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”PAP"投入〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練

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係維掃海具が投入され、それが引き揚げられました。
報道関係者に配られた資料によると、この部分に

掃海:ショートスティ

と記されています。
オロペサ型掃海具を投入し、どのように曳航するかを展示して
その後短時間で引き揚げたから「ショートスティ」なのかなと思ったのですが、
どうやらそうではなく、このような掃海の方法をそのように称するようです。

ちなみに個人ブログではときおり「ショートステイ」と書かれているようですが、
自衛隊的に正確な用語は「ショートスティ」であるようです。



われわれの乗った「いずしま」から見ていると、「えのしま」がこちらに向かって
近づいてきて、少し後ろを追走する形で航行を始めました。
「えのしま」というと、前回の日向灘での掃海隊訓練でメディアツァーが行われ、
わたしが乗せていただいた掃海艇です。

「今曳航した掃海具で切り離した機雷を『えのしま』が処理したんです」

えっ?

そもそも機雷らしきものが見えなかったんですがそれは。
もしかしたら、「切り離したという設定」「処理したという設定」
だったのでしょうか。



掃海具を回収し終わった後、関わった全員がまた甲板に整列です。
作業の区切りごとにこうやって整列及び確認を行うんですね。



解散になるや否や、カポックを脱いでたたみ始める人あり。



今曳航していた掃海具で使われていた切断機でしょうか。
ちなみにこの切断機ですが、防衛省の資料から図を見つけてきました。



緑にペイントされている部分は『安定版』。
肝心の切断器は鉤型になった部分の奥にある「ピン」なんですね。 



さて、ショートスティという掃海が終了した後は、
「掃討」の展示となります。
「いずしま」の「掃討具」はこの黄色いPAP-104 Mk.5機雷処分具。

この写真は「ショートスティ」が始まる前に撮ったもので、この機雷処分具
「パップ」本体のあちこちにブルーのテープを貼り付けているところ。
海中に投じた時の保護のためのテープでしょう。 




左舷船尾近くの画像です。
PAPというのは水中カメラと機雷探知機(ソーナー)を搭載した掃討具ですが、
今点検しているのはそれに接続する電源であろうかと思われます。



続いてPAPの各部分の作動確認が始まりました。
ちょうど艦橋後ろ甲板の左舷側に立っていたわたしの後ろで、
点検をしている隊員との通信が始まりました。

どうも通信内容を聞く限り、わたしの後ろでこの作動が行われており、
後ろの隊員が例えば推進プロペラを回した、といえば、
PAPの横に立つ隊員がそれが作動していることを報告するという感じです。

PAPの両舷に付けられたプロペラはこんなに可愛らしいのに、
この航走体を海中で自在に動かす力を持っているようでした。
プロペラのケースには海中の浮遊物を巻き込まないようにネットが張られています。 




こちら、PAPのノーズ付近の目盛りを確認中。磁石でしょうか。



さて、甲板上ではまたしてもお色直しをして隊員集合。
このようにしょっちゅう服を変えるのもわたしたちには謎でした。



そこに潜水服のEODが登場。
PAPによる掃討のときにはEODの出動もあるってことなんでしょうか。
キリッ!といった風情で手袋をはめてスタンバイです。 



ふと海面に目をやると、手前の「えのしま」、向こう側に「のとじま」がいました。
むむ、妙に接近しているが、これには何か意味が・・・?



この間を利用して、宇都宮司令は報道陣に掃海訓練中は、隊員たちが
このフル装備で何時間でも待機し、食事・休憩はもちろん仮眠もこのヘルメットをかぶって
甲板で行う(触雷の危険に備えて)というのがいかに大変なことか
わかってもらうために、報道の人にヘルメットをかぶってもらっています。

「重たいですね・・・」

というより、かなりサイズ的にきつそうに見えるがどうか。 

 

1隻の掃海艇にはEOD(水中処分員)は3人乗っていると聞いたことがあります。
キツイので昨今なり手が少なく「絶滅危惧種」(ミカさん談)となりつつあるEODですが、
女性で配置を熱望して夢を叶える人がいたり、逆に新聞でインタビューされていた

「1000時間を目前に体を壊して残念だけど引退した」 

という人がいるという具合に、この仕事に情熱を持って取り組む人もいるのです。
彼らの給与体系について聞いたことはありませんが、危険手当は出るのでしょうか。



さて、いよいよPAP104Mk. 5の海中投入がはじまります。
まず、先ほどの浮標投入の時に使ったのより大きな左舷側のクレーンから
出てくるワイヤを確保。

もうこのころには亀爺効果で、報道陣が皆下に降りています。
上からの方が作業がよくわかると思うんだけどな^^ 



クレーンのアームがうぃーんと動いていって、パップ本体の上に。

 

ロープがピンと張られました。
ロープ先のフック部分を本体に当てないように慎重にクレーンを動かします。

 

ものすごく分厚そうなゴム手袋をつけた隊員が、フックの先を本体に引っ掛けます。
パップの本体に「GROSS 890kg NET 570kg」と書いてありますが、
このあいだのS-10掃海具より軽く、クロマグロよりふた回り大きな感じですか。 



パップを吊り下げるワイヤは鋼鉄製です。
ところで、このパップにペイントされた白い矢印。
わたしはてっきり前回の「えのしまくん」のようなオリジナルペイントだと思ったのですが、
「とよしま」「つのしま」など、他の「すがしま」型掃海艇のどのPAPを見ても
同じ矢印があるので、これは単に「こちらが前」という印ではないかと思われます。

ちなみに、阪神基地隊所属の掃海艇「つのしま」のPAPには、さりげなく
阪神タイガースのトラがでかでかとペイントされているのですが、
万が一他球団ファンの乗員がいたらこれは辛かろう(笑) 



PAP投入にはEODが関わるようです。
万が一何かあったら飛び込んで追いかけるとかか?



尾翼にはロープを通す穴が空いていて、こちらには繊維のロープが通されます。
海中に投じる時に安定させるためのロープでしょうか。

「掃海艇の仕事は索を捌くこと」

と奇しくも伺ったことがありますが、何をするにしてもこうやって
ロープやワイヤを扱うそのやり方は、昔からあまり変わっていません。
掃海艇乗りを「最後の船乗り」と呼ぶのもここから来ています。



先ほどお立ち台で掃海具曳航を指揮していた隊員さんが今回も指示して、
クレーンがPAPを持ち上げました。
持ち上げながらも3箇所に取り付けられたロープを3人が保持しています。



クレーンが海の上にPAPを運んでいきます。
相変わらず3箇所のロープは保持されたまま。

注意していただきたいのは船尾に立っている隊員のところから出ている
釣竿のような赤いコードの通る長い棒で、これはPAPにとっての命綱、電源です。

上の方の写真で確認していただければわかりますが、最初の頃、この角に
テレビカメラが立って、ここから投下を撮ろうとしていたのです。
おそらく作業に際して「(邪魔なので)どいてください」とか言われたんだろうなあ。 

もちろん自衛官は何も言わないけど、きっとメディアのカメラが入るとき、
彼らはかなりうざいというか、イラッとしているものではないかと思います。 



とか言ってたら後ろからまた近づいて撮ってるよ(笑)

でさー、それだけやって撮った映像、番組でちゃんと使ってもらえたの?
いつも思うけど、目の色変えて人を押しのけて自衛官にウザがられながら
真ん前に陣取ったにしては、どの媒体も扱いは小さいし、写真もせいぜい小さいのが1枚。
それが仕事だからと言ってしまえばおしまいですが・・。



さて、この写真では、PAPの後部につながっているコードを
ガイドに沿って伸張して行っているのだと思われます。
こうしてみると今にも落ちそうなくらい体を乗り出して行う作業ですね。

 

電源コードがピンと張ってしまわないように撓ませたようです。
いよいよ海中に投入の瞬間。



もしかしたら、EODはこの作業中何かあったらすぐ飛び込もうと思ってる?



PAPを海中に投下したワイヤが外されました。
どこでどうやっているのかは現場ではわかりませんでしたが、
どうやら遠隔操作でフックを外すことができる仕様のようです。



海中に放たれたパップくん、お尻から出たコードだけで元気に泳ぎだしました。

「この後は、食堂でパップが写しだす映像を見ます」

宇都宮司令が皆に声をかけ、一同はぞろぞろと階下に降りて行きました。


続く。 

 


PAP-104Mk.5引き揚げ〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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掃討具PAP-104が無事海中に投下されました。
わたしたちは第1掃海隊司令に促されて食堂に戻ります。



食堂の入り口には暖かい缶コーヒーが用意されていました。

自衛隊という組織で飲み物を何度か出されて気づいたことですが、
出される飲み物は常に選択の余地なくコーヒーです。
アメリカ海軍はあの通りですし、唯一の例外であるイギリス海軍を除いては、
世界的に海軍というのは圧倒的にコーヒー派なのではないかと思われます。

このときに用意されていたのも甘い缶コーヒーとそうでもない缶コーヒーの二択です。
コーヒーには絶対に甘みをつけない主義のわたしもこうなっては
比較的甘くないという方を選ぶしかありません。
缶コーヒーなど何年ぶりかというくらい久しぶりでしたが、冷え切った体に
暖かく甘い缶コーヒーは殊の外美味しく感じました。




小さな食堂には、コンパクトにいろんなものが備えられており、
テレビのモニター、神棚、プリンターなどがまとめて置いてあります。

テレビ台に「常勝軍団」とありますが、他の掃海艇の例に漏れず、
「いずしま」もまた、「一家」として訓練やソフトボール大会など、
各艇対抗の勝負に勝つべく常日頃から研摩しているのでありましょう。

しかも「常勝軍団」の下にある金色のプレートには、なんと

「平成27年度機雷戦部隊戦技 優秀艦艇」

とあるではないですか。
そういえばミカさんが「いずしま」に乗ることが決まったことを教えてくれたとき、

「いずしまは今優秀艦艇に選ばれてイケイケなんですよ」

というようなことを言っておられたような覚えが・・。
27年度の戦技といいますと、もしやそれは先日の日向灘の結果?
日向灘のときに座乗した「えのしま」も優秀な艇だったということですが、
もしかしたらメディアに公開されるのは、優秀だからということでもあるのかな。

 

ちなみにこれも掃海艇らしく極限に小さな神棚にはちゃんと
賽銭箱も備えられています。(写真を見て気づいた)
小さな鏡の御神体、立てかけられたお守り札には
○山神社、と書かれています。

もしかしたら名前の元になった「出島」(いずしま)にはこのような
名前の神社があるのかなと思ったのですが、そうでもなさそうです。

「出島」と書くと長崎県出島ということになってしまうのですが、
「いずしま」の命名由来となった出島は、宮城県の女川に近い
小さな島で、面積 2.68km、周囲 14km、
人口 はわずか 450人という小さな島だそうです。

東日本大震災では20mの津波により島民25名が犠牲になりました。
震災後島民が全て島外に避難し、復興は進まないままですが、
漁業関連施設からもとどおりになりつつあるということです。

掃海艇「いずしま」と実際の「出島」とが、名前以外で何か
関係を持っているのかどうかについては今回わかりませんでした。

「出島」の話ではありませんが、食堂に東日本大震災のときに、掃海隊が
どのような活躍をしたのかを伝える写真がパネルにされていました。

あの震災で、多くの自衛隊員が現場で捜索に当たりました。
ある程度の時間が過ぎたときから、それは「救助」から「遺体捜索」へと
なっていったわけですが、特に掃海隊の救助活動、それに続く遺体捜索活動は
その壮絶な体験から多くの掃海隊部隊隊員がメンタルダウンしたと聞いています。

中でも二十歳にも満たない若い男の子がこのような現場をみたという話を聞いたときに、
わたしは思わず彼らに向かって、手を合わせて拝みたいような気持ちにさせられました。

「行方不明者捜索」「行方不明者水中捜索」・・・・・
この写真はおそらくその苛酷さの片鱗も伝えていないのだろうと思います。




食堂の壁に掛けられていた「いずしま」のスペック。
TYPE-2093とは掃海艇本体に搭載されている機雷探知機で、
可変深度式のソナーとなります。
これは矢印で指された上部構造物前端の甲板室内に設置されており、
ウィンチによって300メートルの深度まで吊下げることができます。

防衛省の資料によりますと、巻上機製作は日立製作所。
予算は「204百万円」と謎の記載がされていました。



「いずしま」の構造についてブリーフィングで第1掃海隊司令が説明したとき、
この食堂の壁を指差して、

「縦に沢山の梁があるでしょう」

と指摘していました。
言われてみると、縦の梁はほぼ30センチおきにびっしりと張り巡らされています。
木だけでできている掃海艇の強度を高めるための仕様なのだそうです。

そしてこの梁のくぼみを利用して、棚を作ってしまうという工夫が(笑)
棚に置かれたウォータークーラーは、落下防止のひもがかけられています。


さて、「常勝軍団」の上に映し出されたソナーの画像を指差し、
第1掃海隊司令が説明をしてくれました。



映像をカメラに切り替えると、おお、何か見えてきた。
PAP-104はソナーでまず探知しますが、それは類別用ソナー
(クルップ・アトラス社製AIS 11高周波ソナー )です。

そして、機雷識別用ビデオカメラの映像がこれです。

前回、赤いコードを電源だと言ってしまったのですが、
あれは電源コードではなく、光ファイバーケーブルでした。
ファイバースコープってことでよろしいでしょうか。

なお、PAP-104の電源は内蔵電池となっています。

そしてカメラがとらえた機雷(のつもりの物体)は。



なんか図工の時間にデッサンする石膏模型みたいな形ですが、
認識しやすいように色は白、縁には何か貼ってあります。
これは模擬機雷なのですが、画像検索してもこの形のものは
「いずしま」の甲板に置いてあったという写真が一つ見つかっただけでした。

これも「いずしま」が設置したものかもしれません。
設置して自分で回収する予定ってことなんでしょうか。

PAPは沈底機雷、係維機雷のどちらにも対応でき、画像で識別したら
あとはその形状によって掃討のやり方を選んでGO!です。
沈底型には100キロの爆雷で爆破、係維機雷は搭載したカッターでワイヤを
切り離し、その後掃討しますが、その際、先ほど控えていた水中処分員が、
爆薬を取り付けたりするということなのかもしれません。


さて、PAPが送ってくる画像を確認したら、次は揚収です。
模擬機雷は比較的近くに沈んでいたらしく、わたしたちが食堂から
甲板にもう一度上がると、程なくPAPが泳いで帰って来ました。 



いつも不思議なのですが、いつの間にクレーンのフックをかけるのでしょう。
気がついたらすでにつり下げるためのフックが本体に結合しています。

舷側に立っている二人の隊員は何をしているかというと・・・・・、
なんと一人が使用しているのは前回話題になった「さすまた」ではないですか。

海から引き上げるとき、急な波に煽られてPAPが揺れ、船体に当たることのないように
さすまたで抑えているんですね。

右側の隊員の持っている棒は、先にやはりフックが付いており、
PAPのノーズ付近に引っ掛けて引き寄せる道具のようです。





この高さになったらもうさすまたの出番はありません。
ロープをかけて動揺に備えつつ、クレーンが設置台の上に運んでいきます。



無事に台の上に乗っけることができました。
海から引き上げたあとは潮水を拭ったりするのかと思ったのですが、
意外にも自然乾燥派でした。

まあ、いつも甲板の上で潮に吹かれているから、いまさら一緒か。


このPAP-104という掃討具、なんと1968年にはその原型の開発が始まっており、
今のMk.5ができたのはもう30年も前のことだそうです。
「いずしま」の就役は2003年のことですから、ずいぶん「とうのたった」掃討具を
搭載したものだなという気もしますが、そもそもこの「すがしま」型そのものが
前にも書いたようにイギリスの「サンダウン型」をベースにしているため、
その「サンダウン」級が搭載していた情報処理装置・機雷探知機・機雷処分具の3点セットが
どれにももれなくついてくるという大人の事情があったようです。



さて、PAP-104投入、模擬機雷掃討(のつもり)、そして揚収が無事終了しました。
本訓練に携わった隊員が、また再び艦尾に整列して訓練終了の合図。

EODの三人は本来ならば海に飛び込まなくてはならなかったのでしょうか。
いずれににせよそんな事態にならなくて何よりです。


さて、この一連の訓練には約1時間45分を要しました。
この後、11時からは、ヘリからEODが海中にリペリング(海自もこういうの?)
あるいはファストロープで侵入する(って陸自みたい)、
ヘローキャスティングが行われます。 


続く。


 

ヘローキャスティング~MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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MINEX、というのを「ミネックス」と読んでいる方、ぜひともたった今から
「マイネックス」と読むようにしていただければ幸いです。
掃海隊機雷戦訓練のことをマイネックスと呼ぶのは、機雷の「Mine」からきているのです。
つまり

「Minesweeping Execise」

の略語だったんですね。
ショートスティと言われる掃海、そしてPAP投入による機雷掃討と
報道陣に見せる訓練が順調に進み、次はヘリコプターから海中に
EOD(水中処分員)が進入して機雷に爆薬を仕掛ける、という想定の
ヘローキャスティングが次に行われることになりました。

甲板に出ると、ヘリが飛び立ったあとの掃海母艦の「ぶんご」が、
どおおお~んといった風情でその雄大な姿をダウンウォッシュの向こうに見せています。

 

はい、こんな感じ。
掃海母艦「ぶんご」、そして今回1機のみ参加のヘリMH-53E、模擬機雷、
そして水中処分員の作業を見守り時に支援するボート。

これらが一気にフレームに収まる位置に配されております。

あとからわたしたちは「ぶんご」に乗り移ったのですが、そのときに
掃海隊司令である岡海将補が、このときのことについてこうおっしゃっていました。


「わたしたちの(ぶんご)方から『いずしま』がヘリの向こうに見えているので、
写真を撮ると、ヘリの後ろにぶんごがちょうど写ることになるなと思ったのですが、
あれは逆光でしたね・・・失礼いたしました」

なんと、掃海隊司令は、ヘリのバックに「ぶんご」が控えるというアングルで
写真を撮ることまで気を遣って「ぶんご」を操舵させていたということなのです。

このときに、「いずしま」船上でも、「逆光ですねー」と第1掃海隊司令が
気を遣う発言をしていたので、わたしはとにかく海上自衛隊がこのような場合、
カメラ写りまでを考えてくれていることを知って驚愕しました。

しかし、それに対しプロのカメラマンであるミカさんは

「いえ、逆光もそれなりにいい写真が撮れるんですよ」

とこちらも気を遣った慰め?をしていました。
まあ、わたしのレベルでは逆光は逆光にすぎないできですが(笑)、それでも
現場のこのときの迫力はお伝えできるのではないかと思います。



これも逆光でシルエットにしか見えませんが、待機しているゴムボート。
EODのウェットスーツを着た4人の隊員が乗っています。



後で「ぶんご」に乗り移ってから、わたしはヘリコプターのダウンウォッシュを
生まれて初めて至近距離で体験したのですが、それはすさまじく、
ちょうどヘリの移動する部分だけが白く細かいしぶきが立ち上がっています。
ヘリも気を遣ってボートの上空は飛ばない模様。



ボートを望遠レンズで狙ってみました。
見た目より特に舳は深いので、濡れることは無いでしょうが、
それでも2月の海の上、ボートの上で風に吹かれっぱなしというのは
実に厳しい労働環境であるとしか言いようがありません。

ちなみに、ウェットスーツの下は完璧に普通の恰好だそうです。
全く水を通さないんですねえ。



もう一度ズーム。
ボートの周りに波型にロープがめぐらされているのは、海中から上がるとき
ここをつかんで自力で体を持ち上げるためのものです。
エンジンには「TOHATSU」と書かれていますが、トーハツ株式会社は
船外機、消防ポンプなどを製作している会社で、戦時中には
2ストロークガソリンエンジンを主力とし、軍の発電用エンジンを主に生産、
軍管理工場となっていたこともあります。

海上自衛隊との関係は海軍時代からのものでしょうか。



さて、訓練海域に到達したヘリがホバリングし、
ワイヤーが下されました。



まず最初の水中処分員が降りてきます。


 
前回と今回の掃海隊訓練見学の合間に、わたしは習志野の降下初めで
陸自のヘリからの降下を見学し、それについて少し知るところとなったのですが、 
その知識によると、この降り方は「リぺリング」(一般でいうラぺリング)にみえます。

両足でロープを挟み、手で体を保持して滑り降りるやり方に見えますが、
やはりいざという時の危険を考えてファストロープ方式かもしれません。



ファストロープはリぺリングより安全だとはいえ、まあでも
・・・・これを見る限り、万が一落ちたら結構おおごとかもしれない。

やはり水中処分員の仕事は大変危険なものであり、 日頃から彼らは
トレーニングで体を作り、厳しい訓練で鍛え上げて事故のないようにしているに違いありません。

そんな掃海隊のモットーとは、

「適切な判断力、俊敏な行動力で任務を果たして必ず帰還」

です。 

 




そして二人目が降下。
白いヘルメットがとても目立ちます。

「どうして必ず二人一組で行うのですか」

横にいた第1掃海隊司令にうかがったところ、

「三人だとケンカになるからです」

えっ!それはあまりに斬新な角度からのご意見。

「というのは冗談で(冗談だったんかい) 、安全のためですね」

一人で行っていて、なにか・・・・たとえば海中で貝に脚を挟まれたとか、
(それはないか)とにかく助けが必要になる状況が起きたとき、
迅速に状況を外部に伝えるためにも、二人一組で行うということのようです。



前回は遠くて全く見えなかったのですが、今回ははっきりと、
海に入った水中処分員が二人、機雷に近づいていくのが撮れました。



一人が機雷に炸薬を仕掛けているという設定。
必ずもう一人は離れた位置でそれを見守るようです。



その様子を、ボートの上のEODはひとりが写真に撮り、(かな?)
一人は名簿らしき紙になにやら記入していました。

「もしかしたら点数をつけているんですか?」

と聞いてみましたが、今回は点数はつかないようです。



こういう、浮いている機雷の処分を、浮遊・浮流機雷処分というそうです。
こういう機雷の処理はタンクも背負わず、シンプルな格好で行います。

これ、何していると思います?

機雷はそれが触れると爆発を起こす「触角」を持っています。
触角が爆発を起こす衝撃は約数キロと言われています。
人が触って決して爆発しないという数値ではないため、
慎重に爆薬(だいたいペットボトルの大きさ)を装着します。

二人一組で行うのは、一人が装着を行い、一人は援護・警戒役です。
 
この写真は機雷に取り付きながらも周りを見回しているように見えますが、
必ず作業前に周囲の警戒をすることもルーチンになっているそうです。



そして、導火線に着火を済ませたら、数分の間に安全地帯まで泳ぐか、
ヘリに再び揚収してもらって、爆破を見届けます。
訓練なので機雷を爆破することはされませんが、海上にいる支援船では、
残り時間をちゃんと計って任務が成功したかどうかチェックしています。

何か失敗して、制限時間が過ぎたら、松岡修造のような人に

「はい今死んだ!今君爆発に巻き込まれて死んだよ!」 

とか怒られてしまったりするんでしょうか。

ファストロープで釣り上げられるEOD。



一組目がすんだあと、もう一度ヘリはその海域を一周します。
「ヘリが現場に着くところからヘローキャスティング」ってことなんでしょうか。



二組目、最初のEODの降下。



いくら海水とはいえ、ダウンウォッシュの霧の中に降りていくのは
最初は恐怖感があるのではないかと想像します。
なにしろ、ものすごいんですよ。ダウンウォッシュの風力って。(経験談)



海の上に降りるや否や、全速力のクロールで泳いでいくEOD。
基本平泳ぎや横泳ぎしている場合ではないってことでよろしいでしょうか。
 


一人目が機雷にたどり着きました。



二人目も降下し現場に到着。



そのとき、支援船の上のEODがなにやら声を掛けました。



と思ったら、船の上の声をかけていた人が飛び込んだ!



なぜか機雷の周りに人が三人いる状態。
何があったのか、わたし程度の知識ではさっぱりわかりません。

第1掃海隊司令!三人飛び込んでますよ!?これケンカにならないんですか?




なんか忘れ物でも届けにいったとか・・・?



飛び込んだ人はすぐにボート上に上がり、支援の人は遠くから見ています。



支援船の上の人は、文字通り訓練の際に必要とならば
いつでもこうやって海中に入り支援を行うようです。



ところで、この画面上をご覧ください。
訓練海域を堂々と漁船が突っ切っていきます。
これ、いいのか(笑)

平成23年、呉基地所属の掃海艇「みやじま」が、夜間錨泊中、
地元の漁船が見張りをおこたったため、衝突した事件がありました。
これは広島海難審判において漁船に過失があるとし、漁船の操縦士を
一か月の業務停止にするという判決がでたのですが、判決において

「みやじまは 守錨当直員が見張り不十分で、このことに気付かず、長栄丸に対し、
汽笛による注意喚起信号を行うことなく、その左舷前部に長栄丸の船首が衝突した。」

とし、自衛隊側の見張り不足も注意されております。
しかも、状況は

「訓練海域は、安全に訓練を実施するために漁船の操業を制限して設けられた
補償海面と称する海域内にあり、訓練終了後錨泊する際も、
同海面内に錨地が指定されていた。 」

だったのにですよ?
そういう場所で錨泊しているときにぶつかって来る相手に見張り不十分って、
自衛隊側にずいぶん厳しくない?


この写真の漁船だって、訓練海域の目と鼻の先をかすめるように通過していってるし、
訓練海域を借りるのに、なにやら自衛隊がずいぶん漁協に下手にでなてくては
いけないような風潮といい、これといい、なんかおかしくないですか?


と、わたしがたった一人で怒りに燃えていると(笑)「いずしま」はくるりと向きを変えました。
どうやらヘローキャスティングの見学時間(15分)は終わり、
1130から「ぶんご」に移譲する準備に入るようです。
今日は前回のような波のうねりもなく、問題なくラッタルを掛けることができるでしょう。

やった!今日こそは掃海母艦で海自のカレーが食べられるぞ!
とこおどりしたわたしでしたが、この予想は外れることになります。


続く。



掃海母艦に移乗〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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ヘローキャスティングを二組、4名のEODによる実技を見学したあと、
「いずしま」は移動を始めました。
みるみるうちに訓練海面が遠ざかっていきます。

・・・・と、そのとき。



ヘローキャスティングを行っているヘリのダウンウォッシュの霧の中に
虹が見えました。
アーチを描く虹というより、霧全体が虹色に浮かび上がって大変綺麗です。

「きれいですねー」

なにかとても神々しく有り難いものを見せていただいた気分です。



ずっと錨泊している掃海母艦「ぶんご」が近づいてきました。
というか、「いずしま」が「ぶんご」の後ろに回りこんでいるんですが。

「ぶんご」には前回の日向灘での訓練で夜間寄港したところに押しかけ、
珍しいクレーンによるジュース搬入のシーンなどを見せていただきました。
その「ぶんご」にそう日を分かたずして今度は伊勢湾でお会いできるとは。

艦首には一見日本の旗のような実は艦首旗が上がっていますが、
これは「ぶんご」が日中、停泊中であるからです。



「いずしま」は入稿準備をしながら「ぶんご」の後方に回り込み、
後ろから右舷に着岸(舷?)するつもりの模様。
入港作業のときの赤いヘルメットで全員が準備を行います。



もやいの準備が整ったので、近づいていくのを皆で注視。

このままいったら舳先が艦腹に激突!にみえますが、
ギリギリで「いずしま」は「ぶんご」と平行に船体を調整します。

 

細いもやいの類がきっちりと美しく並べられています。
20ミリ機関銃の台座ですが、用具置き場して使われることの方が多そう。 



「ぶんご」見学の時に、ここから外を見せていただいたなあ・・・。
その時は何をする場所かわからず、案内してくださった副長の

「ここは一人になれる場所なのでタバコ吸いに来る乗員もいます」

という言葉にうなずいていたものです。
このくぼみの本来の役目は、洋上で接舷するときに防眩物を下ろすためだったのですね。



じわじわと近づいていく両舷。
ここまできたらミリ単位の操艦という感じです。
接舷したときに「衝撃に備え」する必要もないくらいでした。



「いずしま」が近づいてきてから防眩物を用意する「ぶんご」の乗員たち。



「いずしま」に知り合いでも見つけたのでしょうか。

 

上甲板からサンドレットにより索を受け取りました。
このサンドレットですが、



のちに「ぶんご」に移乗したときにまとめて置いてあるのを目撃しました。
もたせてもらったところ、先がずしりと重たいものです。
どこかで、

「岸壁でうっかりサンドレットをキャッチしてしまってものすごく怒られた」

という体験を語っている元隊員さんがいましたが、確かにこれでは
結構受け損なったときに危ないと思われました。



「いずしま」側で入港作業を行う乗員。
このように洋上で錨泊している母艦に接舷することも「入港」と呼び、
その瞬間にはちゃんと「入港ラッパ」も吹鳴されます。

「いずしま」の左舷からはバウスラスターの立てる白波が見えており、
母艦への接舷は、艇の推進力とバウスラスターの反発を使って
ミリ単位で行うらしいことがわかります。



この瞬間は艇長も舷側で接舷を見守っているようです。



そこでふと、近づいてくる「ぶんご」の艦橋をみあげたところ、
おお、なにやら偉そうなサングラス軍団がずらりと!

「ぶんご」のキャップをかぶっていない赤と黄のストラップは、
掃海隊「Mine Warfare Force」の帽子着用。
これは文字通り「機雷戦部隊」のことです。



そして、その左には・・・・!
このお方こそが掃海隊群司令、海将補 岡浩さんである。

前回は「うらが」に乗り移ることができず、ご挨拶を舷越しにするしかなく、
大変残念な思いをしたものですが、ようやくそちらに伺うことができます。

後から、日向灘の移乗が中止になったときのことが話題になったので、

「あのとき中止を決めたのはどの時点でしたか」

と質問してみたところ、やはりお互いの舷に一度かけたラッタルが跳ね飛んだとき、
これは無理だなと判断したとおっしゃっていました。

「隊員だけなら”泳いででも来い”って言えるんですけどね^^」

いや、あの海で泳ぐのはいくら海自隊員でも無理ですって。
とにかく、今回は移乗が無事に行われそうで、よかったです。
作業を見守る司令の表情も心なしか和らいでいるような。



三方からもやいで繋がれた防眩物がこのときになって下されました。
ところで、画面下の小さな丸窓から出ているもやいはいつの間に、そして
どうやって「いずしま」と繋いだのだろう・・・・。



掃海艇だけでなく、艦船の作業とは「索を捌くことと見つけたり」。



前にも同じ光景を見たような。
じゃなくて本当にみたんだった。
「ぶんご」側から「いずしま」の舷にラッタルを掛けるのです。

 

掃海艇と掃海母艦は甲板の高さが違うので、それに合わせて
このような形状のラッタルが掃海母艦側には備えられているのです。

高さの違いは階段6段分ですか。



そうだ!前回と同じところから写真を撮らねば!

わたしは慌ててラッタルを掛ける作業を前に見た、信号旗置き場の
手前に移動しました。

前回は前の信号旗置き場にもたれかかっていて、ラッタルが跳ねたとき
心臓が縮む思いをしたものですが・・・。



慎重に階段の先を「いずしま」に下ろしていきます。
「いずしま」に接地する部分はなんと車輪が付いていたのか!



降ろされる直前に「いずしま」側の乗員がこんな姿勢で
緑のネットを大急ぎで外しました。



作業でクレーンを動かしている間は、ずっとビー、ビー、と笛が吹かれています。
もう少しでこちらに届くぞ。



無事ラッタルがかけられました。めでたしめでたし。
お試し?のためにまず一人が上がっていきます。



このあと、メディアとわたしたち、そしてエスコートの広報幕僚、
陸自の迷彩服で参加していた地元地本隊員が移乗を行いました。



今渡っているのが最後の人だったかな。
前回の日向灘に参加していたのはメディアでは一社もなく、
一般参加のわたしたちだけでした。



あっという間にラッタルが収納されました。
我々を移乗させたあと、「いずしま」はずっと訓練の予定が入っています。

艦橋にあったホワイトボードに書いてあった本日の予定によると。

1400 MCH-101荷重データ収集支援

1430 松阪港入港(中間補給)

などと続き、そのあと1800から1時間半かけて機雷敷設とありました。
暇にしている時間など全くないということになりますね。



これは「いずしま」の艦尾側。
もやいを引き上げています。



「いずしま」の防眩物はこんなところに下げられていたのか・・・。
ブリーフィングで軽妙な話しぶりの解説をしてくださった第1掃海隊司令の
宇都宮2佐の姿が艦橋に見えます。


 
そのとき「帽触れ」の声がかかり、「いずしま」は出航していきました。
ところで、この写真を見てわたしはあることに気がつきました。

「PAPがない・・・」



白い掃海浮標は見えていますが、後甲板に出ていた黄色いPAP-104がありません。
わたしのいたところから見えなかった部分にシャッターが見えていますが、
どうも訓練終了後そこに収納してしまったようです。

やはり、繊細な機能を搭載した掃討具なので出しっぱなしにはしないんですね。

写真は「帽触れ」のあと「帽戻せ」の号令がかかった瞬間の「いずしま」艇上。
短い間でしたが、御世話になりました。
暖かい缶コーヒー、とても美味しかったです。


続く。 

ヘリ着艦とEOD〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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「いずしま」から掃海母艦「ぶんご」への移乗の後、
「いずしま」の出航を見送りました。
移乗してすぐ、メディアは甲板を臨む「袖」のようなところに案内され、
今からヘリの着艦を見ていただきます、と言われました。



甲板上は危険であるうえダウンウォッシュをまともに受けるので、
作業する乗員たちもここで待機しています。

黄色と黒のダイヤ柄の格好をしているのはLSO、管制官で、
ヘリ着艦の時にパイロットに指示を出します。



ここにヘリを拘束するためのチェーンが二組、並べて置いてありました。




交代するヘリのパイロットもここで待機しています。



ヘリが進入してきました。
ほとんど凪とはいえ、甲板が傾いているのがお分かりでしょうか。



写真では分かりにくいですが、ダウンウォッシュの起こす水煙が
ここからも確認できます。



この時点で、甲板上はヘリの猛烈なダウンウォッシュに見舞われました。



その凄まじさは、自然の暴風がコンスタントな強さで吹いてくる感じです。
ぼーっと立っていたら飛ばされてしまいそうなくらいで、わたしは
日よけに被っていた帽子を飛ばされて落としました。
とにかく、これまで体験したことのないような強烈な風力を感じました。



前回の大きなうねりを伴う日向灘の着艦も難なく行うことのできる
海自ヘリパイロットにとっては、今日のようなコンディションでの降着は
目をつぶってもできるイージーモードなのかもしれません。



陸自のヘリの降着を見ていても、必ず後輪から着地しています。
掃海母艦上への着艦は、海面と平行に降りていった場合、
甲板の傾きまではヘリパイには見えないので、この写真のように
まずどちらかの車輪がタッチすることが多いのではと思われます。

自衛隊でもヘリの着艦にはベアトラップという拘束装置が使われますが、
この訓練のように甲板から離発艦を繰り返すような場合は普通に甲板に降ります。



着艦すると、すぐに甲板に機体を拘束する作業が始まります。
先ほど床に並べて置いてあったワイヤをまず甲板に固定。



甲板にワイヤを置き、その先端をまずヘリに装着します。


 
前に1箇所、後ろに2箇所ヘリに固定します。
ここからは分かりにくいですが、作業にあたる隊員は
強烈なダウンウォッシュの中、透明のゴーグルを装着して行っています。



ワイヤが撓まぬようにピンと張って・・。



反対側でも一人が同じ作業を行っています。



ワイヤの先を取り付ける甲板上のフックはここにあるらしい。

 

拘束作業終了。



作業終了して引き上げてくる隊員は、やはり頭を下げて歩いてきます。
これは本能的なものなのでしょうかねえ。

今まで写真だけ見て、「頭を上げても下げても変わりないのに、なぜ」
と漠然と思ってきたのですが、自分が実際にダウンウォッシュの強烈な風を体験すると、
どうしてもローターの下を歩く時にこんな姿勢になってしまうのがよくわかりました。

何しろ、音も強烈ですし、恐怖感はかなりのものです。
慣れている自衛官でもこうなってしまうのも無理はないと思います。



さて、拘束による甲板への固定が終わり、人が引き上げました。

 

パイロットとコパイの姿が確認できます。
機体番号29のこのMCHは、実はもうすぐ退役することが決まっていて、
最後に花を持たせるためにこの訓練に参加したということを
士官食堂で昼食を頂いた時に幕僚が教えてくれました。

もうすぐ転勤になるから掃海隊訓練の最後に「お立ち台に乗せてもらう」
という「いずしま」の乗員がいたように、海上自衛隊という組織は
こういう粋な「情実采配」が行われるらしいことがわかりました。

おそらく29番機がメディアの写真に撮られる機会もこれが最後でしょう。 



ヘリのクルーがドアを開けて甲板に降り立つと、
ヘリ後部から水中処分員が降りてきました。



今さっき、わたしたちが見学した訓練の参加者に違いありません。
彼らの腰には色とりどりの金属環が下げられていますが、
これがファストロープのときにカラビナと接続する器具だと思われます。

クルーは機内からコードを持って降りてきましたが、これは何でしょう。

 

降りてきたのは全部で8名、つまり4組のEODたちです。
ヘルメットは白と黒2色があるようです。



すごい迫力。
今訓練を終えてきたばかりの男たちには、殺気に近いオーラが漂い、
その退路で待ち受けるカメラを一顧だにしない様子にも、
ストイックな「海の男」の近寄りがたい凄みがあふれています。



水中処分員の平均年齢は年々上がっていっているそうです。
確かにこの隊列を見ても、ベテランが多いように見受けられます。

ところで、彼らが隊伍を組んで(自衛隊はいかなるときでも整列行進)
「花道」を引き上げてくる様子を、メディアの一団は待ち構えて、
このように(ちなみにわたしは最前列ではありません)写真を撮りましたが、
彼らが通れるように空けてあった部分に、ずずいずいと出て行く人がいました。

そう、我らが亀爺その人でした。

彼らの引き上げる様子を真正面から撮りたかったのでしょう。
そして、すぐさま「そこどいてください」と甲板係に叱られました。

あとでミカさんが

「あれは絶対にプロじゃない。プロだったらあんな空気読まない動きはしない」

ときっぱり言い切っていましたが、わたしもこのときそう思いました。



EODの一団が引き上げたあと、それと入れ替わるように
カーキ色の軍団が一列になって歩いていきます。



ヘリのクルーも一挙に総入れ替えを行う模様です。
実はこの隊列のひとりを女性と見間違い、あとから

「もしかしたらヘリのクルーに女性隊員はいますか?」

と幕僚たちに聞いてみたところ、わざわざ電話をかけてしかるべきところに聞いてくれました。

「女性クルーはいないそうです」

単に華奢な体型をしているだけの人だったのか・・・。



実はわたしは「いずしま」に乗艦する前に同行の広報隊員に耳打ちされていました。

「ぶんご乗艦後、司令官と一緒に昼食を召し上がっていただきます」

なんてこった!っていうか、やったー!
そのことを嬉々としてミカさんに言ったところ、

「電話でそのこと、もうお伝えしたじゃないですかー」

と呆れられてしまいました。
そ、そういえばそんなことを聞いた気がしてきたな(; ̄ー ̄A 
その直後、例のおじさんが誰だろうという話で盛り上がってしまったため、
すっかり「司令官とお食事」の部分が記憶から抜け落ちていたのでした。

ヘリ着艦を見学した後、行程表には

体験喫食

と書かれているところの昼食時間となり、わたしたちは
報道陣とは違うルートを「ぶんご」士官に案内されてついていくことになりました。
その途中目撃したのが、EODたちの任務を終えた後のほっとしたひととき。




さっき引き上げてきたときとは打って変わって和やかな雰囲気が漂います。
「ウェットスーツ」と「ドライスーツ」の違いを教えていただいたのですが、
背中のジッパーを外して中に見える服を見る限り全く濡れていないので、
これはドライスーツってことみたいですね。



左側にミカさんのカメラが見えていますが、こういうときの
EODの素顔を撮るのも彼女のカメラマンとしての重要なテーマです。


さて、彼女がひとしきり写真を撮り、わたしたちは案内されて
いよいよ司令官とのお食事のため艦内に入って行きました。



続く。 

喫食体験と「えのしま」との邂逅〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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ミカさんの撮影が終わってからわたしたちは司令官室に案内されました。



部屋には縦長のテーブルと四角いテーブルが配置され、
奥の縦長テーブルの「お誕生日の人席」には掃海隊司令が座っておられました。
一人一人の紹介を受けましたが、幕僚の方々という感じ(適当ですみません)でした。
ここで初めてわたしは司令と名刺の交換をし、いよいよ喫食(というより会食)開始です。
さて、どのようなものが提供されたと思います?




(・・・・カレーじゃねえええっ!)←わたしの心の中の声

てっきり「ぶんご」でいただける喫食はカレーだと勝手に思い込んでいたのですが、
金曜日ではないせいか、カレーではありませんでした。
司令とともにいただけるそのお食事とは、あのおなじみ金属トレイのものではなく、
ぬあんと、懐石弁当仕立ての豪華汁物付き。

メインはチキン南蛮風、クリームシチューになぜかもう一品鶏の酢の物、
デザートに果物までついた超豪華版。
あの「ぶんご」のキッチン、そう、前回副長が艦内案内の際、

「うちのキッチンはいい料理の人が来ているのでフネの雰囲気もいいんですよ」

とまでおっしゃっていた噂の腕利き厨房の料理がこれか・・・。
いや、さすがでございました。
作ってから時間が経ってしまっていたのが残念といえば残念でしたが、
掃海艇の隊員の皆さんが、テッパチにカポックをつけたまま、
甲板の風に吹かれながら冷え切った弁当を食べていることを考えれば、
クリームシチューが冷たいことなど、何の文句がありましょうか。

しかも、ご飯は各自小さなおひつに入っていたのが配膳され、
ほかほかの温かいのを、好きなだけよそっていただけます。

ところでこれ、もしかしたら前回の「うらが」にも用意されていたわけかしら。
移乗ができなくて、結局あのときわたしたちのご飯は食べる人がいなくなった訳だけど、
それはちゃんと無駄にならないように誰かが食べて処分したのかしら。

そんなことをわたしが考えているあいだにも、和やかに食事は進みます。
聞かれるままに観艦式の時の話などで盛り上がったのですが、話しながら
チキン南蛮を2切れ食べたところで気づきました。

周りの方々がすでに食事を食べ終わっていることに。

は、早い。これが噂の海自の早飯というやつか。
もしかしたら皆、ちゃんと噛んで食べてないんじゃないか?
思わずみなさん早いですね、と思った通りを言ってしまったのですが、
任務中の自衛官というのは、将官であっても基本早飯なんでしょうか。

よく、咀嚼せず食べるのが早い人は太る、なんていいますが、ここでは
たとえそうでも余計なものは食べないし、運動量が半端でないため、太っている人はいません。
EODにはどすこい級体型の人がいましたが、あれも贅肉ではなく、
プロレスラーのように体を守る脂肪をつけているといった感じです。



ところで、掃海隊訓練で地方に寄港するとき、地元でスポーツ大会を行うことが
恒例となっており、たとえばここ四日市ではマラソン大会が
艦艇対抗で行われますが、掃海隊司令は当たり前のように参加されるのだそうです。

ミカさんがいうには

「司令は嬉々として走ってます」

ということなのですが、この席でそのことをご本人に確かめると

「自衛官として体を使えるようにしておくのは当然のことですから」

と爽やかに、かつきっぱりと言い切られました。

自衛官が一般人に混じって参加したマラソン大会で上位に食い込むのはよくあることです。
あるマラソン大会は毎年自衛官チームが勝つので、別の大会を作って
体良く?追い払い、参加を阻止したという噂まであります。

そんな体力自慢の若者に混じって参加するため、司令のチーム(当然年配の人ばかり)は
前回は最下位から二番目だったそうです。

しかし、それにしても、齢50過ぎた管理職が若い者と一緒になって
嬉々としてマラソンを行うのが当たり前の職場なんて、
おそらく自衛隊、海保と消防所くらいのものではないでしょうか。

「そのとき最下位はどこのチームだったんですか」

「大湊から参加していたチームでした。本人たち曰く、あの地では
地面が見えて走りこむことのできる季節があまりに短いからと」



四日市ではマラソンですが、日向灘のときはソフトボール大会が行われるそうです。
日向市というのはもともと大変ソフトボールの盛んな土地柄で、
自衛隊チームは地元の女子チームや社会人チームと親善試合を恒例として行います。

「もと野球部なんかもいたりして、強いチームがあるんですよ」

なお、掃海母艦と掃海艇では乗員数は全く違いますが、それでも
「一つの船、一つのチーム」で対抗試合を行うそうです。

「その方が盛り上がるんです」


なるほど、船同士の対抗意識は大変強いものだと前回聞きましたが、
スポーツ大会においてもそれが発揮されるんですね。



テーブルから見えるモニターには甲板のライブ映像が映し出されています。
このときに機体番号「29」がもうすぐ退役であることを聞きました。
MH-53Eは次々と使用廃止になり、MCH-101に置き換わっていく予定です。



楽しくお話を伺いながらの会食は終わりました。
お礼を言って部屋を辞しましたが、部屋の入り口に
食べた後の食器がすでに片付けられているのも
抜かりなく写真を撮ってしまうわたしであった。



部屋を出たところに編成表が貼ってありました。
一緒にお食事させていただいたのは、この図の上の方の方々だったと思われます。

よく考えたら、自衛艦の士官室でご飯を頂く経験は、
わたしがこの世界に興味を持ち出して、今回が初めてでした。
掃海隊司令部の皆様のお気遣いと、そのおもてなしのきめ細やかさに
心から感激することになった感激の体験喫食となったことをご報告します。



先ほど乗り込んだクルーが乗り込んだMCHがヘローキャスティングを行っています。
この人たちはいったいお昼ご飯をいつ食べるのだろう・・。

ダウンウォッシュのなかに先ほどと同じように虹が出てきています。



甲板のこの部分はEODの待機所のようになっているらしく、
潜水服が乾かしてあったり用具が床に置かれています。
向こうの海面で行われているヘローキャスティングの訓練を全員が見守っていました。



「これはボートを乗せて移動するためのものです」

先日、掃海艇が載せているボートを「ゴムボート」といったところ、
正式には「複合艇」であるとお節介船屋さんから教えていただきました。
呼称は「複合型作業艇」通称「作業艇」となっているようですね。



さて、昼食後次に移乗する「えのしま」の入港(接舷のこと)が始まる、
ということで外に出たわたしたちの目に、「えのしま」さんのお姿が目に入りました。



こちらにもりもりと近付いてくる「えのしま」さん、お久し振りです〜。
といっても最後に乗ったのは2ヶ月前のことなんですけどね。



近付いてくる「えのしま」の舷からは海中に索が垂れています。
これ、どうやって「ぶんご」が拾うんだろう。




後ろからにじり寄るように接舷。
海中に垂れていた索が、いつの間にか「ぶんご」と繋がってる!



そして「えのしま」の皆さんたちのお姿が、艦橋に・・・。
おお、その赤いストラップは、忘れもしない第41掃海隊司令ではありませぬか。



前回は船酔いでご心配をおかけしたということもあって、わたしはミカさんに

「今回は司令にはお会いできるんでしょうか」

と何度もなんどもその可能性を確かめていたのですが、まさかまた
本当に同じ船に乗れるとは思ってもいなかったので、嬉しかったです。




今度は「ぶんご」の側からラッタルをかける作業を見ることになりました。
手前の人が首にかけている白いひもが気になるなあ。



全員が「えのしま」に乗り移り、一番最後に地本の人が
救命具のようなものを抱えて降りてきました。



かけるときには慎重ですが、外すときにはあっという間です。 



「ぶんご」でエスコートしてくださった方々。
短い時間でしたが、たいへんお世話になりました。



「えのしま」では瞬時の切れ目もなく出航作業が行われます。
画面手前の人はホイッスル吹いてますよね?


「ぶんご」の艦橋を見上げてみると、掃海隊群司令の姿が。
そのとき「帽振れ」の号令がかかりました。



「正しい帽振れの行い方」の見本のような司令の折り目正しい帽振れです。
そして横の白髪のサングラスの将官、渋いです。



なんか、満面の笑顔で帽子振ってる人がいますね。
ほとんどが喫食体験の部屋にいた方々でしょうか。



深いグリーンの海にバウスラスターの白波を立てて、
「ぶんご」が遠ざかっていきます。

・・・・じゃなくて、遠ざかっていっているのはこちらでした。
「ぶんご」もこの後移動をするのか、抜錨しております。



大きく左回頭をした「えのしま」の航跡がはっきりと海面に見えるくらい、
この日の海上は穏やかでした。

あとからミカさんに、わたしたち夫婦が前日に伊勢参りをして無事を祈ってくれたおかげ、
と言われましたが、単なる偶然にしても、その偶然に巡り合わせたことを
天佑神助といっても今回はさしつかえないだろう、とわたしは心のうちに呟いたのでした。



続く。


 

「えのしま」乗艦(と華麗なる転倒)〜MINEX・掃海隊機雷訓練@伊勢湾

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というわけで、1345、我々は「えのしま」に乗り移りました。

本日の訓練見学で、「ぶんご」乗艦、ヘリ着艦見学、そして
体験喫食で美味しい昼ごはんをいただいた後、別の掃海艇に乗ることになるとは
全く予想していなかったため、それが他ならぬ前回乗った
「えのしま」であったことはわたしには望外の喜びとなりました。 

 「えのしま」の役目は見学者を予定の1430に港に連れ帰るだけで、
訓練はすでに終了しましたが、配られた予定表には「適宜取材可能」とあり、
乗艦時間1時間、「えのしま」も出来る限り取材に協力しましょう!という感じです。



「ぶんご」から「出航」した「えのしま」は大きく右回頭し、たちまち
この位置に回り込みました。
ヘリの着艦が着艦した甲板もこんなに小さく見えます。

移乗した「えのしま」では取材協力のため早速ブリーフィングが行われました。



前回と同じく第41掃海隊司令である権田3佐によるレクチャーの始まり始まりー。
そこしか席がなかったので一番前に座ってアオリで写真を撮ってしまいました。

トップの「ようこそ、えのしまへ!」の画面には、昨年末、
クリスマスシーズンに隊員が飾り付けた「えのしま」の姿が。
いかにも手作りといった電飾がアットホームな掃海艇ならではです。



今回のレクチャーは「いずしま」で概要をすでに聞いてきているということで、
主に「えのしま」など新型掃海艇の仕組みについての説明でした。
FRP素材で船体ができている新型掃海艇は、このようにパーツを組み合わせて
パズルを組み立てるように形が作られる、といったようなことです。

短いブリーフィングが終わり、艇内ツァーが行われることになりました。
前回、このツァーで思わぬ船酔いに襲われたわたしですが、今回は
陸(おか)の人である我々にとっても揺れなど微塵も感じないべた凪、
そんな不吉な記憶など、笑い話になるくらい絶好調です。



第41掃海隊司令、どうやらこの2尉に「ツァーの案内をせよ」と
命令を下している模様。



狭い掃海艇では廊下も収納場所の一つ。
甲板につながる通路にはカポックがかけられ、コードで固定されています。



外にはEODの着用する潜水服が干してあります。
左胸には所有者の名前が記されていますが、どうもここに書くのは
パイロットのタックネームのような「あだ名」であってもいいようです。

首のところがゴムになっていて、これで完璧に水の侵入を防ぎます。
ゴムアレルギーの人は絶対にEODになることはできません。
今の主流のデザインはオールインワン型のようですが、
お腹のところにあるファスナーはもしかしたらトイレ用? 



司令に命じられて報道関係者に説明を行う2尉。

「これは音響掃海具です」



感応掃海具1型音響掃海具発音体。

従来の磁気掃海具と音響掃海具の機能を統合したお得な2ウェイ掃海具で、
2008年導入され、「えのしま」型以外には「ひらしま」型が、
そして先日進水式を行った「あわじ」型掃海艦にも搭載される予定です。

と、検索したら自分のブログの説明が出てきたので、そのまま載せてしまうのだった。
 

磁気掃海具は磁気機雷に対応し、また音響機雷に対しては音響掃海具があります。
このうち磁気掃海具は,長さ数100mの浮上式の電線に電流を流し、
その電流を変化させ、船体磁気に類似した磁気信号を発生するようになっており、
音響掃海具は、航走音に類似した擬似信号を機雷に与えて勘違いさせるという仕組みです。

その両方の機能がこの一つのボディに搭載されているんですね。



S-10掃海具のコードリール。

「ぶんご」で掃海隊群司令とお昼ご飯を食べた席で、掃海具の話になった時、

「S-10の”S”ってなんの意味だか知っていますか」

と聞かれたので、

「掃海のSですよね!」

とここぞと得意げに答えたばかりか、同席の自衛官が知らなかったと言ったのに対し、

「やった!自衛隊の中の人に知識で勝った!」

と勝ち誇ってしまったのですが、調子に乗りすぎたと今では反省しています。



このコードリールの写真を撮るのも二度目です。



マンタ式模擬機雷の説明中。



そして掃討具S-10との再会〜!
このときにおとなしくしていればいいものを、ふと「えのしまくん」の前からも、
写真を撮ろうと思ったのが、後から考えたら、ちょっとした失敗でした。



全面についたソーナーの写真を撮り、移動しようと思ったときです。
前回の「えのしま」見学記のときも写真をあげて説明したのですが、
掃海艇の後甲板の床には、ここにも見えている通り、重量物を運ぶための
レールが張り巡らされています。

このレールが濡れていたらしく、移動しようとして上を歩いたところ靴底が滑り、
次の瞬間、わたしはばったりと床に倒れていました。

写真の左側、つまりわたしの転んだ真横には、権田司令とミカさんが
話をしながら立っており、あとからミカさんに聞いたところによると、

「二人が見ている中、まるで漫画のように華麗に転び、
次の瞬間司令の顔が、これも漫画のようにささーっと青くなった」

という状況だったそうです。
カメラを持っていた左手から転び、床にカメラをまずぶち当てたせいか、
人間本体への衝撃はほとんどなく、わたしには、すぐに起き上がるのもカッコ悪いので、
そのまましばらくじっとしていようかと考える余裕さえあったのですが、
やはりそういうのは特にこの場では不適切である、と思い直した其の瞬間、
司令の声が聞こえました。

「大丈夫ですかっ!」

やはり死んだふりをしなくてよかった、とその声音を聞いて、
一瞬でもこれでウケを狙えると思ったことをわたしは心から反省したのです。



大丈夫ですといいましたが、司令はすぐさま士官室にわたしを連れて行き、
前回の船酔い騒ぎのときにトイレを出たら待っていた、
見覚えのあるメディックがすぐに現れました。

あー、なんだか前回もこの部屋ででぼーっとしてたなあ。(懐古)

メディックはわたしのいうままにすりむいた(と思われる)
手のひらの外側にバンドエイドを貼ってくれ、運用長が
コーヒーを持ってきてくださって話し相手になってくれました。



前に自衛隊で出されるのは選択の余地なくコーヒー、といいましたが、ここでもこの通り。
ブラックでも十分美味しいコーヒーでした。

あとは運用長から掃海艇勤務についてのいろんな話を伺っておりました。
「掃海艇は冬でも水が暖かい」というのもこのとき聞きました。

そのときには「えのしま」は松阪港にすでに入っていくところでした。
滞在時間が1時間しかないというのに、なにをやってんだか。わたし。



あとでついでに、前回船酔いの原因となったトイレを記念に撮影しておきました。



朝「いずしま」に乗って出航した港に「えのしま」で帰ってきました。
報道の人たちも仕事を終え、もの思いに耽りモードです。



「えのしま」では舷側に防眩物を下げる作業が始まりました。



この港は定期船のターミナルともなっています。
このサメのようなイルカのような模様の描かれた船は、
松阪ー津ー空港(セントレア)を結ぶベルラインという高速船です。

ミカさんはセントレア空港からこの船で現地まで来たのだそうです。



人気のない松阪港には入港支援のための人が三人立っています。



入港まで、必ず司令が艦橋の赤い椅子に座らなければならない時間があります。
転んだショックから立ちなおったわたしが、最後に入港作業を撮るために
外から操舵室を除くと、司令が椅子に座っておられました。

司令が様子を見に来られたとき、ご迷惑をかけたことを謝ったついでに

「司令とお会いするたびにこんなことになるって・・なんかあるんでしょうか」

と軽口を叩くと、それってまるで俺が悪いみたいじゃない、と笑って返されました。
打ち所が悪ければ、埠頭からヘリ搬送、なんていうおおごとになっていたのに、
まったく口の減らないやつで本当に失礼いたしました。
この場を借りてあらためて心からお詫びと御礼申し上げる次第です。


実は、おおごとになったらなったで、それも一つの・・・、などと邪(よこしま)なこと
(=総火演で砲弾の破片が飛んできて当たった観客が考えたのとおそらく同じようなこと)
をチラッと考えた、というのはここだけの秘密です。


続く。


 

帰港と下艇〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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というわけで、今回の訓練参加におけるわたし自身の「お約束」というべき
アクシデントも無事に終わり、(っていうのも変ですが)「えのしま」は
取材を終えた人々を乗せて松阪港に入っていきます。




入港作業を待ち受ける岸壁の自衛官たち。
先に入港していた「ししじま」の隊員たちであると思われます。



まず最初のサンドレッドが投げられたのを確保。



早速そおなじみの「もやい持ってダッシュ」が始まりました。



もやいを持ってそのまま力一杯引っ張るように走り、
ある程度のところでもう一度岸壁まで戻って引っ張る。

もやいの扱いの「基本」ですが、わたしがこのやり方に気付いたのは
去年の観艦式における「むらさめ」の出港のときでした。



連続写真を撮ったのであげておきます。
右端がもやいを持つ「先頭」になります。



今赤帽1がもやいの「根本」にたどり着き、



もやいを拾い上げました。
右端の赤帽2がもやいをはなして「根本」に駆け寄ります。



赤帽1が今一人でもやいを引っ張っているところ。



赤帽2と白帽が全力疾走でもやいを取りに行きます。



あれ?白帽はもやい取らなくていいのかな?


 
赤帽2がこんどは引っ張ります。



白帽は・・・・?



太いもやいに変わったのでそれを確保しに行くようです。



輪になった部分をもやい杭に掛ける役目みたいですね。



われわれの「えのしま」はあさ「いずしま」が出港したところに停泊します。
向こうにいるのは「ししじま」さん。



おお、サンドレットが先日から話題になっていますが、ついに
それを投げる瞬間がカメラに捉えられました!(大げさ)

やはり勢いをつけるために片足を大きく踏み出していますね。
左にはサンドレットの紐を収納するカゴをもって行います。



今投げたサンドレットを取って、岸壁ではまた「もやいダッシュ」が行われており、
こちらではそれにつなげる太いもやいの用意をしています。

防眩物を設置するのはその後のようですね。



「ししじま」では入港後、ゴミ出しをしているようです。
(ってこともいつのまにかわかるようになってしまったわたしである)



ちゃんとゴミが仕分け分別できているかもチェックして出します。



この間にも「えのしま」の船体はじわりじわりと岸壁に近づいていきます。



前は御前崎開運所属の貨物船「天鶴」。
「てんつる」ではなく「てんかく」だそうです。

後ろはフジシッピング社の「富士福丸」でした。

この松阪港にはかつて東京に行くフェリーが就航していたこともありますが、
採算が取れなくなったためわずか10年で廃止になっています。

出港前、わたしたちは

「もしかしたらここに船が到着することになるかもしれないので、
そうなったら2時半ではなく4時過ぎまで帰ってこられない」

という情報を得ていました。
わたしとミカさんはどちらかというとその方が嬉しかったのですが、
帰ってすぐに夕方のニュースに間に合わせたい報道陣は気が気ではなかったでしょう。
彼らにとってラッキーなことに、帰港の際のバッティングはなく、
無事に時間通り松阪港に帰ってくることができました。

しかし、そうなったときに自衛隊側がどうして否応もなく
入港を待たされないといけないのか、わたしは一人で怒りに(略)



さて、あっという間に入港作業がすみ、接岸が行われました。
本日のメディアツァー参加者の下艇もあっという間に終わりです。



第41掃海隊司令、そして「えのしま」艇長、お世話になりました。



埠頭を歩きながらふと「えのしま」の船体に浮かび上がる
塗装したの素材の模様に思わずシャッターを切りました。
まるでたくさん紙が貼られているような細かい線が見えます。

FRPとは繊維強化プラスチック(Fiber Reinforced Plastics)のことで、
プラスチックの中に別素材を入れて強度を上げています。
プラスチックだけでは弾性が得られないので、ガラス繊維を挟み込むことで
軽くて強い素材が生まれるのです。

複合素材で強化される、この場合プラスチックを「マトリックス」と呼びます。

たとえば木造の掃海艇の寿命は20年でしたが、それが30年になるなど、
耐用年数が大幅に増え、いいことだらけのFRP素材ですが、問題もあって
素材の分離が困難であるため、リサイクルや廃棄処分が難しいのだそうです。

掃海艇が退役になる時、どうやって処理していると思われますか?
なんと、燃やすんですよ。

FRPは燃やすわけにいかず、廃棄コストはむしろ高額につくとおもうのですが、
「えのしま」以降の掃海艇は30年後どうやって廃船にするんでしょうか。

多分防衛省のことだから何か考えてはいるとは思うのですが・・。



船首部分の船体にはより一層縦のラインが目立ちます。
前回の乗艇では全く気づかなかった部分でした。



ミカさんもわたしも、「えのしま」の出港を見送りたかったのですが、
松阪駅まで送ってくれる地本のシャトルバスに乗らればならなかったので、
名残惜しくもここで掃海艇に別れを告げました。

近鉄で名古屋まで1時間半、新幹線でも同じくらいかかって帰ってきましたが、
ミカさんと掃海隊の話に花を咲かせているうちにあっという間についてしまいました。
こんなに時間が経つのが早かったのは近来なかったことです。



「ぶんご」で食事をいただいた時の箸入れとコースターを持って帰りました。
コースターは今現在、大変お役立ちです。



自衛隊の見学に客として招待されるとき、食事と必ず青い袋にお土産、
というのが「ワンセット」となっているそうです。(ミカさん談)
その青い紙袋に入っていたのは、まず、前回と同じ掃海隊マークのついたタオルと・・、



前回お菓子をいただいたので、今回も箱の大きさからそうだと思っていたのですが、
開けてみたらなんとこんな写真入りのフォトスタンドでした。
訓練見学の思い出となるでしょう。


というわけで、二回に亘る掃海隊機雷戦訓練を見せていただくことによって、
日頃あまり公開されることのない掃海隊の活動を垣間知ることができました。

写真でも見たように、艦艇に大きなダメージを与え、ときには沈没すらさせる
破壊力を持った機雷を無力化、あるいは掃討する方法は、
我々が思う以上に人間の力、特にEODら生身の人間の手に頼るものでした。

失敗すれば一瞬にして自分も粉々にしてしまう凶悪な機雷を相手に、
その瞬間は死と隣り合わせに任務を遂行する寡黙な戦士、掃海隊。

そんな超プロフェッショナルたちが今日も立ち向かう「現場」は、
未だにその危険が時代とともに泥深く埋まっている我が国の領海なのです。 

自衛隊で唯一、実際の戦線で戦っている部隊、掃海隊に
国民の一人としての感謝をあらたにした、伊勢湾での機雷戦訓練でした。



最後に、ご招待くださった関係者の方々にお礼を申し上げます。
ありがとうございました。



終わり。 


鳥とミイラ〜ピーボディ博物館

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イエール大学構内にあるピーボディ博物館は「自然博物館」なので、
イエール大の研究の成果が展示されているという面もあります。

ちょうどこれを書くときにHPを調べてみたら、「ミュージアム・トーク」として、
「ドーターズ・オブ・サムライ」(サムライの娘たち)という、1871年、
明治政府から留学のために岩倉使節団として派遣された5人の少女たち
(山川捨松や、津田塾を作った津田梅子ら)についての本の著者である 
ジャニス・ニムラの講演があるというお知らせがありました。

ジャニス・ニムラHP

彼女のHPには岩倉使節団の珍しい写真がたくさん掲載されています。
彼女もイエールのアラムナイ、つまり卒業生で、日本にいたこともあるそうです。


先日、考古学コーナーについてご紹介しましたが、今日は主に鳥類などが
膨大な数の剥製で紹介されている二階部分についてお話しします。



ピーボディ自然博物館は、イエール大学の考古学者、オスニエル・マーシュが、
裕福な彼の叔父、チャールズ・マーシュに「おねだり」して作ってもらったそうですが、
この肖像はおそらくピーボディの方だと思います。



ニューギニアの土着民族の宗教や呪術に使った品の展示。



続いてのコーナーは、いきなり太古の昔の想像ジオラマです。
この巨大なトンボは、恐竜の時代に生息していた「メガネウラ」というそうで、
「ゴキブリトンボ」というトンボには嬉しくない日本名でも呼ばれています。

羽を広げた大きさが約60センチメートルから最大で約75センチメートルに達し、
現在知られている限りの史上最大の昆虫であったと言われています。

しかし70センチのトンボ。
近くに飛んできたら全力で叫ぶ自信ある。

トンボの下にナマコみたいなのがいますが、これはなんだかわかりません。
このころの虫は大きなものも多く、アースロプレウラという節足動物は
大きなもので3mあったといいます。

我が家は周りに緑が多く、よく虫が入り込んでくるのですが、
ちょうど昨日、よりによって風呂場に5センチのヤスデがいて、
ちょっとしたパニックになりました。

排水溝のゴミ取りを外し、シャワーをかけて速やかに流れて行っていただきましたが、
2度ほど必死で穴から這い上がってきたので死ぬほど怖かったです。
5cmの虫であんなに怖いのに、3m・・・・。

 

空気中の酸素って、45億年前はほぼゼロだったんですね。
カンブリアン期にはほぼ今とおなじになったようです。 



ここからは剥製を使った本格的なジオラマが展開します。
まずヒグマとシロクマがなかよく並んでいる実際にはありえないコーナー。





牛か羊かわかりませんが、ウシ科ヒツジ属のアルガリという動物。
モンゴルとかタジキスタンとかそのあたりにいます。
標高5000m以下の山岳地に少数の群れを作って生息しています。



雷鳥かわいい。



熱帯ジャングルですね。
チータを見ている鳥はチョコボールのキャラクターだったなあとおもって
「チョコボールの鳥」で検索したらちゃんと「キョロちゃん」という名前が出てきました。

鳥の名前は「オオハシ」といいますが、「キョロちゃん」は実は架空の鳥だそうです。
そんな馬鹿なーー!



実際のジオラマと絵を組み合わせて、大変よくできている展示です。
水辺の鳥が大集合している、ここはカリフォルニアかな?



アメリカ中西部ってところですね。
上が切り取られたようになっている地形を「mesa」といいます。
mesaはアメリカ西部とメキシコにしかありません。



カナダのクマー、グリズリーベアーです。
昔「グリズリー」という、「ジョーズ」の柳の下のドジョウ狙い映画がありましたが、
ドジョウは2匹くらいはいたらしく、この映画、結構流行ったようです。
「ジョーズ」以降、いくつかこういったアニマル・パニック映画が作られました。 



これもカナダでしょうか。



プレーリードッグ。
これがプレーリードッグですよね。



これ、ノーウォークの公園で撮った写真ですが、これは何?
確かにプレーリードッグと言われるとそんな気もするのですが、
なんかシェイプが違いすぎるような・・・。

プレーリードッグという生き物も、リスなのかネズミなのかはっきりせい!
名前はドッグだし・・・とおもったら、一番近いのはリスだそうです。
道理でカリフォルニアジリスに似ていると思った。



えーと・・・・・・ヤク?
ヤクは犛牛(りぎゅう・ぼうぎゅう)という日本名もありますが、
多分漢字を読める人はあまりいないと思う。 



サボテンがあるのでメキシコとかだと思いますが、イノシシがいるとは知らなんだ。



ジオラマに散々感心してコーナーを抜けたら、ここ所蔵の鳥類図鑑がありました。
この図鑑の凄いのはとにかく大きいこと。

縦1m20、横90cmといったところでしょうか。
こんなものを装丁した方もした方だけど、一体どうやって閲覧したのか。
普段はどうやって収納しておいたのか。
そもそも何のためにこんな大きな本にする必要があったのか。



というわけでここから鳥のコーナーなのですが、
展示の仕方がなんか変。




と思ったら、この一羽だけでした。
あとはこのような、まるで鳥が生きているような展示。 



水もないのに泳いでいるような展示方法は素晴らしいですね。
ちなみにloonsというのは「スカイラーク」(アゲヒバリ)というジャズの曲で

「Crazy as a loon, Sad as a gipsy serenading the moon」

という歌詞で「ムーン」と韻を踏んで登場し、「馬鹿者」とかいう意味なんですね。 
鳥の場合は「アビ」という水鳥を指します。 

「アビ」は漢字では「阿比」と書き、別名「平家鳥」。
その鳴き声が、平家の没落を悲しむ声のようだということで付けられたとか。



笑ってしまったのが、この「キツツキ的な鳥コーナー」。
皆に木をつつかせています。 



いや普通こんな風には止まらないだろうっていう。
アニメなら皆で調子を合わせてカルテットをしそうですが。



フクロウ的ミミズク的な鳥類。 



白フクロウや普通のフクロウは可愛いんですが、この右下の、
メンフクロウがネズミを丸呑みしているユーチューブを見てから、
少し考えが変わりました。



そういえば "To kill a mockingbirds" という小説がありましたっけね。
日本の題名はなぜか「アラバマ物語」になっていたりするんですが。
タイトルは

「モッキンバード(マネシツグミ)は真似をするだけで、悪いことはしないから殺してはいけない」

というセリフから取られています。
人種差別の激しかったアラバマで、レイプの無実を訴えるも射殺される黒人青年がいる一方、
子供達をかばって殺人を犯した障害者の罪を見逃す警官もいる、というストーリー 。

障害者が白人である、というところが突っ込みどころでしょうか。



雛まで剥製にするなよお!
と思わず叫んでしまったCommon Tern (アジサシ)の展示。
マウンテンビューの湖の上で何度もダイブして魚を取っていた鳥です。



コンドルですかね。 



絶滅してしまった「ドードー鳥」。
マダガスカルのモーリシャスに生息していたのですが、入植したオランダ人が塩漬けにしたり、
イギリス人が持ち込んだ動物に捕食されたりして、1600年代には絶滅してしまいました。

「ドードー」というのはポルトガル語で「のろま」だそうですが、
飛べなかったことが絶滅の道を早めました。

全くろくなことをせんな白人というやつらは。




ネイティブアメリカンに対しても「いうことを聞かないやつらは絶滅な」
という政策を堂々と掲げたのがアメリカ人というやつです。

シャーマン将軍とか、ジャクソン大統領とか、アメリカ人にはどうか知りませんが、
随分と残虐なことをやっていたと見えるんですがね。

1000年恨むのが世界のスタンダードなら、アメリカ人って未来永劫
アメリカンインディアンには許してもらえないよね。
「アラバマ物語」だって一体なん年前の話なのかっていう。 



ここでいきなりエジプトコーナー。
ピラミッドからの出土品を展示し、当時の埋葬慣習について説明しています。



副葬品の内臓入れ各種。



一番外側の蓋を開けたところで展示されているミイラ。
この中身を好奇心に駆られて?開けてしまわないのが文明人。

開けてしまったらもう取り返しがつかないからですね。
現地では「mummy unwrapping」と説明されています。



中身をレントゲンで撮ることができ、中のミイラがどんな状態かもわかります。
説明を全く読まずに、この骨格から男性ではないかと推測してみる。



副葬品の中には「アニマル・ミイラ」もありました。



左のちまきはibisつまり「トキ」、右側のはは猫です。



これ、なんだと思います?
地表に雷がおち、その時には砂を溶かした跡なのです。
何かの発掘現場でたまたま見つかったので、その部分ごと採取してきたんですね。


さて、というわけで二階部分を全部見学したわけですが、
この二階に階段を登って行く時、わたしたちはあることに気づきました。

「・・・・変な匂い」

「なんか臭いね」

なんとも言えない生臭いようなわずかな異臭が鼻をついたのです。
二階に展示されているあまりにも多くの剥製のせいであることがわかったのは、
帰りに階段のところに戻ってくるとその匂いが全くなくなったからでした。


どんな博物館でもこんな体験をしたことがなかっただけに、ここの展示品は
種類数ともに群を抜いて膨大であることを改めて知った次第です。
ピーボディ自然博物館、おそるべし。




 

「イントレピッドの使命」〜イントレピッド航空宇宙博物館

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ニューヨークの「イントレピッド航空宇宙博物館」見学記です。

「イントレピッド」は空母なので、艦載機をハンガーと甲板の間を上降させる
エレベーターが、中央に2基、舷側に1基ありました。



これが舷側のエレベーターをしたから見たところ。
我が海上自衛隊は空母を持っていないので、「いずも」型に
舷側外付けエレベーターが搭載されたくらいで「おお〜!」などと
驚いてしまうわけですが、アメリカの空母にはふっつうーにこういうのがあるわけ。

「いずも」の外付けEVを見た後だと、その大きさにびっくりだ。
まあ、これで甲板にブラックバードなんかも運んでしまえたわけだから、
(もちろん運用していたわけではありませんが)当然ですね。

 

こちら甲板のエレベーター。
見学者を乗せたまま今下降しているところですが、これは
まだベトナム戦争も真っ最中の1971年に行われたイベントです。

アメリカというのは、イラク戦争の時にアメリカにいたわたしに言わせると、
戦争というのは「いつも遠くで思うもの」だと思っているようです。
軍関係者とその家族しか「戦時中」を実感せずにすむ国なんですね。

何の目的で空母の見学をさせているのかわかりませんが、
「イントレピッド」自身がベトナム戦争に参加していることを考えると、
余裕があるというか、呑気に見えて仕方がありません。

おそらく、日本と戦争していた時もこんな感じだったのでしょう。 



エレベーターの使用例その1。
少しエレベーターを下降すれば、バレーボールコートとして使えます。
これならボールが海に落ちて試合中止というようなことにもなりません。

この写真が撮られたのは大戦中だそうです。



ちなみに使用中には途中で止めます。
なぜ下まで降ろして使わないのかは謎です。



「The equator ceremony」とは日本海軍的に「赤道祭り」のことです。
この写真が撮られたのは1960年代のことだそうですが、上の写真のように
4分の1だけ下降させたところで止めた「ステージ」で何か赤道祭りの出し物が
行われているのを、兵員たちが甲板レベルから覗き込んで見ています。



エレベーターステージ使用例その2、音楽のステージ。
アンプやマイクの電源も普通に利用できます。

このギターのアフリカ系、たぶん上手い(確信)

 

エレベーターステージ使用例その3。
ロープを張ってボクシングのリンクの出来上がりー。

そういえば、映画「パールハーバー」で、戦艦ウェストバージニアで行われた
ボクシングマッチのシーンがあったのを覚えていますか?
真珠湾攻撃の時、機銃を掃射しまくって黒人初の海軍十字章が贈られた、
ドリス・ミラーという黒人兵をキューバ・グッディング・Jr.が演じていました。

この試合で優勝し、ウェストバージニアの艦長(つまり雲上人)に「我が艦の誇りだ」
と言葉をかけられたミラーは感激して涙ぐんでいましたっけね。

黒人が人権を持たなかった当時、海軍では本当にこんな・・・?



さて、このように使いでのあるエレベーターステージですが、「イントレピッド」が
博物館として最改装されたとき、ちょうど艦首側のエレベーター部分を
大幅にリノベーションして、そこに視聴覚室(オーディトリウム)を作りました。
立ち入り自由でいつもテーマに沿った映像が繰り返し放映されています。



アメリカらしく、いくばくかの寄付をすれば、例えばこの椅子の背中に
名前とちょっとした言葉を刻んで名前を残すシステムがあります。



カリフォルニアの「ホーネット博物館」もそうでしたが、艦内のファシリティを
バースデーパーリーのために借りることができます。



結婚式のパーティを「イントレピッド」でやる人がいるのか?という気もしますが、
もしかしたら海軍軍人・・・・・とか?

 

 「OPARATION SLUMBER」。
「お泊まり大作戦」って感じですかね(笑)

「イントレピッド」では艦内でスリープオーバー(お泊まり)するという
イベントも行われています。
「ホーネット」では兵員用のキャンバスベッドなどで寝て、朝になったら
ギャレーで作られた朝食を食べてクルー気分を味わうこともできます。


さて、こんな「宣伝」が終わり、本編が始まりました。



映像はいきなり日米開戦から始まりました。
「surprise attack」が「sneaky attack」でないのにほっとしたりして。
こういう表現には非常に神経を尖らしているわたしである(笑)



えーと、これは日本側の映像?



当時の号外には、真珠湾で戦艦が二隻喪失したとあります。
実際は沈没した戦艦だけでも4隻でしたし、これどころじゃなかったのですが。



続いては「カミカゼ」による攻撃を「ニューウェポン」と紹介。
なんか違うなどころか日本人としてはぜんぜん違うやないかい!と突っ込みたいくらいです。
ちなみに、日本では「特別攻撃隊」という名称だったことを説明しております。



米海軍全艦艇中最多の特攻隊の攻撃によって多くの戦死者を出した「イントレピッド」。
特攻隊の存在はあまりに大きなものだったことは、先日お話しした
「カミカゼ体験」でのあれこれに現れていましたが、ここでもやはりそれを強調しております。



ここで、映像では「カミカゼ体験ショー」よりは踏み込んだ表現として、
特攻隊の側からのアプローチを試みています。

「彼らは自分の愛する人々を守るために特攻に行きました」

アメリカ側の制作した媒体でこのような直截な物言いをしたものを見たのは
わたしの狭い知識においては初めてのような気がします。

と思ったらこの字幕は日本語の翻訳で、



陸軍パイロットだった苗村七郎氏が特攻隊について語っているのでした。
苗村氏は 対戦末期の沖縄戦で、万世陸軍特攻基地において特攻隊員だった人物で、

「至純の心を後世にー陸軍最後の特攻基地・万世」

という著書も表しています。
書評のところで知ったのですが、氏は2012年11月逝去されました。



「イントレピッド」の水兵と航空隊は、301機の日本機を撃墜し、
122隻の艦船を撃沈した。ということです。

カミカゼ体験ショーのエントリで、イントレピッドの特攻隊による攻撃で
何百人もの将兵が死亡・重傷を負ったことを書きましたが、それについては
案の定触れずに終わってしまいました。 



「イントレピッド」は50年代に再就役し、その際、攻撃空母(CVA-11)に艦種変更され、
朝鮮戦争に参加しています。
その後、対潜水艦作戦支援空母(CVS-11)に艦種変更されました。



1965年にはジェミニ計画の支援につき、大西洋上で着水した宇宙船ジェミニ3号を回収しました。
ここにはマーキュリー計画への参画も書かれていますが、こちらは調べてもわかりませんでした。



ベトナム戦争での支援も行っています。
三次にわたって兵団をベトナム湾岸まで輸送しました。



多分地雷のことをお話しされているのだと思います。
ベトナム帰還兵。



この人も。



イントレピッド艦上で行われた海軍葬。
遺体が一体ずつ色鮮やかな星条旗で包まれています。



エンディングに登場、アリゾナ州代議士ジョン・マケイン。
 The Honorableとは衆議院などに用いる敬称です。



イントレピッドの使命とは、

「我々の英雄たちを顕彰する」

「一般に対する周知を深め、若者の啓発を行う」

ってところですか。
戦争に参加したもの=英雄たちを讃える、ということが
普通に言える国が、羨ましい。なんてね。



続く。



 

「達人」と行く伊勢神宮参拝

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伊勢湾で行われる掃海隊機雷戦訓練の参加が決まったとき、
それならぜひ伊勢神宮を参拝しようということになりました。
大人になってから参拝したのは一回だけで、それがこのブログでも
お伝えした遷宮のときだったわけですが、今回、わたしたちには
大変頼もしい案内人がいました。

農作物を扱ったりする全国規模の団体(っていったらわかっちゃうか)の
職員の方で、10年くらい前から必ず毎週、「正しい参拝」を行っており、
ご自身でも祝詞を奏上することができるという、参拝の「達人」です。

達人に連れられて、正しい順番で社をめぐり、ときにはその方が長々と
祝詞をあげるのを瞑目しながら聞くというのはどんなものでしょうか。



新幹線で名古屋まで行ったら、あとは近鉄で伊勢まで一本です。
近鉄に乗り込む前に、ホームのコーヒースタンドでラテを注文しました。
追加料金でラテアートをしてくれるというので、この「名古屋嬢」を頼んだら、
なんと型からポン、と粉をふるい入れるやり方でした。



伊勢駅前の街並み。
近年首都圏ではあまりお目にかからなくなったこの茫漠とした感じが、
廃墟ファンのわたしにはたまりません。(廃墟じゃないけど)



伊勢駅の駅舎そのものは割と最近建て替えられたような感じです。
2010年に大改修が行われたと言いますので、伊勢神宮の遷宮を控え
そのためにエレベーター設備を取り付けたという感じでしょうか。



伊勢参拝はまず外宮から始めるのが正しい参拝だそうです。
外宮の入り口近くには神馬がいました。

前回は一頭も見ることなく終わったので嬉しかったです。
神馬は神様の使いなので、必ず白馬と決まっています。



厩舎の上には「笑智号」(えみともごう)という名前とともに、
この馬が平成18年、宮内庁御料牧場のやんごとない生まれであることが書かれています。

御料というのは「御料池」という言葉にもあるように、
天皇や貴人のためのもの、という意味を持っています。



神の馬である笑智号さんに掛けられている馬カバーにも
このように菊の御紋章が付いているのです。



式年遷宮でうつされた神殿のあとは、このように注連縄を貼って
次の遷宮まで休ませます。



外宮参拝も「正宮」から行うのが決まり。
伊勢神宮のさまざまな祭事も外宮から内宮の順で行われています。
天皇陛下をはじめ、皇族の方々、内閣総理大臣も外宮から内宮へ参拝をされます。

なぜそうなのかというと、天照大神がそうせよとおっしゃったからだそうです。
誰が聞いていたのかは知りませんが。

鳥居をくぐるたびに挨拶しますが、その度に俗世から神様の領域に歩み寄っていきます。
そのため、神宮に参る時には必ず手と口を清めてから上がるのです。



前回、この大きな岩を使った橋に穿たれたくぼみに、
五円玉などがきっちり埋め込まれていたのを目撃しましたが、
今日はありませんでした。

ディズニーランドでもそれらしいところがあるとお金を投げ入れてしまう
習性のある日本人(多分イタリア人も)ですが、伊勢神宮では
どこでもここでもお金を投げていいというものではありません。
なぜって、ここは神様の「お住まい」だからです。



ここも、遷宮前の敷地には注連縄が貼られ、その一隅には
その一角を守るための小さなお社が建てられています。



土の宮、風の宮、多賀宮の三つの社があるところに登っていく階段ですが、
ここでまず達人のご指導が入りました。

「できるだけ真ん中は歩かず、端を歩いてください」

真ん中は神様がお通りになる道でもあるから?



その踊り場に来た時、達人は立ち止まって踊り場に一礼しました。
ここには三つの宮を守る護衛の神様が立っているのだそうです。



伊勢神宮に来て個人的なお願いは止めましょう、といわれていますが、
土の宮、風の宮などであれば、私利私欲の(?)お願いも「一応は」
聞いてくださるということでした。
(ただしお金儲けなどのお願いは聞いてもらえるとは限らない)

この多賀の宮では、自分自身の決意表明、つまり「誓い」を唱えます。

 

木の根元にある苔むした岩にもお金が備えられています。
これも決して「正式」ではありません。

前回も、皆が触りまくる木の幹がつるつるになっているのを
如何なものか、と書いた覚えがありますが、達人によると、
やはりそれは好ましくない慣習であるようです。

この参拝の時も、見ているとわざわざ道の端を歩きながら
木の幹にかたっぱしから触っている人が少なからずいましたが、
木はそれを決して歓迎していないことを、皆さんも是非覚えておいてください。



神宮のなかはどこも空気が清澄で、この場に身を置くだけで
改まった厳粛な気持ちに全身が満たされます。

「達人」は週1回、2時間かけてお参りをしておられるそうですが、
毎日朝開門とともに参拝を行っている女性(医師らしい)の知り合いがいるとか。



だからなぜ方角盤にお供えをする(笑)
イワシの頭も信心からというものの、神宮にあるものにかたっぱしから
小銭を置いたり触りまくったりするのは決して「正しいお参り」ではないのです。



このように、注連縄が張られているということは、それによって
神の世界と現生を分けるという意味があるのですから、
この岩には「神様が宿っている」と考えて手を合わせていいのです。



さて、外宮の参拝が終わってから、「達人」は猿田彦神社に
車を回して参拝することを提案しました。

このときわたしは飛蚊症の症状に悩んでいたのですが、
当神社が交通安全、方位除けの神様であることから、治癒を
お願いするという名目で、特に長い祝詞を上げてくださったのです。

このときはいつもの二拝二拍手一拝ではなく、四拍手を行いました。

先日の診察では飛蚊症の原因である出血部分が随分小さくなっており、
このままうまくいけば手術はしなくてもよいという診断でしたが、
これも参拝のおかげさまであったと考えるようにしています。



そしていよいよ内宮への参拝です。
鳥居をくぐると五十鈴川に架かる宇治橋を渡っていきます。
いつ見ても澄明な空気が凛と張り詰めたような川面です。
ここが、俗世と神域をつなぐ橋となっています。



古いお札を持って来ればよかった、と思いました。
さすがは大昔から「お参りの一大アミューズメントパーク」であったお伊勢。



五十鈴川のほとり、御手洗場(みたらしば)にやってきました。
内宮に参る前に皆ここで手を清めます。



舞鶴の地方総監で海軍記念館に併設された大講堂を見学したとき、
この御手洗場を描いた「戦争画」があったのを思い出します。
伊勢神宮の遷宮で出された木材が額に使われていたというものです。



神職と、手を洗い終え手ぬぐいで手を拭う水兵と、その母親が
画面の隅に小さく描かれていました。



ここに立ったとき、あの絵を描いた画家は、向こう岸の
石垣のところでキャンバスを広げていたのだろうと想像しました。



川底にはところどころにお金が落ちていました。
だからここにはお金を入れるところではないと何度言ったら(略)
御手洗場に降りる手前には「お金を投げないでください」と
立て札まであるのに・・・。


まあ、この後ろで赤ん坊のオムツを替えていた中国人に比べれば
なんてことはない気がしてきますけどね(鬱)

しかし今やどこにいっても見る中国人観光客ですが、伊勢神宮ほど
神に祈る心を持たぬ彼らにとって意味のない場所はないと思うし、そもそもろくに
マナーも守れないのなら物見遊山で来るな!と内心ムカムカしてしまうのも事実。

案内の人もはっきりとではありませんが、外国人が増えると「気が悪くなる」
というようなことを言っていたような・・。



目にも清々しい青と緑の袴をつけた若い神職が歩いていました。



実は大変「力のある」神であると案内人の方がおっしゃるところの
「瀧祭神」。
祈る人に力があるとき、この社の上空には龍が舞う、のだそうです。

 

この階段の途中から写真撮影は禁じられています。

ここでも自分の願い事はしてはいけません。
正宮には、天照大御神が祀られています。

多賀の宮だったか、2〜30歳に見える女性が一人、熱心に手を合わせていました。
彼女の様子はどちらかというと地味で慎ましやか、仕立ての良さそうな
ワンピースにちゃんとした靴を履いて、まるで昭和初期の「令嬢」という感じです。
彼女の足元にある、手をあわせるために地面に置かれた本物のケリーバッグと、
ついでそこにいる誰よりも長い時間手を合わせ瞑目している様子に目を奪われました。

どんな人で、どこから来て、何をこんなに熱心に手を合わせているのか。

まるで白黒写真の時代からやってきたような雰囲気の女性に、
わたしは自分のお参りが済んだ後もずっと見とれてしまいました。



遷宮の時に作り変えられた新しい祭具収納倉庫。



しばしの休憩のために休憩所に立ち寄り、遷宮のDVDを見ていましたが、
閉館時間となってしまいました。
モニターに「世界の亀山ブランド」と書かれているのが栄枯盛衰を感じます。



橋の最後の欄干(16番目)には 宇治橋の守り神である
饗土橋姫(あえどはしひめ)神社のお札「萬度麻(まんどぬさ)」
が納められているので、ここでも手を合わせました。

一万回分の宇治橋を渡られる方の安全を祈願しているそうです。
一万回はもう余裕で超えているはずだけどそれはいいのか。



参道の「おかげ横丁」に初めて行ってみました。



なぜかここにある「スヌーピー専門喫茶店」のメニュー。
スヌーピー好きにはたまらない。ってか?



休憩するために入ったカフェで焼きドーナツをいただいてみました。



ちなみに、関係ないですがこのあと夕ご飯に行ったところで食べたアワビのバター焼き。
伊勢志摩はやはりシーフード(特に貝とエビ)ですよね。



去年も猫がいましたが、猫はおかげ横丁中心に住み着いているようです。
看板には「餌をやるな」と書いてありましたが、
タクシーの運転手によると「お店が餌をやっている」ということです。



この辺の猫の模様は圧倒的にトラが多いように見受けられました。


 
生垣の近くを通ったら中からみーみーと声が聞こえてきたので、
カメラだけ差し入れて撮ったら、こんな写真が撮れました。 
子猫が集まって母猫の帰りを待っているようです。



というわけで、最後に猫見学もセットになった2時間の参拝は終了。
神への祈りは自分の道をお示しくださいとむしろ自分の心に問うのが正しく、
商売繁盛やなんかをお祈りする神社は他に行くべきなんだそうです。

そもそも伊勢神宮の最も重要な規定は「私幣禁断」。
つまり、個人的な願いをかなえようと手を合わせることはご法度です。

数千年もの間、多くの人々の尊信を集め、清められ続けてきた場所は、
もはや穢れたものを受けつけないこの世の真空地帯のようになっており、
そのパワーも超絶なので、本人の心根というか調子が悪いと、
かえってよくないことが起きるとも言われているそうです。

参拝しても効果が得られなかった、かえって運気が乱れたという人は
自身のあり方に疑問を投げかけてみるべき、というお話を伺い、伊勢神宮とは
まるで鏡を見るように己の心を写す場所でもあるのだなあと思いました。



エクストリーム・ウェイトロス再び

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先日熱があるのに9時間飛行機に乗って、滞在時間のほとんどを
ホテルのベッドで寝て過ごしたアメリカでのことです。
熱はあっても一応テレビを見ながらシャッターを押すくらいに回復した頃、
人の家の内幕を覗き見るような番組ばかりをやっているTBCで、
またもや「デブ更正番組」を見ました。

前にも一度ここでお話ししたことのある「エクストリーム・ウェイトロス」です。

これは、悩めるデブの前に、ある日突然守護天使ならぬウェイトロス・トレーナーの
クリスが現れ、何ヶ月もかけて手取り足取り、励まし慰め、
時には叱咤し、時には心の痛みに一緒に泣いてくれながら、
痩せさせてくれるというビフォーアフター番組です。

番組を見つけた時にはすでに本日の主人公の前にクリスが降臨したあとで、
どんなシチュエーションで本日のおデブの前に現れたのか、
結局分からなかったのですが、まあとにかく参りましょう。



EXTREMEというのは極度の手段、とか過激なやり方という意味で使われ、
もし日本でこういうノリをタイトルにするならば、

「そこまでやるの!?究極のダイエット」

なんていう感じになるような気がします。 (たぶんね)



本日の悩めるデブは、ナイラさん。
クリスが目の前に現れた時には435lbs、つまり197キロでした。
先日ご紹介した、「My 600lbs life」よりかなり軽度で、
少なくとも自分で立って歩けるというレベルの人が、この番組の対象です。

「軽度で200キロ」って一体どういう世界なのかと呆れ返ってしまうわけですが、
歩けないデブよりも、こういう「元気なデブ」がゴロゴロいるのが 、
アメリカの震撼すべき肥満人口のすそ野の広さを表しているといえましょう。

最初から見ていたわけではないので、この写真はすでに97パウンド、
つまり43キロくらいは減らしたあとの姿だったのです。
日本人の成人女性の細い人一人分の体重を減らしたというのに、
全く毛ほどもそんな様子は伺えません。

ちなみに、冒頭の写真は本日のビフォーアフターの「アフター」、
つまりダイエット成功後ですので、念のため。



わたしが見始めたころ、彼らは一通りの、
浜辺でタイヤを引きずって走ったりシャドーボクシングしたり
というお約束のキビシイ特訓を一通り終えており、次の段階、
すなわち、彼女の心の問題を明るみに出すという段階に入っていました。



抱き合っているところを見ると、問題は解決したようです(笑)
どうもウェイトロス専門の医者にかかることを、
ナイラさんはためらっていたようです。

クリスはやっとこれで一歩踏み出せるね、などと言っています。



そこでドクターに診察を受けることになりました。



そこでこんなことを言われてしまうわけですが、
テレビの字幕が酷いので、肝心の「何が見えているか」がわかりませんでした。

苦心して、これがどうやら

「 Heart rate variability (HRV)」(心拍変動)

ではないかという予想をしたのですが。
日本では略語の「エイチ・アール・ブイ」といわれるこれは
自律神経の乱れによる不整脈だとこれも予想します。
(どなたか詳しいかたおられましたら間違っていた場合だけ教えてください) 

まあこれだけ太っていれば心臓に変調をきたしてもあたりまえですね。
ドクターには、

「心臓のことを考えればこれ以上体重を増やすのは自殺行為です」

みたいな、当たり前のことを言われてしまいます。
当たり前のことを言われるのが嫌で、つまり現実と向き合うのを
避けていたってことなんですかね。
 


次に番組としてはこれもお約束の、被験者の心の闇をえぐる、
というか、問題を明るみに引きずり出す試みを行います。

ここまで太るからにはきっと心の問題も抱えているに違いない、
という決めつけですが(笑)、よくしたもので、大抵のデブには
番組的におあつらえ向きの心的問題があったりするのです。

もしなくても、テレビスタッフが無理やり問題にしてしまうので大丈夫。



実は彼女の亡くなった父というのは、刑務所に入っていたことがあり、
父の死に様というのを彼女は定かに知らないのでした。
(というか、こういうのテレビでやりますかね普通)

そのことが書かれた封筒というのをお節介にも番組は用意して、
「それを見るのも見ないのも彼女の決断」として渡すのですが、
ナイラはこの段階では中身を見ることができず、封筒を置いて立ち去ります。



その次の撮影で、何があったのか、(多分スタッフが説得)彼女は
封筒をちょうだい、とスタッフに要求し、受け取って中を見ます。





えーと・・・・・。(絶句)

ムショを出た後は「行いをクリーンアップした」ということなので、
どうも薬かなんかで収監されていたみたいですね。

 

「まさか彼女が封筒開けるとは思わなかったよ」

って、全く予想してなかったってかクリス(笑)



ナイラさん落ち込み中。
相変わらず何を言っているのかわからない字幕です。



次の企画は、彼女の親族一同で父のお墓詣り。
それはいいけど、どれがナイラかわかりません。
この一族の太り方はほぼ全員が同じです。

この子供も近々同じ体型になってしまうんだろうなあ。


 
今更、って気もしますが、感極まって天を仰いで泣くナイラ。
サングラスはどうもお母さんである模様。

想像したよりずっとお父さんは不幸だったってことですかね。



そこでお父さんのお墓に花を・・・・・・・
って、これお墓じゃなくね?
地面に石の棺桶がただ置きっ放しになっているだけのような・・。

いやー、アメリカでいくつも墓地を見てきたのですが、
こんなオープンな置きっ放し仕様は初めて見たわ。

いいたくないけどこれ、かなりの貧困層地域の墓地なのでは・・。
この辺じゃ父親がムショ出身なんて、結構普通のことだったりして。

日本の国会議員が大統領が昔奴隷だったといって大騒ぎになりましたが、
(何時もの通りマスコミと野党が大騒ぎして)
あれはもうヒエラルキーの頂点の特殊なであって、黒人の多くは
いうたらなんだけど、こんなのばっかりだったりするんです。

これは差別でもなんでもなく、現実です。



クリスはそんな彼女の心の葛藤をトレーナーとして理解し、
さらなるウェイトロスに勇気を持って挑戦させるのでした。



というところで270日、つまり9ヶ月が経過しました。
これだけ痩せました、というビフォーアフターの写真ですが、
右側があまりに太っているのであまり痩せたように見えません。

右側だけでも「ビフォー」の貫禄充分です。



ある期間、(それは大抵心の問題解決以降)、この番組では
トレーナーと被験者は離れて過ごし、久しぶりに会った時に
たいてい被験者が以前よりダイエットがうまくいってやせているので、
トレーナーはびっくりして喜び、被験者をほめるというお約束があります。



「わお!ゆーるっくぐれいと!」

これも毎回のほぼお約束の言葉。



ま、まあ、かなり痩せていることは確かですけどね。
左の写真に人面瘡が見える気がするのはわたしだけ?

そこで、番組から彼女にご褒美というか、今後の励みにもなる
サプライズがあります。



アメリカのスターにダンスの振り付けをしている有名な振付師、

トニー・ドボラーニ

ジェニファーロペスの出演した「シャルウィダンス?」で振り付けをした、
といいますから、我々日本人にも親しみがわきますが、とにかくその
すごい振付師が彼女の前に現れたのです。



実はこう見えて(失礼)彼女はダンスが大好きなのでした。
ってまじかよ。
200キロの体重のデブが軽やかに踊るなんて、怖いんですけど。



しかし、アメリカという国にはそういう人もいるんですねえ。
彼女はトニーと一緒にダンスを踊れるというクリスの説明を聞いて
喜色満面。
しばらくトニーの振り付けで練習した後、本番です。

 

驚いたことに、ナイラさん、踊るのが実にうまいんですよ。
なんといってもリズム感がまったく違う。



これだけ踊れるのに、どうして太るのか、不思議なくらいです。
まあ、理由は体を動かす以上に食べているってことでしょうけど。

さて、ご褒美で素晴らしい体験をしたナイラ、より一層
ダイエットに弾みがつくんでしょうか。

ここで番組では、医師の診断を受けた上で、可能な人には
脂肪切除の手術(文字通り余分なところを切ってしまう)を
行うのですが、今回は。



背骨の模型が出てきたら、あまり良い結果ではありません。



脂肪切除できるほど痩せなかったってことかもしれませんが、
どうも膝の神経がどうにかなっていて押されているそうです(適当)



手術はしないまま、成果をお披露目する日がやってきました。
これではあまり「アフター」が期待できそうにないですが・・。



そんなことはおかまいなしに勝手に盛り上がるナイラの知り合い。



写っている人が全員太っているというのも突っ込みどころですか。



そこでスクリーンに映し出されるダイエット開始前の
ナイラさんの堂々たる立ち姿。
なんでわざわざ腰に手を当てて写真を撮るかね。

まあ、今場所が期待できそうというか、強そうではあります。



そこで現れるご本人。
いくら痩せたのか、指を折って数えております。
この日だけはプロのメイクがついて綺麗にしてもらえます。



そこで非情にも繰り返し映し出される以前の姿。
あまり変わりないといってしまえば身も蓋もありませんが、
こうしてみると、目の大きさまでかわって綺麗になっているような。



本人の回顧をバックに、白黒で辛かったトレーニングの思い出が
まるで走馬灯のように放映されるのでした。

というか、トレーニングでモールのエスカレーター逆行するなよ(笑)



エレベーターの上では知り合い(全員デブ)が総出で応援していますが、
彼女が逆行してかけ上げることができたのを喜んで、
みんなで盛り上がっております。



トレーニングの思い出の間にしつこく現れる過去の姿。
もうええちゅうに。



もしかしたらおちょぼ口したりしてますか。



提供はウォルマート。
ダイエット成功者には生鮮食料と(ウォルマートの野菜なんかいらない)
5000ドル分の商品カードがもらえます。
彼女が最も喜んでみせたのがこれを受け取る時でした。



というわけで、435lbs(197キロ)の人が・・・、



278lbs、126キロに体重を減らしたのです。
なんだ、それでも100キロ超えてるじゃん、などと言わないように。



これが彼女の自信と生きて行く勇気になったことには違いありません。
表情がビビッドになり、アヒル口をするまでに(笑)



そして現在。

200キロだった時にも「踊れるデブ」だった彼女、
スポーツクラブでダンスエクササイズのインストラクターとして
クラスを持って教えているのですから、たいしたものです。

120キロのインストラクター。
日本ならこういう人にはまず仕事は回ってこないと思いますが、
このあたりがさすがはアメリカです。



ジムの同僚によると、彼女はたいへん生徒からの評判もいいそうです。
恋人募集中の彼女は、もしかしたらこの人とうまくいくかもしれませんね(適当)



という番組のコマーシャルには、ザントレックス3!

日本でも輸入されていて買えるそうですが、本当に効くと思います?
たしかこれ、強力なカフェイン配合の錠剤だったと思うのですが、
カフェインで体重が減らせるなら、アメリカ人は誰も太ってないと思うぞ。

でも、この薬、わたしが住んでいた頃からずっと売っていて、
今でもドラッグストアには鍵付きのケースで売られていたりするので
(多分万引きが多いんだと思う)デブの多いアメリカでは、
効くかどうかわからないけど一応飲んでみよう、というような
「藁をもすがるデブ」が多いってことなんだろうと思います。

太った人の数だけ、それをあてにする商売(この番組も含む)が
後を絶たないってことなんですね。

前にも結論付けたところの「デブの経済サークル」は健在です。




 

「日本が悪い」~引揚記念館の語り部と学徒出陣経験者

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舞鶴で訪問した「赤レンガ博物館」で仮営業していた
「引揚記念館」についてエントリにしようとおもっていたところ、
その後、それに関連するイベントに参加し、思うところがあったので
少し関連させてお話ししてみようと思います。

わたしが舞鶴を訪れたシルバーウィークの頃、引揚記念館はリニューアルのため
仮設展示をレンガ街で行っていました。
今はもうこの展示も新しくオープンした記念館に移されて公開されているでしょう。

引揚げに関わる写真や資料、遺品や寄贈品など、それこそ「岸壁の母」の
モデルとなった陸軍兵士の母と子についてのパネル展示や港のジオラマ、
当時のビデオ映像などが見られる記念館は、仮展示とはいえ充実したもので、
ぜひいつか舞鶴にいくことがあったら訪れてみたいと思っています。

わたしのデータのうち残っていたのは、まず冒頭の絵を始め、
実際に引揚げを経験した漫画家の作品です。
これ、絵柄を見てすぐにちばてつや氏の絵だとわかる方おられますか?

ちば氏の経歴によると、氏は生後すぐに日本を離れ、2歳の時に、満州に渡っています。
幼い頃、印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に
絵を書いて寒い冬を過ごしていたといいます。

昭和20年、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、
生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期をすごした。
父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。
翌年、家族共々、日本に引揚げ、千葉を経て、東京、墨田区小梅町に移り住んだ。
(Wikipedia)

引揚げ当時氏は6歳であったということですが、幼いちば氏にとって
強烈な記憶となったのだろうと思われる光景が、これ。



ピントが合っていなくてよくわからないのですが、引揚げの道中、
動けなくなって路傍に斃れ、そのまま息果てる人たちもたくさんいました。



「赤い夕日の中をひたすら歩く」と題された絵。

ここはお国を何百里  離れて遠く満州の 赤い夕日に照らされて・・・

という軍歌をつい思い出してしまいます。
ちば氏の追憶によると、終戦のその日から「地獄を知らされた」(6歳児が)のでした。

「まもなく中国人街で爆竹が鳴り、暴動が起こり、日本人の家を襲いだした。
それから約1年、コロ島にたどり着いて日本に引き揚げるまで長い地獄の旅が続いた」

wikiには一家を助けてくれた中国人については名前まであるのに、実際には
何よりも恐ろしかったであろう「中国人の逆襲・略奪・殺戮」については書かれていません。




どこかで見た絵柄だなあと思ったら、「陸軍よもやま物語」「海軍よもやま物語」
など、一連の「軍よもやま物語」の挿絵を描いている斎藤邦雄氏でした。

斎藤氏は東宝在職中に召集令状を受け、奉天で終戦を迎えました。
1ヶ月後シベリアに移送され、そこで3年間の抑留生活を送っています。

上:親切なロシアマダム 下:スターリンの写真を破る娘

収容所の周りに住む、あるいは捕虜と接触のあるロシア人は、
日本人に対して非常に親切だったという話が多く残されています。
周辺に住むロシア人家庭の子供のために柵越しに手作りのおもちゃを渡したり、
堅牢な建築物を(大地震でそこだけ倒れなかった)作り上げたり・・。

日本人の真面目さと勤勉さに驚嘆した両親から

「日本人をお手本にしなさい」

と言われて育った記憶とともに、彼らに対する尊敬を持っているロシア人もいました。
ジャガイモを分け与えてくれる夫人、そしておそらく捕虜に対する扱いに
憤りを持った若い娘が、目の前でスターリンの写真を破るということもあったのでしょう。



「ロシア人は歌が好き」という絵。

戦後日本で爆発的に流行した「歌声喫茶」で歌われるのは「カチューシャ」「トロイカ」
といったロシア民謡だったといいますが、これはもしかしたら
抑留されていた人が伝えたものだったのでしょうか。

余談ですがロシア人にバス歌手が多いのは、その声帯が
低い声を出すのに向いている人が多いからだと聞いたことがあります。



いろはカルタを残した人もいました。

のべつまくなし解剖哀れ

死亡者が出るたびに解剖させられていた医師に同情しています。
「のべつまくなしに」人が死んでいたということでもあります。

拉致され帰らぬ中沢通訳隊長

元気に手を振って出て行き、それっきり二度と帰ってくることのない
生死不明者はしょっちゅうだったということです。
何かの任務に就かされ、そしてそのまま・・・・。



天皇打倒を叫ぶ赤大根

「赤大根」というのは、おそらく思想教育にかぶれた収容者の蔑称でしょう。
中国でもそうでしたが、シベリアでは捕虜に対し共産主義を礼賛する思想を叩き込みました。

ソ連は当初、日本軍の軍組織をそのまま活用して、間接統治を行いました。
上官を優遇し、彼らには食料や日用品などが優先して割り当てられるように計らったのです。
これは決して日本軍に敬意を払ってしたことではなく、この不平等が、日本人捕虜社会の中に、
軍の上層部及び階級そのものに対する不平と憎悪を生むことを知ってのことでした。

身を以て共産社会主義の素晴らしさに目覚めてもらおうというわけですね。

このころ国際社会から捕虜の取り扱い方針を厳しく批判されたソ連は、
以後段階的に捕虜を帰すことに方針を転換しましたが、それは条件付き、すなわち
ソ連に協力的なものから優先的に帰国させようというものでした。

ソ連は日本人捕虜を徹底的に思想教育し、共産主義への共感と
スターリンへの尊敬を植えつけようとしました。
捕虜社会の中に、思想教育のための協力組織を作らせ、これを通じて
捕虜の教育、ならびにいわゆる反動分子の吊るし上げを行わせたのです。

のちに日本を震撼させた連合赤軍事件では「総括」という名のリンチによって
些細な理由(髪をとかしていたとかちり紙を取ってくれと頼んだとか)で
仲間を殺していったのですが、まず敵を内部に求め、疑心暗鬼から互いを監視しあい、
果ては吊るし上げて殺すこれらの行動パターンは、このとき思想教育された
「赤大根」たちによって日本に輸入されたのではないかと思わされます。

収容所の日本人はこうした政策の中で、互いを監視しあうような生き方を強いられたのでした。
これを地獄と言わずしてなんと言えばいいのでしょうか。

しかも、その「赤大根」が全員ではなかったにもかかわらず、シベリア抑留されていた者は
引き揚げ後例外なく「赤呼ばわり」されたり、警察の監視が付いたりしました。




ところで、わたしは観艦式が終わってすぐ、東京6大学のうちひとつのキャンパスで行われた
戦争経験者の声を聞く催しに参加しました。
学徒出陣を経験したという人物が、その体験を語り学生の質問を受けるというシンポジウムです。

この大学は、最近何かと保守方面から眉をしかめるような話題の中心となることがあり、
なんとなく身構えるものがないわけではなかったのですが、
実際に戦争を体験した人の話に右も左もないだろうとある意味楽観していたため、
なんの先入観も持たず、誘われるがままに現地に赴きました。

都内でも有数の趣のあるキャンパスの、比較的新しいオーディトリウムが会場で、
入り口に続く外の階段を降りていくと、そこでチラシ配りをしている「市民団体」がいました。

市民団体、というのは今や共産党とイコールであるという社会通念にもなっています。
貧乏くさいいでたちに加えて手入れの悪いショートカット、典型的なその手の中年女性が
チラシを渡してきました。

「戦争法案」「廃案」「アベ政治」「許さない」

この文字を確認し(ほぼそうだろうと思っていたので)た次の瞬間、
わたしは黙ってチラシを彼女に突き返しました。
びっくりしたように目を見張って固まる彼女の顔を眺めながら、
ツッコミを入れるために貰っておいてもよかったかな、とチラッと思いましたが。


会場に入ると、まずデカデカと幟に書かれている

「学生を二度と学苑から戦場に送らない」

うーん・・・・あのチラシ配り隊といい、このキャプションといい・・。
おらなんかわくわくすっぞ。
そしてしょっぱなから、期待を裏切ることなく、挨拶をしたのがなんと、

「李という名前の日本人ではない人」(当大学文化学術院の朝鮮史教授)

・・・・。

今、その大学のHPでシンポジウム報告を見ると、この李という人物は
非常にまともなことを言ったように書かれていますが、これはインターネット用に、
ソフトに実態を欺瞞して編集されたものであると実際にその挨拶を聞いたわたしは思いました。

「なぜ学生たちは戦争に行かねばならなかったのか」

「わたしたちはそれを考えることをやめてはいけない」

その後に、いきなりこうですよ。

「今、戦後の平和を守り続けてきた日本の危機が訪れようとしている。
平和憲法を破棄し、戦争を行うための安保法案が強行採決(略)」

どう見ても三国人が先導する左翼集会です本当にありがとうございます。

でもまあ、戦争体験者のお話はそんなものではないと信じたい。
零戦搭乗員のHさんのように左に利用されているのは確実だとしても。

一人目の講演者は、満州に学徒動員で送られた人物でした。
この人の話を抜粋して掲載します。

1945年8月9日、そこに雪崩のように、ソビエト軍が侵攻してきたのです。
相手は157万の大軍で、主力はソビエト陸軍自慢のT-34戦車部隊でした。
戦車による凄惨な殺戮が始まったのです。

124師団は1万5千、対するソ連軍は15万人です。
10対1という言葉では想像もできない、言いがたい恐怖でした。
古い精神主義・建前主義で動く日本軍に対し、ソ連軍は近代的な重装備で、
戦車以外にも自動小銃・狙撃銃などを揃えていました。
1万5千人のうち生存者は1,200人ほどでした。
防衛省防衛研究所の資料には「四散消滅」とあります。

私は小豆山のふもとで敵に発見されました。脱出不能、絶体絶命です。
ソ連兵は長時間射撃し続け、手榴弾も投げ込まれました。
勝利したソ連軍の車列が煌々と明かりをつけて進軍するなか、
深夜敵地から命がけで突破しました。

その後、武装解除され、延吉収容所に送られました。
そこには4万5千人も収容されていました。
そこで、ソ連兵に、日本へ帰すからクラスキーノまで歩け、
そこから貨車でウラジオストックに行く、と言われました。
徒歩の苦しさは生き地獄でした。まさに死の行進です。
クラスキーノで貨物に乗せられました。10月、もう冬が迫っています。
50人もすしづめにされた貨車には、15センチくらいの穴があり、そこが便所でした。
ウラジオストックでは乗船の準備が間に合わないとかで、
ニコライエフスクまで列車は走りました。

10日間くらいで貨車を降り、そこで強制抑留だと聞かされたのです。
日本人は20年、ドイツ人は終身だと。
俺たちは帰るはずだった、何が何だかわからない、もうだめだ、と絶望しました。
10月22日夜、7名が首をくくって自殺してしまいました。
スターリンは、8月23日のソ連国家防衛委員会で、日本人捕虜60万人をソ連の経済復興に利用する、
2,000カ所の収容所を設けて強制労働をさせると決定していたのでした。

シベリアの強制労働では一年間に2,000名が死にました。
死んだら裸にされて穴に埋められました。
また将校による統制に対する「民主化運動」も起きました。
あるとき、ある人物の態度が悪いということで、将校たちが彼を撲殺するという事件が起きました。
それが引き金になって、日頃労働もせずゴロゴロしている将校たちに対する
強い反感から、彼らを「反動分子」として吊し上げたのです。
こんなに苦労しているのにぶらぶらしているのはなにごとかと、謝罪を強制しました。

抑留から3年経ったころ、突然帰ることになりました。
やっと帰れる、歓迎されるか──と思いきや、まったく歓迎されませんでした。
その当時の日本は食糧不足で、シベリアから60万も帰ってきたら食わせるものもなく
どうしようもない、その上、抑留者はソ連に留め置かれて「アカ」になっている、
危険人物だとまで言われ、騒然とした状況でした。

その時、私は血を吐いたのです。肺結核でした。


会場はただしんとして聞き入りました。
わたしもまた、その時代に生まれたというだけで大変な目にあったこの老人の
凄絶な体験に、鉛を飲んだような重たさと、同時に重みを感じていました。

と  こ  ろ  が  。

ここまでは確かにそうだったのです。
が、この次からがまさにこの手の集会らしくなってしまったのでした。

「日本は我々を犠牲にしたのです。」

そして延々と続く日本に対する恨みつらみ。
わたしは、彼が戦い、彼の仲間を殺したのは近代兵器を持ったソ連軍で、
戦後彼らを自国の利益のために抑留したのもソ連という国だった、
という話を本人から延々と聞いた後だっただけに、唖然としてしまいました。

沖縄戦について「ひめゆりの塔の怖さ」というエントリでもお話したのですが、
この人たちは、なぜ直接の殺戮者に向けるべき恨みを全て祖国に向けるのでしょうか。

もうここまでくると「ああ・・」と察してしまってもうなにも驚きませんでしたが、
彼は次いで日本の「侵略」を糾弾しだしました。

相変わらずHPにはきれいにまとめてあるこの部分ですが、実際に
この人が言ったのはこんなことです。

「日本は近隣諸国、朝鮮・中国に、恐怖と悲惨の限りを与えた。
韓国のパククネ大統領は日本のことを1000年恨むといったけど、恨まれて当然だ。 
国を植民地にされて、収奪され、慰安婦にするために女性を強制連行されたんだから」

インターネットに大学の名前とともに流されては何かと面倒の起こりそうな
この部分は一切公演の記録からは消されています。 
 
「日本は侵略者だった。
侵略戦争を国際的にお詫びする、何度でも、何度でも詫びるという姿勢が重要です。
私たちは加害を忘れない、と言い続ける必要があるのではないでしょうか。」

 この部分は本当に言っていたし、きちんと記録されています。
しかしながら、この人物は、日ソ不可侵条約を破って、日本が負けそうになるや
突然参戦してきた上、終戦後は国際法を無視して捕虜を帰さず、恥じることもなく、
もちろん戦後補償などしていないソ連に対しては何の恨みもないようでした。

(エリツィン大統領は非人道行為としてシベリア抑留を謝罪した)


そして、戦後生まれの政治家から成る現在の日本政府に向かって

わたしたちに謝れ、世界に謝り続けよとただ繰り返すのでした。


わたしは菅さんという人は好きだったんですがね、私たちに対して
「お気の毒です」しか言わなかったのでこれはなんたることかと思いましたね。
政府はわたしたちに謝罪をするべきだ。国を代表して、国民を代表して詫びてほしい。 

経済的補償が欲しいのだろうという人もいるかもしれませんが、
財政破綻に直面している日本にそれを要求するわけがありません。

それをしないと日本は世界から尊敬される国になれません。
加害と被害の歴史を国民に対してしっかり教え、
二度と戦争しないと全世界に向かって謝罪し、努力を誓うべきです。



わたしはこの公演を聞いて非常に驚き、防衛団体の会合で話題にしました。
知人の年配の男性に

「どうしてあんな悲惨な目に遭ったのに恨みの矛先がソ連じゃなくて日本なんでしょう」

と疑問をぶつけると、

「思想教育されてきた人だねえ」

と一言。
抑留中に「上官を反動分子として吊るしあげた」と言っているのは
自己紹介というか「お察し」というやつだというご意見でした。

そういえば、舞鶴の引揚記念館には女性の「語り部」がいました。

「中国の人達は日本人に自分の土地を奪われたりしているんですよ。
だから恨みつらみで、終戦になった時に日本人を襲ったんです。
わたしは全ての身包みを剥がれて一糸纏わぬ姿になった女の人の集団をみました。
『せめて何か着せてやりたかった』と男の人が泣いていました」

わたしは長時間館内にいたので、3歳か4歳の時に引き揚げしたという
彼女が、何回も何回も、一言違わず同じ「証言」をしているのを聞きましたが、
その度に

「中国の人は酷い目に遭ったのでその恨みつらみで」

と繰り返すのに強い違和感を持ちました。
ちばてつや氏の証言によると、終戦になった途端中国人は日本人を
堂々と襲いだしたということですが、彼女に言わせるとそれも皆

「日本が悪かったから」「日本が侵略したから」

しかたない、ということらしいのです。
当時幼児だった彼女が見たものは、おそらく終戦までは豊かな満州であり、
そこで一緒に暮らす日本人と中国人であったはずなのですが、
戦後70年経った今、彼女にとって満州とは「日本の侵略」の痕跡でしかないようでした。

抵抗できない女性を襲って身包みを剥ぎ、おそらく陵辱もしたであろう
中国人は、中国人の中でも「悪辣な」部類であったであろうに、
そんな未開な人間の屑の行った犯罪をも

「日本が悪かったから仕方がない」

といいたげに何度も何度も「うらみつらみ」を繰り返す「語り部」。

戦争の責任ををすべて自分の祖国のみに負わせ、祖国を恨みながら戦後を生きてきた
このシベリア抑留者と、幼い目で見た引き揚げの光景に
自分でも気づかないうちに「色」をつけて語るこの「語り部」との間には、
いずれも自分の祖国を愛せず、自分の不幸と戦争の悲惨を全て戦後
作り上げられてきた「日本の戦争責任」に押し付けているという、
「ふるえる」くらいの共通点があるのに、わたしは人知れず暗然としたのでした。




お気分直しに、このときの舞鶴の帰り、京都駅のコンコースで見つけた看板。
 

 

 

スペースシャトル「エンタープライズ」〜イントレピッド航空宇宙博物館

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「イントレピッド」航空『宇宙』博物館という名称は、
このハドソンリバー沿いの空母を利用した広大な博物館に、
宇宙関係の「あるもの」が展示されているからこそつけられたものです。

それが、冒頭写真のスペースシャトル「エンタープライズ」。

アメリカという国の桁外れな部分だと思うのですが、こんな超弩級の歴史の証拠が、
もし民間に払い下げられて展示されるということになったら、他の国、例えば日本なら
これ一つだけで「エンタープライズ博物館」でも作って公開することでしょう。

ところがここでは、空母の上に特別コーナーを作って、他のものと一緒に
あっさりと公開しているというこだわりのなさ。



「イントレピッド」の元艦尾だった部分。
ガラス張りになっている部分は、ここから外を望むことができ、
気が付きませんでしたが、もしかしたらここにレストランでもあったのかもしれません。
もちろんガラス張りの部分は博物館になってから改装されたもので、
さらに航空甲板の上に積み重ねるようにして大きな格納庫のような展示室があります。



この部分を、今までお話ししてきた航空機が展示してある甲板から見たところ。
わざわざスペースシャトルを展示するために、専用の建物を増築したのです。

スペースシャトルを見るには、本来の観覧券とは別料金が必要となり、
入り口でチケットを買う際に、博物館のとスペースシャトルの分がセットになっているものを
選ばなくては、右側の扉の内側に係員がいて入れてもらえません。



さすがはアメリカ、流しっぱなしのモニターにも手を抜きません。



この博物館では、ハッブル宇宙望遠鏡の画像などを直接取り入れて
解析したり説明するキュレーターが駐在しています。

たとえばこの1月10日に行われたばかりのイベントは

「教育デモンストレーション・ハッブルは何をするのか?」

と題して、元スペースシャトルの乗組員と共に画像を見ながら
説明を聞くというものですし、定期的に

「ラストミッション・トゥ・ハッブル」「ハッブルと我々の変わりゆく宇宙」
「ハッブル・アンド・ビヨンド!」(ハッブルだけでなく)

といったようなテーマでの大々的なイベントが持たれています。
ことに青少年に対する教育プログラムは大変充実していて、次世代の興味を
科学宇宙に向けるための熱意の深さを思わせます。


ハッブル宇宙望遠鏡は地上約600km上空の軌道上を周回していますが、
そもそも最初にこれを打ち上げたのはスペースシャトル「ディスカバリー」。

そう、つまりここにその機体が展示されているディスカバリーが、
1990年に宇宙に打上げて以来、順調に地球に宇宙の映像を送り続けているのです。

ハッブル望遠鏡の実際の大きさはちょうどバスくらい。
今までトライされた宇宙望遠鏡で最も成功を収めていると言われ、
軌道を回っている今も、スペースシャトルが何度かこの望遠鏡を訪れ、
宇宙飛行士が観測装置を補修したり、新しいカメラなどを取り付けてきました。

ハッブル宇宙望遠鏡が人類にもたらした大きな成果は、

銀河系を取り巻くダークマターの存在を明らかにした

多くの銀河の中心部にブラックホールがあるという宇宙モデルの確認

ダークマターなんて、恥ずかしながらスターウォーズの世界の話かと思ってました。
普通に構成物質のことだったんですね。ってそっちはダークサイドや。



NASAがイントレピッド博物館に引退したスペースシャトルオービター
「OV-101」を譲与したという証明。



まずですね、なぜこんなコーナーがあるかなんですが。

これはいうまでもなく「スタートレック」の出演俳優たち。
普通の格好をしている今は亡きレナード・ニモイがあまりに普通の人なのでびっくり。

このころのアメリカのSFものには「困ったときの日本人」という言葉があり、
難問を解決したりする「智慧者」としてのキャラによく日本人が登場しまして、
初代困ったときの日本人、「ヒカル・スールー」(日本人とフィリピン人のハーフ)
を演じたジョージ・タケイの姿が写真に見えます。 

それはともかく、スタートレックのファン「トレッカー」であれば、
スペースシャトル第1号の「エンタープライズ」という名前が、「スタートレック」の
宇宙船と同じ名前であることはとっくにご存じでしょう。

当初、この第1号機には憲法発布200年を記念して「コンスティチューション」という
名前がつけられそうになっていたのですが、あまりにも

「(そんな面白くない名前より)エンタープライズにしろ」

という声が多く、当時の大統領、ジェラルド・フォードが決断を下す形で
この名前になったということを説明しているわけです。
いかに当時「スタートレック」が人気があったかということなのですが、
それよりこんな国民だから、次の大統領に、もしかしたらトランプを選ぶかも、
と思ってしまうわたしがいる(笑)

説明が遠すぎて全く読めないのですが、どうやら「スタートレック」の俳優が
写真を撮っているのは「エンタープライズ」の前みたいですね。



歴代スペースシャトルについての詳しい説明もこんな風に。
そういえばコロンビアの爆発事故のときに、わたしはアメリカにいました。
もちろん大事件として扱われていましたが、日本のように
犠牲者の家族にインタビューするような湿っぽい報道はあまり見なかったと記憶します。



スペースシャトル輸送機の背中に乗ったエンタープライズ。
何かの冗談?といいたくなるくらいキュートな眺めですが、エンタープライズの
初飛行は、このように輸送機の背中に乗って行われました。

この写真は、「エンタープライズ」が「イントレピッド博物館」に
嫁入りすることが決まり、そのお披露目として、2012年4月24日、このように
ボーイング747の背中に乗せられて、ニューヨーク上空をデモ飛行しました。



そして、今その機体はこうやって展示されています。
「エンタープライズ」は軌道にハッブルを打ち上げるなどの任務を果たしましたが、
結局宇宙に行かないまま終わりました。

スタートレックの宇宙船の名前をつけられただけあって、チャレンジャーが爆発した時
これを改装して宇宙に送ることが計画されはしたようですが、
結局「エンデバー」の建造がご予算的にも合理的ということで見送られました。



「エンタープライズ」を見るには、建物の天井付近に宙吊りのようになっている
機体の周りを取り囲む通路に階段で上って行きます。
これが一番彼女に近い距離となるわけですが、もちろん触れられないように
ガラスで保護されています。




この素材なんですが、なんというか、金属ではないしまるで硬化ゴムみたい。

赤い文字の描かれた穴はリリーフバルブとありますが、余剰の空気を
バイパスさせるためのバルブ、ということなんでしょうか。



"FAILURE IS NOT AN OPTION"(失敗は選択肢にない=許されない)

って聞いたことありますか?
「アポロ13」の映画では、確かエド・ハリスが決めていたセリフです。
もしかしたら縁起の悪い13番目のアポロが故障で帰れないかもしれない!?
となったとき、映画ではNASAの皆さんがこの言葉を合言葉に頑張るわけ。

しかし、これはエドが演じていたジーン・クランツのセリフではなく、
この映画のためのキャッチフレーズだったというねorz

あたしゃケネディ宇宙センターにいったとき、このセリフが書かれた
アポロ13のマーク入りカープレートを思わず買ってしまったというのに、
日本では付けることができないばかりか、オリジナルでもなかったと・・。

それはともかく、ここに大きく「フェイリアー」(失敗)と書かれているのは、

ハッブル・テレスコープ

「STAR CROSSED」

NASAの15億円無駄遣い

という、まるで映画の宣伝のように皮肉られたニューズウィークの特集。 
まあ、無駄遣いで恥ずかしい失敗と捉える向きもあったってことでしょうか。



こちら、宇宙飛行士のトレーニング用プールの再現。
もちろん水はありません。



プールのように囲まれた壁の内部では、宇宙飛行士が水中を
宇宙の無重力状態と仮定して行うトレーニングが紹介されていました。
油井さんもこんな訓練をなさったんでしょうね・・。
そういえば、油井宇宙飛行士の任務は昨年の12月15日で無事終了しました。



なぜかソユーズTMA-6が持ち主からの貸し出し(持ってる人がいるって一体)により
ここに展示されています。 

ソユーズは国際宇宙ステーションと(つまり連合軍)往復するためのミッションで、
史上26回目の有人宇宙飛行となりました。
2005年4月15日打ち上げられ、半年後地球に帰ってきました。
宇宙滞在中にはISS(国際宇宙ステーションのこと)と結合したり分離したり
結合したり分離したりしたそうです(適当)

 

その時のソユーズ。
この時のソユーズは、イタリア人の飛行士とアメリカ人、ロシア人を載せて行き、
それまで滞在していた別のロシア人(1)アメリカ人(2)を乗せて帰りました。

昔、米露で宇宙競争をして国力を削ぎあっていたとは思えませんね。





おまけ*なぜかここにあったサンダウナー仕様のファントム。


続く・・・・かもしれない。


”アーレイバーク提督記念食堂”で昼食を〜横須賀米海軍基地見学

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わたしの所属する防衛団体のひとつから、ある日お知らせがきました。
真っ先に目に飛び込んできたのは、 

「ロナルド・レーガン見学」

の文字。
横須賀米海軍基地と海上自衛隊第2術科学校での研修見学企画で、
なんとメインは空母「ロナルド・レーガン」に乗艦見学をする、とあります。
昨年、RRが一般公開されたとき、わたしは観艦式で海の上にいたのですが、
もし日にちが違っていれば是非一度見たいと思ってはいたのです。

しかも、一般公開とは違い、今回はRR広報が説明してくれるというではありませんか。
喜び勇んで申し込み、当日を楽しみに待ちました。

待ち合わせは横須賀駅前。
高齢者が多い団体ゆえ、以前参加した横須賀基地見学のように、横須賀駅から
延々とヴェルニー公園の説明をしながらドブ板経由で歩いて行き、
広い基地内を全て徒歩で移動、という無茶はせず、バスを1台チャーターし、
中での移動も全てそれで行うというお大尽企画。
最後の懇親会まで含めて2食お酒付きで参加費一人1万円なら安いものです。


わたしは夜の懇親会会場になったホテルに最初から車を停め、タクシーで
きっちり海軍5分前に集合場所に向かいました。
駅前に停められたバスに全員が乗り込んだところ、ちょうど満席となる盛況振りで、
いかに防衛関係者のRRに対する関心が高いかがうかがえました。
後でお話しした方は福岡からわざわざこのために飛行機で来られたそうです。


参加にあたっては、

国籍がわかる身分証を必ず持参すること(運転免許はダメ)

スカート、ハイヒールは禁止

ドルが使えるので持ってきてください

ということが前もって事務局から告知されていました。
まさか軍艦に乗るのにハイヒールスカートで来る人はいないだろう、
というのは普通の人の考えですが、あとで事務局の人に聞くと、

「これだけ言ってもたまにそのどちらかで来る人がいる」

ということでした。
空母だから階段も広くて「ひゅうが」みたいにエレベーターに乗れるかも?
という甘い考えなのか、それとも自分だけは大丈夫だと思うのか。
このことが話題になったとき、周りのおじさんたちが、

「この間の観艦式でもミニスカートにハイヒールの女の子を見たけどさ」

とぷんぷんしながら言っていましたし、わたしもミニスカートではないけど
タイトスカート(階段の上り下りがさぞ大変だったことでしょう)一人を目撃しました。

本人が現場でどれだけ苦労しようと自業自得ではありますが、防衛団体としては
それで下手に転んで怪我でもされたら大変ですからね。
(と、ハイヒールでもないのに掃海艇の上で転んだわたしが言っても説得力なし)

バスは、米海軍基地のゲートの前で一旦停止。
そこで日本人の警衛係が乗り込んできました。

「このゲートの写真と、警備の隊員の写真は撮らないでください」

注意が入った途端、まわりから、

「あ、撮っちゃった」

という声が上がりました。
SNSやブログにあげたりしなければ、ってことだとは思いますが・・。


その後、バスの中で全員の身分証をちゃんと名簿と照らし合わせて確認し、
一人一人に「チェック済み」のシールを、体のどこかに貼るように渡されました。
これがないと、即追い出されても文句は言えません。(たぶん)
ちなみに、ゲートを出るとき、このシールは全員から徹底的に回収されました。



余談ですが、一度、民主党政権下ならではの「フィーバータイム」で、
なんと中国人記者が横須賀基地に入り、「ジョージ・ワシントン」の取材をした、
という前代未聞の出来事があったのをご存知でしょうか。

日本人であれば、厳しいなりにフリーパスで入れる米軍基地ですが、
これが中国人となると、そもそも入ることを許されていません。
にもかかわらず、このときは民主党議員の口利きで(誰だよ)
史上初、中国人が中に入り取材することができたのです。

このときの記者が書いた記事は検索したら出てきますが、それによると、
どうやらこのとき応対した米海軍の広報官は、中国人記者につきっきりで
一挙一動を監視し、(そうだろうなあ)ついでに、

「中国はなぜ洋上で拡張しなければならないのか。
中国の軍事力強化は、『ミドル・キングダム』が過去の朝貢システムの再建を
望んでいるのではないかとの疑念を呼んでいる。
そして西太平洋での米軍の最も根本的な任務は均衡の維持だ」

などという挑発(?)を行い、この記者を怒らせています。

さらには、

「英国など欧州諸国も同様に中国を侵略したのに、
なぜ中国は日本の侵略ばかりいつも頭にあるのか、私にはわからない」

と嫌味を言い(笑)
尖閣諸島については「この問題をめぐる両国間の言い争いは米国には関係ない」
とする一方で、極端な衝突が起きた場合に米国が巻き込まれるか否かについては、
「個人的にはそうだと思う」と述べて、記者をさらに挑発しています。


おそらく第7艦隊関係者は、「今度の日本政府は敵国人を潜入させやがる!」
とそのとき内心苦々しく思ったにちがいありません。
日本人が思う以上にアメリカは中国をはっきり「敵」だと認識しているのですから、
自分たちがここにいるのがなんのためかわかってんのかよ、とその議員とやらには
文句の一つも言ってやりたかったのではなかったでしょうか。


というわけで、見学のときに日本人であることを確認するのは、当然のことです。
中国人を入れないために、とにかく入れるのは日本国民だけ、
と線引きをしておかなくてはいけないので、当然在日朝鮮人も入れません。



さて、そんなチェックに散々時間をかけ、バスは基地内に入りました。
前回結構な時間をかけて歩いてきたこのオフィサーズ・メスも
バスならあっという間に前に着いてしまいました。
ありがたやありがたや。

士官用飲食施設は

「アドミラル アーレイ・バーク コミッションド オフィサーズ・メス」

といいます。
このcommissionedは「委託された」の意でしょうか。 

大西洋艦隊駆逐艦隊司令官として日本に赴任中、自衛隊の創設に
尽力して日本政府から旭日勲章を送られたバーク提督の名前を冠しています。



接収後、もともと横須賀鎮守府敷地内にあったこういう「碑」の類を
何でもかんでも壊してしまうほどアメリカ人、特に米海軍は野蛮ではありません。

昭和16年に皇太后陛下(昭和天皇の母上)がご行啓されたときの
記念碑はかつてのままに姿をとどめています。



方位版には「サイパン」「パラオ」など、日本領の名前が見えます。
「ワシントン」を「華盛頓」などと書いてあるのは、日本の風習である、
という説明と共に、外側の英語表記部分は、1983年にどこかから「アーレイバークメモリアル」の
前に移転させたときに、わざわざ製作したらしいことが説明に書かれています。



前の基地見学の際には、ここも外から眺めるだけでしたが、今日はなんと!
中で食事ができるというではありませんか。
建物の中に入れるだけでも、今日は来た甲斐があったというものです。



アメリカの街角(大抵バス停の横とか)にはこんなスタンドがあって、
お金を入れるとドアが開いて、一部取るようになっています。
実は一回ドアを開けたら一部と言わず、中にある束を皆持っていけるのですが、
さすがに文明国のシステムなのでそこは良心に任せているようです。



扉を開けてすぐ、一階の大きなホール。
岩国もそうでしたが、和風のパーティションなどをあしらったりして、
そこここで日本の基地らしさを演出しています。



こちらはお昼で営業していませんでしたが、スポーツラウンジ。
大型のテレビが設置され、それで野球やフットボールの試合を見ながら
ビールを飲むのが、アメリカ男の楽しみでもあります。
当ラウンジはその名も「クロフネ」。
かつて自分の先祖が「クロフネ」に乗ってここ横須賀の浦賀に来たことから、
現在の日米関係に至り・・・などとは誰も考えたことはないと思いますが。



オフィサーズクラブ特製の保温ボトル、マグカップなどもあり。
また、当クラブは、太平洋地域での「ベスト・オフィサーズクラブ賞」を
取っております。



横須賀基地司令官であるリア・アドミラルと、自衛隊の海将の皆さん。
右下右から2番目「ヒロシ・ヤマムラ」バイスアドミラル(海将)は、護衛艦隊司令とあります。
その右が潜水艦隊司令の道満海将、山村海将の左は堂下横須賀地方総監。
左は顔も名前も写りませんでしたが、おそらく重岡自衛艦隊司令でしょう。

両軍の将官の写真の撮り方を見ても、全く文化が違うという気がします。
アメリカは「とにかく笑う。歯見せは基本」「袖は必ず見せる」
「かならず国旗と海軍旗をバックに撮る」。

歯はともかく、海上自衛隊も自衛艦旗と国旗をバックに写してはどうか。



会場は二階でした。
各ホールの前には、このようなハンガーが設置されていますが、
ほとんど全員が軍帽を置くため、帽子置きの付いた特別仕様となっています。



「キャビンルーム」と名前の付いたホールのドア。



会場のデコレーションは、季節を先取りして桜(の造花)。
というか、年がら年中これなのかもしれませんが。
造花の花活けに添えられた白い石にもそこはかとなく香るジャパネスク・・・。



一人一人のテーブルにはちゃんと形を整えたクロスナプキンが。
テーブルクロスのブルーは海軍施設ならではです。



食事はバッフェ方式で、並んでお皿に取ります。
わたしは最後の方に並んだので、他の人が食べながら「これ硬い」と言っているのを聞き、
ビーフを避け、メインはチキンだけにしました。

お味は、アメリカの平均的なこういうバッフェから見ると上の方ではありました。



案外いけたのがこのデザート。
アメリカ軍人も日本に来ると甘さ控えめを好むのか、
左のムースと右下のミルフィーユを頂いてみたら意外なくらい普通でした。

ここでの昼食時間は1時間と15分取ってあり、食べ終わった後も同じテーブルで歓談し、
ゆっくりと過ごすことができました。

ところで、この中のお手洗いに行った時に思ったのですが、岩国基地のように
ここも、どこにいっても「アメリカの匂い」がしました。
使っている洗剤やペーパー、食べ物のせいで、日本にありながらそこはアメリカでした。



食事が終わって外に出る前に、1階の「アーレイバークコーナー」を見学。

バーク提督の名前は「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦に残されています。
「こんごう」「あたご」の設計思想にインスピレーションを与えた艦でもあります。
先の観艦式には、この39番艦の「マスティン」が外国招待軍艦として参加しました。



ゆかりの品、写真などが飾られたガラスケース。
中段右はしのペッパーミルに見えるものは、ペッパーミルです。
誰から寄贈されたということしか書かれていないのですが、
バーク提督愛用のミルだったのでしょうか。



右上の賞状は、バーク提督が士官候補生の時のディプロマ。
右下は、奥さんのボビーさんと浜辺で撮ったらしい写真。
なんか二人揃って妙ないでたちですね。

念のために調べてみると、こんな画像が見つかりました。



海藻巻いて遊んでたみたいです。
っていうか、バーク提督の顔が真剣すぎて怖い。



さて、お昼ご飯を食べた後は、いよいよ「ロナルド・レーガン」見学です。

続く。




 


ロナルド・レーガンに乗艦~横須賀米海軍基地訪問

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横須賀にある米軍基地を訪問したエントリのカテゴリーを
「アメリカ」にするのは少しためらわれましたが、門を一歩入れば
そこはすでにアメリカであった、ということからあえてこうしました。

米軍基地というのはどこも、その気になれば全く外に出ないで
全てが完結するだけの施設が充実しています。
ショッピングセンターはもちろん、学校、医療施設、教会、
映画館もボーリング場も、前回の観察によるとリサイクルショップまで。


それでなくても艦隊勤務の軍人さん、ロナルド・レーガンの乗組員などは
ここにあってもさらに艦内でずっと生活しているわけです。
休みの日に外に出るだけで、まるで「海外旅行気分」なのではないでしょうか。


さて、昼食後はいよいよバスで「ロナルド・レーガン」まで 移動です。



RRの前にはセキュリティゲートがあって、出入りが厳しくチェックされます。
バスはここでしばらく待たされました。

バスの右手には実は潜水艦が繋留してありました。
おお米軍の潜水艦、これは珍しいと皆が窓越しにみていると、

「潜水艦の写真は自衛隊のも米軍のも撮らないでください」

と最初も言われていましたが、駄目押しのアナウンスが。
しかし驚いたことに、そのとたん、
携帯で写真をとるシャッター音が周囲で2回起こりました。

撮るなと言われてる端から撮るな!

とはもちろん言えず、黙っていました。
なんだろう・・・撮っちゃいけないといわれたら、撮りたくなる?

わたしは潜水艦の右側で作業をしていた隊員の写真で我慢しました。
このフォークリフトがKOMATSUでないのが、アメリカです。



しばらく待たされたのは、この案内役の広報官に連絡を取り、
彼がRRから出てきてここまで歩いて来るのに時間がかかったからでした。

なんと、錨のマークがついた白いカウボーイハットを被っています。
これは、一見カウボーイハットですが、実はヘルメットなのです。
画像検索してもこのタイプは一切出てこないので、もしかしたら
最近導入されたものなのかもしれません。

青い海軍迷彩に白のカウボーイハットがよく似合うこの長身の広報官が、
この乗艦ツァーの間ずっと付き添って説明をしてくれます。
こちらには女性の通訳が一人同行していました。

彼が乗り込んでから、バスはRR前まで移動。



この時初めて知ったのですが、RR、どうやら現在補修中です。
わたしの今まで実際に乗艦したことのある空母は退役して博物館になった
「ホーネット」と「イントレピッド」ですが、
現役の空母の中に実際に入るのはもちろんこれが初めてです。

「ホーネット」「イントレピッド」のエセックス級空母の排水量は27,100t。
RRは満載 101,429t ・・・・・って、なんと4倍弱はあるではないの。
RRの全長は先代の「ジョージ・ワシントン」と同じ333mで、これは
東京タワーと全く同じだったりしますから、「ニミッツ」級おそるべし。

広報官によるとRRの乗員総数は2500名だそうですが、これには日常横田にいる
飛行隊の人数は入っておらず、全てが乗り込んできたらほぼ5,000人だそうです。

Wikipediaには乗員総数3,200名、航空要員2,480名とされていますが、
その誤差が何であるかはわかりません。

しかし、同じ艦に勤務していても一度も会ったことのない人同士なんていくらでもいそうですね。



作業でペンキでも塗るのかな、と思ったのですが、それにしては
全身真っ白のつなぎって、汚れが目立ちすぎないかな・・・?

・・・・はっ。

これってもしかして原子炉関係のメンテナンス要員?

ニミッツ級はA4Wという艦艇用原子炉を2基搭載しています。
この超弩級空母が、軽々と海上を航行するための140,000軸馬力(104MW)の推力と、
艦内で必要な電力を産み出すのに十分な蒸気を発生させているのです。



バスは艦内に通じる階段に横付けです。
カメラを持っていない人は皆携帯で写真を撮りながら

「大きすぎて画面に収まらない!」

と口々に言っております。
こんなこともあろうかと広角レンズを持ってきたわたしに死角はなかった。



どれくらいの割合で行われるのかはわかりませんが、この補修は
かなり大規模なものである模様です。
おそらく左に突き出している部分にも、その上にも、
パイプでこれでもかと足場が組まれているのが確認できます、



こちら艦橋側。
操舵室と航空管制用と司令用と・・・
これだけガラが大きいと、役割が分担されてあちこちに分けられています。
こちらに向かって突き出したデッキは、おそらく着岸の時に視認するためのものでしょう。



さて、いよいよラッタルを渡って乗艦です。
まず階段でこのレベルまで登り、しかるのち少し傾斜した
ラッタルを渡っていくので、ここまでは楽勝。

途中で立ち止まって写真を撮りまくっても大丈夫。



というわけでわたしも途中で撮りまくりました。
いろんなコードやパイプやもやい的なものが陸上とつながっています。



艦上の海軍迷彩以外の作業員は日本人。
画面右端に集合している作業員たちも日本人です。
後から甲板を見る機会があった時、飛行甲板の補修をしていたのがこのグループでした。

必要な技術によっては日本の企業に依頼することがあるんですね。
なお、このときに日本人限定で作業員を選ぶのかどうかは謎。

どうやら艦体の隅々まですべて塗装し直すようです。
あらゆるところに作業足場が組まれています。



滑り台が海に突き出しているようなこの構造物はなんでしょうか。
別の艦船と洋上で接舷したときに、何かを渡すためのものか、
それとも、いざという時の脱出のためか(こちらは多分違う)



ラッタルを渡りながら反対側を撮ってみました。
こちらもたくさんのコードがつながっていますが、注目したのは
岸壁の構造。
なんと、「地下」にコードをつなげる電源やその他色々が収納されていました。
雨風が少しでもかからないための仕様でしょうか。

 

艦内に入る前に立てかけてあった火災に関する注意書きの色々。
boundaries というのは境界のことですが、
右下はこの4つの境界にファイアーアラームがあるので、
安全担当士官にコンタクトを取ってからドアとハッチを通れ、
というようなことが書かれているように読めます。

ここでもイマージェンシーコールは911となっています。



さて、艦内に入ると、まずそこがRRの「玄関口」です。
まず、当空母の幹部の写真が・・・・・ってなんてたくさんいるんだ。
まあ、5,000人の組織ですから、トップもこれくらい必要でしょう。
トップスリーの下は「ナビゲーション」「オペレーション」「エア」で、
これはわかりますが、その下に「デンタル」がいるのには驚きました。

普通に歯医者さんのことですよね?

人数が多いだけに、それを統括する部門も細分化されていて
そのぶん指揮官もたくさんいるってことです。
ついこの間乗ったのは、少人数でなんでもやってしまう掃海艇だったのですが、
こんかいはすべてが対極にある巨大空母です。



真ん中が艦長で、「コマンディング・オフィサー」。
右は自衛隊の「海曹長」で、これが「コマンディング・マスター・チーフ」。
左は状況的に副長だと思うのですが、「エグゼクティブ・オフィサー」。

下士官のチーフ、曹長の腕の洗濯板がすごい。



こちらにはそのCPO、下士官の指揮官がこちらもずらりと。

甲板、砲術、ナビ、航海などの戦術科は上段に。
供給、法務、医務、セキュリティ、セイフティなどは下段です。
印象ですが、やはり士官にはコケイジャンが多く、下士官にアフリカ系、
アジア系、ヒスパニック系が多いように思います。

 

そして彼らの属する海軍組織の偉い人たち。
トップはアメリカ合衆国大統領であり、その下には
「セクレタリー・オブ・ディフェンス」つまり国防長官、
「セクレタリー・オブ・ネイビー」、海軍長官 。
後の制服組は、太平洋艦隊司令長官とか、第7艦隊司令とか。



そして他の空母を見たことがないので比べようがありませんが、
いかにも「ロナルドレーガン」の名を冠した空母らしい、にぎにぎしいコーナー。



さすがは超弩級空母、おそらく普通の船にこれ一つ載せたら速度すら落ちるに違いない。
笑ってしまうくらい大きなロナルド・レーガンのブロンズ像が。
かつて使っていたことのある操舵室の備品もここぞと飾りたてております。



舵輪には、まるで蜘蛛の巣のようにもやいをあしらってみました。
後ろの旗についての説明は全くなかったので、何かわかりません。
艦隊旗かなんかでしょうか。



巨大頭部ブロンズ像だけで驚いてはいけない。
その向かい側では、なんと全身像が「いよッ!」とばかりに手を上げてご挨拶。
やっぱり元映画スターっていうのが、こういうときに表れますねえ。

同じ生存している人の名前が付けられた空母でも、アーレイ・バーク提督や
ジョージ・ブッシュではここまでやってないのではないかな。
(いや、ボブ・ホープとジミー・カーターならあるいは・・)


みなさん、ここで待たされている間に、この手を握りしめたりぶら下がるふりをして、
実に楽しそうに写真を撮っておられました。

さすが空母「ロナルド・レーガン」、見学者に対するおもてなしのツカミはバッチリです。



続く。



 

艦載エレベーターに立つ〜空母「ロナルド・レーガン」見学

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甲板を広角レンズで撮ってみたい、というコメントをいただきましたが、
今回一番楽しみにしていたのが、この巨大空母の甲板に立つことでした。
「ホーネット」でもその広さ(全長266m)に驚かされたくらいですから、 
それより60m以上大きな「ロナルド・レーガン」の甲板はどんなにか広大でしょう。



ロナルドの御本尊、じゃなくて銅像が2体飾られた
空母のエントランスでこれからのツァーについての説明を受けます。
RRのモットーは

「Peace Through Strength 」

「精強であれ、その先には平和が」みたいな感じですか。



どう見てもこのハット、ヘルメットに見えないぞー。
こちら広報担当。



広報官が全てを説明するのではなく、各部のディティールについては
やはり現場の軍人から話を聞いてもらおう、ということで投入されたのが
こちらの方と、向こうにぼーっと立ってるガタイのいい人でした。

向こうの人は、しゃべくり無しでずっと黙ってついてきていたのですが、
広報官はここで解説をバトンタッチしていなくなってしまったので、
何かあった時の人手とか、用心棒とか、まあそういう役目だったのでしょう。

参加者の一部は、彼らの靴があまりに巨大なので軽くざわめいていました(笑)



「ロナルド御本尊の間」からひょいっと外に出れば、そこはハンガーデッキ。
いつもならば航空機が格納されているはずの場所です。



ところが現在は補修中であるため、飛行機どころかデッキには
所狭しとついたてが立てられており、まるで倉庫。



ぬあんと、格納庫にプレハブの住宅が立ち並んでるし。
これは結構長丁場の補修(半年でしたっけ)になるみたいですね。
ここにRR乗員以外のメンテナンス要員が寝泊まりするのだと思われます。

各ブロックに12部屋、見えているだけで36部屋あることになりますが、
二人一部屋としても100人単位が、ここに滞在して作業をしているようです。



せっかくの力作なのにダクト?で隠れてしまったのが残念。
彼らは「ホーネット」でも説明してもらった、甲板で仕事する各部署の
「色」の作業着をまとった乗員たちの図。
これらの色分けは以下の通りです。

青・・・・プレーン・ハンドラー、航空機用エレベーターの操作員、
     トラクターのドライバー、メッセンジャー、電話交換手

緑・・・・カタパルト操作員 航空機メンテナンス 貨物操作、
     着艦ロープのフックを渡す係、写真班のアテンド ヘリ着陸誘導係

黄・・・・航空機操作士官 カタパルト操作士官 航空管制官

赤・・・・砲手 墜落機サルベージ係  爆薬処理班

茶・・・・航空士官と着艦誘導下士官

紫・・・・航空燃料係

白・・・・飛行中隊監査 航空機移動士官 安全確認係 医療班 着艦合図士官


と、自分の過去ブログからコピーアンドペーストしてしまうのだった。
甲板の上では一目で誰が何をしているか即座に見わけなければならないため、
このようにわかりやすく着るものを色分けします。




ハンガーデッキの隅には乗員が長い列を作っておりました。
順番に一人ひとつ、箱を渡されて運んでいく仕事をしています。
海自ではこんな時に「バケツリレー方式」でやるようですが、
何しろ空母は大きすぎて、目的地まで列の長さがどうしても足りなくなるため、
このような方法で物を運搬するしかないのかと思われます。

この時に皆が運んでいたのは、ファイルのようなものが入った箱でした。
紙が入っているとすれば、これはかなりの重さがありそうです。

画面手前を歩いている男女の一団は軍人ではなく軍属です。



その右手にわれわれは誘導されて出ることになりました。
これは、外付けのエレベーターですね。
赤と黄色の線の惹かれたところから向こうが稼働します。

一応ここで「甲板に立つ」ことはできたということになります。



ここにも資材がこれでもかと積まれたまま。
しかしこうしてみると、われわれがこうやって内部を見学できるのも、
RRが補修中で、中は全く正規稼働していないからこそだったのね。

もちろん飛行機の離発着が観られるなんて虫のいいことは考えてなかったけど、
・・うーん、なんか嫌な予感がするぞ(笑)

向こう岸に見えているのは、一度当ブログでも説明したことのある
APL40、宿泊艦で、海軍軍人さんのホテルとして使われています。
内部にはスカイラウンジもあるそうです。

その向こうは、たぶんミサイル駆逐艦「ジョン・S・マケイン」。



資材は全て足場用ですね。
作業員のベルトが無造作に資材の上に脱ぎ捨ててあるのがいかにもアメリカ。

向こうに支援船のようなものが近づいてきています。



この部分に立って艦首側を見るとこんな感じ。
観艦式で航行しているRRを観た時、まるでお皿のように
下すぼまりのシルエットだなと思ったものですが、それもそのはず、
この傾斜の強さは、甲板を少しでも広くとるための設計です。



ここがせり上がっていくわけですね。
立っていると、あまりの広さに、ここがエレベーターだとはとても思えません。



ここにゴンドラ式のクレーン車がいるのは、これに乗って
エレベーターの壁や支柱を塗装するつもりのようです。



ペイント缶の用意中。
飲みかけの缶コーヒーでもなんでも、とにかく床に置くのがアメリカ人。 

 

ブルーのクレーンの立っているところが、確か、戦時中に「信濃」が艤装されており、
ここから呉に向かった(そして撃沈された)というあのドックだったと聞きました。

さて、ここでしばらく説明を聞いた後、われわれは甲板に移動することになりました。



さっきハンガーデッキに出てきたところから、もう一度中に入っていきます。
コンテナとついたての向こうに、ハンガーデッキのブースが見えていますね。



さて、ここからは、狭い廊下と急な階段を、甲板に向かって進んでいくわけですが、
わたしたちの一行に対し、米海軍はまずこのように通達してきていました。

「70歳以上は色々と責任持てないから参加お断り」

ただでさえ高齢化の激しい当防衛団体、(というか、こういう行事に
平日の昼間参加できるのは自営でなければどうしても悠々自適のリタイア組)
そこをなんとか、と防衛団体が頑張って、3人か4人いた70歳以上の参加者は
念書にサインすることで、参加を許されたという経緯があったのです。

バスの中で、

「万が一の(もし階段を上っていていきなり疾患で倒れたり、
降りるときに足を踏み外して動けなくなったりという)
ことがあったとしても、その責任は一切米海軍には問いません」

という意味の念書が回され、該当者はそれにサインをさせられていました。
日本の70歳なんて、皆元気なものだと思うんですけどね。



廊下に飾ってあったRRと第7艦隊の勇姿。



エアボスは、甲板を監視しながら管制を行う航空管制責任者です。
ミニボスは航空管制下士官とエアボスの間にいる副長みたいなものでしょうか。

エアボスが統括するのは、甲板では青い作業着を着る「プレーン・ハンドラー」です。




修復関係の係が詰めるところみたいです。
教えていただいた「Ship Repair Facility」の関係者が
詰めるところがここかもしれません。



説明なし。
星が右左に4つづつあるので、艦隊司令が坐乗するときの特別室?


こんなふうに、途中にあるこのような部屋のプレートなどを見ながら
階段を上っていくわけですが、さすが空母、この階段の手すりが
自衛艦のような鉄製ではなく、全て持つところは木製で、
飛行機のタラップのような感じの、たいへん重厚な造りでした。

自衛艦とは全く違うなあ、とえらく感心したのですが、勾配そのものは
自衛艦と同じくらい急だったので、登るのに一生懸命になってしまい、
うっかり一枚も写真を撮らずに終わってしまったのが残念です。

なにしろ前の人にちゃんとついていかないと迷子になりかねないので、
写真のためだけに立ち止まって前を空けるのが憚られたんですよ。

ちなみに階段を上る前に注意されたのは、

「もし迷子になってしまったら、うろうろしないでそこにじっとしていてください」

でした(笑)



そして、艱難辛苦の末やっとたどりついた・・・、



これが「ロナルド・レーガン」の甲板から見たアイランド(艦橋)だ!

さあ、それでは肝心の、甲板は・・・・?(ドキドキ)



続く。

 


 

甲板(ただし工事中)〜空母「ロナルド・レーガン」見学

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世界一大きな空母の広い甲板に立ってみたい!
というのは誰しも考えることですが、今回の我々のツァーが
本来の任務の妨げにならず、見せてはいけないものを見られる心配もない 
補修中であったからこそ行われたということは、どういうことかといいますと、



はい、これが「ロナルド・レーガン」甲板の眺めでございました(T_T)

空母の補修で最も中心となるのは甲板です。
航空機の度重なる発着によって、表面が磨耗するため、
一定の使用期間後は必ずその表面をこうやってメンテナンスしなければなりません。

他のところのペンキ塗り替えなどは、ついでみたいなものでしょう(独断)



振り返って仰ぎ見るRRの艦橋。
艦橋上部のメンテナンスも行われています。



まるで三重塔、と言った感じで積み重なっている管制室、操舵室。

てっぺんからニョキニョキと突き出しているものは全てライトです。



三重塔の下に全方視界を遮らない円形ガラスで囲まれたのは
「プリフライ」("Pri-Fly")と呼ばれる、

「プライマリー・フライト・コントロール」

ではないかと思ったのですが、プリフライはその上のようです。
ここでは空母に近づいた艦載機の離着陸のコントロールを始め、
フライトデッキでの移動を監視します。



「ロナルド・レーガン」のHPなどをみると、ファミリーデーの写真で
隊員家族がずらりとこのデッキに鈴なりになっているのがあります。
最上階には日本人作業員とともに「高所作業中」のバナーがなぜか上下逆さまに。



ハッチからは作業員が忙しく出入りし続けています。



右がハンガーデッキから説明してくれた人、左がその用心棒。
後ろから出てきているアジア系(多分コリアン系)の乗員が、ここから先の解説に加わりました。

RRにはアジア系乗員が少ないながら見られましたが、ここ日本という
「中国に対する太平洋の最前線」に赴任するには、やはり中国系は
意識して外されるのではないかと思われます。

ていうか、そもそもアメリカ海軍に中国系がいるように思えませんよね。
中国系学者が機密を盗んだり、有名大学内に中国政府からの資金が流れ込んで
留学生にスパイをさせたりしている現状では、差別と言われようがなんだろうが、
それだけはありえないことのような気がします。



黄色い「立ち入り禁止」のテープを貼っているのか外しているのか。
ここで、解説の隊員からみなさんにクイズが出されました。

「甲板で働いているクルーの平均年齢はいくつだと思いますか?」

誰か一人が「25歳」といい、もう一人が「22歳」と言ったのですが、
正解は20歳でした。
大変危険でタフな仕事なので、20歳くらいの若者でないと務まらないそうです。

わたしはこの質問の時、「甲板で働く人」というのが現在工事をしている人、
と解釈したのですが、もしかしたら日常の甲板業務のことだったのかな。

どちらにしても若くないと務まらないということに変わりはなさそうですが。



いたるところにこの立ち入り禁止テープは張り巡らされ、
乗員ですら甲板を通り抜けることができないという状況。



甲板を通して見ることができない眺めに全員が少なからず落胆していると、
岸壁に建てられた巨大なガントリークレーンが甲板に乗せるために持ち上げた
重機が現れたので、おおっと盛り上がった瞬間。

ガントリークレーンとは、レールを移動することのできる橋脚型のクレーンで、
ガントリー(gantry )とは門の形をした構造物のことで、
このクレーンもここから見たらわかりませんが、地面設置部は門型をしています。

余談ですが、港湾地域にずらりと並んだガントリークレーンは、船の航行の
邪魔にならないように海上に出たブームを持ち上げるようにするため、
その形がキリンに見えるわけですが、これはそう見えているだけでなく、
日本ではちゃんと「キリン」という名称で呼ばれているのだそうです。



大きな重機が、まるでクレーンゲームで釣り上げられる玩具のように
軽々と持ち上げられているように見えます。
あまり日常でお目にかからない光景だけに、皆目を輝かせて見守りました。



ガントリークレーンの操縦は、画面に映っている小さな突き出した部分で行います。
ここで操縦を行うのは「クレーン・デリック運転士」であり、
「ガン・マン」(ガントリーのガン?)と呼ばれているのだそうです。

甲板では玉掛けを外すために作業員たちが待ち構えています。



目を転じて甲板中央部分を見てみると、ここには何か電気関係のブースのようなものが。
シールで「北斗」と日本語が書いてあるので調べてみると、

株式会社北斗 
住宅・工場・ビル・変電所など電気設備工事情報通信・LAN工事
艦船艤装電装造修工事、制御盤設計製作発電機電動機組立調整、
制御システム製作施工
電気式諸計器・圧力計器・電磁弁ほか修理及び調整

という横須賀の会社が見つかったので多分ここだと思います。



甲板の上にもプレハブハウスが・・・。
お節介船屋さんによると、外部者は泊めないはずなので、これらは
資材置き場ではないかというお話でしたが、このハウスを見ると、各部屋に
窓があってブラインドがかかっており、何と言っても各部屋にエアコンまで備えられ、
どう見ても人が居住するためのスペースに見えます。

そもそも休憩室だったら個室にする必要もなさそうだし、
資材置き場をこんなに細かく区切る必要もありませんよね。
これは一体?


愚見ですが、この日横須賀基地に入った時のIDチェックの厳しさを思うと、
作業員一人ひとりが毎日基地外からRRまで通って仕事するいうことはありえない気がします。
最初に作業員を導入する時点で厳重な身元チェックをした上で、
あとはずっと艦内に泊めておいたほうがずっとセキュリティ上安全だと思うのですが。



さて、我々はここで艦橋に上がって上から甲板を見ることになりました。

「ここからでは遮られて見えませんが、艦橋からなら少しは甲板の
全貌がわかっていただけると思います」

ぜひそう願いたいですね。

またしても階段を登っていったわけですが、これがもう何階分かというくらい、
登っても登っても到着しないんです。

途中には「フライトデッキ・コントロール室」がありました。
もちろん関係者以外は何人たりとも出入り禁止です。




というわけで、この高さの感じでいうと、ビルの5階くらい?
何しろ艦内の天井は大変低いので、階段もその分何回も登ることになります。

カタパルトの手前の床が補修中で、そこがどうなっているか見えません。
補修中の部分のこちら側が、航空機が着艦してくる部分です。



先ほどガントリークレーンで甲板の上に挙げられたクレーン車は、左のほうに移動、
作業員はまた次の重機のために玉掛けするワイヤを引っ張っています。



どうしてここだけ囲いをして床を補修するのかいまいち意味がわかりませんでした。
これから覆いを外していくのかと思われます。

RRのHPを見ると、ときにはこの甲板の上ではバスケットコートが作られたり、
ステージができたり、パーティ会場になったりと、
広いのをいいことにいろいろと使いでがあるようです。
これを見ていたら、スケートリンクもできそうだなと思ってしまいました。

HPといえば、マリタイムクエストというHPの9ページ目の写真の中ほどに

January 29, 2006: The ashes of twelve veterans awaiting
burial a sea aboard the USS Ronald Reagan CVN-76


という記述を見つけました。
なんと、ヴェテランのご遺灰を空母の甲板から海に撒き、
弔砲で弔うというようなことをアメリカ海軍はやっているんですね。

軍人として生きたということが彼らの名誉であり、海軍もそれを
名誉として尊重し、その死をこのような「花道」で送り出すことを当然とする。
もし戦争で負けなかったら、日本もあるいはこのような栄誉が
国の防人に対して与えられるようなまともな国たりえたのでしょうか。



甲板の艦首に向かって左部分に白のラインがありますが、
このラインが航空機の着艦する目印です。
黄色い線の部分が着艦の中心線となり、ちょうど窓枠で見えませんが、
この部分には航空機の行き足を止めるためのアレスティングワイヤが
張られることになります。



カタパルトが艦首部分になんとか見えています。
今は左側のカタパルトの補修をしているようです。



カタパルトは艦首部分に三つあって、第3のものは
おそらくですが、黄色い線の向こうに見えている部分だと思います。

向こう側に泊まっていたタイコンデロガ級の艦番号がやっと見えました。
67番の「シャイロー」でしたね。




とかなんとかやっているうちにたちまちもう一台重機が甲板に。
何しろ仕事が早い。早過ぎる。



甲板補修の部分をアップにしてみました。
ここで作業をしているのは全て日本人だそうです。

思いやり予算です。(と覚えたばかりの知識を中途半端に披露)




降ろされた2台目のクレーン車がさっそく甲板を移動中。
しかし、こんな資材やなんかがが至る所に置いてある甲板を、いくら広いとはいえ、
よくまあこんな大きなクレーン車ですいすいと移動できるもんだ。




続く。
 

横須賀音楽隊第50回定期演奏会@みなとみらい雑感

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先週末横浜のみなとみらいホールで行われた、横須賀音楽隊の
50回目となる定期演奏会の招待券をいただき、行ってまいりました。

横須賀音楽隊は横須賀地方隊の直轄部隊で、2014年の暮、世界の優秀な
軍楽隊に与えられる、「ジョージ S. ハワード大佐顕彰優秀軍楽隊賞」をアメリカの
J.P.スーザ財団から受賞した、今注目の音楽隊です。

空自中央音楽隊はこの賞を平成4年にアジアで初めて、そして陸自中央音楽隊は
平成21年に受賞していますから、海上自衛隊の音楽隊で
初めてこの賞を受けることができたのは、快挙というべきでありましょう。

さて、そんな横須賀音楽隊のコンサートに、前回券をいただいていたのにもかかわらず
拠所ない用事で行けなかったわたし、今回は前回の残念分も
一音たりとも聞き逃すまいとコンディションも満を持して当日を迎えました。



今回いただいていた招待席はこの場所です。
訳あってまたまたお誘いした兵学校76期のSさんと席についていると、
後から入ってきて周りに座る人は皆互いに挨拶をしあっています。
そのうち、横須賀地方総監らしい方までやってきてみなさんにご挨拶を・・。

どうもわたしの頂いた頂いた席は、「自衛隊の偉い人用」だった模様。
わたしにチケットを手配くださるように横須賀音楽隊に話をしてくださった
元海将もすぐ近く(おかげでご挨拶できた)でしたし、周りをよく見渡せば、
基地創設祭や練習艦隊の出港式などでよくお見かけする顔がちらほらと。


当日のプログラムは、前半は「和楽懐音」と称する日本人作曲家の手によるもの、
後半は吹奏楽界では有名なクロード・T・スミスの作品集という構成です。

まず最初は、鈴木英史手によるファンファーレ。

ファンファーレ「S・E・A」


客席の最上段とか、舞台の裏とか、正規の演奏場所ではないところで
演奏をするトランペットなどの「別働隊」を「バンダ」(イタリア語のバンド)
といいますが、この曲もトランペットのバンダを二ヶ所に配したイントロです。
始まったと思ったら客席後方から音が聴こえたのは新鮮でした。
ユーチューブを見ていただければ分かりますが、これは楽譜の指定です。

バンダといえば、客席の近くでトランペットを構えたところ、

「こんなとこで演奏中にラッパ吹いちゃダメだよ!」

と羽交い締めされて吹けなかった奏者がいる、と、オーボエ奏者の茂木大輔さんが
(本当か嘘かわかりませんが)本で書いていましたっけ。 

タイトルの「S-E-A」は海のことではなく、作曲を依嘱した精華女子高校の
イニシャルから取られており、S(Es)=ミ♭、E=ミ、A=ラの音が
テーマに使われているからです。

でも、横須賀音楽隊がこの曲を選んだのはきっと「SEA」だったからですよね。


つづいては、

梁塵秘抄~熊野古道の幻想~ 福島弘和


いまでこそ国の史跡となり、ユネスコの世界遺産にまでなっている熊野古道ですが、
1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」により付近の神社が激減し、
熊野詣の風習も殆どなくなってしまったため、熊野古道自体は、
大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路に過ぎなかったのです。

これが現在のような注目をされるに至った過程はwikiにもまったく触れられていませんが、
このときにわたしの近くに座っていた方(つまり自衛隊の元偉い人)の祖父、
医師でもあったある俳人が、再発見から再評価への道筋をつけた、ということを
わたしはその方から伺ったことがあり、一人激しく納得しながら聴いていました。

曲は和歌山県立田辺中・高校吹奏楽部による委託作品だそうです。
大河ドラマのテーマソング風でかっこいいです(小並感)



次の曲の作曲者名を見て、「小林秀雄って作曲も残してたの?」
と驚いてしまったわたしです。
「モオツアルト」の「悲しみは疾走する」という文章にはかつてシビれたもんだよ。

と思ったら、音楽評論家ではなく、作曲家の小林秀雄のことでした。

【(落葉松(からまつ)】小林秀雄作曲



落葉松の秋の雨に わたしの手が濡れる
落葉松の夜の雨に わたしの心が濡れる
落葉松の陽のある雨にわたしの思い出が濡れる
落葉松の小島の雨が わたしの乾いた眼が濡れる

という野上彰(詩人)の詩に曲をつけたもので、
ここで横須賀地方隊所属のソプラノ、中川麻梨子海士長登場です。

観艦式の「むらさめ」艦上で「坂の上の雲」の「スタンドアローン」を
聞いたときにも彼女の伸びのいい、ドラマチックな高音には
思わず鳥肌がたったものですが、相変わらずこういう歌曲や、
声楽的発声が映える曲には素晴らしく良く響きます。
(彼女が”Let It Go"を歌っていたのをYouTubeで見たけど、
圧倒的にこういうのよりこの日の歌の方が向いていると思う)

みなとみらいホールの大ホールで吹奏楽をバックに、マイクなしで
一語も不明瞭な言葉もなく歌詞が聴き取れたのですから、さすがです。

海自の歌手といえば、三宅三曹が「第1号歌姫」として先鞭をつけ、
今ではすっかり世間の認知度ももちろん人気も大変なものですが、
横須賀音楽隊の選んだ専属歌手が、三宅三曹とは全くタイプの違う、
愛知県芸大声楽科大学院卒というクラシック畑出身であったことは、
適材適所というか選択の妙だったと、わたしはこの日の彼女のステージを見て
かねてからの持論に確信を持ちました。

人の心の捉え方においてどちらがどう、ということではなく、
三宅三曹にはもちろん彼女らしい良さがあり、中川士長には
彼女にしかできない優れたパフォーマンスの形があります。

前半最後の曲は、宮川彬良の「生業」。
宮川彬良で検索すると「宇宙戦艦ヤマト」の演奏ばかり出てくるのですが、
もちろんあの宮川泰氏のご子息であらせられます。

1、上昇志向 2、発明の母 3、易〜生業

という構成で、タイトルからその意図を汲み取ってください。
「易」では、三人の打楽器奏者が束ねた細い筮竹をつかって演奏しましたが、
その時だけ易者の帽子をかぶっていたのがご愛嬌でした。


さて、前半のプログラムが終わり、休憩時間となりましたが、
わたしはこの日この休憩時間にすることが山ほど?あったのです。

そもそも、なぜこの演奏会に89歳のご老人であるSさんを連れ出したかですが、
その理由は、この本にありました。



偶然、当ブログ読者のお節介船屋さんが「こんな本が出版されました」
と教えてくださったところの、

「海の軍歌と禮式曲ー帝国海軍の音樂遺産と海上自衛隊」

著者の谷村政次郎氏は、1991年から1994年までの間、東京音楽隊の
隊長であった方ですが、退官後は現役時代からの楽曲研究を、音楽隊員として、
また隊長として体験したこと、知ったことと合わせてこの著書に結実させ、
昨年末、出版の運びになりました。

教えていただいて、すぐさま出版社から注文購入し、手許において、
東西奔走()とブログ制作の合間にパラパラと目を通していたのですが、
この日のコンサートで谷川氏をご紹介してくださるというお話を
元海将からいただいたときに、ふと思い出したのは、
江口夜詩作曲「艦隊勤務」について書かれた項で、谷川氏が、江口氏の息子、
やはり戦後作曲家だった江口浩司にインタビューされたという記述でした。

これは、江口浩司氏と兵学校76期の同期で、戦後も仲が良かったという
あの海軍中将の息子、Sさんを連れて行くしかない!

そこで、昨年12月に家で倒れて足元が覚束ないとおっしゃるSさんを
家の前まで車で迎えに行き、会場までお連れしたのでした。

うかがうと、Sさんは水交会の読み物に谷川氏が連載していたのを読んでいて、
その名前も知っており、それどころか江口夜詩のイベント関係で会ったこともある、
とおっしゃるではありませんか。

その偶然に驚きつつロビーで谷川氏とお会いし、ご挨拶させていただいたのですが、
その際、谷川氏がわたしにご著書を進呈してくださいました。
わたしが既に持っていた本は、Sさんに差し上げることになり、
Sさんは早速その夜から楽しんでお読みになっているようです。


ところでわたしがもう一つ驚いたのは、谷川氏がわたしにご本を渡しながら

「こちらはエリス中尉に」

とおっしゃったことでした。

・・・・・なぜその名前を知っている。

「ロナルド・レーガン」の見学の後の懇親会でスピーチしたところ、
その内容から「わたし=エリス中尉」だとわかった方がなんと同じテーブルにいて、
大変ショックを受けた直後だっただけに、それほど驚いたわけではないですが、
拙ブログの「海のさきもり」の作詞者について書いたエントリにも
谷川氏は目を通してくださっていたようなのです。

それだけではありません。

次に紹介を受けたのは、横須賀地方総監の「中の偉い人」でした。
世間話のつもりで「先日ロナルドレーガンを見学しまして」といったところ、

「ある防衛団体の見学で、参加費1万円だった、と・・・」(・∀・)ニヤニヤ

と、どこかで書いた覚えのある返答を返され、赤面しました。

・・・その日の朝6時にアップされたブログ記事の内容をどうして知っている。



ちなみにこの「偉い人」には、この日のエントリで挙げたこの写真が、
日米で「上下がカウンターパートという並べ方になっている」らしいという、
大変貴重な情報を教えていただきました。

例えば一番左から:第7艦隊司令vs.自衛艦隊司令、
在日米軍司令官vs.横須賀地方総監、
第5空母打撃群司令vs.護衛艦隊司令、一番右は潜水艦隊司令。

第7艦隊が横須賀地方総監のカウンターパートじゃないというのに驚きました。



・・という、まったくコンサートとは関係のない話になりましたが、
もう一人、この日紹介していただいたある意味超有名な自衛官がいます。

【海上自衛隊が】宇宙戦艦ヤマト【歌ってた】


別エントリで同じような体型の自衛官と見分けられず「同型艦か?」
などと弄ってしまった、東京音楽隊の歌手・・・じゃなくてホルン奏者、
川上亮司1等海曹その人でした。

実は、東京音楽隊のコンサートでプロコフィエフのピアノ協奏曲をやったとき、
この曲を吹奏楽用に編曲したのがこの「ヤマト歌い」の川上1曹だったのです。
クレジットを見て大いに驚いたわたしは、そのことをここで書いたのですが、
どうも川上1曹はそれを読んでくださっていたようです。

「ああいう編曲はどこで勉強されたのですか」

いい機会だと思って聞いてみました。
自衛隊音楽隊の隊員は、必ずしも音楽大学を卒業していません。
横須賀音楽隊の体調である樋口好雄3佐は、一般大学から入隊して、
護衛艦「あやなみ」勤務の後、翌年打楽器奏者として東京音楽隊に配属されていますし、
前半の指揮をした副隊長の森田信行2尉も、樋口隊長とまったく同じで、
厚木航空基地隊勤務ののち、打楽器奏者として横須賀音楽隊に入隊しました。

入隊して実地で仕事をしながら、「国内留学」をして指揮法や自分の楽器を
学び、それを音楽隊に活かすというのが通例であるのですが、
編曲などは川上1曹によると、先輩に学びながら行うことが多いそうで、
わたしはまたしてもこれに驚いてしまいました。

もちろんブラスバンド奏者ならではの経験値がいくらあったとしても、
誰にでもできることではないと思いますが。

ところで、せっかくYouTubeの人気者を目の前にしているので、
こんなことも聞いてみました。

「ヤマトで有名になって街で声かけられたりしませんか」

「いや、全然(笑)」

「それは制服を着ていないから・・・?」

「いえ、この間も制服を着て立っていましたが誰も声かけてくれませんでした」

「YouTube的には全国で有名人だと思うんですけどねえ」

「まったくそんなことないですよ。明日もどこそこで歌うんですけど」

わたしなど、ホールに入る前にその姿をお見かけして、すぐに気付いたのに。


さて、というところであまりにも充実した休憩時間が終わり(笑)
後半のプログラムが始まりました。

「フライト」


クロード・トーマス・スミスの名前を知っているかどうかは、
あなたが吹奏楽経験者あるいは関係者かどうかでもあります。

吹奏楽コンクールの課題曲にも度々取り上げられるスミスの曲は、
アメリカ軍の委嘱作品が多いということもあって、このような
スマートで勇壮なマーチが多いのが特色です。

この「フライト」は、聴いていると最初にパッヘルベルの「カノン」が登場し、
盛り沢山なうえ、大変軽やかで楽しいマーチ。
アメリカ航空宇宙博物館の公式マーチに指定されています。 

スミスは自分自身が朝鮮戦争の時の軍楽隊隊員だったこともあってか、
Air Force、Marine、Navy、Army Field(野戦陸軍)の軍楽隊から
作曲を委嘱されており、これらは技術的に高度な作品が多いといわれます。

この日のプログラムは「フライト」のあと、

「モレスカ:シンフォニックパントマイム」

という1分少しの短い(けれど難しい)曲が演奏されました。
そして、「グリーンスリーブス」。

良い演奏が見つからず、YouTubeを貼ることができませんでしたが、
スミスのアレンジによるこの曲は素晴らしいです。

実はこのクライマックスでわたしはマジ泣きしてしまいました。
次の日には日フィルのマーラーの5番、第2楽章で泣いてしまったので、
(4楽章でなく)わたしがただ変なテンションにあっただけという説もありますが、
それを抜きにしてもこの選曲と、横須賀音楽隊の演奏は良かったです。

Sさんはここで何度かお話ししているように、音楽に詳しい方で、
またそれだけに厳しい耳を持っていますし、東大出のせいか結構権威主義で、
わたしが演奏会開始前に、

「東京音楽隊が防衛省隷下の音楽隊で、横須賀音楽隊は呉や舞鶴のように
各地方隊が直轄する音楽隊なんです」

というと、(隣のご婦人が『佐世保と大湊も』と即座に付け加えたので
やっぱり周りの人は全員関係者であることを確認しました)、
なんとなく、なあんだ、という雰囲気だったので、わたしは内心
今に見ているがいい!(ってあんた何者だよ)と思っていたのですが、
やはり横須賀音楽隊、やってくれました。

Dance Folatre - Claude T.Smith


超絶技巧の難曲として有名な「華麗なる舞曲」に挑戦です。
もともとこの曲はアメリカ吹奏楽界において最高の実力を誇り、
各セクションに名手を揃えていたことで有名なアメリカ空軍軍楽隊に
挑戦するような形で作曲されたため、技術的に難しいとされます。

特に「試されるホルン」というくらい、ホルン奏者にとって大変な曲で、
川上1曹もこれを御目当てにに来たのかな、とふと思ったりしました。

YouTubeでこの曲を検索すると「世界最速!」とかいうのが出てきますが、
それこそ速ければいいってもんじゃなかろう、と、
その旋律が崩壊した速いだけの演奏を聴くと思ったりします。

その点、当夜の演奏のテンポは速すぎず遅すぎず、観客の耳が
ホールの響きを通して音楽の形を認識するのにちょうどいいものでした。
アスレチックな構成も余裕で御して、パーカッシブながら旋律も埋没していません。

打楽器出身である指揮者の動きにもなかなか魅せるものがあり、特に
細かいパッセージに連動する指示のフィジカルなパフォーマンスは
見ている方もついエキサイトしてしまうくらい、かっこ良かったです。

「地方隊だというからセミプロみたいなものかと思ったが・・・
いや、なかなか立派なものですね」

と、いつもは手厳しいSさんにしては最大の賛辞はいりましたー。
そして、アンコールには、中川麻梨子士長が登場。

砂山の砂に腹ばい 初恋のいたみを 遠くおもひ出づる日

初恋のいたみを 遠く遠く ああおもひ出づる日

砂山の砂に 砂に腹ばい 初恋のいたみを 遠くおもひ出づる日


石川啄木の詩に越谷達之助が曲をつけた「初恋」。
彼女の清らかな歌声が消えたあと、その代わりにホールには
満場の観客が発したほうっというため息のような空気が満たされました。

「最後のアンコール曲、良かったですね」

わたしが帰りの車でSさんに言うと、

「うん・・・でも、軍艦行進曲は余計だったな」

と思わずorzになってしまうようなことを・・・・。

自分が元海軍軍人で同期会には必ず訪れ、水交会のメンバーで、
わたしにはこの日も、父上の海軍中将が「球磨」の艦長だったときに
上海にあった伊勢神宮の御廃材で作った社を「球磨」で運ばせて
庭に置いていた(昔の艦長って結構やりたい放題?)などと、
海軍の話ばかりしていたのに・・・・・・・・これですよ。

言っちゃなんですが、戦後リベラルを拗らせた、この点だけは89歳児のSさんです。

わたしは、海上自衛隊の音楽隊は、いかなるときもその演奏の最後に
「軍艦」を演奏するのを絶対的な慣例としているのです、と、
確かこの件に関しては二回目となる説明をせざるを得ませんでした。



というわけで、この日の横須賀音楽隊の演奏会。
吹奏楽の技量の限界に取り組む、決して専守防衛ではない攻めの姿勢と、
専属歌手の歌声にすっかり満たされて帰途に着いたわたしです。

出席を手配くださった方、この日会場でご挨拶させていただいた方、
そしてご招待くださった横須賀音楽隊の皆様に心より御礼を申し上げます。


 

艦橋(PILOTHOUSE)〜空母「ロナルド・レーガン」見学

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「ロナルド・レーガン」の艦橋てっぺんから海面までの高さは、
なんとビル20階分あるそうです。
前回甲板までを「ビルの5階」と書いてしまったのですが、
それならば少なくとも8階分はあることになりそうですね。

しかし、それほど高く見えないのは、とにかく甲板が広いからです。

武器としての原子力空母が恐ろしいのは、この巨大なものを動かす動力が
原子力であるため、「給油」は要らず、一旦港を出たら
理論上は20年間、海上を航行し続けることができるということです。


我が日本で、原発をなくせやれなくせそれなくせと騒ぐ人は(例:宮崎駿、坂本龍一)
それなりに「ひとりの地球市民として」思うところがあるのでしょうが、
その団体の後ろにどうして日本人でない「もの」がくっついてくるのかについては、
明らかにその正体が日本から力を削ぎたい「敵」だからだとわたしは思っています。

原子力は国の「力」であるからです。
たとえば原子力によって給油が全く要らない戦闘艦。
これが敵にとってどれだけ恐ろしいものであるか。

「ちょっと待て、先代のジョージ・ワシントンが接岸中給油をしているのを見たぞ」

とおっしゃる方、あなたの見たのは決して間違いではありません。
原子力空母も給油をします。
ただしそれは、船のためでなく、艦載機のための油です。
あたりまえのことだけど、今回改めてそれを知り、軽くショックを受けたわたしです。

ちなみにこの1140万リットルの油、(プリウスなら地球を4200周走れる量)
空母のあちこちの貯蔵場所にパイプで送られますが、このバランスが悪いと
船が傾いてしまうことになるので、それを制御する専門の部署まであります。



階段を何回も折り返してたどり着いたのがここ。
アイランドのどこかと言いますと・・・・、



調べたところ、三重塔は下から

プリフライ(プライマリー・フライトコントロール)

航海艦橋

空母打撃群の司令官部用のフラッグブリッジ

という順番に積み上がっています。(丸いブースは何かわからず)
ということは、我々は上から2番目の航海艦橋に上がってきたようです。

ちなみに、このプリフライは、例のエアボスとミニボスが勤務する所で、
航空作業が行われている時には甲板にいる450名もの乗員を
管制し統制する役目を担っています。

この際、一人一人の作業は非常に単純なものですが、それが450名となると、
各自動きが網の目のように組み合わさって、淀みない一つの目的、
ーこれは空母という戦闘艦の存在意義でもありますが、

「航空機を離艦させ、着艦させる」

という任務が初めて果たせるのです。

今回ちゃんと甲板が見られなかった分ここで話しておくと、
新型空母が出るたびに同型艦であっても大幅に仕様を変えることがあり、
たとえばRRの着艦フックは通常3本のところ2本しかないそうです。

2本でも十分、という意味なのだと思いますが、着艦するパイロットも
甲板はほとんど見ておらず、彼らは目の前のスクリーンに出てくる図形を、
停止線に合わせることだけに集中しているからあまり関係ないのだとか。


この時の乗員の説明によれば、やはり空から見る空母はこれだけ大きくても
まるでハガキのように小さく見えるそうです。

パイロットも実際の着艦はスクリーンで行うシミュレータや陸上での練習とは
全く違う緊張を強いられるものだそうですが、着艦前にタッチアンドゴーを行うなど
訓練方法の発達やなんといっても軍事技術の革新により、
空母の着艦事故率はいまや地上におけるそれと同じにまでなりました。

この日はもちろんのこと1機も見ることはできませんでしたが、
RRの艦載機は、F/A-18スーパーホーネット各種が44機、E-2Cホークアイが4機、
C-2Aグレイハウンドが2機、あとはSH-60などのヘリコプター。
全部で計85機となります。 




艦橋は艦首側から見ると、左舷側に大きく張り出した形になっています。
着岸のときに下に障害物なく、状況を確認することができます。
部屋全体は鍵字の型をしており、この椅子はその左舷側角にあります。

「ロナルド・レーガン」がまだ就役したばかりの写真で、
初代艦長がこの椅子に座っている写真を見たことがありますが、
その背もたれには「NRGN」と書かれていました。 
この椅子にはないようですが、なんの略語かはわかりません。 



「ホーネット」や「イントレピッド」との違いはその広さです。
全てに余裕があるだけでなく、RRの艦橋には遠い将来を見越して「予備のスペース」
まであるというから驚きます。
技術が進んでどんな設備が将来必要になっても、そのための場所は確保してあるんですね。

ところで原子力空母の寿命って、みなさんご存知でした?
なんと50年なんですよ。
この船が生まれたときに同時に生まれた人が、セイラーになって、
海軍を辞める頃まで現役であるということです。

まだ一隻も退役していないので、寿命のきた空母がどのように廃棄されるのか、
そのときは見ものというか大変興味深いですね。



シグナルボックスや電話など、通信関係のパネル。アラームもここです。
電話が見えていますが、艦全体の電話は1400台あるそうです。



電源が消えているのでなんだか全くわかりません。
画面の前にはコンピュータと全く同じキーボードがあるので、
これがコンピュータであることは間違いありません(小並感)



画面の電気は消してあり、チャートは裏返してありました。
ちなみにデスクの上の飲みかけのコーヒーは「世界一のバリスタ」です(笑)



単なる通路ですが、ここも船の中とは思えないくらい広さがあります。
炎の写真が貼ってあるので何かと思ったら、「燃えるゴミ」
つまり、奥の円筒形のゴミ箱のゴミを放り込むダストシュートみたいですね。
ゴミを持って階段を降りるなんて、アメリカ人がするとは思えません。

その奥にコーヒーメーカー(ポット2つ分)と、カップ置場があります。
金庫のようなものがありますが、これ冷蔵庫かも。

RRのなかにはゴミの処理専門の部署があって、ここでは燃えるゴミをパルプ状に溶かして
海に廃棄したり(日本ではそれだめだと思うけど)、プラスチックをプレスして
ディスク状にして貯めておき、上陸した時に処理をする専門職がいます。



これが鍵の字の角の部分。



この端っこにやたら充実した施設のコーナーと椅子がありますが、
この椅子の向こうの窓から接岸を監視することができるようになっています。



もうひとつあった、偉い人用椅子。
フラッグブリッジでこの椅子に座っていた艦長は、どこかに足を上げてかけていましたが、
本当にアメリカ人ってこういうところお行儀が悪いなあと思います。
嫌いじゃないですけどね(笑)

 

窓枠にある「PELORUS」とは方位儀のことです。
2003年、すなわちRRが就役する時に設定したということのようです。



そのジャイロには、護衛艦にあるような三角の上に立ってるものがないのですが、
(なんのこと言ってるかわかりますよね?)
あの仕様はアメリカ海軍では使わないタイプなんでしょうか。

上に乗せられた黄色い札には「エラー日時」などを書き込む欄があります。




窓ふきする前に読まなければならない注意。
窓ガラスにはプラスチックのコーティングがしてあるので、強アルカリ洗剤でなく
マイルドソープで洗って柔らかい布で拭いてください、ということと、
ご丁寧にも「使っていい洗剤」「だめな洗剤」の名前が書かれています。

「トップジョブ」「ミスタークリーン」はよくて、
「コメット」や「アジャックス」の研磨剤入りはだめだそうです。

この最後に「pilothouse」と書いてありますが、これは「操舵室」を意味します。 



XJAIとかX8Jとかのダイヤルは、周波数かなんか?


メインの電源盤がここにありました。
中央下のつまみがメインスイッチで、

PORT SIDE(左舷) STBD SIDE (右舷)
AFT (艦尾) STERN(艦首)FWD(前方)

という場所ごとにスイッチがあります。
左舷のつまみがなくなっているのはなぜ?
現在は電源は完璧にオフの状態になっています。



おそらくですが、艦橋のてっぺんからニョキニョキと突き出していた
各所を照らすライトのスイッチであろうと思われます。
箱型のスイッチボックスには「左舷」「艦橋頂上と右舷」などと書かれています。



警報のためのスイッチでした。
状況によってサイレンの音が変わるので、それが
パネルの右上に図解で説明してあります。
たとえば、ノーマルな場合の警報は、

WAIL(長く甲高いサイレン音)、上部のランプ点滅、下部ランプオフ

警報解除の場合

WAIL、上部ランプオフ、下部ランプ点滅

ランプとは、画面の赤い部分で、上下別々に点灯します。

案内の乗員がここでまたクイズを出しました。

「この部屋で働く乗組員の平均年齢は何歳だと思いますか?」

20歳とか22歳、と先ほどの例もあるので何人かが低めの年齢を答えたところ、
驚くことに正解は「19歳」。
19歳ってあなた、高校卒業したばかりじゃないですか。

「彼らは操舵を言われた通りに行います。
言われた通りのことをするのは19歳であってもできます。
船をどんな速度でどう動かすのかは、艦長始め幹部が意思決定するので、
彼らは何も考えなくていいからです」

とはいえ、彼らにとってはこの巨大空母が自分の操舵によって
動かされているという事実はやりがいを感じるものなのでしょう。


3200名もの乗組員が、一人として無駄に動いていないのが空母ですが、
一人一人のしていることはごくごくシンプルで単純です。
だからこそ、軍の命令系統が滞りなく機能して全体を統括することが必要となるのですし、
なんといってもシンプルであることが結果として安全にもつながっているといえます。


続く。


 

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