さて、わたしたちが京都駅から乗ったタクシーの運転手さんは、
町屋を改装したお宿のオーナーに道を聞きながら走っていたのですが、
小路に入ったとき、
「今任天堂の横きてるんやけど。え?どんつき(突き当たり)の右?」
と言ったのをわたしは耳にしました。
どんつき・・・京都やねえ・・・え?任天堂・・・・?
今や世界に有名な日本の企業のひとつ、おそらく子供から大人まで
その名を知っている人間の数で言えばトップではないかと思われる
「ニンテンドー」がここに?
前に京都に来た時、南区の本社を息子が発見したのですが、
ここにも何かあるのかな、と思って降りてから確かめると、
あったよ任天堂旧社屋が。
旅館の真向かいには、なにやらレトロなレンガ造りのビルが。
任天堂は、1889年、ここで花札の製造業を興しました。
1947年に創業者の息子が「任天堂骨牌株式会社」という会社にしたというので、
おそらくですがそのときに建てられたのではないでしょうか。
誰に見せるつもりなのか全くわからないところに「任天堂」の立派な看板が。
「ニンテンドーって変な名前」
とアメリカ人の子供などは思ったりするそうですが、この名前、
当社が花札製造業であったため、創業者の息子、山内溥氏が
「運を天に任せる」
という意味のこの名前を考案したのだそうです。
創業時は個人営業だったため会社名などはありませんでした。
しかし、現在の社業もまた、「運を天に任せる」という意味では同じ側面を持つ
ゲームを扱っているんですよね。
創業者が山内氏ということで「山内任天堂」。
この社名に変える前には「丸福」だったので、そのときの
トレードマークである丸に「福」はそのまま残しています。
一番下には「京都正面大橋西」とありますが、その「正面橋」とは
ここに来るときにタクシーが入っていった、鴨川にかかる橋のことです。
正面橋の道沿いに、「任天堂」旧本社の入り口があります。
ところで少し不思議なのですが、そのまま任天堂前を通り過ぎると、
あの「高瀬川」が流れています。
そこに架かっているこの橋の名前もどうやら「志よめんはし」、
つまり「正面橋」のようなのです。
この「正面」というのは、地図で見ると「お東さん」、東本願寺の正面から
東山の方向にまっすぐ伸びているのが「正面通り」なので、
どちらの橋も「正面橋」ってことになっているみたいです。
「鴨川の正面橋」「高瀬川の正面橋」で区別するんでしょうか。
ちなみにこの正面通り、間にお寺やなんや障害物があって途切れ途切れですが、
とりあえずその延長にある道はすべてそう呼ぶようです。
今では任天堂は「ニンテンドー・オブ・アメリカ」があるくらいですが、
当時も輸出を行っていたようです。
トレードマークの「丸福」が窓の外ワクにあしらってあります。
どこをどう見ても錆びた形跡がないのですが、よっぽど長年手入れしてきたのでしょう。
この社屋、驚くことについ最近、といっても16年前ですが、
2000年まで使い続けていたようなのです。
こう見えて中は結構改装が行き届いて近代的だったのかもしれません。
チェックイン後、わたしたちは自転車でその辺を探索することにしました。
ところが、二台ある自転車のうち一台のサドルが高すぎて
(おそらく前の宿泊者の身長は190センチ以上あったと思われる)
調節する道具も見つからなかったため、息子が乗ってわたしは歩きました。
息子は、撮った写真をすぐさまインスタグラムにアップしています。
わたしたちが写真を撮っていると、欧米系の白人男性が一人でやってきて、
やはり熱心に写真を撮っています。
ガイドブックにおそらく「ニンテンドー発祥の地」として載っているのでしょう。
任天堂前から歩き出すと、すぐにわたしが目の色を変える博物館がありました。
「眼科・外科医療器具歴史博物館」
ただし、見学は前もってメールで・・・ってこんなの知らんかったし。
実際に奥沢眼科というのがあった場所みたいですね。
なおさら見てみたいじゃないかー。
そこからすぐ、高瀬川にぶつかります。
ここを上流に向かって川沿いに歩くことにしました。
息子の国語の教科書に載っていたので「高瀬舟」を読んだばかりです。
高瀬舟に乗せた罪人を護送する役目の役人と、弟を殺して
なおかつ晴れ晴れとした顔をしている不思議な罪人との舟の上での会話。
医師である森鴎外が安楽死を扱ったこの短編は、安楽死の是非を
問うというより、むしろ作者の肯定をより表しているように思われました。
そして改めて読むと、特に高瀬舟が川を下っていく情景描写の精緻さに魅かれます。
其日は暮方から風が歇やんで、空一面を蔽つた薄い雲が、
月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、
川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。
下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、
只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。(高瀬舟)
この日は奇しくもこの情景に描かれたような、初夏を思わせる一日でした。
京都の街はほとんど角ごとにお地蔵さんがあります。
昔のままの姿のこともありますが、このようにケースで囲われたものも。
早速廃墟マニアの血が騒ぐ物件ハケーン。
廃墟なのに住人の使っていた簾やカーテンがそのままあるのがたまらんわー。
こういうところが買い上げられて町屋旅館になるんでしょうね。
高瀬川にはあちこちに人が往来するための橋が渡されています。
大きな橋のところまで歩けばすむことなのに、京都人は案外いらちです。
なんと、このお風呂屋さん現役です。
自転車が止まっていますが、京都は学生の街でもあるので、未だに
お風呂のない下宿暮らしをする学生もたくさんいるのです。
夜になったら提灯は灯るのでしょうか。
高瀬川って、人工の川だったってご存知ですか?
江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、
京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削されたのです。
大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられました。
ここは昔「船回し場」だったところで、昔はもっと広かったそうです。
なんか逆みたいですが、ここを通行する舟が「高瀬舟」だったことから、
川の名前が後から「高瀬川」になりました。
任天堂本社と同じ時代の雰囲気を持つ当時はモダンだった長屋。
今は廃屋となっているようなので、おそらくこの共産党のポスターは
誰にも許可を取らずに勝手に貼っているんじゃないでしょうか。
各地で前回の選挙の時に起こった開票の不正や沖縄の米軍基地の前で
犯罪行為を繰り返すこの手の人たちですが、
憲法を守れと人にいう前に、まず法律を守れとわたしはいいたい。
それはともかく、その建物の反対側がこれ。
うーん、このシュールな玄関の形状、いいねいいねー。
どっちからでも外に出られて便利かもしれない。
あるいは中は2軒に分かれていたりとか?
そしてこの角に置かれた車避けの石はさらにシュール。
京芸の学生でも住んでいたのかな?
源融(みなもとのとおる)という人ご存知ですか。
わたしも知らなかったのですが、どうも光源氏のモデルだったらしいです。
ということはきっと男前だったってことなんでしょうね。
その男前がここに「六条河原院」というのを建てて住んでいたそうです。
なんでも夕顔と一夜を過ごしたというのがこの「河原イン」じゃなくて
「河原院」であった、という設定なんだとか。
源氏オタクなら聖地巡礼で訪れるべき場所でしょう。(適当)
鴨川沿いにひっそりと残る地蔵跡。
祀られている様子はないですが、取り壊されもしないでここにあります。
五条の橋を「牛若丸と弁慶の像」を見ながら渡り、
鴨川沿いに南に下ることにしました。
ところで、息子がインスタグラムに任天堂の写真をあげた途端に、
こんなリプライが来ていたそうです。
「マイ・バケットリスト!」
バケットリスト、すなわち一生のうち一度は行ってみたい場所です。
なぜ「死ぬまでにやりたいことのリスト」が「バケツリスト」かというと、
首を吊るときに立っているバケツを蹴るから、らしいですね。
それはともかく、世界的にはここを「聖地」としてバケットリストに入れる
熱心な信者さえいる任天堂も、京都人にかかると
「へえ、そいうたらそんな会社もありましたかなあ」
という感じで冷ややかにみられているのだそうです。
理由、お分かりですか?
それは任天堂が任侠が仕切っていた賭場の花札を作っていたということにあります。
そないな「下賎なもん」で身を起こした素性の悪い会社、いくら有名になったかて
京都の会社の代表やゆうてもろたら困ります、というところかもしれません。
ちなみに京都人的に「京都企業」として最も誇るべきはというと、
それはあの「島津製作所」なのだそうです。
創立は1875年、決して京都基準では「由緒正しい」というわけではありませんが、
日露戦争の三六無線の電池に多大な貢献をしたり、昨今では従業員から
ノーベル賞を出すなど、(田中耕一氏)超有名優良企業であり続けており、
なにより創業者が京都出身でありながら大名家の薩摩島津の名と家紋を拝領した、
というあたりが、権威主義の京都人を喜ばせるのかもしれません。