16日午後5時すぎ、横須賀市米が浜通にある「料亭小松」から火が出ていると通報があった。
消防車12台が出動して消火活動を行っている。
午後6時13分にほぼ火は消し止められたが、木造二階建ての建物が全焼したという。
この火事で、隣のマンションの住人1人が煙を吸って病院に搬送された。
店のホームページなどによると、「料亭・小松」は明治18年に
大日本帝国海軍ゆかりの地・横須賀で創業して以来、東郷平八郎や山本五十六など
多くの海軍大将らに愛され、戦後は海上自衛隊や在日米海軍関係者も利用していることから、
『海軍料亭』とも呼ばれている。店内には歴代海軍大将自筆の掛け軸が飾られていたという。
17日の朝、いつものようにブログのコメントチェックをしたわたしは思わず
unknownさんのコメントに声を出して驚いてしまいました。
海軍料亭小松全焼・・・・。
16日の午後5時、小松から出火したとされる時刻、わたしは東郷神社敷地内の水交会にいました。
本年度の練習艦隊壮行会が出火時刻の5時から行われており、
これに参加していたのです。
(鉄火お嬢さんではないかと思われるキヤノン武装の黒髪女性を車から目撃しましたが
人大杉とわたし自身が乾杯直後に引き上げたため、ついにご挨拶できませんでした)
なぜわたしがこれほどまでに衝撃を受けたかというと、この火事が起こったのが
先日参加した横須賀歴史ウォークの行程で見学した料亭小松の外観を元に
例によって数項を費やして小松の歴史とそれにまつわるサイドストーリーを製作し、
完成したのがその日の朝だったからです。
最終エントリを製作するにあたって、わたしは元自衛官であった方に
現在の小松と海上自衛隊の関係について調べてもわからなかった部分を
質問していたのですが、その返事をいただいたのが日曜日の午後3時。
その方もよもやご自分が小松について質問を受け返信した次の日に
明治開業以来連綿と続く海軍の歴史を見てきたこの海軍料亭が焼失、つまり
永遠にこの世から姿を消すことになるとは思われなかったご様子で、
「昨日、小松に関するメールをお送りした矢先のことで、驚いています。」
というメールがすでに当日中にはわたしのメールボックスに届いていました。
今回、さんぽさんに横須賀ツァーのページを教えていただき
そのツァー内容を見ていたとき目を捉えたのが今回参加したツァーにあった
「料亭小松」の文字でした。
今まで気になってはいたけど、どこにあるのか知らなかった小松。
ツァーで外観を見るだけでもその意味はあろうと考え、参加を決めたのです。
そしてその姿をこの目に刻み、写真を撮ってその海軍とともに歩んだ歴史について
本を取り寄せて調べ終わった時、つまりまだわたしの中の「モード」がオンであるのに、
それがこの世から消えてしまったことに、何か因縁めいたものを感じずにはいられません。
ツァーから帰ってきて横須賀歴史ウォーク最終シリーズとして小松のエントリ作成に
取り掛かってすぐ、わたしはTOに
「小松っていう海軍料亭見てきたんだけど、今度行きたい。
東郷元帥が飲んだ長官室があって、掛け軸も残ってるんだって」
と声をかけました。
近々時間があれば行ってみよう、と夫婦で会話し、わたしはHPを見ながら
やっぱり5月27日は混むんだろうか、などと日取りを思案したりしていたのです。
外から見た160畳の大広間も、海軍軍人たちの揮毫した掛け軸も、
この目で見てここでお話しすることは永遠に不可能になってしまいました。
そのことは泣きたいほどに残念ですが、せめてもの慰めは失われる直前に
その姿をひとめこの目で見ることが叶ったことでしょうか。
というわけで、本来は横須賀ツァーについて全部お話しした後、
フィナーレとして?小松を取り上げるつもりでいたのですが、
この焼失を受けて急遽6月に掲載予定だったシリーズ、
「料亭小松の物語」
を始めたいと思います。
なお、これらはすべて焼失前に作成されたものであることを
ご了承ください。
さて、わたしがなぜこの平均年齢68歳(推定)の歴史ウォークに
参加したかなんですが、その理由はただ、これ。
「小松」です。
海軍について調べていると嫌でも目に入ってくる士官の遊興事情、
料亭=レス、芸者=エス、お泊まり=ストップ、馴染みの芸者=インチ、
などといった海軍隠語の中に「パイン」というものがあり、これが
他でもない、横須賀の料亭「小松」のことなのですが、なんと小松、
2016年現在も横須賀田戸において営業中であり、今回の歴史ツァーでは
そのコースに「門の前まで行く」というのがあるとわかったから。
門の前まで行くならなにもグーグルマップで見るだけでも事足りるし、
なんだったら訳あって横須賀に転勤になった後もうちの担当をしてくれている
セールスマンのいる近所のディーラーに車を預け、
そこから歩いてきたっていいわけなんですが、なんとなく
ツァーに参加したら今まで知らなかったことがわかるかも、と思った訳です。
しかし結論として、そんなことは全くありませんでした。
ガイドも含めて参加者の誰一人、おそらくわたし以上に
海軍について関心のある人はいる気配もなく、従ってその説明も
失礼ながらここに限ってはむしろわたしがレクチャーしたほうがいいのでは、
というくらい表面的なものであったからです。
ここがあの伝説の料亭「小松」の角。
敷地はどうやら三角形をしているようですね。
赤いパーカーをきたガイドさんが貼り紙を読んでいます。
なんと、パートさん募集の貼り紙でした。
これによると、配膳は時給1200円、洗い場は900円。
いや、そんなことはどうでもいいのです。
ここが海軍料亭「小松」だ!
料亭小松は、山本小松さんという方が明治18年開いたお店です。
海軍ファンであった彼女の持った料亭、ということで士官たちの人気となり、
「海軍おばさんのレス、パイン(小松)」とあだ名が付きました。
海軍士官はなんでも英語系の隠語で読んだので、小松だけでなく
「吉川」=「グッド」、「ときわ」=「グリーン」、
「いくよ」=「ジェネレーション」、「港月」=「ハーバー」
「楓」=「メープル」、
など、ほとんど直訳がそのあだ名になっていました。
直訳といえば、なんでも直訳を隠語にしてしまっていた海軍さん、
料亭のおかみのことも「ゴッド」と呼んでいたそうで、
なんとも罰当たりと言わざるを得ません。
この英語隠語でわたしがちょっとウケたのは
「アフター・フィールド・マウンテン」=後は野となれ山となれ
でしょうか。
ちなみに最近まで現役であった自衛官によると、いまだに営業している料亭は
”金沢八景の「千代本」、呉にはメイこと「五月荘」、ロックと言われた「岩惣」、
戸田本店、佐世保には山と呼ばれた「萬松楼」、”
”舞鶴のホワイトと呼ばれた「白糸」は、私が若いころにはあったのですが、
閉店に至りました。”
ということだそうです。
さて、海軍おばさんの山本小松さん、本名を悦さんといいます。
この命名はなんと小松宮殿下であったという話は有名ですが、
悦さんが殿下と指相撲をして勝ったので、宮様が
「お前の立派な体にわたしもあやかりたい」
といって小松の名前を与えたのだそうです。
それも、酒の上の冗談であだ名をつけたというものではなく、
翌日になって宮様は郡長に正式な手続きを取らせ、悦本人を驚かせました。
この話はおそらく海軍のサイドストーリーに詳しい方なら
一度は聞いたことがあるかもしれません。
しかし、このとき、なぜ小松宮が横須賀に来ていたかということも
当ブログとしてはこだわって書いておきたいと思います。
明治8年、浦賀沖で水雷発火の試験が行われました。
この時代の水雷とは、魚雷水雷以前のもので、いわゆる外装魚雷です。
どういうものかというと、棒の先端に火薬缶を装着し、これを艦首から突き出させ、
敵艦に突撃するときにその先端を水中に下ろすと、火薬缶が敵艦の底に触れて
発火し、爆発するというものでした。
これでは敵艦を撃破すると同時に自艦も爆破されてしまうではないか、
と思った方、あなたは正しい。
これは普通に特攻兵器ということになるのですが、当時は戦法がシンプルだったので
このような兵器も生み出されたということみたいです。
日本海軍はまだ貧弱な艦しか所持しておらず、こういう方法で戦うしかなかったんですね。
ともあれ、この
「浦賀沖水雷発火試験」
は生地での試験としては最初のものであり、3年後の明治11年、
今度は横浜の本牧沖で天皇陛下の御行幸を仰いで行われた生地試験の
先駆となるものでした。
以降、このような発火試験が頻繁に行われるようになります。
このときの視察団は今見ると錚々たるメンバーでした。
北白川、小松、伏見、山階ら4名の宮様
山県有朋(陸軍卿)山田顕義陸軍大将、西郷従道(陸軍卿)
御一行様はのちの山本コマツ、山本悦が女中をしていた吉川、
これも海軍隠語で言うところの「グッド」に投宿しました。
小松宮殿下との指相撲対決はこの夜の宴会での出来事です。
ちなみにこのエピソードから、小松宮彰仁親王はてっきり中年か
初老だったようなイメージを持っていましたが、実際にはまだ29歳。
おじさんどころかまだ青年というべきころの話です。
小松宮彰仁親王
対してコマツはというとこれもまだ28歳。
つまり同年代同士の飲み会で盛り上がっていた中の出来事でした。
彼女は宮様にお酌をしていたということですが、彼女の体重は
18貫300目、つまり66〜7キロという立派な体格だったそうで、
同席した宮様方は誰一人として彼女に勝てなかったようです。
このとき、彼女が西郷従道とは勝負をしたのか気になるところです。
今年のお正月映画に「海難1890」をご覧になった方はおられるでしょうか。
昨年は日本とトルコが世にもまれな友好関係を結ぶきっかけとなった
エルトゥールル号の海難事件から125年の節目にあたり、
様々な友好・記念行事が両国で開催されました。
このエルトゥールル号の事故とその後の日土友好について知っている人も、
そのきっかけがこの小松宮にあることはご存知なかったかもしれません。
エルトゥールル号がこのときはるばるイスタンブールから日本にやってきた理由は、
明治天皇が小松宮殿下を欧州に差遣し、トルコ皇帝に勲章を献呈したことに対する
答礼の意が込められていたのです。
吉川のお座敷女中として、コマツとなるまえの悦は海軍士官の
客に真心を込めて尽くしました。
何しろ彼女は10歳のときに江戸で見た軍艦旗(旭日旗)に感動し、
それ以来海好き、海軍好きとして筋金が入っています。
酒の席で士官たちの話を聞くだけでなく、彼女は実際にも訓練に詳しく、
「そのころの海軍では船に酔うと、帆柱に縛り付けられていた」
などという話をその自叙伝に記しているようです。
おそらく、じっさいに現場を見に行くことも度々であったのでしょう。
彼女は38歳にして自分の料亭「小松」を田戸に開業しますが、
田戸はそのころ波打ち際にあり、竹やぶに取り囲まれていました。
これは現在の聖徳寺坂の中程だったそうです。
今地図で見ると、ここが波打ち際であったなどとても考えられません。
彼女がここに店を持ったのは、田戸沖は軍艦の仮停泊地であったため、
いながらにして海と軍艦を眺めることができたからです。
海軍料亭の有名な「ゴッド」として、彼女は錚々たる海軍軍人に
贔屓にされ、また彼らと親密な付き合いがありました。
例えば、山本権兵衛。
「わしのことは小松のバアさんに聞けばわかる」
というのが口癖だったそうです。
一緒に歌舞伎見物に行ったり、横須賀鎮守府のあたらしい長官のせいで
途端に横須賀に入港する軍艦が減ったのでその陳情にいったり、
私宅に招じられて山本権兵衛夫人を交えて3人で痛飲したり・・・。
喧嘩をしてもそのあと仲直りしたりという仲だったようです。
東郷平八郎元帥は、「龍驤」乗組(明治3〜4年)時代、
また、イギリスから帰国して「比叡」に乗り組んでいた時代、そして
「迅鯨」副長時代、「大和」艦長時代と、コンスタントに「小松」に現れました。
つまりあの有名なイケメン写真の頃です。
東郷の飲みっぷりはというと、いつもいたって物静かで、唄ったり踊ったり、
もちろんのこと酔っ払って芋掘り(酔って暴れること)などとんでもない、
それどころか仲のいい軍医と二人っきりで来て、飲み始めるとこれが長くて(笑)
流連(いつづけ)という言葉を皆さんはご存知ですかね。
辞書で引きますと、東京の俗語で
幾日も妓楼に淹留して遊ぶこと。
遊廓などで日を重ねて遊ぶ事、流連とも書く。
遊廓などで何日も何日も日を重ねて遊ぶことをいふ。
妓楼に日を重ねて遊び居ること。留連。
遊廓などで幾日もとまつて遊びつづけること。居続けの意。
とまあ、現代は死語となっているのも無理はない意味だとわかりますが、
東郷平八郎のお酒が「流連」だったのだというのです。
あまりにもいつまでも小松に流連(いつづけ)するので、女将が二人に
「東郷さんも島原さん(軍医)も今日はお艦にお帰りになって、
一度皆さんにお顔をお見せしてまた出直していらっしゃい」
と追い立てると、東郷は決まって
「こんな顔、見せたって仕方ないや」
と苦笑いしながら帰って行ったそうですが、東郷が「浪速」艦長時代に「高陞号事件」
で最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破しようとした高陞号を撃沈したとき、
あのおとなしい東郷さんが、とコマツ以下小松一同は驚いたそうです。
それにしても、何日も料亭に居続けても問題がなかったとは、
結構当時の海軍というのはいい加減もできたんだなと思うのですが、
フネに帰らずにちびちび飲んだり、眠くなったら寝たり、ご飯食べたりとなると
困るのが接待する方なんですね。
(飲食業の方にはっきりいって一番嫌われるタイプです)
しかし、「小松」の浦という女中は東郷(当時は大佐)に
「ぞっこん惚れていて」(山本コマツ談)、他の女中が東郷の座敷を嫌がるのを
買って出ていたばかりか、呉に転勤になってしまった東郷を追いかけて、
思いのほどをぶちまけ、いや打ち明けたのだそうです。
東郷平八郎には個人的な逸話らしい逸話があまりないといわれています。
酒の席でもちびちびやっていただけの実に無口で物静かな青年だったので、
逸話の残りようがなかったという説もありますが、特に女性関係についいては
夫人のことですらあまり話題にならないのに、山本コマツが本を書いてくれたので
この小さなエピソードが後世に残されることになりました。
wikiの「東郷平八郎」には、
「体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、
壮年期においては料亭「小松」においては芸者より随分もてたとされる」
とあまり上手くない文章で(だってそうでしょ〜?)書かれていますが、
どうやら「もてたとされる」の真偽はこのエピソードからきているようなのです。
実際は東郷は「流連」の常習で、芸者をあげて飲むよりも軍医と二人で
しんみりとやっているのが好きだったわけですし、実は小松の女中たちも
そんな東郷の終わりのない酒席につかされるのを歓迎していなかったそうですから、
「芸者にずいぶんもてた」は少し違うかなという印象です。
お浦が後を追ってきたとき、東郷は、なにがしかの金を握らせて
彼女を横須賀に帰したそうです。
おそらく彼は当惑し、若い女中を傷つけないように気を遣ったのでしょう。
「船乗り将軍」という題でこのブログでも取り上げた
上村彦之丞将軍もコマツと親交を持っていました。
当ブログ「船乗り将軍」の項でもそのありあまるエピソードの一端をお話ししましたが、
とにかくコマツに言わせると植村は若い時から気性が激しく短気で、
気に入らないと相手がだれでも遠慮なく怒鳴りつけ、とにかく酒癖が悪かったそうです。
一旦荒れるとその辺のものを破壊しまくるので、足にしがみついて止めなくてはならなかったとか。
酒癖は悪いが女癖は悪いどころか全くなく、
「惚れたことも惚れられたこともない」というバンカラさんでした。
これもブログに書いた、
「濃霧で相手を逃したとはむのう(霧濃、無能)なり」
と世間から糾弾されていた時、上村はコマツにその苦しい胸の内を打ち明け、
彼女はとめどなく涙を流しながらその話を聞いています。
なんと、広瀬武夫中佐も小松の客の一人でした。
広瀬は酒の席で無邪気にロシア時代の自慢話などもしています。
「坂の上の雲」では、ロシア人の海軍士官3人相手に
喧嘩をして柔道で投げ飛ばしたというエピソードがあったかと思いますが、
どうもこの話の出処は、広瀬が「小松」で話したことが元になっています。
それによると、実際は少し「坂の上の雲」と違って
「ロシア皇帝の前で、ロシア海軍の士官で拳闘の強い
3人を相手に試合して、全員を投げ飛ばした」
と本人が語っていたということです。
小松での広瀬は、決して酒が強いほうではなかったのですが、少し酔うと
”荒城の月”を『透き通ったような良い声で』歌うのだそうです。
尺八を吹く者がいると、一緒に合わせて歌い、その様は
本人が恰幅のいい好男子であったこともあって、まるで一服の絵のよう。
広瀬に夢中になる女中も多数で、女将のコマツとしては万が一
女中と間違いでも起こして広瀬の将来に傷がついてはと気を揉み、
取り締まり(もちろん女中の)を厳しくせざるをえなかったということです。
料亭小松の物語、続きます。