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捕虜と負傷者〜平成28年陸自降下訓練始め

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3種類の航空機からの何次にもわたる空挺降下が続いています。
高高度からの自由降下が終わった後、もう一度C-1からの降下が行われたのですが、



隊員のシルエットが今までと違い、大きな荷物を腹に抱えるようにしています。



そして傘が開くと、大変目立つ赤いクッションのようなものを皆が持っています。
遠くから視認させるためで、これを見て彼らの持っている武器などを受け取るために
下で待機していた部隊が落下地点までくるのだと思いますが、確かではありません。 



アナウンスではそのことも説明していた記憶がありますが、肝心の部分を聞き逃しました。orz

続いてC-130Hからの降下。こちらもシルエットから荷が大きいのがわかります。



おなか側に持っていた荷物を、地上に降りて傘を回収したあとは
背中に背負って移動です。



どこからともなく草の陰に潜んでいた部隊が現れました。



これはまた念入りな偽装で・・・・・。
朝からせっせと葉っぱをむしって自分のヘルメットや背嚢に付ける、
いかついお兄さんたちを想像するとかなり和みます。



葉っぱの偽装だけでなく、ちゃんと迷彩メイクも入念に行っており、
草むらに伏せればほとんど視認できないと思われます。

メイクは旧カネボウの「クラシエ」ブランド製で、大変ノリがいいそうです。
品質が良く、お化粧落としがスムーズなのも隊員のお肌への優しい配慮です。 


しかしこうしてみると人によって化粧の濃さに差がありますね。 



衛生班発見!
ガタイの良すぎるサングラスと目つきのやたら鋭いメディックです。



一番左の人が持っているタイヤのホイールのような円盤はなんだと思います?
これは、彼らの携えている81mm迫撃砲L16を運用するとき、砲身下部を固定させ、
台にして使うための底板です。
右手に持っているのも同迫撃砲の支持架です。




その間も航空機からは10人単位で降下が続いています。



荷物が重いほうが態勢を保ちにくいのか、傘が開く寸前、上下逆さまになる人がい多いです。



偽装軍団は地面に武器を組み立てて、ここからの攻撃用意。
手前の隊員の偽装の葉っぱだけが切りそろえたように短いですが、この偽装、
個性が出るし、人によって上手い下手もあるのだそうです。



手前の二人は目と目で合図しあって一緒に敵陣に向かって走り出しました。
少数単位で少しずつ前に移動して行っています。



手前の隊員はアップにしてみると何か叫んでいるように見えるのですが、
まさかこんなときにも射撃しているという設定のときは「バーン!」って言ってるのかな。



前進のために態勢を起こして背嚢を地面に落とす瞬間。



伏せたまま敵の方向を狙う一団から、二人が抜け出ました。



先頭の人が「こっちに来い」と合図をして二人で走っていきます。



後ろ側を回って敵地に飛び込もうと言うのでしょうか。
走っていったところがちょうど報道陣のカメラの放列の前というのが。
前を通るときに、どこかに掲載されるかどうかは別として、彼ら二人は
散々写真に撮られたに違いありません。



C-130Hもまだ降下を行っています。
今までで既に100人単位の降下が行われています。



地面に伏せていた小隊が一斉に草むらから身を起こし、立ち上がりました。



一斉に前進を始め、また少し的に近づきます。
手前の隊員が守っている武器は「01式対戦車誘導弾」でしょうか。
赤外線画像誘導方式による誘導弾で「マルヒト」とか「ラット」とか呼ばれています。



左側の降下中の隊員が左肩に担いでいるのは銃の模様。



先ほど敵陣に突っ込んでいった二人が、捕虜を従えて陣地に戻ってきました。
この敵軍兵は気のせいかパイロット用のスーツを着ているように見えます。



じわじわと前進して匍匐する小隊。
フェンスの手前では先ほど赤いものを付けて降下した部隊が傘をたたんでおり、
向こう側から付近住民がそれを見学している様子が見えます。
このフェンスの向こうは、見るだけなら案外特等席だったりするのよね。



なぜか転がりつつ移動する右端の人に、左の二人『?』



そこに負傷者が運ばれてきました。
どうも捕虜役も負傷者役も別の部隊から借りてきたらしく、遠目でも
空挺団ぽくないというか、なんとなくおじさんぽいというか・・・・。



ね?言っちゃなんだけど、明らかに周りとは体型が違いませんか?
一番右の人が負傷者の銃をかわりに持ってあげており、手前の立膝は
メディックで、応急手当の準備を始めています。



偽装が盛り盛りでいったい何人いるのかもわかりませんが(笑)
皆で寄ってたかって負傷者の面倒を見ているの図。 



メイクのせいで皆藤岡弘みたいな濃い顔に見えます。



こちらは傷の手当終了?
負傷者は意識を喪失しているらしく、気持ちよさそうに目を閉じています。

メディック「(ここぞと仮眠取ってんじゃねーよおっさん)」

それにしても、どうせなら頭を高い方にして寝かせてあげて欲しい。
長距離寝台特急で、窓側が頭だと足の方が高くて一睡もできないわたしが言う。



方やこちらは召し取った捕虜を地面に転がして置いている二人。
後ろ手に縛ったのでうつ伏せにさせるのは当然ですが、こちらも頭が低くて辛そう。



ひとかたまりになって、全員が全く違う方向を見張っています。



捕虜役の人、こちらも寝ているかも。
向こうの人は捕虜を奪還に来るかもしれない敵を見張っています。



少し目を離した隙に負傷者はストレッチャーにのせられていました。
もしかしたら、戦場用の組み立て式担架を衛生班は携帯しているのでしょうか。



ストレッチャーの足元に負傷した隊員の背嚢を置き、銃もちゃんと固定して、
足を背嚢の上に乗せるようにして固定し、負傷者の手袋を外して、
隊員のIDを記録した認識票か、あるいは負傷レベルを書いた紙を腕に巻きます。



小山の上に風向を見るための吹き流しにしか見えない敵国旗があげられ、
その下では二人が陣地を死守する中、敵軍からの攻撃が続きます。



これも対戦車誘導弾(こちら向き)でしょうか。

歩兵がじわじわと前に進むうち、我が軍からは航空機による掩護が本格的に始まり、
押され気味だった戦況を逆転させるべく戦闘行為を行います。

どうなる自衛隊?そして負傷者と敵の捕虜の運命やいかに?!


続く。

 

 


 


ヘリボーン〜平成28年陸自降下訓練始め

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ヘリボーンとはヘリコプターで敵地に部隊を派兵するという意味がありますが、
この語源は空挺作戦を意味する「エアボーン」からだそうです。
「borne」は「bear」からきた「運ぶ」という意味を包括する言葉と思われますが、
それに「ヘリ」をつけた造語というわけです。

エアボーンとの比較でいうと、気象条件によって部隊がバラバラになることもなく、
さらに重量に落下傘よりも制限がないため、準備が簡単であり、戦闘後は
再びヘリで移動することができるというようなメリットがある一方、
人員等を降ろす際にその場にヘリが止まらなくてはいけないという危険性、
対空砲火で狙われたら一挙に全員を喪失するなどという危険性があります。

作戦としてはどちらも適宜状況に応じて併用するという感じでしょうか。

逆にエアボーン作戦から見ても、空挺隊員は軽歩兵であるがゆえに
重装備の地上部隊と正面から戦闘するには甚だ不利となる、という理由から
やはり併用が望ましいということになります。

映画「遠すぎた橋」で描かれた「マーケットガーデン作戦」でも、
味方との合流に失敗したため、陸上の敵の反撃の前に敗北したというものでしたね。



さて、そんな縁起の悪い話はそこそこにして(笑)

一通り航空機による空挺隊員の降下が終わったところに、
「空飛ぶ戦車」ことアパッチ・ロングボウAH-64Dが侵入してきました。



アパッチが来ると盛り上がるのですが、この時は何もしませんでした。
状況を偵察に来てヘリボーンが可能かどうか報告するためではないかと思われます。



こういうときにはどのヘリも、とりあえず派手な動きを見せたがります。
アパッチくんも裏側を観客に見せつけるこれ見よがしの転回。
習志野の映像によると、このときのアパッチは例年特に暴れまわるようです。



続いて、もう一度ヒューイ、 UH-1Jが侵入してきました。
ハッチがどちらも解放されていますが・・・・。



ヘリ上から狙撃手が敵を攻撃しようとしております。

上官「だいたいあのへんを狙うのだ」

狙撃手「だいたいっすか?」

上官「空砲だから適当でいいんだよ」


しかし、今思ったんですが、これ、自衛隊員になりすましたゴルゴ13が
直前で本物と入れ替わって実弾を込めていたら、要人暗殺できますよね?



日頃は実弾訓練も行うんでしょうねえ。
使用しているのは狙撃銃だと思いますが、よくわかりませんでした。



航行中のヘリから狙撃するのは、相手が要人とかである場合難しいですが、
「だいたいあの辺」という目標ならばなんとかなりそうです。
ヘリの狙撃手は機上から3発射撃を行いました



フィールドにはカエルが駐機して口を開けています。



偵察のためのオートバイ部隊、「オート」がでてきました。
ギリースーツ着用でオートにも偽装が盛り盛りです。



せっかくなので一人アップ。
この人はギリースーツではありませんが、その代わり?ヘルメットに
まるでラスタなマーリーさんのドレッドロックスみたいな偽装を施してあります。

因みにこの鉄帽では、銃弾は防御できても、ヘルメットの規格を満たさないため、
このまま外に出たら、道交法違反でおまわりさんに捕まってしまいます(笑)

偽装の葉っぱは走行して抜け落ちることのないように、束にして黒いテープで
まとめてバイクの彼方此方に差し込んでいる模様。(拡大図による)



匍匐状態で膠着している前線(多分)まで情報を持って到達。
ちなみにオート隊員の訓練は、災害地で障害のある路面でも走行できるように、
ジャンプはもちろん、ウィリー走行やアクセルターンなどを習得します。 

両膝で車体を挟み、立ち上がって両手を離して射撃を行うなどという、
とんでもない離れ技もできるようにならなければいけないのだとか。 



バイクから降りるときもほとんど倒れ込むと同時。
隊員は戦場で車体を弾除けにするそうですが、オートの燃料はガソリンなので、
万が一弾が直撃したら、そのときは共に炎上する運命は避けられません。



前々回負傷してストレッチャーに固定されっぱなしの負傷者。
彼の手首につけられた認識票がご覧いただけますでしょうか。
救護のヘリが来るのを待つ間、どうも負傷者の状態が思わしくないようで、
心臓に耳を当てて様子を見ているようにも見えます。

「軍医殿・・・妻に・・伝言を・・・」
 
「傷は浅いぞ!しっかりせい!」 




方やこちら、ころがされっぱの捕虜とその見張り。



ふと気づくと、オート隊の偵察報告を待つヘリボーンのヘリが待機していました。



山の頂上の敵は、疲れたのか二人とも座って休憩しています(笑)



ヘリボーンの欠点として、車両の投入に物理上の制約がある、というものがありますが、
チヌークならこのように迫撃砲とそれを牽引する車両を一気に運ぶこともできます。
かつてこれで何度か車両を壊したという話もあるけど、訓練だからいいんだよ!



アパッチもその辺をうろうろ。
チヌークとのツーショットがなんかいい感じ。



そこに現れる陸自のもう一つの戦闘ヘリ、AH-1コブラ。
立ち位置的にはアパッチがコブラの後継として導入されたものです。



コブラは習志野のとき必ずと言っていいほどニコイチで現れ、
シンクロナイズドな駆動を見せてくれます。



アパッチのローターにコブラが止まっているの図(笑)



習志野は住宅街の真ん中なので、これら戦闘ヘリは銃撃の見せ場がなく、
その代わりに動きを派手にしているのではないかと思われます。

本来ならばここで戦闘ヘリ計3機が投入され、攻撃を行うはずなのですが・・。
せめてアパッチロングボウの先端のチェーンガンとハイドラ70ロケットガンをご覧ください。



そこにギリースーツの隊員を乗せたヒューイが飛来。



ドアは開けたまま、両側のハッチに二人ずつ腰掛けて、着地と同時に
走っていく構え。
この体勢でいるときには、座っている床に設置してある金具を体とつないで、
ヘリから振り落とされないようにしています。



もう1機のヒューイが、パイナップル偽装の隊員を輸送してきました。



せっかくなのでアップ。左側の隊員、楽しそうだ(笑)



わたしの見ているすぐ下に着地しようとしたのですが、ここでちょっとしたミス。



スキッドが地面に対して平行でなかったため、ヘリはスキッドの1部を地面に当て、
すぐにもう一度浮上しました。つまり、着陸に失敗です。

もう一度浮かび上がった衝撃で、隊員は思わず後ろにのけぞっています。



軽く小さな円を描いて着陸のやり直し。
何回か陸自の訓練を見てきましたが、こういうのは初めてでした。



ヘリを着地させる向きは決まっているらしく、もう一度宙を回って機首を敵陣に向けます。



安全金具はギリギリまで外さない模様。
ちなみに反対側のドアには人はいません。



自分の座っているところの後部にある膠着装置を外して用意。



着地と同時に立ち上がって・・・・・・、



同じドア(敵陣から見ると反対側)から全員が降り立ちます。



5人の1個小隊が乗っていた模様。



ヘリを敵からの盾のようにして降り、すぐさま敵陣に向けて射撃体勢を取ります。



彼らをここまで乗せてきたヘリはすぐさま離陸してその場を去っていきます。
着地から離陸までの時間は10秒もなかったでしょう。



自分たちが運んだ小隊を見送るヘリ搭乗員。

「戦闘が終わったら迎えに来るぞ。貴様ら全員生きてまた乗り込んでこい!」



そしてその場をすぐさま離脱。
地面にはもう1機のヒューイから降り立ったギリースーツの隊員が行動開始しております。



一旦銃撃体勢をとりつつ、彼ら5人は次の行動のために左手(敵陣から反対方向)に退場。
んー?皆さん、もしかしてこれで今日の仕事終わりですか?


続く。


ラペリングとファストロープ〜平成28年陸自降下訓練始め

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ヘリボーン、つまりヘリによって兵力が投入される様子が展開されています。



そこにもう一度ヒューイが狙撃手を乗せて飛来しました。
人員の投入の合間に、それを阻止する敵の攻撃を封じるためと思われます。
特に、この後行われるヘリからのラペリング降下を成功させるためでしょう。

何しろ戦場では、ヘリはホバリングするときが、一番狙撃・撃墜されやすいのです。



前回のヒューイからの狙撃を紹介したときになんとなく「上官と狙撃手」と書きましたが、
この様子を見ていると、アシストしている様子にも見えます。


ところで「狙撃」というのは「何か」を、つまり戦場では人を狙うことなのですが、
いくら訓練を受けていても、人間というのは「人間を殺す」ストレスには
とうていその精神は耐えられないようにできていて、特に顔の見える距離だと、
たとえ命令されたとしても、殺人につながる行動を本能的に避けるものなのだそうです。

だから、狙撃手の訓練というのは、とにかくその本能を磨耗させることに尽き、
優れたスナイパーになれるかどうかは、その本能に打ち勝てるかということだそうです。
大抵の人間は狙撃により人を殺傷した途端、「シェルショック」ともいう
戦争神経症を発して使い物にならなくなるという話もあります。

つまり映画「アメリカン・スナイパー」で描かれた史上最強の狙撃手、クリス・カイルは
その本能に打ち勝ち続けてきたゆえに、長年にわたって狙撃手として戦場にいられた、
という言い方もできるでしょう。

しかしその代償は彼のような特別の人間にも公平に訪れました。
彼がPTSDに苦しみ、それが彼自身を破滅に追いやる前に、
戦争による殺戮に耐えられなかった他の狙撃手の手によって殺害されたことは、
ごくごく自然の成り行きであったという気すらします。



重心の下に薬莢の袋がついています。



ヘリが向こうを向いたので、狙撃手の(銃撃手かな)横の隊員の手が
出てきたのが見えました。
何をするのかと思ったら・・・・・、



銃の弾倉というかマガジンというのかわかりませんが、そういう部分に
手を添えて何かを固定しているように見えます。



そのまま空砲発射。
発射の瞬間手を添える必要があったということでしょうか。



さて、ヒューイから銃撃を行って敵を牽制している間に、
120mm迫撃砲とそれを引っ張るセットの高機動車、「コウキ」、
(防衛省の押し付け愛称”疾風(はやて)”)を牽引してうろうろしていた
チヌークが、それを地面に降ろす作業に入りました。



迫撃砲と車をおろしているチヌークは体も大きいため、狙われやすく、
そのため、ヒューイからは何度か銃撃が行われます。



迫撃砲を引っ張る高機動車を「重迫牽引車」と言います。
このタイプに限り、後部座席の床に弾薬を固定する金具等が設置されているそうです。



迫撃砲が先に地面に着くと、車が前輪からゆっくり降ろされます。
このホバリング、簡単そうに見えて実は大変難しいものです。
なぜかというと、こうして静止している間、前に進むベクトルがないため
機体が風・揺れ・姿勢の変化などを打ち消し、本来の姿勢に戻ろうとする
本来の性質を保持できず、それだけ姿勢を崩すリスクが大きくなるのです。

この動作はホバリングというより牽引物の着地を確認しながらミリ単位で
機体をゆっくり垂直に下ろしていくため、さらに高度な技術を要するはずです。



地面にどちらもが無事着陸したのを確かめて、牽引していたロープが外されました。



しかるのち離脱。
一般にホバリングの状態から前に進むとき、ヘリは姿勢を崩すリスクが大きく、
このコントロールも難しいといいますが、この大胆な傾き方を見ると
わざとそのようにやって見せているようにしか思えません。

チヌークの離脱と同時に、先ほどヘリから降りてきた小隊が
向こうから近づいてきました。

ヘリから降りて今日の仕事は終わり?とか言ってすみません。<(_ _)>



牽引されていたロープを外し、迫撃砲をコウキに連結します。



とそのとき、2機のチヌークが侵入してきました。
どちらも、防御のために銃が窓から外を狙っています。
このチヌークから、ラペリング降下が行われるのです。



降り口となる後ろのハッチを拡大してみました。
ヘリはすでに少し後ろ下がりの姿勢を保持してホバリングに入っています。
緑の迷彩カラーの太いロープが降ろされようとしています。



こちらは一つのハッチから2条のロープが降ろされました。
降ろす作業をしているのはヘリ隊員ではなく、降下する部隊の隊員です。




下まで届いたのを確かめています。



もう一つのチヌークからはすでに降下が始まっています。
こちらは大変低い高度からの降下なので、おそらくですが
空挺団のみなさんにとっては目をつぶってもできそうな感じです。
いや、目を瞑るというより、空挺団なら飛び降りた方が早いっていうか。

そう、三階から普通に飛ぶ人たちならね。 



ここでちょっと注意して欲しいことがあります。
2機のチヌークから降ろされているそれぞれのロープの太さの違いです。
これは「ラペリング」と「ファストロープ」、2種類の垂直降下が行われているのです。


「FAST」は「早い」の綴りで、ファストロープすなわち「素早くロープで降りる」
から作られた言葉だと思われます。
ファストロープはこの写真で見ての通り、手足でロープを挟んで滑り降りる方法で、
激しい摩擦が起きるので手袋を装着しないとできない方法です。

空挺団なら飛び降りた方が早いような高さからこれを行っているのも、
長い距離だと摩擦で危険だからという理由によるものでしょう。
ファストロープは「強襲」とでもいうべき短時間突入の際選択されます。

しかし、こちらのヘリのように低い位置でホバリングできないような場所では
否応もなく長い距離をロープを伝って降りなくてはなりません。



そこで「ラペリング」という方法で降下が行われるわけです。
「ラペリング」"rapering"とは懸垂下降を意味します。
ファストロープとの違いは、安全器具を使うこと。
そのため、太いロープでなく細いロープ二本を使うことです。



ファストロープで降りている先ほどの隊員の写真と比べてみると明らかな違いは
足の位置で、足はロープを挟んでいません。
降下する隊員の体は腰の位置でロープにつながっているように見えます。



最初に降下した二人の隊員は、下でロープを固定してピンと張っています。



降下している両者をみると、ロープと連結されているらしい腰の位置を中心に、
その上側と下側を両手で保持しつつ降下して行っています。



ラペリングにおいては、腰にハーネスをつけ、それをカラビナ(安全環)に通し、
ロープから落下しないような安全策が取られています。
二本のロープのうち1本にカラビナを通し、ロープを二本まとめて握れば、
カラビナごと下まで落下することはありませんし、高いところから降下しても、
手が摩擦熱で焼かれることもありません。

こちらにはファストロープほどの技術はいらず、相応の筋力さえあれば
誰でも実行可能、ということですが、問題はその「相応」がどれくらいかですね(笑)



救難活動などでも、よほど時間がない場合を除き必ず安全環を用いて行います。
ファストロープの方法は、自分の手足だけで支え、速度を調節するので、
落下の危険があり、だからこそファストロープのヘリの高さは
「飛び降りた方が早い」距離から行うことになっているのだろうと思われます。



二人目の降下員が地上に到達しました。
それぞれ右側が後から降りてきた方ですが、何をしているかというと、
ロープとハーネスを繋いでいた安全環(カラビナ)を外しているのです。



降下した隊員がロープから離れると、上に向かって合図を送ります。



合図を確認したら次の隊員が降下。
この写真の隊員の腹部に光っているのが、カラビナだと思われます。



ロープが長いのでやはり下で押さえておかなくては危険なのでしょう。



3組目も無事降下完了。



すごいのはピタリと同じ高度にホバリングを続けているヘリの操縦者でしょう。
ヘリが少しでも動揺しては降下する者に不安を与え、第一危険です。



簡単に見えるが実は簡単に見せているだけだ。
という「ライジング・サン」のセリフが思い出されます。

ちなみに、ラペリングだと、カラビナとロープが絡んだ点の摩擦により
たとえ両手を離しても降りられるのですが、速度が出すぎるため、
右腰の右手でカラビナ以降のロープの引張力を調整し、ブレーキをかけます。



ちなみに、「リペリング」という言葉をよく見るのですが、
どういうわけか自衛隊が公式にラペリングを「リペリング」としているので、
そのように呼ぶ人もいるということです。

ラペリングをリペリングと呼ぶようになった経緯はわかりませんでしたが、
最初にやりだした偉い人が「リペリング」と思い込んでいて、
誰も訂正できないまま自衛隊だけがそう呼んでるんだったら少し悲しい・・。

ちなみにこのリペリング降下、レンジャー資格者にしか行うことを許されていないそうです。
やっぱり「誰でもできる」って嘘ですよね(笑)


続く。


「もふもふ」とエクストラクションロープ離脱〜平成28年陸自降下訓練始め

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垂直降下にはラペリングファストロープという2種類の方法があるということ。
ラペリング(自衛隊ではリペリング) を行うのはレンジャー資格者だけ。
 
降下訓練始め3回目にして初めて知ったわけですが、これに限らず、
さすがに3回目ともなると今まで見えていなかった細部に気づくことも多々あります。 
つまり、何事においても繰り返しと経験はそれなりの意味をもたらすわけで、
だからこそ、いつも同じようなことをやっていると思われる行事でも 
毎年参加する価値もある・・・・・ということを確認した今回の降下始め。

ラペリング以降は攻撃のクライマックスに向けて見せ場の連続です。



偽装網の下には、数人の小隊がいて、攻撃の指令を待っています。
ところでこの偽装網、カモフラージュネットという商品名で買えます(笑)

小売でこのくらいの大きさだと16,800円くらい、もっと小さいので
ネットだけだと千円台で手に入ります。
偽装網を何のために買うのか?というと「インテリア」だそうです。

このサイトでは偽装網に限らず、グレネードベストやガスマスク、薬莢など、
何に使うのか何のために買うのかわからないものがてんこ盛りです。

どうもアメリカ軍の兵士が要らなくなったグッズをこっそり売っている模様。
自衛隊員がこんなことしたら大変だ。



フィールドのあちこちでは盛り盛りに偽装を施した高機動車から
砲を下ろしたり、地面に銃を設置したりが始まっております。



ちなみにどこに人がいるのか赤丸で印をつけてみました。
拡大しないとまずわかりません。



車からトランクのようなツールボックスのようなものを外の人に渡しています。



3台の車が縦一列で移動。
この角度だとわかりにくいですが、迫撃砲を各々1挺ずつ引っ張っています。



敵陣に向けて車を駐め、迫撃砲の用意。



真ん中の隊員が抱えているのが偽装網。
迫撃砲の設置は4名で行うことが決まっている模様。



空中では、アパッチがここぞと暴れております。
地上で陣地構築や武器の設置を行っている間は、このようにして
敵からの攻撃を牽制しているという設定だろうと思われます。



これはわたしがカメラを傾けたわけではなく、本当にこういう角度で飛んでいたのです。
操縦者は後席に座っているそうですが、前席の射手は体が前にのめっていますね。

なんでもアパッチの操縦はヘリの中でも難しいらしく、普通ヘリの操縦ができても
さらに1年は訓練をしないとまともに操縦することができないのだとか。
さらに実戦配備にはたっぷり3年はかかるということなので、それこそ
パイロット養成には時間とお金が莫大にかかるというものなのだそうです。

お金がかかるのは養成費だけではなく、その特性に応じた特殊なヘルメットは
パイロット一人一人のために特別誂え。
このヘルメットのゴーグルの右目には計機の数字が映し出されており、
左目で外部を見ながら両手両足全く別の動きで操縦、という、
音楽でいうとまるでドラムのような作業が必要になるのです。
ドラムは下手でも失敗しても死にませんが(ミュージシャンとしては死ぬけど)
ヘリは失敗したら落ちますので、たいへんなんですよこれが。

実はヘリの操縦で一番酷使するのが視神経かもしれない。
右目と左目でいつも違ったものを見て、どちらも認識しないといけないのです。

私事ですが、わたくし今年になって急に(急に出るものらしいですが)飛蚊症になり、
それが「蚊」というレベルのものではなく、先生が「どっかで頭打ちました?」
と聞くくらいの、いわば”飛蝉症”サイズの視覚障害が右目にできております。

たった今も、意識すれば右目で蝉が飛んでいるので、鬱陶しいことこのうえなく、
普通は「治すより慣れろ」と言われるこの症状に対し、手術を勧められています。

片方の目に違うものが見えているだけでこんなにストレスなのに、右目に出てくる数字を
ずっと読みながら、さらに反対側の目で見えていることもちゃんと確認しないといけなくなったら、
とりあえずまず、慣れるより先に、頭痛とか視力低下が起こってくると思われます。

それをしながら自分と射手の命を乗せて飛ぶんだから、こりゃ大変だ。

この話はアメリカのアパッチロングボウのパイロットの話のようですが、
きっと自衛隊のパイロットも同じ事情だと思うんです。

それを考えると、この日見せたアパッチの暴れぶりにも感慨がひとしおではありませんか。



さて、一方その頃地上に降り立ったチヌークさん。



カエルの口から車が出てきました。

「実際見たら思ったより小さい」

というご報告もコメント欄でありましたが、こうしてみても
車が幅も高さもギリギリですよね。



こちらの車には偽装なし。
おそらく盛り盛りにしたらチヌークの中が草だらけになって
掃除が大変だからに違いありません。
降りるときに全部引っかかって落ちてしまいそうだし。



とおもったら、その横を、盛りすぎの車が!



これはまた思いっきりデコってますなー。
なんでもこの映像はその日のうちに世界中に配信されたとか。



このYouTubeの「もふもふ」は去年の映像だそうです。
観客が爆笑している音声が入っています。
確かに今年他はちょっと草の盛り方が違いますね。
原型は車なのでスピードは速いんですが、問題は前が見えているかってことなんだな。



この車は73式小型トラック。
多分この人が運転手に指示を与えているのだと思います。
運転操作はその指示だけを頼りにやってるってことですよね。
阿吽の呼吸というか行間を読む文化の日本ならではで、海外では案の定
「さすがニンジャの国」とか言われていたそうです。

この「もふもふ」、YouTubeでは「かえって目立つだろ」と言われていますが、
もちろん動かなければ、草むらにしか見えません。



この偽装、ある程度盛ってから運転手が乗り込み、あとは皆で
寄ってたかって彼の周りに積み上げたのだと思う。
んでもって、結構みんな楽しんだんじゃないかな。

見張り「あああー、それ以上盛ると前が見えませーん!」

「隙間から見えるだろ?まだ大丈夫だってw」

「走ったら少し取れるから、多めにつけとかないとなー」

「そうだ。毎年わが隊の偽装車はいまや世界中に有名になっている。
多少見えないくらいは根性でなんとかせい!」




フィールドの一番向こうにはFH70榴弾砲がセットされています。
迫撃砲と間違えてしまったけど、確かにこれはヘリでは運べそうにない(; ̄ー ̄A 



お次にやってきたのはまたしてもヒューイ、UH-1。

機体横に何かつけておりますが、これは、87式地雷散布装置。
日本は地雷を使えない国際法を批准したんじゃなかったか、と思われた方、ご安心ください。
法律にはちゃんと抜け穴があって、日本が批准した条約は「対人地雷を使用しない」
というものであり、戦車や車が対象であれば普通に地雷を撒いても普通にオーケーなのです。

もちろん戦車には人が乗っているわけで、戦車が踏めば人も多分死ぬわけですが、
それはかまわないって、相変わらず国際条約もなんだかなーって気がしますけど。



後ろから見ると、地雷散布装置がどう装着されているかよくわかりますね。
地雷散布装置を装着できるのはUH-1Hの特色。
今から敵陣地の手前に地雷原を構成しようというつもりです。



そして地雷が撒かれ・・・・・ん?



なんか形が不揃いな金属が・・。



廃棄処分にするパソコンの部品とかチューブとか、つまりゴミ?

本来ならば一つのケースの中に対戦車地雷18個が収められているそうです。
地雷の筒状のケースに入れられており、ケース横から入れて、下から落とします。



というわけで、この度は地雷でなく盛大にゴミを撒き散らかして行ってしまいました。
あとでちゃんと片付けておいてねー。



この赤い煙は、「ここに地雷撒いた」という印だと思われ。



このあたりの兵力はずっと膠着状態で前線は動きません。



そこにチヌークが狙撃兵をまとめてけん引してきました。
これが本日タイトルの「エクストラクションロープでの離脱」です。

ヘリから吊り下げるロープのことをエクストラクションロープといい、
つまり一般名称ではあるのですが、自衛隊においてはこのように
兵員を吊って運用するときに限りこの名称を使用するようです。



実際に見ていたら3人かと思いましたが、写真で確認すると4人でした。
数が多いほどお互いの体が重みになって態勢が安定するんですね。
これが一人や二人だったら、ロープがねじれてしまって狙撃どころではないでしょう。
それに、4人だととりあえず全方向に見張りが行き届きます。

ただし、これで敵陣上空付近を移動するのは相当怖いと思われます。



それに、チヌークの動きによってはかなり振り回されるのは必至。
いずれにしてもこれはあくまでも「兵員移動」であって、攻撃ではありません。

たとえばラペリングやファストロープなどでフィールドに降下した隊員が
爆破などのミッションを行った後、緊急にその場を離脱するときくらいしか
需要があるとは思えませんが、なにしろこれをすると会場が湧くので、
降下始めなど陸自の訓練展示では必ず行われます。
 

 続く。 

 

戦車部隊登場〜平成28年陸自降下訓練始め

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敵地に突入し爆破工作を仕掛けた(という設定の)隊員を、4人まとめて
エクストラクション・ロープで牽引し、無事連れ帰ることができました。
そのとき、上空に・・・・、

後送する負傷者を乗せるため、赤十字をつけたヒューイがきました。



ストレッチャーに乗せた負傷者、そして捕虜も一緒に運ぶようです。
後送という言葉は「戦場で前線から送り返すこと」という意味です。
大抵は重症で自分で歩けない兵であり、このため実は戦争という状況において、
戦死されるより”厄介”なのがこの後送任務と言われています。

一人の重傷者のために何人かの兵力と航空機がそれにかかずらうことになり、
航空機の操縦者を入れると負傷者一人に対し莫大な兵力が殺がれることになります。

そのため撤退時には非公式な命令ながら、戦線に取り残されて自決を促されたり、
日本軍以外では投降を許可されたりすることも多々ありました(ます?)。



どこからか負傷者がもう一名運ばれてきました。
こちらは軽症ながら歩けないようです。



後手に縛られた捕虜は、ヘリコプターに乗るようにおらおらと追いやられ中。
捕虜の後送にも人手は取られます。
この捕虜も一人に対して見張りは二人ですし、人数が増えれば必要な見張りも増えます。
負傷者の後送以上に”厄介”なのが捕虜の後送かもしれません。

相手が将官や士官だったり、情報を聞き出すという目的がなければ、
ジュネーブ条約、なにそれおいしいの?
とばかりにこっそり処刑してしまったとしても、実際に戦時中では無理もないというか。
大東亜戦争でも現実にそういう捕虜の処刑は、彼我双方で多々起こっていますし、
最近では批准しないばかりか捕虜の処刑を世界に発信するという鬼畜国もあったりします。

当たり前ですが、綺麗な戦争なんてありません。
どっちの方が国際法に誠実だったとか、どっちがひどかったとか、
そんなことを戦争が終わってから言い合うのは、まったく愚かなことです。

そして、大概の場合、それが罪として裁かれるのは敗戦した国に対してだけです。

ちなみに大東亜戦争中の日本のジュネーブ条約に対する見解は、

帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し
外国軍人の観念においては必しも然らず
従て本条約は形式は相互的なるも実質上は我方のみ義務を負う片務的なものなり

つまり、条約だから相手捕虜に対しては守るけど、実質うちらは捕虜になることを
「生きて虜囚の辱めにあわず」として許していないから関係ねえ、と言い切っております。



ヘリには先に軽症患者を乗せるようです。



それからストレッチャーに乗せられた重傷者。
積込作業の間、ずっと一人がヘリの前で銃を構えて見張りを行います。



ヘリにはストレッチャーごと入れられ、そのまま運ばれるようです。
しかし、実際の戦闘でこんなに負傷者が少ないなんてありえないわけで・・・。



積込が完了したので彼らは戦闘に戻っていきます。



偽装網で覆った120mmRT迫撃砲を並べていた小隊が砲撃準備を始めました。
RTとは「Rayé Tracté Modèle」のこと。珍しくフランス製の武器なんですね。
トムソン・ブラーントというあまりフランスの会社らしくない名前の会社の製品ですが、
陸自のは豊和工業という日本の会社のライセンス生産です。


よせばいいのに、防衛省ではこの武器を導入するとき愛称を一般公募して、
「ヘヴィハンマー」という名称に決めたそうですが、

他の装備と同様に愛称は部隊内では使われず(Wikipedia)(T_T)

部隊での通称は「120迫」(ひゃくにじゅっぱく)だそうです。




ところであれ?砲口を手で包み込むように持っているんですが・・。
これは一体何の動作?



それはこの動画を見ていただければわかります。
弾薬は砲口から入れるのですが、砲身の先に立つ人は、弾薬を支え持ち、
手を離すと同時に、弾薬は下に落ちて発射されるというわけです。

つまりこの写真は弾薬を砲口から落とし込み、耳を押さえながら屈み込む寸前です。



砲撃の次の瞬間、砲身の前に立つ人はすぐに立ち上がります。
しかしこの作業、むちゃくちゃ危険じゃないか?
ぼーっとしてかがむのが遅かったり、早く立ち上がったら、
もしかしたら大変なことになるのでは・・・。



2射目。こちらは射撃の直後で皆座り込んだ瞬間です。
しかし、瞬間は耳を抑えるとはいえ、かなり難聴になりやすそうな職場だなあ。



さて、その頃空には「空飛ぶ戦車」アパッチが飛び回っていましたが、



地上には空飛ばない戦車がここに至って初めて登場しました。
2年前、ここ習志野では初めて登場したばかりの10式戦車です。
90式ほどごつごつしてなく、かといって74式ほど丸くもない、絶妙のシェイプ。



ここでお目見えした2013年の1月初頭当時、まだ配備数は39台でしたが、
この降下始めの時点でそれから37台増え、ほぼ倍になっています。
とはいえ、すでに生産数のペースはピークを越えたようで、
平成30年までの間に、あと21台しか生産されることはありません。

このヒトマルは、砲塔のマークを調べたところ、
第1師団の第1戦車大隊の第1中隊(全部1だけどこれはたまたま)の所属で、
ということは、北富士駐屯地(山中湖の近く)から来ていることになります。

どうやって来たんだろう。まさか一般道を走行?

このマークですが、HPによると

ケンタウルスは、ギリシャ神話に登場している伝説の生物で、
上半身が人間で下半身が馬という半獣半人であり、
そのケンタウルスに槍と盾を装備させた事により、戦車と乗員の人馬一体と、
戦車の『火力・機動力・防御力』を表現しています。
また、背景は、第1戦車大隊の『1』と、日本の象徴『富士山』を表し、
その白い色は、隊員たちの国防に対する「誠実さ・真摯な心」を表現しています。

ということです。



こちらは74式戦車。
もうデビューしてから42年って、信じられないんすけど。



まあ、こうやって並走しているのを見るとさすがに時代が違うという気がしますが、
それでも、もしかしたら74式ってこの時代のものにしては結構イケてないか?

実はさっき79式戦車という中国軍の超絶かっこ悪い戦車のシェイプを見て、
こんなのと比べれば、超未来的だよね、とか思ってしまったわたしです。

というか、戦車のシェイプって創世記からあまり変わらないのね。



もう一つの「空飛ぶ戦車」ことコブラも飛来。
相変わらず下から見ると薄〜い(笑)



2年前ほどではないとはいえ、周りの人がヒトマルの駆動に沸き立ちます。

「速い!」「速い!」

皆が口々に言うその速さこそがこの戦車の強み。
近くの人の解説によると(笑)ヒトマルの装甲が薄いのは、一撃離脱で
攻撃するなり後退して逃げてしまえるだけの速さを持っているのでそれでいいのだとか。

ちなみに、今回検索していてこんなページを見つけました。
世界の戦車オタクたちがヒトマル式について語っている翻訳ページです。
これによると、ヒトマルはレオパルト2に似ているそうです。

「自衛隊のヒトマル戦車って知ってるか?パネエぞ 海外反応」



ヒトマルは二台で前線に向かいます。
今まで前線で地面に張り付いていた隊員が戦車に向かって手を振っているんですが、
砲塔から顔を出しているのが知り合いだったとか?



ぴたり。ノーズを揃えて敵に相対しました。



戦車の活躍に任せて後ろで経緯を見守るお父さんとお母さん。
じゃなくてペトリオットとNBC偵察車。

NBC偵察車は核・生物・化学兵器に対応する(ヌクレア、バイオ、ケミカル)ための化学車。 
偵察用ですが、この諸島奪還作戦になぜ必要とされるのか、いまいち謎です。 



というわけで、10式、74式、そして89式装甲戦闘車が2台ずつ前線に進出。
90式先輩は今日はお休みの日です。

これだけの火砲がいっぺんに火を噴いたら、尖閣に上陸した敵など鎧袖一触。
と言いたいところですが、問題は戦車を出さなければならない状態となったとしたら
相手は今回のように装甲車2台ではない、ってことです(笑)



いつの間にか左方には迷彩のヘリ軍団がホバリングしてじっとこちらを注目しています。



戦車隊による攻撃のいかんによってはいつでも出撃できる構え。
・・・・ていうか、チヌークは何のために3機もいるのかな?
ヒューイもガンナーがいるわけでもないし・・・



匍匐していた歩兵が戦車の攻撃とともに腰をあげました。



全力で走っていきます。
もしかしたら・・・ば、ばんざい突撃とか?!



走って到達したのは防衛大臣などが見ている観覧席前。
もしかしたら、来賓席の前で格闘術を披露するグループだったのかもしれません。



こちら側に向かってはヘリボーンで入場してきたギリースーツの二人が走ってきました。

こちらは枯れ草迷彩というか、ここ習志野の草地と全く同色のメイクをしています。
装着している偽装によってメイクも変えるとは、自衛隊、侮れん。 



続く。

防衛大臣訓示と千葉地本の”痛車”〜平成28年陸自降下訓練始め

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戦車隊の大量(といっても戦車と装甲戦闘車計6台)投入により、勝敗は決しました。
いうまでもありませんが、諸島に上陸を許したものの、陸戦力と火砲において
我が軍は(って言ったら国会で追及される現在の日本)圧倒的だったということです。



いつの間にか会場に顔を見せていた装備もご紹介。

87式自走高射機関砲 略称:87AW
愛称:スカイシューター

開発は 防衛庁技術研究本部で、車体は三菱重工業、砲塔は日本製鋼所製作。

この画像を74式戦車と比べてみると、下が全く同じであることに気づきませんか?
わたしはたった今気づきました。
これは、74式の車体に35mm 二連装高射機関砲(L90)を乗っけたものなのです。

富士の総合火力演習ではおなじみのスカイシューターというよりガンタンクですが、

捜索レーダ、追随レーダ射撃統制装置が一体となって、デジタルコンピュータと連動し、
目標の発見・捕捉・発射までの過程がリアルタイムで計算され、動揺修正も自動的に行われる。

ということです。(防衛省HPによれば)

これは、おそらく99式弾薬供給車だと思います。
99式自走榴弾砲や203mm自走榴弾砲に弾薬を供給するための車両ですが、
問題はこのどちらも本状況には参加していないってことなんだな。

ところで、白熱した模擬戦の最中、乾燥した草が発火するというアクシデントがありました。
何人かの普通科隊員がシャベルのようなものでとりあえず消しにかかります。



消化剤を背負った隊員が二人すぐに到着し消化作業に当たります。
パックには「演管班」(演習管理班?)と書かれており、消化器具は
JET SHOOTER EV」。
たいそうに見えますが、水が入ったパックのようです。
市販価格は28,000円なり。



防衛大臣訓示を受ける部隊が整列を始めました。



ほとんど枯れ草と同化してわからないギリースーツの二人も・・・、



草むらから出てきて整列に加わります。



偽装車も走り回ったおかげでご覧の通り。
だいぶデコが取れてしまいましたね。



偽装の葉っぱ盛り盛りの前線部隊もお仕事終了です。



迷彩メイクした人やパイナップルヘルメットの人は整列しないようです。
これらの人たちはどうやら「訓示要員」の模様。



隊員家族席からは早くも人が退出しだしました。
もしかしたら一足先に野猿じゃなくて野宴会場に向かうのかもしれません。
何しろ車で来ている人は、早くでないと猛烈な渋滞に巻き込まれてしまうのです。
ただまあ、隊員家族ならなおさら、防衛大臣の挨拶くらいは聞くべきでは・・・。



儀仗礼のためだけに中央音楽隊登場。
海自の出航ラッパと儀仗礼の音楽は絶対に録音を使いません。



ちなみに、わたしは演習場の外の駐車場に車を停めていたのですが、
帰りに石川五右衛門?とかいうパスタ屋に向かおうとしたら、
前に中央音楽隊の楽器運搬車が走っていました。
運転席では女性隊員が何かに盛大にぱくついていました。



音楽隊が定位置に。



こちらは退出する実働部隊。



消火隊はボヤを消し止めたようです。
昔の焼夷弾のように油性だと水では消えないので叩くのですが、
そういう際の「専用叩き棒」みたいなのを持っていますね。



ヘリ部隊はとりあえずホバリングして待機。
合図とともに機種ごとに会場を左から右手に飛んで退出します。



ちぬたんの三段重ね。



チヌークは本日5機が訓練に参加していたようです。
綺麗なV字を描いて通り過ぎました。



そして防衛大臣訓示。

右端には若宮けんじ防衛副大臣、河野統幕長の姿もあります。

大臣は「グレーゾーン」「周辺国の脅威」などのおなじみの言葉を用いつつ、
中国公船による尖閣諸島周辺の領海侵入や北朝鮮の核開発などを挙げて
「領土、領海、領空防衛のため、あらゆる事態に対応しなくてはならない」
そして、近隣住民の皆様に騒音等で迷惑をかけたことの謝罪とお礼で締めました。

後ろの列の海自迷彩の女性の正体が気になるなあ・・。



さて、今年はなんとなくどれもよく知っているし、まいっか、という感じで
装備展示をパスして帰ってしまったのですが、後から知ったところによると
この日の展示では、防衛省が開発中の装輪装甲車、

機動戦闘車(Maneuver Combat Vehicle, MCV)

が披露されていたのだそうです。
なんでも74式引退後、10式と並行して運用される装輪装甲車なのだとか。
しかしその代わりといってはなんですが、千葉地本の秘密兵器、
装備名「業務車2号」(通称『痛広報車』)を見ることができました。

乗車定員:5名 ボディタイプ:5ドアステーションワゴン
全長:4,360mm 全幅:1,696mm ホイールベース:2,600mm
排気量:1,500cc





千葉県のシルエットとそこからダッシュする千葉衛、未来、翔の三兄弟。
こういった関係者の熱い広報活動の甲斐あって、千葉三兄弟は最近すっかり有名に。

この絵には、「千葉県から自衛官として羽ばたいてもらいたい」という意味が込められている、
といいますが・・・・つまり千葉から出て行っちゃうんだ?
あ、これは「自衛隊員は転勤が多い」って意味もあるのかな?

ところでこれを見ればだれもが「痛車」だと思わずにはいられないわけですが、
当ラッピング担当者は、

「痛車ではない。あくまでも広報車だ!!」と発言し、
痛車と言われることを必死になって全面否定している(装備説明による)

ということです。



その気持ちはたいへんわかるが、実はこういうのがかなり痛い。
あまりにも大きな陸海空自衛官募集のロゴ、そしてなぜか目を回している千葉翔。

ちなみに翔の好きな食べ物は牛丼の大盛りです。



千葉未来たん可愛い。海自なので好きな食べ物はカレー。



別に千葉地本の所有車だから、好きにすればいいけど、
同じ描くなら、もうすこし普通の表情にするべきだったと思うがどうか。

ここには翔と未来はいましたが、なぜか衛はどこかに行ってしまっていませんでした。



今年は例年より装備品(車両関係)の展示がなかったような気がしますが、
その代わり、実際の落下傘に触れるコーナーがありました。
横の人が摘んでいるのを見ていただければ分かりますが、大変薄いものです。

パラシュートクロスのバッグというのが今では珍しくなくなりましたが、
昔、この企画の商品が出た時は、軽くて丈夫で雨にも強いということで
ちょっとした話題になったものだそうです。



お仕事が終わった戦車隊が自分の戦車の上で点検中。
3年前は戦車を洗車しているのを横で見ることができましたが、
今年は洗わなくても大丈夫そうです。



思わず廃墟マニアのわたしが「おお!」と心浮き立ってしまった出口近くの建物。
廃墟じゃないっつの(笑)



あ、未来たんだ!と思ってカメラを向けると、さすがは海上自衛官、
四方に見張りは怠らず、カメラの方向に向かって・・・



敬礼を決めてくれました。


彼女の敬礼に心和んで平成28年降下訓練始めの会場から引き揚げたわたしです。
終わってみれば楽しかった降下始め、来年も(できるだけ)来るぞ!

終わり。







防衛団体賀詞交換会と靖国神社参拝

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年明けからいきなり降下始めシリーズに突入してしまった当ブログですが、
一段落したので少しさかのぼってお正月の話からです。
年末の台湾行きが李登輝元総統閣下のお加減が悪く中止になったため、
元旦を自宅で過ごし、2日目になって初詣に出ました。



今年はウェスティンホテル東京の和食「舞」でおせち料理をいただきました。



お雑煮はすまし仕立て。
「すまし汁に角切りの餅」は関東風です。



ウェスティンからすぐ近くの渋谷金王神社に初詣に行きました。
元海上自衛官の禰宜(女性)が神職を勤めている歴史的に由緒ある神社です。 



次の日は靖国神社で昇殿参拝を行いました。
神殿にあがったとき、参拝者の一人が、なんと、
本殿御神体と神職を携帯で撮影したのには驚きました。
静まり返った本殿にシャッター音が響き渡り、次の瞬間神職がピシャリと

「撮影はおやめください」

と制しました。
思わず振り返ってシャッター音の方向を見てしまったのですが、
いい年配の女性だったのにはさらに呆れかえりました。



この日から20日後、防衛団体の参拝でわたしはもう一度靖国に上がりましたが、
皆をご案内くださった靖国神社の小方權宮司が、

「今ではあまりの騒がしさに注意しなければならない参拝者もおられるが、
昔は神殿に上がった後皆が涙ぐんでいることも少なくなかった」

とお話しされたとき、この携帯撮影事件を思い出しました。
權宮司はまだ夫や子、兄弟が靖国の御霊となり、ここに彼らに会いに来る
という世代がたくさんいた頃をよくご存知です。

「悪気はないが所詮他人事の人々」が増えるにつけ、携帯で神殿の写真を撮るような
悪意のない非常識を行う人間も現れてくるということなのでしょう。

靖国神社の存続に反対する人で、その歴史について詳しく勉強している人を
わたしは中国・韓国の国民を含め見たことがないように思いますが、
(神殿に位牌があるとか、酷いのになると遺骨があると思っていることもある)
崇敬奉賛会で持たれる勉強会に参加しろとまでは言わないので、
せめてネットで調べれば出てくる程度の創建の意義とその歴史くらいは
日本人として知ったうえで参拝してほしい、とこの一連の出来事で思いました。



話はガラッと変わり(笑)お正月には映画を二本見ました。
「スターウォーズ」と、「杉原千畝」です。
エルトゥールル号の映画「海難1890」も観たかったのですが、時間が合いませんでした。
どちらも六本木ヒルズで見たので、夕ご飯はロビュションでいただきました。



お皿が来たときには気づきませんでしたが、銀杏とお皿の模様、
さらにはスナップエンドウの丸い形がリフレインしています。



コースではなく単品の魚料理を注文したら、これにもエンドウが。
ムース仕立てのソースが白身の単調さを救っていました。



息子のデザートを横から撮影。
チョコレートの穴から上に乗っているものを落として食べます(多分)



帰りにヒルズの横(右側ルイヴィトン、左側某テレビ局)を通ったら、
イルミネーションが綺麗でした。
東京タワーがちょうど正面です。



スターバックス前もこの通り。
親の仇のように?枝の一本一本全てにイルミネーション。



松が明けてから、防衛団体の賀詞交換会に出席しました。



廊下で中谷防衛大臣とすれ違いましたが、こちらの会合に来たのではなく、
本宴会の主賓は若宮副防衛大臣でした。



自民・公明の政治家も勢ぞろい。
宇土議員は国会審議出席のため途中で退席されました。
一番向こうは相変わらずな笑顔の公明党・前防衛大臣政務官の石川博崇議員。
小池百合子元防衛大臣(だったんですよね)は、こういう席で初めてお見かけしました。
ところで、ここに佐藤正久議員も写っておりますが、



小池姐御と和気藹々でお話ししているこの人は・・・!



「もしもし」発言でその佐藤議員を国会質疑中噴かせた、
あの、田中真紀夫こと、第10代防衛大臣、田中直紀議員では・・・。
うっわー、初めて見たよ。
このおっちゃん、わたしは漫画に描いたくらい当時から注目していたのよね。



自分で描いた漫画のネタ本人を目の当たりにする、これって盛り上がるわ~。

しかし、こういう場で政治家の先生たちの様子をうかがっていると、たとえ
不倶戴天の政敵のように国民に思われていても、案外お互い友好的でらっしゃる。

安保法案の乱闘国会中、仲良く語らっていた福山議員と佐藤議員の姿が目撃されましたね。
わたしの知人も結婚式で呉越同舟だった前川議員と自民議員が和気藹々だったと
大変驚いていましたし、言い方は悪いですが国会ってプロレスみたいなものなのかも。

一番右の小川淳也議員は、圧倒的に政府自民党支持が多いと思われるこの席で、

「わたくしは民主党ですが、それでも国の安全を願う心に変わりはありません」

と挨拶して、会場に大受けしていました。 
質疑を聞いたことのある国民の一人としては、それでもこの議員は全く支持できませんが。



きっと自分が行きたくないので代理人をよこしたにちがいない、民主党の
クイズ王、小西博之議員の代理人がなんとわたしの前にいたことが判明。
まあ、コニタンは来られんだろうなあ。この会場には。

真紀夫は、能力はともかくあの嫁に付き合ってきた人格者で、
この時の様子を見ていても良い人っぽかったけど、こちらは
国会での乱闘もさることながら、外交防衛委員会でいきなり

「ふざけるんじゃないよ!」

とテンションあげて怒号を飛ばす単なる咬ませ犬だったりするから、
この場でうまく溶け込む大人の対応などとてもできますまい。
まあ政治家の老獪さを身につける前に、政界からも退場願いたいものですが。




自民の高橋比奈子議員を見る小池さんの目が怖い・・・。



さて、賀詞交換会の後、防衛団体の主催で昇殿参拝に参加しました。
境内の舞台ではこういう普通の格好をした若者が、舞の稽古をしていました。
神職も、皆私服でいるとあまりにも普通で少し驚きます。



權宮司の計らいで、遊就館の見学もさせてもらえました。
わたしは会員でなんども見ているので、今回は展示は見ず、上映されていた
70年前32歳で戦死した夫に当てたラブレターの朗読に一人嗚咽しておりました。
最後にこれをご紹介します。

天国のあなたへ 

秋田県 柳原タケ

 

娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。

たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。

三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。

私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。

あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。

おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。

よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。

お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。

あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。

そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。

春のあでやかな桜花、

夏なまめかしい新緑、

秋ようえんなもみじ、

冬清らかな雪模様など、

四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。

私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。

もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。

力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。

 



日系アメリカ人部隊~ブリュイエールのU.S.サムライ

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空母「ホーネット」艦内展示による日系アメリカ人部隊、続きです。
写真は第442連隊、通称日系人部隊。



笑を浮かべている隊員が多いですね。
前列の隊員は愛犬と一緒。

全員で撮られた写真の中央には5人の白人士官がいます。
黒人ばかりの飛行部隊であった「タスキーギ・エアメン」、陸軍のバッファロー中隊と同じく、
日系二世ばかりの部隊の隊長は白人でした。



その白人隊長をヴァン・ジョンソンが演じた映画「二世部隊」。
アメリカでのタイトルはそのものズバリ「ゴー・フォー・ブローク」でした。
二世部隊が主人公なのにこのポスターに一切その姿がなく、この少し間抜けな隊長が、
イタリアでおねえちゃんにデレデレしている写真や、442部隊に救出されるテキサス大隊の
メンバーの写真しかないというのはいかなることかと思うのですが(´・ω・`)

だいたいこのポスターには、ひとことも「日系」という言葉がありません。

映画では、最初のうちこそ上から目線で指揮官として着任するジョンソンが、
だんだん二世たちの優秀さに感服してしまうというふうに描かれ、
圧巻は一人だけ山中ではぐれてしまい(おいおい)、たまたま覚えていた日本語の悪口が
合言葉となって部下と合流できたというシーンでした。

映画には、実際に442部隊の兵士であった何人かが出演しています。

ついでに映画つながりで、「カラテ・キッズ」でパット・モリタが演じた
少年の師匠「ミヤギ」は、442部隊で栄誉勲章を与えられたことがあるという設定。
そのパット・モリタは、自分自身が日系人収容所にいたことがあります。



外套を着ているところを見ると、1944年の10月以降にヨーロッパで撮られたものでしょう。
にアルザス地方で行われた戦闘か、あるいはフランスのブリュイエールか、それとも
「テキサス大隊」、ロストバタリオンを救出する前か・・・。

全員の顔に激しい疲労が滲んでいるようにも見えますが、彼らはブリュイエールで
ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げ、そのわずか10日後、休養もほとんど取れないまま、
ロストバタリオンの救出に向かっています。

テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、
600人以上が手足を失う等の重傷を負うことになりました。



戦後上院議員となり、晩年は上院議長の地位にあり、日系人として
大統領継承権第3位にまでなったダニエル・ケン・イノウエもこの戦いに参加しています。

この写真のイノウエの右手をご覧頂けばおわかりかと思いますが、
彼は1945年、ドイツ軍との戦闘において手りゅう弾による傷を負い、右腕を切断しました。
イノウエは医師を目指していましたが、これによって夢が断たれたため、
戦後は政治学を学んだ後、弁護士資格を取得しました。

88歳で亡くなる4年前、やはり日系アメリカ人のアイリーン・ヒラノと結婚しています。

彼の功績は讃えられ、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦に
「ダニエル・イノウエ」の名を残すことになりました。

最後の言葉は「アロハ」(さようなら)だったということです。



タツミ・フルカワ上等兵。

戦争が始まった時、彼らの一家はアリゾナ州のギラリバー収容所に送られました。
二人の兄も100大隊と442連隊に入隊しています。
ヨーロッパで三つの大きな戦闘に参加したフルカワ上等兵は、
1944年に戦死しましたが、その功績によりパープルハート勲章と勲章を死後与えられました。

彼のお墓は、わたしが度々写真に撮っていたサンマテオの国立墓地の一角にあります。



442連隊にいたヒロ・アサイ氏が来ていた軍服。
スタッフサージャントの階級章、つまり二等軍曹です。

彼は2012年に亡くなったとき、サンフランシスコに住んでいました。



右側の双眼鏡とコンパスは、ブリュイエールの戦いのとき、
ドイツ軍の機銃手から取り上げた・・・、戦利品ですね。
相手が他でもない光学機器にかけてはトップクラスのドイツだったので、
双眼鏡などは嬉々として確保したのではなかったかと思うがどうか。

左のカメラなんて、きっとライカとかでしょ?
この左のコレクション?の人は、十字のペンダントとか、
バックルなど4つも持って帰ってきたみたいですが、これまさか
ドイツ兵のしたい・・・・いやなんでもない。



隊旗らしいドイツ軍の旗を持って帰ってきた人もいます。




2万人に及ぶ二つの師団が攻略できず手をこまねいていた
ゴシック・ラインの戦いにおいて、総員2,500人の442部隊は
「一週間でも、一日でもない、たった32分で」
防御戦を突破してしまいました。

というのは、「ゴシックライン」で検索をかけると未だに上位に出てくる
当ブログからの引用ですが()、そのゴシックラインを破った
マウント・フォルジョリートの戦いに参加したアーニー・ヒラツカは、
戦闘地となった山の大理石などを持ち帰りました。



未だにアメリカ陸軍の10大戦闘に数えられる「テキサス大隊救出」を成し遂げ、
他の白人部隊ができなかった戦線突破を、32分でやってのけた442部隊。

彼らの戦闘は未だにウェストポイントで教材となり、候補生が学ぶ対象ですし、
巷ではこのような、GIジョーみたいなフィギュアも販売されています。



誰がモデルかはわかりませんが、いかにも日本人な顔の兵士(笑)



戦闘の合間のつかの間の休息をとる二世兵士たち。
意外なくらい和やかな表情をしています。

沐浴中の姿を撮られてしまっている人がいますが、ジョージ・ボクジ・トンプソン
は、アングロサクソン系の父親と、日系の母親の元に生まれたのでしょう。
右下では顔を隠したりしています。
こういう血筋であっても収容所に送られていたのです。

ちなみに、442連隊には一人、朝鮮系アメリカ人のヨンオク・キムも居ました。
アンツィオの戦い、ゴシックラインの戦いの成功に大きく寄与した人物です。
ベトナム戦争にも参加し最終的には大佐まで昇進しています。

彼は純粋な朝鮮人でしたが、戦後は日系人アメリカ人博物館の創設にも寄与しました。



思わず吹き出しをつけて漫画にしてしまうのは日本人の習性?

上の二人は白人で、どちらも大尉。
右下は日系人の士官(中尉)です。



前線視察のトラック。

ブリュイエールの戦いについては以前一度書いていますが、
今でもこの地では、その日を記念して式典が行われます。



この激しい戦いで命を失った442部隊の戦死者たちは未だにここに眠っています。



このおじいちゃんたちが、かつてここで激しい戦いに身を投じ、
ドイツ軍から村の人々を解放し、未だに敬愛され、その名を讃えられているのです。

この村には442連隊通りという道があり、このような式典を通じて彼らの功績を顕彰しています。




陸軍が二世だけの部隊を編成したのは1943年のことです。
マサオカ家の5人兄弟は、全員がこれに志願しました。
この写真はキャンプ・シェルビーで撮られたもので、左からベン、マイク、タッド、アイク。
五男のハンクは、落下傘兵になったので、このとき442部隊にはいませんでした。

長男のベンは、この後、「ロスト・バタリオン」の救出のときに戦死しています。

なお、本日のタイトル「ブリュイエールのU.S.サムライ」は、ブリュイエール出身の作家、
ピエール・ムーランが第442連隊の戦い描いた著書の題名です。
なお、ムーランはホノルル、フレズノ、サンアントニオなど、日系アメリカ人について
深く関わった関係で名誉市民となっており、同氏の著書には

「ダッハウーホロコーストとU.S.サムライ ダッハウ最初の二世兵士たち」

などがあります。






 


ディズニーランドとクラブ33再び

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もう一昨年になりますが、自衛隊音楽まつりのあと、武道館から
ディズニーランドのクラブ33で行われたパーティに参加した、
という報告と共に、この秘密のクラブについてわかっていることだけ
非常に気を遣いながら書かせていただいたわけですが、その後、
ディズニー側からは特に何の注意も警告ももちろん脅しもなく、
あの程度であれば「あり」なのだと胸をなで下ろしていたところ、
またもやそのクラブ33でのお食事会への参加の意思を問われたので、
ホイホイと参加希望を出して行ってまいりました。

ところで、このいかにも邪悪さを感じさせるシンデレラ城については
説明を後にして、この日の朝のことからお話しします。



駐車場ゲートでクラブ33に行くと告げると、名前が照合され、
車のワイパーに白い紙が挟まれ、入場口の至近距離に案内されます。



前にも書きましたが、クラブ33に行く客は、このゲストリレーションで
待たずにチケットを購入し入場することができます。
ちなみに息子は、今の期間学割がきくので学生証を出すように言われ、

「・・・持ってません」

「定期券とか保険証とか、年齢の分かるものでいいですよ」

わたしも保険証を持っていなかったし、息子は定期通学ではありません。

「・・・ありません」

「・・・・・それでは生年月日を言ってくだされば・・」

ゲストリレーションのお姉さん、ものすごく大目に見てくれました。さすがディズニーランド。
みなさん、ディズニーリゾートに行かれることがあったら、お子さんには学生証を持たせましょう。
確か3月までは学割サービス(別の名前だったけど)があるようです。



早めにうちを出たので、少し園内を歩いて時間を潰すことにしました。
自転車のように漕ぐピアノを乗せた台でパフォーマンスをする芸人。
演奏の最後だけ、お客さんにピアノの鍵盤を弾かせたりして大受けです。



アーケードを抜けると正面に見えてくるのがシンデレラ城。
1時間後のショーのためにもう座って待っている人がいます。
以前ならこんな光景に、「あんなもの見るためにわざわざ地べたに・・」
と比較的醒めた目を向けていたわたしですが、こと自衛隊関係イベントにおいては、
自分こそがそういう目を向けられる側の人間であることを自覚するようになってから、
そのような傲慢な考えはさっぱり持たなくなりました。

人間的に幅が広がったというか、人の立場を思いやれるようになったというか、
多様な価値観の違いを認められるようになった自分を少しだけ褒めてやりたい。

で、このときに息子が撮り、アトラクションを待つ時間にアプリで
加工したのが冒頭のシンデレラ城の写真です。
効果として、ヒッチコック映画のような鳥を入れることもできるという優れもの。
ディズニーの人が見たら訴えられるレベルの邪悪な城になりました。



邪悪になってしまった理由のひとつは、この日の天気が曇天だったからです。
前日からこの日の予報は、「夕方から雪」でした。
いつ雪がちらついても不思議ではない、低く垂れ込めた雲・・。

しかし、交通に支障が出ない程度なら、ディズニーランドで見る雪は
結構心踊る楽しいことなのではないでしょうか。



上写真のオラフのほか「フローズン」の雪ぞりもありましたし、



ランドでは雪だるまのオラフをモチーフにしたもち(洒落)とか、
映画に出ていた小さなスノーマンのスイーツをガンガン販売しておりました。
夜のショーも「フローズン」(わたしは”穴雪”という略称が嫌い)がほぼメインです。



窓にはディズニーアニメの1シーンを再現したデコレーション。
「レディ・アンド・トランプ」というのが「わんわん物語」の原題ですが、
この「トランプ」には「浮浪者」、女性だと「あばずれ」という意味があります。
最近ではレディ・ガガがトニー・ベネットと歌った「レディ・イズ・ア・トランプ」
という曲もありましたね。

つまりこの題は「淑女と浮浪者」という意味があり、内容も血統書付きの
コッカスパニエルのレディと、野良犬のトランプの身分を超えた恋というものでした。

(そういえばこの名前の大統領候補がいるなあ・・)



シーにはしょっちゅう行っていて詳しいわたしたちですが、
ランドのディティールについてはもの珍しいものばかりです。 
西部の街にある歯医者さんという設定のこの家、屋根になぜ水タンクが。 




痛み止めとしては「ポカホンタス・レメディズ」を処方するようです。
さて、この辺で少し早いけどクラブ33に入ることにしました。



ドアの周りを人が囲んで盛んに写真を撮っている中、右側のインターフォンで
メイドさんを呼んでドアを開けてもらって入るのは、なんとも恥ずかしかったです。

このクラブの秘匿性をみなさんご承知の上で写真など撮っていたと思うのですが、
どんなVIPが利用するのかと思ったら普通の人じゃん、と思われたであろうことは必至。 

ちなみになぜわたしのような普通の人が利用できるかというと、
これは正真正銘、OLCの大変重要な仕事をしている方が機会を設け、
その業界内の希望者を募ってご招待下さるからです。

ちなみに、巷の噂には「ディズニーに関わっている企業のオーナー」
「野球選手や芸能人」しかクラブメンバーにはなれない、というものがありますが、
後者ははっきりいって間違いであると声を大にして言っておきます。



内部の写真は一切ネット公開を「自粛するように」無言の圧力がありますが、
これならば問題無し。(だと思う)
全ての参加者の名前が刻印されたシールは今年も配られました。
昔はマッチであったに違いないこのケース、キャラクターのシール入りです。

アルコールは一切禁じられている園内ですが、このクラブの中に限りお酒が飲め、
シャンペンはもちろんアルコールフリービール、芋焼酎までありました。
料理はディズニーらしくフランス料理が出されるのですが、それに
芋焼酎を飲むという人がいるのか・・・。




インターネット界隈では、検索したら結構堂々と内部の画像があげられていますが、
当ブログではそんな社会的に怖いことは決していたしません。
というわけで、中の写真がだめなら外の写真を。



ほお、なるほど・・・。(独り言です。お気になさらず)
それとたとえばですけど、左の赤い庇の建物の窓からなら、パレードもよく見えそうですね。




ディズニーリゾートの内部には街を構成する建物が並んでいるわけですが、
このうちの一つたりとも、ただの「書き割り」的なものはなく、
実はどの建物も、「何か」のために内部が使われているんですね。



さて、楽しいお食事のひと時も終わり、今年も記念にお土産を買いました。
タオルもバッグも前回買ったので(使ってないけど)今年は、
去年なかったノートの2冊セット、お値段はお察しください。



というわけで、お食事会が終わったので外に出ました。
これは、ジャングルクルーズの注意書きだったかな。

さて、日曜日のディズニーランドで並んでアトラクションなんてとんでもない、
クラブ33が終わったらすぐ帰ろう、とわたしは息子に言い渡していたのですが、
この日の園内は意外なくらい空いていました。
おそらく夕方から雪という天気予報で行くのを見合わせた人が多かったのでしょう。
結局大外れだったわけですが、我々にはありがたい誤報となりました。



しかし、わたしたちがビッグサンダーマウンテンに並ぼうとする頃、
ちょうど雨が降り出してきました。
並ぶ列の前にあった汽車には、なぜかスズメたちが集まってきています。



どのスズメも寒いので丸々と膨れています。



この頃だけ傘が必要でしたが、すぐに止みました。
でもスズメはじっと耐えています。



園内のスズメは主に地面に落としたポップコーンで生きていますが、
これも「300秒以内に」お掃除にきてしまうキャストとの死に物狂いの戦いです。
ディズニーリゾートにあっても「野武士」というあだ名にふさわしい面構えのスズメ。
かわいいですけどね。



ディズニーには何種類かの野鳥がいますが、これはヒヨドリ。
ヒヨドリも寒い時には羽毛を立てるようです。



首をかしげるカメラ目線のスズメ。
ところで、ここにはふんだんに餌があるので(ディズニー的には
あまり歓迎はしていないようですが)カラスもいました。



ビッグサンダーマウンテンを待つ通路に設えられた柱の上に。

DRにカラスや蚊がいないのは、彼らの嫌がる高周波を流しているから、
という都市伝説があるのですが、このカラスはそれを克服したのかも。

当然、ミッキーミニーを除くネズミの嫌がる電波も流されているはずです。



ライドを待つ通路は一旦高い山を登るようになっているのですが、上から見た
先ほどのスズメのいた汽車が下に見えるほど登ってきました。



わたしは最後に水の中に落下するものだと思って乗っていたのですが、
最後までそれがなかったので、降りてから

「冬だから水に落ちるのはやめてるのかな」

というと、息子、

「スプラッシュマウンテンと間違えてない?」

はい、間違えてました。



この写真は、先ほどのカラスのいたところを息子が撮って加工したもの。

「こ、これは・・・・」

「処刑場って言われても納得する」



ところで昔は、「ジャングルクルーズ」の一番最後の場所に、
首刈り族のおじさんが干した人間の首を持っていた記憶があったのに、
なぜか今回普通のバナナとキャラクターグッズの売人になっていました。

どうせ教育的影響とか人種差別とか、「土人」「人喰い人種」などという
言葉を狩ってきたのと同じ手合いに配慮しての変更だと思われますが・・。



息子のアプリによる加工ではありませんが、ディズニーに「ゆめやぼうけん」
だけでない、ダークな部分があっても別にいいと思うんですよ。

子供の感性というものは、そういう部分も含めて世界を受け入れていくものであり、
楽しくて夢と希望が溢れている、というだけでは、何かを克服する喜びすらない、
さぞ薄っぺらな、綺麗事ばかりの押し付けにしかならないと思うのです。


というわけで、本家ディズニーなどは「善に対する悪・光に対する闇」
という部分を意図して(しかも本気で)作り上げるわけです。
そう、スイカを食べるときに甘みを感じるための塩の役目として(笑)

そしてシーにおける「タワーオブザテラー」、ランドにおけるこの
「ホーンテッドマンション」などがそれを担っているのです。

 

アトラクションを出たところにある墓石が、なんかシャレだったので。
左側「アイルビーバック」(わたしは帰ってくる)
右側「ジー(Gee)、アイミスユー」(ああ、あなたが死んで寂しい)。
そのほかにも「Paul Tergyst」(ポールターガイスト)、
「I. Trudy Departed」(わたしは旅だった、つまり死んだ)
なんてシャレが満載で、息子と一緒に結構長い間楽しんで?しまいました。



結局雨も雪も降らなかったので、プーさんのハニーハント、
お約束、スペースマウンテンもしっかり乗りました。



夜はシンデレラ城に映し出されるショーを見ましたが、ほどほどの人だったので
後ろからでも十分楽しめました。



それでは、この日ディズニーランドで食べたものをご紹介〜。
あの著名カレーの食品会社が提供しているカレー屋さんでチキンカレー。
とにかく美味しかったです。



お昼ご飯を食べたところで出た、綺麗な前菜のプレゼ。



同じくメインディッシュのサーモンは帆立貝のすりつぶしたのを乗せて。
周りの黒い粒はトリュフ。これは真に絶品でした。



帰るとき、アーケードで近くにいた子供が、光る風船を手から離してしまいました。
ああ〜・・・と言いながら皆が目で追うと、そこにはすでに誰かの飛ばした風船が・・。

彼らはもう一度風船を買ってもらえたのでしょうか。




 

My 600-lb Life~「ある百貫デブの物語」

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えー、いきなりですが、今訳あってアメリカにいます。
今回はこれも訳あって一人での渡米ですので、夜ホテルにいる時には
パソコンに向かいながらテレビをつけてなんとなく見ています。 


アメリカに行ったときだけテレビを見る目的は、
日本ではとてもお目にかかれない「放送禁止」レベルの変なショーを
発見し、皆様にお伝えすることにあります。

引っ越しした人が自分の家の後に来た住人のリノベーションをくさすというもの。
ゴミ屋敷の住人を立ち直らせる「ホーダーズ」。
そして今話題沸騰(笑)、大自然の中に何も着ずに放り出されサバイバルする
初対面の男女をルポした「ネイキッド・アンド・アフレイド」。
そして、デブの前に或る日突然トレーナーが現れ、手取り足取り痩せさせて
大変身させてくれるデブ救済型ショー。

そんな変な番組の中でも、とくにわたし的に「来た」、今年の大発見。
それが「My 600-Ib Life」です。
「日本ではあり得ない」のレベルにおいて、「テレビに出てくる人の羞恥心」
「こんなものを放映していいかという倫理」をはるかに凌駕し、
それよりなにより、こんなになるまで太ってしまう人間がゴロゴロいるというアメリカの
底知れなさに心底震撼するという意味で。

600-Ibとはキロに直すと272キロ。
この番組に出てくるアメリカ人は、全員がこのレベル、あるいは
これ以上の体重になるまで膨れ上がってしまい、もうこのままでは
遅かれ早かれ生命の危険が、という状態の重篤患者ばかりです。



本日の主人公は、チャリティさん。39歳。
彼女の体重は驚くなかれタイトルよりも178lbs、つまり80キロ多い

352kg(778lb)。

百貫デブ、と日本では言いますが、それではみなさん、
百貫って何キロのことか知ってます?

一貫が3,75キログラムなので、このチャリティという人は、
まぎれもなく名実ともに百貫あることになります。

日本人はいくら太ったって、300キロ超えることは体質的にあり得ないので、
「百貫デブ」というのは、あくまで誇張であり、「お前の母さん出べそ」と
同レベルの揶揄い口にすぎないと言えるかと思いますが、
ここアメリカには、結構な割合で「百貫」が存在するのです。

ちなみに「100キロ」レベルのデブであれば何十人に一人の割合で見かけます。
テレビのショーに出ているキャスターですら、顔は綺麗だけど日本でいうと
お腹周りがふとすぎ、という人が多い国ですから。 



今回の被験者、じゃなくて患者のレベルがレベルなので、
当然彼女の家族もむちゃくちゃ太っています。
チャリティさんの妹も、かるく100キロは超えていそう。




そしてこの人の少し「特異」な部分は、夫がいること。
あまりにも太りすぎて目標が「自分の足で歩くこと」となっているレベルの
この番組の出演者は、今まで見てきたところほとんどが独身のような気がします。

太っているとやはり相手も見つけにくいでしょうし、それ以前に
自分で歩けないどころか、そもそも部屋から自力では出られないとなると、
お年頃になっても相手を探すどころではないからです。

しかし、この人は、恋愛をして結婚もできたのです。
どこで知り合ってどんなきっかけで恋愛が始まり結婚したか、
なんてことを説明してくれるわけではないのでそれはわかりませんでしたが、
そんな相手がいるのに、どうしてこの人はここまで太ってしまったのか。

「わたしに恋人ができないのは太っているから」

という思い込みでダイエットをする女性のほとんどは、男性から見て
決して太っていないという統計もどこかで見たことがありますが、
いくらぽっちゃり系が好きと言ってもこのレベルは・・・。



しかしこんな”超弩級”を愛してくれる人がいたわけですから、
せめて彼のためにもう少しなんとかしようと思わなかったのでしょうか。



それにしても、これだけ太っていると、生きていくための全てが
大仕事になってしまいます。
彼女が持ち上げているのは自分のお腹。
まるで布団を抱えているようですが、家族が彼女の体を拭く間、
肉を自分で持ち上げるのが彼女の仕事なのです。



お風呂に入るということができないので、折りたたまれた肉が
汗疹による炎症(床ずれみたいな状態)でかぶれてしまうんですね。



デブにもいろんなレベルがありますが、彼女の場合は
自分の足で歩くことは不可能。
350キロの体重を支えるには、この足はあまりにも小さすぎます。
そして骨の細さは常人と全く変わらないわけですから・・。



というわけで、彼女の周りの人たちは、彼女が生きていくための
全てのことに手を貸してあげなくてはいけません。
例えば、ベッドに起き上がった彼女を引き起こし、



とりあえず歩行器で立たせて、約3歩移動させるのも大仕事。
わたしは人間が極限まで太ったら、どこに脂肪をつけるのか、
この写真を見て初めてわかったような気がします。
まるで大きな風船をつけたような状態ですが、これ全て背中と臀部の脂肪。



彼女が携帯便器の上に腰をかけるのを夫は手伝ってやります。
毎日毎回のことなので、もはや恥ずかしいとも思わないようですが・・。



そしてもう一度歩行器を使ってベッドに戻るのがまた一仕事。
夫は黙って後始末をしてやるのです。

こんな状態で命だけを永らえるのに、プライバシーも人間の尊厳もへったくれもありません。
本人も周りも、全ての作業を黙々と無言で行いますが、
その間、人間らしい会話や、ましてや笑いなどは全くないままです。



もちろん彼女がここまでになってしまったのは、大人になってからです。
たしかに太っている子供ですが、このレベルのまま普通に大人になったとしても、
アメリカ人にはよくいるタイプの一人になりそうです。



この子供が、少なくとも寝たきりになるまでというのは、成長過程で
よほどの精神的問題を抱えていたと考えるのが妥当かもしれません。



ティーンの彼女も、アメリカでは2~30人に一人の割でいるタイプです。



この手の番組を見ていて思うのは、彼らの食事は
日本人から見たらひどいと思われる一般的なアメリカ人の食生活など、
まだマシに見えるくらい、栄養というものを無視しているということです。



ある日の朝食。(朝食ですよ)

アメリカのピザはご存知のように大変巨大なのですが、
もちろん彼らが手作りなどするわけがなく、冷凍のピザを朝になると一枚焼いて、
それを三人で分けて食べてしまうのです。



しかし、彼女にとって食べることは幸せな時間の一つであるらしく、
こんな朝ごはんでも実に美味しそうに平らげます。



彼女があまりに肥大しているので、100キロはありそうな彼女の夫が
まるで蚊トンボのように見えます。
彼女の妹もやせた方がいいと思いますが、とりあえず彼女は
自分でシャワーや排泄はできるわけですから、姉を心配し、
面倒を見る立場であって自分のことはむしろ「健康的」だと思っている節があります。

しかし、やはりこれではいかんだろうということになり、
番組に依頼をして専属の肥満専門医の診察を受けることになりました。



病院へは、数人のスタッフが「太った人専用の搬送車」で迎えに来てくれます。
そしてドクターが登場。

このドクターも、わたしたちが見ればかなりの肥満で、
人のことをどうこういう前に自分もなんとかした方がいいのでは、
という説得力のない体型なのですが、なにしろ患者のレベルが

「胃のバイパス手術」「脂肪大量切除」

を要する段階なので、医者の不養生と言うよりは、患者と比べて自分はまだまだ大丈夫、
と考えてしまうようになったのではないかと推察されます。



どれどれ。太ってますなー。

って見ればわかる。
すぐに手術をしてくれるのかと思ったら、まず、自力で、
つまり病院食の食餌療法だけで、10キロ~20キロ痩せることを言い渡します。



これで、ダイエットのなんたるかを付き添いの人にもわかってもらうのです。
なぜこんなことをするかというと、この医者は、誰にでも安易な
バイパス手術はしないという主義で、本当に患者が痩せる気があるのか、
ということをここで試験するという意味があるのです。



することがないから(といってもいつも何もしてませんが)お母さんに電話。
母親はこの番組で一度も顔を出しませんでした。



患者はこの病院で3ヶ月を過ごします。

健康保険のないここではものすごい医療費がかかりそうですが、番組負担でしょう。
そして三ヶ月の入院で彼女は49lb、つまり22キロ体重を減らしました。
背中から垂れ下がっている巨大な肉塊には全く変化ありませんが。

三度三度、まともなものを食べるだけで22キロ減です。
もしかしたら彼女は、これまで野菜サラダなど食べたこともなかったのかもしれません。
これは全て、親の食育のせいであり、さらにはその親自身ももそう育てられてきたのです。

何かに責任があるとしたら、彼女のような人間がアメリカに生まれたことでしょうか。



体重が減ってよかったね、という感じの夫。
なんですが、どうにもこの夫という人、暗い。
ほとんどのカットでなぜか目を伏せているのはなぜなんでしょうか。



とりあえずバイパス手術を受けるためには家でもちゃんとした
食生活をせねばならないのですが、退院する彼女、こんなことを言っております。

「食品庫に戻るだけだわ」

自分からは何もしようとしない、太る人の論理ですよね。



しかしこうなったからには、家族も一緒になって朝からピザ一枚食っている場合ではないので、
キッチンで悩んだすえ、二人で料理らしいことを始めました。



さて、ドクターはチャリティに、1ヶ月の自宅療養の間に
40lbs、さらにここから18キロ痩せることを申しつけました。
そうしないと、手術するわけにいかない、というわけです。



相変わらずうつむいてばかりの夫。



さて、ドクターの診察。

「もう1ヶ月がんばってみようかー」



・・・・暗い。

どうしてこの夫が最後まで目を挙げて人を見ないのかはわかりませんでした。
もしかしたらこの男、チャリティとその家族になんか弱みでも握られてるのか?



さて、それはともかく、彼女は手術を受けることができるのでしょうか。

続く!(笑)





My 600-lb Life~バイパス手術

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375キロの体重を持つ女、チャリティ。

彼女が切羽詰まって(かどうかはしりませんが)駆け込んだ肥満専門外科医は、
入院による食餌療法で22キロ痩せた彼女に、さらに2ヶ月かけて18キロ、
つまりダイエットだけで40キロ落とせば手術をすると宣言し、
それは彼女自身と家族の協力の甲斐あって、なんとかかんとか成功しました。

まあ、375キロの人が40キロ減らすのは、その気になりさえすれば
そんなに無理なことではないような気もしますけど。

ここでドクターが患者に要求するのは「痩せたいという本気」で、
何となれば、いきなり外科的手術を施して胃なり腸なりをカットし、
脂肪も切除したとしても、本人にその気がなければその手術は
ほどんど意味をなさず、すぐに患者は元に戻ってしまうからです。
 



しかしチャリティはその試験にパスし、ドクターは彼女に
バイパス手術をすることを決定しました。



このバイパス手術とは、アメリカで行われている主流のやり方で、
ルーワイ胃バイパス手術といいます。

やり方は、まず胃を20~30ccの小袋に分け、その小袋に小腸をつなぎます。
食べ物が流れる小腸の途中に、胆汁と膵液が流れるように
もう一方の小腸の端を吻合します。
小腸の長さを変えて、栄養吸収の程度を調節し、小袋をつくることによって、
少量の摂取で満腹感をえて食事摂取量を制限するとともに、
吸収を悪くすることによってエネルギーの取り込みをさらに少なくします。



1年後に超過体重の77%を減量できる、というのがこの手術のメリットですが、
デメリットがないわけではありません。



消化吸収そのものを抑えてしまうので、必須の栄養まで取れず、ビタミンや鉄、
カルシウムの欠乏が起こりやすく、サプリメントからしかそれらを摂ることができなくなり、
また、患者の予後の食生活によっては、また胃が伸びてしまうということもあるのです。



長時間の手術の間、待合室で寝てしまう妹と夫。
二人とも肥満の点では人の心配している場合ではないような気がしますが。



アメリカで他に行われているのは胃を結紮する方法、
胃そのものをカットして小さくしてしまう方法もあります。



バンドは外れたら緊急手術を要しますし、カットしてしまう方法も
バイパス手術と同じく、決して安全な手術ではありません。



同番組の別の回で出ていたこの若い男性、やはり太りすぎで
電動式椅子がなくては歩けないくらい。

もとスポーツ選手(アメフト)で、自分に自信もあるのですが、
こうなってしまってはどうしようもなく、手術を受けました。



しかし彼は手術が原因で危うく死にそうになります。
もともとBMIが60をこえる超々重症肥満の人は、一度で手術をすると
死亡率が高くなるといるのです。
それを避けるため、胃の切除とバイパスを2回に分けるというふうにする
医者もいるのですが・・。



生死の境をくぐり抜けた彼は、こんなにげっそりと痩せてしまいました。
決して望むような痩せ方ではなかったはずですが・・。

十字にかけられたキリストのTシャツを着ているのがリアル。



さて、チャリティの手術は無事に終了しました。



よくわからない写真なのですが、これは彼女の下半身。
白いのが靴下を履いた足です。足って太らないんですね。



手術が終わって生まれ変わったわたし・・・・
といいたいところですが、見た目には全く変わりなし。
まあ、内部を切っただけですからね。



手術の後は少しは食べ物に気を使っているようです。



この家族は、いつもこうやってソファでものを食べながらテレビを見ているのですが、
こういうライフスタイルから抜け出さない限り、彼女の体重は
普通の人レベルに戻ることはないのではないでしょうか。



だ~か~ら~、ポテトは野菜じゃないんですが・・。

太っていることで便利なことが一つだけあるとすれば、食事の時テーブルがいらないことです。
自分の体になんでも乗せて、そこから基本手づかみで食べるのが彼女流。



番組の手配で心理カウンセラーも手配してもらえます。



これに出てくる人たちは、必ず太りすぎた自分に絶望して泣くのですが、
セラピストと話すことによって、また感情がこみ上げてきて泣いてしまうのが常です。
これではいけないと思いながらもずっとそれに逆らえずに生きてきた人というのは、
例外なく精神的にあまりにも脆弱だからでしょう。



軽い運動をすることも課せられました。
運動といっても、軽いダンベルを動かしたりバンドを伸ばしたりする程度ですが、
何もせずにベッドに寝ている毎日を思えば、信じられないほどアクティブです。



妹さんも一緒にやらないとね。
お姉さんを世話することで、彼女にも変化があれば万々歳なのですが。



靴は普通に売っているのが履けるので、サイズ探しに困ることはなさそうです。



というわけで、自宅でしばらくそんな日々を過ごし、いよいよ
再診および再手術のために病院に向かいます。
とりあえず病院の手配した数人の人と特別車がいらなくなっただけ大進歩。 



ドキドキの軽量は587lbs。(266キロ)。
なんと彼女はバイパス手術で86キロの減量に成功しました。
それでも266キロなんですが・・・。



ここで無駄な脂肪、何の役にも立たない部分の脂肪を、
バッサリ切ってしまうという手術を受けます。



切除によって、ものすごい量の脂肪の塊が彼女の体から取り除かれます。



切り取った部分を先生が抱えていますが、むちゃくちゃ重そう。



思うに、彼女の背中から臀部にあった脂肪を切ったのではないでしょうか。
どうせならもっといっぱいいろんなところから切ればいいのに、
と思いますが、これがおそらくできるギリギリの切除なのでしょう。



ドクターの解説つき。
切除した脂肪だけで40キロはあったそうです。



というわけで、とりあえず彼女は寝たきり生活から立ち直り、
少なくとも自分で自分のことくらいはできるようになりました。
おそらくですが、もうトイレも自分でいけるでしょう。


それでもこの肥満ではきっと長生きはできるまい、と
わたしたちは思ってしまいますが、まだしもましになったことは確かです。



さて、ところで手術で危うく死にかけた男性。
せっかく痩せたのですが、元気になった途端彼はバリバリと食べだし、
リバウンドまっしぐら。



そりゃこんなものばっかり食べてたら太るよね、というようなものを
よく噛まずに吸引するがごとく食べまくっていたら・・、



先生が渋い顔をして、

「診察のたびにどんどん太っていってるんだけど・・・。
やる気あんのアンタ」



「なんか文句あんのかよヤブ医者」



母親も心配していろいろ言いますが、そもそも全ての原因を作ったのは
母親だったりするので(食育という意味で)、息子はいうこと聞きゃしねえ。



病院に付き添ってきたお姉さんに八つ当たりして、電動椅子を
全速力で動かして(笑)拗ねて向こうに行ってしまいました。
おそらく彼は先生に手術をしてもらうことはできないでしょう。

そして笑ってしまったのですが、彼の出演番組の最後のオチ?は、

「この二日後、ドナルドの電動椅子は壊れた。
原因は彼の体重であった」

って、そりゃそうでしょうよー。
なにこの虚しさあふれるエンディング。


この番組はもう少し軽度の、トレーナーと一緒に頑張る番組と違って
毎回がチャリティのようにうまくいくわけではありません。
どうしても節制できなかったり、手術をせっかくしたのにリバウンドしたり、
たまには経過観察中に亡くなってしまうこともあるそうです。



そして、今日もまた一人の百貫デブが、なんとかしたいという思いを持って
この番組に登場します。



番組をいくつか見て思うのは、あまりにアメリカ人というのは
栄養に対する知識がなさ過ぎること。
美味しいと思うもの、小さい時から口にしてきたもののほとんどが
ジャンクであり、糖分や脂肪たっぷりの危険なフードであること。

マクドナルドなどのファーストフードで三度三度の食事を済ませ、
アイスクリームにピザ、カロリー0のコーラや炭酸水・・・。


ホテルに泊まると無料で食べられる朝の食事はパンケーキにせいぜいよくてフルーツ、
安ホテルになると、甘い甘いマフィンを朝から振舞います。

この国で若い時はともかく、ある程度の年齢になって太らずにいられるには
慣習と慣れ親しんだ味を、全て否定することから始めなければいけません。

これだけ絶望的までに太っている人が多い社会で受け入れられている栄養学が
正しいわけがない、と私など思ってしまうのですが、国家がこれをなんとかする気は

・・・・・ないだろうなあ。

国民を病気にするためのジャンクフード、病気になりたくない人のための
実はあまり効果のないサプリメント、そしてダイエット薬。

街場にあるダイエットセンターはじめ、この番組の医者のような、
肥満専門医も、みな「肥満ビジネス」の経済的サークルの中にいるわけで、
もはやそこから抜け出すことはできないからです。

皆が健康的なものを食べて肥満が日本レベルに少なくなってしまったら、
それこそ「痩せ細って」しまう人たちがあまりにもたくさんいることも、
アメリカが世界一の肥満大国であり続けている原因のひとつなのではないでしょうか。




フィッシャーマンズワーフの一日~旅単シリーズ

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今サンフランシスコにいるのは間違いないですが、この写真はほとんど
去年の夏に撮ったものです。
本当はこちらで撮った新しい写真をお届けする予定でカメラのセットも
抜かりなく持ってきていたのに、渡航直前にディズニーでうつされた風邪が
来る途中の飛行機で発病し、二日目には立っていられなくなってずっと寝込むハメに。

というわけで、昔の写真を無駄にせずに使うことにしました。



これはゴールデンゲートブリッジ上の海を望む丘陵にある国立墓地です。
アメリカの戦争で戦死した兵士たちが眠っているところです。

去年の夏、この墓地の中を見学し、写真を撮ったのですが、どういうわけか
帰ってきてしばらくしてからチェックしようとしたら、この写真と次のしか残っていませんでした。

同じ時に撮った写真なので、ファイルごと紛失するならわかるのですが、
内部の写真だけが消えるとは、今だに不思議でたまりません。
こういうときにわたしは、何か根本的な技術的ミスではないかと思うより、
ここに眠る霊のどなたかのご意思に反していたからではと考えます。

ここには米西戦争の頃からの兵士の墓があるので、そういう国立墓地の歴史について
個人墓の画像を出さずにエントリを製作しようと思っていたんですが・・・。



かろうじて残っていたもう一枚の写真。
土地の広いアメリカなので、特にこの辺は緑地帯の方が多く、何にも使われていない
スペースが国立墓地の前にもあったのですが、どうやらここに
朝鮮戦争の戦没者に特定したメモリアルゾーンを作る予定をしているようです。

朝鮮戦争・・・・・じつはまだ終わってないんですけどね。



サンフランシスコという町は、ご存知のように下から突き出した半島の形をしています。
半島の北端を向かい岸と連結するのがゴールデンゲートブリッジであり、
半島の東側から向かいのオークランドを繋ぐのがベイブリッジとなります。

ベイブリッジの正式名はSan Francisco-Oakland Bay Bridge、
法律的に正式に言うと、The James 'Sunny Jim' Rolph Bridgeです。

ベイブリッジはサンフランシスコでは高速道路と連結しているため、南側から市内に入ると、
ブリッジに向かう車線ははほぼ一日中大渋滞しているのが常です。

この写真に写っている橋桁はちょうど岸壁の部分で、そこから向こうが海です。
橋の下段はオークランド行き、帰りがサンフランシスコ行きとなっています。

昔、電車が通っていたことがあり、その時には下が電車、上が車専用だったそうです。



ピアを横に見ながら行くと、サンフランシスコのランドマークの一つ、
マーケットストリート突き当たりの時計台が見えてきます。

これがなんなのかわたしは結構最近まで知らなかったのですが、じつは
正確な名前を「サンフランシスコ・フェリービルディング」というそうで、
その名の通り、昔対岸とのあいだを連絡するフェリーのターミナルだったのです。

ベイブリッジが完成したのは1936年、同時に鉄道も橋を渡ることになったため、
フェリーは廃止されて、建物はオフィス使用されていたようですが、
2002年にはパブリックの部分も含めて改修、改装されて保存されることになりました。



シリコンバレーから車で北上してくると、半島を右回りで海に沿っていけば、
ピア(突堤)を表す数字がだんだん大きくなっていきます。 

その39番目、39ピアが、有名なフィッシャーマンズワーフと言われる
観光商業施設です。



週末は季節を問わず大変な人出なので、わたしたちはいつも
日曜日の夕方に行くことにしています。

この大きな看板のところを入っていけば、駐車場があるはず
・・・・だったのですが、行った時間が遅すぎて入庫は終わっていました。

仕方なく、いつも停めるショッピングモールの駐車場に入れます。
ここだと、スーパーマーケットで買い物すれば割引があります。



というわけでやってきたフィッシャーマンズワーフ。
観光地なのでいくらでもテーブルだの椅子だのはあって、休憩もできるのですが、
どう優しい目で見てもホームレスにしか見えない二人が・・・。

二人で何を話すでもなく、目をギラギラ光らせて人々の様子を伺っています。
生きていくために、誰かがうっかり落としたり忘れたりするのを、
全神経を集中して探しているという感じ。

彼らにすればこれが「お仕事」ですから真剣です。


そんな彼らがけっこう目を引いてしまうのも、基本、ここにいる人は
楽しみを求めにやってきた人々ばかりなので、他人には無関心だからです。

こういった大道芸に立ち止まって時間を潰すのも、彼らが観光客だから。




上空をヘリが通過したので望遠レンズで撮ってみました。
機種はわかりませんが、まるでコブラのように薄い。



去年このアザラシコーナーに来た時には一面アザラシだらけだったのですが、
今年は数が全く減ってしまっていました。
昨年度の、ざっと4分の1といった感じでしょうか。

しかもどうしてあの2面にだけ固まってるんだろうと思ってよく見ると、
彼らが集まっているのはどちらも低い台です。
他の板もアザラシのために作られたものであるはずなのですが、
上がるのが大儀なのか、一頭もいません。

いったいフィッシャーマンズワーフのアシカに何があったのでしょうか。



特に美味しいというわけではありませんが、眺めが良かったので
今年も一番奥にあるジャパニーズレストラン、hanazenにいくことにしました。

お皿に置かれたお箸がトレードマークです。



窓際に通してもらって外を通る観光船を見ているだけでも楽しいものです。



ここで新しく投入した望遠レンズでアルカトラズ刑務所跡を撮ってみました。



さっきのホームレスではありませんが、人の様子をじっとうかがっているのが
この辺のカモメ。
冗談抜きで、何か食べながら歩いていると、後ろから飛んできて
かすめ取っていくということが結構あるのだそうです。

カモメは悪食というくらいの雑食で、空飛ぶネズミとも言われるくらい、
なんでも食べる鳥です。
その点カラスと似たようなものですが、この辺ではカラスより威張っています。
やはり港町は俺たちの縄張り、とでも思っているようです。



サンフランシスコ湾をみているとよく目撃するのがペリカンの群れ。
こんな感じで海面ギリギリを這うように集団で飛んでいます。
水陸両用鳥なので、何かあったら着水するのでしょうけど、
それらしい光景を海では一度も見たことがないおで、目的は不明です。



集団といえばこんな集団も見かけました。
お揃いの青い服の若い女性たち。
これは間違いなくブライズメイドを勤めた、あるいはこれから務める、花嫁の友人女性達です。

ブライズメイドとは結婚式では花嫁の側に立ち、バージンロードでで花嫁に先立って入場し、
花嫁の身の回りの世話をすることもあります。
白以外のお揃いのドレスを着てブーケを持ち、花嫁に華を添え引き立てるのが役目で、
主に花嫁の友達、姉妹、親族で、未婚の女性が務めます。

ドレスは新婦が用意してプレゼントすることが多く、アメリカにはこれを選ぶ番組
(花嫁が選ぶ服が気に入らなくて泣いたりする回もある)まであります。

彼女たちは色だけを決めて、自分たちでおのおの購入した模様。

風の吹きすさぶ突堤では辛そうな格好ですが、皆皮下脂肪がありそうなので
思うほど本人は寒くはないのかもしれません。



同じ場所を横切っていった全身赤づくめの女性。
この裏手にパフォーマンスをするテントがあるので、出演者であろうと思われます。



このときでだいたい7時過ぎといった感じでしょうか。
ホテルのあった地域は焼けるように暑かったのに、ここは寒く、
厚い雲の上に太陽が輝いていて雲の隙間から光を降らせます。

左手に見える船が去年見学してお話ししたリバティシップ、「ジェレマイア・オブライエン」。



ゴールデンゲートブリッジのところまで行ってきた観光遊覧船が帰ってきます。



そうしている間にも食事は進み、二人で一つデザートを取ることにしました。
「モチ・アイスクリーム」(雪見大福みたいなものかしら)が売り切れていたので、
熱いチョコレートケーキを。

この変なチョコレートの飾りつけは意味不明。
タコかな?(ジャパニーズレストランだし)と思ったのですが、
ウェイトレスは息子の側に置いたので、それは違うようです。
単にセンスが悪い、でOK?



ヨットが帰ってきて、見ている前でスルスルと帆を下ろしました。



一階の広場ではまだパフォーマンスが行われています。
火を使ったジャグラーをしていた女性。



シャッターを使わないで撮ったらものすごく怖い、日本人形のコーナー。



犬や猫グッズだけを集めて売っている店。

「アタック・キャット・セキュリティシステム」

「この建物はイングリッシュ・トイ・スパニエルセキュリティシステムによって守られています」



階段がピアノ。



8時過ぎだけどまだまだ遊んでいる子供多し。
一階いくらでロープをつけたベルトを装着して、トランポリンの上でぴょんぴょんできます。
この女の子はジャンプだけでひっくり返ったりはしませんでした。
実際にやってみると結構怖いものなのかもしれません。



というわけで、8時半ごろ、またベイブリッジのところまで帰ってきました。
ライトアップと、対岸の灯りが美しい。








日系アメリカ人~Military Intelligence Service(アメリカ陸軍情報部)

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今アメリカにいるので?関係のあるところで日系アメリカ人シリーズです。
 


"MIS"とは、アメリカで対外戦のために設置された陸軍情報部の略です。
対日本戦のために日系二世たちが集められました。
情報戦を戦うために、敵国の血を引く者ばかりの部隊を編成したのです。

MISには日系人だけでなく、ドイツ語系の語学要員の部隊もありました。

今回は病気でそれどころではなかったのですが、ここSFに来るたび散歩に訪れる
ゴールデンゲートブリッジ下のクリッシーフィールドという海沿いの一帯があります。
当ブログでも何度かご紹介しているのですが、ここには昔要塞と飛行場があり、
当時クリッシー・陸軍飛行場という名称で呼ばれていました。

ここに日系二世を集めた情報部隊、陸軍第4情報学校が設立されたのは1941年の11月。
この日付に何か気づかれませんか?
そう、これは真珠湾攻撃のちょうど1ヶ月前なのです。

校長と4名のインストラクターは日系アメリカ人、生徒がほぼ全員日系二世という部隊を、
アメリカは真珠湾攻撃直前に設置したということです。

これはアメリカが日本に先に攻撃させるべく政治を動かし、その上で

そろそろ日本が開戦に踏み切ることを予想していた

ということでもあり、少なくともこの時召集された日系米人は
真珠湾攻撃のニュースに一般のアメリカ人ほど驚かなかったのでは、
と思うのですが、いかがなものでしょうか。



MISの任務は翻訳、情報収集、文書の分析、開戦してからは捕虜への尋問、
投降の呼びかけなどでした。

授業では、日本の地理・歴史・文化を学び、それを基礎知識として、
 日本語の読み書き・会話・翻訳・通訳・草書の読み方や捕虜尋問の方法、
『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語の翻訳、
前線の日本兵から入手した手紙・日記・地図等の押収文書の翻訳を学びました。


さて、開校してから一ヶ月で真珠湾攻撃が起こり、日米両国は戦争に突入します。
その直後からFBIと警察は、ハワイと本土の日系コミュニティ・リーダーを逮捕し始め、
1ヶ月後には米軍に所属していた多くの日系人が説明もされないまま隔離されたり、
除隊されたりということが起こり始めます。

ルーズベルトが日系人の追放と収容所への収監を発令したのが2月19日。
3月30日からはすべての日系人に対して軍が徴兵することが禁止されます。

そしてこの語学学校も、 軍事地域からすべての日系人を排除する命令によって、
サンフランシスコからミネソタ州のキャンプ・サベージに移されることになりました。 
ミネソタが移転先に選ばれたのは、カ州のような偏見がなかったためだそうです。

しかし、戦争が始まってわずか4日後に、ハワイでは高校生を含む日系二世が
ハワイ州の兵隊に志願で集められたり、

大学志願兵部隊(トリプルV、Varsity Victory Volunteers)

が編成されたり、つまりアメリカでは開戦後、日系人の扱いを巡って正反対の、
様々なことが一挙に起こっていたということになります。 



プレシドにあった頃の情報学校の生徒たち。
これはクリッシーフイールドで撮られた写真です。

情報学校での語学訓練は大変厳しいものでした。

午前 8 時から午後 5 時まで毎日9時間の授業。
それが済んだら午後 7 時 から9時までは復習と予習。
土曜日も4時間の授業が行われました。
日常的な日本語に加えて、兵語や地図の読み方、草書にいたるまで。



日本で教育を受けたことのあるものはごくわずかで、あとはゼロからの学習だったため、
「 6 カ月で3000字の漢字を覚えた」生徒もいたそうです。



今現在と、全く様子が変わっていないというこの感動すべき光景。
ゴールデンゲートブリッジが後ろに見えます。
ブリッジ手前は当時の格納庫で、現在はロッククライミングセンターになっており、
ずっと左手に行くと、週3日くらいオープンしている「日系アメリカ人記念館」
があるのは、この関係からに違いありません。

戦争が進むにつれ、終戦後 の日本占領を見据えて兵士は増員されました。
カリキュラムは短縮され、その内容 も政策、産業、法学など、
高度かつ多分野に渡る日本語能力の要求に応じるものとなりました。



MISには女性将兵もいました。
最初のMISランゲージスクールの卒業生たちは、海外にも派遣されています。

海外って日本もですよね?



ミシシッピのフォートスネイリングにあったMISの女性隊。
 スネイリングの情報部基地は、ミネソタのサベージに移転した後、
対日戦争のために人材を必要とされた二世情報部隊の増加に伴って設置されました。 



左がヒロシ・”バド”・ムカイ、真ん中がラルフ・ミノル・サイトウ軍曹。
1945年6月17日、沖縄で捕虜を尋問しています。

日系人であるから日本人に対して同情的であったかというとそうではなく、

「捕虜を生きたまま捉えた者には、アイスクリームがご褒美」

というようなおふれが日系人情報部隊に出回っていたように、やはり彼らも
アメリカ陸軍の人間として日本人との戦闘を行っています。

元MIS隊員のディック・ハマダは、先の尖った竹を地面に突き刺して罠を作り、
日本兵を追い込んで串刺しにして殺したと証言しており、
しかもこれはごく一部の例にすぎませんでした。



左からに番目に立つのはアイケルバーガー将軍。
陸軍第8軍の司令官となり、対日戦、終戦後は占領を指揮しました。
1947年の天皇陛下御巡幸の際、お召し列車とアイケルバーガーの乗った列車がすれ違った時、
お召し列車を待たせたというエピソードがあります。


左の陸軍帽子が捕虜で、二世通訳(ヘルメット)は将軍の言葉を翻訳して質問しています。



左上から、戦場で日本語で降伏を勧告するアナウンスをする二世兵。

右上、降伏した海軍施設の代表に海軍のフレッチャー提督の通訳をするウィリアム・ワダ。

左下、降伏調印式における情報部隊のトム・サカモト。(中央)

そして右下、ジェネラル・マッカーサーと通訳で付き添うMISの将校。

日本占領に当たって、マッカーサー将軍が最もあてにし信頼したのがMISでした。
冒頭挿絵を見てもおわかりのように、対米戦争における二世部隊は「シークレットウェポン」、
つまり強力な秘密部隊でもあったのです。



展示室の一隅に、ジャパネスクを意識した照明の、こんなコーナーがありました。



このユニフォームはMISののサカキダ氏が、フィリピンの日本軍保所収容所を脱出して
ジャングルに潜んだのち、アメリカに帰国するにあたって「制作した」ものだそうです。
細部を見ても手縫いには見えないんですが、ミシンはどこで調達したのでしょうか。



サカキダの受けたブロンズスターメダル、優秀勤務メダル、オナーメダル。
現役時代使っていたコンサイス和英辞典があり、また、日本の陸軍士官の名簿
(アルファベット順)もこんな小さな本に編纂されていたようです。



海軍主計部隊が出征に当たって認めたと思われる日章旗への寄せ書き。

この寄せ書きはMISのメンバーが南方のいずこかで獲得し持ち帰ったものです。
遺族はこの旗をなんとか遺族に返したいと思い、当博物館に寄贈したのですが、
いまだにここにあるということはまだ見つかっていないということなのでしょうか。

この英語の説明には、

「日本では家族が出征する時に、彼の故郷がこれを贈った」

となっているのですが、この寄せ書きは個人に宛てたものではなく、
主計科全体で行ったものだったため、誰に返却していいかわからなかったのかもしれません。

まさかこれを見ておられる方で、ここに書かれた名前をご存知であるという方はおられませんか?



MISのニシジマ(右)が、日本人兵士に捕虜になるよう勧告している(した?)ところ。
沖縄戦では、沖縄方言を使って投降勧告を行うなどの任務に当たりましたが、
もしこれがなければ、沖縄戦の犠牲者はもっと増えていたとも言われています。



与那国島で捕虜になった陸軍大佐に尋問するジロー・アラカキ軍曹。
真ん中はMISの白人将校です。

この陸軍大佐は沖縄で捕虜になってしまったということですが、
生きて虜囚の辱めを受けてしまっているせいか、汗をぬぐっています。 



通訳として「ビッグネーム」に当たった二世は、それも名誉と考えたようです。
マニラの軍事法廷で山下奉文の通訳を務めたタダオ・イチノクチは、
どうやら自分のために、山下大将と一緒にわざわざ写真を撮ってもらった模様。

ご存知のように山下大将はこの法廷で「マッカーサーの復讐」ともいわれる
一方的な裁判を受け、戦犯として有罪判決を受け死刑になったわけですが、これを見る限り
山下の表情は穏やかでかつ悠揚迫らざる迫力に満ちており、卑屈さは微塵もありません。



これを書く前に、山崎豊子の「二つの祖国」をKindleで読み直しましたが、
二世たちにもその数だけ人生があり、日本に対する考え方も様々であったことが描かれています。

軍政府内の住民用尋問室では、暴力的な尋問を行うう日系人通訳がいましたし、また、
沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、

「米軍が今もっとも必要とする人間」

として認められた現実に満足して、日本人を見下す者もいました。

当時の日本政府機関や民間の団体が、なにかの許可申請や陳情を行うのには、
まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があったと言われます。(wiki)
かと思えば、「二つの祖国」の主人公、天羽賢治のモデルになったデイビッド・イタミのように、
日本とアメリカ、二つの祖国の狭間で重圧に耐えかね、自殺してしまった者も居ました。


シリーズ次回は、そういった二世たちから何人かを取り上げてご紹介したいと思います。



続く。 

 

車上から撮るサンフランシスコ

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というわけで、サンフランシスコからなんとかかんとか帰ってまいりました。


住んでいた時期も含めて毎年月単位で過ごしている町なので、すっかり
第二の故郷のようになってしまっているこの土地ですが、
同じアメリカでも随分特異な土地柄であると思われているようで、
いつ行っても、とくにベイエリアはアメリカ人観光客だらけです。

今日は、移動する車のフロントガラスを通じて見たサンフランシスコ、
という限られたテーマでお送りします。



ゴールデンゲートブリッジを後方に臨むハーバー横の車道。
この右側前方には芝生の緩衝地帯が広がっており、ここでよく
テレビや映画の撮影が行われています。
たくさんのヨットのマストが林立していますが、坂の途中に住み、
ハーバーに自分がオーナーであるヨットを持つのが、サンフランシスカンの
一つのステイタスでもあります。

自転車のほとんどは観光客向けのレンタサイクルのようです。



ご存知チャイナタウン。
昨今サンフランシスコも中国人の観光客が増えておりますが、なぜか
中国語が通じるチャイナタウンに押し掛けたりするようです。

サンフランシスコのジャパンタウンというのは、単にモールの名称ですが、
チャイナタウンは名実ともにそこに中国が展開している居留地です。
チャイナタウンはGGBのようにサンフランシスコの名所?ではあります。
桑港のチャイナタウンって言う渡辺はま子の歌もありましたし。



でも、いまも、そして多分昔もチャイナタウンってこんな歌の中身みたいな
ロマンチックなところじゃないのよね。

建物は西洋風なのに生活様式が中国な人たちが街並みを作り上げ、
歩道は得体の知れない油で黒ずんでベタベタしているし、変な匂いはするし、
町を歩けばレストランの客引きがよってきてうざいし、下手すると
バッグに後ろから手を突っ込まれそうで、(偏見じゃありません)
わたしたちは住んでいる間、そして日本に帰ってからを通じて2度しか来ていません。

そのうちの一度、店の漢字の看板でわかったのですが、どうもここでは
中国元が堂々と流通している模様(笑)



カリフォルニアストリート、というのはサンフランシスコの坂で最も有名な、
「ケーブルカーが空へと登っていく」という歌でも歌われた坂がありますが、
このフェアモントホテルは、その坂の頂点にあります。
今回、この道向かいにあるインターコンチネンタルが安かったのですが、
女性一人でダウンタウンに泊まるのは何かと危険があるため、あえて空港近くにしました。

結果、今回のホテルは空港近くのオフィス街(隣がウォルマートの支社)で、
夜中の三時でも飛行機の爆音がする以外は大変良い環境。
朝の5時に火災警報で叩き起こされた(本当に火事だったらわたしはたぶん
肺炎か何かになって死んでいたと思う)以外は何の問題もないそこそこのステイでした。



フェアモントホテルを過ぎると、ここから急激な坂が始まります。
真ん中にケーブルカーの線路がありますが、雨の日にこの上を走るのは
スリップしそうで無茶苦茶怖いです。

 

左手に見えるとんがったビルが、SFのランドマークともなっている
トランスアメリカ・ピラミッド。

駐車している車の前輪が皆右側に向いていることにご注目。
坂道に止める時、サンフランシスコでは必ずハンドルを路側帯に向けて切り、
万が一車が動き出すことがあっても敷石で止まるようにしておかなくてはなりません。

これは東から西に移住する時に受けなおした自動車免許(アメリカの免許は州ごとに
別の交通法規があるので受け直さなくてはならず、それが州民のIDにもなる)の
取得試験で出される問題になるくらい有名な、SF市の法律になっています。

わたしもこれは合理的だと思うので、坂道に止めるときにはいまでも実行しています。 





道の左手にはチャイナタウンのゲートでもある建物が見えます。
茶色い建物の一階に確か東洋人経営のコインランドリーがあって、
家探しの旅行中利用しましたが、ひでえところでした(笑)

断じて思いますが、アメリカ人の持っている「東洋人は綺麗好き」
「だからクリーニング屋」というイメージは、全て戦前の
日系アメリカ人1世が額に汗して作り上げた実績を中韓系が戦後
横取りしているだけで、彼らの衛生観念なんて、居住地を見れば一発でわかります。



いきなりゴールデンゲートブリッジの写真。
橋を渡り、パーキングから橋とサンフランシスコの街を眺め、(夏でもたいてい寒い)
降りたところでUターンしてもう一度渡って帰ってくる。
観光客のほとんどはこのコースで GGBを観光します。



この日は(上とは別の日)、霧が濃く、ブリッジの上半分が全く見えませんでした。



もう一度ダウンタウン。
左にチラッと見えるのが通称バンカメ、バンクオブアメリカンビル、
向こう側はちょうどケーブルカーのターンテーブルの前のビルで、
格式高く見えますが実はショッピングモール。1階はGAPだったりします。




この手のお店についての事情は全くわかりませんが、なぜか
「マッサーヂ」という日本語があるので、経営者は間違いなく
日系ではない(中華系かコリアン系)であると思われます。

ホームページによると、

美しくて素晴らしいプロフェッショナルのアジアンガール(コリアン、
タイ、ベトナム、チャイニーズ、ラテン)があなたをお待ちしています。
ここから(ログイン)女の子を指名できます。

ってことなので、本当にマッサーヂなのかまた別の話なのかは
さっぱり見当がつきませんが、とにかく日本人がいないのはわかった。



基本的にアメリカの大都市のダウンタウンは皆こんな感じ。
100年越えの古いビルを中だけリノベーションして使い続けたり、
そうかと思ったら超近代的なオフィスビルがその横に屹立していたりします。

地震のある地域ですが、日本のようにビルをしょっちゅう壊すことはせず、
建築にも厳しい規制があって、景観を重視しています。



今回病気を押して出かけた時の「車上ショット」。
道向こうの建物の一角が、昔住んでいたことのあるタウンハウス。

外国人で現地の慣習や近所付き合いについての作法も知らない身には、
そういった住人の多い賃貸式のタウンハウス(その町全部が同じ業者の賃貸で、
町の中には公園やグロッサリー、住人なら無料のジムやパーティルームがあり、
一軒家か高層住宅かも好みで選べる)はありがたかったです。



夏の間サンフランシスコ市内で息子をキャンプに行かせていた頃は、
この中の業者刈り上げコンドを月単位で借りていたものですが、
ちょうど今映っているところにも一夏住んだことがあります。

懐かしいなあ・・・。

このタウンハウス、向かいに今でもゴルフ場があるのですが
(わたしもTOもゴルフと無縁なので意味なかったのですが、もしやるならば
値段的にも毎朝ジム感覚で通えるくらい安かったらしい)
昔この部分もゴルフコースだったのを、1940年住宅地にしたということです。

全米で2番目に大きな一所有者のもつ賃貸地域のコミュニティということです。

Parkmaced, San Francisco

ここも、サンフランシスコへの移転が決まって家探しに来た時、
わたしが車を走らせていてふと直感が働いて決めた住居でした。
ちなみに今住んでいる家も、わたしの直感で決めたものです。
自慢ではありませんが、わたしのこういう住地を決める際の直感はわりとあたります。



サンフランシスコには南に向かうフリーウェイ、108と280が二本並行して走っており、
これが通勤や輸送、移動の動脈となっています。
こちらは280で、海岸寄りの山中を走る道。
こちらの方が空いていることが多いので、シリコンバレーから空港に向かう時には
急がば回れで確実なこちらを使います。



今回のサンフランシスコ滞在は雨季のため雨が続いたのですが、
帰る日にはとてもいい天気になりました。
いわし雲と夏雲が一挙に出てくるという妙な気候です。

こちらは101ですが、反対車線は大事故が起こっていて、
片付けが済むまで大変な渋滞だったようなので、このときも
空港へは280で向かいました。


今回の滞在についてはまた別項でご報告させてください。


 

「いずも」に乗った日

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思いがけないご縁のおかげで、話題のDDH、「いずも」の就役・引渡し式に
出席し、その海自艦としての旅立ちを見届けたわたしですが、
今回ふとしたことで中に足を踏み入れることに成功しました。

ただし、ただしです(笑)

今回は一般公開などという開かれた機会とは関係なく、
用事で中に入る人にくっついて行って、ついでに艦長にご挨拶させていただいた、
というゲリラ的訪問だったので、内部の写真などは何もありません。

遡ることその前日、わたしは今になって去年のイベント参加を取り計らっていただいた
ある方に、そのお礼のお土産を渡すために会って会話をしておりました。

その会話中、たまたまその何日か前に見たニュース、

「いずも」の艦長からRR艦長にだるまのプレゼント」

というツィッターを受けて報じられた写真を見たことを思い出し、
吉野艦長をご存知であるその方に報告するためにその話をしたところ、

「明日いずも行きますので来られますか?」

というお誘い。
その方が用事で「いずも」に行くことが、その次の日に決まっていたというのです。
だるま贈呈の話をわたしが思い出さなければ、その方も次の日に
「いずも」に乗ることを思い出すこともなく、つまりこんな機会はこなかったでしょう。

わたしはつくづく自分のこういうことに対してだけ妙に嗅覚の利く体質と、
この偶然と、そして人脈ともちろんこの方に、感謝したのでありました。



次の日、車で行くことも見越して早めに出たため、1時間前についてしまいました。
車を道沿いのコインパーキングに駐めていつものスターバックスで待機。
もうすっかりおなじみになったスターバックスからの眺めですが、
最初に来た時にはそれは感激したものですよ。

今は、お、前に「ひゅうが」の定位置だったところが今は「いずも」なんだな、
などとちょっとした変化がわかるようになって、少し嬉しい。



季節が冬なのであまりゴミが吹き溜まっていない季節とはいえ、やはりよくよく見ると
いろいろと打ち上げられているのだった。

水際ではせっせとカモさんが羽繕いしています。

「いずも」へは横須賀駅で待ち合わせてから行く約束になっています。
ゆっくり港を見ながら歩いて行くことにしました。



いつもの海自潜水艦が繋留されている米軍側のドックには
「おやしお」型の潜水艦がいました。



ちょうどその対岸に当たるところに、現在のドックの位置を示した写真が。
昔米軍基地見学ツァーを終えてから、かなりこのドックについては
説明するために勉強しました。

まだ慶応年間に我が日本では最初のドライドックを持っていたということがわかり、
驚かされた記憶があります。

慶応三年のドライドック

上のエントリによると(笑)、この三つのドックのできた順番は
第1(1871年)、第3(1874年)、第2(1884年)となっており、
できた順番ではなく、場所で番号を割り振っています。




現在と比べると他の建物がないためまるで生け簀のような状態に見えますが、
右側が第1ドックで、どちらも現在入渠中の写真です。



俯瞰で見た第1、第2ドックの写真もパネルに掲載されていました。
上のエントリにもありますが、第1ドックの建設に大きく関わったのが
この公園に名前を残している若きフランス人技師、ヴェルニーで、関東大震災のとき
ドックがびくともしなかったのも、彼の仕事が確かだったからということです。

誠実に事業にあたり、外部の雑音に一切耳を貸さずに業者を選定したことが
150年にわたっていまだに現役であるドックの完成を実現させました。




横須賀軍港巡りの土産物屋さんでも買えるこの古地図、横須賀港のかつての姿です。
ちゃんと三つのドライドックも描かれていますね。

昔、ヴェルニー公園の対岸には、のちの横須賀造船所、横須賀製鉄所がありました。
慶応元年に鍬入れ式が行われてから、次々と施設が付加されていき、
横須賀の町とともにこの地域は一台工業地帯として発展していくことになります。

この工場は日本の工業の先駆けにおいてモデルケースとなり、ここで
近代工業の基礎だけでなく、例えば日曜休日制や労働時間の決まり、
メートル法、集団検診など、近代化のさまざまな「初めて」が形となりました。

この絵は明治14年に発行された当時の横須賀の地図で、これ自体が印刷されて
お土産になっていたといいますから(つまり今と同じ)進んでますね。



艦番号63の「ステザム」さんが係留中。
アーレイバーク級のミサイル駆逐艦ですが、そういえば姉妹艦の
艦番号89、「マスティン」には観艦式に参加していただきました。
操舵も危なっかしい韓国の駆逐艦のうしろをがっつりと固め、
遅れないようにおらおらと煽って進ませてくれてご苦労様なことでした。
(わたしがいったんじゃありませんよ?)

そういえばここはいつも「マスティン」さんの定位置だと思っていましたが、
いつも同じところに泊めるとは限らないようです。



これは曳船ですが、どうも日本の曳船ではないみたい。
一応共同運行なので、曳船も共用ということが多いとは思うものの、
やはりあちらは「ロナルド・レーガン」なんかの超弩級の出入港など、
他所には決して任せられない!という部分はかなりあるのに違いありません。
 


ああ、10月の観艦式の時、3回のうち2回はここから出航したのだわ。
防衛団体の賀詞交換会でお会いした防衛省の情報にお勤めの制服の方は、
わたしが「3回行った」というのは、「通算3回行った」という意味だと思っていて、

「1回目はむらさめ、2回目はあたご、3回目は・・」

と話し出すと、

「え、それはもしかして今年の観艦式のことですか?」

とえらいこと驚かれてしまいました。
全日行った人は少なくともわたしが知ってるだけであと3人はいましたが何か。

とにかくここには今「きりしま」がいます。

ところで本ブログのプロフィールが「174」の「きりしま」だと思っておられる方、
こちらは読者のmizukiさんがプレゼントしてくれたもので、 
よく見ると艦番号は「1.74」、「きりしま」ではなく実は「ちびしま」なのです。
念のため。



そんなことは今はよろしい(笑)
待ち合わせは横須賀駅前、相手の方は着くなりスカレー君を激写。
ついでにわたしも撮ってみました。



気になっていた、スカレーが捧げ持つカレーも激写。
これ、ものすごくちゃんとしてませんか?
まるでロウのサンプルみたい。
長年ささげ持たれているせいで埃がたまり、ご飯が黒ずんでいる以外は
ちゃんとビーフカレー(じゃがいも入り)であることまでわかります。


さて、スカレーの撮影を終わり、二人で門の中に入りました。



入る直前にヴェルニー公園の端っこから撮った写真がこれ。



門を入ってから柵の合間からもう一度「いずも」の姿を一枚撮って、警衛に向かうと、
入場のための手続きをする前に、海自迷彩の警衛隊員が近づいてきて、

「先ほどそこから写真を撮っておられましたが」

えっ?(ドキドキ)

「門を入ってからは写真撮影禁止なので撮らないでください」

ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン!! だめだったんかい!

まあ、一般公開でもない平常営業?日だったんで、当然ですか。
連れの方はというと、警衛の窓口に手続きの紙を書いてわたしたあと、

「これ持っててください」

と言われたのをそのままカウンターに置いていたところ、

「これ持っててくださいって言ったでしょ?風で飛ぶんですよ」

とおじさんに叱責されておられます。
うーん、一般公開の時のあの、誰でも来るものは拒まず、
私たちに何でも聞いてください、のウェルカムでフレンドリーな顔とは
若干様子の違う自衛隊のそっけない一面を見た気がしますな。

とは言うても警衛の受け付けは自衛隊でなく警備会社社員だったんですけどね。
しかもこちらは防衛団体の視察でも偉い人のお招きというわけでもなく、
名義上は「いずも」艦内の部との打ち合わせ?というか商談?というか。

警備会社の係がぞんざいに対応してもまあ、当然ってこった。


桜のマークの付いた黒い車で送ってもらったり、赤いリボンをつけていたり、
一般公開以外ではそんな訪問ばかりをしていて、自衛隊という組織の一面しか知らない
わたしにとって、ある意味「普通」を知る上で大変興味深いものでありました。


というわけで、一切の写真を禁じられてしまったわたしは、同行の方の
所用のためにまずは担当部署に行くことになりました。

あの日、磯子の造船会社でその真ん前に立ち、皆の乗艦を見送った、まさにその
同じハッチから入っていくと、そこから艦内をまた何段も上へ上へと登っていく
あの懐かしい苦行を経て、士官食堂に通されました。

その方の用事が終わるか終わらない頃・・・・・、
「いずも」艦長キタワァ.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!☆



〜会見終了〜




終わって埠頭を歩いている時、

「なんか・・・表沙汰にはできない話ばかりでしたね」

と思わず呟いてしまうほど、その話の中身は「うちわ」でした。
人事であの人がどうなったとか今あそこの船がどうなっているとか、
今となってはわたしにもわりと理解できるレベルの話ではありましたが、 
とにかく特定ではないにしろ、守秘義務のないわたしでも他言無用な話ばかり。 

かろうじて、部屋の隅にあっただるまの話題から、わたしがここにくる
きっかけとなった「ロナルド・レーガン」の艦長と吉野艦長のニュースが
話題になったことくらいかな。ここで書けるのは。

「面白いおじさんでしたよ〜」

吉野艦長はそういってボルト大佐のカタカナ表記の名刺を見せてくれました。
クリス・ボルト大佐は、アメリカ海軍の空母艦長の他の例に漏れず航空出身、
EC-2ホークアイのパイロットをしていました。
艦長の話によると、ボルト大佐、元々はアストロノー志望だったそうです。

アポロ計画の昔から海軍のパイロットが宇宙飛行士になる例はいくつもあって、
それを目指すために海軍に入るという道もあるということなんですね。

いろいろあってそれは実現しなかったボルト大佐ですが、今は

 

「でもそのかわりにこんな大きな船の艦長になれたからいいもーん」(曲訳)

と豪語して現在の空母艦長という職に満足しておられるようです。
めでたい。 

士官食堂のテーブルに座って話をしている時、ちょうど艦内に
自衛艦旗降納のためのラッパが響きました。

「今でも現役ですね」

吉野艦長が笑いを含んで指摘したのでわたしは初めて気がついたのですが、
隣の同行の方は、椅子に座ったまま姿勢を正しておられました(笑)
(かつての士官である)

歩くのが早いとか、海軍5分前を旨とするとか、アイロンがけとか、
いろいろと身にしみついてしまったかつての習慣の一つなのでしょうか。
海自に一度でも身を置いたことのある人には、このラッパが吹鳴されるとき、
少なくとも背中を丸めていることはできないらしいと言うことがわかりました。



さて、艦長にお暇を告げ、出口まで送っていただいたのですが、
帰りはハッチとは違う「偉い人専用階段」から降りることになりました。
ここが「正門」にあたるので、表札に当たる艦名の書かれた看板があります。

「いせ」の看板が伊勢神宮の式年遷宮のおさがりを使ったものであるように、
ここの看板も当然のように2013年に式年遷宮された出雲大社のお下がりです。
式年遷宮と「いずも」の進水式はほぼ同じ時期だったということなんですね。
つまり、このころからこの年に進水する新鋭艦の名前は決まったのだろうと思いました。

「いずも」の文字も出雲大社の宮司の筆によるものだと聞きました。




ヤマタノオロチの剣をあしらった「いずも」のマークの横には、
初代「出雲」と現在の「いずも」が描かれた比較図があります。

「出雲」の戦没年を見てもしやと思ったのですが、やはり「出雲」は
昭和20年7月24日の呉空襲で、米軍艦載機の攻撃により着底していました。
「出雲」というと、日露戦争であの上村彦之氶将軍が乗った船で、蒜山沖海戦では
沈没した敵艦のリューリックの乗員を救ったことで有名だった船です。

 



上でクリス・ボルト大佐のプロフィールを開けてみた方は、この写真との
ある共通点に気がつかれませんか?
そう、右に行くほどだんだんわかりにくくなっていますが「ス マ イ ル」です。

なんでも、この写真を撮る時に、三役?の写真はアメリカ海軍のように
スマイルで撮ることにしよう、ということになったのだそうです。
さすがに本格的に歯を見せてはいませんが(ハルゼー除き米海軍は歯見せが基本)。
 

 


ここまでご案内くださったのはもしかしたら真ん中の副長さんだったかもしれません。
写真を撮る時間も待っていただき、さらには

「わたし!引き渡し式の時にハッチの前で見送らせていただきまして!」

と全く意味のない自己アピールを聞いていただいてありがとうございました。
おまけに、偉い人専用階段から我々が降りる時には、そこにいた全員が
びしい!と敬礼で見送ってくださって・・・・。

基地隊の入り口での普通扱いもそれはそれで新鮮でしたが、肝心の「いずも」の方々に
最後をこのようなお見送りで締めていただけると、やっぱり今日も海上自衛隊は
期待を裏切らないいつものスマートなネイビーだったなと嬉しくなるのでした。



 







アメリカで寝てきた

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といっても差し支えないくらい、今回の滞在は悲惨でした。
そもそも渡米直前にディズニーランドで風邪をもらい(この風邪も
目の前を通った子供が口を覆わずに嫌な咳をした瞬間、あ、今うつったな、
とはっきり分かった)、それが発病したのが出発前日。
明らかに高熱が(しかも計らなかったけど38度以上)出ているのに
よりによってユナイテッドのプラスクラスとはいえエコノミー、
夜中の12時過ぎに出発という踏んだり蹴ったりな旅程です。

そもそもマイレージ特典の期限が近づいていて使うためというのが目的の一つ。
1月中に使わないと西海岸2往復分が失効してしまうと思っていたので、 
ここしかないという日にわたし一人で渡航する予定を立てたのですが、
後から考えたらマイレージを購入でもすれば期限は伸ばせたのよね・・・。


まあ、行くなら行くで用事もあることだし、程度の理由だったので、
この体調不良は気は楽だったけどとにかく堪えました。



サンフランシスコ空港から車で10分くらいにあるマリオット系のチェーンホテルで、
ベッドはキング、部屋はリクエストで一階にしてもらいました。
多少なりともまともなホテルで良かったと思ったのは、ベッドのシーツが良かったことです。

特に着いてすぐの夕方から翌日の夕方4時まで、ほとんどをこのベッドの上で
わりと苦しみながら寝たり起きたりを繰り返していた病人にとっては、
シーツが安いホテルのザラザラしたものでない、エジプト綿のツルツルであっただけで
この綿の肌触りには救われたという感じでした。

少し元気になってからは、当ブログに上げるためのエントリを添削しながら
テレビを見ていましたが、前回にはなかった新番組もできていました。
やはりサバイバルものですが、全裸の男女では冬場に見たくないという声でもあるのか、
三人の太った男がインストラクターと一緒に限界にチャレンジするというものです。
(誰得)



元気になってから、ホテルにちゃんとしたレストランがあることに気づき、
夕ご飯を食べに来てみました。
まだ5時でオープンしたばかりなのでわたししかいません。
テレビではウィンタースポーツの放映をしていましたが、



合間にアメリカ海軍のかっこいいコマーシャルをガンガンやっていました。
テレビで自衛隊の宣伝ができるようになって初めて普通の国よねえ、
とこんな広告をみながらわたしは思うのでした。

ところでこの地図って、日本が完璧に字の影に・・・(怒)



こんなものしか食欲がわかなかった、チャイニーズチキンサラダ。
こちらで言う所のこれとは、甘い酢のようなドレッシングがかかった
チキンサラダのことで、必ずナッツや揚げた「揚げ」などのパリパリする
ものが歯ごたえのために混入している、という代物です。

他に何も食べていなかったのでゆっくり咀嚼しながらそれでも4分の3は食べました。
(だいたいアメリカで出てくるものをわたしは全部食べられた試しがない)
決しておいしいとは言えませんでしたが、体力をつけるためには食べなくては。

三人の太った男のサバイバルで、インストラクターに言われて体力温存のために
無理やり虫を食べさせられて

「うええええ!これまずい!ゲロマズ!」

と唸っていたおっさんの姿がなぜか浮かびました。



今回はレンタカーにもトラブルがありました。
着いてみると予約しておいたはずの車、ありません。
あとからわかったのですが、夜中の12時過ぎに出発してアメリカ時間の前日夕方到着、
という変則便だったため、TOがレンタカーの予約をカード会社に頼む際、
間違って1日あとを予約してしまったのです。

「明日の夕方からなら車借りられますが」

とデスクは言うのですが、この体の状態で明日生きていられるかどうかもわからないのに
わざわざタクシーで車を借りに来れるかどうかさらに自信がありません。
しかも、今日借りられるクラブメンバー枠の車はもうない、と係はぬかしやがります。

背に腹は変えられん!と割引のない車を借りて、次の日、熱をおして
もともとの予約の車に交換に来ました。

長くもない滞在でまったくなにやってんだか。



しかも翌日からずっと雨の降りっぱなし。
夏の間の記憶しかもはやない息子に雨だったというと「へえ!」と
驚いたくらい、夏の間雨の降らないのがカリフォルニアですが、
この時期は雨期でもあるので、結構な確率で雨に遭遇します。
サンフランシスコに住んでいたある年のクリスマスには、
すごい大雨の上台風が来て街路樹が倒れたこともあります。

とにかく、寝ているばかりで日程が終わってしまっては死んでも死にきれないので、
わたしは3日目にして初めて外に出ました。
これも目的の一つである、友人の店に行くためです。

彼女はわたしが日本に帰ってから知り合うようになったコンサイメントショップの
オーナーで、去年の夏行くと、

「来年の3月にはリタイアしてフロリダに行くからこれでお別れね」

と言っていました。
そのときはグッドラック、といって別れを惜しんだのですが、メールが来ていたので
リタイア前に買い物に行ってあげたらさぞ喜ぶだろうな、
と思いついたのが、今回の旅行のもう一つの理由になりました。

電話もメールもせずいきなり現れたわたしに、彼女は驚きながら喜んでくれました。



「かぜなの?辛そうね」

うつしてはいけないと直前にドラッグストアにマスクを買いに行くと、
この50枚入りの大箱しか売っていませんでしたが、(これがアメリカ)
とにかくマスクをして入店すると、

「いい心がけね。みんな風邪ひいてるけどマスクしないの」

確かに店内で盛大に咳をしているひとがいる・・・(−_−#)
しかし日本人と違ってアメリカ人はほんとマスクしませんな。
もしディズニーでもらっていなかったとしても、彼女の店でうつってたと思う。

最後のご祝儀買い物という意味もあって、わたしが最後に選んだのは
新品のヴィトンのヴェルニ、シャネルのジャケット、ロロピアーナのワンピース。



旅行鞄以外のモノグラムのバッグは好きではないので一つも持っていませんが、
このヴェルニタイプならエンボスだけで色は単色。
深い深いバーガンディが最近のわたしの「トレンド」なのでピンときました。
今までに彼女から買った幾つかの洋服やバッグとともに、これからも
彼女の思い出となってわたしと一緒に年を取ってくれるでしょう。

ところで、この店では買い物しながらあれこれとおしゃべりするのが楽しかったのですが、
今回わたしは気になっていたことをアメリカ人の代表として彼女に聞いてみました。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、アメリカ人ってドナルド・トランプの事どう思ってるの?」

「トランプ?」

彼女は肩を震わせてイヤイヤをするような仕草をしながら「Ewwww!」と叫び、

「嫌だわ。大っ嫌いだわ。この辺の(サンフランシスコ市内)人だって
誰も支持してないのに、一体アメリカ人の誰が支持してるのかさえわからない」

「実際誰が支持してんだろう」

「そりゃ、頭の悪い人たちとか黒人やヒスパニックじゃない?」

「でも移民反対してなかった?」

「これから入ってくるのはね。今いるのはもう関係ないし」

まったく話に加わっていなかった他のお客さんも怒り出しました。

「本当にあれがアメリカの次の大統領になったらアメリカはもう終わるわ。
だいたいねえ、あのヘアがキモいのよ!!!」

予想通りの返事です。

「日本では、もしあれが大統領になるようならアメリカ人はバカだなって言ってるよ」

「そうでしょ?ああなんとかしてやめさせたい。
つい昨日もね、サラ・ペイリンとのディベートから逃げたのよ。勝てないから」

「ヒラリーはどう?」

「もちろんトランプよりはマシだし、頭もいいけど、あの女は嫌い。
あれが知り合いだったらできるだけ口聞きたくないレベル」

そういえば車のステッカーに

「もし妻がヒラリーだったら俺だってクリントンと同じ事をする」

と書かれていたのを見た事があるなあ。
いわゆる悪妻の見本ってやつですか。

しかし、トランプはきっといろいろとスキャンダルもあるはずなのにまったくそれが
出てこないのは不思議なくらいで、つまりメディアの応援も、得体の知れない支持層も、
すべてお金を持っているから、と皆は諦めているということみたいです。

いいのか。そんなやつが大統領になって。




今日は帰る、という日、サンフランシスコは素晴らしいサンフランシスコ晴れでした。
初めて室内プール付きのこんな庭のあるホテルであることを知るわたし。



目的のもう一つ、改装相成ったアップルストア(本社)に行ってTシャツを買う。

前日「明日息子に頼まれているのでアップルのシャツ買いに行くんだ」
というと、彼女が

「あーわかる、わたしも頼まれるのよねー。
ただのTシャツなんだけどなんで?っていうんだけど、なんかみんな欲しがるの」

まあ、世界のどこにもアップルストアはありますが、Tシャツを売っているのが
世の中でここだけだからでしょうな。



一昨年前までの方がサイズもデザインにもバリエーションがあったのに・・・。
各Tシャツの背中には「ワン・インフィニティドライブ」の住所入りです。



グッズももっといろいろ面白いものがたくさんあったのに、改装後は
ほとんどなくなってしまって、一体何のためだったのか・・・。



アップルの改装には少しがっかりしてしまいました。
今回、わたしがいた頃にはスーパーボウルが行われていたようです。



少し早めに空港に着きました。
チェックインゲートの前のコーナーでは、日本の民芸品を展示してありました。
元気なら見て回りたかったのですが・・・。



招き猫が「Beckoning Cats」であることを初めて知ったサンフランシスコ空港。



今回の目的の(なんだかいろいろと目的があったのね)もうひとつ、
サンフランシスコ空港に新しくできていたカードラウンジに行ってみること。
今回のように病気にもかかわらずクラスラウンジが使えないというときも、
とりあえずここさえあればある程度の食事と休憩場所が得られるので貴重です。

 

ターミナル3という国内線にあると聞いていたのでどう行くのか謎でしたが、
チェックインの時にカウンターの親切な黒人のお兄さんに聞いたところ、
インターナショナルGとターミナル3は廊下で繋がっていると教えてくれました。

「あのラウンジはとてもいいよ!楽しめると思う」



受付ではカードを見せるだけで、アメリカでは信じられないくらい丁寧に

「いつも当社のご利用ありがとうございます」

と三つ指付かんばかりのにこやかさでお迎えいただき(笑)、
お酒ならシャンペンでもなんでもお好きなだけお楽しみいただけますし、
WiFiはお使いになりますか?でしたらパスワードはこちらです、と
至れり尽くせりの(アメリカにしては)サービスの良さ。



さすがに寿司職人はいなかったけど、いつも温かいスープやキリッと冷えたサラダが食べられると。



スープはとても美味しかったですが、他のものはこれも「アメリカにしては」
という注釈付きのお味でした。



トイレタリーはTOTOだ!
これは褒めてつかわす。



もっと早く来てここにずっといてもよかったかな、というくらい居心地は良かったです。
ちなみに窓ガラスの下は第3ターミナル。



壁にはトニー・ベネットの録音の時のフォトが飾ってありました。
何の録音かって? もちろん!

「I Left My Heart In San Francisco 」



さようなら、サンフランシスコ。またすぐ帰ってくるよ。
今度はもう少しマシな状態で(笑)


 

女流飛行家列伝~デル・ヒン「親娘パイロット三代」

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母から娘へ、娘から孫へ・・・・・。

と言えば、まるでパールのネックレスか日本なら着物を想像しますが、
西海岸の女流飛行家デル・ヒンが伝えたのは

「空を飛ぶ喜び」

でした。
1946年、戦後飛ぶことを始めたデルは、1996年、飛行家人生の
50周年記念を迎えます。
この間彼女は飛行家として

パウダー・パフ・ダービーに出場

飛行教官として何百人もの生徒を教える

二人の州議会議員のパイロットを務める

など、商業パイロットとして順調なキャリアを積んできました。
レースに出場して上位賞を狙ったり、ましてやアクロバット飛行をして
ショウに出る、というようなタイプの飛行家ではありませんが、
堅実に50年間というもの、事故を起こすこともなく空を飛び続けたわけです。

飛行機を操縦する人口の多いアメリカでは、
特に傑出したエピソードがあるわけでもありません。
ただ、長いパイロット人生、こんなフライトもありました。



一度、彼女はモントレー郡の保安局パイロットの代行で、
サリナスからオハイオまで、つまり西海岸から東海岸まで
女囚を移送する仕事を引き受けました。

大陸横断は、ジェット機によるボストン―サンフランシスコ間所用時間は
現在民間機でだいたい5時間40分。
国際線ほどではありませんが、決して短い距離ではありません。
何しろアメリカは大きいですから、国内で三カ所の時差変更があるのです。

わたしも毎年東海岸から西に向かうと、たとえファーストでも、
(ユナイテッドなどにはビジネスがなくファーストかエコノミー、そしてエコノミープラス)
食べ物のまずさと居住性の悪さについたときには疲労困憊してしまいます。

女囚たちは移送ですから、手錠をしたまま乗り込んできます。
もちろん引率の女性警官はついていたでしょうが、
こんなに長い時間、手錠をしているとはいえ囚人ばかりの乗客を乗せて、
万が一の事態が起これば、
ニコラス・ケイジの映画「コン・エアー」の再現です。

「コン・エアー」は1997年作品ですから、こちらの方が後なのですが。

ちなみに、以前「コンエアー」は、S-2の派生型、カナダのコンエアー社が開発した
「コンエアー」(ファイアーキャット)のことなのか?
と、何も調べずにどこかに書いたことがあるのですが、 違いました。

コンエアー、というのは、実在する
アメリカ連邦保安局の空輸隊の名称なのです。

コン、って、英語では「詐欺」とか「騙す」とか、そういう職業?
の人間のことなんですが、この意味なんですかね。
直訳すれば「空気詐欺」とか「空だまし」とか?

いや、やっぱり「convoy」(護送するの意)の「con」かな。


この「コンエアー」部隊で使用されているのは専用輸送機の

C-123K。

おそらくデルが操縦したのも、この飛行機であったと思われます。
専用機ですから、新幹線で犯人を移送する「新幹線大爆発」のように、
手錠でずっとケイジと、じゃなくて刑事と犯人が手をつないでいる、
ということはなく、ちゃんと「囚人専用機」として、
がっつりコクピットは客室(客じゃないけど)と隔離されているはずです。

まあでも、怖いですよね。堅気の女性なら(笑)

コンエアーのパイロットがすべてそうであるように、
彼女にもこのとき銃を持つことが認められており、それを勧められました。
しかし、彼女は銃の保持を断ったそうです。


もしかしたら単に銃が使えなかっただけなのかもしれませんが、
飾りにしても、とりあえず持っていることで、囚人たちにたいする
「アピール」になるのは確かですから、堅気の女性であれば、
一応は持っておこうとするかもしれません。

彼女が銃を持たなかったのは、逆に「あなたたちを信用している」
ということを彼女らの良心に訴えるつもりがあったと思われます。

しかも6時間弱の長いフライトの間、彼女は1時間半だけとはいえ、
全員の手錠を外させ、彼女らにそのときスナックとお茶の
「機内サービス」を行ったそうです。

このスナックがなんだったかなのですが、
snickerdoodle というシナモン味のシュガークッキーでした。
お茶は、おそらくアメリカ人なので、全員選択の余地なくコーヒーだったと思われます。


さて、1929年に行われた女性ばかりの長距離飛行レース、
「パウダー・パフ・ダービー」については、
これまでこのシリーズで何度もお話ししてきました。
このレースは、戦後、1947年にかつてのレースをトリビュートして再開されます。
再開に際してもっとも中心になったのは、あのジャクリーヌ・コクランでした。

デルは1955年、このパウダーパフ・ダービーに、
娘のキャロルと共に出場しました。

娘は母の飛ぶ姿を見て同じように飛行家を目指したということです。
もしかしたら、母親自身が教えたのかもしれません。


お子さんをお持ちの方はよく御存じだと思うのですが、
子供というのは必ずしも親のやっていることを
そのまま踏襲しようとはしないものです。
息子を二代目にしようとして腐心している会社の経営者を
わたしは一人ならず知っていますし、
せっかく開業した医院や弁護士事務所も、
子が後を継いでくれなくて困っているという話もしょっちゅう見聞きします。

卑近な例で言うと、わたしの母は華道の師範の資格を持っていますが、
小さい時から彼女が花を活けているのを毎日のように見ていながら、
わたし自身(わたしの姉妹も)、一度たりとも
その世界に興味を持ったことは無く、いまだに何の知識もありません。

「お宅はお嬢さんがおられるから、あなたは教えがいがあっていいわねえ」

などという話が華道仲間から出ると、母はいつも恐縮するように

「いいえ、誰も興味すら持ってくれないの」

と言うのが常だったということです。(ごめんねお母さん)


そして親の因果が子に報い、わたしの息子も、わたしが弾けるのだから
当然のように弾けるだろうと習わせたピアノは嫌がってすぐやめてしまい、
別の楽器(チェロとドラム)に行ってしまいました。

ですから、このように、娘が母親のすることを同じようにするどころか、
その娘、つまり孫娘も、同じ道を選んだというこのHIN家の女たちは、
むしろ世間的に稀少と言ってもいいのではないかと思われます。


冒頭画像は、おばあちゃまと一緒に愛機の手入れをする、孫娘ゲイル。
彼女と祖母は、彼女の母と祖母がともに飛んだパウダーパフ・ダービーの
ちょうど20年後の1975年、二人でまたしてもこのパウダーパフに出場しています。


このパウダーパフですが、1977年に、コスト、保険料の高騰、
そして何よりスポンサー企業が減少したため終了し、
19年の歴史を閉じました。

しかし、女性だけの飛行レースはその後エアレースクラシックにひきつがれています。

ゲイルにその後娘が生まれ、彼女がひいおばあちゃんとこのエアレースを飛んだ、
という話は今のところ伝わっていませんが、可能性は十分にありそうです。




ところで、こんなアメリカという国、旅客機のパイロットに女性は普通にいます。
先日のアメリカ行きから羽田に帰ってきた時、わたしの横をユナイテッドの
(ということはわたしが乗ってきた飛行機がそうだったのか?)機長と、
女性のクルーがカートを引っ張って通り過ぎました。

はて、機長とフライトアテンダントがこんな風に並んで歩くだろうか、
と思ったとき、彼女の制服の袖に金の線が4本入っているのに気付きました。
4本線、つまり彼女も機長職ということになります。

確か我々の飛行機は男性パイロットがアナウンスしていたので、
機長が二人のシフト、いわゆるダブルパイロットというやつだったんでしょうか。

機長が二人で飛ぶというのは、一般的にどちらかが PIC(第一指揮順位機長)で、

①新しい路線を飛ぶための訓練をする場合
②機長が査察操縦士から定期審査を受ける場合
③機長が余って副操縦士が足りない場合
④長距離線で機長2名と副操縦士1名の組み合わせで交代しながら飛ぶ場合

のどれかである、(ヤフー知恵袋の回答による)ということですが、
どちらにしてもこのスカートの制服を着た女性が機長であるというのは
さすがはアメリカだなあとわたしは感嘆の目つきで彼女の後ろ姿を見送りました。 



 


 

MINEX(海上自衛隊掃海隊・機雷戦訓練)再び

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アメリカに行く直前にこれは発病したなと思ったとき、
アメリカに行くことより何より、心配したのがこちらでした。
そう、わたしは帰国して中2日の休み後、前回の日向灘に続き、またしても
掃海隊の訓練「MINEX」に同乗させていただくことになっていたのです。

帰ってきた夜は咳はもちろんのことまだ明らかに熱の残る状態で、
とにかく次の日は何もせず寝ていることに集中しました。
インフルエンザくらいでは医者はもちろん薬も飲まずに治す派なので、
まるで野生動物のようにひたすら寝てなんとか出発日を迎えます。


今回の掃海隊訓練は例年そうであるように、伊勢湾で行われました。
伊勢、と聞いた途端、それは久々に伊勢神宮にお参りせねば!と
わたしとTOの中で意見の一致を見たため、前日に到着して、一日、
伊勢神宮参拝を執り行いました。

また後日お伝えするつもりですが、伊勢神宮に造詣が深く、
お参りについての「作法」に詳しい現地の知り合いに連絡を取って
正しいお参りを伝授していただき参拝を敢行する、という
予定をがっつりと組み込むことになったため、何が何でも当日までに
わたしは元気になっておかなくてはならないのです。


正直前日と伊勢に向かう新幹線+近鉄の車内では心もとなく、
前日掃海隊訓練に行くことをご報告した関係者へのメールには
最後に「逝ってきます」とおもわず書いてしまうほど悲壮な気分でしたが、
やはり神に手を合わせ祈りを捧げるというのは不思議なもので、
お参りのために境内を約2時間強歩きまわっているうちに、
いつの間にか気分はすっかり良くなり、完治したと言える状況になりました。



当日朝、松阪駅の前に三重地本の車が迎えに来てくれるので、
ホテルは駅前のAUというビジネスホテルにしました。
前日夜はおなじみ掃海隊の「専属カメラマン」であるミカさんと、
ホテル最上階のレストラン(というより飲み屋さんみたいな)でご飯。

ホテルはビジネスと言いながら気を遣った作りで、ありがちな殺伐さもなく
ぐっすり眠ることができました。
駅前の集合時間に間に合うようにホテルの部屋を出ます。



朝日が昇ったばかりの松阪港には、すでに681の「ながしま」、
そして向こう側に我々が乗り込む「ししじま」がいます。

地本の車は港湾に巡らされたフェンスの外側に停められ、なぜか
そこから先に入る許可がもらえないので皆外側で全員揃うのを待ちました。

日向灘の時のように車で来ることを許されないのは、自衛隊と地元港湾との
話し合いの中で、許可されなかったということのようです。

日向灘は毎年11月末、伊勢湾は2月初旬、陸奥湾は7月、と
掃海部隊の訓練はだいたい定期的に場所も期間も決まっているのですが、
その時期になると自動的にいつ行ってもオーケー、ということではなく、
やはり毎回毎回、そのために掃海部隊は地元と交渉をし、どちらかというと

「許可をいただいて訓練海域を確保させてもらう」

という立場なのだと聞いたことがあります。
それもなんだかすっきりしない話で、アメリカ海軍は少なくともそんな苦労は
しなくてもすむんだろうなとやりきれない思いを持たざるを得ないわけですが、
とにかくそういう立場なので、訓練にまつわることで地元を怒らせたり、
迷惑をかけたり、ということは自衛隊としては避けたいことなのです。



しかし、この港で車両乗り入れ一切禁止、となってしまった経緯は、
やはりというかなんというか、かつて訓練取材のため乗り付けてきた報道の車が、
こういった朝から(7時です)お仕事している港湾内の作業車の邪魔になるような
駐車をして地元を怒らせた、ということがあったとかなんとか。(噂です)


ちなみにこのドーザのおじちゃんはミカさんのお馴染みさんで、
このときも手を振ったら向こうから振り返してくれました。
どこにいっても気さくに声をかけ、仲良くなってしまう彼女の才能は
わたしには到底持ち合わせない天性のもので、 心底羨ましい限りです。



とにかくまあ、港湾内の立ち入りすら一般人の恣意的なものを許さない、
なんとかいう規則に則って皆はおとなしく柵の外で待っていたのですが、
やっぱりいるんだな。勝手に中に入り込んで写真撮る報道が。

同じホテルに泊まっていたらしく、ロビーで名簿のチェックをしていた
シュッとしたイケメンの広報幕僚が、彼らに

「まだ中に入るな」

と注意して外に連れ戻すためにわざわざ中に入っていきます。
まったく・・・・・、小学生じゃないんだから小学生じゃ。 



ほーら怒られた(笑)

しかしそれにもかかわらず、堂々と手前から中に入っていく人影あり。
まるで学級崩壊したクラスの小学生みたいです。
幕僚も諦めたのか呆れたのか、もう何も言いません。 

「ダメだって言われてる端からああやって入るとは・・」

「なかなかフリーダムですね」

わたしとミカさんがその人影を確認すると、このブログではすっかりお馴染み、
前回ヘローキャスティングにもっと近づけといってみたり、2時半には港に着けと
帰港時間を指示したり、その他にもいろいろ(怒)あったあのおじさんではないか。

あまり書くと参加者の少なさから特定されそうなんで書きませんが、
今回もねえ・・・いろいろあったんすよ。いろいろと(怒)



しかし、入るなと言われて連れ戻されている人がいるのに自分だけはオッケー、
とばかり堂々とやりたいことをやって憚らない、貴様一体何者?

ミカさんとわたしが朝っぱらから嫌な予感に暗い目を交わしていると、
フリーダム爺はまた別なるフリーダム爺を呼ぶもので、こんどは別爺が
ちょろちょろと埠頭に入っていくではありませんか。

「なんかあのおじさんも”本日の地雷”っぽいなあ」

機雷戦訓練だけに・・・誰がうまいこといえと。



連れ戻されている報道二人の後ろではラッタルの積み込みが始まっていました。
つまりこれからすぐに「ながしま」は出港するということなのです。



わたしとミカさんはフェンスの外から「ながしま」を撮りました。
出港準備の進む「ながしま」の後ろが朝焼けで染まっています。



朝焼けの松阪港、この辺にいる渡り鳥の(名前忘れた)大群が通り過ぎました。
それにしても、なんて穏やかな海なのでしょうか。

今回のMINEX、参加前にわたしは散々この訓練の過酷さについて脅かされていました。

「寒いなんてもんじゃない、船の上は北海道にいるより寒くて辛い」

その言葉に文字通り震え上がったわたしは、年末遭遇したエーグルのバーゲンで
膝丈のがっつりフード付きの防水ダウンコートと同色の防寒用スカートを
裏起毛付きのパンツと重ねて着用し、ロングブーツにニットのレッグウォーマー、
念のために無印良品で買った携帯用のダウンジャケットをコートの下に着込み、
まさに着ぶくれられる限り着ぶくれた、ふくら雀状態で(上記ホテルの鏡の写真)
なおかつ今回クパチーノのアップルに買い物に行った時に見つけた、
手編みのニットのスヌードを大小二枚重ね、手袋も二枚重ね、
風邪の病み上がりなのでマスクを着用という前代未聞の厚着で臨みました。

まあ確かにこの装備が功を奏したと言えなくもないですが、この朝の時点で
わたしはなんだか暖かいな、と感じていたのです。
こんな格好をしているから当然とはいえ、それはそうと風が全くないのはどういうこと?

「きょうはベタ凪らしいですよ」

ああそうですか。でも船が動けば風も吹くよね?

寒さをクリアしても
わたしにはもう一つ懸念材料がありました。
船酔いです。

前回は掃海母艦との間にラッタルをかけられないくらい海がうねって、
ついにわたしはライトに船酔いを体験したわけですが、
また酔って多少なりとも隊員の方々にご迷惑をかけるのではと心配したわたしは、
コメント欄で教えていただいた酔い止め薬を手に入れる暇がなかったので、
アメリカで「ホメオパシー」を謳ったシーシック・レメディを買ってきていました。

字が小さくて読むのがめんどうなので息子に読んでもらったところ、

「気分が悪くなったら飲むんだって」

「なってからじゃなくて、ならないようにしたいんだけど」

「無理。なってから飲んだら治るって書いてある」

いや、だから船酔いっていうのはなった時にはもう遅いのであって(怒)
薬を飲もうとする前に多分中からいろいろ出てきちゃうんですけど。

「急いで飲めば押し戻せるんじゃね?」

それは嫌だ(笑)

それにしても、なんなのか。ホメオパシー。
わたしは「プラシーボ効果」と同義みたいに思っていたフシもあるのですが、
なってから飲む薬のプラシーボ効果って、まったく意味なくない?

とりあえず、ぎりぎりまで不精したためアメリカの自然食品店で
船酔いの薬を買うしかなかった自分を叱ってやりたい。



ところで、掃海艇の船酔いというのは海自隊員の中でも有名みたいですね。
掃海隊経験者のこの某掲示板での告白が、その凄さを物語っています。


あのー掃海艇経験者ですが、ガブッた時はハンパじゃありません。 
護衛艦の大きさで揺れが違うとか言われてますけど 
掃海艇の揺れは次元が違います。 
正面から大波食らうと、掃海艇は宙に浮くんです!! 
「フワッ・・・ドッス~ンメリメリメリ!!!」 
と船体はキシみまくり、身体も何かに捕まってないと床や構造物に打ち付けられて 
非常に危険です。 

私は吐きそうになり居住区からラッタルを上がって便所に駆け込もうとしたのですが 
その時も、ラッタルに手を掛けた瞬間波に乗り上げ、 
身体ごと床に抑え付けられたかと思うと船体が波の谷間に落ち、身体は宙に浮いて 
上層の食堂へ自然に上がった事がありました。 
あまり信じてもらえないでしょうが、本当にジェットコースター気分を 
一晩中味わいました。 

ちくごクラスにも乗った事あるけど、小さくても護衛艦と言うだけあって 
20度以上のロールでもそんなに気になりませんでした。 
ゆきクラスなんか常にフラットで天国でした。 
オレみたいに小さいフネからデカイフネへ順番に転勤して行くと 
身体もラクで良いけど、逆パターンは 体力的、精神的にもかなりシンドイと思われます。 



まあ、こんなコンディションの時に報道関係者のツァーは行わないでしょうが(笑)

とにかく、早朝のこの暖かさ、ベタ凪の噂。
心配するだけしながら臨んだ当日ですが、どうやらどちらも大したことなさそうです。

もしかしたら前日のお伊勢参りのご利益かな?
とチラッと思ったのですが、前日の「伝道師」は、

「神様に参るというのは自己の利益を求めるためにではありません。
自分の道を間違わないように自然の導きを心の声に聴くためです」

とおっしゃっていたっけ。



さて、ようやく中に入って乗艦することになりました。
柵の中に入るのを許された時、ちょうど「ながしま」が出港です。

写真を撮るために一直線に走っていくミカさんの勇姿(右端)



美しい・・・。

「ながしま」は「うわじま」型の9番艦。
「うわじま」型は退役が進んでおり、この「ながしま」も確か
この伊勢湾での訓練に参加するのは今回が最後だと聞いた気がします。

竣工が1996年で20年経っているのですが、やはり木でできた掃海艇は
ライフサイクルが短いので20年はもう寿命が来たということなんですね。

「えのしま」などのFRP素材だと、それはかなり伸びるそうです。


さて、乗艦が始まりました。


続く。 



 

出港とレクチャー〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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というわけで、時間厳守の自衛隊が

7:20〜7:25 移動 場所*松阪港〜桟橋 備考*徒歩 

と予定表に書いてある通り(笑)、きっちり7時20分になってから
一同は徒歩でフェンスのところから乗艦する「いずしま」に向かいました。
乗艦は7:30分で、これも1分の狂いもなく始まったのはさすがです。



ラッタルの前で乗艦を待つ人々。

本日参加の報道は20人強、わたしとミカさんは「一般人」枠での参加です。
報道にはわたしの「天敵」である地方紙のC紙やH紙、そうでもないY紙などで、
前回より場所が中央寄りであることから御大のAそしてM紙など、
どんな態度で臨み、どんな記事を書いてくれるのかある意味楽しみしていた
両紙からの参加がなかったのは(ネタ的にも)残念でした。

今検索したところ、「伊勢経済新聞」という地元の経済誌が
当日の訓練についてわりとしっかりした記事を書いていました。

伊勢湾で大規模機雷処理訓練

「海将補 岡浩さん」とか「ぶんご航海科の福江信弘さん」など、
自衛官に階級をつけない書き方は如何なものかとは思いましたが。


伊勢経済新聞の記事を読んでいただいてもおわかりのように、
今回の機雷戦訓練は10日間にわたって行われます。
この日の訓練はちょうど中盤にかかったころであり、いずれの訓練も
このころにメディアツァーを行うのかもしれないと思いました。

参加艦艇は全部で21隻、人員は約1,100名で前回より少しだけ小規模です。

掃海母艦は「ぶんご」だけ、掃海艇は全部で15隻。
掃海艦2隻、掃海管制艇2隻が参加艦艇の陣容であり、これに
ヘローキャスティングを行うMH-53E(機体番号29)が1機だけ参加します。


何度かご説明している通り、伊勢湾は掃海隊の定期訓練がこの時期に行われ、
それは陸奥湾(7月)、日向灘(11月下旬)とともに訓練機雷を使った訓練で、
実機雷を使った、つまり本当に機雷を掃討して爆破処理を行う訓練としては、
毎年6月の硫黄島の訓練が年1度行われています。 

それにしても、この4箇所の訓練海域を見て気付くのは、

伊勢湾(伊勢神宮のお膝元)
日向灘(海軍時発祥の地である美々津神社がある日向)
陸奥湾(霊場恐山を要する下北半島から臨む湾) 
硫黄島(日米の激戦地であり未だ多くの魂が眠る)

と言った具合に、どれも霊的な因縁の深い地域であることです。
ここで行うことが長年の間に決まってきた経緯はわかりませんが、
決して偶然の結果ではないとも言い切れないものを感じます。



一旦食堂に案内された我々は、出港をごらんくださいということで
皆とりあえず艦橋に上りました。

「いずしま」はもちろん初めてです。
というか、前回の「えのしま」と比べてさらに艦内が狭いのに驚きました。



赤と青に別れたツートーンの艦長椅子。
「いずしま」の艇長は「えのしま」と同じく3佐が務めますが、
一般の自衛艦で「2佐」の印となっている赤青は、掃海艇・艦では3佐です。

他の掃海艇と同じく30名少々の乗員が乗り組んでおり、すべてを
この単位で行うので、まるで艇長を家長とする「一家」のような雰囲気です。
ある意味家族より一緒にいる時間が長く、お互いのことを知る間柄かもしれません。



本日この「いずしま」に座乗しメディアへの広報を務めるのは、
第1掃海隊司令、宇都宮俊哉2等海佐。
赤いストラップは掃海隊群においては司令官の印として2佐が着用します。

出港準備のときには司令も艦橋で作業を見守ります。

 

出港ラッパを吹く瞬間を撮るために、わたしはずっとここで彼の一挙一動を見張っていましたが、
なんか色々とあるらしく、ラッパを持っては戻し、吹きそうになってはやめ、
の繰り返しで一向にその瞬間がやってきませんでした。

出港の「今!」というのがどういう状態なのか、門外漢にはわかりませんが、
何かがどうかなって「今しかない」瞬間というのがどうもあるようでした。

出港ラッパ吹鳴のとき、ラッパ奏者は左手でマイクを吹き口に当てます。
手前で動画を撮っているのはミカさん。
この瞬間にこれほどこだわって撮っていたのはわたしたちだけでした。 



出港ラッパの後はするするといった感じで「いずしま」は岸壁から離れていきます。

「えのしま」との大きな違いは、全体的なサイズであり、この
後方を臨む眺めでありましょう。
「えのしま」は艦橋甲板から後ろがすとんと見えたものですが、
こちらは煙突が二本屹立していて、後ろの眺めはその間から確保します。

これ以前の掃海艇は掃海具を展張したりする関係で、船尾甲板に広さが要求されましたが、
本型では掃討重視の艇とされたため、そちらはあまり重視されなくなったのです。


上記の伊勢経済新聞の記者も書いていますが、
(多分この取材をしているときにわたしも近くにいて二人で話を聞いていた)
ペルシャ湾派遣において海上自衛隊の掃海部隊は大変評価されました。
以前当ブログの「ペルシャ湾の帽触れ」というエントリで書いたことがあるように、
他の国は小さな掃海艇は輸送してきていたのに、彼らは掃海艇で現地までいったのです。

「よくまあこんな小さな船でここまでやってきたな!」

海外の掃海部隊は一様にまずそれに驚きました。
そして戦後の朝鮮戦争のときに行った掃海技術を駆使して、難しい海域を
啓開した海自掃海部隊には惜しみない賞賛が各方面から上がったと言います。

しかしながら、当の海自部隊にとってはマンタ機雷などのステルス機雷は初体験で、
この対処に困難を極め、技術の立ち遅れを認識することになったのも事実でした。

この経験から、英国製の「サンダウン」型を土台に作り上げたのがこの
「すがしま」型掃海艇であったということです。

「サンダウン」級より排水量を大きくすることは許されなかったため、
居住性を確保する目的で船首楼の部分はかなり延長されているそうです。



この眺めは、二本煙突にすることによって艦橋からの視界を確保している
この「すがしま」型の特徴的なものだということができますが、
こうやってみると後方の眺めはともかく、肝心の左右の眺めが悪いですよね?

初めて採用された二本煙突ですが、運用されてからやはりそのような意見が出たため、
次世代の「ひらしま」型からは煙突は1本に戻されました。
 


出港と同時に信号旗が降ろされたり揚げられたりし、
乗員はきびきびと信号旗の紐を固定します。
これらすべて一瞬の間に行われ、多くない乗員が一人の無駄もなく
各自の持ち場を粛々と務める様子はいつ見ても感嘆するしかありません。

彼らにとってはルーチンですが、初めて見るものには全てが日頃の
たゆまぬ訓練の成果であると思えます。



出港した「いずしま」は灯台の立つ突堤の横を通過しました。
突堤の中も外も、まるで湖のような凪で海面には漣しか見えません。



「いずしま」と刻印された鐘。
時鐘は掃海艇でも時間ごとに鳴らされるのかもしれませんが、
前回、今回を通じて耳にすることは一度もありませんでした。
もしかしたら気がつかないだけだったのかもしれません。



出港後、第1掃海隊司令である宇都宮2佐が、取材・見学者に
船内の食堂で説明を行うので降りてくださいと促しました。



機雷戦訓練の概要においては、前回「えのしま」で受けたレクとほぼ同じですが、
今回説明に当たった宇都宮2佐も、実に軽妙に自分の言葉で語る方でした。
一般的に話のうまい人が多いイメージのある海自ですが、特にこの方は
ツボを得た喋りで、説明を受ける側の集中を途切れさせませんでした。

まずは今回の伊勢湾訓練が行われる訓練海面を地図上で示します。
訓練海域は3マイル ×6マイルなので大体5km×10kmの範囲でしょうか。

松阪港からは8マイル、つまり12キロで行動海面に達するので、
巡航速度が14ノットの「すがしま」型だと40分で到達することになります。


レクチャーは現行の掃海艇・掃海艦についての説明も行われましたが、
その中で面白いなと思ったのは、

「(えのしま型は)もはや大きさからいっても掃海”艇”というより”艦”ですが、 
まあいろいろと事情がありまして”艇”を名乗っております」

と言われたことでした。



ヤフーニュースの記事中、ペルシャ湾掃海についてこんな記事がありました。

第1掃海隊司令二等海佐の宇都宮俊哉さんは
「ペルシャ湾では最も困難だと言われ、どこの国もやりたがらなく
最後まで残っていたMDA-7とMDA-10の海域を難なく掃海した時には、
『お前らすごいな』と各国から言われた。
私たちの実力が認められ、隊員の自信にもつながったいい経験をすることができた」
と明かす。

ここで書かれている「MDA-7とMDA-10」の海域、というのは
上のレクチャー中に示された海図で濃いピンク色で示された部分です。

このことについて記者が宇都宮司令に質問に来ていた時、
わたしはたまたま真ん前におり話に参加させていただきました。

わたし「難しい海域とおっしゃいますがどう難しかったんですか」

司令「潮流がこの部分は大変早かったんです」

わたし「日本は派出が遅れて最後に到着したわけですが、その時には
各国の掃海隊は簡単なところをさっさと済ませて帰ってしまっていたんですね」

お節介かとは思いましたが、せっかくペルシャ湾掃海について興味を持ち
聞きに来ていた記者に補足させていただくつもりの発言でした。

 

映し出すスクリーンが歪んでいたのでこんな画像になりましたが、
こ れ が 昨年の平成26年9月、広島湾で見つかった魚雷です。
航空用魚雷なので、呉空襲の時に米軍艦載機から放たれたものかもしれません。



こちらは同年5月に行われた機雷処理。
山口県の山陽小野田市市埴生漁港沖で米国製機雷を処理した時の水柱です。
左下のバッテンは取り付けられた爆薬です。

今回の取材陣には女性が一人もいなかったせいか(笑)前回のような
空気読まない質問が出ることはなく、最前列で聞いていたわたしにも
宇都宮司令の言葉のたびに軽く「ほお!」とか感嘆詞があがるなどの様子で
取材していた人々が実に熱心な態度で臨んでいるのがよくわかりました。

記者の一人が、未だに機雷や魚雷が見つかっている原因を聞いていましたが、
ほとんどの機雷、魚雷は投下されてから長い間泥中に埋もれているのだけど、
時間が経って何かの原因で表面に現れてくることがあり、それで今でも
定期的に見つかって、このように掃海隊によって処理されているのです。


そして、こういう掃海活動を今日も行っている海上自衛隊掃海隊というのは
平和な日本で唯一現実に「戦い続けている」部隊でもあるのです。



続く。


 

係維掃海具投入〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

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さて、われわれを乗せた掃海艇「いずしま」は無事出港し、
第1掃海隊司令がレクチャーを行う間、訓練海域に到達しました。
配られた資料によると、出港が0800、訓練開始は0900となっています。



「いずしま」に入るなり撮った士官室の写真。
相変わらず子供部屋みたいな木の温もりを感じさせるインテリアですね。

先般行われたレクチャーのなかで、第1掃海隊司令が、

「この『いずしま』は木でできているのですが、そのせいか、
鋼鉄の護衛艦などより乗っていて不思議と疲れないんですね」

と面白いことをおっしゃっていました。
地面の振動が伝わるのならともかく、海の上に漂っているのに
人間の体に伝わる感触が違うとは・・・・。

船体が小さいので動揺が大きく、それで「キツイ」という海自隊員の話を
前回取り上げたのですが、動揺のことがなければ、掃海隊員は
こちらの仕様の方が「体に優しい」「楽」と捉えているようなのです。

また、木のフネのメリットは意外なところにもあって。後で運用長とお話しした時に、

「冬でも護衛艦に比べると水が暖かいんですよ。
米を研ぐ時には本当に助かります」

という証言もいただきました。
手でお米を研ぐのは比較的少人数の掃海艇だけで、護衛艦であれば
米研ぎ器兼用炊飯器を使うのではないか?と思ったのですが、
この方が護衛艦の炊事作業をされていたころにはなかったのかもしれません。


さて、レクチャーの後、一同は甲板に上がって取材活動開始しました。




まず最初に行われるのは係維掃海です。
右舷に固定されている白い魚雷の形のものは係維具で、
オロペサ型経緯掃海具といいます。



これから行うのは図の上で説明されている掃海。
オロペサ型では白い部分は「掃海浮標」つまり「浮き」で、これを投下して引っ張り、
錘から出た糸の先にふわふわと浮かんでいる機雷の糸を、
掃海具に取り付けられたカッターで切断し、切り離します。



こうしてみると結構大きなものですね。


このオロペサ型掃海具は、「すがしま」型掃海艇のMSC-Mine Sweeper Coastal」
では両舷から展開されるのが常ですが、今回の訓練では、
「こうしています」ということを見せるためなので、
説明図のように二つの掃海具を引っ張るのではなく、「片方だけ」の曳航となります。

 

オレンジの旗など、必要な道具がハッチから出されています。
「いずしま」型は後甲板が大きくないのですが、こういう道具を
収納しておくスペースは階下にたっぷりと取られています。

水を湛えられたポリバケツがありますが、これは
使用したカッターなどを洗浄するためのものでしょうか。

ポリバケツの前には白いカッターが糸に結びつけられて置いてあります。
このカッターが、上の説明図における赤と緑の三角で表されるもので、
実は「経緯掃海具」とは、小さなこの部品を指して言います。 

 

見ていたら「いずしま」のEOD、水中処分員がウェットスーツで登場。
背中には「爆発物処理班」と書いてあり、物々しさを感じます。

ピンクのメガホンの人は、笑顔でミカさんと歓談中。

 

掃海具のフロートには目立つ蛍光グリーンの旗が取り付けられました。
お気づきかと思いますが、いつの間にか作業する隊員が全員テッパチとカポックを付けています。
赤いヘルメットをつけるときは「危険作業」のときであると聞いたことがありますが、
機雷戦になると、途端に全員がこのスタイルに早変わりします。



「緑の旗オッケー!」(かどうかは知りませんが)

甲板で実際に作業する乗員だけでなく、このときには
艦橋で操舵する隊員たちも全員がテッパチとカポックを着用しています。

理由はもちろん・・・・万が一の爆発に備えてなんですね。

昔、朝鮮戦争の掃海のときに、爆破の瞬間艇内にいて殉職した隊員がいたことから、
(具体的にはどういう状況だったかというと、爆破そのものに巻き込まれたのではなく、
爆破の際室内の構造物に体を打ち付けられて、というものだったらしい)
作業に当たるときには、必ず艦橋以外は外に出ることになっているそうです。 



フロートは後甲板中央に位置するワイヤリールに係留し曳航されます。
ワイヤの繰り出しチェック中?

ちなみに、このデッキには報道陣のカメラがずらっと並んで撮っていたので、
わたしは彼らの後ろからカメラを出して撮りあとでトリミングしました。



報道陣の後ろには第1掃海隊司令が立って説明をしてくれています。
司令が切断器の説明をすると、下では今から付けるカッターを持ち上げ・・、



わかりやすいようにこちらに向けて見せてくれました。
緑の部分はどうやら「羽」に過ぎず、機雷の糸をカットするのは
ちょうど隊員が右手で抑えている部分の「刃」ではないかと思われますが、
それにしてもこんなニッチな部分で糸をうまく切ることができるのでしょうか。

カッターの深さを沈降器で安定させているとはいえ、
うまくワイヤだけを切るのには相当な熟練の技術を要するのではないかと思うのですが。



さて、作業の準備が整ったところで、作業に当たる隊員が集まってきました。


 
もう一度報道陣に向けてカッターを見せてくれました。
ん?なんかさっきのカッターと大きさが違うぞ。
説明が聞こえなかったのでこの事情は分からず(T_T)



ちゃんと置く場所が決まっていて、決して甲板に転がしっぱなしにはしません。
こういうものも紐が結び付けられ、固定がされています。



掃海長の作業指示を受けるために全員がこうやって整列する模様。
今この写真に写っているのは17名ですから、写っていない人数も含め
「いずしま」の乗員の半数がこの作業に当たるということになります。



掃海長の話が終わり、いよいよ作業開始。
皆が持ち場に向かいます。



さて、そこで船尾の「お立ち台」みたいなところに立ったピンクのメガホンの人。
おそらくここは全体の作業進行を見張る役目の人が立つのだと思いますが、
後で聞いたところ、この隊員さんは別の鑑(たしか掃海母艦)への
転勤が決まっていて、最後の訓練となるので「立たせてもらった」そうです。

掃海艇最後の訓練になる者にちょっとした花を持たせるという配慮だったのでしょうか。
小さな組織である掃海艇ならではの人間らしい「情実」采配、
さすがは「一家」を標榜する家庭的な職場だけのことはあります。



さて、いよいよ掃海浮標が海面に降ろされます。



フロートを降ろす前に曳航するワイヤーをなんかしています。



どこから出してきたのか、フロートを押すための”さすまた”登場。
このさすまたについて、とりあえずぐぐってみたところ、世のなかには
「さすまた専門店」なるものが存在していましたorz
HPのポスターが実に斬新だ・・・(汗)

「さすまた」を漢字で書くとなんと「刺股」。
なんとも禍々しい漢字を書くものだと思いますが、これ武器なんですね。
「できるだけ大勢(の人数)で行ってください」って、ということは
大勢のためさすまたを備えておけ(どこに?)とでもいうのか・・・。

それはともかく、さすまた専門店で買ったのかどうかは知りませんが、
掃海艇にはさすまたが装備してあるということだ。_φ( ̄ー ̄ )

ところで、わたしたちがこの光景を見ていてあっとおどろいたのは、
画面左下ですよ。
いつの間にか、ここにおるでー!亀爺が^^

「うーん・・・・相変わらずですなあ」

とりあえずこれもクレーンを使ったりする危険作業だと思うんですが、
我が道を行きまくるおじさんならば、

退かぬ!媚びぬ!省みぬ!

ってとこですか。



クレーンが掃海浮標を持ち上げ、固定具から浮き上がりました。

しかし、それにしても(怒)
どうしてたかがフロートをそんなに近くで撮らなくてはならんのかおじさん。
こうやって上階から取ればさすまたとか(笑)クレーンの全体像とか、
作業の様子がよくわかるというのに・・・・。

それにだね(怒)

万が一そのさすまたの人が出動する事態になった場合、あなたは
自分が邪魔になるかもしれないとちらりとでも考えたことはあるかね?



クレーン稼働の号令がかかり、ゆっくりと浮標は海上に出されていきます。
浮標だからきっと中身はなく、何トンもあるものではないでしょうが、
それでも慎重に動かすのは当然です。

わたしの位置からは海中に投下される瞬間は撮れませんでしたが、
とりあえず浮標は無事に海の上に放されました。



今日が最後の「お立ち台」勤務である隊員さん、かっこいいぞ。

フロートは船の後方に見えています。



あれあれ、船の真後ろを付いてきていた浮標がなぜか左舷側にやってきました。

それにしても、係維掃海というのは短いワイヤでおこなうものだな、
とこの写真を見て思った方はありませんか?
これは訓練を展示しているので特にそうだということでしたが、
レクチャーの時、わたしが質問の時間に

「係維掃海の時、掃海具の切り離す機雷と掃海艇の距離はどれくらいですか」

と聞いたところ、本番もそんなに距離のあるものではないそうです。
いかに掃海艇といえども近くでワイヤを切り離すのは危険ではないのか、
と思っての質問でしたが、どうやらその心配はなさそうで、

「切り離した後は銃などで掃討して処理します」

ということでした。



なんか変なものが浮標の前に浮かんできたぞ。



これは、この図で言うところのOtterだと思われます。
オッターって・・・カワウソですよね?

ミカさんの知り合いのEODの自衛官はスキンヘッドで
(別件でこのブログに偶然登場したこともあり)

「ウェットスーツを着ていたらまるでカワウソ」

だということですが、なんたる偶然か。
じゃなくて、こちらのカワウソはどうも役目的に
カッターを水中に安定させるための「沈降器」ではないかな。

さて、係維掃海具の引き上げが次いで行われたのですが、
そこでまたわたしは件のおじさんの行動にイラつかされることになります。


続く! 

 

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