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九份〜台湾旅行記

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九份、という地名を知ったのは、台湾に旅行に来るようになってからです。
映画「非情城市」についてお話しした時、ここがロケ地になったことも知りましたが、
今回台湾滞在中に一度見ておこうと思い計画しました。



九份へは台北から直通のバスが出ています。
同じバスにはやはり日本人の観光客らしい人たちが少なくとも二組いて、
台湾観光の定番になっているのだと思われましたが、面白いのは
バスの運転手さんが料金を徴収する時に日本人客からは細かいお金を取っていなかったこと。

5銭?くらいの端数を切り捨てでお札だけを取るのです。
お釣りを出すのが面倒だったからに違いありません(笑)

で、このバスの運転が怖いんだよ。

バスなのに高速でも飛ばしまくりで、おそらく100キロはでてたんじゃないでしょうか。
カーブの時など明らかにぐらっと傾きかけてるんですが、運転手、
何人たりとも俺の前は走らせねえ!な勢いでかっ飛ばしていきます。

行きも帰りも同じような運転だったので、これはこの運転手だけがそうだったのではなく、
どうやら彼らは時刻表通りに運転しているだけだったのではないかと思われました。

行きに、前の方に座っていて肝が縮む思いをしたので、帰り後ろに座ると、
ほとんどの席にシートベルトがありませんでした(−_−#)

しかし、山間部の登り坂道に来た途端スピードががくん!と30キロに落ちて安全走行。
というか、精一杯ふかしてもそれが車の性能の限界であった様子(T_T)



バスが思いっきりノロノロ走っている時、向こうに何か見えてきました。
金山寺というお寺で、観光用というより仏僧が修行する道場になっているそうです。



そしてバスはうねうねと山道を登っていきます。
途中全くアナウンスもないし、降りる人がいなければバス停にも停まらないので、
近づくにつれ大変不安になったのですが、それらしいところで降りたらそこが九份でした。



この写真を見て初めて気づいた装飾。



ライオンともクマともつかない動物にまたがっている人発見。
いやっほ〜い!って感じで名乗りを上げています、



聖明宮というお寺の屋根の装飾らしいんですが、すごいです。
これでもかの極彩色。
遠くからなのでこの素材が何であるか全くわからないのですが、年月を経て
全く色が褪せている様子がないので、おそらく陶器ではないかと思われます。
もしこれを全部焼いて作っているのだとしたら凄すぎる。

これは日本でいうところの七福神みたいな感じの神様でしょうか。



道はまだ上に向かって続いており、山の頂上付近をよく見ると、



山水戸のところどころに見晴台なのか、このような建物があありました。
一番上まで登ったら何があるんだろう・・。



バスを降りたところでいきなり面白看板発見。
袈裟懸けのお坊さんをフィーチャーした病院の宣伝。
キリスト教系の病院というのは日本にもありますが、台湾には
仏教系の病院もあるわけか。

どうも用地はあるのでこれから建てるのだけど、そのお金を寄付してくれ、
と言っているように見えますがどうなのか。



さて、昼ごはんを食べ損ねてお腹が空いたので、とりあえず何か食べよう、
ということになったのですが、こういうところで何を食べるべきかわからないし、
地球の歩き方も持っていないし・・、ということで、バス停近くにあった
ファミリーマートのイートインコーナー(大きくて広い)で、
カツカレー(手前)とラーメンを食べてみました。

日本のコンビニと比べようがないのでわかりませんが、まあ食べられました。
台湾のコンビニも日本のように、お弁当を買ったら温めるかどうか聞いてくれます。
カウンターのお兄さんは日本語はわからないようでしたが、英語がしゃべれました。



九份って、なんなのか、と聞かれるとただ町でしょ?くらいしか
知識もなしにきてしまったので、とりあえず何をしていいかわかりません。

「あのコンビニの横の魔窟みたいなところを入っていけばいいんじゃないかなあ」



魔窟の入り口の横にあった謎の専門店。
「石頭猫」?



と思ったら石頭犬(狗)もいた。



さて、それではこの商店街に入ってみます。
お店の前にボンベがたくさん・・・。
とりあえずこの辺に都市ガスは引かれていないことはわかりました。



台湾風のケーキ、蜂巣ケーキだそうです。



陶笛というのはおそらくオカリナのことだと思うのですが、
このお店ではCDを鳴らしながらそれに合わせて「実演販売」していました。



注文すればしぼりたてのジュースが飲めるのですが、スイカはわかるとして
苦瓜・・・・?

すみません、わたし苦瓜苦手なんです。
苦瓜のジュースなんてとんでもないです。




九份にはイノシシもいます。
ってことで、地産地消、とれとれピチピチのイノシシ肉で作ったソーセージ。
それはいいんですけど、パソコンで製作したらしいポスターのイノシシ画像、
これは客に食べてみようと思わせるには少し逆効果だと思うがどうか。



お店の奥にかけられたご先祖様の写真。
日本でもこんな風に鴨居におじいちゃんの写真がかけてあるところ、
田舎に行くと未だにありますよね。

もしかしたら日本統治時代の慣習の名残なんだったりして・・。



何をしているのかわかりませんでしたが、九份の名物には芋団子や草餅があるので、
そういうお菓子を作っているのではないかと思われます。



野良猫もいました。
それにしても痩せている・・・。
こんな折れそうな手足の猫を見たのは初めてです。



養顔、というのは日本語の「美顔」という意味でしょうか。



日本人は魚海老は活け造りや踊り食いするのが平気なくせに、
鳥とか豚とかが原形をとどめていると途端に食欲をなくす、
(向こうの人から見ると)おかしな感性を持つ民族です。

魚は平気なのになぜ鳥や獣はダメなのか。
これって、クジラやイルカは殺せないけど牛や豚は食べるものだと思っている、
欧米人の感性からは日本人は理解できないというのとつながるかもしれません。

ずっと魚を食べてきた民族のDNAでもあるんでしょうかね。



民宿の前を通りかかったら、写真で中を紹介していました。
和室というのは「日本風な部屋」ということでしょうか。
ドライサウナもあって眺望抜群。

台湾元は今だいたい三倍すればいいそうなので、平日二人で泊まって
なんと7200円くらい?一人追加ごとに1200円ってこれ安いですよね。

3600円出せば休憩もできます。



向こうに見えているのが基隆港。
基隆は日本統治時代、海軍の軍港があり要塞地帯となっていました。
もともとこの港は岩礁がおおく、大型船は入港できない港でしたが、
統治するや否や、日本政府は港周辺の浚渫(しゅんせつ)工事と防波堤の建設などを進め、
1万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備してしまったのでした。

台南で結成された海軍航空隊「台南航空隊」は、まず間違いなく
この基隆港から南洋に向かったということになります。



おみやげ物屋さんで日本でもある「名前タグ」。
ここ台湾では「王」「蔡」「宗」など、台湾人に多い苗字を
タグにしてしまうようです。
韓国と違って家名の種類が多いのでタグもたくさんあるわけですが、
どうも見る限りABC順にならんでいるわけではなさそうです。
こんな莫大な名前の中からどうやっておめあてのを見つけるのでしょう。



食堂で、食事中の客の足元にきておねだりしている猫。
さっきのとは別の種類のように太っています。



野良なのかここの飼い猫なのかわかりませんが、客が食べ物を床に落としてやり、
それを食べていてもお店の人は黙認しているようでした。
日本だったらそもそも食べ物屋に猫がいるなどありえない光景です。



これは首輪をしているので近くのお店で飼われているらしい犬。

 

手作り工房「愛の物語」キター。
センスが限りなく昭和の「ペンションブーム」のころなんですけど・・。

ちなみに台湾人は日本語がある程度読める(というかわたしたちが中国語を読めるように)
ので、台湾にある東急ハンズの商品はほとんど日本のものが商品説明も日本語のまま売られています。



やはりこうしてみると日本とは違う街並み。
九份は19世紀終わりに金鉱が見つかり、日本統治後は鉱山が開かれていましたが、
(あ、それで金山寺なのか)採掘できなくなって1971年に鉱山が閉鎖され町は寂れていました。



ここには大きなホテルなどはなく、宿泊施設はすべて民宿です。
古くから残る建物もありますが、このように「古く見せている」ものもあります。
いずれにしても観光地として雰囲気を壊さないように町全体で取り組んでいるようです。



「九份にはトイレがない」「あったとしてもペーパーがない」

という恐ろしい話を前もって小耳に挟んだため、震え上がったわたしたちは
濡れティッシュと携帯ペーパーを台北で買って臨んだのですが、
あまり心配には及びませんでした。
坂の途中に喫茶店があり、そこには普通にお手洗いもあったのです。 



台湾は蒸し暑くて、外を歩いているとじわじわと汗が噴き出す、
実に不快な気候だったのですが、冷房した室内でタピオカのはいった
冷たいドリンクを口に含むとホッとしました。
ちなみにこのカップは350元くらいしたと記憶します。
わたしたちは「場所代」「お手洗い拝借代」として高いとも思いませんでしたが、
台湾の人にはとんでもない暴利に見えるのか、店内はガラガラでした。



さて、それでは九份のメインイベントへと。
九份は階段の町。
細い階段を降りていくと・・、


でた〜。
これがあの九份らしい建物のあれね。



「千と千尋の神隠し」に登場した「湯ばば」の屋敷、とがっつりかいてあります。
今この看板を拡大してみたら、

「千と千尋の神隠し映画のキャラクターの顔のお守りを店内で買えます」

スタジオジブリの許可は得てるんですか?



台湾でも宮崎アニメは普通に人気なので、全く同じことが漢字でも書いてあります。



しかし、嗚呼、悲しいことに、九份のこの屋敷をあの映画の作画のモデルにしたという
事実はないということを、宮崎駿ご本人が断言してしまっているそうです。

空気読めパヤオ。
ちゃっかり商売にしてしまっている九份の人たちに免じて(笑)、
ここがモデルだということでも別にいいじゃないか。

・・・って気もしますが、違うっていうんなら仕方ないね。



湯婆の屋敷(だから違うってのに)から少し階段を降りていくと、



「非常城市」のロケが行われた茶屋があります。
ここもわざわざ映画撮影前はなかった「非情城市」の看板を掲げています。
凄惨な白色テロがテーマの映画のタイトルですが、それはいいのね。

九份は金鉱が閉鎖されたあと、寂れた古い建物の残る町でしかなかったのですが、
1989年、「非情城市」のロケ地になったことから観光地として注目を集め、
それから何年間かは、台湾人の間で「九份ブーム」があったそうです。

商店街も民宿も、それ以降生まれてきたものだということですね。




白攝現場というのが「撮影現場」という意味のようですね。
ロケに使われたということを売り物にするなら、これでもかの
メニューの写真は逆効果のような気がするのだけど・・。



撮影に使われなかった茶屋もこの通り。
こちらも雰囲気ありますね。



劇場だったところはいまでもお芝居が行われている模様。
一番右に日本のお侍さんがいるのだけど、どんな話なんだろう・・。



「非情城市」の茶屋全体像。



神に筆で書いたものを木に彫りつけて(字が凸)あります。



ウーロニ茶。ジャスミンちゃ。クピオカ。

やはりカタカナが台湾の人たちには難関と見た。
というか、誰も指摘しないのね。まあわかるからいいけど。



でた。

「ビーフソ」。

カタカナの中でもシとツ(ツンガポールとかw)、そしてソとンの違いは
外国人にはさらに難しいのかもしれない。
その横の

「豚足ルーロウウつアソ」

にいたってはもはや原型がなんであるかさえ意味不明。
無理しなくても上の「猪(豚)御飯」だけでだいたいわかるっつの。

あとは無事()かと思ったら、

「虱目魚のスープは」

ああ、気になる。全く食欲をそそらない名前の「虱(しらみ)目魚」の正体は?
そして、「虱目魚のスープは」の続きははたして・・・・?!



どんどん下に向かって歩いて行きます。(その心は楽だから)



この辺りに来ると観光客は誰もいなくなりました。
赤いパイナップルの飾りがかわいい。
台湾というか、中華圏って本当に赤が好きですよね。



ここも劇場のようです。
時代劇を舞台で行っている模様。

台湾を挟んで中華民国旗と日本の旭日旗が描かれている・・・。
手前の紫色の侍は明らかに日の丸のハチマキをつけているわけだけど、
こちらの内容はさらに気になるなあ。

まあ、日本人が多く訪れることで保ってきたような観光地だから、
さすがに「日台戦争」(by  NHK)みたいな話ではないと信じたい。



この「軽便路」は、統治時代に台湾の会社と日本が合資で作った貨物鉄道のこと。
鉄道といっても、人力で速さを加減しながら動くトロッコだったそうです。



軽便路だった道を下ってきたら、自然食系のお店があり、その店先には
なぜか「反核」の垂れ幕が!

台湾に原子炉をあらたに作ろうという話があるんでしょうか。
たしかすでに台湾には島の両端に計4基、原子力発電所があるのですが・・。
反核運動を進めているらしいここの店主の言うには

「福島はもういらない」(みたいな?)



台湾という国は小さいけれど特にITの分野で先端をいっているという先進国で、
実はこの鄙びた(でもないか)観光地にもくまなくインターネット回線が張り巡らされ、
街角に立てば無料でWiFiにつなげることができるというくらいなのです。
(知ってたらグーグルアース使ったり、食事ができる店が調べられたのに・・)

当然、国内産業の基は原子力発電に多くを負っていて、台湾人はその恩恵を被っているわけだけど、
ここの店主さんはインターネットも使わず、電気を節約するために冷房もつけない主義かな?



というわけで、駆け足で巡った九份。
日本統治時代に建てられた建築物が多く残っているところを歩くまで至らず、
蒸し暑さのせいで見残しが多かったという感はありますが、
日本と似ているようで全く似ていないディープ台湾を見た気がしました。





 


「宗谷」~巡視船「宗谷」最後の戦い

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映画「南極料理人」では、もともと南極観測隊に加わることになっていた隊員が
事故に遭ったため、主人公の西村(堺雅人)が代わりに行かされることになったという設定です。
無表情で西村に辞令を出す海保船の船長(嶋田久作、帝都物語のあの人)。

有無を言わせず了解を取ろうとする船長(いい味出してます)に、西村は引きつった顔で
「家族に相談させてください」と唯繰り返すのですが、肝心の家族は彼の報告になぜか爆笑しながら、

「ペンギンいるの?」「アザラシいるの?」

憮然としながら「いない」と答える西村にまたしても家族は爆笑するのでした。

また、劇中、衛星がつながってリアルタイムで子供が観測隊に質問するシーンがあります。

「ペンギンはいますかー」

「ペンギンさんはいませんよ~。
僕たちがいるのは南極でもペンギンさんたちのいる昭和基地から
ずっと遠く離れたドームふじ基地です。
寒すぎてペンギンさん凍っちゃうかな~」

「じゃー、アザラシはいますかー」「アザラシもいないよ~」

「じゃ~、何がいますか」「ここには僕たちがいまーす」

「可愛い動物は~?・・・可愛い動物は~?」「・・・・・」

南極大陸といっても、ずいぶん気温差があって、「昭和基地」の周りには
いるペンギンが、ドームふじ基地にはいないということなんですね。



地図を見ていただければわかりますがドームふじ基地は内陸にあります。
雪原ばかりで海がないので、ペンギンやアザラシがいないのは当たり前です。 



その点昭和基地はまわりにはペンギンがふんだんにいます。
ドームふじ基地は今は結構施設が充実しているということですが、この映画の頃、
何もない雪原で1年間生活していた観測隊員たちは、それこそせめてペンギンでもいたら
目の保養にもなったに違いありません。



家族が昭和基地の隊員に向けて送った手紙。
宛先は海上保安庁となっており、スタンプは昭和基地となっています。
記念切手も発売され、日本中が「南極ブーム」であったことがうかがい知れます。



わたしたちがこの展示のある船室に入っていくと、男性が二人いました。
質問とかをしたら答えてくれたのに違いありませんが、黙って見ていたら
すぐにわたしの「招き猫体質効果」が発動したのか、人がいっぱい入ってきてしまいました。

おじさんたちは後から知ったのですが、元「宗谷」乗員だったそうです。

後から入ってきた子供たちに話しかけて説明してあげていましたが、
子供たちのノリが悪いので少し気の毒な気がしました。
中でも小学校高学年くらいの女の子は、ペンギンを見るなり、

「ペンギン、剥製になんかされちゃってかわいそー」

おじさん、

「・・・・・・」

映画の「可愛い動物はいますか~」を思い出してしまいました(T . T)

ちなみに左の「オオトウゾクカモメ」が、昭和基地の皆さんが焼き鳥にしていたあれです。
南極にはウィルスがいないので、凍傷になることはあっても風邪はひかないそうですが、
カモメなんか食べて寄生虫とか大丈夫だったんだろうか・・。



なんと!
今から数千年前にできた氷がここにあります!

南極大陸を覆う氷の厚さは平均2500メートル。
分厚いところは4kmも(厚さが)あります。
これは地球上にある陸の氷の90パーセントを占め、
さらに降雪によっていつも新しい雪が補給されて積み重なっていきます。

そして、凍ったそれは内陸からゆっくりと(1年間に数m~10数mの速さで)
押し出されていって、海に落ちた時に氷山となるというわけ。


ここにある氷は「しらせ」が持って帰ってきたものらしく、提供は

海上自衛隊南極観測支援室

となっています。
そういえば去年、横須賀の海自基地で行われたカレーグランプリの会場で、
南極の氷を豪勢にも溶けていくがままに展示していましたが、そのとき

「耳を近づけてみてください。プチプチ音がするでしょう」

と言われて耳をすますと、たしかに空気の弾ける音がしました。
この泡は氷が生成された当時、つまり数千年前の空気なのです。

この空気や氷の成分を調べることによって地球の成り立ちなど知ることができます。



南極観測船の航路は船が変わるごとに変えられてきたようです。

この赤い航路が「宗谷」のもの。
シンガポールからアフリカのケープタウンまで行き、そこから南下しています。



1965年から84年までの間就役した「ふじ」の航路。
1963年に一旦中止されていた南極観測を再開することが決まり、
このときから輸送(つまり南極観測船のオペレーション)が防衛庁の管轄になり、
同時に自衛隊法を改正して自衛隊が運用することになったのです。

「ふじ」の航路は往路がオーストラリア経由、復路はポートルイス(モーリシャス共和国)、
シンガポール、東京というものです。



「しらせ」となってからは、「ふじ」と同じオーストラリアのフリーマントル経由で行き、
帰りにはシドニーに帰港してから帰国となっています。

航路が船によって違う理由はよくわかりませんでしたが、観測隊員は
海上自衛隊が海路でオーストラリアに到着してから、飛行機で日本から追いつき、
そこで初めて砕氷艦に乗艦するということになっているようです。



最初に日本が南極観測隊を送ってから60年以上が経ったわけですが、
この間に科学が発達して、南極観測の実態も随分変わりました。

この写真は現在の南極大陸で使われている大型雪上車ですが、
「宗谷」のころと最も変わったのがこの輸送方法です。
なにしろ宗谷の頃は、



動力は犬ぞりに大きく依存していたのですから。
犬ぞりは、優れた方向感覚を持つとされる樺太犬にソリを引かせるもので、
これで偵察や観測が行われ、犬たちは隊員と共に越冬しました。

あのタロとジロもこの役目を担っていた樺太犬でした。

現代の雪上車は物資を積載したソリを最大で7基引くことができます。
いろんな意味で犬たちにも過酷なこの任務は、こういう機器の導入で必要がなくなったため、
今では南極大陸に、犬はもちろんのこと生き物を持ち込むこと自体が禁止されています。



第7士官寝室のドアは閉ざされていました。
もしかしたら現在はボランティアの居室などに使われているのかもしれません。



第8士官寝室は、

「南極観測当時と居室の区画が変わっている」

と説明に書かれています。
「宗谷」は南極観測で生涯を終えたはずなのに、
その後区画を移設する意味があったのか?と思ったのですが、あったんですね^^。

1962年、「宗谷」は計6回の南極観測船としての役目を終えました。
先ほど書いたように、南極観測にはこれ以降海上自衛隊が関わることになり、
「ふじ」が建造されて、引退が決まったとき、彼女はすでに建造されて24年が経っていました。


(砕氷船としての役目を終え、巡視船になった宗谷)





普通ならこれだけでも波乱万丈すぎるくらい色々あったその生涯を、
南極への6回の往復を素晴らしい花道として引退しても良かったのですが、

そうや問屋がおろさなかったのです。(もうええちゅうに)

 彼女が南極観測船の道を「ふじ」に譲ったころ、海上保安庁では、
北方での海難事故の対応に苦慮していました。
海保の当時の巡視船の中で流氷の中での作業ができるのは、
6回も南極に行き、砕氷機能を持つ「宗谷」だけ。 


そう、「宗谷」はまだ身分上は海上保安庁の巡視船だったんですね。
引退する間も無く、彼女は北方のパトロールのために北に派遣されました。
その後、三宅島の噴火の際に千葉県に疎開していた子供たちを島に送り届ける仕事や、
船上での急病人を搬送する任務を次々とこなしました。

そして実に16年もの間、巡視船としてパトロールと人命救助の任に就き、
漁師や船員たちからは

「北の海の守り神」

と呼ばれ畏敬されていました。 
建造からすでに40年が経ち、普通の船の2倍生き、普通の船の2倍以上の働きをしてきた
「宗谷」にも老いが目立ち、そろそろ引退がささやかれていました。



1978年2月。
北海道の稚内に流れ込んだ流氷が凍結し、多くの船が港内に閉じ込められました。
漁に出ることはもちろん、物資を運ぶ船も入ってくることができません。 

稚内から目と鼻の先にある利尻島、礼文島を結ぶフェリーは結構し、
島民は完全に孤立してしまいます。 

そして稚内市からの指名により、海上保安庁は引退寸前の「宗谷」を投入することになったのです。

その6年前、「宗谷」は稚内の流氷破砕に出動して、このときには失敗していました。
しかし、彼女は再び敢然と、困難な任務に立ち向かうため、母港の函館を後にしたのです。

他の船も救出を試みたものの、その氷の厚さに撤退を余儀なくされ、いわば宗谷は
最後の切り札、最後の望みの綱でした。

現地を絶望が襲いつつある中、「宗谷」はゆっくりとで稚内の納沙布岬に到着しました。
そして、海上保安庁の航空機が調査を中止するほどの悪天候の中、
「宗谷」船長有安金一は、単独での稚内港への突入を命じました。 




「宗谷」は厚さ1.5メートルの氷に突進し、稚内港に向かい始めました。
全力を振り絞る彼女の煙突からは、激しく火の粉が吹き上がりました。
1時間かけて、ようやく稚内港の北防波堤付近までたどり着いた彼女は、
さらに氷に向かって突進、後ろに下がりまた突進を何度もなんども繰り返し、
少しずつ、少しずつ氷を割りながら稚内港へ侵入していったのです。

そうやってついに彼女は1時間後、稚内港に侵入を果たし、さらに30分かけて、
まず、閉じ込められていたフェリーを脱出させることに成功します。

その後、地元の漁船たちが閉じ込められている船だまりへと向かった宗谷は、
またしても何度も何度も突進と後退を繰り返しながら、彼らの元にたどりつき、
12日間もの間流氷に閉じ込められていた41隻の漁船を進路嚮導して、
稚内港の外に導き出したのでした。

これが「宗谷」が巡視船として行った、流氷海域における最後の救助活動となりました。


冒頭の科員寝室に残された元「宗谷」乗務員の言葉に添えられた日付は昭和53年10月2日。
稚内での流氷との激しい戦いが行われた同じ年のこの日に、「宗谷」は現役を退いています。

「偉大な宗谷よ、さようなら 又いつの日か逢いに来る」

これを船室の壁に記した乗組員は、おそらく稚内で彼女と共にに戦い、
その偉大な業績の目撃者となったことを、その船乗り人生の最大の誇りとして、
この日「宗谷」を永遠に降りたのでしょう。

この活躍の2ヶ月後に行われた海上保安庁の観艦式に参加した「宗谷」には、観閲艦として、
海上保安庁長官と運輸大臣が坐乗するという最高の名誉が与えられました。


この時「宗谷」は建造からちょうど40年目を迎えていました。



続く。

 

台湾的現在~ロー・ファームと小籠包

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台湾で李登輝元総統の講演を聞くという予定以外、なにもなしで
台湾に行ったわたしたちですが、計画せずともあちこちからお誘いが入り、
イベントにも食事の場所にも頭を悩ませる必要はありませんでした。

まず、TOが日本ですでにお会いしたことのある女性弁護士、
京都大学の法学部に留学していて日本の法律を勉強し、
現在は台湾の法律事務所で日台の企業法務にかかわっている張先生が、
事務所見学とそのあとの昼ごはんにお誘いくださいました。

張先生は「かおり」という日本名も(仕事上)持っていて、日本人からは
「かおり先生」と、まるで幼稚園の先生のように呼ばれています。 
京都大学に留学したのは実務のためでなく学者になるためだったそうですが、
いろいろあって、’弁護士ではないのに’法律業務をしているということでした。

日本でTOと出会ったのは、彼女が東北大震災のあとのボランティアに、
台湾の扶輪社を通じてやってきて、TOの所属する扶輪社と交流をしたからです。



わたしたちはホテルからタクシーで事務所のあるビルに向かいました。
台湾のタクシー運転手は、日本語も英語もしゃべれる人はほとんどいませんが、
住所を見せるだけで間違いなく目的地をわかってくれます。
ニューヨークのように、タクシーは皆「イエローキャブ」で見つけやすく、
町中を走り回っているのですぐ捕まえることができ、おまけに安い。



大理石の床の、大変立派な金融ビルのフロア4階をその法律事務所が占めています。
テナントはなく、回転ドアのフロアには受付があるだけの典型的なオフィスビル。



エレベーターを降りると受付のカウンターがあり、映画で見るアメリカの法律事務所と
全く同じような作りでした。

「常在」というのは何か意味があるのではなく、単に「常」さんと「在」さんが
創立した事務所という意味だろうと思われます。

ここで「かおり先生」を呼び出してもらいました。



所属弁護士の名前が金文字で記された重厚な名簿。

ジム、ジェニファー、ウェリントン、スティーブ、ジャッキー、ショーン。
ルーシー、ウェンディ、パメラ、イーサン、エディ、モニカ。ケヴィン。
「エイブラハム」なんて名前もあります。

こんなイングリッシュネームがほぼ全員に付けられています。
他の国の国民には発音できない音が多いので、中華系はこのような名前を公式に持ちますが、
上海のホテルで支配人をしていた人から聞いたところによると、ホテル従業員の名前は
重ならないようにいくつも用意されていて、たとえば「ヴィンセント」が辞めたら、
次に入ってきた従業員が「ヴィンセント」となるのだということでした。

この事務所でもある程度そういう配慮の元に、他の人と重ならないような名前を
入所した時に選ぶのかと思われます。
ただし、留学などですでに自分の通名を持っている人はそれを踏襲するため、
同名の人も何人かはいます。

しかし中には断固として通名を持たないという主義の人もいて、
イチェンとかシンヤン、ランヤなどという名前もありました。
かおり先生はこの名札にも「KAORI」と記名されています。



かおり先生は「法学士」というタイトルで雇用されており、法学士だけでも何人かがいます。
この名札の「カリフォルニア・バー」「ニューヨーク・バー」「メリーランド・バー」
は、それぞれの州で行われる弁護士資格試験に合格し、資格を持っている弁護士です。

この中でもニューヨーク・バーは全米で最も難関で、アメリカ人の法学部出身者でも
3~40%が不合格になるというものです。
JFKの息子のジョン・ケネディ・ジュニア(飛行機事故で死んだ人)が受けても受けても通らず、
国民は息を飲んで注目していたということがありました。
結局彼は資格切れになるのを待たず受験をやめてしまったということでしたが。

この後わたしたちは会議室に通され、この事務所の大ボスの蔡先生、そして
かおり先生としばらく歓談に興じました。
法律関係の話は残念ながらよくわかりませんでしたが、話はすぐに政治関係に移りました。
台湾人は、地勢的にも歴史的にも否応でも「国のアイデンティティ」を自ら
問わなくてはいけない国に生まれたものの宿命として、政治に大変関心を持っています。

ボス弁の蔡先生もかおり先生も、お話を伺っている限り民族独立派であり、
大陸よりの国民党馬政権の施策には問題を感じているように見えました。
前回の総統選のときわたしたちはたまたま台湾にいましたが、
民進党の「台湾自治・平和的融和」を主張する蔡英文女史と「一つの中国」を目指す
馬英九氏の対決は僅差で馬英九が勝利し、総統になったわけです。

この選挙の時の投票率は70%以上であったと言いますが、年々減少する投票率、
とくに20歳代の若者のそれが30パーセント代という我が日本と比べれば、
台湾人の政治に対する関心の強さ(というかこちらが本当だと思うのですが)
がお分かりいただけるかと思います。

ところで、この事務所のビルの近くで「ポール」というパリ発のパン屋を見かけました。
昔パリに滞在したとき、朝焼きたてのクロワッサンを食べるために
アパルトマンから散歩がてら30分近く歩いて通った店です。
その後日本にも進出して今やどこでも食べられるようになったわけですが、
台湾にもあるのかと少しばかりびっくりしました。

雑談の中でそのことを言うと、蔡先生は

「ポールはわたしがやっているんですよ。マレーシアで業務を行いました」

この会社の法務を請け負っているということのようです。
ちなみに京大に留学していたかおり先生も蔡先生も日本語は超堪能。
この法律事務所には「日本語チーム」、つまり日本に留学していた関係で
日本語がしゃべれて日本との法務を仕事にしている弁護士・法学士が10人いるそうです。


かおり先生はわたしたちを、そんな「日本チーム」、日本語が喋れる弁護士の中から
若手の二人といっしょにランチに誘ってくれました。

「小籠包の美味しいお店」

ということで、意外なことにタクシーに乗って連れて行ってくれたのはSOGO。
 


なんというお店なのかこれを見ても全くわかりませんが’(笑)
これが台湾人が美味しいと認める小籠包がある店です。
SOGOの上の方のレストラン街にありますのでどうぞご参考までに。



ここから下界を眺めたのが冒頭写真ですが、高層ビルの下には
信じられないくらい広い範囲のバラック屋根が広がっていました。
おそらく庶民的な店の連なる市場だったりするのでしょう。



台湾の食堂というのはどこにいっても人で賑わっています。
皆たくさんで食べるのが好きなようで、ふたり連れより4人かそれ以上で
ワイワイ言いながらテーブルを囲むのを好むようです。



何が食べたいかメニューを見ている時に聞かれましたが、日本人のわたしたちには
何をどう頼むのがいいのかさっぱりわからなかったので、台湾チームにお任せしました。

三角のケーキのようなのは大根もち、蒸し鶏、空芯菜。



チキンスープは生姜が効いていてあっさり、しかし旨味があります。



そしてここにきたからには小籠包は外せないということで、一人二つづつ。


かおり先生が連れてきたアソシエイトの男性の方は、東京大学に留学していたそうです。
日本で知り合った留学生仲間と結婚して、今は「愛妻家」で有名な呉先生。
女性はそのまま丸の内を歩いていそうなおしゃれで可愛らしい独身の王先生。
王先生は留学していないそうですが、そのわりに日本語うますぎ。

中国語圏の人々の語学能力の高いのにはいつも驚かされます。


食事をしながら彼ら若い法律家たちの「今」をお聞きしましたが、
台湾でも弁護士はなるのが難しく、仕事も大変であるのにもかかわらず、
お給料はそんなに高いというわけではないということでした。

もちろんそれはアソシエイトの間だけのことで、パートナーになって
法律事務所でも持てば話はだいぶ違ってくるのかもしれませんが。

さて、楽しくランチを終えた後、わたしたちは仕事に戻る三人と再会を約束して別れ、
暇に任せてSOGOの中をぶらぶら歩いてみました。



上から1731年、1810年、1850年、1875年、1900年、そして1969年に制定された
現在のと同じヘンケルスの商標。
ヘンケルスが創業300年近い企業とは知りませんでした。
ヘンケルスの正式名は「ツヴァイリング・JA・ヘンケルス」で、ツヴァイリングとは双子の意。

1850年の二人はまるで飲み会のあと酔って放吟しながら歩くおじさんたちみたいです。




家具売り場の高級イタリア製の椅子に付けられた注意の札。
高額商品なので損壊しないようにご注意ください、みたいな?
高額商品でなければ壊してもいいのか、って話なんですが、
こういう札を付けておかないと、大陸の旅行者が座って休憩するからなんでしょう。
(それが証拠になんでも日本語表記を欠かさない台湾で日本語がありませんね)

たまたま昨日の記事で、中国本土に何を思ったか(儲かると思ったからでしょうけど)
出店してしまったIKEAの展示品のベッドで寝る中国人のフリーダムな姿を見ましたが、
基本的に中国人というのは上から下までああいう民度の人達なんで、
台湾の人達もかなり以前から手を焼いているのかと思われます。 





わざわざ空港の近くの閑静な住宅街に車を走らせたのは、
台湾に来ることになってから見た映画「台湾カフェストーリー」の舞台になった
カフェがここにあるから是非お茶を飲んでみたいというTOの希望によるものです。

道の向かいには合格者の写真などデカデカと掲げていない小さな学習塾があり、
音楽教室などもあって、見るからに落ち着いた中流以上高級住宅街といった感じ。

 

街路樹が道を屋根のように覆っている光景は南国の台湾では珍しくありません。
蒸し暑く日差しが強烈なので、このような通りは少しだけですがほっとします。

「台湾カフェストーリー」はあの「非情城市」の監督、ホウ・シャオチェンの作品。
カフェで始めた「物々交換」によってオーナーの美人姉妹がいろんな人生模様と出会う、
という一種のロードムービーみたいな作りの映画だそうです。

タクシーの運転手に住所をいうと、「ここだ」と指差したところはカフェではなく靴屋。
おしゃれなトレーニングウェアのブティックです。
TOが中で聞いてきたところによると、三ヶ月前にオーナーはこの店を買ったとのことでした。



映画の舞台をあっさり売却してしまうのも勿体無い話ですが、
そんなことで儲けようともしないのは都会人だからなのかもしれません。 


仕方がないのでその代わりに近くのカフェに入ってみました。
自由が丘にありそうな、洒落た雰囲気の構えで、内部もおしゃれでした。
客層はこれも日本と同じ、近隣のおしゃれな奥さんたちや若い女性のふたり連れ多し。



手書きではないかと思われる作品が壁に飾られていました。



オレンジティーを注文したら、紅茶の中に本当にオレンジが入ったのが出てきました。
なんかこれじゃないってかんじの味でしたが、まあいいや。


続く。 

 

F16A・クフィル・ブラックバード〜イントレピッド航空宇宙博物館

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さて、ニューヨークのマンハッタンにあるイントレピッド博物館の見学記、
しょっぱなから空母の艦首と艦尾を見間違えて、心ある人々を不安のずんどこに陥れた
当ブログですが、そういう瑣末なことはこの際忘れていただいて、
どんどん前に進みたいと思います。

今日は艦載機、というかつまり甲板に展示されている航空機の紹介です。
言っておきますが、甲板にあるのは艦載機ではないものもあります。




冒頭写真は

Grumman F-14 Tomcat

可動翼を持ち、翼が角度を変えることができるのが大きな特徴ですが、
翼の付け根の部分にグローブペーンと呼ばれる手動式の小さな翼がついていて、
それが予定に反して性能には一切影響を与えないものだったという話を始め、
トムキャットに付いてはこのブログではいやっというほど語ってきました。

最近の話題では、今年の初めに映画」「ファイナルカウントダウン」を取り上げたとき、
時空を超えて真珠湾攻撃前夜の真珠湾に現れた「ニミッツ」の艦載機であるこのF-14に
艦長のカーク・ダグラスが零戦の撃墜を命じるという話がありましたね。

「ニミッツ」に乗っていたくらいですから、1980年に除籍になった「イントレピッド」
にもこのF-14が載せられていたのではないかと思われます。

ところで、「トムキャット」という名称ですが、「トム猫」、つまり雄猫から
この名前が付けられていたのだと思っていたら、もともとの由来は、
可変翼で猫の耳のように翼が動くことに、この機体の導入を強く押していたのが
トム・コノリー大将で、「Tom's cat」→「Tom cat」となったという話。

Fー15イーグルは、世界でも日本、サウジ、イスラエルとはっきり言って
ネカチモの国しか買わなかった(買えなかった)ということは有名ですが、
F-14のころには第一次オイルショックによる原価高騰とベトナム戦争からの撤退がたたって、
在庫がだぶつき、一度はこれがグラマン社の存亡の危機ともなっています。

しかし、いかなる営業活動によるものか、イラン軍が本機を採用したことによって
グラマン社は経営危機をなんとか回避したということがあったそうです。

トムキャットはAIM-54フェニックスミサイルを搭載しており、これはトムキャット専用仕様です。
海軍と空軍が長距離対空ミサイルの統合をするために共同開発をしていたようですが、
結局空軍機のフェニックスミサイル搭載は実現しないまま終わりました。

このトムキャットはフロリダのペンサコーラ海軍基地から長期貸借しているもので、
グラマンが最初に制作して偵察機能などを試験していた「史上7番目」の機体です。





この変わった飛行機、わたしは生まれて初めて見ましたが皆さんはいかがですか。
そもそもこのペイントの色からして初めてです。

IAI  Kfir    Israel Aircraft Industries 

この「IAI」をつい顔文字で読んでしまったわたしはインターネットに毒されてますか?
泣いている顔ではなく、アイ・エー・アイ、つまりイスラエル空軍工廠のことでした。
さらにこの「Kfir」も何て発音するのだとGoogle先生にお聞きしたところ、これは
ヘブライ語で「クフィル」、「仔ライオン」のことだそうです。

まあ確かにライオンちっくな塗装ではあるわけですが、時代の古さを感じさせ、
おそらく40年は経っているに違いないと思ったらやはり1973年製でした。

イスラエル空軍が飛行機を自分で作ることを余儀なくされたのは、それまでミラージュを
輸入していたフランスが、中東への武器輸出をドゴール政権の時に禁止したからです。

フランスがイスラエルに武器を輸出しなくなったわけは、ちょうどそのころ中東戦争で
イスラエルとエジプト・シリアなどの中東アラブ諸国との間に戦闘が起きており、
フランスとしてはおそらく石油などの輸入の絡みでイスラエルを切るしかなかったのでしょう。



何かに似てるなあ・・・と思ったら、やっぱりミラージュ?ファントムにもどことなく・・。

ゼロから機体をデザインしている場合ではないので、イスラエル空軍はミラージュ5を下敷きに、
エンジンはアメリカから購入したF-4のエンジンを積むことにしたようです。

平面から見るとわかりにくいですが、デルタ型の翼でそれこそミラージュそっくし。
ただしミラージュはクフィルのように「前翼」はありません。

クフィルは「カナード」(カナルというフランス語の鴨を英語読みしたもの)と言われる
この前翼が付いているのが大きな特色となっており、カナード付きの飛行機のことは

エンテ型

と総称します。
エンテというのも実はドイツ語で「鴨」を意味するのですが、どういうわけか
フランス語の「カナル」→「カナード」は前翼の部分だけを指します。

クフィルは先ほども行ったように子供のライオンを意味する言葉ですが、
アメリカ軍は海軍と海兵隊がF-16が導入されるまでの間、クフィールを
仮想敵、アグレッサー部隊のためにリースしていたことがあり、そのときには

「F-21 ライオン」

とそのものズバリの名称で呼んでいたそうです。
MiG-21を「演じて」、大変好評であった・・・・という時代の飛行機ですが、
実はIAI、いまだにこの機体をアップデートして、輸出もしようとしているようです。

ちなみに新谷かおるの「エリア88」には架空の国家軍機として登場した模様。



F-16A FIGHTIG FALCON   

おそらくこういうエントリになるととんでもない間違いをするのではないかと
息を殺して注視している部下に世話を焼かせないためにも、見覚えがある機体でも
ちゃんと展示版があるものは写真と照合してアップしているのですが、
展示版がないこの機体も、インテイクの形で間違いようがありません。

というか、そのインテイクにカバーに”F-16”って書いてあるんですけどね。

Fー16はバリバリ現役なのですが、どうしてそれがここに展示されているのか。
ここには先ほどのクファール、ブラックバード、そしてこのF-16Aが並べて展示されており、

「WINGS OVER THE MIDDLE EAST」

という説明看板がそれらのために立てられていました。

「とてもスリーク(スマート)だけど他の航空機と少し違うルッキング。
なんのためだと思いますか?
答えの一つは「中東」に横たわっています」

そのような出だしのあと、クファールがイスラエルの軍用機であること、
1990年から1年間行われた湾岸戦争にF16Aもアメリカ空軍機として投入されたこと、
そしてイスラエル軍が(defense force、自衛軍となっている)
そのどちらもを使用していたことが書かれています。

しかしそれではA-12ブラックバードはなんの関係が?



ブラックバードが引退する前、最後の形であるSR-71は偵察機として中東を飛んだ、
という関連付けをしているのですが、ここに展示されているのは実はA12タイプです。

A-12は1962年、ロッキードの「スカンク・ワークス」に寄ってデザインされ
極秘でCIAのために開発された偵察機で、一人しか乗れません。

wiki

前から見るとSRー71との違いがよくわかりますかね。
平面斜めから見ると、明らかに違うはずのシェイプが確認しにくいのですが、



この部分で見分けがつくかもしれません。

ちなみにA-12は沖縄の嘉手納基地で「ブラックシールド作戦」のために投入され、
北ベトナムにおける偵察任務に22回出動しています。
沖縄ではのちにSR-71の姿も見られることになるのですが、現地の人々が誰言うともなく
「ハブ」と呼んだのを当のアメリカ軍が気に入って、自らハブを名乗るようになります。

開発当初、この作戦に入れ込んだリンドン・ジョンソンは「アークエンジェル」と名付け、
設計案もそのようになっていたのですが、結局「ハブ」です(笑)


ちなみにA-12は引退直前、沖縄での運用中に一度太平洋に墜落しています。
沖縄の人々は「ハブ」とあだ名をつけこそすれ、この不気味な偵察機が欠陥で
墜落するから日本から出て行けなどということは全く言わなかったわけですが、
今だったらおそらく沖縄に集結する左翼は嬉々としてこれを政治活動に利用したでしょう。

先日の調布市に小型機が墜落した件ですら、オスプレイと結びつけて
墜落の危険を心配して見せたくらいですからね(嘲笑)

このA-12、コードネーム「article122」は、ネバダ州にある通称「エリア51」、
グルームレイクでレーダーテストのために配置されました。




ブラックバードの下にはこのような黄色いカートが停められていましたが、
これはコンプレッサーで、圧縮した空気を供給しエンジンを回転させるものです。

このカートと機体はどちらも国立空軍博物館から貸与されています。


しかしこうしてみると、クフィールとファイティングファルコン、そして
ブラックバードが中東での戦争に投入されたという共通点はともかく、掲示板の

「ディファレントルッキング」

が中東とどんな関係があるのか。
博物館の説明にはいまいち疑問が残ったまま終わりました。


 


続く。




 


 

台湾的現在~「わたしの名はミミ」

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台湾旅行記、続きです。
この写真は、九份からの帰り、タクシーの中から撮ったのですが、
台湾では信号待ちをしていると、徒歩、あるいはバイクの人が窓越しに
チラシを配りに来るのです。

ここアメリカでは信号待ちのときに来るのは物乞いと相場が決まっていますし、
確かイタリアでは信号待ちの車に「窓を拭かせろ」とブラシを持って迫ってくる
ビジネスがあったと記憶しますが、台湾ではチラシ配り。

日本のティッシュ配りというのは世界的に見て画期的名宣伝活動だそうですが、
台湾のこの方法も受け取ってもらえる確立はともかくとして、
アイデアとしてはなかなかです。


ところで、本日のタイトルを読んで

「お、エリス中尉は台湾でオペラでも観てきたのかな」

と思われた方、違います。




わたしたちは三つ目のホテルに移りました。
改装して五つ星となった(らしい)日航ホテルです。
ドアマンはもちろん、フロントからお掃除のおばちゃんに至るまで日本語がしゃべれました。
面白かったのがこのお掃除のおばちゃんで、最終日にドアをノックして、

「これ。書いてくださーい:)ありがとございましたー」

と、ホテルアンケート用紙を差し出し、

「わたしの名前ミミいいます~!ミミですから~!
ありがとう!せんきゅーべりまっち~!ミミです~!」

と連呼していきました。
なるほど、見ると「心に残ったサービスをした従業員の名前」とあります。

「確かに心に残ったから(笑)名前を書いといてあげよう」

とわたしたちはその欄に彼女の名前を書いておきました。
名前が書かれるごとにお給料が上がるとか、金一封が出るとか、
彼女にとってきっといいことがあるのに違いありません。


蛇足ですが、ご存知ない方のために元ネタを。



・・・・さて。



日航ホテル台湾の基調色はどうやら白らしく、インテリアや従業員の制服が白。
そのせいで全体的にゴージャスながら清潔で明るい雰囲気。



リネン類が上質でとても安眠できました。



ロビーの隅に飾られている巨大なアレンジメントもフェイクなどではなく生花です。



さすがは日系のホテルだけあって、日本酒をずらりと並べたレストランがありました。
台湾人は日本酒も好きだそうですが、そういえば李登輝氏は
日本酒が大変お好きだと今回伺いましたっけ。

こんな色々な日本酒が飲めるホテルはおそらく台湾随一ではないでしょうか。



獺祭というのは有名なのでわたしでも知ってます。



台湾滞在の最終日、ちょうど台風が直撃しました。
その日は台南に行って「軍艦神社」を見てこようと思っていたのに・・。
新幹線どころか外に出るのもはばかられる暴風雨が吹き荒れたので、
わたしたちは仕方なくその日1日ホテルで過ごすことにしました。



退屈なのでホテルを探検しました。
屋上にジムとプールがありましたが、もちろん誰も泳いでません。

「なんか、5つ星にするために無理やり作ったプールって感じだね」




ホテルで傘を借りて隣のビルに行くくらいはできるので、
一流ブランドのテナントが入っていることで有名なホテルの地下を
ウィンドウショッピングしていると、おしゃれなお茶の店を発見。



入ってみると、台湾茶を洒落たパッケージに入れて売っています。



お茶だけでなく台湾名物のゼリーもこんなパッケージに入れて。
TOはここでまとめてお土産を買うことにしました。



「大物」へのお土産は竹に入れられたお茶。
いかにもありがたそうなサテンの布で包まれています。

大量に買い込んでそのすべてをギフト用に包み、リボンをかけるのを
お店の若い女の子二人は一生懸命やってくれています。

ちょうど昼時で、実はわたしたちがいるときに若い男性が店に入ってきたのですが、
彼はどちらかの彼氏らしく、休憩時間に彼女を誘いに来たようでした。
しかしわたしたちのせいで時間通りに終わらないので、かれは梱包した商品を袋に入れ、
さらに雨に濡れないようにビニールをかける彼女の仕事を手伝ってあげていました(笑)

丁寧で誠実な応対といい、気の利いた接客といい、この店には日本でおなじみの
ホスピタリティを感じましたが、最後に英語で

「あなたの友達を待たせたみたいで悪かったわね」

といったとき、彼女が大丈夫です、とにっこり笑う様子もまるで日本人のようでした。
まあ、日本人ならボーイフレンドがお店の仕事を手伝うことはないかもしれませんが。



その日の夜は外に出られないのでホテルのレストランでいただくことにしました。



高級料理、フカヒレが入ったスープ。
わたしたちは頂上鱶鰭という台湾の「最高のフカヒレ」を食べたことがあるため、
ここのフカヒレも「ん~~~イマイチ」と言い放つほど、
フカヒレに関してだけは口が肥えているのですが、
もしかしたら頂上フカヒレが特別で、ここのも悪くなかったかもしれません。



向こうのテーブルは、大学生らしい美少女の一人娘を交えたリッチそうな家族。
食事が進むと全員が自分のスマホを見ていました。



セロリと魚介類の野菜炒めにはなぜか梅の花が飾り書きされています。
緑の丸いのはメロンで、これがなかなか味に一癖を与えていました。



こんなのが食べたかった、なレタス包み。
最初の一皿はボーイさんがレタスに入れてサーブしてくれます。



デザートは・・・なんか忘れました。



この前の晩は、まるでサウナの中を歩くような蒸し暑い中、
扶輪社のメンバーにお誘いを受けて、町のレストランに行きました。
このあいだの電気ラケットで虫を叩いていた店と、日航ホテルのレストランの
ちょうど間くらいのランクのレストランです。

足元にご注意。と日本語でも一段高くなった部分に書いてあるレストラン。



現地に大隈大学(仮名)から派遣されて留学業務を担当している日本人の方、
現地で新島大学(仮名)の同じく業務をしている台湾人女性、その同僚、
そしてわたしたちの5人で食卓を囲みました。

大隈大学の方は大陸でも何年か仕事をされていたそうで、
中華圏に関しては単身赴任4年目というベテラン、女性はやはり新島大学出身で、
留学時代は天神橋に住んで京都まで通ったというディープ関西を知り尽くした人。
ここでも会話は全て日本語です。

現地の人しか行かないような台湾料理店で台湾人や現地在住日本人と
珍しい台湾独特の料理を囲むひととき。

こういうのも文化交流というものかもしれないと思いながらカラスミを
大根に載せたものに舌鼓を打ちます。



これは台湾風オムレツのような感じ。カニ玉という感じの味でした。



台湾はエビの料理の仕方が上手いと思いました。
プリプリした歯ごたえのエビをオレンジソースと絡めてあります。



ご飯の上にいきなり真っ二つに切断されたカニのご遺体が!
なんども言うようですが、わたしはカニも蟹味噌もどちらかというと苦手です。
胴体の部分はありがたくいただきましたが、脚の肉までせせるような
そんな根気はとても持ち合わせません。カニさんごめんなさい。



ここでも空芯菜。
中が空洞になっているので空芯菜ですが、くせがなく食べやすいので
緑のものというとこの空芯菜のニンニク炒めが出てきます。



たくさんでいただくと、たくさんの種類の料理が食べられるのがよろしい。
唐辛子でピリリと辛くした鳥料理。



そしてデザートはピーナツ餅と、(これはおいしかったよ~)



おそらく日航ホテルのレストランで出たのと同じデザート。

このレストランでも周りは全て集団の台湾人ばかりで、
どういうのか、全員がものすごく大きな声で談笑するので、
テーブルの会話が聞き取りにくくて大変苦労しました。



このメンバーでも話題はそのうち政治に移りました。
女性の母親はいわゆる台湾の部族出身だそうで、やはりその出自からも
台湾の国の在り方や中国との関係に無関心でいられるはずがないのです。
そして日本に留学した台湾人は例外なく「日本派」になり「台湾独立」派となるようです。

日本留学で大陸からの留学生とは、同じ中国語が喋れるにもかかわらず、
向こうがその手の話題になった途端、

「独立なんかしたら(台湾を)許さない」

なんてことを平気で言うので、必要以上の接触をしたくなかったし、留学生の間では
むしろ韓国からの学生とつき合うほうが気が楽だった、と彼女は語っていました。




さて、先日日本に台風がきたことがありましたが、わたしたちが台湾にいたのがまさにそのとき。
こちらでは台風はほぼ直撃したので、それなりに爪痕を残したようです。
このニュースは

友達を訪ねるために出かけたらに台風のせいで車に石が落ちてきて、運転手は軽傷を負った。

でいいのかな?



こちらはわかりやすい。

街路樹が台風で倒れてきたとき、樹にあった蜂の巣が頭に直撃して人が怪我をした。

ですよね。
という感じでこの日1日中こういうほのぼのした?ニュースをやっていましたが、
人が亡くなったり重傷を負うような深刻な被害は全くなかったようで何よりです。




言っていることはわからないけど、画面を見るとニュースの内容もわかってしまう世界。
日本語は普通にあちらこちらで通じるし、万が一住むことになったとしても、
(紙を捨ててはいけないトイレが時々あること以外は)全然大丈夫だと思います。


台湾の「現在」は、モダンとオシャレと、政治に熱い関心を持つ台湾人と、
ラケットで虫を退治するレストランと、たくましいホテル従業員、
そしてどこにいっても値段なりに決して裏切られない美味しさの料理でした。


またぜひ機会があれば訪れてみたいと思います。




 

クーガーとタイガー〜イントレピッド航空宇宙博物館

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ニューヨークはマンハッタンにあるイントレピッド航空宇宙博物館の
艦載機(というか甲板に展示してある飛行機)のご紹介、続きです。

コメント欄でsoraさんがご指摘くださったので改めて調べてみたら、
 


映画「アイ・アム・レジェンド」の一シーン。
ウィルったら、ブラックバードの翼の上でゴルフをやっとるじゃないか。

 

前回お話ししたように、ブラックバードは岸壁に向けた艦首に一番近いところにあり、
マンハッタンの摩天楼を一望にできるという絵面ゆえに、このシーンに選ばれたのでしょう。

あとは「ナショナルトレジャー」でもロケが行われました。
ニコラスケイジがこの甲板からハドソン川に飛び込んで逃げたシーン。

もちろんスタントマンがやってるわけですが、



この甲板から飛び降りるのは飛び込みの選手でもないと無理かもしれません。

さて、冒頭写真は

Grumman A-6E Intruder 1963

です。
去年ここカリフォルニアで訪れたパシフィックコースト航空博物館で、
このイントルーダーとプラウラー(うろうろする人の意)EA-6の違いでコメント欄が
炎上(でもないか)したということがありましたが、こちらは間違いなく
『E』のつかない方のイントルーダーです。

プラウラーの「E」は電子の「E」。
というわけで、こちらは電子戦を行わない方なのですが、画期的だったのは
これが全天候型の攻撃機であったということです(ここの説明によるとそのようです)

そのせいなのかどうか、非常に汎用性があったということで、生産されて以降
アメリカが関わった戦争のすべてに投入されてきました。

あの「ニミッツ」にも当然艦載されており、「ファイナルカウントダウン」では
F-14トムキャットに空中給油をしてみせるという、海軍的には
「プロモーションシーン」でその姿を見ることができます。
ジョリーロジャースに


「終わったら窓ガラスを拭いてくれ」

とかベタベタなギャグ(にもなっとらん)をいわれちゃったりしてね。



Grumman (F11F-1) F-11A Tiger 1956

先日コメント欄で昭南島の空軍がこのタイガーを使用している、
というご報告を聞いたばかりですが、このタイガーはブルーエンジェルス仕様。

ブルーエンジェルスというのはご存知ニミッツ提督の発案で創始され、
ヘルキャットからベアキャット、パンサー、そしてこのタイガーと、いわゆる

「グラマンの猫戦闘機」

を仕様機として乗り継いできたわけですが、この機体は1961-1963年に
♯5ソロ機として使用されたものです。

(一瞬”ガッツレス”ことヴォートの”カットラス”も使っていたのは黒歴史ってことで)

ちなみにグラマンはF7F「タイガーキャット」というのも作っていますが、
この「タイガー」とは別物です。念のため。


タイガーの生産の歴史は大変短く、1957-8年の間に201機造られただけで、
最初の42機は「ショートノーズ」のもの、そしてそれ以降はここにある「ロングノーズ」です。
短命の理由はどうも軽量化に成功しなかったからということみたいですね。

ただ離着艦性能、操縦性、運動性においては非常に優れていたため、アクロバットには
むしろ大変向いていたということでブルーエンジェルスの使用となりました。

ところで、このタイガー、航空自衛隊が購入するかも?という話になって、
F-104スターファイターと売り込みの競り合いをしたことがあります。

先ほども言ったように機体が重くなりすぎてエンジンを換装しなくては使い物にならん!
という状態だったのですが、グラマン社は「ちゃんと換装して納入します」と
売りたい一心で日本に約束しました。
しかし結局エンジンの開発は日本がやらなくてはならないことが判明し、
タイガーが翼に日の丸をつけて飛ぶことはありませんでした。

これってつまり、アメリカで重量がネックになって海軍にそっぽを向かれたから、
日本に売りつけようとしたわけですよね?

この商談のときに暗躍?した伊藤忠商事とグラマンは

「伊藤忠、おぬしも悪よのう」
「ひっひっひ、グラマン様ほどでもございません」

などとゴニョゴニョやってたんだろうなあとゲスパーしてみる(笑)



(F9F-8) AF-9J Cougar 1954

大戦後初めて海軍に導入されたジェット戦闘機、それが F9Fのパンサー。
パンサーと名前を対にしたかのような「クーガー」は、パンサーの改良型で、
朝鮮戦争に投入されたものの、速度が遅かったたため、後退翼に改良するように
海軍が注文をつけてできたのがこの「クーガー」です。

朝鮮戦争には1951年、MiG 15のデビューより一年遅れて登場しましたが、
結局このときに空戦を行う機会は訪れませんでした。

そもそもクーガーへの改良は、MiGに対抗するためだったわけですが、
パンサーに乗っていた搭乗員は技量で機体の不備をカバーしてMiGと戦い、
それなりに戦果をあげていたということなのです。



ビル・T・エイメン(スペルが本当にAmen!)少佐が、米軍のHPによると

「MiG-15に対する勝利を決めた後パンサーから降りてくるところ」。

ちなみにこの部分の文章は、

after scoring his victory against the MiG-15.

となっています。
エイメン少佐はVf-111、あの「サンダウナーズ」の隊長です。

というわけで、パンサーでは栄光の歴史を築けたのに、改良型のクーガーは
タイミングが悪くて交戦すらできなかったということですが、もしサンダウナーズが
最初から機体速度の上がったクーガーでMiGと交戦していたら、
結果はどのようになっていたでしょうか。



Grumman (WF-2) E-1B Tracer 1958

これは初めて見ました。
大きなお皿を背負ったEーC2早期警戒機なら空自にも配備されていますが、
こちらのレドーム(レーダードーム)は楕円形で、上から見ると

wiki

こう・・・・・ぷぷっ(噴き出している)

早期警戒機の「甲羅」感が楕円になってさらに一層亀のそれに肉薄!

いやー誰が考えたか知りませんが、このレドーム仕様機って、
見た目が和むわー。

このレドームの部分をイントレピッド艦上の写真でもう一度見ていただきますと、
機体との間に細い盛り上がりがありますが、これが方向安定版というようです。

方向安定版、って何を安定させるんだろう・・。

トレーサーは艦上機として開発されましたが、レドームに全ての機能を詰め込んだ結果、
大型の割に居住区がが異常に狭くなり、正副操縦士プラスレーダー員2名の計4人を乗せるのが
大変困難であった上、電子機器(つまり皿ですね)の発熱を
冷却する能力も欠けていたためE-2・ホークアイの開発が進められたというわけです。

ホークアイは映画「ファイナルカウントダウン」では発艦シーンを見せてくれていました。 



このトレーサーはイントレピッドに艦載されていたんですね。
上方から見た翼の長さを見ると、艦載機として運用するために
思いっきり尾翼をたたんでいるのがよくわかります。



McDonnell F-4N Phantom II 1960

我が日本国航空自衛隊ではバリバリ現役のファントムです。
このスプリットベーンの機構を当ブログでは熱く語ったことが あり、
当機で行われた上昇の限界を競うハイジャンプ計画について語り、
また成り行き上「ファントム無頼」を全巻大人買いして読破したというくらい縁の深い戦闘機。 

マクドネルダグラス社を一躍世界のトップに押し上げ、
また西側諸国では唯一5000機以上製作された戦闘機で、
未だにアメリカを除く世界中の軍で運用されている 名作中の名作機でもあります。

 

その現役時代、アメリカでいろんなチャレンジを行ってきたファントムIIですが、
アメリカ大陸横断チャレンジ、なんてこともしています。
ロスアンゼルスから3機のファントムが時間差で飛び立ち、 ロングアイランドまで、
途中で3回の給油を受けながら、

3時間5分、2時間50分、2時間47分

と後になるほど速くなって到着しています。
これはもしかしたら、後になるほど空中給油の要領が良くなっっていったためとか、
そういう理由のせいではないかという気がしますが・・。 

 


 Beech T-34A Mentor 1953

修復作業中のようです。
メンターはその名前の通り、初級練習機として使用される飛行機。
日本でもかつて「はつかぜ」として採用されていました。
海上自衛隊の鹿屋航空基地で展示されているのを見た覚えがあります。

このようにイントレピッドでは常時機体のメンテナンスが同じ甲板の
修復コーナーのようなところで行われており、展示機も貸借先との契約の関係で
少しずつ入れ替わっていっているようです。



続く。



 

ピーボディ博物館〜SAMURAI CRAB(平家蟹)

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息子のキャンプが行われたイエール大学の広大なキャンパスには、
また学校の施設の一環として幾つかの美術館、博物館があります。
バイオリニストの高嶋ちさ子氏が留学していたというくらいで、
音楽学部もあるせいか、世界の楽器を集めた楽器博物館などもあるくらいです。

なまじの日本の美術館などおよびもつかないような所蔵品を誇る
イエール大学美術館などは、 驚いたことに入場料無料。

ゴヤの素描やエジプト美術、アフリカやアジアの価値ある所蔵品を備え、
近代アートも充実しているこの美術館がなぜタダで入れるのか不思議ですが、
それだけ大学の資金が潤沢であるということなのでしょう。
おそらくここもボストンのハーバード大学のように、ほとんどを賄えるくらい
卒業生からの多大な寄付が集まってきているに違いありません。

さて、最初にニューヘイブンに着いたとき、キャンプのチェックインが行われる
オールドキャンパスを探して走り回っていたら、

「SAMURAI」

という看板が目につきました。
一去年はボストン美術館で「SAMURAI!」とエクスクラメーションマーク入りで、
美術館所蔵の甲冑の公開をやっており、皆さんにもお伝えしたのですが、
アメリカ人がサムライ文化に大変興味を持っていることは驚くばかりで、
この夏、ここ以外のニューイングランドの博物館でも「サムライ」をテーマに
何か展示が行われているという情報を見ました。

蛇足ですが「サムライ」以上にアメリカ人が好きなのが「ニンジャ」。

「ティーンエイジミュータント・ニンジャ・タートルズ」

というアニメを最初にこちらで見たときは目を疑いましたが、
この亀ニンジャ、(名前がレオナルド・ドナテッロ・ミケランジェロ・ラファエッロ)
彼らの師であるネズミは、飼い主の日本人の敵討ちを心に誓っているとかなんとか。

こういう子供への媒体物にも普通に設定されているのを始め、テレビのCMでも
ニンジャは(相撲レスラーもかな) しょっちゅうお目にかかることができます。

例えば中国の仙人やフランスといえばバケットにエッフェル搭といった、
だれでもその国に対して持っている異文化の象徴的な記号としての「サムライ」。

アメリカの大学の中でもさらにその最高峰に属する知性の府、
イエール大学の美術館で「サムライ」はどういう展示がされているのか。

わたしたちは息子をキャンプに送り届けた後、イエール美術館に次いで
この「サムライ」を見学することにしました。

冒頭写真は簡単な展示のパンフレットですが、わたしはそこに着くまで
このイベントが行われているのがあの有名なピーボディ博物館であるとは
全く知りませんでした。

いつ気がついたかというと、特別展である「サムライ」を見終わって
次の展示室で巨大な恐竜の骨が現れた時でした(笑)

というわけでそのピーボディ博物館の「サムライ」。
サブタイトルとして

「and the culture of Japan's Great Peace』

と書いてあるわけですが、この「グレートピース」ってなんだと思います?

サムライの世紀ということばから想起されるもの。
それは完全無敵な「武装戦士」が、死に対する諦念を穏やかに顔に浮かべ、
その一方、造形と天然の美に深く関わっていた世界。
彼らの現実、その変遷とパラドックスはどんなドラマより複雑なものです。




こんな紹介に説明される「グレイト・ピース」とは、いわゆる「天下泰平」。
250年もの間平和であった「サムライの時代」は、つまり徳川の時代でもありました。
内乱が起きることもない平穏な時代には、文化が花開くとともに、サムライの
多層的なあり方と、そのしきたり、きまりがもたらされた、とパンフレットにはあります。



まずはピーボディ博物館外観をどうぞ。

全米でも最も古い大学併設の博物館ですが、これも実は「寄付」によるものです。
1866年、イエール大学の古代生物学の教授であったオスニエル・マーシュが、
裕福な彼の叔父であるピーボディに「おねだり」したものなんだそうです。

ハーバード大学でも「少なくてごめんなさい」と言いながら億単位の寄付をした
卒業者の未亡人がいたといいますが、アメリカの富豪が出身大学、
ことに名門大学に寄付する金額は桁外れなものです。

余談ですが、日本の大学を卒業した台湾人が母校に行う寄付も桁外れに多いそうで、
ことに早稲田慶応などに彼らは大変熱心に寄付をするそうです。



サムライですから、もちろん兜が展示されています。
この変わり兜、なんとウニをあしらったものです。
ウニだけでなく庇の部分にもトゲトゲをつけて、お近づきになりたくない感倍増です。



兜飾りは中世以降、己の武功を誇り、存在を誇示するために行われました。
大将のものは何かをかたどったものが多く、鹿のツノに耳もちゃんと付いたのとか、
帆立貝みたいなのとか、本当にデザインを楽しんでいたんだなと思います。



茶の湯も武士には必須というべき嗜みの一つでした。
武家茶道というジャンルがあるくらいで、別名「大名茶」というそうです。
茶の流派というか流儀は各藩・各大名によってことなりました。
戦国時代にあって、戦乱に明け暮れる武将たちがこぞって茶の湯に熱中したというのは、
精神の拠り所を戦いの対極にもとめるという「バランス感覚」だったのかとも思います。


いずれにせよ、「大名茶人」といわれる本格的な茶人が、名物茶道具の収集に力を入れたため、
派生的に茶道美術の発展にもつながったのです。

昔の雨具、蓑ですが、庶民の藁作りより凝っています。
堅牢に編まれており、おそらく雨雪はほぼ完璧に防げたでしょう。
長時間濡れたらむちゃくちゃ重くなりそうですが。


かと思えば総刺繍縫い取りの絢爛豪華な着物もありました。
この模様全てがて刺繍で行われたという驚くべきもので、数百年を経た今も
その輝きは全く損なわれておりません、
よほど権勢を誇る大名がつくらせた着物に間違いありません。



拡大しても何が書いてあるのかさっぱりわからないのですが、
右のネズミとヒキガエルは実在するもので、左の猪と狐は中の人がいます。
当時のコミックであると説明にはあります。



「仮名手本忠臣蔵」、通称忠臣蔵は、日本の武士の「忠誠」、主君に殉じる義を尊ぶ
サムライという階級のあり方を表す物語として、海外でも広くその名を知られますが、
さすがに妖術使いまで出してきたキアヌリーブスの「47RONIN」はあまりヒットしなかった模様。
まあ、有名だからネタにもなったってことなんですが。

ちなみに松の廊下の刃傷沙汰のあと、浅野内匠頭が切腹したのはその日のうちで、
仇討ち討ち入りはその年の年末の約9ヶ月後。
47士が切腹の仕儀に処されたのは事件後3ヶ月経った時でした。

彼らについて本が書かれたのは事件が起きてわずか1ヶ月後のことで、
沙汰を待つ赤穂浪士たちの耳にもそのことは届いていたということになります。



パネルで仕切られた通路を曲がったとたんクマー!

この巨大なクマは北海道のヒグマで、なぜ「サムライ」の展示に
サムライとは全く関係ない北海道の生活に関する展示があったのかわかりませんが、
おそらくピーボディがこれらの資料を借りた時に、
(これらはピーボディ所蔵ではなく全てイエール美術館のものだそう)
サムライに関する展示だけではちょっと地味というか、もう少しパッと目につく
派手なものがあってもいいよね、ということでついでに借りてきたという気がします。

ところでなんだって北海道ヒグマの剥製がアメリカにあるんでしょうね。



武士が旅に携えていった携帯用の硯と筆セット。
どう見ても一回使われただけなんですがこれは・・・。



行李とその中に収められていた雑納のような袋。
袋には墨で「籠子」と書かれているのですが、推測するに
行李の中で衣類を仕分けする「仕分け袋」だったのでは。

 

武家社会の終焉と写真の出現は入れ替わりのような時期であり、
さらに「写真を撮られると魂を取られる」といった迷信のせいで、
侍が写真をその姿に残すことは、明治政府のドラスティックな近代化への転身の割に
少なかったと言われています。

しかし、何人かの武士たちが積極的に、武家制度の終わり頃の、
西洋文化との融合する様を写真に残しています。

写真は「最後の将軍」であった徳川慶喜。
1867年に撮られたもので、フランス風軍服に同じくフランス製のサーベルを佩しています。

しかし、やはり日本人は着物を着ている時のほうがかっこいいですね。



文化というものはどちらにとっても融合しようとするもの。

というわけで、この女性、メイベル・ルーミス・トッドというマサチューセッツ出身の
ライターであり編集者も、日本から取り寄せた着物と傘で「コスプレ」しています。
この写真が撮られたのは1896年のことです。




日本人的に一番ウケた展示がこれ。
あまりにもテリがあるので、これがおはぎであることがぱっと見にはわかりませんでした(笑)



戦国時代の戦乱と混乱の世にもかろうじて天皇制は存続しました。
16世紀には彼ら(天皇)は大変慎ましい暮らしをしており、彼らの支持者が
ひっそりと貢ぎ物を届けることによって生活しているようなものだったそうです。
1560年代(後土御門天皇から正親町”おおぎまち”天皇 まで)までには
貢ぎ物をすることは「ritual」、つまり儀式のようになっており、毎朝屋敷の持ち主が
天皇に六穀で作られた餅に塩で味付けした小豆のペーストを塗ったもの(おはぎ)
を朝食として届けるということが慣習となっていたそうです。

「彼らの住む領地には、天まで届こうという城が建てられている間、
その同じ空の藁葺き屋根の下で天皇がこのような貧しい食事をしていた
ということを想像してみてください」


解説にはこのようなことをが書かれていますが、そもそもここが日本でなかったら、
天皇はとうの昔に為政者によって処刑になっていたであろうということ、
「貧しい暮らし」とはいえ、天皇家を存続させることが当然とされており、
どんな権勢を誇った為政者も天皇家を断絶しなかったという、日本の「特異性」について、
まずこれを書いた人は、言及するべきだったのではないかと思います。



さて、わたしはキャンプ終了後、息子にこれを見せてやるためにもう一度
ピーボディ博物館を訪れました。
そのとき、ちょうど解説員によるツァーが始まっていて、アメリカ人ばかり、
年配の解説員に率いられて説明を聞いていました。

わたしが少し先に進んで展示を見ていたところ、息子が追いついてきて、

「ママ、あのおじさんの言ってたこと本当?」

と聞きます。
残念ながらわたしは解説を小耳にはさむほど英語は聞き取れないので
なんて言っていたのかと聞くと、

「カニはサムライの生まれ変わりだと信じられていたって言ってたんだけど」



ははあ、それでここにわざわざホルマリン漬けの「平家蟹」が?
これはあのモースが持ち帰った日本での収集品の一つで、

「Samurai Crab」

となっています。
さらに説明を読んでみると、

漁師が引き上げたカニの甲羅に怒れる形相を認めたとき、誰言うともなく
この顔は戦いで海に没した武者たちの無念の現れだということになりました。

源平の戦いは大規模な海戦によって終焉しましたが、少年天皇(安徳)と
その乳母を含む多くが海に没して亡くなりました。

日本では、戦いに殉じた魂は怨念を残すものとして畏れられていました。
琵琶曲「平家物語」も、彼らの魂を慰めるために作られ、演じられたということです。


となっています。
解説員の説明は決して間違っているわけではありませんが、

侍はカニに生まれ変わると信じられていた

という説明では微妙に意味が変わってしまっているような・・・。
そもそも、「平家蟹」が「サムライ・クラブ」と訳されてしまっているあたりで、
一般的な伝説のようにアメリカでは解釈されてしまったのかなという気がします。

もともと平家がにというのはこんな甲羅の模様をしていたけど、
源平合戦以降、これが人の顔に見えるような気がしてきたので、
これは負けた平家の武士の怨念か、って話になったってことなんですけど。


ピーボディの解説員が、この後他の展示についてもどのような説明をしていたのか
聞いてみたいところでしたが、時間がなくて残念です。



というのを目の当たりにして、豊富な資料をもとに、最高の頭脳による研究と調査が行われていても、
微妙なところで、言葉の違いから生まれた誤解(ともいえない誤解)がそのまま定着した、
という例は、実は世界中に無数にあるのではないか、と思ってしまったのでした。







MiGと「タイガー・ミート」~イントレピッド航空宇宙博物館

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ニューヨークはハドソン川に面したピア86に繋留された空母「イントレピッド」。
今は航空宇宙博物館として連日多くの観光客が訪れる名所となっています。

同じ空母博物館でも、サンフランシスコはアラメダの「ホーネット」とは、
その注目度も、動員数も桁違いに多そうですが、それというのもこのピア88は
マンハッタンの中心街からほど近い場所にあり、ハドソンリバークルーズが出港する
観光船の発着所にほど近いという地の利があるからです。

だからこそ大変な数の航空機と、展示をつねに作り変えるだけの資金が賄え、
「ウォー・バード」だけでなくコンコルドやスペースシャトルまで展示することもできたのでしょう。


というわけで、展示機も「ホーネット」とは違って、貴重なMiGなどもあったりするのです。
冒頭写真は、

Mikoyan Gurevich MiG-21 PFM (NATO code name Fishbed F)1959



MiGの”i"だけがなぜ小文字なのか、つい最近まで知らなかったわたしですが、
「ミコヤン・グレーヴィチ」はソ連の公開会社で、ミコヤンさんとグレーヴィチさんが
1939年に作ったためこの名称となったものということで納得しました。

バラライカという楽器(三角形)に翼の形が似ているため、
彼らはこれを本当に「バラライカ」というあだ名で呼んでいました。
(バラライカ型の飛行機って、たくさんあると思うんですが)
NATOのコードネームはフィッシュベッド(Fishbed、魚類の化石が多い堆積層の意)。


MiGと名付けられた「MiG1」が歴史上初めて登場したのは1940年です。
戦闘機としてのMiGはMiG35までがあり、初飛行は2007年ですが、
ソ連はその間崩壊などによる財政難もあって、何度も開発が途切れています。

この21が制作されたのは1955年で初運用が1959年のことですが、
初生産から15年位樹経って一つの完成形を見たのか、このタイプは多くの派生形を生み、
なんと社会主義国を始め60カ国以上の空軍で採用されました。

なんとアメリカ空軍でも採用されて空戦訓練などに使われていたそうです。
ここにある21型は、ポーランド空軍で運用されていたもので、MiG-21PFM型。
ワルシャワ防衛のための迎撃機という役割を担っていたそうです。

ところでどうしてわざわざ視認性の高い虎の絵が描かれているのでしょうか。


皆さんはNATOタイガーアソシエーションという言葉を聞いたことがありますか?
これは、一言で言うとNATO参加国の空軍同士の連携を強めるために、
フランスの防衛大臣が提唱して1961年に結成され、2015年現在に至るまで
存続している非公式な組織です。

参加部隊はヨーロッパのすべての国からと、名誉メンバーとしてアメリカ、
カナダ、インド、スロバキアからの空軍から選出され、彼らは年一回、

TIGER MEET

と称する合同演習を持ち回りの主催によって行っています。
今調べたところ、ポーランドはこの主催になったことも開催国になったこともないのですが、
このタイガー・ペイントは、タイガー・ミートで飛行させるためだけに施されたそうです。

タイガー・ミートのページを見ると、2015年度のタイガーミートは、
5月に初めてトルコのコンヤ基地で開催され、無事終了したということでした。

この飛行機はイントレピッドにポーランド国民から、という名義で寄贈されています。




Mikoyan Gurevich MiG-17 (NATO code name Fresco) 1952

先ほどのトラ柄の隣に仲良く並んでいるこちらのMiGは17型。
トラと反対に、思いっきり視認性を低くすることを意識したペイントです。
先ほどの21から先っちょの三角をとったら21になるという感じのノーズですが、
ノーズがインテイクというこの形(Fー8クルセイダーみたいな)の嚆矢となったのは
もしかしたらMiG-17だったのでしょうか。



ソ連のMiGとアメリカのファイターはお互いに相手に勝つために
開発競争が行われ、その結果機能が向上していったという歴史があります。

この先代であるMiG-15の出現は、アメリカをはじめとする国連軍に衝撃を与え、
第二次世界大戦では無敵だったあのB-29がMiGー15の前に多数撃墜されて、
制空権も一時は揺らいだというくらいでした。
これに対してアメリカ軍が投入したのがF-86セイバーです。

それからというものMiG-15とセイバーはシーソーゲームのように制空権の取り合いを演じ、
実際に制空権の行方は頻繁に南北を移動するほど、激しい戦いとなりました。

セイバーだけで見ればMiG15のキルレシオ(撃墜比率)は4:1というのがアメリカ側の数字ですが、
このセイバー以外の航空機、例えばB-29などは勘定に入れていないので、
アメリカ側のMiG-15による全体の被害は、結構甚大なものであったということになります。


ちょっと面白かったので少し余談を。

MiG-15のためにF-86が投入されたにもかかわらず、実際に会敵する機会が少なかったので、
この両者が朝鮮戦争でガチンコ交戦した回数はそんなに多くないそうです。

しかも、MiG-15が上昇力と高高度での運動性に優れていたのに対し、
F-86は急降下能力と低高度に優れていたため、両者が交戦に入ると、常に
MiG-15は上昇しF-86は急降下して(自分の得意な駆動で空戦に持ち込もうとするので)
戦闘が成り立たなかったこともその理由の一つでした。

「敵機発見!」「空戦用意!」

きゅいいいい====ん(セイバー)↓

くおおおお~~~ん(MiG)↑

「・・・あれ、あいつどこいった?」

「上昇していったらやられるからここにいよう」

「降下したらやられるからここで待つか」

「・・・・・・」「・・・・・・」

「じゃ交戦不成立ってことで!」「帰投!」


みたいなことが度々あったってことなんですね。微笑ましい。

それはともかく、小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載する、
という画期的なコンセプトで衝撃のデビューをしたものの、
これといった戦果をあげていないのがMiG-15でした。
MiG-17はその不備を補う形で開発され、朝鮮戦争に投入されたのはほとんどこちらで、
MiG-15には

「ガガーリン(宇宙飛行士)が事故死した飛行機」

という忌まわしい名称だけが残されているといった状態です。
ガガーリンの事故死も実際の原因は明らかになっていないのだそうですが、
(最新説ではあるソ連の英雄が無断離陸したスホーイとニアミスしたというもの)
MiGー15の機能そのものはそんなに欠陥があったというわけではなく、
つまりパイロットの練度にことごとく問題があったのではないかとされます。

先日お話しした「欠陥機」クーガーで、MiGを何機も撃墜した米空軍パイロットは
機体の不備を根性で跳ね返すだけの技量を持っていたというのと反対で、
その時の軍のマンパワーというのは、時として機体の性能の評価さえ変えてしまう、
ということではないかと思いました。

ところでMiG-17ですが、多数生産され、30以上の空軍で採用されたというモデルです、
ベトナム戦争ではその駆動性と攻撃力は多くのアメリカの戦闘機を上回り、
北ベトナム軍からはMiGー17パイロットに4人のエースが生まれました。

NATOはMiG-17に「フレスコ」というコードネームをつけましたが、北ベトナム軍は
塗装していないシルバーのMiG-17を「銀ツバメ」(シルバースワロウ)と呼び、
カモフラージュ塗装されたものを「スネークス」と呼んでいました。

ここにある機体は2007年にイントレピッド博物館が手に入れたもので(経緯は不明)
北ベトナム空軍のカモフラージュ塗装を施された「スネークス」です。

最後に外国機つながりでもう一つ。

 Aermacchi MB-339 1979


デザイン的になにか家電ぽい軽さとえもしれぬ洗練を感じさせると思ったら、
やっぱりイタリア製の飛行機でした。

イタリア国旗の三色があしらわれたブルーは、
フレッチェ・トリコローリつまり「スリーカラードアロウ」(三色の矢)
というイタリア空軍のアクロバットチームのための塗装です。

アエルマッキは高等練習機であり軽攻撃機で、駆動性が良いため、
アクロバットチームに採用になったようです。


ところでアエルマッキではありませんが、フレッチェ・トリコローリで検索すると
恐ろしい航空ショーでの事故映像が出てきます。
1988年8月28日にドイツのラムシュタイン空軍基地で演技中に空中衝突を起こし、­
フィアットGー91戦闘機3機が墜落。 
墜落した機体のうち1機が観客席に飛び込み、地上の観客と
パイロット合わせて75名が­死亡、346名が負傷したという大事故でした。


続く。





イエール大学の戦死者碑銘

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カリフォルニアに来てしばらくして、息子がニューヘイブンで参加していた
キャンプが全米ネットのニュースで紹介されていました。



息子が「あ、誰それだ!」というので画面を見ると、キャンプのオーナーが、
去年キャンプの行われたボストンのウェルズリー大学の校舎をバックに
インタビューを受けていました。



キャンプが行われていることを表すバナーが窓に掲げられています。



キャンプには全米からはもちろん、デュバイからも来ている、とキャスター。



どうやらこの女の子たちはデュバイからの参加者である模様。

このキャンパスはジュニア・ハイスクールまでの参加者のためのキャンプが
行われているので、去年は息子もここだったのですが、

「惜しかったね。去年ならネイションワイドで映ったかもしれないのに」

「日本からっていうのは確かに少ないけど珍しがられないからなあ」

 



キャンプ出身者の「起業家」のインタビューも有りました。
息子が今西海岸で行っているITキャンプにも、ウェブデザインの会社を立ち上げている
息子と同い年の少年がいるそうで、

「アメックスのビジネスカード持ってた」

とのことです。

「そんな子が今更何を習いに来るの」

「わからないことを習いに来るんじゃない?」

そりゃそうなんでしょうけど、そういう子供がビジネスを立ち上げてしまうっていうのが・・。




さて、息子をこのキャンプに送り込んだ後、私たち夫婦はイエール大学美術館を見学し、
そのあと、ピーボディ博物館の特別展「SAMURAI」を見るために、歩いて行ったのですが、 
車では一瞬に思えたのにその遠いことといったら・・・。
大学構内といっても街全体が大学なもんで、行けども行けども着かないのです。



しかし、300年経過した大学の建物はどれも重厚で美しい。



これはイエール美術館のガーゴイル。
イエール全体のガーゴイルについてそのいわれを説明する本などもあるようです。
ガーゴイルというのはこの写真のものもそうであるように「雨樋」。
雨樋の機能を持たないものは残念ながら単なる彫刻でガーゴイルと言わないそうです。

ゲーム業界では「ガーゴイル降臨」などといって、それ自体が悪魔の名称のようになっていますが、
それはあくまでも日本だけのお話なんだそうです。 



イエール大学のオールドキャンパスの向かいにあったゴシック風の門。
門の取っ手によく見ると落し物らしいベージュの帽子が掛けてあります。

わたしは昨日、ランドリールームで、洗濯機が回っているわずか30分の間に
洗濯物入れのプラ袋に入れて隠しておいたTUIMIIのポーチを盗られました。
中は何のことはない”ランドレス”の携帯用洗剤セットでしたが、
一応一泊200ドル以上とるホテルの宿泊客でも、目の前に小銭らしいものがあると
(ポーチは外から見ると小銭入れに見える)脊髄反射で盗る手癖の悪い人間が
確率的に多い国なんだなと改めて思ったものです。

このベージュのキャップを拾った人は、持ち主にわかりやすいようにノブに掛けたわけですが、
2時間後くらいに前をもう一度通ったら次は無くなっていました。

わたしなどてっきりこのときは落とし主が探しに来て確保したと思い込んだのですが、
よく考えたら、別の人間がひょいっと取っていっただけかもしれません。

ちなみに、美術館の前で大きなお腹を見せながら物乞いをしてきた女性は、
(とてもおめでたの可能そうな年齢には見えなかったけど)
2ドル渡してやると「もう1ドルくれ」と食い下がりました。
厚かましすぎ。

いずれも日本以外では当たり前、日本ではあまり見ないことばかりです。



ハーバード大学の建物もそうでしたが、アメリカの古い建物は、
何百年越えの建築でさえ「バリアフリー」であるのに驚きます。

今ではもちろんどうにかなっていると信じたいですが、何年か前までは
新幹線のモノレール乗換駅である浜松町は階段が多く、
カートを持っていると大変つらかったものですが。
あと、概してフランスの地下鉄には階段しかなかった覚えがあります。



キャンパスの建物と建物の間はこのように芝生が敷き詰められていて、日陰などで
学生が昼寝をしたり本を読んだりしている姿がそちこちにみられます。



ベンチもありますし、カリフォルニアほどではありませんが、日本よりは
かなり湿気もましなので、日陰に入ると快適に過ごしやすいのです。

イエールは圧倒的に白人の教授が多く、マイノリティが少ないので有名ですが、
女子学生を学部が受け入れたのですら1969年になってからのことだそうです。
そういう意味では大変旧式な体質を持っていると言えるかと思いますが、
つい最近、国立シンガポール大学と提携してYale-NUS College
(イエール大学シンガポール校)を開設したそうです。

アジアでの大学総合ランキングの最上位 (学者からの評価では東大が最上位)
大学なので、イエールもこの提携となったのでしょう。



いきなり現れたアーチの門に大学の紋章。
書物の下の大学モットーは、

"Lux et Veritas"(ラテン語で「光と真実」)

ハーバード大学がではVeritas(「真実」)一言を採用していたのに対し、
イエールはハーバードの世俗化を批判して創設されたという関係上、
Lux(「光」)を付け加えたということです。



さて、オールドキャンパスを歩き出してすぐ、冒頭の壮麗な柱を持つ建物が有りました。
道らしい道がないので、アメリカの大学だから中を通り抜けられるだろうと思い、
とりあえず突入してみることにしました。
写真の建物がドームのように見えるのは、ワイドモードで撮ったからです。 



建物の前に置かれた棺のような石碑には、このような文言が。

彼女(イエールのこと)の伝統に殉じて、その命を、
決してこの地上から消え去ることのない自由のために捧げた、
イエールの男たちの思い出のために

1914 ANNO DOMINI 1918

「彼女」とはこの建物に併設されたウルジーホールのアテナのことかもしれません。

アンノ・ドミニとは西暦のA.Dのことですが、年号は第一次世界大戦を意味します。
南北戦争ではイエール大学出身者のほとんどは北軍として戦ったわけですが、
第一次世界大戦というのはアメリカにとっての最初の大規模な世界大戦であり、
(アメリカの参戦理由というのもわたしにはイマイチよくわかりません)
ここで初めて当大学も「彼らは自由のために命を捧げた」と標榜することができたのでしょう。

底意地の悪い言い方ですが、実際南北戦争の時、同じ大学を出ていながら
南北に分かれて戦うことになった同窓生なんかもいたはずで、さらには
彼らの戦いはどちらにとっても「自由のため」であったということなのです。




中に入ってみてびっくり。
なんと大学のダイニングホールでした。
わたしなど真っ先に思い出したのが「炎のランナー」で、
オックスフォードに入学した学生たちが全員タキシードを着込み、
学長主催の晩餐会に出席するシーンです。

ずらりと並んだテーブルのこちら側には、ビュッフェ台があり、
様々な食べ物がもうすでにスタンバイしていて、夕食の準備が整っていました。

「誰が今日ここで食事するんだろう」

といいながらふと目に留めたこの看板。



あらら、息子さんのキャンプじゃないですか。
誰が食事って、うちの息子が食事する場所だったのね。

「わーいいなあ、MKってこんなところで食事してんだ」

「イエールの学生になった気分だよねー」

「あー、俺、うちの息子に生まれたかった」



そのまま、ダイニングを通り抜けると、ホールがありました。
床に埋め込まれた様々な種類の石材がつくる模様がまるで太陽のよう。

先日、100年近くも前に作られた大学の建物にあるステンドグラスが、
たまたま旭日の模様をしていたからといって、韓国からの留学生が大学側と面談、
問題のステンドグラス撤去を申し入れたという事件がペンシルバニア大学で起こりました。

「韓国人だったら見ただけで吐き気を催す「戦犯旗」だ。
そんな旗が世界でも有数の最高学府にあるとは驚きだった」


結果、当然のことですが大学からはその訴えも体良く退けられ、
一般学生からは「頭を冷やせ」「呆れた民族」と呆れられたそうな。


1923年に作られたステンドグラスも一国民の民族意識(というか劣等感)の配慮のため
撤去せよと言えるくらい愛国心のある国民としては、ここはもうひと頑張りして

「このホールで戦犯旗を見ると、今食べたばかりなのに吐き気を催してしまう」

とイエール大学に対し、200年前の床を撤去せよというべきではないでしょうか。
というか、彼らはそれくらい馬鹿げたことをペンシルバニア大に要求したってことなんですが、



よく見るとドームの内部の飾り一つ一つに電球が埋め込まれています。



これも「炎のランナー」で主人公が入学手続きをしていたような窓口が。

ここでふと周囲の壁に膨大な人数分の名前が彫り込まれているのに気付きました。
第二次世界大戦の戦没したイエール大学卒業生の名簿でした。
卒業年次、戦死した年月日、戦没場所の後には、軍での所属階級が記されています。



表にも慰霊碑のあった第一次世界大戦での戦死者です。
ここに書かれているのは1914年卒業クラス。
第1次世界大戦は1914年に始まっていますから、卒業してから訓練などの時期を経て
戦地に投入され戦死したということになります。

彼らのほとんどはフランスで行われた戦闘などで戦死したようですが、
中にはコーストガードの大尉として出征して「海で死んだ」ということしかわからない者、
少尉候補生のまま国内で亡くなった(おそらく訓練中の殉職)者もいます。

中には終戦のわずか20日前に戦死した人も・・・。



彼らは全員1942年の卒業生ということがわかります。


ホーヴェイ・セイモア、海軍少尉 1945年1月、太平洋で戦没

ウィリアム・バートン・シモンズ、陸軍歩兵中尉、45年3月8日、ドイツ、マインツで戦没

ロバート・エメット・スティーブンソン、海兵隊中尉、44年7月1日、サイパンで戦没

ジェイムス・ニール・ソーン、ロイヤルエアフォース航空将校、44年9月10日、オランダ上空で戦没

ベンジャミン・ラッシュ・トーランド、海兵隊中尉、45年2月1日、硫黄島で戦没

ウィリアム・ガードナー・ホワイト、海軍航空中尉、44年9月2日、父島付近で戦没


42年にイエール大学を卒業したばかりの彼らは、すぐに戦地に赴き、
そこで遅くても3年以内に命を散らせていくことになったのでした。

第一次世界大戦の時より戦場に出るのが異常に早いような気がするのですが、
アメリカも若い大学生をすぐに戦地に送るようなことをしていたということでしょうか。



名簿はまだまだ続きます。

写真の、壁に刻まれたこの部分の戦没者名簿は1950年卒業生のものです。
ご存知のようにアメリカの大学の卒業は6月なのですが、この年の6月25日、
つまり彼らが卒業して何日か後に朝鮮戦争が勃発しました。



アメリカはベトナム戦争の和平と同時に徴兵制を廃止しましたが、
未だに徴兵制を復活させるべきという意見の基本となる理由は、
志願制だと、就職先または除隊後の大学奨学金を求めて、
経済的に貧しい階層の志願率が高くなるので、経済的階層に関わらず
軍務を国民全員に機会平等に配分するという考えからきています。

例えばハーバードやイエールのような、最難関の名門校を出て国の基幹を
将来担う可能性のある人材であっても、「そうでない」国民と同じように
戦争に行くべきだ、という考えは、「イコーリティ」の点からはもっともでも、
国の存立の点からは「非効率的」であるという考えが主流になったため、
アメリカではこれからもおそらく徴兵制は復活しないであろうと言われています。

確かに、比較的入るのだけは簡単なアメリカの大学の中で(それでも出るのは大変ですが)
入学すること自体難しいこのイエール大学の卒業生が、このように大勢、
水漬く屍草生す屍となって失われていったということを目の当たりにすると、
不謹慎な言い方かもしれませんが、

「なんと勿体無い」

といったような気持ちが湧き上がらずにはいられません。 


先般から日本でもおかしな人たちがただ現政権への反対をするためだけに

「徴兵制になる」

ということを煽り、脅かして先導しようとしたということがありました。(現在形?)
国を守るということにおいて国民の責任に多寡はないはずですから、
その意味だけでいうと、徴兵制は徴兵賛成派の言うように公平なシステムです。

しかし、いつの頃からか、戦争も「専門職化」してきて、誰でも彼でも役に立つかというと
そんなことはないわけでして、やはり大学、特に名門大学を出た人は
国家指導者を目指し、あるいは科学や医学で国のために尽くすべき、という
「適材適所説」が現代の主流となっているということなんですね。

アメリカみたいなしょっちゅう戦争している国でも

「国難における国民の責任は公平であるべきだから皆が戦場にいくべきである」

なんていう精神主義的な国防論は今や全く受け入れられていないわけですから、
ましてや日本みたいな国で、どんな事態になろうと(ていうかその事態に必ずなるというのが
反対の大前提っていうのがもうね)徴兵制だけにはなりっこないのですが。



さて、彼らはイエール大学という全米でもナンバー2に位置する難関大学を
たまたま卒業した年に、アメリカが戦争に突入したという人たちでした。
卒業するや否や徴兵によって出征した彼らは、全米最高の学歴を持ちながら、
ほとんどがそれから数年以内に、銃を撃つこと以外の貢献をすることなく
この世を去ったということになります。 


日本人であれ、アメリカ人であれ、有為の若者があたら若い命を散らしたということを物語る
このような痕跡の前には、わたしは粛然と頭を垂れるのが常ですが、特にここでは、
彼らの死によって失われた未来の可能性の大きさをただ惜しまずにはいられませんでした。

そして戦争とはまさに人類にとって愚挙の最たるものであり、
人類滅亡の日を早めるものがあるとしたら、それは
「国家」という枠組みそのものの存在ではないか、ということまでつい考えてしまったのです。




ー8月15日、アメリカにてー

 

 

「幽霊」と「悪魔」〜イントレピッド航空博物館

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さて、MiG2機とエタンダール、外国機をご紹介した後は、
おなじみ(わたし的に)米軍機の残りと参りましょう。



甲板に展示してある航空機の数々。
ここに限ったことではありませんが、外に航空機を展示するということは、
そのダメージの速さを考えると、それ自体がチャレンジです。
その補修を常に行い、展示機の状態をメンテナンスしているのは、
ここイントレピッド博物館においてもボランティアの技術者たちです。

専門の航空機整備とはまた別の技術が必要となるため、彼らはそのために
治金学や航空機内部の化学的反応とその変化などを学ぶことになります。

彼らはダメージの種類を特定し、それに応じてその部分を修復していきますが、
所有機が沢山あるイントレピッド航空博物館においては、
それは半永久的に終わることのない仕事です。

彼らは常に甲板上で仕事に当たっていて、その作業を見せることも「展示」の一種である、
とイントレピッドのHPには書いてありますが、
わたしが行った時には整備中の機体だけがテント内にあって(シコルスキー)
作業をしている人はいませんでした。



Douglas/XBT2D-1 Dauntless II (A-D1Skyraider)


(以下延々とドーントレスではなくアベンジャーの説明がされているわけは
コメント欄にて<(_ _)>) 





さて、イントレピッドのHPには、

「アベンジャーからブラックバードに至るまで」 

という決め文句が書かれているのですが、アベンジャーがこの中で一番
「古い」という意味だったりするんでしょうか。

アベンジャーを設計したのはリロイ・グラマン(1895-1982)。
グラマン社を創立した実業家でもあり、テストパイロットでもありました。

wiki 


ガレージで車の整備から始めた彼の会社は、航空機製造会社として
第二次世界大戦開始時には一定の評価を得ていました。
(大企業とはしかし見なされているわけではなかったようです)

しかしフランスとイギリスが参戦することが決まった頃、グラマン社は
それまでの流れを一気に変えるヒット作品を生み出しました。

F4F、ワイルドキャットです。
ついで名機F6Fヘルキャットを生み出したグラマンと協同経営者が、
戦争の拡大によって最大の大きさをもつエンジンを搭載した飛行機にチャレンジし、
その結果できたのが、このアベンジャー、TBFでした。

因縁というのか、グラマンがアベンジャーのお披露目を行ったその日、
日本軍が真珠湾を攻撃しました。
TBFの愛称が「復讐者」となったのはこのためだという噂もありましたが、
実はこの名称は真珠湾攻撃の2ヶ月前には決定されていたのだそうです。

一体何に復讐するという意味だったのか。

アベンジャーは「雷撃機」です。
日本でいうと「艦攻」にあたり、「天山」とか「九六式」などがあるわけですが、
アベンジャーは艦爆のような急降下爆撃もすることができたといいます。

日本では「艦攻乗り」と「艦爆乗り」は明らかに気性が違う、と、
元海軍の脚本家、『連合艦隊」「大空のサムライ」なども手がけた
須崎勝彌氏が、彼らの佇まいを見て

「艦攻乗りは紳士的、艦爆乗りは気性が荒い」

と分析していたという話を昔したことがありますが、これでいうと
アベンジャーに関してはその「性格分別」はできないということになります。



そうそう、アベンジャーというと思い出すのが「バミューダトライアングル」ですよね。
(そうなのか?)
1945年12月5日にバミューダ海域を5機の本機が飛行し、
遭難事故を起こしたことが消失事件ということになっているようなのですが、
そもそもこのバミューダ海域での事故の多くは、悪天候時に起こったものや操縦ミス、
計器の確認ミスであり、遭難が他の一般的な海域よりも多いという事実はなく、
アベンジャーの事故は、悪天候に加えてパイロットの訓練不足が重なり、
彼らが方向を見失ったことで起きたものだと現在では考えられているそうです。


その他のエピソードとしては、イントレピッドのHPに、

「知っていますか?」

「アベンジャーにはジョージ・ブッシュ元大統領が乗っていました」

と書いてあります。
もちろんパパ・ブッシュの方ですが、彼は海軍に志願し、
アベンジャーのパイロットとして、空母「サン・ジャシント」乗組でした。
パイロット時代、ブッシュは二回撃墜されていますが、二回目は同僚が全員戦死し、
一人で海を漂流しているところを潜水艦に救助されて、命を永らえています。

この時にブッシュが生きのびたことで、その彼がアメリカ大統領になり、
イラク軍のクェート侵攻に介入して湾岸戦争に参加し、その息子がイラクに軍を侵攻させることも、
全て決まったということになるんですが、ふと、

「ブッシュが死ななかったことで直接間接に死ぬことになったアメリカ人は何人に上るのだろう」

などということを、ふと考え込んでしまいました。
このときブッシュが死んだとしても、別の大統領が別の戦争を起こしていたことは、
アメリカという国の成り立ち自体を考えても、間違いなかったとは思いますが。





Vought (F8U-1) F-8K Crusader 1957

このヴォート・クルセイダーについては一度お話ししているので
そちらを読んでいただくとして、このシャーク塗装ですが、

目が変じゃないですか?

前方の男性の立ち位置から見るとそうでもないこの目、この角度から見ると
まるでニヤついているシャークに見えてあまりかっこよくありません。

元々こうだったのか、ここで塗装された段階でこうなってしまったのか。



去年パシフィックコーストで見たクルセイダーは凛々しい顔をしています。
もしかしたら、この角度から見たらカッコよく見えるように描かれているだけで、
真横から見ると皆同じっていうオチ?

さて、以前のエントリでは主にヴォート社の救世主としての面を
あつーく語ってみたわけですが、よく考えたらこの飛行機は
すごいタイトルを持っていたんですねー。

単座で音速を破った最初の飛行機

というものです。
変な形してますが、こう見えてすごかったんですね。

1955年3月25日、クルセイダーは、処女飛行で音速の壁を破りました。
イントレピッドもこのF-8を艦載しており、イントレピッドを飛び立った飛行機の中で
その歴史上一番速かったのがやはりこのクルセイダーだったということになります。

アメリカ海軍と海兵隊がどちらも運用し、ベトナム戦争にも参加しています。

1968年9月19日のこと。
イントレピッドのパイロット、VF-111(サンダウナーズ)のアンソニー・ナージが
サイドワインダーミサイルで北ベトナム軍のMiG-21を撃墜しました。
(あれ、このこと前に書いたな。ナージ大尉ってイントレピッド乗り組みだったんだ)

今ここにあるのは、その時にナージ大尉がイントレピッドから飛び立った、
まさにそのクルセイダーであるということです。 

 



McDonnell (F3H-2N) F-3B Demon 1956

この角度、後ろのビルも含めて我ながらいい構図ではないかと思ったりするわけですが。
ちょっとファントムと似てるなあと思いません?

わたしなど、うっかりこれもファントムだとサムネイルだけ見て思ってしまい、
また部下に面倒をかけるところだったのですが、それもそのはず、
ファントムIIはこの機体のデザインをもとにしているんです。

こちらは当初不良品のエンジンを積んでしまったせいで「ウィドウメーカー」、
後家作りなどと不名誉なあだ名がついたこともありましたが、その件も含め
反省点は全てファントムIIの製作に生かされたうえ、製作台数も400台を超えるなど、
多くの部隊で運用されるだけの実力がある飛行機であったと言えます。


しかしそれにしてもこの名前ですがね。

デーモン。悪魔ですよ悪魔。

余談です。
存在しないアドレスにメールを送った時に来る「Mail Daemon」というのを
「Mailの悪魔より」だと思っている人も広い世の中にはいるかもしれませんが、
こちらは悪魔じゃなくてむしろ「守護神」って意味なんです。 
「だえもん」じゃなくてダイモーンって読むんですよ。覚えておいてね昔のエリス中尉。 


それはともかく、なんだってこんな中二病的な名前をたかが戦闘機につけたのか。
中二の人たちが「悪魔」いうのとは全く意味的に違い、英語圏の皆さんには
「悪魔」というのは絶対悪として忌むべきものと認識されているはずなのに。

そこで今思いついただけなので、間違っていたらすみませんが、
わたしが間違えた「ファントム」(幽霊・亡霊・アンデッドモンスター)というのは
この「デーモン」シリーズの勢いで付けた名前だったんじゃないでしょうか。


「デーモン」「ファントム」ときたら次は?
それこそ「ダイモーン」とか?
とにかく「ルシファー」とか「リヴァイアサン」が出来る前にシリーズ終了して良かったです。




 

ジス・イズ・サンフランシスコ〜旅単シリーズ

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西海岸滞在中に最低でも2度は足を向けるのがゴールデンゲートブリッジの
サンフランシスコ側橋脚から海岸線に沿って伸びて作られた公園、
クリッシーフィールドです。

ここは昔、パナマー太平洋国際博覧会のために展示飛行が行われ、(1915年)その後
アメリカ軍が防衛拠点にしたため、飛行場となっていた時期があります。

クリッシーという名前は、黎明期の飛行家で、1927年に耐久レースに出場し、
墜落死したダナ・クリッシーにちなんでつけられています。



遊歩道の脇の地面に、よくよく注意してみないとわからない
飛行帽とめがね、バイプレーンのモニュメントが埋め込まれています。
説明が何もないのですが、クリッシーにちなんだものでしょうか。



去年はまだ工事中で通行止めだったここに続くトンネルが開通していました。
まるまる3年、回り道をさせられましたが、ようやく直接来ることができました。
その開通したトンネルのすぐ上は、実はお墓だったりします。

公園から見えているサンフランシスコ国立墓地。
主に戦争で亡くなった人のお墓があるのですが、クリッシーもここに埋葬されています。

この一帯はプリシディオといい、1700年代はスペインが統治していたため、
スペイン人が住み着いたのが最初の住人となりました。
その後、まずスペインがここに要塞を作りました。



まだゴールデンゲートブリッジができていない頃にすでにこの要塞は存在しました。
そののち、地形上ブリッジをこの建物の真上に作るしかないということがわかり、
さぞかし関係者の間では危険性を懸念する意見が巻き起こったのではないかと思われます。



何年か前は夏の間中、内部を公開していたので、息子を連れて
大砲を撃つデモンストレーションなどを見学したものです。
これは今にして思えば南北戦争中に使われた「ナポレオン12パウンド砲」でした。



フォートですから、堅牢なレンガの壁にある窓は、砲口だけが出される小さなもので、
周りは鉄鋼で崩れないようにカバーされています。

フォートポイントは映画にも登場しています。
ヒッチコックの1958年作品「めまい」。
キム・ノヴァクが海に飛び込もうとするシーンはここで撮られました。

しかし、ここから飛び込んだら、普通の人はまず間違いなく流されて死ぬよ?



と思ったら、流されている人がいた(笑)
このフォートポイントでボディボードをしている人を見たのは初めてです。
こんなところで一体何を?と思ったら、実はこのあたり、風が強くて波も高いところがあり、
そこまで泳いで行って波乗りするつもりだったようです。
ここ、結構岩だらけなのに、大丈夫なんだろうか・・。



結構男前で、観光客の注目の的となっていました。
このエリアは地元民の散歩でなければ来ているのは観光客ばかりで、いつもここで
釣り糸を垂らして釣りをしている中国人ですら、皆にガン見され、話しかけられています。

この「中国人」というのがポイントで、わたしはかねがねここで釣りをしているのは、
中華街で料理店を経営していて、ガチで材料を仕入れているつもりなのではないかと
ずっと思っています。




こちらサンフランシスコの太平洋に面した海岸でまじ釣りしていた人。
この人も東洋系で、まず間違いなく中国人。
いやー、ほんとうに仕事熱心というか(決めてかかっている)



フォートポイントから市内を臨んだところにあるこの建物、
一時息子をここのサマーキャンプに行かせていたエクスプロラトリウム(科学博物館)でした。
「でした」というのは今年フィッシャマンズワーフに行ったら、
ピアに移転して新築されていたので初めて知ったのです。

こちらは歴史的な建築物なので、その方向で保存することになったのでしょう。

ところで、アメリカでは最近「原爆を2発も投下したのは悪いことだった」
という意見が若い人を中心に増えているらしい、と先日8月6日のニュースで見ました。
しかし、ここアメリカでは表面的にそれは絶対に表には出てこず、
あくまでもインターネットで広島や長崎の写真などを検索して持つ個人的感想にとどまっています。

8月6日の原爆慰霊式典の様子はこちらでもニュースで流れましたが、
時間にしたら、そう、せいぜい15秒といったところでしょうか。

「投下から70年目にあたる広島で慰霊祭が行われ、ケネディ駐日大使が出席した」

という言葉とともに、ケネディさんの顔が大写しになって、おしまい。
思わず「これだけかい!」と口に出てしまいましたよ。

和歌山で「たま駅長」のお葬式が営まれたというニュースの方がよっぽど大々的でした。



さて、ここからはいつもの望遠レンズでの写真となります。
NIKON1専用望遠レンズ70-300mmで撮りました。

このシギは、ここに定住している

Marbled Gotwit

という鳥ですが、ゴットウィット・・・神の機知?
ゴー・トゥイットだと・・・・・バカになるっていう意味になるかと思いますが、
もちろん前者でしようね?



頭の大きさの割に嘴が異常に長い鳥さんです。
多分小さな泥中の生き物を食べるためにこんな長いのかと。



水辺ではおなじみ、ヘロン。



望遠レンズで思いっきりアップにしてみました。



中洲にはサギとウが仲良く共存しています。



水中にしょっちゅう潜って何かを加えて浮いてくるときもありますが、
このときには長い藻を加えていました。
見ていたら食べてしまったので、時々緑のものもたべるのかもしれません。



この日サンフランシスコは珍しく気温が高い(日本だと4月くらい)1日でしたが、
風はとても強く、長い羽が煽られてこんなことになっていました。



カワウが皆で餌探しを始めたら、サギも一緒になって
何かいないかな?という様子でソワソワしだしました。
共生ではなく、あわよくば人の獲物を横取りしようという考えのようです。



人と鳥。
ここは立ち入り禁止区域なので、関係者が何か作業をしているようですが、
それを一羽の鳥が横でずっと見守っていました。



お天気の良い1日だと、こんな風にブリッジが全く霧で隠れずに見えます。
毎年来ていますが、これは案外珍しいことでもあるのです。

そういえば前に来たときは・・・・・・・そう、ここで車の鍵をなくしたんだった・・・。
嫌なことを思い出しちまったぜ。ちっ。



巨大なグレートハウンドを散歩させていた女の人。
こんなでかい犬は日本でもほとんど見たことはありません。
今は大型犬でも室内飼いするのが普通である日本では、
こんな大きな犬が家の中にいたら場所ふさぎですし(笑)犬もストレスでしょう。



ベンチに座って携帯メールを始めました。
犬はおとなしく長い脚をたたんで座っていたのですが、
他の犬が通りかかるとその度にウーファーサウンドのような低音の、
思わず振り返るような大音声でうおんうおんと吠え、その度に
通りがかりの犬は怯えて首を縮めて通り過ぎていました。

やっぱり大きすぎる犬って、犬同士でも怖いもんなんですかね。



手前の男の子は、写真を撮るために飼い犬のリーシュを持たされています。



おそらく犬が全力で走ったら、男の子は引きずられると思われ(笑)
「CA」のTシャツは、他所から旅行に来たものの思っていたより寒いので
あわてて長袖のお土産シャツを買ったらしいことまでわかります。

話には聞いていても、サンフランシスコの夏の寒さは他州の人間には予想以上です。



何人かの「犬友達」同士で来て、飼い犬を遊ばせている人たちもいました。
赤い引き綱がよく似合う黒犬くん、脚に綱を結んであるのかと思ったら
たまたま脚に絡まっていただけでした。



黒くん、友達が水に入ろうとしているので一緒に水際まで来たのですが、



どうやら水に入るのが怖いようです。



尻尾の先が扇子のように広がった白黒の犬が水浴びして出てきても、
黒くんは恐々で、興味はあるもののどうしても水に浸かれないという感じ。



「お前濡れてんだろ?近づくなよお〜」



「黒くんいいこと教えたげる。あのねえ」

「だから濡れてるんだから近づくなって〜」

ここクリッシーフィールドの犬は、散歩業者につながれて10匹単位で
散歩している犬たちはともかく、飼い主ときている犬は皆元気に走り回って、
時々は冷たい海にも果敢に飼い主の投げたボールを取りにいったりします。



ここに見えている建物は全てプレシディオの、大変古いものばかりです。
鳥は・・・・



あ、アジサシ?
と思ったのですが、どうも尻尾が違いますね。



上空で円を描いて飛び、獲物を見つけると急降下して水にダイブ、
というのも一緒なのですが・・・・・。



ちょうどGGブリッジがよく見えるところに止まってくれたので、
かがみこんで下の方から狙って撮った絵になるカラス。



スズメはもちろんのこと・・・・・、



テリムクドリモドキもいつものようにいました。



ところで、時々は晴れることもあるGGブリッジですが、こちらの太平洋側は
ほぼいつもこんな感じで曇っている(特に朝は)日が圧倒的多い様な気がします。
寒々としたこの海の向こうの日本では、猛暑で人が死んでいて、
西海岸でも、もう少し南に下がればガンガン日差しの強い場所もあるというのに・・。

本当にサンフランシスコって不思議な町だと思います。



この海岸にも『神さまのウィット』がいました。



ところで、2年前の夏、ここでCSI:NYのロケに遭遇しましたが、
ここはサンフランシスコの名所だけあって、一夏に必ず一回はテレビや映画の
撮影ロケが行われているのを目撃します。


もちろんバックにゴールデンゲートブリッジの映るこのポイントは
撮影ポイントとしてたいへん「絵になる」からですが、この日は、
お揃いのスーツを着た男性二人が、プロのカメラマンとフォトセッションをしていました。 
写真家が前衛的な作品でも撮影しているのかと思って見ていたのですが、
カメラマンが軽装備すぎるので、単なる「カップル写真」の撮影かもしれません。

サンフランシスコというのは、前にも書きましたがカストロストリートを中心に
全米でも有名なゲイ・コミニュティがあります。

またカリフォルニア州では2013年に同性婚を禁止していた法律を無効とし、
婚姻関係を結ぶことが可能になっていましたが、つい先日の2015年6月26日、
合衆国最高裁判所は「法の下の平等」を定めた「アメリカ合衆国憲法修正第14条
を根拠にアメリカ合衆国のすべての州での同性結婚を認める判決をだし、
これによりアメリカ合衆国において、同性婚のカップルは異性婚のカップルと
平等の権利を享受することになりました。

というわけで、この法律制定後、晴れて夫婦になって他州から新婚旅行に来たカップルが、
プロを雇って結婚アルバムに載せる写真を撮っているのだとわたしは思いましたが、
確かめる訳にもいかないので、本当のところはわかりません。
ここまで書いて、もし間違いだったらごめんなさい。


とにかく、いかにもサンフランシスコな風景ではあります。

 

 

アメリカのニュースに見る安倍終戦70年談話

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8月15日、終戦の日に出す安倍主将の戦後70年談話、
皆様はどう思われましたか?

わたしは、事前に「おわび」「反省」などを盛り込むつもりという報道が
インターネットに流れた時、マスコミがよくやる手口の「飛ばし」ではないか、
とまず思い、ついで、各方面からの圧力と政治的判断でそれらの文言を
拒否できなかったのかなと思っていたのですが、蓋を開けてみると全く違いました。

某テレビ局ではキーワードを画面に表として揚げ、言葉が出るたびに
チェックをつけていくという異様な方法でそれを検証し、
別のテレビ局ではそれらのワードを幟にわざわざ仕立ててスタジオに立てたそうです。

そんな中行われた談話、確かにキーワードは全部入っていました。
使い方においてレトリックを弄したわけでもなく、文句のつけようのない文言で。

ただし、今までの談話を一掃し、しかも今後日本の首相が談話という名前の
謝罪を永遠に繰り返すことをこれにて「打ち止め」にしたいと述べた点が、
歴史的といえるものでした。



ここアメリカのCNNニュースは、この談話についてなんども、
深夜にまで亘って放映し、東京特派員のコメントもライブで電波に乗せました。
タイトルは

安倍:日本は第二次世界大戦のことを謝罪し続けることはできない

です。

うーん・・・・なんか違う・・・。



この一言が、CNN的にはもっと報じるべき部分であったということです。
一方、アメリカ政府は、この談話に対し肯定的でした。

我々は、安倍首相が次の2つを表明したことを歓迎する。
1つは、歴代首相が出した歴史認識に関する談話を継承するとのコミットメント。
もう1つは、第二次大戦中に日本が(近隣諸国に)与えた苦しみに対する痛切な反省だ。
また我々は、国際社会の平和と繁栄に対する貢献を
日本が今後いっそう拡大していく意志を確認したことを評価する。
戦後70年間、日本は平和、民主主義,法の秩序への変わらぬコミットメントを具現化させてきた。
これは世界中あらゆる国とってのモデルである。(プライス報道官)


アメリカがこういう大上段に立って日本が「反省」することを歓迎する、
そのこと自体、「お前が言うな」と内心苦々しく思う人々も日本にはいるはずです。
(実はわたしも内心そんなことを・・・)

ということは、安倍首相が談話で謝罪を盛り込むことそのものに、
「なんで日本だけが謝らなければならないんだ」とと不満を持つ向きもあるということです。
(わたしは今回はそうは思ってませんが)

こういう人たちを「右」だと仮定した場合、それでは「左」はどうだったかというと、
こちらも、この談話が「誠意がない」ものと激しく非難しているのです。

日本のメディアは、予想されたことですが、この談話に賛否真っ二つです。



「なんのために出したのか。主語がぼかされて反省が足りない」・・・朝日

「侵略」について「日本の行為かどうかの特定は避けた」 
「誰に向けて、何を目指して出されたのか、その性格が不明確」・・毎日

「植民地支配に対する反省とお詫びを表明したとは受け取りがたい」・・中日・東京

「どこか傍観者的」・・・沖縄タイムス

「言葉の裏を見極めたい」(ネガティブな意味で)・・・・信濃新聞


「先の大戦への反省を踏まえつつ、新たな日本の針路を明確に示した」・・読売

「重要なのは、この談話を機会に謝罪外交を断ち切ることだ」
村山談話は「度重なる謝罪や決着済みの補償請求の要因となるなど国益を損なってきた」・・産経

「侵略」や「植民地支配」について「何を反省すべきかをはっきりさせた」・・・日経

「『不戦の誓い』が伝わった。多くの国民の胸にも響いたのではないか」・・・北國新聞


新聞以外の、テレビやその他個人の言論を見ていても気づくことは、
非難派は自動的に安倍政権の安保法案反対をセットにして非難している
という法則があり、たとえば

「談話は支持するが安保法案は反対」

という人も、またその逆もいないように思われました。
つまり、安保法案を掲げる首相のいうことだからどんなことを言ってもそれは
間違っているはず、と最初から非難ありきで報道するといういつもの姿です。


わたし自身は、安倍首相のブレーンはただただ優秀だなあと思いましたね。
日本語では「主語が曖昧」などという、いちゃもんレベルで非難できても、
それが各国語に翻訳された途端、そんなファジーな部分は消えてなくなり、

「日本国は、村山談話を継承し、過去を謝罪し反省して前に進んでいきたい」

となります。
日本語と違って大抵の言葉は主語をつけずに翻訳することはできませんからね。


現に、たとえどんな談話であっても最初から非難することが明らかであった
韓国のパク大統領ですら、非難すべき点がみつからず、

「日本政府は歴代内閣の歴史認識を継承すると公言したことを一貫して
誠意をもって行動で支え、隣国と国際社会の信頼を得なければいけない」 

という、「えーなんだその、つまり」みたいな声明に終始しました。

しかも、いわゆるかつての支配側大国にとって、安倍談話は結構扱いに困る
「爆弾」を含んでいたんですね。
それが、

「百年以上前、世界は西洋諸国に植民地支配されていた。
日本は植民地支配されそうになったので立憲政治を打ち立て独立を守った。
日露戦争の勝利は被支配国の人々を勇気づけた」

という出だしです。
これは、かつて植民地支配をしていた国々にまず牽制をし、さらに

「欧米諸国が進めた経済ブロック化によって日本は追い詰められ、
行き場がなくなって力の行使をした」

という部分で、日本が戦争に突入していった原因は、決してかつての列強のような
国土拡大のための侵略とは違い自衛のためである、ということを非常にマイルドに、
しかしはっきりと釘をさす形で言明したわけです。

いやー、これは朝日新聞始め左派メディアと左翼たちには業腹でしょうねー(笑)

彼らはこの70年間、日本が戦争をした理由を述べれば、それを
「正当化」「美化」と罵ってきましたし、
日本人は未来永劫子々孫々まで土下座するべきというのが基本的な考えなんですから。

(土下座なら日本には土下座要員として鳩山さんがいるから、
いくらでも土下座させて、ついでに賠償金もポケットマネーで払わせればいいと思う)


そして、CNNです(笑)
結論からしてこのテレビ局は、安倍談話に対して否定的でした。
考えられる理由は二つ。

「子々孫々まで謝罪をさせてはならないというのが気に食わない」

「韓国が文句を言っているから」

です。


まずCNNでは、かつての列強の植民地支配に対して

「別にお前ら、被支配国に謝ったことなんかないだろ?
胸に手を当ててちょっと考えてみてくれよ」

という匕首を突きつけた部分については全く触れられませんでした。
ええ、そういう部分があったことすら報じられなかったんですよ。
アメリカはどちらかというとイギリスに植民地支配を受けた側なんですが。

そもそも、この番組、談話の「子供たちに謝らせる未来を背負わせてはならない」を、
意図的に「日本は謝り続けることはできない」言い換えて取り出したうえ、



談話以上の時間を使って、この韓国特派員である、どうみても韓国系(笑)の
キャスターに、「韓国は慰安婦の件で誠実でないと怒っている」
ということをレポートさせていたわけですが、



まずもって、なんで日本の首相の談話に対してトップに韓国首脳の
非難を持ってくるのかという疑問が・・・
ここはアメリカですよ?

そもそも談話には「韓国」の「か」の字も含まれていなかったのに、です。


ニュースでは日本の立場での謝罪と感謝には全く触れず、
朝鮮の2カ国は当時日本であったということをろくに説明もせず、

「北朝鮮と韓国には日本に植民地支配された恨みが云々」

などと・・。
なんでこの2カ国が現在戦争中かについてはもちろんスルーです(笑)

そういえばこのCNNは、ロンドンオリンピックの放映で、日本に対して
さんざん『やらかして』くれたのをわたしはリアルタイムで目撃しています。

その理由というのは、オリンピックのメインスポンサーに「サムスン」が
入っていたからだというのは、あまりにも明白でしたが、
今回の報道の偏りは、どんな「利権」からきているのかと思って調べてみたら、

CNNはNHK・朝日新聞社・テレ朝と提携

していましたー(大笑い)
なるほどねー。そりゃ韓国側の主張をメインにするはずだ。

アメリカの最高裁で「解決済み」と判決の出ている慰安婦問題ですが、
当番組は全くおかまいなしで、慰安婦のことを
「セックススレイブ(性奴隷)」とする韓国の主張を強調していました。
これも提携元の面子を見れば納得です。


韓国軍はベトナム戦争で多数の一般民虐殺と女性への暴行を行っていますが、
それについて謝ったことなどありません。

しかし、この番組はなぜか法的に「解決済み」の慰安婦問題を明らかに未解決として語り、
植民地支配について反省を述べたにもかかわらず「誠意が足りない」
という韓国側の主張をそのまま自局の意見として発信することに終始しました。




さて、一方日本のメディアには、この談話について、

「あちこちに気を使った結果、焦点がぼけて右派左派両方に不満を残す結果となった」

という批判もありました。

こういう非難をする人に聞きたいのですが、それではどうすればよかったでしょうか。

安倍首相は一国を代表してあの談話を出しています。
日本の歴史的立場を強弁すれば世界に叩かれるし、逆に土下座すれば右と保守派は敵に回る。
しかも下手に言質を取られる発言を残せば、近隣諸国が嵩にかかってゆすりたかりにくる。
何よりも将来に遺恨を残し、それが国益を損なう恐れもあります。

どこに一歩多く踏み出しても千尋の谷底、という状態の中で、とにかくも
どこからも問題にされにくい談話となると、あれしかなかったとわたしは思いますし、
そんな談話の中に、痛烈な中国・韓国に対する

「歴史が政治的、外交的な意図によって歪められてはならない」

という批判とも取れる一言を入れたのは快挙という他ありません。



過去を謝ったかどうか、それが誠実かなどということを鵜の目鷹の目で検証するばかりで、
名もなき人々を戦争に巻き込ませない、とした「不戦の誓い」という言葉には目もくれず、
CNNは、「子供たちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分から
わざわざ「子供たち」を省き、「日本は謝り続けることはできない」と翻訳し、
これを非難調で報じました。


CNNのようにこの部分に反感を持った海外メディアは他にもあったようですが、
そもそもこの談話は「日本が戦争を謝罪するための談話」でもないのです。
戦後70年間の日本の平和な歩みが、反省も謝罪も踏まえた戦争の痛みの上にあること、
日本を「許してくれた」戦後国際社会への感謝と、これからの抱負を述べる
「決意表明」なのです。

この談話が国際社会から強制されたものではなく、日本の自発的な表明として出されている、
という本質を、非難するメディアは、総じて敢えて無視しているかのように見えます。


そのうえで、この部分は世界に向かって「もう謝り続ける必要なし」
と啖呵を切ったのではなく、あくまでも日本国民に向けて、

子供たちに謝罪を負わせないためには、日本国はどう過去と向き合うか考えましょう

と提言したのであるということを、ほとんどのメディアは理解せず、
また理解しようともしなかったようにわたしは思いました。 

 
とにかくわたしはこの節目に日本国の首相が安倍晋三であったことを感謝します。
もし今が民主政権下で、この談話を出すのが菅や野田、いや、鳩山由起夫だったら?

真夏の暑さも吹き飛んでしまうくらい背筋が凍りませんか?


この談話が、日本がこれまで縛られていた戦後レジュームを、70年目の節目において
断ち切ってくれるきっかけになってくれることに期待したいと思います。





CNNが終戦に際して取り上げた二人の日本人

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アメリカのCNNが報じた安倍首相戦後70年談話。
アメリカでも、メディアが置かれた「しがらみ」抜きでは
物事を報じることをしないという点では日本と同じなんだなと
あらためて確認することになったわけですが、メディアが左派寄りであるというのは
これも世界共通の現象であるらしいですね。

父上が予備学生として海軍にいたというアメリカ人の知人(GEの偉い人)は、
やはりアメリカのメディアは民主党の都合の悪いことは報じない、といっていました。
オバマ政権はマスコミの扇動によって2期連続成立したという見方です。
日本のマスコミが、椿事件のときに露呈した、

「なんでもいいから共産党を除く野党で非自民政権を成立させる」

という目的を最終的に2009年の政権交代で達成したように。


そういえば、共和党の第一候補は放言大魔王のドナルド・トランプ氏。
誰が見てもこんなやつ大統領にすべきではない、という困ったちゃんなのに、
17人もの候補が乱立する共和党の中では一番人気があるらしく、共和党は
実は頭を抱えているのだとか・・。

アメリカでは毎日のようにトランプ氏ばかりがメディアに露出し、
その度にとどまるところを知らない放言で顰蹙を買っているわけですが、
こうやって晒し者にして共和党のまともな候補者を霞ませているのは、
実は民主党とメディアの策略ではないのか、とすらわたしは思ったくらいです。

多分、この 想像は割と当たってると思う(笑)



さて、そんなCNNですが、安倍談話の同日にこんなニュースもやっていました。

「平和のミッションを行う日本男性」

これはどういうことでしょうか。

大東亜戦争中、B-29といえばアメリカという「鬼畜」の代名詞でした。
対空砲で撃墜されたB-29は多く、作戦に投入したB-29の機体数約3,900機に対して
喪失数714機、戦死した乗員は3,041人と言われます。

1942年、4月2日のことです。
東京上空にに空襲のために飛来した一機のBー29が対空砲火で撃墜され、
乗組員11人が乗った機体は、ある民家の軒先に墜落しました。
そのときそれを自宅の防空壕から目撃していた日本人の親子がいました。

空襲がおさまってから、男性は乗員の遺体を探し出し、
自分たちの墓所に彼ら11人全員を丁寧に埋葬しました。




父親とともにそれを手伝った16歳の息子は、戦後34年経って50歳になったとき、
あのとき亡くなった搭乗員たちの遺族に連絡を取る活動を始めました。

戦後、搭乗員たちの遺体は米軍によって横浜の軍地基地に埋葬され直しましたが、
男性は、どこでどのように自分の愛する人々が亡くなったのかを
彼らの家族が知るべきであると考え、行動を起こしたのです。



家族に供養をさせてあげたいという父の願いを受け継いだ男性は、
その後の人生をかけて米国各地にいる遺族の所在を突き止め、
彼らの日本への訪問を実現させてきました。



左側の父親と思しき男性の表情が硬いですが・・・。



彼らの菩提を弔うために竟の地に仏像を建てて、家族をそこに招き、
その最後を話し伝えることをライフワークにしてきたのです。

この男性は小俣さんとおっしゃいます。



小俣さんは34年間、アメリカを何度も訪問し、そのため訪れた州は7州にも登ります。
これまで搭乗員のうち10人の家族を探し出し、彼らを日本に招待してきました。



そして最後の11人目の搭乗員の家族が、ようやく戦後70年目に判明しました。
イリノイ州出身のウォラース・J・ピッツ軍曹の甥という人を見つけたのです。



ピッツ軍曹は21歳でこの爆撃に参加し、戦死しています。

Bー29の落下地点にある、小俣さんの父親が作った碑にはこのように刻まれているそうです。

先の世界大戦中にこの地に墜落した爆撃機B-29の
勇気ある米国の11人の乗組員の霊を慰めるために この碑を建立する

勇敢な兵士たちよ 永遠に安らかに眠りたまえ

(訳文)



甥のビル・ピッツさんと妻のブレンダさんはこの度小俣氏の招きによって来日し、
おそらくは会ったことのない自分の叔父さんの慰霊碑に手をあわせました。

観音像なので、仏教式に両手を合わせているのが微笑ましい。



 ビルさんは、小俣さんがその半生をかけて探し続けた、最後の家族となりました。

「父が敵国の兵士たちを弔ったのは、人間を尊重する気持ちからだろう」

と小俣さんは語り、85歳になってようやく自分の使命は終わった、と語りました。



ビルさんは、このことについてこう語りました。

「このことにはただ驚くばかりです。
敵国人なのに埋葬をしてくれたなんて、こんな素晴らしいことはない。
どのように、何回お礼を言ってもいいたりないけれど、それでも言いたい。
ありがとうございますと」

彼らにとって70年の旅が終わろうとしています。
自分の半生をかけて慰霊のミッションを続けてきたこの小俣さんという方には
日本人の一人として心からお礼を申し上げたい気持ちです。


無差別爆撃で一般市民が数多く犠牲になるようになってから、生きたまま不時着した
Bー29の搭乗員の中には、興奮した人々によって惨殺されたというケースもあります。
しかし、死んだ者にまで鞭を打たないという日本人は、戦死した搭乗員の遺体を
埋葬して慰霊碑を建てることもありました。

丹沢山、青梅には慰霊碑がありますし、病院で亡くなったり落下時に死亡して、
陸軍墓地やお寺のお墓に埋葬されたアメリカ兵はたくさんいます。



さて、終戦の日の2日前、CNNでは、元零戦搭乗員である男性の証言を
取り上げていました。
99歳のH氏です。
昔、ミッドウェー海戦式典を報じたハワイの新聞を参加した元搭乗員にいただいて、
それを翻訳してさしあげたことがあったのですが、その記事には
主にH氏の語った体験を中心に構成されていたため、名前と戦歴を知りました。

このインタビューで、H氏は3時間にわたって語ったそうですが、

「最初の頃、敵機は零戦とドッグファイトするなと言われていました。
銃撃が敵機にヒットし、空中で機体が四散した時、助かったという気持ちと
優越感のような気持ちが私の中を駆け抜けました」(英文を翻訳)

と語っています。
H氏が撃墜したある戦闘機搭乗員は

「絶望に満ちた目でこちらを見て、憐れみを乞うような手振りをしてきました。
しかし、彼を見逃せば生きて帰ってきて仲間を殺すだろう。
戦場ではどちらかが生き残るしかないのです」

H氏は数年前に妻を亡くし、現在娘と二人で住んでいます。

「母艦乗りとして戦闘に参加した時、着艦した甲板には
戦闘で手や足を失った人たちが苦しみの叫び声をあげていました。
”みずをくれ!””苦しい””お母さん”・・・」

「わたしは軍医に彼らの手当を優先してくれるように言いました。
しかし軍医は”戦える者が先だ”と答えたのです。
戦場では人権などなく、皆が『武器』にすぎないのです」


こういった氏の戦争体験は、以前翻訳したのとほぼ同じでありましたが、
ここからが問題です。

「安倍晋三首相は、日本が軍を海外で展開できるように平和憲法を手直ししようとしている」

「それが(集団的自衛権)議会で承認されて日本が分断された」

「わたしは戦争が嫌いだ。戦争ほど醜いものはない」

この日には報道されませんでしたが、その数ヶ月前のNYTの報道では、はっきりと

「安倍首相は戦前の指導者を思わせる」


と批判を語り、それを日本のメディアが大喜びで取り上げました。


誤解のないように先に言っておくと、わたしはH氏がその壮絶な経験を経て
戦後を生き抜かれたことに対し心からの敬意を払うものですし、
その証言は決して途絶えさせることなく後世に語り続けるべきだと思います。


しかし、それはそれとして、H氏はその体験からくる戦争忌避感ゆえ、
メディアに誘導されてこういった発言をさせられたのではないかと思えて仕方ありません。

おそらく氏は99歳というご高齢で、テレビや新聞という媒体だけが
世相を知る唯一の手段であることでしょう。
我々のように、ネットでの報道の全般にわたって検証したうえで、
報道各社の傾向や主義主張までを考慮して判断しておられるわけではないと思います。

憲法改正の動きと今回の集団的自衛権についての情報を全て新聞とテレビで
知ったのだとしたら、氏がこういう考えに至っても当然のことに思われます。


しかし残念なのは、こういった戦争体験者の意見であれば金科玉条の
絶対的真実なので逆らえまい、と言わんばかりに報道するメディアであり、
そのメディアにH氏は利用されていると思わずにはいられないことです。

「戦前の指導者たちと安倍首相は同じ」

とH氏は切り捨てますが、そもそも日本がなぜ戦争を選ばなくてはいけなかったのか、
当時の日本の置かれていたのっぴきならない状況を踏まえておっしゃっているのでしょうか。

今の日本には自ら戦争を起こす理由も必要必然性もなく、両者を同列では語れないということも。

仮に、日本が戦争をあくまでも避けていたら、H氏は「人殺し」にならなくて済んだでしょう。
しかしその結果、日本は大国の支配下に置かれることとなったはずです。
そうなってなお、日本人は幸せでいられたでしょうか。
そもそも日本国という国はその後存在することができたでしょうか。


H氏のこういった考えに喝采する種類の人がいう、
 
「安倍首相は戦争法案を通して戦争をしたがっている」

という安保反対論。

「戦争したくなくて震える」

H氏の「戦争が嫌いだ。戦争は憎い」とこれは比べるのも失礼すぎますし、
重みが違いすぎて同じ意味でも次元が全く違うということを百も承知で言うのですが、

H氏がもし、

「戦争が嫌いだ」→「だから日本だけは戦争ができるようにしてはいけない」

と本気で思っておられるのだとしたら、それは結果としてあのデモ学生と同列だと思います。
いつも思うのですが、こういう人たちの言う平和とは、

「中国や韓国には土下座をしながらお金を出し続け、尖閣も竹島も差し出して、
下手すれば自由も人権も全て他国の支配下にある隷属の平和」

なのです。
中には、

「殺すくらいなら殺されよう」

などと、日本の平和にあぐらをかいてこんなことまでいう輩までいますね。

隷属の平和とは、かつての日本が経済封鎖で世界に追い詰められたとき、
唯々諾々とハルノートを受け入れれば即座に手に入った
「戦争のないだけの平和」の姿でもあります。

個人の権利も尊厳も捨てたうえにある平和、それは本当の平和と言えるのでしょうか。

 

「私は死ぬまで、私が見てきたものについて語りたいと思う」   「決して忘れないことが子どもたち、そして子どもたちの子どもたちを
戦争の恐怖から守る最良の手段なんです」


尊い決意だと思います。
しかし、大変失礼ながら、後半は情緒的かつ漠然としすぎてよくわかりません。

「空想」していればいつか平和がくると歌ったジョン・レノンは凶弾に斃れました。 
彼がボディガードをつけていさえすればおそらくそれは防げたでしょう。
H氏のおっしゃることはジョン・レノンの「イマジン」の歌詞のようなものです。

「安倍首相は必死で日本の戦争放棄を取り消そうとしたがっているように見える」

「戦後の長い平和がひとつの達成であったということを忘れているように思えてならない」 

 
H氏は日本に自衛隊がなかった頃、竹島に韓国人が侵攻し、
漁民を惨殺されたことご存知ないのでしょうか。
現在形で中国が侵略を狙っていて毎日のように海保が哨戒を行い、
1日に何度となく自衛隊がスクランブル発進していることを。
北朝鮮の日本人拉致は日本が武力行使をできないからこそ起こったという事実を。

おっしゃる「戦後の長い平和」は、日本の戦争放棄の上にではなく、
日米同盟の武力の抑止力あってこそ可能だったとはお考えになれないでしょうか。



いつも刮目するような持論をお持ちの元陸幕長閣下が、

「しかし実際に戦争経験した人は、もうとにかく自衛であろうが
なんであろうが、武力そのものを否定するものなんですよ」

とおっしゃったことを思い出します。
そうあらずにはおれないことそのものが、H氏や、その他多くの方々の
苛烈な戦争体験の傷跡であることに深く想いを致さずにいられません。



しかしながら、わたしがこれまでお話を伺う機会のあった戦争体験者は、
彼らの多くが

「もし日本が他国の侵略に遭ったら、わたしは今でも武器を取って戦う」

というようなことをおっしゃっていたことも、あえて付け加えておきたいと思います。

おそらくこういう人たちの言葉を、メディアがH氏のように
大きく取り上げることは決してないと思いますが。







 

アメリカ最後の日と帰国 鶴丸新型機に乗った

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長いアメリカでの滞在もあっという間に終わり、西海岸に別れを告げる日がきました。



最後の日に日本で必要なものを買いに出て見つけたフィアット。
ドアミラーだけが赤いのがまるで耳のようでかわいい!



最後にどこを見ておこうか、ということになったとき、
やはり足を向けてしまうのがゴールデンゲートブリッジ。

こちらで観た最新作「ターミネーター・ジェニシス」によると、サイバーダイン社は
この付近に会社があったことになっていて、シュワルツネッガー扮する旧型ターミネーターと
サラ・コナー、カイル・リースとその追っ手がカーチェイスの末、
乗っていたスクールバスがこのブリッジから下に落ちたりします。

しかしあのシーン、昼間だというのに、橋の通路に観光客が一人も人がいないのが
嘘っぽーい、と思いました。
平日でもなんでも、昼間のゴールデンゲートブリッジに人がいないなんてありえません。

今見えている右側の通路は観光客は立ち入り禁止部分です。



ゴールデンゲートの近くの「プレシディオ」も最後に立ち寄りました。
昔、スペイン人が入植した地域で、その後米西戦争によって
彼らが追い出されてからも、その町並みにはスペイン風の名残りを残します。
この部分はいわば「路側帯」で、広大な緑地が広がっています。



同じような建物が続きますが、ちょうどこの右側は
ウォルト・ディズニー・ミュージアムです。
今年の夏は特別展として「ダリとディズニー」というのをやっていました。

ダリとディズニーの関係は、ダリとウォルト・ディズニーの兄が、
アニメを作ろうとして途中で終わってしまったことがあるというもので、
2003年とつい最近、ディズニーの甥がその部分を基にしてアニメを完成させました。

 Walt Disney's & Salvador Dali - Destino 2003 (HD 1080p)

若い女性がダリの絵のような背景を彷徨うというもので、
はっきりいって7分は長いと思いますが、まあ意欲作ではあります。
個人的にはダリみたいな人たちが皆頭にフランスパンを乗っけて
自転車に乗っているシーンがウケました。
企画展を見ることはできませんでしたが、だいたいこのアニメを中心に
展示が行われていた(セル画とか)のではないかと推測されます。




ディズニーミュージアムの反対側。
こちらがゴールデンゲートブリッジの方向になります。
この辺りには珍しく、風は強いもののそう寒くありませんでした。



クリッシーフィールドに降りてみようということでここに向かったのですが、
イベントがあったため付近の道路は大変な混雑となってしまっていました。
後で調べたら、バドワイザーの提供によるコンサートだったそうで、
バドのテーマカラーである赤と白のテントが並んでいます。
おそらく、ビールがバンバン振舞われていたりするので、
車で来る人はあまりいなかったと思うのですが、それでも周りは大渋滞。 

最後にクリッシーフィールドからブリッジを眺め、その後行きつけの
ブーランジェリで軽く夕ご飯を食べようという案は、
どちらもが残念ながら不可能に終わりました。
ロンバードストリートのくねくね坂道を降りようとする物好きを含め、
ものすごい数の車がこの一帯に 集結していたからです。

わたしたちは車からほとんど降りないままホテルに戻り、9時にチェックアウトしました。
なぜかというと、飛行機の出発が夜中の1時55分だったからです(爆)

 

深夜に出発して成田に朝の4時に着く便なんて誰が乗るんだと思ったら、
なんとこれが満席だったようです。
そして、こんな時間の便なのに、というかこんな時間の便だからか、
仕様機は新型で座席がコンパートメントスイートのタイプでした。



話には聞いていましたが乗ったのは初めてです。
一人の居住スペースがパーティションで区切られていて、
独立した部屋のようにくつろげるというもの。
上の写真は立って撮った写真ですが、まるで会社のコンパートメントみたいです。
わたしの席は5列のちょうど真ん中(写真で黒く写っている部分)になりました。



席に座って自分の正面を撮ってみる。
何よりありがたかったのは、座席が完璧なフルフラットになることで、
少しでも寝台が傾いていると寝られないわたしが熟睡しようと思ったら、
ファーストクラスに乗るしか方法はなかったのですが、それもこの座席なら可能です。

座席をフルフラットにすると、ちょうど足の部分がテレビの棚のところと
同じ高さになり、背の高い人でもここに足を収納すればOKの仕組み。

そして、嬉しかったのが、睡眠用の「ウェーブマットレス」が各自に用意されていて、
上の棚から出して座席に敷けば、わりと本格的なベッドの寝心地になること。
寝る時のコンディションにやたら神経質なわたしには、嬉しいサービスです。
おかげでこれまでの人生で初めて(こんな夜中の便に乗ったせいもありますが)、
西海岸からの便でまとまった時間、熟睡することができました。



隣との仕切りは壁の上げ下げによって解放したり閉じたりできます。
これは息子の席の画面で、座席の位置が横一列に並んでいないため、
わたしの位置からは、隣が何を見ているかわかりますが、向こうからはわかりません。
仕切りはフライト中にのみ上げることができ、
離着陸体制のときは自動的に下がって解放状態になります。




そして壁のシールにご注目。
なんと、機内でインターネットができるようになったのです。
モニターでカード支払いをすれば(忘れたけど16ドルくらい)、
飛行中ずっとオンライン状態にしておくことが可。

ちらっとページを開けてみたところ、ホテルなどよりずっと通信速度が速く、
これは作業がはかどりそうだなと思ったのですが、残念ながら
搭乗した時間が時間なので、席に着いた時にはもう眠くて朦朧としていました。



国際線というのは出発時間に関わらず離陸の1時間後くらいに食事を出してきますが、
夜中の2時に出発する便で、まさかそんなことしないよね?
と思っていたらやはり、食事はこの「リフレッシュメント」と「朝食」だけ。

頼みたい人は手元のスマホみたいなコントローラーでメニューを選択し、
ボタンを押せばオーダーがギャレーに送信され、持ってきてくれます。
わたしはフルフラットのせいか、珍しく爆睡していて知りませんでしたが、
息子はいつの間にかカレーを頼んで食べたそうです。

映画の選択も、CAを呼ぶのも、機内販売もコントローラーで可能、とあります。

わたしは今回の旅行の記念に、先月の予告の段階から目をつけていた
パスポートケースを購入することにしました。
コントローラーを操作してもなかなか「機内販売」のページが出ないので
(工事中だったみたい)悪戦苦闘していたら、乗務員が

「機内販売はいかがっすかー」(東南アジア系の男性クルーだった)

と通り過ぎたので、呼び止めて普通に買いました。(−_−;)



今までのパスポートケースはもうボロボロだったので、交換です。
ティファニーブルーといわれるこの色が気に入って、名刺入れにも同じものをつかっていますが、
さらに嬉しいことに、鶴丸カードで支払えば免税価格からさらに一割引!



着陸の2時間半前には朝食がサービスされました。
洋食か和食が選べたので、「機内で和食は食べない」という飛行機業界の中の人、
ハーロック三世さんのお言葉を思い出し、当然のように洋食にしました。

最初にフルーツの盛り合わせを持ってこられたのは大いに謎でしたが、
それが「前菜」というつもりだったのかもしれません。(普通デザートですよね)
サラダにポーチドエッグ、小さなキッシュが二つ、というメニューです。

せっかくのメゾンカイザーのパンがレンジで温めたため台無しになっていたのが残念。


さて、というわけで朝の4時に羽田に到着。
現地の気温26度、というので少しホッとして機外にでたところ、
むわーーっと湿気が襲ってきたので思わず「暑っ!」と声が出ました。
そして空気の乾燥したサンフランシスコから日本に帰って来れば感じるところは皆同じ、
後ろに続いて降りるひとたちは、ほぼ全員が一歩外に踏み出した途端、
「うわ」とか「わー蒸し暑い!」とか口々にうんざりとしたように言っています。

時差ぼけとともに、西海岸から帰ってくると、これが体にこたえるんですよね。


というわけで、東海岸と2往復し、さらにはその間台湾にも行き、
ボストンからニューヨークまで車を運転したわたしに、また新たな試練が。
そう、総火演と翌日の花火大会です。

いったいどうなるわたし?

 


 

平成27年度富士総合火力演習(予行演習)到着から開場まで

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アメリカから帰国してまだ時差ぼけもそのままである状態で、
(毎年同じこと書いてるなわたし)総火演の予行演習に参加してきました。
例年、アメリカから帰国してくると見舞われる時差ぼけですが、だから困る、
ということではなく、9時に眠くなって4時頃に目が覚めてしまうというという、
むしろ大変イベント参加にはありがたいサイクルとなっています。

しかしさすがに3時半に目覚しをかけて寝るのは初めてで、緊張のせいか(笑)
すぐに寝付けず、大変辛い目覚めとなりました。

我が家から総火演の会場までは順調にいけば2時間弱。
去年は御殿場駅前にホテルを取りましたが、今年チケットが手に入ってから調べたところ、
近隣ホテルはすでに全て満室。 

ようやく見つかったホテルは現地まで1時間ということだったので、
それならば1時間くらい早く起きれば同じこと、と思ったわけです。
(結果的にあんまり同じじゃなかったんですけどね)


今回、当初いただいたチケットは22日でした。
実は、我が家がこの時期参加することになっている大曲の花火大会と重なっていたのですが、
わたしがそれを23日だと勘違いしていて、手配してくださった方に
そのようにお願いしてしまったのです。

チケットを発送するという連絡をいただいてすぐそのことに気づき、
平身低頭してかわりに取ってもらったのがこの日のチケット。
快く別の日に手配してくださったとはいえ、グレード的に
もしかしたら最初のチケットならばいろいろと「上」だったのかなあ、と・・・。

まあ、それも酸っぱいブドウというやつかもしれませんが。


さて、当日3時半に起きて4時すぎには出発しようとしたわたし。
前日何もかも用意しておいたのですが、凍らせたサンドイッチを入れたり、
水をボトルに入れたりは出かける直前にしなければいけません。

アメリカで買った新しいボトルに水を詰め、蓋をしてカバンの底に入れ、
さて、出かけようと持ち上げた途端、ハッとしました。

カバンの中が水浸しなのです。

本日の御殿場の天気は雨。
Siriさんにお伺いしたところ、(わたしのSiriさんは男性)そうおっしゃるので

「嘘ー」

というと、

「残念ですが嘘ではありません」(キリッ)

と返事をしたのでわたしは雨具の用意を万全にしていました。
しかし、まだ一歩も外に出ていないのにカバンの中はすでにびしょ濡れ。

ううううバカバカ、わたしのバカあ〜!

自分で自分を罵りながら涙目で中の水を出し、タオルで中を拭いて、
すっかり水を吸った駐車許可書(ダッシュボードに置く)を外に出し、

ついでにチケットをひょいと横に出して、

わたしはそのままあわてて飛び出しました。
時すでに5時少し前。
高速の入り口に近づいた時に、嫌な予感がしてカバンを探ると

ない。チケットがない。

ううううバカバカ(略)

自分で自分を罵りながら車をUターンさせ、チケットを取りに帰り、
結局そんなこんなで予定より40分は遅れて現地に到着したのでした。


さて、最近、当ブログでは、去年の総火演ログへのヒットが大変増えています。
同時に大曲花火のページもよく見られているようで、どうやらどちらも
イベントに参加するに当たって、情報収集しようという人たちがやってきている、
ということが日々よくわかるのですが、今日のエントリもどちらかというと、
そういう人たちへの情報提供といった観点からお話ししておきますね。



駐車場付きのチケットを持っておられる方、そこには
「中畑」「高畑」「海苔川」などの表記があると思います。
去年いただいたチケットはバスに乗らなくてもいい駐車場だったのですが、
今年は「中畑」で、駐車場の一隅からバスが出ているのでそれに乗りました。
広大な駐車場(というか空き地ですが)がこのようにいくつも用意されており、
そこには何人もの自衛官が配備されていて案内してくれます。
中畑から会場近くの降車場までは10分以上かかりました。



降りたら降りたで、会場まで長い長い列ができています。
この列は青いチケットのスタンド席に並ぶ列。



赤とか紫とかのチケットの人は真ん中です。
青のEチケットというのは一番端っこのスタンドか、
あるいは前面シート(地べたですね)のどこに座ってもかまいません。
スタンドに座りたい人は並びますが、地面でよければ左の通路を行けばいいのです。

わたしは去年地面に座りましたが、今年は出足が遅れてしまったし、
雨も降っているので、最初はスタンドに座ろうと思い、この列に並んでいました。 

しかし、そのスタンドというのがあまりにも端っこで(笑)、
おまけにいつになったら座れるのかというくらい皆が並んでいるので、
すぐに業を煮やして(笑)前面シート席に行くことに決めました。 

雨具の用意を万全にしてきたので、それでもいいや、と腹を括ったのです。




ここはB席で、Eチケットはこのずーーーーーっと向こう。
わたしはこの『B』を見て、スタンド席に座ることをきっぱりと諦めました。



ところが不幸中の幸い、この日は1日激しい雨が予測されていたため、
最初からシート席に座ろうという勇者たちはそう多くなく、
散々時間を費やしてから来たわりにずいぶん前の方に座れそうです。



前面シートに座るのも、どこでも好きなところというわけにはいきません。
来た順にまず自衛官が人数を確認しながら横一列に後方で並ばせます。
そして、一列分の人数が揃ったら、黄色いロープを両側から持って渡し、
そのロープの前に座るようにという指示があります。
自衛官はこれを何回も何回も何回も繰り返して、会場に人を詰めていきます。

自由に座らせると混乱するしトラブルも起こりかねないので、この際、
見学者の要望の類は一切聞き入れられることはありません。
この辺りは自衛隊といえども軍隊調?と思ってしまったわたしでした。



で、結局座ったのはこんなところ。

まあ確かに去年の二列目には及ばないけど、出遅れたわりにはまあまあ?
とりあえずたまたま通路側に座れたのはラッキーでした。
列の真ん中あたりなら、おそらく自慢ではないけど座高の短いわたしは、
まともな写真など何一つ撮れないまま終わっていたと思われます。



この前列の男性は、白レンズのカメラを2台持参で戦車を撮っていました。
やはりこういうレンズを使おうと思ったら一番前に座るしかないですよね。
もしかしたらこの人は開場前から道路で待っていたのかもしれません。



ご存知のように、会場では一切傘が使えません。
皆そのことを知っているので、それなりにカッパなどを着込んでいます。

わたしはというと、普通の服の上にゴアテックスの軽い素材のレインコート。
これだけでもコンビニのレインコートなど比べ物にならないくらい水を寄せ付けませんが、
その上に登山専門店で買った完全防水のつば付き野球帽をかぶり、
フードをかぶって、さらに写真の人が来ているのと同じ、自衛隊イベントで買った
ゴム引きのポンチョをあたまからすっぽり。
つまりフードは二重重ねです。


ほとんどの人たちが無防備なのがお尻の下でした。
前に座っていた子供は、ぬいぐるみのようなクッションをビニール袋でくるみ、
それに座っていましたが、これはなかなかいい方法だと思いました。

わたしはまず、シートの上にビニールのシートを敷き、その上に
もう一枚折りたたみ式のシート、さらにその上にクレイジークリークのチェア
お尻が痛くないように膨らませて使うクッションを敷き、
ポンチョで全体をすっぽり包むように座ってしまいました。

これで上からも下からも全く雨水の浸入の余地なしで完璧!

カバンの中から物を探すときには、自分のポンチョの「テント」に潜り込んで
中でゴソゴソやればいいわけで、まあ確かに少し暑かったけど(笑)、
結果的に服も体も髪の毛も全く濡れず、背もたれのおかげで超快適にすごせました。

少し不便だったのがカメラです。


新兵器の望遠レンズを付けて、最後まで一度もレンズを取り替えず、
コンデジと併用したのは、天候が天候なのでレンズの取り替えができなかったからですが、
ポンチョの胸元からカメラを出し入れして写真を撮るのは大変でした。

それから、バヨネットフードが、こういうとき大活躍するのね。
とりあえず普通に撮っている限りレンズに雨はかかりません。
当たり前だけど、レンズフードって写り込みとかケラレとかを防ぐのみならず、
レンズを直接守る役目もするんだと今更ながらに知った次第です。



さらにこの場所は特に戦車の写真をとる範囲が狭く、
通路はこんな風に黄色いロープと白レンズの人が必ず写り込んで(−_−#)・・・・。
とにかくいろんな悪条件が重なってしまったので、今年はあまり写真の質に期待せぬように。



やはり雨が降ると人出が鈍るのか、去年とは埋まる速度が全く違います。
特別招待客スタンドのところにはほとんど人がいません。

招待用の席だと、どこに座ってもたいした違いはないので、
皆開演の10時ギリギリまで来なかったりするもんなんでしょうね。


というわけで、会場では予行演習も始まっていたりしたわけですが、
全くそれには触れないまま次回に続く!






 


空母「ホーネット」アイランドツァー再び

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二年前、サンフランシスコのアラメダに繋留されて
博物館になっている空母「ホーネット」を見学し、
つい最近、つまり二年がかりでその報告を終わったばかりですが、
今年の夏もアラメダに行って「彼女」に会ってきました。

アイランドツァーに参加したものの、タイムリミットが来てしまい、
最後まで見ることができなかったので、

「またホーネットに行ってアイランドツァーに参加してきます」

とここでした約束を果たすためです。
まあ別に誰にも期待されていないかもしれませんが、一応約束は約束。
サンマテオブリッジを渡り、延々と5車線の高速道路を走って、アラメダに到着しました。
今回初めて知ったのですが、「ホーネット」の繋留されている桟橋には

「The Jimmy Dolittle Pier Alameda Naval Air Station」

というのが正式名称になったようです。

そして2年ぶりの対面となったわけですが、全くそんな気がしません。
今回こちらの友達と以前一緒に行ったカフェに行って、


「1年ぶりって気が全然しないわー」

というと、

「去年は来てないよ、2年ぶりだってば」

と言われて驚いたように、最近は2年前なんて昨日のことみたいです。



そんな年寄りの繰り言のような愚痴はそこそこにして(笑)。

ここは確か砲座のあるところだったと思いますが、修復のため
全面的にカバーが掛けられて屋根までつけられています。
塗装の塗り直しだけなら雨の降らないこの季節、ここまですることはないので、
もしかしたら砲座を体験できるような展示の作成中かもしれません。

これは来年も来てみるべきかな。



2年前に来た時には、真珠湾攻撃を目撃した元軍人を読んで
体験談を聞くという、もしわたしが日本人でなければぜひ参加してみたい
催しが行われていましたが、今年はそういうイベントとは打って変わって

「ダンス&ポーカートーナメント」

です。
戦争と何の関係もないじゃん。

まあしかし、ホーネットも財政事情が苦しいらしく、入場料が8ドルも値上げされて
大人一人20ドルになっていたくらいなので、この際パーティ会場としてでも
イベントで稼ぐようなこともやるようになったのかもしれません。

第二次大戦時に生まれ、ミッドウェーに参加し、アポロ13号の回収を行った
という歴史的なフネであっても、現代のアメリカ人の関心はそうは集まらないのでしょう。


さて、20ドルの入場料を払って中に入る時、アイランドツァーはすぐに参加できる?
と聞きましたら、甲板にいればすぐに始まるからそこで待てばいいとのこと。
お客さんがあまりいないように見えても、すぐに何人かの人は集まるようです。



甲板に出てみると、右の紺色のシャツを着た係員がいたので

「アイランドツァー参加できます?」

と聞くと、もちろんですよと答え、すぐにトロージャン(T-28)の下で
座っているお子様三人に注意をしに行きました。
柵をしているわけではないので飛行機の下部を見るのは自由ですが、
やはり子供が車輪近くにいて何かあってはいけないという配慮でしょう。

ところで、このトロージャン、テキサンなんかよりずっと零戦に似てないかい?
いくつもの戦争映画で零戦役を務めるのはテキサンということになっているのですが、
こちらの方が適役なのになあ、といつも思います。

子供達はお父さんと一緒にアイランドツァーを待っていたのでした。
彼らが加わって総勢12人くらいのパーティができあがり、ツァーが始まりました。



前にも解説したところは飛ばしますが、甲板上の役割が
来ている服の色で分けられているということを説明しています。

この解説員は、ウィルといい、自分は海軍の元パイロットで、「ホーネット」のような、
たとえば「タイコンデロガ」などの空母に乗っていた、と自己紹介しました。
スラリとしたイケメンおじいちゃんで、現役時代はさぞかし、と思われるその容姿が、
去年知り合った元兵学校生徒の建築家S氏にどことなく似ているので、
わたしは内心彼を「Sさん」と呼んでいました(笑)

Sさんは若い時に空母勤めをしたためか、補聴器を耳に入れているにもかかわらず、

「わたしは耳がよく聞こえないので、後ろから何か言われてもわかりません」

と言っていましたし、軽く片足を引きずりながら歩いていました。

そんな方がフネの階段を上がり降りするたび、
(降りる時には必ずSさんは背中向けに降りていた)

「ちょっと息を整えるまで待ってください」

などと言いながらもこうしてボランティアを勤めているのです。
これは、よほどの使命感でもなければできないことだなあと思いました。



「Sさん」の背中には、「あの」、「トンキン湾ヨットクラブ」、
(ベトナム戦争に参加していたため)そして所属不明のパッチ、
「ボノム・リシャール」のマークがありました。
よくよく見ると「CVA-31」とあるので、強襲揚陸艦になる前の、
空母の頃の「ボノム・リシャール」に乗っていたことがわかります。

まあ、パイロットだったって言ってんですから当然空母なんですけどね。


 
ここの写真も割とつい最近アップした覚えがあります(笑)
「Sさん」はここを「プライマリーデッキ」と言っていたような気がしますが、
艦内にいて、何か状況に異変が起こった際、まずここに出て状況を確認するからだとか。



このあと、艦内の階段を1階分だけ上がったところにある管制室。
ここも前に説明を聞いてますが、前の人より「Sさん」の解説は
わたしにとってはわかりやすかったような気がします。
訥々と、しかし要点だけを簡潔にしゃべるので日本人向けというか(笑)

いくつかの空中給油の写真を見せているところ。



蛍光カラーのサッカーユニフォームの3人組は、基本的に
おじいちゃんの話など聞いておりませんでしたが、時々は
このようにわかりやすいところだけ興味を示していました。

フレネルレンズで侵入してくる航空機に「高杉」「ちょうど」「低すぎ」
と教えるサイン。

「It's very easy. Very simple.」



前にも注目したこのテレビは今回確認したらSONY製でした。
これもモニターです。



ここで移動。
管制室を出て次のところに移るのにはいちいち外に出ます。
甲板のファントム(改修中)の下にたくさん人がいますが、
これはおそらくキャンプか何かの団体で、子供と同じ数親もいますから、
おそらく幼稚園児くらいの歳の子供たちのツァーで、
カタパルトの説明を受けているようです。

次に説明を受けたのは航法室でした。



Dead Reckoning Tracerというのは、推測航法追跡とでも訳すのでしょうか。
この部屋に入ってすぐ、「Sさん」は大きなボードに書かれた
「ホーネットの現在位置」を示し、これが「オフィシャルポジション」だと言いました。
「ホーネット」の航行は全て全自動で管理されており、
ここにあるDRTは「ホーネット」の艦位を表しますが、同時に
CIC(戦闘指揮所)と一致しなくてはいけません。



これがそのDRTだと思うのですが、驚いたことに「生きて」いました。



隣にあったパネルの、細長い蓋を、見学者の一人が持ち上げて見せました。
なぜこの人が?と思ったのですが、「Sさん」は自分でいろいろとやって見せるのが
体力的にかなり辛いらしく、最初に自分についてきた見学者に

「説明が始まったらこれを持ち上げて見せてください」

と前もって頼んでいたようでした。
後になって自分がその役目を仰せつかり、そうと知ったのですが。

これは航法に関する「コンピューター」だそうです。
当時からコンピューターと呼んでいたのかどうかは知りませんが。



「セクスタント」、測距儀です。

「わたしたちは海の上で自分のいる位置を知るために、天体観測を
測距儀によって行いました。
・・・・・当時はGPSなんてありませんから」

見学者の間に笑いが漏れます。
GPS装置の発明は人間社会を変え、世界は「GPS以前・以後」になったと感じます。
 


決して広い部屋ではないにもかかわらず、コーヒーがないと生きていけない
アメリカ人のために、この航法室にはコーヒーメーカーと(ポットかな)、
各自の名前が書かれたカップが備えられていました。

岩国の海兵隊基地で、ホーネットはホーネットでも「レガシーホーネット」、
飛行機の方のホーネットドライバーにパイロットの控え室を見せてもらった時、
各自のカップのあまりに汚いのにドン引きしたことを思い出しました。

海軍軍人さんは綺麗好きなので、皆ちゃんとカップを洗っていたと信じたい。
ところで、ここのメンバーは20人いたはずですが、カップの数が足りません。
船を降りる時に記念に持って帰ってしまった人が何人かいる?

 

ちなみにここにあるコーヒーは「大変ストロングなものだった」ということです。
こうなってしまわないために濃いコーヒーを飲んでいたんですね。

彼らは「ホーネット」の”quartermaster”、操舵手たち。
1969年7月24日、アポロ11が着水する数時間前、「ハイ・アラート」状態であった
彼らがわずかの間にその場で爆睡する様子。


確か去年の見学では航法室は見なかったような気がします。
この部分が早く帰ってしまったので見損なった部分なのかと思いましたが、
前回見なかったところから見学が始まったのは不思議でした。

もしかしたら解説員によって順番が違うのかもしれません。
さて、このイケメン元パイロット「Sさん」は、どんな「ホーネット」を
見せてくれるのでしょうか。


続く。 


 

2015年度大曲花火大会 SONY RX-100、頑張る

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今年も恒例の秋田県大曲花火大会に行ってまいりました。
雨に降られながら地面に座って耐えた総火演から帰ってきて、
1日の休憩を挟んだのみで、またしても野外イベント。

天気予報は雨(笑)。

実は先日裏米において、

「忘れたチケットを慌てて取りに戻るなど(勝手ながら)事故でも起こしたら?と心配です。
ブログの為ばかりでは無いのでしょうけど、UPなど休んだら如何でしょうか?
花火会場の方も台風が影響して来るのでは無いでしょうか?
余り頑張り過ぎない様に、と思いますが」

というご心配をいただきました。

・・・・自分で思うよりずっと、わたし、疲れてる?

と少しハッとせずにはいられませんでした。
ブログのためというより、最近はお付き合いとかで、今年はしんどいからパス、
というわけでも行かなくなってきたというのが実情です。

この花火大会なんてまさに「お付き合い」(しかも仕事がらみ)
の最たるものですが、だからといって別に嫌々ってわけでもないんですよねー。
まじで。

今更、そんな事を気にする上官では無いのは承知しておりますが(^^)

というこの方のコメントの最後の言葉どおりでございますが、
とにかくご心配ありがとうございます。



さて、2年連続で駐車場がフルのため、飛行機に間に合わず、わたし一人が後の便で追いかける、
という愚をおかした我が家ですが、去年からはさすがにちょっとは学習して、
空港で車を預かって到着したら持ってきてくれるサービスを利用しました。

一泊4千円を高いと考えるかどうかですが、飛行機代と現地までの新幹線代を
無駄にすることを考えれば、傷害保険のようなものです。

9時過ぎの便に乗って秋田まで無事に到着し、駅ビルの比内地鶏の専門店で
親子丼のコースをお昼にいただきました。
しっかりした味の鶏肉とふわトロたまごの丼はもちろんですが、
付け合わせのジュンサイがとても美味しかったです。



秋田駅での集合時間まで間があったので、ホテルにチェックインできるまでの間、
買い物をした後茜屋珈琲店というレトロな雰囲気のお店で休憩しました。



甘いもの好きのTOが頼んだオリジナル手作りテョコレートケーキ。
ブラウニーより粉が少なくて生っぽいケーキでした。
わたしは久しぶりにスターバックスのではない「本格的なコーヒー」を飲みましたが、
このお店は秋田では有名な「老舗」だそうで、チェーンの店に人が流れ、
次々と潰れていくその他の喫茶店の中で唯一生き残っているのだとか。



さて、待ち合わせ場所に集合したのは主催者の家族を入れて全部で8人。
1年前から予約してあった「こまち」に乗って大曲まで30分くらいでしょうか。
「ジャパンレッド」と自称する新幹線の赤が美しい。

やはり日本を象徴する色、それは「赤」ですよね。

オリンピックのロゴも、ボランティアの制服も、なぜそうしないのか。
わざわざ黒で喪章みたいにしたり、青を基調にしたがるのか(棒)



前日、「昼には雨は止んで夜の花火大会には支障なし」と聞いていたため、
それならばと総火演で活躍した「雨の野外イベントセット」、特にゴアテックスのコートと
陸自迷彩の完全防水ポンチョを洗濯して干したまま置いてきてしまったのですが、
その情報と判断は全く間違っていました。

最悪の場合を予想して、「世界一楽な靴」を目指して生体力学的に研究された
ミッドソールを使用しているというのが売りの「フィットフロップ」を、
アメリカで安く(50ドルくらい?)手に入れておきこれを履いていったわけですが、
いかにサンダルでも、おろしたての靴で河原の泥の中を歩くのは心が痛みました。

タクシーの中で、

「あーあ、この靴濡らしたくなかったなー」

とぼやくと、その他2名が同時に

「じゃ履いてこなきゃいいのに」

と責めるので、

「だって昼から止むってデマを流す人がいたんだもん」

と口答えすると、運転手さんが噴き出しました。
これだけコンピューターで天気が予報できる時代になっても、本当に正確に
時刻までを予報することは雲が実際に動く直前までできないんですね。



昼で止むどころか、雨は会場に着いても酷くなる一方。
幸い主催者の方が今回は升席の一番後ろ、審査員席の並びを取ってくださっていたため、
傘をさすのも立ち上がるのも自由。
さすがに自衛隊イベントとは違い、皆傘をさしています。

その間も昼花火の部の打ち上げは粛々と続いていました。
大曲の花火は土砂降りでも中止になったことはありません。
「よほどの場合」、つまり台風直撃とかいう事態にもならない限り。

この1日のために大曲という町は存在しているようなものですし、(多分)
「全国花火競技会」という名目が示すように、これは「コンテスト」、
総理大臣賞などが出される権威のある競技会であり、また、花火会社にとっては
翌年の仕事を獲得するための「宣伝活動」でもあるのです。



雨をざーざーと受けながらも、同行の方がアプリで雲の位値を逐一、

「今雲が右手に動いているからもうすぐ晴れます」

などと報告してくださっていたのですが、なんと奇跡的に
夜花火が始まる寸前に雨は完璧に止みました。


とたんに同行の人々は、黙々とタオルでシートの上を拭いては、後ろの通路外に
絞って捨てるという作業に取り掛かりました。
こんなところでも「最後列でよかった」と思わされました。



どうして主催者の方が今年最後列を選んだかというと、
開始と同時に現れるこの「ナイアガラ」全景が見られるからだそうです。
だてに審査員席と並んでいるわけではないのです。



しかも、最後列なので立ってもOK。
小さなパイプ椅子に座っていても後ろの迷惑になりません。



というわけで始まったのですが、まだ雲が切れていないときに上げた花火は、
上がガスで切れたり(左)下に雲が残っていたり(右)。
花火そのものを評価しようにもこの状態ではわかりませんよね。



例年何処かが行う「小花の散る様子」。



こういうのも実際に見ているのと、写真に撮ったのでは
花火師の「意図」の伝わり方が全く違うことに気がつきました。



大曲の花火大会は「日本三大花火」、(大曲、土浦、長岡)のひとつで、
明治43年に最初の大会が行われてから今年で第89回を迎えました。

三大花火の中でも規模、権威共に日本一の花火大会だそうです。

5年前に「始まってから100年」を迎えており、つまりこれは「よほどの場合」の中止と、
戦争の間中止された大会が15回あったということになります。
戦後大会は再開されましたが、特に戦後の混乱期、わざわざ見に来るのは
地元民、花火業者と、よほどの花火通を自認するような花火愛好家だけだったそうです。

しかし大曲が「町おこし」としてこれを宣伝したところ、近年になって観光客が激増しました。
毎年この1日のためにキャンプで場所取りをする人々すらでる始末。

wiki

付近住民とのトラブルが相次ぎ、抽選での整理券制度にしたり、
対応をしているそうですが、無断駐車の問題を含め、全く追いついていないそうです。

わたしたちはスポンサー会社のご招待の桟敷席という待遇なので
毎年ありがたく利用させていただいていますが、もしこんなことまで
しなくてはならないのなら、まず行こうという気すらおきないでしょう。



ところで、競技会であるこの花火大会、一つの業者は演技に際して
最初に「規定」となる10号割物といわれる10号玉を2発あげます。
真っ芯円に美しく開くこととその形を競うわけです。



見ている人の中には大きな声で「ああ〜残念」「形がどうこう」などと
論評する人が必ず周りに一人はいるのですが、その人たちがいうように、
「残念な花火」は写真に撮るとそれが一層よくわかるのです。



シャッターの解放が短くて開ききっていませんが、たとえばこれ。
明らかに歪んでいるのがお分かりでしょうか。

実は今回、終わってから、新幹線待ちの時間に町が提供している「休憩所」にいると、

「最近の演技者は、小手先の技術ばかりで、10号玉を丸くあげることもできないのが多い」

などと、お怒りの花火愛好家がいたそうです。
去年に比べて、三角や四角、動物といった変わった形を上げたり、
見た目に面白い(が、美しいというわけではない)花火がぐっと減りましたが、
それでもこういう「通」の方には本道を忘れている、と見えたのかもしれません。



写真を撮って初めてわかった、花びらが散る様子の表現。

ともかく、その方の嘆く「年々質が低下している」わけがあるとしたら、
NYの寿司屋の花板さんが嘆いていたところの

「職人を目指す若い人が続かない」「結果が出ないとすぐに辞める」
「怒られたり殴られでもしたらすぐに親が出てくる」

というあたりではないかとわたしは思います。
ブラック企業、などといって企業のモラハラ、パワハラ、労働環境の悪さが
糾弾される現代においては、徒弟制度における職人の扱いなどを、
ブラックそのものに捉えて、これを忌避する若い人が増えているといいます。

さらに、親方から口だけでなく手や脚を出されて鍛えられてきた職人自身が、
辞められるのを恐れて(そして世間的に悪いことになっているため)、
弟子を叱責することさえはばかるような傾向が、どんな職人の世界にも蔓延しているとか。

個人の人権みたいなことを考えると、どちらがいいのかはわかりかねますが、
そういった厳しさで鍛えられることの減ってきた職人の世界から生まれてくるものが、
昔とは変質してきているとしても、それはごく当然のことのように思われます。



ところで、写真について。
わたしは今回いつものNikon1に三脚ではなく、1脚を持参しました。
シャッターをバルブにして、F8から13くらいの間をうろうろ、
その都度いろいろ試しながら撮っていたのですが、何しろ最後の花火の撮影は
ちょうど1年前、という状態なので、悲しいことにすっかり要領を忘れてしまい、
前半これすべて悪戦苦闘でした。



これなんか、形が歪んで色がはみ出しているのもよくわかりますね。
それはともかく、なかなか決まらないなあとイライラしながら撮っていたわけです。

まったく、花火は撮影などせずに、この目で見るものだと毎回思うんですけどね(笑)

しかも、またしてもわたしならではのミスをしてしまいました。
何かの手違いで、充電したはずのバッテリーが充電されてない(汗)
当然早い段階で電池がなくなり、スペアを入れ替えたところ、
こちらも充電したはずなのになぜか(なぜ?)残り三分の一しかないのです。(大汗)

すぐにスペアのバッテリーは切れてしまい、わたしは仕方なく、
ソニーのコンデジRX-100を投入しました。
一脚をNikon1から付け替えて、ほとんどしたことのない
設定調整をマニュアルでしながら撮る覚悟です。

戦艦の砲弾を補給し忘れ、それも尽きて、駆逐艦を単騎敵艦隊に突っ込ませるみたいな?
ところが・・、



これ、Nikon1の画像よりうまく撮れてないか?



これは花が羽の付いた種子を飛ばしている様子を表現していて、
花から放たれた種についている羽の細部まで再現してあるのですが、
明らかにこちらの方がそういった部分をきっちりと捉えることができているのです。



このデジカメのマニュアル設定などいままでしたことがなかったのですが、
急いで確認したところISO感度80という設定ができることに気がつきました。
Nikon1の最低ISO感度は120が下限です。



Nikon1でなかなかうまくいかなかったのはもしかしてISO感度の下限のせい?
自分の不勉強を棚に上げて、そんなことを考えました。

それにしても、花火がどんどん進行する時間との戦いの中で、遂に最後まで「bulb」、
つまり押している間だけシャッターが開く設定を見つけることができないまま、
撮りまくった(しかも絞りの変え方もわからずF5.6のままorz)わりには、
明らかに花火らしい写真が撮れている気がするの。

冒頭の写真など、開ききった先端まで綺麗に写っていて、
自分で言うのもなんだけど、まるでパンフレットの写真みたいでしょ? 



これは、今年の流行りというか、中央の光を中心に、花びらがだんだん開いていき、
円になる途中過程ですが、これも・・・・。



このように先端のふくらみの部分まで綺麗に撮れたのはNikon1では一つもありませんでした。



これは確かガーベラの花を再現していたプログラムです。



規定とちがって、自由演技は打ち上げられる範囲が広く、
カメラをあちこちに動かさなくてはいけないので、一脚を使ってみましたが、
特にコンデジだとブレやすいのは否めませんでした。

これはぶれずに三重に開いた花が撮れた例。

1脚はぶれる、3脚は動かすのが大変、手持ちは論外。
本当に花火の撮影って難しいですね。
しかも当方、一年に一度、大曲でしか撮らないので余計に・・・。



企業提供花火は前年度優勝者が請け負います。
今年のわたしたちのツァー主催者の企業提供花火は、同業2団体での
呉越同舟提供花火であったわけですが、
欲目なしで大変素晴らしい演技だと思われました。

演技終了後、主催者の方がつぶやいた一言。

「どちらも300万ずつ、計600万円の花火です」

同業他社で共同打ち上げというのは、金額を競争でエスカレートさせないためにも
いい案なのかもしれません。




うーん・・・・やはりISO感度80設定のあるRX-100の勝利?



あまりのことにショックを受け、帰りの飛行機の中でコンデジを仔細に点検したら(笑)
なんとおまかせシーンに「花火」というのがあったのに気づきました。
そういえば最初の年はこれで撮ったんだった。

それを見ると、たまたま偶然、その設定と全く同じ露出と
シャッタースピード(スピード2”、F5.6)で撮っていたことが判明しました。


まあ要するに、苦心しながら現場で短期間に設定したのが、
まぐれ当たりだったってことです。

仕方なく投入した駆逐艦の照準が敵戦艦の急所を撃破したって感じ?
しかもこの駆逐艦、「島風」か「涼風」なみの火力であったと・・。

弘法筆を選ばずと申しますが、カメラの質ばかりが写真を決めるわけでもない、
とわたしはあらためて思ったのでした><




というわけで特にわたしにとっては全プログラムあっという間に終わり、
恒例の「花火師たちとのエール交換」の時間。

最後の演技で「秋田県民歌」を織り込んだ「いざないの街」は
もうすっかり歌詞も・・・まあ、ところどころ歌えるくらいおなじみです。

いざないの街 /津雲 優

「秀麗無比なる 鳥海山よ
狂瀾吼え立つ 男鹿半島よ
神秘の十和田は 田沢と共に
世界に名を得し 誇の湖水
山水皆これ 詩の国秋田」



本日の観客は去年より1万人も少なかったそうですが、それでも71万人。
1万人の違いは、たとえば終わってから会場を出るまでの時間の短さや、
休憩所でのお手洗いの列の少なさなどに現れていました。

というわけで、今年もこれで「〆」のババヘラアイス。
ババがヘラですくわないといけないので、売り子さんは年齢制限あり。
見たところ「若いババ」より、「いかにも婆なババ」の売り子さんには
長い列ができているようでした。
売り手が老けていれば老けているほどお値打ちが出る、特殊な商品です。



休憩所に花火の資料と共にあった「鑑定士名鑑」。
大曲が主催する講義を受け、ペーパーと実技(映像を見て種類を当てる)の
試験を受け、合格すればこの資格がもらえ、名前を記載してもらえます。
持っていたからといって競技会の審査には全く関与できませんが、
花火大会で蘊蓄を語って周りを感心させるくらいの役には立ちそうです。

何と言っても、知識があれば花火を観る楽しみも一層増すでしょう。


大曲の花火の終了を待っていたかのように台風がやってきそうです。
いつの間にか夏の終わりを総火演とこの花火で迎えるようになった我が家です。






平成27年富士総合火力演習~予行演習

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同じ火力でも花火の話題を挟んで総火演についてお話ししていますが、
そもそもこの「火」関係のイベントが毎年同じ週末にあるというのはこれいかに。

大曲花火大会が夏の終わりにある意味は、この大会が花火師の競技会であるからで、
夏の間ずっと彼らは全国各地で請け負った花火の仕事をこなしているのですが、
それがどこの地域もすべて終了してから行われることが決まっているからです。

この大会で優秀な成績を収めた業者は、翌年の夏の仕事の受注が増えるというわけ。

それではどうして陸自の火力演習がこの時期に行われるのか。

●夏休み期間に行うことで学齢期の青少年たちが来やすい

これは大きいでしょうね。
神奈川県の学校で、希望者を募って総火演見学をすることにしたところ、
市民団体がキーキーと文句をつけてきたということがありましたが、
その反対理由が

「社会経験も知識も不十分な子供の心情を引っ張るような教育は正しくない」

だそうで・・・。
これ、そういうものを見たら子供達は自衛隊に入りたいとか言い出す、
って前提でしょうかね。
だとしたらあまりにも子供(中学生でしょう?)を舐めた話じゃないですか。

わたしが最初に総火演を見学した感想というのは、その練度と、イベントの
オーガナイズを含む組織としての手際の良さ、気遣いに感じ入ったのは勿論、
何と言っても実際の武器の破壊力を目の当たりにし、

「戦争だけは何が何でもやっちゃーいかんなあ」

ということでしたね。
彼らはどうして武力の恐ろしさを知る機会すら遮断しようとするんでしょうか。
断言してもいいけど、この反対している連中は誰一人として総火演を
見に来たことはないと思います。

YouTubeの映像などでは決して伺い知ることのできない地響き、
鼓膜が破れんばかりの轟音、そして空気が熱気とともに震える瞬間。
逆説のようですが、それはある意味、得難い「平和教育」となるはずなのです。

まあ、連中はとにかく血気盛んな男子が

「自衛隊かっこいい!よし、俺自衛隊に入る」

となることを阻止したいだけなんだろうと思いますが、それならそれで、
日本には、あなたたちの大好きな憲法によって職業選択の自由というものが(略)



そんな話はともかく、現地について、スタンドではなく
地面である「前面シート」に陣地を構築することになったわたし。
てるてる坊主のような状態のまま、ポンチョの胸元からカメラを出して
リハーサルの様子をせっせと撮りまくります。

総火演の本番、つまり一般公開は23日の1日だけ。
他は全て予行演習であるわけなのですが、さらにそのリハーサルをしとるわけです。

リハーサルならではのサプライズも今回は起こったようですね。

2015富士総合火力演習 オスプレイ登場!



横田基地配備の米軍さんが遊びに来てくれたんですねー。
これ絶対陸自の中の人も知ってたと思うんですが、前もって

「遊びに行くからねー」

みたいな話がどこかにあったんでしょうか。
なんかわくわくするなあ。


さて、わたしが落ち着いたとき、フィールドでは96式装輪装甲車が
リハーサルを行っていました。

 

96の弾着目標は「緑の台」のパネルです。
本番にはここに白いパネルがはめられます。
見事命中させたのはこの右側の96ではなく、左からです。
写っている96は緑の旗を上げていますから撃ってません。

撃っているのはおそらく96式40mm敵弾銃だと思うのですが、
見た目は細めの銃ですが、40ミリですから、破壊力もご覧の通り。

ちなみにこの96式擲弾銃を調べていたら、これが

「ゲート 自衛隊彼の地にて、斯く戦ヘり」

という自衛隊が銀座から現れた異次元の軍隊と戦うというアニメに
出てくるということを知りました。
勿論出てくる装備はこれだけじゃないんですが。



これなんですが、ちなみにこの広告は、当日配られたプログラムに載っていました。
うーん・・・・・観てみたい(笑)

 

続いて赤と青の帽子をかぶった歩兵、じゃなくて普通科教導連隊が。



この日は雨のため、望遠レンズ装着したまま一度も付け替えませんでした。
かなり向こうにいる隊員たちの様子もよくわかります。
写真の下の方にうっすらと黄色いロープが写り込んでしまうのは、
座った場所の関係でどうしても避けられませんでした。



赤帽が赤上げて・・、



青帽も赤上げて赤帽は赤上げない。 
このあと砲撃が行われたので、青帽の合図が「撃ー!」だと思うのですが、
赤帽の役割が何だったのかはナゾです。

ちなみに歩兵、じゃなくて普通科の攻撃は「目」で行います。
目で行わない砲撃があるのかって?
あるんだなそれが。

わたしはこの総火演を見に行ったあと、たまたま歩兵出身の方と
話をする機会があって、感想を聞かれたのでいろいろとしゃべっていたところ、
その方がそうおっしゃったのでメカラウロコでした。

しかし、目で行うということは雨の日でも全く平常通りの状況が可能。
雨の日で視界が悪いと、特に訓練では寸前に中止される砲撃もあるってことです。



というわけで120ミリ迫撃砲のリハーサル終了。



お片付けです。
砲身を触っていますが、ちょっと撃ったくらいでは
熱を持ったりしないんですね。



・・・・カバーの用意?



牽引する車が到着。
牽引車は、迫撃砲が軽いので普通の車でOKだと思うのですが、(たぶん)
一応専用の高機動車があります。



あれ?猫車みたいな2輪のトロッコがどこかにいってしまいました。
迫撃砲は牽引時、車についている専用のフックに引っ掛けます。



120ミリ迫撃砲は普通科教導隊の重迫撃砲中隊が所持しています。
ちなみに普通科の中隊というのはどのくらいの人数かというと、
第二中隊で35人、第4中隊で32人といったところです。 



片付け終了。
いつの間にかもう一台車が来ていました。
迫撃砲を牽引している車に全員が乗り、一台には指揮官が乗っているのかも。



そしてどうしても写り込んでくる白レンズの君(笑)

同じく歩兵じゃなくて(しつこい)普通科教導連隊の、
89式装甲戦闘車のリハーサルが始まりました。

 

ちなみに防衛省の決めた愛称はライトタイガー、通称はFV。
さきほどの96式もクーガーというかっこいい名前がありますが、誰もそう呼んでません。

装甲戦闘車の定義というのは、

「歩兵が所有し、戦車に随伴する装甲車」

ってことなんですが、こんなところにも防衛省の妙な配慮がありまして、
このFV、最初は

IFV(Infantry Fighting Vehicle)

だったのが、「歩兵」を意味する「infantry」がまずいってことで
「I」を外してしまったのです。
わたしがなぜしつこく「歩兵」を連呼するかわかっていただけます?



「撃ーー!!」

FVは、日本で最初に作られた歩兵戦闘車(つまりIFV)です。
機関砲、機関銃以外に対戦車砲を所有します。

この時撃っていたのはたしか対戦車砲だったと思う。
車両の両肩に備わっているのがそれですよね?



退却のときにも砲塔は敵のいる方向を向いたまま。


 
移動しながら撃ったのではなく、排気だと思います。



続いてリハーサルは特科教導隊の番。
特科教導隊は教育支援部隊であり、野戦特科学生に対する教育支援や戦術の研究、
教範の作成支援などを行い、全野戦特科部隊の範となるべく創設されました。

この99式自走155ミリ榴弾砲を所有するのは第一及び第二中隊です。



停止した榴弾砲に、隊員が一人駆け寄ってきました。



後ろの小さな扉から中に入っていきます。
彼は偵察かなんか?



狭そう・・・・・。



入ったらちゃんと自分で扉を閉めます。



そして撃ー!



演習場には各ポイントに名前が付いています。
榴弾砲が砲撃を行ったのは三段山です。



何台かの種類の違う榴弾砲が時差を変えて同時に着弾させるという演習です。



お見事。



榴弾砲の射手を直後に大アップしてみました。
会心の一撃であったのか、口元が緩んで歯が見えています。



白レンズの君がどうしても・・・・邪魔で、
FH70、155ミリ榴弾砲の全容が写せませんでした。

これは、チャイコフスキーの「序曲1812年」の演奏の際、
フィナーレの「大砲」としてよく登場するので、このブログでも
何度となくご紹介してきました。 

同時弾着の演習にはこのFH70も参加していたようです。



どこに動力があるのかという形態ですが、ちゃんと自走します。
砲身が後ろを向いているので写真では分かりにくいですが、
自走する際にはこの隊員の座っているところが前になります。

ところで、このFH70の名称ですが、

Field Howitzer 1970s

の略なんですね。
このHowitzerを息子共々「ハウイッツァー」と読んでいたわけですが、
(っていうか、英語読みだとこうですよね?)なんのことはない「ハウザー」
であることを知ったあの夏から、もう4年経ちました。

早いものです。

・・・と遠い目をしつつ、次回に続く。

 

平成27年度富士総合火力演習 ブルドーザーと武器輸出三原則

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富士総合火力演習予行、まだ「予行の予行」が続いています。




ところで、この日配られたパンフレットには、戦車教導隊、教育支援施設隊、
特科施設隊、普通科教導連帯などの各隊員が写真付きで紹介されていましたが、
なぜか「施設科」がないのよ。
富士学校音楽隊もちゃんと写真を載せているのに。

なぜですか?(詰問口調)

当ブログでは、旧軍の工兵である施設科について、ことに力を入れて紹介し、
施設科なくして自衛隊の災害派遣はありえないというこの事実、
ある意味陸自の中でもっとも現実に「稼働」している兵科(っていうのかな)
を国民に知らしめるべきだと思っておりますが、



たとえば99式の演習が終了するまで最前列で撮りまくっていた
例の「白レンズの君」も、



施設科がフィールドを整備しだすと、レンズにカバーを掛けて休憩。
まあ、「火力演習」を撮りに来たわけですからそれも当然かもしれませんが。

 

ええいこの装備をなんと心得る。
施設科の所有するマインスイーパーこと、92式地雷原処理車でい!

兵站を確保するという存在意義を持つ施設科は、第一線に立って戦闘することは
めったにありませんが、敵陣前における地雷原の強行処理のような、
極めて危険な任務を遂行することもあり、必要とあらば近接戦闘も行います。

このマインスイーパーの地雷原処理は、毎年富士山を描く演習にも劣らないくらい
会場を沸かせているというのに・・・・。

陸自広報の中の人、万が一これを見ていたら、来年からは
パンフでの施設科の紹介くらいちゃんとしてあげてください。

工兵を軽んじて兵站の確保ができなかったことが、
大東亜戦争中における南方での敗北の一因であることを、
我々は反省とともに決して忘れてはいけません。←飛躍しすぎ?

それはともかく、地雷原処理車の実演、今年こそちゃんと写真に撮りたいなあ・・。
(さすがにリハーサルではやりませんでした)



さて、当ブログでは警備にも注目してみるのだった(笑)
比較的前方に座っている人はご存知だと思うのですが、
通路の最前列には、一人、警備が客席側に向かって座っています。
小さなパイプ椅子に座っているのですが、立っていると見学の邪魔だからですね。

その隊員が交代をしているところに遭遇しました。
まず、交代にやってきた隊員が正面に立ちます。



きっちりとした動きで場所を交代。

二人が背負っている釣竿のようなものは、昔のトランシーバーで、
先に小さなマイクが仕込んであるものだと推察します。
そのままだとぴーんと跳ねてしまうのですが、ワイヤーで固定して
声を集音する仕組みじゃないかな。
なるほど、これだとハンズフリーで通信することが可能。 

って、違っていたらごめんなさい。



「行くのか、どうしても」

「ああ・・・」

「地獄で会おうぜ」

って感じ?



交代位置についてからまた対面。
いちいち儀式みたいなことをせねばならんとは大変だのう。



「1時方向の迷彩柄てるてる坊主がさっきから我々の写真を撮っております。
他は異常なし!」

「了解」



(無線のスイッチを入れて)

「本部こちら警備B地点交代完了」(想像です)

ってなことが目の前で行われるわけですから、外の人にはこたえられませんわ。



予行演習の富士山も無事富士山の形に。
やっぱり破裂する瞬間を撮るのはわたしにはまだむり(笑)



演習の予行は、本番の前段演習の順番通りに行われていたようです。
近距離火力に続いて、ヘリ火力。

アパッチロングボウことAH-64Dが登場し、リハを行います。
アパッチは「戦闘ヘリ」とカテゴライズされています。

そのアパッチの右肩がまず赤く点灯しました。
これ、多分この写真でいうところのパイロットランプだと思うのですが・・。

 

その直後、下方に向かっておなじみの煙が噴き出します。
写真で初めてわかりましたが薬莢が落ちていますね。



先ほどの同時弾着の煙がまだ残っています。



♪どんどんでてこいはたらくくるま~(中略)
でこぼこじめんをたいらにブルドーザー(ブルドーザー)
おおきないしでもらくらくショベルカー (ショベルカー)
いろんなくるまがあるんだな いろんなおしごとあるんだな



ってことで、(笑)本番までのフィールド整備をしております。

 

ところで、元防衛大臣の小野寺五典氏がおっしゃっていたことですが、
ハイチで起きたハリケーン災害の時、国連の要請を受けて、自衛隊が行った支援というのは、
ブルドーザーを持って行って被害を受けたところを修復するというものでした。

自衛隊のブルドーザというのは普通の「はたらくくるま」と同じブルドーザです。
しかし、施設科が先ほども書いたように「いざとなれば近接戦闘も行う」
という関係上、銃を持っていて、それを立てかける棚が付いているわけです。

たとえ銃は持って行かずとも、そういう仕様だとブルドーザが「武器」と見なされるのですね。

そうなるとわざわざ官房長官談話を出して、

「このブルドーザーは武器輸出三原則の原則外でいいんですよ」

として持って行かなくてはいけませんでした。
中国での遺棄化学兵器の処理に必要な防護服なんかも「武器輸出」にあたりました。

これくらいは瑣末な弊害で、このしばりが影響して、日本はこれまで
新しい装備を開発するのに、国際間の共同生産に参画できなかったのです。
アメリカとはできるのですが、多国間との共同生産となると、
武器輸出の原則に抵触してしまっていたからなんですね。

そこで大変損をしたと言われたのは、次期主力戦闘機のF-35の場合です。

この開発に日本は加わっていません。
生産に加わっていないけれども、いろいろ考えて次期戦闘機にしたのですが、
そうなって改めてスペックを見ると、

日本が開発した様々な技術がいつの間にかその中に活かされていて

大変悔しい思いをすることになったのだそうです。

たとえば複合材の技術。
これは日本がF-2戦闘機の時に開発した技術で、今ではこれが
ボーイング787に導入されているというのは有名ですが、
これがいつの間にかF-35に導入されていたそうです。

あるいはステルス性を持つ塗料の技術も日本が開発したのですが、
これもちゃっかりF-35が取り入れているんだそうです。
もちろんお断りナシで。

日本は「武器輸出三原則」に縛られて国際的な共同生産に加われないのに、
気づいたら他の国が日本の技術を取り込んでしまっていたりしたんですね。


近年政府は「防衛移転の新しい原則」を見直ししました。
これによってどうなっていくかといいますと・・・。

F-35を日本が買うと大変高くなるのですが、ライセンス生産の際、
部分は基本的に他の国で作ったものを持ってきて組み立て、
最終的には数十機という数を揃えることになります。

本来、もし日本が最初からこの計画に加わっていれば、
その部品の中には日本の技術も使われているわけですから、
世界で数千機と予想されるF-35のこれからの需要のうち、
一定の割合を日本企業が作ることができるわけです。

そうなると、将来的には日本のF-35もコストダウンが図れるのです。

日本独自のものしか作れないとなると大変高価につきますが、
世界中で使われているものの部分を日本が請け負っていた場合、
日本の装備として取得する場合大変おやすくなるというのです。

小野寺氏が防衛大臣のときにこういった原則の改正が行われたので、
これからは流れも変わっていくだろうということでした。


ブルドーザの話からすっかり脱線してしまいましたが、安倍政権になって
国家安全保障会議という機関ができ、こういうことも含めていい方向に
動いていっているというのが小野寺氏の感じるところだそうです。



わたしがそんなことを考えている間も(←嘘)、会場では
本番の為の整備が着々と行われております。
人員輸送用のトラックが停まったと思ったら、



標的を「本番用」に交換する作業です。



肉眼ではどんなものが置かれているかわかりませんでしたが、
写真に撮ってアップしてみると詳細が判明。
これは硬化ゴムかなんかの素材でしょうね。



車両から下ろした標的をゴムの前にセットしていきます。



真ん中に十字のついた標的。
写真を見て、肉眼では白いラインに見えていたものが、
なんと土嚢を並べたものであることに初めて気が付きました。



こちらでは標的の黄色いバルーンをセットしています。



なんと、セットした後の標的の表面を布でぬぐって汚れを取っております。
さすがは自衛隊。



というわけで、普段表舞台に出ることのない施設科の隊員の
「はたらくおじさん」ぶりをどうぞ。



整備と射撃砲撃の標的の用意が全て整いました。
いよいよ本番が始まります。


続く。






平成27年度富士総合火力演習 特科火力と迫撃砲

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昨日進水式の行われたDDH、やっぱり「かが」でしたねー。
わたしは内部情報を少し前に聞いていたので、さりげなーく最初は

「きましたね、と思わず厳かにつぶやいてしまった名前」

であるとほのめかし、二度目は7月25日のイントレピッド見学のエントリ中、
取ってつけたように「加賀」と無理やり入れて、
アリバイを作っておいたのですが、これに気付いた人はおられましたか?

まあ、こんなことで得意になってみても、所詮二箇所からの又聞きだったんですけどね(笑)




さて、平成27年度総火演、予行演習の本番についてです。
その前に、冒頭の写真、これ、ちゃんと撮れてるでしょう?
視界が白く煙っていて鮮明ではなかったので少し加工していますが、
一瞬にして消えてしまい、全く同時に発光するわけでもない曳火射撃を
ほとんど全部捉えることができたので嬉しいですー!
これも種明かしすれば来そうだなと思ったので連写しまくっただけなんですけどね(笑)

曳火射撃というのは砲弾が空中で炸裂し、主に歩兵に対して
ダメージを与えるための砲撃形式をいいます。

普通の砲撃と違うのは、「空中で」というところで、
地面に激突した衝撃で爆発する一般の砲撃だと、目標に直接
損害を与えること、特に塹壕の人員を攻撃することができません。

というようなことを解説しだすと、軍隊というのは左翼ではありませんが、
人を殺傷する訓練をするのが存在意義なんだとあらためて思います。

こういう力を見せつけて抑止力とせねばいけないというのは、
確かに不幸ではあるけどそれが国際社会の現実であり、

「こちらが武力を放棄すれば向こうからも攻撃してこない」

と、なんの根拠もなく信じている反日左翼の方々は、

「 流血を厭うものはこれを厭わない者によって必ず征服される」

という著書「戦争論」におけるクラウゼヴィッツの言葉が、
過去の「歴史」から導き出した結論であることを、まず知るべきだと思います。



と初っ端からついついヒートアップしてしまいました(笑)
まるで質疑が始まるなり興奮して机をバンバン叩きながら

「日本国憲法下で集団的自衛権は違憲ですね!!」

と喧嘩腰で質問し、安倍総理に

「もう何回も何回も何回も何回もお答えしていますが」

とからかわれた福島瑞穂みたい?
いやわたくしは彼女と同じ側では断じてありませんが。



さて、総合火力演習は10時から12時までの2時間にわたって行われます。
前段演習は約一時間、陸自の主要装備品を実演しながら紹介していきます。



前段演習が10:00~11:05となっているのは、最初の5分を
会場の説明に費やするからではないかと思われます。

いちいちこうやって煙を出して、

「黄色い煙の出ているのは二段山と三段山です。
特科火砲の目標地域で、約3000メートルの距離です」

などということを説明してくれるわけです。
ちなみに手前の黒パネルの「黒の台」は機関砲などの目標で600~800m、
その向こうは「2の台」「3の台」などといい、戦車砲などの目標地域で、
だいたい1000mから1800mの距離があります。



さて、装備紹介は自走榴弾砲からです。

M110 203mm自走榴弾砲

防衛省の命名は「サンダーボルト」ですが、現場では「自走ニイマル」
とか「20りゅう」などと呼ばれています。



本番ではちゃんと隊員は迷彩メイクしていますね。



75式自走155mm榴弾砲



96式装輪装甲車の向こうにいるのはFH70。
これら自走砲三兄弟(だよね)は遠・中・近でいうところの遠距離火力であり、
そのなかの特科火力(artillery fire)というカテゴリです。

特科火砲は、火砲10門の大隊、5門の中隊単位で、三段山(3キロ先)に射撃を行います。
射撃の後、

「ダンチャーク、いまっ!」

の声で目標への弾着がわかります。
しかし3キロ先の目標に弾着するのってすごく時間がかかるんですよね。
人間が歩いたら1時間かかる距離だからもっともかもしれませんが。



これは、火砲12門によって8秒前から砲弾が飛んでいく弾道にそって射撃し、
一秒間隔で砲弾を破裂させることにより弾道を確認できる射撃です。

驚いたことに、砲撃音は2回しか聞こえないのに、弾薬は
見事に一つづつ順番に空中で線を描いて炸裂します。



そしてこれ。
同時弾着といって、広場と後方陣地の合計21門の火砲が、
時間をずらして撃って空中で同時に炸裂させるという技。

異なる火砲、異なる射距離で同時に弾着させるのは100分の1単位の精度を要します。
一度聞いてみたかったんですが、自衛隊以外でこんなことやっている他国軍ってあるんですか?



そして今年の曳火射撃による富士山である。
ええ、これも紛れもなくわたしが撮ったものでございますとも。
が、雨のため望遠レンズのまま撮り続けた関係上、富士山の左端が欠けてしまいました。
まあ、撮れただけ去年よりは進歩したってことでよしとしよう。

しかし、今年の富士山は去年より心なしか形が悪いような気が・・・・。
 


リハーサルでも注目した迫撃砲の射撃。
迫撃砲、そして誘導弾は中距離火力に分けられます。 
砲身の先の人は何をしているかというと、筒の先につけられたキャップを
ぐるぐると回して外しています。 



右から二番目の人の足元にあるパイプは何でしょうか。

120ミリ迫撃砲は分隊長が指揮をとり、砲手、副砲手、操縦手、弾薬手2名の
計6名で操作を行います。



81ミリ迫撃砲はトレーラーに積載する時に3つの部分に分けられるそうです。
砲手、副砲手、弾薬手の合計4名が人チームで射撃を行います。

このとき迫撃砲部隊が何をしていたかというと、120ミリと81ミリで、
一つの目標に同時弾着させるというのを三回繰り返していました。



近距離・普通科火力の軽走行気動車の上部ハッチからは
01式軽対戦車誘導弾が発射されます。
無反動砲なんですが、そうはいわないみたいですね。

01というのは10の「ヒトマル」の反対で「マルヒト」と読むそうで、
現場でも公式名称の「ラット」より「マルヒト」の方が通りがいいとか。



射撃の瞬間、飛んでいくミサイルを捉えることができました。
大きさは直径140ミリ、全長全長970ミリだということです。



去年はこの偽装スーツ、ギリースーツを暑いのに着込んだ隊員が
前に立ってその姿を見せてくれましたが、今年は雨のせいかなし。
というか、偽装スーツの人は結局出場?しなかったってことでしょうか。
やっぱり雨が降っているのにあれを着て地面に転がると後で大変だからねえ。



陸自にはこんな中隊もございます。
第301映像写真中隊。
市ヶ谷にあり、自衛隊において最大且つ唯一の映像写真専門部隊です。

中隊長は三等陸佐であり、総火演で仕事をしているのは写真小隊。
総火演の29倍の倍率に涙を飲んで、当日ライブ映像をご覧になっていた方も
中にはおられるかと思いますが、そのライブ配信用映像の撮影を担当する小隊です。

カメラマン集団ですが、こんな格好をして「中隊長」とか「小隊」とか言っていると、
必要以上にかっこよすなあ。
ちなみにカメラの使用状況はキヤノンがやや多いかな、という感じでした。
海自はNikonで陸自はCanon、とか決めているわけではないんですね。

この日は大変な雨。
写真中隊の雨よけカバーは大変参考になりました。
なるほど、雨の日の撮影はこうすればとりあえずカメラは守れるのか。

まあ、たいていの自衛隊イベントで、観客は三脚使えないんですけどね。


続く。






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