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「マイバケットリスト・ニンテンドー」京都・旅淡シリーズ

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さて、わたしたちが京都駅から乗ったタクシーの運転手さんは、
町屋を改装したお宿のオーナーに道を聞きながら走っていたのですが、
小路に入ったとき、

「今任天堂の横きてるんやけど。え?どんつき(突き当たり)の右?」

と言ったのをわたしは耳にしました。
どんつき・・・京都やねえ・・・え?任天堂・・・・?
今や世界に有名な日本の企業のひとつ、おそらく子供から大人まで 
その名を知っている人間の数で言えばトップではないかと思われる
「ニンテンドー」がここに?

前に京都に来た時、南区の本社を息子が発見したのですが、
ここにも何かあるのかな、と思って降りてから確かめると、



あったよ任天堂旧社屋が。


旅館の真向かいには、なにやらレトロなレンガ造りのビルが。
任天堂は、1889年、ここで花札の製造業を興しました。
1947年に創業者の息子が「任天堂骨牌株式会社」という会社にしたというので、
おそらくですがそのときに建てられたのではないでしょうか。



誰に見せるつもりなのか全くわからないところに「任天堂」の立派な看板が。

「ニンテンドーって変な名前」

とアメリカ人の子供などは思ったりするそうですが、この名前、
当社が花札製造業であったため、創業者の息子、山内溥氏が

「運を天に任せる」

という意味のこの名前を考案したのだそうです。
創業時は個人営業だったため会社名などはありませんでした。

しかし、現在の社業もまた、「運を天に任せる」という意味では同じ側面を持つ
ゲームを扱っているんですよね。



創業者が山内氏ということで「山内任天堂」。
この社名に変える前には「丸福」だったので、そのときの
トレードマークである丸に「福」はそのまま残しています。

一番下には「京都正面大橋西」とありますが、その「正面橋」とは
ここに来るときにタクシーが入っていった、鴨川にかかる橋のことです。
正面橋の道沿いに、「任天堂」旧本社の入り口があります。

 

ところで少し不思議なのですが、そのまま任天堂前を通り過ぎると、
あの「高瀬川」が流れています。
そこに架かっているこの橋の名前もどうやら「志よめんはし」、
つまり「正面橋」のようなのです。 

この「正面」というのは、地図で見ると「お東さん」、東本願寺の正面から
東山の方向にまっすぐ伸びているのが「正面通り」なので、
どちらの橋も「正面橋」ってことになっているみたいです。
「鴨川の正面橋」「高瀬川の正面橋」で区別するんでしょうか。


ちなみにこの正面通り、間にお寺やなんや障害物があって途切れ途切れですが、
とりあえずその延長にある道はすべてそう呼ぶようです。 




今では任天堂は「ニンテンドー・オブ・アメリカ」があるくらいですが、
当時も輸出を行っていたようです。



トレードマークの「丸福」が窓の外ワクにあしらってあります。
どこをどう見ても錆びた形跡がないのですが、よっぽど長年手入れしてきたのでしょう。
この社屋、驚くことについ最近、といっても16年前ですが、
2000年まで使い続けていたようなのです。
こう見えて中は結構改装が行き届いて近代的だったのかもしれません。



チェックイン後、わたしたちは自転車でその辺を探索することにしました。
ところが、二台ある自転車のうち一台のサドルが高すぎて
(おそらく前の宿泊者の身長は190センチ以上あったと思われる)
調節する道具も見つからなかったため、息子が乗ってわたしは歩きました。

息子は、撮った写真をすぐさまインスタグラムにアップしています。



わたしたちが写真を撮っていると、欧米系の白人男性が一人でやってきて、
やはり熱心に写真を撮っています。
ガイドブックにおそらく「ニンテンドー発祥の地」として載っているのでしょう。



任天堂前から歩き出すと、すぐにわたしが目の色を変える博物館がありました。

「眼科・外科医療器具歴史博物館」

ただし、見学は前もってメールで・・・ってこんなの知らんかったし。



実際に奥沢眼科というのがあった場所みたいですね。
なおさら見てみたいじゃないかー。



そこからすぐ、高瀬川にぶつかります。
ここを上流に向かって川沿いに歩くことにしました。



息子の国語の教科書に載っていたので「高瀬舟」を読んだばかりです。
高瀬舟に乗せた罪人を護送する役目の役人と、弟を殺して
なおかつ晴れ晴れとした顔をしている不思議な罪人との舟の上での会話。

医師である森鴎外が安楽死を扱ったこの短編は、安楽死の是非を
問うというより、むしろ作者の肯定をより表しているように思われました。

そして改めて読むと、特に高瀬舟が川を下っていく情景描写の精緻さに魅かれます。

其日は暮方から風が歇やんで、空一面を蔽つた薄い雲が、
月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、
川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。
下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、
只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。(高瀬舟)

この日は奇しくもこの情景に描かれたような、初夏を思わせる一日でした。



京都の街はほとんど角ごとにお地蔵さんがあります。
昔のままの姿のこともありますが、このようにケースで囲われたものも。



早速廃墟マニアの血が騒ぐ物件ハケーン。
廃墟なのに住人の使っていた簾やカーテンがそのままあるのがたまらんわー。

こういうところが買い上げられて町屋旅館になるんでしょうね。



高瀬川にはあちこちに人が往来するための橋が渡されています。
大きな橋のところまで歩けばすむことなのに、京都人は案外いらちです。



なんと、このお風呂屋さん現役です。
自転車が止まっていますが、京都は学生の街でもあるので、未だに
お風呂のない下宿暮らしをする学生もたくさんいるのです。
夜になったら提灯は灯るのでしょうか。




高瀬川って、人工の川だったってご存知ですか?
江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、
京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削されたのです。
大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられました。

ここは昔「船回し場」だったところで、昔はもっと広かったそうです。
なんか逆みたいですが、ここを通行する舟が「高瀬舟」だったことから、
川の名前が後から「高瀬川」になりました。



任天堂本社と同じ時代の雰囲気を持つ当時はモダンだった長屋。
今は廃屋となっているようなので、おそらくこの共産党のポスターは
誰にも許可を取らずに勝手に貼っているんじゃないでしょうか。

各地で前回の選挙の時に起こった開票の不正や沖縄の米軍基地の前で
犯罪行為を繰り返すこの手の人たちですが、
憲法を守れと人にいう前に、まず法律を守れとわたしはいいたい。



それはともかく、その建物の反対側がこれ。
うーん、このシュールな玄関の形状、いいねいいねー。
どっちからでも外に出られて便利かもしれない。
あるいは中は2軒に分かれていたりとか?



そしてこの角に置かれた車避けの石はさらにシュール。
京芸の学生でも住んでいたのかな?



源融(みなもとのとおる)という人ご存知ですか。
わたしも知らなかったのですが、どうも光源氏のモデルだったらしいです。
ということはきっと男前だったってことなんでしょうね。

その男前がここに「六条河原院」というのを建てて住んでいたそうです。
なんでも夕顔と一夜を過ごしたというのがこの「河原イン」じゃなくて
「河原院」であった、という設定なんだとか。

源氏オタクなら聖地巡礼で訪れるべき場所でしょう。(適当)



鴨川沿いにひっそりと残る地蔵跡。
祀られている様子はないですが、取り壊されもしないでここにあります。



五条の橋を「牛若丸と弁慶の像」を見ながら渡り、
鴨川沿いに南に下ることにしました。


ところで、息子がインスタグラムに任天堂の写真をあげた途端に、
こんなリプライが来ていたそうです。

「マイ・バケットリスト!」

バケットリスト、すなわち一生のうち一度は行ってみたい場所です。
なぜ「死ぬまでにやりたいことのリスト」が「バケツリスト」かというと、
首を吊るときに立っているバケツを蹴るから、らしいですね。

それはともかく、世界的にはここを「聖地」としてバケットリストに入れる
熱心な信者さえいる任天堂も、京都人にかかると

「へえ、そいうたらそんな会社もありましたかなあ」

という感じで冷ややかにみられているのだそうです。
理由、お分かりですか?

それは任天堂が任侠が仕切っていた賭場の花札を作っていたということにあります。
そないな「下賎なもん」で身を起こした素性の悪い会社、いくら有名になったかて
京都の会社の代表やゆうてもろたら困ります、というところかもしれません。

ちなみに京都人的に「京都企業」として最も誇るべきはというと、
それはあの「島津製作所」なのだそうです。
創立は1875年、決して京都基準では「由緒正しい」というわけではありませんが、
日露戦争の三六無線の電池に多大な貢献をしたり、昨今では従業員から
ノーベル賞を出すなど、(田中耕一氏)超有名優良企業であり続けており、
なにより創業者が京都出身でありながら大名家の薩摩島津の名と家紋を拝領した、
というあたりが、権威主義の京都人を喜ばせるのかもしれません。




舞妓さんの花簪〜京都・旅淡シリーズ

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京都にはなんども来ていますが、高瀬川沿いに歩いてみたのは初めてです。




「サクラの仲間」・・・・・・

ソメイヨシノでないことはわかった。しかしあとはわからない。
というわけで「サクラの仲間」。
別にこれならわざわざ札をつけることもないと思うがどうか。




「サクラの仲間」が満開です。



河原にいきなりあった「友愛」の石碑。
民主党と鳩山のせいで、胡散臭さしか感じねー。(笑)



さきほどの「サクラの仲間」とはまた違う「サクラの仲間」。
(もう、すべての種類を『サクラの仲間』で乗り切る気満々)



元和キリシタン殉教の地、と書かれています。
日本のキリシタン弾圧事件として大きなものは三つあり、「元和キリシタン」事件は
幼い子供を交えた50名が火あぶりにされるという大規模なものでした。



江戸幕府のキリシタン弾圧は慶長17(1612)年に始まりました。
翌年には京都にも波及し、二回目の弾圧は元和年間に激しくなりました。
「元和キリシタン」の名前の由来です。

豊臣秀忠はキリシタン投獄者に対し老若男女の区別なく火あぶりの刑を命じ、
元和9年(1623年)10月31日、52人が大八車に積み込まれてここに運ばれ、
この写真の正面橋から下流を望む河原で一人残らず処刑されたといわれています。

元和キリシタンの殉教:橋本ジョアン、テクラとその子供たち




少しその辺を一周しただけでこんな歴史の痕跡が残っているなんて、
さすがは京都としか言いようがありません。
宣伝のつもりなのか放置してあるのか、正面橋のたもとにはお寺の鐘が・・。



カメラを持って写真を撮って歩いている人もたくさんいました。
ところで橋の向こうにあるいかにもな建物はなんでしょうか。



なんでもインターネットで調べられる便利な世の中になりました。
「本家 三友」とありますが、ここ、京都に残るお茶屋さんで、
いまだに営業を行っているそうです。

お茶屋、というのは芸妓を呼んで客に飲食させる店という定義があります。
料亭との違いは、料理をそこで作るか、仕出しを呼ぶか。
芸妓さんは料亭でも呼べますが、いったんお茶屋を通すことになっており、
花代(芸妓と遊んだお料金)は後日お茶屋に支払うことになっています。

よく言われるのは京都のお茶屋は一見さんお断り。
だから、いくら中国人観光客が所望しても、一般的にはお茶屋で芸妓は不可能です。

ただし、昨今では京都のお茶屋業界も貧すればなんとやらなのか、
外国人向けのお茶屋遊びという企画もあるそうです。
もちろん、中国人の中でもかなりのリッチな人や政府関係者むけだそうですが。

チャン・ツィイーが芸者の役をした「サユリ」という映画がありましたね。
あれを見て、芸者=娼婦だと勘違いした中国人が、このお茶屋遊びで
芸者さんに触ったり着物を脱がせようとするなど信じられない狼藉を働き、
顰蹙を買っているのに締め出すこともままならない、という構図もあるとか。

「粋」などという言葉はおそらく霊的に生まれ変わっても理解できない
文化の人々、ただでさえ、舞妓さんや芸妓さんを呼びとめたり触ったり、
写真を強制して眉を顰められているわけですが、これが超金持ちとなると、
金を出しているのだから何をしてもいい、とさらにやりたい放題に・・。

比叡山より高い京都人の誇りはどこに行った。


ついでですが、銀座の超有名なビルの関係者からTOが直接聞いたところによると、
彼らは階段で腰をかけてものを食う、トイレでは紙を流さずその辺に捨てる、
(掃除の人が日々泣いているそうです)ところ構わずトランクを広げて荷物の整理を始める。

なにより肝心の日本人の顧客がそれを嫌がって来なくなるのが打撃だそうです。



銀座も京都の花柳界も、日本人の中では「敷居の高い場所」であり続けてきたし、
またわたしなど日本のどこかにそういうところがあってもいいと思っていたわけですが、
昨今の遠慮を知らない中国人観光客によって、それらはただの「観光地」へと価値を下げてしまい、
そういう場所を必要とするような層が逃げ出してしまうという現象を生んでいます。

某老舗デパートに来るクレームにも、

「そんなに中国人客が大事なら専用のデパートに鞍替えなさってはいかがか」

というものがあると聞きました。



さて、鴨川沿いの道を歩くことにした、というところからもう一度。



京都の青春。
デートの最中、河原に座って語っていたところ、女の子がいきなり靴を脱ぎ
水に入って行ってしまい、男が慌てる。

「裸足で水に入ったりして危ないでー!」
「うふふ、気持ちいいからトモくんも入り」
「えー、俺ええわ」
「あかんたれやなー」

京都で学生生活をしたものなら誰でも一度は経験・・・しねーよ!



謎の物体。灯篭の土台かなんかでしょうか。



河原の高さにも歩道が整備されているので、ゆっくり散策したい人は
降りて川面を見ながら歩きます。



これも「サクラの仲間」なのですが、
まるで幼稚園でつくるティッシュのお花みたいです。
桜というよりシャクナゲのような咲きっぷりですね。



光源氏のモデルだとかの「源融」さんの在所にあった榎。
苔むした様子を見てもかなりの樹齢だと思われます。 



かなりの樹齢といえばこれも。
京都市博物館の敷地に立っているらしい、この傘型の木は何?
あまりに立派で大きいので目を引きました。



晩御飯を食べるためにハイアット(旧都ホテル)まで歩きました。
おなじみの京都市バス。
全く変わっていないようで時代の流れによって少しずつ変化しています。
最新のタイプはハイブリッド式ですが、時々企画として古いタイプを走らせる、
ということもやっており、そうなるとどこで知るのか「撮りバス」が
どこからともなく現れて、血相変えてバスを追いかけるのだそうです。

なんの世界にも「撮り」っているのねー。



今夜の夕飯はハイアットの和食にしました。



いわゆる懐石風の和食を息子が嫌うので(まあ気持ちはわかる)、
単品で注文できるということを前もって確かめてから来ました。

この鴨のローストはおいしかったです。



鍋焼きうどんを頼んだら、てんぷらと冷凍でないエビが入っていました。



寿司も単品で頼めたため、これに少し付け足して大満足。
それはいいのですが、デザートのフルーツ・・・・。

わたしたちがなんでも三人でシェアしていたためか、
イチゴが6つに切れていたのには驚きました。



石庭をイメージした粉砂糖の上に乗ったブッセ。
これは正直イマイチでした。ふわふわしていてフォークで切れないし。



わたしたちが美味しいご飯に舌鼓を打っていると、
いきなり横に舞妓はんが降臨!
なんと京都のホテル、ディナーを取っている客に「舞妓サービス」を行うのです。
どこぞのお茶屋さんに頼んで毎晩呼んでるんでしょうか。

これは中国人でなくても(笑)嬉しいサービス。
早速お断りして写真を撮らせていただきました。

とりたてて会話はしませんでしたが、
聞いたら色々とインタビューさせてもらえたんでしょうか。

舞妓さんの実態には当方全く詳しくないのですが、彼女はまだ修行中の
いわゆる「半玉さん」ではないかと思われました。
かんざしに「ぶら」と言われる文字通りブラブラがついていて、
これはまだなって1年未満の舞妓さんを表しているということだからです。


彼女のかんざしには桜の花があしらわれていますね。
舞妓が付ける花簪の意匠は月ごとに決まっており、四季の移り変わりを表現し、
その舞妓の芸歴・趣味を反映させるものなのだそうです。



他のテーブルで写真を撮られている舞妓さんの後ろ姿を見ると、
だらりの帯が比較的短いのもそう思った理由のひとつ。

彼女と一緒にお店の人にシャッターを押してもらって写真に収まる客もいました。



さて、明けて翌日。

前日はつい鴨川に靴を脱いで入ってしまっても仕方ないというくらい
気温が高く、まるで初夏のようでしたが、
夜、寝ながらすごい雨音がしているなあと思ったら、朝も降り続いていました。

雨の合間に、任天堂の屋根にはこの辺にたくさんいるらしいカラスが集まって羽繕いしています。



8時に朝ごはんを運んでもらうように注文しておいたら、
若い男性が雨の中これだけのものを持ってバイクでやってきて
ちゃんとセッティングして行ってくれました。
煮豆や御新香、ぬたなどいかにも京都の朝ごはんという感じ。

焼き魚やましてや納豆などというものは決して付いてきません(笑)
(関西人、特に京都人って納豆が嫌いな人が多いのです)
味噌汁のかわりにポットに入れられた薄いだし汁を、お椀に注いでいただきます。
わたしは関西で育って京都の薄味には馴染みがありますが、
知り合いの東北人など、京都出身の奥さんの実家に行くと
何を食べても「味がない」と感じるのだそうです。


これらは料亭の仕出しなので、宿泊費は結構なお値段になってしまいましたが、
昨今、京都のホテル代は高騰しているので、三人で泊まったと考えると
町屋の宿泊は決して高すぎるというわけではありません。
朝食を外に食べに行くつもりなら、ホテルよりも安いくらいです。



メッセージを書くノートをパラパラと見てみると、中国語のメッセージもありましたが、
ほとんどが台湾からの観光客でした。

というわけで初めて経験した京都町屋の宿泊、皆様にも熱烈お勧めします。


京都 町屋の宿

花籠京都

 

極東国際軍事裁判の址と「山河燃ゆ」~防衛省見学

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タイトルはここ市谷法廷で行われた

極東国際軍事裁判、通称東京裁判の様子。

先日市谷でこの法廷跡を見学した時に、同じ位置から撮った写真と並べてみました。
大きな違いは天井に埋め込まれている従来の照明以外に、
吊り下げ式の灯りが裁判のために(裁判長の意向だったらしい)つけられていることです。

ご覧のように、右側に裁判団の席、左が被告席。
二階バルコニーには傍聴人(おもに被告家族)が座り、
そのバルコニーの下が報道陣の席です。
報道陣席は右側が海外プレス、左側が日本人報道記者と分けられていました。



この玉座は当然のことながら、ここが士官学校であった時代には
天皇陛下および皇族方のご臨席を賜るときに使用されました。

この部分に貼られている壁布は、当時のもので手織りです。



菊の御紋が入り、さらに意匠は菊(と藤?)の精緻な刺繍ががあしらわれています。


この組木の床ですが、「からくり箱」で有名な箱根細工の職人の手によるものです。

うちは箱根旅行のときこのからくり箱を一つ買い求め、
たしか「37ステップ」を経て開けるという行程に挑戦しましたが、
行き詰ったときに

そこで放置したまま置いておく人がいて、

いったいどこまで進んだかわからないままになってしまい、
そこから押しても引いてもびくとも動かなくなり、
そのうち部屋の隅でホコリを被りだしたので、泣く泣く処分しました。

玉座につく天皇陛下のためにわざわざ一般用の隣に作られた

天皇陛下専用階段

年に何回ご光臨賜るかわからないその機会のために、
わざわざ専用階段を設けているのです。

江田島の海軍兵学校にもやはり玉座がありますが、
確かここに上るための専用階段まではなかったような。



その階段画像もう一度。
といっても、こうやって二つの階段を比べてもその違いはわかりません。
が、実は陛下がそのおみ足を乗せた途端、

膝を動かすだけで勝手にすいすいとその御体を押し上げてくれる

ような仕掛け、つまり、階段の踏み板のの中央にわずかな凹みがあり、
さらにほんの少し手前に傾斜をつけてあるのだということです。



さて、極東軍事裁判のとき玉座は取り壊され、同時通訳席が作られました。

このときに通訳モニターとして働いた日系アメリカ人、アキラ・イタミと
太平洋戦線で宣撫工作を行っていたハリー・フクハラについて先日書きましたが、
つまりここに設えられたガラスのブースから、イタミは裁判を見守ったのです。
そのときにもお話ししたようにイタミはその後拳銃自殺をしますが、
そのガラスブースから、彼は東京裁判の通訳を通して何を見ていたのでしょうか。


児島譲の「東京裁判」では、いよいよ刑言い渡しのとき、
当初、東条英機の判決通訳をアナウンスすることになっていた二世が
文官で死刑はありえないと言われていた広田弘毅の担当通訳に、

「死刑の言い渡しを通訳するのは嫌だから、代わってくれ」

と頼み込み、頼まれた方は快く

「俺はビッグネームをやりたいから歓迎だ」

と引き受けたので通訳を交代したところ、
その広田が誰もが驚く「デス・バイ・ハンギング」の判決だったので、
わざわざ広田に変えてもらった通訳は真っ青になった、
というエピソードがありましたが、日系アメリカ人の悲劇を描いた
山崎豊子の小説「二つの祖国」でもこのシーンがありました。

「二つの祖国」はいまでは信じられないことですが、NHK大河ドラマ化されました。
「山河燃ゆ」、この配役、今見るとすごいです。

天羽賢治(松本幸四郎)天羽の父(三船敏郎)母(津島恵子)
天羽の弟1(西田敏行)戦死する弟(堤大二郎)
梛子(島田陽子)チャーリー(沢田研二)天羽の妻エミー(多岐川裕美)
天羽の妹(榊原郁恵)天羽の日本の恋人(大原麗子)

東郷茂徳(鶴田浩二)昭和天皇(高橋昌也)

弟の恋人マリアン(ヒロコグレース)米人記者(ケントギルバート)
中華料理屋の娘(アグネスチャン)


日系1世のクリーニング屋のオヤジに、三船敏郎って・・。

最後の三人は原作には全くでてこないキャラクターで、単なる顔見せですが、
このケントギルバートの記者の設定がすごい。

戦艦大和の建造を探る中で右翼の青年に暗殺される。
彼の暗殺後、賢治も日本から追放されて入国できなくなる。

まあ、当時戦艦大和の建造をアメリカ人が調べちゃまずいかもしれんね。
しかし皆さん、これはこれで(笑)観たくありませんか?


なんでも当時「山河燃ゆ」は「史上最低の大河視聴率」と言われたそうですが、
それでも平均視聴率21.1%、最高視聴率30%。
同じ燃ゆでも「花燃ゆ」がこの度歴代最低視聴率を更新したため、今となっては
この「山河燃ゆ」など、歴代ワースト20位以内にも入ってきません。

映画でもいいから是非一度、変な改変なしで「二つの祖国」を
映像化してくれないかなあとわたしはずっと思っています。



冒頭の裁判中の写真と実際の写真をもう一度見比べてください。
裁判中の写真には天井から「吊り照明」がたくさん見えますね。

これは進駐軍、軍事裁判法廷の意向で

「昼のように明るく法廷を照らすこと」

とされたので、そのために急設した灯です。
画面の右側が裁判官席で、その後ろのカーテンを閉めていたため、
そして主にアメリカからは映画の撮影班も来ていましたから、
まるでハリウッドの映画撮影のように過度な照明がされました。



こんな明かり取りじゃまったく足りない!というわけです。



しかしこの過度な照明、夏は大変でした。
何しろ当時、

クーラーがここには備わっていなかった

のですから。
暑さの上に過剰な照明で報道陣は勿論のこと裁く方も裁かれる方も、
だれてしまった時期があった、と児島譲の「東京裁判」には描かれています。



これは前回の見学の時の写真ですが、この前から2番目の長椅子の角の部分。
ここに証言台がありました。


各被告が個人反証のときに座った、あの証言台です。

ここに・・・。

さて、ここには写真でもお分かりのようにガラスケースがあり、
そこに実際の資料や写真が展示されています。



極東国際軍事裁判は、東條英機らA級戦犯7人の絞首刑という
驚愕すべき厳しい判決が下されました。
この写真は最終判決を聞いたのち正面から出てきた被告たちです。



今市ヶ谷記念館となっている建物の正面5段の石段の上でこの写真は撮られました。

南次郎大将(前列左端)のお髭が立派です。
それにしてもさすがは一国の政治指導者だった人々。
カメラの放列の前に立つ様子は悄然とした様子はなく皆堂々として見えます。

東条英機の左斜め下が木戸幸一、壁際で一人だけ左を見ているのが荒木貞夫。
海軍大臣だったことで訴追された嶋田繁太郎大将は南大将の右上の粋なコート姿。
この被告のグループの中で英語が堪能であったこともあり、米軍との折衝を行うなど、
リーダーシップを発揮していました。


左に立っているMPは、

オープレー・S・ケンワージー中佐。

市谷法廷における被告たちの世話と監視にあたった
この下士官出身の憲兵隊長は、東京に赴任する前にマニラにいて、
あの山下泰文、本間正晴の処刑を見届けています。

「山下は軍人として立派に死んでいった。
わたしも軍人としてあのように死んでいきたい」

二人を畏敬していたケンワージー憲兵隊長の気持ちは
そのまま市谷のA級戦犯たちの扱いに表れました。
彼らを尊敬し、手厚く儀礼を以て接し、時には接見のときに
家族と少しでも長い時間会えるように計らいました。

それを日本人である被告たちがありがたく思わないわけがありません。

判決が下り、ケンワージーと別れることが決まったとき
被告たちは相談して、彼に全員の揮毫を贈呈しています。



ここには「東京裁判は無効であり被告は全員無罪である」
と独自の判決書を出したラダビノッド・パル博士についての
少しの資料も見られました。



わたしたち日本人との関わり合いで、
パル判事は偉大な知識の光明をこの世に遺してくれた。

決してわたしのこの評価は大げさなものだとは思いません。

パル博士がいなかったら、東京裁判の欺瞞性が戦後の日本に膾炙し、
同時に自虐史観から抜け出そうとする動きは
今よりさらに遅れたであろうことは、火を見るより明らかだからです。

しかし、そのパル博士がインド代表判事に選出されたのは
ちょっとしたアクシデントによるものでした。

2009年と言いますからごく最近分かったことですが、パル博士は
休暇中の裁判官の穴を埋めるために、短期間裁判官代行を務めただけで、
インド総督府の認める正式な判事ではなかったと言うのです。

全体的にこの裁判は事務手続きにいい加減なところがけっこうあり、
一番ひどい例は用意された被告席に全員が座れないことが分かった時、
二人(陸軍大将だった阿部信行と226で青年将校たちに担がれた真崎甚三郎)
を訴追しないことにして帰らせたりしています。

パル判事の人事も国内手続きのミスと言うべきだったのですが、
ともあれこの偶然が日本にパル博士を与えることになったのです。


このミスに「神の配慮」を感じるのはわたしだけでしょうか。




この写真は珍しくカラーですが、誰かの(処刑された7人のうちの)
遺族が、GHQにもし見つかったら叱責没収になることを覚悟で
こっそり写したものなのだそうです。

証言台にいるのは広田弘毅元外相のように見えますが・・・・・・。




写真自体は特に変わったものではありませんが、
この提供者の名前を見てください。

森山真弓元法務大臣。

森山元法相は当時津田塾女子大を出て通訳のアルバイトで
極東国際軍事法廷の現場にいました。



翻訳業務中の森山真弓(たん)。
彼女はこの後東京大学に入学し、官僚をへて政治家となり、
自民党から法務大臣、文部大臣、内閣官房長官などを歴任します。

どうでもいいことですが、彼女と結婚することになった男性は
「君は飯は炊けるのか」と聞いたとか。

「相撲の土俵に女性を上がらせろ!」とか夫婦別姓推奨とか、
なんだかフェミ臭い政治家でしたが、ご飯くらいは炊けたんじゃないかな(適当)





前回の防衛省見学ツァーの記事からも抜粋再掲してお送りしました。

続く。


 

市ヶ谷記念館〜防衛省見学ツァー

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市ヶ谷記念館が法廷として使われていた時のことを書くのに、
昔のエントリを検索したら結構詳しかったので、それをベースに
前回のブログを製作したわたしです。

展示物についてはそれこそひとつ残らず紹介し尽くす勢いで
ここにアップしたので、今日は駆け足でいきます。



そう、駆け足で・・・・
と、いつもこの義足を見るとギョッとしてしまうのですが、誠にリアルな出来ですね。

わが国で義足が戦傷者に与えられた最初の戦争は西南戦争だそうです。
戦傷者に対し、できるだけ元の姿で故郷に帰してやりたい、という意図で、
オランダ製の義手・義足が配布されました。

日清戦争では戦傷というより凍傷や栄養不足で手足の切断をした負傷兵に
昭憲皇后陛下はお心を傷められ、

「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の
別なく、人工手足を」

との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、
敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
捕虜を含めて、義手、義足、義眼がすべての負傷兵に与えられました。

ここにある義足は、そのうち陸軍兵に御下賜されたもののひとつです。
このころは義手・義足は装飾としてのものでしたが、この後、
日露戦争のころにはそれらに機能的な仕組みによって
日常の動作ができるように工夫されたものが開発されるようになります。



左側の陸軍軍装は、阿南惟幾大将が着用していたもの。
右側は陸軍中将の正装です。



第20師団を率いてニューギニア戦線でオーストラリア軍と戦い、
そこで散華した小野武雄少々の遺書がありました。

同地で終戦を迎ええたとき、当初25,000名だった兵力は、
飢えとマラリアにより生還できたのはわすか1,711名でした。

 
右の大越兼吉中佐は日清戦争の奉天会戦において、伝令が負傷したため
自らが伝令となるも、腹部に銃弾を受け、自決をしております。
書翰(しょかん)というのは手紙の意です。



東京裁判ではこのように大きな地図が何度となく審理に用いられました。
これは、マッカーサー率いるGHQが、日本地図株式会社 (当時)に注文したものです。



前もお見せしましたが、降下始めの直後だったので、ついまた撮りました。
海軍落下傘部隊はメナド・セレベスに降下して戦果をあげています。 

インドネシアには昔から、

「我々を白い人の支配から解き放つ人々が白いものをかぶって空から降りてくる」

という言い伝えがあった、ということは一度ここでも書きましたが、
まさにこの瞬間のことだったのです。インドネシアの霊能者有能。 

 

マレーの虎こと山下奉文大将の手紙。
前回、山下大将の裁判と処刑を通していたく感銘を受け、日本人に対して
畏敬の念を持つに至ったケンワージー憲兵隊長の話をしましたが、
山下大将の人間の器の大きさに心打たれた人間は彼我双方に多くありました。

たとえば、東京裁判で日本人被告の弁護をしたジョージ・ファーネス大尉もその一人です。 

この達筆であるだけでない、格調高く流麗で気品ある筆致を見ても、
山下奉文という人のただならぬ人間力が感じ取れる気がしませんか。



これも前にもご紹介したけど、もう一度。
比叡が進水式を行った時、記念に配られた文鎮セット。

魚雷、スクリュー、錨に・・昔はわからなかったけど今ならわかる(笑)
砲塔の形をした文鎮までありますね。
ひっくりがえしたウォーターライン模型のうらには「ひえい」と書かれています。



昔東京裁判で裁判官席であった向かって左の窓際には、
このようにかつて軍人が持っていた刀が飾られています。
これは荒木貞夫大将が愛用していた軍刀で、今でも恐ろしいくらい光っています。

226事件の時には思いっきりこの人の話をしましたが、
日頃から若い将校たちを可愛がり、下克上の雰囲気を作る原因になったのも
この人のおおらかさであったという話もあります。
皇道派青年将校のアイドル的存在だったのに、いざ青年将校が蹶起すると
自重を求める立場に鞍替えしてしまいました。

東京裁判では終身刑の判決が出ましたが、恩赦により世に出てから
講演・歴史研究などを行い、講演先の十津川村で客死しました。


さて、1階フロアの展示物見学は約20分間自由に行われ、その後
一同は階段を上って2階に上がりました。
そこには前回もここでお話しした総監部長室すなわち三島事件の現場、
そして旧陸軍士官学校時代、天皇陛下や皇族方の控え室であった
旧便殿の間があります。



これが移転前の市ヶ谷庁舎。
今は正面玄関を入るとすぐに講堂だった部分に接続していますが、
この写真でいうと当時は緑の屋根の部分にありました。

そして、便殿の間は手前の角部屋の2階部分だったそうです。
三島由紀夫が人質を取り、自衛隊員に向かって演説をしたバルコニーと
それに続く部屋は、正面玄関とともに残されました。

つまり、存続と取り壊しの折衷策として、歴史的に意味の深い部分だけを
抜粋してつなぎ合わせたのが、現在の市ヶ谷記念館ということになります。



今回改めて広角レンズで部屋の全景を撮ることができました。
ここであの三島事件が起こったわけですが、移転に際して全てが交換され、
当時のままであるのは窓枠やドア、照明器具、壁の装飾などだけです。



しかし、そのドアには事件の時に付けられた刀傷が残されています。
案内は、「誰の刀傷かまではわかりません」と言っていましたが、
三島一行と自衛官の間で乱闘になった時の状況というのは、

総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、
川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、
すぐさま三島は日本刀・“関孫六”で背中などを斬りつけ、
続いて木刀持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、
「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した。
この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、
大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。
この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った。(wiki)

ということなので、おそらく三島自身の付けたものであると思われます。



最初に幕僚たちが突入し、刀傷が残ったのがこの右側のドア。



写真だけではわかりにくいので、傷の部分を丸で囲んでおきました。

わたしは防衛団体の宴会の時、三島事件のときに警衛として駆けつけ、
このときの乱闘で刀傷を負ったという元自衛官と話したことがありますが、
その方はこの刀傷の乱闘の後、反対側のドアから突入してきたということになります。

三島と盾の会との乱闘で負傷した自衛官は全部で8人でした。



三島が窓から外に出るときに見た同じ景色。
このバルコニーで三島は演説を行いました。
そして、その声をヘリの爆音で消され、自衛官たちに野次られた三島は

「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。
男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。
それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、
自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ」

「諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか」

と問いかけ、そして絶望して同じ窓から部屋に戻って自決します。



事件後、警視庁から駆けつけた佐々淳行が、総監室に足を踏み入れたとき、

「足元のじゅうたんがジュクッと音を立てた。みると血の海。
赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」

と述懐したということですが、改装後の絨毯も、全く同じ緋色をしています。
同行者の誰も気づいていませんでしが、わたしは前回来たときに
この部屋の窓枠に水をたたえた湯飲みが置かれているのに注目していたので、
今回も同じ場所にそれを探すと・・・・。

今、この湯飲みには水ではなく塩が盛られていました。
水を交換するのを誰が行うかとか、いつやるかについて、
市ヶ谷記念館の管理の中で色々と話し合いが行われた結果でしょうか。



続いてとなりの「宮便殿の間」へと移動。
窓の下の通風孔は地下とつながっていて、夏の暑い間
クーラーのない当時でも陛下に心地よくおすごしいただけるよう、
冷たい空気が送られていたといいます。



窓の上枠にも網目のある小さな通風孔が確認されます。



両側に計二つ。
当時は今のようにクーラーの熱がなかったため、夏であっても
この程度の冷気で十分室内は冷えたものと思われます。

また、この便殿の間に限り、扉は外開きになっていました。
その理由は、

「陛下が御在所の際には、扉から人を迎え入れることはないから」

 

現在市ヶ谷記念館に移設されて保存されているのはこのふた部屋だけです。 
よくまあこれだけ必要最小限だけを残してコンパクトな記念館に作り変えたもので、
その建築と移設技術にまず驚かされます。

二階から玉座を臨むと、説明されたように「同じ高さ」には見えませんでしたが、
ここに腰をかけ、玉座の高いところにやんごとなき方々がつかれて、
それでようやくぎりぎり同じ目の高さになるのかと思われました。


続く。 

自衛隊資料館〜市ヶ谷・防衛省見学ツァー

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今回、防衛省見学ツァーが所属する防衛団体で組まれたとき、
午前か午後、どちらに参加するかというのに選択の余地はなく、

「もう先に聞いた人で午前中が埋まってしまった」

ということでしたので、自衛隊資料室を見る午後のツァーに参加しました。
前回の時のようにあまり自衛隊について詳しくない頃なら
それなりに初めて知ることもあったと思うのですが、今となっては
どれもこれもよくよく知っていることばかりでした。

しかしまあ、それはわたしにとってだけの感想かもしれないので、
とりあえずここでお話ししておきます。



市ヶ谷記念館の見学が終わったあと、途中で何処かに消えた人がいないか
チェックするために5列で並んで人数を確認し、次に進みます。

左手に自衛官の生活スペースである隊員宿舎を見ながらたどり着いた
この部分には、ここで生活する自衛官の福利厚生を預かったり、
あるいは飲食・買い物をするスペースがあります。

ところで、前回も感じたのですが、ここにはたくさんの自衛官が仕事をしていて、
庁舎同士の行き来もかなり多い割に、外で人を見かけないのです。
実は、この敷地内はすべての建物が地下道で繋がっていて、
傘をささずに離れたビルにも行くことができるということを初めて知りました。

前回はそんなことを言っていなかったような気もしますが、
わたしが単に聞いていなかっただけなのかもしれません。

とにかく、自衛官たちは外よりも地下道を通行することを好むようです。
というのは、外を歩く時には彼らは必ず着帽すべしという決まりがあり、
この近辺に前回喫煙所があったような気がするのですが、そこにも
外では(喫煙中でも)帽子をかぶること、と書いてあって驚きました。

つまり、地下道は外でないので、帽子を被らずに歩けるんですね。

庁舎前には「厳正な敬礼は市ヶ谷から」という、まるで学校のような
注意書きが書かれていますが、いずれにしても市ヶ谷、自衛隊組織の
中心ともなる場所ですので、一段と規律にはうるさいのに違いありません。

ところで、今メガホンで案内のお姉さんが注意事項を話しています。

「この庁舎の内部は写真撮影禁止です」

・・・・ん?
前回、わたしゃここを入ってすぐの福利厚生施設を写真に撮ったぞ。
案内の人も一緒にいたけど、その時何も言われなかったけどなあ。

中には隊員用のコンビニや売店があって、そこに置いてある商品には
いちいち「写真撮影禁止」と張り紙がされていた今回ですが、
前回から今回までの間に、なにか規制を厳しくしなければならない
不祥事があったのかもしれません。

入り口で中国人がツァーに参加しようとして乱入してきた話をしましたが、
その時に聞いたところによると、外国人であっても参加はできるそうです。
例えば中国人のツァー参加客を入れた時、どう見ても観光には関係なさそうな
自衛官の様子とか庁舎内の写真を撮りまくって怪しかった、・・・・とか?

さて、庁舎内は撮影禁止ですが、ここは何を撮ってもOK。
この建物の中にある自衛隊資料室です。



あーびっくりした(笑)
陸自の制服を着たパセリちゃん、これはよろしい、
しかし、扉の影から片目でこちらを覗いているピクルス王子、怖すぎ。
だいたいピクルス王子はキャラクター的に人相が悪いんだよな。四白眼だし。



自衛隊資料室は大変狭いものでした。
初っ端に自分の話を聞いていなかった参加者を叱りつけ、
さらには少しでも遅れた人がいたら急かしまくる自衛官のおじさんが、
入るなりとうとうと説明に入ってしまい、自由に見ることもできません。

わたしは話を聞きながらも、手だけはちゃんと写真を撮りました。

これは趣味の工芸コーナー。
手作り感溢れる木の人形の上に、紙で作ったチヌークがあります。
紙で作ると質感が本当っぽいのよね、チヌークって。



見学者にお辞儀してくれている陸自の装備人形。



陸自で行われている訓練の一部を写真でご紹介。
水上降下訓練というのは第一空挺団が毎年夏、房総半島の鋸南町で行う
洋上への降下訓練のことであろうと思われます。
洋上に降りた降下隊員はボートに拾ってもらい、岸まできたら
あとは泳いで帰って来るというもの。
問題はいつ落下傘を切り離すかなんですが、この段階で泳ぎが苦手だと
苦労するというか、溺れかける人もいたりして。

右上にはオスプレイが見えますが、もちろんこれは米軍との共同訓練です。



右は飛行試験機1号機。
この形、何かに似ていると思いませんか?C-1ですね。
次期固定翼哨戒機 (XP-1)と同時開発することで開発コストを下げる計画です。
現在X-C2は空自の岐阜基地で実験・開発が行われています。

左は「先進技術実証機」というもので、ステルス性やエンジンの制御など
先進技術の諸能力を盛り込んだ実験用の飛行機です。
皆さんは「心神」という言葉、ご存知でしょう?

この「心神」という名称はプロジェクトでは公式にも非公式にも使われていません。
どこかの航空博物館で確かにそう書いていたのをわたしはこの目で目撃しましたが、
あれは何かの見間違いだっに違いありません。

ただしマスコミやインターネット界隈では普通に「心神」が使われています。



海自コーナーにはなぜか特大の輸送艦「おおすみ」の模型が。
後ろのハッチからは今しもLCACが降ろされようとしているところ。

ところであれ?LCACってどうやって揚収するのかな?

輸送艦“くにさき”LCAC揚収作業
 


あくまでも自力でむりむりと突っ込んで行っております。すごい。
ってか、これきっと「くにさき」の後甲板に人はいられないだろうて。

で、冒頭写真の護衛艦操舵室を模したコーナーですが、これには

舵制御装置

船の進路を決めるための装置です。
艦橋から艦艇の最後尾にある舵で連結されており艦長が決定した進路が
舵輪を回すことによって舵に伝えられ進行方向が決まります。


という、割とすごく当たり前のことが書かれています。
後は

「昔の舵輪は大きくて回すのも大変だったが現在は油圧装置の開発によって小さい」

「舵輪の上についている左右30度ずつの目盛りは舵の角度を示します。
舷灯と同じように右が緑、左が赤で、舵の作動範囲である左右30°までが示されています。
目盛りの横にある赤と緑のボタンは、舵輪が故障した時に舵をとる装置です。
このボタンを捻ることでも方向を変えることができます」

「船では進路を決めるのが艦長か艦長に任命された航海長、もしくは当直士官であり、
車のハンドルに当たる方向操作を行うのは操舵員です」

あとは「面舵」が「兎面舵」(うむかじ)の転じたもの、「取り舵」が
「酉舵」と12支からきた故障であることを説明していました。
 
 

部屋の中央には、建築計画の時に施工会社から防衛庁に進呈された模型が。



青いベレーに青いマフラー。
そう、これは陸自海外派遣隊の制服。

東日本大震災、伊豆大島の大災害など国内はもちろん、ジブチ、スーダン、
そしてフィリピンにPKO活動に赴く我らが自衛隊です。

全く、電車の自衛官募集の広告を「きもい」とツィートした
偏差値28のガキどもを連れて行って汚泥に頭を突っ込んで顔を洗ってやりたい。 

「自衛隊の皆さんを死なせない」といったかと思うと、
「徴兵反対」とその同じ口で言い、そうかと思えば自衛隊募集を「きもい」。

自衛隊が募集で志願人員を一人も集めることができなくなったら、
その時にはたとえ法律的に「苦役」に相当しようが、
徴兵制を検討するしかないのだってこと、わかってるのかしら。

 

はい、こちらの後ろ姿がこの日の解説をしてくれた陸自隊員です。
若い時には戦車に乗っておられたそうです。

 

なぜかヒトマル式はなく、その代わりに榴弾砲の模型がありました。
案外自衛隊委員にはモデラーが多いらしく、(このブログの読者にもいますね)
先日は「いずも」の中で「いずも」のモデル(特製シール付き)が
結構内々で売れているという話を聞いて心和んだわたしです。

隊員が自分で作ったモデルを置かせてくれ、と持ってきたのかも。 





でたー!整理整頓自衛官(のキャラ)!
この二人を見ると、ついあのゲームがやりたくなってしまって困る(本当) 




空自の旧・現行装備が勢ぞろい。
きっと前に来た時にはすべての飛行機を検索画像とにらめっこしないと
ブルーインパルス以外はわからなかったと思います。
自分でも驚きますが、そんな時期がかつてあったんですねー。

いや、今だって機種特定能力はかなり怪しいのだが、という声が
どこからともなく聞こえてきた気がしますが、おそらく気のせいでしょう。




この部屋の展示中、最もここでインパクトのあったのは 
なんといってもこの巨大なコピー機だったかもしれません。
展示じゃないけど。
こんな機織り機みたいな機械を使っているのねえ。

さて、というわけで見学は行程を無事に終え、解散前に休憩時間が取られました。
わたしはスターバックスでラテのショートを注文したのですが、あまりにもアツアツで、
最後まで飲まないうちに時間が来てしまいました。

見学者にはもう少しぬるめのを出していただけるとありがたいです。

とはいえ、わたしの時間がなくなったのは、お土産を買っていたからでもあります。



そう、これ!迷彩パウンドケーキ。
朝霞駐屯地で見つけた時にはてっきりネタものだと思い買わなかったのですが、
ここで書いたところ「あれは美味しいです」という読者のコメントをいただき、
今度どこかで見つけたら買ってみようと思っていたところだったのです。




緑は抹茶、茶色はチョコレート、そしてグレーはゴマ。
要はこれらの材料を使ったマーブルケーキで、全く普通です。
そして、うちの家族全員が

「これは美味しい」

とちょっと感動したということを付け加えておきます。
皆様もどこかで見つけられた折には是非お試しを。



終わり。 

 

島根の旅〜原子力発電所を見学

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わけあってかなり前のことになりますが、週末、またしても旅をしてきました。
朝から晩まで一泊二日次々とスケジュールをこなす旅行で、
こういうのは「温泉にのんびりしに行く」 のとはまた違う楽しみがありますが、
とにかくこの時は疲れました・・・。

淡々と写真を貼りつつお話しさせていただきます。



行き先は島根。
空から見た島根県は本当に山の多い地方で、しかもその山の中に集落がポツポツとあります。
この理由も今回の見学で明らかになりました。
「縁結び空港」とあだ名された島根空港に降り立ち、迎えのマイクロバスに乗り込みます。



今回の見学先は、島根原発。

原子力発電所はどこも広報館を持っており、一般の人々に
原発とはなにかを周知させるための広報活動をしていますが、
今回の見学は関係各位のご尽力により、一般見学の見られない
ディープなところまで見せていただけることになっていました。

現在島根原発には3つの炉があり、1号機は運転終了、2号機は停止中。
我々が見学できるのは稼働予定を控えて炉心を入れる前の3号機です。

しかし当然ながら内部は一切写真撮影禁止。
見学に際して、前もって名前を通知し、現地ではパスポートナンバーと顔写真まで
きっちりと確認するという、アメリカ入国並みの厳しいチェックを受けました。



まず最初に広報館の応接室に通され、レクチャーを受けます。
ここで、原子力発電の仕組みを全く知らずにきた人も、たちまち

「僕は原子力に詳しいんだ」

と豪語できるレベルにはなれます。(たぶん)
わたしも、原子力で発電するということは、さっくりというと

「ウランが核分裂する熱エネルギーで水を沸騰させ、その蒸気でタービンを回す」

そして発電する、というシンプルなものであることを再確認しました。
タービンの冷却水と蒸気のために海水を取り込むので、原発施設が海辺にあるということも。

こうして限定的とはいえ一般人に内部を見学させるというのは
とりもなおさず、原発施設が現在進行形で安全、ことに災害のときの安全を
いかに担保するかについての取り組みを行っているかということを
世間に知らしめるためであろうと思われます。

われわれが強調されたのもそのことでした。

たとえば万が一地震が起きた時に原子炉を緊急停止させるための制御棒、
放射性物質を何重にも閉じ込めた容器をさらに頑強な建物で覆い、
海岸線には東北震災以降、15mを想定した防波堤が作られているなどです。

加えて発電所の放射線を測定監視し、データをモニタリングし、
情報を市民にあまねく公開周知させることを徹底しています。

原発が稼働していない現在、当発電所では安全対策のための工事
(竜巻が来た時に車を収納するための立体駐車場とか)や、
徹底的な模擬訓練(シチュエーションは前もって公開されない)
が実施されているということです。



福島第一原子力発電所事故では、地震が起こった段階で
制御棒は抑制し、原子炉を停止させることには成功しています。
しかし、想定外の津波に襲われ、冷やす機能そのものが喪失してしまったわけです。
そして、段階的に放射性物質を閉じ込める機能も失ってしまったので、
それらが爆発によって放出されてしまったという経緯があります。

ちなみに、東北から関東の太平洋側には5箇所、計15基の原発があります。
地震発生と同時にその全部の原子炉は自動停止し、冷却水、電源の確保、
放射性物質を閉じ込める機能も健全でした。

今回の熊本の地震でもぐらっとくるなり原発を止めろと野党議員の一部が
川内原発に電話をしてきたそうですが、川内原発は地震による影響は全くないとして
これらの勧告には対応しない構えです。

無事だったと発表されており、モニタリングポストも確認できるのにもかかわらず

「政府と電力会社の発表は信用できないからガイガーカウンターを持っている人は測れ!」

といたずらに不安を煽るツィートをした議員もいましたね。

「99%無事でも最後の1%で事故ったらおしまいだからゼロにすべき」

というのが反原発の理屈で、東北の件で「目に見えない恐怖」に脅かされた
経験者としてはそれもまあわからないでもありません。

ただ、”福島”以降、それを教訓として積み重ねられてきた各原子力発電所の取り組みを
全く無視してただただゼロにしろ、というのは、「子供の理屈」という気がします。
一旦稼働を始めた原子炉というのは、これも廃止派が常にいうことですが
廃炉、解体はできないものなのだそうですね。
全国にすでにある原発を廃炉解体できないまま、しかも停止状態であっても
ランニングコストをかけ続けるというのは、素人考えにも超無駄としか思えません。

だったらこのまま安全対策を多重に積み重ねていって災害やテロに備えつつ、
原発と付き合い続けていくしか方法はないんじゃないでしょうか。

わたしはこの見学でまるで子供レベルの感想ですが、安心しました。
日本人、日本の技術者は当たり前ですが決して馬鹿ではありません。
震災後、その安全対策は福島を教訓として、それどころかあれ以上の規模の災害を想定し、
安全を確保する手段が講じられ、実現化されているのが確認できたからです。

例えば津波対策一つとっても、

まず東北以降設置された海抜15mの防波壁で止める。

もし防波壁を越えても、水密扉を閉めて建物に水を入れない。

建物内に侵入しても水密扉を閉めて遮断する。

という三段階の防護策が取れます。
しかしそれにもかかわらず冷却設備が壊れてしまったらどうするか?
福島では設備も電源も失われたので冷却ができなくなりましたが、
それを教訓に、今ではその時には代替冷却手段が使えるようにしています。

ガスタービン発電機、高圧、直流給電ができる車の常駐、
貯蔵タンクの設置、海水をくみ上げる各種ポンプなどの設置です。

「僕は原子力に詳しいんだ」の人がベントを遅らせて爆発した、
というのは今では語り草になっていますが、あのときはベントを行うことによって
爆発は防げても放射性物質の拡散は抑えることはできませんでした。
(結果として爆発したのでさらに悪い結果になったわけですが)
いまではフィルターがベントに付けられているため、将来ベントを行うことになっても
少なくとも放射性物質の拡散は最低限に抑えることができます。


福島では冷却水が途絶えたため、今にして考えれば
いたずらに自衛隊員の命を危険にさらすだけで”やってますパフォーマンス”以外の
何ものでもないヘリによる放水をしたり、放水車の提供を申し出た企業が
民主党の岡田の選挙区での自民支持知事候補の後援企業だったことから
政府が返答を3日間引き伸ばし、その間に横浜港に停泊していたドイツ企業の
放水車を「徴用」して行ったりと、政府民主党のこの期に及んで政局しかない
無能さがこの放水という一事を通してだけでも露わになりましたね。

これを受けてこの島根原発では原子炉や燃料プールを確実に冷却できるよう、
手段を多重化し、なおかつ電源が失われた場合にも水素爆発防止対策として
電源のいらない静的触媒式の水素処理装置を建屋内に設置すること、
そして外部には放水砲を固定設置し、放水車を多数常駐させています。

建屋周辺には、これでもかと赤い車が周りを取り囲むように駐車していました。
まるでこの世には赤い車しかないような眺めでした(笑)


「一般の人が見られないコアなところ」の見学については
安全対策にも関わる部分があるかもしれないのであまり細かく話せませんが、
印象に残ったことが2つあるので書きます。

まず、炉心棒というのは炉横の燃料プールに貯蔵してあって、
それを炉に移すときには上にわたしたレールを移動させる方式の機械で
真上に移動し、さらにガチャっとつかんで移動させること。

「それは・・・まるでUFOキャッチャーじゃないですか!」

と皆が驚きました。
もちろん運転は目視とか職人技に頼るということではなく(当然だ)
全自動コンピュータ制御で行うので「あ、落としちゃった」はありえません。

もうひとつは、炉をガラス越しに見学できるところに入るには、
まるで金庫の様な二重ドアを越えていかなくてはいけなかったのですが、
これはまずゆっくりと一つが開き、進むとそれが閉じ、
一旦完璧に狭い空間(広いエレベータくらい)に閉じ込められてから
炉につながるドアがゆっくりと開くわけです。

で、このときに鳴る音楽が「明日があるさ」なんですわ。
皆ドアが開閉している間神妙にその音楽を聴いていましたが、全員の表情に

「なぜこの曲・・・」

という疑問マークが浮かんでいました(笑)
この日の見学でいろいろな質問をぶつけていく中でわかってきたのですが、
原発関係者としては

「数年以内にはなんとか稼働できれば」

が悲願であるようです。
そこでふと、だからこそ「明日があるさ」の選曲なのか、などと考えた次第です。




さて、いろんなことを考えさせられた原発のコア見学でしたが、見学が終わり
レクチャーを受けた部屋に戻って、その部屋の前になぜか移されてきた
1号機運転開始20周年記念と25周年記念兼2号機運転10周年記念の植樹を
感慨深く眺めているとき、ふとここには売店とレストランもあると
説明の方がおっしゃっていたのを思い出し聞いてみました。

4時半まで、というので時計を見たらあと10分。
急いでみんなで駆けつけてみれば、なかなかいろんなお土産ものが充実しており、
わたしはりんごバターと豆腐にかけるだし入り醤油、ミルクジャムなどをお買い上げ。

ちなみに、説明の袋にはお土産として藻塩のパックが添えられており、
うちは家族三人分藻塩をゲットしてしまいました。
もう一生藻塩は買わなくて済みそうです。



案内の方(偉い人らしい)が

「わたしが作ってるわけではありませんが、大変好評なので是非」

とお勧め下さったみそソフトクリーム。略してみそクリ。(略すなw)
こういうことは率先するTOが早速一つ買い求めると、同行者は我も我もと。
わたしは息子と一つシェアしました。

みその存在感はあまりなく、どちらかというとキャラメルみたいな味がしました。
どこに味噌が練りこまれていたかは謎です。



さて、これでいつ見学をしたかばれてしまったわけですが(笑)

売店にはレストランも併設されており、美味しそうなメニューがありましたし、
とても香ばしいお茶なども無料でサービスされております。

大変景色のいいところですし、家族サービスついでにでいいから、
原子力の現場がいまの日本でどのような取り組みをしているか、
原発行政の実際を見てこられることをおすすめします。



島根の旅〜足立美術館と「たたらと刀剣館」

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原発を見学したあと一行はバスで移動。
夕食はこのようないかにもな宴席料理でした。
カニが出されたので久しぶりに面倒なのを克服して食べました。
驚いたのは甲殻類が大嫌いでエビフライですら食べない息子が
どうした風の吹き回しか、わたしよりも熱心に身をせせって
酢をお代わりしてまで食べていたことです。

一行が見学団の知らない大人ばかりで退屈していたせいかもしれません。



明日の見学にも大いに関係する名前ですが、この「玉鋼」というお酒は
この地方の有名な大吟醸だそうです。
玉鋼とは砂鉄を掬ってきて次の日勉強した「たたら製鉄」で作る鉄鋼で、
その中の純度の高い、日本刀を作る部分をいいます。

飲めないなりに少しだけ味見してみたところ、すっきりとした味わいでした。



そしてこのホテルに宿泊・・・あれ?この景色みたことあるぞ。
本当に偶然だったのですが、今回のご招待側が選んでくださったこの温泉、
皆生(かいけ)温泉といいまして、前に一度来ているんですね。

向こうに見えているのは後鳥羽上皇が流された隠岐ではなく、宍道湖のある半島です。



前回もご招待による宿泊だったのですが、そのホテルにはWiFiが気配もなく、
インターネットが全くできないという世界で、
隠岐に流された後鳥羽上皇の気持ちを味わうことができました。
今回のホテルはご覧の通り新しく、フリーWiFi完備です。

ただ、韓国人の団体旅行客と一緒でした。

夕方、食事に出るためにロビーに降りると、蛍光がかった原色を基調とした
ペラペラの化繊のパーカを制服のようにお揃いで着込んだ団体が
まさに到着してフロントから鍵を受け取っている最中であり、その五月蝿さ、
おそらくにんにくからきている全体の臭いにまず驚愕しました。

フロントの人がわたしたちに鍵を渡す時、

「明日の朝食は7時半まで団体がいますので、それ以降にされた方が」

と心持ち声を潜めて意味深な忠告をしてきたので、同行の方が

「それは・・・・外国の方ですか」

すると、フロントマンはぴく、と表情を硬くして

「外国の方”も”おられます」

そこでわれわれは全てを察したのですが、それがチェックインする現場だったのです。


わたしはその日の夜、温泉には入りませんでした。
あの団体と同じ更衣室を使い、同じ湯船に入る。
いやでも見たくもないものを見てしまうでしょうし、それによって
ゆったり温泉気分を味わってリラックスなど到底望めないと思ったからです。

しかし、せっかく温泉地に来たので、次の朝、彼らが決してこないときを
(つまり朝の7時半までの時間)見計らって大浴場に行ったところ、
地元の常連客同士が「昨日の夜は団体さんがいて大変だった」とぼやいていました。

我々のグループの中からも、自動販売機がある階に行ったら、
部屋のドアを開け放して車座になって大騒ぎしていた、
別の階まで聞こえてきてうるさかった、そして何より匂いが凄かった、
(どうもキムチを持参しているらしい)という報告が上がっていました。

温泉の地元常連客も同行者も、このようにぼやきつつも決して
「韓国人」という言葉を使わず「外国の人」と言葉を濁していたのが印象的でした。


わたしは温泉でのバッティングを回避したせいで大して被害は被っていません。
ただ、朝エレベーターから降りると、前に塞がったままどいてくれないので、
そのまま真っ直ぐ進んだら、彼女らは横をすり抜けてエレベーターに入ろうとし、
そのときわたしの引いていたキャリーに脚を轢かれたらしく、
後ろから韓国語の罵詈雑言を浴びせられただけです。

あとはどこにいっても「残り香」がしていたくらいですかね。



朝の浜辺を出発までの一瞬だけ散歩しました。




本日最初の予定は足立美術館見学。



創設者である地元の実業家足立さんが「あっちに進め」とおっしゃっています。(たぶん)
横山大観のコレクションを集めるのが目的で美術館を作ったとか。



コレクションもさながら、ここの自慢はこの庭園です。
これは白砂を水に見立てた「枯山水庭」。

米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング
が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、
初回から13年連続で庭園日本一に選出されているのだそうです。
なぜ日本庭園専門雑誌がアメリカにあるのかはわかりませんが。

ちなみに2015年のランキング上位5位は、

1位・足立美術館(島根県)
2位・桂離宮(京都府)
3位・山本亭(東京都)
4位・養浩館庭園(福井県)
5位・御所西京都平安ホテル(京都府)

だったそうで、桂離宮より上だったとは驚きです。 




館内にはいくつかの休憩場所があったので、抹茶オーレをいただきました。
こんなところには珍しく、砂糖を使わずに飲むことができます。
向こうでTOが食しているのはアフォガートといって、アイスクリームに
コーヒーをかけて食する新感覚?のデザート。



庭園の一部としてある邸宅には、「生の額絵」があります。
それはいいんだけどプラスティックのプレートで「生の額絵」はやめてほしい。



玄関先には「衝立」があるものですが、
ここには「生の衝立」(またしてもプラスディックの札)があります。
今日の衝立の図柄は人物の後ろ姿がメインです。




見学が終わって物産店の横を通りかかったら目に付いた

「ちょい悪親父」のTシャツ。

ちょいワルは2014年12月現在で終わったんだよ!



菱田春草の「梅猫」をもとにデザインされたチャームを記念に買いました。
やっぱり本物の方が顔が可愛いですね。



次の予定地の近くの蕎麦屋で早めのお昼ごはんとなりました。



1日15食限定の特製そば。
ずずーっとすするなんてとんでもない。
歯ごたえがありすぎて、よく噛まないと食べられないそばでした。


さて、この後我々は3箇所の予定地を回りましたが、
いずれもそれは「たたら」に関する資料を見学する施設でした。

今回の旅行は、はっきりと見学する目的が決まっていたのです。
すなわち「原発とたたら」です。

「タタラ場」という言葉をもしかしたら宮崎駿のアニメ「もののけ姫」で知った、
という方もおられるでしょうか。
わたしはこの映画、公開時に劇場で見たきりなので記憶も定かではないのですが、
あのとき村の女たちが火を起こすためのふいごを踏みながら歌っていた、

ひとつふたつは赤児も踏むが 三つ四つは鬼も泣く泣く
(中略)溶けて流れりゃ刃に変わる

という「たたら歌」は、家の有線放送で時折耳にしていました。
たたらは「踏鞴」と書き、「鞴」つまりふいごを意味します。
一般に勢い余って数歩ほど歩み進んでしまうこと、足踏みすることを

「たたらを踏む」

といいますが、それがたたらを踏んでいるような足取りであるからです。

今回の見学では、このときの「タタラ場」のモデルとなったと言われる
たたら製鉄についてのいろいろを見学してまいりました。



まずここ。
奥出雲にある、「たたらと刀剣館」です。
到着したら、解説の方(多分館長さん)が待っておられました。



建物の横にあるモニュメントは「ヤマタノオロチ」を象ったもの。



ちゃんと大蛇の顔は風でふわふわ揺れるようになっていました。
つくば科学博で展示されたものだそうです。

なぜヤマタノオロチなのか、といいますと、須佐之男命伝説において、
スサノオが櫛名田比売(くしなだひめ)を救うために八岐大蛇を退治したあと、
尻尾から三種の神器の一、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出たからです。



天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を手にする須佐之男命。



天叢雲剣をたたらによる製鉄から再現したのがこの刀です。
両刃の剣は大変製作に手間がかかるそうです。 



昔、鉄を作る材料は砂鉄でした。
採取の方法にもいくつかあって、これは山を崩して砂を採取しています。

砂鉄を取るためには砂をふるって水に流し、純度の高い砂鉄を残すので、
下流の農民たちとたたら民の間には激しい争いがあったと言います。

「もののけ姫」でも、たたら製鉄による自然破壊がテーマとなっていましたが、
この争いは、為政者が農業の行われない冬に製鉄を行わせ、農民を作業に充てたりして
複合的な互恵関係を生み出すことで自然と解決していったといいます。



このような船で砂鉄を川底から掬う方法もありました。



鉄を作るには独特な形の炉が必要です。
まず、炉を作る場所を完璧に乾燥させなくてはいけません。



この炉を作るだけでも大変な労力と時間がかかるものなのです。
しかも、この方法によって「玉鋼」と呼ぶ刀にするための鉄が溶けたら
鉄を取り出すためにこの炉は周りから突き崩して壊してしまいます。



鉄は刀に始まり、火縄銃にも必要とされました。
たたら製鉄の歴史は1000年前には始まっており、鉄砲伝来は1543年。
15世紀後半には日本は鉄砲を輸出していたとあります。
写真は銘入りの火縄。鉄砲にも「職人」そして「名人」が生まれたということですね。




さて、このあとわれわれは館内で行われていた「刀打ち」の作業を
見せてもらうことができました。


続く。

 

たたらの里を訪ねて〜島根県出雲

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さて、「たたらと刀剣館」の展示、続きです。
 



はめ込み式のテレビのようなガラスをのぞくと、ジオラマがあり、
最新式のバーチャル映像によってたたらを解説する仕組みでした。
ボタンを押して説明をスタートすると、音声とともにたたらに火がついたり、



人が現れたりして、たたら製鉄の実際を解説してくれます。
実際に見るともっとリアルです。



鍛治場を再現した精巧なジオラマもありました。



顔に前垂れのついた頭巾をかぶって鉄を持つ人、
そしてそれを数人の男たちが叩いて延べていきます。
ふいご番の前垂れは顔が焼けてしまうのを防ぐためです。



ここには再現された実物大の「たたら炉」の断面模型があります。
何層にもわたって積み重ねられた土やスミ、石には
長年の経験から得られた知恵が凝縮された全く無駄のない造りです。
すべて、保温・保湿のために工夫された複雑な構造です。



ここから「鞴(ふいご)」で風を送り込み、安定した火力を確保します。



ふと向こうを見たら息子が独自に「ふいご」を踏んでいました(笑)



この真ん中に立って片足ずつ踏みしめることで風が送られるのですが、
問題はそれをどれくらい続けなくてはいけないかです。
だいたいひとりが一時間、三日三晩交代でこの「番子」を踏みました。
これを交代しながら行うことが「かわりばんこ」の語源となっています。

「一つ二つは赤児も踏むが 三つ四つは鬼も泣く」

はまさにこの労働の厳しさを歌ったものだったのです。



こちら「踏み鞴(ふいご)」。
写真のように二人が両端を踏んでシーソーのようにし、風を作ります。
これを踏む人を「地団駄」といい、これが「地団駄を踏む」の語源ですが、
地団駄は「踏む人」であり踏むものは「踏みふいご」なのに、なんか変ですね? 



これは天秤ふいご。
レバーを引っ張ると、右下から空気が出ます。
不思議なのですが、押しても引いても同じところから空気が出ます。



さて、隣の鉄打ち場では実演が始まりました。
刀鍛冶が玉鋼に火を入れ、刀にしていく過程を見せてくれます。
火に入れる前に玉鋼を藁と布で包み、泥をまぶしていました。

これは酸化を防ぐためなのだそうです。
この火床を「ほど」と読みます。



火から出した鉄には藁を混ぜます。
これも酸化を防ぐための工夫でしょう。



そしてあとは「鉄は熱いうちに打て」そのままです。
これを鍛錬といいますが、叩くことで不純物や空気が飛び、
硬度の高い鋼を伸ばし練り上げることができるのです。



ここでは観光客に説明するためにやっているので、
本来何日もかけてする作業はすぐに終了して、

「そうやってできたのがこの刀です」

まるで3分間クッキングのようです。
もちろんこのあと刃を研いでいく重要な過程があるわけですが。

鍛治師にも「国家資格」があって、文化庁の試験を受けるのだそうですが、
毎年12人くらい受けてそのうち合格は一人だそうです。



1年前のお正月、備前の刀打ち始めをし、ここでお話ししましたが、
ここでも見学者に鉄を打たせてくれるということで何人かが挑戦しました。

「スーツとかネクタイとか、火花が飛んだら穴が空くかもしれませんがいいですか」

散々脅かされてから打つのはのは我々の同行者。



もう一人、ということでこの女性も我々一行の一員。
わたしたちはやったことがあるので遠慮しましたが、二人とも
あまりに重いので驚いていました。

この刀鍛冶さんはとても面白い方で、

「夏場来て頂いたら、暑さでやせ細ったわたしを見ていただけます」

と言って場を笑わせていました。



次の異動までの間にお土産店に連れて行かれました。
主催者の気配りが身にしみます。

いきなりシュールな絵柄になっている「どじょうすくいまんじゅう」の
広告にウケましたが、これは買ってません。

そういえばここは「安来節」のふるさとなんですね。



次に連れて行かれたのは「鉄の歴史博物館」。
昔からおそらく変わっていない街並みにわたし歓喜。



博物館、といいながら、ここは地元のお医者さんの家だったそうです。
中は一切写真禁止でしたが、たたらの道具や過去帳、帳簿などがありました。

ここで昭和47年に再現された「たたら製鉄」のNHK製作ドキュメンタリーを
鑑賞したのですが、音楽が、もしかしたら武満徹?という感じのおどろおどろしさで、
(ひゅ〜♪ カーン♪ ど〜〜〜ん、って感じ)見ていた一人が

「いまから殺人事件でも起こるんですかね」

と呟いておられました。
この時に出演して実際にたたら製鉄を再現した「最後の村下(むらげ)」たちは
現在全員この世にはいません。

このビデオで知ったのですが、たたら師たちは、製鉄が始まったら4日3晩、
仮眠だけで作業を続けなくてはなりません。

さらには火を両眼で見ると目をやられるので、まず片目で作業し、
その片目が疲れると目を交代して行うのですが、それも限度があり、
引退の頃には視力がほとんど失われる宿命を免れることはできなかったということです。

そしてこれらの作業は女性を一切排して行われました。
女性は神事にもつながる作業に「穢れ」を持ち込む、という意味もありますが、
女性の神様がやきもちを焼くからという説もあります。
「もののけ姫」で女たちがたたらを踏んでいましたが、現実にはありえないことだそうです。



この博物館になった家の母屋は藁葺きでした。
鳥が屋根の隙間から入っていくのを見ましたが、いい巣になっているようです。
なんといっても藁は取り放題ですしね。



博物館前の街並み。いい感じです。
自民のポスターがありますが、このあたりはかつて竹下登の選挙区だったみたいですね。
今念のために家系図を見たら、縁戚に米内光政の娘、そして三島由紀夫がいます。
ミュージシャンのDAIGO、漫画家の影木栄喜は孫、口癖は出雲弁の「だわな」。

自身が東大出で留学経験もある宮澤喜一が
「あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」
と言い放った時、「あれは許せないよ」と怒っていたそうですが、
その話を聞いた佐々淳行が、

「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」

と尋ねたところ、竹下は

「それがね、無試験だったんだよ」

と答えたという話があります。
ボケてどうする(笑)




ひっそりと営業していた和菓子屋さんが気になって入ってみました。
招き猫に福助、不二家のペコちゃんはアンティークで高値がつきそう。



鑪カステラというのを購入してみました。
季節がら、桜の味を販売していました。



そして店の片隅にはそのとき咲き初めた桜の枝が一抱え、
無造作な様子で手桶に活けてありました。


わたしたちはこのあと、実際にかつての姿のまま保存されている
「たたらの里」のかつてのたたら炉を見ることになりました。

続く。 

 


菅谷たたら山内と「靖国たたら」のこと〜島根県出雲

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さて、我々は最後の予定地に向かいました。
「鉄の歴史村」が通称である、菅谷たたら山内(さんない)です。

朝早かったので、わたしはバスの移動の度に細切れの睡眠をとっていましたが、
同行者の皆さんは先ほどの物産展で買い込んだ地酒「玉鋼」を
コップでちびちびとやりながらもう宴会気分。
お酒の好きな人はこういう楽しみがあっていいなあと思います。
目的地に着く度にだんだん皆の顔が赤くなっていくのがシュールでしたが、(笑)
結局一升瓶が半分空いたそうです。




そして、最後の見学地、ここが凄かった。
国の重要有形民族文化財となっている「菅谷たたら山内(さんない)」。

ここはかつてたたら師たちの集落でした。
日本で唯一たたらの面影を偲ぶことができる場所です。
「山内」とは、製鉄施設と職能集団の移住空間の総称です。


この建物は「大銅場」。
鉄を溶かして最初に生まれる「(けら)」を割る作業が行われました。

建物の中には約200貫の大きな分銅が吊ってあり、これを落としてを粉砕したそうです。



その分銅を持ち上げるのは水車の回転する力を利用しました。
水車によって取り込まれた川からの水は、製鉄に使われたり、
溶けた鉄の塊を最初に投入するための人工池に注ぎ入れられたりしました。



どのように水を引き、どう分銅をひっぱったのかはわかりません。
水路は一部だけがこのように保存されています。



この辺一帯がたたら師たちの生活の場そのものでした。
しかし、今時このような風情が残された(再開発ではなく)集落が他にあるでしょうか。

岡本太郎氏が島根国体のモニュメントを依頼されて出雲来訪したのですが、
鉄の博物館などでは超不機嫌だったのが、この景色を見て上機嫌になったそうです。



解説をしてくださったのは、ここで生まれ育ち、
小さい頃はここを遊び場にしていた、という方でした。

後ろには「たたら侍」という映画のポスターがあります。
よくわかりませんが、EXILEの人たちの映画みたいです。
EXILEについてはわたしは曲以外のことはあまり知らないのですが、

伝説の地 奥出雲に 天下無双の鉄があるという

名刀を生み出す 唯一無二の鉄、玉鋼。

生まれたときから玉鋼を作ることを宿命づけられた男が、

侍に憧れて旅立った。

後に人はその若者を「たたら侍」と呼んだ。

というサイトからのあおりを見る限り、面白そうです。
EXILEの青柳翔、AKIRA、小林直巳、三人のポスターは
この菅谷高殿で撮られ、(映画もね)今島根県下で見ることができます。

『世界に誇る日本を最高のエンタテイメントに』をキャッチフレーズに、
2016年の冬以降(っていつのこと?)公開されるそうなので、
是非そのときは脚を運んでみたいと思います。



先ほど解説の人が立っていたのはこの内部。
なんと!築200年なんだそうですよー。
ガラスは所々歪んでおり、それが100年くらい前のもの。
もっと古いガラスには気泡が入っているものがあるのだそうです。
出来た当初はガラスはなく、戸板だったのではないかということでした。



水車小屋の向こうに凛として枝を伸ばす大木は、たたら師たちの
「御神木」とされてきた桂の木で、樹齢200年と言われています。

たたら師たちがここで操業を始めた頃に植えられたことになります。



木の幹にはお賽銭箱がくくりつけられ注連縄が貼られていました。
ちなみにこの横にあるカーブミラーですが、
曇ってしまって何も映っていません。
今は葉を落としていますが、秋の紅葉は見事だそうです。



左から築200年の住居であった三軒長屋、そして米倉。
今工事中なのは元小屋といい、事務所のような役割をしていた建物です。



そしてここが文化財の中心である菅谷高殿。
企業たたらとして固定した施設で製鉄を行った跡です。



宮崎駿氏もここにたたらの見学に訪れました。
ここは1751年にこの施設でたたら製鉄が始まり、
170年間の長きにわたって操業が続けられ、大正10年にその火が消えました。

手作りよりも機械化された産業製鉄の方が安価に大量の鉄が取れるからです。



しかし、純度の高い「和綱」でないと日本刀はできません。

皆さんは「靖国たたら」という言葉をご存知でしょうか。
たたら製鉄が大規模な近代製鉄にその主役を譲った後も、
陸海軍の将校が必要とする軍刀は相変わらず「たたら」で作られました。
終戦末期になって鉄が不足してきたとき、「一応鉄」というだけの刀が
出回ったそうですが、当初は特に士官の指揮刀、海軍士官の短剣は
ちゃんと「和鋼」から打ち出した刀だったのです。

昭和8年、軍刀の供給を目的とした「日本刀鍛錬会」が創立され、
「和鋼」を作るために、鳥上(斐伊川上流)に「靖国たたら」ができました。

そこで終戦までたたらが行われていましたが、昭和20年、敗戦とともに途絶えました。


ときは流れて昭和52年。
「靖国たたら」は「日刀保たたら」と名前を変え、
技術と伝統の保存を目的に昭和52年、復活されました。
先ほど博物館で見た巨大なたたら炉は、この日刀保たたらのものです。

日刀保たたらは毎年2月「たたら」操業を行います。

まず炭を作り、炉を作ることから操業が始まります。
炉の下から風を送りながら、木炭と砂鉄をかわるがわる入れていきます。
(このとき人力のふいごを使うのかどうかはわかりませんでした)

時間がたつとともに、砂鉄は還元され鉄になり、 さらに炭素を吸収して
ズク(銑鉄)が炉の下の穴から流れ出てきます。
そして最後に「(けら)」できるのです。

炉を燃やし続ける作業は70時間、計3回行われ、
約2トンの玉鋼が生み出されます。

この玉鋼は、約250人いる全国の刀匠に配られ、刀として命を吹き込まれます。




ここには村下の一番偉い人が座って作業を監視しながら指示を出していました。
ここでも作業は冬に行われたのか、一人用の火鉢跡があります。



天井が高くないと、熱を取り込むための酸素が不足します。
なにより、数千度の火が燃え盛るのですから、低いと火事になってしまいますね。



向こうに向かって坂になっています。
石炭を集積していた場所だと思います。



これが炉。
ここに投入された砂鉄は、木炭の燃焼によって還元、溶融され、
そののち鉄塊が生成されるのです。





炉にはふいごから空気を送り込むためのパイプ(竹ですが)が
このように均一に炉の底に連結しています。



そして、ここではこのようなふいごを踏んで風を送り込みました。
1時間踏み続け、「代り番子」で休みなく高温の火を保ちます。

たたらは砂鉄と木炭を交互に装入する3昼夜の操業の後、
できあがった鉄の塊である約2.5トンほどの「(けら)」を釜から出します。
この釜を壊す作業とそののちを引き出す作業を「(けら)出し」といいます。

一連のたたら操業のなかで、クライマックスともいえる場面です。



使用済みの炭を捨てるところだったと思います。



このように至る所に隙間ができているので、高殿の中は震え上がるくらい寒かったです。
外に出てホッとしたくらいでした。



高殿の道を挟んで向かいには、かつて人工池の跡がありました。
(けら)出しのとき真っ赤にに焼けたをここに落とし込むのです。
そのとき、鉄は凄まじい音を立て、瞬時に水が燃えます。



工事が完了したら改めてここを訪ね、今度はたたら関係者だけが住んでいた町が
今はどうなっているのか、集落を歩いてみたいと思いました。



飛行機の上から見た島根県は、山あいに小さな集落があるのに気がつきましたが、
それらはこのような昔ながらの集落がそのまま残り、現在も人が住んでいるらしい、
ということを今回聞きました。

かつてのたたらの民の子孫たちは今、どのようななりわいを持ち
どのような暮らしをしているのでしょうか。




この川も、かつて製鉄のために引き入れたものだとこのとき聞きました。



たたらの民に製鉄を教えたのは「金屋子」という神様であったと伝えられています。
菅谷高殿のすぐ裏には「金屋子化粧の池」があり女神の金屋子神は
この池を鏡にして化粧をされるとされていました。

製鉄に女性が携わることができない理由は、この女神が嫉妬するからです。
宮崎駿監督も「もののけ姫」を制作するにあたってまさにここにきたそうですが、
あえてこの部分を無視して「女性上位のたたら」を創作しました。
村のトップにエボシ御前という女性を据えた関係でしょうか。 

 
奥出雲の「たたらの里」を訪ねる旅。
EXILEの映画ではありませんが、それは日本の魂を再発見する旅になることでしょう。
皆様も如何でしょうか。


終わり。


 

ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

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本日タイトルはアメリカの「レジェント」といわれたスナイパー、
クリス・カイルを描いた映画「アメリカン・スナイパー」から取りました。

伝説のスナイパーとは、「白い死神」といわれたフィンランドのシモ・ヘイへ、
「ラマディの悪魔」クリス、「ホワイト・フェザー」ことカルロス・ハスコック、
記録の上では世界一である朝鮮戦争における中国の張桃芳などがいますが、
当然のように全員が男性です。
そもそも狙撃手に女性がなるということがないので当然ですが、
その中で何人かの「レジェンド」を排出している国があります。
 


先日、アメリカ軍における女性の登用について書きましたが、
第一次世界大戦で、女性の役割は看護師としてに限られていました。
唯一そうでなかった国が、ロシアでした。

女性の入隊を正式に許可していたわけではなかったので、女性は
変装したり(!)あるいは暗黙のうちに兵士として部隊に参加していました。
最前線のコサック騎兵の指揮を女性の少佐が執っていたという話もあります。

基本的に女性でもなんでも参加したければどうぞ、という感じだったのね。

マリア・ボチカリョーワという軍人は「婦人決死隊Women's Battalion of Death」
を率いて前線に立ち続け、西部戦線(レマルクのあれ?)でも戦っています。
ボチカリョーワは一度アメリカに亡命し、そのときにロシア軍の実情、
男装して戦っている女性兵士が数多くいることなどを著書にしていますが、
その後再び戦列に復帰するために帰国したところボルシェビキに逮捕され、
(これが最初の逮捕ではなく、前回、前々回と内部の者に逃がしてもらっている)
ついに銃殺されてしまいました。

そういう素地というかお国柄なので、当然ながらソ連となったあとも、
戦線には女性が普通に立っていました。

ソビエト連邦軍に所属していた女性は80万人と言われ、全体の3%でした。
1941年、ドイツがロシアを攻撃したとき、そのうち数千名が
隊から離れたということですが、全体数が多く、パイロットや狙撃手など、
特殊な技能を持って前線で戦う女性兵士はむしろ奮い立ったのです。

以前、「レニングラードの白百合」とあだ名されたリディア・リトヴァクと、
「ソ連のアメリア・イヤハート」、マリナ・ラスコヴァ、エカテリーナ・ブダノワなど、
ロシアの女性パイロットについて一度お話ししたことがあります。
彼女らは男性と同じ戦闘機で男性の部隊に加わって戦闘を行っていました。

ソ連は、女性が戦闘機に乗って戦うことを可能にした最初の国家で、
彼女らの中から少なくとも20名のヒーロー、そして二人のエースが誕生しています。

ソ連と共産主義国家のジェンダー事情についてわたしは寡聞にして知らないので
なんとも判じかねるのですが、もしかしたら人民平等を謳った共産主義とは、
ジェンダーフリーも内包していた(理想として)のかもしれないと、
このソ連という国家が前線に女性をバンバン投入したのを見ると思ったりします。

そんなソ連ですから、陸上部隊の戦力として女性に狙撃手をさせることにしたのも
ごく自然なことであったという気がします。

現在でもオリンピックのエアピストル競技は、男女共通で行われます。
2位と3位の男性が、小柄な優勝した女性を二人で抱え上げている写真を
(しかも彼女は東洋系だったと思う)見たことがありますが、
性差に関係なく結果が出せるのが、1対1で対峙することなく敵と戦える
銃撃手だとソ連は判断し、戦闘機パイロットがそうだったように、
志願した女性兵士の中から”レジェンド”といわれた女性狙撃手が出ました。

本日画像にしたのは、特に美人と言われた4人のスナイパーです。

左のリュドミラ・ミハイロブナ・パブリチェンコは、
たとえて言うならソ連のクリス・カイルのような存在だったと思います。
本日表題の「ロシアン・スナイパー」は当初の洒落のつもりでしたが、
パブリチェンコのことを調べていて、彼女の生涯を描いた2014年映画、

「ロシアン・スナイパー」

という映画があったことが判明しました。

Russia Sniper Army Meilleur Film d'action Complet en Francais 2014


フルでアップされているのですが、残念ながらフランス語版です。
パブリチェンコの銃撃シーンはとりあえず11分頃に見ることができました。


もともと学校のクラブで射撃部に入っていたパブリチェンコは、
ドイツが侵攻してきたときキエフ大学で歴史を学ぶ学生でした。
志願して狙撃隊に入隊した彼女は教育隊で驚異的な成績を上げ、
配属された部隊が行った防御戦では初陣にもかかわらず2名を射殺しています。

その後は独軍の侵攻を食い止めるため、前線に配備され続けましたが、
彼女は枯草で偽装して狙撃陣地に潜み、敵を一旦やり過ごしてから
その後背や側面に向けて700~800mの長距離から狙撃を行う、
という戦術を用いて多大な戦果を挙げたといわれています。

彼女が狙撃し射殺した公式の記録は309名であり、そのうち39人は
ドイツ軍の狙撃手(つまり同業者)でした。

短期間に少佐にまで昇進し、全軍にその名を知られるようになったため、
ソ連は彼女を失うことを恐れて教育隊の教官に任命し後方に下げました。

そして、国民的英雄である彼女の名声を利用して、軍は女子の狙撃手を募集し、
彼女に憧れた女性らが志願し、約2000名の狙撃手が生まれたそうです。


写真に残るパブリチェンコはシャープな感じのする美女ですが、
やはり美貌を謳われていた狙撃手にローザ・エゴロブナ・シャニーナがいます。

パブリチェンコより9歳年下(1924年生まれ)のシャニーナの名前は
ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルグから取られました。
戦争が始まるまでは学費を稼ぐために保母をしていたシャニーナは、
1941年にドイツが侵攻後、入隊していた兄が戦死したことで、彼女は
自分も文字通り銃をとって戦うことを決意します。

志願して女性狙撃手となった彼女は、1943年から2年間の軍歴の間に
少なくとも54人を狙撃によって殺傷したと言われてます。
自身も戦傷を負い、女性で初めて英雄メダルを授与されました。

1945年1月20日、東プロイセンの前線で歩兵将校を守るために戦っていた彼女は
胸に砲弾の破片が直撃し、翌日亡くなりました。
彼女の部隊はすでに78人のうち72人がドイツの自走砲によって戦死しており、
彼女自身も多分自分は戦死するかもしれないと手紙に書いています。

戦死したとき、彼女は20歳と10ヶ月でした。


中央上段のクラウディア・カルディナ・エフレモブナの写真は、まさに天使。
ロシア人にしては小柄で(157センチ)アイドルのようなキュートな女性です。

彼女は1926年、シャニーナより2歳年下です。
戦争が始まったとき彼女は15歳で、コムソモール(若者のための組合)
に働きながら参加していましたが、スナイパー養成過程が「セカンダリースクール」
で選択できるということを知り、受けてみることにしました。

彼女はそのとき17歳。養成過程の最年少でした。
この写真もその頃撮られたものだと思われます。
彼女は他のスナイパーのように多くを殺傷したわけではありませんが、
特筆すべきは高校生の年齢の少女が人間を殺すために戦線に立っていたという事実です。

クラウディア・カルディナインタビュー

ここに、2010年、84歳の彼女にインタビューした記事がありますが、
ここで彼女は 最初にドイツ軍が侵攻してきたとき、
そこにいた何人かの女性狙撃手は人を撃つのが初めてで
どうしても最初に引き金を引くことができなかったと語っています。
その晩、自分のことを「弱虫!弱虫!」と自己嫌悪にかられて罵り、
次の日にはマシンガンを構えたドイツ兵を彼女はためらわず撃った、と。

一番右、アーリャ・モロダグロワは、その発音不可能なミドルネームからも
わかるように、カザフスタンの出身です。
カザフスタンの人々には東洋的な風貌が多々見られますが、彼女も
大変オリエンタルに見える女性です。



1925年、カザフスタンのブラクで生まれた彼女は幼いときに両親をなくし、
(一説ではじゃがいも畑で不法侵入を疑われ撃ち殺されたという)
叔父に育てられましたが、その叔父がレニングラードに引っ越した際、
彼女を若くして軍の輸送業務を学ぶ学校に登録しました。

4年後、奨学金を得ることができた彼女はそのまま赤軍に入隊し、
そこでスナイパーとしてのトレーニングを受けることになります。

戦闘に投入されるようになったある日、彼女と戦友(女性)は
緩衝地帯で5人の「ファシスト」と出逢いました。
彼らが彼女たちが女性の狙撃兵であると気づくより少し早く、
アーリャは彼らに向かって銃を放ち、一人を射殺しました。
彼女の同僚たちもさらに二人を撃ち、残る二人を格闘の末捕虜にしました。
 


1944年、第43狙撃隊に参加してノボソコルニキの線路で敵を待ち伏せしていた
彼女がふと気づくと、隊長がいなくなっていました。
とっさに彼女は自分が指揮をとる決心をし、こう叫びました。

「祖国のために!進め!」

その号令で全軍がドイツ軍の塹壕に飛び込みました。
マシンガンの掃射によって部隊はドイツ軍を掃討することに成功しましたが、
アーリャ自身は白兵戦の過程で地雷の爆発を受けそれが致命傷となって死亡しました。

時に19歳。

彼女がその生涯で狙撃した敵将兵は少なくとも91名になると言われています。



彼女の記念館の様子も見られます。

Имена - Алия Молдагулова (RU)

4分頃、女子狙撃隊の訓練や更新の様子が見られます。



イラストでご紹介できなかった女性狙撃手以外にも有名な何人かがいます。

タチアナ(ターニャ)・バラムツィナ

1919年生まれ。最終回9伍長。24歳でドイツ軍の拷問にかけられ死亡。
狙撃した敵兵は20名と言われています。
情報を聞き出すために両眼をくり抜かれ、対戦車銃で射殺されるという
無残な最後を遂げています。

ナタリア・コフショワ

1920年生まれ、1941年戦死。
すぐれた狙撃手で、ドイツ軍が侵攻してすぐモスクワでの戦いに参加し、
そこで300名以上の敵兵を狙撃したといわれています。

彼女の最後は、敵の塹壕に手榴弾のピンを抜いて飛び込み、
敵を殲滅するとともに自分も死ぬというものでした。

ジーバ・ガニエワ

1923年生まれ、アゼルバイジャン出身。

ウズベキスタン・フィルハーモニーに付設されたダンスコースで学んでいたとき
ドイツ軍の侵攻がありました。
通信業務とスパイ活動を行っていた彼女は活動中に戦闘に巻き込まれ負傷します。

狙撃兵の女友達がいたこともあって、彼女はそのあと狙撃手となり、
モスクワ攻防戦で21人のドイツ兵を射殺しました。

戦後彼女は学業に復帰し、1965年には文献学の分野で博士号を取っています。 



ローザ・シャニーナの日記には、彼女がほのかな想いを寄せていた
一人の男性のことが書かれていました。


「ミーシャ・パナリンがもう生きていないということを受け入れられない。

なんていい人だったんだろう!彼は殺されてしまった・・・。

彼はわたしを愛していた。わたしは知っている。そしてわたしも彼を・・。

心が重い。

わたしはまだ24歳。だけどもう男の友達は作らない」


心を寄せていた男性の死を嘆いていますが、自分がもしかしたら
恋愛どころか人生を若いうちに終了せねばならないかもしれない、
という危惧を感じている様子は不思議なことにあまり感じられません。


こうして何人かの有名な女性狙撃手が歴史に名前を残していますが、
赤軍は彼女らをを持ち上げて宣伝に使い国民の戦意高揚に利用したため、
実際の彼女らの記録はかなり水増しされていたという説もあります。

しかも生存者は生涯、人を殺したというトラウマに精神を苛まれることにもなりました。
 

彼女らのような若い女性が、対独戦においては2000人投入されましたが、
終戦時に生き残っていたのはそのうちわずか500名であったといわれます。

 

ニューヘイブンの街角

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去年の夏と随分前のことになりましたが、サマーキャンプで訪れた
アメリカ東部の大学街について、息抜きがてらお話しします。

 

キャンプはアメリカ東部名門大学、イエールのキャンパスで行われました。
アメリカの大学、特に名門と呼ばれる古い大学は広大なキャンパスを持ち、
大学の敷地がほとんど街3つ分くらいだったりするのですが、イエールも例外でなく、
この辺りには数百年を経た石積みの建築物が延々と続いています。

もちろん近代的設備を備えた最新式のビルも常に建築されており、
大学全体が新旧取り混ぜて渾然一体となっているのです。



何度か展示物についてお話しした、イエール大学の美術館。
建物そのものは「最後の巨匠」ルイス・カーンの最後の作品(1974)で、
細部も新しい設備ですが、古くからの部分も建物の一部としてちゃんと残されています。

これがロビーで、モダンな休憩用の椅子を配しているのですが、



同じ建物の窓はこの通り。
西半球で最も古い大学美術館で、こちらの建築は1832年です。



ガラスがかなり昔のものであることがお分かりいただけるでしょうか。
屈折率が高くて外が何も見えません。



創立当初からある螺旋階段の手すりが優美で美しい。



古代ヘレニズム文明の展示のある部分も当時のままなのですが、なんとここに
「この下にこの人が眠ってますよ」のプレートが。
フランスやイギリスの教会や聖堂などでは、建物の床やら壁やらに
棺を埋め込んでしまって「ここに誰々眠る」という碑を残したりします。
建物の中にご遺体をねえ、と日本人としては妙な気分なのですが、もっと微妙なのが、
皆が歩く床の下に棺を埋めてしまう風習。

ロンドンのセントポール大聖堂に行ったことのある方はご存知かもしれませんが、
あそこは観光客が歩く通路のそこここに棺が収められているのです。
なるほどなあ、と思ったのは、教会のオルガンの床に

「ここのオルガニストだった誰それ、ここで眠る」

とあったことで、このオルガン弾きは、自分が死んだ後も
自分の職場でずっと眠りたいという願いが聞き入れられたものでしょう。

いずれにせよ、われわれの感覚では棺の埋まっている上を土足で歩くのに
失礼というか申し訳ない気がするのですが。



で、ここでお眠りになっているのはどなたかというと、

ジョン・トランブル

説明には、この美術館を作った人物で、パトリオットでありアーティストとあります。 
レバノンに生まれニューヨークに死す、とありますが、このレバノンは
あのレバノンではなく、コネチカットのレバノンです。

バンカーヒルの戦いアメリカ独立宣言、 サラトガ、ヨークタウンなど、
独立戦争にまつわる絵を多く残しています。
ここにはご本人だけでなく、なんと!奥さんも一緒に眠っているとか。



キャンパスは、建物で四方を囲み、内側に公園のような庭があるのが定番。
ハーバードなどもそうですが、アメリカの大学は独自の警察組織を持っていて、
大学警察の名前でパトロールが行われています。



建物のところどころに記念のプレートが填め込んであります。
大抵は誰か有名人の記念だったりするのですが、これは・・・



ノア・ウェブスターの家が建っていた場所。
誰かと思えばウェブスター大辞典のあのウェブスターさんでしたか。
1778年卒業のクラスだったとあります。



学生街には必須の自転車屋さん。
お店の看板に実際の自転車が・・・。



自転車やバイクを放置したら、鍵をかけていてもおそらく1時間以内に盗られるのがアメリカ。
というわけで、歩道にはいろんなタイプの自転車&バイク係留バーが設置されています。
右端の緑のは自転車用で、まるでオブジェのようなのがバイク用。

しかしバーにチェーンで繋いでも、タイヤだけ外して盗まれるのはしょっちゅうです。
日本っていい国なんだと思いますよ。



あるときお昼ゴハンを食べに入ったレストラン。
この建物も相当古いです。
カーテンがありませんが、日差しはどうしているのかな。



メキシコ料理で、石の鉢でウワカモーレ(アボカドとサルサ)を練り練りして潰し、
トルティーヤにつけて食しました。



大学構内にはキャンプを行っている子供達の姿がそこここに。



片方だけジーンズをきっちりと折って裾上げしていた人。
わかりませんが、何か彼なりのこだわりのある着こなしなのでしょう。



この辺にはトウブハイイロリスが多く生息しています。
木の上から降りてきてこちらを気にしながら見つけたものに接近。



木の実だったようです。
リス愛好家としては、可愛さにおいてはトウブハイイロリスより
カリフォルニアジリスやシマリスの方が上だと思っていますが、
それでもリスを見ると目の色変えて写真を撮ってしまいます。



何も手を入れられていない芝生だけの広場、という贅沢なものが
ふんだんにあってしかも立ち入り自由なのがアメリカ。
この写真も日陰をズームすればたくさん人がいますが、日向で寝ているのは一人。



靴がでかい(笑)
居眠りしながらついでに日焼けもしてしまおうという考え。



さて、「オールドキャンパス」というところにやってきました。
息子はここでキャンプに参加していたのですが、キャンプ半ば頃、
様子を見るために連絡を取って自由時間に会うことにしたのでした。



このゲートの内壁にも記念のプレートがいくつか。
1895年卒業クラスによって作られた「ベンジャミン某」の思い出のための碑。
亀の甲文字でほとんど解読できません(笑)

卒業20年後くらいの皆がまだ壮年のとき、若くして先立った級友のために
クラスの皆が集まったのだと思われます。
そのときこの前に立った彼らのうち誰一人として、もうこの世にはいません。



ロバート・ヒクソンという卒業生は、調べたところ「ロバート・ヒクソン基金」
という奨学金のファンドに名前を残しています。
基金設立は亡くなった夫の思い出のために未亡人が行ったとか。

アメリカ人は、イエールやハーバードに限らず、自分の卒業大学に卒業後も
寄付を続けたり、財を成せば多額の基金を自分の名前で設立したり、
自分の名前の学舎を持つことに大変熱心です。



オールドキャンパスの中庭では、息子のキャンプの一団が野外のゲームに興じていました。



しかし息子はビルから「洗濯機がなかなか空かなくて大変だった」
とトホホなことを言いながらドミトリーから出てきました。



待ち合わせしたのは

NATHEN HALE

の銅像の近く。
ネイサン・ヘイルはイエールの卒業生で、アメリカ独立戦争のとき
アメリカ初のスパイとしてイギリス軍に絞首刑になった「コネチカットの英雄」だそうですが、

「彼が何をしたからではなく、彼が何故それをしたかのために、
アメリカの英雄に含まれている。
ネイサン・ヘイルは将軍のテントがヘイルの学校校舎の直ぐ隣にあったので
イギリス軍をスパイした」

という説もあるようです。



ABRAHAM PIERSON(アブラハム・ピアソン)の像。

ピューリタン派の牧師で、彼自身はハーバード大学を卒業しており、
のちにイエール大学になる学校の創始者です。
1702年、日本では元禄年間にこの大学の歴史は始まりました。



イエール大学の学生もスターバックスがないと生きていけないようです。
いつ行っても、勉強している学生でテーブルが占領されています。

となりのパネーラなどとは明らかに学生占有率が違うのですが、
コーヒーが飲める「公共の場所」のような雰囲気が好まれるのかもしれません。





 

「カミカゼの道」〜空母「ホーネット」博物館

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ドーリットル隊とその空襲についての資料が展示されていた近くに、
特攻隊の資料がありました。
それが先日”「タイコンデロガ」に突入した二機の零戦」”でご紹介した
零戦の破片であり、「ランドルフ」に突入した搭乗員の遺した
酸素マスク(黒髪坊主頭のマネキンをわざわざ用意して展示していた)です。



柱の向こうにそのマネキンの後頭部が見えているわけですが、
ここに貼られているパネル、「Kamikazes!」と赤い字で書かれた
その内容は、アメリカ海軍の「空母」が受けた「カミカゼ」による主な被害一覧。

ちょっと大変でしたが、こういう一覧表もあまり見ることがないので、
全部翻訳してみます。

45年2月21日

ビスマルク・シー CVE-95 
     硫黄島を飛び立ったカミカゼに特攻を受けて沈没 
     戦死者318名
     唯一特攻によって空母が沈んだ例

ルンガ・ポイント CVE-94  
     硫黄島からの特攻、被害軽微

サラトガ CV-3 
     戦死123名 負傷者192名
     修理のため帰国

3月11日

ランドルフ CV-15
     ウルシー湾にて夜襲を受ける
     戦死26名 負傷者105名
     現地で18日で修理を完了

3月18日

エンタープライズ CV-6 
      九州方面からの特攻を受ける
      破損 ウルシーで修復

イントレピッド CV-11
      砲座にヒット
      戦死3名 負傷30名

ヨークタウン C-10
      被害軽微 ウルシーにて修復

3月19日

フランクリン CV-13
      四国からの特攻機が突入 爆撃も受ける
      戦死者800名 負傷者300名以上
      修復不可能で戦線離脱

ワスプ CV-18
      四国からの特攻機によって3番エレベーター損壊
      4月1日には沖縄からの特攻によって
      102名戦死、20名負傷
      修理のためアメリカに帰国 

4月3日

ウェークアイランド CVE-65
                  沖縄からの特攻機によって重篤な損壊
      グアムで修理

4月7日

ハンコック CV-19
      沖縄からの特攻によって
      110名戦死、90名負傷または行方不明

4月11日

エンタープライズ CV-6 
      沖縄からの特攻 損壊軽微

4月16日

イントレピッド CVー11
      第3エレベーターの損壊を修復するために帰国し、
      戻ってきたところで沖縄からの特攻により大破
      戦死者74名 負傷者82名

5月4日

サンガモン CVE-26
      沖縄からの特攻によりフライト&ハンガーデッキ大破
      11名戦死 21名行方不明(つまり戦死)
                修理中に終戦になったので修理中止

バンカーヒル CVE-17 
      沖縄より飛び立った二機の零戦が1分違いでどちらも突入
      戦死者350名 負傷・行方不明者300名
      ミッチェル提督とスタッフはこのためエンタープライズに移乗

エンタープライズCV-6
      九州からの特攻を受け14名戦死、34名負傷
      ミッチェルはこのためランドルフに移乗
      4日の間に旗艦を3隻変えた


あくまでも空母ですので、これ以外に特攻隊の被害を受けた艦船は
たくさんあることをお忘れなく。
ただ、特攻隊の隊員としても空母に体当たりするのが至上命令であり、
本懐と考えていたので、艦隊の中から他には目もくれず
空母を目指したパイロットが多かったのだろうと推測されます。



サンタクルーズの戦い、ということは日本側で言うところの
「南太平洋沖海戦」のことなのですが、そこで攻撃を受ける「ホーネット」。
「ホーネット」には99艦爆の攻撃が雨あられと襲いかかりました。
このあと「ホーネット」はもえさかり、どちらからも回収不可能になって
結局日本側の航空隊の攻撃によって沈没しています。



ミッドウェー海戦での「ホーネット」。
全体的には例の「七面鳥撃ち」でアメリカの圧勝でしたが、
この時に「ホーネット」から飛び立ったデバステーター爆撃機は
スコードロン全体で生還してきたのは1機であったと書かれています。



 
日本の側からではなく、アメリカ目線で見た「特攻の道」。
ALLEYというのは「レーン」というふうな意味で使われています。

58機動部隊の位置は右下の丸、
彼らは沖縄に地上戦のための支援を行いつつ、
カミカゼを迎え撃ち、喜界島への攻撃も行いました。

この「カミカゼの道」の鹿児島から、というのは
知覧、鹿屋、万世、出水の各基地を指しています。 

 

その「喜界島」を

「サクッと訳すとオポチュニティの島」

としつつ(そうなん?)、ランドルフ甲板上で喜界島を攻撃するための
ヘルキャット、”サンダーバード”が待機している様子を紹介している写真。



前にも一度写真に撮りましたが、ランドルフ艦載のヘルキャット
(のハセガワの模型のパッケージ)。
2年経っていますが、「HASAGAWA」という間違いは直していません。
まあ当たり前か。



日本機を3機撃墜したというマークをつけた機の射手。

「ぼくはアメリカかいぐんのこうくうたい、コンバットチームのメンバーだよ。
パイロットとクルーはぼくのうでにしんらいをよせているんだ。
ぼくはまるでじぶんの体のようにひこうきとガンをだいじにしているんだ。
なぜってこれにぼくたちのいのちが、それだけじゃない、
くにの人たちのいのちと、わるいやつの死がかかっているんだからね!
ぼくはできるかぎりの力でぼくのクルーとひこうきをまもるよ。
かみさま、どうかごかごを!」

と訳したくなる平易な文章だったのですが、なんとこれ1995年に
メンバーが同窓会で集まったとの記念ポスターだそうです。


ところで、日本側の現在に残る記述では特攻の効果を過小に評価し、
無駄死にを印象付ける文書が多いのは前にも言及した通りですが、
上に挙げた空母の被害だけを見ても、莫大なものであったことがわかりますし、
何よりも心理的に彼らに与えたダメージは大変なものでした。

上に挙げた空母のうちの一つ「サンガモン」は、10月25日に
フィリピン方面で特攻隊との死闘を繰り広げ、突入こそ許さなかったものの
(同行の「サンティ」そして「スワニー」に激突)死者、負傷者を出しています。

5月4日の特攻攻撃では「サンガモン」は操舵室、格納庫に莫大な被害を受けました。
この時の生存者の一人が、生き残ったことを喜び合って

みんなでアイスクリームを食べていた時に

みんなでアイスクリームを食べていた時に 

みんなでアイスクリームを食べていた時に 

「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。
私には、あんなことはやれなかっただろう」

と、サンガモンに命中した神風のパイロットを称えたということです。

三回同じことを繰り返したのは、これがアメリカ人にとって
きっととても大事なことだったに違いないと思われたからです。


続く。 



 

「外人石工」の彫った狛犬〜横須賀歴史ウォーク

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以前、コメント欄でさんぽさんに「蜜柑の碑」を教えていただいたとき、
よこすかシティガイドのHPを貼っていただきました。
ふと興味を惹かれるツァーを見つけ、参加したのでそのご報告です。

NPO法人よこすかシティガイド協会は、平成14年発足したボランティアガイドの
団体で、去年法人化してNPOとなったばかりです。
横須賀の観光案内を企画して行っており、シーズンには週1〜2回の割で
ツァーが行われているようです。
こういうツァーに参加するのも米軍基地内ツァーだけだったので、
その雰囲気も含めてどんなものか大変興味がありました。



集合場所は横須賀中央駅前コンコース。
この日は初夏といってもいい晴天でした。
ツァーは基本雨天の時には中止になるようです。



防衛団体のロナルドレーガン見学、そして術科学校見学と
最近横須賀づいていますが、前回から横須賀周辺にはこのような
ジャズを演奏しているおじさんの像がそここにあるのに気付きました。
なぜ上半身裸でサックス吹いているのか教えてくれるかね?



集合時間の30分前から皆集まっていたようです。
来た順に3つのグループになって時差をつけて出発。
わたしはもちろん一番最後の組になりました。

ところで、平日の昼間、朝9時半から2時までのツァーに参加できる
となると、いきおい参加する年齢層は決まってくるわけで、
16歳の息子がいるわたしが文句なく一番若くて、
ツァーガイドのおじさんがわたしを「こちらのおじょうさん」と
呼んだくらい全員が高齢層、おそらく平均年齢65くらいと思われました。
(ちなみにこのおじさんはみのもんたではない)



で、駅から商店街を15〜6人がぞろぞろ移動するわけ。
狭い商店街のアーケードなので、当然普通に歩いている人が
この団体に迷惑しているようすがわたしなど気になって仕方ないのですが、
なんかみんな片側に寄らないんだな。 



なんか見たことあるなあと思ったら、つい先日横須賀鎮守府庁舎の公開で
帰り歩いて帰った商店街でした。

商店街の中にも昔ながらの建物がそのまま残されていることがあり、
これなど外壁に青銅を使っている古い建物です。
昔は旅館だったとガイドの方が言っていました。



このツァーの最初の案内地が「平塚貝塚」。
貝塚とともに全身を伸ばした「伸展葬」で発見された
男性の人骨などが発見されたそうですが、
今そこ近辺は開発されてすっかり住宅地になっています。

つまりその住宅地を見たわけです(笑)

そこを臨むアーケード沿いに、この民家があって、
確かガイドは「発見者の自宅」と言っていたような気がするのですが、
発見者って、当時小学校5年の子供だったっていうし・・。

あ、その子供がここに住んでたってことかな?



このツァーの面白いところは、見学するところが「歴史的名所」に
限らず、一般住宅の建築様式も含むことです。
これも商店街のなかのカメラ屋さんなのですが、この装飾タイルの床が
古いものなのだとか。



同じカメラ屋さんのステンドグラスは、先日旧長官庁舎で見た
同じ作家の手によるものにも見えます。
これも古いものだそうですから、可能性はありますね。



次に訪れたのは小さな鳥居のある中里神社。
天照大神と宇賀御霊尊がご祭神で、1817年に創建されました。



明治41年(1909)に再建されたという本殿。



お鈴を取り替えたのか、古いのがただポツンと置かれていました。



拝殿の軒下に、すっかり風雨にさらされて文字の消えた額がありましたが、
これは大正11年にかけられたもので、当時の歌人、松竹庵梅月の弟子が
当地をテーマに詠んだ詠の俳額なんだそうです。

わたしが解説でピンと引っかかったのは、この梅月という歌人が

海軍工廠に勤めていた

という一言。

「海軍工廠で何の仕事をやってたんですか」

とガイドの人に聞いたのですが、

「・・・あまり詳しく聞かないように」

とのことでした。orz
そこで独自に調べた結果(ツァーの間もiPadでも調べられる)


●梅月の句作は数万、門弟は、全国に七千人近くいた
●明治7年(1864)、本県中郡に生まれ、本名は石井広吉
●21歳で立机(りゅうき=宗匠つまり師匠)となる
●日清戦争直後、横須賀に来た梅月は、田浦町三丁目の静円寺近くに住み、
海軍工廠へ務める傍ら、門下の指導に専念
●工廠で働きながら、門弟の指導や全国的な仲間づくりに励むー方、
隣近所の子供たちの育成に尽した

ということまではわかりましたが、肝心の『工廠で何をしていたか」
はどこにも出てこず全くわかりませんでした。
技術者や工員ではなく、事務職だったのではないかと思われます。

ちなみに梅月の出版していた俳誌は

「軍港の友」。

その最後は、昭和14年(1939)、日中戦争で北中支に転戦する
将兵の慰問を行うため中国に渡りましたが、彼地でマラリヤを病み、
それが元で3年後、68歳で亡くなったというものです。

この慰問というのも何をもって将兵の慰めとしていたのかわかりません。
このころは俳句も歌舞謡曲のような「慰問」のカテゴリだったのでしょうか。

いずれにせよ、かつて海軍工廠に勤めていたことと、この戦地慰問には
それを志願するにあたって何らかの因果関係があったと思われます。

梅月が中支に渡る前の壮行会で撮られたらしい写真が
このページの真ん中ほどにあります。

ふるさと横須賀 松竹庵梅月

このような老人を慰問のためとはいえ戦地に送るというのは
無謀というか無茶にしか見えませんが、
ご本人の固い意志からだったのだろうなと思わされます。



横須賀の街には京都とは全く違う、このような廃屋が結構たくさんあります。
ガラスの感じから見て昭和2〜30年の間の築でしょうか。
同行の参加者が、右端の出っ張りを指して

「こういう家は廊下の端に必ずトイレがあったんだよな」

などと懐かしがっていました。



次の見学地は「横須賀上町教会」。
現在は幼稚園として使われているので中を見ることはできませんが、
昭和6年に建てられたこの教会本堂は国の登録有形文化財になっています。

昭和6年というとまだ100年も経っていません。
ヨーロッパはもちろん、アメリカでもボストンなどでは
200年前に建った教会が街ごとにあって、特に文化保護もされていないわけですが、
日本という国は、その歴史の長さの割に、特に建築が残されない国だと思います。

もちろん地震や戦争で多くが喪失したという面はありますが、
それ以上に「土地がない」「財政がそれを支えられない」というだけの理由で
この世から永遠に消えてしまった歴史的な建築物がどれほどあることか・・。

建築ではありませんが、冒頭の「平坂貝塚」にしても、現在は
民家の敷地内にあるらしく、すでに一般人が見ることはできなくなっています。



この教会は家具や照明器具にいたるまでが当時のもので、
オルガンもそのまま置かれているのだそうです。



教会の建っている造成地の壁も昔のまま。
当時は砂利をそのまま入れて使ったんですね。



そのまま上町商店街の裏道を歩いていきます。
こういう昔からの家にも普通に人が住んでいます。



ここも思いっきり築年数の経った家ですが、現在ITサポートセンター。

建物の横にカギ型の釘が幾つも突き出していますが、
これはガイドさんによると「火伏せ」といって「火除け」だそうです。

「具体的にどう役に立つのか知ってます?」

と逆にガイドさんに皆が聞かれてしまったのですが、検索しても
「火伏せ」とは火除けのまじないという意味しかでてきません。



こちらの青銅の外壁を持つ家の側壁にもたくさんのカギが。

わたしの想像ですが、建物が密集しあった当時の街では、
一旦火事になったら建物を倒してでも延焼を防ぐしかなく、
そのため外壁にカギをつけておいていざとなったら倒壊させたのかな、と・・。

どなたかこのカギについてご存知の方がいたら教えてください。

 

次の予定地は「深田台神明社」ですが、
山門?に建てられている石柱にはなんか別の文字が・・・。


で、この石柱を寄贈した人の名前が「小泉又市」とあるので、
皆が「小泉さんの親戚だ!」と断定的に言い切っていたわけです。
確かに小泉元首相のおじいさんは「小泉又次郎」という政治家で
飛び職人から横須賀市長、逓信大臣にまでなった「豪傑」でした。



一番左小泉純一郎、その右又次郎。
一番右の男前は婿の小泉純也。
小泉家のイケメン血筋はこの純一郎のパパによってもたらされた模様。

で、調べてみたんですが、小泉又市という人、小泉家の家系に出てきません。
又次郎さんの名前からみて、こちらがお兄さんだったのかなという気もしますが・・。



さて、この神社、横須賀独特の住宅街の中の細い道の石段を
登って行ったところにあり、その手前に

「納 御神燈」

とありますが、肝心の御神燈はどこにあるかわかりませんでした。
この神社は1871年、もとあった米が浜に陸軍の砲台が作られることになったので、
ここに移転してきたのだそうです。



で、この鳥居の手前、片側にだけ鎮座する狛犬さん。
気のせいかそのシェイプもユニークですが、それもそのはず、
この狛犬、台座には英文で作者名が刻まれているのです。



ガイドの方にライトで照らしてもらったのを撮りました。
現地では暗くて全く読めなかったのですが、こうしてみると

Carved by B. Chifiyei (ーB.以下まったくの推測ーによる彫刻)


と読めないこともありません。
当時石を彫るのは大変だったらしく、最初の彫り始めと最後では
まったく気合の入り方が違うのが哀しいですが(笑)
とにかく、これを彫刻したのはこの外人さんだったということらしいです。

彫ったは彫ったけど、芸術家ではなく単なる「石工」だったらしく、
とにかく今では作者についてわかる何の資料も残されていません。

言われてみると、狛犬の風情が「バタ臭い」という気がしないでもありません。 
横須賀の有力者がちょっと変わった狛犬を置いてみようと 依頼したのでしょうか。 



そして、この台座には又次郎の名前がちゃんと刻まれています。

でもおかしなことに気づきました。
神社移転の1871年というと、又次郎さんはまだ6歳のはずなんですよね。

狛犬の設置は少なくとも小泉又次郎が横須賀市長になった
1907年前後でないとおかしなことになってしまいます。

というわけで、これもわたしの想像ですが、この狛犬は当時
明治政府が採用していた「お雇い外人」の関係者が、何らかの縁で
移転に際して作ったもので、ずっとここにぞんざいに置かれていて、
30年経ってから、横須賀地元の有力者が何かの記念にあたり
あらたに台座を作って現在に至る、という経緯だったのではないでしょうか。


続く。


 

日蓮の寺と海軍「千島艦事件」〜横須賀歴史ウォーク

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こういった「市民参加型」の歴史探訪ツァーに参加するのは夫婦二人でなければ
大抵は一人。
想像したように、写真が目的でフル装備できたような人は少なくともおらず、
かろうじてわたしのグループにはわたし以外に一人、コンデジではない
カメラを携えてきた男性がいたのみです。

いわゆる亀爺はこういうのには参加しないのかもしれませんね。

アメリカだとこれが一緒に移動している間に誰彼なく話しかけ、
和気藹々となるわけですが、ここは日本、夫婦参加の二人とか、
ツァーにもう二人同行しているボランティアのガイドさんに
メインのガイドから遠いところで話しかける以外は、見事に黙々と、
特に移動の時などは押し黙って列が進みます。

団体でワーワー騒ぎながら歩くのは論外ですが、日本人の団体は
本当に空気を読みまくるというか、人見知りだなあと感じました。

さて、そんな団塊の世代の実態を観察しているうちにも
さくさくと行程は進みます。



上町教会からしばらくいったところに、一見モダンな教会が。
ここは特にツァーに含まれていたわけではありませんが、
日本キリスト教会の前を通ったとき、ガイドの方が

「戦後進駐軍のアメリカ人に追いかけられた女性がここに逃げ込んだらしい」

という、噂ともなんともつかない話をしました。
調べたところ、そういう話は表向き残っていませんが、
横須賀で生まれ育ったというその方がどこかで聞いたことのある話なのでしょう。



さて、この次は日蓮宗寺院である「龍本寺」へ。
正式には「猿海山龍本寺」というそうです。

日蓮上人は京都で修行をしましたが、関東地方でも
辻説法などの方法で布教を行いました。
ここで日蓮の弟子が開山したのがこの龍本寺です。



本堂の立派な門の飾りには、舟があしらわれています。
その下側には寺の名前にもなった龍がいますね。

日蓮伝説によると、日蓮が房総から布教の地を変えるため、
鎌倉まで舟で移動する途中海が荒れ、船底に穴が開き海水が入ってきました。
聖人が題目を唱えると、一時に風波がしずまり、
船底の穴には、あわびが密着して海水の侵入が防がれていたということです。

この木彫には嵐の中題目を唱えている日蓮上人の姿が見えます。



本堂の屋根を望遠で撮ってみました。
鳥避けにまるでまつげのように(笑)針が設置してあります。


いつもは本殿は公開されていないのだそうですが、今日は
本殿に改修工事が入っていたせいか、中に上がって見学することができました。



日蓮宗というのは感じですがこういう装飾に凝るような印象があります。
まるでシャンデリアのような本堂の照明が華やかさで目を引きます。



創建当時からあるのかどうかはわかりませんが、お猿さんの木彫りが。
猿というのは大変日蓮伝説にとって重要なアイテム?で、
例の嵐の後アワビが舟の穴をふさいで沈まなかった日蓮の乗った舟は、
豊島という小さな島にたどり着きました。

日蓮上人がこの島に上陸すると、どこからともなく一匹の白猿が近づいてきて、
法衣の袖を引き、陸の方を指しました。

それが現在の横須賀です。

猿が指差したからといってそこに行ってみようと思った日蓮の
真意は今にして思えばなんだったのでしょうか。
真面目に考えないように、と言われそうですが。

日蓮は船で、白猿の指示した岬へ向かいましたが、
ひどい遠浅の浜で、船がそれ以上進みません。
そこになぜか、すそをからげて船に近づいてきた人がいました。
いまでも横須賀にある石渡家の先祖・石渡左衛門尉でした。

この人の足から血が流れているのを見て、日蓮は題目を唱えました。
するとそれからこの浜で取れるさざえには、角がなくなったそうです。
浅瀬のサザエには元々角ができない、という説がありますがそれはスルーで。

ちなみにサザエの角はとれましたが、石渡左衛門尉の血は止まらなかった模様。
というか、目の前で人が怪我してるのにサザエの角とってる場合か?
という説もありますがこれもスルーで。 


ところで猿が出てきた豊島ですが、他でもない、
現在猿島と呼ばれているあれです。



右側に黒い厨子が安置されているのですが、その中には
船の穴を塞いだアワビが安置されているという話でした。

ただしこのアワビは嵐の時に穴をふさいだのとば別のアワビです。
日蓮上人という人はあまり派手に辻説法で他宗教を非難するので、恨みを買い、
ついに佐渡に島流しされています。
その際、日蓮上人を亡き者にしようとして船には穴が開けられていたのですが、
またもやその穴はアワビに塞がれていたというのです。
つまり、日蓮上人は二度もアワビに船の穴をふさいでもらって助かったのです。

貝類がよく登場するのは、信仰していた人々が横須賀の漁民に多かったからでしょうか。




本堂の欄間に相当するところにはこのような彩色された絵があしらわれていましたが、
どうもこのシーンは日蓮上人がお亡くなりになったところを描いているようです。

日蓮上人は1282年、60歳で病気のため亡くなっていますが、
60歳というのは当時にすれば長生きでしょうか。



寺の見学を終えた私たちグループは、山門とは違う出口から
目もくらみそうな階段を降りて行きました。
雨の降る日はとても怖くて降りられないような急な階段です。



階段を降りていったところ、冒頭写真の「お穴様」がありました。
お穴様とは、日蓮上人がこの地にやってきた時に修行した洞窟だそうです。
ご存知と思いますが、

「南無妙法蓮華経」

というのは日蓮上人が唱えた言葉で

「法華経の教えに帰依をする」

という意味です。
日蓮が21日間篭り、大願成就の祈念を行なったと伝えられる座禅窟です。
その後、日蓮は当初の目的地だった鎌倉へと向かったとあるので、
この地に立ち寄ったのは日蓮にとってはちょっとしたアクシデントだったことになります。



洞窟というより洞穴ですね。
21日間修行をしたと言っても、弟子が掘った穴に座っていただけではないのか、
などというとバチが当たりそうなので言いませんが(言ってるけど)

内部はだいぶ修復を繰り返されて今では天井はコンクリートばりです。
御祈祷のための椅子が設置されているあたりが親切です。



おそらくこの奥に鎮座しているのが日蓮上人のつもり。
当時の日蓮上人を描いた絵を見ると、どれも目がぱっちりしていて、
今でいうかなり濃い顔だったのではないかと思われます。

「日蓮と蒙古襲来」という映画では長谷川一夫、1979年の
「日蓮」では萬屋錦之介が日蓮を演じており、わたしの思い込みだけでなく
日蓮が目力のある人であったと伝えられているようですね。
それでいうと、これはあまり日蓮に似ていそうにありません。

さて、わたしたちが龍本寺に到着したとき、最初のグループがまだ見学をしていました。
一度に50人くらいが本堂に入ることはできないので、わたしたちはしばらく待たされました。



その間、わたしはお寺の手水場からまっすぐ伸びる小道の向こうにある
墓所を眺めるともなく眺めていたのですが、ふと勘が働きました。

横須賀のお寺なら、もしかしたら海軍関係者の古いお墓があるかもしれない。

いや、そこまで具体的に考えていたわけではないのです。
後から考えるとそれはまさに「引き寄せられた」としか思えない
自然さで、わたしは脇目も振らず一つの大きな墓石に向かっていました。



実は近づきながらすでに視界に「海軍」の文字を認めていたのかもしれません。
「海軍機関士」、つまり軍艦の機関士5名の慰霊碑ではなく「墓」です。

なぜ5名が合同で墓所に入っているのかというと、おそらくそれは
遺骨がなかったからではないでしょうか。

ドキドキしながらわたしはそーっと後ろに回ってみました。



全文漢字でしかも花崗岩に彫り込まれた文字は読むのに大変苦労しましたが、
それでもこの機関士たちが「千島」の乗員であったこと、全員が溺死したこと、
そしてこの碑の揮毫を行ったのが、このブログでも2回取り上げたことのある
伊藤 雋吉(いとう としよし)海軍中将であることはその場で読み取れました。

伊藤中将は達筆で有名で、いろんな揮毫を請け負ったそうですが、
1895年(明治28)、この碑が建立されたころは、海軍中将のまま
共同運輸という会社の社長を務めていたことになっています。
おそらくやはりこの揮毫は達筆を見込まれたからに違いありません。


さて、調べたところ、この5名の機関士は千島艦事件といって、
1892年11月30日に日本海軍の水雷砲艦「千島」がイギリス商船と衝突、
沈没した事件による犠牲者であるらしいことがわかりました。

全文漢字ですが、苦労してわかるだけ翻訳してみます。

帝国海軍千島はフランスの造船会社によって建造された。
完成したので愛媛県興居島の海峡付近を航行していたところ、
イギリスの商船「羅弁那号」(ラヴェンナ)と衝突し、死者を多数出した。
ときに明治25年11月30日のことであった。

ここからは翻訳できなくて諦めました(おい)
とにかく、そのときに溺死した5名の機関士たちは職に命を賭したので、
その名をここに残す、というようなかんじ(適当)です。

このときに殉職した「千島」の乗員は74名でしたが、この5人の機関士だけが
ここ葬られている理由についてはよくわかりません。
この5人が横須賀の造船所から選抜されたという記録はあるようなので、
つまり横須賀出身の「千島」乗組員は彼ら5人だけだった可能性があります。

この「千島艦事件」が特異であったことは、近代化された日本が初めて
海外の法廷に訴訟を行ったという案件だったことです。

イギリスで行われた裁判の結果、第一審は日本側の勝ちでしたが、
85万円の賠償を求めて判決が10万だったので、これをどちらも不服とし、
再審をしたところ、第二審ではなんとイギリスの船会社(P&O)の全面勝訴。
上告しようとするうちにイギリスが和解を申し出、それを受けた日本は
和解金 90,995円25銭(1万ポンドだったので)でそれを受け取りました。

こんなことなら第一審でやめておいたらよかったのでは・・・。 



一部アップしてみました。
「仏国造船会社」「興居島海峡」「機関士溺死者五人」
などの文字が確認されます。

ちなみにこの「千島」という船は通報艦として作られました。

エミール・ベルタンが、自ら信奉するジューヌ・エコール思想に基づいて設計を行い、
1890年にフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工し、1892年に竣工。
最大船速22ノットのはずが試運転で19ノット程度しか達成できなかったため、
1年ほど引渡しが遅れています。

引渡しのためにフランスを出港し、アレクサンドリア、スエズ運河、
シンガポールを経由して、1892年11月24日に長崎に到着したあと、
11月28日に長崎から神戸に向けて出港し、30日に事故に遭遇しました。



ところで、さっきの日蓮上人の最後の姿が飾られていたような本堂の天井近くに、
古くて説明も何もない写真の額二つ掲げられているのに気がつきました。

こちらは写真そのものがぼんやりとしていて、人が並んでいることしかわからないのですが、



もう一枚のこの写真には、明らかに旭日の海軍旗が写っています。
そしてぼんやりとではありますが、後ろにかけられた幟には

「(海?)軍忠死者」

という文字が読めるのです。
皆の後ろにある物体もなんとなく軍艦をかたどったものに見えなくもありません。

前列に座っている5人の若い婦人たちは機関士たちの未亡人で、
学帽を被った少年は遺児だと考えれば、この千島事件の
殉職者の葬式の時に撮られたものである可能性が高くなります。

残念なことに右側の幟に何が書いてあるかは全く読めません。
そう思って先ほどの集合写真を見ると、同じ時に撮られたようですし、
海軍旗のようなものもあるように思えます。
(後列左から3番目と4番目の人の間)


以上はおそらくわたしだけがたまたま発見したことですが、
これが正しいのかどうかは全く想像に過ぎないため確信は持てません。

ただ、日頃から海軍海事に傾倒していることが、これらのことを
今回引き寄せたのかなあ、と少し我ながら不思議ではあります。

今にして思えば、一人で墓石を見に行ったあたりからなにか
導かれていたような気がするんですよね・・。
というわけでこれも何かのご縁、5名の海軍機関士たちの
お名前を最後に記しておきます。


伊藤房吉

山田基

横田鎌三郎

安藤茂廣

田子七郎


合掌。




デッカー司令官の「黒船再来航」〜横須賀歴史ウォーク

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さて、ボランティアガイドに案内されてみる横須賀の街。
そこここにある歴史のよすがを見て歩くツァーですが、
ある意味このレベル?の「遺跡」であれば、都心のように
作りかえられてしまったようなところでなければ、どんな県のどんな地方にも
残っているものではないかと思われました。

横須賀市のえらいところは、そういう、地元の人なら見慣れて
何の関心も持たないであろう歴史的遺跡を、あらためてこのように取り上げ、
ツァーを企画するというところです。

このように紹介されなければ一生知ることのない「小さな歴史」を、
砂浜でガラスのかけらを拾うように拾い上げるという試みは、
たとえ重大なことでなくても少なくとも忘れないで未来に残すことになります。

そしてこの試みのために、横須賀観光局はガイドのボランティアを
常に募集しております。
この日のツァー説明の紙とともに「ガイド応募用紙」が挟まれており、
担当のガイドさんが「この程度ならわたしでもできそう、と思ったらぜひ」
と募集していることをアナウンスしていたので知ったのですが。

坂道を登りながらガイドさんの近くを歩いていて聞いたのですが、
ボランティアのガイドは、1年間の研修を受けないといけないそうです。
何時に講習会が行われるのかは知りませんが、少なくとも仕事があるとダメでしょう。

というわけで、勢いガイドはリタイアした人ばかりになってしまうのですが、
そうなると今度は高齢化で人がどんどん辞めていき、
慢性的に足りない状態なんだそうです。

参加費は300円なので、ガイドにも交通費くらいは出るのでしょうが、
いっそもう少し集めてギャラを出せればもう少し人が来るような気もします。

さて、日蓮上人が3週間座っていた「お穴様」から、次は中央公園へ。



中央公園、別名「砲台山」というそうです。
というのも、ここには昔旧陸軍の米が浜演習砲台があったからで。
今では小綺麗に白いフェンスなど立ててしまっていますが、
この向こうには土塁が広がり、掩蔽壕が二つ並んでいます。

ガイドさんが子供の頃は、何もしていなかったので穴に入って遊んでいたとか。

去年の観艦式の帰りに見た海堡をテーマに、東京湾防衛について書きましたが、
ここもまた東京湾要塞の一つとして、明治24(1891)年に砲台演習場となりました。

ここに据えられていた砲台は以下のとおり。 

28センチ榴弾砲台 6門 明治24年据付完成
24センチ加農砲台 2門 明治24年据付完成

旅順要塞攻撃にはここから運ばれた28センチ榴弾砲が使われました。
昭和2年、田戸にあった演習砲台が関東大震災で破損したため、
その代わりに 二十八センチ榴弾砲4門の演習砲台として改築されています。



未だに石積みの残る砲台跡。
土塁の上に上がってみたところです。
かつてはもっと高いレンガの壁に囲まれていたそうです。

演習場として使われていたものの、戦争になったときにも
ここは演習砲台だったので、結局ここからは一発の実弾を
発車することもなく、昭和20年に取り払われました。

このときにガイドさんが

「空襲のときには実弾を撃っていない」

というと、参加者の一人がなぜかバカにしたように

「どうせ一発も当たらなかったんだろう」

みたいなことを言うので、わたしが内心ムッとしていると、

「ここではないけどB29が来たときには結構な数高角砲で落としてます」

と言ってくれたのでほっとしました。
この年代(団塊の世代)には、何も知らず調べず、戦後の「日本はダメだった」
論調に簡単に賛同して意味もなく昔の日本人を見下したような発言をする人がいます。
判で押したように彼らは日本が一方的に侵略戦争をしたなどと信じていて、
ついでに戦後日本に戦争がなかったのは9条のおかげ、などと思っているのも
この世代に多いことが「シールズ」のデモの年齢層をみてもおわかりでしょう。

ところでこの画面の右側に立っているさびた鉄の柱、
これも昔からあるのでしょうか。
時間があればそこここを細かに見学して歩きたいと思いました。



そして、そんな団塊の世代が元気だった頃、
(ガイドさん曰く、横須賀にお金があった頃)作られた
得体の知れないオブジェ。
人をイラッとさせる不安定なシェイプは、いかにもアーティストの
意味ありげで実は自己満足なだけの”創造の残渣”そのものと言った態です。
(言いすぎてごめんなさいなんていうもんか)

わたしがこれを気に入らないのは不格好なシェイプだけでなく、
全体に配された四角の升目いたるところにプリントされている文字。

「核兵器廃絶、平和都市宣言」

これが、耳なし芳一のお経の文句みたいにいくつもいくつも。


核兵器廃絶も平和都市もそうあるべきだとは思うけど、一言。
まず、そういうことは核を持っている国に向かって言ってくれるかな。

無慈悲な国の核は神奈川に落とされるとイルミナティカードも予言しているし(笑)
いくら平和都市宣言したって、核を持ってる国は照準外してくれないと思うな。
耳なし芳一みたいに核兵器廃絶とそこらに書けば核弾頭は外れてくれるとか?

あ、今思いついた!

9条で日本が核の攻撃を受けないと思っている人って、9条を
芳一の体に書かれた魔除けの経文みたいに思っているのでは・・・。



ツァーガイドは全くスルーして通り過ぎたのですが、
この中央公園のガイド案内にはこの戦没者慰霊塔が載っています。

船の形のようだなあと思ったらやっぱり船の舳先を象っていて、
中には横須賀市内の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での
戦病死者の遺影約3600枚が納められているのだそうです。

塔の内側に金属の銘板が埋め込まれていて、その銘文は

「日本が 世界の夜明けに目覚めてから 今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 横須賀市民は 諸霊の遺族とともに この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって み霊を慰めたてまつる 
昭和四十四年三月誌す 横須賀市長 長野 正義」

平和都市宣言・核廃絶より、ずっと意味があると思うのはわたしだけでしょうか。




海上にぼんやりとかかっているのは黄砂ってやつなんでしょうか。
かつては海だったところに林立するビル越しに猿島が見えます。



アップしてみました。
砂浜に建物があるのが見えます。




ベントン・W・デッカーは、最初の横須賀アメリカ海軍基地司令官でした。
つまり最初の横須賀鎮守府庁舎のアメリカ人住人ということになります。
最初に日本に着任したときには少佐だったそうですが、
英語のデータによると最終的にはリア・アドミラルまでいったようです。

なぜデッカー少将の像があるかというと、横須賀市にとっては
戦後横須賀の復興の恩人であるとされている人物だからだそうです。
この碑にはこのような碑文があります。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、
大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に
絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。

軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために
新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、
更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、
殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が
今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって
吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため
玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。

昭和二十四年十一月

社団法人横須賀商工会議所


昭和24年というとデッカーが任務を終えて帰国したときでしょう。

穿った見方をするわけではありませんが、アメリカが日本をどのように占領するか、
横須賀にどのような占領政策を布くかは一海軍少佐の胸先三寸で決まることでは全くなく、
デッカー少将は司令官としてGHQの意向に添って任務を行っていたにすぎません。

アメリカ海軍軍人として星条旗に忠節を誓ったからには
戦争で手に入った日本の一地方の統治にアメリカ全権として邁進するのは
いわば当然の義務だったといえます。

もちろん、デッカー司令官本人の人徳というものが当時の日本人を感服せしめ、
このような碑を退任早々(昭和24年)わざわざ建てるに至ったの事実でしょうけど。

ここでわたしは「マッカーサー神社」のことを思い浮かべずに入られません。


日本が戦争に負け、昨日までの敵であるアメリカに占領されるとなったとき、
日本人のほとんどは絶望に打ちひしがれ、

「男は苦役、女は皆手篭めにされるそうだ」

という流言飛語が飛び交いました。
ところが、横田基地にマッカーサーが降り立ち、アメリカ軍が進駐してきても
少なくともおおむね彼らは友好的で、聞いていたような乱暴狼藉もなく、
それどころか子供にチョコレートを投げたりする陽気で明るいその気質が
人々をまず安心させただけでなく、本国からは日本にふんだんに物資が投入され、
経済の復興も彼らの援助によって目に見える形で推進されます。

かてて加えて、東京裁判でアメリカは日本国民に「悪いのは軍部」
「あなたたちは騙されていた」と刷り込みショーをおこない、ラジオ番組
「真実はかうだ」などで戦時中の内情の暴露をして、
敗戦に遣る瀬無い思いをしていた日本人の怒りを「日本の軍国主義」に向けました。

敗戦国の貧しい日本人にふんだんに物資を与えてくれるアメリカ人。
「昨日の敵は今日の友」という言葉を日露戦争以来尊ぶ日本人にとって
占領軍が自分たちの救世主のように映ってもそれは当然だったでしょう。

このデッカー司令官も職務に忠実に、誠意を持って当たったがため、
横須賀の日本人に救世主のように慕われたようです。
何しろ当時の日本にはマッカーサーの熱烈な信奉者があふれ、
「マッカーサー神社」を作ろうという話がでるくらいだったのです。

デッカー司令官は確かに横須賀の経済復興に多大な力を発揮したのでしょう。
たった3年の任期のあと離任するにあたって日本人が像まで作るからには、
時々は本国とぶつかってまで横須賀のために尽くしてくれた、というのも
あながち過大評価でもなかったのだろうとは思います。


しかし、それなら現在、このアメリカ軍人の名前が少なくともあの
アーレイ・バーク提督ほど人々の記憶にも、横須賀市の歴史にも残っていないのは
いったいなぜなのでしょうか。

ベントン・W・デッカーは帰国後本を出版しています。

「RETURN OF THE BLACK SHIPS」(黒船再来航) 

読んだわけではないのでなんとも評価できないのですが、
この日本語訳を出版したらしい団体の紹介によると 

ペリーの黒船から日本人は、民主主義を受取らなかったために無益な戦争に走ったが、
今度こそ、日本が民主主義になってもらうため、われわれは再びやってきたのだという
タイトルなのです。 民主主義については、未知であり、無知の日本人に、さまざまな
指導と努力で、短期間に見本を示していった実践の記なのです。

・・・おいおいおいおい(脱力)

そもそも黒船って日本に民主主義をもたらしに来たのかい?
あれは当時の世界の植民地獲得競争に乗り遅れていた米国が、
アジアでの覇権を握るため日本を無理やり開国させて市場を獲得することと、
捕鯨船の太平洋航路の拠点を獲得するためだったというのが定説なんですが。


そもそもこの紹介、この短い文章の中に三回も民主主義を繰り返しておりますが、
これを書いた人も、そしてデッカー少将も、

「日本が黒船から民主主義を学ばなかったから戦争になった」

と心から信じているとしたら、真実の歴史に対して
「未知であり無知」であるのはそちらだと言わざるを得ません。

そもそも民主主義とはなんだ!

とまるでどこぞの偏差値28集団のようなことを言わないといけないのですが(笑)
その基本が議会制民主主義であり、その根拠が選挙制度のあるなしだと仮定すると、
日本は遥か昔、西暦700年頃から選挙制度を取っていますし、
近代の選挙制度は1878年ペリー来航から25年後、明治政府の発足後11年で
制限選挙ではありましたが、政治に取り入れられています。

この人たちのいう「戦前の日本が民主主義でなかった」というのは
いかなる根拠によるものなのでしょうか。

前にも言いましたが日本は天皇という存在があったため独裁政治になったことがなく、
さらに制限選挙がどうこうというのなら、アメリカはデッカーが日本にいた当時ですら、
黒人に公民権はなく、参政権は与えられていませんでした。 

お前らごときが日本に上から目線で「民主主義を与える」などとは
ちゃんちゃらおかしくておへそがお茶を沸かすわ!(独り言です)
 

概して当時の進駐軍はほとんどが

「日本を民主化する」

という態度で占領政策を行っていたのも確かです。

大方が日本人を対等な人間としてみていなかった当時の戦勝国の人間の中では
デッカー少将は甚だ高潔でフェアな人物であったようで、
わずか3年の司令官の任期で戦後日本人の心を鷲掴みにし、
おそらく離任するときには最大の敬意を払われ日本を後にしたのでしょう。

横須賀の司令官を以って軍を退役したデッカー少将は、アメリカで本を出し、
アジアでの珍しい体験をあちこちで講演して回っていたようです。


演題「アジアにおける我々の未来 わたしが日本で学んだこと」
ベントン・デッカー少将講演会



ところで、マッカーサーが「死なず消えゆくのみ」という言葉を残して帰国後、
彼が日本を「わたしの国」と呼んでいたり、例の「日本は12歳」発言によって、
日本人のマッカーサー崇拝はあっさり冷めました。

実はマッカーサーはこのとき、「日本の戦争は自衛だった」というあの発言を始め、

「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生むことはない」

「交戦終了後は懲罰的意味合いや、特定の人物に恨みを持ち込むべきでない」

「広島・長崎の原爆は虐殺は残酷極まるものだった」

と語った聴聞会での一説に「欧米が45歳なら日本は12歳」と述べたのです。
実はマッカーサーはそのあと、

「学びの段階に新しい思考形式を取り入れるのも柔軟だ。
日本人は新しい思考に対して弾力に富み、受容力がある」

と続けているので、これは日本のこれからの将来性を期待し、
硬直性のある欧米と比べて褒める意味で使ったとも考えられます。
しかし、多くの日本人は例によって「12歳」だけの部分を切り取った
報道しか耳にせず、非難に便乗してマッカーサーを嫌悪しました。




同じく、現在の横須賀の街で、この銅像以外に当時の熱い
「デッカー崇拝」を思わせるものはすでにどこにも残っていません。
聞けばこの胸像も、かつては横須賀のメインストリートにあったそうですが、
いつの間にかここに移されて今日に至るのだそうです。



日本人は大国アメリカを震撼させるほど勇敢に戦い、自分の命すら捨てて
国のために戦ったのに、敗戦後はアメリカ人が驚くくらい従順で、
マッカーサーとGHQの治世を賞賛すらしました。

この変わり身の早さは逆もまた真なりであったことを、この、
恩人であったはずのデッカー司令官の扱いにも見るような気がします。

さすがにデッカー少将が民主主義を日本に教えたとは全く思いませんけど。



続く。




 


”ス嬢はアイドル” キャサリン・スティンソン〜女流パイロット列伝

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この絵がお目々にお星様の入った少女漫画風なのは、
今日ご紹介するキャサリン・スティンソンという初期の女流飛行家が、
当時の日本人、ことに女子たちにはこう見えていたに違いない、
と彼女が来日したときの熱狂ぶりを伝える文献を見て確信したからです。

キャサリン・スティンソンは1891年、アラバマのフォートペインに生まれました。
(バレンタインデーが誕生日だったのですが、当時のバレンタインデーというのは
アメリカでも当時は宗教行事で、日本人はその言葉すら知らなかったころです)

彼女の家はチェロキー・インディアンの血が入っていたため、
その風貌は金髪碧眼のいわゆる「フランス人形」風ではなく、
どちらかというと少し我々に近いテイストが感じられます。
おそらくこのことは、彼女が特に日本で愛された要因の一つになりました。
「お人形さん」ではなかったことが親しみやすく思われたのでしょう。


彼女は最初、コンサートピアニストになるために音楽を勉強していました。
ある日、「空中のカウボーイ」とあだ名されたパイロットのジミー・ウッド
飛行を見て飛行機で飛ぶことに興味を持ちます。
さらにフェスティバルで気球に乗せてもらった経験から、空に夢中になりました。

すぐに彼女はミズーリに行き、人類で初めて航空機からパラシュート降下した
パイロットのトニー・ジャナスに指導を依頼して、レッスンを始めました。

彼女はこのときライト兄弟のパイロットであったマックス・リリーにも
教えを請うていますが、彼は彼女が女性であるという理由で拒否しています。


彼女がどうしてここまで性急にことを運んだかというと、それは彼女が
飛行することでお金を稼げるのではないかと考えたためでした。
このときまだ彼女は飛行家で身を立てようとは夢にも考えておらず、
音楽を続けるために必要な資金をこれで貯めようとしていたようです。

そして、数日後、彼女は全米で4番目にライセンスを手に入れた女性となります。
数日で免許が取れてしまう当時の航空界というのもあまりに緩い気がしますが、
彼女にも飛行機操縦の才能があったからでしょう。
このころの飛行機が自動操縦とは対極の、ピッチの制御とロールの制御を
別々のレバーで行うライト式の操縦方法であったことを考えると、
才能どころか、天才的であったといってもいいくらいです。

その後彼女は自分でも意外なくらい飛ぶことにのめり込み、
音楽を断念して飛行家の道を歩むことを決心したのでした。



彼女の父親について語られたものを一つも発見できなかったのですが、 
もしかしたら母子家庭というやつだったのかなという気もします。
彼女が飛行機に乗り出してすぐ、彼女の母親は航空会社を立ち上げ、
エキジビジョンで乗る飛行機を購入し、彼女はさっそく
「フライング・スクールガール」というキャッチフレーズで
ワイオミングなどでショーを始めました。

何しろスクールガールなので(笑)、彼女は(というより母親が?)
報道記者に自分を16歳だと売り込んだようですが、失敗しています。
まあ、さすがにティーンエイジャーには見えなかったのでしょう。

ただし、彼女が25歳のときに訪れた日本では、興行師の意向で
19歳であると報道され、6歳若いことになっていました。
日本人は疑わなかったようですが、外人の歳はお互いわかりませんものね。

彼女には弟、そして妹がいましたが、弟のエドワードはメカニック兼操縦士、
妹のマージョリーはライト兄弟の経営していた学校で免許を取りました。
免許を与えられた女性飛行士としてはアメリカで9番目となります。

エドワードはその後STINSON AIRCRAFT社の創業者となり、
軽飛行機を作る会社が請けに入って順調なときでも自身の曲芸飛行によって
莫大な出演料を稼いでいました。
なんども長距離飛行の世界記録を打ち立てるなど、優れたパイロットでしたが、
1938年、38歳のときに自社の新型モデルをテスト飛行していて事故で死亡しています。

燃料がなくなったため、ゴルフコースに不時着しようとしてポールを引っ掛け、
飛行機が大破したのでした。
同乗していた他3名は重症でしたが命は取り留めています。


さて、活動に入ると同時にスティンソンファミリーは飛行学校経営の傍ら、
キャサリンは全米を回って曲芸飛行を行いました。
1915年、24歳のとき、彼女はシカゴで、初めてループを飛んだ女性となりました。

彼女はその飛行人生において一度も事故を起こしていません。
運もあったでしょうが、それには彼女が自分の乗る飛行機について、その機能を
隅々まで知り尽くし、丹念に自分自身で点検を行うという姿勢の賜物だったでしょう。

当時、どんなに優れたパイロットでも、エンジンの小さな、キャンバスと木の飛行機は
ループなどを行うと簡単に重力に振り回され、墜落して死亡する危険性と隣り合わせでした。

Katherine Stinson (1917)


このフィルムには、彼女が生きて動いている姿が残されています。
カメラマンやコクピットの彼女と握手するおじさんの嬉しそうなこと(笑)
おそらくこれは彼女の生まれ持った魅力によるものでしょう。
映像には彼女自身が飛行前の点検を行っている姿もあり、
もしかしたらカメラマンの注文に応じたポーズかもしれませんが、
その手慣れた様子から彼女が自分の乗る飛行機について熟知していた様子が窺えます。


さて、ウィキペディアを紐解くと、キャサリン・スティンソンについて
記述された記事があるのはわずか数ヶ国語。
その中に日本語があります。
今では彼女の名前を知っている人はほとんどいませんが、その昔、
我が日本に「カゼリン・スチンソン嬢ブーム」が席巻したことがあったのです。



シカゴ万国博覧会では日本庭園を作り、日本娘の茶のサービスを行わせたり、
川上音二郎(ラップの元祖オッペケペー節の人)一座を世界に広めたり、
イギリスでは「ジャパン・ビューティフル」と称して富士山のジオラマの前に
高さ約30メートルの鎌倉大仏を作り、色鮮やかな投光と組み合わせて見せたり、
という博覧会専門の興行師、「ランカイ屋」(博覧会のランカイ)であった
櫛引弓人という人物がいました。

この人物が、日本でも注目されていた飛行機の曲芸をさせるために、
1916年にキャサリンを日本に招いたのです。
それまで男性飛行士、チャールズ・ナイルズ、そしてアート・スミスを招聘しており、
それら成功に気を良くして、今度は女性飛行士を連れてきたのでした。


先ほども言ったように、25歳のキャサリンは19歳ということになり、
横浜、長崎、大阪、名古屋などで9回のデモンストレーションを行いました。
鳴尾飛行場に来たときには、このブログで一度お話ししたこともある滋野清武男爵
母という人に面会していますが、これもバロンが飛行家だった関係でしょう。

ループはもちろん、様々なスタントを取り入れた飛行は人々を魅了し、
特に女学生たちは熱心に彼女の絵葉書を買い求め、つたない英語や
あるいは日本語で、せっせと彼女にファンレターを送りました。

当時、女学生同士の仮想恋愛、またはその相手を当時「エス」といいました。
「エス」はシスターの「S」からきていて、彼女の日本のファンが
男性より女性に多かったのは、この傾向のせいではないかと思われます。
「エス」の流行は1910年ごろからで、この頃はすでに定着していました。

先ほども言ったように、彼女は金髪のハリウッド女優のようではなく、
「外人」でありながらまるで隣に住んでいそうな親しみやすさがありました。

来日の際、プレゼントされた着物を着て立つキャサリンの写真が残されていますが、
濃い茶色の巻き毛も流したままにした彼女の着物姿は殊の外愛らしく、
当時の女学生たちがS傾向から彼女に夢中になったのも宜なるかなと思われます。

ちなみにタイトルの「ス嬢」というのは、このとき日本の新聞や雑誌に
頻繁に登場した「スチンソン嬢」のことです。

このときの狂乱ぶりについては、松村由利子著「お嬢さん、空を飛ぶ」に
詳しいですが、同著には、やり手の櫛引が人々の期待を盛り上げるために
あの手この手でキャッチフレーズを考えたらしいこと、

(『空の女王来る』『宙返り女流飛行家』などなど)

そして日本側の熱烈な歓迎ぶりとともに、大正期の少女たちにとって
彼女はアイドル以上の、「希望」でもあったらしい、と書かれています。

ところで、松村氏がアメリカの図書館で現在も保存されている
キャサリンに宛てられた膨大なファンレターを確認したところ、
アメリカ人のファンレターはその中で数通しかなかったそうです。

氏のアメリカ人の知人の考察によると、本国では所詮4番目の女流飛行家で、
それほど熱狂されたり超有名だったわけではなかった自分が、
日本では最高のもてなしを受け、どこにいっても映画スターのように歓待されたので、
彼女は日本での思い出を一生大切にしていたのだろうということです。

彼女が1916年末から約半年日本に滞在し、帰国してすぐ第一次世界大戦が始まります。
 
大戦が始まったとき、スティンソンの飛行学校は閉鎖され、
キャサリンは空軍に志願しましたが、女性であることで断られます。
弟は陸軍で航空教官を、妹のマージョリーはロイヤルカナディアンエアフォースで
こちらは女性でも教官として仕事をしていたようです。

キャサリンが拒否されたのは、彼女が戦闘機パイロットを志願したためでしょう。

彼女はそのかわり?カーチスが彼女のためにシングルシートにした
「スティンソン・スペシャル」である

Curtiss JN-4 "Jenny"

に乗って、赤十字基金を募るための興行を行ったりしました。
また、航空便運搬のために認可された最初の女性パイロットとなりました。

今では戦時の航空業務のストレスによるもの、とされていますが、
戦争が終了したとき、彼女はインフルエンザから肺結核を併発してしまいます。

療養のためサンタ・フェに移り住んだ彼女はそこでのちの夫になる建築家、
ミゲル・オテロと知り合いました。
サンタフェで彼女は建築を勉強していましたから、第一次世界大戦で
パイロットをしていたという夫とは飛行機の話で結びついたに違いありません。

「お嬢さん」では彼女が肺結核で引退してしまったと書いてありますし、
英語のwikiページにも「もう飛ぶことはできなかった」とありますが、
アメリカのある資料によると、彼女は1928年まで飛行を続けていたとあり、
中年にさしかかった彼女の飛行服の姿も確かに写真に残っています。

その資料によると本当に彼女が引退したのは1945年のことで、
このことはwikiにも書かれていませんが、どうやら彼女は1930年から
アメリカ海軍の航空隊になんらかの協力していたという噂もあったようです。


いずれにせよ、かつて自分を熱烈に愛してくれる国民に見守られながら、
その空を自由に飛び回った国と、自分の国が戦争を始めることになったとき、
そして彼女に美しい七宝焼の花瓶を贈呈してくれた帝国海軍航空隊の飛行機が、
真珠湾の米海軍基地を攻撃したと知ったとき、彼女はどう思ったのでしょうか。


彼女はその後1977年、86歳まで生き、彼女の妹は79歳で亡くなりました。
サン・アントニオには「スティンソン・エアポート」という小さな空港があり、
航空界に大きな尽力をしたスティンソン家の名前を後世に残しています。




シック・ベイ〜空母「ホーネット」

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空母「ホーネット」を見学するのはこれが3回目だったと思いますが、
このとき初めて見た区画がありましたので、お話ししておきます。

まずは、アラメダに繋留展示してある「ホーネット」外観。
今まであまり気をつけて見ていなかったので、この写真で初めて
博物館となっている「ホーネット」に入っていく入り口は、
ハンガーデッキの階に固定された艦載機エレベーターからだったと気付きました。

ニューヨークの「イントレピッド」は専用の通路が外側に付けられ、
艦載機エレベーターは甲板レベルに固定されていたのですが。
現在艦上に大型の荷物などを乗せるときには、奥のクレーンを使うようです。




このとき気づいた、「ホーネット」の時鐘。
キャットウォークの途中にあって、艦内に出入りする入り口が近くにあります。
鐘の内側が赤に塗られているのは当時からでしょうか。



前回までの報告で発表しそびれていたパイアセッキのレトリバー。
正確には

Piasecki H-25 Army Mule/HUP Retriever。

今の感覚で言うと変な形ですが、当時は理にかなっていたようです。
1949年から空母で海に落ちた航空機のレスキューのために導入されました。



お仕事中。

さて、今日ご紹介するのはこうやってレトリバーが救助したパイロットが
このあと運び込まれるであろう、「シック・ベイ」です。



廊下にはメディカルを意味する「MED」が刻まれています。
この一角を「シック・ベイ」と呼びます。
軍艦だけの名称ではなく、一般に船の医務室のことをこう呼びます。


ここではメディカル・オフィサー、つまり軍医が受け持つ区画のことで、
ここで実際に治療を行う軍医は4人、看護師の仕事を行う下士官兵が15人です。

この通路を進んでいくと、両側に医療施設が並んでいます。



メインの手術室。
その広さは、一般の総合病院のそれとほとんど変わることはありません。



手術台の上には今では使われることのない各種医療器具が無造作に乗せられています。
紙のコーヒーカップはわりと最近のものではないかと思われますが。



リンゲル液が開封されないまま吊られています。
中身は本物でしょうか。
昔はこんな大きなガラス瓶から点滴をしていたんですね。

向こうの壁には小さいながらシャウカステンが備えられています。
デジタル化が進んで、医療現場では現在フィルムレスが進んでおり、
空母などでももはやこのような設備は使われていません。

無影灯にはいくつもの予備があるみたいですね。



調剤室ではないかと思われます。
空母には専門の薬剤師も勤務して調剤を行いました。
もちろんこれは空母ならではで、エスコートの駆逐艦などに傷病者が出たら、
全て空母のメディカルルームに搬送され治療が行われました。



顕微鏡や試験管などが作業中のようにディスプレイされています。
黄色い薬のビンは現在スーパーで買えるサプリメントのものですけど(笑)



小さい部屋ですが、なんと眼科がありました〜!
軍艦になぜ眼科が?と不思議に思われるでしょうか。
実は、艦載機を搭載する空母には必ず眼科があり、
パイロットは定期的に眼の検査を行う決まりになっていたのです。

我が海軍の空母ではちょっと考えにくいくらいの待遇ですね。
もっとも、視力は圧倒的に日本人パイロットの方が良かったようです。

「訓練して昼間に星が見えるようになった」「飛んでいるハエを捕まえた」
という怪しげな伝説を持っていた有名な某零戦搭乗員もいましたし、
戦後、アメリカ人パイロットにコクピットで「見張り競争」を挑まれた
日航の元零戦搭乗員によると、いつも負けなしで

「随分と掛け金のドルを稼がせてもらった」

ということでした。
日本人の瞳は色素の関係でサングラス無しでも割と平気、とは言いますね。



どれどれ、アメリカ人ってどんな視力検査表を使っているのかな?
「C S V Z N R H 」・・・・・・・全部アルファベットではないですか。

これだと字の形でわかってしまうかもしれません。(I とか)
輪のどこが切れているか指で示させる日本式のほうが正確に測定できそうです。

眼球検査台の手前にある本は色盲検査の本のようです。



なんと、手術室がもう一室ありました。
万が一事故が起こった場合、緊急を要する手当を行うのは
たいていの場合複数人数だったりするのが軍艦だからですね。

大量の消毒されたタオルと、手術着が吊ってあります。



これはどうやらレントゲン写真を現像する暗室のようです。
それにしても船に暗室が・・。
「宗谷」も暗室になる部屋がありましたが、あれはあくまでも
窓がないので暗室に使うこともできる、というものだったし。



奥のケースはおそらくフィルムケース、手前はレントゲン写真を貼るフォルダーでしょう。



最初の診察はここで行われたのかもしれません。
タイプライターにダイヤル式の電話、時代を感じさせます。
電話の後ろには使われないまま束で残ったタイプライター用紙。



当時からここに備えられていたらしい 「ルイス・プラクティス・オブサージェリー」、
検索すると、今でも古書で購入できることがわかりました。

1943年の発行ですが、空母」「ホーネット」は1943年11月に、帝国海軍の攻撃によって
南太平洋海戦で沈没した先代「ホーネット」に変わって就役した空母なので、
就役した時最新刊であったこのシリーズがいち早く搭載されていたものと思われます。

左の棚の赤い本は真菌性および細菌性感染症の医学書です。



こちらも診察室のようですね。
壁に貼られた大きな骨格の絵が、あまり実用的ではないですが、イケてます。

 

検査室並び処置室と見た。
縦型のベッドは例えば脚のギプスを巻く時などに便利。
奥の体重計のところにはたくさんの松葉杖が用意されています。



「COMBAT DRESSINGS」とはなんぞや。

これで検索してみると、ドレッシングというのが包帯を巻くことらしいことがわかります。
(このときまるでトラウマになりそうな”War wound"の写真まで出てきてしまいました)

この缶には止血や固定のために巻く包帯のロールが入っていたようですね。
古物を扱うサイトでこの缶が159ドルで売られているのを発見(笑)

黄色い缶は血圧測定器でしょうか。





心電図計とその測定された記録紙。



まだ部屋があります。
ここはレントゲン室だったようですね。
今のレントゲンは画像が写る板(何て言うのか知りません)の上に
直接患部を乗せ、上から撮影するという仕組みですが、
このころのフィルムはどこかに装填してあったと思われます。

 

撮影台の上に防護エプロンが置いてありますが、これは現在のと同じ。
「ホーネット」が参戦してからはアメリカはほとんど優勢な状態であり、
「マリアナ海の七面鳥撃ち」といわれたマリアナ沖海戦のあとは
マーシャル諸島に錨を打って、沖縄や台湾の攻撃、「大和」への艦載機での攻撃と、
ほとんどこのシック・ベイを医官が走り回るような状態はなかったはずです。

唯一の重大な被害といえば沖縄で台風に遭い、飛行甲板前方を
約25フィート破損したというくらいのものでしょうか。

日本が優勢だったころに沈められてしまった先代「ホーネット」の遺恨を
マリアナ沖や「大和」への攻撃で晴らしてやった、と乗員たちは自負していたでしょう。

「ホーネット」は第二次世界大戦中、日本との戦いにおける戦功で
7つの従軍星章を受章、殊勲部隊章を与えられる9隻の空母のうちの一隻でした。



見学を終わって車に戻る時に見かけた団体のバス。
何だろうと思って調べてみたら、オークランドにある男子専門コーラス隊で、
いわば「アメリカのウィーン少年合唱団」であることがわかりました。

超関係ないですが、せっかくのご縁なので彼らがあの
「アメリカズ・ガット・タレント」に出た時の映像を貼っておきます。

 Pacific Boychoir on America's Got Talent


この日はみんなで「ホーネット」見学に来ていたみたいですね。 

 

昔アラメダに海軍基地があった時、このLTV A-7 Corsair IIがあるのが
ちょうど基地の入り口にあたるところだったようです。

実はここには海軍博物館というのがあるにはあるのですが、土日しかやっておらず、
行きたいと思いながら今まで果たせませんでした。
この夏には思い切って訪ねて、ここでまたお話できればいいなと思っています。






 

万永元年のアイスクリーム~横須賀歴史ウォーク

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さて、横須賀市観光協会内にあるNPO法人横須賀シティガイドによる
横須賀ウォークツァーで見たものをお話ししています。



砲台山と別名を持つ中央公園(なんてつまらない名前をつけたことか。
地元の人が砲台山と呼んでいるのだから、砲台山公園でよかったのに)
の高台から、小原台の方角を指差しながらガイドが
「あそこに防衛大学校があって」などと説明していた時のことです。

誰も指摘しないのですが、いやでも皆の目につくところにこれがありました。
最初に電線に縛った靴紐の部分を引っ掛けているのを見たのは、
スタンフォード大学の近くの住宅地であったと記憶します。

その後、ちょくちょくこれを見たのですが、「選挙運動に関係している」
という話を聞いただけで、真偽はわからぬままになっていました。

これ、ちゃんと名前がついていて”Shoefiti”(シューフィティ)とか
"Shoe tossing"(靴投げ)とか呼ばれるものです。
単にいじめであるとか、ここで麻薬を取引しているというサインであるとか、
わたしが聞いたように政治的主張であるとか、退役する軍人の通過儀礼とか、
とにかくその真の理由は定かにはされていません。

おそらく、ここでやっているおそらくアメリカ人も、意味なくやったか、
「足跡を残す」という意味で日本を去る時にここに靴を投げて行ったのか。

だれも靴のことに触れずに次に進もうとしたら、砲台の説明の時に

「一発も当たらなかったんじゃないか」

といったおじさんが

「あそこに靴が干してある」

と大きな声で言いましたが、だれも反応しませんでした。



ちょうどそのときお昼になりました。
わたしたちのグループは自然・人文博物館で昼食をとることにしました。
これは博物館の真向かいにある年代のいっていそうな石垣。

きっと砲台があった時代からのものでしょう。

一行はガイドについて博物館に入っていきます。
日本の博物館にはめずらしく入館料は無料の模様。



入ってすぐナウマン象の化石複製がありました。
横須賀とナウマンの関係について以前一度書いたことがあります。
ナウマン象と名付けたのは日本人科学者の槇山二郎博士でした。

象の化石を最初に発見したのは明治政府の「お雇い外国人」だった
ドイツの地質学者エドムント・ナウマンですが、ナウマンの帰国後、
浜松で発見された象の化石に自分の名前でなくナウマン博士の名前をつけた
のは槇山博士の「義挙」ではなかったか、と書いたものです。



その向こうにホルマリン漬けになっている魚類は・・・。

ミツクリザメ。 

あちこち縛られて実に不細工になってしまいましたが、
実物はこんなシェイプではないようです。
相模湾で発見され、発見者の一人箕作佳吉博士の名前が付けられました。

リアルエイリアン!
顎ごと飛び出して噛みつくモンスター ゴブリン・シャーク
(和名:ミツクリザメ、東京海底谷に多く生息)


写真は怖いけど、あまり強くなさそう。
それと、エラのところから向こうが丸見えなんですけど、これは・・。


さて、こんな展示を横目で見ながらわたしたちは休憩所に案内されました。
ここでお弁当を食べて40分後にロビー集合、ということです。
わたしはまず人文の展示場を駆け回って写真を撮りまくりました。
皆さん疲れておられるのか、走り回っているのはわたしだけでした。

ツァーの案内には「お弁当持参」とあったのですが、わたしは2時までだったら
最悪ソイジョイ1本で持ちこたえる自信があったので何も持っていませんでした。
が、博物館に入る時、向かいの市民会館ホールにレストランがあるのを
目ざとく見つけ、残り30分で駆け込んで昼食を注文することに成功。



お昼時なのに客は施設の従業員らしき人が二人、
そしてどうやらツァーの参加者らしき夫婦が二人。
空いていたおかげですぐに注文が出てきました。



さて、この博物館の人文コーナーに入ると、横須賀の歴史において
忘れてはならないこの三人の胸像がお出迎えしてくれます。

右から日本の造船、製鉄の技術の父というべきレオンス・ヴェルニー、
横須賀製鉄所の建設に貢献した勘定奉行小栗上野介忠順、そして
一番左は・・・・これ誰?

三浦按針(ウィリアム・アダムス)

イングランドから漂流して日本に流れ着き、そのまま家康に重用されて
船を作ったり外交顧問をしたり、横須賀の逸見を領地として与えられたり。
つまり、元祖「青い目のサムライ」だったのです。

興味深いのは、三浦按針らが漂流してきた時、しつこく処刑するようにと
要請してきたのは、イエズス会の宣教師たちだったということです。
なんか自分たちの地位が脅かされるとでも思ったんでしょうか。

家康がそんな外部の声に耳を貸すこともなく、というか面白がって(?)
按針を重用したので、彼らは面白くなかったでしょう。



冒頭画像はマシュー・カーブレイス・ペリーの立像。
というか、ペリーのファーストネームなんて(ミドルネームも)
今初めて知ったような気がします。
それくらい「ペリー」は日本人にとって「一般名詞」化してるってことですね。

当時ペリーを見た人物は、身長が192~4センチだったと書いており、
当時の日本人からは巨人のように見えたであろうと想像されます。
しかし、実際に身長測定したわけではないので、実際は
せいぜい180センチを越すくらいなのをそう思いこんだという説も捨てられません。

この椅子は、ペリーが座ったもので、後ろに使用中の図があります。

アメリカが最初に日本に寄越したのは実はペリーではありません。
ペリーの7年前にジェームズ・ビッドルという海軍の司令官を
(米英戦争ではワスプとホーネットに乗っていた模様)全権として
日本に送ってきているのですが、通訳の手違いで護衛の侍がビッドルを殴り、
刀を抜くなどという騒ぎになったうえ、ビッドルは本国から「決して日本を刺激せず」
と命令を受けていたため、そこで引き下がってしまいました。

ペリーはビッドルの失敗の轍を踏まぬよう、今度は黒船を率いて「砲艦外交」
によって日本を開国させることに成功したのでした。

ちなみにアメリカが日本を開国させたがった理由の一つに

「捕鯨船の寄港地を求めていた」

というのがあります。
メルヴィルの「白鯨」の舞台が実は日本海であったということは
あまり知られてはいませんが、そういうことだったんですね。



1858年、日本はアメリカと日米通商条約を結びます。
そこでその2年後、万永元年に、全権団をアメリカに派遣しました。
この派遣団の目付け役として乗り込んでいたのが、オグリンこと小栗忠順です。
この写真では右から前列の右から2番目がオグリンです。
小栗はどうも頭を右に傾ける癖があったらしく、写っている写真が
二つとも全く同じ角度で傾いています。

小栗の左の遠目にもイケメンなサムライは、正使、新見正興(しんみまさおき)。



気のせいかと思ったら本当にイケメンでした。
さらにびっくりしたのはこの人、あの美貌の歌人柳原白蓮の
(花子とアンで仲間由紀恵が演じた模様)おじいちゃまだったんですねー。
道理で。

この時に全権はアメリカ海軍の艦船でアメリカに渡りましたが、護衛として
あの咸臨丸がそれに付き添って行っています。
咸臨丸に乗っていたのが、おなじみ勝海舟、通訳にジョン万次郎、そして
軍艦奉行の従者として福沢諭吉などの超豪華メンバー(今日的に)。



左、ニューヨークのメトロポリタンホテルで行われた歓迎会。
彼らはアメリカ人に熱狂的に歓迎を受けました。

右は、日本まで帰国する全権を乗せてきたナイアガラ号。
品川沖に投錨し、全権が下船するのを総員が登舷礼で見送りました。



CHIEF INTERPRETER(通訳)MORYAMO YENOSKI
AND TAKO JURO INTERPRETER

とあります。
版画ですが、すごくリアルで、写真をもとに製作したのかもしれません。
で、この通訳の名前ですが、

森山家之助?と田高十郎、という感じでしょうか。
アメリカ人が日本人の名前を聞こえたそのまま書くとこうなる、
という感じですね。

余談ですが、今遅まきながらわたし寝る前にちょっとずつテレビドラマ
「ヒーローズ」を見ています。
ご存知かと思いますが、主人公の一人が日本人(ヒロ・ナカムラ)という設定なので、
彼が親友やや父親、時々はアメリカ人とも日本語で会話するのですが、
この会話がことごとく日本語でおkの世界なんですよ・・。
東京のシーンもあるのでおまわりさんとか会社の人も、みな日本語でおk。
びっくりするのが、ヒロの父親であるカイト・ナカムラに、あのスタートレックの
ジョージ・タケイが扮しているのですが、この人も日本語でおk。
武井 穂郷という日本名のあるれっきとした二世なのに、日本語喋れないんですわ。
まあ、わたしが話したことのある唯一のハリウッドスター、パット・モリタも
日本語全然喋れないって本人が言っていたし、(でも英語もなまってた)
アメリカで暮らしているとこうなるのかもしれませんねえ。

それはともかく、このドラマの日本、設定された名前がみななんかおかしい。
親友はアンドウ・マサハシというのですが、アンドウがファーストネーム。
つまり、真佐橋安堂、なんていうお坊さんみたいな名前なわけ。
彼の父親がやっている会社も「ヤマガト工業」で、山雅戸、とか山賀戸とか?
なんか万永元年からアメリカ人の日本に対する理解ってある意味あまり進歩しとらんなー、
と思ってしまったりします。


さて、このときに渡米した77人のサムライたちは、アメリカに熱狂的な歓迎とともに
ちょっとした日本ブームのきっかけを作ったようです。
この分厚い辞典のような本も、それがきっかけに出版された
日本を知るための本だったに違いありません。
左に日本の家紋についての記述がうっすらと見えていますが、
この中にうちの実家の家紋があるー!
 
ところで、こんなページを見つけてしまいました。

 万延元年遣米使節子孫の会

このときの使節団の子孫が、会を作って交流しているのです。
おそらくこのなかにログインすれば、 MORYAMO YENOSKIさんや
TAKO JUROさんの子孫がおられて、実はどんな漢字を書くのかもわかるのでしょう。



当時の大統領フィルモアがペリーに全権を与えた委任状。
手書きの

five Full Powers in blank to Mattehew C.Perry

の部分の意味がよくわかりません。
もしかしたら、全権を与えるに当たって、「星5つ」つまり
元帥位をペリーに付するという意味だったのか・・・・?

どなたかこの部分おわかりの方おられますか?

さて、タイトルにしてしまったので余談ですが、この万永元年の使節団、
アメリカ滞在のときに酪農場に行ってアイスクリームを食べ、
おそらく初めてアイスクリームを食べた日本人となりました。

彼らは上の図にもある晩餐会でもデザートのアイスクリームに舌鼓を打ち、
これは(・∀・)イイ!!ということになったのでしょう。

そのときのメンバーの一人出島松蔵がのちに横浜の馬車道通りに
「氷水屋」を開き「あいすくりん」という名称で売り出しましたが。
一人前は現在の約8000円くらいと高く、当時の日本人は「獣くさい」といって
牛乳を嫌ったため(ソースは手塚治虫の陽だまりの樹)なかなか浸透しなかったそうです。

出島はその後明治天皇に富士の氷穴及び函館の天然氷を用いて製造した
「あいすくりん」を献上していますが、本格的に日本に広まるのは
1899年(明治32年)7月、東京銀座の資生堂主人、福原有信が売り出し、
大正になって工業生産されるようになってからのことです。


続く。


 

草刈英治少佐の切腹と五一五事件

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世に二・二六事件を扱った映画は数あれど、五・一五事件を単体で描いたものは
今のところありません。
ここでも取り上げたことのある映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」は
相田中尉の永田軍令部長暗殺事件に始まって陸海軍の青年将校たちの
謀議が映画の半分くらいを占めており、その関係で五・一五事件も取り上げましたが、
それは、わたしの見たところ

「五・一五事件に関わった海軍軍人は一人も死刑にならなかった」
ことが二・二六事件の蹶起将校たちにきっかけを与えた」

ということを説明するために扱っているという感じでした。
どんな媒体を見ても、五・一五よりも二・二六の方が事件の質が重大であったため、
五・一五そのものについて詳しく述べていないものが多いのです。

というわけで、今日はちょうど5月15日。
84年前の今日起こった五・一五事件についてお話ししてみようと思います。

この日のことを犬養毅の孫娘である犬養道子氏は、著書「花々と星々と」で

犬養家はその日銀座のエーワン(8丁目にあった)で食事をし、
祖父に届けるためにコンソメと軽い一品を注文した。
「おじいちゃま」は「バタ臭いものの大嫌いなばあさん」が出かけているので助かる、
と楽しみにしていた。

というように(今手元にないので)書いています。
事件は、海軍中尉古賀清志以下6名の海軍士官が中心となり、
これに陸軍士官学校生徒11名が加わり、さらにこれに民間の
右翼急進派である愛郷塾が加わって起こしたテロ事件でした。

犬養首相のいる首相官邸を襲撃したのは三上卓、山岸宏海軍中尉以下士官4名、
そして士官候補生が5名、計9名。
筆頭に立ったのが中尉であり、候補生がいたというところに改めて驚愕します。
このときの彼らのテロ行動を箇条書きにしてみます。

●首相官邸で犬養毅を暗殺

●牧野内大臣宅襲撃 警備の巡査が負傷

●警視庁の総監室に手榴弾を投げるも届かず

●政友会本部襲撃 日曜のため誰もいず

●日本銀行、三菱銀行、変電所を襲撃するもほとんど成果なし


彼らの目的は陸海軍人と同時に蹶起して帝都を混乱、暗黒化し、
それに乗じて革命を起こすことでしたが、一番大きな結果は
犬養首相が死亡したということだけにとどまりました。

さて、それでは彼らがこのような挙に及んだ理由とはなんでしょうか。

この直接の原因ではなく遠因というべきが軍縮会議に伴う統帥権干犯問題です。
このときの干犯問題については、もう少し先に、加藤寛治大将のこと触れつつ
私見を述べてみたいと思っていますが、ここで簡単に言うと、

第1回の軍縮会議、ワシントン会議に続き、ロンドン会議では
兵力が米英に対して5・5・3と、当初海軍が切望していた対英米7割を下回り、
しかもそれを批准するのに、軍縮したい当時の濱口雄幸政権は
事前に海軍軍令部長の同意を得ることなく、天皇陛下の批准権を使って
つまり海軍にしてみれば統帥権のあった海軍の頭越しに条約を妥結してしまった。

ということになります。


海軍省ではそれもやむなしという空気だったのですが、
加藤寛治を軍令部長とする海軍軍令部はおさまりません。
対米6割の結果と、潜水艦のトン数が足りないとしてこれに反対し
再交渉することを強く主張しました。

ここで問題となった統帥権の干犯の問題を見てみます。
問題は明治憲法の統帥権が慣例的に

「軍事作戦は、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、
彼らが帷幄上奏(いあくじょうそう)し天皇の裁可を経る」

ということになっていたのに、政府がそれを無視したということになります。


ここですごく不思議なことがあります。

統帥権干犯を国会で取り上げ問題化したのは、
当時野党の親玉だった政友会の犬養毅でした。
このとき犬養は鳩山一郎とともに政府を、

「軍令部の反対する兵力量では国防の安全は期待できない。
さらにその締結は統帥権干犯である」

といって攻撃しているのです。
ということは、この時点では犬養は海軍の側に立っていて、
海軍の主張を後押ししていたということになるのです。

それならなぜ犬養は五一五事件で海軍将校に暗殺されたのでしょうか。

このころ犬養はもう76歳で首相どころか政界からの引退を考えていました。
つまり、この後のことなどなにも考えず、とにかく政府を攻撃するために
この件を利用していたとしか思えないのです。

わたしは犬養道子氏の本の影響もあって、犬養毅という人物を、

「憲政の神様」

と称えられ、満州から軍を引き揚げさせようとした穏健派、
清貧に甘んじ決して利を求めなかった高潔な人物であり高邁な政治家、
と思っていたのですが、この件を調べていて、

「は?」

と思わず声に出して言ってしまいました。
犬養の思想からいうと、軍縮はむしろ大歓迎という立場だったはず。
これ、どういうことだと思います?
そう、国会で攻撃するために反対のための反対をしていただけなんですねー。

もし条約提携時、犬養が首相で政府与党の立場であったなら、
その結果を統帥権干犯は勿論、どんな手を使っても批准していたでしょう。
それを、政府与党がやったので、野党として非難していたってことなのです。

いまの野党などそれしかしていませんが、とにかく「政策よりも、政局」。
犬養毅は、自分が与党になったら確実に自分に返ってくるブーメランを
野党の親玉としてこのとき臆面もなく投げていたということになります。

半分引退した野党党首として失うものは何もないので、もっというなら
自分の発言に責任を持つ必要もないので、言いたい放題言っていたら、
なんと!

「世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ
衆議院選挙で当選させ続けた」

「政友会の総裁も嫌がるのを無理に担がれた」

「若槻内閣解散後、昭和天皇に頼まれて首相を引き受けざるを得なくなった」←いまここ

という経緯であれよあれよと自分が首相になってしまいました。

つまり、五一五事件で自分が暗殺されることになったのは、
自分が野党時代に投げたあまりにも大きなブーメランが、
首相の座に着いてから返ってきて刺さったということではなかったのか。

とわたしはあくまでも控えめに言ってみます。(赤字だけど)



さて、とにかく、濱口内閣は犬養の起こした論議の末、右翼勢力が
東京駅で首相を襲撃するという事態に至り、潰れてしまいます。
いわば犬養毅の目的はこの時点で達成したということになります。

そして犬養内閣が成立しました。

このとき、海軍は統帥権干犯問題で自分たちの側に立って
政府をさんざん攻撃した犬養首相に、おそらく大きな期待を寄せたはずです。

ところがなんだか様子が違います。 

満州問題では軍の要求を拒否し、自分の人脈で外交問題を解決しようとしたり、
そして軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていたため、
陸軍元帥に陳情の手紙を書いたり、天皇に上奏して、
問題の青年将校ら30人程度を免官させようとしたり・・・。

このことは事前に軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激しました。
自分が政争の道具とした統帥権干犯を、今度は自分が問われたのです。

軍、ことに海軍から見ると、犬養首相は

「野党のときは味方のふりをしていたが政権を取って変節した」

裏切り者、ということになります。
これこそが五一五事件で襲撃される直接の理由となったのでした。



さて、本日タイトルにした草刈英治海軍少佐の切腹事件についてですが、
これは、まさにロンドン軍縮会議の批准を巡って犬養が野党党首として
与党を攻撃していた真っ最中の1930年5月20日に起こりました。

草刈少佐は海軍兵学校41期。
卒業時は125名中5位の恩賜の短剣で秀才でした。
一高を目指していたところ、帰郷してきた兵学校生徒の制服を見て
その短剣姿に憧れ、兵学校に志望を変更しています。

軍縮条約の受け入れに反対していた草刈は軍縮会議全権の一人で、
帰国の途にある海軍大臣・財部彪が乗車していた東海道線車中で切腹しました。

草刈は腹を真一文字に切った状態で発見され、病院でも
「刀は武士の魂である」と叫び、短刀を離そうとせず、看取った憲兵分隊長は

「実に美事なる御最期でありました」

と駆けつけた同級生に語ったとされます。
切腹の理由として、

「財部の暗殺を企図したが果たせなかったため」

「財部海相の暗殺を決意したが、それもまた統帥権干犯になるのではと悩み、
暗殺を実行できず自決を選んだ」(松本清張説)

「ノイローゼだった」

などが取りざたされましたが、同級生たちはノイローゼ説に対して強く反発し、
これを述べた軍令部次長に抗議し、謝らせるという騒ぎになりました。

草刈の自決は結果『軍縮条約に対する死の抗議』として大きく報じられます。
そして、

「自由主義者の奸策に斃れた草刈少佐の死を忘れるな」

との叫びが、青年将校や国家主義者の間に高まってゆき、これが
2年後の五・一五事件の計画に結びついていくのです。 


さて、そしてここではもう一つ、五・一五事件の首謀者の裁判の経過について
お話ししておこうと思います。

1930年、7月24日から行われた横須賀鎮守府での海軍側軍法会議の
(陸軍側は第一師団で行われた)求刑論告において、10名の被告人中、

死刑3名、無期禁固3名、禁固6年3名、禁固3年1名

が求刑されました。
この求刑に例によって海軍の青年士官たちは憤激し、彼らは一斉に
「論告反対」を叫んで行動を起こしました。

クラス会やクラス代表者連合協議会などが開かれ、主犯と同期(56期)の
清水鉄男中尉は、ある会合でこのように述べたとされます。

「西暦1921年、アメリカの策略は、平和の美名に名をかりて、
ついにかのワシントン条約を作り上げたのでありました。
日本の世論は、英米二カ国の野心の塊であったこの外交上の大芝居を
やすやすと上映せしめ、アメリカの野望の第一歩を笑顔を持って迎えたのでありました。

日夜研鑽、武を練り、技を磨きつつあった私達の眼前に移った
国内の有様は果たして如何でありましたか。
時弊に凝って、ついに恐るべき議会中心主義となって表れ、不戦条約となって
その正体を暴露し、ついに亡国的ロンドン条約は締結されたのでした。

ついに国難来る!」

このように条約締結の結果に激怒している海軍軍人たちが、
ことを起こした身内の減刑を願うのはいわば当たり前のことですが、
おどろいたことに、求刑論告のあったその日から、国民の間でも
決起した陸海軍軍人たちに対する減刑嘆願運動が盛んにおこなわれました。
このとき国民が海軍の青年将校たちに同情した理由は、

「当時の政党政治の腐敗に対する反感から」(wiki)

とされており、このときに発表された海軍側弁護団の嘆願書の数は
なんと69万余通に及んだということです。

これら海軍の動きや世論の影響を受けたのか、判決は減刑され、
死刑とされた3名のうち2名が「禁固15年」、1名が「禁固13年」とし、
残りは全員10年以下とされ、陸軍側は全員が「禁固4年」でした。

そしてその結果を世論のほとんどが歓迎しました。
陸海軍はもちろんほどんどの国民が「花も実もある名判決」と称えたのです。

のちにこの判決を下した裁判長の高須四郎大将は、

「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」

と死刑にしなかった理由を述べています。
殉教者を出すことが扇動となり若い海軍軍人が蜂起する可能性もあったので、
これは致し方なかったのかなと同情するのですが、高須大将本人は
このときの「温情判決」が二・二六事件の引き金になったというのちの批判を
死ぬまで気に病んでいたという家族の証言があります。

このときの海軍側の弁護団に、東京裁判で主任弁護人を務めた清瀬一郎博士がいました。




彼らを行動に駆り立てたものは二・二六事件のときと同じく、
政党、財閥、特権階級(いまでいう上級国民)の腐敗堕落であり、
それと対照的に疲弊していた農村の実情というベースがあり、
ロンドン条約の受諾を”売国”としたことにあり、つまりそれはとりもなおさず
国民もまた同じように考えていた、ということでもあるのです。

あの戦争を「軍部の独走」で全て片付けてしまう後世の評価がありますが、
この件に見られるように、軍独裁でもなかった日本がそうなるには、
国民の世論の後押し無くしては何事も動くものではなかったのです。

戦後のドイツがなんでもかんでもナチスのせいにしているけれど、
ナチスを熱狂的に支持したのは他ならぬドイツ国民だったではないか、
と言われているのを思い出していただければいいかと思います。


というわけで、五・一五事件について少し語ってみました。
今回この事件を自分なりに整理してみて、わたしは、犬養毅が
現在の民進党の馬鹿共と同じことをやっていたことに気づいてしまい、
「憲政の神様」のイメージを壊されてちょっとしたショックを受けております。

政権を取る前と取る後でいうことを180度ひっくり返す政治家なんて、
政治家ではなく「政治屋」じゃないか、などと厳しいことを思ってしまいますが、
草刈少佐の自死がやはり関係者にとって条約反対の象徴とされたように、
人は不慮の死に遭った人物を偶像化せずにはいられないものなので、
暗殺された犬養毅の評価が底上げされたとしても仕方ないことなのかもしれません。


・・・とまとめるつもりで始めたんじゃないけど、まいいか(笑)



ワスプの赤道まつり〜空母「ワスプ」の戦後

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アラメダの「ホーネット」博物館の展示をご紹介してきましたが、
そろそろ終わりに近づいています。
いろいろなアメリカ海軍の軍艦ごとに展示がされているわけですが、
空母「ワスプ」(USS Wasp, CV-18)コーナーにやってきました。

「ワスプ」というと、どうしても(特にジパングの読者などは)、
日本が撃沈したあの、と思ってしまうわけですが、
その違いについて以前ここの展示を元に書きましたね。

「ワスプ」メモリアル

つまり今日の写真は、そのとき(2014年)に撮り損なって、見覚えのない
展示品や写真を翌年もう一度行ったときに撮ったものです。



そのページを読んでいただければ、「ワスプ」が戦後しばらく日本に滞在していて、
1952年になってようやくアラメダに帰港することができた、と書きましたが、
この年、掃海駆逐艦「ホブソン」と衝突して「ホブソン」は沈没、
「ワスプ」の艦首部分は大きく引き裂かれるという大事故を起こしています。

「ホブソン」は艦長以下172名が沈没によって殉職しました。


これらが展示されている博物館となった空母「ホーネット」もそうですが、
先代が沈められた同名艦は、恨みはらさでおくものかとでもいった強い復讐心のせいか、
それともこのころになると、日本の国力がジリ貧になってくるのと相乗効果で
イケイケの戦果を挙げることができたのか、とにかくこの「ワスプ」も、
ウェーク島、サイパン・テニアン、そして本土攻撃と負けなしでした。

「ワスプ」が初めて日本軍によって損傷を与えられたのは、昭和20年3月19日の
いわゆる「九州沖航空戦」でのことになります。

ちばてつやの戦記漫画「紫電改のタカ」では、このときの空戦に主人公である
滝城太郎が所属する松山基地の第343航空部隊(通称『剣部隊』)が迎撃し、
主に滝城太郎の機転によって(基地上空に飛来した風船爆弾を空港に大規模な火を放ち
取り除いて出撃を可能にするという)大勝利を収めた、というシーケンスがあります。

このとき、米軍機動部隊の航空機と源田実大佐の剣部隊が交戦したのは史実です。
(風船爆弾は創作ですが)。

「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の可動機全機)が松山周辺上空で迎撃し、
日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜、
損失は被撃墜・未帰還16機とし、海軍航空隊「最後の大勝利」と言われてきましたが、
米軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数だったそうです。


この日の損害が大きかったのはむしろ室戸岬に近づいていた空母だったでしょう。
マーク・ミッチャー率いる機動部隊は、 日本側の出撃可能な全航空兵力による反撃に遭い、
前日の18日は特別攻撃隊によって「フランクリン」「イントレピッド」「ヨークタウン」、
19日には「ワスプ」は「フランクリン」と共に大破しています。

ゲイリー・クーパー主演の映画「機動部隊」について書いたことがありますが、
主人公が艦長という設定であった空母(フランクリンがモデル)は、恐ろしい
「カマカゼ」(笑)によって戦闘不可能になり、戦線離脱を余儀なくされました。

このときのことを、日本のウィキでは「ワスプ大破」と記しているのですが、
どういうわけか英語の「ワスプ」のページにはこのようにしか書かれていません。

During this week, Wasp was under almost continuous attack
by shore-based aircraft and experienced several close kamikazeattacks.
The carrier's gunners fired more than 10,000 rounds
at the determined Japanese attackers.

この週、「ワスプ」は沿岸基地の絶え間ない攻撃にさらされ、
数機の神風攻撃機の接近に遭った。
ガナーは繰り返しやってくる日本軍の攻撃に対し1万回以上にわたる砲撃を行った。

そしていきなり「4月13日、ワスプは爆弾ヒットの損害を修理するため帰国」
となっております。

日本側のWikipedia筆者はえてして、日本軍の、特に特攻隊による米軍の損害を
僅少に記す傾向があり、このことを「特攻の成果を矮小化する動き」
とわたしは穿った見方をここで披露したことがありますが、英語でも
個人が製作するWikipediaの記述では、特攻の被害が軽微であるかのように、
あるいは全くスルーして書いていなかったりすることが多いのに気づきます。

日本とアメリカではそうする理由は全く別ですが。



のちに「ワスプ」は日本近海で一機の特攻機の攻撃を受けました。
突っ込んでくる特攻機を発見したのは一人の機銃手でしたが、かれは
自分の方に向かってくる飛行機の操縦席を狙い続け、搭乗員が死亡するのが見えました。
しかし惰性を持った特攻機はそのまま「ワスプ」にむかってきたので、
機銃手はこんどは飛行機の翼だけを狙い、船への激突を防いだという話があります。

終戦1週間前の、8月9日のことでした。



さて、戦後修理を済ませた「ワスプ」は、一旦保管されていましたが、
1951年に再就役したとたん、「ホブソン」との衝突事故を起こし、
またまたドック入りとなりました。

このクリスマスカードの年号は1955年となっており、トナカイやサンタに
顔をすげられてしまっているのは、「ワスプ」の幹部であろうと思われます。
おそらくサンタクロースが艦長でしょうね。

冒頭のペナントは、1956年に行われた「極東クルーズ」のもので、
日本と台湾に就航したことがわかりますが、この年「ワスプ」は
CVからCVS、つまり対戦空母に変更されています。

ペナントにCVAとあるのは「攻撃空母」( Aはアタックの意)を意味し、
もしかしたら「CVS」(SはもちろんサブマリンのS)になる前だったからかも。


蛇足ですが、わたしは今回、CVは戦前の空母のことで、

C  CRUISER (巡洋艦規模の大きさの船)

V  VOLER (フランス語の”飛ぶ”)

C + V=(飛行機が)飛ぶ大型船=空母

だったことがわかりました。
てっきりCはキャリアー、Vはベッセル(船)だと思ってましたよ。ショック。 



少し時間は遡って1952年。
「ワスプ」がホブソンとの衝突事故を起こしたのは4月26日ですが、その後
10日で修理を終え、(なんと破損した艦首をホーネットの古い艦首部分と取り替えたらしい)
6月にはジブラルタルのタラワ、地中海に向けて航海を行いました。

ここにある一連の写真は、そのときの「赤道まつり」の様子です。
ありったけの船にあるシーツやタオル類で仮装した人たち。 
一番左は「ロイヤルジャッジ」だそうです。
女装する権利はやはりイケメンに限ります。 



画面下では、まるで西欧の拷問道具のような板に首とつっこまされ、
しかもズボンを脱がされて棒で叩かれている人が!
いじめか?



部分拡大図。やっぱりいじめられている。血まみれだし。
首をこんな風に固定して足元がこれって、実はすごい危険なんじゃないの?

うーん、アメリカ海軍の赤道まつり、なんだか殺伐としていますなあ。



ニコニコしながら整列しています。
艦長からの「本日の殊勲賞」とかの発表を待っているとみた。



両側から何かを投げられる中、走り抜けたら勝ち?みたいなゲーム。
走っている人の顔が必死です。



これは怖い。椅子に座った人を「処刑人」が死刑執行している。
マスクを被らされた人を椅子ごとプールに突き落としている瞬間なんですが、
プールといっても腰の高さもないので、これ危険なんじゃあ・・。

と、今頃言ってもどうしようもないですけど。

まあ、この2ヶ月前に大事故の大惨事を経験しているので
これくらいなんとも思わなくなってるってことなのかもしれませんが。



アメリカ人はこういうの好きですね。
息子が夏に参加するキャンプでも、毎週の「打ち上げ」で、くじにあたった参加者は
カウンセラー(先生)に水をかけたり、泡を顔に塗りたくる権利がもらえます。

ここでもかわいそうな犠牲者がわざわざドクロの旗を持たされ、
顔中に泡を塗りたくられております。



笑えねえ(笑)

後手に縛られ、床に転がされた人の顔は、白黒なので
わかりませんが、おそらく真っ赤なのではないでしょうか。

すでに戦争は遥か昔のことになり、よほどのベテランでないと、
実際にこの船で戦闘に参加した乗員はいなかったでしょうが、
それだけに何かこの殺伐とした笑いが不気味です。



この方は本物の従軍神父さんでしょうか。
右の人のTシャツには「ロイヤルCOP」とあります(笑)
あんたらロイヤルネイビーじゃないだろっての。

神父さん?が持っているのは「クライングタオル」。
これで涙を拭くようにゴールで持っているということだけはわかった。



もっと笑えねえ(笑)

なんか二人の人がすごく急いでいるっぽいので、どうもこの棺?を
今から二人でどこかに運んでいく競争かもしれません。



いやいやいやいや(笑)

あなたたち、それぜんっぜんしゃれになってませんから。
甲板でやってるから多分赤道まつりの出し物なんだろうとは思いますが、
この写真だけ単体で見せられたら、これ大事故かなんかで
甲板での緊急手術でも行ったのかと思ってしまいますよ。

やばい。この感覚はやばすぎる。


さて、冒頭写真の「極東クルーズ」に日本の旗があるので、
彼女がそのクルーズで日本に来た時の話をしておきます。

1956年の4月、サンディエゴを出発した「ワスプ」は真珠湾に向かい
まずそこで検査とトレーニングを受けました。
グアム経由で6月4日にまず横須賀に到着しました。
そのあと岩国を訪問し、8月いっぱいまで横須賀を起点に極東をエンジョイしていました。
(例の”ベビさん”を読んできたワスプの乗員も何人かいたかもしれません)

ところが、このとき、中国近海で海軍の哨戒機が撃墜されるということがあり、
ワスプはその捜索に参加するために現地に向かうことになりました。
搭乗員が捜索で発見されるということはなく、「ワスプ」はそのまま神戸に寄港、
横須賀に一旦立ち寄ってすぐに「極東クルーズ」を切り上げて帰っています。

1972年に退役、廃艦となるまでに28年と長寿をまっとうした「ワスプ」は、
第二次世界大戦の殊勲鑑ということでか、朝鮮戦争にもベトナムにも参加せず、
クルーズを行い、宇宙飛行士の揚収をしたりして悠々自適の晩年を過ごしています。



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