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「つしま」出航〜日向灘・掃海隊訓練

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さて、本日予定されていた「えのしま」における訓練見学は
恙無く(厳密に言うとないわけではなかったんですが)終わりました。

参加者の一部ができるだけ早く帰港をしたいと注文を出したため、
本来4時の帰港予定が大幅に繰り上げられて2時半になったのは残念でしたが、
海上で接舷した「うらが」に乗り移りヘリの着発艦や艦内を見学する、
という当初の予定が全てキャンセルされてしまったからには、
ヘロキャスティングを繰り返し見学するくらいしかすることはなく、
これは仕方がないことであったとしかいえません。



帰路、行きには気付かなかった洞窟を見ました。



あまり綺麗にくりぬかれているので、とても自然にできたものとは思えません。
中は洞窟が奥まで続いているようなので、もしかしたら防空壕として
自然の岩を爆破して作られたのかとも思われますが、どうなのでしょうか。



艇長はずっと艇長席。
ホームスピードと言いますが、気のせいでなく朝より早く港に近づいているようです。



先ほどと同じメンバーですが、訓練が終わると皆再び作業着とジャンパーに着替え。
いつの間にか司令席には掃海隊司令が座っています。
なんとも言えないまったりした空気が流れ、わたしは艦橋と士官室を行ったり来たり。

今朝出航した港が士官室のモニターで近づいてきたことがわかり、
入港の様子を取るために甲板に出てみました。



謎の構造発見。
赤い旗とか緑十字の旗とかがありますが、何にするものかわかりません。



 「ASAHI OCEAN」という第一中央汽船のばら積み貨物船が停泊していました。
コンテナを使わないで、素材をそのまま運搬する船、という定義なので、
「ばら積み船」というより、「BULK CAREER」の方がわたしにはピンときます。

以前もお話ししましたが、アメリカの幼稚園の整理引き出しなどには、
「bulk」と書いていればバラバラな小物が収納されているものでした。
スーパーマーケットで「bulk」は、粉やお米、お菓子、シリアル、オイルにビネガー、
紅茶はもちろん洗剤の類まで量り売りしているのをこう言います。
(ちょっとしか食材が必要でない短期滞在には本当に便利)



ここは地図によると「日向製鋼所」ですので、もしかしたら「アサヒオーシャン」は
鉄鋼石を運んできたのでしょうか。
4基の大きなクレーンがピタリと同じ向きに揃って綺麗です。



この穏やかな海面を観よ。

港内にはいると、とりあえずうねりは無くなります。
相変わらず風は強く、外にいると辛いのは変わりませんでしたが。



というわけで、今朝出航した同じ細島岸壁に帰ってきました。
すると、一足先に訓練を終えたのか、今朝は訓練に出ていないのか、
「つしま」が朝と同じ位置に停泊しています。



「つしま」艦橋には、艇長ら操舵室の面々が立ってお出迎え。



手を振っているお二人をアップ。
左の1佐は、この出で立ちといい、雰囲気といい、掃海隊らしくないというか・・。

ここで大胆な予想をしてみますが、この1佐は横須賀に配備されている
海上訓練指導隊群(JMSDF Fleet Training Command) 、FTGの司令、あるいは
主席幕僚(多分こちら)ではないでしょうか。

ミカさんと確か「ぶんご」を見学している時に、今回の訓練に横須賀から
そのFTGが来ている、と聞きました。
ちょうどゴミのチェックをしていた黒い服の集団がそうです。

ちなみにこの「戦術競技」の様子が、自衛隊のHPに掲載されていました。

機雷艦艇戦術競技

NAVCOMEX 303MODで、信号旗を画像の手元がぶれるくらい
素早く掲揚している様子や、献立チェックしている様子がみられます。


で、このFTGですが、彼らは訓練終了後、このまま「つしま」に乗って横須賀まで帰るのでは?
この予想、かなり自信があるんですけど、誰か正解をご存じないでしょうか。



「つしま」を見ているうちにも、わが「えのしま」の入港作業が行われています。
雲ひとつない青空に強い風によってなびく旭日旗と司令官旗が美しい。



朝、おとなりの「ちちじま」が停泊していた岸壁に今から接岸します。
「サンドレット」という言葉を覚えたばかりのわたしとしては、
ここでサンドレットの使用状況を写真で確かめることができて嬉しいです。

「えのしま」から岸壁に向かって投げられたサンドレットの錘
(投げやすいようにアイスクリームコーンのような形をしている)に向かって
脱兎のごとく駆け寄る、他の掃海艇から派遣されてきた乗組員。

こういう時に、入港作業をお互いに補完しあうのが艦隊勤務です。

この時に、司令と話をしていて、

「もし岸壁に誰もいなかったらどうするんですか」

と聞くと、

「そのときは泳がせてでもなんとか岸壁にいかせます」

とおっしゃるので、そうかーやっぱり大変なんだなーと納得していると、

「というのは冗談ですが(冗談だったんかい)、船を出すこともあります。
掃海艇というのは自己完結できるんですよ。
スラスターが付いているので曳船なしで着岸できますしね」



サンドレットの先を確保したら、もやい杭まで持っていきます。



この画像で気づくのですが、サンドレットの部分の索は大変細く、
右の隊員が扱っている部分はそれより太いことです。



さあ、ここでこの二人の大立ち回りが始まりました!
こうやって見ると岸壁の上でスキップしているいるようにしか見えませんが、
索を持ってできるだけ遠くに走り、杭とつなぐ部分まで索を引っ張っているのです。



「まだ走るんですかああ!」「まだだっ!まだ終わらん!」



躍動感あるこの走りをアップでお届けします。



というわけで、やっとのことで太いもやいになりました。
岸壁には「えのしま」のスラスターの立てる白い波が当たっています。
艦体が岸壁に近づくと、岸壁の高さを超えて波が跳ね上がったくらいです。



無事に輪っかの先を確保して舫杭に繋留完了!



と思ったら、岸壁の上をダッシュだ!

お節介船屋さんのコメントに、掃海艇のスラスターは「水噴射式」とありましたが、
このまるでジェットバスのような波を見ていると納得させられますね。



こんどは後ろの繋留をするために走って行く二人。
人数が少ないと大変だー。



いつの間にか三つ目の杭にも舫がかけられています。
後ろでは一人で隊員が作業をしていたようです。



「えのしま」甲板後方越しに「つしま」を望む。



と思ったら、こちらでは「つしま」が出港を行うようです。
今まで「えのしま」の入港を支援していた二人が「つしま」の二人と合流して・・・、



岸壁にきちんと並んでお見送りを行います。
こういう、海軍時代からの慣習と思われる礼式を目にすると嬉しくなります。


で、ところでこの隊員たちは一体どこの船の人?



おっと、「つしま」は掃海「艦」なので、曳船が必要だ!

何回か前のエントリで「意味なくね?」と不用意な一言を出してしまいましたが、
それも、この光景を見ながら、司令が、

「スラスターの大きさが掃海艦は掃海艇と同じものが一つ付いているだけなので、
掃海艦の出入港には曳船が必要になってきます」

とおっしゃったことからでした。
どうせなら掃海艦も自己完結できるように、もう一つスラスターつけてあげようよ!
と思ったのですが、やっぱりご予算とかの関係でしょうか。



いくら掃海艇より大きいといっても、掃海艦。
こうしてみると曳船より一回り大きいだけという感じです。
頑張れば曳船なしで自己完結できそうに見えるけどなあ。



「つしま」防眩物収納中。



これから横須賀に帰れるのだといいけど、まだ訓練終了まで4〜5日あったので、
訓練に行くところかもしれません。みなさん頑張って下さいー。



「えのしま」が入港するのとまさに「入れ替わり」という感じで出港していく「つしま」。



そしてお仕事を終えた曳船の「ほそしま」さんもお疲れさまでした。
まあ「ぶんご」や「うらが」を引っ張るのに比べれば楽勝だったと思いますが。


というわけで、「えのしま」が着岸を済ませました。
わたしたちは控え室の荷物をピックアップして下船となります。


続く。 


 


「えのしま」出航〜日向灘・掃海隊訓練

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というわけで、「えのしま」は朝出航した岸壁に帰ってきました。
その途端、一足先に隣にいた「つしま」が出航していくのを見届けたのですが、
実は「えのしま」はこれで訓練が終わったというわけではなかったのです。
参加者の一人が2時半に帰港したいという要望を述べたためそれに従って
メディアと見学者の一行を降ろすために一旦寄港しただけだったのでした。



岸壁にかけられたラッタルから参加者だけが下船することになりました。
早くなったとはいえ、朝7時から約7時間半乗り続けた掃海艇。

このわずかな時間の間に初めて目の当たりにした訓練と垣間見た艦内生活。
わずかな人数で機雷というわかりやすい「敵」に対峙するその「戦い方」は、
護衛艦とは違う少人数ならではの緊密な連携の賜物と思われました。

現に掃海艇について書かれたものは必ず、「チームワーク」「協力」
という文字でその任務の特性を言い表しています。
しかも理想は相互にカバーしあえるだけの「余力」を持ち合わせることで、
その域に達して初めて「強い船」ということができるというのです。

一つの掃海艇は3つの分隊に分けられ、

第1分隊・・機雷・掃海・水測・水中処分

第2分隊・・航海・通信・電測・電子整備・補給・給養

第3分隊・・ディーゼル・電気・応急工作

となります。
しかしこれはおおまかなもので、掃海隊司令の言うところの「自己完結」、
つまり自活能力を発揮するには、状況に応じて配置もフレキシブルになる必要があります。

例えば第1分隊の「掃海」という部署についていうと、
これは護衛艦で言うところの「砲雷科」で、ソーナー員や、
掃海艇独特の水中処分員(EOD)もここの配置になります。

分隊のトップには5人いる幹部のうちの「掃海長」が立ち、
現場のリーダーとなるのは海曹長で、掃海・掃討の任務時には
この分隊の14名ほどが作業を行うのですが、いざそのときになると、
人数が足りなくなるので、そんな時には他の分隊から応援を頼むのです。

休養員だって、ご飯を作って後片づけを済ませたら仕事はなし、ではなく、
戦闘モードのときには伝令に立つこともあるのだそうです。



他の自衛艦と同じく、掃海艇もまた「作業部署」「戦闘部署」「緊急部署」
といった大きな3つの状況による部署で分けられ、
たとえば「作業部署」一つとっても、その中で「出入港モード」「ハイラインモード」
「航行モード」など、細かい状況設定が行われています。

「うらが」との接舷作業で、ラッタルを接続するのに苦労していたときには
「ハイラインモード」であり「入港モード」であったということでしょうか。

とにかく、しばしの航海を終え、陸に降りる我々を、「えのしま」艇長が
自ら舷門に立って見送りをしてくれています。



全員が降りるのを見計らって、すぐさま出航作業。
せっかく岸壁に入港したのに、全く陸に降りないまま行ってしまうの?



他の船がいないので、出航作業を陸で支援するのは広報の自衛官や
地本の陸自隊員など。
adidasの人はどなたかしら。



ふと港の出口に目をやると、先ほど出航した「つしま」がもうこんなに小さくなりました。



今、山の麓にポツンと「つしま」の影が見えているところから港外です。



もやいを外す作業中。
艇長はすでに上に上がっています。



この程度の作業は掃海艇においてはヘルメットは着用しません。



このインカムを持っている隊員の帽子には、なんと、
「EOD」(水中処分員)と書いてあります。
左の人のサングラスはいかにもなので、こちらがEODというのはわかりますが、
水中処分員が出航のときにはインカムを使って通信を行う、これが掃海艇?

 

どうもこの二人とも地本の人ですね。

 

地本二人組、もやい外し中。
防眩物が引き上げられ、船体の横に穿たれた穴から水が出てきています。
これは一体何の水?



岸壁に置かれた三脚は、地元紙のカメラマンのもの。
艇を降りる直前、一生懸命お仕事していた同じ地元紙の若い女性記者が
わたしたちに話しかけてきました。

「どこからこられたんですか?」

どうも彼女は、同新聞の「当地に訪れた他府県在住の人が宮崎の魅力を語る」
みたいなコーナーの担当をしていたようで、掃海艇の取材ついでに
そのインタビュー対象にわたしたちに目をつけたのでした(笑)

わたしはもちろん遠慮して、ミカさんがインタビューを受けました。
彼女は宮崎弁がしゃべれるくらい、この地には精通しています。

というわけで、この二人は「えのしま」が出航してしまうまで残っていましたが、
他のメディアの人たちは上陸するなり消えてこのときには影も形もありません。



大活躍だった「えのしまくん」の愛らしい横顔を見せながら、
もやいの外れた「えのしま」が岸壁を離れます。
今回はバウスラスターについて実物を見、多少詳しくなったのも収穫の一つ。



記者のお嬢さんも、見送りの自衛艦と一緒に並んで写真を撮ってます。
彼女にはいい記事を書いていただきたいなあ・・・。

そして10年後にも今日の熱意を失わないで仕事していてほしい。
決して「デスクの意向」がわたしの意向、と思い込んで
最初から結論ありきの記事の裏付けにインタビューを利用するような
そんな記者にはなってほしく・・・・・おっと(笑)



ちょうどこのとき、艦内放送で「帽振れ!」といったのが聞こえました。



おお!慣習だから当たり前といえばあたりまえなんだけど、
たった数人の岸壁の見送りに向かってクルーが帽振れをしてくれている!



サングラスをしているのはEODの隊員ではないかしら。
ちなみに、一つの掃海艇のEODチームは4人くらいのはずです。 

わたしの(答えの出ない)予想によると、左端と右端の4人がEOD。




艦尾に立っている一人も帽振れ。



艦橋で帽振れする一団の中に、艇長と掃海隊司令もいますよ。

で、わたしもちょうど荷物の中に帽子を持っていたので振りました!
つまり、わたしの生涯で初めての帽振れは「えのしま」出航です。

ちなみに、この帽子ですが、ホテルから持ってきたお茶の蓋がゆるくて、
その下にあったためほとんどミニボトル1本分のお茶を吸収してしまい、
この日1日全く用をなさなかったのですが、ここに来て初めて役に立ちました。



乗っていると決してそうでもないですが、こうやって陸から見ると、
やはり掃海艇というのは小さなものだなあと思います。
しかし、掃海艇の果たす役割はその小さな艦体の割に大きなもので、
しかもその任務というのは特殊であり、荒々しくもあり、
その分「海のプロ」、「船乗り」という言葉がぴったりのクルーたちの醸し出す
濃い緊張感で満たされているようなぴりりと引き締まった空気で満たされていました。



少人数ゆえに掃海艇の現場は一人に任される仕事があまりにも多く、
その分負担も大きくなって、「向いていない」者はたちまち淘汰されそうです。

海自隊員の間でも、掃海隊の仕事はキツいというのが定評であり、
配置を避ける者もいるのだそうです。
しかしそれだけに、志望してここにやって来る者たちは、
自分のやりたいことがはっきりと見通せている、つまり「覚悟がある」
ということなのではないかという気がします。
ゆえに、淘汰される割合は他の艦艇より少ないのではないか、
とわたしは思うのですが如何でしょうか。



「えのしま」が小さくなり、やがて港を出て行き姿を消しました。



「えのしま」の泊まっていた岸壁にも・・・・、



「つしま」のいた岸壁にも、ダズルグレーの艦艇は一隻もいません。

ところで、わたしたちが帰ってきたとき、「つしま」の見送りをしていたのは
どう見ても掃海艇の乗組員だったわけですが、彼らは一体どこの隊員だったの?
岸壁に寄せる前だったので、「えのしま」の隊員でもないはずなのに・・。



掃海艇たちが出て行ったあと、岸壁にはなぜか燦々と陽が照りました。
「えのしま」が出るときには雲が多く、ミカさんが「太陽出てほしい!」
と恨めしそうに言っていたくらいだったのに。



港を去る前に最後の一枚。
このあとわたしたちは日向駅前でご飯を食べました。
わたしはほとんど朝からおにぎり一個(しかもリバース済み)だったので、
空腹のあまり気分がまた悪くなるくらいでしたが、異常に値段のお安い
中華料理屋で、バンバンジーサラダと麻婆豆腐を取り、ようやく人心地ついて、
それから1時間運転して空港に到着しました。


続く。


 

エピローグ〜日向灘・掃海隊訓練

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その後ミカさんから艦橋で撮ったわたしと「ぶんご」副長の写真をいただきました。
やっぱりプロの写真は何か違うなあ。


掃海隊の活動がとてもよくわかる訓練の動画を教えていただきましたのでご紹介します。
これを見ると、今回見てきたものがいろいろと実際に結びつく部分が多く、
大変理解を深めるのに役立ちましたので、皆様もぜひごらんください。


さて、下船の後、空港に到着したところまで一気に行ってしまいましたが、
もしかしたら皆さんの中には、わたしがこの航海中被った最大の災難、
船酔いの報告を楽しみに(ってことはないかな)されていた方も、
まれにおられるかもわかりません。

今まで散々、この日の波が高かったこと、掃海艇が揺れたこと、
そしてそのため船酔いしたことを予告してきたわけですが、
いよいよそのことを恥を忍んで、お話する時がやってきたのです。


といって別に勿体をつけていたわけではなく、掃海隊について
あまりに見たこと驚いたことが多すぎて、最終回になるまで
こんなことを書くチャンスが訪れなかっただけなんですけどね。

それでは参りましょう。
少し時間を巻き戻して、「うらが」移乗が中止になったため急遽催された、
「えのしま」艦内ツァーの甲板部分が終わったところからです。




甲板からわれわれ一行は、中に入りました。

寝室です・・・・・寝室なのですが、何かが違う。
今まで見てきた護衛艦などのベッドルームとは・・・・まず雰囲気?
なんか心が和むような、アットホームな・・その原因は、色。

温かみのあるインテリアはほとんどが木製の家具。
まるで新入学を迎えるお子様の子供部屋みたいな感じなのです。

その理由はシンプルでした。

「家具もできるだけ木を使うのです」

そうか!これは掃海艇だった。
触雷しないように艦体に鉄分を用いないという掃海艇、外だけでなく
内側のインテリアにさえも木製を心がけているとは!



士官用の洗面所も、ドアは全て木製。
これがいかに違和感のある眺めであったことか。
水回りにあって水はねを考えると絶対に用いない物入れも木製。
掃海母艦ではステンレス製だった偉い人専用のお風呂も、ここでは
マンションのバスユニットのようなポリプロピレン製です。




ところで、わたし自身、この時点まで揺れが苦になるという感覚はまったくなく、
初めての物事を見聞きするのに一生懸命で、船酔いなど気配も感じていませんでした。

あとで、直前まであれだけ元気だったのに、なぜいきなりそうなったのか、
ということをわたしなりに思い出しつつ考察してみたのですが、その原因は
じつはこの時見学したものにあったのだと思わざるを得ません。

そう、洗面所の扉を開け放したトイレです。

人間の反射神経というのは不可思議なもので、これを見て、
そののち2〜3歩歩き出した途端、わたしは耳下腺に異変を感じました。
最後にこの感覚を味わったのは、もう何十年前のことでしょうか。

家族で車に乗って神鍋高原にスキーに行った時だから、あれは昭和・・・

とノスタルジーにふけっている場合ではありません。
とにかく、これは緊急を要する事態だと判断し、先を行く司令に

「あの。急に気分が悪くなってしまったのですが」

と声をかけると、司令は踵を返して洗面所のドアを開けてくれました。
今通り過ぎたばかりなんで、黙って一人で行ってもよかったんですけどね。


船酔いについては不肖エリス中尉、先達からの知恵を得ていました。
例の、あの、

「(自分の吐いたものを)飲み込め」

というあれです。
しかしながら、

「なるほど、これが飲み込めれば二度と船酔いせずにすむのか」

と頭でその言葉を反芻しながらも、内容物を反芻するような真似は(誰うま)
到底できませんでした。


(5分経過)


ドアを開けて外に出ると、医務担当の乗員が前に立っていて、
大丈夫ですかと声をかけてくれました。
司令はすぐさま船酔いが出たことをメディックに連絡して現場に急行させたのです。

その気配りに感謝しながらも、現金なぐらいスッキリとしていたわたしは
お礼を言って大丈夫だといいましたが、メディックは士官室で
休憩するようにいい、部屋まで連れて行ってくれました。

なお、途中で顔を出したミカさんによると、気になって部屋を覗いたら
顔色が悪くてしんどそうだったので大丈夫かなと思った、とのことです。

自分で思うよりずっと体の方が正直だったってことでしょうか。



ほどなく、お昼ご飯の用意ができました、と士官室に声がかかりました。

先ほどブリーフィングを受けたテーブルに人数分のトレイが並べられ、端のテーブルには
自分で好きなだけご飯とお味噌汁をよそっていただけることになっていました。

それがこれ。なんですが、あら不思議、まったく食欲が湧いてこないの。
隣からはミカさんの

「おいしい!」

という言葉が一度ならず聞こえてきて、ああそうなのかそうなんだろうなと思いつつ、
ただお皿とにらめっこしているうちに、時間がただ過ぎて行きました。

そのうち、お皿を片付ける人が来てしまったので、恐縮しながら、

「すみません。食べられなくて・・・・あの、船に酔ってしまいまして」

と情けない声を出すと、若い隊員さんは、優しく

「気にしないでください。わたしたちも皆そうでした」

と慰めてくれました。(´;ω;`) ぶわっ

後から別の参加者(一般人のような男性)に聞いたところによると、
前回の日向灘訓練の時には、今日より海が荒れ、ガブってしまったせいで、
報道陣の半分が船酔いでダウンした、とのことです。

いかにこの季節の日向灘が荒れるかということですが、
それでもこの日はかなりマシな方だったということです。

にもかかわらず船酔いするわたしってどうよ、という説もありますが、
そこはそれ、視覚にもたやすく刺激される程度には繊細なのである。
・・・と厚かましくも言い切っておきます。

 
船酔いは自衛官であっても誰もが通る道で、しかも強い弱いも個人差があるそうです。
最近読んだ本の中では、「亡国のイージス」で、反乱を起こす護衛艦艦長、
宮津は若い時から揺れに弱く、いつまでたってもポケットの「袋」に
手が伸びていた、ということですが、同じ年頃の海曹に(これが後年宮津の反乱に
たった一人で立ち向かう先任海曹の仙石の若い時)ある日、
どうしたら酔わなくなるのか、と尋ねると、海曹はケロリとして 

「そりゃ簡単です。船に乗らなきゃいいんすよ」

と答えた、というエピソードがありました。

また、同じ小説内で、FTGを装って護衛艦に乗り込んできた某国工作員たちが
皆すぐに酔って、しかも「袋を持っていない、トイレの場所も知らない」
ので、たちまち海士たちの間に不信感を持たれる、という設定でした。

船を描いて船酔いを語らずにはリアリティは出せないってことでしょうか。


余談ですが、海外派遣で陸自隊員を運んだ時に皆が全滅してあたかも
「ガス室状態だった」
という話をしていたのは確か護衛艦「いせ」のクルーからでした。
そのときもちらっと聞いたのですが、「ぶんご」を見学した時に、
海に落ちた陸自隊員が出たのは輸送艦「おおすみ」からだったと改めて知りました。

「甲板をランニングしていて、よそ見してたので落ちたらしいです」

甲板がどこまでも続いていると思ってまっすぐ走って行ってしまったんですね・・。

そして、 艦内には「人が海に落ちた、実際」の放送が響き渡り、
救助のための大騒動が展開されたという話ですが、その噂はその日のうちに
全軍布告の上2階級特進、じゃなくて、全海自に伝わったそうでございます。


海自の隊員たちが、この陸自隊員のことをどんな風に言っていたかも
このとき聞かなかったわけではありませんが、関係ないのでここでは伏せておきます。



さて、1時間高速を運転して空港に到着し、飛行機を待っていたら
ラウンジのテレビが地元放送局の夕方のニュース番組を放映していました。



おお、これは今日メディアツァーに参加していた、しかもあの、
妙な質問をした記者のいるテレビ局ではないか。
なんというか、嫌な予感にワクワクしながらカメラを構え(笑)、
どんなニュースに仕立て上げられたのかを注意深く見守りました。

画面では訓練の概要をアナウンサーが淡々と告げています。




S-10機雷掃討具を「ロボット」と言ってしまうあたりがいかにも
素人っぽい、と意地悪く思ってしまうわたしであった。
それはどうでもいいのですが、画面の右上にニュース開始と同時に

「安保法制成立後初めて」 

と書いてあるのが 期待を裏切らないというかなんというか。



なかなか絵としてはいい選択をしていると思うんですがね。



例のアナウンサーは、この様子を映し出している画面に、声だけで
補足的な状況説明を挿入していました。
そして、ニュースの締めは、

「さきの国会で成立した安全保障法案のもと、集団的自衛権を行使して
自衛隊に海外での機雷処理を認めるかどうかが議論されています」

ということでした。
確かに、そういう議論はありましたよ。

まるでペルシャ湾の掃海に、自衛隊が内外の要望に応じる形で参加したことなど、
歴史には一切なかったかのような気すらしてくるのですが、
政府としては、掃海による国際貢献を「集団的自衛権の範囲」と定義したわけです。

我が国のシーレーンを守るために必要な掃海が、なぜ「集団的自衛権の範囲」なのか。
実のところわたしはこの「言い訳」を内心歯がゆく思っているのです。

もちろんそれに対し、 読売新聞もその社説上で、

日本船だけを標的に敷設された場合は、個別的自衛権の適用もあり得るが、
機雷は不特定多数の国を対象とするのが通例で、そんな事態は非現実的だ。

と、もっともなことを言っております。
この件に関しては、わたしの考えは読売新聞側だな。

だいたい、個別的自衛権でシーレーンの掃海が対応できないというのなら、
あのペルシャ湾掃海の時は一体なんだったんだ、ってことになりませんか?

つまり、政府は、集団的自衛権行使の正当性の補強として「文句のつけようのない」、
そして過去にも実績があり、世界的にも評価の高い海自の掃海活動を
利用しているんじゃないか、と思わざるを得ないわけです。

首相はこの件に関し、

「日本にとって、海外からの石油や食料は死活的に重要だ。
(だから)我が国は掃海活動に正面から向き合っていく必要があり、
石油の輸送路である中東・ホルムズ海峡での機雷の処理に自衛隊も参加すべきだ」

と述べており、これは自明の理というより、それこそ

「集団的自衛権関係なくね?」

とわたしとしてはツッコミを入れたくなってしまうわけです。
集団的自衛権の行使は、独立国に与えられた権利であり相互義務です。
どこかの馬鹿パヨクが言っているように行使したら戦争になる、
なんてことは断じてなく、 行使することは国際社会の一員として当然のことで、
いくら国内の野党やらマスコミやら左翼やらがうるさいからといって、
何も掃海隊をその正当性に利用することはないと思うんですけどねえ?

国際貢献と集団的自衛権の行使は、根はいっしょであっても所詮別の話です。
海自掃海隊の力が国際社会に求められているのならば、その一員として
日本は堂々と掃海隊を派遣し、国としてその労に対し、名誉で報うべきなのです。

日頃継子のような日陰の扱いをしておいて、こんな時だけ
「その実力が期待されているから」「平和維持活動だから」と持ち上げたり、
定期訓練を、あたかも「そのための準備」でもあるかのように印象操作したり。

つまりわたしが何よりも声を大にして言いたいことは、政府もマスコミも、
どちらも自衛隊を己の主張のためのツールにするな!ってことなのです。

政治に関与せず、危険にあっても我が身を顧みることなく、
毎日毎日いざという時のための訓練を、弛まず倦まず続けているプロ集団を
どのように動かすのも、それは政治家たちの仕事であり権利の範疇です。
だからこそそのために、我々は、彼らを選挙で選ぶわけです。

自衛隊を直接動かすのは国民であって、政治家はマニピュレートするだけともいえます。

それならば当然のこととして、彼らには大義と結果に対する賞賛が与えられるべきです。
国のために戦う者に名誉も与えられなくて、何が国民の代表でしょうか。
 

 
というわけで、掃海隊体験を長らく語ってきたわけですが、
この1日半は、わたしがこの「最後の船乗り」たちとその活動に接して
驚きを感じるとともに敬意を払うに至る、十分な認識の時間でした。

貴重な機会を与えていただいた紹介者の方、掃海隊群司令、
そして夜半にもかかわらず艦内を案内してくださった「ぶんご」副長、
クルーの皆さん、 水先案内をしてくださったミカさん。
そしてメールでご指導ご鞭撻をいただいた掃海隊関係者の方々、
皆様すべてにこの場をお借りして心よりのお礼を申し上げるしだいです。

ありがとうございました。


終わり


 

ハイラインチェアの恐怖  空母「イントレピッド」

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空母「イントレピッド」のハンガーデッキ展示の続きです。

甲板にある航空機は必ずしも艦載機でなく、中には外国軍のものもあったりして、
甲板は「航空機展示用のスペース」として活用されているだけということになりますが、
ハンガーデッキでは空母「イントレピッド」についての展示ばかりであることから、
ここにある航空機も実際に艦載されていた飛行機ばかりです。

その一つ、

Grumman イースタン・エアクラフト TBM 3E「アベンジャー」。

アメリカという国と戦争した日本人にとってもっとも「敵」として名高いのは
なんといってもB-29爆撃機だと思うのですが、日本軍、ことに海軍から見た場合、
零戦を劣勢に追い込んだF6Fヘルキャットとそれにつづくこのアベンジャーが、
もっとも恐ろしい敵となったことは否定できないでしょう。

なんといっても、このアベンジャーによって戦艦「大和」「武蔵」、
そして空母「瑞鶴」も沈められることになったのですから。

当館のアベンジャーに付された説明にも

太平洋戦線でアベンジャーは「もっともパワフルな」戦艦「大和」と
「武蔵」を含む日本の軍艦を撃沈せしめる役割を担った

と心なしか誇らしげに記されています。


ところで、少し前にアップした「イントレピッドシリーズ」で、
ドーントレスとアベンジャーを間違えて説明を載せてしまい、
お節介船屋さんと部下その1(いまのところ一人ですが)に指摘され、

「だってイントレピッドのHPにアベンジャーの写真があって、ドーントレスがなかったんだもん。
きっとアベンジャーとドーントレスをどこかと交換したに違いない!」

と往生際悪く言い訳などしたのですが、よく考えたら、ハンガーデッキにあったんだった。
つまりわたし、アベンジャーを「イントレピッド」で見ていたのに、
このときにはすっかりと忘れ去っていたということなのです。



となりにターレットが展示されていました。
英語では「ボールターレット」と呼ぶようです。
このターレットが初めて搭載されたのが、TBM「アベンジャー」でした。

そもそも「ターレット」だけだと、英語ではたんなる「砲塔」という意味になります。



アベンジャーのターレット搭載例。
映画「メンフィス・ベル」の爆撃機B-17Fだと、ターレットが下部にあり、
背の低い乗組員がボールの中に入ってハッチを閉められていましたが、
これだとまあそう「怖い」(B-17のは怖かったらしい)ことはなさそうです。

アベンジャーの乗組員は機長と射手、そして爆撃手を兼任する無線士の三人が乗り込みました。

しかし、この写真を見て、大男の多いアメリカ人で、よくこんなボールに
入り込んでしかも長時間乗っていることができたなと思います。



座席部分をどうぞ。
たとえ飛行機の下部分にぶら下がるようについていなかったとしても、
ガラスのドームのような部分で敵と対峙するのは恐怖だったと思われます。



続いて椅子ばかりが幾つか並んだコーナー。

まずこの変哲もないただの椅子は

NAVY SIDE CHAIR

と言います。
「マルチファンクショナル・ライトウェイト」とされるこの椅子は、
海に浮かぶ一つの「シティ」の中で3000人以上の乗組員が生活していくために
必要な様々な仕事のために作られた艦内専用椅子。
主にレーダー、通信係、オペレーター、事務職などが使用していました。



航空機用のシートベルトのようなものが付いています。
まさかイジェクトシート?と思ったら、やはりそうでした。

イジェクトシートが最初に航空界に現れたのは1910年のこと。
その頃の飛行機はそれほど高速ではなかったので、何かあれば
パラシュートを背負って自分で飛び降りれば大丈夫でしたが、そのうち
飛行機の性能の向上に伴い、飛び降りるときに尾翼にぶつかる事故もあったため、
ゴムで(!)座席を弾き出す方式のものが生まれ、のちにドイツが圧縮空気式を発明しました。

射出座席を本格的に実用化したのは、イギリスのマーチン・ベーカー社。
ここにあるのがその射出座席で、ドイツが採用していた圧縮空気より力のある火薬式。

マーチン・ベーカー社がこの研究を始めたのは第二次世界大戦の最中で、製品として
完成させたのは、1946年のことです。
この座席はアメリカ軍の1950年代の戦闘機で使用されていたもので、射出するには
パイロットは、頭上からぶら下がっているリングを引っぱります。
ほとんどの場合、キャノピーは射出の際、吹き飛ばされ、座席の下のロケットモーターが
点火されると座席は射出されます。
そのあと、シートはパイロットの体から離れ、パイロットは落下傘で着陸するのです。

射出座席が必要になったのは、レシプロ機からジェット機になったとき、
速度によって受ける空気抵抗が大きすぎて自力で脱出できなくなったからです。
例えば68キロの体重のパイロットが射出の際に受けるGは1,360キロになります。 

なお、マーチン・ベーカー社は現在でも射出座席の代表的メーカーのひとつです。



まるで昔の映画館の椅子のようですが、これは

READY ROOM CHAIR

といって、搭乗員の控え室にあったものです。
この部屋にある椅子が、全艦内で一番豪華でリラックスできる仕様でした。
パイロットはどこの国の軍隊でもその特殊性からもっとも優遇されていたのです。

しかし控え室の椅子に関しては、元来空母の搭乗員は、比較的普通の、
居心地の悪い椅子に座っていたものだそうで、このようになったのは 
「エセックス」のデザイナーがラウンジルームを豪華に設計し、
「エセックス」級が同じ仕様を取り入れてからのことだそうです。

この椅子は第二次世界大戦中に「イントレピッド」の搭乗員が使用したものです。



歯医者さんの椅子みたい、と思ったらやっぱりそうでした。
3000人以上が乗り込んでいれば、歯に不具合ができる乗組員だって少なからずいます。
というわけで、ちゃんと艦内には医療スペースとは別に歯医者の診察所もありました。

呉の「大和ミュージアム」で最後の特攻作戦に、
歯科医が乗っていたという証言を見て、

「少尉候補生や少尉、年配の下士官は下ろしたのに、
どうしてわざわざその必要もない歯科医を乗せていく必要があったのだろう」

と不思議に思ったことを思い出しました。



これは見ただけでわかりますね。
え?わからない?これですよこれ。

 At Sea Hi-line transfer


あの、むちゃくちゃ怖いんですけど。
ケージごとぶらんぶらん揺れて、波とかかかりまくりなんですけど。 

wiki

もっと怖い写真がこれ。
ヘリコプターが使えない時、隣に来た船舶に移る時には、
昔からこの方法が普通に使われてきたそうですが、それにしても
乗っている人は怖いだろうなあ・・・。
まあ、何かあってもすぐに助けてもらえると思うけど、
シートベルトごと海に落ちたら助けに来るまでに死ぬよ?



1990年にフライトデッキを改装した時に一部切り取って展示してあります。
7.6cmの板の上に、5cmの鋼鉄板をレイヤーで重ねてあります。
一番下の木はマツ、その上はチークという素材です。(多分チークが固いからですね)

木製の甲板は補修しやすく取り替えやすいというメリットがありますが、
戦争も後半となると、主に特攻機の攻撃に備えて鋼鉄に変えられる部分が増えました。
先日お話した「カゼ体験ショー」を見ても思ったのですが、
本当にアメリカ軍にとって特攻隊の攻撃は悪夢以外の何物でもなかったのです。

"JOCKO"ってなんでしょうか。
Joseph  James "JOCKO" Clark は、第二次世界大戦中アメリカ海軍で
もっとも有名なエセックス級の司令官でした。

wiki

なぜインディアンの格好をしているかというと、彼がネイティブ・インディアン
(チェロキー族)の出身で、初めて海軍士官学校を卒業した人物だからです。

最初の艦隊勤務を「ヨークタウン」の副長から始めた彼は、ミッドウェー海戦、そして
マリアナ沖海戦(アメリカ側の呼称はフィリピン・シー・バトル)で
指揮を執り、アメリカ海軍の勝利に大きく寄与し、最終的には大将になりました。

この漫画には、東条英機のつもりらしい出っ歯のメガネ(東条英機は出っ歯ではない)
が、頭を抱えている横に立て札があり、右側には「TOKYO」、左には

BONINS (JOCKO JIMA )

とあります。
ジョッコーことクラークは、一連の小笠原諸島に対する攻撃の司令官として、
前任者のイマイチ煮え切らない攻撃とは違って高く評価を受けたそうですが、
このときクラークの下で戦った乗組員やパイロットから

「ジョッコー島開発公社」 (Jocko Jima Development Corporation)

と呼ばれていたそうです、

 BONINSというのはこのままえいごで検索していただくとわかりますが、
小笠原諸島のことを英名でこういうのです。

ピントが甘くてよく見えませんが、水平線の右手には
島を浮き輪のようにしているおっさんが「ターキー」を食べています。
そして、立て札には「MARIANAS 」(マリアナ)の文字が・・・・・。(不愉快)



続く。 


 

年末・年忘れ映画ギャラリー

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早いもので、あっという間に1年が過ぎました。
感覚としては6ヶ月も経っていないような気すらしてるんですが。
ちなみにふとブログの掲載日数を見ると、2070日となっていました。
来年でもうブログ開始以来6年目を迎えようとしてるんですね。なんてこった。

今年、ことに最近は自衛隊イベントの参加とそのルポルタージュ編に忙しく、
お絵かきしてる場合じゃねえ!という毎日が続いていて、恒例の
年忘れギャラリーを掲載するほどのネタがないのですが、とりあえずやります。


【ファイナル・カウントダウン】

まずは、年初めに満を持して?発表した「ファイナル・カウントダウン」。
わたしの中で「三大タイムトリップ戦争もの」というと、「戦国自衛隊」「ジパング」、
そしてこの「ファイナル・カウントダウン」ということになります。

わたしの中でなくとも、実際もこの3つくらいですかね。

架空戦記というのは近代以降現れたジャンルだそうです。
大戦前には日米の戦争をシミュレーションした軍人の手による
下心ふんぷんの架空戦記が多く書かれましたが、後でお話しする「海底軍艦」のような
SF的要素を盛り込んだ架空戦記もほどなく現れ始めます。

この傾向はアメリカでも同様で、いくつかの日米戦シミュレーションものが書かれました。
 
現代の軍が過去にタイムスリップするアイデアを用いた架空戦記は、
RIMPACに向かう海自の護衛艦隊がミッドウェーにタイムスリップする
「大逆転! ミッドウェー海戦」、日ソの潜水艦がレイテ沖海戦に介入する「大逆転!レイテ海戦」、
現代の沖縄ごと米軍上陸前にワープする「大逆転! 戦艦「大和」激闘す」、という
檜山義昭の「大逆転シリーズ」は1988年、ジパングが2000年。

この間、幾つかの「現代の装備で過去に現れてスーパーマン的戦闘をする」
というパターンの創作物が現れましたが、じつをいうと、これらすべて後発で、
歴史的に見ても半村良の「戦国自衛隊」(1971年)が最初の作品となります。


「ファイナルカウントダウン」は1980年作品で、「戦国自衛隊」のヒットがその1年前の
1979年だったということから、やはり盗作ではないかということになったようです。
しかしながら、原作の小説は「それより以前」に書かれていたのでセーフということになりました。

現在、このジャンルで「明らかな盗作」と評判のあるのが、2005年、
韓国で製作された「天軍」で、韓国軍と朝鮮人民軍が李舜臣の時代に現れて、
現代の兵器で憎き日本軍をコテンパンにするというもの(笑)。

ちらっとニコ動で見たところによると、両軍が機関銃を撃ちまくって日本軍兵士を
問答無用で虐殺していましたが、さぞ観客はこのシーンにすっきりしたんでしょうな。

ついでにポスターまでが「パイレーツオブカリビアン」の丸パクリだったというおまけ付き。



相変わらず1日で語り終えることができなかったため、二日目は
イエランド艦長のおかげで過去に置いてけぼりにされ、謎の人物として現代に現れる
オーエンズ中佐を演じたジェームス・ファレンティーノを描きました。
2013年に73歳で死去しています。

わたしはこのオーエンズ中佐が、タイムトラベルしてくる「ニミッツ」に
謎の人物「タイドマン」としてマーティン・シーン演じる調査官のラスキーを
送り込んできた理由を、ずばり「艦長への復讐が目的」だと解説しましたが、
もちろん映画の上では、そういう人間同士の葛藤は全くオミットされています。

架空戦記というものは、何かを無視せずに描くことはできません。
とくにタイムパラドックスものにつきものなのが、矛盾だからであり、
矛盾にいかに目を向けさせないかがこういう創作物のできを左右します。



この映画で気に入らないのがこの零戦搭乗員のキャスティングでした。
マジで、一人くらい日系人の俳優はいなかったのか、と問い詰めたいです。

汚らしい塗装に、アサヒビールのマークをそのまま切り貼りした旭日旗のマーク、
というふざけた日本機で真珠湾攻撃のシーンを撮ったこの映画は、もしかしたら
「パールハーバー」と同じく、アドバイスや考証どころか、日本人の目に触れないように、
スタッフからも日系をシャットアウトして製作したのではないか、と疑われるくらい、
その描写は無礼千万で何の敬意も感じられないものでした。



本作品のプロデューサーは、イエランド艦長を演じたカーク・ダグラスの息子、
ピーター・ダグラスで、彼は予算ではなく、映画のスクリプトを
米海軍にアピールすることでその全面協力を取り付けたそうです。

ニミッツの隊員のほとんどが実際のクルーで、彼らの名前はクレジットされ、
撮影については、とくに飛行隊に関しては現場の意見が最優先されました。



【俺たちの星条旗 AMERICAN PASTIME】



「俺たちの旅」の中村雅俊が出ているからといって、なにも原題で
「アメリカの娯楽」を意味するこのタイトルまで「俺たち」にしなくても、
と思ってしまうわけです。

日系アメリカ人についてはこのブログでは何度かその歴史、
とくに戦争中に彼らがどうあったかに焦点を当ててお話ししていますが、
「アメリカの黒歴史」として、今でもアメリカ人が目を背ける日系人収容と、
彼らの最もポピュラーな「暇つぶし」であり「娯楽」であった野球が
作品のテーマとなっているので、やはりそこは原題に忠実にしてほしかった。

ここは直球で(誰うま)「アメリカン・パスタイム」でよかったのでは・・。

配役としては、中村父、ジュディ・オング母まではいいのだけど、やはり
二人の息子が日系人でないというのが残念でした。
日系人というのは、アメリカの少数人族で唯一数が減っているそうで、
日本人役ができる俳優はほとんどいないと見え、どの映画の日系人、
日本人も、大抵は中国系か韓国系で間に合わされてしまいます。



日系人チームと、看守のビリーを含む町の白人チームが試合を行うのが、
この映画のクライマックス。
この試合で、日系人を蔑んでいたビリーが、日系人チームのエースである
娘のボーイフレンドと投打対決をするわけですが、そこで彼がいざというとき、
「スポーツマンシップ」に則ることができるのか?というのが見どころとなっています。




毎年2月26日に恒例行事として226事件に関する映画を取り上げています。
今回は思いっきり地味なこの映画を扱ってみました。
主演、宇津井健。



この映画は226を単体で書いたものではなく、その以前の、海軍将校が起こした
515事件や相沢事件なんかも網羅しているものなので、歴史に詳しくないと、
せめて興味くらいないと、そもそも見る気も起こらないというくらいです。
つまり映画として全く面白くない、ということができると思います。

なんと張作霖爆破事件から話が始まっているわけですからね。

そのわりに、右翼主義者の起こした浜口首相暗殺も、「陸海軍流血史」として
一緒くたに語っているあたりがむちゃくちゃ乱暴です。

それに、原題の基準で安藤輝三大尉を語ろうとするものだから、軍部の暗躍を
暴こうとして拷問死させられる新聞記者、という架空の人物の死に
安藤大尉が発奮して革命に加わる、という、全く辻褄の合わない展開に。

だからこの新聞記者が止めようとしていたのが、武力による軍事支配だったんだってばさ。

青年将校たちの蹶起は愛国的意図のもとに起こされたが、失敗し、首脳部は
その後実権を握り世論を無視して事変を誘発し、ついに大東亜戦争の火ぶたを切って
日本の運命を敗戦の悲劇へと叩き込んだ

なんてもっともらしい(けど全く説得力のない)結論付けをしている点でアウト。
それじゃー、まるで226事件が成功していたら戦争にならなかったみたいじゃないの。


【KANO 1931 海の向こうの甲子園】



日本が統治していた時代、ダメダメだった嘉義農林高野球部を鍛え、
甲子園準優勝に導いた日本人教師、近藤平太郎を演じた永瀬正敏が
大変いい演技をしております。

伝説の投手、呉明捷を演じた曹祐寧くんは現役の野球選手で、映画公表後、
ファンに追いかけられる毎日だったとか。

ところで、わたしはこの年末、またもや台湾に行く予定をしていました。
夏に直前で中止になった李登輝元総統との会見ですが、もう一度機会をいただき、
今度こそはと思っていたところ、またしても元総統のお加減が直前で悪く・・・。

もう92歳のご高齢なので仕方がないことかもしれませんが、よりによって
わたしがお会いするという予定の直前にいずれもこのようなことになるなんて。

今回の訪台では、白色テロの生存者の体験談を聞くという予定もしていたのに、
それが無くなったのも残念でした。
次の機会に、といいたいところですが、それが今後あるかどうか・・。


【アメリカン・スナイパー】



こういう映画が出ると、アメリカでもたとえば自国の戦争について
右と左で論議が巻き起こるものだということがわかりました。

しかしながら、クリント・イーストウッド監督がこの映画で描きたかったのは、
「悪魔のスナイパー」として255人ものイラク人を射殺したクリス・カイルにとって、
自分を支えている戦士としての義務感と誇りより、彼を蝕んでいた精神的外傷の方が
はるかに重圧であったということなのではないか、と仮定してみました。

カイルを殺害したのが、やはりPTSDに苛まれていた帰還兵であったことも、
監督にとってこの題材を取り上げるための大きな動機になったことでしょう。


 

【機動部隊 TASK FORCE】


あまり有名ではありませんが、空母艦載機のパイロットを第一歩に、
その人生をアメリカ海軍に捧げた一人の軍人を、ゲイリー・クーパーが演じた映画です。

主人公のスコット少佐は、アメリカで最初の母艦艦載機乗りになり、
その後左遷されたりまた引っ張られたり、兵学校の先生になったり
飛行機は時代遅れだと言われて憤ったり、太平洋戦線ではカミカゼに苦しめられたり、
という海軍人生を送って、ついに引退の日を迎えます。

映画は彼の回想する走馬灯のようなその思い出として語られ、
実際に初の空母となった「ラングレー」とか、特攻機の攻撃で
半死半生になって帰還した空母「フランクリン」など、実在の艦船と
スコット少佐を絡め、戦友の未亡人と結婚したり、親友を先頭で失うなど、
人間的な成長を横糸に紡ぎながら展開していきます。

この映画についてお話ししたおかげで、ずいぶんアメリカ空母史に詳しくなりました。



【海底軍艦】



ある日私は「地球防衛軍」というレジェンド映画を見ました。
そのパッケージに含まれていた広告で知ったこの映画。
概要を読むなり「なんだこれは!」と目が点になり、
次の瞬間にはAmazonをぽちっとしていました。

戦争が終わっても南方のどこかで海軍基地を維持し、そこで
空飛ぶ潜水艦、海底軍艦「豪天号」を発明し建造した天才軍人、神宮寺八郎大佐。
20年もの間、帝国海軍の復活だけを悲願に、存在し続けてきた
生霊のような海軍部隊と、地球征服を(っていうか間借り?)企む
海底人の国、ムウ帝国が、地球の覇権を巡って今激突する。

こんな面白いキワモノ映画なら、何としてでも皆様にご紹介せねば。

そんな気持ちでこれも満を持して取り上げたところ、意外なことに
リアルタイムでご存知の方が多く、知らんかったのはわたしだけ?
みたいなカルチャーショックでした。


「ファイナル・カウントダウン」で仮想戦記の歴史に少し言及しましたが、
それでいうと、この「海底軍艦」の原作は、当時早稲田の学生だった押川春浪で、
1900年の発表された「海底軍艦」は日本の仮想戦記の「はしり」であり、
SF的要素を用いた最初の架空戦記として、冒険物のジャンルでもありました。


この映画は、小説「海底軍艦」の豪天号のアイデアを生かしつつ、
幻の大陸「ムー」に「海底人」が生きており、かつ豪天号の運用を
海軍軍人の生き残りの一団が行っていたという破天荒の設定となっております。



戦争映画について数多く語ってきたわたしとしては、この映画の要所要所に
海軍にこだわった、妙に律儀な部分にウケずにはいられませんでした。


たとえば、楠見元海軍少将が託されて育てていた神宮寺大佐の愛娘をつけまわす、
神宮寺大佐の部下である一等海軍兵曹。
こいつが挙動不審で警察に捕まったとき、「8561」しか言わない、てんですよ。
どこの世界に自分のIDをしょっちゅうつぶやいている人間がいるのか。

しかも、その4桁を聞いた途端、楠見元少佐は「海軍の認識番号だろう」って・・。
コインロッカーの番号とか、電話の下4桁か、銀行の暗証番号って思いますよね、普通。

あ、このころはキャッシュディスペンサーもコインロッカーもなかったのか。

とにかく、映画そのもののインパクトより、読者の皆さんが皆ノリノリで
コメントを下さったので、それが大変楽しい連載でした。


ところで、ムウ帝国が殲滅した後、海底軍艦と神宮寺大佐以下、
豪天建武隊の皆さんはどうなったのか、わたしは気になります。



【日本の一番長い日】



我ながら時間がない中やっつけで描いた感が満載だと思う絵ですが、
実際本当に時間がない中、急いで絵と文章をアップしました。
たまたまいただいたチケットで観に行ったこの作品に、いたく感動したからです。

歴史・戦争映画というのは多かれ少なかれ、政治的指向の色付けを逃れることはできません。
「アメリカン・スナイパー」のアメリカですらそうだったことを考えると、
自衛隊や軍隊をどうとらえるかが、右か左のメルクマールとなってしまっている感のある
今日の日本では、それも致し方ないことなのかなという気もします。

たとえば、本日回顧した「重臣と青年将校 陸海軍流血史」 などは、
史実にない架空の人物を入れ込んで、矛盾となるのも御構い無しに
安藤大尉の「意志」を現代基準で捏造し、映画の最後では、

「かかる悲惨事を繰り返さぬよう不断の努力を続けねばならない」

なんて、ごもっともな反戦論をぶってすましていましたし、
架空戦記の「海底軍艦」ですら、女を追いかけ回すしか能のない新聞記者に
「愛国心」を唾棄するものと言わせ、憲法9条をお題目のように唱えさせていました。

しかし、愛国心はダメなのに、地球の危機となれば海底軍艦は出動しなければならないし、
地球人でなければ皆殺しにしてもそれは仕方ない?
こんなダブルスタンダードが堂々と成立しているあたり、映画製作者の、
WGPに洗脳された皮相な「平和論」がしょせん露呈しているだけとしか見えませんでした。


その点、最近観た架空戦記映画「亡国のイージス」では、そんな国の抱えてきた
いびつな国家論が、宮津2佐の反乱によって現代の日本に露呈されるといった具合で、
戦争映画もついにこういうテーマを語る域に達したのか、と感無量でした。
(近々取り上げる予定なのでその予告です)

この「日本のいちばん長い日」は、日本が歩んだ長い戦後レジームのトンネルの先に、
ようやく光明の見えてきた昨今、生まれるべくして生まれてきた作品といえましょう。




 

年忘れ人物ギャラリー

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冒頭絵はフランス空軍でエースパイロット(フランス語でア・ジャポネ)
と呼ばれレジオンドヌール勲章を受けた、飛行家、滋野清武男爵。

第一次世界大戦時、唯一のエースだった日本の男爵。
しかも彼はフランス娘を妻に伴って帰国し、飛行機の操縦を日本に広めるために
尽力した人物ですから、もう少し名前が一般に膾炙しても良さそうなものです。

しかしながら、現在、航空の歴史に通暁してでもいないと、
バロン滋野という名前を知っているものは滅多にいません。

この人物の、特に帰国してからは順風満帆とはいえなかった
薄幸の晩年が影を落としているからなのでしょうか。

飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)
 

 

女流パイロット列伝~木部シゲノ「男装の麗人」

飛行機の免許を取るために、飛行学校をだけで世間の話題になり、
本人が好んで男装をしていたことから「男装の麗人」として一斉を風靡した、
この時代の申し子のような一飛行家について、著書で彼女を取り上げていた
あるフェミ作家への非難を兼ねて書いてみました。

はっきりいって、飛行家としては突出した実績を残したわけでもない彼女が、
どうして当時世間にこれだけもてはやされていたかについては、

「男装した時に初めて魅力を発揮する女」

に属したからではないか、と推測してみました。
いずれにせよ資料がなさすぎて、なんとも言えません。




女流パイロット列伝~セシリア・アラゴン「空飛ぶサイエンティスト」

コンピューターサイエンティストで大学教授でアクロバット飛行家。
世の中にはこんなとんでもない「リケジョ」(死語?)がいたんですね、
ってことで、オマージュの一頁を捧げました。




女流飛行家列伝~ジーン・ティンズリー「ウィリー・ガール」

女性として初めてオートジャイロの免許を取り、その後も
世界初のティルトローター(ご存知の通り大変難しい)の操縦資格を持ち、
VTOLの・・・・・・。

とにかく回転翼にかけては右に出る者のない女性飛行家。

ところで、わたしはここ何年か、夏の間、加州シリコンバレーで過ごしていますが、
車でとんでもない豪邸の(アメリカ基準で、いずれも広大な前庭とバックヤード付き)
立ち並ぶ、「アサートン(ATHERTON)」という住宅街を通り抜けることがあります。

彼女について調べたとき、彼女の住んでいる町であることを知りました。


「アサートンにある快適な住まいの、花の咲き乱れるバックヤードののデッキチェアで、
退院した78歳のお婆ちゃんが空を見ながら考えていたのは、
翌週サンカルロスのヒラー航空博物館で行われる
「ヴァーチカル・チャレンジ・エア・ショー」で乗る、「スカイクレーン」、
シコルスキーS−64のことでした。」

日本のいわゆる高級住宅街などではとても望めないような、豊かな緑をたたえる
その一角を通るたびに、まだ健在であるらしい彼女のことを思うわたしです。



女流パイロット列伝~キャシー・チャン「Great Expectations」

2014年末の掲載ですが、その年の年忘れギャラリーには載せなかったので、
ここであらためて登場です。
初の中国人女性として、彼女はアメリカの飛行界には受け入れられましたが、
白人の男友達(そもそも友達だったのか?)に必死の思いで貯めたお金で買った
愛機を壊され、弁償もしてもらえなかったため、失意のうちに帰国しました。

彼女のGreat Expectationsは、その瞬間全て消えたのです。



天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め


アメリカ海軍航空史の黎明期に名前を残した二人の人物を取り上げました。
まず、初めて船の甲板から飛行機で飛び立ち、初めて着艦し、そして初めて
着艦事故で死亡したユージーン・イーリー。



天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め


海軍軍人として初めて自分の操縦する飛行機で空を飛んだ、
セオドア・”スパッズ”・エリソン。
彼は単身赴任中のアナポリスから、重病の娘の身を案じて夜間単機で飛び立ち、
事故を起こし、その体はイーリーが人類最初に離艦を行った同じ海で発見されました。 


東京裁判のアメリカ人弁護人たち~ベン・ブルース・ブレイクニー少佐

東京裁判で日本人被告の弁護をしたアメリカ人弁護人については、
ずっと一度扱ってみたいと資料を集めていました。
参考にした本の中にやはり弁護人であった清瀬一郎博士の「東京裁判」があります。

そこに、あの、戦勝国による「見せしめ」のための裁判の論告中、
アメリカの原子爆弾投下について言及したブレイクニー少佐の「その後」、
つまり、裁判後日本に残り、弁護士として活動していたところ、
飛行機事故で死亡した、と書かれていたことは当時大変なショックでした。

東京裁判についてネット上にログが立つと、当エントリが取り上げられることもあるようです。



「ルーズベルト」ニ与フル書~市丸利之助少将


靖国神社の遊就館にいくといつも目にする、硫黄島の戦いの際
戦死した士官の体からアメリカ軍によって発見された英語の遺書。
それが、第27航空隊司令官、市丸利之助少将の書いた
「ルーズベルトに与うる書」でした。

大国アメリカのみならず、欧米諸国の人種的奢りを追求し、そして
彼らの虐げてきた有色人種の人権を取り戻すために立ち上がった
日本という国の「理」と、正当性を訴えてやまない
この手紙は、ルーズベールトが死去した後に、アメリカの新聞に掲載されました。 



「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長


海軍兵学校同期会の江田島訪問に、卑怯な手を使って紛れ込んだわたしは()
そのツァーの行程で海軍墓地を訪れました。

この項は、そのときに慰霊碑を紹介しながら、帝国海軍の艦艇について
あらためて思いをはせる、という形であげたうちの一つで、
俊英艦であったのみならず、人命救助に類い稀な実績を上げた駆逐艦「濱風」の
きっと男前であったに違いない艦長、前川万兵衛海軍中佐を、
写真が見つからないのをいいことに、妄想と、
こうあって欲しいという勝手な願望を込めて描いてみました。。




沖縄県民斯ク戦ヘリ~太田實中将


掃海隊を暮れに見学したことで、またなんどかペルシア湾の掃海について
触れることにもなったのですが、その指揮官であった落合二等海佐(当時)は 
この太田實海軍中将(戦死後昇進)の息子でした。

昭和20年、米軍の上陸に追い詰められた海軍陸戦隊の司令官として、
壕の中で他の幕僚とともに自決した太田司令。
撤退命令が出たにもかかわらず、持久戦を行うことを選んで後の死でした。

このときの「命令拒否」を、わたしは「獣民を少しでも巻き込まないため」だと
このエントリで推測しましたが、太田中将の最後に残した遺書の内容からも、
おそらくその通りだろうと誰しもが納得することでしょう。

「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」 


ところで、わたしは先日、ある人物から、初めて太田中将自決の跡を訪れたときに、
そこがいつもそれまで夢に見ていたのと同じ場所であると思った、という話を聞きました。

その夢というのは、爆音の後、石段を血が流れてくるといったいつも同じもので、
その人は、なぜ自分がこんな夢を何度も見るのか不思議だったということですが、
壕をみたとき、太田中将と共に自決した幕僚に、自分と同じ名を持つ軍人がいたことを
初めて知り、衝撃を受けたのだそうです。

輪廻転生を頭から信じているわけではありませんが、もしかしたら自決した幕僚の意識が、
何かのきっかけで、時空を超えて血族に受け継がれるなどということもあるかもしれない、
とわたしはこの不思議な打ち明け話を聞いて思ったものでした。



別の項で使用した太田中将の息子、落合元海将補。
太田中将とほぼ同じ顔です。



米海軍アイスクリーム事情~ハルゼー提督とアイスクリーム艦

ちなみに、当ブログの記事がいくつか掲載されているNAVARのまとめが、
その他の情報も含めて大変参考になったので、最後に挙げておきます。


アイスクリームとアメリカ海軍 潜水艦

特に同じサイトの記事、「変態兵器伊400型」というのにウケました。



それではみなさま、よいお年を。





 

「宗谷」~「日本人だけの手で」

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さて、第二次南極観測隊が日本を出港して難局に向かったのは、第一次観測隊が
南極に到達したのと同じ年の10月21日のことでした。
第一次観測隊の滞在が1年を迎える頃に、ちょうど南極に到達するという予定です。

しかし、この年、南極は「大荒れ」で、日本からの観測隊だけでなく
他国の砕氷船が5隻、氷に閉じ込められてしまいました。

「宗谷」は第一次観測のとき、ビルジキールをはずしていたため
最大60度まで船体が傾き、甲板の犬が海に落ちそうになったくらい揺れましたが、
その経験を踏まえ、今回は特製のビルジキールを装着した上、
砕氷能力を1.2mにアップして臨んでいました。

改装された「宗谷」の砕氷能力は当時世界の砕氷艦のトップクラスだったのですが、
その「宗谷」が閉じ込められるくらいの氷です。

馬力と砕氷能力の劣る砕氷船では、とても「宗谷」を助けるどころではありません。




「宗谷」は第一次観測隊のとき、艦載機にセスナを積んでいたのですが、
今回は今回はビーバー機(DHC-2型)といわれる水上機を搭載していました。
「昭和号」というこの飛行機は、海面からでないと離発着できなかったため、
「宗谷」は「昭和号」の飛び立てる海面を探してうろうろしているうちに、
ブリザードに捕まって身動きができなくなり、氷に閉じ込められてしまったのでした。




さて、「そうや」は苦労して一旦外洋に出、砕氷能力が1mのクラスであったアメリカ海軍の
「バートン・アイランド」号に救援を求め、支援を受けて密群氷に再度突入せんと試みました。
なんとか進まなくては、第2次隊員を第1次隊員の交代もできません。

しかしこれ以上船が氷を進むことは不可能と判断したため、艦載機を飛ばして、
第一次隊員を「宗谷」まで空輸で連れ戻すことを決定しました。

写真は、おそらく「バートン・アイランド」号か雪上の艦載機から撮られた「宗谷」。
この写真を見ただけで、二進も三進も動かなくなっているらしいことがわかります。



砕氷能力はあっても「宗谷」は古い船をリサイクルしたという性質上、エンジンは
ディーゼルエンジン直結方式で、始動・起動も遅く、航行速度も遅いため、
このような状況となった時に身動きできなくなったとも言われています。


「昭和号」で第一次観測隊員と最小限の荷物を収容したあと、代わりに
第二次隊員と荷物を昭和基地に輸送したところで、天候が悪化してきました。

そして「バートン・アイランド」号の船長から、「宗谷」に離岸勧告が出されました。

三人の第二次隊員と荷物はもう一度「昭和号」に積み直され、
樺太犬を置き去りにするという苦渋の決断を強いられて、
満身創痍の「宗谷」は、第二次観測隊の上陸を断念して日本に帰ることになります。

このとき、せめても母犬と子犬だけでも連れて帰ろうと、「昭和号」は
重量を軽くするためにガソリンを抜いたということです。

その後、「バートン・アイランド」号の後ろを航行して「宗谷」は外洋に出ました。


この失敗を踏まえ、第三次観測隊は搭載ヘリの規模にこだわりました。
シコルスキーS58型ヘリが2台積まれることになり、人員と荷物の輸送に活躍したそうですが、
このような大型ヘリが砕氷艦で運用されていたのは、当時日本だけだったそうです。



これ、なんだと思います?
照準器のように覗き込んでいるおじさんがいますが、何かを見るものではなく、
丸いガラスの部分をぐるぐると回転させることで外側に付いた雪を振り払う
「砕氷船仕様のワイパー」なのだそうです。

今ならもう少し違う方法がありそうですが、確実にこの窓の部分だけは
覗き込む部分を確保できるわけですし、なんといっても簡単な方法ですよね。



中に入ることはできず、外側から覗き込むことしかできませんでしたが、
ここが海図室、チャートルームです。
当時使われていた三角定規などがそのまま残されて展示されています。

そしてこの角度からはどうしても見ることができなかったのですが、
この海図室の向こう側には航空機と通信を行い指令を送る航空司令室があり、
右側の壁面には艦内神社である「宗谷神社」がありました。

第一次観測隊のために、「宗谷」には大規模な改装が行われました。

新船首部の取り替え、復原能力の大幅強化、デリックブーム新規交換、
レーセオン社製の観測用/航海用40マイル大型レーダー及び見張所新設、
蒸気機関からディーゼル機関2機2軸への換装、ファンネル換装、
救命艇4隻及びダビットを換装、宇宙線観測室新設、後部マストを門型に換装、
居住区換装、舵の換装、豆腐製造機新設、
ヘリコプター発着飛行甲板新設、ヘリコプター格納庫の新設、バルジタンク新設、
ベル47G型ヘリコプター2機搭載、セスナ180型1機搭載、
ビルジキール撤去、QCU-2型ソナー、音響測探儀を最新の物に再装備等。

ほとんど新造艦になったといってもいいほどの大改造で、これにあたっては
日本の幾多の企業がこぞって新技術を提供したというのはお話ししたところです。

このとき、「宗谷」からなくなってしまったものがありました。
それが戦前から当たり前のようにあった艦内神社、「宗谷神社」でした。

第一次観測に出発したとき、「宗谷」は戦艦「大和」沈没地点で、そして
ルソン沖で慰霊式を行い、献花を行っています。
にもかかわらず(というのもなんですが)、その直後大変な台風に見舞われた
「宗谷」は、最大各40度の横揺れに見舞われて搭載機が損傷してしまうのです。

改装によってビルジキールを撤去してしまったことが揺れの原因でしたが、
船の安全に不安を持った「宗谷」船長がそのとき思い出したのは、
出港前訪ねてきた元海軍士官の、

「戦時中宗谷が沈まなかったのは、艦内の宗谷神社のおかげだった」

という言葉でした。
もっとも、現場で訓練にあたる下士官などは、

「宗谷神社のご加護などあてにするな!」

を合言葉にビシビシと兵を鍛えまくっていたそうですが。


とにかく、こういうときの神頼みとばかり、砕氷船「宗谷」は
艦内神社をふたたび祀ることになりました。
1957年1月24日、第一次観測隊は南極への公式上陸を果たし、
その後、上陸したオングル島北にある小島に「宗谷神社」を分祀して、
この島に「宗谷島」と命名したということです。



舵輪は自由に回して遊ぶことができます。
なんども暴風雨に見舞われ、激しい横揺れに耐え、氷の壁を切り開いてきた、
そのとき舵が取られたのはまさにこの舵輪でした。



磁気コンパスなども南極に挑戦することが決まってから取り付けたものでしょう。



「汽笛用の紐」と書かれているのですが、この紐がどこにつながっているのかはわかりませんでした。
汽笛って紐を引っ張って鳴らすものだったんですね・・。



コードが束ねられていた管は、もう必要がないので切られてしまっています。
この操舵室の内部は塗装されて間もないようでした。
おそらく今年1月に終了した大規模改装工事で手が加えられた部分に違いありません。



舵輪の上部に天井から突き出してある伝声管。



もしかしたら金属部分は改装のときに磨かれたものでしょうか。
本来はこのラッパの内部のような緑青がういているはず。



ジャイロのコードも切断されてしまっています。



「宗谷」備え付けの救命ボートは動力付きです。
救命艇と作業艇を兼ねた兼ねており、南極では物資の運搬や交通に役立ちました。



「海上保安庁」の文字は、おそらく南極観測の役目が終わって、
巡視船として最後のご奉公をしたときに書かれたものと思われます。

南極観測隊の乗組員は、三つの集団で構成されていました。

「学者」・・・・観測をする

「登山家」・・・南極で設営を担当する。「山屋」とも言われていた

「船員」・・・・「宗谷」乗組員

です。
猫にもその名を付けられた第一次隊の隊長、永田武はノーベル賞候補にもなったほどの
世界的な学者であったため、南極に1年間滞在する危険な任務に参加することには
国内はもちろん海外からも懸念の声があがったといいます。

「登山家」のトップにも西堀栄三郎を据えました。
京大卒の学者であり技術者でもあるカリスマ登山家。
統一教会の信者で日韓トンネルの推進者というのはちょっとあれですが、()
「雪山賛歌」の作詞をしたことでも有名です。

そして「宗谷」の船長は松本満次。
この船長の冷静な判断が、不可能と言われた南極接岸を可能にしました。

日本はこのプロジェクトを、日本人だけで成功させることにこだわり続けました。
第三次観測隊まで、オブザーバーとしても外国人をいれずに行ったのもその表れです。

一つの観測隊に3つのセクションを作り、それぞれに業界トップの人間を据えて
「船頭多くして」の状態だったこと、日本人だけにこだわりすぎたことは、
セクショナリズムで組織が硬化する原因となり、悪く言えばこれが
第一次隊のトラブル、第二次隊の中止ににつながることになったといえなくもありません。


しかし、その頃の日本国民にとって、敗戦から立ち上がるためのきっかけとなる、
そして日本の力を再び世界に示すチャンスとなる南極観測隊は、
何が何でも、日本人だけの手で行わなければならなかったのです。

そう、何が何でも。







甲板上も改装が終わったばかりで白いペンキに青と黒のフェンネル、
通風筒の内部の、鮮やかな日の丸の赤が大変美しい。

通風塔とは、船の下層階に空気を供給するためのものです。



これで艦内見学は終わり。
ラッタルで外にでる途中、こんな小さなボートを発見しました。



おそらく一人か二人乗りの短艇で、連絡とか救助用の動力付きモーターボートだと思いますが、
このMavericks(一匹狼)と名前もトップガンなちびボート、
直接海に浮かべないでフロートの上に乗せて展示してあります。
何かあるとひっくり返ったりしてしまうから・・・?



「宗谷」を眺めることのできるベンチには、灰皿が設置されていました。
錨のモチーフが妙に粋なデザインです。



「船の科学館」がまるで大型客船で、向こう側の岸壁に繋留されているように見えます。
展示されるにあたって、岸壁の反対側にも固定が3箇所されています。




ちょうど5時になった時、どこからか係の人が出てきて、艦尾に揚げられていた国旗を、
まるで洗濯物でも取り込むようなさりげなさで降ろしていました。

しかし、彼が他の何人かの解説員のように「元宗谷の船員」なのだったら、
側から見るだけではわからない、誇りとこだわりがこの作業にも込められていたはずです。


さて、それでは「宗谷シリーズ」の最後に、「宗谷」が有名になるきっかけにもなった、
あのタロとジロ、その他の話をしたいと思います。


続く。




「宗谷」~タロとジロの物語

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お台場の「宗谷」見学記、続きです。

昨日の「宗谷」シリーズ、新年の挨拶も何もなしにいきなり始めてしまいましたが、
年頭のご挨拶を追加したつもりがなぜか反映されていませんでした。
あらためまして、皆様あけましておめでとうございます。

年末に中の方から送ってきていただいた「海自カレンダー」は、1月が「しらせ」でした。
それを見て、砕氷船はやはり一月のイメージ?と思ったため、
まだ完了していなかった「宗谷」シリーズを三が日で終わらせようと思ったのです。





南極観測隊が南極大陸に日章旗を掲げたことを号外にした朝日新聞。
1955年1月30日、日本人初の観測隊が上陸に成功しました。
もともと朝日新聞が世論を盛り上げて観測隊派遣は実現したのですから気合入ってます。



これは、上陸成功直前の1月、「宗谷」に向けて打電された文部大臣と、
海上保安庁長官からの激励電文。

「刻下の困難を克服し無事接岸せられんことを祈る」

まさに日本中が、「宗谷」の動向に注視し成功を祈願していたのです。
前回、この国家プロジェクトに向けて数多の有名企業がこれに協力を惜しまなかった、
ということを何点かの例をあげて説明しましたが、このほかにも例えば、



こういう物も生まれました。
缶ピースじゃないか、って?
そう、紙パッケージだったタバコを、南極でも湿気ないように、当時の専売公社は
わざわざ缶に入れて「宗谷」に提供し、それを同時に発売しました。

あるいは、ロッテ製菓の発売した「クールミントガム」。
今はどうだか知りませんが、昔はペンギンの絵の描かれたパッケージで売られていたこのガム、
ロッテが越冬する隊員のためにビタミン補給のできる仕様になっており、
さらにはそれまで無色だったガムに、遭難の時に役立てるために着色したと言われています。
(が、何もガムでなくてもいいような気もするのでこの話は眉唾ですが)

そして、公にはなりませんでしたが、隊員たちの「極限状況における精神衛生のお供」として、
通称「弁天さん」という特殊な人形型玩具も用意されていました。
(ただこれは、これも噂によると、あまりにも環境と状況が寒さで過酷なため、
実際に使用されたことは一度もなかったということです)
 



当時は最新式であったであろうタイプライター。
英文タイプライターはさすがに国産のメーカーではなく、これは
スミス・コロナというアメリカのメーカーで、1955年といいますからこの直前、
初めての電動小型タイプライターを発売したばかりでした。
瞬く間にアメリカの学生や社会人の必需品ともなったこのタイプが、
さっそく南極観測隊のためにも購入されたと見えます。

ちなみにスミス・コロナは、第一次世界大戦のときから

スプリングフィールド1903小銃( Springfield 1903 rifle)

を製作していました。
タイプライター会社が小銃・・・・わかるようなわからないような。



こういうところにさりげなく置かれているものはまず間違いなく
隊員たちが愛用していたものであると思います、
緑のパッケージは柳家のヘアートニック。





船窓のうち一つはこんな風に破損していました。
これだけヒビが入っても形態を保っているのは、よほどガラスが厚いのでしょうか。



公開されていないばかりでなく、誰も立ち入らない部分がかなりありそうです。



今では部屋の大きさがどういう理由では半分くらいになってしまっているようですが、
昔はもっと広く、第一次観測の時にはここが観測隊長の居室となりました。
数名で会議や打ち合わせなどもできたそうです。



船内至る所にあったらしい「航海科倉庫」。
この倉庫には予備の信号旗や航海用具の部品が収納されていました。



廊下には必ず手すりが張り巡らされています。
天井は低く、これがもし当初の予定通りロシアに渡っていたら、
さぞロシア人たちは苦労するだろうと思われます。

ロシア人といえば、わたしが船内を見学していると、外国人男性を含む
ブループが同じところにいたのですが、彼らが話しているのはロシア語。
案内している日本人男性もロシア語でその男性と会話しており、
「宗谷」の解説員に向かって、彼は

「この人はロシアで船に乗っていた人である」

というようなことを説明していました。
もしかしたら現役時代の「宗谷」とかかわりのあった船で、日本に来た目的の一つが
繋留展示されている「宗谷」を見ることだったのかもしれません。



館内に展示されていた写真。
説明がなくこの外人さんがなんなのかわかりませんでしたが、
どうも雰囲気的にロシア人のような気が・・・。

写真の印画紙を提供しているのがオリエンタルで、これも調べてみると、
現在サイバーグラフィックスという社名になっている1919年創業の
オリエンタル写真工業株式会社の、シーガルという商品名であることがわかりました。

オリエンタル工業は国産で初めて映画フィルムを供給した会社で、
さらには戦後、日本最初のネガカラーフィルム「オリカラー」および
「オリエンタルカラーペーパー」を発売しています。
引伸用印画紙「シーガル」を発売していて、このポスターはその宣伝だと思われます。

現在も、同社は「ニューシーガル」という名前で印画紙を生産しています。


 科員用船室。


このように、船に対して横向きに位置するベッドを「横ベッド」というのですが、
南極観測の航行時、ローリング(横揺れ)があまりにも激しくて、
航海に慣れた科員たちも全く眠るどころではなかったということです。



しかし見る限りほとんどのベッドは横ベッド・・・・(T_T)



暑さも乗員を苦しめました。
観測隊がインド洋を通過するときには、特にこの部屋をはじめとする左舷側は
決して日が沈まないため、太陽の光を終日浴びて(もちろん夜も)
地獄のような暑さであったということです。

この「エアスクープ」とは、扇風機だけではとてもやりきれない暑さをしのぐため、
舷窓に取りつけて外気を呼び入れるためのものです。



ハンガーかけのフックからいっぱい生えてきた風のコンセント。
ちゃんと白と黒を塗り分けているあたりがこだわりです。



エンジンの煙道。
ボイラーの熱気がここを通るのですから、この辺りも釜のように暑かったはずです。
南極の氷の中に入ってからは暖がとれたのでしょうが・・・。



潤滑油タンク。



エンジン室の周囲は煙道が通り、吹き抜けになっています。
天井に明かりが見えていますが、これは外光でしょうか、それとも照明?



南極観測時に着用した防寒着。
この部屋は観測隊員が二人で一室を使用していました。



こういった防寒衣類も、繊維会社などが開発した特殊素材で
特別仕様のものがつくられ、全て支給されていました。
鐘淵紡績が開発した「カネカロン」がコートの素材として使われ、
ミトンや帽子など、全てが企業の協力によるものです。

雪原に立てるつもりの旗は、竹竿を使っていたんですね。



医務室がありました。



実際に使われていた医療器具が埃をかぶって当時のままに置かれています。



おっと、診察台では今まさに苦しんでいる人とそれを診察する医師が!



船室なのにレントゲンの設備まで搭載していたようです。
それはいいんですが、この医者が、体を折り曲げんばかりに苦しんでいる患者を
何もせずに平然と見下ろしているような・・・。



「もう手遅れですな。」

 

さて、 「宗谷」についてはあまりしらなくとも、おそらく「タロとジロ」を知らない人はいますまい。
「宗谷」初の南極観測で隊員とともに越冬した樺太犬は19頭いました。
(一匹は子供を作らせるために雌を連れて行ったそうです)
 当時は雪上での移動に犬ぞりを使うしかなく、彼らは大陸旅行に活躍しました。

翌年になってやはりこの「宗谷」に乗った第二次越冬隊がやってきます。

第二次越冬隊を乗せた「宗谷」は悪天候に阻まれて、昭和基地に上陸できませんでした。
基地から110km離れたところに接岸した「宗谷」に、第一次越冬隊を収容し、
越冬を断念した第二次隊とともにやむなく帰国の途につきます。

というのも、「宗谷」はこのとき氷に阻まれて身動きできなくなり、
氷陸に乗り上げるなどして満身創痍の状態だったからです。

このとき15匹の樺太犬を残していった理由は、当初第一次越冬隊は、
自分たちの代わりに第二次越冬隊がすぐに昭和基地にヘリコプターで着任し、
犬たちを「回収」するものと思っていたからだそうです。

しかし実際には、15匹の犬を、それも鎖に15匹つないだまま置き去りにすることになり、
このことはたちまち世界中の知るところとなりました。

「犬殺し」「犬を殺すなら永田隊長と11人は日本に帰ってくるな」

こんな言葉が投げつけられ、隊員たちは苦悩しました。
第一次越冬隊の隊員で、犬係をしていた北村隊員は、第三次越冬隊に志願しました。


第三次観測隊がヘリコプターで2匹の犬を発見したとき、犬係の北村には
最初それがどの犬なのかわからなかったそうですが、順番に名前を呼んでいったところ、
「タロ」で一匹が尻尾を振り、「ジロ」で一匹が前足を上げるしぐさをしたため、
2匹が「タロとジロ」であることが判明したのでした。

「これ、酷くないか?」

この展示を見たとき、一緒にいたTOがわたしにいいました。

「置き去りにするのに15匹鎖につないだままだったって・・・」

「え、じゃあタロとジロってどうやって生き延びたの?もしかして」

「仲間を・・・・」

「ひえええ」

そもそもなぜつないだままだったかというと、彼らはソリにつながれている状態が
一番安心できるように飼育されていたからだということでした。


しかし説明が現場にも一切なかったので、わたしたちもまた、当時の世間と同じように
「南極観測隊ひでー」
と単純に思ってしまったのですが、実際はそんなに簡単なことではなく、
観測隊はギリギリまで第二次越冬隊を送り込もうとしていたのであり、樺太犬の残留は
もうどうしようもなくなった苦渋の果ての決断だったのです。
 

タロとジロはまだ若かったため、鎖から抜けて(抜けることのできた犬は何匹かいた)
アザラシの糞(ミネラルたっぷり)を食べていたという説、ペンギンなどを狩って食べた説、
ソ連の飛行機が食べ物を落としてやったという説とともに、やはり仲間の肉を喰った説もあります。

が、つながれてそのまま餓死した何匹かの犬が食い荒らされていなかったことから、
共食い説はあまり信憑性がないともされます。

いずれにせよ、1年後に第3次越冬隊と再会したとき、彼らは丸々と太っていました。


この話が世間に感動とともに広がり、映画化されるなど社会現象となるに伴って、
第一次観測隊の成功のころ以上の世間の関心が、南極観測隊に向けられました。

そこで、案の定こんな噂も流れました。


実はタロとジロは生きてなどいなかった。
犬を置き去りにして世間から責められた第1次越冬隊だけでなく、
南極観測隊全体への非難をかわすため、こっそり樺太犬を二匹、
日本から連れて行って、あたかも1年間彼らが生き延びていたかのように装った。
その目的は達せられ、世間は非難どころか 再会の物語に涙し、
1次派遣のとき以上に南極観測隊に対する関心が高まった・・・・。


 

しかし、天網恢恢疎にして漏らさず、人の口に戸は立てられずの言葉通り、
もしそんなことがあったら必ず内部からその証拠のようなものがでてきて、
やがてそれは世間の知るところになっていたでしょう。

だいたい、この隊員と犬たちの信頼しあった様子から、誰がそんなことを思うでしょうか。


彼らはその後も南極に残って越冬隊とともに過ごし、
現地で亡くなったジロ、日本に帰ってきて老衰で亡くなったタロ共に、
剥製となって在りし日の姿を今もこの世にとどめています。

最終回に続く。
 


「宗谷」~三毛猫たけしの南極物語

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お台場の「船の科学館」横岸壁に繋留してある「宗谷」、
この連休に見学したとき、こんな展示がありました。

「猫だ」

「まさか猫がいたとか?」

「まさか~。女の子のウケを狙ってぬいぐるみ飾ってるだけだよ」

そんな会話をTOと交わし、それっきりそのことは忘れていたのですが、
このエントリ、ことに犬ぞり隊として連れて行った樺太犬のことを調べる過程で、

「越冬隊には猫と鳥もいた」

という文章に目が止まったのです。
ということは、あのぬいぐるみは、本当にあの部屋にいた隊員が世話していた猫を
再現したものだったのか・・・・。

さらに調べてみると、出てきたのは「三毛猫たけし」というキーワード。
やっぱり詰めが甘い、ぬいぐるみはどう見てもトラ猫だし、と思って画像検索したら、 



どおおお~~~ん(効果音)

白黒写真ではほとんど白トラにしか見えないお猫様の姿が。
やっぱりあのぬいぐるみはわざわざ似たものをチョイスしていたのです。

ところで、三毛のオス猫が大変珍しいということをわたしは生物の時間に習ったものですが、
この三毛も「たけし」という名前が示す通り、珍しいオス三毛でした。
ネズミを捕ることから、船にはよく猫が飼われていましたが、軍艦にも乗っていた例が
時々見受けられます。

ナチスドイツ軍とイギリス海軍の船、縁あってどちらもに乗っていた

アンシンカブル・サム(浮沈のサム)

という猫などは特に有名です。
他にも・・・、



例その1、戦艦ミシシッピ。訓練された猫(笑)
ハンモックもそれにかけられたラッタルも迫真の出来です。



例その2。米陸軍航空隊。
このあと猫が毛糸にじゃれついて、抱いているパイロットの膝を
蹴って飛び出すところまでわたしには見える。



例その3。フランス海軍。



例その4。イギリス海軍。
ベッドを作ってやった水兵さんの愛おしそうな目をご覧ください。



例その5。ドイツとか?オーストリア?

面白い画像が多く、ついつい盛大に寄り道してしまってすみません
日本では昔から「船の守り神」として三毛のオスが珍重されてきました。

「宗谷」の南極行きが決まって、日本中が期待で沸き、当時の有名無名に関わらず
多くの企業が「宗谷」のために開発した製品を持ち寄ったりしている中、
動物愛護協会のご婦人が一匹の三毛オスの子猫を連れてやってきました。

「三毛猫のオスは縁起がいいそうです。
南極での生活での心の慰めにもなりましょうし、ぜひ連れて行ってやってください」

こうしてお守りも兼ねて猫を乗せていくことに決まった「宗谷」では、
さっそく名前を決めることになりました。
多数決で決まったのが「たけし」。

第一次越冬隊の永田武隊長の名前を取って付けられました。
永田隊長は東京大学の教授も務めたことのある地球科学者で、観測隊に参加し、
昭和基地の建設などの推進力となった人物ですが、観測隊のリーダーとして、
隊員の皆さんにはなんというかいろいろと思うところもあったようで(笑)、
この名前はもっぱら面白くないことがあったときに、

「こらたけし!」「おいたけし!」

と隊長の名を呼び捨てにして、憂さ晴らしをするために付けられていたようです。

そういえば、艦長時代の山口多聞中将は、大変厳しかったため、
乗組員に「人殺し多聞丸」というあだ名を奉られていました。
毎日毎日顎を出すほど訓練を繰り返させられた乗組員は、山口艦長そっくりの店主がいる
飲み屋で、おやじに向かって「おい多聞!」「こら多聞!」と八つ当たりしていたそうです。


たけしはすっかり「宗谷」のアイドルになりました。
同乗していた樺太犬たちとはご飯も一緒に食べ、仲良くしていたようです。



まだ子猫のころのたけし。
スーツを着ている人がいるところをみると出港前でしょうか。



隊員たちの無聊を慰め・・・というよりすっかりおもちゃと化しています。
こういうものに押し込まれると嫌がる猫も多いと思うのですが、どうやら
たけしくんはおっとりしたおとなしい子だったみたいですね。



南極到着後は、極寒の地でも好奇心旺盛。
ブリザードもなんども経験し、零下30度の気温でも外に出て日光浴と
運動を自主的に行っていたようです。


第一次観測隊にはカナリヤもいました。
炭鉱に入る炭坑夫が必ずカナリヤのカゴを持って入るように、
カナリヤには空気の清浄度を知らせるという実用目的があり、
樺太犬は犬ぞりの動力でしたが、猫というものは実用的な役にはちっともたちません。
しかし、たけしは猫にしかできない仕事がありました。



あるときは疲れ切った隊員の膝で、ある時は寒さに震える隊員の寝袋で、
そしてある時はお気に入りの隊員のフードにちゃっかりと潜り込んで・・。
たけしは人間と暖を分け合い、心を和ませてくれたのです。



たけしは隊員たちの動くおもちゃでもありました。
椅子の上に立ってテーブルに顎を乗せ、手を伸ばして目を瞑る、
このポーズは本人の、そして隊員たちのお気に入りとなりました。

たけしは一度昭和基地で死にかけました。
犬ぞり隊が出て行ってしまい、基地の中を探検していたたけし、
暖かい電気室に潜り込んでしまい、送信機の上に飛び乗って感電したのです。

ばん!と音がして電気が消えたので皆がすぐに気づきました。
たけしの肩の毛は燃えて、焦げ臭い匂いが漂いました。
隊員たちが皆もうダメかと思う中、こんこんと眠り続けたたけしは、
一命を取り留め(きっとあの医務室で手当てを受けたのでしょう)
だんだん元気を取り戻してきました。

たけしは通信室の佐久間敏夫隊員(南極物語では横峰新吉という役名だった)
に一番懐いていました。
佐久間氏自身が後年いうところによると、昔から動物に好かれるたちで、
昭和基地でたけしに会った途端、お互いが「親しみを覚えて」近づいたのだそうです。
たけしは寝るときにいつも佐久間隊員の寝袋に潜り込んで、お腹の上に乗ってきました。
昭和基地での佐久間隊員は常にたけしの重みを感じて寝ていたそうです。


その佐久間隊員が、ある日作業の気晴らしに外に出て歩いていたところ、
後ろからなんと、歩けるようになったたけしが付いてきていたのです。
冷たい氷の中、肉球を真っ赤に凍えさせて、大好きな佐久間さんの後を付いてきたのです。

「たけし・・・」

佐久間隊員はうれし涙を流しました。
こうして一年が経ち、たけしとカナリヤ、そして子犬は、
(樺太犬たちは残してこなければならなかったのはご承知の通り)
隊員たちとともに日本に帰ることになりました。

犬たちを引き継ぐことは決まっていたので、隊員たちは第二次越冬隊の隊員のために
犬に大きな名札をつけておいたといいます。
ところが、周知のように「宗谷」は悪天候で氷に閉じ込められ、接岸できませんでした。

昭和基地の隊員たちには、最小限の荷物を持ってセスナに乗るようにと命令が出されます。
このとき、たけしはなんらかの異常を感じて佐久間隊員のそばを離れませんでした。

厳格な重量制限のため、観測データと最小限の私物しか持ち込むことができなかったのですが、
佐久間隊員は、迷わずそばにいたたけしを抱き上げて、セスナに乗り込みました。

このあと、第二次隊員を送り込むチャンスを狙って、「宗谷」は待機し続けました。
しかしついに天候は回復せず、それは不可能ということがわかったとき、
隊員たちは、置き去りにした犬たちのために、泣きながら南極を去るしかなかったのです。 


そして帰国。
たけしは佐久間隊員の胸に抱かれたまま、報道各社のカメラに収まりました。

そして、佐久間隊員が家に連れて帰り、家族の一員となる予定でした。
報道写真には、帰国後すぐに佐久間家で撮られた、たけしの姿があります。
奥さんとお母さん、そして佐久間隊員の息子に囲まれ、これから日本で幸せに過ごすのだと
誰もが思っていたのですが、帰国してわずか一週間後、たけしはふらりと家を出て行って、
そのまま行方不明になってしまったのでした。




たけしはいったいどこにいってしまったのでしょうか。
大好きな佐久間さんと暮らせることになったのに。

帰国以来、あちこちから引っ張りだこの佐久間さんが、
ほとんど帰って来られなかったので、家にいるのも不安になったのでしょうか。

佐久間さんは、たけしは「南極」を探しに行ったのだ、と今でも思っているそうです。
昭和基地に戻るために、家を出ていってしまったのだと。
だから、たけしの魂はきっと昭和基地にいるはずだと。

佐久間さんは、自分が死んだら自分の魂も昭和基地に行くから、
そこでたけしに会える、と信じて生きてきました。

そのときには、自分の後をつけて氷の上を歩いてきたたけしにそうしたように、

「ずっと探して待っていたんだよ」

と言って抱き上げてやるつもりなのだそうです。




「宗谷」シリーズ・終わり



参考:絵本 『こねこのタケシ 南極だいぼうけん』 
   阿見みどり 文 わたなべあきお 絵 銀の鈴社
 

エイミー・ジョンソン「誰が彼女を撃ったのか」〜女性パイロット列伝

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今からちょうど75年前の今日、1941年1月5日。

イギリス空軍ATA所属の操縦士が、一人、
悪天候のため、任務中墜落し殉職しました。
女性パイロット、ファースト・オフィサーである
エイミー・ジョンソンです。


それに遡ること12年前、ロンドンに住む一人の秘書が、
イギリス人女性で初めての飛行機免許を手に入れました。

驚くべきことに彼女は免許取得後わずか2~3週間で、
イギリスからオーストラリアまでの長距離単独飛行を成功させてしまうのです。

最小限の道具と、予備のプロペラを「ジェイソン」と名付けた愛機、
デ・ハビランドDH60G・ジプシー・モスに積んで、
スリムでボーイッシュな彼女は19日半後、着陸したダーウィンで
熱狂的な観衆に迎えられました。



この偉業達成に対し、国王ジョージ五世は
「コマンダー」の位の大英帝国勲章を授けています。

大英帝国勲章はこのジョージ五世が創設した、
一般人(軍人と政治家以外)に与えられるもので、
スポーツ選手や芸能者など、広範囲に与えられる「庶民的な」勲章です。
ビートルズを始め、エルトン・ジョン、ビル・ゲイツ、
日本人では蜷川幸雄や尾高忠明(指揮者)などがいます。

彼女はまたその年の優れた飛行家に与えられる賞、
ハーモン・トロフィを受賞、さらにはオーストラリアからは
名誉市民ライセンスを送られています。

ところでこの「女流飛行家列伝」を連載して書くようになってから、
「世界最初の」というタイトルを、ほとんどの飛行家が持っているのに気づいたのですが、
この「飛行機黎明期」、飛行機操縦のパイオニアを自負する飛行家たちは、
誰も挑戦したことがない、世界の各都市間の飛行の「一番乗り」を競って、
そのキャリアに「箔」をつけ、歴史に名を残そうとしていたらしいのです。

とはいえ、最初に大西洋横断をしたチャールズ・リンドバーグの名声には遠く及ばず、
ほとんどの飛行家にとってそれは「後追い」の「一番乗り」だったわけですが。

しかし男性飛行家が一度成功している航路も、「女性初」となるとそれも一つのタイトルなので、

「今までほかの女性が飛んだところのない都市間はどこ?」

と、全ての女性飛行家は日夜虎視眈々とそのチャンスを覗っていたのです。

彼女がこの「イギリス→オーストラリア」に続いて挑戦したのは
「ロンドン→モスクワ」を一日で到達することでした。
そしてさらに次の目標はどこであったかというと、

「モスクワ→東京」 。

そう、エイミー・ジョンソンは当時飛行機で日本に来ていたのです!

しかしながら、当時の日本で彼女の飛行到着はどのように迎えられたのか、
またどのような報道がなされたのか、
そういったことは日本語では見つかりませんでした。

英語ではかろうじて当時の新聞記事が見つかったので、
ベルリン発のその記事のその内容を貼っておきますと、
 

AMY JOHNSON ONWAY TO TOKYO  BERLIN, July 27.

Leaves Berlin for Moscow 

Miss Amy Johnson, who is on her way to Tokyo, 
arrived here at 6 a.m.She left Lympne in a Puss Moth a phreys. 
She refuelled and left at 15run. for Moscow.

This is her second attempt to fly to the East.
She began a flight to Pekin early in the year,
but damaged her plane in landing near Warsaw.
She went on to Moscow by train and returned to London later.


これによると、彼女は、その少し前に北京行きの挑戦をしたものの、
機のダメージのため、ワルシャワに不時着してこのときは不成功裏に終わったこと、
アジアへの飛行挑戦は日本が二回目だということが報じられています。

さて、大成功だったオーストラリアへの飛行ですが、これはなんというか、
ビギナーズラックという面もあったらしく、
到着地からセレモニーのためブリスベーンに移動する行程で、
彼女は何と着陸寸前にクラッシュさせてしまいます。

幸い彼女は無事で、成し遂げたばかりの栄光に味噌をつけることもなく、
しかもこの事故がきっかけで、一人の男性に巡り合います。




男性の名はジム・モリソン。
彼は彼女と同じ「世界一を常に狙う」パイロットで、後に彼女の夫になりました。

ただし、この「のち」というのは8時間後のことです。
つまりモリソンは彼女と出会った日のうちにプロポーズし、二人は結婚したのでした。

以前お話ししたルイーズ・セイデンの回の時に、
世の男女というものが「出会う」「気に入る」「結婚する」ということを
抉りこむように進めずして少子化など解決するわけがない!!
と熱く語ったエリス中尉ですが、さすがに8時間後のプロポーズというのは、

「ポーズだけでも、もう少し考慮するふりをした方がいいのでは」

とまっとうな心配をしてしまいます。

それが杞憂ではなかった証拠に?即断即決のこの結婚生活はすぐに破綻し、
エイミー・ジョンソン・モリソンは1939年には元の名に戻りました。

この結婚の破綻の理由というのは、二人が同業者同士であり、
ライバル同士だったことであるのは歴然としています。

たとえば妻が、夫の立てた新記録を新婚早々あっさり破ったりしたら、
野心ある飛行家の夫は面子の面から言っても決して面白くないでしょう。
エイミーが破った夫モリソンの記録とは、ロンドン→ケープタウンの単独飛行時間でした。


ただ、女性男性関係なく、この「都市間飛行時間」などというのは、
機体の性能はもとより、その時の偏西風や気候条件によって
大きく結果が左右されるので、必ずしも結果が実力によるものとは言えない、
という面もあったのではないかと思ったりもするのですが。

だからこそ、このころの女性飛行家というのは、
男性に互して引けを取らない記録を残すことができたのでしょう。
体重が軽いというだけでも当時の飛行機ではかなり有利でしょうし。


1940年第二次世界大戦が勃発すると、ジョンソンは
ロイヤル・エアフォースの副操縦士に昇進し、
戦中を通じて、その死の訪れる日まで飛び続けました。

そして運命の1941年1月5日。

凍てつくような冬の強風が吹きすさぶイギリスのテムズ川河口に、
イギリス空軍ATA(Air Transport Auxiliary・航空補助)所属、
エイミー・ジョンソン操縦のエアスピード・オックスフォードが墜落しました。

ジョンソンが事故機から落下傘で脱出したことは確認されましたが、
逆巻く波にどす黒い色の海、そしてひっきりなしに降る雪、
海上に落下した彼女の生存は絶望的と思われました。

そのときテムズ川河口付近で航行していたイギリス海軍の
HMSハスルメールから、ウォルター・フレッチャー中佐が、
誰もがためらうような荒れ狂う冷たい海に飛び込みました。
そして救おうとしたATAの女性飛行士とともに、波にのまれて溺死したのです。

フレッチャー中佐は死後その勇気と功績を称えられてアルバート勲章を贈られました。


この事故にはわかっていないことも多く、
このときに死んだフレッチャーとジョンソン以外に
ジョンソンが輸送していた第三の人間がいたはずであるのに、
事件後どこからもその名前が出てこず、
政府もその死んだはずの人間の名を秘匿していることから、ジョンソンは
政府の極秘任務を負っていたのではないか、という見方もあるのだそうです。

さらに1999年、つまり近年になって、
こんな衝撃的な話が関係者から出てきました。

「ジョンソンは、機体認識に使う識別コードを間違えたため、
イギリス軍に撃墜された」

という説です。
つまりイギリス軍では日によって識別コードを変更していて、
彼女がそれを勘違いしていたため撃墜された可能性があるというのです。

このことを語った、彼女を撃墜したイギリス軍にいた人物の話です。

”彼女はリクエストに対し、二回間違った返事をした。
その瞬間、16口径の砲弾が火を噴き、彼女の機はテムズ川河口にダイブした。
われわれはそれが敵機であったと信じて疑わなかったが、
次の日の新聞を見て自分たちが撃ち落としたのが誰だったか知った。
士官たちがそこにやってきて、
『このことは誰にも言わないように』と口止めした”



有名な飛行家でもあったエイミーは、その死を世界中から惜しまれました。
とくにイギリスでは、その生涯が何度も映画化され、伝記が出され、
彼女のことを歌った歌が作られ、そして彼女の名を冠した建物や学校、
通りは、世界中のイギリス領だった国に今でも存在するのだそうです。

アメリア・イアハートのように、若い絶頂期で姿を消してしまったからこそ
人の記憶に残り、今なおその存在が語られるというのは世の常ですが、
わずか38歳で任務中殉職したこの女性飛行士にも、皆が深い賞賛と哀悼を捧げました。


しかし、その死の陰に隠された苦々しい真実を思うと、
彼女が果たそうとしていた国への忠誠が、彼女自身の実につまらないミスで
踏みにじられたという後味の悪さを感じずにはいられません。

彼女はおそらく機を攻撃された瞬間、自分が置かれた状況を確実に把握し、
同時に自分が取り返しのつかない失敗をしたことを知ったでしょう。

そして、最後の瞬間、祖国から裏切られたような絶望を抱きながら、
くろぐろとした深い波の逆巻く海に沈んでいったのではなかったでしょうか。


エイミー・ジョンソンの遺体は、何か月もかけて捜索されましたが、
今日に至るまで、彼女が飛行機に積んでいたカバン以外の痕跡は
何も見つかっていません。








 

映画「亡国のイージス」前編

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新春に紹介する映画としては多少不適切な気もしますが、この欄で興味を持った人が
お正月休み中に(え?もうとっくに仕事始まってるぞって?)
観てくださることを祈願して、ご紹介するのは・・・・ 

海上自衛隊全面協力による架空戦記、「亡国のイージス」。

2005年度作品と言いますから、もう既に10年以上前の映画ですが、何と言ってもほら、
それは当ブログ開設前のことで、この手の映画への興味というものも、
今とは違いほぼ皆無といっていい時期であったという・・・。

今頃、という感はありますが、HULUにアップされていたので、
観た勢いで原作の小説も一気に読破しました。
とにかく福井晴敏の原作は、気持ちいいほど平易な文体でありながら、
本質をきっちりと表現するだけの必要最低限の言葉で読者の想像をかきたてつつ、
かつリアリティをも持ち合わせているといった具合で、
このわたしをして(ってどのわたしだ)、近来稀に見る娯楽小説と思わせました。

さすがは発表後各賞を総なめにし、映画、漫画、ラジオドラマ、ゲーム、
そしていくつものスピンオフ作品を生んだというだけのことはあります。


そんな作品なので、巷には映画評も出尽くしているわけですが、
エンターテイメント作品として一定の評価はあるものの、その一方で「説明不足」、
「小説を読んでいないとわかりにくい」という批判に必ず行き着きます。

 わたしも、小説を読んで初めて合点したいうことだらけで、
この作品、特に構成に対する評価は高くはないのですが、当時の映画として、
これ以上は望むべくもない俳優陣を配したおかげで、少なくとも
心に残る印象的で魅力のあるものとなったことは否定しません。


まず、タイトル絵の四人。

宮津とヨンファの反乱に対し、如月行を救うためにたった一人で総員退艦の
内火艇から飛び込んで「いそかぜ」に戻る、先任伍長仙石に真田広之。

「悪く言えば漫画で最後に主人公にコテンパンにされる悪役不良番長のような」

朴訥で地味な容姿、というのが原作の記述なので、超男前の真田は本来対極のイメージです。
いまや「世界の真田」として、ハリウッドからも御呼びのかかる真田に相対するのは、
悪役の某国(つまり北朝鮮なのだけど映画では最後まで国名を言わない)工作員、
二等海佐溝口ことホ・ヨンファ役に中井貴一。

この人の悪役は初めて見た気がするなあ。
原作では40歳前後のすらりと背の高い端正な顔の男、とあるので、
イメージ的にも近く、この冷血なのに実は執念深くて、私的感情に
翻弄される破壊的な男を、 徹底的に悪役に徹して演じています。

こういう大物がどんな悪役を演じても、「中井貴一は中井貴一」なので、
俳優としては何のダメージにもならないのですが、そのかわり、

「この人が出てくると”これね、ミキプルーンの苗木”と言い出しそうで笑う」

と言ってる人がいたな(笑)

で、このヨンファというのが、原作では徹底的に嫌な男なんだよ。
正体がばれ、工作員として振舞うようになってからは、 何かと言うと、

「さすがは日本人、疑うことを知らず従順ですな」

とか嫌味ったらしく ニヤニヤしながら皮肉を言ったり、原作では最後に
真田の仙石先任海曹と立ち回りをしたときに、致命傷を負い、
肩を貸して救出しようとする仙石を油断させておいて、

「お前ら日本人はどこまで甘いんだ」

とばかりにナイフで胸をえぐる、絶対的な悪の権化。 
で、このプロ工作員が宮津と組んで「いそかぜ」を使って日本政府を脅し、
米国の日本国内での「暗躍」を世界に告知させて世界を混乱に陥れ、
その混乱に乗じて北朝鮮でクーデターを起こし、政権を乗っ取るのが目的です。

映画では説明されないバックボーンとして、北朝鮮情報局長で上司、
そして養父のリン・ミンギの首を自分の手で斬り落としたという過去を持ちます。


さてここで、小説の内容をまずざっとまとめると、

防大生の息子を国家に暗殺された海自の2佐宮津が、復讐のため、
息子に接触していた某国工作員ヨンファと手を組み、賛同者とともに
乗り組んだ護衛艦「いそかぜ」を使って反乱を起こす。

彼らが持っているのはわずかの量で首都を壊滅せしめる毒ガス兵器、GUSOH。
これは、アメリカ軍が開発し極秘裏に日本に持ち込んでいたものであるが、
「辺野古ディストラクション」という在日米軍基地での事故の際、一部をヨンファが持ち去った。

防衛省の秘密組織「DAIS」からはそれらの動きを探り、封じるために
父親殺しの罪を犯した如月行にの工作員として訓練を施し、
「いそかぜ」に1士として潜入させる。

如月の孤独な魂と先任伍長の仙石の心は共鳴し合い、宮津とヨンファたちに
たった二人で戦いを挑む。



反乱を起こす防大生の父親である宮津二佐を演じるのが、寺尾聡。
寺尾聡というと「ルビーの指輪」しか想像できない人もいるかもしれませんが、
実はこの人、名優宇野重吉の息子なんで、演技も普通に上手いわけ。

そういえば中井貴一も、佐田啓二の息子で名付け親は小津安二郎でしたね。

たとえば、「いそかぜ」が訓練を行うことになっていた「うらかぜ」を
実際にハープーン2発を撃って、2発目に沈めてしまうシーンがあります。



このときの「うらかぜ」阿久津艦長を演じている矢島健一。
一発目のハープーンを迎撃するも、間をおかずやってくる二発目に間に合わないと知り、

「衝撃に備え!」

と全艦放送したあと、自分だけは送受器を握って空を睨む「戦死」前の艦長。
この後、「うらかぜ」には「いそかぜ」からの二射目のハープーンが直撃します。
原作ではその直後の「うらかぜ」CIC内の壮絶な現場がこれでもかと描かれるのですが、
映画では表現がしょぼすぎて、がっかりです。


このとき、宮津を「部屋長」(防大の後輩だった)と呼んで慕っていた阿久津艦長は
かろうじて生き残り、反乱を起こした「いそかぜ」を攻撃する作戦に従事し、
訓練に坐乗していた護衛隊司令衣笠1佐は死亡する、というのが原作。


しかし、「いそかぜ」CICからは、「うらかぜ」が轟沈したのは
モニターの「DD URAKAZE 」がふっつり消えるのでしか確認できません。

その文字が消えた瞬間、宮津副長(後述の理由で映画では副長となっている)は、
モニターを見ながら、片方の目の下の筋肉だけをぴく、と動かし、ヨンファは


「見たか、日本人。これが戦争だ」

と得意顔で言い放つのでした。

復讐という目的のために、同じ海上自衛官の仲間を殺戮する初めての瞬間、
「片頬ぴく」だけというのが、宮津が静かに狂っていることを表現していました。
ヨンファのセリフは原作通りなのですが、小説ではここに至るまで、
「いそかぜ」は、宮津の命令で、すでに空自のF-15を1機撃墜していますし、
ヨンファの妹である工作員のジョンヒや艦長殺害を見られたのを理由に、
何も知らない士長や2士を二人も(映画では一人)殺害しているのです。

「うらかぜ」一隻沈めたくらいで「これが戦争だ」はないだろう、
という向きもありましょうが、実はここまでに色々やらかしているので、
小説では大変説得力のあるセリフとなっているわけです。
 



そこでまず大前提の、「宮津の息子である防大生は本当に国に謀殺されたのか」
ってことなんですが、映画では情報局の渥美局長(佐藤浩市)に
清廉な人物像を演じさせている関係か、はたまた自衛隊に全面協力をしてもらった、
という利害関係のせいか、あくまでもはっきりしません。
見ようによっては、防大生の暗殺はヨンファの謀略のようにも思えるくらいです。


「国力とは財力や軍事力ではなく、国民が祖国に抱く愛国心である」
「今の日本には愛国心も、国家の意思と呼べるものも無い」
「防衛の要であるイージス艦は、守るべき国を亡くしている」

という内容の「亡国の盾」という論文を書き、自衛官として「危険思想」である
勉強会の一員でもある宮津隆の暗殺を指示したのは、小説では渥美であったとなっています。

もちろん論文を書いただけが原因ではなく、北朝鮮のテロリストと接触したうえ、
日本の秘密情報組織DAISの存在を知ってしまった彼に、各国情報機関が接触してきたので、
そうなれば国益の危機だと判断された、というのが暗殺の理由でした。


「亡国のイージス」発表後、すぐに映画化の企画が持ち上がりました。

当時の防衛庁は、自衛官が反乱を起こすという内容は認められないとしたため、
その話は一旦立ち消えになったのですが、衰えぬ原作の人気に、
5年後の2005年、もう一度映画化が持ち込まれました。

当初防衛省の態度は前回と同じであったのですが、前と違うことが3つありました。
一つは、1999年当時とはわが国を取り巻く防衛環境が大きく変わってきたということ、
戦後60周年の節目であったこと、そして当時の防衛庁長官が石破茂だったことです。

石破長官がこの原作を大変評価していたため、(まじかよ)その口利きで、
というか強い意向に牽引される形で(笑)映画化が相成ったっていうんですね。 

ちなみに同年、「男たちの大和」「ローレライ」「戦国自衛隊1549」
など、自衛隊協力によるこれらの作品が続けざまに発表されています。


映画化にあたっては、防衛省の注文に応じて、小説とは設定が幾つか変更されました。

「いそかぜ」艦長である宮津が、映画では「副長」となっているのもその一つ。
なぜ副長は良くて艦長では具合が悪かったのか、いまいちわけがわからないのですが、
そのため、映画では「いそかぜ」 艦長(橋爪淳。零戦燃ゆの整備兵を演じた人)が、
なんとヨンファの部下に殺されるというストーリーになっています。



FTGとして乗り込んでくる溝口3佐(実はヨンファ)に、
「初めてだな」 、つまり今まで見たことないと不思議そうに聞く艦長。
宮津副長は息子の件で陸に上がるよう、上から通達が来ていたのに、
この衣笠艦長の口利きで「いそかぜ」の副長にしてもらっています。

なのにヨンファの部下に殺させるのを黙認するなんて、宮津2佐、最低やー! 

そして最後の一人、工作員「アンカー」こと如月行。(勝地涼)
「長髪で背が高く、まるでアイドル歌手のような」風貌の青年、という設定で、
俳優勝地涼は雰囲気も含めてぴったりのイメージ。

彼には自分の父親を殴り殺した(つまり原作でのヨンファと同じ境遇)過去があります。
唯一の理解者で、自分に絵を描かせてくれた祖父を、財産目当てに殺した父。
愛する母をも自殺に追いやった父親を殺した行は、その身を国家に「買われて」、
殺人を不問にするのと引き換えに、防衛省の情報局の工作員になりました。

「どこにも行くところがなかった」行は、寝食を共にした自分の子犬を殺して肉を喰らう、
という採用テストを経て、非情な特殊工作員としての特殊訓練を施されます。
もちろん映画では全くそういったことは描かれません。

映画の限られた時間では、例えば、宮津についてきた幹部が、その自衛官人生どころか、
人生そのものを棒に振って反乱に加わる理由についても、説明されないままなのですが、
小説には、何人かについては、その動機がバックボーンとともに語られる部分があります。

例えば、砲雷長の杉浦。

「海上自衛隊という組織が自分の期待を裏切り続けてきたからだ。
日本という国家があまりにも破廉恥な行為を重ねてきたからだ。
それを告発し、世界に裁定を委ねる我々の行動は絶対的に正義だ。
それにしてもあの愚鈍で厚かましい、海曹の権化たる先任伍長。
ああいう連中がいなければ自分もこんなことに巻き込まれることもなかった。
あんな奴ら、早く殺して仕舞えばいいのに」


この杓子定規で頭でっかち、ヒステリックで下から嫌われている士官にとって、
自分の所属する機関と所属する国、そのいずれもが自分の思うとおりにならないのは
全て、五月蝿くて目障りな、「海曹」に代表される夾雑物のせいなのです。


他の「叛乱幹部」は配偶者を失い、あるいは独り身で、自棄の気持ちから参加した者や、
宮津に心酔しており、

「この艦長とならたとえ行く先が死か破滅であっても付いていく」

と決意した者であったということになっています。

が、それにしても、そんな自衛官が都合よくこんなに(21名も)いるものだろうか、
というのもこの原作に対する突っ込みどころの一つではあります。
 


この映画についてはもう1日だけ、残りの人物についてお話しします。


 

映画「亡国のイージス」後編

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さて、この映画が原作である小説を読まずには到底理解できない、
という部分は多々あれど、本日タイトルにしたシーンほど、
映画だけでは訳が分からない部分もないかと思います。

米軍基地の爆発跡から毒ガス兵器「GUSOH」を強奪した北朝鮮の工作員、
ホ・ヨンファとその一味は、防衛省の人事部課長の弱みを握って脅迫し、 
護衛艦「いそかぜ」の幹部を決行グループで固めた艦長(映画では副長)宮津を
利用して自分たちの計画を実行に移さんとします。

その後護衛艦「いそかぜ」にアクアラングで海中から乗り込んでくる謎の女、ジョンヒ。
映画ではヨンファの妹、ということになっているので、二人の関係はあくまでも
肉親愛で結ばれているという表現に終始している訳ですが、
そのジョンヒが、DAISの諜報員として「いそかぜ」に送り込まれた
如月行と海中で格闘しながら、なぜかキスをするシーンがあります。

この場面は、彼女が宮津の妻と行の母以外では紅一点の出演者なので、
一種のサービスシーンなのか?と最初に見たときにわたしは思いました。
それにしても全く伏線がなく、あまりに唐突な表現で、違和感ありまくりです。


この件についてネットで検索したところ、某知恵袋で

「相手の口を塞いで息を奪い、窒息させるためである」

という答えを堂々としている人がいました。
大変納得のできる答えですが、実は、このシーンには小説を読んでいなければ
全く理解できない背景があったのです。


まず、ヨンファは両親を民衆の暴動で惨殺されたのち、
工作員リン・ミンギの元で育てられ、ジョンヒも「不義の子」として
不幸な幼年時代を過ごしているところを、素質を見込まれてミンギに拾われました。 

つまり彼らは血の繋がっていない義理の兄妹なのです。

ジョンヒは対南作戦の地雷で声帯を吹き飛ばされ、韓国安企部の虜囚に身を落とし、
凄まじい拷問を受けて廃人になる寸前、ヨンファに救出されました。

それゆえ血の繋がり以上の濃密な関係を持っていますが、
地獄の深淵と生命の限界を見たジョンヒは、それゆえ義理の兄に対しても、
自分とともに戦う、自分以上に強い男であることしか求めていないのです。


映画ではご予算と時間の関係でばっさりカットされている部分ですが、
原作では航空機が爆破され、墜落するという事故が彼の計画によって起こされます。
「GUSOH」を移送する米国機を爆破してそれを奪い、それを「いそかぜ」の
ヨンファの元に届けたのは、このジョンヒでした。

こんな生死をかけた命令を兄から受けることも、ジョンヒにとっては
愛情表現のようなもので、死の淵に立ったときに全身を駆け巡る
アドレナリンによって、彼女は初めて生きていると実感できるのでした。

「革命を成功させたらお前をあたらしい朝鮮国家の女王にする。
そして縁故も袖の下も通用しない、公平で貧困のない世界を作る」

そうヨンファはジョンヒに語ります。
そのジョンヒが如月行の「強さ」に惹かれているのを、言葉を超越したところで
彼女と分かり合えるヨンファは鋭く気づき、嫉妬の炎と殺意を燃やすのでした。




その後、如月行と先任伍長、そしてなにより日本政府は、ヨンファの思ったより
ずっと手強く、計画もそうは簡単に思い通りにならないことがわかります。

これも映画には出てきませんが、政府はEODからなる特殊部隊を
海面をレーダーを逃れるように接近させ、艦の破口から制圧部隊として
潜入させるという作戦をとったり、潜水艦からの攻撃を仕掛けたりと、
首都防衛のためのあらゆる抵抗を試みるのに加え、そのうち
宮津艦長に従ってきた幹部たちの中にも、仙石らに密かに情報を流した副長が
ヨンファの手で殺害されてからは、反発する者が現れだしたからです。


その一方で、かつて自分を拷問し凌辱した韓国安企部の職員をなぶり殺しにした兄が、
計画の遂行に手を焼き、さらに如月行に対しては、その復讐心をあらわにしないので、
ジョンヒは傷つき、兄を「老いた敗残者」と見捨ててしまい、
その代わりに「自分を満足させてくれる男」として、行を求めるのです。

「いま迎えに行ってあげる」

そう心の中でつぶやき、単独で航走中の「いそかぜ」から飛び込み、
海中で艦底に爆発物を仕掛ける行の前にいきなり立ちはだかるジョンヒ。
格闘ののち、自分のゴーグルを剥ぎ取り、ジョンヒは行の心にこう話しかけます。

ねえ、わたしと一緒に来ない?
力のある人間は生きる価値がある。
わたしと一緒に来ればもう苦しまなくてすむわ・・。


小説では、このような会話の末、ジョンヒが行にキスをすることになっており、
これだけの状況が説明されていさえすれば、決して唐突でも不思議でもありません。
ところが、映画ではヨンファとの関係も「兄と妹」とされているだけですし、
従ってジョンヒが如月行に彼女一流の「愛情」を抱く、という伏線も何もないまま、
水中で格闘しながらいきなりこういうことをするので、大抵の人がここで
「?」となってしまうというわけです。


こういうシーンでも思うのですが、この映画は、映画の中で全てを説明し、
原作とは独立した媒体として存在するという努力を一切放棄しています。

一切というのは言い過ぎかもしれませんが、このキスの件だけでなく、
映画で疑問を持ち、小説を読んで確かめることもあらかじめ計算済みで、
つまり原作の小説と映画は補遺しあうことを前提に成立しているのではないか?
と思わざるを得ないのです。

確かにこの小説を映画化するのは物理的に無理です。
いくら石破茂が猛烈にプッシュしたからといっても、いくら防衛庁が
自衛隊的に都合の悪いところをみんなカットしたといっても、
これだけの濃い、しかもスペクタクルな内容を映像化するのは限界があります。

ということで、制作側はこのことも織り込み済み、つまり、

「映画は小説のダイジェストみたいなものなので、興味があったら本読んでね」

という傍論?付きと開き直ったうえでこの映画を撮ったのでは、と思われるのです。

さて、この後ジョンヒから、かつて自殺した母が死の直前に放っていたのと同じ、
「人間が腐っていく臭い」を彼女から嗅いだ行は、彼女をしりぞけます。
そして、

ーなら、死ね。 

と感応した彼女と戦い、危ういところで仙石に救われ、彼女を倒します。

映画のヨンファは、部下が持ってきたジョンヒの遺品を受け取り、
一人で部屋に帰って白黒の写真(養父と三人で撮ったもの)を取り出し、
無言で燃やす(BGMに美しい音楽付き)わけですが、小説では彼は絶望のあまり

「顔をひきつらせているため薄笑いを浮かべているように見える表情」

を浮かべ、嫉妬と憎悪と復讐に静かに狂っていくのでした。
ちなみに、如月行はこのときのジョンヒのことを、

「口説きに来たんだ」

と仙石に説明し、仙石は最後のヨンファとの対決でその言葉を投げつけます。
仙石にすら、自分が行に嫉妬していたことを見抜かれて逆上するヨンファ。

小説のヨンファの死に様は映画とは全く違いますが、
さらに問題なのは、映画でヨンファたちが強奪した毒ガス兵器「GUSOH」が、
あくまで「本物だった」というストーリー改変が行われていること。

この辺りの「政治的事情」についての描き方も、小説ならではの面白さがあるので、
(というか、これは各方面に配慮して映画にはできなかっただろうなという印象)
読み比べてみるとよろしいかと思われます。

さて、最後に、登場する「いそかぜ」幹部を演じる俳優さんたちのことを。



如月行演じる勝地涼。
母親の生花店でロケがあったので見学していたところスカウトされ、
俳優になったというエピソードがどうも忘れられません(笑)
(吉田秋生の「吉祥天女」の遠野遼役ははまり役だと思う)

この映画の撮影に際しては自衛隊に体験入隊して訓練を行ったり、
真冬の海に入るなどの過酷なロケに挑戦し、新人賞を獲得しました。



「航海長いただきました。
両舷前進原速、赤黒なし。針路フタフタマル」

何も知らずに「いそかぜ」を操艦する衣笠艦長(橋爪淳)と、
航海長を演じる中村育二。
「連合艦隊(中略)真実」で演じた宇垣纒は良かったですね。

しかし、この図・・・こんな艦長と航海長、本当にいるよねー。

ちなみに、この艦橋はじめ「いそかぜ」のシーンは「みょうこう」で撮られました。



杉浦砲雷長役、豊原功補。
どこかで見たと思ったら、「南極料理人」のドクター役、そして
「のだめカンタービレ」の江藤先生役ではないか。

「うらかぜ」にハープーンを撃ち込む宮津からの指令を受け、

「(撃)てー!」

を発令する杉浦。
原作では、融通の利かない神経質な防大出の幹部で、
先任伍長に代表されるベテラン海曹という存在を嫌悪しているとされます。



んが、「うらかぜ」がモニターから消えた瞬間、暗い怯えた目をして
艦長やヨンファをうち眺めております。

「いそかぜ」に撃沈される「うらかぜ」役は「いかづち」だったということです。



豊原さんや中村さんもそうですが、端役にも手を抜かないのがこの映画の魅力。
小説では副長兼船務長ですが、映画では反乱を起こすのが艦長では
何か防衛省的に不都合だったらしく、副長兼務ではなく船務長である竹中3佐に、
まさかの吉田栄作。

一般大卒幹部、通称B幹部で、ヨンファにも静かに抵抗する人望厚い自衛官。
小説では仙石らに情報を流すためにマイクを仕込み、ヨンファに殺害されます。



さて、海上警備行動の趣旨は先制攻撃を受けた後も鑑定が生残することを
前提に成り立っていますが、現代戦では最初の一撃が全てを決してしまう、
つまり、「専守防衛」では勝てないという絶対的真理があります。

「その至極当然の理屈を野蛮だ、好戦的だと蔑み、
省みないで済ます甘えが許されたのが日本という国家」

であり、宮津が海幕長に

「なぜ無抵抗のうらかぜを沈めた!」

と罵られた時に返した、

「撃たれる前に撃つ、それが戦争の勝敗を決し、
軍人は戦いに勝つために国家に雇われている。
それができない自衛隊に武器を扱う資格はなく、
それを認められない日本に国家を名乗る資格はない」

という言葉は、日本の防衛の現場が縛られている絶対の矛盾を突いています。

当時の防衛庁長官が、どうしてこの小説を映画化することに積極的だったのか、
こういう表現からもなんとなくわかる気がします。

(ところでちょうど北朝鮮が水爆の実験を成功させた、というニュースが流れましたね。
ぱよくの方々に聞きたいのですが、日本には平和憲法があるので、
北朝鮮は決して日本にこれ撃ってこないんですよね?
じゃ、北朝鮮は誰に向けて、どの国を攻撃するために水爆作ったんだろう(棒)
まさか、安保法案成立が北朝鮮を刺激したから、なんていわないでね?)




さて、小説と映画を比較しながら語ってきましたが、最後に、これだけは
映画化して欲しかった(しかしされなかった)という部分についてお話ししておきます。

冒頭、宮津が最初の艦長を務めた艦から陸を見ていると、
海岸で絵を描いているらしい少年がこちらに手を振っています。
ふとした気持ちで警笛を鳴らすのですが、その相手は如月行の少年時代でした。

こういう「神の視点」で書かれた偶然がこの小説には幾つかあるのですが、
「いそかぜ」で瀕死の重傷を負った両者が相見える時、朦朧とした行は
宮津に向かって「父さんが悪いんだ」と語りかけ、宮津は行に
亡き息子の面影を重ねて、「父さんが悪かった」と、なにもしてやれなかったことを
謝罪するという運命の邂逅を迎えることになります。


そして、全てが終わりました。

お互い命長らえたあと、仙石は謎の天才画家として世に出た如月と再会し、
彼と海を見るのですが、そのときに、冒頭シーンのリフレインがあります。

この小説のラストシーンは、海と船に思い入れを持つ者の心を無条件で捉えて離しません。

映画を観たあと、製作者の計略じゃなくて魂胆でもなくておすすめ通り、小説を読むのが、
多角的に楽しめる「亡国のイージス」の正しい鑑賞法だとわたしは思います。

映画と小説どちらも、あるいはどちらかしかご存知でない方に、是非おすすめしたいです。



 

 

日系二世~ダッハウ解放

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お正月映画で公開されていた「杉浦千畝」をご覧になった方はおいででしょうか。

リトアニア領事であった杉浦千畝に、国外脱出のための日本へのビザを
発給してもらったユダヤ人は、ソ連経由で日本海側から日本に入国し、
そこからニューヨークやその他の亡命地に逃れることができました。
今現在、杉浦が発行したビザによって生き延びた人の子孫は、
全世界で4万人になるといわれます。


映画のシーンにもありましたが、ドイツ侵攻前、リトアニアの日本領事館には、
ビザを求めて柵の外側でユダヤ人たちが徹夜で待機し、ビザが発行されるや否や、
着の身着のままで脱出していきました。

しかし、一刻を争う事態を甘く見て、脱出できなかったユダヤ人もいました。
杉浦に、「これは移民じゃない、脱出なんだ。早く街を出なさい」と強く勧告されても、
なまじ金持ちは財産の始末に手間取ってそれが遅れ、やっと駅に駆けつけた時には
すでに駅は封鎖されており、杉浦にせっかく書いてもらったビザを破られ、射殺されたり、
収容所に送られたりした人もいた、というエピソードが映画では描かれていました。

そんな収容所の一つであるダッハウで、収容所を解放した日系人兵士が、
雪に埋もれたユダヤ人を助け上げ覗き込むシーンがあります。
彼は杉原にビザを出してもらったにもかかわらず、逃げられずに収容所に送られ、
いまや瀕死の状態に陥っていたリトアニア出身のユダヤ人でした。
もうろうとした彼の目には、その顔がビザを書いてくれた日本領事に見え、

「センポ」(杉浦の海外での呼び名)

と思わず呼びかけるのでした。



このシーンに描かれていたように、ヨーロッパ戦線に投入されていた日系人部隊が、
ドイツのダッハウに到着した時、そこにナチスが作った収容所があることを発見しました。

ダッハウ収容所は、当初政治犯を収容するために作られ、戦争中から
ユダヤ人の収監者が大勢を占めるようになってきましたが、ユダヤ人だけでなく
ポーランド人、ソ連軍の捕虜、そしてキリスト教聖職者がも収容されており、
アメリカ軍がここに侵攻してきた時には、チフスの蔓延と栄養状態の極度な悪化、
収容者に行われる強制労働と頻繁に行われる制裁で、収容所の状態は酸鼻を極め、
餓死寸前の収監者が幽鬼のように彷徨う地獄となっていました。

収容所を発見したのは、収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていた
日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊です。



しかしなぜか、このことは1992年(ブッシュ政権下)まで公開されませんでした。
アメリカでは公文書を一定の時間が過ぎたら公開するという
アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)の定められた50年が経過するころだった、
という考え方もできますが、厳密にはこの時点で、まだ50年には3年ほど間があります。

アメリカではブッシュ政権、そしてクリントン政権下において、
日系アメリカ人たちに対し、かつてのアメリカ政府の扱いを改めて謝罪し、
そして日系兵士たちに叙勲が行われるなどの復権式典が何度となく持たれています。

おそらく、最初に日系アメリカ人に公的に謝罪を行うことになったブッシュ政権で、
この隠されていた事実も少し早くはなるが公開するべきだということになったのでしょう。


しかし、1945年当時、いかに二世部隊が継子扱いされ、イタリアでは
多数の戦死者を出しながらドイツ軍の要塞を打ち破る戦功をあげたのに、
ローマへの凱旋はさせてもらえないなどの屈辱的な扱いを受けていたとはいえ、
なぜダッハウの発見までが秘匿されねばならなかったのでしょうか。




前にも一度、当ブログでは「ダッハウの虐殺」について触れたことがあります。

「虐殺」といってもナチスのユダヤ人虐殺のことではありません。
アメリカ軍が収容所を占領した後、ドイツ軍人やカポと呼ばれるユダヤ人の「手先」が
戦闘行為ではなく、武装解除された上でリンチを受けたのち、銃殺されたり
収容者に引き渡されて撲殺されたりしたことを言います。


ダッハウは戦後すぐ、アウシュビッツより有名なホロコーストのメッカとされていました。

実際にも人体実験は行われ、ガスでの殺戮もあり、ほとんどの収監者は
半年も生き延びられないという状況ではありました。
なかでも親衛隊の空軍軍医、ジグムンド・ラッシャーが行った人体実験は、
これが人間のすることかと暗然となるような残酷なものです。
(ラッシャーは別の罪を問われナチスによって処刑になっている)

しかしながら、少なくともアメリカの主張する組織的殺戮、つまり
ナチス政府がユダヤ人の抹殺を命令したという事実はなかった
ことが、今日、公的にも証明されています。



1945年4月29日、442連隊の第522野戦砲兵大隊の連絡斥候は、
あの悪名高いダッハウ収容所の最初の発見者となり、
解放者となって、3万人の収監者を解き放ちました。

彼らの祖国合衆国において、1万2千人以上の日系アメリカ人が西海岸から
強制的に10箇所のリロケーションセンターに移送されたのは3年前のことです。

522大隊の何人か、そして422連隊のほとんどの兵士たちは、収容所の出身者でした。
家族を収容所に残したまま、自分たちをそこに追いやった他ならぬアメリカのために、
ここヨーロッパで、我が身を犠牲にして戦っていたのです。


これがダッハウの本当の発見者をアメリカ政府が隠し続けた理由でしょう。


ダッハウ開放は、本来英雄的な戦功として、大々的に宣伝されるべきものでした。
しかし、もしそのことを報道するとなれば、開放したのがほかでもない、
アメリカ政府の手によって作られた民族隔離収容所出身の者だった、
ということを語らないわけにはいかなくなります。


ダッハウで行われていなかった「組織的なユダヤ人抹殺」が、あたかも実際にあるかのように
一つのガス室を論拠に喧伝した(実際にはそこで大量の殺人が行われたわけではなかった)
ことも、つまりはそれを発見した人種に対して、アメリカが現在進行形でどんな扱いをし、
ナチスと同じような収容所で、非人道的行為を行っているかが公になるからです。

「アメリカも日系人に同じことをやっているじゃないか」

という批判に対して、

「我が国の日系人の扱いは、ナチスがユダヤ人にやっているのとはまったく違う」

というために、そして自分たちの「戦闘行為ではない虐殺」を正当化するために、
「ホロコーストがあった」ことにしておく必要があったのではないでしょうか。


現にアメリカには、日系人は収容所に集められたものの、食べるものにも困らない
快適な暮らしをしているというアメリカ政府の行った宣伝に、そう思い込まされて、
より一層彼らに憎しみを向ける者もいた、と山崎豊子 著「二つの祖国」には書かれていました。

 


 これは第442連隊の二世兵士が山中でドイツ軍の士官と兵を捕虜にした時のことを
絵に描いて遺したものです。

山中で見張りをしていた彼は、身を隠すのに絶好な木の幹で敵の来るのを待っていると、
ドイツ軍の兵士二人が丘を登っていくところを発見したので発砲した、とあります。

かれは身振りで狙撃手に武器を落とすように、そして士官には
彼の銃ベルトを外して捨てるように言った、ということが書かれています。

この二世兵士にとって初めて敵と対峙した瞬間だったのでしょう。
敵に発砲したのも初めての経験だったに違いありません。



ガンといえば、彼らが使っていた銃も展示されていました。
ケースの横に添えられた札には、ダグラス・マッカーサーの言葉があります。

"Never in military history did an army know so much
about the enemy prior to actual engagement.”

アメリカ軍の歴史において、軍が交戦に先んじて
これほど相手のことをよく知っていたことはなかった

「相手を先んじて知る」ことができたのは、他でもない日系二世たちを
アメリカ軍に組み入れ、日本人の風習や慣習、行動原理や思考までを
あらかじめ情報として収集できたことを言います。

これは裏を返せば、当時の日本軍から見た彼らは「裏切り者」だったということです。



わたしは日系二世のことを調べるまで、彼らが日本に対して帰属意識を持つのが
当然であると何となく信じていたところがあるのですが、一世ならともかく
アメリカ生まれの二世は、軍に加わる時点で、日本人であることを
どこかで捨て去っていたのではないかと思います。

今回、ダッハウ開放をネットで検索していて、

「日本人がダッハウを開放した。正確に言えば日系アメリカ人であるが」

という記述を目にしましたが、この言い方には違和感を覚えました。

彼らは自分自身が「日本人」であるとはみじんも思っていなかったでしょうし、
実際にも、彼らが「日本人」であったことは、生まれて一度もなかったのです。

彼らが渡米一世ではなく、あくまでも「二世」であることを考慮しないと、
なぜ彼らが大挙してアメリカ側に立って戦ったのかを理解することはできないでしょう。


なぜかこのホーネット博物館の日系部隊コーナーにあったナチスドイツ旗。
武装解除した時に取ってきたんでしょうか。 



日系二世部隊を描いたコミックが展示されていました。
ダッハウ開放時の、ドイツ兵と将軍(ダッハウの責任者に高官はいなかったため、
これが誰であるのかは謎)が会話しているシーン。

「いいえ、将軍閣下(ヘア・ゲネラル)」

「畜生!その時何か見たか?」

「アメリカ軍の格好をした日本の兵士を見ました」

「神がどちらの側に居られたのか、わたしは今わかったよ」


「アウフヴィーダーゼーン、わたしの若者たち、アウフヴィーダーゼーン」

lowenというドイツ語がわからなかったので適当に訳しました。



この展示場には、有名な日系アメリカ人軍人の写真がいくつかありますが、
これもその一つ。

彼に自衛隊の制服を着せたらそっくりな方を、実はわたし存じ上げています。



技術軍曹だったベン・クロキも442部隊出身です。
真珠湾攻撃が起こってすぐ、かれは空軍に加わりました。

不幸にもかれの最初の「戦闘」は、偏見と差別、無理解からくる周りの反発でしたが、
それを跳ね返すようにかれはヨーロッパ戦線で30もの危険なミッションをこなし、
B-29の爆撃手として「サッド・サキ」というニックネームで
周りに受け入れられるようになりました。

右の写真は、同機の下でパイロット、ジェンキンス中尉とのショット。



トーマス・サカモトはMISのトップでした。
フクハラがそうだったように、彼もまた日本で学校を卒業したため、
日本語に長けていてMIS学校の教授を務めることができたのです。

志願してマッカーサーのオーストラリアでの任務に付き添ったサカモトは、
そこで日本軍の「捕虜第1号」を尋問し、その部隊に自殺攻撃をすることを
勧告文書を撒いてやめさせることに成功しています。



かれは終戦後、ミズーリ感情での降伏文書調印に立ち会うという名誉を得ました。
日本の占領政策に携わった後、サカモトは朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加します。 




なぜ降伏調印に立ち会った記念を旭日旗の上にする(笑)

どうもこの辺のセンスが日本人には分かりかねるのですが、まあとにかく、
この旭日旗がかっこいいから、ってことでよろしいですかね。

あなたは降伏調印式に立ち会いました、という証明書。



小泉首相が訪米した時には、ホワイトハウスに日系アメリカ人軍人の代表として、
前述のベン・クロキ(左から二番目)が招かれました。 




戦後50年を経て名誉回復された日系アメリカ人と、あらたに叙勲が行われた日系部隊。
彼らは、こうやって同期会を行なっております。
なんだか兵学校同期会のおじいちゃんたちとそっくりの雰囲気です。

戦争が終わった今、日本の血を引くアメリカ人である彼らは、

「どこの国に生まれ、どこの民族の血を持ち、どの国に忠誠を誓ったか」

という自分の心の深淵から解き放たれ、
どちらかを選ばなくてはならないことを強制されない世の中になったことを、
何よりも歓迎しているに違いありません。




 

MoMA(ニューヨーク近代美術館)〜現代芸術

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ニューヨーク近代美術館は5階くらいのフロアに分かれていて、皆が最初は最上階に上がり、
そこでゴッホの糸杉やマチスのダンスなど、有名な絵画を一挙に見たあとは、
階段やエスカレーターで降りていきながら現代美術を鑑賞していくことになります。



本当に市街地、ダウンタウンの真っ只中にあり、アメリカの建物としては大きいほうではありませんが、
それでも1フロアにこれだけ超有名な絵画が揃っていると、それだけで
この空間に無限の広がりすら感じてしまいます。

わたしたちに許されたのはたった1時間の鑑賞時間でしたが、
それでも後から振り返ると大変濃密なひとときに思われました。
美術館に行くといつも思うことなのですが、これは、そこで目にするものが、
観る者を時空を超えた想念の旅に誘ってくれるせいでしょうか。



それはともかく(笑)、現代美術です。
こういうのって、いつも思うんですが、いいとか悪いとか誰が判断してるんだろう。
作者名を調べる気にもならなかったのですが、これは中央に金色のくぼみがあるオブジェ。



こういうアイデア賞みたいなのはまあ観ても面白いからいいんですけどね。
視覚のトリックで、まるで鏡の向こう側に人がいてもたれかかっているように見えます。
男性の絵以外は、実際に部屋の様子が映り込んでいるというわけ。



問題はこういう、「観る者を苛立たせることを目的にした訳あり作品」。
タイトルでなんだかんだと説明してなんぼ、な感じがまたいらっとするんだな。



女性のバストだけが立体的で、あとはリトグラフの作品。



絵画と立体的な何かを組み合わせた作品がこのようにいくつかあります。
これはなんだかわかりませんが、鳥の剥製と、正面から見た場合にのみ
鳥が脚で何かを掴んで運んでいると理解される物体がポイント。

観ている人「鳥の剥製の埃は掃除したほうがいいんじゃないかしら」



こういう抽象的なオブジェも小さいうちはいいのですが、ここまで大きいと、

「こんなでかいもの、造った後どこに置くつもりなんだ」

と聴きたくなります。
MOMAに飾られたり、公園に置かれることが決まっていればいいんですけどね。



我が日本からは、草間彌生の『作品』もここでは展示されています。
1957年ごろ、いわゆる「ハプニング」といわれる芸術運動で、街の中に
全裸の女性を解き放っている模様。



草間彌生本人と「ハプニング」のパフォーマーたち。
みなさん体に水玉をつけてますが、この水玉は草間の典型的な「モチーフ」です。

彼女は小さい時に統合失調症であったということで、その病状から繰り返し
幻聴や幻覚に襲われていましたが、それから逃れるためにそれらを描きとめたのが、
芸術家としての最初のきっかけであったということです。
水玉はあたかも「耳なし芳一」が身を守るために体に経を書いたように、
それで自分を覆い隠すことによって幻覚の恐怖から身を守るものであるとか。 


最初の個展には、彼女を診断した医学博士が来訪し彼女の作品を購入したそうですし、
日本のゴッホ研究の一人者が、白木屋百貨店での個展を後押しし、彼女のデビューを助けています。

その活動は今や多岐にわたり、2012年にはルイ・ヴィトンとのコラボも行っています。 




次のコーナーに行くと、「威風堂々」の音楽のBGMに、二人の男が
槍を持ったりそれをあわせたりというパフォーマンスをしているビデオが放映されていました。
なんとなく音楽が流れているので皆立ち止まって見てしまっている模様(笑)



それがこの二人。
いったいどういったアートなのでしょうか。



They weren't Good Writers

They weren't Bad Writers

But, My God, they were Writers

こんな不可解なキャプションがつけられた(もちろんこれだけではない)
写真がずらりと並ぶケースの中。

「彼ら」とは? 




”我々は人間彫刻である”

我々はただの人間彫刻なので、毎朝起きて時々歩き、稀に本を読みしょっちゅう食べて、
いつも考えて普通にタバコを吸い、楽しいことやリラックスするものを観たり(略)
哲学して徐々に死んでいき、神経質に笑い、丁寧に挨拶をして、そしてよがあけるのを待つ




なんとジョージとギルバートという二人の青年は、自分たちを「生ける彫刻」と名付け、
自分たちを「作品」として一生を生きることにしたってことのようです。

ギルバート&ジョージ



二人は1942年と43年の生まれなので、現在は70を過ぎているわけですが、
少なくとも2005年にはビエンナーレにイギリス代表として選ばれているので、
彼らは「まだやっている」のでしょう・・・・いや、「死ぬまでやる」のかな。



ギルーバート&ジョージのモチーフを使った作品の一つ。
ものすごく座り心地の悪そうな椅子ですが、スターバックスが採用するといいと思います(笑)



息子を連れてきてやりたかったなあと思った近代建築のコーナー。
訪れた時には知らなかったのですが、このM0MAの新館は日本人建築家の
谷口吉生(変換候補に出てきた!)のデザインによるものです。

どこぞの某安藤さんと違って、谷口氏はコンペにも出ず、マスコミにも出ず、
完璧な「作品主義」を貫いておられるようです。
こういう建築家に新国立競技場を任せるべきだったと思うのはわたしだけでしょうか。



建物自体はいいとして、ピラピラとついた羽はどうやって作るの、なデザイン。



これは建築デザインの範疇に入るのでしょうか・・。



この「足の生えた家」を作品のモチーフにしている人らしいです。
これは建築作品には入らんだろう。



斜面を利用した建築。
地震のある地域にはお勧めしません。



ど、どこかでよく見たものが、こんなところに・・・!

インダストリアルデザインの代表的なものとして、榮久庵 憲司(えくあんけんじ)
が1961年にキッコーマンのためにデザインした瓶が展示されていました。



ビートルズのポスターなどのポップデザインとその他工業デザイン的なもの。



ラジカセ、レコードプレーヤー、キーボードスタンドにヤマハの電子フルート(ケース中黒)。
世間に普及してすっかり見慣れたこれらの機器も、
この世に出現した瞬間は全く「新しいデザイン」だったのです。



ちゃんと見ていませんが、上のレコードジャケットはいわゆる現代音楽のものでしょうか。
真ん中の不思議なターンテーブルのもレコードプレーヤーです。



さて、MoMAといえばアンディ・ウォーホール。
アンディ・ウォーホールのコーナーは、部屋を丸々一つとって展開していました。



マリリン・モンローは色とりどり8枚セット。



キャンベルの缶は部屋の二方の壁を全部使って、同じものをずらりと並べる作戦。



ウォーホールではありませんが、同じことをしているアーティストがいました。
ただし、この額の一枚一枚には電話帳のページが入っています。
こんなのアイデアだけじゃーん(苦笑)
まあ、「壁の装飾」という感じにはなってはおりますが・・・・って、もしかしてそれが目的?



このように一枚一枚には全く意味のない絵を、壁に意味ありげな形で展示する、
ということ自体をアートにしてしまう人もいます。
昔の画家が額縁もまた絵画の一部としてこだわったようなもんですかね。



映像芸術は、まるで海の中のトンネルを歩いているようでした。
が、先日お台場の科学未来館でやっていたチームラボの「盆栽アート」の方が圧倒的に上だと思います。

Ever Blossoming Life - Gold / 増殖する生命 - Gold




最後の方に冒頭の村上隆の風神図みたいなの(構図が)があり、
相変わらずだなあと思いながらふと上を見たら、こんなのがありました。
木の船がびっしりと矢だらけになっていて、船尾には中国の旗がつけられています。
意味不明。




時間がなくて見られず残念でしたが、このときにはオノヨーコの特別展があったそうです。
これはその一つで、「ホワイトチェスボード」。
実際にチェスをする団体を呼んできてやらせ?でチェスをさせるまでが芸術、らしい。

他には青いリンゴを一つだけ置いて「アップル」とか、上まで登って空を見て
おりてくるだけの螺旋階段とか・・。

あまり興味を持ったことがないのでくわしくしらなかったのだけど、オノヨーコさんは
どうやらこういう「アーティスト」らしい。
ジョンレノンと結婚したのも、もしかしたら「芸術活動」だったんだったりして。

一つ確実に言えるのは、ジョンの嫁でなければ、アクリルのケースの上に置いたリンゴを
芸術作品だと言い張ることはできなかったってことですかね。


さて、見終わって少し時間があったのでミュージアムショップに行きました。
実はTOがチケットを買っている間も少し見て回ったのですが、
入り口のところにいた警備員(だとおもう)のおっさんが、近寄ってきて
ハロー、というのでわたしもハイ、と返事だけしてその後は無視していました。
なんだか後をついてくるなあと思っていたのですが、二度目にこのショップに入った時にも
同じおっさんが後ろから、また声をかけてきました。
気持ち悪いので聞こえないふりをしていたら、おっさん、今度は耳元で「にいはお〜」と・・・。


・・・あたしゃ中国人じゃないっつの(♯)


平成28年度陸上自衛隊降下訓練始め・概要

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去年刀の里で「刀打ち初め」に来賓参加したため見られなかった
陸上自衛隊降下初めに今年こそはと行ってきました。

今日はとりあえず4時起き(と思いながら寝坊して5時起き)で、
大変疲れているので、写真だけを淡々と貼っていきます。



今年は年明けから縁起がいいわい。
バンクの上で前に誰もいない場所を確保でき、すっかりご機嫌です。



丘の上にはペトリオットさんも待機。



「お試し降下」の1番乗り。
とはいえ、昨日も予行をバンバンやっていたらしいですけどね。



お試し降下無事に終了。
なかなか面白い態勢で着地を決めました。



第一空挺団団長降下〜。

師団長だけでなく、2機に分けて上から20人くらいは偉い人も降下します。
さすがは自衛隊、指揮官率先の精神がこんなところにも。

今日は11mの降下棟からとはいえ、防衛大臣の中谷元ちゃんも飛んだそうです。
きっと張り切ってたんだろうな。



降下を終えてお付きの隊員にガードされて、観覧席まで走る偉い人。



陸自の偉い人が自力で降下して席に着いた後、来賓の皆さんが
チヌークで会場に入来してきます。
この機体には桜が4つ窓に貼ってあり、陸幕長が乗っているという印。



来賓は何機かにわけて、チヌークを会場に横付け?して入場しました。



防衛政務官と、後ろには海自迷彩を着た河野海幕長がいたはずです。



中谷防衛大臣登場。
飛び降りる時「レンジャー!」と叫ぶなんて、何十年ぶりだったですか?



VIPを降ろした後のCHは、打って変わって駆動が大胆というか雑になります(笑)



この後は次々と降下が続きます。
まずは自分で操縦する難易度の高いフリーフォール式の落下。



降下をさせる航空機もいろいろです。
UH-1ヒューイからは3人くらいが降下しました。



チヌークからは必ず10名と決まっています。



10個の傘が開いて真っ青な1月の空を降りてきます。
全く雲のないこの日は「降下日和」とでもいうべき1日でした。



空自のCH-1から。



CH-1からもちょうど10人です。




空自のハーキュリー、C-130Hからは何度も降下が行われました。



こちらのタイプは降りた時の衝撃が強く、立ったまま着地できる人は滅多にいません。



飛び出す時には1秒おきにきっちりと行います。
時間がいい加減だと空中で綺麗に傘が並びません。



こうやって次々と隊員が降下し、いよいよフィールドでバトルを開始します。



そこで現れるのが、赤いバナーをつけた「仮想敵」。
敵はこの2台の車両だけなので楽勝ですね(笑)
前の車両後部にだけ人が乗っていますが、この人には重要な役目あり。



そこに偵察機、P3-Cが登場!(ただ通過するだけ)

一応これで陸海空が総力戦をしているというということになりました。



これはなんでしたっけ?U-4ガルフストリームというの?
なんかペイントが違いませんかね?



敵は総力を挙げて降下した部隊を攻撃してきます。



かなりの高高度から落下してくるフリーフォール落下傘。
これをするには選抜されてさらに資格を得るための講習を受けなければなりません。



観客席の真上を降りてくるFF隊員。
普通の降下員より技量が高いという説明がされたので、
自分たちの頭の上に傘がきても誰も心配していませんでした。



方や偽装して迷彩メイクを施した歩兵部隊が、地上に待機します。



命令が出されるたびに、じわじわと敵陣に向かって前進していきます。



おーっと、ここで捕虜一人確保!



と思ったらこちらでは負傷者発生。
怪我人と捕虜が同じ服を着ているのはなぜ。



もうもはやどちらの攻撃かわからない。あちこちで煙発生。



FH-70と、それを牽引する車を吊ったままずっとホバリングで待機。



こちらのCHからはオート隊(バイク偵察隊)が降りてきました。



ヒューイでギリースーツを着た隊員も運ばれてきます。



頭に草をつけた一団を輸送してきました。
実はこのヒューイ、一度着陸に失敗しておりますが、その様子は本編で。



迫撃砲と車をフィールドに下ろすためにやってきました。



2機のチヌークからはラペリング降下でたくさんの兵が降りてきます。
こちらは比較的低空からの降下。



高いところにホバリングしたCHからも、20人くらいの隊員が次々と降りてきました。



とんでもない角度でこれ見よがしに飛ぶアパッチ(笑)



移動する謎の物体。



チヌークにロープで牽引された4人の狙撃手による攻撃。



迫撃砲部隊の一斉射撃。



お待ちかね戦車部隊。ヒトマル式戦車きたー。



戦況を見守るヘリ部隊とNBC偵察車(手前)



10式戦車が敵にとどめを刺します(多分)



フィニッシュに向けて皆突撃ー。
地面に無反動砲を落きっぱなしにしている人はだーれ?



ギリースーツはとても暖かそうでした。

というわけで、ざっと駆け足で紹介してきた1日の訓練始めです。
今日はとにかく気温が高めで見学には大変楽でした。



そして、千葉三兄弟のかけるくんが得意になって紹介しているこの痛車の正体は?
というわけで、明日以降のご報告をお楽しみに。


続く。









入場から開始まで~平成28年降下始め

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さて、半ば朦朧としながら写真を加工して、(おそらく)そのせいで
いくつもの間違いを指摘されてしまったわけですが、気を取り直してもう一度
降下始めの行われた日の朝からお話しします。



去年より列の後ろに並ぶことになってしまった理由は、1時間の寝坊です。
前日早めにベッドに入ったのですが、緊張のせいか深夜2時に一度起きて
目覚ましにしているiPadを開けて時間を確かめたところ、なんの加減か
そのときにフリーズし、そのまま朝が来てしまったというわけです。

1時間の余裕があるはずが、歯磨きだけはしっかりと(これ大事)あとは全て手を抜いて
10分で家を飛び出し、当初6時半の予定に20分遅れただけですみました。

並んだところは、工場の廃棄物から生まれるえも言われぬ悪臭が
漂ってくる場所ではありましたが、そこで今回のイベントのために投入した

「どこでも座れるリュック」

の具合を試しつつ、開門の8時30分まで待ち、入場。
さすがに3度目ともなると、どういうところが見やすいか、
そこに行くにはどうしたらいいかもわかってくるものです。



というわけで見事この素晴らしい眺望をゲット。
目の前は一段低くなっており、前列の人の頭が全く邪魔になりません。



後ろに人垣ができて出入りしにくくなる前に外に出ました。
寝坊したため何も食べていないお腹にとりあえず何か入れなくては。

今写真を撮っている場所は、演習の行われるフィールドを見下ろす土手の後ろで、
二つの山の谷になっているところは車両の出入りができる通路です。

最初の年は左の土手で、去年は右側で見学しました。

「通信中隊」「第一空挺団」など、隊旗の幟をたてているのは
関係者の受付でしょうか。




ここにも関係者・招待者の受付テーブルがあります。
隊員の家族などがほとんどで、彼らの席は別のところに用意されており、
終了後は「野宴」つまり野外パーティに参加できるというおもてなし付き。
隊員家族への扱いを一般客より手厚くするのも自衛隊ならではです。

ところで、この通路を隔てて向こう側にあるグラウンドでは、高校生が野球をしていたのですが、
このグラウンドって、確か少し前に空挺団の落下傘が誤って降りてしまい、
「市民」が青筋立てて怒鳴り込んできたっていう、あれですか?

いや、これなら仕方ないよ。ちょっと風が強かったり技量がまだ未熟だったりしたら、
ここに間違って落ちたとしても「誤差範囲」ってくらいだと思う。

しかも当時グラウンドは無人だったというし、道ひとつ越えたくらいで怒鳴り込むって。
この実際の地理関係を見て揚げ足とっているレベルとしか思えませんでした。



真っ先に目に付いたので反射的に決めてしまった作りたて焼きそば。
「ご当地B級グルメ」と自ら言ってしまっている潔いお店です。
380円と安く、辛すぎて食べるのが辛いこと以外は大丈夫でした。



さて、お腹も落ち着いたことだし、席に戻って開始前の会場をチェック。
87式自走砲ガンタンクと隣にヒトマル式が待機しています。



招待者・隊員家族の見学する席はパイプチェアが並べられた小高い丘の一角です。
招待者はあまり早く来る必要がないせいか、まだ椅子はガラガラ。
「接遇」と腕章をつけた隊員が待機していて、一組につき一人がエスコートしています。



わたしの場所からは今回モニターもよく見えます。
写真の人は隊員家族だと思うのですが、丘の上から降りてきて
ずっと画面を写真に撮っていました。



超暇なので、座ったまま、少しでも動くものがあると写真に撮ります。
降下始めには初めて投入する望遠レンズ(広角も)のお試しでもあります。

実は入間の航空祭でエプロンに望遠レンズを落下し、修理と言いながら
ほとんど部品が交換されて帰ってまして、それ以降初めて使うのですが、
なんだかまだ胴の動きがどこかで引っかかっているような・・・。

うーん・・・・納得いかん。 




望遠レンズとしての役目はしっかり果たしておりますが。
もう少し拡大したら、誰かも個人特定できそうなくらいです。



戦車隊隊員が乗り込む前に集合して打ち合わせ。
奥に立っている人は戦車隊の心得について暗唱させられています(たぶん)



招待者席の後ろ側には偽装網を施した物見櫓が設えられていて、
通信中隊?と思しき一団がお仕事に入る前の和やかなひととき。



こちらも思いっきりズーム。
うむ、なかなか望遠レンズ絶好調。



最初のチヌたんが賓客を運んできました。



2年前、ホコリがたたないように水を撒いているひとがいましたが、今年は省略でしょうか。
そのせいか、草の巻き上げが半端ねえ。
ところでこの写真でちょっと感動したのが、



着地をする前、クルーがほとんど全身を乗り出して下を見ているこの態勢。
これ、ちゃんと体をどこかにつないでるんですよね?
・・・え?何もしてない?・・・・

チヌークが態勢を崩したら頭から落下することは確実。



中から頭を低くして出てくる陸海迷彩と背広の一団。
帽子は飛ぶから抑えるのはわかるとして、やはりローターが回っていると
人間って頭を低くしてしまうんですね。



先ほど体を乗り出して下を点検していた二人は最後まで敬礼でお見送り。



大きな背嚢を背負って顔には迷彩を施した一団がフィールドに散らばります。
背嚢には何が入っているのでしょうか。



広いフィールドを全力疾走で移動。



戦車的な一団がエンジンを始動させ始めました。
どこかに移動するようです。
ガンタンクには隊員が二人乗り込もうとしています。



74式が移動を始めました。
後ろにいる消防車にも係が乗り込んでいます。



89式装甲車も移動。
砲塔に立って、外を見ながら移動するのは、なかなか気持ちがいいと思うがどうか。



ガンタンクも。



ヒトマル式は、わたしが見学した2年前、降下始めにデビューしました。
その時とは違い、今ではすっかり出し惜しみしなくなったという感じ。
あの時は見学に来た人が皆口々に「ヒトマルヒトマル」と目を輝かせて、
話題にしていたものですが、今や端っこをのそのそしていても誰も注目しません。



頭から草を生やした「パイナップルアーミー」が4人。
トランクに入っているのは組み立て式の銃とか?



手前の三角の黒いのは訓練に必要な目印の一つです。
ライトアーマーに追いかけられている人発見。



なかなか微笑ましい。おらおらとラブにせっつかれながら走る隊員の図。



ペトリオットミサイルが小高い丘に安置してありました。
ネットがかかっているように見えますが、これが基本姿勢なんでしょうか。



訓練は煙など発火するものを伴うので、消防車はずっとここで待機していました。



12時20分からの「格闘訓練展示」という文字を見て、思わず?となり、
写真に撮って引き伸ばしてもやっぱりそう書いてあります。
今までそんなのやったことあったっけ?しかも15分も。



今回はマスコミのカメラも手に取るように近かったです。
しかし、これだけ来ていて、ほとんどのニュースは、第一空挺団の訓練塔で行われた
中谷防衛大臣の「レンジャー!」降下しか扱っていなかったって、どういうこと?



次回はいよいよ訓練開始からです。

続く。

指揮官降下〜平成28年陸自降下始め

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陸上自衛隊降下訓練始め、本番は何時に始まるかというとなんと11時。
空挺降下訓練はたった1時間少しのイベントにすぎません。
それにもかかわらずわたしを含め多くの人が6時から開場を待ち、
8時半に入場してからは2時間半も1年で一番寒いこの時期、外で待つのです。

興味のない人にはなんと酔狂なことと嗤われるでしょうが、不思議なことに
並んだり開始を待ったりする時間、目の前で行われているちょっとした動きを
見逃すまいとカメラを構えて追っていると、あっという間に終わってしまいます。

今年も辛かったことといえば、せいぜい帰りの高速で死ぬほど眠かったくらいで、
心配した寒さも幸い今たいしたこともなく、しかもご覧の通りの上天気。
行く前は結構悲壮な思いなのですが、済んでみれば来年が楽しみに思えるくらいでした。


さて、11時開始に先立って、概要でもお伝えしたように、「お試し降下」があります。
ヒューイから一人が降下して、全く傘の操作を行わずに、その日の風の動きなどを
確かめるという、いわば「露払い」の役目ですね。



「なんの操作もせず降りる」というのは考えようによっては怖いことで、
何もしなかったがゆえに、もしまた隣のグラウンドまで流れてしまったらと心配になるのですが、
実はこれに先立ち、まず大きな赤い風船が上げられ、それによって事前判断がなされます。
それから判断して、どんなに流れても観客の上には絶対落ちないところで降下するので大丈夫。

で、このお試し降下員ですが、肉眼では確認できない「操作」をやっておりました。
まず、この写真では両手を上げております。



飛びだしたときに索がねじれてしまったので、両手でそれを戻しているんですね。
いくら操作はしないということになっていても、さすがに捻れていてはまずいだろう。



ねじれを解消するには自分が回転することになります。
もう少しだ。



ふう、やっと正常な状態に戻りました。
これで大丈夫、ってことで意識を集中して着地用意。



「最初の降下って怖いかもね。操作できないし」

「やっぱりじゃんけんで負けた人がするのかな」

近くの人が無責任な話に興じています。

「いやー、やっぱり一人で注目を浴びるんだからやりたい人いるんじゃない?
それに多分これが終わったら、この人はもう今日のお仕事はおしまいだろうし」

「一足先におつかれさん〜って一杯やったりとか?」

いやいや、そんな甘い組織じゃありませんぜ第一狂ってる団は(笑)



満場の注目を一身に浴びて習志野の大地に転ぶお試し降下員。
笑っているような気がするのは気のせい?

やっぱり本当にこれで彼の仕事は終わり・・・?



お試しが無事に終了したという結果を受けて、いよいよ平成27年の
降下訓練始めの幕が切って落とされます。
そこで、

「降下始めには、今年一年の訓練の無事を祈願するという意味が込められています」

というアナウンスがありました。
この「祈願」という言葉に、自衛隊がこの降下始めを、今年一年が無事であることを占う
「神事」のように捉えていることが現れていますね。

艦内神社もそうですが、自衛隊という組織は人智の及ばない事態に対応するために
日頃の厳しい訓練を行いながらも、最後の最後で神に「祈る」のです。

自衛隊が神社に参拝(特に靖国)するだけで目の色変える連中も
この異常な国日本には少なくないわけですが、成功を祈り、治癒を祈り、
救いを求め、「祈る」ことを日本人が太古から普通に行っている以上、
その日本人の組織である自衛隊が同じようであってなんの不思議があるか、
とわたしなど思ったりするわけです。




さて、というわけで訓練開始と同時に行われるのが「指揮官降下」。
第一空挺団の団長である兒玉恭幸陸将補が先陣を切ります。

下から見ているとそうでもありませんが、第一空挺団のHPなどで
高高度からの降下の上空からの写真を見ると、雲の上だったり地面が全く
地図のように見えていたりで、ここから生身で空中に身を踊らせるのは
たとえ何回訓練をこなしても、恐怖感を拭いさることはできないだろうと思われます。


しかし、第一空挺団の指揮官ともなれば、これだけは避けて通れぬ道。
空自の年次飛行のように、おそらく第一空挺団には、どんなに出世しても
年に何回かは降下を行うこと、と内規で決められているのに違いありません。



空挺団団長以下、2機のCH-47から、計20人の指揮官が降下しました。
副団長と高級幕僚、あとは団本部のえらい順でしょうか。

これは第一空挺団全隊員1900名のトップ20人ということになります。



飛び降りたあと、機体にカンで結びつけた索で落下傘が引っ張られ、
開傘する直前の瞬間が撮れました。
ロープはCH−47の天井から出ているように見えます。
ひらひらとなびいているのは1番に降下した団長のもの。



さて、無事に指揮官殿が着地を決めました。
指揮官降下の際は、部下がどこかに待機していて、
着地するなり近寄ってきています。

おそらく自分がアテンドする指揮官が飛び出すなり、その着地点に向かって
草地をまっしぐらに走っていくのでしょう。
我々は上しか見ていませんが、次回指揮官降下を見る機会があったら、
フィールドを走る「お世話係」の姿を探してみても面白い(って失礼か)かもしれません。 




着地した指揮官がとりあえず自分で傘を手繰り寄せているところに向かって、
部下が指揮官の帽子を手に全力疾走していく様子。
このあと、指揮官はヘルメットを帽子に変え、部下と一緒に走って観覧席に移動します。



指揮官降下、まだまだ続きます。

しかし、これで万が一のことがあったり、語り草になるようなヘマをやらかしたら、
今後ずっと第一空挺団員に示しがつかないというか、軽く見られてしまうと思えば、
えらい人たちにとってこれは、いかに前日に予行演習で飛んでいるとはいえ
結構緊張の瞬間なのではないでしょうか。



指揮官降下も、一般隊員の降下と同じように、10人が1秒おきに飛び出しました。

「コースよしコースよし、用意用意用意、降下降下降下」

掛け声も一般隊員のときともちろん一緒です。



紐がパラシュートを引っ張る直前の瞬間。



この指揮官は、空中で何度も足を開いたり閉じたりしてお茶目でした。



二人部下がお世話をしてくれるのはかなりえらい人だから?



遠目にも、指揮官殿には、やり遂げたあとの上機嫌な表情が窺えます。
がっはっは、今日の降下はうまくいったわい!って感じ?  



そののち、二人の部下を従えて観覧席まで走る指揮官の姿あり。



うわー、なんたる陸自の将官タイプ。
やっぱりなんだかんだいって、海自や空自のえらい人とは歴然と持っている雰囲気が違う。
それに、陸自の中でもなんといっても、「あの」第一空挺団の団長ですからね。
これが兒玉陸将補だと仮定しての話ですが。



ちなみに兒玉陸将補、前職は人事部募集援護課長だったりします。
専門?は特科。




しかし、第一空挺団長といっても、そのご威光が通じるのは自衛隊内だけなので、
椅子に座っている人や報道は皆この通り。

ところで、画像を検索していて、中谷防衛大臣の横にいて、訓練中あれこれ説明している
空挺団団長の写真を確認したところ、名前が岩村公史となっていて驚きました。
つまり去年の写真だったんですが、どう見てもこの人と同一人物に見えます。
 
多少の例外あれど、第一空挺団団長のタイプは基本これ、ってことでよろしいですか?



続く。 

防衛大臣も「レンジャー!」~陸自降下訓練始め 

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平成27年度降下始め、最初の演目である指揮官降下が終わりました。

なぜ一番先に指揮官降下があって、それから賓客入場かというと、
ホストである団長など空挺団の上層部が、防衛大臣始め賓客をお出迎えし、
さらには防衛大臣に訓練の状況を解説するという公開訓練の進行上の都合です。

こういうのをきっちりとやるのが自衛隊。
あの松本龍復興大臣(当時)も言ってましたね。

「長幼の序がわかってる自衛隊ならそんなことやるぞ」

ってね。
ちなみに余談ですが、これを言われた元陸上自衛官の村井知事は、その後、

「国と地方自治体に主従関係はない」

つまり、知事と大臣は「長幼の序」で計れないと不快感を示し、結局これが原因で
松本氏は(これだけではないですが)大臣退任に追い込まれました。



さて、指揮官が降下を行って警備が手薄になったことで、なんと諸島部に某国部隊の侵入を許し、
この山は敵軍に制圧されて、頂上に旗を立てられてしまったようです。

敵軍は山の頂上で横座りしていたり、山のふもとではコンビニの駐車場でたむろしている
金髪のニイちゃんみたいな座り方をしていて、見たところあまり強そうではありませんが。



そしてお次には賓客入来。
4つ星を掲げたCH-47のパイロットが見えます。
「 SGT I.AKAOGI」、つまりアカオギ軍曹がこのパイロット?
それとも空自の機体のように、これは整備した人の名前かな? 



着陸態勢に入るチヌークさん。この角度から見るとまるでカエル。



この角度からもかなりカエル(笑)
ダウンウォッシュで豪邸も揺れると雷蔵さんから報告があったように、
ローターによるものすごい巻き上げに、瞬間あたりは真っ白に。

ちなみに、息子の学校には「アーミーにいたことがある」という
アメリカ人の先生がいるのですが、生徒と一緒にいるときにヘリの飛来音だけで

「あの音はツインローターだからCH−47だ」

と断言していたそうで(どんな先生だよ)、独特の音からその筋の人に見ないでもわかるようです。



第一弾には陸幕長と防衛省のえらい人(花リボン付き)が・・・・、
と思ったら、おお!海自迷彩を着て歩いているのは女性ではないか!
このお方はいったいどなた?



つい拡大してしまいました(笑)
ダブダブなので、洋服の上に借りたを重ねて着ているようにも見えますが、
下に着ているのも海自のTシャツみたいだし・・・。
花をつけていないので、自衛隊側であることは間違いないところです。



次のチヌークからは、若宮けんじ議員が先頭で降りてきました。
若宮議員は昨年10月、防衛副大臣(兼内閣府副大臣)に就任したばかりです。
わたしは防衛政務官のときに「ふゆづき」の引き渡し式でお会いしています。

ところで海自迷彩の上に陸自迷彩を重ね着している怪しい人影が河野統幕長に見える・・。

一番左の自衛官は、降りるなり風で帽子を吹き飛ばされてしまいました。



軽やかに転がる帽子を追いかける隊員。凛々しいです。



なぜか先頭に立って「こちらにどうぞどうぞ」している若宮防衛副大臣。



ローターの跳ね返す砂埃と草を避けるための透明のゴーグルが、中で配られた模様。
何人かは着用しながら出て来ました。



これはやっぱり河野統幕長でしたね・・。
これら一切、肉眼では全くわかりませんでした。



そして!
ついに3機目のチヌークから降りてきた、中谷元防衛大臣。


これに先立ち、中谷防衛相は、11mの降下棟から飛び降りるというはた迷惑な、
いや意欲的なチャレンジを行っています。

去年わたしは降下始めに参加しなかったせいで、報道にも気がつかなかったのですが、
中谷大臣が「飛んだ」のはこのときが最初で今回は二回目だったそうです。
防衛大臣として史上初めて降下塔から一瞬ぶら下がるだけとはいえ、隊員と同じ訓練に
挑戦したのですから、これは話題にもなるし、本人の意気も示せたというものでしょう。

冒頭のニュース映像を見ていただくと、大臣のマシュマロ系男子な体型の見かけもあって、
訓練で飛んだというよりは一瞬吊られただけという感じです。
去年の「防衛大臣として歴代初降下」のユーチューブには、

「まず体型をなんとかしてから飛んだほうが」

という非情なコメントも寄せられていたようですが(T_T)、ハーロック三世さんが
経験者から聞いた話によりますと、10mちょっとというのが一番怖い高さ、
つまりこれは実際の降下の恐怖を和らげるための「最初の関門」であったということで、
かつての経験者でも、何十年ぶりの降下塔は、さぞ飛び出しにも勇気が要ったことでしょう。

去年はおそらく安保法制決議に向け並々ならぬ覚悟を持って、この訓練を視察したであろう
中谷防衛相ですから、たかだか降下塔から飛び降りることなど、その茨の道に比べれば
なんのことはない、という法案審議への覚悟を示すために自らが提案したことではないでしょうか。


そして、この時には二回目の跳躍を無事こなし、高揚も冷めやらぬまま、
すっかり「元レンジャーな俺様」状態で、意気揚々とチヌークから降り立ったに違いありません。

「ふっふっふ、今年も降下始めのニュースは俺の映像が独占だな」

まあ実際そうだったんですけどね。

各社の報道を見ると、軒並みこの写真か映像でトップが占められています。
読売新聞だけは中谷大臣が飛んだことすら報じませんでしたが、なぜか朝日は

「下が全く見えないので清水の舞台から飛び降りる気持ちだった」

というインタビューの内容までを掲載しています。
これを好意的というより、何かの比喩に引用しようと思っての下心ありきの報道ではないか、
と勘ぐってしまうのは、これが朝日だから?それともただわたしの心が荒んでいるから?




そういえば「いずも」の就役・引き渡し式で、わたしは中を視察して出てきた中谷大臣が、
出てくるなりそこに立っていた警衛の隊員に握手を求め、水兵さんが
ドギマギしてそれを受けたのを目撃したのですが、中谷大臣、また同じことをしようとしております。

降機を迎えるために敬礼しかけたチヌークの乗員に、不意打ちの「握手攻撃」で
先手を取るべく、向きをくるりと変えてにこやかに近づいていく防衛相(笑)

隊員「・・・・(え・・・?オレ?握手?)」



防衛相の握手攻撃に毒気を抜かれて立ち尽くす隊員。
心なしか固まっているように見えます(笑)

防衛大臣旗を持つ隊員は、風が強いので旗がなびかないように必死で抑えております。



「あのあたりにいるのは一般の見学者かね?」

降りるなり自衛隊員に質問を浴びせる積極的な防衛大臣。
左後ろの黒いコートはSPで、コートでガンホルダーを隠しております。(多分)



総理大臣旗が立てられ、報道陣のカメラの放列の中を昂然と顔を上げて進む大臣。
かつてレンジャーバッジのために蛇を食べていた頃(笑)、自分がいつか第一空挺団で
全隊員に訓示を与える立場になることを、少しでも想像したことがあったでしょうか。

その感慨を我々は知るべくもありませんが、ごくありふれた想像をするならば、
この瞬間大臣は「古巣に錦を飾る」とでもいうべき晴れがましさの絶頂にあったに違いありません。




第一空挺団長、兒玉陸将補とまず握手。



陸将補との握手が終わった後、不意に横に控えていた隊員に向き直り、
やおら握手攻撃を仕掛ける防衛相。

「え・・はっ? わ、わたしでありますか?!」



「ちみ、頑張ってくれたまい」

「は!閣下!命にかえましても!」

ところで右から2番目の眼鏡の隊員は、写真から類推するに副団長の濱本1佐だと思われます。
前職は陸上自衛隊研究本部の主任研究開発官ということですが、
なんかそんな感じの風貌の方ですね。(これが当たっていればですけど)
浜本1佐も指揮官降下を行ったのだと思われますが、眼鏡は外して飛んだのか、
だとしたらいつどうやって装着したのかが気になります。




というわけですっかり主役気分で(主役ですけど)観覧席に向かう防衛相殿でした。

中谷元、防衛大学校本科理工学専攻卒業。
元レンジャー部隊教官を経て(中略)現在防衛大臣。

現在の得意技は、予期していない相手に不意に向けられる握手攻撃。


続く。

 

自由降下〜平成28年陸自降下訓練始め

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指揮官降下に始まり、中谷防衛大臣ら賓客が入場し、いよいよここからが「本番」です。
まず、今までと打って変わって高いところにチヌークが現れました



超望遠してもこれが限界の機影。
肉眼では見えませんでしたが、明らかに人が飛び降りております。



普通の傘は開傘するための環を機体にかけて、飛び降りる重みで自動的に開きますが、
これら「フリーフォール」、FFと言われる自由降下の傘は、自分で開傘を行います。
だから、飛び降りているその瞬間、人が落ちているようにしか見えません。



1秒置きに連続して傘が真横に開く普通の降下と違い、自由降下は
このように縦に傘の列が並びます。



自由降下傘はアメリカのパラフライト社の製品で、陸自の需品科の装備です。
正式名はMC-4、スペックは次の通り。

 

傘体長:約8.7m×約4m 重量:約20kg 開傘時間:3.5秒以内 降下速度:吊下重量約160kgで4.9m/秒以下


昔、自由降下には白い60式空挺傘(ろくまるしきくうていさん)が使われていたそうです。
パレンバンの空挺作戦の時に大量に傘を生産して以来、現在でも気球やパラグライダー、
はやぶさのカプセル回収用のパラシュートなどを作っている藤倉航装の製品ですが、
今主力として使われている696M1、12傘(ひとにいさん)でもできる操作ができず、
さらに着地した時の衝撃が大きいことから、このタイプの導入となりました。 



傘の操作が行われている分かりやすい例。
左側後方の傘の角が折れていて、この隊員は左側に進むべく操作しているようです。
スポーツパラシュートと同じ形であるからこそできる細かい操作です。



ところで、なぜ普通降下以外に自由降下が必要なのでしょうか。
普通の落下傘よりも操縦性、安全性が向上、高高度、低高度問わず好きな場所で開傘でき、
さらに滑降性も備わって、地面に降りた時のダメージも受けにくい。

自由降下作戦は基本隠密に敵の後方に降りるのを目的に夜間行うからです。
だから高高度から密かに飛び降りるわけですが、ちょっと待った。
まず、ちぬさんだとそんなに高く上がれないよね><(上昇限度2,670m=8,760ft)


一般に、視認外である高高度というのは対地高度1万mだそうです。

んが、もしC-1でその高度から降下させるとなると、気圧は地上の4分の1、
大気温度はマイナス50度なので、酸素マスクと防寒装備が必要になります。
ここまでいくと、これは

高高度降下低高度開傘、High Altitude Low Opening, HALO(ヘイロウ)

という別分野の作戦になってしまうのです。
HALOが使用されるのは、特に国境付近に侵入する際などです。

というわけで、我らが陸上自衛隊では、高高度を6,000mとしております。
しかしこれは個人的な考えですが、この高度では航空機は視認されるし、
(特にC-1は音も大きいし)いわゆる「自由降下作戦」には非実用的なのでは?

いやまあ、国境もなく海に囲まれたわが国では空挺作戦そのものが非実用的なんでねー、
といってしまうと身も蓋もありませんが。



どこに着地をするか狙っている顔。

この傘では好きなところに傘をコントロールして降りることができます。
12傘などとは別の技術であるため、専用の降下資格が必要です。
胸に付けられた空挺団ウィングマークの上に丸で囲んだFF(Free Fall)徽章が
自由降下資格ですので、付けている隊員を見たら指摘してあげましょう。

自由降下資格は空挺隊員の中からさらにに選抜されて自由降下課程に入り、
訓練課程を修了することで得ることができます。


最初に参戦した空挺団の降下始めで、当時の第1空挺団長前田忠男陸将補が
この自由降下をやったのですが、傘が流されて皆「あーあ」とか言っていたのを思い出しますね。
後から思えば、陸将補なのに自由降下を行うというのは、それだけでも凄かったのに。



傘の操縦は、赤い先端の紐を両手で操作して行います。



着地寸前には両手を地面と平行に開いています。
後ろの一般家屋の洗濯物との取り合わせがシュール。



お見事。二本足同時の着地を決めました。
彼が着地したのは大臣ら来客席の真正面です。



自由降下傘の落下速度は毎秒4.9m以下となっています。
先代の60式、現行の12傘は毎秒6.2秒なので、 比べるとかなりスピードが抑えられており、
その分着地による衝撃が少ないことになります。
自由落下で着地のときに地面に転ぶ人がまず皆無なのもそのせいで、
12傘や13傘で転がるのは、衝撃を逃がすため、わざとそうしているのです。



こちらの隊員は傘を畳み中。
で、この様子が・・・



自重を使って空気を押し出しているのですが、お布団に飛び込んでいるようです。
これだけやってみたーい(笑)



この隊員だけヘルメットが変なんだけど。
これは・・・・・・カメラ撮影機能付きですね。



こちらでも傘とたわむれております。



抱えられるくらい小さくたたんだら、あとは抱えて全力疾走。
実際に会場で傘を触らせてくれるコーナーがありましたが、それ自体薄くても
全体の重量は20キロあるので、大変です。

あ、危ない!足に落下傘の紐が引っかかってるよ?



「おっと・・・」
自分で踏みかけて気づいたようです。
この隊員のヘルメット搭載カメラで撮影された映像をみてみたい。


続く。

空挺団の”ライト・スタッフ”〜平成28年陸自降下始め

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まず自由降下によって何人かの空挺団員が地上に降り立ちました。
ここからは次々と航空機が飛来し、諸島部奪回のための作戦が展開されます。



ヒューイ、UH-1Jからの降下が始まりました。
陸自は「J」と「H」の2種類のヒューイを持っていますが、
両者は似ているようで、顔つきが割りと違います。
こちらの「J」はノーズが突き出している感じで、ワイヤカッター付き。
額に当たる窓ガラスの上にツノが付いているのが「J」と覚えてください。
「J」は「H」より全長も大きく、エンジンもパワーがあります。



チヌークから飛び降りるより、怖そうに見えます。
落下傘を開くための環をかける器具は、、床にあるようですね。
ヘリのパイロットは振り返って降下の様子に注目しています。



最初の回の時、「ヒューイから降りるのは3人くらい」と適当に書いてしまいましたが、
この写真を確認すると間違いで、6人が飛び降りていました。
「J」タイプは乗員4名以外に11名の兵員を輸送することができます。



次に飛ぶ順番が来たら、降下員は入り口のハッチ上部を掴んで
そこで体勢を保ったまま待ちます。



右側に座っている人が、飛び降りるタイミングを知らせるようです。
中谷大臣が飛び降りた時に、まず両手をバツにして胸の前で組み合わせていましたが、
あれが降下の際の基本姿勢なんですね。
また大臣は、下から「あご引いてください!」と声をかけられていました。



中谷大臣のニュース映像を見ると、飛び降りたとき、上から引っ張られる衝撃があったようですが、
もしかしたら実際の降下においても、傘が開く瞬間には同じような衝撃を感じるのかもしれないと思います。



この隊員はまっすぐ飛び降りているように見えますが、



この最後の隊員は明らかに後方に向かって飛んでいます。



ヘリが推進してしまったので、後ろに向かって飛ばなければならなくなったのでしょうか。



これは12傘(ひとにいさん)と言われる従来型の落下傘。
去年は新型の13傘が初めて登場したということですが、いまのところ
新しい傘が使用されている様子はありません。

新しいタイプは傘同士が接触しても潰れないので、短時間に全員が降下でき、
降りる範囲が狭いので降下後にすぐ集合して作戦行動に移れるというメリットがあるそうです。



続いてチヌークからの降下。
先ほど防衛副大臣の若宮氏を運んできたチヌークなので、操縦席の足元には
防衛副大臣旗たる海老茶の桜4つ印がまだ付けられています。
おそらく帰還の時にも同じ機が使われるため外せないのでしょう。 



傘を開くための索がピンと引っ張られる時、必ず降下者の姿勢はこうなります。



続いてC-1からの降下が始まったのですが、何か違和感が・・・・・。
と思ったら、降下しているのが向こう側のハッチでした。



飛び降りるなり思いっきり足を開く人はあまり見たことがありません。
体勢を崩したのでしょうか。



CH−130Hからの降下。
ご存知空自の戦術輸送機で、愛知県の小牧基地から来ています。
これも向こう側からの降下ですね。



ハッチの部分を拡大してみました。
使用されていないこちら側のハッチから人影が見えますが、どうも
落下傘を装着している降下員が、こちらから飛び降りるために待機しているようです。



3機の種類の違う航空機から、これまでにすでに26人が降下したことになります。



派手に転がっているように見えますが、衝撃を逃すためにわざと行います。
場内のアナウンスでは「2階から飛び降りたくらいの衝撃」と言っていましたが、
空挺団の超人ぶりを知っている私たちは「なんだ2階か」と思ってしまいがちです(笑)

現に空挺団の人たちは宴会などで酔っ払って2階から飛び降りるらしい、という
中の人の話を聞いたことがありますが、普通に考えて2階から=3mの高さから飛ぶのは
一般人には結構大変なことですよね。



「降下するだけが空挺隊員の任務ではなく、その後に戦闘を行うのが目的」

と現地でも放送されましたが、降下始めでは、降下を行った隊員はこのように
落下傘を抱えて退場し、戦闘訓練は別の隊員(偽装&メイク済み)が行うようです。



再びC-1からの降下が始まりました。
先ほどと同じ機体番号「029」で、今度はこちら側のハッチから降下します。



つまり「029」と「018」が2回ずつ航過し、最初はどちらも向こう側、
2回目はこちらがわのハッチから降下したということのようです。



C-130Hも2航過し、先ほどこちら側のハッチ越しに見えていた隊員が降下を行いました。



着地した後落下傘を巻き取る基本的姿勢。
まるで背泳ぎをするように腕を後ろに回しては索を手繰り寄せるようにして
自分が近づいていきます。



まるで舞踊をしているよう。



こうやって索を巻き取ったら、後は傘の部分を小さくたたんで運びます。



フィールドは広いのですが、結構その広範囲にわたって降下が行われます。
この辺りは家族席なので、その前に降下する隊員はいいところが見せられてラッキーかも。



さて、空から空挺団が続々と降下を行っている間にも、某国の侵略は続きます。
占拠した島の一部(実は小さな山)から威嚇するために降りてきた敵国の車両。
我が軍の96式装輪装甲車に非常に似ているが、それはいいっこなしだ。



そんな敵の様子を偵察するために、我が海自のP-3Cオライオンが通り過ぎる(だけ)。
何か情報を得てそれを陸戦隊におくった(のだと思う)!



連絡偵察機LR-2を作ったビーチクラフト社は現在の「レイセオン・エアクラフト」です。
レイセオンはご存知ファランクス・シウスを作った会社で、こちらはその子会社。

レイセオン社はボストンのウォルサムに本拠を置く会社で、2年前の夏、
車で6分の距離に3週間も泊まっていたことに、たった今気づきました(笑)
このブログ的には、実際に会社を見に行って写真の一つもアップするべきでした。

この機体は木更津駐屯地からやってきているようです。
公式愛称は「ハヤブサ」だそうですが、寡聞にして聞いたことがありません。



いきなり黄色い煙を噴出させる某国軍の装輪装甲車。



よくわかりませんが敵軍は攻撃に出たようです。
専守防衛を旨とする我が自衛隊としては、相手が攻撃してくれたので、
これでようやく反撃ができるというわけですが、最初の一撃がしょぼくて助かりましたね。



そこで先ほど空挺隊員を10人降下させたチヌさんが、今度は高高度から上空に侵入。
実際肉眼では、降下員がこのように落下しているところは、ほとんど捉えることができません。



傘が開いて初めて、その存在がわかります。



横にいた人たちが

「敵は落下傘が落ちてくるところを狙ったらいいんじゃないかな」

「そんな簡単に当たりませんよー」

という会話をしていました。
でもまあ、別にシモヘイヘでなくても、傘を狙うくらいはできるんじゃないかな。

ちなみに、落下傘降下中の敵を撃つのは、大東亜戦争中であっても一応ハーグ条約
(Art. 20項参照)ダメと決まっていたようですが、まあ有名無実ってやつですよね。
(台湾の”神様になった”海軍搭乗員も、脱出中の落下傘を狙われて墜落死しています)

今の傘は銃撃の穴くらいでは落ちないようにできているに違いありません。



すごく近いですが、自由落下の傘も、接触したとしても潰れたりしたいのでしょうか。

それにしても絵になるなあ。 



せっかくなので隊員の姿をアップ。
手前は部隊長クラスの貫禄。



飛び降りるときの恐怖さえ克服できれば、きっとこれ気持ちいいと思うな。



我々のほとんど頭上に飛来してきた傘。
みんながほぼ真上を見上げていましたが、難なくフィールドに着地。



普通の傘と違って衝撃もほとんどなさそうだし、地地面に降りる時、
皆ふわふわっと地面に降り立って実に楽しそう。



着地すると同時に傘の回収にかかります。
降りるのよりこちらの方が難しいかもしれません。



回収のち退場。
ところで自由降下の予備傘というのはどこに装着されているんでしょう。
『空の神兵」の映画で、 初降下を明日に備えて遺書を書く隊員が映っていましたが、
最初のころは傘が重く、予備傘がなかったので、何かの事故で傘が開かなかったら墜落死でした。

現実に、降下靴が紐に絡まったための事故というのがあったそうです。 



降下員が次々と着地して何処へともなく消えていくフィールドでは、
いかにも偵察隊のような人たちが手に何か器具を持ってやっています。

これら降下中、会場ではずっと音楽が連続して流されていました。

「ふくしまーがふくしまーがふくしまーが好きー」

という何度聞いても音程の壮絶な悪さにイラっとする歌も待ち時間に流れましたが、
(たった今、猪苗代湖ズというさらにイラっとくるバンド名の
「I love you & I need you ふくしま」であることがわかりました)
降下の時には全体的に雰囲気の上がる曲を編集して流していました。
今でも事実上の隊歌である(はずの)「空の神兵」がちょっとしか流れなかったのは
残念でしたが、わたしが大変今回評価したのは、あの「ライトスタッフ」の
テーマソング(チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲にそっくりな部分があるというあれ)
がフルで使われていたこと。

この音楽、妙に合っていたんですよ。空挺降下に。

The Right Stuff Theme  Bill Conti


「ライトスタッフ」というのが「正しい資質」の意味であることを聴きながら思い出し、
空挺隊員に必要な適正資質とは、どんなものなのかなとふと考えました。


続く。


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