Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2815 articles
Browse latest View live

久里浜駐屯地見学〜日本最初の自衛隊駐屯地

$
0
0

ある日、うちにきた企画旅行のダイレクトメールのなかに
こんな商品を見つけました。

横須賀「防衛大学校」校内見学!
自衛隊としてはもっとも古い駐屯地「久里浜駐屯地」

見れば、豪華バスで現地まで行って、軽食と車中お茶付き、
案内は専門スタッフ(つまり自衛官ってことなんですが)、
ちゃんとしたレストランでの食事もコースに含まれるという内容。

防衛大学校の校内見学ツァーというのは、先日のガイドツァーなど、
積極的に横須賀を軍港の町として観光を誘致しようとしている
横須賀市などの後押しもあって結構な頻度で組まれていますし、
久里浜駐屯地も基地公開が定期的にあるのはは知っていましたが、
あえてこれに申し込んだのは、企画が老舗デパートの旅行だったからです。

ということは参加するメンバーというのは日頃このデパートの
外商やお◯場クラブを利用している人たちということになります。
こういう人たちで防大や基地見学にわざわざやってくるのってどういう人たち?

ツァーの内容よりそちらに激しく興味を惹かれたわたしは、
生まれて初めてこの手の「上げ膳下げ膳旅行」に申し込んでみました。

もちろんここで皆さんにその体験をお話しするために。 




そもそも、そんな顧客層からツァーが成立するほど申し込みがあるのか?
という気もしましたが、事前に予定通り行われるとの返事が電話であり、
当日待ち合わせ場所のデパート前に行ってみると、参加者は全部で14名。


そして、たった14名のために、こんな豪華なバスが用意されておりますた。
その名もグランドクルーザーという深いグリーンのオーセンティックなバス、
とにかく中はシートピッチが広く、加えて参加人数が少ないこともあって
座席は一人が二席ゆったりと荷物を置いて座ることができます。

窓ガラスは遮光のため外からは全く乗っている人の顔が見えませんが、
中から外はよく見えて、街中では信号待ちの人などが
この只者でないバスの外装に興味津々でバスを見送る様子が確認できました。

同行者の話によると、もっと豪華で、この同じ大きさで10人しか乗れないバス、
なんていうのもこの会社には存在するそうでございます。
中にお座敷でもあるのかしら。

さすがはゴージャス系ツァー、要所要所で飲み物や軽食は出てくる、
添乗員もバスガイドも運転手も三つ指付かんばかりの丁寧な物腰、
バスは走行も滑らかでシートはピッチが広く足台付きのグリーン車仕様。
日頃「今日は三越明日は帝劇」な方々を相手にしてるだけのことはあります。


そして参加者の年齢層ですが、前回の横須賀歴史ウォークが平均年齢
65くらいとすれば、今回は間違いなく70歳。
男性陣はまるで同窓会のように皆が70歳くらいで、
「海軍兵学校の従兄弟の制服姿に憧れました」とか、
「父は終戦時陸軍で少佐でした」という方もおられました。

やはり軍事に興味があり、年齢が年齢であれば自衛隊のイベントにも参加するけど、
それが最近しんどくなってきたので、こういう手取り足取りやってくれる旅行に
参加している人が多いのかな、と言った印象です。

しかし、14人のうち夫婦参加はたった二人。
あとの12人はわたしも含め全員が単独参加でした。
 
東京のデパート前から一回の休憩を挟んで、久里浜駐屯地に着いたのは
10時少し前といったところだったでしょうか。



久里浜駐屯地は昭和14年創立の海軍通信学校のあったあとにあります。
戦後、昭和25年に警察予備隊が発足した時、同じ場所に駐屯地が創設されました。

昭和28年、ここに防衛大学校の前身である保安大学校が開校され、
第1期生はここで卒業しています。
なお、その後昭和30年、防衛大学校は小原台に移転しました。
なおこのときにここにあった衛生学校も三宿に移駐させ、
ここは海軍時代と同じ通信学校と、中央野外通信群、通信教育直接支援中隊など
通信関係の部隊がまとまって配置されています。



バスは門の中まで入っていき、そこには案内してくれる後方の曹長が待っていました。
平日の昼間なのでこれも業務なのだと思いますが、隊員が二人
ウェットスーツを着てカヤック?を担いで歩いて行きました。
久里浜はすぐ近くですが、そこで訓練があったのでしょうか。



海軍通信学校跡の碑。
海軍通信学校は最初横須賀の水雷学校内にあったのですが、
昭和14年にここ久里浜に移転させました。
なぜ最初水雷学校の中にあったかというと、当時は無線技術そのものが
最新兵器とされていたので、同じ最新兵器であった水雷と同じ扱いだったのです。

ちなみにその跡は先日見学した第二術科学校となっています。

移転したのは将来を見据えたリスク分散のためでしょうか。
ちなみに、ここにある建物は昭和14年に建てたもので、今でも使用されています。
久里浜基地は空襲にはほとんど遭っていません。



案内してくれたのはご覧の広報担当の女性陸曹長でした。
参加者のおじいちゃまが

「曹長っていったら旧軍の上等兵でしょ?いやたいしたもんだ」

そこで彼女、

「もうわたし51ですからあと3年で退官なんですよ」

というと皆が、退官したらあとはどうするのか、就職はあるのか、
口々に心配していたのがなんかおかしかったです。



なぜここに碑があるのかというと、昔碑の後ろのこの部分に
「通信神社」の祠があったからなんだそうです。



これが当時の通信神社。
後ろの通信学校校舎には中央に国旗、両翼に海軍旗が掲げられていたのがわかります。

例によってここに進駐軍の駐留があったので、その間に破壊されてはと
同じ久里浜の浄土宗長安寺に遷座して現在もそこにあるということでした。



碑の前にある二つの錨は、通信学校の卒業生の寄贈によるものです。



これはどこかの部隊が駐屯した記念だそうですが、よくわかりません。
昭和52年と非常に新しいものです。



昭和14年の建築とは思えない庁舎。
できた当時、久里浜の通信学校はその広さとともに
これらの白亜の校舎で東洋一の近代的な設備と言われていたそうです。



校舎の前にはこのような跡があり、防空壕かと思ったら地下道の入り口でした。
戦後一度掘り起こして危険物が埋まっていないか調べたそうです。



正面の時計の下、二階の部屋の窓枠の色だけが違いますが、
昔はこの全てがこれと同じ木の桟でありました。
ここにはこれから見学する貴賓室があり、ここは内装を変えられない関係で
窓枠の色がここだけ違うのです。



入ったすぐのエントランス右側に、昔ここで来訪者の
受付などを行ったのであろう木の小さな窓がありました。
今は全く使われていないようです。

海軍時代、この向こう側の部屋は副直将校室、反対側が当直将校室でした。



こういう階段の造りで思い出すのは呉の地方総監庁舎、
習志野駐屯地にある今は空挺館という資料展示室になっている建物、
そして台湾で見た228事件の惨劇の舞台となった市庁舎などでしょうか。



当時の日本の官公庁などはほとんどこの形式の階段です。
専門的なことはわかりませんが、エントランスの左右対称性を尊重すると
踊り場で二手に分かれるこの方式になるのでしょう。



階段の上に上がって踊り場を見たところ。
こういうデザイン重視の配置は戦後の公共の建物にはほとんど見ることはありません。 



海軍時代から毎朝規則正しく行われてきたのであろう掃除のモップ跡は、
それ自体が模様となってもう床に定着しています。



エントランスから見た左側。
「情報通信班」という部屋が見えます。
こちらの床は大理石ではないようで、経年の使用によって
床がところどころ剥げてきてしまっています。

昭和14年の海軍通信学校から米軍の進駐、警備隊発足以降自衛隊と
78年間絶えることなく使用された今日の姿です。

今右側にあるのは昔事務室で、廊下の左には主計長室、士官学生食堂、
士官学生室などがありました。



この建物内には、昔皇族の方々が来訪されたとき専用の応接室があります。
ごく一部を除いて、昔のまま保存されているのだそうです。
中が透けて見えないような模様ガラス、ドアの上の通風窓などに時代を感じます。




入って部屋の右手に両開き式の扉がありました。
扉の前にはカーテンと大変凝った作りです。

ここにはかつて緑のフェルト部分に御真影が飾られていました。



飾り彫りの真ん中には菊の御紋が施されていましたが、
進駐軍の接収時代にそこだけが削り取られています。



実は天井の桟にも菊があしらわれているのですが、
さすがのGHQもこれらを全部削らせるのは大人気ないと考えたのか、
目につかないから構わないと考えたのか、削除を免れました。



徹底的にそれを排除するのであれば、そもそもこの手織りの壁布は
どうも菊をかたどっているようなのでこれもはがさねばなりません。
アメリカ人が、当時の日本の織物技術の粋でもある高価な布まで引っぺがすような
執念深い性質を持っている民族でなくてよかったとおもいました。



室内で目を引く大きな写真は、ペリー艦隊の旗艦となった「サスケハナ号」が
日本来航を終え、日本の鎖国を破るという「戦功」を立てて帰ってきた直後、
アメリカの軍港に停泊しているところを撮ったものです。

もちろんこの写真は戦後寄贈されたものであり、御真影のあるこの貴賓室には
海軍基地時代には人が入ることもできませんでした。(掃除する人除く)



今では普通に応接室として使われているようです。
内装は全て当時のままでしたが、近附いて確認すると、窓枠だけは取り替えられていました。
内装の色に合わせてあるものの、素材的にあまり上質なものではありませんでした。



戦後になって応接室に来訪した人々の写真が飾ってあります。
一番上の左、桂小金治と関千恵子が自衛隊員のような格好をしていますが
映画のロケに使われたのでしょうか。

米軍の将校が訪れた時も、御真影の部分は扉を閉めてあります。



倍賞美津子さんは基地訪問の企画か何かのようです。
そして右写真の「小泉防衛庁長官」とはあの、小泉元首相のパパであり
小泉兄弟のグランパである小泉純也ですね。



重厚なシャンデリアも当時のままのもの。
特に文化財とかの指定もされていないので、自衛隊の施設として
普通に使われ普通に補修しながら今日までこの姿を保ってきたのはすごい。



「映画のロケなどに使われたりしないんですか」

と広報の方に伺うと、それは聞いたことがないということでした。
こういう感じ、戦争映画に使えそうだけどな。
これは二階の廊下で、赤絨毯が敷かれているのは、昔、この階には
貴賓室を挟んで校長室、教頭室があり、教官控え室や副官の待機室があったからです。
この反対側の廊下には士官の寝室もあり、ここで寝起きしていたようです。



昔「士官学生室」であったところの廊下に切り出された小窓が。
なんとこれ、電報の受付窓口なんですね。
今時メールという一瞬にして通信可能な手段があるのに電報?
と訝しく思ってしまうのですが・・・。

「お願い」のあとは、

秘密区分『秘』以上の電報受領に際しては身分証明書の提示
及び配布簿に所属氏名等を署名押印のうえ受領されたい
通信所長

とあります。
電子メールはハッキングの恐れがあるのでいまだに重要文書は
電報でやりとりすることもあるってことなんでしょうか。



このあと一同は外に出てまたしても構内の碑を見学。
昭和26年の「第6連隊第3大隊」駐屯記念。
大隊が駐屯したくらいでなぜ石碑などを建てるんでしょうか。



甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地

予科練はご存知のように霞ヶ浦で訓練を行っていましたが、
電信術を取得するためにはここに出張してきていたということらしいです。



ちなみに後で見学した資料館にあった、記念碑建立記念の玉。



100と書かれているのは現在女子隊員の隊舎となっている棟。
この建物だけ7階建と高層なので、エレベーターが設置されています。
基本自衛隊の建物(宿舎)は5階以上でないとエレベーターはありません。
基本4階までは歩いて登るのが自衛隊。

ちなみに女子寮として作ったこの建物ですが、女子隊員がそれほどいないため、
2階までは男性隊員の居住区があり、男性がエレベーターに乗ることは絶対禁止です。



こちら男性隊員の居住棟。
基地に隣接した官舎もあります。



参加者がこのポスターを見て久里浜駐屯地が敷地を
地元の町内会と合同で行う体育祭に開放しているのに驚いていました。

この基地にかかわらず、自衛隊の駐屯地や基地というのは広報を兼ねた
地元民との交流を大変大事にしています。
横須賀基地を開放して大々的に行われたあの伝説のカレーグランプリもその一つ。

余談ですが、あのカレーグランプリの混乱は、さすがの海上自衛隊も
予想をはるかに上回るものであったらしく、もうカレーはとっくに無くなっているのに
そのとき基地から並ぶ列は横須賀中央駅まで伸びていたという事態にまでなり、
それに懲りたのか、それとも地元警察から自衛隊に指導が入ったのか、
横須賀地方総監部では今後一切カレーグランプリは行わないこととなりました。(噂です)

その後行われるカレーグランプリは、自衛隊が出品するものではなく、地元の
海軍カレーなどを出している会社の出品というものばかりです。

もしあれが最初で最後の艦艇カレーを食べ比べできる機会であったのなら、
それに参加できた人は大変ラッキーであったということになります。

わたしは並ぶのが面倒というだけの理由で結局カレーを食べないという、
後から考えるととんでもなく勿体無いことをしてしまいました。



久里浜基地の横には、すぐ近くの久里浜に続く平作川が流れています。
砂利や土石を積む船などが係留されていました。

 
老舗デパート旅行ツァーで行く自衛隊基地見学、続きます。

 


特攻勇士の像〜京都護国神社を訪ねて

$
0
0


前回の滞在から2週間しか経っていないというのに、
またまた京都に行ってきました。
定期的に仕事関係で京都に用事があるTOがこちらで着々と
ご縁を結んできた結果、顔なじみの料亭旅館がふえて、その関係で
一見さんお断り的なお店にも顔が効くようになってきたのですが、
今回泊まった町屋はそんな伝で紹介してもらったところです。



前に見えているのは産寧坂(三年坂ともいう)。
小路を入ったところにあって、元々はオーナー一家がこの二階に住み、
一階はうどん屋さんに貸していたのだそうです。



町屋ホテルを営業し始めてまだ間も無いということで、施設も前回に続き
ほぼ新築の状態。



若いオーナーなのでとてもおしゃれな感覚で設備が整っていました。
部屋にはiPhoneが供えてあり、フリーWiFiとともに持ち出し可能です。
最低宿泊単位が2日ということにしてあるので、これが奇しくも
「中国人よけ」になっているということでした。

やはり現地の観光業の人たちは彼らの恩恵を受ける受けないが二分され、
どちらかというと否定的・迷惑とする派が多いようでした。
彼らのマナーが悪く雰囲気を壊すので、それで欧米系観光客が減っているそうです。



町屋の一階はカフェ&レストランになっていて、朝7時半から4時までの営業。
早速お昼ご飯をいただきました。
ハンバーグがついて860円、ハンバーグなしだと600円台で食べられます。
オーナーはお料理上手で、これもすべて自分で作って供しています。



荷物を降ろして少し休憩してから外に出てみました。
景観条例で電柱の建て方にはやたら厳しい京都ですが、
こういう光景が見られることもあります。



前にも遠目に写真を撮って紹介したことがある油そば「ねこまた」。
今回こそはと思いましたがまたもや食べ損ないました。

よく見たら猫の尻尾が割れてますね。



これが現在の京都産寧坂の現状でございます。
アジア系の観光客と修学旅行の学生で芋洗い状態。
こんな京都、京都じゃないやい!ということで欧米系が減っているのかと。



着物を着ている人がやたら多いですが、このうちの8割が
実は日本人ではないということをわたしは現地で確信しました。
本来の商売でやっていけなくなった京都の着物屋が、軒並みレンタル着物の店に
鞍替えし、安物の着物を着付け・ヘアセット付きで提供しているのです。

それはいいのですが、町屋オーナーによると、競争によって価格破壊が起こり、
最初は5000円だったのがじわじわ下がって今や4千から3千円台になり、
必然的に着物の安物度がアップしていっているそうで、夏場は浴衣でまだましなものの、
冬になるともう眼を覆うような安物の着物をセーターやズボンの上に巻きつけて、
足元は運動靴やブーツという魑魅魍魎の手合いが徘徊しているのだとか。

そして自撮り好きの彼らは人のうちの玄関でもどこでも、植木や玄関戸に
持たれたり座ったりしてポーズをキメて写真を撮るので、民家の人は大迷惑。
ひどいのになると民家の玄関をガラッと開けて入って来るので、驚いて
出て行ってくれ、と追い出したりするのですが、彼らは全く悪びれず、

「見てみたかったから」「中の写真を撮らせろ」

などといった調子で、ほとほと観光地の住民は困り果てているのです。
清水坂近辺には、大きく「写真撮影禁止」と中国語で張り紙をしている家が
結構あるのにわたしは気がついていましたが、これは、そういう中国人に

「写真を撮られるのが嫌なら張り紙をしておけ」

などと実際に言い返された末の対策だということがわかりました。



人が通らない小路はまだ往年の京都の静けさを保っています。



なんとこの界隈にジブリショップが二つもありました。
そのうち一つは巨大トトロと写真を撮れるコーナーあり。
カップルで来ていたドイツ人がメイちゃんのぬいぐるみと写真に納まっています。



この後、二年坂を下って歩いていると、人力車のお兄さんに声をかけられ、
ふと出来心で乗ってみました。
大谷祖廟の前に来たとき、ふと、父が大谷本廟に分骨していたのを思い出し、
(ふと思い出すことではないですが)お参りに行っておこうと思いつきました。
(思いつくことでもないけど)



観光の人力車に乗ったのは初めてです。
車夫のお兄さんは、本業太秦の役者だけど売れないのでこのバイトしてるのでは、
というくらい整った顔立ちのイケメンくんでした。

人を乗っけてよくあんなに走り回れるなあといつも感心していたのですが、
さすがに長い坂道ではこうやって後ろを向いて解説を(するふりを)しつつ、
そうとわからないように休憩を取りながらやっていることがわかりました。



さすがに重労働をこなしているだけあって細身でもすごい筋肉です。
きっと腹筋なんかも板チョコみたいに割れてるに違いない。




人力車は長楽館の前まで来ました。
この時の車夫くんの説明で初めて知ったのですが、長楽館は明治時代
「煙草王」と呼ばれた実業家、村井吉兵衛の京都別邸だったそうです。

煙草の行商から財閥を築き上げ、煙草販売が専売公社になったことで
さらに巨万の富を得たそうですが、村井が死ぬと財閥は解体しました。
よほど傑出した人物だったようですが、一代限りの栄達だったんですね。



何度かお茶を飲んだこともあったのですが、今回裏手を回って、
初めてここがホテルになっていることを知りました。
よし、次の目標は長楽館宿泊だ!



大谷祖廟でのんびりしていた、気品を感じさせる猫さん。



猫といえば、二年坂で猫を散歩させていた人(というか散歩させられていた猫)
を見ました。
猫がおとなしく散歩の縄(ハーネスだった)に甘んじているのを見たのは
わたしは生まれて初めてかもしれません。

彼女?は観光客の注目の的となり、「キュート!」「アドアブル!」と
盛んに写真に撮られていました。



五重塔の正式名は法観寺・八坂の塔というのだそうです。
592年建立と言いますから、もう1500年近くもの間、
京都のランドマークタワーであり続けていたというのがすごい。



晩御飯は、二年坂を下りきったところの「おめん」でいただきました。



観光地だからとあまり期待せずに入ったのですが、京都の料理屋侮るべからず。
息子が単品で選んだこのローストビーフなど、絶品と言って良いかと。
ローストビーフの上にはベリー系のジャムが乗っています。



わたしの選んだセットの初鰹のたたきも薬味たっぷりで文句なし。
メインは冷たいつけうどんで、きんぴらとともに食するものでした。



どこから見ても良く見える上、いまは夜になるとライトアップまで・・。
ライトアップがこのたびLEDライトに変えられ、それによって

消費電力は約51%削減となったそうです。めでたい(適当)



さて、わたしは前日人力車に乗る前に、ここに護国神社があるのを
きっちり確認していたので、家族を誘って参拝することにしました。

石碑に書かれた正式名は「京都霊山(りょうぜん)護国神社」です。 

靖国神社の講座では靖国神社の創建にいたる歴史を学ぶのですが、それによると
靖国神社に先立ち、たとえばここ京都に、明治維新の志士たちの御霊を慰めるために
創建されたのが「招魂社」「護国神社」です。

元々は1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇によって

維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、
京都・東山の霊山の佳域社を創建せよ

との詔・御沙汰が発せられたのが始まりです。
それに感激した京都の公家はじめ、山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が
相計らってここ京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが
神社創建のはじまりであり、招魂社(国家のために殉難した英霊を奉祀した神社)
であるということです。



参道沿いにはかつて国家的賓客を何人も迎えたことのある有名な

「京大和」 

がございました。
日曜なのに人のいる気配がないので廃業したのか、と思いましたが、季節限定、
何日かだけ完全予約制で営業しているそうです。

それよりとなりの翠紅館という、志士たちの溜まり場であったところが
廃墟のようになっていたのが気がかりでした。



護国神社に登っていく参道には「京都国防婦人会」が奉納したという証が。
これらにはほとんど昭和14年の年号が記載されていました。

当神社の歴史によると、支那事変をきっかけに、祀る魂を「志士たち」
から広く解釈し

「国難に殉じた京都府出身者の英霊」

としようという運動が起きたのだそうです。
このため霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営し、
昭和14年4月1日、内務大臣布告によって

京都霊山護国神社

と社号が改称され、今日に至ります。



戦後、ここには京都府出身の大東亜戦争の英霊が祀られるようになりました。
GHQの占領下においては、わざわざ「京都神社」と名乗って、
アメリカの干渉を避けていましたが、独立と同時に名称を元に戻しています。



昭和14年に建立されたという神殿。
靖国神社と同じく、護国神社の御祭神は「国の英霊」です。

坂本龍馬を始め、中岡慎太郎、頼三樹三郎、高杉晋作ら幕末勤王の志士1,356柱、
明治以降の日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦死者を合わせ約73,000柱の
命(みこと)が、即ち神様としてここに祀られているのです。

靖国神社は戦後の自衛隊の殉職者を受け入れませんが、ここには京都府出身の
自衛隊の殉職者碑もあって、彼らの御霊もまた御祭神となっていました。



京都霊山護国神社の神紋は「桜に菊」。
菊の紋をいただいていること即ち、明治天皇のお計らいによって建立され、
戦前は社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきたという名残でもあります。



冒頭の「特攻勇士の像」は、平成24年と比較的最近のもので、
靖国神社の遊就館内に事務局を置く

公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会

によって制作されました。
彼の姿は陸海軍どちらでもなくどちらでもある軍服を身にまとい、
後ろは「零式艦上戦闘機の翼と翼に記された日の丸」だそうです。
(いでたちは飛行帽と飛行服の襟元などが陸軍のものです)

全国の護国神社に同じ像を建立していこうとの計画があり、現在は
16箇所ですが、将来的には全国52の護国神社全てに像を建立するのが
最終目的であるということです。


後半では、ここにどんな戦いの御霊が御祭神として祀られているのかを
見ていくことにしたいと思います。



 

徳川埋蔵金と小栗忠順〜横須賀歴史ウォーク

$
0
0

さて、博物館の展示物の写真を撮りまくり、さらには
お弁当を持ってこなかったため向かいの市民ホールのレストランで
昼食をとるという充実しすぎる昼食休みの時間を過ごしたわたしです。
決められた時間に集合場所にいくと、そこから午後のツァーが始まりました。



レストランの帰り、文化会館の催し物のポスターを撮ってきました。
地元のスナックがお客様のカラオケ大会(聞いたことない演歌歌手のステージあり)
に中ホールを借り切るというような催しも行われております。
横須賀市民には何かと思い出深いホールだそうで、ここで成人式を迎えた
という市民もたくさんいるのだとか。

ボランティアの案内係のおじさんは、この文化会館の説明をするのに

「コロッケとかね。浅丘ルリ子なんかもくるんですよ」

へー、と一同が聞いていると、しばらく話してからまた

「浅丘ルリ子もくるんですよ」。

おじさん、浅丘ルリ子のファンだったみたいです。



現在文化会館のある土地は、昔昔海軍か陸軍の病院だったと
このときガイドさんが言っていたような気がしますが、
海軍病院は米軍基地のあそこにあったし、陸軍病院は
たしか上町の、幼稚園になっている教会のちかくにあったし・・・。

聞き違いかな?

ちなみにおじさんの後ろにあるものは、壊れた藤棚だと思っていましたが、
こうしてみると芸術作品のつもりのようです。


ここには小栗上野介忠順と栗本鋤雲の石像があります。(冒頭写真)

栗本鋤雲については以前「オグリンとペリリン」という(ような)題の
ログで触れたことがあります。
フランス語堪能だった、ということで、こんなおじさんが
「ジュ・マ・ペール・ジョウ〜ン」とか「セ・ブレ?オーララー」
などと言っていたとはとても想像できない、などとあほなことを書きました(笑)

こうしてオグリンとジョウンが並んでいるのはそれなりに訳があって、
勘定奉行と外国奉行という立場で知り合った二人は大変親しく、
小栗は栗本鋤雲を通じてフランス公使との繋がりを作り、製鉄所の建造計画に際し
具体的な提案を練り上げたという縁があるのです。

ちなみにこのとき「どうして技術協力をフランスに仰いだか」なんですが、
当時アメリカは南北戦争で国が疲弊しており、よその国に構う余裕がなかったからです。

この前でボランティアの解説員が、

「小栗忠順は”無実の罪で処刑された”なんて書いてあることがありますがね、
無実ってことはないんですよ。
徹底抗戦を唱えたというのは当時”罪”だったんですから」

というので、わたしはごもっとも、と頷いておりました(笑)
小栗は戊辰戦争の後、旧政府軍の側で徹底抗戦を訴えていました。
このとき小栗の提案した奪還作戦をすでに恭順に決心が傾いていた徳川慶喜は
退け、小栗を疎んじて罷免してしまいます。
ご存知のように江戸城は無血開城され、徳川慶喜も処刑されませんでしたが、
戊辰戦争後には大量の藩主や家老が切腹したり斬首されており、要するに小栗も
勘定奉行という要職だったことで同じような目にあったにすぎないのです。

戦争に負けた側が首を取られる、というのは昔の戦争では当たり前で、
無実だったとかそうでなかったかは全く関係ない話です。

ところで余談ですが、、買った側が負けた側を裁いた東京裁判は、
事後法だとか単なる政治ショーだとかいわれて後世の評価は高くありません。
要するに東京裁判も「責任者切腹」ということは最初から決まっているのに、
裁判はかたちだけっていうのが最初からバレバレだったわけです。

戊辰戦争までの日本のように、負けたから切腹ね、とばっさりやっていたほうが
「勝ったほうが負けたほうを裁く」なんていう欺瞞より、わたしに言わせると
なんぼかマシ、ってもんです。

それはともかく、オグリンが「無実だった」という意見ですが、

「何も悪いことをしていないのに・・」

という意味に限っていうと、決して間違っていないとは思います。
東京裁判で処刑された7名が「無実だった」のと同じです。
そして逆もまた真なりとするならば、東條英機以下7名は

「無実ではあったが戦争に負けたので処刑された」

ということになりますね。 


ちなみに新聞記者でもあった栗本鋤雲ですが、515事件で暗殺された
犬養毅が新聞記者時代は栗本の部下だったということです。



ところで、話がどんどんと膨らんでいくのですが、
小栗上野介忠順の死には、ある疑惑がまつわっていました。

徳川埋蔵金です。

1868年、戊辰戦争の結果、江戸城はついに無血開城をみました。
明治新政府は、徳川幕府が運用していた「幕府御用金」を
自分たちがそのまま使ったる!と意気込んでいました。
(何しろ彼らにはお金がなかったのです)

ところが蓋を開けてみれば城内の金蔵はからっぽ。
新政府は、御用金を幕府が隠匿したと判断し、埋蔵金探しが始まりました。

「埋蔵金」・・・・
あああ、なんか今すごく「民主党」という言葉が浮かんできたんですけど。

そういえば、民主党も政権交代(無血開城)したとき、
子ども手当の財源を「埋蔵金」で賄おうとしてましたよね。
今まで政権の座にながらくいた自民には隠し金があるはずだ!として
それをあてに政権公約したりしてました。

会計とか帳簿とかの実務経験のない連中が、マスコミに乗せられて
年90兆円も埋蔵金があるはず!と騒いでいたわけですが、彼らは野党時代

●利権が絡んだ控除関係を潰せば財源が出てくると思っていた

●毎年繰り越されている特別会計の余剰金が使えると思った

●実は政権を取るための空手形で本人たちもあてにしていなかった

のではないかといわれています。
単に政権をとれば、どこからかお金が現れると信じていたフシもありますが、
結局どこからも「埋蔵金」は出てこなかったので、2010年度の予算が組めず、
あの悪名高い事業仕分けを蓮舫と枝野にやらせることになりました。

もちろんそんなもので埋蔵金から予算に入れることにしてた4兆円強が
生み出せるはずもなく、この事業仕分けはいたずらに民主党に対する反感と
特に日本の文化破壊という観点から国民の嫌悪を買い、得られたものは
蓮舫が得意げに言い放った

「2位じゃダメなんですか」

というあの象徴的な名言だけだったというわけです。
民主党がわずか3年で国民から見放されたのは、結局この事業仕分けに象徴される
経済さえなんとかできれば国民は大人しくなるだろう、という低い成功目標であり、
そのために文化保護・体育振興予算を削ったり、勝手に国宝を韓国に「返還」したり、
あげくは外国人参政権を推進しようとしたりしたからに他なりません。
第一、政権公約を何一つ実行できませんでしたしね。

ところで、民主改め民進党は参院選のマニフェストを一般公募したりしていましたね。
党の政権公約までポピュリズムに走るんかい!と思っていたところ、
幹事長のツルの一声で一般公募はやっぱりなし、ということになりました。

マニフェストを決める方法も決められない党に何が決められるというのか(嘲笑)

というわけで、でてきた公約というのは

最低賃金(時給)を2020年までに全国平均で1000円に引き上げる
児童扶養手当の第2子以降への支給額を一律1万円に増やす
給付型奨学金の創設

・・・デジャブかな?
それとももう政権取るつもりない(だから守れない公約もしちゃう)
ってことなんでしょうか。 

結局、共産党と共闘してしまうことによって、実は政権を取っていた時以上に
彼らの成功目標は低い(というか目標は政権を取ることだけである)ことが知れ渡り、
争点を安保法案の廃止にしてしまったあたりで政治センスどころか
選挙に勝つ気すらないらしいということが露呈されてしまっているわけですけど。



さて、民進党の話はこれくらいにして、徳川埋蔵金です。
小栗上野介忠順は、徹底抗戦を唱え、それが慶喜の不興を買い
罷免されてのち故郷の上野国(あ、だから上野介か!) 、群馬県の
権田村に身を隠していました。

小栗が勘定奉行だったことから、彼が埋蔵金の行方を知っている、
もしかしたら彼自身が埋蔵金を持って逃げたのではないかと噂が流れ、
その噂には尾ひれがついて

「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」

とまことしやかに証言するものまで現れます。
江戸城が無血開城したのに、戊辰戦争の敗者と同じく小栗が斬首刑になった、
ということも、その噂に信憑性を与えることになりました。
(もし追っ手がそれを疑っていたら小栗を殺してしまうのはおかしいんですが)


その埋蔵金については、

●幕府の将来を憂慮した大老、井伊直弼による計画だった

●埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両
(勝海舟が日記に軍用金360万両があることを記していた)

●小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた

と想像されていました。 
赤城山中からは実際に民家の井戸などから黄金の権現像とか、銅の皿とか、
直径20mの石灰でできた亀とか、同じ大きさの鶴とか、帳面とか、
とくにそんな大きさの鶴亀をどうやって小栗が運んできたのか、とか
なんの為に井戸に捨てたのか、とか真顔で問いただしたくなるような物証もあって、
当時、赤城山中で宝探しを試みる人々がたくさんいたという話です。 

なんか戦後の「M資金」という言葉も浮かんできますが、今日はやめます(笑)

しかし、それらの探索によっても埋蔵金らしいものは出てこないので、
今度は「赤城山中はダミー説」がでてきます。
実は赤城山は囮で、実は別の場所・・・・、

日光山内(東照宮とか) 奥日光の男体山や中禅寺湖 赤城山の近く 榛名山 妙義山 足尾銅山の坑道 全国各地の東照宮

にあるという説。
もうこれだけ拡散したら探しようがないだろって思いますが。 
しかし、やっぱりどこからも埋蔵金らしきものは出てきませんでした。

しかしそもそも末期の徳川幕府に埋蔵するようなお金があったと思います?

江戸末期には「安政の大地震」といって、江戸を中心に大規模な地震が
頻発し、(そのうち宝永の地震は南海トラフが震源となったもの)
これが倒幕運動に加担したと後世の歴史家が言うくらい、
幕府の財政は当時枯渇しきっていたといわれているんですよね。

だいいち埋蔵金があるのなら、この時期に活用していたはずです。
というわけで民主党ではないですが「埋蔵金なかった」も根強いのだそうです。

しかしところで万が一、あなたがグンマーの人で、赤城山中で
埋蔵金を偶然見つけてしまったとしたら、どうなると思いますか?

発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、
直ちに文化庁長官宛に書面で報告しなければならない
その際発見者には現状維持がもとめられる

それが徳川埋蔵金だった場合、文化庁などにより発掘調査が施行される

この時点で、発見した人はその所有権を失うってことですかね。
そして調査の結果それが徳川幕府埋蔵金だということになった場合はどうなるのか。

大政奉還以降の取り決めによって徳川幕府の資産は
全て明治新政府に引き渡されることになっている
つまり所有権は現在の政府にあると認定される

遺失物法の規定により埋蔵金の5 - 20%に当たる報労金が支払われる
埋蔵金は国庫に帰属し、文化財保護法の規定に従い管理される

遺失物扱いかい(笑)
それでは調査でもそれが埋蔵金であるという確証が得られなかった場合は?

文化財保護法第59条の規定により、遺失物として
所管の警察署長より公告が為される

やっぱり遺失物扱い(笑)

所有者の申し出が無い場合、文化庁の機関が発掘した場合は
埋蔵金の2分の1に相当する額の報償金が支給され、埋蔵金は国庫に帰属する

教育委員会が発掘した場合は埋蔵金の額に相当する額の報償金が支給され、
管轄する都道府県に帰属する

所有者の申し出は・・・多分ないんじゃないかな。しらんけど。

つまり、徳川埋蔵金であった場合は見つけても国に返さなければならない。
あてにするとしたら5〜20%の慰労金というやつだと思いますが、
この程度の報酬であればきっと費用は持ち出しになってしまうでしょう。


テレビの番組以外では、歴史のロマンを求める向きや、
学術的な研究のために私費を投じるような人しか、この宝探しに
真剣に参加しようという酔狂な人は今後も出てきそうにありません。



続く。

 

気の毒なおりょうさん〜横須賀歴史ウォーク

$
0
0

ときとして歴史ガイドにも載っていないような史跡を紹介するのが
この「歴史ウォーク」の使命でもあります。
とくに、坂本龍馬の妻であった「おりょうさん」、本名

楢崎龍(西村ツル)

がここに住んでいたとかここで死んだとかいう場所は
なんのことはない今現在普通の民家が建っていて、案内の人も
住人に配慮して声をひそめるといった風に気を遣っていました。

そりゃ、定期的に老人の団体がやってきて自分の家の写真を撮ったり
前で佇んでいたりしたら誰だって嫌ですよね。
わたしもだから「ここが」といわれてもその家にカメラを向ける気には
到底ならなかったわけですが、 そもそもおりょうさんって、何?

いや、何って坂本龍馬の奥さんだった、ってことくらいは知ってますが、
結婚してからわずか3年で龍馬は暗殺されてしまったわけで、
しかもその後、龍馬のつてをたどって知り合いを転々とし、
別の人と結婚して最後は酒浸りで死んだという人ですよね。

これについてはガイドの方が

「おりょうさんねー、最後は酒ビン抱えて呑んだくれていたそうですよ。
こんなこというとおこられちゃうんだけど、でも本当だから。
後から文句言ってくるんですよ『おりょうさんを悪く言うな!』って」

小栗忠順が「無実の罪」で処刑された、っていうのはおかしい、
というようなことを言っても、クレームがつくらしいですから、
まあそういうことをガイドがいうのを許せない!って人もいるのでしょう。
歴史上の偉人のイメージを壊すな、ってところでしょうか。
ところでこのついでにこのガイドさん、

「だいたいそんなこというならね、
坂本龍馬だって、偉人とか有名人って言う割に
案外皆何したか知らなかったりするんですよね。
実際も言うほどたいしたことしたのか、ってね」

と、おりょうさんどころではないクレームがきそうな発言もしていました。
まあ、これに関しては

「敵対していた薩摩藩と長州藩の間を取り持って同盟関係を結ばせた」

「勝海舟の門下生として海軍操練所の開設に奔走した」
(のちに海軍塾頭となる)

「大政奉還の原動力となり維新後新政府の綱領をつくる」

という立派な仕事を、しかも30歳そこそこでしているので、
どう考えても「たいしたことをした」としか言いようがないのですが。


わたしはそもそも坂本龍馬の伝記の類を読んだことがなく、
おりょうさんについても全くと言っていいほど知識がありませんでした。
で、ガイドさんが声をひそめながら

「死ぬ頃は呑んだくれていた」

と話をし終わった後、

「(おりょうさんは)どうやって食べてたんですか」

と聞いてみたところ、ツァーの同行者が

「結婚してたのよ」

と教えてくれたのでした。
結婚していたのに呑んだくれて孤独死、ってことは連れ合いに先立たれて・・?

と思って調べたら、おりょうさんの再婚相手、呉服商の若旦那だった
西村松兵衛さんという人は、おりょうさんが死んだ時もまだ生きていました。
この旦那という人もお人好しというのか、おりょうさん、酔っ払っては

「わたしは龍馬の妻だ」

といってからんでも松兵衛は離縁するでなく、それどころか
先だったおりょうさんの墓に、最後を看取った自分ではなく
坂本龍馬の妻としての墓を作ってやりました。
今横須賀市内にある彼女の墓の墓石には

「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」

と記されています。
これはなんなんでしょうねえ。
坂本龍馬と結婚していたから松兵衛は彼女を好きになったんでしょうか。


坂本龍馬の存在は明治の世になって忘れられていましたが、
1883(明治16)年、ジャーナリストの坂崎紫瀾が書いた小説で
その名前が一躍有名になり、安岡秀峰らがおりょうにインタビューしています。
泥酔して「わたしは龍馬の妻だ」といったのを目撃し書き残したのが安岡で、
そのインタビューに答える形で彼女は

「龍馬が生きていたなら、また何か面白い事もあったでしょうが・・」

などという、そのときの夫である松兵衛に対してなんとも失礼なことをいっています。
ちなみに松兵衛と結婚したとき、彼女は自分の母と妹の子を引き取らせ、
要するに3人で転がり込んで松兵衛に面倒を見させているんですね。

こういう経歴だけを見ても彼女に対する印象は決して良くないのですが、
加えて人望もなかったことは、龍馬の死後、彼女は夫の知り合いを次々と訪ねて
援助を頼むも、だれも相手にしなかったということにも表れています。

勝海舟も西郷隆盛も龍馬の未亡人ということで少しは援助したようですが、
龍馬の部下である元海援隊士の間では彼女の評判は悪く、
維新後に出世した者も誰一人彼女を援助しようとはしませんでした。

田中光顕(元陸援隊士で後に宮内大臣にまで出世)の回顧談によれば、
瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、
おりょうの処遇が話題になったのですが、妹婿の菅野覚兵衛にまで

「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」

と拒否されていた(wiki)ということです。
「品行が悪く」というのはいったいどんな行いを指していたのでしょうか。



さておりょうの名前、「龍」は決して偶然ではなく龍馬の龍です。
もしかしたらこれをきっかけに二人は仲良くなったのではないかと思われます。

美人の龍に坂本龍馬はぞっこんになりましたが、頭がよくも才気煥発でもない、
とくに秀でたところがないばかりか、恋人(のちに夫)の地位をかさにきるので、
龍馬の周りの人々、ことに海援隊のメンバーに嫌われていたそうです。

彼女は後年安岡のインタビューで、近藤勇が自分に横恋慕してちょっかいをかけた、
ということまで暴露したそうですが、こういった話を総合すると、
彼女は「女」であることしか取り柄のない凡百の一人に過ぎず、
坂本龍馬が男を見る目は一流であったけれど、女を見る目はなかったらしいとなります。

いつも命を狙われて、今日明日にも死ぬかもしれないと覚悟している男が
女に求めるものは、一時の安らぎと器量だけだったということなのかもしれませんが。



おりょうの住んでいたという住宅の写真は撮りませんでしたが、
その「終焉の地」、つまり息を引き取った家の路地は撮りました。
ロッカーがずらりと並んで大した風情ですが、この路地の右側に
その長屋があったという話です。

一同はこの路地を入る前にガイドからの説明を受けましたが、
前を通る時にはガイドは身振りだけで全員が無言でした。
やっぱりここも普通に人が住んでいますから。

で、この路地を向こうまで通り抜け、左に曲がると、



「おりょう会館」というのがあります。
そこには冒頭のおりょうさんのリアルな像があるのですが、
(なぜ頭の部分が切れているのかというと、おりょうさんの顔より
着物の打ち合わせのところに入れられた1円玉を中心としたからです)
このおりょうさんの顔、いったい誰をモデルにしたんでしょうね。 



これが確実に楢崎龍、晩年の中村ツルの写真。
この写真は彼女にインタビューした安岡が、

「彼女は今回写真を撮るのは初めてだそうである」

と言っているので、これが唯一の彼女の姿を伝える写真です。



ところが、こちらの写真も確か龍馬と結婚後、日本で最初のハネムーンで
訪れたという宮崎の温泉に飾られていました。

老年の中村ツルと同一人物であることをスーパーインポーズ法で調べ、
同一人物らしいということにまでなっていたのです。

まあ、美人の写真なのでこれならいいな、という期待というか願望が、
安岡の「これが最初の写真」という言葉をも無視させる結果となり、
今なお、お龍の写真というとこれが一般的になってしまっています。

ところが近年、この女性と同一人物の別のカットが古本屋で見つかりました。
また、別のところから、複数の芸者や華族の女性をセットにした組写真の中に、
この女性とみられるものが発見されたのです。

どういうことかというと、この写真は売り物であったということなのです。

当時写真は大変高価でしたから、庶民が何枚もポーズを変えて撮ることはありませんでした。
龍馬や勝海舟の写真ですら、そんなにたくさんあるわけではないのです。
つまりこの女性は新橋あたりの売れっ子芸者で、写真館が販売するために
撮影したものであるということがわかってしまったのです。

また名刺サイズで見つかった同一人物の写真には「土井奥方」とあり、
後に子爵土井家の妾となった芸者であることまで判明してしまいました。

しかし一旦広まってしまったこの美人=お龍説は根強く、というか
真相が分かっても、あえてこの写真をお龍のものだということにして、
そのうちそれが定着してしまいそうな気配すらあります(笑)

「おりょうさんを悪く言うな!」ではありませんが、歴史の現実よりも
物語としてロマンを見出したいのが大衆の常ですから、
これもまたいたしかたないことなのかもしれません。


さて、そしてこの謎の銅像のある「おりょう会館」ですが、なんだと思います?
なんと葬祭場なんですよ。

おりょう会館のHPのどこを見ても、この胸像についての説明がないので、
全くこの経緯についてはわからないままだったのですが、
なぜおりょう?しかも葬祭場に・・・・、と考えこんでしまいました。

これ、どう考えても、お龍さんがこの道向こうで亡くなっていたから、
としか理由らしい理由を思いつかないんですよね。
だとしたらなんかなあ、と彼女の決して幸せではなかった(らしい)
晩年とその死に方を思うと、微妙な気持ちになるのでした。


そもそも、お龍さんという女性は、坂本龍馬と3年暮らしたというだけで、
それこそガイドさんの発言ではありませんが、「何かをした人」でもありません。

寺田屋の遭難の時には、彼女がお風呂に入っていると外に多数の捕吏がいたので
慌ててお風呂を出て二階に急を知らせに行ったということはありましたが、
これも妻や身内であれば誰だって同じことをしたでしょう。

また彼女は龍馬が生きている間、彼が何をしているのか、何をしようとしていたのか
興味もなかったし全く知らなかったといいますが、それなら寺田屋の時のように
夫が命を狙われていることについて、どう理解していたのでしょうか。

そんな彼女が夫の業績を初めて聞かされたのは明治新政府からだったそうで、
これが本当ならば、彼女はこのときさぞかし驚いたことと思われます。



それにしても、たまたま坂本龍馬というビッグな人物に見初められて
結婚していたがため、若い時にはイケていただけの「普通の女」だった彼女は
その人生をいたずらに不幸なものにしてしまったという気がしてなりません。

夫亡き後は自分の愚かさのツケを払う形で皆に疎んじられ、転々とし、
やっと自分の母も含めて身を引き受けてくれる優しい男と知り合ったのに、
彼女の思いはおそらく自分の人生の絶頂期であった龍馬との3年にしかなく、
相手を本当に愛するということはできなかったのではないでしょうか。


そして死んでなおのち、偉人の妻であったばっかりに、その気質の
良くなかったことや、晩年の酒びたりの生活までを語り継がれ、同情される。

まことに運が悪いというか、気の毒な女性だなと思います。
 

「龍馬はわたしの夫だ」を目撃されたころ、彼女は58歳。
美容医療もエステもない時代、かつての美貌はもはや消え失せていたでしょう。
たった3年だけ夫だった男の面影をアルコール依存症による幻覚に見ながら、
彼女は彼岸を渡るその日までを泡沫(うたかた)のうちに過ごしたに違いありません。

輝ける日々、一流の男に愛されたことを人生唯一の誇りとして。


続く。



久里浜駐屯地見学〜通信歴史館

$
0
0

老舗百貨店のツァーで行く自衛隊基地見学、久里浜駐屯地の
海軍時代からある建物にある貴賓室の見学が済みました。

移動の間にも広報の女性自衛官に質問する人もいて、
雰囲気がツァーらしくなってきました。
久里浜駐屯地の見学の写真を検索してみたところ、ほかの写真にも
まさにこの陸曹長が写っていましたから、彼女は団体見学の際
広報として必ず案内を任されているようでした。

説明の合間に聞かれるがまま、自分の経歴などに話は及んだとき、

「わたしは通信ではトンツー出身なので」

とおっしゃったので、ふと

「今でもトンツーって”ノギトーゴー”で覚えるんですか」

と聞いてみたところ、

「そうですよ!ご存知ですか」

「ええ、知識だけですが」



陸曹長が次に案内してくれたのは構内にある歴史館。
当基地の海軍時代からの歴史的資料が展示されています。



記念館はかなりの広さで、こんな感じ。
手作り感漂う展示内容となっております。



説明がないのでいつのことかわかりませんが、制服から見て
昭和30年代といったところでしょうか。
最初にこの資料館は「通信参考館」としてオープンしたようです。
整備披露式の看板に付けられたティッシュのお花が時代を感じます。
このころは箱詰めティッシュなどというものもなく、「ちり紙」でしたが。



おそらく最初の「参考館」時代からあったであろう写真の数々。
でもこれどうみても陸軍の写真ですよね?
ここ久里浜は海軍基地として発足したのになぜ陸軍の写真が?

ちなみに右下の「サガレン派出員」というのは、
シベリア出兵時に、北部樺太占領及び軍政実施のため派遣された部隊で、
1920年(大正9年)7月に編成されて1925年(大正14年)5月に復員しています。
大東亜戦争時のシベリア派遣と違うとはいえ、5年もシベリアとはご苦労様です。



これもどう見ても陸軍さんですね。
一目で海軍とは違うとわかってしまう今日この頃。



「靴工場」「木工場」「電気工場」「縫工場」

学生の作業所を「工場」と称したようです。



「12階段前跳下り」の何がすごいといって、この運動のために
わざわざ12階段の跳び降り台を作ってしまったということでしょう。
下にはマットが敷いてあったことを祈りたい。


で、これらの写真ですが、どうも当時の神奈川県高座郡大野村、現在の
神奈川県相模原市南区にあった陸軍通信学校のものらしいです。
同じ通信学校つながりでここに資料が集められたのでしょう。



電動式電話器(電動式でない電話器って・・・糸電話?)による送受信、
受付を行い?自転車で配達させる、という一連の動きが開設されています。



これは野外での架線作業などでしょうか。
アンテナとなる柱を立てて脚立でその上に架線するというレトロなものです。
架線作業をしている人はまるで脚立の上で出初式をやっているようです。
帽子と軍服の感じから見て明治終わりから大正時代くらいでしょうか。




お食事中。
兵学校では狭いところで食事をするのに慣れるため、左手を下に置いて
右手だけで食事をした、と76期の生徒さんから聞きました。
陸軍ではそんな訓練すらする必要がないので普通に皆茶碗を持って食べています。

ところで、海軍式に皆が右手だけで食べるということになると、左利きの人は
自分だけ逆に箸を持つわけにいかないので、否が応でも右に矯正したんでしょうか。
昔は左利きは「いけないこと」となっていて、一般的にも矯正させられたそうですが。

アメリカ人は見る限り左利きが大変多いですし、日本でも最近左利きが多いなと感じます。



健康診断中。
内科医と歯医者が同じところで診察を行っています。
医師二人は白衣の下に陸軍軍服を着ていますね。



ここでやっと海軍の通信関係の写真になりました。
昭和20年6月に少尉候補生を拝命した兵科予備生徒、とあります。
「兵科予備生徒」とは海軍予備員のひとつで、
旧制高校在校・高等商船学校の生徒がこれに採用されました。

東京及び神戸の高等商船学校の生徒は、入学と同時に海軍予備生徒になり、
全員を兵籍に編入するということになっていましたが、戦争の拡大に伴い、
他の旧制高等学校の生徒に対しても選抜を実施し、合格者を予備生徒として
その学資は海軍が支給しました。



これらの写真の撮られた昭和20年6月という時期を考えると、
彼らは一般高等学校の予備生徒である可能性が高くなります。

彼らが予備少尉候補生となるのは卒業と同時で、予定では
1年6ヶ月の教育期間を経て予備少尉に任用されるはずでした。
ですからこの全員は少尉任官前に終戦になってしまったということになります。

それにしても、一般高校生徒であるせいか眼鏡着用率が高いですね。
先日の練習艦隊壮行会の写真をあげたところ

「眼鏡が多い」

という感想を数箇所からいただきました。
中には「ジパングの菊池に憧れた人が多いとか?」という人もいましたが(笑)
昔は視力の悪いものは兵科に行けなかったというだけのことでしょう。
この予備生徒もそうですが、機関学校の写真なども眼鏡着用率が高く、
特に最近目が悪い人が増えたということはないと思いますが、どうでしょう。



やっと見慣れた海軍の写真が出てきました。
これは夜の「温習時間」、つまり自習時間です。
実はこのツァー後半では防大見学というのが組まれていたのですが、
そのとき改めて彼らの1日の学生生活を聞いたところによると、
今でも兵学校などで行われていたこの夜の自習時間があるそうですね。

学校単位で見ると、防衛大学校の学生というのは日本で最もよく
勉強している若者ではないかととわたしは思いましたよ。 



これもセーラー服がいるので海軍通信学校の実習風景でしょう。



左がわの糸巻きみたいなもの一式は

海軍36式無線電信機(明治35年)

旗艦「三笠」を始め戦艦、巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、
仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備されました。

日本海海戦では仮装巡洋艦「信濃丸」が「アリョール」を発見、
更に接近し敵大艦隊の存在を確認、「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて
敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報が発せられました。


昔も書きましたが、この三六式無線を開発した安立電気、現在のアンリツも、
島津源蔵の島津製作所も、日本海海戦での勝利にその技術が大いに寄与しています。

そしてその右側は冒頭軍艦旗を昭和18年から形容していた旗竿です。
約7mあるヒバの一本木を使用したこの旗竿は、反り返ったりしないように、
背割り(芯を持っている木材の化粧面以外の一面に、
直径の約1/2程度の深さの切り込みを入れること。
乾燥前に行うことで乾燥による材の縮小で起こる「干割れ」を防ぐ)
を入れてあるそうです。

老朽化のため昭和40年に取り外されましたが、風雪にさらされた
野外の木材が22年保つというのは結構たいしたことです。



 
展示室にはこのように海軍と陸軍で使用された当時の通信機が展示されています。


続く。 

通信機器のいろいろ〜久里浜駐屯地見学

$
0
0

さて、某老舗デパートのツァーで行く自衛隊駐屯地見学の旅。

久里浜駐屯地の通信歴史館の展示物をご紹介していこうと思います。



といったものの、ここが通信学校だったということで、展示物はほとんどがこのような
通信機器の数々で、はっきりいってわたしには面白いというものではありません。

しかも、暗い室内で露出を上げすぎて説明の文字が飛んでしまい、
後から見たらなんなのかさっぱりわからないものばかりになってしまいました。

こちらは昭和18年製の「全波ラジオ」。
オールウェーブのことで、短波に対して全波です。

日本で放送が始まってから大東亜戦争が終結するまで、短波放送の受信は禁止されており、
少数の全波受信機が生産、輸入されていたといいますが、これは軍の設備で、
山中電気工作所、現在の山中電気工業が製作したものです。

山中電気のHPには、大戦末期の昭和19年には社屋が消失したことが書かれています。




右も受信機で、ヘッドフォンの形はコードが布で巻いてある以外今と同じです。



九二式受信機と書かれているこれ、黒板消しのようですが、
なんとこれがコイルなんですね。
この件に関してはわたしは設明を放棄いたします。

92式受信機

海軍特注のものらしく、ラバウルでもこれが使われていた様子が再現されています。



98式無線試験機器。
動作状態にある無線機器の電流の測定などをする機器です。



左から「真空管電圧計」。
その左、陸軍の機器で、「94式3号型特殊受信機」。
これは「諜報用」(つまり盗聴用?)であるということです。


短波は一般に禁じられていたと言いましたが、それは軍が使うからです。
これは「92式特受信機」。
昭和17年5月の製造プレートがあり、「日本無線電信電話通信会社」
と書かれています。

昔このブログで、日露戦争の勝因の一として、海底ケーブル、
いざ戦争となった時に遮断されてしまわない外国の手を借りないケーブルを
作る必要があったため、それまで大北電信会社(という名前のデンマークの会社)
に頼っていた海外通信網以外に、国産の通信網を作ったことがあった、
と書いたことがありますが、それがこの日本無線電信電話通信です。


明治34年にはすでに存在していた沖電気(創業1881年)が製作、
陸軍が使用していた有線の通信機。(右側も)



「94式3号甲無線機」。

通信距離は10キロで、人が背負って運ぶことのできる近距離用電話、
ということで昭和8年、当初は騎兵用に開発されました。
(騎兵用なら人が運ばなくてもいいのでは、ということはいいっこなし)



陸軍の歩兵用に開発された無線機。
歩兵だけでなく、砲兵、騎兵、工兵と大量に生産され使われました。
通信距離は10キロだったということです。



左、陸軍「99式飛1号無線機」。
移動式の無線通信機材で、航空部隊用に昭和14年制定されました。
航空部隊用、つまり航空機に搭載するものなので通信距離1000キロ。

単座の航空機無線機としては当時の最上級種でした。
むかーしうちにあった古い電気アンカのコードがちょうどこんなでしたが、
これが当時の最新機器であったとは信じられません。

その右側は今で言うところのGPS。
当時は「無線方向表示器」と称しておりました。

昭和12年から近接戦闘兵器として開発され、昭和15年に完成。
徒歩小部隊用に数十機生産されましたが、結局制式になりませんでした。

これが投入されていれば変わる戦況もあった・・・・のでしょうか。



陸軍が使っていた双眼鏡で、「98式砲隊鏡」。
兵隊さんたちは「蟹目鏡」と呼んでいたそうです。


塹壕などから敵陣の状況を見たり大砲の弾着距離を測ったりするのに使われました。
遠くを見るために作られているというのはわかります。



無線通信用 92式微光機。
微光機って、何?って感じですが、考えられるのは
手回し式で発電する省エネ型発電無線通信機でしょうか。



これも陸軍航空部隊用の通信機材。
「99式飛3号無線」



「電けん」ってなんでしょうか。
この写真から察するに、ツートンするときに打つものみたいですね。



「電けん」=「電鍵」(鍵盤の鍵)ではないかと予想。



海軍の「方向信号灯」(右)と受信点灯照明灯(左)。



昭和33年の機器があるところを見ると割と新しい真空管など。



もっとも「おお!」と思ったのが実はこの地図。
これなんだと思います?

実は久里浜駐屯地、通信学校時代はこのように地下道路が
まるで網目のように張り巡らされていたのです。



ふーむ、これってもしかして防空壕じゃなくて地下道の入り口?



地下通路の地図には「侵入可」などが記されています。
ただし、地図が作成されたのは昭和26年。
地下道を調査して記録した後埋めたのかもしれません。 




昭和41年の久里浜駐屯地全図。



なぜかソ連製の無線機なども展示されています。



これもソ連式野外電話機。
海自の技本から提供されたと書いてあるので、昔参考資料として
所持していたものかもしれません。



これら企業提供によるアメリカ製通信機器。



NEC太陽電池が。
この太陽電池というのを調べても出てこなかったのですが、
いまでいうソーラー電池の走りでしょうか。



海軍の軍服や短刀なども提供されたものがガラスケースに収められています。
右側の薄緑の軍服は第三種軍服といい、わたしも着たことがありますが(笑)
昭和19年に制定されたもので、もともと地上部隊のために作られたのを、
艦船が減少し、地上部隊が増えて、戦争末期には全員がこれを着ていたようです。



ソロモン諸島で収集された日本軍兵士の遺品の数々。
錆びた鉄カブト(銃痕あり)、銃ホルダーや底の抜けた水筒など。



硫黄島で採取されてきた硫黄となぜか「さそり」。
防衛大学校の学生は硫黄島研修で「砂や石を持ち帰るな」と言われるそうですが、
こういうものを持ち帰ることは大丈夫なんでしょうか。

ちなみに先日話した陸自某駐屯地の司令は自称
「霊感の強い」方で、硫黄島である地域に足を踏み入れた途端
激しい頭痛に襲われ、外に出た途端けろっと治ったそうです。
わたしもサイパンで全く同じようなことになったので盛り上がりました(笑)



七つボタンに襟章の翼。
当時世の若者の憧れの的であった予科練の軍服です。

ところで、海自航空機パイロットの養成にあたる小月教育航空群では、
今春入隊した第68期航空学生の女子学生(11人)から
予科練でおなじみ「七つボタン」の着用(試行)を開始しています。


海自は昭和45年に航空学生の制服としてすでに伝統の「七つボタン」を
採用していましたが、着用は男子学生のみとなっていました。
しかし、女子学生から「七つボタンを着たい」との強い要望があることや、
海自では女性パイロットも増えていることから、女子用「七つボタン」が
約1年間の試行を経て、来春にも正式採用の運びとなるということです。

「七つボタンを着用することで、男女問わず海自航空学生としての強い自覚が生まれ、
旧海軍から続く伝統を背負うことになる」

と小月基地広報は語っているとか。 




伝統は伝統でも、すっかり時代とともに「御法度」になってしまったのが
「軍人精神注入棒」の使用。
この手で彫ったとおぼしき精神注入棒には、殴られて気を失った新兵さんの
血と汗と涙、怨嗟の数々がしみ込んでいるのです。

アメリカの軍隊ではこの手の「注入」は行われませんが、そのかわり
その方がマシではないかというくらいの厳しい訓練と、鬼軍曹の
人格を否定して自我を崩壊させるほどの罵詈雑言で鍛えられます。

戦場で究極の非人間的な空間に放り込まれるのであるから、それくらいが
当たり前というのが映画「フルメタル・ジャケット」で描かれていましたが、
紳士的で民主的な自衛隊は、いざとなったらメンタルが果たしてもつのだろうか、
と妙な心配をしてしまいます。

何しろ、軍のリンチに近い「罰直」は、それを受けた兵士が
戦場など全く怖くない、むしろ戦場の方がまし、と言い切るくらいのものだったそうですから。


続く。 



伏龍特攻隊〜久里浜駐屯地資料館

$
0
0

老舗百貨店ツァーで行く自衛隊駐屯地見学、続きです。
ガラスケースの中の展示は通信機器以外は旧軍グッズがほとんどで、
元軍人が基地に寄付したものであろうと思われました。

この「鎮魂の譜 風ヨ雲ヨ」というのはもしかしたらどこかに建造された
慰霊碑のデザインかもしれません。
描かれているのは出撃しようとしている伊361潜水艦に搭載している
人間魚雷「回天」と、その上に立って手を振る回天搭乗員たち。

伊361は「潜輸大型」という艦種の輸送用潜水艦でしたが、甲板上の兵装を撤去し、
回天を前甲板に2基、後甲板に3基、合計5基を搭載するよう改装されています。

伊361、伊363、伊366、伊367が昭和20年3月にこの改装を施され、
回天特別攻撃隊に参加しました。



昔一度海底人間特攻である「伏龍特攻」を取り上げたことがあります。
その写真がここにあったので、「近くだったんですか」と案内の自衛官にきくと、

「ここからすぐ川下に行ったところに野比という海岸がありまして」

と返事が返ってきました。
「野比」という言葉の持つ印象はわたしにとって強烈なもので、すぐに

「ああ、あの野比ですね」

と返しました。
野比には当時海軍病院があって、そこに見習い医官で配属されていた方が
戦後、こんな談話を残しています。

夜の当直で休憩を取っていると突然分隊長から呼び出された。
「近くの海岸にある部隊が訓練中で急患が出たから急行して応急手当てをせよ」 
「現場でグズグズ人工呼吸などせず気道確保して連れてこい」

ただならぬ様子に「ただの溺れではないな」と察知しつつも1キロ先の現場に走ると、
上半身裸の患者が海岸に横たわっていた。
患者は意識がなく、口からあぶくを出して顔面蒼白であった。
隊長は

「海中で事故が起こり、引き上げたが呼吸をしていない」

口中に指を入れ口を開けようとするも、顔面の筋肉が痙攣を起こしている。
二人掛かりで腹部を膝に抱き上げて下顎骨を押し下げると、あぶくと水がでた。
さらに指を入れると、何かぬるぬるしたものが砂とともに触れた。

聴診器で調べたら微弱な心音が確認できるので酸素吸入を続けながら1キロの距離
砂浜を駆け足で病院まではこんだ。
見習い医官が関わったのはここまでで、手術室に運ばれた患者はその後亡くなった。

二〜三日後、分隊長から

「この海岸の先である特殊部隊が危険な訓練をしている。
全貌は厳秘事項なので詳細は語れないが、特殊な潜水訓練なので
今後も事故の起こる可能性がある」

という報告とともに訓練所の近くの待機を命じられた。


また別の医官は

毎日のように担ぎ込まれてくる年少の隊員、時には士官もいたが、
皆ものすごく苦しんで死亡していった。
見るに忍びない悲惨でショッキングな状況で、医師の卵であったわたしたちには
耐えられない事件でした。


と語っています。
この事故のほとんどは、海中で使用する呼吸のための器具には
非常に高濃度のアルカリ液(苛性ソーダ)が使用されており、
これが人体に入ることで口腔、食堂、気管の強アルカリによる化学損傷を起こし、
かなりの長い時間、苦しみながら死ぬというものでした。

苛性ソーダが人体に入った場合、現在でも的確な治療法はないそうです。

この訓練というのは、酸素ボンベとともに炭酸ガスを吸収するボンベを背負って
浮き上がらぬように鉛の靴を履いて海底を歩行するというものでした。
炭酸ガスの吸収のために空気清浄瓘に仕込まれていたのが苛性ソーダだったのです。

海底に「龍のように伏せ」、そして敵の陸用船艇を水中から爆破する、
というのが「伏龍特攻」の絶望的なまでに過酷な目的です。
隊員は飛行兵になるために予科練に志願してきた15〜6歳の少年たちでした。
(実際は中学3年から高校3年くらいの年齢幅があったらしい)

彼らは予科練の訓練を中止されて「どかれん」と自嘲する基地構築作業に
従事しているところを召集されました。
その際、彼らは一人一人がこのような質問を受けています。

兄弟はいるか。両親は健在か。

お前がいなくても家が困るようなことはないか。

この結果、たとえば1期の予科練生からそれぞれ60名が選抜されましたが、
不可解なことにほとんどが長男であったということです。
彼らは第71嵐部隊伏龍特攻隊に組み入れられ、14〜5名ごとに班が組まれました。

彼らは久里浜までよろい戸で外を見えなくした汽車で運ばれ、
その後野比の海岸にある木造二階建ての兵舎に歩いて入りました。
この兵舎は昭和44年取り壊されるまでここにそのままあったそうです。

転勤してすぐ、彼らは司令とともに銀飯にてんぷらなどという、
”今まで口にしたこともないご馳走”による会食を行いました。

彼らが自分がどのような特攻に従事するのか知ったのはそれから後です。
彼らのほとんどが、特攻に行くということは覚悟していても、
それは「震洋」か水中潜水翼艇「海龍」の搭乗員になるものと思っていました。

自分たちの使命が簡易潜水器を身につけて海に潜ることと明らかになった時、
彼らは一様に落胆したといいます。

「もぐらの次は潜水夫か・・・」

この時に彼らが受けた説明とは次のようなものでした。

「文字通り水際に伏す龍のごとく身を潜めて、頭上を通過する敵の大型船艇を
棒機雷で爆砕するのが目的である。

この訓練に熟達すれば、サイパン島付近まで運んでもらい、ゴム袋に入れた
兵器を持って海底から敵の背後に逆上陸を試み、奇襲攻撃をかけられる」


そのために彼らに与えられた簡易潜水器の部品の中で特にお粗末だったのが、
ほとんどの事故の原因となった「空気清浄罐」でした。
戦前ビスケットを入れて売られていた缶(ソーダビスケットなるものがあって、
”おじいちゃま”である犬養毅首相がこっそり自分用の缶を隠し持っていたことを
孫娘の道子さんが書き残している)のような薄い銀色の四角い罐で、
苛性ソーダの顆粒が詰められており、呼気が通過すると清浄されるという
大変原始的な仕組みのものでしたが、これがその薄さもあって破損しやすく、
そうなると苛性ソーダと海水が化学反応を起こし、沸騰して口元に逆流し、
これを飲み込んだが最後、食道から胃部にかけてやけどを負うことになるのです。

対策のために中和させる酸としての酢が船には積まれていたと言いますが、
酢を飲ませるまでもなく、そうなればまず間違いなく一命を落とすことになりました。

(この酢は、隊員が海底でたこを捕獲してきて酢ダコにするのにも使われたとか)

戦後わかったことですが、当時潜水に欠かすことのできない酸素が
調達することができないのに、上からどんどん訓練を進めろとうるさく言われ、
仕方なくこの原始的で危険な酸素ボンベを使用せざるを得ないという、
なんともやるせない現場の事情がありました。

民間の業者に依頼すれば調達できたのですが、当時馬堀にあった
横須賀酸素株式会社とかいう会社などは、酸素を譲ってくれと
頼みに行った先任伍長に堂々とタバコをねだり、リンゴ箱でタバコを渡すと、
どこから出てくるのかというくらい酸素を倉庫から出してきたということです。



呼吸の間違いも恐ろしいことに死につながる危険をはらんでいます。
訓練生は「鼻から吸って口から吐く」呼吸法を食事と睡眠以外の時間
ずっと続けることを教官から言い渡されていました。
三呼吸間違えると、もうガラスが曇り、次の瞬間には気を失ったという例もありました。

しかしまだまだ子供で箸が転んでもおかしいお年頃の訓練生は、
真面目にこの呼吸法の練習をしている同僚を見つけては、わざと無駄話をして
邪魔をしたりしてふざけたものだったそうです。

また、これは噂だけで誰も見たことがないそうですが、浮上中給気弁を閉め忘れると、
そのまま潜水服が膨らんで海上に勢いよく浮かび上がり、潜水服が破裂して死んでしまう、
という事故の危険性も訓練生たちは注意されています。


伏龍隊員の「意地」が原因で大事故が起こったこともあります。

浦賀海岸での訓練において、海底に2キロのロープを途中で折り返すように
岩礁に渡して底に沈め、ロープを伝って2000m海底を歩く実験をしました。
これだけの長い距離を歩くと酸素の消費量も多く、疲労度も相当になります。
しかし、訓練中の浮上は隊員にとって屈辱である、という風潮が隊にあり、
潜水中に危険を感じてもそれを克服しようとしてしまうので、
訓練そのものを中止してほしいと伍長が上に申し入れました。

しかしそれは聞き入れられず午後も訓練が強行された結果、
ロープを伝って帰ってこられた隊員は2名。
残りの8名は全員帰ってくることはありませんでした。
そのうち遺体が見つかったのは3名だけだったそうです。


靖国神社に奉納されている伏龍特攻兵のブロンズ像は、棒の先に機雷をつけた
「棒機雷」を海底で構えているところが再現されています。

この「棒」とは「竹の棒」なのだと聞いてわたしは戦慄しました。
5メートルのしなる竹を水中で扱うことが普通に考えてどれだけ困難か、
水の抵抗や潮流に流されて精度などまず確保できないではないかと。

しかも、生身の人間が海底に潜んで狙うことができるのは

「たまたま自分の頭上を通過した船舶のみ」。

これに使われる予定であった「5式撃雷」なる機雷は、大きさが
長さ56.6cm、直径24cm、頭部9cmの円錐状。
残されている設計図の作成年月日は昭和20年7月1日となっており、
量産体制に入る前に終戦になってしまったようです。

不幸中の幸いは、これを実際に隊員が使う場面が永久にこなかったことでしょう。

もし実戦に投入されたとしても、前記の理由からおそらく精度は低く
(さらに彼らの潜水服からは、肝心の自分の頭上を見ることはできなかった)
一人の機雷が爆破したら、同じ海域に潜んでいる同僚の持つ機雷が誘爆し、
なんの戦果も得られぬまま海域に潜む全員が爆死していたという可能性もあるのです。

正確なデータがあったのかどうかは知りませんが、訓練生の間では、
一つの棒機雷が爆発すれば、周囲50mにいる者は全滅すると言われていました。

海底で50m間隔に散開せよと言われても、刻々変化する潮流に押し流されながら
どうやって前後左右を50mの感覚に保つことができるのだろう、と、
当の少年たちは誰もが不信と不安、そして不満を心に抱え込んでいたと思われます。

この噂が広がったとき、教科書と教官の教えるとおり、自分が敵と対峙して
刺し違えて死ぬ覚悟ができていたはずの訓練生たちの少なくない者は、
他人の攻撃に巻き込まれたり誘爆して犬死にする可能性を思い、苦しんだでしょう。


しかし、その頃の日本は、夜毎飛来するB29の爆撃になすすべもなく、
本土が焦土となるのを手をこまねいて見ているに等しい状態でした。
そのことから、少年なりに彼らが到達した心境とは次のようなものでした。

「間もなく敵の上陸作戦は開始され、どこにいても死は避けられない。
とすると、運が良ければ敵の上陸せんとする船艇と刺し違えて死ぬことのできる
今の立場はまだ恵まれているのではないか。

俺の死は自分の親兄弟や友人知己の死を1分1秒でも延ばす役に立つだろう。

よし、こうなったら配置についたとき、おれは海底でできるだけ沖に進み、
真っ先に攻撃を仕掛けてやろう。
そうしないと他の奴に殺られる。絶対にそうしよう」 


彼らが訓練を始めたのは昭和20年の7月、つまり終戦の1ヶ月前でした。
当初の張り詰めた気持ちは、明日は我が身かもしれない訓練中の犠牲の噂と、
敵が上陸する時に持って戦う武器があまりにもお粗末であったこと、
(素焼きの手榴弾とか弾倉のはまらない自動小銃などがあてがわれた)
潜水そのものに狎れたことと自分の運命に対する自暴自棄もあって
終戦時には投げやりなものに変わっていたと言います。


そもそも彼らは、自分が扱うはずの機雷を見たことすらなかったのですから。


酸素と引き換えにタバコを要求した業者の話が出ましたが、
なんと、遺体を焼く火葬場にも同じようなことが起こりました。

野比で一度に3名が死亡するということがあり、焼き場に運んで
その遺体の火葬を頼んだところ、一週間先でないと焼けないと言われました。
真夏であることもあってなんとかせねばと理由を尋ねると、

「仏が多い割に燃料が不足で・・」

「何しろわしら生き仏の食物が足りないので力が出なくってね」

などと言い出すので、主計科から米一斗と鮭缶20個を持ってきて渡すと、

「いやいやこれは・・こんなに話のわかる隊長さんの下で死んだ兵隊さんは幸せだ。
早いこと成仏させなきゃ、おらたちがバチ当たる」

などと言いながら、窯に入っている半焼けの先客を引きずりだしたため、
見ている方はそのすさまじい光景に吐き気を覚えることになりました。

通夜を兼ねて連れて行った予科練の隊員たちが、そのショックと
仲間の死、そして訓練の疲れで蒼白になっているので、先任伍長は
彼らを帰隊させ、一人で焼きあがった骨箱を三つ背負い、寺に向かいました。

ところが焼きあがったばかりの骨を木箱に直に入れたため、余熱で
木箱が焦げてくるわ、屍体を焼いた時の脂臭も漂ってくるわ、おまけに
先ほど見た窯から引きずり出された半焼けの屍体までが頭をちらつき、
先任伍長は震えながら脂汗を流し、夜道を一人で歩いたそうです。


伏龍特攻隊員は訓練に入ってからわずか1ヶ月後に終戦を迎えました。
制式軍装に着替えて集合するように言われた隊員たちですが、白い夏の第2種軍装は
緑色に染めるために工場に出していたところ、その工場が焼けてしまったので、
仕方なく真夏というのに紺色の第1種軍装を着て、その暑さに耐えながら、
天皇陛下のお声が流れるラジオの前で頭を垂れていました。

しかし誰もその内容を聞き取ることができず、直後は

「新型爆弾も落とされたし、露助も攻め込んできたからもっとしっかり
戦争しなさいっていうお言葉よ」

「各員一層奮励努力せよ、か」

「そういうこと」

などと投げやりな会話をしていたそうです。
その後は終戦、しかも日本の敗戦をショックとともに知るという、
あのときの日本各地で繰り返された「お決まり」の展開となりました。

その後、ある伏龍隊員は、呆然と「国敗れて山河あり」という言葉を噛み締めながら
海を眺めていたところ、一隻の漁船が半裸の漁師数人の手で、
海に押し出されているのに気がつきました。


それはまるでお祭りの山車を押す若者たちの、躍動感にあふれた活気さえ
感じさせる動きである。
数時間前までは『民間人絶対立ち入り禁止』の特攻作戦訓練場の海岸を、
一刻も早く海へ飛び出したいのか、半ば駆け足で船を押している。

やがて三丁艪のその船は、波頭を切ってぐんぐん沖を目指してこぎ進んでいく。
船の行方をあっけにとられて見送っていた私の視野に、やがてそれが
豆粒ほどになった頃、私は『ニッポンは負けた』ということを現実のものとして
認めざるを得なかった。

(門奈鷹一郎・『海底の少年飛行兵』)

 
 彼らの特攻が実戦に投入されたとしても、その成功の見込みがほとんどなかったのは
作戦に参加していた当人たちが一番わかっていたことでした。

上記の潜水器の性能の問題以外にも、例えば敵の第一波に対して攻撃を仕掛けると、
即座に船艇から爆撃や砲撃が落とされることになるわけですし、
その最初の攻撃そのものがそもそも大変成功率の低いものでありました。

潜水服を着たらそれ以降は連絡が一切取れなくなってしまい、互いがどこにいるかも
全くわからなくなってしまいます。
50mという一人分の「受け持ち区域」に間違いなく一人ずつを配するというのは
洞穴などに陣地を作り導索を設置することが必要となりますが、 
それも制空権を取られているところでは不可能です。


この頃になると、棒機雷の効果に対しては期待されておらず、
代わりに隊員を爆装させて、兜の頂部に信管を取り付けて体当たりする、
というやけくその作戦さえ検討されていたといいます。
何が違うのかと言われそうですが、まだ棒機雷による爆死の方が
同じ死ぬにしても救いがあると思うのはわたしだけではありますまい。

伏龍特攻は極秘作戦だったため、未だにその全容が明らかになっておらず、
訓練で死亡した隊員の数すら明らかになっていません。

今日ではこんな非人間的な兵器を考えだした当時の日本が
どれだけ切羽詰まっていたのかを表す象徴的な作戦ともなっていますが、
計画段階においては鈴木(貫太郎)総理が視察に来て
即座に「不可」を言い渡したとする関係者の証言があります。
しかし、そのときに伏龍関係者は総理に向かって

「役に立つ立たないは別にしてなんとかしなければならないから
訓練だけは続けさせてくれ」

と懇願しているというのです。
浦賀での事故の後には、さすがに海軍の査問委員会が開かれて、連合艦隊、
軍令部、海軍省からのお偉方があつまって合議が行われています。

そしてそのときに、訓練続行の決め手になったのが、陸軍からの

「敵のM4戦車が本土に上陸すると陸軍はもう手がつけられない。
なんとか水際で海軍が食い止めてくれ。どんな手を使っても」

と強い要請であったという証言もあります。
このとき、「それでは仕方がないから続けるだけ続けよう」ということで
会議は訓練を継続するという結論を出したというのです。

「やるだけやる」「続けるだけ続ける」

この決定で、前途ある多くの、もう後一ヶ月たてば
戦後の日本でこれからが青春の盛りを迎えるはずだった少年たちが
その若い命をあたら散らして行くこととなったのでした。




 

 

龍馬の墓と殉職自衛隊員慰霊碑〜京都霊山護国神社

$
0
0

もともとここ京都霊山護国神社は、明治天皇の御言葉によって
勤皇の志士たちの魂を慰めその働きを顕彰するために創建されました。

坂本龍馬というと高知、高知というと坂本龍馬とカツオしかないのでは?
というくらい、高知では龍馬を県のアイデンティティにしているわけですが、
実は龍馬は17歳で江戸遊学して以来、活動の中心は関東でした。

京都には深い縁があった、というほどではないのですが、なんといっても
ここで亡くなって荼毘に付されたため、葬られてお墓があるので、いわゆる
熱心な龍馬ファンの方々の巡礼の地ともなっているようです。

ただ、彼らが龍馬殉難の11月15日に墓参りに来ると、
龍馬がタバコ好きだったということから、火をつけたタバコを多数霊前に備えるので
一本二本ならともかく、消防法の観点からも神社の方が大変迷惑している、
という記事を読んだことがあります。 

そういえば太宰治が自殺した「桜桃忌」には、太宰の墓に太宰ファンが詰めかけ、
季節物でもある(笑)さくらんぼを墓前に供えるのですが、これが困ったことに、
相変わらずさくらんぼを墓石の字の窪みにぎゅうぎゅう嵌め込んでいるようですね。
それも、桜桃がお高いせいかアメリカンチェリーを。

馬鹿かしら。

と偉そうに言ってしまうわけですが、自分の墓石に不気味にはめ込まれた桜桃、
いやアメリカンチェリー、あの自意識過剰のナルシスト太宰が生きてこの光景を見たら、
あまりの屈辱にもう一度今度は憤死するのではないかとわたしなど思います。

これ、絶対本人喜んでないから(断言)

とまあ、ファン心理というのはあくまでも自己満足がベースとなっているので、
このような愚行をも熱に浮かされてやっちまって、何年かしてから思い出しては

「あのときのわたし、なぜあんなことを・・」

と頭を抱えるものではないかと他人事ながら推察するわけですが、
(もしこれをココ何年も毎年必ずやっているという人がいたならお目にかかりたい)
龍馬の煙草も、これと同工異曲のファンの自己満足というかエゴというべきでしょう。

だいたい、隣の中岡慎太郎が嫌煙家だったらどうするんだ。ってそういう問題じゃない?



普段の両雄の墓はひっそりと静まり返っています。
京都護国神社が明治天皇の詔によって創建されたのは1968(慶応4)年。
龍馬殉難はその約半年前の慶応3年ですから、もしかしたら
この二人のためにこのお沙汰が出された面もあるのでしょうか。

ちなみにこの山道を登って行った頂上には木戸孝允の墓がありますが、
木戸の死は明治10年(1877年)とずいぶん後のことになります。
木戸は西南戦争の際明治天皇と連れ立って「出張」していますし、
死の間際には明治天皇のお見舞いも受けるという関係であったので、
この神社に祀られる霊のなかでも「最高位」扱いなのです。

おそらく慶応4年から変わっていない墓所には、
ここで手を洗っていいのか戸惑うような手水があり、
つい最近のものらしい花が手向けられています。

墓所に設えられた「坂本龍馬 中岡慎太郎の最後」という説明には
抜粋するとこんなことが書かれていました。

大政奉還の大作者でもある坂本龍馬は、遭難した10日前、
醤油商の近江屋に移転していた。
当時最も幕府側から命を狙われていたので仲間が気遣ったのが
仇となったのである。
事件当日の午後6時、中岡慎太郎が龍馬宅を訪問、その2時間後、
彼らは刺客の襲撃に遭い、龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は
右の肩から背骨にかけて、三の太刀で前額部を裂かれて即死。

中岡慎太郎も全身に刀傷を受けて二日後に亡くなった。

葬儀は18日、近江屋にて行われ、遺体は京都護国神社に葬られた。

昭憲皇太后の夢枕に立ち現れた侍が

「微臣坂本にございます。
この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。
不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、
ご安心願い申し上げます」

といって消えたという。


ずいぶん省略されているのですが、この「海戦」とは他でもない
日本海海戦のことで、葉山御用邸でお休みになる昭憲皇太后が
侍の夢をご覧になったのは1904年2月、日露戦争前夜だったということです。

ただ、皇太后陛下がその侍のことを田中光顕にご下問されたということは、
陛下は坂本龍馬のことをご存知ではなかったということになり、
つまり「不肖坂本」などは後で付け加えられた話ではないかとも云われます。

のみならず話そのものも戦意昂揚のための創作だとする説もあるそうですが、
さすがに皇太后陛下を相手にそれはありますまい。


さて、この看板で知ったことがもう一つあります。
最後に書かれた

墓所 右 中岡慎太郎 左 坂本龍馬
   左奥 下僕 藤吉

という説明。
帰ってきて初めて知ったので、藤吉の墓がどこなのか
この写真からは全くわかりません。
画像検索すると出てくるので興味のある方はどうぞ。

この藤吉という人は、龍馬が雇った用心棒兼世話役、今でいうSPだったようです。
シークレットサービスにはレスラーや武道家出身が多いといいますが、
この山田藤吉も醜名を「雲井龍」という元相撲取りでした。

事件現場で倒れていた藤吉は、階段にうつ伏せになり、
手には十津川郷士の名の名刺を持ったままだったそうです。
名刺ってこの時代からあったのか!とついそんなことに驚いてしまうわけですが、
それはともかく、刺客たちは普通の来客を装って藤吉を安心させ、
名刺を持って龍馬たちのいる二階に向かう藤吉を背後から斬ったのでした。

藤吉は倒れるときの大音響とともに「ぎゃあ!!」と大声を上げ、
彼が相撲ごっこでもしていると思ったらしい坂本は、

「ほたえな!」

と叫んだため、刺客に居所を教えることになったということです。
「ほたえな!」とは土佐弁で「騒ぐな!」という意味で、子供がうるさいとき
使われるのだそうですが、確かに藤吉はこのときまだ19歳でした。


藤吉は刀傷を負って翌日亡くなり、気の毒に思った龍馬の同僚たちが
龍馬と同じ墓所に彼を葬ってやったということです。

ちなみに三人の遺体ですが、 当時の日本は、特に神道では土葬が一般的で、
明治政府が1873年(明治6年)火葬禁止令を出したくらいでしたから、
近江屋での葬儀の後ここに運ばれて土葬されたものと思われます。



坂本龍馬の墓石越しに上を見上げると、そこには龍馬の後ろに控えるように
長州藩の志士たちの墓がならんでいます。
左奥には山口招魂社があります。

「幾助」「市蔵」「吉太郎」

など、苗字を持たぬ者の墓がときおり見られます。
平民も須らく名字を持つべし、とした「平民苗字必称義務令」
が明治政府により発令されたのは明治8年(1875年)のことです。




坂本・中岡の墓から下を見下ろしていたところ、TOがあっと声をあげ、
あれ、と指差したところに

「殉職自衛隊員之碑参道」

いう碑がありました。
上までいって木戸公の墓参りをしている時間がなかったので、
最後にここをお参りして帰ろうということになりました。



山道を入っていくように整備された小道が続いています。



「慰霊」とだけ記された慰霊碑には、国旗が二振掲げられていました。
碑の扉の中には殉職者の名簿が奉納されているのでしょう。

京都府内の陸海空自衛隊に所属し、殉職された自衛官の慰霊のために、
平成20年、京都隊友会と府下の自衛隊組織により建立され、
毎年11月3日には、参議院議員・西田昌司氏はじめ、現職の陸海空幹部自衛官を迎え、
慰霊祭が行われ、これには誰でも参列できるとのことです。



現在、52柱の殉職自衛隊員の御霊が合祀されています。

わたしは殉職自衛隊員は本来靖国神社始め護国神社に祀られるべきと思っていますが、
いろいろあって()慰霊碑は市ケ谷の防衛省内と、自衛隊駐屯地内、という
一般の人がお参りできない(というか目にも触れない)場所にあるのが現状です。

京都府下の殉職自衛隊員の御霊が霊山護国神社の一隅に祀られていることが、
少しでも彼らとそのご遺族の慰めになればと願ってやみません。



この慰霊碑の前に立ち、山腹を眺めると、だれも立ち寄ることのできない
草木の茂みを通して三体の仏像が立っていました。



階段を下りていきながら見る本殿。



二年坂を下りたところまで戻ってきてさっぱりと冷たいお抹茶をいただきました。
これは「夏茶碗」だそうです。



さて、この後、父の墓所参りをしようとして、大谷本廟と間違えて
大谷祖廟にきてしまいました。
親の墓所を間違えるなって話ですが。




この時に大谷祖廟の境内にいた写真の外人さん、くぐる時に頭を下げ、
真剣に本堂の前に佇んでました。

「きょうび下手な日本人よりずっと彼らの方が弁えてたりするからねえ」



大谷本廟はこっちでした。
お父さんごめんなさい。



晩は鳥料理専門で有名な「八起庵(はちきあん)」で。
基本飛び込みお断りなのですが、直前に電話して予約が取れました。



鳥尽くしコースの一番小さいのを頼むと最初にスープと酢の物。
スープの最初の一口ですでにここはただものではない!と思いました。



つづいて「鳥刺し」、このあとはワサビ和えなど。
鶏ばかりなのに手を替え品を替えで飽きません。



唐揚げもここのはただものではないオーラ。
外はあくまでもカリッと、中はふわっと、肉は滋味があります。



お腹がはちきれそうになった頃、〆の鶏南蛮。
卵ご飯もつけるかと聞かれて、つい誘惑に逆らえず少なめで、とお願いしました。
食べ終わったあと、それは苦しかったです・・・。



来店した有名人はサイン色紙ではなく、写真をずらりと並べて。
店主は一見にこにことしたおじさんですが、目の光がただものではありませんでした。



さて、この日タクシーで移動していて道の脇に偶然見つけた標柱。

「陸軍用地」

調べてみると、伏見には昔陸軍第16師団があったので、今でも地名に

「第一軍道」「師団街道」

などという痕跡が残っているそうです。
聖母学園の現在の校舎は、昔の陸軍第16師団司令部で、これがあったため
昔の伏見は「陸軍の街」だったということでした。


今回の京都滞在で、また日本の歴史をわずかながら深く知ることになったわたしです。





 


多々良浜での軍事演習〜久里浜駐屯地見学

$
0
0


久里浜駐屯地で見学した資料館の残りをサクッと紹介します。



陸軍のゲートルや背嚢、「7号手入れ具」の袋など。
手入れ具に収納されているのは

「三口スパナ」「摘鋏」「円鉄線鋏」「小盤陀鏝」
「ねぢ回」

今でいうツールボックス。
盤陀というのは「はんだ」の漢字です。「はんだごて」ですね。



こちら海軍の報道部専用のバッグ、腕章、水筒に双眼鏡のセット。

上に「見習士官用刀帯」というのがありますが、この「見習士官」とは
海軍にはなく陸軍だけにあった正式な官名です。

陸軍士官学校、陸軍航空士官学校または陸軍経理学校卒業者

甲種幹部候補生として陸軍予備士官学校卒業、または同程度の教育を終了した者

衛生部、技術部、法務部など各部将校要員に採用された高等教育機関卒業者

陸軍特別操縦見習士官

をいい、期間は数ヶ月といったところでした。
海軍だと士官候補生ということになろうかと思います。





左のブラシが何のためなのか気になりますが、写真に写っていません。
やっぱり身だしなみを大事にする海軍だから、洋服ブラシかな?

それとご注目いただきたいのが真ん中の「信号笛」です。
いやー、もののはずみで買ってしまい持っているのでよくわかるのですが、
これ、ほとんど現代のものと同じ形ですね。 

強いて言えば、先端の音を反響させる丸い部分の金属が
これは丸ではなくちょっといい加減な5角形をしていることです。
サイドパイプの「艦長乗艦」などは昔から全く変わってないんですね。

ちなみに、激しく笑わせてもらった知恵袋のページがありました。

「海上自衛隊のサイドパイプの吹き方が難しく困っています。
どうしたら吹けますか?教えて下さい。よろしくお願いします‼」

ベストアンサーに選ばれた解答(解答数1)

「 現役海自です。
現職ですか?それならこんな所で聞くな。恥曝しだ。先輩に教えてもらえ。

一般の方なら、これは言葉では説明できません。
海上自衛官になるか、砲雷科か船務科、航海科の海上自衛官
またはそのOBに直接教えてもらって下さい。」

アンサーに対する答え

「 来年より陸自に入隊する者です。直接聞いた方がいいですよね…
自己流でやってみます。ありがとうございました。」


・・・・いやー、わたし好きだわーこういう人(笑)
ていうか、号笛必要ないし。陸自。



白とカーキの海軍略帽、水兵さんの帽子(横須賀鎮守府とリボンにある)は
わかりますが、ボロボロの黄土色の帽子は一体何?



山下奉文大将の芸術的なまでに達筆な手紙。
あまりにも達筆でところどころ読めません。

山下大将が送った陸軍少年通信学校長栄転に対するこの手紙は、
学校長の子息である自衛隊2佐によって当資料館に寄付されました。



これも寄贈された戦時中の軍関係者必携の書など。
ざっと題名を書いていきますと、

「昭和9年陸軍現役将校実役停年名簿」

「陸軍歩兵少佐多田督知著 日本戦争学」

「軍隊精神教育の参考」

「陸軍軍備の充実と其の精神」

「通信教範」「和文電報練習帳」「歩兵通信機材取扱書」

などなど。



同じ所有者のものと思われる(航空士官学校卒だった模様)
反省録と本人の称する日記。
左はわざわざ「日記」として「反省録」と書き直しています。
なんか真面目な方だったんだなあ・・。



どう見ても画用紙とボール紙、それを絵の具で塗って仕上げたと思われるジオラマ。
ある意味ものすごい労作です。

これは、昭和50年に、当久里浜駐屯地の「重構成」「有線過程」の
学生のために作られた教材である、と説明にあるのですが、
ジオラマの中にアドバルーンが上がっており、そののぼりに

「祝 落成 構成中隊の作業概要
作成者 水内3尉 横坂1士」

と製作した人の名前らしきものが掲げてあるので、昭和50年でなく
のぼりに書かれた「昭和38年12月28日」が正しい製作日ではないでしょうか。

ジオラマの空を飛んでいるのはどう見ても旧軍の飛行機のような気がするけど、
きっと何かの間違いに違いありません。



ジオラマの地下はこのようなことになっています。
わたしにはさっぱりわかりません。



いやー、水内3尉と横坂1士、がんばったねー。



基地電話交換をしている陸自隊員(手前は2士)
・・・なんですが、なんだこの髪型は(笑)
向こうの隊員はヘルメット着用で仕事をしているのか?

長髪がブームになって、もみあげを伸ばすのが流行った昭和40年代には
陸自隊員も(まあ通信隊だけど)こんなやわい髪型をしていたのかしら。



さて、というところで資料館見学は終わり。
基地見学には欠かせない、売店での買い物タイムとなりました。
食堂だか休憩室だかわかりませんが、隅っこに視聴覚コーナーあり。



今ならこういうジオラマを作ってしまえるんですねー。
なぜあるのかわかりませんが、久里浜駐屯地俯瞰のジオラマ。



総合高校とかかれたところには、昔伏龍特攻の隊員の隊舎があったそうです。



これこそ、先ほどの手作りジオラマの頃の久里浜。
ビルなどほとんどなく、のんびりした田舎の風景という感じです。



当駐屯地売店に立ち寄りました。
通信科の地味目なTシャツ、「金のエンピに金の汗」という
謎のロゴが書かれたTシャツなどが良いお値段で売られています。

エンピってなにかしら、と調べたところ、スコップのことらしいです。
こういうのを使う部隊というと施設大隊くらいしか思いつかないのですが、
ここには施設大隊いないしなあ・・・。

ところで右下の「空挺の誇り」の「モテすぎて・・」の以下が気になる。



久里浜駐屯地隊員の皆さんのために売られている本。
「1条30秒で理解できる簡単明瞭日本国憲法」
「刃牙」「アルスラーン戦記」「部長島耕作」(会長かな)
「寄生獣」「心」(姜尚中著)などの怪しい書もあり。



わざわざロウ見本まで用意している気合の入り方につい買ってしまった
迷彩柄カステラ「精鋭の休息」。
ヒトマル式戦車チョコクランチと共につい買ってしまいました。
食べてみましたが、精鋭の休息、甘すぎ。



隊舎に津波が来た時の予想がペイントされていました。
参加者が「これは海抜ですか?」という
的を得たような得てないような質問をしていましたが、津波の高さって、
海抜0を起点をするのなら、それもある意味正しいですよね。

ところで、ここにもし大地震が起きたら、この地に津波が襲う可能性はあります。
過去の基地写真を見ると、横を流れている川が氾濫したこともかつてあったらしく、
自衛隊員がゴムボートに子供を乗せて膝まで水に浸かって引っ張っているという
災害派遣が記録されていました。

いざという時に備えて、ここでもまた災害のシミュレーションが
恒常的に行われているのに違いありません。
自衛隊基地の近隣住民は、その点頼みにしているのではないでしょうか。



さて、というところで久里浜駐屯地見学はおしまいです。
入り口で手を振る広報の女性自衛官にバスからこちらも手を振り、
(スモークガラスなので向こうから見えていたかどうかわかりませんが)
基地を後にしました。

この後、バスは多々良浜にやってきました。



この手前に観音崎自然公園などがありました。
たたら浜は海水浴場でもあり、道を隔てて海岸の向かいにちょっとした公園があります。
バスはそこの駐車場に止まりました。



お昼が遅いので次の行程との間に軽食が出されたのです。
ミックスサンドイッチで、まあまあ美味しかったです。
乗務員の方はしょっちゅう冷たいお茶を注ぎに来てくれました。



完全に全員が二人分の席に一人で座ることができました。
まあ、ツァー会社的には盛況とまではいかなかったようですが、
わたしたちにはありがたかったです。



サンドイッチを外で食べてもいい、と言われたのですが、あまりにも外が暑く、
クーラーの効いた快適な車中で全員が食べていました。

わたしはせっかくなので食べ終わってから外を見に行きました。



そこに立っていた「たたら浜」の説明を見ておおお、と盛り上がるわたし。
昔から観音崎一帯は、東京湾要塞地帯の最前線であったため、
終戦まで一般人の立ち入りが禁止されていました。

先日書いた「伏龍特攻隊」の隊員が見た「船を出す漁師たち」が
どこから船を持ってきたのか、とても不思議になります。

それはともかく、このたたら浜では、陸海軍の演習も行われていたとか。
写真は海軍の演習風景を錦絵風に描いたものですが、軍服からみても
明治初期のものであると思われます。

昭和になってからはさすがにここで訓練はしなかったと思いますが、
それについての資料は見つけることはできませんでした。


さて、休憩が終わり、我々のバスは次の見学地に向かいます。
横須賀は小原台にある防衛大学校。
そう、本日のツァーの見学のメインであったのが、実は防衛大学校だったのでした。


続く。 







 

課業行進〜防衛大学校見学ツァー

$
0
0

わたしがこの某老舗デパートのバスツァーに申し込んだのは
そのツァー名が「防衛大学校見学」 だったからです。

防衛大学校は定期的に校内を一般に公開しており、
祝日と年末年始を除く月水金の週三日、
午前の部・午後の部合わせて4回のツァーを開催しています。



地元のコミュニティ紙ではツァーについて詳しく説明して
ツァーの宣伝をすることもあるようです。

ツァーそのものは、係の自衛官が案内して、記念講堂、資料館、
学生舎や学生会館を見て回るというもので、個人であれば3日前までに
HPに記載されている番号にFAXで申し込むことができます。
参加したデパートのツァーは、それに便乗しているのだと知りました。
守衛所で他の参加者と合流したからです。

つまり、防大を見るだけなら、これに申し込めば何も朝早くに
デパートの前まで行かなくてもいいということなんですが、そこはそれ、
わざわざ老舗デパートのツァーデスクにお金を払って行ってみようと思ったのは
自衛隊施設がこのような団体に対してどう説明されるかということと、
何と言ってもどんな人たちがこういうものに参加するのか興味があったためです。

それについては後でわたし的に「事件」と言えることがあったので、
のちにお話ししようと思います。



案内は、男性の海曹と、女性の陸曹が一人ずつ。
それにボランティアの主婦らしい女性の解説がつきました。

バスを停めた駐車場から守衛所付近は一切撮影禁止です。
この正面玄関に来て、初めて撮影許可がおりました。

いただいたパンフレットによると、敷地は約65万平方メートル、
建物延20万平方メートルのほか、走水海岸には訓練場を所有します。



正面のホールには

廉恥・真勇・礼節

という学生綱領の刻まれたプレートが置かれています。
通路にあるのでアメリカなどなら平気でその上を歩くのでしょうが、
どっこいここは日本なので、ちゃんとロープで囲いをしています。

ちなみに、それぞれの英語訳は「HONOR」「COURAGE」「PROPRIETY」
とされ、綱領は学生の手によって定められたということです。

後ろに何条もの国旗がありますが、これは現在防衛大学校に
留学している外国人留学生の出身国の国旗で、これまで
タイ、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、モンゴル、ベトナム、
韓国、ルーマニア、ラオス、ミャンマーの士官候補生を受け入れてきました。

この中には遠洋航海に参加する留学生もいます。
先日出航した練習艦隊にも留学生が乗っているということを聞き及び、
当ブログで、

実習幹部の中には海外からもタイ王国留学生、東ティモール共和国留学生が
それぞれ1名ずつ乗り組んでいます。
留学生は毎年1〜2人必ず乗り組むようです。

と説明をしたのですが、本年度の練習艦隊にご子息が新少尉として乗り組んでいるという方から、

「東ティモールの方は乗っておりません。
費用が自腹で、行きたいけど行けなかったそうです」

ということを教えていただきました。
どうも高額な旅費がネックになって参加できなかったようなんですね。
こういうことを聞くと、なんとかしてあげられる方法はなかったのかな、
と考えてしまいますが、出身国政府からの援助を仰ぐこともできなかったのでしょうか。



ロビーのガラスケースに収められた講演者たちの写真や色紙。
緒方貞子さんやハーバード大学のリチャード・ナイ教授、アーミテージ氏、
あとは何をする人かわかりませんが人間国宝などが来たようです。
さすがに防衛省隷下の省庁大学校だけのことはあって、講演者も世界的な人物ばかり。

テレビ番組の取材も何度か行われているらしく、全く知らない芸人の写真とサインがありました。



最近の防衛大出身のヒーローといえば、宇宙飛行士の由井亀美也さんです。
防衛フォーラムで出身校での講演を行い故郷に錦を飾ることとなりました。

その上は、歌舞伎俳優の坂東玉三郎さんの写真と色紙なのですが、
玉三郎さんの書く字がずいぶんイメージと違ってびっくりです。
こういう人だから毛筆での揮毫もできるくらい達筆という気がしていましたが、
歌舞伎俳優って案外・・・・いやなんでもない。



来る7月23・24日にはオープンキャンパスも行われるようですから、
防大に興味のある方は是非。
ただしこれはどう見ても防大進学を考えている人たちのためのものですね。
開校記念祭のノリでキャピキャピと女子が遊びに行くという雰囲気ではなさそうです。



わたしが最後にここを訪れた時には、この塔は工事中でした。
校章が燦然と掲げられていますが、実は単なる給水塔です。
しかし、この高さを利用して実験を行うこともあるそうです。

ここから陸上要員の降下訓練が行われる・・・ということはありません。



モニュメントの頂点から照明灯が突き出しているようです。
じつはわざとそうなるように撮りましたすみません。

題して「国の護り」。
長い兜の尾っぽの真ん中にひらりと付いているのが「羽ペン」。
これで文武両道を表します。

兜の乗った台の三本の足は「陸海空」自衛隊を表し、さらに
学生綱領の三つのモットーも表しています。

兜の上の丸い部分はたぶん「日昇」だと思います。



この下には総合情報図書館があり、ガラスドームが灯り取りになっていて、
ここから入って長い階段を降りていくと、真下のスペースには
「ブラウジングコーナー」と称するロビーがあります。

総合情報図書館の創設は今から5年前で、書架には充実した国防・軍事に関する
(あああ行ってみたい)書物や年鑑、辞典なども充実しており、
AVコーナーもあって自由に閲覧が可能なのだとか。

校内には「校内LAN」が敷設されており、IT環境も完璧に整っています。



平松礼二作、ステンドグラス作品「若人の城」。

富士に桜、そして海と空と大地が全てこの画面に収められています。
ここ小原台に防衛大学校を設立することを決めたのは吉田茂でしたが、
吉田はその選定の際、二つの条件をつけたそうです。

富士山が見えること。

海が望めること。

日本の象徴である富士山と、海国である日本の国土の守り手を育てる
大学校の学びの地に欠かせない条件だったのです。




そのあとは、一般には卒業式の「帽子投げ」で有名な大講堂を見学しました。
わたしは五百籏頭真元校長の講演を聞くために開校記念祭で座ったこともあります。
あのとき、

「五百旗頭か・・・いいよもうあれは」

と小さな声で呟いた学生さんは、今どの部隊にいるのかな?

ここでの説明は、この広大な講堂の仕組み、例えば卒業式のときには
演壇の下部分からスロープを出してくることもできる、などといったものでした。

帽子投げについては、

「防大生の制服は貸与されているものなので、卒業したら返却します。
彼らは走り出て行ったあと、陸海空任官先の制服に着替えるので、
帽子はもう必要ないのです」

と説明されていましたが、それでは防大生は自分の帽子に
名前とか書かないってことですかね?
落としたりどこかに忘れたり、ってことははなからないって設定?



講堂は天井にレールがありますが、ここにパーティションをつけて
区切って使うことができます。

講堂全体写真の左側にスクリーンがありますが、この午後、
このスクリーンを使って左3分の1だけが使用されることになっているとのことでした。



さて、コミュニティ紙で紹介された防大ツァーの紙面には、学生の課業行進が紹介され

「規律正しく2000人の大行進」

などというキャッチがついていたりするように、このツァーのハイライトは
ある意味この課業行進を見ることかもしれません。

少し高い、大講堂の前の広場からわたしたちはこれを見下ろす形で見学したのですが、
じつはこのときのわたしには、横に頼もしい特別案内人がいたのです。

種を明かせば知り合いの陸自の方がたまたまこの直前の移動で
防衛大学校に転勤となってここに勤務しておられたのです。

私たち一行はこの課業行進の前に防大資料館を見学しました。
資料館内部はどういうわけか一切撮影禁止となっていたので、
何も写真が残っていませんが、そこでビデオを何本か見終わったら、
なんと陸佐が後ろにおられました。

当日防大でお会いできるかどうかはわかりませんでしたが、
一応声だけでもおかけしておこうとツァーバスに乗る前に電話してみたところ、
たまたま見学時間にお手隙であったということで会いに来てくださったのです。 



陸佐の自らの経験を交えた解説を聞きながらのゴーヂャスな課業行進見学です。
中の人ならではのわりとどうでもいい、しかしわたしのような人間には
お宝となるお話もたくさん聞かせていただきました。

たとえばまず、課業行進は、第一大隊から第四大隊までの学生舎前からそれぞれ
午後の教室に向かって歩くのですが、

「一番向こうの大隊(第四大隊)は行進の距離が長いんですよ」

確かに、この写真を見ただけでも一番向こうの大隊は遠すぎて見えない(笑)
まあ若い元気な予科練じゃなくて学生さんたちですから、多少距離が長くても
なんてことはないのでしょうが、毎朝毎日、第1と第4大隊では歩く時間が違う、
というのはなんとも不公平な気がします。

大隊というのは、入学したときから決められそこで4年間を過ごすので、
各大隊の最小単位である小隊3〜40名には、1年から4年までが混在します。
(留学生も)

これはつまり、最初に第4大隊と決まった時点で、1日2回の課業行進を
4年間繰り返せば、第1大隊との行進量は莫大な違いとなるということです。

そういう不条理さを全て達観するのも自衛隊指揮官の教育のうちなんでしょうか。



行進の前に立っているのは曹クラスの自衛官のようです。
防衛大学校の学生身分は特別職国家公務員たる「自衛隊員」です。

「自衛官」と「自衛隊員」の違いって皆さんご存知ですか?
「階級のあるのが自衛官、階級のないのが自衛隊員」なんですよ。
ですから階級を持つ前の防大生は「自衛官」ではない「自衛隊員」というわけ。

もちろん階級を持っている自衛官を「自衛隊員」と称することはありです。

この自衛官たちは、行進の様子(ちゃんと手をあげているかとか、歩調が揃ってるかとか)
を指導するためにいるのだそうです。

海軍兵学校には下士官の指導教官がいましたが、兵学校学生は
入校した時点で下士官より上の階級を与えられていましたから、
兵学校における指導においても、言葉遣いは妙なことになり、
「前に進め」ではなく「前に進む」「跳躍せよ」ではなく「跳躍する」
とまるで他人事のような言い方で指導が行われたということです。



白いのが普通の制服、カーキが戦闘服(たぶん)。
まるで陸自と海自の制服みたいですが、とりあえず違うみたいです。
白い服の陸上要員がいればカーキの航空要員もいるってことでおK? 




そのとき課業行進が始まりましたが、開校記念祭の行進や
観閲式などのものより全体的に随分カジュアルな印象を受けました。
服装がバラバラというのもありますが、この写真を見てもおわかりのように
結構みんな直前まで話をしていたりしてニコニコしながら歩いてたりするので。

まあ、「軍靴の足音がががが」とすぐに発狂するタチの人が見たとしても
このぬるいというか民主的な(笑)雰囲気の行進なら、文句はあるまいってかんじです。



開校記念祭にいくと、紺の第1種以外はこれを着ていたりします。
マスクをしているのは女子学生。



課業行進という慣習そのものは海軍兵学校のものです。
制服始め防衛大学校の規律の多くは兵学校からの伝統から来ているんですね。
海軍五省も引き継がれているようですし。

ところで、全員ズボンのポケットにいっぱい物を入れているように見えますが・・。
携帯電話は使ってもいいのでしょうか。



これ・・・雨でもやるんですよね?傘ささずに。
陸佐によると、昔夏になると紺の帽子に白いカバーをかけていたのですが、
あまりにも蒸れて暑いので白の夏用帽子ができたということです。



白い野球キャップに白のシャツ、紺の半ズボン、運動靴。
お揃いのカバンを斜めがけした一団がやって来たとき、居並ぶ見物人は

「・・・なんか昔の幼稚園児そのままっていうか・・」

「・・・志村けん?とか高木ブーがやってた?」

などと失礼なことをひそひそ言いあっておりました。
これから体育が行われる学生だということです。
彼らは右手のグラウンド方向へと歩いて行きました。

運動靴だけは自分の好きなのを履いてもいいみたいですね。



こんな姿の大学生が大量に見られるのって、防大だけだろうなあ・・・。
朝は6時に号令で起きて掃除して、国旗を揚げて1日二回行進して教場に行き、
8時限までの授業を受けて校友会活動して国旗を降下して点呼して自習して・・。

防大に入ってちゃんと4年間この生活を続け、卒業してさらに自衛隊に行って、
・・・・・わたしのような者にはただただ頭が下がるのみです。



黒いジャージの一団もきました。

「これ、最近黒に変わったんですよ」

と陸佐。

「前は青のジャージでして」

「”青虫ジャージ”ってやつですね」

「よくご存知ですねー」

ええ、真偽不明ながら、隊員が少年院から脱走した受刑者と間違われたことから
それが「年少ジャージ」と言われていたことも知ってますともさ。

・・ということは、今の陸将空将海将もかつては一度身を包んだ、
自衛官の精神的通過儀礼ともいわれるあの青虫(青虫って緑色だけど)は、
自衛隊から永遠に姿を消すというわけですかい。

「あまりにダサいので新隊員は確実に戦意を喪失するらしい」

なんて、ここで書いたせい・・・ではないと思いますが。
陸自のヒトがよくやっていた「上戦闘服、下青虫ジャージ」
という絶望的に最悪なコーディネートだけは、本人たちはともかく
(楽だとは思う)見た目に如何なものかと思っていたのですが、それが
せめて「下黒ジャージ」になれば、隊員の士気も上がること間違いなしです。

・・たぶん。



防大見学ツァー、続きます。




いわゆる任官拒否問題の話〜防衛大学見学

$
0
0

行進を見学しながら、しばしの間ツァーに合流して解説してくださっていた
防大勤務の陸佐がふとこんなことをおっしゃいました。

「もしかしたら、”ネイビーブルー”っていうブログって◯◯さんのですか」

うおおおきたよ。いつかはと思っていたけどすでに身バレしてるよ。 
平静を装って引きつった笑いで

「バレましたかーあははは」

と答えつつも、自衛隊の中の人っていうのはネットで自衛隊情報を
各自ちゃんとチェックしているものなんだな、とまたしても震撼した次第です。
まあ防大が校内LANを敷設しているくらいなんだから当たり前か。 

いまさらですが、若い隊員だけでなく将佐クラスや退官した元将官ですら
そういったネットでの情報収集を普通にやっておられるということを
わたしは行く場所行く場所で身バレするたびに実感するのでございます。



さて、防大名物課業行進はそんなわたしの動揺を裏腹に続いております。

歩き方を指導しているのが上級生と思しき学生であるところをみると、
この一団は四月に入学したばかりの新入生かもしれませんね。
そう思ってみればなんとなく全員顔つきがまだ幼いような・・。

もしかしたら彼らは「青虫」から脱皮して『黒アゲハ」になった
最初の学年なのかもしれません。
(この比喩についての詳細は前項参照)



行進する彼らの中から時々「おー」という感じの声が上がっていました。
気合を入れているのかな?
朝昼、食事の後に教場に向かう際必ず行われる課業行進ですが、
この行進そのものが訓練の一環であるそうです。

一般大学を卒業して入隊した幹部たちが最初に苦労するのが

「行進がうまくできない」

ということらしいですが(ソースはDVD"幹部候補生”)、軍隊の基本は
行進にあるのかもしれないなあなどとこの光景を見て思いました。 



女子学生のスカート姿はけーん。
何年か前までは女子学生はスカートの制服だけだったそうですが、
今では男子と全く同じ紺のズボン姿で記念祭などの行進を行っているので、
遠目には女子学生かどうかは全くわかりません。

女子航空学生に7つボタンが採用されたくらいですから、性差のボーダーは
女性の進出とともに見た目もなくなって行く傾向にあります。
あとは、女性海士のセーラー服姿が出てくるかどうかですね。


「建学の碑」手前まで行進して第1学生舎の端の入り口から入っていく学生が
何人かいたのですが、陸佐によると

「午後一の課業がないので学生舎に戻っていい学生である」

ということでした。
ちなみに陸佐は防大時代第一大隊だったので、「行進は短くてすんだ」とのことです。



露出高杉ですみません。
行進を見学後、わたしたちは売店に向かいました。
売店での買い物もツァーに含まれているんですね。

こんもりと樹の生い茂った一角に和風の入り口と灯籠がしつらえてあるここは
なんとお茶室なんだそうです。

防大の校友会活動(クラブ活動)にも茶道部があるのですが、それ以外に
ここで海外からの賓客をもてなしたりすることもあるのでしょうか。



茶室であると教えてくれた案内の女性陸曹が、

「あそこには猿島が見えます」

と指差してくれました。
その向こうに位置するのがみなとみらいの高層ビル群だそうです。



学生食堂と売店のある棟は「小原台」と名前があります。
ここは学生の福利厚生施設で、学生会館です。

この島には委託で入っているコンビニがあり、理容、美容、クリーニング、
宅配、喫茶、電気製品、スポーツ用品やお土産、日用雑貨の販売が行われています。



せっかくだからとやっぱりなんだかんだ買ってしまうのだった。
(ちなみに自分ではほとんど食べたことがない)

先ほどの久里浜駐屯地で買ったのは三色迷彩カステラ「精鋭の休息」、
ヒトマル式戦車チョコクランチ、久里浜の通信機器が印刷された何か。

ヒトマル式がなぜチョコクランチなのかというと、土みたいだから?

ここ防大で購入したのは防大カレーせんべいと、左下のチョコレート。
どちらもまんまとパッケージにつられたものです。
防大生招き猫、かわいいよね。



このインソール、商品名

「BMZ キュボイドパワーミリタリー 隊長!走っても走っても、疲れません!!」

(本当にこの商品名だけど、アマゾンでは残念ながら隊長以下省略)
は、そういう魔法のインソールを常に探しているわたしには
願ってもない商品でしたが、残念ながら女性用がなさそうでした。

世界で唯一のBMZキュボイドバランス理論 
立方骨を下から適度に支え土踏まずを支えすぎない。
★BMZインソールを履くだけで、より自然に、より快適に、より力強く、
理想的な「姿勢」と軽快な「動き」を生み出し、無意識のうちに
足から健康な体へと導く、足の筋力回復が見込めます。
★自衛隊員のハードワークに耐えられる特別仕様
★登山・ウオーキングなどに!足・膝・腰などの疲労軽減・ケガの防止に!

使用した隊員のアンケートより抜粋 
 ・まめができず100キロ行軍を歩きとおせた。
 ・武装障害走のタイムアップ
 ・自然に足が前に出る感じ
 ・40キロ行軍の翌日もまったく筋肉疲労を感じさせないetc.

100キロとか40キロとかの行軍に豆ができないとか疲労がなかったとか、
それは本当にこのインソールのおかげなのか?と問いただしたいですが。
これ、いいなあ。高いけど(3000円)一つ欲しい。

確かに土踏まずを支えすぎる靴って楽なようで疲れるんですよね。



防大構内には退役した武器が展示されています。
F-1は日本が独自に開発した超音速戦闘機。
1977年から運用され、2006年まで飛んでいたそうです。

F-1の耐用年数、というか耐用時間は3,500時間とされており、
1990年(平成2年)に最初の飛行隊が維持できなくなるという予定だったので、
予想より長持ちしたということなんでしょうか。

後継機のF-2が運用開始になったのは2000年ですから、しばらくは
どちらもが飛んでいたということになります。



説明の写真を撮るのを忘れましたが、多分93式酸素魚雷。(違ってたらすまん)
もう腐食し放題ですごいことになっています。
かつてこの魚雷は、当時の最新兵器で、映画「パールハーバー」でも、
作戦会議の時に石碑に彫り込まれていたくらいなんだぞ(意味不明)



この、餅のような形の砲塔から見て多分74式戦車。
テレビカメラのようなものは内部が曇って水滴が付いていました。

今でもバリバリ現役の戦車ですが、ヒトマル式と違って
駐屯地祭では試乗体験なども気前よくやらせてもらえるらしいですね。
ぜひ死んだ気で砲手の席に座ってみたいもんですが、それは無理かな。

何しろ74式戦車の中は異様に狭く、砲手席に乗り込むには

一旦車長席に座り、次に砲塔天井裏の取っ手につかまって体を持ち上げ、
その足先にある座席に滑り込む。
部隊配備された当時、本車を見学に来て車長席に座った米軍将校は、
そこを砲手席と勘違いして「車長席はどこか?」と尋ね、
今座っているのが車長席で砲手席はその足先にあると教えられ、
その狭さに驚いたという(wiki)

くらいなんだそうで。

あと、砂多めの国の軍人がこれを見て「これでは砂漠では戦えない!」
とドヤ顔で言い放ったそうですが、別に鳥取砂丘で戦闘する予定はないので
これでいいんだよ!と自衛隊側はきっと言い返したに違いありません。




おおこれももうボロボロだ。
めんどくさくて説明を写真に撮らなかったので何かわかりません。




これもなんだろう。シャーマン?(M4中戦車)
だとしたら自衛隊は硫黄島で我が軍隊が戦った戦車を所有してたってことになりますが・・。



以前なら「何このバケツ」と見向きもしなかったものが今となってはお宝。
なんとこれ、掃海母艦「はやせ」がペルシャ湾から持ち帰った機雷用係維器なのです!

先日金毘羅宮境内での掃海殉職者追悼式に行ったとき、慰霊碑の入り口に
「はやせ」の主錨が展示されていたのを覚えておられるでしょうか。
追悼式はこのツァーと同じ週の週末だったのです。
この写真を撮っている時には全く考えてもいませんでしたが偶然とはいえこれはすごい。

ここにあるのは、1990年の湾岸戦争の際、ペルシャ湾にイラク軍が敷設した
触発機雷「LUGM-145」を係維でつないで海底に沈んでいた係維器。
つまり機雷の錘の役をしていたものです。

わが海上自衛隊の掃海派遣部隊の掃海艇はこの機雷を爆破処理し、
その係維器を(多分記念に)持ち帰ったということのようです。

ところでこれ中を覗いてみなかったのが悔やまれるのですが、
底はあるのか、あるのなら水が溜まって夏ボウフラがわかないか心配です。




陸軍の山砲(山地用の大砲、バラバラにして運ぶことができる)の
主流となって日華事変以降使用されていた41式山砲。

腐食を防ぐためなのか、金色にペイントされております。
右側の車輪は逸失してしまっているんですね。


さて、というわけで防衛大学校の見学は無事終了です。
わたしたちはこれが済んでから昼食となりました。



なぜ昼食時間がおそくなったのかというと、定期的に行われる
防大ツァーに便乗するため、時間が動かせなかったのだとわかりました。

バスで火事の起こったばかりの「小松」の横を通り過ぎ、小松の近くの
中華料理で昼食をとることになっていました。
中華のコース料理で、悪くありませんでした。

ところで、バスが小松の焼け跡を通り過ぎたとき、ガイドが

「出火したとき、ちょうど定休日で誰もいなかったそうです」

というと、参加者の一人が

「怪しい」

とつぶやいていましたが、何が怪しいんだろう(棒)



この食事のときに、父上が陸軍少佐だったという奥様がいて、
その方はとにかくこんな旅行で世界中に訪れておられるようなのですが、

「ウィーンのニューイヤーコンサートに行きましたら、中国人が
ジーンズとセーターで聞きに来ていましたの。
本当にあの人たちには困ります!声も大きいし」

と柳眉を逆立てて大変お怒りでいらっしゃいました。
いつも思うんですけど、中国人ってブティックで何を爆買いしてるんでしょうか。

また、男性の参加者が、女性参加者に向かって

「女性の方々はどうしてこういうツァーに来られたんですか」

と尋ねると、誰かが口を開く前に一人の女性が滔々と話し始め、
しかもそれが自分語りで全く質問の答えになっていないので、
皆気まずくてうつむいてしまった、というようなこともございました。

この食事のときがかろうじて他の参加者と話せた唯一の時間だったのですが、
そのうち一人の男性がわたしに

「僕はいとこが海軍兵学校にいてね。
夏の帰省で帰ってきたのを見て憧れたもんですよ」

とおっしゃったのをバスに乗り込むまでのほんの数分聞いたくらいが
会話らしい会話だったでしょうか。 


ところで、防衛大学校で課業行進を見学していたとき、陸佐が

「今年の任官拒否が多かったと報道されましたが、あれは少し事情があって、
今まで一旦卒業するが着任をしないという者が一定数いたのを、
そんなことをさせずに防大卒業の段階でできるだけ辞退させるという指導した結果、
数だけはいつもより多いというようなことになってしまったんです」

と話してくれました。

そもそも、トータルの数で言うと辞める人は時代に関係なく必ずでてくるもので、
必ずしも防大卒業時の任拒数が何か特定の傾向を表すということはいえないのです。

ちなみに防大を出てすぐ辞めるのを「任官拒否」、おとなしく出ておいて着任しないのを
「着任拒否」というそうですが、幹部候補生学校では、着校時には全員が来るものとして
いろいろ迎えるための準備、たとえば、海上自衛隊ならば、
短艇係や当直の割り振りも済んでいるので、来なくなるのは迷惑この上ないことです。

任官辞退者の増加を安保法案と関係付けたくて仕方がないマスコミは
あたかも法案が成立したから辞退者が増えたと言いたげな報道をしましたが、
そういう「数のマジック」であったということらしいです。

ところがですね。

横須賀市というのは軍港都市として軍の遺産を
観光資源に集客しようということを積極的にやっていて、
先日参加した歴史ウォークの企画などもそういうNPOが行っているわけですが、
このツァーにも、横須賀に着いたときから(かどうか忘れましたが)
自衛隊関係の解説のために乗り込んできたガイドがいたわけですよ。

そのガイドが防大を出たあと、なんとバスの中でこんなことを言ったのです。

「防衛大学の今年の任官拒否者は47人で去年の倍でした。
昨年はご存知のように安全法案が採決されましたが、この法案は
今までなら戦地に行かなくてもいいのに、今後は行かなくてはいけないというもので」

わたしはよっぽどちょっと待ったあ!と叫び前にいってマイクをひったくり、
今の発言のツッコミどころに対して速射砲の勢いで突っ込もうかと思ったのですが、
一応常識人でありたいと思っていることもあり、黙ってその言葉を記憶にとどめ、
次の日「お◯場カードお客様相談室」におもむろに電話をかけました。

概要を説明し、まず旅行のガイドが政治的にある政党の主張することを
あたかも一般論のようにいうことの非常識さと、そもそも彼の言う法案の説明が
全く事実とは違っていること、このような話題そのものが不適切ではないか、
とできるだけ冷静に、淡々と説明したつもりです。
(『最後の最後で不愉快な思いをさせられました』なんていっちゃったけど)
 

窓口に電話をして1時間後、声だけでも偉そうな雰囲気の方から
「まことに申し訳ありませんでした!!!」といった雰囲気で電話がかかってきました。
今後はこのようなことのないようにしてくださるそうです。よかったよかった。

参加している年齢層がインターネット世代でないことも気になりましたね。
こういう層が対象だからこそあやつらはしれっとこういう思想を刷り込むのか、と。

その後、防衛団体でお話しした自衛隊の方にこの話をしたところ、

「法案と任官するしないはあまり関係ないと思いますね。
一定数はかならずどこかで辞めていくわけですし。
そもそもわたしらは任官しない者に対して何の否定的意見も持ってません。
任官せずとも自衛隊に関わる、あるいは支える仕事をする者も少なからずいますし、
そうでなくても同じ釜の飯を食った仲間なんですから」

とおっしゃっていました。



海上自衛隊横須賀地方総監部。
横須賀から帰るとき、いつもは自分が運転するので横目で見るだけでしたが、
この日はバスの窓から写真を撮ることができました。
「いずも」はお留守かな?

護衛艦を車窓から見つつ、この日の横須賀に別れを告げたわたしです。

結論。

老舗ツァーで行く自衛隊関係施設見学、他にはないアクシデントあり、
知り合いの自衛官にお会いするという僥倖あり、ブログネタになる事件あり(笑)
で大収穫があったといえるでしょう。

またこんな感じのツァーがあったら、怖いもの見たさで(笑)参加してきます。 



 

コンコルド・シンドローム〜イントレピッド航空宇宙博物館

$
0
0

1年前の見学の話が終わらないうちに
またアメリカに来ていて、しかもニューヨークの近くにいるわけですが、 今回
博物館である「イントレピッド」の繋留してあるピアに駐機してある
コンコルドの話をすれば、「イントレピッド航空宇宙博物館」の話は終わりです。


「イントレピッド」のある86番桟橋をグーグルマップで上空から見ると、
大変目立つ三角形のコンコルドの姿が確認できます。

わたしたちは広大な「イントレピッド」の艦内をとりあえず甲板の航空機から初めて
艦橋と艦内展示(カミカゼショー含む)まで一気に見学しました。



貼り忘れた写真その1、バブルキャノピーの陸軍ヘリ。
この近辺の展示は艦内の「バンク」、乗組員のベッドや機関銃など、
触って乗れる体験型となっています。
子供達は大喜び。



貼り忘れた写真その2、このカプセルの中にコクピットのように収まったら、
Gを思う存分味わえる「Gショック体験」。
何が悲しくてこんなものに入って意味なく振り回されなくてはいけないのか。
ということで、わたしどもは体験を辞退しました。

さて、このあたりで大変お腹がすいてきました。
艦内にはレストランもあるということだったので、そこに行ってみたら、
元「イントレピッド」のgalleyを利用したレストランは営業を中止しており、
仕方なく外にでてきました。



そこには二台のホットドッグ売りの車が店を出しており、
長居する見学者はここしか食べるものがないので、皆並んでいます。
まあ、アメリカ人にとってはそう悪くないレベルの食べ物かもしれません。

わたしどもも、この際、衛生、味、栄養、コストパフォーマンス、添加物の危険、
そういったことをひとときだけ忘れ去ることにしました。
窓口で一応チーズをどうするかとか、ベジタリアン用のソーセージにするかとか、
(アメリカでは、ほとんどのハンバーガー屋で必ずソーセージやハンバーガーのパテそっくりの
得体の知れない代替肉があり、どうしても肉が食べられない人に配慮している)
そういう注文を受けて、チョイスすることはできます。
さて、これをどこで食べるか、なんですが・・・。

 

「みんなコンコルドの下に行ってるね」

「なんと、コンコルドを屋根に利用して休憩所を作ったんだ」

ニューヨークの夏は普通に暑いですが、日陰に入れば蒸し暑いことはないので、
皆ここで気持ちよさそうに休憩しています。
行ってみると、巨大なコンコルドの翼の下は、その形が幸いして
ちょうどいい日陰を作っており、しかも高さも十分。
日本の感覚では違和感がありますが、合理的なアメリカならではのアイデアです。



テーブルの向こうには、アフリカ系の親子がわたしたちと
同じところで買ったホットドッグを食べていました。
味は・・・・まあ多くは申しません。

地面に機内へ続いている電気コードが這っていますが、コンコルド機内は
現在も公開されていてツァーで中を見ることができるので、
パネル操作や空調その他、まだ電気を必要とするのでしょう。



わたしたちも一度はコンコルドに乗ろうと料金を聞いたという縁もあることだし、
(ボストンからパリまで一人100万円と言われて即座に引き下がった)
ぜひ一度は中を見てみたいものだと思ったのですが、時間が合わず涙を飲みました。

ツァーにはさらに別料金が必要で、45分間の間みっちりと、おそらくは
コンコルドの憧れの客席に座って話を聞いたり映画を見たりするのでしょう。
もし今年もnyに行くことがあればぜひ中を見てみたいものです。



コンコルドをこんな間近すぎるくらい間近で見られる(というか下でものを食べられる)
というのも、ここでしか味わえない贅沢な経験かと思われます。
アメリカ国内にコンコルドの機体は3機展示されているのですが、1機はスミソニアンに、
もう1機はシアトルのボーイング博物館で、いずれも室内展示。
もちろんこのようなよく言えばおおらか、悪く言えばぞんざいな扱いはしていません。

ちなみに、20機作られたコンコルドは、事故で失われた1機と解体処分になった
1機の合計2機をのぞいてすべて現存していますが、フランスに6機、英に6機、
ドイツ1機、なぜかバルバドス1機、スコットランド1機という内訳です。

ご存知の通りコンコルドは、ブリティッシュ・エアウェイズとエール・フランスの
共同運行による史上唯一の超音速旅客機で、大西洋を2時間で結ぶという
「特権階級の」乗り物でした。

客席は全部で100席、そのどれもが「ファーストクラス」で、
お値段的にも他社のファーストクラスの2割増しの料金というもの。

航行するのは6万フィートの上空。(通常の旅客機は3.3万フィート、1万m)
速度は毎時1350マイル(2150km、通常の旅客機は800km少々)規格外の旅客機です。

コンコルドは未来の飛行機の先駆けをうたって華々しく登場しましたが、
ソニックブームが環境問題を引き起こすということや、長い滑走を要すこと、
燃料の問題で思ったほど(というか全く)他国に売れなかったことで、
客単価がいつまでたっても安くならず、経営に苦しんでいたところに
フランスでの墜落事故が起こったため、即時飛行停止から退役を余儀なくされました。

わたしもあの事故が起こったとき、やはり先駆というのは技術が完成していないが故に
こういう犠牲を避けられない宿命なのだなと思ったものですが、
現在、事故の原因は機体の不調でも整備ミスでもなく、離陸時に滑走路に落ちていた
コンチネンタル航空の飛行機から脱落した部品をタイヤが踏んでバーストし、
タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、
そのまま炎上したという完璧な「もらい事故」だったということになっています。

しかし前述の理由で集客に苦労していたところに、同時多発テロが追い打ちとなり、
コンコルドの歴史はわずか27年で幕を閉じたのでした。



飛行機後尾に見える「G-BOAD」のマークは機体登録番号で、この機体は 
シリアルナンバー102、初飛行は1976年の8月であったとなっています。
記録によると、一時シンガポール航空と共同運行されていたので、機体の色は
一時塗り替えられていたということです。


まだコンコルドが飛んでいた頃、わたしはアメリカ=ロンドン間で
ブリティッシュエアに乗りましたが、そのとき機内で、
7センチくらいのダイキャスト製のコンコルドの模型を記念に買いました。
コンコルドの形態を忠実に模して、先端が前も後ろも針のように尖っていたので、
当時幼児だった息子の手の届かないところにいつも置いていたのを、
この写真を見て思い出しました(笑)



搭載していたエンジンは、

ロールスロイス・スネクマ・オリンパス 593 

オリンパスは軸流圧縮式ターボジェットエンジンです。
昔このブログでイギリスの「アブロ・バルカン」について話したことがありますが、
もともとオリンパスエンジンはこのバルカンのために開発されたものです。

バルカンが開発中止になったので、RR社はコンコルドのために切り替えました。
オリンパスは自衛隊とも縁があって、古くは「ゆうばり」型護衛艦、「いしかり」、
「初雪型汎用護衛艦、「はたかぜ」型が、船舶用のオリンパスエンジンを搭載しています。 

ちなみにスネクマというのはフランスの航空エンジン会社で

Société Nationale d'Étude et de Construction de Moteurs d'Aviation 

「航空機用発動機研究製造国営会社」の略。
決して「拗ねクマ」ではありません。 



コンコルドの翼の下から見る「イントレピッド」後部。
いろいろと増築しているのでもはや空母には全く見えません。



ここに昔は海軍旗が毎朝毎夕掲揚されていたのだと思われます。
今は海軍艦ではありませんので、ここにはアメリカ国旗が翻ります。



コンコルドの日陰に座って、日がなハドソンリバーを眺めるのも
粋なニューヨークの過ごし方のような気がします。
同じような色調のアパートが立ち並んでいるので、地域的には
それほどアッパーでない層が住んでいるのかと思われます。
特に奥の二つのアパートは、いかにも中間層の住宅っぽい。



川面を眺めていると、いろんな船が通ります。
これはわたしには全くわかりませんが、機械などを運んでいる船?



ところで、ここからハドソン川の下流に向かったところに、
例の「松明を持ったレディ」のいるところがあり、そして、あの
同時多発テロの悲劇が起こったワールドトレードセンターのある地域があります。

あの事件が起こった時、「イントレピッド」は博物館を閉館して、
代わりに長らくFBIの指揮所が置かれていました。
館内は「お泊まりツァー」のために宿泊施設がありましたから、おそらく
職員はずっと艦内で寝泊まりしていたのかもしれません。
その関係なのかどうかはわかりませんが、ここにはこんな碑があります。



なんの加工もされていない、錆びるがままに任せた、鉄の巨大な板。
それはかつてのワールドトレードセンターの二つのビルを思わせます。
これは、ワールドトレードセンタービルを形作っていた鉄鋼のフラグメントです。

なぜ事件後FBIがここに引っ越してきたかというと、そのFBIオフィスが

ワールドトレードセンターの近くにあって潰れた

からだそうです。(ここの説明によれば。)
実際はFBIのあったワールドトレードセンター7は、航空機が突入したわけでもないのに
しかもツインタワーと道を隔てて離れているのに、事件から6時間も後に崩壊しています。

わたしは「グラウンドゼロ」と言われていた頃の現場を見に行ったことがありますが、
他のビルが全く無事なのにWTC7だけがまるで解体爆破のように倒壊した理由は
現場の位置関係からいっても不思議な現象だなあと思いました。 

事件後、アメリカでは、報道の現場の人間が7号棟崩壊に触れたくても、
会社のトップの許可がないといけないので、実質腫れ物扱いになっているそうです。
なぜかな〜?

という挑発的な話をしだすと、またコメント欄が荒れるのでこの辺にして(笑)



ともあれ、このせいで、当時の「イントレピッド」では500名ものFBI職員が
連日ここでお仕事をするという異様な状態になりました。
いきなり倒壊したオフィスには当時誰もいなかったので全員無事だったってことですか。
そりゃめでたい。
さらなるテロに備えて皆どこかに避難でもしてたんですかね。

このモニュメントは、いわばFBIから博物館への「お志」とでもいいましょうか。
その節はお世話になりました、というほんの気持ちが含まれているそうです。





「イントレピッド」博物館は、ブロードウェイや5thアベニューに車だとすぐ
(混んでいなければですが)いけるような大都会に、このような軍事博物館が、
しかも連日盛況のうちにオープンしているという意味で世界でも特異な存在と言えましょう。



イントレピッド甲板から隣のビルにヘリコプターが降りていくのを目撃。
これもニューヨークならではの眺めです。

ところで本日タイトルの「コンコルド・シンドローム」の意味ですが、
すでに失敗したものとみなすべき事案について、過去の投資を惜しんで
無益な埋没費用を費やし続ける現象を指す心理学・経済学用語で、
コンコルドの商業的失敗に由来しています。

人間は精度の高い未来予想をすることができず、経験からその投資が
無駄かそうでないか、判断するわけですが、
なまじその投資が大きくなればなるほど、無駄であることを認められなくなり、

「今までの投資が足りなかったのでは」「もう少し投資すればなんとか」

という心の声に従って引き返せない深みにはまってしまうということ。
事件からまだ20年にもならないのに、
すでに未来永劫この症候群に名を残すことが決定とは。
コンコルドという飛行機は、栄光と名声の地位から
真っ逆さまに墜落してしまったんですね。

そのきっかけが滑走路の異物だとしたら、
それはあまりにも大きな”躓き”だったという気がします。




イントレピッド博物館シリーズ 終わり
 



 

ボストン到着(ヒューストンの悲劇)

$
0
0

今年もまたアメリカにやってきました。
というわけで恒例、ボストン到着とその次の日の話をします。



今回のフライトはヒューストン経由ボストン行き。
あれだけトランジットで何度もトラブルに見舞われ、ここしばらく直行便で
心安らかな旅をしていたというのに、今回乗り継ぎ便での渡米となったのは
いろいろ時間とかお財布の事情があったようです。
(わたしが決めたのではないので)

搭乗口に向かう途中で、ANAのスターウォーズペイント機を目撃。
これは新しいスターウォーズですっかり人気者のBB-8(丸いやつ)仕様。
国際線では成田ーロスアンジェルスを手始めに、国内線では羽田ー伊丹にも就航。
スターウォーズペイントの機体がロスアンジェルスに初めて飛んだとき、
ハリソンフォードと一緒に写真を撮っていたのをご存知の方もいるでしょうか。



反対側にはウズベキスタン航空の飛行機。
レアな気がして写真を撮ってみました。



座席はJALがコクーンだとしたらこちらは「仕切り」式。
一つのコンパートメントはあくまでも四角です。
左側のスペースは全て物置きに使え、椅子だけのスペースで
置き場所に困った色々なものがここに置けました。



スクリーンの下に引き出し式のテーブルが収納されており、
USBのジャックがあって電源を取ることも可。
15分までは無料で、時間に応じて有料ですがWiFiサービスもあります。

テーブルの下には、足を入れるようになっていて、シートを動かして
この部分と合わせてベッドになります。
これのもう少し原始的?な仕組みがシンガポールエアの座席でした。



隣の人の顔は覗きこまなければ見えません。
完璧に「個室」といった感じで、狭いところの好きな人にはたまらんタイプ(笑)

大変居心地はいいのですが、ただ、ベッド幅がコンパートメントの割に細く、
まっすぐ寝たときに両手が外に落ちるのです。マジで。
別に手を広げたいわけではありませんが、わたしでこれなのだから、
大柄な人は結構窮屈な思いをするんだろうなと思いました。

シートがフルフラットにならないので、ここまでやっておいてそれがないとは、
と思いながら我慢して寝たのですが(でも寝られなかった)
後から聞いたら、リクライニングとは全く別にフルフラットのスイッチがあったそうです。

ANAのフライトアテンダントは、JALほど慇懃丁寧すぎるということはなく、
そうするように言われているのか、どこに行くのか、目的は何か、
などととにこやかに話しかけてきましたが、移動には皆いろんな事情があるので、
こういうのをサービスのつもりでやっているなら考えものだと思いました。



ところが食事、これが意外なくらい美味しかったです。
記憶に残る去年の鶴丸航空の食事は、レンコンを食べたら
なぜかビリビリと舌がしびれて舌痛症か?と思ったくらいで、
その他も全体的になんだかなあな感じだったのですが、今年は
メインのローストビーフが硬かった以外はほぼ大満足でした。



特にこの枝豆入りご飯の炊き加減はよろしかったです。



さて、飛行機はあっという間にヒューストン上空に。
郊外は信じられないくらい広い農地の所々に所有者の家が見えています。
飛行機で農薬を撒き、隣の家が何キロ先にある、というレベル。



この辺りの一般的な?農家。
道から家にたどり着くドライブウェイだけでも1キロくらいありそうです。
そして家の大きいこと!



こちら家の前に噴水などあって少し豪華な一軒家。
バックヤードにある倉庫だけでも体育館くらいありそうです。



ヒューストン空港の周辺には「ヒューストン湖」というのがありますが、
これがなんと驚いたことに水の供給を目的に川をせき止めて作った人工湖なんですね。
地形を生かして巨大な湖を作ってしまう、さすがはアメリカです。

で、この湖がそのせいなのか上空から見ると土色。
まだできてから65年というものなので、そんなものなのでしょうか。



この地域は敷地はともかくとんでもない豪邸だらけです。
ベッドルームが10とか普通にありそう。



無事着陸、空港に到着。
この日のテキサス州ヒューストンはむちゃくちゃ暑かったそうです。

この空港が「ジョージ・ブッシュ・インターナショナル」ということを
初めて知りました。

それにしてもトランジットを、こんな田舎の(つまりやたら広い)空港で、
というと、わたしは何年か前の「ダラスの熱い日」を思い出してしまいます。

1時間しかトランジットの時間がないのに、同時に東欧のややこしそうな国の
飛行機とイミグレが一緒になって、おまけに英語ができない日本人の
入国審査に一瞬とはいえ立ち会わされて遅れそうになったこともありましたし、
ある時は無作為抽出のトランク検査によりによって捕まってしまって、
今度は本当に乗り遅れたという悲しい思ひ出。

今回はわたしは予約に全く関わらなかったのですが、もしヒューストンという
田舎の空港で、乗り換えに1時間半しかないと知ったら、絶対、

「それ間に合わないって」

と言っていたと思います。
(せめて出発前になぜチェックしなかったのかという話もありますが)

しかし、手配を任せたカード会社のトラベルデスクのいいわけによると、
彼らは空港の「ミニマム・トランジットタイム」が1時間というのを真に受けて、
1時間半しか乗り継ぎ時間のない便をアサインしていたことがわかりました。

飛行機を降りてイミグレに並ぶと、幸い到着便は我々の飛行機だけでしたが、
なんとESTA持ちの日本人に対して3つしか係員がお仕事してないのよ。

「なんか嫌な予感がする・・・」

と並びだしてつぶやいたのですが、案の定、どれだけ人が待っていようが
俺たちは俺たちのペースでやらせてもらうZE!
な入国審査官たちのまったりした仕事のおかげで、列は遅々として進まず。
で、結果としてはまたもやだだっぴろい空港を搭乗口までダッシュすることになり、
(MBTの靴を履いてきていて良かったと心から思った瞬間)
たどり着いてみれば、飛行機はなぜか20分前に出発していました。

直前にフライト時間が早くなったって、そんなのってあり?
窓口の、これは仕事のできそうな、迫力のある黒人のおばちゃんは

「これからは搭乗前にHPをチェックしとくことね」

なんていうんですが、これ、直前に時間変更されてしまったら、
トランジットできないことがわかっても飛行機変えられないよね?
というか、搭乗時間を勝手に1時間も早くするなっての(−_−#)



というわけで、次の便にファーストの空きがなく、
コーチ(エコノミー)でボストンに行く羽目になったわたしたちです。

全く後ろに倒れないのはもちろん、座高が低いわたしには、
ネックレストがちょうど頭の上に来る硬いシート、
しかも非常口が横にあり、搭乗前に、白髪をバサバサのおかっぱにした
怖いFAのおばちゃんに

「何かあったら非常口を開けて皆を脱出させる作業をしますか?」

と一人ずつ聞かれて「イエス」と言わされるという罰ゲーム付き。
座っているだけでお尻が痛くなるし、前に座ったヒスパニック系の女性は



時々自分の髪の毛をかきあげ跳ね上げ、こんな風に背もたれにかけるんだよ。



怖い(笑)

ボーイフレンドと一緒だったので、これが彼女の考えるところの
「彼もドッキリなセクシーな仕草」ってやつだったんだと思います。

さて、こんな状態でお尻の痛いのと戦いつつボストン到着。



以前からボストンでは必ず後半に止まっていたホテルが、
今回はリノベーションされてとてもきれいになっていました。



西海岸の同じホテルチェーンと同じ、大きなパソコンデスクを入れたので、
三人までなら同時にPCの作業ができます。



この日は買い物をして、夜普通の時間に寝ました。
次の朝はちゃんと7時前に起き、これですっかり時差ぼけ解消!と思いましたが、
きっちり全員夕方に眠気に勝てず沈没してしまい、夜中に目が覚めたので、
結局時差ぼけが解消したのは、数日後のことだったと言われています。







ジョサイア・コンドルと海軍建築技師たち〜軍港の街・舞鶴を訪ねて

$
0
0

現在「赤れんが博物館」となっている旧海軍魚型水雷倉庫のように、
舞鶴工廠時代に建築され、現在にその姿をとどめている建築物は10棟あります。

これらはいずれも鉄骨煉瓦造りで、 鉄骨などの資材は、明治36年にアメリカから
20棟分が輸入されてきたものです。
これらの鉄骨や窓枠は全てカーネギー社製であり、窓ガラスはアメリカ製、
設計加工は前回最後にお話しした「アメリカン・ブリッジ・カンパニー」(通称ABC)製です。

エンパイヤステートメントビルと我が余部鉄橋を造ったのが同じ会社だったとは 
わたしはこの瞬間まで全く知りませんでしたが、皆さんはご存知でしたか? 

ところで、文明開化後、西欧風の技術発展を取り入れることを決めた日本は
早々に建築物も洋風の物を導入し、公的機関の建物を次々と建築したわけですが、
日本の建築界にとって非常に重要な役割を果たしたイギリス人建築家がいます。



ジョサイア・コンドル。(Josia Condor )

1852年生まれのロンドンの建築家で、「御雇外人」として来日しました。 
「御雇い」は「いわゆる」ではなく、お上が雇ったという意味の正式名で、
近代化を推し進めていた明治政府が、西欧の先進技術や知識を学ぶために、
産・官・学の様々な分野にわたって海外から招聘してきた欧米人のことです。

海軍工廠の建築を手がけたフランスのレオンス・ヴェルニー、
軍楽隊の指導をした音楽家のエッケルト、フェントン(君が代編曲)、
シャルル・ルル−(陸軍分列行進曲の作曲) 
フォッサマグナの発見者ナウマン、大森貝塚のモース、
そして陸軍のメッケルについてはこのブログでもお話ししましたし、
わたしは個人的にエルウィン・ベルツ(医学)の子孫を知っています。

そして説明しなくてもわかる「青年よ大志を抱け」のクラーク博士、
東京芸大を創ったフェノロサ、「怪談」の小泉八雲ことラフカディオ・ハーン、
風刺画家ビゴー。
帝国ホテルの設計者、フランク・ロイド・ライトの名前を知らない日本人はいないでしょう。

コンドルはそんな「御雇外人」のひとりとして来日し、政府関連の建築を手がけた人物です。



コンドルが手がけ、現在も残る建築物をご紹介しましょう。
三菱一号館。
東京の丸の内口から皇居にかけての「三菱帝国」の一角にあります。 
近代的なオフィスビルと合体させ、この部分は美術館となっています。



駿河台にあるニコライ堂。 
正式には東京復活大聖堂という日本正教会の教会です。
関東大震災で被災しましたが、その後修復されて現在に至ります。



旧岩崎久弥邸。

文京区に住んでいた頃、赤ん坊だった息子を連れてよく行った、
「岩崎邸庭園」のあるところです。
三菱創設家の岩崎家本邸として明治29年建てられました。

どの建物もよく知っているものばかりですが、それが全て
このコンドル先生(と呼ばれていた) の作品であったとはびっくりです。



コンドル先生は東京帝国大学で後進への教育にあたり、その門下からは
のちに有名になった建築家を輩出しました。
この4人はいずれもジョサイア・コンドル門下の建築家で、一番右は

曽禰達蔵 (そね・たつぞう) 1853〜1937

曽禰は帝国大学工学部でコンドルの薫陶を受け、卒業してから
海軍に入り呉鎮守府の建築委員になりました。

呉でこの時期建築委員というと・・・・



そう、これですよ。

江田島の旧海軍兵学校生徒館の設計を手掛けたのはこの人物だった、
とここの資料にはそう記されています。 



ところが、海上自衛隊第一術科学校のHPには

「イギリス人建築家の設計によるもの」

と記載されているんですね。
同時期にジョサイア・コンドルの教え子で曽禰の同級生、辰野金吾の設計である、
という説も見たことがありますし、明らかになっていないというのがそもそも謎。

兵学校が竣工した明治26年というと、曽禰達蔵は、
師匠のコンドルの引きで海軍をやめて三菱社に入社し、
丸の内のレンガのオフィス街を怒涛の勢いで創っている最中にあたります。

コンドルの設計であったという可能性はさらにありませんし、辰野は
この頃恩師のコンドルをクビにして(!)自分がその後釜として工部大学校
(現在の東大工学部)の教授になったりという「政治活動」に忙しく、
大きな建築は手がけていないようにも思えます。

というわけで、ここではそういうことになっているけど不確実情報、
と言っておきます。

それにしても、誰だったんでしょう。生徒館の設計をしたのは・・・。



旧呉鎮守府庁舎、現呉地方総監部庁舎。

生徒館の写真もこの写真も、全部自分が撮ったものである、つまり
全ての場所に実際行ったことがある、こんなわたしっていったい何者?
ちなみにこの写真に見える自衛官は、何を隠そう「この」わたしを
迎えるために起立して待ってくれております。

などという、却って小物ぶりが際立つだけのしょぼい自慢はともかく、
この呉鎮守府庁舎、設計したのは櫻井小太郎、コンドル弟子写真の一番左側の人物です。

櫻井はコンドルの事務所で実際に設計に携わりながら薫陶を受けました。
ロンドン大学の建築学部に留学しており、日本で最初の英国公認建築士となります。

帰国後海軍技師となり、呉鎮守府で建築科長としてこれらの設計を手がけたのでした。

 

入船山にある呉鎮守府司令長官庁舎、これも櫻井の作品。
国の重要文化財に指定されました。 

櫻井はその後曽禰に誘われて三菱に入社し、丸の内のオフィス街建築を手がけます。
彼の設計の中には今は亡き旧丸の内ビルヂングなどがあります。 

四人のうち右から2番目は渡辺譲
コンドルが設計していた海軍省や帝国ホテルを手がけ、のちに海軍に在職して 
呉のドック建設全般を手がけました。

左から2番目の森川範一は海軍舞鶴工廠で、この魚型水雷倉庫など、赤レンガ街の
海軍施設の設計を担当した人物です。 




ここは「赤レンガ博物館」ですので、実際の煉瓦が展示されています。
データを紛失してしまいましたが、この時行われていた特別展では
世界の有名な歴史的施設で煉瓦が使われていたものを特集していました。

たとえば・・・アウシュビッツとか。

この常設コーナーでは、改築の際などに不要となった煉瓦が展示されています。
こういうものは実物を見るから意味があるのであって煉瓦の写真を見ても、
と思った方、確かにその通りですが、一応「煉瓦博物館」なので紹介しておきましょう。

まずは兵学校の生徒館に使われていた煉瓦。 



これも最初に江田島に行った時に撮ってきた写真。
経年劣化など微塵もないツルツルとした表面は驚くべきものでしたが、
ここに展示してある煉瓦はさほど他のと違うようには見えません。

「産地不詳」となっていますが、イギリスから輸入されたという俗説は
最近どうやら覆され、同じ広島県内の工房らしいという話もあります。




佐世保海軍工廠造船部電気工場の煉瓦。



「現存せず」となっていますが、これを見る限り最近まで存在していたのです。

佐世保鎮守府は舞鶴よりも12年も前の1889(明治22)年開庁しました。
空襲で焼けなかった建物は戦後海上自衛隊が引き継いでいますが、
この「電気工場」は平成6年に残念ながら取り壊されてしまいました。



観艦式参加記で一項を割いてお話しした「東京湾要塞」。
その猿島砲台で使用されていた煉瓦がここにありました。



東京湾に入る直前現れる第二海堡の煉瓦。
桜の印は海軍のために作られた煉瓦の証です。

煉瓦に押される刻印は工房や職人の「自分が作った」という印で、
目的によって煉瓦の大きさが違っていたため、識別に使われました。
煉瓦に規格サイズができ統一されるようになってからは、どこの工場の産か
知るためだけの印となりました。



これは旧「第16師団司令部庁舎」、現聖母女学院本館の煉瓦。
この煉瓦のマークは十字の花形です。



先日の京都旅行で伏見が「陸軍の街」出会ったのを知ったばかり。


そして明治政府が作った要塞は東京要塞だけではありません。
瀬戸内海には「芸予要塞」という瀬戸内の島々を使った要塞が点在していました。




これは広島県の大久野島にあった火薬庫。
うさぎに気を取られて肝心の煉瓦を撮るのを忘れたのですが、実はこの島、



こういう島らしい(笑)
うさぎ好きの天国?ピーターラビット島?
野良うさにまみれてもふもふしたければ、あなたもぜひ大久野島へ!




舞鶴鎮守府ができてしばらく、交通は海上からの船舶に頼るしかありませんでした。
そこで京阪神と舞鶴を結ぶ鉄道、「阪鶴鉄道」が敷設されることになったのですが、
おりしも日露戦争が近づいたため、工事は急ピッチで進められ、開戦と同時に
福知山と大阪、神戸までが鉄道で繋がることになりました。



昭和2年に完成した港湾荷役用テルファー。
舞鶴駅までの引込み線ができて京阪神と港がつながりました。



左:旧軍港引込み線北吸隧道(きたすいずいどう)

右:旧官設舞鶴線第一真倉隧道(まぐらずいどう)



これらは鉄道敷設に当たって各地に作られた隧道や橋梁に使われた煉瓦。
レールだった鉄骨にはカーネギー社の製品であるという記載があります




このジオラマがなんだったのか説明の写真を撮りそこなったのでわかりません。
東京湾の海堡にあった砲台か、それとも芸予要塞か・・・。


あっ、うさぎがいないから猿島砲台のほうかな?(いい加減)





 

「世界の潜水艦首都」〜グロトン・海軍潜水艦博物館

$
0
0

今滞在しているノーウォークというのは、ニューヨークから1時間、
ボストンから4時間くらいで、ニューヘイブンとニューヨークの間にあります。

TOが日本から来ている間は一緒にニューヨークに行くことが多いので、
去年に続きここのキッチン付きホテルを取ったのですが、
ここからニューヨークとは反対ののニューロンドンまで行くことになりました。

その理由はそこに

「Submarine Force Library and Museum』(潜水艦隊博物館&図書館)

があったからです。
わたしはボストンに住んでいた時も、日本から毎年この地に訪れていながらも、
ニューロンドンという街があり、そこにテムズという名前の川まであることを知りませんでした。

きっと、アメリカに入植したイギリス人が 西へ西へと進んで行ったとき、
ここコネチカットに母国のにそっくりな大きさの河を見つけ、

「ここをニューロンドンとしよう!」

と盛り上がってそういうことにしたんだろうなー、と
安易に予想されるこのネーミングですが、アメリカ人がその後、
そのイギリスから独立することになったとき、彼らが海軍基地を作ったのは
皮肉というかなんというか、このテムズ川沿いのニューロンドンでした。

かつては巨大だったニューロンドンの街は1700年〜1800年間に分割され、
その過程でグロトンという街が生まれました。
海軍基地はグロトンにあったため、ニューロンドンとはテムズ川を挟んで対岸です。


ここに潜水艦部隊とともに海軍直営?の博物館があることを教えていただいた日、
わたしはさっそくツァーの計画を立てました。
グーグル先生のお見立てによると、ホテルからは車で約1時間半で行けるということです。

ところでホテルを出てすぐ、ストラトフォードというところを通過するのですが、
ここにはシコルスキーのメモリアルエアポートがあります。



走る車から手だけそちらを向けて撮った写真。
なんとなく「シコルスキー」という字が見えますね?ね?



こちらも同じく。
木の陰から見えるのが一瞬なので運転しながらではこれが限界。
シコルスキーの星のマークがお分かりいただけますね?

ちなみにシコルスキーエアクラフトは本社もここからすぐ近くです。

さて、途中ところどころ渋滞しながらも(自然渋滞だけど事故も多し)
無事ニューロンドンに到着。
高速の降り口にはもう「サブマリンミュージアム」と出ています。
降りてからもいたるところに看板があるので、ナビいらず。

ところが好事魔多し、それらしいゲートがあったので入っていくと、
入り口で海軍迷彩の軍人さんが心なしか厳しい顔つきでチェックしています。
いくらなんでも博物館にこれはないだろう、と気づくのと、
わたしが間違えて海軍基地のゲートに突入していたのに気づくのと、
警衛の軍人さんがこちらに近づいてくるのは同時でした。

「あのー。ミュージアムに来たんですが・・」(びくびく)

そうですか、と言いながら、彼は車をゲートに誘導し、中に入れたところで

「免許書見せてください」

少し迷って国際免許を見せたところ、

「こんなんじゃなくて、あなたの国の免許書を見せてください」

ほらきた。
いつも思うんだけど、日本の国際免許って全く役に立たないのよ。
有効期限が1年なので毎年作り替えなくてはいけないし、
写真の大きさが2ミリ足りないくらいで文句言われたりうるさいんだけど、
レンタカー会社でチラッと見るだけで、こういうときには全く信用なし。

免許書を渡すと、かれはそれを持って少し車から離れ、どこかにインカムで
連絡して照合らしきことを始めました。

「テロリストとかのブラックリストに名前がないか聞いてんだね」

リストには当方の名前らしきものはなかったらしく、
(知人にIRAのテロリストと同姓同名で、いつも空港で大変という人がいる)
警衛の人は免許書を返してくれながら、

「博物館はあそこから出られますから、右に曲がってください。エンジョイ!」

と愛想よく送ってくれました。
わが自衛隊はもちろんのこと、ネイビーは世界共通で実に紳士的です。



で、これが博物館の入り口。
海軍の組織なので、日本じゃ横須賀でしか見れない海軍迷彩がうじゃうじゃおります。


冒頭の入り口に丸い輪が二重になっていますが、これが面白くて、
小さい丸が、初代潜水艦ホランド(S-1)、大きな丸が
現役の原子力潜水艦「オハイオ」を輪切りにしたのと同じ大きさ。



初代と今の潜水艦ではこれだけ違いますよ、ということです。
いかに「オハイオ」が非常識にでかいか一目でわかる展示ですね。



かれが歩いていく先に展示してあるのは

UGM84 ”Harpoon" 対艦ミサイル。



皆さんはジュール・ベルヌの「海底二万マイル」を読んだことがありますか?
ホールには、1870年に発表された初版の挿絵と共に、
同名の映画に使われた「ノーチラス号」のレプリカがかかっています。

「ノーチラス号」・・・。

そう、この潜水艦博物館には、同じ名前を持つ世界最初の原子力潜水艦、

「ノーチラス」(USS Nautilus, SSN-571)

の現物が展示されているのです。



全館隈なく見てその充実ぶりとお金がかかっているのを知れば、
この博物館には入館料が要らないというのにびっくりします。

まあ、自衛隊の「りっくんランド」やその他資料館、展示館ですら
軒並み無料であることを思い出せば、アメリカ海軍の広報組織でもある
この施設が無料なのも当然かと思われますが。

入り口にはドネートを募るお知らせがあり、わたしたちも寸志を寄付しました。



ドネートといえば、レンガに名前を刻む権利を買うこともできます。
120ドルとか200ドル少しで、名前とメッセージを残すことができるとか。



外側のスペースにそのコーナーがありました。
もう少しこの地域や潜水艦隊にご縁があればわたしもやっていたかもしれませんが・・。



入ってすぐ、実際の潜水艦のコクピットを再現した部屋が。
「シップ・コントロール・パネル」との説明があります。

この椅子には実際に座ってみましたが、狭いとは感じませんでした。
やはり基本大きなアメリカ人の体型に合わせてあるので当然です。



座席の右側部分。
左側には「深度調整システム」「ホバリングシステム」とあります。

右側は「バラスト・コントロール・パネル」。

バラストとはタンクに海水を出し入れすることで浮上・沈降を調整することです。
メインタンク前後の2つのトリムタンクの海水を移動させることで
トリム(上下方向の傾き)制御をおこなったりします。

 

この展示には、三種類の潜水艦のパネルが継ぎ合わせてあります。

原子力潜水艦ラファイエット(USS Lafayette, SSBN-616) 

原子力潜水艦ポーギー (USS Pogy, SSN-647)・・バラストパネル部分

原子力潜水艦ブルーフィッシュ (USS Bluefish, SSN-675) ・・シップコントロールパネル

いずれも90年代に退役した潜水艦ばかりで、アメリカの原潜の歴史は
ノーチラスに始まりすでに大変長いものであることがこれからもわかります。



外側のモニター?と思ったけど、そんなわけないか・・。



ところで、最初の原子力潜水艦が「ノーチラス」(オウム貝)の名であるのは、
「海底二万マイル」のノーチラス号が

ノーチラス号は元インドの王子にして技術者であるネモ船長により設計され、
その指揮下の元、陸地との一切の交流を絶った海底探検の航海を続けている。
ノーチラス号の動力は全て電気で賄われており、水銀と海水から取りだした
塩化ナトリウムを用いたナトリウム・水銀電池で発電した電力を、
電磁石を介して特殊装置に伝え、スクリューを稼働させている他、
船内外の照明などに使用している。
電池の原料は乗組員の手により海中から賄われている。また、電力だけではなく、
食料や衣類なども全て海中から得たもので作られている。wiki

という潜水艦、つまり

陸上補給を全く必要としない潜水艦である

ことから、浮上せずにずっと行動を続けることのできる
原子力を動力とした潜水艦にその名を冠したということなんですね。



ホワイトヘッド魚雷Mk3。

ヘッドは赤なのにホワイトヘッドとはこれいかに。
と思ったら、形態を表しているのではなく、完成させたのが
ロバート・ホワイトヘッドという人だったからです。紛らわしいな。
つまりこれが史上初の魚雷です。

開発されたのが1860年、日本ではまだ髷を結っていた人もいるというのに、
魚雷の形というのはもうこの時点で完成していたらしいことがわかります。

考えたこともありませんでしたが、魚雷を最初に考え出したのは
19世紀のオーストリア海軍砲科のある無名士官だったそうです。
かれが思いついたのは、爆発物を載せた小型艇を用いるという概念で、この艇は
蒸気機関もしくは圧縮空気による機関で自走し、ケーブルによって舵を取り、
敵艦船に打ち込むというものでした。

それを実現化し、完成させたのがホワイトヘッド魚雷です。
この模型を見る限り、実現化した途端完成しているって感じですね。



頭部はニトロセルロースの炸薬、圧縮空気で射出するこの魚雷が
生産体制に入ったのは1890年のことになります。

潜水艦が武器となったのはこの魚雷あってのことで、1904年、イギリス軍の
ヘンリー・ジョン・メイ提督という人は、

「ホワイトヘッド魚雷が無かったら、潜水艦は興味深い玩具か、
またはもう少しましなままだったろう。」

などと言ったそうです。



魚雷の向こう側は窓を通してテムズ川の河畔の光景が望めます。



館内は、第1号潜水艦の「ホランド」から原潜に至るまでの、
潜水艦の歴史資料が網羅されており、ここを見学すれば
あなたはいっぱしの潜水艦博士になれることは間違い無し。

そういえば、高速道路の降り口に、

「ここグロトンは世界の潜水艦の首都(capital)です!」

と書かれた潜水艦の形をした看板がありましたよ。
呉の「ここは大和のふるさと」みたいな感じですね。

アメリカ国内だけでなく世界の首都、と言い切ってしまうあたりに
米国潜水艦隊の誇り高さを見る思いです。

これからここで見たことを何回かに分けてお話ししていこうと思います。


続く。



 

 


海軍軍人謎の乗艦〜潜水艦「ノーチラス」

$
0
0

アメリカに来てから毎日のように小旅行並みの移動が続き、
PCを開ける間もなく、潜水艦博物館の話を始めたと思ったら、
映画「海の神兵」のエントリを日付を間違えてアップしてしまい
(お節介船屋さん、コメントまで頂きましたが、
後日アップの際に掲載させていただきます。申し訳ありません)
ろくにコメントへのお返事もできない状態で誠に遺憾な状態です。

アメリカ国内の旅行中の移動は車がないとほぼ不可能なのですが、
我が家はわたし一人しか免許を保持していないため、
帰ってきたらもう運転疲れでもう使い物にならんのです。(自分が)


ただ今回借りたのはトヨタカムリですが、安定していて長距離が楽。
燃費もいいし、やっぱり日本車は信頼出来ると思います。
GPSが付いていなかったため、(日本車にはなぜかナビがないことが多い)
わざわざ次の日空港まで戻って携帯式のGPSシステムを借りたのですが、
このシガーソケットから電源を取るナビが超優秀。

渋滞情報や迂回路を教えてくれるなどという機能はありませんが、
小さな画面(5cm×7cm)に、乗り換えの時にどの車線にいればいいか、
わかりやすく示してくれ、地道と高速をつなぐ最短距離を選んでくれ、
これはもしかしたらわたしの車についているナビより優秀ではないか、
と思うくらいで、今ではすっかり信頼しています。

そんな信頼できるナビが付いているのに、入口を間違え、
海軍基地に突入してしまったわたしですが、このために
本物のアメリカ軍人と言葉を交わすことになったので、これもまた
ナビの計らいだったと思うことにしています。




潜水艦博物館は展示室だけでなく、ホールにもこのような
歴代潜水艦の型模型が一目で見られる展示があり、これが
潜水艦の大きさを理解するのにとても便利。



ここからは「モデルウォール」が通路の片側に続きます。

「全部同じスケールなので、20世紀の潜水艦のサイズと形を
ドラマチックにご覧いただけます」

と高らかにこの企画を自慢しております。
この模型はアメリカ海軍が歴史上所持したすべての潜水艦の型を網羅しているため、
アメリカ海軍が特に第一次、および第二次世界大戦のために集中的に潜水艦を
建造したということなども視覚的に理解できる仕組みです。




左の二列に書かれた潜水艦の最初はSS182「サーモン」1935年建造。
最後はSSS312「バーフィッシュ」で、1943年就役です。
この期間に建造された潜水艦がいかに多いかがこれだけでわかりますね。
ちなみに「バーフィッシュ」は何度か日本海域で戦闘を行っていますが、
撃沈スコアが記録されているアメリカ潜水艦の中で、
スコア中に日本の艦船が含まれない、おそらく唯一の潜水艦だそうです。



ガラスが光ってしまって写真が撮れないのが困りものですが。
 一番上の大きなのが「オハイオ」級の原子力潜水艦。
右側が「ロスアンジェルス」級、その下「バージニア」級。

「ボストン」「ラホーヤ」「マイアミ」「シカゴ」「アナポリス」・・。 

昔は潜水艦といえば魚類の名前をつけていたものですが、それもなくなり、
今ではたくさん作りすぎて名前が軒並みアメリカの地名になっております。



オハイオ級が鯨なら、こちらはまるでめだかのよう。
形もなんとなくめだかですよね。
SS1、その名も「ホランド」。
こちらは開発者の名前がホランドさんだったから。

「ホランド」はいわば試作品だったので、データを収集したあとは
海軍水雷ステーションで士官候補生の訓練やアナポリスでの訓練に使用され、
1910年に除籍あとはスクラップとして100ドルで売却されています。
スクラップ会社は艦が解体され船として使用されないことを保証するため、
5,000ドルの契約を要求されたということです。

最初から潜水艦といえば機密のかたまりみたいな扱いだったんですね。 

さて、実はこの後わたしは外に係留してあるノーチラスを見る前に、
がっつりと室内の展示によって潜水艦の歴史を勉強したのですが、
それは後日お話しすることにして、2階の展示を見ながら海寄りの部屋に来ると、



窓からは原子力潜水艦「ノーチラス」をのぞむことができました。



上を見上げるとバナーが。

「FIRST AND FINEST」(最初にして最善」

は史上初の原子力潜水艦としての「ノーチラス」を表す言葉です。
史上初の潜水艦「ホランド」と同じく、試験艦として生まれた「ノーチラス」ですが、
潜行状態で一度も浮かび上がることなく北極点の氷の下を通過し、
潜水艦を「潜航可能な船(submergible ship)」ではなく、水中活動をこそ常態とする
「真の潜水艦(submarine)」に進化させたその功績は偉大です。

 「ノーチラス」が初めてここテムズ川において、原子力で航行したとき、

  "Underway on nuclear power."(「原子力にて航行中」)

という言葉は、「オペレーション・サンシャイン」において、
北極点を潜行しながら通過したときのナビゲーターの

” Nautilus, 90°N, 19:15U, 3 August 1958, zero to North Pole.”

という電文と共に歴史にその瞬間を刻みました。



海軍迷彩が潜水艦に向かって歩いていきます。



建物の出口には「ノーチラス」のトレードマークが。
潜水艦の鯨が顔を出しているのは原子力を表すモチーフ。

「我々の誇らしい歴史遺産保存」

とは、ここにノーチラスが展示されることになった1980年からのロゴでしょうか。



写真を見て気づいたのですが、潜水艦と展示館の間に一つ建物があります。
もしかしたら海軍迷彩はここに入っていったのかもしれません。



さて、わたしたちも階下に降りていよいよ「ノーチラス」を見学することにしました。
前もって展示室でその業績と、潜水艦の歴史についてもざっとおさらいして
準備も心構えもバッチリです。



ところで、潜水艦の前に単線の線路があります。
廃線にしてあるにしては線路が錆びていないし、海軍時代の輸送線路かな?
と思い、地図で線路をたどっていくと、延々とテムズ川をさかのぼり、
そのあとはずっと名前の変わった川の河畔に沿って伸びていき、
なんといつの間にかボストンの通勤線とつながって、マサチューセッツ湾まで
続いていました。
全米を網の目のように走る線路の一部だったんですね。

なお、向こうの方に見えているのはインターステート95です。



ここで後ろを振り返ってみると、ミュージアムはこんな形。
手前の小さな建物は軍人さんの休憩室かな。



「ノーチラス」は日本で言うところの文化財的な扱いとなっています。
真ん中のプレートは、「海軍建築家・エンジニア協会」の認定。
最初に北極点に達した歴史的な潜水艦であり、世界的見ても
潜水艦の技術的革命を起こしたことを顕彰する、とあります。

その向こうは、ノーチラスが世界で初めて原子力で推進した潜水艦である、
と書かれたプレート。



記念艦としてここに固定繋留されているのですが、イントレピッドのように
底を固定するということはせず、テムズ川に浮かんでいるようです。
2本ずつ舫がクロスして舫杭につないであります。

ところで、潜水艦のこの部分を説明しておきます。




まず、セイルの左に旗がありますが、これは「PUC」、
Presidential Unit Citation、つまり殊勲賞だそうです。
ノーチラスは北極点に達したことでこの栄誉を得ました。

上に煙突のようなものがいっぱい立っていますが、
左から

●IFF/UFF (極超短波アンテナ)●VLF loop(超長波アンテナ)

●BRD-6B(敵の通信、レーダーを探知する)

といった感じで(おい)つまり全てアンテナ関係です。

● 一番高い金色のがペリスコープ、つまり潜望鏡。

● その右側の白いのも潜望鏡です。
同じようなところになぜふたつあるかというと、昼夜の使い分けみたいです。
夜用にはレーダーも内蔵されているのだとか。

● 白い潜望鏡の右側のものはなんと「ピッグ・スティック」といいます。
「豚棒」?
取り外しのできるフラッグスタッフだそうです。

● 一番右は見てもわかるとおり、ビーコンライト。
ナビゲーション・エイドを略してNAVAID(ナヴァイド)と呼びます。
なんでも省略する傾向は日本だけでなく米海軍も同じなんですね。



舫だけで繋留しているなんてことはなかろうと思ったら、やっぱり
こんな風に岸壁に固定してありました。



だったら舫なんて必要ないよね?と思ってしまうわけですが、
やはりそこはそれ、雰囲気というやつだと思われます。

繋留されて以来おそらく一度も動かされたことのない丸めたロープ。



そのときわたしのネイビーセンサーが鳴り響きました。
海軍迷彩の一団が続々と「ノーチラス」艦尾に向かっている?



艦尾には国旗が立てられているのですが、全員がラッタルを渡ると
国旗に敬礼して艦上に乗り込んでいきます。

あーなんかすごくいいものを見せてもらってる気分。
皆その瞬間は背筋がピンと伸びて直立する様子がかっこよす。

最後に一人でやってきた軍人さんは、わたしの予想通り、この中で
「一番偉い人」だったようで、この人が乗り込むと全員が
シャキーン!<(`・ω・´)と敬礼をしておりました。



そういえば、この人たちはわたしたちが展示物を見学しているとき、
ロビーで待ち合わせをしていたんでした。
海軍五分前はアメリカも同じらしく、早くきた人たちはすることがないので
展示物の「各国の潜水艦部隊章」など見ておしゃべりしていたのですが、
そのうち見学客にせがまれて写真を全員と撮らされておりました。

わたしも頼んでみればよかったかな・・。



で、7〜8人のこの団体、全員揃ってから何人かが後部から
ノーチラスの中に入って行ってしまいました。

「ノーチラス」で公開されているのは全部ではありません。
後部発射室とその近くの、全体から見るとごく僅かといっていいでしょう。
で、彼らが入って行った部分には何があるのか・・・?



なんと、見学を終えてでてきたときも、この三人は同じところにいました。
ということは、後の人たちはまだ中にいるということになります。
もしかしたら、中には公開されていないシミュレーターかなんかあって、
数人の人たちがトレーニングをしている・・とか・・?



星条旗と海軍迷彩の軍人たち、かこいいなあ・・・。



さて、後部の海軍さんに心を残しながらも、中に入ってみることにしました。
見学者用に潜水艦の上にガラス張りのエントランスが増設されており、
ここでやっぱり海軍迷彩の人が解説のモニターを貸してくれます。



「ノーチラスに乗る前に」

● セルフガイドですので配られたガイドに従って進んでください

● ツァーには30分から45分くらいかかります

● 階段をおりていかなくてはいけないのでハンディキャップの方の見学はできません

● 内部は大変狭いのでそれで気分が悪くなるかもしれません

● 子供達は大歓迎


さあ、それでは乗り込んでいくとしましょう。


続く。 

ファースト・ネイビー・ジャックと魚雷発射室〜潜水艦「ノーチラス」

$
0
0

さて、いよいよ原潜「ノーチラス」の内部に入っていくわけですが、
その前に少し説明をしておきます。



これが世界初の原潜「ノーチラス」模型。
二色に色が分かれているように見えますが、ウォーターラインなのだと思います。



「潜水可能な船ではなく真の潜水艦」であるためには、給油に動力を頼らない、
原子力に推進力を負う全く新しい概念の導入が必要である、と考え、
それを推進したのが「原子力海軍の父」と言われる

ハイマン・ジョージ・リッコーヴァー海軍大将

です。
この写真ではリッコーヴァー大将は軍帽をかぶりラッタルを降りてきています。

名前を見てピンときた人もいるかもしれませんが、リッコーヴァー大将は
ポーランド系ユダヤ人の家系の出で、父親は反ユダヤ主義の社会から
1906年に移住してきており、もしこの判断がなければ、リッコーヴァーは
のちのユダヤ人排斥でおそらく命がなかっただろうと言われています。

ユダヤ人移民の仕立て屋の息子でも優秀であれば海軍大将になれる、
それがアメリカという国であり、たとえば原子力潜水艦のような
新機軸をも世界に先駆けて現実のものにしてしまうパワーも
こういう社会であればこそということの好例ですね。

さて、リッコーヴァー大将の艦隊勤務は掃海艇だったということですが、
コロンビア大学で電気工学の学位を取っていたため海軍工廠勤務になり、
エンジニアリング局の電気の部門で副主任を務めています。

この頃、リッコーヴァーはオッペンハイマーが率いたマンハッタン計画に
参画した物理学者と交流を深め、そのことから核を艦艇の推進動力として利用する
という計画を進めようという考えに至ります。

ただし、それはどちらかというと少数派の考えであったため、
リッコーヴァーは海軍がその着想を取り上げてくれるまでかなりの苦労をしています。
そこで彼はあのチェスター・ニミッツ提督に直訴までして実現化にこぎつけました。

まあそれでいろいろあって、「ノーチラス」が誕生するわけですが、
このリッコーヴァーという人、なかなかキャラの立った人だったみたいです。
当然かもしれませんがとことんこだわり派で、なんと原潜の乗組員は
大将になっているというのに彼が一人一人面接して、気に入らなければ採用しない、
というくらいだったそうです。(現場からは面倒な人だったかも)

今でも、原子力推進の艦艇勤務の経験のある海軍士官は、退役後
原子力発電所のポストにつくことが多いといいますが、その体制は
リッコーヴァーのおかげで成立したと思われます。

そしてありがちな話ですが、海軍軍人からは
"the Old Man"とか"the Old Guy" と呼ばれていたそうです。
「オヤジ」って感じですかね。
ハルゼー提督なら「俺はまだオールドマンじゃねえ!」と言いそうですが、
(というか本当にそう言った)リッコーヴァーはこの「尊称」を甘んじて受けたのでしょう。 



「ノーチラス」内部。

出入り口が摂津されているのはちょうど前部発射管室の上です。
今日はこの前部発射管室をご紹介しようと思います。

ところで、話は戻るようですが、前回気になった海軍軍人たち。



旗の下に立っている士官のキャップには彼の乗っている潜水艦名が
書いてあるようなのですが、残念ながら読み取ることはできません。
その右側のメガネの人が一番後から来た偉い人だったかも・・。

そして後部に皆で集まって、三人を残して皆が入って行った部分なんですが、
後部から入っていくと、上の図によるとまず乗員のベッドのある「クォーターズ」
があり、エンジンルームがあり、そして・・・「リアクター」(原子炉)が・・。

原子炉?

ノーチラスの原子炉って、もう廃炉というか停止してますよね?
まさかとは思いますが、まだ原子炉動いてたりして。
今回、どこを見ても「ノーチラス」の原子炉が今どうなっているのか
全く言及されていなかったのです。

そういえば見終わってものすごく何かを見落とした感があったのですが、
それはこの展示で

原子炉部分は見学させてもらえなかったという・・。

というわけで、画竜点睛を欠くというか、それを見せずにどうするよ、という
残念感は否めなかったのであります。
やっぱり原潜のリアクターって、初代のものといっても極秘なんですね。

で、後部から入って行った軍人さんたちは、未だに廃炉になっていない
原子炉部分で、その部分についての操作のトレーニングをしている。

・・・・とかだったらすごいなあ。違うと思うけど。



少し見にくいですが、冷却システムについての図解がありました。
原子力を動力に変えるにはどうすればよかったですか?

そう、原子炉で作った熱源によって高温高圧の水蒸気を発生させ、
その水蒸気によるエネルギーを利用してスクリューを回すんですね。

この図によると、「ノーチラス」は動力を電力に変換させることなく、
直接タービンを回していたらしいことがわかります。
(電力を作りスクリューを回すターボ・エレクトリック方式の原潜もある)

原子力を潜水艦に導入するのには、潜水艦ならではの特殊な事情を
考慮しなければなりませんでしたが、その一つが、原子力の発生方式。

原子炉には、核分裂反応によって生じた熱エネルギーで軽水を沸騰させ、
高温・高圧の蒸気として取り出す「沸騰水型」と、
核分裂反応によって生じた熱エネルギーで、まず水を300℃以上に熱し、
それを蒸気発生器に通し、そこで発生した別の水の高温高圧蒸気により
タービン発電機を回す「加圧水型」の2種類があります。

潜水艦の場合、後者は海の状態や気象条件によって原子炉が傾いたりするので、
後者では十分に冷却できなくなる可能性があり、ゆえに使われません。

それから、リッコーヴァーがそのモットー、

”Keep it simple!"

にもかかわらず、こだわらないわけにいかなかった、
潜水艦ならではの問題が、艦内の酸素の供給の問題でした。

目からウロコというか、思わず膝を叩いて納得してしまったのですが、
原子力潜水艦が浮上しなくても潜航していられる理由は、

原子力が酸素を必要としない動力だからです。

しかし、人間は酸素がなくては1分も生きていられませんから、
せっかく無酸素で動く乗り物を作っても「潜行を常態とする真の潜水艦」
は、人を乗せて動かす限り内部に酸素がなくては成り立ちません。

そこで、酸素を発生させるのは電力によって海水を電気分解する仕組み、
そして二酸化炭素を除去する「CO2スクラバー」を開発しました。


さて、艦内に入る入ると言いながらなかなか説明が終わらないのは、
結局この部分については見学することができなかったからですが、
もう解説はええ、という声が聞こえてきた気がするので、先に進みます。



おおお!こんなところでこの旗にお目にかかるとは!

DON'T TREAD ON ME (私を踏みにじるな)

と蛇が言っている(らしい)この旗、FIRST NAVY JACKといって、
アメリカの軍艦旗なんです。
1977年より、現役最古参の軍艦のみこの艦首旗を掲揚している、ということなので、
「ノーチラス」は未だに現役最古参扱いってことでよろしいでしょうか。

アメリカの愛国のシンボルは「ガズデン・フラッグ」といって、黄色地に
蛇がやっぱり「私を踏むな」と言っているモチーフのものなのですが、
こちらは海軍のみの仕様で、赤い線は建国当時の13州を表す赤線13本。
蛇はガラガラヘビ一匹です。

ガズデンというのは独立戦争時の軍人で、旗をデザインした人の名前です。
ちなみに、2009年からアメリカでは、オバマ政権へのアンチテーゼとして

「ティーパーティ運動」

という保守回帰運動が行われているそうですが、このグループが掲げる旗が
まさにこのガズデン・フラッグなのです。

ところで今世界を揺るがすブリグジットも、結局民族自決への回帰本能だと捉えれば、
つまりジョンレノンがいくらイマジンしても、それがたとえ「Not the only one」
でも、「No country」には代償が伴い、決してお花畑のような世界には
ならないということにイギリス人が気づいてしまったってことなんじゃないでしょうか。

知らんけど。



いい加減に中に入ってください。という声が本当に聞こえたので、
次に進みます。

これが甲板レベルに立って見た「ノーチラス」だ!
もちろん昔は手すりなんかありません。
ここに手すりがつけられたということは、ごく稀に
甲板に立つことができることもあるってことですよね?



昔のハッチ跡。
今は使用されていないのでわざわざ柵で囲ってしまいました。
柵をしておかないとつまずく人がいたり、ダイヤルを回して
ハッチを開けようとする奴がでてくるからですねわかります。



エントランスには海軍迷彩の人が立っていて、皆に音声モニターを
渡してくれていました。
わたしは写真を撮るのに忙しく、全てをTOに聞いてもらって翻訳してもらいましたが、
後でここを通りかかった時に、日本語のモニターがあったことに気付きました。
日本語だったら聞いてみたかったな。



さて、階段を降りていきます。
内部は一方通行になっていて、狭い艦内で進む人と戻る人が鉢合わせしないように
ちゃんと仕切られているのがさすが海軍です。

この階段はもちろん記念艦になってから増設されたものでしょう。



前回のエントリで退役した同年に記念艦になったのだと勘違いして
そのように書いたのですが、実は6年後だったそうですね。
内部の展示の充実ぶりを見れば、企画から公開までに6年かかっても
全く不思議ではないことがわかります。
上部を切り取ってこんな入口を作ったのですからね。



関係者の中に絵心のある人がいた模様。
「ノーチラスくん」がミスターアメリカの扮装でお出迎え。

 

階段を降りたところは、前部発射管室となります。
ツアー的には簡単に「トルピード・ルーム」。



「ノーチラス」が搭載することのできた魚雷は何種類もあって、
Mk14、Mk37、Mk45、そしてMk48など。
今見えているのはおそらくMK48であろうと思われます。



上の緑のがMark48。
ちなみにその下の白いのは「サブロック」、サブマリンロケット。
1967年から使用されました。



この上の緑色のがMk37魚雷です。
下の黒いのはMk49マイン、つまり海中に敷設する機雷。



こちらが Mark14。

下の緑のはおそらくMk45。(違ってたらすまん)



説明によると、ここを「トルピード・リロード・ステーション」といいます。
発射するためのチューブに魚雷を装填する仕組みがこれ。

魚雷が収納されている部分は「クレイドル」(ゆりかご)です。



なんと、トルピードルームの横で修理中の人がいるー。
見に来ている士官がコーヒー持参なのがいかにもアメリカ。
でまたあっちこっちに出てくるこの乗員マネキンがリアルなのよ。
デパートの洋服を着ているあの嘘くさい男前なんかじゃなくて、
いかにもこんな人いたんだろうなって感じの顔ばかり。
実在の人物をモデルにしたと言われても信じるレベル。



マニュアルブックを見ながらレンチを回しております。
なんか読むのも面倒くさそうなマニュアルだなあ。



訳もなくこの混沌とした計器とバルブを撮ってみました。
どうも計器の目盛りから、発射管の圧力調整器のようです。

さあ、どんどん次に進むことにしましょう。

続く。





 

フランス海軍提督の贈り物〜原潜「ノーチラス」

$
0
0

さて、お待ちかね?士官居住区です。
ノーチラスの乗員は思っていたのより少なく105名。
うち士官15名、先任兵曹12名、下士官兵80名という内訳です。

たった士官が15名なのですから、艦内生活それなりに快適だったのでは、
と思ったのですが、さて、実態はどうだったでしょうか。

魚雷発射室と居住区の間には、トイレやバス、洗面の区画があり、
それを過ぎるといきなりどーん!と現れたのが冒頭写真の食堂。

いやー、ゴーヂャスです。
何がゴージャスって、シルバーのセットがまるでフレンチレストランのように
ちゃんとテーブルセッティングされているところ。



部屋の内装も木目調、テーブルクロスは綺麗な青。
そういえば我が海上自衛隊でも士官室のテーブルクロスは青でした。
示し合わせたわけでもないのにこれは世界の海軍共通みたいです。

なんとコーヒーポットも銀で、中央にはフィンガーボールらしきものが・・。

席数は8しかないので、士官食堂といってもきっと上層部だけでしょう。



たとえばこういう人が乗り込んできたときにはここでお食事が出されるに違いありません。
別の展示で見たのですが、とにかく潜水艦は食事が良かったそうです。
特にこのノーチラスは「サンシャイン作戦」で何ヶ月も深海を潜行していたので、
せめて食事に楽しみがないと乗員の精神が持たないってことだったんだと思います。



スープから始まるフルコースメニューのセッティングですね。
陶器の皿には金で部隊章があしらわれており、ラインも金と青。
きっとディナー開始のときにはここに真っ白なナプキンがセットされていたのでしょう。



これを読んで初めて知ったのですが、カトラリーは銀でなく
チタンだったそうです。
それならわざわざ磨かなくてもいいから楽ですよね。

札の向こうに見えているのは電極棒。
"keel laying ceremony"とありますが、これは木造船の頃からのアメリカの伝統で
新造艦の起工のときに行うセレモニーのことです。
日本の棟上げ式みたいなものでしょう。

キールというのは日本語では「竜骨」と称します。

重船舶の船底を船首から船尾にかけて通すように配置された構造材のことですが、
英語でkeel キールは船舶の下に配置された水中構造体も含めます。

船の背骨ともいうべき部分なので、ここを敷設することで船の建造の
開始とする、ということなんだと思うのですが、現在の船ではそれから派生して
「キール・オーセンティケイション」つまりキール認証ということをします。

なぜそれに電極棒が必要かというと、最初のモジュール接合をもって
キール認証とするからです。 
 



右側にあるのが、「ノーチラス」のキール認証に使われた電極棒。
ケースには金のプレートがはめ込まれ、「ノーチラス」起工日の
1952年6月14日の日付が刻まれています。


さて、このカトラリーですが、このような艦隊勤務に置いて
この製品が特注で作られた初めての金属カトラリーだったそうです。
アメリカでは現在でもカトラリーメーカーとして有名な
ユーティカ・カトラリー・カンパニーが特注を受けて制作しました。
 


ワードルーム・メスというのは士官食堂のことです。

「FIRST AND FINEST 」というモットーがここにも刻まれています。
昔は席札だったのでしょうか。 

ちなみに左のフォークの先が広がっているのはフルーツ用だからです。



士官食堂では音楽を流しながら食事をしたこともあったのでしょうか。
当時の最新装置であったopen reel式のテープレコーダーが
なんと壁に備え付けてあります。
まだテープが入っていますが、何が録音されているのだろう。

横にある「プロジェクターステレオ」というのも謎ですが、
もしかしたら8ミリ投影機でも内蔵されているのでしょうか。



食事をしながらも艦の深度を把握していたい。
というわけでちゃんと深度計も完備。



この士官食堂の隅に佇んでいる人がなんかじわじわくる(笑)
中の人が見たら、「あーこれビルだ」「あいつこんなんだったよな」
とわかってしまったりするんでしょうか。
ちなみにビルの(勝手に名前つけてるし)顔をアップすると、
なんと眉毛とまつ毛もちゃんと植わっております。
もしかしたら本人のライフマスクから作ったんではないかってくらいリアル。



キッチンは他にもありました。
士官と下士官兵用が分かれているのかもしれません。
まあ、食べるものも違うわけですしね。



さて、この辺で水回りの施設を紹介しましょう。
まずは洗面所。
もちろんこの辺の区画は士官専用です。



クレストという歯磨き粉とアメリカ人の使うでかい歯ブラシ。
アメリカ人は日本だと靴磨きに使うような大きな歯ブラシを使います。
こんな大雑把な作りで、歯と歯の隙間とかましてや歯周ポケットの
掃除なんてできっこない、といつも思うのですが。

わたしはアメリカ在住時、歯ブラシは幼児用を買っていました。 



すべての施設は展示のために扉を取ってアクリルの板をはめ込んであります。
トイレのフラッシュは自衛隊のと同じ、ノズルを回して流す仕組み。



TOがこのシャワーブースを見た瞬間、

「こんなシャワー室は嫌だ!」

と叫んでいました(笑)
アメリカ人なので、日本人ほど「湯船に浸かりたい欲望」=入欲はないとはいえ、
この、まるで棺桶を立てたようなスペースはきつかったでしょう。



ここで区画が分かれており、こちら側に先ほどのメスがあります。

 

100人単位の居住が行われている潜水艦ですので、トイレはふんだんにあります。



洗面所その2。



さて、ここからは士官寝室の区画です。
ちゃんと自分のタオルをセットしてくれるんですね。
こういう世話も、かならず従兵みたいな人がやるんだと思いますが、
アメリカで従兵という役目があると聞いたことがありません。



寝室のベッドは2段と3段の部屋があります。
15名の士官のうち、艦長以外が共同部屋となりますので、このような部屋が
少なくとも4〜5はあることになります。



引き出し式のデスクには女優さんの写真がありますが、
三人部屋なのでこれはなかったかも・・。



一番上のベッドに寝る人はきっと一番上の階級に違いない(笑)

こういった「エグゼクティブ・オフィサー」の部屋のことを

「XO STATE ROOM」

 と称します。
Xはエグゼクティブのことですね。



これらは「セカンドシニア」である士官のための居住区であり、
またワークスペースでもあります。 



当たり前ですが、艦長には個室が与えられます。
上の段のないベッド、狭いながらも自分だけの空間。
海軍軍人は艦長になって初めてこの部屋を与えられた時、
ああ、俺もやっとここまできたか・・と感無量なのでしょう。

ベッドの上には艦長の位の軍服が寝かせてありますが、
肩章は中佐(Commander CDR)です。



机上に置かれた「ライフ」の表紙には、オペレーション・サンシャインのときの
艦長であるウィリアム・アンダーソン中佐(イケメン)の顔写真が。



当たり前ですが、彼を艦長に抜擢したのも「オヤジ」ことリッコーヴァーでした。
2年間「ノーチラス」の艦長を務めたあと、アンダーソンはオヤジのもとで
補佐のような仕事をしていたようです。
海軍を引退した後は、政治家となって共和党の牙城であるテネシー州で
民主党議員として活動しました。



ここはやはりXOルーム。
ベッドが一つ収納式になっています。



右はUNCLASSIFIED(それほど重要ではない)とされる海軍メッセージ。
何月何日に艦長が誕生日なので皆でお祝いしましょう、みたいな
(たとえばですよ)当たり障りのないメッセージが書かれていると思われます。

左は、なんと手書きの食事メニュー。
食後のコーヒーかティー、なんてのまで丁寧に書かれて、
だいたい毎日デザートまで7品出ていたようです。 




あれ?ここも一人部屋だ。

ここはコマンディングオフィサー・ステートルームといいます。
艦の「シニア・クルー」に与えられ、艦長だけでなく
コマンディング・オフィサー(司令クラス)だけが一人部屋を与えられました。

この左利きの司令(推定)は「DEAR 誰々」で始まるお手紙を書き始めたところ。
なみなみと入ったブラックコーヒーが落ちないかハラハラします。



ここは艦の「事務所」。
忙しそうに働いているのはYeoman、事務系の下士官です。
ヨーマンはエグゼクティブ・オフィサーの右腕とでもいうべき重要な役目を担い、
記録と予定の調整などを行うなど、艦の事務関係を全て掌握しています。

実際にそうだったのかどうかわかりませんが、彼は眼鏡をかけています。

さて、この区画の壁に、小説「海底二万マイル」のフランス語版
(1892年発行の初版らしい)が埋め込む形で展示されていました。

これは、北極点を潜行することを目標にした「サンシャイン作戦」で
ノーチラスがフランスのルアーブル(セーヌ河口の港)に寄港した時、
フランス海軍のアンリ・ノミ提督からノーチラスのアンダーソン艦長に
プレゼントされたものです。

貫禄のノミ提督

ノミ提督自身は航空出身であまり潜水艦のことは知らなかったと思いますが、
自国の名作である架空小説に登場するそれと同じ名を持つ潜水艦、
「ノーチラス」艦長に、冒険の成功を祈って初版本を贈ることを考えつくとは
さすがエスプリの国の「マリーヌ」(海軍軍人)だけのことはあります。


続く。


スプートニク・ショックとサンシャイン作戦〜原潜ノーチラス

$
0
0

さて、オフィサーズ・ワードルーム(士官居室)、
キャプテンズ・ステートルーム(艦長室、stateには特別室の意味あり)
と進んでまいりました。

 

ここでもう一度艦内図を見ておきましょう。
艦内は片側ずつ一方通行で進み、アタックセンター付近まで来たら
そこで折り返して戻る形で見学するので、つまりこの図のセイル下部分しか
公開されていないということになります。

後部のエンジンルームや乗員居室などは別に見せても良かったんでしょうが、
そこに行くには原子炉の横を通らざるを得ないので、こうなったのでしょう。

お節介船屋さんの教えてくれた「世界の艦船」情報によると、除籍後、
原子炉撤去工事を含む解役工事が実施されているということなので、
つまりここにはすでに原子炉すら存在していないということですが、
それならそれで「原子炉跡」としてそのスペースを見せてくれればいいのに・・・。

こういうときにわたしのような人間は「何か見せたくないものがまだあるのでは」
と勘ぐってしまいがちですが、そういうことになっているのでそうしておきます(笑)



なんと、武器庫がありました。
航行中に飛び道具が必要な事態というと、まず真っ先に
海賊に襲われるという可能性が思い浮かびますが、
潜水艦なのでまずそれはないし・・・となると、

乗員の反乱・・・・とか?

アメリカ海軍に限ってそんなことが起こるわけがない、と思いたいですが、
「K-19」だって艦長に造反する乗組員が反乱起こしてたしな。

まあ、北極に行けば何が起こるかわからないからってことで。



「コミニュケーションセット」とあるので何かと思ったらソナーです。
昔の装置なので巨大ですね。
このころはコンピューターも今のスパコンみたいな大きさでした。



ペリスコープ(潜望鏡)ルームにやってきました。
天井が凹凸のある金属で張り巡らされているのはなぜ?

画面手前に伝声管がありますが、原子力潜水艦でも最も効率的に
いかなる場合も確実に声を届けるのはこの原始的な方式なんですね。



熱心に潜望鏡を覗いている乗員あり。
ところで注意していただくと、潜望鏡が2種類あるのがお分かりですね。

こちら側の潜望鏡には昔の電話コードみたいなのがぶら下がっています。



このセイル上部でいうと、乗員が使用中なのは一番高い金色の潜望鏡。
こちらを「タイプ2F」といい、こちらを日中は常用していました。

その前の白いのが電話コード付きの「夜用潜望鏡」で、「タイプ8B」。
レーダー、ラジオ内蔵でESMスタブアンテナを内蔵しているのです。



ところで、博物館の展示に「潜望鏡体験コーナー」がありました。
子供でも見られる高さに調整したものから、アメリカ人の大人用(つまりすごく高い)
ものまで三種類の潜望鏡が部屋にしつらえてあり、覗くことができます。



なんと潜望鏡は建物の外を見ることができるというものでした。
ちなみに日本海軍の潜水艦の潜望鏡は最初イギリス製に頼っていましたが、
第一次世界大戦の勃発で輸入ができなくなったため、海軍は三菱に要請して
光学兵器製造メーカー設立に乗り出します。

1917年、東京計器の光学計器部と、サーチライトの製造を行っていた
岩城硝子製作所の探照燈反射鏡部門を統合し、日本光学工業株式会社、
つまり現在のNikonを設立したのです。

「海のニッコー」と言われていたのはなんのことはない、海軍の要請で
創られた会社だったからだったんですね。
なお、日本光学は独自の潜望鏡を作るため、ドイツから技術者を招聘しています。 

ドイツのUボートの潜望鏡は当たり前ですがカール・ツァイス製。 
現在のアメリカ海軍がどこの潜望鏡を使っているかはわかりませんでした。
アメリカのことだから全部海軍で作ってるかもしれませんね。 



ペリスコープルームの外側には警報装置がありました。(アラームパネル)
浸水、衝突などの一般的な非常事態事態、推進や発電機能が損害を受けた時
作動させます。

真ん中の赤いのは衝突による非常事態専用。



 チャートルームを見ていると、後から追いついてきたおじさんが、
地図を指差して、

「ほら、これ見てごらん。このサブは北極点に行ったんだよ」

と、おそらくここにやってくる大人であれば10人中9人は知っていることを
重大ニュースのように教えてくれました。
それに対してまるで初めて聞くかのように”Oh, really?"と驚いてみせるTO。



おじさんが指差したオペレーション・サンシャインのときの
原子力潜水艦「ノーチラス」の航路。



この時に記された歴史的なノーチラスの「艦位」。

1958年8月3日、北極までの距離、ゼロ。
緯度 90°00.0'N。

この記録を刻んだのはShepherd M. Jenkesという中尉でした。
ちなみにこの人は、一度原子力士官の試験を受けて落ちているのですが、
2度目に「ノーチラス」の通信士に応募しています。
そして例の「頑固なことでは悪名高い」リッコーヴァー大将の面接を受け、
昔一方的にチラ見しただけだというのに、いきなり

「僕のこと覚えていませんかー?」(^o^)/

と超フランクに語りかけて怒りを買い()即座に部屋を追い出されました。
ところがなぜかその後彼は採用されることになりました。
こういうボスだと何が気に入られるかわからないですね。 

ジェンクス中尉

ちなみにジェンクスはその後大尉まで昇進し、2013年に亡くなりました。


さて、ところでどうして世界初の原潜であったノーチラスは
北極点を通過するというミッションを課せられたのでしょうか。

その理由は冷戦にあります。
1957年にソ連は人類初の無人人工衛星スプートニクを打ち上げました。
このときに西側諸国、ことに世界の科学技術の雄を辞任していたアメリカが陥った
「スプートニクショック」は大変なものだったと云われています。
対抗策として立ち上げた人工衛星の「ヴァンガード計画」が失敗したことが、
さらにショックに追い打ちをかけました。


しかしそこは腐ってもアメリカ、当時のアイゼンハワー大統領は政策を変更して
以降、ソ連との宇宙戦争へと舵を切っていき、最終的に
これに勝利することになったのは歴史が示すところです。

ついでに、このときは日本にもその余波がありました。
これからの宇宙時代に乗り遅れまいと、まず理数教育のカリキュラムを強化しています。
映画「地球防衛軍」のラストシーンには、この報を受けて急遽人工衛星が登場し(笑)
アイザック・アシモフはこの騒ぎの余波で作家への道を開き、その後続く一連の
SFものの名作は、日本にも星新一や筒井康隆などのSF小説の嚆矢となりました。
つまり西側諸国にとっては、むしろメリットの方が多かったような気もしますね。


話が逸れましたが、つまり

「原子力潜水艦ノーチラスが太平洋から北極点を通過して大西洋に抜ける」

という計画は、スプートニック・ショックに打ち克つためにアイゼンハワー大統領が
提案した、アメリカの威信をかけた国家事業でもあったのです。

彼らの課題はつまるところこうでした。

「ロシア人のスプートニクを(とにかく)上回ること」




左航海士官のジェンクス中尉、右アンダーソン艦長。
気のせいかジェンクス中尉の態度がでかい・・・。

1958年、「ノーチラス」は母港のここグロトンを出港し、
パナマ運河を抜けて西海岸に到達し、太平洋艦隊にお目見えして、
その後はシアトルからハワイを通過しました。



6月28日にはパールハーバーに到着、彼らはハワイを一ヶ月も楽しみました。
この間、我らがジェンクス中尉は、偽名で偵察機に乗り込み、これから通過する
北極点上空に飛んで、現地の氷の様子を下見して報告書を作っていたのです。

ジェンクス中尉の報告によって、水深の浅い部分や氷の厚いところを確認し、
ノーチラスがハワイを出港したのは7月22日のことでした。



アラスカにて。
8月1日、ついにノーチラスは北極点の氷の下を通過するため、
ここから潜行を行いました。
北極点まで1,094マイルの距離でした。



さて、そのジェンクス中尉が活躍していたナビゲーションルームです。
これがジェンクスだったらよかったのに、ジョーダンとなっていますね。

ここナビゲーションルームの装備は当時の最新機器が搭載されていました。
たとえば、方向探知機AN/BRD-6B、ロラン電気航法システムなど。

氷の下を潜行しながらも方向を探知する機能はノースアメリカン航空の
N6A-1によって可能になりました。

この区画には換気のための二種類の速度の違うロータリーもあります。



最新式の航法・天則装置を装備しながらも、
昔ながらの六分儀もちゃんと搭載しています。

ちなみに赤いシャツが「北極に行ったんだよ」と教えてくれたおじさん。



狭いところに巨大なロッカー状のものがたくさん。
説明がなかったので何かわかりませんでした。



ここはESMベイ。
主に探索のための機器が集められている部分です。


 
この人が引き寄せているのはマイクかなんか?

 

レーダー音を録音するためのテープレコーダーだそうです。
録音時間に限りがあるのにどのように録音したのか気になります。

 

おじさんの後ろにかかっている周波数のチャンネル表らしいもの。



ところで、このアコースティックグラフに表れているのは、
「ノーチラス」が60ftの深海を航行中、海底から15ft(4.5m)しか離れておらず、
しかも浮遊する氷の塊に衝突する危険が近づいていたということです。

ノーチラスはこのとき、まさにくさび形のトンネルのようなところを
ゆっくりと進んでいましたが、この間「アクセス・ディナイド」、
つまり外部からは通信も途絶えていたということなのです。

いやー、よくぞなんの事故もなく無事に通り抜けられたものですね。



続く。




8月2日のサンタクロース〜原子力潜水艦「ノーチラス」

$
0
0

さて、アタックセンターとかナビゲーションルーム、EMSベイ、
といったところを見学しつつ、「ノーチラス」の北極点到達までの
いろいろについてお話ししてきました。



前回貼り忘れた写真。
誰かはわかりませんが、通信系の士官(イケメン)であろうと思われます。


「レイディオ・シャック」が「通信室」という意味であることを
アメリカのモールにある小型電気店だとしか思っていなかったわたしは
初めて知り、また一つ物知りになったわけですが、そのラジオシャック・ベイを
見学し終わると、通路は階下へと続いていました。



階段の角が金属製なのにもかかわらず、人に踏まれるところが
磨耗して形が変わっているのに驚き。
就役して26年、記念艦になってから36年、この艦ほぼ毎日
人々が同じところを歩いてきたということです。



このステーションはDIVING PLANE(潜舵)を司る部署です。
三人の下士官らしい乗員が席についています。



同じところのかつての写真。
中央の席の操舵を皆で見守っている感じですね。

まず、右の席から説明しましょう。
ここに座っている人は潜水艦のセイルから横に突き出した舵で、
潜水艦の潜行時の深度を調整する係です。

「BOW PLAINSMAN」

と呼びます。
潜行時、潜舵はヴァーティカル・ポジション(垂直)に固定させます。



ここにすわっているのがヘルムスマン(Helmsman)つまり舵手です。
艦の推進をコントロールします。



この真ん中の席が多分一番、いわゆる重職なんだろうなと想像するわけですが、
上の写真でも皆が操舵と彼の前にある艦の状態を示す計器を見ています。

前回お話しした「くさび型のトンネル」を通っているので、皆が
息を殺して彼の操舵を見守っているのではないかと思われます。
冒頭の写真は同じ時を横から撮ったものですね。



このとき、「ノーチラス」が完全に氷の下にいたのは62時間でした。
この間、「ノーチラス」は原子力推進と慣性航法装置にによって、
「エフォートレスリー」(努力することなく)航行したといわれます。

二日後の1958年8月5日、「ノーチラス」は氷の下を抜けて
グリーンランド海に浮上し、そのまま大西洋を目指しました。



その3日前、8月2日、北極点まであと100マイルと近づいたとき、
ソナーが突然、海底の接近を示しました。
この図で右側に針のように高くなっているのが、そのロモノソフ海嶺で、
「ノーチラス」はそれを操舵で無事に乗り切ったということもありました。



ともかくも、北極点を無事に通過したのです。
その瞬間、サンタクロースが「ノーチラス」艦内に降臨。

「HO-HO-HO! Welcome to MY HOME!」

ちなみにサンタのヒゲは医療用わた、赤い旗を利用して
乗員が手作りした衣装を着ています。





そしてキッチンのメンバーは、北極通過を寿ぐスペシャルケーキを・・。
日本人の感覚であまり美味しくなさそう、などと言ってはいけません。





一人の器用な乗員が、靴底のゴムを彫ってスタンプを作成しました。
このスタンプによって、ここ「ノースポール郵便局」から、
特別の手紙を出すことができることになったのです。

みな大喜びで北極から家族に手紙を出しました。

少し見にくいですが、左の大きな丸のスタンプには、「ノーチラスくん」が
アメリカの旗を持って北極点を表す立て札を見ています。
(いつのまにか人間の手が生えている)

ちなみに、この「ノーチラスくん」をデザインしたのは、
おなじみ皆さまのウォルト・ディズニー・プロダクションでございます。




さて、ここにはいかにもこの道何十年のベテランの風格漂う
おじさん下士官がなにやら捜査中。



ここは、圧縮空気によってバラストタンクをブローさせる装置があります。



右側に「ハイプレッシャーエア・サービス:と書かれたプレートがあります。



左のほうは、「サービスエア」、低気圧の空気がでるところで、
艦内のいろんな箇所に供給されます。



左から「メイン・シュノーケル・イグゾースト(マフラー)」
「セイフティ・フラッド」「ネガティブ・フラッド」(おそらくタンクのこと)
「シュノーケル・マスト」

この場合のシュノーケルとは水中でディーゼルエンジンを運転するために用いられる
吸気管のことをいいます。



Mk.19型のジャイロコンパス。
艦のプライマリーコンパスです。
防衛省の公示にこの型があったので、自衛艦にも搭載されているのかもしれません。



「ジェネラル・アナウンシング・コントロールパネル」
全艦放送のためのアンプです。
下のほうにずらっと並んでいるのが各コンパートメントのスイッチ。



「レイディオ・ルーム」。
外のガラス戸越しにしか見ることができませんでした。
ここには他艦や陸地との通信に必要な機器がまとめてあります。



さて、潜水艦乗りなら知っているとは思いますが、潜水艦の中というのは
太陽が見えないため、非常に不自然なバイオリズムで生活することを
余儀なくされますから、艦内ではしばしばこんな風にアイマスクをして
動き回る人もいたようです。(見えてるのかしら)



ノーチラス乗員の皆さん。
潜水艦乗りというのはどこの軍隊でも、選ばれた人がなるという傾向がありますが、
特にこの「ノーチラス」乗員は、選びに選び抜かれた超優秀集団でした。

全員が何年にも渡って理数系、数学、物理学、そして原子力工学の講義を受け、
おまけに全員があのリッコーヴァー大将の眼鏡にかなった俊英ばかりです。

アメリカ海軍の歴史において、これほど乗員が一人残らず、自分の艦と
そのメカニズムについて知悉していた潜水艦はなかったと言われるくらいでした。



一番右は、「ノーチラス」のキールに入れたトルーマンのイニシャル、
「HST」の場所を示すためのモデル。
「ノーチラス」起工は1952年で、まだ大統領はトルーマンでした。



トルーマン大統領ただいまキールにサイン中。
この写真にも大統領のサインがしてあります。
この特別なサインがなされた時点で、退役後の保存は決まっていたのかもしれません。
おそらくこれから先もこのサインが余人の目に触れることはないでしょう。

真ん中は、初代「ノーチラス」乗員が作ったオリジナルカップ。欠けてます。

左にちょっぴり見えているのは、「ノーチラス」が進水した時の楔です。



さて、北極点を無事に通過し、あとは大西洋に出て、西側諸国に
凱旋寄航を行うばかりになりました。

フランスのル・アーブルに寄航して、ノミ元帥から「海底二万マイル」
の初版本をプレゼントされたのもこの時ですが、「ノーチラス」乗員は
ヨーロッパ寄航に向けて、「フラッグ・コンテスト」を開催することにしました。

まあ、もうすることがなくなって暇になったってことなんでしょうけどね。

各部署がオリジナルの旗をデザインして、優秀賞を競うのです。
写真は、嬉々としてその旗をミシンで縫っている乗員。
ていうか、ミシンを乗せてたんですね。潜水艦なのに。



コンテストで優勝した旗は、イギリスのポートランドに寄航した時に
ちゃんと飾ってもらえたそうです。

ポートランドでは駐英アメリカ大使のホイットニー大使が、「ノーチラス」に
殊勲部隊章を授与しました。



現在もそれは「ノーチラス」に翻っています。(左端)



フランスで上陸した「ノーチラス」乗員は、この地から
自由に母国への電話通信を楽しみました。

その間、彼らの頭上には、ビービーという音(着信音)が「Tell-tale」
(何かが起こることを視覚や聴覚で示す注意警報的な機材などのこと)である、
ソ連の人類初の人工衛星、「スプートニク」がすでに軌道に乗って地球を回っていたのです。

このキャプションはこの写真に付けられていたものですが、つまりこれは
『ノーチラス』の偉業も、『スプートニク』が人類にもたらしたそれに比べれば
僅少なものであった、とか及ばなかった、と暗に言ってるんでしょうか。
だとしたら、アメリカ海軍内部の人なのに客観的な表現をするものだと感心します。


客観性は科学に通ず。

アメリカ人のこんなところが、その後のソ連との科学競争に
勝利をした(一応)と言えるのかもしれませんけど。 



続く。

 

Viewing all 2815 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>