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2015静岡ホビーショー〜「模索する型(かたち)」

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コメント欄でも少し話の出た「龍田」のパッケージです。
雷蔵さんのコメントで特にこの絵がいい、と言っていただいてまさに我が意を得たりでした。
篠突く雨の中、白波を蹴って進む「龍田」の艦尾には、軍艦旗が雨にもかかわらず翩翻と翻って。
雷蔵さんもおっしゃってましたが、これ探照灯を照射しているところなんですよね。

わたしも会場でこの絵を見たとき、つい立ち止まってどんな人が描いているのか聞いたくらいです。
なんでもまだ30代の画家だそうで、デジタルで描かれたものだとのこと。
今はほとんどがデジタルアートですが、未だに紙に筆と絵の具で描く人もいるそうですよ。

アメリカの「ホーネット」艦内の博物館には、そういえば「ハセガワ」の模型の箱絵を
そのまま額に入れて展示してあったわけですが(HAS"A"GAWAとなっていたのはご愛嬌)
模型の箱絵は昔から芸術作品みたいな格調の高い絵が選ばれていたんですね。

先日のコメント欄で話題になった「遼寧をやっつけているひゅうが」ですが、
改めて検索したところ、わざわざやっつけられているところに丸をつけた図をあげて

「日本の模型会社がこんな絵を描いて我が国をバカにしているアル!」

と怒りまくっている(らしい)サイトもでてきました。
悔しかったら自分たちで「遼寧」の模型作って仕返しでもすれば〜? 



さて、ハセガワさんの展示はこれでおしまい。
模型業界ではツートップのひとつタミヤのコーナー。



「お菓子の家」ジンジャーブレッドハウスをつくるキット。
登場人物はジンジャーブレッドマンです。
あれは本物のクッキーで作るからいいのであって(以下略)



あれ?これタミヤだったっけ。
もっといろいろあったような気がするんだけど写真がない(−_−;)

この戦車はリモコンで動かすタイプで、坂とか砂利道、レンガも超えてしまう(はず)



会社の人が実演していた空飛ぶ円盤。
そういえば東京ミッドタウンの広場で、ある運動靴メーカーが
こんな円盤をプイーンと飛ばして、高いところに置いてある靴をとってくる、
というパフォーマンスをしていました。
商品そのものよりもその円盤に皆は注目していましたがこれだったのでしょうか。

操作していた人に聞いたところ、だいたい1時間もあれば誰でも動かせるとのことでした。



おお!懐かしい〜!俺これ乗ってたんだよ!

という方はおられませんか?
トヨタのトレノというのが、走り屋さんが乗るというイメージを持っていたのも、
昔これに乗っていた自称走り屋さんを知っていたからですが、
なんとこの日会場をご案内くださったFさんも、かつては乗っておられたとか。

頭文字(イニシャル)Dに使われていたからには本当だったんですね。走り屋専用。



さて、というあたりでお昼となったため、お弁当を購入してFさんに関係者が休憩する
上のフロアに連れて行っていただき食べることにしました。
テーブルとかはなく、ソファに座って皆膝の上にお弁当を乗せて黙々と食べていました。

横のスペースでは模型雑誌数社のカメラマンが、模型の撮影中。
下の展示場から借りてきては撮り、戻しては次のを取ってきて、とやるそうです。

「模型を撮影している時展示はどうなるんですか」

「ちゃんとそれをお断りする札をウチでは作って置いています」



お弁当を食べた上階から見た会場。
普通の客はもちろん、業者でも見ることのない光景です。



業者日ではありますが、ちょくちょくわたしのように招待された一般人らしい人も。



お昼を食べてからはわたし一人で会場を見て歩きました。
真っ先に目に付いたのが、航空自衛隊の航空祭という設定の模型。
ジオラマに航空模型を組み合わせるとなると航空祭はピッタリです。
それにしても駐機展示の顔ぶれがが異様に豪華な航空祭・・・。

F-2、ファントム、イーグルに・・もしかしてラプちゃんもいますか?

これはタカラトミーの「技ミックス」シリーズ。
先日ハーロック三世さんがフネの技ミックスを教えてくれましたが、
これはその飛行機バージョンです。



滑走路を飛び立っているのはT-4という設定?
そして、日の丸をつけたV-22オスプレイが!

と、このオスプレイがプロペラを回しているあたりが「技ミックス」なんですね。
このシリーズは、

「今からでも楽しめるプラモデル」

がキャッチフレーズで、彩色作業を省いてその分「ギミック」、
たとえばプロペラを回転させたりアフターバーナーを再現したり、
なんとジェット発進ユニットを付ければ実際に旋回飛行するという・・。
そうやって集めた飛行機を飾るステージとして「基地ストラクチャー」として
このような航空基地のリアルな建物や観客なども用意しているのです。

「ギミック」を楽しみたい人向けに、工程を一つ省略してくれてるんですね。
しかしこんな手取り足取りのメーカーの誘導にもかかわらず、
5年間作業が進まないという人も、世の中にはいらっしゃると聞きます。



どこのメーカーかは写真を撮らなかったのでわかりませんが、
この紫電改の箱絵は誠に失礼ながら少し大雑把なような(以下略)



ここに来るなり、なんだかウッディでほのぼのとした飛騨高山の民家が現れ、
そういえば小さい時うちにはこんな水車小屋の形をしていて屋根を開けると音がなる
オルゴール(曲は峠のわが家)があったなあと思い出しました。



石臼が中にあって、横に小川が流れている光景。
ジオラマ好きのわたしがつい熱心に見ていると、

「今日はどこから来られたんですか」

とこのブースの社員さん(年配の男性)が話しかけてきて、説明してくれました。



この会社は一切プラスチックを使わず、木と金属だけの模型を扱っています。
雷門に銀閣寺。



国宝姫路城は圧巻です。
お値段はこれが5万8千円となっていますが、ここの商品は小さいものでも2万円から。



五重塔。



五重塔は一段ごとに取り外せるので、その状態で手に取れるように展示しています。
欄干の木の細工なんか緻密ですごいですね。

「レーザーカットの技術ができてからこういう細工ができるようになりました。
やはりそれまでの模型はこういうところは荒かったですね」



ここの主力はお城などの建物と帆船です。
慶長時代に遣欧使節を乗せていった「サン・ファン・バウティスタ」号。

「このネットみたいな縄ばしごは一体どうやって作るんですか?」

「一本ずつ糸を撚っていって作ります」

東郷平八郎のフィギュアくらいでビビっている場合ではありません。
気の遠くなりそうな細かい作業です。



石巻にはこの帆船が繋留展示されているそうです。
津波がやってきた時、このサン・ファン・バウティスタは浮き上がり、
周りのものにぶつかったものの決定的な被害には至らなかったので再建されました。



カティサーク。
昔うちにカティサークの小さな模型がありましたが、遊んでいるうちに潰してしまいました。
そのときについていた帆は茶色くて羊皮紙みたいにみえたのですが、そのことをいうと

「それは羊皮紙に見せた紙だったんじゃないでしょうかね。
うちのは布を糊で固めて作っています」



ボトルシップもあります。
こんなものどうやって作るんだろうと兼ねてから不思議だったのですが、

「折りたたんである材料を中で形にするだけです」

ちなみにこの方は、

「私はボトルシップは好きではありません」

だそうです。



時間と飾る場所と根気があれば、これ作ってみたい。
というか、もっと本音を言えばできたものが欲しい。
東京駅の模型は後ろから明かりを照らすことができます。

ところでボトルシップの写真のボトルの後ろにあるのがこの東京駅の壁素材。



なんと、これ裏に薄い布を張った木なんだそうです。
これもレーザーカッターで切れ込みが入ったものがあらかじめセットされているので
それを組んでいけばいいという話なんですが、たとえこの細工をせずにすんだとしても
木のじゃなくて気の遠くなるような作業を繰り返さないとこんな大物はできません。

この会社の模型に「お客さんが作った」という展示物がありました。

「いくつもうちのを作ってくれる人なんですが、飾ってくれと言って持ち込んで来られるんです」

こんなものを作ったらそりゃ一人で眺めていないで多くの人に見てもらいたいでしょう。
昔、阪急京都線の京都行き特急ロマンスシートに乗ったとき、隣に座ったじいちゃんが
いきなりアルバムを出して、こういう模型の写真を次々と見せてきたことがあります。

こういうときに決して嫌と言えないわたしは、30分の間、
ずっとその写真のお城を作るのにいかに大変だったかという苦労談に
付き合わされ、相槌を打つはめになったのですが、あのじいちゃんもきっと、
せっかくの大作を隙あらば?誰かに見てもらうつもりで、いつでも
アルバムを持ち歩いていたのに違いありません。



この木の模型店ではお店の人が気合を入れてつきっきりで説明してくれたため、
異常なくらい長居するはめになって、あとはほとんど駆け足でした。

ここは宮崎アニメに登場するものをプラモにしている会社。



「紅の豚」は気合いが入っていて、登場する水上機にカーチスのフィギュア。
ジーナさんのフィギュアもあります。



こちらも宮崎アニメですが、これは以前ご紹介した紙を積んでいってつくるタイプ。
たとえばトトロだったら、輪切りにした丸い紙を一枚ずつ重ねていくのです。
これならわたしも作れそう。
本格派モデラーの人には、何がそんなの面白いんだ、って言われそうですが。



ガンダムシリーズは大きなコーナー一角全部を占めていました。



模型の世界の奥の深さをつくづく思い知ったコーナー。
これ、「エンジンの模型」なんですよ。
奇しくも模型会社の人から「わたしたちが再現するのは外側だけ」という至言を聞いたばかりですが、
この会社はその「内部」の模型に興味のある人もいるよね?と商品展開しているのです。

飛行機や船、お城や帆船やトトロやジオラマ、何れにしても興味のない人には意味がなく
興味のある人にはたまらない惹きつける魅力を持っているものですが、
世の中には「エンジン」にそれを見いだす人がいるってことなんです。




模型、というものは人類の「興味」のあらゆる可能性や方向性を「模索する型」ではないのか?

つい自分で誰がうまいこといえと、と思ってしまったわたしです。

タミヤのお土産コーナーでウケた静岡ホビーショー限定品。
こんな人、いるよね(笑)



終わり。




防衛団体懇親会に出席

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決して脳内組織ではない防衛団体、「地球防衛協会」(仮名)某地方支部顧問、
という肩書きを持っているわたしですが、つい最近それに

「水交会会員」「海軍兵学校76期会会員」

というあらたな肩書きが加わりました。
その経緯については、近々兵学校76期会の参加記の続き(まだ終わってないのよ)
でご報告するつもりですが、実はそれ以外にも元陸幕長が会長をしている防衛団体、

国某協会(仮名)

と、本日懇親会に参加してきた、

GO!友会(仮名)

にもいつのまにか名前を連ねているのでした。 
GO!友会の参加は、地球防衛協会の副会長がこの会の地方会長を務めていて、

「東京で統幕長や政治家の先生などと懇親会があるから行きませんか」

とお誘いをいただいたため、自動的に会員になることも決まったのです。
どの会もわたしが会員になったからって、そこで何ができるというものではありませんが、
一人でも国防についての問題意識を共有する会員が増えたということに意味が有るわけで。

わたしの場合はこっそりとではありますが、こうやってブログで広報活動をし、
世間への周知を図るという「使命」もありますしね(笑)




懇親会は会合(決算報告、活動報告など)のあと、防衛省御用達の
市ヶ谷グランドヒルホテルで行われます。
ちょうど防衛省の正門前の信号ですが、これを右に曲がったところ。
防衛省御用達ということは、自衛隊関係、防衛団体の会合や、たとえば自衛隊員の結婚披露宴なども
ここで行われるということです。



お誘いくださったFさんとは会場前ロビーで待ち合わせ。
Fさんが招集した「GO!友会地方支部」は、わたしを入れて3人で、そのいずれもが
地方支部に名前を連ねていながら関東圏に在住という「なんちゃって県人」ばかり。

しかもそのうち二人は女性で、Fさんは皆に

「◯◯地方支部は美人を選りすぐってきたんですか」

などと”お約束”で突っ込まれてご満悦です。



招待されている政治家たちの花付き名札。
この、偉い人の名札にブーケを飾るというのはおそらく世界でも
日本国だけの現象ではないかと思うのですが、どうでしょう。

小池百合子、長島昭久(保守だけど議員になりやすいからと民主に入った人)
など、防衛政務にかかわる議員の名前が見えます。



ここでびっくりしてしまったのが、防衛大臣の左隣にあるリボン。

小西洋之〜〜〜〜?!

国会で憲法クイズをして安倍首相を苛立たせ、そのことを名前を出さずに批判した
新聞社をなんと訴えるという、ほとんど恫喝、脅迫に抵触すれすれをやらかした「クイズ王小西」がここへ?
(一般女性を訴えるとか恫喝した前科ことがあるらしいので表現控えめ)


「なんでこんなのを呼ぶんでしょうかね」

となんちゃって県人の女性の方にいうと、

「民主党の外交防衛の委員かなんかじゃないんですか」

今ご本人のHPを見ても、どうも該当するそれらしい肩書きがないのですが。
しかし、支援している政治家が保守系で、自衛隊の支援団体であるこのGO!友会に、
しかも昨今、一般には全く無名ではあるけど、ネットでは反日とまで言われる反安倍派の有名人、
「あの」小西議員がこんな会合に来るのだろうか?

もし来るとすれば、去年の練習間隊艦上レセプションに、のうのうと(と見えた)
現れた白真勲のように、思いっきり一般人から白い目を向けられるのも覚悟の上で?

どちらにしてもオラわくわくすっぞ。



これが懇親会会場でございます。
すでにあちこちでは名刺の交換などが始まっていました。



GO!友会会長のご挨拶。
この日、とても名前が覚えきれないほどの名刺交換をしましたが、会の上層部には
元自衛官が就任しているらしいこともわかりました。

その中のお一人が「わたしは昔陸自のパイロットで」とふともらしたのが100年目。(彼にとって)

「固定翼ですか?回転翼ですか」

早速目を輝かせて質問するわたし。

「回転翼です」

「ど、どんな機種を・・・」

「いろいろ乗りましたが・・・OH-1とか」

「おおおOH-1ですかっ!宙返りとかされましたか」

・・・・・中学生かあんたは。

「ああ、宙返り、あれはすごく難しいんですよ。
回転しようと思ったら(ここ忘れた)しなくてはいけなくて、
ヘリは失敗したらもうおしまいですから簡単に挑戦なんかできません」

ということは・・YouTubeで見る宙返りは、よほど熟練の上級者しかできないのかしら。
そう聞くと一層、一度はこの目で見てみたいものです。



続いて水交会会長の挨拶。
水交会といえばこのわずか3日前に練習艦隊壮行会でご挨拶されたのを聞いたばかり、
と思う間も無く、

「2日前に練習艦隊を見送りましたが、今年の練習艦隊はマゼラン海峡を通過します」


という話が・・。
まわりは口々に、ほお、マゼラン海峡、などと反応しています。
やはり自衛隊に関連の深い人ばかりが集まっているこの会合で、
このことは興味深いニュースとして受け止められたように見受けました。

2013年の10月には中国海軍が初めてここを通過したというニュースがありましたが、
当時海上の風速は20.8-28.4m/s、波高は4-6メートル、艦艇の揺れは10度以上に達したそうで、
海峡に入った後も風速は8.0-13.8m/s、平均波高は3メートルだったとのこと。

”航行の安全を確保するため、全将兵は指揮官を務める南海艦隊副参謀長の指揮の下、
真剣に研究し、入念に準備し、精確に操作し、狭い水路の航行、霧の中の航行、
強い波風の中の航行の手はずを厳格に整え、いかなる過ちも犯さず、順調に海峡を通過した。”

ということですが、やっぱり大変なところなんですね。
しかし我が日本国自衛隊の練習艦隊もそれ以上に入念な準備と訓練で臨んでいることでしょう。




会が始まって国会議員の先生方が到着し始めました。
なんとわたしの真横で到着のご挨拶をされているのは・・・?

そう、髭の隊長こと佐藤正久議員でした。



「1分以内でご挨拶を」

と政治家に対して無茶な注文をつける運営(笑)
最初の若い自民党議員(お名前失念しましたorz)も1分ではすみませんでしたが、
佐藤正久議員も3分くらいにはなったのではないかと思います。
政治家には1分と言っておけば3分くらいで納めるだろうという意図だったのかも。



こちらも自衛官出身議員、宇都隆史議員。
後でご挨拶に行き、結構長時間お話もさせていただきましたが、
そのことについてはまた別の日に。



「30年前にここで結婚式を挙げたのを思い出します」

と言うことはこの議員も自衛隊出身?
と思ったのですが
ちなみに、元自衛官の現役国会議員は、防衛大臣の中谷元議員、佐藤、宇土議員以外は

中谷真一・自民党・元陸自第一空挺団

だけだったので、多分違うと思います。
しかし、もう少しいてもいいですよね、自衛官出身議員。



壇上の自民党議員を撮るふりしてこっそり佐藤議員を撮りました。
近くで他の会員の方とお話ししている様子は、あの独特な喋り方といい、
国会中継で見るそのまま。(当たり前ですが)



そこにやってきた河野(かわの)統幕長。
去年海幕長から統幕長になられ、ますます貫禄が増しておられます。



乾杯の発声は統幕長。
またしても佐藤議員の後ろ姿をフレームに入れて写真を撮るわたし(笑)



国会議員の先生方は到着したらその都度壇上で一言ご挨拶。
この女性議員は・・・・お名前失念しました。



おそらくですが自民党の秋元司議員。
つまり壇上に立って挨拶をしたのは全員自民党議員だったのですが、
全員が集団的自衛権の「積極的平和主義」という言葉を盛り込み、自主憲法の成立につなげる
意欲を語り、皆様方のご支援をお願いしたい、と結びました。

「共産党と社民党は戦争法案などと言いますが、我々は平和法案だと思っております」


もしここに小西先生がいたらどう反応したのか、ぜひそれを観察するべく、
わたしはこころから先生の出席をお待ち申し上げていたのですが、どうやら
民主党の長島議員共々来られなかったようで、大変残念です。

小西先生の心臓には白先生ほど毛が生えていなかったということでございましょうか。



同じテーブルを囲んでいたこのエトロのネクタイの紳士も元自衛隊員。
GO!友会の顧問でいらっしゃいます。
一応わたしも同じ肩書きを持っているのですが、それはともかく、この方は、
若き日になんとあの三島事件の時に現場におられ、刀で切られて病院に運ばれたという
歴史の生きた目撃者であります。

あまり詳しくお話しできませんでしたが、何人かが斬られたのに
自分が一番傷か深かったようなことをおっしゃっていました。

そういえば、三島由紀夫は

「マッカーサーのサーベルの下で作られた憲法下、日本人が民主主義の美名のもとに
物質の繁栄とは裏腹に精神を荒廃させていることへの警告と、その社会に亀裂を入れるための楔」

としてあの行動を起こしたのでした。
本日出席の議員たちが全員改憲を口にしたことと、この人物を目の当たりにしたことが、
わたしにとって何か不思議な符号のようにも思えました。



本日の出席者は水交会の実習幹部たちとは違い、運ばれてくるものを瞬く間に食い尽くすような
そんな旺盛な食欲を持ち合わせていないので、テーブルの上はいつも賑やかでした。
食べるよりも話をする方に皆が忙しかったせいもあります。



佐藤議員は途中で退席してしまったらしく、ご挨拶できずじまいでした。
宇土議員は議員の皆さんがほぼ全員途中で退席する中、最後まで
話しかける人々と熱心に会話をしており、おそらくほとんど食事をしていないと思われました。



このあと地方支部会長が河野統幕長のところに連れて行ってくれ、
写真を一緒に撮っていただきました。

「ふゆづきの就役のときにもご挨拶させていただきました」

というと、

「そうでしたね。あのときは大変な雨で」

と即座におっしゃるので、ちょっと驚きました。
海幕長時代からそれこそ新鋭艦の就役には何度となく立ち会ってこられたのに、
艦名をきいただけでそのときの天候がすらりと出てくるなんて・・。
やっぱり自衛隊という組織の頂点である海将になられるような方は違う、
とこんなところでも驚かされた次第です。

違うといえば、この日はわたしの所属する国某協会の会長であるもと陸将とも
久しぶりにお会いしてお話しをさせていただきました。



元陸将とも撮れ、と地方会長がいうので一枚。
(だいたいわたしはあまり自分の写真を撮らないので言われるまでこういうことをしません)



何を言っていたか忘れたけど、熱い。見るからに熱い元陸将である。
えー、ちなみにこの人が「初弾は0800だ」(過去エントリ)の方です。念のため。

元陸将は中国政経懇談会という会の会長ですが、曰く

「これで戦争をやってます」

日本と中国に今後も友好はあり得ない、付き合っていくしかないが融和はないと言い切り、
それを政経懇談会では中国側に向かってはっきりと言い放ったそうです。
おお、言ってやれ言ってやれ。じゃなくて言ってやってください。お願いします。

というか、こんなことを面と向かって言い放つ人物に対してはさすがの中国も
ハニーもマニーも全く意味をなさないと思い知ったでしょう。


この日、ある議員が、

「我々は情報戦争の最前線で戦っているところです」

とスピーチしたように、銃火を交えるだけが戦争ではないのです。
匕首を突きつけあいながら片方の手で握手する、というのが現実世界の外交であり、
その情報戦において、例えば昨今の軍艦島ユネスコ遺産登録についても

「戦っている最中です」

なのだそうです。



豪遊会会長最後の挨拶。



最後に万歳三唱。
右は河野統幕長です。

つまりこの防衛団体は、武力での備えである自衛隊と、そして、
情報戦、外交戦での尖兵である国会議員や元陸幕長のような人々を、
民間の立場で支援し後押しをする後方部隊、ということになりましょうか。



ホテルの前に駐車していたのは、あの有名な播磨屋おかきの新作街宣トラック!
噂は聞いていたけどこの日初めて見ました。
店主によると、今の自衛隊には戦うための大義が与えられていない、
ゆえに軍隊になどなりようがないということで、安倍晋三は木偶の坊なのだそうです。
安倍首相でこうなら、民主党政権の時はどんなトラック走らせていたのか興味あるなあ。

まあ、どこかで三島由紀夫の思想にもつながる部分があるのかもしれないけど、
「皇太子奉じ王道クーデター」・・・・
皇太子殿下御自身はおそらく奉じられたくないと思われると思うがどうか。


今日一番のインパクトは実はこのトラックでした(笑)


終わり。 

「レーダーピケット艦」~空母「ホーネット」艦橋ツァー

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航空母艦「ホーネット」の第二次世界大戦中にどんな戦歴を残したのか、
あまり認識してこの博物館に行ったというわけではなかったのですが、
前項でお見せした対日戦の成績をわざわざ巨大なボードに仕立てた力作を見て、
あらためてこの空母の恐るべき実績と、日本人が持たずにはいられない一種の感慨を 
同時に感じ取ったエリス中尉でございます。

アイランドツァーの解説員は元海軍軍人で「ホーネット」 の乗員だったという
「特別」感を漂わせる人物でしたが、この解説員がせいぜい70歳くらいで、
少なくとも「マリアナの七面鳥撃ちのときのことだが」などと言い出しそうにないのは
わたしたちにとってラッキーなことだったのかもしれません。




どこの区画も、丸くくり抜かれた舷窓以外はスピーカーと計器の類、
そして何十本単位でまとめられているコードが壁を張っています。

 


プラスチックの壁のようなところに書かれた駆逐艦らしい艦名。
調べてみたのですが、

オブライエン(DD-725)、
アルフレッド・A・カニンガム(DD-752)
ウォーク(DD-723)
フランク・E・エヴァンズ(DD-754)

これらはいずれも第二次世界大戦中の駆逐艦の名前です。

「チェリーツリー」「ビッグ・リーグ」「ストロー・ボス」 

駆逐艦にこういったあだ名をつけるのは洋の東西を問わずやっていたようですが、
日本人の我々にはいかなるイメージからつけられたかの見当さえつきません。

「フラッグオフィサーのコマンドをアナウンスするシステム」

と円形のマイク?の上に書いてあります。
フラッグオフィサー、すなわち海軍将官が発令する専用の放送システムであると。


各送信スイッチには

「パイロットハウス&オープンブリッジ」
「メインコマンダーステーション」「ソナーコンテナ」

などの部署名が書かれています。 

 

これを見た頃には大して興味を持たなかった艦隊配置図、
その後連合艦隊についてかなり勉強することになったので、
この度あらためてこれをじっくり見てみることにしました。



「ホーネット」は旗艦です。
皆が汚い手で「ホーネット」のところを指差すもので、そこだけ黒ずんでいます(笑)

「ホーネット」の左前方を、

「ベニントン」(CV20)

という空母がまず固めています。
先代の「ホーネット」CV-8はヨークタウン級の正規空母でしたが、建造中の
「キアサージ」を急遽日本軍に沈められた後釜に据えるという決定を認め、
この「ホーネット」は旗艦であっても正規空母の中でも短船体型の空母です。

「ベニントン」については先日その生涯について詳しく語ったばかりですね。
そして、

「サン・ジャシント」(CVL-30)「ベローウッド」(CVL-24)

という2隻の軽空母と共に旗艦の周りをぐるりと囲むように配置されています。
「サン・ジャシント」には若き日のパパブッシュ、ジョージ・W・ブッシュが
艦載雷撃機のアベンジャーのパイロットであったときに機が被弾してパラシュート降下し、
九死に一生を得たということがありました。

このときも一人のパイロットを救うため、アメリカ軍は航空機によって彼の着水位置を確認、
それを潜水艦に打電して現場に急行させる間、周りの日本艦船を銃撃で追い払い、
大変な努力を払っています。




艦隊の一番外には駆逐艦ばかりが16隻、まるで時計の文字盤のようにきっちりと
縁を形作るように配置されており、円の最前端と最後尾には

「ブラッシュ」(DD-715)と「コラハン」(DD-658)

が固めています。
円の中ほどには

「ミズーリ」(BB-63)「インディアナ」(BB-58)『ニュージャージー」(BB-62)
「マサチューセッツ」(BB-59)「ウィスコンシン」(BB-64)

などの戦艦が配され、その間を埋めるように

「ボルチモア」(CA-68)「ピッツバーグ」(CA-22)『インディアナポリス」(CA-35)

などの重巡洋艦群、そしてさらに

「マイアミ」(CL-83) 「ヴィックスバーグ」(CL-83)


などの軽巡洋艦が配置されます。



 
ここまでは十分素人にも理解するに易い構成だったのですが、
上の図で言うところの円の外側をごらんください。

「レーダーピケット」「50マイル外」

これらは米海軍が定めた

「レーダーピケット艦」

の役割を担っている駆逐艦です。

レーダーは第二次世界大戦中に急速に発達しました。
大戦終盤、日本の「神風特別攻撃隊」などの特攻攻撃が行われるようになってから、
米海軍機動部隊は駆逐艦などの自衛能力に優れた小型戦闘艦に大型レーダーを搭載し、
「レーダーピケット艦」として早期航空警戒と迎撃戦闘隊の誘導に使用しました。

この配置図に「50マイル外」と書かれているように、レーダーピケット艦は
機動部隊本隊から遠く航行し、敵空母艦隊が存在すると予想される方向に展開します。
ここでレーダーによる情報収集を行い、敵の攻撃隊を探知し次第、
味方機動部隊本隊にその情報を送信する役目を行います。

この情報を受け、艦隊旗艦は迎撃戦闘機隊に迎撃を命じ、
必要に応じて追加の戦闘機を発進させるなどの指令を下します。

もし、戦闘機による迎撃をくぐり抜けた敵の攻撃隊があったら、空母を護衛する艦艇が対空射撃を行い、
さらにその対空射撃を突破した敵航空機には空母自身による対空射撃が待っているという次第。

アメリカ海軍はレーダーピケット艦を駆使した

「戦闘機による迎撃」「護衛艦の対空射撃」「空母の対空射撃」

といった三段構えのシステムで敵攻撃機を迎撃していたのです。

「ホーネット」を旗艦とする艦隊の作る巨大な円の四方外に配置された駆逐艦4隻、

「カッシング」(DD-550)、「マッドックス」(DD-73)、 
「シュローダー」(DD-50)、「フランクス」(DD-554)、

これらのレーダーピケット艦に指名されたフネはいずれも精鋭艦だったはずで、
というのは このレーダーピケット艦は敵を長距離から感知できるだけあって、
敵からも感知され、攻撃されやすい艦位であったからです。


そこでアメリカ海軍は第二次世界大戦直前に、レーダーピケットの役割を
駆逐艦ではなく潜水艦に負わせることにしました。
潜水艦ならとりあえず潜行することによって駆逐艦より生存率は上がります。

しかし、この図面によると、艦隊のレーダーピケットは従来通り駆逐艦が行っているわけで、
はて、どうしてだろう?従前の艦隊配置図ってことかな?


「レーダーピケット」を艦船に役目を負わす戦法は、原子力潜水艦が運用されるようになった
1959年を最後に完全に不要のものとなり、廃止されました。
性能が向上したレーダーによって探知距離も増大し、わざわざ専用の艦艇を先行させなくても
敵の攻撃に対応できるようになった ためです。




そしてこちらが現代の艦隊の配置図となります。

空母が中心であることは同じですが、ずっとコンパクトな構成となっています。
昔と大きく違うのは、E-2Cホークアイ(あのお皿を背負った飛行機)などを早期警戒機として
飛ばすようになったことです。 

図の上には

「空母戦隊の指令は空母に座乗しているリア・アドミラル(少将)によって下される」

と書いてあります。
補給艦、給油艦、ammuiition shipという、弾薬を補給する船までいますね。



艦船の機能が大きく変わり、艦隊戦の考え方も変遷してくると、
こういう戦略も当然のように変わってくるわけですが、
日本にはこういうことを”学問”として一般人が学ぶことのできる機関が全くないらしいですね。

軍事学の範疇となるわけですが、軍事学は実質防衛大学ぐらいでしか学べないようです。
インテリゲンチャとは軍事に無知であるべき、というのが戦前からの傾向でもあったわが国では、
これも極めて当然のことに思われます。

しかし軍事学は戦術学などだけではなく、防衛や安全保障という一面を持つものなのですから、
他国のように一般教養として軍事学を(なんなら”軍”を使わない別の名前で)
学べるようになっていくべきである、とわたしなど思ったりもしますが・・・。

まあ当分わが国では、夢のまた夢みたいな話でしょうね。





続く。



 

 

マケイン中将と神風~空母「ホーネット」艦橋ツァー

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「ホーネット」の艦橋ツァーに参加したのは実は相当前、2013年のことです。
そのうちお話ししようと思いながらイベントが重なって、延び延びになっていました。
あまりにも日にちが経ちすぎて、せっかくツァーで解説員の話を聞いてきたのに、
こうして久しぶりに写真を見てもあまり思い出せることがなく(笑)、
つくづく、帰ってすぐにエントリをまとめるべきだったと後悔しています。



さて、日本では現存されているかつての軍艦は「三笠」だけだと思うのですが、例えば
学校の社会見学が行われたり、近くの園児が遠足で来たり、ということは・・・というか、
「三笠」に限らず、およそ自衛隊関係の資料館が課外授業に使われることはあまりなさそうです。

知覧の特攻記念館や広島の原爆資料館は修学旅行の目的地にもなるようですが、
(何を隠そうわたしの卒業中学の修学旅行は広島~四国で、原爆資料館見学が組み込まれていた)
それは日本の歴史の「負」の部分だけをクローズアップした”平和教育”の一環としてであって、
翻って旗艦として勝利を収めた日本海海戦を語ることになる「三笠」や9条的に「憲法違反」
の存在である自衛隊施設は対象外、というのが日本の教育現場の総意だからではないかと思われます。

この「ホーネット」博物館を訪れたとき、何組もの学校単位の見学や、
幼稚園児の群れを目撃したのですが(いずれもサマーキャンプのアクティビティだと思われる)、
日本とはこういう軍事的なヘリテイジに対する考え方が随分違うものだと思わされました。



軍事的遺跡ではあっても、歴史や軍事について「だけ」を学ぶ場所という位置付けではなく、
特に学齢層が見学に訪れることを踏まえてか、「ホーネット」艦内には
いたるところにこのような教材的説明のポスターが貼られていました。

例えばこれですが、飛行機の上昇、下降の基本的メカニズムみたいなのがわかりやすく
図解で記されています。航空力学の範疇ですかね。


機体は浮力より重力が上回った時上昇するが速度は落ちる

浮力は重力より劣位になる

機が下降すると浮力が失われるが速度は増す

速度が増すと機に上昇するために必要な浮力を与える

浮力が重力より優勢になるまで機は上昇を始める


当ブログは航空の専門家も見ておられるので、用語的に正しいのかどうか、
書くのが少しためらわれるところですが、とりあえずこう翻訳してみました。

で、それが何か?

とわたしなど思ってしまうというか、なぜ「ホーネット」博物館で
航空力学の図解を必要とするのかいまいち解説の言いたいことがわからぬのですが、
これも学校単位で訪れる見学者のための「サービス」かなあと思ったり。

わからないといえば、この近くにあった、



これも、なぜここで説明することなのか少しわかりかねます。
一応これも翻訳しておきますと、

#1 暖かい海水(26~7℃)はハリケーンにエネルギーを与え、
  さらに水蒸気が湿度の高い空気と雲を作る

#2 上昇気流となる

#3 空気が上昇するため風はストームの上を外側に流れる

#4 湿った空気が嵐の雲を発生させる

#5 風が外からハリケーンを攪拌することによって規模が増大する 


はい、よくわかりました。・・・・・でそれが?

とここでもおもわず真顔になってしまったのですが、航空力学はともかく、こちらの話題は
「ホーネット」と若干どころかかなり関係があったことが後からわかりました。

 前のシリーズエントリで、この日本軍に沈められた「ホーネット」の後釜として急遽
「ホーネット」と名付けられたところの航空母艦が、まるで先代の仇を討つかのように、
阿修羅の様相で(というのはかなり適切でない表現かもしれませんが)宿敵の日本軍と次々交戦し、
その武功抜群を讃えられて(この表現もあまり適切ではありませんが)、
7つの従軍星章、殊勲部隊章をあたえられた全米の9隻の空母のうちの一隻となった、
というようなことを縷々お話ししたわけですが、そんな最強空母にも勝てないものがありました。

沖縄近海で見舞われた台風です。



あらあら、甲板がまるで紙のように折れてしまっていますね。
「大和」特攻となった海戦で「スーパー・バトルシップ・ヤマト」(本当にそう書いてある)は
俺たちが撃沈した!と大威張りの「ホーネット」でしたが、この坊ノ岬沖海戦後、
米軍の沖縄上陸を支援していたホーネットは台風に襲われ、あっさりと崩壊してしまいます。

この「神風」にはひとたまりもなく、彼女はサンフランシスコへの帰港を余儀なくされたのでした。



さて、アイランドツァーは最上階の艦橋にまず上がってきました。
日本の軍艦では戦闘指揮所と操舵が一緒になることはまずなく、というのは
ひとところに全てが集中しているとそこが攻撃された場合ジ・エンドになってしまうからですが、
米空母も同じ理由で役目が分散されているのだそうです。




これが「ホーネット」の「司令官の椅子」だ!

「ホーネット」は旗艦でもあったので、艦隊司令が坐乗し指揮を執る艦隊用の指揮所と
艦長が指揮する操艦用の艦橋は別になっていたはずです。
冒頭にもお断りしたように、このアイランドツァーに参加してから日が経って
記憶がすっかり薄れてしまったので断言はしませんが、ここは艦隊指揮所の方です。



レイテ沖海戦は、連合国側からは延べ734隻の艦船が参加していますが、
このときの「ホーネット」は、第3艦隊38任務隊の4つのタスクグループのうち、
第1群の旗艦として、空母ワスプを含む約40隻の陣頭に立っています。

このとき「ホーネット」に艦隊司令として坐乗したのが、

ジョン・S・マケイン中将

でした。
共和党のマケインさんのお祖父ちゃん(シニア)で、息子のマケインJr.も
大将まで出世した海軍軍人ですが、この元祖マケインのアナポリスでの成績は
全く奮わなかった(116人中79位)ということでです。

51歳でなぜかパイロットを任命されるなど、出世の王道をひた走ったわけではありませんが、
部下を鼓舞させるようなカリスマ性のせいか、はたまた飲む・打つが豪快だったせいか、
いつのまにか(笑)海軍少将に昇進し、アーネスト・キング大将という後ろ盾を得て、
キングの肝いりで創設された航空部の司令官の座と中将への昇進を手に入れることになります。

とにかく、「ホーネット」のマケイン中将は、この海戦で退却する栗田艦隊に痛打を浴びせ、
その後38任務隊の司令であったマーク・ミッチャーを蹴落として(?)代わりに司令官となりました。

艦隊司令としての彼の仕事はほとんどが「神風との戦い」に尽きました。
「フランクリン」「ベローウッド」「レキシントン」をことごとく特攻隊にやられ、
マケインはいかにこの恐ろしい攻撃を回避すべく作戦の陣頭指揮を取り、ある程度それは功を奏したのですが、
同じ「神風」でも、前半でもお話しした「自然の神風」には敗北を喫することになったのでした。

海戦終了して司令官になったばかりの第36任務隊は、沖縄海域で「コブラ」という名の台風に遭遇しますが、
あの「レッドブル」こと猛将ウィリアム・ハルゼー提督が

「台風を避けずに中を突破する!」

と力強く言い切ったのに対し、マケインはもみ手をしながら(かどうかは知りませんが)

「そうです!台風何するものぞ!さすがはハルゼー閣下!あんたは大将!」

(といったかどうかは知りませんが)追認してしまったのが運の尽き。
案の定艦隊は大自然の威力には到底太刀打ちできず、駆逐艦3隻がこれにより沈没してしまいます。
国民に人気があったので更迭とまではいきませんでしたが、この責任を問われて
ハルゼーはスプルーアンスと交代、我らがマケインはもう一度ミッチャーと交代して
38任務隊司令から元の第1群司令に格下げとなりました(T_T)

しかしハルゼーとマケインコンビの不幸はこれに止まらなかったのです。

沖縄戦が始まった時、またしてもハルゼーはスプルーアンスと、マケインはミッチャーと
交代しており(このあたりの人事が全く理解不可能なのはわたしだけでしょうか)、
艦隊の指揮を執ったのですが、この二人が組むとなにかネガティブなものを引き寄せるのか、
(後者の名前のせいだ、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか)
第38艦隊の進路に再び大型の台風が接近していることがわかりました。

さあ、今回はどうする、ハルゼーとマケイン!

「台風の只中を突破するっていうのも今考えたら無茶だったな」
「そうですよ閣下。今回は進路を予想した上でちゃんと避けないとですね」
「・・・きさまあ、何を上から目線で言ってやがるんだ!
前回俺の意見に全面的に賛同してたのはどこのどいつだこのマザー◯ァッカー野郎」
「伏字で罵らないでくださいよ~。今はそんなこと言っている場合じゃないでしょ」
「うむ、そうだな・・・・で台風の進路はどうなっとる」
「ここがこうでこうくるはずですから、この際台風の南にまわり込みましょう!」

というような会話ののち(かどうかは知りませんが)二人が予測した台風の進路は
大外れ。

「きいさまああ!全くハズレやのうて大当たり、台風直撃やないかい!」
「閣下!落ち着いてください!今はそれどころでは」
「きさまがこの責任を取って今すぐ台風から抜け出せ!
たった今から戦術指揮をきさまに全て移譲する!」
「ひええええ」

という会話の後(かどうかは知りませんが)マケインはハルゼーに変わって艦隊指揮をとり、
なんとか台風から抜け出したのですが、被害は甚大でした。
・・・・・それが、前半でお話しした「ホーネット」の甲板破損、「ベニントン」も同じく大破、
重巡「ピッツバーグ」は艦首をもぎ取られて漂流という災難だったのです。

この「ハルゼー・マケインコンビ」は今度こそ厳しく訴追されました。
ハルゼーはまたも国民の人気を理由になんとか首の皮一枚つながったようなものですが、
マケインの方は後ろ盾だったキング大将からも見捨てられ、更迭の通知を受けます。

その時には病に侵され体重が45キロになるなど憔悴しきって、帰国したらすぐに退役しようと
決意していたマケイン中将は、「最後の花道」として戦艦「ミズーリ」艦上の
日本の降伏文書調印式に参列し、帰国と同時にこの世を去りました。

この参列はハルゼーの好意(か罪滅ぼしかは知りませんが)により実現したと言われています。

合掌。



艦橋の指揮所窓からは、かつて軍港でありここから「ホーネット」が出撃した
アラメダの港湾地域が一望に広がっています。
向こうにうっすらと見えているのが、このときわたしが車でここに来る時渡ってきた
サンマテオブリッジという連絡橋で、方角でいうと南になります。

かつてマリアナ海で「七面鳥撃ち」をした航空機や本土空襲に向かう飛行機の発着はじめ、
坊ノ岬沖での「大和」の沈みゆく姿、初めて月着陸を果たした人類を乗せたカプセル、
そしてマケイン中将を苦しめた二度の「神風」・・・・・・・。


いたるところにひびの入ったガラスは、それら全ての出来事を、この艦橋に映してきたのです。


続く。

 

” I HAVE THE CONN"(もらいます)~空母「ホーネット」艦橋ツァー

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空母「ホーネット」艦橋ツァー、続きです。
前回空母「ホーネット」の指揮所について艦隊司令だったマケイン中将と
ハルゼー元帥のハートウォーミングな逸話()で終わりにしましたが、
このマケイン中将は第38任務隊の司令官であったミッチャー中将と
任務隊隷下の第一群司令を交代し合っていた関係で、「ホーネット」に坐乗したのは
そんなにしょっちゅうだったわけではなさそうです。

自衛隊の護衛艦などでもそうですが、海軍軍人の任期というのは艦長職でもだいたい1年。
我々の感覚からは驚くほど短いものです。

 

艦隊指揮所らしい部分から移動する途中にあった得体の知れないもの。

「PELORUS」(方位儀)と書いてあるので方位儀だと思うのですが、
舷側に置かれているせいか蓋が閉められた状態です。
このおかまの蓋みたいなのを外せば方位儀の盤面が現れる?

 

ツァー御一行は艦橋をほぼ一列になって移動します。
次に案内されたのがこの船室。



ツァーガイドは必ずこのような「手頃な」年齢のお子様に椅子に腰掛けさせ、
彼なり彼女なりにアメリカ人らしくまず名前を聞き、

「ジェイミー、それではこの椅子に座ってまず何が見える?」

みたいな質問をしてそれを説明の導入につなげるというようなことをします。
この時の”つかみ”が何だったのか日にちが経って忘れてしまいましたが、
彼が要するにこの椅子が誰のためのものなのか、きっかけになるような発言をしてくれれば
こっちのもの、というわけです。

子供が座ってもかなり高い位置にあるので窓から外が見渡せるこの席、
このことを、ガイドは
 
「ホーネットのコマンディングオフィサーの席」

であると言っていた覚えがあるので()艦長席のことだろうと思われます。

ところで艦橋に配置される構成員は三種類に分けられます。

1、OOD、The Officer of the Deck(当直士官)

2、JOOD、The Junior Officer of the Deck(副直士官)

3、JOOW、Junior Officer of the Watch(操舵員)
 

OODは海軍海自でいうところの「当直士官」。

ナビゲーションについての責任、たとえば衝突回避などの措置を取るのもこの役目。
メインエンジンの制御についても受け持ち、コマンディングオフィサー(艦長)の
判断に必要な報告書を作成する係でもあります。

 

 

往時の使用例をどぞー。

これを見てふと思ったのですが、海上自衛隊の慣習である
赤だったり赤と青だったり黄色があったり、という椅子カバーの色分けは米海軍にはないんですね。

このセイバーリッチという軍人は1969年から1年だけ「ホーネット」の艦長だったのですが、
現在はもちろんそのお仕事中の写真を見ても、カバーがそもそもかかっていません。
「ファイナルカウントダウン」でカーク・ダグラスが色付きの椅子に座ってた記憶もないな。

というわけで、改めてあれは自衛隊独特であるらしいことが分かったのですが、
ということは、双眼鏡のストラップの色を含め海軍時代に生まれた慣習なのでしょうか。



さて、このセイバーリッチ艦長の任期を見ても、日米ともに艦長職は短期であるようですが、
wikiにも書いていないほどたくさんいる「ホーネット」艦長経験者の中で
どうしてこのセイバーリッチ艦長が有名なのかと言いますと、彼の在任中、
「ホーネット」は第二次世界大戦の功労艦として最後の花道ともいうべき、

「アポロ11号ならびに12号の乗員とカプセルを回収」

というミッションに参加しており、セイバーリッチ艦長はそのどちらもの任務を完璧に
やり遂げたのち、最後の艦長として「ホーネット」の退役を見送ったからです。

「ファイナルカウントダウン」でも、カークダグラス扮するイエランド艦長は
ずいぶんお高いところにふんぞり返って座っていた記憶がありますが、
「艦長の椅子」は、360度回転し、窓の外が一望できる高さにあります。



近くで盤面の写真を撮ることができなかったのでわかりませんが、
羅針儀かテレグラフ(速力通信機)であろうかと思われます。



年代を感じさせるテレビ型のモニターと、左側は風力、風向計。
風速は単位がわかりませんが83を指しているので、多分作動していないんでしょう。



艦長の椅子と羅針儀の後方にはこのようなコーナーが。
ここも中に入って写真を撮りたかったのですがお子様が退かなかったので
色々と重要なものを撮りそこなってしまったようです。

今年の夏はちゃんと撮ってきます。(−_−;)



時計もいつの頃からか針の動きを止めてしまったようです。
窓カラスの張り巡らされた艦橋の天井角の丈夫そうな時計には蜘蛛の巣がかかっていました。



空母にもサイドミラーがあったとは・・・・。
この鏡にもさぞかしいろんなものが映し出されてきたのだろうとついしみじみ。
経年劣化で鏡の層が剥がれてしまっていますね。





これが羅針儀でしょうか。
だいぶ部品がなくなってしまっているように見えます。



ALIDADEとは平板測量用器具で、水平器と定規を備え,平板上に載せて
地上の目標の方向距離高低差を測定するものの意味だと思うのですが、
ここに書かれているのは転じて「平板」から、もしかしたら甲板のこと?



扇風機、照明器具、スピーカー、電話の線らしいのがもう一緒くたになってカオスです。



これなんだと思います?
機械の横の黒いプレートにはレーダーと書いてあるのでレーダーなんですが、
昔のモニターは陽の光のもとでは見にくいものだったせいか、
光が入らないようなカバーをして覗きこむようになっていますね。

レーダーの後ろのスイッチのいっぱいついたボックスは、マイクです。



ベトナム戦争にもちょっと参加した「ホーネット」。
甲板上から哨戒のために飛び立つグラマンのトラッカー。

「ホーネット」は1967年の夏、作戦行動でずっとベトナムの海にいたこともあるそうです。



ニクソン大統領が「ホーネット」に坐乗したこともありました。
フラッグブリッジ、すなわち「ホーネット」が旗艦だったときに、
マケイン中将とミッチェル中将が代わりばんこにここに乗り込んだ、というところですね(笑)

「ホーネット」は人類初の有人月面着陸を果たしたアポロ11号の乗組員と司令船、
そして12号の乗組員と司令船を回収したのですが、アポロ11号の回収時には、
ホーネットの格納庫甲板内において、ニクソン大統領が、移動式の隔離室に収容された
アームストロング船長以下計3名の乗組員と対面したからです。


さて、わたしが「いせ」の艦橋で出航作業に立ち会った時、海軍海自伝統の
「いただきます」を目撃(しゃべっていたので正確には目撃しそこないましたが)
したのですが、アメリカ海軍にもこのような形式がちゃんと存在します。

たとえば、当直士官の交代の様子を見てみましょう。


スミス中尉(仮名)はOOD、デッキオフィサーで、(ジョン・)ドゥ中尉が彼の交代員です。
ドゥ中尉は戦闘情報センター(CIC)をチェックし見張り中に起こると予想される必要な処置、
ナビゲーションで航路をチェックし全ての命令に目を通し、周囲の船舶の位置を確認。

これらが済んだら、ドゥー中尉はスミス中尉の前に立ち、

"I am ready to relieve you, sir."

あなたを交代させるための用意ができました、つまり交代準備完了です、といったところでしょうか。
このようにいい、 スミス中尉も

 "I am ready to be relieved.”

交代される準備完了、と告げます。
その後二人は引き継ぎ事項として自分が任務に立っていた時の確認要項を申し送り、
それらが済んだ時点で

"I relieve you, sir."

と改めて言い、スミス中尉の方は

 "I stand relieved. Attention in the  bridge, Lieutenant Doe has the deck."
(ブリッジに交代に立ちます。ドゥー中尉は甲板へ)

しかるのち敬礼を交わし、甲板に移動したドゥー中尉はそこで

"This is Lieutenant Doe, I have the deck."

と任務を引き継いだことを表明するということです。
海軍から続く慣例で現在の海自でも操舵を「いただきます」と言うように、
アメリカ海軍の持ち場を「I have」という独特の言い回しが定型化されているのも
おそらく昔からの船の上の慣例というものだろうと思われます。

ちなみにどちらも中尉であるのにドゥー中尉がスミス中尉に「Sir.」を使用しているのは
実際の階級に関係なく「こういうことに決まっているから」だそうです。

2番のJOOD、副直士官は、自衛隊だとだいたい1尉か2尉が充てられ、
必ずOODは3尉あるいは1佐というように階級が決まっています。 

 3番のJOOW、ジュニアオフィサーは、"conn"という任務を通常負うことになっています。

 connとはそのまま「操舵」という意味を持っており、つまり操舵員のこと。
「いせ」では艦長に航海長が「いただきます」と言っていましたが、上からだと「もらいます」
と言い、米海軍ではこの「いただきます」「もらいます」のときに

"I have the conn,"

というのが一般的で、他の言い方は

"I have the deck and the conn," 

となります。

全体的に組織でもラフで、形式を合理的に省略することの多いアメリカ人ですが、
海の男たちのしきたりは、ほかの世界ではないくらい厳格にそのまま引き継がれているようですね。






遺骨帰還事業と宇都隆史議員のお話

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先日防衛省のお膝元にある市ヶ谷で行われた防衛団体、GO!友会の懇親会。
この日をもってこの団体に参加することが決まったわけですが、与えられた肩書きは

防衛部長

防衛部長ですよみなさん。
防衛部長って何をしたらいいのかさえわかりませんが、とにかくまた名刺に書くことが増えたわ。
地球防衛団体の顧問もそうですが、こういう関係団体って仕事らしい仕事がないせいか、
肩書きといっても考えつく限りのそれらしいものを濫発してるみたいで、
ふと民主政権時代に一人でも多く「元大臣」の肩書きを与えるために、節電大臣とかボランティア大臣とか、
学級会の係みたいな大臣のポストを増やしていたのを思い出しました。

防衛団体というものが、社会的には実質学級会くらいの位置付けだってことなのかもしれませんが。





さて、この懇親会には、何人かの国会議員の中に自民党の宇都隆史議員がいました。


外務大臣政務官として、世界を飛び回っている宇土議員、この懇親会の挨拶でも

「7時間後は日本を出発する飛行機に乗っています」(行き先は失念)

ということでした。
このように外務大臣政務官は激務であるようで、先月は国某協会主催の講演会が
政務官としての任務が入ったため中止になり、残念に思っていたところです。

ここで見かけたが千載一遇のチャンスと思い、直接ご挨拶をさせていただきました。


この日の水交会会長の挨拶では、奇しくも海上自衛隊の練習間隊出航が 
この直前に行われたことの報告があったのですが、遡ること1年前、
平成26年練習艦隊を晴海埠頭に見送ったわたしは、半年の航海を終えた彼らを、
同じ埠頭に迎えるという光栄に浴しております。

このとき、海上自衛隊の歴史上初めて、外地で戦没した旧日本軍将兵のご遺骨が
練習艦隊の旗艦「鹿島」に抱かれて日本の土地を踏む瞬間を見たのですが、
この帰還の実現には宇土議員が

「党遺骨帰還に関する特命委員会事務局長」

として奔走し、外務大臣政務官として現地にも赴いたことを知る身として、
そして国民の一人として労いの一言を述べさせていただきたいと思ったのです。



遺骨に花を手向けるため歩むその日の宇土議員。



このとき、やはり出席していた佐藤正久議員。



ところで、民主党政権時代、全てのことは暗転し、日本は没落への道をひた走り、
国体崩壊までまっしぐらだった、と思っている方は多いかと存じます。

確かに民主党の支援団体を見ただけでも、よく3年3ヶ月の間国が保ったものだとは思いますが、
細かいところでは必ずしも日本の不利益だけを目的に政治をしていたわけでもないのです。

・・・・って当たり前なんですが、こんな解説をしなければいけないこと自体、
あの政権がいかに異常だったかってことでもあるんですけどね。

特にこの戦没者の遺骨収集事業。

「史上最低の無能総理」とまで言われた菅直人が、ことこの遺骨事業に関しては
やるべきことをやっていたことだけは認めなくてはフェアではないでしょう。

硫黄島の遺骨収集作業の大幅な効率を上げるため、アメリカの公文書館で戦闘当時の
資料を探せといったのも菅元総理本人だったという話ですし、その結果、
公文書館で見つけた地図に「エネミーセメタリー」の文字を見つけ、そこから集団で埋葬された
日本軍将兵の遺骨を収集することにつながったわけですから、これは紛れもなく「功績」です。

そういえば菅元総理が、ある日の国会で唐突に

「硫黄島での遺骨収集事業は、わたし”が”やった」

と言いだしたことがありました。
わたしはちょうどそれを車の中で聞いていたのですが、もともとそのようなことが
議題に挙がっていない答弁のさなかの、まさに唐突な発言に思われました。

今考えれば、ご本人としては、これは誰からも評価されるべき功績の筈で、
俺がこんなことをやっているなんて知らないだろう!
責めてばっかりいるんじゃねーよ野党!これは認めてくれよ、という、いわば
日頃追い詰められてばかりいる者の”窮鼠猫を噛む”的唐突発言だったのかもしれません。


この功績が顧みられなくなったのは、たとえば遺骨に軍手のまま手を合わせている写真を
うっかり撮らせてしまい、それが報道に流れて

「票のためのパフォーマンス」

なんていわれてしまったり、それを打ち消すに余りある日頃の行いだったり、
失礼ながら当人の人徳のなさから来たこととはいえ、少し同情に値します。

まあ、菅直人が始めたことでもないし、彼だけがやったってわけでもないのですがね。



それはともかく、こと戦没将兵の遺骨帰還に関しては、それこそ超党派で
少しずつではあるとはいえ、切れ目なく前に進めているのは確かですが、
今までは法制化されていなかったため、それを宇土議員は特命チームの長として
佐藤議員らとともに推し進めており、ついに今国会で承認されたとのこと。

しかし法制化にはある程度タイムラグがあるため、実施は今の予定では8月になるそうです。

「それは何としてでも8月15日までに間に合わせていただきたいものですね」

わたしがいうと、宇土議員は

「もちろんその日には何が何でも間に合わせるつもりでやっています」

と返答されました。
この日、やはりお話を伺った元陸幕長は

「日本の終戦は8月15日じゃないです。
天皇陛下のお言葉があった日を終戦にしてしまっているけど、
本当の敗戦はミズーリの上での降伏調書に調印した9月2日です」

というのが持論で、 まあわたしも厳密に言うとそんな気がするのですが(笑)

いずれにしても遺骨の帰還を法律ですることが戦後70年の節目には実現するのは、
遅きに過ぎるという気はしますが、また一つ「戦後」から一歩進んだと言えるのかもしれません。


しかし、ご遺骨の収集事業そのものは、まだまだ「法制化で緒に就いただけ」です。


海外などからの戦没者の御遺骨の収容は、昭和27年度から南方地域において始まりました。
その後、平成3年度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者について、
更に平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても御遺骨の収容が可能になりました。

 

この結果、これまでに約34万柱の御遺骨を収容し、
陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、
海外戦没者約240万人のうちの約半数(約127万柱)の御遺骨を収容しています。

 


戦没者の御遺骨が残されている地域には、相手国の事情や海没その他の自然条件等により
収容ができない地域等が残されていますが、政府としては今後も現地政府などからの
残存遺骨情報の収集に努め、そうした情報に基づき、御遺骨の収容を実施することとしています。

相手国の事情により御遺骨の収容ができない国には、外務省と連携して、
御遺骨の収容の実現に向けて努力しているところです。

なお、旧ソ連及びモンゴル地域においては、先の大戦の後に約57万5千人の方々が抑留され、
約5万5千人の方々が抑留中に死亡されていることから、
こうした抑留中死亡者の方々に関する埋葬地の特定や計画的な御遺骨の収容の実施に努めており、
平成26年度までに19,445柱の御遺骨を収容し、モンゴル地域についてはおおむね収容が終わっています。

そして厚労省では、日本人戦没者のための慰霊碑を建立することと、
慰霊巡拝を計画的に実地して、遺族の方々の巡拝を支援しています。

(厚労省HPよりの抜粋)


まだこのような法制が敷かれていないにもかかわらず、去年の練習艦隊が遺骨を持ち帰ることになったのは、
宇土議員や佐藤議員らと防衛省、そして当時の海幕長であった河野統幕長、
現場のすべての熱意によって実現したものだそうで、わたしが

「練習艦隊が遺骨を持ち帰るというのはこれから恒例となるのですか」

と尋ねると、

宇土「河野統幕長、当時海幕長なども大変そのことに乗り気で是非そうしたいと
いうことになったので、おそらく間違いはないですが、
練習艦隊が旧日本軍の戦跡に毎年寄港するかというと、そうではないので・・。

たとえば今年の練習艦隊は、マゼラン海峡を抜けた後は南米一周です。
日本軍の戦跡となると、パールハーバーしかないんですよ。
ですから毎年というわけには行かないのですが、寄港できる年には実現させたいとの意向です」

わたし「もちろんどんな方法で帰ってきても、日本の土を英霊が踏むことには違いないですが、
海軍艦で日本の地を後にした方々ですから、できるだけ海自の艦で帰して差し上げたいですね」

宇土「そうなんですよ。
ああいう儀式の時には、海自は殉職者の慰霊の際に使う”葬送の譜”を演奏するのが
恒例となっています。
”葬送の譜”って、らーらららーら♪(とメロディをフルで歌うw)というあれですが、
わたしは、”それではだめだ”と。
”お迎えには彼らが知っている曲でないとだめです” と言って、
”海行かば”を演奏することを・・・、こう言っては偉そうですが、命令?したんですよ」

わたし「ああ、それで”海行かば”だったんですね・・・。
わたしは旧軍の将兵のみなさんをお迎えするのにこれ以外ない曲だと思っていました」

宇土「あの曲が流れた時ですね、わたしもですが、あそこにいた者は皆涙を流しました」

わたし「わたしも涙を抑えられませんでした・・・。
このメロディを今、英霊の方々はここで一緒に聞いていると思って」


 あの「海行かば」の演奏がご本人の指示によるものだったと聞いて、
わたしは思わず目の前の宇土議員に頭を下げずにはいられませんでした。

わたしが、幕僚の1佐から聞いた、

「航海中、ご遺骨を安置した”鹿島”の船室には常に誰かが手を合わせるために訪れ、
実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」

という言葉をもうご存知だったかもしれませんが、お伝えしたところ、
こんな話をきかせてくれました。

ホニアラ島でご遺骨を明日は「鹿島」に乗せるという日、現地は篠突くような大雨に見舞われ、
明日の式典はどうなるかと皆は危ぶんでいたところ、
当日は昨日の荒天が嘘のように晴れ渡り、抜けるような青空が広がったというのです。

前日の雨は、日本からの迎えが来てくれたことに対するの英霊の涙雨だったのかもしれない、
と皆は言い合ったそうです。

が、 ガダルカナルのご遺骨の全柱帰還までにはまだまだ及びません。
宇土議員も、

「 わたしはあの雨は、未だあの地にあって帰還できない方の涙でもあると思いました」

自分のこれまで成したことは、まだ道半ばにすぎないことを肝に銘じている人の表情でこう言いました。




 



海軍設営隊の大東亜戦争

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何回にも分けてお話をしてきた呉海軍墓地の碑にまつわる逸話シリーズ、最終回です。
そこで今日は呉海軍墓地の歴史についてお話ししておきたいと思います。

呉海軍墓地がここにできたのは明治23年。
呉鎮守府が開庁されたのが前年の明治22年ですから、海軍は戦没海軍軍人の霊を祀る、
人々の心の拠り所となる慰霊の場を何よりも優先して設けたということになります。

海軍はここ長迫に用地8,503坪を買収し、墓地の管理は呉鎮守府が行い、
開廟以来毎年秋季に慰霊祭を執り行ってきたのですが、昭和20年の終戦と同時に廃止されています。

終戦直前の7月24日、28日の呉軍港大空襲、次いで9月の枕崎台風による水害で、
海軍墓地は無残に荒れ果てたのですが、呉復員局が中心となって地元有志の力で復旧させました。

以降、心ある人々、団体、付近住民の奉仕によって清掃と供養が続けられてきましたが、
昭和43年になって「呉海軍墓地顕彰保存会」(のち財団法人化)が組織されました。
その後ここは呉市が維持管理を行い、環境整備と年一回の慰霊祭を行っています。



墓地の南端には、古い墓石ばかりが肩を寄せあうよう並べられていました。
苔むし遥か昔に建てられたと思しき墓石は、その文字すら判然としないのですが、
一番左の石にこの事情がわかる文字が刻まれていました。



といっても、こちらも文字が欠けたりしてろくに読めないのですが、

「本地域一在」「九基墓」「不明のため移転す」

そして昭和10年の日付並びに呉海軍の文字がなんとか読み取れます。
どうも、昭和10年ごろ、この墓地が再整備されたときに残されていた墓石を、
海軍墓地の隅にまとめて移転させたということを、わざわざ断っているようです。

もう手入れすることもない個人墓(しかも大きさから言って庶民のもの)であっても、
決して粗末に扱って廃棄してしまうなどということをせず、
こうやって説明のための石碑まで作って、ちゃんと場所を与えているのです。
海軍だったから、というより日本人であれば当然の行いであると思われます。


余談ですが、近年、日本の各地で神社に放火されたり、御神木が枯らされたり、
道祖神が盗まれたり、京都の神社仏閣に油が撒かれたりする事件が相次いで起こっていますね。
偏見でもなんでもなく、こういうことを行えるのは、まず日本人ではないとわたしは断言します。
日本人なら理屈抜きで、そんな行為には必ず祟りがあるとその血が信じている筈だからです。



墓地南端にはいつ整備されたかわからない、誰も通らなさそうな階段があり、
さらには何のために作られたかわからないテーブルと椅子がポツンとありました。
春にはきっとここには桜が花を咲かせるのでしょうけど、花見を楽しむような場所ではないし・・。

そしてこの石碑。

「皇太子殿下御降誕記念樹 昭和八年十二月廿三日健之」

とあり、今生陛下のお誕生を祝って植樹されたことがわかるのですが、
周りにはそれらしい樹は全く見当たらず、どうやらその木は戦災に焼けたか、
あるいは台風の時に倒れてしまったかで喪失し、碑だけが名残りをとどめているようです。




「第103海軍工作部 戦没者之碑」

工作艦というのがありましたが、工作部というのもそれと同じ、工廠の仕事をする部門で、
工作艦が「移動工廠」ならばこちらは「出張工廠」とでも言うべきでしょう。
艦船修理、小型艦船建造等の技術部隊である第103海軍工作部は、呉海軍工廠の人員を
部隊として、そのままフィリピンの軍港に派遣したものでした。

ちなみにこの「工作部」という名称は現在も自衛隊に引き継がれており、

「 横須賀地方総監部横須賀造修補給所工作部」

などが現存します。
艦船修造技術を習得する教育機関としては、かつて横須賀と沼津に

「海軍工作学校」

があり、船匠・鍛冶・溶接・潜水作業などの工作術を始め、ダメージコントロール、
築城術、設営術、航空機整備術の技官や職工を養成していました。
こういうところの出身者が海軍工廠、あるいは根拠地に工作部として派遣されたのですが、
この第103部隊は、昭和17年にフィリピンに進出してそこを根拠に修理などを行います。

しかし、戦況はますます厳しく、アメリカ軍がフィリピンにも進出してきたため、
工作部長早川海軍少将以下200名の本部隊員たちは、昭和20年、ルソンに転出を余儀なくされます。
艦艇修理ではなく、今や陸軍の後方部隊として生産・輸送に携わりますが、
米軍の進出にまたしても追い詰められたため、山岳地帯への移動を余儀なくされました。

艦船修理という元々の任務など、ここでは全くお呼びではありません。

山中を逃げ回り、食べ物を探すのがやっとの毎日の中で、工作部員たちは次々と飢餓に倒れ、
マラリアに伝染し、 終戦後、山から下りることのできたのはごくわずかだったのです。

また別の第103工作部の部員1500名も、隊長である技術中佐の指揮のもと、
マニラで武器製作に携わっていましたが、 やはり陥落寸前に街から脱出して陸軍とともに
山岳地帯を転戦し、果ては食料欠乏のため部隊を解散するに至ります。

四散した隊員たちはやはり飢えと病気、ゲリラの襲撃に次々と斃れてゆき、
終戦のときに生き残っていたのは、わずか数名であったそうです。

技術者の集団で、武器を扱う訓練も満足にしていなかった工作部が
山中に逃れてゲリラと戦っても、生き残る見込みはまず無きに等しかったでしょう。
彼らの多くは昭和20年6月20日に死亡が認定されており、これはおそらく
大規模なゲリラとの戦闘がこのときに行われたからではないかと思われます。 



慰霊碑の傍らには施錠された名簿を収納するボックスが設置されていました。
関係者だけが鍵を開けて名簿を閲覧することができるようです。

このようなツールが備えられている墓は少なくとも見た中ではこれだけで、
いかにも技術者の慰霊碑だなあと思わされました。

おそらく生き残った元工作部隊員が考案して設置したものに違いありません。 



さて、そこで冒頭写真の慰霊碑です。

 呉海軍設営隊 顕彰慰霊碑

長迫公園の海軍墓地の説明を見て、
この慰霊碑が海軍設営隊、27部隊の大合同慰霊碑だったことを知りました。

割り振られた番号はすべて地域ごとであり、パラオ、ラバウル、ペリリュー、香港、バリ、
ブーゲンビル、鎮海、マニラ、カビエン、ブカ、タラワ、バリクパパン、昭南島、宮古・・。

大東亜戦争における激戦地をほとんどすべて網羅するかのように地名が記されています。

わたしは海軍設営隊についてを知るために、海軍技術大尉だった予備士官(日大土木工学科卒)
佐用泰司氏の著書、

「海軍設営隊の太平洋戦争」

という本を読んでみました。
技術下士官としてニューギニアに転進した部隊の指揮官をしていた人で、
その体験記は、簡単に言うと、先ほどの工作部と全く同じ。
すなわち、

進出→戦況悪化→転進・餓えやマラリアとの戦い→転進・自活生活のノウハウ→敗戦

といった現地での悲惨な思い出がほとんどすべてといっていい内容でした。



海軍といえば、誰しも艦隊、航空隊考えるのが常です。
戦争映画というとこれら兵科の戦いが描かれ、ごくまれに陸戦隊が加わります。
次にはこれらの艦艇、砲、飛行機を製造する工廠や航廠について目がいきます。
近年零戦などの名機を作った技術者に目を向けた作品も増えてきましたが、
これらの膨大な施設を建設管理する組織について関心が払われたことはかつてありません。

しかし、すべての基礎である施設の建設がなくては何も行うことはできないのであり、
設営部隊の存在は(現代でもそうですが)大変大きなものなのです。

大東亜戦争は補給戦でもありました。
補給の防衛は海洋築城の重要性を必要とし、その急激な発展を見たのです。
太平洋の要所に多数の築城施設を整備し、邀撃決戦を行おうとする考えです。

敵国であるアメリカの設営隊は略称シービーズ(C.B's)と言いましたが、
設営隊員は自らを「See-bees」(海のハチ)と誇りを込めて自称していました。
ハチのように勤勉に、島伝いに基地を設営しながら進撃するという意味です。
国力の違いはここでも重機機器の装備となってあらわれました。

シービーズたちは新型のキャリーオール・スクレーパーなどを駆使して、
超スピードで航空基地もあっという間に造ってしまいます。

対して日本海軍では、国産機械を装備した設営隊が前線に出動したのは昭和18年の後半。
しかしその国産機械の多くはアメリカ軍の鹵獲品の模造にすぎず、
操作技術の未熟もあって、故障が頻発するという始末です。 

設営隊の段階で、すでに日本は圧倒的に負けていたのです。


そして米軍設営隊が自らの任務に誇りを持っていたのと違い、ありがちな話ですが、
大砲や軍艦ではなく、ブルドーザやパワーショベルで戦う部隊は軍隊扱いされず、
海軍技師が指揮官、幹部は文官、隊員は土工、鳶工、大工などの軍属部隊だったので、
いくら上層部が、

「工員に自覚と誇りを持たせよ。海軍工員は陸軍の工兵に相当する施設兵だ」

と強調しても、

「気持ちは兵隊でも身分上は工員」

という中途半端な時代が長らく続いていたといいます。

昭和19年5月、「技術下士官及び兵」の制度ができて「軍人設営隊」が編成され、
ようやくこの半端さが身分上は解消されたのですが、それはつまり、
南方の根拠地の防衛戦のために急速設営が必要だったから、という理由によるものでした。

加えて彼らは名目上の軍人であり戦闘部隊ではありませんから、自衛のために必要なわずかの小銃、
そして手榴弾の他は武器らしい武器などもたせてもらえず、そもそも戦う技術もありません。
しかし、太平洋の島々に配置され、敵と相見えることになった時、
彼ら設営隊は最後までこれと戦わなくてはなりませんでした。


そして最後の一員まで戦い抜くと悲壮な決意を持っていながら、戦う武器を持たぬ彼らは
多くの設営隊がサイパン、テニアン、グアム、硫黄島、沖縄などで玉砕することになります。

ここに合祀されている設営隊のうち、
第214設営隊(ペリリュー)と大318設営隊(グアム)はほぼ全滅、
第218設営隊(グアム)は玉砕つまり全滅しています。

太平洋で玉砕した設営部隊(ここに合祀されていない)は14部隊に上ります。


ところで、佐用氏の本にもブーゲンビルの戦記でも見られたことなのですが、
どういうわけか、陸軍部隊の自活は海軍に比べて常に遅れをとっていました。

海軍部隊が自活の必要性を見越して、耕地の開墾に身をやつしていた頃も、
陸軍は対空遮蔽を犠牲にしてまでも畑を作ることを頑としてしようとせず、
海軍の作った畑が収穫期を迎える頃、陸軍では皆が栄養失調になりかかっており、
全員の体力が失われて、層原始林を切り開くことなどできなくなってしまう悪循環。

見るに見かねて海軍側が貴重な甘藷の苗を割譲しましたが、三ヶ月後の収穫も待てず
植え付ける前に食べてしまったりして、さらに状態は悪くなるばかりです。

佐用氏は、サラワテにいた陸軍指揮官の指揮官が、

「開墾したくても道具がなく本土の師団からは何も送ってきてくれない」

と嘆くので、

「我々の使っている道具はトラックのスプリングやシャフトから鍛治で作ったものです。
陸軍も工夫して作って見られたらどうですか」

と提案すると、

「しかしふいごもないし石炭もない・・」

創意工夫というものを全く放棄して、ただ本土からの支援を待っているだけの指揮官に、

「ふいごも我々は自分たちで作ったのです」

と激励のつもりで言ったのですが、内心「絶対的な命令と服従」によって動かされてきた軍隊
(つまり陸軍)には将兵の間に唯々盲従と諦めが蔓延しているのではないか、
なぜ此の期に及んで忍耐強く命令と補給を待つのだ、と絶望したと回想しています。

しかし、前線の小部隊、つまり本土との連絡などもう全く当てにならなくなった部隊は、
陸軍であっても「背水の陣」の創意工夫を発揮し、自活への道を切り開いています。

彼らは「漁労班」を結成して(軍隊ですから)精米袋をほぐして漁労用の網を綯い、
鉄器来週の隙をみてはそれを引いて魚を獲りました。
そして海軍部隊の農作物と陸軍部隊の魚で体力を回復した一行は、
互いに競争するように工夫を出し合い、ボートを作り、鶏を養殖し製塩を行い、
「エビオス錠」から麹を取り出して醤油を作り、酒を製造し、石鹸を作り・・。

必要からは工夫が生まれるという言葉の通り、何もないジャングルで
彼らは知恵を出し合って生きる闘いを余儀なくされていたのでした。


戦争で多くの人命が失われましたが、南方に陸上部隊として前進した人々の多くは
戦闘でなく、自然との戦いに斃れていきました。
その際、上からの命令に対して比較的フレキシブルな体質だった海軍の方が、
命令系統が厳格で、従属を是としていた陸軍より、生存自活に長けていたというのは
なかなか興味深い傾向ではあります。


 
というところで、何回かに分けて語ってきた、「海軍墓地シリーズ」、終了です。

またいつか機会があったらここ長迫公園の海軍墓地を訪れて、今度はゆっくりと、
今までここで書くために調べて知ったことを思い返しながら、
海軍の英霊たちに慰霊を捧げたいと思っています。



 

 

元ペルシャ湾掃海派遣部隊司令官の語る集団的自衛権

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現在の国会では集団的自衛権についての議論が佳境を迎えています。
野党はここぞと集団的自衛権はアメリカの戦争に巻き込まれる法案だ、
という一点に絞ってそこをオールスター()でついてきているわけですが、
たまたまわたしはそのオールスターの質疑のうち、民主党代表の岡田克也氏と、
共産党の志位和夫氏のをリアルタイムで聞きました。

んーーー。

志位さんの質疑はわたしはあまり聞いた記憶がありません。
さすがに法案が法案なので、共産党もラスボスを投入してきたみたいなんですが、
失礼だけどわたし、思いましたね。
志位さんってこんなに頭悪かったんだ。って。
お父さんが陸軍軍人でご本人も東京大学を出てるはずだし、性格も
勝手に温厚な人だと思っていたんだけど、どうやらそれは単なる買いかぶりで、
所詮は「普通のサヨクの親玉」にすぎなかったんだと。

内容を簡単にまとめると、

アメリカは昔から侵略を繰り返してきた。
例えばトンキン湾事件ではマクナマラ長官の指示によって米艦艇が攻撃されたことにし、
それをきっかけにベトナム戦争に突入した。
イラク戦争も、大量破壊兵器を持っていると事実でない決めつけのうえ攻撃を開始した。
その間自民党はアメリカを一言も非難しなかった。
陰謀によって侵略をするアメリカを非難したことのない自民党、自民党もアメリカと同類だ! 

ベトナム戦争の時、日本は後方基地となった。
イラク戦争でも自衛隊を派遣して治安維持を行い、アメリカに協力した。
今後アメリカが行うかもしれない侵略戦争で、日本は集団的自衛権によって
派兵してアメリカの戦争を支援するつもりか!


まあ、こういう面から見たらそうとも言える、としかわたしには言えませんが。

集団的自衛権でアメリカの戦争にまきこまれる、というのはもはや定番の反対意見ですが、
安倍首相が懇切丁寧に、それについては我が国の平和と安全が侵される時に限る、
と繰り返して実証をあげ説明しているので、この部分の反論についてはそれを見ていただくとして。

じゃ、世界はその時アメリカを非難して制裁決議でもしたのか、
国連はベトナム戦争に介入してたのか、って話なんですがね。

非人道的な侵攻を非難しなかった=与している

という二元論は、この「複雑怪奇な」世界情勢においてあまりにも
物事を単純化してませんか?

じゃ、日本はかつて公式に天安門事件を非難したか?
現在進行形で行われているチベットへの弾圧を非難したか?
南沙諸島でまさに今行われている中国の侵略を非難したか?

とまず志位さんにはそのことに対するご意見を聞いてみたいものです。
 
 

さて本題。

先日、「沖縄県民かく戦ヘり」という最後の電文を残して自決した、
沖縄の陸戦隊司令官だった大田實海軍少将についてのエントリをまとめました。
大田少将については以前から書きたくて仕方がなかったのですが、
やっとのことで6月13日の大田少将の命日に合わせてアップすることができます。

このエントリ製作のために各種検索していて、偶然、大田少将の息子であり、
戦後海上自衛隊でペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮した、落合(たおさ)氏が、
新聞のインタビューに答える形で憲法改正について語っている記事を発見しました。

まず写真を見て、そこに在りし日の写真に残る大田少将そっくりの面影を認め、
大田少将について調べるために読んだ本に載っていた家族全員の写真では、
幼い子供だということを考えても全く父に似ているとは思えなかった落合氏が、
かつて沖縄県民を守るために立ち上がった戦いに敗れ、この世を去った父と
同じ年代になってこれほど同じ雰囲気を湛えているのに驚きました。

日本にとって国際貢献第一号となるペルシャ湾掃海部隊を出すにあたって、
海上自衛隊の幕僚監部は、指揮官である落合さんの紹介パンフレットを作りました。
それにはこのように書かれていました。

「部隊の能力は指揮官の能力を超えることはないと言われる。
指揮官はあるときは十分に深い知識を持ったエキスパートであり、
あるいはどっしりとした山のような存在となって部下に安堵感を与える父でもある。
このような観点から、(略)総会派遣部隊指揮官として任命された1等海佐、
落合(たおさ)の人物像について触れてみたい。

落合1等海佐を語るには、まずその父、太田実中将について語らねばなるまい」

以下、陸戦隊の一人者である大田少将の「かく戦ヘり」が述べられるのですが、
これは6月13日の当ブログ記事で詳しくお読みいただければと思います。

今日は、大田中将の息子であり、国際派遣部隊の指揮官として、各方面から
その頼もしさを信頼され、人間性を慕われた落合元海将補が、
憲法改正と集団的自衛権についてどのように言及しているかをお話しします。


落合1佐が率いた掃海部隊が出されたとき、日本には自衛隊の海外派遣に関する
明確な根拠法は議論すらされていない状態でした。

1990年の湾岸戦争のとき、日本は90億ドルもの巨額の支援金を出しながら、
その「金は出すが人は出さない」という姿勢を「国際貢献していない」として
世界から非難されることになり、支援感謝の広告に名前を載せてもらえなかったのです。

このときには国名もよく知らないような小さな国でも、
たった一人か二人参加すれば十分国際貢献を認められていたということで、
日本のようにたとえ何億出しても人をよこさない、
つまり「汗をかかない国」はむしろ軽蔑の対象でした。


落合氏は、この待遇が不満でたまらず、総会に参加した9カ国の指揮官会議の二次会で、

「俺んとこだって90億ドル、日本人の大人一人が1万円ずつ払ってるんだ」

と悔し紛れに言ったところ、その場の皆がこう言ったのだそうです。

「大人一人が100ドル払えばペルシャ湾に来なくて済むんだったら世界中誰でも払う」


この国際貢献のために、自衛隊法99条「機雷等の除去」の範囲を広げて
自衛隊を派遣することを、国会で決定することになった時、
共産党、社民連が牛歩戦術(笑)で抵抗し、メディアは一様に
「日本が戦争に巻き込まれる」という「市民の声」だけを選んで報道しました。

(あれから13年ほど経つわけですが、日本は戦争に巻き込まれてなんかいませんね~棒)

いろいろあって派遣が実現したのですが、当時、湾岸戦争は休戦協定が成立してはいたものの、
現地は戦争でも平和でもない、混沌とした状態が続いていたため、
自衛隊は派遣中、ずっと米海軍に警護してもらっていました。

仮にも国際的には「軍」であるのに、なんとも情けないことではあります。
機雷の除去のため、という大義名分で、それでも紆余曲折の末海外に派遣された自衛隊ですから、
与えられていた権限は正当防衛と緊急避難だけでした。
信じられないことですが、自衛隊は丸腰で行ったのです。

共同で任務に当たった8カ国からは「非武装で来たのか」と驚愕されました。

しかし、この初めての国際派遣を決めたことは、戦後日本におけるターニングポイントとなりました。
とにもかくにも、国会の場で、それまでタブーとされていた自衛隊のこと、あるいは
軍備についてを議論のテーブルに乗せることができるきっかけとなったのです。
その範囲は今日に至るまでじわじわと拡大し、ようやく集団的自衛権行使の成立にまでたどり着きました。

この掃海部隊派遣以降、国連平和維持活動(PKO)への参加や周辺事態法の制定、イラク戦争。
憲法との整合性を問われ続けながらも、自衛隊の活動範囲は広がってきました。
それでも自衛隊は創設以来、他国の人を殺さず、戦闘で死亡した隊員は一人もいません。


落合氏は今その時の任務を振り返り、現場では落合氏だけでなく皆が、
自分たちの任務だから、攻撃に遭う可能性があるとしても覚悟を持って臨んでいた、と言います。
その覚悟は、国家、国民に奉仕することを誇りに思う気持ちから生まれてきたものだったと。

自衛隊は軍隊でないし、隊員は軍人ではなく国家公務員という立場で、
これは今も変わることはありません。
ただ、国際社会では実質、軍隊に等しいと受け止められているし、落合氏も軍隊だと明言します。

そして、部隊が派遣先で力を発揮できるようにするには、必要な法整備をして
自衛隊員の精神的な基盤となる身分と権限をはっきりさせるべきだといいます。

何かあるたびにその場しのぎで関連法案を作るなどということをするから、
国会を震源地にマスコミが煽って結果大騒ぎにるのであって、
大きな枠組みとしての法的基盤を作らなければ、今後もそれが繰り返されるだけです。

これはとりもなおさず、憲法の改正につながっていくとわたしは見るのですが、
どっこい憲法9条を「守る」ことが平和への道であると信じている人々は、
改正イコール「戦争のできる道」と短絡的に直結して拒否反応を起こすわけです。

いつぞや、カタログハウスの某通販生活という左翼系オルグ型通販雑誌の読み物で、

「血を流すべきという人は本当にその意味を考えたことがあるのでしょうか」
「集団的自衛権を決める人は、自分が行くわけではないからですよ(^◇^)」

などという香ばしい対談を読んで、げっそりした話をしたことがありますが、
こちらの落合(恵子)さんのそれのように、集団的自衛権の行使を認めれば、
日本がかつて来た道を歩き、戦争するのではないかという意見に対しては、
落合氏はわたしと全く同じ考えをお持ちのようでした。

 集団的自衛権は、戦争が起きないようにするための抑止力になる

というものです。
これについては、先日、元海幕長の講演会について書いたエントリで、

”国家間の話し合いに、我が国が戦争という手段を取ることはありえない。
ゆえに日本が集団的自衛権を行使するとき、それはどこかが攻めてきたときである”

という趣旨のことを書いたのですが、落合氏は別の言葉でこのように言っています。

日本が攻めてくると思っている国があるだろうか。

そして、わたしが、

「集団的自衛権とは双務的、つまり対等に行使されるべきである」

とした部分についての氏の考えはこうです。

「日本が攻撃されたら助けてほしい。
しかし、あなたたちの国が攻められても、日本は助けることはできません」。
今の状況ではこうなるが、とても世界で通じない。
日本と同盟関係を結ぶ米国は、よく我慢していると思う。
現在の国際社会は、特に安全保障分野では多くの国々が互いに補完し合っている。
「平和憲法があるから」と言われても、となるのではないか。


抑止力についてもですが、現状、実際に懸念すべき国が隣にあること、
そして日本もまた国際社会の一員であるということを論点からすっぽりと外してしまって、
ただひたすら、

「集団的自衛権で戦争のできる国になる」
「憲法改正したら徴兵制になる」
「アメリカの戦争に参加させられる」

というような極端な仮定におののいている(ふりをしている?)志位さんをはじめとする人々は、
日本という国が、国際社会において戦争という最悪の問題解決の手段を回避するだけの
知性や理性の類を一切持ち合わせていない、と固く信じているようです。

そして実際にも戦後70年の間一人も死なせず、一人も犠牲になっていない平和国家である自国より、
現在進行形で覇権拡大を実行しつつある国や、我が国と価値観を共有できない国の方を
信頼しているらしいというのは、どうにも解せないのですが・・・。



自身が国際貢献活動の現場で、かつての、”金だけ出す国日本”の孤立を肌で知った者として、
むしろ落合氏は、

太平洋戦争の時のように国際社会で孤立してしまうことの方が心配だ。 

と考えています。


落合氏は、沖縄で自決した父のことを、今でも

「親父は軍人として本当に最も良い死に場所を得た」

と考えており、自分自身、父の死に様に「指揮官先頭」を学びとったといいます。
そしてペルシャ湾掃海の任務に就くにあたって、落合1左は何より「父に負けまい」と思いました。
「覚悟を持って臨む」ということです。

その覚悟から、最初に母艦「はやせ」に乗り込んだ時、

「ようしッ、一番最初に俺が”故・海将補”になる!」

と言ったところ、とたんに皆の

「やめてくれ」「やめてくれーッ」 

という叫びが一斉に起こったそうです(笑) 

 

 

参考:憲法 解釈変更を問う 元海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官・落合さん
   中國新聞 広島平和メディアセンター

   「沖縄県民斯ク戦ヘリ」太田實海軍中将一家の昭和史 田村陽三 光人社NF文庫
   
   海上自衛隊 苦心の足跡 「掃海」 財団法人水交会 



 


海軍兵学校同期会ふたたび~「最後の一兵まで」

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元海幕長の講演会が終わり、出席者一同は会食の準備が行われるため
一旦部屋を出て皆ロビーでしばしの間待機となりました。
わたしが前々回ご紹介した山本五十六の書や大和の絵画などは、
全てこのとき時間つぶしに撮ったものです。

このとき、ガラスケースの中に自衛隊編纂による水交社発行の冊子(というより大全?)
があるのに気付きました。



「海上自衛隊 苦心の足跡」というシリーズで、正直このタイトルは
わたし的にはあまりイケていない気がしないでもないのですが、内容は

船務・航海 水雷 回転翼 掃海

とそれぞれに関係者(その任務に携わった自衛官)の証言を網羅した、
興味のあるものにとっては大変貴重な書籍です。

特に掃海についてはこういうちゃんとした記録を是非欲しいと思っていたので、
わたしはこれが購入できるかどうか事務局の方に尋ねてみました。
すると、水交会の会員でないとそれはできないとのこと。
水交会会員とは、海軍軍人か自衛隊員、またはそのOB、遺族に資格があり、
ただ海軍海自に興味があるという程度の部外者は普通なれないものなのですが、
唯一、抜け穴(といったら人聞きが悪いですが)があって、
現役会員の推薦を受ければ会員になることができます。

本を購入するためではありませんが、たまたまその前に、Sさんが

「もし会員になるんだったらわたしが推薦人になりますよ」

と言ってくださっていたので、それではぜひ、という話になったばかり。
これは渡りに船、とばかり、会員手続きと本の購入を同時に申し込みました。

「え、これ全部買うの?」

とSさんは目を丸くして苦笑しておられましたが、確かに全く中身を見ずに
これだけの本をポンと買うなんて(しかも自衛隊員でもないのに)、
水交会にとっても、おそらくまれに見る変わった人だったに違いありません。

すぐには用意できないということだったので会合が終わったら取りに来ることにして、
水交会を辞去するときには事務局の方が車まで段ボール箱に入れて運んでくださいました。

帰って早速目を通してみると、「掃海」は、戦時掃海を海兵46期の田村久三氏
(掃海関係者なら知らない人はいないという名前ですね)がまず回想しているのに始まり、
先日お話しした朝鮮戦争の頃の日本掃海艇の出動にまつわる思い出、
時代は現代になってペルシャ掃海に参加した自衛官たちの随筆、水中処分のあれこれ、
後半には伊勢湾台風にはじまり近年の災害派遣について、と大変濃い内容となっています。

皆様方にとっても大変興味深い内容であると思われるので、またこの中から
自衛隊の「苦心の足跡」をご紹介していくつもりです。



さて、先日この会合で行われた元海幕長の講演会の内容に私の意見を加え
一項を割いてお送りたわけですが、会合の最初からもう一度レビューします。
全員がそろってからまず、開会の辞、そして軍艦旗敬礼(写真)が行なわれました。

水交会なのでそういう音源には事欠かないらしく、ちゃんと敬礼ラッパが鳴り響きました。
ほとんどの元生徒は写真のように軍艦旗に対して敬礼を行っていたわけですが、
わたしやわたしの前にいた豹柄のブラウスの女性はもちろん行いません。
そして案の定(笑)、わたしの隣のSさんも。


そのあと、解散して同時に結成された「クラス会」について、世話人会長に
押し上げられた(というか押し付けられたという方がいいかも)元生徒が、要約すると、

「引き受けたは引き受けたが、わたしとしてもこういう歳であることだし、
お引き受けしてもどうなるかわからず、自信がないので、水交会の協力を仰ぎ、
一年ごとに活動内容を修正、継続可否を検討しながら進めることにした」

というようなことを説明したのち会計収支報告を行いました。
まあ、平均年齢が86~7歳とあっては、この腰の引け方慎重さも納得できるというものです。

「最後の一兵まで継続を維持したいという気持ちはあるものの~」

というところで、会場から失笑が漏れました。
その後講演会が行われ、元海幕長の講演が終了したというわけです。



講演中元海幕長は自分のPCから写真や資料などを投影していたので、
それらが終わった一瞬、コンピュータの画面がスクリーンに写し出されたわけですが、
・・・・・どこかで、すごくよく見た覚えのある形の護衛艦が・・。

当ブログのアイコンは1.74の「ちびしま」ですが、これは174の「きりしま」と同じ
「こんごう」型の1番艦、「こんごう」です。
元海幕長は操縦出身なのですが、P-3Cでなく護衛艦をスクリーンにしておられると・・。

そういえば、講演会のなかで海幕長は、

「軍艦(護衛艦ではなく、軍艦と言った)一つを動かすための指令系統、
そのために必要な職種は社会の仕組みを反映していて、それは人間社会の縮図ともいえます。
そして軍艦は美しく、機能的で技術の粋が集められた文化の結晶なのです」

みたいなことを力説しておられましたっけ・・。
わたしが「ネイビーブルー愛好家」である理由の一端が言い表されているかもしれませんね。
さらに、海の上独特の「儀礼」「礼式」の美しさに対する憧れというのもまた、
わたしを海軍ファンにしている情熱の大きな原動力でもあります。



ところでこんな話の後に何ですが、わたしはこのとき、
画面に現れた元海幕長のパソコンのスクリーンを見て、ふと、
先日ある大学で教授が、講義のためにスクリーンに自分のパソコンの中の
決して人に見られてはいけない画面を映し出してしまって、
大騒ぎ・・・ではないけど少なくとも大恥をかいたという事件を思い出しました。

産経新聞ニュース

> 教授は画像を消し、そのまま授業を続けた。

(何事もなかったかのように)と付け加えられそうな文章ですね(T_T)
 
 

わたしの斜め前に座っていた方は、熱心にスマホで写真を撮っておられました。
名刺入れ兼用らしいスマホケースには、さりげなく海軍旗と錨のマークのシールが。

もしかしたら戦後自衛隊にいたことのある方かもしれませんが、いずれにせよ、
海軍の「釜の飯」を食ったという経歴は、たとえそれがたった1年半のことでも、
少なくともここにいる90名の人々の人生にとって、大きな意味を持つものなのかもしれません。

敬礼をせず軍歌演習のときには逃げている「軍嫌いの」Sさんにとってもです。
なんだかんだいいながら、戦後の兵学校の集いには必ず出席して来られたのですから。



懇親会の会食はなんと立食でした。
わたしは食事が出ることをまったく聞いておらず講演会だけだと思っていたので、
Sさんに「お昼ご飯出るんですか」ととぼけたことを聞いてしまったのですが、
この日の参加費を、Sさんはいつの間にかわたしの分も払ってくれていたことが判明しました。

Sさんは何人かの顔見知りに顔を合わすたびに、わたしのことを誰とも説明せず、

「僕より海軍のことに詳しい秀才でね」

などと、どんな顔をしていたらいいのかわからない紹介をしてくださったのですが、
横にいていろんな人に引き合わされているうち、だんだん、Sさんでも
ここにいる全員を知っているわけではないらしいとわかってきました。

「ご存じない方もたくさんいるんですね」

「顔だけ知ってるけど名前は知らないとか、話したことないとかそんな感じ」

60年もの間、ずっと顔を合わせていながらまったく話もしない人がいるというのも
なんとも人見知りする日本人の集団らしいと思ってしまったのですが、この日、Sさんは
今まで「顔だけ知っていた」人と、わたしをきっかけに初めて話をすることになりました。



一人でいたとき、元生徒さんが、胸の名札を見ながら「◯◯のご親族ですか」と聞いてこられました。
どうも、わたしと同名の元生徒がいたようです。

「違うんです。ご縁があって去年の江田島にご一緒させていただきまして」


次に声をかけて来られた方にもそのようにここにいるわけを説明したところ。

「ほう、江田島といえば、ぼく、皆が見学している間ね、一人で抜け出して
古鷹山頂上まで登ってきたんですよ」

と仰ったので、思わず身を乗り出してえっ?!と叫んでしまいました。
この学年ということはどんなに若くとも80代後半、四捨五入で90になろうかという老人が、
おそらく、今のわたしなら息を切らすこと必至のあの峻険な山を登ってきたと。

なんでもこの方は11年前にも同じような機会に「裏の(本当の裏?)門を抜けて」
古鷹登山を敢行しておられるのだそうで、

「あのときは自分の体調が当日に良かったら登ろうと思って、そういう靴で来てました」

この日構内をほとんどバスで移動していながら、いっぱい歩かされて疲れた、
と文句を言っていた()Sさんにこの話を教えて差し上げたところ、

「え?古鷹山に?それはすげえなあw』

といってから会場を見回し、

「それどの人?」

わたしが指した方をご覧になるも、顔は知ってるけど話したことはないとのことです。
会合が終わった時、受付に名札を返す段になって、その方がテーブルの前にいたので
ご挨拶すると、わたしの代わりにSさんとその方が話し始めたというわけです。
わたしは水交会の入会書類を記入しなければいけなかったのでその場を離れましたが、
向こうの方で、その方がSさんに

「娘さんと一緒にこられてるのかと思いましたよ」

と言っておられるのが聞こえました。
Sさんはその人生で二回結婚をされています。
若き日はご本人も仰っていましたが「プレイボーイで」、かなりのMM。
やっかいなことにそれにKのつく「MMK」の方だったようで、60歳を過ぎてから
再婚した二度目の奥方とも結局は別れた、という波乱バンジョーのジョーです。
(”25歳も違ったらうまくいくわけないですよね”とのこと。いやそれは人による略)

というわけで今はお一人のSさん。
若い時にそれこそもてすぎて困るほどいっぱい恋愛したのだから、
我が人生一点の悔いなし、なのかと思いきや、わたしがTOの話をすると

「(仲が良くて)いいなあ」

と羨ましそうにおっしゃるので、なんだかそういう話は憚られてしまいました。


とりあえず同期会では三番目の奥さんと間違われなくてよかったです(´・ω・`) 



 

続く。







 

海軍兵学校同期会ふたたび~「長門」が運んだスタインウェイ

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水交会で行われた海軍兵学校クラス会に出席した時の話をしています。

冒頭画像は水交会の廊下に飾られていた写真なんですが、わたしがこの写真を撮っていると、
付き添いできたらしい女性が、

「これ、なんなんですか」

と話しかけてきました。
航行中の潜水艦の前に見えるのは・・・・これ、イルカの群れですよね!

皆さんは海面を縦横無尽にイルカが飛翔しているのをご覧になったことがありますか。
わたしはモルジブでクルーズをしたとき、見渡す限り海面を埋め尽くしたイルカが
トビウオのように跳ねながら泳ぎ回っているのを見たことがあり、おそらくこのとき見たイルカの数は
人生でそれまで見たイルカの頭数を上回っていたというくらいなのですが、
彼らが跳ねながら移動する速さは大変なもので、それこそ潜水艦の航行する速さであれば
一緒に泳ぐのにちょうどだったのではないかと思われます。

そしてイルカが遊び好きで、人がいると近寄ってくるというのはよく知られた話です。

ラナイ島のフォーシーズンズホテルは海岸線に建っているのですが、
前面の海はイルカの遊びに来るスポットで、彼らが群れでやってくるとホテルに館内放送がかかり、
海にいる人たちはわざわざボディボードなどでイルカたちに近づいていくのでした。

わたしは部屋から眺めていたのですが、イルカたちは人間が近くにやってくると、
明らかに彼らに見せるために、盛んにジャンプしたりしてくれるのです。

おかしかったのは、遠目で見ていても明らかにあまりお上手でないジャンパーがいることで、
たいてい体が一回り小さかったりするのですが、そういう「ジャク」が飛ぶと、必ず次には大人の、
熟練ジャンパーが見事なジャンプ(回転あり)を見せ、指導しているように見えたことです。

ハウスキーパーがそのときちょうど掃除に来ていたので彼女に聞いたのですが、
ホテルは彼らを呼び寄せるための餌撒きなどは一切していないとのこと。
ただ、イルカたちは「人間と楽しむためだけにここに来ている」ということでした。
つい、

「遊び」をせむとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、
遊ぶイルカの声聞けば、我が身さえこそ動がるれ

などと心に吟じてしまったものです。

で、この写真ですが、おそらく潜水艦の前を航行している船の後甲板から撮られたのでしょう。
イルカは賢いので、これがクジラだと思っていたわけでもないと思いますが、
大きな潜水艦が波を切って進むのを面白がってでもいるのか、潜水艦を先導するようにジャンプをしています。

これを発見した先行の護衛艦は、潜水艦にイルカのことを伝えたでしょうか。
というか、潜水艦からイルカは見えていたのかが気になります。




イルカ、じゃなくて潜水艦の横にあった96式陸攻の写真・・・・・ではなく、
これは写真に見えましたが仔細に見ると線描画のようです。
人間爆弾と呼ばれた「桜花」を牽引して飛ぶ96式陸攻。

贈呈者は江副隆愛(たかよし)、という方ですが、調べてみたところ、江副氏はかつて
第十四期海軍飛行専修予備学生で終戦時少尉であった方とわかりました。
上智大学から学徒士官として艦爆乗りになった江副氏は、特攻にも志願していますが、

「昨日まで馬鹿話していた戦友が次の日いなくなるというような毎日を送るうち」

終戦になり、結局生き残って、戦後は新宿に日本語学校を設立しています。

元特攻隊員だけど何か質問ある?特攻隊員江副隆愛さんの場合




さて、講演会が行われた後パイプ椅子を片付け、中央にビュッフェ台が並べられた
元の会場に皆に続いて入ったわたしは、思わず少し笑ってしまいました。
部屋の三方壁際にずらりと並べられたパイプ椅子には、入っていた順にぎっちりと
元生徒さんたちがお行儀よく?並んで座っており、立食だというのに立っている人は、
後から入ってきて椅子のない人たちばかり。

「Sさん、大丈夫ですか(立ったままで)」

「だから立食、嫌なんだよね・・・」

同行の元生徒Sさんも、やはり座っていたい様子です。
Sさんは、同期のクラスメートの中でもずっと親交のある仲間で定期的に集まっているのですが、
必ずそういうときには席について食事ができるような集まりにしている、と言いました。



しかし、会が始まって乾杯の発声が終わり、食事をすることになると、
立ち上がって食べ物を取らなくてはいけないので普通にこんな感じに。

 
ところでわたしは会食の準備をロビーで待っている間、近くの元生徒同士の
「千葉だか群馬だかの朝市にいった」という会話を聞くともなく聞いていたのですが、
この会食会場でも、そのじいちゃんは別の元生徒にまったく同じ内容の話をしていました。

「朝市に行ったらね、新鮮な伊勢海老!鯛!貝がいっぱいあってね!」

どこの出身なのか、しんしぇんないしぇえび!という言い方と海産物の順番まで一緒で、
微笑ましく聞いていたのですが、宴たけなわになり、マイクの前に立ってスピーチをした人が
その「いしぇえび」のじいちゃんでした。

さすがは海軍兵学校に行っただけのことはあって、戦後は京大に進まれたようです。
スピーチでなぜか京大の先生が死んだということと(´・ω・`)、

「皆さんはこの歳になると、やはり足腰が弱ってくるから是非訓練だと思って歩いてほしい」

みたいなことを言っていたかと思ったら、私事ですが、と断ってから、

「わたしは先日茨城(だか千葉) の朝市に行ってきたんですが!」

と始まったので、あ、さっきから朝市の話をしていたのはこのじいちゃんだったのか、
と思う間もなく、

「しんしぇんないしぇえび!鯛!貝がいっぱいあありましてね!」

と全く同じ話が始まりました。
こんなことをいったらお年を召した方に失礼かもしれませんが、可愛いなあ、と思いました。

すると、よこでSさんが、例の「座って食べる少人数クラス会」の話を始め、

「あいつ(いしぇえびのじいちゃん)うるさいから呼ばなかったら、
『なんでこの間呼ばないんだ』 『今度いつやるんだ』って電話がかかってきて、
(ハブったのが)ばれちゃったから、来月来ることになっちゃった」

などとおっしゃいます。
此の期に及んで仲間外れしないで、元生徒同士仲良くしてください(´・ω・`)



そのとき、窓際に座っていた一人の元生徒さんがわたしを見つけて手招きしました。

「あなた、どこかでおあいしたことありますな」

「去年の江田島です。同じテーブルを囲んでご挨拶させていただいています」

「あああ、そうでしたそうでした。またお会いできて嬉しいですよ」

この方は現役のお医者様で、殿様分隊だった学習院卒の「セレブリティ生徒」です。
戦後も皇室とは縁が深くていらっしゃった模様でした。
わたしの手を両手で握り実に嬉しそうにおっしゃいました。

先生の肩越しに窓ガラスの外を見ると、ここに住み着いているらしいネコが
気持ちよさそうに昼寝をしているので後で一枚。



アップでも一枚。
実に気持ちが良さそうだにゃ。



そして、一通り食べ物をお腹に入れてしまうと、潮がひくように皆、
椅子に座ってしまうのだった(笑)

軍艦旗の隣では元海幕長が、次々と前に来る元生徒の話し相手をつとめています。
司会の生徒が「最初の10分くらいはゆっくり食べさせてあげてください」と言ったのですが、
すぐに誰彼となく話かけてしまい、結局ろくに食べられなかったのではないでしょうか。

わたしも前が空いたらご挨拶しようと思って様子を伺っていたのですが、
一向にお一人にならなかったので、結局この日はご挨拶できずに会が終わってしまいました。



宴たけなわとなったとき、去年の江田島で

「軍歌演習を行う!」

と音頭を取った元生徒さんが前に立ちました。

「どうするんですか」

答えはわかっていましたが、笑いを含んでわたしが尋ねると、

「ロビーでタバコ吸ってきます」

とSさんはそそくさと部屋から出て行くのでした(笑)
そのとき、他の元生徒がSさんに、

「あ、また逃げ出してる」

と声をかけました。
どうもSさんの「軍歌嫌い」はクラスには周知のことのようです。
おかしいのは、これだけ徹底してこういうことから逃げ回っているくせに、
Sさんは海軍兵学校にいたことを、やはり自分の中で大切にしているらしいことです。

自分がかつて海軍に籍を置いたということを片時も忘れたことがないばかりか、
二十歳の時にわずか1年半一緒にいただけの仲間と、90歳を目の前にする今日まで
生涯にわたる厚誼を結び続けるというのは、自身のいうところの

「軍が嫌い」

というのと矛盾するようですが、おそらくSさんの中では折り合いがついているのでしょう。
本当に海軍が嫌いで話をするのも嫌なら、そもそもわたしと会ってなんかくれないでしょうしね。


軍歌で思い出しましたが、Sさんは前にも言ったように音楽通です。
あまりにもピアノが好きすぎて、ピアノを弾く人まで好きになってしまい、
今では有名になってしまったあるピアニスト(クラシック界に詳しければ誰でも知っている人)
の駆け出し時代パトロンをしていたり、二度目の奥さんはピアニストだったりと(; ̄ー ̄)

なぜそこまでピアノが好きになったかというと、S家の応接間には、なんと!
スタインウェイのピアノがあって、姉妹が弾いていたからだということでした。

「スタインウェイが、昭和初期の家庭に?!」

わたしがびっくりして聞き返すと、さらに驚くべき返事が。

「親父がね、上海か青島か、外地で買って軍艦で運ばせたんですよ。
当時はいいかげんだったから、そんなことも艦長ならできたんだろう」

ぐ、軍艦て、もしかして「長門」ですか。

「長門」がスタインウェイのピアノを運んだということなんですか。


自衛隊員が引越し荷物を飛行機に載せて運んだとか運ばなかったで
大騒ぎになった、という話を昔このコメント欄でしてくれた方がいましたが、
確かにそれが本当なら、さすがは海軍、そのころはゆるゆるだったってことなんですね。


Sさんは、応接間の美しいピアノが弾けるようになりたくてたまらず、
こっそり練習していたところ、父上の中将にある日それを見つけられ、

「男がピアノなんぞ弾くもんじゃない」

と言われたため、止めざるを得なかったということです。

「そんなものを弾くのなら大きくなったら尺八を教えてやる、っていってましたが、
教えてもらったことは結局ありませんでしたね」

「ピアノはその後どうなったんですか」

「空襲で焼けてしまいました」

「勿体無い・・・・・」


もったいないといえば、戦後困窮のなかで、S家は勲章を売ってお金に変えたのですが、
金鵄勲章は取っておいたのに、満州皇帝溥儀にもらった勲章(!)は、

「満州なんてもう無くなったから、この勲章にもあまり価値はないだろう」

などという独自の解釈(−_−;)で売ってしまい、今になって

「金鵄勲章なんて世の中にいくらでもあるのに、満州国皇帝からもらった勲章なんて、
歴史的にも価値のあるものを、二束三文で売ってしまってもったいなかったなあ」

とおっしゃっています。
たしかにそれは勿体無いですが、当時は色々としかたないですよね。


S中将の自宅(実に立派な門構えの写真を見せてくれた)は戦災で焼けましたが、
ちょうど隣の一角から向こうにはB-29は全く焼夷弾を撒かず、無事だったそうです。
やはり自宅を焼かれてしまった近所の奥さんに、

「御宅が軍人さんだからこの地域が狙われて焼かれた」

と母親が文句を言われたらしい、とSさんは話してくれました。



軍歌演習はまず、「江田島健児の歌」。
スマホに海軍シールを貼っている元生徒さんは皆の歌っているのを撮影中です。

しかし、去年江田島で、元海軍兵学校生徒と一緒にこの歌を歌うなど
おそらく最初で最後だろうと思い、ここでもそのように書いたのですが、
あまり日を分かたぬうちに、再びその機会が来てしまいました。



江田島健児が出たら、ちゃんと機関学校の校歌もやります。
この白髪を後ろで束ねた陶芸家みたいな生徒さんは機関学校卒である模様。

ちなみに機関学校の校歌は

「暁映ゆる青葉山 野は紫に山青く 

綾羅の色に染めなして 天地こむる朝ぼらけ

みよ舞鶴の湾頭に 我らが根城はそそりたつ」

というものなのですが、この冒頭の「青葉山」が、前にもお話しした、

江田島の「古鷹山」→重巡「古鷹」

横須賀の「衣笠山」→重巡「衣笠」

に同じ、命名基準は「海軍軍人に馴染みの深い山シリーズ」の

重巡洋艦の「青葉」に命名された舞鶴の青葉山です。



そして、最後に「同期の桜」が・・。

わたしはちょうどこのとき、こうなることを予想して廊下でイルカの写真を
撮っていたのですが(笑)案の定廊下から部屋を覗くと、みなさんこのように
肩を組みあって「同期の桜」熱唱が始まりました。

Sさんがこういうときにいつも逃げ出してしまうのも、わからないでもありません。
思想以前に、どうにもこういうのが面映いというか、照れくさくもあるのでしょう。
わたしも、Sさんが肩を組んで同期の桜を歌っているのが想像できません。

もしSさんが逃げ出していなければ、わたしもSさんと肩を組んで「同期の桜」を歌うことになるわけで、
なんだかそれもなあ、という構図に思われるので、正直、Sさんがそんな人で助かりました(笑)


 
さて、というわけで終了した海軍兵学校クラス会。

実は今回、わたしはクラス会の世話人会長さんとご挨拶をしたついでに、
兵学校とはなんの関係もないのに、このクラス会の会員にしていただきました。
もちろんわたしが頼んだわけではありませんが、なんとなく話の流れで・・。

これ、名刺に書いてもいいのかな?

「また何かあったら来てください。皆も喜ぶので」

そう言っていただき、恐縮しながら水交会を辞したわたしでした。





 

女流パイロット列伝~セシリア・アラゴン「空飛ぶサイエンティスト」

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今まで何人かの女流パイロットについてお話してきました。

その中には、ヴァレリー・アンドレのように、軍医としての活動のために
ヘリコプターの操縦をしていたようなインテリ女性や、
自らが自社化粧品の「イメージガール」として飛んだジャッキー・コクランのような
「商売上手」な女性、あるいは、映画界に誘われて女優をしていたルース・エルダー、
このような、飛ぶだけが目的でないパイロットが何人もいたわけですが、
それらの人々と、今日お話しするセシリア・アラゴンが一線を画しているのは、
彼女が航空ショーを単独で開けるくらいの実力を持ったパイロットでありながら、
それとは全く別に、科学者であり大学教授の顔を持っている、

「正しい意味での二足のわらじ」

を履いた女性であることでしょう。


まずは、このyoutubeを見てください」。

 
Cecilia Aragon, aerobatic pilot

改めて見ると、アクロバット・パイロットというのはなにより、
三半規管の出来が違うんではないか、とまずそこに感心してしまいますね。


彼女の肩書は

コンピュータサイエンティスト

大学教授

曲芸飛行パイロットでチャンピオン

どれもそう簡単にはなれない「選ばれた人」の職業でしょう。
(真中は、まあ、大学のレベルに応じていろいろですが)


ちなみに彼女が行うアクロバティックエアショーのパンフレットによると、

セシリア・アラゴンは、今日最も熟練の曲芸飛行パイロットの一人である。
全米アクロバットチームのメンバーに二回なっており、1993年には全米選手権のチャンピオン、
(女性だけの大会ではない)1994年にもカリフォルニアのチャンピオンになっている。
1990年以来プロの曲芸パイロットとして活動しているが、全米、そしてヨーロッパで、
今まで週百万人の観客の前で彼女はスタント飛行を行ってきた。
そして、その飛行時間5000時間に、一度も事故を起こしたことがない。

ちなみに、アクロバティック競技について説明している
ウィキペディアの英語ページを見つけました。よろしければ・・・・。


航空の黎明期には、何度も説明したように「初の女性」というタイトルで
有名になる女流飛行家がほとんどでした。
「男性パイロットの操縦する飛行機に乗っていた」というだけで、
「初の大西洋横断に成功!」などt華々しく持ち上げてもらえた時代には、
ほとんどが「女性では」とそのタイトルにつけられていたのです。
アメリア・イアハートですら男女関係なく「初めて」のタイトルはごくわずか、
というのが女流飛行家の限界を物語っていました。

しかし、彼女は、女性であることが全く考慮されない選手権で
並み居る男性パイロットを抑えてチャンピオンになり、その後も
曲芸飛行の一人者として、今日もショウを行っているのです。

続いてショウのパンフレットから。


セシリアの駆る特別仕様のセイバーが滑走路に向かって急降下するときに
たてる轟音は、ショウの最初からあなたの心をわしづかみにするでしょう。
垂直S字に離陸し信じられないパワーを発揮するセイバーの駆動も必見です!


この「垂直S字離陸」というのは原文では「vertical S right on takeoff」
となっていて、VTOL機でもないセイバーが垂直離陸するというのが全くイメージできませんでした。
たぶん、離陸するなりらせんを描くように上昇していくという意味ではないかと思うのですが。

セシリアはまったく息つく間もなく、極限のテクニックを駆使し、セイバーを操ります。
まさに目もくらむ速さで行う急降下と急上昇の繰り返しの連続には興奮せずにはいられません。
彼女の行うマニューバ(固定翼機の機動)には、

【テイルスライド】 
垂直上昇姿勢から空中に静止、そのまま元の経路を上向き姿勢のままバックし
後ろ向きにU字を描いた後、垂直降下する。

【ナイフエッジ】
90度バンクした姿勢での水平直進飛行、水平飛行を維持するため機首はやや上に向ける

その他、ローリングサークル、スナップロール、ロンセビアク、ネガティブGなどなど、
このほかにもたくさんが盛り込まれています。


これ、観てみたいですね。

さて、このように曲芸飛行の世界ではトップに君臨しているセシリアですが、
少なくとも1985年まで、コンピューターに張り付いている

高所恐怖症の

恥ずかしがり屋の女性が、こんな道を選ぶとはだれも想像だにしていませんでした。

「大きくなったら、科学者かアーティスト、どちらになろうかと悩んでいたの。
パイロットなるなんて、まったく考えもしていなかったわ」

彼女はインディアナ州に生まれ、カリフォルニア工科大学を卒業後、
U.C.バークレーでコンピュータサイエンスを学び、プログラマ―として働くため
サンフランシスコのベイエリアに住んでいるとき、転機が訪れます。

彼女の同僚が、ある日、パイパー・アーチャーに乗ることを誘ってきたのでした。
小さな飛行機は危険だから怖い、とその誘いを断っていたのですが、
ある日ふと考えを変えて、乗ってみることにしたのです。

「わたしはそのとき天国にいたわ」

彼女は回想します。

「そしてこう言ったの。これがわたしの夢だったんだ。これだったんだ、って」

その足で彼女はレッスンを申し込み、多い時で週80~100時間のレッスン代のために 
二つの仕事を掛け持ちしていたこともあったそうです。

ということは休みの週には一日一番多い日で14時間乗っていた?ってことですか。
朝6時から初めても終わったら夜8時・・・。
まあ、ベイエリアは夏は9時まで明るいから可能だとは思いますが。


彼女は現在、アクロバティックも学べる自身の飛行スクールをバークレーに持っています。 

ちなみにそのレッスン代ですが、

ストール/スピン安全コース・・・・・2.5時間講義、1.5時間飛行・・・・・675ドル

乱気流からの回復コース、落下傘降下含む・・・・・飛行3時間・・・・・1395ドル

曲芸飛行コース・・・・17時間講義、10時間飛行・・・・・・・・・・・・4195ドル


ちなみに最後のコースは、インメルマンターンを含む「十種マニューバーセット」で、
パラシュートのお手入れも教えてもらえるお得なコース。
すべてこれ、セシリア・アラゴン先生が直接指導します。

 まあ、これを見ても分かるように、こんな特殊なことを学ぶのですから、当然
レッスン代は非常に高額につくわけですね。

かつて彼女が週100時間のレッスンにいったいいくら払ったのか、知りたいものです。


これだけの飛行家としての活動は、しかし彼女の生活の「一部」でしかありません。

コンピュータサイエンティストとしての実績も錚々たるもので、彼女は
ライムンド・ザイテル教授との共同開発で、ツリープ理論構築
乱択アルゴリズムを使用した平衡2分探索木の1つ)の発表により、
Presidential Early Career Award for Scientists and Engineers (PECASE)
という科学者が非常に早いキャリアのうちに出した業績に対して与えられる
最高の殊勲賞を授与されています。

そして、現在はシアトルのワシントン大学で教授として、
ユーザー中心設計(Human Centered Design)と、エンジニアリングの講座を担当。


しかし、こんな超激務&危険な仕事を兼務して、なおかつ事故一つ起こさず今までやってきた、
ということそのものが、彼女を評価するにもっとも賞賛すべき点ではないでしょうか。

とはいえ、これだけ多忙に自分の「夢」を追いかけているのだから、
きっと家庭生活などは崩壊していたりして・・・、と世間は意地悪なことを考えるものです。
恥ずかしながらわたくしも、冒頭youtubeでは女の子しか出てこなかったので、
「うーん、やっぱり離婚しているのか」と思っていたら、HPによると、
彼女にはデイブという夫がいて、ダイアナという娘、ケニスという息子までいることが判明。


何もかも手に入れることのできる女性って、いるものなんですね。



 

映画「海底軍艦」~帝国海軍vs.ムウ帝国

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本日挿絵を見るなり「何じゃあこりゃあ」と思われた方、
おそらくあなたの嫌な予感は当たっています。
戦争映画をウォッチングしてきて幾星霜、エリス中尉とんでもない映画を見つけてしまいました。
おそらくここでネタにするという下心がなければ購入はもちろん、レンタルすら
もったいなくて躊躇われるレベルの映画であることは、

「戦後20年、未だ存在していた帝国海軍部隊が、ムウ帝国に立ち向かう」

という内容を見ただけで察しがついてしまったのですが、ポイントは「帝国海軍」。
「太平洋の嵐」など海軍ものを手がけた本多猪四郎(変換してみて”いしろう”と読むことを知りました。
今の今まで”ちょしろう”だと思っていて本田監督ごめんなさい)の作品で、
しかも藤田進、平田昭彦、そして主役に田崎潤が出る?それなら観るしかない!と
ほとんど怖いもの見たさでDVDをしかも購入してしまいましたorz

原作は1900年に発表された押川春浪の「海底軍艦」なのですが、

「孤島で海底軍艦を作る」

という発想以外はまったくつながりはなく、オリジナルのストーリーだそうです。
で、観ました。

途中で何度「なんでそうなるかな」「いやいやいやいや」を思わず口にし、
何度モニターにお茶を噴きそうになるのをすんでのところで堪えたことか。

というわけで、ここでツッコむ以外にこの映画の存在価値は全くない、
くらいの勢いでエントリ登場となったわけです。本田監督ごめんなさい。


さて、押川春浪の原作では、海底軍艦「轟天号」はロシアと戦うことになっているそうです。

ロシア・・・・・だと・・・?

1900年といえば、あの栄光の日本海海戦の4年前、つまりこのころは
仮想敵国としてロシアがすでに認識されていたということもあったんでしょうね。
「少年小説の先駆け」とされるこの小説で、当時早稲田大学(の前身の東京専門学校)
学生だった押川春浪は、はたして「国威発揚」を意図していたのか・・・・?

その後帝国海軍は、ちうか日本はロシアに勝ち、アメリカに負けて終戦となったわけですが、
それから戦後さらに20年を経て、このころは再びロシアが「仮想敵国」になっていました。
なんたる偶然。

なら原作のままロシアと戦うことにしても良さそうな気もしますが、
撮影のために必要な大量のロシア人だとか、当時の世界情勢とかがネックになり、
(たぶん)映画スタッフは、ここで思い切って敵を「ムー帝国」にしてしまったというわけです。

もうこの時点でキワモノ決定となったことは否めないのですが、
かてて加えて、帝国海軍の軍人が総出演するというトンデモ設定にしてしまいました。

ちなみに当時はまだまだ社会の構成員のほとんどが戦争を知っている世代で、
実際に脚本を手がけた関沢新一は海軍軍人として南方に出征しています。

ムー帝国と海軍軍人と海底軍艦。

この三題噺のテーマのような要素を組み合わせていったいどのように辻褄を合わせるのだろう、
とわたしは見る前から不安でたまらなかったのですが(嘘)、ご安心ください。
本映画は、つじつま合わせなし、伏線回収なし、オチなし含みなしついでに意味もなし、
すべてのそんな瑣末なことは、ムー帝国の皇帝の化粧の濃さを始めあまりのインパクトに
消し飛んでしまったという意味で、大変大胆かつダイナミックな作品となっています。



それでは登場人物を紹介していきましょうかね。
こ、このお方は・・・っ!
わたしが軍人役の時のみファンの、平田昭彦様!

ん~?
なんだってグラサンして運転なんぞしているんだ?
しかも後ろの人は苦しんでる様子。
拉致か?ラチズムか?



あ~びっくりした(笑)

皆さん、北あけみという女優さんご存知でした?
フランスの女優パスカル・プティに似ているということで、モデルから
女優になった当時の「お色気担当女優」的な存在だった模様。
で、本編では夜中の埠頭でヒョウ柄のビキニを着て写真撮影をするモデルの役。

一瞬出てきて服を脱ぎ、海の中から不意に現れるムウ帝国人にキャーと驚く、
というだけのチョイ役ですが、これが見たくて映画を見たという人もいたようです(笑)



北あけみ扮するモデルのリマコ(なんちゅう名前だ)を撮影していたのは
本編の主人公、というかなんでいるのか最後までわからないカメラマン、旗中(高島忠夫)。



助手の西部(藤木悠)。お調子者担当。



旗中が偶然見かけてモデルにするために追いかけ回す美女、神宮寺真琴(藤山陽子)。
彼女が秘書として仕えているのは・・・・、



そう、上原謙演じる、楠見元海軍技術少将。
今は海軍ととりあえずちょっと関係ある海運会社の専務。
海軍会社の名前は「光国海運」といいます。「こうこくかいうん」ですね。

帝国海軍では艦政本部特別設計班班長をやっていたという設定。



そのことは楠見元中将を訪ねてくる週刊誌記者海野魚人(佐原健)によって明らかにされます。
もうこの名前で怪しい人決定なのですが、それはともかく、楠見は

「戦記物ブームのネタになるようなものは何もないね」

とつれなく追い返そうとします。
戦記物ブームは、1952年に「大空のサムライ」の元になった「坂井三郎空戦記録」が
出版されて以降の現象ですから、このころ(1962年)はブームが一般に膾炙し終わったくらい?



海野が出したのは伊号四〇〇型潜水艦の写真でした。
・・・じゃなくて、四〇〇、四〇一、四〇二に続いて建造されるはずだった
幻の潜水艦、伊号四〇三潜が存在するはずだというネタを持ってきたのです。

「伊403の艦長だった神宮寺八郎大佐の行方はどこなんでしょうね」

神宮寺大佐ならサイパン沖で終戦前に戦死した、と記者に言い放つ楠見。
秘書の神宮寺真琴は大佐の娘で、楠見が面倒を見ていますが、真琴に対しても
神宮寺は死んだということで押しとおしています。



20年前の出撃前夜、神宮寺が娘を頼むといって楠見に託した写真。
妻がいないという設定のようです。
戦争ゆえ娘を一人置いて出撃しなければならなかった父。
しかし真琴はそんな父の軍人としての行動が全く理解できません。
それもこれも大佐の愛国心のなせることだという楠見の説明に、

「愛国心?」

まるで外国語を聞くように、問い返す真琴。



その後二人で会社の車に乗って何処かへ出かけていくのですが、
運転手はどんどんと違う方向へ車を走らせます。



ありがちな話ですが、運転手はムウ帝国人でした。
二人をムウ帝国に連れて行って皇帝に忠誠を誓わせるそうです。
どうしてこの二人を連れて行くかというと、それは・・・・

・・・・・・う~~ん・・・・。

なんでだろう?
最初に拉致られた人も技術者だったというし、楠見が技術少将だったから?



この二人がどうしてここにいるかというと、それは旗中が
真琴をモデルにしようとしてしつこく後を追ってきたからでした。
通りがかりの女性の車のナンバーを割り出して相手を特定し、
追いかけてくるというのはかなり問題のある行動で、今なら
ストーカー防止法かなんかに引っかかりそうです。

というか、最初から最後までこの旗中という男にわたしは好意が持てないんだが。
二人が楠見と真琴を奪い返すために男に飛びかかると、男は



持った金属を真っ赤に熱してしまいました。
革の手袋はどうして燃えないのだろう。
しかし、案外弱っちくて、すぐに旗中に銃を奪われてしまい、



スーツのまま海に飛び込んで逃げてしまいます。
鉄を熱したり水に飛び込んだり忙しい奴だな。
体が火傷するほど熱いというのが目撃者の証言なのに、どうして
彼らは水に飛び込んでも湯気一つ出さないのか。
そしてムウ帝国人というのはかつて人間だったはずだが、いまはなぜ半魚人なのか。

それにしても寒そうな海にサングラスをしたまま飛び込む平田昭彦。
役者も大変です。

そして、半魚人、じゃなくて諜報員23号から取り上げた銃を
楠見は何のためらいもなく23号に向かって何発もぶっ放します。



ところでこの写真、当時の桜田門の警視庁ですね。びっくりしますね。
当時はこんなに周りがスカスカだったんですね。
周りに何もないのはピンポイントで米軍が建物を残したからなんですね。



ムウ帝国人に襲われたメンバーで警察に被害届を出しにきたのです。
刑事の伊藤(小泉博)は、銃を点検しながら

「発砲したのは楠見さんですね」

正当防衛でもないのに発砲したらこういうときには銃刀法違反?
でも映画だから普通にいいことになっています。

「しかも問題はこの物騒な人間が世界中に派遣されているってことですよ」

なんでそんなことを知っているのか旗中。



そこに送られてきた小さな包み。
宛先は楠見閣下で、送り人はムウ帝国工作員23号。
中から出てきたのは、おしゃれなプラスチックリールの8ミリフィルムでした。



早速関係者一同で鑑賞会。
前の方には防衛庁長官はじめ自衛隊の幕僚長、後ろの段には
陸上自衛隊の戦闘服を着た一団がいます。

で、真ん中に一介の警視庁刑事である伊藤がいるのも不思議ですが、
もっとわからないのは一介のカメラマンにすぎない高島がでしゃばって、
しかもいつの間にか彼氏づらして神宮寺真琴の横に席を占めていることです。
あんたなんでここにいるの?



始まり始まり。
ムー大陸は昔ここにありました。ってか?

 

でも今は地下に沈んだので、そこで文明を発展させてきたのです。
というわけで、東京ビックサイトで見たホビーショーのジオラマよりもチャチな、
ムウ帝国の高度な発展を遂げた文明が、これでもかと映し出されます。




ちょっとわかりにくいですが、カプセルのようなものは彼らの乗り物で、
空中だか海中だか知りませんが、ふわふわと移動しております。すげー!



「楠見さん見てください!」

と叫ぶ藤田進海上幕僚長・・・・じゃなくて役名は「防衛庁長官」、つまり今でいう
防衛大臣のはずなんですが、これどう見ても「制服組」だろっていう。
防衛庁長官は制服は着ませんのよ。

おそらく藤田幕僚長も海軍出身の海上幕僚長に違いありません。
なぜ彼が激しく反応したかというと、画面には、



これが写っていたからです。
伊号403潜水艦。
伊号400型というのは、小型の航空機「晴嵐」を搭載し、洋上で組み立てて
カタパルトで飛ばすことができたというくらい大きくて、カテゴリとしては
『潜水空母』というべきものでした。

大きさは全長122m、幅12m。
アメリカのガトー級の大きさを27m上回るもので、世界最高の航続距離を誇り、
理論的には、地球を一周半航行可能で、日本の内地から地球上のどこへでも
任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であったというものです。

いずれも十分な戦果を上げる前に終戦を迎えたため、連合軍は敗戦まで
その存在すら全く察知していなかったということです。

戦後になってこの艦体を見たアメリカ軍人は一様にその大きさに驚き、

「Wonderful! Bigone!」

と喜んじゃったりしたそうです。
さすがアメリカ人、大きいことはいいことだったのね。 

さて、なんでムウ帝国に伊号403が飾ってあるのでしょうか。
それは、ムウ帝国人が放置してある伊号403を見つけて取得したのです。

ちなみに(ちなみにじゃねーw)伊号400は2003年8月、伊402は2005年に
投棄された海底が特定されているそうです。

神宮寺大佐が伊403を乗り捨てたのは、ムウ帝国の調べによると、
伊403に代わる強力な潜水艦、いや、海底戦艦を作っているからであり、
ムウ帝国としてはそれを

「中止させろ」

と言いたいわけです。
しかし、神宮寺大佐が海底戦艦を作ったって、ムウ帝国を侵略するどころか、
多分その存在も知らないんだし、なぜ海底戦艦を危険視するのか?

ふむ、これはつまり「いずも」が空母じゃないか!日本は軍拡している!
といって日本の防衛力増加を嫌がるどこぞの国とおなじような理由?

この国もそうですが、別に侵略したりどこかの島を盗ろうとか思っていないのなら、
日本がどんな武器を持っても何も心配することはないと思うんですよね。

はっ!

ということは、ムウ帝国も何か、地球に強力な防衛力を備えられては
都合の悪いことを計画しているっていうわけかな?

「ムウ帝国の地上復活のため、全世界をムウ帝国皇帝陛下に献上するのだ」

やっぱり・・。
つまり地下生活が窮屈になったので、地上で暮らしたいから場所を提供しろと。

んーと、まずね、高度な文明を持っていると自称するのならば、
伊403をただ飾っておかないで、自分たちでリフォームして強力な対抗武器を
作ってしまえばいいと思うの。提案だけど。

何人かの日本人技師を襲ったのは、多分拉致してそれをさせるつもりだと思うけど、
一人二人の技術者をさらってなんとかなることなら、おそらくムー帝国にも
頑張ればきっとできないことではないと思うのよ。



「みよ。我が民族の喜びの声だ」

人の話聞いとらんなこの23号は。
しかしこの、古代ローマとかアステカとか、そういう雰囲気の帝国、
やっぱり文明が高度だというのはハッタリかしら。

さて、この脅迫フィルムは世界中に出回っていて、ムウ帝国が
脅かしていたのは日本だけではなかったことがわかりました。

どうなる世界!

続く。




 

映画「海底軍艦」~帝国海軍認識番号八五六一番

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どんなネタ映画でも1日で終われないというのは考えものですが、
いちいち細かいことにこだわっているとツッコミも含めてやることが多すぎ、
相変わらずこの「海底軍艦」も二日目だというのにまだ4分の1くらいしか進んでません。

ここまでのあらすじを三行で書くと、

海に沈んだムウ大陸にはムウ帝国人が高度な文明を持つ海中都市を作り上げていた
ムウ帝国はこのたび地上の世界を征服し、すべての国を植民地にすることにしたが、
なぜか戦後帝国海軍の残党が作り上げた潜水艦「轟天号」を廃棄させることと、
無条件でムウ帝国の支配下に下ることを地球人に要求してきた

4行になってしまいましたが細かいことはよろしい。
まず海に沈んだ大陸の人間がいつどうやって海中で生き延びることができたのか、
という根源的な大疑問を無視しないと話が進まないということなのですが、
それをスルーしたとしても、なぜその人間が体を発熱させたりできるのかとか、
普通に日本語を喋っているのかとか、何万年もそうやって暮らしていたのに
今になってどうして地上に出てきたがっているのかとか、せめてもう少し
言い訳というか説明が欲しかった気がしますが、まあそれはともかく。



見えにくくてすみませんが、これがムウ帝国所属の潜水艦。



ムウ帝国は世界侵略の手始めに、日本の商船を攻撃することにしました。
同時に世界では各名所旧跡がわかりやすく壊滅させられていきます。
パナマ運河爆破、ベニス海底に歿す、香港廃墟となる・・・・。

国連は統合防衛司令部を組織しました。
(が予算の関係で国際会議をするシーンは割愛)

 

空自基地から次々と飛び立つ・・・これはF-4?
いやまてよ、映画公開の昭和38年当時日本にファントムはまだ配備されていなかったはず。
しかし基地がどう見ても百里みたいなんだけど・・・。



この人工衛星は「地球防衛軍」「宇宙大戦争」の宇宙基地の映像を流用しています。
イラストっぽいですが、ぐるぐる回っています。



そして無謀にもムウ帝国潜水艦に戦いを挑む勇者が・・。

アメリカ海軍の世界最新鋭原子力潜水艦、「レッドサターン号」に
不審なものが発見された海域での索敵命令が下されました。



敵潜水艦を発見したレッドサターン号、攻撃をせず後をつけて基地をつきとめることに。



急速潜行~。
ムウ帝国の潜水艦はどんどん深度をとって潜行していきます。
レッドサターンはそれに追随するのですが、深度の限界に。

限界やと部下が言うておるのに艦長が浮上を命じるのが遅いせいで
運悪く最新鋭潜水艦の浮上弁が故障。



ついには水圧で最新鋭原子力潜水艦はぺちゃんこになってしまい、
いとも簡単に海洋ゴミになってしまいました。 

おいおいおいおい。

これ、ムウ帝国の人全く悪くないし。

ところで北極海にはソ連時代から原潜が投棄されているって話がありましたが、
あれって地球に何か影響を及ぼさないんでしょうか。



防衛庁幹部(高田稔)という役名ですが、これは空幕長ですね。
一番偉そうにしてるから統合幕僚長かな。

「レッドサターン号でダメなら手の打ちようがない」

って、あなた、そりゃどんな潜水艦も深度が深過ぎれば持ちませんて。
それにしてもムウ帝国の人たちはもともと地球人のはずなのに、どうしてそんな
深海に住むことができて、地表に上がってきてもアンコウみたいにならないんだろう。

「水爆を辺り構わず打ち込むわけにもいかないし、
・・・・・・そこで頭に浮かぶのは海底軍艦だ」

いやちょっとお待ちください統幕長。
海底軍艦って、ムウ帝国人がビデオで壊せと言っていたあれですか?
海底軍艦を作っていると言われる神宮寺大佐の生死すら定かではないのに、
今のところ噂にすぎない怪しげな潜水艦の話がなぜ唐突に出てくるんです?

「ムウは海底軍艦をマークしている。恐れるだけの何かを持っているはずだ」

なるほど。それならわかります。
オスプレイに反対派が特に執着するということは、相手はオスプレイに
恐れるだけの何かを認めているっていうのと同じですよね。



「少将、神宮寺大佐に急遽連絡をお願いします。
海底軍艦出撃は国連の要望なんです」

何を言っておるのかね海幕長まで。
そもそも自衛官がナチュラルに「少将」「大佐」とか使ってんじゃねー。

だいたい「そこで頭に浮かぶのは」って空幕長が今言ったばかりなのに
いつの間に国連に要望されたことになっているのか。

それに、ここにいる全員、戦後20年にもなって、海軍がまだ存在し、
旧海軍軍人がどこかで旧軍の階級のまま潜水艦を作っているということに

何の疑問も持っておりません。

ちなみに小野田さんが南方のジャングルから帰還したのは1974年、
この10年もあとですから、「終戦を知らなかった」という設定ではないはずですが。

とにかく、ここで皆に詰め寄られ、意を決して話し出す楠見少将。

「よろしい。大佐の名誉のために、わしが今まで胸に秘めていたことを話そう。
大佐は反乱を起こしたんだ」

「反乱!」

息を飲む統幕長と海幕長。
ちなみにここには陸幕長もおりますが、影が薄いのでアップにしてもらえません。
楠見少将、それに続けて、

「この話はこれまでです」(きっぱり)

・・・それだけかい。


しかもどこで誰に対してなんの反乱を起こしたのか一切説明なし。
一同、黙って納得しています。いや納得するなよそこは。



さて、そこにムウ帝国人を捕まえたという警察からのお知らせが。
行ってみると小太りのおじさんが。
神宮寺大佐の娘の真琴の近辺をうろうろしていた人物でした。

「我々を襲った工作員23号はもう少し痩せていたな」

痩せてるとか太ってるとかじゃなくて全く別人なんですけど。

「それで、証拠は?」

「何を聞いても番号しか言わんのです。8561ってね」

工作員8561番だと思われたんですね。
皆が逮捕拘留された人間の黙秘権を行使する権利を全く無視して、
檻越しにいろいろと尋問するのを尻目に、楠見少将、

「待て!8561というのは日本海軍の認識番号だろう」

ハッと驚く8561号。
というか、なぜこの男はこの番号を警察で口にしていたのか。
そしてこの番号だけでどうして楠見は認識番号だと思ったのか。

「靖国神社の予約番号、兵隊達はそう言っとったな・・・。
わしは元海軍少将、楠見だ」

緊張してさっと気をつけする8561号。
真琴をつけ回していたからには当然楠見少将の顔も知っていたはずなんだが。

「よし。官姓名!」

「ハイ!海軍一等兵曹、天野三郎であります!」

嗚呼軍人の悲しい性、上官に軍隊口調で声をかけられると、つい反応してしまうのね。

「うん、わしを知っとるか」

「ハイ、神宮寺大佐からいつもお聞きしておりました!・・ハッ!」

上官からの質問なので反射的に神宮寺の名を口に載せてしまううっかり者の天野兵曹。
しばらく頑張って否定するのですが、ついには

「場所は申し上げられません。私がご案内します」

なぜ場所が言えないのに連れていくことができるのかそれが知りたい。



提供はパンアメリカン航空でお送りしております。



飛行機に乗って現地に向かう一同。
これはニューギニアあたりですかね。
8561号、じゃなくて天野兵曹はスーツを着せてもらっています。
そしてどういうわけか一介の警視庁刑事と、一介のカメラマンと、一介のカメラマン助手、
そして神宮寺大佐のことを嗅ぎ回っていたムウ帝国人っぽい名前の週刊誌記者、
海野魚人の分まで国庫から高い飛行機代が出されることになったようです。

記者を連れてきた理由というのがまたすごくて

「連れてこなかったらじゃんじゃん書き立てられて秘密が漏れるから」

そんなことのために・・・?
このころ、1ドルは360円で海外旅行なんて高嶺の花だったんじゃなかったっけ。

ところでこのカメラマン旗中という男、何をするでもなくいつも真琴のそばにくっついて、
抱き寄せたり抱きしめたり支えたりばっかりなのよ。
で、ニヤニヤしながら天野兵曹にこんなことを聞くわけ。

「海底軍艦の根拠地がどこの島にあるのか、教えてくれたっていいじゃないですか」

いや、今からあんたがたは神宮寺大佐に会いに行く、つまりそこは根拠地なのでは?
しかし、天野兵曹もなぜか

「軍の機密だ」

いや、天野兵曹が今から皆を連れて行くのはその根拠地なのでは?
ところが旗中のツッコミどころはそこではなかった。

「軍の機密?日本は戦争を放棄したんですよ?憲法でね!」(得意げ)

なぜその話になる(笑)

戦争を放棄したということより、まず終戦を受け入れていないらしい海軍軍人たちが
どこかに存在しているらしいということをどうして誰も驚いたり疑問に思ったりしないのか。

映画を見ていて一番モヤっとするのがこれなのですが、製作者はそんなことは
わりとどうでもいいらしく、この旧海軍の残党の話が出ても、なぜか

「日本は戦争を放棄したのに」

ということを登場人物に言わせるにとどまります。
なんか全く話が噛み合っていない人と会話しているような気持ちにさせられます。

ところでこのころの映画を見ると、特に戦争ものでは軒並みこのような新憲法ヨイショを
かなり露骨に行っているものが多く、こういうところもまた戦後映画人たちが
戦中とは180度思想信条を転換させた変わり身の早さをうかがわせますが、のみならず、
「戦争を放棄した国」という日本の新しいタイトルは、映画人のみならず戦後日本人に、
当時かなりの期待を持って受け入れられていたのかもしれない、と思わされます。


このころは確かにそうだったんでしょう。このころはね。


そして不思議な御一行様はパンナムに乗って、”どこか軍機で言えない島”に到着したのでした。


続く。(あー疲れてきた)


 

映画「海底軍艦」~轟天号発進!

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映画「海底軍艦」三日目です。
突っ込みだしたらきりがないので、少しテンポを早めます。
この映画の設定によると、ムウ帝国は米原子力潜水艦が圧力で潰されるくらい
深海に沈んでしまったということになりますが、そんな深海に人類が都市を築き、
高度な文明社会を営むことができたなど、誰が想像できたでしょうか。

まあ想像した人がいるからこんな映画ができてしまったわけですが、
それ以前にじゃあムー大陸って何なのよ、ということからいうと、
ムー大陸は、元イギリス陸軍大佐を自称していたジェームス・チャーチワードが、
今から約1万2000年前に太平洋にあった大陸とその文明であるとしたものです。
しかし、決定的な証拠となる遺跡遺物などは存在せず、海底調査でも
巨大大陸が海没したといういかなる証拠も今のところ見つかっていません。

それどころかチャーチワードの陸軍大佐という経歴も詐称であることがわかっており、
(インターネッツがない時代なのでこういうハッタリがある程度通用したんですね)
つまり一人の詐話師の作り話、ということに今では落ち着いているようです。

が、ウェーゲナーの大陸移動説のように、多くの人々が信じたい、
まあなんというかロマンみたいなものが受け入れられてきた結果、
これだけ有名になってしまったということろかもしれません。

そのトンデモ話を、さらに文字通り深化させてしまったのがこの映画というわけです。



ムウ帝国では日本人が要職に就いているらしく、 公用語は日本語。
皇帝が日本人なら、長老(天本英世)も日本人。
ちなみに天本英世、映画撮影時38歳。
しかし印象に残るおじいさんのイメージと寸分違わず。



長老を警衛する兵士も茶髪の日本人の兄ちゃんです。
1962年当時は奇抜だった茶髪ですが、その50年後、日本が
こんな色の髪の毛の日本人だらけになっていようとは誰に想像できたでしょうか。



「ハーイ」

そこに帰国してきた工作員23号。インディアンのノリですか?
エジプト王朝の人みたいに半裸によだれかけ。

・・・もうね。
わたしこれを見た瞬間、平田昭彦に様をつける気がなくなりました。
「キスカ」や「潜水艦イー57降伏せず」での海軍軍医役、「さらばラバウル」での
若き戦闘機搭乗員役、「太平洋の翼」「太平洋の嵐」での飛行長役があんなに似合っていた、
陸軍士官学校在籍、東京大学法学部卒のインテリ俳優にこんな役をさせるんじゃない!

今にして思えば、「地球防衛軍」で、地球外生物のミステリアンの手先となり
地球侵略を幇助していた科学者の役をした頃から、東宝映画は平田昭彦に
妙な役割をさせるようになっていたような気がしますが、それが高じて結局
特撮映画の怪しげな博士役ばかりが晩年のイメージになってしまいました。
いかに本人が望んだこととはいえ、もう少し別の方向はなかったのか。

ちなみに工作員23号がご機嫌なのは、楠見少将たちが神宮寺大佐の元に行くことになり、
これで轟天号の根拠地が割れる!という目処が立ったためです。



「我らの苦しみを地上の奴隷どもに降らせ給え~」

何かと集まってはみんなで変なダンスをするムウ帝国の皆さん。
なんと、よく見たらウェーブになっています。

ちなみにここで歌われる歌は、なんと音楽担当をした伊福部昭本人によって
太平洋諸島の言語で歌詞がつけられたということです。
ありがたや~。

ところで、海運会社の重役である元海軍少将の楠見。
冒頭挿絵でも突っ込ませていただきましたが、そこここで

「敬礼はいいよ、軍隊じゃないんだから」

とかいった端から

「安藤兵曹!」「頑固だな貴様」

などと海軍軍人モード全開です。

戦後、元軍人たちは軍人であるということだけで「戦犯」と言われたり、
公職追放にあったりしてそのことに対し複雑な思いを持って生きてきましたが、
反面、「戦記ブーム」などもあって、多くの人々が媒体で体験を語ってきました。
特に海軍は「サイレントネイビー」が美徳とされる戦前からの風潮ゆえ、
戦中の体験について何も語らない人の方が評価されたりしています。

しかし中には

「サイレントネイビーとして語らない」

と当初いいながら、色々なしがらみで結局あっちこっちでしゃべったことになって、
それなら最初からサイレントネイビーなどと公言しなきゃよかったのに、という人もいます。

本当のサイレントネイビーとは、死ぬまで自分の敵兵救助を誰にも話さなかった駆逐艦「嵐」の
工藤艦長や木村昌福(まさとみ)少将なんかのことを言うんじゃないでしょうか。
だいたい自分で「サイレントネイビー」ということ自体が考えればすごい矛盾よね。

話が逸れましたが、この楠見少将もまた、サイレントネイビーとして戦後20年、
自分が海軍軍人であることすら公言せず生きてきたわけですが(たぶんね)、
どういうわけか未だに海軍組織として機能しているらしい神宮寺大佐とその一派と
繋がりができた途端、すっかり”気分は少将”に戻ってしまったようです。

海軍軍人としての誇りはいっときも忘れたことがなかった、ってところでしょうか。(適当)

 

島に向かう船の上でも真琴にまとわりつくカメラマン旗中。
この男がカメラマンとして仕事をしていたのは最初のうちだけ。
国費で神宮寺大佐捜索隊に加えてもらい、そこで何をしているかというと、
こうやって暇さえあれば彼女にちょっかいをかけるだけ。
いったいこの男はなんなんだ~!なんのためにいるんだ~!

(えー、わたしは某所でやらかした高島忠夫とその嫁の悪行を、関係者から
昔聞いたことがあって、それ以来俳優としても大っ嫌いであることをお断りしておきます)

「どうして父はわたしに生きていることを言ってくれなかったんでしょう」

「それは古い愛国心、家庭を顧みるのは女々しきふるまいというわけですよ」

・・・・・違うと思う。
古かろうが新しかろうが、愛国心と家庭を顧みることは両立するぞ高島。
というか、何かにつけて愛国心愛国心とディスるために愛国心言うんじゃねーよ高島。




この船に乗っているメンバーの中で、さらになんのためにいるのかわからない
週刊誌記者の海野は、皆の隙を見つけてピンポン球を海中に投入。
その海面下にはムウ帝国の潜水艦が・・。
工作員として連絡を取っているんですねわかります。




そして島に到着し、密林をカヌーで下って行くとあら不思議。
そこはすっかり昭和20年以前の南洋の海軍根拠地。
下士官兵に誰何されながら天野兵曹の後をついていくと、



なんと岩に作られた司令室。

「轟天建武隊」

となにやら陸軍ちっくな部隊名が看板に書かれ、出てきたのは副長。



おおこれは紛れもなく帝国海軍。

舞台裏を明かすと、東宝ではこの時、同時にあの戦争映画「太平洋の嵐」、
そして「青島要塞爆撃命令」が制作されていたと言います。

この映画に出ている平田昭彦、田崎潤、藤田進、は「太平洋の翼」に、平田と田崎は
この三つのどれにも出演しており、さらに田崎はそのどれもが軍人役でした。

この「海底軍艦」の原作には海軍が海底軍艦を作るというストーリーはないそうです。
東宝の「海底軍艦」スタッフは、ちょうど撮影が行われている別の戦争映画の
ファシリティとか衣装とかが流用できるから、という理由でこの設定にしたのでは?
と今ふと思ってしまったのですが、実際のところはもう誰にもわかりません。



副長登場。

「お待たせしました。司令であります」



はっと緊張する一同。
特に真琴は写真以外で見たこともない父との初めての対面なのです。



神宮寺大佐、初登場。
安藤兵曹を日本に派遣して娘の様子を窺わせていたはずなのに、
娘を凝視するなり目をそらして楠見少将に敬礼。

「少将、お久しぶりです」

楠見はすっかりこのころにはその気になっていたので、
神宮寺大佐の敬礼も「少将」も否定せず、鷹揚に頷いてみせます。


「神宮寺の反乱行動を穏便に処置いただきまして感謝しております」

相変わらずなんのことだかわからない反乱とやらのことを言っておりますが、
ここでも全く説明がないのでなんのことだかわかりません。
さらに神宮寺大佐、娘を紹介されているのにガン無視。

ショックでふらつく真琴を待ってましたと旗中が抱きとめます。



なんだかアットホームな雰囲気の司令室だこと。
この和気藹々とした空間で神宮寺が重大発言を。

「明日海底軍艦『轟天号』の試運転をします。
我々が日本海軍のために立ち上がる時が来たのです」

ん?どこの国と交戦しようとしているのかなこの人は。

楠見少将はムウ帝国との戦いに海底戦艦を使わせてくれと頼みますが、
大佐はすげなくおことわりします。
この海底戦艦をもって、神宮寺は日本を、いや海軍を再興させるべく、
今日まで執念を注ぎ込んで建造に当たってきたのでした。
こんな南洋の島でどうやって?と思うわけですが、それより、
神宮寺は海軍を再興させるためにとりあえず何がしたいのでしょうか。
アメリカともう一度交戦?ソ連をやっつける?



「戦争は20年前に終わったんだ」

しかしこの当たり前のことを神宮寺大佐は受け入れません。

戦後ブラジルに移民していた日本人たちの間では、戦争に負けたことを
認める派(負け組)と認めない派(勝ち組)に分かれて激しく対立し、
ついには殺人事件まで起こるという騒ぎがあったのですが、
神宮寺大佐も頭では認めているがその信念が認めないという状態です。
たとえそうだったとしても、今から我々が何とかしてみせるという勢い。



そこでしゃしゃりでてくるこのでしゃばり男。

「せっかく訪ねてきた娘に優しい言葉一つかけない
戦争基地外とは話したくありません!」

おっと、決め台詞のつもりだろうがその言葉は放送禁止用語だ。

神宮寺「少将、あの男は?」

楠見「真琴を不幸にするような男でないことはわしが保証する!」

ちょ、なに言ってんですか少将。この男の何を知ってるんです少将。
街で見かけて車のナンバーを突き止めて追い回し、することといったら
ずっとお嬢さんの横にスタンバイしてベタベタ体を触っているだけなんですけど。



今から試運転が始まるそうです。



地下ドックの入り口を入っていくと、



合成画像丸出しの海底戦艦環境に立つ神宮寺大佐が。

 

これも合成画像丸出し。
海底軍艦のハッチに海軍式駆け足で入っていく乗員たち。

 

これが海底軍艦でーす。
掘削機が付いていてモグラを彷彿とさせます。
円谷英二は、このころ先ほども言ったように東宝で戦争映画が同時進行しており、
そのため特撮の撮影時間を通常3ヶ月のところ2ヶ月で仕上げたそうです。

道理で・・・・いや何でもない。



ドック内に注水され、海底軍艦「轟天号」は発進します。
そして浮上!

 

糸で吊られているのが丸見えの海底戦艦が浮上どころか空中に浮揚。
水陸どころか水陸空両用、じゃなくて水陸空鼎用?
しかし円谷くん、仕事が荒いよ仕事が。



試運転成功で宴会してるし(笑)



ここで少将が真面目に見ている観客に成り代わり、各種疑問を大佐にぶつけます。
それによると、

反乱の後基地を求めて逃走していた伊403はムウ帝国潜水艦に攻撃を受けた
神宮寺大佐ら乗員は伊号を囮にして脱出した
ムウ帝国潜水艦は誰も乗っていない伊号を拿捕したが、艦内に残された
海底軍艦の設計図を見て、その性能に驚きマークするようになった

つまり、伊号乗員は着の身着のままでジャングルに逃げ込み、そこで
海底軍艦のドックやら海底軍艦やらを裸一貫から造り上げたわけですか。
それはすごい。

しかし、自分たちを襲ってきた新型潜水艦がムウ帝国軍のものだと
神宮寺大佐はいつ、どうやって知ったのだろうか。

ここでまたもや二人の間に海底軍艦を使わせる使わせないの争いが起きます。 



「神宮寺は悠久の大義に生きる信念です!」
「馬鹿っ!」



ここに来てやっと娘と話し合う気になった大佐。
しかし真琴は

「夢で見ていた時の方が幸せでした。お会いしないほうがよかったわ」

と父を責めるのでした。

「この20年お前を人に預けてまで日本再興を考え続けた、その気持ちがわからんか」

「じゃお父様は私の気持ちがおわかりですか?
親に捨てられた子供の気持ちがわかっていれば世界のために働いてくれるはずです!」

ん?なんでそうなるの?
日本のために子供を捨てるのは許さないけど、世界のために働くなら許すってか?
とにかく真琴は

「お父様のお考えはムウ人と同じです。嫌いです、嫌い嫌い、大っ嫌いです!」

と叫んで行ってしまいました。
ムウ人と同じ考え、とは自分たち(日本)だけがよければいいという考えかな?


そこで集団的自衛権の行使ですよ。(以下略)



そこに真琴をつけてきて二人の話を立ち聞きしていたお節介正義面ストーカー男登場。

「海底軍艦は気違いに刃物です!
あなたは愛国心という錆び付いた鎧をつけている亡霊です」

この映画は全体的に戦後左翼や特に日教組のような戦後史観に貫かれており、

「国を守るために戦うという考えは間違いであり、愛国心というものは唾棄すべきである」

という意見を刷り込むため盛んに「愛国心」を俳優に連発させていますが、
その反面、武力が「日本」という国単位ではなく「地球」と「地球人」を守るためなら行使されるべき、
とどうも言いたいようなのです。

これってなんか変じゃないですか?
なぜ日本を守るとか日本を愛するはダメで、地球を守るとか地球を愛するならいいのか。
地球を侵略されるから戦うのはよくて、国を侵略される(つまり国益を侵される)はダメ?
襲ってくるのが地球外(地球内か)生物であるムウ人だからやっつけてもいい?



なんだか、牛や馬は食べてもいいけど鯨はダメとかいっている人たちの考えみたいです。



基地外と言われても神宮寺大佐はなぜか怒ろうともせず、
いきなり20年間肌身離さず持っていた娘の写真を、この何処の馬の骨ともわからぬ男に渡し、

「真琴をよろしく頼む」

と結婚を認めるかのような発言までするのでした。
うーん、神宮寺大佐、人を見る目なさすぎ。


続く。








 

 

映画「海底軍艦」~神宮寺大佐の決心

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CDのパンフにあった轟天号のメカデザイン。
これ、是非今の時代のCGで再現して欲しいですね。
(「インターステラ」のレベルであれば最高)
ムウ帝国の潜水艦は「石棺潜行艦」というのか。なるほど。



さて、今日こそは終わりまでこぎつけたいと思います。
最初から怪しかった週刊誌記者の海野魚人、ここで正体をむき出しに。
神宮寺大佐の一人娘、真琴を誘拐して、神宮寺大佐を脅迫するつもりです。
ついでに海底軍艦基地に爆薬を仕掛けたそうです。
爆発物をいつのまにどうやって調達したかは秘密。



カメラマンの旗中はこんな時に限って全く役に立たず、一緒に拉致られてしまいます。
いったい何のために真琴にまとわりついていたのか。



「司令!ドックに爆薬を仕掛けたものがいます!」

「何い?誰だ」

「従軍記者です!」

いやそれ従軍記者ちゃいますから。
そこに略奪したトラックで脱出を図る従軍記者。
人質が二人乗っているのに、皆でピストルを撃ちまくります。



さてこちらムウ帝国。
いよいよ皇帝が姿を現したのでした。



周りは国際色豊かに外人さんのエキストラで固められています。
特に左のおばちゃん、作り物ではないかというくらい完璧なアメリカ人体型。



この人たちはですね、なんと米軍横田基地に声をかけて、
在日米軍の軍人家族にご協力を仰いだのだそうです。
まるで昔のオランダの農婦みたいな人もいますが、



特に皇帝付きの女官役の人たちは「クレオパトラの映画みたい~」と
撮影現場ではきゃっきゃうふふと大喜びでいらしたということです。

この皇帝の周りを固めている二人は、横田基地の中でも司令官クラスの奥方に違いありません。
二人ともいかにも将官の糟糠の妻といった貫禄にあふれています。

・・・ということでこの真ん中がムウ帝国皇帝であらせられるわけですが、
衣装もメイクも若干22歳の女優である小林哲子が自分で工夫して行ったそうです。

「こんなのでどうでしょう」

と見せると監督はそれでいいです!と喜んで即OKが出たということです。



皇帝の前に引き出される真琴と旗中。
右は平田昭彦の23号で、左に従軍記者のふりをしていたのがいますね。
ちなみにまわりにいる人たちは「スクールメイツ」の人たちだそうです。

わざわざ捕まえて連れてきたからには何かの取引に使うのかと思ったら、皇帝陛下は彼らを

「マンダの生贄にせよ」

と仰せられます。捕虜なのに。
マンダとは、ムウ帝国の守護神である龍です。



従軍記者、じゃなくて週刊誌記者のふりをしていた工作員の実の姿。
平田昭彦とこの工作員を演じた佐原健とは私生活では親友同士だったということだったので、
この撮影は彼ら的には楽しかったというか、盛り上がったのではないかと思われ。



こちら海底軍艦のドックを爆破された轟天振武部隊。
艦体が破壊された鉄骨の下敷きになりハッチを開けることができず、鉄骨を焼き切る作業中。

 

その頃日本では。
三原山にムウ人が団体で(数えたら18人いました)現れ、とりあえず
大島小涌園なんかに観光に来ていた客を血祭りにあげました。

三原山の火口から現れたという設定上そうなったようです。



大島から脱出しようとする人たちの船を、これもとりあえず爆破。

 

そしてムウ帝国は世界に征服の告知を開始。

「海底軍艦を破壊し、速やかに植民地を返すのだ」

この世界各地の様子はなんと模型や書き割りだったりします。



東京湾の様子。
東京タワーだけがぽつねんと聳え立っているように見えますが、このころ東京は
数年以内に東京オリンピックの開催を控え、建築ラッシュでした。
今のような高層ビルだらけになるのはこの後すぐです。

それにしてもこの船舶の多さは何事?



ムウ帝国が行った今までの攻撃は「脅かし」にすぎず(そうだろうなあ)、
彼らはいよいよ本番としてニューヨークの摩天楼と丸の内を本格的に攻撃することを宣言したのでした。

 

ここで陸自の榴弾砲が(一台だけが何度も映される)登場。
軍靴の足音が聞こえるう~~!

ただし、憲法の関係で、彼らは防衛のために各所に配備されることはあっても、
向こうが一発撃ってこない限り交戦権は認められないのです。

我が日本国はムウ帝国軍の攻撃によってすでに民間船の乗員始め、
自衛隊員や警察官、大島のフェリーの乗員など、何人かの国民が犠牲になっているわけです。
犠牲者が出ているからにはもうムウ帝国軍を攻撃してもいいと思うのですが、
日本国としては頑なに憲法9条に忠実であろうとするのでした(ってことですよね)。


 ついでにこのとき、日米安保条約は署名されたばかりだったのですが、アメリカも
勝手に追跡して水圧でつぶれただけとはいえ、自分とこの原潜がやられてしまったりしたので
日本にまで手が回らず、第7艦隊も本国に帰ってしまい、(たぶん)
ここにおいて本土防衛は米国の手を一切借りず行われることになったのでした。 

 

「どこかの国はだめだけどムウ帝国ならやっつけてもいい」という理由で、
海底軍艦を出動させよ!と旧帝国軍人に無茶をいう周りの人たちですが、
ムウ帝国人だって、同じこの青い地球の仲間なんだぞー。




さてこちら轟天号。
艦体の上に被さった鉄骨を取り除き、中を点検したところ、
中身にはなんの損傷もありません。
そして、崩れた岩に埋もれたこの潜水艦、先端の掘削機が回転することによって
難なくこの場から周りに穴を開けて脱出してしまったのでした。

神宮寺大佐って天才?
平賀譲の立場はいったい。

っていうか、こんな兵科士官が一人でもいたら日本は戦争に負けてませんわ。



その神宮寺大佐、轟天号始動にあたってキリッと、

「じゃあ出かけますか」
「出かける?」
「考えてみたら錆び付いた鎧を着ていたようです。
脱いでみてせいせいしました」

 

「神宮寺・・・・・!」
「本部に連絡してください。
海底軍艦は只今よりムウ帝国撃滅のために出動します!」

神宮寺大佐は大局的見地に立って、日本海軍の再興より
ムウ帝国と戦うことが先決だとようやく納得したようです。

よく考えたら、国連からの依頼も出てるということだし、ムウ帝国と戦って勝った暁には、
旧帝国海軍が世界的に認められ、回り回ってその再興につながるかもしれません。

もちろん常識的に考えてつながらない可能性の方が高いとは思うけど、
今まではとりあえず、「再興」「再興」といっても具体的にじゃー誰と戦うの?
と聞かれた場合、おそらく本人たちにも答えられなかったと思うし。

というわけで、神宮寺大佐に取ってもこの出撃はうまい落とし所となったのです。



伊福部昭の「海底軍艦マーチ」が鳴り響く中、パニックの首都東京。
道は避難する人と車でもはや大変な混雑となっています。

しかしこんな時にも警察官が人を誘導し、皆それに大人しく従っています。
さすがは日本人、有事の時にも賞賛されるべき民度です(適当)



もしかしたら東芝がスポンサーだったのだろうか。
右の方には「イムペリアルホテル」がありますが、これはさすがに
帝国ホテルのことではないと思われます。



ひとところに固まっている陸空海幕長ら防衛庁制服組。
ムウ帝国の予告した時間は深夜1時です。
何を見上げているかというと、時計。
ムウ帝国が東京を襲撃すると予告した時間は深夜0時。
刻一刻とその時が近づいてきます。

爆音が聞こえ緊張する一同。

「ただいまの爆音、友軍機3機!」

この際、友軍、って言っちゃうんだ・・・。
今の自衛隊でも言うんでしょうねえ。



あくまでも「TOSHIBA」のネオンサインを見せる構えの陸自隊員たち。
静まり返った街はすべての照明も消されていますが、東芝のサインだけは
煌々と点滅を繰り返すのでした。(T_T)



と、そのとき。
TOSHIBAのネオンサインの真正面にあるマンホールの蓋が、
激しい蒸気に噴き上げられて吹っ飛びました。




次の瞬間、地面が崩れ、丸の内は地盤沈下。
TOSHBAのネオンサインが真っ先に崩れ落ちていきます。
スポンサー様のネオンサインをこんな風に扱っても良かったのか。

それはともかくなんとムウ帝国軍、地下から襲ってきたのです。
海底軍艦もないのにどうやってここまで掘り進んできたかは謎ですが、
海底人の国が地下から攻撃してくる可能性については十分予想されるべきでした。
これは防衛する側が、敵についてあまりにも知らなかったと言えましょう。

防衛はまず諜報、情報収集と、ごまかしのない兵棋演習から。


・・・ってことで(終わらなかったorz)最終回に続く。


 


映画「海底軍艦」~ムウ帝国の最後

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やっとのことに最終回にこぎつけた「海底軍艦」です。

この予告編、藤木悠が「鉄腕カメラマン」、高島が「正義の新聞記者」となっていますが、
彼らはカメラマンとその助手の間違い。
お調子者担当でほぼ何もしていない藤木が「鉄腕」というのもウケましたが、
海軍基地のシーンに、20年前は生まれていたかどうかも怪しい水兵さんがいるのも爆笑です。



ところで、わたしが知らなかっただけで、この映画結構その筋では有名だったらしく、
当時アメリカでも公開されたことが判明しました。



アメリカ公開時の「海底軍艦」予告編です。
なんか、DVDで観る元バージョンとまったく同じシーンなのに、
英語で解説されているせいかちょっとましな映画に見える・・・。

現代のデジタル化で、画質は昔に比べたら別次元レベルで良くなっているわけですが、
この「よくなった」というのもこの手の映画においては考えもので、画質がいいほど、
潜水艦を吊っている糸が鮮明に見えたり、模型であることが手に取るように分かったり、
つまり映画館の大きなスクリーンで、粒子の粗い映像を見ている分にはおおすごい迫力、
と感心していられたのが、CGに慣れた現代人にとっては文字通り子供騙しが嫌でも目につき、
当時の人とは違って大笑いしながらみるはめになるわけです。

おそらく映画公開当時映画館に足を運んだ人は、それなりにすごい!と思ったに違いありません。

そう思ったのは日本人だけではなかったという証拠に、アメリカではこの映画に

「ATRAGON」(Atmic とDragonの造語)

と独自のタイトルをつけ、おまけにこのコンセプトで「アトラゴン2」も
現地で独自に作ってしまったといいます。(観たい~)

そして、なぜかドイツでも公開され、その時のタイトルは

「U−2000」

やっぱりドイツ人は潜水艦というとUボートから離れることはできないんですね。
そしてわたしが畏れ多くもバカにしまくったこの海底軍艦のアイデアは、
よほど新機軸だったらしく日本では近年になって
「新海底軍艦」というアニメーションが制作されています。

新海底軍艦 OP


これも観たい~!
ただし、サイドストーリーはまったく別のものだそうです。そうだろうなあ。

それでは、100分耐久、海底軍艦マーチを聴きながら続きをどうぞ。



本作は「ゴジラ」の映画音楽を作曲した日本作曲界の大御所、伊福部昭が
音楽を手がけ、一度聴いたら忘れられない「伊福部節」が炸裂しております。



東京湾に現れたムウ帝国軍の石棺型潜水艦。
上から竜の形をしたものが出てきて、口から出す光線で次々と船舶を焼き払っていきます。



しかしそこに飛来したのは・・・・そう、海底軍艦「轟天号」でした。



「おのれ警告を無視しおったな、神宮寺!」

後ろの外人さん二人も横田基地の軍人さんかしら。



逃げるムウ帝国潜水艦を追いかける海底軍艦。
後ろで腕組みをしているのは警視庁の刑事。
轟天号基地のある南方まで飛行機で行って、海底軍艦に乗って東京まで帰ってきたようです。
飛行機代が浮いちゃいましたね!

「ベント開け!」「ベント~開け」「深さ500!」「深さ~500!」

神宮寺の指令に乗員が復唱するその様は、今まさに帝国海軍が
国難に立ち向かう英雄として完全に復活したことを物語っていました(T_T)



こちら海底のムウ帝国。
アメリカの潜水艦が水圧で潰れるような深海にあるにもかかわらず、
この人たちはまったく圧力に影響を受けておりません。
与圧装置完備かな?



そこにやってきたムウ帝国皇帝とその取り巻きの女官。
右側はエキストラの横田基地司令官の妻で、左は参謀の妻(適当)

海底軍艦を始動させたことにお怒りの女帝は、4人をマンダ(ペットの龍)
の生贄にさせようとします。



しかし女帝はSPをつけていなかったため、高島ごときに隙を取られ逆に人質となってしまいます。



というわけでここから脱出するため、みんな銀色の鱗を模った「気密服」を着ました。
嫌がる女帝を脅して無理やり拉致する一同。

しかしここは深海。どうやって地球まで帰るつもりなのか高島。



そこにムウ帝国の潜水艦が帰還してきました。



後をつけてきた海底軍艦。
米原子力潜水艦は水圧で潰れましたが、さすがは海底軍艦、びくともしません。



ぼうや~よいこだねんねしな~(BGM)

というわけでマンダ登場。



気密服を着た一同、そのまま海底へ・・・・・ん?
もしかしたら、ここが深海で米船がセンベイに(しゃれ)なったという設定は
すっかりなかったことになってないか?

とにかく、一同がハッチを開けたとたん、嗚呼そこに見えるは我が帝国海軍の海底軍艦。
海底軍艦の方も彼らを味方だと認め、救出口を開くのでした。

ムウ帝国の気密服を着て全身を隠しているのになぜわかったんだろう(棒) 
そして彼らはフィンもつけないでゆっくりと平泳ぎしながら潜水艦まで泳ぎ着きます。



そして乗艦。
ムウ帝国特製気密服は、深海を泳いでも濡れるどころかヘアスタイルすら乱れません。
ここで高島、神宮寺の娘に「お父さんだ」といい、
後ろからどん!というかんじで背中を押して父親の元に行かせます。

お前に言われなくてもお父さんであることはわかっとる。

ところでこの後ろには、旧帝国海軍ではそうなっていたということなのか、

「ハ3 天 サ−1507」

などとペンキで書かれております。

 

ここで娘が父に抱きついたのは、

「お願いした通り地球のために戦ってくださるのね!」

ってことだと思います。

 

そして最後に乗艦してきたムウ帝国皇帝陛下。
帝国海軍の皆さん、どんびきしてます。



皆が凝視する中、彼らの視線を跳ね返すように昂然と歩む誇り高き女帝。
(という設定だと思われます)



「神宮寺、無駄な抵抗はやめよ!ムウ帝国に勝てるつもりか」

「無駄な抵抗はあなたの方だ」

「たとえ余は殺せてもムウ帝国の心臓は滅びぬ!」

そこででしゃばり男の高島、

「心臓とはムウ帝国のエネルギー源とみられる神聖なところで地熱を利用した動力室です」

うーん、そういう意味で言ったのかな皇帝陛下は。



「和平に応じぬのならムウ帝国の心臓を攻撃してご覧に入れよう」

きっとなって神宮寺をにらむ皇帝。
神宮寺大佐が命令を下すたび睨みつけてますが、司令官のこんな近くに捕虜を置いとくなよ。



そのとき龍のマンダが襲いかかり海底軍艦に巻き付くも、高圧電流を流して撃退。

 

さらにノーズから「零線砲」を出してマンダを凍らせてしまいました。
海水の中で噴射して対象物だけを凍らせる物質とは一体・・・?



そしてそのまま轟天号は海底を掘り進んで行き、ムウ帝国に突入。
なぜ海水が入ってこない(笑)



そこで挺身部隊が結成され、基地への潜入が試みられます。
真琴の護衛をしていた安藤兵曹がいるのは当然として、なぜここに高島や
警視庁の刑事が混ざっているのは謎です。



突入した挺身隊員は手に棒を持っただけの丸腰のムウ帝国人を次々と殺めていきます。



それも、マンダを凍らせた零線で、次々とナイフを手にしただけの人々を石にしていくという残虐さ。
これはオーバーキルというか、虐殺というやつなのでは。

ちなみに右側の零線使用後はイラストです。



そして心臓部に爆弾を仕掛け、壊滅を図るのでした。
ムウ帝国のすべての人々が一瞬にして海の藻屑になる強力な爆弾は、
周りをブリキ板でカバーした持ち運び簡単なものでライトな感覚の組み立て式です。



海底軍艦の零線砲で心臓部の動力を止め、あっという間に地表に到達。
なんども言いますが、ムウ帝国は潜水艦が水圧に耐えられないほどの深海にあります。

海面に浮上し、艦橋に皇帝を連れていく神宮寺大佐。

「ふははは、お前の帝国が滅びていく様をその目でとくと見るがよい!」

とは言ってませんがつまりそういうことですよね。
サディストなのか神宮寺大佐。



そのとき爆発音とともに二本の火柱が立ち上がります。
ムウ帝国がその無辜の民とともに地上じゃなくて海中から消え去った瞬間でした。

なんども言いますが、ムウ帝国は海深3000メートル以上の深海(略)



その様子をまるで花火大会のような気軽な様子で見守る海底軍艦の人々。



そこにムウ帝国の潜水艦が現れ攻撃してきます。



戦闘状態なのに外に面した艦橋に佇んだまま攻撃命令を下す神宮寺大佐。

「発射!」 

その命令を聴き「はっ!」と振り返る皇帝。



ムウ帝国潜水艦は凍ってしまいました(-人-)ナムー
ところで後ろで爆発している炎ですが、これどうやって撮ったと思います?

キャメラを上下逆にして、水槽に絵の具を落としたものなのだそうですよ。
やっぱりCGのない時代これだけのものを作れる円谷監督は偉大だったと思います。



それを見た女帝、艦橋から走り去り、海に身を投じました。



「死を覚悟で帰るのだ。帰してやろう」

武人の情けというやつですねわかります。



それを見てなぜか「しんいちさん!」(いつの間に・・・)と旗中に抱きつく真琴。
またもや待ってましたと抱き寄せる旗中。いやそこは父親だろう。



神宮寺大佐は当然ですが、楠見元少将が、軍人でもないのにいつのまにか
艦内帽着用の上、双眼鏡のストラップまで艦長仕様のものをかけているのに注意。

絶望的な目をして無言で顔を見合わせる海軍の男たち二人でした。



炎の海を抜き手をきって泳いでいき、大きく手を挙げたあと沈んでいく皇帝。
その様子を勝利し地球を守ることに成功したはずの轟天号の人々は、ただ粛然と見守るのでした。

地球は守れても、それは殺戮のあと、自動的に海に葬られて見ずに済んだにすぎない
ムウ帝国人の累々たる死骸を築かれた平和(もの)だということを、人々は
女帝の自死によって思わずにいられなかったからです。(たぶんね)



ところでわたしの予想ですが、この勝利に対し、この後朝日新聞や左派、そして中国韓国なんかもきっと、

「そこまでする必要があったのか」「ムウ帝国人だって同じ地球の仲間」
「日本の軍国化」「帝国海軍の軍靴の音が聞こえる」

などと喉元過ぎればで非難轟々、皆で日本を、何より海軍を抑えにかかることはほぼ確実でしょう。
だから豪天寺大佐の悲願であった「帝国海軍の復活」もおそらく実現はしない、に10ムウ帝国通貨。


 

というわけで終わりです。
てっきり無視されるかと思っていたのですが、意外な盛り上がりを見せた「海底軍艦」シリーズ、
その後のSFのある意味原型となっていたり、のちの作品に影響を及ぼしていたりしたこともわかり、
当ブログ的には大収穫でした。

「愛国心」が悪いことになっていたらしいこの時代、しかし地球を守るためなら戦いもやむなし、
とオチをつけてくれたことで、実はこの映画はこの風潮に一石を投じたのではなかったか?
などとも考えてみたのですが・・・・たぶん買いかぶりでしょうね。


糸冬

旅しながら淡々と写真を貼る~久美浜のオーベルジュを訪ねて

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ふと思い立って日本海を見てきました。
例によってうちのTOが、お付き合いで立ち寄った久美浜のお洒落ホテルに
こんどは家族を連れて是非泊まりに来たいと思い立ち計画した一泊旅行。

行き先は京都府京丹後市久美浜です。
わたしは久美浜という地名に激しく聞き覚えがありました。
それもそのはず、久美浜というのは、京都府と言いながら兵庫県の真裏の日本海側にあり、
わたしは小さい時に家族旅行で何度か、そのときは車で海水浴に行ったことがあるからです。

TOの口から「久美浜」という言葉が出て、また行くことになったとき、
不思議な縁を感じたのですが、この度は家族は家族でもわたしの夫と息子と、
車ではなく新幹線で関東から向かうことになったわけです。



ニコンのカメラと望遠レンズを持ってきながらメモリーカードを忘れるという、
サザエさん的痛恨のミスに気がついたのは、京都駅から福知山で乗り換え、
豊岡という駅に着いて、二時間に一本しかない京丹後鉄道の電車を撮ろうとしたとき。

「メモリーカード忘れた。あの電車撮っといて」

息子が呆れながらiPhoneで撮ってくれたのが上の写真。
しかし、同時にわたしは、下手なカメラよりずっとマシなレンズ付きの
iPadairを、カード会社のポイント交換で手に入れたばかりだったのを思い出し、
この後からiPadを使って写真を撮りました。

なんだか気のせいか、あまりニコンと変わらない気がするなあ・・。



本当はこの前日京都に一泊して、翌日早くホテル入りする予定だったのですが、
息子の学校の用事が後からわかったため、TOに遅れて夜のチェックインになり(T_T)
ホテルの部屋を見て、もったいないことをしたと心から悔やみました。



階段を上っていくと、小さな扉があり、ここが部屋の入り口です。



はしゃいで踊っている人あり。

内部はこのようなヨーロッパの田舎風。
梁が出ていてまだ木のにおいも真新しい、このホテルは1年前に
大々的にこれらのコテージ風の客室が点在するタイプに改装したそうです。



どうですかこのおしゃれな水回り。

この会社は神戸のアパレル輸入会社で、この地に倉庫を持っていて、
最初は2部屋だけの小さな宿を経営していたそうですが、このたび規模を拡張し、
ついでに洗練されたオーベルジュとしてリオープンしたというわけ。

ユナイテッドアローズやトゥモローランドなどにも輸入した衣料を卸しているそうで、
おしゃれなのも激しく納得です。



水回りが完璧なのはホテルとしてポイント高し。
床の木材は滑らかで清潔、裸足で歩き回ってもまったくOK。
アメニティもAESOP(イソップ)のソープ類を使うなど、一味違います。




私たちの部屋の地下に、倉庫と洗濯場があって、そこに入っていけるのも
なんとなく日本離れ?していましたが、その地下の床になぜか入り込んでしまったらしい
サワガニがいました。

かわいそうに、食べるものがなくつい最近お亡くなりになったようです。



遅くに到着したのでさっそく夕食をいただきました。
この季節だというのに夜は寒く、また夜遅かったのでカフェインの入っていない暖かいものを、
と頼むと、バーベナの葉のハーブティーを出してくれました。



軽いコースの前菜はカツオのマリネや貝、キスみたいな魚のフライ。



オコゼのフライとアスパラガス。
このオコゼは絶品でした。



和牛のステーキ。
こうして写真に撮ると大きく見えますが、実寸は2㎝×4㎝×5mmくらい。
しかし味が濃厚で旨味のある肉は少しで十分でした。

アメリカ人なら少なすぎて暴れるレベルですが、こんな滋味溢れるステーキも、また、
アメリカではお目にかかることのないレベルです。



ディナーのメインディッシュはアクアパッツァ。
アサリは半分くらい残りましたが、二匹の白身の魚は柔らかくて味が濃く、都会のホテルで出される
「ソースは濃厚だけど身はパサパサで残念」な白身魚とは格が違いました。
味付けもガーリックをメインに、オリーブオイルと香草と塩だけ。



デザートは甘い甘いイチゴを使ったパンナコッタ。
クラムのシャリっとした食感が味を引き締めていました。

 

部屋に戻って一応インターネットを試してみましたが、まったく通じず。
当然ながら部屋にWiFiなど通っていません。

「これはインターネットは忘れて過ごせということね」

と肝に銘じ、おとなしく?iPadにダウンロードしてあった本を読みながら寝ました。
ちなみに今読んでいるのは「二つの祖国」(日系二世の記事を書くために読み直し)です。



明けて翌日。

改めて見る部屋の中は、わたしたちがボストンの郊外で泊まったことのある、
優に築150年は超えた民宿の部屋をそのまま現代に蘇らせたようでした。



カーテンも窓枠もないガラスの窓。
このあたりは現代風です。



外に緑が見えていますが、この向こう側は海だそうです。



これは息子のとったiPhone写真。
私のとった写真より、手すりの影の映り方が綺麗だったのでこちらを採用。



ここでのんびりお茶を飲むこともできます。
冷蔵庫には水と桑茶のペットボトルが人数分用意され、コーヒーや紅茶を
ラッセルホブスのケトルで沸かして飲むこともできますが、
部屋にあった注意書きによると、飲み物、とくにお酒の持ち込みは禁止されているようでした。
ちなみにワインボトル一本の持ち込みに1000円かかるとのことです。



部屋に続くエントランス。
くまさんのいるところで靴を脱ぎ、階段を上がると部屋の扉があります。



こういうインテリアはいかにもフランス風だなと思ったのですが、



さらにこの外観を見て、昔パリ郊外のトロワという街の、

Le Champ Des Oiseaux

というホテルに泊まったのを思い出しました。
今久しぶりにHPをみると、チューダー朝風とでもいうのか、ずいぶんこれとは違いますが、
レンガを重ねた感じと、古い建築によく使われる、建具の黒い金属の使い方などは同じです。

このホテルを造るにあたっては、主にドイツの建築を実際に見に行って参考にしたそうです。



ここの自慢は朝ごはんなのだそうで、メインはこの温野菜。
生野菜やパンなどはビュッフェ形式で取りますが、この温野菜や、



卵料理は運んできてくれます。
今回はホワイトオムレツは頼まず、普通のオムレツをいただきました。



食事をしていたら庭の柵の向こう側に雉がきていました。

「今晩のディナーはキジの料理?」

と息子。

昨夜、久美浜の駅からここに来るまでの山道(街灯などまったくなし)を走っていると、
道の脇にシカがいましたし、ヘッドライトの前をわざわざ横切るタヌキもいました。
もちろんイノシシなどもたくさんいそうです。



ガーデニングも大変力を入れているそうで、わたしたちが次にここを通った時、
従業員がラベンダーの花がら摘みをしていました。
向こうにはオリーブの木もあります。

山間地帯で湿度が低めなので、イギリス風のガーデニングも可能なのでしょう。



こういったスレートを積み重ねたものも、ドイツから仕入れてきたアイディアで、
この石は普通の石を薄く切り出して、それを何層にも重ねたものなのですが、
その作業は全て、当ホテルのスタッフが手仕事で行ったものなのだとか。



マキを積み重ねておくための小屋。



わたしたちの泊まった部屋の廊下部分。
この雨樋を見ていただければ、ヨーロッパ風を再現するのに細部までこだわっているかが
お分かり頂けると思います。




街中にいきなりある、内部だけ作り込まれた結婚式場の、あのハリボテ感など微塵もなく、
ここが京田辺市の山中であることを忘れさせてくれます。
しかし、それは自然も一体となったもので、決して日本を否定するものではありません。

いわば「こんなのも日本でできるんですよ」「これも日本なんですよ」といったコンセプト。
温泉もない、近くに海水浴場もない、ただ自然と料理とホテルそのものを楽しむホテル。

こういうオーベルジュ型のホテルが日本にも随分増えてきたと思いますが、
有名な観光地ではないところは、中国人の観光客がまず来ないのが大きなメリットで、
敷地内に中国語やハングルの文字を見ずにすむのはたいへんうれしいことです(笑)



まったくの山間部にあるこの一帯は、耳をすますと四方からいろんな鳥の声が聞こえます。
ウグイスがさかんにホーホケキョを聞かせてくれました。
テラコッタのバードバスにも鳥が水浴びに来るようです。



近くにはハイキングもできる遊歩道もあります。
これはホテル所有のハーブ畑。



ハーブ畑はホテルの道を挟んで反対側の山の斜面にあり、登っていくと
昔このホテルがレストランにしていた建物がありました。
ここも十分おしゃれで、今倉庫になっているだけというのはなんとも勿体無い気がします。



ここに設えられたテラスから久見浜湾を望む眺望はこの通り、絶景です。
久美浜というのは地図を見ていただければお分かりですが、日本海から深くくりこんだ、
まるで湖のような形の湾で、まるで江田島の江田湾のように、内海は波一つたちません。



こういうところから望む湾は、まるで山間の湖のように見えます。



景色を見ていると、建物のそばにいたネコが近寄ってきました。
すごく人懐こくて、尻尾を触っても嫌がりません。

シャム猫とキジ猫がミックスされた変わった毛色です。



わたしたちに近づいてきたのは彼女の時間つぶしだった模様。
まずはその辺の草を食べ(毛が抜ける時期なので?)、



その辺ですりすりして、



散々遊んでいるところを見せてくれていましたが、下の山道に車が来たとたん、
(わたしたちには見えていましたが、彼女には見えなかったはずなのに)
音だけで聞き分けたのか、時間つぶしをやめ、



さっさと下から続く道の方へ移動。



車から降りてきたのはホテルの従業員の方。



倉庫の前に歩いていくホテルの人に走ってついていきます。



なんと、このネコはホテルの「公式飼い猫」。
平日は専門で面倒を見ている人がいて、餌の時間も決まっているのですが、
この日はその人が休みなので、かわりの人がその時間にえさやりのためにここにきたのです。
9時20分という「餌やりタイム」に1分も違わず。


ホテルの人が袋から出しているのは獣医さんから処方されたおくすり。
最近このネコ、とらじろう(女の子なのに・・)は歯を抜いたため、
抗生物質を投与されているのですが、ドライのキャットフードが食べられなくなり、
缶詰の半生タイプを与えられているのだそうです。 



その辺の山を駆け回って自由に遊んでいるとらじろうですが、
ここでごはんがもらえるため、ほとんどこの辺りでうろうろしているそうです。

下に降りてくることはほとんどないのですが、牛肉を焼く匂いがするときだけ、
キッチンの外側に来て、もらえるのを待っているのだとか。

ネコのくせに牛食べるのか・・・。




お食事終了。
左にある小屋はとらじろうの邸宅で、冬は雪が多いこの辺りの気候のため、
毛布をかぶせた箱のなかに「ネコつぐら」を入れ、さらにはその下に
電気式の暖房シートを仕込んだ完璧な仕様です。
冬はずっとこのなかにいてご飯の時しか出てきません。

給水中。
さすがはおしゃれなホテルの飼い猫なので、餌入れもホーローのパンケース。
積み重ねたレンガの棚といい、こんなところも手を抜きません。



食事が終わったので満足した彼女はわたしたちの相手になってくれました。



例によって一番可愛がってくれそうな人(わたし)を見極めるや、
足元に寝転んで撫でてくれアピール。



ところでこのホテルは、ホリディホームといいます。
久美浜に行かれたらぜひ、というか、ホテルに宿泊する「だけ」に行く価値のあるホテルです。



ドイツ風の建築にはメルセデスがよく似合う。
ここには取引先、たとえばユナイテッドアローズやトゥモローランドの偉い人も泊まりにきます。
元々はそういう取引先の人たちを泊めるために宿泊できる施設を作ったのだとか。



歩いて5分ほどのところにキャンプ場があり、海岸に面していました。
向こう側は市役所や学校などのある久美浜町の中心部分。







ところで部屋のテレビ台になっていたこのタンス、どう見ても江戸年間のものです。
鍵のかかるバーが前に設えていることといい、



タンスの引き出しに「証書(旧字体)」「田」などのラベルがあることから、
昔、役所や銀行のようなところで使われていた書類入れではないかと思われました。



さて、ホテルをチェックアウトして久美浜の駅で電車を待っているわけですが、
ホテルには元々の本業であるアパレルのブティックもありまして、
記念にと横縞のTシャツと麻のスカート、ワンピースなどを購入しました。

ここが輸入しているストライプのシャツですが、元々はフランス海軍の
あの赤と白のセーラー服の内側に切るシャツを納入していたメーカー。
つまり、海軍御用達です。

そういうブランドならではの横縞Tシャツは、着心地がよくシルエットもそこそこタイトで、
元々持ってきたファリエロ・サルティのストールと合わせてもいけます。
帰りに駅まで送ってくださったホテルの女性従業員が、

「そういった大人っぽい着こなしをしていただけると嬉しいです。
たいていカジュアルに着られるので」

と褒めてくださいました。

この会社はビルケンシュトックなども輸入しています。



向こう側にやってきたカラフルな電車。
久美浜を通るこの路線は「京丹後鉄道」といい、JRではありません。
昔廃線になりそうになったのを、地元の第三セクターが買い取り経営しています。

2時間に1本の運行だそうですが、交通が前線バスになるというのも
地元の人たちにとっては不便になるということだったのでしょう。



ちなみに会社は北近畿タンゴ鉄道といいます。
タンゴは丹後とダンスのタンゴをかけて、あえてカタカナです。

私たちの乗る電車がやってきました。



ご覧の通り、まったく電車らしくないテーブル付きの席で、二両のうちこちらは
指定席、そして注文すれば食事もできます。
わたしたちはたった二駅だけなので飲み物だけいただきました。



豊岡駅にあっという間に到着。
西舞鶴方面まで行けば、長時間乗れるうえに天橋立も見られるのですが、
今日は時間がありませんでした。



豊岡というのは「カバンの街」だそうです。
駅のホームに「カバンの自動販売機」がありました。
1500円で、ケースに入ったエコバッグが買えます。




「コウノトリの郷」という駅名もあったほどで、この辺はコウノトリの生息地。
車窓から田んぼに降り立つコウノトリの姿をわたしたちも目撃しました。



というわけで、京都に到着したのは4時。
12時半の久美浜初の電車に乗って3時間半です。
お腹が空ききってていたので、駅ビルにある「はしたて」に車内から予約を取り、
このような「金目鯛つくし」のお膳に舌鼓を打ちました。
金目鯛の丼と、金目鯛のフライが乗った冷麺。

この日は京都に一泊してから翌日家に帰りました。

慌ただしい旅行でしたが、久美浜にいた15時間(たった15時間・・・)だけが、
まるで時間が止まったかのようなゆったりとした気分になれました。

わたしは結局三度目の久美浜となったわけですが、
民宿から水着のまま歩いて海岸に行った、昔の記憶を呼び起こすものは何もなく、
新しいコンセプトの癒しの空間が、ここを全く初めての土地のように感じさせました。



 

ロシア・イスラム国・中国と「力の空白」~西原正氏講演より

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ジャンルカテゴリを「海外ニュース」とするのに、適当なのがこれしかないとはいえ
モヤっとしてしまいました。
「海外」じゃなくて「国際」というジャンルを作ってくれんかなgooブログは。

西原正氏は現在、平和・安全保障研究所という平和と安全に関するシンクタンクの
理事長であり、かつて防衛大学校で教鞭をとっていたことがある国際政治学者です。
全国防衛協会連合会(仮名・地球防衛協会)で行われた講演の内容が、
今の国際情勢を「三行でいう」的なポイントでまとめられたものだったので、
それをさらに簡単にまとめて誰にでもわかるようにご紹介しようと思います。



先日、ドイツで行われたG7において、

「南シナ海で行われている力による現状変更は認めない」

という声明が出されました。 
ようするに中国を牽制したわけですが、現在の世界では、南シナ海を始め、
「力による現状変更」が意図され、その結果「力の空白」を生んでいる地域が3つあります。
それを企んでいる国と、その地域は次のとおり。

ロシア による クリミア併合

イスラム過激派 による 勢力拡大政策

中国  による 南シナ海、東シナ海 


この地域の現状についての総括がこの日の講演の主題でした。
それでは、まず各地域についてざっと今の状況をまとめると。

まずロシア。
ロシアはソ連となり、それが崩壊して周辺国が独立してしまいましたが、
現在のロシアはクリミア併合によって「ロシア帝国」を復活させようとしています。

イスラム。



昔この地域は赤の部分が「イスラム」だったのですが、



いわゆる「イスラム国」は、こんな感じに「イスラム王朝」を復活させたいわけです。
なぜスペインを飛ばしてポルトガル?という気もしますが(笑)
アフリカの上半分を乗っ取る構想にしているのは、

「アフリカは乗っ取るの簡単そう」

ってことなんですかね。(全然このへんの知識なしで言ってますので念のため)

ちなみに彼らは2014年に「カリフ制」を復活させました。
カリフというのは「後継者」という意味で、開祖ムハンマドの「後継」となる指導者のことです。

イスラムの考え方によると、カリフの治める「国」には国境が必要ではないそうで、
「イスラム国」なのにいったいどこの「国」なのか、と皆が思うのはこのせいだと思われます。


そして中国。
我々に関心の深い「現状変更の総本山」が中国で、ご存知のように海洋進出への野望を
全く隠すことなく岩礁を埋め立ててまで現状を変更しまくっているわけですが、
陸においては、こんなことを企んでおります。

 

新シルクロード、というのがこの構想のネーミングだそうですが、三つのいずれの地域にも共通するのは

「昔の夢よもう一度」

と、かつての栄光の時代の復権を狙っていることです。

(ここまで書いて、裸一貫の小国が当時の大国によって支配されていた世界のあちこちに進出し、
曲がりなりにもあれだけ領土を展開した例は、近代史においては大日本帝国だけではなかったか、
とふと思いついたのですが、他にそんな例があったらどなたか教えてください。)

シルクロードによって中国は政治、経済、安全保障を確立させるという狙いがあり、
福建省に自由貿易区を据えてシルクロードの拠点にしようとしているのです。



南極に中国人の観光客が押しかけてペンギンに接近するため顰蹙を買っている、
というニュースを先日読んだところですが、中国は北極もなんとかしようとしております。

2011年に海自の幹部学校にて作成された資料によると、ロシアはまず、
ここに最も意欲を示している国家で、北極点下にこっそり国旗を立てたそうです。
写真を見ると、国旗といっても海の中に立てるものなので、錆びない棒に
赤白青の三色のプレートをつないだ、アイデア賞受賞作品みたいな旗です。

カナダ・デンマークも近いので当然北極に関与している国ですが、それよりわからんのは
中国がなぜかここにも、取得のための布石を着々と打っているということです。

だいたいお前ら北極に近くもなんともないだろっての。

どの国も北極の資源と航路の獲得、領海の拡大をしたいわけですが、問題はこれらの国が
北極圏で軍事演習をしたりすることで、武力衝突の危険があることです。


さて、これらの3地域に共通して言えるのは、

現状変更を許す力の空白

が 生じてしまったことですが、その理由はなんでしょうか。


まず、ロシアの場合は、クリミアで住民投票が行われ、95%が

「ロシア編入に賛成」

という結果が出ました。
特にフランスが弱体したEUがここに至るまでロシアに抵抗しなかったこと、
そしてオバマでは動きを抑えることもできなかったということで、この力の空白に乗じて
ロシアはクリミア編入という現状変更を行ったのです。

アメリカは、

「住民投票はウクライナの憲法に反する。ロシアの軍事介入は国際法に違反するものであり、
そうした暴力や脅しの下で行われた投票結果を国際社会は認めない」

と遺憾を表明したのですが、
経済制裁など行っても効果は微々たるものですから、ロシアにとっては痛くもかゆくもありません。


イスラムでは、2013年にアメリカが軍を引き上げたところで力の空白が生まれました。
過激派の伸長の理由の一つに、イスラム国というのは電子戦略とでもいうのか、
映像において大変高度な技術を駆使し、それを宣伝に使ったり、SNS、
ソーシャル・ネット・ワーキングサービスで広報や勧誘などを行っていることがあります。

捕虜の処刑映像を世界中にネットで流すようになったころからこの傾向は顕著になりましたが、
最近ではその映像もまるで映画のような高画質の、しかも効果を加えたものが見られるそうです。

カリフ制が「国境のない国家」を標榜することと、EU によって国境概念が希薄したことは重なりますし、
1916年の「サイクス・ピコ協定」によって分割された元オスマン帝国領の中から、
昨今では、その欧米諸国の存在そのものが希薄になってきていたということも空白を生んだ理由です。


そして中国。

「中華民族の偉大なる復興」

というのは習近平国家主席がよく演説に取り入れる言葉ですが、また

「アジアの安全保障はアジア人で」

というのも習近平のお気に入りの言葉です。
まあ、言い換えれば「日本からアメリカは出て行け」と言ってるわけです。

中国が覇権主義であることは世界中の皆が「知ってた」状態なのですが、それでも
西欧では対中依存が増大しているため、強く出られないどころか、ドイツなど
訪独を中国に遠慮してダライ・ラマを国に入れないなど、盛んに媚びているわけです。

自国の経済優先で、中国が侵略しようとしている地域の利益などは、はっきりいって
ヨーロッパの国々にとってはどーでもいいことだからですねわかります。

日本、アメリカ、カナダの蹴ったAIIB (アジアインフラ投資銀行)ですが、ヨーロッパ諸国の参加は
大した出資率ではないため、つまりこれも「媚中」のなせることだと言われております。

西原氏は、国内で腐敗の闇が深い中国が中心となって、どうして腐敗しない組織が作れるのか、
と言っておられましたが、わたしもあの国をなぜ信用する気になれるのか、
世界の参加国の皆さんに聞いてみたいくらいです。


話が逸れましたが、中国に対しては マーケットとしての中国に媚びる動きに加え、
オバマ政権の中国に対する弱腰姿勢、「声明」はだせども力出さずの態度を
すっかり中国がなめてかかってきた結果、力の空白がそこに生まれました。
カーター国務長官になって、ようやくアメリカは中国に対し強い姿勢をとるようになったのですが、
これももう少し早ければ中国の動きは南シナ海でもここまで素早くはなかったと言われています。

日本が民主党政権で尖閣の漁船衝突事件のとき、配慮するような態度をとったことも
中国に誤ったメッセージを与えることになってしまいました。





つまりこれらの「力による現状変更」を許す「力の空白」の原因を一言で言うと

西側陣営の弱体化とオバマ政権の指導力の低下

に尽きるということになります。
そこで、日本はこれにどう向き合っていくべきでしょうか。

ちょうど先日、わたしは防衛協会の席で武居海幕長にご挨拶した時、
既知の元海将のお噂を海幕長から伺ったのですが、その方は

Military Statemen Forum

という、いわば日米軍人賢人会議といったものに出席のため渡米しているということでした。

こちらからは、現統幕長を始め、歴代統幕長ら防衛省代表として赴き、アメリカ側も
歴代の統合参謀本部議長に元海軍作戦部長、太平洋軍司令官等々、錚々たる軍高官との
意見交換が行われたそうです。

この席でも、 さぞかし現状変更が現在進行形で行われている地域についての
情報交換が活発に行われたものと想像しますが、何よりも重要なことは、日米同盟が
世界の平和に貢献しているということを互いに確認しあったということだったのではないでしょうか。
(ということを出席した方から伺いました)


端的に言って日本のまず取るべき立場は、アジアに「力の空白を作らない」ことです。

もっとはっきりいうと「中国を暴走させない」ということでもあると思うのですが、
そのためには日米同盟の強化で、アメリカをアジアに引き止めることが必須となります。
そのことによって、パワーバランスは平衡を保つことができ、結果として抑止力が
平和を保ち続けるというわけです。

「日米安保なんて何の役にも立っていない、金の無駄だ」

と共産党などはよく言いますが、こういう左巻きなひとたちは
「何も起こらなかった」ことが日米同盟の効果である、ということになぜ思い至らないのでしょうか。
現に、南シナ海では遠慮なしに行動を起こしまくっている中国が、
尖閣には衝突船事件以来、表立った動きを見せていません。

これは誰がなんと言おうと

「米軍の存在によって力の空白が生じるべくもなかった」

ということに他なりません。
米軍がいなければ、憲法の縛りで身動きできない日本において、尖閣に1日で足場を作り、
一ヶ月で基地を作って乗り込まれていたことはまず間違いのないところです。


また、パワーという意味での経済力を言うと、GDPの1位と3位はアメリカと日本です。
経済力の29%を日米でしめているわけで、対して中国はまだ13%にすぎません。
たとえロシアと組んだところでロシアは全体に対してわずか2.4%のGDPしかありませんから、
日米がタッグを組んだところに中国が力で現状変更を行うことは「不可能」です。

この他、

日米豪印の協力を推進すること

日本の新安保法制と日米ガイドライン

日米豪とNATOとの連携を深める

などの、他国との連携を強化する対策。
このために今政府は安保法制を見直すための審議を行っているわけですね。

そしてインフラ投資によって中国が覇権を拡大しようとしている同じ地域、
アジア、中東、アフリカへの投資を積極的に行っていく、ということも重要になっていくでしょう。 


力による現状変更の何が悪いかというと、それが規模の大きな武力衝突のきっかけとなり得るからです。
日本には、今、大国として「力の空白を生まない」、地域のバランサーとなることが求められています。



(講演内容をもとにしましたが、随分私個人の見解が入ってしまいました。
演者の西原氏のご意見と違う点があるかもしれませんが、悪しからずご了承ください)

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ~太田實中将

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大東亜戦争で日本領土で地上戦が行われたのは唯一沖縄だけでした。

巨額の制作費を投じて世に出されたS・スピルバーグ制作の「ザ・パシフィック」は
その最終週近くに沖縄での地上戦がアメリカ側の視点から描かれます。

このブログでもかつて映画「ひめゆりの塔」を扱ったことがありますが、
犠牲になった女子学生に主眼を据えるなど、被害者の立場から語った日本映画はいくつかあり、
戦争映画に挿入されているものも含めれば、相当な数になるかもしれません。

しかし、アメリカ側から沖縄戦を描いたものはもしかしたら初めてかもしれません。
このテレビドラマシリーズは、元海兵隊員ユージーン・スレッジのノンフィクション、
「ペリリュー・沖縄戦記」を始め、実際にこれらの戦闘に参加した軍人の証言を
ドラマにしており、そのために大変リアリティのある描写が話題になりました。

そこにはヒーローはおらず、市井の善良な一市民が狂気の戦場で何を見、何をしたか、
淡々と事実が描かれるため、米兵が行っていた非人道的行為も糊塗することなく
そのまま平坦とも言える調子で映像化されています。
映像のあまりのリアリティに、わたしはこれをHuluで通して観たとき、
大画面で見なくてよかったと何度も思ったくらいです。

そして10シリーズの9番目が「沖縄」なのですが、ここで最も印象的だったのは、
乳飲み子を抱えた日本女性が、米兵に近づいていって自爆するという場面でした。
しかし、証言から取られたシーンが多いこの映画で、なぜかここだけ創作だそうです。

実際、民間人が軍役に就いている知人から手榴弾を入手するなどして自決したり、
本土決戦に備えて、少年兵に対戦車自爆攻撃の訓練を行ったという事実はありましたが、
女性や幼児による自爆攻撃は、米軍側の資料を含め、史実に残されていません。

しかし、捕虜にしようとした日本兵が米兵を道連れに自爆したり、米兵が民間人
(映画では少年だったが原作では老婆だそうです)を撃ち殺したり、ということは
度々起こったことであり、穿った考え方をすると「子連れの女性が自爆」という創作は、

「であるから、米側としては、民間人であっても殺すしかなかった」

というマイルドな言い訳として挿入されたという気がします。

それにしても、米軍が沖縄に侵攻してきたとき、覚悟の上で軍に献身的な協力をするも、
次々と斃れていった沖縄県民が、戦後、本土の犠牲となったことの怨みをアメリカではなく
「日本」と「軍」に持ち続けるのも当事者であれば致し方ないこととも理解できます。

そんな沖縄県民ですが、彼らの怨みの対象はなぜか海軍にはないと言われます。
その理由というのが、この大田中将(最終)の最後にありました。





太田實少将は海軍兵学校41期。
同期には草鹿龍之介、木村昌福(まさとみ)などがいるクラスなのですが、
このクラスの恩師の短剣4人には、現在名前を聞いてすぐにそうとわかる軍人は一人もいません。

一番「出世」した草鹿龍之介も118人中26番ですし、109番だった木村昌福、
そして64番だった太田が後世に名を残しています。

また先日「ルーズベルトニ与ウル書」で取り上げた市丸利之助もこの学年で、
(彼の成績は22番と”比較的”上位ですが)木村、市丸、そしてこの大田少将に通じるのは、
いずれもその評価が、ハンモックナンバーで自動的に出世した地位で為した功績でなく、
もっと深いところの、人格や将器から生まれてきた結果であったことに注目すべきでしょう。

超余談ですが、この学年の後ろから7番目のハンモックナンバーに「東郷二郎」という名前があります。
これがうわさの東郷元帥の息子か?と思ったのですが、そうではなく、東郷は東郷でも、
日清日露戦争で第6戦隊司令官だった東郷正路中将の息子でした。

アドミラルトーゴー平八郎さんの方の息子はその一学年上の40期ですが、これも今調べてみたところ、
後ろから数えたほうがずっと早い、144人中121位なんですね(T_T)
しかしまあ、全員が超優秀な集団であるわけですし、ハンモックナンバーが下の方、
といっても本人の不名誉だとはわたしは全く思いません。

東郷元帥だってそもそも秀才というタイプではなかったわけですし、
現に後世に称えられる軍人はハンモックナンバーとは無関係なことが多いのは、
今説明した実例にもある通りです。


大田少将は昭和21年1月から沖縄方面根拠地司令となり、その3ヶ月後に始まった沖縄戦において
進退極まり、五名の幕僚とともに6月13日、壕の中の司令官室で自決しました。

軍人として華々しい功績をあげたわけでない一司令官の名前が現在も忘れられておらず、
そして沖縄の人々が海軍に対する反感を持たなかった理由は、大田少将が自決寸前、
海軍次官宛に打った一通の電報が、沖縄県民の心情を代弁していたからに他なりません。

沖縄県民の奮闘と犠牲を称え、後世必ずそれに報いてやってほしい、と締めくくられた電報には、
沖縄戦において、彼らがいかに一丸となって戦い、犠牲的精神を発揮して、
父祖伝来の土地を守ろうとしたかが、簡潔な、しかし血を吐くような調子で述べられていました。

それは現代語訳にすると次のようなものです。


沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、
県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせする

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛招集に進んで応募した

残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身切り込み隊にすら申し出る者までいる

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした
頼れる者のない重傷者の看護を続けている
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ
移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して
勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという
 



米軍上陸当時、沖縄戦に備えて配備されていた部隊は、

運天港と近武湾に配置された震洋隊や咬龍隊、
魚雷部隊などの海上攻撃部隊、
南西諸島航空隊、
第951航空隊沖縄派遣隊、
砲台部隊、迫撃砲部隊

などです。
大田少将が、そのなかで第一次上海事変や2.26事件にも参加した経歴を持ち、
海軍における陸戦の権威であったのは確かですが、この人事の陰には、
前任の司令官が艦艇出身で、陸戦の指揮能力を全く持たなかった、とう事情がありました。

米軍が読谷海岸に上陸した時、大田少将は沖縄本島で1万人を指揮していましたが、
そのうち陸戦隊として投入できる兵力はわずか600人ほどで、しかも赴任にあたって、
大田少将は比喩でもなんでもなく、

「武器がなく竹槍で戦わなくてはいけないらしい」

というようなことを家族に漏らすという有様でした。


第32軍は米軍の飛行場占領以来、防御基地に立てこもり、米軍に対して
多大な犠牲を強いていましたが、参謀本部から

持久戦を捨てて攻勢に出るように

という要求が相次ぎます。
この要請は、実は海軍の主張によるものだったということですが、
5月4日に行われた総攻撃は、米軍の強力な防御砲火によって失敗しました。

このことが関係しているのかどうかはわかりませんが、その後5月24日、
米軍の上陸によって陸軍が首里を撤退することに決めたとき、陸軍の第32軍は
海軍司令部を陸軍第32軍の作戦会議に呼びませんでした。
そして直前になって撤退命令を出したのですが、大田少将は敢然とこれを拒否しています。

当初軍司令部が首里撤退に当たってその援護を命じたとき、大田と司令部は
その命令を読み誤り、一旦完全撤退しながら後から復帰しており、
大田の拒否はこのときの齟齬からくる陸軍への拒否だという説もあります。
このとき、「撤退をお断りする」電報はこのような内容でした。

「海軍部隊が陸軍部隊と合流するということは本当にやむを得なかったわけで、
もとより小官の本意ではありません。
したがって南と北に別れてしまったと言えども、陸海軍協力一体の実情は
いささかも変わっていないのであります。
今後はそちらからの電文にしたがって益々臨機応変に持久戦を戦うつもりです」


この電文からはなんとも言えず、実は米軍に退路を断たれたため、
撤退することは敵わなかったから、という推測も成り立ちますし、これは個人的意見ですが、
もしかしたら、大田少将は、撤退によって沖縄県民に犠牲を強いる可能性を懸念したのかもしれません。

事実、陸軍が首里を捨てて島尻地区に撤退したことによって、そこに避難していた島民が
結果的に激しい地上戦に巻き込まれることになっています。



いずれにせよ、この電報を発した翌日、海軍司令部は米軍三個連隊に包囲され、
二日間の抵抗ののち、大田少将は牛島軍司令官に対して

「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。
根拠地隊は今13日2330玉砕す」

と決別電報を打ち、司令部の壁に辞世の句、

「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり」

と書き記し、海軍次官宛にあの電報、その最後に

「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」

と記された後世への遺書を打電して自決して果てたのでした。


アメリカ公刊戦史に記された沖縄戦の記述はこのようなものだそうです。

小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、
いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。

アメリカの沖縄戦を語る視線は、むしろ残酷にも思えるくらいの憐憫に満ちています。



大田少将の兵学校では卒業時の成績は、だいたいクラスの真ん中。
学年途中で病気をして一旦最下位になったからとはいえ、入学時の成績も120名中53番ですから、
団体があれば必ず一定数いる、

”どんな集団に組み入れられてもなぜかいつも中間地点にいるタイプ”

であったという気がします。

その人物像もも皆が口を揃えて、温厚で包容力に富み、小事に拘泥せず責任感が強かったと証言し、
いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するようなことはなかったと言われます。

しかしその反面、家ではすべての事は妻に任せっきり、髭剃りすら寝たまま妻にやらせる亭主関白。
妻とはそういうものだと思って育った娘が、新婚の夫に同じことをしようとしたら、
婿殿は刃物を持って迫ってくる嫁に殺気を感じて飛び退いたという笑い話まであります。

「軍人の妻になったからには夫が一旦任務に就けば、家庭のことはすべて自分でやれ」

という考えのもとに、大田自身は、たとえ子供や妻本人が病気でも、一切手を貸しませんでした。



大田中将は子沢山で、男女合わせて11人の子供がいました。
その理由というのも、兵学校で一番後に結婚したと思ったら、もう一人未婚が残っていて、
さらに一番若い嫁(18歳)をもらったと思ったら、さらに若いのと結婚した同級生がいた為、

「何も一番になれないのは悔しいから、子供の数でクラス1になる!」

と妻に向かって宣言したからだそうです。

11人の子供たちへの教育方針は”海軍式(海兵式?)”。
大田家の朝は海軍体操に始まり、心身を徹底的に鍛えるという家訓のもと、
妻は夫のいない間も、毎日子供たちを連れて海に泳がせに行かねばなりませんでした。
父親である大田少将が子供たちを率いる時には、皆が見ているのも構わず、
砂浜で海軍式号令をかけて、海軍体操を始めるのが常でした。

そして、自分が胃腸を患ったせいで、つり革につかまるのはもちろん、
お釣りを受け取っても激怒されるという理不尽な潔癖性ぶりで子供たちを悩ませていました。



そんな父、大田中将が沖縄に出征が決まった時、本人はもちろん家族も、
それが今生の別れになると明確に理解していました。
別れの日、海軍の車が迎えに来ている辻まで出た大田家の者は、
最後に大田少将が白い手袋をして敬礼をしたまま、ゆっくりと一人一人の顔を
まぶたの裏に焼き付けようとでもするように見つめていたのを覚えています。

そのとき、男児の一人が、父親に向かって海軍式の敬礼を返しました。

大田少将の息子のうち、二人は戦後、海上自衛隊に入隊しました。
三男の落合(たおさ)(養子に行き苗字が変わった)は1991年、
自衛隊初の海外派遣任務となったペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮して、
「湾岸の夜明け作戦」に参加しています。




家族への厳しくも愛のある接し方を見ると、「外柔内剛」という言葉が浮かぶのですが、
最後の「撤退お断り」はともかく、大田少将は陸軍とも協調できる人物でした。

しかし、5・15事件に始まる一連の軍人の反乱については、軍人は政治に関与しないという理念から
怒りすら抱いていたわけですから、ここ沖縄で、三月事件・十月事件の首班であった
長勇と協調して戦うということになったときには、さぞ複雑な思いを持ったと思われます。


ところで戦後沖縄県民が「海軍なら許す」という傾向だったのも、
沖縄における陸軍が、外敵と戦うのに必死なあまり、ともすれば沖縄県民に遺恨を残すような
「県民軽視」に走りがちだったのに対し、大田少将の遺書が軍の姿勢を批判する一言すら加えた、
県民の犠牲と努力に言及したものであったからに他なりません。

そこには「天皇陛下万歳」も「皇国の興廃」という言葉も・・、
軍人の遺書や最後の言葉に必ず見られる定型の文句が全くありませんでした。
当時の帝国軍人として、最後にこういう本音を、しかも海軍宛に打電するのは異例のことで、
このことだけをとっても、大田少将を勇気ある人と讃えるのにやぶさかではありません。

しかし、そこであえて規格外とも言える遺書を残した大田少将という人は、
同期で3ヶ月前硫黄島に死した市丸少将の言葉を借りれば、「干戈を生業とする武人として」
護るべきは「皇国」という抽象的な概念めいたものではなく、
そこに生きる国民であると明確に自覚していたのに違いありません。


大田少将始め、司令部が自決を遂げた壕から発見された軍艦旗には、
誰が記したのか、「沖縄の日没」という文字が墨で遺されていたということです。





 

 

「(たおさ)の船」~ペルシャ湾掃海部隊派遣隊員家族のための小冊子より

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ペルシャ湾への掃海派遣については、戦後初めての海外派遣となったため、
自衛隊にはあらゆる面で初めての試みとしての気遣いが求められました。
国民にその活動を正しく報道してもらうために報道関係に関してもそうでしたし、 
何より、現地に家族を送り出すことになる派遣部隊家族への広報は大事でした。

派遣部隊の隊長は以前にも何度かここで書いているように、沖縄戦における
海軍陸戦隊の司令であった太田實海軍中将の息子であった落合(たおさ)1佐の名をとった

「TAOSA TIMES」

という隊内新聞で、活動報告ならびに隊員からのメッセージを海上自衛隊新聞や朝雲新聞など、
関係紙に投稿したり、留守家族に対してビデオや写真集などの配布を欠かさず行い、
さらに地方総監部による現状説明会や親睦会などを通じて、遺漏のない連携を図りました。

その一環として、海幕は、防衛課が中心となって隊員家族のためにパンフレットを作りました。
新人記者の夏子が、父との対話によって国際貢献の意味を模索するという

「夏子の冒険」

そして、掃海部隊司令官である落合一佐の人となりについて紹介する小冊子、

「落合」

です。




自衛隊の歴史にとって大きなマイルストーンともなる海外派遣に、
どんな指揮官を立てるかということは大きな問題でした。
ことがことだけに、当初海将補がその任を負うのが適当、という意見も中から出ました。

海部内閣はそのとき、まだ最終的な派遣の決定を決議していませんでしたが、
地方選挙が喫緊に控えていたため、事態は全くとどまったまま、自衛隊は準備だけを進めていました。
選挙後に派遣が決定されるとしても、それから現地に向かった場合、すでに動き始めているはずの
米独英伊各海軍の活動に、大きく遅れをとることが予想されたのです。

通常、作戦は安全な海域からまず取り掛かるものなので、海上自衛隊が遅れて到着する頃には、
もっとも困難な海域が残っているだけ、という可能性もでてきました。
もしそうなった場合、先行している他国の軍の海軍大佐、あるいは中佐クラスの指揮官と連携、
悪くすれば(?)実質、指導のもとに作戦を遂行することになってしまうのです。

海上自衛隊が『装備は三流だが人は一流』なのは自他共に認めるところでしたが、
であらばこそ、こうした事態が予想される作戦に海将補を出すのは恥であり、
また不必要だという意見が通りました。

海上幕僚長はまた、この時の選定において問われたとき、

「人を選ぶ必要はない、安定した艇とエンジンに留意を」

と回答したということです。
また、

掃海艇の健康診断(水中放射雑音・磁気特性など)は、性能に劣る点はあっても
機密保持のため、ペルシャ湾進出後も自前で行い、決して他国海軍で行わないこと

米海軍との連携は、イラクの使用したイタリア製の「マンタ機雷」に対して
ヘリコプターによる掃海が必要となってくるので大変重要である

などが内内で取り決められたりしました。



海将補では他国海軍との釣り合いが取れず1佐を隊長にすることになりましたが、
厳しい条件下で、安全に、かつ確実に任務を遂行するためには、
指揮官には優れた判断力と統率力が要求されます。

このような重責を任すに足ると海自が判断した落合1佐とは、どんな人物だったのか。

どんな隊長が掃海部隊を率いているかは、掃海派遣に我が子や夫を送り出す家族にとって
何よりの関心事であり、求められる情報です。
家族のために作られたパンフレットの内容はどんなものだったのでしょうか。


「大田中将(当時少将)は、海軍における陸戦の第一人者であった。」

この一文で始まるパンフレットは、あの

「沖縄県民斯ク戦へリ、県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

という最後の中将の言葉を引用してその功績と人物を語ったのち、

「沖縄県民の間には、大田少将の名を知らないものはなく、また、
軍に反感を持つ人々の間でも大田少将だけは特別だ、とする人が多い」

とその段を締めくくっています。
次の段の、落合1佐に対する部分は、これをそのまま掲載しましょう。
同じことの繰り返されている部分、その他煩雑な表現はこちらの判断で省略、訂正してあります。



落合1等海佐は、海軍中将太田實の三男として昭和14年、横須賀に生まれた。
大田家は、4男7女の大家族であり、三男「」は9番目の子供であった。(中略)

落合家の養子となったは、高校を卒業すると、
防衛大学校に第7期生として入校し、その後、海上自衛隊に進んだ。

当時の彼の人物評は、

「一見してみるとどこにでもいるような青年で、凄まじい迫力を感じさせることもなかったし、
また話し上手で人を笑わせたりするようなこともなかった。
しかし、温厚・誠実で多くを語らなくても人を惹きつける何かを持っている青年であった」

という。

2等海尉になって間もなく、第101掃海艇所属の掃海艇第5号の艇長となった。
大きさ僅か50トンの浅海面専用の小型掃海艇で、「小掃」とか、
口が悪い連中は「毛じらみ艦隊」と呼ぶようなものであるが、しかし、
小さいとはいえ当時は同期のみならず、先輩、後輩からも羨ましがられたという。

他方、彼だからできるという信頼感もあり、人事に口を挟むものはいなかった。
このころからすでに彼は、周囲の信頼を勝ち取っていくのである。


彼は、5号艇長としての職務をよく果たした。
若干27歳の彼よりも年上の部下も多かったが、彼は決して艇長という役職を振りかざして
仕事をしたことはなかったし、決して部下を怒鳴りつけることもなかった。
かといって部下は彼を軽く見ていたわけではなく、訓練を重ね、
彼の人格に接するに従って、彼に心服していった。

掃海艇が荒天に揉まれ、いつ転覆するともわからないときでも、
彼は常にその温和な顔を崩さなかった。
そんな顔が乗員達を落ち着かせ、安心させた。

「どんなに危険なことがあっても、この人が艇長なら絶対に安心だ」

という確信を皆が持つようになったのである。
一方、この時期はかれにとって、人格だけでなく掃海のプロとしての腕を磨く絶好の時期でもあった。

「掃海はいつも命がけだ。そこには戦時も平時もない。生きるも死ぬも我々の腕次第だ」

普段温厚な彼も、こと掃海のこととなると、徹底して厳しかった。


は、これ以降、掃海艇「いぶき」艦長、機雷敷設艦「そうや」敷設長などを歴任し、
「掃海のことならなんでも俺に聞け」という自信を持つようになった。
その自信の裏には、厳しい訓練で身に付けた技量と経験があったことは言うまでもない。

このように順調に進んでいった彼の人生にも、やがて大きな壁が立ちはだかることになる。
それは父の巡り合わせとでも言おうか、まったくの偶然であろうか、
彼の父、太田中将が玉砕した沖縄に彼が着任したときのことだった。



昭和47年5月15日、沖縄が米国から返還され、防衛庁はその年に
那覇防衛施設局と沖縄地方連絡部を置き、自衛隊の開隊の準備を進めることになった。

同年7月、1等海尉落合は、沖縄地方連絡部に着任した。

地方連絡部とは、地元住民の中から自衛隊員を募集することを主な役割としているが、
他方、地域社会と自衛隊を結びつけるパイプ役をも務める。
特に沖縄のように、新たに自衛隊を開設する際には、地域社会との関係が重要であり、
その意味で地方連絡部の役割は極めて大きい。

しかしながら、先に述べた通り、沖縄住員の軍に対する反感は根強いものがあり、
自衛隊の開設に反対して連日連夜デモや抗議行動が続いた。
特に地方連絡部では、周りをデモ隊に囲まれ、日常の業務など全くできない状況にあった。

落合はこの状況を見て愕然とした。
今まで、制服を着て街を歩き「税金泥棒!」と言われたこともあった。
しかし、それとこれとは全く次元が異なっているのである。
沖縄県民の「軍」に対する感情は人に聞いただけでは理解できないとよく言われるが、
まさに彼はそれを痛感したのであった。

「自衛隊反対!」」「即刻沖縄から出て行け!」「軍国主義反対!」

と凄まじいばかりのシュプレヒコールを連日聞き、さすがの彼も心底から疲れ果てた。
これが父が戦った沖縄なのか?父が命をもかけて守ろうとした沖縄なのか?

は、いろいろと住民との対話を試みたが、まともな話ができる状態ではなかった。
しかし、このようなことがあっても、は決して沖縄住民を恨まなかった。
そして、自分の無力さを痛感し、絶望感に苛まれて、ある日、父の元に出かけていった。
父のもととは太田中将が自刃した小緑の海軍壕である。


月の綺麗な夜であったという。
は、壕の前に一人座り、父と酒を汲み言葉を交わした。
も父の血を受け継いでか、酒は相当いける。
奇妙なことに親子で呑むのは今夜が初めてであった。
しみじみと呑み、時には悲しみがこみ上げてきて号泣した。
が父に何を問い、何を話したかは定かではない。
父との対話は一晩中続いた。

その姿を見ていた者がいた。
彼は沖縄のある地方新聞社の記者だった。

「あ、あなた、ここで一体何をしているんですか?」

「父と酒を呑み交わしているんです」

彼は、自分が太田中将の息子であること、地連に着任したことを淡々と語った。
翌日、地方新聞に海軍壕での落合1尉の記事が載った。
その後、信じられないことが起こったのである。

太田中将の息子が地連にいるとわかって以来、デモ隊は、地連前でのデモを行わなくなった。
沖縄全体から自衛隊反対のデモが消えたわけではなかったが、地連の前だけはなくなったのである。

その後も、住民との話し合いで行き詰まったような場合、彼が出て行くことによって、
大方の問題は解決することができるようになった。


このことは落合1尉自身が、父の偉大さを初めて知るきっかけにもなった。

しかし、彼が太田中将の息子であるということだけだったら、こうはならなかったであろう。
彼は自分から出自を明らかにすることはなかったし、沖縄でどんな苦境に立たされても、
父の威光でそれを解決しようとしたことはなかった。

海軍壕で記者が感動したのも、彼の私心のない心と、人を惹きつける魅力にだった。

彼はたしかに父、太田中将の人格と「無私の心」を受け継いでいる。
しかし、彼はそれだけではなく自衛隊での様々な経験を通し、太田中将の息子ではなく、
海上自衛官「落合」として大きく成長したのである。


大田中将を父に持ち、父の守った沖縄で大いなる貢献をした彼は
今回、わが国初の海外派遣部隊の指揮官に選ばれた。


「の船」はいつも和気あいあいで、しかも活力に満ちていた。
事実、彼の部下だった多くの乗員が、

「あの人の下でならどんな苦労も苦にならなかった」

という。
そしてペルシャ湾での掃海には、まさにこの「の船」の雰囲気が必要なのである。

掃海には多くの危険が伴うことから、特に指揮官には掃海に対する深い知識や
経験に何事も動じない肝っ玉が必要であり、彼がそれを備えているのはもちろんであるが、
何ヶ月もかかる派遣に乗員が堪え、立派に任務を遂行するためには、
何よりも乗員の士気を高めるための艦内の雰囲気が問われるのだ。

そのためにも、落合一佐はまさにうってつけの指揮官である。

彼なら必ずやる。彼なら、絶対に、任務を全うできる。
なぜなら、彼には人格と技術と、そして何よりも大事な「運」がついているのだから。

 完


ペルシャ湾の掃海部隊派遣からすでに22年が経過しました。
派遣の決定にあたっては案の定、野党左派その他有象無象の鬱陶しい横槍が入りましたが、
それが一旦「船出」したのち、世間の目も、マスコミの当初粗探しをするような調子も、
全てが変わっていき、何よりも国際社会の日本に対する目は大きく変わりました。

掃海派遣は地域の安定化という命題と、日本の国益を守るためという副題の元に決定されましたが、
同時に最も重要なことは、それが日本の矜持を守るための戦いであったということであり、
掃海部隊はもとより、当時の海幕、自衛艦隊、各地方総監部など、
海上自衛隊全体が一丸となってその戦いに挑み、勝利を勝ち取ることができたということでしょう。


掃海部隊のことについては、いずれまたお話ししていきたいと思います。
 





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