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「あたご」と外国海軍の登舷礼〜平成27年自衛隊観艦式

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さて、第二回目の観艦式予行、「あたご」坐乗記に戻ります。
後甲板での椅子の争奪戦は一瞬にして終わりました。
朝早く来て座っていたのにどかされた人たちの椅子奪回に向ける意気込みはすごく、
蓋を開けてみれば、最初に座っていた人がほとんど椅子を確保することに成功したようでした。
まあ、遅く来て座れなかったのに、ここで一気に下克上的逆転を図るほどあつかましい人は
喜ばしいことにこの観艦式には来ていなかったってことでよろしいでしょうか。



外洋に出るまで、後ろに集まってくる艦の陣形は微妙に変わりつつ進みます。
今ちょうど左方から横浜出港組らしい艦がやってきました。いずもかな?



受閲艦隊の第1群、我々の後に付くのはこの「おおなみ」と「しまかぜ」です。
「しまかぜ」は祝砲発射という訓練展示を行います。


我が「あたご」は受閲艦艇部隊の旗艦です。
自衛隊の艦艇のヒエラルキーみたいなのがあるとしたら、こういうときには
優秀艦が旗艦になるのではないかと素人には思われますが、実際どうなのでしょうか。

雷蔵さんが一般公開で見てこられた感想によると、「雰囲気が良さそう」
ということでしたが、わたしも1日ここで過ごして、それを肌で感じました。
船という極限の「閉じた世界」では、良くも悪くも独特の「空気」「色」が形成されていきます。
それがプラス方向であった場合、その乗員はラッキーです。



「いずも」が隊列に追いつきました。
これから右回頭して第3群受越艦艇として列に加わります。
通り過ぎているように見えますね。



ほらね。
右後ろは補給艦「ましゅう」か「おおすみ」でしょうか。



12日は晴天に恵まれましたが、この日はガスが多く写真はいまいちです。

受閲艦艇部隊は前回の「富士と護衛艦」はポジション的に見られませんが、
曇っていても艦列は被写体として絵になりますから、艦尾からは常に多くの人が
カメラを構えて、こういう写真をカメラに収めていました。

艦橋にもう一度上がってみて、後方の写真を撮ってみます。
乗員一人一人が常に休みなく何かの仕事をしているのが護衛艦。



さて、我々受閲部隊は、ここで一足先に出た潜水艦隊を追い越します。



「うずしお」でしょう。



艦橋の様子がいつもと違うので注目してみます。
フィンに出るハッチがどこにあるかわかりました。
小さい出入り口ですね。



フィンに立って大海原を眺める乗員の立ち姿が絵になってます。
ここに出るときは、必ずライフジャケットを着用しなければならいようです。



漆黒の艦体は逆光のシルエットでも美しい。



航行中は艦長は艦橋に出ているものらしい。
ずっと中にいるより気持ちいいでしょうけど。ってそういう理由かな。



この写真で初めてわかったのですが、フィンに立つ乗員は腰に命綱をつけています。
カンを接続するバーがあるみたいですね。



こちらはこの後の観艦式直後、「あたご」が転回して潜水艦隊とすれ違う瞬間。
第4群の潜水艦隊は「いずも」の後に観閲艦隊の前を通り過ぎたばかりです。
速度が違うのでこうやって調整することもすべて計算されているという・・。

やっぱり自衛隊の観艦式はミリミリです。(使い方あってる?)

 

フィンの上の二人はよく見るとやはりラッパを持っています。
これ「あたご」に乗っていて聴こえた人いますかね?
まだ直立不動していますが、



回頭してきた旗艦の「あたご」が見えてきたら「解散!」となっているらしく、
すぐに三人ともハッチから中に入って行ってしまいました。
一人は双眼鏡でこちらを見てます。



さて、もう一度時間を巻き戻しましょう。
我が「あたご」が旗艦となって受閲を受ける直前です。



このころになると艦隊はお行儀よくほぼ一線で進みだします。



格納庫上で写真を撮っていたカメラマン。
まさか自分がこんな写真を撮られているとは思うまい。



はるか後方に、輸送艦「おおすみ」から降ろされたLCAC2隻がカルガモの親子のように前進中。
「おおすみ」にも一般客が乗っていたと思うのですが、もしかしたら
エルキャックの出入りを艦上から見ることができたってことなんでしょうか。

それはいいけど、ずっと後ろをついて走ってきていると、さぞうるさかったんじゃないでしょうか。



SH-60Kは、艦隊の周りを螺旋を描くように航行し続けていました。
ときには至近距離に見えるところまで近づいていましたが、
警戒監視するためにドアを開けてそこから三人の隊員が覗いており、
さらに一人は双眼鏡を当てているのがこの写真で判明しました。



いよいよ登舷礼が行われます。
格納庫の中に整列していた乗組員が「登舷礼用意」で整列しました。



3日前はわたしはあの船から「あたご」を見ました。
先導艦の「むらさめ」。



旗艦の「くらま」です。



続いてここからは「随伴艦」と呼ばれる、「うらが」。掃海母艦です。
大きくて収容力があることからここにいるとみた。



「てんりゅう」。訓練支援艦です。
後甲板にオレンジ色の目立つ標的機、MQM-74C「チャカII」が見えています。

訓練支援艦は「くろべ」「てんりゅう」と川の名前がついています。



練習艦「しらゆき」。
この艦にも知り合いが乗っていました。
実は同じ「あたご」にも知っている人が乗っていたことがわかりましたが、
それは船を降りてからのお話です。



「ちはや」。
昨日横浜で一般公開されていたので見てきました。
ここから見ても搭載人数が異常に多いのがわかりますね。
ほぼ全員が左舷に集まっているので、気のせいか船が左に傾いています。

観艦式で航行する船は、観閲付属部隊は右舷側で色々と行われますが、
それ以外は全ての自衛艦が「左傾化」することになります。



イージス艦「ちょうかい」。
今回、イージス艦の参加は北朝鮮のミサイル関係で最後まで参加が明らかになりませんでしたが、
無事にこられてよかったね。



というわけで、登舷礼終了。お疲れ様でした。
この日は前回よりも波がなく、登舷礼に立つのも楽だったと思います。



なぜ同じ受閲艦艇の「いずも」のおしりがみえているかといると、
観閲が終わったところで回頭して、やはり富士山を見ながら展開してくる観閲部隊と
もう一度すれ違う準備をしているのです。
今から「いずも」も転回する予定。



「いずも」の後ろの潜水艦隊もこの先で転回です。



潜水艦隊の後ろ、掃海艇の「たかしま」も受閲を終わりました。
今、観閲付属部隊の最後尾にいた「きりしま」に観閲を受けたばかりです。



疲れを知らない子供のように〜♪ LCACが「あたご」を追い越してゆく〜♪



と今時誰が知っているんだというベタな替え歌が出たところで、航空観閲の開始です。
繰り返しになりますので全部はご紹介しませんが、SH-60KとUH-60J。



前回写真を撮りそこなったMH-53E。 
岩国にある日本で唯一の航空掃海部隊の回転翼です。

この第111航空隊は、 港湾航路の安全を確保するため、機雷による脅威を排除することを目的とし、
また、保有航空機の持つ機動力と収容力を活かし、多くの人員・物資輸送が可能である。

とウィキにはあります。



シードラゴンとあだ名のあるMH-53Eは、たとえば掃海器具を牽引して
海上を飛ぶということなどもやってのけるのだとか。 



陸のちぬさんです。

・・・・ってそれだけかい!



P-3Cオライオンは、もちろん下総基地から飛んできています。



P-1。それだけかい!

ところで、われわれ受閲覧部隊には全く説明がなかったのですが、
航空機が上を通り過ぎている間、外国海軍の参加艦がすれ違っていたのでした。



まず、印鑑・・・・じゃなくて印艦、「SHAYADRI」。
「シバリク」級マルチロールステルス艦だそうです。
横須賀に停泊している時も、艦橋の壁に書かれたインド文字が印象的でした。



どれどれ、それをアップにしてみようかな・・・・・・

え?



もしかしたらインド海軍の皆さん、手すり掴んでますか。



うわー、全員手すり掴んで立ってるよー。しょうげき〜。
これがインド海軍の登舷礼における基本姿勢。
まあ確かにどんなにがぶっても、これならよろけるような無様なことにはなりますまいが、
なんというか、カルチャーショックだわー。



つづいておフランスの海軍艦、VENDMIAIRE。
フランス語らしく読むなら「ヴォンデミエ」が正しいと思うのですが、
意味は一月革命の最初の2ヶ月、10月と11月のことだそうです。

もちろん世界のフランス海軍、手すりなんか掴んでませんが、
みなさん手は後ろに組んでます。
ちなみに艦尾近くの6名は全員女性の模様。



そして噂の韓国海軍である。
なにかやらかしてくれるのではないかという世間の期待にもかかわらず、
ただ通り過ぎるだけの観閲にまで、さすがの韓国軍も斜め上はしないのだった。

というかね、韓国海軍の登舷礼のやり方って、もしかしたら日本式じゃないですか?
今回参加の外国艦のなかでもっともまともだったのが実は韓国軍だったの。

係留のやりかたなど、かなり「変」だったことがお節介船屋さんの告発で判明しましたし、
他の艦が揚げている日本国旗など死んでも揚げるつもりはなさそうだし、
なんのつもりか、甲板にカメラ隊がいて写真はもちろんビデオまで撮ってますけどね。

なんだったら今回の体験を参考に、自衛隊式の観艦式に一度挑戦してみてね!(はーと)



そしてアメリカ海軍のCHANCELLORSVILLE「チャンセラーズビル」。
これも南北戦争の戦闘地から取られている名前です。

安定のアメリカ海軍、ちゃんと日章旗もマストに上がっているし、
登舷礼の隊列も遠目にはなかなか美しい。



が、いかんせん君たちは服装がなっとらん。
作業服のまま登舷礼するんじゃない。



こちら「マスティン」さんもちゃんと日米旗を揚げてくれてありがとう。



やっぱり全員作業着だよorz

まあいいです。お国変われば登舷礼のやり方も姿勢も変わる。
観艦式を寿ぐそのお気持ちには変わりなし。(たぶんね)
みんなの登舷礼式、ありがたく受け取っておくぜ!



・・・あ、オーストラリア海軍の写真撮るの忘れた。



続く。 


木更津港一般公開~平成27年度自衛隊観艦式

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明日は観艦式本番という17日、木更津に係留されている一般公開の艦艇をみてきました。



木更津へはアクアラインを通っていきます。
今まで千葉県にはディズニーリゾートと成田空港以外で用がなかったため、
東京湾アクアラインに乗るのはこれが最初です。
今wikiをみたらなんと開通してからもう18年になるんですね。
海のなかをつっきってしまうトンネルをこれだけやすやすと作れる日本。
やっぱり技術の国だなあと改めて思います。



トンネルを出たら今度は海の上を走る高速道路。
大型船舶が航行できるほどの高さを持つ橋梁を作ると、
航空機の邪魔になることから、一部を海底トンネルにしたそうですね。



さて、木更津港の中央突堤に到着。
さすがは木更津だけあって、護衛艦の岸壁前が全部駐車場です。



千葉地本がここぞと熱心にお仕事しております。
ということは、千葉地本のあの大スター、来るか?

あっ、女の子の帽子が風で飛びました。



一番手前が実験艦「あすか」。
「あすか」は省力化やステルス化を目的とした艦載兵器実験艦です。

乗ってきた女の子に、女性自衛官が

「このお船は武器持ってないんだよ」

というと、女の子は不思議そうに

「武器持ってなくてどうやって戦うの?」

と両親に聞いていました。
それはいいところに気がついたね。

女の子的には、戦わない軍艦っていうのが理解できなかった模様。



「あすか」の見学は、いきなり艦橋上に上がって、操舵室の見学から始まります。
外付けのラッタルは、艦内の階段と同じ角度でも、ずいぶん急に感じます。

こんな作りなのは、荒天のときに外洋を走ったりしないという設定の船だから?
航行中にこの階段を登るのは素人には多分大変恐ろしいと思われるがどうか。 




木更津港はこのように杭が立ちまくっているわけですが、これはなに?
無許可の船を進入禁止するためでしょうか。



艦橋から前甲板を望む。



操舵室左ウィングデッキからは二隻のイージス艦の甲板が見えます。
同型艦なので、寸分違わず同じ顔をしています。



司令官の椅子。「あすか」の艦長席は赤と青のツートンカラーでした。
「あすか」艦長は2佐ということになります。



OPA-6Dというのは通信電子レーダー指示器です。
この鳥さんは・・・カモ? 



カーナビと同じように、衛星通信で艦位がわかるようになっています。
赤いランプが現在位置ですが、その上に海図を置いてわかりやすくします。



出港ラッパはこんな天井のフックに収納してあったんですね。
ちゃんと誰のラッパか名札がかけてあります。
ラッパ吹きの階級は海士長と1曹となっています。



さっきの女の子は、甲板に来てさらに、
じえいかんのおねえさんの言葉の意味がわからなくなったでしょう。


「これって・・・・武器だよね?」

って。
基本的に「あすか」は武器を搭載し、試験をしたらそれは取り外され、
目的艦に改めて搭載されるのです。

あと、そういえば艦内のラッタルが二列になっていてあれ?と思ったのですが、
これは「あすか」に乗り組む乗員は試験艦という性格上、
艦艇乗組経験の乏しい試験要員の乗艦機会も多いからという理由だそうです。

また「あすか」は海上自衛隊で初めて女性隊員が乗組になった艦でした。



お次はイージス艦「こんごう」です。
イージス艦の艦名は山から取られています。
「愛宕山」「足柄山」「妙高山」「鳥海山」「霧島山」・・・。

「こんごう」も「金剛山」にちなみますが、山ではなく「金剛力士像」がマークとなっており、
個人的感想ですが、もっとも「強そうな」イメージを持っています。

モットーは

「Built Up Impregnable Defenses 」(難攻不落の護りを固めよ)




これこれ「こんごう」甲板上の二人、護衛艦上でイチャイチャするんじゃない。
しかも女の子、こんなミニスカートで、もしかしたら階段上ったりしたの?
同じ年頃の自衛官がたくさん見ているというのに・・・。



「こんごう」さんの溺者救助人形は、壁を向いていました。



「こんごう」は竣工してからもう22年も経つんですね。

さすがのベテラン艦、インド洋派遣は二回、リムパック参加も二回です。
2013年、および2014年の北朝鮮のミサイル発射(北朝鮮的には人工衛星)に備え、
「ちょうかい」と共に迎撃態勢を取っていました。

今回もことあらば日本海に出動することになっていたため、観艦式参加は
「ちょうかい」と共に最後までわからない状態でした。(一般客的に)



イージスシステムSTELLAR GRYPHONのかっこいいマーク。
これについては、英語ですが、下のYouTubeをご覧下さると良くわかると思います。
「こんごう」も出てきますよ。

Aegis BMD (FTM-13) Stellar Gryphon Documentary


 


「こんごう」「ちょうかい」「みょうこう」「きりしま」。
日本のBMD、対弾道ミサイル防衛システム搭載艦です。



「こんごう」の凄いのは防衛システムだけではありません。

日本国民的にはこちらの方がすげー!とか思ってしまう人がいるかもしれませんが()
「こんごうカレー」は、カレーグランプリで横須賀市長賞を獲得した栄光の過去があります。
そのオリジナルレシピは実際に商品化されました。

牛すじや牛ロースを煮込んだルーに、隠し味はチョコレート、はちみつ、リンゴなど。
こんなレシピ、商品化して採算合ったんだろうか・・・。



機関出力が10万馬力。ということで鉄腕アトムです。
というか、今どきのお子さんは鉄腕アトム知らないんじゃないかなー。
お父さんお母さんも、若いとピンと来なかったりしないかな。

ちなみにやっぱり「こんごう」でも艦内神社は機関室の横にありました。
わたし以外にも結構お賽銭を入れて手をあわせる人がいましたよ。



普通に機関室。
ほとんどすべて撮っていいことになっていましたが、艦内の詳細図は撮影禁止でした。



機関室の近くに耐火スーツがお行儀良く並んでいます。



字が・・・・・汚いです。

それはともかく、内容的にはなかなか品数が多くて豪華なご飯ではないかしら。
ここに入った時にカレーの匂いがしたので、「カレーですね」というと、
「これは昨日のカレーの匂いがまだ残ってるんです」とのことです。



朝食は目指し一本がメインディッシュ。



食堂には初代、そして二代目の「金剛」についての艦歴がパネルにされていました。

ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場夜間砲撃は有名です!」

この戦果については、簡単に彼我の損害だけを記しておきましょう。

米国 航空機54 飛行場の破壊

日本 榛名の乗員1名が作戦中熱射病で死亡

日射病って・・・・戦闘における損害にカウントするんですか?



戦闘艦として初めて、平成24年に女性自衛官が乗り組みました。
現在「こんごう」の女性自衛官は25名もいるそうです。

そういえば昨年のカレーグランプリのとき、「こんごうチキンカレー」の宣伝で、
ニワトリの被り物をして、なぜか足ヒレつけて歩いていた女性自衛官がいたなあ。
「こんごう」には誰も突っ込む人がいなかったのだろうか。



不審船撃沈、こんな事件あったんですね。知りませんでした。
ていうか国籍不明とかって、こんなのあの国に決まってんじゃん。違うの?




先任海曹室の看板が妙に立派。
上にある少ししょぼい方は、昔の看板でしょうか。





ようやく甲板までやってきました。
主砲は54口径127mm単装速射砲、オトーメララ製でした。



帰りは甲板を伝うようにして外に出ます。
この日の見学者は大変な人出で、後から聞いたところによると、案の定自衛官に

「何十枚も応募したのに一枚も当たらんかったからせめて見に来た」

と愚痴を言いに来ている人もいたということです。
そんなこと自衛官に言われてもねえ?
というか、たくさん応募するのってもはや黙認されてるんですね。

一枚もハガキを出さずに三回とも参加する人がいれば、万単位のお金を出して
乗艦権を買い取るひともおり、そして何十枚も出しても来られない人もいる。

他人事のように言いますが、観艦式はこの世における不条理の縮図です。



「こんごう」の甲板から、アクアラインのブリッジが全部見えます。



ちょうどわたしが「あすか」を降りると、入れ替わりに入っていくこの三人は!
千葉地本が誇る「千葉衛(まもる)」「千葉未来(みらい)」「千葉翔(かける)」の千葉三兄弟!
なんとハロウィーン仕様でコスプレしているぞ!

千葉衛はわたしがカメラを構えると手を振ってくれました。いい奴だ。
というか、この被り物ってちゃんと外が普通に見えてるのね。



試験艦「あすか」の艦首は他のより角度が急というか、突き出していますが、
艦首・底には新水上艦用ソーナー(OQS-XX)を設置したことから、
投錨の際の干渉を避け、また砕波発生位置をできるだけ後方にしてOQS-XXから遠ざける、
という仕様でもあるのです。

観艦式には大人数が搭載でき、「一般人にも優しい仕様」である試験艦は
必ず毎回参加することになっています。


「あすか」「こんごう」「ちょうかい」。
明日の観艦式本番に備え、木更津港で出航を待つ彼女達でした。
最後の一仕事、みんな頑張るんだぞ。



続く。

 

「こんごう」出港~平成27年度自衛隊観艦式

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昨日木更津港に停泊していた艦艇の一般公開について書きましたが、
カンのいい方は、わたしが「ちょうかい」について何も書かなかったことで、
本番に乗るのでは「ちょうかい」ではないかと推察されたかもしれませんね。

実は、わたしが「ちょうかい」に乗ることはわりと早くに決まっていました。
ただしそのころは一般応募は締め切ってもいなかったころで、他の艦艇、
たとえば「ちはや」「くろべ」などといった船が次々と当選者にチケットを送っている間も、
「ちょうかい」「こんごう」のイージス艦は結果が保留されていたようです。

今だから言えるのですが、当時「ちょうかい」に乗ることが決まっていた人には

「北朝鮮のミサイル情勢によってはイージス艦は観艦式に出ないので、そのときはごめんね」

という防衛省からのお達しが来ておりました。
わたしがここで「そんなことになったら観艦式どころではないと思う」と書いたのも
それを受けてのことです。
10月10日が近づいても全くその気配も起こらないことから、防衛省はイージス艦の
乗艦券を放出しだしたと言われています。

しかし今回は、イージス艦に限らず、乗艦券の世間への配布は大変遅く、
自衛隊の中には実に1週間前にようやく回ってきたという状況だったようです。


ともあれ、今回わたしは、先導艦、受閲艦、そして観閲艦と、全く任務も
艦艇から見える景色も違う三艦艇に乗り込むことになったわけですが、
これは大変ラッキーなことであったと思っています。



前日にアクアラインを通って木更津に来たのは、土地勘のない場所で、
どのような状況で艦艇に乗り込むか全くわからなかったため、
前乗りして、現地の様子を把握しようと思ったのでした。


前日から君津近くのビジネスホテルに一泊し、翌朝は中央突堤といわれる岸壁に車で到着。
こんな朝早くから、自衛官が立って交通整理していました。

このときで6時くらいだったでしょうか。
横須賀のときほど早く並ばなかったのは、イージス艦の場合、
やはり早く来たからといっても、いい場所が取れるとは限らず、
そもそも「どこをいい場所とするか」は人によって意見が分かれるところだからです。

何度も言いますが、わたしは先導艦の「むらさめ」で、とりあえず写真を撮る任務は果たしたし、
「ちょうかい」は、観閲艦といっても列の一番しんがりのフネなので、
訓練展示やブルーインパルスの写真を撮ることはすっぱりとあきらめていました。



平成27年10月18日、観艦式当日の朝日が登りました。
今日は1日快晴との予報です。
例年本番は雨が降るというジンクスがあったようですが、今年は
晴れ男の安倍首相が観閲官なのでお天気が良くなったのかも。



木更津では、車から突堤まで近いのと、
乗艦券チェックと手荷物検査などを済ませゲートをくぐったら、
待たされずにすぐに乗艦となったのが嬉しかったです。



乗り込むなり最初に毛布をゲットする人多し。
イージス艦はこのように前甲板は前半分をロープで区切られており、
出港作業になったら全員甲板から艦内に避退させられます。 



今回、わたしがまず席を取ったのは艦橋の操舵室左ウィングでした(つまり左翼)。
見るポイントをどうせ見にくいに決まっている訓練展示ではなく、受閲艦艇航行と艦橋に絞ったのです。
そして、あとは出港作業ですかね。



とはいえ思いつくのが遅くて、ウィング前方は皆取られました(笑)
この絵を見てもお分かりかと思いますが、ここの素晴らしいところは
”カメ爺”の出没率が大変低いことで、年齢層は下より低めです。 

「むらさめ」のチケットをあげたNさんは「艦橋は雰囲気悪い」と言っていましたが、
それは主に操舵室の中の「カメ爺ではない爺」のことでした。
ウィングは皆場所を譲り合っていましたし、この日嫌な目に一度も遭いませんでした。

つまり、問題児は常に「団塊の世代」なんだなとわたしは思ったわけですが、
それについてはTOが面白い考察をしていました。

「あの人たちは生まれてからずっと競争社会で生きてきたため、
人を蹴落としてでも自分が勝たなくてはといつもどこかで思っている」

確かに、皆が並んでいる集団の中で自分一人ずいずいと前に体を捩じ込ませ、
いつの間にか一番前に割り込んでいる、というのは、例外なく団塊世代の老年男性です。
「文句あるのか」と人をねめつけていたのもまさにその世代ですし、
この考察はある程度、”傾向として”当たっているのではないかと思われます。


しかし、民度においては世界トップクラスと言われる日本人ですらこんな人たちがいるわけですから、
これが中国人なんかだったらいったいどんなことになるのか。
考えただけでゾッとしますね。

まあ、中国では観艦式なんか色んな意味で一般人の参加は不可能ですが。



ウィングから眺めていると、大型のタンカーのような船が
曳船を従えて後ろの岸壁につけました。



この時間は後甲板の自衛官たちは待機だけなので、和やかです。



そのうちそれが整列し、どうも作業についての確認が行われている模様。
この写真だと、海自の艦艇がどのように隣接する艦艇との間に舫を掛けるかよくわかりますね。



このころ、出港支援をする曳船が到着しました。



木更津港所属の曳船のようです。
支援のために三隻が近づいています。



曳船の操舵室をちょっとアップにしてみました。

メガホンを首に下げた1尉はここでの入稿作業の責任者でしょうか。
さっき海曹海士の前で説明をしていた人です。



各自がもう一度持ち場に付き、乗艦が終わるのをこの体制で待ちます。
同じ年頃の海曹同士、和やかに話していますが、海士くんたちはそういうことはしません。



「こんごう」で乗組員が運んでいるのは、皆に配るカイロ。
寒さ対策で用意をしていたようですが、さすがにこの季節では
周りでもらっていた人は見かけませんでした。



「こんごう」の操舵室には女性の士官がいるぞ。
ちなみにイージス艦の艦長は1佐がなります。



「こんごう」への乗艦は終わったようです。
地上にいた乗組員が最後に乗り込んでいるところ。



「ちょうかい」との間にかかったラッタルを取りはずす作業に入りました。



「こんごう」の信号員は待機。



操舵室の一つ下のウィングは、出港作業の時にここから見張りをしますが、
まだこの時間は仕事がありません。

「あー眠てえ」



こちら我が「ちょうかい」左舷。
ここで説明のために立っている自衛官は、何度もなんども同じことを
質問してくる客に辛抱強く同じことを説明しています。

「出港作業の時にはここは危険ですので艦内に入っていただきます。
その際荷物などは残さないでください」



「こんごう」の出港作業が始まったので、「ちょうかい」左舷には人が誰もいなくなりました。
皆艦内に閉じ込められています(笑)



出港が近くなると、舷側を見張る人員がデッキに立ちました。



右舷には出港作業中もいて良かったようです。
「こんごう」は観閲付属部隊なので、主に右舷前方でイベントが行われます。
このままの場所で1日を過ごす人も多かったのではないでしょうか。



「こんごう」の艦長(赤いストラップ)始め幹部がデッキに出てきました。
イージス艦の艦長とか副長とか、特に優秀な人がなるのではと思うんですが、どうでしょう。

艦長は1佐、砲雷長と船務長が先任で2佐(右端と奥)、左は航海長か機関長で3佐。
合ってます?

 

ロープを片付ける海士。




甲板ではラッタルが外されました。
まず「こんごう」というカバーが外されます。



こういうものもおそらく他の国の海軍なら適当に仕舞うのでしょうが、
どっこい自衛隊ではこういう作業もきっちりとやり方が決まっているのだった。



端と端をミリ単位できっちりとたたんでおります。
バナーを踏まないように回っていく海士くんの躍動を観よ。



「ちょうかい」との間の防眩物を直接当てないためのカバー。
うーん・・・なんというか、すごい。ここまでするのか。



というところで時間はマルハチマルマルになりました。
つまり自衛艦旗掲揚の時間です。
そのときに目を離せない作業にかかっている自衛官以外は整列。



見えにくいけど我が「ちょうかい」の掲揚台。



自衛艦旗掲揚は(海軍)5分前から待機が始まります。
これも海軍から受け継がれたしきたりです。



時間となり、三つの艦で同時に掲揚が始まりました。



どこでラッパを吹いているのかと思ったら、信号員の待機場所でした。
「ちょうかい」の信号員が同じところで吹いているラッパが聞こえます。
しかし、サウンド発動が微妙に違ったため、
真ん中で聞いているわたしたちには、少しずつずれたラッパ譜「君が代」
が耳に入ってきて、特にわたしなど大変気持ち悪かったです(笑)



今日いちにち艦尾で翻る自衛艦旗が掲揚されました。
本日の観艦式を見守る旭日の旗です。



「なおれ」の号令と同時に皆がバネ仕掛けの人形のように動き出しました。
今から「ちょうかい」との間の舫を撮る作業です。



後ろがわで二人がもやいを引っ張っています。

 

また連続写真を撮ってみました。
「ちょうかい」が結びつけていた舫の端が外され、海に落ちたのを
例のやり方で引っ張っていっては先で手から放し、
自分が元のところに戻っては引っ張り、を繰り返します。

   

クロスするようにかけられていた舫の一本が海に落ちました。
引き上げ作業に一人女性海曹が混じっていますね。

  

先に紅白の旗をつけた棒は、これでロープが海に落ちたときに
スクリューに絡まないかどうかを見ていて、もしロープが流れるようなら
赤旗を揚げてスクリューを止める合図を出しますが、基本的に
そうならないようにロープは引き揚げられるので、赤旗が出されるのは稀だと思います。

  

引き上げられるやいなや、舫は舷から姿を消しました。

 

2本目の舫が引き揚げられ、残るは艦尾同士を結ぶ1本だけになりました。



こうしてみると舫は太いですね。



最後に、後部を「ちょうかい」と繋いでいる舫を外します。



ぽちゃん。(擬音)

外したとたん、「こんごう」の艦尾は「ちょうかい」からするすると離れていきます。



女性海曹は、笛をくわえたまま下を覗いている海曹の指示を受けるようです。
異常があれば合図をする係はこの海曹なのでしょう。



最後の舫が離され、あっという間に遠ざかる「こんごう」。
行動海面で会おう!


続く。


 

「ちょうかい」出港~平成27年自衛隊観艦式

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「こんごう」出港、という前エントリのタイトルでしたが、お読みになればわかるように、
わたしが乗ったのは同じイージス艦でも「ちょうかい」の方でした。
隣に「こんごう」が停泊していてその出港の一部始終を暇に任せて撮りまくったので、
その出港だけで一項を割いてしまったことをお詫びします。


「ちょうかい」は一般公募は取っていないのではないかという噂がありましたが、
蓋を開けてみると本番の乗艦数は結構なものでした。

18日は受閲艦にはあまり一般客は乗せないし、最も人数が積めそうな「いずも」には
防衛大学校生徒だけ。(当日安倍首相が「くらま」から乗り移る予定がされていました)
そして「てんりゅう」のように、ほとんどが政府関係者&招待客+一般人少々、
という艦もあったりしたせいで、ぎりぎりまで出航が決まっていなかったわりには、
最終的に「ちょうかい」も「こんごう」も700人は積むことになったのでした。

決してキャパシティの多くないイージス艦に、700名は、はっきりいって人大杉です。




さて、前回の続きから参りましょう。
「こんごう」は「ちょうかい」との間の舫を外し、ものすごい速さで艦体は離れていきます。

実は曳船が向こうにいて「こんごう」を引っ張っているんですね。
何度も言いますが、船は自力で横に動くことはできませんから、
この瞬間「こんごう」が動いているのは100パーセント曳船の力によるものです。



「こんごう」が離れて行くやいなや、待機していた曳船がこちらに横付けになりました。
まるで離れるのを待っていたかのように割り込んでくる感じです。



この曳船によって、まず、間に挟まっていた防舷物を取り除く作業が行われます。
木更津の防舷物は前面にタイヤが貼ってあって、どうやらカモメさん的には止まりやすい模様(笑)



自衛艦に乗ると、通路など至る所で目につくこのマクラメ編みのカゴは、
防舷物を艦体に繋いでおくためのロープに結ぶ、細いロープを収納するものです。



最初に曳船から渡された細いロープの先に、防舷物本体についたロープを結び、
(そこで『舫結び』が役に立つというわけですねわかります)
相手に渡して引っ張ってもらいます。



「こんごう」は完全に横に引き出され、そろそろ自力でバックして行く模様。



ここにも警邏のために水中処分員のボートが一隻走り回っていました。

ちなみに、横須賀で見た女性の水中処分員ですが、カメラマンのミカさん(仮名)
の知り合いで、艦艇勤務からこの任務に就くことを熱望して配置転換したのだそうで、
女性男性関係なく、現場の信頼厚い処分員であるということです。

ミカさん(仮名)によると、水中処分員というのは近年高齢化し、平均年齢40歳。
つまり成り手も少ない「絶滅危惧種」になりつつあるということです。


女性であってもやる気と体力さえあれば十分採用されるということなので、
これを読んでいる方で、もし興味があれば、男女を問わずぜひ目指してみてください。
(と簡単に言うほど簡単な仕事ではないのは百も承知で言ってます)



さて、防舷物をつなぐ太いロープを曳船の係員が引き寄せました。



専用のつなぎとめる舫杭にロープを繋いで・・・・、



防舷物一つ確保。



向こうには「こんごう」を引っ張り終わった曳船が待機しています。



「こんごう」さんはすっかり自力でバックしていっている模様。
そろそろ回頭して向きを転換するころです。



一方曳船はもう一つの防舷物の確保にかかりました。
同じようにロープを引っ張って・・・、



防舷物の両側のロープを決められた舫杭に縛り付けます。



二つ確保してすぐさま艦体から離れていきます。

「あすか」の防舷物を取るのもこの船かどうかはわかりません。
そんな簡単に受け渡しできるものではないので、もしかしたらこの船のお仕事はこれで終わりかな?



さて、ここでおもむろに近づいてくる曳船は、これから「ちょうかい」を引っ張りますよ。



曳船の乗組員のユニフォーム、真っ赤なベルトがなんだか粋に見えますが、
これはアイ・キャッチャーの意味があるのだと思われます。

護衛艦から降ろされた細いロープの先に曳航用のぶっといロープをくくりつけ、



またもや引っ張ります。
出入港作業とは、引っ張ることと覚えたり。



ロープの太い部分が引き上げられると、



護衛艦側の舫杭に引っ掛けて、これで引っ張られる準備完了。
外すところは見られませんでしたが、ある程度引っ張ったら曳船が近づいて
縄の張りを弱め、ロープを外して落とすのでしょう。



「ちょうかい」がでていってしまったころから、艦内の人が外に出てきました。
しかしまだ前後の甲板に出ることは許されません。
後ろ甲板は比較的のんびりした感じですが、観閲艦艇の一番後ろを航行する
「ちょうかい」では、カメラを構える人はほとんどが左舷の前列を狙って
今虎視眈々としているところだと思われます。

みなさん頑張ってください。(艦橋デッキのわたしには他人事)



「それじゃ引っ張るよ~、せーの!」



いつのまにかこちらにも曳船が付いていますが、こちらの子ももう引っ張ってますか?



ロープがピンと緊張しました。
「こんごう」は艦首を向こうに向けてすでに航行を始めています。



ものすごいパワーで後進をかけているので、白波が立っています。



信号員が同時に速力信号表を動かしに来ました。



この速力信号標は艦の左右両側にあり、内側にある小さな旗の
「回転信号標」との組み合わせで現在の艦の速力を細かく表すことができます。

速力信号票は速度を表し、回転信号標は、速力のプロペラ回転数のプラスマイナスを表します。
右舷の黒標がプラス、左舷の赤標がマイナスの修正回転量をそれぞれ高さで示しています。

この写真を撮った時にはまだ出航準備前だったので、全てがゼロゼロの状態です。


この表示は、その時点のスピードを現すものではなく、艦の意志として
速力をこの表示値に設定した事を示すので、加減速時などは、実際の速力とは異なります。
旗は国際信号旗の「P」「R」と同じ小旗を使用しています。

この方式の速力表示を用いるのは世界で唯一、海上自衛隊だけだそうです。



ここでやおらレンズを広角に交換してみるのだった。
波頭の立ち方で、曳船がどのように艦を引いているかよくわかりますね。



あらあら、気づいたらいつの間にかこんなところまで押されてきました。
こちらの曳船は「くくる丸」というようです。なんかかわいいね。

「あすか」には防舷物を撤去するために曳船が近づいていっています。



ところで、はっきりとではありませんが、本艦出港中、どこからともなく
行進曲「軍艦」が風に乗って聴こえてきていました。

「あすか」にはなんと陸自の音楽隊が乗り組んでいたようです。
いいなあ。

そういえば、三年前の観艦式で「ひゅうが」に乗り込んだときにも音楽隊は陸自でした。
わたしが生まれて初めて出港時に聞いた「軍艦」だったので、それが
海自音楽隊の演奏でなかったのは残念といえば残念でしたが、音楽隊の乗り組みは
海自音楽隊以外は関東在住の音楽隊(陸自中央音楽隊、東部方面音楽隊、航空中央音楽隊)
に限られるので、音楽隊の同乗があった艦に乗れるだけでラッキーだったのです。

観閲と展示以外のすることのない時間、何度となく艦上でパフォーマンスが聴けるわけですからね。
ちなみに旗艦の「くらま」には常に東京音楽隊が座乗します。



ふと見ると、今まで我々の出港支援をしていた2隻はすでに「あすか」に取り掛かっていました。

今回は艦橋から出港を見守ることになって、一連の出港作業を詳らかに見学することになり、
わたしとしては大変勉強になりました。

これでいつ出航の時舫引きに駆り出されても作業を手伝えます!(←嘘)




水中処分員が、ボート艦尾の自衛艦旗をうち振ってお見送りしてくれました。
甲板の皆はほとんどが手を振ってそれに答えています。


さあ、いよいよ平成27年度自衛隊観艦式の始まりです。



続く。


 

あたごさん~平成27年度自衛隊観艦式

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観艦式本番も終わり、世間では当日安倍首相が「くらま」から「いずも」、
そして「ロナルドレーガン」にヘリで坐乗したことが話題になっています。

相変わらずの毎日新聞は、首相がRR上で米海軍戦闘機に乗って写真におさまったことを、
「中国への牽制の意味があるとみられる」としょっぱなで書いておきながら、

「中国・韓国など近隣諸国を刺激するのではないかという声もある」

(声もある、というのは自分たちがそう思っているという意味) などと、
前言との間に記憶喪失にでもかかったのかと言いたくなるくらい矛盾する文章で、
中韓さまを焚きつける気満々の御注進ぶりを露呈しておりますが、
こういう記事を書くのが仕事なら、はっきりいって記者が現場で取材する必要なくね?

8時間の観艦式に同行して写真を撮っているカメラマンはともかく、
何を書くかは最初から既定路線で決まっていて、あとは粗探ししにくるだけの記者や、
民主党の代議士なども形式的に特別扱いしなくてはいけない、中の人の気持ちが慮られます。


それ以外で一般に観艦式の船に乗り込んでくるのは、隊員の家族や父兄、
日頃から防衛産業に従事する人々、政府や出入りの企業関係者。
こういう人たちは日頃から「自衛隊に理解を持っている人」と考えていいでしょう。
それ以外の参加者には三通りいて、一つは「自衛隊と国防に興味がある人」。

そして「写真を撮る人」、残りは「話の種にor 物見遊山or付き合いで来た人」です。


わたしがその中の「無自覚にマスコミに洗脳されている人々」の存在を感じたのは、
最前列にがっつり位置を占めて、訓練展示を見ていた団塊老人たちの中のひとりが、

「こんなすごい武器持っていたら、安倍さんもそりゃ使いたくなるわなあ」

といい、周りがそれにウケて、(おかしくねーよ)どっと笑ったのを見たときでした。


この人たちが、国会中継の国防に関する審議を一度も通して見たこともなく、
さらには安保法案に目を通したことも一度もないのはほぼ確実としても、
まさか本気で、安倍首相が戦争をしたいから安保法案改正した、とでも思ってるんでしょうか。




さて、今回の訓練展示では潜水艦艦橋の乗員を望遠で撮ってみました。



出入りするハッチがとても小さいのに驚き。
茶室のにじり口みたいな感じですね。
フィンから落ちないように命綱を繋留するバーがよくわかる写真です。

当たり前ですが、万が一ここに人が出ているのに気づかずに潜行した場合に備えて(笑)、
命綱はすぐにバーから取り外せるようになっていると思われます。



先ほど「あたご」を追い越して行ったLCACが訓練展示で高速走行
(とはいえさっきと同じ速さ)を行なっております。
それ自体が巻き上げる細かいしぶきがまるで霧のように船体を包んでおり、大変ファンタスティックです。

ちなみにLCAC走行中、乗員はシートベルト着用せねばなりません。
そんなに長いこと乗る船ではないので、きっと台所もトイレもないはずです。

ですよね? 



疲れを知らない(歌自重)

LCACは観閲や展示を行った後、必ずこうやって艦隊を追い抜いていくわけですが、
これについては、わたしの横で見ていた人が、

「これってただ速いってことを自慢してるだけでしょー?」

とナメたことを言っていました。
速いということは、このホバークラフトの特徴の一つに過ぎないのであって、
これが輸送艦や補給艦に積んでどこでも展開できるということに価値があるわけなんだが。



旗艦「くらま」の前で祝砲を撃って、すっきりした顔で追い抜いていく「しまかぜ」さん。
「あたご」は訓練展示の時に旗艦とはとんでもなく離れた所にいるので、
行われる訓練のほとんどをまともに見ることができません。



その中でも比較的見やすかったのはPー3Cオライオンの対潜爆弾投下でした。
が、わたしは勝手に「どうせ見られないし」と決めてかかっていたため、
カメラの用意が全くできておらず、投下の瞬間を逃しました(T_T)



P-1のフレア発射もかなり遠くでかすかに見える程度。
全く、初回で「むらさめ」に乗って全ての展示を目の前で見られたのは幸運だったと思います。



ブルー・インパルスの演技も、かなり向こうの方で行われている感じ。
陣形を変えて突入していく時だけは近くを通ってくれるという感じでした。



前回「くらまでは隊員による説明が行われた」と「くらま」乗艦者から聞いたのですが、
それはどうやらプリレコーディングのものを放送していたようです。
この日の「あたご」でも、最終日の「ちょうかい」でも同じ内容の説明が流れました。

初日の「むらさめ」が放送をし忘れたか、あるいは用意がなかったのかもしれません。



この日は前回ほど空の青が深くなかったので、効果としては少し残念でした。
11月3日の入間での航空祭はどうかな?

なんでもこの日に航空祭を行うと決めているのは、11月3日というのが統計的に
「一年でも最も雨が降らない祭日」だからということを聞きました。
わたしは二年前に行きましたが、雨は降らないまでも、かなり曇っていた覚えがあります。



機体と機体の間がわずか1メートルのままで飛ぶという陣形だったと思います。
互いの信頼と高い技能無くしてはできない技だとレコーディングでも言っていましたが、
こうしてあらためて写真を見るとその凄さがわかります。



ところで、左回頭して向きを変えるときに、ふと「いずも」艦上の様子が変なので望遠で撮ってみました。
こ、これは・・・・・!

「いずも」には防大生しか乗せない、というのは本当だったのか。

それにしても、ものすごいことに気がつきませんか?
「いずも」の甲板には柵が立てられていません。

一般客の乗るほとんどの自衛艦は、その時用の柵が立てられており、間違っても観客が
海に落っこちないようになっています。
これは備え付けのものではないため、観艦式と予行では何回も何回も

「柵は丈夫なものではないので寄りかかったり持たれたり絶対にしないように」

というアナウンスで注意が喚起されていました。
我々は柵のある自衛艦というのが、当たり前のような気がしていますが、
普段の任務において運用される自衛艦のほとんどは、このように柵なしなのです。

防大生は修行中とはいえ、国から給料をもらっている国家公務員ですし、
その心構えというか、危険管理は十分に行われているという前提のため、
乗艦にあたっても、そのような一般人向けの配慮は行われていないのでしょう。

もっと言うと、「海に落ちるような奴は防大生ではない」?

とはいえ、「いせ」で、航行中隊員が海に落ちたことがあったと聞いたことがあるな。
海自ではなく甲板をランニングしていた陸自隊員だったかも(記憶不明瞭)
いずれにしても艦はその報を受けて騒然となったそうな。

猿も木から落ちる、ならぬ、自衛官も艦から落ちる。況や陸自隊員をおいてをや。



うーん・・・・ここにもないなあ、柵・・・。
しかし、スペースに余裕があって楽そうねえ。



豆粒に見えるほどほど遠くの「くらま」艦上では、誰も見ていない中、
本番の観艦式で、首相を積み下ろしする予行演習が行われているのだった。

これも「くらま」に乗っていた人によると、ちゃんと「首相代理のそれらしい人」が首相役を務めていたとか。



さて、「あたご」艦上で行われたラッパ吹奏の展示。
たとえば、こういう展示が行われる時には必ず艦内放送で

「ラッパ吹奏展示を行う。始め」

みたいな掛け声がかかるんですが、最後の日、「ちょうかい」の操舵室で
後半の長時間見学していたところによると、時間ぴったりに操舵室の放送係がアナウンスし、
それによって発動、という決まりになっているようです。

初日の「むらさめ」でも行われていましたが、一人で吹かされた海士くんは
「練習中で緊張している」ため、音がよく出てこない状態でした。
そんな段階でも皆の前でさらし者にされ、じゃなくて責任持って吹奏を任されるのが軍隊式。 



一番左の敬礼している海曹が説明をしていたのですが、右端の隊員のことを

「かなりのおじさんに見えますがまだヤングマンです。24歳です」

といったとき、まわりからえーーという声が起こりました。

・・・・失礼でしょ?



「くらま」にヘリが着艦しているとき、前を航行していた派手な船。
遊覧船レインボー丸とでもいう名前に違いない。

と思って画像をぐぐってみたら、これは東海汽船の高速ジェット船で、
「セブンアイランド虹」といい、竹芝から出向して伊豆半島の熱海、大島や新島などの
「セブンアイランド」を結ぶ路線を航行している船でした。

こんな不安定な形をしていますが、従来の水中翼船は水中翼の一部が海面上に出る
「半没翼船」なのに対し、水中翼が全て沈む「全没翼型水中翼船」であるため
ハイスピードと高い安定性、なめらかな航行を実現しているということです。



全ての訓練展示が終わり、あとは朝出た港に帰るだけ、という時間、一時の興奮も冷めて
憔悴すら漂わせる人々の醸し出す、気だるい空気が艦上を支配します。

一方海上では、一列になって勇壮に進んでいた艦がいつのまにか周りから姿を消してゆき、
落ちかけた陽を照り返す海面に、ただ並行して航行する僚艦のシルエットだけが浮かび上がるのでした。



「あたご」の甲板右舷後部には、なんと喫煙所がありました。
タバコを吸う乗組員のために、自衛艦にはところどころに喫煙所が設けてありますが、
このひの「あたご」がここに喫煙所をわざわざ設けたのは喫煙者への配慮でしょうか。

確かにここなら煙は海のうえに流れ、嫌煙者の迷惑になることもありません。



カップルで応募して当選したのでしょうか。



この日わたしの隣に座っていたおじさん(の後頭部)と「いずも」。
たまたまフレームに入り込んでしまったのでお話ししますが、このおじさんがねえ・・。

船の上の隣の席で逃げようもない相手に向かって、しゃべるしゃべる。
しゃべるといってもほとんどこちらのことは聞きもせず、自分の過去、
(自衛官だったけど戦争もないのに自衛隊にいても意味がないと思ってすぐにやめた)
とか、自分の会社の世界的な評価とか、つまり「俺語りおじさん」の典型だったわけですが、
まだそれはいいのよ。 
そんな話なら、功徳を積むと思って、いくらでも喜んでお聞きしましょう。

が、しかし、聴き手を得て調子付いたおじさんは時事放談ならぬ爺放談に突入。


「ベトナム戦争のとき、日本で作った武器が人を殺してるんですよ。
日本は加害者なんですよ。日本が加害者だったことを忘れてはいけません」

「日本はアメリカの奴隷ですよ。奴隷」

「スノーデンっていう本を読んでるんですが(本を見せながら)、
戦争を起こしたいのがいるんですねえ、それが皆仕組んで世界で戦争を起こしてるんです」

「あんな法案通しちゃダメですよ。戦争法案ですよ!」



わたしは今まで、安保法案のことを「戦争法案」と言い換える人間の国防論には
一度も論理的に納得させられたことがないので、この言葉が出た途端、

「あ、これあかんやつや」

と速やかかつ迅速に判断し、頃合いを見て会話を打ち切ってiPadで読書を始めました。
この自虐おじさんと安保法について議論しても、面白くない結果になるのは見えていたからです。

「そう思いませんか」

といわれたのでわたしは、iPadに入れた城山三郎の「零からの栄光」を読みながら

「思いません。わたしは抑止力として法案は必要だと思います」

とだけ、サブゼロの態度で答えると、おじさんは鼻しらんだように

「そうですか」

といって黙りました。
わたしは心の中で、舞鶴で会った海将補の、

「我々が日々対峙している事例を全部明らかにすることができるとして、
それを知ったら、おそらく反対している人も安保法案に対する考えを変えるでしょう」

という言葉をこのおじさんに言ってやれたら、と思っていました。
 



この写真で、ほとんどがおじさんであることがお分かりいただけるでしょう。
世の中にはおじさんといってもいろんなおじさんがいるのですが、
喋りたがりのおじさんが多いのも事実です。

近席のおじさんは、自分が防衛団体の代表で来ていること、
今回の乗艦券の配布に際しては、

「日頃の貢献がないのに券だけ欲しがる奴には絶対にやらなかった」

ということを言っていました。
生殺与奪の権利を持つと偉くなったような気になるタイプでしょうか。
わたしが何かの話題の時に

「12日に乗った時には・・・」

というと、

「あなた2回目なの!」

「ええ」

「ずるいなあ」

・・・・は?

わたしがどんな経緯で乗っているかもわからないのに、それはないでしょう。
方や隣のおじさんは、わたしがiPadを見ていると、そのうちiPadの値段などを尋ね出しました。

「もらったものなのでいくらか知りません」(これは本当) 


「文句あるの?」のおじさんほど凶暴でもないし、いわゆるカメ爺でもないし、
きっといい人なんだとは思うけど、他人との距離をもう少し保って欲しかったです。



というわけで、15日の「あたご」での観艦式予行は終わりました。
そうそう、この日とっても嬉しいことがあったのでお伝えします。



舞鶴で「あたご」の見学をしたときに説明してくださった幹部の方に
甲板上でお会いしたのでご挨拶をしたのですが、 最初の一声が

「ですよねー?」 

でした。
どうも向こうも見た顔が客にいるなと思っておられた模様。
そして、次にお会いした時に、ポケットから

「乗艦された記念に」

といってこのメダルを出してわたしにくださったのでした。



あとで艦橋にもう一人の若い幹部さんを訪ねて行き、こちらにもご挨拶完了。

「ご縁があったら観艦式でお会いしましょう」

という言葉を交わして別れたあとの再会だっただけに、一生心に残る乗艦となりました。


 

こんなキャラもいることだし、すっかり、あたごさんのファンになっちゃったぞ。

続く。 

空母「ロナルド・レーガン」と護衛艦~平成27年度自衛隊観艦式

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さて、今回の観艦式には訓練を終えた米海軍のロナルド・レーガンが

「たまたま相模湾の観艦式実地海面を通りかかるらしい」

という噂をわたしも耳にしていたわけですが、それが本当だったと知ったのは、
豆粒のように小さな空母の影が西からこちらに向かってくるのを、
艦内アナウンスによって知った人たちが指差して騒ぎ出したときでした。



この日「ちょうかい」の艦橋左舷側ウィングにいたわたしは、
何度となく甲板とウィングの間を往復していましたが、何度目かに甲板に行ったとき、
ちょうど旗艦の「くらま」にヘリコプターで安倍総理が坐乗し、おそらくは
「くらま」の特別室で「総理大臣喫食カレー」を食べ終わって、いざ観閲のタイミングでした。

まるで艦隊に合流しようと近づいてくる「くらま」を、漁船が皆立ち止まって眺めているようですが、
彼らはこのとき、そこに総理大臣が乗っていることも知っていたに違いありません。



我が「ちょうかい」は観閲舞台の一番最後です。
先導艦の「むらさめ」のあと、「うらが」「てんりゅう」「しらゆき」「ちはや」の後につき、
このように全員の後ろ姿を眺めながら航行していく形です。



「ちはや」の甲板上は「ちょうかい」に劣らず人口密度高そうです。
本番では一般客を一切載せない受閲艦もあったようなので、「ちはや」や「あすか」、
「うらが」など搭載能力の大きな船にはその分も詰め込んだという感じです。



前甲板の舳先では、ハンドマイクを持った副長が解説をしてくれていました。

「もうすぐ総理大臣の乗った『くらま』が列に合流します。
Uターンしてすれ違ったときには安倍総理が見えるかもしれません」



その「くらま」が、観閲部隊に接近してきました。
「ちはや」などと比べると、もうスカスカといっていいほど、人が少ないのがわかります。



「白い布のかけられたところが総理大臣のおられるところです」

もしかしたら白い帽子がたくさん立っているデッキがそうでしょうか。
下の階のデッキには、要所を固めるように自衛官とSPが立っているのが見えます。



「くらま」には前甲板に2門の73式5インチ単装速射砲を搭載しています。
おそらく速射砲の台に上がっているのは報道陣でしょう。
どちらにしても一般人はほとんど乗っていないように見えます。



後甲板なども白い帽子や空自陸自の制服が目立ちます。
この日「くらま」には中谷防衛相、麻生財務相も坐乗したので、おそらく同乗できたのは、
身分のはっきりしている防衛省、政府関係者と自衛官だけだったのではないでしょうか。



右側から今まさに隊列に合流しようとしている「くらま」。
「くらま」はこの間退役した「しらね」と同じ最後の「しらね型」で、
2017年の退役が決まっており、これが最後の観艦式参加となります。



「くらま」の周りを海保の巡視船が二隻警戒のため守っていました。
海の上で見る海保の船は美しいです。

さて、この後、わたしはもう一度艦橋に駆け上がりました。
(この日1日で艦橋の階段を5~6回は駆け上っています)
今まで平面からしか見たことがない観閲を、高い艦橋から見るためです。

「ロナルド・レーガンが見えてきた」

というアナウンスがあって周りがどよめいたのはそのときでした。



かなり遠くにいると思ったのですが、逆行していたので以外とすれ違うのはすぐでした。
4202の「くろべ」は観閲付属部隊の4番艦で、我々とは並行して走っています。
つまり、受閲部隊通過はこちら側となるのですが、この瞬間、ほとんどの観客は
RRの通過を見るために向こうに行ってしまっています。



RRの甲板上をアップしてみました。
一体何機あるのかという艦載機のこちら側に、見事な登舷礼の列ができています。
ただ通過するだけでなく、さすがはアメリカ海軍、登舷礼式送ってきていたのでした。



艦体のくり抜かれたように見える部分はハンガーデッキで、そこにも艦載機が見えます。
安倍首相はこの後RRの艦上で戦闘機の操縦席に乗っていますが、
その飛行機もすでにスタンバイしているはずです。



まるで櫛の目のように隙間なく舷側に立つ登舷礼の列は、
先日「作業着で登舷礼するんじゃない」と苦言を呈したのとは同じ米軍とは思えぬくらい、
全員が間違いなくビシッと正装で臨んでいるのがこの位置からでもわかります。

アメリカ人のいいところは、いざとなればやるときはやる、というメリハリのつけ方ですね。



観閲付属部隊最後尾の「きりしま」とすれ違うRR。 



空母というのは遠くから見るとまるでお皿が浮かんでいるように見えます。

「ロナルド・レーガン」の名前は、本人が生きているときに命名された
数少ない艦名の一つで、他には日本の自衛隊とも関係が深かった「アーレイ・バーク」、
「ジミー・カーター」、「ジョージ・H・ブッシュ」、なぜか芸人なのに
熱心に軍人慰問活動に取り組んだためその名を付けられた輸送艦「ボブ・ホープ」があります。



ここからは、「富士と護衛艦」ならぬ「ロナルド・レーガンと護衛艦」シリーズを。
全てのカットにRRが写り込むように撮ってみました。

まずは受閲部隊旗艦「あたご」。15日に乗ったばかりです。



「あたご」は左舷側で登舷礼を行い、旗艦とすれ違った後ですが、
すでに登舷礼要員がRRを見るため向こうを見ているのが写っています。

これこれ、「ちょうかい」が通り過ぎるまでが登舷礼だぞ! 



ついでに「あたご」後甲板。
誰も登舷礼の行われている左舷なんて見ちゃいねえ(笑)



「RRと護衛艦シリーズ」、お次は「しまかぜ」。
前甲板に祝砲を搭載しているのがわかりますね。

「しまかぜ」も祝砲を撃つ係のせいか、あまり一般人は乗ってなさそうです。
どうも報道陣が多いのではないかと思われました。

 

このとき初めて知ったのですが、受閲部隊は我々観閲部隊の前を通り過ぎると、
順次最後尾に回って観閲部隊の後ろについていくことになっていたようです。
「あたご」が今左回頭して、我々の後ろに付こうとしています。



続いて「たかなみ」型護衛艦の「おおなみ」。



「おおなみ」甲板もアップ。
やっぱり皆RRの写真を撮っています。
もう遠くに行ってしまったというのに・・・・。



護衛艦「きりさめ」。



106は「さみだれ」です。
そういえばわたしが生まれて初めて乗った自衛艦はこの「さみだれ」でした。



そして、「いずも」である。
甲板のすっきり具合を見ると、どうやら今日は防大生も乗せていないのでは?
と思われます。



念のためアップすると、本当に乗員だけですね・・。
ちょうど「登舷礼終わり」の号令がかかって、向きを変えて移動する寸前のようです。



おっと、「いずも」も「護衛艦とロナルド・レーガン」しなきゃ。

安倍首相は全ての観閲が終わった後、まず「いずも」に移乗して観閲し、
そこからまるで義経の八艘飛びよろしく、RRに移乗しました。


義経が船から船へ飛び移ったのは追っ手から逃げるためですが、この日安倍首相は
新しく就役したばかりの最新鋭DDHと、あの大震災で「トモダチ作戦」を展開し、
日米連携の象徴というべき「ロナルド・レーガン」を股にかけることによって、
内外に日本の取る護りの意思を表明して見せたのだと思います。

この日国会前では、訴える相手の誰もいない国会議事堂に向かって、
安保反対派の老人たちが、少人数でシュプレヒコールを上げていたそうですが、
彼らには悪いけど、その姿は、まるで自らを伝説の騎士(国民の多数派)と思い込み、
風車(日本の軍国主義)に向かっていく、ドン・キホーテのようにわたしには思えました。



続く。



「ちょうかい」艦上にて〜平成27年自衛隊観艦式

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特に今の時期、「ネイビーに恋」といっても海自だけがその対象になる当ブログですが、
海上自衛隊の中の人にも結構閲覧していただいているらしいことがわかってきました。

基本観艦式などイベントで自衛官を写真に撮ったとき、それは「公務中」であると定義し、
マスキングなどを行わずにそのまま当ブログで公開しています。
ゆえに知人や同僚、家族によって発見されたり、当人の目にも止まるという構図です。


今にして思えばそんなはずはないのですが、偉い人はインターネット検索なんてしないし、
大抵の隊員だって、任務が忙しくてネットなんて見ない、と昔は思い込んでいたんですね。

ところが現実は、偉い人たちだって案外そういう情報を気軽に交換していて、
リアルのわたし自身が当ブログ主宰であることも、その筋では調べが付いている、
と知って、心からショックを受けたものです。

このことによって、自衛官の階級の上下にかかわりなく、将クラスから士に至るまで、
今の世代であれば我々と同じようにインターネットを見ているものなのである、と
今更のように、あたりまえのことに気付かされたわたしでした。

身バレについては、最近立て続けに3回直接間接的に特定されてしまったのですが、
もしこれに弊害があるとすれば、現場で身バレしているのではないかと思うと
わたしの性格上萎縮してしまうということですかね。(自称恥ずかしがり屋さんです)





というところで、18日の観艦式、「ちょうかい」の出航に続き、相模湾で
我が自衛艦群が米帝の誇るニミッツ級空母「ロナルド・レーガン」とすれ違う、
その前後の「ちょうかい」艦上で見たものについてお話ししようと思います。


この目で生のRR、しかも航行中の空母、おまけに登舷礼付きを見ることができたのは
観艦式本番に参加したものの冥利に尽きるというべき出来事でしたが、
できればもう少し近くを航行して欲しかったかな。

せめてこの釣り船くらい近ければ、もう少し艦載機とかが鮮明に写せたんですが。
ああいう時には無反動砲みたいなレンズを持っている人が素直に羨ましいです。


さて、画像は「ちょうかい」が木更津を出航してすぐ、近くを通りかかった釣り船の上から
何人かが(いずれも客ではない)手を振ってお見送りしてくたところ。

外洋に出るためには、木更津から出た船は必ず浦賀水道を通過します。
ボトルのネックのようになっているところなので、ここは「海の銀座」と呼ばれるほど、
船舶が輻輳(ふくそう、ひとところに物が集中して混み合うこと)するのが常です。
このため、東京マーチスという海保のセンターが、交通管制を行っているのです。



観閲部隊の最後尾である「ちょうかい」は、訓練展示のほとんどは
目の前で行われないことがわかっていたため、わたしは艦橋に上がり、
左舷ウィングから後方を俯瞰できる場所に落ち着くことにしました。

ここを拠点にすると、何かと降りたり登ったりしなくてはいけないのですが、
この日1日何回も階段を昇降したおかげで、すっかり艦内ラッタルでの移動が
スマートに素早く行えるようになりました。(効果には個人差があります)


そういえば、舞鶴で艦橋を案内してくださった幹部の階段の上り下りがあまりに早いので、

「もしかしたら手使ってないんですか?」

と聞いたら、

「持ってますよ」

と返ってきたのを思い出します。
日常を護衛艦の中で過ごしている乗員は、一瞬で降りてしまうので、そう見えただけなんですね。


この写真は、「ちょうかい」の艦橋から降りるラッタルの壁に貼られていたものです。
1年前の骨折から復帰した平賀工廠さんが、なんと今回「しらゆき」に坐乗され、
怪我の後なのでラッタルの昇降の際には三点保持を心がけた、
と書いてこられていましたが、その三点保持というものがなんなのか、
わたしはこの写真を見て初めて知った次第です。

「片手は逆手に持つ」!

これは知らなかったわ〜。
でも、降りる時だけの話ですよね?



さて、上甲板から一つ下の階には食堂と機関室があるのですが、
機関室の近くの廊下に掲げられていた幹部の御真影とその言葉。

うーん・・・・・武居海幕長、お若い。

右側には「自衛艦隊司令官」の写真がありますが、このほかにも
「護衛艦隊司令司令官」(ここまで海将)があり、その隷下の「第4護衛隊司令」
の写真が掲示されていました。

第4護衛隊群は呉の「第4護衛隊」と佐世保の「第8護衛隊」を合わせたもので、
「ちょうかい」は「しまかぜ」「きりさめ」「すずつき」などとともに第8護衛隊に属します。



当艦の艦長、中村譲介1等海佐。
海自では汎用護衛艦はの艦長は2佐、イージス艦は1佐と決まっています。

旧海軍では巡洋艦(軽巡・重巡)以上、戦艦、空母の艦長は大佐が務めました。
戦艦「大和」と「武蔵」だけは特別に少将が艦長となっています。



「射撃優秀艦」2回!

「対潜優秀艦」2回!

情報業務優秀艦!艦内防御優秀艦!保存整備優秀艦多数!

そして、

給食業務優秀艦!

これはどうやって誰がどういう観点で決めるのだろう。
カレーが美味しいから、とか?



機関室に行くと、必ず誰か、こういうことに詳しいぜオレ!な人が、
現場の隊員をつかまえて専門的な質問をしているのを目撃しますが、
わたしはいつもその横に立って会話を小耳にはさむだけです。


ところでこの画像にも二人写っていますが、計器の前にずっと座って計器を見ている人は、
これが仕事とはいえ、こんなことをしていて眠くならないんでしょうか。
念のために後ろで立って見張っている人に聞いてみると、

「(眠気と)戦っています」

とのことでした。
毎日の任務そのものが、これ即ち戦い。日本国自衛隊です。



艦艇用と航空用のガスタービンの断面構造の違い。
右側に大きく張り出した部分が多分吸・排気ダクトだと思う(適当)



甲板の下の階を歩いていると、ときどき床のハッチから人が出てきて
結構びっくりさせられるのですが、三点保持のポスターに

「ハッチを開けたら確実にピンを挿入する」

とあるのは、このハッチのことなんでしょうね。
ピンで固定しておかないときっと危ないに違いない(適当)



突如もぐらのようにひょこっと自衛官が出てくるこのハッチ。
下には何があるのだろう、と思い、通りかかった自衛官に聞いてみました。

「居住区です」

そうかー!今まで自衛艦をいくつか見てきたけど、艦長の部屋しか見たことがなく、
隊員の皆さんはどこで寝起きしているのかと思っていたのですが、下の階だったのね。

ハッチが開いているところに遭遇したので、少しだけ下を見ることができました。
「ピン」というのは、四方にある真鍮のがそうだと思うのですが、
今このハッチは「開いているけどピンが挿入されていない」でおけー?



基本的に体験航海で一般人が落ち着く場所はどこでもいいことになっていますが、
食堂階の廊下の隅に毛布を敷くという考えはなかったわー。

だいたい、こんなところで寝転んでなおかつくつろげるというのがすごい。



毛布といえば、観艦式および予行の乗艦者には、もれなく一枚毛布がもらえます。
ほとんどの人が床に敷いてシートにしてしまうこの毛布を、頭からかぶる人もいます。
昔はこれを「海軍毛布」と呼んでいたそうです。

ラベルを見ると、この毛布が納入されたのは1986年度、つまり29年前!
「ちょうかい」が生まれる前どころか「はるゆき」が就役した頃であり、「はるさめ」がまだ現役の頃ですね。
海上自衛隊の物持ちの良さおそるべし。



どこの護衛艦も、先任海曹の部屋の札はどうして皆立派なんだろう。
先任海曹は、船の上では特別扱いというか、幹部とも他の曹士とも別の、
独立した個室を持っていて、これが「ちょうかい」の先任海曹室なのですが、
先任海曹は食事もここで食べるという事です。

ここに刻まれた山は、たぶん鳥海山だと思われます。

先任海曹室、で調べると、アイスクリームを購入販売する担当も受け持つ、
というような資料がでてきたのですが、なぜ先任海曹「室」がアイス担当なのかは
全くわかりませんでした。



アイスといえば、ちゃんと食堂も見てきましたよ。
ロープの結び方をオブジェにした額の下では、早くも熟睡する人。
皆朝早く起きて来ているので、暖かい場所でじっとしていると眠くなってしまいます。



服務の宣誓が食堂に架けられているのは初めて見ました。



インド洋派遣記念。
いつの派遣かしらと見てみれば平成14年。すでに退役した「あさかぜ」のものでした。
なぜ「ちょうかい」が持っているかなんですが、「あきかぜ」がかつては同じ第4護衛隊群隷下の
第64護衛隊であったから、というくらいしか理由を思いつきません。 




なんと「ちょうかい」食堂には図書コーナーがありました。
「愛人」の作者マルグリット・デュラスの「あつかましき人々」も読んでみたいけど、
それより中村彰彦の「海将伝」ってなにかしらと調べてみたら、
日露戦争の聯合艦隊参謀、島村速雄の伝記でした。



食堂では物販業者がお店を広げていました。
どういう規模の業者がどんなものを売るかというのも艦によって違うようです。



「いずも」のTシャツの向こうにあるのは「アイス係」と書かれたケース。
自衛艦とアイスクリームについてですが、中の人によると、

艦内運営費(隊員が互いの福利厚生のため集金、運用している準公金)から
艦(主として先任海曹室が主担当)が独自に購入販売しているものと、
糧食費で賄われているものの二種類があります。
先任海曹室が担当しているものは食堂に設置されたアイスクリーム用クーラー
(小売店などに設置してあるものと同型)で100円程度で販売されています。
販売時間は殆どの船で巡検終了後~20時ですかね? 

搭載については停泊中に業者が保冷車で持ってきたのを積み込みます。
航海中に在庫が無くなったら終了です。洋上補給で積むなんて事は有り得ません。
航海がなんらかの理由で長期化(よくある)し、無くなった後の艦内は結構悲惨です。

海上自衛隊は米軍をお手本に作られた組織なので艦内飲酒が出来ません。
よって嗜好品=アイスとジュース!なのです。
毎日巡検終了後は艦内のあちこちでジュージャン、アイジャン
(ジュースやアイスを賭したジャンケン)が行われています。(Yahoo知恵袋より)

とのことです。



前甲板の様子。
VLSを囲むようにパイプ椅子が並べられています。
これは、なにもおかなかったら皆VLSの端っこに腰掛けてしまうからだと思います。

しかし、撃ったことがないので推測ですが、アスロックって、
米倉ひとりの一存なんかでは勝手に発射できないものですよね?
なんか色々と前段階があってそれをクリアしないと、射程とか照準とかいろいろ無理じゃないかと。

なにが言いたいかというと、よほどのことがない限り、ケースが開いて中から
何かが出てくるということは現実にありえないのだから、観艦式の時に上に人を乗せるくらい
大丈夫じゃないのかってことなのです。
もし何か出てくるようなことがあれば、その時にはどっちにせよ甲板の人全滅ですよね?

あ、そんなことじゃなくて、何か仕掛けられる可能性があるからかな。



前甲板左舷は本日のイベントの写真を撮りたい人がガッチリと席を取っていました。
でもね。
訓練展示の海面を撮ることは、観閲部隊の最後尾では何度も言うけど無理なんです。 
旗艦から当艦までの間には4隻もの観閲艦がいるのですし、艦隊の最後尾というのは
先行の艦艇の立てる波のあおりを受けて、縦に揺れる揺れる。

その揺れ方も、艦首がすううーっと持ち上がったと思うとどーんと下に落ちる感じで、
特に艦首が持ち上がった時に前方で起こっていることなど、見えたものではありません。 

どんなシーンをみられるかは、お天気以前にどんな艦に乗るかで、まったく運次第です。



いつ見てもほんのり受ける、総員離艦安全守則。

「水中爆発および鮫に注意せよ。」

いくら注意しても遭遇する時には遭遇すると思うがどうか。



主砲の周囲だったと思います。
わざわざ「座らないでください」って書いてあるでしょ?
訓練展示の時に、なんとここに登って立っていた人をわたしは見ました。
まあ、たしかに「座っては」いなかった。「座っては」、ね。



赤いものは消火設備。でしたっけ。



この二人はこの立ち入り禁止部分に人が入らないように(まさかとはおもうけど、
鉄オタのように写真を撮るためにはなんでもする奴が世の中にはいるから)
するためか、ずっとここで立っていました。

この後ろには立ち入り禁止のロープが張られており、
そのギリギリにも毛布を敷いて陣取っている人多し。
最初はずっとここにいようかと思っていたのですが、現場を見てやめて良かったと思いました。
最前列にいたところで、船の動揺と柵のせいでなかなかいいシーンは見られなかったからです。



「むらさめ」「あたご」、そして「ちょうかい」のどれにも、後部甲板には
このようなウェットスーツのようなものを着た隊員が一人か二人、ずっとスタンバッていました。

赤い浮き輪などがあるところを見ると、万が一乗客が海に落ちるようなことがあった場合、
彼が飛び込んで助けてくれるのではないかと思ったのですが、わかりません。
護衛艦には、海上救難部署という部門があって、溺者救助のために艦上救難員、潜水士、
そして降下救難員が乗艦しているということですから、おそらくそのどれかであろうと思われます。

いずれにしてもいざという時、我が身の危険を顧みず救助にきてくれたなら、
この隊員さんほど男前でなかったとしても、救い出される側には、まるで王子様が
ウェットスーツを着てやってきたように思えるに違いありません。


続く。
 

受閲艦隊回頭~平成27年自衛隊観艦式

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観艦式というものを最初に行ったのは、イギリスです。
1341年、英仏戦争のときに、国王エドワード3世が自ら艦隊を率いて出撃する際、
その威容を観閲したことがその始まりだといわれています。

我が国の帝国海軍では、明治元年に初めての観艦式を行いました。
たった6隻の船でしたが、これを明治天皇に観閲を賜る「軍艦叡覧」という
観兵の式典が最初です。

観艦式という言葉でこの催しを表すようになったのは明治33年、
第4回目に神戸沖で行われた「大演習観艦式」からのことで、
最後の第19回観艦式は昭和15年横浜沖で実地されたときのものです。

この時には、艦艇98隻、航空機527隻が参加するというもので、
艦艇29隻(ロナルド・レーガンを入れるなら30隻)、 航空機せいぜい30機以下
(ブルーインパルス含む)の今回の観艦式から考えると破格の規模だったことがわかります。




さて、前回は「ちょうかい」艦上でみたあれこれをお話ししたのですが、
我が自衛艦観閲の続きからはじめます、
もう一度「いずも」が我々の前を通り過ぎて右回頭するところからです。
この写真を見てお分かりかと思いますが、「いずも」ほどの巨艦でも、
Uターンなどで回頭するときには、艦体がかなり傾ぐようです。



続いて潜水艦隊。
漆黒の艦体を洗う海水の様子に思わず見とれます。



艦橋の様子を望遠で撮ってみました。
この狭い艦橋に5人の隊員がいるのが人口密度高杉です。
艦橋の際前方に見えているのは護衛艦の操舵室にあるのと同じ、
ジャイロレピータでしょうか。
 
自衛艦旗とともに揚がっているのは「代将旗」です。
海自には「代将」という階級は存在しませんが、「代将旗」はあるのです。

これは、その他の海将旗などとともに「指揮官旗」であり、特定の司令職を務める
1等海佐(この場合は潜水隊群司令) が乗り組んでいるときに掲揚されます。

つまり、この「ずいりゅう」の上にいる黄色いストラップの1佐は、
第1潜水隊群司令の小坂明彦1佐であるということになります。 (が違ってたらすみません)




小坂隊司令(仮定)が海上の何かを指し示しているー!

「オイ、あそこで今魚跳ねたぞ!」

・・・とか?



などという現場を目の当たりにできるのも観艦式ならでは。
こちらは後続の「こくりゅう」艦橋だったと思いますが、ここも狭そうね。
後ろに立っているのは艦長です。

読んだばかりの「特攻の島」の伊潜艦長に似ている気がする。



回頭した「いずも」と「こくりゅう」のツーショット。
こんな異種混在シーンが見られるのも観艦式をおいて外にありません。



続いて掃海母艦「ぶんご」。掃海艇たちを率いて登場です。
今回掃海母艦は「うらが」「ぶんご」2隻が参加しました。
「うらが」は収容人員が多いので、随伴艦の「くらま」の後ろという絶好のポジションですが、
「ぶんご」は受閲される方です。



「ぶんご」に乗ってらっしゃった方、ここに写ってますか~?



というわけで「ぶんご」も右に回頭。
今気づいたのですが、受閲艦隊は先頭の「あたご」から第2群の駆逐艦までは
左回頭して我々の後ろに着き、「いずも」以降は右回頭して
観閲付属部隊の後ろに付いていったようです。

いろいろとシステマチックにことが運ばれているんだなと感心するわけですが、
それにしても昭和15年の98隻での観艦式ではいったいどうやっていたのか・・。

観艦式は海軍力を表すバロメーターですが、当時の帝国海軍の底力というのは
このときの観艦式の数字にも表れていたと思います。
 


掃海母艦の後に続く掃海艇「つしま」。
この小さな掃海艇の舷側にきっちりと登舷礼の列ができているわけですが、
大きな船ですら時々立っているとよろめくような、この日の高い波のなかで、
身じろぎもせずに立っていられる乗組員たちには驚嘆するしかありません。
 


掃海母艦も右回頭するので、それに従います。



結構ハードなターンなので、舵を切ったときには波の動揺だけでなく
艦上は不安定になるはずですが、それでもこの状態。



後続の「ひらしま」。
「ぶんご」はすでに回頭を終えました。



参考までに「ひらしま」の登舷礼をしている乗員をアップにしてみました。
下の段に「登舷礼の時に動揺が来た時の耐え方」を実践している人がいます。

小さなことですが、こんなことからも海自の日ごろの訓練が窺えます。



掃海部隊全体を見るとこんな感じに進んでいきます。

掃海艇の列って、船は小さいですが、実に勇ましいものですよね。
掃海任務における過酷なあれこれや、海外派遣について調べたからこそ思うのですが。
 
ところで、わたしにとって3年前の観艦式が初めての参加でした。
その時には観艦式の全容というのがわかっているようでわかっていなかったため、
全体の隊形が刻一刻と変わっていくその変化については、わりと無関心で終わったのですが、
今回は、全体の動きを把握しながら見ていたので、各艦がどのような動きをするか、
それを考えながら目で追うだけでもとても面白かったです。

回を重ねるごとに経験から、視点や興味も違うものになっていくことを実感しました。



これは見間違いようもない、舞鶴でもお会いした「ましゅう」さんです。

ところで、自衛隊の補給艦の命名基準ってご存知でしたか?
「補給する」=「貯めたものを供給する」ということから、湖の名前が使われるのです。
「ましゅう」はご存知摩周湖ですが、それでは「ましゅう」型2番艦の「おうみ」はなにかというと、
近江湖、すなわち「淡水(あふみ)湖」である琵琶湖のことなのだそうです。

近畿、中国、九州にある大きな湖の名、と決められた2番艦の命名は困難を極めました。
実際には滋賀県の琵琶湖と鹿児島の池田湖が相当したのですが、
「びわ」は果物を想像させるし、「いけだ」って誰それ?となることから(確かに)
苦肉の策として結局「おうみ」が採用されたという経緯があります。

「ましゅう」も、実は摩周湖というのは厳密には湖ではない、
すなわち「大きな水溜り」なのですが、そこのところはスルーされました。



「ましゅう」とともに受閲部隊の第6群を形成するのは、輸送艦「おおすみ」です。
「おおすみ」については、大変でしたねと心から労いの言葉をかけるとして、
先ほどのついでに言うと、輸送艦の命名基準は「半島」です。
大隅半島、下北半島、国東半島から取られた三隻が、現在「おおすみ型」として就役しています。

「おおすみ」は輸送艦なのでさぞ人員もたくさん搭載できるはず・・・・と思って艦上を見ると、
あれー?ほとんど人がいないぞ。

甲板の半分から後ろは、人が行けないようにロープが張られている模様。
ははーん、なるほど、これは



LCAC を2隻搭載して、それを海上で海に展開させ、展示が終わったら収納して帰る、
という本日の行動上、一般客は後甲板に乗せられないのだと見た。


これだけ離れていてもこんなに煩いんだから、これが2隻後ろにずっとくっついていて、
しかも展開収納するとなると、そのときには大変な騒音が予想されますものね。

もし可能なら、後甲板後方からLCAC展開収納の様子を一度見て見たいものですが。



受閲艦艇の国内部隊最後は第7群の「タカ派」です。
後のミサイル発射で活躍する、「おおたか」「くまたか」「しらたか」の三隻、
「はやぶさ」型ミサイル艇。

ミサイル艇の存在意義というのは沿岸警備の高速戦闘艇であるということです。
そのためステルス性が考慮される設計となっており、 そのために


●船体の各部にはレーダー波を直接反射しないようにするため傾斜がつけられている

●三脚構造のステルス性が重視された形状のマスト

●前甲板の62口径76ミリ単装速射砲にステルスシールド採用

●射撃指揮装置の係止位置に傾斜が付けられている

●舷側手すりやウォータージェットノズルの防護材も、通常の円筒状材ではなく、
マストと同様に菱形断面となっている


などの特別仕様となっています。

先日舞鶴のミサイル艇の写真のコメントにエンジンがガスタービンであるという
コメントをいただいたのですが、これについては

「はやぶさ型ミサイル艇はガスタービンを採用しているため
諸作業があっても主機を30分以内に出撃可能な状態にできる」

という説があるそうです。

蛇足ですが、「おおたか」「しらたか」に、不審船の模型をセットしている
商品を見つけて少しウケたのでご紹介しておきます。

アオシマ1/700 海上自衛隊 ミサイル艇 おおたか しらたか[不審船付] 


そもそもミサイル艇が導入されたきっかけというのは、1999年能登半島沖で起きた

「能登半島沖不審船事件」

だったんですよね・・・・。



続く。

 



外国招待艦受閲~平成27年自衛隊観艦式

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明治元年、日本で最初に観艦式の原型である海軍天覧が行われました。
これは陸上から6隻の軍艦が観閲されるというものでしたが、
このときに、フランスの軍艦「デュプレクス」が海外から参加しています。

「デュプレクス」は1863年から起こった下関戦争で、四国連合艦隊、
英仏蘭米の艦隊に加わって戦闘を行い、その後はフランスの権益を守るために
函館に停泊していたということなので、ちょうどその頃行われた観艦式に
たまたま日本にいたことから参加することになったようです。

その後は外国艦の観艦式参加はなかったのですが、1908年の神戸沖での観艦式に、
「外国陪観艦船」という言葉が見られます。
おそらく、観閲する側として外国船が参加したのでしょう。


そこから後は、第一次世界大戦が集結したばかりの1919年(大正8)、
ドイツの潜水艦7隻が観閲されていますが、これはドイツからの戦利品で、
外国から参加したものというわけではありませんでした。

今現在のように、外国から招待された海軍の軍艦が観艦式で受閲される、
という例は後にも先にも一度だけ、
1928年(昭和3)年の御大礼特別観艦式のときです。

このときには、

アメリカ海軍 ピッツバーグ
イギリス海軍 サフォーク ケント ベルウィック
フランス海軍 ジュール・ミシュレ 
オランダ海軍 ジャワ イタリア海軍 リヴィア

その他特務艦など11隻の船が観艦式に参加しました。

ところで「ピッツバーグ」をクリックした人は、「ペンシルバニア」というページに
飛ばされて、「またエリス中尉のうっかりか」と思われたかもしれませんが、
実は「ピッツバーグ」は就航後名前を新造艦に譲った経歴があり、
元々は「ペンシルバニア」という名前だったのです。

ところで、この名前に(このブログ的に)聞き覚えがあるという方はおられませんか?

世界で初めて飛行機で船の甲板から発艦し、初めて着艦した人物、
「ユージーン・バートン・イーリー」 について書いたことがあるのですが、
イーリーが史上初めて甲板に着艦した、その船が「ペンシルバニア」なのです。

このブログでも書いたように、イーリーは何度目かの着艦のときにこの艦で
事故のため死亡しましたが、 それから17年後、「ペンシルバニア」は
「ピッツバーグ」と名前を変えて、帝国海軍の観艦式に参加したということになります。


この観艦式の行われたのは昭和3年。
といえば、日本と世界の歴史にとって重大な事件が6月に起きています。
張作霖爆殺事件です。

しかし、国際的にはこのころはのちに続く戦乱の混乱の隙間とでもいうべき時期で、
つまり日本に対しても大国は、まだ表向きまともな国際関係を保持していました。

もっとも、日露戦争に日本が勝利したその日から、アメリカでは秘密裏に
日本を潰すという計画が運ばれていたのですが、それが目に見える形をとるのは
もう少し後のことになります。




と、前振りをしたところで、観閲式の外国招待艦観閲についてお話しします。

12日にはまだ到着していない艦艇もあったため、外国艦は15日、
1日の予行を経て本番観閲式に臨んだわけですが、どちらも見たところによると、
やはり本番は予行とは違う「本気度」が見られました。

まずは招待艦を先導する「いかづち」が行きます。
「いかづち」には乗員以外を一切乗せていないらしく、見た目もスッキリ。
やはり受閲艦艇には基本人を乗せない方が美しいですね。

「いかづち」は「むらさめ」型駆逐艦の7番艦。
その名前をもつ日本の艦艇としてはあの「敵兵を救助せよ」の「雷」を入れて
4代目となります。



続いてオーストラリア海軍の「スチュワート」。

このあいだの予行では写真を撮るのを忘れてごめんよ。

「スチュワート」は「アンザック級」フリゲートの4番艦。
オーストラリア海軍はイギリス海軍の流れを引き継いでいるのですが、変な名前
(例:ツタンカーメン級タリホー) を艦艇につけるという傾向も引き継いでいるようです。
たとえば同じアンザック級のフリゲートは

「アランタ」「ワラムンガ」「パラマッタ」「バララット」「トゥンバ」「パース」

といいます。
たとえば「わらむんが」は(平仮名で書くとさらに変)「ワラムングの人々」で、
その他の名前もみな原住民がつけたオーストラリアの地名です。
同じ旧英国領の名残か、同型艦を採用しているニュージーランド海軍では

「テ・カハ」(原住民マオリ族の言葉で強いという意味)
「テ・マナ」(同じく権威とかステータスという意味)

という名前を付けています。
どちらも、人の名前より地名や現地にちなむ艦名をつける傾向にあると見た。



ご期待に応えて部分をアップしてみましょう。
艦尾や格納庫の仕様も自衛艦には見られないもので、独特ですね。

 

さらにアップ。
駐機しているヘリコプターはSH-2対潜哨戒ヘリ。
「シースプライト」という、清涼飲料水のような名前を持っています。

それにしても登舷礼をするオーストラリア海軍の皆さん、
手すりを持つどころか手を後ろに組んでもおらず、これこそ自衛隊の登舷礼と
そっくりそのまま同じ姿勢を維持しています。

自衛隊の登舷礼は海軍時代、おそらくイギリス方式を継承しているはずなので、
おなじイギリス海軍の血統である豪海軍が同じであるのも納得です。

右から4番目の人がふらついて脚を開いてしまいましたが大目に見てあげましょう。 




マストには鮮やかな日章旗を揚げてくれている「スチュアート」。
今気づいたのですが、オーストラリア海軍は、こういうときに
招待国の国旗だけをメインマストに揚げ、自国の国旗は揚げないのが慣習のようです。

冒頭写真はアメリカ海軍の掲揚ですが、ちょうど日米旗が並列に並ぶようになっています。
これなどいかにも「両国親善!」「同盟万歳!」な雰囲気が現れている気がしますが、
旗をどう扱うかというのは海軍によって微妙に違うことがわかりました。



続いて、フランス海軍のフリゲート艦「ヴァンデミエール」。
フリゲート艦、というのは自衛隊にはないので、どんなものかピンとこないのですが、
この「フリゲート」の定義というのも、実は海軍によってまちまちだそうです。

もともとは「駆逐艦よりも小さな艦艇」をそう呼んでいたようですが、
「大きなフリゲート」が誕生して以降その法則も崩れました。

バトルシップ=戦艦、クルーザー=巡洋艦、デストロイヤー=駆逐艦、

と他の艦種は翻訳されましたが、フリゲートだけは翻訳しなかったのが
日本でこの種類の船ができなかった原因のような気がします。



フランス海軍のマストにも日仏の旗が揚がっていますが、
フランスの旗に比べて日本の旗が小さすぎるのと、あと揚げる位置が
左右不均衡であるため、米海軍のような「同盟」感はありません。



韓国海軍は独自の海軍旗を持っていないため、艦尾に国旗を揚げているように見えるのですが、
どうやらフランス海軍もおなじ事情のようです。
しかしまあ、フランス人が、下手な海軍旗を作るならこのトレビアンな国旗を
そのまま海軍の旗印にするべきである、と思ったらしいことには、納得がいきます。

見た目美しいですもんね。理屈抜きで。

ところで韓国海軍については「でかすぎる海軍旗は品がない」という
(わたしが言ったんじゃありませんが)意見もあったりするわけですが、あら不思議、
この自由平等博愛を表す三色旗ならば、こんなに大きいのに、なぜかお下品には見えませぬ。

むしろボン・グーでサ・セ・トレ・ジョリでセ・シャルマンな光景に見えるのですが、
これは日本人が持つ先入観(どちらに対しても)というものが引き起こす不公平でしょうか。



お次は、登舷礼で前のマストを両手で握っているので驚かされたインド海軍。
こちらもイギリス海軍からいろいろと引き継いでいそうなものですが、
この一事を見る限りそうでもないのかなとふと思ったりします。

インド海軍は司令部本部を国防省に置き、艦隊に相当するコマンドを
3つ持ちますが、今回参加した「SHAYADRI」は、西、東、南コマンドの、
東コマンドの所属鑑となります。

この艦名、てっきり「シャヤドリ」と読むのだと思っていたのですが、調べてみると
「シャヤディ」が正しい発音で、シバリク級ステルスマルチロールフリゲートです。

インドのマサゴン・ドックリミテッドというインドの造船会社、つまり地産地消艦で、
武装に関しては、ロシア、インド、ユーロの国の製品をいろいろと混在させています。



そして韓国海軍のDEAJOYONG。
ついうっかりして、艦首の切れた全体写真しか撮れなかったのですが、
これは別に他意はありません。

コメント欄でも教えていただいたように、漢字で書くと大祚栄(テ・ジョヨン、だい そえい)、
李舜臣級駆逐艦の3番艦です。

あのセウォル号の沈没事件の時には捜索活動に加わっていますが、その際、21歳の兵長が
貨物エレベーターの作業中に頭部を負傷して死亡しています。


ところで、どうして今の時期、日本政府は観艦式に韓国海軍艦を招聘したのでしょうか。
特に韓国のネット世論は、写真に旭日自衛艦旗が写っていることで騒いでいたようですが、
(13年前の参加の時もそうだったつーの)
一般にも知られるように、韓国海軍と自衛隊の仲は普通にいいということなので、
むしろ、両国の感情がこんな時期だからこそ招待した、というものかもしれません。

(さらにうがった考え方をすれば、首脳会談が万が一実現した時のための、外交辞令のネタ作り?)


 
前回、観艦式予行の乗艦報告をした時に、こんなことを書きました。
まず、

「韓国海軍は死んでも日章旗をマストにあげるつもりはないらしい」

これについては謝ります。
それは予行の時だけで、本番ではちゃんとこのように両側に両旗が揚げられ、
とりあえず体裁は整っておりました。

それはいいんですが、なぜマスト上部に駄目押しのような韓国国旗が?

なんかこういうところに、この国の未熟なところというか、大人気ないというか、
あの国独特のこだわりというかプライドというかを感じるわけですが、
まあ、これも他の海軍と比べてのことですので、あまり追求はやめましょう。

ちなみに韓国海軍はいわゆる国籍旗はオリジナルを持っており、
それはなんというか、わたしのセンスではあまり素敵とは思えないものですが、



海軍旗は国旗と同じものを使用しています。
つまり、国籍旗が国旗と同じで海軍旗がオリジナルの自衛隊とは全く逆ということです。

・・・やっぱり艦尾旗でかすぎ。

この艦体についてはコメント欄でも装甲ペラペラだとかトップヘビーとか、
もやいのかけ方が変だとか、まあいろいろと面白い話を聞かせていただきましたが、
それより何より、前回ちゃんと確かめずにうっかり

「登舷礼は日本式でびしっとしているみたいだ」

なんて書いてしまったことを訂正しなくてはならないことが、この写真で判明しました。



はいアップ。

もしかしたら韓国海軍の皆さん、片手で手すり掴んでますか。

本番だというのに全員の姿勢悪いし、キョロキョロしてる奴もいるし(右から3番目)

・・前言撤回じゃあ!



艦橋の士官までキョロキョロしてるよお・・・。



んで、おまけになんなのこの一団は?
艦長クラスの金筋がスマホで写真撮ってるし、
なんか一生懸命望遠でロナルドレーガン撮りまくってる二人もいるし。
あんたら今受閲されてる真っ最中なんですが、自覚ある?

韓国艦は内部一切撮影禁止だったという噂もあったのに、自分たちはこのざまだよ。
まあ、内部なんぞ撮るまでもなく外から見てもかなりヘンってばれてましたけどね。



と呆れ返ったところに安定のアメリカ海軍がきました。
「チャンセラーズビル」の乗員が全員作業着のままじゃないか!と前回書きましたが、
これも訂正いたします。



さすがのアメリカ海軍、全員ちゃんと制服を着ています。
まあ、キョロキョロしている乗員も若干1名いるみたいですが。



「チャンセラーズビル」は、ミサイル巡洋艦です。
「タイコンデロガ級」の16番艦で、アメリカのアジア重視戦略(リバランス)の一環により
今年6月に配備先の横須賀基地に到着したばかりということで、今回お目見えとなりました。

アメリカ海軍の予定では2026年までの運用が決まっているということです。

甲板上の武装を見ればミサイル艦であることがわかりますね。
これは4連装のHarpoonだと思いますが、トマホーク巡航ミサイルを搭載しております。



続いて「マスティン」。
こちらは「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦の39番艦です。
マスティン家というのはアメリカ海軍で有名な海軍一族だそうです。



うーん・・・・自衛隊ほどびしい!とはしてませんが、
まあ一般的なアメリカ人よりはちゃんとしてる方かな・・。(弱気)



彼らはずっと横須賀にいる艦なので、もうおなじみといったところですが、
海外から日本にやってきた海軍の軍人さんたちは、合間に日本観光を行ったそうです。

目撃談ですが、フランス軍は各自行動、韓国軍はバスをチャーターして繰り出したとのこと。
韓国海軍が横須賀に寄港した時には、岸壁に向かって皆手を振っている写真も残されています。

観艦式は彼らが日本を少しは理解するきっかけとなったでしょうか。




1928年、御大礼特別観艦式。
世界がこれから戦火に包まれる前の、嵐のような静けさの時期に、
ともかくも平和裡のうちに行われた観艦式でした。

各国の海軍軍人たちは、ひとしく観艦式を通じて、日本海軍と日本そのものに
おそらくなにがしかの好感と、同じ海軍同士の連帯感といったものを感じたはずですが、
その後、彼らが互いに戦火を交えることになったのは歴史の知るところです。

軍人を動かし、戦を起こすのは人間で、今も世界のどこかでは争いが繰り返されています。
しかし、かつてその悲劇を知った日本人が、その愚を再び犯すことを回避し、
常に平和を選択する叡智を持った民族であることを、わたしは信じています。

・・・・が、信じているだけでは平和は守れない、というのも、平和のためには
武力と法律による「shields」が必要なことも、また現実であると思うのです。


続く。




 

訓練展示〜平成27年自衛隊観艦式

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わたしが観艦式本番で乗った「ちょうかい」は何度も説明していますが
観閲部隊の最後尾を務めていました。
なので、観閲が終わりに近づき、外国からの招待艦とすれ違う頃には
旗艦の「くらま」に見せるための航空観閲がバンバン始まっていました(T_T)

このため航空写真と外国艦艇の写真を交互に撮らなければいけなくなったのですが、
自分にとって珍しくない飛行機、速くてカメラの設定が変えられない戦闘機はスルーしました。 
というわけで、ごく一部となりますが、航空観閲からどうぞ。




MH-53E(向こう)とMCH-101。
逆光の上にモードが船のままなので、ローターが止まったまま・・。
MCHは今回この1機しか参加していないということですが、もしそうなら
首相を「あたご」に乗せた後こうやって観閲を受けていることになります。 

これは左のMHの後継機となり、ここでは新旧で仲良く飛んでいるというわけ。



練習機TC-90。
本当は3機編隊で飛んでいました。
わたしのいた艦橋ウィングから航空機を撮ると、船の上部に出される熱気ごしに
撮影することになってしまい、画像が縮れたように歪んでしまうことに気がつきました。



P-3C、これなんか酷すぎ。



このP-1の尾翼とマッドブームのところなんかもっと凄いでしょう。
まあこれも護衛艦に乗っているからこそ撮れる映像ってことで、ボツにしませんでした。



わたしのとなりにいた人が写真を撮るのをやめてしまったので、

「次にオスプレイがきますよ」

と教えて差し上げたのですが、その人は残念そうに

「そうだったんですか・・・・撮りすぎて電池なくなっちゃいました」

と唇を噛んでいました。
人に教えたわたしも空気の歪みと逆光でろくな写真が撮れてません。



あっ、「あたご」さんだ!「あたご」さ〜〜ん!
3日前はあの後ろ甲板のパイプチェアで過ごしたのです。
いただいたメダルは今も机に置いて時々眺めては和んでいるのよ〜!

そういえば「あたご」さんは、かわぐちかいじの「空母いぶき」で、
いきなり遼寧の艦載機から威嚇射撃されて大変でしたね。


さて、このとき「あたご」は訓練展示を行わない受閲艦艇を率いて航行しているようでした。



先頭から、「むらさめ」「あたご」「うらが」「てんりゅう」(ここからチャカIIIが見えてる)、
そして「しらゆき」は回頭を終えて単縦陣に今から加わるところ。
「ちはや」はまだ回頭を終えていません。
我が「ちょうかい」は今回頭の真っ最中です。

この回頭のあと、訓練展示を見るために甲板に行ったら、メガホンを持って解説していた副長が

「今日の回頭は今まで(予行2回を入れて3回)で一番うまくいきました」

と誇らしそうに言っていたので、へえと思いました。
毎回難なく普通にやっているように見えていましたが、操舵を知っている者にとっては
あきらかにうまくいったり、ときにはあまり良くないと感じることもあるということなのです。



さて、いよいよ訓練展示が始まり、最初は「しまかぜ」が祝砲を・・・・・

柵の前に立っている人はともかく、わたしは艦首手前(主砲前)から
人の合間、そして艦首部分ごしにしか展示が見られなかったうえ、
船が波で動揺し、艦首が持ち上がってしまったのでこんな写真しか撮れませんでした。



時おりよろめくほどの波に揺さぶられ、フレームに納めるのも一苦労。

ところで皆さん、この「しまかぜ」の艦首の形をよーく見てください。
172の艦番号の上部分だけが後でとってつけたような仕様になっているのがわかりますか?
これは「ブルワーク」といいまして、前甲板の艦首部分にある対空ミサイル、
ターターランチャーに波がかかることを防ぐために付けられているものです。

このブルワークを持っている艦はこの「しまかぜ」と「はたかぜ」のみ、
つまり「はたかぜ型」だけです。

「たちかぜ」型まではSMI-1の発射装置は後部にあったのですが、「はたかぜ」型から
それを前に持ってくることになったので、この独特な艦首の形となりました。
少し高くしているだけですが、波を避けるのに十分効果があるとか。


「しまかぜ」のマストは非ステルス性の権化のようなラティス構造をしており、
これからもわかるように彼女はもう就役して27年、「はたかぜ」は29年という老艦ですが、
どちらも延命のための改修工事が施され、最長であと10年は現役でいる予定です。

ターターランチャーを持つたった二隻の船であり、最初にガスタービンに切り替わった船、
そのため集まってくる乗組員も専門職が多いという特殊さのためだと思われます。

ガスタービン・エンジンについては前回も言いましたが、動作に入ってから駆動までが
大変早いのが特徴。
蒸気タービンと比べると、出航までの時間が半分で済むといわれ、たとえば
出航までの時間が蒸気タービンが4時間であれば、こちらは2時間という感じだそうです。




続いては「きりさめ」「さみだれ」「おおなみ」によるダンス・・・・、
じゃなくて戦術運動。

この三つの艦もそれぞれ人を乗せていたわけですが、今思えば
戦術運動をとくに真ん中の「さみだれ」の艦橋ウィングから見たかったな。
あるいはこのとき、操舵室がどのように戦術運動の指令を出すのか。
もしいつか、このどれかに乗る機会があったらそれらを確かめてみたいと思います。



たとえばこういう動きの時に、どの艦が音頭をとるのか知りたい。
やっぱり一番お姉さまの「きりさめ」かな?

戦術運動はあまり派手ではないけれど、連携を取り合う緊密な態勢と技術が必要とされます。
簡単に見えるけど難しいんだぞ?



一仕事終えてこちらにやってくる「きりさめ」。



「さみだれ」嬢もよくできました。



「きりさめ」にも結構な人数の見学者が乗っていたんですね。




さて!そこでお次は潜水艦の潜行と浮上。

「そうりゅう」型独特のX舵といわれる後舵装置が海面に少し見えています。
従来の十字舵ではなくこちらが採用された理由は、いろいろと言われていますが、
「着底した時に破損しない」というのが一番シンプルで納得できる説です。


さて、潜行と浮上を旗艦の前から何度か繰り返してくれたため、



わりと近くでその瞬間を捉えることができました。
冒頭写真とこれがそうなのですが、「ドルフィン運動」とはまた違う迫力です。
この勢いで浮上することは、結構中の人には大変なのではないかと思われます。



浮上したあとの「そうりゅう」型。
セイルのフィンから波が流れ落ち、何本かの筋となって落ちる水が目を奪います。

セイルの基部は流線型の覆いでカバーされていますが、これをフィレットといいます。
「そうりゅう」型の一番わかりやすい見分け方ですね。

あと、この写真でわかりやすいのですが、セイルの表面に何か貼られているでしょう。
これは、敵艦から出されるアクティブソナー音の音波を吸収する素材だと思われます。



フィレットのないこの形が「おやしお」型の「うずしお」です。
船体全体をセンサーとするソナーを装備し、索敵能力を高めています。
「そうりゅう」型よりセイルが縦長で後ろにあるのが特徴。

自衛隊はこれまで潜水艦の保持数が18隻だったのが、24隻となったため、
たとえばこの「うずしお」には延命工事のための予算が計上されています。



セイル部分を拡大してみました。
もしかしたらこの上の方にあるのは外が見られる部分?それともライト?



ついでに潜望鏡もアップにしてみるのだった。
なんか雲形みたいな仏具調のかざりがあるように見えるんですが・・・。

さて、日本が誇る「そうりゅう」型ですが、この世界的な評価はどうなのでしょうか。
他国の潜水艦と機能、そして戦闘能力を分けて比べたデータがあります。

そうりゅう型は本当に最強なのか?

これによると、性能は高いが戦闘力はドイツの212とロシアの「ラーダ」には及ばず、
さらに原潜と比べるとステージが違う、といった感じの結果が出ています。

まあ、とりあえずは中国の039A(041)型より上ならいいんじゃない?



続いてLCACが白い霧を撒き散らしながら高速走行していきます。



この日は風が強かったせいか、飛沫に綺麗な虹が現れました。
皆、「虹だ」「虹だ」と大騒ぎ。



「ちょうかい」前甲板の柵です!
・・じゃなくて、向こうでミサイル艦がなんかやってるみたいですね(不貞腐れ)

 

IR フレアを旗艦の前で一発撃ってすっかり一仕事終えた風の「しらたか」。
ミサイル艦の内部での居住性が過酷だという話がでていましたが、そのため
「はやぶさ」型のブリッジのシートはスポーツカーや航空機によく使われている
レカロシートが採用されているということです。

だから少なくとも座り心地だけはいいんじゃないかな。(適当)



お次、P-3Cの対潜爆弾投下。
前もそうでしたが、どうせ目の前でやってくれないと思っていたため、
真ん前で爆弾を落とされたのに、全く写真を撮ろうともしませんでした。

まあどちらにしても、舷側の人は皆立ち上がっていて、海面なんて見えなかったんですけどね。



P-1はブリッジから撮ったものよりはるかにまともです。
ブリッジから後方にカメラを向けると、煙突から出る熱気でああなると見た。



しかしIRフレアーを撒いたのはかなり向こうに行ってしまってからでした。
ちなみに高度は500フィート(約150m)だそうです。

今更ですが、フレアーとは撹乱のためのものであり、これを撒くことで、
敵の赤外線センサーを欺瞞することができます。



ブルーインパルスも、隊形を変えて旗艦に向かっていくようなときだけ、よく見えました。



先頭の1番機の番号は「731」です。
これに乗って安倍首相が写真を撮ったところ、「731部隊だ!軍国主義だ!」
と中国ではなく、なぜか韓国のマスコミが騒いで非難したのは記憶に新しいところです。

今回この番号を確認して、自衛隊が全くそういう馬鹿げた非難にまったく取り合わず、
あの非難をスルーしたらしいことがわかり安心しました。

・・・しかし恥ずかしくないのかね。



この日は、上空も大変風が強かったため、旗艦近くで行われた演技のスモークなど、
カメラを向けた瞬間、というか描いている端から消えて行ってしまって残念でした。



やはり一番綺麗に見えたのは12日でしたね。
ここに写っている全員がスマホで写真を撮っているわけですが、
この程度の写真しか撮れなかったに違いありません。

さて、というわけで、予行を入れて3回参加した観艦式の訓練展示が終わりました。
もしこの一回だけしか乗れることがなかったなら残念なことも多かったと思いますが、
あらゆる艦位の、いろんな場所から、いろんな条件で見た観閲と訓練展示は、
よく見えたときには勿論、見えないなら見えないなりに周囲を観察することで大いに楽しめました。



訓練展示が全て終わった後、気のせいか全力で駆け抜けた海保の監視船「あしたか」。

「見ろよ、俺たち海保の船を。こっちもイケてるだろ?」

と言わんばかりに見えたのですが、これは決して気のせいではないと思います。 

さて、この後、艦隊は一路朝出航した港へと向かって帰るだけなのですが、
わたしにとっての今回の一番の収穫というのは、この後、
艦橋でずっと入港作業を見たことだったかもしれません。




続く。


 

 

 

首相訓辞〜平成27年自衛隊観艦式

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さて、訓練展示が終わりあとは港に帰るだけ、と最後に書きましたが、
実はこの観艦式にとって、公式には一番重要なイベントが残されていました。

首相訓辞です。

わたしはちなみに前回の観艦式で、時の首相であった野田佳彦が何を言ったのか、
全く、すっかり、欠片も覚えていないどころか、訓辞があった記憶すらないのですが、
多分そのときに乗った「ひゅうが」でもアナウンスされていたはずなのです。

一応確かめるためにわたしは、 買っておきながら今まで一度も見たことがなかった
平成24年度観艦式のDVDを鑑賞してみました。
いやー、これ面白かったっす(笑)

合間に鈴木善幸首相の頃の「昭和の観艦式」、小泉総理のときの「国際観艦式」など、
過去の観艦式映像がその時行われた訓練展示も含めてバッチリ記録されています。
そして観艦式の記憶がまだ新たなうちに見ると、前年度との違いもよく分かる。

例えば、参加艦艇は「はたかぜ型」と「くらま」「あたご」「ちょうかい」以外は
総取っ替えというくらい、特に駆逐艦は同じ艦艇は少ないのですが、
思った通り

「あすか」「ちはや」「てんりゅう」

などの人員を積むのに適している艦艇は連続で参加していたり。

というわけで、野田総理の訓辞を聞いてみたのですが(もちろん一部)、
抜粋してみるとこんな感じです。


今年は海上警備隊発足から60年目の節目である

我が国を取り巻く環境は大変厳しさを増している
(名前は出さず、人工衛星と称するミサイルを撃つ国、領土に問題のある国と指摘)

自衛隊の活躍は世界各地に広がるようになった

皆に言いたいことは三つ
「部隊の力を磨き上げよ」「果敢に行動する勇気」「信頼の絆を深めよ」

震災の時の諸君の働きは素晴らしかった
トモダチ作戦でアメリカにもお世話になったので仲良くしよう

至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか 
言行に恥づる勿かりしか 
気力に缺(か)くる勿かりしか 
努力に憾(うら)み勿かりしか 
不精に亘(わた)る勿かりしか 

五省の問いかけを胸に、国を守るという崇高な使命を必ずや果たし、
常に国民に寄り添って優しき勇者であり続けてくれると信じる

今こそ国民の高い期待と厚い信頼に応える自衛隊であるために
諸君は一層奮励努力されることを切に望み私の訓示とする


「優しき勇者」・・・・・・。

なんと素晴らしい!わたし感動してしまいました。いや、皮肉でもなんでもなく。
そういえば、海軍五省を訓辞に取り入れたことを受けて、マスゴミが
「中国や韓国が厳しい反応を云々」とか懸命に煽っていましたっけね。
さすがにどちらもあんまり反応してくれず、空振りだったみたいですが(笑)

しかしマスゴミというのは、時の政府が自民であろうと民主であろうと、
揚げ足をとって中韓にご注進し、ことを荒立てようとする点においては全くぶれないんですね。
その揺るがぬ姿勢と確かな立ち位置に、ある意味感嘆しちゃう。


さて、それでは今回の観艦式における安倍首相の訓辞はどうであったかなんですが、
それをお話しする前に、航海中の艦上で客に退屈させないよう&理解を深めてもらうため
行われたイベントや武器の展示説明について、先に少しだけ報告しておきます。



まず、先日散々文句をつけた他国(とくにあの国)の登舷礼の際の姿勢ですが、
ここで見本というか基本形というか、我が自衛隊のふっつーうの登舷礼の姿勢を例に挙げておきます。

受閲艦隊旗艦「あたご」が行う登舷礼の、この自衛官たちの姿勢の良さを見るがよい。
我々にとっては当たり前の光景ですが、誰一人として首が動いたり脚を開いたりしてません。



さて、場面変わって、これは「あたご」の防火スーツと装備一式着用デモ。
「むらさめ」では格納庫にこの一式を着ることができるコーナーがあり、
わたしの前で若い女性が、きゃっきゃとこれを身につけて写真を撮っていました。

「今年の年賀状はぜひこの写真で作ってください!」

と隊員さんもノリノリでした。



「あたご」と「ちょうかい」では主砲とシウスの稼働展示がありました。
主砲の横の三人が展示説明係です。
これは「あたご」のMk 45 5インチ砲。



砲塔をこちらに向けたあと、なぜか隊員たちが空の一点を皆で凝視しています。
一般公開のときに「ちはや」「いずも」とドローンが落ちたとかいう話があったので、
とりあえず上空を警戒するようにとお達しがあったのかもしれません。



といっても、砲塔をぐるーっと回し、砲身を上げ下げしただけ。
見ていたみんなが空砲でも撃ってくれるのかと期待していたわけでもないでしょうが、
なんとなく「なーんだ」といったような空気が流れたと思ったのは、気のせいでしょうか。

ところでこの射程は37キロメートルなので、横須賀港から撃ったら、
直線距離で羽田空港に届く感じですかね。凄っ!

 

さあ、ところでこの蓋はなんでしょうか!
(説明を聞いていなかったのでわかりません)



続いてCIWSの展示です。
海上自衛隊が搭載しているのはレイセオン社のファランクスです。

映画「バトルシップ」で、「みょうこう」という設定で実はこの「あたご」が
CGのモデルになっていたのですが、劇中、エイリアンの攻撃に対抗して
まさにこのCIWSが火を噴くというシーンがありましたね。


自衛隊がCIWSを導入するとき、イタリア製のシステムと比較検討されたのですが、
対艦ミサイルを無力化する際の思想として、

「ミサイルの誘導機能を破壊するか、弾頭を直接破壊するか」

という選択肢があり、前者であるファランクスが選ばれたということのようです。

歴史にもしもはありませんが、このときにイタリア製が選ばれていたら、
「バトルシップ」で「みょうこう」がCIWSを撃つシーンはなかったはずです。



「ひゅうが」ではCIWSが海に向かって空砲を撃ち、さらには
「ミサイルくんとCIWSくん」という寸劇までやってくれたものですが、
この3年の間に寸劇の方はともかく、空砲を撃つことも禁止になったのか、
それともCIWSの位置のせい(みんなの頭の上)なのか、こちらも展示といっても
砲塔があっちむいてこっちむいて銃口を上げて下げておしまい。

こちらも「なーんだ」といった雰囲気が漂った気がしました。

「ちょうかい」でも、艦橋ウィングにいるときに実演のお知らせがアナウンスされ、
何人かはそれを見るためにわざわざ下に降りて行きましたが、「あたご」で
実演のなんたるかを見切ったわたしは、毛布を膝にかけて仮眠を取っていました。

人目があったり横になれなかったり乗り物の中だったりする環境では
めったなことでは寝ることのできない無駄に神経質なわたしですが、
さすがに朝5時起きが続いていると、8時間の航海の合間には眠くなります。

訓練展示が終わり、定位置に戻って少し目を閉じたとき、
首相訓辞が始まりました。
とりあえずカメラを動画モードにして音声を録音することにし、
(その間ずっと画面は毛布を映していた)
訓辞の内容を目を閉じたまま一言も聞き逃すまいと耳をすませます。

後日首相訓辞は全文がニュース媒体で公開されていたので、
このとき撮った毛布の画像は全く意味がありませんでしたが、それはともかく、
その内容を、先ほどの野田首相のときのようにまとめてみます。



困難な道を自ら選び自衛隊員となった諸君は、日本の誇りである。

戦後70年間、日本は平和国家としての道を歩んできたが、
それも自衛隊あってこそ実現できたのである。

諸君の先輩たちは心ない多くの批判に晒されてきた。
"自衛隊の存在自体が憲法に違反する"と言ってるやつもいる。
しかし諸君の先輩たちはそんな中でも国を守り続けてきたのである。

相次ぐ自然災害、そこには必ず諸君たちの姿があった。
16年前の8月15日、宮崎県・新田原基地で、F-4に乗り
領空侵犯した国籍不明機を追ってスクランブル発進し、その後殉職した
近者明宏2等空佐と森山将英3等空佐は、
その命を懸けて、自衛隊員としての強い使命感と責任感を私たちに示した。

日本の平和が守られてきたのは、彼らのような自衛官の命を惜しまぬ献身と
日米同盟のおかげである。

"雪中の松柏、いよいよ青々たり"。

雪が降り積もる中でも、青々と葉をつける、凛とした松の木の佇まい。
いかなる困難に直面しても、強い信念をもって立ち向かう人を讃える言葉は
そのまま崇高なる覚悟を持ち、危険を顧みず任務を全うする諸君のことである。

これからも、どんな風雪にもびくともしない松の木のごとく、
いかなる厳しい任務にも耐えてもらいたい。
そして常に、国民のそばにあって、安心と勇気を与える存在であってほしい。

海上自衛隊は間違いなく世界の平和に貢献している。
諸君の派遣活動のおかげで今年海賊による襲撃事案はついにゼロになり、
「いせ」はかつて戦艦「伊勢」が戦った海で災害救助にあたり、
フィリピン国民に心から感謝された。
世界が諸君の力を頼りにし、頼みにしている。

本日の観艦式に外国から来てくれた各国海軍の皆さん、ありがとう。
「ロナルド・レーガン」は東日本大震災のとき、被災地にかけつけてくれた
"トモダチ"であり、今月から横須賀を母港に、再び日本の守りに就いてくれる。
ありがとう、ようこそ日本へ。

日本は積極的平和主義の旗を掲げ進んでいく。
平和は人から与えられるものではなく自らの手で勝ち取るものである。

イギリスの元首相チャーチルは、第二次世界大戦について
"最初は全てが容易であったが、後には事態が一段と困難になり、そして、
この戦争ほど、防止することが容易だった戦争は、かつてなかった"。
といった。

niconico

二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
そのために、私たちは国際情勢の変化に目を凝らし、必要な自衛の措置とは何かを考え抜く。
そして不断に抑止力を高め、不戦の誓いをより確かなものとしていく。

望むと望まざるとに関わらず、脅威は容易に国境を越えてくる。
もはやどの国も一国のみでは対応できない。
そうした時代になっても、国民の命と平和な暮らしは断固として守り抜く。
そのための法的基盤が、先般成立した平和安全法制である。
積極的な平和外交も今後一層強化する所存である。

私たちの子どもたち、そしてそのまた子どもたちへと、戦争のない、
平和な日本を引き渡すため、諸君にはさらなる任務を果たしてもらいたい。
私は諸君とともに、その先頭に立って全力を尽くす覚悟である。 

隊員の諸君。諸君の前には、これからも荒れ狂う海が待ち構えているに違いない。
しかし、諸君の後ろには、常に諸君を信頼し、諸君を頼りにする日本国民がいる。
私と日本国民は、全国25万人の自衛隊と共にある。

その誇りと自信を胸に、それぞれの持ち場において、自衛隊の果たすべき役割を全うしてほしい。





続く。



 

艦長操艦〜平成27年自衛隊観艦式

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訓練展示も終わり、艦橋ウィングで首相訓辞を聞き終わった後、
わたしは操舵室で残りの作業を見学することにしました。

艦橋といえば(笑)当ブログコメント欄のレギュラーコメンテイターである
雷蔵さん(仮名)が、当日のツィッターを貼って送ってくださったのですが、
雷蔵さん(仮名)はずっと艦橋に張り付いて操舵に集中していたそうです。

リアルタイムで海自OBからの叱咤激励が入り、読んでいるだけでハラハラドキドキ。
ご本人に無断で(無断かよ)一部を抜粋させていただきますと、

木更津を出港したあすかがくろべを追い越す。
あすかは先頭艦で、くろべはその列四番艦。

あすかからくろべに発光信号。「お互いに楽しみましょう」

発光信号でそんなメッセージが送られていたのか・・・・・。
というか、雷蔵さん(仮名)発光信号を横にいて読んだんですね。 

観閲付属部隊あすかを先頭に制形完了。
三番艦とねとの間がやや遠い(くろべが遅れている)頑張れ。航海長!

艦橋はピリピリ。

ピリピリしてる様子もわかっちゃいますか・・。 怖いね。

前の船と開いてしまうのはみっともないので、OBアルファから
「赤黒(速度の微調整)は使わないのか」とか、
現役ブラボーから「(とねの呉)入港時に言っておく」とか、外野までイライラ。


遅れるとそうなるんですね。回頭した時の「しらゆき」艦橋もそうなってたのかな。

観閲開始。陣形は整っているので、艦橋も静か。
艦長は相変わらず居眠り。外野からもコメントなく静か。

相変わらず・・・居眠り・・・・だと? 
というか雷蔵さん(仮名)、観閲の時にも全く外見ておられなかった?

観閲終了。反転。とねが早く回り過ぎ、列の内側へ。
こういう時のフォローには気を遣います。艦長もピリピリ。

OBチャーリー「技量が落ちてるね。他の艦も同じようですがイージス艦はよかったと思います」

雷蔵「航海長はバッチリでしたが、もう一人の人が判断が甘く
艦長がピリピリしていました」

OBデルタ「 お客様を乗せていること、膨らみ過ぎたら戻すのに舵がハードになり、
傾斜がきつくなるので早めに回ってしまうのでしょう。
距離が維持できればいいのですが。後続が大変ですね」

雷蔵「(艦長は)ピシャリと入るまではピリピリしていましたが、
入ったら居眠りしていました。自分が当直士官になったようで気が気ではありませんでした」


入るまで艦長は当直士官の後ろに立っていたそうです。

観艦式には誰を乗せているかわからない。
というか、こういう日は客にOBがてんこ盛りだったりするわけで、
だから操艦についてもこーゆーことを言われるかもしれないってこと(笑)
さぞかし変な緊張をする日なんでしょうねー。

で、 観艦式ともなると、こんな人も乗ってます。

東郷元帥曾孫「淡々とカバー、チームワークは完璧」

東郷元帥曾孫氏がこの日「きりしま」に坐乗されたとのことでした。
ずっと艦橋におられたんでしょうかね。
これは東郷元帥の曾孫からお褒めの言葉いただきました!ってことみたいです。

ちなみに雷蔵さんは、この日艦橋に集中し過ぎて、祝砲やIRフレアや爆弾投下などの
訓練展示はもちろん見られず、気が付けば、ブルーの航跡だけが艦橋から広がっていたそうです。


合掌。


さて、わたしはもちろん、このようなコアな観察はできません。
ただそこにいて一般平民の目でそこに起こっていることを眺めるだけ。



艦橋は暖かいので(笑)、後部の腰掛けに荷物を置いて住人と化している人もいましたが、
立ってずっと眺めている中には、雷蔵さんのような、詳しすぎる方も混じっていたはずです。

わたしの3人向こうには、アメリカ人らしい白人のおじさんがいて、
最後まで天井についているバーにつかまったまま、ずっと作業を見ていました。
おそらく日本語での海事用語は全く理解できないはずですが(わたしたちにも時々分からないのに)、
それでも長時間眺めていたところを見ると、おそらく元船乗りでしょう。

まず艦橋にこの日初めてちゃんと入り、モニターの「WELCOME」に和みます。
あとは耳をダンボにして、そこで交わされる言葉をチェック。

「両舷前進ゲンソウ〜」


うっ、いきなり謎の言葉が!
「両舷前進減速」じゃないの?

それとも海軍はなんでも「セサ」(先任参謀)とか「ネザ」(燃料在庫量)
とかちょりざとかとよととか言葉を短く言うという、あれ?
最後の「く」くらい言えよ、と思うんですが、そういうことじゃないのかな。


「マーク減速」「マーク減速」

号令はかならず二回繰り返します。
その間、前方で艦橋に張り付いている航海長が刻々と状況を報告します。

「こんごうまで4600」「了解」「40度」

「70度まで回る」「もどーせー」

「とりかじにあて」

「あて」は「当てよ」という命令形ですよね。
ただの「とりかじ」とはまたちょっと違うみたい。

「70度よーそろ」

でたー!「ヨーソロ」いただきました。

「今変進点で1分の遅れです。黒かけていきます」

「黒10」「黒10」ブーッ!「変速黒10」

でたでた。「黒」が。
先ほど、OBアルファのツィッターに「赤黒は使わないのか」とありましたが、
「黒10」は原速として定められた回転数から10回転だけ増すということ。

1分遅れているから少し回転数上げて追いつきましょうってことですね。
なんで「赤黒」なのかというと、それが海軍時代からそうと決まっているからです。

その間も、あちらこちらから状況を知らせるため入ってくる無線に対応し、
例えばプレジャーボートが進路に近づいてきたことなども確認します。
そして何度となく双眼鏡を目に当ててそれを視認します。



この双眼鏡の当て方というのも人によって微妙に違いました。
ある幹部は目に当てるとき、双眼鏡を持つ人差し指を顔に当てるように持ち、
見ていると、かならず毎回同じ持ち方をしていました。
おそらく自分の一番ぴったりくる構え方というのが決まっていて、
それが個性となっているのに違いありません。

さて、いよいよ「ちょうかい」は入港準備にかかります。

「分かれ。入港準備。右横付け用意」

全艦にアナウンスがかかります。



この窓際の二人は艦橋にいたアナウンス担当で、次々と入ってくる指令、
たとえばラッパ展示などが行われるという参加客に向けたお知らせ、
そして航路で通り過ぎる史跡の説明や、観艦式の歴史や故事はもちろん、
艦内での注意事項に至るまで、事細かに放送を行うのが仕事です。

とくに入港作業は作業員以外は甲板から退避しなくてはいけないので、その旨注意があります。

このとき、どういうわけか雷蔵さんの乗っていた「くろべ」との間に交信がありました。
「くろべ」に対して「06お願いします」と言っていたと思いますが、
「くろべ」は横浜入港のはずなので、 もしかしたら艦隊の列から離れて行ったのでしょうか。

そのうち「領地まで(この字でいいの?)5マイル」という声がかかり、
すぐさまそれが全艦にアナウンスされ、さらに一般客に向けて

「木更津港まであと10kmのところまで帰ってきました」

と丁寧な説明があります。
そこで「黒15」の指示がありましたが、これがホームスピードというやつかな。

ちなみにだいぶ前から、艦橋の前部からは人払がされ、ロープが後ろに貼られて
隊指令の椅子には近づけないようになっていました。
ちなみに、隊指令の椅子は写真撮影用に解放されていましたが、シートのカバーは
黄色ではなく、一般来客用にか、白だったのが印象的でした。

この間も東京マーチスからの無線が何度となく入ってきます。
そのとき、

「ハイ、木更津航路を出た」 

すぐさまこれは全艦アナウンスされたのですが、「航路を出た」、つまり
港に入ったということだと考えればいいのでしょうか。

そして「変進点」に来た瞬間、「とーりかーじ」が入ります。



あと3キロ、というところで前方に見えてきたのが曳船。
朝に支援してもらった「くくる丸」と、「ちくら丸」 というのが待っています。
「あすか」はすでに岸壁に付け、防眩物もちゃんと設置済みです。
もしかしたらもう下艦も始まっているのかもしれません。

そのとき艦橋では「110度よーそろー!」の声が。
さらにそれからしばらくして「赤黒!」ときたのですが、これは「赤でも黒でもない」、
つまり全進プラスマイナスゼロの状態になったということかな。
(想像ばかりですみません)

さて、そして最後の最後に、来ました。

「艦長操艦!」



雷蔵さんのツィッターによると、艦長が後ろで立ち上がってピリピリ、ということがあったそうですが、
艦長ってずっと自ら操艦するわけではなく、こういう最後の最後に、あたかも
すべてのセッティングを弟子が行ったあと、シャッターを切るだけの大物カメラマンのように、
要所をピシッとシメるために出てくる役目なんだなと思いました。

たとえば海峡などの難所でいざというときに操艦を行うのは艦長ですし、
着岸直前の低速のときは風に「持ってかれる」ことなどもあり、難しいので、
これも必ず艦長が操艦を行うのではないかと思われます。

そういえば難所で「つっ掛けて」昇進できなかった艦長がいたという話も聞いたことがあるなあ。


「艦長操艦」

の声がかかった瞬間、わたしはおそらく外から見たら目にお星様が入った状態で
これを逃すまいとあわてて動画をセットしたのですが、まず艦長が交代のときに何を言ったか
(「もらいます」とか?)聞こえなかったのと、この写真(動画キャプチャ)のように、
艦長はしょっちゅう左目をつぶってジャイロを見ているものの、あまりいろいろ言いません。
むしろ周りの人の声が大きいので、せいぜい

「とーりかーじ」「70度」「もどーせ」「キュウテンマルマル知らせ」「ヒトヒトテンマルマル」

みたいな言葉がときどき聞こえてきただけでした。
おまけに、前にしょっちゅう人が立ちふさがっていて、あまり見えなかったの(T_T)




ちなみに「ヒトヒトテンナナマル」のときに見えていた艦橋の窓からの景色。
水中作業員のゴムボートもちゃんと待機しています。

「両舷前進搬送」(この字であってますか?)

「キュウテンゴマル、まもなくキュウテンマルマル」

ということは、速度が落ちていってるってことですね。
このときであとちょうど1キロというところです。

「両舷前進微速」(どう聞いても”びそう”と聞こえる)

「ナナテンマルマル」

 「両舷前進最微速」

「ヨンテンヨンマル」

「両舷前進最微速赤フタジュウ」

最微速からさらに20落とすということですね。

「ヨーソロ78度」

「赤黒なし」・・・・「赤10!」



そのときちょうど曳船が押し始めました。
朝と同じ「きみつ丸」がお仕事しています。


不思議なことに、この辺りになると、すべての指示は航海長が行っており、
艦長はジャイロの前からいなくなっていました。



いつの間に・・・・?



平成27年自衛隊観艦式シリーズ、最終回に続く!
 



 



祝砲と東京湾海堡〜平成27年自衛隊観艦式

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終了後1週間にわたってお届けしてきた自衛隊観艦式参加記、
「ちょうかい」もようやく木更津港に帰ってきました。
全てが終わりただ入港を待つだけの時間というのは、2回の予行のときには気付かない
「祭りの後」の切なさを感じずに入られません。

しかし、その前に、少し時間を巻き戻して、浦賀水道に入る前からもう一度。




ずいぶん巻き戻ってしまいましたが、これは安倍首相が訓辞を終え、
「くらま」から防衛相、財務相とともに飛び立つ前です。
今から着艦して安倍首相らを乗せ、まず「いずも」、その後「ロナルド・レーガン」に
座乗し、戦闘機の座席で写真を撮ったわけですね。

現職首相が米空母に乗艦するのはもちろん初めてのことです。

 

要人を乗せて発艦するヘリを見守るように、海上保安庁の巡視艇が警戒しています。
警備のための海保船は2隻配備されていました。



というわけで、遠くからでもホッとした空気の漂う、首相下艦後の「くらま」。
ずっと「ちょうかい」と並行するように航行しながら横須賀に帰投しました。 

さて、関越を終えた観艦式参加艦艇部隊が三浦半島の観音崎を通過したときです。



艦内アナウンスがあり、祝砲が観音崎で撃たれることが告げられました。
わたしは艦橋の窓から極限まで望遠でズームしてこんな画像を撮りましたが、
周りの人々はあまりにも遠いせいか、あまり気づいていなかった様子。
音も全く聞こえませんから無理はありません。



白い煙がこのように何度となく立ち上ってはたなびく様子が繰り返されましたが、
礼砲は21発撃たれたということでした。
礼砲の数というのはそこにいる「権威者」の位によって変わりますが、
21発というのは最高数で、国旗、元首、皇族に対して行われます。

「くらま」に対して祝砲が撃たれたので、並行して航行している「ちょうかい」からは
真横でそれをみることができたわけですが、果たしてそのとき首相はまだ乗ってたっけ?



ところでどうして観音崎で祝砲が撃たれるかなんですが、この理由はおそらくですが、
旧海軍からの名残ではなかったかと推測されます。

皆さんは「東京湾要塞」という言葉を聞いたことがありますか?



今回の観艦式の航行中にも見ることができる、この遺跡は
日本が海軍を持ってすぐに明治年間から建設が始まり、30年をかけて
大正年間に完成した人工島に築かれた「東京海堡(とうきょうかいほ)」という
要塞のための施設だったものです。

日本を要塞化するにあたり、山県有朋が提唱して東京湾には三つの海堡が建設されました。
これはそのうちの「第二海堡」と呼ばれるもので、1914年に完成しました。
艦隊が浦賀水道に入るとかならず見ることができるこの遺跡は、
浦賀水道と内湾の北側境界に位置していて、建造当初は兵舎や砲台が建設され、
第一、第三海堡、そして自然の島である「猿島」とともに防衛線の一角として運用されていました。



グーグルマップからキャプチャした第二海堡の鳥瞰図。
面積は41,000㎡といいますから、かなり大きなものです。
大正年間に完成したというのにこの完璧なフォルム、今更日本の土木技術力が
当時世界レベルであったことが窺えます。

第二海堡は1923年の関東大震災で壊れたため除籍されてそのままでしたが、
海軍が大戦中には砲台を建設し、潜水艦の防潜網が張られていたそうです。

しかし、敗戦後、米軍は日本軍の軍事力を無力化するために、
第一海堡、第二海堡ともに爆破処理してしまいました。



現在の様子を見る限り、灯台はもちろん、工事用の車両らしき姿も見えます。
これは護岸の整備工事だそうで、地震などによって海底に土砂が流れ出した場合、
ただでさえ8〜12mの水深しかないこの海域が、さらに浅くなってしまうからです。

つまりこの三つの海堡と、東京湾を望む高台に設えられた砲台は、
「敵が首都に攻めてくるときには海からやってくる」という思想の元に
計画設計された「東京要塞」だったわけですが、大戦末期には敵の攻撃は
その全てが硫黄島やグアム・サイパンを基地とする航空機となったわけですから、
事実上これらの要塞は、帝都防衛の任を負うにも、全く無力だったということになります。


ところで皆さん、思いませんか?
浦賀水道というのは「海の銀座のようなもの」と艦内の観光案内アナウンスでも
そう言っていたくらい、輻輳の甚だしい「海の難所」です。
そんなところに、なぜ未だに遺跡とはいえ二つの海堡がまだ残されているのか。

第三海堡というのはかつて観音崎沖にありました。
観音崎はこの写真を見ていただいてもわかるように、結構な高度のある崖で、
当然観音崎沖というのは水深も深く、約39mだそうです。

そこに海堡を造ったのですから、工事は難航し、完成まで30年を要しました。

しかも、完成直後、関東大震災に見舞われ、4.8mも沈下してしまったため、
以降は大東亜戦争中も全く使われていないままでした。

この名残が浦賀銀座の輻輳部分にあれば、当然ながら海難事故の原因になるとして、
船舶関係者となぜか石原慎太郎が撤去を強く要請していたのですが、
第3海堡にに関しては、2000年から7年がかりの工事で撤去が完了しました。

引き揚げられた構造物は、漁礁として海に投機されたり、遺跡として
公園に移送されたり(うみかぜ公園にある旧第三海堡兵舎)したそうです。


第一、第二海堡についても、船舶関係者となぜか石原慎太郎は撤去を主張しているそうですが、
この部分の海深が浅すぎて、たとえ撤去しても大型船通行のためにはさらなる浚渫が必要ですし、
そもそも海堡そのものがあまりにも堅牢に建設されていて、
撤去するのは無理かもしれないということで、未だにそのままになっているのです。


この時代、このような人工島と堅牢な海堡を作る技術とはどのようなものであったのか、
現在も第三海堡の遺跡を引き揚げて研究が行われているそうで・・・・


なんかすごい話ですね。



第二海保の護岸工事の様子がよく分かるショット。
現在、ここは灯台と、消防庁の演習場となっており、今後も存続される予定です。


で、話を戻しますが、観音崎、ここにはかつての砲台跡が残されています。

観音崎砲台跡

東京湾要塞というのは、そもそも清国の北洋艦隊から帝都を守るため考案されました。
北洋艦隊ったら、「まだ沈まずや定遠は」の定遠とか、「鎮遠」なんて戦艦のあれですよ。

日清戦争が終わり、すぐに対象はロシア太平洋艦隊になるわけですが、このころの戦というのは
我が方の「旅順港閉塞作戦」がロシア陸軍の旅順砲台の前に失敗に終わったことを見るまでもなく、
砲台というのが要地防御にとって大きな戦力となっていたのです。

というわけで、日本政府は浦賀水道を通ってくる(しかない)敵を想定して、
それはそれはたくさんの砲台を建設しています。


横須賀軍港周辺には

夏島、笹山、箱崎、波島、米ヶ浜、猿島。

に、いずれも砲台が造られていました。
このうち猿島砲台は周囲わずか1.6kmの自然島にあった要塞で、
近年この島に国が「猿島公園」として海水浴場などを作り、
要塞跡は国の史跡として指定されています。

仮面ライダーシリーズではショッカーの基地になっていたそうです。
うーん、ショッカーの野望って、世界征服だったという記憶があるのですが、
こんなところに要塞を持っても、せいぜい日本を侵略するのが精一杯だと思う。

しかし、ここ、一度行ってみたいわねえ・・・と思ったら
こんなのがあったぞ。

すかたび 秋の猿島ツァー

おおお!これ、当ブログ的には一度取材するべき?
 それはともかく、 東京要塞で砲台が作られたのは横須賀だけはありません。

房総半島には第一、第二海堡以外にも

富津元洲堡塁砲台 金谷砲台 大房岬砲台 洲崎第一砲台 洲崎第二砲台


館山海軍航空隊も、房総半島の「東京要塞」の一環として作られました。

また三浦半島には、
 

城ヶ島砲台 千駄崎砲台 千代ヶ崎砲台 - 国の史跡 観音崎砲台 三崎砲台 剱崎砲台

その他弾薬庫などがあったそうです。


それではこの日、祝砲は観音崎のどこから発砲されたのでしょうか。



それらしいところをグーグルマップで探してみると、ありました。
海上自衛隊観音崎警備所が。

望遠レンズで捉えた写真に見える観音崎の灯台はこの写真の上側にあります。
これこそが「東京湾交通センター」通称「東京マーチス」なんだって知ってました?

それを考えると、祝砲は、 明らかにこの警備所より山頂に近いところで上げられているような。



この山麓の真ん中辺になんか広場みたいなのがあるぞ。



ここじゃないのかな、と思ったけど、どうやらここは公園の一部みたい。
まさかいくら人がいないといっても公園では祝砲撃たないですよね。


もう一度確認してみると、マーチスの建物と灯台の位置から見て、





ここではないかと思います。
といっても誰にも正解はわからないかもしれません(笑)


未だに観艦式の時にここで祝砲が撃たれるのは、日本で祝砲の撃てるのが
ここだけだから、という説がありました。

かつてこの近海で行われた何度かの帝国海軍の観艦式において、
東京湾周囲にある数ある砲台の中、ここで祝砲が発射されていたから、
とわたしは想像したのですが、もしこのことをご存知の関係者の方がおられたら、
ぜひこの二点についてご教示いただけると幸いです。



というわけで思わぬ寄り道をしてしまいましたが、次回、平成27年自衛隊観艦式シリーズ、
本当に本当の最終回。


夕映えの帰還〜平成27年自衛隊観艦式

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帰投途中に見かけ、艦内アナウンスでも説明のあった「海堡」と
祝砲の撃たれた観音崎砲台との関係に気づいてしまい、軽いエピソードで入れるつもりが
まるまる1項を割いてお話しすることになってしまい、最終回が一つ遅れてしまいました。

しかし、帝都地下の要人用秘密通路や地下要塞のように、
我々のあずかり知らぬ世界がかつてこんなところにあったということを知り、
つい興味を惹かれて皆さんにも聞いていただきたかったのです



というわけで、「ちょうかい」が木更津港に入港しようとしているところから続きです。

「両舷前進最微速」

「80度よーそろ」

「赤黒なし横つけて」

先に停泊している「あすか」の艦橋デッキに鈴なりになっている人々が
はっきりと見分けられるようになった頃、艦橋ではこんな掛け声がかかりました。

艦橋α「曳船これ使ってます?」

艦橋β「使って・・・・ます」

曳船が押しているかどうか艦橋からではわからないものなのですね。
そしてついに、

「両舷停止」

そのあとも左にふれたり、前進最微速をとったりして行き脚で調整し、
お任せすべきは曳船にお任せして、ピタリと位置を決めます。
「あすか」「ちょうかい」「こんごう」と岸壁に並んだ三隻が
見事に艦首を揃えて停泊しているのも、なんでもない景色に見えますが、
操舵と曳船の共同作業の賜物だとわかります。

「前進ヌキアシ」

「抜き脚」とは・・・・多分「行き脚」の反対だと思う。
このあとも「両舷停止」と「内角何度」「左後進最微速」が何度となく繰り返され、
「内角1度」から、

「ただいま岸壁と並行」

「行き脚止まった行き脚なし」

「わずかに後進抜足」

「両舷軸ブレーキ完」

「両舷軸を止める」

「両舷軸回転下降」

「両舷軸ブレーキ脱」

そして艦橋後ろで(わたしの横ですが)操舵していた1等海曹が帽子を外しました。

このときはまだ操舵中ですが、向こう側にいるこの道何十年!みたいな風格の海曹です。
正帽の下はベテランらしく髪は半分白髪でした。


このときわたしはふと艦橋にかかっている時計を見ました。
示されていた時間は4時39分45秒。

木更津に向かう航路航行中、たしかアナウンスで、
木更津入港は4時40分になると言っていたような気が・・・。


お、恐るべし。自衛隊のミリミリ(使い方ヘン?)恐るべし〜!



入港作業はこれで終了、と判断し、わたしは艦橋からウィングに出てきました。
今日1日ここにいてすっかりおなじみになった光景ですが、さっきまでとは違い、
向こうに「あすか」のマストが見えています。 



訓練展示中は人多すぎで近づくことのできなかった艦橋デッキの端も、
もはやそこから外を見ようとする人など一人もいません。
艦首部分を眺めると、そこには一団の曹士が固まって立っていました。

赤い腕章のインカム付きは通信係として、残りの人たちは、これから入
「ちょうかい」の左舷に曳船が防眩物を運んでくるのを待ってそれを取り付け、
また「こんごう」が入港してきた時にもやいを掛けるために待機しているに違いありません。

艦首旗は入港と同時に揚げられたばかり。 
日没までの停泊時というのが艦首旗の掲揚に決められているので、
もうすぐ降ろされることになるのですが、その辺は疎かにすることなどあり得ません。



甲板にいた人々は今頃ラッタルに向かって移動し始めている頃かもしれません。
しかし、艦橋にいる人々はここから先が長いことを知っているので、
下艦はかなり先のことと心得、のんびりと最後のひと時を楽しんでいます。

わたしの近くにいた男女がこんな会話をしていました。

「ああ、終わりましたねえ」

「次は3年後・・・・・ってことで」

「3年後か・・・その時生きてるかどうかもわかんないのに」

「そんな・・・縁起でもない」

女性は笑っていましたが、わたしはそれを聞いてはっとしました。

前回観艦式で、それまで観艦式どころか自衛隊の行事にどうやったら参加できるのか、
全く門外漢でそれすら知らなかったわたしが、なぜ「ひゅうが」に乗れたかというと、
ある防衛団体の会合で知り合った、防衛大学校卒の会社経営者のおかげでした。

わたしが自衛隊に興味があるということで、その方が防大の「コレス」にあたる
元自衛官に頼んでくださって、「ひゅうが」乗艦が実現したのです。

しかし、陸自、空自と順番が巡って、海自の観閲式の順番が巡ってきたそれから3年後、
すでにその方は、夫人共々この世の人物ではなくなっていました。

去年の暮れに、まだ若々しくお元気そうだった夫人が癌のため急逝し、
周囲の衝撃の覚めやらぬまま半年経った今年の初夏に、その方はまるで
夫人の後を追いかけていくかのように、病気で逝かれたのです。

そのことをわれわれに知らせてくださったのは、3年前、その方を通じて
前回の観艦式のチケットを手配してくださった、元自衛官でした。


今回わたしは、観艦式に参加しながらも、まるで青々(せいせい)とした空の一隅に
ポツンと小さい黒い雲が浮かんでいるような思いがどうにも拭えなかったのですが、
この男性の一言によって、それが、この夫妻のことであったと思い当たりました。

3年前の観艦式の一日、わたしはそのご夫妻を中心としたメンバーと共に、
今日と同じように護衛艦に乗り、訓練展示に目を見張り、艦内ツァーをご一緒し、
横浜の大桟橋に「ひゅうが」が着いた後は、皆で中華街に繰り出して
そこで美味しい中華料理を夕食にいただいて帰ったものでした。

社交辞令としての会話ではありましたが、別れるときには

「また3年後もご一緒できるといいですね」

と言い合ったことを思い出します。 

わたしたちは勿論、この夫婦が、次の観艦式の時には自分たちはこの世にいないなどと、
そのときほんの少しでも予感することは果たしてあったでしょうか。




祭りの後。

そんな切なさを感じずにはいられない、華やかだった観艦式の終わる瞬間、
わたしがこの男女の会話から、人の命の儚さと運命について、
誰もが例外なくそれを従容として受け入れるものであるという摂理を思い起こし、
改めてやるせなさと共にそれを噛み締めていると、夕映えの木更津港を、
帰投してきた「こんごう」が、曳船を従えてこちらに向かってくるのが見えました。

「ちょうかい」の艦橋からはそれは全くの逆光となり、
この写真で見るより、はるかに艦影はそのままシルエットのようでした。



二隻の曳船は、見ていると寄り添うように「こんごう」に近づき、
その艦体を押し始めました。
「こんごう」の艦橋では今、先ほどまで「ちょうかい」で行われていたように、
息もつかぬ操舵の専門用語が同じように繰り返されているのでしょう。



そのとき、わたしはデッキ前方に「ちょうかい」艦長中村1佐の姿を認めました。
先ほどまで艦橋を満たしていた整然と秩序ある喧騒の空気も嘘のように去り、
艦が完全に停泊した今、何かを確認するためかデッキに出てこられたのです。

コメント欄でも今回艦長の任務とは何かをずいぶん教えていただいたのですが、
操艦が巧いかどうかということは艦長にとってごく当たり前の能力であって、
艦長は船の機能すべてを把握し、その機能を指揮する文字通りの「指揮官」なのです。


ところでいきなり余談です。
かつて、野党民主党の某議員が政府与党に対して憲法クイズをしたり、
貴重な国会の場で漢字の読み方テストをして、それに答えられないと
鬼の首を取ったように為政者の資格なしと言い募るということがございました。
これなど、艦長にもやい結びの速度を海曹と競わせて、負けたから艦長の資格なし、
と言っているようなもんなんですね。

野党なら政策で論議し、代案を出して大いに論戦していただきたい。
それが国民の期待するあなたたちの役目でしょ?

最近、政権与党の品格や教養を一言で断罪しつつ故に与党の資格なし、みたいな
ご意見をコメント欄に頂戴しましたが、

教養品格に優れた政治家必ずしも善政を敷くに能わず、
況や鳩山由紀夫においてをや

とでも言わせていただきましょうか(笑)
まあ、政治家ならずとも教養品格に溢れているに越したことはないんですけどね。


話が大いに脱線しましたが、この艦長という職は全体の長であり、
絶対的権限を持たされている護衛艦の権威者です。
なかでもイージス艦のような巨大戦闘艦の艦長というのは、この観艦式の行われる前のような、
非常時における参入を考えただけでも、大変な重責であり、それだけに
判断力と統率力も、人並み以上に優れた自衛官が任されるに違いありません。


というようなことをなまじ思い込んでいると、実物がそばに来ただけで、

イージス艦の艦長、キタワァ━.+:。(n'∀')η゚.+:。━ッ!! 

というモードになってしまったとしても、これは誰に責められましょうか。
日頃はあまりこういうことを良しとしないわたしが、

「艦長、一枚写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか」

そのように言葉をかけ、夕日に赤く染まる中村艦長をカメラに収めると、
それがまるで皮切りのように、周りの人たちが次々と艦長と写真を撮りだしました。



さて、そこから下艦までがまた長かった(涙)
艦橋への階段というのは一方通行になっているのですが、艦橋にいた集団を下ろすため
どちらも下降用にしても、狭い階段の踊り場に溜まった人は一向に減りゃしねえ。

そんなことをしているうちに「こんごう」が停止して舫かけが始まると、
人々はその間一斉に足止めされてしまいました。

やっとのことで甲板レベルまで降り、最後まで丁寧で全く疲れを見せぬ様子の
自衛官たちの敬礼と挨拶に送られ、埠頭を踏んだのは、乗船してから10時間後。
午後5時半ごろのことでした。

ともあれ、木更津港は岸壁がそのまま駐車場なのでここまで帰って来ればあとは楽勝、
と思いつつ車に乗り込んだのですが、とんでもなかったのです。

全てが観艦式の車でもなかったでしょうが、一斉に大量の車が集中したため、
アクアラインの入り口は、大渋滞となり、自宅に着いたら午後8時半。
車から降りる頃には、眠さと疲れで疲労困憊しておりました。




埠頭に降り立ち、車に向かう時に気づいた遥か向こうの富士山のシルエット。
ちなみに、2015年10月18日の日の入り時刻は、国立天文台のHPによると1703です。


かくして平成27年自衛隊観艦式も終了しました。
操艦、訓練と、接遇などを通して今の自衛隊の力とその実態を目の当たりにし、
ここでそのご報告ができたことを、幸せに思います。

この場をお借りして、今回の観艦式参加にあたってご配慮いただいた方々、
コメント欄で応援、ご教示をいただいた方々に心から御礼を申し上げる次第です。


ありがとうございました。

 

 

P-3C体験搭乗〜自衛官の父

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航空教育隊基地でP-3Cの体験搭乗をしたときのことをお話ししします。

後から招待してくださった方に聞いたところ、やはり体験搭乗のための飛行では
高度をせいぜい1500フィート(457m)しか取っていなかったそうです。
スカイツリーの高さは635mということなので、この高さでは
あまり東京に近づかない当日の短縮コースは妥当だったと言えます。

しかし、なぜ曇っているとコースが短くなるのかについてはよくわかりません。
視界が悪くなるというほど暗いわけでもないし、むしろ逆光とかもなく、
コンディションは決して悪いとも思えなかったのですが・・。



さて、しばらくコクピットからの飛行を見学していると、クルーがやってきて
後ろにいた人と場所を交代するようにといわれ、移動しました。

ハッチから入って右側にはクルーが食事もできる4人掛けのテーブルがあり、
その窓際に座ると、最初からそこにいたらしい初老の男性が正面に、
前から移動してきた一人がその横に、先ほど名刺交換した方が横に座ることになりました。

そこに座ると窓際とは言っても小さな丸窓からかろうじて外が見えるだけなので、
4人はなんとなく雑談を始めました。
お一人はご子息が海自隊員で、「あ」のつく護衛艦に乗組になったばかりだそうです。

「観艦式には来られないんですか」

「息子の船は来ないんですよ」

今年の観艦式はとにかくいつもと違ってチケットが全く(その時点では)出ない、
一般公開の人数も抑えられているし、いつもなら自衛官が配ることのできる
チケットも、まだ(その時点では)全く手元に来ていない状態らしい、
とその方に内部事情?を教えていただいたりしていました。

わたしもその後、イージス艦は日本海に展開するかもしれないので、
基本的に一般搭乗(応募による)は乗せず、招待客にも

「なんかあったらそのときはすみません」

という全く嬉しくない予告とともに招待券が配られている、という話を聞いたのですが、
結局無事に観艦式も行われることになり、杞憂で済んだのは幸いです。




ところでいきなり余談ですが、舞鶴で東郷邸を案内くださった海将補とお話ししたときのことです。

海将補ご自身が潜水艦出身であるということから、呉地方総監部訪問でお会いした、
潜水艦出身の海将(当時)の話題になりました。

その後この海将は退官なさっているのですが、先日、安保法案の公聴会が横浜で行われた時、
自衛隊の立場から出席して賛成意見を発言したらしいということをこの時伺いました。

横浜の公聴会というと、バカ左翼どもが道端に寝そべって通行妨害したあのときですね。
物理的にそれを阻止すれば廃案になると思うあたりが、とても日本人離れした思考だなあ、
とわたしなどつい思ってしまったものですが、それはさておき、あのときマスコミは、
とくにニュースショー系の番組は、公聴会には反対意見ばかりが出されたような報道をしてませんでした?

憲法学者の相変わらずの違憲見解だけを大きく取り上げこそすれ、このとき
自衛隊の立場からの賛成違憲がいかなるものであったのか、そもそも、
元自衛隊員が公聴会の壇上に立ったということすら、わたしたちはほとんど
知らされることはなかったという記憶があります。

これもマスコミの報じない自由の行使ってやつですか。

「それでもとにかく一歩進みましたね」

わたしがこのようにいうと、海将は、はっきりとはないにせよ、
自衛隊の中にも色々と考えがあって、というようなことをおっしゃいました。

ふーむ、なるほど・・・・。

しかし、わたしがもっとも注目した海将補の発言は、少し前にも書きましたが
このようなものです。

「自衛隊が実際にどのような活動をし、どんな現場に当たっているかを
もし克明に知ることがあれば、おそらく誰もそれ以上反対できなくなると思います」

 それ以上反対できなくなる

 それ以上反対できなくなる 

 それ以上反対できなくなる

 ・・・・ 


これは先ほどの「自衛隊の中にも色々いて」という発言とある意味矛盾するわけですが、
こちらについては、自衛隊も人間の集団ですから、
自衛隊の公式見解と違う意見を持つ人が一定数いても、仕方のないことなのかもしれません。

前海将は公聴会の場で、おそらく自衛官が現場から見た防衛の最前線について、
法案必要の立場から現状を述べられたのではなかったでしょうか。

先日はアメリカが中国を牽制するために南シナ海にイージス艦を航行させました。
中国はこれに激怒し、「あらゆる措置を取る」と言明したそうです。

この記事を送ってきてくれた方は、

「 冷戦期間中、海上自衛隊は宗谷、津軽、対馬三海峡に常時、船を張り付けて来ました。
中国と長い我慢比べの始まりです。
あたごは出さない方がいいかもしれません。

重巡愛宕 捷一号(レイテ)作戦中、1944年10月23日パラワン島沖で戦没」


と書いてこられました(笑・・・・って笑ってる場合じゃありませんが) 

 




さて、P-3Cの機内での話に戻ります。
わたしたちが時折小さな丸窓から外を確認しながら話をしていたところ、
わたしの正面に座っていた男性が、

「息子は海自の航空学生をしておりました」

とさりげない調子で話し出しました。
それと同時にわたしは、男性が膝に置いていた額のようなものに気づきました。
その視線に合わせるように、男性はゆっくりと、こちらに向けてそれを置きました。
ブルーの背景に、海上自衛隊の制服を着た若々しい自衛官の写真です。

「墜落事故で殉職しまして」

わたしとそこにいたもう一人の男性は、その方の言葉に息を飲みました。
当ブログでも直後にお話ししたあの航空事故で、ご子息を失った父上が、
この基地開設記念式典に招待され、遺影を抱いて乗っておられたのです。


驚きですぐには声も出ないわたしと男性に向かって、
父上は静かな様子で遺影を差し出しました。
隣に座っていた80歳くらいの男性がまず遺影に向かって手を合わせ、
わたしもまた、しばし黙祷させていただきました。

そして、お会いしたことはないけれど、せめてその面影を胸に刻もうと眺めるうち、
海曹の制服をまとい、白い正帽を被った凛々しい青年の顔がたちまちぼやけました。
向かいの男性もティッシュを何枚も出して目元を拭っています。


父上の話によると、青年は普通大学に入学し、その後どうしても飛行機に乗りたい、
パイロットになりたいという夢を叶えるために、自衛隊に入隊したそうです。
そして、航空学生として訓練中、2名の教官とともに事故に遭い帰らぬ人となりました。


後日、海将に体験搭乗のお礼と感想を申し上げた際知ったのですが、
ご両親を招待したのは他ならぬ海将であったそうで、つまりあのP-3Cには
わたしを含め、海将の招待客ばかりが集まって乗っていたようでした。

そのときに聞いたところによると、この事故については、計器を使わない
有視界飛行の訓練中、折しも天候が崩れ、霧の山中を飛ぶうち山麓に接触したらしい、
と、夏に事故調査委員会の報告書が上がってきたばかりなのだそうです。

「らしい」というのは、事故機となった練習用ヘリコプターOH-6EDに
フライトレコーダーはなく、通信が途絶えてからの状況は全て調査による推測だからです。

素人考えで、計器飛行のできない機体で有視界飛行の訓練をするのは危険ではないのか、
と質問してみると、昔「いせ」の出港準備を見学したときに書いたように、
マニュアルだけで最低限の操作をする基本的な訓練を疎かにしていると、
やはりいざという時のためにならないという考え方が現場にはあり、そのためあえて
旧式機も使い続けていたという答えが返ってきました。

ちなみに、この墜落で現行のOH-6EDが1機になってしまったので、
自動的にこれも退役になったということです。

教育航空集団54年の歴史において、初めて死者を出した今回の事故は、
計器飛行のできない旧型機、天候の急変、訓練飛行と、あってはならない偶然が
不幸にも何重にも重なったための結果だったのです。

「運命だったんですね」

わたしの右側に座っていた男性がこう言いました。
それに対して父親は、ただ

「運命です」

と繰り返しました。
そうでも思わないと、この偶然が自分の息子にもたらした不条理な死を
到底受け入れることができなかったのかもしれません。 

 

学生だった2曹の実家は、この基地の比較的近隣であったため、
事故現場へは基地から鹿屋に家族を運びました。
Wikipediaによると、最後の通信が途絶えてから機体が発見されたのはほぼ1日後。
ご両親がどんな思いでこの基地を飛び立ったのか、その心痛は察するに余りあります。

「最近やっと落ち着いてきたところです」

そうおっしゃる父親の様子はむしろ淡々として、その様子は
身を削るような慟哭の日々を乗り越えてようやく到達した、
あまりにも悲しい諦めの境地をかえって彷彿とさせ、胸が痛みました。
しかも、

「すみません。こんなときにこんな話をして」

楽しい体験搭乗に水をさしてしまった、とおっしゃりたかったのか、
しきりにこういって謝るのです。
わたしも、二人の男性も、とんでもない、と首を横に振りました。
そのときクルーが前からやってきて、正面に座っていた方は、

「この方、事故で息子さんを亡くされたんですよ」

と感極まったように告げました。
クルーはそのことを前もって承知していたようで、ただハイと頷きました。
特に感情を込めない淡々とした様子でしたが、

「まだコクピットを見ていない方がおられましたらどうぞ」

と男性に前に行くことを促すために来たようでした。
遺影を両手で抱くように持った男性は、わたしたちに一礼してコクピットに向かいました。

コクピットからの景色を、搭乗員を夢見ていた息子の遺影に見せてやりたい、
という一心で、おそらく息子を亡くした親にとっては、
何よりも辛い気持ちを呼び起こすであろう航空基地にわざわざやってきたはずなのに、
最後まで皆に先を譲っていた姿に、高潔な人格が表れているような気がしました。


しばらくしてテーブル席が一つ空いたまま機体は最終着陸態勢に入り、
隊員が安全ベルトを締めるようにと言いに来ました。
P-3Cの安全ベルトは旅客機のそれとは違い、少々複雑な形状をしているため、
わたしはいつまでたってもうまくはめることができず、手伝ってもらいました。

着陸の衝撃は旅客機よりも軽く、Gもそんなに感じないまま、タキシングに入り、
前にいた男性など、

「あれ?いつの間に着陸したの?全然気がつかなかった」

と言ったくらいです。
まあ、気づかなかったのはずっと話をしていたせいもあると思いますが。

乗ったときの逆で、タラップを降りると一列になってまたマイクロバスに乗り込み、
格納庫前のエプロンまでそれで移動しました。
バスから降りて戻るとき、わたしはもう一度、後ろを歩いている男性に挨拶しました。
そこでもまた、

「あんなことをしゃべってしまって申し訳ありません」

と謝る男性に、わたしは心からのお悔やみと共に、ご一緒できて光栄だったと告げ、
息子さんのことは決して忘れません、と付け加えました。



偶然この事故について当ブログで取り上げたときにも書いたことですが、
今回もマスコミは「自衛隊の不祥事」、「近隣の不安」といった視点に立ち、
自衛隊の事故であるがゆえに、どんな人間が関わり、どんな未来が失われたか、
さらには、隊員の遺族がどう思うかなど一切斟酌しない調子でこれを報じました。

だから、というわけではありませんが、縁あってお話しさせていただいた
父親と、その息子であった若い自衛官のことを、せめて少しでも多くの方に
知っていただくのも、またわたしに与えられた使命であろうと考え、
追悼の意を込めて、このことをこのブログでお話しすることにしたのです。



見ず知らずの同乗者に写真を見せ、辛いお気持ちを語ってくれたことは、
たった23歳で夢半ばのままこの世を去った息子のことを、誰かに覚えていてほしい、
知ってほしいという父親の願いの表れであったと信じるがゆえに。






平成27年度入間基地航空祭(予告編)

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観艦式の余韻さめやらぬうちに、11月3日が来てしまいました。
前日激しい雨が降り、どうなることかと危ぶまれた天気も
さすが統計上もっとも晴れの多いと言われる日だけあって、
嘘のような日本晴れの航空祭日和となりました。 

朝5時半に起きて車で行き帰り合計4時間運転して帰ってきたため、
相変わらず疲労困憊した状態ですが、とりあえず写真だけを
予告編としてアップして時間を稼ぎたいと思います。



まず最初のプログラムはYS-11FCとU-125のフライトから。



空自迷彩のCH-47Jがタキシング中。



UH-60Jは「50周年記念」のペイントをしています。
入間基地は今年で開設50周年になります。



ヘリコプターの救難デモも行われました。
ホバリング中のヘリがおろしているのはストレッチャーです。



CH-47Jは荷物の吊り下げを行いました。



いつ見てもスマートなシェイプ、U-4。



とは対照的なC-1。
ずんぐりしたC-1がこの日は思わぬ駆動性能を発揮してくれます。



空挺団のパラシュート降下も行われました。

そして皆が待ち望んでいた、ブルーインパルスの演技。
この日は風が強く、スモークが早く消えてしまうということ以外は
ほぼパーフェクトなコンディションですべての演技が行われました。

アクシデントもミスもなく、観客にとっては大変満足度の高い演技でした。 



わたしは航空祭に初めて望遠レンズを投入して、使い初めです。
慣れていないわりにはそこそこ満足のいく撮影ができたのもレンズの性能のおかげです。



空の青さが昨日の雨のせいで深く、まったく画像を処理せずともスモークがくっきり。



NIKON1を持っている人に付け焼き刃で航空写真の撮り方のコツを聞いたのですが、

「プログラム(おまかせ撮影)で撮ればいいです」

「節子それコツとちゃう、手抜きや」という返事でした。
そこで素直に従わずにマニュアル撮影してしまう天邪鬼なわたし(笑)



こういうのも毎回シャッタースピードを変えつつ頑張ってみました。



最初に入間航空祭に来た時のことを考えると、カメラと航空祭そのものの経験値が上がり、
写真も失敗がほとんどなくなりました。



サブにソニーのコンデジを首から吊っておき、
全体の動きが大きくなったり、スモークを使うものになるとカメラを変えて
シャッタースピード高めにして撮るという方法をやってみました。



今年はコークスクリューも綺麗に決めてくれました。



そして、キューピッドは・・・?



今年の入間、わたしは幸運にも招待席で見せていただきました。
祝賀会にも参加して、初めて「空自のカレー」などもいただいてきたのですが、
次回、そんなこともお話ししていくつもりです。

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そして、この丸々したC-1の正体とは・・・?!


続く。(あー眠かった)



 

開場~平成27年度入間航空祭

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観艦式シリーズが終わって1日下総基地のレポートを挟み、
入間航空祭の参加報告に突入することになりました。

観艦式シリーズの終了にあたっては皆様方の暖かい労いの言葉、
感想などをいただき、歓喜に咽びつつ達成感のようなものを噛み締めたのですが、
なかでもとみーさんの

「お疲れのようですので、休まれてから続きをお願いいたします。まずはお休みくださいね!」

というコメントには歓喜のみならず涙に咽ばんばかりのありがたさを感じた次第です。
・・やっぱりお疲れの様子、わかっちゃいますかね?

今日は本当にしばらくぶりに行きつけのクリニックで温熱療法を受け、体を温めたのですが、
なかなか体が温かくならない、これはかなり冷えがたまっている、と言われ、
自分で思っていた以上に、体は疲れを溜め込んでいたらしいことが判明しました。

用事の合間を縫ってPCに向かってエントリ作成作業をするというのも
全く体を休めることにならないので、悪循環なんですねー。


しかし、いみじくも婆娑羅大将が「ネタ人生」と看破したごとく、
この行動力の源はこのブログにあり、もしこのブログがなければ
朝4時に起きて往復4時間車を運転したり、地方のビジネスホテルに一人で泊まったり、
土砂降りの中地べたに座り込んで半日過ごすことなど、生涯経験せずに終わったでしょう。

ここで知り合った顔も知らぬ(極少数は見破られたりして知ってますが)人々との
交流や、その人々に触発されて本を読んだりいろんな場所に足を運ぶことすべて、
わたしが得た貴重な一つの世界であり、これがわたしの人生そのものでもあります。

それを大事にしていきたい気持ちがあればこそ、わたしはたとえどんなに体が冷えても、
朝起きるのが辛くても、NIKON1とソニーのコンデジを携えて、どこにでも行くでしょう。

そこにお伝えしたいイベントがある限り(笑)

 

さて、4時に起き、5時には家を出て約1時間半で現地近くに
車を停め、そこから電車で会場まで行くことにしたのですが、
よく考えたら今日は全く早起きする意味はまったくないことが判明しました。

予告編でもお伝えしたように、わたしは今回招待者として参加したのですから、
早く行って前列の席を取ったりする必要はなかったのです。

海自と陸自にはそれなりに知り合いがいるわたしも、未だに空自には
まったくご縁がなく、こんなことになるとはまったく予想外だったのですが、
自衛隊関連会社関係者が「行きませんか」と招待券をそのまま送ってくれて、
わたしは「会社経営者代理」という立場で参加と相成りました。

しかし、自衛隊イベントの日は暗いうちに家を出るのが習い性となっていたのと、
空自のご招待というのがどんなものか全く想像もしていなかったため、
とりあえずいつも通り行動したというのが実際です。

入間基地に行くには「稲荷山公園」という駅で降りるのですが、この駅を降り、
人の流れが前後に真っ二つに分かれているのでためらいました。
招待者というのは一体どこから入っていったらいいものか・・・。

とりあえず招待券に書かれている電話番号に電話してみました。

「駅を降りて左に出られたのでしたら、門を入っていただきましたら
もう一度踏切を渡る形になりますので、そのあと構内に入っていただいたら
右手の方に受付のテントがございます」

大変わかりやすい説明であったのですが、彼は肝心なことを言ってくれなかったのです。

招待者は特別入り口があるため、列に並ばなくてもよいということを。




とりあえずみんなが行く方向に進むと、勢い列に並ぶ形になります。
8じの開門までこういう、かつては柵なんかなかったんだろうなー、と思わせる
桜並木の名残のようなところをみながらしばらくそこで待ちました。

入間基地がかつて「修武台」の名を天皇陛下から賜り、ここが
「豊岡陸軍飛行場」であったころの名残であると思われます。


8時に開門して、列が動き出しましたが、身体検査も行われているため
歩みは大変遅いものです。

そのうち、じわじわと団体ごと進みながらふとわたしは気づきました。
ときおり、並んでいる皆の横をすり抜けて門の脇の小さなドアから
どんどんと中に入っていく人が、例外なく
どこかで見たような封筒を手にしていることに。

どこかで見た・・・・って、あれ、今わたしがカバンの中に持っている、
会社経営者からいただいた招待状と同じものなんじゃ・・・。



わたしがそれまで並んでいた列を抜けて、招待者専用の
特別ゲートに向かった時、わたしのいたところは正門まであと30mでした(T_T)

そこから先は西武線の踏切を横切るために、すべての人がまた並ぶことになり、
わたしはせっかくの招待状の恩恵に預かりそこなったのでした。



入間の航空祭が行われるようになったのがいつからかは知りませんが、
少なくとも最近のように大勢の人がここに集結するようになったのは
ここせいぜい10年くらいのことではないかと思われます。

しかしさすがは自衛隊、航空祭の時の誘導にもちゃんとマニュアルができていて、
たとえばこの踏み切りでは何人かの隊員が遮断機の手前で
ロープを持って待機しており、踏み切りが鳴りだすより早く、それで人を堰き止めます。

踏み切りが開くと隊員たちはロープに付けた長い棒を捧げ持つようにして、
人々の頭上にロープを持ち上げ、その下を通過させていくというわけ。


この踏み切りの脇にわざわざ設置したらしいお立ち台の上で、アナウンスして
止まってくださいとか、前の人を押さないようにとか、のべつまくなしに
注意事項をアナウンスしていた隊員がいました。


電車待ちで立ち止まった人たちに「おはようございまーす」というだけで
皆は喜んで彼に手を振り、「ありがとうございます!」と彼が手を振り返すと、
思わず和んだ人々からは小さく笑い声が起こるといった調子。

楽しくあるべき自衛隊のイベントも、主にカメラマニアが殺伐としているせいで
主に場所取りや並ぶ順番を巡ってトラブルが起こることも多々あり、現にわたしは
観艦式でも総火演でもそんな現場を目撃したわけですが、航空祭というのは
展示場が主に「空」であるせいか、比較的雰囲気が和やかな気がします。

それを割り引いても、このときの集団は全体的に和気藹々の穏やかな雰囲気で、
それもこの明るいキャラの自衛官投入の成果大であると思われました。
彼がここに割り当てられたのは、適材適所というものだったかもしれません。

いや、実にいい仕事してましたよ。



踏み切りを渡ると入間航空祭の横断幕が見えてきます。
確か2年前のはもう少し古めかしかったような・・。
リニューアルしましたかね?



会場に向かうほとんどの人はそのまま真っ直ぐ進みますが、招待者は
右にそれてテントで受付をしてから会場までバスで行きます。

わたしも受付をしようとしたら、会場でしてくださいと言われました。
ここで受付していた人たちはどうも隊員の家族関係だったようです。



バスを待っていたら、テレビのクルーが自衛官に連れられて横を通りました。

「所さんの学校で教えてくれないほにゃらら」

という番組であることが、彼らが掛けている看板でわかりました。



横田から来たらしい在日米軍の空軍軍人たち発見。
米空軍の軍服はかっこいいなあ・・。
なんと、バスも制服と同じブルーで統一です。
ナンバープレートは日本のものではありませんでした。



女性軍人がいたのでついアップ。
米空軍がかっこいいのはこの帽子のせいですかね。
どちらかというとガタイのいいアメリカ人に似合う帽子だと思いますが。



会場手前に受付のテントがまたまた現れました。
英語で「報道受付」という看板も見えます。
外国の報道関係者も来たんでしょうか。



わたしが手前で招待状を見せると、空自隊員が一人「ご案内します」と
エスコートしてくれ、祝賀会の受付を兼ねたデスクに連れて行かれました。

ここで祝賀会参加費3,000円也をお支払いして、リボンをもらいます。
わたしの前には陸自の将官が夫人同伴で並んで受付をしていましたが、
待っている間ずっと横にそのエスコートの隊員がいました。

どうやら受付した後会場の席にご案内するまでが彼らの仕事だったようですが、
彼を横に並ばせておくにもしのばず、またどうにも落ち着かないので、

「もうここで結構です」

といって彼に帰ってもらいました。
しかし会費を払って名簿を確かめると、今度はそこにいた女性隊員が

「上着にお付けいたします」

といって、リボンを留めてくれました。
何から何まですみませんねえ。



招待者の観覧席はこの赤い紅白幕の向こう側にあります。


入ってみました。
さすが招待客は8時50分頃でもほとんど来ていません。

こんなことならわたしももう少しおそくくればよかった、と思いましたが、
初めての経験なので仕方ないですね。



このときの会場。
前日は結構な量の雨が降ったため、エプロンにはまだ水が残っています。
2年前はテレビ番組のせいで大変な人出となりましたが、今年はそうでもないのかな。
あのとききゃあきゃあ言っていた女の子たちはリピーターにはならなかったのかしら。 



このオレンジの手前が招待者スペース。
柵に沿ってカメラを持っている人たちが場所を取り始めていますが、



最初はこんな感じでした。
展示機の前、とくにブルーインパルスの前から埋まっていくのだと思いますが、
後から来た人たちはこういう前の空いた所に落ち着きます。



だいぶ人が増えてきたころ、自衛官に案内されてきた米空軍の一行が、
周りの人たちに次々と一緒に写真を撮らされている現場を発見。



頼まれると嫌と言えない空軍軍人さんたち、何回頼まれても
その度愛想よく撮影に応じていました。

日米友好~。

一番右の女性はどうやら米軍ではなさそうです。
彼女の胸に第一空挺団のレンジャー徽章と全く同じバッジがあるんですがこれは・・。

ところで高性能の望遠レンズは、3人のアメリカ軍人さんが左から、
プールさん、バーナルさん、ワーレンさんであることもわかってしまうのだった。



柵のこちら側、前の席には車椅子の招待者が何人かいました。

9時になって開会の挨拶のようなもの(おい)が終わったあと、
人々はCH-47Jがローターを回しだしたのに、すわ!と色めき立ちます。


平成27年入間基地航空祭の始まりです。


続く。 



飛行整備隊とT-4の飛翔〜平成27年度入間基地航空祭

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入間航空祭三度目にして招待者席に潜入することに成功したわけですが、
この招待者席というもの、パイプチェアに座れて楽は楽ですが、
実際に会場の上空を縦横無尽に飛びまくる飛行機の写真を撮ろうとすれば、
とてもではないけど座っていられず、わたしはほとんど立ちっぱなしでした。

招待者席はその中もオレンジ色のテープで幾つかに仕切られていて、
もらったリボンの色によって大体座るところが決まってくるわけですが、
一番「上席」は区画の一番後ろのひな壇で、ここは「予約制」となっていました。
その前が我々(?)協賛企業席、その前が隊員家族関係といった感じです。

入間基地としては、滑走路に近い=ヘリなどの轟音や風に近いということで、
必ずしも前列が上席と考えていないらしいことがわかりました。

招待者席の椅子は最後まで全部埋まることもなく、わたしのとった席の列は
最後まで誰も座ることがないという状態だったので快適でした。

9時開始ということでしたが、観閲を伴う他の自衛隊公式行事と違い、
あくまでも航空「祭」なので、始まったといってもゆるい感じで、せいぜい
地元の協賛団体の偉い人がお祝いを述べる程度のオープニングです。

その間、われわれは観覧席前に駐機してあったT-4の整備を見ることになります。



入間基地のT-4は「中部航空方面隊司令部支援飛行隊」の所属です。
空自の航空集団は航空総隊という名前の組織に属しますが、それは司令部を横田に置き、

北部・中部・西部・南西の各航空方面隊

に分けられます。
入間はこのうち中部方面隊の司令部が置かれているところです。

入間航空祭の報告をするたびにお話ししていることですが、T-4は
練習過程でプロペラ機からジェット機への移行の際使われる飛行機なので、
素直な操作性と高い安定性が備わっており、なおかつ、低速から高速まで
安定した飛行特性を持つよう設計された川崎重工業の名作です。

展示の順番が最初なので、整備隊が最後の調整にかかっています。



オリーブドラブの耐圧スーツ着用、T-4パイロットキター。

入間は司令部があり、「教官の養成」を行う組織を持ちます。
ゆえにT-4の教官は全て佐官級、つまりロートルパイロットであるという話を聞いたことがありますが、
このパイロットもアップにすると、いかにも飛行時間の長そうな大ベテランの風格。
(姿勢が良くて体型が若いので遠くから見ると若く見えるんですね) 

しかし、入間航空祭のT-4編隊飛行は、そんなロートル部隊の本領発揮、
かつてのファイターパイロットがここぞと円熟の技能を見せてくれる機会のはず。



なるほど、燃料給油口はインテイクの外側にあるのか。_φ(・_・



整備が終わったのか、愛機に乗り込むパイロット。
こちらからは見えくいですが、機体に登るのにハシゴは掛けて使うんですね。



整備は整備隊員だけにお任せするのでなく、パイロットも参加します。



空自のパイロットは、こういう場合このタイプの帽子をかぶるんですね。
前回アメリカ空軍の軍人さんのことをお話しするときに少し話題にしましたが、
このタイプの帽子を「ギャリソン・キャップ」といいます。
船のような形をしているので日本語では船形帽ともいうそうです。

アメリカ空軍がこのタイプを採用しているせいか、アメリカ式空軍を持つ国は
帽子もこれを採用している軍が多いということで、自衛隊もその一つ。

どうして空軍がこれを多用するかというと、なんといってもたたみやすいからでしょうね。
特にパイロットは、かぶり物をヘルメットに変えたりする状況なので、
たたんでベルトや肩章にはさめるこのタイプは重宝なのです。

そういえば、岩国基地で会ったホーネットドライバーたちも、皆ギャリソン型でした。
戦闘機を持たない陸海自衛隊はスクランブルの必要もないので、
たためなくてもベースボールキャップ型で不便はないのかもしれません。



展示飛行機に向かって最前列がそろそろ埋まり始めました。
しかしこの辺はブルーインパルスの前に場所を占められなかった人たちが
だんだんこちらに追いやられてきているという感じです。

ブルーインパルスはその整備の段階から、搭乗、タキシングに出るところ、
そして帰投してからの花束贈呈などを至近距離で見たい&撮りたい人がたくさんいるようで、
わたしは最後の頃その辺りに行ってみましたが、人垣が何重にもなっていて
とても前で起こっていることが見えるような状況ではありませんでした。



U-125。
尾翼に赤白のチェッカー模様があるこの飛行機は、

チェッカー←チェック=点検→点検隊 \( ̄▽ ̄;)/

ということで、英語で言うと「フライト・チェック・スコードロン」。
全国唯一入間に存在する、飛行点検隊の仕様機です。




入間基地にはエプロン中央にこのような飛行点検隊のハンガーがあります。
飛行点検隊の任務は、飛行機の航行のために必要な安全装備について
自らが飛行しながらそれを点検するというものです。

例えば飛行設備の運用前検査、定期検査、事故を設定した検査、
新たな施設やシステムの検査。
飛行方式の改正に伴う検査があれば、事故の検証を行うのも飛行隊の仕事です。



U-125はホーカー・ビーチクラフトの製造です。

何?「ホーカー・ビーチクラフト」だと?
イギリスの「ホーカー・シドレー」(シーハリアーのあそこ)とビーチクラフト社は
いつの間に合併していたのだ?

と一瞬思わされる名称ですが、ここはもともとレイセオン傘下の航空機会社で、
つまりホーカーとビーチクラフトのブランドをどちらも製造販売しているのだとか。
しかしこの機体の原型はデ・ハビランド社の飛行機だったという、いろいろ混在型。

素人目にはビーチクラフトのスタイルという気がしますけどね。



CH-47Jのローターに着陸しそうなU-125。


 

この写真を見ていきなり思い出しましたが、前回参加の2年前には「ド」の字もなかった

「ドローンの持ち込み、近隣での飛行の禁止」

の貼り紙が、基地のあちらこちらに見られ、放送でも注意がありました。

この傾向は夏の陸上自衛隊の総合火力演習のときから気づいたもので、
富士演習場でも幾度となく「ドローンを飛ばさないように」と放送があったわけですが、
会場内にいる人はすでに手荷物検査も受けているわけだし、入間基地においても
一般入場者は皆検査を受けているので、内部で告知しても意味がないのでは・・。


さすがに海自は合理的というか、護衛艦内でそんな注意はされませんでしたが、
一度ならず二度までも、停泊中の護衛艦にドローンの落下を許しています。

犯人は自衛隊のイベントに来る人ではなく、外部からの操作であるのは明白なのですが、
自衛隊としては、集まってくる人たちに訴えるしか、とりあえず方法がないという・・・。

官邸ドローン事件を受けても、まだドローン機の所有者が登録制にならないのなら、
もう自衛隊としては、護衛艦に近づいたらCIWSで、総火演の現場では無反動砲か自走榴弾砲で、
航空祭に飛んできたらF-2をスクランブルさせて墜としてもいいってことにすればいいと思います。



入間基地にいる飛行整備隊のU-125は全部で3機です。
こういう構図で撮るとなんだか「紙飛行機」感が漂うU-125。



「CHのローターと航空機」シリーズその3のお題は、

「蜻蛉釣り 今日は何処まで行ったやら」

棒の先にトリモチをつけてトンボを採ったあの日を思い出してください。

そういえば旧海軍で空母から落ちた飛行機を回収することを「とんぼつり」といいましたが、
これは回収機材がトリモチ竿のように見えることからだそうです。



この飛行機も飛行整備隊の点検機、YS-11FC。
FCは「フライト・チェッカー」の意です。

機体が大きいだけに、検査装置はもちろんのこと、計器着陸装置、通信装置、グラフィックレコーダー、
機上録音機、信号観測用オシロスコープなどなどの無線機材が詰め込まれています。

入間ではYS-11も3機が稼働しています。



デモを終えて帰ってきたフライトチェッカー。
仕切りの内側の人と、その外側の人たちの「空気の違い」をごらんください。

この部分は滑走路右手に向かって障害物が何もなかったので、とりあえずこの辺では
写真を撮りたい人が集中する必死ゾーンとなっていました。



方向変えてきた〜。
航空祭の写真は会場の様子が写り込んでこそ。
わたしは前で人が立っていてもむしろ大歓迎です。



さて、続いてのプログラムは、先ほど点検整備を行っていたT-4の編隊飛行です。
アプローチは全てこのように画面の右側にタキシングしていき、左に向かってテイクオフします。



テイクオフ直後。まだ脚が出ています。
このTー4が「オープニング・フライト」とスケジュールにはあります。
ということは、最初の点検飛行隊のフライトは状況チェックを兼ねていたのでしょうか。



脚が収納されました。



ブルーインパルスとは色が違うだけで同じドルフィンシェイプでもこんなに印象が違うのか、
と思うのですが、いったん編隊飛行を始めるとやはりブルーの演技を彷彿とさせます。



忖度にすぎませんが、T-4のパイロットたちは、この日のメインである
ブルーインパルスの飛行に見劣りするといわれぬよう、
ベテランの意地をかけてこの編隊飛行に臨むのではないでしょうか。



というわけで渾身の(たぶん)フライトを終えたTー4が帰ってきました。



ところで入間航空祭では、例年「ミス航空祭」コンテストが行われます。

軍用車(観閲式の時に部隊長や安倍首相が立って乗るあれ)でパレードさせたり、
山田さんのご趣味はヨガと音楽鑑賞、なんていう超どうでもいいことをアナウンスしたり、
ブルーインパルスの隊員に花束を渡させたりしているわけですが、どうも、
会場を見ていると、当人とその家族以外には「それがどーした」な反応なのです。

それを裏付けるように、この日の観客の「ミス」に対する無関心さが
象徴的に現れている写真が撮れてしまいました・・・(涙)


聞くともなく聞いていると「ミス川越」とか「ミス飯能」とか、他府県の人間が聞くと、
失礼だけどあまりありがたみのないようなミスが一堂に集い、そのなかから
この日、何処かの誰かによって最終的に「ミス航空祭」が決められるということでした。

ミス航空祭とやらの栄冠をめでたく手にしたとして、たとえば優先的に
ブルーインパルスのパイロットとお付き合いできるとかいうご褒美があるのならともかく、
自衛隊の祭で美人コンテストをしてミスを選ぶ意味が、わたしには正直よくわかりません。

文字通り「華を添える」という意図で始まったことだと思うのですが、
なんとなくミスコンそのものが「バブル時代の昭和のかほり」というか、
コンセプトそのものが時代遅れという気がしないでもないというか。


同じ自衛隊でも「ミス観艦式」とか「ミス総火演」など生まれるべくもない陸海からみると、
「ミス航空祭」は良くも悪くも空自のアプレゲール的フリーダム気質を象徴しているのでは、
とわたしはなんとなく思ったのですが、ただ思っただけです。すみません。(←弱気)




続く。


 

エア・レスキュー・ウィング〜平成27年度入間航空祭

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いきなり私事になりますが、観艦式の前、わたしはPEMという検査を受けました。
左胸の奥に恒常的な鈍痛があったため、念のために調べてみたのです。
結果はなんら異常なし、ということで、乳癌などの疑いもなくなったのですが、
問題はこの痛みです。

入間航空祭が終わった次の日、その痛みが明らかに強くなっていたので、
主治医(というか夫の友人)に間接的に電話で相談してもらったところ、

「それはもしかしたら筋肉痛かもしれない」

と言われました。
いや、筋肉痛といっても、2年前から時々感じる痛みなんです。

「奥様は近年チェロを始められたということですが、 こういう人たちは
小さい頃からやっている人と違い、筋肉の使い方に無理をしているので、
胸郭出口症候群のようになってしまう人が多いんです」

そういえば、かすかな異変はチェロを始めてから感じるようになったなあ。
でも、最近は特に、観艦式とそのご報告のためのエントリ作成、それに加えて
息子の矯正医を変えたために検査と初診でバタバタ、自分の歯科治療でウロウロ、
歯医者関係だけで山形と神田と代官山と荻窪を駆け回る毎日で、
チェロを触るどころではなかったはずですが・・・。

だいたい今回痛みが強くなった前日は航空祭だったし、航空祭では
朝早くに起きて往復4時間運転する以外は1日写真を撮っていただけ・・・

・・・ん?

もしかしたら、痛みの原因って、カメラ?

チェロと同じく、わたしがカメラらしいカメラを持ち始めたのは近年のこと。
重さを嫌ってあくまでもニコン1にこだわってはいますが、それでも
写真を撮っているときはカメラの重量を受け、かつレンズを操作するため、
かなり不自然なねじりの姿勢を強いられるのが左手です。

しかも、その間アドレナリン噴出の状態なので、平常ならば「あーしんど」となって
休憩するところ、夢中で撮り続け、そのままの姿勢を続けていれば
筋肉に不具合が来てもおかしくありません。

胸郭出口症候群とは、頚肋、鎖骨、第一肋膜などや前斜角筋、中斜角筋、小胸筋などに
圧迫・牽引されることで起きる症状の総称だそうです。

これもチェロと一緒で、アマチュアの悲しさ、体の使い方というか、
基礎ができとらんため、日頃使っていない筋肉に無理がかかったということなんでしょう。


主治医からは当分チェロとコンデジ以外のカメラは使用を控え、
患部にバンテリン(なぜバンテリンでないとダメなのかはわからないけど)貼って
様子を見るように、と言われてしまいました。\(^o^)/

折しも骨膜に働きかけるタイプのマッサージ兼整体をしてもらっている
カリスマ美容家の施術を昨日受けてその旨相談したところ、左手を触った途端、

「肘から先がすごいことになってます!」

というわけで、彼女に患部を緩めてもらい、バンテリン貼ってストレッチを行い、
まだまだ終わらない自衛隊関係行事参戦に向け、主治医に内緒で備えるわたしでした。

カリスマによると、カメラマンという仕事は筋肉を酷使するので、
本職には「もう全身ボロボロ」状態の人も多いということです。
わたしと違ってあんなゴツイ機材を操作するので、さもありなん。



さて、そんなわたしが体を張って写真を撮ったった入間航空祭、続きです。
ロートル部隊の意地をかけた(たぶん)華麗なT-4のフライトに続き、
主に救難を目的とした輸送隊の飛行展示が行われました。



CH-47J、空自迷彩のチヌークが滑走路をタキシングして離陸準備を行います。



UH-60Jも、CH-47Jと共に何か展示を行うようです。

ところでヘリの写真を撮る時には、何かパフォーマンスをしていない限り
ローターの動きを止めないように、シャッタースピードを250/1以下にして撮るのですが、
ほとんどが画質が粗くなってしまうのが困りものです。

まあ、わたしの場合、写真の出来そのものを評価してもらおうとも別に思っていないので、
ヘリが何か始めたら、潔くシャッタースピードを上げてしまいます。

 

この時もワイヤーが下されたので、ローターの動きの方はきっぱり諦めました。
おおっと思っていると、二人の隊員が同時にリペリング降下を行いました。



見ているだけなら簡単そうですが、このリペリング降下を行う隊員はもちろん、
ヘリを一定の位置にホバリングさせ、降下員が地上に達するまで空中に微動だにせず、
どんな強風の時でも安定させているのは簡単に見えて決してそうではないということです。

「ライジング・サン」で新海3曹がそう言ってました。



つづいてストレッチャーの降下を行います。
地上で何が行われたのかはわかりませんでしたが、この状況から
おそらく二人の隊員によって救難活動が行われたという設定でしょう。



あのー、ヘリから体を乗り出している人は安全ベルトつけてるんでしょうね?

 

おおっ!いつの間に!
ストレッチャーには、じゃんけんで負けたに違いない怪我人役の隊員が乗せられ、
ヘリに引き上げられようとしております。



というわけで救難訓練展示終了。
終わった後は必ずお辞儀をして去る、いつもながら礼儀正しい奴です。



続いてCH-47Jが張り切って登場。
人を輸送している時には決して行わないような飛行を行って、
見かけの割に駆動性が機敏であることを強調しています。



一旦地面近くの低空にホバリングして、その間地上員が荷物を牽引させ、
その後空中に持ち上げて見せてくれます。
本日は当たり障りのない木のコンテナですが、武器はもちろん榴弾砲、
車両くらいなら楽々牽引できてしまうのです。

陸自の降下始めではFHなどふっつーうに降下させていますよね。
たしか前回(2013年)と前々回(2012年)、荷物には「がんばろう」「日本」
と書かれていて、震災後のメッセージとなっていたのですが、今年はそれはありませんでした。



これはわたしのカメラを構える姿勢がゆがんでいたのではありません。
CHのパイロットが張り切って飛んで機体が大きく傾き、荷物を振り回すことになったのです。
冒頭写真もこのときのものです。



床の部分のハッチが大きく開けられていますが、これは
牽引している荷物がなんかの弾みで落ちたりしないか見ているんですね。

たしかに、目的地に着いたら荷物がねえええ!
ということなど、我らが自衛隊において、あっていいはずはありません。



というわけで、牽引パフォーマンスを行った機体番号496が展示を終えて帰って来ました。

ところでチヌークのノーズに二本触覚のように出たものは何?
こんなところにあるからにはやっぱりピトー管でしょうかね。



一緒に訓練展示を行った500番機も帰って来ました。



こちらに正面顏を向けてくれたCH。
ちょうど正面から見ると、機体の下部に黒い器具が二つあるのがわかりますが、
これが先ほどまで荷物を牽引していた貨物フックです。



なぜかみんなで右側を見ているの図。
コクピットではどんな会話が行われているのか気になりますね。

右と左は正副操縦士であるのは間違いないとして、真ん中の隊員の役目は?

これはフライトエンジニアで、飛行中ずっとコクピットにいて機体に変化や異常がないか、
振動や音、臭いにいたるまで、神経を尖らせてチェックしているのが仕事です。
いわばパイロットが操縦という任務に集中できるように、総合的なこと、
たとえば天候や搭載する荷物のことや、高度、目的地の状況を把握し、
それに対応してパイロットの補佐をする、いわば女房役のようなものなのだとか。

このときも、フライトエンジニアが何かを指摘したため、操縦士たちが
そちらに注目した、という状況だったのかもしれないですね。


ところで、チヌークは機体の、船でいうと左舷側の窓の上あたりにも、
5本の角のようなものがあるのですが、これもピトー管みたいなもの?
先を一本のラインが結んでいることを考えても、アンテナだろうと思うのですが。

で、こんな大写しの写真が撮れてしまったので、ついでに調べたのですが、
後ろに向かって付いている拡声器みたいなものは、エンジン・スクリーンで、
後ろについているエンジン・ナセル(飛行機でいうカウリング。エンジンの覆い)と共に
エンジンに異物が入り込まないようにネットのような仕様になっています。



富士総火演が「火力の総合展示」であるのに対し、航空祭は
「航空機の展示」であるため、総火演では決して見られない、
駐機中の整備の様子を目の当たりにできるのが大きな特徴と言えましょう。

CH-47Jの展示が終わり、駐機するなり機上に一人整備員が上がって行きました。
どうもローター付近の点検を行うようです。
これは前後にあるローターの前部分で、画面右側がノーズです。



「ローターヘッドの詰まり、なし!」



こちらは後方のカウル?なのですが、こんな風に開けられるのか・・。
いや、望遠レンズで狙っていてこんないいもの見せていただけました。

その気になれば人一人くらい入りそうなスペース?



んなこたーない(笑)
整備のために中が見られるようになっているだけでした。

彼の下側では先ほどのナセル部分を開けて中を点検中。
シルバーのドラム缶状のものはエンジンの排気ダクトです。



ローターの根元にはローターヘッド・フェアリングというものがあります。
これもカウルやナセルのように空気抵抗を減らすために被せるカバーです。
そこに見えている「NO STEP」の文字。
常識的に考えてこんなところに立つ人もいないでしょうが、一応注意書きしてあります。



機体に記されていた航空救難団のスコードロンマーク。
航空救難団は航空総隊隷下の捜索救難のための組織で、
ここ入間に司令部を配置しています。

これらのCH-47Jはヘリコプター空輸隊 (Helicopter Airlift Squadron)の所属機で、
災害派遣時には要救助者の救助、急患空輸、被災者の空輸および物資の空輸を行います。

あの東日本大震災のときに、消火活動のために200回以上の空中散布を行ったのも、
ヘリコプター空輸隊のCH-47Jだったということです。


入間航空祭の飛行展示、まだまだ続きます。



 

空挺団降下!〜平成27年入間航空祭

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前回私事と言いながらついつい体の不調などについて言及してしまい、
皆様にかえってご心配をかけてしまったようで恐縮しております。

写真を撮ることがこんなに体に負担をかけているとは思ってもいませんでしたが、
それにつけても驚くのが自衛隊イベントで多数に見る「カメ爺」たちです。
つまりあの老人たちは、重たい一眼レフと機材を持ち運び、それを扱うだけの
気力と体力を持ち合わせている、ということになるんですね。

そうか、あの場所取りをめぐる必死さは、その気迫の賜物だったりするのか・・。




さて、救難ヘリの飛行&救難訓練展示が終わった後は、
どすこーい重量級のC-1の登場です。

C-1というのは輸送機ですから、本来編隊を組んだり駆動性を見せたり、
ということには重きを置いていないわけですが、この日ばかりは
ここ入間基地のシンボル的存在として、この勇姿を見るがよいとばかりに
編隊飛行や急旋回などもやって見せてくれます。



例えばこんな風に。



いつ見てもこのキモかわいさがたまりませんわ〜。
かくいうわたしは「あおぞら空挺団」を見て以来C-1のシェイプを愛しております。

実は午前中のメインイベントが、C-1からの空挺降下です。
毎年年明けに行われる習志野の第一空挺団の降下始めでお馴染みなので、
この非スマートな機体と空挺団との組み合わせから、
なんとなくこれが陸自の飛行機だと思っている人も多いかもしれません。
(以前のわたし含む)

しかし、実はC-1、最初に導入されることになった量産機1号(通算3号)は
ここ入間基地において運用試験が行われているように、
紛れもなくここ入間の航空自衛隊の運用なのです。

今まで何気なく見ていましたが、空挺降下は空自と陸自の「コラボ」なんですね。
ペトリオットミサイルも陸自基地に空自が存在していたし、
陸空の間には他ではこのような共通運用の例が結構あるみたいです。

「陸海」「空海」間自衛隊でこんな例ってありますか?

それこそ日本が空母を持つ日が来れば、「空海」自衛隊の関係は
海自が艦載の戦闘機を持たない限り密接なものになるのでしょう。
かわぐちかいじの最新作「空母いぶき」では、日本が生んだ初めての空母の艦長に
船屋ではなく、なんとパイロット出身の空自隊員が選ばれるという、
思わず「そらー無理ちゃいますか。操艦的に」と言いたくなるような設定でしたが、
万が一そうなったら、どちらが上に立つかは、両自衛隊にとって大変な問題となるはずです。

まあ、心配せずともそもそも日本が空母を持つ可能性は当分ない、と言われそうですが、
現在南沙で中国が建設しているプラットホーム、あれって、

空母を2〜3隻建造して停泊させているのと同じこと

なんですよね。

話が盛大にそれましたが、とにかく陸空共同による空挺降下の実演です。



航過するC-1からまず一人が飛び出しました。



たった一人だけ飛び出したところをみると、これは「お試し降下」?



この人が風に煽られたりしたら後の集団降下はやめにします、とか?
「お試し降下員」は、よほどのベテランしか務まらなさそうですね。



一人のパラシュートが開いた後は、C-1が編隊飛行を見せてくれます。
これなどこの巨体で別々に離陸して、すぐに(まだ脚が出てる)
これだけ密集位置の編隊を組むのは大変なことと見た。



C-1の裏側。



さて、いよいよ部隊による降下が始まります。
離陸の時には閉じていたハッチが今開けられました。



まず一人目が飛び出します。
隊員の装着したパラシュートの先には黄色い紐が見えますが、
これがいわゆる

「環をかけっっ!」

で機体の内側にかけられた環によって自動的に傘が引っ張られ、
たとえどんなうっかりさんでも傘が必ず開くというシステムなのでしょう。



飛び降りる時にはハッチから出ているステップに立ち、
飛行機の尾翼の方向に向かって体を倒すように飛び出しています。

飛び出したら体は真っ直ぐにしないほうがいいみたいですね。



昔の空挺降下の訓練を描いた映画「空の神兵」について、
ここでもご紹介したことがありますが、なんども行われる地上での
「飛び出し訓練」では、できるだけ手を真っ直ぐ頭上に伸ばし、
体を曲げないようにするのが「立派な姿勢」といわれていました。

第一空挺団に入隊し、初めて降下を行う青年が、

「不開傘の確率300万分の1?今の俺にとっては開くか開かないか2分の1」

と恐怖に震える漫画を紹介したこともありますが、黎明期は
300万分の1なんて低い確率ではなかったはずです。
飛行機に乗るのさえ生まれて初めての連中にとって、空挺は
それそのものがどんなに恐ろしいことであったでしょうか。



飛び出す時間はきっちり決まっているはずです。
だれかひとりぐずぐずしていると、冒頭写真のように
等分に傘がきれいにならぶことがなくなり、それは「失敗」とされるでしょう。



傘が開くまでの間はどんなベテランでも長く感じるのではないでしょうか。



こちら二人目の降下者。
一人目が「環をかけ」たロープが傘を開く役目を終えて宙に舞っています。



今の空挺降下は腕は体の前で組むようにといわれるようですね。



脚から飛び降りても、この写真で見るようにかならずこの位置で
降下者の体は一回転して頭が下になるようです。
うーん、怖いだろうなあ・・。



ちょうど日の丸の下にいる降下者をみてください。
彼らのパラシュートはお腹に抱えるように装備されていることがわかります。



最後の降下者が今飛び降りようとしているところ。



そして飛び出しました。
もうハッチには人影がありません。



10人が飛び降りたハッチからは、その傘を機体と繋いで
開傘させた黄色いロープが人数分なびいています。

そして青空に空挺団のゴールドの傘がの花が10、開きました。
見事な空挺に会場は拍手が巻き起こります。



そして、地面に到着。
やはりこういうときに空挺の展示を行うくらいですから、
ある程度ベテランで危なげなく降下を行えるものばかりが選ばれるのでしょうが、
さすがに全員がちゃんと展示航空機の向こうで柵のこちら側に着陸を決め、
チヌークの真上に落ちてNO-STEPと書かれたところをピンポイントで踏み抜いたり、
電信柱に傘をひっかけたりという場面は見せてくれませんでした。

いや、別に見たくていってるんじゃないですよ?



U-125がまるで傘をさしているようです(笑)
彼らを落としたC-1を含む3機は点のように見えます。 




どうして煙が立っているかというと、地面に落下してから
傘が開いたまま風を受けてしまい、地面をずずずっずーーーーっっ
と降下者が引きずられたからです。

このときアナウンスでも言っていましたが、落下傘降下というのは
普通に降りても二階から飛び降りるのと同じ衝撃を受けるといわれます。
ですから、特にこのようなコンクリートの上に降りるときには、
降下者は決して足で立たず、受け身を行って衝撃を逃すようにします。

空挺団のみなさんが酔っ払うと二階から飛ぶというのは、それくらいの衝撃は彼らにとって
わたしたちが三段くらいの階段を飛び降りるようなものだからです。ってどんなだよ。




そんな化け物、いやスーパーマンみたいな隊員はどんな顔をしているのか、
ぜひ拝んでみたいと思うのですが、さすがの望遠レンズも
エプロンの端っこにいる人の顔までは鮮明にしてくれませんでした。

降下後、紐をたぐって傘を手繰り寄せている隊員。



傘のお片づけを手伝うためにか、陸自迷彩の隊員が一人走り出てきました。



本当に等間隔に、狙ったところに降りることができるんですね。



彼らが傘をまとめて素早く全員退場していったのと入れ替わりのように
最初に編隊飛行をしていた029のC-1が帰って来ました。

これをもって午前中のプログラムは全部終了です。
11時45分から、観覧席の後ろに設けられた格納庫の会場で、
昼食会が行われる旨放送が行われ、人々は三々五々移動を始めました。

さあ、初めて体験する空自のごはんはどんなものでしょうか!?(wktk)

続く。







 

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