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「彷徨えるオランダ人」の謎~空母「ロナルド・レーガン」見学

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Pilothouseとアメリカ人が言うところの艦橋を見学したあと、
我々一行はまた来た道をひたすら下・・・一気にハンガーデッキの下、
売店とか食堂のある階まで降りていくことになりました。 

しかし、この日艦橋を見学してオモタのですが、やっぱりアメリカ海軍は
同盟国とはいっても、日本は所詮他の国、と思ってるっぽい。
昨年秋にRRが公開されたとき、あまりにたくさんの人が詰めかけてしまい、
さしもの広い甲板にも到底人が乗らなくなって、米海軍からは早々に
見学オワリ\(^o^)/のご案内が出てしまったそうですね。

そのときには米海軍前から歩道沿いにヴェルニー公園まで列ができていたとか・・。

その日、朝6時くらいから並んでRRに入ることができ、
ハンガーデッキから艦載機エレベーターでごおおおお!とばかりに
甲板レベルに上がることのできたこの日の見学者、実に羨ましい限りですが、
どこにも艦橋や内部の写真が出てこないところを見ると、
見学できたのはハンガーデッキと甲板のみだったってことですよね?

RRで動画検索すると、アメリカでは普通に艦橋を公開して、
おっちゃんが司令官の椅子に座って得意になって写真を撮り、
「あんた10歳児か」などとからかわれているのが出てきたりします。

USS Ronald Reagan CVN-76 US Aircraft Carrier Tour by Tony Perri, SurfsUpStudios.com


まあアメリカでは日本のように何キロもの列ができたりしないからでしょうけど、
わたくしの所属する地球防衛協会(仮名)だって、元陸幕長や元海幕長が名を連ね、
防衛大臣も年始には挨拶に来るちゃんとした団体なのに、艦橋は無人状態、
あとで稼働時の映像と比べてみると、どうやら操舵システムなどもメンテ中。
言うたら仏作って魂入れずの状態?

いずれにしても、かつての敵国人に見せたげるんだからこれくらいで勘弁ね?
みたいなかすかな投げやりさを感じないでもありませんでした。

何が言いたいかというと、軍艦というモノの性質上その待遇においてU.S. Citizenと
NON U.S.の間には、万里の長城(不適切?)並みの隔たりがあるってことです。



この日もこんなドアの掲示を見つけてさすがは米軍艦、と思った次第です。
確か電気室だったと思うのですが、

「アメリカ国籍でない者と従業員の入室絶対に禁止」

と断固として書かれてあります。



階段の写真を撮るのは忘れましたが、階段の天井の写真は撮りました。
こんなところにこれだけの絵を描くのは、システィナ礼拝堂の天井画を描いた
ミケランジェロ並みに大変な労力を要したに違いありません。

 

おお、何人たりとも立ち入り禁止のフライトデッキコントロールの
ドアが開いている!
今日はここで行われる仕事はないはずだけど・・?
ドアは5文字のボタン式ロックで開閉するシステムです。

足元の「PRIDE」のRが背中合わせの「RR」になっているのがオシャレ。



こんなポスター発見。

「セクハラ被害相談員」

ってところでしょうか。
規模において一つの街くらいある空母ですが、船という閉鎖された空間では
そこも社会の縮図、人間同士のトラブルの種は尽きません。

昔、船に女性を決して乗せなかったのは、若い男性の職場であるがゆえに
問題が起きるのが必至だったからですが、特にアメリカでは女性隊員も
普通に空母乗り組みをする時代になりました。

余談ですが、先日、護衛艦「やまぎり」の艦長に大谷美穂2佐が任命されて、
ちょっとした話題になっていましたね。
練習艦ではなく、戦闘艦が女性艦長を戴くのは海自初だそうです。

去年、大谷2佐と防大同期の東良子氏が女性で初めて1佐となり、
もしかしたら女性初の海将補が誕生するか?と盛り上がったものですが、
今回の人事も、大谷2佐が「男性自衛官から文句がないくらい優秀なら」
大変良いことだと思います。

米海軍にミシェル・ハワード大将が誕生したときには、同じ海軍の男性将官から

「女性でアフリカ系だからさほど苦労せずその地位を手に入れた」

などというやっかみとも取れる批判が出ていたそうですが、男性でも
上に行くほど、全ての人が手放しで賛成する人事は理論上ないのですから(笑)

もっともこの人事に、安倍政権の「女性が輝く云々」が作用を及ぼしているのなら、
広報的にはOKでも、まあ色々と・・・厳しい道のりにもなることでありましょう。
しかし、大谷2佐には、そういう反感も跳ね返すべく、今後益々ご活躍されることを
心より祈念して、わたくしのご挨拶と代えさせていただきたいと思います。



話を戻しますが、フネという閉鎖された空間に女性が乗り込むというのは
アメリカみたいな国でも(だからかな)色々と起きてくるわけです。
もっともありがちなのが、(ってかそれしかないか)パワハラとセクハラ。

このポスターは、セクハラがあったときに被害者が相談する窓口になっている
何人かの専門相談員のリストですが、相談員もみんな乗組員です。

彼ら一人一人の写真にはオフィスの場所と寝台ナンバー(さすが軍艦)に加え、
「航空」「供給」「医務」などその所属部署も明記されています。
相談しやすいようにやはり女性の相談員が多いですが、男性でも
セクハラを受けることは普通にあるので、男性相談員も何人かいます。

RRにはセクハラだけでなく、家庭問題、金銭問題など、隊員が困ったとき、
専門のCPOが乗艦していて、常時相談に乗ってくれる態勢が整っています。



全体的に我が護衛艦よりはインテリアに気を使っている感があるRRですが、
ドアはもちろん、廊下の壁からすでに特別感漂うゴージャスな木目調。
ときたら、そう、コマンディング・オフィサーつまり司令官室。
キャプテンキャビンすなわち艦長室でございます。

今この部屋の主は、先日「いずも」訪問のエントリで少し話題にした
クリストファー・ボルト艦長。
もともと宇宙飛行士志望で海軍に入り、EC-2のパイロットであったボルト司令は、
空母のランディング・シグナル・オフィサーでもあり、さらにはその後、
原子力を扱うトレーニングも専門的に行い、いうならば
「原子力空母艦長コース一直線!」といった前歴を経て現在があります。

こういう経歴を見ると、アメリカ海軍の人材教育・育成制度というのは
実に戦略的というか、科学的に行われているものだなと思いますね。

ん?何がストップですか?

「ここから先で携帯やスマホ禁止。もちろんiPadなんか論外な」

とは書かれていませんが、まあそういうことです。
規律とか礼儀の点でそうなっているのか、他に電波的に何か
支障があるからそうなっているのかはわかりません。



おそらく航空隊のマーク、「ホーク」がつく航空機は「ホークアイ」と
「シーホーク」があるからそのどちらかだろう、と見当をつけて調べたら、
厚木基地のシーホーク部隊、「サーベルホーク」でした。

救難部隊で、「砂漠の盾」「砂漠の嵐」といった作戦群、そして
ソマリアの人道支援やハリケーン、カトリーナのときの支援、
レイテに大きな被害をもたらした台風30号の災害支援も行い、
「Humanitarian Service Medal」(人道支援に対して与えられる功労賞)
も複数回受賞している部隊です。

さて、またしても何度となく階段を降りて(護衛艦もだけど下りが大変)
ハンガーデッキの1階下まで降りてきました。



この階に食堂や売店などがあるのは護衛艦と同じです。
床には「チームワーク」とか「勇気」とか「プライド」(適当)
などという言葉が書かれたスターマークがプリントしてありますが、
これ、明らかにハリウッドの「ウォーク・オブ・フェーム」のパロディですよね。

元映画スターの合衆国大統領の名前を戴く空母ならではの遊び心です。



ここに来るまでに、キッチン(前にトレイを持って並びお皿によそってもらう)
を通り過ぎたのですが、写真を失敗してしまいました。
日本ならおにぎりが置いてあるところに、ここではポップタートが置いてあって、
さすがアメリカ、と一人でニヤニヤしていたのですが。

ポップタートって、「Nyancat」のあれ(砂糖をアイシングしたクッキー)。
息子に一夏に1回くらいはねだられるけど、大人も食べるとは知らなんだ(笑)



ロナルド・レーガンの食堂は24時間営業です。
どんなときに食べにいってもご飯がいただけます。
広い食堂の隅にたった二人で遅い昼ご飯を食べている人影が。



アメリカ人はケチャップとマスタードがないと生きていけません。
各テーブルの「コンディメントセット」のマスタードの大きさを見よ。
キッコーマン醤油も結構人気ですか?



次なるツァーの予定は、「ロナルド・レーガン」売店でお買い物です。
売店は乗員のためにあるので、基本食料品や日用品が中心です。

アメリカではおなじみの「サン・レーズン」や「m&m」(エメネムと読んでね)
はもちろん、ルックチョコレートまである!



レーガン大統領の写真集や像が乗員に売れるとはとても思えませんが・・。



名前入りのキャップは普通に乗組員が着用するので大量に売られていました。
ここにあるのは全部スクランブルドエッグ仕様(自衛隊の”カレー”)
ですが、下士官兵のためについていないのもありましたよ。
わたしはすぐに飲むための水(普通にアメリカのアクアフィナ)と
この帽子、メダルを記念に購入しました。

というか、これくらいしかお土産らしいものがなくて・・。

マグカップもいいかな、と思ったのですが、これがどういうわけか
まるで南部鉄でできているかのごとき重さ。
さすが軍艦の中で使うカップは安定性を重視しているのだなと思ったのですが、
(それとも日常で行えるウェイトトレーニンググッズとして?)
持って帰るには憚られるほどだったので諦めました。

しかも、日本のように手提げ袋に入れてくれるなどという気配りのない世界なので、
(最近は本土のお店でも頼まないと袋をくれないところもある)
たくさん買い物した人は、透明のビニール袋(ゴミ袋)に入れてほいっとわたされ、
その口のところを持って運ばねばなりませんでした。

「珍しいカップヌードルがあった」

と爆買いしていた人が一人いましたが、どうやって家まで持って帰ったのでしょうか。



解説と案内してくれたアフリカ系の人がレジもやっているのだと思っていたら、
なんと瓜二つの同型艦でした。
専門のレジ係ではないのか、計算やお釣りを渡すのがおそく、しかも
日本円で支払う人にはドル計算までしないといけないので、
一行のお土産を買う列が捌けるまで大変な時間がかかってしまいました。 



ドンタコスはアメリカ人にも人気、と・・・_φ( ̄ー ̄ )



すっかり忘れていましたが、こういうのを床に発見してここが「船の中」であると思い出します。



「フライング・ダッチマン」だと・・?

わたしがこれを見ながら首を傾げていると、案内の人がぶらぶらしていたので、
近くに来たついでになんなんだか聞いてみました。

「このお店の名前ですよ」

「さまよえるオランダ人」というネーミングは軍艦に取って縁起が悪いのでは。
「ダッチマン」はオランダ人の他に「幽霊船」の意味もあるし・・。



と思ったら、入り口に名前の由来が麗々しく掲げられていました。
これによると、

この名前はわたしたちのミッションと、艦名の人物へのオマージュである。
まず、 レーガン父が息子につけたあだ名が”ダッチマン”であった。
生まれたばかりのロナルドを見た父親は”これは太ったダッチマンだ”といった。

父親にとってのダッチマンって一体何だったのかと突っ込みたくなるくらい
説得力のないレジェンドです。
まあ、言いたかったのは「そのダッチマンが長じて合衆国大統領になるとは」
ってことだと思うのですが、父親が言ったとされるセリフはもう一つあって、
「あまりにも(A hell of a lot of noise)やかましい子供だったから」。
こちらもなんでダッチマンという名前の由来になるのかさっぱりわかりません。

だいたいフライングダッチマンって、幽霊船に乗って地球の審判の日まで
永遠に彷徨い続ける呪われた船長のことですよねー? 

レーガンは「わたしのことはダッチマンとよんでくださーい」と
親しくなった人に頼むほど、この呼ばれ方に愛着を持っていたらしいんですが、
こんな話今初めて知ったわー。

じゃ、中曽根さんに呼ばせていた「ロン」はなんだったのよ「ロン」は。
中曽根さんには「ダッチマンと呼んでください」というほど心を開いてなかったのか。
「ダッチマン・ヤス外交」ではバランスが悪いと報道官に言われたのか。


それと、「我々のミッション」と「ダッチマン」の関係の説明がないです。
やり直し。 

 

セールス&サービスの隊員も、軍人として国を守るために俺たちは仕事するぜ!
という気概をビンビンと醸し出しています。
セールス部門の統括をするのはアフリカ系の女性司令官です。



やっとのことで皆さんの買い物が終わり、出口に向かうことになりました。
どうしてこんなに時間がかかったかというと、RRの乗員は通常、
ここで買い物する時も現金は絶対に使わないからです。
IDカードをピッとかざすだけで、口座引き落としされるというシステムで、
艦内では現金を持ち歩かなくてもいいため、
係は現金(日本円はなおさら)を扱うのに慣れていなかったのでしょう。


ちなみに空母は大きいですが、各自の個人スペースは兵であればベッドの上と下だけ、
女性であっても、ベッドを持ち上げたところに入るだけの私物しか持ち込めません、
洋服などは極限まで小さくたたまねばならず、おしゃれな服などとんでもありません。
しかも、時々抜き打ちに「持ち物検査」があるのだそうです。
アメリカ海軍の厳しさは、私立女子校並みです。

もう一つついでに、ここには乗員の洗濯をする専門の部門があります。
大抵の制服はノーアイロンですが、幹部、とくに艦長などの制服には
大変気を遣ってプレスを行います。

「艦のトップがピシッとした格好をしていないと下への士気にかかわる」

からだそうです。
夏は暑いし同僚の靴下は臭いし、たいへんな職場ですが、いいこともあって
ランドリーは「週一度休みがあるので他の職場より楽」だそうです。
「ロナルド・レーガン」も「月月火水木金金」だったのか・・。


写真は途中にあったポスタルサービス。
アメリカではおなじみの郵便マークです。
ロナルド・レーガンは独自の郵便番号を持っており、郵便物を送るのは
その郵便番号と宛先の所属、名前だけでOKだそうですよ。


続く。
 
 


ロナルド・レーガンルーム〜空母「ロナルド・レーガン」見学

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艦内の売店で買い物をする時間を設けたら、たいへんな時間がかかってしまい、
先導の防衛団体事務局の方が、次の予定(第2術科学校資料室)に
遅れるぅ〜!と焦っておられるのを横で見ていたわたしです。

ほとんど全員が何かしら買い物したのと、日頃キャッシュを扱い慣れない
売店「フライング・ダッチマン」の従業員の手際が悪く、
なかなか列を捌ききれなかったのが敗因だったと言えましょう。

ようやく全員が揃ってハンガーデッキ階に上がり、最初に集合した
「ロナルドご本尊の間」に帰ってきました。
一行は艦内を見学するのに半分ずつに分かれ、最初の広報官が
第1グループを案内していたのですが、わたしたちがここに帰ってきたとき、
第1グループと交代して、「レーガンルーム」を見学しました。



さすが空母、ハンガーデッキ階の一室に、メモリアルルームがあります。

「わたし個人の考えですが、ここの記念館は、全米で最も良いものだと思います」

解説のために同行していたアジア系の乗組員がこう言いました。
それが「レーガン大統領のものとしては」なのか、「軍艦の展示としては」
なのか、うっかり聞きそこなってしまいましたが、いずれにしても
それだけ充実しているということが言いたかったようです。



第40代大統領、ロナルド・レーガンは1911年、イリノイ州タンピコに生まれました。
若い頃からスポーツマンであったレーガンは、大統領選のときも
常にフェアな戦いを貫いた、と書かれています。

彼はライフガードを7年間していましたが、救助した人数は77人だったそうです。

「そのうち9人はお礼を言わなかった」

と大統領になってからジョークのつもりかそれとも根に持っていたのか、
こう言っていたそうですが、身に覚えのある人はひやっとしたかもしれません。

若い日、彼はシカゴ・カブス専属のアナウンサーとして野球の実況ををしていました。
写真左はWHOラジオで実況中のレーガン。(1934-37)
この頃の実況放送というのは、試合を見ながらではなく、紙テープに印字された
自動受信機に刻々と送られてくる試合の輪郭をもとに、アナウンサーが
自らの想像としゃべくりの才能だけで実況放送を行っていたそうですが、
アドリブの利くレーガンのスピーチのうまさはここで培われたようです。


レーガンの父は普通のサラリーマンでした。
かれは後年両親についてこう言っています。

「父からは勤労の尊さと、希望を持つこと、母からは祈ることの大事さ、
夢をいかに持つかと、それが叶うと信じることを教えてもらった」



小学校3年生のとき。
クラスの中でも美少女っぽいのに囲まれて、アゴにこぶしを当てているのがレーガン。



1914年ごろ撮られた家族の写真。
この資料館の説明には、左から二番目がロナルド、とありましたが、
レーガンは次男だったので右側がロナルドの間違いです。

だいたい、この写真を見ても小さい方がロナルドの顔してますよね?



そして映画スター時代のレーガンについてのコーナー。
白黒映画が放映されていました。



やっぱり映画俳優になるだけのことはあって男前である。




レーガン主演の映画のポスター各種。
しかし、見事なくらい知っている映画がないし(笑)

映画俳優としてレーガンは19本の映画に出演しました。
「風とともに去りぬ」のオーディションを受けて落ちたこともあるそうです。
(もちろんアシュレ役・・・・ですよね?まさかレット・バトラー?)

俳優としては超一流というほどではなく、出演した映画も
彼がここで言っているように、ちゃっちゃと仕上げて週末に
放映するようなお手軽な娯楽作品が多かったようです。

むしろ彼はその弁舌をふるって俳優協会の組合活動を仕切ることに夢中になり、
この辺りから「政治家レーガン」の一歩が始まります。



俳優になる前に陸軍予備役将校になっていたレーガン、
1941年の開戦後、召集されたのですが、視力が弱かったため
航空群の映画部隊に配属(適材適所?)され、プロバガンダ映画を製作し
ナレーションを担当、終戦時にはハリウッドにいながら大尉にまでなっています。



政治家としてのレーガンは一貫して反共で保守でした。
当時映画界に吹き荒れたレッドパージ(マッカーシズム)にも手を貸しています。
自分は映画界の労組?だったというのにちょっと不思議ですが、
政治家としての信念をここで定め方向転換をしたということでしょうか(適当)

テレビでの司会の仕事が多く、顔が売れていたレーガンは
選挙運動をする必要もなくあっさりとフロリダ州知事に就任。

知事としては結構フリーダムというか、自由主義を貫き、

「バイクに乗る時には危険なのはわかっているのだから、
別にヘルメットをかぶれなどという法律は必要ない」

としてこれをやめさせたりしています。
これを自由というのならそうなんでしょうけど(笑)

写真にもありますが、レーガンはカリフォルニア州知事も務めました。



そしてその後皆様もご存知の通り、ロナルド・レーガンは
第40代合衆国大統領に就任。
現職だったジミー・カーター大統領を破っての当選でした。



みなさん、この左の人ご存知ですか?
「頭にシミのある施政者を戴くとソ連は崩壊する」とある預言者がいったという、
ミハエル・ゴルバチョフ書記長です。
これは、反ゴルビー派から出た、警告のつもりの言葉でもあったわけですが、
今考えればこの預言者の言ったことは怖いくらいに当たっていたことになります。

この写真の二人は、米ソの冷戦終結を意味する、中距離核戦力
(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃条約に署名しています。



ソ連が崩壊する前にまずベルリンの壁が崩壊しました。
東欧諸国の革命の流れはもはやとどまるところを知らず、
チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアが民主化を果たします。

これらの動きには「レーガン・ドクトリン」が起動力となっていたことは
歴史が証明するところです。



このときのレーガン曰く「ゴルバチョフさん、壁を壊してください」。
「壁を壊せ」というレーガンの言葉は、のちに実現します。



ベルリンの壁崩壊後、レーガンがブランデンブルグ門で行った
歴史的演説の原稿(レプリカ)。



スピーチトレーナーによる書き込みが残ったままです。



”わたしは子供達のために、我々がこの最悪な軍拡戦争を回避する
何らかの方法を見出すことを希望しています。
我々がやらなければ、アメリカがそれを放棄することはないと保証します”

ベルリンの壁が崩壊してから2年後、ソ連は崩壊し、事実上冷戦は終了しました。



レーガンの外交政策は彼の気さくな性格を表したものでした。
歴代大統領と(大統領選を戦ったカーターとも)仲よさそうなレーガン、
マーガレット・サッチャー英首相、ローマ法王、マザーテレサ。

西側諸国の首脳との関係はとても良く、実家の農場に彼らを招待し、
ファーストネームで呼び合うなど、レーガンの本領発揮でした。
そして・・・、



我が先帝陛下と並んだロナルド・レーガン夫妻。
これはレーガン最初の訪日のときの写真です。

このとき明治神宮で流鏑馬を見たレーガンは、映画俳優としての血が
騒いだのか、「自分もやりたい」と言い出して周りを困らせたそうです。



「ディア・セクレタリー・ミヒャエル・ゴルバチョフ」

で始まるゴルバチョフ大統領への手紙。



先日レーガンが自分のことを「ダッチマン」と呼ばれたい人であった、という話で
「それならロン・ヤス外交はどうなる」と書いたばかりですが、その中曽根さんと。

「ロナルド・レーガンルーム」のこの「ロン・ヤス外交」コーナーは、
日本に「ロナルド・レーガン」が着任することが
決まってから、改めて内容を充実させてくれたのだそうです。

ただしこれを見ることができた日本人が今までどれくらいいるのかは謎です。
観艦式のとき、もちろん安倍首相は見たんだろうと思います。



中曽根首相の頃、アメリカとの間に「貿易摩擦」がありました。
アメリカは日本に対して大変厳しい経済政策を取っていましたが、
(車会社のトップスリーがみんなでやってきて車買えといったりとか)
西側で安定した民主主義国家である日本が、反共の重要な拠点であることを
レーガンは重く見、安全保障を充実させていきます。



いうなれば、ソ連を崩壊させたのは他ならぬレーガンでした。
最初に「アクシス・オブ・イーブル」(悪の枢軸)呼ばわりして、その後ソ連と
「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略で、真っ向から戦う道を選んだレーガンは、
一貫して、アメリカが「強い国」であることを強調しました。
この国に手を出せるなら出してみるがいい、と言ったところです。

(あれ?安倍さんの”積極的平和主義”って、つまりこれの穏健版?)

「スターウォーズ計画」で軍拡ならぬ宇宙計画による競争を仕掛け、
ソ連を疲弊させる、というのもレーガン政権が発案した作戦でした。


人種差別政策にも積極的で、1988年には戦後長らく懸案の課題だった
第2次世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容に対して、謝罪と、
1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っています。



ナンシー夫人は、女優だった最初の夫人と離婚後再婚した2度目の妻です。
女優出身ということで最初は叩かれたそうですが、あえてボロをまとって
「セカンドハンド・ローズ」(リサイクルショップに生まれた女の子の嘆き歌)
を歌ったりして、堅実さをアピールし、それは成功したようです。

レーガンが病に倒れてからは彼女が代理として儀式などに出席しています。
2016年現在、94歳でまだご存命です。


このパネル右下に、1981年に起きた大統領襲撃事件の説明があります。
このときレーガンは大統領に就任してまだ2ヶ月目でした。
心臓すれすれの肺に被弾したのに意識は確かで、手術前には医師に

「君たちが共和党員であることを祈るよ」

と冗談をかました(医者は民主党員だったが”今日は共和党員です”と返した)そうです。



そして、2001年、ニミッツ級空母の第9番艦に、「ロナルド・レーガン」という
名前が付けられました。
本人が生存中に付けられた海軍軍艦としては、合衆国で三番目の空母となります。

レーガンは引退後アルツハイマーを発症していましたが、この頃自宅で転び、
寝たきり状態だったので、命名もナンシー夫人が行い、その2年後の就役にも
本人が立ち会うことはありませんでした。

空母「ロナルド・レーガン」が就役するのと入れ替わるように、
レーガンは家族に見守られながら自宅で世を去っています。



ここには本日お話ししてきたレーガンの功績が書かれています。
レーガンがアルツハイマーを国民に告白したとき、その手紙の

I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.

わたしは今、わたしの人生の黄昏に至る旅に出かけます。

という部分は多くの人々に感銘を与えたそうです。


続く。
 

バーク艦長と「トモダチ」作戦〜空母「ロナルド・レーガン」見学

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空母艦内にあった「ロナルド・レーガンルーム」について語ることで、
わたし自身あらためてこの大統領について知ることになりました。

大統領としての手腕もさることながら、ウィットに富んだ言動や茶目っ気が
全米を魅了して、大統領選での勝利を手にしたレーガンですが、
二期を務めた大統領時代も、この人気は変わることがありませんでした。

我が日本でも、一時の小泉首相の人気は大変なもので、マスコミは
「小泉劇場」などという言葉で表現したりしていましたが、どこかこれも
レーガン人気に似たところがあったような気がします。


「政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、
レーガンの比較的高い支持率は決して急落することがなかったのも、
こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかった。」
wiki

1999年にC-SPANで行われた世論調査によると、

エイブラハム・リンカーン ジョージ・ワシントン セオドア・ルーズベルト フランクリン・ルーズベルト トーマス・ジェファーソン ロナルド・レーガン

と堂々の6位に入っていますし、2000年のABCの調査では
リンカーン、ケネディ、ルーズベルトに続く4位なしの5位。
2007年のラスムッセン調査では9位に止まりましたが、
2005年のワシントン大学の調査ではリンカーンに次ぐ2位、
2007年のギャラップの調査でも全く同じ結果となっています。

我々が思う以上にアメリカ人から愛された大統領だったみたいですね。

ところで、その大統領の名前をいただいた空母、「ロナルド・レーガン」。
わたしたち日本人にとって、その名は特に忘れられないものです。

2011年3月11日。
未曾有の大地震が東北地方を襲った日、空母「ロナルド・レーガン」 は、
「ロナルド・レーガン空母打撃群」の旗艦として西太平洋を航行中でした。
災害の大きさを重く見た在日米軍が翌日の12日から展開した「トモダチ作戦」、
オペレーション「トモダチ」に参加すべく、RR空母打撃群は、予定されていた
米韓合同演習を中止して本州東海岸域に展開し、海自との連携をはかりました。

奇しき因縁というのか、このときに「ロナルド・レーガン」の艦長だったのは、
戦後自衛隊発祥の大恩人、アーレイ・バーク提督の孫、トム・バーク大佐でした。 

バーク艦長は災害の知らせを受けると、災害救助支援の司令を待たずに
東北方面に向かった、とのちの記者会見で説明しています。

アメリカ領事館のHPによると、空母「ロナルド・レーガン」は他の米艦船ともに
13日早朝に現地に到着してすぐに、被災地上空に航空機を飛ばして
生存者の捜索と支援物資の運搬を開始しています。

同艦の将兵すべてが救助・救援活動に携わり、空母艦載の戦闘機さえも
生存者の捜索や救援物資の輸送が必要な場所の確認作業に使用されました。
乗組員たちは私物の毛布やジャケットを被災者の防寒のために提供し、
なかには震災ですべてを失った子どもにあげたいと
クマのぬいぐるみを差し出した兵士もいたということです。

他の米空母艦長の例に漏れず、バーク艦長はヘリパイロットでもありました。
被災地では自らの操縦で視察を行い、被災地の惨状を見て心を傷め、一方で
日本人の落ち着いた行動と助け合いの姿勢に深い感銘を受けた、と語っています。


バーク艦長はまた、自衛隊の勇敢で献身的な貢献を讃え、
米軍と自衛隊が効果的な協調・協力が行えたことを強調しました。

と こ ろ が (笑)

この米軍の支援を、一貫して日本の腐れサヨク新聞(特に沖縄の)は

「米軍は災害支援を理由に現施設規模を維持する必要性を主張している」

「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」

「ことさらに在日米軍基地の重要性を強調し、日米軍事協力の深化を求める動き」

「被災地支援のための出動を日本に米軍が駐留する根拠としてアピールしている」

などと非難していたそうです。
ときの政府であった民主党ですら、北澤防衛大臣(当時)がRRに乗艦して
謝意を述べ、乗員から寄せ書きをもらっていたというのに・・・。
いうまでもなく、当時、どれだけ多くの日本国民が「トモダチ作戦」に勇気づけられ、
感謝の涙を流したかははかりしれません。

「ジョージ・ワシントン」の日本での任期が切れてアメリカに帰ることになったとき、
「トモダチ作戦」で日本国民から熱狂的に受け入れられたRRが後任に選ばれたのは、
必然的とも言える流れだったのではないでしょうか。

去年の観艦式のときに「くらま」からヘリでRRに座乗した安倍首相は、
その前に行われた訓示で、あたかも「ロナルド・レーガン」の乗員に語りかけるように
「トモダチ作戦」への感謝を丁重に述べ、「日本へようこそ!」と結びました。


ところでRRの乗員が「正確な放射能災害の情報が得られず被曝した」として
東電を訴えたという話、あれどうなったのかな。




いよいよ舷門から外に出るときににこやかに見送ってくれた隊員。
あなたも「トモダチ作戦」に参加してくれていたのですか。



なだらかな傾斜になったラッタルを歩いて、岸壁に着いたら階段を降ります。
女性の参加者もちらほらいましたが、中には元海上自衛隊員という方が
連れてきた(おそらく通っている)スポーツクラブのインストラクター、
というお嬢さんたちがいました。

もちろん彼女たちには、見るもの聞くもの全てが初めてのことばかりだったようで、
それだけにとても印象深い体験となった、と懇親会でスピーチしていました。



我々を待つバスの向こうにも、プレハブハウスが立ち並んでいました。
乗るときは全く気にもとめませんでした。
プレハブの階段を上ろうとしているのは海軍迷彩を着ていますね。
艦内が補修中で外に泊らなければならない乗員もいるのでしょうか。



反対側のクレーンはどこまでも高くまっすぐに屹立。



全員が退出し終わるまでに結構時間がかかりました。
確かツァー参加定員は40名だったような気がします。



RR側から岸壁を撮ってみました。
向こうに「アンソニーズ・ピザ」と書かれたトラックが見えます。

ニューヨークではオフィスワーカーがお昼休みに出てきて、車のまえのフェンスに
座って、タコスやピザ、ホットドッグを食べる光景が良く見られましたが、
ああいった屋台車?かもしれません。

基地の中だけで十分仕事になるんですね。



第1グループは白い会ボーイハット型のヘルメットをかぶった広報官が
案内していたようです。
すっかり仲良くなって談笑する参加者。(この人も元海上自衛隊)



ここで改めて岸壁側の補修工事現場をみてみましょう。
こちらで修理していたのは艦載エレベーターでした。
今停止している部分がハンガーデッキの階になります。

お、クレーンはKATOですね。



皆が揃うのを待っている間、することがないのでスマホで写真を撮ったりとか。



もはや芸術的(ただし現代美術)と言えるほど混沌とした
補修工事中の「ロナルド・レーガン」舷側。
全てのノズルというノズルから管がこちら側とつながっています。
蒸気が出ているのはなんでしょうか。



制服を着ていない隊員が外出から帰ってきたのか階段を登っていきます。
階段の下にある緑のカバーをかけたものは、下部にたくさんの電球があり、
昼間なのにそれが全部点灯しています。
小さく「危険」と書かれた注意書きも見えますが、これはなんでしょうか。



カウボーイ・ヘルメットの広報官は、皆に挨拶をして帰っていきます。
一旦別れを告げたあとは、日本人がするように振り返ったりはしませんでした。
なんというか実にドライでクールです。



バスは「ロナルド・レーガン」前から退出し、出口に移動していきます。
場内を歩いている人もたくさんいますが、広いので自転車が便利。
アメリカ本土と違って、ここでは自転車を盗まれる心配はないので
バーにチェーンをかけたりする必要はありません。 

ここでこういうのになれてしまうと、帰国した時、うっかりチェーンをかけずにいて
帰ってきたら自転車が影も形もなくなったていたりするんだろうな。



お揃いの大きなバックパックを背負って構内を歩く女性軍人。
ちなみに、RRの乗組員であれば、彼女らも1日12時間、週7日勤務のはず。



えーと、これも船?



構内だけで営業しているハイヤー発見。

この向こうに見えているのさっきの船ですが、どう見ても建物です。



ここにいるのは軍人だけではありません。
基地内で仕事をしている人、外からやってくる関係者、軍人の家族。
RRのなかだけでもそこは一つの町ですが、この広大な基地全体が、
日本の中のアメリカなのです。



いかにもアメリカだなーと思ってしまった光景。
なべてアメリカ人はどんなパーキングでも車を頭から入れます。
基本駐車場の通路が広いので、頭から入れることはそう難しくありません。
わたしも郷に入れば郷に従って、アメリカにいるときには前向きに駐車しますが、
少しでも狭いとバックの方が楽なのでそうします。
ただ、ここもそうですが、日本のように駐車スペースが進行方向に直角ではなく、
斜めに書かれていることが多く、そのときには前向きにしか駐車できません。
(一台むりやりバックで入れている車がありますが、これは多分日本人)

ちなみに、アメリカ人は車庫入れ苦手だと日本人は根拠なく思っていますが、
バック駐車をしないだけで、縦列駐車などは普通に皆うまいです。
どちらもで運転してみて思ったのは、やっぱりアメリカ人の方が
車が手足になっているだけあって、運転が大胆というか荒いですね。

特にニューヨーク近郊では時速100キロで走行していたら皆が抜いていきます。



スクールバス発見!
向こうで見るスクールバスとは車種が違うのでなんか変な感じですが。
基地の中には幼稚園から高校まで各種学校が整っています。

アメリカの法律では、スクールバスが路上で停まってハザードをつけていたら、
どちらの車線であっても、停止してその間待たなくてはいけません。
その間、バスはこの写真にも見えている赤い「ストップ」の札を垂直に立てます。
ボストンでこれに違反して捕まっている車を目撃したことがあります。



というわけで、大きな錨のあるゲートにたどり着きました。
ここで同乗していた男性と女性の添乗員はさようならです。

空母というアメリカの科学の結晶の片鱗を垣間見て、
この大国の力というのはまだまだ当分世界一の座にあるのだろうな、
と思った横須賀米海軍基地訪問でした。

さて、このあと我々を乗せたバスは、我が海上自衛隊の第2術科学校に向かいました。


続く。

 

 

   

海上自衛隊創設史料室〜海上自衛隊第二術科学校見学

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空母「ロナルド・レーガン」見学後、我々の乗ったバスは米軍基地を出て、
渋滞の道を田浦に向かいました。
ここには海上自衛隊第二術科学校があります。

海上自衛隊には第4までの術科学校があり、そのうち1術は江田島にある、
ということはかなり早くから知っていましたが、そもそもそれらが
どのような役割分担なのかはあまり考えずに生きてきました。
(自衛隊に関係ない人なら普通そうですよね)

第1術科学校 江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校 横須賀 機関や語学等の教育
第3術科学校 下総 航空機関連教育
第4術科学校 舞鶴 業務管理や補給等の教育

と、こうやって書き出してみて初めてそうだったんだと知るわけですが(笑)

海軍兵学校は、明治の頃、東京の築地にありました。
しかし、士官教育はすべからく青少年の誘惑がない人里離れた地で行うべし、
ということになり、広島県江田島が選ばれたという経緯があります。

「江田島に行かれたことがある方はご存知でしょうけど、
あそこは今でも誘惑どころか本当に何も!ありません」

我々を案内して展示の説明をしてくれた自衛官はこういって皆を笑わせました。

ここには築地から移転してきた水雷術練習所が明治12年からあり、
明治40年にはそれが海軍水雷学校となりました。
昭和20年、終戦とともに水雷学校は閉口されますが、7年後、
この地で海上保安庁海上警備隊がここ田浦で創設されます。

そう、ここ田浦は海上自衛隊創設の地なんですね。



言ってはなんですが、まるで書き割りのように愛想のない
無機質な建物ばかり、というのがバスで入って行くときに受けた印象です。
海上自衛隊創設の歴史の地というのにこれは一体・・・。 

後から知ったところによると、敷地の一隅に、「歴史保存エリア」として

海上自衛隊発祥乃地記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍水雷学校跡の碑

などがまとめて展示してあるのだそうですが、それにしても・・。
江田島はもちろんのこと、舞鶴や横須賀海軍基地のような、
歴史的建造物がないから、というのが理由だとはわかっていますが・・。



ここにまた新しく建物を作る予定のようですね。

構内は石を投げたら当たるくらい(投げませんが)、そこここに
ランニングしている自衛官がいました。
このように集団で走っていたり、一人だったり、二人で仲良くだったり。

定期的に体力測定があるので、自衛官たちは自主的に体を動かすのが
当たり前のこととなっているんですね。

比較的入り口に近いところに、冒頭写真の校舎(っていうの?)があり、
バスから降りて皆中に案内されました。



ロビーに飾ってあった「くらま」模型。
観艦式では旗艦を務めた「くらま」も、もう引退です。



こちら護衛艦「いしかり」。
三井造船玉野で建造された同型艦のない護衛艦で、2007年に退役しました。
調べたら、武井智久現海幕長が1997年から艦長を務めていたそうです。



確か資料室があったのは2階だったと思うのですが、階段を上ると
このペンギンの親子(いや、どっちも成鳥か)がお出迎えしてくれました。

「ロナルド・レーガン」でブロンズのレーガンご本尊を2体拝んできたばかりですが、
大きさだけはこのペンギンも負けていませんでした。
てかこんなもの一体どこに置いてあったんだろう。

この大小のペンギン、砕氷艦「しらせ」にマスコットとして乗り組み、
「しらせ」の除籍後は、「本校に入校」したという歴戦のつわもので、
現在はこうやってここで自衛官募集の仕事をしているというわけです。

小さなペンギンの帽子はここに来てから作ってもらったのでしょう。
南極にあって、彼らは隊員と観測員の無聊を慰め、あるときには
憂さ晴らしの対象として(かどうか知りませんが)、心を和ませてきました。



専用の設置台まで製作された、南極の石。
昭和基地から600キロ離れたところにあるエンダービーランド。
ここには40億年前に形成された石が露出するのですが、なんと「しらせ」、
これを採取し持ってきて、ここに飾っております。

なんと地球が誕生して間もない頃を知る資料となりうるというのですが、
この岩肌、見ているだけで只者でないオーラが漂っていますね。
これが、地球最古の石か・・・。




さて、またしても一行はふたグループに分かれ、我々は先に
海上自衛隊創設資料室を見学することになりました。

海上自衛隊創設の資料を一堂に展示しているのはここだけで、
なんとなればここは「始まりの地」だからです。

自衛隊創設60周年記念事業の一環として平成24年4月オープンしました。



海軍は終戦とともに消滅しました。
海軍軍人たちは公職追放に遭い、かつての将官ですらつるはしをふるったり、
運転手をして糊口を凌ぎましたが、海軍省の代わりに残された、
旧海軍の復員業務を行う「第2復員省」には、旧海軍軍人が多く配置されました。
この写真に写っているスーツ姿の男性はほとんどが旧海軍軍人です。



もしかしたら、米内光政という海軍軍人がいなければ、海上自衛隊の創設は
また違った形を迎えていたのかもしれません。
終戦時海軍大臣だった米内は、保科善次郎軍務局長を呼び、ここですでに
海軍の再建を要望したのでした。
この時、米内が保科に言ったとされるのは次のようなことでした。

「第一に、連合国側もまさか日本の軍備を永く完全に永く完全に
撤廃させておくとは言わないだろう。陸海軍の再建を考えろ。
海軍の再建に関してはほぼ日露戦争当時の30万トンか」

「第二が、海軍の持っていた技術を日本の復興に役立てる道を講じろ」

「第三が、海軍には随分優秀な人材が集まり、その組織と伝統とは
日本でも最も優れたものの一つであった。
先輩たちがどうやってこの伝統を築き上げたか、それを後世に伝え残して欲しい」


保科軍務局長は米軍に多くの知己を持つ野村吉三郎元海軍大将に
そのことを請願し、快諾を得ています。

以後、海軍再建計画は、旧海軍残務処理機関の中で密かに進行していきました。

保科の右の山本義雄元海軍少将、そして吉田英三元大佐は、その実務を行い、
海軍再建に大きな功績を残した旧軍軍人です。

当初、海軍の再建には100年かかる、という意見もありました。
しかし100年間の間に、旧軍経験者など誰も残らなくなってしまいます。
できるだけそれを短い時間で成し遂げねば・・・・。


新憲法施行の翌年、元山本善雄海軍少将を責任者、吉田元大佐を中心とした
再軍備の研究グループが結成され、海の再建に向けて極秘のうちに研究が始められました。

折しも昭和21年、朝鮮半島でコレラが発生し、このために大量の不法入国者が
海上から日本に入り込む、という事態になりました。
(今現在日本にいる朝鮮系民族の何割かは、この時の不法入国によるものということです)

これを防ぐため、不法入国船舶監視部が設置され、2年後にそれが海上保安庁となります。




そのうち、彼ら旧海軍軍人も予想していなかった事態が起こります。
朝鮮戦争の勃発でした。
GHQは日本に進駐していたアメリカ軍を朝鮮戦争に投入することにしたため、「
その代わりとして、陸上自衛隊の前身、警察予備隊を創設する決定をしました。

写真下は1950年8月、任官して初めての朝礼を行う警察予備隊隊員たちです。



当時、「Y委員会」なるものがありました。

山本、吉田を含む旧海軍軍人、野村が話を通したアメリカ海軍、そして
コーストガードの軍人からなるこの委員会は、極秘で海軍再建のために活動をしていました。
海軍再建の際の表向きの目的は

「米軍貸与のフリゲート艦を全能発揮させること」。

この写真はY委員会のメンバーを写した、たった一枚の貴重な写真だそうです。

このメンバーには、すでに創設されていた海保の職員もいましたが、
その後、海上警備隊発足に伴い総監部が設置された時には、旧海軍と海保の間で
どちらがトップに立つかで激しい人事抗争が起こり、その後も、
課長級人事などにおいて、両者の間で争いが生まれたということです。




海上自衛隊創設に大きな働きをしたビッグネーム。
海軍大将アーレイ・バークについては、すでにお話ししましたね。

元海軍大将であり、開戦時の駐米大使であった野村吉三郎も、
海軍再建のために戦後、その晩年を捧げました。
海上自衛隊の生みの親はだれか、というなら、野村とバークの二人でしょう。
Y委員会は野村が調整し、バークの後押しで生まれたのです。

野村はまず米軍司令官と話をし、(同じ海軍のよしみで)、その後
ダレス特使に資料を提出するという戦略的な道筋をつけました。

一番右はY委員会の写真にも顔が見える(突き当たり左)山崎小五郎。
彼は海軍軍人ではなく官僚出身ですが、初代海幕長となりました。



開戦時の駐米大使であった野村が当時を回顧して残した著書。



昭和24年までにアメリカ海軍の掃海隊は全て引き上げました。
深刻な問題となっていた日本近海に敷設された機雷機雷の処分は
実質日本側が行うことになり、専門知識を有する旧海軍軍人が公職追放を解かれ、
海に復帰して処分業務を実地することになりました。

「海軍は一旦消滅しましたが、掃海隊は、実質解体されていないまま
現在に至っている唯一の部隊なのです」

案内の自衛官がこう言いました。

朝鮮戦争が勃発すると、掃海隊は極秘裏に海外派遣されます。
この時の名称は「海上保安庁特別掃海隊」とされていました。

この写真は、1950年、和泉灘で行われた掃海部隊天覧越艇式のもの。



昭和24年5月23日、下関付近で触雷し沈没する掃海艇。
死傷者を出しての国際貢献活動であったわけですが、極秘である筈のこの作戦の内容は
ソ連や中国から、これらと関係の深い社会党と共産党に提供され、
当時の国会で、このことが吉田茂首相への攻撃材料となっています。



誰がいつ作ったのか、昭和33年当時の第2術科学校。
3月22日、2術は術科学校横須賀分校から改称し、ここに開校となります。



戦後旧海軍の用地は全て米軍に接収されていましたが、米軍が使わないところは
「旧軍港市転換法」により民間が使用していました。
田浦を使用していた民間企業は旧軍と関係の深い会社であったため、
Y委員会が調整したところ、明け渡しを快諾してくれたということです。



田浦で、内火艇から艦船に乗り込む最初の隊員たち。
晴れやかな笑顔です。



艦船が並ぶ田浦。
これが米軍から貸与されたものなのか、国産のものなのかはわかりませんでした。



「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、
もつて国民の負託にこたえることを・・・・・」

自衛官の「服務の宣誓」が史上初めて行われた瞬間です。
1954年、6月2日、ここ田浦でのことでした。



昭和28年10月15日から12月4日まで、第一船隊群本州周航記念。
「うめ」「くす」「なら」「かし」「さくら」「すぎ」「かや」「まつ」「にれ」

うーんなんたる雑木林。
これが戦後初めて日本がもった「艦隊」(当時は船隊)でした。
指揮官は警備官監補、吉田英三。



現在の海上自衛隊旗を考案したのは米内光政の親戚である米内穂豊画伯でした。
画伯に依頼されたのは旭光をモチーフにした新たな旗でしたが、
提出されたのは帝国海軍の軍艦旗そのもの。

米内画伯いわく、

「旧海軍の軍艦旗は、黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、
光線の配合等実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがありません。 
それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚描き上げました。
これがお気に召さなければご辞退いたします。
ご迷惑をおかけして済みませんが、画家の良心が許しませんので」 

最終的な判断は吉田首相に委ねられました。
吉田首相は、

「世界中で、この旗を知らない国はない。
どこの海に在っても日本の艦であることが一目瞭然で誠に結構だ。
旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」 

と述べ、この旗を自衛隊のシンボルとすることを決めたそうです。



海上自衛隊創設20周年記念に発売されたアルバム「海の歌声」。
御幸浜で演奏している自衛隊音楽隊の写真がジャケットになっています。



第2術科学校、39年頃の学生のノート。
方位測定の誤差式などが几帳面な字できっちりと書き込まれています。



第2術科学校創設当時の授業風景。
内燃実習やボイラの燃焼ガス測定実習など。



川崎重工が製作したガスタービンエンジン主機。
ずいぶんきれいですが、レプリカは本物か見当もつきません。



警備隊は当初、艦艇の殆どがアメリカから供与されたPFやLSSLで、
旧式艦(つまりお下がり)ばかりでした。
新型艦の必要性に迫られた警備隊は、甲型警備艦(DD)を2隻、
乙型警備艦(DE)を3隻、いずれも国産で調達することにしました。
こうして建造された甲型警備艦がはるかぜ型護衛艦であり、
乙型警備艦としてはいかづち型護衛艦、そしてこの「あけぼの」でした。

「いかづち」と衝突事故を起こしたことを一度ここでも書いたことがあります。
ちなみに、戦後初めて退役し、最初に「廃棄処分」になったのは「あけぼの」です。



女性自衛官等の子育ての支援を目的に、平成22年、海上自衛隊としては初めて、
第二術科学校に託児所が設置されました。全国では3件目となります。
当直や緊急出港などがあっても、24時間365日対応可能な託児所です。 



なぜか資料館内に展示してあった限定チョコクランチ。
購入できるものならしたかったのですが、そもそもここでは
売店に行く時間などは一切なく、涙を飲みました。

一般公開などの機会があればぜひ試してみたいものです。



続く。





昭和8年の大演習観艦式〜海軍機関術参考資料室

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本題に入る前に大事なお知らせがあります。

「バーク艦長とトモダチ作戦」で、ネットニュースから拾ってきた情報から
「トムバーク艦長はアーレイ・バーク提督の親戚」と書いたのですが、
これはなんと、米海軍の公式ツィッターで単なる「都市伝説」、
つまり両者は単なる同姓にすぎないとはっきり言明されていたそうです。

あらあら。

それではあの記事はいったいなんだったんだー、ってことになりますが、
とにかく正確を期すべきブログで、”都市伝説”を実しやかに拡散するところでした。
あらためてここで訂正し、お詫び申し上げる次第です。

情報を下さったお節介船屋さん、ありがとうございます。
 


さて。

第2術科学校には、前回お話しした自衛隊創設に関する資料室と、
旧海軍の資料室の二つが、廊下を挟んで向かい合わせに位置しています。
われわれのグループは先に海軍資料室にいたグループと交代しました。

全体の写真を撮るのを忘れてしまったのですが、この資料室には
ガラスケースがぎっしりと並べられ、写真や本、遺品の刀や書などが展示されています。


正式には「海軍機関術参考資料室」といい、海軍機関学校記念事業の一環として
第二術科学校に資料室の設置が行われました。

これらは全国の関係者から寄贈を受けたゆかりの品であり、大変貴重なものです。
展示保管数は約6,300点に上ります。

 

豊田副武書、「丹心答聖明」。

「たんしんせいめいにこたう」と読みます。
元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作で、


“真心をもって、天子の聖徳に答える”

という意味です。

戦艦「大和」の海上特攻となった「天一号作戦」を最終決定したのは、
当時連合艦隊長官であった豊田でした。
連合艦隊参謀神重徳大佐が、参謀長を通さずに直接裁可を仰いだものです。
このときのことを豊田は

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

と語ったそうです。

豊田は終戦時に軍令部部長であったことから、戦犯指名を受けましたが、
ここでもお話ししたことのあるベン・ブルース・ブレークニー、そして
ジョージ・ファーネス弁護人二人の尽力によって無罪判決となっています。



こちら元帥、海軍大将古賀峯一の「竭誠盡敬」、
「誠を竭くして敬を盡す」(まことをつくしてけいをつくす)

「竭」も「盡」も尽くすという意味で、真心を尽くして尊敬の念を持つ、
という意味となります。

古賀大将は、1944年、パラオからダバオに飛行艇で移動中に殉職しました。
山本五十六元帥の「海軍甲事件」に対し、こちらを「海軍乙事件」といいます。

戦死ではなく殉職と認定されたことで、古賀は靖国神社には合祀されていません。



ここでわたしが食いついてしまった海軍兵学校のアルバム(笑)

新入生はだめですが、上級学年はタバコを吸っても良かったそうです。
「タバコ盆回せ」とよく聞く?あの煙草盆を囲んで、歓談のひととき。

なぜかこの写真に付けられたキャプションは「低気圧の中心」。
???
写真ではよくわかりませんが、もしかしたら外は雨なのでしょうか。

第1術科学校を見学したときに下から覗いて見た階段のところだと思われます。

「明11日午後220より『何々』(読めない)考査」

「9月11日より改正せる授業時間表により教務を実地す 教務副官」

教務本人ではなく、副官の名前でお知らせをしているのがいかにも軍。



この写真のタイトルは「おめかし」(笑)

おめかしも何も、椅子に座れば有無を言わさずバリカンで刈られるだけと思うがどうか。
床屋さんは一人しかいないので、左の生徒は新聞を読んで待っています。
鏡の前で三人がどうやらヒゲを剃っている模様。

「髭剃りは当店では行っておりません。セルフサービスです」



 
説明がないので状況がわからないのですが、セーラー服にはもちろん、
カンカン帽のような帽子のリボンにも、艦名が書かれているようです。

かなり古い時代(おそらく大正時代とか?)の写真みたいですね。



冒頭写真は比叡に天皇陛下がご坐乗されたときのものです。
陛下と将官のところを拡大してみました。 
陸軍の軍人もひとりだけいます。

 

艦橋外側と主砲の上にもびっしりと鈴なりになっている水兵さんたち。
主砲に座っている後ろの人たちもちゃんと顔が映るように乗り出しています。
きっとこの人たちは随分早くからこの体勢のまま待たされていたに違いありません。

やっとシャッターが押され、皆さんホッとしたことでしょう。



進水式のスナップなどもアルバムにして展示してありました。
保存のためにガラスケースに入れられていましたが、できうることならば
手にとって1頁ずつ仔細に見てみたいと切に思いました。

これは、「航空母艦起工式」と説明があるだけで、艦名はわかりませんが、
ハンマーを持っているのが「古市少将」とされています。

これが横須賀海軍工廠の工廠長であった古市竜雄 機関少将だとすれば、
これは古市少将の在任中の1935-37年の間のことになり、
これはこの期間に起工した空母「飛龍」のときのものだとわかります。



「飛龍」進水式の様子。



こちらは特務艦「高崎」の授与式。
「高崎」は給油艦(軽質油運搬艦)として1943年に就役していますので、
「授与式」とは今でいう「引き渡し式」のことだとすれば、この写真は
そのときに撮られたものだと思われます。




 
「高崎」が引き渡し後、初の軍艦旗掲揚を行っているところ。 

就役してからの「高崎」は昭南に向かい、南方で任務に従事しましたが、
翌年の6月、同じ給油艦である「足摺」とともに行動中、米潜水艦に
共に撃沈され、わずか1年4ヶ月で没しました。 

軍艦旗に向かって立つセーラー服の白線が並んでいますが、
ここに写っているうち何人が命永らえることができたのでしょうか。 



ここにはこのような大変貴重な資料が展示されています。
旧海軍用燃料(塊炭)と書かれています。

読んで字の通りこれは炭のカタマリなのですが、これが明治末までは
軍艦の燃料として使用されていたものだそうです。 

塊炭は煤煙が多かったため、無煙炭を含む練炭など、よりよい燃料が開発されて、
これに置き換わっていくことになります。
ここに「その後罐も艦本式が大小艦艇に装備せられ」とありますが、
「罐」というのは「汽罐」つまりボイラーのことです。

海軍機関科問題が起きたとき、東郷元帥がうっかり「缶焚き風情が」といってしまって、
顰蹙となったということがありましたが、明治時代の戦艦で
石炭をくべていた機関の乗員を「かまたき」と呼んだのは「かま」=罐だからです。



さて、わたしがここの展示の中で特に心惹かれたのはこのコーナー。
昭和8年に行われた大演習観艦式の資料です。

昭和5年、特別大観艦式が神戸沖で行われ、このことと
「火垂るの墓」のツッコミどころを絡めて、ここでもお話ししたことがあります。
(昭和5年に『摩耶』の艦長だった清太の父が終戦時にも同じ船の艦長はありえないとか)

その3年後の昭和8年、横浜沖で行われた観艦式も、その規模は同じくらいのものでした。

昭和8年(1933年) 特別大演習観艦式


とりあえず、このときの映像をご覧ください。



もし現代、8月25日に観艦式なんぞやった日には、熱中症でおそらく
一個連隊くらいの急病人がヘリ搬送されることになるでしょう。
当時は今ほど夏が暑くなかったんですね。

もっとも当時の観艦式は関係者が観閲艦に乗るだけで、今のように一般人、
特に女性などは一切参加することはできなかったと思われますが。

写真は当日の参加者に配られた「観艦式のしおり」と軍艦「高雄」の陪観券。
「陪観」というのは一般的に「身分の高い人に付き添って見物すること」で、
この陪観券の官姓名は岡崎貞伍海軍中将、となっています。

そこで岡崎中将(右下の写真の人物)についてググってみると、
海軍機関学校2期生であり、確かに1924年(大正14)に機関学校長になっていました。
ここに岡崎少将の乗艦券があったのも、その関係でしょう。

ただ、あれっと思ったのは、この観艦式のとき岡崎はもう予備役であること。
一線を退いていても、陪観券の官は「海軍中将」となっていることです。
「予備役」はまだ一応現役の軍人なので階級もそのままってことなんですね。

岡崎中将はこの観艦式に賓客(たぶん宮様)のエスコート役として
駆り出されたらしい、ということがわかります。

左上の旭日旗は「市電優待乗車券」。
横浜市が発行したもので、桜木町から埠頭までの市電(いまならシャトルバス)
にこれを見せれば無料で乗れたようです。

岡崎少将はこのときの観艦式の資料を一切大事に置いておいたようですが、
このチケットも見せるだけで、あとは持って帰ってよかったんですね。



いまでも自衛艦に乗ると、必ずその名前の由来やスペックを記した
パンフレットがもらえますが、それはこのころからの慣習です。

「高雄」の案内、艦名の由来については

「京都高雄山に因みしものなり」

そして、艦内神社についてもちゃんと、

「高雄山に縁故ある京都護王神社の祭神たる和気清麻呂公を祭祀す」

と書いてあります。
「高雄」は昭和7年、つまりこの観艦式の前年度に就役したばかりの
当時の「最新鋭重巡洋艦」だったため、わざわざ海軍中将が乗り込んで、
賓客に説明を行うということをしたのかと思われます。


この後、ソロモン、マリアナ沖、レイテ海戦と戦い続けて、傷つきながらも
終戦まで生き残った「高雄」でしたが、敗戦となったとき、
「妙高」型のネームシップであった「妙高」とともに自沈処分されています。

余談ですが、「妙高」と「高雄」は、

同一船台(横須賀)で建造され、

同一海戦(レイテ沖)で大破し、

終戦時同じ場所(シンガポール)に居合わせ、

ほぼ同じ地点(マラッカ海峡)で自沈処分される

という超腐れ?縁でした。
どちらもネームシップであったということも縁といえば縁ですね。




字が小さくて見にくいのですが、これが当日の観閲航行図。

お召し艦は「比叡」。先導艦「鳥海」に先導されて、「比叡」以下、

「愛宕」「高雄」「摩耶」

の供奉艦が(現代でいうところの観閲部隊)続きます。
その動線が描かれていますが、これを見る限り、このときの観艦式は
現在のように受閲艦艇と観閲艦艇の双方が航行しながら観閲する方法ではなく、
観閲会場(海面)に停泊している艦艇の間を、観閲部隊が通り抜ける形だったようです。

停泊している軍艦の列は全部で7つ。
一番下に「番外列」として、「丸」のつく船、仮装巡洋艦として日露戦争に参加した
「日本丸」や、なんと!「氷川丸」(今横浜にいるあれ)などがならんでいます。
「氷川丸」は昭和5年、3年前に就航したばかりでした。

お召し艦が最初に侵入する第2列には「加賀」「鳳翔」の空母に始まり「青葉」「衣笠」。
左手の第3列には戦艦「陸奥」「日向」「榛名」「金剛」が続きます。

では戦艦「長門」は?

「陸奥」と上座下座を決められなかったせいか、「長門」は
お召し艦が最後に通り抜ける第5列の左に「扶桑」「霧島」「伊勢」「足柄」
と並んで観閲されるということになっています。

ところでこれによると、潜水艦は一番端の列に11隻が並んでいたようですが、
2列離れたお召し艦から見えたのかなあ。


あと思ったのは、今の自衛隊が取っている「全艦稼動式観閲式」は
大変技量を要する方法であると言われますが、 これだけの艦船をきっちりと
海上に並べて停泊させ、観閲を受けるというのも大変なのではないでしょうか。


この当時は、「この日は観艦式だから民間船は横浜沖で航行一切まかりならぬ」
の一言ですんでしまったから、その意味では楽だったかもしれませんが。

その後、自分たちの末裔が、観艦式どころか日常の訓練も
民間船に異常に気を遣いながら行い、また自分たちの国が、ひとたび事故が起きれば
マスコミを筆頭に、推定有罪で自国の軍を責め立てるような国になろうとは、
このころの観艦式に参加していた関係者のだれに想像できたでしょうか。



続く。
 

キャッスル航空博物館~「ストラト」シリーズ「我敵B29」

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「成層圏の要塞」というタイトルで、ロッキードの「ストラトフォートレス」
という飛行機のあれこれについてお話ししたことがあります。
この「ストラト」は、「成層圏の」という意味があることをこの時に知ったのですが、
ロッキード社の手がけた飛行機にはこの「ストラト」をかぶせたシリーズが
いくつかあり、ここアトウォーターのキャッスル航空博物館にも展示されています。

 まずその一つがこの



C-97ストレトフレイター(Boeing C-97 Stratofreighter)

フレイターというのはズバリそのもので「貨物輸送機」ですから、
ストラトフレイターとは

「成層圏の貨物輸送機」・・・・・


なんでも成層圏ってつければいいってもんじゃなかろう?とつい突っ込みたくなりますが、
ストラトフォートレスの名前の系譜を受け継いだという関係上仕方ありません。
しかし、シェイプはご覧のようにずんぐりとしてストラトフォートレスとは大違い。

・・・・・・といいたいところですが、実はこの機体、同じく
ボーイングが開発したB-29戦略爆撃機と基本的に同じなのです。




ちなみにこちら、スーパーフォートレスWB-50D。
似てるといえば似てますよね。
このB-50がB-29の改良型で、爆撃機より胴体が拡大されていますが、
主翼はほぼB-29と同じとなっています。



おまけでスーパーフォートレス反対側から。



英語名称ではB-50スーパーフォートレスですが、なぜか日本語記名では
B-50だけで、「スーパーフォートレス」の名称は使用されていないようです。
B-29と混同するので、こちらはそう呼ばないことに決めてるんでしょうか。

B-50スーパーフォートレスはストラトフレイターより少し後の
(ストラトフレイターは戦争末期に開発された)1947年に運用が始まりました。
なので、実戦に投入されたことは一度もありません。

そのせいなのでしょうか、ノーズペイントも半裸の女性などという
ある意味殺伐としたものでなく、「ニルスと不思議な旅」の挿絵のような(?)
メルヘンちっくな鳥さんが描かれ、そこには

「フライト・オブ・ザ・フェニックス」

という文字が・・・・・・。

・・・いやこれ、どうみてもガチョウなんですけど。

 


もういちどストラトフレイター。

この飛行機を不恰好なものにしているのは、輸送機型に改造されるにあたって、
上下方向におもいっきり拡大されたそのボディ。
恥も外聞もなく容量を大きくすることで輸送積載の拡大を図ったわけです。

これが貨物輸送機であることを示すためか、わざわざ前に
黄色いコンテナのようなものを置いています。



とってつけたような下腹部が、実際にとってつけた部分です。
機体にも記されているように、アメリカ空軍が運用していました。

これだけ思いっきり大きくしたので、2台のトラック、または軽戦車を運ぶこともできましたが、
それでなくても機体が大きくて鈍重なため(やっぱり)前線には使用されたことがありません。

主に、後方で患者の輸送に使われていたようです。



ちなみにこれがストラトフレイターが飛んでいるところなのですが、
何かに似ているような・・・・・グッピー?



と思ったら、本当にあった(笑)プレグナント・グッピー。

うーん。わたしはこの人生でこんな不細工な飛行機を見るのは初めてかもしれない。

かっこ悪い。ひたすらかっこ悪いこのシェイプ、このストラトフレイターを
さらに改造して作られた輸送機で、「おめでたのグッピー」のおなかには
アポロ計画のためのロケット部品を積み込むために、NASAが運用していました。

さらにさらに、怖いもの見せたさでもうひとつお見せしておくと、



いるよね。こんな生物。
グッピーというよりこれはイルカとかクジラの類い?

こちらもNASAの運用のために、プレグナントグッピーをさらに大型にした

スーパーグッピー。

こんな短い翼で飛べるの?と思ってしまいますが、そもそもストラトフレイターの頃から
エンジンの強さには定評があるので無問題。
これがどれだけでかいかというと、こんなシェイプなのに全長が43、84m、
B-29より13m大きく全幅が47,625mでこれもB-29より4mも大きい。
飛来するB-29を見て、

「でかい・・・・薄気味悪いくらいでかい」

と言っていた紫電改のタカの久保一飛曹にぜひこの機体の感想を聞いてみたいものである。





B-47ストラトジェット

成層圏のジェット機。
Bー29の後継機として戦略航空集団が導入した戦略爆撃機。
同じストラトでもどうですか。このスマートさは。

と思ったら案の定、この機体の設計に関しては戦時中、ドイツの
後退翼機の情報を手に入れたことから、急遽予定変更して作られたものなんですね。

完成したのは1947年と戦後なのですが、戦闘中に盗んだ他国の情報を
堂々と戦争が終わってから製品化してしまうあたりが、
勝ったのをいいことにやりたい放題のアメリカさんらしいですね。

とにかくこの後退翼を搭載した最初のシェイプは、
それまでのものと比べると革新的なものだったといえます。



どうよこの画期的なこと。
というか翼無駄に長すぎね?と思うんですけど。



こうして横から見ても、いかに翼の角度が後退しているかがわかります。

 

「成層圏の要塞」というエントリでも、B-52に核を積ませてウロウロさせていた、
という話をしたのですが、ちょうどその頃、冷戦初期のの運用であったため、
この機体も、大重量の核爆弾を搭載することを考慮して設計されました。 

のちに、米露の間で「危ないから核を使うのお互いやめような」という

「核戦争の危険を低減する方策に関する合意書」

を交わすことになるまで、配備が積極的に進められたため、
生産台数は2、032機と大変多くにのぼりました。

Bー29が朝鮮戦争でMiG-15を相手に苦戦したので、
この中途半端さにも関わらず大量投入される結果になったのですが、そのせいで、
1955年から65年にかけての4回にわたっていずれもMiGに撃墜撃破されています。

最後の一機だけが撃破されるも横田基地にかろうじて帰投することができたようです。



ノーズを真下から見たところ。
カメラ用らしい穴が見えていますね。



思いっきり地味な感じのこれは

KC-135ストラトタンカー。

またストラト。「成層圏の油槽機」です。とほほ。
その名の通り空中空輸・輸送機。



飛行中。



お仕事中。餌をあげているのはF-16。
F-16に給油できるということはかなり速度も出せるってことですよね。

今ふと考えたのですが、空中給油という方法ができてから、少なくとも飛行機が
燃料切れで墜落するということがなくなったんですよね。
これはコロンブスの卵というか、誰が考えたのか知らないけど凄い。(小並感)



ストラトタンカーのスコードロンマーク。



ここキャッスル空軍基地に昔配備されていたらしく、町の名前「アトウォーター」と
町のシンボルである給水塔が(^◇^;)描かれています。
というか、給水塔がシンボルだなんて、どんだけ何もない街なんだよ。


ボーイング社は終戦時、大型爆撃機増産のために莫大な設備投資を行っていたので、
戦争が終わって喜びに沸くアメリカで今後の不安に怯えていました。

ボーイングに限らず武器会社は似たようなものだったと思うのですが、
とくにボ社は民間より軍に重きを置いてきたので終戦は切実な問題だったのです。

そこで従業員の3分の1を解雇するという業務縮小に加え、
戦争中から開発を進めていたストラトフレイターを元に、
会社を立て直すためにこれを旅客機にし立て直すことにしました。

ところが戦争中軍との商売に力を入れすぎたのが祟り、民間から発注が来ません。
頑張って営業努力を重ねた結果、発注が取れ、ストラトクルーザーと名付けられた
フレイターの改造版旅客機の開発がようやく始まります。

エンジンもB50に使われた4300馬力の強力なものを搭載し、
機体は従来の形を2段重ねして(つまり中が二階建て)収容能力をアップ。
一階部分にはバーラウンジも設けるなど、飛行機が特別なものだった時代に、
ゴージャスな旅をお約束する旅客機になったのです。
(のちに講和条約に向かう吉田茂や白洲次郎ら全権団がお酒を飲んだところです)

ただ、途中でB-29から設計変更し、エンジンがパワーアップしているのにプロペラが
そのままだったことから、故障などが相次いで信頼性はイマイチだったそうです。



戦後開業した日本航空が、当初のリースを含めて、
ボ社の飛行機を一切使用しなかったのは(最初のリースはダグラスDC-3)、
ボーイングが日本人の敵B-29を作った会社だったからという説があります。

しかし実際は、ボ社が戦後民間飛行機への転用をうまく行えなかったせいで、
遺恨以前に、単に同社を信頼できなかったというのが本当のところだそうです。

ボーイング社の方も、B-29を改造しただけのストラトクルーザーを
日本人が買ってくれるなんて全く期待していなかったでしょうけど。



 

芥川龍之介を探せ~第二術科学校・海軍機関術参考資料室

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第二術科学校内にある資料室は基本一般公開なので、
多分申し込んだら誰でも見学できるとは思うのですが、
施設の性質上構内に誰でも入れるわけではないので、
見学したい方は2術がオープンスクールなどで公開されるときに
横須賀から出ている「海上シャトル便」 で行ってみるのもいいですね。

このときに案内してくれた自衛官が、確か近々公開の機会があるので
ぜひ来てください、とバスの中でいい、それに対して参加者が

「ホームページで見られますか」

と聞いたら確かにはいと返事があったと思うのですが、2術のHPには
全くそれらしいお知らせはありません。

うーん・・何かの間違いだったのかな。


 
ガラスケースの中の資料を写すのに一生懸命になって、
資料館全体の写真を撮るのを忘れたので、リーフレットから転載。
このように、6,500点あまりの展示物が見やすく展示されています。


この日の団体は防衛関係だったのである意味当然かとも思いますが、
こういう一行の中には必ず一定数いる「アマチュア軍事評論家」が、
この日も特に日露戦争の資料のあるケースを中心にして、活発に、
質問というより日頃蓄積した知識の披露に興じる一幕がありました。



別にこの方々のことを言うのではありませんが、自衛隊の公開イベントで、
自衛官に一番疎まれるのが、実は「知識披露型」なのだそうです。

●護衛艦は90度以上傾斜(横倒し)しても復元するよう設計されている。
何度なのかは機密だが、一般公開でこれを自衛官に質問し、
自衛官が返答に窮していると、『150度だ!勉強しろ!』と怒鳴って立ち去る
(ちなみにこれは間違いらしい)

●護衛艦の出港時、艦の周波数に合わせ『無事航海を祈る』という信号を送ってくる。
そして『次の行先は○○と推測される。航海途中、○○沖で溺者救助訓練、
対航空戦の訓練を行うと思うが、艦長の指揮ぶりを見ている』
などと、艦内通信を傍受して、ひけらかすような内容の信号を送ってくる。

●独自に考えた尖閣・竹島奪還のオペレーションを一般見学の際、
約1時間にわたって幹部自衛官に一方的に披露する。


これらは論外としても、暇に任せて仕入れたオタ知識を披露したところで、
大抵の自衛官は感心どころか、内心迷惑がっているかもしれないってことです。
S-10のSが「掃海」のSであることを、広報の自衛官が知らなかったので
つい勝ち誇ってしまったわたしに言う資格はないと言う説もありますが。


さて、知識披露型になるかどうかは別にして、戦史、とくに海軍史、
その中でも日露戦争の知識を、司馬遼太郎の著書から得るタイプがいます。
熱心に読み込むあまり、司馬史観もそっくり受け入れてしまうような読者です。

わたしはこの団体では超若輩なので、というか写真を撮るのに忙しく、
グループの議論に参加せず、遠巻きに耳だけで聞いていたのですが、
どうもこの日の参加者に、そういう司馬ファンの方がおられたようです。
 

「司馬遼太郎が書いてたんだけど、知らない?」

「・・知りません」(自衛官)

「このときにあれではこうなってたんだけど、何々はなんとかだったんでしょ」

「・・知りません」(自衛官)

という気まずいやりとりが二回繰り返されてからのち、
話の切れ目をとらえた自衛官が柔らかい口調で、しかしキッパリと

「司馬遼太郎は自分の好き嫌いを元にかなり史実を改変して書いていますから。
『坂の上の雲』なども自分が評価しない人物のことは無茶苦茶書いてますし、 
あれは小説としてはいいですが、あまり鵜呑みにされない方がいいかと思います」

と一団に向かっていい切ったとき、わたしは思わず彼に惚れたね。(比喩的表現)

ええ、もしかしたらこの自衛官は、主人公の秋山真之を良く書くために
有馬良橘を必要以上に貶めたり、自分の思想をさりげなく盛り込むために
秋山をPTSDの腑抜けに書いた司馬遼太郎の悪行?を暴いた当ブログの記事を
読んだことがあるのではないか?と思ったくらい、激しく同意しましたよ。


いくらちゃんと勉強をされているといっても、資料館の解説を行う自衛官が、
重箱の隅をつつくような知識や司馬の創作まで知らなくて当然です。
そもそも自衛官相手に解説を始めずにはいられない知識豊富な方が相手では、
はっきりいってきりがないと、彼らもあきらめているでしょう。


先ほどの記事によると、こんな時に自衛官は内心どう思っても決して逆らわず、
「よくご存知ですねと褒め気持ちよくさせてあしらう」のだそうです。
武器装備や軍事知識について自衛官と話をしている時にこの台詞が出たら、
もしかしたら相手を辟易させているのかも、とちょっと自分を振り返ってみましょう。

まあ、この記事の自衛官が皆本物という証拠もないんですけどね。



市ヶ谷の記念館にも同じようなガラス写真を見ましたが、
ここで陛下のお立ちになっているのは土を盛った「台」です。
これは昭和10年11月13日、鹿児島県宮崎の都城飛行場で撮られたもので、
特別大演習が終了したあとの記念写真です。

これほどたくさんいても何が何でも全員で写真を撮るのが日本軍。
後ろの人は顔なんか全くわからないのに、それでも撮るか。



この写真には歴史にその名を残す多くの軍人が写っています。
一部ですが、アップしてみました。
前列右から朝香宮殿下、高松宮殿下、(その左後ろ大西滝治郎)
その左前大隈峯夫大将、昭和天皇陛下、二人おいて李 垠(イウン)殿下(歩兵大佐)。

他にも阿南惟幾、南次郎、山下奉文、荒木貞夫、梅津美治郎、南次郎、
真崎甚三郎らが一堂に揃っているという貴重な写真です。



日露戦争後の「凱旋写真」のようです。

東郷元帥と山本権兵衛が並んでいますね。
山本と東郷の間、後ろのヒゲが加藤友三郎、東郷の左が上村彦之丞、
その隣が伊集院五郎、加藤寛治(美保関事件の責任を問われた人)。
海軍について詳しければ知っている名前はこんなところかもしれませんが、
この写真、他に注目すべき人物が二人います。



写真の中列右から3番目に江頭安太郎海軍中将がいます。
同じ列の左から3番目にいるのが山谷他人海軍大将。
この二人の娘息子が結婚して生まれたのが、雅子皇太子妃殿下の母親。

という「それがどーした」な豆知識がわざわざ家系図で記されていました。



ところで、この資料室に入ってすぐ右手の壁に、クエストのように

「芥川龍之介を探せ!」

とキャプションのつけられた二葉の集合写真が掲げてありました。
その一つがこれ。
大正7年11月に撮られた、海軍機関学校27期卒業生の記念写真です。
もう一つの写真は大正6年のものでした。

文豪、芥川龍之介は若き日に海軍機関学校で英語を教えていたことがあるのです。



ちゃんと写真を撮るのを忘れたのでこれもリーフレットからの転載ですが、
これが当時芥川が講義していた英語の教科書。
海軍の学校でつかう教科書らしく「A BATTLESHIP IN ACTION」というタイトルです。

芥川がここで教鞭をとっていたのは、彼が東京帝大を卒業したあとの
大正15(1916)年で、そのときは汐入駅の近くに下宿していたそうです。

機関学校で芥川は8時から15時まで、当初12時間英語を教え、月給は60円、
のち130円まであがったといいます。
大正末期の60円は35,000、130円は7,5000円くらいなので、まあ安月給です。

このころ既にいくつかの作品を発表して作家への道を歩みだした芥川にとって、
東京の文壇仲間から離れて教師をすることは

「不愉快な二重生活だった」

ということです。
彼のような人間にとっては、時間の束縛と建前の生活が一番辛かったようですね。
そもそも彼は自分でも

「教えるのが大嫌いで生徒の顔を見るとうんざりする」

などと手紙に書いているのですから。





「芥川の作品って何かご存知ですか」

と案内の自衛官が誰にともなく尋ねると、そこにいた一人が

「我輩は猫である!」

と答えたのですが、彼は間違えた人に恥を掻かせまいと気を遣ってか、

「蜘蛛の糸とか羅生門とか・・あまりこれっていう有名な作品はないかもしれませんが」

とフォローしていました。(いいやつだ。)

「杜子春」は教科書にも載っていたし、「鼻」「邪宗門」「奉教人の死」
などを子供時代なんども読んだわたしには異論ありまくりでしたが。
(特に”舞踏会”の話の終わりかたが大好きでした)

芥川の作品のうち「蜜柑」は機関学校教職時代の出来事であり、
「堀川安吉」という主人公を登場させる機関学校時代の生活を書いた一連の
「安吉もの」(”あばばばば”など)を書いていますが、芥川は
機関学校の教職はあくまでも「つなぎ」というか、生活のためと思っていたようです。

芥川自身の人事は、前任の英語教師が大本教に入信するために辞職し、
その後釜として東大の英文学者が推薦したという経緯によるものでした。



で、この「芥川を探せ!」にわたしもチャレンジしてみました。
「イケメンです」というヒントだけで正解がなかったのですが(笑)
後列右から二人目、外国人教師の右後ろがそうだと思います。



こちらの写真でも同じ外国人教師の右後ろが芥川だと思われます。
(というか、周りのメンバーは全く同じ配列ですよね)

不愉快と言っているだけあって、気のせいかどちらの写真も憮然としているような。
ちなみに、冒頭写真にはどれが芥川か説明がついていました。
でも、わざわざ答えを書かなくても皆さんもお分かりですよね。



芥川は思想的に左翼で、特に軍的なものを嫌っていたようです。
軍人の階級争いを「幼稚園児のお遊戯みたいだ」などと酷評し、検閲され、
さらに嫌うといった具合でした。

しかし、機関学校の教職を引き受けたということは海軍に対しては
好意的に見ていたということでもあります。

のみならず、陸軍幼年学校のいかにも陸軍的なやり方に不満をもらしていた
フランス語教師の豊島与志雄(のちにフランス文学の翻訳者として有名になる)
を、「海軍の方がいい」と海軍機関学校に引き抜いたということもあります。
あの内田百(けんは門構えに月)も同じく幼年学校の教師であったところ、
芥川の引きで機関学校のドイツ語教師になっています。(多分理由は同じ)

また、当ブログ「甲板士官のお仕事」という項でも書いたことがありますが、
芥川は昭和2年、海軍を舞台にしたにした三編のショートストーリーを書いています。

三つの窓

「鼠」 鼠上陸をするため禁を犯して鼠を”輸入”した下士官を許してやる話
「三人」 人前で罰を与えた下士官がそれを恥として縊死してしまったという話
「一等戦闘艦××」 芥川風味で書かれた「艦これ」(ただし人称は男)


戦艦の名称「××」と「△△」は、最初実名でその後検閲されたのかもしれません。

芥川と海軍の縁はこれだけではありません。
機関学校奉職中に結婚した友人の姉の娘、文子の父は、日露戦争で戦死した
塚本善五郎(最終少佐)という海軍軍人でした。

これは海軍機関学校とは関係なく偶然だったようです。

塚本善五郎は旅順港閉塞作戦の時に「初瀬」の艦長でしたが、
ロシア海軍の機雷に触雷して名誉の戦死を遂げています。
芥川が文子と結婚したのは、この15年もあとのことになります。



芥川龍之介は海軍機関学校で教えていた頃から10年後の1927年(昭和2)、
健康状態を悪化させ、致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。

享年37歳。

機関学校の職を「不愉快」と評した芥川でしたが、少なくともこのころ、
芥川が未来を信じ、将来への希望を抱いていたことは確かです。
たとえそれが、成功してここから抜け出すというものであったとしても。


海軍機関学校生徒を前に教鞭をとる毎日は、この剃刀のような感性を持つ
天才にとってさぞ煩わしいものであったでしょうが、後年苛まれ、
それに彼が命ごと飲み込まれる「ぼんやりした不安」を思えば、
これが芥川の最後の平穏な時期だったのかもしれないという気もします。



続く。




海軍機関学校と「マザー」フィンチ~海軍機関術参考資料室

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旧海軍兵学校であった江田島には何度となく訪れ、それについて
書かれたものや元兵学校生徒の会合に参加するなど、
これも「門前の小僧」とでもいうのか、海軍兵学校のことについては
それなりに知識を蓄えてきたわけですが、同じ海軍の学校でも
機関学校についてはほとんど何も知らず、軍艦のことを調べる過程で
造船についての記述に機関将校が出てきたり、あるいは目黒の自衛隊を
見学した時に敷地で見た実験棟の名残(今も使われていたりする)をみて、
そのぼんやりとした輪郭を思い浮かべる程度でした。


兵学校の同期会には、いわゆるコレス、兵学校と機関学校の同学年が
一緒に参加しており、その一団が「舞鶴」と呼ばれていたことから、
海軍機関学校が舞鶴にあったのだな、と理解しておりましたが、横須賀にも
機関学校があったことは今まで考えたこともありませんでした。

1874年、兵学校がまだ「兵学寮」であった頃、その分校として、

海軍兵学校付属機関学校

という名前でここ横須賀にその学舎が置かれていました。
1925年には舞鶴に移転し、以降「舞鶴」は海軍機関学校の代名詞となります。

前回お話しした芥川龍之介が英語を教えていた1916年(大正15)には、
機関学校は今の三笠公園の近くにあったということです。

今、三笠公園に隣接して神奈川歯科大学と湘南短大がありますが、
そのキャンパスがかつては機関学校の敷地でした。
今もこの校内には桜並木があるそうですが、それは機関学校時代からのもので、
そこだけが往時の面影を残しているのだそうです。

また、赤レンガと石を積み上げた機関学校時代の門柱は、現在も
歯科大学病院の裏手に保存されています。 

舞鶴地方総監に訪問したとき、昔機関学校の講堂だったという建物の
裏の部分が海軍資料館となっているのを見学しましたが、
そこには機関学校の跡を偲ばせる資料はほとんどなかったと記憶します。

というわけで、海軍機関学校独自の資料が集められているのは、
ここ横須賀の「海軍機関術参考資料室」だけなのかもしれません。



胸の軍艦旗マークが、実に洗練されています。

あまりに新しくきれいなので、海上自衛隊のラグビーチームのユニフォーム?
と感違いするくらいですが、これは海軍機関学校47、48期チームのジャージで、
戦後(昭和58年)に作成されたレプリカです。

兵学校生徒がラグビーをしている写真を見たことがありますが、
機関学校では特に闘争心や団結心を鍛えるスポーツであるラグビーが盛んで、
全国でも強豪だった三高(京大)とも定期対抗試合を行っていたそうです。

写真上は、5月27日の海軍記念日に校内試合を行う機関学校生。

帽章の左にあるのは、やっぱりここでも普通に行われていた
短艇競技のメダルです。




昭和13年5月、その三高との対抗試合のときの記念写真。
白いユニフォームの三高生とは仲良く混じっていますが、
誰一人としてニコリともしていないのが時代を感じさせます。

「男がニヤニヤするな!(ましてや軍人ならなおさら)」

という風潮だったんですね。



昭和13年、やはり強豪チームだった明治大学のコーチを招聘して、
神妙な様子で教えを受ける47期生徒。



不思議なキャプションがつけられた写真です。

昭和20年4月19日 「機械熱力学」機関実験場
レイテ海戦の硝煙消えやらぬまま小熊隆大尉(第51期)が
56期生徒に対し、編微分方程式を駆使して講義を行う。
鳥肌が立つ思いであった・・・・

機関将校であった小熊大尉については、ここに書かれている以外のことは
何もわからなかったのですが、この前年の10月23日から25日まで行われた
レイテ沖海戦に参加し、命永らえて帰国後、母校で教えることになったようです。

 編微分方程式は自然科学の分野で流体や重力場、電磁場といった場に関する
自然現象を記述することにしばしば用いられる微分方程式です。

死線をくぐってのち生き残り、今ここで行う講義。
生死の狭間を見、ゆえに生の刹那を知った者の言葉の重みと真剣さを
生徒たちは「鳥肌が立つくらい」感じ取ったということなのでしょう。


小熊隆大尉は人間魚雷「回天」を開発した黒木博司大尉と同期です。
黒木大尉はレイテ沖海戦の1ヶ月前、昭和19年の9月7日、
自らが発案した回天訓練中の事故で22歳の命を終えています。

黒木大尉は16歳で機関学校に合格しているので、同じ歳とは限りませんが、
この小熊大尉も、23歳前後で戦線から戻り、教壇に立っていたことになります。

インターネットを検索すると、たった一つ、安中市の平成21年の市政報告に
小熊隆さんという方が瑞宝単光章(勲6等)を警察功労で受賞した、
というお知らせに行き当たりました。
瑞宝章とは“国家または公共に対し功労があり、公務等に長年従事し、
成績を挙げた者”に叙勲されます。

もしかしたらこの方が65年後の小熊大尉なのでしょうか。



向かいにあった自衛隊の創設資料館にもノートが展示されていましたが、
さすが機関学校だけのことはあって、こちらもノートが何冊も。

授業のノートかと思ったらそうではなく、民間工場を課業で見学し、
それについて見たものを細かく図入りでメモしたものでした。

日本アスベスト会社

住友伸銅工場

京都火力発電所

の三社で、発電所の項には「水源は近江琵琶湖なり」とあります。 



方眼紙にノートを取るのは図が描きやすいからですね。
これは住友で見学した伸銅のための機械の一部(のようです)。



発電機械の諸試験(不蝕試験、絶縁試験、極性試験)図。



英語の試験かと思ったら英語問題が書かれた「材料学」の試験でした。
なんてこった、ってことは答えも英語で書きなさいってことか?

「一般的な原油の精製過程について述べよ」

まあこれだけならそんな難しくはないかもしれないけど、英語でこれを・・。 



「サンブナンの原理」による弾性力学の美しい証明。



さて、この資料室に、このような女性の肖像がありました。
この方、星田光代さんとおっしゃいます。


・・・・と言うのはもちろん彼女の日本名で、本名は

「エステラ・フィンチ」Estella Finch (1869 - 1924)

さんとおっしゃいまして、アメリカはウィスコンシン州出身です。
彼女はニューヨークの神学校を卒業してから、超教派(教派関係なく)
婦人宣教師として24歳の時に日本にやってきました。
彼女は全国で伝道を行っていましたが、日本人の贖罪意識の薄さに失望して
帰国の準備を進めていたところ、横須賀日本基督教会の神父である黒田惟信と出会い、
彼の

「軍人には軍人の教会が必要である」

という説に賛同し、横須賀市の若松町に「陸海軍人伝道義会」を設立しました。
彼女は特に海軍機関学校の生徒への布教を熱心に行いましたが、決して
信仰を押し付けることはなかったそうです。

教会の庭に道場を作り、稽古着や道具を揃えて生徒にはスポーツを推奨し、
生徒を「ボーイズ」と呼んでかわいがりました。

アメリカ人である自分が日本の軍人に布教をするには、まず愛国者になるべき、
と考えた彼女は、国学者であり史家でもあった黒田から日本史を学び、
流暢に日本語を喋り、生活様式もすべて日本式にしました。

日本に帰化し、「星田光代」となったのもそのためです。
帰化したのは40歳の時。
彼女の親しい者(アメリカ人)はこれに反対したそうですが、
彼女は断固これを押し切りました。



機関学校の生徒たちは彼女を「マザー」と呼んで慕いました。

関東大震災のあとは被災地慰問を熱心に行っていた彼女ですが、
体調を崩し、教会の者に見守られながら55歳の生涯を閉じました。

「我邦軍人のために青春を捨て国籍を捨て遂に命そのものさえ捨てたる者なり
その献精の精神『死せりと雖も尚言えり』というべし」

というのが黒田がその慰霊碑に書いた追悼文です。


第2術科学校の資料室に彼女の資料が展示されることになったのは、
横須賀市在住の海野幹郎、涼子夫妻がその遺品を寄付されたからでした。

海野氏は海上幕僚監部技術部長を務めた元海将補。
そして夫人の涼子さんは、黒田惟信の孫娘であったという縁によるものです。

「陸海軍人伝道義会」は黒田が死去した翌年の1936年に解散しましたが、
彼らの布教によって、30年間でおよそ1万人が伝道義会を訪れ、
約1000人の軍人が入信したといわれています。

戦史を当たっていて、将官にクリスチャンが多いと思ったことがありますが、
彼らのうち何人かは横須賀で伝道議会に通って入信したのかもしれません。

井上成美大将もキリスト教徒で、戦後は子供たちに英語を教えながら
神の教えを説くことがよくあったといいます。

「神さまは、どこにいらっしゃるというのではないが、
どこかにいらっしゃる。
必ず見ておられるから、祈りなさい。
感謝しなさい。
財産など残してはいけません」

という言葉をのちのちまで覚えている教え子もいました。

井上大将が横須賀にいるとき、軍人伝道議会に行ったことがあったかも、
という考えは、そう突飛なことでもないような気がします。


続く。

 


海軍機関将兵の履歴~第二術科学校 海軍機関術資料室

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第2術科学校の海軍機関術資料室、残りを一挙に参ります。



案内の自衛官が「ここにあるのは本物です」といっていた東郷元帥の書。
「忍」のあと、戌申夏、とありますが、これは1908年の夏に書かれたということです。
1908年というと、日露戦争の4年後。
日本海大戦を勝利に導いた聖将として、日本中の崇敬をあつめた東郷元帥。
毎日所望されておそらく書を書きまくっていた?頃なので、忍の一字(多分)



こちら定番、「常在戦場」でおなじみの山本五十六の書でございます。
前回「軍人のための信仰」について調べていた時に、

「山本は合理主義者ゆえの無神論者だった。
そのため天命がマイナスに働くようになり、戦運も無かったのだと思う」

と同じ海軍軍人が言っていたという記事を目にしました。
この軍人に言わせると、東郷平八郎にも秋山真之にも信仰があった、だから
戦運に恵まれたが、山本はその信仰心のなさゆえ、ツキに見放されたということらしいです。

板谷隆一海将は海軍兵学校60期のクラスヘッドでした。
真珠湾攻撃の時の「赤城」制空隊長、板谷茂は57期の首席で、彼の兄です。

大和特攻のときには「大和」と運命を共にした「矢矧」乗組でしたが、
命永らえ、戦後海上警備隊が創設されたときに入隊し、2年後に1佐になります。
終戦のときに板谷は大尉でした。
警備隊は旧軍の階級をそのまま受け継いで官階級を充てていたということです。

米国の海軍大学留学後、幹部学校副校長、護衛艦隊司令官、横須賀地方総監と、
兵学校のクラスヘッドは順調に昇進し、1966年(昭和44年)、
第10代海上幕僚長、3年後には統合幕僚議長(今の統合幕僚長)になっています。

そんな板谷の書は「温故知新」。
海軍軍人出身の戦後自衛隊の統幕長の言葉として、ふさわしいものだと思います。



永野修身書、「庶昭忠誠」。
李白の詩にある言葉で「庶しょうは忠誠を昭らかにす」。



永野の書はもう一つあって、「憑高跳遠」。
高きによりて遠くをながむ、つまり高いところから全体を見ること。

永野修身というと、「軍令部総長」「東京裁判」と連想します。
開戦時軍令部総長だった永野は、戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たり、
終戦後に戦犯として訴追されたときにも、自らにとって有利になるような弁明はせず、
真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとし、また、記者の質問に対し

「真珠湾は軍事的見地からみれば大成功だった」

と答えるなど最後まで帝国海軍軍人の矜持をもって振る舞いました。

この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は、
永野を真の武人であると賞賛していますが、
このリチャードソンという人は、真珠湾を海軍艦隊の母港にせよという命令に対し、
防御力に不安があることと、日本を刺激することを理由に反対した人なんですね。

ルーズベルトはこの決定を「日本を挑発し襲わせるための意図を持って」
行ったわけですから、聞く耳持たず当然リチャードソンの反論は却下され、
なんとそれだけでなく、太平洋艦隊司令長官と合衆国艦隊司令長官を解任、
中将から少将に降格!されてしまうのでした。

うーん、ルーズベルトこの。

後任のハズバンド・キンメルはリチャードソンの兵学校の3期も下。
(つまりリチャードソンを貶める意味合いでなされた後任人事です)
キンメルは真珠湾攻撃で被害を甚大にした指揮官として責任を取らされ、
いまだに遺族の名誉回復の嘆願も届け入れられずに今日に至ります。

未だにアメリカ人の間では「偉大な大統領」のベストテンくらいには
ルーズベールトが入っていたりするほど評価されているのですが、
はっきりいってあのときこの民主党大統領が戦争したかったから戦争になった、
というふうにはアメリカ人は考えないってことなんでしょうかね?

まあ、そういうリチャードソン(最終階級は大将)ですから、真珠湾に関して
日本側に肩入れするようなセリフが出てもわたしはあまり驚きません。


永野は、東京裁判継続中の1月2日に肺炎にかかり、病院に搬送される途中で死亡しました。
この裁判中、永野はあるアメリカ海軍の士官に、

「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」

と述べたそうですが、こんにちその願い、特に日米両海軍における友好は、
彼の予想したよりおそらくずっと良好な形で実現することになりました。



海軍兵学校で恩賜の短剣なんて、どんなスーパー秀才なんだという気がしますが、
さらに海軍機関学校の恩賜の短剣、つまり首席って、いったい・・、
とついしみじみと考えてしまいますね。

軍需省の航空兵器局の局長にこの久保田芳雄の名前がありましたが、
同じ時期の総務局長には大西滝治郎がなっています。

「海軍反省会」にはしばしば名前が出される久保田氏、戦後はやはり
公職追放に遭われたそうですが、技術士官は少なくとも戦犯には無縁でした。
進駐軍が訪ねてきたのですわ戦犯指名か、と思ったところ、若き日に留学していた
MITの同級生が訪ねてきただけだった、という話を孫にあたる方が書いています。




この階級章は全て本物。レプリカなどではありません。
本物で作られた階級章の見本は、おそらくこれが唯一のものだということです。
(誰かが実際に使っていたものを使って作ったのかどうかまでは聞きそびれました)

だいぶ色あせていますが、機関科と技術科の階級章は紫です。
主計科白、軍医衛生は赤、法務科は緑。

法務中将なんていたんですね。
そういえば、226事件についての映画の話の時に匂坂春平という関東軍法務部長が
首謀者全員死刑という判決を戦後悔やんでいた、ということを書いたことがありますが、
この匂坂裁判長が「陸軍法務中将」でした。

海軍の法務中将には、偶然ここでお話したことのある舞鶴の偉人、
伊藤 雋吉(いとう としよし)男爵がいます。

「水路科」は最高位が大佐だったようですね。



右は海軍機関学校第15期卒、氏家長明中将の奉職履歴。

履歴 氏家長明

このようなことが墨で書かれているわけですね。
氏家中将は海機を卒業して少尉候補生として「須磨」乗組となり、
これが海軍軍人として最初のキャリアとなりますが、左はその任命書です。

幾つかの軍艦に乗り組んだ後は艦政本部一本で、最終的に
佐世保工廠長、目黒の技研所長まで務めました。
終戦時にはすでに予備役に入っていたので、戦後の記録はありません。

なお、氏家の妻は千里ニュータウン開発を手がけ、関西大学を移転した
大阪の実業家山岡淳太郎の娘でした。
そのお相手と結婚に際し、氏家大尉はこのような許可証を残しています。




海軍士官が結婚するには、各方面の許可が必要な時代でした。
外国人とも出世する気がないなら結婚できるなんてとんでもない、
家柄がちゃんとしていなければ海軍大臣の許可が下りませんでしたし、たとえば
芸者さんなどと恋に落ちてしまった士官は、結婚できてもクラス名簿から外される、
などという目にあったといいます。

それを避けるために、しかるべき家に女性を養女として迎えさせ、そののち
嫁にするという手続きをふんでなんとか意思を貫く士官もいました。

これは先ほど名前の出たクラスヘッドの氏家長明が大正2年に結婚したときの許可証。
結婚したのはほとんどの士官がそうであったように大尉のときでした。
(大佐中佐少佐は老いぼれでかといって大尉にゃ嫁があり若い少尉さんには金がない、
という戯れ歌にもありましたね)

ほとんど紙が真っ赤っかになるくらいこれでもかとハンコが押してあります。
本人と海軍大臣のもの以外は参謀長、人事、副官、参謀、艦長、副長、主計長、
人事長、そして横須賀鎮守府司令官。

こういうのもきっと本人が紙を持ってあっちこっちハンコをもらって歩いたのでしょう。
わずらわしいといえばわずらわしいですが、その度に「いやおめでとう」などと
冷やかされたりして、それなりに嬉し恥ずかしなイベントだったのではないでしょうか。




こちらはある海軍機関兵曹の履歴書。
佐世保海兵団に練習兵として入団して以来ずっと佐世保鎮守府で勤務し、
終戦間際の6月に9号輸送艦に乗り組んでいます。

ご存知のようにこの頃、輸送艦に乗り組むというのは死を覚悟する戦況でした。
しかし9号輸送艦は竣工以来、幾多の作戦に従事し生き残った武運の強い艦で、
敵潜と戦闘を行いながらも各種輸送作戦を成功させ、戦後は復員輸送に従事しています。

この機関兵曹の履歴に「復員業務」とありますが、おそらく彼は9号輸送艦に
乗り込んだまま終戦を迎え、その後仕事を行ったものと思われます。

復員任務終了後、賠償艦として米軍に引き渡されたのですが、どういうわけか
米国に回航されることなく太平洋漁業に貸し出され、捕鯨船母船として生涯を終えました。

9号輸送艦に乗り組んだこの機関兵曹も、全戦歴を通じて大変運が強かったといえます。



こちらは海軍機関中尉の教育参考表。勤務評定みたいなものですか。
昭和17年7月から18年9月まで駆逐艦「荒潮」に乗り組んでいたようです。

ということは、18年3月の第81号輸送作戦、米軍通称「ビスマルク海戦」
に参加したということでもあります。
このときの「荒潮」は、戦争中の「生と死の分水嶺」をそのまま表すような
運命の分かれ道を経て生き残っています。
ダンビールの悲劇とも言われた反跳爆撃の餌食となり、「荒潮」は艦橋に直撃弾を受け、
指揮をとる士官がいなくなっただけでなく艦橋が無くなったため操舵不能となり、
そのまま最大戦速で給炭艦「野島(未実装)」へ激突、艦首も大破してしまいました。

駆逐艦隊指揮官木村昌福は撤退命令を出しますが、「朝潮」が現場に駆けつけ、
「荒潮」と「野島」の負傷者を移乗させることに成功しましたが、
「荒潮」乗員たちは「荒潮と共に戦って死ぬ」と言い張ってそのまま船に残りました。

そのとき敵機が来襲し、助けに来た「朝潮」が沈められてしまい、
移乗した多くの負傷兵は戦死するという皮肉な結果になります。 

その後、「荒潮」の乗員と「朝潮」の漂流者は、このダンビールの海で
なんなく(なんとなくじゃないよ)生き残った「雪風」に救助され帰国しています。

それにしても、「荒潮」の乗員が船に残ると言い張って移乗でもめていなければ、
もしかしたら敵機の来襲に遭わずに済んだという可能性はないのかしら。

この中尉の評定は

「分隊士の職に対しては日常事務全般に対し常に諸法規に照らし処理し
完全ならしむることに努め、十分信頼するに足るに至れり」

に始まり、大変高い評価を受けているということが書かれています。

この中尉は機関科の中尉ですから、ビスマルク海戦で艦橋の兵科士官が全員戦死したあと
指揮を執るべき順位にいたはずですが、前述のように指揮をした士官はいなかったようです。

機関科士官では操舵はできなかったからということでしょうか。



この資料室のすごいところは、海軍機関学校時代の書籍が本棚に保管されていて、
見ることができるものもある、ということでした。

この棚のものはほとんど機関学校で実際に使用されていた教科書です。

ただし、このときの説明によると、ガラスケースに入らないものは劣化が激しく、
見ていただくことはできない、ということです。
これ、できるだけ早くなんとかしたほうがいいのでは・・(お節介)




海軍機関中将の礼服。
ご存知の通り、機関科の最高位は中将です。
岡崎貞吾中将が着用していたもので、遺族から寄付されました。

「昭和8年の観艦式」の項で、このとき予備役だった岡崎中将が、
奉供艦「高雄」に座乗したときの資料をいろいろと見ていただきましたが、
そのときにあった岡崎中将の写真に写っていたのが、これです。



ガラスケースの上に無造作に置いてあった

「井上成美大将 懇談録音(その1)」

まさか、と思って蓋を開けてみたら・・・・、



なんと!いまどき珍しいopen reel式の録音テープでした。
テープは残っていても再生する機械がないと見た。
ああでも聞いてみたい。井上大将の肉声。

と思ったらあった。このときではなく、兵学校入学式の訓示が。

井上成美 訓示http://youtu.be/yUF9Tmp_GM4


ギターを弾いて歌も歌っていたといいますが、なかなかハリのある美声です。

このテープ、こんなところに置いておかないで、デジタル式に落として
(あ、もうダビング済みですか?ならすみません)こちらは劣化しないように
ガラスケースに入れるとかしたほうがいいんじゃあ・・(お節介)



なぜか伊号第33潜水艦の殉職者の名簿(原本)がありました。
どうしてここにあったのかは説明されていませんでした。



戦時下の最新鋭潜水艦として昭和17年6月10日就役、同年9月、
トラック島泊地で工作艦に横付け修理中、連絡不十分のため、
後部のハッチを開いたまま沈下させ、航海長阿部大尉以下33名が殉職した。

引き上げして修理後の昭和19年6月13日訓練中に沈没。
原因は、給気筒頭部弁に丸太が挟まっていることに気づかず急速潜行したため。
104名の乗組員中、2名が救助されただけで、102名が死亡した。

同艦は沈没9年後、引き揚げられ解体前に調査が行われたが、その際
技術大佐3名が艦内で一酸化中毒により死亡するという悲劇が起こった。

一方、浮揚した潜水艦内部、浸水しなかった部分の遺体は損傷が全くなかった。
9年経っているのに腐敗せず、まるでつい最近死んだかのような状態であった。
原因は、艦内の酸素が全部吸い尽くされたため、腐敗菌が繁殖しなかったのと、
水深61mの深さで温度が上がらなかったためで、いわば無菌で冷蔵庫に
真空保存されているのと似たような状態になったのである。

この写真に付けられた説明の抜粋です。



終戦の勅書のコピー。
おいそれとコピーできるものではないので、コピーといえど展示してあります。



勅書の最後には各大臣の自筆署名が。



そして、一部しか写真に撮れませんでしたが、海軍機関学校卒の戦死者。

「摩耶」パラワン方面
「山城」スリガオ水道
「阿武隈」レイテ湾
「加賀」ミッドウェイ
「霞」キスカ湾
「秋風」マニラ西方
「大鳳」マリアナ海西方

先日ここに展示されていた観艦式の航行図を挙げましたが、
そのときに横浜沖で観艦式の列に並んだ軍艦が、聞き覚えのある戦没海面とともに
戦死した機関将校の名前のあとに書かれています。

仔細に眺めると、右から4番目の花咲茂市という士官の名前の下は

「昭19、6、13 伊三三潜 伊予灘」

となっており、戦死ではなく「公死」、殉職と記されています。



「三笠」の模型ですが、何やらすごく気合が入っている模様。
賞状が見えますが、これは、当時吉田茂が会長を務めていた「東郷会」と
「三笠保存会」が主催して行われた船の模型コンクールに出品されたもの。
努力賞を受けたのは、斎藤正善一等海尉(昭和36年当時)ということです。







というわけで、資料室の見学を終わりました。
廊下に出てきたら、お茶汲み室の暖簾が可愛かったので一枚。




資料室のあった建物の前からまたバスに乗り込み、第二術科学校を後にしました。
門に書かれているのは

「潜水医学実験隊」「第二術科学校」「艦船補給処」
「自衛隊横須賀病院教育部」「横須賀造修補給所」

伊33潜の名簿があったことは「潜水医学実験隊」に関係あるでしょうか。
「艦船補給処」というのをどうしても「ほきゅうどころ」と読んでしまう(笑)
お食事どころみたいでなんかほのぼのしますね。



というわけで、書き割りのような第二術科学校にバスの車窓から別れを告げました。
この見学は、防衛団体の顧問である元海将がお話を通してくれて実現したそうです。

空母「ロナルド・レーガン」、そして第2術科学校では
自衛隊の創設の歴史、そして旧海軍機関学校の資料を見た一日。
この後に行われた懇親会で、元海将が

「今日見たことをできるだけ周りの人に話して、伝えてください」

とおっしゃったので、そのお言葉通りブログで長々とお話してきました。
空母に代表される世界一の海軍の「今」と、帝国海軍、そして自衛隊の歴史、
新しきと古きを一挙に目の当たりにした、実に濃密な「海軍三昧」の一日でした。


終わり 

津南雪まつり

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去年のまだ暑くなる前、いやほとんど1年前に、新潟県の津南町で
年に一度行われる紙提灯をあげるお祭りに参加することが決まりました。
台湾で「平渓天灯(ランタン)祭り」という紙のランタンに火を灯して
皆で飛ばすという行事があることを知り、ぜひ参加したいと思っていたのですが、
タイミングを合わせるのが難しく、ほとんど諦めかけていたのでした。

ところが、なんと国内で同じようなイベントが5年前から行われていることを、
例によってTOが地元の知り合いの方から聞きつけ、ぜひにとお願いして
参加資格の取得をしていただいたのでした。

台湾のランタン祭りは春節の行事で、町の人が一斉に赤い提灯を飛ばすのですが、
津南のランタン祭りは、その発祥に意味はなく、会場は単なるスキー場。
何事も「まつり」というものには起源に込められた意味があると思うのですが、
とりあえずそこまではあまり深く考えていない模様。
しかし、スキー場とはいえ一面の雪の中、ランタンを飛ばすなんて、
それだけで幻想的ではないですか。


問題は雪国に行くための防寒対策です。

わたしは掃海艇に参加したときの防寒グッズを活用できたのですが、
TOと息子は、雪でも滑らない靴や、ゲートル状のカバーや、手袋その他、
モンベルとLLビーンの通販でこの一日のために(ってか半日)一式揃えました。

そして当日朝8時20分東京発の新幹線で、越後湯沢に向かったのであります。



東京もこの日は大変寒かったのですが、わずか1時間半で、
トンネルをくぐったらそこは雪国だった。

と、今思いついて書きながらもしかして、と調べてみたら、
川端康成先生の「雪国」の舞台はなんとここ越後湯沢でしたー!

実際、トンネルをひとつ越えたら、いきなり雪が地面と平行に降っていて、
息子とわたしが「おおおおおお!」と驚いていたら、次のトンネルでは
雪がやんでいたり、とにかくトンネル出るごとに様子が違ってるんですよ。
あらためて文豪とは凄い文章を書くものだと感心しました。



それにしても都会から1時間、トンネルを越すだけでこの変化。
かつて新幹線の越後湯沢近辺が都会から近いスキーリゾートとして
バブリーに持て囃された(わたしをスキーに連れてっての時代)のも、
この近さが大きな理由だったのでしょう。



駅から津南に向かうバスの中、わたしと息子は早速雪景色を撮りまくります。
彼はiPhoneで、わたしは、iPadで・・・。

Nikon1はいったいどうしたんだ、とおっしゃるあなた、聞いてくださいまし。
いつも旅行には必ず転がしていくヴィトンのキャリーバッグには、
ちゃんと各種レンズとカメラ本体、コンデジはバッグに入れて持っていたのです。
ただしSDカードの入っていない状態で。

現地に入る前にどこかの駅のコンビニでSDカードくらい買えるだろう、
何しろ越後湯沢は都会人のリゾートだし、と甘く見ていたら、
新幹線駅のコンビニにはAppleのギフトカードはあってもSDカードはなし。
一応津南の「ニュー」のつく名前のホテルの売店の人に聞いてみたら、

「山を降りて国道まで出ていただくしか・・」

と予想通りの返事をされました。
コンビニが街角ごとにあって各種ギガのSDカードが買えるなんて、都会だけ。
このことを知っただけでも貴重な教訓となった今回の旅行でした。

そういえばこれと全く同じことが去年丹後地方の旅行であったような気もしますが、
まったくその教訓が生かされていなかったと知ったのも今回の教訓でした。



しかし、その時にも同じことを書いたのですが、
iPadでもなんとなく、そこそこ普通の写真が撮れてしまうんですよねー。





これなど、走るバスの窓から撮ったわりには、なかなかですよね?



撮る場所によってはこんな写真も。
iPadがそれなりに役に立っているのは喜ばしいけど、
それだけに、カメラ一式を入れたキャリーの虚しい重さが堪えます。



越後湯沢から津南まで、車で1時間少々という感じでしょうか。
ホテルのロビーからなんとスキー場に直結。
というかホテルの前が、そのまんまゲレンデです。

今日のランタンフェスティバルは、このホテルの前で行われる模様。



ホテルロビーの真ん中にあった「つるし雛」。

「もっともたくさんのぬいぐるみ(11,655点)を使った世界最大のディスプレイ」

としてなんとギネスブックに載っているそうです。
それがどうしたって感じですが、そもそもギネスレコードというのが
「それがどうしたの集大成」みたいなものだしな。



これが雪まつりのポスター。

客室はチケット販売の日から満室で、駐車場代はフェスティバル参加込みで
5,000円というものが半日で完売してしまったそうです。
そしてこの当日には駐車場の権利が4万円で取引されていたとか。
転売目的で手に入れオークションで売る、観艦式の乗艦券と同じ構図ですね。 

このランタン祭りの「元祖」はタイのコムローイという祭りだそうですが、
有名になったのはディズニーの「ラプンツェル」のアニメだそうです。

観てない方、忘れた方、これでどうぞ。

TANGLED - I See The Light [Official Movie Scene][HQ]


冒頭のポスター風のものは、このビデオの一シーンのようですが、
実は息子がiPhone6で撮って加工した画像にロゴを付けたものです。


津南のランタン祭りは最初にも書いたように5年ほど前からごく小さな規模で始まり、 
最初は街だけのイベントだったのが、ツィッターで急激に広まり、
特に今年の参加人数は、去年と比べ物にならないくらいになりました。

このポスターに書かれているニューグリンピア津南というホテルの
前の広いスペースでやることになったのも、最近だそうです。

さて、このホテルに到着したのは11時。
ホテルは1時に部屋に入れることにしてくれたので、お昼を食べることにしました。



食券式のラーメン屋さんがあったので、担々麺を頼んだら、
こんな真っ赤っかなものが出てきました。

「あ・・・赤い」

恐る恐る食べてみると、辛い、辛すぎる。
担々麺ってこういう唐辛子汁みたいな辛いものだっけ。
あまりに辛そうに(つらそうと読んでね)食べているのを見かねて、
普通のラーメンを頼んでいたTOが交換してくれました。



トリハムのポスターの鳥さんがサムアップしております。



こちらも。なかなかの絵心というか画力についシャッターを切りました。



部屋に入るまでまだ1時間あるので、外に出てみました。
土曜日ですが、スキーしている人はそんなに多くありません。
ちなみに積雪量は例年に比べ3分の1くらいしかなかったそうです。

豪雪地帯として有名なこの地方ですが、降る年で9mいくこともあるのに、
今年はせいぜい3mなのだとか。
このホテル前の景色も、「去年と全然違う」ということでした。



ポスターにある「SNOW WAVE」は、スノボの大会。
雪まつりとコラボして行われていました。
テントではDJがノリノリの音楽をやっていましたが、
(どうもスノボでは音楽があるのがディフォルトらしい)
息子は去年からコンピュータで作曲をしていて、DJについても詳しく、

「今のミックスのつなぎ方、かっこいい!わかる?」

などと、賛同を求めていました。(わたしの返事はいつも”へーそうなんだー”)



さすがにこういう写真はiPadでは絶対無理です。
あーせっかく望遠レンズ持ってきてたのにな。
ちなみに、この様子を”白レンズな人たち”が二人くらい撮っていました。

スノボの試合には普通なのかもしれませんが、下で解説者が跳躍ごとに
説明を行っていまして、このノリが実に軽い。

「おーっと、今のはハーフパイプかあ?!」「いえ〜、決まったッ!」

みたいな(ほとんど)感じ。

 

こういうのを望遠レンズで撮りたかったのよ・・・・。

後から関係者の方に聞いたら、鎖骨骨折で救急搬送された選手が一人いたそうですが、
もしかしてこの人だったのかしら。

この日の夜、ランタン飛ばしのあと、このジャンプ台に登ってみましたが、
ジャンプするところが二段になっていて、スロープの傾斜は上から見たらほぼ垂直。

よくこんなところを飛べるものだと背中がゾクゾクしました。
ちなみに選手の中には15歳の少年もいました。



会場ではいろんな楽しみが用意されています。
雪の上を走るスノーバイク体験。
このほか、スノーモービルの体験乗車や、スノーーモービルがけん引する
バナナボートに乗るコーナーなどがありました。



ん?なんか雪で作られた山があるぞ。



前には雪で作られた灯籠が並べられています。



なんと、かまくらの「神社」でした。
鳥居をこんな風に作って・・・・おもわずいいのか?と思ってしまいましたが、
HPを見ると、どうやらご祭神をいただいたちゃんとしたもののようです。

 

縁結びの神ということで、なぜか入り口にはハート型の目口をした雪だるま。
このハート型の目がさり気なくキモい。



こちら御本尊(絶句)

御本尊の周りのタイヤ状のものは実は龍のお腹だったりします。



申年ってことで、龍にしがみつく猿の親子。
かまくらの内壁に彫刻されています。



ぶら下がっているお猿さんも。



灯籠から覗いた「女雪だるま」。
いろいろと微妙な「神社」ですが、まあしょせん観光地の客のための、
つまり雪が溶けたら溶け去ってしまうものということで。



ホテルの部屋で時間を潰し、ホテル内のレストランに行ったら、その階の廊下には
まるで難民キャンプか観艦式の護衛艦甲板のように人が座り込んでいました。

ホテルに泊まっていない人は、まずプレミアム駐車券5000円(ランタン付き)を
半年前に買うか、普通の駐車券を予約して、その駐車券の下番号が
「あたり」であれば、ランタンを1000円で購入しなければなりません。

このために、イベント開始の前に会場にきた人は、用事が済んだ後
いつまでも外にいるわけにいかず、ホテルのレストランにでも行こう!となるのですが、
どっこい、この日のホテルは宿泊客しかレストラン利用ができませんから、
皆しかたなくロビーか廊下で時間を潰していたのでした。

しかし、参加人数が急激に増えたのは今年からなので、
主催者もことそのような状況になるとは、全く予想していなかったということです。



外に出てみると、テントで抽選で当たった人にランタンを配っていました。
壊れやすく、濡れると飛ばないので、会場ではランタンを開けるのは
飛ばす直前にしてください、となんども注意がありました。



ちなみにうちの家族はホテルに泊まる権利を得た時点でランタン一個確保。



スノボのDJブースがあった所の横には、ステージが組まれ、バンドが
交代で演奏をしていましたが、スキーとかスノボとかのウィンタースポーツが
いつのまにか(わたしが最後にスキーをしたのは大学生の時)
レゲエっぽい雰囲気をよしとするイベントになっていたことを改めて知りました。

ロックでも、Jポップでもなく、「レゲエ」なんですよ。

写真は、バンド演奏の後でてきて挨拶をする運営の偉い人。
割とみんな聞いていませんが、わたしはちゃんと聞いていましたよ?
「ふるさと納税」に米どころで農作物の生産が盛んな当地を
お願いいたします、みたいなことも言っておられた気もします。
 


いよいよイベント開始の時間が近づいてきました。
打ち上げは全部で三回行われ、わたしたちは二回目にあげます。

冷たい雪の上に人々が集まり出し、皆の熱い期待がふくらんでいきます。


続く。


津南雪まつりでランタンを上げる

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台湾のランタン祭りやコムローイに行かれた方、あるいは「ラプンツェル」の
"I see the light" のクリップをご覧になった方は、ランタンが一斉に上がったときの
あの幻想的な光景をご存知だと思いますが、ここ津南のランタン祭りは
あの空を埋め尽くすランタンとは少し違う、しみじみしたものです。

つまり規模が小さいということなのですが、さらにその打ち上げを3回に分けて行うのです。
これにはいろいろと運営の事情などがあるらしいということがわかりました。



打ち上げは何時何分から、ときっちり決まっているので、それまで皆は
ゲレンデに出ている屋台のものを食べたりして過ごします。

食事の後にもかかわらず、お祭りの雰囲気に弱い息子が「何か食べたい」というので、
このスモーク屋で何か買ってやることにしました。



スモークチキン。
この一角はいわゆる”てきや”とか香具師とかの店でした。
今時はインド人の香具師もいて、「ケバブロール」の店を出していました。



ここでも運営の指示により、1と2にグループ分けされた人々は、
ゲレンデの上がグループ1、下に2と場所まで決められてそこで待ちます。

わたしたちはグループ2なので、この辺りで待つことにしました。

「歓迎」のライト付近を見れば、細かい雪がひっきりなしに降っているのがわかります。



ところでわたしはこの日、手持ちのモンクレーのダウンブーツを履いていました。
このブーツ、暖かいことは暖かいのですが、雪仕様じゃないのでもう滑る滑る。
皆が踏み固めてツルツルになった坂を下るときなど、命からがらでした。

で、ここにもちらほらいた、「10センチヒール女」。
ディズニーランドならば愚挙でしかないこの「勘違いお洒落」ですが、
ここでは、ヒールが雪にアイスピックの役目をして機能していることが判明。

札幌のススキノのお姐さんたちは冬場も皆ハイヒールで闊歩している、
という噂がありましたが、たしかに靴底さえ滑り止めをしていれば、
わたしの「なんちゃってスノーブーツ(都会仕様)」よりはよっぽど安全かも。



いよいよカウントダウンが始まろうとするとき、会場上空に
ドローンが現れました。
上空からランタンの打ち上げを撮影するようです。



打ち上げ前、ランタンに点火が行われます。
人々の間にバーナーを持った運営のボランティアが待機していて、
手際よく周りの人のランタンに火を点けていきます。



ランタンは紙でできていて、濡れると飛ばないので、
指示が出てから外側の包装を外して軽く振ります。

関係者の方が、

「だから天候次第なんですよ。雨もだめだし吹雪はもっとだめ。
今まで中止になったことが1度あります」

とおっしゃっていました。



中に火が入ると、ランタンはこのように立ちます。
あとはカウントダウンを待って一斉に手を離すのですが、
必ずフライングで早くあげてしまう人がいます。

手を離してしまったのか、それとも一番乗りするためか。



灯のともるランタンを皆が捧げ持ってそのときを待つ様子は、
まるで真摯な祈りの光景のようです。



周りでも次々にランタンが放たれていきます。



わあっと皆の間から歓声が上がりました。



ランタンを持って記念写真を撮ってから、という人ほとんどなので、
なかなか一斉にというわけにはいきません。
子供にはこれいい思い出になるでしょうね。



左の人はランタンを袋から出して中に風を入れています。



子供だけでランタンを持たせてやるご両親。

「まだ離しちゃだめよ」




ランタンが上がっていく様子は台湾やコムローイほどではないとはいえ、
大変感動的なものでしたが、いかんせんiPadのカメラでは焦点を合わせることもできません。



というわけでこの動画をどうぞ。



どうして一斉に打ち上げを行わないのかというと、それには切実な理由があります。
会場の人が一斉に帰路につくと、シャトルバスや車に人が殺到することになり、
大変な混乱になってしまうので、時差を設けているのです。(多分)

まあ、時差は30分もないので焼け石に水って感じでしたが。

アレンジしてくださった地元の方が、どこからともなくランタンをもう一つ持ってきて、

「三回目のスタッフによる打ち上げの時に上げてください」

とくださったので、わたしたちはゲレンデをスタッフとともに登って行きました。
ちょうどお昼、スノボの試合をやっていたスロープの所まで上がってきました。
つるつる滑る靴底でここまで来るのはたいへんでしたorz



せっかくなので息子とランタンを持ち、放すところを撮ってもらいました。



赤いランタンはスタッフ専用。
スタッフも近隣からわざわざやってきたボランティアなので、
いわば「役得」として最後にランタン打ち上げの権利があるのです。



わたしがこのランタンを撮っていると、山の向こうで・・・



花火が打ち上がりました。
あとで中の人がおっしゃったところによると、

「サプライズなので花火を打ち上げることはアナウンスしなかったんです」

花火を上げるということを言うと、みんなそれを見るために残ってしまうので、
あえて隠していたんだと思うな。



せっかくなので「スノボのジャンプ台」まで登ってきました。
ここから飛び出してほぼ地面と垂直の斜面に着地するなんて、信じられません。



上げてしまったらもう終わりなので、精一杯粘って楽しむ人も。



ジャンプ台の上から見下ろした斜面でも、まだ上げていない人が一杯です。



部屋に帰る前に、案内してくれた方が「知り合いがやっているお店に行ってあげましょう」
とおっしゃるので、そこでカレーをいただきました。
白いのはホワイトソースで、キーマカレーの上にかかっています。

このお店は、テキ屋さんのと違って、農作物などを宣伝する目的で
地元の人たちがやっているものの一つでした。
津南の名産品、甘い甘い人参が溶かさずに乗っているというカレー。
そしてご飯。なんといってもここは魚沼産コシヒカリの産地です。
お腹が空いていたら全部食べられたのにと残念に思うくらい美味でした。

「最初は全部テキ屋の屋台だったんですが、やっぱり地元の産物を
アピールする機会だろうということで、店を出すことにしました」

カレー屋さんの隣の汁物のお店は、商売っ気もなく、

「お金いりませんから飲んで行ってください」

と通りがかりの人たちに振舞っていました。



次の日のホテルの朝食を食べたレストラン。
この時初めて気づいたのですが、天井のいたるところに
ランタンが飾ってありました。
「思い出にどうぞ」ということで一つ1000円で販売していましたが、
ランタンは中国から一つ100円で仕入れているのだということです。
(原価は多分5円くらい?)



きのう打ち上げが行われ、お店が並んでいたところは綺麗に片付いていました。
スノボのジャンプ台もスキー客のために壊してしまうのかもしれません。

こういう仕事は、地元の土建屋の出番だそうです。
雪国の土建屋さんは冬になると仕事がなくなるので、雪かきと雪で設営する
こういった競技用の台を作るのが主な仕事になるのだとか。



あ、転んでる人がいる(笑)




まるで祈りを捧げているようなと言いましたが、この雪まつりは3月12日に行われました。
東北大震災の次の日にあたります。

ここ津南町では当日震度6を記録し、人的被害こそ45人に止まりましたが、
それでも地崩れ、地滑りによる住家及び非住家の被害は、全壊34棟を含む
計2,698棟というものでした。

全体の被害があんなに大きくなければこれだけでも大災害のレベルです。

毎年3月11日に雪まつりを行うことができるわけではないので、
ポスターや宣伝には震災の慰霊というようなことは謳っていませんが、
このように震災復興のメッセージを書き込んだ人もいました。

先日、駐米日本大使館が、アメリカの震災に対して行った「トモダチ作戦」
をはじめとする有形無形の援助に対し、謝意を表すメッセージをアップしました。

Embassy Of Japan In The USA  Message Letter 

この後半に、津南のランタンの写真が使われています。

「震災」「慰霊」などと声高にいわずとも、夜空を高く登っていく灯りが、
亡き人たちの霊を慰めるものであれかしと祈る気持ちは、
そこにいた多くの人々に共通するものであったと思います。






 

”CAT SHOT” 空母「イントレピッド」

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「イントレピッド」のハンガーデッキに入って一番先に目につくのがこの模型です。

プリーズドゥーノットタッチ、と言われなくても手が届きません。
あ、触っちゃいけないのはこの周りのフェンスのことかな。


空母を博物館にしている西海岸の「ホーネット」は、
オリジナルのラッタルを使い、館内に入場する仕組みになっていますが、
ここニューヨークの「イントレピッド」博物館は、空母の外側、
少し離れたところに階段だけの塔を併設し、その渡り廊下を進むと
そこが甲板、という作りになっています。

イントレピッドの見学についてお話しした時に、艦載機というか、
甲板の展示飛行機から解説を始めたのはそのためで、すべての見学者は
甲板からツァーを開始するということになっているのです。

それを見終わった後、選択肢は三つ。

1、艦橋
2、艦内
3、特別に作られたスペースシャトルのコーナー

この順路はどのように行ってもいいですが、あまりに広大な博物館は
見るところが多すぎて、見学には丸一日かかってしまいます。
わたしたちは先日お伝えしたように艦橋を見学し、ついで
甲板に一旦出てからこんどは甲板の下のハンガーデッキに行きました。


ここではこの空母「イントレピッド」そのものの紹介をするコーナーがあります。

「イントレピッド」が最初にハドソンリバーに博物館として展示されたのは1986年ですが、
2006年、ここ86番桟橋、ピア86が老朽化のため改装する際一度移動しています。
もう自走できなくなっているため、6隻のタグボートで曳航を試みたのですが、
長い間に蓄積した泥にスクリューを取られて動かすことができませんでした。



そこで周りを浚渫(しゅんせつ)し、艦体はドライドックに移されました。
ピア86の改修が完成した後、ここに戻されたのですが、問題となったスクリューは
取り外してしまって、館内に展示されています。







大口寄付のスポンサ企業も、ちゃんと目立つところに名前があります。
「ミューチュアル・オブ・アメリカ」はアメリカではよく聞く相互保険会社です。
メイシーズは古くからの老舗デパートで、ボストンの独立記念日の花火大会スポンサーなど、
目立つイベントにはよく名前を見受ける企業。

そして、上から二番目、あのリーマンブラザースの名前が・・・・。

リーマンショックが2008年、イントレピッド博物館改修が始まった頃には
まだサブプライムローンの焦げ付きも始まっておらず、ブイブイ言わせていた時代。
社員が避暑地にクルーザーなど持ち、毎週末はセレブパーティなどと言われていた頃です。

しかし、世間で言われていましたが、リーマンショックの直接の原因って、
韓国政府筋の銀行が株取得をいきなり取りやめたことだったのですね。
日本では報道されなかったので「韓国が原因」って、いったいなんなんだと思っていました。



イントレピッドの進水式で派手にシャンパンの瓶が割られる瞬間。
この写真を撮ったカメラマンすごい。

「イントレピッド」intrepidを辞書で引くと、「恐れを知らない」「勇敢な」
という文語であることがわかります。
この名前を持つアメリカの軍艦は全部で4隻。
もちろんここにある空母「イントレピッド」がその最後の名前を持つ船です。

一番最初に「イントレピッド」と名付けられられた船は、バーバリー(トリポリ)戦争の時、
1801年にリビアにある王朝とアメリカとの戦いに投入されたものです。

二番目は1874年スチームエンジンで、三番目は海軍の水兵の住居として使われていました。



さすが空母だけあって時鐘も大きい。
時鐘とは、以前「大和の時鐘」で説明したことがありますが、
船の上でも時間の経過がわかるように30分おきに鳴らされる鐘です。
鐘の一打を「・」で表すとすると、
 
0:30 ・  1:00 ・・ 1:30 ・・ ・ 2:00 ・・ ・・  2:30 ・・ ・・ ・ 3:00 ・・ ・・ ・・ 3:30 ・・ ・・ ・・ ・ 4:00 ・・ ・・ ・・ ・・ 


これがワンセットで、4:30にはまた一点鐘から始まるのです。
これもなかなか奥が深くて、一巡してくるとまた「・」から始まるのですが、

 16:30 ・ 17:00 ・・ 17:30 ・・ ・ 18:00 ・・ ・・ 18:30 ・ 19:00 ・・ 19:30 ・・ ・ 20:00 ・・ ・・ ・・ ・・

1830、1900、1930、この赤字の鐘の数がここだけ変則なのです。 

ちょうどこの頃が気の緩みなどで、船にとって事故が起こりやすいんだそうですね。
というわけで本来5点鐘のところ、1点鐘にすることで

「まだ当直任務は始まったばかり」

と気を引き締めるためだそうです。
アメリカ海軍でも同じようなことをしているのでしょうか。



ここにもあった特大模型。
こちらは1943年に就役してから、戦時中に運用されていた時の再現モデルです。

「イントレピッド」は大戦時、常時90から100位の航空機を艦載していました。
F6F「ヘルキャット」、SB2C「ヘルダイバー」、TBF「アベンジャー」などです。

昇降機は、当時3つあり、そのうち一つは船のデッキのエッジに、あと二つは
センターラインに当たるところに位置していました。



そのうちの一つが、この部分です。

艦体の色は当初ブルーグレーにペイントされていました。
また別項でお話ししますが、フィリピンで海軍の特別攻撃隊の突入を受け、
多大な被害に苦しめられてから、艦体をカモフラージュの「ダズル・グレー」に
塗り直したあとが、この模型のカラーです。

日本の特攻隊員の目にはあまり関係なかったと思いますが・・。



ステージに誰か立ってお話ししているのに、後ろで喋っている人がいるー(笑)

この模型の置いてあるあたりは「ハンガー1」というのですが、乗組員は
何か催し物がある時にはここに集合しました。
先日、このステージの使用例をいくつかご紹介しましたね。

奥のステージのように見えているのは、艦載機のエレベーターです。
そしてここに見えている飛行機は手前がF9F-8「クーガー」、
奥のヘリがパイアセッキHUP/UH25「レトリバー」です。

写真は1958年に撮られたものだということですが、この頃まだ
人権を認められていなかった黒人兵が白人の中に混じっています。
海軍では世間一般ほど人種差別はなかったのでしょうか。



「航空機の着陸とはコントロールされたクラッシュ(墜落)である」

とそういえば昔飛行機の専門家という人に聞いたことがあるのですが、
実際に艦載機に着陸する時に、飛行機は2秒間の間に241kphから0に減速します。

それを可能にするのはアレスティングケーブルとテイルフック。
最初にこれに挑戦したパイロット、ユージン・エリーはこの事故で亡くなりましたが、
それらが改良されたあとも、着艦の事故は幾度となく起こりました。


着艦の際の事故を少しでも軽減するために、いろんなシステムが考えられました。
このオプティカル・ランディング・システムもその一つです。 

ホーネットのシステムは去年確か甲板上にあったと思うのですが、今年は見ませんでした。
甲板上にあるとそう大きく見えないのに、こうしてみると巨大です。 



日本海軍では採用されなかった着艦システム。管制うちわ。
正確にはなんていうのか知りません。
左下の書物には、このうちわマンの動作の意味が図解で示されています。



うちわマンのうちわ管制お仕事例。
ノリノリである。


「機動部隊」という映画についてお話ししたことがありますが、
ゲーリー・クーパーが演じた主人公の海軍軍人が、「ラングレー」という母艦に
必死の思いで着艦訓練していたのを覚えておられますでしょうか。
この「ラングレー」がCV-1、つまり海軍最初の航空母艦です。

この航空管制「うちわ」の横にはそんな説明が書かれているのですが、
興味深いのは、

航空母艦ができるまで、海の上の武器は船であったが、
艦隊戦の時代は終わりを告げ、艦載機による航空戦の時代がやってきたことを
「最初に真珠湾攻撃が証明した」

と書いてあることです。

それだけでは沽券にかかわるのか、ミッドウェイ海戦も付け足してはいますが。
そういえば映画「機動部隊」では、主人公のクーパーが大鑑巨砲主義の海軍上層部に、

「日本軍の攻撃は、これから艦隊戦は航空機の時代であることを教えた」 

みたいなことを言っていましたっけ。
もしかしたら真珠湾攻撃をやった山本五十六っていわゆるひとつのパイオニア?  

そういえば東京裁判でも、同じ海軍軍人として真珠湾攻撃を称賛すると言う言葉を
永野修身にわざわざ伝えたアメリカ軍人もいたと言いますね。




キャットショット。猫撃ち?

昔ペルシャとエジプトが戦争になった時、ペルシャの軍隊が盾に猫をくくりつけて、
猫を神の使いとするエジプト兵が攻撃できなくするというものすごーく卑怯な
防御法を編み出し、実際にそれで勝ったという話もあった気がするけど関係ある?


キャプションには、

1954年、インテレピッドからカタパルトで離艦遷都する
ヴォート7FU3「カットラス」の周りからはスティームが立ち上っている

と書かれてあるだけ。
これは「カタパルト( catapult )」のCATで猫は関係なかったのでした。

そういえば、先日見学した「ロナルド・レーガン」の管制士官が、なにかというと
「キャッツ」「キャッツ」と言っていましたが、こういう風になんでも
略して発音するのは、帝国海軍の伝統を引き継いだ海上自衛隊だけではなかったのね。 


続く。

 

三人のデブ男、大自然に挑む ”FAT GUYS IN THE WOODS”

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1月末に多分インフルエンザにかかっているのにアメリカにわざわざ行って、
その大半を部屋で寝ていたときに見た番組を今日も紹介します。

アメリカ行きのご報告の時にもちらっと書きましたが、
三人の太った男が大自然に挑むという誰得チャレンジ番組、

「FAT GUYS IN THE WOODS」。



一週間で人生が変わる、とか字幕が付いてますが、つまりは、
日頃カロリー消費量を上回るだけ食って、その結果脂肪を溜め込んだ男たちを、
厳しい自然にサバイバルさせて根性を叩き直す(たぶん)というのが
この番組のキャッチフレーズ。

以前、夏にアメリカでやっている「ネイキッド・アンド・アフレイド」という
破天荒のチャレンジング番組をご紹介したことがあります。



ネイチャー系の、ナショジオチャンネルとか、このウェザーチャンネルなどでは、
この手の大自然に挑む系が過去たくさんありました。
白髪をおさげにした男が、頼まれもしないのに山の中で穴を掘ったり蛇を食べたり、
といったサバイバルものをすっかり見慣れてしまったアメリカ人にとっても、
この、「見ず知らずの男女が一糸まとわぬ姿でサバイバル」という企画は
一大センセーションであったようです。

昨年の夏は、この人気にあやかって柳の下のドジョウを狙ったらしい
なんとも言えない不愉快な番組を見つけました。

題名は忘れましたが、最初から一糸まとわぬ姿で男女が出会う「マッチング」番組です。
海辺のロッジが一軒与えられ、そこで三人の男、三人の女がいきなり
全てを見せ合うところから始まって、さて、誰がカップルになれるでしょうか、
という、18歳以下は視聴禁止(とはなっていないのが恐ろしい)番組。


つまり「ネイキッド」からサバイバルの部分を抜いた企画です。
一応写真は撮ったのですが、あまりに下品すぎて、ここで
写真をあげて内容を説明するのは憚られる番組でした。

全部を見たわけではありませんが、アメリカのテレビ番組は
その下品さにおいて下を見ればきりがありません。 



そんななかで、この「ファットガイ」はむしろ健全すぎるくらい健全です。
普通すぎて謎です。
なぜ太った男なのか。なぜ三人なのか。


調べてみたら2014年に始まったらしいので、すでに3年目を迎えているのです。
もしかしたら夏しかアメリカにいないわたしが知らなかっただけで、
ここでは結構人気がある番組だったのかもしれません。




太古の昔、人間が狩りによって食べ物を得ていたというところから
本番組のタイトルは始まります。




食物連鎖のトップにいる人類は、今やその座に甘んじて?
肥大したお腹に悩むようになった・・・・・・・

って、そりゃあんたたちアメリカ人だけだろっていう。



「思い出すが良い。我々は打たれても立ち上がった。我々は強かったのだ。
文明に飼いならされて、すっかり牙を抜かれているものたちよ」

そして、

「カウチから降りて、ポテトチップスの脂をスェットパンツで拭き(笑)
そして大自然の声で目覚めようではないか」

と続きます。



というわけでカウチから降りてきたデブ三人。
この姿を見てわたしはたちどころに
「なぜデブなのか」だけは理解することができました。

大抵この番組は凍りつくような雪山で行われるため、
万が一のために脂肪を溜め込んで保温力のあるデブを出演させることで
番組はリスク回避というか、保険をかけているのです。(たぶん)



まず集められた三デブは、「師匠」であるナビゲーターに会うため、
ある程度の苦労をすることを余儀なくされます。

今回は、この大きな氷柱の立つような洞窟を抜けたところに、
その「師匠」がいる、と聞かされ、



立って歩くこともできない難所を越えていくのでした。
ただでさえ日頃から運動に無縁なデブたち、もうここで青息吐息です。



氷柱がまるでオブジェのように立つ洞穴の出口に人影が。
これは一体誰?



この人物が、当番組の「サバイバリスト」、クリーク・スチュアート。
クリークは、14歳の時にイーグル・スカウトになっています。

イーグルスカウトとはアメリカのボーイスカウトにおける最高位の章で、
21以上のメリットバッジ、技能賞を持っていなくてはいけません。
つまり、ボーイスカウトの中でも特別な存在です。
所持者は特別な奨学金を利用できるほか、ときには大統領晩餐会にも招待されるなど、
大変名誉とされている地位なのです。

そんな人ですから、サバイバルにかけてもプロフェッショナル。
現在、そういった自然での知恵を伝授するため、インディアナ州に
サバイバルロッジを持ち、そこで体験指南をしているそうです。

冒頭写真は番組宣伝のHPでポテトチップスに火をつけるクリーク。

ちなみに、番組中この写真のように、「サバイバル豆知識」が字幕で現れます。
たとえば「サバイバルの時にクリークはウールとレザーを着用する」とありますね。

確かに、ダウンジャケットでただでさえデブなのに1.2倍くらいに膨らんでいる
参加者に比べると、クリークは異様なくらいの薄着に見えます。
慣れているのか、他にサバイバリストならではの理由があるのでしょうか。

ところで、この斜めに着る形のスヌードというかマフラーは、
なかなかおしゃれで素敵だと思いました。
こんなの売ってたらぜひ欲しいけど、多分手編みでしょう。



お互い挨拶が終わったあとは、これからのサバイバルについて
さんざん脅かされるというか、予告を受けます。
神妙な顔でそれを聞く三デブ。



華氏34度というのは摂氏1度のことです。
昼間でこれですから、夜には確実に零下になるでしょう。
まず常緑樹の葉のついた枝を集めて仮眠所を作ったあとは、
火を起こすことを始めねばなりません。



クリークはどんな状況でも確実に火を起こす方法をいくつも知っており、
適宜デブたちにそれを指南します。



二本の立木にかけたベルトでどうにかしてどうかすると、
木と木が人力でするより早くこすり合わせられるということみたいです。



木の幹に火を起こす木を挟み、ベルトで回転させて発火させる方法かな?



「あまり強くこすり過ぎない方法がいいよ」

などとアドバイスをしているうちに、



木切れから煙が出たので、それをおが屑のようなものに移して
みんなでフーフー吹きます。

punky wood、パンクウッドともいいますが、森の朽木から採れる
(幹を蹴飛ばしたりして採る)木屑のことをこういうようです。
簡単に火がつくので、サバイバルには欠かせません。 (豆知識による)



どうもクリークは、人に呼びかける時にいちいち「MAN」をつける癖があるようです。
もっと吹いて火を起こせ、と言っております。



やったー!
ついに火を起こして焚き火をすることができました。
「You sucker」と言っていますが、サッカー=おめでたい人、と、
ふうふう吹く、の反対で「吸う」をかけているのかと思われます。
日本語に翻訳しても何が面白いの、ってことになっていまいますが。 



さて、次はお待ちかね、何かをお腹にいれる時間です。
これまでカウチポテトしてきた歴代のデブたちが、この番組で食べさせられたのは

大カブトムシの幼虫
木のラーメン:トナカイモス(ハナゴケ)
フクロネズミ
ローストしたミツバチ
野兎
どんぐりの粥
皮をむいた蛇
アヒル
エルサレムアーティチョーク
ウズラ
ガマガエル
ワイルドベリー
ローズヒップベリーティー


まあ、全然オッケーなものもたくさんありますよね。
特に最初から料理されていさえすれば。

問題は自分でそれを獲って、殺した獲物の皮を剥いで、
焚き火で炙ったりするというそのプロセスにあります。


今回、カウチポテトの代わりに彼ら三デブに与えられた
自然の中の食べ物とは、なんだったのでしょうか。


後半に続く。 

 

「その後」のファットガイ〜FAT GUYS IN THE WOODS

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YouTubeから「FAT GUYS IN THE WOODS」の宣伝を探してきました。
どうも彼らが仕掛けた罠にはウサギがかかっていたようですね。

無邪気に喜んでいますが、この後殺したウサギの皮を剥ぎ、
捌くという、日常ではためらわれる作業が待っているのです。
しかし、この極限(っても1週間ですが)状態では、ウサギが獲れるなんて獲れるなんて
それだけでも彼らにとってはご馳走の期待で唾さえ出てくる体験だったでしょう。

サバイバル体験が価値観を変えるとすれば、それはきっと食べ物です。

前回、かつて番組で登場したサバイバルメニューによると、
普通にアメリカで暮らしていたら一生食べなくてもいいもの(皮を剥いだ蛇とか幼虫)
をも、口にせざるを得なかった三デブがいたということになります。

それを思えば、本日の三デブはとりあえずいい出だしと言えましょう。
クリークが提案したのは、周りにサトウカエデの木がたくさんあることから、
幹から樹液を採って、それを火で煮詰め、メープルシロップを飲むことでした。 



うーん、これなら是非やってみたい。

カナダで「メープルまつり」というのに行ったことがあります。
敷地一帯で伝統的な手法でメープルを採取して、それを雪の上で固めたのを食べたり、
食堂ではメープルシロップを使った料理を食べたり、という
アメリカではしたことのない楽しい体験でしたが、このメープルシロップ、
その時も見たように、木に穴を開けておくとそこから樹液が出てくるので
それを木に入れ物を縛り付けて受け止めて集めるのです。


ここでデブたちが驚いたのが、採れる樹液の少なさです。
一般にメープルシロップを作るためにはその40倍の量の樹液が必要といわれ、
ここでも散々時間をかけて貯めた樹液も、ほんの一口にしかなりませんでした。



とても4人の男が満足するほどのシロップが採れるはずもなく、
少しの樹液を煮詰めて、周りにこれはふんだんにある雪を溶かして
薄めた甘いお湯を飲むという感じです。


それでも、デブたちが一口飲んで感慨深げにいうには

「甘い!」「甘いよ!」

もっともっとドギツイ甘さのケーキやドーナツを食べてきた(に違いない)
デブたち、今までの生活なら「味がしない」と言い捨てたであろう
自然の甘みの付いたお湯を、まるで甘露のように味わっております。




「regurgitate」というのは「一度口に入れたものを戻す」と言う意味ですが、
一度に飲み込んでしまうのがもったいないので、口の中から出して
反芻しつつ味わっているというかんじでしょうか。

それほどまでにこのメープルシロップ(の混じったお湯)は
彼らにとって貴重でありがたいものであったのでしょう。



「メープルシロップがこんなに美味しいとは」

と感激しております。

今までスーパーマーケットで買ってきて、パンケーキにガバガバ掛けていた
メープルシロップは、大変な過程と苦労を経て製品になっていたことを知り、
またひとつ、感謝する気持ちを学んだのです。

それだけでも、参加した甲斐があったというものですよね。(適当)



一行は行きに通ってきた洞窟をもう一度抜けることにしました。
肘と左足を傷めてしまって辛い思いをしたようです。



そのとき、洞窟のどこか、あるいはこの上の方でものすごい音がしました。
どうも近くでクマが冬眠しているようだ、とクリーク。
大慌てでその場から脱出を図ります。



サバイバリストであり彼らの指導役のクリーク・スチュアート。
前回にも言ったように、彼はプロのサバイバリスト(サバイバーではない)で、
自然に身を置いたときにいかに生き抜くかを熟知しています。

ここでは、「もしこの火が消えたら、わたしたちも死ぬよ」と
割と当たり前のことを言っております。
そして、そのためには、乾いた木を見つけることが重要だ、と。




メープルシロップはよかったのですが、ろくな獲物が捕れないうちに
不幸にしてクリークが虫を見つけてしまいました(笑)

死んだ気でそれを食べる(この写真じゃなかったかも)デブ1。
もう、世界の終わりのような顔をして、

”Oh, that was gross! "

とか言っております。
この「gross 」は、日本語で言うと「キモい」という感じです。

ちなみに「醜いほど極端に太っていること」もgrossといいますが、
少なくともカウチを抜け出してここでサバイバルしている程度であれば、
この呼び名で彼らが呼ばれることはまずないでしょう。(アメリカ基準では)



おそらくですが、このサバイバルに参加した動機を語っています。
もちろん番組の性質から言って、自ら参加を申し込んだわけではないと思いますが、
それならどういう経緯で番組に出ることになったのか、そのわけを是非わたしも知りたい。

「自分自身を試してみる気で」

とかいう、そんな後付けの理由じゃなくってね。



死ぬよと言われつつ、火が消えてしまった模様。
テイクオフはこの場合プロジェクトの成功みたいな意味で、

「どうしてダメだったのかを考えるんだ」

と叱咤されているようですね。
その何をするにも寝転ばずにはいられない態度に問題があるのではないか。



火を起こすもう一つのやり方を試してみることにしました。

実はわたしはここまで見たときに眠くなってしまい、この続きを脱落したのですが(笑)
もう一度起きたときにまだ別の三デブが挑戦していました。



真ん中の人が火おこし棒を土台に押し付け、両側からロープを引き合って
棒の回転で火を起こそうという試み。

この三人、やっとのことで火を起こすことができたのですが・・・、



夜寝る場所を作っているうちに火が消えてしまいました。



覆水盆に返らず。ではなく、消えた火を悔やんでももう元に戻りません。
さあ、今晩どうするの?



こういうときのための脂肪とちゃうんかい!

三人でがっぷり6つに組めば、相当暖かいのではないかとも思うのですが。
火無しで一晩過ごすことを余儀なくされた三デブ、それでも
できるだけくっついて寒さをしのぎました。



長い長い夜が明け、ほっとしてシェルターから出てくる三人。

「俺たち三人みたいに仲良しだったことを神様に感謝しないとな」

とか言っています。
この言い方だと、夜の間は体をぴったりくっつけあっていたようですね。



そこにやってくる悪魔のサバイバリスト。
火のないところで男同士抱き合うようにしてしのぎ、寒さに耐えた
三デブに次なる試練を運んできたのでした。

ん?ところでなんだってこの人、左手を吊っているのかな?



そう、今日のお題は、

「右手だけでサバイバルしましょう」

左手が使えなくなったという設定で作業を行えと非情なお言葉。
同じように左腕を吊られた三デブ、全く嬉しくなさそうです。



そして、今まで以上に苦労して火を起こしたりするわけですが、
この試練はいわば「オプション」。

規定の期間を無事終えた三人に、

「ここで終わってもいいけど、もう1日だけ耐えれば、
この番組特製のサバイバルナイフを差し上げます」

という番組のいわばお約束チャレンジなのです。
これを断る三デブは不思議なことにまずいません。
デブというのは案外環境に順応したら打たれ強いものなのか。



そして、無事に訓練が終わり、晴れやかに感想を述べるのでした。



三人に、サバイバルナイフがプレゼントされました。
一つしかないような気がするのですが、これ、どうするんだろう。

ちなみに、クリークが理想のサバイバルナイフについて語るの巻。

Top 6 Survival Knife Features





にこやかに、そして晴れやかにクリークと握手を交わし、
厳しかったサバイバル生活を終えた自信を胸に帰っていきます。



家に向かう男たちの顔は、一つのチャレンジを成し遂げた成功に
光り輝くようです。


んが(笑)、彼らが家に着くなりまたカウチでポテトを抱え込んで、
今度は他の三デブの物語をあれこれうんちくを垂れながら楽しみ、
番組言うところの

「自然には発生しない飽和脂肪酸(ラードやバターに含まれる)やハイフラクトース
(ぶどう糖果糖液糖:果糖42%に果糖を加え甘味を調整した甘味料)のコーンシロップ、
こういった最も健康的でない、しかし最も美味しく感じて便利で安い食べ物」

を、当たり前のように吸収する毎日に戻る姿がはっきり見えるのは、
おそらくわたしだけではありますまい。

しかも、なまじ「おれはあれだけのサバイバルに耐えた」という結果があると、
いつでもあんな生活に耐えられるという自信から、かえって厄介な
デブの道を歩んでいきそうな気がするのですが、番組はおそらく
そこまで責任取る気はないだろうなあ。


 

魚雷の上で見る夢は〜イントレピッド航空宇宙博物館

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ニューヨークはマンハッタン、ハドソンリバー沿いにある
空母イントレピッド博物館の見学、艦内の乗組員居住区です。

冒頭写真は艦首のアンカールーム。
さすがに巨大空母のだけあってここだけでも広大です。



暗いのにちゃんと撮らないものだから何なんだかわかりにくいですが、
デスクのバーにかかっているものはスパナやバールのようなもの。
ここは「MACHINE SHOP」といいます。工作室ってところですか。



マシンショップの様子。

船の機械部分を修復したりメンテナンスする部門は

「self-sufficient community at sea」

つまりこのあいだの掃海艇ではありませんが、海の上で「自己完結」すなわち
自給自足できるコミュニティである船にとって不可欠です。
特に空母はどんな事態になっても生還できるように、どんな困難な修復も
行えるような充実した設備を持つマシンショップを持っていました。

空母のマシンショップの「リペアマン」は、空母だけでなく、行動を共にする
艦隊の他の艦艇にとっても必要欠くべからざる存在でした。

ここには旋盤、フライス盤(平面や溝などの切削加工を行う工作機械)、
ドリル、圧縮機、研削盤、電動ノコギリなど、工作に必要な全てが揃って再現されています。



ここで休憩されたり、下手すると椅子などが盗られるかもしれないので、
わざわざガラス張りにして通路と遮断したコーナー。

兵員食堂の一部が当時使われていたトレイが置かれて再現されています。

 

イントレピッドの乗員は総員3,000人はいたということです。
そのほとんどが若い男性の旺盛な食を支えるキッチンをギャレー(galley)といい、
イントレピッドには大きなギャレーが二つありました。

護衛艦もそうですが、こういうところの食事はウェイターが運ぶのではなく、
乗組員がセルフサービスでトレイに食事を取っていくことになります。
ごらんの厨房具は、左奥にあるのがトースター。
日本のホテルにも時々見られる、中でローラーが回っていて
焼けたら下からころんと出てくるタイプのあれです。

右側はおそらくこれはコーヒーか何かのディスペンサー。
アメリカのホテルなどでは、今でも飲み物はほとんどこの形です。

典型的な艦内食は、

「チリマカロニアメリカ風、スモークハム、バーベキュービーフコーン添え」

みたいな感じ。
今でも、たとえば日本に駐留している在日米軍の空母もこんな感じでしょう。
空母の牛肉消費量は1日に牛3頭と聞いて呆れたことがあります。



赤と白のチェック柄のテーブルクロスがダイナー風。
先ほどのダイニングも椅子が赤でしたし、アメリカ海軍は何かと
赤を食事の際に使う傾向にあったようです。
わが海上自衛隊では何か色を使うとしても必ずブルーと決まっているようですが、
食欲が湧く色としての赤をつかうというのはいい考えかも知れません。

そして、各テーブルにケチャップが一瓶ずつ置いてあるのが(本物?)
いかにもアメリカの食卓であります。

アメリカ人のケチャップ好きは異常。
誰かが各国の学生が集まる場所で、アメリカ人は必ずケチャップを取って
テーブルに一つどんと置いたままにする、と書いていたことがあります。
日本人の醤油みたいなもんなんでしょうか。

ケチャップって砂糖が多量に入っているのですが、何にでもそれをかけ、
コーラを飲んでアイスクリームを食べるからアメリカ人は太るんだろうな。



ここは間違いなく士官室士官以上のテーブルであろうと思われます。
なぜなら、トレイではなく磁器のお皿やコーヒーカップが載っており、
テーブルが小さくて二人しか席がないものだからです。

アメリカの士官にも「従兵」がついて給仕をしていたんでしょうか。

これは「Second class mess deck」といい、戦後、1969年に
改装されたのだそうです。



兵員用ベッドは三段式。
まあとても広いとは言い難いですが、潜水艦のベッドよりマシかな。



ここもガラス越しの見学です。
ベッドが2段で、しかも通路に余裕があることから、
士官の居住区ではないかと思われます。

このベッドなら、起き上がった時に頭をぶつけなくて済むわね。



兵員用の寝室と違って、こちらには収納用の引き出しも結構たくさん。
士官はいざとなったら身につける制服がかさばるから?



ここも多分士官用洗面所。
一度にたくさんの人が洗面できるようにボウルがたくさんあります。
ここにもトイレがありましたが、イントレピッドは底を固定してあり波の動揺はないので、
もちろんわたしのリバーススイッチがオンされる気配もありませんでした。



BERTHINGというのは船や列車の寝台のことです。
ここはハンガーデッキで、本来居住スペースはないところなのですが、
見学者用に寝台などを再現して、ここだけは体験型にしつらえてあります。

この案内に書いているように、クルーはこのバンクベッドのことを「ラック」と
呼んでいました。(確かに棚である)

空母とはいえ決して平の兵員たちにとっては潤沢なスペースはなく、
一つの区画には大体10人かそれ以上が寝ていましたが、
もっとも普通でない寝台は、この写真のように魚雷の上に設えられたものでした。

「ここでは彼らのベッドを体験できます。
あなたは魚雷の上の寝床でくつろいで寝られますか?」




彼らはくつろぎまくり。
というか、今の米海軍軍艦もこんなベッドなのかしら。




クルーが与えられたユニフォームと私物を入れるスペースはこれだけ。
普通のアメリカの住宅に備えられた洗面所の薬だなくらいの大きさ。

ここがあなたに与えられたとしたら、あなたは何を持ちこみますか?

と書いてあります。



再現された「魚雷の上の」ベッドにはところどころ説明がついていますが、
ベッド中段の棚の横には「MEMENTOS」とあります。
この言葉からは「memento mori」(死を忘れるな)という言葉を思い出すのですが、
同じ語源で、「mementos」とは思い出の品とか形見といった意味があります。

写真がぶれて説明が読めないのが残念なのですが、どちらの意味なのでしょうか。



個室にたった一人で寝られるのは、艦長と司令官だけです。
どちらの部屋かは忘れましたが、さすが空母の特別室だけあって居心地良さそう。



空母なので他にも偉い人用の部屋はあります。
ベッドの頭の上に備え付けてあるラジオが何だか不安ですが、軍艦なので
そんなことは気にしねえ!といったところでしょうか。



体験コーナーでは信号灯を実際に付けてみることもできます。

写真でモールス信号を送っているのはQuartermaster 2nd classのトニー・エバンスで、
なんと彼のいるのはUSS「ブルーリッジ」なんだそうです。

第7艦隊の揚陸指揮艦「ブルーリッジ」は1970年の就役なので、
いま横須賀にいるのと同じ船でしょうね。



体験コーナーでは、「船の音」を聞くこともできます。
まず、一番左から、

BOATSWAIN'S WHITSLE

これを「ボートスワイン」と読んでははなりませぬ。
自衛隊でも普通に使う「ボースン」(掌帆長)の元々の綴りがこれです。

これを略して「BOS'N」とか「BO'SN」=ボースン、というわけ。
ボースンズコールというと、号笛、つまりサイドパイプ。
ホヒーホーとかヒーホーとか船に偉い人が乗ってきた時やなんかに鳴らされるアレです。

あとは「ジェネラルアラーム」とか「フライトクラッシュ・アラーム」(航空事故のとき)
「コリジョン・アラーム」 など、場合に応じて違う警報音を聴くことができます。


イントレピッドの渓流固定してある岸壁でずっとこんなスポーツをしていた人がいました。


続く。


 


”BABYSAN”~進駐軍の恋人

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「ホーネット博物館」の空母「フィリピン・シー」のコーナーに
展示されていた謎の本です。

「個人的な目で見た日本占領」

とあり、ナイスバディの下駄を履いた日本娘が、にこやかに
アメリカ兵の前で手をあげて、あたかも、

「私たちの国、日本へようこそ!」

と歓迎しているようです。
この「BABY SAN」という題名を手掛かりに調べてみたところ、
こんなことがわかりました。

作者はビル・ヒューム
1942年から1945年まで海軍におり、結婚で一旦退役しましたが、
1951年に占領軍の下士官として占領下の日本に滞在しています。

彼の駐留していたのは、横須賀の追浜で、彼はここで進駐軍のための
機関誌「OPPAMAN」の編集長として活動をしていたと言います。

そのときに見たもの、アメリカ海軍軍人が、駐留していた日本の
異文化に触れて受けたカルチャーショックなどを、ヒュームは

「BABY SAN」(ベイビーさん)

という日本女性のキャラクターを創造し、最初のうちは
追浜の米軍基地の掲示板に発表するピンナップ画として発表していました。

最初、米海軍の120航空隊の水兵たちの人気を博し、そのうちそれが
「ネイビータイムズ」に取り上げられてアメリカ本土でも有名になったので、
ヒュームは帰国して4冊の「Babysan」を出版しました。
(Babysan's World, Anchors are heavy, When we get back from Japan)

このピンナップガール「ベビさん」は、漫画家としてのヒュームの足がかりになり、
彼を有名にし、これが代表作ともなっています。




それでは、「ベビサン」をちょっと覗いてみることにしましょう。

「ベイビーサンはクリエイトされた存在ではない。
どのエピソードも、あのとき富士山の国でアメリカ男たちが経験した
大なり小なり本当のことに基づいている。」

とヒュームは言っています。



「日本の女の子ってこんなのだと思ってた?」

このカートゥーンには、踊るベビさんをみながら、水兵がうっとりと、

「国にいる彼女とそっくりなんだよなあ」

と呟くというものもあります。
占領国に進駐するかつての敵国軍人として日本にいるアメリカ軍人たちですが、
どこにいっても若い男が考えることはただ一つ。

問題は、たいていの軍人は結婚していて、日本娘との恋愛を
決してそういう前提で考えていなかった、ということです。

つまり、彼らが知り合い、ましてや恋に落ちることのできる相手は、
当然ながら当時の言葉で言うところの「パンパン」ということになります。

そう、つまりベビさんは・・・・・



「なんでいっつもキャンディなの?なぜオカネ持ってきてくれないの?」

アメリカ男にすれば疑似恋愛のつもりでも、ベビさんにとっては
「仕事」なのですから、当然ですね。




「日本の女の子はアメリカの女の子と違うっていうの?」

うーん、水兵さん、ベビさんにメロメロですが、随分貢がされた模様。



「アメリカに連れてってくれるなら、全部の州に連れてって”ネ”?」

ベビさんはよく疑問形の後ろに「ne?」をつけます。
日本語の「ね?」が英語でもでてしまうようです。

彼女はモテモテなので、すべての州に付き合った男がいるんですね。
中には「Ohno」という日系アメリカ人もいるようです。



「ジョーさん!今夜は勤務だって言ってたと思うけど?」

ベビさんの勘違い?それともジョーがディックと「交代」したのかな?



「今日、故郷に帰らないといけないの。母が病気で」

ダブルブッキングもの、もう一つ。
しれっとお母さんを病気にしていますが、男物の大きな靴が玄関に。

彼女も口ではこういっているけど、ばれても平気って感じですね。

戦後、敗戦でショボーンとしてしまった男たちに比べ、ある種の女たちは
たくましく、進駐軍が来るなり、彼らのニーズに応えてたちまち
「日本の恋人」になる代わりに・・世間からは眉をひそめられる存在となります。



「母の写真、弟の写真、妹の・・・お給料日には仕送りをしなきゃ!」

問題は「誰のお給料日」のことなのかってことなんですが。
この絵の左側に付けられたキャプションによると、大抵のベビさんは
働き手のいない家族を一人で養っていて、稼いだオカネを仕送りしていました。

まあそうですね。

家族の誰かが働いて、皆が食べていけるのなら、外人男相手の
「パンパン」になど誰が好き好んで身を落としたでしょうか。
当時の貧しい女性が家族を養って生きていこうと思ったら、
そして少しでも楽をしようと思ったら、この選択もやむなしだったということです。

現在お隣の国の人権団体とやらが言い張るように、
無理やり連行されてではなく、あくまで彼女たちが選んだ道ではありましたが。

そして、かつての敵国だった国の男たちにとっては、彼女らがこの日本で知る
唯一の、「生きた日本女性」であり、その付き合いが日本文化を知る
機会の一つであり、ギブアンドテイクの世界で彼らはそれを楽しんだのです。



「だっておかしらがないと縁起が悪いでしょ?」

カルチャーギャップもところどころでネタにされています。
「(靴を玄関に置いておいても)誰もそんなもの取らないわよ?」とか。



「ノーノー、ベビさん、FULL ルテナントって言ったんだよ、FOOLじゃなくて」

彼女の「恋人」はセイラーだけでなく、もちろんヤングオフィサーもいました。
「Full Lieutenant」というのは公式の階級呼称ではなく、海軍全体で
少尉(Ensign)、中尉( Lieutenant Junior Grade)と大尉(Lieutenant)
の違いをはっきりさせるときに使います。 

O-1 Ensign

O-2 LTJG Lieutenant Junior Grade

O-3 LTLieutenant ( Full Lieutenant)

ということなので、「役満中尉」ってことだと思います。(適当)

ビル・ヒュームは幾つかの「日本占領もの」を書きましたが、彼は
一度として日本男性を描くことはなかったそうです。
彼が日本を見る目は、ベビさんというキャラクタライズされた日本女性を
通してだけで、それは「狭い世界の狭い視点」からの日本にすぎません。

しかもベビさんは当時ですら非常に特殊に類する女性だったのですから、
本人が気づかずとも、そこに偏見が満ちているのはごく自然のことです。

Anything but political, the comic plays on misunderstanding and sexuality. 
(政治的でないのはもちろん、それは偏見とセクシュアリティに満ちている)wiki




有吉佐和子の「非色」という小説をお読みになったことがあるでしょうか。
進駐軍の兵士として日本に駐留していた黒人のトムと結婚した笑子。
彼女はベビさんのような種類の女ではなく、職を求めてPXで働いていた
「カタギの女」です。

彼らは結婚し、アメリカに渡るのですが、そこで彼女は日本にいるときに
潤沢に物を買い与えてくれた夫が、アメリカに帰ったら「貧しい非差別人種」
であることの現実を思い知ります。

日本にいるあいだは、黒人兵にとってそこは「自分より下の人種がいる天国」で、
とにもかくにも色の黒くない肌の子供を産んでくれる日本女性は、まるで
自分の地位を上げてくれ、アメリカでは最下層の自分をも頼りにしてくれる
天使のような存在であった、ということが描かれていました。

主人公、笑子のような女性を「戦争花嫁」(War bride )といいます。

 

終戦直後のアメリカでは、法の下で有色人種に対する差別が保証されており、
アメリカ軍では異人種間の結婚は禁止されていました。

アメリカ軍人が、被占領国民でかつ黄色人種である日本人女性に産ませた子供を
認知する義務はなく、そもそもまだまだ排日移民法がアメリカでは生きていたため、
日本人妻子のアメリカ入国は不可能だったのです。

これはどういうことかというと、日本で女性とどうにかなって、日本で一緒に住み、
子供までなしても、任務の期間が切れて帰国したらあとは音信不通、
残された女性と肌の色の周りと違う子供は路頭に迷う、という例が多々あったのです。


1946年6月29日、アメリカ軍は「GIフィアンセ法」を制定し、
日本人女性とアメリカ軍兵士・軍属との結婚が可能になり、
1950年、GIフィアンセ法が改正され、アメリカ軍兵士の妻子が
人数制限なしに、アメリカに入国可能ということになりました。

「非色」のトムと笑子は、1950年以降に結婚したということになります。


戦争花嫁、というwikiページをみていただけるとわかるのですが、
戦争が起きると、進駐した外国人兵士と現地の女性が、戦後結婚し、
男性の国に共に移住する、という例はどんな戦争にも一定数あります。

戦争花嫁

あきらかに宗教などの障害の大きいとおもわれるアメリカ軍兵士と
イラク女性のあいだにもあったのですから、占領時代に日本女性と
恋に落ち、アメリカに連れて帰った例はいうまでもなく多数ありました。

ある統計では、第二次世界大戦後、アメリカ軍兵士が世界中の戦地から
連れて帰ってきた戦争花嫁は30万人だとされています。
この中には、日米のように敵国同士であった国ではなく、米英のような
同盟国同士の婚姻例も含まれています。


しかし、結婚してアメリカに渡米することのできた笑子のような例は
まだしも(あとのことはともかく)ましで、やはり中には
「現地妻」「占領地の恥はかき捨て」というけしからん輩もいて、
(そもそもアメリカでは妻帯者だったりするわけですから)
従ってあちらこちらに「マダム・バタフライ」を生むことになりました。

この漫画の「ベビさん」は、ともかくも今日明日食べていくために
アメリカ男たちを手玉に取っているだけのように見えますが、
そんな商売をしていても、どこかで自分が虜にした男は、いつか
必ず自分をアメリカに連れて行ってくれる、と信じている風でもあります。

 

これが「BABYSAN」のラストシーンです。
思いっきりそれらしく訳してみたかったのですが、ここは
「He wonders」のリフレインの雰囲気を壊したくなかったので
皆様の読解力にお任せすることにしました。

かつての恋人を乗せた船に手を振りながら、埠頭を歩いてくる
かっこいいセイラーに早速目を奪われているベビさん(笑) 



「ベビさん」シリーズは、進駐軍の兵士たちに大人気であり、まるで
ガイドブックのように進駐を控えた兵士が日本に赴任する前に読む、
という活用のされ方をしていたようです。
彼らはベビさんが特殊な女性であることを知ってかしらずか、
こんな女の子に会えるとワクワクしながら日本にやってきたフシもあります。

美人で、奔放で、エキゾチックで、なんといっても男に都合のいいことに
彼女は決して男に金と情熱以外のものを要求しません。
短期間異次元ワールドに旅行するつもりの男にとって、理想的な恋人といえます。

そして、作者は

Babysan disarmed the sailors and soldiers with her beauty
and ability to adopt new things 

(ベビさんは彼女の美しさと新しいことに適応するその能力etc.で、
兵士やソルジャーを武装解除した)

という「平和的効果」は「 it is highly respected.」(高く尊敬されている)とします。
そして、

These were combined with some of charming things in Japan
including the most charming thing to the United States servicemen
according to Hume, the Japanese girl.

(日本にある幾つかの魅力の中で、ヒュームによれば、
アメリカ合衆国軍人にとって最もチャーミングなものは日本女性)

という賞賛を与えてはいるのですが、残念ながらその評価は非常に
偏った、本人にも気づかない蔑視に満ちたものだと言わざるを得ません。

ヒュームは、「BABYSAN」の序文で、こんなことを書いています。



「この本をフジサンの国を訪れたすべてのアメリカ人に捧ぐ
そして、占領時代、いかに占領されていたかを、
日本人から学ぶことになるかもしれない者たちにも」

「ベビさん」は「ベティ・ブープ」のようなキャラクタライズされた
いわゆるセックスシンボルであり、アメリカ男の「ジャパニーズガール」
に対する甚だ調子のいい妄想を掻き立てるための架空の存在にすぎず、
作者のヒュームは、少なくとも誰か特定の日本女性に対し、
このキャラクターを重ね合わせることはなかったと見えて、
この言葉の中には日本女性への賛辞や感謝は全くありません。


「BABYSAN 」の本は当初日本で印刷されたらしく、冒頭の本も
裏表紙には日本円で値段 (¥300 or 85$)とあります。

しかし日本の社会で、この本ならびに「ベビさん」のキャラクターが、
何かの話題になったり、有名になったりすることがなかったのは、
日本人にとって「ベビさん」は、敗戦を象徴する苦々しい存在だったことと、
当時のすべての日本人、特に男性が、大なり小なり「ベビさん」的なものに対して
抱いていた嫌悪と怨嗟のせいだと思われます。



 



 

海軍の名残り~軍港の街舞鶴を訪ねて

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もう去年のことになりますが、シルバーウィークの舞鶴訪問記、続きです。

港巡りの船を降りた後、わたしたちは赤れんが街に向かいました。
横浜に「赤れんが倉庫」というのがあって、どうも「倉庫」と呼んでしまいますが、
こちらでは「赤れんがパーク」と称するようです。
ホームページにが「赤パー」と大きく書いており、どうもこう呼んで欲しそうですが、
海軍海自用語以外はなんでも略せばいいってもんじゃねえ、と考えるわたしとしては
断固「赤パー」の普及には与しないと断言するものです。

ここには海軍カレーの店もあるということで、(というかここしか食べるところはない)
お昼ご飯に向かいました。



赤煉瓦の建物は当時のままに残されており、
このあたりのように中を改造して現在レストランや博物館になっている棟と、
当時のまま全く手付かずの部分があります。

今見えている建物は左から「2号館」「3号館」。

 

奥に見えるのが5号館となります。
それでは1号館はどこかというと、「赤れんが博物館」のことのようです。

2号館は舞鶴市政記念館、3号は「まいづる智慧蔵」、4号は「赤れんが工房」、
そして5号はイベントホールとなっており、この日は中から音楽が聞こえていました。



ここは2号館「智慧蔵」の中。
内部で当時のまま残されているのはれんがの部分だけ。
屋根は内側から補強工事がなされているようです。
窓のステンドグラスも改装時に施工したものでしょうか。

ここにはインフォメーションと、向かいにレストランがあります。
連休のせいで激混みだったので、30分は待つと言われたのですが、
ここしかないので名前を書いて待つことにしました。



2階に展示場があるのに気付きました。
というか、こんな大きな垂れ幕があったら誰でも気付きますがな。

「日本のいちばん長い日」のロケが行われたということで、何か展示があるようです。
これは行くしかない。
が、疲れているのか残りの二人は「行ってらっしゃーい」と腰を上げず。

わたし一人で二階に上がりました。



鈴木貫太郎を演じる山崎努さんが着たタキシード、
迫水久常の堤真一さんが着ていた国民服が展示されていました。



ロケ地の紹介です。
迫水が御前会議のために花押署名を求めるシーン。

これは、この赤れんがパークの一角で撮られました。
海軍仮庁舎という設定です。



ここに来る直前に案内してもらって見たばかりの東郷邸の書斎です。
東郷中将が座って庭を眺めていたという窓際の机に座り、トランプを並べる鈴木首相。

この庭についても先日お話ししましたが、迫水と鈴木がこの庭で
陸軍大臣指名を巡って話し合うシーンもありました。

実際の鈴木首相の邸宅がこうだったと言われても、
きっとそうだっただろうなと思える東郷邸です。

ところで余談ですが、先日横須賀音楽隊のコンサートにご一緒した
兵学校卒の建築家、Sさんは、戦後、この迫水氏に直々の推薦を受けて
ロータリーだかライオンズだか、そういうクラブに入ったということでした。

「お知り合いだったんですか」

と聞くと、全く面識がなかったのだが、迫水氏がクラブを立ち上げるのに
発起人になって人集めもやっており、同じ東大卒だったからではないかということでした。
このような終戦直前から終戦後にかけて歴史の現場に立っていた人物の名前を
意外なところできいて、感慨深かったわたしです。



鈴木首相らが御文庫(戦争中皇居内に作られた防空壕)の地下通路を通り、
最高戦争指導者会議に向かうシーン。


舞鶴の北吸浄水場第一配水池跡で撮影されました。
これも海軍に縁があって、明治34年、舞鶴鎮守府の開庁に向けて、
軍港内の諸施設と艦艇用の飲料水を確保するために作ったものです。

ここに水が貯えられていたってことなんでしょうか。
今回見逃しましたが、是非一度実際に見てみたいです。




出演者のサイン色紙・・・・なんですが、サインそのものはともかく、
「赤れんがパーク様へ」の字が・・・・・。
一番ましなのが堤真一かな。(小声)

そして、山崎努は左手で書いたのか?



赤れんが倉庫群でこれまで行われた映画のロケ。

「夜汽車」「エイジアンブルー」「バルトの楽園」「男たちの大和」「坂の上の雲」「寒椿」・・。





郷土出身の偉大なアスリートの遺品コーナー。
大江季雄はベルリンオリンピックの棒高跳びで三位になった選手です。



ブロンズ像。



肖像画。
舞鶴の大病院の次男で、長兄が医院を継いでおり、本人は
慶応義塾大学に進んでそこで棒高跳びを始めました。 

彼に棒高跳びを指導したのが、早稲田出身の西田修平。 



有名な「友情のメダル」で、二位の西田と三位の大江が半分ずつメダルを割り、
このように(これはレプリカ)継ぎ合わせたものを作りました。

わたしは小さい時、この話を読んで、

「なんで二位と三位が決まったのでそんなことするの?
三位の人はともかく、二位の人は損じゃない」

と今でもきっとそう思うであろうことを思ったわけですが、真実はこうです。

1位がドイツの選手に決まったあと、残った三人のうち一人がバーを落とし、
西田・大江が決着をつけないまま競技は終わりました。

運営は西田が2位であるとしたのですが、西田がこれを不服とし、
表彰式で大江を2位の台に上げ自らは3位の台に立っています。


ここで、二人が争ったのが「自分が上」ではなく「相手が上」
であったというのが、高潔で無私な当時の日本人らしいと思わされます。

帰国後に銀メダルを持ち帰った大江の兄が間違いに気付き、
西田の元に銀メダルを持って行ったのだそうですが、悩んだ西田が
知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、
「友情のメダル」が誕生したのです。



敬礼をする1位のメドウス選手(アメリカ)。
大江選手も西田選手も背が高く垢抜けしてイケメンです。

オリンピックが終わってから、4年後、大江選手は陸軍に召集され
フィリピン・ルソンでの戦闘で戦死しました。

メダルを西田のところに持って行ったのは大江選手の兄であったということですが、
もしかしたらこのとき大江選手はもう戦死していたのでしょうか。



さて、舞鶴は軍港として発展した街です。



軍港ゆえ、臨港鉄道も敷設されました。
写真上は駆逐艦「海風」(白露型)の進水式。

「海風」は舞鶴工廠で昭和16年(1936) 進水式を行いました。
スラバヤ海作戦、第二次ソロモン作戦など、南方で戦い、
1943年(昭和19)、潜水艦「ガーフィッシュ」の攻撃を受けて戦没しました。

 

左上の「鎮守府復活」というのは、一時舞鶴は「鎮守府」ではなく「要港部」とされ、
最高司令長官も「要港部司令」となっていたのですが、それが昭和14年に
もう一度鎮守府に格上げされたことを言っているのでしょうか。

しかし、写真を見ると、掛け替えている看板は「舞鶴工廠」。
これは、鎮守府復活のときではなく、その3年前、海軍工作部が
「舞鶴工廠」に格上げされたときのものではないかと思われます。



戦後、舞鶴が引き揚げ港として稼働していたときの写真。
引き揚げ記念館については、また記念館を訪れ改めてお話しする日もありましょう。



舞鶴港の軍艦の進水式記念に製作されたはがき。
右から時計回りに、駆逐艦「敷浪」、「大潮」、「初雪」。
「初雪」の進水式パンフは呉で見たことあるぞ。



どちらも駆逐艦「霞」進水記念。
昭和12年の進水なのですが、右側の風景になにやら不穏な戦火が・・。



駆逐艦「島風」進水記念。

これらのハガキはいずれも「艦隊これくしょん~艦これ~」の
特別展示が行われたときに収集されてきたものだそうで。




こちら、海軍工廠の女工さんたち。
割烹着で仕事していたんですね。
鎮守府時代、「海軍工廠」だった大正10年(1922)の写真です。



海軍工廠工員の徽章。
右の鳥は今でも舞鶴の市章に使われている鶴です。



こちらも海軍工廠の徽章。
この説明で知ったのですが、英語では「海軍工廠」をナーバル・シップヤードというようです。

右から海軍書記用、筆生(筆者を手がける人)用、徴用工員用。



日立造船が寄贈した海軍工廠時代の弁当箱。

軍港の街、舞鶴は、未だに街のそこここに海軍の街であった名残を残しています。
次に訪れた時にはそれらを求めて自分の足で散策してみたいものです。


 

映画「謎の戦艦陸奥」前編

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わたくしが入会しているディアゴスティーニの「戦争映画コレクション」は、
毎月一本これまでDVD化されていないレアな戦争映画が送られてきます。

入会して最初に送られてきたのがこの「謎の戦艦陸奥」だったのですが、
わたしはこの作品にいろんな意味で驚かされることになりました。 

いきなり結論をいうようですが、この映画、タイトルそのものが謎です。

ご存知のように昭和18年6月8日、「陸奥」は柱島沖で爆発を起こして轟沈しました。
爆発沈没の原因は諸説あり、未だに真相は謎です。
だからって「謎の戦艦」はないだろう「謎の戦艦」は、と思うわけです。
もしかしたら

「謎の爆発を起こして沈没したところの戦艦陸奥」

を省略したのだろうか、と解釈してみたのですが。

ただでさえ変なタイトルに加え、この映画の超無名度。
みなさんこの映画知ってました?  知りませんよね?
この世間的評価が、すなわち作品的価値でもあるとわたしは解釈したのですが、
とにかくも嫌な予感を覚えながら観てみると、しかしてその内容は、

「戦艦陸奥の爆発を題材にした、全く史実とは関係ないドラマ」

だったのでした。
爆発して艦長以下ほぼ全員が死んでしまうという結末は史実通り。
その原因を大胆にも創作して、ミッドウェー海戦からの離脱と
爆発の間に埋め込んでいるのです。
戦争映画のようで戦争映画ではない、これははっきり言って

「戦争映画の皮を被った(B級)スパイもの」

であり、この中途半端さが、作品が評価されなかった原因でありましょう。
おそらくわたしがここで語らなければ、世の中の大半の人は
一生知らないまま過ごすことであろうと思い、思い切って取り上げることにしました。

まあ、知らずに一生を過ごしても何の問題もない作品であることも確かですが。



昭和35年(1960)制作、新東宝作品。
監督は小森白。
製作者としてはともかく作品の全てが無名という、ある意味特異な監督です。



特撮は新東宝の特技班が担当。
ただしところどころ実写映像を混ぜており、これは本物の空母です。
真ん中に写っている棒のようなものは、カメラを乗せた飛行機の尾翼。



一瞬しか出てこない嶋田繁太郎役に嵐寛寿郎、その副官に
宇津井健を起用して、ちょっと豪華な感じを出してみました。



この映画が撮影されたとき、まだ「陸奥」はサルベージが不可能な状態で
柱島沖海底にその艦体を横たえていました。
昭和28年、艦首の菊の御紋章だけが引き揚げられています。

・・・ということを想像させようとしてのカットだと思いますが、
新東宝特撮技術班の仕事が雑で、甲板の手すりがゆがんでいるのが残念。

このとき流れる音楽が当時にしては斬新なので気になっていたのですが、
なんと、作曲家松村禎三御大が若いときに手掛けていたことが判明しました。

「海と毒薬」「紙屋悦子の青春」の付随音楽は良かったですね。



場面はミッドウェー作戦が行われている「陸奥」の司令室から始まります。
これが「陸奥」が参加した初めての作戦でした。



「航空戦隊は敵艦見えずとの偵察機の報告を受け、
所定の作戦計画を変更し急遽第二次攻撃隊をもって、
ミッドウェー島爆撃を発令せり。
山本聯合艦隊司令長官は、直ちに航空戦隊の変更作戦の中止を命じた後、
すでに航空母艦群の第二次攻撃隊は、艦艇攻撃を魚雷より
陸上攻撃用爆弾の取り換え作業をほぼ終了する模様なり」

との第一艦隊からの連絡に顔色を変える「陸奥」首脳。



「そんな馬鹿な!万が一敵機動部隊が現れたらどうするんです」

とツッコミを入れる副長の伏見少佐。(天知茂)

わたしは天知茂の軍人役をこのシリーズで初めて見たのですが、
結構この人、こういうB級戦争ものにたくさん出演しているんですね。

天知茂という俳優は大部屋の出身で、長年通行人役に甘んじていました。
しかしこの映画の製作を手がけた大蔵貢が新東宝の社長に就任してからは、
経費対策で給料の高いスター級の俳優とは契約を打ち切り、
脇役だった俳優を主役として採用するようになったため、芽が出たのです。

彼がめきめき頭角を現した時期に撮られたのが、この「謎の戦艦陸奥」でした。



「奴らはきっとミッドウェー海域にいるものと思われます」

という伏見少佐の言葉どおり、連合国諜報部は、日本海軍の暗号を
ことごとく解読していたのでした。



かくしてミッドウェー海戦の火蓋が切られました。
これは実写による聯合艦隊(間違いがなければ大和、長門、陸奥)航行の図。



「赤城」で爆装を取り替える乗組員たち。
後ろを艦載機のパイロットたちが全力疾走していきます。



空を埋め尽くさんばかりの米軍機が来襲。(実写)



一刻を争う事態に必死の作業を行う整備員たちのアップが・・。



「はっ!敵機だー!」



ここからの砲撃による戦闘シーンのほとんどは実写。
白黒映画なので実写がいくらでも流用でき、実に便利だった時代です。
しかしそれだけに甘んじず、結構頑張って爆破シーンなども特撮しています。



これも実写。どういう設定かというと・・、



海上に漂う将兵たちを無情にも機銃で撃ち殺しにきた米軍機でした。
先ほど換装作業をしていた兵もあわれ海に沈んでいきます。



こちら「陸奥」艦橋。
ミッドウェー海域から転進せよとの命令に衝撃を受ける一同。

「6隻の空母を見殺しにして戦艦の使命が果たされますか!
長官命令の撤回を要求してください!でなければ陸奥だけでも」

と無茶な進言をする副長(笑)
しかし、「陸奥」乗員の命を預かる艦長にして聯合艦隊の一員である平野大佐、
命令無視をして陸奥だけで戦うなんてことができようはずはありません。

ところで、史実ではミッドウェーの時に艦長だったのは小暮軍治 大佐で、
呉に帰港1週間後、艦長は山澄貞次郎 大佐(海兵44期)に交代しています。
陸奥爆発とともに殉職したあの三好輝彦大佐(海兵43期)は、その年の3月、
つまり爆発の3ヶ月前に着任したばかりでした。

映画では話が煩雑になるので、同じ人間がずっと艦長をしています。
ちなみに、このころの軍艦の艦長人事というのはほぼ1年で交代でした。



「ミッドウェー海域より転進する!取り舵いっぱい」

という艦長の命令通りちゃんと左回頭する「陸奥」(笑)



もう少し船の動きをゆっくりにすればリアリティが出たかもしれませんね。



こちら本物。
退却する第一艦隊の映像を本当に使っていたとしたら尊敬する。



この軍艦は「長門型」だと思うのですが、判定は、読者に丸投げお任せします。



ここでミッドウェーから帰国途中の「陸奥」艦上。
ハーモニカを吹いていた水兵をたるんどる!と殴る下士官。
兵の兄は轟沈した「赤城」の乗員でした。



夜間の甲板をなぜか双眼鏡を下げてうろうろしていた副長伏見少佐が、
すばやく二人に割って入ります。
副長、鉄拳制裁を止めたのはいいけれど、なんとこの二人に
「陸奥」が戦わなかったことを責められる展開に。

「なんで陸奥は戦わなかったんでありますか!」

戦わずして転進したことを「陸奥」の乗員は不満に思い、鬱屈としていたのです。



帰国する第一艦隊。
そのとき「陸奥」の見張りが敵戦艦を発見しました。



ドミドミソッソッソー、ドミドミソッソッソー。
「陸奥」艦橋における戦闘ラッパがおそらく初めて吹鳴されます。



急速潜行する敵潜水艦。これ本物ですよね?



「陸奥」は左回頭し、のち爆雷投下。
この後、魚雷が投下され爆発するシーンも実写です。



艦砲が一斉に銃口を向けて動いていますが、人が動いているところを見ると、
これは実物大のセットのようです。

新東宝の特技班、(大道具班かな)頑張りました。



この映像、模型かと思ったのですが、どうも本物みたいです。
どちらかわからず何回も見直してしまいました。
遠景にも軍艦が航行しており、主砲から火を噴く様子もリアル。
画像をストップしてみると、古いフィルムの縦傷があることから、
実際の戦闘中の「長門」型ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。



星のマークも明らかなグラマンが海中に没する実写フィルムの後、
「やったぞ!」と砲を抱いて喜ぶ乗員たち。

実際の「陸奥」がこのような戦闘を行ったのはミッドウェーの帰路ではなく、
その2ヶ月後第2艦隊に編入された、第2次ソロモン海戦の後のことです。
この海戦でも「陸奥」はアメリカ軍と交戦することはありませんでした。

「高雄型」「妙高型」からなる高速艦隊が米艦隊を追いかけていく中、
「陸奥」は速度の遅い艦とともに置いてけぼりにされてしまったのです。

このシーンは、そのときに艦隊に接触してきたアメリカ軍飛行艇を主砲で迎え撃ち、
駆逐したという、「陸奥」の唯一の戦闘らしい戦闘を盛り込んでいます。



実際の「陸奥」乗員も、おそらく戦闘らしい戦闘に投入されないことを
忸怩たる思いでいたのに違いありません。

第二戦隊に編入され、南方に向かうに当たって、乗員たちは
久しぶりの出撃に喜び、前祝いをやったというくらいです。
のちにトラックでは「大和ホテル」と言われた「大和」とともに
こちらも「燃料タンク」や「艦隊旅館」なんていわれてしまうんですねー。

死に急ぐな!というのはあくまでも平時の価値観で、このころの海軍軍人が
このような扱いに我が身を嘆いていたとて何の不思議がありましょうか。 

そして、ここに至ってわざわざ艦長を責めに来る一介の中尉、松本。
これが菅原文太だったりするわけですが、若いころの文太が
あまりにイケメンなので、わたしは驚いてしまいましたよ。

「陸奥は転進するべきではなかったと考えます!」

松本中尉に対し、

「あの機敏な転進命令があったればこそ、航空戦隊のみの損害で止まったのだ」

という苦渋の艦長。
すかさず空気読まない伏見副長が、松本中尉の尻馬に乗って、

「一挙に6隻の主力空母を失い(艦長 ”うっ・・・”)
 連合艦隊は今後どのような作戦を?」

あーこれ、責めてますね。伏見少佐も怒ってるんですね。
艦内を歩いただけで下からガンガン突き上げられるんで頭来てるんですね。
 
返す言葉なく下を向く艦長。
艦長をいくら責めても何の解決にもならないと思うの。



なんとミッドウェーから時空を超えて柱島沖に現れた「陸奥」。
この時点でこの映画はまるまる1年をすっ飛ばしております。

あっ、だから「謎の戦艦陸奥」なのかな(ゲス顔)

さて、これからがこの映画のオリジナルストーリーとなります。



そのころ日本国内に潜むスパイは、国民の戦意喪失を企み、
帝国海軍の象徴たる「陸奥」を爆沈するべく計画を進めていた。

なんですってよ皆さん。

この場合のスパイって、つまり連合国側の、ってことですよね?
このおっさんと若いのは、スパイ団の親玉に金で雇われた日本人。



この外人のお姉ちゃんはスパイの親玉の秘書、アンナ。
なぜか盗聴した電文を読み上げるボスの横で、各種ドレスの用意をしています。



ドイツからの駐在武官のふりをしたスパイ、ルードリッヒ。
手にした電報をくしゃくしゃに丸めながら、

「ムツハ ワレワレノテデ カナラズ シズメル」

ここにはアンナしかいないんだから英語かドイツ語でOKよ?

それにしてもこんな少人数のスパイ団で仕事できるのだろうか。



前線に出動できない鬱憤を晴らす宴会で下士官兵たち。
皆で歌うのは

「腰の短刀にすがりつき~連れて行かんせどこまでも」

 なんか選曲が違う気がする。
こういうときにはやっぱり「轟沈」とか「如何に狂風」とかでしょ?



歌の真っ最中に部屋に悠々と入ってくる伏見少佐。
いくら副長でももう少し空気読むべきだと思うがどうか。



案の定慌てて歌をやめ、立ち上がる乗員たち。
鷹揚に

「元気があってよろしいが勤務に差し支えないように注意しろ」

などといって立ち去ろうとする副長に、そのうちひとりが



「陸奥はいつになったら出動するのでありますか!」

ほらまたきたよ。お前らそれしかないのかよ。
俺だって内心その点についてははらわた煮えくり返ってんだよ。
とも言えず、次々と立ち上がって訴えかける下士官たちに対し、



「我々は好機到来を待っているのだ。
ミッドウェーの仇を取る日は必ずやってくる」

と自分でも思ってもいないおためごかしを・・・。
中間管理職はいつの時代も大変なんすよ。ええ。



副長が去った後、やけくそ状態で宴会に再突入。

「腰の短刀にすがりつき~」

だからその曲はこういう場合にはふさわしくないと何度言ったら(略)
副長と松本中尉、このあと艦長室に行って、
自分たちが言われたことをそのまんま艦長に訴えるのでした。

「くどい」

とは言わず、艦長は辛抱強く、いや、もはやキレ気味に、

「戦いたかったのは貴様たちだけじゃない!」

”戦艦「陸奥」は海軍の象徴なので、断じて沈めてはならない。
戦艦「陸奥」がある限り日本海軍は太平洋を制覇する。
「陸奥」を頼むぞ。”

となぜか艦長拝命のとき、嶋田繁太郎直々にこう言われてしまった、
というのが、この憤懣にに耐えている理由であると説明するのでした。

ここまでで映画の約半分。
つまり前半は、不遇をかこつ「陸奥」乗員と艦長の葛藤を語って終わるわけです。
後半になって、いよいよスパイ団の活躍、じゃなくて暗躍が始まります。
スパイ団は「陸奥」を爆破することに成功するのでしょうか・・・?

・・って、実際爆発してるんですけどね。「陸奥」。


続く。






 






 

映画「謎の戦艦陸奥」後編

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というわけで「謎の戦艦陸奥」後編です。
画像は、全編通して一度も見なかったのになぜか宣伝には使われたシーン。

まず、主人公の伏見少佐は、このように銃を持ってルードリッヒ、
駐在武官の皮を被った連合国のスパイの親玉と対峙することはありません。
そもそも伏見はルードリッヒがスパイであることを知らずに、
「陸奥」の爆発で死んでしまう運命なのです。(ネタバレ)

さらに、こちらもスパイの手先として使われているうちに伏見少佐を
好きになってしまう海軍倶楽部のマダム、美佐子は、
ルードリッヒにこのように手篭めにされるということもありません。

美佐子を演じた小畑絹子という女優さんは、今では誰も知りませんが、
当時は新東宝随一の美女と謳われたスタアでした。
どちらかというと清楚というより妖艶な魅力で売っていた方なので、
殿方が「おおっ」というシーンを期待するような宣伝をしたんでしょうか。

この映画、実は当初全く違うストーリー(伏見少佐がスパイ団に脅迫され、
一夜を共にした美佐子にそそのかされて陸奥の爆破を企む)だったので、
そちらの内容にはこのようなシーンがあったという可能性もありますが。 



さて、海軍省での会議では、海軍甲事件、つまり山本五十六大将が
ガダルカナルで戦死を遂げたという悲しいニュースが発表されます。
ちなみに会議の内容は、「ろ号作戦」の実地についてでした。
作戦の後、なぜか会議に出席していた「陸奥」艦長が、嶋田を

「なぜ陸奥はこのたびの作戦からも除外されているのか」

と問い詰めます。
いくら海軍が下からの意見具申を許す体質だからといって、
一介の大佐がよりによって海軍大将に向かって、
しかも会議が終わってから作戦にケチをつけるようなこと言いますかね。

下から突き上げられてやむなく直訴してみたものの、当然ながら
嶋田にもあっさり「次に備えろ」とあしらわれ、うなだれる艦長。
その艦長に向かって、伏見少佐はそれを横で聞いていたにもかかわらず、

「なぜ陸奥が冷や飯を食わされるんですか!
長官におねがいをしてください!」

などとしつこく食い下がるのでした。もういい加減わかれよ。



同じ会議に出席していた伏見の叔父、池上中将。(細川俊夫)
このご時世に呑気にも伏見を横須賀の海軍倶楽部に誘います。
(最初のストーリーでは池上もスパイ団に加担していたことになっている)



そこで伏見少佐は出会ってはならない女性(ひと)と会ってしまいます。
海軍倶楽部のマダム、美佐子。



そこで伏見を待つ、ドイツ駐在武官の皮を被ったスパイ、ルードリッヒ。
皆で乾杯などするのですが、いきなりこのおっさん、

「日本海軍も山本GF長官が死んでコマリマシタネー」

などと軽~く言い出します。
軍令部が内部発表した日にこんなことを知っている時点で怪しさ満点ですが、
細川中将も伏見少佐も全く不思議に思わないようです。


そしてここでも一生懸命伏見の気を引こうとする美佐子、
しかしつれない態度で(しかし流し目で)立ち去る伏見、というお約束が。
後年ニヒルな男の代名詞としてマダムキラーとなった天知茂の本領発揮です。

(余談ですが、天知茂はイメージと違い大変良き家庭人で、夫人によると
喧嘩らしい喧嘩すらした記憶はないとのこと。
大部屋出身からスターになった人間は苦労を知っているだけに←適当)



ところで、「陸奥」の五来兵曹長は、反戦小説を所持していたため、
罰則として艦倉に禁固されていました。



五来の妹になぜかわざわざ会いに来る副長の伏見と松本中尉。
ちなみにこの妹役をしているのは北沢典子。

伏見は「心配しないように」と一言だけ言って立ち去ります。
松本中尉は、美人の妹が兄の身を思って苦悩しているのを見て、
自分のことのように同情します。



その会話を盗み聞きしている呉鎮守府、物資調達係の三原。
ルードリッヒの手先です。
ちなみに三原の後ろには大本営発表の華々しい連合艦隊の戦果が。

なになに、空母2隻撃沈、大破3隻その他たくさんだって?

 

呉海軍鎮守府という設定。



これは呉でロケしたようですね。
「大和のふるさと」のあの丘かな?



なんと、伏見少佐の叔父の池上中将は、平和主義者であるゆえ、
生かしてはおけないと前線に追いやられてしまうそうです。
いろいろと突っ込みどころが多いですが、ここはスルーで。



「戦争は罪悪だ。人類の破滅だ。
お前は次の時代に生きてほしい人間だ。命を無駄にするな」

と甥に切々と語る小笠原中将。



かたやスパイ団は、「陸奥」の爆破計画の第一弾として、
ハーモニカを吹いていて殴られた神近兵曹に近づきます。



煽られてすっかりその気になる神近、手榴弾をわざと盗まされ、
それで「陸奥」の火薬庫を爆破しようとしますが、



よりによって伏見副長に見つかってしまいます。
相変わらずマイペースの伏見が

「陸奥は俺の恋人だ」

などといいだすので毒気を抜かれて失敗。
伏見副長、無欲の勝利です。



失敗した神近兵曹は、三原一味に殺害されてしまいます。



酒を無理やり飲ませて溺死させるという鬼畜の仕打ちでした。



伏見が一人で神近の死について懊悩していると、そこになぜか
横須賀海軍倶楽部のマダム、美佐子が声をかけてきます。



「あなたの後ろ姿、まるで白鳥が悶えているみたいだわ」

再会早々開口一番これだよ。
これで美佐子は伏見の気持ちを白鳥、じゃなくって鷲掴みにしようって魂胆です。
そしてさすがは百戦錬磨、たたみかけるように続けて

「今日は離さなくってよ(ハート)」

さらに容赦なく同情作戦を展開。
自分の父がなんと「陸奥」の造船技師で、進水式直後
設計図が盗まれたとき、スパイに売り渡したという嫌疑をかけられ、
銃殺されてしまったという過去を涙ながらに話し出しました。

「だから陸奥が憎いんです!」

それに対して伏見は、

「お父さんは技術者として陸奥を愛していたはずだ。
陸奥を憎んではいけない」

スパイの嫌疑をきせられて処刑されたというのなら、憎むべきは
父に罪を被せた真犯人であり、無実の罪で処刑にした軍部であって、
決して「陸奥」ではない、となだめます。



そのまま二人は、なし崩しに美佐子の部屋での飲みに突入。
出撃を控えた戦艦の副長ともあろう軍人が、

「今日は久しぶりにうんと酔ってみたい」

ですってよー。
で、酔ってみたいその理由って何。

「わたしは君を愛してはいけなかった。
君が憎んでいる陸奥をわたしはこの上もなく愛している。
君とわたしとはその宿命から所詮逃れることはできないのだ」

意味不明。

そして、案の定死ぬの死なないの言いあっているうちに、



こうなってしまいます。



そして、ムードに酔って、近々出撃が決まったと
軍艦の極秘情報を美佐子にしゃべるとんでもない軍人、伏見。

「死ぬおつもりなのね!」

美佐子独白:

わたしはこの人を殺したくない・・・。
陸奥さえなければ・・・!

いやいやいやいや(笑)

陸奥がなくなれば、おそらく副長は他の艦に転勤するだけだし、
そもそも陸奥を爆破したら、伏見はまず間違いなく一緒に死ぬよ?



<スパイ団一味の爆破作戦その2>

火薬庫の係の水兵を酔わせ、寝ている間に靴に時限爆弾を仕込んで、
彼が火薬庫で勤務をしている時間に火薬庫を爆発させる。

ところが、門限に遅れた火薬庫勤務の水谷一水、牢屋に留め置かれてしまいます。



軍法会議は、艦長の計らいで不問にされると聞いて喜び、
水谷一水は走って「陸奥」に戻っていきますが、
折しも時限爆弾のセットされた9時半になろうとしていました。



ちょっとの差で爆破が早すぎて作戦失敗。



もしかしたらこのスパイ団すごい無能なんじゃないの?
これだけいろいろ起こったら「陸奥」も厳戒態勢をとると思うけど。

第3の爆破作戦は、思想犯扱いされていた五来兵曹長に
爆薬を仕掛けさせるというものです。

こんどはうまくいくのかな?



ところで三原の子分はここに来て二人とも始末されてしまいます。
祖国を裏切るような輩は、一般的に敵国人からも信用されないんですよ。
翁長さん聞いてる?



「軍法会議で処刑になる前に陸奥を爆破せよ」

妹からの差し入れの中に爆薬と三原からの手紙を発見する五来。
そもそも閉じ込められているのにどうやって火薬庫に行けというのか。

当時戦艦の火薬庫は常時施錠され、当直将校が鍵を首からかけて持っていましたし。



方や呉の港で伏見は美佐子に呼び出されて桟橋で待っていました。
「陸奥」の副長、もしかしたらすごく暇ですか?

しかし美佐子はやってきません。



肝心の美佐子はルードリッヒに捕まっていたからです。
伏見の手紙と遺品を届けに美佐子の家にいく松本。



伏見少佐をおびき寄せて殺すつもりだったルードリッヒが
松本中尉も殺そうとします。



そこになだれ込んできた我らが海軍警察の一団。
五来兵曹長が良心に耐えかね、一味のことを告白したのでした。
アナと三原もどさくさに紛れて殺してしまったルードリッヒは
問答無用で射殺され、とりあえず一件落着です。



ルードリッヒに撃たれて息も絶え絶えの美佐子、苦しい息の下から

「伏見さん・・・陸奥に」

がっくり。
そこで死んだら何もわからないだろうがあ!



火薬庫の中に仕掛けられた爆破装置。
刻々と爆発までの時間を刻みます。



第3の作戦にも失敗した諜報団一味ですが、
用意周到なルードリッヒは砲弾積み込みの機会に爆弾を仕掛けていました。
最初からこうしてればよかったのではないかと思うがどうか。



正午前、これは史実通りですが、霞ヶ浦海兵団の予科練習生ら
153名が艦務実習のため乗り込んできていました。

本当は後甲板で艦長訓示を先に行う予定だったのですが、三好艦長が
着いたばかりで疲れているだろうと食事を先にさせるように指示し、
それが予科練生にとって運命の分かれ道となったのでした。

爆発による生存者の多くは甲板に出ていたといわれます。



予科練生が立ち上がって皆で「若鷲の歌」を歌いだしました。
しかも「”予科練の歌”を歌う!」って題名間違えてるし。

「若い力の予科練は~」

彼らの歌を神妙に聞く艦長。

史実では三好艦長は爆発時艦長室にいたことがわかっています。
解剖の結果海水を飲んでおらず、爆発の衝撃により昏倒した際の
頚椎骨折による即死と診断されました。



美佐子の死を見届けた松本中尉は陸奥に帰ってきてしまいました。
その死を知らされ、衝撃を受ける伏見。
そのとき第一砲塔の火薬庫から時限爆弾を発見したという知らせが!



全員で火薬庫の総点検が始まりました。
たちまち2つ目の爆弾を見つける有能な陸奥乗員。



伏見少佐は艦長に報告し、総員退艦命令を出させます。
もうこの際火薬庫注水でもすればよかったのでは?という気もしますが、
最後は何が何でも爆発することになっている関係で、それはしません。

一つづつ火薬箱を開けていくのですが、爆弾の仕込まれた箱が
あと一つになったところで時間切れ。



陸奥は三番砲塔と4番砲塔の付近から大爆発を起こします。
伏見少佐も松本中尉も火薬庫で即死です。



三番砲塔は吹き飛び、四番砲塔前部で艦体は切断。
前部はすぐに、後部も転覆後わずかな間に沈没しました。



陸奥の乗員は1321名、予科練から乗り込んできたのが153名。
生存者はわずか353名という大惨事となりました。
死亡者のほとんどが溺死ではなく爆死というのがその凄まじさを表します。


 
陸奥爆沈という史実をベースにするにはあまりにも不謹慎極まりない創作、
というのがこの映画を見た感想です。

「戦艦陸奥の悲劇的な終焉を劇的に構成したもので 
登場人物を始め全て創作されたものであります」

とこのテロップでもお断りしてますが、あまり言い訳になってません。

ここにあるように当時はまだ「陸奥」艦体はほぼそのままで、
(一部引き揚げ作業が行われたのは1970年) 
今より原因については諸説入り乱れていたころです。


ところで、この話によると、陸奥の爆破は連合国のスパイによるもので、
それが結果として成功したということになるわけですが、もしそうなら
連合国がこの「大戦果」を戦時に発表しない理由があろうはずありません。

だから「敵国の仕業説」だけは当時から否定されていたわけですが、
にもかかわらず、よりによって国際諜報団の暗躍(+陸奥副長と女スパイの恋)
なんてネタをこの件にねじり込んできたっていうのが、
ある意味怖いもの知らずですごい映画だなあと感心してしまいました。




終わり。

 


 

イエール大学美術館の「顔」

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ボストン美術館、ニューヨーク近代美術館と東海岸の「大物美術館」
を一度に制覇した去年の夏でしたが、それまで知らずにいたけれどその
莫大な所蔵に驚愕させられたのが、イエール大学美術館です。

ジャンルは多岐にわたり、古典芸術からエジプト出土のもの、アフリカやアジアの民族美術、
そして現代美術にいたるまでをくまなく網羅しています。

こんな充実した展示を一大学が所蔵していて、しかもその美術館は
入場料無料で開放しているのです。

たとえいくばくかのフィーを取ったとしても、これだけの所蔵品を見るためなら
皆お金を払うことに何の依存もないと思われるのですが・・・。

しかも各展示室には必ず何人かの監視員が詰めていて、例えばこちらがカメラを構えると、
禁止されているフラッシュが焚かれないかどうか確かめるために、やってきて、
手元を注視し、その瞬間を見逃すまいと構えているのがわかります。

これだけの人件費だけでも大変なものだと思われるのですが、所蔵品の維持費も含め、
どうやってこれだけのものを無料で運営できるのか不思議でなりません。

さて、そんな話はともかく、今日は私の息抜きと称して、この美術館で見た
「顔」の写真を淡々と貼っていくことにしました。
作品名や作者など、いつもと違って全くちゃんと調べることなく適当に感想をいうだけ。

というわけで、冒頭の写真は、アフリカの民族美術コーナーで見た像。
アフリカの「人を模したもの」は皆何らかの呪術を想起させますが、
それは単なる印象でしょうか。

頭のてっぺんから塔が立っているように何かが直立しているのも謎ですが、
なぜこの人物の左耳が丸く肥大しているのかも激しく謎です。
もしかしたら単に右耳は取れて逸失しただけかもしれませんが、
だとしてもどうしてこんな耳に。



何か生活用具の蓋のようなところに彫り込まれた人物像。
パンツも履かずにラジオ体操の最中です。 



だからアフリカの人物像は怖いんだよ。
ブツブツの無数に浮き出た顔はもしかしてリアリズム?
つまりニキビの多い人だったとか。



草を髪の毛とヒゲにあしらった木彫。

 

熱心に写真に撮っている人がいました。
おちょぼ口を突き出している顔がお茶目です。



あーこんな黒人さんいるよねー。
耳にフックが付いているのは、ここに耳飾りをかけてアクセサリー収納をするための
実用的なインテリアだったのかもしれません。 

アフリカ美術、といってもアフリカ大陸は広く、さらに時代も変遷しているのに
あきらかにどんな作品?にも共通するテーマみたいなものがあるように思います。
そしてアフリカ美術といえばほとんどの人が思うのはこのような木製の仮面。

儀式的な意味があることが多く、実際に宗教的・政治的・社会的なパフォーマンスを
ダンスなどといったプリミティブな形で行うのに仮面はつきものといった印象です。



この絵がなんの一部だかわかる方おられますか?



正解はこれ。

オノレ・ドーミエの「トランスノナン街、1834年4月15日」。

わたしは、こんな有名な絵がここにあったのか!と大変驚いたのですが、
ふと気づくと周りにはドーミエの風刺版画が大量にありました。
つまり版画だからあちこちにたくさん残っているってことだったんですね。

この図は、タイトルの日付の日、トランスノナン街でおこった悲劇を描いたものです。
当時フランスでは労働者の暴動が頻発していたのですが、ある日全く無関係の一家の部屋に
ちょっとした手違いで兵士が乱入し、そこにいた全員を射殺したのでした。

男性の横に老人が倒れていますが、奥の暗がりにも男性の母親の体があり、
さらに寝巻きのまま死んだ父親の右腕の下には、重みで圧死したとされる赤ん坊が見えます。

ドーミエは当時新聞社に勤めており、写真のない時代にこういった事件の様子を
まるで写真のように版画に表す仕事をしていました。
ジャーナリズムが勃興したころの画家は、今のカメラマンのような役割だったのです。



さて、ここからは順不同にいきます。
現代美術の彫塑コーナーにあった「自分で自分の顔をつつく人」。



ヒゲの質感がものすごく嫌な感じ(笑)のおじさん。
実はこの作品は上の作品と同じ作者の手によるもので、モデルは作者自身。

どうみても楽しそうに歌っている最中ですね。



ミロだったと思うのですが、ピエロの口のような顔もさることながら、



この顔がちょっと可愛いのでウケました。



現代彫刻のジャンルに入るのですが、この瞳のつぶらすぎる人は、



椅子と一体化しています。
現代美術というのは概して観るものを妙に不安にさせるものが多く、
それをあきらかな目的にしていると受け手にわかってしまうとそれが
またなんとも言えない「不快感」を感じるというか。

それも込みで「芸術」だとするのが現代の美術だというようなこの傾向は、
無意味な音列を音楽と言い張る現代音楽に通じるものがあります。

そういうものじゃない、専門家以外には理解できないだけだ!
という人がいたら、すべての人間に訴えるものがあってこそ、
それは時に耐えうる「芸術作品」と呼ばれるにふさわしいはず、
という言葉を控えめに突きつけてみたいとわたしは思います。

たとえば次の作品を見て人は感動するのかそれとも思わず失笑するのか。



タイトル:

「1日働いてクタクタになって帰ってきたらこんな格好で嫁がテレビを見ていた」



タイトル:

「初心者コースでつったのに話違うじゃん!」



すみません、悪ノリしすぎました。
同じイエスキリスト、別方向から。
「The portrait of an Ecclesiastic」という題名がついています。
なぜキリストを「一聖職者」としたのかは不明。 



イエス・キリストつながりでもう一つ。
十字架を負って歩く姿と磔刑にされている姿を両側に、
茨の冠をかぶり額に血が滴るイエスの肖像・・・・なのですが、 



何百年の時を経て今日残されているという意味での価値はあるとしても、
作品としてみたらこれはいかがなものでしょうか。

イエスキリストをどう描くかというのは画家にとって腕の見せ所だと思うのですが、 
このイエスからはたった一言、「情けなさそうな顔」という言葉しか浮かびません。 

冠のせいで額に滲む血も、想像だけで描かれた子供の絵のような稚拙さ。
細々と描き込めば描き込むほど、どんどんリアリティから遠ざかっていった例。

プロの手によるものではなく、何処かの教会に寄進されたものかもしれません。 



石彫の宗教的作品。
可憐な少女の横にしかめっ面の小さいおじさんがいるのですが
このおじさんの手、 女性の胸に置かれているようにみえます。



我が意を得たりとばかりにほくそえんでいる人。
胸の部分に飾り穴が空いているのは、これがランプだったから? 



日本で出土された埴輪もありました。

「はい、整列したら先生(体育教師)に注目~!」

なんぞこれ。

一目見て思い出したのが「せんとくん」ですが、
共通点は頭から何か生えていることだけ。
せんとくんは一応首から下も人間ですが、こちらは4つ足です。
うしろがどうなっているのか見られませんでしたが、
もしかしたら頭から生えているのではなく、これはしっぽかもしれません。

古代南米でもオッケーの印は指を立てることでした(嘘)
この顔「ご冥福をお祈りします」のAAに似てない?

 

歌ってます。
体つきがかわいい。 

 

耳には穴が空いていて、これもイヤリングが付けられていたらしい。 



この隣にあった人骨。
ただの骨ではなく、骨の表面に細かい彫刻の飾りがあり、祭礼用か
あるいは装飾用に加工されたものだと思われます。
かつては全面にわたって彫刻されていたのだと思いますが、年月が経って
骨の表面が剥離してしまいました。

この写真は不幸にも向こうの壺にフォーカスが合ってしまったため、
どんな彫刻だったかをお見せすることはできません 



後ろ向きで見えませんが、これも強烈に「顔」を感じさせるマグリットの作品。
マグリットの絵は「夢」「無意識」を表した多くのシュールレアリスムの画家と違い、
どの作品も極めて現実的であり(たとえ非現実を描いたものであっても)
画家自身が「目に見える思考」といったように、

世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したもの 

(デペイズマン)とされます。

ときおり彼の絵に出現する帽子とスーツの人間は彼自身の姿であり、
彼自身の人生も平凡なものであったといわれます。

つつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、
ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、
夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。(wiki)


こんな人物評から、てっきりヌーボーとしたおじさんだと思っていたら、



ビューティフルなマグリット夫妻。
奥さんは幼馴染みとありますが、彼のモデルもしていたそうです。
シュールレアリスム界の「非凡な凡人」の”顔”はかなりの男前だったってことでオチ。

 




 

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