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日系アメリカ人~「二つの祖国」ハリー・フクハラとアキラ・イタミ

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山崎豊子著「二つの祖国」をお読みになったことがあるでしょうか。

今のNHKからは信じられませんが、この、日系二世として生まれた主人公が
二つの祖国の狭間で翻弄されたあの戦争について、東京裁判の不条理とともに描いた
この小説は「山河燃ゆ」というタイトルで大河ドラマになったことがあったのです。

原作の「二つの祖国」は、何人かの二世たちの経験を元に書かれたものですが、
中心となるモデルは二人いて、ハリー・フクハラはその一人です。



以前日系アメリカ人博物館についてエントリを上げた時にも掲載した写真。


「いかにも切れ者そうな二世」

と書いたその時は知らなかったのですが、このメガネの人物がフクハラだったのです。

フクハラは1920年ワシントン州シアトルに生まれました。
日本名は福原克治といい、「カツジ」とする記述と「カツハル」とする文献があります。

フクハラの両親は広島出身で、アメリカで職業紹介所を経営していましたが、
その父が亡くなって、英語の苦手だった母の希望で一時日本に帰っていました。
日本での生活に馴染めなかったフクハラは、18歳で学校を終えると単身アメリカに帰り、
白人夫婦の家庭に居候しながら、皿洗いやボーイをして学費を捻出し、大学に通いました。

アメリカに来て3年目に日米戦争が起こります。
大統領命令による軍事施設近くからの日系人の追放令が出され、
フクハラはヒラリバー収容所に収容されることになりました。

わたしはこのエントリのためにもう一度、昔読んだことのある「二つの祖国」を、
Kindleで読んでみたのですが、当時のわたしの興味が東京裁判に集中していたせいか()
前半の日系人収容所での悲惨な生活の描写に、全くおぼえがありませんでした。

読み直してあらためて、そこでの生活の辛さは、たとえ写真を見ても公的な資料を見ても、
伝わるものはごくごくわずかであるということがわかったのです。
日系人青年たちが軍に志願した動機の動機の少なくない部分が、

「収容所から外に出たい」

でもあったことは間違いないことに思われました。


1942年11月、軍の通訳募集に応募し合格したのち、ミネソタのサベージにある
MISで情報部の基礎を学んだフクハラは、日本での学歴が長かったこともあって
優秀な成績をおさめ、 6 カ月間のMISLSでの訓練の予定を省略して、
いきなりフィリピン、 ニューギニア、南太平洋にただ一人の二世として投入されました。

最初は同僚の兵士たちから「なぜジャップがいるんだ」と疎まれたそうですが、
戦況が進むにつれ、日本軍から奪取した機密書類の翻訳や日本人捕虜の尋問に成功し、
それが戦況に功を奏するようになってくると、日本人語学兵の必要性とともに、
次第に同僚達からの理解を得ることができるようになったのでした。

そののち投入されるようになった日系兵士たちは、仲間からの誤った攻撃を避けるために、
つねに白人兵士のボディーガードに保護されて移動していました。


戦地での日系兵士の任務は、押収した日本軍の書類、日記、地図などの翻訳、
密林内での日本兵の会話の盗聴、日本軍の通信の傍受などでした。

フクハラに限ったことではありませんが、日系二世たちにとって戦地で、
日本人と「再会」することは一種の恐怖でもありました。

ある二世は密林の中で旧友に銃を向けなくてすむようにと毎晩祈ったと語りました。
一方で、二世は捕虜と なった日本人から激しい憎悪を向けられることが多々あり、
「非国民」と呼ばれることもあったそうです。
そんなとき、昂然と「自分はアメリカ人である」と撥ね付けるのですが、
ほどんどの者が内心は複雑な思いに苛まれることになりました。

たしかに戦場で直接撃ち合うことは少なかったかもしれませんが、
諜報活動によって米軍が戦果をあげれば、それは間接的に日本人を殺したということです。
欧州戦線に投入された442部隊は、対日戦線に送られたMISの二世たちより、
このようなジレンマを感じなかっただけ幸福だったといえましょう。

日本兵が捕虜になることを潔しとせず自決しようとするので、
それを説得するのも日系兵士たちの重要な役目でした。

「戦陣訓」などが、あまねくその行動原理に染み渡った兵士たちは、
生きて捕虜になったことが日本側にわかると、戦死よりずっと恐ろしいことが起こる
という強迫観念もあって、皆が死のうとしました。

ある二世兵は戦後、

「日本兵はジュネーブ協定の知識がないから」 

と言ったそうですが、それより以前に、日本軍ではその精神論から、
捕虜になるなら死ぬべきだと骨の髄まで刷り込まれていたことを
もしかしたらよく知らなかったのではないかと思われる発言です。

フクハラにも、ニューギニアの捕虜収容所で、同郷の知り合いが軍曹として
収監されているのに遭遇したことがあり、彼が自決しようと懊悩するのを
必死になって押しとどめたという話が残されています。


わたしは終戦直前になって陸士を卒業し、「ポツダム少尉」になった方から、

「捕虜になって帰ってきた人は、戦後もそれを世間にひた隠しにしていた。
何かのきっかけでその話になると、本当に申し訳なさそうな苦悩の様子を見せた」

という話を聞いたことがあります。
このことは、戦争が終わって戦前とは価値観が逆転し、かつての軍人を
誰でも彼でも戦争に行ったという理由だけで「戦犯」と罵る風潮と、
「生きて虜囚の辱めを受けた」者を詰る風潮がどちらも空気としてあり、
戦争に負けた怨嗟と鬱屈とした恨みをを誰彼構わずぶつけ合うような空気が
敗戦後の日本にはあったという不幸を物語っています。


「捕虜第1号」、真珠湾特殊潜航艇の酒巻和男少尉が捕虜収監中に残した写真は、
頰の彼方此方にあばたのような跡が生々しく残っています。

「アメリカ兵に拷問された跡」

などと伝播する媒体もありますが、実はこれは、酒巻少尉自身が煙草を押し付けた跡で、
写真が日本に伝わったときに、せめて自分だとわからなくするためにしたと言われます。
日本側は真珠湾攻撃の一人が捕虜になったことを早々に感知し、
酒巻少尉をいなかったことにして、戦死した潜行艇の他の乗組員を

「真珠湾の九軍神」

として世間にアピール真っ最中でしたから、その懸念は杞憂に過ぎなかったのですが。
 


さて、フクハラの話に戻りましょう。
彼はフィリピンにいるとき、故郷広島に原子爆弾が落とされたことを知ります。

アメリカ移民には広島出身者が大変多かったというのは有名な話ですが、
原爆投下という「大量虐殺」が祖国の手で行われたことで、
広島出身の二世たちは「二つの祖国」の相克の狭間で激しく懊悩することになるのです。


小説「二つの祖国」主人公の天羽がMISを志願するとき、審問官に

「あなたは戦地で日本にいる弟と会ったときに彼を撃ち殺すことができますか」

と聞かれ、なんという残酷なことを聞くのかと愕然とするシーンがあります。

日本と戦争に突入したアメリカは、日系人を隔離するという政策をとりつつ同時に
国際社会からの非難をかわすため、その日系人たちに、アメリカに忠誠を誓い、
日本に銃を向けるならば市民として認める、という踏み絵を踏ませたのです。


「今わたしはアメリカに裏切られたというショックを感じている。
この軍キャンプで毎日捕虜として星条旗を見上げる気持ちはわかってはもらえないだろう。
忠誠を疑われたり、試されたりすることなく、一つの旗、一つの国家に
忠誠をつくすことができたらどんなに幸せかと思う」

という天羽の言葉に、審問官たちはしんと静まり返った、とされています。



南方でフクハラは、自分の部隊が九州への上陸に投入されることを聞き、
知人、特に広島に残した兄弟たちと戦うことになるのではないかと怯えました。
実際、日本の降伏がなければ、彼は実弟のいた小倉の部隊と戦うことになっていました。

戦地で広島原爆の報を知ったフクハラは、

「なぜ広島なのか?
自分がアメリカ軍に志願したからこんなことになったのではないか?」

と悔やんだといいます。

そして終戦。

師団長の通訳として来日し神戸にいたフクハラは、家族の安否確認に広島入りし、
母と弟二人が無事であることを知りましたが、広島の陸軍にいた兄は至近距離で被爆し、
手当の甲斐もなく半年後に死亡しました。

彼は戦争が終わったらアメリカの大学に戻るつもりでしたが、
広島の家族を自分が養うことを決心し、軍籍にとどまります。
占領政策期間以降も日本駐在の職に就いて日本の官公庁・警察などと
米軍間の連絡係として働きつつ、敗戦後の日本復興に尽力しました。

1971年に八重山諸島軍政長官を51歳で退官しましたが、軍籍には91年まであり、
ブロンズスターメダルや、レジオン・オブ・メリットなどの勲章を授与され、引退後も
連邦政府から民間サービスに携わった功績を讃えられて叙勲されています。

最終階級は大佐でした。

フクハラの日本滞在期間は合計で48年にも登りました。
晩年はカリフォルニア州サンノゼで過ごし、
2015年の4月にハワイ州のホノルルで96歳の生涯を閉じています。



さて、「二つの祖国」主人公天羽賢治は、戦争が起こるまで
「加州新聞」の記者をしていたという設定でした。

もう一人の天羽のモデル、デイビッド・アキラ・イタミ、伊丹明の経歴がまさにその通りで、
さらに天羽賢治と同じ、鹿児島県加治木町の出身でした。

加治木町には、「二つの祖国」伊丹明の出身地、という立て札と、
いわゆる東京裁判、極東国際軍事裁判において通訳モニターを務めた伊丹の、
イヤフォンをつけた横顔のブロンズ板がいまでもあります。


 伊丹は1950年、39歳の若さで、ピストル自殺を遂げました。

その理由について遺書など明らかにするようなものは残していません。
後世はその自殺と、彼が東京裁判を目撃したことをただ漠然と結びつけるのみです。


イタミは戦時中、(1943年)日本へ寄贈される2隻の独潜水艦のうちの1隻、
U-511の通信を解読しています。
軍事代表委員の野村直邦中将が便乗していて薩摩方言で通信を行ったため、
米海軍情報局が全く聞き取れなかったこの通信を彼が解読できたのでした。

外務省と駐独日本大使館の間で帰朝のスケジュールの打合せをするのに
米軍に盗聴されるのを覚悟の上で国際電話を使用したのですが、その際
鹿児島出身の外交官同士で会話をさせたというものです。

盗聴した米軍にはそもそも日本語かどうかすら判別ができなかったそうです。
米軍自身が暗号にインディアンのナバホ族同士の会話を使用していたので、
アジアの諸言語まで検証しました。

2ヶ月後、米陸軍情報部に勤める鹿児島出身の日系人が「翻訳」できた、
というのが「艦これ攻略」にも載っているのですが(笑)
これがデイビッド・イタミだったのです。

ちなみにこの方法による最初の通信は、野村中将が出発する1週間前のことで、
東京からの「モ タタケナー」(もう発ったかな)という問い合わせに対し
ドイツからは「モ イッキタツモス」(もうすぐ発ちます)と答えたとか。
このU-511は日本で「呂号第五百潜水艇」として警備艦となりました。

輸送されるとき、まだそれはドイツ海軍籍であったので、艦長はドイツ人であり、
しかもこの航行中に民間船2隻、リバティ船2隻を撃沈しています。




二世といってもその数だけ祖国に対する考え方もあるので、
例えば登場人物のチャーリー田宮(NHK大河では沢田研二が演じた)のように、
日本人の部分を自分から取り去ってしまいたい、
アメリカ人としてのみ生きていきたいと願い、日本を蔑む人間だっていたわけです。


二世の日本人に対する態度は、しばしば差別的で専横であったといわれます。
軍政府内の住民用尋問室では、日系人通訳による暴力的な尋問が行われることがあり、
また、沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、

「米軍が今もっとも必要とする人間」

として認められた現実に満足して日本人を見下す者もいました。

当時の日本政府機関や民間の団体がなにかの許可申請や陳情を行うのには、
まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があったため、その置かれた地位に
特権階級のように傲慢に振舞う二世も決して少なくなかったのです。



「二つの祖国」の天羽賢治は、東京裁判に関わりながら、
それが報復のためのものであることに対する不満を漏らし、また、
戦犯の遺骨を細かく砕き、誰のものかわからなくして共同骨捨て場に捨てることを
「あまりにも非情で人道に悖る」
と述べたことから、CIC当局に目をつけられ「反米思想」を糾弾されます。

ラストシーンで、絶望した彼は東京裁判の行われた法廷に忍び込み、
自分がかつて仕事を務めたガラスのブースに座ってこんなことを考えます。


ここでイヤホーンを通じて流れてくる日英両後を一語一語、
神経を研ぎ澄まして聞き取り、チェックしたのだ。

二年半、その一字一句が被告の生命に関わるという思いで、
公正なモニターに心血を注いだ。
だが、そこで願い、期待した法の尊厳は、ついに得られなかった。

一体、日米開戦の日から、今日までの自分の苦悩と戦いは何であったのだろうか。


日本語の死刑宣告を、賢治は、二人の被告に告げねばならなかった。
国際法を遵守せず、裁いたものの手は汚れていたが、
それを日本語で被告に言い渡したモニター自身も、
否応なく、手を汚してしまったように思える。

賢治にとっては、ガラス張りのこのブースが、
自分の死を永遠に封じ込める棺のように思えた。
銃口をこめかみに当てた。銃は冷たく重い。手が震えた。
重さのためではなく、引金を引くことへの恐怖と躊躇いであった。

父さん、母さん、
僕は勇や忠のように自分自身の国を見つけることが出来ませんでした。
お別れを申し上げに行かねばなりませんが、もう一歩も歩けない・・・・。


最後の瞬間が本当にこのようなもので、こういう心情が彼に自殺を選ばせたのかは、
本人が語ることもなく死んでしまった今となっては、永久にわかりません。


しかし、もし彼の「二つの祖国」が戦火を交えることさえなければ
デイビッド・イタミこと伊丹明は自死せずに済んだということだけは確かです。

 


 


彼女が"HASHMARK"をつけるとき~女性軍人と男たち

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先日、我が海上自衛隊の史上初戦闘艦の艦長になった、
大谷美穂2等海佐のことを少しだけ取り上げました。
去年早くも1佐に就任し、女性初の海将補候補として注目される
東良子氏のいわゆるエリートコースとは違う「艦長コース」にもついに女性が、
と各方面から注目されたのはまだ記憶に新しいところです。


ところで話は全く変わるようですが、 最近の国連、特に女性人権委員会って

一体なんなんですか?(怒)

日本の司法は人権においては中世並み、という批判に
「シャラップ!」と委員会で叫んでしまい、問題にされてしまった大使は
確かに公職にある人物としてお粗末だったかもしれませんが、
それにしても最近の国連界隈の「日本いじめ」は目に余ります。

70年前の職業慰安婦の人権問題を取り上げ、日本に「改善」を迫る。
(日本政府に”犯人を探して処罰せよ”とのお達しです。2016年現在で)
ちなみに問題提起しているのは中国と韓国出身の人権委員。
オブザーバーとして日本を非難したのは朝鮮民主主義人民共和国ってなんの冗談?

そもそも現在形で他民族を弾圧している中国に人権問題を問う資格があるのか?
今この時も現在進行形で売春婦を多数海外に輸出している韓国は、
彼女らの「人権」についていったいどう考えるのか?
北朝鮮は・・・・まあいうまでもありませんよね。

なぜ国連の拠出金が実質世界1位(アメリカが今払っていないため)の国に
これだけ不当な「勧告」が行われ続けているかってことですよ。

しかし、これだけなら、敵は朝日新聞始め国内にも多数いることだし、
国連総長はあの国出身だもんね、でうんざりしながらも我慢していた日本人が
上から下まで等しく怒りまくったのは、

「女系天皇を実質禁止している日本は女性差別である」

として、女性人権委員会が日本の天皇制について是正を求めてきたときでした。
さすがのことなかれ外務省もこれに対しては異常なくらい迅速に対応し、
駐ジュネーブ代表部を通じてこの件に強く抗議し、勧告を削除させました。



世界には、女性の人権が全く認められず、婚外交渉で女性だけが処刑になったり、
女性の運転も禁じられており、被り物で目以外を外に出してはいけない国、
8歳から15歳までに強制的に結婚させられる国などがいくらでもあるわけです。

そういう国に対してでなく、何を言っても「安全で怒らない」日本に対して
文化にも歴史にも敬意を払わない無礼な勧告をしてくるのが最近の国連。
女性の法王がいないのは差別だとなぜバチカンには言わないのかってんですよ。


そこで、日本が「女性差別国」だとするこの女性人権委員会とやらに、

「女性が軍隊の司令官になれる国は、現在世界にどれくらいあるか」 

を聞いてみたいですね。

先日、防衛省は、安倍内閣が掲げる「女性の活躍推進」の方針を踏まえ、
女性自衛官を増やす取り組みを本格化させました。

大谷2佐の艦長就任は、(当人が優秀でなくてはもちろん実現しませんが)
わたしが先日当ブログで推測したように、政権の掲げる方針に添ったものだった、
ということが報道によって裏付けられたようで少しだけ嬉しいです(少しだけな)
この件を報じる読売記事からの抜粋です。 
 

自衛隊では「母性の保護」や「男女間のプライバシー確保」などを理由に、
潜水艦や戦闘機、戦車中隊などへの女性の配置を制限している。
制度上の制限がなくても、女性の幹部登用が少ない職域もあるとされ、
こうした点の見直しについても研究する見通しだ。

これに先立ち、防衛省は今月28日、女性自衛官らの活躍と
ワークライフバランスの推進を狙いとした取り組み計画も策定した。
計画では、駐屯地などの庁内託児施設の増設や、出産・子育て前後に
研修の機会を与えるなどの柔軟な人事管理を行うこととしている。


これに対し、さっそく赤旗新聞が

●少子高齢化に伴い、男性のみでは担いきれなくなってきた自衛隊の任務を、
女性にも負担させようとする思惑である

●イラクやアフガン戦争に派兵された米軍女性兵のうち約4割が
軍隊内で性的被害に遭っているという研究もあり、自衛隊でも必ずそうなる

●兵站活動は敵からの攻撃対象となりやすい

●女性兵士が戦闘支援や応戦しなければならなくなったとき
『自分が殺した』と精神的に自身を追いつめて
帰還後に自分の子を愛せなくなり、育児放棄など虐待してしまう


と噛みついています。

最後のなんか、まるで「風が吹いたら桶屋が儲かる」みたいですね。
女性に限らず、戦闘トラウマは男性にも普通に起こりますよ?
攻撃対象となりやすい兵站活動も何も、戦争ってそういうものですよ?

こういうことに警鐘を鳴らすまえに、日本がどこの戦争に参加して、
自衛隊の女性自衛官がどこの国の人を殺さなければいけなくなるのか、
もう少し具体的に可能性のあるところを詰めてから言っていただきたい。


この際共産党には女性人権委員会とやらに

「女性を登用して司令官として採用し、人を殺す命令を出させる、
こんな日本政府は女性の人権侵害国だ!」

と思うところをそのまま訴えていただきたいものです。
現在の国連なら取り上げてくれるかもしれませんよ。あの事務総長だし(笑)



さて、前置きというか余談が長くなってしまいましたが、
「ホーネット」博物館には女性軍人、WAVESのコーナーがあって、
一度ここでも取り上げたことがあります。



女性下士官と兵の帽子、そして手袋と公式のバッグ。
このバッグ素敵ですね。
かっちりしたシェイプ、なんの模様もないクリーム色、
ハンドルの形が現在のブランドでも採用しそうなかんじです。

アメリカでは、陸軍に付随する看護部隊として女性が初めて
軍隊に参加することになりました。
しかし軍人としてではなく、男性と同様の賃金や手当はありませんでした。

女性が完全な一員として軍隊に加わるようになったのは1944年ですが、
1942年に「補助部隊」として輸送などを担当する女性パイロットの部隊が
誕生していました。

女性を軍隊に参入させるにあたっては激しい反対が軍の中にもありましたが、
海軍の女性部隊であるWAC誕生に鶴の一声を発したのは、なんと
我らが(笑)チェスター・ニミッツ提督だったといわれています。

女性が「コマンドを行ない」「戦闘機、軍艦に乗らない」ことを前提に
WAVESという軍組織に投入されることになったのは1942年8月。
WAVESの初代司令官はミルドレッド・マカフィー少佐でした。



ここでは初の女性提督になったミッシェル・ハワード大将を取り上げましたが、
つい先日も、統合軍に初の女性司令官が誕生するというニュースがありました。
北方軍の司令官に指名されたローリー・ロビンソン大将です。



なかなかのハンサムウーマンぶり。
ちょっとだけメグ・ライアン入ってますか?



提督も統合本部司令も誕生する現在のアメリカですがWAF、WAC、
そしてWAVES、が最初に誕生した当時は、世間の話題をさらいました。
話題に便乗してこんなパッケージの商品を売り出したm&m。
(しつこいようだけどエメネムと読んでね)

同じ画面に写っているのは

Moter Was A Gunner's Mate(お母さんは銃撃手の仲間だった)

という本ですが、この著者は

JOSETTE DERMODY WINGO

という女性で、このページを見ていただくとわかりますが、
トレーニング・ガナーを務めた女性軍人です。

WAVEに入隊後、銃撃主としての訓練課程を修了した彼女は、
サンフランシスコとオークランドをつなぐブリッジの途中にある
トレジャーアイランドという小さな島(住むことを少し検討したこともあり)
に当時あった海軍の砲術専門学校で、教官として勤務していたといいます。



「ガダルカナルではそんなやり方はしなかった」

彼ら(生徒)が言ったとしたら、

「だ・か・ら・ガダルカナルは取られそうになってるの。いいから座んなさい」

というようなユーモアが必要、というのが彼女のお言葉です。
深いなあ(笑) 



メディアも女性の軍人を持ち上げたので、こんな「問題児」も出てきます。
1944年にはついに白人以外、アフリカ系や少数民族の女性にも
軍隊への道が開けました。

しかし、そもそも女性部隊設立の時に最も反対が大きかったのが
男性だったことからもうかがえるように、女性軍人をもっとも疎んだのは
同じ男性の軍人だったのでした。



冒頭の女性下士官の腕には「年功章」がピカーッと輝いています。
英語で「HASH MARK」というこのマークは、下士官兵の「在籍期間」を表し、
1本が3年だったと思います。
彼女のランクはPO1、グレードでいうとE-9までの下士官のE-6、
CPOのすぐ下ということになります。 

おまけにこの女性、お酒のはいった携帯ボトルまで持ってませんか?
米海軍は艦艇内の飲酒が厳しく禁じられていましたから、これも
どういう状況で飲むつもりなのかはわかりませんが・・・。 


さあ、ただでさえ女性が軍人になるのすら快く思っていない男ども、
彼女がもしこんな「年功章」持ちになってしまったら・・・?

・・って、女性下士官が3年勤務すればそれは確実にそうなるわけですが、
なんと彼らは、この後に及んでそれを認めたくないらしい。

”これが男というものさ!WAVEが年功章をつけるとき”

と題されたこの漫画は、気の毒なくらいそんな男たちの狭量を描写しています。



隅から見ていきましょうか。
彼女の部下になってしまう水兵さんたちは、ただひたすら

"NO NO NO!" "YEOOOOO!"

と怯え・・・・・、 



「俺は見た!俺は見たんだあああ!」

と錯乱状態の水兵。

「え?何がおかしんだよコノヤロウ」

という水兵もいれば、

「おいおい坊や、いい加減にしろよ。
あーあ、(CHEEZ 、GEEZをわざと間違えて言っている)、
こいつってもしかしておかしくね?」

彼の言っている「ASIATIC」というのはアメリカ海軍内だけで使われた俗語で
CRAZYと同義と思っていただければいいかと思います。

我々には失礼な感じがするんですけど、多分失礼なんでしょう。 

「なんだってこんなことに・・・とほほ」

とすすり泣いているセンシティブな水兵さんもいます。 




こちら、左腕が洗濯板のベテラン下士官たち。飲みで愚痴。

「まだ彼女いるの?」

「(げぷっ)おお、おるでー」

「もう一杯行くか・・・」

いまいち状況が読めませんが、なんかもう自暴自棄って感じです。



もっと深刻な先任下士官たち。
ハッシュマーク6本、つまり勤続18年のおじさんたちにとってはもう、
世を儚んでピストルをぶち込んで(自分に)しまいかねないショック。

すでに遺書を用意している先任に、

「先任・・・大丈夫ですよ、これなんかの間違いですよ」

と必死で止める水兵さん。
しかし、(光ってしまって見えませんが)向こうの方ではすでに
絶望のあまり引き金を引いてしまった人がいるようです。

もちろん漫画ですが、これほどまでに女性の軍隊進出は
男性の反感を買い、邪魔者(足手まとい)が入ってくることへの嫌悪感や、
もしかしたら自分たちの場所を取られるという懸念を呼び起こしていたのは
まず間違いなかったのだろうと思います。


1948年、アメリカ軍で女性軍隊統合法が可決されました。
戦時中は戦時だったゆえ女性が軍隊にいることが「許されて」いましたが、
戦争が終わってしまえばもう女性は必要ない、とされていた法律が変わったのです。

つまり、これによって平時における看護活動以外の女性の軍隊参加が認められ、
同時に女性が士官になる道を開かれたということになりますが、この漫画は
終戦直後、その法律可決に向けて議論が行われていた頃に描かれたものです。

その後も女性軍人の権利の拡大は続きました。
軍隊における女性の割合は2%が上限と定められていましたが、
1962年に撤廃され、現在、軍隊における女性の数は、1972年当時の8倍。
女性士官の数は3倍に増え、優秀な人材なら司令官も夢ではありません。

1999年の調査によると、陸軍15%、海軍13%、海兵隊5%、空軍18%が女性で、
現在はもっと増え、新規入隊者の20%近くが女性だそうです。
今ではもっと増えているでしょう。

女性がハッシュマークをつけるくらいで怯えていた男性の下士官兵の姿は
今日の目から見ると実に滑稽にみえますが、このとき高みの見物をしていた
男性士官たちは、1976年にアナポリスが女子の入学を認めて以降、
彼らと全く同じ心配をしなければならなくなりました。

そして、今では、男性の将官たちにも起こりうる(というか実際に起こった)
事態となっているのです。
ハワード提督が誕生した時に、悔し紛れに

「彼女は女性でアフリカ系だから提督になれた」

というやっかみの言葉が同じ将官から出てきたのは記憶に新しいですね。

優秀な女性とポストを争うことになるのを良しとしない男性の嘆き節は、
おそらく今も、そしてこれからもこの漫画の男たちと同じく続くのでしょう。

 

 

女流パイロット列伝~西崎キク「雲のじゅうたん」

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昨日女性軍人の権利拡大についてお話ししたばかりですが、
今日もまた女性の社会進出もの?として女流パイロットを取り上げます。 


最近のNHK連続テレビ小説は、ある特定の職業を志す女性の生き方や
その頑張る姿がテーマとなっていて、これまでの主人公の職業となったのは

美容家、弁護士、医師、和菓子職人、棋士、落語家、パン屋、
脚本家、ダンサー、編集者、教師、アイドル、蕎麦屋。

放映が始まってしばらくは「女の一代記」がテーマとなっており、
一人の女優が子役から交代して以降老婆になるまでを演じる、
という形態になっていましたが、このような「職業女性」を主人公とする形態の
嚆矢となったのが、女流飛行家がヒロインとなった、
「雲のじゅうたん」(1976年放映)だったといいます。


「雲のじゅうたん」は、飛行機黎明期の女性飛行家何人かがモデルですが、
その一人が、本日ご紹介する

西崎キク(旧姓松本キク)でした。



今まで何人もの、主に日米の女性パイロットについてお話ししましたが、
飛行機が発明されたのとほとんど同時に

「男もすなる飛行というものを女もしてみたいと」

思い、空を志す女性が表れた「女性の人権先進国」アメリカにおいてさえ、
例えば「おてんば令嬢」ブランシュ・スコットは、
傍目には堂々と航空界で名を挙げながら、
実は航空界の女性に対する扱いに絶望したというのが理由で引退しています。

1930年代の日本では、女性が自分のやりたいことを叶えることすら
ままならなかったのですから、ましてや飛行機で空を飛ぶというのは
さぞ困難なことであったでしょう。

逆に言えば、そんな時代に自分の夢を叶えることが出来た女性は、
それだけで賞賛されるにふさわしいと言えるかもしれません。


本日主人公の西崎キクも、「飛びたい」という空への憧れをそれで終わらせず、
実際に形にするだけの強さを持っていましたが、その「強さ」
はただ彼女が自分のやりたいことをやりきった、という結果だけに留まっていません。

飛ぶことを止めたその後の人生は、順風満帆どころか、むしろ
逆風の吹き荒れる苦境であったにもかかわらず、彼女は過去の栄光にこだわることも、
ましてや自棄になることもなく、それらを持ち前の明るさで乗り切りました。

戦後、人々がかつての偉業をテレビドラマで改めて知るようになるまでは
社会貢献につくす市井の人として、ひっそりと生きていた彼女ですが、
ある日突然、まるで雲の彼方に飛び去るようにあっさりと逝ったのでした。


彼女は航空功労者としてハーモントロフィーを受けた唯一の日本女性です。



松本キクは、1912年(大正元年)、埼玉県に生まれました。

地元の埼玉女子師範学校を卒業後、尋常小学校で2年生を担任していました。
ある日子供たちを連れて出た課外授業の帰り道、尾島飛行場に立ち寄ったところ、
ちょうどそこでは新型飛行機のテスト飛行が行われていました。

それが彼女の人生を変えた瞬間でした。
飛行機に魅せられた彼女は、空を飛びたいと熱望するようになります。


新聞広告で見つけた「飛行機講義録」を取り寄せて独学で勉強しながら、
彼女は毎日のように尾島飛行場通いを続けたようです。
そのうち、顔なじみになったテストパイロットの一人が、
彼女を東京立川飛行場で行われた新型飛行機のテスト飛行に誘ってくれました。
そこで彼女は生まれて初めて飛行機に乗ることが出来たのです。

風を切り、雲に向かって自分をどこまでも運ぶ飛行機。
遥かに見下ろす下界は、もし自分が鳥であったらこう見えるであろうと
今まで想像していた世界より遥かに広大で、
天の高みにすら手が届くかに思われたでしょう。



その日以来自分の人生を飛ぶことに賭ける決心をしたキクは、昭和6年、
両親の猛反対を押し切って、東京深川の第一飛行学校へ入学しました。

教師の仕事は、その入学のための費用を稼ぐための手段として、
ぎりぎりまで続けていたようです。

当時の日本もまた航空という新たな世界が開けてのち、
雨後の筍のようにあちらこちらに飛行士を養成する学校が出来つつありました。
やはり黎明期の飛行家であった小栗常太郎が洲崎に作った小栗飛行学校をを経て、
昭和7年、キクは愛知県新舞子にある安藤飛行機研究所の練習生になります。


安藤飛行機研究所は、大正末期に安藤孝三によって作られたもので、
航空局海軍委託練習生の課程を終えた水上機操縦士たちが入所し、
定期航空の経験を積む場ともなっていました。
キクは1933年(昭和8年)、第一飛行学校で二等飛行操縦士試験に合格し、
日本初の女性水上飛行機操縦士の資格を取ったため、ここに入所できたのです。




安藤飛行機研究所で他の男性パイロットと一緒に写した彼女の写真を見ると、
前列の男たちはいずれも当時流行の長髪に飛行服の腕を組んで、
いずれもカメラのレンズから目を逸らす当時の「イケてるポーズ」が、
いかにも気負いとプライドに満ち、彼らなりの挟持のようなものを感じさせます。

後列に並んでいるのは見た目の年齢や服装などから「若輩」でしょう。
キクはその中でも一番端に、まるで女学生のようなお下げ髪でかしこまっており、
まるでちょっと遊びに来たパイロットの姉妹のような雰囲気ですが、
実は後年、この中で最も名前が人に知られるようになったのは彼女でした。


研究所在所中に、彼女は飛行免許を取り「郷土訪問旅行」を果たします。


当時の日本の航空界での女性に対する扱いは男性飛行士のそれとは違い、
一等から三等まである操縦免許で、女性が取れるのは二等まで。
商業操縦士の資格を得るための一等操縦士免許は、
女性には受験資格すらありませんでした。

しかし、やはり物珍しさで人々が耳目を集める女性のパイロットには、
飛行そのものがニュースとなるようなイベントが結構な頻度で用意されたようです。

つまり女性だから注目され、話題になる、それゆえチャンスも訪れる、
という「女性ならではのメリット」も確かにあったのです。



さて、その郷土訪問旅行では、彼女は一三式水上機に乗って
新舞子の研究所を出発、根岸飛行場(静岡)、羽田水上飛行場で給油。
その後出迎えの群衆数万人余の群衆の上を三度旋回し、鮮やかな着水を決めました。

新舞子から郷里の埼玉県本庄市の利根川までは7時間の飛行です。

その後、式典や歓迎会で人々に熱狂的な賛辞を受け、
かつての教え子である子供たちから賞状による激励の言葉を受けて感激したキクは、
三日後、今一度離水して、今度は母校の女子師範がある浦和市、川口、所沢を飛び、
そのとき上空からこのようなビラを三万枚散布しました。


”ふるさとの川は野は麗しく ふるさとの山はこよなく美しい

只感激!!只感謝!!    二等飛行士 松本きく子”


きく子というのはキクの通称です。
当時はカタカナよりひらかな、そして子がついている方が「今風」だったので、
どうもこれは彼女が「芸名」として自分でそう名乗っていた名前のようです。

「女性飛行士第一号」

として華々しい場に出ることの多くなったキクをさらに有名にし、
その名が世界的にも知られたきっかけは、あるパーティからやってきました。

当時愛知県の知事であった遠藤柳作が満州国国務長官に赴任することになり、
その送別会の式場に招待されていたキクは、遠藤からの直々の誘いを受け、
満州まで飛行機で飛ぶことをその場で依頼されたのです。
そして、本格的に

満州国祝賀親善旅行

へのプロジェクトが動き出しました。

これまで水上機に乗っていたキクですが、渡満には陸上飛行機の免許が必要です。
水上機では機体が重く速度も出ないので(羽田から埼玉まで7時間もかかっている)
とてもではありませんが日本海を越えることは出来ません。

そのため彼女は早速亜細亜航空学校に入学し、機種変更のための訓練に入りました。
彼女が乗ることになったサルムソン2A2型への機種転換教育です。
このサルムソンは「白菊号」と名付けられました。

その傍らキクは積極的に後援会や映画会に参加し全国を回るようにもなります。
その目的は、この大飛行にかかる資金調達で、また

「日満親善、皇軍慰問」

の目標のもとに満州に運ぶ慰問品をひろく募集するためでもありました。

そしてさらにもう一つ。
彼女はこのとき飛行機の訓練だけでなく、拳銃射撃訓練を受けています。

当時の満州国は治安が悪く匪賊が跳梁跋扈していました。
万が一途中航路で飛行機が不時着して襲われたとき、相手を撃ち、
最後に自分の誇りを守り通すための拳銃でした。

彼女は海外に飛行機で渡航した最初の女性ともなりましたが、
当時女性が一人で日本を出て満州まで飛ぶことは、
それくらい覚悟のいることでもあったのです。



残された写真を見ると、キクは小柄で目のぱっちりとした可愛らしい女性です。
若い奇麗な女性が飛行家として持て囃されるということになると、
そこにはマスコミの興味や関心が必要以上に寄せられたでしょう。

以前ここで書いたことのあるパク・キョンヒョン(朴敬元)は、
銀座を真っ赤なドレスで闊歩し、衆目を集めるような華やかで派手なタイプで、
大物政治家のパトロンがいる(勿論日本人の)などという噂もありましたが、
少なくともキクには、そのような浮いた話のようなものはなかったようです。

しかし彼女にはこの頃、密かに思いを寄せている男性がいたようです。
それは彼女の飛行学校の教官で、彼はキクの飛行学校でのあだ名である
「めり」という愛称で彼女を呼んでいました。

「めり、絶対に無理はするなよ。
これは記録飛行でもレースでもないのだから。
満州から持って帰る土産は、めりの命だけでいい」

それが訪満飛行に望むキクへの教官からのはなむけの言葉でした。
教官は渡満飛行の国内給油の際、大阪で彼女と会い勇気づけたそうです。



昭和9年10月、新調した飛行服に身を包み、羽田を飛び立った彼女は、
大刀洗陸軍飛行場までまず飛び、その後玄界灘を超えて蔚山(韓国)に到着、
そのあと京城に向かいますが、中央山脈を越えるときに強い向かい風を受け、
燃料がどんどん消費されていくようになりました。

最後の手段として補助燃料タンクに切り替えたものの、排気管から火を噴いたため、
深夜で真っ暗であったのにもかかわらず彼女は大胆にも不時着を試みます。

機体は土手に不時着し彼女は無事でしたが、翌朝見ると、
後3メートル着陸が遅かったら、川に墜落していたことがわかりました。

彼女が飛来して来たとき、京城駅の手前の駅の駅員が飛行機を見つけ、
その後エンジン音と排気焔をたよりに追跡して捜索してくれたため、
彼女はすぐに救出され、飛行機も分解して京城まで運ばれたのです。

(ちなみにこの駅員は、当時”日本人”でもあった朝鮮人でした)


その後満州国の奉天まで、出発してから14日で2440キロメートルの飛行に成功。 
この訪満飛行の功績に対し、パリの国際航空連盟よりハーモントロフィー賞が授与されました。


ハーモン・トロフィーは、その年航空界に功績のあった飛行家に送られる賞で、
アメリア・イアハートは勿論、今までお話しした中では、
ジャクリーン・コクラン、ルイーズ・セイデン、 エイミー・ジョンソン、
そしてマリーズ・イルスなどが受賞しています。

冒頭にも言いましたが、1926年から2006年までの80年にわたる
ハーモントロフィーの歴史で、日本女性の受賞は松本キクひとりです。

ちなみに彼女の受賞順位は31番ですが、
30番はあの、チャールズ・リンドバーグでした。



二年後の昭和12年、キクは樺太のある市の市制祝賀記念飛行に飛び立ちましたが、
このとき彼女は九死に一生を得る経験をしています。

彼女の「第二白菊号」が津軽海峡間でさしかかったところ濃霧と暴風雨に見舞われ、
さらに霧のため気化器が凍結してしまったのでした。
キクが不時着水を覚悟したとき、海面に丁度貨物船「稲荷丸」が航行するのが見えました。


「第二白菊号」を貨物船の至近距離に着水させる前、彼女は船員に向かって

「いま降りますからお願いします」

と叫んでいます。
さすが大和撫子、冷静沈着な上、実に礼儀正しいですね(笑)

もともと水上機の出身であったことがこのとき役立ったと言えるかもしれません。



その年、昭和12年7月というのは、ある意味象徴的な出来事が起こっています。
7月2日には、女性飛行家アメリア・イアハートが飛行中行方不明になり、
そしてその5日後、盧溝橋事件が起こり、満州に火の手があがりました。
29日には通州事件によって日本人居留民が惨殺されたのをきっかけに、
30日にはついに日本軍が天津を攻撃するに至っています。

最も有名な女流飛行家の死、そして戦争・・・・。


キクは陸軍省に従軍志願書を提出しました。

「第一線の戦傷病兵を後方に空輸する操縦士として従軍させてください」

しかし、その申し出は却下されました。

アメリカ軍における女子飛行隊の扱いにも全く同じことが言えましたが、
もし女性が輸送任務の途中で撃墜されまた捕虜になるようなことになったら、
その非難は必ずそれをさせた軍に向かうことになります。

さらに日本では、

「女まで戦争に駆り出すようなことになったと敵に言われては
この上ない軍に取っての恥辱となる」

という理由がそれに加わりました。
まさに「婦女子の出る幕ではない」といったところです。

その年には女性が飛行機を操縦することも禁じられ、キクの飛行家人生は終わりました。


彼女はその後、満州はハルピンの開拓団に新婚の夫とともに入植しました。
そこで国民学校の教師などしていましたが、匪賊の来襲、ホームシック、
そして極寒の地での夫と息子を病気で失う、などといった苦難の日々を過ごします。

満州で再婚し西崎姓となりましたがすぐに新婚の夫は招集され、行方不明になってしまいました。

絶望のうちに終戦を迎えたキクでしたが、戦後しばらくして、
なんと夫は生きていたということがわかりました。
彼女は夫の復員を待って、戦後の生活に乗り出します。

その後、教育指導員として地域に貢献し、航空界においては
日本婦人協会の理事としても活躍していたキクでしたが、
昭和51年に放映された「雲のじゅうたん」のモデルの一人になったことで
航空界のみならず一般社会でも一躍注目されることになったのです。


世間の関心と賞賛のまだ消えやらぬ昭和54年、彼女は脳溢血で倒れ、
そのまま帰らぬ人となりました。

享年66歳。

”生まれ変わっても、わたしは
またこの道を歩むであろうという道を、今日も歩み続けたい”


彼女が生前残した言葉です。
 







 

潜水艦「グラウラー」〜イントレピッド航空宇宙博物館

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ニューヨークの「イントレピッド」航空宇宙博物館は、
岸壁に入場するのに料金が必要です。
というのも、博物館として皆に見てもらう部分は空母「イントレピッド」だけでなく、
岸壁に駐機してあるコンコルドや、「イントレピッド」と岸壁を挟んで繋留してある
潜水艦「グラウラー」なども含まれるからです。

今回はその潜水艦「グラウラー」についてお話ししたいと思います。



チケット売り場から行くと、まずこちらが目に入ります。
潜水艦の中は狭く、人が一列になってしか通行することができないので、
当博物館では、外側に順番待ち用の簡単な建物を用意していて(冒頭写真)
20人くらいずつの団体に一人案内人が付く形で見学者をさばいていきます。
ここで待っている人たちは、これから建物の中に入ることができます。

7月のニューヨークは、もちろん日本ほどではありませんがそれなりに暑いので、
建物まで列が進んだら日差しから逃れてほっとするのですが、建物内は
どういうわけかクーラーではなく巨大な扇風機が空気をかき回しているだけ。
さらにそこから20分は並ばないとならず、なかなか大変でした。

それにしてもこの潜水艦のシェイプ、実にオールドファッションだと思いません?
「グラウラー」USS Growler, SSG-577 はグレイパック級潜水艦の2番艦で、
冷戦時代の1958年に巡航ミサイル潜水艦としてポーツマスで就役しました。



これが、グラウラーが秘密に核弾頭を仕込んで積んでいたレギュラスミサイル。
グラウラーなどの潜水艦は、まずこの核弾頭ミサイルありきで建造されました。
つまり、レギュラスミサイルを運用するために作られた潜水艦だったのです。

レギュラスミサイルがごらんのように有翼なので、それまでのタング級潜水艦では
ミサイル倉の開口部を大きく取れず運用に支障をきたすということから、
改変して、一回り大きなグレイパック級が生まれたというわけです。

レギュラスミサイルはあのF-8クルセイダーをつくったチャンス・ヴォート社、
戦後改めヴォートエアクラフト社の製造で、レギュラス(Regulus )というのは
双子座のアルファの意味です。

1954年に実戦配備され、当初は水上艦14隻、潜水艦2隻に装備されましたが、
「グラウラー」が出来るころにはレギュラスは潜水艦専門になっていました。



発射台の構造が実にものものしいのが時代を感じさせます。
二基の固体燃料ロケットブースターが発射に使われ、
アリソンJ33ターボジェットエンジンで飛行を行います。

搭載するのは核弾頭のみ。
つぶしが利かない上、潜水艦なのにいちいち浮上しないと発射できません。
ミサイルなのに飛翔速度もかなり遅く撃墜されやすいという欠点もあったため、
あっという間に弾道ミサイルに主流を譲り渡すことになります。

変わって潜水艦に搭載されたのがロッキードのポラリス型 ミサイルでした。
潜水艦発射専門の弾道ミサイルで、最初からレギュラスの後継として開発されています。

ヴォート社の「カットラスの悲劇」(笑)についてこのブログでは一度書きましたが、
この会社、何かとそういう話題に事欠かないというか、このレギュラスミサイルの件でも、
海軍はまず筋として?ヴォート社と、レギュラスの後継タイプを開発契約しております。

一応ヴォート社も頑張って、 レギュラスIIというのを開発しました。
問題だったミサイルの巡航速度は 最大速度はM1.1→M2、
射程距離はほとんど倍の925→1850km、電波妨害に対する耐性も改良して、
渾身のできだったのですが、残念なことに弾道ミサイルの敵ではありませんでした。

ちなみにポラリス型は核弾頭3基搭載で、誘導方式は慣性誘導。
そのポラリスは慣性航法装置の「ポセイドン」に変わり、そして
慣性+天則航法装置の「トライデント」へと変遷していきます。

現在現役の「トライデントII」は、潜航中の潜水艦から発射することができ、
CEP(誤射)は90〜120m。
太平洋、大西洋、インド洋のどこにいても、旧ソ連圏(もちろん中国や南シナ海もね)
を射程に収めることができます。



さて、広大な「イントレピッド」を見学した後で、実は疲労困憊していたのですが、
これを見逃したら今度いつ来られるかわからないので、頑張って並びました。
建物の外から並びだして、だいたい40分くらいでようやく中に入ることができました。

潜水艦の司令塔とレギュラス・ミサイルを見ながら一列になって進みます。



艦体が楕円形に大きくくり抜かれ、アプローチのための通路が設けられたエントランス。
もちろんこれは博物館展示用に大幅な改造が行われたものです。

実は「グラウラー」が展示されるようになったのは2008年と比較的最近です。
1980年には除籍され、標的艦となって海没処分になるのを待つ状態でした。
しかしどういう働きかけがあったのか、下院議会の決議により、所有権が
「イントレピッド」航空宇宙博物館の館長に譲渡されることになりました。

しかし展示のための改修は困難を極めました。
長らく放置されていたせいで、艦体はさびつき、大きな穴まで空いていたのです。
このくり抜かれた部分にできた穴だったらよかったのですが。(一応冗談)

しかし、そこで決してあきらめないのがアメリカ人。
修理費が100万ドルと膨れ上がりましたが、それでもなんとか展示にこぎつけ、
各方面の努力粉塵の甲斐あって、「グラウラー」は展示艦として往年の姿を止めているのです。

皮肉を言うわけではありませんが、五体満足だった飛行機も錆びつかせてゴミにしてしまったり、
アメリカがモスボールで保存してくれていた飛行艇をようやく引き取っても、
政治が事業仕分けして存続の危機となったりと、その手の文化財保護には
全く情けない状態であるどこかの日本なら、おそらく費用の段階で頓挫していたことでしょう。



サンフランシスコの港で見学した、大戦中の潜水艦「パンパニト」とは
ずいぶん作りが違っていてよくわからなかったのですが、
艦体を輪切りにして、そこの通路を設け、入り口にはガラスのドアを設置したようです。




ガラス戸の設けられた部分の左側に、こんな丸いドーム状のハッチがありました。
これは、状況的に考えて、ミサイルにつながる通路その1?

 

というか、ここが巡航ミサイルのミサイル倉その2だったりします?
おお、よくよく見ると、床にはミサイルを運ぶためのレールがあるぞ。

前の人に続いて、このミサイル倉(推定)を見ながら左に入っていきます。
すると、



こっ、これは・・・・・!
右側に展示されていた部分とほとんど同じトンネルがここにも。
エスカレーターのような通路が設えられたこの部分、もしかして今わたしたち、
ミサイル倉その1の中を歩いていますか?

丸いドームはミサイル倉その1の蓋をした状態だったってことなんでしょうか。



このミサイル倉の壁面には、かつて潜水艦「グラウラー」の乗組員だった
海軍軍人全員の名前の刻まれたプレートが架けられていました。
艦長だったとかはもちろん、海軍の階級も一切なく、ただ名前だけです。



一度に入るグループは、このミサイル倉に一列で並んで端から端までの人数。
仕切りの外側に立っている女性は、このグループを率いツァーを行います。

ただし、説明らしい説明はこの時だけでした。
なぜかというと、潜水艦の中は狭く、1列でしか進行できないので、
皆に説明することなどとてもできないのです。

ただ、艦内を進んでいくと、一人の老人が(どうやら元クルーらしい)いて、
「何か質問があったらわたしに聞いてください」と言っていました。

わたしも何か聞きたかったのですが、何を聞いていいかわからないまま
列が進んでしまい、しかも周りの誰もが同じ状態でした。



ミサイル倉(推定)の突き当たりまで進むと、左に下層階に降りる階段があります。



魚雷調整用のユニットコンソールが左側に。
 

 
windlass lubrication、(巻上機の潤滑油)という文字も見えます。
ダイヤルが大きい!



さて、魚雷調整室のすぐ隣が寝台、というコージーな作りも潜水艦ならでは。
ベッドのシーツがくしゃくしゃで畳まれてもおらず、今起きた風なのは
演出なのかしら。
いずれにしても我が海上自衛隊の艦艇では、こんなことはあり得ません。



みんな無くなっていますが、小引き出しのたくさん付いた物入れ。
まさか乗員一人に一つづつ?



と思ったら全く使用用途のわからない器械。
アップにして計器の文字を読んでみようとしたのですが、艦内が暗くて
思いっきり写真がぶれており、それも不可能に( ;  ; )

 

潜水艦の海図台でしょうか。
軍艦で言うところの航法室とか、チャートルームに相当するコーナー。 

まるでオブジェのように美しく設置されたコードや管の類。
そこに「グラウラー」の内部説明図がありました。



ふむふむ、やはりわたしたちが入ってきたのは「ミサイルハンガー」、つまりミサイル倉。
ミサイル倉の奥の階段したのはトルピード(緑の部分)が設置されてたようです。 

先ほど見た魚雷調整盤は、ここの魚雷のためのもので、艦内にはAFTつまり後部にも
2基の魚雷発射管が装備されています。
私たちが今見ているのが、「ナビゲーション」。 



で、ここが「グラウラー」の存在目的である巡航ミサイルの操作室。
「ミサイルチェックアウト&ガイダンス」センターです。



ガイダンスというとまるで入学時の案内みたいですが、ミサイル誘導のことを
「ミサイルガイダンス」といいます。
チェックアウトは・・・・発射よね? 



Missle coaxial、つまりミサイルのケーブルですとさ。
しかし、さすがは1950年代の武器、当時は最新式でも、
今見ると家電のスイッチのようなほのぼの感が漂ってアナログ感満載です。


さて、次はofficer's quaters、すなわち士官居住区です。


続く。 

 

「ガミガミ言う人」にあらず〜潜水艦「グラウラー」

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ニューヨークの「イントレピッド航空中博物館」にあった
潜水艦「グラウラー」(wiki表示ではグロウラー)の館内ツァー、続きです。
さて、レギュラス・ミサイルのミサイル倉の中を利用したエントランスから
入ってきた我々は、改装時に取り付けられたと思われる階段を降りて、
下の階の魚雷管制室までを見学しました。



魚雷関係のコンソール。
椅子が備え付けてありますが、随分座りごごちが悪そうです。

いきなり余談ですが、わたしはこのシリーズを始めるにあたって、
ドイツ映画の「Uボート」を鑑賞しました。
そういえばいままで、日本の潜水艦ものはいくつか見てきましたが、
海外の潜水艦ものは「K-19」しか観たことがありません。
特にドイツ制作のUボートものは初めてだったので、
大変興味深く最後まで観させていただきました。

いやー、もう当時の潜水艦、大変すぎ。
まず、哨戒活動に出るのはいいけど、全然敵がいないわけ。
何日間もただ海の底をウロウロ、海面を航走すれば波に顔を叩かれ、
ストレスマックスで何かに遭遇したと思ったら味方のUボート。
一旦は喜んでしまったものの、次の瞬間、

「なんでこんな広い海でUボートが2隻同じところをウロウロしてんねん!」

ということに気づき、怒り倍増。
無能な上層部の配置命令、どんだけ適当なことをしてるのか、ってところですか。
やっと船団を発見し、みんなひゃっはー!状態で盛り上がったと思ったら、
今度は船団を護衛していた駆逐艦に無茶苦茶やられて這々の態。

心理戦になったとき、皆が黙り込んで天井を見上げる(なぜ潜水艦乗りは
敵が来たときに上を見るのか)中、敵のソナーが不気味にピーピー鳴り、
潜行状態に入れば、兵員は前に走ったり後ろに走ったり(錘の役目)のてんやわんや、
索敵を恐れて深海に沈めば、ボルトが水圧で飛んでそれで怪我をする。

昔の潜水艦乗りであれば、どれもあるあるというネタだったに違いありません。


それにしても、「Uボート」や日本の潜水艦ものを見ると、暗い狭い臭いの3拍子に加えて、
一度何かあれば一蓮托生の戦死、というのが暗い画面によく現れていましたが、
実際に見るアメリカの潜水艦に、ああいった小汚さがあまり感じられないのはなぜでしょうか。
 


「グラウラー」はユーボートなどからは時代的にもずいぶん後なので、
設備もずいぶん近代的です。



ぼけてしまいましたが、これが士官用のトイレ。
護衛艦のトイレと同じく、バルブを開放して水を流すようになっています。



Officer's Quaters、士官居室の部分にあった officer's stateroomの文字。
ステートルームとは、列車や客船の中の「特等室」という意味があります。
士官のコーナーの中でも「特等室」がここだったのだろうでしょうか。



これが・・・・・「特等室」。
まあ、潜水艦の中では、そう言っても不当表示ではないレベルの豪華さではあります。
なんといっても上の段だけとはいえ、起きても頭を天井で打たないのは素晴らしい。

「グラウラー」の士官は二人または三人ワンセットで寝ていました。



天井にも送風感やボイラーのダクトがあるなどというのとは大違い。
これはかなり快適に寝られるかもわからんね。
下の士官とはおそらく日替わりで場所を交代しあったりして。




Wardroomというのは軍艦における上級士官室のことです。
家具類は極限の狭さにフィットするように細心の注意でデザインされています。
たとえばデスクトップとかシンクは折りたたみ式、椅子は物入れにもなります。

士官たちは食事、ミーティング、社交を全てこのワードルームで行いました。
士官の食事はギャレーで作られ、まずワードルームのパントリーまで運ばれ、
そののちちゃんと各々にサーブされました。

テーブルの天板など、木製の家具が多いのは「アトホーム」な雰囲気を演出するためで、
しかし全ての家具や壁はプラスティックでラミネートされていました。
ラミネート素材やビニールのシートなどは全て第二次大戦以降の発明です。
 


なんと、髭の剃り残しなどがないように、鏡の両側にライトがついてます。
鏡は画像の歪み具合からみてガラス製ではない模様。



なんてこった。
潜水艦と言いながらこの間見た掃海艇の艇長室並みに広いではないの。
コマンディング・オフィサーつまり司令官(CO)用寝室。

「グラウラー」艦内でプライベートな空間をキープできる個室はここだけです。
このベッドは持ち上げると壁にぴったりと収納することができ、その下にある
向かい合わせのソファを使用することができます。

ベッドの上にある電話からは、艦内の各部署全てと通話することができます。

 

ベッド用の扇風機までついているぞ。
電話の上の穴の空いたドラム型の器具は、どうも電話交換のように
コードをつなぐことができる仕組みの模様。

 

あくまでも階級式なので、CPOつまり下士官のベッドは3段になります。
この写真によると、6人の下士官たちが寝られるコーナーです。

「Uボート 」では映画のセリフによるとベッドは総員の数より少なかったようです。
全員が同じ時間に寝ることなどあり得ない、つまり誰かが寝ている時には
誰かが必ず起きているので、合理的といえば合理的な考え方だったのかもしれませんが。

 

yeomanというのは米海軍の用語で「下士官の書記」のこと。
ここはヨーマンのオフィスとなります。

ヨーマンはクルーの管理や事務的な業務を行う係で、
報告書などの作成を含む文書作成に責任を持ちます。
作成された文書の管理なども全てこの係がここで行います。




コンパートメントからコンパートメントに移る際には、
どの潜水艦でもそうですが、このような小さなハッチをくぐり抜けていきます。

観たばかりなのでまたも「ユーボート」の話ですが、航行中爆雷を避けるために
急速潜行を行うときには、若い水兵さんたちが

「後方へ行け!」 

と命令されると全員がだーっと生けるバラストになるために走っていくのです。
その際、のんびりとこんな調子でハッチをくぐるものは一人もなく、
全員がハッチ上部を掴んで両足ごと次の区画に飛び込んだり、
ジャンプして次の区画でくるりと一回転していたりしました。
本当にこんなだったんだろうか・・・? 



ところで、説明が遅れましたが、「グラウラー」-GROWLER-という艦名は、
 
1、うなるひと、ガミガミ言うひと、不平屋

2、小さい氷山のこと

という意味があります。
実は「ガトー」級の潜水艦に限り、このどちらの意味でもないのですが、(正解は後日)
この響きはどうやら大変好まれるものらしく、船以外にも電位戦機の名前にもなっています。

そこでふと思い出すのが「うろうろするひと」の意味であるPROWLER(ノースロップ・グラマン)
で、このEA-18G「グラウラー」の飛行機の方は、どうも「プラウラー」と
対でネーミングされたのでは、とたった今思いつきました。こちらはグラマン製ですが。



もともと4輪馬車のことを指す名称と成っていたので、船、飛行機、列車(いずれも軍用)
 ぬいぐるみに仕込む、傾けると音がなる仕掛けや、ロシア軍では
地対空ミサイルにもこの名前が使われています。

GLOW (輝く)という響きに近いのが好まれるのかなと思ったのですが、
英語ではRとLを日本のように混同しないので、たぶんこれは違うだろうな。


続く。 



 

横浜鎮守府長官官舎〜瓜生外吉と繁子夫妻

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第二術科学校の見学で英語の教官だった芥川龍之介のことを
取り上げた時に、「蜜柑の碑」のことをさんぽさんに教えていただき、
その時に貼っていただいた「横須賀シティガイド」をみて、
横須賀鎮守府の長官官舎が一般公開されることを知りました。

HPを調べてみると、桜の頃の週末から週明けにかけて公開、とあります。
うちの桜(といっても共同住宅の敷地内にあるという意味ですが、
寝室の真ん前で咲き誇るのでもうほとんど独占状態)が8分咲きになり、
お花見をする少し気の早い人も近所ではいそうだなというある日、
この一般公開を御目当てに横須賀に行ってみることにしました。



横須賀中央駅から歩けない距離ではなかったのですが(帰りは歩いた)
何しろ行ったことがないところなので駅周辺に車を止め、タクシーに乗りました。
ここは「田戸台」というのですが、なんとなく勘違いしていて、運転手さんに

「たどころだいの横浜鎮守府庁舎お願いします」

と言ったところ、

「たどだいですよね?たどころだいじゃなくて。
たどころってのはないんですよ。たどだいのことですよね? (略)」

とご丁寧に何回も間違いを認めさせられました。(−_−#)


車は門の前まで行ってもらえます。
門のところには、公開の間じゅうずっと入り口で警衛をしなくてはいけないらしい
海曹が、時折スマホをチェックしながらユルい感じで立っていました。
(別にこんなイベントのときは構わないと思いますよ?)
ここでは折しも桜がほぼ満開で、見学にお花見も兼ねられます。



内部に昔の写真があったので、すかさず比べてみましょう。
あれ?これ、真ん中の石の柱なくなってませんかね?
昔は人が通る門と車が来たら開ける門に分かれていたようですが。

あとは門柱のてっぺんや根元が当時は新しいせいか白っぽいことや、
地面が全く舗装されておらず、砂利が敷き詰められているのが違う点です。
 


入った途端、妙に綺麗な外装でまるでスキー場のロッジみたいなので

「オリジナルを壊して造り替えてしまいおってからに・・・」

と思ってしまったわけですが、実は昔の写真を見ても
ほぼ同じ、つまり駆体は変わっていないらしいことがわかりました。




はいその証拠。ほぼ同じ角度から撮った写真です。
さすがにレンガや屋根、窓枠は変わっているようですが。

しかし、建物周りの木を地面の舗装と共にほとんど失くしたのはいただけないわ。



この鎮守府長官庁舎、1913(大正2)年に建造されました。
企画設計に当たった桜井小太郎
もう少し先に、舞鶴訪問のときに知ったジョサイア・コンドルについて取り上げますが、
ロンドンで留学後、そのコンドル設計事務所で実務を学んだ人です。

海軍の技師として、呉鎮守府長官宿舎、大湊要港部水源地堰堤などを手がけ、
また三菱銀行や丸ノ内ビルヂングなどの設計を行った建築界の偉人ともいうべきで、
現存する建築のなかでは静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)、旧横浜正金銀行神戸支店だった
神戸市立博物館(国の登録有形文化財)があります。

この建築計画が持ち上がったとき、横須賀鎮守府司令長官だったのは、
第12代の瓜生外吉海軍中将でした。



一番左上がそうです。
で、その後この長官庁舎の主となった歴代長官の写真が続くわけです。
第3代に伊地知季珍という名前がありますが、「三笠」の艦長だった方ではありません。
第7代に、雅子妃殿下のご先祖だった山屋他人大将、そして第8代には
広瀬武夫と同期で恩賜の短剣だった財部彪大将がいますね。
(山本権兵衛の娘を嫁にもらって出世し、”財部親王”などと言われた人です)

で、もう少しこの図を慎重に見ていただくとわかりますが、ここの最初の住人は、
東伏見宮 依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう)なのです。

東伏見宮中将は第16代鎮守府長官。
つまり、ここに初代住人としてお住まいになった時にはまだ鎮守府長官では
なかったということになるのです。

これは、皇族の依仁親王を差し置いて他の長官を先んじるわけにはいかない、
という配慮であったらしいことがわかります。
それが証拠に、依仁親王は3年後、間に3名の鎮守府長官を挟んで、
実際に横須賀鎮守府長官を拝命されて、もう一度第5代の主となっています。


そしてもう一つ特筆すべきは、この庁舎が建設される時に横須賀鎮守府司令官で
この企画建築に深く関わった瓜生中将はここに住んでいないということです。

施工が終了した大正13年には瓜生中将はもう司令官ではなかったからですが、
それでは誰が宮様を立てるために「割を食った」かというと、
第2代居住者の山田彦八中将(大正2〜大正3在住)でした。

鎮守府長官の任期は概ね1年というのが相場で、瓜生中将が3年と長かったのは
この鎮守府長官庁舎の設計の責任者となったせいだったからと思われます。
しかしさすがに4年もやらせるわけにいかないので、建築が終了した年には
第13代となる山田中将に長官の役職は移っていました。
そして、第2代居住者、山田中将の司令在任期間だけが2年間と長くなっています。

これは、おそらくですが、せっかく完成した長官庁舎に住まないまま
長官職を失うのはあまりに山田中将に気の毒というか面子の問題もあるので、

「宮様を一番先に住まわせることにするから、君の任期を2年にして
在任期間の後半は住んでね」

ということで手打ちとなったのではないかと推察されます。
こういう人事をみて思ったのですが、海軍でトップをすぐに交代させたのは
主にできるだけいろんな軍人にその地位を与えなくてはいけないから、
というのがメインの理由だったのではないでしょうか。


ところで、このときに現地でもらってきたパンフレットには、
このような一文があります。

「田戸台分庁舎は瓜生ご夫妻と桜井小太郎氏三人の博識と
創造力による合作であります」

瓜生外吉が庁舎建造のプラニングに参画した理由は、
(というか、プロデュースも瓜生だったと考えられる)
瓜生が加賀藩の藩士であり、海軍兵学寮入学後、抜擢されて
アメリカの海軍兵学校、アナポリスを卒業しており、6年の滞米経験から
海軍きってのアメリカ通であったことからであろうと思われます。

そして、わざわざ「ご夫妻」とあるのは、彼の妻があの津田梅子
大山捨松らとともに新政府の第一回海外女子留学生として渡米し、
10年間の海外在住経験を持つ瓜生繁子(旧姓永井繁子)であり、
長官庁舎建設にあたってはその経験からアドバイスを行ったからです。

wiki

留学時の繁子は左端。右端が大山捨松で津田梅子は彼女と一緒にいる少女です。
繁子はアメリカの名門大学、ヴァッサー大学の音楽学部に進みました。
彼女が専攻したのはピアノだったようです。

10歳で渡米しピアノを始めるというのは一般的に「遅すぎる」のですが、
それでも他にピアノの奏法を知っている日本人は当時いなかったため、帰国後、
音楽取調掛(のちの東京音楽学校)のピアノ教授として破格の待遇で迎えられています。

瓜生中将と繁子夫妻二人の経歴を比べてみると、
瓜生が1875年から1881年の6年間、繁子が1871年から1881年の10年間、
それぞれの留学で滞在しており、二人の結婚は帰国後の1882年です。

これは、二人がアメリカで知り合ったということですよね?
瓜生は帝国海軍少尉、繁子は芳紀芳しい十代の少女として。
つまり、当時珍しい恋愛結婚であったらしいということなのですが、
異国の地で知り合い、心惹かれた相手がお互いに相応しい身分であったこと
(繁子の父は幕府の軍医)は若い二人にとって大変幸運だったと言えましょう。



繁子と津田塾の創設者となった津田梅子、鹿鳴館の花と呼ばれた大山捨吉
(大山巌の妻)らが再会したときの写真が残されています。



左から津田梅子、アリス・ベーコン(津田塾の教師・教育家)、
繁子、そして大山捨松。
津田梅子は生涯独身を貫きましたが、女子留学生のうち有名になった
三人(後二人は一人が若死、一人が行方不明)のうち二人が
海軍士官と、いずれも熱烈な恋愛で結ばれているというのは興味深いですね。

ちなみに、瓜生中将と繁子の間に生まれた息子のうち一人、武雄は
海軍兵学校33期に進み、卒業後35期卒業生の遠洋航海のため
「松島」に乗り組みましたが、ここでもお話ししたことのある
1908(明治41)年、遠洋航海先での「松島」の爆沈事故により死亡しています。

調べたところ、瓜生武雄の卒業時の成績は6位。
このときの首席は豊田貞次郎でした。


さて、横須賀鎮守庁舎から離れて余談ばかりしてしまいましたが、
元に戻ります。







これも同じ角度から見た昔と今の庁舎。
手前の紅葉?は当時からの古木のようですね。

呉の鎮守府長官庁舎と同じく、この庁舎も洋館と和風館の接続住宅で、
洋風館の部分は木造平屋建て。
屋根は亜鉛葺きの切妻(2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状)となっています。



屋根の軒部分には、「ハーフ・ティンバー」様式の特徴である

「柱をそのまま見せて、その間の壁を漆喰で埋める」

という施工方式で仕上げられた部分を見ることができます。 
わたしが一目見て「大幅に作り変えおって」と激怒する(嘘)原因になった
レンガの妙にツルツルした質感は、改装に当たって外壁を
年月に耐えやすい煉瓦タイルにしてしまったからですが、
もとは下見板張り (建物の外壁に長い板材を横に用いて、板の下端が
その下の板の上端に少し重なるように張る)だったそうです。

まあ、それなら仕方なかったかもですね。板じゃ持たないから。
ただ、最初の写真がどうも煉瓦に見えるような気がするのはわたしだけ?


さあ、それではいよいよ中に入ってみましょう。


続く。
 

横須賀鎮守府庁舎一般公開〜桜花と旭日旗

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桜の花が満開の庁舎と、当時は「軍艦旗」と称したこの旗が掲げられている光景は。
おそらく百年前からほとんど変わらぬ眺めなのに違いありません。

桜の季節とともにこの庁舎を一般公開なんて、粋なことをするねえ海自さん、
とおもわず呟いてしまいそうです。
雷蔵さんのご報告によると、この少し前に観桜会が行われたようですね。
わたしがいった時にはほぼ満開でしたが、観桜会の時は8分咲きくらいだったでしょうか。

現在、この田戸台分庁舎は横須賀地方総監部によって管理されており、
自衛隊で賓客を招待しての会合やこの観桜会、一般公開以外にも、
申し込みによってコンサートなどが行えるスペースとして利用できます。

つまり自衛隊関係者以外にもそんなに敷居の高い設備ではないということですね。




さて、この写真を見ていただければ、この建築物の作りが
「洋風と和風のフュージョン」であるというのがよくわかるかと思います。
応接室などパブリックスペースは海軍の施設らしく完璧に洋風、しかし
長官の寝泊まりにはやはり和室で行うことを目的にした作りで、
呉の旧海軍長官庁舎と全く同じです。

同じ建築家(桜井小太郎)が造っているので当たり前かもしれませんが。
 


このとき、サンルームを開け放っていたため出入り口は二箇所ありましたが、
こちらが正規の玄関となります。
 
みたところ、昔のままのエクステリアは全く残されていません。
腰板というか、土台部分は洗浄したようですが。



建造されてから100年の節目である2013年に取り付けられたプレート。
全面改装は平成5年といいますから、もう22年も前に行われています。



この時の大改装で、外装はタイル張りになり、
管理人食堂とそれに続く和室が全部配膳室になりました。

今立っているのは、この図で言うと図左側の矢印の部分です。
正面に玄関ホールがあり、パブリックスペースは
そこを中心として配されています。



玄関ホールに立って左側を眺めた状態だと思われます。
この写真にも写っている左の「記念館」に行ってみますと、



まるで書斎のようなスペースとなります。
一般公開で土足の人たちが上がってくるため、床には保護シートが貼られています。



暖炉が右に見えているので、これが昔のこの部屋だと思われます。
イギリス風に壁には壁紙が貼られているのがわかります。
小さな椅子がアトランダムに置かれて、談話室のようにも見えますね。


これがおそらく昔のままの焚き口を残した暖炉。
鏡に映った写真を撮っている人()の後ろにあるのは、
建築家の桜井小太郎氏の胸像ではないかと思われます。
(写真を撮り忘れたのですが、瓜生外吉中将の可能性もあり)

この部分は昔装飾だったのですが、米軍進駐時代に鏡に変えられたそうです。



ダイニングルームに行ってみましょう。
一般公開に際しては、ダイニングルーム横の「サンルーム」を開け放ち、
そこから出入りできるようになっているので、最初にここから見学する人もいます。
こうしてみるとかなりモダンな形の椅子が導入されているようですね。



同じ部屋を、上の画面の左手から見るとこうなります。
右側の窓からの逆行が強くて分かりにくい写真ですが、
右側に、現在もそのまま残されているステンドグラスが写っています。

左の、今は東郷元帥の額がかかっているところになんと鹿の首があります。
この鹿の首を暖炉の上に飾る(昔は暖炉だったと思われる)というセンスは、
建築家がイギリスで勉強してきたことと関係があると思います。

我が家は友人であるアメリカ在住のイギリス人カップルが結婚式をした時に
築1000年という古城でのパーティに呼ばれたことがあるのですが、
その暗くて窓のないお城の壁には、これでもかと鹿の首が飾ってありました。
暖炉は床に掘られた掘られたものも(掘りごたつならぬ堀暖炉)あったと記憶します。



続いて、パンフの間取り図で言うところの「リビングルーム」へと。
旭日旗がたくさんまとめて置いてありますが、観桜会のときに使われたからでしょうか。
この暖炉の部分は昔どうだったかというと、



これですよ。なんでこんなに変えてしまうかな。
ちなみに暖炉の煙突は閉じてしまっているらしく、
マキは電気式ストーブのの偽木となっていました。
まあ実際に暖炉として使っているだけましか・・・・。 




ここでもう一度外からの写真。
この、外に張り出した多角形の部分は、「ベイ・ウィンドウ」といいます。
壁より外に突き出して、一階とその上の階が同じ形をしている形式のことですが、
その内側がどうなっているかというと、



こうです。
四面の窓ガラスのうち右側の一面だけが室内(サンルーム)に
向いていて、ほぼ半円のような印象になっています。
この邸宅の中でも最も美しいコーナーであると思います。
観桜会でビュッフェの食べ物が置かれたあとなのか、楕円形のテーブルに
ビニールのクロスがかけられているのが、激しく興を削いでおります(笑)

ここがダイニングルーム全体に光を取り込んでかなり明るくなります。
上のダイニングルームの写真で逆光となっているのがこの部分です。



さて、ここまでが洋風建築の部分。
これらの後ろ側に廊下があり、和風建築の建物に接続しています。
その廊下の窓から坪庭のようなのが見えているのですが、なにやら謎のオブジェのようなものが。
昔は本当に坪庭のようになっていて小さな池でもあったのかなあという気がします。



廊下を渡っていくと、二階に続く階段がありましたが、
そこから先は非公開で上がることはできませんでした。
レンズに埃がついていてすみません。



二階の「ベイ・ウィンドウ」の部分は、なんと倉庫だったようです。
ちゃんとした部屋ではなく、屋根裏なんですね。



横須賀鎮守府長官はベッドで寝ていたのか?と思ったのですが、
よく見るとこの写真は「米軍進駐時のもの」と説明があります。

この建物は大正の関東大震災の時にもビクともしなかったわけですが、
空襲などの戦災にも遭いませんでした。
というのは、米軍はここにそのような建物があることを知っており、
西欧建築はできるだけ破壊しないというポリシーに沿ったこともあり、
また戦争が終わった暁には進駐軍の司令部の居場所が必要となるので、
先を見越して絶対に爆弾を落とさない地域が決められていたからです。

そして案の定、この鎮守府長官庁舎には、昭和21年の4月から
在日米海軍の司令官が9人、昭和37年の引き揚げまでの間住みました。

なぜ無傷だった庁舎建物なのに住むのに半年も間があったかというと、
その間、米軍はアメリカ人が住むための大幅な改装を施したからです。
彼らはすべての部分に土足で上がるため、畳の部分に絨毯を敷き詰め、
和室にはこのようにベッドを置きました。

それだけでなく、たしか呉の長官庁舎も同じようにされたと記憶しますが、
外壁と内壁をすべて白く塗り替えてしまったといいます。

呉鎮守府の内壁には、金唐紙という特殊な壁紙が使われていたのですが、
彼らは芸術的価値など全く認めませんでしたから、真っ白に塗り潰しました。

ちなみに、呉鎮守府に駐在したオーストラリア軍の司令官たちは、
建物を改装しまくり、(組み木の床にリノリウムを被せたり欄間を外したり)
和室であろうが畳であろうがどこでも土足で歩いただけでなく、帰国時には
一切合切家具を持って帰った、という香ばしいエピソードまでありました。


もともと鎮守府庁舎は、司令長官の執務、軍政会議、迎賓施設でもあったのですが、
米海軍の居住者はここをすべてプライヴェートな公邸として住み、
南側を接客部分にし、北側(中庭より向こう)を日常部分に使っていたそうです。



一階の和室部分は、よく温泉旅館にあるのと全く同じような作りです。
もし音楽イベントなどでここを借りる時には、ここが出演者の控え室として使えるそうです。


旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開は、この火曜まで行われています。
もしお時間が許せば、近隣の方は桜を見に気軽に出かけられてはいかがでしょうか。


続く。
 

潜望鏡とソナー〜潜水艦グラウラー

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ニューヨークはハドソンリバーの岸壁にあるイントレピッド航空宇宙博物館。
この博物館の展示の一つである潜水艦「グラウラー」についてお話ししています。

魚雷調整室、士官室と潜水艦の前の部分から後ろに向かって進むのが見学コース。



士官コーナーを出るハッチをくぐり抜けると、
そこはちょうど潜水艦の艦橋ともいうべき「セイル」の真下です。



ふと上を見ると、セイルに続くラッタルが。
見たばかりなので、またしても映画「Uボート」の話になりますが、
当時は潜水艦といえども、換気と充電の問題があったので、
普段の航行は潜行せずに、移動には基本的に海上航走で行っていたようです。

ただし、敵の艦船に見つかる危険性を考慮して、いつも3人か4人、
セイルのてっぺんに人が立って、四方を双眼鏡で見張りしながら進むのです。
たとえ大荒れの海で波が高くとも、潜行するよりはその方が潜水艦にとっては
「楽」なことらしく、敵が見つかるまでずっとその状態で航走を続けます。

Uボートのセイルは、上の先端が下に向かって逆U字になっており、
下からの波をある程度遮るようなデザインなのですが、波が強いと
そんなものなんの助けにもならず、セイルの上の4人は波をかぶりっぱなし。

ときには頭から海水を浴びて潮にむせたり、ひどいときには波にさらわれ、
下に落ちて怪我をしたり。
そして、その間もセイルから艦内に海水がふんだんに入りまくります。

「灰色の狼とかなんとか言われても俺たちの扱いは酷いもんだ」

と思わず乗組員が呪詛の言葉を吐く超ブラック任務。

敵を発見、あるいは敵に発見されたときには、「注水・潜行」が叫ばれ、
全員がセイルから海水とともに飛び込んでくる感じです。

以前、「潜水艦下克上」というエントリで、潜水艦勤務になったら、
艦長であろうがほとんど皆と同じようなところで戦うことになるので、
年齢的に動きの鈍くなってきた艦長(20代の水兵に比べればですが)は、
もたもたしていて頭を蹴られたり上に人が落ちてきたりして怪我をした、
というエピソードについて書いたことがあります。

「Uボート」を見ると、文章で想像していたよりも10倍くらい酷い環境で、
しかも深海の圧力に耐えるとき、敵の爆雷に耐え、ただ向こうが諦めるのを待つとき、
総員の緊張と恐怖のマックスになる様子は、見ているだけでこちらがハラハラしました。

ここにある潜水艦は、そんな全時代的なものよりもかなり「人間的」で「乗員に優しい」
仕組みとなっている上、結局は実際の戦闘を行わずして引退していることから、
艦内に乗員の「怨念」のような不穏な空気はまず感じずに済み、観る方も
かなり気楽な気持ちで見学できたような気がします。



セイルのすぐ下は「コントロールルーム」となっています。
つまり操舵室ってことでしょうかね。

金色の扉には「running & anchor」のためのスイッチのパネルと書かれています。
右上の艦位を表すモニターはまだ生きているらしく、「グラウラー」が現在
南南西を向いて係留されていることが表されています。

その下の赤いパネルにはただ「危険」とだけ書かれています。



これがこの潜水艦の潜望鏡スコープ 。
潜水艦の目であり、これを覗いて戦闘指揮を行う艦長の緊迫した姿を
潜水艦を描いた映画で見ないことはありません。


ここが「コントロールルーム・攻撃指揮所」です。



潜望鏡の横にあるボードには、1962年6月30日(火)の日誌が。

CONN LT.(操舵士官?)はマーフィ
コース・154、スピード15ノット、行き先、パールハーバーまで

日の出・0645、日の入り・1921 同行艦なし

状況・1107、潜航中スキップジャック級潜水艦を認む
0550、海面において商業用タンカーとビジュアルコンタクト

SS-2 secured (繋留したの意?意味わからず)

深海潜行 600’ 1600時間

潜行600というのは600フィート、約183mのことかと思われます。
「Uボート」では敵の攻撃によって浮上ができず、どんどん沈んで
ついには240mの目盛りが振り切れ、260mの海底に擱座する、
というシーンがありましたが、沈んでいく間乗組員の顔が引きつってきて

「頼む、止まってくれ、頼む・・・・!」

という神頼みモードになってきたのが、200mくらいからであったと記憶します。
この潜行訓練は、この深海に1600時間、つまり 66,6666日、2ヶ月いたということ?

幾ら何でもそんなことはあり得ないという気がしますので、
もしこの数字の意味をご存知の方は、是非教えていただけないでしょうか。 



これは床にあったさらに下の階に続くハッチ。
当時はもちろんこのような網目のものではなかったと思われます。

下の階にも灯りが見えていますが、展示では下の階までは公開していませんでした。
上の方の艦内マップによると、ここはちょうどセイルの真下にあたり、
おそらくはこの地下を通ってエンジンルーム(ブルーの部分)で
エンジンのメンテナンス作業をするためにある通路ではないかと思われます。

「Uボート」でもエンジンルームの様子が幾度となく出てきましたが、
幾つものカムが一斉に動くとものすごい騒音を発します。
このタイプではエンジンだけが艦底に鎮座する形で据えられているため、
そこへのアクセスを階下に作る必要があったのかと思われます。

ところで、わたしたちがこのコントロールルームにやってくると、
元乗員と思われるベテランの老人がここに立っていました。(冒頭写真)
通り過ぎる人たちに、「何か質問があったら聞いてください」と声をかけていましたが、
とりあえずわたしは何を聞いていいかわからず、 しかも前にいる誰も質問しないので、
列が比較的順調に進んでしまい、あっという間にこのベテランの前を通り過ぎました。

こういうときにいつも、前もってこんな機会があると知っていたら、少しくらいは
展示艦について下調べして、その歴史ぐらいは頭に入れていき、

「ベトナム戦争のときには乗っていたんですか」

くらいは聞いてあげられたら(むしろこのベテランのために)、と後悔するのでした。


 
コントロールルームにはソナーが据えられています。

「グラウラー」では潜航中、他の艦艇との通信にパッシブ&アクティブソナーを使いました。
ソナーとわたしたちは普通に単語として使うこの言葉、実は

SOund Navigation And Ranging

の省略形であることをご存知でしたか?
自慢ではありませんが、わたしはフルーティストのマルセル・モイーズの
著書などで見る「ソノリテ」=sonorityと関係あるものだと、
今の瞬間まで思っていたので、この事実に大変驚いてしまいました。

これだと、「音響」との言葉の相似性は、ほぼ偶然だったってことですよね。

パッシブ・ソナーは海中における音を探査し、その間、アクティブ・ソナーは
音声のパルスまたは「ping」を発し、その反射音を聴きとります。

一般に潜水艦というのはより多くパッシブソナーを頼りにするそうです。
その理由というのは、静謐性を保ち、艦艇の位置を正確に把握することができるからです。



レィディオ・ルーム(radio room)、無線通信室。
「グラウラー」の乗員に許された、海上の艦艇と通信する唯一の方法が無線でした。


超長波(VLF, very low frequency)は3-30kHzの周波数の電波のことを言い、
海中にいる「グラウラー」が受け取ることのできた唯一の電波です。
深さおよそ10 - 40m(周波数と水の塩分にも依存)の水中を透過することが出来るため、
水面付近の潜水艦と通信を行うためにも用いられました。

もちろん「グラウラー」がそれに対して通信を返すことはできませんでした。

ついでに、この超長波を送するための通信設備は非常に大規模なものとなり、
有事には攻撃を受けやすいという欠点があったことから、アメリカ海軍は

TACAMO(Take Charge And Move Out)計画

のもと航空機による通信中継を行うこととしました。
この「TACAMO」計画によって、VLFの装置が搭載された機体として
開発されたのがE-6 マーキュリーであったということです。




続く。 


 


「可愛い魚雷」〜潜水艦「グラウラー」

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ニューヨークはハドソンリバーのピアにある「イントレピッド航空宇宙博物館」。
見学通路に沿って見たものについてお話ししています。



通信室に続いてはこの艦内図でいうと「CREW'S MESS」、兵員食堂です。
MESSという言葉は普通「部屋が散らかっている」などに使いますが、
どういうわけかアメリカ軍に限りこの言葉を食堂として用いています。



奥の説明板には「SCULLERY」(食器洗い台)とあります。
ここでは食器や鍋などを洗いました。
調理や食べ残しで出た残飯は船外にチューブごと排出されますが、
残飯が海に浮くと敵に存在を悟られるので、チューブには重りが付いていて
海面に浮かないようになっていたということです。 



パンケーキなどの粉やソースを混ぜるためのミキサー。
この形にも何か合理的な理由があったに違いありません。



潜水艦の中で火は厳禁ですから、調理には電気プレートを使いました。
右側の鉄板のようなものはこの上がそのまま熱せられたものと思われます。



現在でもアメリカでは普通に使われているドリンクサーバー。
左の丸いのは「高い」「低い」の二段階調整しかないつまみ付きで、
どうやら熱で料理を保温しておくのに使ったように見えます。



いわゆる科員食堂兼娯楽室、といった感じでしょうか。
テーブルと椅子は作りつけで、いかにも狭そうです。
アメリカ人の規格からいうとお腹がつっかえる人の方が多そうですが、
海軍の潜水艦乗り、しかも若い水兵にデブはいなかったってことで。

テーブルにはゲーム盤を広げなくてもいつでも遊べるような模様入り。



続いて兵員寝室を通っていきます。
上の写真で言うところの「CREW'S QUARTERS」ですね。
一部屋にベッド一つの艦長室、天井まで手が届かない士官寝室と違い、
ここは普通に三段式になっています。

呉で見学した自衛隊の潜水艦もほとんどこんな感じでした。
海上自衛隊の人は「ガバッと起きる」のが習い性となっているわけですが、
「ガバッと」といっても決して体を起こさない(頭を打つから)という
基本姿勢が身についていそうですね。 



一応鍵のついた引き出しなんかもあったりします。
が、各自の持ち物については、せいぜいロッカーにいれていただけで、
鍵を管理するなどということが果たして行われていたのかどうか・・・。

人の集まるところ必ず盗難する人というのが一定数に一人現れるものですが、
荷物の管理やプライバシー、そういう問題についてはどう解決していたのでしょうか。



兵員寝室にあった大きめのロッカー。
「グラウラー」のこのセクションには、全部で46のバンク(ベッド)と、
それぞれの小さなロッカーが設えられています。

またまた映画「Uボート」で、劇中、水兵がベッドが人数分ないことを

「後に寝るもののためにベッドを温めておくのさ」

と説明していましたが、これはアメリカ海軍の潜水艦でも同様で、
この慣習を「HOT BUNKING」と称したそうです。
階級が下のものや新兵は、ベッドをシェアしなければならないので、
自分が寝るときには前の者の温かみが残っているというわけです。
つまり、Uボートの水兵もそれが歓迎すべきこととは思っていませんが、
反語的にこのあまり嬉しくない「寝床温め」の慣習を新入りに説明したのでした。


「グラウラー」にこのようにベッドをシェアしなければならない習慣はなかった、
というのですが、それでは78名の兵員のうち、ここにベッドのない32名もの人は
一体どこに寝ていたのでしょうか。




クルーの浴室とトイレのあるゾーンです。
「Enlisted man」がこのトイレとシャワー室を使用できた、とあるので、
どんな特権階級だろうと思ったら、「Enlisted」というのは下士官のことでした。

 

なんでも「グラウラー」はエンジンルームやギャレーへの新鮮な蒸留水は
ふんだんに配給されるように設計されていたのですが、シャワーに関しては
海水というわけにいかなかったので、下士官にとってもこれはたまの贅沢でした。

アメリカ人というのは日本人と違って湯船につかれば満足する人種ではなく、
とにかく鼻歌歌いながらシャワーを出しっぱなしにして体を洗う人たちです。
自衛艦のように、海水のお風呂に浸かって体を洗うのと潮を落とすのだけ
洗面器いっぱいあれば十分、というわけではないので、どうしても
シャワーの制限そのものが規制されてしまうというわけです。



これも護衛艦のトイレと同じく、水を流すのはバルブ式。
いわゆる「コンテンツ」はある程度貯まったら海中にドバー、だったそうです。

昔はこんなもんだったんですね。



洗面所の下には髭剃りや歯ブラシを入れておくための引き出しあり。



これが噂のDISTILLERS、つまり蒸留水製造機。
海水をくみ上げてそれを沸騰させ、塩分を取り除いて使いました。

飲食、洗濯用だけでなく、エンジンの冷却と潜水艦のバッテリー水に使われました。



そしてその後方にあるのが、エンジンルーム。
開けられたハッチの下に、エンジンの部分が見えているのがお分かりでしょうか。
「グラウラー」の推進は、

Fairbanks-Morse Diesel engines, 2 Elliott electric motors

によるもの、と英語のウィキにはあります。
フェアバンクス・モースディーゼルエンジンは1930年に開発された2ストロークエンジンで、
ドイツの航空機ユンカースと酷似しており、オハイオ級原子力潜水艦にも採用されました。

博物館の資料には、

「グラウラーは三つの新型アルミニウムブロック・フェアバンクス-モース・ハイスピード
ディーゼルエンジンを搭載し、これは他艦船からの探索を避けるための静音性を備えていた」

と説明されています。



エンジンルーム・コントロールルームはrestricted area、制限区域。



当時は最新式であったレバー式の機器のいろいろ。

エンジンはジェネレーターに連結され、そのどちらもで「グラウラー」のモーターと
バッテリーのチャージャーを動かしていました。

ディーゼルエンジンは一般に新鮮な空気を取り入れるための換気を必要とします。

「この部屋では、グレイのディーゼルジェネレーターと、あなたの立っている
艦尾真下にあるエレクトリックモーターをご覧になることができます」





と言われましても、グレイのものが多すぎてどれがジェネレーターか分かりませんが・・。



マニューバリングルーム、という説明があります。
ここでは下士官兵が受け持って、コントロールルームから出される命令に従い、
艦のスピードを操作していました。

護衛艦ではマニューバーは指令を出す艦長なり航海長の真後ろで行いますが、
潜水艦となると全く別の区画で操作がされるということです。

ちなみに「グラウラー」の最大速度は潜行時12ノット(14mph/22kph)。
海上航行においては20ノット(23mph/37kph)でした。 



上の艦内地図で言うところの最後尾、「AFT TORPEDO ROOM」、
艦尾魚雷発射室です。

21インチ魚雷がいまだに一基展示されています。
「グラウラー」の魚雷発射管は前後合わせて8門が装備されていました。
魚雷発射室にもそれなりに大きなベッドが幾つか備わっていて、当時のアメリカでも

「可愛い魚雷」(軍歌『轟沈』より)

を地で行っていた係がいたことを偲ばせます。



艦尾の魚雷発射管の上に外に出る階段が(もちろんハシゴではない)あり、
ガラスの出口を通って艦の外に出るようになっています。
本来はハッチだったのですが、それを取り去ってしまったので、
艦内に雨風が入り込まないように設えられたようです。


これをもって潜水艦「グラウラー」の見学は終わりましたが、
「イントレピッド」でまだ見ていない部分がまだたくさんあります。
 




続く。 

「望郷のスタインウェイ」〜横須賀鎮守府長官庁舎

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桜の咲く旧横須賀鎮守府長官庁舎一般公開、
見に行った方はおられますか?
さて、今日は建物内の装飾や展示などについてです。



建設当時の家具配置図です。
この図に示されている通り、家具などはどこに何を置くか、
きっちりと決められており、変えることは許されなかったようです。

赤い部分は「敷物」で、食堂のテーブルの椅子は全部で22とか、
玄関に入ったところには両側に帽子掛けを置くとか、
サンルームとベイウィンドウの椅子の配置まで決まっています。
縦書き文字の図面のせいか、カーテンのことは「窓掛」と書かれています。 



上の家具配置図の一番下に示された場所には当時からあったと思われる
作り付けのようなサイズの家具が配されていました。
おそらくこのくぼみに合わせて特注されたものに違いありません。
時代を感じさせる歪みガラスには、この建物のそちこちに散りばめられた
小川三知の手によると思われるステンドグラス風の装飾があしらわれています。



東郷平八郎元帥の像だけが飾ってありました。



昔鹿の首が飾ってあったところには、その東郷元帥の書がありました。
「海気集」という耳慣れない言葉は「海の気を集める」という造語でしょうか。



昔よりかなり豪華なシャンデリアがあしらわれていました。
これは美しい・・。



この日は庭に面したサンルームが開け放され、皆ここから出入りしていましたが、
このサンルームのベイウィンド寄りに、南極の石が置かれていました。
寄贈した元統幕長の板谷隆一氏については、先日第二術科学校の展示で
海上自衛隊の歴史について触れた時に名前を挙げたと思いますが、
兵学校60期の恩賜組で、菊水一号作戦では軽巡「矢矧」の乗り組みでした。
板谷氏は海幕長になる前、横須賀地方総監司令を務めています。

時代が時代であれば、この官舎の主になっていたということなんですね。



石といえば、中庭にあったこの石。
なんか意味ありげな形をしているのですが、これは一体・・・?



正面玄関を入ってすぐ左の、昔は「応接室」とされていた部屋は
現在ガラスケースなどにちょっとした資料が収められています。
達筆すぎて名前以外はほとんど読めませんが、山本五十六元帥の自筆ハガキ。
右側はかろうじて「海軍航空本部」と読み取れます。

山本元帥が海軍航空本部の技術長に就任したのは46歳の時で、
は1930(昭和5)年から3年間にわたって務めました。



福田三之助と云う人物に当てられた山本元帥の手紙。
海軍大将の名前であっても検閲されてしまうというのがご時世ですね。
「海軍大将 山本五十六」だけが印刷になっていますが、海軍製作の公用箋でしょうか。
何かのお知らせだと思うのですが、これも読めません(汗)



これは海軍少将時代の一筆箋による手紙。
「お礼」なのか何なのかわからない上、「勤勉」しか読めません。
達筆すぎて何が書いてあるかわからないぜ山本五十六。



当時からここに飾ってあったらしい東京湾の地図。
ただし表記は「相模国」「上総国」「安房国」ですから、装飾地図でしょう。



横須賀港の古地図。
「相模国横須賀之図」とタイトルがあります。

 

さて、先ほどコンソールのガラス装飾で少し触れましたが、
この長官舎の至るところに見られるステンドグラスは、当時日本で
ステンドグラス作家としては日本一と言われた小川三知の手によるものです。
応接室には現物が展示してありましたが、その精緻なこと!

小川三知は慶応3年(1867)静岡の藩医の息子として生まれました。
家業の医者を目指すも、芸術への思いは断ちがたく、東京美術学校に転校して
日本画を勉強し、アメリカに留学中にステンドグラスに興味を持ちます。

帰国してから慶応義塾大学の図書館のステンドグラスを依頼されたのをきっかけに
彼はステンドグラス作家としてあちこちの仕事に携わりました。

鳩山一郎邸、柊屋(京都)や氷川丸の一等船室など、多くを手がけていますが、
その多くは関東大震災で逸失してしまって残っていません。
そもそも当時はステンドグラスは「建築の一部」だったため、
芸術作品として作者が有名になるということもありませんでした。

小川三知が評価され始めたのは戦後、彼が死んでから30年後のことになります。



洋館部分上四面に貼られたステンドグラス。



これを裏から見たところ。
内部は梁がそのままで、物置として使用されていただけだったのがわかります。
ステンドグラスは内側から光を通して見てこそ価値があるので、
このあしらわれ方はもったいないといえば勿体無い気がしますね。



食堂部分からサンルーム方向に立って天井をみたところ。
ここに半円状のステンドグラスが二枚はめ込まれています。



葡萄の垂れ下がる模様があしらわれているのがアールデコ風ですが、
小川は日本画を基礎として学んでいるので、どの作品も
日本風のテイストが感じられるのが特徴となっています。



これなど、まるで「墨流し」(の色付き)をしたようです。
ぜひ中から光を透かして見てみたいですね。



羽を広げた孔雀というモチーフを小川は好んだようです。
「棚板ガラスモザイク」と説明がありましたが、現物には気づきませんでした。
どこにあったのでしょうか。



さて、庁舎のパンフレットで「リビングルーム」と呼ばれている部屋の
(上の家具配置図では『客室』)一隅には、グランドピアノがありました。



一目見てかなり古いものであることがわかるスタインウェイ&サンズ製のピアノ。

このピアノはフルコンサート(CF)ではなく、同じC型でもセミコンといわれる
上からに番目に大きなクラスのもので、鍵盤は今では製造・輸出入禁止されている象牙です。

この長官庁舎は、進駐軍撤退後、1964年からは使用されないままでした。
1994年に復元されて、各種行事に使われることになったのですが、
当時の防衛政務次官だった栗原裕康議員がこの横須賀地方総監視察を行い、
改装されたばかりの庁舎で会食を行ったときに、ピアノに目を止めました。
当時の讀賣新聞記事には

「(栗原次官が)塗装にヒビが入り、弦が錆びたピアノを発見した」

とあるのですが、こんな大きなものをしまっておくような場所はないし、
ただその場所に置かれていたのに目を留めて話題にしただけではなかったのか、
とわたしは思います。どうでもいいことかもしれませんが。

そのとき、栗原次官が「戦前は軍艦にピアノを持ち込んだこともあった」
などとうんちくを披露し(多分)たことから、総監部で来歴を調べたところ、
1920年代にバイエルンで製作されたものであることが製造番号から判明しました。

当初総監部ではこのスタンウェイを粗大ゴミとして処分することを考えていた、
というのですが、象牙の鍵盤のスタンウェイがどんな価値があるのかを
知るものにとっては、これはもうとんでもないことです。(ですよね?)

修復にはドイツから部分を取り寄せるなどして250万かかったそうですが、
そもそもこのクラス、スタインウェイはセミコンでも新品は1000万円が相場です。
フルコンは1500万、250万で買えるピアノなどヤマハの音楽室用がせいぜい。

新聞記事が「250万もかけて」という論調なのはモノの価値を知らないからで、
ここは「たった250万円でスタインウェイのセミコンが手に入った」
と安さに喜ぶべきだとわたしなど思うのですが。


おまけにこのピアノ、ただのピアノではなく歴史的価値のある骨董品でもあります。
廃棄処分にして世間に嗤われるようなことにならかったのは、なによりです。



ピアノの横に飾られていた横須賀音楽隊の女性隊員達の写真。

先日、横須賀音楽隊の定期演奏会を聴きに行き、当ブログでも雑感を述べたのですが、
横須賀音楽隊におかれましては、光栄なことに皆様にお目通しいただいたそうです。
励みになるという隊長のお言葉まである方を通じてお伝えいただき恐縮しております。

それはともかく、ここに写真があるということは、小規模な
横須賀音楽隊のメンバーによるコンサートがここで行われたんでしょうね。
中川麻梨子士長の日本の唱歌や歌曲など、ここで聴けたらさぞよろしいかと存じます。

それにしても、彼女らの写真、特に中川士長の写真がなんというか・・・、
もう少し歌手らしくというか、演出してもいいという気がするのですが。



さて、このスタインウェイ、むやみに廃棄されずに本当によかった、
と思われる後日譚があったのでした。
改装を施された時点では、ここにある由来まではわからず、

「旧海軍が戦前に持ち込んでずっとここにあったか、アメリカ海軍が
同庁舎を接収していた17年間の間に持ち込んだものと考えられている」

と当時の新聞にも書かれているのですが、正解は前者だったのです。

この記事が掲載されたとき、昔ピアノを海軍に寄付した人物の娘が名乗り出たのです。
それがこの新聞記事写真でピアノを連弾しているご婦人二人でした。

森田郁子さんと島崎秀香さん(旧姓野坂)姉妹の一家は
大正9年にサハリン(樺太)の日本人居住区に住んでいたのですが、
帰国するときに現地のロシア人女性からこのピアノを譲り受けました。

彼女らの父親が海軍の従軍カメラマンだったこともあって、ピアノは
軍艦で持って帰ってきたのだそうです。
(わたしの知人の父親も軍艦でスタンウェイを持って帰ったという話が。
軍艦って結構現地裁量しだいというか、ゆるかったんだなあと思う)

帰国後一家は横須賀に住み、姉妹は娘のピアノで練習に励んだものだそうです。
しかし、昭和4年、父親が写真館を開業することになり、移転先の新居に
ピアノが入らなかったため、父親は海軍に寄付してしまった、とのことでした。

写真は、郁子さん、秀香さん姉妹が、総監部の計らいで70年ぶりにピアノと対面し、
「さくらさくら」「埴生の宿」「故郷を離れる歌」などを二人で
鍵盤の感触を確かめるように弾いているところです。


わたしも好奇心に負けて少し鍵盤を触らせていただきましたが、(触っただけね)
古いピアノ特有の、指を下ろすとさらに一段下に落ち込むような重いタッチでした。
弾きやすいかどうかといったら、決してそうではないと思いましたが、
音色はこれも古い建物の内部と反響して、深みのある美しい響きを創っていました。

この長官庁舎に昭和4年からあり、海軍士官たちの耳に届き、
ときには彼らによって奏でられてきた、歴史を知るピアノであると知っていれば
余計にそのように思われたかもしれません。



このピアノ、演奏会や発表会などの目的で借りることができるだけでなく、
個人の練習という目的でも使用することができるそうです。
ぜひこの音色を聴いてみたい、もちろん弾いてみたい、という方は
地方総監部にハガキで申し込まれるといいかと思います。


続く。


 

百三回目の桜〜横浜鎮守府司令長官庁舎一般公開

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旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開、
わずか1時間ほどの見学から知る歴史や秘話。
いつもながら歴史的な遺物を見ることは、それだけで終わらせず
後から探求することによって知ることの愉悦を与えてくれます。


ここが一般公開の時しか見学できないというのは残念ですが、
横須賀地方総監部の管理下にある以上、管理人を置いたり、
ましてや見学料を取ったりすることができないのでそれもやむなしです。
この近くには横須賀地方総監の官舎もあった(はずな)ので、
不特定多数の人々が立ち寄るようになると警備の点でも困るでしょうし。 


ところで、地方総監というのは旧海軍でいうところの鎮守府長官です。
つまり、海自は旧海軍で長官庁舎だったところの近隣に
現在も地方総監の官舎を構えているというわけですが、何か理由があるのでしょうか。

これは想像でしかないのですが、ここは昭和37年まで横須賀に進駐していた
米海軍の長官公舎として使用されていました。
この頃までには海上警備隊から名前を変えた自衛隊はすでに横須賀地方総監を
この地に置いていましたが、米軍がまだいたためここを使用することができず、
したがってわざわざ近隣に地方総監用の官舎を建てたのではなかったでしょうか。

当時の地方総監は初代から始まって全員が海軍兵学校卒でしたから、
(防大1期が総監になったのは1989年のこと)我々が思う以上に
この鎮守府庁舎の意味は彼らにとて大きかったのではないかというのがその理由です。

しかし結局、旧鎮守府長官庁舎に自衛隊の地方総監が入居する日は二度と訪れませんでした。



大きな意味、というのは海兵出身の海軍軍人にとって、これらの有名な海軍の先輩が
ことごとく住んでいた官舎に自分も住む、という感慨でもあります。

例えばここには日露戦争では「三笠」の砲術長だった加藤寛治がいますね。
加藤と同級生の安保清種も日本海海戦のとき「三笠」砲術長でした。
この人が、ドミトリードンスコイ=「ごみ取り権助」の張本人、じゃなくて
発案者です。(いわれてみればいかにもそんなことを言いだしそうな顔です)

のちに総理大臣になって226事件では邸宅を襲撃された岡田啓介、
「大角事件」で軍拡路線の邪魔になりそうな山梨勝之進、堀悌吉らを
追放して今日やたら評判の悪い大角岑生の顔も見えます。



海上自衛隊の父となった野村吉三郎、そして最後の海軍大臣米内光政。
開戦時の軍令部総長であった永野修身、近衛内閣時の海軍大臣及川古志郎。

及川といえば、東條英機に「戦争の勝利の自信はどうか」と聞かれた時、
「それはない」と答えた話が有名ですが、彼に限らず海軍の上層部は
皆このくらいのことはわかっていたんだろうなという気がします。



27代から30代までが一人を除きビッグネームで、以降が戦史的に無名なのは、
横須賀鎮守府長官は「これから出世する役職」であったからだろうと思われます。

第44代の塚原二四三は、終戦直前に大将になった人で、なんというか
本人には気の毒なのですが、「大将になりたい」ということしか
(あんな戦況の最中)眼中になかった、という風に書かれています。

すでに同期の出世頭だった沢本が19年3月に大将に昇進し、
南雲も同年7月にサイパン島での戦死して大将に昇進したこともあり、
実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて
戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。
時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、
塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。
昭和20年(1945年)5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が
海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に大将に昇進。
「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、
塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。(wiki)

井上成美のような意見はどちらかというと少数で、大抵の軍人は
中将まで行ったらできれば大将で軍人人生を終えたい、と思うのが
普通というか、人間ってそういうものだと思うのですが、
どうしてこの人だけがここまで非難めいて言われるのか、
どなたかその理由をご存知ないでしょうか。



さて、そんな代々の横須賀鎮守府司令長官たちが毎年この季節に見た桜。
おそらく戦前にはここで今のように「観桜会」が催されたに違いありません。



庭の広さは13,000㎡。
桜を始め、百日紅、紅葉などの古木が残されています。
今咲き誇る桜は、この100年間、毎年同じ時期に花を咲かせてきました。



この長官邸のその時その時の居住者が、同じ桜の薄紅色に
それぞれどのような思いを込めながら見入ったのか・・。
野村吉三郎は、米内光政は、及川古志郎は、そして塚原二三四は・・(´・ω・`)

そんなことをつい考えてしまう場所です。



今年の一般公開の期間、この地方はずっと花曇りでしたが、
晴れた空と陽の光の下で見る桜とは又違った風情が楽しめました。



染井吉野だけではなく、濃い紅色を持つ種類の桜木も咲き誇っていました。



というわけで、庁舎をあとにして出てきました。
タクシーの運転手さんから一応電話番号をいただいていましたが、
町並みを楽しみながら歩いて行くことにしました。

この画面の、異様に高い丘の部分はなんでしょうね。
木が残っているので、かつて山の斜面が削られた跡かもしれません。



そしてこれ。
塀の向こうに、明らかに昔からあるらしい建造物が・・。
昔は防空壕だったとか?



タクシーの運転手さんは、ここに行くには「旧裁判所跡」といってもいい、
と教えてくれましたが、その跡のようです。
そんなに老朽化した建物ではないような気がしますが。

簡易裁判所は平成24年に新港町に移転したばかりだそうです。



帰り道発見した古い魚屋さんの看板。
もう営業は行っていないようですが、古くからここにあったのでしょう。



さらにこの近くには、現在も営業中(多分)の八百屋さん。
長官庁舎があったせいでこのあたりは空襲を受けなかったため、
このような建物が戦災で失われることなく残ったんですね。



通りがかりの男性が(多分一般公開に来た人たち)大正か昭和初期のものだろう、
と話し合っていました。
看板の文字が右から書かれているのでその通りだと思われます。

さて、わたしはこのあと、商店街を眺めながら横須賀中央駅付近に帰ってきました。



「みかさ」というショッピングアーケードに横須賀土産の店があるので
入ってみたら、3階はなんと展示室。
写真を撮るのを忘れましたが()旧海軍の制服や、なぜかこのような
意味ありげな(これなんだろう)コーナーがあり、



地元の模型クラブの作品が展示されていました。
ちなみにこれは昭和19年に行われた松号輸送作戦を再現したもの。

松輸送はこの時期にしては奇跡的というくらい損害がなく成功した作戦で、
米潜水艦からの攻撃を受けた艦があってもそれらが不発だったり、
あるいは発射した魚雷が円を描いて戻ってきて自分に当たる(ガトー級タリビー
などという信じられない日本側の幸運が相次いだことでも有名です。



階段の踊り場には、原画が飾られていました。

「史実ではたった10日で沈んだ幻の鑑」

・・・ったら「あれ」しかありませんよね?
横須賀で起工し、艤装を完成させるために回航中
米潜水艦に攻撃され沈没した・・・・

「あれ」がなぜ沖縄決戦に???
どなたかこの作品の詳細をご存知の方おられますか。



台詞の部分に字が貼り付けられているので、原画だと思うのですが、
どんなに眺めてもペンや塗ったあとが見えませんでした。

それにしてもプロというのは凄い絵を描くものだと改めて驚愕しました。



このお店で購入したお土産・・・といっても全部食べるものですが・・。
写真を撮るのを忘れましたが、これ以外にわたし自身のために錨を模った
ピンバッジを購入しました。

「肉じゃがカレー」「江田島海軍カレー」など、海軍カレーの発展形?
というコンセプトと思われる新商品が出ていました。

このなかで食べるのが一番楽しみなのが「陸軍さんのライスカレー」。
なんで横須賀で陸軍さんなんだよー。



さて、級横須賀鎮守府司令長官庁舎の庭にある見晴台からは、
こんな光景が臨めます。
向こうに見えているのは観音崎。

ここの主が海軍軍人であったころ、まだここには東京湾を防衛するための
砲台が装備されてはいたものの、ほとんど何もない土地でしたが、戦後、
ここに指揮官育成のための教育機関たる防衛大学校ができることになります。

かつての司令長官たちはこの季節、必ず一度はここに立って同じ景色を眺めたでしょう。

同じこの場所で103回目に咲いた鎮守府の桜。
激しい変遷を伴って泡沫のように過ぎた時間が信じられないくらい、
それはまるで奇跡の如く昔と変わらず鮮やかに、そこにありました。


 

"Rock The Ship!"〜空母「ホーネット」博物館

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去年の夏、何度目かの空母「ホーネット」を見学してきました。
艦内ツァーで、元母艦乗りのパイロットであった解説員(元中尉) の
説明を受けて、それなりに交流してきたことをお話ししたわけですが、
今日は、この「海軍博物館」部分の展示をご紹介しようと思います。



たしかハンガーデッキだったと思うのですが、

「ユニフォームを見分けられますか?」

として、海軍の軍服が展示してありました。
例えば襟の部分に付けられた説明は、

「黎明期の1830年頃、士官と下士官の違い、または
士官の位を見分けるための階級章は襟についていました」

軍帽には

「これは少尉少佐までがランクされる帽子です。
1960年までは、士官の位を見分けることができました」

今では見分けられなくなったってことでしょうか。
肩章には、これが「エポーレット」ということが書かれていますが、
このエポーレット、ファッション用語ではおなじみです。 
コート肩にベルトみたいなのが付いているデザインがありますが、 
あれをエポーレットと呼ぶのです。



そして右側にはセーラー服。
左下の水兵帽は、1880年から1945年まで使われていた「Dixie-cup」
と呼ばれるものです。
ディキシーカップとは、最初に紙コップを作ったアメリカの会社で、
形状が似ていなくもないということから付けられたようです。

左腕のストライプは「釜の飯を食った年数」を表していると書かれていますが、
4年以上いたらどうなるのか。

ちなみにこの制服は、ペティオフィサー・ファーストクラス
Petty OfficerFirst Class(PO1) のもので、
自衛隊なら1等海曹になろうかと思われます。



前に来た時には改修中だったスカイホークが完成していました。
 TA-4Jスカイホークは、軽量で高性能の2シート戦闘機で、Δウィングです。
プラット&ウィットニーJ52 P6Bエンジンを搭載しています。

初飛行は1969年。
その駆動性の良さと操縦しやすさから、練習機としても使われ、
設計者のエド・ハイネマンの名前をとって

「ハイネマンのホットロッド」

として知られていたそうです。
ホットロッドとはカスタムカーのことだったりしますが、
この場合は「ホットなロッド」(ロッドはいわゆるありがちなスラング) 
にかけたのではないかという気もします。

ところで、ちょっとびっくりしてしまうのですが、ここにあるスカイホーク、
海軍航空博物館から貸与されてここにあるもので、なんと

「現存する最後の生きている機体の一つ」

なんだそうです。
最後に空を飛んだのは2003年の4月。
プエルトリコから、オークランドのアラスカ航空の整備場までで、
整備をすませてからこのアラメダにある「ホーネット」まで飛んできました。



デパートで洋服を着せられているのとは面構えのすこし違うマネキン。
ジム・ダッジ海軍大尉という実在のドライバーの往年のコスチュームなので、
もしかしたら本人に似せたらこうなったのかもしれません。

ダッジ大尉は最後の「ホーネット」乗り組みの飛行部隊、
「バウンティング・ハンターズ」(賞金稼ぎ)の司令官で、
アラメダに海軍基地があった頃の最後の司令官でもありました。

「ホーネット」が廃棄処分を免れ、今現在博物館としてその姿を残しているのは
このダッジ元大尉の尽力がたいへん大きかったからだ、ということです。

ダッジ大尉は「ビジランテ」の偵察ナビゲーターとして海軍のキャリアを始め、
その後、F-14トムキャットのパイロット兼教官をしていました。
アラメダの海軍施設が廃止になったのは1994年のことですが、
(ちなみにその頃の建物などは今ゴーストタウン化している)
最後の司令官として「バウンティング・ハンターズ」を率いました。



これも前回来た時には見なかったような。

F-11F-1(F-11A)タイガー

F-11 A というのはアメリカ三軍で統一した名称です。
もし源田実が空自にF「三菱鉛筆」というあだ名のあったスターファイター、
F104を導入しなければ、この「タイガー」が日の丸をつけていたかもしれない、
という歴史の「イフ」をご存知でしょうか。
そうならなかったのはタイガーよりスターファイターの方がカッコよかったから。

とかいう理由ではありません。

当初、この改良型の F-11Bの企画がアメリカ海軍に売れなかったので、
グラマン社は日本の商社、伊藤忠と組んで、空自に売りつけにかかりました。
アメリカ海軍に売れなかったのにも何か理由があったはずなんですけどね。

この商談は一応内定までこぎつけたのですが、まだそのとき、設計図だけで
本体ができていなかったのと、当時のご時世から「内定は汚職ではないか」
と騒がれたことで、話は白紙になってしまったそうです。

そもそも腹立たしいことに、グラマンは

「空自が買ってくれたら、空自仕様に開発することはやぶさかではない。
でもその開発資金色々は全部そっち(日本側)で持ってね」

という態度だったというのです。
どれだけ舐められてんのよ。というかそんな商売では銭の花は咲きまへんねんで。

そこで源田実を団長として現地に視察団が赴いた結果、あらためてタイガーの
代替案として、スターファイターを導入することに決まったというわけです。

うーん、いろんな意味でグラマンひどすぎ。
まあ、今現在も日米間における武器の購入と開発には、いろいろと、
アメリカ側のジャイアニズムが幅を利かせているそうですが、
特にこのころは「戦争に勝った国と負けた国」の力関係が、一企業の態度にも
この例のように表れることもあったってことでよろしいでしょうか。

ちなみにこのタイガー、アメリカではチャンスボート社のクルセイダーF-8Uと
主力の座を争って敗れたので、日本に売りつけようとしたという舞台裏がありまして、
同じような両社の競合関係としては、レシプロ時代にも
「F8Uベアキャット対F4Uコルセア」という販売合戦がありました。
このときも海軍はコルセアを選び、チャンスボート社の圧勝に終わっています。




ところで、「タイガー」のテストフライトの時、航空史上最も
「奇妙な出来事」が起こったとされます。
「タイガー」は史上唯一、「自分で自分を撃墜した飛行機」になってしまったのです。

1956年、パイロットのトム・アトリッジは、試験飛行で
ダイブしながら2発の射撃を行いました。
自分の撃った弾の弾道と、自分の飛行機の速度と航跡がどうにかなって(笑)
それがちょうどクロスし・・・・つまり、自分の弾に当たってしまったのです。

「松作戦」のときに米潜水艦が自分で自分に攻撃して自分が沈没、というのは
潮の流れということを考えればまあ可能性はなきにしもあらずだと思いますが、
空中で近代戦闘機が、というのは確率的にもものすごいレアでしょう。

操縦士のミスでもなんでもなく、ものすごい偶然の賜物?で、
とにかく、撃墜された機体は無事死亡し、アトリッジを乗せたまま
地面でクラッシュしたのですが、奇跡的にもアトリッジは無事でした。

まあなんというか、テスト飛行のときから「ケチがついていた」ってことなんですね。


さて、ハンガーデッキからその階下に降りると、士官用の各部屋だったところが
今はアメリカ海軍の艦船のメモリアルルームになっており、
当ブログでも幾つかの展示をご紹介してきたわけですが、今回は
前回写真を撮り損ねた部分についてこだわってみようと思います。



空母「フィリピン・シー」のコーナーで見つけた一コマ漫画。
「フィルシー・コミックス」というのがなぜ2002年になって
描かれているのかが謎なのですが、現在でも、元乗組員たちが
機関誌などを発行しているのかもしれません。

「オニオン・スキン、こちらジューングラス!」

と始まる無線通信なのですが、次に続くZero-niner、というのは
いわゆる「手順語」で、たとえば

 "Victor Juliet Five-Zero, Victor Juliet Five-Zero,
this is Echo Golf Niner-Three.
Request rendezvous at 51 degrees 37.
0N, 001 degrees 49.5W. Read back for check. Over."

みたいに使われる数字の言い方のようです。
「ナインティ」だと19か90かわからないこともあるからでしょうか。
漫画の場合、機体番号が109なので、「ゼロナイナー」なのかなと。

オチの「Rock the ship!」も正直よくわかりません。
この「ジューングラス」機は、もうランディングギアも降ろした状態ですが、
無線が通じなくなって無茶苦茶焦っていて、
「船を止めてくれ!」(係留する=ロック)と懇願しているのか。
それとも、飛行機のバンクのように船を揺らして(ロック)くれと言っているのか。
 
どちらの意味だったにしても、わざわざ一コマ漫画にするほどのことか?
と日本人としては思ってしまうわけですが、これを読んでいる方、
もしこのネタの真意がお分かりでしたら、教えていただけると幸いです。

読みにくい方もおられると思うので、漫画の台詞を書き出しておきます。

"ONION SKIN ! THIS IS JUNE GRASS !  ZERO-NINER !
I'M AT THE180.  GEAR AND HOOK DOWN!  STATE 800 !  
HEY! I THINK MY RADIO IS OUT! 

IF....YOU...HIAR...ME! ROCK THE SHIP!"
 


と、妙なところで時間を取ってしまったので続く。
 

 

潜水艦「グラウラー」とギルモア艦長

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冷戦期に建造され、アメリカ海軍初の艦対地ミサイル「レギュラス」を
を搭載していた、潜水艦「グラウラー」について、イントレピッド博物館で
見学した関係からずっとお話ししてきたのですが、すこし寄り道です。


この「Growler」、日本語表記では「グロウラー」となっていますが、実際の発音に忠実に
ここでは「グラウラー」で通しています。

先日このグラウラーを航空機の「うろうろする人」のプラウラーと韻を踏んで?
「ガミガミ言う人」ではないかと仮定してみたのですが、どうやら魚の
「オオクチバス」の通名であるらしいことが各種調べにより判明しました。

そういえばガトー級の潜水艦というのはガトー(トラザメ)がそうであるように、
例外なく魚類の名前を付けられていたんでしたっけね。

というわけで、「グラウラー」という名前の米艦艇は全部で4隻存在します。
今日お話ししたい3代目の潜水艦「グラウラー」は、1942年に就役して日米戦争に従事しました。



「グラウラー」は1941年2月に発注され、11月には進水式を行い、
翌年3月に艤装艦長であったウォルター・ギルモア少佐の指揮下、就役しました。
すでにヨーロッパでは戦争が始まっていたため、発注から就役までの時間が短く、
就役した途端、「グラウラー」は太平洋戦線に投入されます。

「グラウラー」が第一回目の哨戒に出たのは1942年の6月。
早々に6月5日から始まったミッドウェー海戦において、
総勢19隻からなる潜水艦隊のうちの1隻として出撃しています。


その後、「グラウラー」はアリューシャンに向かいました。
キスカ島付近で哨戒中駆逐艦「霰」(あられ)と「不知火」を
それぞれ、沈没・大破せしめ、これが「グラウラー」にとっての初戦果となります。
「霰」も「不知火」も復旧させることに成功していますが、この時の被害の責任を負って
第十八駆逐隊司令は自決しています。

逆に、「グラウラー」艦長であるギルモア少佐は、この戦功に対し、
海軍十字章を授けられました。
冒頭の絵でギルモア少佐が胸につけているのは、このときの勲章か、
あるいはこのあとに授与された金星章であると思われます。
(十字勲章の色はブルーと白であるのに調べずに描いたので赤と白ですorz)



27日の任務を終えて7月、真珠湾に帰還した「グラウラー」は、
8月に出航した第2回哨戒で対潜掃討中の千洋丸(東洋汽船)、輸送船「栄福丸」、
特務艦「樫野」、輸送船「大華丸」をそれぞれ撃沈しました。

彼我両方の潜水艦の使命は、当時通商破壊活動、つまり商船、輸送船を鎮めることでした。

この哨戒中、「グラウラー」は「氷川丸」を発見していますが、攻撃していません。
「氷川丸」は病院船であったにもかかわらず、戦時中なんども敵の攻撃を受けています。
緑の十字がついていても、偽装を言い訳の理由に攻撃する米艦がいたということですが、
少なくとも「グラウラー」は国際法に反することはしなかったのです。

これが艦長の指示であることは明らかで、この件からもギルモア艦長が
「海の武士道」を(アメリカだから騎士道?)重んじる武人だったことが窺い知れます。


第3回目の哨戒において、ソロモン諸島付近に派遣された49日間、
「グラウラー」には不気味なくらい何も起こりませんでした。
敵に発見されることも敵と交戦することもないまま、帰投したのです。

まるで次回の哨戒における悲劇のまえの静けさのように。


第4回目の哨戒作戦は、1943年1月1日から始まりました。
前回と同じく、ソロモン諸島が哨戒する海域です。

1月16日、トラック島付近の交通を警戒監視していた「グラウラー」は、
船団を発見し、輸送船「智福丸」を攻撃しています。
「智福丸」は陸軍の輸送船で、もしかしたら陸軍の師団を乗せていたのかもしれません。

土井全二郎著「撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い」という
戦記本で、一度読んで強烈さに今でも忘れられない一節があります。

「船が攻撃されて沈むということになった時、四角くくり抜かれた穴から
船底にいる陸軍の軍人たちの一団が一斉にこちらを見て、
”まるで豚が絞め殺されるような”叫び声をあげていたのを見た」

という生き残った船員の話です。
このときの「グラウラー」の攻撃によるものだったかどうかはわかりませんが、
いずれにしても航行中の輸送船の沈没によって、多くの軍人の命が、徴用された
船員たちと同じように失われていったのでしょう。 

 


そして運命の2月7日がやってきました。

「グラウラー」が輸送船団を発見し、水上攻撃を仕掛けるため接近していったところ、
彼らより早く「グラウラー」に気づいた別の船が、まっすぐ突っ込んできていました。

このときに遭遇した相手は特務艦「早埼」(はやさき)でした。
給糧艦であった「早埼」は、船団を攻撃しようとしている敵潜水艦を
見つけるなり、まともに戦っても勝ち目はないと思ってか、体当たりを敢行したのです。

「グラウラー」は敵船団に近づきながら海上で蓄電を行っていました。
しかも実際には「グラウラー」の方が先に「早埼」を発見しており、
その行動をレーダーにより察知していたにもかかわらず、艦橋にいたギルモア艦長以下
当直見張り員は「早埼」の動きに気づきませんでした。

どうしてレーダー室の方から艦橋に伝達しなかったのかも不思議ですが、
いずれにせよ、これが「グラウラー」にとって不幸な結果となります。

ギルモア艦長はこちらに突っ込んでくる「早埼」を認めるなり、

「いっぱいに取り舵!」“Left full rudder!“

と命じました。
「グラウラー」はそのとき17ノットの速力で航行しており、(最大速度は20ノット)
おそらく艦長は「早埼」の右舷側をすり抜けようとしたのだと思いますが、
転舵は間に合わず、艦体が「早埼」の中央部に衝突し、艦首部は5~6mにわたって折れ曲がり、
艦首発射管はこの衝撃で潰れ、衝突の衝撃で艦は50度も傾きました。


その後、「グラウラー」の艦橋に向かって「早埼」からは機銃が乱射され、
また高角砲も次々と撃ち込まれてきます。
艦橋に上がっていた当直見張り員のうち士官と水兵の計2名は即死。
生き残ったギルモア艦長以下全員も今や負傷していました。
重傷を負ったらしいギルモア艦長は、艦橋の手すりに身をもたせたまま、
生き残った艦橋の乗組員に対して


「艦橋から去れ!」“Clear the bridge!“

と命じました。
副長のアーノルド・F・シャーデ少佐は、そのとき一緒に艦橋にいましたが、
軽い脳震盪から回復して艦長が艦内へ退避してくるのを待っていました。

ギルモア艦長も続いて避退しようとしましたが、ハッチにたどり着く直前、
機銃で撃たれて再び昏倒します。
次の瞬間、副長と艦内の多くはギルモア艦長の最後の命令を耳にします。

「潜航せよ!」“Take her down!“


副長は驚愕し、一瞬は逡巡も感じたと思われますが、彼がそれを選択するより早く、
ギルモア艦長は外からハッチを閉めてしまいました。
シャーデ副長はギルモア少佐の意図をすぐさま理解し、絶対である命令通り、
艦を急速潜行させて「早埼」の攻撃から脱出して危機を逃れました。

ギルモア艦長は、おそらく重傷である自分がハッチを降りることは
一人では不可能であり、一刻を争うこの時間に自分が助かることは、
「グラウラー」の全乗組員の命と引き換えであることを悟ったのでしょう。

彼は艦長として、自分の命を棄てて艦を救うことを選んだのです。


それにしても、外からハッチを閉めるくらいの力がのこっていたのなら、
とりあえず中に飛び込むくらいはできたのではないのかとも思うのですが・・。



戦死したギルモア少佐には、潜水艦隊の艦長として、初めての名誉勲章が与えられました。
副長のシャーデ少佐は、ギルモア少佐戦死後すぐさま艦長心得(代理?)となり、
この4回目の哨戒作戦となる航海をとりあえず終えます。

この写真は第6次哨戒のときのものだそうですが、真ん中がおそらく
シャーデ少佐であろうと思われます。

この後も哨戒に何度も出撃した「グラウラー」ですが、第10回目の哨戒時、
わたしがここでお話しした「パンパニト」と「シーライオン」とで
"Ben's Busters"(ベンの退治人たち)と称する潜水艦隊を組み、東シナ海に出ました。

この時の哨戒で「グラウラー」は択捉型海防艦「平戸」、そして対潜掃討中の
駆逐艦「敷浪」を撃沈しています。 

 
第11回の哨戒活動が「グラウラー」にとって最後の任務となりました。
哨戒中ルソン島近海で待ち合わせていた僚艦の前に、「グラウラー」はついに現れず、
 海軍は「グラウラー」の沈没は原因不明のまま、ということで処理したのでした。

軍の記録の常として「撃沈された」とは認めたくない心理が働いたのでしょうか。
僚艦の潜水艦「ヘイク」は、避退行動中に、グラウラーのいるあたりから
150もの爆雷の爆発音も聴取したという報告を上げていたというのに。


同日の日本側の記録によると、

「マニラ入港前夜、雷撃を受け万栄丸沈没。
対潜掃蕩を行うも、戦果不明。即日反転、ミリ(ボルネオの港)に回航」
(第19号海防艦)

「マニラ入港前夜、マニラ湾入口にて敵潜水艦の雷撃を受け、万栄丸沈没。
対潜掃蕩後即日反転、ミリに回航」(千振) 

とどちらもが対潜掃討攻撃を行っているので、「グラウラー」がこのどちらかの
対潜爆弾(あるいはどちらもの)によって戦没したことは間違いないことに思われます。

 
現在、アメリカのサイトを検索すると、皆一様にギルモア少佐のことを
「ヒーロー」という言葉で称えているのがわかるかと思います。
自らの生命の危険を顧みず、他を生かそうとする自己犠牲の精神。
それをアメリカ人もまた、「英雄的行為」として賞賛するのです。





 

ピーボディ自然博物館~”ルーシーはダイヤを持って土の中”

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昨年の夏、の滞米時、テレビで「ナイトミュージアム」を観ました。
ご存知とは思いますが、夜になると博物館の全てのものが命を持ち、
気ままに動き回るというのがお話のキモになっています。

この映画でセオドア・ルーズベルトのマネキンを演じたのが、ちょうど
その1年前自殺したロビン・ウィリアムスで、わたしはたまたま、
死ぬ直前にファンの女性と撮った、その生気のない幽鬼のような表情を見て
死相というのは本当に表れるものなのだと衝撃を受けたばっかりだったので、
思わず画面をまじまじと見てしまいました。

ルーズベルト(の人形)を演じたこのとき、彼は自分にそんな未来が来ることを
予想だにしていなかったのではないでしょうか。

それはともかく、この夜になったら動き出す展示物には、一体の恐竜の化石もありました。
骨のままぎゃっしゃんがっしゃんと縦横無尽に動き回る化石(笑)

ここピーボディ博物館の生きたときの姿のままに展示された恐竜の化石、
とくにこのブロントザウルスを見たとき思い出したのが、このシーンです。



ここの圧巻はなんといっても中央にあるブロントザウルスの骨。
もしこれに肉付けをしたらとんでもなく首が太いらしいことがわかります。

これは1877年に、 イエール大学の教授である考古学者のO.C.マーシュが
コロラド州で発見したものだそうです。

ところでわたしは知らなかったのですが、いつのころからか、

「ブロントザウルス」というのは「アパトザウルス」のことである

ということに世間ではなっていて、うっかり「ブロントザウルス」と言おうものなら
小学生の子供(自称きょうりゅうはかせ)に

「プロントザウルス?アパトザウルスっていうんだよそれは」

指摘されてしまったりしていたそうですね。

確かにウィキペディアの日本語版はいまだにその様な表記がされているのですが、
実はイエールのHPによると、2015年5月、つまりつい最近になってから、
少なくとも両者の間には7つ以上の相違点が明らかになったことで、
ブロントザウルスは存在するということがわかったと書かれています。

というか、わたしが知らない間にブロントザウルスは存在を否定され、
知らないうちにまた復活していたのでした。こりゃめでたい。

このホールは1926年にオープンし、ステゴザウルスと カンプトザウルスの骨が
ドラマチックに展示されていて圧倒されます。

 

本当に海を泳いでいたらどんなに怖かっただろうと普通に思ってしまう巨大な亀。
アーケロンといって、現存した最大の亀の骨だそうです。

 wiki

こうしてみると普通の亀なんですけど、問題は大きさ。
幅5mはゆうにあったと言いますが、産卵なんかは
やはり砂浜で行ったのだろうかなどと考えてしまいますね。
海に帰る子亀たちの大きさだけでも普通のウミガメくらいだったりして。

重さは2tだったそうですが、 革状の皮膚や角質の板で覆われているだけで、
これでもずいぶん軽量化されていたそうです。

残念なことにその甲に手足を引き込む事が出来なかったため、
捕食者に襲われやすく、脚鰭が一つ欠けている化石も珍しくないのだとか。
進化の段階で必要に応じて「やっぱり手足は収納式」となっていったんですね。 

しかし、こんな亀の足とかを食べちゃう他の動物って一体・・・。 



亀といえばこんな骨もありました。
レザーバックタートルと説明に書いてありますが、今でも
普通にこの名前の亀の種類はある様ですね。 



これも亀の甲羅?・・・・トライポフォビア的には辛いものがあります。

Gyptodon 、グリプトドンという名前で知られている亀的生物の甲羅ですが、
こんな生物だったと考えられています。



きもい。 




podocnemis、つまり「ヨコクビガメ属」の骨。
今でもこの種類の亀は卵も含めて食用にもされ、日本では
ペットにもなっているとのことです。

しかし、亀の甲羅って、こんな風にぱかっと外せるものなんですね。



中身ごとお骨におなりになった例。
亀の背骨って細いものなんですね。
こんなのでよく重い甲羅を背負って歩けるものです。



ジャイアントモアの化石。
モアはニュージーランドに生息していたダチョウの仲間で、世界で一番背が高い鳥です。



絶滅した原因は繁殖力の低さに加え、自然環境の温暖化や繁殖力の低さ、
マオリ族による乱獲(砂嚢に小石を溜める習性を利用し、焼け石を呑ませて殺す)など。

「モア」の呼称の由来については、ヨーロッパ人が原住民にモアの骨を集めさせ、
「もっと骨をよこせ」(More bones!)と言ったのを、
原住民が鳥の名前と勘違いしたのだと言う説があるそうです。

なんのために骨を集めたのか謎ですが、いずれにしてもろくなことをしませんね。 



世界最古の鳥、つまり「始祖鳥」でいいんですかね?
ただ、昨年(2015年)の5月、中国の研究者が、

「今まで一番古いとされた鳥よりもさらに500万年昔の化石」

を発見したという話があったようなので、それが本当であればこの展示は
書き換えられなければならなくなりますが・・。



トリケラトプス的な頭蓋の並べられたコーナー。
手前の骨はどこがどうなっているのかもわかりませんが、
左奥のはトロザウルスといい、トロはスペイン語の「突き刺す」と言う意味。



こんなツノを持った動物は獰猛なのではないかという印象がありますが、
実はトリケラは草食動物であり、Tレックス、ティラノザウルスに捕食される方で、
ツノは求愛用だったという説もあります。

先ほどのトロサウルスも草食です。



edophosaurs、エダフォザウルスの化石です。
エダフォサウルスは約3億2,300万 - 約2億5,600万年前に生息していた爬虫類。



小さければペットショップで人気者になりそうですが、
いかんせん体長3mではなあ・・・。 



写真を撮りそこなったので何かわかりません。



uintatheres日本語ではウィンタテリウムと言う聞いたことない名前の、
サイ的生物ではないかと思われます。


 
骨にはツノがないので、トリケラのように頭蓋と一体化していなかった模様。 



これはわかる。ムースの先祖ですね。



馬の原型らしき生物。



こちらも馬っぽいですが、先ほどのと違って蹄がありません。
Chalicotheresとありますが、日本でなんと呼ばれているのかはわかりませんでした。



TITANOTHERESとありますが、ブロントテリウム科の生物です。



背中にある扇のような飾り?が骨でできています。



出土された頭蓋骨に復元作業を施す過程を表した展示。



バラバラに出土した頭蓋も元どおりに。フランスで発見されたネアンデルタール人。



左の二つはparanthoropus、パラントロプスの化石。
パラントロプスとは「人のそばに」と言う意味があるそうで、
200~120万年前にかけて生息し100万年前に絶滅しました。

1959年に発見されたこの化石には「ルイス・リーキー」
(発見した考古学者のメアリー・リーキーから)と名前が付いています。



160万年前の地層から出土した若い男性の骨格。
ほぼ完璧に近い形で発見された貴重なものです。

ケニアのトゥルカナ湖の辺で1984年に発見されたもので、
骨格には「トゥルカナ・ボーイ」という名前が付けられています。
当時の人類は今の算定法で類推した数字より8歳は若いらしいこともわかりました。 


またここには、人類の起源の発見に大きな発展をもたらした、
エチオピア出土のアファール猿人の骨のレプリカもありますが、
この名前「ルーシー」は、発見当時流行っていたビートルズの曲、
「Lucy In The Sky WithThe Diamond 」から付けられたそうです。



考古学発掘作業の現場を再現した展示。
右上にあるのはトイレットペーパーですか?
知り合いが奈良で発掘のアルバイトをしたことがあって、その話を聞くところによると

「気が遠くなるほど根気のいる地味な作業」

「毎日毎日歯ブラシで土を払い続けるだけ」

で、きっとあの人たち(学者)の脳みそは土色になっているにちがいない、
と、作業以外の彼らの「世間擦れ」に呆れていたのを思い出しました。


「ルーシー」を発見した時、当時の考古学者たちが発見に沸き立ち、
彼女のもたらす人類の起源を解くカギを「ダイヤモンド」に喩えたとしても無理ありません。
土色の脳みそが「サイケデリックカラー」に輝いたからこその命名だったんでしょうか。



儀式のために首狩りされて、縄でゆわえられただけでなく、
頭蓋骨に飾り彫りまでされてしまった方々。

こういう骨もかつては生きていた「誰か」だったんだなあなどと、
考古学者でもないわたしとしては、しょうもないことを考えてしまいました。





 


防衛省見学ツァー再び〜市ヶ谷記念館

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2013年の3月、読者の方に市ヶ谷の防衛省見学ツァーを教えていただき、
午前中の回に参加して見たものをここでご報告したことがあります。
中でもインドネシアから友好の印として贈られたスディルマン将軍像について
書いたところ反響があったのも、つい最近のような気がしますが、3年前なんですね。
 
今回所属する防衛団体の企画で、新年の賀詞交換会、靖国神社昇殿参拝に続き、
この見学ツァーが申し込まれていたので、行ってきました。



わたしのカーナビはなぜかいつもこの道を選択します(笑)
本日国会は小委員会が開催されているようでした。



いつもの市ヶ谷ホテル(仮名)に車を停めて正門前に集合。
今回のツァーは雪の後の影響か、20名くらいの少人数でした。
人気のこのツァー、いつもはもっと人が多いのだそうです。

左手に見えているのは通信棟の巨大アンテナで、ここから
陸海空の全ての部隊への通信が一手に行われるため、棟入り口は撮影禁止です。

この前日の賀詞交換会の席上、わたしはここにお勤めの、昔でいうところの
情報将校と名刺交換してお話ししていたところ、偶然その方は観艦式で
わたしと同じ日に同じフネに乗っておられたことが判明し、驚きました。
さらには、そのフネの乗艦券を下さった方とその将校は同期。
またしても、あまりにも狭い世界に自分が首を突っ込んでいることを実感しました。



儀仗広場を見ると、思い出さずにはいられない「亡国のイージス」で
事件後、防衛庁に首相の車が到着するシーン。
後から聞いたのですが、あの映画のそこここには、現役の自衛官
(しかも当時の偉い人)がエキストラとして登場していたのだそうです。

「どこにいるかあててごらんなさい」

と言われ、制服のシーンだけを目を皿のようにして見直したのですが、
答えを聞いてびっくり、自衛官が制服を着て出ているとは限らなかったと・・。

って関係ないですね。次行きましょう。



案内は前と同じ、赤いコートの制服の女性でした。

ところで、わたしが受付を通るとき、ちょっとした混乱
(といってもざわめき程度ですが)があったので何かと注目すると、
何と中国人観光客らしい年配の女性二人が、このツァーを
どうやって知ったのか、参加したいと押しかけてきたので、
前もって名簿のための予約が必要であるからダメ、と断るのに
少し揉めていたようでした。

「日本語が全くわからないので断るのに苦労しました」

わたしと同行者(主催)にそのように説明したところ、

「この人が英語喋れますよ」

と同行者がわたしを指差して通訳にお使いだてしようとします。

「いや、もう大丈夫ですから」

しかし、日本語が全然わからないのにツァーに参加してどうするつもりだったのか。
なぜ、こんな防衛省の中に入りたかったのか。
中国人ならおそらく自国の国防省の中など一生見ることもないので、
開かれた日本国防衛の中枢たる防衛省内部を一目見ておきたかったのか。
それとも・・・・?

とわたしは渋々門を出て行く二人の中国女性を見ながら、このように思いました。
今やどこにでも出没する中国人観光客、彼女たちも日本旅行の記念に、
他の観光客が行ったことのない、珍しい体験をしてみたい!
という無邪気な思いつきの結果、押しかけてきたのだと思いたいですが、
どちらにしても、勇気あるよねえ・・・。



係の女性は、ここに防衛庁時代六本木(現在ミッドタウンのあるところ)から
2000年に移転してきた経緯などを話しています。



庁舎の前を通り過ぎると、そこには移転された旧陸軍士官学校講堂、
戦後は東京裁判の舞台になった講堂と、三島切腹の部屋、そして
天皇陛下御在所だった便殿の間だけをセレクトしてコンパクトにし、
1998年、この場所に移設した「市ヶ谷記念館」があります。

ツァーには陸自の制服を着た自衛官が増幅マイクを付けて
案内嬢とともに説明をしていたのですが、この前に来たとき、

「この建物は当時の大きさですか」

と参加者の一人がうっかり尋ねてしまい、

「先ほど、移設したときにほぼ10分の1になっていると説明したんですが。
ちゃんと聞いていてもらえばわかるはずなんですがね!」

とえらく機嫌を損ねた口調で反撃されていました。
まあ、人の話をろくに聞かずに質問する方もたいがいですが、
おっちゃんも何もそこまで怒らんでも(´・ω・`)



今回は、3年前にはなかった装備、広角レンズを投入しました。
というか、コンデジと広角一本で乗り切りました。

こういう建物の外観では本当に優れた画角が得られます。



全部収まってなんて美しいんだ、と今更ながら広角レンズに感謝。



ちなみに三島切腹の部屋にあった以前の建物。
昔はこの中央に桜、その前の陸軍士官学校時代は菊の御紋がありました。



桜の紋章は現在記念館入り口の玄関ロビーに飾られています。
隣の時計は昔の1号庁舎のシンボルだったもの。



参加された方はご存知かと思いますが、この後一行はずいっと中に入り、
右手にあるスクリーンに映される「市ヶ谷の歴史」を鑑賞します。



最初に必ず説明されるのがこの床は、昔からのものを忠実に、羽目板一つ一つに
番号を振って、再現したものであること。
つまり、ここで起こった歴史の登場人物が踏みしめた床そのものであるということです。
その際、必ず、東京裁判のとき証言台のあった場所に今置かれている椅子が
どこかが示され、たまたまそこに座っている人が感激?するという流れ。

ちなみにこの写真でも破損・紛失し組み木ではなく四角い板に変わっている部分が見えます。



この、1937年の建設当時には超モダンだったと思われる中央横の反響板は、
中央にあった当時の玉座に向かって斜めに設計されており、
そのために玉座が非常に遠く見えるという効果を生んでいます。
このドアからは、東京裁判のときに左側に並んでいた裁判官席に向かう、
ウェッブ裁判長やパル判事などが、何度となく出入りを行いました。



これが床に立って見た後方。



こちらが玉座から見た室内全景です。
これはとりもなおさず玉座におわす天皇陛下と同じ目線で見る景色でもあります。
そこで気づくのが、正面1階の5つのドアの部分、天井が異様に低いことで、
二階バルコニーがほとんどここからだと同じ高さであること。

これは天皇陛下を「見下ろす」という席にならないように工夫された設計で、
ドアの高さとバルコニー下の高さを全く同じにして、バルコニーを下に持ってきました。



ただ、それだと設計上二階の位置が建物の他の部分と合わなくなります。
そこで、わざわざ入ってすぐの部分にこのような傾斜を付けました。



こちら反対側。
左に座っている人がいるところまでかなりの傾斜が設けられています。



この写真でいうと、前から2列目の一番左あたりが・・・、



この写真での被告台であったということです。
二階席は被告家族席、被告はここに写っていない左手の窓際でした。

天皇陛下の御為に、をまず設計の中心に据えた講堂ですが、前回も
説明をした、「天皇陛下専用の階段」もそうですね。



右側は玉座に向かう陛下専用の階段。
こんなところに階段を二つ並べるなんて、と戦後接収したアメリカ人は
その一見不合理さをさぞ不思議に思ったに違いありません。

天皇を決して訴追せぬこと、という命令を合衆国大統領から拝していた
ジョセフ・キーナン検事は、戦後日本国民を「統治」していくためには
それがいかに重要なことであるかを、東京裁判でここを訪れた時に
この階段の造りを見て心から納得したと思われます。



というわけで前回と同じく玉座に上がることもできました。

市ヶ谷ツァー、続きます。



 



 


舩坂弘陸軍軍曹の戦い その「超人伝説」

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市ヶ谷の記念館には何振りかの軍刀が展示されています。
出処不明の青龍刀などもあるのですが、このように



誰の所蔵品であったかはっきりと素性の分かるものもあります。
荒木貞夫大将の「日露戦争記念の関孫六」。
おそらくは何十年も手入れしていないと思われるのですが、
それでもこの不気味なくらいの光は・・・・。

またご報告しますが、先日島根県でたたらを見学してきました。
そこで日本刀になるための鉄が、最初の段階から
どれほど手をかけ精神を込めて作られているかを知った今となっては
この輝きも決して不思議なものには思えませんが・・。

この記念館展示を見るのはわたしにとって二度目なのですが、
前回は全く意識に上らなかった、(もしかしたらなかったのかも)
冒頭写真の日本刀。
今回はその所蔵者を見て、思わずあっと心の中で叫びました。

この3年の間に戦史を読んだり調べたりするなかで、
「超人」としてその名を記憶していた軍人の名前が記されていたのです。

それが、舩坂弘陸軍軍曹でした。

いつの頃からか、その名前のイメージは「不死身」「超人」という
ズバ抜けた身体能力と恐るべき運、の象徴のように伝播しています。

白い悪魔と恐れられた狙撃手シモ・ヘイへ、安定の悪い黎明期の飛行機で
何百機も敵機を撃墜したエーリッヒ・ハルトマン、
戦車やなんか壊しまくったハンス・ウルリッヒ・ルーデルらとともに、
「サイボーグ」とか「チート」と呼ばれる舩坂軍曹とは何をしたのか。

というわけで、ご本人の著書、「英雄の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」
から、その超人ぶりを探ってみました。

まず、舩坂弘軍曹が戦っていたアンガウルというのは、パラオ群島の一つで、
周囲わずか4kmの小さな島でした。
カナカ族が数百人住み着いていて、鉱石の産地でもありました。

もともと太平洋の要地というわけではなかったのですが、
昭和19年になり、戦況が日本に不利となると、防衛ラインがじりじりと
後退してきて、パラオ諸島まで追い詰められてきたのでした。

ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月、そして11月24日玉砕。
アンガウル島への上陸も9月17日のことです。

舩坂軍曹のいた宇都宮歩兵第14師団は、それまで満州に司令部を置いて
ノモンハン一帯の国境警備隊を務めていましたが、3月に南方への
動員命令が出されると、船坂軍曹もまた皆と同じように死を覚悟しました。

アンガウル島を守備したのは精鋭と言われた第一大隊を始めとする1382名。
この人数で迎え撃つアメリカ軍は2万人。
帝国陸軍がこの島で闘ったその日から舩坂弘の超人神話が始まったのでした。


●9月17日、13名の擲弾筒部隊が空襲と艦砲の嵐で10名戦死
舩坂、かぶっていた鉄帽が砕けるも無傷
この後舩坂隊3名は退却して反撃 

この後至近弾が足元で炸裂し大腿部を負傷
破片が大腿部の肉を25センチ切り取る重症だった
壊疽の予防をしてもらおうと軍医を呼んでもらったら、
黙って凝視しながら手榴弾を置いて行かれた

このままでは死ねないと思い、気が咎めたが持っていた日章旗を
傷口に当てゲートルで巻き止血をする 血が止まる


アメリカ側も決して楽な戦争をしていたわけではありません。
コウモリと蟹の気配が夜間も兵士の心をかき乱し、精神的に
異常をきたす者が続出していますし、指揮官がやられて撤退した
という局面もあったそうです。
それはたいてい日本軍からの「斬り込み隊」「肉攻」の成果でした。

「そこにひらひらと揚がった日の丸の旗を、私はわすれることができない」

●9月28日、擲弾筒を当てまくって敵を倒しまくっていたところ、
眼前で真っ赤に焼けた重迫撃弾が 炸裂
左腕上関節に破片が入り、またしても負傷、退却

米軍側の記録によると、このとき船坂軍曹の臼砲攻撃によって
一個小隊60名の将兵が全滅していました。
ちなみにこの間、舩坂軍曹は怪我をしていたはずの左足も使って戦闘しており、
終わった途端ばったりと倒れてしまいます。

●擲弾筒の弾を投げ続けたため、右肩捻挫していた
しかしそのまま9月末まで闘い続ける

戦闘の合間に船坂軍曹はゲリラに出て米軍兵の屍体から
食べ物を取って帰るも、それまで一緒に戦ってきた部下を失います。

やがて彼は微笑をすら浮かべて水筒を指差した。
<うんと飲めよ。松島!>
私の差し出す水筒の水を、彼はゴクゴクと音を出して実に美味そうに飲んだ。
その幸せそうな顔ーそれは私の一生が終わるまで忘れられないものである。
松島上等兵は水を飲んで間も無く息を引き取った。


●10月6日、敵に斬り込んで死ぬことを決意
屍体の間に横たわって近づいてきた米兵を三八式で射殺
その後銃剣で突入し、一人を刺す
左頭部に衝撃を受けて失神したが、6時間後
気がついたら周りで米兵が全員(3名)死んでいた
ちなみに一人は舩坂の頭に銃剣を突き刺したままの姿だった


このころ、日本軍はもはや飢えと戦闘ショックで全員が幽鬼のようでした。
いきなり自決してしまったり、自分の血を飲み肉を食べるように
言い残して自分で引き金を引いて死んでいくのです。
しかし、舩坂軍曹始め日本兵たちは涙を流すだけで肉を食べようとはしませんでした。


●水を汲みに夜海岸線に行ったら目の前に潜水艦が浮上、
迫撃砲の集中砲火を浴び、左腹部に盲管銃創を受ける
次の日気がついたのでジャングルに這って逃げ込む
潜水艦乗員が捜索に来るが近くの茂みをつつかれるも見つかることなく無事

持っていた千人針を傷口に当て、雑嚢をかぶせて結び止血し、
尺取り虫のように這って陣地に帰還


陣地の兵隊は舩坂班長が生きて帰ってきたのを見て喜びましたが、
水を汲みに行ったのに手ぶらだったため皆そっぽを向きました。
傷からは蛆虫がわいて、うずうずと動くたび苦痛を与えます。

●痛くてたまらないので、小銃弾から火薬を抜き取って、
傷口に振りまいて消毒の代わりとする
焼け付くような痛みに襲われたが、
翌日になると蛆虫は減って痛みも少なくなっていた


しかしそれでも苦しいのでついに舩坂軍曹は手榴弾を抜いて自決しようとします。
逡巡しながらも平穏な気持ちで右手に手榴弾を取り、安全栓をとり、
黒く突き出した右側の岩角にコツンと叩いて胸に抱いたのでした。

●信管が砕ける程力を込めて手榴弾を打ち付けたが、不発だった

どちらにしても盲管銃創で助かった兵隊を見たことがないので、
自分もすぐ死ぬだろうと思っていたら、手榴弾6個を発見。
自分が手榴弾で自決しようとしていたことなど忘れて大喜びし、
これで米軍に一泡吹かせてやろうと意欲に燃える舩坂軍曹でした。

手榴弾全部を体に結びつけ、100メートル13秒くらいの速度で
司令部テントに走り、高級将校を巻き添えにして自爆することにし、
敵陣に近づき、丸一日茂みに潜んでチャンスを待ちます。

「南無八幡菩薩!我を守りたまえ!」
私は叢を飛び出すと、傷だらけの体に鞭打ってもう無我夢中で突っ走った。
(略)そのうち一人の米兵が、何気なく背後を振り返ったのである。

「ジャップ、ジャップ!オブゼアー、ジャップ!」

彼にとって何より幸いだったことは、その日本の斬りこみ兵は、
自分では疾走しているつもりであったろうが、実際には傷だらけで、
かろうじてよろよろと進んでいることであった。

<あとわずかだ!>

司令部は目前である。
(略)私が右手に握った手榴弾の信管を叩くべく固く握り直した瞬間、
左頚部の付け根に重いハンマーの一撃を受けたような、
真っ赤に焼けた火箸を首筋に突っ込まれたような暑さと激痛を
覚えると同時に、すうっと意識を失ってゆくのがわかった。

●10月4日、左頚部盲管銃創を受けて一旦”戦死”するが野戦病院で回復する

「屍体」となった舩坂軍曹の周りには米兵が群れをなして集まり、
ある者は唾を吐きかけ、ある者は蹴飛ばし、また砂を叩きつけたりしました。

駆けつけてきた米軍の軍医は、「屍体」の微弱な心音を聞き取り、
「99%無駄だろうが」と言いながら野戦病院に運ばせます。
そのときに軍医は、舩坂軍曹が握り締めたままの手榴弾と拳銃にかかった
指を一本ずつ外しながら、

「これがハラキリだ。
日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

「日本人は皆、このように最後には狂人となって我々を殺そうとするのだ」

と語り、アンガウルにいた米全軍は、突撃してきた日本兵の
最後を語り合って「勇敢な兵士」という伝説を作り上げたのです。
このことを舩坂軍曹は、戦後、当時将校としてアンガウルにいた
マサチューセッツ大学の教授という人から手紙で知らされています。

「あなたのあのときの勇敢な行動を私たちは忘れられません。
あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ります」

元駐日アメリカ大使館のオズボーン代理大使も、そのとき情報将校として
アンガウルにいてその話を耳にした一人でした。

「あのように戦って生き還られた奇跡的行為には驚きました・・」


このときまでに受けていた舩坂軍曹の身体の傷は

左大腿部裂傷

左上博部貫通銃創二箇所

頭部打撲傷

右肩捻挫

左腹部盲管銃創

火傷・擦過傷無数

左頚部盲管銃創

という壮烈なものでした。
このうち一つでも死んでいて不思議ではない重傷もあります。
なぜこれだけの傷を受けながら生きていられたのか。

たとえば左腹部を潜水艦にやられたとき、
彼は「死ぬもんか。死ぬもんか。死ぬもんか」とリズムをつけて
実際に口に出しながら這って茂みまで移動したといいます。

自決しようとした手榴弾が不発だったのは間違いなく彼の運ですが、
この生への意欲と、仲間の仇を取るために生きるという激しい気力が
その生をつないだとも言えましょう。

ただ、本人に言わせると、これは

「どんな傷でも1日寝ればよくなる”体質だったから”」

ということになります。体質かよ。
さて、というわけで死んだと思ったら野戦病院で3日目に蘇生した
驚異の日本兵舩坂軍曹ですが、その奇跡はここで終わらなかったのです。


ここから先は、捕虜収容所で舩坂軍曹が出会った一人のアメリカ兵が、
その「不死身伝説」に大いに関わりを持つことになります。


続く。


参考:「英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」舩坂弘著 光人社
 

舩坂弘陸軍軍曹の戦い 四月十七日の再会

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舩坂弘超人伝説を制作していて、4月17日が近いことに気づきました。
奇しくも漫画中の羽田での二人の出会いは4月17日だったそうです。

舩坂氏の経営する大盛堂書店の名をアメリカに紹介するという意図のもとに
発足させたクレンショー氏の貿易会社「タイセイドー・インターナショナル」
の船出も4月17日であったということで、この日は生前の舩坂氏にとって、
もちろんクレンショー氏にとってもー「特別な日」だったということです。

舩坂弘の「超人伝説」を読んだとき、これは漫画にしてみたいなあと
思ったのですが、氏の著書、「英雄の絶叫」においても、最も氏が
その著書によって後世に残したかったのは決して自分の不死身ぶりではなく、
あの地で死んでいった戦友たちの姿であることは明白です。

不死身伝説は氏の遺志を慮ると少々不謹慎になるやもしれぬ、
と考えたこともあって、代わりに米海兵隊伍長で通訳をしていたクレンショー氏と
舩坂氏の数奇な友誼をテーマに描いてみました。



船坂軍曹の「不死身伝説」の前半は、主に彼の驚異的な体力と
運の強さの賜物でしたが、米軍機地に単独突入して銃撃を受け、
三日三晩経ってから奇跡的に復活した後、もし舩坂軍曹が
クレンショーと知り合わなければ、伝説が残らなかった可能性があります。

舩坂軍曹は二度捕虜収容所を脱走し、飛行機を爆破して自分も死のうと試み、
いずれもクレンショー伍長に(彼は舩坂の”見張り役”だった)阻止されました。

このときもし相手がクレンショーでなければその場で射殺されていたでしょうし、
漫画に描いた「ピアノ線が仕掛けられた罠」でいうと、
その少し前に脱出した日本兵の捕虜は、実際にそこで射殺されたということです。




ちなみに舩坂氏が戦後実業家となって起こした「大盛堂書店」は、
昨今の書店の不振で規模が縮小したものの、まだ渋谷駅前で営業を続けています。

クレンショー氏は舩坂と再会した時には運送会社の副社長でした。
本屋を開業していた舩坂氏は、クレンショーに会うために昭和23年から
毎年問い合わせの手紙を各方面に配り、米国陸海軍省、外務省、
国防長官、参謀総長に至るまでくまなく連絡を取り続けました。

ちょうど手紙を110通書いたとき、米海軍の「ネイビータイムズ」が、
舩坂氏を取り上げたのがきっかけで、クレンショー氏の行方がわかったのです。


かつて、米軍基地で敵同士として出会った二人。
海兵隊に入ってから「人を殺したくなくて」通訳になろうと思い
日本語を勉強したというクレンショー伍長は、
まず自分の命を惜しまず突入してきた日本人に個人的な興味を持ち、
船坂軍曹に近づいてきました。

二人は生と死について語り、船坂軍曹はクレンショー伍長に、
「花は桜木、人は武士」つまり「桜の花のように散ることを侍は尊ぶ」
という精神を伝えようと試みたのですが、最後までこのことは
クリスチャンであるクレンショーには理解できなかったようです。

「その考えは勇ましいが、やっぱりそれでもなぜ死にたがるのかわからない」

舩坂氏がクレンショー氏を4月17日に日本に呼んだのは、
桜の散り際を彼に見せてやりたいと思ったからでした。
かつてどうしても理解できなかった「武士と桜木」
の思想を、その片鱗でも感じ取って欲しかったのでしょう。

彼は捕虜収容所で私に「神と平和」について教え、
私は彼に「大和魂の闘魂」を身を以て示したのである。


武士道についての研究は、今や世界で行われており、名著が数多くあります。
クレンショー氏は戦後、そういう武士道について書かれたものを読み、
「ユーカンナ フナサカ」が言っていたことを理解しようと
試みたことがあったでしょうか。

わたしは「あった」と断言してもいいと思います。
クレンショー氏が舩坂氏と再会してから5年後、彼は貿易会社を始め、
その傍らアメリカの子供達に日本語を教えていました。
彼が舩坂氏にしばしばこう語っていたそうです。

「これからの世界をリードするのはアメリカと日本である、
日本にはアメリカにない精神的な『もの』がある。
それを手本にしなければならない」

その「もの」とは間違いなく、武士道の精神でもあったはずだからです。
 

 

"DO LITTELE、DO NOTHING"ドーリットル爆撃隊

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去年の夏見学してきた空母「ホーネット」艦内の博物館の展示に基づいて
今日は一つのテーマでお話しします。



唐突ですが、皆さん、今日は何があった日かご存知ですか?

1942年といいますから74年前、横浜横須賀を中心に、
アメリカ陸軍の爆撃隊による本土爆撃、「ドーリットル空襲」があった日です。

 

「ホーネット」博物館はドーリットル隊の説明にわりと力を入れています。
パイロットの控え室には、映画「東京上空30秒前」がモニターで放映され、
そこでドーリットル航空隊が出撃を待っているような演出がなされていました。

というのは、先代の CV-8「ホーネット」はドーリットル空襲の旗艦として
ウィリアム・ハルゼー中将が乗っており、さらにはこの甲板から
ドーリットル隊のB-25が飛び立ったからに他なりません。

パイロットルームだけではなく、ここにはドーリットル隊の記念品が展示されています。
まず、写真のケースに見えるのは陸軍の軍服ですね。
カーキ色の濃淡のジャケットとシャツにベージュのネクタイと帽子。
もちろんボタンは金と、色彩的にパーフェクトなデザインです。
航空隊のクルーには必須のレイバン型サングラスが時代を超越してかっこいい。



冒頭の写真は中央の左が、ジミー・ドーリットル少佐。
「パールハーバー」ではボールドウィン兄弟の長男が演じていましたが、
もう少し体重を減らせばかなり似ていたんではないかと思われる配役でした。
周りにいるのが整備員を含む航空隊の皆さんで、右側は飛行長でしょうか。

陸軍軍人になる前は、黎明期の飛行家でもあったドーリットルは、
航空に成績を上げた人物に贈られるハーモン・トロフィー、航空レースの覇者に
贈られるペンデックス・トロフィーをどちらも獲得していますし、
当時の不安定な飛行機で計器飛行の実験を史上初めて成功させたりしています。

学問的にもカリフォルニア大学バークレー校卒業後MITで学位をとっており、
アメリカ人の思う理想的なエリート軍人でもありました。

アメリカでは今日、ドーリットル准将はあの戦争の最大のヒーローのうち一人ですが、
その理由は、「ドーリットル空襲」を成功させたということに尽きます。 

あの爆笑映画、マイケル・ベイの「パールハーバー」でも、わかりやすく

「開戦以来日本に押され気味だったので、アメリカ全軍と
アメリカ人の士気を奮い立たせるためガツンと一発東京を攻撃する」

とその意義が説明されていましたが、ここで留意すべきは、この作戦、
「帝都を攻撃した」という事実さえ残れば、実際の被害はどうであっても、その後
色々と戦争が捗るであろうという下心で計画されたということです。

だから後半にもいうように、かなりその戦果は事実を歪めて伝播されました。


しかしとにかく「パールハーバー」について書いたときも同じことを言いましたが、
サイパンもテニアンもまだ取れていなかった当時、アメリカ軍が航空機で
本土を攻撃してから中国に逃げる、なんて、いろんな意味でリスクが多すぎるわけです。

ルーズベルト大統領としては、これは「真珠湾の仕返し」というアピールを
国民に対してすることが第一の目標だったのですから、
たとえドーリットル隊の命は犠牲になっても、というかそうなったらなったで
アメリカ人はより一層復讐心に奮い立つであろうという下心もありました。

それを引き受けたとき、ドーリットルは自分自身を含め、攻撃隊全員が
生きて帰れる可能性はないかもしれないと覚悟したでしょう。

「もし不時着したらどうなるのか」

という部下の質問に対し、

「日本だって文明国だから心配しなくていいい」

とは答えていますが、自分は内心不時着のおそれが出たときには
適当な施設を見つけて自爆することを考えていたようです。
(これは映画のセリフにも採用されており、実際にそう言うか書いたかしたらしい)

そういう、いわば「決死隊」を率いた隊長の名が、アメリカ人にとって
今日現在でもヒーローとして賞賛されるのは当然のことでしょう。




大戦中にアメリカ陸軍航空隊で使用されていたナビゲーションキット。
正副操縦士、フライトナビゲーターの航空士がブリーフィングに使うもので、
この皮のパッドにA4のノートと鉛筆(鉛筆でないとダメ)、
航空地図と必要な飛行機のスペックなどが書かれたマニュアルが入っていました。
パッドとして膝に置いて使えるように堅牢な作りとなっています。



奥の分度器みたいなのはマーク・トウェイン式爆撃照準器。
アメリカ軍がトップシークレットで運用していたノルデン照準器については
以前このブログでもご紹介したことがありますが、ドーリットル隊は
この作戦に際し、ノルデン照準器を積まずにこれを携えていきました。

この名前は、これが制作されたのがマーク・トウェインが人生の大半を過ごした
ニューヨーク州エルマイラで作られたことからきているという説がありますし、
ノルデン照準器に比べてあまりにも原始的だからという説もあります。
(なんで原始的だとマーク・トウェインなのかよくわかりませんが一応)
また、「マーク・トウェイン」という言葉が船舶関係で何かの呼び出しに使われていた
とも言われており、何れにしてもはっきりした理由はないそうです。

ノルデン照準器のかわりにこのアルミ製の照準器を乗せた(というかポケットに入れた)
理由は、あまりにもノルデン照準器が重かったからでした。
長距離飛んで本土を攻撃し、さらにはその後大陸まで飛ぶという計画には
燃料はギリギリで、少しでも重量を減らす必要があったのです。

ちなみにノルデンの値段は当時の10,000ドル、マーク・トウェインは20セント。
ノルデン照準機は天候に左右されるなど、値段の割に使えなかったそうですが、
このときの戦果を見る限り、20セントの照準器の方はやはり「お値段それなり」で
全くその役目を果たした形跡はありません。(特に隊長機な)

というか、こやつら全体的にほとんど照準器なんて使わず、手当たり次第に
人を見たら攻撃していたようなのですが、これも安物の照準器が
結局役に立たなくてヤケクソになった結果、子供だろうが漁師だろうが、
とにかくジャップと見れば攻撃すりゃいい、と開きなおったとしか思えません。



フライトマニュアル。
これはかなり重たそうですが、本くらいは仕方ないか・・。



後ろにあるのがB-25Jの製品マニュアルです。

手前は、日本の模型メーカーの人が見たら激怒しそうなミッチェルのモデル。
わたしは模型の良し悪しはわかりませんが、それでもこれが
かなり雑なものだということぐらいはわかります。

手前は作戦参加記念の盾かなんかかな?



「日本が東京と横浜を敵機に襲撃されたと報告している」

ドーリットル空襲が成功した「らしい」と報じるNYTの紙面のようですが、
重要なニュースのタイトルをどうやらヘッドラインに4つ並べているようですね。

「犠牲者9名」「フランス大空襲」「リーヒ呼び戻される」


このときの犠牲者とは何の犠牲だったのかはわかりませんでした。
「LEHEY」とは元海軍軍人。
1940年にフランスがドイツに降伏してから駐仏大使をしていた
ウィリアム・リーヒは「呼び戻され」、ルーズベルト大統領の個人的な
軍事顧問、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 となりました。

それが1942年5月のことです。


つまりドーリットル空襲からすでに1ヶ月経っているということですが、
作戦の成否はこのころようやく日本の新聞などから成功だろうと思われた、
ということになるのです。




 パッと見てしばらく何の地図か全くわかりませんでしたが、
これは日本地図の上に爆撃手が自分が爆弾を落としたところに印をつけ、
さらには色紙のように全員のサインが書かれた「記念寄せ書き」のようです。

この攻撃に加わった者のうち、戦死が1名、行方不明が2名、
捕虜となったのが8名で、残る隊員はアメリカへ帰還し、
8名のうち3名が軍事裁判にかけられ死刑、実は全員が死刑判決でしたが、
刑の執行を猶予されているうちに1名が獄中で病死。

戦後解放された爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーはキリスト教の伝道師となり、
日本で布教活動をしていたということです。
真珠湾攻撃の攻撃隊長淵田美津雄が伝道師になったのも、ディシェイザーの著書を
読んで感銘を受けたからでした。

ちなみに淵田はアメリカで伝導活動中、ドーリットルと対面したということが
自身の著作に書かれているそうです。


ところでアメリカでは今でもこのときの日本の捕虜死刑について感情的で、
まるで悪魔の所業かのように怒っているようですが、彼らはドーリットル隊が
なぜ裁判で死刑判決が出されたかの「理由」を知らされていないらしいのです。


前にもお話ししましたが、まず隊長のドーリットル機は小学生を含む民間人ばかりに
死傷者を出し、肝心の厚木基地は逃走の際素通りしただけで、要するに
軍施設には全くダメージを与えていません。

辛うじて13番機だけが横須賀鎮守府を攻撃し、「大鯨」にダメージを与えましたが、
あとは被害者は小学生だったり漁船だったり、これはもう国際法に照らして
どんなに弁護しても死刑不可避、というくらいの徹底した民間人殺戮となったのです。
決して意図したわけではなく冗談抜きで照準器が安物だったからかもしれませんが。

ところがですね。(笑)

英語のWikipediaで「Doolittle Raid」を見ていただければわかりますが、
肝心の日本側の被害(死者87名、重軽傷者466名、被害家屋262戸)
についてはここでも全く言及しておらんのですよ。奴らは。

爆撃機クルーの運命、たとえば彼らのうち一人が中国に不時着したとき
「落ちたのが肥溜めの上だったので幸運にも助かった」
なんてことまで詳細に書いているのにですね(笑)


「明らかに知った上で民間人に対する攻撃を行った」

とされる、校庭の生徒や、手を振った子供を攻撃したなどという事実は
アメリカではおそらくごく一部の学者しか知らないのではないでしょうか。

「パールハーバー」で描かれていたように、パールハーバーでは
日本側は民間施設も攻撃しまくり、逆にドーリットル隊は軍事施設にしか
爆撃をしなかった、とアメリカ人がいまでも信じている
(ドーリットル隊の名誉のためにそれだけを絶対に書かないので)
のであれば、そりゃ真珠湾であんなことを仕掛けてきておいたくせに、
捕虜3人も処刑しやがってジャップめが、と思ってもある意味当然です。

アメリカ人のいいところは「フェアネス」を重んじることのはずですが、
ことそれが国民的英雄の偉業に「ケチをつける」ことにつながるとなると、
これはもう官民一体で隠蔽にかかるものなんだなあ、と思ってしまいました。

まあ、未だに原子爆弾は正義の鉄槌だったなんて言って憚らない国だから
単純に考えても彼らの「公正」とはジャイアニズムに貫かれた
マイルールの下の「フェアネス」に過ぎないってことなんでしょうけどね。

ちなみに日本側の記述によると、

「死者のうち9名が日本軍高射砲の破片によると認められている」

とちゃんと正直に?申告されており、かなり中立だと思われます。


余談ですが、中国の軍事パレードに出席した国連事務総長の潘基文が

「国連は中立であるというのは誤解だ。中立ではなく公正なのだ」

と日本側にその立場を責められて開き直ったことがありましたが、
それでいうと、アメリカ側の記述も「中立ではなく公正」のつもりでしょうか。
英語でいうと「naturalではなくfairness」といったことになります。

では公正と中立は違う意味なのか。
我が菅官房長官は「言葉遊びをするな」とこれに対して不快感を表明しましたが、
国連が都合よく片側につき、それを「正義」とすることが「公正」だというのは
随分と便利な解釈もあったものだと感心します。(嫌味です)



ところで、またしてもいきなりですが、皆様は小さいときにH・ロフティング作の
「ドリトル先生シリーズ」をお読みになったことがありますか?

今にして思えば「ドリトル」って「ドーリットル」じゃなかったのかしら、
とつい気になって調べてみましたところ、案の定、

「ドリトル」=「DOLITTLE」

で、正式には「ドゥーリトル」という発音が正しいらしいことがわかりました。
「Do little」、つまり「少ししかしない」→「やぶ先生」というのが
もともとのこの「ジョン・ドリトル」ネーミングの「語源」だったのです。

この作品は20世紀初頭に書かれ、1925年にはすでにあの井伏鱒二の手によって
最初の作品が翻訳されていましたから、決して

「ドーリットル空襲の司令官の名前の悪印象からドリトルにした」

というような、つまらない配慮による変更ではなく、
単に「ドゥーリトル」が当時の子供には言いにくいだろうと、
井伏大先生が考えたからでした。

それに、よくよく見ると「ドリトル」は「少しの働き」を意味する
「Dolittle」ですが、ジミーの方は「Doolitte」、つまりoが一つ多いのです。

わたしはこれまで「ドゥーリトル」とこの名前を表記してきたのですが、
これはうかつにも、一つ"o"の多い「Doo」に注意を払っていなかったためです。
で、本日から発音も近いであろう「ドーリットル」に変えることにしました。

ちなみにこの一風変わった、(ドリトルも洒落で付けられた名前だし)
司令官の名前は、空襲後、彼我双方でネタにされております。

日本では爆撃後、

「ドーリットルの空襲はDo littleどころかDo nothingだった」

と言われたそうですし、逆にアメリカでは

「ドーリットルの偉業は決してDo littleではなかった」

とか

「Do Doolittle」 「Doolittle dood it!」

などというのが流行ったということです。
戦争の向こうとこちら側なので、もちろん言っていることは逆になるわけですが、
どちらもが「ドーリットル」の名前をあえてネタにしているのが面白いですね。

 

続く。


 

町屋体験と「幸せの黄色い新幹線」〜旅淡シリーズ

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染井吉野がすっかり終わったある週末、京都に行くことになりました。
人と会う約束で行ったのですが、家族三人の旅であったので、
町屋に泊まるという体験にトライすることにしました。

せっかく京都に来たのだから、京都らしい宿に泊まりたい、という旅行者の
ニーズに応え、最近は町の角角に残る「町屋」、つまり昔ながらの
住宅を改装して一軒の家をホテルとして借りるという形態が増えています。
今回泊まったのはそんな町屋のひとつ。
さて、どんな体験ができるのでしょうか。



新幹線を待っていたら、「回送」と掲示がでてやってきたのは
ご覧のように黄色い新幹線。

「黄色い新幹線なんてあったっけ?」

その場でiPadを検索してみたら、これが「ドクターイエロー」という
異名を持つ、新幹線型点検車両であることがわかりました。
正式名称は新幹線電気軌道総合試験車。
通常の新幹線と同じ車両数、重量を再現しており、その役割は
線路のゆがみ具合や架線の状態、信号電流の状況などを検測しながら走行し、
新幹線の軌道・電気設備・信号設備を検査線路とパンタグラフを走行しながら
チェックするという特別車両です。

当初口を開けて見送っていたので、ボディを撮り損ねましたが、
黄色い車体にはブルーのラインが入っていました。

なぜ黄色いかというと乗客が間違って乗らないように、ということですが、
ホームにいても戸が開かないので、乗る人はまずいないと思いました。



わたしはこの瞬間までこういうものの存在すら知らなかったわけですが、
このドクターイエロー、旧車両の時からすでにあったんだそうですね。

写真のタイプは2000年(つまり16年も前)にはすでに導入されていたという
923系で、なんでもその内容は

1号車:通信・信号・電気測定車
2号車:データ処理・架線摩耗測定車
3号車:電源車(観測ドームあり)
4号車:倉庫
5号車:軌道検測車(921形、3台車で短車体)
6号車:救援車(観測ドームあり)
7号車:休憩室

だということです。
うーん、乗れないけど乗ってみたい!特に7号車。

この写真では探照灯の下に赤い光の見えるウィンドウがありますが、
これは前方監視カメラであり、赤い光は尾灯となります。
今映っているのは後後尾となります。



「へー、ドクターイエローって言うんだって」

と話しながらみていたら、後ろの方からどどどどっと人が走ってきました。
皆携帯を構えて、写真を撮るためにホームに群がっています。
なんでも、このドクターイエロー、「幸せの黄色いハンカチ」のイメージからか、

「見ると幸せになれる」

とも言われているのだそうです。
まあそれだけレアだってことでしょう。
わたしだってこの人生で初めて遭遇したくらいだし。

なんでもドクターイエロー、月4回、東京-博多間を2日がかりで往復してるとか。
一日目は東京駅から博多へ向かい、次の日に東京へ帰ってきます。

「のぞみ」停車駅のみを停車して走る「のぞみ検測」が3回、
全駅停車する「こだま検測」が1回の合計4回だそうです(最近の実績より)。

たまたまそのときにホームにいた人しか見られない「幻の新幹線」。
今回世の中にはこの黄色い新幹線の「追っかけ」をしている人たちがいたり、
「ドクターイエローの目撃情報を投稿するサイト」まであるということがわかりました。 

撮り鉄的にもこの新幹線は格好の好餌らしく、この後に発車した
広島行きののぞみに乗って進行方向側の窓から外を見ていたら、
田んぼのあぜ道のようなところに撮り鉄集団がずらっと鈴なりになっていました。

いずれにしても、めったに見ることのできない車両なので、そのとき
ホームにいた人たちが色めき立ったのも当然です。
発車までの時間、「柵から乗り出さないでください」のアナウンスが
なんども流れておりました。

このときのドクターイエローが「定期点検」だったのか、それとも
その前に起こった地震の影響を調査するために臨時運行されたものかはわかりません。




さて、そんなこんなで京都着。
ここ何年か、いつ行っても観光客でごった返している感のある京都ですが、
桜が一段落し、わずかですが喧騒がましになっている気がします。

京都駅からタクシーに乗って、「花籠旅館」というと、
運転手さん、全く知りまへんなー、と言います。
後から知ったのですが、最近雨後の筍のようにこのような
町屋を改装したタイプの旅館が増えているので、多すぎて名前だけでは
どこにあるのかわからないものなんだそうです。



運転手さん、電話で旅館と連絡を取りつつ、五条と七条のあいだにある
(つまり六条?)この「正面橋」から鴨川を渡りました。



「ここですわ」

言われてみれば、門のところに小さく「花籠旅館」と書かれたプレートが。
どうやらこの小道を入っていったところのようです。



そのとき左を見ると・・・
首輪をつけたお嬢さん猫にちょっかいかけていた野良っぽいトラ。
(お嬢さんはすっかり怯えておりました)
この辺は入り組んだ小路なので猫も住みやすそうです。



ガレージの向こうの4軒が並んだ長屋の一番左端が今夜のお宿です。

「昨今はこういうところを旅館にしてしまうのね」

この町屋タイプ、国内旅行者よりも、外国人に人気なのだとか。
普通のホテルは世界どこに行っても同じような部屋ですが、
こういうところだと、まるでつかの間京都人になった気分を味わえます。

旅館の右隣は現在空き家で、右端二軒は居住者がいるのだそうです。



というわけで、4軒長屋の一番端。
こちらが「花籠旅館」でございますえ。
躯体はもちろん長屋ですからそのままですが、内装も外装も
変えられる限りの部分を新しくしています。
オープンは昨年9月ということなのでまだ半年しか経っていません。



部屋の前に立って長屋の右側を眺めると、こんな感じ。
だいたい80年くらい前に建てられた物件だということでした。
お地蔵さんもその頃からあるのでしょうか。
きっちり80年前だとして1936年、昭和11年建築。
そんな古くからある建物に未だに人が普通に住み続けているのが京都です。

大きな地震に遭ったこともなく、小規模の空襲があったとはいえ、
一旦は原子爆弾の投下目標として「効果を明らかにするため」
あるときから爆撃を一切受けなくなったという土地ですから、
こういう戦前からの「町屋」がそこここにいまだ残されているのです。

廃墟マニアのわたしとしては(廃墟ではありませんが)そんな家が
まだ隣に繋がっているこのような家屋に住めるというだけでも大興奮でした。



しかし、いかに廃墟が好きでも、実際に古いままの家では色々と
生理的に辛いものがあります。
昨今の「町屋旅館」は古いテイストのインテリアを残しているものの、
あとは海外から来る旅行客のためにも、設備はホテル並みに整って
とにかく小綺麗で清潔で水回り完璧、というのが基本です。

スケルトンリフォームをしたということなので、古い家屋にありがちな
臭いの問題も全くありません。

土間にある自転車はチェックアウトしてからも4時間は借りることができます。
京都ではよく旅行者が自転車に乗ってうろうろしていますが、
ほとんどがこういう経緯で借りた自転車だったのかもしれません。

土間は左の「客間」と、奥の「台所」に繋がっています。



並びの他の三軒も、このような土間玄関のしつらえなのでしょうか。



入ってすぐの間は、窓際に長い作り付けのデスクがしつらえてありました。
小型のアクオス、そして小さいけど性能のいいBOSEのスピーカーは
Bluetooth対応でこの空間にジャズを流すといかにもな雰囲気です。
もちろんWiFiは完備、息子が速度を測ったらシリコンバレー並みの早さでした。



飾ってある花は、鉢植えも生花も本物です。
百合の花が馥郁たる香りを放っていました。



ここがいわゆる居間兼食堂。リビングダイニングというやつです。
ここにテレビを置かないあたりがいいセンスだと思いました。



居間から廊下を望む障子は雪見障子となっていて、坪庭が臨めます。
まだあまり時間が経っていないですが、もう少しすればツワブキやウルイが
落ち着いて、秋には色づいた紅葉が楽しめるのでしょう。



細い階段ももちろん全て新しく作ったものでした。



階段を上ると、ホールのようなスペースがあり、



その左と右には寝室があります。
この日TOが風邪なのか咳が止まらない状態だったので、わたしと息子が
こちらで寝ましたが、次の日の朝、障子からの光があまりに眩しくて目覚めました。

昔の人は日の出と共に起きていたから無問題?



案内には浴衣完備と書いてあったので、何も持たずに行ったら
どこを探しても浴衣もパジャマも見当たりませんでした。
仕方がないので京都駅前まで車を飛ばし、ヨドバシカメラビルの中にある
UNIQLOで適当なものを買ってきてそれを着て寝ました。

次の日聞いたところ、従業員が浴衣を入れるのを忘れていたそうです。



土間に吹き抜け。
チェックインの時には案内の方が迎えてくれてお抹茶を淹れてくれ、
お勘定をすませて説明もしてくれたのですが、そのときに

「京都の底冷えする冬にはここは寒そうですね」

とつい言うと、

「できるだけ各所にヒーターを置いて対処させていただいています」

とのことでした。
まあ、底冷えと暑いのは京都名物でもあったりするわけですから(笑)
それも含めて楽しむのが京都旅行というものなのかもしれません。



トイレはもともとそうだったのかどうかわかりませんが、
一階と二階に一つづつありました。
で、これが二階のトイレなのですが、夜寝る前に行こうと思い、
左奥にある照明のスイッチをつけようとしたところ、
真っ暗だったので床の段差に気づかず見事に躓きました。
もう少しわたしがドンくさかったら、そのまま両手を
ドアのガラスについて大惨事となっていたかもしれません。
幸いつまづいた反対の足でバランスをとり倒れることはありませんでしたが、
そのときにザラザラした壁に手の甲を擦って怪我をしました。

足元に常夜灯をつけてはどうですか、と次の日お節介ながら提案したところ、
帰ってから女将さん直々のお手紙と共に、お詫びの品が送られてきました。
手紙によると早速センサーを取り付けられたとのことです。

寝巻きの件も、電話では「(ユニクロで買った商品代を)返金いたします」
というお申し出は辞退し、お詫びも一切無用、と告げていたのですが、
お菓子と共に商品券が同封されていたのには恐縮してしまいました。

クレームに対する対応の早さとこの気遣い。
さすが世界の観光首都京都の旅館だと舌を巻いた次第です。



さて、家の中の探検も済んだので、わたしと息子は
TOが来るまでの間自転車に乗って外に出てみることにしました。



 

私は怒っている。”高市発言”を捏造する人たちに。

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ここのところ、震災関連のニュースに気を取られて更新の間が空き、
さらには頂いたコメントにお返事も滞りがちですが、
エントリ製作しようとしても、あの東北大震災のことを考えると
こちら(関東)で九州のことを高みの見物を決め込むような
呑気なタイトルでお話しするのがはばかられたと御理解ください。

書きたいテーマはたくさんあるのですが、今パソコンに向かっても
「それどころではない」感が罪悪感のようになって押し寄せ、
どうしてもこのような内容になってしまいました。

高市大臣の発言に対する野党とマスコミの狂乱ぶりについては
いろんな人が意見を述べているので後追いになりますが、
先日ポストに入っていた一冊の通販雑誌を見たことから
これはわたし自身の理解のためにも一度ちゃんと検証するべきだと思い
取り上げることにしました。 



さて、前からそうだそうだとは思っていましたが、左に傾きすぎて、
昨今では完璧にオルグ雑誌(通販はおまけ)に成り果てた通販生活。

震災後特に原発ゼロを前面に打ち出すオルグ雑誌の実態を隠そうともしなくなり、
菅直人さんにインタビューして「あの時の苦労」を語ってもらい労をねぎらう、
などという目眩のするような読み物を載っけているうちは笑って見ていましたし、
左翼の陣容とその主張を知るためにも、むこうが勝手に送ってくるうちは
これを拒まず通販も時々利用していたわけですが、今回、この表紙をみて、
わたしは「ああもうだめだわ」と限界を感じ、電話を取り上げて
VIP専用ラインのオペレーターにカタログの即時停止を申しつけました。

makitaの掃除機紙パックや老舗のおかゆなど定期購入していたせいで
いつの間にやらわたしはVIP会員にまで出世していたんですけどね(笑)

「何かご不満な点でもございましたか」

丁寧に聞くオペレーターに、

「原発ゼロまではまあこういう考え方もあろうと思ってみてられましたが、
今回はもうダメですね。限界でした」

「それは誠に申し訳ありませんでした。
カタログはお送りしませんが、VIPメンバーにお名前を残してもよろしいでしょうか」

あー、別にどうでもいいです、ってわけでもないですが、オペレーターと
カタログハウスの思想について議論したり況してや文句を言う筋合いでもないので
かまいませんよ、がんばってくださいねと心にもないことを言って電話を切りました。

いやーこれ・・どう思います?
ISISの人質事件に次いでクソコラ大会にもなった「私たちは怒っている」。
岸井成格、田原総一郎、鳥越俊太郎ら煮しめたような左翼の言論人が
高市総務大臣の電波停止発言が「憲法と放送法の精神に反している」
としてみんなで怒っておるわけです。

通販生活の2016年夏号の凄まじさはこれだけではなく、なんと
メインの読み物は

『自民党支持の読者の皆さん、
今回ばかりは野党に一票、(ココ超大文字)
考えていただけませんか」

ですよ?



一番先に出てくるのが、橋下さんにコテンパンにやられて涙目だった
山口二郎(「安倍、お前は人間じゃない!叩き斬ってやる」の人)、



半世紀前にはお色気DJ()として一世を風靡し「レモンちゃん」と呼ばれた
フェミ活動家落合恵子、(すっぱいという意味では今もその存在感は現役)
毎年経済崩壊を予想している浜矩子(今回の落合恵子との対談では
『安倍政権が支持されているのは経済がいいからだけど、経済成長をすれば
幸せになれるという幻想からそろそろ目覚めましょう』だそうです。
それならもう経済学者なんていりませんよね)などの豪華執筆陣。



そして極め付け、なんと驚くことに「どこにでもいる政治的無知な劣等生」と
ソフトバンクの副社長にレッテルを貼られたシールズの奥田くんが
『投票したい野党がないと諦めている場合ではありません』とありがたいご意見を・・。

じゃー、自民党以外のどこに入れろっていうのかね奥田君(とカタログハウス)。


とにかく通販生活にもう今回で愛想も尽き果てたのですが、今日はこの、
周回遅れでわざわざ「私たちは怒っている」を表紙にしたセンスのなさを
論うついでに、彼らの高市発言への非難がいかに的外れで
わざと論旨をずらしてただ政権批判しているだけなのか検証したいと思います。

わたし自身かなり気が進まないだけでなく、
なぜ今のこの時期に、というご意見もございましょうが、
熊本の地震におけるマスコミ各社の態度、そして
この件で高市総務大臣を叩いている民進党始め野党の、地震を利用して
政権を叩こうとしている下心が眼にあまったからです。

たとえば、関西テレビがガソリンスタンドの横入りをツィッターで拡散されて、
非難が集まったとき、それを身内が嘘の情報で庇い立てしたり、仕返しに
(関係者かどうか確定してませんが多分)ツィートした人の個人情報を晒したり、
というニュースもありましたしね。

思うに、高市大臣への非難は、結局はこのガソリンスタンドの件と同じ構図です。
自分たちはやりたい放題やる、しかし自分たちを非難することは許さない、
政権には野党と協力して発言者に『恥ずかしい思いをさせる』(ホントーにこういった)
個人のツィートには情報を晒して『恥ずかしい思いをさせる』・・・。

いやはや、電波ヤクザとはよく言ったものです。
これではマスコミという権力の監視は一体誰が行うのですか。

さて、この電波雑誌(電波の意味違い)、この表紙に書かれたことを読んでみましょう。

「(高市大臣は)電波停止を命じる可能性について言及した。
誰が判断するのかについては
『総務大臣が最終的に判断することになると存じます』と明言している」

これは酷い印象操作だとわたしは思いましたね。
まるで高市大臣が恣意的にその法律を行使する意思を示しているみたいです。

では実際はどうだったのでしょうか。
この件でいろいろ調べてみたのですが、問題とされた答弁の前後を
曲解することなく抜粋するのが一番わかりやすいと思いましたので、
長くなりますが書き出してみます。
奥野というのはこのとき高市大臣に質問した民主党の奥野総一郎氏です。


奥野 最近、古舘伊知郎、岸井成格、国谷裕子など、
いわゆる政権にものを申してきたとされるキャスターが降板となった。

たとえば『報道ステーション』では、一昨年の衆議院選挙のときに、
「アベノミクスの恩恵が富裕層にしか及んでいないかのような報道をした」
として、自民党から名指しで文書で注意がいっている。
『NEWS23』に対して、安倍総理が出演した際に、アベノミクスに批判的な
街の声が紹介され「街の声の実態が反映されていない」と指導の文書がいっている。

(批判的な声ばかりが紹介、と言っていないのに注意) 

昨年は、テレビ朝日の古賀問題、あるいは『クローズアップ現代』の問題で、
自民党の幹部が、テレビ局に対する停波、放送の停止について言及した。

昨年9月16日の『NEWS23』で、岸井アンカーが、
「メディアとしても安保法案の廃案に向けて、声をずっと上げ続けるべきだ」
と主張したことに対し、「放送法順守を求める視聴者の会」が
「一方的な意見を断定的に視聴者に押し付けることは、放送法に明らかに抵触する」
と質問状を送り、これが降板のきっかけになったという報道もある。
 
籾井会長は放送事業者として、公共放送の代表として、
「政治的公平性は1つの番組の中で求められている」のか、
「放送番組全体、NHKの番組全体で求められているのか」どうお考えか。


籾井勝人氏 それぞれの番組の中でバランスを取っていく。

奥野 放送法4条1項の2号、政治的公平性は誰が一体判断するのか。
会長が政治公益性が取れてないと判断した時に、
編集権を行使して、変更を命じることはあるのか?

籾井 実務は分掌されているので各役員並びに現場の局長が判断する。

奥野 その権限でバランスが取れていない時は(会長権限で)変えることもあると理解する。

(・・・・えっ?)

バランスが取れている、取れていないの基準は何か? 誰が判断するのか?

籾井 その放送法に則って判断をする。つまり最終的には視聴者である。

奥野 それは視聴者なのか? 会長か会長の腹心が判断するのではないか? 
放送法の理解が間違って居る。

籾井 放送法に則ってバランスをとることを心がけるが、
万が一それに外れた場合もわたしが裁くのではなく、判断は視聴者の反応に委ねる。

奥野 個々の番組で政治的公益性が保たれているかどうかを最終的に判断するのは
最終責任者の会長ではないのか?極めて無責任な答弁だ。



(高市大臣に)
「放送法遵守を求める視聴者の会御中」として高市大臣の回答がなされた。
「基本的には、1つの番組というよりは、放送事業者の番組全体を見て
判断する必要がある」というものである。

しかし
「殊更に特定の候補者や候補予定者のみを、相当の時間にわたり
取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に
明らかに支障を及ぼすと認められる場合」。

「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、
一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、
それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、
当該放送事業者の番組編集が、不偏不党の立場から逸脱している場合」

には政治的公平性は確保されていないと考える。

これは従来の答弁を変更したということか?

(変更したというより、全く別のカテゴリの話題だと思うんですがわたし。
こんなあほな質問に真面目に答えなければいけない大臣って大変・・。
ましてやこの議員、これで誘導尋問しているつもりですからね)

高市早苗氏 政治的な問題を扱う放送番組は
「不偏不党の立場から特定の政治的見解に偏ることなく、
番組全体としてバランスの取れたものであること」であるべきで、
「1つの番組ではなく事業者の番組全体を見て判断すること」である。

民主党政権時代も同じ答弁がなされている。
NHK会長は放送法第51条において、責任を果たしていただきたい。


奥野 まったく同感だ、さきほどの会長の発言は職務放棄である。
ところで補充的答弁とは解釈が変わったのか。事情が変更したのか。

高市 事情の変更はない。
わかりやすく整理をしていくという意味で申し上げた。

奥野 電波法174条では総務大臣の権限として、放送を止めることができる。
個別の番組の個別の内容しだいで、業務停止処分はありうるのか。

高市 電波法上はその規定は存在する。
しかし実際は、放送法第4条に基づいた業務改善命令ですら行われたことはない。

奥野 特定の政治見解のみを取り上げて、相当な時間繰り返すというのは
極めて曖昧な概念だ。相当な時間って一体誰が判断するのか?

(これ、高市大臣に”大臣権限で停波もありうる”と言うように誘導しているんですね。
やっぱりこれも”日本史ね”と同じで、マスコミとのタッグで揚げ足をとるため
”仕掛けた”疑いがこのセリフで濃厚になったとわたしは思いました)


政権に批判的な番組を流したということで、総務大臣が恣意的に業務停止や、
番組を潰したり、キャスターを外されるということが起こりうるわけだ。
”一方的な政権批判は気に食わないから第4条をたてに停波もある”とはっきり言え。

(この部分、あまりにも発言者の頭が悪くて言ってることが無茶苦茶でしたが、
結局こう言いたいんだと解釈しました。原文はどこかで確かめてください。
つまり何としてでもこう言わせて言質を取るために誘導しとるわけです)

高市 民主党政権時代から第4条は法規範性を持つものだという位置付けだ。
その法規範性でいうと、もしある放送事業者が偏向報道を繰り返し、
それに対して行政指導(実際には要請)をしてもまったく改善されなかった場合にも、
罰則規定がまったく行使されない、という約束はできない。

(ここで高市大臣は、規範性を担保するために法律には罰則を伴う、という
法治国家の大臣として当たり前のことを、聞かれたから答えているに過ぎません)


奥野 今回、この解釈の変更で、個別の番組についても責任を問われるということか。

(さすがは元民主。奥野選手、まったく人の言うことを聞いておりません)

自民党幹部が、個別の番組の停波について言及したそうだが、
それは報道の萎縮を生む。だから発言撤回しろ。

キタ━━━(;´Д`);━━━━!!!

(いや、そういう法律がある、という発言の何を撤回しろというのか。
マスコミがやりたい放題やって椿事件のようなことをまた起こしても、
法の執行は絶対にしないと約束しろ、とでもいうんでしょうか)

高市 撤回はしない。

将来にわたってよっぽど極端な例、放送法の、それも法規範性があるものについて、
何度も行政のほうから要請をしても、まったく遵守しないという場合には、
停波の可能性がまったくないとは言えない。

(全文読んでいる人にはなんの不整合もないこのラインですが、まさにこの部分を
取り出して言質を取ったつもりで騒いでいるのが『怒っている』のおじさんたちと
ガソリーヌ山尾を中心としたミンスィン党とカタログハウスなのです)


奥野 今までそういう指導はBPO(放送倫理・向上機構)がやってきた。
BPOが改組されて、こうした問題を扱う検証委員会があるのだから
総務大臣が行政指導をすることはおかしい。

(公衆の面前で中指立てていた人が委員だったりするBPOね。
お友達同士でなあなあでやって監視の意味があるの?)


高市 BPOはNHKおよび、民間の放送事業者の団体だ。
総務省には行政としての役割がある。

昨年4月のNHKの事例(クローズアップ現代のやらせ)では放送法4条に
明らかに抵触する虚偽の放送が行われており、その後出された改善案についても、
誰が、いつ、どのように、という具体性に欠けていたので、行政指導を行った。

(これに対しNHKは約5時間半にわたり監査員の『文書警告』の受け取りや
局への立入をを拒否した)

しかし、行政指導は法的に処罰するものでもなく、相手を拘束する権限もない。
こちらからの要請に放送事業者の協力を仰ぐという形だ。

奥野 停波とか業務停止命令を振りかざせば言うことを聞かざるを得ない。
行政指導もするべきではない。
キャスターの交代も結局そういうことなんだろう。そうだな?(ドヤ顔)


『さあ、これで責めるネタゲットじゃあ!』

という内心の奥野の声が聞こえてきそうですね。
案の定この後、高市大臣の発言をめぐって野党とマスコミは大騒ぎしました。

ところが、辛坊治郎氏が、この件についてこんなことを言っています。


【辛坊治郎】 言論弾圧報道の嘘と高市発言の経緯を辛坊治郎が懇切丁寧に解説w 【高市発言】


長すぎて観る気になれん、という人のために3行でまとめると、

「こういう答弁は官僚が前もって質問通告に応じて答弁を書くもので、
民主時代に平野大臣に同じ質問がされているのであらかじめ答えがわかっている。
民主はこの想定された答えを高市大臣に言わせて言論弾圧だと言質を取った」

ね?

わたし、これを見たのは何を隠そうたった今なんですが、辛坊さんの意見、
わたしと全く同じですよね。
「あちら側」に与せずちゃんと物を言ってくれる人がマスコミにいてよかったよ。
遭難事件の時は厳しく言いましたけど。ま、あのときはあのときってことで<(_ _)>

それにしても、こんなお粗末なネタでみんなが騒ぎ立てるなんて、
辛坊氏に言わせると「頭おかしいんじゃねえか」ということになりますが、
こういうことをやっている人たちって故意犯、誤用の方の「確信犯」なんですよね。

通販生活ももちろんそう。
周回遅れとはいえ、表紙にバーン!と載せれば、ネットを見ない人
(うちの母とか)なんかはとりあえず騙せるはず、と思っているので、
印象操作で一人でも多く「自民以外に投票」するよう洗脳できればいいんです。
高市発言の真偽なんて検証されては逆に困るんですよ。

わたし、この通販生活が届いたとき、改めてその悪質さにショックを受け、
まず世間ではこの夏号のことをどう言っているか調べてみたのですが、
不自然に「すごい!ここまでするか」と自画自賛する?ツィッターとか、
この号に寄稿している人ご本人のツィートしかでてこなくて(笑)

まあ、普通の人ならこんなのわざわざ買って読まないよな。

悪質なのは、高市大臣の件のようにあえて物事を検証せず、
特定の政党の主張する偏向した内容だけを取り上げつつ、
通販を餌に無自覚な無党派層を刷り込もうとしているというところです。

ていうか通販の記事抜きでだれがこんな雑誌買ってくれるか一度やってみろっての。


民主→民進党も、自民を叩くことだけが存在意義の泡沫野党に成り果てました。
ブーメランが幾度刺さりまくっても立ち上がるそのガッツだけは評価できますが、
今回の左翼言論人を取り込んでの高市叩きはだいぶ無理があります。

国民は覚えていますよ。

おたくの三日震災復興大臣が、東北で知事相手にゴーマンかましまくった挙句、

「書いたらその社は終わりだから」

と報道陣を恫喝したことを。

また輿石東幹事長(当時)が番記者とのオフレコ懇談で

「間違った情報ばかり流すなら、電波を止めてしまうぞ! 
政府は電波を止めることができるんだぞ。
電波が止まったら、お前らリストラどころか、給料をもらえず全員クビになるんだ」

と語ったということがありましたが、 カタログハウスは、
どうしてこの「言論弾圧」に怒らなかったのかなあ(棒) 


ところで、7人の怒れるおっさんたちのその後について。
作曲家のすぎやまこういち氏が代表呼びかけ人を務める団体
「放送法遵守を求める視聴者の会」が、放送法をめぐって、
この7人に公開討論を呼びかけたのですが、結局期日までに
誰からも受けて立つとの意思表示はなく、逃亡したと世間では見られています。

ホームグラウンドでお山の大将みたいに好き勝手言うのは得意だけど、
アウェイどころか討論にすら、7人もいて誰一人勝つ自信がなかったってことですよね。
ここで「視聴者の会」を論破できれば賛同者も少しは増えたかもしれないのに・・。


そもそも本人たち、会見で「政府から直接・間接の圧力を受けたことはない」(岸井氏)
なんてバカ正直に言っちゃってるし。
結局「怒っている」アピールして、世論を焚きつけるだけが目的だったってことでしょうね。
笛吹けど踊ったのはカタログハウスくらいだった(しかも周回遅れ)ようですが、
まあとりあえずがんばってくださいね。




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