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緊急寄稿 海軍料亭「小松」焼失に寄せて

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16日午後5時すぎ、横須賀市米が浜通にある「料亭小松」から火が出ていると通報があった。
消防車12台が出動して消火活動を行っている。
午後6時13分にほぼ火は消し止められたが、木造二階建ての建物が全焼したという。
この火事で、隣のマンションの住人1人が煙を吸って病院に搬送された。
店のホームページなどによると、「料亭・小松」は明治18年に
大日本帝国海軍ゆかりの地・横須賀で創業して以来、東郷平八郎や山本五十六など
多くの海軍大将らに愛され、戦後は海上自衛隊や在日米海軍関係者も利用していることから、
『海軍料亭』とも呼ばれている。店内には歴代海軍大将自筆の掛け軸が飾られていたという。


17日の朝、いつものようにブログのコメントチェックをしたわたしは思わず
unknownさんのコメントに声を出して驚いてしまいました。
海軍料亭小松全焼・・・・。

16日の午後5時、小松から出火したとされる時刻、わたしは東郷神社敷地内の水交会にいました。

本年度の練習艦隊壮行会が出火時刻の5時から行われており、
これに参加していたのです。
(鉄火お嬢さんではないかと思われるキヤノン武装の黒髪女性を車から目撃しましたが
人大杉とわたし自身が乾杯直後に引き上げたため、ついにご挨拶できませんでした)


なぜわたしがこれほどまでに衝撃を受けたかというと、この火事が起こったのが
先日参加した横須賀歴史ウォークの行程で見学した料亭小松の外観を元に
例によって数項を費やして小松の歴史とそれにまつわるサイドストーリーを製作し、
完成したのがその日の朝だったからです。

最終エントリを製作するにあたって、わたしは元自衛官であった方に
現在の小松と海上自衛隊の関係について調べてもわからなかった部分を
質問していたのですが、その返事をいただいたのが日曜日の午後3時。

その方もよもやご自分が小松について質問を受け返信した次の日に
明治開業以来連綿と続く海軍の歴史を見てきたこの海軍料亭が焼失、つまり
永遠にこの世から姿を消すことになるとは思われなかったご様子で、

「昨日、小松に関するメールをお送りした矢先のことで、驚いています。」

というメールがすでに当日中にはわたしのメールボックスに届いていました。



今回、さんぽさんに横須賀ツァーのページを教えていただき
そのツァー内容を見ていたとき目を捉えたのが今回参加したツァーにあった
「料亭小松」の文字でした。

今まで気になってはいたけど、どこにあるのか知らなかった小松。
ツァーで外観を見るだけでもその意味はあろうと考え、参加を決めたのです。

そしてその姿をこの目に刻み、写真を撮ってその海軍とともに歩んだ歴史について
本を取り寄せて調べ終わった時、つまりまだわたしの中の「モード」がオンであるのに、
それがこの世から消えてしまったことに、何か因縁めいたものを感じずにはいられません。

ツァーから帰ってきて横須賀歴史ウォーク最終シリーズとして小松のエントリ作成に
取り掛かってすぐ、わたしはTOに

「小松っていう海軍料亭見てきたんだけど、今度行きたい。
東郷元帥が飲んだ長官室があって、掛け軸も残ってるんだって」

と声をかけました。
近々時間があれば行ってみよう、と夫婦で会話し、わたしはHPを見ながら
やっぱり5月27日は混むんだろうか、などと日取りを思案したりしていたのです。
外から見た160畳の大広間も、海軍軍人たちの揮毫した掛け軸も、
この目で見てここでお話しすることは永遠に不可能になってしまいました。

そのことは泣きたいほどに残念ですが、せめてもの慰めは失われる直前に
その姿をひとめこの目で見ることが叶ったことでしょうか。


というわけで、本来は横須賀ツァーについて全部お話しした後、
フィナーレとして?小松を取り上げるつもりでいたのですが、
この焼失を受けて急遽6月に掲載予定だったシリーズ、

「料亭小松の物語」

を始めたいと思います。
なお、これらはすべて焼失前に作成されたものであることを
ご了承ください。





さて、わたしがなぜこの平均年齢68歳(推定)の歴史ウォークに
参加したかなんですが、その理由はただ、これ。

「小松」です。

海軍について調べていると嫌でも目に入ってくる士官の遊興事情、
料亭=レス、芸者=エス、お泊まり=ストップ、馴染みの芸者=インチ、
などといった海軍隠語の中に「パイン」というものがあり、これが
他でもない、横須賀の料亭「小松」のことなのですが、なんと小松、
2016年現在も横須賀田戸において営業中であり、今回の歴史ツァーでは
そのコースに「門の前まで行く」というのがあるとわかったから。

門の前まで行くならなにもグーグルマップで見るだけでも事足りるし、
なんだったら訳あって横須賀に転勤になった後もうちの担当をしてくれている
セールスマンのいる近所のディーラーに車を預け、
そこから歩いてきたっていいわけなんですが、なんとなく
ツァーに参加したら今まで知らなかったことがわかるかも、と思った訳です。

しかし結論として、そんなことは全くありませんでした。

ガイドも含めて参加者の誰一人、おそらくわたし以上に
海軍について関心のある人はいる気配もなく、従ってその説明も
失礼ながらここに限ってはむしろわたしがレクチャーしたほうがいいのでは、
というくらい表面的なものであったからです。



ここがあの伝説の料亭「小松」の角。
敷地はどうやら三角形をしているようですね。
赤いパーカーをきたガイドさんが貼り紙を読んでいます。



なんと、パートさん募集の貼り紙でした。
これによると、配膳は時給1200円、洗い場は900円。

いや、そんなことはどうでもいいのです。



ここが海軍料亭「小松」だ!

料亭小松は、山本小松さんという方が明治18年開いたお店です。
海軍ファンであった彼女の持った料亭、ということで士官たちの人気となり、
「海軍おばさんのレス、パイン(小松)」とあだ名が付きました。

海軍士官はなんでも英語系の隠語で読んだので、小松だけでなく

「吉川」=「グッド」、「ときわ」=「グリーン」、
「いくよ」=「ジェネレーション」、「港月」=「ハーバー」
「楓」=「メープル」、

など、ほとんど直訳がそのあだ名になっていました。
直訳といえば、なんでも直訳を隠語にしてしまっていた海軍さん、
料亭のおかみのことも「ゴッド」と呼んでいたそうで、
なんとも罰当たりと言わざるを得ません。

この英語隠語でわたしがちょっとウケたのは

「アフター・フィールド・マウンテン」=後は野となれ山となれ

でしょうか。

ちなみに最近まで現役であった自衛官によると、いまだに営業している料亭は

 ”金沢八景の「千代本」、呉にはメイこと「五月荘」、ロックと言われた「岩惣」、
戸田本店、佐世保には山と呼ばれた「萬松楼」、”


”舞鶴のホワイトと呼ばれた「白糸」は、私が若いころにはあったのですが、
閉店に至りました。”


ということだそうです。 

さて、海軍おばさんの山本小松さん、本名を悦さんといいます。
この命名はなんと小松宮殿下であったという話は有名ですが、
悦さんが殿下と指相撲をして勝ったので、宮様が

「お前の立派な体にわたしもあやかりたい」

といって小松の名前を与えたのだそうです。
それも、酒の上の冗談であだ名をつけたというものではなく、
翌日になって宮様は郡長に正式な手続きを取らせ、悦本人を驚かせました。

この話はおそらく海軍のサイドストーリーに詳しい方なら
一度は聞いたことがあるかもしれません。
しかし、このとき、なぜ小松宮が横須賀に来ていたかということも
当ブログとしてはこだわって書いておきたいと思います。

明治8年、浦賀沖で水雷発火の試験が行われました。
この時代の水雷とは、魚雷水雷以前のもので、いわゆる外装魚雷です。
どういうものかというと、棒の先端に火薬缶を装着し、これを艦首から突き出させ、
敵艦に突撃するときにその先端を水中に下ろすと、火薬缶が敵艦の底に触れて
発火し、爆発するというものでした。

これでは敵艦を撃破すると同時に自艦も爆破されてしまうではないか、
と思った方、あなたは正しい。
これは普通に特攻兵器ということになるのですが、当時は戦法がシンプルだったので
このような兵器も生み出されたということみたいです。

日本海軍はまだ貧弱な艦しか所持しておらず、こういう方法で戦うしかなかったんですね。

ともあれ、この

「浦賀沖水雷発火試験」

は生地での試験としては最初のものであり、3年後の明治11年、
今度は横浜の本牧沖で天皇陛下の御行幸を仰いで行われた生地試験の
先駆となるものでした。
以降、このような発火試験が頻繁に行われるようになります。




このときの視察団は今見ると錚々たるメンバーでした。

北白川、小松、伏見、山階ら4名の宮様

山県有朋(陸軍卿)山田顕義陸軍大将、西郷従道(陸軍卿)

御一行様はのちの山本コマツ、山本悦が女中をしていた吉川、
これも海軍隠語で言うところの「グッド」に投宿しました。
小松宮殿下との指相撲対決はこの夜の宴会での出来事です。

ちなみにこのエピソードから、小松宮彰仁親王はてっきり中年か
初老だったようなイメージを持っていましたが、実際にはまだ29歳。
おじさんどころかまだ青年というべきころの話です。

小松宮彰仁親王

対してコマツはというとこれもまだ28歳。
つまり同年代同士の飲み会で盛り上がっていた中の出来事でした。
彼女は宮様にお酌をしていたということですが、彼女の体重は
18貫300目、つまり66〜7キロという立派な体格だったそうで、
同席した宮様方は誰一人として彼女に勝てなかったようです。

このとき、彼女が西郷従道とは勝負をしたのか気になるところです。


今年のお正月映画に「海難1890」をご覧になった方はおられるでしょうか。
昨年は日本とトルコが世にもまれな友好関係を結ぶきっかけとなった
エルトゥールル号の海難事件から125年の節目にあたり、
様々な友好・記念行事が両国で開催されました。

このエルトゥールル号の事故とその後の日土友好について知っている人も、
そのきっかけがこの小松宮にあることはご存知なかったかもしれません。

エルトゥールル号がこのときはるばるイスタンブールから日本にやってきた理由は、
明治天皇が小松宮殿下を欧州に差遣し、トルコ皇帝に勲章を献呈したことに対する
答礼の意が込められていたのです。




吉川のお座敷女中として、コマツとなるまえの悦は海軍士官の
客に真心を込めて尽くしました。
何しろ彼女は10歳のときに江戸で見た軍艦旗(旭日旗)に感動し、
それ以来海好き、海軍好きとして筋金が入っています。

酒の席で士官たちの話を聞くだけでなく、彼女は実際にも訓練に詳しく、

「そのころの海軍では船に酔うと、帆柱に縛り付けられていた」

などという話をその自叙伝に記しているようです。
おそらく、じっさいに現場を見に行くことも度々であったのでしょう。

彼女は38歳にして自分の料亭「小松」を田戸に開業しますが、
田戸はそのころ波打ち際にあり、竹やぶに取り囲まれていました。
これは現在の聖徳寺坂の中程だったそうです。

今地図で見ると、ここが波打ち際であったなどとても考えられません。

彼女がここに店を持ったのは、田戸沖は軍艦の仮停泊地であったため、
いながらにして海と軍艦を眺めることができたからです。


海軍料亭の有名な「ゴッド」として、彼女は錚々たる海軍軍人に
贔屓にされ、また彼らと親密な付き合いがありました。

例えば、山本権兵衛。

「わしのことは小松のバアさんに聞けばわかる」

というのが口癖だったそうです。
一緒に歌舞伎見物に行ったり、横須賀鎮守府のあたらしい長官のせいで
途端に横須賀に入港する軍艦が減ったのでその陳情にいったり、
私宅に招じられて山本権兵衛夫人を交えて3人で痛飲したり・・・。

喧嘩をしてもそのあと仲直りしたりという仲だったようです。

東郷平八郎元帥は、「龍驤」乗組(明治3〜4年)時代、
また、イギリスから帰国して「比叡」に乗り組んでいた時代、そして
「迅鯨」副長時代、「大和」艦長時代と、コンスタントに「小松」に現れました。
つまりあの有名なイケメン写真の頃です。

東郷の飲みっぷりはというと、いつもいたって物静かで、唄ったり踊ったり、
もちろんのこと酔っ払って芋掘り(酔って暴れること)などとんでもない、
それどころか仲のいい軍医と二人っきりで来て、飲み始めるとこれが長くて(笑)

流連(いつづけ)という言葉を皆さんはご存知ですかね。

辞書で引きますと、東京の俗語で

幾日も妓楼に淹留して遊ぶこと。
遊廓などで日を重ねて遊ぶ事、流連とも書く。
遊廓などで何日も何日も日を重ねて遊ぶことをいふ。
妓楼に日を重ねて遊び居ること。留連。
遊廓などで幾日もとまつて遊びつづけること。居続けの意。

とまあ、現代は死語となっているのも無理はない意味だとわかりますが、
東郷平八郎のお酒が「流連」だったのだというのです。

あまりにもいつまでも小松に流連(いつづけ)するので、女将が二人に

「東郷さんも島原さん(軍医)も今日はお艦にお帰りになって、
一度皆さんにお顔をお見せしてまた出直していらっしゃい」

と追い立てると、東郷は決まって

「こんな顔、見せたって仕方ないや」

と苦笑いしながら帰って行ったそうですが、東郷が「浪速」艦長時代に「高陞号事件」
で最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破しようとした高陞号を撃沈したとき、
あのおとなしい東郷さんが、とコマツ以下小松一同は驚いたそうです。

それにしても、何日も料亭に居続けても問題がなかったとは、
結構当時の海軍というのはいい加減もできたんだなと思うのですが、
フネに帰らずにちびちび飲んだり、眠くなったら寝たり、ご飯食べたりとなると
困るのが接待する方なんですね。

(飲食業の方にはっきりいって一番嫌われるタイプです)

しかし、「小松」の浦という女中は東郷(当時は大佐)に
「ぞっこん惚れていて」(山本コマツ談)、他の女中が東郷の座敷を嫌がるのを
買って出ていたばかりか、呉に転勤になってしまった東郷を追いかけて、
思いのほどをぶちまけ、いや打ち明けたのだそうです。

東郷平八郎には個人的な逸話らしい逸話があまりないといわれています。
酒の席でもちびちびやっていただけの実に無口で物静かな青年だったので、
逸話の残りようがなかったという説もありますが、特に女性関係についいては
夫人のことですらあまり話題にならないのに、山本コマツが本を書いてくれたので
この小さなエピソードが後世に残されることになりました。

wikiの「東郷平八郎」には、

「体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、
壮年期においては料亭「小松」においては芸者より随分もてたとされる」

とあまり上手くない文章で(だってそうでしょ〜?)書かれていますが、
どうやら「もてたとされる」の真偽はこのエピソードからきているようなのです。

実際は東郷は「流連」の常習で、芸者をあげて飲むよりも軍医と二人で
しんみりとやっているのが好きだったわけですし、実は小松の女中たちも
そんな東郷の終わりのない酒席につかされるのを歓迎していなかったそうですから、
「芸者にずいぶんもてた」は少し違うかなという印象です。


お浦が後を追ってきたとき、東郷は、なにがしかの金を握らせて
彼女を横須賀に帰したそうです。
おそらく彼は当惑し、若い女中を傷つけないように気を遣ったのでしょう。





「船乗り将軍」という題でこのブログでも取り上げた
上村彦之丞将軍もコマツと親交を持っていました。

当ブログ「船乗り将軍」の項でもそのありあまるエピソードの一端をお話ししましたが、
とにかくコマツに言わせると植村は若い時から気性が激しく短気で、
気に入らないと相手がだれでも遠慮なく怒鳴りつけ、とにかく酒癖が悪かったそうです。
一旦荒れるとその辺のものを破壊しまくるので、足にしがみついて止めなくてはならなかったとか。

酒癖は悪いが女癖は悪いどころか全くなく、
「惚れたことも惚れられたこともない」というバンカラさんでした。


これもブログに書いた、

「濃霧で相手を逃したとはむのう(霧濃、無能)なり」

と世間から糾弾されていた時、上村はコマツにその苦しい胸の内を打ち明け、
彼女はとめどなく涙を流しながらその話を聞いています。 


 なんと、広瀬武夫中佐も小松の客の一人でした。
広瀬は酒の席で無邪気にロシア時代の自慢話などもしています。

「坂の上の雲」では、ロシア人の海軍士官3人相手に
喧嘩をして柔道で投げ飛ばしたというエピソードがあったかと思いますが、
どうもこの話の出処は、広瀬が「小松」で話したことが元になっています。
それによると、実際は少し「坂の上の雲」と違って

「ロシア皇帝の前で、ロシア海軍の士官で拳闘の強い
3人を相手に試合して、全員を投げ飛ばした」

と本人が語っていたということです。
小松での広瀬は、決して酒が強いほうではなかったのですが、少し酔うと
”荒城の月”を『透き通ったような良い声で』歌うのだそうです。
尺八を吹く者がいると、一緒に合わせて歌い、その様は
本人が恰幅のいい好男子であったこともあって、まるで一服の絵のよう。

広瀬に夢中になる女中も多数で、女将のコマツとしては万が一
女中と間違いでも起こして広瀬の将来に傷がついてはと気を揉み、
取り締まり(もちろん女中の)を厳しくせざるをえなかったということです。




料亭小松の物語、続きます。 


 


軍艦「初瀬」機関長殴打事件〜料亭小松の物語

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平成28年5月16日、焼失した歴史的な海軍料亭「小松」について
お話ししています。



料亭「小松」の女将である山本コマツは、時分の経営する「小松」で
起こったことや女将として知り得た海軍軍人たちの素顔について

「山本小松刀自伝」

という本で様々なことを語っています。
その名前だけで海軍の歴史が語れてしまうような錚々たるメンバーは、
東郷平八郎、山本権兵衛、広瀬武夫、加藤寛治・・。

当たり前のようにそんな人々が通った「小松」という料亭は、
海軍士官にとって港に帰った船が錨を下ろす母港のようなものであり、
ここに出入りできることを誇りにすらしていたといいます。

「小松」が火事で焼けるまで営業を細々と続けていることを知ったのは
靖国神社の会報や、横須賀市の事業で三笠公園に「軍艦の碑」を建てた時の
記念冊子に広告を載せていたからでした。

旧海軍軍人たちが戦後も集まりににここを使ったのはもちろんですが、
終戦時にまだ兵学校、機関学校などの生徒だった人たちが健在だった頃、 
クラス会や分隊の会の際にはこの「小松」に集ったものだそうです。

学生のまま終戦を迎え、士官となっていつかここにくることを夢見ながら
果たせなかった思いを、彼らは戦後そんな形で叶えてきました。

「少尉になったらあそこで飲める」

と彼らが憧れた小松での「遊び」はどのようなものだったのでしょうか。



たとえば艦隊勤務の甲板士官などだと、楽しみは料理屋で飲むくらい。
夜、火灯し頃になると陸(おか)が恋しくなるので、晩御飯を済ますと
「ト」(当直将校)でなければ

「運動一旒、我が航跡に続け」

で数人から多いときには10人くらいが連れ立って上陸します。
「運動一旒」が旗艦のマストに上がると、二番艦以下、先頭艦の航跡を
ついていくことから、海軍軍人は仲間を飲みに誘う時にはこう言いました。

直行することもあれば、水交社で一杯ひっかけてくることもあるのですが、
予約などせず、いきなり行くので満員になっていることがあります。
そんなときには女中部屋やおばあちゃん(女将?)の部屋に入れてもらって
そこで部屋の空くのを飲みながら待つというのが通例であり、
むしろそんな扱いを受けることを彼らは”誇りに思って”いたと云います。

だいたい7時から飲み始めて、10時半に逸見の波止場から最終の
定期便に乗るのが自制心のある飲み方というものなのですが、
そこはそれ、現代で言うところの「最終便逃した」という時間まで
飲み過ぎてしまうことも多々あるわけです。

現代ならタクシーで帰ったりカプセルホテルにとまったりするわけですが、
当時の横須賀にはそんな飲兵衛の士官さんを艦まで送り届けるのが
専門の「通船」という仕事がありました。

なんのことはない一人で漕ぐ小舟なのですが、横須賀港内だけで
10隻ほどが仕事をしていたといいますから、定期便に乗り損ねる
士官さんはけっこう多かったものと思われます。


これも海軍隠語で「ロディコン」(語源不明)といったそうですが、
定期船の波止場に立って

「おーい、つうせーん」

と叫ぶと、爺さんが「へー」と答えてぎっこらぎっこら漕いできます。
それに乗って「磐手」とか「涼風」「伊勢」とかいうと、爺さんは間違えずに
艦まで漕いでいってくれますから、船の上で寝ていればいいのです。
本当に今のタクシーそのものですね。


規則上では少尉になれば陸上の泊まり(ストップ)は許されていたのですが、
若い者に外泊を許すとろくなことにならん、朝の甲板掃除の時に
赤い目をしていたり酒の匂いをプンプンさせるなどもってのほか、
ということでそれを禁止する上官
(たいていはケプガンことキャプテン・オブ・ザ・ガンルーム)
もいたようです。

ケプガンや艦長が緩いと、甲板掃除の30分前に艦に帰り、
靴を脱いで裸足になって裾を捲り上げて総員起こし5分前には
甲板に立って早起きしたような振りをする豪傑甲板士官もいました。

ケプガンというのはだいたい中尉になって三年目くらいに
割り当てられるのですが、このころは遊びも落ち着いて、むしろ
新少尉たちに「遊び方指導」を行ったりします。

海軍はこの辺りの境目がはっきりしていて、少尉候補生までは
ストップどころかレス(料亭)にくるのも許されていないのですが、
少尉さんになった途端全てが許されるので、新少尉たちは開放感と好奇心から
ついつい変な料理屋でボラれたり、良からぬ病気
(Rとかプラム、サードシックと称した)をもらったりという失敗をしがちなので、

「上陸してレスに行く時にはケプガン先頭」

「楽しむ時には皆一緒に、一人でコソコソ行くな」

「”パイン”のような一流の料亭で一流の芸者を呼んで公然と遊べ」

などといったルールを作って自粛を促すケプガンもいました。



さて、「小松」女将の山本コマツの回想には、きっと当時は「守秘義務」により
決して外にでなかったであろう酒の上の話がいくつか含まれています。

軍艦「初瀬」の沈没に関わる話もその一つでしょう。

第二術科学校の海軍資料室で、かつて横須賀の機関学校で嫌々ながら(笑)
教鞭をとっていた芥川龍之介の話をしたことがありますが、そのとき、
軍嫌いだった芥川が海軍に対してはそうでもなかった理由として、
彼の妻の父親、つまり義父が海軍軍人であったから?と書きました。

この父親というのは第一艦隊第一戦隊先任参謀であった塚本善五郎で、
第二次旅順港閉塞作戦において旅順港で触雷し沈没した
軍艦「初瀬」に乗り組んでいて戦死しています。


初瀬(wiki)

この時の経緯は以下の通りです。

1904年(明治37年)2月9日からの旅順口攻撃に参加し、5月15日
旅順港閉塞作戦で旅順港外、老鉄山沖を航行中に左舷艦底に触雷し航行不能となる。
「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分に2回目の触雷をし
後部火薬庫が誘爆、大爆発を起こして約2分で沈没した。(wiki)


この一連の攻撃で喪失したのは「初瀬」だけではなく、やはり触雷で
「八島」が同じ日に沈没し、水雷艇48号が掃海中に触雷。
そして特務艦(砲艦)「大島」が濃霧の中同じ砲艦の「赤城」と衝突して
旅順港の海底に消えていきました。

この1週間以内に主力艦を8隻失うことになったわけで、
当時海軍は上から下まで色を失ったと言われています。

その周章狼狽ぶりを、小松の女将はたまたま海軍大臣であった
山本権兵衛に会うため海軍省にいたので、目撃することになりました。
応接室に通されたものの、山本大臣も一瞬顔を出しただけであとは誰も出てこず、
ただ廊下を人が慌ただしく行ったり来たりして騒然とした様子だったそうです。


ところで触雷した「初瀬」は、爆発後わずか2分で沈没しました。
機関科の乗員などひとたまりもなかったわけですが、機関長であった
佐藤某という大佐だけは、触雷当時機関室にいながら救助されました。
異変を感じてすぐさま甲板に駆け上がったので沈没を免れたのです。

機関長が爆破音を聞いて甲板に上がったとき、艦はすでに沈没しかけていました。
そのときに彼は機雷に触れたのだと初めて気がついたそうですが、
同時に胸まで海水が押し寄せてきました。
無我夢中で手に触れた板にしがみ付いていたところ、救助されたというのです。

佐藤大佐にすれば偶然による僥倖というしかなかったのですが、
問題は、機関室の乗員は全員機関長を除いて戦死したことです。

戦後、佐藤大佐は機関少将に進級しました。
しかし、部下全員を殺しながら自分一人生き残っただけでなく、
昇進したというので、まわりの目は冷たいものであったといいます。

そんなある日、佐藤少将の昇任祝いが小松で行われました。

海軍の昇任というのは、同じ時期に該当者が同時に辞令を受けるので、
このときの祝賀会というのも同時に昇進した8人の宴会でした。

ところがこの日、同じ小松で行われていた第三艦隊の士官の宴会に、
酒豪で手も足も早い大尉がいて、この大尉が4階級も上の少将に向かって
喧嘩をふっかけ・・というか一方的に小突きまわすという暴挙に出ました。

どうもこの大尉は、「初瀬」の沈没の件を聞いて、佐藤少将の行いを
腹に据えかねていたところにもって、酒席でその名を聞きおよび、
酔いの勢いでこの挙に及んだものとみられています。

伝わるところによると、大尉は宴席真っ最中の部屋に踏み入るや、
佐藤少将の前に仁王立ちとなり、

「佐藤!(呼び捨て)
貴公は部下が皆戦死しているのに自分だけ助かって良いと思うか。
恥を知らんにもほどがある!
この木村が死んだ人たちに代わり制裁を加える!」
 
と怒鳴るが早いか手や足を出したということです。
因みに木村大尉は翌朝、ほとんどそれを覚えていませんでした。
が、それでもやはり彼は

「僕が佐藤少将であったならば部下が助かった助からんにかかわらず、
機関長としての責任上、艦と運命を共にする。
まして部下が皆死んでしまったと聞けば、なおさら自殺して部下の後を追う。
それなのに佐藤少将は責任も取らず、自殺もせず、出世をしたとて
昇進祝いとは何事だ。それで日本の武士道がたつと思うか」

という意見を決して変えることはなかったそうです。
女将は理由はどうあれ下級の者が上官を殴ったことを看過できず、 
「それでは道が立たない」と大尉を説得して謝罪をさせたのだそうですが、
佐藤少将はよっぽどこれに傷ついたのか、木村大尉の謝罪を受け入れず、
事情を海軍省に言いつけたため、海軍省の取り調べが行われることになりました。

ただ、海軍省的には木村大尉の理屈にも分があるとしたのか、処分は
大変軽いものであったそうで、佐藤少将には不満の残る結果となりました。




艦と運命を共にした艦長というと、山口多門司令と二人「飛龍」とともに
沈んだ加来止男艦長、燃え盛る「蒼龍」の艦橋で仁王立ちになって
壮絶な最期を遂げた柳本柳作艦長などがいます。

1942年には、機雷に触雷した民間船「長崎丸」の船長、菅源三郎が
最後まで船橋にあって指揮を取ったのち救出され、
軍側の伝達不足が原因だったため長崎丸側の責任は無しとされたにもかかわらず、
菅船長は死者13名と行方不明26名という惨事の責任をとって、3日後に
東亜海運長崎支店ビルの屋上で割腹自決を遂げたという事件もありました。


海軍の歴史には艦と共に死ななかったからということで、同調圧力?というのか、
上層部から暗に卑怯者呼ばわりされて左遷された不遇な艦長もいましたが、
沈む艦に殉じるというのは精神論というか美学的な観点からは賞賛されても
戦争を遂行していく戦略的な意味では決して利益とはなりません。

しかし明治時代の海軍においてはまだまだ「武士道」が重んじられ、
「義」を体現する行為が賞賛される一方、佐藤少将のようなケースは
「命を惜しんだ」「恥知らず」「武士の名折れ」という言葉で非難されがちでした。
道義的にももちろん実際にも殉職の義務は全くないにもかかわらず、
この若い士官だけでなく、皆が佐藤少将を内心どう思っていたかが窺い知れます。

この場合、佐藤機関長の部下が全員戦死したことと、
あまりにもその助かり方が奇跡的だったのと、早々に昇進したこと、
(これはさっきも言うように機械的なものである側面もあるのですが)
佐藤少将にとって幸運が重なったことが、逆に海軍内の反発を呼んだと思われます。

ただ、こういう僥倖を喜ばれず反発されるというのは、大変言いにくいことですが、
本人に日頃からあまり人望がなかった可能性もなきにしもあらずです。


「初瀬」の沈没時の乗員数は834名、そのうち半数以上の492名が戦死しました。



続く。


 

加藤寛治と飛行機献納運動〜料亭小松の物語

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さて、日露戦争の立役者ともいえる何人かの海軍軍人と、横須賀にある
料亭小松のかかわりについてお話ししましたが、あの加藤寛治も
当然小松の常連で、女将を「おっかさん」と呼んで親しく付き合っていました。

日露戦争のことを少し知っている人でこの名前を聞いたことがない、
という人はまずいますまい。
加藤寛治は日露戦争で戦功を立てただけでなく、大正から昭和の
日本海軍における「キーパーソン」ともいえる重要な働きをした軍人です。

小松の女将の養女は加藤と兵学校24期の士官と結婚したのですが、
その結婚に際し同級生の加藤は何かと骨を折ってやったという縁もありました。



先日見学した旧横須賀鎮守府の歴代長官の写真の中に
中将時代の加藤寛治の名前があります。(大正13〜15年)

当時の小松は長官官舎と同じ田戸台にあり、歩いて帰ることができました。
加藤中将は朝帰りを子供(家族で住んでたんですね)に見られてはいけないと、
一旦副官と一緒に副官宅に寄り、そこで時間を潰してから帰宅していたそうです。

副官に子供がいてそこで朝帰りを見られる心配はなかったのかとか、
副官の(独身でなければですが)奥さんは迷惑ではなかったのかとか、
いろいろ考えてしまいますが、 当時は副官の官舎が近所にあり、
お互いの官舎は抜け道で行き来できたのでした。

横須賀鎮守府長官当時の加藤中将は、あの長官庁舎に四斗樽のお酒を置いて
若い士官を庁舎に招いては皆で飲むというような面もあったようです。

ウィキペディアには、日露戦争時代「三笠」の砲術長であった頃の加藤について

各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて
砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した

としか書かれていませんが、小松の女将は「三笠」の信号兵曹だった
特進少佐から

「三笠」戦闘中、後部の大砲一門が敵の砲弾によって吹き飛ばされた。
その報告を受けても砲術長であった加藤は平然としながら撃ち方待てを命じ、
悠々とその中で照尺(敵艦までの距離)を測り直して「撃て」の号令を出し、
このことが東郷長官をいたく感心させた。

という逸話を聞き及んでいます。
戦後、記念艦となっていた「三笠」は連合軍の遊興施設にされ、
「キャバレー・トーゴー」「バー・カトウ」があったという噂が流れました。
どちらも風評に過ぎなかったのですが、ここで注目すべきは、連合軍的には
東郷と並んで「カトウ」にそれだけのネームバリューがあったということです。

今では想像つきませんが、加藤寛治は戦前の日本では
「第二の東郷」と呼ばれていたくらいだったのです。

加藤寛治の戦後評は猪突猛進型の猛将というふうに落ち着いているようですが、
実際彼は兵学校主席卒の秀才で、博識・理論的でありながら実戦においても
肝の据わった勇猛果敢な指揮を行い、かつ外国勤務が多く、英仏米など
諸外国からの勲章も受けたこともあるというスーパー軍人でありました。

ロンドン軍縮条約をめぐっては条約派と対立する立場だったことで
おそらく戦後、彼の評価はそれほど高くないのではないか、
とわたしは実は勝手に考えているのですが、このときの賛成派を善、
反対派を悪とする後世の歴史観にはいささか異論を唱えるものです。


ご存知のようにワシントンで1921年(大正10)に行われた軍縮会議で
日本は自国防衛のために対英米7割を主張しましたが、この意見は
全権首席随員であった加藤大将の主張そのものでした。
結果、それは受け入れられず5:5:3となったわけですが、
加藤大将は事後にこのような文を発表しています。

「会議に臨むにあたって我が国の軍備に対する研究と準備は
決してずさんなものではなかったが、國民の十分な理解がなく
従って世論の後援が足りなかったのは残念だった」 

これをタイプしながら、現在の安保法にも同じことが言えるとふと思いました。

現在「国民の十分な理解がない」のは、まともに審議に応じず、
対案を出さず、「戦争法案」などというレッテルを貼って、
国民をポピュリズムで煽ろうとする一部野党と、反政府の点からしか報道をせず
まるで政治結社のようになってしまった各マスコミが足を引っ張って、
日本を取り巻く現状を含めて理解させまいとしている面があるせいなので、
このころの「理解がない」とは全く性質を異にするものではありますが。


ワシントン会議の9年後、ロンドンで再び軍縮会議が行われました。
このとき総理大臣だった濱口雄幸(おさち)は日露戦争後の財政再建を謳っていたため、
軍縮にはたいへん積極的でした。

この会議で全権団は、海軍軍令部の「対英米7割」というラインを携えていきながら、
対6割に抑えられるという結果となりました。

この会議にまつわる統帥権干犯問題という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。

統帥権とは明治憲法における天皇の指揮権のことを言いますが、
特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていました。
それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)
については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)
が補翼することになっていたのです。

条約は国の責任者によって批准されるものであり、その批准権は天皇にありましたが、
ときの濱口内閣は議会で多数決によりこれを承認し、天皇に上奏して裁可を仰ぎ
批准するという「裏技」にでたのです。

このとき濱口首相が軍令部の、簡単に言うと「口を封じるため」、
対米6割で条約を飲ませるために統帥権を「干犯した」というのが
このときの海軍の言い分でした。


後世の歴史は、このことを「加藤寛治など強硬派が軍拡を主張」
「明治憲法のこの欠陥が、日本を軍国主義化を助長した」などと記し、
あたかもこのころの艦隊派が軍国主義であり、反対派が平和主義であったかのように
わかりやすく善と悪で片付ける傾向にあります。

加藤寛治大将がこのときに東郷元帥を担いで(実際は親密だったので相談したくらい)
これを井上大将が「東郷元帥は平和なときに口を出すとろくなことにならない」
などと非難したため、これをもって東郷元帥は晩節を汚したという者すらありました。

とんでもない!

とわたしは改めてここで声を大にしていっておきたいと思います。
この一連の出来事を先入観を交えずに眺めてみると、そこには戦後の
「軍国主義は悪」「軍拡は悪」という価値観が深く影響を及ぼしているのに気づきます。


加藤大将が憂えていたの単に兵器の割合を減らされていざとなったときの
防御が不安になるということだけではありません。
そこで危惧されたのは国際間のパワーバランスの崩れだったのです。
ロンドン条約の前に、加藤大将は全権顧問安保清種大将にこんな手紙を出しました。

「ここまで背水の陣を敷いて強硬かつ理義公明正大な主張をして
それを譲歩することになったら、それはすなわち
米国の瀬踏みに落第したのと同じことになる。
そうなると、彼らはいよいよ日本をあからさまに蔑視し、
満州問題についても高圧的態度にでるようになるだろう。
これはもはや海軍だけ問題はなく、国家の威信信用問題である」 

そして、濱口首相に対してはもし条約を向こうのいうまま飲んだら

「作戦計画を立てることが困難で国防上不安になるので、
統帥権を受け入れるくらいならむしろ決裂が望ましい」

と強調しています。
これらの一連の加藤大将の意見を読んでみると、対米7割の固守も
決して「軍国主義」「覇権主義」などという見地からではなく、
厳しい事実認識の上に立った自国防衛のための切望であったとしか思えません。


このロンドン条約によって日本はより厳しい条件を押し付けられました。
艦隊戦が主流であった当時、海軍が厳密な研究によってはじき出した比率を
なんとか死守したいというのを一言で軍国主義と決めつけるのは、
あたかも現代日本の左派が、

「防衛費を増やせば戦争になる、安保法案を改正すれば徴兵制になる」

と言っているのと同じようなことなのではないでしょうか。


加藤寛治大将は条約が批准されたのち、軍令部長を辞任しました。
濱口首相はその後、右翼青年に東京駅で襲撃され、その傷が元で死去。

条約の批准後、鳩山一郎や犬飼毅ら野党が与党を攻撃するために
国会で統帥権を持ちだして問題を大きくしたため、その後議会は
なにかというと統帥権を主張する軍部の動きを押さえられなくなります。

要するに議会が統帥権を政争の道具にして争い、その結果、
自分(議会)の実権が弱まる=自分の首を絞めるに至るという
なんとも皮肉な結果を生んだとも言えます。


話題を変えましょう。

小松と加藤寛治、いや山本コマツと加藤の親交は、当時全国的な動きとなった
民間の遊興業者の飛行機献納運動に発展しています。
加藤はある日(ワシントン会議の後)女将に向かってこんなことを言いました。

「おっかさん、これからの戦争は優秀な飛行機をたくさん持ってる方が勝つ。
日本はイギリスやアメリカの奴らに、軍艦は5・5・3に押し付けられたけど、
いざ鎌倉というときに航空隊がしっかりしていれば引けを取らない。
ただ残念なのは、飛行機を建造しようとすると、
戦争のことを知らない政治家がなんのかんのと反対する。
民間からも建造費を出してくれなければどうにもならんよ」

これを聞いたコマツは、そんなに飛行機が大事なのなら、
全国に呼びかけて献納しようと思い立ち、同業者に声をかけました。
当初運動は決して順調ではなかったのですが、全国料理業者大会が
行われたとき、77歳でありながら単身乗り込み、皆に向かって
飛行機の必要性と献納をしようと演説をぶったのです。

この作戦に満場一致の賛成が寄せられ、それからというもの、
横須賀を中心に飛行機が、料亭や待合、芸者の組合などによる団体にはじまり
全国の民間団体から陸海軍に寄付されることになりました。
一度ここでも、歌舞伎座で行われた芸者の組合による献納飛行機の授与式に
出席した海軍大尉の話を書いたことがあります。

舞台の上に上がってみると、歌舞伎座の席上は一面に脂粉の香り漂う
お姐さんで埋め尽くされていて大いに戸惑った、というような(笑)

皆さんも一度くらいは飛行機が献納されている式典の写真、
また機体に「報国号」「愛国号」と書かれた機体をご覧になったことがあるでしょう。
「報国号」が海軍、「愛国号」が陸軍に献納された飛行機です。

陸軍献納飛行機命名式案内状

海軍報国号リスト

海軍報国号のリストを見ると、どんな団体から献納されてどんな名前がついたか、
それを見ているだけで大変興味深いのですが、面白いので抜粋してみると、

ニッケ号(日本毛織株式会社従業員)

三越号、高島屋号、明治生命号、伊勢丹号

新潟号、兵庫号、鹿児島号、沖縄号(県民)日向号(宮崎県民)

中学生号(全国中学校職員生徒)女学生号(全国女学生)

横浜号、川崎号(各市民)大銀座号(銀座連合町会)

神谷号(神谷さん)文明号(文明さん)

福助号、丸善号、近鉄快速号、三和号(銀行)大林号

相撲号(力士の組合)池坊号(華道)、銭高号

日本盲人号、日本楽器号、

第1〜30日本号(朝日新聞による呼びかけ)

忠南号(朝鮮忠清南道 愛国機献納期成会 鄭僑源)

・・・・

飛行機献納運動はその飛行機に出資団体や個人の名がつけられたため、
企業宣伝にもなったので運動の広がりが早かったとも言えます。


それにしても驚くのですが、朝日新聞が呼びかけて献納飛行機30機ですか・・・。
しかも名前が「日本号」ねえ。

一番最後はどうも朝鮮在住の朝鮮人の資産家だったみたいですね。
過酷な植民支配とやらを受け、文化抹殺を受け迫害されていた支配民が、
支配国の軍隊に飛行機を献納するため、そのための団体まで作って
しかも現地で資金を集めたということになりますが、これ本当でしょうか。


という嫌味はともかく(笑)、このようにリストアップされている
海軍への献納飛行機だけで1000機はあるわけで、それもこれも小松の女将に
加藤寛治が酒の席でふと漏らした一言が発端だったとすれば、
これだけの一大ブームを引き起こすことのできた小松の女将は、
海軍軍人に慕われただけでなく、人の心を動かすカリスマ性も
備えた女傑であったらしいということがわかります。


続く。
 

酒飲み提督は誰だ〜料亭「小松」の物語

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横須賀の米が浜にある「小松」。
パインと呼ばれて海軍軍人のオアシスになっていたレス(料亭)です。 

現在の海上自衛隊の艦艇では夕食が午後4時半となっています。
4時半に夕食なんか食べたら夜お腹が空くんじゃないかと思うのですが、
そこは「夜食」というもので補うのでご心配なく。
冬に見学した掃海母艦でも、食堂にはおにぎりが置いてあり、
これを小腹の空いた人はつまむというのが慣例のようです。

で、この4時半夕食の慣習ですが、旧海軍時代からのものなんですね。
海軍時代は4時45分だったそうですが、なぜか現在は切り上げです。
理由はわかりません。

昔は夕食の後上陸が許されていたのでこの時間だったそうです。
半舷上陸 (乗員の半数を当直に残し、半数を上陸させること)とか
入湯上陸(文字通りお風呂に入るのが目的。一日置きに許される上陸)
で下士官兵は上陸が許されています。

士官はというと自由ですが、そうなると当時のことですから
レスの灯が無性に恋しくなって「運動一旒!」と声をかけてしまう。
そうすると、同じように思っていた者がぞろぞろ背広に着替えて集まってくるのです。

前にも一度書きましたが、海軍軍人は外で飲むとき背広に着替えることが多く、
軍服で飲みに行くことをあまりイケてると思わなかったようです。
隆とした背広を誂え、帽子をかぶって上陸することも海軍の「粋」であり、
オンとオフを切り替えるための大事なスイッチでもありました。

その点、陸軍は酒席にも長刀を「がっちゃんがっちゃんいわせながら」
やってくるので、海軍はそれを「野暮」だと見ていました。
陸軍は陸軍で、海軍がわざわざ着替えるのを

「ケシからん、軍服を着ないでちょろちょろと隠れて悪いところに行く」

と非難していたそうです。
まあ、何かにつけて反目し合っていたんですね。

着替えるといっても、毎日のことになると簡単に、上着だけを
たとえば夏の第2種軍装であれば白いズボンの上に上をグレーとか
紺ブレ?とかにして出かけるのです。
ところで夏はいいけど冬は上にどんな背広を合わせたのか、気になります。
ネイビーのズボンに合う別色の背広って難しそう・・。

陸軍と海軍の違いというのはいろいろありますが、上官と部下の距離感というのも
やはり海は狭い艦内で行動を共にするということからか、大変近いのが海軍、
きちんとしすぎるくらい間をおくのが陸軍、となっています。

東郷元帥に甲板掃除をする水兵が「どいてください」と直接言ったので
それを見ていた陸軍の偉い人が卒倒するくらい驚いたという話がありますが、
海軍ではたとえば飲むときも、副官は同じ部屋で同席。
もちろん上座と下座の違いは厳格だったと思いますが。

これも、海軍副官が陸軍副官(東条閣下の副官)に

「あんたら長官と一緒でよく飯がのどを通りますな」

と感心されたというか呆れられたという話があります。
現代の自衛隊でももちろん偉い人と部下が一緒にご飯を食べますが、
その階級の開きによっては

「カレーがのどを通らない」

というくらい緊張するものらしいですから、戦前の海軍は軍隊として
少し規格が外れていた(といっても陸軍と違うというだけですが)
というしかありません。

ところが海軍軍人はこのことを「それもまた勉強」としており、
若い軍人に上のものの振る舞いを見、話を聞いて何かを得る場として
あえてそれを公開していた節があります。

海軍将官でも、お酒が好きな人、そうでもない人がいるわけですが、
及川古志郎などはあまり好きでなかったといいます。

及川古志郎

吉田善吾大将(海軍大臣も務めた)はお酒好き。

吉田善吾

嶋田繁太郎もいける口。

嶋田繁太郎

米内光政は超酒好き。



おっとこちらでした。

米内光政

酒好きというより「酒豪」でならしたというくらいだったそうです。
wikiでは「酒が米内か、米内が酒か」というタイトルで、米内の酒豪ぶりを
それだけで一つの項にまとめてあるくらいです。

「小松」ではお酒を注ぐと杯をおかずにグイと飲み、
さらに酌ぐとまた一気に開けるので、杯はいつもカラ。

酒の席でもあまり喋ることのない無口な方で、黙ってこの調子で
グイグイとやるのが米内長官の酒でした。

あまりの強さに、ある日若女将(山本直江夫人)が芸者衆に

「誰か米内さんを酔いつぶさせたらご褒美をあげるわ」

と言いだしました。
酒に強く、これまで一度も酔いつぶれたことのない芸妓が、
その難題に挑戦し、さしつさされつが始まったのですが、
若女将が様子を見に行くと、なんと米内長官の膝枕で
酔いつぶれて寝ている彼女の姿が。

「しようがないわね。
わたしが米内さんを酔わせるといっていたのに醜態演じちゃって」

若女将がこぼすのに、米内、

「いいよ、いいよ、そのままにしておけ」

にこりと笑って言ったのだそうです。

「連合艦隊司令長官山本五十六以下略」という映画で、米内光政を演じた
柄本明は、気味が悪いほど軟弱に描かれており、女好きを強調していましたが、
実際の米内はとにかく芸者衆にMMK(もててもてて困る)で、
芸者のストーカーなどもいたという話です。

ただ、このころの海軍士官というのは「遊ぶときにはブラックときれいに」
遊び、それを酒の席以外に引きずらなかったので、映画の柄本演じる米内のように
任務中にもそれを匂わすような醜態は見せなかったはずです。

ちなみに米内がもてたという件については、わたしはこの写真を見て納得しました。




東條英機が陸軍大臣だったときの海軍大臣は嶋田繁太郎。
東条の副官というのは当時飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢を振るったものですが、
それでも宴会のときには副官は同席などあり得ません。
陸軍側が主催する合同宴会では、副官は隣の部屋でお酒を飲みます。
しかし、海軍の嶋田が主催の宴会だと、副官は同席しなくてはいけません。

そこで陸軍副官の「あんたらよく飯がのどを通りますな」となるのですが、
海軍の副官だって好きで同席するんじゃありません。
現代の海自でも「カレーがのどに通らない」くらいですから、
この時代の副官だってお酒くらい別室で気楽に飲みたいに決まっています。

このことを当時の豊田貞二郎の副官が長官に向かって

「こんなことはうち(海軍)だけですがね」

といったのだそうです。
こういうことを長官に直々にいうこと自体陸軍には信じられないことでしょう。
ともかく、それに対する豊田の答えは

「これもお前たちの教育だ」

だったそうです。

豊田貞二郎

そして、

「つまらなくて肩がこるかもしれんが、ここにいて、
上のアドミラルたちがどんな話をしているか聞くのが君たちの勉強だから
絶対に逃げてはいかん」

と諭したのだそうです。 
そんなことを言われたらもう二度と文句は言えませんね(笑)

そのうち若い参謀や副官も慣れてきて、窮屈だとは感じなくなってくるので、
偉い人たち(艦隊の長官たちとか)の会議の後の宴会でも、末席で
適当にやっていると、若い芸者さんたちは年寄りよりも若い方がいいので
末席に集まってくるわけです。

一般に、繁くレス通いをするのはなりたての少尉と中尉までで、
だいたいは中尉の三年目くらいで所帯を持ち大尉は勉強があって足が遠くなり、
中佐、大佐になると単身赴任が多くなるのでまたやってくるのですが、

 ♪大佐中佐少佐は老いぼれで〜

という唄にもあるように、芸者さん方にからはもうすでにジジイ扱いなので、モテません。
「小松」などでは、たとえインチ(馴染み)や好きな士官が来る日でも、
上の人を立てて接待しないといけない、と言い聞かされていたようですが、
芸者さんも所詮若い女性、どうしても自分たちと近い世代と話す方が
気が合うし楽しいに決まっています。

で、艦隊司令長官が居並ぶ宴席でも末席に芸者さんが集中するわけですが、
偉い人たちもそこのところはかつて来た道なので鷹揚に

「おーい秘書官、ひとりふたりこっちに回さんか」

と冗談交じりに言って決して場はわるくならないのです。
いかにも海軍らしいリベラルな空気を表していますね。



陸軍と海軍の違いというのは、大臣の伊勢神宮参拝にも表れました。
陸軍大臣の参拝には列車も特別車両を用意して移動します。
秘書官の他には部長クラス、局長クラス、課長クラスが3人、
それにお付きのものが加わって総勢15〜6人になってしまうのです。

対して海軍大臣の伊勢参拝は秘書官と二人っきり。
そんなぞろぞろ行ってもしょうがないとか、特別車両なんて勿体ないとか、
海軍には海軍なりの合理的な理由があってそうなったのでしょう。

ただし、こうなるとたった一人で随行する秘書官が大変なんだな。

当時は東京から伊勢神宮まで行くのに一昼夜かかりましたから、
東京駅から出発する寝台車でいくわけです。
その道中、地元の管轄警察署から護衛の警官が乗り込んでくるわけです。

いまならシークレットサービス、SP(PはポリスのP)がずっとついていますが、
当時はそういうシステムではなかったんですね。
これはいまでもそうですが、警察は管轄下のことしかやりませんので、
たとえば神奈川を通過している時には神奈川県警から警備が乗り込みます。
で、各県の県境ごとに、護衛が交代するわけです。

交代した警官はその旨随伴員にそのことを報告しないといけないので、
県境に来るたびに交代が来て降りる警官に寝台車で寝ているのを起こされます。

「護衛変わります!」

と敬礼するのに、1円札のチップを何枚か用意しておいて

「ご苦労様でした、まあいっぱい飲んでください」

と渡すのが眠くてとても辛かった、という秘書官の告白があります。
それにしても、当時の警官はチップを受け取ったんですね。
今なら収賄とかに抵触して大変なことになりそう。

 

ちなみに本項で「秘書官」として各大臣の思い出を語っているのは
福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)- 2007年(平成19年)) 
元海軍大佐、そして元横須賀地方総監。

文中にもあるように、戦中は海軍大臣秘書官として歴代の海軍大臣に仕え、
戦後は海上自衛隊退官後、記念艦「三笠」の艦長を務めていました。


子息の福地健夫氏は父親と同じ横須賀地方総監を経て海幕長に。
2007年に103歳という長寿で老衰のため亡くなる前に、
息子が海上自衛隊のトップになったのを見届けたことになります。



参考文献*「錨とパイン〜日本海軍側面史〜」外山三郎著 静山社

 

平成28年度自衛隊遠洋練習艦隊出港

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練習艦隊とは、帝国海軍の昔から初任幹部の訓練のために、
江田島卒業後約半年の遠洋航海にでる艦隊を称します。

この練習艦隊を英語で言うとTraining Squadron、つまり「練習戦隊」
ということになるのですが、日本では昔からこれを「艦隊」と訳します。

海軍の昔から同じく、江田島の幹部候補生学校の過程を終了し
帽振れで送られた初級幹部たちは、まず近海練習航海によって
大阪、佐世保、鳥羽沖(伊勢神宮がある)、大湊、舞鶴と
旧鎮守府のあった基地に投錨しながら、各地での寄港・歓迎行事と訓練を
重ねて遠洋航海に必要な基礎と礼式、マナーなど、幹部として必要な
素養の数々とシーマンシップを身につけていきます。

水交会で行われる壮行会は、それらがすべてすんで、遠洋航海への
出港地である晴海や横須賀において行われる最後の激励行事の一つです。
初級幹部たちは、まず水交会の敷地内にある東郷神社に拝礼を行い、
遠洋航海の無事と目標の達成をを祈念するのです。



壮行会には水交会の会員と自衛隊の司令官等高級幹部が出席します。
水交会の主催ですので、会員は会費を払って参加する形です。

車を敷地内に停めて時間ちょうどに会場入りしますと、
会場はこんな状態。
ガラガラのように見えますが、ここに実習幹部たちが入ってくると
立錐の余地もなくなるのです。

開始時間になりましたが、実習幹部は東郷神社の参拝を行っている
ということで、少し待つようにというアナウンスがありました。



暇なので廊下のポスターを見たりして時間を潰します(笑)

「水交会は海上自衛隊の支援が第一です」

そうだったのか・・・・って当然そうですよね。
水交会は明治年間に海軍省の外郭団体としてできた「水交社」が
戦後名前を変えたもので、当時は旧陸海軍の残務整理を管轄していた
厚生省所管による財団法人「水交会」として設立されました。

ここ原宿の東郷神社境内の水交会館に本部が移ったのは1969(昭和44年)です。



 「我軍占領栄城湾上陸之図」

明治28年(1895年)1月20日、前年の11月に旅順を占領していた日本軍は、
清国艦隊(北洋艦隊)の拠点である威海衛の攻撃を行うために
海路山東半島に進み、栄城湾からの上陸を行いました。

軍艦からボートに乗り換えて上陸を行う日本軍兵士たちの様子が描かれており、
右下の岩礁と波間には中国兵のものらしい屍体が見えます。
当時何枚か発行された錦絵の一つです。
これが現物なのか複製なのかはわかりません。



程なく練習艦隊司令官岩崎秀俊(防大31期)海将補を先頭に、
実習幹部が入場してきました。
入場音楽は「海をゆく」、退場は「軍艦」と決まっているようです。



まだ全員の入場が終わっていない段階で、
肩章の金線も真新しい新少尉たちがイモ洗いです。



水交会会長のあいさつ、練習艦隊司令官の決意表明が行われております。



場内の来賓及び自衛隊幹部の紹介。
武居海幕長は名前が呼ばれて皆が振り向き拍手をすると、
「あ、もういいです前見てください」というように手を振られました。
 


そして乾杯。
用意されていた飲み物のための氷はなんと南極の氷!
これでオンザロックなど飲んだらさぞ美味しいのであろう、
と全く飲めないわたしはウーロン茶を飲んでひとり頷くのでした。



そして歓談・会食の時間・・・・・・・
となったとたん、テーブルを囲んでいた新少尉たちが食べ物に殺到。
当分テーブルに近づくことはできないとあきらめ・・・、



例の海軍カレー本舗、調味商事が開発した「水交会オリジナルカレー」。
単に海軍カレーをここではそう称しているだけなのではないか?
といううっすらとした疑惑も感じないでもありませんが、
それはともかく、せめてこれだけでも食べて帰ることにしました。


 
結局このカレー一皿とウーロン茶2杯が、わたしがここで口にしたものの全てでした。
念のため帰る前に見てみたら、全ての食べ物が綺麗になくなっていました。
青少年の食欲恐るべし。 

余談ですが、わたしがここで実習幹部の行く末を励ます会に参加していたとき、
後から思えば横須賀の料亭「小松」はまさに火事によってその姿を永遠に
この世から消そうとしていたのでした。



そしてその週末の朝、わたしは横須賀駅にいました。
今回の練習艦隊出港には正式なご招待をいただいていたわけではないので、
水交会の壮行会だけ参加して彼らをお見送りする予定だったのですが、
急遽横須賀基地での出港行事(自主)参加のお誘いが入ったのです。



例年晴海埠頭で行われる練習艦隊の出港ですが、今年は横須賀地方総監の
速水岸壁からの出港です。
この変更にも色々と理由があるようですが、昔は横須賀出港が基本だったそうです。

おなじみ「かしま」以外に練習艦隊を組むのは
TV-3518 せとゆき・DD-151 あさぎり。
「かしま」のうしろにひっそりと繋留されているのは「せとゆき」です。 

わたしたちが到着した時には「かしま」には実習幹部たちの家族の姿が見えました。
出港前に実習幹部が家族や恋人に艦内ツァーを行うのも恒例です。

なかには地方から来て荷物を預けることができなかったのか、「かしま」甲板を
大きなキャリーバッグを引っぱりながら歩いているお父さんがいました。
あれでは艦橋に上がることはできなかったと思われます。

かしまの前では式典が行われるので人がいっぱいでしたが、
「あさぎり」の前には乗員の家族だけなのでこの通り。

艦尾の自衛艦旗が綺麗になびいていますが、この日は風が強く、
曇りがちで肌寒い天気となりました。
一緒にいた人たちが半袖なので寒くないですか、と聞いたところ、
やっぱり寒かったそうです。



最初、「かしま」艦尾側から見ていたのですが、防衛副大臣のヘリが着陸するため、
その辺りの人々は艦首がわに「運動一旒」で案内されていきました。

このあたりは家族章をつけた人たちがいましたが、その一段の中に
海自の白とは違うクリームの制服を着た人を発見。



同行者と「海保かな」「海保でしょうね」とひそひそ言っていたのですが、
そのとき近くに来られたのでわたしが直接「海保の方ですか」と
声をかけてみました。

式典に海保から海将クラスに相当する一等海上保安監が賓客として出席しており、
その随伴で来られてカメラ係もしているのだそうです。
この海保職員の階級は三等海佐に相当する三等海上保安正ということでした。



そして式典が始まり、防衛副大臣の挨拶、海幕長の激励の辞、
練習艦隊司令の決意表明などがいろいろ行われたのですが、
なぜか(なぜかじゃないんだけど)いきなりこのシーンに。

自衛隊幹部の向こうには陸空の幹部、そして在日外国武官。
一番先に出向していく「あさぎり」はもう岸壁を離れています。

なぜか。

実は、二台のカメラの一つに入れていたSDカードが読み込めないのに
それに気づかずずっと撮っていたのでしたorz
なぜそのカードが読み込めなかったのはは謎。(ロックではありません)

望遠レンズで実習幹部の行進の様子や舷側に並ぶ一人ひとりの表情、
ことにわたしたちの近くにいたおばあちゃまが、嬉しくてたまらない様子で、

「あの、一番端に立ってるのが孫なんですよ!」

と指差した青年のアップもしっかりカメラに収めたはずだったのに・・・。

ちなみにこのおばあちゃまは、「かしま」が岸壁を離れていくと、
孫をできるだけ近くで見るために、慌てて移動していかれました。

今あの女性の様子を思い出しただけで、わたしは心が温かくなると同時に
泣きたくなるような切ない気持ちがこみ上げてきます。



赤絨毯にはちゃんとそこに立つ人のポジションのシールが貼られています。
わたしたちの前は幹部学校長とSBF司令官でした。



そのとき「あさぎり」に「帽ふれ」がかかりました。
やはり陸空外国武官は皆がやっているのを見てから振るので
海自のひとたちよりワンテンポ遅いですね。



手前三人の制服の白が微妙に違うのがわかりますね。
海自の制服は基本特別誂えしてもかまわないので、仕立てによって
生地もずいぶん違ってくるということを以前書いたことがあります。

ただ、さきほどの海保の制服について同行者と話題になったときに
聞いた話ですが、こういう儀式のときには、今写っているクラスはともかく、
その他の隊員たちは官品を着るようにと最近ではお達しがでているとかなんとか。
特に夏服の白の違いは大きいので、見た目を統一するためなんだと思います。



自衛艦の出港を何度となく見ていると、出港作業までは長いですが、
一度出港ラッパが鳴った後岸壁を離れるのはあっという間です。



陸空の自衛官たちは海の行事に呼ばれたとき、色々と段取りが違うので
慣れないと結構ドギマギするものらしいということを、陸自の方から聞きました。

前列にいて、後ろを見たら皆敬礼していたのであわてて自分もした、
というトホホな話も結構あるようです。



そして、「かしま」が岸壁を離れていきます。



せめてものアップ。
あのおばあちゃまの自慢の孫はこの一番左です。
って全く顔がわかりませんが。



練習艦隊は今年「世界一周」の年です。
北米・欧州・インド洋・東南アジアと、6ヶ月弱で寄港します。
いやでも潮気がつきそうですし、これだけを回れば、人生観も変わりそうです。



参加人数は約700名。
実習幹部の中には海外からもタイ王国留学生、東ティモール共和国留学生が
それぞれ1名ずつ乗り組んでいます。
留学生は毎年1〜2人必ず乗り組むようです。




かしまに乗り込む実習幹部の表情をカメラに残すことができなかったのは残念ですが、
こうやって出港していく艦の姿とその礼式を見ることができたのは幸いでした。
お誘いを受けなかったらおそらく見ることのなかった
これらの光景に立ち会えただけで満足です。



行事が終わり、防衛副大臣の若宮 健嗣氏が退場。



さて、このあとわたしは誘われて艦艇見学を行い、12時に横須賀を立ちました。
実はこの日、午後から地球防衛協会の総会がありまして、防衛部長という
たいそうな肩書きを持つわたしは出席しないわけにはいかなかったのです。
桟橋から基地の外に出るまでにたっぷり時間がかかってしまいましたが、
渋滞していなかったので、湾岸線を飛ばして1時間で市ヶ谷に到着しました。

朝は横須賀、そのあと市ヶ谷で会議って、こいついったい何者?



面白くない会計監査報告が一通り済んだあと、100歳の名誉会長という方が
挨拶をされ、英霊の遺骨収集がやっと法案化されたことについて、自民党の宇土議員を
「何も知らないところから勉強してここまでよくやってくれた」
と褒めておられました。
そして、「来年はもうここにいられるかどうかはわからないので遺言だと思って」

「草生す屍、水漬く屍となって散っていった人々のご遺骨をなんとかして
日本に帰してあげてください」

と最後におっしゃいました。
2年前の練習艦隊は、南方からの遺骨帰還事業に参加し、
ご遺骨を「かしま」に乗せて日本に連れて帰るということが行われました。
ちょうどそのとき、宇土議員や佐藤議員が取り組んでいた法案が
ようやく今年になって法制化されたということになります。

「これで安心してはいけない」

とこの方もおっしゃっていましたが、まだ緒に就いたばかりの
この事業を、なんとか未来に繋げていかなければなりません。




総会のあとの来賓にはいつものように政治家の面々が顔を出しました。
後ろで顔を掻いているのは佐藤議員ですがこの人も佐藤議員。



ヒゲの隊長の方の佐藤議員は挨拶のあとすぐに退去されました。
とにかくお忙しいようです。

この総会には顔見知りの元将官の方がおられまして、
水交会壮行会に続きご挨拶させていただいたのですが、
朝練習艦隊を見送ってきたと申し上げると、

「わたしは今回は行けなかったのでどうもありがとうございました」

とお礼を言われてしまいました。

「で、今日はどの肩書きで参加されたんですか」

「えー、今日は(艦艇見学に誘われた)ひとりのファンとして・・・」

それは肩書きではない(笑)




 

関東大震災における海軍の災害派遣と料亭小松

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歴史ウォークの「小松」見学は、玄関の中に数歩入るだけで終わり、
(なんといっても営業しているわけですから)
あとは建物の塀ごしに見える大宴会場のある棟を見ながら歩いて行きました。



この直後、この部分が全て焼け落ちてしまったのがまだ信じられません。
この建物の二階に160畳敷きの大広間があったのだそうです。
ここにいったことのあるガイドさんによると、「広すぎて向こうが見えない」
くらいの広大な宴会場だったとのこと。

ここは、大正12年、9月1日に起きた関東大震災のとき、
ちょうど新築中でした。


小松が隆盛を誇ったのは明治時代のことです。
日本海海戦の勝利により人々が祝賀ムードのうえ、毎日のように
横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が開かれたのです。

その勢いをかって、小松は100畳の大広間の建設が行われました。

しかし大正年間に入ってからの小松の営業は決してうまくいっていたとは言えません。
昔女将が「いつでも働きながら海と海軍の艦が見られるように」と、
をわざわざ田戸の海辺に建てた小松の目の前の海が埋め立てられてしまい、
白砂に青松の立地を奪われて客足が遠のいたところに、
世界大恐慌のあおりを受け、娼妓がストライキを起こしたりしました。

そして山本コマツは一端料亭小松を休業して置屋に仮寓していました。
 
しかし多くの海軍軍人たちの小松の閉店を惜しむ声に後押しされる形で、
彼女は当時景色が良かった現在の店舗がある米が浜に約400坪の土地を購入し、
大正12年(つまり震災の年の)春頃から料亭小松の再建工事を開始しました。

それがこの建物です。
大正12年当初は、ここ米が浜もまだ海岸沿いだったんですね。 

地震が起こったとき、コマツや彼女の孫の山本直江さんは置屋にいましたが、
ぐらっと揺れた瞬間全員がわーっと言って飛び出そうとしたのを、女将は

「出ちゃダメ!」

と大声で制して皆を止めました。
そのとき建物の外に出ていたら、倒れてきた前の家の下敷きになっていたそうです。
さすがはおばあちゃんの知恵袋、亀の甲より年の功。

頃合いを見て「いまだ!」と女将が号令をかけ、みんなで走り出て
海岸に逃げて20人ばかりは一人も怪我すらせずにすみました。



さて、先日起こった熊本大地震では、自衛隊の動きが大変早かったので
国民はむしろ驚いたくらいでした。

4月14日21時46分 震災発生 


    
21時26分 最初の災害派遣要請 
    熊本県知事→陸上自衛隊第8師団長 大分県知事→西部方面特科隊長(16日)

    防衛省、初動対処部隊「ファストフォース」を派遣
    陸海空が情報収取のため「F2」2機、「P3C」1機、「UH-1」1機を派遣


4月16日2時45分 陸海空統合任務部隊を編成するための自衛隊行動命令が発令
   2時間後陸災部隊(13,000名)、海災部隊(1,000名)、空災部隊(1,000名)
   いずれも活動開始

4月17日  
   陸自 全国にある方面隊が部隊を投入
      中央即応集団 第1ヘリコプター団 航空学校

   海自 護衛艦「ひゅうが」「いずも」「やまぎり」「あたご」「きりさめ」など
      救難飛行隊を有する航空部隊投入

   空自 航空隊や救難隊などを投入
  
   即応予備自衛官招集 最大300人程度 招集は東日本大震災以来2回目


これだけ初動が早かったのも、阪神大震災の教訓の賜物だと言えましょう。
 

それでは関東大震災のとき、海軍はどのように動いたのでしょうか。

当時の横須賀鎮守府長官野間口兼雄中将は、地震発生後ただちに部署を発動し、
艦船部隊をあげて鎮守府構内に起こった火災を消火し、
派遣防火隊と警備隊を海軍内で編成して市の活動に協力させました。



第9代の温厚厚顔なおじいちゃま風が野間口中将です。


横須賀鎮守府はすぐさま艦艇を品川と横山に派遣し、現地の治安維持にあたらせ、
艦艇で東京方面との連絡、救護物資の輸送を行っています。
関東大震災のとき、艦船の被害はほとんどありませんでした。

そして佐世保鎮守府長官に打電で食料と医療品の収集を依頼し、
たまたま帰ってきた特務艦(水上機母艦)「神威」(かもい)には、
伊勢湾方面での食糧収集を命じました。

神威

横須賀鎮守府の動きは全てすぐさま海軍省から下された命令に基づいており、
海軍省がいかに初動を起こすのが早かったかということになります。

海軍省は同時に連合艦隊と火各鎮守府に物資と人員の輸送を命じていますが、
当時の通信で命令が全て到達したのは9月2日のことでした。
全海軍に向けて最初に非常事態を発信したのは送信局指揮官だった一大尉で、
彼はこれを独断で9月1日の午後3時に行っています。

独断といえば、呉鎮守府長官だった鈴木貫太郎も艦艇の派遣を
上からの裁可を仰がずに行いました。

地震発生当時、連合艦隊は裏長山列島(遼東半島沖)で訓練中でしたが、
すぐさま東京湾に向かい、一部艦艇には食糧と救急品が搭載されました。
そしてまず巡洋艦や駆逐艦など、軽量の艦船が品川沖に到着。
「長門」「伊勢」「日向」「陸奥」は一旦九州に向かい、
「長門」に物資を積み替えて東京湾に向かわせます。

そして9月5日、「長門」は品川沖に到着。

このとき、「長門」は震災の救援を申し出た英海軍の巡洋艦に監視追随されていましたが、
公表されている船速23ノットよりも速い全速力で東京に向かっています。

連合艦隊は海軍省内に指揮所を置き、そこから指揮をして、被災地に物資を運んだり、
避難民を輸送するといったように全軍あげての救難活動を行いました。
このとき連合艦隊司令長官だったのが竹下勇中将で、旗艦の「長門」に座乗していました。

竹下勇中将・駐米武官時代

竹下中将はナイト(勲功爵)位を持っていたので、タイトルは「Sir」です。
このとき、英海軍巡洋艦は竹下中将に敬意を表して礼砲を撃っています。
ちなみに原宿の「竹下通り」はこの人の家があったことからついた地名です。


このとき東京湾には続いて「金剛」が、そして呉から「陸奥」が到着し、
海軍の総力を挙げて救援に当たりました。


さて、熊本地震での発生は4月14日9時26分。
その5分後の9時31分には、政府は首相官邸の危機管理センターに
官邸対策室を設置、さらにその5分後には首相が談話を出しています。

現代の大災害発生直後の政府が行うことが対策室の設置であれば、当時は
その災害の規模にもよりますが、戒厳令の布告が行われました。

戒厳令というとクーデターのときに布かれるものというイメージがありますが、

「戦時もしくは事変に際し、兵備をもって全国もしくは地方を警戒する法」

と明治憲法下で定義されるものです。

兵力を用いて警戒を行う必要がある場合を戒厳とするものですが、重要なのは
戒厳の際、

「平時には法律の規定で保護されているものを一時停止して、包括的な
執行の権限を軍司令官に与えることである」

と定義していることです。
つまり、兵力で警戒、鎮圧を行わなければいけない関係で、その間
軍司令官に指揮権が与えられる、ということなんですね。

震災が発生して政府がすぐさま戒厳令を布告したので、関東大震災のときには
軍がどこにも伺うことなく迅速に行動を起こしたということがありました。
もっとも、「戒厳令」という緊迫した響きに当時の国民が不安を感じ、
朝鮮人の暴動の噂に必要以上の猜疑心を煽られたというマイナス面も否定できません。



戦後の日本では、災害の際にも憲法に縛られて、危急を要するのに自衛隊は動けない、
とい問題があったにもかかわらず、それが戦後未曾有の災害となった阪神大震災が起こるまで
表面化することがなかったという不幸がありました。

今回のように、知事からの自衛隊出動要請が災害発生から1分以内に
(派遣要請9時26分であるのに注意)行われるならともかく、それができずに
阪神大震災のときには救うことのできる命が救えなかったといわれています。

たとえば、兵庫と隣接した京都府にある福知山の陸自駐屯地の連隊長は、
全く知事からの要請がこないので、とりあえず部下を連れて駐屯地を出て、
京都府と兵庫県の県境で命令が出るのを待ち続けていたそうですし、
当時の村山総理大臣がテレビを見ながら呆然と「どうしたらいいのか」
とつぶやいたとか、自衛隊をわざと派遣させなかったとかいわれますが、

とりあえず当時の関係者は、

「要請をためらったなんてありえない。自衛隊に連絡が取れなかっただけだ」

「渋滞で主力部隊が被災地に入ってこられなかった」

などと言っており、貝原兵庫県知事(当時)に至っては

「要請が遅れたというのは自衛隊の言い訳だ」

とまで断言しています。
今となっては真相は藪の中でこの言い分を証明しようがありませんが、
少なくとも福知山の連隊などの例は実際に多数あったのです。


その後、法律が改正され災害が起きた時には自衛隊の独自の判断で動ける、
と仕組みが変えられ、東日本大震災にはその成果を挙げることができています。


その点、戦前の日本は、大災害の時に戒厳令を敷くことで動く権限を軍が持つことになり、
軍隊の出動を必要とする事態に対応するという仕組みだったので、ようやく
災害派遣に関してのみ、このころの即応性を取り戻したと言えるかもしれません。



関東大震災による横須賀の被害について少し述べておきましょう。

全所帯17,010世帯のうちほぼ74パーセントに当たる12,488世帯が被害を受け、
2094世帯が焼失しました。
死者は市内だけで683人。
被害で多かったのは崩れ落ちた岩石で生き埋めとなったケースでした。
なかでも、修学旅行で横須賀軍港を見学に来ていて山崩れに遭い、
全員が生き埋めになった静岡の女学校もあったということです。

海軍工廠の被害は、あまり公にはなっていませんが甚大でした。
まず、ドックに入っていた潜水艦が揺れで横倒しになり、
どちらも全損していますし、工廠の各工場では煉瓦の建物の倒壊が起こり、
その結果即死107名、重軽傷者290名という被害が出ました。

このとき「天城」型1番艦の「天城」も全損してしまったため、代艦として
「加賀」型戦艦1番艦「加賀」の空母改造が決定されることになっています。

損害額でいうと、横須賀市の被害が約20万円だったのに対し、
海軍関係だけの被害では約7000万円という巨額に上ったということです。


なお、関東大震災のときの流言飛語によってパニックに陥った人々が
自警団を結成して朝鮮人を殺害したという事件が起こりました。
間違えてろうあ者や方言を持つ日本人まで殺されたという惨事でしたが、
特筆すべきはこのとき、海軍が多くの朝鮮人を民衆から保護した事実です。

野間口長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は、

「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」

といった類のデマを受け入れず、海軍陸戦隊が実弾の使用を要請してきたり
在郷軍人が武器放出を要求してきたのに対しても断固として許可を出しませんでした。

それだけでなく、このとき横須賀鎮守府は、戒厳司令部の命により避難所として
朝鮮人をここに集めてかくまっているのです。
(この件に対して、現在「虐殺」を主張する韓国人団体や日本の団体が決して
当時の軍について触れないのは、このことを明らかにしたくないためだと思われます。)

 

さて、料亭小松ですが、営業していなかった田戸の旧小松の建物が無事だったので、
女将はそこに戻って生活をし、例の160畳の大広間は被災者に
開放して避難所として被災者を泊めたということです。
160畳ですから、おそらく近隣の人々はほとんどここで過ごしたのではないでしょうか。

この写真に残る建築中のこの米が浜の新館の方は、幸いなんの被害もなく、
工事は継続され、震災の2ヶ月後の11月には落成して、
小松はその秋から営業を再開することができたということです。



なお、海軍の一連の活動に対して市民は感激し、翌年の2月、
奥宮横須賀市長は横須賀鎮守府の野間口長官にあてて、

「吾人横須賀市民の全てが前横須賀鎮守府司令長官野間口大将閣下に
負うところの鴻恩に至りては、けだし最も広汎に、最も深刻に
個々感銘して、ながえに忘るる能わざるところなりとす」

という感謝状を送っています。


続く。



 

開戦から海軍甲事件まで~料亭小松の物語

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「海軍おばさん」として母のように海軍軍人に慕われた
 山本コマツが明治年間に開業した料亭「小松」。

小松の歴史には、日清・日露戦争の戦勝で繁栄を極めた時期があれば
不況で店をたたんでいた時期もあるというくらい時代の波がありましたが、
大東亜戦争中、小松はこの戦争をどう見ていたのでしょうか。


昭和16年12月8日、帝国海軍航空隊が真珠湾を奇襲し、日米は開戦しました。

海軍軍人が繁く立ち寄っていた「海軍料亭」小松においても
この動きは全く事前に察知されることなく、女将もその養女である若女将も、
誰からもその気配すらかんじることもないまま、報道によってそれを知り

「一体どうなるのかしら?」と頭が混乱した(山本直枝さん談)

 ということです。
ただ、後にして思えば、例年12月になると連合艦隊が後期の訓練を終えて
続々と入港してくるものなのに、その年はその気配が全くないのが
不審といえば不審に思われるということもあったそうです。

海軍軍人に寄り添うように営業を続けてきた小松にしてこうですから、
あとこのような密かな変化に思い当たったとすれば、横須賀地元の
船舶関係者くらいだったでしょうか。

真珠湾への攻撃に備えて、連合艦隊は9月末から内海西部に集まり
訓練開始しています。(それまでの期間は乗員交代と戦備作業)
山本五十六長官は10月9日、「長門」艦上において、図上演習に先立ち

「聯合艦隊集合に際し各級指揮官に訓示」

という訓示によって司令官の決意を述べました。

この訓練について戦史叢書は以下のように記述します。

その後集合した各艦は特別訓練と呼称してもう空練を開始したが
工廠の稼働能力などの関係から一部鑑定は軍港で整備を続け、
整備を終えたものからボツボツと訓練地に集まってくるという有様。
従って関係者の必死の努力にもかかわらず、艦隊術力の回復ははかどらず、
各艦の足並みも一向に揃わなかったので、結局戦隊、艦隊としての
まとまった訓練はほとんどできなかった。

こんな状況であったから、連合艦隊はようやく10月31日と11月1日に
ほぼ全兵力による総合訓練を行うことができましたが、結局
術力は回復しないままだったようです。

この時の宇垣参謀長の日記「戦藻録」から抜粋してみます。

10月21日 

早朝出航
秋晴れの良い天気に潜水艦飛行機の襲撃訓練を実地し薄暮帰港す
やはり出動訓練は効果大にして愉快である \(^o^)/
佐伯湾錨地において見張り訓練の目標艦として潜行中の伊66潜は
横合いから入港中の伊7潜に衝突せられ前者は艦橋前方圧潰
後者はメーンタンクに損傷を被れり Σ(゚д゚;) ヌオォ!?

なんという事故の多き事ぞ  (-゛-メ)

10月24日

伊61戦の沈没遭難(九州で衝突沈没、上とはまた別の事故)に対し
長官は別府行きを止めて現場と佐鎮に行くと云われる
誠にありがたい意思である  ( ̄∇ ̄ノノ"パチパチパチ!!

この心ありて始めて部下は上長のために喜んで死ねるのだ (T_T)

10月28日

士官幹部の大移動と下士官兵20%の転出に伴う50%の配置変更により
戦力は著しく低下せる事を如実に認めざるを得ず  (`×´) プンプン!!

まことに遺憾千万なるも今後格段の努力を強要して万全を期する他なし

10月31日

7時半出航
所在の聯合艦隊兵力を挙げて応用訓練を土佐沖にて実地す
朝から昼へ 昼から夜へ第5次まで場面場面の戦術訓練、
けだし1日のうち命いくらありても足らざるべし

基礎的なるもやるだけやはり効果あるなり( ̄ー ̄)(ー_ー)( ̄ー ̄)(ー_-)

11月1日

風強し 午後10時出動

昨日来の応用訓練、野戦訓練などを行う
前者においては強風のため相当波をかぶり相当のできなりしも
後者は月明かりの大部隊野戦としては突撃時「珍無類」 (・_・?)
のものとなれり
同じ型をやるにしても天象地象などそのときの模様に合致するごとく
指導するの精神なかるべからず

11月4日

本日多数飛行機の来襲あり
碇泊艦攻撃はだいぶ上達せるものと認め得る ( ̄Λ ̄)ゞ
 

この訓練期間、事故とかいろいろあったようで、気を揉みながらも
訓練を「愉快」などといっていたりして興味深いですね。
なお顔文字はおせっかいながら宇垣参謀長の心情をビジュアルでわかりやすく表してみました。

この日誌にもある11月1日には攻撃を含む国策要項が御前会議で承認されています。
とにかくこれで見てもわかるように、訓練の期間はいつも通りでも、
その後11月13日に聯合艦隊の最後の打ち合わせが行われ、12月7日に向けて
聯合艦隊が総掛かりになっていたわけで、主力艦隊はもちろん、重巡を主体とする
第二艦隊は南方に展開していたわけですから、さぞかし横須賀は閑散として
小松の人々が不審に思っても当然のことであったと思われます。

しかし開戦してからは艦艇の修理や補給は乗員の休養も兼ねていたので
基本的に母港に寄港するという原則に変化はなく、したがって
横須賀の艦艇の出入り(=小松に立ち寄る士官の数)には変化はなかったようです。



ところで戦史叢書を読んでいて南雲忠一長官が途上ふと漏らした一言に
ちょっとウケてしまったので、それを書いておきます。

「参謀長(草鹿)、君はどう思うかね。
僕はエライことを引き受けてしまった。
僕がもう少し気を強くして、きっぱり断ればよかったと思うが、
一体出るには出たがうまくいくかしら」

「うまくいくかしら」に南雲長官の不安が集約されていますが、
なんか可愛らしい物言いをする人だったのですね。


さて、開戦してからは日本は、というより海軍は連勝で、
形勢不利を一気に押し返すためにアメリカは真珠湾の報復をうたった
ドーリットル空襲で「ガツンと一発」やってきました。
昭和17年の4月18日のことです。

日本側にはこの空襲は全く予期しなかったことで、その衝撃たるや

「まるで青天の霹靂のごとく日本本土上空に現れた」

と軍令部の福留繁中将が書き残した通りでした。
つまりアメリカの作戦はこれほどに功を奏したということです。

この空襲における最大の被害地は横須賀であったと言ってもいいでしょう。
小松の芸者さんがこのとき横須賀に飛来したB-25を目撃しています。

「浦賀水道の方から一機、すっと入ってきたのを見て、
こわくて木の陰に隠れてました」

この飛行機はエドワード・E・マックエロイ中尉を機長とする13番機で、
房総半島の南部を横断して横須賀に侵入しています。

13番機は1300頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、
3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった
「大鯨」(龍鳳)に命中し、「大鯨」では火災が発生しています。

このときにやはり目撃していた若女将の直江夫人は

「高いところを飛行機が飛んでいるので、練習でもしているのかしら、
とおもっていたら、うち一機が急に低空飛行に移って突っ込んできました。
すぐに高射砲が応酬しましたけど、当たりませんでしたね」

と言っています。
13番機は海軍の中枢である横須賀鎮守府を爆撃し、
対空砲火の中を悠々と離脱することに成功した「殊勲機」でした。

この後、横須賀の海軍艦は13番機を認め、大砲を撃ち、
さらには敵空母を房総沖に求めて哨戒を続けましたが、
ドーリットル攻撃隊は当初の予定通り、攻撃が済んだ後は
全機とっとと中国大陸に向かっており、これははっきりいって
まったく無駄で無意味な行動であったと言えましょう。

まあ、それくらい海軍は動揺したということなのだと思いますが。

ドーリットル空襲による被害、ことに「大鯨」の損傷は秘匿され、
海軍内でも当時まったく知らない人が多くいたとされます。
軍港横須賀では機密保持の点で大変厳格で、写真撮影は一切禁止されていました。

ところが、ミッドウェー作戦のときにはどういうわけか、
道行く人までがこれを知っていて、

「海軍さん、今度ミッドウェーでやるそうですね。頑張って下さい」

などと声をかけられて軍人が呆然とするなどといったことがありました。
これはいかなることかというと、一言で言うと

「初戦の勝利による気の緩み」

に尽きたようです。
横須賀市稲岡町、現在の米海軍基地内の丘の中腹にあった水交社では
ミッドウェー攻撃に向かう海軍士官が集まって、連日談論風発、
「我ら行くところに敵なし」といった風に気勢をあげていたようですが、
それも後世を知る我々から見るとなんとも虚しさを感じずにはいられません。

まあもっとも、アメリカ側が日本の作戦行動を読んでいたのは
巷の噂から情報を得たわけではなく、電文が解読されていたためなので、
もしここで海軍の皆さんが真珠湾のときのように口を固くして、
”勝って兜の緒を締めよ”という東郷元帥の教えの通りに気を引き締め、
訓練を黙々と繰り返していたとしても、結果は同じだったということになります。

だからよく「ミッドウェーは初戦の勝利による驕りで負けた」
というようなこともききますが、それは微妙に当たらないと思います。


ミッドウェーに進出する件こそそういった雰囲気の中でいつの間にか
だだ漏れ状態になりましたが、「海軍甲事件」、山本五十六長官が
戦死したのは4月17日、公表された5月21日までの一ヶ月あまり、
それを国民が知ることは全くありませんでした。

この極秘期間、小松では横須賀鎮守府の面々が会食を行った後
その席で使った杯を一つ残らず持ち帰ったということがありました。

山本五十六の後任には横須賀鎮守府長官だった古賀峯一が選ばれ、
古賀大将はすぐさま山本の遺骨を引き取るためにトラックに飛んだのです。
後から思えば、小松から借りて行った杯は、古賀大将の送別会、
人目に触れずおそらく横須賀鎮守府庁舎でひっそりと行われた席で
無事を祈ってあげるのに使われたのでしょう。

古賀大将が山本五十六の遺骨を迎えに行った「武蔵」には、護衛として
戦艦「金剛」「榛名」、空母「隼鷹」「飛鷹」、重巡洋艦「利根」「筑摩」
らが付き添いました。
万が一、途上遺骨を乗せた「武蔵」が敵の攻撃を受けた時には
彼女ら護衛は我が身を呈してでも旗艦を守るつもりだったに違いありません。

「武蔵」にはそれまで山本大将の長官公室があり、そのデスクからは
関係者と家族に宛てた遺書と遺髪が発見されました。
遺骨は日本に戻る1ヶ月弱の航海中ずっとその長官公室に安置されており、
山本の後任となった古賀もそこで起居していたということになります。

その古賀は、このほぼ一年後、「甲事件」と対をなす「乙事件」において
パラオからダバオに向かう飛行機が行方不明になり殉職を遂げました。

料亭小松の創始者である女将の山本コマツは、くしくも山本長官戦死の
前日である昭和18年4月17日、96歳の長寿を全うして世を去りました。

彼女にとって何より幸せだったのは、彼女が山本五十六の戦死も、
日本の敗戦も知らないまま逝ったことであったでしょう。


ただ、あの世の入り口をくぐろうとしてそこでばったり五十六に出会い、
大いに驚愕するということがあったかもしれませんが。


続く。




 

トラック・パインと井上成美大将〜料亭小松の物語

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正面玄関からみて左を塀沿いに歩いて行くと、料亭「小松」の
敷地の終わるところにこのような勝手口があります。
ここから出入りの商人が商品を運び入れたりしたのでしょう。

塀の上の小屋根をささえる金具は今日すっかり錆びてしまっていますが、
唐草模様を描き、かつてはこれも粋だったのだろうなと思わせます。

さて、 海軍士官たるもの遊ぶときもスマートに、決して二流三流の店に
コソコソ行ったり怪しげな店の敷居をまたぐな、というのは初級士官となって
最初に厳しくいわれることだったそうです。

今と違って若い海軍士官がフネを降りて行くところといったら映画か料亭くらい。
特に軍服を着ているときの行動は人目もあるので厳しく律しざるを得ません。
というわけで安心できる小松のようなレスに毎日足を運ぶことになります。 

あまりにも度々なので、ほとんど皆予約をせずにいきなり店に行き、
もし席がなければ女中部屋やプライベートスペースで飲みながら時間を潰し、
偉い人が出て行ったらそちらに移るというような調子だったそうです。

今ならカラオケといったところですが、このころも酔えば
芸者さんの三味線で「軍港節」「磯節」 などを歌い、
また芸者さんに踊りを手ほどきしてもらって一緒に踊ったり・・。

新呉節(軍港節)


「死んでも命があるように」

って、どこかで聞いたことがありますが、この歌の一節だったんですね。

このような海軍士官の遊びを「Sプレー」と申しました。
「S」が「シンガー」あるいは「シスター」(姐さん)を意味する芸者の隠語で、
エスさんの方も士官のことを「山本ニイさん」「草鹿ニイさん」
などと親しみを込めて呼んで、ほのぼのとしたものであったといわれ、
明らかに今の金銭の介在する男女関係とは違う暖かさがあった、というのが
当時のエスプレーを知る士官たちの一致した意見でした。

海軍士官は決して「ホワイト」(素人)に手を出すな、遊ぶなら
「ブラック」(玄人)にせよ、と耳にタコができるほど聴かされているので、
エスに対しては「遊び相手」と割り切っていたというわりには、
士官の方も相手の人格を尊重していて、無体なことは御法度であったようです。

前にも一度書いたことがありますが、海軍軍人と芸者の関係は、ごく限られた
レスという世界でのみ有効なものなので、どちらも割り切っていて、
料亭の中だけでバーチャルな恋愛(ただし深い)を楽しんだのです。

士官の方は好きな芸者ができると、芸者の了解を得て「インチ宣言」をします。
それによって、自分の周りの士官との無用な軋轢を避けるわけです。
その独占権は彼女を宴席ではべらせるときに限られ、彼女が他の宴席で別の「インチ」
にはべることまで嫉妬するなどとは野暮の極みとされました。

芸者の方では「それが商売」なので、自分をインチと宣言する士官を
たくさん抱えていてもなんら責められることはありませんでした。
士官も心得ていて、実際に連合艦隊が入港して、インチ士官同士がバッティングして
(それを海軍用語で「コリジョン」(衝突のこと)と称しますが)
コリジョンが起こっても、やり手の女将がなだめると、実にあっさりと
出直したり、一人で飲んで帰ったり、つまりこだわらないのが粋だったのです。


巷の小唄にも「かと言って大尉にゃ妻があり」とあるように、仮想恋愛を含む
エスプレーを行う士官というのは大抵が少尉・中尉クラスです。
当時の海軍料亭の飲み代は芸者をあげても今のように高額ではなかったようですが、
ただでさえ小唄のごとく「若い少尉さんは金がない」のに、毎日のような飲み食い。

いったい支払いはどうなっていたかというと、やはり”あるとき払い”。
月末に月給が出されたらそれを持って飲みに来て払う、というのが普通でした。



士官の方も甘えがあるのか、上陸すると押しかけて飲むだけ飲み、
飲み終わるとさっさと艦に帰ってしまうのですが、女将の方も
最初の頃こそ困って気に病んだりしていたものの、相手が踏み倒す心配もなく、
出港前には

「俺にマイナス(ツケのこと)があっただろう」

といって飲みに来ては多めに払ったり、中には給料袋の封を切らず
そのまま女将に渡す士官がいたりで、次第に彼女も気にしなくなったようです。

マイナスに関してはこんな話があります。

日清戦争が起こり、軍艦はすべて出航してしまい、横須賀の街から
海軍軍人の姿が消えてしまいました。
まさに街から火が消えたようになり、飲食業は軒並み開店休業状態。
日頃「あるとき払い」システムを取っていた小松もこれには困りました。
ツケを払わないまま皆が戦地に行ってしまったのですから、
永遠にとりはぐれる可能性もでてきたのです。
途方に暮れていると、思いがけないことが起こりました。

戦地の士官たちから毎日、小松に何十通という為替が届き始めたのです。

「生きて帰ったらまた飲みに行くよ」

という簡単な手紙と共に・・・。 


このような海軍軍人たちの小松に寄せる心と信頼関係が、その後、
昭和の世の戦争において、前線に小松が支店を出すという心意気につながりました。
それがWikipediaにも項を立てて解説のある「トラック・パイン」です。

「トラック・パイン」は小松の海軍料亭の意地を示したものでした。
トラック諸島は開戦前から第4艦隊の根拠地となっていましたが、
昭和17年8月以降連合艦隊旗艦の根拠地となりました。

 小松のトラック支店出店は、第四艦隊司令長官であった井上成美中将が、

「トラックには下士官用の料亭しかないので、小松の支店を出してくれないか」

と直枝夫人に要請したのがきっかけでした。
それは17年2月のシンガポール陥落のあとで、発案は井上中将でしたが、
話は鎮守府から直接あったとのことです。

支店についてはシンガポールに開設される話もあったが、シンガポールは陸軍が多く
直枝夫人が

「陸軍の方のお気持ちはあまりわかりませんから」

ということで、海軍軍人しかいないトラックに決まったのでした。

開業は昭和17年7月でしたが、直枝夫人の夫が女中と芸者衆を連れて行ったところ
場所はここ、といわれるもそこには住む家さえもなく、皆アンペラ(むしろ)
の上で寝て、飲み水もろくにないところに家を建てるところから始めたのです。
できるだけ内地の雰囲気をそのまま再現しようと、畳、建具、蚊帳、
そして部屋にかける額まで持っていきました。

芸者衆を横須賀から連れて行こうとしたところ、鎮守府の方から

「それでは横須賀が困るから絶対によしてくれ」

と強く(笑)要望が出たので、横浜や東京で人を集め、一ヶ月で
横須賀の踊りを覚えさせ「横須賀芸者」として送り込みました。 

暑いところなのに芸者さんは着物を着なければいけない、というので
1日に2〜3回着替えられるように着物と、髪結いも二人連れて行きました。

トラック・パインができたころ、ここにはソロモンに向かう軍人で賑わいました。
南方に行くことになったとき、大帝の軍人は覚悟を決め、
もう二度と日本女性を見ることはないだろうという気持ちで日本を後にしていました。
彼らはトラック・パインのさながら横須賀小松をそのままもってきたような内装、
そして美味い料理、内地と変わらぬ芸者たちに目を見張りました。

彼らにとってここが文字通り最後の内地であり、ここを一歩出ればそこは戦場。
誰もが決して口に出さなかったけれど、皆「これが最後かもしれない」
と内心思いながらトラック・パインに皆が足を向けたのです。

以前「クラスヘッド・モグ」という項で、66期のクラスヘッド、
坂井知行大尉がここトラック・パインで一夕の宴席を過ごし、
ラバウルに進出して一週間も経たずに戦死した話を書いたことがあります。
パインの酒席で坂井は”米軍機など鎧袖一触、モノの数ではない”という
自信をみなぎらせており皆も彼に期待していただけに、
そのあっけない戦死は関係者に強い衝撃を与えた、という話でした。

坂井大尉のように、このトラック・パインが最後の内地になってしまった
青年士官は決して少なくはなかったのです。



直枝夫人はトラックに2回行っていますが、その2回目の来訪時、
小松の従業員のための退避壕が何一つ用意されていないのに驚き、
根拠地隊司令官に食ってかかったと言います。

「なんのために子どもたちをこんな遠くまで連れてくるんですか?
あなた方の命も大切ですが、この子たちも命がけで来ているのだから、
いざ空襲に備えて防空壕の一つも完備したものを作っていただかないと、
すぐ引き揚げさせちゃいますよ!」

海軍の要請で来たのに、しかも軍の退避壕はちゃんとあるのに、
こちらにはなにもしてくれないでは困る、とガンガン言いました。
すると司令官は

「悪かった。早速造らせる」

女将は治らず、 

「 悪かったじゃないですよ!
横須賀では豊田(副武)さんが先頭に立って、 長官ご自身がどこに退避したら良い、
ここは疎開させるようにと指示して回っていらっしゃるのに、 
ここは戦場に近いというのに、なんで呑気なことをしていらっしゃるんですか!」

女将の呆れたのは不思議なくらいの現地ののんびりぶりでした。
それから彼女は現地の病院に行き、院長にこんなことを頼みました。

「うちの子たちに包帯巻きの練習をさせていただけませんか。
空襲を受けたら商売どころではないし、そちらも手が足りなくなるでしょうから」

それを聞いて院長は殊の外喜び、そのような指導を従業員に行い、
実際に彼女らが包帯巻きで奉仕する日は本当にやってきました。
彼女はのちに南方から引き揚げてきた士官から

「あんたのところの店の子に包帯巻いてもらったよ」

とその指導が役に立っていたことを知らされています。


小松が店を開いたのはトラック諸島の「夏島」です。
トラックには春夏秋冬の名前がついた島がありましたが、夏島は
飛行場や病院のある、いわば根拠となる島でした。

昭和19年2月17〜18日、二日にわたる大空襲がトラックを襲いました。
アメリカ海軍が「南方の真珠湾」と胸を張ったこの空襲には、

「海軍丁事件」

という名前がついています。
(Wikipediaには小松が被害にあったのは3月30日とあるが、おそらく間違い)

なぜ空襲が「事件」と呼ばれたかというと、海軍はこの直前から
通常黎明・薄暮に一日2回行っていた哨戒を黎明の一回だけにし、
もし警備の手を緩めなかったら敵空母の早期発見によってトラックから
艦艇をパラオに避難させていたところ、それをせず、空襲によって
多数の艦艇と航空機を失う結果になった『人災』だったからです。

ちなみにこのとき失われた艦艇はというと、戦闘艦艇は

軽巡洋艦 - 阿賀野、那珂

練習巡洋艦 - 香取

駆逐艦 - 舞風、太刀風、追風、文月

小型艇 - 第24号駆潜艇、第29号駆潜艇、第10号魚雷艇

補助艦船はほとんど避難させないまま被害にあったので、

特設巡洋艦 - 赤城丸
特設潜水母艦 - 平安丸
特設駆潜艇 - 第十五昭南丸
海軍特設給油船 - 第三図南丸、神国丸、富士山丸、宝洋丸
海軍特設給水船 - 日豊丸

その他海軍輸送船 - 愛国丸、清澄丸、りおでじゃねろ丸、瑞海丸、
国永丸、伯耆丸、花川丸、桃川丸、松丹丸、麗洋丸、大邦丸、西江丸、
北洋丸、乾祥丸、桑港丸、五星丸、山霧丸、第六雲海丸、山鬼山丸、
富士川丸、天城山丸(航空燃料輸送に使用)

陸軍輸送船 - 暁天丸、辰羽丸、夕映丸、長野丸

と多数でした。
ちなみにこれは沈没した艦艇のみで、損壊艦艇は別となります。

爆発する愛国丸


しかしこのとき、なぜトラックでは警備の手を緩めたのでしょうか。
ここにこんな説があるのです。

陸軍参謀本部の瀬島龍三や服部卓四郎らと海軍軍令部の
伊藤整一次長一行が南方視察行の帰路トラックに立寄っており、
16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたことを挙げる者がある。(wiki)

この「夏島の料理屋」って、トラック・パインのことですよね?
これについては551空の飛田真幸飛行隊長(67期)の言によると

「司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい」

という空気と、さらに警戒心が弛緩していた傾向があったというのです。
防空壕も作らず、なんだか呑気な気がした、という女将の感じた懸念は
決して思い過ごしではなかったということになります。

このときに、瀬島の回顧によるとパインには「泊まった士官もいた」
そうですが、彼らは一日の差で難を免れたことになります。

翌日の空襲によってトラック・パインは滅茶苦茶にやられ6人が犠牲になりました。
従業員は6人の遺骨を抱いてパラオに避難しましたが、
そのパラオが次に空襲に遭ったため、結局台湾廻りで3ヶ月かかって
命からがら日本に帰ってきたのでした。


ところで戦後、営業を続けていた小松に進駐米軍が客としてくるようになったとき、
女将は井上成美大将に頼んで従業員に英語を教えてもらっています。

「海軍がお世話になった店だから」

と井上大将は二つ返事で引き受け、ビジネス英語を従業員に仕込んだそうです。



かつてトラックに「パイン」がありました。

戦地で出撃していく海軍軍人たちを励まし、慰め、そしてあるときには
最後を見送って海軍料亭の役目を果たした小松ですが、
殉職者を6人も出すという悲劇でその幕を閉じることになりました。


井上大将はこの結果を受け、もしかしたらトラック・パインの出店が
自分の要請であったことを内心苦にしていて、そのせめてもの償いをしようと、
1時間に1本しかないバスに乗って毎週小松にやってきていたのかもしれません。


 

 


戦後を生き抜いたパイン~料亭小松の物語

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戦争末期、海軍の根拠地である横須賀の料亭は
「それどころではない」ということで閑古鳥が鳴いていたでしょうか。
それが意外なことにそうではなかったのです。

昭和18年にはガダルカナルで力尽き、日本軍はもう戦う余力もなく
南方では撤退に次ぐ撤退を余儀なくされて敗戦一方となっていました。
連合艦隊も残り少ない艦艇を南方に送ってしまっており、
横須賀軍港そのものは閑散としていたのですが、料亭小松だけは
慌ただしく人が出入りしていました。

横須賀は軍事行動の際ここを経由することが多く、さらには
特務士官、予備士官など海軍士官の数そのものが増えていたため、
従来の鎮守府の面々に加え艦艇の修理で帰港したとか、転勤できたとか、
あるいはここから出航していくという軍人が一度は足を向けたのでしょう。

「でも皆さんあまり元気がなかったですね。
開戦初頭の頃は『これからどこそこへ行く』と威勢が良く、
活気にあふれていましたけど、日が経つにつれてその元気が見られず、
憔悴が目立つようになりました」

と小松の女将は当時をこう語っています。 

「もう今度行ったら生きて還れない」

「もう破れかぶれだ」

そんな弱音を漏らす士官もいました。
決して表向きには表せないこんな本音も、小松であるからこそ
心置きなく口にすることができたのでしょう。
そして、一度出撃していった彼らのほとんどが、その言葉通り
二度と横須賀の土を踏むことはなかったのです。

前回、トラック・パインを出店したとき、小松従業員のために
防空壕などが全く用意されていなかったことに女将が激怒し、

「横須賀では豊田さんが先頭に立ってそれをやっているのに」

と食ってかかった話をしましたが、昭和19年になると、横須賀市は
「一般疎開促進」という条例を出して空襲への備えを行っています。
横須賀鎮守府長官だった豊田副武がその陣頭指揮を取ったというのが
女将の言う「先に立って」という意味で、日本政府が閣議において

「 学童疎開ノ促進ニ関スル件ヲ定ム」

とする疎開促進条例を制定したのは19年の6月30日のことでしたから、
軍港の町である横須賀はそれに3ヶ月も先駆けていたことになります。

閣議で決定された疎開の条項第二項には

「疎開先 疎開先ハ差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス」

とあり、神奈川県つまり横須賀が空襲を受ける最前線とされていました。
豊田長官は待避壕の設営、疎開地域の整備現場にも自ら足を運んだと言います。
 
昭和20年に入ると敵機襲来はさらに頻繁になり、空襲警報がでると
小松でも戸は全部閉め、電気は全部消すということになり、
飲んでいた海軍士官たちもさっと引き上げて部署に戻っていく、
というような毎日が繰り返されるようになります。

そして3月10日、東京大空襲がありました。
現在でも民間人の大殺戮としてドレスデン空襲と並んで挙げられる空襲で、
過去行われた空襲としてはその犠牲者の多さから(推定10万人)
史上最大規模の大量虐殺とする学者もいます。

アメリカは日本の戦意を失わせるために東京を執拗に攻撃し、
昭和19年11月から終戦までに行われた空襲の回数は数え切れないほどですが、
この時の大空襲で東京は一面の焼け野原になりました。

そして5月29日には横浜大空襲があります。
ちなみに、東京だけで4月には12回、5月には10回の空襲がありました。
横浜の空襲では攻撃地点がはっきりと決まっていました。

「東神奈川駅」「平沼橋」「横浜市役所」「日枝神社」「大鳥国民学校」

の5ヶ所です。
この空襲が白昼に行われたことから、小学校が攻撃目標だったというのは
無差別攻撃どころか、意図的に非戦闘員を殺戮したということになります。

横須賀はドーリットル空襲以降東京のように頻繁な攻撃にさらされることもなく、
20年2月に行われた大規模な空襲では軍設備が狙われただけでいた。

現在でも戦前の建物が案外そこここに残されているのを、
横須賀に訪れるたびに知って意外な気がしていたのですが、実際にも
終戦後に周辺施設を視察したアメリカ海軍のニミッツ元帥やハルゼー大将は、
横須賀の被害が予想より軽微であったことに驚いたとされます。

しかし、じっさいには戦時中には警戒警報や空襲警報の発令が頻発し、
小松の女将の証言にもあるように一般市民は精神的消耗を強いられていました。

しかし、2000年代頃まで風説としてあった「横須賀には空襲はなかった」
というのは間違いです。
横須賀への空襲は東京の絨毯爆撃のようなものではありませんでしたが、
それなりに何度か行われており、とくに7月に入ってからの2回は
被害規模は甚大でした。

このときも攻撃されたのは軍事施設で、料亭小松では屋根に落ちた破片が
天井を突き抜けて広間の畳に穴を開けるという被害に遭いました。
幸いにしてけが人もなく大した被害には至っていません。

わたしが横須賀を歩いて感じただけでなく、戦後に軍港および周辺施設が
アメリカ軍に接収され横須賀海軍施設として使用されることになったため、

「横須賀の旧海軍施設は戦後の基地利用の目的のため温存された」

とする見方があるそうです。
わたしも何を隠そうそのように感じた一人ですが、横須賀市市史編纂室の
歴史学者による

「米軍基地化のための温存との見解が、
さしたる根拠のないまま一人歩きしてしまっている」

という指摘もあるそうです。
また、戦時中に

「米軍による占領後、軍港として利用する目的があるため横須賀への爆撃はない。
安心するように」

と書かれたビラが撒布されたとの証言も風説の類だとされます。
この学者によると、呉に比べて横須賀の被害が軽微に終わったのは、

呉は横須賀に比べ在港艦艇が多く、兵器の生産基盤となる砲煩部、
製鋼部が置かれていたこと

が、市街地への被害がなかった理由ではないかということです。
軍港ゆえ集中的に鐵工所を叩き、その結果市民には被害があまりなかった
ということからこのような風説も出てきたのに違いありません。
 

さて、そんなこんなで昭和20年8月15日がやってきました。

最初に日本に”勝者”として上陸したのはアメリカ海軍の艦船
「サンディエゴ号」で、場所は他でもない横須賀港でした。 
この日、横須賀市内は全域で市民の外出が禁じられ、厳戒態勢が取られました。

鎮守府は接収され、残務整理は今の第二術科学校に移って行われましたが、
そのうち進駐軍に場所を明け渡さなければならなくなりました。
料亭小松はせめてもの助けになればと、例の大広間を提供することにし、
行き場所に困っていた鎮守府は書類とともに机や蚊帳、布団を運び込んで
そこで寝泊りしながら作業を続けることになったと言います。

当初は彼らを缶詰でもてなしつつも負けたとはこういうことかと
悲哀を感じていた女将(山本直枝さん)ですが、そのうちそんな関係で
小松に出入りしていた人々から戦後の商売の糸口がもたされたのです。

日本に不慣れな将兵たちが安心して遊べるところを探していた米軍が
まず許可を出して「公認料亭」としてくれたので、女将は
芸者衆に声をかけて戻ってきてもらいました。

昨日まで海軍芸者といわれていた人たちが昨日の敵に酌をし
踊りを見せるのですから、最初は怖いと思い抵抗もあったでしょうが、
時折暴行事件や誘拐騒ぎなどがあったとはいえ、進駐軍は聞いていたほど酷くなく、
むしろ彼らを相手に商売するのはこの時代最も「時流に乗って」いるともいえ、
小松もまた戦後を無我夢中でこのように凌いだのでした。

アメリカ軍人を相手にするので、井上成美大将に接客英語を
レクチャーしてもらったというのもこのときのことです。

アメリカ軍を呼ぶに当たって、小松の女将は有り金をはたいて
家を改装し、手入れをし綺麗にして店を開けました。
グリル、ソーシャルサロンを整備し、バンドを入れて連合軍兵士らに対応できる設備を整えたのです。

「外も内も結構荒れていまして、これではアメリカが来て
日本のオフィサーはこういうところで暴れて出て行ったから負けたのだ、
などと言われるとシャクだと思って」

のことでした。
行きていくためにはかつての敵も迎え入れる覚悟であったとはいえ、
かつての海軍料亭の女将の矜持がうかがえます。

この頃になると、米軍軍人だけではなく旧海軍の軍人もやってきました。
増築されたグリルバーでは、日米の海軍軍人が同じフロアーで
酒やダンスを楽しむという光景すら見られるようになりました。

海軍軍人同士の仲間意識というものは特別で、どの国の軍人とも
「ネイビー」という一点で他の職種にはありえないほどの連帯と
親近感を持つという現象がありますが、戦争が終わったばかりで
昨日の敵同士であった日米海軍軍人もその例外ではなかったのです。

いや、お互いに真剣にやりあったからこそ到達しうる共感が
今日にもつながる両軍の友情を取り持ったのかもしれません。




小松がかつて海軍のための料亭であったことが米海軍軍人の歓心を誘い、
アメリカの新聞で紹介されるまでになりました。
そして、海上自衛隊が生まれ、第7艦隊との間に相互訓練や
交流が持たれるようになっていからも、小松は両者にとって
特別の場所であり続けました。

懇親会や米軍の離着任時の歓送迎会などのレセプションは
おそらく今でも旗艦艦上や田戸台の庁舎で行うのだと思いますが、
当時はその後にディナーをする場合、必ず小松が会場になりました。
ですから、米海軍の将士たちは、小松が海上自衛隊の施設なのだと
勘違いするようなことがあったのだそうです。 

本稿に登場する二代目女将の山本直枝さんは2006年、95歳で亡くなりました。
彼女は初代女将のコマツ刀自の遺志を継いで、戦後の海上自衛隊に対しても
小松で会合を開くときには採算を無視して計らい、各種公式行事に祝い、
練習艦隊への餞別を届けるなど気を遣い、さらには殉職隊員の遺族にの面倒を
密かに見る、また「小松基金」を設立して志ある若い士官を支援するなど、
本当の意味で海上自衛隊を支援していたと云います。

しかしわたしが「小松」を外観だけ眺めるに、そこは確かに歴史的価値はあれど、
その歴史の遺産だけを細々と「切り売り」している感が否定できなかったのも事実です。

かつてのように若い海軍士官が毎日のように予約なしでふらりと訪れ、
お金がなければあるとき払いで飲んで帰るような個人的な信頼関係もなく、
またその頃のように「そこしか安心して安く遊べるところがなかった」
というわけではさらにないのですから、それも時代の流れで致し方なかったのでしょう。



「パートさん募集」の張り紙の画鋲が錆びており、恒常的に
人を集めないといけないのかとなにか不安な気持ちになったものです。

聞けば、昔ほどではないにせよ、海上自衛隊と小松の縁は切れておらず、
海軍料亭の息をつなぐという意思で海自は小松を細々とではありますが
使い続けていたというところに今回の火事が起こったもののようです。

今の海自将士にとって、小松は、昔の海軍軍人たちが
「おかみさん達者かね」「また来たよ」
といいながら通った「横須賀のふるさと」ではなくなっていたのは確かで、
そんな折の消失は一つの時代が終わったという意味だったのかと感じ入った次第です。



後日お話しするつもりですが、横須賀にバスで行った時に帰りの車窓から見えた小松の焼け跡。
上の写真の直後とは思えないほど跡形もなく建物は倒壊したようです。



もう重機がはいっているようでしたから、おそらくすぐにここは更地になるでしょう。
たまたまですが、取り壊し寸前の姿もこの目に収めました。



かつて室内だった部分が焼け落ちたため、窓から向こうの建物が見えています。
この写真を見て、あらためて胸に大きな穴が空いたような悲しみを覚えたわたしです。


さようなら、海軍料亭「小松」。




シリーズ終わり


 

第65回掃海殉職者追悼式に出席(式予行演習)

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毎年5月の最終土曜日、終戦直後から数年間の航路啓開の殉職者への
追悼式が、香川県琴平の金刀比羅神社境内にある
掃海殉職者顕彰碑の前で行われます。

去年から今年にかけて、

「掃海部隊の機雷戦訓練・掃海特別訓練・潜水訓練(日向灘)」
「掃海部隊の機雷戦(伊勢湾)」

に連続して参加し、その任務の一端をこの目で確認したわたしですが、そのことで
改めて戦後の機雷除去に携わった掃海殉職者の尊い犠牲を思うようになり、
毎年行われる金刀比羅神社での慰霊式にも出席したいものだと考えるようになりました。

たまたまそんな折、地球防衛会(仮名)の代表で参列するという話があり、
前日の艦上レセプションも込みでご招待をいただきました。

本来であればその艦上レセプションに間に合うように前日の昼間の飛行機に乗るのですが、
このときにはわたしの「掃海部隊のグル(指導者)」であるところのカメラマン、
ふりかけさん(仮名) のご指導により、式前日の予行演習と設営から見学することにしました。



というわけで、雨もようの羽田空港を発ったのは朝9時半。
後から思えば、これは天佑とも言える英断だったのです。
といいますのは、その日の12時過ぎ、大韓航空の飛行機が羽田で事故を起こし、
空港が閉鎖になってしまったからです。

翌日、わたしは前々掃海隊群司令に式典会場でご挨拶しましたが、その方は
1時半の飛行機が欠航となったため、陸路に変えてようやく8時(レセプション終了後)
に到着したということでした。

というわけで、何も知らずに無事高松に到着。
今回はわけあってレンタカーを借りました。

うどん屋ばかりが連なる幹線を走ること40分で金刀比羅神社に到着し、
まずはお昼ご飯を食べようとふりかけさんに連絡をすると、

「海の科学館っていう、まるで秘宝館みたいな雰囲気の博物館がありますから、
そこの駐車場に車を止めてタクシーで”神椿”まで来てください」



これが「海の秘宝館」か・・・。
いつかとてつもなく時間を持てあましたら観てみようっと。

そして、タクシーに乗り、運転手さんに

「玉椿お願いします!」

「神椿」を勝手に脳内変換して玉椿だと思い込んでいたのですが、
運転手さんは、日頃その手の脳内変換性ボケ老人を散々相手にしているので、
わかりましたとだけ言って、訂正もせず「神椿」に連れて行ってくれました。

わたしが脳内変換したのにも一応理由があって、この「神椿」、
実際に資生堂の経営によるパーラーなのです。



よくまあこんな、途中一車線しか通れないような山道を登りつめた
山のてっぺんにぽつんとこんなカフェを作ったものだといぶかしむレベル。

調べてみると、香川県は戦前の資生堂第二代社長から戦後にも
同県出身の社長を輩出している土地柄だそうで、この話も、
資生堂の歴代社長と、フランスの礼拝堂再生事業などを通じて親交のあった
金比羅宮文化顧問という方が、協力を仰いだというきっかけだそうです。


 
カフェは金比羅宮本殿まで500段目のところにあります。
ここは上の階の軽食喫茶のコーナー。
素晴らしい眺めで、こんなところに本格的なパーラーがあるのが
(大抵こういうところの飲食業はぼったくり系でイマイチ)
まるで奇跡のようです。

ところでなぜふりかけさんがここでのランチを指定したかといいますと、



下のレストラン階では慰霊式に出席する 海自の幹部たちが
会食を行っていたのでした。
彼らはこの前に自衛隊全員での参拝を済ませたばかりだそうです。
ということは、これだけの人々が皆で石段を登って行ったのか・・・。



彼らが何を食べているのか、望遠レンズで盗撮したいくらいでしたが、
残念ながらわたしが到着したときにはみなさま食後のコーヒーをお楽しみでしたので、
代わりに撮った荷物置き場の帽子。

密度の濃いスクランブルエッグ(あ、海自ではカレーでしたか)の付いた
正帽が椅子の上にきっちりと並べてあります。

こういうとき、副官の帽子の上にボスの帽子を乗っけるらしいですね。
子供用椅子の上と下を利用している人もいます(笑)



さて、このあとは神椿のある500段目から140段下の、
慰霊碑のあるところまで下りていくことになりました。
登るより楽とはいえ急な石段をパンプスで降りていくのはかなり大変でした。 



御書院。
社務所を除くすべての建物が重要文化財に指定されています。 




寄進した者の名前を刻む欄干は、時代を経てもうすでに解読不能なものも。
森千蔵さんほど大きな名前で書かれていればこれからも残るのでしょうけど。




これを大門といい、これより内が境内です。
「琴平山」の額が掲げられており、門をくぐると特別に境内での営業を許された
「五人百姓」が加美代飴を売っています。
五人百姓は全員が女性で、お互いに世間話をしていました。



この大門を何段か降りて左に入っていくと(下からだと右です)、
奥に掃海殉職者碑があることを示すような大きな錨があります。

これを見ながらさらに進んでいくと、



このように開けた部分があり、ここで慰霊式が毎年行われるのです。



わたしたちが到着したとき、ちょうどリハーサルが始まろうとしていました。
来賓や司令などの札をつけてその人の役を演じるエキストラに説明が行われています。



国旗掲揚台の下では、掲揚の際の綱の引き方指導が行われています。



エキストラ以外は先ほどの自衛官だけの参拝に参加したあとなので、
半袖の白い制服着用。




慰霊碑に使われた石は4トンあるそうです。
このあと広報の方にお聞きしたところ、あまりにも大きな石だったので、
選定してからここに運搬するのが一苦労で、吉田茂首相が参列した
第1回慰霊式にはどうしても石碑の設置が間に合わなかったということでした。



次の日の本番、わたしはこの椅子席から式典に臨むことになり、
つまり全く写真は撮れないということがこのときにわかりました。

前日のリハーサルにお誘いくださったふりかけさんには感謝です。



呉音楽隊の面々とももうすっかり顔なじみのふりかけさん。
ロングスカートに遠目にもまぶしい金髪、サングラスがトレードマーク。
隊員たちは入港したときに彼女が港にいることが一目でわかるのだそうです。



慰霊碑前では儀仗隊の打ち合わせが始まりました。



整列の仕方からちゃんとやります。



ご遺族のエキストラも遺族席で待機。



慰霊碑の反対側はこんな感じ。
奥に儀仗隊などが控えるスペースを設けてあります。



奥から呉地方総監登場。



まず国旗掲揚のために儀仗隊が入場です。
彼らの歩き方は小刻みに早く、「儀仗隊の歩くテンポ」があるのだと知りました。
普通の行進が「アンダンテ」だとすれば、(アンダンテの定義は人の歩く速さ)
儀仗隊の行進は「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」といった感じ。



儀仗隊長は幹部なので靴の色は白です。
何年か前、女性隊員がこの慰霊式で儀仗隊長を務めたことがあったそうです。



セーラー服の行進というのは、ことにわたしのような人間にとっては
リハーサルであっても胸がきゅーんとなるくらい惚れ惚れするものです。
その心理の中には「写真で見た旧海軍の水兵と寸分変わらず同じ姿」というのが
とても大きいと思うんですが。



位置について整列。
本番では椅子から離れることなどとうていできなかったので、
もちろんこんな写真はこのときしか撮れませんでした。



整列してから隊長の号令によって銃に着剣が行われます。



ここからは読みにくいですが、海士つまり水兵さんたちの帽子には
「護衛艦ぶんご」のリボンが付けられています。



国旗掲揚。
音楽隊による君が代演奏が行われます。



国旗掲揚の間全ての自衛官(奥の人のぞく)は敬礼します。
儀仗隊は「捧げ銃」をおこない頭中(かしらなか)。



皆そうですが、自衛官の姿勢はこういうとき特に美しいですね。
これも日常のたゆまぬ訓練の賜物だと、彼らはどのくらい自覚しているでしょうか。



体の反り方まで完璧にシンクロしている・・・。



国旗掲揚のち、またしてもアレグロ・マ・ノン・トロッポで引き上げます。
実はこの慰霊式においてもっとも活躍?するのがこの儀仗隊(と音楽隊)です。



戦後の海を啓開するために命を捧げた殉職者の霊名簿が奉安されます。



この顕彰碑の揮毫を行ったのは、当時(昭和27年)の内閣総理大臣、
吉田茂でした。



そのあとは、水交会会長や地元町長、国会議員などの弔辞。
これもいちいち代理の隊員によって行われます。



再び儀仗隊入場。



まず捧げ銃で霊前に挨拶。これは「敬礼」です。



しかるのち弔銃発射。
わたしはこのときの写真をストップモーションで撮影したのですが、
銃から硝煙が立ち上っているのは一番右の人だけでした。
もしかしたらリハーサルだったからでしょうか。



弔銃発射は全部で3回、一発撃つと音楽隊が短いフレーズを演奏、
また発射、演奏、発射、演奏というふうに行われます。



儀仗隊退場。



続いて参列者による献花が行われます。
本番ではわたしも地球防衛会の会長とともにこれを行いました。

本番でもこの二人の女子隊員が献花の花を渡す役目をします。
二人の顔にマスクをしたのは、女性自衛官ばかりを追いかけて撮っているという
「マニア」が何かのはずみで彼女らに目をつけるようなことがあってはいけないので。

ふりかけさんの話によると、女性自衛官の写真を撮ってツィッターにあげるために
イベントに行くといった種類のマニアがいるらしいです。
 
話は少し逸れますが、マニアといえば、以前、自衛隊の艦船に信号を送ってくる
厄介なマニア(もちろん素人)がいるという話をここで書いたことがありますが、
この慰霊祭でお近づきになったある自衛官の母上の談によると、こういう行為は

「懐中電灯でチカチカやるので危なくてしょうがない」

と艦乗りの間で大変顰蹙を買っているということです。
まさかとは思いますが、もしこれを読んでいるなかで、胸に手を当ててみて
このような行為に覚えのある方は、即刻やめてくださいね。



幹部、海曹、海士の代表も3人揃って献花します。
これも本番とは違う人が行いました。



こちら本物。
殉職者名簿を降納する呉地方総監。



そして国旗が降下されます。



儀仗隊隊長の腰右後ろの白いホルダーは短銃?



儀仗隊、又しても退場。
呉地方総監が彼らの動きをスルドい目で見ていますが、これはリハーサルなので、
呉総監は「ダメだし」するという役回りでもあるのです。


この日はさしたる問題点もなかったようで平穏に終了したそうですが、
ただ、名簿降納のときに、テントにいる幹部が帽子を取るかどうかで
だいぶ紛糾?していたという噂です。(ふりかけさんによる)

こういう儀式のときにどのように所作を行い、いつ帽子を取るとかとらないとかも
全部海軍儀礼によりキッチリ決まっているわけですが、
かといって文書にかいてあるわけではないので、いざとなると

「あれ、これ去年はどうしたっけ」

みたいになることもあるのか、とおかしく思った次第です。



リハーサル終了後、広報の方が、

「明日になったらもう見られませんから」

とおっしゃるので巨大な石碑の裏にある碑文を見せてもらいました。
当時の海保長官による顕彰碑文と各市町村の市長が名前を並べた発起人名簿です。



そして七十九柱の掃海殉職者名。

明日はこの方々の遺族13名をこの場に迎え、その魂を鎮めるための
慰霊式が厳粛に執り行われます。



続く。


 

栗林公園動物園のシロクマと再会する〜「ぶんご」艦上レセプション

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次の日の掃海慰霊式の予行演習が終わったので、わたしたちは
階段をさらに降りて車を停めた「海の秘宝館」の駐車場に向かいました。



下から高校生の群れが押し寄せてくる予感。
そういえばわたし、中学の修学旅行でここに来てるんですよね。
バスケットボール部でしごかれていたせいか、本殿までの750段(だっけ)を
息も切らさず登りきった記憶があります。



商店街にはうどん県副知事の要潤等身大ポスターが。
この人のデビュー作、仮面ライダーアギトをDVDで見ていました。
確かこの劇中でも「香川に帰る」というシーンがあったような・・。



来てみて確かにここはうどん県だと思いますが、それだけじゃないそうです。



これらのポスターは惧れ多くも皇太子陛下の賜宿泊であった元旅館の門
(もう営業していないらしい)に貼ってありました。



ふりかけさんがここで「へそまんじゅう」なるお菓子を買い求めている間、
わたしは商品の中に「キョンシー変身セット」を発見。
今時キョンシーに変身したがる日本人の子供がどこにいるというのか。



お店の人がネコ好きだった場合、この辺に生息している野良ネコを
写真に撮ってポスターにしたりします。



見たら幸せになるという金目銀目の白猫さん。

 

そして車を停めた「海の秘宝館」駐車場に帰ってきました。
車を出そうとして、船のプロペラが屋外展示してあるのに気付き、
カメラを渡してふりかけさんに撮ってもらいました。 
寄贈したのはナカシマプロペラだそうです。



少し車を走らせると、なんと駐車場の隅でつがいの孔雀が飼われていました。

「この狭いカゴではろくに羽を広げることもできませんねー」

「もう求愛する必要ないからいいんじゃないですか? 」



伊勢もそうでしたが、こういう観光地でもある大きな神社の周りの地域には
独特の、「いつも人がいるのに寂れた感じ」があるのはなんでなんでしょうか。
昔ながらの建物を、結構いいかげんな改装でつぎはぎにしつつ使っている
風情のあるような無いような家並みがその感じに輪をかけています。 



アイデアは「かに道楽」だけど、経年劣化に耐えない仕様のため、
とっても怖いことになってしまった「たこ道楽」。
こんなものがあっては客寄せどころか逆効果だと思うのはわたしだけ?

ともあれ、それもこれも含めて日頃見られないものを発見する地方の旅は楽しいものです。

この後香川に向かう高速道路に乗ったら、掃海隊御一行様を乗せた
マイクロバス2台と女性自衛官二人の公用車とが一緒に走っていました。
わたしがバックミラーを見ながら、

「あ、後ろの車自衛隊だ!追い抜かせますから誰が乗ってるか見てください」

自衛隊の車というのは陸海(空は見たことない)問わず、法定速度を
わりときっちり守って運転するので、抜かせるのに苦労しましたが、
追い越し車線でスピードを落として抜いていく車を覗き込んでもらったら、

「・・・・全員寝てるし」(ふりかけさん)

わたしもちらっと確認したところ、ほとんどの頭ががっくりと陥没しています。

「まあ、朝早かったんでしょうから無理もないですよ」

「いや、あれは昨日の夜宴会をしていたからです」(きっぱり)




お昼ご飯が「神椿」のバケットつきスープだったので、うどん県に来たからには
一度くらい「その辺のうどん」を食べるべきである、と二議一決し、
栗林公園のあるあの妙に広い官公庁通りの商店街に入りました。

セルフサービス方式の店でカウンターに注文するのですが、お勘定でこれが
380円だと聞いて耳を疑い、お店の人に聞き返しました。

「・・1380円かと思った」

まあそれだと高すぎですけどね。



この通りを海に向かっていくと、高松城址があります。
ここは現在玉藻公園といって有料で公開されているそうですが、ふりかけさんによると、
お堀には潮水が入れられていて鯛が生息しているんだそうです。

「人から餌をもらって生きてるんだそうですよ」

「鯛がですか?鯛ともあろうものがというか鯛の風上にも置けないというか」

これぞまさに「家畜の安寧」というやつですな。
そうそう、家畜の安寧で思い出したのですが、昔栗林公園には動物園がありまして、
昔友達と学生のノリで無計画にここにやって来たとき見たことがあります。

無計画なので友達の誰もがお金を持っておらず、何も食べられないので、
わたしが母に電話してATMにお金を振り込んでもらい、銀行で引き出しました。
ATMの営業が土曜日の12時にばしっと終了してしまうという時代で、
振り込まれたお金を引き出した時、12時1分前というスリリングな展開でした。

そのときに栗林公園の動物園を見ました。
今調べたところ、昭和5年にオープンして、2002年に閉園していました。
閉園前の動物園はそのとき閑散として人影もまばら。

栗林動物園

写真を見てもおわかりのように、へたすると動物虐待ではないのか?というくらい
その環境は劣悪に見え、中でも狭い檻を激しく苛立ちがならうろうろしていた
シロクマは、檻の前に人が立つと、水の中に飛び込んで水をかけるのです。

「あれわざとやってない?」 

一人が言い出し、皆で人が通るのを待って観察していたところ、
シロクマは向かいの檻に人が背中を向けて立ったところを狙って、 
それをわざとやって楽しんでいることが判明しました。

「かわいそうに。こんな暗くて狭いところにいたらストレスたまるよね」

と言い合ったことを思い出し、ふりかけさんに話していたのです。
その後うどんを食べるために駐車場に車を停め歩いていくと、
通り沿いのお店のウィンドーにシロクマの剥製があるのに気付きました。

「シロクマだ」

「なぜこんなところにシロクマの剥製が・・・・・はっ!」

「もしかしたら栗林公園のあいつ?」

高松市のお店がシロクマの剥製をわざわざどこかで買い求めるとは思えないので、
この剥製があの水かけシロクマである可能性は高い、とこれも二議一決。 

「だとしたら、劣悪な環境で一生を終え、死してなおさらしものに・・」

「うっ・・・(´;ω;`)」

数少ない高松市の思い出と、わたしはこんな形で再会を果たすことになった
・・・・のかもしれません。(違ってたらごめん)

ちなみに、上に貼ったページでシロクマの生息を確認したところ、
閉園の時点でもうすでにお亡くなりになっていたことが判明しました。
このときすでに彼は商店街のウィンドーにいた可能性高し。



今夜のお宿は城址の向かいにあるJR系のホテルクレメント。
飛行機代と宿泊がセットになっているプランで取ったのですが、
チェックインするとフロントの方が

「いいお部屋をご用意させていただきました」



たしかにいいお部屋だ〜!

なんと、これから艦上パーティの行われる「ぶんご」が停泊している
港を一望できる角部屋でした。
せっかくいい部屋なのにほとんど寝て荷物を置くだけだったのが残念です。
出入りする船を見ながらこの窓際でゆっくりしたかったなあ・・。



瀬戸大橋で繋がって電車も通るようになり、すっかり四国は
本州への通勤圏となったわけですが、やはりフェリーに乗る人もあります。

さて、チェックインして1時間でシャワーを浴びたり着替えたり、
カメラの電池を充電したりして過ごし、駐車場で待ち合わせて
わたしたちは「ぶんご」に艦上レセプションに出席するために向かいました。



指定された駐車スペースに行こうとすると、自衛官が制止します。
なんだなんだ、と見ていると、横から黒塗りの車が追い越し、
呉地方総監が乗艦するところでした。

わたしたちは盛り上がり車の中からこうやって写真を撮っていたのですが、
制止している自衛官がそれはそれは申し訳なさそうでした。

まあ、自衛隊にすればレセプション出席者は「お客様」。
そのお客様を自分のところのボスの通行のために制止したら、中には
「俺を誰だと思ってるんだ!」とキレる危ない人だっているかもしれませんしね。



サイドパイプの「ほひーほー」が鳴り響く中階段を上る呉地方総監。
前総監には表敬訪問でご挨拶しましたが、こちらの方にお目にかかるのは初めてです。



今感じた疑問。

ラッタルに上がったとき、自衛官が艦尾に向かって敬礼するのは
自衛艦旗に敬意を表しているということですが、それでは夜になって
自衛艦旗が降納されてから偉い人が船に乗る時、この敬礼は行われるのでしょうか。 

わたしたちもこの後お迎えの敬礼のなか乗艦したわけですが、
わたしは今回初めてこの位置から、軽くではありますが艦尾の旗に向かって
頭を下げるという偉業(わたしのなかで)を成し遂げました。

今までやろうやろうと思っていたけど、大抵乗員たちが注目しているので
恥ずかしくてできなかったのです。

場慣れの賜物というやつですか。


続く。


 

「ぶんご」艦上レセプション~第65回 掃海殉職者追悼式

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さて、呉地方総監乗艦後、車を無事に埠頭に停めることができ、
ここでわたしは招待券を持っている地球防衛会長と落ち合い、
さらに少し開場を待つことになりました。

 

「ぶんご」の後ろには掃海艇が2隻。
690の「みやじま」(すがしま型10番艇)と730の「くめじま」(うわじま型5番艇)です。
どちらも木製で、「くめじま」は退役が間近ということでした。



さすがは海上自衛隊、時間きっちりでないと発動いたしません。
皆この位置から乗艦の許可が出るのを待ちました。
周りを見回すと、レセプションの招待客だけでなく、明らかにマニアの類に属すると
思しき人、たまたま通りかかった観光客などもいました。

招待者は青いテントで受付をして名札を付けるのですが、
大勢に紛れて招待されていない人が忍び込んだりできそうです。
(でもちゃんとチェックしていると思うので変な考えを起こさないように)
 


ラッタルの下の一団の海士くんたちは、 偉い人が来たとき
全員でお迎えの列(と列という)を作るために集合している模様。



というわけで、開場になったのでさっそく乗艦を行いました。
まだ食べ物には覆いがかけられたままです。



格納庫の中がいわゆる「上座」にあたり、市長や国会議員などの名前が
立食なのにテーブルに書いてあります。



偉い人テーブルに近づいてみました。
なんかすごく気合の入った飾りがある~。
人参をカットした「掃海隊群」と海上自衛隊のマーク。
一体どうやってカットしたのかいぶかしむレベルです。



かぼちゃを半分に切って太鼓橋とキュウリの欄干。



人参を丸々一本飾り彫りした塔の飾り。
なんと、かぼちゃで作った塔の屋根には小さな人参のランタンがぶら下がっています。
「ぶんご」のキッチンには、この飾りのためのマニュアルが受け継がれているのでしょうか。
ただ一夕の宴に何時間か人の目を楽しませるだけのために、どれだけの労力が
このかぼちゃと人参の「風景画」に込められているのか・・・。

わたしは激しく感動し、この偉業を後世に伝えるために写真を撮り、
ここに発表することにしました。

それにしても、宴会が終わった後、この野菜は一体どうなるのだろうか。



わたしがかぼちゃと人参の飾り彫りに大いに感動しているうち、宴会が始まり、
まず呉地方総監が挨拶を行いました。

わたしは一緒にいた人がこの辺にいる偉い人に軒並み挨拶を行ったため、
ついでというかおまけという形で名刺をまるで手裏剣のように配りました。



開場で振る舞われている日本酒はおなじみ「千福」。
練習艦隊の艦上レセプションではお土産に紙パックの千福がもらえました。

先日、海軍食生活研究家の高森直文氏のお話を聞く機会がありまして、
そのときに氏の新著である「海軍と酒」を購入したのですが、それによると、
遠洋航海(練習艦隊)で日本酒を積んで赤道を越えたとしても品質に変化のないように
海軍が呉にある千福酒造に

「西洋に日本酒のうまさを紹介しようとしているのに腐るようでは具合が悪い」

と依頼して、明治末期には遠洋航海にも全く劣化しない保存法を編み出し、
遠洋航海先の友好行事(このような艦上レセプション)にも

「芳醇ヨク品質優良ニシテイササカモ変化ヲミトメズ」

と海軍を感謝せしめたという歴史を持っているということを知りました。

わたしの同行した方は日本酒を愛でる会の全国組織会長だったりして、
紙パックの酒はあまり認めない、という厳しい舌をお持ちのうえ、
千福は「甘すぎる」ということであまりお好きではないということでした。



そして、海上自衛隊といえばカレー。
カレーは大小二種類のお椀が用意されていて、好みで量を選ぶことができます。



こちら小さい方のお椀。
福神漬け好きなんですが、あまりにも真っ赤だったのでらっきょうだけにしました。
で、これをごらんになればお分かりかと思いますが「ぶんご」オリジナルは
なんとひき肉のカレーなんですねー。

ひき肉の大きさに全ての野菜類も細かく刻まれており、さすがの美味しさでした。
「かしま」のカレーもそうでしたが、艦艇カレーは決してその期待を裏切りません。



呉海自カレーとして出品したようですね。
カレー皿をあしらった「呉」という字の横のSH60が可愛い(笑)



らっきょうの横に海自の装備であるカメラはけーん。
なんとレンズフードとスピードライトに自衛隊マークが。

海自はNIKONが多いと言っている中の人もいましたが、カメラマンの好みで
Canon派もそれなりにいるようです。
しかしこんなところにカメラ置いて大丈夫なのか。



屋台の焼き鳥屋。
さりげなく「味自慢」「うまい!」などと書いてあります。
焼き鳥、なぜか食べるのを忘れました。



そんなおり、港には「第1こくさい丸」という船が入ってきました。
国際フェリーという会社ですが、航路は小豆島と高松を往復しているだけです。
ちなみに、同じ航路を就航している第32こくさい丸は、キリンが屹立しています。

アップにしてみましたが、従業員しかいないように見えます。
そもそも小豆島と高松間に1日8便の船が必要なのか?という気もしますが、
小豆島って2万8千人も住んでいるらしいので通勤通学の足が必要なんでしょう。



自衛艦旗降納が行われるため、皆が艦尾に集まりました。
かなり前から用意して、身じろぎもせず発動を待ちます。

 

掃海艇などなら一人で足りるのかもしれませんが、「ぶんご」ともなると
5人のラッパ隊が必要です。

瀬戸内海に浮かぶ島々は夕靄に霞み、 たった今落ちた陽の名残が
薄暮の空を薄く紅色に染めています。



「♪ど~そ~ど~ど~み~ ど~そ~ど~ど~み~ 
み~み~そ~ み~み~そ~ み~どみそ~そ~み~どどど~
そ~そそそ~そ~み~ど~み~ど そ~そそそ~そ~み~ど~み~ど以下略」

喇叭譜「君が代」が吹鳴されます。
5人の合奏であるせいか、息継ぎが必要なせいか、フレーズの切れ目を
必要以上に長く取っていたのがとても印象的でした。






ちなみに、谷村政次郎氏の著「海の軍歌と禮式曲」によると、
この「君カ代」は明治18年に制定された喇叭譜の第1号で、
昭和29年の海上自衛隊発足に際し、軍艦旗と同じ図柄の自衛艦旗が採用されたとき
同時に復活したものです。

ちなみに海上自衛隊は幸運にも海軍の「君カ代」を受け継ぐことができたのですが、
陸空では、警視庁音楽隊(しかも陸軍出身者)が”急遽”作曲した喇叭譜を使用しています。
しかもこの「戦後喇叭譜君が代」、作った本人が

「お座なりで今でも気がとがめる。あれは作り直すべきだった」

と言っていたという・・・。




後甲板には掃海具を使った機雷掃海のジオラマが展示してあります。
機雷の繋留を曳航した掃海具で切断し浮かせて処分する係維掃海。


 
こちらは「総合掃海」とあります。



いくつもの凹みがあるのがリアル。
係維式係維式触発機雷といって、糸で海中をふわふわしており、
船にぶつかって角のような部分が当たると炸薬が衝撃で爆発します。



沈底式機雷といって海底に沈めておけば、船が通った時の音、磁気、
そして水圧の変化を感知して爆発するというものです。

これが爆発した時の船への影響はすさまじいもので、船体には
大きな力とともにねじれの力がかかるので、場合によっては
瞬時にして船体が真っ二つになることもあるということです。



艦尾から後ろにいるくめじまとみやじまを望む。
電飾の灯が点灯されました。
掃海艇はどうやら今日一般公開されていたようです。



基本立食ですがすっかりテーブルに落ち着いて飲み食いする人もあり。
パーティ文化のあるアメリカなら皆が歩き回っていろんな人と会話するのですが、
日本人のパーティはどうも知っている人と話し込む傾向にあります。

そんな中、掃海隊群司令になったばかりの湯浅海将補は副官とともに
会場をくまなく歩いて皆にまんべんなく話しかけておられました。



自分の若いときの話を熱心に語るご老人と、相槌を打ちながら
それを聞いてあげている若い自衛官の図。
「僕は復員省にいて」という言葉を小耳に挟み、近づいて内容を聞こうとしましたが、
それ以上は残念ながら解読不可能でした。



このころすっかり日は沈みましたが、まだ少し雲が朱く染まっています。



屋台はもう一つ、てんぷらがありました。
わたしは実は昨年のお正月に山の上ホテルのてんぷらコースをいただいて
あまりのヘビーさに直後からまるまる一日気持ちが悪くなったということがあって、
それ以来てんぷらというものを避けてきたのですが、これを見て
ふと食べてみたくなり、エビとさつまいもをいただいてみたところ、
無事トラウマを払拭することができました。

やはりてんぷらは揚げたてに限ります。

それを言うなら山の上ホテルは目の前で揚げたのをすぐ食べたわけですが、
とにかく量が多すぎ、しかも最後までてんぷらしかでてこないという
「てんぷら地獄」でした。

後から聞くと、ごま油は結構体に負担が大きいそうです。 




すっかり日が落ちて大変いいムードです。
宴会もそろそろ終わりが近づいてきました。



てんぷら屋さんも店じまいモード。



気がつけばいつの間にか「蛍の光」が流れていました。
ふりかけさんが

「去年はあったのに今年は呉音楽隊の生演奏がなかった」

となんども残念そうに言っていたのですが、後から聞くと
これもまた熊本の地震に配慮した自粛であったということのようです。

さて、というわけで「最後の最後に、写真を撮りながら退場する」
というふりかけさんに先立って、「ぶんご」を降りることにしました。
おなじみ、龍が機雷をむんずと掴んでいる掃海隊群のマークのマットを踏んで。



退出するお客さんに手など握られちゃったりしている湯浅掃海隊群司令。
わたしが艦上レセプションに呼んでいただいたときの練習艦隊司令は
ほかでもないこの湯浅海将補でした。

海上自衛隊の人事の不思議なところで、(あくまでも素人視線で)
前々群司令の徳丸海将補もご自身から「わたしは艦艇出身で」と聞きましたし、
この方も掃海畑の方ではありません。

全くその世界(掃海というのは本当に特殊だと感じます)について
知らずに海自での経歴を重ねてきた自衛官が、ある日突然
群のトップになる、というのもなんだか解せないものです。(素人視線で)

素人にはわからない理由あってのことなのでしょうけど。



皆が一度にラッタルを降りると、妙な振動があってとっても妙な感覚です。
その振動に揺られながら降りていくと、ラッタルの最後の段は結構地面から高くて、
レセプションのために昼間とは違うサンダルを履いていたわたしは
飛び降りるのに少し怖い思いをしました。

一番下で危険がないか見張っている海曹の方に

「ちょっと危なかったですね」

とさわやかに声をかけられながら「ぶんご」 を後にします。



車まで戻ると、「みやじま」「くめじま」が電飾で闇の中に
その姿を仲良く浮かび上がらせていました。
停泊中には体験航海も行われたと聞いた気がします。



「ぶんご」と舫杭にかけられたもやい。
カップルがデートらしい風情でやってきて、男性の方が女性に

「あの後ろのハッチが開くんだよ」

と指差して教えてあげていました。



明日の朝の集合時間と場所を打ち合わせてふりかけさんをホテルに送り、
わたしも部屋に帰ってきました。
「ぶんご」と掃海艇たちの電飾が形作る大小3つの三角形が埠頭の闇に浮かんでいます。

さあ、明日はいよいよ掃海殉職者追悼式本番です。


続く。




第65回掃海殉職者慰霊式 於金刀比羅神社

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掃海母艦「ぶんご」艦上のレセプションから一夜が明けました。
疲れのせいでぐっすり安眠することができ、爽やかな目覚めです。



ホテルの窓からまずはカーテンを開けて「ぶんご」を確認。
今回一応持ってきた望遠レンズを初めて出動させて撮ったのがこれ。
「ぶんご」の「秘密の喫煙コーナー」に幹部らしき人影アリ。

あとでふりかけさんに見せると、

「一人でタバコを吸える貴重なスペースなんですよね」

艦隊勤務は常に狭い空間、他人と肌触れ合わさんばかりの日常の連続ですから、
束の間でも一人になれる時間は大変貴重なものなのでしょう。



後ろの「くめじま」艇上も撮っておきました。
掃海艇の朝の作業が粛々と行われている模様。



向こうの「みやじま」には「◯飛奮闘」というピンクのバナーが見えます。



「くめじま」の後甲板。
掃海作業が始まれば戦場と化すこの後甲板も、今は静かな朝の時間です。



わたしが泊まっているホテルクレメントでふりかけさんと朝ごはんを食べました。
お約束のスカレーくんとピーコさん、金魚2匹と食事の記念撮影。

ちなみにさすがはうどん県だけのことはあって、朝のビュッフェにうどんがあり、
それがやたら美味しかったです。



追悼式参加者には、当日の朝観光センター駐車場から
シャトルバスが出ることが通知されています。
車をここに駐めていけるので安心です。

皆が固まっているところは喫煙所で、陸自の幹部が何人かいます。



シャトルバスは、追悼式会場に比較的近い駐車場まで連れて行ってくれます。
毎年参加している地球防衛会の偉い人は、

「降りたら階段は全くありません。平地です」

と力強く言い切っていましたが、実際は階段を下って行くことになりました。
去年のことをすっかり忘れてんじゃねー(笑)

 

摂政宮殿下御野立所という石碑あり。
「野立て」とは「のだち」と読み、 旧陸軍などの演習において
天皇陛下が休息される野外の展望所のことを指します。

この石碑は、大正11年(1922)11月18日に、昭和天皇が陸軍特別大演習に際し、
攝政宮として軍を御統監された記念として建てられたものです。
この一帯を青葉丘といい、天皇陛下は青葉丘から演習を視察されました。

記念碑の文字は、当時の第11師団長陸軍中将 向西兵庫が揮毫しました。



墨痕も鮮やかな追悼式会場立て札。




「あゝ航路啓開隊」掃海殉職者顕彰碑顕彰碑建立の由来

として、戦後日本近海に敷設された機雷の由来から掃海隊の活動、
そして掃海隊員の殉職などが説明してあります。
写真は昭和24年5月23日、触雷沈没したMS27号。
MSとはマインスイーパー(機雷掃海)のことです。
  


中村屋利兵衛さんの寄贈した立派な灯籠の横にあるのは掃海母艦「はやせ」の錨。

 


掃海母艦「はやせ」は昭和46年竣工、ペルシャ湾掃海で
日本の掃海部隊の名前を世界に轟かせただけでなく、阪神大震災、
北海道南西沖地震にも出動し成果を上げてきました。

この錨は金刀比羅神社に奉納されたという形です。

会場入り口の受付で名前を名簿と照合し、テント下の自分の名前の書かれた椅子に着席。
なんと、このわたしの名前までがちゃんと印刷されて椅子に貼ってありました。
いったい誰がこんな席割りを考えるのか・・・。



関係者が集まるまで、というか偉い人が来るまでは皆比較的気楽な姿勢。
音楽隊も雑談したり軽くさらったりして過ごしています。



掃海隊群司令に挨拶に行く海上保安庁第6管区の偉い人。
第6管区は高松など香川に2つ、愛媛に4つ事務所を持っています。
定義としては瀬戸内海を管轄する管区のようですね。



端っこにさりげなくふりかけさんが写っております。
この二人の神官は、いつもは神宮に奉納してある霊名簿を
追悼碑前に奉安するためにここまで持ってきたのです。



自衛官席が全部埋まり、式の開始を待っている状態の音楽隊指揮者。
1等海尉です。



掃海隊群の幹部たち。彼らも全員1尉です。



陸自の偉い人と海自の幕僚たち。
後ろの方には専任海曹や副官なども。
空自の制服がありませんが、つまりこの近くに基地がないってことでしょう。



慰霊碑に一番近いテントの下が殉職隊員たちのご遺族です。
広報の自衛官によると、参加されるご遺族の数は年々減少しており、
79名の殉職者に対して今年の参加者はわずか14名でした。

去年などは若い人もいたそうですが、今年は40代が最弱年といったところです。



慰霊碑の最も近くに座るのは主催である呉地方総監。
地方総監の隣は遺族の方で、



膝に遺影を持っての追悼式参加でした。
水兵姿の若者が着ているのは、戦後の自衛隊の制服か、
それとも海軍の水兵であったころのものか、どちらでしょうか。



そして追悼式が始まりました。
・・・・・が、わたしはなまじ正式に招待されての参加であったため、
前後左右にずらりと防衛団体や元自衛官のおじさまたちに固められ、
このような位置から式を見守ることになってしまいました。

まだ幸いだったのはそれほど地位が高くないため、前列でなかったことです。
向かいに自衛隊の高官が並んでいるのにカメラを構えるなどできません。
 
まあ、後ろの席であっても式が始まってからは立ったり座ったり、
献花を行ったりと式進行の合間に撮るのも憚られましたので、
これは本当に昨日の予行演習で写真を撮っておいてよかったと思います。

 

神官によってここに運ばれてきた霊名簿は、呉地方総監の手で
慰霊碑の前に奉納され、式の進行をそこで見守ります。



儀仗隊の写真も遠慮してほとんど撮れませんでした。



黙祷に続き3名ほどが追悼の辞を述べ、儀仗隊の弔銃発射が終了。
もちろんこの間、カメラは置いたままです。

ふりかけさんは実は招待されてテントに座ることになっていたのですが、
前日の予行演習の時に、彼女が

「椅子に座ったまま写真を撮ってもだいじょうぶなんですか』

と聞くと、係の自衛官が

「だいじょばない!」

と一言でそれを否定したため(笑)、椅子は最初から用意せず、
式の間じゅうカメラマンに徹して会場を駆け回っていました。

ちなみに彼女によると、「女性自衛官マニア」はこの日もきっちり来ていたそうです。



ようやく写真を撮れる雰囲気になったのが献花が始まってから。
市ヶ谷の地球防衛会総会の後のパーティでご挨拶させていただいた幕僚副官。
海幕長はこの追悼式には参加しないことが決まっており、
副官は海幕長の代理での出席です。



まだ着任したばかりの掃海隊群司令、湯浅海将補。



岡群司令の前の掃海隊群司令だった徳丸元海将補。
父上は掃海隊に従事しており、触雷した掃海艇にほんの偶然で乗らずに殉職を免れた、
ということを、水交会で行われた壮行会の時に直接お聞きしました。

艦艇出身であった自分が掃海隊群の司令になったというのも、偶然というよりは
運命だと思う、とおっしゃっておられたのが印象的でした。



慰霊碑の反対側には掃海隊群の海曹と海士が整列しています。
今空席になっているのは、呉水交会の人々が献花しているからです。

わたしはこのとき地球防衛会の会長と二人で献花を済ませていました。
会長の動きに合わせようと横目で様子を伺っていると、献花のあとなぜか
何もせずにしばらく固まっていたのでどうしたのかと思ったら、あとから

「危なかった。献花の後、いつもの癖で二礼二拍手一礼しそうになった」



こちらの幹部も式が始まる前からじっと直立のまま。
立っているのはいつものことでなんでもないのでしょうけれど、鼻がかゆくなったり、
こういうところに立っていて蚊に刺されたりしたら辛いだろうなあ・・・。
もちろん雨が降ったら屋根のないところに立っている彼らはずぶ濡れです。

この日の式典の間、現地は曇り空でしたが、ついに雨は降りませんでした。
例年直射日光が差して大変暑いということなので、もしかしたら今年は
しのぎやすく彼らにとっても楽な追悼式であったのではないでしょうか。



陸自の制服を着ているのは地本勤務の隊員です。



続いて貫禄満点、幕僚の皆さん。 



献花の一番最後は「幹部・海曹・海士代表」でした。
献花を行う時、かならず遺族、列席者に一礼を行い、終わってからも礼をします。
一番前列に座っている人たちはその都度答礼で頭を下げていました。



追悼式が終了。
これだけの人数が献花を行ったことになります。
供物は魚、野菜、果物などで、魚は生の鯛でした。



会場を出て階段を上ったところに甘酒を売っている店があります。
会長が飲みたいというのでわたし、ふりかけさん、ふりかけさんの知人で
ご子息が自衛官という方の4人で冷やし甘酒をいただきました。
甘さ控えめで案外さらっとしていておいしかったです。



このころは結構雨が降っていたので、大門の軒下で甘酒を楽しんでいると、
自衛官が二人やってきました。

「毎年これを楽しみにしているんですよ」



あまりにものんびりしすぎて、シャトルバスにのる参加者はもういませんでした。
はたしてバスが来てくれるのかどうか心配していたのですが、
この呉音楽隊の隊員たちと同じバスに乗ることになりました。

式次第には「追悼演奏」があり、音楽隊は

「掃海隊員の歌」

「海ゆかば」

などを演奏しましたが、なぜかこの日一度も行進曲「軍艦」が流れませんでした。


バスを待っている間、わたしはひとりの隊員に、献花の時に何回もリピートして
演奏されていた大変印象的な曲の題名を訪ねてみました。

「”ロマネスク”です」

ロマネスク/Romanesque
 


吹奏楽の世界では有名なジェイムズ・スウェアリンジェンの手による佳曲で、
品格があり憂愁を帯びたメロディは、日本の戦後の海を啓開し、
斃れた男たちの魂を悼みその偉業を讃えるに相応しいと思われました。


ただ、この日一度も行進曲「軍艦」が演奏されることがなかったのはなぜだったのか。
わたしはいまでもすっきりしない気分でその理由を考えています。




続く。
 

「高松から京都まで車で1時間半」

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高松は金刀比羅神社境内において行われた掃海殉職者追悼式も
無事に終了しました。
前日の予行演習のとき、わたしは自衛隊広報の方に説明を受けていたのですが、

「5月の最終土曜日にこうやって追悼が行われているということを
少しでも多くの人に知っていただきたいのですけどね」

とおっしゃったので、わたしも微力ながらここでお伝えできることもあろうかと
追悼式の様子もできるだけ写真に撮り掲載いたしました。
無論、黙祷や追悼の言葉、国旗掲揚や儀仗隊の弔銃発射の間は列席者に徹し、
写真も献花のときに撮るなど、近くに座っている人たちと同じようにしたつもりでしたが、
某雷蔵さんから「正式な追悼式列席者が写真を撮るのは如何なものか」とのご意見を賜り、
それもごもっともなご指摘であると思った次第です。

後から考えると式の間は海自のカメラマンやふりかけさんが写真を撮っておられましたし、
何人かの追っかけ?的な人も式の間ずっとあちらこちらで撮影をしていたわけですから、
何もわたしが無理をしておじさんたちの頭越しに写真を撮る必要もなかったのですが、
そこでつい立場を弁えずに頑張ってしまい、反省することしきりです。



さて、式終了後車を停めていた観光センターまで自衛隊のバスで送ってもらい、
そのあとはわたし、会長、ふりかけさん、自衛官の母4人でお昼を食べました。
昨日タクシーで連れて行ってもらった「神椿」ですが、ナビに入れると
このナビがとんでもない農道みたいな細道を走らせた上、遠回りをさせるので
2回も現地の人に道を聞く羽目になりました。

写真は神椿に行くためだけにある細い道で、車がすれ違えないので
5分くらいの信号で交互通行しています。

イノシシが出没いたします、ご注意くださいと書いてありますが、
イノシシが出たからといってどう注意せよというのか。



駐車場から神椿に行くのにはこの「えがおみらい橋」を渡っていきます。
どう考えても神椿のためだけにあとから山の山麓同士をつないだらしい橋。
よくまあ一軒のレストランのためにここまでするものだと思います。

入り口にも書いてありましたがここは車の通行は禁止されています。
空中にワイヤで吊ってある橋らしいので重量をかけられないのでしょう。



橋の途中から下を眺めると、道のない深い森の緑が鬱蒼としています。



新日鐵とサカコーという会社が施工を行ったというプレートあり。

「COR-TEN鉱床材」(コルテンこうしょうざい)

なる耐候性鉱床(鉱物の濃集隊)を「奉納」したとあります。
つまりここも金刀比羅神社の関係ということになりますね。
ちなみにコルテンというのは無塗装で使用しても天候によって錆びることがないので、
塗装がいらず補修費用の多大な節約になるというのが謳い文句です。



昨日海自の幹部がここで食事をしていましたが、それは追悼式の恒例だそうです。
ここでは資生堂オリジナルのレトルト食品など物販も行っており、
ふりかけさんは「ここでしか買えない」というオリジナル香水を購入しておられました。

「階段を上がって汗をかいたしお風呂に入れなかったので・・」

「・・・その香水の使い方は少し間違ってると思う・・」

香りをかがせてもらったところ、昔母親の使っていた化粧品のような
懐かしい雰囲気の匂いがしました。



金刀比羅神社との関係をなにやら放映していましたが、食事をしていて
ほとんど見ることはできませんでした。
ただ、この金刀比羅宮の権宮司、琴陵泰裕氏は先ほどの追悼式において
背広姿で追悼の辞を述べたばかりだったのですぐに気づきました。

大変お若い方です。
調べたところ権禰宜は日本水難共済会という会にも関係しておられるようで、
というのも金刀比羅宮は昔より海の神様とされているからでしょう。
それが広く認知されるようになったのは、塩飽の廻船が金毘羅大権現の旗を掲げて
諸国を巡ったことに由来するといわれています。

境内には古来から海自関係者の奉納物が多く見られ、これこそが
海上自衛隊総会殉職者の追悼式の場としてここが選ばれた理由だと思われます。

ちなみに、これはふりかけさんがお聞きになったそうですが、
この式典が「慰霊祭」ではなく「追悼式」であるというのも厳格には間違いで、
 「慰霊祭」は、慰霊式とは別に、非公開で前日に行われているのだそうです。

「慰霊祭」とは別に「追悼式」を行うようになった経緯には

「海上自衛隊が神式の慰霊祭を行うのは如何なものか」

との指摘があったから(どこから?)ということだそうです。



さて、ここは資生堂パーラーでありますので、壁には創業当時の
銀座の資生堂パーラーの写真がかけられています。
こちら、大正8(1919)年の外観。
この年、第1次世界大戦の終結に関するパリ会議が行われ、ローザ・ルクセンブルグが
虐殺され、日本では関東軍が設置され、やなせたかしが生まれています。

開業1902年と言いますから、日本海海戦のまえにはもうあったんですね。



昭和10(1935)年の内観。
1928年(昭和3年)には「資生堂アイスクリームパーラー」と改称し、
本格的な洋食レストランとなりました。
メニューには、カレーライスやオムライスなどがあり、モボ・モガや新橋芸者衆など、
当時のイケてる若者が集まる一方、いわゆる昔からの上流階級を顧客に持ち、
「成功率の高いお見合いの名所」でもあったそうです。



ビーフカツレツ(昔の人はビフカツといった)やチキンライス、
カレーライスなどいかにも洋食屋といったメニューの中から、
本日のランチを選択しました。



サラダ、肉、魚に小さなカレーライスという組み合わせ。


 
デザートは二種類から選べたので、クリームブリュレを選びました。
ブリュレが緑に見えるのは、確かオリーブオイルの関係だったと思います。 



わたしと自衛官母、自衛官母と会長、会長とふりかけさんは初対面でしたが、
追悼式に出席(自衛官母は”息子が参加したこともあるので是非一度見てみたかった”とのこと)
するという目的を同じくする者同士で話は弾み、あっという間に時間が過ぎました。

入るときに地面を濡らしていた小雨もすっかり止んでいます。



レストランの敷地内にあるお寺のような建物に皆が注目しました。
ふりかけさんがわざわざ前まで見にいったところ倉庫だったそうです。



「なぜこんな立派な、というかお寺の御堂のような倉庫が・・」

とそのときは訝しんだのですが、この写真を見て謎が解けました。
「神椿」は金刀比羅宮の本殿まで上がる坂道の途中に位置し、
山道を登っていく人からこの倉庫はよく見えるのです。
そこに倉庫然として無粋な建物を建てることを良しとせず、
わざわざこのような、しかも年代を経ているかのような建築にしたのでしょう。

もともと「神椿」を金毘羅宮の中に建てるということは、金毘羅宮の中の人が
資生堂に依頼する形で決まったということらしいので、ここまでの気配りも
当然かと思われます。



その後はわたしと会長、ふりかけさんと自衛官母の二台の車に分かれ、
わたしは会長を琴平駅で降ろしてそのまま瀬戸大橋を渡りました。

なぜか。

実はこの後わたしは1年前から予約を取っていた京都の宿に
夜までに行かねばならなかったのです。
白河沿いにある料理旅館で、一年前のホタルの季節に泊まったTOが
大変良かったので家族で泊まるためにその頃から予約をしていたのでした。

当初追悼式の出席はこのため諦めていたのですが、

「ホタルを見るのが目的だから追悼式が終わってから一人で来ればいい」

と言われて、あまり考えもせず車が便利だろうとレンタカーを借りました。
ふりかけさんが、

「京都までなら電車で瀬戸大橋を渡って新幹線で行ったら早くて楽じゃないですか」

というので、わたしは

「車で行くと案外早いらしいので。1時間半くらい?」

と軽く答えました。
この「1時間半」というのがいったいどこから出てきてそう思ったのか、
後からわたしは自分でも悩むはめになるのですが、この辺の地理に詳しい方なら
高松市から京都市まで車で1時間半で行けるわけがない、と驚かれるでしょう。

わたしがその1時間半が5時間の間違いであることに気がついたのは、
瀬戸大橋を渡りきってすぐにでてきた道路標識に

「神戸まで160キロ」

と書いてあったのを見たときでした。
家族にも料亭の女将さんにも笑われ呆れられたのですが、
どうやらわたしは四国と淡路島の距離感を取り違えていたようです。
(淡路島でも1時間半は無理だという説もありますが)

しかもたったひとりで5時間高速をレンタカーで運転する(おまけに車はインプレッサ)
という自分の運命に絶望した途端、運転する人ならお馴染み、
あの、高速走行中における「耐えられない眠気」が襲ってきました。

一瞬ふっと意識が飛んで恐ろしくなったわたしはつぎの休憩所に飛び込み、
駐車場で10分仮眠を取り、その後は不思議なくらい元気になって
無事日が暮れると同時に京都に到着したのです。



瀬戸大橋を車で渡ったのは初めてでした。
当たり前ですが延々と海の上を高速道路が連なっています。
日本の橋梁技術ってすごいなあと感動しつつも、一方で
橋のガードレールがあまりにも低いので、

「もし今地震が来たら、まず確実に車ごと海に落ちるであろう」

という不安が拭いきれず、一応海側ではなく内側の車線を走りました。
瀬戸大橋の地震対策ってどうなってるんでしょうね。 




 

日系アメリカ人二世~「メリルの匪賊」と「アーロン収容所」

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日系二世部隊であるMIS(Military Intelligence Service) 、
14人の諜報部は、そのうち一人だけが白人の部隊で、
ビルマ戦線では「マローダーズ」のために任務についていました。

この写真はMISのヘンリー・ゴウショ軍曹と、「マローダーズ」のウェストン中尉。
ゴウショ軍曹も日系人収容所からMISに参加した組で、戦線で娘の誕生を知りました。
戦後は、1977年に「レンジャー・ホールオブフェーム」にその名を加えられています。





日系米人シリーズを書くために、山崎豊子の「二つの祖国」をもう一度読みましたが、
改めて思うのは、我々が想像するよりずっと、彼ら二世は「日本」に対して複雑な、
むしろ愛憎で言えば「憎」の側が勝った感情を持っていたのではないかということです。

日本人の両親から生まれても日本を見たことがなく、日本人というだけで
酷い差別を受けてきた上、アメリカ的には「スニーキーアタック」である
真珠湾攻撃によって一層自分たちの立場を悪くした日本。

アメリカが自分たちを非人道的に扱うのは「日本のせい」だと、むしろ
自分たちの不幸の責任を「日本」にすり替えて憎悪するものすらいたのではないかと。

日系人の中には、日本がミッドウェーで負けたというニュースを知らず、
快進撃を続け、そのうち勝つに違いないと期待を続けた者もいる、
と小説ではかかれていましたが、それは少数派ではなかったのか、と、
たとえば占領後の日本で、占領軍の先に立ち、
日本人に侮蔑的に振る舞う二世などの話を聞いて思わずにはいられません。

特に戦後の日本側の媒体で、この日系二世が良く描かれることは稀ですが、
特にアメリカ政府が日系人に対する迫害などを謝罪してからというもの、
アメリカ側からこの視点で日系アメリカ人を描くことはタブーでもあるようです。

前述の傲慢で無礼な日本人に対する態度、そして東京裁判における稚拙な日本語が
裁判の進行を甚だしく妨げた、などということはあくまでも日本側からの視点で、
現在のアメリカでは日系二世たちはアメリカのために日本やドイツと戦った
アメリカ合衆国のヒーローということになっています。


どうもわたしは日本人のせいか、442部隊は素直に賞賛できても、MIS、
特に沖縄で宣撫工作を行った日系二世兵士たちに対しては、感情的な部分で
「よくそんな立場に立てたなあ」というか、虎の威を借る狐を見るような、
わずかな嫌悪を交えずには見ることができないのですが、この複雑さもまた、
当事者である彼らが一番苦しめられたジレンマそのものでもあるのでしょう。




ところでみなさんは「メリルの匪賊」という言葉を聞いたことがありますか?
ない?それでは「メリルのマローダー」は?

「マローダーなら知ってるよ、飛行機の名前になっているし」

と思った方はわたしと全く同じです。

「メリルの匪賊」、というキャッチフレーズが日本では全く知られていないのも、
このビルマ戦線で苦労した、フランク・メリル隊長以下第5307編成部隊についての逸話が
日本では有名に成るべくもない(どうでもいい?)ものであったからに他なりませんが、
アメリカでは「Merrill's Marauder's」という映画にまでなっています。

Merrill Marauders (Original Trailer)

ビルマ戦線では、アメリカも結構大変だったんですねよくわかります。(適当)
映画では状況が悪くなって、隊の中で仲間割れして殴り合いなんかになってますね。

戦況を簡単に説明しておくと、もともとイギリス領だったビルマに日本が侵攻し、
イギリスを追い出して全土を制圧していたのですが、これを取り戻すために連合軍が、
終戦までに多大な犠牲を払ったというのがビルマの戦いの全容です。


「メリルの匪賊」というのは、1943年に日本の補給線を断つための戦闘に、
ブーマに投入された第5307隊のニックネームですが、
これは戦後になって、隊長だったメリル准将自身がつけたものです。
自分の名前をちゃっかり入れたあだ名を後からつけていることにご注目ください。

それはともかく、ジャングルに展開した「マローダーズ」は、重機も戦車もなく、
1000マイル以上を歩いて進軍し、日本の陸軍第18部隊と戦い、
これを倒してシンガポールとマラヤを散々苦労して制圧しました。

この戦いにおいては日系アメリカ人二世が多大な功績を上げたわけですが、
その働きはメリル将軍(最終)の言葉に要約されています。

「君たちがいなかったらどうなっていたかわからない」

はあそうだったんですか。

諜報部隊の二世たちには、その勇気と武功を評価され、
全員にブロンズスターメダルが与えられています。



真ん中、フランク・メリル将軍。
なんだかフライングタイガースのシェンノートみたいな人ですね。



このときのMISの隊長は、ウィリアム・ラフィン大尉といい、日本語学者でした。
父親がアメリカ人、母親が日本人で、1902年、日本生まれです。
日米が開戦となった時に彼らは日本にいましたが、収監を経て国外追放となります。
アメリカに帰国することを余儀なくされた彼は、ニューヨークに着いたその足で
MISへの入隊を決めています。

彼の場合は母の国から拒絶された思いが、日本と戦うことになることも承知で
軍へとその身を駆り立てたのでしょう。

隊長としてメリルの「マローダー」に配属された彼ですが、 乗機が零戦に撃墜され、
1944年5月にビルマのブーマで戦死しました。



ところで、日本はビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、
6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名だけでした。

この地で捕虜になった日本軍の将兵には、連合軍による非人道的な報復が行われました。
 敗戦により捕虜になった日本兵が大多数だったため、連合軍は、勝手に
「降伏日本軍人」(JSP) という枠を設け、(捕虜とすると扱いが国際法に準じるから)
国際法に抵触しないギリギリで、現場ではリンチまがいのことも行われ、
この結果、半数が収容所の労務で死亡しました。


終戦になっていため、本来は条約により、多くの日本兵を一年以内に帰国(帰還)
させることが決まっていたにもかかわらず、英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC) は
日本兵から「作業隊」を選び、意図的に帰国を遅らせました。

兵士の労役の賃金は、連合国(英国)からは支払われず、日本政府が負担しています。


それだけではありません。


連合国軍は秩序の維持の為と称して、暴力・体罰を用いたり、銃殺を行いました。
窃盗などの軽い犯罪であっても処刑されたり、泥棒は即時射殺されたりしました。

連合国軍兵士は、日本兵に四つん這いになることを命じ、一時間も足かけ台にしたり、
トイレで四つん這いにさせてその顔めがけて小便をしたり、
タバコの火を日本兵の顔で消したり、顔を蹴ることも楽しんで行いました。

また、『戦場にかける橋』などで知られる泰緬鉄道を敷設した
「鉄道隊」に対する英国軍の報復について、
「アーロン収容所」の著者会田雄次はこんな話を聞いたそうです。


「イラワジ川の中洲には毛ガニがいるが、カニを生で食べるとアメーバ赤痢にかかる。
その中洲に鉄道隊の関係者百何十人かが置き去りにされた。
英国軍は、降伏した日本兵に満足な食事を与えず、飢えに苦しませた上で、
予め川のカニには病原菌がいるため生食不可の命令を出しておいた。

英国人の説明では、あの戦犯らは裁判を待っており、狂暴で逃走や反乱の危険があるため、
(逃げられない)中洲に収容したと言う。
その日本兵らの容疑は、泰緬国境で英国人捕虜を虐待して大勢を殺したというものだが、
本当なのかはわからない。
その中洲は潮が満ちれば水没する場所で、マキは手に入らず、飢えたらカニを食べるしかない。
やがて彼らは赤痢になり、血便を出し血へどを吐いて死んでいった。

英国軍は、毎日、日本兵が死に絶えるまで、岸から双眼鏡で観測した。
全部死んだのを見届けると、

「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、
生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」

と上司に報告した。


会田にこのことを伝えた人物は、

「何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」

と話を締めくくったそうです。


この収容所の地獄から生きて帰ってきた会田雄次は、「アーロン収容所」という著書で
日本が手本とした英国のヒューマニズムは英国には無かったとする主旨を著し、

「少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する
燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」

「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」

「(もう一度戦争した場合、相手がイギリス人なら)女でも子どもでも、
赤ん坊でも、哀願しようが、泣こうが、一寸きざみ五分きざみ切りきざんでやる」

と怨嗟の思いを書き残しています。



さて、終戦後日本からビルマを取り戻し、そこで散々日本人捕虜に虐待しておいて、
東京裁判では人道に対する罪と称して日本を「有罪」にしたイギリスはじめ連合国は、
最終的にはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失いました。


ビルマは1948年に独立を達成しましたが、戦後、同国と最も良い関係を築いたのは、
アメリカでももちろんイギリスでもなく、戦後補償をきちんと行い、
合弁事業によって国家の振興に協力し、戦争により破壊された鉄道、通信網の建設、
内陸水路の復旧や、沈船の引き上げなど、2億ドル(720億円)の戦争賠償と
5,000万ドル(180億円)の経済協力を行った日本でした。

ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、
大統領となった後も訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めたと言われます。
1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司
旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉である、

「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」

を授与しています。



日系二世たちは国家から忠誠の踏み絵を踏まされ、その結果、
選びとった祖国アメリカのために命を捨てて戦いました。
なんどもわたしが言うように、戦争に「どちらが正しい」はありません。

しかし、彼らが忠誠を誓ったアメリカはじめ連合国の大義は、少なくとも
ビルマやインドネシアなどアジア諸国において戦後否定されるという結果となったのです。



自分たち日系人が結果として、日本を叩き潰す、すなわち

大国側に立って植民地支配と人種差別を維持するための戦いを幇助していたこと

を、大抵の二世兵士たちは、おそらく考えてみることもなかったでしょう。


彼らのなかには、米国における日系人の立場を悪くした真珠湾攻撃を起こした国として
日本を純粋に憎み戦った者がいたかもしれないし、ラフィン大尉のように
「日本から裏切られた」という苦衷の思いで戦った者もいたでしょう。


日系アメリカ人たちは、激しい人種差別の中、よきアメリカ国民になるため、
祖国のために血を流し、遅かったとはいえ戦後それが国家から認められるに至りました。
しかしその祖国は、皮肉なことに、戦後、1966年に人種差別撤廃条約が締結されるまで、
日本がかつて国連で提唱した「人種差別撤廃提案」を拒否したこともある差別大国だったのです。



どれくらいの日系アメリカ人たちが、アメリカという大国の二面性を表す
この痛烈な皮肉に気づきながら、その旗のもとに戦っていたのでしょうか。






京都夢芝居・蛍と鷺の宿

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さて、前回、金毘羅宮から京都に向かう途上、瀬戸大橋を渡り、
その耐震構造についてふと疑問を呈したところ、さっそく詳しい方から
瀬戸大橋の耐震性についてコメントをいただきました。

瀬戸大橋の耐震性については、まず、過去に起こったM8.0の地震
(昭和21年の南海地震)を想定した耐震設計基準が構造に取り入れられており、
さらには兵庫県南部地震のような直下型地震や東北地方太平洋沖地震クラスの地震についても、
発生後すぐに検討に入り、損傷を想定して補修がなされているということです。

さすがに損傷が全くないということではないようですが、
少なくとも倒壊など重篤な損害によって通行が不可能になることだけはなく、
またわたしが不安を感じた「海に車が投げ出される」という可能性も、
ちゃんと車の重心などを考慮したシミュレーションによるとまず心配ないそうです。

今の日本で地震に対して安全なところなどないわけですが(岡山くらいかな)、
このように日本の企業がいざというときに際しての備えを
持てる技術の粋に留まらずたゆまぬ進化を怠らないということを知ると、
どんな災害に襲われて傷ついても日本は必ず立ち上がる、と頼もしく思いますし、
地震災害国である日本がここまで発展したのも、こういった技術に表される
生存のための知恵を昔から重ねてきた先人の努力の賜物であろうと誇らしくもあります。



さて、無理矢理話をつなげると、日本の誇り、といえば京都ですね。
少なくとも誇り高い京都の人たちはそう思っているに違いありません。
昨今では観光客が増えすぎて風情がなくなったと言われている京都ですが、
まだまだ京都の人はその誇り高さゆえに「京都らしい頑固さ」を守り抜いていて、
それがまた京都が愛される理由となっているように思えます。

前回は町屋の宿という、逆説のようですが「新しい京都」に宿泊したのですが、
今回は直球も直球、ど真ん中の老舗料理旅館に泊まりました。
今なお美しい水の流れを誇る白川沿いの宿です。

白川というのは比叡山に源があり、その流れはちょうど祇園で鴨川に合流します。
前回の京都でお話しした「高瀬川」ほどの水深はなく、せいぜい5〜10センチで、
「白川」の名前の由来は、流域一帯が花崗岩を含む礫質砂層で構成されており、
川が白砂(石英砂)に敷き詰められているように見えるからと言われています。

追悼式の後、5時間の高速運転の末に京都にたどり着いたとき、
わたしは疲労困憊して口を聞くのも億劫なくらいでしたが、
到着してからすぐにお風呂をいただいてさっぱりしたところで、
ここの自慢の京料理が部屋に運ばれてきました。



メニューはまだ若い女将さんが毛筆で手書きしたもので、
一品ずつ一枚の紙に書かれており、運んでくるたびにそれをめくっていきます。
京都といえば鱧、ということで最初に出てきた刺身と鱧の湯通し。



説明を聞いたけどなんだったか忘れました。
「冷たい味噌汁」のようなもので、真ん中の豆板のような寒天のようなのは
麩的なものであったという気がします。



賀茂茄子をくりぬいて入れ物にした茄子と牛ロースの「炊いたん」。
外国人客も多いので肉も普通に使います。
外側の茄子の皮は苦味があり美味しくなかったので残しました。
実は疲労のせいであまり食欲がなかったというのもあります。

こういうのがダメな外国人には専用メニューもあるそうですが、
この辺も京都が変えざるをえなかった部分かもしれません。



竹をくりぬいた入れ物の底1センチにジュンサイ的なものが入っていました。
おちょこ1杯で足りるものをわざわざ竹の筒二本に入れる。遊び心ってやつですか。



蛍が見られるのは夜9時ごろからということだったので、夕食後
浴衣に羽織姿のままで外に出てみました。



白川沿いの店は古い料亭あり、カウンター式に新しくしつらえた小料理屋あり、
カラオケ店まであるようで、外に音が聞こえてきていたのがご愛嬌でした。
これが昔なら三味の音であったりしたのでしょうか。



外国人が増えたというのは少し街を歩いただけで実感されます。
たとえばこの神社の裏手には、白人系の若いカップルがバックパックを背負ったまま
この時間だというのに地面に座り込んでいました。
まさかホテルを取らずに来たのでしょうか。



しばらく歩いて行くと橋の上から川面に鷺の姿を発見。
鷺だけでなくよく見ると川面を無数の蛍が飛び回っています。
残念ながら蛍の写真などどうやってとって良いか分からず、
この写真も真っ暗なところに当てずっぽうでカメラを向けてシャッターを押したら
なんとか写っていたといういい加減なものなですが、それでもよくみると
水面に幾つかの「蛍の光」が認められます。

「鷺って蛍食べちゃわないのかな」

「料亭の魚の切れ端もらって食べてるんだから虫なんか食べないだろ」

後から聞くと、鷺は魚の他には貝などを見つけて食べるそうです。



そのあと、すっかり最近京都の夜に詳しくなったTOが、この並びにある
一軒の町屋のようなところに入っていきます。



お座敷に通されて出てきたのは果物のジュースでした。
なんと京都のバーというのはこういう町屋だったりします。



芸者さんの名札が玄関先に並べてある置屋の玄関。



明けて翌日、早速部屋の窓から外を見てみます。



声明のような声が聞こえたのでみてみると、虚無僧のような姿の一団が
一人一人の間を空けながら歩いてゆっくり通り過ぎるところでした。
朝、こんな光景が見られるのは日本でも京都だけでしょう。



虚無僧の写真を撮っていてふと気づくと、部屋のすぐ下に
鷺が一羽、もの待ち顏で待機していました。
鷺には「おーちゃん」という名前があって、名前の由来は一本足で立っていることから
一本足打法の王選手の「おー」なんだそうです。

「鷺って何羽いるの」

「五羽くらいいるらしいよ」

「どれが”おーちゃん”とか、どうやってわかるんだろう」

「とりあえず全員”おーちゃん”って呼ばれてるらしい」

なぜ5羽いるということがわかったかというと、ある日ある時、
5羽の鷺が一堂に会しているところが目撃されたのだそうです。

女将さんによると、くちばしや脚の色が年齢によって違うので、
ある程度は見分けられるということでした。



魚の身の切れ端をやるようになってからおーちゃんたちは口が肥え、
他のものなど見向きもしない贅沢な鳥になってしまったそうです。
というわけで、彼らの仕事は朝に夕に、時間通りに餌をくれる旅館の前で
こうやって時間を潰すこととなって現在に至ります。



厚かましいおーちゃんになると、勝手口にヅカヅカと入ってきて
「魚おくれやすー!」と主張するツワモノもいるそうです。

また、川岸から川床、川床から人家の屋根と、縦横無尽に飛び回るのですが、
そのときなんとも言えない禍々しい鳴き声をあげるのでした。

「鷺いうのは姿は美しいですが声があまりよろしおまへんなあ」

とは女将さんのお言葉。



その女将さんのお給仕で朝ごはんを頂きました。
その時に出た話題ですが、京都の小麦消費量は全国一高く、
特にパン好きな市民なのだそうです。
京都の料亭などで出るこのような食事とはうらはらに、京都人は
どんな年配の人であっても朝ごはんはパンとコーヒーか紅茶。
早起きして近くの行きつけのパン屋にパンを買いに行くところなど
まるで姉妹都市であるパリっ子みたいです。

ここだけの話ですが、京都人とパリ人はプライドが高く「いけず」なところもそっくり。



おーちゃんのいた川がカウンター越しに見える部屋で、晩にはバーにもなります。
朝ごはんは前日に白飯かおかゆかが選べます。

 

ランチョンマットには女将さんが朝方したためた一筆が。
こういう気遣いが京都に泊まる楽しみでもあります。



部屋に帰って簾越しに外を見ていたら、結婚式のフォトセッションらしく、
着物姿の男女がポーズを取っていました。

「いつも通り気楽にお願いします」

という声に、すかさず女性がVサインしていました。
今の女の子というのはVサインしないと写真が撮れないのか(笑)



そうかと思ったらだらりの帯の舞妓さんコスプレも通ります。
なぜ本物でなくコスプレといいきるかというと、本物の舞妓さんが街を歩くのは
お座敷の仕事がかかった夜だけで、こんな朝から人前に出没しないものだからです。
また「一見さんお断り」のお店にいることが多いので、京都市内で普通に見かけるのは
観光客の扮した「なんちゃって舞妓」。

そもそも京都市民でも、本物の舞妓を見かけることはほとんどないといわれます。



チェックアウトは11時。
このあと夜の大阪空港発の飛行機に乗るまで、わたしと息子は
わたしの神戸の実家に車で、TOは京都で用事という段取りです。

八坂神社は遠目に見ても中国人とわかる団体で溢れかえっています。



北白川のドンクでお茶にしました。
女将さんいうところの「京都人はパン好き」を表すかのように、
日曜の朝のひと時をベーカリーフェで楽しむ人たちでいっぱい。

ドンクの駐車場の監視カメラにはツバメが巣を作っており、
巣の上からぽわぽわした頭が二つ三つ出たり入ったりしていました。
お客さんの頭に”落し物”をしないように、お店はおしゃれなカゴを設置(笑) 



TOを進々堂の近くで降ろし、高速に向かいます。
久しぶりに京大の前を通ってみたら、妙に綺麗な建物が〜!!!
なんでも近年、(というか前に来てからすぐ)食堂の補修と新棟の建設が完成したそうです。



さて、もういちど「おーちゃん」のことについて書いておきます。
チェックアウトのころ、なんとなく玄関先でおーちゃんを眺めていたら、
板さんが中から出てきて黙ったままぽいぽいと魚の切れ端を放り込み始めました。

板さんは客に愛想をしない決まりでもあるのか、「おはようございます」といっても
何の返事もなく、おーちゃんについての説明もなし。
さすがは京都の名門料亭の板前である、と妙なところで感心しつつも見ていたら、
通りがかりの中国人のおばちゃんにえさやりが見つかってしまいました。

またこの人たちの格好がすごいのよ。
赤、黄、青、緑、黒、ピンクが体のそこかしこに配された洋服を全員が
まったく同じような着こなし?で纏っていて目がチカチカするうえ、
実際にも口々に何かを口走り、うるさいのなんの。

わたしたちは鷺を見ると鷺の写真を撮るわけですが、この人たちはなぜか
鷺をバックに必ず自分たちが写っている写真を撮りたがります。

突進してくる電車の線路に足を乗せて自撮りしていて、
その電車にはねられた中国人の女の子がいたそうですが、
彼らの自撮り好きをみると、さもありなんと納得してしまいました。



おーちゃんに投げられた魚の切れ端を狙ってカラスもやってきて
横から魚身をかすめ取るのですが、おーちゃんはおっとりしているのか
魚身の多くが下流に流れて行ってしまいます。

案外白川の流れって早いんだなあ、とふと下流を見ると、なんとそこには
『おーちゃん2号」がいて、流れてきた魚身をおいしくいただいていました。



おーちゃん1号とともに写っているのは鴨の親子。
彼らもおーちゃんに投げられた魚を当てにしているようです。



みていると、誰が合図を出したのか全員で下流に流れていきました。

「おー流れてる流れてる」

「省エネモードで移動してるわけね」


蛍と鷺、ついでに鴨の川流れと京都の初夏を満喫する旅。
いつも京都に来ると、なにかとてもよくできた舞台装置のなかに紛れ込んだような、
唯一無二の「京都」(外国人からみると”日本”)という名の芝居に
エキストラ出演しているような、非日常感を味わうことになります。

「なんちゃって舞妓体験」を試みたり、結婚式でまるでドレスのような色合いの
着物を着て紋付袴の彼氏とVサインで写真を撮る人たちも、
その登場人物となって芝居に積極的に加担しようとしているのに違いありません。



 

「トミー(立石斧次郎)ポルカ」〜横須賀歴史ウォーク

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さて、横須賀ウォークの合間に昼ご飯を食べるために立ち寄った
横須賀人文・自然博物館でまたしても独自に走り回って写真を撮り、
そこから結構いろんなことを知ることができたのが嬉しいわたしです。
万永元年の遣米使節団のイケメン侍が柳原白蓮のお爺さんだったなんて、
こんなことでも調べなければ一生知らないままでした。

まあ、知ったからってそれがどうしたって話ですが。

さて、その使節団の目的のメインは条約の調印だったわけですが、
日本政府の目的は主にアメリカの工業施設、造船所、製鉄所を知ることでした。



遣米使節団の目付役だった小栗忠順がその後横須賀の
製鉄・造船業の勃興に大きな役割を果たしたことからも、
このとき彼らがアメリカで見聞きしたものがどれだけ
日本の工業化にダイレクトに役だったかってことですね。

で、下の写真は1865年に寄稿された横須賀製鉄所ですが、
使節団の渡米が1860年であったことを考えると、
猛スピードで明治政府は近代化を推し進めていたのがわかります。

この説明によると一行は「メーア島の造船所」を見学したとのことです。
サンフランシスコにメーア島なんてあったかしら、と調べてみると、

Mare Island Naval Shipyard(メアアイランド海軍造船所)

というのがサンフランシスコ市の対岸にあるバレーホにあったようです。
バレーホは住んでいるときにもナパバレーに行く途中に通り過ぎるだけだったので、
全くそういうのがあることも知りませんでした。

咸臨丸はアメリカに到達したときにまずサンフランシスコ湾の第9突堤に
停泊したということですが、ゴールデンブリッジ公園には日本人が建てた
咸臨丸の碑があるのだそうです。
バレーホには海軍歴史博物館もあるということですし、
今度サンフランシスコに行ったら見てきますかね。

そしてその後咸臨丸はメアアイランドの造船所で修理を行ったとのこと。
それにしてもこの写真のキャプションですが、

「サンフランシスコでもメーア島の造船所を見ていた!
ワシントン滞在中に、幕府は海軍を構成し、造船所を作りたいと
目的を公表していた!」

なんか博物館の解説文にしては妙に躍動的というか変な文章というか(-。-;


ところで冒頭の絵皿は、咸臨丸がアメリカに渡った1860年を
日米交流元年として、その100年後の1960年に作られたものです。

さて、全権団は咸臨丸ではなくアメリカの艦船で渡米をし、別の米艦船で帰ってきました。
咸臨丸は全権団に随行する形で出航し、太平洋を渡ってサンフランシスコに到着。
つまり全権団は安全な?アメリカの艦船に乗り、咸臨丸渡航は完全に
「初挑戦」を目的としていました。

もっというなら別に行っても行かなくても良かったってことになるのですが、
それでも条約を締結に行くのに相手国の船で往復して終わり、では
日本という国の強さを相手に示すことはできない、条約を批准するにあたって
決して向こうから甘く見られてはいけない、という駆け引きがあったればこそ、
咸臨丸という日本の船はとりあえず太平洋を越える必要があったわけです。

実際は、太平洋を初めて長期航海する咸臨丸の日本人船員たち(勝海舟含む)は、
航海中船酔いで倒れてしまい(そりゃそーだ)、航海になれたアメリカ人船員が
ほとんど操舵をしてアメリカに着いたという話もあるのですが、とにかく
咸臨丸(と勝海舟)はそれを成し遂げ、使節団の象徴として歴史に残ることになりました。



ところで、世の中には「勝海舟と咸臨丸」が象徴としてクローズアップされ、
何かにつけてそれを中心に使節団が語られることを良しとしない人(たち?)
がおりまして、この方(たち)は

「咸臨丸を教科書から外す会」(仮名)

というのを作り、「咸臨丸病の日本人」の目をさますべく啓蒙活動しておられます。
”本末転倒の持ち上げられ方”をされる勝海舟と咸臨丸の実態はこうこうだった、
これに対しまるで添え物のような全権使節団をどちらもちゃんと評価せよ!と。

ご興味のある方は検索すればサイトが出てくるのでご一読されればと思いますが、
とにかく、あらゆる刊行物、新聞記事、教科書に「咸臨丸と勝海舟」をいう文字を
見つけてはそれは違う!これは間違い!とこまめにツッコミを入れておられます。
たとえば、

「初めてのサムライ、アメリカで熱烈歓迎」

という写真の前のページに勝海舟がアップで載っていたので、

「これでは咸臨丸でアメリカへわたった勝海舟らが
大歓迎を受けている、と(読んだ人は)理解(誤解)する」

また、遣米使節一行と従者がワシントンやニューヨークの町中で歓迎される写真は

「よほど知ってる人でなければ咸臨丸の勝海舟が
ワシントン・ニューヨークで歓迎されたと(見た人は)錯覚する」

冒頭の絵皿は、日米修好通商条約100年記念のものですが、
このときに同じ図柄で発売された記念切手に対しても
「遣米使節が乗っていない咸臨丸」など切手にするな!と怒り心頭のご様子。

まあ、気持ちもなんとなくわからないではありませんが、この人(たち)は一体
何と戦っているのだろうか、と失礼ながら少し不思議に思います。
咸臨丸と勝海舟ばかりがほめそやされ、遣米使節団が割を食っているってことなんでしょうか。
今日の我々は遣米使節団によって通商条約が結ばれ、彼らがアメリカで視察したものが
日本の近代化に大きな役割を果たしたということをよく知っていると思うのですが。

おそらく、その方(々)がこの博物館に来たら、この日米100年記念の絵皿を見て

「咸臨丸には遣米使節は乗っておらんかったんだ!それを・・それを・・っ!」

と館員に食ってかかったりしちゃうんでしょうか。考えたくはありませんが。




歴史の真実をあくまでも追求する、これは大事なことだし、学者であれば
一生それを追い求めてしかるべきでしょう。
そしてその主張と啓蒙活動にわたしはなんら意を挿むものではないのですが、
それでもあえて言わせていただくと・・・。

たとえば遣米使節の象徴として何かをこのように絵皿にするとしたら、
逆に咸臨丸を差し置いて使節が乗ったアメリカの艦船を描くのは果たして妥当でしょうか?
(彼《ら》は製鉄所にずらりと並んだ遣米使節をその象徴にせよと言っている模様)

たとえ勝海舟が船酔いで役立たずだっただろうが、使節団が乗っていまいが、
このときの遣米の象徴にするために日本政府は日本の船をアメリカに遣ったのですし、
それはれっきとした史実で動かしようのないことだと思うのです。

あ、そうそう、以前目黒の幹部学校に表敬訪問に伺ったとき、
学校長である海将にいただいたメダルには確か咸臨丸が刻まれてたなあ・・。

この人(たち)はこういうときにも学校長にメダルを叩きつけ

「咸臨丸には遣米使節は乗ってなかったんですよお!」

っていうんだろうか。考えたくもないけど。
というわけで、なんでこの人(たち)が咸臨丸と勝海舟を目の敵にするのか
いまいちわからないままですが、とにかく話を先に進めることにしましょう。



さて、未知の国ジャパーンから来た77人のサムライは、アメリカ人の好奇心を掻き立て、
滞米中常に人々に取り囲まれていたといいますが、とくに、そのなかで
アメリカ人(特に女性)の”アイドル”になった日本人がいました。



アメリカ女性に囲まれてモテモテのサムライがいますね。

これがトミーこと立石斧次郎でした。
養父の立石徳次郎は長崎出島の通辞(通訳)で、斧次郎も長崎にあった
学校で英語を学んだといわれます。

当時17歳の斧次郎は渡米の途にある船のなかでもペット的存在でしたが、
アメリカに着いてからは特にアメリカ女性のアイドルにもなります。
かれは、きょうびのロックスター並みにファンがいたそうです。

'Tommy,' as he was known, was especially popular
with American women, treated "like a present-day rock star”.

なんと、かれのことを歌った「トミーポルカ」なる曲まであったとか。

TOMMY POLKA



Wives and maids scores are flocking 
Round that charming little man,
Known as Tommy, witty Tomy,
yellow Tommy, from Japan

奥様方もお女中も、群れをなし
チャーミングな小さな男のまわりに群がるよ
その名はトミー、賢いトミー、黄色いトミー、
トミーは日本からやってきた(エリス中尉訳)

なんだか対等な人間扱いという感じがあまりしないのはなぜだろう。
まあとりあえず、アメリカ人はこのように彼を愛していたようです。

”ロックスター”といっても、そこは当時のアメリカのことですから
熱狂するといってもせいぜい全米から手紙が殺到するというレベルでした。
どうして77名のサムライの中で、彼だけがこんなにもてはやされたかというと、
どうもその理由は本人のキャラクターにあったようです。

全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライ



写真を見るとイケメンとはとても言い難いトミーですが、
関西で言う所の「いちびり」で、クラスに一人はいる明るい人気者、
という当時には、とくにサムライには珍しいキャラクターが、
アメリカで発揮され、アメリカ人に歓迎されたようですね。
本人も異国で信じられないくらいのモテぶりにさらにハッチャケてしまったようで、

「アメリカ女性と結婚してアメリカで暮らしたい」

てなことを思わず口走ってしまっています。
さらにトミーは笑顔が素晴らしく、当時のアメリカ人によるとたいへん
着こなしのセンス、着物の色使いが良かったということも書かれています。

しかし、いかにモテても「この人と結婚したい」という果敢なアメリカ女性は
どうやら一人もいなかったらしく、トミーの要望は言っただけに終わり、
彼は遣米使節が帰国の途に着くとおとなしく一緒に日本に帰っています。


それにしても気になるのは、人生最大の「モテ」をすべて
アメリカで使い果たしてしまった(笑)彼のその後です。
日本に帰ってから、トミーは江戸にあるアメリカの公使館(昔の大使館?)に
通訳として就職し、同時に英語の教師としてたくさんの生徒を教えました。 

彼はいわゆる王政復古、1868年に江戸幕府を廃絶し新政府樹立の時、
戊辰戦争では反新政府側について戦い、脚を怪我した、というようなことも
アメリカでは報じられたようです。
その後彼は東京に戻り、名前を「ナガノケンジロウ」と変えて、
新政府側の逮捕を逃れました。
ちなみにこのときに、同じ遣米使節の目付役であった小栗忠順は、
薩長への徹底抗戦を唱えて斬首されています。

そんなトミーが、またアメリカに行く日がやってきました。
1872年、岩倉具視を正使とした岩倉使節団の107名の一人として
アメリカとヨーロッパ訪問に加わったのです。
そのとき、1843年生まれのトミー、29歳。
17歳のときにはモテモテだったトミーですが、岩倉使節団のときの
訪米でまたモテモテだったかどうかは話題になっておらず、
それどころかwikiの「岩倉使節団」の錚々たるメンバーの中では
通訳だったトミーは「その他」扱いで名前も出てきません。(T_T)

トミーも名前を載せてやってくれ。

さて、無事岩倉使節団での任務を果たし日本に帰ってきたトミー、
「北海道開拓のための産業省のオフィサー」
と英語ではなっているので、これは北方開拓のために作られた
開拓使という官庁のことで、省と同格の中央官庁に官吏として
就職したということのようです。

ところが彼の職歴はそこで終わらず、語学堪能を見込まれて(多分)
1887年から1889年まで、ハワイの移民局の最高責任者として当地にいました。
YouTubeの「トミーのポルカ」に出てくるトミーと洋装の家族写真は、
そのときに家族同伴でハワイに赴任していたのではないかと思わせます。
このときトミー44〜46歳。

その後、トミーは順調に出世をして、1891年には大阪高裁の公式通訳になり、
1917年1月13日、64歳で生涯を終えました。


彼は生涯、アメリカでの一時期を振り返っては

「あのときの俺、なんであんなにもてたんだろう」

と不思議に思っていたであろうことは容易く想像されます。
誰にも人生一度は訪れるモテ期とはいえ、全米を巻き込んだとなると、
スケールが大きすぎて、彼自身にもよくわけがわからなかったのではないでしょうか。

一つ言えることは、トミーは間違いなく、史上もっともたくさんの
アメリカ女性を夢中にさせた日本男性だったであろうということです。


続く。 

   


 

横須賀戦前戦後〜横須賀歴史ウォーク

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横須賀ウォークで見た横須賀人文・自然博物館の展示、続きです。
横須賀に関わる歴史も自然もまとめて展示してあるので、
ナウマン象がいたかと思ったらペリーの座った椅子もあるといった具合で、
1日がっつりと見学すれば横須賀そのものがわかってしまうという仕組み。

で、ナウマン象の横に巨大なジオラマがあってですね、これが何かというと、



いま話題の?南海トラフがどう走っているかを説明しているのです。
この赤いランプの線が南海トラフですね。
この模型だと随分駿河湾から内陸に食い込んで伊豆半島を横切っています。
んー、これまぢでしょうか。

トラフとは深さ6,000mまでの海底の溝のことで、それ以上は『海溝』となります。
トラフというだけなら単に地形の名称に過ぎないのですが、
これが『南海トラフ』となると水深4,000mの、非常に活発で大規模な地震発生帯です。
模型の部分、駿河湾内にあるのは『駿河トラフ』とも言われています。

一定の年数ごとに地震が起こっているので、それでいうと、

「30年以内にM8〜9の地震が起きる確率は60〜70%」

逆に言うと起きない確率は30〜40%「も」あるわけですが、
まあこの数字をみると決して楽観できないですよね。
で、国の立ち上げた中央防災会議の評価によると、
もし南海トラフを震源とする地震が起こった場合、

この南海トラフ巨大地震による被害については、超広域に
わたる巨大な津波、強い揺れに伴い、西日本を中心に、
東日本大震災を超える甚大な人的・物的被害が発生し、
我が国全体の国民生活・経済活動に極めて深刻な影響が生じる、
まさに国難とも言える巨大災害になるものと想定される。

だそうで・・・・。
これによると駿河トラフは伊豆半島を分断して横須賀沖まで来ているので、
横須賀もそうなれば甚大な被害を受ける、ということでこの模型となったのでしょうか。


先日瀬戸大橋の耐震性について関係者からいただいた説明をしたとき、

「(安心なのは)岡山くらい?」

と書いたところ、専門家であるその方から即座に

「岡山で危険視されている断層としては、四国を通る中央構造線と長尾断層、
兵庫県との県境から北部に伸びる山崎断層帯、北東部の那岐山断層帯、
そして広島県境付近の長者ヶ原ー芳井断層ぐらいで、岡山市付近には大きな断層がない」

という詳細な説明をいただきました。
わたしが岡山といったのは決して地震学を学んだというようなことではなく、
単に当の岡山県人が口を揃えてそれを言っていたからです。

しかも、津波に対しても四国が防波堤の役割になっており、広島のように
大雨における土砂災害もほとんどない、とくれば、これはもう

「首都は岡山に移転させてはどうか」

と彼らがいい気になって(笑)いうのも無理はないというものです。
実際にも岡山には移住してくる危険地域の人が少なくないということです。



横須賀地方で漁業を営んでいた民家が再現されていました。
横浜の「馬の博物館」にも、馬と一緒に生活をしていた民家が
そっくりそのままどこからか移築されて再現されていましたが、
これも本当に人が住んでいたのに違いありません。

一般に漁民の暮らしは貧しく、このような家を建てられるのはごく少数でした。



土間部分は台所でもあったらしく、カマドがあります。
それにしても夏はともかく、昔の日本人は寒い家に住んでいたんだなと思います。
急いでいて写真を撮り損ねましたが、この周辺には漁民が冬に着た作業着、
目の詰まったいかにも重たそうな綿でつくった着物が展示されていました。



この地域で行われていた地引網漁法がジオラマです。
野比村(現在の野比)では「ウチマエ」といって、
大抵は親戚同士6〜7軒にひとつ地引網を持って操業していました。

三浦半島ではこのようにしてイワシ漁が行われていました。
見張りがイワシの群れを見つけると法螺貝を吹いて農作業をしている
ウチマエの仲間に知らせ、漁が始まったのです。



これ、なんだと思います?
木でつくった臼砲の模型なんですが、誰が作ったかというと浦賀奉行所の与力。
ただしこの与力がモデラーだったというわけではありません。

当時の横須賀の奉行所は海の最前線防御をになっていたので、同心や与力というのは
常に最新の情報を手に入れ、防衛について対策を練る過程で、
このような武器装備の模型を作る必要もあったのかと思われます。

いまいち模型の必要性というのも理由がわかりませんが。

この模型の不思議なところは、作られてから関東大震災、そして戦災があったのに
喪失することなく今日に形をとどめていることだそうです。



戦前の横須賀。久里浜海水浴場です。
横須賀は鉄道の敷設とともにいち早く近代化され、賑わった街でした。
繁華街も発達し、東京や横浜などの流行もいち早く入ってきました。
都市化が進む一方で、久里浜、、馬堀、大津、鴨居などでは都会から
海水浴に訪れる客でにぎわい、竹田宮別邸や団琢磨など財界人の別荘、あるいは
井上成美大将の別荘なども建てられました。(井上は晩年そこに住んだ)




「武功しるこ」「三笠最中」・・・。
やっぱり戦前らしいねえと感心してしまうのですが、よく考えたら今だって
自衛隊お菓子で「撃!せんべい」とかチョコチップクッキー 「来るなら来い!」
とか「オスプレイ せんべい」カステラ戦車饅頭「 ロックオン 10式戦車」
カステラ戦車まんじゅう「 弾 90TK」「ストロングパイ 火力」とか、
「ヒトマル戦車まんじゅう 10TK」、ロシアンルーレットクッキー「 状況開始!」
 栄養ドリンク 「元気バッチリII」  自衛隊限定 「弾 」ドロップス、
緑茶「整列休め」、戦車クッキー 「10TK 烈炎轟」とか、「 隊員さんのサブレ」とか、

・・・・あるよね。(呆)



横須賀には戦前「海洋少女団」というシースカウトがありました。
もちろん今も横須賀海洋少年団は存在するのですが、どうもこれらは
戦前の海洋少年団とは全く関係ない、という立場のようです。

中央のキャプションにはこう書かれています。

 少女ながらも夢といたづらな感傷とを払って、戦時下日本の現実を直視し、
海を知り海に挑まうと、横須賀信證女学校(現在の信証学苑)
海洋少女団の少女たちは毎週二回軍艦「春日」の甲板に氾濫して
鴎と競う海洋訓練をつゞけてゐます
 午前八時軍艦旗掲揚、綱領斉唱につゞいてただちにその日の訓練が開始されます

潮風もなんのその、炎天直下もなんのその、短艇漕法に分列行進に
また手旗信号に少女たちは海洋制覇の希望を大きく展げてゆきます
 砲塔の重みを載せて高くつけられた喫水線をさかひに海に浮んだ城の
巨大な胴体と、海を実践してはつらつと動く海国の少女たちの姿とは、
軍港横須賀の碧(みどり)の洋上に脈々と生きて力強く頼母しいかぎりでもありました


右ページ左下は、水兵さんから舫の結び方を教わっており、
その右側は手旗信号の訓練を受けている様子なのですが、水兵さん、
女学生を教えるこの仕事、かなり楽しかったのではないかって気がします。

海洋少女団は戦況の悪化に伴い、昭和20年の6月に解散となりました。
戦後の「海洋少年団」は、戦前のものとは無関係という立場のようですから、
このときに「海洋少年団」も消滅したということになります。

それからわずか1ヶ月後、軍艦「春日」は横須賀港の空襲で爆撃をうけ、
大破着底したまま終戦を迎え、11月になってから除籍処分になっています。



さて、というわけで終戦となりました。
横須賀には米海軍が進駐してきます。
かつての鎮守府には米海軍の司令官が居住することになります。



これは当時日本に進駐したアメリカ軍の工兵隊の記念アルバムの1ページ。
アメリカ工兵隊は自らを「SEABEES」(海の蜂)と誇りを込めて呼んでいましたが、
その「海の働き蜂」たちが初めて日本に上陸した瞬間です。
工兵隊らしく港でもないただの岩礁に上陸用の足場を自分で作っていますね。

これは昭和20年8月30日の写真です。



「30時間Kレーションだけで食いつなぎ、一睡もしなかった」

ということですが、別にこっちはそんなことお願いしてないのよ?

Kレーションとはこのようなしろもの です。
写真を見る限りどれもマッチ箱みたいで、主食はビスケット。

これは大食漢のアメリカ人には辛かったろうなあ・・。




軍港だった街は進駐軍がきて姿を変えていきました。
これは市の振興協議会が発行した「あの施設は今」シリーズのようですが、
これでざっと見ると

海軍防備隊→市立長井中学校(中右)
     →東京電力久里浜発電所(上)
     →日魯漁業(株)久里浜支所(中段左)

海軍工廠造機部→東京芝浦電気横須賀工場(下段中二枚)

となったようです。



この地図は、かつて陸海軍が使用していた土地が、
現在どのように使われているかを色分けしたものです。
まず緑は「公共施設」となった部分。
保護区域だったり、公園になっている国や自治体の所有地です。
それによると猿島も公共地となっていますね。

赤が民間の産業施設になった部分。
左上の赤の多い部分はかつて追浜飛行場のあったところで、
現在はほとんどが日産の所有地となっているようです。

そして紫の部分が防衛省、つまり自衛隊の所有地となっている部分。
黄色の米海軍使用地にくらべて、肝心の横須賀港に紫がほとんどないというね・・。

紫部分の多いところは防衛大学校、武山駐屯地など。
公共の部分には横須賀刑務所や久里浜少年院になったところもあります。

防衛省の技本、艦艇装備研究所って、少年院のとなりなんですね・・・。
     


汐入にあった海軍の下士官集会場などは、進駐軍が来てから「EMクラブ」となり、
なんと平成2年までその名前で使われていたのだそうです。

映画館やゲームルームを備えた社交・娯楽設備で、多くのアメリカ人や日本人が集まり、
催し物も多彩に行われました。
ここまで「日本人立ち入り禁止」にならなくてよかったです。

昭和20年代に行われたバレエにオペラ、コンサート、映画鑑賞会のパンフレット各種。 




アメリカの民間人が横須賀市内で開いていたお店
「ピーターの店」のメニュー。

「今日のオススメ」のなかに「あげたカエルの足」があります。
「legs」なので両足ってことですかね。
カエルの足「だけ」って、どんなでかいカエルだよ。

・・・あ、もしかして「足がたくさん」?それもなんか嫌だな。

ちなみにお値段は400円。
デザート付きのコースが1000円の時代なので、結構なお値段です。 


 

こちらは市内の洋食レストランのメニュー。
ビーフステーキが400円なので、カエルの足がいかに高いかわかる(笑)

チキンライス、ハヤシライス、カレーライス、オムライスが皆150円。
「ハムライス」ってあるけどこれなんだろう。

デザートはありませんが(デザートメニューは別っていう感じの店じゃないし)
「センベイ=Wafer」が100円です。
アメリカ人対象らしく英語が中心のメニューですが、センベイは
今アメリカでは「rice cracker」で通用しております。

「Mochi」「Sake」「Sushi」「Nappa」「Edamame」「Fuji apple」

みんな日本語でそのまま通じるようになるとは、
さすがにこのころの日本人には想像できなかったのではないでしょうか。



続く。
 

リチャード・バード少将と「ハイジャンプ作戦」

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空母「ホーネット」博物館にあった「フィリピン・シー」コーナーに
展示してあった「BABYSAN」というカートゥーンについて調べたら
それに一項を費やしてしまい、またしても今回、「フィリピン・シー」を
描こうとして、「フィリピン・シー」が参加した「ハイジャンプ作戦」
の司令官リチャード・バード少将のドレスジャケット姿を見つけてしまったので、
すべての予定を変更してバード少将の少佐時代の絵を描いてしまいました。
右上の星二つは、最終的にリア・アドミラルであったことを表します。

Richard Byrdで画像検索すると、エスキモーのようなフードを被った
バード少将の写真が出てくるかと思います。


バードが少佐の時に指揮した「ハイジャンプ作戦」とは、終戦後、
海軍によって行われた南極探検作戦です。
なぜ海軍がこんなことをしたのか、もしかしたら日本との戦争が終わって、
することがなく、次なる敵のソ連が台頭してくるまで「自分探し」でもしていたのか、
と穿ったことをつい考えてしまうのですが、それはともかく、
この作戦、調べれば調べるほど結構大変なものだったことがわかりました。 

アムンゼンと南極到達を争ったスコットがイギリス海軍中尉であり、
我が日本の白瀬矗が陸軍輜重中尉だったように、極地探検には多くの
陸海軍人が名前を残しており、だからこそこの頃アメリカ海軍は、
このような作戦を行うことにしたのでしょうか。

しかも、このときのアメリカ海軍は、不確かな情報ながら
とんでもないことをやらかしていたという噂さえありましたよ。



wiki的にいうと、ハイジャンプ作戦は、アメリカ海軍が1946年から
1年にわたって行った南極観測「作戦」でした。
目的は、

恒久基地建設の調査

合衆国のプレゼンスの提示

寒冷地における人員・機材の動作状況の確認・技術研究

ということになっています。
参加艦艇は13隻の艦船と多数の航空機。
バード少佐は、このうち空母「フィリピン・シー」に座乗して
その全体指揮を執りました。
「フィリピン・シー」は単艦行動を行い、航空機輸送が任務です。

ここで(本来本題の)「フィリピン・シー」について少し。



空母「ホーネット」の「フィリピン・シー」コーナーにあった巨大な模型。


 
ふざけたセイラーもいますが、これはご愛嬌。
ってかアス比が全く違うっつの。



94飛行隊(戦闘機)は、ヴォートF4U-4コルセアの部隊で、1952年まで
「フィリピン・シー」の艦載戦闘部隊でしたが、
この後戦闘機を「パンサー」に変えられています。

しかしこの白い軍服を着ていると皆男前に見えるねえ。

ところでこの写真を見て気付くのは、アメリカ海軍の「正しい椅子の座り方」
というのは自衛隊とは全く違うということです。
皆一様に脚を足首でクロスし、手は揃えて膝の真ん中(というか股間?)
に、左手を上にして置く。

偶然でなければ、これは米海軍で公式に決まっているポーズらしいのです。

海上自衛隊は(陸空もね)脚は少し開いて爪先は真っ直ぐ前方に向け、
両手は拳にして各々の膝の上に軽く乗せるというのが正しい姿勢です。
(今まで観察してきたところによると)
日本人的にはこの写真のような座り方ってなんだかお行儀悪く見えますね。



機体の穴からこんにちは。



とふざけられるような事故ならいいんですが、こりゃやばい。
その「パンサー」、F9Fで、派手にネットを突き破った事故例。
スペックでは劣っていたこのパンサーを、腕利きのパイロットが
MiGを撃墜するくらい使いこなしていたというのはたいへんご立派ですが、
やはり着艦にはこのようなことも多々あったようです。

アメリカ海軍は、空母の離着艦で今日のように事故がなくなるまで、
それこそ数知れない犠牲の上にその技術を積み重ねてきました。

今日の事故率になるまで、米軍はそれこそ40年以上を費やし、
文字通り搭乗員の亡骸を超えてここまでやってきたわけです。
そのことひとつ取っても、昨日今日そういうことをやりだしたばかりの中国海軍には
これだけの技術の昇華の前には後塵を拝すどころか後ろ姿を見ることもできまい、
先日ある元海幕長がおっしゃっていましたが、まったくもってその通りだと思います。

この写真の状況は、ネットを越してしまっているので、
アレスティングワイヤーが利かない状態のままネットを張るも失敗したようです。
パイロットが無傷だったのはなによりです。


 
フライトデッキの一部が、製造板と一緒に飾ってありました。

さて、「ハイジャンプ作戦」の話に戻りましょう。

この作戦に際し、アメリカ海軍は東海岸(ノーフォーク)と
西海岸 (サンディエゴ)から、別々に部隊が出動しています。
南極における調査箇所も、それぞれ西南と東南、というように別を担当しました。
それだけでなく、「中央隊」というのまであって、また別の箇所を調査しています。

このうち、事故による殉職者を出したのは東部グループでした。

作戦中、USS「パイン・アイランド」から海上に降ろされたPBM飛行艇は、
航空写真を撮るために飛び立ちましたが、そのうちクルー8名を乗せた
「ジョージ・ワン」が雪上にクラッシュしてしまいます。

「ジョージ・ツー」が捜索に向かったとき、「ジョージ・ワン」の翼には、

「LOPEZ HENDERSIN WILLIAMS DEAD」

と三人のクルーがすでに死亡していることを知らせるメッセージがペイントされていました。
そのうち二人は墜落によって死亡したのではなく、凍死だったそうです。


このような殉職者を出したこの作戦でしたが、全体としては多数の航空機投入による
航空写真を一挙に撮ることによって、成功を見たとされています。

このときのバードが出した提言というのは、

「米国が南極からの敵対国の侵入の可能性に対する保護の措置をとるべきである。
現実として、次の戦争の場合には、南極や北極経由で攻撃される可能性がある。」

というものでした。
このミッションにおける観察と発見の最も重要な結果は、極地が、
米国の安全保障における潜在的な効果を持っているということです。

世界は驚異的なスピードで縮小しており、その距離によって
海洋、および両極は安全性を保証されていた時代は終わった、
という海軍軍人としての彼の警告だったのでしょうか。



バード少将は、海軍軍人でしたが、実際探検家としての活動の方が有名でした。

兵学校を出てから艦隊勤務をしていたバードは、第1次世界大戦までに
飛行機の操縦資格を取り、それだけでなく、ナビゲートシステムを
発明して、のち極地探検にそれを生かしています。

1926年には、北極上空をフォッカーで飛行するという試みにより
名誉勲章を得るとともに、国民的英雄にもなっています。
わたしが描いたのは、おそらくこのころのバード少佐でしょう。

このようにスマートでハンサムなネイビーパイロットが、前人未到の
冒険飛行を成功させたのですから、さぞかし国民は熱狂したと思われます。

もっとも、このときバードは北極点に到達していなかった(したと思ったが間違い)
という噂はその直後からあったようです。
同乗した飛行士が、この冒険からわずか数カ月後「実は北極点には達していない」
と告白し、後日それを翻すなど、その真実は闇に包まれたまま論争だけが残っています。

1927年、大西洋横断飛行に二回目の支援を行った後、彼は最初の南極探検を行います。
「ハイジャンプ作戦」のときが彼にとって最初の南極ではなかったってことですね。
このときと7年後の1934年には、彼は5ヶ月を南極でたった一人、越冬しています。
先ほどの「アローン」という自叙伝は、このときのことを回顧したものです。

このとき、バードは狭いところでストーブに当たり続けたため、
一酸化中毒を起こして混迷状態に陥るという事故に遭っています。

彼の無線の異常さに異変を察知したベースキャンプの隊員たちが、
心配してアドバンスキャンプに飛行機で迎えに行くという騒ぎになりました。
その救助隊の出動も第一次は失敗して、第二次救助隊がたどり着いたとき、
そこにはぐったりとしたバード少将が倒れていたということです。




ちなみにバードは史上最年少の41歳で少将となっています。

第二次世界大戦中はヨーロッパ戦線に赴いていたそうですが、
どういうわけか1945年9月2日の降伏調印のときは東京にいて、
ミズーリ艦上で行われた降伏調印式に立ち会ったりしています。


そして、もうひとつ不思議なことがあります。

「ハイジャンプ作戦」の10年後、すなわち、1955年に海軍は「ディープフリーズ作戦」
という南極観測隊を送り、その隊長にアメリカ海軍はバード少将を指名しているのです。

しかし、よく考えていただきたいのですが、これって少将の亡くなる直前ですよね。

いくらエキスパートでも、67歳の老人を南極探検の隊長にするか?

というのがまずわたしの疑問。
なぜこの作戦の隊長がバード少将でないといけなかったのでしょうか。
このときバードは1週間だけ南極で過ごすというミッションをこなしたそうですが、
そんな短期間の「作戦」でアメリカ海軍はいったい何をしようとしたのか?

ちなみに「ディープフリーズ作戦」の1年後、バード少将は亡くなりました。
南極に行かなければもう少し長生きできたのでは、とおもうのはわたしだけ?



さてさらに、ここで皆さんには眉に唾をつけて読んでいただきたいことがあります。

「南極上空を飛行中に、原野や森林・河川が見られる地域に
マンモスのような動物が歩いているのをバード少将は目撃した」

さらには

「バード少将は作戦終了後海軍病院に入れられ、目撃した事実を
一切口外しない事を軍から誓約させられ、真実を一切語らずに没した」

などという、それなんてムー?
みたいな噂まで「ハイジャンプ作戦」にはまつわっているのです。
(それがもっともらしく書いてあるサイトは、ハイジャンプ作戦を
”北極点に行った”などと言っている時点でもう信憑性アウトだと思いますが)


そこであらためて、なんでこの時期アメリカは
南極に行かなければならなかったのか、という疑問がわいてきます。

米海軍は1958年頃(バード少将の死んだ年)、南極点に向けて
弾頭装備のICBMを海軍艦船から撃った、という噂もあり、南極探検は
実はこれをするための調査だった(だから1週間ですんだ)のでは、とか、
終戦直後に南極を偵察したのは、ナチスの秘密基地があるという情報もあり、
そのために、送り込むのが軍隊でなければならなかったともいわれています。

 いずれにしてもその理由は現在も明らかになっていませんし、表向きには
「ハイジャンプ作戦」は観測と対ソに備えた訓練ということになっています。




亡くなったとき、彼は多分自分でも覚えていないくらいの叙勲をされており、
メダルにその肖像が描かれる米海軍の4提督(サンプソン、デューイ、パーシング)
の一人であり、海軍軍人として彼に与えられた栄誉はそれは輝かしいものでした。

それにしては「アドミラル」なのにどうして死ぬまで少将だったのか、
史上最年少の41歳で少将になってから、なぜ一度も進級することがなかったのか、
死んでも階級がそれ以上上がらなかったのはなぜか。

これも不思議といえば不思議です。
(サンプソンも少将なのでは海軍的にはそういうこともあるのかもしれませんが) 


もしかしたらですが、この男前の少将が、「アメリカの闇」を
南極点の上に見てしまったという噂に関係しているのでしょうか。





 

第1ドライドックのバルブ〜横須賀歴史ウォーク

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ここ横須賀人文・自然博物館には、明治時代、製鉄所やドックが出来上がり、
まだ「お雇い外国人」であったヴェルニーや医官のサバチエが滞在していた頃の
横須賀がジオラマ模型になって展示されていました。

説明はわたしがあとから付け加えたものです。

これ、横須賀に詳しい人が見たら「ああ、あそこ!」とわかりますね。
第一号ドックとその隣のドックは今もそのままあるので、
それを起点に考えていただければよくわかるかと思います。



さらに大きな地図で見ていただくと、ヴェルニー公園が画面手前、
海軍機関学校のあったのは今ショッパーズプラザとなっているところですね。
冒頭画像では「兵学校」と現地の説明にあった通りタイプしましたが、
これは海軍機関学校のことで、1893年から震災で倒壊するまでここにありました。
 
ヴェルニーと医官であり植物学者でもあったサバチエの官舎は、
現在の米軍基地内、だいたいCPOクラブのあたりではないでしょうか。

冒頭画像で「大畑町」とあるあたりには、現在
海軍カレーの「ウッドアイランド」があります。

 

こちらはフランス海軍が1873年に独自に測量して製作した地図。
当時の横須賀の地形と造船所の配置が細かく記されています。
原図はフランス防衛資料館にあり、全く同じ地図を
フランスのヴェルニーの子孫が持っているのだそうです。 



横須賀軍港の絵図とその向こうは完成したドライドックですね。



開国前の横須賀。



こちらは1889年(明治22)に日本で作られた横須賀地図。
建物の素材によって地図が色分けされているというもので、
赤で描かれた部分は「煉瓦造りの建物」。
ひとところに集中しており、その部分にドックがあるのがわかります。
全般的に黄色い部分が多いですが、これは木造家屋です。

横須賀製鉄所は、まずここに「船台」を作ることから事業が始まりました。
ドライドックが完成してから、横須賀製鉄所が成した役割は

●船の修理と造船・・・「清輝」建造、外国船の修理

●西洋式灯台の建造

●技術研究と教育・・・造船所内に技術養成校黌舎(こうしゃ)があった

●工業機械や部品の製造・・・富岡製糸場、生野鉱山などで使われた

ちなみに、横須賀製鉄所で最初に進水式を行った船は「横須賀丸」で、
この写真もヴェルニーは所蔵していたようです。



海軍省の辞令、と説明にありますが、辞令というよりは
「よく仕事したので特別手当をあげます」
という感謝状のような気がするのですが・・・。

海軍と皇居造営のどちらもの関わった人物に出されたものです。

明治政府の一大事業の一つに皇居造営がありました。
煉瓦造りの宮廷や赤坂離宮を含む工事です。

横須賀製鉄と横須賀海軍の出身者はここでも大変優遇され
指導的な立場で関わりました。

「金25円下賜」とあるのは関わったのが皇居だからでしょう。



左、ご存知フランソワ・レオンス・ヴェルニー。
横須賀製鉄とドックの建造事業で「首長」であったヴェルニーに対し、
右側の人物は「副首長」で、ジュール・ティボディエ。
ティボディエはのちにヴェルニーの妹と結婚して義理の弟になりました。



技術学校黌舎(こうしゃ)の卒業生。
黌舎(こうしゃ)は、ヴェルニーら技術者をフランスから招聘したため
すべての教育がフランス語で行われ、大変レベルが高かったということです。

この写真の左側、川島忠之助は、のちにジュール・ベルヌの

「八十日間世界一周」

を翻訳して出版したことで有名になりました。
気のせいか立ち居振る舞いや洋服の着こなしもフランス風です。




横須賀製鉄所第1号ドライドック設計図。
100分の一図で、「船渠図」となっています。



第1号ドライドックの揚水ポンプ室設計図。
サインされているのは

「L.Neut et Dumont 」

で、「1869年6月20日 パリにて」という字も見えます。
フランスの会社がポンプ設備を納入したということなんですね。

 

こちらはドライドックのバルブ設計図。

「水防戸之図」「水防戸枠之図」

などという文字が読めます。 



そのバルブの現物がここに残されていました。
このバルブ、いつまで使われていたと思われますか?

なんと2011年、このブログが始まった次の年ですよ。関係ないけど。
1871年から2011年まで、なんと140年のあいだ、ドックで現役だったのです。
ドライドックの仕組みというのが実にシンプルで、完成されていたため、
当時のバルブが問題なく使えていたということなんだろうと思いますが、
それにしても堅牢に作られていたのだなあと感心するばかりです。



こちら説明の写真を撮るのを忘れてなんだかわからないのですが、
(何しろ時間がなかったので)内部が煤けているようにみえますし、
土中に埋まっていたものかもしれません。(適当)





海軍省の設置した標柱。
「横須賀軍港界域標」「明治三十三年二月十三日」とあります。
この標柱は、現存する最も古い「鉄筋コンクリート造りの構造物」です。

最も古い鉄筋コンクリート建造の建物は佐世保の
佐世保鎮守府ポンプ場だったのですが、失われました。
現在の最古級は横須賀の走水にある水道施設だそうです。



観音崎灯台に使われていた「横須賀製銕所」の赤レンガ。



赤レンガを作るための「型」。
この規格はヴェルニーがフランスから伝達したサイズによるものです。
樫の木でできており、これはレプリカです。



煉瓦積みの方法を図解で示した書物。
「フランス積み」の手法が海軍兵学校にも使われたのは、
横須賀がこういった技術の最初の輸入先だったからであろうと思われます。



 「ヨコスカ製銕所」と刻印があります。

「銕」というのは「くろがね」と打つと出てきますが、
「てつ」とも読みます。
つまり「せいてつしょ」ですね。 

横須賀軍港建造にまつわる資料がここほど充実しているところもありますまい。
もし興味を持たれたら、ぜひ一度足を向けてみてはいかがでしょうか。



 

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