定しております。

前もって配備されていた装備は、それを迎え討ち撃破するということですね。

その後、侵攻し島嶼部を占領した敵軍を、本土から出撃した我が軍が、
空中、海上から輸送手段を駆使して機動展開をし、最後にその部隊が
敵を攻撃してこれを撃滅、めでたしめでたしという筋書きです。

状況開始に際しては、なんという名前か知りませんが(進軍ラッパ?)

「ドッドドドッド ミッミミミッミ ドッドドソッソソドミドソドー」(固定ド)

というラッパが吹き鳴らされます。
これたしか、下総基地でお昼が終わった時に鳴ってたな(笑)

下総基地といえば、状況は海自P-3C部隊の情報収集から始まります。
でね。
たしか去年はいきなりここでP-3Cから情報を得たF-2が飛来した記憶があるんですが、
本日は雨が降っていたためF-2は飛来しなかったのです。



モニターの映像でお茶を濁されました。



96式多目的誘導弾が海岸に接近する敵舟艇を撃破します。
この後中距離式多目的弾が、奥の赤い凸を撃ちぬきました。

さて、それにもかかわらず(そりゃそうだろう)生き残った敵勢力が我が国に上陸をしてきました。
そこで、我が軍斥候による偵察活動が行われます。



そこで本来次に出てくるのが忍者。じゃなくてOH1ニンジャです。
国産の偵察ヘリとしてはぴったりのこのネーミング。

ただし、この時にはやはり雨のせいかOH-1の出演もありませんでした。
これは、終わってから装備展示のためにやっとこ出てきたOH-1のお姿。
他の日の演習では張り切って倒立とかしていたそうなのに、見られなくて残念です。

それに、多目的ヘリから降りてくるオート(バイク)隊もなかったし、
何と言ってもCHー47からのリペリング降下も無しだよまったく。

というか、私の行った日ってつくづくついてない日だったのね。 



この歩兵車もね・・・本来CHで運ばれて、そこから降りてくるはずだったのに。

このとき、モニターではオスプレイを導入予定であること、そして
航続距離がCHの2倍で静謐性もあり、島嶼部の配置も期待されていると放送しました。

なるほど、兵站への物質輸送という点において、Cの国にはこのような装備はないはずで、
そりゃこんなもの日本に導入されれば困るのは必至だから、共産社民を中心とした
反日日本人たちに指令してオスプレイに限定して反対運動させるでしょうねえ。(説明っぽいな)



あとモニター映像で驚いた、LCAC(えるきゃっく)による戦車の運搬。
観艦式でこれ見ましたけど、うるさかったですよー(笑)



で、なぜか後段演習に対人狙撃が行われたのですが、
これっていつもそうなんですか?



やっぱりこういうので実際に撃つ人は常日頃から成績のいい、
「ゴルゴ」とかいうあだ名のついている隊員に違いない。



遠くからなのに、銃弾が赤く発光しているのでこんなによく見えます。



ただの銃かと思ったら、当たった後人が燃えてます。



大大大大アップしてみた対人狙撃銃のターゲット。
ほとんど穴だらけで、向こうがほとんど透けて見えてるんですけど・・・。



なぜか向こうに向かって撤退~。



先導班が87式偵察警戒車で侵入してきました。
敵の警戒線を突破するため、急襲射撃を行います。



87式は全部で4台、同時に発砲しました。
これをもって敵の警戒線は突破されたという設定。




警戒線を突破して侵入してきた(という設定の)87式。
偵察によって、敵は2段山と3段山に潜伏中と判断されました。


まず、敵の戦力をあらかじめ低下させるための攻撃。
海自が海上から艦砲射撃を行うこともあります。





そこで、攻撃を射撃支援するために74式戦車部隊投入。
味方の攻撃を「射撃支援」が目標です。




そして92式地雷原処理車が処理ブロックを発射。





こんな風に飛んで行って・・・、




地雷を処理。
本日は演習用に4分の1の規模のブロックを使用しているそうですが、それでこれ。
周りにいた人(女性)が

「そんなこと言わずに全部使ってやってくれたらいいのに」

と文句を言っていました。



そうやってみんなで発煙弾を撃ったり、前進射撃をして、いわば
「お膳立てが整った」ので、いよいよ10式戦車が攻撃を開始します。



まるで軽やかにステップを踏むように、バックでスラロームしながら砲を撃つその姿は
優美ですらあります。
こんなことを言ったらなんですが、戦車というのは、特にこの10式の動きは
美しいものだなあと妙な感動にふけってしまいました。



続いて装甲戦闘車科小隊も戦闘に加わりました。



ドウンドウンドウン!の装甲戦闘車ですね。



この攻撃によって、前進を阻む敵は制圧されたそうです。
装甲戦闘車科小隊が陣地変換の間、10戦車小隊らが援護を行います。




そこに敵のヘリコプターがやってきたので撃ち落とす非情の87式高射機関砲。



もうこの辺になると皆が入れ替わり立ち替わり砲撃しまくっています。
もちろん実射しませんが、MLRSなんかも撃ってしまうという設定。
まあ、実戦なら向こうからも当然撃ってくるわけですが(笑)、演習なので

「もうやめて!敵のライフは0よ!」

というまでこちらからだけ一方的に攻撃できるわけですね。
一度、敵のものすごい反撃に遭い部隊がほぼ壊滅状態から巻き返して勝利、
みたいなシナリオでやってくれないかなあ。


ここで中隊長は、これまでの戦況から「突撃可能」と判断し、
一気に畳み掛けて勝敗を決する攻撃に出ることを決意しました。







この頃には会場左手上空にヘリ部隊がホバリングして様子を伺っております。
本日初めて見るような気がするCH-47も・・。



もちろんアパッチもねっ。
突撃部隊の突撃成功の報を受け、ヘリ部隊と一体となって、残存する敵を殲滅するのです。
これを「戦果拡張」といいます。



そこにくさんのナイアガラが・・・。



たまやー。

やはりムービーのキャプチャは画質がいまいちです。



ヘリ部隊は何をしたのだろう・・・・。
と去年も思ったけど、これ、みんなでただ通過しているだけなのでわ。




さすがクライマックスだけあってスモークが派手。



というわけで、本日もつつがなく後段演習は終了しました。
終了してからは展示装備の準備が始まります。


続く。

平成27年富士総合火力演習 装備展示と「ブラックホーク ダウン」

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平成27年度総火演が後段演習まで終了しました。

最後のフィナーレ、敵陣地に特攻、じゃなくて総攻撃を果たし、
見事我が国の領土に進入した敵勢力を壊滅に追い込んだというエンディングを迎え、
恒例に従ってフィールドに一般公開のために装備を並べる作業が始まりました。
車両部隊に先駆けてまずヘリ部隊がやってきます。

まずはAH-64D、アパッチロングボウ。

ヘリを撮るときにはシャッタースピードをできるだけ落として、
ローターが回転している様子を写すようにしています。



ヘリは必ず後輪から着地するものだとわかりました。

次にやってきたのはUH-60JA、原型はブラックホークのUH-60です。
 今回は偵察のオート隊が降りてくるシーンが見られなくて残念でした。

また、この日は曇天のせいで、空中にカメラを向けると画面が暗く、
それに合わせて明るさを調整すると地面に着いた時に明るすぎ、
といった風で、結構写真を撮るのには難儀な日でした。




ところでブラックホークといえば、ソマリア内戦を描いた映画、
「ブラックホークダウン」、みなさんご覧になったことありますか。

一言でにべもなく言ってしまえば、ソマリア内戦に介入したアメリカが、
作戦は一応成功したもののアメリカ兵士がたくさん死んだので撤退した、
という「モガディシュの戦い」を描いたもので、「Blackhawk down」とは、
このときにソマリア民兵のRPGに撃ち落とされたブラックホークの乗員が、

『We got a Blackhawk down, We got a Blackhawk down
(ブラックホークの墜落を確認、ブラックホークの墜落を確認)』

と墜落しながら交信した内容から取られています。

わたしはこれを観直したのが総火演直後だったので、
ヘリから新兵のオーランド・ブルームが落下したり、尾翼をやられて
ブラックホークが一機どころか二機までも同じような墜落をしていくシーンを、
あらためて食い入るように眺めてしまいました。

この映画では、戦闘に行かされる将兵たちが、軍人だから言葉には出さないまでも、
アメリカが他国の戦争に介入することと、自分たちがそのために死なななければならないことの
不条理に対する疑問を各々裡に秘めている様子が、淡々と描かれます。



CH-47も今日は全く出番なし。
最後の総攻撃の時だけ顔を見せましたが、地表に降りるのは初めてです。

本来、歩兵を乗せた車が出てきたり、ロープで降下したりするのですが。



アパッチの向こうに降りようとしているコブラ、AH-1S。



UH-1、ヒューイも今回初めての着陸です。
この角度からみると、ローターマスト前、操縦席のちょうど上と、
操縦席のちょうど下に、薔薇の棘状のツノが出ているのがおわかりですかね。

今回わたしは初めて知ったのですが、これ、ワイヤーカッターというそうです。
進路を妨げる電線やワイヤートラップなどを切断するためについているらしいんですが、
その前にローターが絡まってしまうのではないだろうかと(笑)

UH-60JAの向こうからやってきたヒューイ 。
ロクマルと呼ばれるUH-60にもワイヤーカッターはついているそうですが、
この角度からはわかりにくいですね。



OH-1は、降下前少しお辞儀をするように下を向いてくれましたが、
倒立とまではいきませんでした。



ここまで。気分が乗らなかったのでしょうか。 



ロクマルのパイロットがヘルメットを外して出てきました。
こ、このヘアスタイルは・・・・・・・!

大東亜戦争の頃、海軍飛行隊搭乗員はこんな風に頭のてっぺんだけ毛を残し、
人によってはそれを長~~~~く伸ばしていたそうですが、それとも違う。

そう、これこそ、「ブラックホーク・ダウン」で、ジョシュ・ハートネットが、
オーランド・ブルームが、ヨアン・グリフィズ(ファンタスティック4のゴム男)
が、その他大勢の皆さんがしていた、てっぺん残しヘアスタイル。

絶対に陸自のヘリ部隊の人もこの影響受けて真似していると思います。



上の人はわかるとして、下から顔を出しているのは
目視で運転しているってことでよろしいでしょうか。



戦車長は上?
で、たった今気づいてしまったことがあるのですが、
この隊員の左小指、見てください。
なんか指輪をはめているように見えますよね。

自衛官は結婚指輪をしている人が多い、という傾向について
以前お話ししたことがありますが、これは違うよね。
なぜピンキーリングを?



と思ったら、戦車用のゴーグルのようなのから、鉄兜に変えているこの隊員さん。
この人の左小指にも指輪のようなものが・・・。

全部の写真を確かめたところ、戦車隊の隊員で左手が写っている人は
この二人しかいなかったのでなんとも言えませんが、これはもしかしたら
業務上必要な何か?
それともたまたまこの二人だけがピンキーリング愛用者?

気になったので、どちらの写真も極限までアップしてみたら、
これがシルバーの分厚いリングでお揃いなのよ。

これも「ブラックホーク・ダウン」で、血液型を書いたテープをブーツに貼って
出撃する兵士がいたように、認識票以外の血液型リングだったり?



軽装甲機動車も到着。



99式自走155mm榴弾砲。

自走榴弾砲の中では最も最新型であるこの装備、
ところでお値段はおいくらかご存知ですか?

9億6千万。

そう言われても他の装備と比べて高いのか安いのか、シロートには
まったくわかりませんが、この手の装備の中では高い方だそうです。 



それが、なんと2台も、貨物船沈没事故で海の藻屑となったことがあります。
2001年の船舶事故で調べると、えひめ丸の事故しか出てきませんし、
災害史辞典にも貨物船沈没、と書かれているにすぎないので、
どこの船がどういう状況で沈んだのかまったくわからなかったのですが、
それにしても9億6千万が2台・・・・。



準備をしている間に、視察官である防衛政務官が退場しました。
この人(創価大学卒官僚出身公明党の議員)が常に浮かべている、
貼り付いたようなスマイルの不自然さが、この角度から見るとよくわかりますね。



M110 203mm自走榴弾砲。

アメリカではもうこれも引退している装備ですが、
自衛隊の場合はそういう発表はまったくされていません。

先日コメント欄で「戦車が実際に戦うときには日本はもう終わり」
みたいな話がありましたが、そういう、いわば実現性の薄い想定のために
最新式を備えるよりも、優先することがいくらでもあるってことなんでしょうか。

例の「GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」においても、わざわざ
銀座の土中から敵が出て来たという設定にしたわけは、そうでもしないと
陸上自衛隊が地上戦を行うシチュエーションにならないからに違いありません。



これも隊員が顔を出して操縦していたのでアップ。



155mm榴弾砲、FH-70が到着。
ここまでは自走ではなく、牽引されてきたようです。



牽引から外して、最大仰角に砲身を向けて準備。



NCB偵察車。

NCはヌクレア・ケミカルつまり核と化学、Bは「バイオ」つまり生物。
これらを用いた兵器、NCB兵器に対応する偵察車であり、
放射線保護もされている偵察車ですが、偵察ではなく化学防護戦を想定する
「化学科」に配備されています。

化学科部隊は、あの地下鉄サリン事件にも出動しました。

そろそろ戦車が入ってくる頃ですが、長くなったので次回に譲ります。



ところで「ブラックホーク・ダウン」で、ソマリアのアイディード将軍に近い人間が、
交渉しようとしたアメリカ軍のガリクソン将軍に、

「This is our war. Not yours.」

と言います。
確かにこの戦闘は平和維持を目的にしていましたが、客観的には
他国の内戦にたった一国、アメリカが介入しただけで、その結果ブラックホーク2機と、
貴重な精鋭部隊の19名の命を失うことになりました。
失われたといえば、この戦闘で死傷したソマリア民兵の命は、350名と推定されます。 

しかも、墜落したヘリの乗員と、彼らを救うために危険の中降下した二人の兵士の遺体が、
ソマリア市民によって市中を引きずり回される映像が世界中に公開され、
このことが、介入を決めたクリントン大統領に撤退を決意させることになります。

映画の最後に、戦いから生きて帰ってきた兵士が、また再び戦場に戻る前に、

「国を出る前に言われた。
”なぜ他国の戦争を戦いに行く?戦争ジャンキーなのか?”
奴らにはわからない。なぜ俺たちが戦うか。
俺たちは仲間のために戦うのさ。それだけだ」

と言います。
戦争に正義も悪もありませんが、アメリカの戦争の多くが少なくとも
「道義のない戦争」であったことは確かで、このソマリア介入なども
その一つと言えましょう。

安倍政権が決めた、日本が武力を行使するための三要件の1にあたる、

「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、
又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、
これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、
自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」

という条件でいうと、全くアウトです。
戦争で兵士はそれに命を賭けることが使命ですが、この映画でも、
ベトナム戦争を描いた「We were the soldiers」でも、
彼らは「仲間を守るために戦った」と言うのです。

彼らが命を賭けるのが「自国への武力攻撃」「自国存立の危機」
や「自国民の生命自由(略)の危機」から国を守るためではないことを、
戦う当人たちがよく知っていたからです。

ましてやこのときの名目である「圧政の下貧困にあえぐ可哀想なソマリア人の解放」
のためになど、アメリカ国民である彼らのうち誰が、
好き好んで一つしかない命を捧げたいなどと思ったでしょうか。


日米安保だけで日本はこれからも守られるはず(だから日本は武装する必要なし)、
と本気で思っている人は、ぜひこの「ブラック・ホークダウン」で
意義のない戦争を戦わねばならない軍人たちの内心の苦悩を観ていただくとともに、
アメリカが日本のためにこの頃のように命を落とすことを今後良しとするか、
ぜひ彼らアメリカ人の気持ちになって考えていただくことをお勧めしたいと思います。


このときの戦闘を以って、アメリカは「地上軍の派遣」を実質やめ、
これ以降戦争はドローンミサイルや衛星通信を使ったハイテク化へと変貌していくのです。





続く。

 

エリック・シンセキ~日系アメリカ人三世将軍

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空母「ホーネット」は現在海軍博物館として、そのものだけでなく
広い艦内にたくさんある区切られたスペースを利用して、海軍軍艦をトリビュートした
メモリアルルームのような展示がなされています。

「ベニントン」「ガンビア・ベイ」「フランクリン」

など、だいたい一部屋ごとにテーマが一つづつまとめられているわけです。
それはセカンドデッキといってハンガーデッキの一つ下の階ですが、
立ち入りを禁じられていたさらに一つ下のサードデッキには、後から調べたところ

Brig – the ship’s jail Special Weapons – HORNET carried nuclear weapons Port Catapult Room – houses machinery that operates the catapults Dental Bakery Crew's Mess / Crew's Galley – used by the museum youth Live-Aboard Program Crew's Berthing Spaces -


などがあったことがわかりました。 
艦内監獄、特別兵器室、カタパルト機械室、歯医者、ベーカリー・・。
ぜひ見てみたいのですが、これは「一泊プラン」にでも参加しないとだめかな。

ちなみに、以前少し触れた「ホーネットの幽霊」ですが、英語のサイトだけに

「ホーネットは幽霊が頻繁に目撃されることでも有名」

なんて書いてあったりして、それがテレビ番組などでも取り上げられたり、
「ゴーストハンティングツァー」なんかが企画されているらしいこともわかりました。 

こちらも一度くらいここでお伝えするためだけに参加してみたいんですけどねえ・・。


さて、他の軍艦などについての展示はだいたい艦内でも下の方にあったのですが、
ハンガーデッキから細い階段を上がっていった一段上に

「ジャパニーズアメリカンコーナー」

というのがあるのに気がつきました。
車椅子では物理的にたどりつくことすら不可能な場所にあるのがなんですが、
上がってみてびっくり、そこには日系アメリカ人、特にあの「世界最強」と言われた
日系人部隊「442大隊」にまつわる資料が網羅されているではありませんか。

昨年夏、「ジャパニーズアメリカンセンター」で日系人の歴史を学びましたが、
日系人部隊の資料については、ここが軍艦博物館であることからか、
たいへん充実しているように思われました。



このコーナーの入り口にあったフラッグには、

「アメリカ陸軍情報部」

「第442連隊戦闘団」

「U.S.S. ホーネット」

と記されています。 
アメリカ陸軍情報部というのは第二次世界大戦のときにアメリカ陸軍が設置していた
日系人中心になる情報部隊です。
対日戦における翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問のため、
太平洋戦線に投入されました。

このMISについてはまた詳しくお話しすることにして、今日はこのコーナーができたとき、
ここを訪れたある日系退役軍人についてです。

冒頭写真のアメリカ軍人がその人、

ERIC KEN SHINSEKI (エリック・シンセキ)。

日系人で初めて星4つのジェネラル、陸軍大将にまでなった人物です。
それにしてもみなさん、この写真を見て、アメリカ国旗があるにもかかわらず

「あーこんな自衛官っているよね~空自とかに」

と思ってしまった人はいませんか?
見れば見るほど自衛隊タイプじゃないですか?この人。



エリック・シンセキは日本が真珠湾攻撃を行ったハワイに、
それからおよそ1年後の1942年11月28日、生を受けました。
祖父は広島県広島市江波から移民としてハワイに入植した一世で、
苗字は漢字で書くと「新関」です。

彼が生まれた時、彼の両親はアメリカ国民にとってまごうかたなき

「enemy alien」

に属する人種でした。
この「ジャパニーズアメリカンコーナー」でも縷々語られているように、
442部隊やMISなどの日系人部隊の日系人たちの多くは、
移民しその市民となったアメリカ政府への忠誠を証明するために入隊しました。

シンセキの叔父もまたハワイにあった第100大隊、
そして第442戦闘団の一員として欧州で戦った一人です。
何度かお話ししているように、敵国の血が流れている兵士たちへの懸念は
当初アメリカ政府に色濃くあったわけですが、彼らは比類ない勇気を発揮し、
その捨て身の戦いは歴史に名を残し多くの勲章を得ることで歴史に残りました。



エリック・シンセキが軍人への道を選んだのは、この叔父の存在があったためで、
彼はウェストポイントの陸軍士官学校を卒業し、ベトナム戦争に参加しました。
同時にエンジニアリングの学位も取得しています。

ベトナム戦争に参加した彼は戦地で地雷を踏んで右足の半分を失うという負傷をし、
パープルハート勲章とオークリーフ・クラスター賞を授与されました。
負傷後たった一年休養しただけで、彼はまた現役に復帰したそうです。

シンセキはウェストポイントでの教官職のためにデューク大学で英語の修士号を取得し、
その後も順調にキャリアを積んで米国国防総省、ペンタゴンでのポストと
西ドイツにおける第3歩兵師団を経たのち、准将に昇進を果たしました。
1996年、54歳の時にはヨーロッパにおける米陸軍部隊の最高司令長官となり、
「三ツ星」となっていますが、これも日系米人としては初めてのことになります。


この期間に彼は中央ヨーロッパに展開するNATO軍の司令官も務め、
ボスニアヘルツェゴビナでの地域安定化の指揮を執るなどの活躍をしました。

ビル・クリントン政権のとき彼はついに陸軍参謀総長のポストに推挙され、
このときに名実ともに日系米人のみならずアジア系で初めての4つ星将官、
つまり制服組のトップに上り詰めることになります。



アメリカ軍ではこういうときに上院軍事委員会で適性を審査されたのち、
上院本会議で議員の賛成多数を得ることが慣習となっています。

このときの上院では、あのダニエル・イノウエ議員が
意見を取りまとめ、シンセキは全会一致で承認されています。


ジョージ・ブッシュ政権では陸軍長官として留任したシンセキでしたが、
ペンタゴンの文民指導者との間に齟齬が起こります。
それは、陸軍参謀総長として出席した2003年の公聴会で、

『イラク戦争における戦後処理は数十万人の米軍部隊が必要』

と述べたことでラムズフェルド国防長官、ポール・ウォルフォウィッツ副長官らの
少数精鋭論と対立して表面化し、シンセキは彼らに退任・退役に追い込まれました。

一部報道には、この解任劇にはラムズフェルドの人種差別・偏見、つまりアジア系
(というよりおそらくかつてのエネミー・エイリアンの血を持つ日系)であるシンセキが
アメリカ陸軍のトップであることが許せなかったためである、とも報じられました。

それが本当にそうなのかどうかを立証することはできませんが、
シンセキ陸軍参謀総長の退任・退役式典にに際しては、長官・副長官がどちらも欠席するという
露骨な非礼を働いたのを見ても、信憑性のある意見ではあります。



対立の原因もおそらく「奴がこう言ったからその逆」という理由でラムズフェルド側は
少数精鋭を主張したにすぎないのではなかったでしょうか。
というのも、問題となったイラク情勢は占領後に計画の不備が露呈され、
結果的にシンセキの意見が正しかったことが証明される結果となったからです。


シンセキ大将が追い込まれるきっかけとなった上院軍事委員会の公聴会で、
ある上院議員が

「多数兵力を投入すべきと主張したシンセキは正しかったか」

と質問したのに対し、イラク軍を管轄する中央軍の司令官であるジョン・アビゼイド大将が、

「シンセキ将軍は正しかった」

と明言したのに始まり、何と言っても現場の制服組トップからも同意見が次々と出され、
2006年には逆にこの件でラムズフェルドが更迭されると言う結果となりました。

バラク・オバマはこの件についてのシンセキについて、

「シンセキ氏は権力に対して真実を述べることを決して恐れてこなかった」

と評価しています。
というか、わたしはこの件で「差別する側」の二人がどちらもユダヤ系であったことは
何かの悪い冗談のような気がしています。


 
「ホーネット」の日系アメリカ軍人資料室にはこのようなシンセキ将軍のパネルがあります。
右下の写真には元第442部隊出身のダニエル・イノウエ議員(右端)が見えますね。 

 シンセキ氏は軍退役後早々に、非営利団体「ゴー・フォー・ブローク教育センター」の
スポークスパーソン(全米広報担当)に任命されました。
"Go for broke"とはここで何度もお話ししている日系米人部隊第100歩兵大隊のモットーで
「当たって砕けろ」という意味の日系人英語です。


 
2007年3月、シンセキ元将軍は「ホーネット」の「ニセイ・ベテラン」コーナーを訪ね、
自分のパネルの前で記念写真を撮っています。
ここでシンセキ氏は、ニセイ・ベテランたちが敷いた道が次世代の日系米人にとって
アメリカ軍での成功を可能にしたと改めて強調しました。

ところでこのときシンセキ氏 、65歳なのですが、妙に若く見えませんか?

オバマ政権が発足した2009年、オバマ大統領はシンセキ氏を

United States Secretary of Veteran's Affairs(アメリカ合衆国退役軍人長官)

に指名しました。
これはアジア系アメリカ人初で、閣僚就任したのはノーマン・ミネタ氏に次いで二人目です。
しかし4年後の2013年、CNNの取材で退役軍人病院の診療の遅れによる死者がでているという
問題点が明るみに出たため、オバマ大統領はその調査を親戚長官に命じました。

しかしこの不祥事に対しまず野党からシンセキに辞任を求める声が起き、
シンセキ自身が責任を取る形で昨年、2014年5月に辞任してしまいました。

この不祥事の原因は、退役軍人の医療費が膨れあがったので、その抑制のために
診療待ち時間を減らした施設の幹部にボーナスを出すことにしたことでした。
つまりこの報奨金のために「偽の待機者名簿」を提出する病院が続出し、
実際に診療の必要な退役軍人たちが自分の順番が来るまでに死亡してしまう、
ということが起こったのです。

いずれにしてもこの件は、オバマ政権に対して打撃となっていると言われています。

シンセキ氏は、退役軍人たちへの忠誠が、自らを辞任することへの推進力となった、
と述べ、辞任が退役軍人たちの利益になると考えればこそ、これを決断したと述べたそうです。

この覚悟に日本の武士道の覚悟を見るような気がするのはわたしだけでしょうか。

 




ハリアーとシュペル・エタンダールのフォークランド紛争~イントレピッド博物館

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イントレピッド航空宇宙博物館について順番にお話ししていますが、
今日は2機の飛行機についてです。


British Aerospace/McDonnell-Douglas AV-8C Harrier 1969

これは珍しや、迷彩塗装のハリアーです。
垂直、バーティカルに上がることができるという艦載機にとっては願ってもない
便利な機構を持ったこのイギリス製の航空機、インピッドによると

「ジャンプジェット」

とその機能を一言で説明しています。

最初のハリアーは1967年の12月には初飛行を行なっており、それから15年後には
ブリティッシュロイヤルネイビーが、フォークランド紛争にも投入しています。


海兵隊は1991年の「砂漠の嵐作戦」(湾岸戦争において、アメリカ始めとする
多国籍軍の航空機とミサイルによるイラク領南部とクウェートへの空爆作戦)
において、アメリカ軍としては初めて、ハリアーを実戦投入しました。

ここにあるハリアーはアメリカ海兵隊が注文したオリジナルで、
マクドネルダグラス社によってよりパワフルなエンジンに換装し、
アップデートされて「リ・デザイン」されたAV-8Cモデル。

国立海兵隊博物館(っていうのがあるんですね)から貸与されています。


ハリアーはそのユニークな能力ゆえ、数々の「blockbuster」に登場しています。
007、ジェームスボンドの「リヴィング・デイライツ」(1987)では
西から東に要人を脱出(?)させるため使われ、またシュワルツネッガー主演の
「トゥルー・ライズ」(1994)では、戦闘機の着陸シーンのために、
海兵隊から借りたハリアーIIを使って撮影が行われています。


ちなみに「blockbuster」という言葉ですが、これそのものは大型高性能爆弾のことで、
転じて映画で大ヒットした作品のことをいいます。
昔はアメリカには街のあちこちに「blockbusters」というレンタルビデオ屋があり、
わたしも会員だったものですが、今アメリカは本屋ですらなくなってますからね。
って関係なかったですか。
 
ところでこのハリアーは、砂漠の盾作戦の際、わずか31歳で殉職した

Captain Manuel Rivera Jr.

をでディケートしているという説明がありました。

 

名前からもわかるようにプエルト・リコ系アメリカ人であるリベラ大尉は、
移民の両親の元、ニューヨークのサウスブロンクスで生を受けました。
学業優秀で、大尉に昇進したときにもNASAの宇宙飛行士として候補に挙がるほどでしたが、
彼はそれを断り、砂漠の盾作戦に参加する部隊に行くことを選んでいます。


1991年、ペルシャ湾オマーンでの訓練飛行において、リベラ大尉は、
乗っていたハリアーが強襲揚陸艦「ナッソー」にクラッシュして死亡しました。
キャノピーの結露のせいで、水平線を見失ったのが原因ではなかったかと言われています。

ハリアーの初期型は特に操作が難しかったということですが、
リベラ大尉の事故原因なども、これに続くハリアーIIの安全対策に生かされ、
同じ事故を起こさないための教訓が生まれたに違いありません。


死後、リベラ大尉はパープルハート勲章を始め数々のメダルを叙勲され、
出身のサウスブロンクスの学校にはその名前が冠されています。





外国機つながりでこれ。
みなさん、この飛行機ご存知でした?
わたしも結構いろいろとアメリカの航空博物館を見てきましたが、
フランスの戦闘機をアメリカで見たのは初めてのことです。

Dassault Étendard IVM 1962

ダッソーのエタンダール。
エタンダールとはフランス語で「軍旗」を意味します。

フランス海軍が艦載のための軽戦闘機を要求し、98台が生産されて
1962年から2000年まで運用されていました。
フランス海軍にとってこれが最初の国産艦載機となりました。



レバノン内戦(1983~4年)では地対空ミサイルに被弾して被害を受け、
ユーゴスラビア紛争(1993年)、コソボ紛争(1999年)にも投入されています。

このシェイプから容易に想像されるのですが、エタンダールは低空での高速飛行が得意でした。
1978年以降には「シュペル(スーパー)エタンダール」が開発され、
イラクーイラン戦争、(1980-88年)、そしてフォークランド紛争(1982年)にも参加しました。



マリーンと書いてあるので海兵隊かと思ったら、これはなんのことはない、
フランス語で「海軍」、つまりフランス海軍のサインなんですね。

このエタンダールは当博物館が、フランス退役軍人会を通じて
フランス政府から直接貸与されているものだそうです。



ところで、ハリアーとエタンダールが並べて展示してあるのには、
キーワード「フォークランド紛争」つながりではないかとわたしは思いました。


どちらの機体もフォークランド紛争に投入されており、
もしかしたらここに展示されている二機は、一緒に飛んだことがあったかもしれませんし、
さらにはNATO(North Atlantid Treaty Organization)か、あるいは
同盟国の関与した任務において、同じ任務を果たしていた可能性もあります。

しかしそれだけではなく、この両機の派生形が、フォークランド戦争において、
実質互いに敵味方になっていたと聞いたら、皆さんは少し驚かれるでしょうか。



ここでフォークランド紛争について簡単に説明しておきましょう。

アルゼンチンは、自国で「マルビナス諸島」と呼ぶフォークランドの島を巡り、
長年イギリスと領有権を主張し合っていました。

この均衡が破れたのは、1982年にアルゼンチンが国境の南端を超えて
サウス・ジョージア島に軍隊を侵攻させ、民間人を上陸させた時です。
(アルゼンチン政府の内政の不満そらしのためだったという説濃厚)

アルゼンチンはすぐさま実効支配に入ったのですが、イギリスはこれに対し、
自国の領土を守るため軍事力を発動することを選択し、戦争が始まりました。

イギリス海軍のハリアー部隊は、派兵が決まったとき、まずフランス軍に支援を依頼しました。
敵であるアルゼンチン軍はフランス製のシュペル・エタンダールを運用していたので、
製造元でありその長所短所を知り尽くしているフランス空軍に、
エタンダール必勝法のためのトレーニングをしてもらったのです。


アルゼンチン軍のシュペル・エタンダールは、その当時アルゼンチンが
フランスのダッソー社から購入したばかりで、ついでにこれもフランス製の
エグゾセ(Exocet)ミサイルAM39(MBDA社)を5発搭載していました。

このシュペル・エタンダール2機が放ったエグゾセ・ミサイルのうち1発が
イギリス海軍の駆逐艦「シェフィールド」HMS Sheffield,D80に当たり、
「シェフィールド」はその後沈没しています。

そして一連の戦闘において、イギリス軍のハリアー(シーハリアー)は
爆撃中に対空砲火によって、ハリアーとしては初めての戦没となり、
さらにはその翌日、悪天候の中、シーハリアー同士がおそらく空中衝突で
一気に2機が失われることとなりました。

フォークランド紛争は、第二次世界大戦後に起こった初めての西側諸国同士の
戦闘であったため、このハリアーとエタンダールのようなことがいくつか起こりました。

アルゼンチンは当のイギリスから兵器を一部輸入していましたし、
エタンダールの例のように、両軍ともアメリカ、フランス、ベルギーなどの兵器体系を
多数使用しており、同一の兵器を使用した軍同士の戦闘になったからです。

つまりそれだけ相手の兵器について知悉しながら戦っていたため、
少なくともハード面において、両軍は「同じ条件」で戦ったことになります。
しかし、ご存知のように、結果はイギリス側の圧勝でした。


なぜだったと思われますか?

はい、これはいわば”集団的自衛権の勝利”だったんですね。
英陸軍特殊部隊の経験が豊富だったことや、長距離爆撃機の運用が成功したことが、
イギリスの勝利に大きく寄与したというのはもちろんですが、
なんといっても、最大の勝因は、

同盟国アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受け、情報戦を有利に進めたから

だったのです。
衝突が起きた時、南米諸国は、相互に領土問題を持つチリを除き、
一応口ではアルゼンチン支持を表明しましたが、
実際に軍隊を派遣した国は一つもありませんでした。

「メスティソ」、つまり”白人の国”として自らを「南米のヨーロッパ」と称し、
内心、他の南米諸国を蔑視する傾向のあったアルゼンチンは、こんなところで
人望のなさ(つまり嫌われてた?)が露呈してしまったということだったのかもしれません。


しかし、比較的親アルゼンチンであるペルーからは、この戦争を
「帝国主義との戦い」と位置付けた義勇軍も参加しましたし、ペルー政府からも、

ミラージュIII(フランス製ですね)

が10機、有償にて調達されました。(結局間に合いませんでしたが)
アルゼンチンは、こういう事態になって、自分が南米諸国の一員であることを
改めて自覚せざるを得なかったのではないかとも言われています。


何かと「日本が孤立する!」と叫ぶみなさんは、本当の孤立というのは
フォークランド戦争におけるアルゼンチンのことをいうのだと認識していただきたい。

たとえ中国と韓国と北朝鮮から孤立しても、中国と韓国と北朝鮮との間にしか
領土と拉致の問題を持たない我が国としては、何の問題もないということもねっ!




さて、戦争は終了し、イギリスとアルゼンチンには国交が再開しましたが、
じつはフォークランド諸島における領有権問題はいまだに

未解決のままなのです。

驚きましたか?今わたしも驚きました(笑)
つまり、アルゼンチンは今もフォークランド諸島の領有権を主張しているんですねー。

映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙」(だったっけ)で、
サッチャー首相が、戦死した一人一人の家族に宛てて、自筆で
お悔やみの言葉を書き綴るシーンがありましたが、英国首相として

「イギリスは決して決して決して奴隷にはなるまじ」

という「ルール・ブリタニア」の歌詞通り、自国の領土を侵されたときには
いかなる状況であろうとこれを取り返す、という決意のもとに派兵を決意し、
大勢の若者たち(戦死者256名)の命を実際に犠牲にもしたというのに、
結局領土を完全に取り戻すことはできなかった、ということになるのです。

これは虚しい。虚しすぎる。
今現在の英国民のフォークランド派兵に対する評価を知りたいものです。



さて、ハリアーとエタンダールの話題ですので、最後にフォークランド戦争が
各国の兵器に与えた影響についてひとことだけ付け加えておきましょう。

この戦争の後、実戦を経験していなかったほとんどの兵器が
実際に使用されることによって、評価すべきは評価され、欠点の見つかったものは
欠点を改善すべく軌道修正されることになり、
結果的に、世界の軍事技術は飛躍的発展を遂げることになったと言われています。


実際の戦争が、人類の科学技術そのものを発展させる原動力であるという説は、
フォークランド紛争においても、正しいと証明されることになったのでした。



続く。

 


初めての山形 歯医者と足湯とイタリアン

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週末、山形に2泊3日で行ってきました。
わたしは関西生まれのせいで東北には数えるほどしか行ったことはなく、
山形と福島には一度も足を踏み入れたことすらなかったのですが、
この度ひょんな用事ができたからです。

それは、歯医者。

歯科衛生は、実は体の健康そのものを左右する重大時であると知ってから、
我が家では歯のケアには最大限の注意を払ってきました。
保険適応はしない代わりに、1日ですべての治療を終わらせてくれる歯医者を見つけ、
ずっとお世話になってきたのですが、その先生が心臓病で倒れ、復活してきた後に
自分の体がうまく動かないことへの苛立ちか、スタッフを怒鳴ったり、
あるいは治療にミスをするなどということが相次いだため、
そろそろ医院を替え時かなと家族で話していた矢先、見つかった先生は、

「悪くなってからくるのではなく、悪くしないための治療」

をすることで全国的にも有名になった山形の歯科医院でした。

TOが見つけてきてわたしも共感したこの先生のポリシーについては
もしご興味があればこちらを見ていただくことにして、

予防歯科 日吉診療所

とりあえず最初の診察のために、わたしは一人で東北新幹線に乗りました。

 

東京駅から東北新幹線「とき」で終点新潟まで。
実はわたしはこの路線に乗ったのも生まれて初めてです。
越後湯沢ってここだったんだーと思いながら日本列島を横断し、
新潟からは「いなほ」に乗り換えます。
「いなほ」はご覧の通り、大変ゆったりしたシート。



しばらく走っていたら日本海が見えてきてびっくり。
山形に行くのに、まず日本海まで突っ切るとは知りませんでした。
やはり太平洋とは海の色が違う気がします。



山形県の酒田駅に到着。
台湾の台南駅に佇まいがそっくりです。
というか、向こうがこちらにそっくりに作ったんですね。




酒田駅前には駅モールはもちろんスターバックスなどありません。



タクシーの運転手さんは「日吉歯科」と言っただけで連れて行ってくれます。
それだけこの歯科医院のために酒田まではるばる遠くからやってくる人が多いのです。



まず診察に入る前に、20分くらいのビデオを見せられます。
おもに虫歯と歯周病になる原因について、そして口中にどれくらい菌がいるか、
調べることから治療は始まるということを説明します。

ミュータンス菌は知っていましたが、このラクトバチラス菌は知りませんでした。



第一回目は治療らしきことはしてもらえません。

「歯が痛いのに何もしてくれなかった」

と昔は怒る患者さんもいたそうです。
この日にするのは、レントゲンを撮り、詳細な歯の写真を撮り、
(専門のカメラはニコン製で、黄色いNikonロゴ入りのカメラケース入り)
検査のために唾液を採取します。



唾液が多ければそれだけで虫歯になりにくいそうで、小さなビーカーに
パラフィンの味のないガムを噛んでは唾液を吐きだしては溜めてゆき、
その量、pH、そして菌の有無を測るためにそれをしてこの日は終わりです。

それだけのために、というか、そもそも山形まで歯医者のために通うというのは
大変なことですが、来年には汐留に診療所分院ができる予定であることで
この医院にお世話になることを決めました。

先生がレントゲンと写真を見て初診をしてくれたのですが、ショックだったのは
虫歯の治療のために神経を抜いてしまい、セラミックの歯を被せるというやり方は、
うまくいっていればいいけれど、わたしのはレントゲンを見る限り形が合っていず、
そこから新たな虫歯になる可能性がある上、神経を抜いてしまっているので
もしそうなったら痛みもないまま進行してしまうかもしれないという言葉でした。

今のところわたしには一本も欠損した歯はないのですが、
このままでは将来どうだろうかといったところです。

かぶせたブリッジのやり直しを含めて見てもらうことになり、次の予約を取って、
近くのビジネスホテルに泊まりました。



ホテルの窓から見た周りの景色。
いやー、本当に何にもないっす。
街並みも、わたしが子供の頃の神戸の住宅地そのままの懐かしさを感じさせます。



次の日、前日深夜に到着した家族と合流しました。
息子の診察予約時間まで、郷土出身の写真家、土門拳の美術館を見学です。



まるで水の上に浮いているかのような美術館の建物はおそらく安藤忠雄。



本当に田舎、という酒田ですが、それだけにこんな素晴らしい景色が広がっています。



土門拳の作品、ことに戦前の海兵団や従軍看護婦、出征兵士たち、そして広島の原爆被害者、
そんな写真を見ていると、戦前の日本人の方が人間が上等だったというか、
一人一人が貧しいけれど美しい佇まいをした気がしてなりません。

昔の人にはあって、今の日本人が失ってしまったものって、それではなんなのだろう・・。
そんなことを、帰ってきた時東京駅の雑踏でも思わずにはいられませんでした。



土門拳の作品の中でも「子供」は重要なモチーフです。
炭鉱街で遊ぶ子供達、着物を着て傘を回す子供達。
子供の持っている目の輝き、これだけは現代も同じであると思いたい。

お母さんと池の鯉のためにわざわざパンの耳をやりにきた姉弟。




彼らがやってきただけで全鯉が集まってきました。
ここに落ちたらピラニアのように食われるのではないかというくらいの勢い。



ここの鯉に餌をやるのは、近隣の子供達の楽しみの一つのようで、
いくつかのグループが現れては餌を与えていました。




お昼ご飯は、地元銀行の方に酒田で一番美味しいフレンチをご紹介していただきました。
サザエのつぼ焼きがある!とおもったら、これはエスカルゴ風に、
バターとブイヨンで味付けしてあり意外なおいしさでした。



メインはマトウダイを選びました。
さすがにグルメな方の推薦だけあって、なかなかのお味でした。



息子の診察が終わり、わたしたちは本日のお宿に向かいます。
これから何度となく来ることになる山形ですが、この日は初めてのため、
家族旅行をついでにすることにしたのです。

まず、酒田からあつみ温泉(温海とかくらしい)に移動。
このときに乗ったのがこのとおり超カラフルな列車。



カフェ付きの列車で、カフェ車両にはこんなコーナーがありました。
「きらきらうえつ」というのが、驚くなかれこの列車の名前です。
 テーブルでお茶のセット500円など頼み、田園の景色を見ながら行くこと40分。 



THE日本の温泉街、という感じの、どこかで見た景色。
お宿もどこかで見たことのあるような大きな温泉ホテルです。



街中には無料の足湯と、



このような足湯カフェがあります。



足湯カフェで足を温めながら(というか、ずっと浸けていられないくらい熱い)
お茶を飲んでいると日が暮れてきました。

 

どうせ巨大温泉旅館の料理なんてどれも同じなので、 今回は夕食は頼んでいません。
足湯カフェでロコモコプレートやお子様ランチならぬ「大人様ランチ」
といったノリのもので済ませました。



温泉街の夜は風情のあるものです。



こちらは街の無料足湯。
足湯というものができたのは割と近年のことだと思いますが、
このちょっとした楽しみがあるとないのでは、若い人の集客が
全く違ってきそうです。

カフェの物販コーナーでこんな素材のバッグや小物を売っていました。



これらは「しな布」といい、シナの木の樹皮を使って作った日本最古の布でできていて、
手織りしかできないため大変高価です。
写真のバッグはどれも3万円!

わたしはバッグではなくシナ布で作った小さな花のブローチを記念に買ってもらいました。




ホテルの売店で見つけた「つや姫」のパッケージ、これは!

今大変巷を騒がせているデザイナー、佐野研二郎さんのデザインではありませぬか。
このデザインの良し悪しはさておいて、これは代理店に依頼したら
佐野氏が代理店経由で「勝手に」デザインしたもの、ということらしいですね。



さて、次の日、あつみ温泉から2両のローカル線に乗ります。
この写真を撮っていたら大きな汽笛を鳴らされました。
こういう路線の運転手さんは、さぞ日頃「鉄オタ」の行動に悩まされていると思われ。



目的は鶴岡。
徳川四天王の筆頭、酒井忠次の酒井家が約250年にわたり統治した城下町です。



駅前に米を担いだ男性とその家族、的なモニュメントがありました。
それが、このほとんど人通りのないロータリーで、(左のモールらしき建物は使われておらず無人)
大音響の民謡みたいなのを鳴らしながら回転しています。

「あの・・・うるさいんですがこの音は」

しばらく我慢していましたが、あまりの耳障りさに呟いたとたん音楽は止みました。

「あ、止んだ」

「時報かな」 

周りに住んでる人から文句が出ないのかと心配するレベルでしたが、後から調べると
どうも電車が来るたびに鳴っているとのこと。



駅前から目的地までタクシーで向かいます。
ブティック「ジョン・デリンジャー」、閉店セール。
稀代の強盗、パブリックエネミーNo. 1を店の名前にしてしまいますか。
まあ、パスタ屋に大泥棒の名前をつけてる例もありますが。



わたしたちの目的地はここ。
山形のみならず美味しいことで有名という話のイタリアン、アル・ケッチァーノ
・・・・のデフュージョンライン、イル・ケッチァーノ。



こちらが第一号の「アル」の方ですが、予約多過ぎで、
並んで待つ「イル」に挑戦することになったのです。

ちなみに、ここの物販は「ウル・ケッチァーノ」といいます。 
・・・・物販だから。 



山形の新鮮で美味しい食材を使ってのイタリアン、という触れ込みの割には、
周りの環境はこんな感じ。
産廃工場が目の前にあるのに地元のNo. 1イタリアン店とは、よほど実力があるのでしょう。
立地条件には全く頼らず味だけで勝負!ということですね。



幸い全く待たずに席に着くことができました。
ここの売りは「野菜がとにかく新鮮で美味しい」こと。




家族で1つ注文したピザ。



アンチョビとキャベツのパスタ。



辛めのペンネ・アラビアータ。
どれも大変美味でしたが、わたしの住んでいる地域はイタリアンの激戦区で、
これは美味しい、というピザを食べさせるお店がたちどころに数カ所挙げられるほど。
ここがそれらのどこよりも勝ると言う風には思えませんでした。



一番感心したのがジェラート。
山形ならではの「ずんだ」を使ったジェラートは絶品でした。



鶴岡は城下町ならではの遺跡を多くのこす趣のある街です。
そんな史跡が移築され一堂に集められた致道博物館に行きました。
庄内藩主酒井家の御用屋敷だったものを博物館として公開したものです。。
重要文化財の西田川郡役所。中は博物館になっています。



指定重要文化財の「田麦俣の多層民家」。
豪雪地帯特有の「かぶと造り」と言われる建築様式で、
1822年に建てられたものであることがわかっています。



中の写真は暗かったのでほとんどが失敗でした。
「長話無用」とあるのは電話台でしょうか。
昔は公衆電話も10円で何時間でも話せた時代があったそうですね。



家の主人夫婦が寝ていた部屋、と言うことですが、冬は寒そうです。



ここには酒井氏入国前の最上家時代から高級武士の屋敷がありました。
旧藩主御隠殿北面には庭園があります。
庭園脇に立っていた松の木がどう見ても何かの顔。



致道博物館には和風お食事処があり、なんと偶然にも

「庄内藩 しるけっちぁーの」

があることが判明。
アルケッチァーノの一味?で、ラーメンなどの汁物を出すので「汁」けっちぁーの。
お茶をいただいてついでに名物らしいロールケーキを三人で一つ頼んでみました。
まるで厚焼き卵のようなスポンジケーキは味にコクがあって滋味深かったです。



というわけで二泊三日の旅、帰りはMAXとき(二階建て)に乗って帰ってきました。
これから歯医者のために何度か通うことになる山形にご挨拶のといったところです。

 

「宗谷」~南極料理人

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今日は久しぶりに連休に見学した「宗谷」の話題をお届けします。
(実はまだ全然終わってないのよ)


「士官」に対して、海保ではその他を「科員」というそうです。
ここからは科員用の寝室となります。



科員用寝室は部屋によりますが、だいたいベッドが4つあります。

わたしは長期にわたる集団生活を経験したことがないのですが、
起きている時も寝ている時も他人と一緒というのはさぞかし精神的に来るだろうなと思います。

先日当ブログで海軍兵学校67期の練習航海の写真をあげましたが、その中に
一人になれる空間がないので、大荒れの海にもかかわらず外に出て
煙突に張り付いていた旧兵学校の練習艦隊勤務の乗員が写っていましたね。

個室がもらえる船長や機関長はともかく、その他の船員は時々そういう場所で
一人になる瞬間でもなければとても持たなかったのではないでしょうか。



この部屋の主だった科員は、昭和53年の「宗谷」解役の日、居室の壁に
こう書き残しました。

「偉大な宗谷よ さようなら いつの日か又逢いに来る」

彼はこの年の3月に、あの稚内での「宗谷」の大救出劇に携わった科員です。
2ヶ月後の観艦式の際、海保長官を乗せて、晴れがましい航海を行い、
「宗谷」が引退した後、彼は約束通りここに来ることができたでしょうか。



二人部屋はさらに狭い・・・。
プライバシーなどつまみにしたくともありません。
せめてベッドの上の段で寝たい・・・とか?



しかし狭いながらも楽しい我が家。
気の合う仲間がいれば過酷な船内生活だって苦にならないのさ!

という内容かどうかはわかりませんが、ギターを奏で歌い、くつろぐ科員たち。
ベッドの上の人はこれでくつろぐことができるのかというくらい無理な姿勢ですが、
実際にもこうやって余暇をすごしていたのでしょう。

当時は今ほど喫煙が悪ということにはなっていなかったため、船室で
普通にタバコを吸っていたようです。



あのー、隊員さん、ヅラがずれてるんですけど・・。

南極観測に赴く隊員たち、中でも越冬する隊員たちは、乗船するギリギリに
丸坊主にしてしまい、1年間だいたい散髪なしで過ごしたそうです。

ヒゲも生えま~すぶしょ~お~ひ~げ~♪ ってか?



手前のもベッドだとすればなんと5人部屋です。



軍艦民間船問わずどこの船でもそうですが、甲板に近いところから
階級的に「上」の人の居住区となっていました。
軍隊なら士官、客船なら1等先客。

科員の居住区は「宗谷」でも甲板レベルの士官専用室の階下にあり、
この階には彼らの「食」を支える施設も一緒にありました。
ここは「冷蔵小出し庫」といって、船艙の冷凍庫から出してきた
肉や野菜などの食材をキッチンで使いやすいように入れておいた冷蔵庫です。

ちなみに現在の「冷凍商品」というものはもともと南極観測隊派遣がきっかけで
本格的に実用化されたってご存知でした?




ここも冷蔵庫だと思うのですが、棚の中央に、



サンタのビーフカレー3キロ入りがポツンと置かれていました。
南極観測のために二幸食品が納入していた業務用カレーです。
これ、もちろん中に今も入ってますよね?カレー。

隊員一人の健康を保持する食糧は越冬隊員1人につき約1トンです。
肉、魚、野菜などは冷凍品が主であり、これが1年分積み込まれていました。
食品もお酒なども量はふんだんにありで不自由はありません(生まぐろはないそうです)。

 

キッチンかと思いましたが、そうではなく食器室だそうです。
少し広めの家庭のキッチンくらいの大きさです。



倒れやすいカップなどはこのホルダーにおいたものと思われます。
食器は動揺によって滑り出てこないように、戸棚の中に差し込み式で収納しました。

第一次南極観測隊のとき、「宗谷」は台風に遭遇しています。
揺れ止めであるビルジキールを砕氷の邪魔になるだろうと撤去していたため、
「宗谷」は無茶苦茶に揺れました。

ケープタウン沖で暴風圏内に突入したときには、30°~40°、最大60度まで揺れ、
甲板にいた樺太犬たちが、危うく海に落ちるところだったと言われています。



もしかしたらお皿はシンクで手洗いだったのでしょうか。
・・・・・まさか、多い時で150名分の食器を?



非常ベルみたいですが、どうも電気のスイッチのようです。



そしてこれがキッチン。
冒頭写真のように、マネキンを二人投入して力の入った展示をしております。

調理担当は、海保や半蔵門にある某結婚式場等の民間から、プロのコックが2名隊員として参加します。
「南極調理人」の西村は海保の主計科職員という設定でした。
主計科はその階級が

主計長、首席主計士、主任主計士、主計士、主計士補

となっていて、これもだいぶ海自とは違います。



今夜の献立は鮭のムニエルのアスパラガス添え。
葉物の野菜はありませんが、冷凍野菜や常温で保存ができる野菜なら食べることができます。

昭和基地ではかいわれなどを栽培していますが、その係は「農協」と呼ばれているのだとか。

なぜかテーブルに牛丼と味噌汁がありますが、特別注文か、それとも賄い食?
最初の南極観測隊は総勢130名でしたから、それだけの食を用意するのは大変な作業だったでしょう。



加工品の持ち込みは限られていたため、作れるものは船内で作りました。
見えているパン焼き機は電気式。
電気釜はもちろんのこと、豆腐製造機まで備えていたと言います。

 

キッチン近くの機械室。
キッチンで使うほとんどの器具が電気式だったのでここにあるんですね。



航行中の水は全て汲み置きですが、南極に着けば、氷を加工して水を作ることができました。
これは、ミネラルを含んだとても美味しい水だったのではないかと思われます。
「南極料理人」でも全員がスコップで雪原を丸い形に掘り、雪を集めて水を作っていましたね。

これから観る方のためにあえて詳しくは書きませんが、

「伊勢海老が昭和基地で見つかったんですよ」

「じゃー、今夜はエビフライだな」

「ほかにもあるでしょう。刺身とか。すりつぶすとか」

「えっびふっらい! えっびふっらい!」

・・・という、あのシーンです。 



大きな”ざる”の向こうには圧力釜が見えていますね。
圧力釜がなぜ必要かというと、場所によっては直火では気圧が上がらないからです。



南極だから寒いし、調理人はその点火が使えていいだろうと思ったら大間違い。
インド洋を南下しているとき、太陽は沈まないのですから、猛烈な暑さとなります。
特に左舷側の窓からは24時間太陽が差し込む状態でしたから、
左舷に窓のあるこのキッチンでは、調理に当たる乗員は地獄の釜の中にいるようだったでしょう。

 

科員食堂。
南極観測船当時h、観測隊員用の食堂になっていました。
ゲームボードなどが見えますが、娯楽室を兼ねていました。
クーラーはあったようです。

 

冷蔵庫にステレオ。
このタイプは南極観測船当時からずっとあったものかもしれません。
どちらにも東芝のロゴが控えめに付けられています。 
当時の最新型を、各有名企業はこぞって「宗谷」に納入しました。



納入したと言えばこの色鉛筆もそうです。
この色鉛筆は、第一次越冬隊の立見辰男辰雄隊長が使用したもので、
気温の低い南極でも使用できるように特別に三菱鉛筆が製作しました。

気温が低いと色鉛筆がどうなるのかはわかりませんが、とにかく、
あらゆる有名企業がこぞって南極観測に企業協力をしたのです。
食料品、日用品、観測機器、住宅、衣類・・・・・。
およそ1,000社が南極で使用出来る商品、機器、機材を研究・開発に携わり、
このときに開発使用されたのが緒となって、現在も使われているという例がいくつもあるのです。

東京通信工業所の盛田昭夫、井深大らは、マイナス50度の気温、風速100mのブリザードの中でも
使用可能なバッテリーの受信機を、トランジスタラジオを作った独自技術を生かして提供しました。
この会社は、その後SONYと社名を変えました。

本田宗一郎のHONDAは凍らないオイルを使った風力発電機を開発し、無料で南極探検隊に提供しました。

マイナス50度の世界では、住むところを作るにも鉄や釘は使えません。
日本伝統の木組みによる組み立て式住宅に、断熱効果を得るために檜の板を6枚合わせた
パネルの壁を使用した昭和基地の建物は、東京タワーを建設した竹中工務店が手がけました。
それをアレンジし商品化したものが、現在の「プレハブ住宅」です。



朝日新聞が提唱した一大イベントは、国民に希望をもたらしました。



南極観測に日本が参加することが決まって、「宗谷」が魔改造されたときの
竣工記念パンフレット。

日付は昭和31年10月17日となっています。



「宗谷」の外側につけられていてあらゆる彼女の苦難を知っている船舶番号札。



朝日新聞社が歌詞を公募してできた歌、

「南極観測隊の歌」と「南極の日の丸」。


日の丸の旗なびかせて 地球の果ての南極へ 

小さな船で観測へ 行ってくださる

いさましいおじさまたちへ 

みんなして「ご無事でネ」と祈ります


素晴らしい。素晴らしい歌詞である。さすがは国粋企業朝日新聞社!(もちろん嫌味です)


続く。


 

平成27年富士総合火力演習 痛コブラと痛ニンジャパッチ

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平成27年総火演観戦記、最終回です。



そして90式戦車が展示位置に侵入。



74式戦車に「ここまで」を示すストップラインを先導の隊員が左手で示してます。
車のバックのときオーライオーライとやるのとは少し違う動作です。



87式自走高射自走高射機関砲の車員が、誘導前にどこに停めるか看板を確認。

「あ、ここじゃねーわー。ここ近SAMだわー」




「俺たちはこっちー」



やっぱりタンク的なものって、ここで運転するんですね。
立ったまま目視で運転できるのか・・・。
彼の顔を出しているハッチには透明のガラスのようなものが見えるのですが、
ここから外を覗く(つまり外に出るのはヘルメットの部分)ためのもの?



10式戦車は最後に到着。



12式地対艦誘導弾は、なぜかプログラムに装備の名前が乗っていませんでした。
確か状況のときに「ヒトフタ式」と言っていたような気がするのですが。



展示用にミサイル発射装置を立てます。
発射の衝撃を受け止めるため、車は宙に浮かせて固定するんですね。




やっぱり始まった装備のお掃除。
使い込んだ専用ブラシのようなもので泥を落としています。



ヒトマルは布で丁寧にぬぐってもらっています。



こちらもボディを布で拭き終わった後、



なんとタイヤホイールまで・・・・。
わたしなんか自動洗車機で「拭きあげ推奨コース」を選んでも、
自分で車を拭いたことなど一度もなく、ましてやホイールなど放置が基本。

でも、先日思い切ってホイールコートをしたら自動戦車じゃなくて洗車だけで
OKになり大変楽です。って関係なかったですね。



87式機関高射砲からもう一人出てきました。
三人乗りなんですね。



03式中距離地対空誘導弾。



89式装甲戦闘車。
これも今日は大活躍でしたね。



中距離多目的誘導弾。愛称「ちゅうた」(笑)



96式多目的誘導弾システムの「発射機」。
前にも書きましたが、これはシステムなので、6台の車両でワンセットです。



これが近SAMですよね。

「近SAM」93式近距離地対空誘導弾 


SAMというのは

Close-Range Surface-To-Air Guided Missile

の略となり、他にSAMのついた名称を持つものは、

「短SAM」81式短距離地対空誘導弾、短距離防空用地対空ミサイルシステム

「携SAM」91式携帯地対空誘導弾 愛称ハンドアロー

などがあります。携帯するから携SAMって。(笑) 



87式の三人、今日のお仕事が終わって和気あいあい。
きょうび、一般公開ともなると、自衛官はうかうかしていると
どんなところを写真で撮られているかわかりませんね。




今回、この装備が隊員からはハエたたきとは呼ばれていないことがわかりホッとしました。



というわけで、しばらくして装備の置かれたグラウンドが解禁になりました。
皆なだれ込んでいきますが、なんといっても一番人気は戦車3兄弟です。



ヒトマル戦車をバックに記念撮影。



90式もこの通り。



あっという間に人が倍々で増えていきます。
わたしはあまりにも足元がぬかるんでいたこともあり、またこれだけの人混みの中で
装備を見ても今更あまり得るものはないと判断して、会場を後にしました。



しかし、これは実に中途半端で、まずい選択であったことがのちに判明します。

というのは、今回はシャトルバスに乗らなくては行けない中畑駐車場だったので、
とにかくバスに乗るまでの列に並ぶのに大変な時間がかかってしまったのです。

最初に並びだしてから駐車場に着いたときにはなんと2時間が経過していました。
もし会場が閉鎖されるぎりぎりの2時まで粘っていたら、
もう少し混雑は緩和されていたのかもしれません。



ところで、この写真を撮っていたら、レンズがものすごく曇っているので、
水でも入ったのかな、と思いながら一生懸命設定を変えていたところ、
通りすがりの男の人が

「レンズにビニール袋が詰まってますよー」

と教えてくれました。
雨よけにしていたビニール袋が鞄の中でフードに入り込んでたんですね。
どおりで超フォーカスだと思ったze。(⌒-⌒; )



会場を出たところには売店もあります。
今回わたしは全てを用意して(サンドイッチと水)いったため、
売店の必要はありませんでしたが、帰る前に少し視察のため立ち寄ってみました。


ヒトマル戦車まんじゅうにはかねてから興味を持ってはいますが、いつもこの時間、
こういうものを買おうという気力が(荷物も重たいし)全くなくなっているので
今年も結局買って帰ることはありませんでした。




痛コブラ、痛NINJYA。

倒立するニンジャをかたどった萌えパッチ、確かに気になる。
しかし、もっと気になるお値段はなんと2800円。

そういえば後ろに座っていた人が、

「痛コブラのワッペン売ってたけど高かったから買えなかった」

といっていたのを思い出したのですが、確かに高い。
もしかしたらファクトリーではなく手作業で作っているせいかもしれませんね。

1000円くらいならここで見せるためだけに買ってもいいけど、
これはちょっとなあ・・・、ってことでわたしも買えませんでした。



さて、わたしが参加した総火演、天気が悪かっただけで、
あとは戦車の履帯が外れることも、砲弾のかけらが飛んでくることもなく、
先ほども縷々説明したように省かれた演習内容もいくつかあり、
ある意味一番不運な日であったというべきかもしれません。

その後、中の人に「あの事故」(破片が飛んできて怪我)のことを伺ったのですが、
被害に遭った人たち、飛んできてすぐにはどちらも自分が怪我をしていることに
気づかなかったというのです。
終わってから、あるいはしばらくしてから、

「あれ、なんか痛いなー」

と思って見てみると、体のどこかに傷があったのでこれは、と申告したらしいですね。

「前列でアドレナリン噴出させながら観てたからでしょうかねー」

などと笑いあったのですが、情報では顔とかではなかったようで
(さすがにそれならすぐ気付くだろうと思いますが)
関係者は不幸中の幸いに胸をなでおろしたということです。

「羨ましがる人たちもいたみたいですね」

と、今後の彼らの扱いについて探りを入れてみたのですが、そこのところは
さすが中の人だけあって、

「本当にこの度はご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

とこちらに謝られてしまいました。
いやだから、じゃなくてですね(笑)


シリーズおしまい。 



 

海軍特務艦「宗谷」、引き揚げ船「宗谷」

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いろいろな時代の「宗谷」を今まで語ってきましたが、ここでもう一度
「宗谷」が海軍の特務艦「宗谷」であった時代のことをお話しします。

医大を卒業し、配属命令を受けてある海軍軍医が昭和19(1944)年に横須賀にやってきました。

乗艦する艦名は知らされていません。
埠頭には軽巡洋艦「阿武隈」が停泊していたので、これか!と喜んだのもつかの間、
命ぜられたのは、その横にいた小型でヘンテコな型の船だとわかり、

「こんな格好悪い船に乗るのか・・・・」 

軍医は心底がっかりしたといいます。

 

乗ってみてその嫌な予感は当たっていたことがさらにはっきりしてきました。
砕氷船型の丸い船底のせいでゆれが凄まじく、石炭で走るため、8ノットしか出ない船。
乗組員は「四十八ノット」ならぬ「始終八ノット」と評していたといいます。
通常の艦船の速度の半分で、目的地まで倍の日数がかかるため、常に

「我艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ズ」

と信号を掲げて、船団より先に出発するのが常でした。

 

この軍医に限らず、初めて「宗谷」に乗り込む者は、
彼女が「軍艦」とはほど遠いのを知って一旦はひどく落胆するのですが、
不思議なことに、その気持ちは

「この船に乗れて幸運だった」

いう感激に必ず変わるのです。
戦後の「宗谷」に乗った者も、彼女に対する評価はこの点全く同じ経過を辿りました。

 

昭和20年6月、「宗谷」は「神津丸」「永観丸」とともに横浜港で
飛行機生産用機材を積み込み、朝鮮の羅津(らしん)港に運ぶべく、
岩手県三陸海岸沖を航行していました。

このころは、すでに日本近海も制空権、制海権ともにアメリカに奪われており、
「特攻輸送」と呼ばれるほどそれは危険な任務となっていました。

 
「敵潜水艦を発見!」


「宗谷」が他艦に知らせようとした瞬間、轟音とともに大きな水柱が空中につきあがり、
同行の「神津丸」が真っ二つに割れて轟沈していました。
たちまちばらばらになった遺体や船体の一部が浮き上がってきます。
再び、轟音が轟き、誰かが悲痛な声をあげました。

「永観丸もやられた!」

 

 直ちに「宗谷」は爆雷攻撃を開始しました。
逃げ足の遅い「宗谷」は落下傘をつけた爆雷を人力で海に落とし、
投下するや否やその場から脱出しないと爆発に巻き込まれてしまいます。 

投下後、ズンという鈍い爆発音が響きました。
「宗谷」が投下した爆雷が、敵潜水艦を仕留めた音でした。


戦闘が済んだあとは、生存者救助のためにカッターが降ろされました。
波間に漂う浮遊物や死体の中から、注意深く生存者を救出していきます。
あのとき乗り組んだ軍医は、たった一人で負傷者の救命作業に当たりました。

一刻を争う、まさに修羅場というべき軍医の戦場でした。

自分は彼らの最後の望みの綱だ。
彼らの家族やまだ見ぬ子孫のためにもここで命をつなぎ留めなければならない。

その必死の思いで軍医は救命にあたったといいます。

 

このたたかいを乗り切ったことが、戦後、彼の医師としての原点となりました。
戦後、内地に戻って間もなく、山間の村に医師として赴任した彼は、
自転車一つで村を奔走し、地域の医療に後半生を捧げましたが、
その志を支えてくれたのが「宗谷」での体験であったといいます。

彼は、 医師を引退した時に、寺に頼んで

『宗谷院医王潔海居士』

と、「宗谷」の入った戒名を作ってもらっています。
黄泉(よみ)の国に行ったとき彼は「宗谷」に乗りたいと願っているのです。



 

 

「宗谷」はもともとはソ連からの注文であったことは以前もお話ししました。
砕氷型貨物船とという注文だったのですが、進水後にもいろいろ文句をつけて引き取らないため、
海軍が目をつけて、ソ連と話をつけ、測量艦「宗谷」となったという経緯があります。

「宗谷」は千島列島や樺太周辺の測量、また開戦後はサイパンなど南洋での水路調査を行いました。
最前線の南洋で、浅瀬や防潜網、機雷などを正確に記述した海図を作る役目なので、
敵の偵察機に測量中狙われるという危険も度々でした。

 

昭和19(1944)年2月、連合艦隊司令部のあるトラック島に停泊していた際に、
「宗谷」は米軍機延べ450機もの空襲に襲われました。
魚雷攻撃や爆弾投下で、目の前の僚艦が次々に撃沈されていきます。

 

「宗谷」の砲手は敵機を迎撃しようと奮戦しましたが乗員は次々と機銃掃射で斃れ、
甲板は肉片の飛び散る血の海と化しました。

 
襲い来る敵機の前に「宗谷」は回避行動をとりましたが、その途中座礁してしまいます。
空襲後も夜を徹して離礁作業を行うも、全く動けなくなったことが明らかになったため、
銃弾を撃ち尽くした「宗谷」は「総員退避」せざるを得なくなりました。

 

翌朝、トラック島の鎮まり返った湾内は見るも無惨な光景でした。
アメリカ軍が自ら「アメリカの行った真珠湾攻撃だ」と嘯いたこの攻撃によって
沈没した艦船は50隻にも達したと言います。


しかしその湾に「宗谷」だけがポツンと浮かんでいました。
自然に離礁して、乗組員を待っていたのです。

「なんてやつなんだ・・・・」 


乗組員たちは目に涙を浮かべて彼女の強運を讃えました。

 

しかも艦の状態を調べてみると、損傷は少なく、航行にも全く支障はなかったので、
「宗谷」はただちに負傷者たちを乗せて、内地に向かったのでした。

 
いつのまにか「宗谷」には“不沈船”神話が生まれており、それは
艦内に祀られている「宗谷神社」のお陰という噂もたちました。

 
しかし、「鬼」とあだ名された「宗谷」の砲術長は、


「そんなものをあてにするな! 信ずべきは日頃の訓練のみである!」

と朝晩、訓練に次ぐ訓練で乗員を鍛え上げたといいます。


艦隊行動中、他の間に先駆けていち早く敵潜水艦を見つけたり、
それを爆雷で仕留めたりしているのも、そうした猛訓練の成果でした。
“不沈船”神話の陰には、あくまでも厳しい訓練で鍛え上げた練度があったのです。

 

そして日本は敗戦しました。 

9月のある日、ラジオから

「宗谷乗組員は浦賀擬装事務所に集合せよ」

という放送がなされます。
終戦後も海外に残っていた邦人は、軍人・民間人あわせて7百万人に上り、
その引き揚げのために、残存していた海軍艦艇132隻が全て動員されたのですが、
「宗谷」はその中の一隻となったのです。

 

こうして「宗谷」に戻った何人かの元「宗谷」乗組員にとって、
全てが「我が家」のように懐かしいものでした。

一ヶ月の間に引き揚げのための準備を終えた「宗谷」は
日本中の留守家族の期待を背負って、10月に浦賀から出港しましたが、彼女には
占領軍の命令で、軍艦旗どころか日の丸を揚げることも禁じられました。

 

当時の日本近海に、は米軍が「飢餓作戦」で敷設した磁気機雷が無数に浮遊していました。
帰国途中に触雷して祖国を見ぬまま死んだ引揚者もいたのです。
しかし、磁気機雷が国際条約に違反していたことから、米軍はその公表を禁じ、
その後元海軍軍人の手によって行われた機雷を取り除くための掃海活動についても
そのことが国民に公にされることは最後までありませんでした。 

 

掃海作業は、多くの殉職者をだしながら、
日本人の手によって戦後7年の間続けられています。

 

「宗谷」はフィリピンから1千2百キロほどの西方海上にあるヤップ島に向かい、
そこに駐屯していた陸軍兵士を引き揚げのために収容す任務に当たりました。
彼らのほとんどが栄養失調で、まともに歩けず戦友の肩を借りて歩いている者も多く、
ある者はデッキに上がった途端に感極まって嗚咽しました。

しかし、彼らの多くは極度の栄養失調から胃が衰弱していて、
何人かは米を食べるなり亡くなってしまったりするのです。

「宗谷」ではこのとき初めて乗員の手による「水葬」が行われています。

 

フォリピンを出て何日か後、水平線上に富士山の姿が見えました。

「富士山だぞー!」

船内がどよめいたその瞬間に甲板上に倒れた兵士がいました。
「おい!しっかりしろ!」
その男は、日本の地を踏むその寸前だというのに、
抱き起こされたときにはすでにこと切れていたということです。


「宗谷」の引揚任務は、グアム、トラック、上海、台湾、ベトナム、樺太、北朝鮮などに及び、
3年間で約1万9千人の人々を祖国に連れて帰ってきたのでした。






「宗谷」が灯台補給船から国民の期待を一身に受けて南極観測船になるとき、
修理設計をおこなったのはは戦艦大和を設計した牧野茂が担当したのをご存知でしょうか。

改造修理したのは横浜の浅野ドック。造船所でなく船の修理工場でした。
横浜の造船職人が集められ、それこそ不眠不休で改造修理にあたり納期に間に合わせています。

前回のエントリで、「宗谷」を南極に送ることは当時の日本人の悲願であり、
それを叶えるために各企業が協力を惜しまなかったことを話しました。

新しい船をそのために作るお金もなかった当時の日本でしたが、企業協力だけでなく、
この計画を提唱した朝日新聞社が1億円を寄付すると共に、広く国民に募金を呼びかけ、
小中学学生までが参加して、最終的に1億4千5百万円もの募金が集まったのです。

 「宗谷」の船出を見送った鳥居辰次郎・元海上保安庁長官は、
『宗谷の思い出』でこう述べています。


「宗谷」の南極派遣は、その当時敗戦に打ちひしがれた無残な日本を甦らせ、
一般国民、殊に青少年を鼓舞し、新生日本における精神高揚に、どれだけ貢献したことか。



 「宗谷」は昭和13(1938)年2月16日に進水しました。

川南豊作という青年実業家が、長崎で閉鎖されていた造船所を買収して、初めて竣工した船で、
青雲の志にあふれた彼の口癖は

「会社の金も、自分の金も、国のものである」

というものだったそうです。

 

 彼は、買収した造船所の前社長・松尾孫八を顧問に迎え入れ、社名を
「松尾造船所」と命名して、彼を男泣きに泣かせるような人情を備えた実業家でした。

そうした彼の会社によって精魂込めて建造された「宗谷」。
それから30年後に南極観測船として改造された際の監督官・徳永陽一郎は、

 
宗谷を改造するために、ばらして中身が露わになった時、
あまりにも内部まで立派に造られていたので驚嘆することになった。

 

と、書き残しています。

戦時中、なぜ僚艦が次々と戦没する中、「宗谷」だけが生き残ったのかについては、
「宗谷」が砕氷艦仕様となっていたため、立てる波が必要以上に大きく、
それで魚雷が当たりにくかったという説があるそうです。

しかし「宗谷」が稀代の幸運艦であったのは、戦時中だけに限ったことではありません。


彼女は、彼女を生んだ人々にとって「渾身の芸術品」だったのです。
あらゆる危険を回避することができたのは、乗組員の練度、仕様の堅牢さに加え、
先人たちのあまりにも強い思いが、彼女に強運を呼び込んだという気がします。


 

続く。



前半参考* 桜林美佐著「奇跡の船宗谷」

「ペルシャ湾の帽触れ」ーペルシャ湾掃海における日米共闘

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安保法制反対派が断固として目を向けようとしないのが、

「国際社会の一員としての日本のありかた」

でしょう。 
今の国際社会で、自国の平和だけを唱えて世界の平和維持活動に対しても

「怖いから参加しません。お金だけ出すんであとはヨロシコ」

ってわけにはいかないということをまず議論に乗せもしないのです。

戦後半世紀以上が経ち、占領政策として付けられた憲法をいつまでも
不磨の大典のごとく奉り、自縛された状態の日本に対して、さすがに
その配給元であるアメリカすらもういい加減に変えたら?とすら言っているわけですが、
反対派には都合の悪いことは全く目にも見えず、聞こえない。

最近では拉致された日本人の命より憲法が大事だ、とか、
憲法を変えようとする者はヌッコロすなどと何の疑問もなく言い放つ始末。


ところで、今の何倍もの人数の過激な暴力デモで、犠牲者まで出したのにもかかわらず、
かつて日米安保条約は成立し、今日に至るわけですが、現在、国会前で
デモをしてそれで安保を廃案に出来ると信じている人たちにお聞きします。

日米安保成立前夜、学生を中心としたデモ隊が言っていたように、
日米安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれたでしょうか?


まあ、あの暴動があっても安保法案は成立したのですから、野党の意を受けた所詮
「ファッション左翼」が騒いでも、民意により法案は近々成立すると思いますけどね。



さて、ところで今日は、日本がその憲法に今より一層がんじがらめであるときに発生した
クェート侵攻と、その後起こった自衛隊のペルシャ湾掃海についてお話ししましょう。

これは、それまで自国の平和だけを唱え、すべての平和維持活動にも顔を背けて来た国、
日本国が初めての国際貢献に派遣した海上自衛隊掃海部隊、

それに友情と呼ぶべき協力を惜しまなかったアメリカ海軍の物語です。



平成2年8月2日、イラクは突如隣国クェートに侵攻し、現地在留外国人を
人質として拘束しました。
国際社会はこれを非難し、クェートからの即時撤退と人質の解放を求め、
国連はアメリカ軍を中心にした多国籍軍を編成して軍事行動を行いました。

平成3年の1月から2月いっぱいまで行われた攻撃によって、
多国籍軍は圧倒的な勝利を収めたのですが、この湾岸危機全般に対して
日本は相変わらずの「軍靴の足音が~」な声ばかりが大きな国内世論に足を引っ張られ、
多額のお金を供出したのにもかかわらず、国際社会からは

「命の危険を伴う人的貢献は他の国に任せ、金だけで済ませようとした」

「Too little, Too late」

「一国平和主義」

「経済大国にふさわしい対応を取らなかった」

といった非難が浴びせられました。
戦後、イラクが湾岸戦争に備えて敷設した機雷を除去するという必要に迫られた時、
日本には資金面のみならず人的貢献を求める国際世論が高まると共に、
国内からも経団連、石油連盟、日本船主協会、そして海員組合から

「ペルシャ湾における安全確保のための掃海艇の派遣」

を求める声が高まっていったのです。

その後、国内の鬱陶しい反対論(日本が戦争に巻き込まれるとか・・戦争終わったつの)
を説き伏せる形で日本は自衛隊創設以来、初めての海外実任務として
掃海艇を派遣することが決定されたのは周知のことです。

このとき、ペルシャ湾には数十カ国の国から艦艇が派遣されていました。
日本国自衛隊は、各国と緊密な連携を取り合いながら作業にあたったのですが、
その時の様子を、掃海から15年後に当たる平成18年、

落合 元掃海派遣部隊指揮官  幹候14期

が、在日米海軍司令官ケリー少将の求めに応じて講演の中で語った資料があります。
本日はこの講演内容から、自衛隊とアメリカ軍との協調についてお話ししたいと思います。


■ 多国籍軍との協力

当時ペルシャ湾に派遣されていた各国軍は、

● MIF (Multinational Interception Force Operation)

   イラクに対する海上封鎖作戦

●  MCM ( Mine Counter Measure Operation)

  イラクが敷設した機雷を除去する対機雷戦

に従事しました。
MCMグループ、すなわち対機雷に携わったのはアメリカを筆頭に、
英、仏、独、伊、オランダ、ベルギー、 サウジアラビアそして日本です。

イラクは感応式沈定機雷(マンタなど)、触発式係維機雷( LUGMなど)など、
約1200個の機雷を敷設して、多国籍軍艦艇の海岸線への近接を阻止していたのですが、
この機雷危険海域を5つに区分し、それぞれの担当を分担して除去は行われました。

各国がそれこそそれぞれの国のやり方で啓開を行っていったのですが、その際、
お互いの不足した機能を補完し合って協力し合いました。
各国軍が自衛隊に対してしてくれた協力をまとめてみますと、

オランダ イラクが使用している機雷の性能や今まで彼らが行った処分のノウハウを提供

ドイツ 補給艦「フライブルグ」上でブリーフィングを行って使用機雷から得たデータを提供
    ヘリでの人員や物資の輸送について日本部隊を支援

イギリス 掃海艇の磁気測定のための施設を提供
     WEU(西欧同盟)部隊と日米部隊の調整役を務める

これに対し、日本部隊はドイツに対してヘリへの洋上補給や救急患者の医療協力を行っています。
しかし、何と言ってもこの作戦で日米海軍の協同は大変緊密なものでありました。


■ スチール・ビーチ(鋼鉄の海岸)パーティ

まず調整会議において啓開海域の打ち合わせを行うとともに、相互に連絡士官の派遣を決め、
両部隊間の連絡と調整の円滑を図りました。
会議における調整項目は次の通り。

◯ 掃海作業海域の分担

◯ 米海軍部隊の進捗状況

◯ 日本掃海部隊の作業要領を説明

◯ 米掃海部隊からの機雷状況説明

◯ 米軍部隊が放置した航空掃海具の位置の説明

この会議は大変綿密に行われ、相互に理解し合意するまで喧々諤々と意見を戦わせ、
会議は往々にして夜半を過ぎて2時までかかることもあったということです。

冒頭の挿絵は、米海軍掃海部隊指揮官の(落合1佐のカウンターパート)
ヒューイット大佐が、この時の会議の様子を漫画に描いたものです。

いかにこの時の会議が熱いものであったかということなんですが、
左側の絵は、デスクの左側に「イシイ」「オチアイ」「オクダ」などの日本勢がいて、
右側に「Hewett」はじめ米海軍の名前があるのに対し、5分後という設定の右側の絵は、
なぜか左にヒューイットとオクダがならんでいて、右にオチアイがいます。

わたしたちには少しわかりにくいギャグですが、現実に会議を行った
当事者たちにとっては、思わずニヤリと笑ってしまう的を射た漫画なのでしょう。


最初に日本部隊が掃海に当たったのは、水深が10メートル以下と非常に浅く、
川の河口なので流れ込んでくる砂漠の砂で水中視界が悪いという難所でした。
しかも海底にはオイルターミナルに油を送るパイプがあるので、探知した機雷を
一旦無能化させて、そのあとバルーンで海底から浮上させて、
安全なところまで曳航してから爆破するという、大変な手間を強いられました。

もっとも難所であったというこのような苦労を共にした日米両掃海部隊は、
掃海作業が進むほどに、固い友情で結ばれていったのを実感したといいます。

自衛隊が米軍から受けた支援は次のようなものです。

◯ MH53ーE(ヘリ)による前駆掃海

◯ 対空警戒、対水上警戒

◯ 航空機による人員輸送

◯ 通信及び気象・海洋予報の提供

◯ 米海軍施設の便宜供与

必要に応じ、日本からも米海軍艦艇への燃料の補給(貸付)も行われました。
 
そして作戦の合間に両軍は懇親会(スチール・ビーチ・パーティ)(笑)
を持ち、お互いの健闘をたたえ、さらなる親睦を深めていきました。

共通の敵「機雷」に対し、共に肩を抱き合うようにして戦ってきた一体感から、
それらのパーティは大変な盛り上がりを見せたそうです。 


■ タスク・フォース造りの名人

これらの共同作業によって海上自衛隊は、アメリカの強さと背景にある
強力なlogisticsのちからを思い知ったといいます。 
logisticsというのは日本語で言うと「兵站」ということになりましょうか。
多国籍軍が圧倒的な勝利を収めたのはこのロジスティックスの勝利であるという説もあります。

膨大な量の航空機や戦車をはじめとする装備品を調達・確保し、世界の各地から
中東の現地に運ぶだけでなく、まさに

「必要なものを、必要な時に、必要な場所に」

補給するこの能力にかけてはアメリカはまさに偉大な軍でした。

海上自衛隊の旗艦は「はやせ」でしたが、米軍は旗艦を作戦中4回も変えています。
旗艦の業務というのは指揮通信中枢としての任務はじめ、会議の準備、
各国指令官や業務調整のために来艦するVIPの接遇、他には医療、補給、整備、
ありとあらゆる重要な役割を負っているのですが、この交代をアメリカ海軍は
実に鮮やかにやってのけるのだそうです。

掃海とは関係のない業務をしている艦艇が旗艦に指名されると、その船は
期日に掃海現地に駆けつけて、任務を解かれる旗艦の近くに投錨し、
搭載艇とヘリコプターで約150名の司令部要員、各種種類、機材を
ごくごく短時間で移送するや否や、旗艦業務を始めてしまうのです。

タスク・フォース(という映画がありましたね)、というのは
これは任務遂行のために編成された 部隊という意味ですが(機動部隊じゃないのよ)
落合司令は、旗艦交代だけでなく、隊司令や艦長の交代も洋上で淡々と行事を行
アメリカ海軍は、タスクフォース作りが実に上手な組織だと感心するとともに、
いたるところでアメリカ海軍が予備役の軍人を指揮官や幕僚として
重用しており、彼らが現場で目覚しい活躍をしていたことをもって、
これもアメリカの強さを支えている一つの要素であろうと賞賛しています。


■ 「ストウフ大尉に帽振れ」

日本の掃海部隊司令部に米海軍から派遣された連絡士官はストウフ大尉といい、
彼は「はやせ」に乗艦していました。
三ヶ月にわたってストウフ大尉は両軍の連絡調整を見事に成し遂げました。
日米掃海部隊の共同作業において一件の事故も起こらなかったのは、
彼の功績によるものであった、と落合司令は回想します。

ストウフ大尉は湾岸戦争の戦役が掃海作業中に切れることになったため、
「はやせ」を退艦することになりました。
当日、「はやせ」では幹部自衛官の離任退艦に伴う儀式と全く同様に、

「総員集合」 「感謝状贈呈」「離任披露」

が行われました。
そして、

「総員見送りの位置につけ」「帽振れ」

をもって大尉の退艦を送りました。
「はやせ」の舷門で自衛艦旗に敬礼するストウフ大尉の目には涙が溢れていました。
「帽振れ」の号令で一斉に帽子を振る「はやせ」の乗員に対し、
舷梯を離れていく内火艇の上で、乗員たちに応えるために習ったばかりの日本式の要領で、
懸命に帽を振る彼の姿は、15年経ったあとも落合元指令の脳裏に鮮明に蘇ってくるそうです。

これには後日譚があって、ストウフ大尉はこのあと故郷に帰り、
そこで生まれた町の市民が凱旋を熱烈に迎え、その功績を讃えられました。
彼はそのことを日本の掃海部隊に向けて手紙で知らせ、そして

「我が人生で最良の日であり、海軍軍人になって本当によかったと思い、
国家に貢献できたことを、この上もなく誇りに思う」

と添えてきたのでした。
落合指令は、「アメリカ軍の精強さの根源を垣間見たような気がした」といいます。

国の防衛に携わるものは、国民の絶大な信頼と期待を受けて、国家、国民のために、
国の命令に基づき危険をも顧みず、身を以て任務を遂行します。
国と国民への奉仕を行うことを名誉とし、自分自身の誇りとすることから
強固な使命感は生まれてくるものであり、ひいては軍の精強さへもつながるのでしょう。


ペルシャ湾の自衛隊の活動の成功は、アメリカ軍の全面的、
かつ心温まる支援なしにはあり得ませんでした。
自衛隊に対し、横須賀基地にイエローハンカチーフを揚げ、

「君たちが任務を達成し、無事に帰ってくるまでこれを揚げておく」

と励ました少将。
188日間の派遣期間中、隊員の留守家族を日本で励ましてくれた少将もいました。

そして任務を終えた自衛隊が帰国してきたときには、台風が来ているというのに、
「ブルーリッジ」はわざわざ沖縄西方海域まで来て、自衛隊部隊を出迎えてくれました。

戦後始まった海上自衛隊と米海軍との好誼は、このように深い信頼関係となり絆となって、
一貫して派遣部隊を支え続けたのです。



今年、米国で行われた日米両軍軍人による「賢人会議」では、
お互いの絆の深さを確認しあい、日米同盟の強固さを確認したと
書かれた関係者からのメールは、その最後、

「まさに恩讐を超えた絆なのでしょう」

と締めくくられていました。

最近では日米豪による太平洋の守りの強化など、ますます国際情勢には
日米、自衛隊と海軍の連携が必要とされています。

RIMPAC、MINEXなどの日米共同訓練始め、シスターシップ(姉妹艦。ひゅうがとGWとか)
交流などで、国際平和の維持、再構築のため、
より一層日米海軍は関係を緊密にしていくことと思われます。

 


 

「アメリカン・サムライ」~日系アメリカ人と第442部隊

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空母「ホーネット」艦上博物館でみた内容をまたもやお話しします。
日系アメリカ人と442部隊については、去年の夏、サンノゼの日系日本人博物館で見た
展示とともにお話ししていますし、その前には映画「二世部隊」、さらには
「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)を扱った時もふれました。

わたしが日本人で、日本とアメリカの戦争に興味があり、アメリカで年の6分の1を過ごす限り、
日系アメリカ人と彼らの戦闘部隊である442部隊への興味は尽きません。




というわけで、空母「ホーネット」の一室を利用した

「第二次世界大戦における日系兵士:祖国への貢献」

というコーナーをご紹介していこうと思います。



日系兵士コーナーは、「ホーネット」のハンガーデッキから左に見えている
小さな階段を登ったところの部屋にありました。
なぜかこの空間には天井から羽根つきのタンデム自転車がぶら下がっていましたが、
この自転車についての説明はどこにもありませんでした。



日系人兵士について説明しようとすればまず日系人への迫害を語らねばなりません。
以前も説明したことがありますが、アメリカ政府は対日戦争が始まった時、
以前から日系人たちのアメリカ合衆国への忠誠は深く、
反動的な分子となる危険性はないという報告を受けていたにも関わらず、
彼らを「危険」であるとして財産や土地を没収した上で収容所に送りました。

この決定に大きく関与したのが、原爆投下にも関わり、さらには投下後の

「原爆の投下によって戦争を終結させ何百万もの命が救われた」

という発言で有名なヘンリー・スチムソン陸軍長官です。



日本人が収容された後、やれやれ、せいせいしたわいとばかりに、

「ジャップは二度とここに戻ってくるな!」

というプレートをわざわざレジに置いて得意気に指差すアメリカ人。
こんな爺さんが戦争が終わるまで生きていたかどうかも疑問ですが、
当時、このような「ヘイト写真」を嬉々として残したアメリカ人たちは、その後公民権運動を経て
「人種差別は悪いこと」になったとき、この過去をどう思ったでしょうか。

「家に帰れと言われても、ほとんどの日本人家族にとってそれは難しかった」

と説明があるように、日系人たちの経済地盤はもうすでにこちらにありましたから、
日本には帰るべき場所がもうなかったのです。


ところで昨今、在日韓国・朝鮮人が現在主張する”ヘイト”の構図と、このころの
日系アメリカ人の受けたヘイトはこの部分においては重なりますが、当時の日系人たちは
アメリカの参政権を手に入れて政治を支配しようとしたり、反米教育をしている学校に
政府の金を出させようとしたり、ましてや報道機関や政府に帰化人などを送り込んで、
「内部操作」することなどなく、ひたすら米国に忠誠を誓う良民であろうとしていたことを
考慮するべきである、と私見を述べておきます。

現在、シリアの難民を受け入れろという、なぜかEUからではなく国連の要望があるそうですが、 
英語すらできないレベルの難民が、果たして日本でどうやって生きていけるのでしょうか。
一から日本政府が手取り足取り面倒を見るしかないわけですが、日本にはすでに
朝鮮戦争の難民をなし崩し的に受け入れさせられており、今それが問題になっているわけで・・。 
 



さて、かくして日系アメリカ人たちはカリフォルニア中心にあった各収容所に送られました。
まるで家畜を送るようなトラックの荷台に立ったまま乗せられて・・・。
右下はワイオミングにあったハートマウンテンの収容所を空撮したもの。



幌付きのトラックから降りてくる一団は特に疲労困憊している様子です。

「ベイエリア(サンフランシスコ周辺)からの一行だな」

夏でも寒いサンフランシスコに住んでいるので暑さにすっかり参ってしまいました。
内陸は寒暖の差が激しく、ハートマウンテンの冬は零下30度にもなりました。
これも寒暖差の少ないカリフォルニアの日系人には堪えたでしょう。



日系人が収容所に荷物を持って行った「行李」。
一人につきたった一つのトランクしか持っていくことを許されませんでした。



収容所での彼らの様子です。

右上の家庭には仏壇がありますが、飾られている写真は米軍の制服を着た男性で、
どうやらこの収容所から第442部隊に出征して戦死したようです。



私物を持ち込むことが許されなかった収容所の日系人たちは、工夫を凝らして
必要なものを自分たちで製作しました。
この木製の道具入れは、廃材を集めて作ったものです。



彼らの住環境がいかに過酷だったかは、たとえばトイレにも見ることができます。
仕切りのない、もちろん水洗式でもないこの板に穴を開けただけの貯蔵式トイレは、
ナチスのユダヤ人収容所にあったものと寸分違うことなく同じです。

戦後ユダヤ人収容所が世界に非難され、また日本軍の捕虜施設であったという
虐待行為を理由にたくさんのBC級戦犯が処刑されましたが、
戦後一般人に対するアメリカのこの非人道的行為に対し、なんの咎めもありませんでした。
さすがは戦争に勝った国だけのことはあります。(嫌味です)



アメリカで生まれた彼ら。
祖国に対する感情は複雑です。

「正しいのか、間違っているのか。我々の祖国は」

「我が国の信義、誠実、そして正義と公正」

「我々は誇りを持って祖国に仕えよう」

彼らの置かれた状況からは、まるで悪い冗談のようなこれらの言葉・・。



合衆国の歴史は好きな授業だ。
我々学生は常に教師のもっとも普通な自由、独立、平等についての意見に対し
食ってかかるだけの用意ができている。

というキャプションと共に「先生?」と「食ってかかる」生徒。
教師は、こうつぶやいています。

「自由か、さもなくば死を我に与えよなんて誰が言ったんだろう?
あ~、まあいいや、どうでも。
座りなさい、ジロー、君の答えはわかってるから」



マンザナー収容所と歩哨に立つアメリカ人兵士。
当たり前ですが、彼らは銃を持っていました。
もし脱出しようとするものがあれば、撃つためです。

収容所はたいてい人里離れた場所に建てられ、その地域には
アメリカ人が立ち入ることさえ禁じられていました。

「止まれ  制限区域

日本人を祖先にもつ住人のための収容所があります

歩哨警備中」
 



442部隊の一員であった息子のローリーのために、
母親であるミネコ・サカイが製作した大作キルト。
442部隊と、諜報部の旗の真ん中には442大隊でヨーロッパ戦線に出征中の息子の写真があります。



二世の出征は志願制でした。
敵国の血をもつ二世たちに、アメリカ政府は忠誠を誓わせ、
戦争に参加することによってアメリカ国民として認めるという
「踏み絵」を踏ませたのです。



多くの二世たちがアメリカ国家に忠誠を誓いました。
写真は、ワイオミングにあったハートマウンテン収容所から
442部隊に加わることを表明した若者たち。
全員がスーツを着ていますが、そのための儀式でも行われた後でしょうか。



そして彼らはアメリカ陸軍第442連隊となったのです。



442部隊が転戦した場所を表した地図。

サレルノ、モンテ・カッシーノ、ベルベデーレ、ピサ。
フランスではブリュイエール、どれも第442連隊の名前と共に刻まれる地名です。

そして、ブリュイエールの後、ボージュの森で孤立していたテキサス大隊を
多大な犠牲を払って救出するという大変な戦果を上げます。



「Happines is being rescued.」

とある、救出されたテキサス大隊の皆さん。
このとき、テキサス大隊の少佐が第442連隊を見て

「ジャップの部隊なのか」

と軽く言ったところ、

第442部隊の少尉が

「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」

と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話があります。

まあ、多大な犠牲を払って命を助けてくれた人に、その言い草はないわ。



栄誉勲章を受けた二世部隊のヒーローたち。

左は、イタリアでの戦闘で負傷したダニエル・イノウエ大尉。
戦後政治家となり、上院議員となってアメリカ合衆国に尽くしました。
安部首相のアメリカ議会での演説の一節に

「この場にイノウエ議員にいてもらいたかった」

という言葉があったと聞きます。

真ん中が、このブログでもご紹介したことのある、スパッド・サダオ・ムネモリ1等兵。
第100大隊の戦いで、至近距離に落ちた手榴弾に覆いかぶさって、戦友をかばい戦死しました。

一番右は、これもこのブログで似顔絵を描いたことのある、バーニー・ハジロ上等兵。



クリントン大統領から2000年、ホワイトハウスでオナーメダルを授与しています。
ハジロ氏は2011年、94歳で亡くなっていますから、この受賞のときには83歳です。




クリントンといえば、1993年に大統領名義で、アメリカ政府は
日系アメリカ人たちに公式の謝罪を行っています。
過去の不幸な出来事への謝罪と、戦後の日系人たちの社会における活躍を賞賛し、

「これからも一緒にすべてのものに自由と正義が保証される祖国を作りましょう」

と結んでいます。




日系人によるインテリジェンス部隊が使用していた日本軍の資料。
こういう漢字もちゃんと読めたということなんでしょうか。



第442連隊を描いたアメリカンコミック。

彼ら300人のつわものは解き放たれた一つの「アメリカン・サムライ」の波となって、
恐れなど微塵もなく、最後の瞬間を突破していった。

そして咆哮の鳴り響く中、まるでツナミのように、
二世たち、寸分の忌避感も持ち合わせぬ彼らは、稜線を駆け抜けていった。

"GO FOR BROKE!"




助けられた「テキサス大隊」、「ロストバタリオン」について。


横にある説明には、この「ロストバタリオン救出」が、アメリカ軍の歴史において
10大戦闘のうちの一つであるということが書かれています。



ロストバタリオンのヒギンズ大尉とレオナード少佐。



日系諜報部員と、100連隊、442連隊の兵士たちを思うポストン収容所の日系人たち。



日系収容所で「よく見られた」光景の一つ。
息子の戦死の報とオナーメダルを携えて年老いた両親の元にやって来る
陸軍の従軍牧師。



442大隊の活躍をデディケートして、サンフランシスコ出身の隊員と
その家族に贈られたオナーメダル。



先ほど、ビル・クリントンの謝罪声明文がありましたが、
こちらはジョージ・ブッシュから出された謝罪声明。
なぜ二代続けて大統領が声明を出したのかはわかりませんが、おそらくこのころ、
相前後して日系人たちに対する賠償の問題が片付き、
名誉の回復が遅まきながら公式に行われることとなったという事情によるものでしょう。



日本観光をする日系アメリカ人兵士たち。
後楽園(多分岡山の)に行ったようです。



この写真がいつ撮られたのかがわからなかったのですが、日系部隊が結成されたのは
日本との開戦以降のことですから、これは終戦後、占領軍として日本に行ったときのものでしょう。

日本の血を引く二世でありながらアメリカ合衆国の一員として日本と戦い、
降伏した日本に足を踏み入れた時、彼らはどんな感慨を持ったでしょうか。


続く。

 

映画「日本のいちばん長い日」 -八月の天皇陛下-

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ただいま劇場上映中の「日本のいちばん長い日」を観てきました。
恥ずかしながらこの同名映画が又してもリメイクされていたことを
わたしは全く知らなかったのですが、TOが

「この映画だったらどんな忙しくても観るでしょう」

と、WOWOWの関係者からチケットをもらって持って帰ってきてくれたのです。

ところでこういう映画が申し訳程度にしか上映されないのはもうわかっていますが、
それにしてもいちばんよく行く映画館で朝9時からの1日一度だけの上映って・・。

会場には5分遅れくらいで予告編の時に入ったのですが、 
ほとんどが年配かそれ以上の男性ばかり、10人もいたでしょうか。
歴史に全く興味がなければ、朝9時にわざわざ映画館まで足を運ばない題材ですが、
いちばん前で若いカップルが足を伸ばしてのびのびと座って見ていたのが目を引きました。



で、いきなり結論ですが、こういう映画にはやたら点の厳しい(笑)わたしが、
あれ?この映画ちゃんとしてね?と思った(つまり良かった)ということを言わねばなりません。

巷の前評判では「観る前から分かっている、冒涜だ」と言い切るお方もおられるようで、
実際全く期待せずに行ったわたしには、その気持ちもよーくわかります。
でも、どんなに厳しい目で見ても特定の人物を現代の解釈である方向に誘導した
印象操作を行うなどの傾向はほぼ見あたらないやに見受けられました。

あくまでもわたしの観点からこの映画が成功している点を一つ挙げるとしたら、
これは「リメイク」ではなく、全く同じ題材を、アプローチを変えて語ったからでしょう。


「日本のいちばん長い日」は、もともと大宅壮一の作品として知られた

「日本の一番長い日 運命の八月十五日」

という題名で、1967年に映画化されています。
それがどういうわけか半藤一利のクレジットになったものが(この辺の事情わからず)

「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版」

として、1995年に出版されました。
大宅版の映画が岡本喜八監督で、半藤版が今回の映画ということです。

1967年の岡本喜八監督版を見たことがあるのですが、
まず、阿南惟幾陸軍大将を演ずるのが三船敏郎です。
方や、またもというかなんというか、こちらは役所広司。

「聯合艦隊司令長官山本五十六−太平洋戦争67年目の真実」(長いんだよこのタイトル)
というやはり半藤の原作の映画で、役所さんは五十六を演じているわけですが、
ということは、もしかしたら今の映画界って役所広司が三船敏郎的立ち位置なの?

三船敏郎も大物ゆえ、山本五十六を演じ、阿南を演じているのですが、
役所広司が果たして現代の三船敏郎か?といったら、それはどうかなと・・。


まあ、三船が演じるとすべての軍人が「三船敏郎風」になってしまい、
なんというか本体からはまったく一人歩きしてしまうので、
わたしはそれほど軍人俳優としての三船敏郎を評価しているわけではないですが。

ちなみに、劇中、2年前に戦死した阿南の次男の写真がなんども登場しますが、
これは三船敏郎の長男である三船力也(まだ27歳)の写真だそうです。


役所の阿南惟幾をどう評価するかはのちに譲るとして、わたしは今、
ふと検索で引っかかったやはり岡本喜八監督の、「日本敗北せず」という映画、
いわばプレ「日本の一番長い日」を取り寄せているのですが、
この映画も阿南惟幾に主眼を当てた作品のようです。

で、このバージョンでは誰が阿南を演じているかというと、早川雪洲なんですね。

早川雪洲。それはいいところに気がつきました(笑)
パッケージの写真を見て、おおこれは阿南大将そのままじゃないか、
とわたしは結構感動してしまったわけです。
残された写真から見ると阿南大将はおそらく背も低かったはず。
ハリウッドで「sessyu」という、映画の撮影の時に俳優の背を上げ底するための
足台に名前を残されてしまった早川雪洲演じる阿南惟幾、
その点はリアリズムだったのではないかと期待しつつ、観てみることにします。

ところで冒頭挿絵、主人公でありながら阿南を演じる役所広司の絵すら描きませんでした。
役所起用を評価をしていない、とまでは言いませんが、この映画はこの二人を描けば十分、
とものすごく勝手に判断したためでもあります。

まず左、鈴木貫太郎を演じたのが山崎努。

映画を見る前なら、なんて無理やりなキャスティングだと思うところですが、
さすがに名優山崎、映画では鈴木首相そのもの。

とくに眉毛が(笑)

鈴木貫太郎の長~い三角眉毛を、増毛でもしたのか、アップになった時も
抜かりなく再現しているのには感心しました。ってどこに感心してるんだ。

どちらかというと成分的に脂っ気の多いように見える山崎ですが、
この映画ではすっかり枯れ果てて、

「もう高齢だから首相指名を断っていたが、昭和天皇たっての指名で、
人がいないと言われ、最後のご奉公をするつもりで内閣を率いた」

あの頃の鈴木貫太郎の、いかにも気力に体力がついていくのも大変そうな様子さえ、
よく表されていると思えました。

これが岡本版だと山村聡ですからね。
山村聡は・・・・・違うだろうと思う。
こちらのバージョンでは鈴木首相についての描写そのものが重要視されておらず、
つまり山口多門を阿部寛が演じるようなノリのキャスティングだと思われます。


さて、今回の「日本のいちばん長い日」と、「日本の一番長い日」大宅原作とが
まったく異質のものに仕上がっているのには、大きな原因があります。

昭和天皇を主人公にしたことです。

そこでこの映画の英語題を改めてご覧ください。

「THE EMPEROR IN AUGUST」

つまり、「八月の天皇陛下」です。




本作品監督の原田眞人は、この作品について

これは昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の三人を
中心とする”家族”のドラマです。

と言っています。

終戦の日の宮城事件を描いた日本映画は戦後何本かあるけれど、
どれも天皇陛下については全く描かれていないので、
いつか昭和天皇を中心としたこの映画を撮ってみたかった、というのが
監督の大きなモチベーションであったようです。

天皇陛下を俳優に演じさせることは、もちろんご存命の時には不可能で、
せいぜい後ろ姿や引きの姿しか写すことができなかったのですが、
崩御されて御代も代わり、天皇陛下が「歴史」となったことで、ようやく
そのようなことも可能になった、と監督は判断しました。

映画のテーマも、その1日に起こったこと、主に決起を中心に描いた従来版と違い、
昭和天皇の終戦のための「聖断」が重要なモチーフになっています。

戦後いかなる言論も、海外の反日本勢力ですら、戦前の日本が天皇の独裁国家だったとはしません。
この理由は、天皇が元首であり統帥権なども有する、とした大日本帝国憲法がありながら、
天皇の意思は枢密院を通して初めて布告の形を取るのが慣例でしたし、また別に、
内閣の影響を受けない発言権を持つ内大臣という言論機関が機能していたからです。

そもそも、大東亜戦争開戦時の御前会議でも、昭和天皇の御発言はありませんでした。
このとき、明治天皇御製が読まれ、間接的に日米開戦を回避するように訴えられたものの、
その御意思に背く形で開戦は遂行されたというように、
御前会議で天皇陛下が「鶴の一声」である「御聖断」をされたのは、
歴史的に見ても初めてのことだったのです。

これは映画でも描かれていますが、鈴木貫太郎首相が「超慣例的措置」?を取り、
天皇陛下の御名において、有無を言わさぬ形で終戦に持ち込むということを決定したからでした。
 


さて、「聖断を仰ぐ」という形で終戦を進める鈴木と、
徹底抗戦・本土決戦を叫ぶ陸軍の間で、不幸にしてそのとき陸相であった阿南は
立場上、陸軍の側に立つ他ありませんでした。

しかしそれは天皇のご意志に背くことにもなるのです。

ポツダム宣言受諾が決したとき、阿南惟幾が切腹による自決をしたのは、
自らが一人死ぬことによって責任を取り陸軍の造反を抑えることと、
天皇陛下に対しての謝罪の意がそこにはあったと考えられています。


ともあれ、映画の最も重要なるシーンは御前会議による御聖断であり、
天皇陛下が阿南に向かって

「心配してくれるのは嬉しいが、もうよい。
わたくしには国体護持の確証がある」

といい、阿南が言葉を失うシーンであり、さらには

「わたくしはどうなっても良いから国民の生命を助けたいと思う」

という言葉に重臣たちが嗚咽するシーンでしょう。
そこで昭和天皇を演じるのが本木雅弘。モッくんです。

まさか「シブがき隊」というアイドルグループで踊り狂っていた少年が、
日本映画史上初めて昭和天皇をガチで演じることになろうとは、
当時誰に想像できたでしょうか(笑)

で、このモッくんの天皇陛下が素晴らしい!

わたしがわざわざ上映中にこのエントリをあげて映画の宣伝をしているのも
すべて、この天皇陛下の演技に痺れるほどの感銘を受けたからです。

一時の戦争映画ではやたら天皇の御名を連発し、反語的に貶めて
批判をするという腹立たしい演出のものがありましたが(例:大日本帝國)、
この映画においては昭和天皇に対する深い敬愛が隅々まで感じられ、
本木雅弘の端然とした、気品のある、そして本人の言うところの

「日本国民の平和を願う祈りの像としての天皇」

が、表現されています。
侍従との会話であの「あっそう」という返事をされるところも取り入れられており、
声の調子すら「チューニングには神経を払った」という渾身の演技で演じられた
「本木天皇」の出演シーンはそれだけで目に快でした。

役作りには本人はもちろん、全スタッフが異様なほどの神経を払ったそうで、
たとえば眼鏡なども、最終的に絞った二つの中から、多数決で決められたものだとか。

今プロフィールを見て驚いたのですが、本木雅弘、もう50歳だったんですね。
終戦のときの天皇陛下はまだ44歳であられたということですが、
年齢的にも違和感は全くありませんでした。


さて、そこで阿南惟幾を演じる役所広司です。

陸軍の決起を抑えるために、会議の席で重臣が一人一人自分の考えを述べていく。
全員がポツダム宣言を受け入れ戦争を終わらすべき、と答えるのですが、
途中で我慢できなくなって部屋を飛び出した阿南が、「徹底抗戦」を
訴えてくれと頼まれた陸軍将校たちのところに電話をするんですね。

「安心しろ。ほとんどが徹底抗戦だ」

なんでこんなすぐバレる嘘を言ったのか、果たしてこれが史実だったのかさえもわかりませんが、
これが阿南惟幾の「板挟み状態」を最も顕著に表しているシーンに見えました。


欲を言えば、これだけの葛藤を裡に秘めている陸軍軍人にしては、役所さんは
あまりにも表情がビビッドすぎて(笑)、「らしく」見えないということでしょうか。

それとヘアスタイルの思い切りが悪い。
松坂桃李くんですら潔く坊主になったというのに、
陸軍軍人なら潔く五厘刈りにせんかい。と思いました。

阿南惟幾のイメージは写真と陸軍軍人ということから強面な感じがするのですが、
実際はいわゆるエリートではなく、(陸軍大学に二度受験失敗している)
ただ人望と真面目さから出世した軍人で、家に帰れば子沢山のマイホームパパ。

6男2女の父で子煩悩、子供達をデパートや映画館に連れて行くのが何よりの楽しみ、
などということから類推される人物像から、案外、役所広司の演じる表情豊かな、
少し頬が緩みすぎなのかなと感じる阿南惟幾像もありなのかもしれませんが。

あと、岡本版では天本英世が演じた

佐々木武雄(特別出演:松山ケンイチ)

がこちらもワンシーンだけ登場していました。
宮城事件の時に出身校である横浜工業高校の生徒らを募って、首相官邸と
鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした人物です。

この映画で松坂桃李が演じた決起将校の畑中健二陸軍少佐と知り合いで、
陸軍全体の決起に呼応すべく立ち上がった・・・・はずだったのですが、
あちこちで動きが抑えられた結果、決起にはなりえず、結果として畑中少佐の
反乱という形に「スケールダウン」(wiki)してしまったので、この人物の
動きは、こちらも結果として全く意味をなしませんでした。

そのことを表してか、このシーンは何かとぼけた可笑しみのようなものを感じさせます。


 
というわけで、歴史に興味のある方はもちろん、無い方にとっても、
本木雅弘の昭和天皇を観るだけの価値がある映画だと言っておきます。

お恥ずかしい話ですが、「本木天皇」の御聖断のシーンでは涙がこぼれたわたしでした。
 




 

 




「宗谷」~戦後復興の象徴

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「船の科学館」横に繋留されている「宗谷」見学記、終わりに近づいてきました。 

艦内は「宗谷」が南極観測船のときの仕様が展示されていました。
観測船のあと海保の巡視船として活躍した期間も結構あるのですが、
やはり彼女は南極観測船としてこそ有名になったからです。

 

船室の一つを使って外から見られるこのコーナーは、どうやら
バンダイがスポンサーとなって「大人の超合金」というのシリーズを宣伝しています。
この「宗谷」はその商品ラインナップの一つなのですが、超合金素材で
どこが組み立てでどこが完成部分なのかさっぱりわかりません。

大人の超合金シリーズ「南極観測船宗谷」

これによると、この「宗谷」は第一次観測隊の仕様だそうで、
プレートは二種類、氷海プレートと海面プレートがあります。
隊員のフィギュアは30体、樺太犬は実際より多くて22匹分。

この模型は特別なディスプレイスタンドを使用することで ケープタウン沖の暴風圏で
最高片舷62度に及ぶ横揺れに見舞われる「宗谷」を再現することもできます。
62度。
これ実際に見てみるといかにすごかったかわかります。



さて、大人の超合金シリーズ「宗谷」、気になるお値段ですが、4万9千350円。
この大きさと超合金素材の美しさと、精巧さを考えると決して高くはありません。
じゃ買うか?と言われるとやっぱり高すぎて買えませんが(笑)


バンダイのホームページにはこのような始まりで「宗谷」の説明をしています。


「日本戦後復興の象徴となった奇跡の船」

ー日本が一つになった、あの日。

「もはや戦後ではない」とのフレーズが『経済白書』を飾ったのは昭和31年のこと。
焼け野原の戦後復興期から、科学技術の時代に入った日本が、
国際社会復帰の初舞台としてプライドを賭け挑戦したのが、
世界各国で進められた「国際地球観測年」の南極観測事業だった。


国民が「宗谷」の南極派遣に熱狂し、子供たちが競って自分のお小遣いを
「宗谷」のために寄付し、各企業が争うように自社の開発品を提供したのも、
全ては「宗谷」が戦後復興の象徴と捉えられていたからでした。

「宗谷」は敗戦から立ちあがろうとしている日本人の希望だったのです。



黒地に白の設計図。
このネガポジでわたしは「タイタニック」と「大和」の設計図を持っていますが、
あれは「装飾用に」黒地に仕上げられているのだと思っていました。
こういうバージョンの設計図もあるんですね。

この設計が、「大和」の牧野技師が行った改装かどうかはわかりませんでした。



そんな栄光の過去も今は昔。
後から出入りのために取り付けられたらしいラッタルすらこの有様。



甲板の一階下のデッキ部分には、雑然と改修用の資材などが
埃をかぶったまま置かれています。
床に置かれたロープがきっちりと船のしきたりどおりに置かれているのがせめてもでしょうか。



ダクトの工事をこれからするのか、それとも工事が滞っているのか。

パイプが乱雑に詰め込まれた「動物サブレー」の段ボールは、
かなり日にちが経っているらしく型崩れを起こしています。



メインエンジンは2サイクル8気筒、2400馬力。
かつてはこれで氷海をたくましく進んでいったのです。

2サイクルは4サイクルに比べ2倍の出力を持つというのですが、
どうして数字が増えるのに出力が減るのかいまひとつわかりません。



窓が一つしかないこの部屋は、初期の南極観測では暗室となり、
第三次観測からは「生物観測室」の仕様となっています。
説明不足でこの意味がよくわからなかったのですが、南極に接岸し、
この部屋から氷原の南極の生物(ったらペンギンとか)を観察したのでしょう。



通信室。
特に第一次南極探検の時、無線が唯一の通信手段でしたから、
通信はそのまま隊員たちの生命の維持を意味していました。

左から、短波受信機、救難信号受信機、方位測定機、FM受信機。



時計の上に書かれたJDOXは「宗谷」のコールサインです。



おそらく当時から使われていたのであろう日本地図はもうボロボロです。


 
JOF、KDDなどチョーク文字はずっと描かれていたため跡が残っています。
それにしても、この、中国人の名前は何?ムカつくんですけど。



かつてはこの一本一本全てが生きていて、船の機能を動かしていました。
めまいがしそうなくらいの数のコード。



さて、この辺で航海艦橋に登ってみたいと思います。
護衛艦などの艦橋と比べるとずいぶん低い位置にあり、気密性もほとんどありません。
写真を見ると「自領丸」のころから同じような仕様だったようですが、
こんな艦橋で敵の襲来があった時にはさぞかし恐ろしい思いをしたのに違いありません。



信号旗の格納箱がここにもありました。
「宗谷」がよく使用していた旗旒信号が三種類描かれています。
左から、「宗谷」を表すJODX、「後安航を祈る」の「WAY」、そして
「ありがとう」を意味する「OVG」。



艦橋から艦首を望む。
護衛艦を見慣れた目にはこういった民間船のデッキが珍しく見えます。
あらためての前甲板を見て、偉大な宗谷があまりに小さいことに驚きます。



艦橋に入りました。
エンジンテレグラフです。
ブリッジから機関室に指令をおくるための通信機であり、
これで何かを動かすわけではありません。
(わたしは実は割と最近までそう思っていましたが)


 
部分だけ写真を撮ったのでなんだかわからなくなってしまいました(; ̄ー ̄A
スイッチがパチパチ式で()時代を感じさせます。



昔は通信ひとつとっても大変だったなあとつくづく思うこの電話の列。
一台の電話で内線を切り替えるという技術がなかったころは、
必要な部屋への直通電話は一台ずつ備えないといけなかったのです。

コードが壁を埋め尽くすほど必要になったのもこういうことからなんでしょうね。

パネルの各スイッチの文字盤は、擦り切れてしまってもう文字の痕跡すらなくなっています。



舵輪の前にあった計器いろいろ。



真鍮はどの部分のもピカピカでした。
稼働していた時代には毎日磨き上げていたせいか、文字が薄くなっています。
取扱注意の文言はカタカナで、戦後に改装された時に付けられたものと思われます。



この長野日本無線株式会社は今でも同名で存在する通信無線の会社です。
1957年にトランジスタ型の電源装置を開発し、電源装置の分野に進出、とありますので、
その最新式の装置を「宗谷」に導入したものと思われます。



レーダー。



風向風力計。皆そのように書いてあるのでわかりました(笑)



舵角指示計。



このころになると、またしてもわたしの「招き猫体質」(一人で店などにふらりと入っていくと、
どういうわけかその直後から人がどんどん入ってくる)が発動して、
どういうわけか狭いブリッジに人多すぎの状態になってしまいました。
TOが「また発動したね」と囁いたので気付いた次第です。

自分自身には何のメリットもないどころか、行くところ行くところ混雑するので
まったく嬉しくない体質なんですが。

って全然関係なかったですね。



終わりに近づいてきたと言いながらも続く。







NYでミュージカルを観た

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随分と時間が経ってしまいましたが、この夏、NYでミュージカルを二本観た話をします。
当初NYまで車で1時間のノーウォークに宿泊して、ニューヨークに行く理由と言ったら
ハドソンリバーのイントレピッド博物館しか当初頭になかったわたしですが(笑)、
ふと、イントレピッドまで行くなら、マンハッタンもブロードウェイもほぼ同じ距離、
という事実に気づき(イントレピッドの場所を郊外だと勘違いしていた)
急遽TO経由で、某カード会社のデスクにマチネーで観られるものを見繕ってもらいました。

インターネットのない時代なら、自分で電話しなくてはいけないところ、
何でもかんでも代わりにやってくれるカードデスクをツァーデスク代わりに使えて、
本当に便利になったものです。

ミュージカルというのは基本夜の9時とかに始まるため、基本お子ちゃま生活シフトの我々は、
2時から始まるマチネでやっているものしか観られません。
従って、何を観ることになるかは本当に運次第だったわけですが、まず一回目は
「シカゴ」を観ることになりました。



シカゴ。そういえば映画を見たことがあるようなないような。
弁護士の役をリチャード・ギア、
女性をレネ・ゼルウィガーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズがやってたなあ。



たまたまマチネーをやっていたので観た「シカゴ」ですが、実はNY在住の方に

「今シカゴは大変いいキャストでやっているのでオススメ」

と言われていました。
その「いいキャスト」の一人が、主人公のロキシー・ハート役のブランティ。
グラミー賞を取ったらしいですね。
原作は全員が白人という設定ですが、彼女のようにアフリカ系はブロードウェイには普通にいます。

いないのはアジア系。
そりゃそうですよね。アジア人が欧米系に混じってミュージカルなど無理ですわ。

ウィーン・フォルクスオパーなんかが絶対に白人以外は採用しないのと同じ理由。
差別ではない。これは差異化・区別というやつです。

しかし、ブロードウェイの歴史上、一度だけアジアの、しかも我が日本の女優が
ステージに、そしてこのロキシー役をしたことがあるってご存知でした?

わたしも今回ウィキを見てびっくりしてしまったのですが、2012年に5日間だけ、
米倉涼子さんがロキシー・ハート役でこの舞台に上がっているのです。
日本語版「シカゴ」を演じた際、ロキシー役に惚れ込んで、
米倉さん自身がブロードウェイに売り込んだそうですが、5日という上映日数の短さと、
あまり話題にならなかったことから、おそらく見かけはともかく、
機関銃のような台詞の多いロキシー役としては
英語がなんとかわかるレベル止まりだったのかも、という気はします。

最近では「王様と私」」に渡辺謙が出演したことで話題になりましたが、
こちらはシャムの王様という役柄上、英語の訛りはむしろ好都合だったのだと思われ。



ロキシーの敵役、ヴェルマ・ケリーを演じたベテランぽい女優。
スタイル抜群でそこは日々の鍛錬で全く衰えていませんが、首筋の皺などから見て
もう50台にはなるのではないかという気がしました。

ヴェルマはわたしが昔何かの折に名前を出した「テックス・ガイナン」、
禁酒法時代の女傑をモデルにしています。
ガイナンの決め台詞、「ハロー、サッカー!」(こんにちは、カモちゃんたち)
はミュージカルの第二幕にも登場しました。



「シカゴ」が上映されているアンバサダー劇場内部。
前から5番目くらいの席での鑑賞です。
当日の割にはいい席が取れたのもカードデスク様のおかげ。



大抵のミュージカル劇場は大変歴史を感じさせる重厚な作りです。

 

ストーリーは単純なものです。

ロキシーというコーラスガールが、浮気した恋人を射殺して刑務所に入れられ、
縛り首になることが分かって、敏腕弁護士ビリーに依頼したところ、
ビリーは死刑囚の彼女を悲劇のヒロインに持ち上げる作戦を取り、彼女は一躍大人気に。
ヴェルマは刑務所の先輩ですが、彼女もまたビリーの弁護を受け、
やはり世間の同情を買って同じような人気者となっていました。
人気を争う二人、妊娠と嘘をついてまでトップの座にいようとするロキシー。

次々と新しい「カモ」を演出して自分の名を上げることが目的の弁護士には結局見捨てられ、
出所したロキシーは、ヴェルマと二人で組んで自分たちのショーを作るという話。

裁判のシーンが多く、残念ながらネイティブ以外には周りのアメリカ人が笑っていても
笑うことができないことが多々あり、歯がゆい思いをしました。
せめてストーリーをよくわかってから行くともっと理解できたんでしょうけど。



「シカゴ」は歴史が古いのでもうピークを過ぎており、それで
チケットも安めだそうです。
「マンマミーア!」は新しいかな。



そして、もう1日、今度チケットが取れたのは「オペラ座の怪人」でした。
ロイド・ウェーバーの作品はどれも音楽が素晴らしく、耳慣れたものばかりですし、
ストーリーもどれも知っているものばかりなので、決まった時には快哉を叫びました。



マジェスティック劇場がこの「オペラ座の怪人」を最初に上演したのは
ロンドンのウェストエンドでの初演の2年後の1988年。
以来27年間もの間、1日も休まずに上演され続けています。



ブロードウェイでもっとも長い歴史を持つミュージカルで、この仮面は
ブロードウェイのシンボルにもなっているくらいですから、いかに人気があるかということです。



このミュージカルに出ようと思ったら、ほとんどの役にはオペラ的発声、つまり
クラシックの声楽の素養が求められるという意味でもキャストにとっては
大変な大役であるということになるのですが、さすがはアメリカ、
このミュージカルに出演できる人というのが掃いて捨てるほど?いるわけです。

アメリカのクラシック音楽はヨーロッパに比べて問題にならないとよく言われますが、
わたしはアメリカの「才能」はクラシックではなく、すべてブロードウェイに集中していて、
ここで分厚い層を作っているのだと聴いていて感じました。
アメリカの音楽芸術、そして舞台芸術は、間違いなくミュージカルを頂点とします。

しかもオペラと違って、出演者は人並み以上の容姿を求められます。
ワーグナー歌いのように、全員がどすこい級で、上演が終わって指揮者が上に上がったら
全く人種が別に見えるくらい痩せて見えた、などということは決してありません。
その点、オペレッタ専門のウィーン・フォルクスオパーと似ているかもしれません。

 

「オペラ座の怪人」は、オペラ座に棲む怪人(といっても顔が奇形なだけ)が、
コーラスガール、クリスティーンに恋をし、彼女に歌を教えてプリマドンナにしたてあげたところ、
劇場のパトロンである若き子爵が彼女、クリスティーンが幼馴染であることに気づき、
クリスティーンを取り合って怪人と子爵が争う、というお話(大体そんな感じ)。

オペラ座で演じられる架空のオペラはまるでモーツァルトのそれのようで、
うちのTOなどは、

「あの劇中にやってたオペラって本当にあるの?」

と惚けたことを聞いておりました。・・・なわけないじゃん。
いずれにせよ、舞台の華やかさ、音楽の良さ、ドラマチックなストーリー、
どれを取ってもどれか一つ観るならこれ、と自信を持っていえるミュージカル。



マチネーの客は観光客で他州からきた人が多いように見えました。
わたしの周りには少なくとも3組くらい日本からの観光客もいました。
中国人は2日通じて一組も観なかった気がします。



わたしの前はラッキーなことに子供が座ったのでおかげで視界抜群。
TOの前には彼の太ったお父さんが座ったため、邪魔だったそうです。
子供はおとなしく見ていましたが、途中で寝てしまいました。
劇場の冷房は強く、わたしは足が冷たくて仕方がなかったのですが、
よくこんなところで寝られるなと思いました。
アメリカ人って寒いの平気なのは知ってましたが、子供の頃からそうなのか・・。

 

オペラ座の怪人を観たことがある方はこれがなにかご存知ですね?
導入部のオークションのシーンでで大変重要な役割をしていた大きなシャンデリア。
この上から怪人が顔を出したりもします。



マジェスティック劇場ができたのは1927年。
もう100年近く経とうとしているというわけですが、これまで、
ガーシュウィンの「ポーギーとベス」、「南太平洋」「屋根の上のバイオリン弾き」
などがここで上映されてきました。

それはそうと、冒頭の漫画なんですけどね。

ミュージカルの上映が終わって余韻も醒めやらぬまま、TOと
あれこれ感想を語り合っていたところ、彼がこんなことを言いだしました。

「クリスティーンって、ファントムのこと好きなんでしょ?」

まあ、ラウル・シャニュイ子爵が幼馴染であることがわかった日、
彼女は怪人にさらわれて、なんとウィキによると「一夜を共にした」ってことになってますな。

「だったらなんで怪人の仮面いきなり外すのよ。それも二回も」

「え?」

「これって、他人のカツラをいきなり外すみたいなもんでしょ?
人としてどうなのよ。失礼じゃないのって思うんだけど」

「確かに。二回目は外しておいて顔見て悲鳴あげたりして」

「でしょ?なんで仮面の下なんて見る必要あるの」

まあ、言われてみたら、ひどい女だよな。
一度ならず二度までもいきなり仮面を外すという暴挙に及んだばかりか、
顔を見てきゃーきゃー叫ばれた日には、そりゃ怪人だって人の一人や二人殺しても仕方が
・・・なくないか。

とにかく、怪人は大変気の毒だ、クリスティーン天然、という結論に達したのでした。

 


上映中は写真一切禁止ですが、カーテンが降りた後もオケピットは演奏を続けています。
人の流れに逆らって、オケピットまでたどり着き、演奏を聞きました。

ミュージカルのオケ指揮も大変なスキルが必要なんですよね。

少し若い頃のカラヤンに似たスマートな指揮者に、終わってから
周りにいた全員が盛大な拍手を送っていました。

ちなみに息子はこの時ニューヘイブンでキャンプに参加していたのですが、
キャンプのイベントで3回くらいはニューヨークに来て、
この「オペラ座の怪人」も観たそうです。
なんと親子で同じオペラを別の日に見ていたってことです。

というわけで、ニューヨークのミュージカル初体験は、エキサイティングでした。
一生に一度はぜひ(劇団四季のではなく)本場で観るべき芸術だと思います。





 

チカソーとヒューイ・ファミリー~イントレピッド航空宇宙博物館

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空母「イントレピッド」航空宇宙博物館の展示機、回転翼と参ります。

Sikorsky (HRS-1) H-19 Chickasaw 1950

最初に「イントレピッド博物館」について書いた時に、このシルエットを
艦外から見て、

「あのおにぎりシルエットはシコルスキー”チョクトー”」

と断言してしまったのですが、とんだ大間違いでした。
「チョクトー」ではなくて「チカソー」だったんですね。

なんだチカソーって。

S-58の「チョクトー」がインディアンの部族名なので、当然ながら
このチカソーもそうであろうと思い調べてみたら、チョクトー族とは
大変似た言語形態を持っているけど全く別の部族であるということでした。

アメリカという国におけるネイティブインディアン出身の人たちが
どういう位置付けでどうみなされているのかということについて
わたしたちはあまり考えることもないわけですが、wikiなどを調べてみると
部族ごとに彼らはコミュニティなどを持っており、部族出身の有名人なども
わかるようになっています。

たいていの場合ネイティブアメリカンは侵略「された方」で、たとえば
このチカソー族なども、住んでいた領地を巡ってフランスからの入植者と
イギリスからの入植者が戦闘を繰り広げた、などという過去を持っています。


回転翼というのは第二次世界大戦中から研究は続けられていましたが、
実際に運用が本格的に始まったのは戦後です。

アメリカ軍は兵員の輸送を目的にヘリコプターの開発を進めていました。
シコルスキー社に対して出された要求はつぎのようなものです。

乗員2名・兵員10名あるいは担架8台を搭載して、
340kmの距離を飛行できる機体

この要求に応えてその前のS-51(定員2名)を発展させた形で作られたのが
このS-55シコルスキー「チカソー」でした。



「きかんしゃトーマス」のハロルド。
ハロルドの登場はいつからかはわかりませんが、「きかんしゃトーマス」は
1945年から原作が連載されていたというので、ヘリコプターのキャラクターを
登場させる時に「チカソー」がモデルになったというのは時期的に納得できます。

ところで今ハロルドの画像を検索していて、”きかんしゃトーマス”を
イケメン軍団にしてしまった萌えを発見してしまいました。
ハロルドさんは全身白のスーツに身を固め、ヘリだけに”上から目線”のお兄さんに・・orz

話が盛大にそれてしまいましたが、なにしろ子供に絶大な人気のある
アニメキャラのモデルになるくらいですから、チカソーというのは
ヘリコプターの中でもパイオニア的存在であったということでもあるのです。

何が偉大だったといって、ヘリコプターが輸送にどれだけ役に立つかということが
初めてこの機体で証明できたということでしょう。
飛行時間も、床の下に設置された巨大な燃料タンクのおかげで飛躍的に伸びました。


わたしが間違えた「チョクトー」は、「チカソー」の機体を大きくして、
エンジン出力も大きくしたというだけの違いなのです。
間違えてもこれは当たり前ですね!(大威張り)

「チカソー」が製造されたのが1,828機、「チョクトー」はさらに2,261機と、
いわばヘリコプターという航空機の成功を物語る数字です。
「チカソー」の100機以上が軍用され、海軍、海兵隊、沿岸警備隊仕様となりました。
商業用としては一時期ヨーロッパで使われていたこともあります。

ここにある機体は、海軍のレークハースト(ニュージャージー)にあった
ヘリコプター部隊「Two "HU-2"」、通称「フリート・エンジェルス」の仕様機です。

日本では海保が2機を所有したのを始め、三菱がノックダウン生産をして
民間仕様だけでなく全自衛隊が運用していました。

1959(昭和34)年の伊勢湾台風の際に、陸自のヘリが取り残された人々を救い出しました。
この時にヘリコプターの救助能力の高さが世界に知られることになったいう話もあります。

先日の鬼怒川決壊の時にも陸自のヘリがテレビカメラの前で人を救出し、




こちら、

Bell AH-1J Sea Cobra 1971、

向こうは

Bell UH-1A Iroquois “Huey” 1959。

コブラはコブラでも「シーコブラ」、スーパーコブラでもあります。
シーとついているからにはやはりこれは海兵隊仕様ですね。

チカソーやチョクトーが輸送という点で安定したころ、やはりというか軍関係者から、
ヘリコプターで攻撃もやればいいんでね?という話が出てきました。
(かどうかはわかりませんが状況判断でそうだろうと思います)

そこで「攻撃型ヘリ」というジャンルを、1960年初頭から陸軍が開発しようとしました。
しかし、なぜか空軍は「攻撃ヘリ」という概念に否定的でした。


こういうのの裏にも、「空を飛びなから攻撃をするのは固定翼でないと」、
つまりそれは空軍の仕事だ!みたいなセクショナリズムがあったのかもしれませんが、
それより何より、攻撃ヘリの開発に消極的になる理由というのはただひとつ。
ヘリコプター自体戦場からの離脱が固定翼より容易でなかったからです。

輸送ヘリにさらに銃器類を搭載して「ガンシップ」としたのですから、当然機体は重くなり、
逃げ足が遅くなったことで、ベトナム戦争での当初の損失率は大変高いものでした。



それでもなんとかベトナム戦争中に損害を受けにくい仕様の攻撃ヘリを投入したい、
ということで、陸軍は各ヘリコプター制作会社から候補を選出しますが、
結局その中からベル社の試作品が最終的に選ばれ、エンジンは強力だけど軽いその機体に

AH-1G ヒューイ・コブラ

と名付けられて最初の攻撃ヘリとなったのです。
エンジンはヒューイと同じもので、開発からわずか6ヶ月でベトナム戦争にデビューしました。

今回アメリカから帰る直前にテレビでメル・ギブソン主演の
「We Were The Solders」(日本題”ワンス・アンド・フォーエバー。なんで?)を観ました。
最初にアメリカ軍が北ベトナム軍との間に地上戦闘を行った一日を描いたものですが、

「これが君たちの”ニュー・ホース”(新しい馬)だ」

と、ヒューイが紹介されているシーンが最初のほうにありました。

ふと気づけば隣に置いてあるのも「ヒューイ」なわけですが、
このコブラも、

「ヒューイ・ファミリー」

と言われる一連のベル社のシリーズの一つなのです。
もちろんそれまでのヒューイ・ファミリーとは、タンデムコクピットになり
機体が薄くなったことで(攻撃がヒットする確率を減らすため)形態は一新しましたが。

ちなみに前にもお話ししましたが、「ヒューイ」は、最初に部隊に配備された型番の
「HU-1」の「1」を「I」と読んで、 「HUI」→「ヒューイ」となったという経緯があります。



今でもヒューイと呼ばれる本家ヒューイ、イロコイ。
アメリカではほとんどがブラックホークに置き換わっていっているそうですが、
自衛隊ではバリバリの現役で、総火演や訓練展示でもお馴染みです。

ヘリコプターで攻撃をすることにこだわった陸軍は当然ヒューイに
重武装を積ませてガンシップにしようとした時期があります。

ちょっと興味深いのが、ベトナム戦争のときに搭載していたドアガンの名前が

「サガミ・マウント」

といったらしいんですね。
サガミったら富士総合火力演習のあるのも相模だったりするわけですが、
この命名は、どうやらこのシステムが

相模総合補給廠

で研究開発されたためではないかということになっているようです。
ガンシップや対戦車ヘリにする試みは長らく続けられましたが、
だいたい先ほどの理由で、コブラにその役割は完全に移行しました。




日本の誇る偵察ヘリ、 OH-1は武器を搭載しないのだろうか?
という疑問が時々あるようですが(知恵袋とかで質問されているのを見たことあり)、
ヒューイを武装ヘリにするために色々と苦労した経緯を見るに、一言で言うと

「機体が軽くて重い武器を積めないからダメ」

ということなんだろうと思います。
宙返りもできなくなってしまうしね。



甲板の回転翼、最後はこの

Sikorsky HH-52A Sea Guardian 1961

湾岸警備隊が運用しているだけあって、「シーガーディアン」(海の守護者)。
検索するとHh-52Aは「シーガーディアン」じゃなくてただの「シーガード」なんですが・・。
これ、どちらかが間違っているってことですかね?

このシーガード(どっちでもいいや)、このエントリ的にはたいへん美しく収められるので
たいへん嬉しいことに、「チョクトー」と「チカソー」を土台にして作られました。
この角度からはよくわかりませんが、機体の底が船のような形をしているので、着水もできます。

日本でも海自と空自で救難ヘリとして運用するために輸入し、三菱がノックダウン生産しました。
 



おまけ*

艦橋にさりげなーくありました。

「トンキン湾」ったら、ベトナム戦争が始まるきっかけになったあれですよね?
調べたらこのマーク、

海軍第7艦隊に1961年の作戦参加から75年の撤収まで使われたニックネーム

であることがわかりました。
「ホーネット」のアイランド・ツァーで案内してくれた元艦載機ドライバー、
「Sさん」ことウィル元中尉が日本に来たことがある、というのは
第7艦隊関係であったことからだったらしいですね。 


背景の黄色にすっかり薄くなっていますが赤線三本が引いてあるのは、
当時の南ベトナムの国旗と同じにしたからだそうです。

日本をやっつけろ!→サンダウナーズ→旭日旗使用、という例もありましたが、
こういうノリ、良くも悪くもいかにもアメリカ人だなあと思います。


続く。 






 

軍港の街舞鶴を訪ねて~東郷さんの肉じゃが

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今年、シルバーウィークという大型連休があることをわたしが知ったのは、
京都府の海上自衛隊地方隊に訪問することが決まってからでした。 

夏の渡米前に教育航空隊基地への表敬訪問&基地見学を果たし、
その最終報告を済ませたばかりなのですが、その訪問のときにふと、
兼ねてから舞鶴に行ってみたいと思っていたわたしは、
畏れながら基地司令に舞鶴へのご紹介をお願いしていたのです。

アメリカから帰ってきたらすぐに連絡して訪問日を決めようと思っていましたが、
何かと雑事が多く、はっと気づいたときには9月の声を聞くことに。
夫婦で訪問を申し込んだからには一緒に行かねばならないのに、TOは
仕事が忙しく平日はすでに予定満杯。

そこで気づいたのが9月のカレンダーの真っ赤な部分です。
もしかしたらここは全部連休なの?(そのとき気づいた)

連休の間、紹介していただいた舞鶴の偉い人が休みなのかどうか、
シフトがどうなっているかわからないままに、
わたしはご紹介いただいた方の副官という方と連絡を取り、
訪問日を決めてから、慌てて舞鶴への旅行の予定を立て始めたのでした。

新幹線はTOが前日に取りました。(前日でもなんとかなりました)
舞鶴では車のほうが便利かと思い、京都まで新幹線、
京都からレンタカーを借りて京都縦貫道を行くことにしました。


昔は京都というのは名神高速以外高速道路の連結のない、車にとっては
陸の「半島」みたいなところだったのですが、1988年に沓掛ー亀岡間が開通し、
それから27年経った今年の7月、ついに最後の部分、京丹波わちー丹波間がつながり、
沓掛から舞鶴まで高速一本で行けるようになったのです。
(というのも車を借りてから気づいたわたしたちでした)

おかげで京都洛西から高速に乗って順調に1時間半で舞鶴に到着。



これもカード会社に依頼してギリギリに取ってもらったのは
マーレという名前の、ビジネスとリゾートホテルの間くらいのホテル。
京都はもちろん、舞鶴までの経路にあるホテルが満室で、唯一取れたのが
このホテルの喫煙可ルームでした。

しかし、この、正直全く期待していなかったホテルは、マーレ(海)
という名前通り、前面に若狭湾からさらに入り組み、まるで
鏡のように波のない舞鶴湾を望む、絶景のオーシャンビューだったのです。 



海に面しているため、お風呂には大きく海の見える窓があり、しかもバスタブは
特大で、ボタン式のジェットバスという豪華?さ。

まだ明るいうちにわたしたちは代わる代わるお風呂に入り、ジェット水流を楽しみました。



晩御飯は選択の余地もなくホテルのレストラン。
ホテルにレストランが付いていることすら期待していなかったのに(笑)
ビュッフェの嫌いな我々はメニューから単品も選べるのがありがたかったです。
そこで当然のように(TOが)頼んだ、肉じゃが。(となぜか麻婆豆腐)


ところで舞鶴、とくれば海軍。海軍といえば東郷平八郎ですね。

舞鶴鎮守府の初代長官であった東郷さんが、
イギリスで食べたビーフシチューが忘れられず、

「牛肉とジャガイモと玉ねぎと人参の入った汁っぽい煮物作って。
あれ、うまかったから。艦上で食べるものにもなるし」

「といわれましても、それだけでは作りようがないのですが。
せめてお味はどんなだったとか、何かヒントは」

「甘かった」

「はい。(甘・・・・ってことは砂糖かな。砂糖を入れるのかな)」

「色は茶色っぽかった」

「はい。(・・・・醤油かな?)」

てな具合に海軍主計が悩みながら考案してできたのが、肉じゃが。
ここでも「舞鶴名物」としてメニューにありました。




ところで、今回舞鶴で買ってきた明治27年海軍が発行したこの料理本、

「海軍割烹術参考書」舞鶴海兵団長 西山保吉著

には、肉じゃがはなぜか登場しないのです。
冒頭写真はその見開きのページですが、そこには

命令 五等主計は本書に依り割烹術を習得すること

とあり、右ページの「序」には、

本書は、もっぱら海軍五等主厨教授用として編纂したもので、
他科兵種のための教科書はすでにあり、使用されているものの、
割烹の教科書だけがなかったので教育上方針の一貫を欠いていた。
本書は大体の要領を記しているだけで、もっと詳しいのは巷にもある。
本書は、准士官以上の料理を作る五等主厨のためには十分であろう。

というようなことが書かれています。
つまり、「准士官以上」用の料理本に今さら書くほど、
この時代肉じゃがは特別なレシピではなかったということでしょうか。

ちなみに、東郷さんが食べたかった「シチュードビーフ」は、
この時代にはすでに調理法が「輸入」されており、そのレシピはこう載っています。


材料は、牛肉、人参、玉葱、馬鈴薯、塩胡椒、トマトソース、麦粉である。
フライパンにヘットを少し溶かし麦粉に焦げ色がつくまで煎り、
スープで伸ばし、トマトソースを入れる。
牛肉は3センチ立法の大きさに切りフライパンで焼色をつけソースで煮込む。
人参、玉葱を適当に切って入れ、煮えたら弱火にして馬鈴薯を切って入れ、
煮えたら弱火にして馬鈴薯を切って入れ煮込み塩胡椒をして味をつけ供卓する。
トマトソースがないときは、用いなくても構わない。





夜が明けました。
ホテルから見る眼前の港は朝日に照らされて素晴らしい景色です。

「このホテルにして本当によかったね」

「こんどまた舞鶴に来ることがあったらここにしよう」

などと、ホテルに到着するまではビジネスに毛が生えた程度のホテル、
と勝手に思い込んで見くびりまくっていたのに手のひらを返すわたくしたち。



朝ごはんは外のテラスでいただきました。
全く期待していなかったリゾート気分はお得感倍増。

車が停まっていますが、ここにはカヌーのクラブがあるようです。



ホテルの売店にある舞鶴土産も、海軍色の強いものが多く、
「海軍さんのカレー」はもちろん、「舞鶴連合艦隊カレー」などが。
東郷元帥の肖像にはまるで後光のように旭日旗があしらわれています。

旭日旗でなぜか思い出したのですが、このホテルにも舞鶴の街中にも、
中国語や、ましてや韓国語の表示など全くありませんでした。
レンタカーを借りる為に京都駅に降りたとき、日本語よりも目立つ両国語に、
かなりうんざりした気分だったので、清々しい思いがしました。

旭日旗に文句をつけるような人種は、そもそも舞鶴に観光に来ることもないでしょうけど。

ところで、舞鶴の港は、終戦後、引き揚げ船が到着したことでも有名で、
今回わたしたちは「引き揚げ記念館」(仮設展示)の見学にも行ってきました。

その話はまたいずれするとして、ここには写真に写っていませんが、

「引き揚げタルト」

というお菓子があったのには少し引きました。
広島でも知覧でも「原爆おかき」「特攻饅頭」などがないように、
戦争の記憶の一環である引き揚げは、たとえば「岩壁の母」のような
悲劇も生んでいるわけですから、お菓子の名前にするのは如何なものかという気がします。



自衛隊関係のお土産も扱っていました。
ちゃんと「いずも」を一番上に全自衛艦の描かれた手ぬぐい。
「ひゅうが」「あたご」など、舞鶴所属の自衛艦のグッズ。
そして、連合艦隊の全艦艇名が書かれた手ぬぐいと・・・・

湯のみ。

お土産にこの湯のみを買って帰りました。
あらためて「大和」から始まる軍艦の名前を見てみると、
後ろの方には

「神川丸」「山陽丸」「相良丸」「讃岐丸」「天祥丸」「聖川丸」「君川丸」

などの水上機母艦、

「粟田丸 」「浅香丸」

の特設巡洋艦、

「靖国丸」(特設潜水母艦)、

「報国丸」 「愛国丸」「清澄丸」(徴用船。特設巡洋艦)

「さんとす丸」(徴用船。潜水母艦)

などまでが書かれています。

なぜか「大鷹」(空母)の名前はなく、その代わり徴用された
「大鷹」改装前の「春日丸」の名前が後ろの方にありました。


いきなりおみやげの解説から始まってしまいましたが、
このあと地方総監部を訪問し、広報自衛官や艦長、基地の「偉い人」の案内付きで、
まず自衛艦、そして海軍記念館と東郷邸を見学する運びとなりました。


というわけで、「軍港舞鶴を訪ねて」シリーズ、始まりです。



続く。

 



 

「しらね」の花道〜軍港の街舞鶴を訪ねて

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舞鶴地方隊の広報の方が指定してきた基地訪問時間は9時。
基地は泊まっていたホテルからは車で5分のところにあります。

海軍5分前に地方総監部の警衛門に車を向けると、まずそこにいた隊員が

 \(・∀・)カエレ!!

というふうに手を振りました。
一般公開の見学者が間違えて車で突入してきたのだと思われたようです。
あれ?段取りのいい自衛隊にしてはおかしいな?と思いつつ名前を告げると、
そこの責任者のような隊員が中に入るように指示をしてくれました。



海軍記念館の前で広報の方の携帯に電話をしたら、まさかの間違い電話。
なんと副官と広報の方の電話を取り違えて登録していたのでした。
あたふたしながら謝り倒して、当確日付のそれらしい番号に電話したら、
こんど掛かったのは空港パーキングサービスの配車係。

何をやっている。わたし。(汗)

しかも今にして思えば、広報の方は、一般の見学が始まる前に艦艇見学をするつもりで、
先に「岩壁に来るように」と言ってくださっていたような気がするのですが、
そのことをすっかり忘れてしまって地方総監部に先に来てしまったのでした。
どうりで帰れ言われるわけだ。


それからなんとか連絡がついて岩壁に向かったときには、海軍5分前の筈が5分遅刻。
岩壁の警衛門前には1時間前にもかかわらず、一般公開の開門を待つ人たちが集まっていました。


今度は帰れを言われることもなく警衛門を通って中に車を停め、エスコートの方と改めてご挨拶。
今日ご案内いただく護衛艦は「あたご」DDG177です。

「あたご」はその名前を持つ4番目の艦で、初代は旅順港作戦で沈没、
二代目はワシントン軍縮条約のため建造中止となり、三代目は「あの」愛宕(さん)。



「痛コブラと痛ニンジャ」のときにこのようなYouTubeを教えていただきましたが、
これが この日見学した「あたご」です。
この日は艦艇見学のために公開していた護衛艦が幾つかありましたが、
「あたご」 は補修作業中だったので、このあとも公開されていないはずです。



とりあえずラッタルを登りきったところで一枚。
これは「あたご」の岸壁側に繋留してある「しらね」。
そう、「しらね」は除籍されたばかりなんですね。

ところで、この画角を見て写真に詳しい方は何か気づきませんか?
そう、今回初めて、超広角レンズを投入してみたのです。

誕生日に望遠レンズをゲットしたわたしですが、やはりこのような場合
広角レンズが欲しいなあと思って探してみたら、なんとNikon1には専用の、
しかもAmazonだと大変お手頃なお値段のレンズがあったので、観艦式に備えて購入しました。

ちなみに、これが、



SONYのコンデジRX100の画像。
冒頭写真は広角レンズによるものですが、比較してみても(撮影位置が違うとはいえ)、
広角レンズは護衛艦の撮影にはもってこいという気がしました。



しかし、ほとんど予行演習なしで当日に臨んだため、こんなこともおこります。
前回お見せしたお風呂の写真。
この右上左下の黒いのはなんですか?
これが噂の「ケラレちゃったのよ」というやつですか?

同じような画像を探したところ、レンズフードが曲がっているせいとのことですが、
同じときに撮影しているのに、これがあったりなかったりなんですよ。
レンズフードだってレンズ純正のものだし、おかしいなー。



という話はそこそこにして、いまや単なる「通路」としてのみ機能している
「しらね」の甲板を歩いて「あたご」に移ります。

「しらね」の除籍は今年の3月25日。
その日、わたしがどこで何をしていたかご存知ですか?
そう、横浜は磯子のJMUで、「いずも」の就航を見届けた日です。

つまり「しらね」の後継艦が「いずも」であり、「いずも」就役と同時に
「しらね」は除籍されるということになったということなんですね。

というわけで同日、「しらね」の後釜として「ひゅうが」が横須賀から舞鶴に転籍してきました。


「しらね」は、その最後の任務も決まっていて、XASM-3、今防衛省が開発中の
空対艦ミサイルの実爆試験用実艦標的となる予定なのだそうです。

XASM-3はF-2戦闘機で運用することを目的に開発されたミサイルで、
従前のものよりも防空能力の向上した艦艇を確実に撃破することができます。
1992年からといいますから、もう23年の間開発が続けられてきたのですが、
いよいよ2016年に完成するにあたり、仕上げとして「しらね」を標的に最終実験をするのです。

XZXM-3のウィキペディアのページにも、

2016年度(平成28年度)
退役した海上自衛隊護衛艦「しらね」を標的艦とし、実射試験が行われる予定


と書かれています。
「しらね」が、三年前の観艦式では「はたかぜ」と共に祝砲を撃ったのをわたしは見ました。



この観艦式が「しらね」の最後の花道となったわけです。
最新鋭ミサイルの標的となって海の藻屑になることも、
国防の艦たる「しらね」にとって以て冥すべしという最後かもしれません。

艦内を案内してくださった「あたご」艦長のお話によると、当確海域までは
燃料を空っぽにされ動力もオフになった目標艦は曳行されるそうです。

ついでにこんなのも見つけました。
誘導弾推進装置と合わせて開発費は40億円也。

平成14年度 政策評価書(事前の事業評価) 新空対艦誘導弾(XASM-3)



人気のない(当たり前か)「しらね」を通り抜け、「あたご」に到着。
乗組員が脇目も振らずかがみこんで床のメンテナンスをしています。

「観艦式に出る予定なので化粧直しをしているんです」

ほー、観艦式のために日本の護衛艦はそんなことをするんですか。

「あたご」は10月5日には舞鶴を出港し、横須賀を目指します。
早めに行くのは、観艦式を盛り上げるための「フリートウィーク」イベントに参加するからで、
10月10日から、艦艇公開、カレーフェスティバル、公開シンポジウム、
そして満艦飾・電燈艦飾や音楽隊による各種コンサートなどが行われるのですって。

なので観艦式にあぶれた人も、イベントに参加して楽しみましょう!

え?まだあぶれたと決まったわけでもないのに縁起でもないこと言うなって?



さて、「あたご」艦上でお迎えくださったのは艦長。
なんと艦長自らの解説による艦艇見学です〜。

さっそうと前に立って格納庫の中を突っ切っていきます。
「あたご」はヘリを搭載することはできますが、連絡など、
必要な場合に降着するだけなので、基本常時搭載はしません。

というわけで、この格納庫には拘束装置は備えていないそうです。
調べたところ、航空用員も配備されていないため、
もし必要とならばベッドを2段から3段に変更して(そんなことができるのか)
対処しなくてはいけないのだとか。



向こうに見えているのは「きり」型のようなので「あさぎり」かな?
甲板では、人がたくさん立ち働いていますが、こちらはどうやら
一般見学のための準備(立ち入り禁止札を立てたり、説明の札を立てたり、
危ないところに赤いリボンを結ぶなどの)をしているようでした。



短魚雷発射管等、武器の説明は基本スキップです(時間がないので)
正式には68式3連装短魚雷発射管HOS-302。



というわけであっという間に艦橋へ(ぜいぜい)
あいかわらずとんでもなく狭い階段をすいすいと登る艦長。
これでは艦艇勤務に太った人がいるわけないですよね。

わたしは一度、階段の上部で頭を打ちましたorz



エスコートしてくださった広報の隊員さんは、カメラマンでもあります。
海自のカメラについてお聞きしてみたら、「やはりニコンが多い」とのこと。

「海のニッコー、陸のトーコー」

は海自にはまだ健在ということなんでしょうか。



この前に立って「いただきます」をするわけ。
ストップウォッチみたいなのが方位環に結びつけてあります。

正面にはいろいろと航海に必要な表などが貼ってありますが、そのうちの一つに

「傘型危険界」の図

がありました。
船は停船のためスクリューを逆回転をして急制動をかけても、慣性で前進するので、
大型船舶や軍艦は、航行中一定の範囲以内には、漁船やフェリーを絶対に入れない、
という規則があります。

その危険範囲がちょうど傘のような形をしているのでこう呼びます。

このわかりきったことをこうやってわざわざ操舵室に貼っているように、
安全第一で規則をきっちりと厳守しているのが海上自衛隊なんですね。


そういえば、「あたご」はまだ最新鋭艦だった頃、漁船との衝突事故を起こしています。
「イージス艦衝突事故」として記録されているものです。

一貫して「あたご」側は過失がなく、漁船(乗員2名とも死亡)が右回頭を行ったことが
原因であると裁判でも主張し続けていましたが、最高裁はそれを支持し、
回避義務は漁船側にあり、あたご側に回避義務はなかったとする判決がでました。


しかし、マスコミのこの事件の報道姿勢は今考えてもひどいものでした。
今ほど自衛隊に理解と関心のなかった当時ですら訝られるほどだったのを覚えています。

事件発生時「ネイ恋」はまだ始まっていなかったので(笑)
マスコミの一方的な報道を検証し、突っ込むということができなかったのは残念です。


wikiには、

マスコミは事故発生当初から、あたご側にすべての過失があると断定する報道を繰り返した。

例えば朝日新聞は海難審判前の平成20年6月26日の社説で
「そもそも双方の位置関係から、衝突回避の一義的な義務はイージス艦側にあった」と断定している。
また、地裁判決後、信濃毎日は社説でイージス艦が漁船より巨大であることを理由に
「危険回避の責任はまず、海自にあると考えるのが自然だろう」とした。
(現実にはそのようなルールは存在しない)

また、あたご側に回避義務があることを前提に、見張りが不十分であった・回避が遅れた・
乗組員に気の弛み・驕りがあった等との批判が繰り返された。
この他、しばしば感情論が先行し、死亡漁師の一部の遺族や漁協関係者の発言も多く紹介された。

このように自衛隊への非難ありきで恣意的な報道をしていたマスコミの有様が書かれています。


どんなに時代が進んで最新鋭のイージス艦になろうと、旧式の護衛艦であろうと、
近距離では基本目視で危険を回避するのが操艦というものです。

そういう意味で、自衛隊側が航行の基礎の基礎である傘型危険界内の目視を
怠っていたとは考えにくく、つまり民間船の急回頭が原因であることは
海事を知る人にとっては明々白々のことであったと思われますし、実際
マスコミが自衛隊を悪者にして騒いでいるときには、匿名で
「中の人」の立場から漁船の過失を指摘した自衛隊OBもいたということです。 


自衛隊にもし反省すべき点があったとすれば、それは予算と人員の削減が進行していて、
艦橋システムや護衛艦と海上幕僚監部との組織内の情報交換システムの近代化が
大幅に遅れていたということ(wiki)だったでしょうか。



ところで、この窓越しに見える山ですが、なんだと思います?
信じられないでしょうが、これ「愛宕山」って言うんですよ。

なるほど、舞鶴の「愛宕山」からあの「愛宕」はその名を取ったのか!

と一瞬考えたあなた、違います。
「愛宕」は愛宕でも、京都市右京区の愛宕山が初代「愛宕」の所以なので、
「あたご」から見る「愛宕山」は偶然としかいいようがないわけですが、定繋港を決める時、

「舞鶴にも愛宕山があるから『あたご』はここに定繋しよう」

という話でもあったんじゃないでしょうか。

ちなみに「あたご」が就役したのは2007年のこと。
名前はなんと部内応募だったため「ゆきかぜ」「ながと」なども候補に上がったのだそうです。
結局「ながと」は時期尚早ということで「あたご」に決まったのですが、
さっきも言ったように、「愛宕」は1代目触雷、2代目中止、3代目はレイテ海海戦で戦没、
といずれも不運だったので、その名前には懸念を表明する向きもあったようです。

でもそんなこと言ってたら、旧軍の軍艦の名前なんて「ゆきかぜ」以外アウトだから(震え声)


続く。


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