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減圧室~日向灘・掃海隊訓練

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ジュースやお茶の補給物資とともに甲板から一階下に降りたわたしたち。
掃海母艦副長による艦内ツァーはまだまだ続きます。

ところでいきなり余談ですが、副長といえば・・・・。


わたしは、よくキッチンに立つ時間を利用してHULUで映画を見るのですが、
「進撃の巨人」に雌型が登場して面白くなってきたところで、ふと
「ジパング」のアニメ版も配信されていることを知り、観始めてしまいました。

コミック本で全巻読んだはずなのですが、動画で見るとこのアニメ、細部が非常に
丁寧に描き込まれているため、昔より自衛艦、ことにイージス艦については
見学や観艦式で経験値が上がったばかりのわたしにとって、当社比で面白さも爆上げ状態。

その結果、「雌型巨人のうなじに誰が入っているのか」など、
わりとどうでもよくなってしまって、こちらにのめりこんでしまいました。

所詮アニメではありますが、艦内食堂の様子とか、その他ディテールにおいて
知識とシーンの絵合せが一致したようなことでもあると、
「ああそうそう、こんなだよね」なんだか嬉しくなってしまうものです。

これきっと自衛官の皆さんも「そうそう、この通り」とか
「これありえねー」 などとツッコミを入れて観ていたんだろうな。


ところでこの「ジパング」の三人のうち主人公的キャラの門松2佐は、
防衛大学校で砲雷長の菊池、 航海長の小栗と同期なのですが、門松2佐は
同級生二人がまだ3佐なのにもかかわらず、すでに階級において上官で、
「みらい」においては副長であったりするわけです。

実際の海自で、こんな三人を同じ船に乗せるなどということはあるのか?

と、前回は全く考えもしなかった疑問が今回まず沸きました。
この三人、もともと仲が良かったから良かったようなものの、基本的に組織は
そんな人間関係など考慮しないと思うし、暴走族上がりの小栗と秀才の菊池が
仲が良かったというのも、物語的にはありでも実際にはどうだろうって気もするし。

ところで、この物語の主人公、門松2佐は副長です。
副長とは艦長に次ぐナンバーツーで、乗組員の服務規律や訓練の立案などを行い、
全体の統制をはかる、大変重要なポジションだそうです。

つまり副長というのは「フネの論理」で全体的な判断を最終的に下す艦長より
ある意味、人間的な面での葛藤と、職務との二律背反に悩む可能性もあるわけで、
こういった物語の主人公には、艦長より相応しいポジションなのではと思われました。



という余談はともかく、この日の掃海母艦艦内ツァーの案内をしてくださった副長ですが、
このシリーズ始まってすぐ、知人から、

「その副長に艦内を案内してもらったことがある!」

という連絡をもらいました。

「ものすごくサービス精神の高い素敵な副長」

というのがその人の感想で、いつでも誰に対しても、一般に対する広報活動を
誠意を持って行っている、つまりこちらも「主人公キャラ」といった感じ?

夜の自衛艦内部を観られることに加えて、こんな副長による案内。
こんなお得な艦内ツァーがまたとあるでしょうか。



甲板の一階下にあるのが士官室。
士官という言葉は自衛隊では廃止になっているということになっていますが、
海自だけはこんな形でしれっと使い続けています。

こういうツァーで甲板下の士官室や艦長の部屋は見せても、その一階下の
曹士の部屋は決して見せないのも、気遣いというものでしょうか。 

士官室の隅には共用のパソコンがあって、幹部が使用中。



モニターには後甲板の定点カメラの映像が映されています。
こちら側に、艦長以下士官室の幹部が、艦内で食事を取るかどうかを書き込む表が。



次の日の朝食の席次まできっちりと決まっている・・・。
黄色い札は「外から臨時に来て乗艦しているゲスト」。
この艦は掃海母艦なので、「敷設長」がいます。

「敷設長」というのは「Mine Laying Officer」という名称の通り、
機雷を敷設する任務の統括士官で、掃海母艦ならではの役職です。

それにしても、毎日毎回の席次が前もって決められているというのは、
さすが軍組織であります。
掃海母艦の艦長は2佐ですから、幹部の階級は同じはずですが、
役職によって「先任」が決まってくるので、その順番で席次も決まります。

士官室を出て、次に見せていただいたのは軍司令の個室。



一般組織の一番上級者の部屋としてみれば殺風景ですが、
船の中では最上級の仕様ということになっております。

「冷蔵庫がある!」

「なぜわざわざ貼り紙が・・・」

「立派ですねえ。もしかして作りつけですか?」

副長「違います」

扉を開けたら、ガワの大きさとはまったく違う小さな冷蔵庫が入っていました。
しかし、この艦内で自室に冷蔵庫があることそのものが特別の証。



群司令用の特別浴室。
これが船室であることを考えると、この浴槽の大きさは異常。
これより小さなお風呂のビジネスホテルなんて普通にあるよ?

もしかしたら自衛艦の幹部は、偉くなって初めて一人でこの塩水風呂に浸かった時、

「ああ、俺もついにここまで・・・・」

と感慨に浸ったりするのでしょうか。



青に掃海隊群のマークが入った立派なテーブルクロスがかかったテーブル。
いうまでもなく、この白いカバーのかかった席が、群司令、あるいは
幕僚などが参加した際の「一番偉い人席」です。

ちなみにわたしは今回このマークの豪華刺繍入りタオルを、
参加記念として帰りにいただいてまいりました。



龍が機雷をグイっと掴んでおり、後ろでは爆発が起きております。
この意匠は、割と最近までイルカが機雷を銛で突き刺しているシュールなものでしたが、
ある群司令の、

「イルカさんは可愛いけど、もっと強そうな方がいい」

という鶴の一声で、このマークに変わったという話でした。
確かにこれは強そうだ。

それはともかく、この部屋を見学した時に、

「幕僚と一緒に食事なんかすると僕たちカレーが喉を通らないんですよ!
緊張して!これ、どういう感じか分かりますか?」

という生々しい本音を聞いたことがある、とミカさんが言っていました。
自衛隊に限らず自分の会社の一番偉い人と食事をするのは気詰まりなものでしょうが、
特に自衛隊は現在の日本でおそらく最も旧軍のそれに近い階級社会でしょうから、
その「感じ」というのもおそらく我々の想像を超えるのでしょう。

うちのTOの業界も、恩師の大学教授は神様みたいなものなので、わたしが
向こうが話しかけて下さるので、調子に乗って軽~い調子で会話していたら、
TOの同期の愛弟子が、

「きっ、きみのおくさん、先生にタメ口きいてるよおー」

と震えていたそうです。
いくらその業界で偉くても、関係ない者にとっては普通のおじさんだし・・・。

と、階級社会にも会社社会にも一切関わらずに生きてきた人間は、呑気に思うのだった。



どうもここは偉い人がきた時の特別な応接室のようなものらしいです。
24時間コーヒーなど飲めるスタンドも完備。

「ぶんご」「うらが」は前にも書いたように、掃海隊訓練の旗艦となったり、
海外での掃海訓練では外国海軍の連絡士官を迎えるため、設備が万全なのです。



続いて医務室。
この医務室のマークは、何故寝ている人が脚を浮かせて腹筋をしているのか。
という細かいツッコミはともかく、ここには掃海母艦ならではの設備があったのでした。

 

減圧室。

掃海隊に所属するEOD(水中処分員)の本業はダイバーです。
この水中処分員の資格、体格と健康条件は大したことありません。

といっても、肺活量が3500ml以上で握力も35kgないとだめですけど、
問題は水中能力検定で、
 
 1、25m潜水したまま泳げること

 2、45mを4回の息継ぎで潜水したまま泳げること

 3、400mを10分以内に泳げること

 4、水深3mから5キログラムの錘を持ち上げられること

 5、足ひれをつけて背泳ぎしながら腹に5kgの錘を乗せて25m運べること

大抵の人間には無理ゲーです。
特に最後、これは想像するに、



この状態ですよね?

これは可愛い・・じゃなくて、これはきつい。
しかし、こんな条件をくぐり抜け、EODになりたいという夢を叶えた
あの横須賀で見た女性隊員は本当にすごいなあと感心します。

とにかく、これだけずば抜けた身体能力を備えていないと務まらないEODですが、
勤務そのものも大変過酷なもので、作業中の事故も多く待ち受けています。

その一つが減圧症。

昔は(今もかな)潜水病として知られていたこの現象は、深海で高圧中に
微小なものであった血液中の気泡が、急激に減圧、すなわち地表に戻ることで大きくなり、
そのうち酸素ボンベでの呼吸で血液中に取り込まれた排泄できない窒素の気泡が、
血管を塞いで血行障害を引き起こすのです。

これによってチアノーゼが見られたり、胸の痛みを覚えたり、重篤な場合は
脊髄に障害が残ったり、最悪死に至ることもあります。

この現象はなってしまったら自然治癒はありませんし、一刻も早く治療しないと
取り返しのつかないことになるので、まず掃海母艦に運び込むのです。


この上の写真はその減圧室に入る入り口です。
「減圧室」という名称ですが、これはどうやら「減圧症を治すための部屋」
という意味で付けられているのであって、正確には「高圧室」です。



内部のベッドには何かあった時に押すコールボタンがあり、
外から患者の様子を見ることのできる潜水艦のような丸窓があります。

減圧症になってしまったら、「高気圧酸素治療」を行います。
深海に潜る時には段階的に海中に止まりながら徐々に上がってくるのが常道で、
それは副長によると今でも同じなのだそうですが、昔は潜水病になったら
もう一度高気圧の深海に沈めるということもあったそうです。

減圧室の理論は途中まで同じですが、違うのは大気圧よりも高い気圧の中に患者を収容し、
同時に高酸素を与えるというもので、具体的には1時間ほど高気圧環境下に患者をおき、
長い時間をかけて減圧することによって、症状の緩和を図ります。

副長の説明によると、ここに備わっている装置は同時に二人の患者と、
治療のための人員を同時に収容できる最大のものだそうです。

1名の患者のみを収容するものを第1種装置、こちらを第2種装置といいます。



ちゃんと減圧室の中にトイレもあります。
上部に火災警報器がありますが、高圧室の中では少しの原因が火災を引き起こすため、
アルコール類や時計、携帯ですら持ち込みは厳禁とされています。

この治療を行う際の最も大きなリスクが、酸素中毒と火災なのです。



ほら、ここにも「火気厳禁」の札が。
いつでも人員を収納できるように患者衣が2着かけてあります。
 

この大掛かりなパイプだらけの装置は、見た時にはわからなかったのですが、減圧室の
なんたるかを知った今、酸素発生器とチャンバー内にそれを送り込むものだと確信しました。
   



チャンバーを出たところの執務机のようなところには、内部と会話できる
マイクやヘッドホンなどが備えてあるのがわかります。

「これ、圧力をかけたカップヌードルの入れ物です」

副長によると、こんな綺麗に縮むブツはこれをおいて他にないそうです。
これが高圧酸素室でかけられた圧によるものだとしたら、人間の体って
なんて柔軟性があるんだろうとあらためて感心してしまいますね。



ところで最後にまた余談の続きですが、「ジパング」は門松以外の全員が
タイムトラベルの記憶を全く喪失して、現代の日本に帰って来るというのがラストでした。

そのとき、「みらい」の副長は誰だったんだろう(棒)




続く。 


自衛官とSNS~日向灘・掃海隊訓練

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掃海隊の訓練に参加したこともあって、わたしのなかでは今「掃海艇ブーム」なのですが、
そんな状態だからすぐに気づいたのか、10月27日に行われた
最新式掃海艦「あわじ」 の進水式についてのニュースが目に飛び込んできました。


「あわじ」は「やえやま」型掃海艦の後継とされた「あわじ」型1番艦で、
もちろん兵庫県の「淡路島」から命名したものです。 

「あわじ」は「えのしま」型から採用している繊維強化プラスチック(FRP)の船体を持ち、
このため「えのしま」以前の木製よりも寿命が15年から30年と飛躍的に伸びました。
船体の大きさも掃海「艇」である「えのしま」より大きな掃海「艦」ですから、
これは現在日本における、唯一かつ最大の掃海艦になる予定です。
 

「あわじ」が今までの掃海艇・掃海艦と違うところは、可変深度式機雷探知機を搭載したこと。
これによって、さらに深度の深いところでの掃海作業が可能となりました。
まだ就役しておらず、搭載掃海装置の詳細は分かりませんが、
深深度系維機雷掃海装置や改良型の機雷処分具が装備されることになっています。

そして何と言っても強みは衛星システムともデータリンクできるということ。
機雷や船舶のいっそう精密な位置情報の把握も可能となってくるということです。

「あわじ」の就役は平成29年3月の予定。
今回、掃海隊の訓練から帰ってきてすぐ目に止まった記事だけに、
こういうのも引き寄せの法則みたいなものかとちょっと嬉しかった次第です。

さて、掃海母艦艦内ツァーの続きを始めます。



大型の自衛艦は、このように予備の居室を幾つかそなえています。
使われていないので見せてもらった士官用の二人部屋。
ロッカーを中心にライティングデスク、小物入れ、ベッド下の衣類収納引き出し、
そしてベッド脇のカーテンは、上下に分かれていてお互いに配慮しなくとも
開け閉めすることができるようになっています。

ロッカーの上にさりげなく洗面器が置いてありますが、これは、
おそらくあまり船に慣れていない自衛官が乗り込んで、
気分が悪くなってしまった時に活用するものではないかと思われます。

陸自の人ならともかく、海自の自衛官ならそんなことはないだろうって?
いや、あるらしいですよ。
若い時に艦隊勤務でも、偉くなったりして陸に上がりしばらくたてば、
たまに乗艦すると辛い人もいるのだそうです。



艦長室。
掃海母艦の艦長は2佐です。

この後実は、今から上陸でお出かけ、という艦長とすれ違い、ご挨拶をしました。

「お世話になっております」

「すみません、今日は宴会で」

いや、わたしごときにお謝りになることなどないのです艦長。
この日入稿が大幅に当初の予定から遅れ、なんと上陸が10時からになったのですが、
もしかしたら艦長のおっしゃる宴会って、もうとっくに始まってたりするのかしら?
だとしたら、一刻も早く、急いでお出かけください。

ところが、挨拶をして姿を消した艦長と、その直後またお会いしました。

「忘れ物をしました」

艦長、早く行かないと、お酒を飲む時間が・・・






さて、ここ、なんの扉だと思います?
私の記憶に間違いがなければですが(間違ってたらすみません)、
確かここはCIC、コンバットインフォメーションセンターすなわち戦闘指揮所?

どの艦でもそうですが、内部は一切写真撮影禁止です。
でも、本日は副長による特別大サービスツァーなので、(たぶん)中を
ちらっ!と見せていただきました。
どれくらいちらっとかというと、網膜に残像も残らないくらいです。

次の日の「えのしま」のCICでも同じで、やはり瞬間公開でしたが、
「えのしま」では、CICのドアの外側に「携帯置き場」が設けられており、
乗員が携帯を持ち込みをすることも禁止されているようでした。


なかで使用しないためということもありますが、それより何かのはずみで
内部の写真が流出する危険性の考慮ではないでしょうか。


最近、SNSに絡んだ社会的な問題が頻発しました。

セキュリティ会社の幹部が、職務上、手に入れることのできる個人情報を、
自分の思想と違うということを理由に、個人的な「懲罰」と称してばらまいたことで、
自分が逆に個人特定され、ついでに恥ずかしい過去の発言も全て世間にばらまかれたり、
また、新聞社の幹部が匿名で凄まじいヘイト発言と暴言を繰り返していたのがばれ、
それが理由で職を追われたりしたというものですが、これらの一連の騒動で、
SNSというものは実は「匿名」ではないということに、多くの人が気づくこととなりました。

匿名で暴言や脅迫をエスカレートさせて墜ちるところまで落とされたのは、
彼らがSNSの本当の怖さを知らなかったためということができますが、
匿名どころか実名に近い状態で、迂闊に思ったことをつぶやく人は世間に多勢います。

たいていが他愛もないことでとどまっていますが、なかには問題発言だったり、
犯罪自慢だったりして、これが「世間」の目に止まり、「炎上」すると
騒がれて職を失ったり学校にばれたりして「自爆」してしまうのです。

「雉も鳴かずば撃たれまい」ではありませんが、余計なことをつぶやいたがため、
社会的に自殺する羽目になることから、ツィッターのことを別名
「バカッター」と呼んだりするのは言い得て妙というものかもしれません。



さて、我らが自衛隊では、護衛艦の副長という人が、望遠鏡を通して撮った潜水艦の写真を
ボカシなしで背景もいれてFacebookにあげたり、艦長となってからもフォロワーの質問に
詳しすぎる(というか自衛官として守秘義務の範疇に当たる)自衛隊装備の説明をして、
ちょっとした問題になったことがあったようです。

わたしもこういう自衛隊の「潜入記」をアップするにあたって、
そこまでいかずとも、あまり世間に公表しないほうが望ましいのではないかと
思われることは、現場で「写真を撮っていいか と必ず確かめることにしていますし、
同行のミカさんも、この艦内ツァーの途中、何度か

「この話はブログなどに書いてもいいですか」

と確認していました。
それでいうと、アウトなのは、艦の性能を表す数字でしょうか。


ところで、わたしはこの自衛官SNS事件を知ることになった
あるニュースサイトの記事に、例によって大変な違和感を覚えました。

「SNSで防衛機密を垂れ流すトンデモ艦長が野放し」

というタイトルで、くだんの自衛官の「トンデモ」の数々を記事として論っているのですが、
まず、問題になったSNSの潜水艦の写真を記事上にバッチリ掲載しているのです。
いやだから、おたくの記事によると、その写真は後ろに写っている景色で
どこか特定できるからまずかったんじゃ・・・。

それだけではなく、自衛官がその護衛艦の機能についてフォロワーの質問に答えたという
その内容をすべて事細かに掲載し、はてはビーチングの具体的な距離や、ご丁寧にも
それがなぜまずいかなども縷々書き連ねております。
「問題だ、問題だ」
と言いながら、記事上においてその機密とされるものを世間に改めてばらまいているのです。

テロ組織などを想定すれば決して漏らされるべきではない情報である、と言いながら、
同じ紙面でその内容をここまで詳しく書き連ねるというのはおかしくないか?


最後まで読むと、どうもこのメディアは、トンデモ艦長の情報漏洩より、
この艦長を厳しく処分しなかった(つまり”野放し”にした)自衛隊に怒っているのです。

自衛隊がこの幹部をはっきりと処罰しなかったのは、もしそうすると

「どういったことが職務上問題になったか」

を明らかにしなければならず、つまりそのことによって
何が機密で何がまずいことだったのか公になってしまうから、という
自衛隊側の「大人の事情」も一応わかっているようなのに、です。

そして、この記事はこの「甘い処分」が、下の自衛官の

「あれだけ漏洩してもあんな軽い処分で済んだのだから」

という甘えと同様の不祥事の再発を招く、ともっともらしく嘆いております。

しかしこの媒体が自衛隊という組織を見る目は、例えばこの艦長が、
◯◯艦長というFacebookでのHNを上層部から禁じられたあと、

その表記を「Japan NAVY◯◯CAPT」と英語ながらも
"日本海軍"と改める暴走ぶりをみせた。

とヒステリックに糾弾していることをみても、明らかに「偏っている」と思われます。
暴走も何も、世界的には海上自衛隊は「ネイビー」と認識されてると思うんですが。

だいたいネイビーという言葉くらいで発狂すんじゃねー!
(とブログ「ネイ恋」のブログ主は思うのだった)

だいたいこの記事に出てくる「元海上自衛隊幹部」だって、ペラペラと
内部情報を喋りまくっているようだけど、本当にこんなこといったのかな?
ってか、本当に「元幹部」とやらに取材をしたんでしょうか?



とはいえ、実名で「どこそこ艦の何々(役職)はあまり出来が良くなくて」
みたいな上司の評定をそのままSNSで垂れ流してしまうこの幹部に、釈明の余地はありません。
自衛官という以前に、「社会人として」かなり問題がある人物といえましょう。

得てしていい年をしてSNSデビューした人ほど、加減がわからずに自爆してしまう、
というのは例の暴力的反政府団体のお爺ちゃまたちの自滅で証明されたばかりですが、
この幹部も、承認欲求がSNSという新しいツールを得て暴走したといったところでしょうか。

とにかく、自衛官は、鵜の目鷹の目で自衛隊の落ち度をあげつらい、
非難するチャンスを狙っているこの記者のような人種がいる限り、
SNSの危険性を一般人より肝に銘じておくべきなのかもしれません。






ドアの貼り紙に大変感銘を受けたので、もう一度拡大してみました。
これは・・・・公開しても大丈夫ですよね?



つづく。

注:本日の掃海母艦の写真と後半の内容は全く関係ありません。

夜の艦橋~日向灘・掃海隊訓練

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最近、ブログ編集をするのに大変なストレスを感じております。
前にも一度書きましたが、文字を打ち込んで反映されるのに大変時間がかかり、
ひどい時にはだだだだっと打ち込んでじーっと画面を見つめていると、
20秒くらい経ってからずらずらずらっと文字が現れてくる始末。

これはいかなる現象なのかと首を傾げていたのですが、
文字数が一定の量を越したところからこの現象が始まることに気づきました。 

つまり、当ブログの一つのエントリの文字数が多すぎるのかもしれないということです。

2万字を超えても普通に投稿はできるので、相関関係は明らかではありませんが、
gooブログもこんなに毎日毎日1万5千文字平均のエントリを投稿するというような
ブロガーを想定してプログラムしておらず、画面不具合が起きるのかもしれません。

初っ端からなにを愚痴っているのかと思われたかもしれませんが、
しばらく実験的にエントリの文字数を抑えて内容を短くしてみることにしますので、
ご了承ください、というお断りでした。


さて、CICドアの (-_-)/~~~ピシーピシー!になごんだ後、
(今これをコピペするために検索したら、”ピシーピシー”ってどういう意味ですか、
という質問が多数上がっていたので一応ここでも説明すると、鞭をふるっている人。
つまり、『ドア閉めないとお仕置きよ』という意味ですので念のため)
わたしたちはラッタルを登って艦橋に上がりました。
(ちなみに当掃海母艦のラッタルには、いちいち「三点保持」の札がありました)

上に上がってまず驚いたのは、操舵室が広いこと!

「艦橋が広いでしょう。掃海母艦ならではです」

と心なし誇らしげに副長がおっしゃいます。
観艦式でイージス艦の艦橋をたっぷり見学したばかりなのでよくわかります。
ちなみにこの掃海母艦は先日の観艦式にも受閲艦艇として参加したのですが、
この艦橋には最初からロープを張って前面には入れないようにしていたそうです。

艦橋の天井上部にバーがありますが、その時の見学者も
ここにぶら下がるようにしてフネの揺れに耐えていたのでしょうか。

それにしても・・・・。

わたしはこの光景に猛烈に感動していました。
窓の外が真っ黒い夜の艦橋。
岸壁に停泊しているので動きがなく、誰もいない艦橋なんて、
そうそう一般人が誰でも見られるものではありません。

前回の話ではないですが、乗員がこのような写真をSNSをつかって
外に発信するということはまずありえないので、
従ってこの写真も大変貴重なものではないかと思うわけです。



操舵を行うために立つ床には、ここだけ何か敷いてあり、折りたたみ式のイスも
明らかにショックアブゾーバーを搭載しているように見えます。

次の日に乗った掃海艇の艦橋の椅子はどれもこの機構が組み込まれ、
つまり機雷処理をする時の爆発の影響を受けないようになっていました。

本艦は母艦ですから掃海艇よりも離れたところに待機するはずですし、
艦体も掃海艇と違って大きく安定しているのですが、やはり操舵には
影響を与えることがあってはいけないということなのでしょう。 



誰もいない艦橋・・・、といいながら人影が見えますが、
右側は案内して下さった副長、左は・・・艦橋にいた人だったかな?
全体に広いので、スペースに余裕があり、
双眼鏡置場などがイージス艦とは全く違う場所にあります。

後部に覆いをかけたボードがありますが、毎日作業が終了したらこうするのか、
それとも外部から見学者(わたしたちのこと)が来るので、何か見られたらマズいものを隠したのか。

 

艦橋脇にもこれだけのスペースがあるのが掃海母艦。
これだけ広ければ、観艦式の時にはさぞたくさんの人が艦橋で見学できたでしょう。

艦長はほとんどの自衛艦と同じく2佐ですので、
艦長席のカバーは赤と青の二色となります。

他の艦橋内の写真では、左舷側の椅子は1佐用の赤です。

広いので、ヘルメットや戦闘訓練のときに装着するベストも、部屋の隅に置いておけます。
このスタイルはやっぱり「戦闘服装」と称するようです。 

今観ている「ジパング」では、これをつけて銃を構えた「みらい」乗員を見て、
帝国海軍の皆さんが、

「おい、ドイツ軍みたいな鉄兜を被っているぞ」

「なんだあの見たことのない銃は」

とざわざわするシーンがありました。
多分銃は89式小銃なので、当然1943年の海軍軍人には全く見たことがないはず。
「ドイツ軍みたいな鉄兜」は88式鉄帽と言われるものでしょう。

臨検の時などにかぶるヘルメットはABS樹脂(レゴと同じ素材)で、防弾能力はないので、
戦闘服装の時には「テッパチ」と称するこちらを被ることになっています。
帝国海軍の艦隊勤務でも戦闘の時、砲座ではテッパチを被っていましたが、
当時の人間がもしこの88式鉄帽を見たら、縁が真っ直ぐでないこちらのヘルメット
(耳が隠れる)は、確かにドイツ軍の鉄兜に見えるかもしれません。

ちなみに戦闘服装とは

作業服に作業帽を着用する(絶対にあご紐をかける)

右臀部のズボンポケットに軍手を入れる。

ズボンベルト後ろ側にフェイスタオルか手ぬぐいをかけ、左臀部のズボンポケットに入れておく。

両足の靴下の中にズボンの裾を入れるか、専用ゴムバンドを使用し裾を絞っておく。

靴は通常の短靴1型を着用する。

ふーむ、ポケットの右は軍手、左は手ぬぐい。
そんなことがきっちり決められてその通りにしなければいけないというのが軍隊式。
この次の日、掃海艇の上では乗員が皆その格好で作業をしていたわけですが、
本当に手ぬぐいと軍手がちゃんと入っていたのか見たかったな。

しかし、これによると靴は「短靴1型」と決まっているということですが、
艦橋で皆さんの履いている靴を見るともなく見ていて、

「やっぱり靴くらいは自分で好きなのを選んで履けるんだなあ」

と思った覚えがあります。
一応黒ではあったけど、皆形が違いましたし、靴下にズボンを入れている人よりも
少し長めの飛行ブーツっぽい靴を履いている人が多いように思われました。

あまりこのあたりは厳密に守らなくてもいいように見えました。



前回もアップした機関室の写真。
私の記憶に間違いがなければ、この掃海母艦の機関室は
艦橋の後ろの、同じ階にありました。
わたしが

「普通機関室って食堂の隣とかにないですか? 艦内神社が横にあったりして」

というと、 副長もそうだと答えたような気がします。
では、なぜ掃海母艦に限り機関室が他の自衛艦や軍艦と違って上にあるのだと思いますか?

これは、理由を聞くとけっこう戦慄したのですが、

「機雷の爆発が海中で起こった時、機関室だけはダメージを受けないように」

ということでした。

「ここが破壊されてしまったら船が動かなくなるので」

もちろんいかなる軍艦も戦闘や戦争を想定してつくられているわけですが、
実は掃海隊というのは、現在の戦争をしていない日本の自衛隊のなかで、 
掃海艇・掃海艦とともにもっとも、

「日ごろから現実的な危険にさらされている部隊である」

ということが、この言葉で改めて実感された次第です。

続く。


(やっぱり最後の頃には打ち込みにくくなりました。
予想は当たっていたみたいです) 


 

磁気掃海具〜日向灘・掃海隊訓練

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掃海母艦の見学が続いています。
艦橋を見学した後は、一度甲板レベルまで降りてきました。



後部甲板に向かって高速で移動していく案内の副長の図。
っていうか、夜なのですこしでも動いているとぶれてしまうわけですが。

そこで目の前に現れたジャイガンティック (gigantic)なリールに驚愕。
これはウィンチというのでしょうか。それとも普通にケーブルドラム?

夜間のせいか見たところ何もありませんが、写真を検索すると
たまに発見されるこの巻き取り機には、黄色いホース状のケーブルが巻かれています。 

デリックに吊られている救命ボートは普通の護衛艦より大型のような気がしますが、
気のせいでしょうか。

 

副長が次にご案内くださったのは後部甲板。
折しも何やら作業の真っ最中です。

甲板の向こう側に防眩物が見えますが、これは接岸用ではなく、
子供の掃海艇などと接舷するときのためのものだと見た。



何を見せてくれるのだろうと思っていたら、なんと副長、

「甲板のエレベーターで下の階に降ります」

甲板の中央にあって、ヘリコプターを載せるにはやや小さい、
(というか乗らない)ほぼ正四角形のエレベーター。

先ほど搬入されたジュースとともに甲板からエレベーターに乗って降りたばかりですが、
一般見学者にとってはもうワクワクです(アトラクション的に)。

またもや脳内を「サンダーバードのテーマ」が鳴り響く中、エレベーター稼働。



これは、エレベーターがちょうど甲板部分を通過しているところ。
複雑に絡み合ったパイプ、無数のダクト、何一つとして無駄な部分はありません。



ここが甲板下の格納庫。
艦艇一般公開などでは決して見られない部分です。
手前の黄色いリールは掃海具の曳行用電源だと思われます。

甲板の大きな巻き取り機もそうですが、掃海という作業、何しろ
巻き取るもの=索をふんだんに使うのです。

対機雷戦には大まかに分けて、


機雷掃討・・機雷のそばで別の機雷を爆破させ処理する

係維掃海・・錘の先に付けられて海中に浮遊する機雷の糸(維)を切断し、
(けいい)  海面に浮かび上がらせたのち処分する

感応掃海・・磁気機雷に対し、ダミーの磁場を発生させて自爆させる


という三種類の方法が現在行われています。
機雷の種類とその機能によって処分の仕方を変えるわけですが、
このいずれの方法をとったとしても必要となってくるのは「引っ張るもの」=索。

機雷探知機にも、先日お見せした黄色い掃海具にも電源とデータ通信用を兼ねた
長い索がついていますし、係維掃海で機雷の糸を切断するためのロープは
艇から二股に別れたカット用の索を使います。


掃海隊HPより

そして、感応機雷をやっつけるには、掃海索という「船のふりをするための」
曳行具を引っ張る索、そしてダミーの発音をする発音体を引っ張り電源を供給する索が。




つまり、どの方法であっても「索」を必要とするので、掃海母艦にも掃海艇にも
このような巻き取り機がいたるところにあるわけです。 

まるで小学生のような観察ですが、(小並観)
掃海については訓練見学の報告の際にもう少し詳しくお話しすることもありましょう。



で、ここにも床のあちこちから鎖で固定されている巨大リールがあるわけですが、
これは何のためのもの?



この前に立った時に、ふと「ジングルベル」が脳裏をよぎったわたし。

なんだろう・・・イメージ的にどうしても「トナカイが引くサンタのソリ」
という言葉が浮かんできて仕方がないんですが、その決定的な理由は、
ソリの上に載っているこの赤い物体が、どうにもトナカイのツノみたいだから。

もちろんそんなことは口に出さずに、説明を聞きながら頷いておりましたが。

というわけで、これはMK-105磁気掃海具といいます。
なんと、ヘリコプターに引っ張ってもらってお仕事する掃海具なんですね。
で、この赤いツノは何かと言うと、ヘリコプターに曳行されている時に
抵抗を減らすための水中翼だそうです。
フロートで海上に浮くはずなのに、その上にあるツノが「水中翼」とはこれいかに。
と思ったのですが、よく見たらツノごと外側に向かって倒れるようになっています。
これ、もしかしたらフロートの真下まで倒れるのかな?

これが実際どのように曳行されるのか、動画がないか探してみましたが、
もしかしたら特定機密にあたるのか全く見つかりませんでした。

ところでこの掃海具のメインは、フロートの上に神輿のように担がれているもので、
これがエンジンであり発電機でもあります。

先ほどの「感応機雷」の理屈と同じになるかと思うのですが、これで発電した電流を
電線ケーブルに流して海中に磁場を発生させる事により、敷設された磁気機雷に
「船が通った」と勘違いさせて爆発させるわけです。

実際はヘリに曳行されたこのソリ(じゃないけど)が、さらに電線で
磁場を作っているだけなので、爆発させて処理をすることができるというわけ。


掃海母艦に搭載して現場まで運び、海に下ろしてからヘリがこれを曳行します。
ヘリと索で繋いでから海に降ろすのか、それとも
海に下ろしてから結索するのかどうかまではわかりませんでした。

曳行するヘリは掃海ヘリであるMH-53Eです。
このように航空機によって曳行する掃海具を「航空掃海具」といいますが、
航空掃海具には他に、

バーモアと呼ばれる係維掃海具Mk-103

ベンチュリーと呼ばれる音響掃海具Mk-104

があります。



掃海具格納庫からみた甲板。
いまわたしはMk-105とリールの間に立っています。



ふと甲板上の乗員を見ると、何もせずにこちらを見ている様子・・・。
もしかしたら、わたしたちが見学をしているためにお仕事ができないのでは?

ただでさえ非常識な時間に見学を強行していただいた上、
作業を中断させてしまったのだとしたら、これは申し訳なさすぎる。

後からミカさんに聞いたところによると、わたしたちが後甲板にいったとき、
やはり乗員の皆さんが何か作業をしていて、副長が

「エレベーター動かして」

とオーダーすると、現場の隊員が

「今電源を何々に使っていて(エレベーターを動かせない)」

といったそうなのですが、にもかかわらず副長は鶴の一声で
電源を切り替えさせて(たぶん)動かしてくれたというのです。

わたしはそれを聞いていなかったので、後からこの写真を見て恐縮しまくりました。
もちろんわたしは海上自衛隊の偉い人から、さらに掃海隊の一番偉い人を通じて
この訓練を見学させてもらっているわけで、決して副長が自分の利益のため、
ぶっちゃけて言えば仲のいい人にいい顔をするために中を見せているのではありません。

ですが、時間がイレギュラーすぎたことと、わたしの風体がどう見ても政治家とか、
地域の有力者とか、そういう「無理を言われても仕方ない相手」には見えないことで、
もしかしたらそのせいで副長が誤解されたりしなかったか、今でも気にしています。



しかもエレベーター下ろしている間は夜なのにこんなロープまで
当直士官が張ってくれていたと・・・。

あああ、やっぱり作業していた人、エレベーターが上がるまで何もせずに待ってるよお。



うーん、この電源と関係あったのかな。
しかし、この話を後で聞いて思ったのは、やはりフネというものは、いちどきに
電気を同時にあっちこっちで使うことができないようになっているらしいということでした。



このあと甲板レベルの格納庫の中も見せてもらいました。
信じられない長さの細いロープが、絡まない方法で束ねてあります。

そしてここにももう一基の掃海具MK-105が。
こちらには「2」とあるのですが、下の子が「1」なんでしょうか。
横の黄色い物体は下にもあった巨大リールだと思います。

というわけで、このとき後甲板で作業していた乗員の皆様方。
その節は本当に(文字通り)お邪魔致しました。



続く。

追加:お節介船屋さんにMk-15のYouTubeを教えてもらいました。
ここでもあげておきます。

何が特定秘密だ(笑)

機雷爆破

MK-105 live sweep mine explosion


曳行されている様子がよくわかる映像

MK-105 Mod 4


 

 

艦の台所と艦での禁酒~日向灘・掃海隊訓練

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掃海母艦の見学記、続きです。
格納庫の掃海具Mk-15を間近に見学したわたしたちは、もう一度艦内に戻りました。



黒いショルダーバッグがたくさん手すりにかかっているので、ふと

「これ、なんでしょうか」

と聞くと、同行していた隊員さん(もしかしたら給油作業の合間に入港時間を
連絡してくれていた方だったかもしれません。この場をお借りしてお礼申し上げます)
が、わざわざ中を開けて見せてくれました。

「救命ベストですね」



かさばるベストが入っているとはとても思えない小さいバッグだったので、
そこにいる誰も中身が何かわからなかったのです。
そしていっぺん出すとまた元どおりに直すのが大変・・・・・(上写真)

副長は次の見学場所に向かって歩き出してしまうし、後ろを振り向いたら
まだベストを元どおりにする作業が終わっていないし、
ミカさんはそれを見守るために立ち止まっているし・・・・。

うっかり質問したことを申し訳なく思った瞬間でした。



観艦式の「あたご」 艦内では「夜の護衛艦を体験するコーナー」として
この赤い艦内灯が点けられていたのを見てなるほどと思ったのですが、
これは「本物の夜の自衛艦」の赤い灯。

特に潜水艦に顕著ですが、艦隊勤務というのは昼夜の区別がつきにくいことがあるので、
夜には赤い灯を点けるということが慣習として決まっています。



こういうスペースでは赤い灯は使いません。(気が滅入るよね)
夜になって誰もいない食堂。
椅子がちゃんと浮かせて収納されています。



自衛艦の食堂の壁には、写真があったり、賞状やポスターがあったりします。



体験乗艦した小学生から届けられたお礼の手紙と絵。
これは乗員のみなさんも嬉しいよね。
ちゃんと「ぶんご」に見えるなかなかの画力なのだけど、「ぶんご」はともかく
空中の黒い点をさして「やえやま」とはこれいかに・・・。 
もしかしたら遠近法?遠くに見えてたってことかな?

それと、彼の名前がすごい。「いかり」はやっぱり「碇」かな。



説明がないので見たときには何かわからなかったのですが、迎えている人々が
トルコの旗を振っているので調べたところ、1万7千人の被害者を出した
1999年のトルコ大地震(イズミット地震)のときに、派遣されて輸送艦「おおすみ」、
補給艦「ときわ」とともに、仮設住宅の輸送を行っていました。

このとき「ぶんご」は、エジプトのアレキサンドリア港まで無寄港で
平均速力18kt(約33km/h)で連続23日間という、海上自衛隊史上初の
長距離連続航海を行った末、トルコのハイダルパシャ港に入港しましたが、
この絵はその入港のときを(おそらく現地の人が)描いたものではないでしょうか。

有名になったサマワでの国際派遣、ペルシャ湾の掃海だけでなく、このときも
トルコの人々は自衛隊の到着を熱狂して迎えてくれたのです。

余談ですが、サマワには「Sato bridge」と名付けられた橋があります。
自衛隊が架設した最初の橋で、この「Sato」は他でもない、隊長であった
佐藤正久3佐(当時)の名前から取られています。



冒頭写真はこの時の誰もいないキッチン。
あと数時間すれば、170人分の朝食のためにコンロには火が付き、
あたたかい味噌汁とご飯が用意されます。
ちなみに熱源はガスは使えないので、電気と蒸気で調理を行います。

自衛隊の金曜カレーというのが有名になって、一般社会のカレー業界では
「金曜カレー」を定着させようという動きもあるのですが、
昔は金曜ではなく土曜日の「半ドン」(昼から休み)の昼食だったとか。
つまりカレーは「金曜日を知らせる」という意味ではなく、
「明日は休みだよ」と知らせるためのものだということです。

昔の艦隊勤務と今の違うところは「カレー曜日」だけでなく、
夜食のあるなしで、昔は1日4食出されていたのですが、今は
必要に応じて夜食をつくることもある、という感じだそうです。

このツァーのとき、夜食のおにぎりが並べられているところを通りました。
おにぎりは一つ崩れてしまったのを残して(−_−) 全部なくなっていました。
食べ盛りの若い人が多い職場ですから、あっという間に消費されてしまうのでしょう。


ところで、副長によると、現在当掃海母艦の食事は「とてもいい」のだそうです。
今の烹炊長(というのかどうか知りませんが)は大変腕が良く、艦食が美味しいのだとか。

海上自衛隊のご飯は一般レベルから見ても美味しい、というのが定説です。
その中でも、特に食事が重要になってくるのは、楽しみが少ない艦隊勤務ならでは。
何しろ日本の軍艦たる自衛隊の艦船は、戦後アメリカ海軍の真似をして
艦内禁酒に決めてしまったのですから、それだけに切実です。




この話が出たのでまたもや余談ですが、今年の最初に、「機動部隊」という
アメリカ映画についてお話ししたことを覚えておられるでしょうか。
この映画で、主人公のゲーリー・クーパー演じる海軍軍人に向かって、
「アメリカがどこと戦争するってんだ」(軍備など必要ない)とふっかけていた
新聞社の社長で、海軍に口うるさくあれこれいうおっさんがいましたが、あれは
アメリカ海軍の禁酒を決めた新聞社社長で海軍長官、ジョセファス・ダニエルズ
モデルだったのではないかと、今にして気づいた私です。

このダニエルズという人物、白人至上主義でアフリカ系アメリカ人の公民権を
剥奪することを公約して選挙に勝ち、公約実行しているわけですが(><)
もっとも悪名高い業績が、

Prohibition in the Navy: General Order 99, 1 June 1914

リンク先を見ていただけばお分かりですが、

"The use or introduction for drinking purposes of alcoholic liquors

on board any naval vessel, or within any navy yard or station,

is strictly prohibited, and commanding officers will be held directly

responsible for the enforcement of this order."

海軍艦艇上、または任意の海軍敷地内や構内での酒類の飲用の目的での
使用または導入は、厳しく禁止されており、指揮官はこの制定の施行における
直接の責任を負うことになります


あまりいい訳ではありませんが(^_^;)まあこんなところでしょう。
wikiにもありますが、彼がお酒の代わりに推奨したのがコーヒー。

「海軍でもっとも強い(ストロングな)飲み物はコーヒーであるべきである」

といったとかなんとか。

ああ、それでアメリカ海軍の船は艦橋にまでコーヒーメーカーがあったり、
専門のコーヒーカップ台があったりしたのか。

とおもわず納得してしまった訳ですが、今でも「a cup of coffee」を意味する

「a cup of Joe」

という俗語に、彼の名前が燦然と?刻まれています。
でもこれ、どう考えても否定的な意味、つまり皮肉ですよね?

ゴラン高原の「SATO BRIDGE」はご本人にも我々日本人にとっても名誉なことですが、
同じ名前を残すのでも、わたしならこんな否定的なニュアンスでは残されたくはないなあ・・。

戦前はイギリス海軍の薫陶を受けたせいで、艦内ではお酒OKで宴会ももちろん、
だった帝国海軍ですが、戦後になって、アメリカ海軍のする通りに
艦内絶対禁酒の規則を取り入れてしまった自衛隊。

まあ、日本国自衛隊の組織の性質を考えれば、アメリカ海軍とは関係なくお酒は
遅かれ早かれアウトになっていた可能性は高いですが。

それについてはこんな話があります。
あるとき、自衛隊の偉い人がアメリカ海軍軍人と話していてこう言いました。

「アメリカ海軍の軍規を見習って、自衛隊でも艦内は禁酒となっています」

それを聞いたアメリカ海軍軍人、嘆息して曰く。

「それはまた、つまらないことを真似したものだなあ」

(ちゃんちゃん)


さて、「ぶんご」のキッチンに話を戻しますと、艦で出る食事が、
副長が外に自慢するほど美味しいというのを聞いて、わたしが

「それは・・・士気もあがりますね」

こういうと、副長はこうおっしゃいました。

「そうなんです。だから今うちはすごく雰囲気がいいんですよ」

ご飯が美味しい=雰囲気がいい=士気が上がる。

食べ物って本当に人間にとって大切なんだなあと当たり前のことを確認した一言でした。


続く。 

 

 

「カミカゼ体験ショー」(笑) イントレピッド航空科学博物館

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日向灘の掃海隊訓練参加記の途中ですが、今日12月8日は真珠湾攻撃、
つまり日米開戦となった日なので、関連話題をお送りすることにします。 


アメリカ人はどこかの日本人と違って、「愛国心」を発露させることに衒いがなく、
パトリオティシズムを否定しない点では世界スタンダードだと思いますが、
反面とにかくアメリカ万歳のあまり、時として無神経で空気を読まないところがあります。

といきなり言い放ってしまうわけですが、例えばこの冒頭写真を見て、
うんうん、こういうところがなんかついていけないよねー、と
言っていることに賛同していただける方もおられるのではないでしょうか。

この大きな壁に書かれた「カミカゼ体験ショー」のお知らせの前に立った
わたしとTOが思わず絶句して、

「うーん・・・」

と二人で唸っていたら、その時ちょうどショーとやらが始まってしまいました。


イントレピッドの最も暗い、そして最も輝ける日を追体験せよ。
新型マルチメディアによる”カミカゼ:暗黒の日、輝ける日”が、あなたを1944年11月25日、
イントレピッドに2機のカミカゼ自殺機((−_−#))が激突した日に誘います。
そこであなたは炎の下の真のヒロイズムを体験することになるでしょう。
「メモリアル・ウォール・オナーズ」にはそのときイントレピッドに乗り組んで
命を捧げたすべての士官とクルーの名前が記されています。

という説明によるこのショーは、その何機かの特攻隊の攻撃の一回を
再現してみせるというもののようです。
見せてもらいましょう。どんなものなのか。



その前に、甲板で目を留めたボードについて少し説明しておきましょう。
ちょうどフランスのダッソー・エタンダールが置いてある部分にあたるのですが、
この説明によるとちょうどこの部分にかつて特攻機が突っ込んだことがあるのだそうです。



これは、「イントレピッド」が受けた初めての特攻機による攻撃でした。
日にちは1944年、10月29日。フィリピン海でのことです。

そこにはかつてガン・タブ10(10番銃座)があり、そこの銃撃手は全員アフリカ系でした。
彼らは勇敢にも特攻機に対して砲撃を加えますが、飛行機はちょうど彼らのところに激突し、
24名の乗員たちは6人を除いて重軽傷を負い、8名が死亡しました。

この日付を所蔵の「特別攻撃隊全史」で検索してみると、これは比島方面作戦の
第一次、そして第二次神風特攻隊による攻撃によるもので、

初桜隊 野並晢一飛曹(甲飛10)以下、零戦3機

義烈隊 近藤寿男中尉(海機53)以下、彗星2機

神武隊 坂田馨上飛曹(乙飛13)以下、99艦爆2機

神兵隊 藤本勇中尉(海兵71)以下、9艦爆2機

が少なくともこの日、フィリピン方面で戦死を遂げたことがわかります。
この日の特攻による戦死者、12名。
直掩機での戦死や、機上戦死も入れての人数ですが、数だけで言えば
イントレピッドの戦死者より多くの命がこの日一日で失われました。

ただし、一連の「カミカゼ・アクション」が米軍にもたらしたショックは
計り知れないものでした。
それが証拠に、未だにアメリカでは「カミカゼ」を、まるで天災でもあるような、
抗しがたい恐怖を齎すものとしてこうやって語られているのです。

ちなみに、あの関行男大尉が初めて組織された特攻隊として、
敷島隊の5人を率いて特攻を行ったのはこの4日前の10月25日。
10月29日のイントレピッド突入は、これに続く第5次に亘る特攻攻撃の一つでした。



ショー(笑)の始まりを告げるアナウンスがあると、その辺の見学者が
三々五々集まってきてすべての見学者が何も言われないのに床に座り込みました。

日本では少し奇異な光景ですが、アメリカ人というのは常日頃
家の中でも靴で生活しているせいか、建物の中であれば(時には外も)
室内と同じように座り込む性質があります。

アメリカの大型書店、最近はアマゾンのおかげで減ってきましたが、
バーンズアンドノーブルスなどに行ってみると、通路という通路に
子供が(時々大人も)座り込んで本を立ち読み(座り読みか)しています。
まあこういうのからも、アメリカ人の清潔観念というのがうかがい知れるのですが、
総じてアメリカの道は綺麗で、たとえそうでなくても皆そもそも
あまり「外」というものを歩かない(ほとんど目的地まで車でドアトゥドア)
せいなんだろうと思っています。

日本人であるわたしたちは、座り込むことなく、立ったまま15分の間、
ショーを皆の輪の外から眺めることになりました。
まず会場が暗くなります。

「イントレピッド」艦上で、10月25日以降、連日フィリピンの各基地から
飛び立っておそってくる特攻機を待つ状態の乗組員たち。

右ではやはりアメリカ人らしく甲板にゴロゴロ転がって仮眠を取っている人もいますが、
左のまるで鉢担ぎ姫のような大きなヘルメットをかぶっている乗組員の
表情からは、不安と恐怖が隠せません。 

このころの米軍側の戦史から抜粋してみます。

「さらに、フィリピン諸島の各基地から飛来した特別攻撃隊の
アメリカ高速空母機動部隊に対する攻撃は、一層、被害甚大であった。
すなわち10月29日には大型航空母艦”イントレピッド”が損害を被り、その翌日は、
さらに大型空母”フランクリン”が飛行甲板に40フィートの大穴を開けられ、
アメリカ本国に修理のため回送された。

ついで、高速軽空母”ベローウッド”にも、また特攻機が体当たりをした。
11月5日には大型空母”レキシントン”が日本爆撃機の体当たりを喰らって損傷し、
死傷者182名を出した。

このような型破りの戦術はアメリカ海軍に深刻な関心を呼び起こした。
なぜならばアメリカ海軍は、いまだかつて、この自己犠牲の光景ほど、
ゾッと身の毛のよだつような気味悪いものを見たことがなかったからであった」




「イントレピッド」の乗員にとって、この日11月25日以前にも
カミカゼのアタックを受けていたため、その恐怖は大変なものだった、
と続くのですが、今映し出されているのは先ほど説明した、、10番砲座の
アフリカ系ばかりの小隊を狙うように突入した日本機(99艦爆ですね?)と、
この時に戦死した、小隊長のアルフォンソ・チャバリアスだと思われます。



そこでライトが点滅したり、警報が鳴らされたり、艦内のあちこちから
危急をつげる報告が飛び交ったりする緊迫感溢れる音声がさんざん流されたと思ったら、
いきなり子供が二人寝そべったり座ったりしている部分の床から煙が出てきました。



それまで立っていた大人がなぜか一緒になってくつろぐ展開(笑)
艦上は特攻機突入の際の爆発でもはや火の海となっている
・・・・・のでこういう演出をしたようですが、残念ながら
見ている皆にも全く緊迫感なし。

えーと・・・・・。



恐ろしい11月25日のカミカゼアタックによって、なんと69名もの将兵がなくなりました。
このショーは、それらの戦死者に捧ぐ、とありますが、なんというか
こんなショーを捧げられてもなあ、と思ってしまったのはわたしが日本人だから?

いや、きっとアメリカ人だってそう思う人は多いと思う。



海軍葬の行われんとする「イントレピッド」艦上。

この時に「イントレピッド」を襲った第3・第5神風特攻隊は目的が最初から機動部隊でした。

第3高徳隊 植竹功上飛曹(甲飛9) 以下5名 零戦

吉野隊 高武公美中尉(西南学院) 以下12名 零戦

笠置隊 鮎川幸男中尉(海兵71) 以下5名 零戦

疾風隊 前田操上飛曹(普電練) 以下8名 銀河・零戦

強風隊 山口晴雄上飛曹(甲飛9) 以下6名  銀河・零戦

計36名の特攻隊員が戦死しています。
レイテ湾には150隻にわたる艦船が充満していましたが、
この時の猛烈な攻撃によって、イントレピッドを含む空母4隻が
重篤な損害を受けることになりました。




この時の「イントレピッド」艦上。
皆がホースを持ち必死の消火に当たっています。

現在、「イントレピッド」に突入したのは、吉野隊の零戦のうち2機であることがわかっています。
 

 続きます。

 

特攻を矮小化する人々 ~イントレピッド航空博物館

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元「イントレピッド」乗組員、レイモンド・T・ストーンは、第二次世界大戦中、空母「イントレピッド」で
電信員としていくども見ることになった「カミカゼ・エクスペリエンス」を書き残しました。

「MY SHIP!」

というのがそのタイトルです。

 



前回「カミカゼ体験ショー」のときにお話しした、1944年10月29日の
砲座にいた10人中9人が即死した特攻と、11月25日の、69人もの乗組員が戦死した 
零戦2機の特攻(5分と時間を違えず突入は行われた)以外にも、
「イントレピッド」は計5機の突入を受け、そのため二度帰国、修理を余儀なくされました。

同著は、その体験を、戦友を失った経験も加え回顧しているものです。



ところで話は変わりますが、大変不思議なことがあります。 
日本語で「イントレピッド」を検索すると、特攻による被害をこのように書いてあります。

1944年10月にレイテ沖海戦に参加、10月30日に日本海軍の特攻機が銃座に激突し、
10名が死亡、6名が負傷した。
乗員による熟練したダメージコントロールでまもなく発艦作業を再開する。
同年11月25日、2機の特攻機が激突、士官6名と兵員5名が死亡する。
艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了した。


????

なぜ日米の彼我でこんなに数字が変わってきてしまっているのでしょうか・
日本版ウィキによると、特攻作戦における「イントレピッド」の犠牲者は、
2回の特攻を受けただけで戦争中を通じて全部でたった21名ということになってしまうのです。



それでは一体これはなんなのでしょうか。

壁に描かれた272名の名前は、すべて日本の特攻機突入による死者重軽傷者です。
今点灯している名前は69人分、つまり11月25日の特攻によって
亡くなった人だけでこれだけがいるということなのです。

日本版ウィキが、特攻突入における死者の数をこれだけ少なく表し、
さらにどちらの被害も軽微なものだったと強調する理由はなんなのでしょうか。

そもそもWikipediaというのは、誰でも編集に携わることが可能なので、例えば人物についても、
偏向した記述をして貶めるような情報操作するというようなことが多々行われているそうです。 


そういう形態を知って、このあからさまな特攻の被害の矮小化を見ると、

「特攻隊の戦果は小さかった」=「特攻は所詮戦況にも寄与しない無駄な作戦だった」
=「特攻は犬死にだった」

としたい「誰か」の意思でもあったのかとさえ勘ぐってしまいます。
戦後、というかいまだに日本では「特攻の与えた被害は大したことない」という論調で、
それを美化するな、と声高に叫ぶ人がたくさんいます。

確かに「外道の作戦」であり、与えた損害と失われた人命の、あえていうなら
「費用対効果」でいえば、「割に合わない」戦法であったと後世から見れば思えます。
しかも、特攻を命ずる方も、1機が効果的にダメージを与えられる小型船舶ではなく
「死者の花道」として丈夫な戦艦や大型空母を狙って死にたいという搭乗員の「冥利」を無視できず、
非情な命令を下しながら、最後まで非情になりきれないという日本的情緒が、
ある意味作戦としての「無駄」を生んだという意味では、彼らにも一理あります。

しかし、この作戦が彼らに与えた心理的効果は実際の被害以上のものでした。
沖縄では精神変調をきたす兵が続出して、ニミッツが「これ以上は無理だ」
と上層部に弱音を吐いたのは有名ですし、帰国後の心的外傷も問題となりました。

何より、アメリカ海軍の「カミカゼ・トラウマ」は、その後の艦隊戦における思想に反映し、
イージスシステムもこの流れを汲んでいるとさえ言われているのです。

特攻に効果がなかったという論調は、戦後のGHQの日本に対する思想統制に遡ります。
アメリカ側が戦後の統制下にある日本にそのように思わせたがった理由はよくわかりますが、
未だに日本人が現実にこのように残る特攻の甚大な「戦果」をなかったことにするのは、
特攻隊員とその命を愚弄することに等しい行為だといえましょう。

正確な史実=特攻の効果を見て見ない振りまでして、彼らを侮辱することと、
戦争と特攻を「あってはならないこと」とすることの間にはなんのつながりも
主張を裏付ける効果もないし、それはいまだに頑迷なる戦後レジームの闇から
精神が一歩も抜け出せていないことを意味するとわたしは断言するものです。




さて、さらに、10月29日の死亡人数は、「マイシップ!」のストーン氏によると10名とありますが、
当「イントレピッド」博物館の名簿によると12名です。
名簿にはちゃんと全員の名前と階級が記されているので、ストーン氏の記憶違いの可能性が高いでしょう。

というわけで、もしどなたかWikipedia編集経験者がおられたら、

10月29日 12名死亡

11月25日 69名死亡

と日本語版wikiを書き換えていただけませんでしょうか。
ちなみにWikipediaの英語版には、特攻による犠牲者の数どころか、
特攻突入による損害を受けたことについても全く書かれていません。



さてそこでもう一度「マイシップ!」に戻ってみましょう。

「イントレピッド」に突入した日本軍の特攻機は全部で5機。
これは、戦争中を通じて米海軍の艦船の中では最多となります。

そのうち3機が、10月29日1機と11月25日の2機。
この「イントレピッド」博物館上でも明らかになっている日付です。



それでは4回目はというと、これもwikiには記されていないのですが、
1945年3月18日のことになります。


右舷船首から突入してきた特攻機を、ガンナーが撃ち落としたのですが、
その時に爆発した機体の破片や火のついたガソリンがハンガーデッキに降り注ぎ、
それがいくばくかのダメージをもたらしました。




3月18日に特攻を出しているのは海軍菊水部隊の彗星隊で、
この1日だけで39名の特攻隊員が戦死した記録があります。


この記録から考えずにいられないのは、前年度、組織的な特攻隊が行われ始めた頃には
アメリカ側の犠牲は甚大なものであったのに、この頃になると、
「イントレピッド」の射手に撃ち落とされたこの特攻機だけがかろうじて
軽微な損害を与えただけであったという風に、与えた効果があまりにも僅少だったことです。

そして、39名の大量死。

特別攻撃隊隊長は岩上一郎中尉(室蘭高工)と野間茂中尉(福知高商)という、
どう見ても経験の浅そうな学徒士官です。
しかもその他の学徒士官の出身校を見てみると

宇部高工 長岡高工 第二早高 早稲田専 明治専 青森青教 台中高農

など、専門系が多いのに気づきます。
そして戦死者名簿で思わず目を見張ってしまったのが、

丙(特)飛

という文字です。
丙特飛とは正式には丙種(特)飛行予科練習生といい、昭和19年設立されました。
これは志願で海軍に入隊してきた朝鮮・台湾出身者のうち、
航空科希望者を予科練に組み込んだものというカテゴリなのです。

実際には台湾出身の特攻隊員はいませんでしたから、これは間違いなく、
全部で20名いたという朝鮮半島出身者の特攻隊員であろうと思われます。
その名も、

勝俣市太郎2飛曹と、益岡政一2飛曹。

どちらの名前も通名のまま戦死者名簿に記されています。

そして、乙特飛という、戦況の悪化に伴い、乙飛を志願した練習生の中から
更に選抜して特攻のためだけに短期養成を行った搭乗員が6名も参加しています。

カミカゼの恐怖に立ち向かう、したたかな顔を持つアメリカが、対特攻のための戦略を練り、
守りを堅固にしていくのと反比例して、当初の精鋭部隊もすでに消耗し、日本の特攻隊は
技量も経験も全くない学生隊長が率いる即席養成の搭乗員を投入していたのです。




「マイシップ!」によると、最後に「イントレピッド」に被害を与えた特攻は
1945年4月16日に行われました。

「零戦と”コンベンショナル”(月並みな・ありきたりの)な航空機で行われた大量特攻」

とアメリカ側が記すところの特攻隊は、菊水三号作戦と呼ばれる、神雷桜花隊、銀河隊、
菊水部隊など、海軍176機、振武隊から成る陸軍52機による攻撃です。

このうち特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。(陸軍は帰還一機のみ)

この頃には既に陸軍の特攻機は実用機が不足していたため、
ほとんどが旧式の九七戦で行われました。

この日の大量突入に対し、「イントレピッド」は43機を掃射撃墜しています。

しかしながら一機の特攻機が、対空砲をくぐり抜け、フライトデッキに激突。
この機体はハンガーデッキにまで突き抜け、その時の爆発で10名が死亡しました。


さて、それではもう一度日本語版のWikiがここをどう説明しているのか見てみます。

その間、3月18日と4月16日の二度にわたって神風特別攻撃隊の特攻機の
体当たり攻撃により損傷したが、沈むことなく無事に終戦を迎えている。

まあ、沈まなかったから今博物館になってるんですけどね。
まず、この2回の攻撃が神風特別攻撃隊ではなかったことを突っ込み隊。
じゃなくて突っ込みたい。

特攻とくればなんでもかんでも「カミカゼ」と呼ぶなんて、あんたどこのアメリカ人?
少なくとも日本人なのならば、せめて

特別攻撃隊(菊水三号作戦による)

とか、

神雷桜花隊や振武隊からなる特別攻撃隊

くらいは調べればわかることなんですから、大雑把にならずにきっちり書いていただき隊。
それに、実際の「イントレピッド」の被害が甚大であったことには毛ほども触れず、
「無事に終戦を迎えている」って、それなんか違うんじゃない?


さて、冒頭写真は、

九九式一号2型改

と刻印があるので、 99式20ミリ機銃の部品であろうかと思われます。
99式20ミリは海軍が使用していた航空機銃であり、これは
零戦の部品であることはほぼ間違いありません。

菊水三号作戦の時には特攻に使う零戦は無くなっており、

桜花・陸攻・銀河・97式艦攻・彗星

という陣容でしたから、10月29日か11月25日、いずれかに突入した特攻機の部品でしょう。

 





上の左は8ミリ機銃でしょうか。



煙を噴き上げる「イントレピッド」の写真をバックに、この時に戦死した乗組員の
残したノートにパープルハート勲章などが添えられています。



スクラップ帳だったようですが、何が書いてあるかよくわかりません。
フットボールファンだったのでしょう。



これも特攻隊突入で死亡した乗組員の遺品。


「カミカゼショー」が終わってからわたしとTOは顔を見合わせました。

「どうでした」
「うん・・・」
「なんか、アメリカ人って特攻機に人間が乗っていたって全然思っていないみたい。
なんていうんだろう。まるで天災に遭ったような・・?」

何月何日カミカゼがきました。何人死にました。
この時死んだ誰々は大変勇敢でした。
「イントレピッド」にとって最悪の日でしたが、乗組員はそれに打ち勝ちました。
めでたしめでたし。アメリカ万歳。


これは日本側にも言えることですが、戦っている相手を「人として」見ようとしない、
確かに特攻機には誰か、名前のある日本人が乗っていて、その人間が操縦してくるわけだけど、
それについてはあまり考えないようにしている、というのが近いでしょうか。

どちらもむしろ「個人の顔は見たくない」というのが、わたしたちには
到底知る境地に至ることのない、自我を崩壊させないために機能する、
戦場にあるものの「本能」みたいなものなのでしょうか。

一人の人間ではなく「カミカゼ」という得体の知れない不気味な敵、
こちらの命を巻き添えに自殺攻撃をしてくる理解しがたい「何か」に対して、
「イントレピッド」の隊員たちはそれが「誰か」であることを決して考えまいとしながら、
必死で、無心に、戦い続けていたのかもしれません。 





 

2時間の上陸~日向灘・掃海隊訓練

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食堂を通り抜け、副長に説明を受けながら歩いていて、ふと
明日の訓練のためにわたしたちは何時に掃海艇に乗るのだろう、という話になりました。
すると、副長はすぐさま「ちょっと待っていてください」といって
そういう予定がわかる部屋に入っていき、(これがなんの部屋だったかは不明)
「7時半出航だそうです」と聞いてきてくれました。

ちなみに当掃海母艦は、総員起こしマルゴーサンマルだそうです。
確か、自衛艦での起床時間は普通なら6時のはず。
いつもより早く起きなければいけないってことですか。

わたしたちはそれを聞いて、

「それではわれわれは、明日のホテルのロビーでの集合時間は朝6時ですね」

と互いに暗い目を合わせたわけですが、
彼らは朝5時半に起きなくてはいけないのに、夜の10時から上陸とは、
さすが若いって素晴らしい。あ、艦長も行ってらっしゃいましたっけ。

ちょうどその頃、消灯時間の10時が近づきました。
わたしの後ろで、副長にだれかが「消灯どうしますか」と聞きに来ています。
わたしたち一般人が見学しているので消してしまっていいものかどうか、
副長にお伺いを立てにきたというわけ。

そのときにはツァーも終わりに近づいていたので、副長は
いつも通りに消灯して大丈夫、と答えていました(と思う)。
そして、今から上陸隊員の服装点検がある、と言いました。

「上陸をする隊員は皆、点検を受けてから外に出ます」

おお、それは、防衛大学校のノンフィクションでやっていた、

「ネクタイがゆがんでいる!やり直し!」「ボタンが曲がっている!(略)」

というあの嫌がらせのような服装チェックですかい。

「点検で”上陸ダメ”なんて言われることもあるんですか」

副長、笑いながら

「いや、簡単なチェックですので・・」

さんざん入港作業が遅れて、たった2時間になってしまった上陸だというのに、
「シャツの裾が出ている!やりなおし」
なんてやったら、部下から恨まれてしまいますよね。




ここに出るために、副長は「X」のついたドアのラッチを全部外しました。

「ここから地上へのはしごをかけることもあります」

また、ドアがあるだけで隔離されている(海上では特に)スペースなので、
勤務の合間に出てきて煙草を吸ったりするのに絶好の場所だとか。

わたしたちがちょうどここに立った時、下を上陸する隊員が通りかかりながら挨拶しました。
数人の女の子ばかりのグループで、今日は「女子会」を行うようです。

「あの中には補給長がいます」

補給長というのは、5つの分隊のうちの一つである補給科衛生科のうち、
補給科の長で、もちろん防大卒の幹部の役職です。
経理、補給、給食、文書交換などを担当する部門で、先だって話題になった
給養員も、この部門に含まれます。

それにしても、今日の「ぶんご」は1日掃海艇・艦への補給を行っていたわけですが、
つまり補給長である彼女はこの作業を統括していたということでいいのでしょうか。

 何度か説明していますが、この日の補給作業は波のうねりのために何度も中断されたらしく、
午前中に終了する予定が夜の8時半に入港ということになってしまいました。
補給長という任務の幹部は、そんなこんなでさぞかし大変だったのではないかと思われます。

「ジパング」では、「みらい」の艦内で医官の桃井1尉に出逢った海軍軍人津田大尉が、

「軍艦に女を乗せているのか!」

とそこに驚いていたわけですが、現代のわたしたちにとっても
「護衛艦勤務の女性」はまだまだ刮目して見る対象にとどまっています。

眼下を歩いて行く「海軍士官とその部下」である女性たちも、
言われなければ、全く普通の若い女の子とその友人にしか見えません。

やっぱり自衛隊とは外の人間にはある意味「別世界」だと思うのでした。



というわけで、艦内ツァーは終了しました。
副長に舷門まで送られて出てきてみれば、そこには赤白の腕章をつけた
何人かの作業着でない制服を着た自衛官が敬礼してお見送りしてくれる態勢。

お疲れのところ隅から隅までツァーをしてくださった副長、そして
作業を途中で止めさせてしまったり、お風呂上りの超リラックスした格好を
外部の客に見られたり、救命ベストを鞄から出して見せてくれたりした隊員の皆さん、
本当にお邪魔しました。

「明日また海面でお会いしましょう」「訓練頑張ってください~!」

わたしたちはそう言ってラッタルを降りました。
さきほど掃海具Mk-15を見て、後甲板を案内してくださったとき、副長は

「この後ろ側のハッチをよく見て帰るといいですよ。
ここから今日ご覧になったように水中処分員のボートを降ろしたり、
掃海具を引き出したりします」

とおっしゃっていましたっけ。
この説明のときに、メインハッチの脇の4つの小さなハッチの役割を
聞いたような気がするのですが、どうしても思い出せません。



わたしたちは写真を撮りながら車を止めていた岸壁の外に向かいました。
途中に繋留してある掃海艇の掃海具S-10(冒頭写真)にご挨拶をして、
ふと明かりが漏れる内部を見るともなく見ると、そこは洗面所らしく、
鏡に向かってお風呂上りの隊員がドライヤーを使っていました。

どう見てもドライヤーで乾かすまでもないほとんど坊主頭に近いヘアでしたが、
さすがは自衛官、寝癖がつかないように?完璧に乾かしてから寝るんですね。


わたしたちが車を止めていた柵の外に出ると、そこにはタクシーが1台停まっていました。
上陸する自衛官が電話で読んだものか、それとも上陸を知っていて客待ちしているのか。

タクシーの横に止まっていた車に乗り込もうとしたら、若い海士らしい自衛官が
二人、ミカさんに声をかけてきました。

「この近くにコンビニってありますか?」

どうも当てなく上陸して、コンビニで何か買い物でもしようとしていたようです。
ミカさんは近くにAEONタウンがあることを教えてあげていましたが、

「でも、今の時間空いてるかなー」

そこでわたしが、

「駅前まで乗っていかれますか?」

彼らに声をかけました。
後からミカさんは、

「あのとき乗せるって言ってくれてよかったと思いました」

とわたしに言っていましたが、彼女はわたしが借りた車なので、
自分から乗せてあげる、とは言えずにいたのだそうです。

基本どこでも歩いて行く自衛官ですが、さすがに夜10時過ぎて
2時間しか上陸時間がないのに、てくてく最寄りの(というか近くない)
コンビニまでいって帰ってくるだけで終わり、では辛いものがあったでしょう。

彼らはわたしの誘いに全く遠慮せず、とても嬉しそうに車に乗り込んできました。
走り出してすぐ、窓ガラスが急に曇ったので断って窓を開けたら

「風呂入ってきたばかりなんで、体温が高めなんです」

清潔で礼儀正しいだけでなく、いうことがいちいち可愛い。
そのうち、さきほど停まっていたタクシーを追い抜かしました。
お互いに車の中を瞬時に確認しあい、

「前に誰々、後ろに何とか1曹が乗ってる」

さすがは船乗り、こんな暗がりで走る車の中の人物を特定するとはいい目をしておる。

「なんであの車に乗ってたんだって言われたら、無理に引っ張り込まれたっていうのよ」

ミカさんが彼らに変なご指導をしています。
後から、わたしが乗せた隊員のうち一人は、東日本大震災のときに
出動した掃海母艦に乗り込んであの現場を見た子だ、と彼女から聞きました。

百戦錬磨の大の男がその光景に精神の不調をきたすこともあったという、
あの未曾有の災害現場の中にあって、掃海隊は物資の補給、被災者の収容と支援、
そして彼の掃海母艦は、水中処分員が遭難者のご遺体を収容する作業にも当たっています。



駅前にあるおそらく船員向けに24時間空いている大型スーパーマーケットの前、
この何処かで見たようなキャラクターのイルミネーションの前で彼らを降ろしたとき、
車の外に立つなりピシッと直立して、

「ありがとうございました!」

と声を合わせていうあたりはやっぱり自衛官だなあと感心しましたが、
車の中で、

「(乗せてもらって)本当によかったー」

などとニコニコしている様子は、普通の若者どころか日本人には知るべくもない
壮絶な現場を知り、あの救難活動に危険を顧みず身を投じて日本中から感謝された
「つわもの」というには、あまりにも「普通の男の子」に見えました。

わたしがその話を聞かせてくれたミカさんに

「そんな子たちだったんですか。
それを聞くとなおさら、あのとき乗せてあげられて良かったです」

というと、彼女は

「向こうもきっと乗せてもらったことをずっと忘れないと思いますよ」

 と言いました。


さあ、いよいよ明日は掃海隊訓練です。



続く。 









 


埠頭をわたる風〜日向灘・掃海隊訓練

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フタマルサンマルに入港し、入港作業が済んだ掃海母艦の
艦内ツァーが終了したのは、乗員の皆さんが上陸するのと同じ頃でした。

偶然車のところで拾ってあげた海士くんたち二人を、日向駅前の24時間大型スーパーに
(ミカさんによるとカードリーダを買いに行ったらあったらしい。有能)
送り届け、部屋に帰ってきたらほぼ11時。

SDカードのデータをPCに落とし、電池や端末を順番に充電し、明日の用意をしていたら、
ベッドに入るのは12時になってしまいました。
出航はマルナナサンマル、7時半と聞いたので、ホテルロビーに6時待ち合わせです。
どんなに頑張っても5時間しか寝られないわけですが、寝なきゃと思うと焦ってしまい、
そういえば今日とんかつ屋さんでサービスのコーヒーを飲んだなあ、
などと思い出すとさらに一層寝られなくなり、少しうとうとしたと思ったら、
5時ににセットしたiPadの行進曲「軍艦」が耳元で高らかに鳴ってしまいました。

前の日も十分寝不足だったのに、こんな状態で大丈夫か、わたし。

掃海母艦の乗員の皆さんも、昨夜は12時帰艦、5時半に総員起こしだったわけだけど、
なんといってもほら、彼らはそれが仕事なので船酔いもしないだろうしさ。



ホテルから埠頭までは車で7-8分といったところです。
岸壁はまだ暗く、夜明け前の空が東から白んでいます。

601の「ひらしま」と602の「やくしま」の艦橋には、もうすでに
煌々と明かりが灯っているのが見えます。
艦首旗を揚げるポールの先に灯りがあるとは、今の今まで知りませんでした。



ミカさんはさっそく現場で知り合いの自衛官を見つけ、記念撮影。
彼が手にしているのは、彼女の写真集だと思われます。

埠頭はまだ暗いですが、こんな時間にあっても自衛官の皆さんは、
こんなにちゃんと第1種制服を着込んでいらっしゃいます。
聞けばワイシャツも、防大や訓練時代から自分でプレスすることを仕込まれているので、
大抵の自衛官はアイロンがけがプロ並みに早くてうまいというではないですか。
いや、主婦として尊敬します。アイロンがけ嫌いなんで特に。

でも士官がこんなことまで自分でする海軍って、多分世界でも海上自衛隊だけだろうな。



「ひらしま」「やくしま」の後部にまわってみました。
まだ自衛官旗は揚げられておりません。
「やくしま」の後部甲板に白いロケット状のものが見えていますが、
これは小型係維掃海具の1号というものです。



こちら最新鋭型の「えのしま」型「はつしま」(向こうが「えのしま」)ですが、
この後部に見える白いロケット状のが同じ、小型係維掃海具1型の浮標です。



掃海具の「動力」とはこれ即ち掃海艇そのものであります。
この図を見てみもわかるように、白いロケット状のものは単なるフロートなんですね。

掃海を行うのは基本的に掃海艇であり、掃海具というのは掃海艇がトロール漁のように
引っ張って、機雷を切断したり、感応させたりして爆発を誘うためのツールです。

係維機雷の掃海を行うこの掃海具を「オロペサ型」と言います。
第一次世界大戦時にイギリスで開発された形で、機雷戦そのものは
日露戦争から始まっていますから、掃海の方法論というのは、そのころから
原理としては全く変わっていないということができるかと思います。



前甲板で作業する乗組員。
ポールに巻き付けてあるロープを解いているように見えます。
後ろに立っている隊員の顔には笑顔。朝からいい雰囲気です。



いい雰囲気といえばこれも。
彼もミカさんの知り合いで、帽子を振って挨拶していました。
今回のシリーズが始まってから、掃海隊に知り合いのいる人から
掃海隊では有名で噂は聞いていた、という連絡をもらいました。

ミカさんが掃海隊を撮り出してもう7年ということですから、
少なくとも若い海士たちよりも「掃海隊歴」は長いのです。



掃海艦「つしま」くん全景。
この位置からだと、掃海艦のもやいの掛け方がよくわかりますね。
なぜこんなに遠くから撮っているかというと(笑)、
一旦車をこの位置に止め、車の中で朝ご飯代わりのおにぎりを食べたからです。


温めなかったため、おにぎりは冷たくてとても美味しいとは言えませんでしたが、
とにかくあまりお腹が空いていては気分が悪くなるかもしれないと、
無理して一個だけ、お茶と一緒にお腹に詰め込みました。

山の端が明るくなり、もう日の出が始まらんとしています。
朝日に照らされる「ぶんご」さん。
昨晩はどうもお世話になりました。そしてお邪魔致しました。

あの海士くん二人は、ちゃんと12時にタクシーで帰れたかな。



おにぎりを食べ終わるとすぐに、わたしもミカさんも、また岸壁まで出て写真を撮ります。
そこでちょうどご来光が「つしま」くんの向こうから登りかけていました。
天気予報では雨だと聞いていたのに、訓練見学当日は快晴になる模様です。

ただ、この時点で埠頭には、かなり強く冷たい風が吹き渡っていました。

うーん・・・・この風・・・・、もしかしたら、今日は波乱の航海か?



わたしたちが乗り込むのは「えのしま」です。
「えのしま」はご存知のように海上自衛隊掃海艇の最新型で、
604「えのしま」、605「ちちじま」、606「はつしま」のうち、
「ちちじま」を除く2隻がこの訓練に横須賀から参加しています。

ちょうどわたしが3年前の観艦式で「ひゅうが」に乗ったとき、
1番艦の「えのしま」が就役したばかり(2012年)で、初めてのお目見えでした。
その時のエントリにも艦体がGFRP(ガラス繊維強化プラスチック)であることを
書いた覚えがあります。

今回の観艦式は、その3年後に新たに建造された3番艦「はつしま」が顔見世をしました。
ということは、この2隻、わたしがどちらも観艦式で「観艦」した掃海艇ということになります。

こんな形で再会できて嬉しいぞー!


このころになると、メディア・ツァーが行われる「えのしま」の前に、
ポツポツと報道記者とカメラマンを乗せた車が到着し始めます。
陸自の制服を着た男女の地本自衛官も、車で乗りつけてきました。

海自艦艇の出入港の時には、必ず地元の地本が見送り&出迎えをするんですね。



自衛艦旗がいつの間にかマストに上がっています。
左のマストはおそらくこの艦のコールサインだとおもいますが、
右のはなんだろう。
信号旗が読めるようになりたいなあとこんな時思います。


 
昨日は1日雲が多かったので、まだそれが空に残っている感じ。
しかし風が強いのですぐに払われそうです。

そのうち時間になったので、メディアの人たちが先になって乗船を行いました。
わたしたちは外側の「えのしま」に行くために「はつしま」を通り抜けるのですが、
「はつしま」の乗員は、乗艦する人が足を踏み外したりしたときのために
いつでも手を出せる体勢を取りながらも、爽やかに

「おはようございます!」

という挨拶を一人一人にきちんとしてくれました。
いつも思いますが、自衛官の挨拶というのはこちらを元気にしてくれます。

 

そのとき、ちょうど太陽が後ろの山(後で調べたら米ノ山という山だった)から
顔を出しました。
「はつしま」と「えのしま」の間で、出港前の作業が行われています。



まず「えのしま」が「はつしま」から離岸するための作業。
おおおー、皆かっこいいなあ。(と一見普通のことに萌えるわたし)

ところで、「えのしま」と「はつしま」は同型艦のはずなのに、
あれ?甲板上に乗っているモノが全く違うんですけど・・・。

「えのしま」のはM61バルカンの(ちなみにバルカン砲というのは製品名であり、
一般名詞ではありません。念のため)JM-61Mでしょう。(JはジャパンのJ?)
そして「はつしま」のはミニ主砲みたいな感じですが、こちらもバルカンで、
JM61-RFS 20mm多銃身機銃だそうです。

両者の大きな違いは操作法。
「はつしま」は後発なので、遠隔操作のできる新型タイプを搭載したようです。
これは光学方位盤により遠隔指揮を受けるという仕組みで、日本では他に
海上保安庁の船に不審船対策として搭載されているそうですが、
掃海艇でのバルカン砲の使用目的というのは、(まあ武器としても使えますが)
実は機雷処分だということが後で聞いた説明で判明しました。


護衛艦と違って、小さな掃海艇はあれよあれよと作業が進み、あっという間に出航です。
この最新型掃海艇のクルーズ、どんなことが待ち受けているのでしょうか。


続く。








 

掃海艇出航〜日向灘・掃海隊訓練

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今回、わたしは訓練見学の前日に宮崎に入り、訓練が終わってから
当日の最終便に乗る予定を立てていました。
問題は、日向から宮崎空港まではカーナビで1時間半、実際は1時間くらいかかること。

余裕を持って飛行機を取っておいたつもりが、入港に時間がかかったため、
結局呉から広島空港までタクシーに乗る羽目になった、あの護衛艦「いせ」のときの
悲しい過ちは2度と繰り返したくありません。

「でも、護衛艦と違って掃海艇は入港したらすぐに降りられますよ」 

とミカさん。
それでも3時半入港予定で6時発の飛行機は心配だったので、
遅い便があるソラシドエアでチケットを取ったのでした。
実際は、ある事情があって予定よりも早く帰ってくることになったので、
心配どころか二人でご飯を食べるくらいの余裕ができたわけですが。


とにかく、「出入港作業にあまり時間がかからない」というのは
まず、朝の出航の様子を見ていてよくわかりました。



艦橋前のまるでステージのようなデッキからは、出航作業がよく見えます。
こういう作業を撮る時には、やっぱり広角レンズですね。


観艦式と違い、撮影場所を取り合うほどの人もおらず、あの鬱陶しい「カメ爺」もおらず、
わたし以外でカメラを持っている人は全員プロ。(一人、一般人の男性がいましたが)

わたしは報道の皆さんがお仕事用のカメラを立てたり、場所を確保した後でも、
その間から悠々と写真を撮ることができました。



観艦式でも、護衛艦の出航作業を艦橋ウィングから見守って写真を撮りましたが、
イージス艦などとはずいぶん様子が違うものです。

まずもやいが細い!
こんな細くても切れたら足を刎ねられるなんて事故になるんでしょうか。

布団収納袋みたいな防眩物も、一人で十分扱える程度の大きさです。



ほいっ!という感じでもやいをわたす、岸壁側の「はつしま」乗員。
これを海に落ちる前に甲板に回収できるかが腕の見せどころ(だったりして)



これだけで「えのしま」の出航作業は終了。
いやー、本当に掃海艇の出航ってあっという間だわ。

そして、次の瞬間、「はつしま」の乗組員は、自分たちの出航作業のため、
すでに岸壁に向かって移動を始めています。
舳先に立っている人は作業を見守る役目の人かな?



次の瞬間、「えのしま」の艦体から強烈なジェットバスみたいな白い波が出てきます。
バウ・スラスターが稼動を始めたのでした。

スラスターというのは英語では”thruster”であり、この単語を引くと
 「(ロケットなどの)小型エンジン」となっていますが、語源の"thrust"は、
「グッと押す」「ぐいっと押しつける」などという意味の動詞です。

これは推進システム全般の総称として使われている名称なので、
たとえば人工衛星や惑星探査機の軌道修正や姿勢制御するものも、
「スラスター」と呼ばれています。

船舶の場合は、「グッと押す」という意味に忠実に、主推進力とは別に
船を横に「グッと押して」動かすためのプロペラを「サイドスラスター」と称します。

主推進ともなる「アジマス(azimuth・方位)スラスター」を搭載している船は
横方向だけでなく自在に動くことができますが、豪華客船や、掘削船「ちきゅう」などは
これを3箇所くらいに搭載していて、タグボートなしで離着岸することができます。

自衛隊の採用しているスラスターは基本このタイプだけらしく、たとえば
掃海艇よりも大きな掃海艦であっても、同じパワーのスラスターで離着岸することになり、
出入港の際には曳船を必要とすることになるのだそうです。

なんかスラスター付けてる意味なくね?


ちなみに、自衛隊では掃海艇をMSC(Mine Sweeper Coastal)と称しますが、
これは世界基準でいうと、「中型掃海艇」に属します。
この訓練には「つしま」という「やえやま」型掃海「艦」も参加していましたが、
この掃海艦はMSO、つまり「Mine Sweeper Ocean」です。

大型化中型かを「外洋」「沿岸」で分けるんですね。
一般に掃海艇は対機雷戦の主力であり、中型掃海艇は、外洋で
深深度機雷を処理する、という分担となっています。


かつては掃海艇より小さな「小型掃海艇」(Mine Sweeping Boats, MSB)というのも
あり、自衛隊でも「小掃」という名前で浅瀬での掃海作業に投入されていましたが、
浅瀬で小型船による掃海は危険が多いため、今では無人の 掃海管制艇(MCL)と
遠隔操縦式掃海具(SAM)の組み合わせに置き換わっています。


(これがかつて”NAMIE”とかつて名付けられていたという” SAM”ですね。
このページの下の方にその”証拠”がありますが、現在はさすがに消されているそうです) 

掃海管制艇は SAMを曳航・管制するための艇で、海自が所有するのは現在2隻。
SAMは全部で4隻活躍中だそうです。


艦首側に搭載したスラスターを「バウ・スラスター」、艦尾側のそれを
「スターン(stern)スラスター」といいます。

タグボートなどが搭載している、旋回性能を持った推進装置を

「シュナイダー・プロペラ」

というそうですが、スラスターに組み込まれる推進装置が
シュナイダープロペラなのかどうかは、今回わかりませんでした。

 もやいが解き放たれ、スラスターの推進によって、あっという間に
「えのしま」は「はつしま」から離れていきます。



わたしが写真を撮っているときには、同行の報道が
必ず同じように写真を撮りまくっていました。

もちろん、「世界の艦船」とかの専門雑誌のカメラマンならわかりますが、
(一例として名前をあげましたが、もしかしたら今回本当にいたのかも)
地元テレビや地元新聞社、そしてK同新聞社のカメラマンは、こんなシーン、
全く採用される可能性もないであろうに、やっぱり撮っていました。

とりあえず撮れるものは撮る、これがカメラマンの習性なのかもしれません。



大型の護衛艦でも必ず、出港時には舳先から数えて2番目に、
インカムをつけた隊員が立つらしいということに気づきました。

さらに、その隊員のインカムのコードは、バルカン砲のサークルの中に
立っている隊員が持っているのかと思ったのですが、どうも色が違うので
別のコードである模様。

ちゃんと等間隔に並んで出航しますが、こういう時帽振れはしません。



 

「はつしま」が繋留している岸壁には、他の掃海艇などから
隊員が降りてもやいを外す作業をしています。

このように僚艦の出航の際に別の着岸している艦から作業をするために
何人かが派遣されて向かっているところを今回見たのですが、
ちゃんと並んで行進しており、しかも歩調が揃っていました。

自衛官はこんな感じで並んで歩くと、たとえプライベートのときにも
歩調を合わせて(しかも早足)いると聞いたことがあったのですが、
こんな早くその実例を目の当たりにする日が来ようとは・・・。




バルカン砲M61はGE社の製品で、ファランクスCIWSにも搭載されています。
確かに銃身が、しうす君の銃と同じだわ。
これは、人力操砲式の艦載版として日本で開発されました。

CIWSが主に航空機の近接防御を目的としているならば、
こちらは水面に浮遊している機雷を射撃して処分することなので、
飛んでくる飛行機とじっとしている機雷では同じ時間に射出される弾も違って当然。
CIWSが 毎分4,500発なのに対して、こちらは発射速度を毎分450-500発に抑えてあります。

普通に武器として使われる場合、バルカン砲M61は毎分6000〜6600発ですから、
かなり簡易化されているということになります。

これを撃つ際にはサークルの中に立ち、ベルトを腰に巻いて、
銃ごと中をぐるぐる回って行う、という点ではアメリカで見た
艦上の「ガン・タブ」と同じ仕組みです。

銃身の右側には薬莢が自動で回収されるポケットのようなものが見えます。
海面に浮遊している機雷を撃つのに、どうして「楯」が必要なのかはわかりませんが、
やはり銃で掃討した場合、爆破の影響を少しでも受けないようにでしょうか。




あえて後ろをボケさせず撮ってみました。
後ろの道路を走る車と掃海艇の甲板、なんだかシュールな絵じゃないですこと?

ところでこのバルカン砲JM61-RFS 、給弾はこのハッチから手動で行うんでしょうか。

従来型のバルカン砲との違いは、遠隔操縦式であるだけでなく、
射撃精度の向上にあるそうです。

「えのしま」と「はつしま」の就役はわずか2年違うだけですが、搭載武器は
日進月歩で新しい機構のものを(ちなみに国産。ライセンス生産していた航空用を開発)
取り入れて行っているんですね。


さて、この岸壁は日向灘を望む細島というところにあって、
全体が半島のように突き出したフォークのような地形の奥にあります。
従って港としては全く波の干渉を受けず、灘に出るまではまるで湖の上を
クルーズしている気分だったのですが、外に出た途端、海面は一変しました。

この季節、強い風にあおられてうねりの強い海にいよいよ出てきたのです。
日向灘というのが太平洋でも、もちろん日本海でもなく、
フィリピン海の一部であるという記述を後で読んで、さもありなんと思ったわたしでした。


続く。 



 

如何に狂風吹きまくも〜日向灘・掃海隊訓練

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掃海艇に乗ったのは一般見学も含めて初めての経験です。
舞鶴や横須賀の軍港めぐりツァーで乗るクルーズ船に比べると段違いの安定性があり、
少なくとも波のない港内を航行している限り、今日は楽勝!に思われました。

しかし、わたしははっきり言って冬の日向灘をなめていました。

この前日、山の上から「ぶんご」が給油しているとき、遠目にも、
甲板が全面的に見えたり、全く見えなくなったり、つまりあの大きな掃海母艦が
波にあおられて大揺れしていたのをさんざん見ていながら、
翌日、同じ海で、小さな掃海艇がどんな揺れに見舞われることになるのか、
神ならぬ身には、というか、掃海艇初体験の身には想像すべくもなかったのです。
(予告編)




ともかく掃海艇は今岸壁(に繋留した僚艦)を出港しました。
鳴り響く出港ラッパをしかとこの耳で確かめ、感慨に耽っていると、
赤いストラップの双眼鏡をつけた隊司令が颯爽と登場しました。
隊司令、誰かに向かって海軍式敬礼中。

うーん、さすがは司令、ラフで貫禄たっぷりの敬礼ですな。

メインマストには、目にも鮮やかな自衛艦旗が掲揚されています。
軍艦マーチこそ鳴らないけれど、掃海艇独特のキビキビしたスピーディな出港に、
護衛艦のときとは違う雰囲気を感じて、期待はいや増します。



外でずっと写真を撮っている報道の人もいましたが、わたしはとりあえず艦橋内に戻り、
操舵の様子を見守ることにしました。

掃海艇の艇長(艦長ではありません)は3等海佐です。
幹部は艇長ほか、船務長、機関長、掃海長。
水中処分員の乗り込んでいる艇には「処分長」がいます。

「航海長」「砲雷長」がおらずにその代わりと言ってはなんですが、
「掃海長」がいるわけです。

掃海長というのは、掃海に関わることすべて、つまり

掃海、敷設、水中処分、射撃、照射、運用、発射及び水測に関すること

を所掌する長なので、掃海艇においてはメインの役職と言えるでしょう。
補給長の仕事は基本的に誰が兼務してもいいそうですが、専門の長はいません。
そういえば副長という役職もいませんが、これは乗員の数が少ないからでしょうか。



掃海艇艇長は3佐ですが、艇長の椅子は赤青2色です。
護衛艦であれば「赤青の椅子は2佐」と説明してしまうところですが、
艇長および艦長であれば、階級が3佐であってもこのツートンカラーの椅子なのです。

出港後、隊司令が

「ここからしばらく何もないので、寒いですから中に入ってください」

と皆を促し、皆そこでぞろぞろと艦橋に入っていったのですが、そのとき

「ここは写真に撮らないようにお願いします」

と、報道に向かって注意がありました。
それが2枚上の写真の3尉が向かっているのと隣のモニターです。
上の写真も、とりあえず艦長の右上のモニターの数字は自主判断で消しておきました。



わたしたちに説明をする隊司令。
今回乗り込んだ「えのしま」、「ちちじま」、そして隣にいた「はつしま」
の三兄弟は横須賀の第41掃海隊の所属で、この方はそのトップです。

「今日この掃海艇の中で一番暇なのはわたしなので、
質問があればなんでも聞いてください」

と笑いを取りながら、実際にも色々と説明をしてくださいました。



激しくぼけてしまいましたが、艦長席の下側です。
やはり掃海艇ですから、椅子にはショックアブゾーバーを搭載しています。
昨日見学した「ぶんご」どころではない衝撃が来ますからね。



「座って見られたらどれだけショック対策がしてあるかわかります。
ぜひ一度試してみてください」

そう言われて畏れ多くも隊司令の席に座ってみました。
ちなみに、掃海隊の司令は2等海佐ですが、椅子は赤です。(護衛艦では赤は1佐)

椅子に落ち着くのにフカフカのクッションの山をよじ登る、
といった感じで、これならショックを全面的に吸収するだろうと思われました。
波の揺れも吸収しそうなので、長時間の航海もここにいれば楽かもしれません。



細島岸壁のある奥まった港を抜けると、すぐに「竹島」が見えてきます。
本当に、全国どこにでもありますよね。「竹島」という名前の島。

竹島は島と言うより本土から繋がった半島のような島ですが、
グーグルアースで見ると満潮で孤立してしまうので、人工構造物はありません。



ジャイロの前の幹部は、掃海艇の場合船務長でしょうか。

船から竹島の端っこが見えていますが、竹島を過ぎると、ようやく
港の外側に出たところ、といった感じです。
海面に波はほとんど見えませんが、風はあるので船は大いに揺れます。



隊司令のヘルメットはいかにも臨時でつけたようなシール付き。
艦橋に幹部用のヘルメットが並んでいますが、掃海艇の場合
掃海作業に入るときには必ずこれを被ることに決まっているのかと思われます。



昨日、桃源郷岬というところから掃海母艦の給油作業を見守りましたが、
そのときに見えていた「枇榔島(びろうじま)」が近づいてきました。
人は住んでいませんが、これもグーグルアースによると、
島の頂上に何か塔のような建造物らしいものが見えます。
この写真を拡大すると、かすかになにかありますが、これ、なんだろう・・・。

秘密基地?



見張りの隊員が着用している赤い手袋も官給品でしょうか。
まるで鍋つかみのようにごついですが、これなら完璧に風を防ぎそうです。

波は穏やかなので一見快適なクルーズのように見えているものの、
実はこの瞬間もびょーびょーと風が吹きまくっていて、わたしなど、

「♪いかに〜きょおふうう〜吹きまくも〜いかに〜どとう〜は〜逆巻くも〜」

という一節が、頭の中にリフレインしたくらいでございます。
そして、わたしも手袋をしてくればよかった、と心の底から思いましたです。


今回は観艦式ではないので、乗り込んでくる「素人」はなく、報道も
少なくとも作業の邪魔になっているという様子はありませんでしたが、
出航作業のときに、何て言うのか忘れましたが、赤くて細いロープが跳ねて、
報道の人のカメラに当たったということがありました。

見ていても気の毒なくらい、近くの乗員は狼狽して、

「だいじょうぶですかっっっ!!!」

と声をかけてきたのですが、本来乗っているはずもないシチュエーションに、
部外者が乗っているわけだから、まあこういうこともあるだろうと皆思ったに違いありません。
わたしもあらためて、危険も起こりうる掃海艇に乗り込んできていることを認識したものです。



彼らは地元テレビのクルーだったような気がする。
訓練海域に到着するまでの間、しばらく全員がこんな感じで
出港の様子と艦橋などを写真に撮ったり、周りの景色を眺めたりして過ごしました。

後方に出港してきた港の入り口が見えています。



日向灘のこの辺りには「クルスの海」という面白い地名もあったりします。
リアス式海岸なので海岸線にも複雑な岩の形が見られるのですが、
この枇榔島は大変特徴があって、無人島なのに専門のwikiもあるくらいです。

それによると、今は無人島ですが、かつて「美女が住んでいた」という伝説があり、
(なんなのこの漠然とした伝説は)「美女島」とか「美女ケ島」という名もあるそうです。
島の形は柱状節理の切り立った岩断崖絶壁だそうなので、どう見ても人は住めませんが。



ちなみに最初の枇榔島の写真では切り立ったナイフのように見えていたのが
この穴の空いた部分で、ここはすでに枇榔島ではなく「タテベ」といいます。
タテベの左の部分が「小枇榔」(こびろう)。
タテベと小枇榔の間にある小さい岩、これが「ブリバエ」。

最後のは、こんな変な名前ならつけないほうがマシ、って気もしますが、小さな岩にまで
名称をちゃんともらっていて、どんだけ愛されているのか、という枇螂島さんでした。

なお、枇榔島は、1キロ半にわたる全島域が日豊海岸国定公園に指定されています。



そのときです。
東の空はこんなことになっていました。

「見てみて、太陽が・・・」

「まるで旭日旗ですね」

少し高くなった朝の太陽が、雲の上から見事な放射状の旭日光を作りました。
思わず見とれ、次に夢中でシャッターを切ります。

海上自衛隊の訓練がこれから始まろうという時、これはなんという吉兆でしょうか。
その途端、

「♪ みーよとおかいのーそーら明けて〜、きょーくじつ高くかーがやけば〜」


何かと言うと脳内で軍歌が鳴り響くこの体質、何とかならんか。



続く。


 



 

ブリーフィングでのある質問〜日向灘・掃海隊

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出航の後、しばらく艦橋の中の装備について説明していた隊司令ですが、
行動海面までまだしばらくかかるので、といって全員に中に入ることを促しました。
これから報道陣用にブリーフィングが予定されているとのことでした。



たしか艦橋から2階分降りたところに、食堂とラウンジのようなところがありました。
ラウンジには本日のメディアツァーのブリーフィングを行うための用意がしてあります。



まずブリーフィングを行う隊司令の権田2佐が挨拶をし、続いて
「えのしま」艇長川島3佐が紹介されました。

後ろのモニターは、わざわざこのために用意されたスクリーンで、
掃海隊の任務と掃海の歴史について、全てを説明してくれる構え。
わたしは今回の訓練見学が決まってから、掃海隊の訓練と、その歴史について
それなりに下調べをしてから臨んではいましたが、このような
レクチャーをしてくれるとは、全く想像もしていなかっただけにありがたかったです。

ブリーフィングは、参加者のほとんどが報道関係者(一般はわたしとミカさん含め3人)
であることから行われたようで、参加者の何人かは取材ノートを広げ、
びっしりと鉛筆でメモを取りながら話を聞いていました。

艇長の後ろはブリーフィング資料のトップページとなりますが、
この写真に並んでいる3隻の掃海艇は、第401掃海隊の3兄弟、(独自の判断で
掃海艇は勝手に男子扱いしております)「えのしま」「ちちじま」「はつしま」。

意外なのですが、3兄弟がこのように並ぶことはあまりなく、珍しい写真だそうです。



まず「機雷戦」そのものについての説明からです。
「機雷」というのが「機械水雷」の略であるということを初めて知りました(笑)



これはアメリカ海軍の強襲揚陸艦「トリポリ」がイラクで触雷したときの写真。
「トリポリ」は「イオージマ」級強襲揚陸艦の5番鑑です。

この「イオージマ」級というのは、全て退役して後継はありませんが、
命名基準というのが「古戦場」で、「トリポリ」も「トリポリ戦争」から取っています。
(海兵隊賛歌の歌詞にも”From the halls of Montezuma To the shores of Tripoli,”とある)

その他の名前がすごくて(笑)

2番艦「オキナワ」、3番艦「ガダルカナル」、4番艦「グアム」
6番艦「ニューオーリンズ」、7番艦「インチョン」

なんかこういう地名を名前にしてしまう感覚が日本人とは違うよね。って超余談ですが。



実際の被害ではなく、実験的に被害を調査するために爆発させたものでしょう。
真ん中で爆発した場合、船はポッキリと半分に折れてしまっています。

先日特攻の「心理的効果」、つまり「戦果」についてお話しする機会がありましたが、
この機雷戦ほど、少しの投資で(一つの機雷は大変安価である)相手に
心理的脅威を与え、経済封鎖をして打撃を与える「費用対効果」の絶大な戦法はないとのこと。

終戦近くの日本に対し、アメリカ軍は「飢餓作戦」(オペレーション・スタベーション)として
日本近海に機雷を撒いて経済封鎖をする戦法をとりましたが、たとえ降伏せず、
襲来する敵機を撃退して戦局をしのぎ続けていったとしても、この作戦によって
遅かれ早かれ物流は遮断されて、日本は”干上がっていた”という予想があるそうです。

小さく簡単であるが、絶大な脅威となる、これが機雷なのです。



先般、機雷の種類について、「係維機雷」、つまり海底に沈められた錘に
繋げられて海中を浮遊しているタイプについてお話ししましたが、
このほかにも機雷の設置の種類はこれだけあるという図解。

海に沈んでいる沈底魚雷がもっとも初期的な形だと思うのですが、
短係止機雷といって係維器に係維索を持ち、海底近くに機雷缶を係維したもの、
もちろん海上を浮遊している浮遊機雷というのもあります。

この中で もっとも最新型で恐ろしいのが、

「上昇機雷」「ホーミング機雷 」

で、いずれも感知すると目標に向かってくるものです。
ホーミング機雷は目標を追いかけてくるもので、探知には高周波が使われています。



前にここで触れた係維機雷の処理のしかたの一つ。
絵が少しわかりにくいですが、今から上を通過して、機雷を切り離します。



切り離されて浮かんできた機雷を、掃海艇に搭載した機銃で射撃し、爆破。
「えのしま」型の場合JMk-61バルカン砲で行います。



これも繰り返しになりますが、感応掃海で機雷に「ダミーの艦体(白い線で描かれたもの)」
を感知させて、爆発を誘うやりかた。
教えていただいたYouTubeで見ると、かなり速いスピードで曳航していました。



そしてこれ。
あの黄色いS-10という掃海具を使ってやる方法。
S-10を使うときには「機雷掃討」と称します。
今回わたしたちが見学したのはこの訓練です。

機雷の横に爆雷を設置して、掃海具を揚収してから遠隔操作で爆破します。



原始的というか、水中処分員が直接コード付きの爆雷を仕掛け、
これも遠隔操作で爆破させるというもの。
もしかしたら海上自衛隊の水中処分員というのは、自衛隊でもっとも
実質的に危険と隣り合わせの任務なのではないかと思いました。

この日見学したもう一つの訓練は、「ヘロキャスティング」(hellocasting)といって、
ヘリコプターのhellを使った、おそらく造語だと思いますが、(辞書になかった)
これはヘリコプターから水中処分員がrapelling降下して海に入り、海中の機雷に
爆薬を仕掛けてくる(もちろん揚収してヘリが離れてから爆破)というハードモードでした。




というわけで掃海の方法についての説明を終わり、掃海隊の組織についてと、
所持する掃海艇、掃海艦、掃海母艦、処分艇などのご案内。

「このえのしま型が、現在の自衛隊でもっとも最新鋭の掃海艇となります」

心なし誇らしげに紹介する第411掃海隊司令でした。


次に今回の訓練の概要が説明されました。

まず、訓練期間は9日。

参加兵力は、艦艇23隻、航空機11機、隊員数1100名。

訓練項目は「機雷敷設」「各種機雷掃海」「EOD訓練」「発着艦訓練」。



洋上での給油も、実は訓練の一環だったようです。



さて、ここからはちょっとした機雷掃海の歴史のようなことになります。
図は、日本列島を取り巻く、大東亜戦争の時期に敷設された機雷のマップ。
アメリカ軍の「飢餓作戦」より、日本側が防潜で撒いた機雷の方が多かったりしますが、
米軍が撒いたのは、列島を取り巻く港など近海だったので、こちらの方が実質脅威です。



「日本人は戦後一人も戦争で死んでいない」というのは厳密には間違いです。

国民には極秘で、自衛隊の原型である警備隊時代以前から掃海は行われ、
朝鮮戦争のときには掃海艇が出動して、この作業で「戦死者」も出しています。

掃海の方法が確立していなかった頃のことで、「特攻」(機雷海域をわざと航行し爆破させる)
も行われたことがある、という例を呉の資料館で見た覚えがあります。



そして、日本の戦後初の国際貢献となったペルシャ湾派遣。
そのときの掃海隊司令は、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の沖縄戦防備隊隊長太田実中将の息子、
落合2佐であったことは以前もこのブログでお話ししました。



いまだに掃海隊は、必ず戦時中に敷設された幾つかの機雷を発見し処理しているのです。
陸上ではいまだに土中から不発弾が出てきたりして、陸自の特別処理班が出動しますが、
海の機雷処理は「住民が避難」などということのないせいか、報道を聞くことはありません。

そこで、黄色で囲んだ「毎年機雷処分を継続」というの、
これ覚えておいてください。(試験に出ます)


一通りの説明を終わって、司令は「何か質問はありませんか」と皆に聞きました。
一人、全国紙の新聞記者が、全くピントのぼけた質問をし(あまりにも瑣末なことで
司令も”それは知りません”と答えるしかなかったし、わたしも内容を覚えていない)
その次に手を挙げたのが、地元テレビの記者兼キャスター(ただし音声専用)の女性でした。

いやー、この人がなんといったと思います?

「今回行われるような訓練は、実際に何かに生かされているのでしょうか?」


次の瞬間、わたしは「え?」と声が出てしまいましたし、司令の顔にはありありと、

「おまえはこの20分間、何を聞いていたんだ」(怒)

という表情が浮かんだ・・・・ようにわたしには見えました。

戦後、引き揚げ船や学童を乗せた船が触雷して多くの犠牲を出したのち、
先達が命の犠牲まで払って、日本という国を物理的に縛っていた機雷の海を啓開し、
そしていまだに毎年幾つかの機雷が見つかっているのを処理し続けている、と・・・、
いかに機雷の恐怖が甚大なもので、海自はそれに対峙するために、日本の海で
機雷の犠牲を二度と出すことのないように、自らも危険な訓練を日夜行っているのだと、
一から子供にもわかるように懇切丁寧に説明した挙句に・・・・・この質問ですよ。


表情には出しませんでしたが、その場にいた何人かの自衛官は、内心無力感と失望と、
所詮マスコミに対する「話の通じなさ」と疲労感を覚えたのではなかったでしょうか。

司令はそれに対し辛抱強く、実際の掃海隊の訓練はすべて「実践」につながるもので、

「”何に生かされているか”というのは、わたしもわかりません」

というような、内心の反発と皮肉が込められた(ような)返事をしました。
しかし、この記者(ミカさんが後でいうところの”あのバカ”)はその次に
とんでもない地雷(機雷じゃなくってね。誰うま)発言をぶちかましてくれたのです。

「安全保障法案が成立しましたが、今後、集団的自衛権の範囲で
掃海隊が海外での活動を行うことになりますか」

おいおいおいおいおいおい(笑)

コワモテの顔がかすかに歪んだかに思われましたが、司令は
うんざりしたような表情をを辛うじて隠して、こうビシリと返しました。

「わたしはそういうことをお答えする立場にはありません」

「(あたりまえだろうがあっ!)」(←わたしの内心の声)

ていうかこの人、ここに来るまで「掃海」って言葉を聞いたことなかったのかしら。
そして20数年前、国会で散々牛歩戦術までして反対した野党やマスコミの
「戦争に巻き込まれる!」という非難を圧して、ペルシャ湾で掃海が行われたことを
もしかしたら知らないのかしら。

あの頃の日本が、すでに「国際貢献」として自衛隊を派遣しているのにもかかわらず、
そして現在、海上自衛隊が持つ掃海能力は、ずば抜けて世界一と賞賛されており、
ホルムズ海峡の掃海を海自に任せたい、と世界中が希望しているにもかかわらず、
いまさら・・・今更「集団的自衛権の行使によって可能になる掃海」・・・だと?

ミカさんではないですが、わたしもまた、記者だかキャスターだか知らんが、
この人はもしかしたら1、物事を理解する能力が甚だしく低いか、
2、日本語が通じないのか、3、全く歴史を知らないのか、
はたまた4、「憲法」を基準に是か非の二元論でしかものを考えられないのか、
そのうちどれなんだろうと真剣に思いました。

そして、この「度し難い馬鹿げた質問」をしたのが、他ならぬ報道関係者だったことに対する
絶望感と、「お約束」をこの目で確認したことに対する奇妙な安堵を同時に味わったのです。




海上自衛隊の掃海隊が水中処分員などを投入して収容した津波被害による
犠牲者の遺体は425柱。
全体の死者数から見ると微々たるものかもしれませんが、これらの遺体を、
隊員たちは海中に潜り、瓦礫を押しのけて、その下から見つけ出しているのです。


よりによってこの説明を聞いた直後に、

「この訓練は何かに生かされているのか」

と平然と聴いて憚らないその脳みそを、このさい機雷といっしよに爆破させてやりたい。
とわたしは内心ムカムカしながら、ミカさんと目で合図しあいました。
 

この、ホーミング機雷よりも確実に頭の悪そうな記者が制作した当日のニュースを、
わたしは帰りの飛行機を待つ空港のラウンジで見ることになります。

そのニュースによって、わたしは彼女の質問というのが「局の意向」であり、
つまり掃海隊の「武力」というのは、日本が集団的自衛権により参加させられる
「戦争」のために蓄えているもの、すなわち「憲法を踏みにじる違法行為である」
という考えのもとになされていたものだと知ったのです。


しかし、それについては、また後日(笑)



続く。


 



 

「S」は掃海の「S」〜日向灘・掃海隊訓練

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毎日毎日遅々として進まない掃海隊訓練報告ですが、のんびりやっているうちに
実際の掃海隊関係者からちょっとした訂正が入ったので、お知らせしておきます。

士官寝室のロッカーの上に、洗面器が備え付けてあった件ですが、
条件反射的に「船酔いが起きた時のため」と断言してしまったところ、
あれは「小間物」受けではなく、ゲストがお風呂で使う普通の洗面器だそうです。

後だしになりますが、いやー、なんかおかしいと思ったんですよ。
洗面器を使う、というのはあくまでも「応急」で、最初からそうなら、
ちゃんと中身が見えない袋とかを使いますよね?

自衛隊の艦内浴場には銭湯のように洗面器備えておらず、
各人は自分専用の洗面器を持っています。
客人が船に泊まる場合に使っていただくために、備品として置いてあるものだと思います。 

ちなみに、石けんやシャンプー、かみそりなどの、ホテルでいう
アメニティもありませんので、短期に訪れる来客用のものは準備しています。
海上自衛官が要務で来訪する場合、その辺は心得ていて、たいがいのものは持参しますが、
他自衛隊や民間の方の中には、事前にお知らせしていても、
ホテルに泊まるようなつもりで着替えしか持って来られない場合もあります。

ということで、海上自衛隊ならではの気配りがここでも垣間見えるのでした。
しかし、他自衛隊はともかく、民間で自衛艦の士官寝室に寝られる人がいるのか・・・。

「カチッ」(わたしの野望に火がついた音)

というのは全くの冗談ですが、まあそういうことだそうですのでご参考までに。



訳あって波乱のまま幕を閉じたブリーフィングが終わり、そろそろ訓練が始まる、
ということで皆艦橋までもう一度戻ることになりました。

途中にあった「えのしま」の輝かしい優秀鑑定認定プレート。
なんとえのしまくん、横須賀地方隊で3年連続優秀鑑を張っている超優等生でした。
おまけに、平成26年度の水中処分、占位運動、NAVCOMEXの競技で全て1位。

なんだか全然わからない競技だけど、とにかくすごいのはわかった。
最後はたぶんだけど通信の何かだと思う。

水泳でも艦単位で表彰されているし、機雷戦戦技で優勝しているし、掃海隊司令も

「とにかく優秀なんですよ!」

とまるでできのいい息子の自慢をするような相好で言っておられました。 
 


さて、艦橋から後方に出ますと、信号旗のラックがあります。
テッパチにカポックというフル装備も凛々しい隊員が、今から信号旗を上げる構え。 



これは状況的にこれから行われる訓練に関係する合図に違いない。
下の赤黄斜めストライプは「本艦は走錨中である」・・・?

走錨って、錨を下ろしているのに流されてますってことよね。
なんか違うな。

あ、もしかしたら2種の組み合わせによる信号かな?

私(本船)は演習中である。私(本船)を避けられたい。
I am carrying out exercises. Please keep clear of me.

これだ! 




ドイツ軍風の?ヘルメットがいつ見てもかっこよす。
っていうか、わたしこれをリアルに見るのって実は初めてなんですよね。

カポックの背中に貼ってある横長のは蛍光素材、そして「3131」の番号は、
万が一、本 人 確 認 が で き な い 状 態 になった時識別するため?



旗のなびき方を見ても風の強さがわかっていただけますでしょうか。
少し見えにくいですが、本艇は隊司令が乗艦しているので隊司令旗が掲げられています。



旗を揚げた後はロープを固定。



訓練海域には自衛艦以外が入り込まないように結界()が張られています。
海域は思ったより広く、訓練参加の掃海艇が地平線にぽつんぽつんと認められるほどでした。
今訓練海域にやってきた、これは・・・・



あっ、「ぶんご」さんだ!
わたしたちが先に出向したけど、海面到着はあまり変わらなかったわね。



これですよ。件の地元テレビのクルーは。
奥の茶色いコートが「この訓練は何に生かされているのか」、そして
「集団的自衛権の範囲で海外で掃海するのか」と質問した女性記者。

ローカルテレビって人材がさぞ払底しているのだな、と失礼ながら思っていたら、
彼女のリポートは「声だけ」で、顔出しはありませんでした。



各種掃海具の装備してある後甲板に隊員がスタンバイしています。
この場所は、その階に降りていくラッタルの降り口にあたりますが、
この後本職のカメラが皆ここに集合したので、わたしは一歩後ろから見ました。



はい、こんな感じです。



この手は隊司令で、「この隊員(2141番)がここからの操作します」
と説明中。
2141番さんは内心、カメラうぜーと思っていたと思います。



今から海中に投入される掃海具S-10、「えのしまくん」。
そう呼ばれているかどうかは知りませんが、便宜上そうしておきます。
他の掃海艇所属のS-10よりお目目がぱっちりつぶらで可愛いぞえのしまくん。



今からえのしまくんを海中に投じる隊員の皆さんアップ。
ヘルメットをかぶっていない人が一人いるけどいいんでしょうか。
直接作業しない人だから?



えのしまくんを進行方向を向けた形で宙吊りにし、まずクレーンを海上に突き出します。



静かに慎重に、海に浸すような雰囲気で海面レベルに設置。
決して「投下」というようなラフさはありません。

何しろこのS-10、ソナーはもちろん、海中を捜索し、その映像を
艦橋に送るカメラを搭載している上、光ファイバーのケーブルが掃海艇につながっています。

優しく、そして丁寧に海に「放してやる」といったやり方で、
波など全く立っていないことからもその慎重さがお分かりいただけるかと思います。



えのしまくんの背中から吊り降ろしたケーブルが外されました。
見ていると、そのままえのしまくんは自分で泳いで行きました。(冒頭写真)

海上自衛隊の掃海技術は世界トップレベルと言われます。
その理由は、戦後の掃海隊に始まった長年にわたる実戦の積み重ねにあります。

当初は水中処分員の人力に頼る部分が多かったのですが、危険を避けるため、
遠隔操縦・自走式の機雷処分具を使った方法が模索され始めます。
そのために防衛省技研が開発し、三菱重工が製作したのがこのS-10、
水中航走式機雷掃討具で、開発期間は1998年から2003年まででした。

Sー10というからにはS-1から始まる掃海具があるはずですね。

「海上自衛隊の装備一覧」を見ると、S-1はないのですが、

S-2 音響掃海具

S-4 初の自走式処分具

S-6 磁気掃海具

S-7 中深度用(1型)と深深度用(2型)の機雷処分具

S-8 深深度用係維掃海具

S-10 機雷探知機・機雷処分具・可変深度ソナーの機能を持つ自走式

とあり、(欠番は試作?)現在S-2以外は全て現役です。

ホーミング機雷などが現れ始め、遠隔地から機雷を掃討する必要ができたので、
自走式の掃海具が世界で開発され始めたのですが、
いずれも機雷処分機能を備えておらず、発見した機雷を処分するためには
別の機雷処分具を併用する必要がでてきました。
そこで機雷処分具と自航式可変深度ソナーを兼用できる世界初の実用機として
このS-10が国産開発されたのでした。

で、このSは、実にシンプル、「掃海」の「S」なんだそうで、
開発し、命名した人が全くこだわらなかったというか、むしろ投げやりです。

まあ、あまりにも凝りすぎて「リヴァイアサン・キラー」とか
「シーデビル・クラッシャー」みたいな中二病系に行かれるよりは好感が持てますが。


さて、海中のえのしまくん、これから何をするのでしょうか。


つづく。





掃討具S-10回収〜日向灘・掃海隊訓練

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水中航送式機雷掃討具S-10、通称「えのしまくん」(わたしが勝手に命名)
が海中に無事投下されました。
投下したというより「進水した」といった感じの慎重さでしたが、
海に放たれ、まるで怪我を治してもらったイルカのように泳ぎだしたえのしまくん、
あっというまに我々の視界から姿を消しました。

「ここからは中のモニターで見ていただいた方がいいです」

案内の第41掃海隊司令の言葉に、我々はほっとして(寒かったし)
艦橋の中に入りました。



艦橋に戻ってみれば、いつの間にか全員が戦闘服で任務についています。
こういうフル装備の自衛官を見るのは、映画やアニメ以外のリアルでは初めて。

掃討具S-10は、自走式でカメラを搭載しており、その映像は艦橋と
C ICのモニターに映し出されます。
ただし、「いろいろとありますので撮影はご遠慮ください」とのことでした。

今回のレポート連載中に掃海隊関係者から補足をいただいたのですが、
その際、やはりあまり細部にわたって書かないでおいた方がいい、 
ということも、特に防衛の観点からあるということを教えていただきました。

(ですから「ぶんご」副長の解説で聞いたことも、 全ては明らかにしておりません)



えのしまくんが一生懸命ターゲットに向かっている間、
「えのしま」の周囲では訓練を行っている僚艦の姿がありました。

これは掃海艇「あいしま」。「すがしま」型掃海艇の8番艦です。




こちらは10番艦の「みやじま」。

「あいしま」「みやじま」共に、横須賀の自衛艦隊隷下の掃海部隊である
掃海隊群に属する呉所属の掃海艇です。

掃海隊の組織というのは、一般人にはすさまじく分かりにくいのですが、
「自衛艦隊」というのは各地方隊と同じく、防衛大臣の直下にあり、
横須賀にありながら「横須賀地方隊」とは別の同位組織であるという・・・。



ブリーフィングでも組織図が出てきて解説されましたが、
これを見てもそのときには正直さっぱり訳がわかりませんでした。
災害派遣の記事から引用した、

災害派遣の正面ではない、呉、佐世保、舞鶴の
各地方隊所属の水中処分員の応援を要請した。

という意味がわからなかったのも当然ですね。
そこで、コメント欄の雷蔵さんの

掃海部隊だと、第1、2、51、101掃海隊が全国区の掃海隊群で、
それ以外が地方区になりますが、掃海隊群司令が指揮出来るのはこれだけで、
その他の掃海部隊や各総監部の水中処分隊は、各地方総監の指揮下で、
掃海隊群司令は動かせません。

という説明にいまさらはたと納得させられました。
護衛艦隊は「全国区」で、地方区で対処できない事態が起きた時に対応する、
という言い方だと大変理解しやすかったです。

要は、指揮系統を一系にしないということが危機管理となっている、
とわたしは理解したのですがそういうことですか?



左回頭している「あいしま」くんですが、後部がほとんど海中に没しそう。
いかに海がうねっているかってことです。
写真で見ても、波頭に白波が立っているので、かなりの荒れだと判断できます。



ぐるっと回頭していく「あいしま」くんとすれ違うヘリコプター。
ヘリの離着艦も訓練項目に含まれている作業です。



ヘリと「あいしま」の距離はほとんどなく、テールとマストが接触しているみたい。
画面右側の海面には、すでに水中処分員のボートが待機しているのが見えます。

この後行われるヘロキャスティングでは、ホバリングしているヘリから
EODがラペリング降下して作業を行いますが、その際も海面に待機して
いざという時のために人員を配備しているのです。



ヘリがずっとホバリングしていたのは「うらが」の上空でした。
「うらが」の後ろにいるのは「ししじま」。
沖縄基地隊の所属で、今日の訓練が終わったら帰還だと聞いた気がします。



降下を行うためか、超低空で移動するヘリ。
海面からはローターの巻き上げる海水が白い水煙を作っています。

 
そこに(わたし的に)すっかりおなじみの掃海母艦「ぶんご」さんが。
皆が行動海面でうろうろしているのではなく、それぞれなんらかの
訓練を行うために移動をしているのだと思います。



「うらが」とすれ違う「ぶんご」。

訓練海域は大変広く、海上自衛隊は地元の漁協や港湾と連絡を取り合い、
商業船や漁船が一切入ってこないようにして訓練を行うのですが、
それがあまりにも広すぎて、23隻だというこの日の参加艦艇のうち、
わが「えのしま」の周りで訓練を行ってそのすがたを見ることができたのは
ほんの一部でしかありませんでした。

「うらが」はこの後「えのしま」と接舷する予定になっていたので、
近くにいるのは当然ですが、「ぶんご」を見られたのは嬉しかったです。

さて、艦橋内の小さなモニターでは、掃海具「えのしまくん」が捉えた
カメラの映像が映し出されていました。

「あの白く見えるのが訓練のために設置されたダミーの機雷です」

白黒モニターの(流石にカラー映像ではない)不鮮明な映像が
白くぼんやりと光る四角い対象物を捉えました。

えのしまくんは、この「機雷」を見事に見つけ出したのです!

ばんざーいヾ(。。*)ノ 

この「見つけ出す」ということがすでに凄いことだったわけですが、
わたしも含め、報道陣は画像をボーッと見つめ(撮影禁止なので)
あまりその凄さについてはピンと来ていないように見えました。

えのしまくんはソナーと識別カメラで機雷を見つけ、
係維索切断器で索を切断するか、沈底機雷処分用爆雷で処理するか、
浮上型処分用爆雷といって、係維索切断器と同様に係維索にはめ込むと、
係維索に沿って上昇して機雷を爆破処分するもので処理します。

ところで、わたしは今回の訓練に参加することが決まった時、
資料として読むことを勧められた「世界の艦船」の掃海艇特集で、
機雷を処分する水柱が上がっている写真を見て、てっきり日向灘でも
こういうことをやってくれるのだと思い込んで行ったのですが、
日向灘や伊勢湾の訓練はあくまでも設置訓練がメインであり、
実際の爆破処分を訓練として行うのは、硫黄島での「機雷処理訓練」
だけであるということに、この瞬間ようやく気付いたと告白せねばなりません。

漁場であり商業港である日向灘で、そんなことできないよね常識的に考えて。

後で考えると当然なのですが、参加するまでは、

「ニコン1のモーションスナップショットなら
爆破の瞬間などの撮り逃しが絶対ないらしい!」

などと密かに作戦を練ったりしていたのでした。(−_−)・・・



S-10の揚収まで、見張りを厳となしている艦上の隊員。



装備をアップ。
手に持っているのはやはりマイク?



揚収作業がいよいよ始まります。
隊員が手にしているオレンジ色のコードは、誘導電線。
動力用の送電線と信号伝達用の光ファイバーを一体化したもので、
母艇の艇尾から出されており、「えのしまくん」の後部に結合されています。



あたりのあった魚が引き上げられて海面に見えるのと全く同じ図(笑)
これはでかいぞ!



カメラマンが写真を撮っているところは後部甲板より一段上の部分です。
投入の時にはわたしもここにいて、カメラマンの皆さんのうしろから
カメラを突き出すようにして撮影したのですが、今回はそれを避けて、
ひとり上の階に上がってそこから撮りました。


ここなら乗組員の作業の邪魔にもならないし、こんな写真ははっきり言って
下の階からだと角度的に撮れなかったでしょう。
というわけで、わたしはひとり、無欲の勝利をかみしめたのでした。

別に誰と戦っていたわけでもありませんが。


自衛隊では釣りのことをF作業というそうですが、これも一種の「F的作業」です。
巨大マグロの世界記録は680キロ、えのしまくんは身が詰まっているので、 こう見えて995kgもあるそうですが、大きさ的にはほとんどクロマグロと同じくらい。



えのしまくん、海面に浮上。



繊細な機構を搭載しているので、慎重に引き揚げを行います。



揚収作業のために上半身をほとんど外に乗り出している人あり。
こんな作業をしているのにヘルメットなしとは・・・。

と思って拡大してみたら、新聞社のカメラマンでした(笑)
カメラマン魂ってやつですか。



とりあえず海上に引き上げた後は、空中でクレーンの向きを変えます。



ぐいーんとえのしまくんがこちらを向きました。
お、えのしまくんの前下部にそりみたいなのが見えるけど、
これはカメラとセンサーを保護するためのものかな?

ちなみに、S-10の胴体下には、処分用の爆雷を1個吊り下げることができます。



顔の前部の黒丸の部分がセンサー、その下に見える
丸い三つの筒の真ん中がカメラ、その両脇がライト。(多分)

前面上部のお重箱みたいなのが、搭載している処分具でしょうか。



ともかく無事に帰ってきたS-10えのしまくん、機雷も無事掃討した
(ということになった)ようです。
これで掃討具による訓練の見学を終え、次はいよいよヘロキャスティングです。

ところで、この黒い網の提灯みたいなのも信号標なんでしょうか。


続く。
 

ヘロキャスティング〜日向灘・掃海隊訓練

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機雷掃討のための自走式S-10-1通称「えのしまくん」の機雷掃討訓練が終わりました。
メディアツアーに公開する2つの訓練のうち一つを消化したのです。



左下の二つの旗旒は

私(本船)は演習中である。私(本船)を避けられたい。

という意味なのですが、訓練が終わった今も下げられてはいません。
自衛艦旗の下の司令官旗は、隊司令旗ですが、第41掃海隊の隊司令が
3等海佐であるため、上下に赤の縁取りがあり、切れ込みの入った形の
「隊司令旗 乙」が掲揚されています。

隊司令旗乙は、2等海佐以下の隊司令に対して掲揚されます。



次は「えのしま」から見学するヘロキャスティングです。
・・・・が、まずは訓練が行われる海面に移動。

いずれの航行においても、海面の見張りは途切れることなく行われます。
 


こちらも双眼鏡で見張りを「厳となせ」しています。
訓練が海面で並行して行われ、さらに一般人を乗せているので余計ですかね。



行動海面の水平線にこちらを向いて見えているのは掃海隊の艦船。
参加艦艇は全部で23隻です。



そのとき、海面でホバリングしていたヘリが移動を始めました。



洋上に停泊している掃海母艦「うらが」に高度を落としながら接近中。



飛行甲板への着艦をただいまから行います。



「うらが」の乗員は、甲板にはおらず、皆舷側に避退?しており、
格納庫に黄色と黒の斜めダイヤ柄シャツを着てヘルメットをかぶった
管制員が、両手に赤と緑の旗を持って管制の合図を送っています。



ローターの巻き起こすダウンウォッシュ(垂直方向への推力で発生する下向き気流)
で、空気が歪んで見えます。



上の写真と比べて、「うらが」の甲板が向こう側に傾いているのがお分かりでしょうか。
うねりの大きな波のせいで、甲板はグラグラと波打っているのです。

これはいかなる状況下でも着艦を行うための、ヘリパイロットの訓練でもあるのです。

先日、空自の新米女性救難ヘリパイロットを描いた、「空へー救いの翼」を見ました。
正パイロットが目を怪我をしたので、副操縦士である彼女が、
緊急に護衛艦「はるさめ」のヘリ甲板に初めての着艦を行うのがクライマックスシーン。
揺れる甲板に思わず怯む彼女に向かって、艦長の中村雅俊(!)が、

「どんなに海が荒れていても必ず船が止まる瞬間がある。焦らないことです」

とアドバイスをしていましたが、そうなんですか?



見事着艦成功。



「うらが」全体図。この状態で細部を見てみると・・。



待機していた隊員が両舷の舷側沿いに数人ずつヘリに向かっていきます。



艦首側を仔細に見れば、「うらが」が投錨しているのも分かりますね。



ヘリの車輪に甲板から出てくる降着装置を設置する係がすぐさま作業を行います。



そのとき近くの海面にふと目を転じると・・・・・
水中処分員が4人乗り込んだディンギーがぷかぷかしています。
彼らの脇に機雷のようなものが浮いていますが、これはもちろん
本物ではなく、ダミーかラペリングの「目標」ではないかと思われます。



おおっ!いつの間にかヘリに今から訓練を行うEODが乗り込んでいる。



全員ヘルメット着用、一番後ろ以外はウェットスーツ着用です。


この写真を撮る時、波のせいで足場がグラグラ、被写体の向こうもグラグラ。
望遠レンズで対象を拡大すると、すぐにフレームから外れるので撮影は結構苦労しました。 




水中処分員を乗せたヘリが「うらが」を離艦します。
着艦よりは簡単なのではないかと思いますがどうでしょう。



処分員たちを乗せたヘリは、訓練の行われる海面に移動。



と、 EODを乗せたディンギーが急に移動を始めました。
あれ?さっきまで横に浮いていた機雷みたいなのがなくなっているけど、
どこかに設置をもうすませたのかな?



ヘリは移動して「えのしま」からは右舷前方に占位しています。
ちなみにこのときのシャッタースピードは250分の1。
ローターの動きを出すために、しかし機体がぶれないようにギリギリの妥協点です。
しかもこの日は乗っているフネが上に下にとヨーイングしていたため、
船を撮るよりこちらの方が大変でした。



どうもこの海面に降下する模様。
ヘリの行き脚がとまりました。



そのまま高度を下げていきます。
水中処分員が降下するために最低の高度を保持している模様。



ヘリから降下用のロープが海面まで投下されました。



まず一人目がラペリングしてきます。
(降下をよくリペリングといいますが、rappellingなのでこちらが正しいかと)
 あとで司令に聞いたところによると、本日降下訓練を行うEODで、
今日が初めての海中への降下、という隊員はいないとのことでした。

しかし、海中に潜って行くときには、いかに訓練しているベテランでも
緊張するものではないかと思われます。




ロープを伝って降りたEODが海面に達しました。

陸自の地面への降下よりは海面に降りるほうが物理的ショックはないとおもいますし、
万が一手を離すことがあっても、地面に叩きつけられるのと海面では全く違います。
しかし、黒々とした深い海に生身でそのまま入っていくという恐怖がこちらにはあります。

ヘリのローターの巻き起こすダウンウォッシュのしぶきで、視界も著しく悪くなりますし。



一人が降下したあと、間をおかずにもう一人が降りていきます。



ここでブリーフィングのヘロキャスティングの図をもう一度。
降下したEODが機雷に爆薬を仕掛けます。



爆薬を仕掛けたあと水中処分員を揚収。



爆破。というわけですが、実に原始的です。
処分用の爆雷はC4爆薬を使います。




そして二人目の水中処分員が海中に入ります。
二人で処分を行う理由は、一人が点火ケーブルをセットし、
もう一人が信管をはずすということだったような気がします。

万が一、一人目に何か事故が起こったときのためでもあるでしょう。



二人のEODを降ろしたあとロープは一旦引き上げられます。



しばらく上空で待機したあと・・、



またしても高度を下げます。
ダウンウォッシュの霧の向こうにEODのディンギーが見えます。



海中から一人目のEODが引き上げられました。



ラペリング降下は自力で行いますが、揚収は体に索を固定して引っ張り上げてもらいます。



EODの装着している足ひれの形がよく分かります。二股なんですね。



水中処分員による爆破処理も、実際の爆破は硫黄島訓練でしか行われません。

EODが手作業で行う処理方法には、機雷本体を爆発させるやり方と、
信管を無効化して機雷を確保するやり方がありますが、
どちらにしても生身の人間が行うため、危険と隣り合わせです。

ヘロキャスの他に、ディンギーから海中に入り爆破処理を行う訓練があります、
この場合、作業が終わっても、 EODがディンギーに乗り込み、
完全に安全距離を確保したあとでないと、処分爆薬の点火は行われません。



足の生えたMHー53E(笑)

このMH-53Eは、三菱重工の製作した掃海専門のヘリコプターで、
国内では最大の大きさを誇るヘリで輸送にも使われるくらいで、
3つあるエンジンのパワーにより複合掃海具などの小艦艇を曳航することが可能です。

近い将来これらは引退してCH-101に置き換わっていくということですが、こちらが実は、
現場からあまり評価されていない(つまり駄目出しされている)という噂もあります。

イタリアとイギリスの会社が共同開発、というだけで、素人考えでも
なんとなく大丈夫かなあとイメージから思ってしまうわけですが、
こういう先入観って、案外どの分野でも当たっていたりするからなあ・・・。

実際のところは知りません。



続く。


 


「うらが」に接舷〜日向灘・掃海隊訓練

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ヘロキャスティング、海自的省略による「ヘロキャス」が終わりました。
午前中の訓練の見学はこれで終了です。
自衛隊の組んでくれたスケジュールによると、先ほど水中処分員を乗せるため 
ヘリを離着艦させるため投錨して停泊していた掃海母艦「うらが」に、
「えのしま」を接舷し、ツァー参加者ご一行はそちらに移乗することになっています。

掃海艇が母艦に接舷するのも、給油作業と同じく訓練の一環ということになりますが、
我々に掃海母艦の中を紹介し、お昼ご飯をそこでいただくという話でした。
「向こうでカレーが食べられるらしい」という噂に、思わず心が浮き立ちます。

昨夜わたしは特別に掃海母艦「ぶんご」の見学をさせていただいていますが、
予定通り「うらが」に移乗できるとなると、これで掃海母艦見学全制覇!
という快挙になるわけです。(掃海母艦は「うらが」型2隻だけなので)



司令官の椅子に座っているのは、先ほどブリーフィングをしてくれた掃海隊司令。
くだらねー質問にそつなく答えておられましたが、内心を勝手にお察しします。


「うらが」に向かって航行中は、メディアの皆さんはあちらこちらで独自に
乗組員の解説を受けたりして過ごしています。
ツァーの中に、後で話して知ったところによると地方紙の新人記者と
やはり若いカメラマンの男女二人がいました。

航行の間、彼女には乗員のうち一人(ブリーフィングにもいた幹部)が、
特に丁寧に説明をしてあげている様子を、わたしは何度か目撃しました。
やはり自衛官としても、彼女のような若い記者には、より正しく取材してほしいと
思うが故の熱心さなのだろうな、と思いつつ横目で見ていました。

彼女も同行のカメラマンも、自衛官のことを「船員さん」と呼んでいたくらいで、
後で話をしたとき、自衛隊の取材は初めてだと言うことでしたが、ミカさんが

「資料とかちゃんと調べて、正しく書いてくださいね」

と明らかにブリーフィングで質問した女記者を意識したアドバイスをすると、
彼女は素直に、はい、と頷き、その様子に初々しさと熱意を感じたものでした。 



ちょうどわたしが艦橋にいると、入港準備ラッパが吹鳴されました。

「どみそどー・どみそどー・どみそどっみそっそそー」(固定ドで表記)

他艦に接舷するときも「入港準備」ラッパを吹くというのは初めて知りましたが、
「これから作業にかかれ」という合図として鳴らされるというなのでしょうね。

隊員の表情が、まるでセッション中のジャズトランペッターみたいでかっこいいぞ。



艦橋の窓から「うらが」が近づいてくるのが見えてきました。
いや、「うらが」ではなく「えのしま」が近づいているのですが。



接舷のときにジャイロレピータの前に立つ艇長。

掃海艇の艇長というのは、大型護衛艦よりある意味職人芸的な操艦を要求されます。
前回、「掃海艇の戦場は後甲板である」と書きましたが、
実際に、掃海艇が 掃海索や掃海電線を艇尾から海中に投入するときには、
後甲板に移動して、海中に入る索具とプロペラの位置関係を確認しながら操艦するのです。

その時には船務長を艦橋に立たせて、伝令が伝える艇長の操艦号令を確認させるとともに、
進行方向 周囲に危険がないか報告させます。



掃海艇の形状というのは、このことを考慮したものになっています。

国産最初の掃海艇「かさど」 型、「たかみ」型までは視界の確保のために煙突がなく、
自動車の排気のように両サイドにパイプで排出していましたが、
海洋汚染防止法の適用でこれができなくなり、煙突を装備するようになりました。

その煙突がどうしても邪魔、ということで「すがしま」型以降の掃海艇は、
煙突を両舷左右に分けて2本煙突にしたため、後方の見通しが良くなりました。

掃海艇の艇長は大航海時代の船乗りよろしく、艦に起こっていることを
逐一確認しながら操艦を行います。
そのためには旗甲板に後ろ向きに立って、後甲板を見ることになります。

後部側を見通す方向に余計なものがあっては困る理由がこれです。

「うらが」が近づいてきました。
この乗組員は頼まれて写真を撮っているのかな?



「えのしま」は「うらが」の後方から寄り添うように接舷していきます。







「赤いロープが跳ねた」話をしましたが、実はこのときでした。
「えのしま」の細い赤の索が、このカメラマンに当たったのです。



「大丈夫ですか!」

「はー大丈夫ですぅー」

問題の質問をした地元テレビの女性記者共々、ニヤニヤしているので、
全然大丈夫だったわけなんですが。

索は今彼らの向こうにあります。

 

手を挙げているように見える隊員は赤い索を持ち上げています。
あー、人がどかないのでとっても邪魔そう。 

「はい、索を前に移しますのでご協力お願いしますー」



さて、そんな大騒ぎ?に気を取られているうちに、「うらが」はすぐそこに。
こちらの双眼鏡と何かわからないドラムのようなものに向こうの舷側を取ってみました。



そこでふと気付いたのですが、あれ?向こうでも赤い索を持っている。



そして青い大型洗面器・・・・・・何に使うのだろう。



「うらが」舷側アップ。
ね?細い索持ってますよね。

後ろから見ているサングラスの隊員は、水中処分員らしい。



下の会では何が行われているのかな。
入港作業のときには皆赤いヘルメットをかぶっています。



防眩物の設置みたいですね。



昨夜「ぶんご」を見学したとき、一番最後に見せてもらったのが
この舷側にくりぬかれたような部分のデッキでした。
なんのためにあるのかと思っていたら、ここで稼働例を見ることになりました。

甲板階から渡された索を、この部分のロープ通しの穴から出して、
ここに防眩物を設置しているのです。



ここにも見えるなあ。細い索。
この細い索がどこまで繋がっているのかはこの写真ではわかりませんでした。



そこでこれ。
上の会では何が行われているかというと、細い索の先をさっきから持っていた
洗面器に浸しているように見えるのです。

これは一体なんの作業・・・・_?



上と下の階でこんな感じ。
どなたかこの赤い索と洗面器の関係がお分かりの方おられますか。



というわけで防眩物の用意おけー。



こういうシーンをビデオカメラに撮って、一体何に使うつもりなんだろう。
全国紙の記者。



「えのしま」のスラスターの立てる波が真っ白に見えます。
接舷のときにはスラスターの操作を絶妙に加減してゆっくりと近づいていきます。



ふと気づけば、艦橋には向こうの艦長が出てきていました。



太い索はもやいで、お互いを結ぶためにあるのでしょうか。



直立しているラッタルが降ろされ、両船のデッキをつなぐわけですが、
ラッタルの両脇に、例の洗面器に赤い索を入れている乗組員が二人。



こちらの防眩物は海に浸すのではなく、中腹にぶら下げています。
おそらくここにしないと艦体の形の関係で当たってしまうのでしょう。



明らかに水中処分員みたいな人がたくさんいる!
こ、これはもしかして、向こうに乗り移ったら水中処分員のお話も聞けたりする?



水中処分員の皆さんは、船の上ではすることがないと見た。
サングラス着用が多いですが、何か意味があるのでしょうか。

ところで、彼らの右下に、例の洗面器が見えるぞ。



超拡大。
洗面器じゃなくてカゴですねこれは。
で、先にアイスクリームコーンみたいな物があるんですがこれは。

もしかしたらこれがサンドレットと呼ばれる投げ渡し用の索でしょうか。



いよいよ接舷の瞬間です。
波の高い洋上で、何の苦労もなくこういうことをやっていますが、
これとても、たいした技術なんだろうなと思います。



こちらでも艦服に防眩物の用意。

ところで青と白のチェッカーには何か意味がありそうですが・・。



うおおおおっ、いつの間に!
いつの間に行われたのか全く気づかぬうちに、「えのしま」の艦首部分が
「うらが」ともやいで繋がれていました。
どうやってもやいを受け渡ししたんだろう・・・・。



ちなみにこれが接舷前の「えのしま」甲板。
投げ渡すためのもやいが綺麗に並べられています。



いよいよ接舷の瞬間が近づいてきた頃、こちらにもいつの間にか
舷側に艇長の姿があり、むこうには隊司令も出てきています。



というわけで、この瞬間、接舷成功。
さて、これからラッタルを降ろして、両舷を接続させる作業が始まるのです。

ところで、わたしはめでたくラッタルがかかってから、海の上、
結構な高さのあるラッタルを渡ってむこうに行くのは、おそらく
高所恐怖症ならずとも結構怖いのではないかとここにきて急に心配になりました。

ラッタルには手すりが付いているとはいえ、ご覧の通り舷の高さが全く違うのです。
むこうに移る時にはまだいいとして、帰りは坂を下りることになります。

万が一滑ったりして海に落ちたとしても、海に飛び込んでくれる人が売るほど
たくさん向こうには待機しているとはいえ・・・・。

はたしてどうなるのでしょうか!?


続く。

 

洋上の「帽触れ」〜日向灘・掃海隊訓練

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日向灘沖で行われている海上自衛隊掃海隊訓練。
我々メディア(わたし以外)を乗せた「えのしま」は、沖に投錨している
掃海母艦「うらが」に今接舷を果たしました。

いや、完璧に接舷をすることが、互いをラッタルでつなぐことであれば、
まだそれはこれからの作業です。
入港作業は何度となく見てきましたが、船同士の接舷作業は初めてです。
一体どうなるのか。



「うらが」には掃海隊の水中処分員が多数乗艦しています。
EODと呼ばれる彼らは、掃海母艦からヘリコプターでヘロキャスティングと呼ばれる
海中での機雷処分訓練を行うために、ここに待機しているのです。

おそらく、もう訓練を済ませ、帰艦している EODもいるでしょう。

そんな EODの一人が、舷側に立って接舷作業を眺めていました。



このウェットスーツは風を防いで艦上では快適そうですが、
水に濡れたあとはやはり辛そう。
この下には水着を着用しているのでしょうか。



いよいよ掃海艇に向かってラッタルが降ろされることになりました。
「うらが」と「えのしま」では甲板の高さが違うので、ラッタルは
「うらが」から下に向かって架けられることになります。

双方の作業にあたる隊員が両舷に集まりました。



ラッタルの先端には索が取り付けてあり、両側から索を緩めながら
こちらの舷にかけ、それをこちら側の隊員が固定するようです。



ロープはどうやらラッタルの真ん中、折りたたんでいるところに付けられています。

ロープを下すのは手作業ではありませんが、
後ろの滑車のようなところを作動させているのは人間です。
手前の作業員が手で合図を送りながらラッタルを伸張させていきます。



ラッタルは山に降りた畳まれており、半分は階段でなくストレートです。
向こうからは途中まで真っ直ぐで、それからこちらに向かって階段を降りてくる形です。



わたしは信号機の置き場越しに作業を眺めていました。
ここなら作業の真正面だし、一応旗置き場が緩衝材となって
万が一の時も安心していられるような気がしたのです。



ラッタルの「山」がこちらに届いたら、赤いヘルメットの二人がそれを確保し、
こちら側に設置するという構え。



しかし作業は遅々としてはかどりません。
一つ上の写真とこれを比べていただければわかるとおもいますが、
この日の波のうねりのせいで、お互いの舷が2m、ひどいときには3mくらい
揺れてなかなかラッタルを捕まえることができないのです。



こちらの揺れが一番高くなったときでないと、ラッタルに手が届きません。
動揺により互いの舷がちょうどいい高さになる瞬間を待って
波を見送るだけの、もどかしい時間が過ぎていきます。



そのうちなんとかラッタルを捕まえることができました。



向こう側の作業員がラッタルに登り、固定作業に入ります。
その後手すりを立ててロープを張るのでしょう。

・・・・・と、そのときです。
ひときわ強い縦揺れが「えのしま」を襲い、舷側からラッタルの端が外れました。
がたーん!とすごい音がしたかと思ったら、ラッタルの端は大きく跳ね、
わたしが寄りかかるようにして立っていた信号旗の収納ラックにぶち当たったのです。

途端にその辺にいた乗組員が、

「ここは危ないから下がってください!」

と血相変えてこちらに向かって怒鳴り、真っ青になったわたしは・・・・



ここまで退避(笑)

作業は最初からやり直しです。
しかしわたしはこの辺りから思い始めました。
こんなに強いうねりの中、2隻の船を、ラッタルだけで接舷できるのか?
それに万が一、ラッタルを渡るときに今のような波が来たら?と・・。



さらに思いっきり後ろに下がってみました(笑)

実は「うらが」に異動が決まったとき、わたしたちは

「荷物は皆持って行ってください。こちらに荷物は残さないでください」

と言われていました。
「うらが」でお昼ご飯(わたしたちのカレーが用意してあるという噂あり)
を食べ、さらにはヘリの着艦と離艦を見学するという予定のあと、
もう一度「えのしま」に戻って帰港することになっていたためではないかと思います。

しかし、ラッタルが暴れてもう一度やりなおし、ということになったとき、
息を飲んで作業を見守っているメディアの皆さんに対し、

「向こうに移るときには大きな荷物は持たないでください。
三脚などは皆置いて行ってください!」

と注意勧告がなされ、たちまち甲板には報道陣の荷物が山積みされました。

「ハシゴを渡るときには両手を開けるようにしてください!」

うーん、なんかすごい大事みたいになってきてるんですけど。
まるで飛行機が不時着水したみたいな・・・って縁起でもない!



(時間の経過を表す捨てゴマ)



それからしばらく、乗員たちは奮闘していましたが、ラッタルをかけることはできません。
皆がどうなることかと息を飲んで見守っていると、「うらが」の甲板上に突如、
掃海隊群司令が姿を現しました。
(BGM:「亡国のイージス」より”A Nation's Pride )



掃海隊群司令は海将補をもってこれにあたる、つまり掃海隊の一番”偉い人”です。

司令自ら、この接舷は不可能であることを判断し、中止を決め、
そしてこうやって自ら説明とお詫びをメガホンで行うことにされたようです。
呆然とそれを聞く「えのしま」甲板の人々。

ちなみにこちらにいる制服は広報の隊員で、メディアツァーのエスコートのために
わざわざどこかからか出張してきて、この日乗り込んできたようでした。



司令に状況報告している第41掃海隊司令。
説明が終わった後、海を挟んであちらとこちらで、知り合い同士が挨拶を交わします。

実は今回、わたしがこの訓練を見学させていただくことになったのも、
この掃海隊司令に話を通していただいたという事情がございました。
当然お目にかかるのは初めてで、本来ならば向こうに移乗してからあらためて
ご挨拶させていただくつもりをしていたのですが、それも叶わず、
こちらから声をかけて海越しにお礼を申し上げることになってしまいました。



しかしこれは賢明な判断だったというべきでしょう。
さっきの写真とこの写真を比べても、いかに動揺が激しかったかお分かりだと思います。
こんな状態で、万が一、一般人に何かあったら・・・・・。

まあ、もし海に落ちるようなことがあったとしても、即座にEOD一個連隊が飛び込んで
寄ってたかって助けてくれそうですが。



近くにいた乗組員に、

「(移乗が)中止になったのはわたしたちが一般人だからですか」

と尋ねてみると、

「はい、自衛官だけなら、どんな方法であってもなんとか行きます」

とのことでした。
どうしても必要なら、ボートで後部ハッチから上がるという方法をとったりするようです。
人員移乗用のクレーンという手もあるそうですが、さすがの自衛官も、
こちらはあまりいい気持ちがしないのではと思われます。



司令が去った後は、こちらが「出向用意」を行う番です。

向こうのクレーンを作業している人、何をしているのだろう。



サングラスの水中作業員たちがかっこよす。
こういう人たちのサバイバルでチャレンジングなお話も聞けたかもしれないのに(T_T)




出航はまたもやあっと言う間でした。
艦首同士を繋いでいたもやいも、あっというまに外され、「うらが」の舷側が遠ざかります。
ミカさんが知り合いの水中処分員さんたちに手を振って、彼らも・・、



「どうもっすー」



そのとき、遠ざかる(っていうか、こっちが離れて行っているんですが)
「うらが」の総員が「帽振れ」している姿が見えました。
(BGM:「亡国のイージス」より「The Courage To Survive」
 


艦橋の艦長(一番右)始め操舵室の皆さん方も。



下されることのなかったラッタルの横で、接舷作業に奮闘してくれた乗員も。

ヘルメットの下に布のキャップをかぶる人がいるんですね。



しかしこんなに早く「うらが」に「帽触れ」で送られることになろうとは、
夢にも思っていませんでした。



移乗が中止になって、カレーが食べられなかったこと、
「うらが」の内部やヘリ離着艦が見られなかったこと、そして
群司令にちゃんとご挨拶ができなかったことはとても残念でした。
しかし、それより何より、このとき「うらが」に移乗することができていたら、
安定性のある大きな掃海母艦、しかも投錨中であることで、おそらく
このあと見舞われることになった船酔いとは、無縁でいられたはずだったのです。

・・・・が、それはまたこのあとのお話になります。


赤ヘルの軍団を乗せて「うらが」から遠ざかる「えのしま」。
これから、わたしたちはどうやって過ごすのでしょうか。
そして、肝心のお昼ご飯は一体どうなるの?

「今ちょっと考えます」

と隊司令。
隊司令の危機管理能力並びに応用力が問われる瞬間?



護衛艦畑から掃群司令に配置されてやってくる自衛官は、一様に、
まず洋上で揺れて振れ回る錨泊した母艦に掃海艇が横づける、
今日のような作業を見て、びっくりするのだそうです。

つまり今日わたしが体験した、掃海隊がいかに特殊な現場であるかということを
象徴する作業というのも、掃海屋にとっては「よくあること」であったということです。


宮崎から戻り、訓練見学参加の労をお取りくださった”偉い人”に
後日、この日の報告とともに移乗できなかったという話をしたところ、

「それは大変すみませんでした」

と全くその方には責任もないのに謝られてしまいました。
しかしわたしは、これは、最も掃海隊の掃海隊らしい一面を目の当たりにできた、
望んでも得られない貴重な体験であったと今にして考えています。

続く。 

 

「掃海艇の戦場」〜日向灘・掃海隊訓練

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補足です。
「黒い球」についてメールで教えていただいたので、このことを少し。



掃海作業に従事する船舶は、海上衝突予防法第27条第6項に規定する灯火、
または形象物を掲げなければなりません。
これはこの法律にある「球形の形象物」で、黒球と呼ばれます。

旗旒による国際信号とともに、この形象物を高いところに1個、
その下の左右に1個ずつ、計3個掲げられていたはずだということです。

日本においては海上衝突予防法という国内法で規定されていますが、
これは1972年の海上における衝突予防に関する条約(COLREGS)に準拠 した、
万国共通な信号です。

http://www.mar.ist.utl.pt/mventura/Projecto-Navios-I/IMO-Conventions%20%28copies%29/COLREG-1972.pdf

一般の船乗りが取得する海技士(昔の航海士)の資格、及び
海上自衛隊の船乗りがとる海技資格(運航1級~4級)、あるいは小型船舶操縦士、
いずれ の資格試験にも出るごく基本的な信号であり、
船乗りなら「漁船のおっちゃんでもわかる」信号だそうです。

http://www.mlit.go.jp/jmat/monoshiri/houki/yobouhou/yobouho27.htm

この信号を掲げている船は、操縦性能制限船であり、かつ掃海具や機雷処分具を
海中に投入している船であることがわかります。
つまり、自由に運動できる船は、運動性能に制限された状態にある船の運動を
妨げないように航行することが義務付けられているのです。

ということでした。 




さて。

「今何をするか考えます」

あまりの波のうねりに、予定されていた掃海母艦への移乗が中止になり、
いきなりすることがなくなった我々一行に向かって、掃海隊司令は
頼もしくもこのようにきっぱりと言い切りました。

そして、とりあえず全員を士官室に案内し、すかさず室内のモニターで
掃海隊に関するビデオを放映するという気の利かせぶり。
さすがはこういうことに慣れている海上自衛隊です。

陸空もそれなりにそうでしょうが、海を相手にする海自は
予定が自然任せで予定通りにいかないことを知っています。
従って、このようなことが起こった時にはすぐさま責任者である司令が
すべての段取りを考え、それに従って部屋に案内したり、各部に連絡したりが
遺漏なく行われるのでした。

「とりあえず食事を用意させるように言っています」

とこれも頼もしいお言葉。
ちょうど昼時で、予定通りであれば「うらが」に移ってすぐ、わたしたちは
おそらく昨夜「ぶんご」で見学した「偉い人用の部屋」で、
カレーライスをご馳走になっていたはずだったのです。

この日は金曜ではなかったのでカレーが出されるというのはもしかしたら
噂だったのかもしれませんが、海自のおもてなしはカレーである、
という世間の認識と我々の期待はきっと裏切られることはなかったと
わたしは今でもそう信じているのです。(おおげさだな)

「えのしま」の艇員がお昼ご飯を食べている間、司令は士官室の我々に
中の案内をすることをまず決定しました。

「ご興味のある人はどうぞ」

という言い方で、決して参加強制ではありませんよ、という感じ。
わたしはもちろん、部屋を出て行く司令に真っ先に従いましたが、
よく知っているのかそれとも取材には直接関係ないからか、
部屋に残ったりする人たちも何人か(というか結構)いました。

その時に「勝手にいろんなところに行かないでください」とみんなは
釘を刺されていましたが、掃海艇は狭い上、特に後甲板には
掃海具がぎっしりと搭載されていますから当然の注意です。



外に出た司令が真っ先に案内したのが「えのしまくん」でした。
先ほど、立派にお仕事をして帰ってきたばかりです。
すっかり乾いているようでしたが、よくよく見ると少し濡れた後がありました。

「先ほど訓練に使用した水中航走式機雷掃討具S-10です」



えのしまくんが艦橋に送っていた映像が、白黒の小さなモニターで分かりにくかった、
ということを書きましたが、えのしまくんがいかにソーナーを搭載し、
自分で機雷を探してくれるといっても、アプローチを行うのは人間です。
その手がかりになるのが、ソーナーの探信画像とあのカメラ画像だけであり、
えのしまくんを海に放り込みさえすれば、何もかもやってくれるわけではないのです。





司令がこういうと、驚いたことに同行の記者がこう言いました。

「そうとうってどう書くんですか」

まあわたしだって、ヘローキャスティングのヘローのスペルはなんですか、
とは聞きましたが、掃討くらい常識でわからないもんですかね。
というか、さっきの説明で君は先生の話をちゃんと聞いていたかい?



掃海と掃討の違い、というのは一言で「機雷を爆破するか無効化するか」でしょう。
掃討は掃海隊の主流といってもよく、最先端の技術が投入されています。
機雷も進化し、ステルス性が増していくのといたちごっこのように
掃討の方法もまた進化していくわけです。

また、できるだけ無人化を図り、人員の損傷の可能性を減らす方向にあります。




「この下には爆雷を吊り下げることができます」

ちなみに、S-10の事後事業評価では、「使用前・使用後」の評価として
次のようなことが挙げられています。

【達成された効果】

本開発において、下記の技術を確立したことにより、機雷の捜索・探知・処分等を
効率的に実施し得る水中航走式機雷掃討具の装備化が可能となった。

ア 探知領域拡大技術
  ソーナーの高性能化により、機雷の探知領域を拡大することが可能となった。

イ 誘導制御技術
  海中において水中航走体を、目標機雷へ自動誘導することが可能となった。

ウ 追従制御技術
  水中航走体の位置を監視することにより、
  水中航走体と母艇との距離を一定に保つことが可能となった。

エ 低雑音化等
  水中航走体の音響的、磁気的な雑音発生の低減により、
  高性能な機雷への接近が可能となった。

ちなみに製作したのは三菱重工ですが、三菱のHPには機能についての説明は
いっさいありません。なぜだろう(棒)



「この目は、自分たちでシールを貼ってつけたんですよ。
掃海艇の隊員はこういった道具に大変愛着を持っています」



えのしまくん海中に放流の過程をずっと見ていたわけですが、同時にわたしは
「うらが」との間にラッタルすら掛けられなかったあの動揺を見ました。
つまり、掃討具を投入&回収するときにも、あの時のような動揺が襲えば、
この高額な(幾らか忘れたけど)機械は艦体に激突して破損する可能性もあるのです。

掃海隊員は、チームワークと日頃から訓練で培った技術とで困難な作業の事故を未然に防ぎます。




これは、S-10のあるところから艦首側の艦橋の側壁にあたるところですが、
ここには魚雷を引き出すためのハッチが取り付けられています。
安全守則には「火薬庫」と表示されており、

「温度は5℃から38℃の間、湿度は80%以下に保て。」

「対潜弾を格納する時には信管を外せ。」

「庫内には二人以上で入れ。」

など、ものものしい文言が書かれています。
湿度が80%以下、というのは湿気てしまうんでしょうかね。

二人以上で入るのは、何かあった時に知らせに行く係が必要?



引き出された爆雷などは、天井から下がったクレーンで降ろされます。



後ろ甲板には爆雷を移動するためのレールが床に張り巡らされています。



掃海艇によって曳航され、ダミーの艦体を知覚させることによって
機雷を爆発させる感応掃海を行うための磁気掃海電線。
右の部分はフロートになっていますね。



これらのコードを巻き上げるための電源スイッチ。
大きなプランジャーみたいなのが「巻き上げ」で、右下は速度の調整用。



掃海艇とは「索を操る船」であることが実感出来るこの光景。
いまだに船の上でこれだけのロープを扱っている「軍艦」はおそらく掃海艇だけでしょう。
まるで帆船時代の船のように、膨大な量の索をさばき、重量物を扱う。
同じ海自の航空畑の自衛官をして、

「すべての船の中で掃海艇が一番過酷だと思った」

と言わしめるだけの荒々しい現場がそこにはあります。
ある掃海関係者は奇しくもこう言いました。

「掃海艇の戦場は後甲板です」

クレーンとウィンチで機雷を運用し掃海具を海に投入する、これ即ち、
掃海艇にとっては護衛艦のミサイルや魚雷を扱うのに相当する「戦闘」なのです。



左に先ほど「えのしまくん」S-10を操作したクレーンがありますが、
このクレーンはS-10のみならず、たとえばこの小型経維掃海具の浮標(フロート)を
海中に投入する時にも活躍するに違いありません。

なんども説明していますが、この経維掃海具は、
フロートをつけた索を掃海艇が曳航し、 機雷の上を通過します。




フロートで浮かせ、デプレッサー(沈降器)で断面図のように
索を沈めつつ前進することで、カッターの部分が海底に錘で固定され、
海中に浮遊している機雷の糸を切り離すようになっています。

前にも言いましたが、掃海艇そのものが「掃海具」の動力なんですね。



感応掃海具1型音響掃海具発音体。

従来の磁気掃海具と音響掃海具の機能を統合したお得な2ウェイ掃海具で、
2008年導入され、「えのしま」型以外には「ひらしま」型が、
そして先日進水式を行った「あわじ」型掃海艦にも搭載される予定です。



機雷がこんな無造作にこんなところに〜〜!

と思ったら、やはりこれは訓練用の機雷だそうです。

「イタリア製です」

と司令がおっしゃるので

「マンタ式ですか」

と尋ねるとビンゴでした。
ってか、わたしイタリア製の機雷なんてこれしか知らないんですけどね。

マンタ式は浅瀬に設置する機雷で、水陸両用車や小型潜水艇を狙います。
この独特な形はステルス製があるといわれており、本物は緑いろ。
これは訓練用なので目立たせるようなオレンジ色に塗装してあるんですね。

ペルシャ湾への国際派遣で行われた掃海は、海上自衛隊にとって、
得難い実戦となりましたが、特にこのマンタ魚雷との戦いは、
当時の掃海艇では大変な困難となったため、このときの経験を生かして、
新しく外国の機雷掃討・掃海装備を導入した掃海艇「すがしま型」が建造されました。

それ以降海上自衛隊では、MANTAの訓練型を導入して、機雷処分訓練を行っているのです。



続く。

 




 

可搬式減圧室とダメコンの角材~日向灘・掃海隊訓練

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掃海隊司令による臨時艦内ツァーが続いております。

掃海隊の戦場たる後甲板にまず出て、そこにある掃海具、掃討具、
そしてそれを運ぶための様々な物々しい道具の数々を見学したわたしたちは、
機雷掃討具S-10の置いてある左舷側を艦首に向かって歩いて行きました。



そこには、掃海母艦「うらが」でみたダイバーの減圧症を治す、
減圧室の小型バージョンが設置されていました。

「うらが」の減圧室の説明の時にもお話ししましたが、この機械は
減圧症を治すためにカプセル内の圧力を高めるためのもので、
「減圧する部屋」ではなく「減圧症を治すために内部を高圧にする」ものです。

人間の体は1気圧に対応するようにできていて、例えば低気圧が近づいただけで
体の調子が悪くなったり、古傷が痛くなったりすることがあります。
これは体が「不調を訴えている」わけです。

生身の人間が潜る範囲でいうと、10mごとにだいたい1気圧かかりますから、
30mくらい潜ると、じつは相当な圧力がかかっているのですが、人間の体は
破れない水袋みたいなものなので、ある程度までは圧力に耐えます。
ただ、耳の中の空間は圧力の影響を受けるので、耳抜きをしないとえらいことになります。

潜って行く時にはいいのですが、浮上してくる時が問題です。
急激に気圧が変わると、これは前にも説明しましたが、潜水病(ケーソン病)といって、
呼吸によって血液内に取り込まれた気泡が消えなくなってしまうのです。


余談ですが、わたしは一度か二度、あの伊33号の悲劇について書いたことがあります。
事故で海底に沈んだ伊33潜の生存者は二人いました。
何年も艦内の一部に乗員の屍体が腐敗の進行しない状態で残されていて、
戦後その艦体が引き揚げられたときに、駆けつけて作業を見ていた生存者が、
若い面影のままのかつての戦友の死骸と対面し、
「おい起きろ、総員起こしだ」といった、というあの事件です。

助かった二人のいたのは、艦長もいた中央艦橋の部分でした。
どうせこのまま時間が過ぎ去ったら全員死ぬのは間違いない、それなら
一か八か脱出できるかどうか賭けてみようではないか、ということになり、
ハッチが開けられ、その区画の乗員たちが海中に脱出したのです。

艦内の椅子に座ったまま皆を見送ることを決めた艦長をのぞき、
そのコンパートメントのほぼ全員が海底33m(!)から海中に出ました。

この深さは、ダイバーがアクアラングをつけて潜水できるほぼ限界です。

そして結局この二人を除いて全員が助からなかったわけですが、
狭いハッチから出るまでに呼吸が続かなくて亡くなった者、
外に出たが海面に達するまでに息ができなくなった者、そして
なんといっても、急激な気圧の変化にやられて助からなかった者が
かなりいたのではないかと、わたしはこの話を読んだ最初に思いました。

この二人はよほどずば抜けた肺活量をもっていたうえ、与圧された艦内から
水圧の高い海底に出ても支障がなかったというくらい、
強靭な身体能力と何より強運の持ち主だったということなのでしょう。



ところで、わたしはこの前日、掃海母艦に据え付けてある減圧室を見ています。
掃海母艦は必ず訓練などのときに掃海艇と行動を共にしているのですから、
ダイバーになにか異変が起きたときには、即座に母艦に運び込むのだと思っていました。

ところが、ここに小型の減圧室が供えてあったので結構驚きました。
「えのしま」型のスペックには、減圧室の記述がありませんし、
ウィキペディアにも載っていませんから、結構この減圧室の検索は難航しましたが、
やっとのことで見つかった自衛隊中央病院の医師による論文、

「高圧則改正において検討すべき課題について 論点整理のための資料」

の文中に、この装置の記述をみつけました。

従来、減圧症発生時の対応は、まるで未来の棺桶のような(!)
一人用の再圧装置で応急的に症状の軽減を図っていました。

ただ、同論文によると、この一人用可搬式装置は、中に人を入れてしまったら
その後経過を見ることができず、回復に要する時間にも対応が不十分で、
さらには患者のバイタルが不安定だと使用できないという問題があったそうです。

そこで、介助者が一緒に入ることのできる第2種装置を備えた掃海母艦や、
横須賀の自衛隊病院にヘリで搬送する、というのが従来の対応となっていました。

しかし、重症患者の場合は、現場での救急再圧をしないと手遅れになります。

これも同資料によると、民間の潜水業者へのアンケートでは、全体の32%が
減圧症、または類似の症状になったことがあると答えました。
しかしそのうちの16.7%が「黙って我慢した」(おいおい)と答えており、
救急再圧が全くできていないというのが現状である、というのです。

そこで、介護の人間と二人が入れる大きさと、搬送できる小型化を
いわばハイブリッド開発してできたのが、この可搬式二人用減圧室です。



この長い筒の部分、ここに人が一人、寝た状態で収容できます。



ここで加圧されて縮んだアンパンマンを見ているときには、この手前の
丸い部分に入るのも患者なのだろうと勘違いしていたのですが、
じつはここに座るのは介護者であることが論文によって判明しました。




その論文からの引用です。
寝ている人をベッドごと引き出して、心臓マッサージもできると。
しかし、閉所恐怖症だとどちらもこの装置に入れませんね。




この論文は平成24年度に書かれていますが、
タンクそのものの制作年度は2011年と、少しそれより早いです。
バロテックハニュウダという会社は、医療関係の設備などを手掛けており、
高気圧酸素治療装置もその一つです。
減圧症のみならず、突発性難聴、脳塞栓、腸閉塞、減圧症などの血行障害や
圧力障害などに起因する様々な病気の酸素治療を行うことができるとか。



一般の見学者が乗るので、このようにダイバーの装備を展示していました。
これらは、ごく一般的な日本製の市販品を使用しているそうです。

ヘロキャスティングの状況を遠くから見た時に、フィンが二股でしたが、
これを見ると魚の尾のような形状をしているのがわかります。

こういう潜水服のことを正式には開式自給気潜水器というそうです。
このタイプは手軽ですが、排出した呼気が大量の泡を生じさせるので、
静粛性が要求される作業には向いていないという面があるそうです。

この開式に対して、自衛隊でしか使われない特殊な「半開式スクーバ」というのもあります。
呼気から二酸化炭素を吸収しつつ、酸素と窒素の混合ガスを加えるというもので、
空気ボンベよりも長時間使用でき、アルミ製のタンクなので感応機雷にも対応できます。



「それでは前甲板に移動します」

歩いていく掃海隊司令の後ろ姿。
ところで、あれ?



この板切れみたいなのは何かしら。

「船に穴が空いたときに突っ込んで海水が入るのを止めるんです」

「本当ですか!?」

思わず失礼にも本当ですかなどと口に出てしまいました。
ちなみに、このあとすぐに「ジパング」の戦闘シーンを観たとき、
ちょうどこんなのをつっかえ棒のようにしているのに気付き、

「あ、あれだ!」

と心で叫びました。
てことは掃海艇のみならずイージス艦にもこういうのが置いてあったはずなのに、
まったく記憶がないのはどういうわけ?


とにかく、この角材は、ダメージコントロール、「ダメコン」のための一具です。
ダメコンとは、「ダメなコンテンツ」のことではなく(←)

物理的な攻撃・衝撃を受けた際に、そのダメージや被害を必要最小限に留める事後処置
(wiki)

のことですが、艦船においてはそれは一言で「沈ませないこと」に尽きるかと思われます。
軍艦には火災・衝突・座礁あるいは爆発等に備えてあらゆるダメコンのための
機構が備わっており、この角材はなんと原始的な、と思われるでしょうが、
防水作業のために必要なダメコンツールなのです。

船の底が破口し水が侵入してきた場合、毛布・マットや箱パッチを当てて、
その上から当て板を当て、その近くにロンジビームなどを利用して支柱を立てます。
そして、当て板との間に梁支柱を突っ張ることで、水圧に対抗するのです。

そこで活躍するのがこの艦内に備えられた木製の角材で、
その場で必要な長さに切り出して用いられるということです。

ということは、艦内にはこれを切り出すための鋸も積んでるってことなんですね。
こりゃ驚きだ。




同じレベルで見るバルカン砲。

「この機銃で機雷を掃討します」






この丸い輪のところに立つわけかな?

しかし、最近の機雷は機銃などでは処分できなくなっていると聞きますね。
あくまでもあらゆる可能性を考慮して訓練を行うために稼働しているのでしょうか。


続く。

 

ま・た・も・や・ヘロキャス見学~日向灘・掃海隊訓練

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「うらが」に乗り移ることができなかったため、わたしたちの休憩所として
「えのしま」は士官室を提供してくれました。




掃海艇の艇内らしく、木製で作ることが可能な家具類は全てこの通り。
木の温もりを感じさせるインテリアが気持ちを和ませます。

壁に掲示されている自衛官命名書の命名人は北沢俊美元防衛相。
「えのしま」が就役したのは忘れもしない前々回の観艦式の年、つまり3年前。
そのときの観閲官は、民主党党首野田佳彦元総理でした。

民主党の防衛大臣が、軒並み目も当てられないくらい酷かったのはご承知の通りです。
その中で北沢防衛相だけは、なぜか自衛隊の内部で評価されていた(らしい)
ことをわたしはちょっと聞き及んだのですが、未だにその理由はわかりません。

誰が命名しようと自衛艦にはなんの関係もないこととはいえ、
巡り合わせで田中真紀夫に命名された船よりは(実際にあったかどうか知りませんが)
「えのしま」にとっては、北沢防衛大臣のときでラッキーだったのかも、と思いました。



東海道五十三次の「えのしま」。
江ノ島に渡るあの連絡道のようなのは人工ではなかったんですね。
当時も地続きで人が歩いて渡っていた様子が描かれています。
大昔は引き潮のときだけトンボロ現象によって形成された砂嘴が現れ、
歩いて渡ることができたそうですが、あるときから海上に出て現在に至るということです。
 

この部屋は掃海艇の船室らしく適度に手狭で暖かく、
居心地もよかったので、テーブルでうたた寝をする人もいました。
わたしは船酔いの後何も口にできなかった昼食が終わり、ここに来て
少し休憩をしていましたが、午後からの訓練見学が始まると聞いて上に上がりました。


さて、「うらが」と「えのしま」の接舷がうねりが強すぎて中止になったあと、
午後にどうするのかを考えます、と言った掃海隊司令に向かって、
艇内ツァーを始める前に、一人の男性(非報道系)が、

「ヘロキャスティングをもう少し近くで見られないのか」

とリクエストをしているのをわたしは耳にしました。
確かに、この「えのしま」から見ることのできるものは限られています。

「しかし、あれ以上近くに寄ることは・・・できないんですよ」

司令は渋りましたが、軽い押し問答の末、

「わかりました。なんとかするように言ってみます」

と結構な決心を思わせる口調でそう請けあいました。
わたしは、本来報道に見せるのが目的ではない訓練に
参加させてもらっただけで十分とするべきと思っていましたので、
この注文にはいささか驚きを禁じ得ませんでした。

わたし自身もそうじゃないかと言われれば返す言葉もありませんが、
報道のためのツァーに紛れ込んでいるからには、ただの一般人ではなく、
おそらく自衛隊的には無下に扱えないような紹介者がいるはずです。
この初老の男性は、例年そういった伝手でこの訓練に毎年参加しているようでした。

しかもこの男性、自分の帰る時間が何時だから何時に帰港してほしい、
などと艦の行動まで指図しておられたくらいなので、きっと、
よっぽど偉い人の紹介で参加していたのに違いありません(棒)



艦橋に上がったとき、ちょうど「うらが」にヘリが着艦し、
中から水中処分員が降りて歩いているシーンに遭遇しました。

全員がウェットスーツを着たままで荷物を持っています。
バディ二人ずつの3組のグループであろうかと思われました。



甲板の水中処分員の皆さんをアップ。
もし「うらが」との接舷が滞りなく行われていたら、わたしたちは
「うらが」の応接室でカレーを食べ(多分ですけど)終わり、
この着艦をどこからになるかはわかりませんが艦から見学していたはずです。



完全に彼らが甲板から姿を消すと、今度は代わりののEODが。



腰のベルトは赤、背中に「海上自衛隊」の文字が読み取れます。



彼らが乗り込むと、ヘリの降着装置を外すために8名の隊員がお仕事。



外し終わって退避。
この間ローターは回りっぱなしなのですが、
ローター稼働中のヘリコプターの真下を歩く隊員は、例外なく
首をすくめるようになってしまうらしいのに気がつきました。

まっすぐしゃんと頭を掲げて歩いたって全く支障はないのに、
人間ってどうしてもそうなってしまうんですね。
わたしはヘリコプターに乗ったことはありませんが、もし
そんなことになればきっと首を竦めてしまうんだろうと思います。



そして発艦。
この写真ですが、シャッタースピードを80分の1で撮ってみました。
250分の1がヘリを撮るときの「ぎりぎり安全ライン」と言われていますが、
このときには「(こちらの)船が止まる瞬間」だったのか(笑)このスピードで
奇跡的にブレないで撮ることができました。ハラショー。




発艦したヘリはまたしても後ろにじわじわと下がっていき、
ヘリの起こすダウンウォッシュが海面に白い霧を作ります。



EODを乗せ、また再び訓練海域に向かうMHー53E。
あれ?気のせいかなんだかさっきより写真が撮りやすいぞ。

ここでわたしは、「えのしま」が、たかが一参加者のリクエストに答えて、
先ほどの訓練見学のときより、かなり近くに艇を寄せていることに気づいたのです。

無茶しやがって(AA自粛)

というか、素人考えにすぎませんが、人が生身で海に潜るというこの訓練には、
ただでさえ頭上にヘリがホバリングしてそれだけでも十分危険なのだから、
危険因子は少ないに越したことはないのです。

理論的に近くに艇を寄せることくらい、いくらでもできるに違いありません。
ただ、何かあったらそのときどうするの、ってことですよね。

だから、司令だってたかが見学者のいうことなんか無視していいのよ、
とわたしがもし司令より偉ければ言ってあげたいくらいでしたが、
「うらが」に接舷できなかったことを済まなく思ったためか、
「えのしま」はおそらくいつもの規定線よりも内側に入ってくれたのです。

その気遣いに、その配慮に少しは感謝しろよ?

とわたしは誰にともなく心の中で語気を荒げるのでした(修辞的表現)



訓練海域がどれだけ近いかというと、はい、これくらいです。



そして海面へと近づいていきます。
EODがラペリングしている間にホバリングし続けるのも、
ヘリパイロットにすれば決して簡単なことではないに違いありません。
特にここは風を遮るものが全くない洋上、しかも風の吹き荒れる冬の日向灘です。



ホバリング中のヘリから降下用のロープが降りてきました。

そういえば急に思い出したんですが、昔金魚を飼っていた時ちょうどこんな(略)



ロープは伸びて海面にちょうど達します。
ヘリのパイロットはロープが達したかどうか見えていないはずですが、
どうやってこれを知るのでしょうか。

先ほどと全く同じような位置に、「何かあった時のために」
待機しているEODをのせたディンギーの影が見えています。



ヘリはさらに高度を落とし、海面に近づきます。



EODが降下。
気のせいか、この隊員の降下する高度は極端に低いように思えます。

降下の救助では降下する者よりも、実はヘリのパイロットの方が大変だと思います。



二人の水中処分員が相次いで降下し、その後引き上げです。

ところでこの引き上げのためのホイストはヘリの天井から下がっているのでしょうか。
そう思って内部画像を検索してみたのですが、
それらしいのがこの模型製作者のHPしかありませんでした(笑)

シコルスキー MH-53E 掃海ヘリコプター



 
引き上げられる瞬間。
もしかしたら手を伸ばしている?



さすがは30-700m望遠レンズ、 スポンソンの鋲とか、
機体に書かれている文字まで読めてしまうという・・・。

ちなみにこのレンズですが、入間の航空祭の時にレンズ交換していて
見事にエプロンに膝から落とした結果、胴を動かすと異音がするようになりました。
この時には修理に出していると間に合わなかったのでそのまま使用しています。

帰って、潮風に当たり続けたレンズとカメラ本体を掃除に出すついでに
ちゃんと修理してもらったら、なんと部品交換されて帰って来ました。
外側の筒を取り替えたため、見た目がまっさらになったのは嬉しいですが、
レンズ価格の4分の1の修理代がかかってしまい、カード会社に泣きついて
なんとか傷害保険を申請するところまでこぎつけたところです。

って全く関係なかったですね。 



この降下と引き上げが終わった途端、さっさと「えのしま」は移動を始めました。
まるで「踵を返す」といった感じで訓練海面を離れ、接舷しようとしていたのとは逆の、
「うらがのうらがわ」(誰うま)を見ながらすごいスピードで帰路につきます。

よっぽど帰港を急ぐと見えます。

もしかしたら、訓練中抜け出してまた帰ってくるつもり?




ふと後ろを振り返ると、訓練海面では二組目のEODが吊りあげられていました。
これが、この日わたしの見た、最後の訓練中の光景となりました。


続く。

 

 

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