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教育航空隊訪問記~基地全景

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関東近郊にある海上自衛隊の教育航空隊訪問記、続きです。

P-3Cの内部見学、消防車で放水体験、そして管制室見学。
いずれも、サマーフェスタの基地祭でもちょっとやそっとでは体験できない、
ちょっとだけディープな部分の見学をさせていただくという、貴重な体験でした。
それというのも、この訪問が基地司令の海将のご招待によるものであったからです。

自衛隊というところは基本的に来るものは拒まずという機関です。
その活動について国民に対し、広く理解を深めてもらうということを任務の一つにしているので、
基地祭や様々なイベント、海自なら艦艇公開、体験航海などで、せっせと内部を公開します。

しかし、誰でもかれでも飛行機のコクピットに乗せるわけにもいきませんし、
機密の多い航空管制室の中も、身元がはっきりしている人でないと入れません。

これは自衛隊が国防組織であるからには当然の対応で、どこからどこまでを
身分のはっきりした人に見せ、どこからどこまでは一般公開でもOK、ということは
自衛隊の内規できっちりと決まっているのではないかとも思われました。


潜水艦の追っかけをしている人がおそらく写真をいろいろとあげすぎて、
自衛隊から指導が入ったというお話もありましたが、それは潜水艦が特別だからで、
本当の軍機は、招待されたイベントや体験公開の参加者の目に触れるようなところにはない、
ということを現役の自衛官に確かめておきました(笑)

ところで冒頭の写真は、当基地に展示保存してあるかつての使用機です。

映画ではよく零戦の役をすることで有名な(似てませんけどね) 、

T-6 テキサン ノースアメリカン。

現地の説明にはSNJとなっていますが、これはT-6の海軍型です。
日本は航空自衛隊と海上自衛隊にT-6を導入していますが、
空自にはT-6Gが167機、空自には海軍型のSNJが48機配備されました。

そこでん?と思ってしまったのですが、SNJ海軍型というのは、
空軍型と何が違うかというと、おそらくですけど着艦フックがつけられるかどうか?
着艦フックなど金輪際必要にならない海上自衛隊に、どうしてノースアメリカンは
わざわざ空自と違う海軍型テキサンを売ったかってことです。

空自も海自も中等練習機としてしかこの機体を必要としていないので、
別に空自と海自で導入飛行機の機種を変える必要などなかったはずなんですけどねえ・・。




Bー65練習機。

BはボーイングではなくビーチクラフトのBですね。



SNB型練習機。

計器飛行や航法の練習の段階で使われたと言いますから、
現在徳島の基地で使用されているTC-90の前身ということでしょうか。

愛称は「べにばと」だったそうですが、きっと誰も使ってなかったと思う(笑)



V-107 バートル。

防衛省は「しらさぎ」と名前をつけたそうですが、案の定だれもそう呼ばず
「バートル」と呼んでいたそうです。

海自はこれを機雷掃海ヘリとして運用していましたが、空自は救難ヘリ、
陸自は多用途で運用しており、日航機墜落の時には救難に出動しました。




この一帯は、今時都会では見ることのない田園地帯のような草地が残っています。
航空機の展示してある場所の向こうにはこんな風景が・・・。
黄色い花がまるでマネの印象画のように広がり、思わずシャッターを切りました。



さて、管制室の見学を終えた我々は、階段で一段降りて、展望台へ。
ここは管制室と違って、サマーフェスタなどでも入っていい(かもしれない)場所です。

案内してくださった広報室長の2尉は、

「わたしは江田島に行った時、(おじさんだったので)
若い人と一緒に訓練するのが大変でした」

とおっしゃっていました。
これは部内選抜のB幹部であったという意味ですかね。



その2尉が、

「フォークのようなエプロンの向こうを見てください。
あそこで飛行機の洗浄を行います」

とおっしゃる方向を見ると、 




水を噴射するノズルらしいものが設置された部分があります。

「海の上を航行してきたP-3Cをあそこで洗います」

「水洗いをするのは海面近くを飛ぶUS-2くらいのものだと思っていましたが」

「P-3Cも行います。鉄の塊が海の上を飛ぶので錆びてしまいますから」

「もちろんその後自然乾燥なんかさせませんよね?」

「手で拭きます」

「機体の上も?」

「はい、手が届かなくて大変なんですよ」

本当か。




基地司令の海将は現役のパイロットですが、過去一度だけ、ひやりとした経験をお持ちだそうです。
その詳細については、もしかしたら公開するべきではないかもしれないので書きませんが、
そんなときにも機長はまず機体をなんとか無事に着陸することを考えるのだそうで、
クルーは脱出することより機体にとどまることを選ぶかもしれないとおっしゃっていました。

機内の割と目立つところにパラシュートが装備されており、その数がどう見ても少なかったので

「ちゃんと人数分あるんですよね?」

と質問して笑われたわたしですが、実際にパラシュートを使用するという決断は
最悪の場合にも選択される可能性が低い、というP-3Cの「思考形態」のせいなのかどうか、
訓練生の降下訓練は行われないのだそうです。

それって怖くないか?


ちなみに、これも見学の時に聞いたのですが、P-3Cの事故で有名なものは、
硫黄島に着陸した機のパイロットが、脚が出ないまま着陸してしまったというものです。
平成4(1992)年3月31日、車輪の出し忘れ警報装置をオフにしていたときに
運悪く(運じゃないか)車輪を出し忘れていたのにもかかわらず、そのまま着陸してしまいました。

乗員は幸い全員無事だったそうですが、着地の瞬間、さぞかしみんな心臓が縮んだでしょう。
胴体着陸の凄まじい衝撃と機体が地面をこする音の後、摩擦で機体に火がついたんですから。

おそらく乗員は翼の上に出ることができるハッチから脱出したのだと思われますが、
その後翼から地面まで飛び降りたんでしょうか。(結構高かったような気がしますが)

とにかくこの事故で100億円の機体・装備がスクラップになってしまったという話でした。

「パイロットはその後・・・?」

「退職しました」


この事故も、慣れから来るうっかりミスから来るものだったので、
情状酌量の余地もなかったということでしょうか。



展望台からの眺め。
広い基地の中には自動車教習所が見えます。
自動車免許をお給料をいただきながら取れる自衛官はお得かもしれない。

人生の必要悪みたいなものからねえ、自動車学校に通う日々とそのためのお金は。

ちなみに、自衛隊で車の教習することを「教練」というそうです。



こちらも見渡す限り自衛隊官舎です。
たしかここに見えている建物のどれかが女子隊員棟だったと思う。
ちょうどこのとき12時少し前だったのですが、青い作業服の一団が
訓練を終えて隊舎に帰っていくところが写っています。

なお、写真に写っていませんが、今体育館を建て替えているそうです。



これは展望台に掲示されていた写真。
左の奥の地平線にうす~く見えているのが筑波山で、右側が取手市街となります。

「筑波山ヨーソロ~」

といって飛んだのは霞ヶ浦航空隊ですが、P-3Cでもヨーソロ言うんでしょうか。




平成26年3月の大雪の日、当基地はこんなことになっとりました(笑)
エプロンには基地所有の航空機が全機綺麗に並んでおります。

除雪車らしき車が出されたり、飛行作業のない隊員総出で雪かきしたり、
なんか大変だったみたいですけど、作業は結構楽しかったんじゃないかしら。(他人事)
それにしても、一面雪で覆われた滑走路とエプロン、さぞかし綺麗だっただろうな。



続く。



 


ノーウォークの「ホテル・ゼロ」〜言った者勝ちの国

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息子を学校に落としたあと、わたしたち夫婦は、ニューヘイブンから
車で約1時間ニューヨークのある南に走ったところにある、ノーウォークに到着しました。
ニューヘイブンがボストン(ウェストボロー)から2時間ですから、空港からだと
だいたい4時間弱車で行ったところということになりましょうか。

ここに5日間の宿を取ることに決めた理由は、ニューヘイブンとニューヨークから
どちらも1時間とちょうど真ん中にあったからで、せっかくなので滞在中、
ニューヨークのイントレピッド博物館(空母イントレピッドを展示している)に
ぜひ取材のため(って感じですよね最近)行ってみたかったからです。

息子を見送ったあと、わたしたちはインターステート95を南下し、
ノーウォーク(Norwalk)に到着しました。



高速から降りると、東部には全くよく見るタイプの郊外型の街並みが続きます。
信号待ちの時にふと右側の窓から上を見ると、ヘアサロンの2階の窓に猫発見。



鼻筋の通った猫さんです(笑)

この猫のヘアサロンから1分も行かないところに、予約したホテル、
「ゼロ・ディグリーズ」、通称「ゼロ」がありました。
レジデンスイン、ヒルトンハウス、コートヤードマリオットなど、全国展開の
だいたいどんな内装かわかってしまうホテルはいくらでもありましたが、
当ホテルはいわゆる「デザイナーズホテル」であるらしいことで、
せっかく久しぶりで夫婦での滞在をするのだからと、思い切って選んだのでした。



ホテルのロビーもこのようにモダンなスタイルです。
期待できそうでしょ?



ロビーで使用できるパソコンはもちろん?アップルの最新型。



時計を兼ねたコーナーの装飾。
全くおなじものが、10メートル向こうにあるのが謎。



ルーフトップに上がってみると、このようなくつろぎコーナーが併設されていました。
ちなみに巨大なチェスの駒は、重くて持つだけで大変です。
このほか、卓球台とビリヤード台などもありましたが、雪深いこの地方、
冬場はここはどうなっているのか気になります。



さて、最初に通された部屋は、HP通りのおしゃれな内装でなかなかです。
ただし、駐車場に面していて景色ははっきり言って最低です。

「5日も泊まるんだから部屋変えてもらおうか」

TOが言いました。
もしわたし一人なら決してこういうときに交渉しません。
外の景色が多少悪かったとしても一人なら別に平気だし、それより何より、
フロントに行って交渉して荷物を運び直して、という面倒なことをするくらいなら、
我慢した方がずっと気が楽だという性格によるものです。

しかし、連れ合いはこういうとき必ず粘り強く交渉するのが趣味(?)で、
過去、何回もフロント係と、時として喧嘩寸前となっても自分の要求を伝えてきた百戦錬磨。
我が夫ながらその熱意には呆れることすらあるのですが、彼によると
これもまたゲームのような感覚だそうで・・・・。

部屋の電話を取るなり彼は眺めのいい部屋が空いていたら変えて欲しいと頼み、
交換できる部屋のキイを取りにフロントに行きました。



そして変えてもらった部屋。
おお、少なくとも窓からは緑が見えておる。



今度の部屋は眺めはこんな感じでまあまあです。

「ここでいいんじゃない?」

ということで、荷物を運び込み、運んできたカートをTOが返しに行っている間。



洗面所をチェックしたわたしは思わず絶句しました。
(一人なのでずっと黙っていましたが心情的表現)

バスタブがないのです。

アメリカのホテルには時々あるのですが、アメリカ人というのは
お風呂に浸からなくても一向に平気な人種で、
バスとはつまりシャワーを浴びることだったりするんですね。
わたしの知り合いでアイルランド系アメリカ人の女性と結婚した人は、

「僕はお風呂に首まで浸かりたいと思うのだけど、彼女はその感覚がわからないらしい」

と実に悲しそうに言っていたことがあります。
日本人の中でも特に風呂好きのわたしとTOが、5泊の宿泊期間
全くお風呂に浸かることなく生きていけるとでも?

「シャワーしかないんだけど」

「・・・・・」

運び込んだ荷物をそのままに、即座にもう一度フロントに向かう彼(笑)
しばらく待っていると、フロントのお姉さんと一緒に帰ってきました。

「今度こそいい部屋に変えてもらったから。フロントの人が荷物を運ぶのを手伝ってくれるって」

どうして今回はフロントの人が来たのだろうと少し不思議ではありましたが、
ともかく彼女の案内で「三度目の正直」の部屋を見たわたしたちは思わず嘆声をあげました。



なんと、いきなりコーナースイートに昇進です。



バスタブはもちろん、シャワーブースと別に存在することを確かめます。



ベッドはキングでしたが、実際に寝てみたところマットレスが大変よくて、
日本のホテルのように片側で寝返りを打たれたら起きてしまうというようなことはありませんでした。

アメリカの夫婦は一つのベッドで寝るのが普通なので、マットレスの方も
そのニーズに応じて機能が発達しているのかと思われました。



広い部屋にはこんなおっしゃれーなワードローブがあり、デザインが装飾にもなっています。



扉を全部開けたところ。
下には冷蔵庫、上には金庫が収納されいています。



そして問題の景色は・・・・・!?



ホテルの前には川が流れ、川沿いに電車の線路が走っているのですが、
さっの部屋は線路だけが見えており、この部屋は川の滝の部分の正面に作られていました。

「すごーい!これコーナースイートでしょ」

「言ってみるもんだねえ」

「あきらめたらそこで終わりだったのね」

後で調べたらこのホテルで一番いい「キングスイート」であったことがわかりました。
値段はわかりませんでしたが、少なくともこんな部屋に5泊していたら、
大変な出費となっていたことだけは確かです。



このホテルのもう一つの特色は、ちゃんとしたレストランが併設されていること。
アメリカのホテルで実は大変これは珍しいことなのです。
もちろんレストランがあるホテルはいくつもありますが、大抵は
宿泊者の便宜のためだけにあるようなもので、味は二の次三の次なのが普通ですが、
ここはちゃんとしたレストランで、ディナーを食べるためによそから人がやってくるレベルです。

イタリアンですが、ローカルグリーンをふんだんに使ったサラダなどもおすすめだそうです。



グリーンピースの冷たいスープには、たっぷりハーブが浮かせてありました。



わたしの頼んだスキャロップのサラダ。



TOは珍しくビーフステーキを頼んでみました。
ステーキなのにハンバーガーのように出てくるのがアメリカ風。



二人で一つデザートを頼んでみました。
イチゴとベリーがメインで、小さなパンナコッタが付いています。
ただ、これは失敗でした。
なぜかこのパンナコッタ、牛乳ではなくヤギのミルクを使用していて、
ヤギや羊のミルクが何より嫌いなわたしは一口も食べられませんでした。 

というわけで、食住について大変ラッキーなホテル滞在となったわけですが、
あらためてこの国では何も言わないことには始まらないというか、
黙っていても何も手に入らないというか・・、
つまり、言ったもの勝ちの国であることを再認識しました。
どうりで押しが強くて主張する声が大きな人ばかりの国になるわけだ。 

よその国からやってきて無茶苦茶なことを言っている外国人を、
我々はつい「みっともない」という目で見てしまうものですが、実際にアメリカのように
声が大きいと大きいなりの見返りがなまじある国がある限り、世界各地において
ああいう民族運動が止むこともないのだろうなと、ふと思いました。

まあ、日本人がそういうとき世界的基準でおとなしすぎるだけで、
ホテルの部屋を変えてもらうくらいはワールドスタンダードの範疇かもしれませんが。 



おまけ*今回初めて見てウケた便利グッズ。
下のスロットにベーグルを入れて、上の部分をがしゃんとやると、
ベーグルが綺麗に二つに切れる、

「ベーグル・ギロチン」。

いかにもアメリカ人の考えそうなツール。というかこれ欲しい(笑)

 

独立記念日の花火と退役軍人の心的外傷

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こちらではインディペンデンス・デイというより「ジュライ・フォース」という
呼び方をするのが一般的なアメリカ独立記念日。
毎年この時期にはわたしはアメリカの東部にいるのですが、キャンプが休みなので
大抵はホテルで1日ゴロゴロして、時々テレビをつけて恒例の
「ホットドッグ大食い選手権」を見るという程度の過ごし方しかしたことがありません。

しかし、今回は7月5日にアメリカを出国することになったので、ジュライフォースの日、
ローガン空港の近くのホテルに移動しながら、おそらく「初めて」この日を肌で感じました。



ノーウォークのおされホテル「ゼロ」をチェックアウトした後、
ニューヘイブン大学(仮名)に立ち寄り、構内の美術館を二つはしごして、
息子を呼び出して様子を聞きました。

洗濯の順番がなかなか回ってこないことと、朝が早いこと以外は
困った様子もなく、楽しくやっているようでした。
サマースクールのイベントは、いくつかの選択肢から選ぶことができるのですが、
息子は「ニューヨークでピザを食べるツァー」「タングルウッド音楽祭鑑賞」
を選んだと言っていました。
ミュージカルを見るツァーもあって、演目は「レ・ミゼラブル」だったそうです。

ニューヘイブンから以前の「ナワバリ」であるウェストボローに帰ってきて、
ここでいつものホテルに一泊だけしました。
1年ぶりに訪れたら、食器、コーヒーメーカーからエキストラベッドのリネン類まで、
皆フロントに言って貸し出してもらうシステムになっていたのでびっくり。

中国人に盗られたから?



次の日は、勝手知ったる地域で台所小物やTシャツなどの服を買い、
いつものホールフーズでランチを食べて名残を惜しみました。(わたしはまたすぐ来ますが)

 

今年もホールフーズのケーキコーナーには、ジュライフォースのための
星条旗カラーのケーキが多数。
だから青とか赤のクリームは食欲をそそらないんだよ!



といくら日本人が叫んでも、アメリカ人がこれを止める気配は全くありません。
むしろホールフーズだから「この程度」でおさまっているのであって、巷には
ケーキ全面に赤や青はもちろん蛍光色まで駆使して毒々しい絵が描かれたケーキがあふれます。



移動してホテルに一旦荷物を預け、ニューベリーストリートに行くことにしました。
前を走っていた車のマツダマークがミミズクさんに・・・・。



朝から昼にかけて雨が降ったりしたので心配したのですが(実はあまりしてませんが)
この時間にはすっかり晴れ、しかも湿気がなくなって綺麗な青空が広がりました。

ニューベリーストリート沿いの教会、 Church of the Covenantは1865年の建立です。



ここニューベリーストリートではすべてのお店がセンスを競っています。
ものすごく高級感のあるラルフ・ローレン。



隣にはニューイングランド歴史協会があります。

 

ニューイングランドだけでなく、アフリカンアメリカンの歴史協会も併設しています。
ここは、希望者に「先祖調べ」をしてくれるサービス(有料)もしています。
テレビで宣伝もしていますし、俳優や有名人のご先祖をチェイスして、
本人も知らなかった家のドラマに感極まって泣いたり、という番組もあります。
歴史の短い国ですが、先祖がいつどこから来たかも含め、ルーツにこだわる人も多いのかもしれません。



スペインのキャンパーのウィンドウは、ニューイングランド、独立記念日、
ときてなぜかロブスターをフィーチャーしております(笑)

バルタン星人かとおもた。



中国語と韓国語がない各国語併記って、ここだけの話ですがなんて清々しいんでしょう。



日が暮れてきました。



アートショップのウィンドウを見て歩くだけでも美術館気分です。
おそらくアフリカ系のアーティストの作品だと思われ。



黒猫が青く描かれているのは萩原朔太郎の影響です(嘘)



ホテルに帰る前に軽く夕食を食べておこうということになり、
角にオープンテーブルを出しているインチキずし(多分)、
「スナッピースシ」に怖いもの見たさで入ってみました。
ニューヨークで寿司田のお高いお寿司を食べた後、ここに入ることで、
今年もアメリカ寿司事情についてレポートする用意が整いました。

右手を歩いているカップルは、お洋服のトーンを合わせています。



アメリカ人は熟年夫婦でも愛情表現を惜しみませんが、さすがに
手をつないで通りを歩くカップルは少数です。
ちなみに彼らはかなりの年の差カップルでした。



スナッピー・スシの向かいは、前にも写真をあげたことのある
世界で一番格調高い建物にあるコールハーンです。
アパートを丸ごと買い取って全フロア売り場にしています。
コールハーンはアメリカでもとくに高級ブランドという位置付けではないのですが、
こんなところに入っていると敷居が高く見えてわたしは入ったことがありません(笑)



向こうからおまわりさんの自転車警備隊の軍団が通り過ぎました。
おそらくこの数ブロック向こうのチャールズリバー沿いで
大々的に行われる独立記念日の花火大会の警備に行くものと思われます。



スバッピースシのテーブルの横の植え込みには黄色い山吹のような花が植わっていました。



通りに面したテーブルに座っていると、行き交う人々を観察したり、
大音響でカーステレオを鳴らしながら通り過ぎる車(必ず若いアフリカ系男が乗ってる)
や、上空の飛行体を眺めたりという楽しみがあります。

食事の間ずっと上空をぐるぐると回っていたヘリコプターがありました。



花火の警戒のために出動した州警察のヘリです。



かと思えばこんなアド・プレーンも。
映画「ゲット・スマート」でスティーブ・カレルが飛行機と車のチェイスを行うシーンあって、
その飛行機が「スイサイド・ホットライン」(自殺防止ホットライン)というバナーを
引っ張っていたのが我が家的には大受けでしたが、これは一体?



「DIGってなに?」

「まさか、これも自殺の隠語とか」

「花火大会の客にそんなこと呼びかけるってことはなくない?」

帰って調べてみたら、DIGには深い意味はなく文字通り「掘る」ことで、
庭の芝生でもなんでも、土中にはいろんな管(電気やガスとか)が埋まってるので、
当社に掘る前に電話したら何があるかちゃんと調べてあげますよ、という宣伝でした。 



ふわふわと飛行船も飛んでいます。
ジンのアドバルーンですが、この「眼」のせいで大変なアイキャッチとなり、
皆が立ち止まって写真をとっていました。
真っ青な空とレンガの建物との取り合わせはまるでマグリットの世界です。




わたしは豆腐サラダ、TOは野菜ズシと軽く食事を済ませ、駐車場まで
のんびりと歩いて戻りました。



信号待ちの人々は皆チャールズリバーの河原を目指しています。
バドワイザーのビールのケースや、クーラーボックス、シートを持った人たちも。



赤白青の「星条旗ファッション」で来ている人も多数。
この女の子たちは国旗をマントにしてしまいました。



ホテルに帰ってテレビをつけると、花火大会の中継が始まっていました。
挨拶やめんどくさいセレモニーなど一切なく(あったかもしれませんが)
ただ、音楽とともに打ち上げられる花火を楽しみましょうという企画。
メインスポンサーはアメリカのデパート、メイシーズでお届けしています。



陸海空海兵隊、その他軍組織の制服を着た軍人たちが旗をずっと掲げていました。



今年の演奏はアメリカ空軍軍楽隊。
どうも毎年持ち回りで行われるようです。
軍楽隊の演奏するのは国歌的なものをアレンジした曲や、マーチなど。
歌手もカントリー、ポップスと何人かが出て交互に演奏を行います。

チャイコフスキーの序曲「1812年」は、おそらく日中に行われたのでしょう。



軍楽隊の演奏に合わせて、チャールズリバーに浮かんだ4隻の船から、
全くシンクロした花火が惜しみなく上がります。



両岸には人が詰めかけているので、川の上に浮かべた船から花火を打ち上げるのは
大変理にかなっているというか、たくさんの人が鑑賞することができます。
ただ、秋田大曲の花火大会というおそらく世界一の花火大会を見慣れた私たちには
東海岸一規模の大きい有名な花火大会とはいえ、この程度?と思ってしまったのも事実です。

実際にその場にいたら盛大でさぞ盛り上がるのだとは思うのですが。

それはそうと、7月4日の朝のニュースで、こんなのを見てしまいました。
実際に戦闘を体験した退役軍人が、未だにPTSDに悩まされていて、
花火の破裂音でそれが再発し、トラウマを深くするため、近所の人たちに
花火を遠慮してもらいたい、とお願いする家族が現れた模様。



これは、右側の男性が花火の音で思い出す戦闘の時の銃声、爆撃音が
いかに生々しいものであるかをインタビューで語っているところなのですが、
日本人のわたしが聞いていてもあまり知的な受け答えをする人ではないなという印象でした。

だからどうということではありませんが(笑)アメリカにおいてベテランを
下にも置かぬ扱いというか、腫れ物に触るようなというか、尊重の度を越して、彼らに対して
否定的なことを言えない空気があるらしいとわたしなどかなり昔から感じてきました。
それに便乗する「モンスターベテラン」という言葉が嫁の表情からついよぎってしまいます。

しかしそういう発言はここアメリカでは公の場はもちろん、私的にもタブーとなっています。

チャールズリバーのメイシーズ提供の花火ならともかく、地域の花火大会なんて
せいぜい1年に一回、1時間くらいのものなのに、こんな大騒ぎするくらいなら
その間ヘッドフォンで音楽聞いてれば?と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。

だいたいそんなことを言い出したらチャールズリバー沿いに退役軍人は住めないってことになります。

「アメリカン・スナイパー」で、ベテランのPTSDが社会的問題であるということが
アメリカではクローズアップされたばかりです。(彼らもそれに便乗したのかもしれません)
確かに当人たちにとってそれは深刻な問題なのかもしれませんが、
自分ひとりのために地域の花火を控えろ、というのは、いかに言ったもん勝ちで、
ベテランの言うことには逆らえない雰囲気のアメリカでも、賛否の分かれるところではないかと思われます。 


それよりわたしはやはりこの日にニュースでやっていた

「アメリカ全土で毎年この季節花火が原因で亡くなる人の数」

があまりにも多いので(忘れたけど10人20人じゃない)そっちの方が問題だと思いました。
それこそ、花火で亡くなった人の家族は確実に花火がトラウマになると思うけど、
はたして、

「花火で亡くなった人の遺族が住んでいるので、この地域で花火をしないでください」

なんてことを言い出す家族がいたら、世間はどう思うかってことですね。




 

「出港準備、艦内閉鎖」~空母「ホーネット」艦橋ツァー

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空母「ホーネット」艦橋ツァー、航海ブリッジについてまたお話しします。
というのも(笑)、この夏空母「イントレピッド」を観てそのご報告をしたいのですが、
こちらを終わらせないことには記憶が混乱してしまいそうですので・・。

 

伝声管のように見えるけどなんだろう、と画像検索をしてみたら、
戦艦「ミズーリ」の伝声管がこれと全く同じ形をしていました。
というわけでこれは伝声管なのですが、この原始的な仕組みの伝声管、
現代の護衛艦にも使われているらしいですね。

金属の管というのはその中を声が通るときにも空気振動エネルギーが減衰しないので、
確実に声を遠く離れた場所にしかもピンポイントで送ることができます。
電源が喪失したときも伝声管が破壊されない限り伝達方法は失われることはありません。

後ろ側の窓も、伝声管も、荒天のとき、そしておそらく合戦のときには閉められたのでしょう。



アクリルでカバーされていますが、昔はこのボードに直接チョークで書き込んだらしい。



前回のエントリでofficer of the deckにまつわる用語の自衛隊との相関関係について、
裏でこっそり雷蔵さんに確かめたというくらいの素人ですので、
こういうボードの意味も全くわからないのですが、インターネットを探しに探して
やっとのことで「米海軍軍事用語辞典」 というのを見つけ出したので、
たとえば「VS」を引いてみますと、

sector single-unit; sector search; visual signal;  vital signs 

意味がたくさんありすぎてわからないっつの。
状況からして「セクターサーチ」かな。
その次のHS というのも、

helicopter antisubmarine squadron (USN); high speed; homing single-unit; 
homeland security; horizon search; hydraulic oil, steering system 

うーん、「ホリゾンサーチ?」


SAUが

squad automatic weapon (USMC)

という意味しかないので、さらにわからなくなってくるわけですが(笑)

SSKは

diesel-electric propulsion attack submarine (ディーゼルエレクトリック式攻撃潜水艦)

VPは

patrol squadron (USN); vapor pressure; voice privacy 

蒸気圧もボイスプライバシーも関係ないと思うので、これは哨戒部隊・・ときて、
ようやくここでこのボードには、甲板士官が引き継ぎのときに申し送りをする事項が
書かれているらしいことに気づくわけです。やれやれ。

ということはここは Combat Information Center (CIC)というわけですね!

ちなみに、BRGはもちろんブリッジ、RNGはレンジ、Prはおそらくですが、

aircrew survival equipmentman 

航空員のサバイバルエキップメント=パラシュートを整備する係?




さらに拡大。
「Z」「X」「Y」「V」「S」などの文字は、確か



さっきの部屋の片隅にこのような説明がありました。
極限まで拡大して字が小さくて見えないので判然としないのですが、
自衛隊と同じ艦内の閉鎖標識が表になっています。

自衛艦が出港する前に「出港準備、艦内閉鎖」の号令が発せられます。
自衛艦は停泊時、艦内通路の扉をオープン状態にしていますが、
出港時には一部の扉を除き大部分の扉は閉鎖されます。

出港後に予測されるあらゆる事態に対応するため、艦内扉やハッチは
所定の役割にしたがって閉鎖あるいは開放が行なわれるのです。

扉だけでなく、艦内のパイプや通風管などに付属するバルブや蓋などにも決まりがあります。

この表はそれらの閉鎖標識です。

閉鎖標識は文字、色、大きさ,さらに取付ける位置まで細かく規定されており、
この規定にしたがって建造中の新造艦では艤装員長(艦長)が閉鎖標識を選定するのだそうです。
簡単に意味を説明しておきましょうか(せっかく調べたことでもあるし) 

X=航海中、停泊中を問わず閉鎖または停止すべきもの

Y=航海中および停泊中の保安警戒上必要とする場合に閉鎖または停止すべきもの

Z=戦闘中または保安上必要とする場合、閉鎖または 停止すべきもの

W=応急作業上必要な場合または総員離艦の場合以外は、航海中、停泊中を問わず開放または運転すべきもの


表の下部分にある文字を○または D のサークルで 囲んだ標識は、
基本的にもとの標識と同じ意味ですが、ある条件によっては内容が変更されることを意味します。

Wを○で囲った記号 CBR(化 学・生物・放射能)防御が発令された時に閉鎖または停止すべきもの

ZをDの文字で囲った記号  灯火管制時に閉鎖するもの

という具合に。



手元ランプも備え付けで動揺にも影響がないようになっています。
映画「パールハーバー」の旗艦赤城艦上では、艦橋の司令室に直径20センチのうちわみたいな
(土台の方が小さい)集音マイクとか、デスクの上に民芸調の小ダンスがありましたが、
映画スタッフは同じ時代の自分とこの空母を少しは参考にしていただきたかったと思います。

デスクの前にあるパネルの写真は「secondary conn」、第二操舵室とあります。
今回ここを見る前にわたしはツァーを抜けて帰ってしまったのですが。



戦闘の際かぶるヘルメット置き場ですが、どう見ても年代物。
マリアナ沖海戦の時にもこれが使われていた?



甲板の一階上レベルまで降りてきました。
舷側にはまるでオルガンのような形のボックスがありますが、
かつて何かの武器が収納あるいは搭載されていた跡でしょうか。

甲板の向こうには不思議な形の船が見えていますが、これはもしかしたら
モスボール化された古い海軍の艦船かもしれません。
(この岸壁はモスボール保存された船が繋留されていると聞いたもので)



大きなデスクがあるのでチャートルームかな?



このレベルのデッキに出ました。
小さい女の子の背丈では外を見ることもできません。
ところでこの右上のこれ、



これだけを識者に見せて何かと聞いたところ「周りの写真を見て見ないとなんとも」と言われ、
送ったのがこれ。↓



艦橋トップなので、発光信号灯ではないかとのことです。
多分部品がだいぶ欠落して一目ではわからない形になってしまっているような・・。

一番右のお茶の水博士が艦橋ツァーの解説の元「ホーネット」乗組員、
その左の人はこういうところで見るアメリカ人には珍しく一眼レフ持ちでした。

解説員はこのデッキの説明をしたので当然上の機器についても触れたはずですが、
1年半経った今、まったく記憶に残っておりません。



ここアラメダの港からはちょうどサンフランシスコのダウンタウンのビル街、
そこから対岸に続くベイブリッジがすぐそこに見えています。

サンフランシスコに住んでいた時にはこんな近くにかつて日本と戦った空母があるとは
夢にも思っていませんでした。
そのころは取り立てて軍事関係、船や飛行機に興味を持っていたわけではないので、
もし知っていたとしても見に来たかどうかは疑問ですが、
逆にそのころのわたしが将来自分の住んでいるところの近くに博物館となっている
大戦時の空母を見たことを嬉々として書き綴っている将来を知ったとしたら、
さぞかし驚愕するであろうと思われます><


 

航空管制塔~空母「ホーネット」艦橋ツァー

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「ホーネット」の艦橋ツァー、ようやく最上階まできました。
この写真を見てもおわかりのように、飛行管制を司る管制室です。
当たり前なのですが、空母なので艦橋は右舷にあり、右舷接岸しています。
まったく艦橋をつけない空母は別として、すべての空母艦橋は右舷にあり、
空母史上左舷に艦橋を持っていたのは「赤城」と「飛龍」だけです。

パイロットはプロペラの回転の関係でどうしても着艦後左に寄って行ってしまう、
ということが運用してからわかったというとほほな話だったわけですが、
そういえば着艦をミスして艦橋に突っ込んでいった人の話があったなあ。
最後のワイヤーが奇跡的に引っかかって命存えたとか。



信号灯らしい機器が先端にあるこの部分のデッキ。



経年劣化で上から塗ったペンキが凸凹になっているところを。
ただでさえ米海軍の軍艦はメンテナンスが甘いと言われているので、
博物館となった「ホーネット」の方が現役艦よりまだ手入れされているのでは?
といたるところで思いましたが、さすがにこれは古さを感じさせます。



操舵室から艦橋デッキを伝って移動していきます。
ハッチドアを密閉するためのレバーの多さを観よ。
梯子段が上に向かってありますが、上には



これから行く航空管制室の窓ガラスが見えます。
コードが数本ついた四角いものは何かな?
いまならこういうところにくっついているのはイージスシステムのレーダーですが・・。



階段を(外の梯子段ではありません)上って上階に到達。
向こうに見えている船はモスボールではないかと思うのですが、
クレーンが6本も立っているので軍艦かどうかはわかりません。
日本で言うところの工作艦でしょうか。



狭い艦内を結構たくさんの人たちが一列になって歩くので、
移動には時間がかかります。
一番先に解説員と一緒に部屋に入った子供が何やら触らせてもらっているの図。



ここが「ホーネット」の航空管制室。
椅子はもちろん「エアボス」の席だ。



アポロ11号(か12号)の写真の額が置かれた艦橋の窓。
下が見やすいようにガラスが思いっきり斜め角になっています。



軍艦で天井がガラスというのは怖い(笑)
ですが180度視界が確保されていないとこっちの方がいざという時怖い。
ひびの入っている別のガラスを見たところ、フロントガラスに使われているような
特殊なものではなさそうだし・・・・。
ただ、天井の部分のガラスだけは強化ガラスをさらに重ねているようで
空の色が濃く写っています。



皆が揃うまでエアボスの席で悠々といった感じで座っている解説員。
何度も言っていますが、彼は元海軍軍人で「ホーネット」の乗員でした。

彼のそこはかとなく尊大な態度はよく言えば誇り、悪く言えば
気負いみたいなものから来ている気がしました。
と書いていますが、決してこれは不快というわけではありませんでした。



目の前にこのようなものがあるとついつい触ってみたくなる男性陣(笑)



このパネルはほとんど全てがライトのスイッチです。
丸い時計状の計器には「ロールレンジ」と書かれています。
ロールレンジで検索すると「ささみのロール レンジ」みたいなレシピしか
でてこなかったので具体的には何かわかりませんでした(´・ω・`)


 

甲板から発着するすべての艦載機情報を書き記す黒板。

「インディアンギャル」「ランドスライド」などのコールネーム、
発艦と着艦の時刻、パイロット名、ミッションなど、情報が事細かに記されます。

これも何度も言うようですが、「ホーネット」からはマリアナ沖海戦で、
「マリアナの七面鳥撃ち」(The Marianas Turkey Shoot)と言われるほど日本軍の
未熟なパイロットたちをやすやすと撃墜したベテランパイロットたちが出撃しています。

ということは、1944年6月11日、ここに攻撃に出たベテランたちの戦果が
誇らしげに記されていたということなのです。

日本人であるわたしがこういうものを見るたびに複雑な思いを抱かずにはいられない
という気持ちを、わかってくださるでしょうか。



スカイホークのカタパルト写真。
「ホーネット」がアングルドデッキに回収されたのは1955年のことなので、
そのとき同時にカタパルトを搭載したようです。



少しわかりにくい角度で写真を撮ってしまったのですが、このハッチは床にあります。
エスケープオンリーと書かれているので、航空管制室が火災などになったとき、
少しでも早く脱出するための非常用出口として普段は閉められていたと思われます。

こういうのを見ると、「戦争をするための船」なんだなと実感します。



これは紛れもなく建造当初から使われていた電話!


こちらはプッシュホン式の電話。
最初のトーン式プッシュホンは、アメリカのAT&Tが1964年にサービス開始したので、
「ホーネット」は現役中にいち早く最新式を取り入れたのでしょう。
大々的なデッキ改修の際に機器の入れ替えも行ったのではないでしょうか。



人大杉のブリッジ。
皆の服装を見てもおわかりのように、この地域一帯は8月中旬の昼間でも
普通に長袖を重ね着するような寒さです。
トレーナーを羽織った子供とTシャツのお父さんは、おそらく
カリフォルニア以外の州から観光に来ていると思われます。
埠頭を渡る風がまた強くて、薄着では特に甲板で震え上がるほどです。

潜水艦「パンパニト」もそうですが、そういう意味で博物館として
ここに繋留してある船にはいっさい冷房の必要はありません。



窓から見下ろすチャンス・ヴォートF-8クルセイダーの雄姿。
このクルセイダーがチャンス・ヴォート社にとって「救世軍」となった経緯を
以前(かなり熱く)お話ししたことがあります。 

ウィキペディアを見ると、まさにこの「ホーネット」上の412の写真が出てきます。
さらにwikiの下の方には、去年訪れたサンタローザのパシフィックコースト航空博物館に
展示されているF-8の写真が掲載されていて、なんとなくこういうのって嬉しいですね。



ところでこの管制室の甲板に向かって左右の窓にある角度を示す大きな針ですが、
これは着艦しようとするパイロットのためにあるわけですよね。
風の角度などを考慮した進入角度を指示するものだと思うのですがどうでしょうか。

窓の下に見えている艦載機はたしか白塗りされたまま放置してあるF-4だったと思います。

 

解説員はここでアングルドデッキ採用の理由などを説明していました。
図解で示されているのは着艦のパターンで、これを見る限り
旋回を広くとるデルタパターン、小さくとるチャーリーパターンというのがあるようです。

ついでにユーチューブで見つけてきたF/A18ホーネット発艦~着艦シーンをどうぞ。






計器の上によじ登って外を見せてもらいご機嫌の女の子。
棚の上に据えてあるモニターテレビの奥行きに時代を感じます。



映画「ファイナルカウントダウン」でコルセアがやっていましたが、
アレスターフックが使えない状態の時にはこうやって網を張る方法を
バリケード着艦といいます。



空中給油しているのはどちらもホーネットの艦載機でしょうか。



もしかしてこれは先代「ホーネット」CV-8の遺影?

「先代は沈められてしまったんだよ」

ジャップに・・・とはさすがに言っていなかったと思う。



これも当ブログでは「ファイナルカウントダウン」でおなじみの着艦システム。
光学着艦装置、OLS(Optical landing system)。
着艦する航空機が適切なグライドパス(降下経路)にあるかどうかパイロットに視覚で教える装置です。

左にこのサインの例がありますが、水平の緑のランプは平行であることを確かめるもの。
一番下の赤いランプは通称「ミートボール」というそうですが(笑)、これは下の方で点灯しているので、
これが見える角度で飛んでいる時、その飛行機は進入高度が低すぎるということになります。

先日広島空港でアシアナ航空の飛行機が高度を低く取りすぎて着陸失敗していましたね。
空母のようなピンポイントで狭いところに降りないといけない場合はわずかの狂いも
事故に直結するので、こういうところでパイロットに調整をさせるわけです。

危険な角度で飛行機が突っ込んできた時、このパネルには赤い点滅ランプが点き、
それを見たパイロットはフルスロットルにして着陸複行(ゴーアラウンド)しなければなりません。



赤い針の下には救急セットが収納されています。
にしても単位が20、30、40とは何なのでしょう。



これが航空管制室から見た甲板(と岸壁)。
 前回何かわからなかったこの前の機器ですが、これは状況から見て
間違いなく信号灯のようですね。

ところで、空母ではカタパルト発進が行われるわけですが、カタパルトで発進できるのは
何も航空機でなくても構わない(らしい)ということを表す決定的な証拠を発見。

転勤するエアボスのブーツをカタパルト発進させんとする米海軍の軍人


ブーツだけ一足先に転勤するのですねわかります。


続く。


 

気象士官~空母「ホーネット」艦橋ツァー

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空母「ホーネット」艦橋ツァーについてご報告するのも最後となりました。
冒頭画像は、次に見学した気象室に展示されていた当時のままの天気図とイヤフォンマイク。

「神風とマケイン中将」の項で、当「ホーネット」が不運にも遭遇した二度の台風
(なんというか損害の多さについては判断ミスつまり人災という気もしますが)について
お話ししましたが、つまり「ホーネット」と自然現象についてはやはり因縁めいたものがあるので、
この気象コーナーについてお話しするのも、意味のあることではないかと思ったりするわけです。

一度ならず二度までも「ホーネット」幹部(とハルゼー提督)が判断ミスしたのは、
元をたどればこの部分から出されたデータが誤っていたせいではないのかという意味で(T_T)



航空管制室を出たわたしたちは艦橋デッキを通って階段を降りて行きました。



73年前に建造された軍艦はいたるところに経年劣化を感じさせます。
手すりがわずかに外側に出っ張っているのは通路で消火ホースを使うとき
少しでも作業場を確保するためであろうかと思われます。
それにしても手すりの歪みようがすごい。



狭い通路いっぱいになって歩くアメリカ人。
アメリカ人ならここを通ることも困難な体型の人はたくさんいますが、
そんな人はそもそもわざわざこんなところを見学しようとも思わないので無問題。



この時代の軍艦というのは色々と搭載物が多いというか・・。
手前のは航空信号灯、突き出た部分に付けられているのは甲板用の照明?



さて、気象室に到着。
博物館となってから当時のレポートを壁に展示しているようです。



気象室は艦橋の下のレベルにありました。
隣のモスボールされた(とわたしが思っているところの)艦船が
こんな角度で舷窓からは見える階です。



こ、これは明らかに1942年当時の最新型電話!



気圧計。
製作した「海軍気象サービス」の下に、

「ANEROID」

という文字があるのがお分かりでしょうか。

アネロイド型気圧計は、円盤形又は円筒形の金属製密閉容器(内部は真空)
をつぶそうとする大気圧と、内蔵されたばねの反発力との釣り合いによって
気圧を測定する気圧計の種類です。

変わった名前ですが、従来の方法であった液中式水銀を用いないことから、
ギリシャ語の"a"(否定の意味)と"neros"(湿った・液体の)が語源です。

小型軽量で構造及び取扱いが簡単なため、家庭用や携帯用としても広く用いられており、
ここのもそうですが、温度計と一体にした製品もあります。
水銀気圧計と比較すると精度が劣るとされるそうです。 



これは英語でバログラフ(BAROGRAPH)といい、アネロイド気圧計の一種ですが、
これはポイントで紙にそれらが記録される仕掛けになっています。
ケースは航空機やこのように船舶上で使用するための特別仕様です。 



ここにある道具を実際に使用するふりをして見せてくれています。
後ろのお母さんは

「ほらトミー、ちゃんとおじさんのやってくれてることを見なさい!」



簡易風速計?



雲の形で天候を知るためのチャート。



バログラフの前には記録用紙と気象士官たちの写真が置かれていました。



気象士官のことは「AEROLOGY OFFICER」といいます。
写真に見えるのはバログラフの記録をするニードルであろうと思われます。
針は3時間ごとに取られた記録をグラフに記していきます。



波の立ち方による気象チャートもありました。



レベルは「Force」で表します。
こちらはForce0とForce1。
0は風速1ノット以下で、海は「鏡のよう」。
1は風速1~3ノット、海はさざ波がたち白波は見えない状態。



レベルは11までで、風速56~63ノット、11~16mの波が立ち、
白波がもれなく波頭に立つ状態です。



気象士官たちが使用していたらしい書棚には気象関係の本ばかりが並びます。

「世界の風」「気象学」「地球とその環境」「オーシャンフロアー」「気象ハンドブック」・・。



このようにして気象士官たちは等圧線図を作成するわけです。
ちょうどバージニア州から上、カナダとの国境部分の気象図。

そこで、われわれはどうしても「ホーネット」が日本を攻撃したあと、
九州南方で二度の台風に遭い、一度は中心を突っ切って、二度目は
避けようとして進路を読み誤り直撃コースに突っ込んだため大破したうえ、
僚艦を失うという大チョンボを機関としてやっちまったことを思い出してしまうわけです。

1度目はハルゼー提督が言い張ったためですが、二度目は完全に気象士官たちが
出したデータが間違っていたということになるのです。
いや、一度目だって、台風の規模を気象士官たちが予知していれば、
いかにハルゼー提督が怖くても(´・ω・`)、台風が艦隊に与えるであろう被害について
耳にいれ、進路の変更を検討させることも進言できたはずなのです。

例の件ではハルゼーとマケインが指揮官としての責任を取らされましたが、
実はこの部屋の士官たちのミスでもあったってことなんですね。

彼らがどのくらい損害の責任を感じたのか、もはや知るべくもありませんが。





ここの解説が終わって航空管制室を出るとき、ツァーガイドが指し示した銘板のアップです。

「ここに『キアサージ』と書かれています」

目の色を変えてアップの写真を撮りまくっていたのはわたしだけでした(笑)

「ホーネット」は1942年8月、「キアサージ」という名前で建造が始まった空母でした。
当時「ホーネット」は7代目の空母が就役していたのですが、 同じ年の10月26日、
CV-12の「ホーネット」は南太平洋海戦で戦没してしまいました。


"USS Hornet (CV-8) during battle of the Santa Cruz Islands" by U.S. Navy
 Official U.S. Navy photo 80-G-33947 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command.
Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ -

写真説明で「サンタクルーズアイランズ」とありますが、アメリカでの南太平洋海戦は
「サンタクルーズ諸島海戦」という呼称であるからです。




この海戦で「ホーネット」が戦闘力を喪失、「エンタープライズ」中波となったとき
まだ日本側には空母が残っているという報告を受けた司令官キンケイド少将は
早々に撤退を決めますが、山本長官は追跡を命じ、「ホーネット」と彼女を曳航している
「ノーザンプトン」を追撃させ、とどめを与えました。

その後撮られたのがこの写真で、被弾痕も生々しい「ホーネット」から総員退避させたあと、
アメリカ側は「マシティン」「アンダーソン」に雷撃処分させますが、どういうわけか
全く沈めることができず、これに司令部は激しく苛立っています。

その後日本側は「ホーネット」を捕獲しようとしましたが火災が激しかったためこれをあきらめ、
結局「秋雲」「巻雲」の魚雷4発で(アメリカ軍が撃ちこんだ魚雷は14発)沈没させました。

結果的には日本は、この海戦に勝利することはできましたが、早々に撤退を決めたキンケイド少将と、
悪く言えば、味方の多大な犠牲を払って目先の勝利に拘って深追いした山本大将の、
先を見る目という観点でだけ評価すれば、これはアメリカ側に後々有利となる転換点となりました。

なぜなら、この海戦以降、日本軍の航空勢力にはこの時失われた戦力の「穴埋め」として
教育部隊の教官を前線に出したり、飛行学生を卒業したばかりの士官を母艦に配属するなど、
必死のやりくりを行うも、新任搭乗員たちはことごとく習熟を待たず喪失する運命にあり、
結局この時の欠乏を埋めることは、最後までできなかったからです。

しかも、日本側は帝国陸海軍の仲の悪さもあだになりました。
この海戦のあと、陸軍が海軍の呼びかけに答えず、戦力を動員することを拒否したため、
なんのために海軍が勝ったのか(元々海戦とは”陸の取り合いの前哨戦”の意味がある)、
という状態になり、この合戦は全体で言うと全く功を奏しなかったということになります。

このときの海軍では、下士官兵はもちろん、日頃そういうことを表に出さないはずの
将官連中までが、口を極めて陸軍を罵っていたということが報告されています(T_T)


さて、というわけで先代「ホーネット」の生まれ変わりとしての役目を負った「キアサージ」は、
早々にその名を引き継ぎ第8代「ホーネット」として就役しました。



「キアサージ」と記されたままのこの機器は、おそらく名前が変更になる前に
すでに業者(ベンディックス社)から納入されていたため、そのまま取り付けられたものでしょう。

UNDERWATER LOO SPEED INDICATOR

とあるのですが、"LOO"というのがトイレの俗語であるということ以外わからなかったので、
したがってこれがなんの計器かもわかりません。 
まさか本当に内容物を「噴出」するためのスピード計・・・?まさかね?

度(めもり)の単位から見るとどうもただの気温計という気もしますが。



ツァーはまだまだ続き、次はおそらくパイロットの控え室かなにかだったと思うのですが、
わたしたちは残念ながらここで時間切れとなってしまいました。

「すみません、時間がなくなったので帰らせてもらいます」

解説員にこのあと告げると、艦橋の降り方を教えてくれました。
今年の夏、また再び「ホーネット」を訪ね、この続きをお伝えできればと思ってはおります。


 
甲板レベルにあった女性用化粧室は、どうやらこのために作ったらしい「レディ・ホーネット」
の大きなサインがあって和みました。

もちろんここは「火薬倉庫」(パウダールーム)ではありません。


終わり。 

 

コネチカットの州立公園で鳥を撮る

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ノーウォークという、コネチカット州の街に滞在することを決めたのは
単にニューヘイブンとニューヨークの途中にあるという理由でしたが、
何も知らずに選んだこの街は、自然が豊かで、しかも由緒ある家が多い、
アメリカの中でも「ええとこの出身」と言われるような地域であることがわかりました。

最近HULUで移動の時に観た映画「リップスティックジャングル」(^_^;)で、
主人公の金髪女性が、実はNYのギリシャ料理店経営の移民の娘であったのを知って、

「君はてっきりコネチカットあたりの出身だと思っていた」

と彼女の上司が驚きを込めていうシーンがありましたが、まあ、そういう地域です。
いわゆるアメリカ東部の典型的な郊外の街(サバーバン)で、アパートより一軒家が多く、
裕福な人々は河や海岸沿いに好んで住み、彼らの祖先はイギリスからの移民で、
先祖に南北戦争のベテランがいる、というようなアメリカの「旧家」がたくさんある。

これがアメリカ人の持つコネチカット州のイメージのようです。



たとえば、ホテルの近くにあった

ロックウッド・マシューズ邸

なども、この地域にそういったイメージをもたらしています。
銀行や鉄道で財をなしたルグラン・ロックウッドがニューヨークの建築家に依頼し、
1864年に建てた豪華マンションで、ロックウッドの死後差し押さえられた資産を
チャールズ・マシューズが買ったということでこの名前になったようです。



ビクトリア調で建築されたこの建物は、62室を擁する大邸宅。
一体何人で住んでいたのでしょうか。
もちろん執事がいて、女中は売るほどいて、ガーデナーや調理人も住んでいて・・。

差し押さえられた時、ここにはロックウッドの未亡人と子供が住んでいたようですが、
彼らは住む家も財産も無くしてその後どうやって生きていったのでしょうか。



もちろん運転手もいたと思われますが、1870年代だと、
もしかしたらまだ馬車だった可能性はあります。
この車寄せで、最新式の自動車から主人が降りてくるようになったのは
おそらく1985年、カール・ベンツが三輪自動車を発明してからでしょう。



ウィキによるとこの建築物は1941年ノーウォーク市に売却されたあと、
1950年代には、財政上の関係で建物は解体の危機にさらされましたが、
地元の保存推進団体の運動により1971年に国の史跡に指定されることになりました。



いかに凝った家であるかというのはこんなところにも表れています。
ガラス張りのドームが半円状に外に突き出した当時の画期的な「サンルーム」。

 

古いアメリカの建築物には必ず見られる半地下の窓。
必ず地面から下にあり、こういう地下には倉庫か洗濯機置場があります。
こういう窓に面したところは掃除のしようがないので、おそらく積もったゴミは
建造以来の積み重なった層ができているに違いありません。



さて、ロックウッド・マシューズ邸のある公園は、ウォーキングするには小さかったので、
わたしたちは地図で調べて海岸沿いに行ったところにある州立公園で散歩することにしました。
シェアウッドアイランド州立公園、という名前の通り、陸側は川で囲まれていて、つまり
小さな「島」状の地形を利用した自然公園です。



海岸沿いには「マンション」(豪邸)と呼んでもいいような立派なおうちが多数。



海岸沿いに整備された歩道を歩いて行くことにしました。
ちなみに入り口で「コネチカット州民か」と聞かれましたが、
州民であれば駐車料の9ドル(アメリカの常識としてこれは高い方)は要りません。



駐車場に車を止め、その場所から振り向くと、何か動物を発見。

「ウサギがいるよ」

「ウサギ・・?耳が見えないんですがあれは」

「え。なんだろう」

こんなこともあろうかと持ってきた望遠レンズに付け替え、写真を撮って
大きくしてみました。




大きくしてもなんだかわからないという(笑)
大きさはだいたい25センチくらい。
思索するかのように毛を風にそよがせながらじっとしています。



彼がふと地面に消えてしまったので見にいくと、こんな穴が空いていました。
穴の大きさも体のサイズギリギリで20センチくらいです。

「なんだろう」

「モルモット?」

「まさかリスじゃないよね」

 

リス的げっ歯類的ネズミ的な動物がたそがれていた穴の上の木では、
灰色の鳥さんが激しい泣き声をあげては木の茂みから飛翔して、
また茂みに戻っては鳴いて、ということを繰り返しています。
たった一羽でまるで求愛ダンスをしているような激しい動き。



またしても望遠レンズの出番です。
ぴょんぴょん飛び回るようにしている姿はなんとも愛らしいものでしたが、
拡大してみると、結構顔が怖い(笑)

小さな鳥なのに声も鋭くて獰猛な感じがします。



飛び立った瞬間。



鳥って飛ぶときこんな姿勢になるんですね。
というわけで、ローカルバードのページで調べてもこの鳥が
なんという種類なのかわかりませんでした。



さらに先を歩いていきます。
芝生のような草地が広がっていますが、毎日のように芝刈り機が出動している模様。



ターナーの絵に出てきそうな木の向こうにはモダンな建築物が。
「マインクラフト」プレーヤーの息子のために写真を撮っておきましょう。



息子作。
これはモダン建築ですが、ヨーロッパ風の重厚な建物もよく作るとのことです。

ちなみに、彼の建築(この写真のだったかも)、過去二回プロの建築家に褒められたことがあるそうです。
一人は名前を調べたらアメリカの映画関係の仕事を主にしている結構有名な建築家だったそうで、
息子はかなりびびっていました(笑)

しかし、プロの建築家ってマインクラフトやるんですね。
元兵学校生徒のSさんにも勧めてみようかな(笑)



海を見渡す開けた場所に、名前が書かれたプレートが埋め込んでありました。

「公園に寄付したら名前を残せるって、本当にいいシステムだよね」

TOが呑気にいうのに、わたしは

「いや・・・・・、これ違うみたいよ」



二人ともこれをみてシーンとなってしまいました。
コネチカットはニューヨークへの通勤圏内なので、911のときにも犠牲になった人がたくさんいたようです。
上の写真の二列にならんだプレートはだいたい5mはあったと思いますが、
反対側の敷地に同じ人数分のプレートがあり、全部で100人分はあったのではないかと思われました。



すずめ発見。



じっとしているので写真を撮りまくっていると、顔を巡らせてこちらを見ました。
アメリカのスズメは日本のより薄い色です。



砂浜を右手に見ながら歩いて行くと、グースの群が固まっていました。



ほとんどが首を収納してお昼寝中。




しかし、必ず何羽かのグースは首をしゃんとして外を見張っています。
グースの世界には「自分は群を守るんだ」と自覚している鳥がグループに必ず複数いて、
外敵から群を守るためにどんなときにも目を光らせていることに何年か前気づきました。
あまり群に近づいていくと、この見張りグースがシューシューと音を出して威嚇します。





群の中には首に認識番号を巻かれている子もいました。
昨日テレビで「ワイルドリリーフ」という、野生動物のドクターのドキュメントを見ましたが、
このグースもそういった団体によって管理観察されているようです。



グースの群とは別にカモメの群も砂浜に集合していました。



海辺にデッキチェアを置いて何をするでもなく海を楽しむ人たち。
全く打ち寄せる波がありませんが、水平線の向こうに見えているのが
ロングアイランドで、内海のようになっているここはほとんど波が立ちません。
まるで湖の岸のような海岸です。



日本だと海水浴の季節がなぜか決められていて「海開き」なんてのがありますが、
開くも開かないも、そこに海があるなら泳いでもいいじゃないか、ということで、
平日にもかかわらずちゃんとセーフガードが監視しています。
みたところ泳いでいる人はいないようでしたが、6月下旬は十分泳げる水温です。



打ち寄せた貝殻で全く砂が見えなくなっている海岸。



海岸を歩いて行くと河口に行き当たりました。
「実は島」なので、こちらから行けるのはここまでです。
公園の真ん中を通って帰ろうとして、こんな不思議なものがあるのに気がつきました。
隣の建物は自然動物保護センターのような団体が使用しているようです。
しばらく見ていると、



穴の中に動くものを発見しました。
何かの雛です。



すると、一つの巣穴から成鳥がひょいと顔を出しました。
なんと、ツバメの巣の「アパート」だったんですね。



お母さんツバメは頻繁に帰ってきて、入り口から中でまっている雛たちに
餌をやり、すぐに(そりゃそうだ、持って帰れるのは一人分だから)
飛んで行ってはまた戻ってきて、を気の遠くなるほど何回も繰り返しています。
その度にどこかの虫が犠牲になっているというわけです(-人-)ナムー



雛は必ず一つの巣穴に何羽かいるようでしたが、お母さんが帰ってくると
「わたしに!」「わたしに!」と必死で口を開けているようでした。
でも、要領が悪くてちっとももらえない弱い個体なんかもでてくるんだろうな。
こういうのも「自然淘汰」というものらしいですが、自然界では普通にあることなのです。



餌をやっているお母さん鳥が振り返ったところを一枚。
ツバメというと黒だと思っていますし、実際飛んでいるところを見ると
黒い燕尾(文字通り!)をきているようにしか見えないのですが、
実際の羽の色は黒ではなく青であることが写真によってわかりました。
羽の先は黒のようですね。



「お母さんマダー?」



燕尾服、といいますが、燕尾服の「テール」は「尾の先」ではなく、
実は「羽の先」であることがこの写真によって(わたし的に)判明しました。
ツバメの尻尾って、べつに普通の鳥と一緒ですよね?

正式には「燕尾服」ではなく「燕羽服」(えんばふく)だったのか・・・。





ツバメの顔って、なんかしかめっ面している人みたい(笑)



ところで、このツバメアパート、全部で三棟あったのですが、一つだけ
まったく人影じゃなくて鳥影がない棟がこれ。

「なんでこれだけ人気がないのかな」

「あれだけ韓国製なんじゃない?ペトロナスタワーの片方みたいに」

(これはわたしではなく、驚くなかれTOのセリフ)

「あのねえ・・・あっ、巣の入り口の前に台みたいなのが付けてある」

「あれじゃお母さんは餌やりにくいわ。ただでさえ急いでるのに」

「それでまったくこちらは入居者がいないと」

「良かれと思って余計なことをしたのが裏目に出て嫌われる・・・・よくある話ですな」



せっかくいい思いつきだと思ったのにまったくツバメに相手にされず、
このデザインを考えてわざわざ手間をかけた考案者は、この如実な結果を
おそらく向かいの建物から毎日のように見ているわけですが、如何な心境でしょうか。




さて、公園を時計回りに一周してきて車に戻りました。
アメリカでの楽しみは、地方地方に必ずある州立公園を探索し、そこを歩いて
新しい景色と、運が良ければ動物にも出会えることですが、ここコネチカットの
ノーウォークにもまたいつか再び訪れたい公園が一つ増えました。




アメリカスシ事情2015

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去年、ボストンにある「ヒスパニック回転寿し」に突入して、
死んだ気でくそまずい(あらお下品)スシもどきを食し、やはりアメリカのスシは
多民族共生の社会の常として本流とは遠く離れ混迷を極めているということを
あらためて確認したエリス中尉ですが、今年もアメリカのスシ事情をリサーチしてまいりました。

TOいうところの「食べる芸術」であるスシが、海を隔てた海外でもてはやされた結果、
それに便乗し、それらしいものの威光を利用して銭稼ぎ(まあお下品)しようとする
有象無象の姿が見えて来る、というのも毎年感じるところではありますが、
「ご飯を丸めて魚の屍体を乗っけただけの食べ物」であるスシのあり方を知ることは、
その国における日本の何たるかを知ることでもあるのです。

大袈裟だな。



さて、まずは第一次アメリカ滞在最後の夕食となっったニューベリーストリートの
「スナッピー・スシ」のメニューをご覧ください。
そもそも「スナッピー」なる単語をスシと結びつけようというセンスからして
とても日本人が経営しているとは思えない当店ではありますが、
わたしと連れ合いがここに入ることにしたのは、まさに「怖いもの見たさ」。
ちなみに「snappy」の意味は、もともと「冷え冷えした気候」「パチパチ音」ですが、
それから生じて、

元気のいい・活発な・てきぱきした・しゃれた・粋な

といったイメージがあります。

「Make it snappy!」

というと、さっさとやったらんかい、といった意味ですね。
で、メニューですが、スパイシーマヨ入りロブスターロールとか、必ずアボカドを使うとか、
レインボウと称して何でもかんでも魚肉を詰め込み、とかいったセンスは、
もはやスシという名を借りたケイオス(混沌)な何か、としか思えません。

だいたいアメリカ人、シンプルな握りだけで旨い鮨が作れないんだな。
なもんで、それらをごまかすため、サルサとかスパイシーマヨとかわさびバターとか、
味の強いもので生臭さを覆い隠したゴテゴテのスシもどきばかりになってしまうんですよ。



この店において何も期待するものはない、と瞬時にメニューを見て判断したわたしは、
豆腐サラダ(サラダに豆腐を乗せたもの」を頼んだに終わったのですが、
TOが注文したこの「ベジタブル・スシ」はなかなかの(見)ものでした。

キュウリ巻きならぬアボカド巻き、うなぎの色をしたキノコ乗せ。
コーンの「イクラ」の上に何やら唐辛子系のものを乗せた軍艦巻き。
マグロではなくビーツを乗せた握り、そしてこれ。



なんかマグロみたいですか〜?
これは一口食べて

「ん・・・?・・・・ん〜〜〜〜?」

そう、それは時差を置いて猛烈に辛くなってくる「唐辛子ずし」。
パプリカかと思って何の疑いもなく一口食べたものの、
あまりのからさのインパクトにそれ以上食べることもできませんでした。
しかも、しばらくは唇がヒリヒリして他のものを食べる気にならなかったという・・。

というわけで、ここのスシも日本人から見ると、

「こういうジャンルの食べ物も別にあってもよいが、
できれば寿司と名乗るのはやめていただきたい」

という、ありがちなアメリカすしから一歩も出ていない代物となっていました。



さて、時間を少し遡り、ニューヨークにミュージカルを観に行った時の話を。
行ったことがある方はご存知でしょうが、ニューヨークというのはまさに魔都、
汚くて雑駁でごみごみした街に、時折世にも美しいものが点在しているという、
とてもではないけれど一言で語ることを許さないそれこそ混沌の街です。



そんなニューヨークで受け入れられているらしいスーパーグループの

「スーパードライストア」極度乾燥(しなさい)。

日本語のキッチュなロゴがうけて今や世界中で展開しているブランドですが、
米国のビンテージ生地と日本に触発されたデザインを取り入れています。
お土産に買って帰ろうかな、と思いましたが、よく考えればイギリスのメーカーなのよね。



ニューヨークの街角には屋台の食べ物屋がたくさん軒を連ねています。
近くのオフィスワーカーの間で評判らしく、12時になると同時に長蛇の列ができていた
ファラフェル屋があるとおもったら、観光客も相手にしない屋台があったり。
歩きながらとか外で食べるのが平気なアメリカ人は、こんな屋台で
ランチを済ませてしまうこともしょっちゅうの模様です。
映画やテレビ番組でも、紙パックのチャイニーズデリを箸で食べるシーンが多いでしょ?



ニューヨークには計3日、いずれもノーウォークから1時間かけて通いましたが、
そのうち1日はミュージカルのマチネが始まるまでの間、近代美術館を見学し、
さらにレストランで食事をとるという作戦でいきました。
外のテーブルに座りたければ並ばなくてはいけませんでしたが、どこでもよければ
すぐに席に案内してもらうことができました。



冷たいスープは具として野菜や穀類が浮かせてあり、具沢山な一品。



さすがここも美術館の併設レストランだけあって、彩りが芸術的です。
これは、とてもそう見えませんが、サラダ・ニソワーズ。
茶色い肉のようなものは、なんとツナです。



アスパラガスとキュウリのサラダ。



斜め向かいのテーブルには、白いドレスと白いリボンでおめかしした
かなりかわいい女の子が座っていましたが、アメリカにはありがちなパターンで、
彼女もあと25年たてば向かいの姿になる運命だと思うとなんだか残念なような(すみません)

まあ、アメリカ人も「東洋人は赤ちゃんの時あんなにかわいいのに、なぜ・・」
とか思っているらしいですから、お互い様ですけどね。



デザートはニューヨークチーズケーキだったはずだが、クリームに覆われて見えぬ(笑)



さて、その次の日、またしてもミュージカルのマチネを観にニューヨークにきたわたしたちは、
ふとわたしが街を見回していて見つけたストリートの角の2階にあるフードコートにきてみました。
新しいビルの階段を上っていくと、法被を着た日本人がいて、

「いらっしゃいませ!」

と挨拶してくれたので、てっきりわたしたちが日本人だからかと思っていたのですが、
この「いらっしゃいませ」攻撃は、「KURO-OBI」というラーメン屋の従業員全員が
声をそろえてやっていたのでした。



「すごい活気だねえ」

「東京のイタリアンやフレンチででボナセーラ!とかシルブプレ!とか日本人がやるようなもんかしら」




こちらの寿司コーナーも、カウンターの中には日本人らしき板前が一人入っていて、
あとは非日本人で占められていましたが、皆キビキビ働いています。
こういう雰囲気の中で仕事をしていると、ヒスパニックもアメリカ系も、
妙にきちんと働いているように見えるから(働いてるんですけど)不思議です。



お寿司もいいけど、この日は夕食に寿司田を予約してもらったので、
ラーメンを食べてみることにしました。
いつぞやコメント欄に「一風堂のラーメンを食べながら」と書いた時のもので、
この「黒帯」というのは一風堂の支店?であるらしいことがわかったからです。
トッピングに頼んだ卵は見事に半熟で、チャーシューも適度な大きさ。
アメリカで食べるものなのに量もそんなに多くなく、二種類用意されたスープも美味しかったです。



窓際に面したカウンターに座って日本風ラーメンをいただきました。
向かいはピザ屋。
ニューヨークはイタリア系の移民も多く、おいしいピザが食べられます。



この日、ミュージカルが終わってから渋滞を避けるため、(ハドソンリバー沿いの道は
帰宅ラッシュで4時くらいからとんでもなく混む)夕ご飯を食べて帰ることにしました。
MOMAにいく途中に見つけた「寿司田」。
一度くらいアメリカでまともな寿司を食べてみようということになったのです。

ニューヨークの寿司と言えば、911の跡地がまだ「グラウンド・ゼロ」と呼ばれていた頃、
わたしたち夫婦は、まだ2歳くらいだった息子を連れて旅行に行き、
築地の寿司◯ニューヨーク支店で嫌な目にあったことがあります。

うちの息子は外で泣いたことはもちろん、大声を上げることも一度もない、
まるでぬいぐるみのようなおとなしい子供でしたが、
それでも我々は、日本で鮨屋に連れて行ったことはありませんでしたし、
そのときも他のお客の迷惑にならないように、開店してすぐの5時半に予約をいれました。
しかし、寿司◯の女店主は、わたしたちを見るなりあからさまに憎々しげに睨みつけ、
鮨屋に子供連れで来るな!というオーラ全開で敵意をむき出しにしてきました。

結局その店でも息子は大人しくていてぬいぐるみ同様だったのですが、
そもそも日本人の家族連れが気に入らない風だった彼女は、
帰る段になってTOがお勘定を払っている時にわたしの横の息子がドアに触ったところ、
とんできて叱りつけ(本当)、ぶつぶつ言いながらそこを布で拭いて見せました。

しかし、アメリカ人の客の子供が騒ぎながらカウンターでコーラを飲んでいても
別人のようにお愛想をするという、実にわかりやすいクズでした。

彼女以外の板前さんや男性の店員が、なんとも言えないすまなそうな顔をして
こちらを終始見ていたのが忘れられません。

我が家的には「少しおかしな人がいる鮨屋」として記憶に留められた伝説の店だったのですが、
その後程なくして潰れたという話を聞きました。

「やっぱりね」

「あんな接待していたら日本人はいかなくなるよ」

「同じ日本人でも、アメリカ人同僚と来ていたビジネスマンには愛想よかったじゃない」

「そのビジネスマンが休暇の時に家族を連れてくるという可能性もあるんだけどね」

なるほど、それで潰れてしまったわけですね。ざまあ・・いや、なんでもない(笑)



さて、この寿司田には、旅行を手配するクレジット会社のデスクに予約をいれてもらいました。
あの寿司◯でもそういう予約をしていたら少しは態度も違ってきたのかもしれませんが。

ここは、築地の名店(寿司◯も一応そうですが)であり、従業員が全員日本人。
職人さんはもちろんのこと、お運びの人も全員日本人です。
おそらくニューヨークでは「本物の日本の寿司」として有名なのに違いありません。

もちろんそれは「高い」ということと同義語でもあります。



しかし、ラーメンを食べてからあまり時間が経っていなかったため、
あまりお腹が空いていたなかったのも事実。
せっかく花板さんらしき人に握ってもらえることになったのに、
あまり次々と頼まない「儲からない客」ですみません、なオーダーとなりました。

まず、刺身の盛り合わせを頼んだ後、なぜか揚げ出し豆腐とか(笑)

花板さん(推定)は、ご旅行ですか、などと聞いてこられ、それがきっかけにしばらく
ニューヨークにおける寿司事情を少しばかり伺うことができたのですが、
まず、この寿司田だけでもニューヨークにはいくつもあり、この店は2号店であること、
第1号店はもうオープンして30年にもなることを知りました。
30年前というと、スシがなぜか「健康食」としてもてはやされたころでしょうか。
その後ブームを経て今の「誰でも食べられる日本食」に落ち着くまで、
このお店も27年間ニューヨークの本格的スシの店としてここでやってきたわけです。

このお店はネタを決まったところと契約して仕入れており、
そこは信用の置けるところであるわけですが、中国系が5番街などに開く大きなスシ(もどき)屋は、
どうにも仕入れが怪しいということは言われているのだそうで。
それでなくても中国系の仕入れ業者は怖くて使えないのだそうです。

「酷いのになると魚肉に虫がいるんですよ。目で見えるほど」

ひえええ。そんなの新鮮以前の問題じゃないですか。

「わたしたちはホールフーズで刺身なんかを買っているんですが」

「ホールフーズなんかはちゃんとしたところから仕入れていますよ」

「とんでもなく高いですけどね」

「高くなってしまうのは仕方ないですね。刺身で食べられる魚となると」



話はそのうち寿司職人の育成の話になりました。

「わたしの頃は技術は体で覚えろでしたから、怒鳴られるのはもちろん手や足もでましたが、
今の子は叱られるとやめてしまうんですよ。
ご父兄が出てきて文句を言われたりしたら何も指導できません」

職人が育たない日本。
刀鍛冶の問題でこんな話をしたことがありますが、伝統芸能に限らず、
こんなところにも日本の将来が不安になるような現象が・・。

寿司職人がアメリカの永住権を取りやすいのは有名な話ですが、
腕一本でアメリカに挑戦してやる!みたいな職人志向の若者も減ってきているんでしょうか。




せっかく花板さんの握りなのに、あまり「儲からない」ネタばかりで(納豆巻きとか)
申し訳なく思った、というわけではありませんが、最後にふと炙りものが食べたくなり、
何ができるか聞いてみたところ、金目鯛がいけるというのでいただいてみました。

ほとんど火にかざしただけの金目を塩だけで食べるこのお寿司は絶品でしたが、
一皿26ドル、つまり一個13ドルのお値段だったことが判明。
これ二つでスナッピーズシの「野菜握りセット」と同じくらいという・・。

このコストパフォーマンスに値打ちを認められるアメリカ人って、
果たしてニューヨークに何人くらいいるんでしょうか。




 


ボストンー成田ー台湾

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東海岸をボストンからニューヨークまで走り回り、息子を学校に預けた後、
私たち夫婦はローガン空港から成田に向かいました。



ローガンの鶴丸航空(仮名)カウンターには、七夕の笹が。
短冊がかけられた笹は、ちゃんと日本の神社に奉納すると説明されています。



「飛行機で気持ち悪くなりませんように」

今から飛行機に乗るから切実なお願いですが、おそらくそれは叶うでしょう。
そのほか、

「今の3倍の速さで飛ぶ飛行機が発明されますように」

という(これは大人)お願いもありましたが、その速さで飛ぶ旅客機は多分
機内サービスはもちろん、立って歩き回ることもできなくなると思う。

鶴丸のカウンターでチェックインをしてくれたのは、なんと日本語が喋れるアメリカ人男性。

「オニモツハイクツアリマスカ〜?」

「パスポートオネガイシマース」

とか、基本的接客は全て日本語おけーな人でちょっと新鮮でした。
ちょっと話がややこしくなると英語になってしまっていたものの、気のせいか
英語での接客より丁寧で、にこやかな彼にも好感持ちまくりです。



気持ちよくチェックインを済ませ、ゲートに向かうと入り口では
上半身だけ映像の看板がゲートを通過する際の注意事項を説明していました。
去年これはなかったので、この一年間の間に導入された最新システムでしょう。



行きは中央の2席だったので、窓際が嬉しい。

 

またもやTUMIのポーチが手に入ってしまうのだった。
よく考えてあって、アメリカ行きは黒、帰りはグリーンと、色が違います。



ボストン・ローガン空港は、周りを海で囲まれています。




滑走路からは、付近を航行する船舶やヨットがよく見えるのですが、これは
おそらくボストン湾の遊覧船であろうかと思われます。



この高速艇にもよく見たらたくさんの乗客が。
ボストン湾観光で何を見るのかわかりませんが・・・。
「ボストン・ティーパーティ事件」の現場とか?
この時は独立記念日の次の日だったので、独立関係の観光地は混雑したのではないでしょうか。

冒頭写真は離陸してすぐに見えるボストン湾の半島。
実に面白い形をしているわけですが、この「さすまた」のような形の先端にも、
途中の中州にある緑地にもちゃんと民家があって人が住んでいるんですね。

こんなかわったところに住みたがるのはアメリカ人の場合とんでもないリッチな層ですが、
上空から見ても一軒一軒の大きさがただ事でないのがよくわかります。



機内食はまたしても「洋食・魚」を選びました。
同じようなメニューで食材が違うだけですが、気のせいか日本初の方が美味しかったような・・・。



なんだか微妙なメインディッシュだなあと思ったらこれは前菜でした。
自分で頼んでおいて白身魚が出てこないのに何の疑問も感じなかったという・・。



デザートはパンナコッタで普通に美味しかったです。

帰りの機内では、テレビ番組が通しで観られることを知り、

「ドクターX〜外科医・大門未知子」

とかいう絶対失敗しない女外科医の話(笑)を全9話通しで見てしまい、
それだけで13時間のフライトのうち9時間を費やしてしまいました。orz
観終わってあと4時間だけでも寝ておこうと思ったのですが、
食後に頼んだ紅茶のカフェインのせいで一睡もできないまま成田に到着。



成田は雨でした。
しかし、ここでは一歩も出ないで台湾行きに乗り継ぎです。

登場を待つ間、マッサージ屋に行って1時間20分のコースで頭から足の裏まで
しっかりとほぐしてもらいましたが、其の間も全く眠れず。

ボーッとしながらゲートに行って、トイレの中に携帯とクレジットカードホルダーだけ入れた
小さなポーチを忘れたのに気づいて真っ青になって取りに行ったら、そこにはなく、
出発前なので取り敢えずカウンターに行ったら、カウンターの上に置いてありました。

「日本でよかったね」

と呆れながらいうTO。
しかも、中国本土行きではなく(まずそういう便に乗ることは今後もないと思いますが)
台湾行きのカウンター横であったからこそ、届けられたのだと思います。

台湾行きの最終便は、観光できたらしい若い台湾の人たちが圧倒的に多く、
その中の一人が映画「KANO」のTシャツを着ていたのが印象的でした。

あの映画を観て日本に興味を持ってくれたのでしょうか。
台湾人の男性と日本から来た女性の今と、昔終戦の時に、
台湾から引き上げてくる日本人男性と台湾人女性の恋を絡めて描いた
同じ監督の「海角7号」という映画は台湾では大ヒットとなったそうですが、
台湾の若い層がこうして日本に興味を持ってくれるのはありがたいことだと思いました。



機内で寝られるかと思ったのですが、所詮3〜4時間(どっちだっけ)のフライトなので、
やはりうとうとした頃に桃園空港に着いてしまいました。



桃園空港は松山空港と同じくらい新しい感じがします。
入国審査のときには後ろに6〜7人の若い女の子のグループが、
別れて並べばいいのにひとかたまりになって少し緊張しながら並んでいました。

入国審査の前の立ち入り禁止線を越えてわたしたちの後ろに着いてきたので、

「黄色い線で並ぶんですよ」

と教えたら、素直にすみません、と言って皆で線の後ろに移動。
もしかしたら修学旅行以外で海外に来るのが初めてだったりするのかな。
日本の若い人たちも、震災以来台湾に対する好意と興味を持つようになり、
台湾からの日本への観光客は昨年最高人数となって、民間レベルでの
交流が進んでいると感じます。

ちなみに、東京にいる観光客で、おしゃれで洗練された格好をしているのは
ほとんどが台湾から人たちであることが声の小ささでわかります。
ここ台湾でも、大騒ぎしてダサい大陸からの客は現地の人に内心馬鹿にされている模様。
(現地の人の感想による)

今回台湾で、大陸からの団体が至近距離で大騒ぎしていたのですが、
その中のおじさんがが背負っているのがプラダのバックパックでした(笑)
身につけているものは一流品だというのに全くおしゃれに見えないという・・。



台湾の空港などで見かけたキャラクターのクマ。
このいかにも可愛くない感じにくまモンの影響を感じます。

わたしたちは空港に唯一あるノボテルホテルに一泊予約をしていたのですが、
どうやってそこまで行くのかわからず、案内を見ていると、横から男性が
どこにいくのかと日本語で尋ねてきてくれ、ホテルには専用バスがあること、
バスの乗り場がどこにあるかを丁寧に教えてくれました。

「ありがとうございました」

「本当に助かりました」(聞いていなかったら歩いて行くところだった)

そういって歩き出し、台湾の人はいつ来ても皆親切だねー、と言いながら振り返ると、
男性は立ち止まってわたしたちがちゃんと教えたところに行くかどうか見ていました。
慌ててもう一度お辞儀するわたしたち。

前回の旅で、台南駅では成功大学の学生らしい人が英語で話しかけて助けてくれたし、
本当に台湾の人たちは親切です。




「なるほど、はんてんせつばくしゃで行くわけですな」

「かこうしょふとくはんてんせつばくしゃに乗るのね」

台湾に来ると不思議なくらい漢字だけで意味が伝わってしまいます。
面白がって漢字をそのまま読んで楽しむわたしたち。




今回乗り継ぎがなかったので桃園空港に着く便に乗ったわけですが、
ノボテルに一泊することにしたのは、ボストンから飛行機を乗り継いできて、
桃園からさらに市内まで移動するのが大変ではないかと思ったからです。
実際はタクシーに乗っても3000円(日本円)くらいだったことが後からわかりましたが、
しかしそのおかげで、この比較的安価なわりに居心地のいいホテルに泊まれました。

ホテルのロビーではブリキのヤカンや楽器、バケツを使って作った楽隊がお出迎え。



フランス資本のホテルだけあって、インテリアも小洒落た感じがします。
清潔だしインターネット環境は最高だし、思わぬ収穫でした。
台湾のIT技術は昔から国家的戦略によって大変進歩しており、その恩恵で
市民も大抵のところでは無料でインターネットに接続することができます。

そういう国はアメリカだけだと思っていたのですが、インターネット接続に
いちいちお金を取るのはどうやら日本だけだったようですね。
日本ではホテルの宿泊客からですら料金を取るのが普通ですし、スターバックスでさえ
無料でつなげることができないのが当たり前ですが、こういうのは海外から来た人には
日本ほどの国なのにどうして、という部分となっていると思います。



どこに行ってもある程度日本語が通じてしまうのが台湾という国のありがたいところ。
部屋に置いてある案内物も全て日本語表記です。
しかしときどき可愛らしい?間違いがあるので、それを見つけるのも台湾の楽しみ。

モーにグコール・・・。

彼らにとっての難関はカタカナみたいですね。



さて、というわけで台湾に着いて最初の食事。
いつ来ても嬉しいのは、台湾はどこで食べても食事が美味しいこと。
そして、朝からいろんな種類の料理が食べられることです。

アメリカではどんなホテルでも卵とベーコンハム、シリアルにせいぜい果物、
という日本人の口にはそれだけでは辛い、(しかもパンがまずい)という朝ごはんが
続いていただけに、このホテルの朝ごはんには心底ホッとしました。

わたしは比較的どんな食事にも順応するタイプですし、通常のアメリカ滞在では
外食はほどんどせず自炊ですから平気なのですが、アメリカでは食欲をなくして痩せるというくらい
この手の食事が続くと涙目になるTOは台湾式朝ごはんに大感激しています。



日本では空港ホテルレベルの朝ごはんはあまり期待できないことが多いですが、
ここは空港ホテルといっても、隣に中華航空の本社があるという立地上、
ある程度のレベルをキープしているのかと思われました。

台湾のホテルでは時々見られる、モーニング麺のサービス。
手前のざるに入っている白い塊はビーフンです。
見ただけでは何かわからなかったのでこれはなにかと英語で聞いたらライスだ、というので、

「み?(米)」

とかすかな中国語の記憶を駆使して()聞いてみると少し嬉しそうにそうだと言います。



鉢に麺を盛り付ける様子は手際が良すぎて画像がブレるほど。



「はいよ一丁!」

というわけで端っこから麺が垂れていますが、細けえことはいいんだよ!



麺とビーフンを一つづつ作ってもらいました。



スープの味もあっさりとした、しかしなかなか味わい深い一品で、
TOなど文字通り涙目状態で「おいしいなあ」といただいております。



昔上海にいったときにはとにかくパンや菓子類がまずいと思ったのですが、
同じ中華圏でも台湾はどこにいってもおいしいパンが食べられる国です。
以前泊まった日月譚では、おそらくパリに次ぐ旨いクロワッサンがありましたし、
このノボテル程度のホテルでも日本のホテルよりレベルは上と思われました。

日本のホテルのパン、あれはなんなんでしょうね〜。



ホテルの窓から「航空博物館」という建物が見えました。
本日夜まですることのないわたしたち、これは行くしかないでしょう、
とホテルの人に聞いてみたら、なんと驚くべきことに

「今はやっていない」

道理で駐車場が朝からぎっしりと満車になっていると思った。
付近に務める人たちの無料駐車場にされていたのね。
後から地元の人に聞いたところ、どこかに移転させるためにここは閉鎖するとのこと。

「海の博物館」のように仕分けにあって無期限閉鎖とかいうのでなくてよかった。
なん年後になるかわかりませんが、どこかにオープンしたら是非見に行きたいと思います。



移動の時に見つけたバーらしきものの看板。

「酒泉市は、我々は東アジアで行う」

いったい誰に向けての秘密の暗号なのか・・・!?


続く。


 

われわれはなぜ台湾に行ったのか〜「台湾的扶輪社」会合参加記

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さて、先日から2週間に亘るボストンーニューヨークー成田ー台湾という
無茶苦茶な日程の旅行についてお話ししているわけですが、そもそも
われわれは何のためにこんな日程を組む必要があったのか。

というか、本来ずっとアメリカにいる時期に、わざわざアメリカまで2往復してまで、
台湾になんの用事があったかってことなんですが、あっさり種明かしをしてしまうと、
李登輝元総統の講演に参加し、その前後に一席を囲み個人的にお話しができるという
願ってもないお話をいただいたからでした。


講演会と会談は全く別のところからきた話で、先にTOが講演会への参加を打診されました。

「李登輝先生の講演、アメリカに行っている間だけどどうする?」

「行く」(即答)

「行くって、終わったらもう一回MK(息子)を迎えにアメリカに行かないといけないよ」

「いや、でも李登輝先生はもう今年92歳だし」

「・・・・最後のチャンスかもしれないね」

ということで、我が家は時間的にも費用的にもかなりの無理をして、訪台することにしたのです。
その後、わたしが防衛団体関係の知人に聴講をお誘いしたところ、その方が
講演会の次の日に個別会談を調整してくださるという展開になりました。

李登輝氏についての知識は普通にあるつもりでしたが、じっさいにお会いするとなると
いったいどんな話をすればいいのか・・・。
旅行の準備や教育航空隊訪問など、目まぐるしく忙しい日程の間を縫って、
わたしは何を着ていけばいいかも含めて大変頭を悩ましていたのですが、
読み漁った資料の一つ、小林よしのり氏の「台湾論」における李登輝氏の表現と、
氏と何度かお会いしている方の、

「李登輝さんは話し出したら止まらないほどエネルギッシュにしゃべる」

という話から、おそらくこちらが話さなくても元総統のお話を伺うつもりでいればよい、
と納得したため、あまり会談内容については考えずに当日を迎えたのでした。

92歳とはいえお忙しい方でもあり、別に日を取っていただけるとは思っていませんでしたが、
やはり最終的に「講演前の30分、控え室に来ていただければお会いします」ということになり、
前日にわたしたちは台湾に着くように日程を調整したのでした。


桃園空港近くのノボテルホテルから台北まで車で移動し、講演会場のホテルにチェックインを済ませ、
会談をセッティングしてくれた知人に連絡を取ったところ、衝撃の事実が。

「李登輝元総統は本日体調が悪く、講演会は中止になりました」

「・・・・・・・・・」

_| ̄|◯ ←TO  ◯| ̄|_ ←わたし


いやまあ、92歳ですから、お体のことは全く予測できないこととはいえ、
このためにいろいろいろいろと調整してきたのに、と脱力感でぐったりなるわたしたちに、
その方は

「しかしその代わりに李登輝総統のブレーンであった方が講演されるそうです」

とまだしも立ち直る余地のある情報を教えていくださいました。

確かにがっくりときましたが、実のところかなり緊張していたため、
それがなくなったとたん、少し気が楽になったというか、ホッとしたのも事実。

「あ〜、気が抜けちゃった」

そう言いながらも会場ではどんなお料理が出るかなどといったことに
思いを巡らす余裕も出てきました(笑)



講演は、李登輝氏が名誉会長を勤めている台湾のあるロータリークラブの
年度ごとに行われる会長の交代式で行われることになっていました。

首敲、というのはいかにも「首をすげ替える」といった感じですが(笑)
これが交代式の意味であり、「扶輪社」がロータリークラブです。
音読みすると「ふりん」となり、なんだか不適切な響きでもあるわけですが、
このときに知り合った同志社の台湾事務局で働いている女性の方は

「同志社というと、”何?同性愛?”と言われることがある」

と苦笑していました。
中国語と日本語の違いは時としてこんなことになります。

ところで皆さん、中国語といえば昔少しだけ、
上海に旅行することが決まったので勉強してみた程度のわたしが、
どうして台湾で李登輝総統の講演を聞いたり、現地の扶輪社メンバーと歓談できるのか、
不思議に思われませんでしょうか。

おそらくこのことをいうとほとんどの方ばびっくりするかもしれませんが、
台湾にあるロータリークラブのうちなんと三つの団体は、

日本語が公用語であり、

会合は全て日本語で行われるのが昔からの伝統になっているのです。
台湾に行ったことのある方は、いたるところで日本語が普通に通じるのに驚かれるでしょう。
ホテルなどはほぼ100パーセント、街を歩いていても、わたしたちが空港で遭遇した
親切な男性のように日本語で話しかけてくる台湾の人もたくさんいます。

わたしたち日本人が思っているよりずっと、台湾における日本は密接で大きな存在であり、
日本からの来客を日本語で接遇しようという気持ちに於いてはおそらく世界一ではないかと
わたしたちは何度かの訪台で知ったのですが、さすがにここまでとは・・。

このロータリークラブには、現地の日本企業の社員も参加しているため、
便宜上そういう慣習が続けられてきたのかとも思っていたのですが、
どうやらこれはさかのぼること戦前の、日本が台湾を統治している時代からの流れではないかと
わたしはこんな話を聞いて思った次第です。

それは、このブログでもなんどもお話ししたことがあり、映画「KANO」でも語られた
鳥山頭ダムの設計者、八田與一がロータリークラブの会員であったという事実です。
台湾におけるロータリークラブ活動については今回わかりませんでしたが。




当ホテルの宴会場はこの扶輪社の毎週の会合が行われており、
李登輝総統が私的にも訪れるレストランがあるそうです。



当クラブは台湾と日本の親善をも目的としているわけで、
開始の「四つの誓い」(兵学校の五省みたいなもの)を日本語で唱えた後、
台湾の歌を一曲、日本の歌を一曲歌います。

TOの属するクラブには専属のピアニストがいて伴奏をしていましたが、
ここではカラオケを流して1番を歌ったらいきなり音を切ってしまうというものでした。

日本側の歌は「涙そうそう」でしたが、なぜこの曲なのかは謎でした。



当クラブにはお揃いの緑のジャケットを着て参加するという慣習があります。



このイケメン(もちろん台湾人)が本年度のクラブ社長、つまり会長。
皆日本語でスピーチをされるのですが、日本語の能力についてはいろいろです。
しかし、いずれにしても日本統治下の日本ならともかく、現代の台湾で、
これほど外国語でスピーチをできる人がしかもたくさんいるというのがすごい。

中国語はたくさんの発音の因子を含むため、中国語を母語とする人は
3ヶ国語くらいは楽に話すことができると聞いたことがありますが・・。



このときに配られた、前年度の李登輝総統の講演の様子。
さすがに文章まで日本語で書くのはちょっと無理らしく、すべて中国語ですが、
李登輝先生の講演のタイトルだけは日本語となっていました。

「台湾の主体性を確立する道」

写真は去年の同クラブでやはり会長交代式のときに行われた講演のときのものです。

李登輝元総統の講演の代わりに行われた鄭世松先生の講義も勿論日本語で行われました。

86歳で、生まれてから16年間日本人であり、さらには戦後東京大学に留学して
日本で働き、日本女性を妻にした先生の日本語はほぼ完璧で、後にご挨拶させていただいたところ、

「つまらない話をくだくだいたしまして」

などと恐縮しながら謙遜するあたりも、日本人らしさを感じさせる方でした。

先生の講演については、また項を改めてお話させていただきたいと思いますが、
とにかく李登輝氏の講演が聞けなかったことの無念さは、
その素晴らしい内容のおかげですっかり払拭されたやに思われました。

払輪社の恒例行事が恙無く終わったあとは、お待ちかね歓談タイム。
あたりまえですが、台湾の宴なので中華料理です。


驚いたのはわたしの所属するいくつかの防衛団体に限らず、ロータリークラブなど
日本人の団体が行うパーティのように皆知り合いとだけ話すのではなく、
このクラブでは次々と新しい人が挨拶にやってくるのです。
日本企業を相手に仕事をしている会社の社長などが多いのでそれも当然ですが、
その積極的なのにはびっくりしてしまいました。

わたしなど、あっという間に自分の名刺が無くなってしまったほどです(T_T) 

同じテーブルの台湾人ロータリアンは、一人は弁護士、一人が化粧品会社の社長。
共に次の日の便で日本に行くことになっていて、飛行機まで同じでした。
彼らが日本語での会合を週一回のわりで続けている理由のひとつに、日本での仕事のため
語学力をキープするという意味もあるのではないかと思われます。



わたしの知人はご夫婦での参加でしたが、筋金入りのお酒好き。
奥様はとくに紹興酒がお好きで、台湾では紹興酒の年代物を買って帰られるそうです。
ここで出されたのは三年ものなので、レモンを外から握って中身を潰し、
ボトルの蓋を差し込んで紹興酒に注ぎ入れていました。



会の最後に、李登輝氏の秘書が元総統の欠席を詫びる挨拶をされました。
李登輝氏の秘書、H氏は(何人かいるのかもしれませんが)日本人です。
われわれと元総統の個別面談を調整してくださっていたのもこのかたなのですが、
今回の欠席については体調不良ではあるが今日だけのことであるという説明をされました。


ところで、わたしたちは李登輝元総統にお土産を日本から郵送させていました。
「傘」です。(選んだのはTO)
この傘、ただの傘ではなく、日本の職人技術の粋を集めたとでもいうべきもので、
決して壊れない、そして軽い、一振りすれば濡れた傘も瞬時に水を弾く。
車に濡れた傘を持ち込む時の不快感を軽減する機能なので、例えばレクサスでは、この傘を
車の購入者へのプレゼントにしていて、わたしたちは「L」マークのレクサスバージョンを
一つ特別に売っていただき、レクサスではない車に乗せて使っています。

この会社の社長に、御社の傘を李登輝氏へのプレゼントにしたいからと相談したところ、
社長は張り切って、特に軽さを売りにした開発中のモデルを、
「李登輝モデル」として前倒しして完成させ、台湾まで送ってきてくれたのでした。

これほどの気合の入った渾身のモデル、ぜひご本人に直接お渡ししたかったのですが、
今回は秘書の方に預かっていただくことになりました。


そして、最後にこんなニュースを発表されました。
7月21日から数日間、李登輝元総統が来日するというものです。

【台北=山下和成】台湾の李登輝・元総統(92)の事務所は8日、
李氏が21~26日の日程で日本を訪問すると発表した。
訪日は昨年9月以来で、東京、福島、宮城の3都県を回る予定だ。
東京での講演のほか、李氏がかねてより希望していた東日本大震災の被災地も訪れる。

李氏の訪日は2000年の総統退任後、7回目となる。
東京では22日に国会議員会館、23日に外国特派員協会で講演する。
24日には福島県郡山市の病院で先端がん治療の現場を視察する。
宮城県では25~26日に松島町の瑞巌寺のほか、岩沼市にある震災の慰霊碑を訪れる予定だ。


秘書の方は「明日メディアに発表する」とおっしゃっていたので、
わたしたちはこのニュースを世界で一番早く知ったことになります。

日本側で行われる歓迎レセプションでは、わたしは在米中なので行けませんが、
TOが参加して、元総統にご紹介していただくことになるでしょう。

中止となった講演はまた行われる予定なので、また訪台してでも参加するつもりではいますが、
その前に李登輝氏が日本でされる活動、特に国会会館でどんな講演が行われるのかを、
注視していきたいと思っています。


 

 

ボストンの朝

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最近コメントへのお返事が全くできない状態が続いておりました。
皆様方には衷心よりおわび申し上げるしだいです。
理由は三つあって、アメリカに来た途端gooブログの編集画面の不具合で、
一行打つのになぜか数分かかってしまうこと(今も文字が出てこない(−_−#)。

二つ目は自分のブログなのになぜかコメント欄にアクセスできないこと。

三つ目は前にも告知したように、西海岸まで二往復、間に台湾行きを挟む強行軍で
その間ホテルのベッドを温める間もなく毎日移動か観光が続いたためです。

しかも台湾から帰国して二回目のボストン行きまで日本で数日過ごしたのですが、 
その間あまりの湿度の高さに参ってしまいました。

実はわたくし、ここ15年、日本でこの季節過ごしたことはなかったんですね〜。



ところで、日本に帰ってきた次の朝、いつも遊びに来る猫たちがお迎えしてくれました(笑)
サバ猫の方はすぐに私を思い出しましたが、お年寄りの黒は少し時間がかかり、
私の顔を見てからふーっと目を閉じてしばらく瞑目し、やおらかっ (`ФωФ')と 目を見開いて
思い出した!という顔をしました。

「リロードに時間かかったね」

「ダウンロードの時最後の1パーセントですごく時間かかることあるけど、あれみたい」

猫にとって2週間は人を忘れるに十分な時間である模様。
今度は1ヶ月だから、おそらくまた帰ってきたころにはすっかり忘れてるのかも・・。

というわけで、短期間の間に全く同じ慈間初の鶴丸航空の同じ便に乗ることになりました。



これは台湾初の鶴丸便のコクピットだったと思います。
今回の台湾訪問で、台湾の人たちがいまだに日本の災害について心を寄せ、
実際にボランティアに来てくれていることを知りました。
本当にありがたいことだし、もし台湾に何かあったら、日本人は何をおいても
この友人に救いの手を惜しみなく差し伸べるであろうと確信しました。



成田のサクララウンジは二つあって、前回のはこれとは別のゲートのです。
こちらのは上階にレストランがあり、セルフサービスでちゃんとした料理が食べられます。



メインはカレーかマーボー丼かチキンのトマト煮込み。
もちろんその全てをいただいても構いません。

わたしは食事をしたらすぐに下の階にいってパソコンを広げたのですが、
ここでご飯を食べてから落ち着く人が多いらしく、何度も

「レストランのフロアが人でいっぱいになったので、休憩は下でやれ」

というアナウンス(もっと丁寧ですが)が流れていました。



下の階の方がフロアは広く、仮眠用のベッドまであるんですがね。
ちなみにこのベッドのコーナー、扉がありませんでした。
ここだけの話ですが、仮眠以外の目的に使われることを懸念しての対策だと思われます。

ところでこれで思い出したのですが、わたしは先日、HULUで「エマニエル夫人」
という映画を見てしまい、激しく時間の無駄をしたと後悔しています(笑)
そして”この映画は映像が綺麗だから女性も観れる”みたいなことを言う人に、思わず真剣に

「お前は何を言っているんだ」

と詰め寄りたい気持ちになりました。
まあ、世の中にはいろんな性道徳の基準が存在するわけですが、それらの是非はともかく、
あの主人公って、要は単なるニンフォマニア(病気?)ってことだったんじゃ・・。

飛行機の中で立て続けに二人の見知らぬ男とほにゃららすることが平気な女が、
タイの娼館みたいなところで襲われてなぜか悲鳴をあげる、(でもすることはする)
人種差別者なのか?と思ったら同じタイ人のキックボクサーと衆人環視の中行う、
って、もう映像以前の問題で、このシチュエーションにドン引きですよ。


後天性免疫不完全症候群、エイズのパンデミックは1981年以降なので、
もしそれ以降であればこんな映画絶対に公開されなかったでしょうし、
なまじのAVなんかより、道徳の観点でいったらよほど不道徳って気がしました(感想)



などという話をしようとは全く思っていなかったのですがつい(笑)

この日日本は朝から猛烈に蒸し暑く、台風の影響で雨が降ったり止んだりの1日で、
中国に向かう便は台風の影響によっては帰ってくるか、あるいは
仁川空港に着陸するというようなアナウンスがされていました。
アメリカへの空路に影響はまったくないようです。



ラウンジ前ではこれから離陸する飛行機への準備が一部始終見れました。



前方からご丁寧にも雨よけのカバーをつけたコンテナが積まれていましたが、
これが前回伺った、「ラウンジ使用クラス以上のラゲッジコンテナ」でしょうか。



というわけで、またもや和洋三種類の選択の中から似たような機内食を食する羽目に・・。
久しぶりに和食をいただいてみることにしましたが、はっきり申しまして、どれも微妙。
ここだけの話、成田ー台湾のコーチで食べた機内食の方が気のせいか美味しかったような気が・・。



しかし、いつも感心するのはとりあえずご飯が大変美味しいこと。
レンジで解凍したものではありえないふっくらした噛みごたえです。



前回と今回では微妙にメニューが変わっていました。
フリークェントパッセンジャーのための配慮でしょうか。
デザートはパンナコッタと一緒でしたが、上のゼリーは前回と違いグレープフルーツです。



今回は9回連続のテレビドラマを全部見るという愚を犯すのはやめて、
「アリスのままで」の続きを見て、(アルツハイマーって怖い・・)
eブックで「銀の匙」を三巻だけ読んで、あとは寝ていました。

疲れもあって、珍しく機内で何時間か続けて寝ることができたのですが、
目が覚めてアイマスクを外すと、隣の席の男性が開いているPCが見えてしまい、
その内容から、彼は今からボストンで学会を行う内科医であることが判明。

今回は一人なので、隣にどんな人が座るか少し不安だったのですが、
席を立つ時に脚を乗り越えるのも一苦労するようなでかいアメリカ人男性ではなく、
小柄な日本人で、しかもお医者さまであったので何か嬉しかったです。

いや・・・なんか安心じゃないですか?飛行機で隣が医者って。



しかし、最近では飛行機や列車での「お医者さまはおられませんか」コールに
名乗りをあげる医者はめったにいなくなったという話をききました。
理由は、専門外の疾患であった時に対処できないことと、何と言っても
処置を巡って、あとあと法律問題に発展する危険性があるからだそうで。


そういえば晩年の田宮二郎は、「白い巨塔」の財前五郎になりきりすぎたのか、
ドクターコールに名乗りを上げて周囲を唖然とさせたという話を聞いたことがありますが、
現実の医者ははるかに保身的で、少しでも面倒に関わりたくないという傾向なのかもしれません。

ちなみに、見えてしまった論文の表紙でわかったのですが、
隣の医師の苗字は偶然わたしと同じでありました。



というわけで12時間のフライトの後、ボストン到着。
不思議な地形ですが、これゴルフコースであるようです。



何度もしつこいですが、ちょっとこれだけ言わせてもらっていいですか。

2度目の機内食は、自分の好きな時にオーダーすることになっているので、
オーダーストップのギリギリの時間に和食を(洋食がなかったので)頼んだのですが、
これが前回にも増して美味しくないんですよ。

見かけは確かに美味しそうに見えるんですが、れんこんのはさみ揚げは変な歯ざわりだし、
その横にある得体の知れない肉は味が全くないし、後ろの菊のお浸しは
何が入っているのか食べたらビリビリと舌が痺れるという不思議な調味。

案の定一番マシだったのが白飯と漬物だけだったという・・。
まあ、常日頃から機内食に決して期待はしていませんが、ただでさえ食欲がないのに、
これではなあ、とげんなりして、申し訳ないのですがほとんど食べられませんでした。



ボストンの空港は端っこがヨットハーバーだったりするので、
こんな光景を見ながらタキシングしていくのですが、この海岸沿いのお家は
眺めはともかく騒音に関してはどう対処しているんだろうかといつも不思議です。



着いた途端、蒸し暑く不快な日本にいる皆さんに申し訳ないくらい、
爽やかな空気に生き返った気がしました。
今ボストンは「ベストシーズン」だと鶴丸のパーサーもアナウンスしていましたが、
このとき当地は19度くらい。
今これを空港ホテルで(苦労しながら)製作しているのですが、クーラーは全く必要ありません。
もっとも、アメリカ人は日本人と皮膚感覚が違うらしく寒いくらいクーラーを強くするのが
デフォなので、下のレストランではあいかわらず寒いなと感じましたが。

空港のホテルにチェックインしたときに、フロントの女性がわたしの名前をたどたどしく読んで、

「◯◯◯・・・・ふーん、クールね。ファーストネームは◯◯◯・・・クールね」

と何かわかりませんがクール攻撃をしてきました。
彼女によると

「日本語の響きはとってもクール」

なんだそうです。
よくわからないけど喜んでおこうっと。
こんな風に考えるアメリカ人も少なくないみたいなので、みなさん、間違っても、アメリカで
「レイチェル田中」とか「エドワード鈴木」(あ、実在した)とか名乗らないほうがいいですよ。



さて、朝からテレビのニュースを見ておりますが、ボストンのキー局のキャスターは
西海岸と違って全員が見事にコケイジャンで占められております。
女性のキャスターはメインが必ずブロンドで、現場に出るアナウンサーも白人。
たまーにアフリカ系がいるくらいで、アジア系はまず見ることはありません。



朝から繰り返し放送されているニュースは、テキサスの海兵隊軍施設で
テロリストの銃撃により4人の海兵隊員が死亡したということ。

 

銃撃の犯人はやはりというか、「モハマド」な人でした。
しかし彼はアメリカに生まれ育ち、テネシー大学を卒業しているそうです。

ボストンで報道されているのは、亡くなった4人のうち一人が、
ここボストンの内陸にあるスプリングフィールドの出身であることで、こういうとき
地元出身の被害者だけは名前と写真を公開する習慣があるのかもしれません。

この日は、町のあちらこちらにある国旗が皆半旗になっていました。



こちらは間抜けだけど笑うに笑えない事件。
モールで万引きした犯人が逃げるために高いところから飛び降りたところ、
下に通行人がいてぶつかってしまったという話。
両者の生死についてはわかりませんでした。



日本人のわたしとしては、お、と身を乗り出してしまったニュース。
日本政府が東京オリンピックの新国立競技場の案を「ゼロベース」にしてやり直す、
という決定をしたということが報じられていました。

民主党の議員が国会でいいネタとばかりこの件を非難したら、それは案の定
民主党政権時代に決めたという大ブーメランだったことが話題になりましたが、
民主案だからこそ自民もこの対応に踏み切る決定を下すことができたのでしょう。



アメリカがこのニュースに注目するわけは、ボストンは2024年のオリンピックに
立候補する予定をしているからです。



ボストンオリンピック。なんか良さそうですよね。
なんだかんだいっても土地もあることだし。

ところで皆さん、日本の報道は今、マスコミの「強行採決」という印象操作、
そしてどこの国の報道機関かと思われる中韓寄りの発言者だけを出してくる偏向ぶりで、
あたかも発狂したかのような紙面ばかりという眼を覆うばかりの状態になっていますが、
ここアメリカでは、日本が安全保障法案で集団的自衛権を行使できるようになったことなど、

全く報じられておりません(笑)

なぜって?
そりゃ普通の国が持っているふっつうの権利が行使されるだけだからじゃないかなあ(棒)

どこぞの民主党議員は、審議拒否をしておきながら説明が足りないとほざき、
マスコミが騒ぐものだから、今や自分たちが多数派だと思っている(思ってしまうんでしょうね)
ようですが、前回の選挙は安全保障の改正込みで信を問われたものではなかったのかね?


法案成立後、わかりやすい人たちが強行採決ガー、と騒いでいますが、
審議拒否や、何度も何度も説明されていることをわからないふりしておいて、
マスコミが報道しないのをいいことに「説明不足だ」とはどの口がいうのかって感じですわ。

まあ、最後は全員が立ち上がって「全会一致で決まったわけだから(笑)
少なくとも今回「強行採決」と煽っても、国民は騙されないと思うし、むしろ
審議から逃げてパフォーマンスに走った野党の姿勢には厳しい目が向けられると思います。


日本人をあまりなめたらいかんよ。

 


おまけ*

駐車スペースがなかったのでこんなところにて駐めてしまいましたの図。
これ、ショッピングカートを置いておくスペースですよね? 
さすがアメリカ人、豪快だ。っていうか、どうやってドアを開けたのか。
あ、開けられないから窓から出ましたって?


 

「宗谷」〜ヘリ搭載艦のさきがけ?

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冒頭写真を見て、思わずタイトルを二度見してしまった方、
あなたが見ているのは確かにお台場の船の科学館脇に繋留されている、
「博物艦」宗谷の見学記で間違いはございません。

 前回、前々回と「宗谷」の誕生からその歴史までを(それでも駆け足で)語る必要があった関係で、
今日からはようやく艦内の様子をお伝えするところまできたわけですが、



入ってすぐ右側に、「機関長室」があります。
機関長とは文字通り機関部のチーフです。
まるで応接室のようですが、とりあえずベッドなどもあって、
完璧にプライバシーの保障された個室となっています。

砕氷艦時代、船長、機関長、そして航海長だけは個室がありました。

で、ここに海保の制服を着た機関長のマネキンが置かれているんですが、



男前なんだよこれが。(力いっぱい)
目つきが鋭くて「お前は何を言っているんだ」って風ですが、ポーズも含めて
むちゃくちゃかっこよくキメています。

冒頭写真は機関長があまりにもイケメンなのでつい画像加工してしまいました。



ついつい目を凝らして見てしまうのは、これらの展示品が、おそらくは本物の、
砕氷艦時代にここにあったちょうどであり備品であるからです。

立てかけられている本はタイトルを確認すると造船協会編纂による
「船舶工学基礎」と「船舶工学便覧」の二冊。

壁際の図面入れには「図面目録・機関の部」とあり、緑の書類ケースの中には

「二号救命艇機関」「油水分離装置」「廃油焼却炉」

の図面が納められていた(多分今も)ようです。


油水分離装置とは、船舶から海洋に排出する油の規制に対応して備えられているもので、
ビルジ(船底に溜まる水垢)を排出することは少量で航行中なら、

油水分離装置を備えていれば可

となっています。
平成19年には法律が改正されて、環境保全の観点からこの規制が厳しくなり、
南極ではどんな条件でも排出不可となったようです。

余談ですが、南極海域の環境汚染については、「宗谷」にも油水分離装置があったように
世界が神経を払っているわけですが、現在進行形でこんなことも起きています。

シーシェパードとグリーンピースによるテロと海洋汚染の実態




入って左側にはキッチンがありました。
中華料理屋でチャーハンなどが乗って出て来そうな模様のお皿が
これから盛り付けをするという設定か、並べられています。

ここは「士官用調理室」ということです。
海保も警視監(佐官)、保安正(尉官)クラスを士官と言うのでしょうか。



キッチンの窓と給水器。

そして、そのキッチンに隣接している部屋には、



士官食堂という金色のプレートがあります。
このプレートは、木にねじ止めで取り付けてあることから、かなり古いものでしょう。

前回、少し創立当初の海保と海自の関係についてお話ししたのですが、海保創設時、
つまり昭和23年当時は、海軍兵学校出の元軍人たちはGHQによって公職追放になっていたため、
海上保安庁には商船大学などを出た、いわゆる予備士官が主体となっており、
そのこともあって海保と海自の間には齟齬が生まれたという説もあります。

組織同士のセクショナリズムもあったでしょうし、なんといっても当時は
下手すると海軍(海兵出)への恨みを持っている(かもしれない)組織でもあったわけで。



ところでさっき知ったのですが、海保の上部組織が国土交通省だったって、ご存知でした?




この部屋は昔軍艦「宗谷」であったころには「士官室」だったのか、それとも
「第一士官次室」(いわゆるガンルーム)であったのか、ってことなんですが。

海軍では食事や休憩をこういうところで行っており、専門の「食堂」があったわけではないので、
ここはどちらかの士官室であった可能性が高いのですが、それではこの

「士官食堂」

のプレートがいつつけられたものなのか。
海軍時代ではなく、復員船時代でもないとすれば、灯台補給船となったとき、
すなわち海保の船となった時ということになるわけです。

「士官」という名称が海自ではリアルに残されて使われているわけですが、
海保はどちらかというと海軍的残渣に反発する立場から、こういう言葉は残さないのでは、
とわたしはイメージから勝手に想像していたので、どうもこの辺がよくわかりません。

どなたか、海保での「士官」という言葉の残存についてご存知の方おられませんか。 


さて、写真の士官食堂には、ペンギンの置物などがあって和みます。
奥の賞状は「宗谷」の乗員一同に対して出された感状。

 


右手には昭和40年代製ではないかと思われる古い型のテレビ。
ホワイトボードが冷蔵庫の前に置かれていますが、この部屋では
砕氷艦になってから、観測員の会議室となっていました。

汚れやすいのにテーブルクロスも椅子カバーも 白であるあたりが、
清潔整頓を旨とする海軍の綺麗好きを継承しているようです。



時計はいつのころからか動きを止めていました。
額の「宗谷」という時は、観測船となってから艦体に記された船名文字です。

この壁の向かい側をかなり無理をして覗き込んだところ、壁には
テレビドラマ「南極大陸」の大きなポスターが貼ってありました。

「南極大陸」は木村拓哉がなんと東大出身の越冬隊副隊長だったり、
残された15匹の犬たちがドラマを演じたり(友達を気遣ってクレバスに落ちて死んだり)
するという、なんというかもうそれだけでお腹いっぱいのしかもTBSドラマです。

本家?の「南極物語」は大ヒットしたということですが、こちらの方は
2011年とタロジロブームから時が経っていたせいか、視聴率も18%どまりだったそうです。



部屋の右手奥には南極大陸だけの大きな地図が。
これでお掃除しているらしいハンディモップが邪魔です(笑)



時計の上には傾斜計。



中から上の階に行く階段もありましたが、立ち入り禁止でした。
木の階段のように見えますが、素材は鉄です。



そしてこの、イケメン機関長の部屋に飾ってあった飛行機の模型。
これは搭載されていた シコルスキーS58型です。
このおにぎりのようなシェイプは、空母「ホーネット」上やアメリカの航空博物館で
見覚えがあり、「チョクトー」という名前がすらりとでてきました。

「宗谷」は南極で実際に氷に閉じ込められるということがありましたが、
そういう事態を予測して第一次からヘリコプターと固定翼機を搭載していました。

第1次、第2次までは固定翼機1機、へり2機でしたが、第3次派遣のときから、

固定翼機1機、ヘリコプター4機(ベル47G型×2 シコルスキーS58型×2)

を搭載するために、甲板を大きくする改装工事を施しています。




これが「宗谷」の艦尾です。
なんだか戦時中に空母に改造された徴用船を見るような”取って付けた感”が拭えないのですが、
それもそのはず、第3次観測隊の出港前に甲板のこの部分を増設しているんですね。



ちなみにこれが甲板ですが、ヘリコプターを駐機するためのラインがみられます。
最終的に固定翼回転翼あわせて5機を搭載していたので、これはもう立派な
ヘリ空母であり、のみならずセスナも離発着したという噂があります。

正規空母の定義とは、

垂直離着陸しないCTOL固定翼機の運用を想定して建造された空母

というものなので、セスナを通常の距離で離発着できるCTOLではなくSTOL
(短距離離発着機)だと考えれば、おおまけに負けて軽空母と呼んでもいいような気がします。
ちなみにどこかのヤフー知恵袋で、空母の定義について

「広意義での空母となると部隊として一定の戦力単位の航空機を海上で運用出来ること」

といっている人がいましたが、戦力を有するかどうかはとりあえず「定義」されないため、
セスナだろうがなんだろうが、固定翼を運用していた「宗谷」は空母と呼んでもいいのでは?


そうか、海保は海自に先駆けて実は空母を持っていたのか!



・・・といいたいところですが、実は種を明かすと、「宗谷」はデリックを搭載しており、
氷上や雪上、水上に飛行機を下ろして、それらはそこから飛び立ったのでした。
世界の海軍でのヘリ搭載艦の運用は1960年から始まったということなので、
「宗谷」は少しだけその先を行っていたといってもいいかもしれません・・よね?

 



続く。


 

ニューヨーク、ニューヨーク〜旅しながら写真を淡々と貼る

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ニューヨークは初めてではありません。
ボストンに住んでいたとき、目的もなくふらっと旅行にきたことがあります。

当時はまだ「グラウンド・ゼロ」と呼ばれていた911の、ワールドトレードセンター跡を
お金を払って観るツァー(中に入れてもらって見学台みたいなところから写真を撮るだけ)
で見学し、ウォルドーフアストリアでお茶を飲んで、寿司◯でおばちゃんに嫌な目に遭わせられ、
ブルックリンブリッジを見て、エンパイアステートビルの屋上に登り、自由の女神を観て、
ついでにジョン・レノンが撃たれた現場を見てきました。

ツァーに参加したわけでもないのに、典型的なおのぼりさんコースの王道を行ったわけですが、
それはそれで、この街の片鱗くらいはわかった気になっていました。

しかし、そのときと今回とで大きく違ったのは、交通手段。
アムトラックという都市間を結ぶ電車(ぢゃないのか・・・とにかく列車)だった前回と、
車での移動だった今回では、見える景色も随分違いました。



ノーウォークのホテルは高速乗り口のすぐ近くだったので、幾つかの分岐をやり過ごせば
あっという間にハドソンリバーを渡り、いつの間にか川沿いを走っています。

アムトラックでは見ることはなかったのがこのハドソン川で、わたしは
写真に見える河にかかっている橋を見るなり、

I'm just taking a greyhound on the Hudson river line
cause I'm in a New York state of mind.

という、ビリージョエルの曲の一節を思い出し、口ずさんでしまったのでした。
この歌詞の「ハドソンリバー・ライン」というのを、今まさに走っているところです。

「グレイハウンド」というのはアメリカ最大のバス会社ですが、転じてバスのことを
「a grayhound」と名詞扱いで言ったりするのです。
今回、ハドソンリバーラインでグレイハウンドは見なかった気がしますが、
長距離バスは1日に何本も走っているものと思われます。



ニューヨークの中心街に行くには、このように、右側はハドソン川、そして左に
いわゆるハーレムがまず出てくると、あとは高層ビルが連なるニューヨークです。



ハドソン川をこのまま少しだけ下って行くと、河口にはあの「松明を持ったレディ」が立っている
リバティ島、アメリカ人の5人にふたりが、そこにある移民局を通ってきた先祖を持つという
エリス島、沿岸警備隊の置かれていたガバナーズ島があります。



ここからは、それらの島を巡るクルーズツァーが出発しています。



ハドソン川の対岸は、ダウンタウンから離れたところなので、ベッドタウンとなります。
しかし、川のこちら側に住むのと向こうに住むのでは随分ステイタスが違う模様。

「セックス&ザ・シティ」で、主人公のキャリーが自分でへし折った()携帯電話を再発行したとき、
ナンバーがマンハッタン島居住を表す「3で始まらなかった」からといって、

「わたしは”3”の女よ。違う番号から始まる電話なんて持たないわ」

みたいなことを言っていましたが、(あの主人公たちのスノッブなことといったら)
まあそういうことなんでしょう。



この道はハドソンリバーの横を走っている道路です。



外国人が日本に来て驚くことの一つは大都市が清潔、ということですが、
住んでいるものの目から見たら、どこが綺麗なの?と思うこともあるかもしれません。
しかし、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロス、パリ、ロンドン、モントリオール、ローマと、
一応先進国の大都市に訪れた経験のあるわたしに言わせれば、東京の清潔さは異常。
もちろん香港、台湾、上海や南京などは「問題外の外」です。

どんな都市にも、大都市ならではの繁栄の澱のような部分がそこここに蓄積していたり、
上の写真のような工事中だから仕方ねえだろう、と言わんばかりの
実にお見苦しい光景が展開していて、その雑さは目を覆うばかり。

日本では普通にある「工事中のお詫び」みたいな看板を今回ニューヨークで見ましたが、
ご迷惑をかけているお詫びをする気など全くないのが、これを見てもよくお分かりでしょう。



時間によっては大渋滞になるニューヨーク市街。
その中をぶいぶいと走り回っているのがイエローキャブ。
今回ちょっとした発見だったのは、「ニューヨーカーの運転は粗い」ということです。

総じてサンフランシスコもボストンも、アメリカ人の運転は大胆です。
高速道路がどこもまっすぐで広大なせいか、制限速度が日本のように低めに設定されていないせいか、
一旦フリーウェイに入ったが最後、親の仇のように飛ばすのが普通。
しかし、ニューヨークに入る道では、さらに一番右車線で時速100キロで走っていても、
左2車線ではブンブン車が追い越していくほど皆が普通に飛ばします。
追い越し車線に入ったら最低でも120キロ出していなくては後ろに「渋滞」ができます。

それだけならいいのですが、皆車間距離を取らない(笑)

わたしは決して慎重すぎる運転をするわけではなく、周りの流れに合わせた、
空気読む運転を常に心がけているつもりですが、高速の車間距離だけは広くとります。
日本でさえ、今乗っている車の自動制御機能がとってくれる車間距離で走っていると、
前の車と全く同じ速度で走っているのに、間に割り込んで来る”いらち”な車があるのですが、
ここであの車間距離を取って走っていたら、後ろからマジで怒られてしまいそうです。

今回も走行中、なんども後ろの人の顔がバックミラーではっきり確認できるくらい接近され、

「よくこんなので皆事故を起こさないなあ」

と思っていたら、やっぱりNYまでの三往復中、車間距離が原因と思われる事故を
3日の間に2回目撃しました。
みなさん、後ろにどんなに煽られても、車間距離は取りましょう。



渋滞した車が信号で渡りきれずに横断歩道の手前にいるの図。

通りの突き当たりにあるのがタイムズ・スクエアです。
「H&M」のロゴが大変目につくところにありました。



街角にあった謎のペイント。
猫の形のステンシルには天使の羽と輪っかの書込みがあり、
さらに上には

「He's sick. I'm twisted.」

と謎の暗号が・・・・・。



様子がわからないのでオンラインでパーキングの予約をしました。
右角に見えている機械式の駐車場なのですが、これが高い。
都合三回ダウンタウンで車を停めましたが、最低料金が38ドル。
今は円安なので車を止めるだけで4200円は必要ということになります。
日本で一番高いのは表参道付近のパーキングだと思うのですが、おそらくニューヨークは
世界で一番駐車料金の高い都市に違いありません。



ロックフェラーセンターの一角にある「ラジオシティ・ミュージックホール」。
1932年に作られたアールデコ建築のホールで、エミー賞などの授賞式も行われます。



ラジオシティの道を挟んで向かいにあるここもロックフェラーセンター。
そもそもロックフェラーセンターというのは、5番街と6番街にある複数のビルの総称です。
クリスマスには巨大なツリーとスケートリンクが作られ、市民を楽しませています。



ニューヨーク近代美術館の前の道ですが、工事中。
いつ来てもどこかしら工事中というイメージがあります。
労働の場の確保みたいな意味があるんでしょうか。



イエローキャブの群れと「ミニオンズ」の看板はよく似合う(笑)
市中観覧バスも大盛況。
バスの後ろに各国の旗が書かれていますが、ハンディフォンでも貸してくれるのでしょうか。



ミニオンズ看板もう一丁。
日本でも7月30日に公開されますね。
日本ではあまり人気がないみたいですが、アメリカでは何か人々の琴線に触れるものがあるらしく、
あっちこっちでキャラクターグッズも発売されています。



アメリカのおデブ女優、コメディエンヌのメリッサ・マッカーシーの新作。
これ、日本では多分公開されないと思いますが、見てみたいです。



ニューヨークのバスも、動く広告としていろんなペイントがされていますが、
ミュージカルの宣伝バスも多いです。
わたしたちが今回見たのはこの「オペラ座の怪人」と「シカゴ」。

バスの向こうにある店はディスカバリーショップです。
テレビのディスカバリーチャンネルがプロデュースしている面白グッズ屋で、
昔はボストンにもサンフランシスコにもあったのですが、ネットでの販売網が発達したからか、
何年か前に一挙に閉店してしまいました。
ここニューヨークのは旗艦店なので、生きながらえているようです。



ああここか、とちょっと感動してしまった「バードランド」。
ジャズのスタンダードの名曲で

「ララバイ・オブ・バードランド」

というのがあるのですが、「鳥の国の子守唄」ではなく、ここのことです。
マンハッタントランスファーにも「バードランド」がありますね。

Manhattan Transfer Birdland



階段を降りていくと憂さを忘れる・・・どこ? バードランドさ
スイングとバップがそこでは王様・・・どこ?バードランドでは
バード(チャーリー・パーカー)が料理し、マックス(ローチ)が見れるよ・・バードランドでは
マイルスが来たこともある、トレーン(コルトレーン)も来たよ・・どこ?バードランドに
(カウント)ベイシーが吹く、(アート)ブレーキーが吠える・・どこで?バートランドで
キャノンボール(アダレイ)もそのホールで演奏した・・・・バードランドで!
(わたし訳)



錚々たるジャズの巨人たちが通り過ぎていったこのドア。
演奏予定表をみてみましたが、残念ながらわたしが知っている名前はありませんでした。



立派な建物のピッツェリアの向こうにあるのはホテル「セントジェームス」。



ニィーヨーク市消防署の前を通り過ぎました。
バタリオン9の徽章は、ブロードウェイにある消防署らしく、仮面があしらわれています。

あの911のとき、ビルの内部に勇敢にも駆け上っていったのは消防士たちでした。
彼らは「所々から出火しているだけなので、助けられると思う」と通信し、
煙の中かから人々を誘導するために、高層ビルの上階にたどり着いていましたが、
そのときビルはまるで砂糖菓子のように崩壊し、ビルの人々とともに犠牲になったのでした。

この車庫のシャッターには、あのとき亡くなった当消防署の隊員たちの名前が書かれ、
赤いバラと永遠に彼らを顕彰する文言が刻まれています。



署の前には、消防隊員たち(皆マッチョ)が、休憩に出てきていました。
なんとタバコを吸っているようですね。



画面に映っている人の9割が日本ではDEBUと言われるような体重の持ち主ですが、
決してここアメリカでは珍しい光景ではありません。
ただ、ニューヨークのオフィスワーカーには、これほど野放図に太っている人は
男女を問わずあまりいないので、おそらく観光客だと思われます。



ところで地方の土産というのは全世界基準でどうしてこうしょうもないのか(笑)



朝方、ニューヨーク名物の馬車が路上に待機しているところを通り過ぎました。
新婚さん向けなのか、白い馬車のうしろにはハートのマークが。
それにしても汚れの目立つ白い馬車くらい綺麗にしろよと思うのはわたしが日本人だから?



馬が引いている馬車が歩いているのは今回一回だけ見ました。



ミュージカルは5時に終わるので、それからダウンタウンを出ると、渋滞がこの通り。
皆一斉に街を出て自宅に向かうので毎日おなじみの光景のようです。

これはハドソンリバー沿いの道なのですが、この道路の右側にずらりと並ぶビル、
これは「すべて」トランプ・タワーです。



*おまけ*

喧騒の都会から1時間いくと、実にのどかなノーウォークに到着。
このカメラの看板はホテルの横にあったのですが、「スタンフォード」というのは街の名前で、
西海岸のは「N」ですが、こちらは『M」です。(発音は一緒)

ここアメリカではカメラというとご覧の通りNIKONかCanon、たまにソニー、オリンパス。
道行く人を見ていても、それ以外のカメラは見たことがありません。
ことこの分野に関しては、日本企業がアメリカでの占領軍であるといった状況です。

あれ?アメリカのカメラメーカーって何かあったっけ?




 

イントレピッド海上航空宇宙博物館を訪ねる

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西海岸では、昔海軍基地があったベイエリアのアラメダに、
博物館として係留されている空母「ホーネット」を二回見学し、
長年にわたって思い出したようにお話し続け、ようやく先日それが終了したばかりですが、
この夏は、東海岸で、またしても空母博物館を見てきました。

イントレピッド海上航空宇宙博物館(INTREPID SEA-AIR-SPACE MUSEUM)


です。
空母というのはキャパシティがあるため、係留しておく場所さえ確保できれば
それ自体が博物館として十分機能し、後世に残していくことができるものなんですね。
我が海軍の空母(たとえば加賀とか)だって、何かの拍子で生き残っていさえすれば、
かつての海軍の遺跡として係留展示され、立派に海軍博物館となっていたはずなのです。

・・・あくまでもどこかの平行世界での話になりますが。

ここ現実世界において、アメリカでは(しかも係留する場所がいくらでもある)
ホーネット、サンディエゴのミッドウェイ、テキサスのレキシントン、と、
ざっとかぞえあげたら4つの空母が博物館となって残されています。
空母でない船の博物館を入れると、その数はほぼ無数、ってほどたくさんあるわけです。 

戦争の勝ち負けはこんなところにも如実に表れてるってことですね。


今回、東海岸といっても今までと違ってニューヨーク寄りに宿を取ることになったとき、
わたしが真っ先に検索したのは、軍事博物館があるか、でした。
そこで真っ先に検索にかかってきたのがニューヨークのハドソンリバーに係留されている
空母イントレピッドの博物館、というわけです。

ニューヨーク観光やミュージカルは、あくまでもこの後に思いついたという(笑)

というわけで、満を持して?ニューヨークに向かったわたしたちですが、
勘違いしていたのは、イントレピッドがこんなに市街中心部と近いとは思わなかったこと。
そもそもハドソンリバーとダウンタウンの近さを全く知らなかったためですが、
こんな軍事博物館がある意味マンハッタン観光の目玉の一つになっているのも驚きでした。

「さすが軍事国家って感じ」

TOがこんなことを言っていましたが、軍事国家ならずとも、自国の軍事遺産を、
国が公開し、国民が興味を持つのは当たり前のことではないかと思うんですけどね。



さて、インテレピッド博物館に行くのはとても簡単でした。
ニューヨークへはハドソンリバー沿いの4車線道路をくだってくるのですが、
イントレピッドのあるピアの少し前で高速道路が終了します。
イントレピッドが繋留してあるのを右手に見ながら、駐車場を探すのですが、
機械式の駐車場の順番を待っていると、

「中国大使館か?」

と聞かれました。
そんなわけないだろうが、とムッとして違うといったのですが、
そのパーキングの同じビルに大使館が入っていたようです。 

料金をいきなり38ドル取るし、係員は横柄で、おまけに

「チップよこすなら俺に渡しな」

と当たり前のように要求するし・・。
駐車事情の悪さは大都市の負の面とはいえ、アメリカの場合
これにサービス業のいい加減さが追い討ちをかけて、旅行者には不快感倍増です。

しかし、今日はそんなことをいいにニューヨークくんだりまできたのではありません。
ピア86に向かって歩いて行くと、イントレピッドの姿が見えてきました。



 ファイティング1、とは第一戦隊という意味でしょうか。

空母イントレピッド(USS Intrepid, CV/CVA/CVS-11)はエセックス級空母の5番艦です。
進水は1943年4月といいますから、大東亜戦争真っ最中、対日戦のために投入された空母です。

日本との戦いにおいて魚雷を受け大きな損傷を受けただけでなく、
複数回にわたり特攻機の攻撃を受け、大小の損害を受けました、

西海岸の「ホーネット」と違うのは、終戦となった後も任務を続け、朝鮮戦争、そして
ジェミニ計画への参加を挟んでベトナム戦争にも参加していることです。



艦橋には航空隊の徽章が記されていました。
常時90から100機の艦載機を稼働させていました。



お台場の「宗谷」もそうでしたが、稼働していない船というのは錨を降ろさないんですね。
これを見てわかるように、錨は固く引き上げられたままとなっています。

それにしても空母って、真後ろから見るとものすごくトップヘビーというか、
これはこれなりにバランスが取れているのかもしれませんが、とにかく下すぼまりな感じ?

それから艦尾に突き出した二本のツノのようなものは、どんな機能的な役目があるのでしょうか。



フェンスに書かれたのは、

ハッブル@25 制作に130億年かかった展示です。

というイントレピッド宇宙博物館の宣伝文句だと思います。
ハッブル望遠鏡で見た宇宙の映像のことを言ってるんじゃないかな。
おりしもハッブル望遠鏡は打ち上げから25年周年を迎えたと言いますから。



チケット売り場からは潜水艦が係留されているのも見えました。
どうやらこれも内部を見学することができるようです。



船に沿って入り口を入っていくと、イントレピッドの字の上にブラックバードが・・・・。



と思いながらふとその真上を見上げると・・・・!

これは見間違えようもない、ブラックバードではないですか。
わたしは本物とたまごヒコーキ、どちらものバージョンでブラックバードの模型を持ってます。(自慢)

なんと甲板にブラックバード置いてるってことなんですね。(空母艦載機でもないのに)
これは期待が高まるなあ。



左からスペースシャトル、クルセイダー、ミグ、ブラックバード、ヘリ、コンコルド。
RとEの中段にもなにかいますが、不鮮明でわかりませんでした。
これらは、ここにある展示機のなかの「目玉」とでもいうべきラインナップです。




下から見ると、主にヘリの尻尾が見えてますね。

とこRで、甲板から降りる5段くらいの階段が二つありますが、
これは甲板が離発着で使用中に避退している場所でしょうか。

見学はチケットを買って、船の甲板の高さに作られた階段を登っていき
(もちろんエレベーターもある)甲板レベルから始めることになっています。



階段途中から見る甲板上のブラックバード。
こんな端っこにギリギリに乗っけられていることといい、
後ろの高層ビル街との組み合わせといい、実にシュールです。

イントレピッドがいかに街中にあるかお分かりでしょうか。
ここをまっすぐ行くと、ニューヨークセンタービルがあり、ブロードウェイがあります。



やはり階段途中から見た甲板と艦橋。



甲板レベルに上がってきました。
黒いおにぎり型のヘリ、「チョクトー」がいますね。



甲板に上がってみました。
いまでは完全にここは軍用機展示場となっています。

対空銃座には観光客がいっぱい。
4連装56口径40mm機関砲であろうと思われます。
イントレピッドにはこれが8基換装されていました。



そのすぐ後ろには単座の機銃が。

単装38口径5インチ砲か78口径20mmのどちらか(適当)



甲板に立って見上げる艦橋。
ホーネットの艦橋ツァーのご報告が終わったばかりですが、
またここの見学記も気長にお伝えしていきますのでお付き合いください



柵で覆われてしまって、人間しか出入りできなくなっていますが、
これはわたしの判断に間違いがなければ、艦載機のエレベーターだったのでは・・・。
エレベーターのスイッチが最近できたかのように新しいのは、今ある艦載機を
甲板に乗せるためだけにこれを近年作ったのではないかと思われました。

後からわかったのですが、わたしたちがこのとき見学できたのはラッキーで、
1982年に除籍されてすぐ、「イントレピッド」は航空博物館としてここマンハッタンで
観光名所となっていたのですが、その後まずこの86ピアそのものが老朽化しており、
崩壊の危険があると判断したため、改修工事を行うと同時にインテレピッド内部も
長らく閉鎖していたのです。

工事のためもう少し河口近くのドライドックに満潮の日を狙って移動させようとしたのですが、
長年の係留で土砂が堆積していて、スクリューが川底の泥に引っかかり、座礁してしまいました。

お手上げ状態のなか、船体を解体するという案まで飛び出したのですが、
もう少し泥を浚渫(しゅんせつ)すれば大満潮時に曳航出来ることがわかり、
その後「イントレピッド」はドライドックに無事移送されて、
甲板の改修や未公開部分の改造を経て2008年にようやく再オープンし、現在に至ります。




艦橋横から甲板を後尾に向かって望む。
平日にもかかわらずこの見物客の多さも驚きですが、
甲板越しに見えるマンハッタンの高層ビル街との取り合わせが不思議な光景です。

同時多発テロののときに倒壊したワールドトレードセンターは、
この地点から前の道を15分車で河口に向かって降りたところにありますが、
事件発生後、当博物館は閉鎖され、同事件に関わるFBIの臨時指揮所が置かれていたそうです。





 

EAST TO WEST〜「サックス」な飛行機&ホテル

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さて、西海岸に来たとたんまともに編集面の文字打ち込みができるようになりました。
インターネットの速度を調べると、普通のホテルでも異常に速いのがシリコンバレー。
というわけで、東海岸での最後の日のことをご報告します。



息子の参加しているキャンプの解散が週末の午前中であったため、
二日前にボストン入りし、ボストンからニューヘイブンまで、ノンストップで飛ばしました。
学校近くのホテルに着いた時には、フロント係の

「How are you today?」

に、真面目に

「いやー疲れたわー、ボストンから渋滞の中運転してきて疲れたわー」

と答えてしまったくらい疲れました。



息子を迎えに行く前日、食事のためにニューヘイブンの繁華街にでてみました。
この近辺の駐車事情はそう悪くなく、パーキングのメーターもコインとカード両用です。
次の日は民間のパーキングに入れましたが、1時間で1ドル50という値段にのけぞりました。

ふと目に付いた「グッドネイチャーマーケット」というグロッサリーに入って、
ビュッフェ式のお惣菜をパッケージに取って持ち帰り夕食にしましたが、
後で息子もそこで少し前に夕食を取っていたことが判明しました。
この辺りには「先進的地域の証明」ともなっているホールフーズマーケットがなく、
そのかわり地域のオーガニック系グロッサリーが「意識高い系」のニーズを支えています。



明けて次の日、3週間前に息子をドロップオフした「オールドキャンパス」のロータリーに
親子で打ち合わせした時間に行きます。
学校の指定は「8時から12時までの間」と大変幅広く時間が取られています。



よう、お前行くのか!と別れを惜しむ息子とカウンセラー。
彼らもほとんどが大学生のアルバイトですが、なにしろ三週間同じ釜の飯を喰った仲間ですから。

後で聞いたら、解散式の時には挨拶をしたキャンプ主催者が涙ぐんでいたとのことでした。



来年も来いよー、などと言われております。
息子がレインコートを着ているのは、この少し前に土砂降りだったため。
彼が左手に抱えている紙袋はここで購入した本ですが、



滞在中、自分の本を買うついでに、「戦争コーナー」の写真を撮ってを送ってきました。



「ヘル・フロム・ザ・ヘブン」
「帝国陸軍」「帝国海軍」・・・。

「ママが欲しかったら買っておくよ」

ということだったので、「帝国海軍」をお願いしました。
これがなかなかすごい本だったのですが、これについてはまた後日。



息子と荷物を乗せて、いよいよニューヘイブン大学を後にします。

「楽しかった?」

「うん。最初の1週間は1日が長かったけど後はあっという間だった」

というわけで、彼は来年も同じキャンパスに来たいそうです。



帰りのI-95は大変な渋滞でした。
せっかくなので、息子と大学構内の博物館を三軒はしごして、ご飯を食べたら
ちょうど週末の帰宅ラッシュに引っかかってしまったのです。

前に停まっている犬のマークのバスが例の「グレイハウンド」。
ビリー・ジョエルの歌でもおなじみ、アメリカの有名な長距離バスです。



前にいたトラックの後ろにかっこいいバイクが積んであるなあと思ってふと見たら、



「ヨシムラ」・・・?

バイク乗りならおそらく誰でも知っている(らしい)会社のシールが。
バイクも作っていますが、特にマフラーはブランドのようですね。

ホンダやカワサキだけでなく、バイクという分野で日本の「職人スピリット」とも言える
ほとんどが小さな町工場から始まった技術は、今や世界の走り屋の信奉を集めています。



ナビは当初1時間半と予告をしたのですが、結局3時間かかって、
当夜のホテルのあるウェストボローに到着しました。
昔、何度か来たことのあるリーガルシーフード(ボストンの有名なシーフードレストラン)
で晩御飯を食べることになりました。



久しぶりに来たら、フロアーの4角に液晶パネルのテレビが掲げられ、
4つのテレビが皆違うチャンネルになっていました。
食事しながらレッドソックスやニューイングランド・ペイトリオッツの試合が観れる!
ということですね。

前回まで、毎回お店の人は息子に塗り絵とクレヨンを持ってきましたが、
(それがキッズメニューになっている)今回は無論ありません。



日本人の目には、その辺のご飯屋さんの焼き魚定食(レモン乗せ)にしか見えません。
メインを選んだら、二品サイドがついてくるディナープレート。



息子はスウォードフィッシュ(メカジキ)を選びました。
こうしてみると、こちらもせいぜいファミレスのセットみたいですが、
これでもどちらも26ドルします。

52ドルにタックスが加わり、さらにウェイターへのチップを加えると、
日本なら小洒落たフレンチのランチコース二人分がいただける値段に(T_T)

まあ、高いのは重々わかってはいましたがボストンも最後の夜だしねってことで。



明けて次の日。
国内移動はアメリカン航空です。
アメリカンとデルタというのはどうもアメリカ人の間でも評判が悪いらしく、

「アメリカン・・・・サックス!」

などといわれているそうです(息子談)



タキシングしているときに横の海でジェットスキーをしていた人。



離陸しました。
さようならニューイングランド。



ボストン湾には大変島が多いのですが、今回こんなのを見つけました。
要塞のような城壁があるので調べてみたところ、「ジョージズ島」といい、
要塞に見えるものはやはり19世紀に建てられた要塞の遺跡でした。
この要塞は南北戦争時に兵士の訓練所や南軍の捕虜収容所として、(まじかよ)
また北西戦争、第一次・二次世界大戦時には海からの攻撃防御役を担っていたそうです。

2階建ての要塞には薄暗い通路や狭い階段などがあり、ダンジョン探検気分で
歩き回ることができるとか。



帆船でクルーズするツァーもあるようですね。
この近海には鯨も回遊してくるため、季節によってはホエールワッチングの船も出ます。



これは無人島・・・・だろうなあ。

そういえば、乗っていた船が難破して無人島にいたところ、アメリカの捕鯨船に助けられ、
鎖国中ゆえに日本へ帰れず船長と共にアメリカに行って暮らしたジョン万次郎っていましたね。
ジョン万次郎は捕鯨船の船長に連れて帰られたそうですが、その船長の家も
ここニューヘブンにあり、今ではその住んだ家が観光名所となっています。



上空からこの光景を見て、思わず鳥肌が立ってしまったわたしです。
海を埋め尽くすようにびっしりと見える白いものは、ヨット。
ケネディ家の別荘もあったというこのボストン港には、ヨットオーナーがたくさんいて、
この日は週末だったので皆がクルーズしているわけですが、それにしてもこの多さ。



国内移動はエコノミーで耐えるというのが家訓の我が家ですが、今回はどういうわけか
国際線の往復のステイタスと別のチケットが取れないことになり(T_T)、
ファーストクラスで行くことになりました。

「アメリカンのファーストって、なんか期待できないよねえ」

と失礼ながらヒソヒソ言い合っていたのですが、
実際ましなことといえば、座席が後ろより広いってだけの話です。
しかもファーストのくせに椅子が1ミリも後ろに倒せないんだよ。
離発着のポジションのまま寝る、これは大変辛うございました。
向こう側の男性みたいに独自の態勢ですっかり安眠しているらしい人もいましたが。



一応ファーストなのでおしぼりは出ましたが、手を拭くと水が滴り落ちました。



そしてこれがファーストの食事である。
いや、シカゴ乗り継ぎまでのせいぜい2時間半くらいだからいいですよ?



ボストンから2時間半でシカゴのオヘア空港に到着。
上からみたシカゴは、完璧に整備された碁盤の目のような街並みが続きます。 


 

計画的に作られた都市なんですね。
街の中心部の広大な公園も、真四角です。



野球場では観客は全くいませんでしたがダイヤモンドには人がいました。
ここで飛行機を乗り換え、サンフランシスコに向かいます。



タキシングの時に飛行機の後尾部分から水が流れているのを発見。
こ、これは一体?



これがサンフランシスコ行きのファーストの食事である。
生ハムのメロン乗せかと思ったら、微妙にハムが変な味でしかもどうしても噛み切れず、
苦しくなってこっそり口から出してしまいました。
アメリカ人ってこんなものを噛まずに食べることができるのか・・。



驚いたのはおやつの時間にアイスクリームが2スクープずつでてきたこと。
キャラメルタフィー入りのアイスで、これだけは美味しかったです。



サンフランシスコ上空にくるといつも不思議に思うこの景色。
地図で確かめると、この部分は「海」です。
浅瀬で泥の質が違うところだけが赤っぽかったりするのだと思いますが。



自然が作り上げた模様に、人工的な灌漑部分が直線を加え、芸術作品となっています。



右側がサンフランシスコ側と対岸を結ぶサンマテオ・ブリッジ。



上空から見えるように「フォスターシティ」と地面に巨大な文字を描いています。
今回後半はこのフォスターシティのホテルを予約しました。
空港の比較的近くです。



この辺は埋立地なのかもしれません。
右手のサンフランシスコ空港に向かう航路は2つあるので、時々
自分の飛行機と平行に飛ぶ他の飛行機を見ることがあります。



コンチネンタル航空ですね。



空港に着いたのに、いつまでもドアが開きません。
わたしは最前列の席だったのですが、CAが来て「場所代わって」といって
わたしが今まで座っていた席に座って外を見てのたまうには

「着いたのが15分早かったせいで誰もいないわ〜」

飛行機のドアに接続する通路を操作する人が来ていないとヘラヘラ笑いながら言っております。
をいをい、そして君は待っておる間、なんでその席で携帯電話のメールチェックを始めるかね。


鶴丸航空の皆さん、サービスが過剰だとか丁寧すぎてうざいとか思ってごめんなさい。
日本の航空会社の従業員教育とサービスは世界一です。ええ、世界一ですとも。



サンフランシスコ到着後、無事に車を借り、ホテルにチェックイン。
学校に極近のモーテル的なキッチン付きインを借りました。



写真に撮るとまあまあですが、おそらく築60年は確実な老朽化した木造の建物。
部屋に入ると変な匂いがし、異常に熱がこもっています。



一応インテリアなども考えている形跡はあるのですが、いかんせん部屋が汚くて暗い。
やっぱり写真だけで安めの宿を取るのは考えものだなあ、とがっかり。

管理人は(オーナーでもある)同じ建物の一角に家族で住み着いているインド人でした。



アメリカでは見たこともない小さな冷蔵庫。トースターなし。



そして問題はこれ。
窓のすぐ外が幹線道路で、しかも窓が防音でもなんでもなく、配管のために開けた壁に
隙間ができていてこのため猛烈にうるさいという・・。

おまけにクーラーというのが、音ばかり大きくて、いくらガンガン稼働していても
全く部屋が涼しくならないという代物で(もちろん日本製じゃありません)
それをつけると普通の会話も不可能になるくらい。

これは大変なところに住むことになってしまったなあ、せめて
道路に向いていない部屋が空いたら変えてもらおう、と思って一夜が明け、
二日目にわたしたちにとんでもない事件が起こったのでした。

火事です。



続く。


 


アメリカでホテル火事に遭遇した

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皆さんは実際に火事に遭遇したことがあるでしょうか。

わたしは4歳くらいの時、「おかあさんといっしょ」を見ていたら、
洗濯をしていた母親が「火事いい〜〜!」と叫んだので駆けていくと、
隣の壁からメラメラと炎が噴き出していて、その日一日は道路に避難して
隣の家が燃えるのを呆然と見ていたのが唯一の経験だったのですが、
今回何の因果かアメリカで、しかも泊まっていたホテルの火災を経験しました。



幹線道路に面しているのに防音設備の何もない古びたインにチェックインし、一晩が明けました。
時差ぼけのせいもありますが、何より耳栓をして寝たにもかかわらず、
その騒音は防げるものではなく、疲れているのに熟睡できた気が全くしません。

「道路に面していない部屋に変えてもらおう。こんなので20日も持たないし」

そう思いながら、その日は息子のキャンプ開始に備えて買い物に出かけました。



夕方6時頃ホテルに帰ってきて、洗濯をすることにしました。
こんな狭いインなのに、どこに洗濯をするところがあるのか全くわかりません。
息子と二人で紙袋を持ったまま二階まで見に行って帰ってきたら、
わたしたちの白いカムリの横に停めてあるグリーンの車からアフリカ系女性が出てきていて、
挨拶をしてきました。

「あなたたちここに泊まってるの?フロントに誰もいないんだけど」

「留守なんじゃないですか?ここに電話しました?」

フロントの上に書かれている電話番号を教えてあげて少し雑談してから
わたしたちは広くもない敷地をまた洗濯機を探して一周しました。
すると息子が、

「窓から煙が出てる!」

と言いました。
写真はこの直後とったもので、すでに廊下の奥が白く煙り出しています。
息子がそういうのとほとんど同時にそのアフリカ系女性が

「あらやだ、(おーまいがー)火事!火事よお!(ファイア!ファイア!)」

と叫んで、車の中にいた彼女の友人が中庭に面した全てのドアをたたき、
(後で知ったところそこは洗濯場とか倉庫だった)

「火事だから逃げて〜〜!(えぶりばでぃずあうと!ファイアー)」

と叫びだしました。



左がその女性、仮にジャッキーさんとしておきましょう。
赤いシャツの女性は管理人室の真上の部屋にいた人で、火事の知らせを受けてから
まだアンパックしていなかったらしくトランク一つ持って降りてきました。
後は若い男性二人連れ、中国系の若い女性二人連れ、東洋系の男性一人です。

ジャッキーが代表として911に電話をし、住所を説明するときには他の宿泊者が教えたり、
男性のうち一人がもう一度全戸のドアを叩いて周って、皆で協力しあって外に避難しました。

わたしたちは荷物があまりにも多すぎたので、仕方なくパスポートの入った機内持ち込み用の
キャリーバッグと財布とクレジットカードだけ持ち出しました。
そして、とりあえずこれからどうなるかわからないので中庭の車を外に避難させました。



私たちの部屋は火元の管理人室とは反対側だったのでそんなに心配していませんでしたが、
さすがに窓から煙だけではなく、窓の桟から炎が出て不気味に広がりだしたので、
こういう状態からいきなり何かに引火して爆発する確率ってどれくらいだろうか?
などと縁起でもないことを考え始めた頃、



まず一台、続いて計3台の消防車、赤い消防車の車、パトカーが続々と。
ローリーが電話してから5分以内といったところでしょうか。
ちなみに手前の白いトヨタはわたしの車です。



「来た来た・・・早ええ」
「ふええ・・ファイヤーファイター、かっこいいなあ」

もう大丈夫、という安心から他人事のようにわくわくと盛り上がるわたくしたち。



男は職場で最も輝く、と言いますが、仕事中の消防士ほどかっこいいものはありません。
全員が分厚い消火服とヘルメットに身を固め、酸素ボンベを背負って、
なんのためらいもなく、一つの目的を成し遂げるために時には命の危険も顧みず力を尽くします。


消防士の背中に書かれているのは町の名前。
ここはロスアルトスとマウンテンビュー同様シリコンバレーの一部であるメンローパークです。
メンローパークは富裕層の住宅地で、パロアルト同様に教育水準が高く、
25歳以上の住民の約7割が学士以上の学位を保有していることでも有名です。
スタンフォード大学に隣接していて、facebookやSRIインターナショナル本社もあります。




続いてはしご車も到着しました。



消防士たちは信じられないスピードで消防車からホースを引き出し、
神経質なくらいきっちりと消火位置を決め、地面に整然と置いていきます。
こういう時ののホースの並べ方のセオリーは決まっているようです。



いつの間にか窓ガラスは割れていました。

前の夜、部屋が異常に暑いので調べてみたらヒーターが入っていて、
これじゃいくら冷房しても涼しくならないはずだと室温ケージを最低温度にしたのですが、
一向にヒーターが消えてくれないので管理人室に言いに行ったとき、
ちょうどこの窓にかかったカーテンの前にテレビがあって、
管理人の子供達(おデブの男の子と女の子)がテレビを見ているのが見えました。

彼らが見ているのが飛行機の中で見たばかりの「マダガスカル」の一場面で、
少しだけですがその偶然に驚いたのをこのとき思い出しました。
ここが一番の火元だとすると、もしかしたら配線からの出火でしょうか。

「スプリンクラー付いてなかったんだねこのホテル。ホテルなのに」

息子に言われてそうだったのかと改めてゾッとしました。
アメリカにももちろん宿泊設備における消防法は決められていると思うのですが、
この宿屋の消火器はいったい今から思えばどこに設置されていたのか、
チェックインした時に聞きもしなかったし、確かめることもしませんでした。

そしてわたしたちは部屋の空気の饐えたような臭いを消すため、
アロマキャンドルをほとんど起きている間ずっと焚き続けていましたが、
スプリンクラーのないこの宿では、それが火元となっても消す方法がなく、
火事が広がっていた可能性だってあったということなのです。



今回、本人が留守だったとはいえ、よりによって管理人の部屋から出火したわけですから、
今後このホテルが今まで通り営業を許可されるかどうか・・。
特にカリフォルニアの高額納税者がたくさん住む地域での火事は、
法律もそれに対して厳しい罰則が科されることになるのに違いありません。



二階があることから、はしご車からはしごも降ろされました。



煙が・・・煙がどんどん強くなっていっているう〜〜!

しかし、消防士たちが作業を始めると、すぐに火は消されて彼らはハイ・ファイブを決めました。
(ハイタッチのことをこちらでは”指5本”でハイファイブといいます)
このころ、わたしたち焼け出され組は反対側の歩道に立って写真撮りまくり。
気がついたら散歩に出ていた付近住民などもあつまっています。



「ちょっとちょっとあなた、ここに住んでるの?」

わたしに70歳くらいの美人なおばあちゃまが話しかけてきました。
おばあちゃまはわたしにいろいろとインタビューしていたかと思うと、(笑)
ちょっときなさい、とわたしを警官のところに連れて行き、

「これからどうなるのかしらー、この人ここに泊まっているそうなんだけど」

親切なのか好奇心からなのか、そんなことを聞き出そうとします。

「火を消すことができても、建物が古いから、全戸に渡って
倒壊の危険がないかどうかとかを調べて、完全に大丈夫ということになるまで
何人たりとも部屋に入ることはできません」

「あらそうなの、かわいそうだわー」

「それより、皆さん、もっと後ろに下がってください。
さもないと煙を吸ってしまいますから」



なるほど、こういうときにお巡りさんが出てくるのはこういう指示をするためか。
それにしてもアメリカのお巡りさんは皆ガタイがいいからコワモテで迫力があります。
このスキンヘッドがどうやらこのクルーのチーフである模様。



もっともっと、と言われて皆ここまで下がってきました。
ここで図らずも宿泊者全員がひとところに集まることになり、わたしは
ジャッキーさんとここでまた顔を合わすことになったので、

「災難だったわねー」

「でもすぐにコールしてくれてありがとう」

と言い合い、アメリカ人の慣習に従って、ここでハグしあいました。
なぜかおばあちゃまはこの場を離れず、すっかり場に溶け込んでいます。
時々わたしにも話を振ってくるのですが、ジャッキーさんとその友人とは特に気があったらしく、
家に帰る様子は全く見せずに話し込んでいました。

聞いてみたところおばあちゃまはこの近所に住んでいるということでした。
裕福なおうちで悠々自適だけど、至極刺激の少ない生活をしている彼女にとって、
この火事騒ぎは久しぶりにわくわくするちょっとしたイベントであったようです。



みんなが避難させられたパーキングは、ジョンソンアンドジョンソンの敷地でした。
お巡りさんが「部屋に入るまでまだ最低1時間はかかる」といったので、
わたしたちは近くのモールに行って買い物の続きをして時間を潰すことにしたのですが、
その間おばあちゃまはジャッキーさんをお茶に招きかねない勢いでした。

「本当に招待してても驚かないね。”ジンジャークッキーがあるの”とかいって」


管理人室の上に部屋があった赤い服の女性は、1時間後わたしたちがモールで時間を潰し、
ホテルから荷物を全部運び出すために帰ってきた時、まだ部屋には帰れず
外で待たされていたので、わたしは息子に冷蔵庫のオレンジジュースを持っていかせました。

 

わたしたちはモールでTOに連絡を取って今夜からのホテルを取ってもらうことができたので、
残りの宿泊予定をキャンセルすることにしました。

「しかし、いろいろラッキーだったね」

「あのときおばちゃんとわたしたちが中庭にいなかったらもっと火事が広がっていたかも」

「俺が一番最初に煙に気がついたんだよ」


息子、得意そう。

たとえばあのとき洗濯場がすぐに見つかって洗濯を始めていなくてよかったとか、
部屋を変えてもらって火の元に近い部屋に移ってなくてよかったとか。

どちらにしても騒音の件も含め、期待はずれのホテルであったため、
残りの日数を別のホテルに移ることになってかなりホッとしたのも事実です。

アメリカでのホテル選び、特に値段は「快適さ」だけでなくときとして
安全ですらそれに含まれることもあるなあ、と実感した今回の騒ぎでした。



あまり堂々と写真を撮るのも気の毒なので、遠くからこっそり写した
管理人夫妻が消防署所員から事情聴取されているところ。

ただの家ならともかく、人命を預かる宿泊業として自分ちから出火するってのはどうよ、
と彼らが叱られたかどうかはわかりません。




一泊だけしておそらく今後二度と来ることはないホテルではありますが、
とりあえず荷物を全てパッキングし終わってから最後に記念写真を一枚。

管理人夫婦が消防署員から解放されたらしいのを見計らって、奥さんの方に
鍵を返し、別のホテルに移る旨を告げると彼女は

「今回の宿泊料は全額返金します。
でも、こんなことになっているので、数日くらいしたらペーパーワークのためにもう一回来て」

とさぞかし気落ちしているであろうに、ちゃんとした口調で言いました。

「I am so sorry.」

わたしはそう言ってホテルを後にしました。

・・・が、その後払い戻しでホテルに立ち寄ったら、窓に板をかぶせて火事のあとを隠蔽し、
焼け残ったオフィスはそのまま使用して普通に営業していたので驚きました。
対応した主人(もちろんインド人)は、

「えーと、じゃ結局2泊だけしたってことで」

だから2泊目の夕方に火事がおこったわけですけど?
一泊だよお父さんどさくさに紛れてちゃっかりごまかすんじゃねーよ。
自分たちが火事を起こしたことに反省の色もなくにこにこしながら、

「ホテルすぐ見つかった?そりゃよかったね」

日本ではこういうとき「ご迷惑をおかけしました」ってくらい言うのが社会常識なんだけどな。
一応お約束でこちらからアイムソーリーをいっても”いっつおーけー”、って。

さては保険金でリニューアルウハウハ、内心しめたとか思ってますか?

 

というわけで、去年泊まったホテルのディザーブル・ルーム(ハンディキャップ用)
に空きがあったので、ここで数日過ごし、後は後半のホテルを前倒しして泊まります。

「いやあ驚いたね」

「なんて1日だ・・・・あー、自分が煙臭い」

今までとは別世界のように静かで清潔で火事の心配もなさそうなホテルの部屋で、
今年はちょっとの節約のためにどうしてあんなホテルを取ったのかあらためて考えてしまいました。

もし火事が起こらずにあそこに20日も住んだら、その間ずっと騒音と不快な室温と、
レンジで温めたパンと小さな冷蔵庫を我慢しなければならなかったわけですが、
つまりこれはどういうことかというと、このホテルに宿泊を予約した時点で、

火事が起こっても起こらなくてもわたしたちは
なんらかのダメージを受ける運命だった

ということなのです。

最低限の安全と精神的幸福にお金を惜しんではならない。
あらためてわたしはそう悟りました。


ところで、消防車が来たとき、わたしが思い出したことがあります。
そう、海上自衛隊の航空教育隊に訪問した時、消防車で放水作業をさせてもらったことです。

もちろんあれが生まれてはじめて消防車の運転席に乗ったという瞬間であり、
放水ごっこも、この生涯で行ったはじめての経験であったわけですが、それから
1ヶ月しか経たないのにその消防車のお世話になるとは、いったいどういう偶然なのか・・。

 

 




 

「宗谷」~艦内生活

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南極観測船としての「宗谷」の乗員総数は130名。
そのうち観測隊員が53名、乗員が77名でした。
観測する人とそこに連れて行く人は別組織で、観測隊員は国立極地研究所を始めとする
政府機関の研究員・職員がほとんどです。
会社から派遣される隊員や、大学からも参加があります。



ここは機関長室の並びにあった

「機関長寝室」。

前回ご紹介した男前の機関長の寝室となるのですが、昼間は航空長室を兼ねました。
航空長というのは、空母並みの航空機収容力を誇る「宗谷」における
フライングチームの長ということですが、観測のための飛行には
このような重装備で乗り込んだようです。
今ならヒートテック素材なんかでずいぶんこの辺りが改善されているのでしょう。

空からの氷状観察や物資の移送など、飛行班の任務は重要かつ重大でした。



機関長寝室の並びにある「第五士官寝室」のプレート。



77名の海保職員のうち、何人がオフィサーに相当する「士官」だったのでしょうか。
たとえばこの第5士官寝室には広いスペースに寝台がたった一つだけで、
完全に個室であるうえ、上甲板レベルの船的には最も優遇された場所にあります。

船長、航海長、機関長、航空長といった船の幹部だけが、このような居室を許されました。
ソファやイスにかけられた白いカバーの裾にフリルがあるのが昭和風レトロです。



第6士官寝室とされている部屋です。
実はこの居室は後から作られたもので、南極観測時には、ここに

高層気象観測室

がありました。

「夕焼けが綺麗だから明日は晴れ」「月に傘が被っているから雨」

などと、昔の人は天気を予想していましたが、これは、地表の大気と高層の大気は性質が異なり、
地上の天候の変化に先立って高層の気象が変化することから生まれた予測法です。
高層観測によって天気を予測するためにバルーンなどを上げる方法が生まれ、
日本では終戦直後の昭和20年9月から、Radiosonde(ラジオゾンデ)による観測をしており、
ここにはそれらの高層気象観測のための機器が置かれていたようです。



黒板には

12/6 当直(Br)←ブリッジ?

Anton Island 263°  D 10.9(?)

などと謎のメモが残されております。 



士官寝室の廊下にあった洗面所。
士官室にあったのと同じ金色のねじ止めされたプレートにわざわざ
「洗面所」と書いてあるのがシュールです。



士官用の風呂はかなり広々としています。
一人ずつ入れたのならなかなか贅沢な入浴ですが、専用浴室を持っていたのは
船長だけだったそうで、だとすれば士官も何人かが一緒だったかもしれません。

真水を節約するため、南極では氷の塊を浴槽に入れ、蒸気で溶かしたお風呂だったそうですが、
それは良いとして、航海中はなんと海水のお風呂だったとか・・・。
掛け湯だけが真水だったということなんでしょうか。



第1便所。
艦内には合計4つの便所があり、海水を利用して流しました。

復員船でたくさんの人員を輸送するときには、甲板に仮設のトイレを作りました。
極寒地を航行する「宗谷」には雪が積もり、トイレはさぞかし辛かったろうと思います。



こういうところの細部を見ると、最初の建造当時のまま、改装のたびに
ペンキを何回も塗り重ねた様子がよくわかります。
電気の配線コードのカバーにはペンキの垂れ下がっている様子さえ・・。 




皆さんは「南極料理人」という映画をご覧になったことがありますか。
この映画は、南極観測隊に参加し、観測ドーム「ふじ」で、隊員のための
料理を作った元海上保安官の書いたエッセイが下敷きにされています。

食事が最大の楽しみである南極基地で、毎日隊員たちを飽きさせない料理を作るべく
奮闘する、というストーリーでしたが、左の写真はまさにその一シーンのようです。

いかにそこでの食が重要だったかは、この映画で、料理人の西村(堺雅人)が、
スピーカーで「ワルキューレの騎行」を昼ごはんの合図に鳴らすと、皆が
雪の中を転けつまろびつ基地に帰ってきて、ものも言わずに暖かい豚汁と
おにぎりを詰め込むシーンに表現されていました。

(余談ですが、この「南極料理人」、わたしの”笑いのツボ”にはまりました。
劇場映画を見てこんなに笑ったのは初めてだったかも)

「宗谷」時代の昭和基地には発電棟を含む4棟の建物が建設されました。
左の写真は最初に越冬した11名の隊員です。
右側は夏になって氷が溶けた南極で、戸外で焼き鳥パーティをしている様子。

焼いているお肉は『トウゾクカモメ』だそうです。



こちら現代の昭和基地。
三階建ての管理棟を中心に居住棟、発電棟などが通路で結ばれていて、
日本とほぼ変わらない日常生活を送ることができるそうです。 

「南極料理人」は8人の隊員に対し一人の調理人がいましたが、現在の昭和基地には
二人の料理人がいて、調理を担当しています。
彼らは「南極料理人」の西村のように海保職員ですが、調理師免許を持っています。
食材はすべて船に積まれてきたものだけで、生鮮食料品はありませんから、
モヤシやカイワレダイコンなどと栽培しているのも映画と同じです。

ところで、国立極地研究所のHP、たとえば

第56次南極観測隊員

のページを見るとわかりますが、メンバーになんと女性が含まれているのです。 

女性隊員は、1987年(昭和62年)の第29次隊の夏隊に1名参加したのを最初として、
2名が1997年(平成9年)の第39次隊の冬隊に参加したのが、
日本における女性隊員初の越冬となりました。

南極観測隊員は全員が越冬するわけではなく、「冬隊」だけが冬を越します。
越冬隊は1年にわたって昭和基地、あるいはドームふじ観測拠点で過ごすのです。

その後も女性隊員は数名ずつ参加し、(平成18年)の第48次隊の7名が最多となりました。
男性と同じ条件で過酷な南極観測も女性への門戸が広げられているのですが、
昭和基地の医療が妊娠・出産等に対応していないので、妊婦は隊員になることはできません。
そのため女性隊員には、砕氷船が帰国する時点で妊娠反応試験を受けることが義務付けられており、
万一その試験で妊娠が明らかになった場合は帰国が命じられるのだそうです。


ところで、日本の南極観測隊は1956年から始まりました。
この前年度の1955年、「国際地球観測年」に、南極観測参加の意思を表明しています。

国際地球観測年(International Geophysical Year)

とは、地球における様々な現象を検証するために、1957年から58年にかけて、
一年間、世界各国で気象観測をしましょう、とする試みでした。

ある取材でそれを知った朝日新聞社が、日本も南極観測への参加をしようと声をあげたのです。


近年、この新聞社の「運動」によって、日本の世界的地位が随分と失墜させられましたが、
このころの朝日新聞はまともに「日本」の国際地位復活なんかを考えていたんですね。

それは嫌味としておいておいて()。
この会議で戦後10年も経っているのに、戦争を理由に日本の参加に反対した国があったのです。
どこだと思いますか?

はい、それはイギリスとオーストラリアだったんですねー。 

世界中を植民地にして搾取していた日の沈まぬ国(元)と、移民のほとんどが流刑囚で、
新天地ではアボリジニを迫害し、 スポーツハンティングと称して彼らを殺害していた、
そういう国が、日本に対して、

「戦犯国である日本は国際社会に復帰する資格はない」 

とかいってくれちゃったりしたんですね。こりゃびっくりだ。
今ならなぜかそのとき「日本」だった韓国が「戦犯」を理由に反対しそうですな。

日本側はそれに対し、1912年に南極に到達した白瀬隊の実績を挙げて反論し、
援護射撃としてガチンコで戦ったアメリカさんと、なぜかソ連が日本の参加を推したため、
会議の最終日になって、南極観測隊の派遣が決まりました。

さあ、残るは参加のための資金です。

朝日新聞は一大キャンペーンを張りました。
慰安婦は強制連行だったので謝罪と賠償を・・・ではなく、

皆で日本の観測隊を南極に送ろう!

という一大キャンペーンを。(しつこいけど嫌味です)

朝日新聞の奮闘のおかげで集まった寄付金は当時で1億4500万円。
さあ、それでは船はどうする?

海上保安庁が船を確保することだけは決まりましたが、とてもでないけど
当時のビンボーな日本には砕氷船を新造するだけの資金はありません。
それでは外国の砕氷船を借りる?これも残念ながらお金がありません。

今日本が保有している船を改造するしかないということになったとき、
いくつかの候補の中から最終的に選ばれたのが、そう、


我らが「宗谷」だったのです。

続く。






 

 

 

台湾雑景〜旅しながら写真を淡々と貼る

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三回台湾に旅行をして、もう当分行くことはなかろうと思っていたのですが、
意外なところからのご縁でまたしても訪台することになりました。
今回参ったのは、台湾の高温多湿の気候です。

今まで年末年始という台湾では過ごしやすい季節に訪れていたのと、
それまで滞在していたのが湿度の低い東海岸だったので、外を歩くと
まるでサウナの中を歩いているような重たい空気は堪えました。

「よく台湾の人こんな気候で平気だなあ」

「生まれてずっとこれなんだから慣れてるんじゃないの」

とか言い合っていたのですが、今回現地で知り合った台湾人に聞いたところ、
台湾人もこの天気にはうんざりしているし大変辛い、と聞いて安心しました。

今回一時帰国した時に日本はその時の台湾並みに蒸し暑かったわけですが、
日本人もこの蒸し暑さが平気だという人なんていないわけですし、当たり前なんですが。

それはともかく、近くて遠くて日本と似ているようで似ていない、
そんな台湾を巡って、目に付いたものを片っ端から撮ってきました。

冒頭写真は、九份(あれ?以前打った時には漢字が出てこなかったのに変換できる・・)
に行った時、かえりのバスから見えた景色ですが、すごいでしょう。



台湾と日本、街並みにおいて何が大きく違うかというと、それはビルの綺麗さ。
日本もアメリカと比べると大概汚いビルが街並みに混在しているのですが、
アメリカの場合は綺麗も汚いも、煉瓦造りの100年越えの古い建物なので、
古くても鑑賞に耐えるものばかりなのに対し、なまじ近年に建った建物ばかりの日本と台湾では、
そのメンテナンスの頻度が如実に表れてしまうのです。

台湾では一旦建ったビルの外装を綺麗にするという習慣がないのかもしれません。



台北で最初に泊まったホテルの窓から、ファミリーマートが見えました。
「全家」でファミリーマートなんですが、日本人にとってこのコンビニは、
東日本大震災の時に巨額の寄付金を台湾人がレジにある募金箱に入れてくれ、
そして日本を励ましてくれたことで特別の感慨を与えます。



次の日ホテルから出ようとしたら前を横切った不思議な人力車。
もしかしたら犬が引いているのか?と思ったのですが、動力はおじさんです。
漢字で書かれた文句を読むと、どうも何かの宣伝らしいのですが、
屋台に飾られた仏具らしいものから見るとお寺か何かでしょうか、
おじさんの頭に花が飾られているように見えるのは偶然です(笑)



タクシーに乗るために街角に立ち最初に目に付いたのがこの看板。
八代亜紀は「日本演歌天后」で女王くらいの意味でしょうか。
森進一の看板もありましたが、こちらはなんて書かれていたのか見損ないました。



台湾の街を走っている大量のバイクには驚かされます。
自転車より、自家用車より市民の足になっているのがバイク。
おそらくほとんどが日本製のものだと思われます。 



またしても面白日本語発見。

「キューピッド」と書きたかったのですねわかります。



地下鉄の発達しているのには驚かされます。
ここなどまるで千里中央駅みたいでしょう?(ローカルですみません)

すべてのホームは転落防止の自動開閉フェンス付きで、切符ではなくトークンを買い、
それを指定のところにかざすと「ピッ」となって改札が通れます。
これエコロジーの点では日本より先進と言っていいのでは・・。
地下鉄はすべて空調が完備、暑い地上で車を捕まえるより、こちらの方が移動は楽かもしれません。



「猫空」という地名が気に入ったのですが(笑)これは「まおこん」と読みます。
「猫空◯車」というのは、マークでもわかるように観覧車があるんですね。
ここには動物園もある模様。



九份に向かうバスの窓からは、市街地を過ぎるとこんな景色が見えてきます。
全体的に郊外の建物も薄汚れた感じは否めないのですが、そんな家の軒先に
ポルシェが停まっていたりするので、台湾って面白いところだなあと思います。



こんなところに布団を干して、太陽の殺菌はともかく、排気ガスとか
なにより壁の汚れが布団に着くとかは心配ではないのでしょうか。
日本でも、高速道路脇のアパートに布団を干しているのを見ることがありますが、
いつも不思議に思います。
この時に顔を引っ込めていまいましたが、ベランダにはおばあちゃんと子供がいます。



さて、わたしたちは李登輝元総統の講演会以外、台湾での予定を入れなかったのですが、
毎日誰かがお誘いくださったため、食事の場所に関して困ることは全くありませんでした。
ここは、日本から李登輝総統の講演会をわざわざ夫婦で聞きに来られた方が、
ご自身が雇った現地の通訳の女性に「地元民しか行かない店」を紹介してもらいました。

「処女(虫編に尋ねる)」?このお店の名前は一体・・・。 



写真で撮っても、この店の雑駁な感じがわかっていただけるでしょうか。
棚に並んでいるのは紹興酒を始めとするお酒の数々。



お店のおばちゃんのファッションも、日本では手に入らなさそうな、
合成繊維100%な感じがキッチュで、招き猫のセット(右手上げと左手上げ)や
大福様とぴったりマッチしております。



ここは、日本人観光客はもちろん、大陸からの観光客も来ないようなところだそうです。
つまりそれだけ地元密着の「いかにも庶民的」な大衆食堂ということですね。
日本だと「生簀」」という趣向はあっても、こんな店内に魚屋みたいな屋台があって、
そこから客が魚介類を選んですぐに調理してもらうという形式の店はありません。

まず生魚を置いていることで魚屋のような匂いが店内に漂うと、
日本人の場合は食欲がなくなる人が多いと思うのですが、こちらではそうでもないようです。



案の定、魚を選びに駆り出されたものの、わたしには何をどうしていいか
全く見当もつかず、通訳の人にまる投げしてしまいました。



クレラップは日本語のロゴを残しているあたりがブランドの照明?



実は魚介類、ことに甲殻類はあまり、とこんな店に連れてこられてからカミングアウトするのも
連れて来てくださった人の顔を潰すことになるので、お任せにしたのですが、
やっぱりでてきたのはエビでした。
なにがいやって、殻をむくのが面倒なんですよね。
努力の割に美味しいと思ったことはないし手は臭くなるし・・。



カニまででてきたし(笑)
一人半分づつということなので多分台湾的にお高かったのでしょう。
もし脳の大きさで頭の良さが決まるなら、ノーベル賞確実ではないか、と思われるほど
このカニは全身ミソだらけでした。

お酒飲む人はカニミソがお好きだそうですが・・。



こちらメインの魚鍋。
魚の種類は・・・・忘れました。



たっぷりのネギと生姜を効かせた魚料理。
魚の種類は・・・・。



庶民のお店だなあと思ったのが、店の中の虫の多さ。
そこに出ている魚介類にも止まりまくりなのよねと思うとドン引きしてしまうのですが、
時々当店の看板娘がバチっバチっと大きな音を立ててラケットで叩き潰してしまいます。



アメリカの「Bed & Bath Beyond」で全く同じものを見ました。
虫ラケット、電流で虫を焼く仕組みなのですが、

「虫の体はどうなるの」

「消えるんじゃない」 

こういうものを客の見ているところで使うっていうのが日本人にはもうダメ(笑)
そして、台湾の人たちというのは何しろ声がでかい。
よく大陸からの観光客は声が大きくて迷惑といいますが、庶民クラスは
むしろ大陸より食事中の声は高いように思われました。
 


この店の向かいにあった、これも海鮮料理レストラン。
「生猛活海鮮」というのが、猛烈に生きがいい、という感じでしょうか。



左は日本式しゃぶしゃぶ、トレードマークはお相撲さん。
右の「阿部」というお店は、日本人経営のパン屋さんです。

 

夜も活気のある繁華街には、日本式岩盤浴の店もありました。
「玉川温泉」だそうですが、玉川温泉って?



九份に行ったときに途中にあった墓地。
前にも写真を撮ったことがありますが、台湾のお墓は一つ一つが家のようで立派です。
こうしてみると本当のアパートみたいですね。



お弁当屋さんの看板と警察の印が同じポールに・・・。
で、どこが警察なのかと写真をよくよく探したところ、
どうやら左のマンションの一階と二階ではないかという結論に達しました。
地域に溶け込む警察ってヤツですか。というか溶け込みすぎ。



工事中のおまわりさん人形は台湾ではこうなります。
腕の部分はどちらもパタパタと上がったり下がったりしていて、
その先に旗がついて(片方取れていますが)注意を喚起すると。
ちゃんと足元に移動用の車がついていたり、着せている洋服が特注なのが工夫の一品です。



前にも台湾は大変な学歴社会なので塾が大繁盛と書いたことがありますが、
またしてもすごい看板を見つけました。
前年度の有名校合格者の進学先を顔写真付きででかでかと・・・。
日本ではせいぜい「前年度・東大3人 早稲田3人」と人数だけが書かれるところです。

台大はもちろん台湾大学、成大は成功、中央は国立中央、清大は精華大でいずれも国立名門。
写真の上に書かれた言葉は、いずれもトップを表すものであろうと思われます。



都心部に帰ってきたら、台湾電視(右から読む)の本社がありました。
テレビ局のビルでさえ、あまり綺麗ではないのが台湾というところ。



九份では現地に「千と千尋の舞台」などとちゃっかり看板がありましたが、
ここ台湾でも宮崎アニメは普通に人気。
バスで斜め前に座っていた女の子が、トトロのパスを持っていました。



こういう、ゲーム的キャラクターで古典を「萌え化」してしまう傾向も
どうやら日本からの伝来としてあるようです。

台湾にはこういう文化面での日本の影響というのは我々が思っているより色濃くあり、
古くからの、日本とは遠く離れた部分とは全く別に、その歩みはほとんど揃っているかに見えます。
特にIT関係については台湾という国が国策としてそれを推し進めた結果、
ある意味日本より先に行っていると思われる部分すらありました。

本当に台湾とは面白い国です。

 

MOMA(ニューヨーク近代美術館)~近代抽象画

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お断りです。
アメリカに来て以来、インターネット環境のせいでブログ編集面に
不具合が多発しており、制作に大変支障をきたしております。
日本に来る前に制作していたストックの記事を挟みながらお届けしますが、
そういうことですので、更新は当分1日半ごとにさせていただくことにしました。 
悪しからずご了承ください。 


コネチカット州は、マサチューセッツ州からニューヨーク州に行く途中にあります。
わたしたちは今回コネチカットのノーウォークから3回ニューヨークに通いましたが、
ホテルを選んだときには、こんなに何度も行くとは思っていませんでした。

案外簡単に往復できると知って、ミュージカルを観るために2往復したわけですが、
ミュージカルの昼公演はいずれも前日に予約が取れました。

ブロードウェイのマチネーは、すべての小屋で毎日やっているわけではないので、
たまたまその時取れたチケットの演目を聴くしかなかったわけですが、
演目はともかく、時間は大体2時開始ということになっています。

昼11時頃ホテルを出発し、ニューヨークでランチを食べることになったとき、
真っ先に思いついたのがニューヨーク近代美術館でした。
ルーブルやボストンのように、一国を代表する美術館には必ず素晴らしいレストランがあるはずだからです。



というわけで、MOMAに到着。
以前ここでいただいたランチの画像を上げたことがあるので、それは省略して。
食後、ミュージカル開始までの間、急ぎ気味に展示を見て歩きました。

一応日本語の音声ガイドも借りて、「1時間コース」を回ろうと思ったのですが、
最初の絵画の前に立った時、流れ出てくる説明があまりにも観念的だったので、
ちょっとこれに付き合っている時間はねえ!と音声ガイドはそれっきり首にかけているだけの代物に。

ちなみに機器を借りるのにはIDを身代わりに預ける必要がありますが、
パスポートもクレジットカードも責任が持てないからダメということで、
結局わたしの国際免許を預けました。
アメリカ人はほとんど免許証を預けていたようです。



ところで、うちにあった名画の画集で見覚えのあるものは、圧倒的に
MOMA所蔵のものが多かったというか、それだけここに名作が多いのだと思いますが、
幼い頃に見た数々の名画にここで一挙に再会することができました。

しかも、展示の仕方が結構おおらかです。
冒頭のゴッホ「糸杉」はここの「目玉作品」ですが、前で立ち止まるのはもちろん、
写真を撮りまくることも、さらには目と鼻の前まで近づくこともできるのです。
こういった名画は世界中から貸し出されて日本でも見ることができますが、
(わたしは昔モネの「ラ・ジャポネーズ」を大阪で見たことがあります。
先般話題になった「着物の着付け展示」に使われた打掛は、2014年に「彼女」が来日したとき、
企画として製作されたものであったらしいですね)
日本では写真の撮影禁止はもちろん、立ち止まることも許されないような混雑の中、
人垣の間から観ることになるような絵ばかりです。

この、アンドリュー・ワイエスの絵はいつの頃から知っていたか覚えはありませんが、
とにかくこれもわたしにとっては懐かしさを感じさせる絵のひとつです。
そういえば、「ブルーマン」の舞台にもこの絵が掛けてあったっけ・・。




確かめていませんが、おそらくエドワード・ホッパーのもの。



バルチュスの作品だろうと思います。

名札を確かめなくとも、明らかに特色でそれとわかるような絵ばかり。
これはそれだけでもすごいことだと思います。



もちろんスーラですね。



セザンヌの若い男の像。
「1時間で回るニューヨーク近代美術館」のための作品の一つですが、
実はこの解説を3分聞いて、このプランを諦めたのでした。



このスーラの風景画は、なんと額にまで画家の点描が入れられています。
ジョルジュ・スーラという人は31歳の若さで病死しているのですが、一つの絵を仕上げるのに
点々だけを無数に打ち続けるその創作方法と、夭折には何か関連があるような気がしてなりません。



アンリ・ルソー。

密林のなかで長椅子に横たわる裸の女を描くことの不条理を評論家に指摘されて、

「長椅子に横たわって眠っている女性は、この森に運ばれ、
魔法使いの音楽を聴いている夢を見ているのです。
そのことが絵に長椅子が描かれている理由なのです」

と言い訳説明したそうです。



日曜画家で、本職は税官吏だったそうです。
元祖へたうま素人画家、ジミー大西の先輩といったところでしょうか。

そういえば、少しだけジミー画伯の色使いと似ている絵もあるような(笑)



ベルギーの画家、ジェームス・アンソールの「たくらみ」(陰謀とも)。
アンソールは無名時代にこういった死の匂いのする退廃的な絵を描いていた頃は
むしろ嘲笑されていたということですが、作品の評価が高まるにつれ
名声を得て男爵位を授与されたりレジオン・ドヌール勲章を貰うなどといった栄光の晩年を送りました。

ただし、そうなってから描いた作品はほぼ評価されていないそうです。

若いうちの「中二病的」作品がなまじ賞賛されてしまったので、一生それでいくしかなかったってことでしょうか。
なんとも皮肉といえば皮肉です。



この絵自体は初めて見るものでしたが、画風でそうとわかるグスタフ・クリムト。
もともと装飾画家であったというクリムト、「接吻」もそうであるように、
死とエロスをテーマにした作品をたくさん残しています。

彼を主人公とした映画にも描かれていたようですが(観ていません)、
モデルに次々と手をつけ、愛人にしたり妊娠させたりという豪快さんだった模様。

The Park

これもクリムトの作品です。



もちろんピカソの「アヴィニヨンの娘たち」。
右側の娘さん二人の顔が特にこわい。
この絵が、実際のモデルを見て描かれたものでないことを祈るばかりです(笑)



ピカソもうひとつ。
「鏡の前の少女」。
この画風でいまさらこういう疑問を持つことそのものがおかしいかもしれませんが、

少女がこちらを見ているのに、鏡の中の人物もこちらを見ているという・・。

なんとも言えない不安というか、軽い恐怖を感じさせるモチーフです。



アルベルト・ジャコメッティの彫塑。
シュールレアリスムとも実存主義とも言われています。
針金のような人物の彫塑や絵画が特徴です。



モンドリアン、という名前だけは小さい頃から知っていたわたしですが、
たったいまファーストネームが「ピエト」であることを知りました。

水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、
赤・青・黄の三原色のみを用いるというストイックな原則を貫いた一連の作品群が有名。
というか、晩年は何も考えず(笑)これ一本やりで乗りきった模様。



ジョルジオ・デ・キリコはシュールレアリスム(超現実主義)の代表的画家です。
芸術運動の一種で、まるで夢の中を覘いているような独特の非現実感を表現するものです。

不思議な遠近感の構造物、手前の巨大な青いバナナ、赤い大きな柱時計。
夢の中で見たような、こんな絵を盛んに描いていた、そんな過去がわたしにもありました。
あれは確か中学・・・・・うーん、中二病とはよく言ったものだ(; ̄ー ̄A 



魚雷の刺さったボウリングのピン・・・ではないと思う。
もしかしたら魚?




この絵もここにあったんだ~!とびっくりしたマチスの「ダンス」。
これを見るといつもつないだ輪の「切れ目」、手の離れたところが気になります。
手前の人、これこけてますよね?

マチスはいつも

「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」

と言っていたそうです。



これもデ・キリコ。
石膏の像の横になぜ赤い炊事ゴム手袋(笑)

なぜか「愛の歌」というタイトルだそうですが、この作品に衝撃を受け、
マグリットはその絵に「輝かしい詩情」をみいだし、
シュールレアリストとして出発することを決めたということです。



おなじみ「The False Mirror」(偽りの鏡)。
題名は「溶けた時計」の方がどの絵かわかってもらえると思う。



MOMAは美術館の建物全体もまた近代的でモダンです。
階段も手すり部分は皆アクリルで視界を全く遮らず、圧迫感はありません。



ボストン美術館は広大な敷地面積に一部4階建てのビルを併設していましたが、
ここはニューヨークという都会のせいか、ワンフロアはそれほどおおきくありません。
しかし、吹き抜けの空間といたるところにこのような渡り廊下で繋がれた複雑な構造で、
大変な広がりを感じさせます。



クレーの絵は目頭が繋がっているのが特徴ですが、この猫も目頭が繋がっています。
猫の額の部分に鳥のような造形がありますが、これはもしかしたら、
鳥を狙っている猫さんの頭の中を表現している?(適当)

後から知ったのですが、この題名、やはり「猫と鳥」だそうで。



リヒテンシュタイン の 「Drowing Girl 」(溺れる女) 。
アメコミと何が違うんだ?といつも思いますが、こう見えてもポップアーティストです。



ジャスパー・ジョーンズの「FRAG」。
どうしてこれが芸術、と思ってしまうわけですが、噂によると、
ジョーンズ氏はこのとき無性に国旗が描きたくなった、ってことです。
いいのかそんなので。



前に人が立っていても全然邪魔な気がしないポロックの巨大な作品、
こういう画法は「アクション・ペインティング」というのだそうです。

ジャクソン・ポロック(1912~1956)は、晩年アルコール中毒で、
最後は若い愛人とその友人を巻き添えに自動車事故で死亡。
わずか48年のロックンロールな()人生を駆け抜けました。



この絵の題名は、うちにあった画集を見てあまりに印象的だったので
本日に至るまで忘れたことはありません。

「ブロードウェイ・ブギウギ」(モンドリアン)

ブロードウェイを含むニューヨークの街?
スカイスクレーパーの窓?地下鉄の路線図?

小さい頃、これがどうしてブロードウェイ・ブギウギなのかとか、
このビニール製のテーブル掛けの模様のような柄のどこが芸術作品なのかとか、
その不思議さだけを名前とともに強烈に印象に刻みつけたわたしです。



なぜかバブル・キャノピーのヘリコプターが吹き抜けの空間に吊って飾ってありました。
確かめていませんが、鹿屋にもあったベル47だと思います。


そういえば「進撃の巨人」はアメリカでも大人気。
実写版の映画も公開されるそうですね。って何言ってんだ(笑)
時間がなくて外の彫刻まで見る時間はありませんでしたが、
屋外には巨大な彫塑が所狭しと展示されています。

これ、よく見たら「サイアム・ツインズ」(シャム双生児)ですね。

しかし、今日ご紹介した造形は後半の近代作品群の不可解さに比べれば、
「古典」といってもいいような「具象」だったのです。



続く。
 

ニコン1専用70~300mmレンズでシリコンバレーの動物を撮る

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去年は一眼レフ用の望遠レンズをマウントしてシリコンバレーの動物を撮りましたが、
今年は誕生日プレゼントで手に入れたニコン1専用レンズという最新兵器で
ここシリコンバレーの動物を撃破じゃなくて激写してまいりましたので見てください。



撮影場所はマウンテンビューのショアラインパーク。
サンフランシスコ湾に面したスラウと呼ばれる蛇のような川とその水が運んだ泥の浅瀬、
そこをサンクチュアリとする鳥たちの天国のような地域です。

このショアライン湖という比較的大きな湖があり、波が静かで広いことから
ボートハウスが置かれて夏場は子供達のキャンプが行われています。




なんどかお話ししたことがありますが、この自然公園にはグーグルが隣接しており、
広大な面積にたくさんの建物を所有しています。
池の向こうに見えている一連の建物はすべてグーグル。通りの名前もグーグルです。 



歩き出したところでまず動いていない植物を一枚。
栗のイガのような花を咲かせる植物は、このまま赤くなります。



ショアライン湖のボート着き場にいた川鵜。
鵜というのは英語で"cormorant"といいます。
これは日本でも見られる川鵜と同じ種類であろうかと思われます。

目が緑なんですね・・。



ここでは珍しくもないガチョウですが、単縦陣で航行していたのでつい一枚。
ショアライン湖を囲む松の並木の根元を注意深く歩いて行くと・・・、



リスがいました~!
相変わらずラブリーね君たち。

このリスは、カリフォルニアジリスという種類で、地面に穴を掘って生活しています。
日本でリスというとシマシマの定番を思い出しますが、ここでは小さな白い斑点を持ち、
体はシマリスのざっと2倍はあるのではないかと思われます。



いや望遠レンズ買ってよかったよ。
リスは用心深い生き物なので、カメラを向けたら逃げてしまうことが多いのですが、
離れた位置からなら彼らも全く警戒しないのでその生態を撮り放題。



彼らがどんなものを食しているかも、しっかり捉えてしまうのだった。
これは、葦のような植物の外皮をパリパリと食べています。
食べ物を持つ手がかわいいぞ~~!



いや実はですね。
望遠レンズのカリフォルニアデビューは、いつもリス画像を撮りに行く、
スタンフォードのディッシュトレイルにしようと思っていたんですよ。
それが、今年息子を学校に送って帰りに寄ろうとしたら、周りの道が工事中。
ふと気づくと、道だけでなく、公園の中もなにやらローラーなどが入っていて
新しいトレイルでも作るのではないかと思われる動きがあり、ショックなことに
わたしがここにきた2日前から、わたしがここを去る当日まで閉鎖するとの看板が・・。

というわけで今年はディッシュトレイルのリス画像をお届けすることはできなくなったわけですが、
ここショアラインパークにもリスはいる、と自分で自分を慰めながらここにきたのでした。



後ろから見ると、ほっぺたの保存袋が盛り上がって見えます。



前のマウントして使っていたレンズと比べてもやはりニコン1との相性がいいせいか、
画像のなんていうんでしょうか、表現力?みたいなのがアップしている気がします。
もちろん当社比でね。



シャッタースピード優先モードで、シャッタースピードを上げて撮りました。
一応こっちに向かって走ってきています。



このリスを狙って撮っていたら・・・・、



友達が横から出てきました(笑)
このあと鼻先を合わせて交信していましたが、期待したように喧嘩は始まりませんでした。
仲良きことは美しき哉。



なかなかの美リスさんです。



ところで、リスを撮っている間中、わたしは極力気配を殺すべく、
足をまったく動かさずに、まるで立木に擬態しているつもりになっていたのですが、
そのせいなのかどうか、足元に尻尾の小さな若いリスが近づいてきました。
こちらを見上げているのに怖がるどころか、足のすぐ横でじっとしています。
わたしもリスを怖がらせないように足の位置を決して動かさず、上半身だけで動きを追いました。



すると、なんとびっくりしたことに、リスは足元で砂浴びを始める気配。
望遠レンズで自分の足元を、しかも体をねじりながら撮るのは至難の技。



ここらがいいかしら。



よっこらしょっと。



砂浴び、状況開始~~!



いい気持ちじゃ~。

ごろごろ。

この尻尾の細さを見ても、今年かせいぜい去年生まれたリスらしいことがわかります。
怖い目にあったことがないのか、大胆なんですね。
このまま無事に大きくなっていってほしいものです。 

 

ゴロゴロの最中に何か見つけて、食べられるものかどうかチェック。



望遠レンズはここまで野生動物の動きを引き寄せて撮ることができます。



リス写真専門家としては(いつの間に・・・)、このニコン1専用望遠レンズ70~300mm、
大変リスの撮影に適したレンズであると、それだけは断言しておきます。

さて、このショアラインパークのメインは、どちらかというと鳥です。
特に、ここにはペリカンの水上滑走を撮るために来たといっても過言ではありません。

ペリカンの滑走路のある河川に向かって歩き出すことにしました。



スラウといわれる河川にいくには、ショアライン湖の横をずっと歩いていきます。
おそらく去年もその前の年も撮った、ダイサギくんが今年も同じところにいました。



ダイサギでないほうの「イグレット」という小型のサギもいつものところに。
縄張りがどうも決まっているようですね。



湖のほとりの木の枝に首だけ赤い鳥がいるのに気付きました。
下の2羽は雀のようです。



メキシコマシコ、英名「House Finch」ではないかと思われます。
ハワイと北米に生息するスズメ目アトリ科の鳥です。



トレイルを歩いて行くと、まず右手に湖沼が見えてきます。
立てられた杭のほとんど全部が鳥の休憩所になっていました。



関係者だけが通れる桟橋の上で杭を占領しているのは皆同じ種類の鳥です。



このシギの種類を確認するために画像検索したら、自分のブログしかでてきませんでした(笑)
というわけで、これは

American avocet「ソリハシシギ」。



日本にも同じ種類のシギがいて「タカブシギ」という名前だそうです。



ところでペリカンなんですがね。
去年とその前の年、ちょうど滑走路のようになっていて1分おきくらいにペリカンが離発着する
「ペリカン滑走路」に行ってみました。
これがそうなんですが、なぜか肝心のペリカンがほとんどいないんですよ。
画像のペリカンはここにいたたった2羽のうちの一羽で、
そもそも滑走路になるほどの長い水路が渇水で無くなってしまったのか、
地形が微妙に変わっていて、そのためペリカンはここを根城にしなくなったらしいのです。



葦の踏み分け道を水際に向かって下っていき(坂の途中でころんだ(´・ω・`)、
カメラを構えてずっと待っていたのですが、結局着陸してきたペリカンはいませんでした。
これは別のところに降りたペリカンを撮ったものですが、どうやらペリカンは
離発着に十分な水深がないとやりにくいらしく、この辺りの水かさが減ってしまったことから
別のところに巣を遷してしまったのではないかと思われます。

そういえば今回カリフォルニアに来た途端、やたらと「水を大切にしましょう」的な
お知らせや警告がそちこちに見られ、サンフランシスコの一流レストランでも
水は飲みたい人だけがリクエストするというシステムになっていたりしました。

どうもカリフォルニア州では現在水不足が危機的状態で、そのせいなのか、
大きな山火事も頻発しています。
(このあいだのホテル火災も少しくらいは関係あるかも)
わたしはそのことをニュースからではなくペリカンのおかげで気づいていたことになります。



こうしてみると、彼らが離発着に水深を要する理由がわかるような気がします。
レンズを買った理由の一つに「ここのペリカンを撮る」というのがあっただけにショックです。

ディッシュトレイルが閉鎖されていてそこのリスに会えなかったこと。

河川の地形変化でペリカンの群れに会えなかったこと。

台湾まで行ったのに李登輝元総統に会えなかったこと。

これはわたし的にこの夏の「三大会えなかった悲しい思い出」となりました。
最後だけちょっとリスやペリカンと並べるのはどうかという説もありますが・・。



仕方がないので代わりにカモメの飛行を撮ることにしました。
カモメを差別するわけではありませんが、あまりおもしろくないんだよな。どこにでもいるし。



着水でもしてくれると少しは撮りがいもあるというものですが・・。



でも、こうしてみるとまるでデコイのように綺麗な鳥ですよねカモメって。
この写真で見えている川のような部分は、この辺の湿地帯の深い部分ですが、
特に名前はついていないようです。



ペリカンがいなかったので川に沿ってあるいていくと川が広くなった部分がありました。
ここには名前が付いていて「Soap pond」というそうです。
ちなみに、このずっと続いているトレイルは「アドビ・クリーク・ループ・トレイル」といいます。 

もちろんあのアドビですが、これはおそらくこの地域の整備と管理、野生動物の保護に
アドビが多額の寄付金をしたという経緯でもあって、名前が冠せられたのだと思われます。



ソープ池ではカモさんたちがお食事に専念中。(笑)



ここで引き返し、もう一度ショアライン湖まで歩いてきたら、この鳥が
上空で弧を描いて飛んでいました。
撮ろうとしたのですが、カメラに捉えると予測不能の方向に急旋回し、
上空から魚をみつけるとダイビングするという動きのため、これしかまともに写っていませんでした。

ツバメよりこちらが「燕尾」といってふさわしい尾をしています。
(ノーウォークの公園でツバメの巣を観察した結果より)



さらにボートハウスの近くまで帰ってきました。
ここに水飲み場があるのですが、何羽かのガチョウが水飲み場から溢れた
わずかな水をすすっていました。
ふと思いついて水を出してやると、皆大興奮。
とたんにその辺のガチョウというガチョウが水飲み場とわたしの周りに集まってきて、
お皿からこぼれ落ちる水を飲んだり頭からかぶったり大騒ぎに。

すぐ横に湖があるのだからそこでいくらでも水なら飲めると思うのですが、
やはり彼らには水道から出る水がありがたいようなのです。



ガチョウというのも警戒心の強い鳥で、群れの中に歩いて行くと、
かならず彼らはさーっと逃げていくのが普通なのですが、この時ばかりは
わたしの足にその体がぶつかっても平気。

水を飲みにきた別のガチョウをつついたり咬んだりして追い払ったりする
何羽かのガチョウもいました。
ガチョウの世界も強いものが弱いものを駆逐するヒエラルキーが存在する模様。



シリコンバレーにはこういった自然公園がたくさんあるので、滞在期間中、
ディッシュトレイルのようなリス公園を探してみたいと思います。

おまけ*衝撃画像

ホテルの石の床に落ちて時計のガラスが割れました。 
この時計のガラスを割るのは二回目で、前もラスベガスのホテルでシャワー中、
やはり石の床に落ちて割れてしまったものです。
落とした瞬間このラスベガスでのことを思い出して嫌な予感がしたのですが、
どんぴしゃりで同じ壊れ方をしていました。

サンフランシスコに住んでいたときなので、市中のメーカー専門店に持って行き、
ドイツ系だかスイス系だかの職人に預けて直してもらって600ドル也だったのですが、
あれから10年以上経っている今、日本でこれを直したらいったい幾らかかることか(涙) 



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