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地球防衛協会連合会(仮名)総会で衝撃(おまけ*防衛省設置法案成立)

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先日アップした国際情勢についての西原正氏の講演会は、
全国地球防衛協会連合会(仮名)の総会のときに行われました。
いまさら仮名にしても何にも意味がないような気がしますが、一応これも
検索をスルーするためのちょっとした工夫だと思っていただければ幸いです。

人物の名前を出さなかったり、仮称を使ったり、あるいは日にちをずらしたり、
こういったネット社会でのちょっとした身バレ防止のための努力というものを
当ブログでは怠らずやってきたつもりだったのですが、それがある方面に限り、
あまり意味を持っていなかった「らしい」ことが今回わかりました。

その話をする前に、総会当日のご報告から参ります。


 

講演会の後、開始時刻ちょうどに会場にはいったところ、聞いていたより規模の大きな
大宴会場での懇親会が始まろうとしていました。

中央にいるのは在日米海軍、空軍の制服を着たアメリカ人と、陸空海の自衛官。
海自の制服の後ろ姿は海幕長です。 



わたしの属する某地球防衛協会の会長代理の方が迎えに来てくれて、
決められたテーブルの周りにたどり着きました。(立食だけど一応テーブルが決まっている)

さっそく政治家の先生方のスピーチが始まります。



自民の木原稔代議士。
今確かめるためにツィッターを見たら、この人のツィートがなかなか。

二言目には「審議拒否!」…軽すぎる。
国会で質問することが国民の代表たる代議士の本懐ではないか。
気に入らないから審議を拒否するのではなく、昼夜を問わず審議を要求すべきではないか。

ごもっともです。民主党はそれしかできない政党。

いや、最近は国会で厚労委の委員長の首を絞めて怪我させ、それが
「委員長に飛びかかれ」と紙面で(しかも手書き)指示が出されていたそうなので、
自分たちの主張のためには(というか足を引っ張るためには)暴力も辞さない、という
クズ政党であることがまたしても明らかになったところですね。

丁寧に答弁すると「時間稼ぎだ」と言われ、簡潔に答弁すると「誠意が感じられない」と言われ…

お察しします。

確かにその通りですが、他に表現の仕方があるだろうに。
「女性と黒人 出馬を表明 米大統領選、共和党」琉球新報 5月5日 朝刊

(しょせん)琉球新聞ですから・・。



またしても遭遇、佐藤正久議員。
このとき近くにいた方が

「佐藤議員は滑舌が少し悪いのが残念だ」

とおっしゃったのですが、わたしはこの時、初めて国会に登壇した時と比べると
別人のように演説がなめらかで明瞭にになっている、と、
ちょうど考えていたところだったので、その旨弁護しました。



地球防衛協会の一番偉い人。
後で名刺交換させていただきました。


ところで、佐藤議員が興奮した口調で報告したことがあります。
この日付けで、国会では「防衛省設置法」改正案が成立したのでした。


法案の内容の一番大きな「目玉」は、内局の所掌事務規定の見直し、
そして、制服組と背広組の関係の見直しということになろうかと思います。

わたしはこの次の日、ある海将と会談したのですが、そのときにこの法案について
伺ったところ、部隊運用に関する業務の統幕への一元化がなったことによって、

「つまり話が早くなる」

と一言で明快に説明してくださいました。
しかし案の定、マスコミの論調は一貫して

「文民統制の終わり」=「制服組の暴走」

とどぎつい言い換えを行っては不安を煽っているものばかり。



確信犯なのか故意犯かはわかりませんが、マスコミの論調は(野党はそれに追随)、
「文民統制」と「文官統制」を意図的に混同させているものばかりです。 


はっきりさせておきますが、この法律はマスコミがミスリードしているように
「文民統制」を廃止するものではありません。
本来の「文民統制」とは、国民から選挙によって選ばれた政治家たる防衛大臣が、
 制服組、背広組すべてを統制するというもので、改正後も
最高指揮官が政治家であることで、文民統制は生きております。

それでは「文民」と「文官」の違いとは何でしょうか。

「文民」=政治家
「文官」=防衛省背広組

と考えていただければいいかと思います。 

そもそも日本で戦後、警察予備隊創設を主導した占領軍総司令部民政局別室(略称:CASA)
の意向であった「シビリアン・スプレマシィ」(文民優位)を、まず二世通訳
(今、日系二世について調べてますが、やはり彼らの語学能力には限界があった模様)が
「文官優位」または「文官統制」と誤訳したことが、今日までの錯誤の原因となりました。

それに加えて、当時の内務官僚の、

「軍人はほうっておくと何をするかわからないので、しっかり押さえつけねばならん」

という考えによって、誤訳が意図的に放置され、かつ悪用されてきたという見方があるそうです。

たとえば自衛官の処遇改善の一環として、「統幕長を認証官に据える」という自民案を
佐藤議員らは進めていますが、これに待ったをかけているのが背広組であって、
その根底には「制服組が自分たちの上に立つのが面白くない」という内局の本音があります。

 

それでは法改正後はどうなるか簡単に言うと、「軍事」に関する補佐は各幕僚長が、
「政策」的補佐を内局官僚が、それぞれ専門的見地から行うことになります。

今までは、事務次官の裁量次第では防衛大臣の命令がトップダウンにならなかったり、
現場に知悉した制服組の情報でも、それが背広組の意向に反するものなら、
報告さえ上がらないという弊害があったのですが、制服と背広を対等の関係にすることで
その無駄がカットされる(話が早くなる)というだけのことなのです。

 とにかくマスコミはどういうわけかこれを「文民統制の弱体化」と位置づけ、
「文官統制」と「文民統制」は全く別物なのに、皆これをあえて混同して語り、
いたずらに「軍靴の足音」がががが、とミスリードして国民の不安を煽っているだけに見えます。

じゃー聞きますが、あなたがたのいう「文民統制の弱体化」って具体的になんですか?


そもそも文民が統制しているから戦争にならない、なんてのはわたしに言わせれば幻想ですね。
暴走した文民(政治家)が戦争をおっぱじめ、いわゆる「暴力装置」である軍隊は、プロフェッショナルとして
それに従って戦っただけという例はいくらでもあるではないですか。(湾岸戦争とかね)
もしそうなったとき、(つまり文民が戦争を始めたとき)文民統制は何の意味を持ちますか?


つまり何が言いたいかというと、今回の法案では「文民統制」を廃止したわけでもなんでもないし、
そもそも「文民統制が戦争を防ぐ」=「その弱体化が戦争につながる」というロジック自体、
全くデタラメなのです。



 

ところでこのテーマは、佐藤議員が、その当選直後から、防衛関係議員(石破大臣、浜田大臣、中谷大臣)
らと共に、防衛省改革の一環として推進してきたものでした。

民主党政権時に反故にされ、
民主党政権時に反故にされ、
民主党政権時に反故にされ、

ようやく法改正に至ったのがこの日だったということなのです。
この日の佐藤議員の感慨深そうな面持ちも当然のことと言えましょう。

佐藤議員は、自身のブログで

今回の法改正で、初めてわが国の防衛体制において、
健全な「シビリアン・コントロール(文民統制)」が顕現されることとなる。

と語っています。

文官統制が廃止されることで健全な文民統制が可能になる。

この猿にでもわかる簡単な理屈を理解しているらしい(つまりちゃんと報道している)のは、
わたしの見た媒体では産経新聞だけでした。




さて、設置法案の話はこのくらいにして。

この後歓談に移る前に、会場に来ていた招待者が名前を呼ばれました。
自衛隊関係は将官以上、議員の代理人(宇土議員の奥様もおられ、ご挨拶させていただきました)
などが呼ばれるとその場で手を上げて「はい」と返事をします。
自衛官の挙手は全員「グー」であることもちゃんと確認しました。

アメリカ海軍、空軍の軍人さんがきておりましたが、空軍さんの方が
呼ばれたときすらすらっと

「よろしくおねがいします~」

と全然訛らない発音で言ったので会場はどよめいておりました(笑)
日本勤務が長い方なんですかね。


そして歓談タイム。
今回初めて海幕長にご挨拶させていただきました。
わたしの存じ上げている元海将と同期でいらっしゃるので、話題として

「元海将がMAST Asiaで講演をなさっていたそうですが後で知って残念でした」

というと

「僕のも聞いてくれなかったんですね・・・いや、聞かない方がいいです」

なんと、海将も同日講演されていたのです。
そしてこのとき、元海将が

Military Statemen Forum 

で渡米されているということを伺ったのでした。 
海将は海自のトップの方々に不思議と共通する、どちらかというと学者的なタイプで、
物腰柔らか、ソフトな声音が、元海将から伺っていた

「江田島時代当時の校長の部屋で、フォートナムメイソンの紅茶とフルーツケーキを二人でご馳走になった」

という逸話になぜか深く頷いてしまう知的で上品な雰囲気の方でした。


さて、本題です(笑)

この後、わたしは地球防衛協会の会長代理に連れられて、旧知の元陸幕長と、
先日水交会で初めてお会いした軍医殿、じゃなくて中央病院の副院長にご挨拶に行きました。 
ここで驚天動地の出来事が起こったのでございます。

元陸幕長はわたしを見るなり、こうおっしゃるではありませんか。

「あなた海軍にくわしいんだってねえ。ブログに出てましたって教えられたよ。
ネービーブルーとかいう」

orz <・・・・・・・・・。

わたしの脳裏には「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」
だけがぐるぐると渦巻き、次の瞬間、以下のことに思い当たりました。

当ブログを見た関係者(多分自衛隊の中の人)、かつわたし個人を知っていて、
(どこかで名刺交換した?) ブログと実在のわたしを結びつけられる人がこの世に存在する。

それが一体どういう人物なのか思いを巡らす間も無く、わたしは気付きました。
隣の軍医中将じゃなくて海将も、気のせいか「何か知っておられる風」な表情をされていることに。

わたしはもしかしたら、自衛隊という組織をあなどっていたかもしれん。
確かに、テーマを自衛隊について特化して書いているブログについては、
自衛隊の「そういう部隊」(どんな部隊だ)がリスト化しているらしい、という噂について、昔軽~く

「こんな話があるけど、当ブログもそのリストに入ってるといいな♥」

みたいなことを書いたことはあります。

しかしまさか元陸幕長ご本人がこんなブログ見るわけないよね~と思っていたため、
写真をアップするわ、陸幕長の現役時代の話で漫画を作成するわとやりたい放題やってしまっていました。
幸い元陸幕長は「まだ読んでない」とおっしゃってましたが、
これは何としてでも「読まないでください」というべきだったかもしれません。

この期に及んで元陸幕長だけでなく、各方面に何か失礼なことは書いてなかっただろうかと、
その日は眠れなかった、小心者のわたしでございました。



それにしても、自衛隊の情報収集力&伝達力おそるべし。 




「宗谷」見学~稀代の幸運艦・特務艦「宗谷」

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海保の南極観測船「宗谷」が見学できるのをご存知ですか?
お台場の「船の科学館」横の岸壁に係留されて、いつでも無料で中をみることができます。

このことを知ってから一度見てみたいと思っていたのですが、連休最後の日に、
たまたま近くの未来科学館でやっているイベントを見たがっていたTOと
意見の一致を見たので、行ってまいりました。



これがモノレール越しに見た「船の科学館」。
なぜこんな角度で撮っているかというと、見学の前、車をパーキングに駐めてから
ゆりかもめで一駅となりにあるホテルでお昼ご飯を食べたからです。

煙突に見立てた展望台が高すぎることを除けば、本当に大型客船のようです。 
しかし、現時点で(平成27年5月5日)本館は無期限閉館中。
別館でわずかながら展示も行われているのですが今回は立ち寄りませんでした。

この無期限閉館は2011年9月30日からのことで、建物が老朽化したためという説明ですが、
当時の民主党政権の仕分けで、予算が減らされたことが大きな理由であることは明白で、
閉館前に見られなかった残念さが、今更ながらこの政権への怒りとなって蘇ってきました(笑)

許さん蓮舫。

博物館の安い駐車場があるのに、気づかずに民間の高い駐車場に入れてしまった怒りが
さらにそれに拍車をかけました。
こちらは民主党には全く関係ありませんが。



「宗谷」は、正確には岸壁に横付けではなく、誰でも歩いていける通路を甲板に渡して、
バリアフリー状態で甲板レベルまでは見学できるようになっていました。
乗っていても全く波の動揺はなく、どうやら船底は海底に固定されているようです。

「不可能を可能にする・・・強運と奇跡の船”宗谷”」

という横断幕がかけられていますが、これは船舶振興委員会会長だった笹川良一が
「宗谷」をここに展示することに決まった時に、彼女に捧げた言葉だそうです。



南極でのかつての「宗谷」の勇姿と、タロ・ジロの姿がありました。
みなさんもご存知ですね?樺太犬のタロとジロ。

わたしはこの手のものに本能的な胡散臭さを感じて、当時も映画は見ませんでしたが、
南極に放置した犬が1年後に2匹生きて見つかった、
という話は当時大きな話題として社会現象にまでなり、それこそ今なら、
彼らに国民栄誉賞でも出されかねない空気だったのは覚えています。

国民栄誉賞が動物にも与えられるのかどうかは知りませんが。




「宗谷」の後方には水産庁の「白竜丸」が繋留されていました。
てっきりこれも博物館展示されているのだと思ったら、とんでもない(笑)

「白竜丸」の竣工は2014年10月31日。

つまりまだ半年も経っていないバリバリの新鋭艦だったのです
何をもってこの最新式設備を備えた水産庁の「漁業監視船」を、「宗谷」のような
退役した展示艦だと思い込んだのか自分でもわかりませんが、いやまあ、
船ってなんとなく遠目には新しいとか古いとかわからないじゃないですか?

え?そんなものはマストや通信設備を見れば一目でわかるって?

確かに写真を拡大してみれば、衛星通信アンテナなんかもありましたが(笑)
しろーとは真っ赤に錆びた錨くらいにしか目が行かないのよ。

「錨があんなに錆びてるんだからつまり古い船なんじゃない?」

「時間があったらあちらも見に行きたかったね~」

と関係者が聴いていたら噴飯ものの会話をしながら「宗谷」のデッキを渡りました。



驚くことに、「宗谷」の見学は無料です。
おそらく昔は「船の科学館」の観覧料に含まれていたのでしょうが、
今はこの船だけならただで見ることができるのです。
だから今はパンフレットすら配られていません。

入り口に立っていた係員が、よろしかったら寄付をお願いします、
とおっしゃるので箱の中に寸志を入れたところ、このようなカードをくれました。

しかし後からこれも知ったことですが、実はこの「宗谷」もつい最近、
今年の1月末くらいまではリニューアルのため閉館していたのだそうです。
老朽化が激しく(なにしろ艦体だけで言えば77歳ですから)、メンテナンスのため
募金を募ってようやく改装にこぎつけたばかりだったというわけです。


ところで、「ホーネット」について書いた時、

「日本には記念艦『三笠』以外に艦体が保存されていない」

のは戦争に負けたせいだ、と言ったことがありますが、厳密に言うと、
一応海の上で展示されている元「軍艦」があったんですね~。

それがこの「宗谷」だったのです。



ここお台場にある「宗谷」の艦体がこの世に生まれたのは1938(昭和13)年。
彼女はメイドインジャパンですが、最初の名前はロシア風の

「ボロチャエベツ(Волочаевец)」(正確にはヴァラチャーイェヴィェッツ)

でした。
当時、北満鉄道を日本がソ連から買収したとき、契約の一部としてソ連のために
対氷貨物船を3隻受注したのですが、そのうちの一隻がこれだったのです。

この写真は川南工業株式会社香焼島造船所で行われた進水式の時のものです。
しかし、戦争前夜の不穏な時期に契約破棄になったため、ボロチャエベツは
その名で呼ばれることのないうちに、

「自領丸」

と名前を変えて竣工しました。
つまり、ロシア文字のつけられていたのは進水式の時だけだったんですね。



試運転中の「自領丸」。

これは国際情勢というよりも、ロイドの公試試験の規格を満たさなかったという、
日本の造船業にとっては屈辱的な理由もあったようです。 


「自領丸」はソ連向けに造られ、耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀、
つまりソナーがが装備されていたため、海軍は大変興味を示していたのですが、
ソ連との契約がこじれてしまい、しばらく民間の貨物船として就役していました。

函館で蟹缶などの水産物を輸送する仕事をしていたころのことですが、
濃霧で寸分先も見えないという悪天候に見舞われたとき、
彼女はソナーで水深を確認しながらゆっくりと航行し、無事に帰港しています。


ソ連との契約問題が片付いた昭和15年、「自領丸」は海軍に晴れて購入され、その名も

「宗谷」

となって今日にまで至るのです。
海軍軍艦色の灰色塗装を艦体に施され、艦尾には 軍艦旗を掲揚した
「宗谷」の艦首には、8センチ高角砲が装備されました。
ちなみに、ソ連から受注して同時に生まれた姉妹艦二隻、天領丸、民領丸は、
どちらも陸軍に徴用されて工作船となっています。



「宗谷」は運送艦、英語で言うと「カーゴシップ」にカテゴライズされ、
これはもっぱら港や基地と基地の間での軍事物資、人員輸送を任務とした船です。
つまりそれまでの任務と同じことをやっていたわけで、「運送艦」だったのは
この「宗谷」一隻だけでした。

海軍籍になってから彼女は北洋での輸送兼測量任務のために艤装をあらため、

基準排水量 3,800トン

速力    12.1ノット

の軍艦として完成しました。



主に北洋での輸送に用いられ、開戦後は南洋、ラバウル、ソロモン方面での輸送、
測量任務に従事していました。

笹川良一が「宗谷」を「強運と奇跡の船」と呼んだのはだてではなかったのです。
まず、この時代に激戦地にあって何度も奇跡的な偶然によって命長らえました。

まず開戦後の1942年3月、ショートランドで測量中に水上機の襲撃を受けますが、
このときには駆逐艦が撃退して無事。
翌月も測量中に水上機に攻撃されますが、このときも無傷でした。

なぜか「宗谷」の行くところ、敵が手薄のため2度にわたる無血上陸の支援に成功していますし、
僚艦が潜水艦攻撃に遭って沈没されることはあっても「宗谷」だけは被害なし。

1943年の1月は、ブカで測量地図を作っているときに敵潜水艦に遭遇しました。

3本の魚雷を、鈍足の「宗谷」は身をよじるようにしてなんとか回避したのですが、
ついに4番目の1本が右舷後方に命中。
総員が覚悟を決めたのですが、幸い不発弾だったため爆発しませんでした。

「宗谷」乗員はその後、この魚雷を甲板にあげて皆で記念写真を撮っています。
戦地でこの余裕、実に男前です。


彼女は戦地に投入されることが予想されていたので、武器も搭載されました。

四〇口径三年式八糎高角砲1基、
九六式二十五粍高角機銃5挺、
九三式十三粍機銃3挺、
九二式七粍七機銃1挺、
落下傘付き爆雷10~20発、
三式一号電波探信儀三型


おお、高角砲などもいっちょまえに持っていたとは本格派。
ところでこの赤字で書いた「落下傘付き爆雷」ですがね。

「宗谷」には爆雷投射機が搭載されていませんでした。
しかし、対潜水艦対策として爆雷は積んでおり、いざ爆雷戦となったら潜水艦上海面に
突進し、しかるのち機雷班が爆雷を手動、いや脚動で蹴り入れたのでした(T_T)

投雷後一目散に現場から逃げるわけですが、鈍足ゆえ爆発に巻き込まれるので、
せめて爆雷に落下傘をつけ、逃げる時間を稼いでいたというわけです。

潜水艦にとっても逃げる時間があったということになるがそれはいいのか。


その後も海上で翼を休めていた水上艇と遭遇して(水上機との遭遇率高すぎ)
撃ち合ったり、潜水艦「シードラゴン」からの攻撃を受けたりと、それなりに
修羅場を踏んでいるのにせいぜい測距儀が壊され、負傷者が出たという程度の被害で、
いずれも致命傷にはいたらず・・、

浅瀬に座礁して身動きが取れなくなっても次の日何事もなかったように浮いて離礁したり、
船団の中で唯一「宗谷」だけが無事だったり、横須賀の空襲で、「長門」はじめ
他の軍艦が大変な被害に遭っているのに「宗谷」だけが見向きもされなかったり・・。


これは「雪風」レベルの幸運度なんじゃないでしょうか。
幸運度だけでいうと、「宗谷」は戦後の第二第三の人生においても、
奇跡としか言いようのない偶然で喪失を逃れているわけです。

なんといっても、軍艦でありながら戦後経歴偽装、じゃなくて
色々と幸運が重なって民間船となったのが幸いして長らく現役で活躍し、
のみならず2015年の今日、いまだその姿をこの世にとどめていることがなによりもその証です。



改装したばかりといいながら、いたるところ経年によるサビの浮いた艦体。
さあ、今からこの中へと入っていくことにしましょう。


続く。





 

東京駅前ホテル(仮名)でプレジデント気分

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TOがスパ&ジムの会員になっている東京駅前ホテル(仮名)は、会員特典として
更新すればホテル宿泊がプレゼントしてもらえます。
いつもこの時期にこの駅前ホテル(仮名)に泊まった報告をするのはそのためで、
実はわたしたち、このホテルにちゃんとお金を払って泊まったことはほとんどありません。

いつも渡米前にちょっとした都会のリゾートを楽しむためにこの会員特典を享受するのですが、
今年はポイントがたまっていて、

「普通の部屋に2泊するか、プレジデンシャルスイートに一泊するか」

という選択を迫られました。

「プレジデンシャルスイートってどんな部屋?」

「VIP用の会議室にもなるテーブルがついてる広い部屋」

「いや、わたしたち三人家族で会議室必要?」

「そうだよねー。普通の部屋2泊でいいよね」

と相談し、そのように申し込みました。
そして当日。



どおおおお~~ん(効果音)

ふおおお、プレジデンシャルスイートだー!

このホテルは「普通の部屋」といっても広く、普通のシティホテルのスイートくらいあるのですが、
その中でVIP用の最大級の広さを持つ部屋が空いていたので(そりゃ空いてると思うけど)
駅前ホテル様(仮名)のご好意で、2階級特進のグレードアップをしていただいたのです。

「こっ、これは・・・」



広くて向こうのものに手が届かないテーブル、その気になれば三人寝られるソファ。



そして、デスクの横にはファクシミリと、卓上にはセロテープやハサミ、付箋の入ったお道具箱。
大統領が付箋を貼ったりセロテープで何か貼るというのは想像できませんが、
それはともかく、向こうには会議用の8人掛けのガラスの長テーブルが!

TOはこの日、ホテルで仕事関係の人と会う予定になっていたので、

「部屋で会議したら?」

というと、いや、ここには人は呼べない、と申します。

「だって、こんなとんでもない部屋、なんか変な勘違いされそうだし・・・」

ごもっともです。 



テーブルの奥にはプライベートルームが。
ただしベッドは広いとはいえ一つだけ。



三人家族のうちはどうしたらいいのかというと、一人がこの会議テーブルの横に
とってつけたように置かれたロールアウェイのベッドで寝ることになります。

こういうとき、だれよりも早起きで、他の二人がグースカ寝ていても起き出し、
マイペースでゴソゴソするわたしがここに配置されるのでした。




お風呂のスペースだけでもうちの寝室より広かったり(笑)
ちなみにここはガラスで囲まれていて下には東京駅と丸の内を一望できるのですが、
シアーカーテンは開かないようになっていました。

お調子者がお風呂ではしゃいで向かいのビルから丸見え、ということでもあったのかもしれません。
わたしは電気を消して外の明かりだけで湯船に浸かってみましたが、なかなかよろしかったです。

ただしこの浴槽、体躯の小さな日本人が体を伸ばすと、つるつると足の方に向かって
滑っていくため、何度も顔まで水没しかけるというはなはだ不具合な仕様でした。

プレジデントにこんな危険な浴槽を使わせるというのは如何なものか。



このスペースは四方八方に鏡があって、合わせ鏡で全てを点検することはできますが、
どういうわけか全身が映る鏡はこの広いスペースのどこにもありませんでした。



そして、「プレジデントのためのスイート」だなあと感心したのが、この妙な部屋の装飾。
だいたいホテルの飾りというものは、特に昨今、持てるものはなんでも取って帰る、
という習性を持つ中国人観光客に対応して、がっつりと糊付けして固定してあるのですが、
この焼き物は不安定なコンソールにただ置いてあるだけ。



「中国人なら持って帰りそう」

「さすがにここに泊まる中国人はそんなことしないんじゃない?」

「そう思うでしょう。どんな富豪でも取れるものは取らずにいられない、それが中国人なの」

「しかしこの部屋は素性がホテルにはっきりとわかっている人しか泊まれないからねえ」

と、中国人が聞いたらさぞ怒りそうな失礼な会話をしていたのですが、
このあと、この部屋の正規料金がいくらなのか(二泊分で軽自動車が買える)知り、
もし万が一、中国人が本能に逆らえずこの妙なボトルを全部盗んで帰ったとしても、
部屋代さえちゃんと払って貰えば、ホテル側に全く損失はないと確信しました。

 

部屋に入った時、ウェルカムフルーツとともにハッピーバースデイと書かれた
ケーキと、従業員の寄せ書きしたカードがあったので、この駅前ホテル(仮名)が、
今回TOの誕生日のプレゼントとしてアップグレードしてくれたのだと知った次第です。



ケーキがあるからお茶でも入れましょう、とポットを探したのですが、
冷蔵庫の付近にも見当たりません。

「やっぱり大統領は自分でお湯沸かしたりしないから?」

と言いながら電話をしてホテルの人に聞くと、なんとドアの脇に隠し部屋があって、
ここにお茶を入れる道具があることが判明しました。
広すぎてここに部屋があるのすら気づきませんでした。

またそれからが一騒動で、ミルクフォーマーにお湯を入れて

「なんか全然熱くならないでお湯がぐるぐるまわってるんだけど~。
一杯分ずつしかお湯作れないし」

そこでまたホテルに電話してホテルの人を呼んだところ

「これはミルクを泡立てるものでございます。ポットは棚の中にございまして」

と呆れながらお茶をいれてくれました。
もうプレジデンシャルスイート、大変。そういう問題じゃないか。




東京駅前ホテル(仮名)ですので、眼下には東京駅が一望できます。
鉄男鉄子には垂涎のシチュエーション?

ここに来るようになって知ったことは、

「新幹線の天井はたいへん汚い」

ということです。



朝一番には各種新幹線が待機しているここならではの光景も見られます。



そして夜になりました。



ちなみに巨大な窓を全面的に覆うスクリーンが、ボタンを押すと降りてきて
カーテンを閉めた状態になります。



ご飯はどうするかという重要問題に関しては、

「せっかくこんないい部屋に泊まれたんだからできるだけ部屋にいたい」

ということで衆議一決したため、ルームサービスを頼みました。
普通の部屋だと持ってきたワゴンをそのままテーブル代わりにするものですが、
ここにはこんな立派なテーブルがあるのですから、ちゃんとディナーテーブルとして
活用しなければもったいない。

というわけで、こんな風にセッティングしてもらいました。



いい部屋にいても、することは

息子→ゲーム
TO→映画鑑賞
わたし→ブログのエントリ制作

と、家にいるのと全く同じことです。
めいめい好きなことをしながら、しょっちゅう会話もあったりして、
まあこれも団欒ってやつなのか、と思うわけですが、やっていることは一緒でも
プレジデンシャルスイートですると、妙に盛り上がり?この夜は夜更かしをしました。

いい部屋なので早く寝るともったいないからという説もあります←貧乏性

すると、終電になってから下の線路で 、



保線工事が始まりました。
たくさんの人が出て、車両も動き、なかなか大々的なものです。

日本の過密な鉄道で何の事故もなく、故障や不具合もないのが当たり前のように思っていますが、
こんな夜中に働く人たちのおかげで昼間電車がトラブルもなく運行できるのだなあ。



朝になってあらためて同じところを見たら、こんなでした。
結構昼間にも作業用の車両が置いてあるものだったのね。
一番向こうの山手線電車はもうすでにフル稼働しております。



お向かいには三菱系の某企業の入っているビルが。
この辺りは「三菱」王国なので、ビルのほとんどがそれ系です。
ちなみにここにはわたしの存じ上げている元自衛官がお勤めです。



朝ごはんは二人分だけ無料となります。
下の、メインダイニングに朝食を取りに行きました。
卵料理はオムレツをチョイス。
クロワッサンは流石にバターの量、食感共に完璧です。



席に通される時、アテンドの方が

「改装してメニューが変わってから朝食は初めてですか?」

と聞かれました。
これは以前はなかった「ジャムセット」で、リンゴはちゃんと蓋もついています。
ジャムといっても、ヨーグルトに合えるのに向いていました。

 

このあとわたしは所用があったので外に出ましたが、アフタヌーンティの内容も
改装後変わったというので、昼ごはん抜きで帰ってきてこちらにトライしました。

野菜と和牛バーガー、付け合せだけでわりとお腹いっぱいになったのですが、



お皿の上にはこんなものが・・・・。
こんな甘いものづくしは、わたしにとってちょっとした拷問だったりするのですが、
(最近甘すぎるものを食べるのが特に辛いんです)いくらスゥイーツ好きの女子でも、
こんなものは全部食べられないのでは?という気がします。

周りのテーブルでアフタヌーンティをしているのは息子とTO以外全員女性でしたが、(笑)
ざっと見たところ、若い女性はおしゃべりが目的なのか持て余しているのか、お皿は賑やかなまま。

アラフォー世代の二人組は遠慮なくがっつりと食べていましたが、三人組の若い子だと、
自分は食べたくても、牽制しあってお皿に手を出せない雰囲気があるんじゃないかと思いました。



スコーンとモンブラン以外は食べられなかったので部屋に届けてもらいました。



線路を挟んで向かいには昔の郵便局、今の「KITTE」があります。
いつ見てもこの屋上には人がたくさん出ています。
遠目に見てもいかにも中国人旅行者とわかる人たちも・・。



二日目の夕方となりました。
この時間、夕焼けの混じる空の色とほとんど全室点いたビルの灯りで、
東京は一種幻想的な美しさを見せます。



二日目のディナーも部屋でとりました。
ルームサービスは、レストランにはない手軽なメニューがあって量が調整できるからです。



スパゲティボロネーゼ。



バーニャ・カウダというのは、ポットで熱したアンチョビのソースに
野菜をつけながらいただくものですが、これはバーニャ・フレイダ。
アンチョビのソースが冷たいものをこういうようです。



TOは、キッズメニューのオムライスを無理言って作ってもらいました。
こんなことができるのもルームサービスならでは。
量的にも子供サイズで、これが良かったようです。



開けて次の日、新しい週の始まりで、東京は早朝から活気付き始めました。
駅から降りて丸の内の職場に向かう人々。



最後の朝ごはんもルームサービス。
ホワイトオムレツに付いているのはケチャップではなく「トマトのソース」です。
グラノーラに低脂肪ヨーグルト、ホワイトオムレツというこの取り合わせは、
健康メニュー(シニア向け)ということで、ソースもケチャップと違い全く甘くありません。



メニューについてきたのは雑穀入りトーストで、クロワッサンは息子のです。

ポイント消化とはいえ、こんな部屋に二泊させてもらった上、
3時まで延長で部屋を使わせてもらいました。
4時から近くで用事がはいっていたので、本当にありがたかったです。

東京駅前ホテル(仮名)のご好意で、我が家のホテル宿泊史に残る大グレードアップとなり、
心身ともに大統領気分を満喫しました。


大統領は部屋でブログの更新なんてしないぞ、って?





「宗谷」~海の守り神

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見学している時には海軍時代の、それこそ修羅の戦場を
何度も奇跡的に潜り抜けたという彼女の「凄さ」をまだ知らなかったため、
それほどの感慨はなかったのですが、前回のエントリのためにその艦歴を調べて、
「宗谷」が恐るべき強運艦であったことを知り、今更ながらに感激しています。


もちろんこの神がかり的な強運の陰には、「宗谷」と行動を共にしていて戦没していった
数多の艦があったのも事実で、いわば彼女は僚艦によって生かされたのでした。


こんなに幸運なのだったら、例えば海自の派遣部隊などは、任務の無事を祈って
その運にあやかるために「宗谷」詣でを計画してみればどうかと思うくらいですが、
「宗谷」は戦後から海保の所有になり、現在でも海保に船籍があります。

つまりまだ「生きていて」、月に一度は海保の特殊救難隊の救助訓練が行われているため、
昔帝国海軍の船だったと言っても、海自とは”無関係”という立場です。 

余談ですが、海保と海自はその成り立ちから(戦後海保が先にできたのに、後から
公職追放の解けた旧軍軍人を集めて作った海上警備隊と一緒に防衛庁の下部組織に
入ることになったので、海保は猛烈に反対してそのとき独立したまま現在に至る) 
あまり仲が良くなかったという話があります。

しかし今はそんなことを言っている場合ではなく、実際に不審船の追跡の際、
連携の悪さから追跡に失敗するという事件があってからは、
情報交換・共有の仕組みの検討、共同での対処訓練の実施が行われるようになっています。

陸海で仲が悪く、一層戦況を悪くしたあの失敗を二度と繰り返してはなりません(笑)



砕氷船時代に使われていたらしい浮き輪とv(^_^v)♪ブイ。



前甲板には護衛艦とは全く用途の異なる装備が見られます。
ほとんどがロープを巻き取るキャプスタンばかりのように見えますが、
確かめようにもこの部分は立ち入り禁止になっていて近くに行けませんでした。



これもロープを巻き取るものの形をしています。



一つ上の写真にも見られるのと同じ形の装備が左右に一つづつあります。
ここであらためて「宗谷」の砕氷艦時代のスペックを当たってみたのですが、
なんと

武器:40mm単装機関砲×1、20mm単装機関砲×1

を搭載していることがわかりました。
まさかこれがその機関砲・・・・ではなさそうですが・・。


それにしても、南極観測船に武器が備わっていたのか!
巨大生物系に襲われた場合を仮定して?と思ったら、これ海賊対策らしいですね。
こんなに武器を搭載したらオーバーキル、じゃなくて過剰防備なんて言われなかったのか。

ちなみに海自の「しらせ」には船の設備としての武器はありませんが、
やはり海賊対策として小銃と拳銃を搭載しているそうです。



前甲板から見上げた艦橋と操舵室。

海軍の「宗谷」から復員船に転用されたあと、彼女には一度廃船の危機がありました。
海軍の艦船として酷使され、戦地で傷も負い、船体や機関部に傷みを生じていましたし、
海軍艦時代に艦本式ボイラーに換装していたため、商船として復帰するには無理と判断され、
もう少しでスクラップの運命だったのです。

しかし、そのときちょうど、海上保安庁が、灯台補給船を探していました。

「おいら岬の~灯台も~り~は~♪」

という歌がありましたが、昔は灯台は人力による管理で、海の安全を
この灯台守(海上保安庁灯台部)が家族と一緒に灯台に住み込んで守っていました。
灯台というのはたいてい汽車はもちろん道路もないような僻地にあるもので、
船による灯台守家族のための補給がたいへん重要な海保の任務となっていたのです。

しかも、灯台は全国津々浦々にあり、北の果ての灯台に物資を送るには
氷を割っていかねばならないことも多々あるわけです。
そこで白羽の矢が立ったのが、海軍の砕氷船だった「大迫」(おほどまり)でした。

(おほどまり)

日本で初めて作られ、海軍が唯一擁していた砕氷艦ですが、
肝心の砕氷能力があまり優秀でなかったうえ、輸送任務で28年間フルに稼働はしていた彼女は
老朽化が激しかったこともあって、代わりに「宗谷」がこの任務に指名されたのです。

「大泊」は終戦と同時に除籍となり、4年後に解体されて生涯を終えました。




おそらく今年始めまでかけて改装を施したのは上甲板構造物だったのでしょう。
この部分だけ大変塗装が新しくなっていました。

現在の「宗谷」には、海保の所属を意味するこのコンパスマークが
フェンネルにつけられていますが、このマークが初めてここに付けられたのが、
この「灯台補給船」時代なのです。

「おいら岬の灯台守は」の歌がヒットした映画「喜びも悲しみも幾年月」は、
高峰秀子と佐田啓二の主演による灯台守夫婦の、戦前から戦後25年間を描いた話ですが、
この映画にはかつて灯台補給船だった「宗谷」の、「灯台の白姫」と呼ばれた
真っ白な姿が映像に留められているそうです。


このとき、「宗谷」は竣工から20年を迎えようとしていました。
かつては戦場を駆け回り、時には敵潜水艦に反撃したりした日々も過去。
今や「宗谷」は燃料、食料や日用品、ときには子供たちへのおもちゃを、
首を長くして彼女の訪れを待ち続ける灯台守の家族たちにとって

「海のサンタクロース」

と呼ばれ愛される第三の人生を余生として静かにその生涯を終えようと・・・


していたのですが、そうや問屋が卸さなかったのです。




しかしその話はまた後日、ってことで、とりあえず艦内写真の続きです。
これは甲板下の階のための明かり窓でしょうか。



なにかボイラーのようなものとその蓋にも見えます。
いかなる衝撃を受けたのか、向こうの取手?の金属がぐにゃりと曲がっていて、
「宗谷」の長い歴史のうちいつ何が起こってこうなったのかなどと考えます。


ポールの先に鳥が停まらないようになっている掲揚棹には
見たことのない旗が掲揚されていますが、船の科学館の旗でしょうか。

海上保安庁の任務を彼女が終え、解任式を行ったとき、ここからは海保の旗が降納されました。

竣工から40年以上が経過した1978年7月3日、解役が決まった彼女は、
最後の任務として、海上保安学校学生の実習を兼ね、全国14の港を巡る
「サヨナラ航海」を実施し各港で、お別れを兼ねた見学会を行って回りました。


(これから解役式を迎える”宗谷”) 

このときに訪れた舞鶴港では、海上自衛隊舞鶴音楽隊がファンファーレで迎えています。

青森港では、大湊地方隊のヘリコプターが飛来して、宗谷の飛行甲板に大湊総監の

「同じ海上に勤務する者として、
輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」

というメッセージが投下していきました。
一日船長の春日八郎が「さよなら宗谷」を歌い、岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊が

太平洋行進曲を←注目

演奏しています。

 


保存先が船の科学館に決まり、稚内港を出港する「宗谷」は、
「UW1(ご安航を)」の国際信号旗掲げ、「蛍の光」「錨を上げて」の演奏に見送られて、
長年の母港だった函館をあとにしたのでした。

 

そして1978年(昭和53年)10月2日、竹芝桟橋にて解役式を迎え退役します。
この解役式が解役式でも海上自衛隊音楽隊が国歌を演奏し、
国旗、海上保安庁旗、長官旗がおろされ、「宗谷」は巡視船としての任務を終えたのです。

下線を引いて注目してみたのは、セレモニーの要所要所で海上自衛隊が協力していることで、
これはとりもなおさず、「宗谷」がかつて海軍の艦船であったということからでしょう。



おりしもお台場から見える海を一隻の警視庁の船が通りかかりました。



写真をアップしてみると、「ひので」という巡視艇(パトボート?)でした。
中には帽子でそうと分かる警察官らしい人影が見えます。
こうやって警察が海の安全も守ってくれているんですね。
 

守る、といえば「宗谷」は、海軍艦船時代、数々の修羅場をくぐり抜けて無事でした。
稀代の幸運艦であった「雪風」とはもちろん戦歴も全く違いますから比較にはなりませんが、
それでも、あの戦争中幾度となく敵と遭遇し、戦闘を行ってなおかつ無事だった貨物船は「宗谷」だけです。


(復員船時代の宗谷)


戦後になって、復員輸送の任務にあたっては、触雷で沈没した復員船もあった中、
「宗谷」は全く無傷で約1万9千人の復員を行いました。

ソ連の侵攻後、ソ連兵の略奪、暴行に遭い、彼らから逃れて命からがら乗り込んできたものの、
憔悴しきっていた人々の何人かが、輸送中の船上で亡くなっています。

「宗谷」では後にも先にも、このときだけ海葬が行われ、遺体が甲板から海中に落とされました。

そしてその後、彼女は前述の灯台補給船として、灯台守家族たちの命と生活を守る役目に就き、
巡視船になってからは海難救助出動は350件以上、救助した船125隻。
このときに救助した人数は1000名以上に上ります。

巡視船になってからの宗谷は「海の守り神」という異名を取っていたそうですが、
彼女がその生涯で救ってきた命の総数は直接間接的にあまりに多く、数字で表せるものではありません。



続く。 








田母神俊雄氏のこと

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先日ブログ内でちらっと触れた「防衛部長就任」の件ですが、
これが脳内組織の脳内役職ではなかったという証拠をお見せしましょう。



どや。

国防問題担当部長。地球防衛協会日本支部顧問。

これは、すでに顧問となっている組織とは別の団体であるため、
わたしは二つの団体で「顧問」と呼ばれるところの人間になったわけです。
そうなって改めて「顧問」という役職の胡散臭さ汎用性を実感するわけですが、
それはともかく。


先日、国某協会の主催による田母神俊雄氏の講演会を聴いてきました。
当協会による田母神氏の講演会昨年秋にも一度予定されたのですが、
同氏が都知事選に出馬することが決まって中止になったため、その代わりに
この日行われたという事情のようです。

ところで今度田母神さんの講演聞きに行くんですよ、と防衛関係団体の出席者に言うと、
皆どういうわけか

「ああ〜、田母神さんね〜」

みたいな反応をするんですね。
どうも政治資金の問題について言っているみたいなんですが、

「ワキが甘いよね」

とか、ひどい人になると

「有名になってお金に目が眩んだんじゃないですか」

なんて(繰り返しますが国防団体ですよ)言ったりするわけです。
政治資金の問題って、田母神さんが着服でもしたんだっけ?と違和感を覚えて
調べてみると、なんのことはない、支持者からの寄付などで集めた政治資金を、
会計責任者の50代男性が私的に流用していたので、田母神サイドは横領罪で
この人物を訴えているだけではないですか。

ただ、さらに調べるとお金を巡ってチャンネル桜の水島氏と対立しているという
ドロドロした話もあるそうです。

それでなくても、

「自衛隊に田母神を支持する人間はいない」

なんて説が実しやかに流布されたりして、なんとなく、

「わたしは田母神俊雄を全面支持しているわけではない」

みたいな風潮が保守と言われたい人の中にもあったりするのかなという気がしました。
出る杭は打たれるという諺どおり、氏のアグレッシブな言論(わたしはそうとも思いませんが)
が、中庸をともすれば良しとする多くの日本人にこういう見方をさせるのかもしれません。



わたし自身は、氏が航空幕僚長を罷免されるきっかけになった論文と、willなどの寄稿、
インタビューを読んだくらいで、実際に講演を聞いたことはありませんでしたから、
虚心坦懐に「田母神イズム」に触れることのできるこの機会に大変期待をしていました。

当日の講演会の内容については、別にエントリを製作してお伝えするつもりですので、
田母神氏についてよくご存じない方は、とりあえず政治資金や水島氏との諍いについては脇に置いて、
それを読んでから評価していただきたいのですが、とりあえず感想を言うと、
メモを取り講演を聞きながらも、そして書き起こすために1時間半のちょうどのスピーチを再生したときも、
その意見においては、わたしが常日頃ここで言っていることと方向性は同じであって、
あたかもわたしの中の小さいおじさんが田母神氏の姿を借りて、
わたしの思っていることを語ってくれているかのように、全く違和感を感じませんでした。

さらに氏のスピーチは、その片言隻句に至るまで、人脈と経歴を生かしたあらゆる方面からの
「裏付け」が取られていて、それが「仕事」とはいえ、数字も人名も年号もメモ無しで、
「田母神節」といわれる、時々ベタなおじさんギャグを交えながら人を引き込んでいく講話は、
もう既に「話芸」の域に入っていると感じました。

普通のスピーカーなら決してしないだろうなと思われる、考えようによっては
人を怒らせそうな(男に愛されたことのない女が男と全く同じ待遇を要求するものだとか)
本音をガンガン言ってしまうあたりも、思想に関係なく「敵を作る」要素でもあるんでしょうけど。


さて、講演会の後、会場となったホテルのティールームで講師を囲む会が開かれ、
なんとなく申し込んでいたわたしもそこに行きますと、すでに田母神氏は席についており、
その向かいに旧知の元海幕長と元陸幕長が座っています。
お二人にご挨拶をしてからテーブルの一番端っこに座ろうとしたら、元海幕長が

「こっちこっち」

と手招きして、田母神氏の隣に座るように促されました。
つまり、こういう構図です。

元空幕長 ◯|   |◯ 元陸幕長
      |   |
わたし  ◯|   |◯ 元海幕長

うーん、なんたるパワーピラミッド。
一隅だけにブラックホールが生じておる。 


とはいえ、その後元空幕長と並んで写真を撮り名刺を交換したがる方が相次ぎ、
わたしはもっぱら向かいの元海幕長に

「こんなにいろんな所に出没してて、お家の方は大丈夫ですか」

なんてからかわれつつ(もしかして本気で?) 、田母神さんと写真を撮ろうとするおばちゃんに
あんた邪魔、とばかりに黙って体を押しのけられたりしてたのですが、(−_−#)
それもひとしきりすんで、ようやく田母神さんがこちらを向いてくださったので名刺交換をしました。



「僕の名刺です」と渡されたのが一部で有名な田母神さんの「僕乃名刺」。
裏には、丸文字フォントで

お互いもっと仲良くなったら詳細お知らせするね ウッフ(♥)
                        ↑
                       注目

いやそこは「ウフッ(はーと)」だろう。
わざわざ初対面の人間のウケをねらうためにこのおっさんは・・・orz

田母神氏は席についたらついたで、わたしに向かって、

「あなたもバストいくつですか?なんて失礼なことを聞かれたら”二つです”と答えなさい」

などと、ハイテンションな(ただし聞かされたほうはテンションだだ下がり)
おやぢギャグを繰り広げるおじさんでした。

しかしそこで気をとり直してまともな方の名刺を見ると、その肩書きは、

「元航空幕僚長」 (Former Chief of Air Staff, JAPAN)

となっているんですね。
氏が講演の中で、「防衛省から正式な儀式に呼ばれることがないのは寂しい」
と言っておられたのを思い出しました。
そういえば田母神氏に現在役職はなく、あくまでも「元航空幕僚長」という肩書きで、
空自時代の経歴をバイオグラフィにも事細かに載せておられます。




隣に座っていたからといって人気者のカリスマを独り占めにできるわけもなく、
次から次へと人がやってきて質問したり写真を撮ったり話しかけたり、
というわけで、わたしはもっぱら元陸幕長と例の防衛省設置法改正のことを話したり、
元陸幕長の刮目すべき防衛論(いつも目からうろこです。ここでは書けませんが)を
拝聴していたのですが、海幕長には気になっていたことを質問させていただきました。

「この間のお話によると、海自始め自衛隊は、日米同盟の深化を第一義にしているし、
日本の平和が9条ではなく日米安保によって保たれてきたというのが現実ですが、
その一方で田母神さんのような考え(アメリカの手を借りず日本を自分の手で守る)も
保守的には決して否定されていませんね」

これに対して、

現状として日米同盟が正式に機能しているうちは自衛隊はそれを第一義にするしかない

というのが元海幕長のお答えだったようにわたしは解釈しました。
自衛隊は「シビリアンスプレマシー」によって命に従う機関であるというのが全てです。


わたしは昔、憲法改正について何日間かに亘って意見を述べたときに

「いずれは米国と幸福な離婚をして日本を自分たちで守らなくてはいけない日が来る」

と書いたことがあります。
田母神さんによると、アメリカの国力、並びに影響力がだんだん落ちているというのも
いつまでもアメリカに守られる日本でいいのか?という懸念の一つですが、
わたしはもう一つの理由として、アメリカのダイバーシティに起因する懸念もあると思います。


つまり、今アメリカでは白人が減り、中国系とヒスパニック系が増加しているのですが、
ヒスパニック系ならともかく、もし中華系がアメリカ大統領になる日が来たら・・・?
そしてこれは実現性が薄いとはいえ、万が一朝鮮系が大統領になったら・・?

そのときに日本が、国防を今のような形でアメリカに押さえつけられ、依存したままだったら、
いったいどんなことが起こるか、考えただけでもゾッとしませんか?

しかし、日米の軍連携には、アメリカの軍需産業のあまりにも深い介入があるようですので、
有利な条件で武器を買ってくれる(しかも交渉抜きで)ありがたいお客様を逃すことになる事態だけは、
アメリカの産業界がどんな手を使っても阻止してくるだろうという気もします。



      
前回の反省から一応配慮して、目元を隠した元陸幕長と元海幕長のツーショット 。
ちなみに冒頭の写真は畏れ多くも元海幕長に撮ってもらいました。
 
ところで、田母神さんほどの有名人となると毀誉褒貶相半ばは避けられないことですし、
「金に目が眩んで」などの無責任な(多分詳細を知らずに言っている)批判も
反対勢力が便乗することで、より一層悪意をもって広められるでしょう。
人格批判もそうですし、わたしはさる筋から「女癖が悪い」と聞いたことすらあります。

そういう問題ほど検証することなく世間は簡単に受け入れてしまいがちですが、
わたしは改めてご本人のブログを訪問し、こんな記述を見つけました。
抜粋するとこんな感じです。


妻との関係が上手く行かず自衛隊在職時代から退官したら離婚するという意志を固めていた
 
自衛隊を退官してから後、妻とは別居していた

その後現在交際している女性と知合い、結婚を申し込んだ

妻が離婚調停には応じてくれないので、裁判で現在係争中

妻の生活の面倒は見ているし、離婚後も相応の負担には応じるつもりだ

そして、最後に、こう書いているのですが、

週刊誌などでも何度か面白おかしく報道されましたが、現在交際中の女性が私にとっては一番大事です。
彼女を守らなければいけないと思い、今回私の思いを表明しておきます。
彼女に篭絡されたなどという事は全くありません。結婚は私のほうからお願いをしたのです。
そして彼女は私のために待ってくれています。彼女には大変迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っています。


なんというか、驚くほど不器用で無防備な人だなあという印象を持ちました。
こういう人を一言で「女癖が悪い」と決めつける世間の評価というのは一体なんなんだろうと。
こんな愚直なくらいの正直な人は政治家には向いていないのではと、心配になったくらいです。

田母神氏は、わたしが

「新党を結成するおつもりはないのですか」

と(実はこのときあまり田母神氏の政治活動への動きを知らずにいた)いうと、

「やろうにも金がないんですよ」

とおっしゃっていましたが、参院選に出馬する意思は固められているようです。
ワキが甘いといえば、例えば自衛官時代、

「どこまで制服組の発言が許容されるかのパイオニアになろうと瀬踏みしている印象があった」

というくらい積極的に個人的な持論や主張を発言するような人物であったことも、
老獪さを備えていなければたちまち潰される政治の世界では、「ある程度までは」懸念材料となります。
ある程度、というのは実績をあげ、動かぬ地位を手にいれることですが、
そうはさせまじとマスコミや野党が鵜の目鷹の目で足下を掬ってくるでしょうし、日本が

「日本は侵略国ではない」

という論文を書いた幕僚長をクビにするような国であった(ある?)ことも事実です。
安倍政権になって変わってきていると信じたいですが、政治は理想だけでは動くものではありません。
正しいことだから言った、では通らないことがあまりにも多い世界に、
田母神氏はあえて自分の理想と信念と直情を武器に斬り込んで行こうとしているのです。

わたしは田母神氏個人の”信奉者”というわけではありませんでしたが、
今回講演を聞き、日頃わたしが考えていることと方向性は同じであることを確認しました。

そして思ったのは、田母神氏自身がいつもいうように、田母神氏”程度”の保守が
「危険人物」となってしまう日本という国の現状は、明らかにおかしいということです。


ここで三島由紀夫の名前を出すのも、ご本人には縁起が悪いと怒られてしまいそうですが、
三島があの事件を起こしたのは、日本という国への強い警告と、その現状に楔を打ちこむためでした。
そして、そのために行動を起こす舞台に選んだのは「自衛隊」でした。
三島は、国防と国体は一元的なものであるとし、国体を変えるために国防にも変われと訴えたのです。

自衛隊の長としての側から国防に携わり、国防を知り抜いた田母神氏の政界への進出は、
はたして日本への「楔」となりうるでしょうか。 

わたしは少なくとも、田母神氏のような人物を、政治家の一人として
迎え入れることができる日本であってほしいと思います。



田母神俊雄氏講演より〜国際社会の”腹黒さ”に日本はどう立ち向かうか

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先日参加をお伝えした田母神氏講演の内容を聞き書きしました。
文章を起こすに当たっては、表現を分かりやすく変えたり、重複を避けて編集してあります。

本稿はあくまでも田母神氏の発言であり、わたし自身のものではないことをお断りするとともに、
もし、ご意見・反論などがあればぜひコメント欄で問題提起していただきたいと思います。

わたし自身気づかないでいる問題や、専門分野で判断のできない部分についても
同様、(特に軍事と経済)ご示唆をいただければ幸甚にたえません。


田母神俊雄氏講演 

「これでいいのか日本―誇り高き日本への道―」


■ 自分の国が”いい国だった”と言ったら公職追放になる国

ご紹介をいただきました危険人物の田母神でございます。
ずいぶん危ないやつだということでマスコミで叩かれるもんですから
おかげでこんなに背が小さくなってしまいました。

わたしは本当は「いい人」なんです。
空幕長の時に日本が大好きですから「日本はいい国だった」という論文を書いたところ、
当時の政権から(麻生政権)

「日本がいい国だったとは何事だ。
政府見解では日本はろくな国ではないないということになっている」

と言われてクビになりました。

だけどこれ、極めておかしなことだと思います。
自分の国を褒めて公職を追われるなんて国、世界中を捜しても日本以外ありません。

クビになって今年で7年目になるんですが、わたしは未だに防衛省から排除されたままなんです。
防衛省の式典にわたしは全く声がかからないのです。
最初は頭にきていたんですが、最近は「楽でいいわ」と考え方を変えました。
諦めてはいますがなんか寂しい気もします。
人生ちゅうのはなかなか思い通りにいかないもんですね。

わたしは統幕学校長だったころ、陸海空と学生が入ってくるんですが、
ほとんど全員が

「旧軍と自衛隊は違う。旧軍は悪い。でも自衛隊は違うんだ」

という意識を持っていました。
これではいかんということで、統幕長時代「国家観・歴史観」という講座を
5コマカリキュラムに入れたんですね。
亡くなった富士信夫さんなんかを呼んで講義をしてもらったりしたのです。

命を賭けて戦うというとき、心構えとして自分の国は素晴らしい国だと思わなければ、
ということで始めたことだったんですが、わたしがクビになった後は
「あれはおかしな講座だ」ということで廃止になったそうで残念です。

統幕学校長のとき、陸海空の学生20名を連れて中国を訪問したことがありました。
平成16年の6月のことです。
そのときに、日本でいうと統合幕僚の副長にあたる「ハン・チャンロン」 という中将が出てきて、
30分の面談を行ったんですが、彼は「ようこそいらっしゃいました」と一言挨拶した後、
すぐに

「過去の不愉快な歴史をどう認識するか」

という話を始めるのです。
彼は満州の生まれで、子供の頃から日本軍の残虐行為について聞かされて育ったので、
体に染み付いていて到底忘れることができない、から始まって日本の悪口ばかりいうんです。
10分くらい黙って聞いていましたが、同席の学生たちも面白くないんですね。
彼らはわたしが日頃「日本はいい国だ」ということを言っているのを知っているので、
どう反応するか見ているわけです。

それを感じて、わたしも勇気をもってしゃべらせてもらったんです。
中国軍に取り囲まれていて実は怖かったんですけどね。日本に帰れなくなるんじゃないかと。
でも、殺したいなら殺すがいいくらいの気持ちで、

「 日本軍が中国人に悪いことをしたとわたしは思ってません。
満州の人口は満州帝国ができた1932年には300万人でした。
それが1945年には5千万人を超えていたんです。
毎年100万人ずつ人が増えていった、これをあなたはどう理解しますか」

と聞きました。
あそこに行ったら残虐行為があるというところに人なんか集まってこないんです。
これだけ人口が増えたということは満州が豊かで治安も良かったからでしょうと。
そして

「中国は日本にだけ謝れというが、どうしてイギリスには言わないのか。
アヘン戦争であれだけいじめられたのだから、日本の10倍は謝らせないとおかしい。
日本にだけ謝らせるというのは中国の政治的理由があるのでしょう」

といったら、彼はびっくりした顔をしました。
それまで反論した日本人は一人もいなかったらしいですね。
それで日本人は絶対反論しないと思ってたらしいです。

しかしさすがは中国人ですね。即座に

「歴史認識を超えて軍の交流を進めよう」

ときました。(笑)
ただ、その後いじわるされました。
我々が到着したのは天安門の15周年だったのですが、中国側が主催してレセプションが開かれました。 
軍の恒例でその答礼として北京飯店で宴会を開いたのですが、これに来ないんですよ。
将軍も中将クラスも「急用ができた」といって来ず、渉外係の少佐しかいない。

翌月に予定していた中国の学校の統幕学校訪問も断ってきました。
わたしも悩むわけですね。わたし「いい人」ですから。
いやいや、いわなきゃよかったかなーと、小鳩のような胸を痛めていたんです。

それを伝えてくれた1佐がどうしましょう、というので、

「悪いけど東京にある中国大使館まで行ってきて、二度と来るなって言ってこい」

と言いました。
でも、直前になってやっぱり来たんですよ。
で、一言言ってやろうと思って、

「あんまり大人気ないことやらないでください」

と言ったら、あれこれ言うので、わたしも言いたいことを言って帰しました。
そうしたら次の年統幕学校の中国訪問を受け入れないってことになり、
1年間交流が途絶えてしまいました。

まわりはでも、

「よく言った。皆心で思っていても言えなかった。たいしたもんだ」 

という雰囲気でした。
ところが同じ意味の論文を書いたらクビになりました(笑)

でも中国の国防大学には、どういうわけかわたしの訪問時の写真がずっと飾ってあったそうです。
おそらく危険人物だから気をつけろということだったのでしょう。


■ 日米安保で日本は守られるか

政治家の間にも歴史認識の問題は蔓延しています。
歴史認識はよその国では過去の問題ですが、日本では現在進行形の問題です。
現在の国会議員の半分がアメリカの押し付けた歴史観を未だに持っています。

歴史は戦勝国が作るんです。
戦争に負けた日本はアメリカの歴史観を押し付けられたのです。
先進的な民主国家アメリカ、極悪非道の独裁国家日本という風に。

日本は独立したからにはアメリカの歴史観からいい加減にはなれないと、
そのうち国は衰退していくと思います。
しかし戦後70年経つのに、未だに憲法問題でもめている。

安保法制だって、特別のことをやろうとしているのではないんです。
日本もよその国と同じように自衛隊が行動して、いざという時には国を守れる体制をつくろう、
とそれだけのことなのです。

しかし、日本のマスコミや野党、左巻きな人たちは

「戦争ができる国にするんですか」

という。
それに対しては

「戦争ができるようにする」

と答えるしかありません。
戦争ができる国の方が戦争に巻き込まれる可能性が低いんです。
福島瑞穂さんなんかその辺何にもわかってない。

集団的自衛権も、スイスみたいな国は別として、行使できないのは日本だけです。
他の国と同じにするだけなのに、特別のことをするようにマスコミも報じるんですね。

実際集団的自衛権が行使できないと、自衛隊が派遣される時困るんです。
インド洋でもイラクでも、自衛隊は他の国に対し

「俺がやられたら助けてね。でもあんたがやられても俺助けられないから」

ということになり、これは誰も一緒に行動してくれなくなります。
武人にとって臆病だとか卑怯者とか言われるのは最大の屈辱ですが、

「お前たちは臆病な卑怯者になれ」

といって日本政府は自衛隊を派遣している。
去年、集団的自衛権について、石破幹事長がこんなことを言いました。

「これはできる、これはできない、と公明党にわかるように明らかにするべき」

本当に馬鹿げています。
やればやるほど、

「日本はこうやれば集団的自衛権を行使できないんだ」

という手の内が他国に筒抜けになってしまうんです。
作戦計画の事前通知みたいなものですね。
密室でやるべきで公の場でやることじゃありませんし、
こんなことをやっている限り絶対戦には勝てませんよ。

こんなことが真面目に国会で話し合われること自体が異常なことだと思います。

 
自衛隊は戦略爆撃機や空母を持てません。
攻撃的兵器を持たされず、何かあったらアメリカに反撃してもらうというけれど、
日米安保って、イコール「自動参戦」ではないんです。

日本が攻撃を受けたらまずアメリカ大統領が日本を守ることを決定して
アメリカ軍にそれを命じなければならない。
しかし、大統領がいくら決めたとしても、大統領の結審の期間はたった2ヶ月、
2ヶ月経ったら議会が同意をしてくれなければ 大統領といえども軍を動かすことはできない。

アメリカの議会がそのとき日本を守るために戦争することを議決してくれますか? 
絶対にしてくれないでしょう。
アメリカの議員はどちらかといえば「反日」の議員が多いと言われています。


じゃ日本はどうすればいいのか。
自民党が昭和30年に結党した時、自分の国は自分で守る、ということを
同時に決めたはずなんですが、それはいまだに実現していない。
アメリカがこれからどうなっていくかもわかりません。国力はおそらく落ちていくでしょう。

しかし、いざ自衛隊に力をつけさせる、軍事力を増やそうとすると、
これをやらせないための情報戦が、世界から仕掛けられてくるわけです。

世界を見回しても、世界中の人たちが全員豊かに暮らすための富や資源はありません。
国際政治というのはその富と資源の「ぶん取り合戦」というのがその本質です。
よその国なんか知ったことじゃない、自分の国だけが豊かになればいいというのが
行動原理である、国際政治の現実です。

ところが、世界で唯一日本だけが、 

「日本列島は日本人だけのものではない」

などと自国の利益より世界のことを考える”立派な”総理大臣を輩出します。
鳩山さんにはまず、

「音羽御殿は鳩山家だけのものではない」

と言って自宅を開放して欲しいですね。
総理大臣時代もろくなことをしていませんが、やめてからも勝手に中国や韓国に行って
日本を売り渡すようなことばかりやっている。

鳩山さんの唯一の功績は、東大を出てもあんな馬鹿がいると世間に知らしめたことです。


■ 「信じるものは騙される」世界

戦前の世界は帝国主義で、強いものが弱いものを搾取する弱肉強食でした。
戦争をするのに理由はいらず、行って勝手に支配して搾取するのが当たり前だった。
しかし、日本が大東亜戦争を戦ったらそれがなくなり、人種平等という建前が初めて生まれ、
1948年、国際連合ができて「世界人権宣言」が出されました。

今は力で富や資源を奪えないから情報戦争を仕掛け、同意を得て合法的に搾取する時代です。
TPPなんかでも、アメリカは公正にこれを行うと考えている「信奉者」がいますが、
そんなことは決してありません。
アメリカが提案しているのは「アメリカが儲かるシステム」にすぎません。

わたしもかつてはアメリカを信奉していた時代がありました。
しかし、総務部長でオペレーションサイドにいたとき考えは変わりましたね。
米軍と仲良くしようという考えはことお金がからむとなかなか難しいものがあります。


航空自衛隊ではF-2を運用していますが、タイヤの問題が起こりました。
アメリカはMOUという軍同士の「了解覚え書き」が合意事項文書があるんですが、
この中に技術の派生・非派生という言い方があり、「派生」はアメリカが開発したもので、
「非派生」というのは日本独自の技術と言う意味です。
この言い方の逆はなく、まあ不平等条約なんですが、アメリカが教えてやるという態度ですね。

アメリカはF-2のタイヤが「派生」だと、つまりアメリカの技術を日本が改善したんだというんです。
その場合は、日本の会社は技術をアメリカの会社に無償でバックしなければいけないんです。
輸出のタイヤがどうなっていたかというと、試作品はフランスのミシュランでした。
サンプルはブリジストンとヨコハマタイヤです。
ブリジストンとヨコハマが作ったラジアルタイヤを、アメリカは「派生だ」と言うんですね。

「何を言っているんだ。日本のブリジストンとヨコハマが作ったんだ」

と言ったのですが、アメリカ側は

「MOUの定義によるとタイヤは派生である」

の一点張りです。
日本人なら相手が作ったものを俺が作ったなんて言いませんよね。
でもアメリカはごく普通にこういうことを言うんです。

わたしもアメリカがこういう勢いなのでつい、

「いいじゃないかアメリカがそう言っているなら派生でも」

といいましたら、ヨコハマゴムの人がそれじゃ困るといって、
こんな話を聞かせてくれました。

当時、世界のタイヤ業界の「ビッグ4」は、

1位 ミシュラン 2位 ブリジストン3位 ヨコハマタイヤ

そしてシェアー一桁でアメリカの

グッドイヤー

という会社だったんです。
グッドイヤーは、当時バーストしたり燃えたりという事故が多かったんですが、
アメリカは日本側に「派生だ」と認めるサインをさせて、
ブリジストンとヨコハマの技術をタダでグッドイヤーに提供させるために
ガンガン圧力をかけていたというわけです。

アメリカ人は一人一人は陽気でいい人たちなんですが、
一度「国を背負って交渉する」となると、本当に狡くて汚いです。


これだけじゃありません。
JKFというデータリンクシステムがあるんですが、政府間でしか売らないものです。
データリンクの端末がイージス艦にクラス2のものが導入され、
7年遅れて航空自衛隊のペトリオットシステムにデータ端末が入るという(クラスM)ことになりました。

防衛省はこれを買うためにアメリカ大使館を通じてこの値段を聞くんですね。
1個1億3000万という答えが返ってきました。
それで予算を組んで、翌年になって、予算をつけて買おうとしたら、今度は2億5千万だという。
ペーパーでやりとりしていたのでその紙を突きつけて交渉しろといったんですけど、
3ヶ月経っても色んな値上がりの理由をいうばっかりで全くらちがあかないんです。

そのころ、向こうの軍の高官がわたしのところに表敬訪問にやってきたので、
こんなことがあるが知っているかと言って、彼もその場で
そんなことは信義に悖ると意見が一致したんですが、彼がアメリカに帰って1週間で

値段が元に戻ったんです。

あれっていったいどういうカラクリだったんでしょうね。
例えばアメリカの将軍が民間に天下るから1年目の給料を日本に払わせろ、
みたいな話だったんじゃないかとわたしは思ってます。

というわけでわたしは国のために、一個につき1億2千万円も節約したんだから、
2千万円くらいくれと言いたいですね(笑)


わたしはアメリカ別に嫌いではありませんし仲良くするべきとは思いますが、
こういうことがあって信奉者などではなくなりました。
なにしろあの国には騙されないようにしなければなりません。
世界においては

「信じるものは騙される」

が基本ですよ。

アメリカの本音は日本に武器はもたせたくないわけです。
しかし独立国だから持つなとは言えない。
そこでどうするかというと、まず、ミサイルの脅威を煽るんです。
もっと日本はミサイル防衛を固めなければならない、と。

今現在の自衛隊は「守りに編した」軍事力です。
守りに偏するというのは攻撃のための武力を持つことは予算的に難しくなる。

現在北朝鮮のミサイルを撃墜する体制は、海上自衛隊のイージス艦が搭載しているSM3、
これで日本の空は「薄く」覆われています。
この上で東京とか大阪の大都市は、空自のPAC3で二重に守られています。
そこに集中すれば10のミサイルくらいは撃ち落とすことができるでしょう。

もし100発撃たれたらもちろん何発かは入ってきますが、そんな可能性はまずない。

日本では年間7000人が交通事故で死亡するのですが、北朝鮮のミサイルに当たって死ぬ確率は
交通事故に遭う確率の100分の1くらいなんで、よっぽど運が悪いと言う計算になります。

それより、

「一発撃ってみろ、そしたらその5倍10倍撃ち返してやれるぞ」

と言えるだけの備えを持っていることが抑止力だと思うんですね。

日本は海自など、アメリカのシステムを使っています。
これは「アメリカと手を切ることができない」ということでもあります。
システムというのは今ソフトウェアで中身が見えないだけに、余計そうなります。

自衛隊はアメリカの友軍として行動するときには相当強い軍だと思います。
しかしアメリカと袂を分かって行動するときにはそうではないというのが現実です。
アメリカはこれを狙ってやっています。


F-35戦闘機を日本に売っておけば日本はアメリカから決して自立できない。
F-4ファントムもそうですが、こういう買い方をしている限り。

軍の自立は国家の自立と同義です。
軍が自立していないのに国家が自立できるわけがありません。
そのためには兵器の国産化を進めていくべきだと思います。

日本もそろそろ戦闘機の開発を進めていかないと、技術者が胡散霧消して
第二次世界大戦が終わったときと同じような状態になっていまいます。
いま三菱重工がMRJという中型の旅客機を作っていますが、三菱重工は
戦闘機の技術者をMRJのためにかろうじて確保しているんです。

この技術者が流出しないためには5年以内に日本が国産戦闘機の開発に
入ってくれないといけない、といわれています。
「心神」という戦闘機を、なんとか早くそういう段階に進めてほしいですね。

(註: 現在米国はあの手この手で戦闘機の共同開­発を持ちかけていますが、
それも日本の技術力を恐れているからに他ならないとわたしは思います)

兵器が作れないと、日本はサウジアラビアやクウェートみたいな国になってしまいます。
日本の原発技術は世界一なんですが、もし原発廃止とでもいうことになると、
当然原発技術者がいなくなります。
いま、原子力工学に進む優秀な学生が大学でも減っているそうです。
国の方針というものは影響がこれほど多いんですが、早く戦闘機も
国産にするという道筋をつけてほしいんですけど、アメリカの本音はこれを日本にやらせたくない。

それに、外国製の武器を使う限り最高性能のものは絶対に入ってきません。
兵器輸出の絶対原則で、

「自分の国と同じ性能を持ったものは決してよその国に売らない」

というのがあります。
ソフトウェアで2ランク3ランク落としたものを輸出するんです。
航空自衛隊と米軍はどちらもF-15を使ってますが、アメリカの方が性能がいいんです。
アメリカが能力向上してから、日本に古い形を輸出してるんですから。

それはアメリカに限ったことではなく、世界中がそうやっているんです。

インド軍の人物と話したとき、インド軍はスホーイを輸入してるんですが、
うちのスホーイは中国軍のより性能がいいと自慢していたので、
ロシア空軍の参謀に会う機会があったときに本当かと聞いてみると、

「当たり前だ。国境を挟んでいる国にいい武器を売るわけがない」

といっていました。
 

国際社会は善悪で動くのではなく、利益で動くんです。

例えば北方領土の一括返還をアメリカとドイツが支持しているんですが、
日本人は人がいいから両国が日本の味方であるかのように考えてしまいます。

ロシアは国後択捉を返すとずっと遠回りしなくてはいけない。
だから一括返還を求められても物理的に難しいということなんですが、
ロシアが一部返還して日本と仲良くなるのは、アメリカとドイツにとって困るのです。
つまり、一括返還しか選択肢がないとなると、ロシアが日本に北方領土を返還する日は
決してやってこないわけで、それは同時に

日本とロシアは永久に和解しない

ということを意味するのです。
アメリカとドイツはそのために一括返還を支持しているとも考えられます。
日本に味方するふりをしていますが、自国の利益のことしか考えていないんです。


日本人というのはこういう腹黒さを国民性としてもたないのですが、
国家指導者には是非こういう狡さを持っていてほしいですね。 

 
 (後半に続く)


 

田母神俊雄氏講演より~GHQとJAPAN2000に見るアメリカの戦後戦略

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■ アメリカ繁栄するも日本に反映なし

アメリカは、中国はこんなに強いぞ、日米安保がなければお前ら困るだろ?
もうちょっと金出せよ、という情報戦をやっています。

日本はアメリカからいろんなものを買わされてます。
例えば今自衛隊はオスプレイを17機、3500億で調達しようとしています。
またグローバルホークという偵察機を入れましたけど、これもリアルタイムの電送が
できないようなバージョンでオペレーションしているそうですね。
リアルタイムでできないから、機体を回収してから解析をするんですが、
この解析もアメリカにしかできないから、またそこでアメリカに金を取られる。

防衛費は伸びているのにアメリカに払うだけだから、国内産業への反映は全くありません。

なぜそんなことになるかというと、現場の自衛隊が吟味して導入を決定するのではなく、
オスプレイもグローバルホークも、政治レベルで入れることを決めてしまうのです。
それからいろいろ交渉したって、アメリカは絶対に呑んでくれません。
導入は決まっているわけですから、いくらこっちが交渉しても向こうは強気で
非常にこちらの不利な条件で押し付けてくるわけです。 

グローバルホークならちゃんとリアルタイムで電送ができるようにとか、
あるいは国内産業にも分け前が行くというような形を作ってから導入しないと、
不便な武器を買わされるだけでなく、国内産業がダメになっていってしまいます。

戦闘機の機種選定もそうですね。
まず戦闘機の機種が決まってしまってから細部の交渉が始まるんです。
そんな形で交渉してもアメリカは絶対に引きません。
日本は「そんな条件なら戦闘機の導入をやめる」ということもできない。

現場で検討して自衛隊のためにも国内産業のためにもなるという利益を確認してから
買う、ということにしないと、まずいと思いますね。

導入してからも、例えば仕様を変更した時に日本は4月に予算をつけて、
アメリカにこうしてくれと要求を出すんですが、答えが返ってくるのは翌年の2月です。
予算を実行する時間がないので、全てアメリカの言うとおりになってしまいます。
こんなことでは国益を守るということにはならないと思います。

■ 成長なき「改革」と「自由と繁栄の弧」

日本が防衛費を増やそうとすると、

「日本は1,100兆円も借金があるのにこれ以上借金増やせない」

という意見が出ますが、これも情報戦の一環だと思います。
そもそも国は借金で潰れたりしません。
いざとなったら一万円札印刷すればいいんです(笑)

その際懸念されるのはインフレですが、アメリカでリーマンショックの時に
9000億円だったのが今3.5倍になって三兆円を超えてます。
それでもアメリカは極端なインフレにならないのです。

日本は10年前の82兆円が今87兆円です。
たとえば100兆円くらい印刷して配ってもインフレにはならないと思います。
日本式の「質素倹約は美徳」という考えは、ある面最もではありますが、
みんながそうなると経済規模は縮小してしまい、景気も悪くなっていきます。

公共事業はやらなくてはいけないし、公務員の給料も下げてはいけないと思います。
民間の就職がままならない時に岡田克也さんの言うとおり公務員の採用を
57%にしたりしたら、若い人はどこに就職すればいいんですか。

公共事業が悪、という風潮がありますが、これも情報戦によって刷り込みですね。
個人は80歳までに借金が返せなければ破産ですが、国には寿命がありませんから、
毎月たとえ1万円でも返す体制ができれば国は破産しません。
1千100兆円という借金も、毎年1万円ずつ返せば、わずか1千100億年後に完済します(笑)

日本はこの20年、公共事業を減らして予算を切り詰めれば、景気回復できると信じて努力してきました。
緊縮財政ということで、景気回復よりも財政立て直しが先だとしていたんですが、
これに対してアベノミクスは、

「一時的に借金を増やしても景気が回復すれば税収は増えるから、国の財政は後からでも立ち直る」

という積極財政なんです。
歴史を見ても緊縮財政で国が立ち直ったということは一例もないんだそうです。
国が立ち直る時には必ず積極財政が功を奏しています。
江戸時代の天保、享保の改革のとき、庶民の生活は最低だったと言われます。

われわれは「改革」というといいものだと思わされているところがあって、
日本はここしばらく、小泉内閣に代表されるように

「改革なければ成長なし」

という姿勢でいろんな法律を変えてきました。
その結果、あの改革で本当によくなったというものが一つでもありますか?

この20年の間に行われた「改革」は「日本ぶち壊し」でしかありませんでした。
その結果、日本のGDPは20年前より減っています。
これは日本人が働かなくなったから、などという理由ではありません。
GDPを決めるのは日本と日本銀行で、決められた枠の中で企業や個人は「取り合い」をするというものです。

みんなに使いたくなるだけの1万円札が行き渡るように政府日銀がしなくてはなりません。
なぜなら、緩やかな経済成長をしていないと人間は幸せになれないんです。
やりたいことができて政治的に自由であるとき、人は幸せなんです。
自由と繁栄が保証されていることが人間の幸福の基本です。

それでいうと、20年前よりGDPが減っている政治がいい政治だとは言えないと思います。
今安部総理が「2パーセントの経済成長」と言っていますが、
経済成長率が2パーセントになると失業率が1パーセントになる。
1パーセント以下で「完全就職」ですから、「2パーセント」となったんですね。

2%と言わず5%でも10%でも、とならないのは、そうなれば仕事が忙しくなりすぎて
毎日残業、土日出勤で酒飲んだりゴルフやったりもできなくなります。
だから2パーセントくらいが時間とお金のバランスとして丁度いい数字なんです。

日本の経済って、アメリカやヨーロッパ、もちろん中国や韓国と比べて盤石なんですね。
だけど不安を煽るような話ばかりが出てくる。
しかし例えば中国がないと日本経済は成り立たない、なんて全く嘘です。
日本がないと中国経済は成り立ちません。
中国や韓国は輸出で成り立っている国で、韓国などはGDPのうち50%を輸出が占めます。
中国は30%、日本は10パーセントにすぎません。

日本のGDPを輸出が占める割合は世界で三番目(1、アメリカ、2、ブラジル)に低いんです。
よその国に比べればほとんど輸出に依存していないんですね。
しかも、中国・韓国は完成品、つまり車やなんかの完全消費財を売って儲けていますが、
日本の輸出の8割が、これを作るための工作機械など、中間の「資本財」です。
中国・韓国は日本から継続的に資本財の輸入を受けないと経済が成り立たないんです。

これは強いですよ。
パク・クネなんか生意気なことを言ったら、ひとこと「締め上げるぞ」で済む話なんですけどね。
日本がそれをしないのをいいことに、あっちでパクパクこっちでクネクネやってますけど(笑)

でも日本では「中国がないと日本経済が成り立たない論」を言う人もたくさんいます。
わたしが田原総一郎さんの番組に出た時、言ったんですよ。

「田原さん、あなたよく調べてないでしょう」

って。
珍しく反論できなかったみたいですが、都知事選の時に仕返しされました。
関係ない歴史認識なんかを持ち出してきたりして。

「ああこいつ、あの時のこと恨みに思ってるな」

と思いました(笑)



■ 「ジャパン2000」と日本の失われた20年

日本もそろそろ歴史認識を改めて、まず自分の国を自分で守れる国にしなかれば
いけないとわたしは思います。

今日のニュースで下村文部大臣が

「国立大学で国旗掲揚国歌斉唱を行うように要請した」

というのがありましたが、こういうことを少しずつやっていくしかないですね。

21世紀になってからアメリカの戦略が変わったということを、日本人は
政治家も国民も認識しなければいけないと思います。
アメリカは40年に1回、国家戦略を変えています。
日本が日露戦争に勝った後、アメリカの第一の戦略目標は

「日本を軍事的に潰す」

ということでした。
オレンジ計画と言われるものですね。
約40年かけて嫌がる日本を追い込み、戦争に引っ張り出して日本を潰したわけです。

大東亜戦争が終わった後、アメリカにとっての最大の敵はソ連になりました。
これを潰すにもソ連は核武装国ですから戦争をするわけにはいかない。
レーガン大統領は軍拡競争を仕掛け、経済的に疲弊させて内部崩壊に導いて潰しました。

1991年、アメリカはまた戦略計画の見直しを行いました。

1992年、CIAが「JAPAN200」というレポートを作成しています。
この秘密文書を、ワシントンポストにすっぱ抜かれて世界に発信されてしまったんですが、

「冷戦は終わった。
これからのアメリカにとって最大の脅威はソ連の軍事力ではない。
日本とドイツの経済力の脅威である。
これからの世界は経済戦争に入るが、そのためには台頭著しい日本の経済力を押さえておかねば
いつかアメリカ経済は日本経済に支配される」

とそれには書かれていました。
アメリカはこれに基づいて、日本経済の弱体化を仕掛けてきています。

「日米構造協議」というのがありましたね。
建前はお互いの構造を近づけて相互利益が出るようにしましょうというものですが、
実は日本経済を弱体化させることが目的だったんです。
1993年には宮澤ークリントン階段で、年に一度構造改革書を交換しましょう、となり、
日本がアメリカの要求を受けると2~3年以内に法律が潰すというスパイラルに入りました。

これが「改革」の正体なんです。

相互主義で日本も要求をしますが、大した要求はしていません。
これでアメリカの要求により行われたことは

●NTTの分割推進

●郵政民営化

●社外取締役の制度

●建築基準法の改正

●談合の摘発

などです。
建築基準法については、アメリカから輸入される建築資材を点検などするなというもので、
談合の摘発も、これによって我々は「談合は悪」と反射てきに思うくらい刷り込まれました。

談合って、「予算はこれだけだからみんなで分けて落ちこぼれる会社がないようにしましょう」
という「日本的生活安心システム」のはずなんです。
汚職の温床となったり新規参入がしにくいという欠点はありますが、
競争入札は日本の実情に合わないというか、必ず落ちこぼれる会社が現れます。
一長一短なんですが、日本はすでに「談合は悪だ」としてしまいました。

日本人が昔からそう思っていなかった証拠に、「談合坂」ってありますね(笑)
談合が悪いことなら地名になんかなるわけがないんです(笑)

アメリカが介入してアメリカの会社が金儲けしやすいようにしてきたのが
この20年の「改革」の正体です。
だから日本のGDPも20年かけて減ってきました。

そこまでされても逆らえないというのはアメリカに完全に「支配」されているということです。



■ 占領下の日本でなにが行われたか


安部総理は「女性の輝く社会」として「管理職の30%を女性にする」としています。
もともと女性の社会進出は「ウーマンリブ」で始まりましたが、目的は増税でした。
税率はあげられないがもっと税金を取るには女を働かせれば良い、
配偶者控除、配偶者手当、税金を使うばかりの女を働かせれば税収が見込めるというわけです。

女性が働けば家庭教育がおろそかになります。
そうなると、日教組教育のような「洗脳教育」もやりやすくなります。

わたしは能力も意欲もある女性に働くなとは言いませんが、能力に関係なく
30パセーントの管理職とか、男女全く同じ扱いをするようになったら、日本の社会は崩壊します。

女性は普通「愛する男性に守られていきたい」ものだとわたしは思ってるんです。
男性に対抗して同じ待遇にしてくれと言っている女性は、男性に愛されたことのない女性ではないかとすら思います。

安部総理は「日本を取り戻す」といっていますが、それならば経済力だけではなく、
戦前の日本を取り戻して欲しいと思っています。

「戦前の日本は戦争ばっかりやって残虐でろくなもんではなかった」

ということに戦後はなっていますが、これも洗脳されているにすぎません。

「戦後アメリカから民主主義を教えてもらって言論の自由が生まれた」

なんて全く嘘ですよね。
戦前のアメリカは黒人や有色人種には選挙権もなかったんです。
1964年、東京オリンピックが行われた時に「黒い弾丸」と言われた
短距離選手のボブ・ヘイズというアフリカ系アメリカ人がいましたが、
彼はそのとき選挙権を持っていなかったんです。翌年公民権法施行ですから。

そんな国から日本は民主主義を教えてもらった覚えはない。

それを言うなら、アメリカにオバマ大統領が誕生したのも、元はと言えば
わたしは大東亜戦争の結果だと思っています。

しかし日本では戦勝国の歴史観をずっと教えてきて現在に至ります。
「自分の国は悪い国だった」と教えられていては、立派な政治家どころかろくな人間は出来上がりませんよ。
その欠陥製品の最たるものが鳩山由紀夫や菅直人ですね。

アメリカの占領下で何が行われたか、ということを日本人は知りません。

まず、プレスコードが決められ、放送する内容に検閲が入りました。
昭和20年の9月、朝日新聞に鳩山一郎の

「アメリカは原子爆弾を日本に落として酷いじゃないか」

という発言を報道したら、朝日新聞は48時間の発行停止処分を受けました。
朝日新聞はそのとき以来心を入れ替え、すっかりいい新聞になって現在に至ります(笑)


焚書も行われました。
戦前の日本には大航海時代から西欧諸国が世界のあちこちで残虐非道の限りを尽くした
というようなことを書いた本や、逆に日本が朝鮮や台湾、満州でどんなことを行ったか
ということについて書いた本が出版されていたんですが、こういった本が7000冊、
トラックでかき集められて燃やされました。

焚書は歴史の抹殺、検閲は言論弾圧です。

その上で昭和20年の12月8日から10日間にわたって、アメリカは
アメリカから見た一方的な歴史、「太平洋戦争史」を掲載しました。
そして10万部製本して日本全国にばらまいたんです。
平均すると各都道府県に2千万部ずつとなり、大変な数です。

これを基準にして歴史教育をやれ、というわけです。

そのときから日本は侵略国家だ、悪い国家だという歴史教育が始まりました。
そして日本は、今なおそのころからの国家観から抜け出せていないのです。



続く。



 

田母神俊雄氏講演より~戦後レジームの呪縛と中国の現状

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国某協会主催で行われた田母神俊雄氏講演の最終日です。
時間より1分半長く喋り終えたあと、一人だけ質問を受けることになり、
4人が立ち上がったのでじゃんけんで質問する人を決めました。
写真は最後に勝った二人が決勝じゃんけんをしているところですが、
残念ながら勝ち残った方の質問は質問というよりご自分の意見の部分が多く(そういう人いるよね)
何を質問したかったのか、残念ながらわたしにはよく理解できませんでした。

さて、というわけで続きです。




■ 中国と韓国との「歴史戦争」

中国や韓国は日本が戦後そういう教育が行われていることから図に乗って、
南京事件や慰安婦の問題などを未だに騒いでいます。

20万の女性を強制連行するって、いったい何個師団必要なんですか(笑)

日韓基本条約が結ばれるまで、8年かけてお互い話し合いを行っているんですが、
そのときに韓国側は慰安婦の問題など一回も出していないんです。
戦争が終わって30年経って、当時を知る人がいなくなったころその問題を出してくる。

南京大虐殺も東京裁判では証明できなかったのに、当時の人がいなくなってから
既成事実化してきている。
 
昨日わたしはBBCの取材を受けましてね。
南京大虐殺をどう思うかと聞かれて、そんなことはなかったと答えました。
それどころか、森元総理の先祖の森シゲキ中尉はイギリス大使館の警護をしているから
イギリスには感謝して欲しいくらいだなんて言ったんですが、
なんとか日本を貶めようとして意地の悪い質問をしてくるんですね。
731部隊はどう思うのか、とか。 

わたしは統幕学校長時代盧溝橋の戦争記念館というところにいったのですが、
そこの展示で「日本軍の命令書」がありました。
中国語の説明で「日本軍が中国人に生物兵器を使えと指示した司令書」とあるんですが、
読んでみると

「戦闘の際中国人に決して危害が及ぶことのないようにせよ」

 って書いてあるんですね。
うちの学生が

「校長、これ間違っていると指摘しましょうか」

と言ったんですが、ほっとけ、日本人が見ればわかるといって放置しました。

(註:これは英断だったと思います。指摘すれば彼らは展示をこっそり外すだけですから)

南京「大虐殺」なんて嘘と捏造の最たるものです。 


■ GHQは日本を巧妙に壊した

GHQは戦後20万人もの公職追放を行いました。
その穴埋めには戦中左翼とされていた人物が充てられたのですが、
特に最高学府である大学の学長、総長に左翼が座ったことが日本の戦後を歪めたと思います。

東大総長南原繁、矢内原忠雄、京都大学学長滝川幸辰、この人なんかアナーキストですよ。
一橋大学都留重人(コミンテルンの手先)、法政大学大内兵衛。

こんな人たちがそれぞれの大学を自分の左翼の弟子で固めてしまったんです。

戦前、大学というのは将来の日本のリーダーを育てるという明確な目標があったので、
学部を問わずカリキュラムの3分の1はリーダー教育に充てられていたんです。
自衛隊でもやっているように論文を書かせてディスカッションするというようなことです。
 
戦後、そういう学校が生徒たちは大学に入ればヘルメットをかぶってゲバ棒を持って
走り回り、大学はリーダー教育する場などではなくなりました。

そういう人物が、未だに新聞社の論説委員なんかで生き残っています。
こういう人たちが、戦後の言論の不自由な日本を作ってきました。
日本を悪く言ったり批判する自由はあるが、日本を褒める自由はほとんどない。

「日本はいい国だ」

という論文を書いたわたしがクビになったことがいい例です(笑)

昭和21年になっていわゆる東京裁判が行われましたが、この法律的な根拠は、

「マッカーサー条例」

という 事後法だったんです。
法律は遡求しないというのが先進国の原則なんですが、

「昨日までの日本軍を裁くために」

後から作った法律で罰したという無茶苦茶なものでした。
しかも、戦勝国の側の戦争犯罪は全く咎められず、負けた日本だけが罪を問われました。

わたしは去年市ヶ谷の東京裁判の法廷を見学したんですが、解説員は
東京裁判のことはあまり説明するなと指示を受けているらしいんですね。
中谷元ちゃん、このこと知ってんのかなーと思ったんですけど(笑) 

東京裁判のことを説明しないんだったらなんであんなもの残しておくんですか。

(註:わたしが見学した時は東京裁判は映像だけ、三島事件も非常におざなりの説明でした)

政治家もそうですが、役人にもアメリカの歴史観に毒されたままの人がたくさんいます。


教科書検定ではたとえば「南京大虐殺を書かないと検定を通さない」となっていました。
しかし今回相当政治家が動いてくれて、書かなくても通る教科書がでました。
相当根が深くてまだ時間はかかると思いますけどやっていかなければならないと思います。

アメリカは戦後、日本を巧妙にぶち壊しました。
まず、大家族制が壊されました。
その結果、いろんな問題が起こってきています。
昔は子供が家に帰って来ればじいちゃんばあちゃんがいて、若い夫婦が二人で働いていたとしても
日本の伝統文化や生活の知恵を授けられたものですが、今は保育所に預けるしかありません。

家督相続制も壊されました。
これは長男が全財産を受け継いで「家」を受け継ぐという制度なんですが、
この制度で「家」が残っていきます。
これだと自分はこの家の何代目だという形で「家」が残っていくのですが、
兄弟皆平等で相続すれば、「家」は分割されてなくなってしまうようなものです。
田舎ではまだ残っているところもありますが、都会では全くなくなりました。
 
昔は50過ぎれば財布は若夫婦に渡して隠居でしたから、老人の孤独死など起こりようがなかった。
東京都には今一人暮らしの老人が70万人いて、孤独死も大変多いそうですが、
そんな街であっていいわけないと思います。

年金問題も子供と一緒に住むのが普通ならそんなに必要ではなくなってくるし、
子育ての問題も解決しますね。
同居なら子供に対する虐待も起こりにくくなってくる。

これを取り戻すには同居すれば税金を安くするとか、家督相続制は
一人が相続する時にはこれも税金を安くするとかすればいいかもしれません。

戦後2DK住宅が雨後の筍のようにできましたが、これも住むところがないから、
というのではなく、この狙いは日本の大家族制を壊すことだったと思います。
占領軍は日本の若い女性に囁いたんですね。

「日本の若い女性って大変ですね。結婚したら大きな家に住んで旦那さんだけでなく
舅姑、旦那さんの兄弟にも仕えないといけないのだから。
夫と二人だけで新婚生活を過ごしたくありませんか。嫌な姑などと離れて暮らしたくありませんか」

そうすると日本の女性はアメリカっていいこと言うなと歓迎するのです。
そしてわたしもわたしもと2DK住宅を選択して、その結果大家族制はなくなりました。


また、公民館が戦後日本全国津々浦々に作られましたが、何のためだと思いますか?
これは

神社で集会をさせないため

であったんです。
昔は地域共同体の中心は街や村の神社で、何かあれば皆神社に集まっていました。
というわけで、神社の数だけ公民館が作られました。


日本人のモラルを崩すためにもいろんなことが行われました。
「軍艦マーチ」がパチンコ屋で鳴らされるのを戦後GHQが禁止しなかったのは、
パチンコという賭け事に日本人をのめり込ませるためであり、
今、そのお金はせっせと北朝鮮に貢がれているというのが実態です・

日本ぶち壊しは巧妙に行われてきました。
財閥解体って、いいことだったんですか?
農地解放、これもいいことだったんですか?

こういうのは日本の弱体化にしかなっていないんです。


日本はとにかく自分の国は自分で守るという体制を作らなければ
国家政策の自由も確保できません。
今はなんでもアメリカに相談しながらやっているという状態ですが、日本が何か
情報の強化を行おうとすると、アメリカは必ず邪魔に入ってきます。
表向きはお互い独立国家ですから言ってきませんが、巧妙にそれを行います。

中国も、日本が今法的に自分の国を自分で守れないことを知っているから
尖閣に挑発にきているんです。
日本を挑発して戦争をしようとしているわけではないんです。
戦争って準備しないとできませんから。
大部隊を動かすのに、頭きたから明日から戦争だってわけにはいかないんです。
自衛隊は

「中国が戦争の準備を始めたかどうか」

ということを眼目に、毎日毎日情報収集活動を行っています。
今のところ全く「準備」はしていません。
だから、すぐに戦争になんてなりません。
領海に入ってきて出て行けという指示に従わなければ、よその国なら撃たれます。
海上保安庁は撃てませんから過激な放水なんかで対応していますが、
わたしはあんなことはやめるべきだと思うんですね。

もっと穏やかに銃撃して速やかに沈めるべきなんです。

「そんなことしたらせんそうになるじゃないですか!」

という人がいますが、なりません、絶対に。
よその国は中国の船沈めてますよ。韓国はこの1年に2回銃撃しています。
だけど習近平とパククネは抱き合って友好しているじゃないですか。
なぜそれを日本だけができないんですかってことですよね。

きっとわたしが防衛大臣になったら中国の船は尖閣に入ってこないと思います。





■ 日本には「日本派」の政治家が必要だ

自衛隊も防衛省もなかなか言いにくいと思いますけど、日本を悪くしているのは自公の連立政権だと思います。 
公明党が自衛隊のいろんなことをみんな邪魔するんですよ。
でも現役の自衛官は怖くて何も言えないでしょう。
だからわたしがあえて憎まれ口を叩いているんですが、公明党は見ていてもわかるように、
安部総理のやることは何でも反対ですよね。

わたしは安部総理の近くには「日本派」の政党が必要だと思うんです。
日本の政治家には、中国派に対し保守派といわれる政治家がいます。
でも、この保守派の大半は実は「アメリカ派」なんです。
日本の政治状況は「中国派」に対し「アメリカ派」がいるというものです。
「日本派」の政治家は本当に少ないんです。
よその国はアメリカの政治家は皆「アメリカ派」だし、イギリスは「イギリス派」、
フランスは「フランス派」で、これが当たり前です。
日本だけが違うんです。

今の日本には安部総理以外に適任な総理大臣はいないと思っています。
石破茂さんなんかなったら、これは大変ですよ本当に(笑)
靖国神社に行ったこともないしこれからも行かないって言ってるんですから。
彼が防衛大臣の時わたし空幕長で、直属の上司として仕えたことがあるので、
どんな人物かということはわたしもう見抜いてますから。

いいときにはいいけどダメになったら部下を捨ててすぐ逃げますから。

(註:例の論文事件で野党から攻撃されるのを恐れて田母神氏を罷免したことをいっているのか)

彼はね、話してて思ったんですが、自衛隊が強くならないほうがいいと思っているんです、
自衛隊が強くなったら侵略戦争を始めるなんていうわけです。 
わたしは言いましたね。

「いや、先生、侵略戦争ったってやるのは自衛隊でしょう。
我々自衛官も忙しくてそんなことをやっている暇はないですよ。
日曜にはゴルフにも行きたいし。
侵略戦争なんか始めたらわたしの好きな大吟醸も飲めなくなるじゃないですか 」

あの、大吟醸って、米の外側を削ってゴマ粒みたいにしてお酒を作るんです。
外側の二日酔いの成分であるアセトアルデヒドを取ってしまうので、
酔っ払っても二日酔いしにくいお酒なんです。

ここに先輩(元陸幕長)がおられますが、この方もいつも飲んでます。
二日酔いしないお酒なんですが、心臓にはよくないんです。
値段を聞いたらびっくりするからです。

一応わたしは大吟醸が好きだということを皆さんに連絡だけしておきます(笑)

日本の食べ物は美味しい。お酒ももちろん美味しい。
こんないい国ないですよね。本当に。

もっと日本を強い国、もっといい国にして次世代に渡すのが、
今を生きる我々の責任だと思っているんですよね。
そのためには歴史を取り戻さねばならないのではないか。
何より自分の国を自分で守る体制を作らなければならないのではないか。
そうしないと日本はやられてしまうと思います。

飛行機のパイロットって一年間にどのくらい飛ぶかで決まってくるんですが、
中国空軍のパイロットなんてほとんど飛んでませんから。
これ中国でいうと捕まるらしいんですが、これは本当で、離発着もろくにできません。

潜水艦の保有は日本の4倍とされていますが、半分は動かないので稼働率50%、
実質2倍と考えたらいいんですが、中国の潜水艦は静謐性がないんです。
日本のスターリングエンジンが音がいちばん静かです。
潜水艦は位置を秘匿して見つからないことが身上なんですが、中国の潜水艦は
海中で待っていたら向こうから銅鑼を叩きながら現れます。

つまり中国の軍事力なんかに脅かされる必要はないと思います。
わたしが現役時代ブリーフィングでいつも確認するのは

「中国は軍事力で尖閣を取れるか」

ということでした。
7年前までならともかく、今はまた取れないと思います。
でもこんなこと公に言いませんけどね。
言ったら自衛隊の予算を削られてしまいますから(笑)

さて、そんなわけで時間となってしまいましたが、
今日はいいたいことも全く言えないまま終わってしまいました。(大笑い)
ご静聴ありがとうございました。


終わり

 


飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)

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エース・パイロット(Flying Ace)とは、空中戦で多数の敵機(現在は5機以上)
を撃墜したパイロットに与えられる称号です。
ドイツ語ではFliegerass、フリーガーアス、そしてフランス語では As、アー、
フランス語の語尾は無音なので「ア」だけという(wikiのアスは間違い)省エネ発音。 

第一次世界大戦で初めて人類は飛行機による戦闘を経験しました。
フランスでは10機撃墜した者にエース(ア)の称号を与え、敵の独英もそれに倣いましたが、
これは当時の飛行機が言い方は悪いけど落としやすかったということでしょうか。

第二次世界大戦が始まると、連合国、枢軸国共に「5機撃墜」がその基準になります。

日本では海軍だけが昭和18年後半に軍令部によって記録そのものを止めたため、
戦後になって彼我の戦果報告と被害状況を照合して客観的な数字を検証する活動が
ようやく1990年代以降になって行われてきたというのが実情です。

ところで、Wikipediaの「エース・パイロット」の項を見ていただくと、
第一次世界大戦のエースパイロットのリストに日本人の名前があるのをご存知でしょうか。
滋野清武(しげのきよたけ)男爵。
これが今日お話しする「日本人初のエース」、バロン滋野です。

ライト兄弟が1910年、グライダーで初めて滑空飛行に成功したとき、
19歳の男爵、滋野清武は広島陸軍幼年学校の生徒でした。

14歳の時に陸軍中将だった父が50歳で病没したため、家督を継いだ清武は、
そのときには自分がのちに飛行機に乗るとは夢にも思っていませんでした。

幼年学校の厳しい世界にに全く馴染めなかった清武はすぐに退学し、
有り余る財産ゆえ何もせずにぶらぶらしていたところ、
母が三人の妹のために頼んだ英語の家庭教師と同年代ゆえ懇意になります。

山田耕筰という名の東京音楽学校のこの学生は、清武に音楽学校への受験を勧め、
予科に入学した清武は、本科でコルネットを専攻するようになりました。
本科2年生であった25歳の時、妹の友達であった公爵令嬢清岡和香子に一目惚れ、
すぐさまプロポーズをして学生結婚で結ばれました。

全てにおいて話が早すぎるという気がしますが、男爵なので別に働かなくても
食べていけるわけですから、学生結婚でもなんの支障もなかったようです。
ただ、和香子の母親には「下賎な楽隊屋」ではなく、「お父様のような軍人」
でないと娘をやりたくない、と当初反対されたのを押し切っての結婚でした。

娘も生まれ、幸せの絶頂だった清武を絶望の深淵に叩き落としたのは若妻の死です。
和香子は出産後すぐに、身体中を蝕んでいた結核のために亡くなってしまったのでした。
毎日谷中の墓地で墓にすがって泣き続けた清武を救ったのはある人物の

「本気で自殺を考えるならば飛行機にでも乗るが良い。
日本はまだ無理だから、ヨーロッパにでも行って飛行家になれば死への最短距離だ」

という言葉でした。
そしてこの言葉は彼の人生をも変えます。
飛行機で空高く飛べたら、和香子の近くに近づいていけるのではないか・・・。
たとえそれで死んでもその時は本当に妻の元に行けるのだから。

フランスに行った清武は、そこで自分でも意外なくらい立ち直りました。
おそらくフランス語やフランスそのものと相性が良かったのでしょう。
そこで当時難しいとされていた自動車の運転免許を取り、ロンドンまでドライブしたり、
オペラやコンサートに興じながら飛行学校に通い、飛行技術を学びます。

飛ぶ練習と並行して飛行機の設計も始め、その試作1号「わか鳥号」(和香子に因んだ)は、
パリの飛行機制作者シャルル・ルーが万博に出品するほどの出来だったそうです。

長身で(フランス人は総じて小柄である)さっそうとした東洋の貴公子が、
数少ない自動車を乗り回し、飛行機の操縦を練習しながら設計もしてしまう。

この出品は清武自身のエキゾチックな魅力も相まって大変話題になりました。
フランスでは無口だった日本の時とは別人のように社交的であった清武は、
しかしこの地でも全く女性と関わろうとしませんでした。
その薬指の結婚指輪に、喪章である黒いビロードリボンが付けられていることを
パリの人々は好意的に眺めては、彼の悲しみに想いを寄せるのでした。



飛行学校を卒業した清武は帰国し、「わか鳥号」を陸軍の協力で飛ばそうとしますが、
ここにライバルが現れます。
陸軍軍人で、華族である徳川好敏でした。 

今日、徳川は日本で初めて飛行機で空を飛んだということで名前を歴史に刻んでいますが、
この二人はソリが合わないというのか、お互いに黎明期の飛行家であり、
利害関係が一致していることが多く、かなり険悪な仲であったようです。

政治力に長け、さらに陸軍という「後ろ盾」によって航空界の第一人者となった徳川ですが、
実際はフランスに来て1時間で免許を取ったという程度の腕でした。
当然飛行機の仕組みについてもあまりわかっていなかったはずですが、
清武がその飛行機設計をフランスの設計家に絶賛されたことに対抗したのか、
徳川は、既存のエンジンを積み替えたものを「『徳川式』飛行機だ」などと言っていたことも
清武の不興を買いました。

同じ陸軍の飛行教官でも、清武の100時間以上に対して徳川はわずか15時間という飛行時間で
清武のほうが教え方がうまく、学生に人気があったということも軋轢の原因になりました。

その後、徳川は陸軍軍人であることを生かして周囲に圧力をかけ、
御用掛として呼ばれた民間人の清武を陸軍の中で孤立させてしまいます。


余談ですが、清武の「宿敵」はもう一人いました。 
こちらも大物、志賀直哉です。
学習院時代、清武が華族女学校に妹を迎えに行っていたのを勝手に色々想像して
けしからん、と憤った志賀が友人と共に清武を「ぶん殴った」というものでした。 

しかも志賀は後年、そのことをしれっとエッセイに書き、どう見ても自分が悪いのに
清武のことを「とにかく人に好かれぬ男だった」などとディスって、非難されています。
そのときの随筆の一文は

「フランスに行って飛行将校になり勲章を貰い、
フランス人の細君と混血の赤児を連れて帰ってきた」

という悪意とその裏に潜む嫉妬が隠せずにじみ出ているものです。
三島や太宰ともいろいろあったそうですし、なんだか嫌な奴みたいですね志賀直哉って。


さて、徳川との確執ですっかり陸軍と日本に嫌気のさした清武は、
教官を辞職することを決心し、民間の飛行学校を設立することを考えました。
それに必要な飛行機を購入するために神戸からもう一度渡仏したのですが、
そのときヨーロッパでは大変な事件が起きていました。

サラエボ事件です。

第一次世界大戦の導火線となったこの事件に呼応して、パリからリヨンに避難した清武、
いやバロン滋野は、カフェのレジにいる18歳の可憐な少女に出会います。

滋野夫人となる、ジャーヌでした。 
後に夫が急死して未亡人になったとき、意に染まぬ再婚話から逃げて
清武の元に駆け込んできたジャーヌを彼は受け入れ、結婚して日本に連れ帰っています。


リヨンで暮らしながら清武は考えます。

「この戦争は日本にも波及したので、 民間飛行練習所をつくるどころではないだろう。
この間、計画はひとまず中止して、自分の腕を磨こう。
しかし民間学校はこちらでも閉鎖同様だから、フランス陸軍航空隊に従軍しよう」

いやいや、この流れでどうして従軍となるかな(笑)

ともかく三段飛びのような論理展開で清武はフランス軍に志願し、
フランス陸軍の方も時節柄、喜んでこれを受け入れたのでした。

1914(大正14)年12月2日に入隊した清武は、3日後、少尉に任官します。
さらに「日本の地位に相当する階級を与えるべし」と陸軍側が考慮した結果、
翌月の1月31日には陸軍歩兵大尉に任ぜられました。

フランス陸軍も階級によって待遇が随分と違うのですが、
居室や食堂も変更になるので、この2カ月足らずの間、彼とその周りは
変更に次ぐ変更でてんやわんやの騒ぎとなったようです。

もちろん制服も大尉になると変わります。
現在残されているバロン滋野の陸軍での集合写真を見ると、不鮮明ながら
彼だけが色の違う制服を着ているので大変目立っているのがわかります。
大尉の軍服は上衣が水色、襟章が黄色に金色の星と羽(操縦将校)をあしらい、
腕章が金のエリスと翼(飛行隊)キュロットは赤という華やかなものでした。

(えー、このエリスはエリス中尉のエリスではなく、フランス語の
héliceはプロペラという意味です。念のため)

ピロット(パイロット)としてのバロン滋野の実力はフランス人にも一目置かれていました。
偵察将校で後に親友となるペレージュ中尉が

「バロン滋野、我が隊には百数十人のピロットがいますが、
正直なところわたしは誰の飛行機にも同乗したくありません。
しかしバロン・シゲノとロルフューブル海軍中尉となら喜んで同乗します」

と真剣に言ったことがあるくらいでした。
さて、1815年の5月27日、バロンに大本営飛行科長から命令が下ります。

「キャピテーノ・シゲノは飛行機に搭乗し、V24中隊に向け出撃すべし」

向かい風に近い烈風の中を時速40キロの列車よりもノロノロと3時間飛び、
部隊に到着したのですが、後で途中ドイツ機とすれ違っていたことを知りました。

着任した翌日、バロン滋野はペレージュ中尉を偵察に乗せ、出撃しました。
初陣です。
それから毎日のように出撃し、その度に砲撃の中を投弾して帰ってきました。
この頃、彼が実家に出した手紙です。

「略)なんとも云えぬ勇ましさです。
自分で自分の乗っている飛行機が見られたらさぞ愉快だろうなぞと、
愚にもつかんことを考えながらタバコをふかして飛んでいると、すぐ近所で敵弾が爆発します。
然し決して中らぬものとチヤンときめ込んでいますからなんともありません。
ヘン、やってやがるなア、位のものです」

幾度となく死と隣り合わせとなりながら、清武は全く恐れず空に上がるのが常でした。
ヨーロッパに来るきっかけになった「死んだら妻の元に行ける」という気持ちが
彼から死への恐怖を取り去っていたのでしょうか。

そんなバロン滋野に司令部からまず感状、続いて「戦功十字勲章」、そして
志賀直哉も嫉妬したという(笑)レジオン・ドヌールが授与されます。
軍機となっていて本人は知るべくもありませんでしたが、評定にはこう書かれていました。

「ピロットの特性顕著、当体に配属以来、軍人としての誠実な特質、勇気、感嘆すべき意志力を示せり。
最も危険な爆撃の数々の任務を遂行せし功績により軍功表彰され、レジオンドヌール勲章を授与さる」


バロン滋野は1915年4月1日、初撃墜をしました。
ランス市郊外上空でヴォアザン式偵察爆撃機で偵察攻撃中、
フォッカー式EIII型駆逐機に攻撃され、45分に亘る空中戦の末、
ほとんど弾を撃ち尽くした状態の時に相手が墜ちたのでした。

たちまちこの戦闘は全フランス陸軍に広がりました。
偵察爆撃機が駆逐機と45分もわたり合って撃墜したとあっては当然です。
ほどなく、バロン滋野はN26鴻(おおとり)飛行中隊に編入されました。
「As」つまり敵機を5機以上撃墜したピロットで構成されたエース部隊です。

 ちなみに第一次世界大戦当時の航空戦において撃墜がどのように公認されていたかというと、

「一人のピロットが敵機を撃ち落とした時に、二人以上のピロットが正確に
その落下した場所を見届けるか、砲兵隊、塹壕の歩兵、繋留気球の偵察将校などが
正確にその落下した場所を報告してくるか、あるいはピロットが撃墜した時に
誰も見ていなかった場合には、そのピロットが案内人となり、二人の飛行将校が
各一機に乗って、その場所に行き、撃墜された飛行機を見届けた場合」

となっていました。
これだけ厳密ならハルトマンやレッドバロンの撃墜数もかなり正確なんでしょうね。

バロン滋野の公認撃墜数は6機と記録されていますが、公認未公認、
共同撃墜の末同僚に戦果を譲ったりしているので実際の撃墜数はもう少し多かったようです。
しかし本人は敵機を撃墜することについてこのように述懐しています。

「私は元来狩猟が非常に好きである。
然し鳥を打ち落とした其の瞬間だけは非常に愉快だが、
すぐに其の後には哀れな感じを禁じ得ない、
其れでも矢張りこの遊びがやめられないのである。
丁度其れと同様に敵機を打ち落とした瞬間に愉快を感じ次に非常なる哀れを感んじた。
そして1500メートルの高空からひらひらと真白な飛行機が落ちて行くのを見乍ら
嗚呼彼等も敵とは云へ親も兄弟もあるだらうと思つて馬鹿に哀れっぽく感じた、
それでもをかしい、昼食をする頃になると一時も早く出掛けて行って又打ち落とし度くなる、
人間は実に理由(わけ)の分からぬ動物であるとつくづく思ふ」 


軍極秘の勤務評定においても

「模範的なピロットであり、その勇気と冷静さは中隊の最上の模範を示した」

と激賞されていたバロンは、休戦条約が調印され、1918年11月11日に戦争が終わって 、
その時にはすでに妻となっていたジャーヌと、生まれたばかりの娘を連れ、帰国します。
娘のジャクリーヌ・綾子はその後脳膜炎のため2歳で死去しました。


日本では航空事業についての計画を航空局に積極的に働きかけますが、
関係者はまだ国内に操縦者がいない現状では、バロン滋野の提案による
「フランス人パイロットがわが国を我が物顔に飛び回る」 
事態になりかねないということを盾に、なかなか話を進めようとしません。

それだけでなく宮内省もジャーヌ夫人の男爵家への入籍を認めず、
清武はまたしても日本での生きにくさを実感せざるを得ませんでした。

しかも国は、バロン滋野の申請した航空事業にはのらりくらりと返事をせず、
それでいて神戸の毛織物商川西清兵衛が設立した航空株式会社は認可し、
(のちの川西航空機)彼の焦燥は深まる一方でした。

失意の日々の中で、 若い時から胃弱で何度も入院を繰り返していた清武は、
その心労が祟ったのか、胃病と腹膜炎を併発し、1924(大正13)年10月13日、
ジャーヌ夫人に看取られながら苦悶のうちに昇天しました。
わずか42歳でした。

その後、男爵の後継問題でジャーヌは滋野の実家から酷い扱いを受けることになりますが、
結局彼女は日本でフランス語を教えながら糊口をしのぎ、二人の遺児を育てて73歳で死去しました。 

長男のジャーク・清鴻(きよどり)は海軍の飛行士官を志望しましたが、不合格になったため、
陸軍航空通信隊に入隊し、そこで終戦を迎え、戦後はピアニストになりました。
そのスタイルから「和製(カーメン)キャバレロ」と言われていたそうです。

愛情物語/ジャック滋野
 

否定的に「ビジータイプ」と言われる一昔前の奏法で、フィンガーテクニックはともかく、
今聴くと正直なところ音楽理論的にかなり怪しい点があるのですが、
それなりに当時は有名だったようです。

少しあれれと思ったのが、このレコード?ジャケットにちゃっかり
「Jacques Baron Shigeno joue.. 」(ジャーク・バロン・滋野が演奏する)と書いてあることです。
芸名でもあったんでしょうかね・・・・バロンって。 


清武は音楽家から飛行家へ、ジャークは航空工学を諦め音楽の道へ・・。
父子が逆の道を歩むことになったのも何かの因縁でしょうか。



ところで清武は1918年に、雑誌の「百年後の日本」というテーマのアンケートに対し
こんな回答をしているそうです。

一、華・士族・平民の差別なくなるべし
一、軍人、官人の威力奮はざるべし
一、文明はほとんど極度に達し、従って戦争は不可能に近づくべし
一、少なくとも長距離の輸送・交通・郵便などは空中路となるべし
一、自転車のごとき軽便なる飛行機の使用盛んなるべし

全て100年経って、この世界はまさしく清武のいう通りになっています。

今日もどこかで新たな戦争の火種が生まれ続けているということを除いては。 





参考文献:バロン滋野の生涯 平木國夫著 文芸春秋社



 

日米開戦と日露戦争の「反省」

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当ブログは、制作する時に思い出していれば、海軍的なイベントが起こった日に
そのテーマで書くことが時々あるのですが、先日5月27日の海軍記念日には
全く関係のない内容だったので、肩透かしを食ったように感じた方が約1名いたそうです笑)

何か関連記事をアップしたいと考えなかったわけではないのですが、
2年前のこの季節に、結構集中して日本海海戦について書いたので、
ネタが無くなった書きたいことをとりあえず思いつかず、失礼しました。

さて、5月27日が海軍記念日となったのは、今更ですが、日本海における
帝国海軍聯合艦隊が、バルチック艦隊に勝利した日を記念しています。
しかし、実際に決戦が雌雄を決したのは5月28日であり、鉄火お嬢さんのご報告によると
東郷神社の今年の記念祭はこの日に行われたとのこと。


というわけで、このエントリは5月28日の制作でお届けしております←こじつけ
 



日本は近代になって二度、大国と戦いました。
日露戦争、そして大東亜戦争です。
日露戦争で東洋の小国日本が大国ロシアと戦って勝ったことは、世界に衝撃を与え、
トインビーのいう、白人優生のそれまでの世界の「終わりの始まり」となったのです。

それがちょうど今から110年前のこと。

奇しくも今年は戦後70年と日露戦争110年が同時に来る年です。
つまりロシアに勝利したきっちり40年後に、日本はアメリカに負けたということになります。

この40年間に日本は、そして帝国海軍はその記憶をどう止め、それは後世に生かされたのか。
今日お話したいのはそういうことです。



日本が対米戦争に踏み切った理由を一言だけいうなら、皆さんもご存知のように、
「外圧によって資源を絶たれたため」に尽きると思います。
米国によって石油を禁輸されてしまい、ABCDラインで経済封鎖されたこと、なおかつ
最後まで戦争を避けるために行われていた対米交渉が決裂したことが直接の理由ですが、
それでは日本はいつからアメリカを「仮想敵国」にしていたかご存知ですか?

わたしも最近まで知らなかったのですが、実は

日本は日露戦争の2年後にはアメリカを仮想敵国に決めていた

ことがわかっているそうです。


先日映画「機動部隊」について書きましたが、海軍提督主催のパーティ席上、
主人公のゲーリー・クーパー演じる大尉が、空母など要らないと主張する新聞王に、

「何処と戦争になるというんだね」

と聞かれて

「日本が不審な動きをしています」

と答えたところ、野村大使と五十六海軍武官がそれを聞いていたというシーンがありました。

日本が1923年のこの頃、戦争をしたがっていたわけなかろうが、と突っ込んだのですが、
この説によると、1907年からアメリカは日本の「仮想敵国」だったわけですから、
「日米もし戦わば」が日本側でシミュレーションされていたということになります。

もっとも自身の駐米経験からアメリカの国力を知悉していた山本五十六は、
日米開戦には慎重論者であり、野村大使はギリギリまで政治交渉で戦争を避けようとしたのですから、
「戦争を企む意図を見透かされて狼狽する二人」というのはあくまでも映画的表現にすぎません。
念のため。


ところで山本五十六を「開戦に反対した」という面でのみ語る媒体がありますね。
ひどいのになると「反戦司令官」とまで言ってしまう向きもあるくらいです。

「連合艦隊司令長官山本五十六ー太平洋戦争70年目の真実ー 」(長いんだよこのタイトル、
といつも通りつっこみますが、1968年制作の『連合艦隊司令長官山本五十六』という映画と
タイトルがかぶるため、後ろにいらん言葉をくっつけたようです。誰得)
ではそれが顕著だったわけですが、 そんな単純なものじゃないでしょうと言いたい。

山本五十六は開戦に慎重でしたが、その理由は戦争が嫌いだったとか反戦派だったからではありません。
(誤解を恐れず言えば、全ての軍人は”戦争が嫌い”であると思いますがね)
勝てる見込みのない戦争をするべきではないという、軍人として当然の考えです。

戦史叢書第10巻「ハワイ作戦」には、「山本長官の対米戦回避」という項があり、

「聯合艦隊司令長官として万一の海戦に備え、対米作戦準備の完遂に
努力しながら、心では米国との戦争は回避すべきだと考え続けていたことは確実」

という一文で締められています。




また、昭和16年の初頭に、連合艦隊司令長官であった山本が、
海軍大臣及川古志郎にあてた戦備に関する意見のなかに、こんな一文があります。

「累次図演等の示す結果を見るに帝国海軍は未だ一回の大勝を得ることなく」
「図演中止となるを恒例とせり」

つまり、何度図演をやっても日本が勝てないままいつも中止となる、と言っておるわけです。


しかしそれでもやれと言われれば、勝てそうなやり方を模索するのも軍人のお仕事です。
そこで色々と「必勝プラン」を練ったりするわけですが、これにさかのぼる
軍縮条約の時にも、山本は開戦を念頭に日本の艦艇保有率をなんとか
自分の考えるギリギリの線まで確保するべきだと強硬に主張しているのです。

 
軍縮条約を巡って、その条約の結果を受け入れるべきだとする「条約派」と、
その反対の「艦隊派」の間に抗争が起き、「条約派」が粛清されたということがありましたが、
山本はこのとき「条約派」でもなんでもなかったので、無事だったどころか
その後連合艦隊司令長官になっているわけです。

つまり、「条約派」=「反戦派」、艦隊派=「開戦派」という決め付けは
実に乱暴な二元論にすぎないことがわかりますね。



このときの山本は、軍縮会議に随伴して、 そのときの全権だった文官の若槻禮次郎が
対米6,975%の補助艦艇保有と、3分の2の潜水艦保有に合意したことに不満を唱えています。

前回のワシントン軍縮会議では、戦艦の保有は希望7割に対し6割に抑えられていますが、 
これも「対米戦」をシミュレーションしている海軍の「中の人」以外は、
戦争するつもりでもないのなら今更1割くらい、という認識だったでしょうし、
当時文官の若槻にも理解できなかったように、今の我々が考えても、
そもそも国力差がありすぎる相手に7割が6,975割になったところでそれが何か?というところです。

しかし、このラインを勝ち取れなければ、席を蹴って帰って来るとまで
海軍の「艦隊派」 (この際山本含む)は考えていたので、若槻の合意に激怒したのです。

なぜ山本らは、このわずか0,025%にこだわったのでしょうか。

 


これは、その1割が、0,025が、そしてなにより潜水艦保有の3分の2が、
日米開戦のシミュレーションの結果、


「圧倒的な国力差を作戦で覆せるだけのぎりぎりのライン」

を下回っていたからという理由に他なりません。


ところで、アメリカに戦争を挑む時、海軍は、というか山本五十六は、
前回の勝利であった日露戦争をどう考えていたかという話に移りましょう。

つまりそこに日露戦争の「教訓」はあったのか?



昭和16年11月の大本営政府連絡会議では、

「対米英蘭将戦争終末促進に関する腹案」

と称する書類が提出されています。
始まってもいないのに終末促進か?という気もしますが、とにかく
どうやって終わらせるかは「どうやって勝つか」でもあるわけです。


それが、米英海軍の根拠をやっつけて主要交通線をとりあえず確保し、
自給自足の道をつけて持久戦にも備えるというものですが、持久戦といっても、

「長期持久的守勢を採ることは聯合艦隊司令長官としてできぬ。
海軍は一方に攻勢を採り的に手痛い打撃を与うる要がある。
敵の軍備力はわれの5ないし10倍である。
これに対して次々に叩いていかなければ、どうして長期戦ができようか。
常に敵の痛いところに向かって猛烈な攻撃を加えねばならない。
しからざれば不敗の態勢などは持つことはできない」

つまり

「凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅する勉む」

その劈頭に

「誘致し」

つまりどこかに誘い出してそこで艦隊決戦をする、と考えていたことがわかります。
日露開戦の際、バルチック艦隊を日本海で撃破したように。

今まで図演で勝ったこともないのに、実際に開戦して必ず勝たなければならない。
そのためには初戦で主力艦隊(空母含む)を「猛撃撃破して」、米国海軍と米国民をして

「救ふべからざる程度に其の士気を沮喪せしむること」

というのがこのときに出された腹案です。
そして同じ腹案の中にこのような一項が見られるのです。(現代語に翻訳しました)


我々は日露戦争において幾多の教訓を与えられた。開戦劈頭における教訓は次のようなもの。

一、 開戦劈頭敵主力艦隊急襲の好機を得ることが必要である

二、 日露戦争における開戦劈頭の日本軍水雷戦隊の士気は必ずしも高くなかった。(例外はあったが)
   技量も不十分だったことを反省せねばならない

三、 旅順港閉塞作戦の計画と実地については失敗だった。
   こういった成功例、失敗例をできるだけ善処して日米戦に臨まなくてはいけない。
   勝敗を第一日目で決する覚悟が必要である。

水雷戦隊の士気が低かった、というのは、上村艦隊がこれを破るまで、
ウラジオ艦隊(浦塩とある)に旅順港を取られ、そこを根城にやりたい放題されたことを言います。
濃霧でウラジオ艦隊を逃した上村大将の自宅に、心ない国民が投石したという話もありましたね。

 
というわけで、これらの教訓から得た作戦実地要領とはどんなものだったか。

一、 敵主力の大部分が真珠湾に在泊するときを狙って飛行機隊でこれを撃破し、
   なおかつ同港を閉塞す

二、  敵主力が真珠湾以外に在泊していたとしても同じ。
   このため、第一、第二航空戦隊(やむを得なければ第二航空戦隊のみ)をもって
   月明かりの夜または黎明を期して全航空兵力をもって全滅を目的に敵を強襲(奇襲)する


山本の作戦が特異だったのは、実は「航空兵力で奇襲」という部分でした。
アメリカの映画「機動部隊」でも、日本が空母で奇襲をかけてきたことが驚きを持って語られます。


結果としてアメリカとアメリカ海軍は奇襲に激怒し、日本の通告の遅れを利してこれを非難し、
「意気阻喪」どころか猛烈な闘志を燃やして逆に全力で反撃してきたわけですが、
もし「通告の遅れ」がなかったら、アメリカはあれほど激怒しなかったのではないか?
という仮定には、わたしは残念ながらNOだと言わざるを得ません。

もしそこに至るまでのアメリカの態度を見ていれば、(囮をしかけて先に撃たせようとしたり) 
日米開戦は「既定路線」だったことは明白だからです。

それより、ここであらためて驚くのが赤字の部分、「真珠湾を閉塞」という文言です。
ここで閉塞作戦が、もしうまくいきさえすればかなり有効な手段であることを、
日露戦争の考察から海軍はかなり期待を持っていたということが読み取れるのです。


そして、山本は

万一ハワイ攻撃のときの我が方の損害の大きさを考慮して守勢を取り、
敵の来襲を待つようなことがあれば、敵は一挙に帝国本土の急襲を行い、
日本の都市は焼き尽くすであろう。
そうなった場合、たとえ南方作戦である程度の成功を収めたとしても、
我が海軍は非難を浴び、国民の士気の低下は避けられないのは火を見るより明らかである。
(日露戦争で浦塩艦隊が太平洋を半周した時の国民の狼狽ぶりはどうだったか。
笑い事ではない)

と書いています。
具体的に海軍のプランとは、劈頭に敵を撃滅し、米国が意気阻喪している間に
とにかくライフラインとなる南方を制海権もろとも抑えてしまって、
これをもって自給の備えを確保しておいて講和の道を探るというものでした。


「山本愚将論」(以前お話を聞いた兵学校卒の方もそう言っていましたが)
を唱える人には、開戦してからの明らかに失敗だった作戦指示はもちろん、
この真珠湾攻撃自体をその論拠にする向きもあるようです。

しかし(どこまでアメリカ側が知っていたかはさておいて)、それでは山本以外に
この稀代の攻撃を実行(そしてとにかく成功)させることができたかどうか。
航空本部長を務め、これからは航空だと確信していた山本ならばこその航空攻撃を。



しかし、日本側の「終戦プラン」は大幅に予測を外しました。
真珠湾の成功は、なまじ米国にとって被害が大きく講和で済ませるような状態でなかったため、
士気を沮喪させるどころか、国民は怒りと戦意を猛烈に掻き立て、
結果としてアメリカと日本をその後の不幸な結果に引きずり込むことになります。



いつも言うように、歴史にはイフはありませんが、もし日露戦争で日本が負けていたら、
戦後日本が世界に台頭することも、それによって危機感を覚えた欧米による
「日本叩き」「日本いじめ」が始まることもなかったはずで、ということは
日本が真珠湾を攻撃するということも起こらなかったのです。
(そして世界は、21世紀を迎えてもまだ支配被支配が存在する大国主義だったかもしれません)

極論ですが、つまり、日露戦争に勝った瞬間、アメリカと戦うことは決定し、
40年後の敗戦も、そのときに定められた運命となって確定していたといえるのです。


その伝でいうと、日露戦争で勝った「から」、次の戦争を行うことになった日本ですが、
勝った戦争に対する「反省」(左派の言う反省ではなく、次の戦争をどう勝つかという意味の)
が結果に生かされなかったのは、アメリカの「意地」を見くびっていたことをはじめとして、
全てにおける見通しの甘さであったということなのでしょう。


「甘さ」というなら、帝国海軍がアメリカ相手に日露戦争でさえ失敗した「閉塞作戦」を
あわよくば実行しようと(腹案とはいえ)、考えていたらしいことそのものに、
わたしは、一度得た勝利の記憶のなせる楽観的なものを感じずにはいられません。




 



 

従兵制度

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大昔、まだ挿絵をブログ機能の「お絵描きツール」で描いていた頃のものを
作画をする時間がないのをいいことに引っ張り出してきました。
ノートパソコンのスクロールパッドに指を滑らせて描いたため、
線もまっすぐに引けないなどのお見苦しい点はありますが、ロゴだけは見やすくしました。

さて、渡米前のパッキングの合間を縫ってのエントリ製作なので小ネタです。
昔、この絵をつかって「従兵のお仕事」について書いたことがあります。

5年前のエントリなどご存知ない方が大半だろうと思いますので説明しておきますね。

かの井上成美大将が「比叡」の艦長をしていたときの従兵、砲術学校高等科卒の優秀な下士官、
駒形重雄三等兵曹は、ある日井上艦長が「今日は帰艦しない」と言い残して上陸した後、
艦長室のバスタブで洗濯していたのですが、ふと魔が差して艦長のベッドに横たわったところ、
そのまま前後不覚となって寝込んでしまいました。

夜半、ふと目覚めた駒形兵曹、妙に体が窮屈なのに気がつきふと見ると
隣には今夜は帰艦しないはずの井上艦長が寝ていたのです。

バネ仕掛けのように飛び上がった駒形兵曹に、井上艦長は、

「いいよいいよ。もうすぐ夜が明ける。朝までそのまま寝てろ」

と言ったというお話。
もちろんこの後、駒形兵曹は這々の態で艦長室を辞したのですが、
このままお言葉に甘えて一緒のベッドで寝続けたとしたら、
総員起こしのとき下士官の寝室(釣り床の列んだ部屋)にいることもできず、
下手したら脱柵を疑われてしまいます。

フネなのでそれはないか。

これは井上茂美の部下に対する思いやりの深い一面を表す逸話ではありますが、
朝になって従兵が艦長の寝室から出てくるところを誰かに見られたらどう思われるかとか(笑)
思いおよびもつかなかったらしいのが、この大将の「浮世離れぶり」をうかがわせます。


このとき、「その気(け)」もないはずの井上艦長が狭いベッドに引き止めるくらいだったのだから、
きっと駒形兵曹はそれなりの容姿、少なくとも爽やか系だったに違いない、と書いたのですが、
一般的に従兵が容姿も考慮されるのはごく普通のことであったようです。

まるで奥さんのように身の回りの世話を焼くのが仕事なので、それは当然として、
もう一つの理由は、司令部や艦長の従兵ともなると、場合によっては天皇陛下や皇族方、
外国の要人との晩餐に侍立することもあったからでした。

もちろんそれだけではダメで、人一倍気がついて頭の回転が速くないといけません。
「大空のサムライ」の坂井三郎氏も、「霧島」乗り組み時代に従兵(のような仕事)を
していたそうですが、海軍砲術学校を2番の成績で卒業した後の配置ですから、
やはりこの任務がいかに重要視されていたかということがわかります。

一般に従兵は現場からそれにふさわしいものが推薦されてなるのが常でした。
「従兵になると出世が早い」と言われていましたが、これは

「従兵になれるくらい優秀なので出世も早い」

ということでもあったのです。

さて、わたしがその会員となっている海軍兵学校某期の、戦艦「長門」艦長を父に持つS氏は、
「長門」でフランス料理を食べたという思い出を話してくれたことがありますが、
中でも印象的だったのが、後ろにナプキンを手にした従兵が控えていて、
椅子を引いたり、お皿のサーブをしてくれことだったそうです。

軍艦の士官の待遇は文字通りの「特別扱い」でした。
海軍士官になればこういう「特権階級」となれるという世間の認識もまた、
海軍に対する憧れを誘う一つの要因でもであったでしょう。

海軍の士官室は、軍艦において

士官室=分隊長以上(分隊長なら中尉も)

第一士官次室=少尉、中尉

第二士官次室=兵上がりの少尉、中尉

準士官室=兵曹長

と区分けされていました。
兵学校、機関学校、軍医学校、主計学校卒は自動的に第一士官次室、
すなわちガンルームから軍艦生活が始まります。
一般大学卒の予備士官もこの待遇でした。

「次室」といちいちついているのは、もともと「ガンルーム」というのが

「学校を出たばかりの士官は、大砲の隣の部屋でいつでも戦闘配置につけるように起居すべし」

という英国流のネーミングであったことからです。
同じ士官であってもガンルーム士官と第二士官は父親と息子の年の差がありましたが、
軍隊なので同じ少尉であってもガンルームの士官の方が階級は上です。

そして従兵ですが、これらの「士官室」には必ず何人かが就くことになっていました。
階級が上に行くほど、従兵一人が仕える士官の数が少なくなっていくわけで、
ガンルーム士官でだいたい2~3人に一人の従兵がつきました。

例えば食事は各士官室付きの軍属が料理を作り、階級によって手間のかけ方、
材料の良し悪しが全く違ってくるのはいつかお話ししたところですが、
これをお給仕する従兵は、深川製磁などのごはん茶碗をお盆で受け取ったりします。
士官の食事は「一食いくら」で食費を徴収したそうです。

もちろんこの場合のごはんは「銀めし」(『銀しゃり』は戦後の闇屋が言い出したもの)で、
士官が食べなかったお櫃のご飯は、従兵がたらふく食べることができました。

これは従兵の最大の特権でしたが、他にも上官のバス掃除を行うときに
こっそり落とす前の湯船に浸かることもできました。
表向きは禁じられていましたが、艦隊勤務は非番のことを「入湯上陸」と言ったくらいで、
毎日入浴などできないのが普通でしたから、士官たちも大目に見ることが多かったようです。


戦艦「大和」は、昭和19年になっても、大尉以上の士官が
テーブルクロスに従兵のサービスでご飯を食べていたそうです。

その食事も当時にしては大したもので、Sさんが言っていた
「後ろにナプキンを腕にかけた従兵が立ってお給仕」というようなことをしていました。

「大和」に乗り組んでいた士官の話によると、従兵は夜も寝る時間がないくらい、
生活全般にわたってあらゆることをそれこそ上げ膳据え膳で世話してくれ、

「明日着る服はどれ、それから履物はどれ、と決めて、履物も全部磨いてくれる」

「欲しいものがあったら申し付けるだけでなんでも酒保で買ってきてくれる」

その親密さは家族以上で、士官たちは皆彼らに感謝からくる親しみの気持ちを持っていたそうです。


昔一度、丹羽文雄の「海戦」という小説について書いたことがありますが、
これは、作家の丹羽文雄が第一次ソロモン海戦のときに旗艦「鳥海」に座乗して、
夜戦を目の当たりにし、負傷した経験を活写したものですが、その中の、
戦闘後の「鳥海」副官(つまり艦長の副官)とその従兵の話をもう一度掲載しておきます。


「従兵、篠崎はどこだ、篠崎?」
負傷者の顔を一つずつ見て歩いた。
「副官、自分はここにいます」声だけがあった。割合元気が良かった。
「どこだ、篠崎?」

「どうだ、具合は?」

 

返事はなかった。あたりはしいんとした。やがて
「申訳ありません」
と言った。副官は微笑をうかべた。右手を失った篠崎は絶対安静が必要であった。
「しかし、自分には左手が残っています。副官のお給仕は左手で立派にやれると思います」
「うん、やってくれ。自分もそう思っているんだ」

副官は何かを抑えるようにして、朗らかに応えた。顔から微笑が消えそうになった。
副官は黙った。高いところから見下ろしていた。従兵も無言であった。
副官はわざわざ篠崎を見舞いに来たのであったが、そんな気配は示さなかった。

どれだけか副官は見下ろしていたが、
「何も考えずに、くよくよしないで、十分養生しろよ」
「はい」
副官が枕許をはなれた。五六歩歩いた時であった。
「わあっ」
叫びともつかず、よびかけともつかない奇声を従兵があげた。

「何だ。篠崎?」
「魔法瓶がみんなこわれました。申訳ありません」
副官は引き返そうとしてためらった。そのままの姿勢で、
「なに、代りはあるぞ」
副官はそう言うと、大股に部屋を出ていった。


(「海戦」丹羽文雄 中公文庫)



そうかと思えばこんな話もありましたね。


皇族軍人で陸軍騎兵連隊附であった閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう)は、
戦後皇籍離脱後事業を起こし、元皇族の中でもかなり経済的に成功し、
余生も穏やかなものであったということなのですが、
戦後になって離婚した元夫人が、彼が軍隊時代男色家であった、とリークして、
マスコミの好餌となりスキャンダルになりました。

夫人によると、陸軍の官舎は狭く、ベッドは二つであったのですが、
王は高級将校に必ず付いていた従兵と一つのベッドに寝ていました。
井上成美艦長と駒形従兵のケースとは違い、両者合意の上での同衾であったようです。

戦後になってもその従兵と夫妻は同居生活を続け、言い争いになると
元従兵が彼女を殴ったりする異常さに耐えかね、離婚に至ったという話。


いかに軍人に直接仕える「従兵」という職種が上官と緊密な関係を生むかということですが、
戦後になって軍が「悪いもの」になってしまったとき、海軍的ヒエラルキーも
海上自衛隊においてはごくごく表面的なところにしか残らず、したがって従兵の制度もなくなりました。

先日わたしは、ある航空基地司令の執務室で昼食をご馳走になる機会がありましたが、
お茶を運んできたり、三人分のお弁当を運んできたり、そういう旧軍の従兵的仕事は
全て女子隊員が行っていました。
でもこれは来客的に当然というか、自然に感じました。
差別と言われようが、やっぱりお茶もお弁当も、女の人に持ってきてもらったほうが
なんか助かるというか、落ち着くというか。ねえ?

つまり従兵は軍隊に女性がいなかった頃の「女性代わり」の面もあるわけですが、
今現代、自衛官は旧軍軍人ほど「特権階級」ではなくなり(というか社会全体から
そういう特権階級が姿を消したので)、自衛隊もどんなに偉くても自分のことは自分でね、
ということになっているわけです。

しかし、なんとなく個人的には「上から下まで同じ扱いの軍隊」なんてもんがあったら、
なんて味気ないというかつまらないもんだろうと思います。
だいたいそんな共産主義みたいな軍隊、絶対強い気がしないよね。

軍隊が階級社会なのは当たり前。
あまりにも民主的な軍隊は上から下への命令もおちおちできませんから(笑)


海上自衛隊で将官の呼称が「閣下」であったり、将官のパーティー出席のときには
黒塗りの車の横にずっと海曹が立って待っていることや、副官が
目的地に着いたらさっと降りて将官のためにドアを開ける、などというのを見て、
こういう「特別扱い」の形が程よく残っていてほしい、とわたしなど思ったりするのですが、
社会の階級がなくなった日本の自衛隊では、たとえ従兵制度が何かのはずみで復活しても、

「気を遣うからむしろそんなものないほうがいい」

という「民主的な」将官が多くて、運用は無理かもしれませんね。





 

成田発ボストン行き鶴丸航空(仮名)での偶然

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というわけで、今年もアメリカからネイ恋をお届けすることとなりました。
最近、コメント欄へのお返事が遅れ気味だったのは旅行の準備のせいです。
いつも遅れ気味じゃないかとおっしゃるあなた、それはもしかしたら気のせいではないでしょうか。

今年のスケジュールはハードで、10日前後ボストンとニューヨークの間をうろうろし、
一度日本に帰ってきて成田から第三国に出国し、そこで用事を済ませて帰ってきたら、
またすぐに東海岸に行って、3日後に西海岸に移動という過酷なもの。

ただでさえ年々時差ぼけから立ち直るのが遅くなっていっているというのに、
こんな全盛期のシンディ・ローパーみたいな旅程をこなしたら、果たして帰国後、
一応行くつもりをしている富士総合火力演習と花火大会はどうなってしまうのか。
考えたくもないので考えていませんが、とにかくそういう怒涛の日々が始まったのでした。



某月某日、我々は鶴丸航空ラウンジにおりました。
成田の出発ロビーには鶴丸航空ラウンジが二つありますが、そのうち一つのみ、
ダイニングメニューを出しているということだったので、そちらに行ってみました。



お昼ご飯代わりにちょっと軽く食べられるものが充実しています。
インスタントとはいえ味噌汁、コンビニのではないおにぎり、焼きおにぎり茶漬けなんてのもありました。
小皿に二種類の副菜もあって、充実です。

ちなみに、このラウンジの上の階はファーストクラス専用ラウンジでした。
普通のラウンジと何が違うんだろう、と思って調べてみたら、そちらでは

寿司職人がご注文に応じて寿司を握ってくれる

ジョン・ロブの専門靴磨き職人(そんなのあるんだ)による靴磨きサービス

スカルプ、ボディ、足ツボの無料マッサージ

があるということです。
足ツボのマッサージしている間に靴を磨けるってことですねわかります。



ラウンジからは向かいに到着した鶴丸機の作業を、車椅子を押す係のブリーフィングに始まり、
全行程みっちりと見学することができました。
飛行機の荷物を降ろすところをわたしは初めて見たわけですが、
荷下ろし専用の小さなドアからベルトコンベアに向かって、荷物がバンバン投げおろされていました。
荷物をこんな扱いするのはアメリカ人だけだと思ったわたしが間違っていました。

写真のハッチからは人の姿は全く見えないのですが、荷物だけが飛んで出てきます。

「うわー、乱暴だねどうも」
「日本の航空会社なら丁寧に扱うと思ってたんだけどな」
「いや、短時間に100個単位の荷物を降ろすんだからこんなもんでしょう」

昔、息子の子供用チェロをどうやって預けたらいいか聞いたら、
普通に預けるしかないと言われたことがあるのですが、あれを真に受けていたら
あのときチェロはきっと五体満足で戻ってくることはなかったことを確信しました。



これから乗る飛行機・・・なんですが、この写真を後から見て、

「コクピットを拡大して撮っておけばよかった」

と思いました。その理由は後ほど。



今回ちょっと嬉しかったのは、いつもアイマスクや耳栓が入っているポーチが、
アメリカのカバンブランド、「TUMI」の製品であったことです。
伊達に名前だけつけているのではなく、ファスナーは堅牢、内側には小物ポケット付き。

「これいいね。持って帰ろうっと」

「ネクタイを入れて持ち運ぶのにちょうどいいねこれ」

「わたしはサングラス入れかな」

「コード類を入れるにもいいかも」

我が家の評判は上々です。

「これ帰りも貰えるんだよね」

「わたしなんか二往復するから4つ貰える予定」(´・ω・`)



機内の楽しみといえば、機内食。

前菜のテリーヌはフォアグラとウナギのようなものが入っていました。
パンは、いつも鶴丸はメゾンカイザー。
右の赤いパンはトマトブレッドでした。



去年同じ便の鶴丸便で洋食を和食に変えさせられ、1万回CAに謝られたわたしですが、
今回は無事魚がメインの洋食を注文することができました。
白身のお魚は・・・これなんだっけ。

鶴丸の痒いところに手が届きすぎて鬱陶しい恐縮してしまうほどのサービスには定評がありますが、
今回も映画を見ていてヘッドフォンをしている時に前にぐっと顔を寄せてきて
なにやら笑顔で囁くので、ヘッドフォンを外して、「は?」と聞き返すと・・。

「本日はどうもありがとうございました。またのご搭乗をこころより云々」

大変ご丁寧にありがとうございます(−_−;)



デザートはムース。

さて、成田~ボストン便のフライト時間は約12時間です。
長時間ですが、それだけ映画をたくさん見る余裕だけはあります。
というわけで、今回観たのが、まず

ジョーカーゲーム

日本映画でジャニ俳優が主演したものなど普段は観る気にもならないのですが、
タイトルで伊勢谷友介(これを変換するまで”いせたにともすけ”って読んでたorz)が
陸軍の軍装をしていたのでついそれにつられて()観てしまいました。

大東亜戦争時の「D機関」というスパイ組織が魔都上海でどうたらこうたら、
という「浪漫的」なものを狙った作品だと思うんですが、あらすじはともかく、
全体的に漂うこの、少女漫画的臭さはなんとかならんのか、と思ったら
原作はミステリー大賞受賞作で少女漫画家が作品にしていました。やっぱり。


D機関創設者の伊勢谷が「魔王」で、女スパイの深田恭子がメイドの格好で登場、
訓練生が「怪物」と呼ばれ・・。もう設定だけでお腹いっぱいです。

呆れたのが、亀梨(これももしかして”かめなし”?)がスパイとして採用される日、

「今上った階段は何段あった」

「24段です。何段めのどこそこに傷が」


地図をテーブルの上に広げて

「マニラは何処だ 」

「この地図にはありません」

「地図の下には何があった」

「コーヒーカップ三客、タバコはしんせい・・」

 

これって、市川雷蔵の「陸軍中野学校」の丸々パクリじゃないですか。
原作でパクってあったのか、映画でパクったかはわかりませんが、ここでがっくりときました。
深田恭子の絶望的なセリフまわしの稚拙さ(昭和初期にそのギャル喋りは何?みたいな)も、
この映画の評価を著しく落とした大きな要因です。
深田さん・・・・黙っている分にはビジュアル的にいいと思うんですけどね。

二つめが

ビッグアイズ

で、これはさすがのティムバートン、トレーラーを裏切る?面白さでした。
奥さんの作品を旦那が自分の作品だと言って有名になり、
ある日妻がそのことを世間に公表して裁判で実際に絵を描いて証明、
というまるで映画のような実話を映画化したものです。

それから、ちょっとおどろいたのは、



今国際線では画面で読書もできるんですね。
わたしは今回初めて知ったのですが、漫画も読めます。
「進撃の巨人」を読み始めたのですが、1巻終わらないうちに到着してしまいました。
まあ二往復する予定なので全部読めるでしょう。



ボストン到着~。
これで夜の7時くらいです。

ローガン空港では今年はイミグレのやり方が大幅に変わっていて、
日本人が申請する「ESTA」(また今年も空港で申請しましたorz)は、専用のラインがあり、
承認機でパスポートをセルフ承認させ、そこで写真を撮り、ブースを通過する仕組み。

ESTAは信頼されている日本国の国民が持つことができる、大いなる特権なのですが、
このESTA持ちであっても、グループのうち一人だけは、なぜか承認機から出てくる顔写真に
大きな×が付けられていて、(わたしだったorz)その人物はもう一度指紋検査と写真を撮影されるなど、
入国手続きは年々厳しくなっていっているように見えます。

それでも他のESTA承認国以外の入国者にかかる時間の5分の1位かもしれません。
日本国民でよかった、とイミグレーションを通るたびに思います。



到着したボストンは9時くらいに日の入りです。
明るいですが、フライトの後で疲れているので空港のホテルに一泊。



部屋からはジェットブルーなど、各社の駐機場が見えました。
バージンエア、JAL、ルフトハンザ、トルコ航空の飛行機が停まっていました。

次の日、ホテルを出て買い物(わたしがまたしてもメモリーカードを忘れたので)したり、
ご飯を食べて次のホテルにチェックイン。



例年息子のキャンプで泊まるホテルを予約したつもりが、ホテルズ.comで頼んだせいで、
近隣の同じ名前の違うホテルを予約してしまっていました。

全く、毎年毎年、無事に予約やなんかをすることができんのか。

最初のホテルで「名前がありません」と言われて、ホテルのPCで調べたところ
そこから15分離れた別のホテルに予約していたというわけ。

「ま、まあいいか。今まで一度泊まってみたいと思ってたから・・」

家族の冷たい目に言い訳するわたし。



いつものホテルより少し狭いですが、仕様は同じ。
まあ、ここには2泊しかしないので文句は何もありません。



ベッドも向こうより少し狭いかな。



夜は「ホールフーズ」(オーガニックスーパー)で買い物してきて、部屋で食べました。

30センチはありそうなツナの塊(10ドルくらいだった)に塩胡椒して、
野菜と一緒に炒め、出来あいの玄米を口に合うように調理しなおした簡単なもの。

「ナショジオチャンネル」の「Deadlist Catch 」(ベーリング海の一攫千金)
という番組で、漁に命をかける男たちのドキュメンタリーを見ながら食べたのですが(笑)
番組で知ったのは、一本釣りされたマグロは高く売れること、しかし高いと言っても
ワンシーズンに1匹しか捕獲できず、しかも一匹がせいぜい110万円であることです。

それでも危険を冒して一本釣りにこだわる、彼らの男気、そして汗と涙の結晶であるツナ。
こころして、ありがた~くいただきました
 

ところで、今回の鶴丸便機中、機長を紹介するアナウンスがあったとき、息子がそれを耳に止め、

「あ、このフライトの機長、もしかしたら同級生の女の子のお父さんかもしれない」

と言いました。
イノウエとかタケウチとかフジイといった、よくあるようなないような名前なので

「 鶴丸航空(仮名)にイノウエ(仮名)なんて機長たくさんいると思うけど・・」


といって話を終わったのですが、その後息子がSNSで着陸後に彼女にすぐ連絡を取り、
それが実際に彼女の父親であることを確認しました。

「へえ、Mちゃんのお父さんだったんだー」

お父さんとは学校の送り迎えや行事で何度もお会いしていましたが、
鶴丸のパイロットであることは最近息子から聞いたばかりです。
12時間の長いフライト、それを操縦していたのがが知っている人だったとはびっくり。
しかも、その同級生のMちゃんは、先日ディズニーシーで息子の寝癖から
人ごみの中の息子を見つけ声をかけてきたという偶然の出会いがあったばかり。


先日も旅行先の空港ラウンジでメールを受け取ったら、その人は実は壁の向こうにいたことがわかり、

「案外人って、こういった偶然に気づかないでいるだけで、実はしょっちゅう
なんらかの関係がある人や、過去あった人とすれ違っているのかもしれない」


と思ったということがありましたが、またもやその偶然に驚かされた次第です。

例えば、わたしが過去乗った飛行機の機長がハーロック三世さんだったり、
お仕事やお店でお世話になった方がこのブログを読んだことがあったり、
自衛隊のイベントなどですれ違っていたり(これはとくに確率高いかな)。

こんなことを想像するとなんだか楽しくなってきます。



またアメリカ滞在で見たものを折に触れご報告しますので、宜しくお付き合いください。
 





 

教育航空集団訪問記

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渡米前、ある会合でお会いした海自の教育航空集団司令である海将にお誘いを受けました。

「基地に見学に来られませんか。P-3Cの操縦席にもお乗せしますよ」

「本当ですかっ!」

よもやまさか、メールアドレスの一つが「p3coriona」であるというくらい
(aを付けたのは"p3corion"がもうすでに取られていたため女性形)
わたしがこの飛行機に思い入れていることにご存知のわけでもあるまいに、
なんたる猫に鰹節(ちょっと違う?)、そんな餌をぶら下げられたわたしは
脊髄反射で食いついてその場で行く約束をしたのでした。


そしてそれから3日以内に、午前中からお昼にかけての基地見学がセッティングされました。
さすが自衛隊、話が早い。
午前中の1時間半、たっぷり見学させていただいて、その後海将と一緒にお昼を食べて解散、
という、わたしにとってはまるで夢のようなコースです。 

そして当日。

P-3Cの教育を行うこの基地は、高速を降りた後、たとたん延々と続く慢性的な渋滞の道を
1時間くらいちんたら走らねばなりませんでした。
家から長時間運転しっぱなしでお尻が痛くなってきた頃、やっとのことで正門前に到着。



間違えて別の入り口から居住区らしいところに入っていくというアクシデントはあったものの、
たどり着いた時には海軍15分前。

海自関係のイベント、特にアポイントメントがあった際、時間には気を遣います。

しかし、わたしは、幹部学校の見学をさせていただいたとき、ナビが別の入り口を指示したため、
目黒川付近をうろうろしているうちに約束の時間に遅れるという痛恨のミスをしたことがあります。
あの時の心臓が縮むような気持ちは、未だに時々思い出すほどです。
関係者の皆様がた、その節は大変申し訳ありませんでした。m(_ _;)m



入り口でもらった車のダッシュボード上の駐車札を見ていただきたい。
フロントガラスに映った時間は「1025~1235」とありますね?

海将とのお約束は「1030」ということになっていました。
しかし、向こうは当然

「10時30分のアポイントメントには1025には到着するのが普通」

ということでこのような予定時間となっているわけです。
つまり、来客にも「海軍五分前」が求められているということなんですね。
(あああああの痛恨の遅刻が・・・)


ちなみに「水交会」と書いてありますが、これは見学者のタイトルにやはり
それらしいことを書かなければいけなかったので、たくさんあるわたしの肩書きから(笑)
海将とお会いした場所でもあるということで、水交会が選ばれたようです。



ここでかつて使われていた飛行機が展示されています。



メンターの次の中間練習機だったテキサン、SNJ型。
黄色い機体が緑のところどころに咲きそろった花の色とマッチしています。



フロントガラスに映っている「22」は、時速22キロで走っているということです。
この広い道路の向こう側に自衛官がすでにでてきているのがお分かりでしょうか。
訪問に際して、色々と手続きを取ってくれた教育航空集団の副官である1尉でした。

今回の訪問にあたっての書類に必要な情報をこのS1尉とやりとりしたのですが、
生年月日はわかるとしても、なぜか血液型を聞かれました。

「なんで血液型なんて必要なんだろう」

朝霞の陸自駐屯地のときも幹部学校も、そんなことは聞かれなかったのですが、
もしかしたらP-3Cのコクピットに上がったりするという予定上、
万が一何かあった時のため、ってことだったんでしょうか。
TOなど、

「血液型・・・・・まさか、P-3C実際に飛んだりとかしないよね?」

と怯えています。
もしそうならどんだけ嬉しいか(T_T)



念のためS1尉に「パスポートのコピーは要りますか」と聞くと、それはいらないとのこと。
いやそこは必要でしょう。パスポート。
操縦席に座らせたり管制塔に上げるのに、わたしたちが中国のスパイだったりしたらどうするんだ。



エントランスを入ったところにある写真。
ウィングマークの下が本日ご招待くださった海将。 
両脇が幕僚長と先任伍長である海曹長。

この写真配置はそのまま教育航空集団の組織図でもあります。
司令官の隷下には、「下総」「徳島」「小月」「 第211」の各航空群があります。
中段の4人はその教育航空群司令、その下の4人は教育航空群先任伍長となります。

司令は1佐、先任伍長はこれも海曹長となります。 



通されたビルの二階が当基地所在の教育航空群司令部であり、
それらを統括した教育航空集団の司令部はこの上の階にあります。

偉い人ほど上で生活しなければいけないのですが、自衛隊ですからエレベーターなどありません。
この後見学した管制塔には、さすがエレベーターはありましたが。



階段の途中に教育航空集団と各教育航空群の楯が飾ってありました。



下総はP-3C、小月はT-5、徳島はT-C90と、使用飛行機があしらわれていますが、
回転翼の操縦を行う第211教育隊は少し変わっていて、



鳥さんがローターを背負って飛んでます。
後ろで煙を吐いているのは桜島ですね。

さて、三階に上がると、基地司令である海将が迎えてくださいました。
海将は前任が江田島の術科学校の校長で、そのときに知り合っております。



ここが教育航空集団の応接室である。

ここにもあった、片眼のだるま。
自衛隊の基地には陸海問わずこのだるまさんがあるのですが、もしかしたら
このだるまの最も安定した販売先は選挙事務所以外では自衛隊ではないかと思ったり。

まずはここでWAVEさん二人が運んで来てくださったお茶をいただきながら、
海将からこの基地と、教育航空集団についての説明を受けます。

海自や陸自の基地駐屯地は、旧軍からの施設を米軍の駐留を挟んで
戦後もずっと使用しているというところが多いのですが、ここは昭和7年に
東洋一大きなゴルフコースが作られ、政財界のVIPが使用していました。

昭和20年に陸軍省が買いとって陸軍飛行場が作られましたがすぐに終戦。
戦後はGHQの接収を経て1959年に米軍が撤退してからは、自衛隊の教育航空隊があります。

「他の基地と違って新しいので本当にお見せするようなものは何もないんですが」

となぜか申し訳なさそうにおっしゃる海将。
いやそんなことありませんって。



テーブルに並べられた模型を見ながら説明を聞きました。
海上自衛隊で航空を選んだ自衛官が、最初に操縦する練習機がこのT-5。

パイロットの「最初の一歩」はT-5を擁する山口の小月航空教育群で始まります。

ここでは座学(講義)を中心とした基礎教育を経て、T-5を使用した飛行教育を行っています。
すべての操縦士、戦術航空士は、搭乗員生活の第一歩を小月で踏み出すというわけです。



小月での教育を終えた操縦士の卵たちは、ヒヨコとなって?この飛行機、
TC-90を備える徳島教育航空群で、計器飛行などの中等教育を行います。



そして次の段階で、操縦士志望の隊員は、固定翼と回転翼に分かれます。
そして、固定翼を選んだものはここ下総でP-3Cでの実用訓練を受け、
卒業してウィングマークを授与されたのち、P-3Cの運用部隊に配属されます。

「P-3Cの操縦士は全員ここを卒業しているんですよ」

海将ももちろん、P-3Cパイロットだった★元海幕長もここにおられたということなんですね。



徳島を出た後、回転翼を選択したものは、鹿屋にある第211教育航空隊に行って、
この小さなヘリコプター、OH-6DAを使って訓練を受けます。

「レモン」(形と昔黄色だったから)がコールサインのOH-6DAは、
TH-135に移行して行っているそうです。

今報道ヘリというとほとんどこのタイプのような気がしますが、海将によると
今日本ではOH-6DAが汎用されているということです。
それだけ操縦しやすいということなんでしょうね。

ただ、初めてヘリコプターを操縦する訓練生は、たいていこうなるようです。

かのやダンス



テーブルの一番端にあったこれはP-1。
P-3Cがアナログならこちらは最新鋭機なので、全てが自動です。
だからって簡単になるわけではないのですが、P-3Cで苦労した部分は
ずいぶん緩和されることもあるのだとか。

そらそーでしょう、P-3C、機体ができて57年経ってます。 
ただし、P-3Cは何度もアップデートを行っているので、当時のままではありませんけどね。

P-1はPー3Cに比べて幅5m、全長2.4m。全高1.8mも大きくなっている上、 
積載重量も約17トン、最大搭載人数も11人から13人に増やすことができます。

なんといっても巡航速度( 607 km/h→833 km/h)も、航続距離(6,600 km→8,000 km)
も格段の飛躍。

今後切り替わっていき、10年くらい後には完全にP-1だけになるということです。
そのときにはわたしはアドレスをP-1のニックネームにしてるかな?

ところでP-1、なぜニックネームがないのかしら。「ぴーわん」で呼びやすいからいいってか? 



海将のお話を伺いながら、きっちり部屋に飾られているものも写真に撮るのだった。
真ん中の絵皿はわたしの全く当てにならない艦選別眼からみて、旧軍艦だな。



一番上のロンドンオリンピックのときの出場選手の名が記載された絵皿をアップ。
なんと自衛隊体育学校からロンドンには12人も行っているんですね。
自衛隊はスポーツ選手養成機関という一面も持っているのです。




さて、ここでしばらく概要を説明していただいてからは、広報室長のご案内で
いよいと基地見学に出ることになりました。



ふおおおおおお~。

ま、またしても赤絨毯の先に自衛隊の車がドアを開けてくれる海士さん付きで待機!

実はこの日、わたしはどんな服装で出向けばいいのか大変悩みました。
基地内を見学、航空機のコクピットに座る、こういうイベントがあるからには、
航空祭や基地祭のように、スニーカーに動きやすい格好をするべきかと思い、
最初にパーカーとスェットパンツ、運動靴を履いてTOに見せたところ、

「いくらなんでもそれは動き易すぎるってかラフすぎるだろ。
向こうは制服なんだしもうちょっとちゃんとした格好すれば?」

とたしなめられてしまいました。
彼はその後仕事に直行なので、当然スーツです。

「パーカーはチャンネル(仮名)でパンツはJCだけどダメ?」

「そんなの余計ダメ。海将と食事するのに」

というわけで、迷った結果、パンツスーツにパンプスで来たわけですが、
このまるで政治家の訪問のような、下にも置かぬ自衛隊の気遣いのおかげで、
移動は全て車、広い航空基地を汗かきながら歩き回ることもなく、
結果としてきちんとした格好で来て良かったと心から思ったのであります。



気遣いといえば、エスコートしてくださった方は、皆さんが前もって

「これから外に出ますが、その前にお手洗いに行っておかれたらいかがですか」

などと、こちらが心配する前にこんなことまでお声がけしてくださって、(それも頻繁に)
まさに海上自衛隊とは気遣いの集団であると再認識させられた次第です。

お言葉に甘えてお手洗いに行くと、そこはそれこそ舐められるくらい(舐めませんが)
美しく磨き上げられた清潔さで、またもや感動。
そして、壁にはこのような張り紙が・・・。


わたしは防衛協会の懇親会の後、朝霞で基地の案内をしてくださった1佐と再会し、
防衛協会の理事長と一席を囲む機会があったのですが、そのとき人事のその方が、

「陸自の場合は20万人いますからね。
一人の人間が”何かしでかす”のが20年に1回だったとしても、それが20万人なら
毎日誰かが何かをしでかしている計算になるんです」

とおっしゃっていました。
中でも自衛隊員の自殺というのはもっとも大変な案件で、一旦何か起こったら
原因究明と問題点の洗い出し、さらには現場への心理的ケアまでが行われます。

「いじめとかではなく、周りがその本人に対してケアして応援している状態であったのに
それでも自殺してしまったという場合は、隊の雰囲気というか士気が低下するので、
そういう自殺が後一番大変です」

とも。
この張り紙にも見られるように、大勢の人間集団であるからには自衛隊には
一般社会で起こることも一定の割合で起こってくるのですが、一般社会においては
誰も行わない「ケア」「対策」といったことを、自衛隊では任務として行っているのです。



さて、話が逸れましたが、お手洗いにも行ったので(笑)、
いよいよ車に乗って外に出ることになりました。

そこにはオライオンがわたしを待っている・・・・・・!

続く。 

航空教育隊訪問記~P-3Cの操縦席に座った

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航空教育隊訪問記、続きです。
基地に到着し、海将に少し説明を受けた後、わたしたちは運転手付きの車
(運転してくれたのはWAVEさんだった)で滑走路に移動しました。

 

飛行基地って本当に広い。
滑走路とは関係のないところでもこんな広さです。
号令台のある緑の芝生は、大きく奥行きを見せて広がっております。

さすがは昔ゴルフ場があったというだけのことはあり、この芝も、
その当時からのものなのでしょう。

「ところどころに、ここはバンカーだったんだなというような場所があります」

と海将。
それにしても1920年代にゴルフをする人など、外国人でなければ社会の上層のごく一部、
政財界の大物かあるいは華族皇族といった人々だったと思われます。



車で移動しながらすべてのものをこの目に焼き付け、あわよくば写真も撮ろうと
注意を払っていたわたしの目に、グラウンドの一角が止まりました。
どうやら訓練生が何かグループで行うようです。
うーん、匍匐前進とかかな?

そのとき、裸眼視力2.0のわたしの目は、同時にその中に二人の女子隊員がいることを認めました。

「女性も一緒に訓練受けるんですか」

同乗していた案内の広報室長に聞くと、

「たいていの訓練は男女一緒に行いますね」

そのときわたしが思い当たったことがありました。

「陸自を描いた『ライジング・サン』という漫画があるじゃないですか。
あの中で、男性の自候生のチームに女性が二人入っていて、
わたしは漫画ならではの創作だと思っていたのですが、あれは『ある』んですね」

「今は普通にありますねー」

そうだったのか。
それじゃあの漫画みたいに、同じ訓練生に好意を持ったりとかいう話もありそうだなあ。 



車はエプロンに到着。
そして、車の窓からはP-3Cの姿が見えてきました。
車内でいきなり本気のシャッターを切り出すわたしに、案内の2尉は、

「写真なら近くで撮っていただけますから」

と言いました。
もしかしたらわたし、逸ってますか~?

しかしこの写真でご注目いただきたいのは機体の右下。
もうすでに二人の隊員がわたしたちの到着のために待機しています。

一人はおそらく内部の解説をしてくれる教官であろうと思われますが、もう一人は?



車から降りて(あまり近くに車は留めない模様)歩いて行くとき、
向こうに駐機しているP-3Cから、訓練が終わったらしく人が降りてきているのが目に入りました。



「赤い帽子をかぶっているのが練習生です」

という説明を受けて改めて見ると、皆お揃いの赤いキャップに青のイヤフォンをつけています。
ここにはいないようですが、女性の練習生もいるのでしょうか。

「いますよ。今は固定翼、回転翼関係なく女性の操縦はいます」

そういえば、この少し前に陸自の1佐と一緒に一席を囲んだ防衛協会の
理事長という方は、はじめてCH-47チヌークに乗ったときのことを、

「チヌークって、後ろ閉めないんですよ。
開きっぱなしのまま、うるさいからといってイヤフォンを渡されるんですが、
こわいなあと思いながら飛行が終わって、操縦席を見たら座っていたのが
女性だったんで・・・ええ・・・」

と言葉を濁したのですが、どうもこの後は「余計怖くなった」と言いたかったらしい。

失礼ですよね? 

男の人は、「女だから運転下手」なんてよく言います。
確かに女性には気の利かない空気読めない運転をする人が多いのは確かですが、
少なくとも自衛隊に入って操縦者になりたいと希望する女子に、そんな
ドンくさい人はいないと考えてもいいんじゃないですかね。

男性の志望者だって、志望しても全員がなれるわけではなく、毎回

「(脱落することを考えて)少し多めに採用します」

とのことです。
やはり適性というのは気力とやる気だけでは如何ともしがたいものなのですね。 



ブルーのキャップをつけて階段を上っていくのが教官でしょうか。
向こうではすでに整備隊が作業を行っています。
遠目でも作業しているのは年配の隊員に見えます。

ちなみに、実用課程といわれるここで訓練を受けるのは23週間。
例えば防衛大学校を出て操縦し課程に進んだ場合、ここでウィングマークを取るのは
だいたい遠洋航海から帰ってきて2年目の2等海尉になってから程なくということになります。

高校卒業後、航空学生として進めば、入隊してから4年目に1等海曹になりますが、
だいたいその頃、実用機課程を卒業するということになります。

年齢でいうと、防大卒がだいたい26歳、航空学生が23~4歳といったところでしょうか。
航空学生の場合は、その後江田島の幹部候補生学校に行き、1ヶ月の遠洋練習航海も行います。

操縦資格を取って実地部隊に入っているのになぜ今更遠洋航海?と思うわけですが、
このあたりも海自ならではの理由があるに違いありません。



左のほうにも一機駐機していました。
この基地で運用されているP-3Cは10機だということですが、このときも
3機くらい上がっている、という話でした。



さあ、それではいよいよ、P-3Cの中に入っていきます。



出てきました。

いや、わたしも内部の写真が撮れるとは思っていませんでしたがね。
わたしが気を遣って最初に「写真はどこまでとってもよろしいんですか」と聞くと、

「飛行機の内部に入るときにはカメラをお預かりします」

ということでした。
うーん、やっぱり厳しい。
今のカメラは撮っていないふりをしてずっと動画が撮れたりするから、
そういう不埒な行為を未然に防ぐためにもカメラは取り上げてしまうに限ると。

やはり実用機なので、アビオニクスとか、情報に関する部分は部外秘なんですね。

わたしは実はこのとき、ニコンを預かってもらったのですが、小さなカメラバッグには
先ほどまで室内を取っていたSONYのデジカメが入っていたのでした。
まあ、バッグを開ける気もさらにデジカメを出す気もないので黙っていましたが、
考えたら、今の人たちはだれでも携帯を持っていて写真を撮れるので、
あえて「預かる」のは、手持ちのカメラ、という規定があるのかと思われました。


というわけで、内部の写真はありませんが、中に入ったことのないほとんどの方のために、
色々と思い出してみますと、まず中はとりあえず広いです。

昔はまっすぐ立って歩けなかった長距離用飛行機もあったという話ですが、
どんな背の高い人でも天井に頭をぶつけることもなく歩けて、食事のスペースさえありました。
入って右手にはちょっとした調理スペースがあって、お湯を沸かしたり、食べ物を収納したりできます。

気になるトイレですが(え?気にならない?)、旅客機のと全く同じような大きさのものがあり、
中を覗くとなぜか「用途」が「大」に限定されていました。
よくわかりませんが、訓練飛行中にそんな用途で使用する豪快な練習生っているんですかね。
それと、「大」しかダメなら「小」はどうせよと。


P-3Cは11人で運用します。
内訳は操縦士2名、戦術航空士1名、武器員などの航空士8名というのがその内訳で、
戦術航空士はパイロット二人の後ろに席があります。

ところで、今回実際に乗り込む前に知っておけばよかったと思った雑学が一つ。
なおそらく日本の運用しているP-3Cだけだと思うのですが、機内にはどこかに

「鉛筆削り」

があるという話です。
確かに上空では鉛筆が一番確実に使える筆記具だと思うのですが、
なぜ鉛筆削りが「標準装備」なのか。
よっぽど上空で鉛筆が折れて困った隊員からの要望が多かったとか?

それがどこにあるのか、今となっては知るべくもなく、この話を読んだとき

「ああ、乗る前に知っていればどこに鉛筆削りが備えてあるのか教えてもらえたのに」

と歯噛みをしてってほどではありませんが、何しろ残念に思いました。
どなたがご存知ありませんかね?

っていうか、今度元海幕長にお会いしたら聞いてみようかなっと。

ところで、機内に乗り込み、コックピットのとこらまで説明を聞きながら行くと、
コーパイの席にすでに誰かが座っています。
誰?

実は彼は当基地の写真隊隊員でした。
カメラの持ち込めない機内ですが、せっかく見学に来てくださった方の
記念にとわざわざ自衛隊は写真を撮るためのカメラマンを動員してくれたのです。

いやもうこれは、感激しましたですよ。
しかも彼はわたしたちが車でそちらに向かう頃からエプロンに待機していて、
先に乗り込んで陽射しの照りつける暑い暑い操縦席で待っていてくれたのですから。



で、何枚か撮ってもらったうちの一ポーズ、わたしは今までの生涯でおそらく
最初で最後のVサインをしました。
日頃ディズニーリゾートなどで、カメラを向けると脊髄反射でVサインをしている女子を
生暖かい目で見てしまうこのわたしが、です。

「ママにしては珍しいね、Vサインしてる」

息子がこの写真を見せるとこう言ったのですが、わたしの中では無理もないことだったのです。
初めてのP-3Cでいきなり操縦席に座って記念写真ですよ。
おまけにここに来るまで海自の車でまるで防衛大臣のような下にも置かぬ扱い、
これが「勝利」でなくて何でしょうか。

続く。

航空教育隊訪問記~「世界一いやらしいP-3C部隊」

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関東某所にある航空教育隊に司令のご招待を受けて見学に行ってきた話、続きです。

Previously Nei-koi (ネイ恋・前回までのあらすじ)

人生で最初のP-3C内部見学に加え、操縦席に座って操縦桿を握り写真を撮ってもらうという、
この上ない名誉な瞬間を味わい、思わず人生で最初のVサイン写真を撮ったエリス中尉であった。

←証拠写真

P-3Cにいつまでも乗っていたいのは山々でしたが、案内してくださる自衛隊にも
時間の都合というか予定がございます。
後ろ髪を引かれる思いで機体から降り、次の場所に向かいます。



「今3機くらい上がっている」と現場の方はおっしゃっていましたが、
エプロンに出ているのが見る限り3機、1機はこの格納庫でお尻だけ出しています。

このP-3Cの尻尾の部分ですが、マッドブームというもので、鉄の塊である潜水艦が
航行することで生じる磁場の乱れをつかむ磁気探知機(MAD)です。


ところでハンガーの両脇に大きな字で「火気厳禁」と書いてありますね。
海将と後ほどお話をした時に、特に強調されていたのですが、
P-3Cを練習機として運用するこの基地にとって火災の発生が「一番怖いこと」となっています。
(伏線)



わたしたち二人の見学者のために、わざわざ倉庫から一般公開用の看板を出してくれる海上自衛隊。
横を通り過ぎようとする案内の広報室長に、

「あ、説明が・・・」
「あー、あれはたいしたものじゃないんですが」

いや、見せようよ。そのために出してあるんだから。
近づいて抜かりなく写真を撮ってきました。

P-3Cというのは知らない方のためにいうと、対潜哨戒機です。



機内を見学したときに一番興味があったのは、ソノブイを投下する部分はどうなっているかでした。
昔、P-3Cの下部にソノブイ落下用の穴が無数に空いているのがトライポフォビアのわたしには
甚だ苦手、というようなしょうもない話で盛り上がったことがありましたが、
ソノブイ落下の操作は、ちょうどその真上にあたる部分で行われていることを知りました。
つまり下から入れて上で落とす。シンプルなものだったんですね。

飛行機であるP-3Cがどうやって潜水艦を見つけられるのかというと、前述の

MAD
敵が発する電波を手がかりに位置を特定する電波探知装置(ESM)
捜索用レーダー
熱源を探知する赤外線暗視装置


そしてこのソノブイです。


ソノブイ=音響ブイという意味のこの筒のようなものを海中に落とし、音響で潜水艦の位置を知り、
場合によっては対艦ミサイルで攻撃ィ~!となるわけですが、この索敵と攻撃において、
日本のP-3C部隊は

「世界一嫌らしい部隊」

といわれるくらい優れているのだそうです。

P-3C部隊の訓練は、これも海将から伺ったのですが、前もって潜水艦隊と打ち合わせて、
何月何日の何時頃、どの海面付近で、と大雑把に決めておき、
当日そこをうろうろしている潜水艦をP-3Cが索敵するという形で行われます。
優秀な海上自衛隊の潜水艦部隊からも、我がP-3C部隊は

「アメリカ海軍と比べても、逃げるのが難しい」

と評価されるものだというから頼もしいですね。

同じ機材を使っていても、「嫌らしい部隊」になれるかどうか、というのは、
ひとえに隊員の練度にかかってくるわけですが、
アップデートされた最新のハイテク機器を搭載しているにもかかわらず、
潜水艦の索敵というのは 「最後は人間の目がものを言う」ものだと言われています。


P-3C部隊は2人の操縦士、警戒・監視に必要な情報を集約して指示を出す戦術航空士(TACCO)、
音響やレーダーなど、情報を分析する対潜員らで構成されます。
チーム11人の共同作業で敵潜水艦を捜索し、追い詰め、場合によってはこれを攻撃するのですが、
こういった、レーダーや音響のデータを分析して敵潜水艦を見分ける技術は、
徒弟制度で人から人へ伝えられる「マニュアルには書けない部分」が大きく、
こういう職人芸的な分野は日本人が得意とするところだからという説もあります。

「一度発見した潜水艦を見逃すなんてことがあれば恥ずかしくて基地に帰れない」


というくらい、一般的にP-3C部隊の技量は高いレベルを維持しているようですが、
ここで気になったことが・・・・・。

今、日本の、尖閣の近海には海底の深度を探査する船が出没しているそうです。
これはおそらく、尖閣付近に潜水艦を航行させようとしているためと言われていますが、
現在、 東シナ海南部をカバーする第5航空群(那覇航空基地)には
全国各地のP-3C部隊がローテーションで応援に駆け付けているそうです。

報道には出てきませんが、 実際に彼らはそこで中国の潜水艦と遭遇しているのでしょうか。

対潜哨戒機ですが、P-3Cの任務には捜索と救難も含まれます。
この絵は、ゴムボートに乗っている人が「help」「help」と小文字で囁いているのに
ちょっとウケたので、ついアップにしてしまいました。

2014年の3月、千葉県野島崎沖で中国船籍漁船が火災を起こしました。
まず海上保安庁が出動して現場を確認し、甲板に人が取り残されていたため、
海上自衛隊航空集団司令官に対して災害派遣要請がなされ、厚木基地第4航空群のP-3Cと、
岩国基地第31航空群のUS-2が出動しています。

このときP-3Cは付近で捜索を行い、US-2を南鳥島に進出させて救助を試みましたが、
海象不良により救出活動ができませんでした。
中国漁船の船員17人は同じ中国の漁船に全員救助されたものとみられるということですが、
中国政府がそれに対して謝意を表明したかというと 、もちろんNOです。

あの辛坊治郎氏の救出の時もまず海保の巡視船と哨戒機、
そしてP-3Cが出て、US-2が実際の救出に当たりました。
辛坊氏を助け上げたUS-2の乗員が密かに?表彰されたという話ですが、あの二人のために
海保と海自の連携でおそらく中国漁船のときと同じくらいの航空機、
船が出されているので、どうせするなら全員に表彰を、とわたしは思ったものです。
 



話が逸れました。

エプロンの一番端には、一機、消防車を横に待機させている風のP-3Cが。

「あれは、もう退役した機体なんですよ。
訓練生の整備やなんかのために”何をしてもいい”機体としておいてあるんです」


無茶苦茶やって壊してしまってもいいってことですね。
自衛隊では除籍した飛行機などはリサイクルとでもいうのか、廃物ならではの訓練、
例えば救助部隊が壁を切断したりする訓練に利用するらしいです。



これはTC-90であると先ほど司令室で伺ったばかりのような・・・。
この機体での訓練は第二段階の徳島で行われるのですが、これは色が違うので、
計器飛行の訓練のためにもしかしたらここにあるのかもしれません。

TC-90はP-3Cの前課程の使用機ということになりますが、徳島からここに来た時に、
こちらでも訓練を行ったりするのかな?



何かのプロペラ越しに(あれ?これ何だったっけ)ヘリが飛んでいるのが見えました。
これも司令室に飾ってあった模型にあった、TH-135ですね。
前回も書きましたが、報道用、ドクターヘリとして大変広い範囲で利用されているこのTH-135、
原型は ユーロコプター EC 135(Eurocopter EC 135)といい、ユーロコプター
(現エアバス・ヘリコプターズ)社が生産する双発の汎用ヘリコプターです。

リンク先を見ていただければ分かりますが、汎用ヘリコプターという分類は
そのものが軍用ヘリコプターの分類の一つです。

計器飛行に対応しているので、海上自衛隊ではこれを第二段階の練習機として
計器飛行(有視界飛行が不可能な時に計器のみで航空機の姿勢、高度、位置および針路の測定を行う)
の訓練を行っています。 



このヘリを見て、案内の2尉が、

「消防局のヘリコプターが訓練をやっています」

と言っていたような覚えがあります。



夏場はだいたいこの地域は「ガスって」遠景が見えませんが、
寒い頃は富士山まで見えることがあるそうです。
今日はこの通り、スカイツリーもうっすらとその形がわかる程度にしか見えません。



さて、先ほど伏線として

「P-3Cは特に火災に注意しなければいけない」

と司令が言ったという話をしましたが、わたしたちがこのあと連れて行っていただいたのは、
エプロンの端にある、「運航隊」でした。

運航隊という(わたしにとって)聞きなれない言葉ですが、何をするところだと思います?

航空管制、気象、地上救難、写真

以上が運航隊の任務となり、さきほどP-3Cで写真を撮ってくれた隊員さんは
この運航隊の写真班の隊員ということになります。

われわれがこのあと見学したのは、
地上救難班。

地上救難班の任務は文字通り、基地で起こりうる災害の際の救難活動です。
特に火災、と強調したのは、救難班の最も重要な任務が火災発生時の出動だからで、
これはどういうことかというと、当基地で運用されている

消防車の操縦席に乗せてもらう

というこの日のメインイベントがわたしたちのために予定されていたのでした。
消防車の運転席?
もしかしたら水をホースでぶわーっと撒いたりさせてもらえる?


続く。



 


航空教育隊訪問記~自衛隊で放水作業に従事するの巻

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さて、首都圏のある地方に実在するここ航空教育群隷下の航空教育隊。
P-3Cで訓練を行う教育隊を抱えるこの基地で、ついにP-3Cのコクピットに座ったあと、
わたしたちはまたしても隊員の運転してくれる車で、歩いても3分くらいの距離を移動し、
次の見学場所に向かいました。

それが、前回も予告したように、運航隊の地上救難班が運用する「基地内消防署」です。
おそらく正式には何かもうちょっとちゃんとした名称があるのだと思われますが、
そこまでわからなかったので一応わかりやすくこう言っておきます。



車から降りて歩いて行くと、遠目に見てもシャキッと姿勢の良い3名が、
こちらを向いて直立不動の姿勢で待機しているではありませんか。
いったいどこでどうオペレーションを行っていたのかは最後まで謎のままでしたが、
もしかしたら移動何分、見学は何分で切り上げて、ここの到着するのは1130ごろ、
みたいな予定がきっちり立てられていて、わたしたちは知らずにその予定に添って行動していたのか?

何より、誰か基地を表敬訪問することになったときの行程表が、どうやら昨日今日決まったのではなく、
おそらく基地開設以来自衛隊の内規みたいなのできっちりと定められていたらしいことが、
この、どこにいってもちゃんと担当隊員が待機しているのを見て確信した次第です。


しかし、直立不動の3人に見つめられながら結構な距離を歩いて行くのはなんだか照れくさかったなあ。




わたしたちが20メートルの距離に近づいた時、一番左の色の違う制服の隊員が掛け声をかけ、
「敬礼!」

∠(`・ω・´)ビシッ! ∠(`・ω・´)ビシッ!  ∠(`・ω・´)ビシッ!

と敬礼でお迎えしてくれました。
ふおおおお~。かっこいい。

嗚呼しかし、これは写真に撮らねば!とカメラを構えた途端終わってしまったので、


「あの、スミマセン、もう一回敬礼していただけませんか」


と無理やりもう一度ポーズをさせてしまった、空気読めないわたしです。
せっかくびし!と決めたのに、こんなこと言われたら士気も下がりますよね。
すみませんでした反省してます。

ところで、この3人、松本龍三日大臣のいうところの「長幼の序」通り(笑)
左から階級順に並んでいるわけですが、青い制服の二人が左が2曹、右3曹。
一番左の方の階級は「准士官」、つまり旧軍の特務士官だと思われます。

この紺色の作業服が他であまり見たことがないのは、これがどうやら

次世代型難燃防災服上衣 8,762円(税込9,462円)
次世代型難燃防災服ズボン8,762円(税込9,462円)

という(値段が書いてあるのは販売サイトを見つけたから)、消防隊の特別衣服であるからと思われます。

ちなみにこのサイトは

消防人のための服装アイテム専門店 消防ユニフォーム 火の用心

というものでした。




彼らに近づきながら抜かりなくずらりと並んだ消防車の写真も撮るのだった。



ふとフィールドを眺めやると、遠くに訓練中らしき隊員たちと消防車、給水車が止まっています。
右側に見えているのは模擬火災を起こす消火練習用のダミーですが、今日の訓練は終了したのでしょうか。



アップにしてみる。
作業着の上にたすき掛けの白いパンツを着用しているのが練習生でしょうか。
上記サイト「消防人のための(中略)火の用心」では見つからなかったのですが、
これも難燃性の防火仕様がされている衣装なのかもしれません。

ところで、消防車に書いてある「第三術科学校」という文字。
この基地には、航空機の整備、基地運用、施設工事に関する技術を学ぶ「第三術科学校」もあります。
この練習生たちは術科学校生で現在「運用」の「基地救難」を勉強しているんですね。




そして、第3術科学校で学んだ後、運航部隊基地救難班に配属された場合、
同じこの基地に勤務するという人もいるわけです。

イベント用のパネルをここでも出してくれていました。
近隣消防との合同訓練も行っているんですね。
万が一天災などで大規模火災が起こったとき、消防と連絡をとって対処するためです。

真ん中の「夜間救難消火訓練」では、夜間に特化して訓練を行っている様子。
昼と夜では色々と違うこともあるのでしょう。
素人考えでは、夜の火事の方が恐ろしいような気がします。

そして除籍機を使って、機体を切り刻んでの訓練。

「これはいつもできるというわけではないんでしょうね」

「はい、除籍した飛行機が手に入った時だけですから、何年に一回かですね」

「そんなでしたら隊員はさぞ盛り上がりそうですね」

「そうですね(笑)」

もしかして無茶苦茶やっていいのでひゃっはー状態?
いや、「士気が上がる」とでも言っておきますか。



ちなみにこの消火作業訓練用の建屋ですが、



後で登った管制塔の途中階からみたこの部分。
下からバーナーかなんかで火が出せる仕組みにでもなっているのかもしれません。




説明は2曹くんがしてくれました。
こういう「広報活動」も自衛隊にとって重要な任務の一つですから、
外部の人に自分の任務と運用についてわかりやすく説明するというのも、
修行の一環として一番若い人にやらせるという方針なのかと思われました。

わたしたちに見せてくれるために、2台の消防車が駐車してあって、
小さい方がこの

救難機材運搬車。

直接放水する機能はありませんが、ホースや必要な用具の数々を搭載して、
消防車と共に行動します。
搭載しているのは、

高所救助機材

空気呼吸器

レスキューツール カッター、スプレッター

スペースジャッキ

などの他、12名の人員も輸送します。これは大事ですね。



そしてこちらがいわゆる放水車。

救難消防車 IB型

というのが正式名称です。
なんかその辺の消防車よりスタイルがモダンなような・・・・。

「なんだかデザインとかオシャレな気がするんですが・・」

「デザインはイタリア製でエンジンはドイツ製です」

それははっきり言って最強の組み合わせ?
それを日本の自衛隊が運用しているんだからこれはもう怖いものなしだ(何が)。



そして巷の消防車には決して付いていないのが、おなじみ桜に錨のマーク。
しかし、海上自衛隊の所属であることが嫌でもわかるという位置にありますね。



放水ノズルは二つ装備しています。
メインのノズルがこれ。



もう一つがこんなところに。
そしてここにもでかでかと存在を主張する桜に錨。



車体の脇にあるホース収納場所を見せてもらいました。
車から放水するだけなく、人力でホースを現場に持っていくということももちろんするようです。
下の方には拡声器も用意されていますね。



この車体が運用され始めてまだ間もないそうですが、それでも掃除が行き届いているのか
昨日買ってきたようにどこもかしこもピカピカに磨き上げられ、整理されていました。
「粉末ホースリール」という文字がありますが、



このタンク、化学物質対応の(つまり消火器の中身)粉末が貯蔵されています。

ここまで説明を受けた時に、

「乗って見られませんか」

と願っても無いご提案をいただきました。
乗る乗る、乗りますとも。



消防車の運転席に座ったのはもちろんのこと生まれて初めての経験です。
運転席は正確には2曹の座っている席ですが。
内部からフロントガラス越しに見える放水ノズルを見ながら説明を受けます。

「最大射程(ターレット)は87mとなっていますので、だいたいここから撃てば
あの辺まで水をかけることができます」

「撃ってみた~い」

わたしが何気なく発した一言。
その瞬間2曹くんは待ってましたとばかりに

「撃ってみたい、ですか。(厳かに)それでは実際に撃ってみましょう」

(大変いいノリの隊員さんでした。素晴らしい)

しかしわれわれにとっては思ってもなかったプレゼント。
ええ~ほんとですか~やった~など、いい大人がはしゃぐはしゃぐ。



わたしの席の右側に、大きな丸いレバーがありました。
赤いボタンが見えていますが、レバーで向きを操作、赤いポッチで放水です。



まず、作動の際、前面パネルを操作して準備を行ってから。



まだ保護シールが剥がしていないモニターには、今水がどこまで来ているか?
みたいなことが図で示されます。
準備完了ですかね?



「はい、動かしてみてください。それでは、押してください」



WOOOOSH!

デタ━━━━m9( ゚д゚)っ━━━━ッ!!




散々あちこちに飛ばしてみましたが、車より後ろにはかからない模様(そらそうだ)

「それでは、今度は下のノズルから水を出してみましょう」




さっきの大きな丸いレバーの後ろに小さめのレバーがありました。



デタ━━━゚(∀)゚━━━!!

心なしかこちらの方が放水が広がっているような、と思ったら、



これも調整できるのでした。



わたしが散々遊んだ後、こんどはTOに席を交代することに。

「あ、ちょっと待ってください、外から写真撮りたいので」

座席から降りて、TOの放水作業を妻として見守ることに。
水を出す前に、必ず隣の2曹くんがアナウンスで報告をするのですが、
外では上司がこうやってOKマークを出していたことが判明しました。



上から出してる出してる。



下からも出してる出してる。
この日は暑かったのですっかり打ち水気分です。

「おかげさまでちょっと涼しくなった気がしますね」

と隊員さん。
というわけで、すっかり地上救難班への理解を深めた基地見学です。
消防車から水を出すのは理屈抜きに爽快でした。



ところで当基地では、サマーフェスタが近々予定されているはずですが、
そこではこの消防車の試乗も過去行われていたようですので、これに行けば
わたしがやらせてもらった放水ももしかしたらできるかも?

興味のある方はぜひサマーフェスタに足を運んでみてください。(お礼代わりに広報活動)




続く。


ボストン美術館~カフェのブランチと「自己満足系アート」

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例年ボストンにはわたしと息子だけでくるのですが、今年は初めて
TOが夏休みを前倒しして一緒に飛行機に乗ってきました。
これは息子が参加するサマースクールが初めての場所となるからなのですが、
着いて3日間はフリーだったので、ボストン美術館に家族で行きました。



入場料は大人25ドルですが、17歳以下は無料です。
25ドルというのは物価の安いアメリカでは高めの値段設定ですが、
一度来館すれば何日か以内であれば同じチケットで二度入場できるシステム。

定期的に4時半の閉館時間が週末の夜9時までに延長され、しかもその日は
あらゆる入館者が無料だったり、一般市民の呼び込みにいろんな努力をしています。

さて、今回の訪問は、到着してから息子の学校が始まるまでの3日間、
家族で予定がフリーとなっていたところ、TOの

「去年夕食を食べた美術館のレストランでまたご飯を食べたい」

という強い希望により実現しました。
家族三人で行動できるのはこのときだけなので、ボストン美術館には乳児の時以来行ったことのない息子に
ここの膨大なコレクションを観せてやりたかったというのもあります。

世界地理や歴史が得意科目で、学校で習った歴史的薀蓄を教えたがる息子には
ちょうどいい時期であったとも言えましょう。

余談ですが、最近聞いた息子の薀蓄で「知らなかった!」と感心したのが

「グレートブリテンって、大英帝国とか訳されてるけど、偉大とかいう意味じゃなくて、
ブリテン島の大きい方(スモールブリテンもあるらしい)だから、フランス人がそう呼んだだけ」

ということでした。
自分の国をグレイトなんて公称してしまう国っていったい、
と大英帝国のことを思っておりましたが、ちょっとした誤解だったということになります。
(ところで戦後になって自分の国に「大」とかつけてしまうお隣の国っていったい・・) 

余談はさておき、昔ルーブル美術館とオルセー美術館で

「もう”絵が”(子供は一文字の言葉を覚える時”火”=”ひが”、”血”=”ちが”ということがある)
のあるところいや~~」

とごねた1歳半の息子も、今や世界地理に関しては「負うた親」に蘊蓄を講義する立場。
素直に美術館行きを承諾し、

「オレ、アフリカ美術とか観たいな」

というくらいの成長ぶりです(T_T)



というわけで、いつ行ってもどこに何があるか把握できないボストン美術館。
こういうのはローマ文化でしたっけ?
今回は階段を上って二階から見学を始めたので、さらにわけがわかりません。



これはヘレニズム文化、ギリシャ彫刻というものですよね。
しかし、この時代、絵画のリアリズム手法が発明されていなかったため、
人々が彫刻にそれを求めたということが、この作品などを見てもよくわかります。

この時代の芸術が後世に遺されたのも素材のおかげです。



人物像が多いこの時代のもので珍しく鶏の彫刻。



髭を生やしていたことまでリアルに表現されている「似顔像」。



歩いて行ったら、絵画修復室が公開されているコーナーがありました。
さすがはアメリカ。
この日は日曜だったので、作業をしている人はおりませんが、巨大な宗教画が
修復作業中のものとして展示してありました。



磔刑にされたキリストを降架しているの図。
それにしても大きい。
上部に四角い穴が2箇所空いていますが、この部分を今制作しているということでしょうか。

天井から降りてきている掃除機のホースのようなものは部屋の2箇所にあり、
作業中の作品を乾かすか、あるいは埃がつかないようにするものかと思われます。



階段の踊り場ホールにはフルコンサートピアノがありました。
当美術館は篤志家が何億も出仕するような欧米の文化に支えられているので、
このピアノ(おそらくスタインウェイ)もそういった寄付で賄われたものかもしれません。



中世の宗教美術コーナーにあった普通のおばちゃんらしき人の胸像。
目鼻のバランスが悪いので、もしかしたらこのおばちゃんの知り合いが作ったとか、
何しろプロの手によるものではないことは確か(だと思う)



こちらの中国美術のコーナーにあった立像も、正面からはともかく
横から見るとバランス悪くてこの通り。
まあこれも表現の範囲かもしれませんが。

展示作品が多いボストン美術館には、突っ込みどころ満載の
「世が世なら駄作?」と疑ってしまうものも時たまあります。



去年も写真をアップした現代アートのセクションにある「雲と飛ぶ人」。
この吹き抜けには全部で5人くらい飛んでいます。



そこに本日ブランチの予約を取ったレストランがあります。
裏口から、ピアノとベースのデュオが準備しているのが見えました。
生演奏付きとはついています。

パフォーマーはジャズピアニストで、「マイ・シェリー・アムール」などの
S・ワンダーのナンバーもやっていましたが、本業はバッパーらしく、
「ハニーサックルローズ」「ワン・フォー・マイ・ベイビー」などを演奏していました。

アメリカに来て「ジャズの発祥の地だなあ」といつも思うのは、こういうレストランでも、
たとえショッピングモールやノードストロームのフロアでも、

下手な人は見たことがない

という事実です。
日本では場の華やぎに女の子を投入するようなところでも、アメリカではまずそれはありません。
下手な人はプロになれないというだけなのですが、日本ではそうでもないので(笑)



レストランの窓からは向かいの現代アートの壁画が鑑賞できます。
この日は日曜のブランチでしたが、店内は閑散としていました。



付け合わせのブレッドにコーンブレッド(甘みのないパウンドケーキのようなパン)
がついているのがいかにもアメリカ。



メニューは「2course」「3course」とあり、前菜、メイン、デザートから2つか3つ選びます。
わたしは前菜とメインの2courseで、グリーンカレー風スープを前菜に頼みました。



TOが頼んだサラダ。



わたしのメインはサーモンです。
全員でお皿を回しましたが食べきれませんでしたorz



息子のエッグベネディクト。
一人分なのに二つついてくるあたりがアメリカです。

「これ一人で全部食べちゃうアメリカ人って・・・」

「だから太るんだよ」



TOの頼んだステーキ。
アメリカで肉を選ぶことなど滅多にありませんが、頼んでみたそうです。
彼らが日本の肉を食べて

「今まで我々の食べていたのはゴム草履であった」

と驚くのがよく分かる味気なさでした(笑)
調理そのものは悪くなかったんですがね。



デザートはラズベリーアイス。
一人分に3スクープって・・・。



TOの頼んだチョコレートケーキ。
何も申しますまい。

というわけで、アメリカにしては美味しいけど、日本からきたばかりの日本人には
色々とこれも突っ込みどころの多いブランチでした。



すっかり満足して、鑑賞の続きを向かいの現代アートから始めました。
小さな洗面所で身なりを整える人。
配管までむやみにちゃんと再現されているリアリズム。



裸婦のブロンズ像が壁に張り付いておりました。
下で写真を撮る人も含めて「アート」ってことで。

それにしても、これは何を表現したかったのか。



お盆の上に生首が三つ載っているの図。
と思ったら左の生首には足がついています。



無印良品に「人間をダメにする椅子」という製品がありますが、それと同じです。
あちらは椅子ですが、こちらは芸術作品で、かつ「座ってもい椅子」。
どうも作者は、座っている人も込みで作品だといいはっているようです。 

作品紹介に「座ってください」と書いてありましたが、それを作品といってしまいますか。
これ、単なるクッションというものなんじゃ・・・。



こういった抽象アートの「イタさ」について去年友人の絵本作家が一言で 

「 自己満足だよね」

とバッサリ斬ってくれたので安心したという話をしましたが、去年、

「自分とそっくりの人形を吊るし、棒でたたいて破壊し、中から
血(のつもりの赤い粉)や内臓(のつもりの造りもの)などが出てくる」

パフォーマンス系アートなど、その典型といったところ。
今回はその同じスペースで、画像のようなビデオが放映されていました。
女の人の顔に糸をきつくぐるぐる巻きにしていき、それを外して彼女の顔に
ほら、糸の跡がついてますよ、という芸術です。

・・・自己満足だよね。


続く。
 


 



 

ニューヘイブンの大学キャンパスに息子を見送る

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さて、わたしが毎年夏になるとアメリカに滞在しているのは
息子がこの期間米国民に混じってサマースクールに参加するからで、
例年この期間、わたしはいつものキッチン付きホテルでまったりと過ごし、
エントリ制作をしたり買い物をしたり、美術館巡りをする充電期間にしているのですが、
今年は少し状況が変わりました。

というのも、息子が全寮制のサマースクールに初めて参加することになったため、
とりあえず彼の面倒を見るという大義名分がなくなってしまったのです。
しかも今年はいつも行っている勝手知ったる地域ではなく、
ボストンをずっとニューヨークよりに行ったところにあるニューヘイブンという場所。

初めての場所で1ヶ月一人でホテル暮らしというのも如何なものか、と思っていたところ、
ちょうどというかたまたまというか、台湾に外せない用事が出来ました。

というわけで、わたしたち一家は、揃ってボストンに行き、そこから
車でニューヘイブンまで移動して息子を学校に放り込んだら、
あとは夫婦で少しの間滞在してから日本に帰国し、成田から台湾に向かうことになったのです。

ボストンに到着して3日目。
慣れ親しんだ地域からニューヘイブンに移動する日がやってきました。
車で高速を行くこと2時間で到着です。



去年のサマースクールはボストンのウェルズリーカレッジという女子大で行われましたが、
今年はグレードが上がったのでこのニューヘイブン大学(仮名)で行われることになりました。

ここに来るのは実は初めてではありません。
昔、TOが留学のための夏季語学講習をボストンで受けていた時、
志望校の一つとしてこの大学の教授と話をしたいというので、わたしが運転して
ここまできたことが一度あるのです。 

わたし自身のことではないので自慢でもなんでもありませんが(笑)、
その後TOはこの大学からも合格のお返事をいただいております。

大学の事務局から電話がかかってきた時、わたしも横にいて聞いていたのですが、

「オー、リアリー? グレイト!グレイト!」

と彼が興奮して言ったのをよく今でも覚えています。
結局TOはここではなく、ボストン・ケンブリッジにある大学に行くことを決めたのですが、
彼としてはどちらに行くか、かなり悩んでいたようです。

「どっちがいいと思う?」

と聞かれたのでわたしは、

「ニューヘイブン大学(仮名)の方が何だか通っぽくていいと思う」

と無責任な返事をしたのですが、結局この大学のあるニューヘイブン(New Haven)は、
大学を除く地域が「ニューヘブン」というくらい貧困地域に手厚い税制を敷いているせいか、
実はあまり環境がよろしくなく、家族で住むには如何なものか、という理由で止めになりました。

まあその他にも、卒業後のアラムナイ・ネットワークの強さとか、彼なりに考えた理由はあったようですが。

とにかく、今回たまたま息子の学校がここになったことで、それ以来初めて
わたしたちは大学キャンパスを訪れることになったのでした。



ジャケットにレジメンタルタイ、白いコットンパンツにジャケットと同色の靴。
街角を歩いている人もさすがは名門大学と思わせる只者ではなさ。
ちなみに彼はこれもアメリカ人にはどちらかというと少数派のメガネ着用でした。



キャンプのチェックインは、アメリカらしく、ドロップオフ方式です。
車で指定されたあたりを走っていると、目立つオレンジのTシャツをきたスタッフが
歩道に立っていて、車を寄せると窓越しに「ここまで車で行ってください」と書かれた紙をくれます。
車の列に並ぶと、ここがチェックインする場所のようで、女性のおまわりさんが、
(大学警察の警官。アメリカの大学は警察組織を持っている)ロータリーに車を誘導しています。



泊まりのキャンプなので、皆トランクなどを持って降りると、
スタッフがモッコのような手押し車に荷物を載せて、各自の部屋まで運んでくれるのです。



ゴミを運んでいるのではなく、キャンパーの荷物を手押し車に載せています。



息子によると、ドミトリーもこの建物にあるとのことでした。



車から降りていく息子を迎えてくれるスタッフ。

 

後から息子が送ってきた宿舎の内部。
これはどういうことかというと、6月にはこの大学の4年生が卒業していき、
彼らのいた部屋は9月になって新入生が入って来るまで空いています。
大学としては、夏の間もそこを遊ばせないため、こういうサマースクールに
施設を貸し出すというわけです。



さすがは東部アイビーリーグの雄として名高い大学、
米国史上三番目に古い、1701年の創立時に建てられた校舎がいまだに健在です。
1701年ったら、日本では元禄初期ですよ。

クリントン夫妻、ブッシュ、ケリー、チェイニー、フォードなどの政治家、
映画関係ではポール・ニューマン、メリル・ストリープ、ジョディ・フォスター、
シガニー・ウィーバーなどもここの出身です。



街をうろうろしている人たちにアフリカ系が多いのもニューヘイブンの特徴で、
保守的なボストンケンブリッジの人々は、

「あそこは黒人が多いから治安が悪い」

などとさらりと言ったりします。
最初にボストンに行ったとき、MITの教授のお宅に夕ご飯に招かれたのですが、
そこにいた大学関係の人たちも本人たちは差別しているという意識もなく、
「事実だから」といった感じでこのようなことを言っていました。

確かにケンブリッジ近辺には労働階級ですら、驚くほどアフリカ系がいません。 
中華系も、最近の「中国イナゴ」はともかく、西海岸に比べると少数派です。

保守的といえば、全米ナンバーワンの大学といえばハーバードですが、当大学は

「ハーバードが世俗化したから」

という理由でつくられたという経緯があったそうです。
ちなみにここができてしばらくして、「世俗化したから」という理由で
つくられた大学が、プリンストン大学です。

今でもこの順番で後者に行くほどリベラルな傾向があるのはそのせいだという話です。



これは大学の近くにあったアパートメントで、おそらく大学関係者が住むところでしょう。
アメリカの国旗を筆頭に、イギリス、フランス、イタリアの旗ときて、
一番右がなぜか韓国国旗(笑)

おそらくここは昔日本の旗があったものと思われますが、近年日本からの留学生が減り、
大学内での両国の比率が逆転したとき、韓国系が大騒ぎして付け替えたのでしょう。
あんな人口の少ない国なのに、皆国内から逃げ出すようにアメリカにやってきて、
留学ついでに移住もしてしまおうという人間ばかりなのでこういう現象も多々あります。



お腹が空いたので、このアパートメントの向かいにあるヴェジタリアンレストランで
遅いお昼ゴハンを食べました。
ローストベジタブルのひよこ豆添えは、見た目はなんですがかなり美味しかったです。



車を近くのパーキングに入れ、チェックインしたあとすることのない息子を
迎えに構内に少し入ってみました。

キャンプの受付テーブルが外に並べてあります。
この日はアメリカには珍しく、朝からまとまった雨が降る1日で、このときも
実は細かい雨がひっきりなしに降っていたのですが、アメリカ人的には
こういうのは雨のうちに入らないので傘をさす人など全くいません。



「バースデイケーキ」とは?

 

今は海外旅行中でも簡単に電話でお互い連絡が取れるので本当に便利です。
息子に電話すると、今別に何もしていないというので呼び出しました。



大学全体がこのような壮麗な石造りの建物ばかり。
この大学にも出身者が作った「秘密結社」がいくつも存在し、有名なのは

スカル・アンド・ボーンズ

というもので、映画にも時々取り上げられるようです。
秘密結社の置かれている建物は、「窓がない」と言われています。

建物の形がどれも教会風なのは、建造物を寄付する人たちがそれを希望したからだとか。



息子が出てきたので、三人でまず近くの本屋に行きました。
そこで欲しいといった本を2冊ほど買ってやり、スターバックスでお茶を飲もうとしたら長蛇の列。
アメリカ人のスターバックス好きははもはや信仰です。
今いるホテルはいわゆるデザイナーホテルで、いけてる内装とスタイリッシュな雰囲気が売りなのですが、

「スターバックスのコーヒーが24時間飲めます」

というのをセールスポイントの一つにしていました。

それはともかく、息子が「あまり長い時間部屋を空けたくない」というので、
スターバックスは諦めて、こちらでは全米展開しているベーカリーカフェ、
「パネーラ」で休憩しました。
息子はわたしたちと違い何も食べていなかったのですが、

「もうすぐクックアウト(野外でバーベキューのディナー)なのでちょっとにしとく」

と、サンドイッチをTOと分け合って食べました。

「一人の部屋と違ってルームメイトがいるんだから、ちゃんと起きたらベッドをメイクするのよ」

「わかってるよ」

「歯磨きは絶対にいい加減にしないように」

「わかってるって」

「くれぐれもあの日本人は変な奴だと思われるようなことはしないでね」

「たとえば?」

「朝はやく起きて『きえええ!』とか気合いを入れたり棒で素振りしたり、床で瞑想してたり」

「しねーよ。てかどんな日本人だよそれ」

「あああ心配だ」

「大丈夫だって。アメリカ人の中で暮らすのはママよりずっと俺慣れてんだから」 

「そういやそうでした」

そんな「心配するおかんと息子の会話」をしていたと思ったら、きっぱりと

「もう行くよ。トロイ(ルームメイト。ドイツ系らしい)も一人だし」

と立ち上がって、少しだけ緊張した様子でドミトリーに入って行きました。
わたしたち夫婦にとって息子の初めての「独り立ち」だったわけですが、
いつの間にかこんなに成長したんだなあと感慨を深くしながら、ニューヘイブンを後にしました。

こうやって子供は親の元から離れていくんですね。
 


 

ボストン美術館〜「北斎」とミイラ

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ボストンにある「ファイン・アーツ・ミュージアム・ボストン」に
家族三人で訪れたときのご報告、後半です。



現代美術のコーナーを通り抜けて印象派の部屋に。
ガイドも何も見ずに歩いていると、時系列も何も無茶苦茶な鑑賞をすることになりますが、
それもまあ何度も来ているため気分が変わっていいよねということで、
あえて無茶苦茶に歩き回ってみました。

モネの「睡蓮」ですが、日本に来れば立ち止まることも許されないくらい人が押しかけるこの絵も、
常設であるボストン美術館では前に立ち止まっている人すらいません。



題名はみませんでしたが、確かピサロの作品だったかと。
こういう作品を見ると、印象派の画家たちが描きたかったのは「光の色」だったんだなあとあらためて思います。



モネの「ラ・ジャポネーズ」とドガの「踊り子」が一緒に見えている空間。
「ラ・ジャポネーズ」はアメリカでも「ジャパニーズ・ガール」などと翻訳されず、
フランス語のままで知られています。

この辺りにやたら人が多いなあと思ったら、「ラ・ジャポネーズ」の前で
パフォーマンス的解説が行われる時間を待っていたようです。



キュレーターと思しき女性が、絵とそっくりの打ち掛けを持った女性と一緒に現れ、
今からこの絵についてのレクチャーを約15分行います、と告げました。
わたしはきいていたかったのですが、閉館まであまり時間がなかったことと、
他に見たいものがあったので、泣く泣くパスして次を急ぎました。

しかし、去る前に打ち掛けの仕様をチェックしたところ、これは日本の着物の織りなどではなく、
おそらくこの美術館の製作室が絵とそっくりになるようにパッチワークしたもので、
本来ならば金糸銀糸の縫い取りであろう部分に妙な素材が使われていて、
日本人の目には「いやこれは打ち掛けではないだろう」というものになっていました。

まあ、展示説明用ですし、本物の絹織物などもったいなくて使えませんけどね。

どうも、マネがモデルにどのような着せ方をして絵を描いたかなど、
残されている文献を元に説明をしたようです。 




部屋を去る前に撮った、マネの「音楽家たち」(多分)






彼女らはアメリカ絵画のコーナーにあった肖像。
黒いサッシェを斜めに垂らしたのは画家の注文でしょうか。



前ボストン美術館の正面の写真をアップしたときに気づいた方がおられるかもしれませんが、
わたしたちが行ったとき、美術館では「北斎」を特集していました。

「みてみて、北斎だって!」

わたしたち三人驚喜。
ボストン美術館には、日本に滞在していたことのあるボストン出身のビゲローは、
フェノロサとともに「大森貝塚」のモースの講演を聞いて日本に興味を持ち、
来日の際浮世絵などの作品を買い集め、ボストンに持ち帰りました。

北斎の版画もその一環で、こういった日本の芸術作品を海外に流出させたことが
非難されることもあるのだそうですが、そもそも当時の日本には、浮世絵などを
芸術作品として保護するなどという感覚がなく、ゴミ同然に扱われていたので、
むしろ彼らがアメリカに送ってくれたからこそ後世に残されたと考えたほうが良さそうです。

民主党政権の時、ノムヒョン政権時代から要求されていた「朝鮮王室儀軌」返還に
気前よく応じた(フランスは拒否している)ということがありましたが、これらのものもまた、
当時の朝鮮ではゴミ扱いされていたため、日本で保管したという構図なのです。
これは日本政府がアメリカに「北斎やら浮世絵やら盗んだものを返せ」というようなもので、
民主党が返還に応じたのは、アメリカが日本に浮世絵コレクションを返すようなものだったんですね。

民主党のやったことがいかに異常なことだったかわかっていただけるでしょうか。 



「北斎」の展示は、2年前「サムライ!」というテーマで展示されていた
同じ地下のフロアーで行われていました。

「葛飾北斎(1760〜1849)は日本の国内外で最も知られている」

という冒頭の一文に続いて、北斎の芸術的価値、そして1892年に、ボストン美術館は
世界で初めて北斎の展示を行った美術館になったことなどが書かれています。



三味線や琴は直接北斎とは関係ありませんが、浮世絵、ことに遊郭などを描いたものに
こういった楽器が登場することから、実物が展示されているようです。



当世の人気役者とその女房の肖像。
プロマイドのようなものだったのでしょうか。



熱心に細部を眺めている人がいた、吉原遊郭の図。
「火の用心」の札がリアルです。



金竜山仁王門の図。
参拝の人々で賑わっているのが描き込まれています。



この赤富士に「凱風快晴」という題が付いているとは知りませんでした。
英語の題名は「Fine wind, Clear Weather」となっていました。



「北斎漫画」。
相撲取りの生態を描いたページですが、解説には「漫画」の定義と、
今日の日本のマンガのルーツはここにあるということが書かれています。




面白かったのは、北斎の絵をこのように立体的に切り出して展示していたこと。
説明はありませんが、喧嘩している人とそれを見物する人、
「いやーねー」と眉をひそめるご婦人といったところでしょうか。 




植物&鳥類図鑑のように、「鵙」「翠雀」(るり)、「蛇苺」
などとちゃんと説明が添えられています。




「桜花に鷹」。



「牡丹にアゲハ」。



「紫陽花にツバメ」。




さて、北斎は怪談絵を多く残していますが、それもここにありました。
版画なので、ここにあるのが唯一のものではなく、同じものが東京にもあります。

「百物語 さらやしき」

おなじみ歌舞伎で知られた番町皿屋敷、有名なお菊さんの幽霊。
蛇をイメージしたらしい胴体に皿が巻き付いています。

お菊さんは美人の妻だったという設定ですが、どんなに美人でも幽霊になるとこうなるという、
北斎のうがった解釈による表現でしょうか。

ちなみに、カップルで鑑賞していた女性の方が、これを見て、

「ゴースト・・・スケアリー!」

と低くつぶやいていました。
向こうの人にはこういうの本当に怖く見えるんだろうなと思います。



「百物語 お岩さん」

「四谷怪談」のお岩さん。
毒を飲まされて目が片方潰れたのが一般的な?お岩さんですが、
北斎は目を大きく開き提灯になったお岩さんです。
これも北斎ならではの表現だったのでしょうか。



「百物語 笑いはんにゃ」

これは怖い。
鬼の顔はともかく、右手に持った子供の生首が怖い。



「百物語 しうねん」

それよりもっと怖いと思ったのがこれ。
題名が「しうねん」つまり「執念」。

位牌と線香立て、お供物にまとわりつく蛇。
どんな物語があるのか、じわっとくる怖さがあります。



「百物語 こはだ小平次」

木幡小平次というのは江戸の売れない役者で、やっと幽霊の役をもらったのですが、
旅先で妻の密通相手に殺されてしまったという、ついていない人。
妻と密通相手を「うらめしや〜」するために蚊帳から顔を出してみました。

もらった役が死んだ後で役に立ったというところです(ちょっと違う?)



当時の版画の制作工程が示されていました。
何回も色を変えて重ねていくやり方であの華麗な色使いがなされたのです。 



それも、色のパートごとに何枚も原板を重ねていくというやり方。
現場のモニターでは、今も同じやり方で版画制作をする日本人が
実演している様子を放映していました。



展示場を出たところのミュージアムショップにも人がたくさん。
全体的にどこも混雑することのないこの美術館で、こんなに人がいたのは
この展示場だけだったような気がします。
アメリカ人(に限らず)北斎は世界中の人々にとって大変関心が深いものなのだと実感しました。

もしかしたら、日本で開催するよりずっと盛況だったかもしれません。(笑)

写真はショップで売られていた「HACHIKO」(ハチ公)の物語の本、
向こうは「SADAKO」つまり原爆症で亡くなった「折り鶴の少女」貞子さんの本です。



ショップのモニターではなぜか「ハウルの動く城」が放映されていました。

宮崎駿の作品はとりあえず全てここで買えるようです。



日本で着ていたら勘違いされそうな浮世絵のTシャツ。



どう見ても中国的なセンスの「北斎をイメージしたデザインの洋服」。
わかっとらん。
というか、誰が着るのかこんな配色の服を。



北斎コーナーを出て、最後に一つだけ、息子が観たことがない古代エジプトを観て帰ることにしました。
途中で見つけたアメリカ大陸で発見された「ネズミのポット」。



ドーンと入り口でお迎えしてくださる大理石像。
遠近感を感じさせるためか、スネから下が異様に長く、頭を小さく作ってあります。



今回ふと目を留めたセクシーなビーズのドレス。
なんと、実際に発掘されたものを復元したものであることがわかりました。



クフ王の墓に埋葬されていた女性のミイラが身につけていたもので、
本体はこんなことになってしまっていたのですが、



ミイラの周囲に金でできたビーズが散らばっており、どうやらこれを
この形に縫い直したということのようです。
すごい根気のいる作業だったと思われ。



ミイラコーナーで少しウケたおそらく内臓入れ。



この時代も絵画は平面的なものしか残す技術がなかったので、
こういった彫塑にリアリズムが感じられるものがあります。
こんな人がいたんだろうな、と思われる表情の男性像。




一番手前がミイラ本体で、それをその向こうのに入れ、最終的には一番向こうの棺に。
ミイラもマトリョーシカみたいになっていることが判明。



ミイラのあるエジプトコーナーは、興味深いものが多いものの、
見学の後どっと疲れるというか、気力が奪われるというか、
軽く暗い気分になってしまうのが常なのですが、(なぜでしょうか)
そこから出た部屋にこんな「かるーい」絵があって、なぜかほっとしました。

お墓にお花を供えている白いドレスの美女なので、なんか意味があるはずですが、
それでもこの明るい光を描いた色彩は土色のエジプトコーナの後には
一種の資料剤のような役目となってくれました。


それにしても、北斎の世界的評価の高さに驚いた今回のボストン美術館見学でした。




航空教育隊訪問記~航空管制室の「神棚」

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この日航空教育隊基地を見学して心から驚いたのは、いかに航空教育群司令直々のご招待だったといえ、
到着から退出までの段取りが恐るべき精密さで組まれ、それに伴い各配置の隊員たちがきっちりと動いて、
すべての物事が滞りなくスムースに運んでいったことです。

たとえばP-3Cのコクピットで写真部隊隊員に操縦席に座った写真を撮ってもらいましたが、
その移動の途中、案内の方が

「先ほどの写真ですがもう出来ているみたいなので、後でお見せします」

と報告までしてくれました。

「えっ、さっき撮ったばかりなのに」

「仕事が早いのが自衛隊ですから(笑)」


こういう、すでに隊内の規定で決まっているらしい「見学者迎撃作戦」においては、
警衛を通過する瞬間から始まって、応接室にお茶を運んでくれるWAVEさんの人選まで(笑)、
いかに自衛隊という組織が「広報」を任務の柱の一つにしているかをうかがわせました。 

自衛隊は「モニター制度」といって、一般人に自衛隊の見学を通じて内部に触れてもらい、
その体験を自分なりの方法でアピールしてほしい、という取り組みをやっています。
地本ごとに行われることが多いようですが、いずれもその目的は、
ソーシャルメディアネットワーク 、つまりブログやSMSで広めてもらうことです。
(けっして”2ちゃんねる”のことではないと思います)

また、HPによると、近隣の中学生の「職場体験」の支援なども行っていて、
当基地にある様々な職種を子供たちが体験する、ということもあったそうです。

基地広報活動

というわけで、基地訪問記をここに上げることは、ご招待してくださった海将と、
現地でお世話になった皆様へのお礼を兼ねていると信じて、続きとまいりましょう。



消防車で思いっきり放水して水撒き作業に従事した後、
我々を待ち受けていた任務は、管制塔の視察であった。

というわけで、わたしたちは4人乗ったらもう定員のような小さなエレベーターに乗り込み、
管制塔を登って行きました。
そこで、こういうことには滅法気がつくつもりのわたし、広報室長がいうより早く、

「写真は禁止ですね?」

と確信を持って確かめると、やはり管制室は一切撮影禁止とのこと。
そりゃそうだわ、管制室にはすべての通信を司る通信機器があるわけだから。

李下に冠を整さず、というわけで、別に指示されたわけではありませんが、
わたしは自主的にカメラをバッグにしまい、管制室に入りました。



当基地の管制塔は、去年の1月、現在のもの(右側の白いビル)が完成したばかり。
それまでは、赤白チェッカー模様の、昭和37年築の管制塔を使用していました。

旧管制塔はすでに撤去されていてありません。
わたしたちが上がったのは管制室なのでもちろん一番上階になりますが、
その一階下、ガラスの窓が4面に貼られた部分が展望のための回廊です。
サマーフェスタなどの一般公開のときには、ここには入ることができます。

さて、エレベーターから降りると、そこは明るい管制室でした。
冷暖房完備だと思いますが、直射日光がガラスを通じて照りつけるため、
きっとそういうガラスではない旧管制塔の勤務は大変だったと思われます。


管制室には窓際のスイッチの並ぶテーブルを前に、3人の管制官が配置されています。
彼らはわたしたちが入っていても振り返らず、ひたすら基地上空と滑走路の目視を続けており、
その後ろには一人の自衛官が「見張りの見張り」のために座っていました。

つまり、「見張りをしている自衛官を見張っている係」?
多分3人の上官であると思われます。
わたしたちに説明をしてくれたのは、また別の、最初からここにいた自衛官(士官)で、
もしかしたらわざわざそのためにいてくれたのかという気もしますが、
説明で驚いたのは、彼らの任務は航空機が稼働していない時にも、
誰かが必ずこの管制塔から見張りを続けている、ということでした。

うーん、この任務、大変じゃないか?
しかも、後ろからずっと上官が見ているので、

「つれーわー昨日飲み過ぎてつれーわー」

みたいな馬鹿話は絶対にできません。

わたしたちが管制塔にいる時間には航空機の離発着は全くありませんでしたが、
もしかしたら離発着のない時間だったからこそ見学できたのかな。



旧管制塔は塔そのものがチェッカー模様でしたが、新管制塔は、
さすがに海自一の高さを誇るだけあって、チェッカーは控えめにごく一部に塗られているだけです。

高い管制塔からだと、見張りの隊員は少しだけ体力的にラクになったりするんでしょうか。
管制塔を備えたビルは他の機能も満載で、たとえば先ほど写真を撮ってくれた隊員が、
撮った写真をプリントアウトして、ホルダーにいれる、という作業を行う部屋もここにあります。

そして今回検索していて当基地の管制室のこんな記事が見つかりました。
産経新聞の「国民の自衛官」に選ばれた管制官です。

国民の自衛官 横内拓也1等海曹

この記事に、管制室のパネルも写っています。
わたしたちが見学した時に、この自衛官もいた・・・・と思う。


航空基地というのは、近隣の飛行場との連携を密に取ることが必要です。
この基地の周りにはどんな飛行場があるかということは、把握されていて、
いざという時の誘導を互いに行うということになっているという話もありました。

わたしたちが滞在している間、一度だけ管制官がマイクに向かってどこかと通信していましたが、
やはりそれは英語で行われていました。
自衛隊内でも航空管制の全世界共通語で通信は行われるんですね。


ところで、共通といえば、自衛隊の航空隊と一般の飛行場が
同じ場所を使用しているという例があります。

徳島阿波おどり空港。

そんな名前の空港があったのか、と驚きましたか?
たった今わたしも驚きました。
もちろん「鬼太郎空港」や「きときと空港」や「やまねこ空港」や「パンダ空港」、
(まさかと思うでしょうが皆実在します)「ウルトラマン空港」(検討中)
という類の、「愛称」というやつですが(奇を衒えばいいってもんじゃないぜおい)
それはともかく、この徳島飛行場は民間と自衛隊の施設がそれぞれ置かれている、
いわゆる「軍民共用」空港で、この日見学した航空教育群隷下の

「第202教育航空隊」

先日説明したTC-90で計器飛行などを学ぶ「パイロットの第二段階」過程の部隊があります。
去年のことですが、

管制官の指示に従って徳島空港に着陸しようとした羽田発の日本航空機(ボーイング767-346型機)
が着陸寸前で滑走路内にいた車両の存在に気がつき着陸をやり直すトラブルが発生した。
この際一度車輪が滑走路に接しており、車との距離はわずか800メートルほどだった。
乗員乗客に怪我はなく、その25分後に無事着陸した。
管制官は滑走路に車両が入ることを許可したおよそ10分後に旅客機に着陸を許可していたことが判明した。

という事故があったとwikiには書いてあります。
これを読んだだけでは管制官の所属はわかりませんが、どうやら海自の管制官であったらしく、
しかも日曜ということで一人で管制業務に就いていたということがミスに繋がり、
これを朝日新聞などは「重大インシデント」として

通常は4人態勢の管制官が当時、1人しかいなかったこともわかり、
空港の利用者らは離着陸への不安を募らせた。

などと、相変わらずの「不安を募らせる人って本当にいたんですか?」な記事を書いています。
軍民共用で自衛隊に一般の航空を嫌々使わせてやってる、と言いたげですな。

もちろん言い逃れのできないミスには違いありませんが、その昔、
自衛隊の航空機はたとえ緊急時であっても民間航空に着陸できなかったそうですね。
実際に非常時になって、わざわざ遠くの基地を目指した空自のF-4が
燃料切れで墜落した事故なども起こったことがあるそうです。

そんな時代を考えると、徳島空港のような運営が行われるようになったことは、
軍運用に対する理屈抜きの忌避感は全時代的なものとなってきたのかという気もしますが、
しかし自衛隊はやはり何かあると、普通のインシデントよりも重く見られがちというか、

「ホラ見たことか」

といった調子のメディアのおかげで、事故があるたびに基地司令に全面飛行停止を申し入れる
「赤旗を購読している付近市民」がわいて出てくるわけです。
彼らが事故を起こしたどんな航空会社にも「全面飛行停止」を申し入れているなら
それもまた筋の通った主張と言えないこともないのですけどね。

ここでお話を伺った管制官によると、夜中も二人で管制業務を行うそうですが、
全く飛行機が飛ばないこの時間にも二人で行うことになっているのは、
もしかして徳島の事故を受けてのことなのかもしれないと思ったり。


ところで、この管制室には中型のテレビが置いてありました。
テレビの下にデカデカと

「情報収集中」

という紙が貼ってあったので、情報収集って何ですか、と聞くと、

「テレビを見ることです」

ここでテレビを見てるのは朝ドラを見逃したからじゃないんだからね!
情報を収集するためにつけているんだからね!と言う意味ですねわかります。
たとえば事故などが起こって、情報を収集するような時しかこのテレビのスイッチが
入れられることはないと、こういうことだったんでしょうか。

テレビが置いてあると、娯楽のためとしか思わない一般人に向けての説明です。
っていうか、こんなことまで釈明しなきゃいけない自衛隊って、大変。

言い訳といえば(って言ってないか)、この最新設備を備えた管制室の隅にも、
ちゃんとありましたよ。



神棚が。
管制室の中は神棚といえども写真を撮ることができなかったので、
この神棚はそこのではなく司令室のデスクの上に鎮座していたものですが、
護衛艦ももちろん、海自は管制室にも置くんですね。神棚を。

護衛艦の場合は海軍からの慣習ですし、船に艦内神社があるのは一般的なことですが、
管制室や司令室にあるというのは、やはりこれも海軍伝承でしょうか。

空自には「飛行神社」があって安全祈願をしているそうですが、どんな時代になっても
どんなに手を尽くした後でも、人智の及ばない部分に対し人はせめても祈りを捧げるものです。
ここで説明の方が妙に「配慮」を感じさせる説明をしました。

「もちろんキリスト教の人間だっていないわけではありませんし、
拝むことが行われているというものでもないのですが」

みたいな。
わたしは海軍伝統を知っての上で話題にしたつもりですが、向こうにすれば
相手の正体は皆目わからないので、とりあえずこんな腰の引けた説明をするのかなと思いました。

考えたら、普通見学に来る人間は、航空管制室の神棚なんか話題にしないでしょうし、
広報室長が言質を取られまいと警戒したとしても仕方がないことかもしれません。

わたしは己が基地見学を終えた後、「自衛隊に神棚が!政教分離がフンダララ」
とか言い出す基地の外の人ではないことをなんとかその場で証明するべく、

「護衛艦のなかにも艦内神社があって隊員は分祀した神社にお詣りにいったりしますね。 
たとえば『いせ』の乗組員は先日伊勢神宮に参拝したそうですし」

などという話題を振って説明これ努めたつもりでしたが、その意図、わかってもらえたかな~。



続く。 

 

 

 



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