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Mark 34 レーダー(記念)室〜戦艦「マサチューセッツ」

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原子力兵器の発明以前には、世界の国家指導者たちが武力について
協議するとき、それを決めるための基本単位は「戦艦」でした。

というわけで、世界経済が縮小傾向に向かい、さらには次の大戦も
予想されるようになった1930年、ご存知ワシントン軍縮会議が持たれ、
米国の場合、保有量を35,000トンと決められました。

日本ではこの保有率を巡って英米との割合が不公平すぎるとし、
いろいろと大変なことになりましたが(しかし今はさくっと省略)、
アメリカにとってもこの保有量は実質「縮小」であったわけです。

そんな頃建造された「マサチューセッツ」は、最新兵器を搭載され
速度もはやく、 ワシントン条約の制限を極限まで考慮されたデザインでした。



 

前回「マサチューセッツ」の主砲についてお話ししましたが、補足しておくと、
彼女がヨーロッパで初めての16インチ砲を放ち、フランス海軍の「ジャン・バール」
に損害を与えたとき、命中したのは5発であったということです。

その後、2隻の駆逐艦、2隻の商船を撃沈させたというのは、
「ビッグ・マミー」の砲手たちの腕の良さに負うところ大だったのでしょう。

主砲の付け根にすごく無理して()誇らしげに立つ砲手たち。



ついでに、主砲の下では日曜のミサも行われました。 
従軍牧師のありがたいお説教に、頭を下げて聞き入る乗員たち。

後ろから2番目の人は、これどう見ても寝てますが(笑)



さて、上甲板をぐるりと回って見学終了。
階段を1階登ると、主砲の高さになります。
前回ご紹介したこの不気味な「ジョージ」は、主砲の
砲郭?に描かれていたことがこの写真を見て初めてわかりました。



この階の甲板はご覧のありさま。
木材が経年劣化でもうぼろぼろになっています。

 

かつてはこうやって毎日磨き上げたものなんですけどね。
デッキブラシを持っている人が何人かいますが、我が帝国海軍では
デッキブラシなどというものは使わず、ソーフ(雑布)を持ち、かがんで
「回れ!回れ!」と叱咤されながら甲板掃除をしたものですよ。

とまるで見てきたかのように言ってますが、本当にそうだったんでしょうか。
海上自衛隊のフネには常に大量のデッキ掃除用モップが搭載されているので、
いかに伝統墨守の海上自衛隊とはいえ今はまずやってないと思いますが。

ちなみにフキダシですが、

「あー背中痛え!
おいマック、ここにスティック(デッキブラシ?)よこせよ。
そしたらおいら水遊びしちゃうからよ」 (超意訳)

「回れ!回れ!」とは随分緊張感が違います。



ここでふとそびえ立つ艦橋を振り仰いで見ると見えるアンテナ。

今いるパロアルトで、わたしはよく「スタンフォード・ディッシュ・トレイル」
というこの手のアンテナが2基立っているところに散歩に行きますが、
ここに来るようになって、このアンテナが「ディッシュ」であることを知りました。

ところで皆さんは、衛星放送の技術に古代の数学的理念が生かされている、
という話をお聞きになったことがあるでしょうか。
誤解を恐れず言うと、4〜5世紀のギリシャにおいて、既にこの技術は始まっていたのです。

パラボラというのはお椀の形をした反射鏡のことですが、ローマがギリシャに侵攻したとき、
ギリシャのアルキメデスの提案で、岸に半円状になるように鏡を配置し、
「パラボラ」として、太陽光線をレンズで集め、商店を敵艦に合わせて火災を起こした、
という伝説があり、これは「アルキメデスの熱光線」と呼ばれています。

カーブが太陽光線ならぬ電磁波を反射させ、中央の「レシーバー」がこれを拾い集める、
というのがこの「ディッシュ」の概念というわけです。



この部分にはこれだけの「パラボラ反射鏡」がありますってことで。
これは実に丁寧でわかりやすい展示でしたね。

あらためて二つ上の写真にパラボラを探してみると、ディッシュの他に
二つのパラボラ状が確認できます。 



そして、アルキメデスならぬコロンブスの卵。
この探照灯、サーチライトもまた「パラボラ反射鏡」であることを知りました。
こちらは電波ではなく、光線を反射させるわけですが。

探照灯は第1次世界大戦の時からもう導入されていました。



上甲板の1階上の5インチ砲ガンマウントのハッチが開いている!



恐るべしマサチューセッツ。

これ、その気になれば中に入れました。
先を急ぐので、さすがにそこまではしませんでしたが。
砲塔の中がこんな形で公開されているのは初めて見ました。



二本の柱がすなわち弾薬が供給される部分でしょうか。
それにしても、実際に稼働していた時にはこうじゃなかった感が・・・。



この下の階を見学した時にあった5インチ砲全体構造図。
これを見る限り、この砲塔の中はだいぶ部品が外されてしまっている気が・・。



この下のデッキ(メイン・ハンドリング・ルーム)で発見した、弾薬を供給する装置。
「7」とか「5」とかは砲につけられた認識番号でしょう。



どのように弾薬が送られていくか、透明板で中身を見せてくれています。



弾薬庫。5インチというのは12.7cm。
実際にはサードデッキ(この下の階)に弾薬供給室があったはずですが、
一緒に展示されていました。



上二つはmark13、その下の左Mk.38、右 Mk.35。
一番下はmark30の弾薬です。 




ボートが格納されているのも上甲板の一階上でした。
海面に下ろす時に吊るフックが写真右手に見えます。
ボートはなんの手入れもしていないらしくかなり痛んでいました。



左舷から右舷に出てみました。
(というか、ここを通らなくては右舷側に出られない)

天井に配されたすごい数のコードは、長年の間に重みで垂れ下がってきています。



こちら右舷デッキに出たところ。



「シグナル・シェルター」と呼ばれる信号員のブースです。

この室内に見えるのは、「フラッグ・バッグ」と呼ばれる信号旗収納場所で、
全く同じものが左舷にもあり、ホイスト(天井から吊るすクレーン)作業のとき、
信号を送るときに信号員が命令に従って迅速に旗を揚げます。

オーダーはインターコムを使って司令所から白いスピーカーに送られてきます。

この部屋には見当たりませんでしたが、シグナル・シェルターには、
大事な信号旗を修理するためのミシンが備えてあったそうです。



旗といえば、これはヨーロッパで交戦したときの「マサチューセッツ」甲板ですが、
国旗(戦闘旗)がたいへん低い位置に掲揚されているのがわかります。
これは、目立つ白いストライプが敵機から視認されにくいようにしているそうです。




右手手前のハッチより中に入ってみましょう。



それから、艦隊の指揮を執る艦船を「フラッグシップ」といいます。
「admiral」とそのスタッフが坐乗しているということになり、
この一団を” THE FLAG" とアメリカ海軍では呼ぶのだそうです。

The Flagが陣取って指揮をとるのが、ここ、

FLAG PLOT

と呼ばれる一隅で、 提督が指揮をとるのに必要な、レーダー、無線、
甲板の状況が把握できるすべての情報が集まるようになっています。

そういえば映画「機動部隊」でゲイリー・クーパー演じる主人公(艦長)と提督が、
こんなところでなぜか肩を寄せ合って(笑)情報を待っていたシーンがありましたっけ。 



部屋の隅にはタイプライターを打つための席が二つ。

その階級にかかわらず、提督は旗艦の操艦についてはその義務を
艦長と乗員に任せるということが常に義務付けられています。 



この機器のあった部屋は

Mark.34 radar room

といい、実際はここにあったわけではないのですが、艦橋のちょうど上両舷にあった

「マイクロウエーブ・ディッシュ」(microwave dish)、

対空探査レーダー室を記念して作られました。
対空探査機が、マニュアルで敵機をポイントすると、
その機位やレンジなどがこの部屋にある機器によって捕捉されました。

これはMk.34のレーダーコントロール・ユニット、「CW-2323AFZ」。



これもレーダーのユニットの一つ。
パワーのスイッチがついていますが、面白いのは
「レーダー」の逆向きに「ダミーANT」というスイッチがあることです。

ダミーアンテナ?とはなんぞや。



実際の風力と船の速力と合わせるレバーがあります。
真ん中には「インストラクション」がありますが、

「実際の風力に最大で5ノットまで近づける」

となぜか二回繰り返して書いてあります。



冒頭写真は「VHF レイディオ・ルーム」。
ここにあるラジオは航空機、僚艦、地上と交信するのに使われました。
すべての機器はここから6階も下にあるCIC(戦闘指揮所。
コンバット・インフォメーションセンター)からリモート操作されます。

彼らはまた地上の陸軍や海兵隊ともこれで通信を行いました。



説明がなくて何かわからなかったスペース。



しかし、ベッドが広い個室にただ一つあるところを見ると、
「The flag」である提督が休む部屋だったのではないかと思われます。


続く。 


 


(自称)ハンバーガー発祥の店 ルイーズ・ランチ@ニューヘイブン(前半)

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さて、カリフォルニアに来ている現在では遥か昔のことのようですが、
順番にお話ししていくとやっとニューヘイブンでの出来事まできました。



ニューヘイブンの商店街?に、バッフェ形式で好きな野菜やおかずをとり、
テイクアウトをしたり上のスペースで食べたりすることができるデリがあります。
そこで買い物をしたとき、レジにこのチョコレートがあったので、ネタで買いました。
(ちなみに持ち歩いているうちに溶けてしまい、今どうなっているのか知りません)

トランプが「ビリオン」でヒラリーが3ドル。
先日の都知事選では、とんでもない勘違いさんが約一名、
野党連合にそそのかされて出馬するということがあったため、
他人事なら手を叩いて笑って見ていられるような面白い展開になりましたが、
ここアメリカでも大統領選挙というのはアメリカ国民の「お祭り」です。

テレビをつければ必ず毎日、両陣営の応援演説が中継されており、
便乗してこんな商品も出てきてしまうわけだ。
二人の似顔マスクなんてのもどこかで見たことありますし。


ちなみにレジのおっちゃんに、美味しいのか聞いてみたところ、

「味は知らんが、どちらが大統領になっても最低だ」

と言っていました。
いやそんなこと聞いてません。



ノーウォークからニューヨークに行こうとしたら、高速の降り口で事故発生。
一旦停止しなければならないランプの出口で、女性の車に後ろの赤い車が追突。

もー何やってんのよ、みたいな感じで出てきた女の人です。
このあと、驚いたことに二人は名前を自己紹介しあって(と思う)
お互い握手しておりました。

事故処理は淡々と感情を交えずに行われるのが普通なのかもしれません。
わたしは幸いアメリカで事故を起こしたことがないので知りませんが。



高速走行中に見た不思議な飛行機雲。
ほぼ鋭角に曲がっているのですが・・・。



息子を迎えにきて泊まったニューヘイブンのホテル、ラ・クィンタの窓からの眺め。
目の前はルート95で大変な帰宅渋滞です。



そんなに高くないホテルをさらにホテルズ.comで取ったので
全く期待していませんでしたが、少なくとも広かったです。





次の朝起きてみたら、向かいのコンビナート港に大型の船が停まっていました。



パナマ船籍のオーシャン・オネスティ(海洋正直)という船。
「バルクキャリアー」だということです。
たった今(8月1日・アメリカ西部時間)調べたら、メキシコ湾にいました。



手前の洲?では腰まで海に浸かって釣りをする人が・・・。



これは、キャンプに送りこまれる寸前の息子。
早く現地に着いたので、昼ごはんを食べることにしました。 



イエール大学近辺はこのような昔からのレンガ造りの建物の間に
人が通れるだけの細道が迷路のようになっているところがあります。



教えていただいた「ハンバーガー発祥の店」とやらに是非行ってみよう、
とわたしは家族を誘い、「ルイーズ・ランチ」の前に来てみました。
(というか横が駐車場なので)

ところがお店休業。
12時から2時まで、しかもウィークデイしか営業しないそうです。



老舗の店にありがちな殿様商売ですな。
建物の横からは駐車場に入っていくことができますが、そのゲートには
「ルイーズ」の『L』があしらわれていました。



裏から見た建物全景。
それにしても小さな店です。

「こんな小さな店で1日2時間しか営業しないって、いったい・・・」

しかし、こういう店だとちょっと期待してしまいますよね。
どんなに美味しいのかと。



仕方がないので(?)代わりに前にも行ったメキシカンに変更。
石のボウルですりつぶしたアボカドのウワカモーレを頼みました。



パイ皮で決壊をせき止めてある、スープのようなグラタンのようなもの。



パエリア。
日本人の思っているパエリアとは何やら随分雰囲気が違います。
まあパエリアの味はしていました。



イェール大卒業の誰やらを記念するプレートの下で、
気持ちがいいのかぺたりと座り込んで動かない犬と飼い主。
7月のニューヘイブンは蒸し暑く、夕立が降ることもあります。

息子がキャンプに使う校舎には冷房などというものはなく、
扇風機を持ち込むキャンパーもいたということでした。
息子は「我慢した」とのことです。

夏休みで本物の学生がいなくなるから、クーラーなど必要ないわけだ。



というわけで、ドロップオフの時間となりました。
学校警察の(アメリカの大きな大学は警察組織を持っている)
お巡りさんが交通整理をして、車を誘導してくれます。



校舎の前が半円のロータリーになっていて、そこを通り抜けながら
キャンプに参加する生徒と荷物を落としていく仕組み。



イエール大学の歴史的な建築物の中で生活できるなんて、と親は羨ましく思いますが、
実際にはクーラーなどの問題があって、決して「快適な環境」ではなさそうです。
 




そして、キャンプ期間が終わり、ピックアップの日がやってきました。
同じところで息子と待ち合わせて車に本人と荷物を載せます。



息子が乗り込むとき、今回選択したサブジェクトの講座の先生が来て、
あなたのワークは本当に良かったからそちらに進むといい、
みたいなことを言ってくれています。

「なんでわざわざあんなこと言いに来たんだろう」

本人はまんざらでもなさそうですが、「その道」に進むかどうかはわからないそうです。



さて、このピックアップの後、今度こそは、と「ルイーズ・ランチ」に挑戦しました。
日本ではラーメン屋の行列は普通にできますが、アメリカ人が食べ物のために
1時間も待つ、という例は見たことがなかった気がします。

開店30分前にわたしたちが店の前に行ってみると、すでに何人かが並んでいます。

「アメリカ人でもことこういう食べ物には並ぶんだね」

と感心していると、あっという間にわたしたちの後ろに長蛇の列が・・・。



アメリカ人的によほど美味いハンバーガーなのに違いない。
とわたしたちは勝手に期待しまくりです。


続く。


 

(自称)ハンバーガー発祥の店 ルイーズ・ランチ@ニューヘイブン 後半

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さて、ホームページを見てもその歴史と秘伝のスパイスとレシピ、
味とやり方に誇りを持ちまくっていることが痛いほどわかる、
ニューヘイブンのオリジナルサンドイッチハンバーガー屋、ルイーズ・ランチ。

30分経ってドアが開き、皆は店内に吸い込まれていきました。

しかし、それは先頭からわずか10人ほど。
それもそのはず、店に入って最初にカウンターでオーダーしなくてはいけないからです。





てっきりレストランでテーブルに着いてオーダーをするものだと思っていたら、
まさに「ファストフード方式」で、カウンターで注文したバーガーを、
中のほんのすこしのテーブルと椅子で食べるか、テイクアウトするか。

お支払いは現金のみ、お皿は紙皿。
スタッフの着ているTシャツの背中にはケチャップにバツじるしが(笑)

ケチャップがなくては生きていけないアメリカ人に、ケチャップなしのハンバーガだと?



この店が有名になったのは「ハンバーガー発祥の店」と自称しているからです。
昔々、1900年のこと。
ルイーズ・ラッセンというオーナーがその5年前にオープンし、
切り盛りしていた小さなこのレストランに一人の紳士が駆け込んできて、

「兄さん悪いけどな、わて今ごっつう急いでまんねん。
せやからすぐにささっとできてぱぱっと食べられるもんだしてんか」

みたいなことをいって急かすので、店主は、ステーキをパンに挟んで供し、それが
アメリカで最初に「ハンバーガーサンドイッチ」の生まれた瞬間となりました。



お店の歴史を表す、あちこちにガンガン刻まれた客の名前。
落書きどころか皆掘り込んでるわけですが、これも勲章。

実はこの店のあったところは元々はここではなく、1970年に、
高層ビルの建築計画が起こり、立ち退きと解体を余儀なくされました。
しかし、世界中の熱心なファンの働きかけで建物を保存することが決まり、
ルイーズ・ランチのこの小さなレンガの家は、30分離れたところに
引っ越すことになり、現在に至ります。


予想ですが、そのような形でこの建物が保存されることになったのも、
その熱心なファンの中には、かつてはイエールに学び、
今では社会的に力を持つようになったという人がいたからではないでしょうか。

現在の店主ジェフ・ラッセンはルイーズの曾孫だということです。



イートインスペースはほんのわずかですが、それと同じくらいの
従業員の控え室が隣にあります。
ルイーズがやっていたころは、ここにも客用テーブルがあったと思いますが、
今はカウンターが中心なので、ここで悠々と従業員がお昼を食べたりしています。

貼紙によると、ATMもあるそうですが、とてもそう見えません。



店の中に入れる人は並んでる中のごく一部。
しかし、メニューはシンプルなので(チーズ入りかなしかだけ)
列は案外早く進んでいきます。



客が注文したものを食べるのはこの四角いテーブルの周りか・・、



わたしたちが座った壁際の椅子。
椅子にもテーブルにもいたるところ落書き?が。



そして、カウンターが販売カウンターの横にあるのみです。
たちまち店内の椅子は全てふさがりました。



中国でこれを上下逆さまにして「倒福」でタオフー、
「多福」と同じ発音なのでそうすると聞いたことがありますが、
もちろんアメリカ人はそんなことしません。

それより掛けてある二丁の銃は果たして本物かしら。



さすがにお手洗いはあります。
なにが「261」かと思ってしまうわけですが。



なんとトイレの鏡にも客は文字を彫り込んでいるのだった。



意外と時間がかかるのでカウンターを覗いてみました。
この狭いスペースで三人が同時に作業しています。



こちらからはどんな風に焼いているのか全くわかりません><



待っている間に先に出てきたデザート。
三人で一つ頼んだブルーベリーパイは、パイ生地が粉っぽく、
ブルーベリーはひたすら甘かったです。



業を煮やして?キッチンの前に回ってみました。
うおおお、なんかみたことない不思議なコンロが3台稼働している!



これはルイーズランチオリジナルのグリル。

手前の魚焼き網みたいなのにパテが挟まれ、それをどうやら
縦に押し込んで焼き上げるようですね。
時間がかかっているのは、注文を聞いて焼くからです。



焼き上げる前のパテが並んでいます。
肉だけでも数種類、調味料も、全てのレシピは門外不出の秘伝なんだそうです。



ハンバーガーというからあの丸い「バンズ」を想像していましたが、
思いっきり大きなパテをサンドイッチパンで挟むものでした。



なんてこった。
” Annual inventory of spoons” が何の意味かわからないのですが、
とにかく109周年のイベントのために8月は休業すると。
ますます殿様商売ですが、これで十分やっていけるということなのでしょう。



やっと来た息子のチーズサンドイッチ的バーガー。
ミディアムレアというよりもうこれは「レア」という感じですが、
ここは焼き加減など一切客の好みを聞いてはくれません。


「うちが出すのはこれ、嫌なら食うな」

というきっぱりした態度で、頑なにこの焼き加減を守っています。



どれ、それではそのありがたいバーガー的サンドイッチを賞味。
パンはあくまでも「肉を挟んで食べるための道具」という感じで、
主役はやはり肉、これでもかとその存在を主張していましたが、
だからといってこれをパン無しで食べることは考えられない、みたいな。

ハンバーガー文化で育っていないわたしたちには、正直なところ
これがそれほど美味しいバーガーだと言明することはできませんでしたが、
何年かしてここを訪れた時、ふとまたあれを並んで食べてもいいかもしれない、
と懐かしさ半分で思いつくにちがいないと思わせる”何か”がありました。



ここは”バーガーキング”ではありません

ここではあなたの食べたいように食べることはできません

我々の食べてもらいたいものを食べていただきます

それが嫌なら食べなくてよろしい


うーん、なんたる王様、じゃなくて殿様商売。
ある意味自分こそが「バーガー王」だと言い切ってるわけね。 




食べ終わって外に出ると、不思議なことにあれだけ並んでいた人々が
ほとんど捌けて、あと3人だけという状態になっていました。

いつの間に・・・。

お店の前につながれていた犬は、肉の焼けるいい匂いに落ち着かない様子。
飼い主が満足して出てくるのはまだまだ先に違いありません。

 



原爆追悼碑文とパル博士、そしてオバマ大統領演説

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今日のテーマは原子爆弾投下ですので、投稿時間を
8月6日の8時15分にしました。



夏前に訪れた京都護国神社の入り口には「パル博士の碑」が
ここにあると書かれた案内板があり、それに「社務所にお尋ねください」とあったので、
なにか特別な場所にあるのかと境内にいた権宮司らしき人に聞くと
心持ち申し訳なさそうに、

「そのまま入っていただければ見れますが・・」

じゃあ社務所にお尋ねくださいなんて書かなくてもいいのに、
と思いながら駅の改札のようなゲートに300円投入し、
わたしたちは中に入って行ったわけです。



明治時代からすでにここは全国の招魂社の中核とでもいうべき場所となり、
全国各地の、当時は「鳥取藩」「水戸藩」など藩による招魂社、招魂場が
聖山東山の麓に建立されたので、こういう石段の参道が整備されたのもそのころです。



「昭和の杜」は、澱んだ水と金輪際水を出しそうにない噴水が寂れた雰囲気満点です。 
もう少しデザインをなんとかして欲しかったと思うのはわたしだけ?

国のため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな時うつれども



二匹の龍の龍は海軍と陸軍を意味するのかもしれません。
どうやら双龍の口からは噴水稼働時水が出る仕組みだったようです。

今となってはコイン投げの的となり、びっしりと硬貨が乗っています。
おそらくこの5倍くらいの硬貨がこのプールの底には沈んでいるのでしょうが、
底を浚ってそれらが回収されることは今後もないように見えます。





さて、矢印に従って歩いて行くと、パル博士の碑が現れました。

通路に沿った場所で決して大きなスペースではないのですが、
中央にパル博士の写真を嵌め込んだ碑が立ち、それを取り囲む半円形の
壁からなる顕彰碑は、不思議と空間の広がりを感じさせるデザインで、
協賛者の名前、パル博士の来歴とその言葉が刻まれています。



協賛はそうそうたる大企業がずらりと名前を連ねています。

碑はインド独立50周年に際し、日印両国の友好発展を祈念して、
パル博士の法の正義を守った勇気と世界の平和を願った徳を顕彰するため、
博士の愛した京都の地に設立したものである、という説明もあります。

碑の建立は1997年であり、「昭和の参謀」とあだなされた伊藤忠の
瀬島龍三(元陸軍中佐)が発起人の最初に名前を連ねています。



通称東京裁判、極東国際軍事裁判で、インド代表判事として裁判に臨み、
一貫して日本人被告の全員無罪を主張したのがパル判事です。
無罪の根拠はこの裁判の正当性にありました。

「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」

という考えを固持し、判決が下ったあとも、

裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、
罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しない

という考えから、意見書なるものを提出しています。
ここに書かれた文章はその中の一文です。

時が熱狂と偏見をやわらげた暁には
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤の平衡を保ちながら
過去の賞罰の多くにそのところを変えることを
要求するであろう


これはとりもなおさず、 東京裁判がいずれ時によってその過ちを是正され、
今日の必罰は明日の無罪ともなりうると言っているに他なりません。

パル判事の全員無罪論は、敗戦に打ちひしがれ、すでに自虐によって
「わたしたちは間違っていた」と連合国からの刷り込みによって信じかけていた
日本人にとって、光明ともなったと言われます。

しかし、パル博士はこれらの意見を親日家の立場から発したのではなく、
あくまでも国際法の専門家として、その信念から述べたに過ぎないのです。
(ちなみに東京裁判の判事で国際法の専門家であったのはパル判事一人だった)

たとえばいわゆるバターン死の行進は明確な残虐行為であったとし、
南京事件も「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」としながらも
弁護側が明確に否定しなかったことから、犯罪行為は存在したという考えでした。

パル博士がことにはっきりと断罪したのは、日本の戦争犯罪ではなく原爆投下でした。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判を同質のものとしたい連合国に対し、

 「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」

とし、
米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊として
ナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとしたのです。


さて、今年、アメリカ合衆国大統領、バラク・フセイン・オバマ2世が、
アメリカの首長として初めて広島を訪れ、言葉を述べました。
次の日には、思わず(きっとあれは筋書きにはなかったと思う)
被爆者の男性を抱き寄せるオバマ大統領の姿が各紙一面を飾りました。

その男性が40年以上を費やし、原子爆弾によって亡くなった12人の米兵捕虜の
名前を探し当てたアマチュア歴史家、森氏であったことものちに話題になり、
日本での世論のほとんどが、この訪問に肯定的であったという結果になっています。


この時のオバマ大統領のスピーチは感動的でありながら戦略的でもありました。

 Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning,
death fell from the sky and the world was changed.
(71年前、雲一つない明るい朝、死が空から降って来て、世界が変わってしまった)

A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated
that mankind possessed the means to destroy itself.
(閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を
手にしたことがはっきりと示されたのだった)

いや、それを落としたのはどこの国の飛行機なのよ、とこの瞬間突っ込む人も
世の中には、特に日本にはたくさんいるでしょう。
もしパル博士が生きてこのスピーチを聞いたら、やはりそう言ったに違いありません。

オバマ大統領に広島訪問については、アメリカ大統領として謝罪をするのではないか、
と、特に

「原爆は戦争を終わらすために必要だった。さもなければもっと多くの人が死んでいた」 

と未だに教えられ信じている多くのアメリカ人をやきもきさせたと思われます。
オバマはなんといっても大統領になった途端、核廃絶を訴え、そのことによって
ノーベル平和賞をもらってしまった人ですから、あいつならやりかねん、
と心配する?意見も噴出しました。

ところが、オバマ大統領とそのブレーンは、原爆を、

「人類の災厄であった」

と位置づけ、国の枠組みなしで”我々はともに被害者である”としたことで、
すべての問題をクリアしたのではないかとわたしは思いました。
わたしがこのスピーチの内容を知って、まず思ったのは、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

という原爆慰霊碑の言葉でした。
かつてパル博士はこの碑の前に立ち、言葉を訳させたのち、こう言っています。

 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。
もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。
それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、
その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。
落した者が責任の所在を明らかにして
《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。 

この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。
その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、
石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。
アメリカこそ開戦の責任者である。」 (田中正文氏)


パル博士はアメリカが原爆投下=人類最大の罪を犯したことについて
なんら反省も謝罪もないどころか、戦争の罪を日本にのみ負わせようとしていることを
激しく糾弾する考えを終始持ち続けていました。


ところで、オバマ大統領の訪広が決まった時から、

「オバマ大統領はアメリカが原爆を落としたことを謝るべきか」

については、ほとんどの日本人が”その必要はない”といっていた気がします。
日頃自分たちがやったわけでもない歴史的問題で謝れ謝れといわれて
これに閉口しているということも(笑)大いに預かっていたかもしれませんが、
戦後押し付けられた自虐史観抜きにしても、日本人には

「正当化されると不快だが、だからといって別に謝ってもらってもねえ・・・」

と考える傾向が終戦当時からすでにあったようなのです。
パル博士は広島で行われたアジア会議で、並み居る白人代表を前に
こんなことを言っています。

「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。

広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。
当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。
同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。
しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。
彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」


この峻烈な言葉と裏腹に、会議にはケロイドの痕も痛々しい、いわゆる
「原爆乙女」が登壇し、


 「わたしたちは、過去7年の間原爆症のために苦しんできましたが、
おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。
しかし、わたしたちは誰をも恨み、憎んではいません。
ただ、わたしたちの率直な願いは、再びこんな悲劇が
世界の何処にも起こらないようにということです・・・。」 


と述べたとき、初めて会場は感激の坩堝と化した、と伝えられます。


「過ちは繰り返しませぬから」という文言を厳しく糾弾したパル博士に対し、

「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」

とし、この碑文を考案した被爆者でもある雑賀忠義広島大学教授は、

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。
これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい立場に立つ時は、過ちを繰返さぬことは不可能になり、
霊前でものをいう資格はない。 」

という趣旨の抗議文を送っています。

今回のオバマ大統領の演説は主語を「我々人類」とすることで
誰も責めず、誰も裁かず、もちろん誰も謝罪せずに、人類の受けた悲劇と
それを繰り返さぬ意志を語り、結果的にすべての人を納得させました。

そもそも原爆を落とすことを決めたわけでもない戦後生まれの大統領に
「悪かった」と言わせることには意味がないし、
こういう場合、謝った相手に「どうぞお手をお上げください」というのが
日本人としてよくあるメンタルではないかという気がします。

何より、原爆乙女たちが「私たちに恨みはないし憎んでもいない」といったからこそ、
感極まったアメリカ代表の一人が彼女らに

「わたしはアメリカ人としてこの原爆に責任を感じています」

とおもわず謝罪するなどということも起こりえたのでしょう。
相手に謝れと拳をあげて泣き叫ぶ、というのは本来日本人のDNAにはないのです。

わたしはよく歴史に善悪はない、ゆえに何に対しても謝罪すべきでない、
といいますが、それはアメリカに対しても変わることはありません。
アメリカが自国の立場として原爆の投下をいかに正当化しようとも、
アメリカ人ならばそれは当たり前かもしれない、と思うのみです。



その意味ではオバマ大統領の今回の演説は、まことに日本人の心情に添う、
かつ誠実なオバマ自身の美点を表して余りあるものだったと評価します。

オバマ大統領は原爆のキノコ雲を「人類の矛盾」の象徴としました。
暴力を正当化するのはときとして高い信念であり、先端科学は効率的な殺人を生む。
広島はそれを象徴するものである。
道徳の変革なしには科学の変革もおこなわれるべきではなく、
広島はそのためにも象徴として忘れられるべきではない、と。


パル博士が峻烈に糾弾した「人種差別ゆえの日本への原爆投下」についても
オバマ大統領はこのような形で遠回しにですが言及しています。

「アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。
それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、
はるかに多くのものを勝ち取ったのです。」

これがアメリカで人種的に虐げられてきたアフリカ系の大統領の口から
述べられたことにこそ、わたしは意味を見い出します。



さて、それではパル博士の碑文に対する非難は日本にとって
「余計なお世話」とでもいうべきものだったでしょうか。

わたしはそうは思いません。

日本人がただ恨みにとどまらず、終戦の早い段階から原子爆弾を
「人類の過ち」としてこれを永遠に絶滅すべきであるという域に達したことを、
わたしは日本人としてむしろ誇りに思うものですが、それも
やはりあの時のアメリカの行為についてこのように言ってくれる、
日本人以外の第三者の言葉があってこそという思いは避けられません。

逆に言うと、これをいうのは日本人であってはいけなかったのです。

だからわたしたち日本人は、

「日本があのとき被支配のアジアの盟主となり
立ち上がったからこそ、アジアは解放されたのだ」

といってくれる多くの東南アジアの独立国リーダーたちに感謝すべきであり、
その中でも

「日本が戦った『大義』を決して見失うな』

と戦後GHQの支配下で、我々日本人の心を鼓舞してくれた
ラダビノッド・パル博士への恩義を忘れてはいけないと思うのです。






 

EAST TO WEST〜淡々と写真を貼るシリーズ

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東海岸で見たものについての話が全く終わらないうちに
いつの間にか東海岸から西に移動していたのでした。

今回たまたま窓際を息子から取り返したので、外を見ていたら
珍しく全行程全く雲がなく、移り行く地形を写真に撮ることができました。

これがなかなか面白かったので淡々と貼っていきたいと思います。
ちなみにカメラはソニーのデジカメです。



出発便が朝8時台だったため、ローガン空港近くのホテルに一泊しました。
窓から眺める夕焼けが綺麗です。



いくら国内線とはいえ、いつ行っても混んでいるローガン空港なので、
大事をとって2時間前に空港に到着しました。
無事離陸してすぐに撮った写真。
グーグルマップでチェックしたところ、これは「サフォーク・ダウンズ」といって
競馬場なんだそうです。



去年も確かこんな、なんというか思わず背筋がざわざわしてしまうような
上空から見たヨットの群れの写真をあげたかと思います。

この正体は、ここがボストンでも有名なヨットクラブのある「コーブ」で、
半島と砂州で繋がった小さな島との間の海には、それこそ何千も係留してある
個人のヨットなのです。



まだ朝なので帆を張っているヨットは全くいません。
自分のヨットの場所まではおそらくボートで行くのだと思いますが、
よくまあこんなところをよく間違えずにたどり着けるものだと思います。
専門のタクシーのようなボートがいるんでしょうか。

ちなみに、この左側の「マーブルヘッド」を昔ドライブしたことがありますが、
ここにあるすべての家がとんでもない豪邸ばかりで、驚き呆れたものです。 



その先に、小さな島がありましたが、なんとプールが見えます。
もしかして大金持ちが私有している島?と思って調べてみたところ、
これは「チルドレンズ・アイランド」といって、ノースショアのYMCAが
子供のためのデイキャンプを運営しているそうです。

元々はキャットアイランドといい、1700年代には天然痘患者の隔離病院が
ありましたが、本土の住民の放火によって全焼しました。
その後独立戦争時には軍艦の停泊地となり、その後は業者に買収されて
リゾート島になったものの、経営が苦しくなったので売却されて、
次は子供のための療養所となりました。

療養所といっても、病気の子供はともかく肢体不自由児までが収容されていたようで、
要はていのいい「いらない子供捨て場」ではなかったのかと思われます。

いずれにしても昔の技術では水の確保に苦労したため、療養所も
1946年には廃止になっていたということだそうです。



今回は前もってHPをチェックしてリコンファームもしておいたので、
ちゃんと食事の出るクラスに乗ることができました。
リコンファームなんて大昔の慣習だと思ってたぜ。

ユナイテッドは、アメリカンやデルタよりはマシなものが出ます。



全行程不思議なくらい雲の見えないフライトでしたが、
こんな可愛らしい雲がなぜか一つだけポツンと浮いていました。
よく見たら何か乗っていそうです。



しばらく行くと・・・、そう、カンザス州あたりでしょうか。
緑が比較的少ない南部の州にかかったころ、こんなものが頻繁に見えだしました。



たくさんある地域があれば、こんな風にたった一つポツンとあるものも。

これは

センターピボット (Center pivot irrigation)

というもので、乾燥地域において行われている灌漑農法なんだそうです。

乾燥地域でも大規模に作物を栽培できるよう、地下水をくみ上げ、肥料を混入した後、
自走式の散水管がまるで時計の針のように回って円形の地域に水をまくのです。

散水器は、一日1~12回程度同じところを通ります。
飛行機からこんなに見えるくらいですから、平均は半径400m、
大きいものは半径1kmにもなるそうで、なるほど、その部分だけに
作物が育っているので「緑の円形」が砂地に出現するわけですね。



まだ設置されたばかりの円形では、まだ緑が薄かったり、全くなかったり。
中には4分の1しか作物が育っていない円形もありますね。

しかしこの灌漑農法、等高線耕作を無視して土壌流出が起こったり、
塩害が発生したりと、問題も大変多いのだそうです。
また、地下水の枯渇や、化学肥料による地下水(飲料水)の汚染が問題となっているとか。

まあ、こういう「砂漠に花を咲かせる」ことも可能にするのも、
その後の「資本家の倫理」で後に引けなくなって突っ走るのも、
さすがにアメリカではスケールがでかいというか(嫌味です)



ほんの小さな砂だまりに見えますが、ピボットが直径800mとしたら
横の長さは6〜7kmはあることになります。



いかにも水の少なそうな平地をしばらく行くと、山脈が横たわる一帯が。
ここはおそらくコロラド州に入るあたりだとおもわれます。



砂地の中にポツンと緑の部分が!



ここも人口の灌漑地で、おそらく右上に民家があります。
こんなところに住むって、どんなんだろう・・・。

自家用機の飛行場もあるみたいですが、これでは「隣」が何百キロも先。



砂漠の中にくっきりと浮かび上がる車道。
おそらく、1日走っても他の車と全く出会わないに違いありません。
昔ボストンからサンフランシスコに引っ越すとき、荷物を別送にして
車で大陸横断を計画したことがありますが、改めてこういうのを見ると、
運転する人間が一人で、しかも2歳の子供連れ、車はトヨタカムリでは
とうてい無理ゲーだったとしか思えません。

もちろんモノの本にはコロラド山脈などを避けたルートが紹介されてましたが。
そのとき読んだ本に

「ガソリンは半分まで減ったら必ずすぐに給油すること」

「夕方以降は絶対に走らないこと」

と書いてあって、軽く戦慄したのを思い出しました。



舗装してある道は上空から見るとわかります。
砂漠の真ん中の道ながら、何台かの車が走っているのが見えました。

まあでも、こんなところで夕方ガス欠になったらもう終わりですよね。
きっと日が落ちたら気温は零下になるとおもいます。



なんかすごく無理して水のないところに水を引っ張ってる感じ。
これもきっと地下水をくみ上げているのだと思われ。
そこまでしてどうしてここに農場を、と問い詰めてみたい。



家もないのに飛行場。



これは自然湖。
コロラド州に入って、だんだん緑が増えてきました。



この頃、アメリカの南部は猛烈な暑さに見舞われ、それがニュースになっていましたが、
この辺りでは雪が山脈に残っています。

スキー場で有名なアスペンもコロラド州にあり、冬季オリンピックの行われた
ソルトレークは隣のユタ州のおなじ山脈一帯に位置します。

アメリカのドラマを見ていると、「アスペンでスキー」というのを
決め台詞のようにつかっていることがよくあり、どうやらここは
リッチな冬のレジャーをする場所としてアメリカ人がイメージしていることがわかります。



とっても気持ちの悪い?沿岸線なのですが、これはグランドキャニオンの少し北、
ユタとアリゾナ州の州境にあるパウエル湖から出ている河の支線だと思われます。

グランドキャニオンのような赤いメサなどがあるこの地域に溜まった水は
このようなくにゃくにゃした湖の形を作り上げるのです。



山の麓の湖から流れてくる河が、山の裾野に緑の地帯を作ります。
ヨセミテ国立公園の上空を越え、カリフォルニア州にはいったところ。

手前にあるマクルーア湖から流れるマーセド河に沿って街ができています。
緑の地帯はマーセド、モデスト、ターロックなどの街。

サンフランシスコまであともう一息です。



大変目立つこの真ん中の貯水池ですが、周りにゴミ処理場があるとだけ・・。
地図を見ても名前がなにも付いていません。



サンフランシスコの手前に「メンデンホール・スプリングス」という名前の山脈が横たわります。
この上空を飛んでいて、まるでリボンのような直線が稜線と無関係にあるのに気付きました。

よくよく目を凝らして見ると、それは電線で、つまりこの直線にそって、
峻険な山の中に鉄塔が延々と連なって立っているということなのです。

あらためて人間ってすごいことをするなあと感心する眺めでした。



そして山脈を越えるとお馴染みのこの光景。
この地域には「スラウ(slough)」と呼ばれる場所が多く沼地を意味するのですが、
ちょうどサンフランシスコの東側というのはとことん入り込んだ
深い湾なので、このあたりは海といっても「流れ」というものが全くないのです。



この辺りを走っていると、真っ赤な苔があるのでこれなのかなと思っていたのですが、
今回調べてみると、ここには塩田があるのだそうです。
地図を見るとこういうカラフルな部分に「ソルトポンド」(塩の池)と書いてあります。

このあたりは雨が少ない(夏場は)ので、長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

藻が発生したりエビが発生するから、という説もあるようですが、
実際はどうなのかわかりません。(というかそれ以上調べませんでした)



いまいるパロアルト、レッドウッドシティの向こうは太平洋に面した海岸がありますが、
その手前に山脈が横たわっており、そこにはいつもいつもいつも(笑)
まるでクリームのような濃い雲がかかっているのです。
この雲こそが、サンフランシスコの海岸沿いを「世界一寒い夏」にしている原因です。



ふと気づくと、向こうに同じ速度で空港に向かって飛ぶ飛行機が。
超混雑空港であるサンフランシスコ空港では、滑走路が平行に三本、
しかもほんの少しの時間差で2機が着陸することはしょっちゅうなのです。



そのことを、わたしはこの空港の対岸?にある、このコヨーテポイントの
「飛行機観測場所」から見ていて知りました。
このコヨーテポイントには、大戦中のごく短い間、商船アカデミーがあって
戦争に駆りだすための民間船に乗り込む船員(でも士官待遇)を養成していました。

このことについて去年の見学を元にまた書きますのでお読みください。(宣伝)



着陸5秒前、滑走路の端。



着陸後、タキシングしている時に撮った「さっき横を飛んでいた飛行機」。(たぶん)



空港のハーツで車をピックアップ。
ロットにはプリウスが停まっていましたが、GPSがなかったので
取り替えてもらったら、マツダのインフィニティでした。
ただし1日のレンタル料は少し高くなりました><



今日からここに1ヶ月滞在します。
例年キッチン付きのホテルに泊まっていましたが、近年パロアルトの物価が高く、
ホテルの宿泊費がとんでもなく高騰してしまったので、
去年、魔が差して安くあげようと変なインド人経営のホテルに泊まったところ、
2日目に火事が起こり、まさに安物買いのなんとかになってしまいました。

今年こそ安心して1ヶ月住まえるリーズナブルな場所を、と探していたところ、
商店街に近く、学校まで10分の住宅街に月貸しのアパートを見つけました。

いまこれを作成しているのは写真の右上の窓の部屋です。



家主は今度もインド人でした(笑)
でも今度のインド人はちゃんとしていると思います。
というかそうであってほしい。そうであるべきだ。そうであればいいな。
まあ、いまのところアパートのファシリティは完璧です。

この夏はここで一ヶ月を過ごすことになります。


 

 



 

"The Greatest" Admiral〜戦艦「マサチューセッツ」

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戦艦「マサチューセッツ」の展示がとても優れているというのは、
大抵の博物艦が、維持するのが精一杯で手入れすら疎かなのに、
ここだけは現状維持だけでなく、解説が本物の博物館並みに丁寧であることでしょう。



たとえば、 甲板から2階上の艦橋に上がって見える景色がこれです。
ちょうどわたしが立っているところに、冒頭の当時の写真があり、

YOU ARE HERE

ここにあなたは今いるのですよ、と教えてくれるのです。
これはわたしのような、今残る”もの”から往時を偲ぶことに熱心な人間には
なんともツボを押さえた、嬉しい解説となります。

この同じ場所で60年前にこの景色が、としみじみするわけですね。



その優れた展示には、かつての乗組員の協力がありました。
ってことで、左から、

起業家となったベンジャミン・シュルマン少佐。
ナビゲーションブリッジ、提督の居室、幾つかのボフォース機関砲のマウントの
再現に協力(つまり出資)しました。
「マサチューセッツ」時代は甲板士官としてブリッジにいました。

真ん中、ブルックリン生まれのダニエル・クライン一等水兵。
かつては1番から3番までのガンマウントのポインター&トレイナーでした。
(つまり日本砲撃の時に砲の狙いを定めていた人です)
退役後カリフォルニアでパン屋を営んでいたクラインさんは、
2006年、ビッグマミーに『探索』のために帰ってきました。
孫、曾孫、そして玄孫(やしゃご)を伴って。

右、ジョン・オニール・Jr.大尉。
ビッグマミーでルソン、レイテ沖、沖縄の戦闘を体験した大尉は、
冷戦時代軍籍を置いたままタフツ大学で化学、ローウェル工科大で
エンジニアリングを学び、その後は化学薬品会社の副社長を務めていました。
オニール大尉はまた、当バトルシップコーブの設立メンバーでもありました。




さて、この1階下にもう一度もどりまして。
ここには「バトル・ドレッシング・ステーション」があります。
ドレッシングというと我々はサラダにかけるものとしか思いつきませんが、
「身につける」ことから、包帯、塗り薬などの医薬品を指すこともあります。

つまりここは、怪我の手当てをするところ、ファーストエイドステーションです。 



ただし、普段は使われることはなく、ここが機能するのは戦闘中のみ。
下のシック・ベイ(医務室など)に戦闘中怪我人を運んでいる場合ではないので、
とりあえずここで手当てをしたり、怪我人を放り込んでおいて、
戦闘後に担いで医務室に連れて行くのです。

ずいぶん酷いように見えますが、実際に海戦というのは何時間もかかりません。
特に航空機の攻撃はせいぜい分単位で終わるものなので、
戦闘中は最低限の手当てしか行われないのです。

このスペースは戦闘中以外は全く使われませんでした。



アクリル板でカバーされて中に入れなかった「チャートハウス」。
フネを安全に航行させるための機能を備えたコンパートメントです。

 DRT(Dead Reckoning Tracer)は推測航法装置、と訳すのでしょうか。 
ここには艦位をリアルタイムで表示するこの機械や、 深度インジケーター、
風力風向インジケーター、 そして艦の進路を表すジャイロコンパスがありました。 



チャートを置くデスクのうえにあった『何か』。
インジケーターの目盛りであると思われます。



ここでのキーパーソンは、航法の全てに責任を持つ「ナビゲーション・オフィサー」。

ちなみに自衛隊では「オフィサー」はつかず、「ナビゲーター」で航海長を意味します。
副長は「エグゼクティブ・オフィサー」、船務長は「オペレーションズ・オフィサー」、
士官の役職には全て「オフィサー」がつくのに、なぜか航海長だけナビゲーターです。

この謎についてどなたかご存知の方おられませんでしょうか。


さて、この知的な風貌の老人は、かつてのここのキーパーソン。
展示艦「マサチューセッツ」は、見学者のために、要所に備え付けられたモニターで、
かつてそこを持ち場にしていた乗員が任務について語っているビデオを
説明のために繰り返し流していました。




ここには”QUARTER MASTERS” もいました。
この単語を辞書で引くと「需品課」などという意味が出てくるわけですが、
普通に需品課なら、何もチャートルームにいることはないわけで・・。

実は、アメリカ海軍独特の言い方で、クウォーターマスターズとは、
ウォッチ-トゥ-ウォッチ・ナビゲーション(視認?)を行ったり、
海洋地図やナビゲーション機材の準備や手入れを行う役目の下士官で、
『QM』がそのランクの略語となります。

ちなみに、潜水艦のQMは、エレクトロニクスナビの資格者でなければならず、
大気モニタリングや艦内のコミュニケーション、エンターテイメントも担当します。
ということは、映画の放映とかも行う係なんでしょうかね。



チャートルームから出て艦首側に、こんなドアのある一角がありました。
まるで日銀の金庫のような(見たことはありませんが)分厚い壁。
コンパートメントというよりほとんど「カプセル」といった感じです。



ここを”CONNING STATION" といいます。
CONNは操舵なので、普通に操舵室ですね。

ここには操舵装置のほか、艦内外の通信装置、レーダーのインジケーター、
小さな無線室、そして二つのペリスコープ(潜水艦ではないので展望鏡)があります。

戦闘状態になるとこの分厚いドアは中から完璧に閉じられ、
艦にとっての重要人物である艦長と舵手、THE LEE HELMSMAN、
つまり デッキ階下のエンジニアリング担当に速度を指令する係を守るのです。

我が帝国海軍の戦艦艦橋に、こんな金庫みたいな部分はありませんでしたよね。
戦闘の際、艦橋への一撃で艦長以下幹部全員戦死、という例が結構ありましたし。

こんなとんでもない部屋を作ることができるアメリカとは、海戦に対する
思想もですが、そもそも国力というのがまるで違ったんだと思わずにいられません。



これはその「金庫」のさらに艦首寄りの部分。
平常時は艦長はこの椅子に座って航海を見守ったのでしょう。



ここにもジャイロかナビかなにかがあったと思われますが、
取り払われてしまって跡だけが残されています。



艦長椅子の横にあったインジケーター。
右から速度、角度、速度。
 


このうしろの「金庫」からは、こんなスリットから外を見ていたようです。
「マサチューセッツ」は実際に何度も戦闘を経験しており、つまり
ここから艦長などが前方を窺ったということも何度もあったはずです。



さて、チャートハウスと操舵室のあったこの階この階が、
戦艦「マサチューセッツ」で見学者が立ち入ることのできる「最上階」となります。 



ここから上に登るラッタルがありましたが、塞がれていました。
おそらく、マストやレーダーのある部分に続いているものと思われます。 

 

全部見てしまったので降りるしかありません。
最近わたしは軍艦の見学をするときには、必ず階段の上り下りの前に
こうやって写真を撮る癖がつきました。

後から写真を見たとき、こうしておかないと、いつ階層を移動したのか
全くわからなくなってしまうことがあるからです。

このラッタルの降り口には、手でつかんで素早く降りられるように手すりが付いています。 



ここは先ほどボートがデリックに付けられていた階層です。
ボートの向こう側に通路が見えたので、写真手前から通り抜けてみました。

アメリカ人の10人に一人くらいはここを抜けられないというくらい細い通路でした。
まあそんな体型の人は、こんなところであちこちウロウロしないと思いますが。



この階の艦尾側には、ここにもボフォース機関砲のマウントが両舷にに2基。



この真下には艦尾側の主砲が3門あるところです。
この部分には

 Mark 37 Gun Director

と解説されていました。
これらは二次バッテリーとして砲や銃、サーチライトに使われるもので、
「マサチューセッツ」は4つのMk.37ガン・ディレクターを搭載していました。
一般的に戦艦ではこのように箱型のシールドで保護されていました。

ただの電池ではなく、レーダーを搭載しており、目標を追跡することもでき、
Mk.12のディレクターは”Friend or Foe" 、つまり敵味方認識も行うことができました。
そして例えばMK.22などは、

「海面ギリギリを飛んでくる飛行機をトラッキングする」

ということもできたといいます。



下から見ると、体を乗り出せば主砲が見えそうでしたが、全く無理でした。



40mm、つまりボフォース機関砲のローディングマシーンです。
どうやって使うのか全く想像もできなかったのですが、
これを見て納得しました。



つまりいま上を向いている方向から手動で弾をこめるんでしょう。
でも、説明を読んでみたら、ここにあるのはガン・クルーの練習用だったそうです。


 
あと、この階にあったのは、これも練習用のローディング・マシーン。
説明によると『5” 二次バッテリー』のローディング、とありますから、
つまりMk.37のためのものみたいですね。

練習ではダミーの弾丸と火薬のカートリッジが使われたそうです。


ところで、ボフォース機関砲は、アメリカ海軍の艦艇に搭載された対空兵器の中で
最も多くの航空機を撃墜したと言われているのだそうです。
おそらくは本土を防衛するために立ち向かっていった多くの日本軍の戦闘機も、
この甲板から放たれた砲弾によって撃墜されたのに違いありません。



ロープを巻きつけている縦置きキャプスタン?が三つ。
上からカバーをして保護しています。



主砲、45口径40.6cm砲を横から見る位置。



主砲と艦橋の間は決して広くありません。
しかし、海軍の、特に船乗りは運動量が半端ではないので
太った人などだれもいないはず・・・・・・ん?



大変苦労して艦橋から出てくる偉い人、キター。

「ザ・フラッグ」として1945年夏「マサチューセッツ」に座乗していた
(ということは、彼女が日本を攻撃した一連の作戦の指揮をしたということです)
ジョン・シャフロス中将は、ご覧の通り大変な百貫デ、いや巨漢でした。

なんでも「海軍史上最も大きな提督」と言われたシャフロス中将の身長は
6フィート(182cm)、体重260パウンド(120キロ)。
テレビでしょっちゅうやっているその手の番組に出る人なら痩せている方ですが、
何と言ってもこの人のお仕事は狭い艦橋をいったりきたりすることなのです。

中将は必ず一欠片の石鹸かチョークを持って艦内を視察し、
自分が体を折り曲げないと通り抜けられないところに印をつけて
後から工事や修繕を行う部署(自衛隊なら営繕班)に、
それを何とかして直すように申し渡したと言われています。

軍艦の中なので、そんな簡単に削ったり広げたりできるところは
ほとんどないのでは?と誰でも眉に唾をつけてしまいそうです。

しかし、これが単なる噂でなかったことは、少将のために作られたシャワー室の
パイプを見ればわかった、ということです。
なんたる傍迷惑な。
艦を直させる前に自分が痩せろよとか、こんなデ、じゃなくて提督を戦艦に乗せるな、
とか、いろいろと突っ込みどころはありますが、 それを押してこの人を
出世させたからには、戦艦に乗せなければならない大人の事情ってやつがあったのでしょう。
いや、単に優秀だったので仕方なく、ってことかな。 

いずれにしてもこれが本当の「The Greatest Admiral」ってやつですか。




 
続く。 

 

「Don't Give Up The Ship!」〜帆走フリゲート艦「コンスティチュート」

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それは、ニューロンドンの潜水艦基地にある原潜「ノーチラス」の艦内で見た、
野球大会の記念ボールに書かれていた文字がきっかけでした。

「ノーチラス対コンスティチューション」

どちらが勝ったのかはわかりませんが、「ノーチラス」のこのときの対戦相手が
ぱぱっと調べただけではただ帆船ということしかわからず、
例によって当ブログ上で丸投げしたところ、お節介船屋さんの情報により
これがなんと海軍の現役帆船であるということを知ったのです。

それにしても、アメリカから帰国以来13年間、毎年この地に来ていながら、
帆船「コンスティチューション」がボストンどころかアメリカ海軍の象徴であり、
観光の目玉であることを全く知らなかったわたし・・・・。orz


ノーウォークからウェストボロに移動してすぐ、TOが日本に帰国し、
一人になった途端、わたしはバトルシップコーブを始めこのコンスティチューション、
そして戦艦「セーラム」と海軍オタクの聖地のようなボストンの港港を渡り歩き、
そしてその全てを満喫したのですが、この帆船見学だけはいつもと少し趣が違いました。


というのも、この「コンスティチューション」の繋留展示してあるチャールズタウンは
ボストンの中でも歴史の古い(1628年に設置、翌年より入植開始)街で、
あの「バンカーヒルの戦い」の舞台となった土地でもあります。

そしてなんといってもチャールズタウンにあったボストン海軍工廠は
アメリカの海軍工廠で最も早い時期に(1600年)開設されたものです。
同工廠で最初に建造されたのは戦列艦「インディペンデンス」ですが、
33年後には、アメリカ副大統領、陸海軍長官を含む多くの高官および
マサチューセッツ州の職員たちが臨席し、ニューイングランドにおける
最初の海軍乾ドックにおいて、「コンスティチューション」 が就役しました。

これは未だに「アメリカ海軍史上における素晴らしい出来事」の1つとされています。

展示されているのが最古の現役艦であること、そしてその繋留港そのものが
歴史的に重要な、しかも現在も海軍の用地であること。

見学者が少なくて週末にしか公開しておらず、艦内見学しているのは
終始わたしだけ、というような船があれば、こちらはボストンの超有名観光地。
(わたしは知らなかったけど)
趣が違ってあたりまえというものです。



なにしろボストン随一の観光地であるネイビーシップヤードなので、
駐車場がどうなのかを大変心配していたのですが、
なんのことはない、周辺の路上に2時間までメーター制で停められました。

最近はクレジットカードが使えるパーキングメーターが増えたので、
小銭をいつも持ち歩かなくてもよくなったのは喜ばしいことです。



ネイビーシップヤードの方向に向かって歩いて行くと、まずこんな
いかにもドックでした、みたいな光景が現れました。




当時のネイビーシップヤードの地図を見ると、『1』が第1ドライドック、
『2』が第2ドライドックですから、位置的にこの部分は
昔第2ドライドックとして使われていた部分であると思われます。



今はドックとしては機能しておらず、まるで運河のような景色。
ドックだった名残りとして、周囲を線路が取り囲むように走っています。

ドックとミスティックリバーを望む左奥の立派な建物は複合ビルで、
上階がアパートになっているようですが、こんなところに住んでみたい・・。



チャールズタウンは古い建物が未だに多く残る地域ですが、
海軍工廠の建築物もほとんどがこのような当時のままのものです。

レストランなども中身だけ改装して営業しています。
条例による規則もあるのかもしれませんが、アメリカ人、ことにボストンでは
人々は古い建物を決して立て替えたりせず、使い続けるのが基本です。



ところで上の青空の写真はボストンを離れる前日、空港ホテルにチェックインする前に
家族と来た時のもの、そしてこの写真が一人で来た時のです。
空の色がまったく違うでしょう?

実はこの両日、同じ場所とは思えないくらい天候が違いました。
後者は蒸し暑く強烈な日差し、この日はどんよりと曇って風が強く、
震え上がるくらいの寒さだったのです。

顔が真っ赤になって家族に大丈夫かと聞かれるくらいの暑さと
寒いのとどちらがマシかと言われれば、断然後者ですが。



「コンスティチューション」の繋留してあるのは第1ドックです。
海軍工廠の敷地には誰でも無料で入ることができます。

工廠内にくまなく走っている線路に沿って「スケールハウス」と書かれた
小さなオフィスがありました。
何を「計る」のでしょうか。



スケールハウスの道の反対側の建物は造船所内にあったもので、
復元されて、さらには右側に見える新しく作った通路で別の建物と連結させ、
『U.S.S.コンスティチューション博物館』となっています。
ここも見学しましたが、素晴らしい充実度でした。
「コンスティチューション」の誕生からその歴史までを学ぶことができます。



こちら「コンスティチューション博物館」正面。
この旗の立っている部分の右側が「コンスティチューション」のいる
第1ドックがあります。



これが最古の現役海軍艦艇である「コンスティチューション」!
今までその存在すら知らなかったくせに、現物が見えると胸が高鳴ります。
この時にはまだ警官銃撃事件の余波が収まらなかった頃で、そのため
すべてのフラッグが半旗に揚げられているのでした。

一番右にはアメリカ国旗が揚がっていますが、あと4つはなんでしょうか。



ちゃんと現地には説明のボードが出されていました。

まずアメリカ国旗に見えたのは、

●「スター・スパングルド・バナー」(Star Spangled banner)

といって、15の星、15のストライプでした。
「コンスティチューション」が1812年の戦闘で揚げていたのがこれです。

上から二番目の赤字にイギリス国旗は、

●「ブリティッシュ・レッド・ナーバル・エンスン」(英国赤海軍旗)

「コンスティチューション」が1812年に戦った英国海軍の船、
HMS「ジャバ」、HMS 「レヴァント」が揚げていた旗です。

黄色と赤のストライプの旗は、

●「トリポリタン旗」

「コンスティチューション」が参加したバーバリー戦争で
 トマス・ジェファーソン率いるアメリカ艦隊が戦った
カラマンリー朝トリポリタニアの旗です。

その手前の青い旗には白字で

● 「Don't give up the ship」(船を諦めるな)

と書かれていますが、これ、確か「ノーチラス」のダメコン10則の
一番最後に書かれてましたよね?
この言葉はUSS「チェサピーク」がボストン湾でイギリスの戦艦HMS「シャノン」に
捕捉され、砲撃を受けて瀕死の状態に陥った艦長、ジェームズ・ローレンスの
最後の言葉だったということです。

ちなみに、最後の言葉はふた通り伝えられており

「船を諦めるな。沈むまで戦え」(Fight her till she sinks.)
「早く砲撃をしろと伝えろ。船を諦めるな」(Tell them to fire faster.) 

いずれにしても「船を諦めるな」が海軍のモットーとして今日旗となっています。



ちなみにこれがその現場写真。

最後の白い旗は

●「自由貿易と船員の権利」(Free Trade And Sailors Right)

 USS「チェサピーク」が1813年に揚げていた旗です。
アメリカがイギリスに対して海上での自由貿易を求めた、というのが
そもそも1812年の米英戦争の大きな原因だったわけですが、
改めて米英戦争について書かれたものを読んでみると、アメリカ人の
ネイティブ・アメリカンに対する残虐な描写ばかりが目についてですね・・・。
この戦争ではインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐため、
イギリスと手を組んだことから、

司令官ジョージ・ワシントン(米初代大統領・米英戦争以前に病没)は
この地を領土とするイロコイ族の皆殺しを指揮し、彼らの集落を徹底破壊して、
イロコイ族から「町の破壊者」と恐れられた。
イロコイ族が英軍と同盟を組んで米植民政府側に刃向かったからである。
ワシントンは軍隊に殺したイロコイ族の皮を剥がせて、軍装の飾りにさせていた。

とか、

ジャクソンは殺したインディアンの鼻をそがせて戦利品とし、
死体から皮をはがせて軍馬の手綱にさせた。
また「女を生き残らせるとインディアンがまた増える」として、
赤ん坊でも幼女でも、かまわず女を虐殺させた。

とかね。
アメリカ人はこういうの、学校でどんな風に教わってるんでしょうね。 
まさか、教わってない・・・? 




「コンスティチューション」は2016年夏現在ドライドック入りしており、
ここ第1ドックにおいて補修中となっています。

1992〜5年に彼女は大改装によって稼働可能な船として生まれ変わり、
1997年、この年は彼女の200歳の誕生年であったわけですが、彼女は
実に116年ぶりに海に帆を張って航海に出ました。

その40分の航海の間、ミサイル駆逐艦とミサイルフリゲート艦が2隻、
彼女の護衛を行い、また空にはブルー・エンジェルスが飛来して
彼女の復活に敬意を表したということです。

1797年に就役してから219年の時を経ても未だ現役の最古艦。
海軍における象徴であり、アメリカ海軍史上最も有名な海軍艦であり、
そして現在の彼女の使命は、海軍の歴史とともに海軍そのものを
人々に広く知らしめる広報大使としてその姿を見てもらうことにあります。




「コンスティチューション」がドライドックに入っているの図。
ほぼ同じ角度からたまたま写真を撮っていました。
周りの建物の様子こそ今と変わっていますが、「コンスティチューション」と
彼女が鎮座しているドックだけはこの絵と寸分変わることはありません。


次回、この第1ドックのこともお話ししていこうと思います。


続く。

 

彼女が「アイアンサイド」だったわけ〜USS「コンスティチューション」

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さて、帆走フリゲート艦「コンスティチューション」見学1日目。
いよいよ内部を見学です。



前もって聞いていましたが、「コンスティチューション」は海軍の現役艦なので、
たとえ艦内を通り抜けるだけであっても手荷物検査とIDチェックを受けます。
金属探査機まであったのでそのものものしさにびっくりしました。

わたしはパスポートを持ち歩かないので、列の途中でIDをチェックしている
「コンスティチューション」の乗組員に、

「自分の国の免許書しかないんだけどこれでいいですか」

と聞くと、

「写真がついていればなんでもいいですよ」

皆並んでIDを見せ、カバンの中を全部見せてこの小屋の中を通りました。



こ、これはたしか帆船の横っ腹から突き出している大砲?
今補修中なので全部ここにおいているのでしょうか。
この手前の比較的短い砲は

カロネード砲

といい、1860年ごろまで軍艦に装備されていました。
「コンスティチューション」にはこれが20門搭載されています。

向こう側の砲はこちらより長いですが、こちらは長砲で、
こちらの方が多く30門ありました。
砲弾の重さはカロネード砲が15キロ、長砲が11キロです。

そして11kgの船首砲が2門。
これが「コンスティチューション」の武装です。



中に入ってまず船首側から一枚。
船首から突き出している白いマスト状のものは何なんだろう、
まさかこれが船首砲・・・・のわけないよね?
と思って画像を検索してみました。



う、うつくしい・・・・。

これは1997年、大改修後、40分の帆走を行った「コンスティチューション」ですが、
艦首の部分を見ていただくと、この白い部分の先に木造マストを指して
そのマストにも帆を張っているというのがわかりますね。



さて、ところで「コンスティチューション」が繋留してあるチャールズタウン、
ネイビーシップヤードの第1ドックですが、建設されたのは1800年。
この版画に描かれているころには、もう出来てから50年も経っていました。

ドックの前を海軍軍人らしい3人が歩く姿が見えますが、
バッスルスタイル(ドレスのスカートの後ろを膨らませる当時の流行)の
女性が日傘を持って優雅に散歩しているのでとてもここが海軍工廠に見えません。



こうして比べてみると、昔とは陸の部分の形が全く変わってしまっているのがわかります。
「コンスティチューション」は、1812年の米英戦争における英国艦との戦いで、
その堅牢なライブ・オーク製の船腹が砲弾を跳ね返したため、それ以降

「OLD IRONSIDES」(鉄の船腹)

の敬称を奉られることになりました。
(オールドは古いというより親しみを込めた呼び方のそれだと思う)
そう呼ばれるに至るまで、1933年以来、彼女はまさにこの第1ドックにおいて
幾たびかの修復を受け、それによって船体を強固にしていったのです。



彼女が「鉄」と呼ばれたのにはこんな仕掛けがありました。
リペアの際、彼女を手がけた船大工たちは、樹の特性を踏まえ、使う木材を
慎重に選定して「コンスティチューション」に使いました。

例えばデッキにはダイオウマツ、張り板にはホワイトオークといった風に。
木挽が用意した木材のチップで船大工が各部を作り上げ、さらに銅加工職人は
船底を銅板で全て覆い、「アイアンサイズ」に彼女を加工したのです。

超余談ですが、昔アメリカのテレビ番組に


「鬼警部 アイアンサイド」(原題”IRONSIDES")


という日本題のドラマがあったのをご存知でしょうか、

日本人にはピンと来ませんが、アメリカ人であればこのタイトルから
「コンスティチューション」のあだ名をすぐさま思い浮かべ、
主人公のイメージ(苗字がアイアンサイドというみたいですが)に
「打たれ強い」「パトリオット」などのイメージを重ねたのでしょう。



ところで、上の図ですが、黒い部品を”Ship's knee"といいます。
この部分は、さらに上の図に見られる樹の部分を選定してカットされました。
1800年代のライブオークは、今日のものより堅牢な樹質であったそうです。




ここがボストン海軍工廠の第1ドライドック。
1800年にチャールズタウン海軍工廠(その後ボストン海軍工廠に名前を変更)
が出来てから、最初の戦列艦「インディペンデンス」を建造して以来、
その後「コンスティチューション」を生んだドックです。

ちなみに、横須賀にフランスから招聘されたヴェルニー技師の設計による
日本初のドライドックが出来たのは、84年後の1884年のことです。



アメリカ人観光客は覗きもしないドックの細部を、
熱心に写真に撮る怪しい日本人(笑)

ドックの底には「1500」「1200」などの番号の書かれた木材がならべられています。

さらには「コンスティチューション」の船首の先に「あれ」がある!
これ、「ミスティック・シーポート」で飾ってあったのと同じですよね?
錨の形をしているんだけど、大きな横木が付いている・・。

二つを組み合わせて倒れないように置いてあります。




レンズを望遠に変えて後ろに戻って撮ってみました。
これがこの「正しい使い方」のような気がしますが、してその用途目的は。



ドックの底の木材は、縦横に組み木のように置かれています。



このドライドックの仕組みについてわかりやすく説明しています。

1、ドライドックの入り口には海水が少し入っており、
入り口は浮き扉で閉じられて海水の流入を防いでいる状態です。

このドックの「浮き扉」のことを「ケーソン」といいます。
海水はケーソンを通っているパイプを通じてドック内部に満たされます。

2、ケーソンを「浮き扉」というのは、それ自体が浮くからです。
ケーソン内部の海水を汲みだすと、ケーソンは浮き上がって入り口を離れます。

3、船が曳航されてキールブロックの上に浮かべられます。

4、水を満たされたケーソンがドライドックの入り口にもう一度置かれ、
ドライドック内部の海水はポンプで吸い出され、あとは
クレイドル(設置場)の上に船が乗った状態でドック内が「ドライ」になるのです。



ということは、これが「ケーソン」、つまり浮き扉ってことなんでしょうか。
この内部の海水が抜かれて船のように浮き、離れたところに曳航されて、
さらに船が設置されてから元の場所に戻されて「水密扉」の役目を果たすと。

どうやったらこの巨大なものをここにぴったりとはめるのか、
わたしはむしろその操作を是非見てみたい。




これは船尾からドックのハッチをみたところ。
ケーソンとその周辺の壁など、排水のための機構は最新式のものです。

「コンスティチューション」には一度解体の危機がありましたが、
大衆の支持によって保存が決まり、1931年、最就航しました。
1940年、議会で彼女の「永久就役」の身分が決まり、このときから
「コンスティチューション」は「国と海軍の象徴」となったのです。

ベトナム戦争の後、閉鎖されていたこのドックですが、再利用の案が流れ、
結局は歴史保存のためそのままここでは歴史的艦艇の修復のみが行われることになりました。

この第1ドックのハッチがいつできたのかは、海軍工廠のHPが閉鎖中で
見ることができなかったのでわかりませんが、かなり近年のことに思われます。





これは排水ポンプに違いありません。
左側に4本、右側に2本の、直径40センチくらいのポンプが、
ドック内の海水を汲み出すためにドック底につけて設置してあります。

船体を導入するときにパイプを傷つけないように、その手前の
船形のコンクリートの壁がパイプを守る形になっています。


なかなか内部に入っていくことができませんが(笑)、次回、
さんざんドックの写真を撮りまくってから見た「コンスティチューション 」の
甲板についてお話しします。


続く。 


酒巻少尉のみた大東亜戦争~小野田・酒巻対談より

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「コンスティチューションシリーズ」の途中ですが(マサチューセッツもね)
8月15日に向けての大東亜戦争特集として、捕虜第一号の酒巻和男氏、
そして最後の日本兵となった小野田寛郎氏について話すことにしました。


酒巻和男海軍少尉については、このブログで何度か取り上げています。
最初は特殊潜航艇に乗り組んで真珠湾攻撃をした酒巻少尉を描いた
アニメーション「平和への誓約(うけい)」について書いたとき。

特殊潜航艇に乗り込んだ士官と下士官の二人の間に特殊な「関係」が
あったという設定で、酒巻艇をモデルに書かれた小説、
「同行二人ー特殊潜航艇異聞」(井上武彦著)を取り上げたとき。

その後、酒巻少尉が戦後すぐ出版した「捕虜第一号」を読んだ後、
史実冒涜捏造ドラマ「土曜ドラマスペシャル 真珠湾からの帰還~軍神と捕虜第一号 」
を糾弾するという形で「捕虜第一号」からの解説を加えながらお話ししました。

その後は、「捕虜第一号」の内容そのものについて取り上げたのが一回、
映画「日本の長い夏」で酒巻少尉の出演がないと書いたことが一回、
山崎豊子の遺作「約束の海」について書いたときに触れる形で一回。

というわけで、結構な回数、アプローチを変えつつ語ってきたのですが、
ある日、こんな本を見つけました。

「小野田寛郎・酒巻和男対談 はるかに祖国を語る」時事通信社

小野田さんについては自著を含むたくさんの本が書かれ、本人も
2014年まで存命だったこともあり、30年間ジャングルにいたあいだのことや
小野田さん自身の言葉は数多く残されていますが、酒巻氏は
「日本の長い夏」という、戦後に様々な関係者を集めて行われた対談でも
一言しかしゃべっていませんし、「捕虜第一号」出版後は
特殊潜航艇について語らず、自身のドラマ化も許可しませんでしたから、
その意味では現在残された数少ない証言の一つといっていいのではないでしょうか。


この対談では、小野田氏と酒巻氏がお互いのことをどう見ていたかを始め、
二人のあの戦争観、そして戦後日本への提言など大変興味深い発言が残されました。

酒巻和男少尉は兵学校68期。
昭和16年12月8日、特殊潜航艇「甲標的」の10人の搭乗員の
ひとりとして出撃し、捕虜第一号となってしまった海軍軍人です。

戦後はブラジル・トヨタの社長をされていましたが、この対談のきっかけとなった
小野田氏との共通点は「ブラジル」であろうと思われます。

小野田寛郎少尉もジャングルで「終戦を迎え」、日本に帰ってきた後は
日本の社会になじめず、日本を出てブラジルにずっと居住していたため、
この両人は現地で何度か会ったことがあったそうです。


今日は、あまり世の中に資料の出回っていない酒巻氏のことについて、
本人の言葉を抜き書きしつつ、触れたいと思います。

● 捕虜第一号となって

オアフに漂着した特殊潜航艇と共に発見され、
捕虜になった酒巻少尉でしたが、そのことを大本営は早々と知っていました。
特殊潜航艇のメンバーが酒巻少尉を除く「真珠湾の九軍神」として
開戦と同時に大きく報じられたというのはそれを意味します。

酒巻少尉だけが戦死せず、捕虜になったことは、
第三国のスイスを通じて日本に知らされました。
国際法によって捕虜名簿の受け渡しをすることになっていたのですが、
中立国の外交官を通じて、色々な方面から情報が入ってきたそうです。


当然ながら国民は新聞の「九軍神」の中途半端な数に疑問を持ちました。
小野田氏はその頃中支の武漢にいてニュースを聞き、

「9は5で割れないけど、どうしたのだろう」

と不思議に思っていたものの、誰となくいいだした、
一隻だけ特殊資材が多くてひとりしか乗れなかったんじゃないか、
などという解釈に納得したりしていたそうです。

また昭和19年末頃、小野田少尉はフィリピンである海軍下士官から、

「そのひとは捕虜になっていて、アメリカが今”再教育”して
アメリカ式の開けたもののの考え方を仕込まれており、
非常に大切にされているらしい」

という噂を聞いています。
「九軍神」への国民の素朴な疑問は「やはり一人士官が捕虜になったらしい」
という噂になって広がっていき、それらの噂の中には

「その軍人は絶えず自殺を図るものだから、アメリカが心配して
歯を全部抜き取られてしまったらしい」

というまことしやかなものもあったということです。
ここで簡単に酒巻少尉が捕虜になった経緯を説明しておきます。


出撃直前まで修理していたgyrocompassが直らない

潜望鏡を頼りに出撃したら90度ずれて進んでいた

警備の米駆逐艦から爆雷を受ける

リーフに座礁

何回もやっているうちに日本軍の空爆が始まる

艇内の空気が悪化して頭がぼんやりしてきた

これではいかんと合流地点に進むが、間違ってオアフに接近

また座礁したので艇附の稲垣兵曹と海に脱出、稲垣兵曹は水死

岸まで泳ぎ着いて倒れていたらアメリカ兵が近づいてきた

捕虜←いまココ


何かのサイトで、酒巻少尉を「特攻隊員」と称しているのがありましたが、
特殊潜航艇は特攻をすることを目的とはしていませんでした。
そもそもこの頃、まだ特攻という言葉は生まれてもいません。
海底から敵軍艦を攻撃し、事後には集合する地点も決まっていたそうです。
酒巻艇が突入できずに「合流地点」を目指したというのはそこのことです。


捕虜になった後、昭和18年に、酒巻少尉は本人も知らぬまま予備役に入っていました。
家族はもちろん何も知らされませんでしたが、兵学校の同級生が
家族に「どうやらまだ生きているらしい」とこっそり連絡をしていたので、
酒巻家では息子の墓は作らなかったということです。


酒巻少尉は、開戦後の捕虜第一号として半年ほど一人で葛藤していましたが、
環境に慣れ、その間自分の生きて行く方向性を定めたころには
日本人の捕虜を士官として率いていかねばならない立場になっていました。

収容所には捕虜になった軍人だけでなく、在留邦人、外交官などもいたそうです。

●戦争中のアメリカで

小野田少尉はご存知のように、30年間日本の敗戦を知らなかったわけですが、
酒巻少尉はアメリカで日本の敗戦をいち早く知ることになっただけでなく、
アメリカ国内報道によって戦況も薄々わかっていたようです。

日本国内では、サイパンが落ちたとき、これはまずいという気持ちが
一般化したのですが、(よく言われるミッドウェーは、勝ちとして報道された)
酒巻少尉がアメリカで感じた「空気」、これは勝てるということで
メディアが自信のある発表の仕方になってきたのはガダルカナル以降だったそうです。

ちなみにこのガダルカナルの頃、アメリカでは学徒が動員されて
もうすでに飛行機に乗ったりしていました。

小野田少尉の親の世代、日露戦争を体験した世代は、

「日露戦争の頃はこんな悠長なことをしなかった。
国家百年の計なんていって乗り切られたらおしまいなんだ。
なぜ早く動員しない。アメリカが学徒動員しているのに」

というようなことを皆が言いつつ歯がゆがっていたそうです。


●海軍について

「山本長官には兵学校や、連合艦隊の長官のときに話を聞いたが、
航空兵力、近代戦に対する認識とその対策については、
お金がなかったということもあるがちょっとお粗末だと思った。

戦略戦術的な面でも時代に即していないことが惜しいなと。

兵学校時代、つまり戦前、源田実参謀が「源田サーカス」で帰ってきたときに
講演があったが、まだ戦艦を中心にしての艦隊の海戦思想であり、
実際に連合艦隊もわれわれ特殊潜航艇も、最初はそういう思想の元に訓練していた。

戦争に近づいた途端切り替わるように航空母艦に力を入れたが、
近代戦の様相を先見する力に欠けていたと思う」

面白いのは酒巻少尉の「理想の司令長官像」です。
司会者が、

「小沢治三郎を初めから長官にしておいたらという説がある。
また、米内光政を司令長官にして、山本五十六が南雲忠一の位置だったらとか」

と水を向けると、なんとこう返しています。

「いや、僕らの感じで言えば、長官というのは渋い男でないといけない。
士官を魅きつける統率力と、そしてものに動じてはいかんです。
顔が良すぎてもいけない」

うーん・・・・これってどういうこと?
小沢と米内は

1、渋くない 2、統率力がない 
3、ものに動じるからよくない 4、顔が良すぎる 

という意味かな。
ちなみに小沢治三郎のあだ名は「鬼瓦」だったそうですが・・。
司会者が「米内さんはダメですか」というのに対し、酒巻少尉、

「はあ、米内さんは人がいいし、ぼくらもお話を兵学校で聴きましたが・・」

と言葉を濁しています。
まあ、何を仮定したところで当事者である酒巻少尉にとっては
「敗軍の将兵を語らず」の心境であったようですが。

そこで小野田少尉が

「最初に立てた方針、大鑑巨砲主義か航空機主義かの誤りでしょう」

といいつつ、「大和」「武蔵」の分(費用)を航空に回したらどうだっただろう、
と水を向けると、

「大和、武蔵がまだ工廠におるときに何回も行きました。
ちょっと疑問の感じはあったけどまだそのときには的確にはわからなかった」

そして、後からならなんとでも言えるけど、小野田少尉の意見には賛成で、
大和・武蔵のお金で航空母艦を何ばいか作った方がずっと実際的だった、
と答えています。

当時の海軍の考えは、日本には渡洋作戦を行うだけの海軍勢力を持たないから
どうせ近海での海戦になるはずだが、そこで叩いたとしても出ていくためには
戦艦がなければというものだったと言われています。

ともあれ、先日来このブログでも話題になっていたように、
空母中心の機動部隊を作ったのは日本が最初で、そういう意味では
先見の明があったということだけはたしかです。

このことはいざ戦争が近づいてきてわかったことなので、
航空も船舶も、すべてその方向に向かって戦術戦略が変わりました。
酒巻少尉の特殊潜航艇も同じで、洋上海戦を前提に訓練するようになったそうです。

酒巻少尉の特殊潜水艦は水上機母艦の「千代田」に搭載されていました。

海戦当初から彼我の「兵力差」をいかに克服するかは、戦闘員の間で
なんどもシミュレーションされていました。
酒巻少尉はこの対談で

「戦争に勝つためには最初にその数字の差を消さないと、
優勢勢力と劣勢勢力が戦った場合には、
優勢の方が差の分を自乗する形で勝ち残っていくわけです」

といかにも兵学校卒らしい説明をしています。
最後の一行はどういう意味かというと、兵法による公式で

兵力量AとB(A>B)が同等の能力で戦った場合、

 √A²ーB²

というものがあるのだそうです。
たとえば5隻対3隻で戦うと、3隻が全滅し、勝者には

  √5²ー3²=4

 つまり4隻が残る、ということを言っているわけです。
(もちろんこの公式は現代には全くそぐわないと思いますが)
それではその差をどう埋めるかなんですが、

「緒戦において敵の大勢力をとにかく削ぐ」

これは戦後、真珠湾攻撃を決心した山本長官の言葉として
広く膾炙されたものでもありますが、酒巻少尉もまたこれが

「われわれが真珠湾に行った根拠です」

と言っています。
身を賭しても犠牲になって敵の主力に当たるんだ、
なんとかして葬るんだ、これしか方法はない、と。

「真珠湾は一応の成功はしたけれど、時期的に遅かった、
もう10年以上前から手を打っていれば違ったというのは
当時の海軍周辺では周知のことではあったけど、
日露戦争の勝者でもあった当時の首脳部はどうしても
大鑑巨砲に代表される旧式な考えが根強かった。
海軍はそれでもむしろ進んでいる方だったけど、
他が全くそうではないのが大きな問題だったのではないか。」

この考えは今日では全く珍しいものではありませんが、
結局それらが戦後どこからでてきたかというと、そういう上の体質に
戦時中不満を持っていた海軍軍人からだったのではないかと思わせます。

昭和16年の5月、海軍は南雲機動部隊を結成しました。
これは小沢治三郎の発案だったということですが、
これ自体世界の先駆けでもありました。

酒巻少尉はそれを認めつつも、先駆けならではの手探りと
国力が付いて行かず、それらが実際の対策に総合的に活かせなかったのが、
あくまでも「惜しかった」と繰り返しています。
「活かせなかった」というのは、戦略的に新しい兵器を政治に適応させて
展開していくかということを見据える「戦略家」が、ついには
日本海軍には一人も出なかったということを言っているようでした。

山本五十六は戦略眼はあったが、戦略家にはなりえなかったということでしょうか。



酒巻少尉は、候補生時代、旗艦「長門」の甲板で
日本側の艦隊を山本、敵を南雲がつとめ、候補生が駒を動かして
「図演」を行った思い出があると語っているのですが、この思い出は
もしかしたら酒巻氏の勘違いかもしれません。

わたしがそう思うのは、実際に「長門」が旗艦になったのは
真珠湾攻撃直前の10月8日で、酒巻少尉のいた海軍兵学校68期は
その半年前にはすでに少尉任官しているからです。



旗艦としての「長門」で初めて行われた図演は10月9日から13日までの間、
室積沖に停泊していた「長門」艦上で真珠湾攻撃を想定したものでした。


実はこのとき、かねてから意見具申されていたものの、山本長官が
乗員収容の手段が不十分であるとして採用しなかった特殊潜航艇の
当作戦参加が正式に許可されています。

機材の改造による航続時間を延長するなどの処置を施し、
乗員を収容する目鼻がついたから、という理由でした。

このときの図演は航空母艦6隻が使用されたもので、現実に行われた
真珠湾攻撃とほとんど変わりのないものだったということです。



「最初の半年は暴れて御覧に入れる」

と戦争の遂行について山本五十六が言ったとされる言葉は有名ですが、
これは当時の海軍上層部の総意でもあったようです。
酒巻少尉も、最初はとにかく勝てる、と上の方の人が言っているのを
聞いたことがあり、確かにその言葉の通りチャンスもいくつかあったけど、
交渉に入ることができなかったのが問題だったと言っています。



●工業力の限界

戦地の舞台が南方諸島になったとき、将兵たちを苦しめたのは
マラリアでした。(餓えはもっと後のことになります)

日本ではキニーネなどを配布して対処していたようですが、
アメリカはそのためにDDTなんかもあっという間に作ってしまう。
そして散布してマラリアを防ぎました。
また、本国で献血を募り、ドラム缶で血漿を送ってくるわけです。

実際あそこの戦争は、戦闘よりもマラリアと戦ったり、
補給をいかに行うかの方が問題だったのはみなさんもごぞんじでしょう。
そういうのも、原子爆弾も、つまり工業力の差でした。
工業力の違いは歴史的な積み重ねがないことが根本にあります。


工業力の差、で思い浮かべるのが、彼我の勝敗を分けることともなった
「レーダー」ですが、当時捕虜だった酒巻少尉によると、
アメリカではこんなことがありました。
「シカゴ・トリビューン」紙が、ミッドウェイ海戦の前に

「アメリカ側はすでに日本の暗号を解読することに成功した。
そしてその結果、日本から来つつある艦隊の構成とその兵力規模がわかった。
近くこの機動部隊と我が海軍との間に海戦が起こるであろう」

というようなことを発表してしまったのだそうです。
アメリカの軍部がこの新聞記事に怒りました。
こんなことを書かれたら日本の暗号を米軍がすでに解読したことが
日本にばれてしまいますから、当然ですね。
ところがアメリカという国の面白い?ところで、ここで報道側が
新聞の報道の自由をたてに軍部及び国に噛み付き、当時としては
大問題になって国内世論でワーワーやっていたというのです。

日本は日本で、ミッドウェイに行くことを町の人や芸者まで知っていて、
いったいどうなっているんだと出撃する軍人が暗澹とした、
という話があったわけですが、米軍が機動部隊のミッドウェイ進出を知ったのは
スパイ芸者からのリークではなく(笑)あくまでも暗号解読によってでした。

案外国内でのニュースや噂なんて伝わらないもんなんですね。


●収容所での酒巻少尉

NHK制作の感動コメディ「真珠湾からの帰還」では、酒巻少尉が
米兵に拷問を受けたり、反乱の責任を取って監房に閉じ込められているのを
他の捕虜が「艦隊勤務」を歌って励ます、というミュージカル仕立てで(爆笑)、
捕虜収監中、いかに辛い目にあったかが描かれていましたが、
(あらためて声を大にしていっておきますが、全くの創作ですからね)
酒巻少尉がこの対談でもいっていた収容所生活とは、

「最初の半年は自分との葛藤、あとは統率の苦労」

で、むしろ周りの状況からアメリカが有利となっていき、終戦近くなると
むしろ軍人でない捕虜の人々から「命を無駄にするな」ということを
学んだ、というようなものだったようです。

「(終戦は)ずっと前から分かっておりまして、わたしどもは絶えず
向こうではラジオを聴くことができたし、米国の雑誌も読めますし、
ニュースは次々と入ってきた。
戦局の推移をずっと見ておりますので、だいたいどんな経過をたどるかは
予想がついておりました。
米軍の方ではだいたいこういうことになると計画的にやってましたし、
それらへの評論とか意見も新聞や雑誌に出てくるのでだいたい予想されます。
(私は)どういうことが(戦争の経緯で)起こったら(捕虜たちは)
どうあらねばならないかということに(リーダーとして)気を配っておりました」

「わたしがスポークスマンで、代表者として、
最初の頃は先任者でもあったので、みんなを指導しておったわけです。
米軍との折衝で、この人にはどこの仕事をやらせるとか、
そういう割り振りをしたりしていました。
(日本側の捕虜の)士官仲間でポリシーを決めて討論し、
その結果に基づいてですけれどもね、そういう立場でした」

そして、終戦まで日本人として「勝ってもらいたい」「天佑さえあれば」
「勝たなくちゃならない」たとえ日本に帰れなかくなるとしても、
という思いを持っていたものの、いざ負けたとなったら、気持ちを切り替えて
何としても戦後日本の復興に身を捧げよう、と決心したということです。




酒巻少尉は戦後も日本の近代戦化がもう十年早かったら、
という考えを戦後ずっと持ち続けていたようです。
真珠湾では自分たちの行った攻撃も成功したと言い切っており、
捕虜生活を経ても敵への爆撃を「栄光」と称するなど、
戦後の価値観の逆転にも全く考えは左右されず、一部の軍人たちのように
「懺悔組」として日本を否定することもありませんでした。

その点実にプラクティカルで、芯のぶれない人物だったようです。
これは酒巻氏が戦後日本ではなくブラジルという「新天地」で職を得、
日本を外から見る立場にあったことと無関係ではないかもしれません。

戦後「捕虜第一号」を「いろいろ聞かれるので説明のために」一度だけ出版し、
あとは公的には全く沈黙を守ったのは、決して「反省や悔恨」からでなく、
時を経てもあのとき自分がしたことは日本の軍人として当然の行為であり、
戦前も、日本の復興に邁進した戦後も、国を守るために為した
その意味は変わらない、と信じている人の矜持からだったように思えます。




続きます。


 

 

小野田少尉の終戦~小野田・酒巻会談より

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引き続き、「遥かに故郷を語る 小野田寛郎・酒巻和男会談」
からお話ししていこうと思います。

このタイトルの「遥かに」とは、会談が行われたのが昭和52年で、
場所がブラジルであることからきたタイトルです。
小野田氏は帰国後、日本の喧騒を避けるようにブラジルに移住しており、
酒巻和男氏は戦後、ブラジル・トヨタの輸出業務を経て社長だったころです。


酒巻氏は戦後復員してきた時、しばらく久里浜にある収容所にいてから
故郷(徳島)に帰り、翌年にはトヨタに入社しています。
トヨタを選んだのは、

「自動車産業は将来伸ばさなくてはいけないし、伸びるべきものである」

その中で自分が役にたてばということだったようです。
その頃トヨタは「賠償指定工場」でした。
これは戦後、操業を認める代わりに、工場の重機や工作機械などを、
戦勝国や戦争で被害を受けた国に賠償金代わりに渡すよう
GHQから指定された工場のことで、トヨタの愛知工場がそうでした。

「シナに(工場を)取られるかもしれない」

という状況も覚悟していただったのですが、戦後5年で指定は解除となったそうです。


戦後の日本は酒巻少尉にとって戦争の爪痕で「惨憺たる有様」でした。
久里浜の収容所では、サイパンで軍属として働いていた朝鮮人の団体と
アメリカから復員してきた酒巻少尉らのグループが一緒になったのですが、
その晩、彼らは「我々は戦勝国だ」と言い出し、収容所に対して
要求を通すために騒いであわや暴動という事態にまで発展しました。

その収容所の司令官は、アメリカ人で酒巻少尉と旧知でした。
そこで、どうしたらいいかを話し合って解決したそうです。
その後、横須賀線で東京まで行き、そこから郷里に帰ったのですが、
そこでもまた朝鮮人が自らを戦勝国民だとして肩で風を切っており、
日本人の男とみると見境なく殴ったりひっぱたいたりしており、
酒巻氏も彼らに不愉快な目に遭わされた、ということを控えめに語っています。

●靖国神社に二度入った男

小野田氏はご存知の通り、終戦を30年間知りませんでした。
ちなみに小野田少尉は死んだことになっていたので、昭和20年8月20日、
戦争が終わって5日後に中尉に昇進していました。
胸部貫通銃創で戦死、ということにされて一旦靖国神社に入りました。


終戦時、小野田少尉がルバング島で率いていたのは、3名の部下でした。
昭和25年、部下のうち一人が投降し、その情報で3人が生きていることがわかり、
もう一度少尉に戻して靖国神社を「出されて」います。

その4年後、フィリピンの士官学校の卒業課題で「討伐実習」が行われ、
それに「引っかかって」部下の島田庄一伍長が「やられました」。
射殺された島田伍長は「戦死」扱いになっていますが、このときに
小野田少尉もきっと自決したんだろうということになり、
島田伍長と一緒にまた中尉になって靖国神社に入ったのだそうです。

小野田少尉が発見されたのは昭和49年のことですが、20年間、
ずっと靖国神社に「いた」ということになります。

その2年前、最後までルバング島での「諜報活動」を共にしていた
もう一人の部下、小塚金七上等兵が、こんどは現地の警察隊に射殺されます。
小塚上等兵も戦死扱いとなり、「最後の戦死者」と呼ばれました。

長年の密林生活を共にした部下であり戦友であり親友が戦死した時、
小野田少尉は

「復讐心が高まった。
目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」

と後年語ったそうです。(wiki)
酒巻氏との対談では、30年間ルバングで生き抜いてきたことは

「任務を、つまり自分が『うん』といったものを途中で投げるのは
男がすたるようなそういう意地が自分の性質としてありますね。
だけども、とにかく日本がもう一度この島を占領したら、そのときには
いわゆる先遺の諜者として立派に連絡を取りたい。

あの小さな島はいわば飛行機地で、それを秘密裏に取るのが任務ですから。
それまで生きて、島の情報をよく掴んでおくこと。
それまで生きておれ、という任務をもらったことが、努力して
生きながらえた一つの条件ですね。

それからもう一つは、それを持ち続けるために自分が健康だったこと。
もう一つ。
子供の頃は授業は聞かずによそ見して何にでも首をつっこむ、
知識欲の塊みたいでした。
その結果、初歩的、基礎的、原理的なことだけは幅広く知識を持っていたことが、
難関を切り抜けられた頭の方の部分かもしれません」

と語っています。


●なぜ終戦を「知らなかった」か

小野田少尉はルバング島で日本で起こっていることをラジオで聞いて知っていた、
皇太子のご成婚も、東京オリンピックも、新幹線開通も・・・、
しかし終戦だけは知らなかった、というのが帰国後話題になりました。
小野田さん自身、「情報将校として落第だ」と言われたこともあったそうです。

小野田さんがそれを知らなかった理由は、ベトナム戦争にありました。
ルバング島はグアムとベトナムをつなぐ一直線上に位置する島です。
北爆のために、戦略爆撃機B-52がグアムから多い時には17編隊、
すなわち51機も、島の上を飛んでいくのです。

島には南シナ海を500キロにわたって警戒するフィリピン空軍の
レーダー基地もあり、クラークフィールドの空軍基地の防衛を受け持っていました。
そこから出される電波の誘導でB-52がまずグアムからルバングに飛び、
そのあとベトナムに一直線に飛んでいくわけです。

こういうのを日常的に見ていると、戦争は終わっているなどとは
とても思えなかったということと、日本の繁栄は傀儡政権のもので、
満州に亡命政権があると考えていた(wiki)というのがその理由です。

昔、日本政府は満州に愛新覚羅溥儀を皇帝とする傀儡政権を置いていましたが、
小野田少尉の考えたその頃の日本は、そこに戦況不利になった政府が
亡命して「身を寄せていた」というものだったらしいのです。


さて、そんなこんなで靖国神社入りしてしまった小野田少尉、いや中尉。
日本ではもう日本兵はここにはいない、ということになってしまいましたが、
現地の住民は子供ですらその存在を知っていました。

なぜなら、一年に一度あえて姿を現して存在をアピールしていたからで、
その理由は「いることを教えなければゲリラの意味がない」からでした。

投稿のビラが撒かれたこともあったそうですが、それを信じるには
旧陸軍の軍人である小野田少尉には

「戦闘停止の命令が下りたかどうか」

にかかっていました。
なぜなら、小野田少尉は上から「戦争が一時状況不利になっても
三年でも五年でも待て」と命令されていたため、何を見ても聞いても
否定するしかなかったのでした。 

●終戦を知ったとき
 

日本が負けたと知ったとき、小野田少尉の思ったのは
「なんだ、だらしない」でした。

たとえばドゴールのフランスは、ドイツ軍にパッと手を上げて、
お手柔らかに、と頭を下げておきながら実はいろいろと抵抗運動をしていました。
日本だって、敗戦のときにも50万80万人もの軍隊をまだシナ大陸や
南方派遣軍として持っていたのだから、再編すればまだなんとかなる。
もう少し頭を使ってくれてもいいのに、と思ったそうです。

そこで、俺は30年間何をやってきたのか、と拍子抜けした気持ちで、
大統領と会う(先日亡くなったときにNYTがサムライのようだと評した
刀を渡したとき)から、のんびりと川で髭を剃りながら、

「じゃあもうおれの知っているのは南方の気候と牛のことくらいだな」 

仕方がないから兄貴の子供を頼ってブラジルでかぼちゃでも作って食おう、
このように思ったのが、その小野田氏がブラジルに渡ったきっかけでした。 

日本に帰ることは、なまじそれまで日本の現在の様子を知っていたため、
もはや自分のいるところはないだろうという考えからなく、
いわゆるもう少し原始的なところに行くしかない、と思ったのです。

● 酒巻少尉の終戦

その点、酒巻少尉の迎えた「終戦」は、少し違いました。
いわば戦争が始まったとたんに酒巻少尉にとっては戦争は終わったも同然。
このことを酒巻氏は「我々(捕虜)は4年間先行している」と感じました。

つまり、日本は敗戦後、マッカーサー司令部の指令によって全てが処理され、
いわば日本人全部が捕虜、日本は巨大な捕虜収容所になったような状態になり、
酒巻氏はそれをすでに「シミュレーションしていた」と見たのです。

自分たちが4年前に感じたり、反省したり、止揚(aufheben、アウフヘーベン。
ヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいい、
違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる
新しい考え方を統合させてゆくこと)してきたことと全く同じことが
日本では行われている、それではたとえ及ぼす範囲が狭くても、
わたしの知る限りのことをなして、日本を再建・復興させていこう。

まずは衣食住から、そして個人から、グループから。
そうすることが数百万の親友、先輩に対する我々の義務であると。


●なぜ将校になったのか

本日画像の元にした写真には、左手に小野田少尉の弟滋郎が写っています。
写真撮影当時小野田氏は曹長で、陸軍経理学校に進んだ弟は少尉と、
兄よりも階級が上となっています。

小野田少尉の長兄敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校、
(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、
次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)。

 小野田氏が徴兵で二等兵となり「星一つ」つけたとき、次兄に

「おまえ兵隊好きなのか嫌いなのか」

と聞かれたので、

「好きじゃないですよ、好きじゃないけど行かなきゃしょうがないだろう」

というと、幹部候補生の制度で将校になる気はないかと聞かれます。
他の兄弟が全員将校なのでそれもやむなしか、と思う小野田二等兵に兄は
畳み掛けるように、

「なったら軍服を着ている間は本官の将校と同じことをしなければならないよ。
それが嫌だと言うんなら、おまえ、今ここで死ね。軍隊は絶対逃げられん。
またそんなことがあったら親兄弟の面目型立たない。嫌なら死ぬしかない」

つまり、星一つついたときにやる気があるもないもやる気を起こすしかないので
幹部候補生を志願し、ここでも優秀だったので選抜されて
陸軍中野学校の二俣分校に入学したという経緯でした。

●小野田少尉の見た帝国陸軍

ここで少し言い訳なのですが、酒巻少尉の語った海軍のいろいろについては
知らないことは一つもなかったのですが、どうも小野田少尉が
陸軍の戦法について語っていることがいまいちピンときません。
なので、ただ抜粋でお茶を濁します。


「当時の陸軍の戦車の基本は、歩兵が正面でぶつかっているときに
本来使うべき騎兵の代わりに戦車が側背攻撃をするというのが主流だった。
当時の日本の戦車は、日本人が小さいから小さく速かったから、
側面から攻撃するようにということでより機動性ばかりを追求して、
正面突破や戦車戦のできない捜索連隊型の戦車しかなかった。
これは軽装甲で薄い。」

(あれ・・?これって、ヒトマル式のこと?)

「こんなだから歩兵の正面突破、とくに鉄条網の突破に苦労する。
砲兵がないから上海事変の肉弾三勇士みたいな犠牲がでる。
ただ、日本の戦車はディーゼルだったから外国軍に比して成功していた。
ソ連でもアメリカでも火炎瓶放られると燃えてしまう。」

もしかしたら日本の作る戦車はわりとよかったという話でしょうか。
ちなみにこのとき、自動車は当時全然ダメだったのに、飛行機は
結構いいものを作れたのはなぜだろうという問いに、二人は
出発点が同じ頃だったからだろう、と答えています。

ここで司会者が

「末期にソ連のT34とかドイツのティーゲルとか出てきたら、
もう比較になりませんでしょう」

うーん、司会者がなんかすごく水を得た魚のよう。

小野田「大型戦車でしょう。
日本は明治時代にイギリスから払い下げの狭軌(狭いレール)を安く買ったため、
東京の工場で大型戦車を作っても汽車で運ぶことができない。
トンネルや橋梁も通れない、だから大型戦車は(作るのを)あきらめてしまった。」

「第一次大戦の火力戦を見ていて、陸軍大学の教科書には
その戦訓で満ち満ちているのに、陸軍は基本兵制を日露戦争以来
全く変えていない。
傘型散開といって、軽機関銃を中心に狙撃手を二人つけ、10名は置いておいて、
向こうと撃ち合いながらいって、300mまでいったところで突撃という形。」

これも、予算がなくて重火器を後方において損害を少なくする、
というやり方だったそうです。
小野田少尉のおじさんという人は陸軍の技術将校で、
92歩兵砲とか、戦車、対戦車の車載戦車砲を作っていたそうですが、

「おじさんがせっかく研究してもね、今軍隊の予算には砲を作るお金がないんだよ」

といっていたそうです。

陸軍の砲兵火力がないんから昼間の戦争ができないんですね。
見えているから歩兵はやられてしまうので、夜襲しかないんですが、
向敵警戒機で見えないはずなのに機関銃を撃ってくる。

当時、陣地の前に小型マイクを埋めてあるんじゃないかと思って、
夜襲に成功して周りを探してみればその機械を取れるんじゃないかとか
考えたりしました。

それで予備士官の成績のいいのに将校斥候を命じたりするんです。
同じ教育を受けた連隊の一番優秀なのを使っていくしかないんです。


●小野田少尉の「見ていた」日本

小野田少尉はルバング島で新聞もラジオも手に入れていました。
しかし、終戦直後はフィリピンも不景気なので手がかりになるものがなく、
それもまた終戦を知らずに5年過ごす原因になったと言います。
5年すぎると、新聞紙などが落ちているようになり、日本語、英語、
そして中国語の(中野学校に推薦されたのはこの2ヶ国語が堪能だったから)
新聞から情報を断片的に得ては組み合わせて情報を整理するわけです。

これはまさに陸軍中野学校で諜報将校として勉強したことそのものでした。
ただ情報のなかった空白の5年間は、自分の思うようにストーリーを
組み立て、つじつまを合わせてしまったので、その結果
「敗戦」だけがその結論からこぼれ落ちてしまったようです。

小野田少尉はまた、東京オリンピックのときも経過を知っており、
金メダルが少ないとか、水泳が振るわなかったのを
悲しく思ったりしていたそうです(笑)

三島由紀夫の自殺も断片的な情報をつなぎ合わせて、
リアルタイムではありませんが知ったようで、

「どうしてかなあ、これが時代なのかな」

と不思議に思ったそうです。
興味深いのは横井庄一さんが出てきたとき、
兵器がないからってあんなに人間ばかりばらまいていっちゃ、
(戦地に兵隊が)残っているのも当たり前だな、
現にわれわれが残っているんだし、まだ方々にいるんだろう、
それなら心強い。しかし下手やったな、と感じました。

つまり、小野田少尉から見ると横井さんはやりそこなった、
捕まってしまった、と思ったということです。

このころは、小野田少尉に見せるために日本からの捜索隊がわざと
日本の新聞や週刊誌を置いていっていたのですが、それも
小野田少尉は、

「自分に見せるため(つまりおびき寄せて捕まえるために)
操作した情報を印刷したものを用意している」

と警戒していたので、すべての情報を鵜呑みにしていたわけではなかったのです。

●命令解除・投降

小野田少尉が日本が戦争に負けたことを知り、
日本に帰る決心をした経緯は、おそらくみなさんのご存知の通りです。 

直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する、
と言ったため、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐が、
文語文による山下奉文陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、
口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令を受諾しました。



左が谷口元少佐。 

翌日、小野田少尉は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をしています。
このあとマラカニアン宮殿でフィリピンに「投降する」という形で
軍刀をわたし、(すぐにそれは返還された) フィリピン政府からは
潜伏期間の「殺人」は戦闘行為であったという恩赦を受けました。 

小野田少尉にとっての大東亜戦争はこのとき終わったのです。


続く。 


遥かに祖国を語る〜小野田・酒巻会談より

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今日はいわゆる終戦記念日。
二人の対談に沿って話してきましたが、この項をこの日に合わせてアップします。



小野田寛郎・酒巻和男対談から、二人が帰ってきたとき、かれらが
日本に「いかに迎えられたか」についてピックアップしてみたいと思います。


対談が行われたのは昭和51年8月29日。
小野田氏がルバング島から日本に帰ってきたのは昭和49(1974)年ですから、
まだ2年しか経っていません。
1922年生まれの小野田少尉は当時54歳で、 ブラジルに農場を持っていました。

対談をまとめた本に掲載されている不鮮明な写真には、
床の間もどきに観音像が飾られた畳の部屋で鍋を囲んでいる両者が写っています。

8月に鍋物、しかも全員がスーツを着ているのですが、対談が行われたのが
ブラジルであり、現地は冬だったわけですね。
酒巻氏はちょうど本日絵の参考にした写真の頃と同じ風貌をしており、
上等のスーツに恰幅のいい体型が、いかにも社長らしい貫禄を感じさせます。
この対談時、酒巻氏は58歳でした。

体型的に酒巻氏の3分の2位にしか見えない痩せた小野田氏は、
白の麻のジャケットの下におそらく赤い花柄のシャツ。
日本でこの格好をして白い靴を履いていたら、完全に
あちらの世界の人ですが、ブラジルで牛500頭飼っている農場主、
と言われれば合点の行くファッションではあります。

両者はこの対談以前にもブラジルで何度か会っており、初対面ではありません。


●日本の敗戦を知って

30年間潜伏したルバング島から羽田に帰国したとき、小野田少尉が
報道陣に聞かれた質問の中に

「戦争に負けたと聞いてどうお感じなりましたか」

というものがありました。

「30年遅れただけで、皆さんが30年前にお感じになったことと同じでしょう」

と小野田少尉が返すと、それ以上聞かれなかったそうです。
30年間、戦後日本の発展とは別の世界で生きてきた軍人に対し、
当然マスコミは、現代の文明や思想から取り残されているはず、
という先入観を持ち、それを裏付ける言葉を引き出そうとしました。


帰国してきたときに「天皇陛下万歳」と叫んだこと、天皇陛下が自分に対し
謝罪されるということを防ぐために謁見を拒否したこと、
30年間の間に現地の警察や軍人、米軍軍人を戦闘活動によって殺傷していたこと、
これらのことからその存在を「軍国主義の亡霊」とレッテルを貼ったうえで
血相変えて非難をする日本人が数多くいたのです。


しかし小野田氏はガチガチの軍国少年であったというわけではありません。
それどころか、予備将校になったきっかけも兄の「ならないならここで死ね」
という言葉ですし、中学校では運動部のことで学校と喧嘩して
ストライキを起こしたり、自由を求めて支那にわたったりという

「当時としては箸にも棒にもかからん野郎」

であったと述懐しています。

酒巻少尉は帰国してすぐ収監された収容所と、また帰郷する途上で、
朝鮮人の横暴を嫌というくらい体験したことから、敗戦の惨めさを
改めて味わったということでしたが、その点小野田少尉は

「戦争で負けて悔しくないのかと聞かれるから、
(日本は)もともと食えないから戦争したんであって、
食う道をひらくために、民族のために戦争をしたんだ、と。
負けて嬉しくはないけれども、みんながこうして復興して
ちゃんと食べられるようになりゃ、目的は達しているんじゃないか。
いまさら負けたものをとやかくいってみたってしょうがない」

ルバング島では負けているとは思っていなかったけれど、後から抜けていた情報が
パズルのピースのように埋まれば、たちどころに「つじつまが合い」、
合点がいったため、そのことにあまりショックは受けなかった、と話しています。

●帰国

酒巻少尉が戦後帰国したときには「捕虜になってきたこと」に対する
反感をぶつけられることは「いくぶんかあった」そうです。
「けしからん、腹切って死ね」はどちらかというと少数で、
マスコミの論調や、酒巻氏宛に送られてくる手紙の7〜8割は
「ごくろうさんでした」「お元気で」という激励でした。

しかし小野田少尉の場合は世論を二分するくらい極端で、中には

「国の予算を捜査と説得に一億円も使わせた」
「戦争はとっくに終わっているのにわざわざそんなところで暴れたりして、
(終戦が)わかっているのに自分勝手にやっていたんだろう」

というものもかなりあったようです。

この二人の違いについて、小野田さんが面白い分析をしています。

「酒巻さんを攻撃した人が(投降しなかった)ぼくのほうを褒めたわけ。
酒巻さんご苦労さんでした、お気の毒でした、という人はぼくが・・
(投降せずに戦っていたことを非難したということ)」

酒巻氏が捕虜になったことを責める人は、小野田氏が戦ったことを褒め、
酒巻氏が捕虜になったことをいたわる人は、小野田氏に
なぜ投降しなかった、なぜ戦い続けた、と非難したというのですが、
これはある意味真理を突いていると思われました。



酒巻氏には手紙での非難以外には直接の被害はなかったということですが、
小野田氏の場合、投書されたりマスコミに言われたりしたことの中には
なぜここまでと心外でならなかった例もかなりあったそうです。
帰ってきてまず病院に検査入院したのですが、もうその翌日には

「おまえは自分の部下を二人も殺してのこのこと日本に戻ってきたか」

「そんなものを匿っている病院は爆破してやる」

などという恫喝や脅迫がありました。
周囲は本人には知らせないほうがいい、と気を遣ったのですが、
当の本人が、そういうのも自分の身のためになり、
これから何かするにあたって注意にもなる、なにも知らずに事が大きくなるのは
困るから投書は隠さないで見せて欲しいと頼んだため、どんなひどい言葉も
全て本人には伝わっていました。



酒巻少尉が帰国したのは敗戦と同時でした。
小野田少尉の帰国の時ほど国民の「自虐症状」は深化していなかったものの、
そのかわりもっと直接的な、「昨日の軍神は今日の戦犯」といった悪意が
日本中に渦巻いていた頃でもありました。

詳しくは語っていませんが、酒巻少尉は極東軍事裁判にも出廷しています。
あの爆笑歴史創作ドラマ、NHKの「真珠湾からの帰還」では、
酒巻少尉が軍事裁判法廷で連合国にむちゃくちゃ糾弾されていましたが、
実際は戦犯どころか、

「ぼくら(捕虜)は極東軍事裁判では弁護団のほうにいたんです」

このことはどの資料にも全く書かれておらず、この対談での
酒巻氏自身の一言だけしかいまだに手がかりがありません。
「捕虜第1号」が、誰の弁護のために出廷していたのか。
そしてもし酒巻少尉がなにか証言したのだったら、何を言ったのか・・・。



●戦後日本の価値観

戦争に負けるとその国はそれまでの価値観が覆され、自虐的になります。
これは日本に限ったことではないのですが、日本の場合それを
連合国によって最初に東京裁判というショーでがつんとやられて、
あとはGHQの統治下で徹底的に刷り込まれたというのが大きかったでしょう。

過去のことは全部悪かった、過去の英雄も全部いけない、というわけで、
戦争に行っただけで「戦犯」と呼ばれ石を投げられたりするわけです。
国家指導者も、戦争にならないように奔走したりした者も指導した者も、
一緒くたに「軍国主義者」。
陸軍などは「陸軍の暴走」の一言でとくに満州での責任のすべてを片付けられる始末です。

そういう、戦後の日本人の手のひら返しのさまも、この二人の旧軍人は
実に冷静な(というか醒めた)目で見ているようでした。

ともあれ小野田少尉は、ルバング島からただ日本だけを見ていたときからは
考えられないくらい、帰国してから不思議な立場に置かれてしまいます。
つまり、

「現在日本で一番悪とされている軍国主義の権化」。


前回も書いたように、小野田少尉はなりたくて軍人になったわけではないし、
兄に言われて予備将校の試験を受けて受かっただけ、つまり
当時の祖国が直面していた国難がゆえに仕方なく軍人になっただけの人です。

帰ってきたときマスコミなどに「プロだから島で生きていられたのだ」
と言われるのには、小野田氏自身大変不満であったそうです。

「プロフェッショナル」というのは本人に言わせると、

「自分の選んだ道を自分の信用を確保するために、そして
明日のパンを確保するためにつらぬくこと」

であり、自分のはそれとはまったく違う、と。

自分は命令が到達しなかったという誤りのために島にいただけであって、
その間不本意ながらそこにおらざるを得なかったにすぎない。
ところが一方的に「小野田さん」にやんやと手を叩き喝采した人は、
その世間の思うところの姿でこれからもずっといろと要求してきます。

あるときは、自衛官上がりのタクシーの運転手と世相について話していて、
今の若い世代はだらしない、もっとスパルタ式にバンバンやればいいのに、
そして戦争前に戻すべきだ、というので

「それは違うよ、昔がよければ戦争に勝ってたでしょう」

というと、怒った運転手に

「あんたそんなことじゃダメだ、小野田さんを見習いなさい」

と叱責されたということもあるそうです(笑)

国家のためにも、何のためにもなっていない島での30年間を過ごし、
あらためて日本社会に戻ってきただけなのに、
なぜ「小野田さん」は特殊な身の持ち方をしなきゃいけないのか、
きれいな、出来た人間のような真似をして生活を誰が保証してくれるのか。

小野田氏の日本に対する不満はそんなところから来ていました。


●自虐する世代

酒巻少尉は、元海軍軍人らしく、自衛隊の呼称についてこういっています。

「先日ブラジルに日本から練習艦隊がきて日本および日系人が歓待して
いろんな行事をしたんですが、”自衛隊・自衛官”をポルトガル語で
何て表現したらいいか困りましてね。
直訳したらブラジル人にはなにかヘンで理解しにくいんです。
結局ブラジル語のナヴィーを使ったのですが」

ちなみに、この時の練習艦隊の自衛官を見て、現地の人が
だらしない、とブウブウ言っていたのだとか。

「制服着てブラジル人の女の子を抱えて歩いていた」

このころの練習艦隊ということは1950年生まれ前後でしょうかね。
むしろ、そんな豪快さんが自衛隊にいたなんて、今の自衛隊の
大人しさを見ているとまったく信じられないのですが。
続けて酒巻氏は戦後レジームの問題についてもこう言っています。

「戦争が終わって
30年も経っておりますのに、日本ではまだ占領下に与えられた
民主主義や憲法の問題もそのままになっております。

こちらのブラジルの日系の方が、日本の学校で君が代を歌うのが問題とか、
日の丸の掲揚がどうとか、えらい問題になっていると新聞で見まして、
多くの人がこちらでは不思議がっておるんですね」

なんということでしょう。
この対談の行われたのは1976年(昭和51)です。
巷に「およげ!たいやきくん」と「ビューティフル・サンデー」が流れ、
ロッキード事件が世間を騒がせていた頃から、40年経っても、
この問題においては日本は一ミリも変わっていないということではないですか。

まあもっとも、占領軍に与えられた憲法を物持ちよく半世紀以上護持し、
いまだに手をつけたら戦争が始まると騒ぐ連中がいるからには
当時もまったく同じだったのには間違いないですが、
わたし自身が全くそんな問題のない学校生活を送ったこともあって、
君が代日の丸問題についてはまだマシだったとなんとなく思い込んでいました。

酒巻少尉は続けて、

「独立国家として国家独自の骨格を作っていただきたいのです。
国家の目標、道標を、お茶を濁した格好で、30年も続いているのです。
これをできるだけ早くやらなくてはいけないというのに、
若い世代の一部の人が、過去の事柄について、
『たとえ一部分のことでも悪ければ全体がダメだ」と否定してしまう、
という問題があります」
 
と言っています。
この時の「若い人たち」というのは、つまり団塊の世代に相当します。
団塊の自虐が日本をダメにした、とはよく聞くことですが、
酒巻氏も同じようなことをこの時感じていたということでもあります。

 ●殺していいんですからね

帰ってきて一躍有名人になった小野田氏が悩まされたのは、
どこにいっても日本人が取り囲んでくることでした。

慰霊祭などに行かなければ「あいつは・・・」と言われるから
仕方なく行くけれど、新幹線ではくちゃくちゃにされてしまうので、
専用の車でいって、逃げるように帰ってくる。
地方に行くと色紙を頼まれて明け方までかかって書かなくてはいけない。
出版の見本市のためにパリに行った時も、観光に行くと
そこの日本人が集まってきて次から次へと写真を頼まれて、
誰か一人が「サインしてください」というと、サイン会が始まり、
パリにいるのに観光なんてできないという状態。

ここで小野田さん、今ならたちまちネットに上げられて炎上し、
四方八方から責められていたであろうひとことを口にしています。


(ならルバング島にいたほうがはるかに幸せだった?と水を向けられ)

「第一日本では嫌なことがあってもしゃくにさわるから報復なんて
そんな無茶なことできませんし。
ルバング島ではそれが良かったんですよね。
自分はたしかに殺されるかもしれないけど、しゃくに触ったら
殺していいんですからね。
そういうところに鬱憤のはけ口があったわけです。
日本ではそれができません」

いや、日本でなくても大抵の世界ではそれだめだから(笑)
この対談が、帰国からわずか2年後であったというところに
こういう言葉がまだひょいっとでてくる小野田氏の油断があります。
おそらくですが、程なく氏はこの言葉を永遠に「封印」することになったでしょう。

小野田氏のゴーストライターであった人物がのちに暴露したところによると

●島民を30人以上殺害したと証言していた
●その中には正当化出来ない殺人があったと思われる
●戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、
1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え
「島民の復讐」をおそれたことが原因である

だそうですが、この殺害された30人の中には小野田氏の言うところの
「癪に触ったための鬱憤ばらし」の被害者、という人もいたのかなあ、と・・。
(; ̄ー ̄A ・・・・・。

それにしてもこのゴーストライター氏、小野田さんとなにがあったんだろう。



●「我、ことに於いて後悔せず 」

酒巻少尉は戦後も、敗戦までの日本にはいま(当時)にはない、
美しさがあったと信じていました。
日本人が素晴らしいと世界に認められる実績の一つとして、
例えば日露戦争における東郷元帥の采配などは、

「歴史の中で二つとない絶対的なものであった」

といいきっています。
素晴らしいもの、素晴らしい人物をたくさん擁する日本を、
戦争に負けたということから全て否定するのは当たらないと。

かたや小野田少尉は帰国時の空港でのインタビューで

「青春を無駄にして悔いはないか」

と聞かれました。
自身は自然の中で自分が「強くなった」ことを感じており、
何の制限も受けずに、肉体的には自然に、頭脳的には
命の取り合いという極限の状況で色々考えながら生きてきたことを
まったく悔いていない、と答えたそうです。


これを負け惜しみと言う人もいますし、先ほどのゴーストライターのように
島民を殺しておいてなんだ、と言う人もいるわけです。
ただ、本人は運命によって与えられたその環境の中で、
「命の取り合い」(殺すか殺されるか)と「命を繋ぐこと」によって法悦を感じ、
またそれゆえに生きてくることができたのだとはっきり言い切っています。 

平和な世に生まれていれば選択せずに済んでいた道を、
小野田氏と酒巻氏は歩み、その結果一人は残留兵士に、ひとりは捕虜となり、
残りの人生を「元残留兵士」「元捕虜」として生き、この世を去りました。

どちらも自分の人生には悔いはないと明言しているとはいえ、
この二人がたとえもう一度生まれ変わってきたとしても、
二度と同じ人生を送らずにいられる国であれと祈らずにはいられません。

 

 

「”枢軸”をやっつけろ!」〜空母「タイコンデロガ」

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空母「ホーネット」の海軍艦船資料コーナー、「タイコンデロガ」です。
「タイコンデロガ」(TICONDEROGA)とはアメリカ独立戦争の時に
イギリスから植民地軍が戦って取り返した「タイコンデロガ砦」からきています。

ちなみにアメリカ海軍の艦名命名基準によると、正規空母は最近まで
戦場の地名(コーラルシー、ミッドウェーなど海戦も含む)か、
あるいは過去の艦名( ボノム・リシャールなど)だったのですが、
最近は大統領の名前というのが定番になりつつあるみたいですね。

ニミッツ級は、フラッグシップの「ニミッツ」以外はほぼ全部大統領です。

違うのは3番艦の「カール・ヴィンソン」と7番艦の「ジョン・C・ステニス」 
だけですが、二人とも下院議員で、いずれも海軍力の増強に努めた、
という功績を称えられています。

一番新しい10番艦の「ジョージ・H・W・ブッシュ」は、パパブッシュの方ですが、
第2次世界大戦でパイロットであったということから命名されたようです。

大統領であれば誰でもいいというわけではなく、おそらく「バラク・オバマ」
という船ができることはないでしょうし、考えたくもないですが、
たとえ大統領になれてもきっと「ドナルド・トランプ」という艦船はできないでしょう。

どんどん寄り道してしまいますが、ふとそれでは「ボブ・ホープ」、
コメディアンの名前が付けられたというのはなぜだろうと思って調べたところ、
この「ボブ・ホープ」、海軍の管理下にあるものの運用は民間人によって行われている
車両貨物輸送船だったことがわかりました。 

なんかほのぼのするかんじが納得です。

もう一つついでに、このことを調べている時に空母「サラトガ」の項を見ていたら、
不思議なことを知ってしまいました。
「サラトガ」も「タイコンデロガ」同様、独立戦争の戦場から取られた艦名ですが、
第二次世界大戦の時には帝国海軍の潜水艦や特攻機の攻撃を受けつつも
武運強く生き残ったこのフネは

「Sara」「Sister Sara」「Super Sara」
「Sorry Sara」「Stripe-Stack Sara」「Sara Maru」

といろんな愛称で呼ばれていたというのです。
「ストライプ・スタック」とは縦縞煙突のことで、なんだかこういうの、
艦これの萌え化に通じるものがあるわよねえと微笑ましかったりするのですが。
最後の「Maru」は日本の船につける「丸」なんですよ。

「サラ丸たん」ってとこでしょうか。
なぜ戦争している相手の船の名前風にしたのかは謎。
「ソーリーサラ」もよくわからないですが。



「ホーネット」のハンガーデッキの下、昔は士官たちの居住区やパイロットの控え室、
メスなどがあったところは、その部屋の区切りごとに一つの艦が展示を行っています。
「タイコンデロガ」のコーナーはここから始まる、というプレートがありますが、
実はあまり「タイコンデロガ」の資料は多くありません。

間が持たなかったからか、当時のポスターが貼られています。



いつの発行か知りませんが、第二次世界大戦中の「ライフ」表紙特集。
チャーチル、ルーズベルト、下にはムッソリーニの写真がありますね。



光ってしまって見にくいですが、戦時中のお菓子の宣伝ポスター。
MILKY WAY というチョコレートバーは、いまでもアメリカで売っています。
MARS製菓が1923年に発売したお菓子で、戦時中もこのように
戦地への慰問に送られたようです。

「おいジョー、メアリーおばさんが送ってきたもの見てくれよ」

昔のミルキーウェイは今のバー状のものより小さかったようですね。



「あなたたちなしではあの大仕事を終わらせられないんですよ!」

これはあからさまな戦意高揚ポスター。
沈めた日本の艦船の数だけ、主砲に旭日旗をペイントしているのですが、
これがつまり彼らの言うところの「ビッグジョブ」なんですね。

「前進全力」なんて言葉も見えます。

「この仕事」を終わらせるために、何をして欲しいのかと言いますと、
まあつまり志願して海軍に入るとかそういうことなんですけど、
若い男性でなければそれでは何をしたらいいかというと、



国債を買ってくださいな、ってわけです。
確かチャップリンもアメリカで国債の宣伝してましたね。

「あなたが買えば、我々は飛べる」

だそうですよー。




こちらおなじみハルゼー提督を使った戦意高揚ポスター。
ハルゼーは沖縄での台風の時の判断ミスなど、いろいろやらかしましたが(笑)
何しろ国民からの人気はあったので、このように個人の写真が使われたのです。

「家庭で始める勝利」「あなたの海軍を創造しよう」
「HIT HARD!  HIT OFTEN!  HIT FAST! 」
(激しく!休みなく!そして早く!)

こちらも求人ポスターでしょうか。



あなたが”火”(ファイヤー)をくれるなら、
我々は(砲撃=ファイヤーで)奴らを地獄に送る!

いやー、怖いですね。
こういうの見るとやっぱりアメリカ人って闘争的な人種だなと思いますね。
これが日本だと、公の刊行物はせいぜい「撃ちてし止まん」ですからね。
”fire”というのは、銃撃と”火”をかけているわけです。
その下は、

「いざ皆の者、彼らをして射撃し続けせしめよ」

みたいな?



ユーモラスな漫画にに思わずほっこり・・・・しねーよ!

ところでアメリカという国の単純さというか、この「枢軸国」を描くと、
必ず独裁政権だったファシスト党のムッソリーニ、ナチス党のヒットラーに
この、誰かわからない出っ歯で眼鏡のおっさんを絡ませるのですが、
これ、いったい誰?

東條英機のつもりなんだったら、東條は決して「独裁政権の長」
ではなかったし、(そもそも出っ歯じゃないしね)
開戦時真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけでもないのです。

開戦直前の東條は独裁者どころか、首相(兼陸軍大臣)ではあっても、
統帥部の方針に容喙する権限すら持っていなかったのに・・・・。

東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、
1944年2月10日に参謀総長を兼任して以降なので、いくらなんでも
ヒットラーやムッソリーニと並べるには立場が違いすぎるって気はします。

ここで天皇陛下をいじらなかったのは賢明だったというか、
さすがのアメリカ人も、天皇が日本の戦争指導者であるとは考えなかったようです。

「SET 'EM ON THEIR  AXIS!」

というロゴとともに「枢軸国」の指導者が尻餅をついていますが、
この「AXIS」には 「枢軸国」以外に「運動の軸」という意味があり、

「彼らの”軸”を攻撃せよ!」

で、三人がすってんころりんと転ぶという、おそらく
このアイデアを考えた人は、”誰うま”状態で得意満面だったに違いありません。 



なぜか中国製のタイコンデロガの模型の、しかも箱が飾ってありました。
なぜに。



タイコンデロガのモットーは「自由の守護者」だそうです。

盾の左に IN MARE  IN CAELESTIS とありますが、
どうやらこれはラテン語で「空に、天上に」の意味らしいです。 



オリジナルカップの横にはドーナツ盤のレコードが。
「タイコンデロガ」という曲(多分艦歌)です。
もしかしたらYouTubeに上がっているかと思ったのですが、見つかりませんでした。
タイコンデロガというグループ名のアーティストがいるらしく、
その人たちの曲ならたくさん出てくるんですけどね。



クレア・L・ミラーという人について調べたのですが、何も見つかりませんでした。
パープルハートとは名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章等に訳され、
何を隠そう私も馬から落ちて負傷したときに、婆娑羅大将から授与された
(なにしろ向こうは大将ですから)ことがあります。

受賞の基準は戦闘を含む作戦行動によって死傷したアメリカ合衆国全軍の兵士。
生死不明になった場合にも授与されることがあります。
たとえば、キスカ島沖で日本汽船の鹿野丸に反撃され沈められた
潜水艦「グラニオン」の艦長マナート・L・エーベル以下乗員70名の戦死認定は
なんと2006年でしたが、生死行方不明のまま全員にパープルハート章、
艦長のエーベルには海軍殊勲賞が授与されています。


さて、空母「タイコンデロガ」の就役は1944年2月です。
先ほどの話ではないですが、東條英機が実質的に日本の戦争指導者となったのは
奇しくもこのころからということになっております。

彼女は第二次世界大戦に投入するためにアメリカが造りまくった艦の一つで、
その年の10月からウルシー環礁に進出していました。

ウルシーといえば、前回この「ホーネット博物館」の展示から、
空母「ランドルフ」に突入した特攻隊委員の酸素マスクの話をしたことがあります。

「タイコンデロガ」もここで特攻の突入による損害を受けました。
それについては別項に譲ります。 

続く。

 

現役乗組員のお仕事〜USS「コンスティチューション」

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というわけでやっと帆走船「コンスティチューション」の甲板にあがるわけですが、
その前に、この第1ドックのことをもう少し。



ネイビーシップヤードの第1ドライドックの真横には
「USSコンスティチューション・ミュージアム」があり、ここでは
この歴史的な現役艦についての様々な情報を知ることができます。

彼女の歴史、まつわるものや遺品の展示、海戦を再現した映像が見られるシアター、
そして1812年当時の乗組員たちのリアルな生活・・・。

1日ここにいればおそらくはコンスティチューション博士になれるだろうというくらい
あらゆる角度からのアプローチを試みた大変優れた展示です。

入場料はしかし無料。
ただし、入り口にはチケット売り場のようなカウンターに係員が頑張っていて、

「お志を5ドルから10ドルくらいで寄付してください」

と声をかけているので、大抵の人はそれを無視するわけにいかず、
財布を開いていくばくかのお金を払って入ることになります。

何しろ時間がなかったので、映像を全部見て歩くわけにはいかなかったのですが、
面白かったのがこの第1ドックのアニメーション。

ずっと見ていると、早回しで「コンスティチューション」が組み立てられ
完成するまでが再現されていくのでした。



これは別のところで見つけた「コンスティチューション」進水式の様子。
このころから進水式というのは同じことをしていたのですね。



このビデオも、超早回しの定点撮影で、ドック入渠の様子を見せていました。



進入してきたのは潜水艦です。



それにしてもこれ、海水を全く防いでませんよね?
もしかしたらこれが船台ごと持ち上がる「浮きドック」だったのでしょうか?



何も考えずに写真を撮って立ち去ったので、残念ながらここまでです。
さっきの写真より艦体が浮上している気がするので、やはりもしかしたら
台ごと持ち上がる「浮きドック」の様子だったのかもしれません。

続きがなくてすみませぬ。



ところで艦首のこれ、どうも用途がわかりません。
まさか砲じゃないですよね?



たとえばこれ、「コンスティチューション」とHMS「ジャバ」の海戦ですが、
お互い船腹を向け合って砲を撃っているわけです。



「コンスティチューション」圧倒的。
やっぱりこの白い部分は単に帆を張るだけのものみたいですね。



というわけで「ジャバ」は帆を張るマストも全壊したようです。
この戦闘は3時間にわたって行われ、結果「ジャバ」は廃棄処分になりました。
アメリカ人はこの勝利に喝采し、溜飲を下げたということです。



ドック入渠中の「コンスティチューション」はもちろん帆を張っていません。
帆を張った状態の時、この見張り台は貼られた帆の下端、マストの真ん中になります。

昔の見張りというのは、いちいちこの縄ばしごを登って行って、
この台の上に立って望遠鏡を当てていなければならなかったのです。

ところで、今現在海軍の現役艦である「コンスティチューション」には、
現役の海軍軍人が乗員として勤務しているわけですが、
この人たちももしかしたらこのマストの縄ばしごを毎日登らされたりするのでしょうか。
まさか「見張り」の必要はないと思いますが・・・。



乗艦しようとラッタルに向かうと向こうに艦番号793の

「カシン・ヤング」USS Cassin Young 

が見えます。



このときにはまだ甲板に見学している人がいますね。
この後急いで見に行ったら内部の見学はもう終わっていました。
次に行ったときにもどういうわけか終わっていました。

というわけで今回は「カシン・ヤング」とはご縁がなかったわたしです。



さらにその向こうに、帆船がしかも2隻もうろうろして?いるではないか。
もしかしたらここミスティックリバーって、帆走船の巣みたいなところ?

ボストンという町は河口にあり、まるで大木が伸ばした枝が
内陸に伸びているかのように太い河が切れ込んでいるのですが、
このネイビーシップヤードのあるチャールズタウンも、
全く潮流の影響を受けない湖のような河口に位置しているのです。

それゆえ帆船も安心して航行できるのかもしれません。



向こうの帆船には、よく見ると海賊旗が揚がっています。
調べたところ、これは

「海賊船 フォルミダーブル」

というボストン湾を巡る遊覧船で、定員はわずか49名。
船長は本当に海賊の格好をしていますが、一応
沿岸警備隊の認可も受けているという正しい人たちです(笑)

ツァー料金は大人35〜40ドルで、1時間45分のクルーズ。
この写真を見るとどうも帆を降ろしているようですが、今日は寒いし、
6時半からのサンセットクルーズはやらないつもりかもしれません。



外から見た「コンスティチューション」の船窓。
このガラスの不透明さを見ると、建造当時のものなのかもしれません。



というわけで寄り道ばっかりしていましたが、ようやく
「コンスティチューション」の甲板にたどり着きました。

思っていたより甲板が美しいので驚きました。
実はわたしはこのあと、サンディエゴでやはり帆走船(こちらは現役ではない)
「スター・オブ・インディア」の内部も見学しましたが、木材の状態は
全く比べ物にならないくらいこちらは美しく、さすがに現役艦だと思われました。



艦尾には「わたしを踏みつけるな」の蛇でおなじみ、オールドネイビージャック。
最古現役艦が揚げることになっているこの旗、「コンスティチューション」が揚げずに
どの船が揚げる、って感じですよね。

ちなみにこの旗までもが半旗になっていました。



ここからは砲が外に向けられていたわけですが、ネットの真ん中の
砲身を突き出すための穴までが、子供の転落防止(大人も)のために
塞いでありました。

今修復中だからでしょうか。
それとも「コンスティチューション」に砲は搭載しないのでしょうか。



船腹の内側にあるこの横木はなんだろう、と思ったら、使用例が見つかりました。



下の方で全図を上げてありますが、海戦中の甲板の様子。
この穴にはペグを指し、帆船に必要な大量のもやいを結びつけていたようです。

昔の海戦というのは、下手すると船体をぶつけ合い、隙あらば
相手の船に乗り込んでチャンバラや撃ち合いになったので、
それを防ぐためにマスケット銃で常に相手の移乗を防いだそうですが、
逆に相手の船に乗り込む時にもこれは足台として活用できそう・・・。



マストの周りの手すりのような囲いは、映画などで見た覚えがありますが、
見たところ、これも帆のもやいを結びつけておくところのようですね。



「コンスティチューション」の乗員は現役の海軍軍人です。
この船の勤務はアメリカ海軍の艦隊勤務のなかでも「特別」とされ、
名誉なことということになって(そうじゃないみたいで失礼ですね)います。

「コンスティチューション」の乗員になったら、CICでコンピュータ画面を見たり、
アスロックのボタンをぽちっとしたりといった、普通の軍艦でやることは忘れて、
マストに登ったり、帆を張ったり降ろしたり、観光客相手に説明したり、
このように記念グッズを売る販売の仕事をせねばなりません。

ここでは、記念メダル、おなじみオリジナルキャップ、そして旗が
売られており、横にはちゃんとレジもあって領収書もくれます(T_T)

売り子さんになっているのは女性軍人。
海軍迷彩を着て佇んでいる人たちは、質問に答える係です。



現場ではちゃんと読まなかったのですが、帰ってきてこれを見ると、
どうやらこの旗はアメリカ国旗であり(多分そうだと思うけど)、
買うともれなく付いてくる証明書には、

「これはアメリカの船であり、海軍で最も古い船であり、
世界でも最も古い戦闘艦である”オールド・アイアンサイズ”
『コンスティチューション』に揚げられた国旗です」

つまり、その国旗が買えるってことかい!
多分これ、何かのはずみで売れたら、今揚げている国旗を下ろして
このカードと一緒にまた売るんだと思う。(一つしか売っていない理由)
そして新しく揚げた次の国旗も、一つ売れたらまた売却処分へと。

たとえはものすごく悪いですが、麻原彰晃の入った風呂水を信者に
「聖水」として売っていた商売とちょっと似てますよね。

現地では売り物だとも思わず写真だけ撮ったのですが、
本当にこのマストに揚がった旗と知っていたらわたしも買って・・・ないな絶対(笑)

さらには現艦長である第74司令官のサイン入り。
ちなみに現在の艦長はこんな人です。

OLD IRONSIDES' OFFICERS & CREW



乗員、だれてます。
まあ、こんなことやるために海軍に入ったんじゃないやい!
と内心思っていても不思議ではない(笑)



マストの時点鐘はピカピカですが、よく見ると
磨くことができない字の隙間などに緑青が浮いているので
かなり古いものと思われます。

ただ、刻まれている文字に「オールド・アイアンサイズにプレゼントされ」
というのが読めるので、少なくともこのあだ名が付いた1812年以降です。



マストのもやいを結んだり引っ掛けたりするためのペグを
抜いたり別のところにはめたりして遊んでいた人。



艦首方向を望む。



これは「コンスティチューション」が英国のHMS「ゲリエール」と戦ったときの
この甲板の上の様子を描いたものだそうですが、甲板が血の海に・・。
しかし、士官は指令だけで実働していないせいか、あまり被害を受けていません。

そんなこと言っちゃいけないか。



じつはこの日、階下は見学禁止になっていました。
この次に家族と来たときには見られたので、なぜか理由はわかりません。



甲板だけだとあまり見るものがないので、あっという間に見学は終わってしまいました。
ドックと船体の間には塗装を行うための足場が組まれています。



ラッタルを降りてから見た反対側の艦首。
おそらく艦首の飾り部分も修復中で今どこかにあるのでしょう。
その上の星型の付いた飾りがあります。



こちらも「コンスティチューション」の復元のために制作されたものだそうで、
これは博物館に展示されていました。
尻尾を丸めた龍が赤い舌を出しているモチーフです。

こういうのを”war billethead”(billet+head)というそうですが、
どうしてこの船首飾りが現在付けられていないのかまではわかりませんでした。


続く。

 

リス戦隊警戒警報発令〜シリコンバレーの動物たち

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サンフランシスコにいたときにはその存在も知ることはなかったのですが、
ここシリコンバレーを毎夏訪ねるようになって、頻繁にお目にかかるリスに目覚めました。

シリコンバレーというのは、言葉からのイメージとは裏腹に、
実はほとんどが自然のまま、その中に街があるというところなので、
たとえばグーグル本社ではキャンパスでヤギを草刈りのために放牧していたり、
(なぜそんなことをするかというと理由は”かわいいから”←これ本当)
そのキャンパスも自然鳥類保護区「バーズ・サンクチュアリ」の隣にあったりします。 



スタンフォード大学の研究施設であるディッシュ・トレイルと言われる一角は
自然の丘にトレイル(小道)を作り、「道から絶対足を踏み出さないように」
としたうえでウォーキングやジョギングを楽しむ人に解放されているのですが、
ここは鳥ならぬカリフォルニアジリス(地リス)の天国。

最初に来たとき、わたしは、足元で人が来るのにも平気で草を食むリスたちの
可愛らしさに悩殺され、それ以降恒例の「リススレ」を夏になると
ここで空気を読まずにアップしてきました。

ところが去年、トレイル内部で大幅な改装工事が行われ、
道が舗装されたり柵を手前に移してバイクロードを作ったり、
という間閉鎖されていたため、ここに来ることはできませんでした。

今回、西海岸に着いて早速次の日、カメラを肩に出撃です。



歩き始めた頃と違ったことがあるとすれば、中国人が増えたことでしょうか。
確かにここの日差しは強烈ですが、日本人も日傘は差しません。
空気を読むというか、日傘が奇異な目で見られるので遠慮しているというか。
しかし、中国人というのは基本自分がどう見られているか全く考えない人種なので、
見た目も暑苦しい、しかも雨傘でトレイルを歩いてしまいます。



右手前方が入り口なのですが、入ってすぐ延々と坂が続き、
否が応でもここでハードモードになってしまいます。
真面目に歩くと息がきれるほどですが、カメラを持っている時のわたしは
被写体を見れば立ち止まってしまうので坂も苦になりません。



早速青い頭の「ラズリ・バンティング」(Lazuli Bunting)、
ムネアカルリノジコが現れました。
「ラズリ」とは「ラピスラズリ」 lapis lazuli からの命名ですね。



こちらは「ダーク・アイド・ジュンコ」(Dark-eyed Junco) 
日本では「ユキヒメドリ」だそうです。
オスとメスで色が違い、こちらはオスであるとのこと。



ところで、今年2年ぶりに足を踏み入れたディッシュトレイルで、
わたしはすでに違和感を感じていました。

「リスが、一匹も、いない・・・」

そして、その理由が坂を登りきったところで判明しました。
サギです。
グレート・イグレット、日本名ダイサギ。
今まで見たことがない水辺の鳥がなぜか草むらを闊歩しているのでした。



リスにすれば通天閣くらいの背の高さの鳥が餌を求めているのですから
それはそれは恐ろしいでしょう。
入り口からここに至るまで、かつてリスの天国だったフィールドに一匹も
その姿を見せていなかったのはこいつのせいだったのです。

サギは辺りをうかがいながらのしのしと歩き回っております。



何か気になって顔をアップしてみると、くちばしに血が・・。
これは殺してる顔ですわ。



やっと見つけた一匹のリス。
朝からずっと居座られているのか、お腹が空いてたまらなくなって
目を盗んで餌を食べに出たようです。



のしのしと書きましたが、実際は全く音を立てず、
いきなり立ち止まると首を前後にゆらゆらと揺すって狙いを定め、
次の瞬間には獲物を口でくわえているのです。

まあ、水辺であの素早い魚を捕まえる鳥ですから、
地上の獲物など弱って動かないように見えるに違いありません。



そして今日もまたトカゲがお亡くなりに(-人-)ナムー
サギの捕食対象はリスではなく、トカゲらしいことがわかりました。
しかし、別のところでカメラを持っていない日、野ネズミを
振り回しているのを目撃したので()リスであっても
小さければ食べられてしまうでしょう。

彼らが警戒するのももっともです。



それにしても2年前一度も見たことがなかったサギが
どうしてあちこちに(この道の右側にも一羽別のサギがいる)
今年は発生しているのでしょうか。

サギは全部で4〜5羽、近くの水場から”出張”してきているようでした。
ここに来ると各自が自分の持ち場?に分散して、互いに邪魔しないよう
そこで存分に食事を楽しみます。



サギとサギの担当地域の隙間ではリスたちがここぞと食事中。



リスたちに混じって野うさぎを発見しました。
体はリスよりも少し大きいですが、ここではリスの方が強いらしく、
このウサギはリスに追い払われてしまいました。



すると、どこからともなく「キッ!キッ!」という鋭い鳴き声が。



これはリスの「警戒警報」で、これが聞こえるとリスたちは食べるのをやめ、
体を起こして一瞬辺りを窺うと、迅速に近くの巣に避難してしまいます。



空襲警戒警報でした。
いつの間にか空からの天敵がやってきています。
リスのコミニュティでは、敵を発見したリスが声をあげ、
小さな体から信じられないくらいの大音量によって周辺一帯に
警報が行き届くという体制がとられています。

ちなみに、彼らは人間が真横に立っても平気ですし、
わたしのようにレンズを構えても平気な子もたくさんいます。
人間に対しては警報はまず発令されることはありません。



たとえば、こんな風に接近しても・・。



大きな望遠レンズを向けても、大抵のリスは我関せずです。



手を上げかけてこちらに気づき、一瞬固まってしまうリスもいますが。
大抵そんなのは小さな尻尾の若いリスです。



トレイルは大体普通に立ち止まらず歩いて1時間10〜15分で一周して
元の入り口に戻ってきますが、どちらから行ってもだいたい半分来たところに、
名前の由来となった「ディッシュ」があります。



ちょうどわたしたちがディッシュを過ぎる頃でした。
またここにも白い悪魔(わたしたち命名)が頑張っていました。



近くでキッキッという警報音が聞こえたので音源を探してみると、
一匹のリスが、体も張り裂けよと大きな声を出しているのでした。



この辺りのリスたちはすでに姿を消し、このリスだけが木の枝の上で
必死に警報を発しているのです。



「すごい・・・」

わたしたちはつい立ち止まって、サギではなくリスに見入りました。
サギからはリスの姿は完全に見えているはずです。
死ぬほど怖いであろうに、仲間に警報を発するため、彼は(多分)
自分の身を危険にさらして、ここで鳴き続けているのです。



わたしたちが立ち止まり両者の成り行きを息を飲んでみていると、
ウォーキングで通り過ぎた他の人たちも次々と立ち止まりました。
ただし、警報リスの居場所を確かめると、

「ああ、他のリスにウォーニングしてるのねー」

などと軽く話しながら行ってしまいます。
アメリカの人にはこういうの驚きでもなんでもないのでしょうか。



サギはおそらくですがリスを捕食対象にしていないでしょう。
しかし、鳴き続けるリスにまるで業を煮やしたかのように急に振り向きました。



リスは、時々顔の方向を変えて、ずっと鳴き続けています。



「ええ、うるさいやっちゃな」

と言わんばかりにリスの木の方に歩いていくサギ。

「わ、これ怒ってるよね」

「リス、襲われてしまうん?」

「食べるつもりはないけど邪魔だ!ってやられるかも」

わたしたちハラハラしながら見守っていました。



くちばしが傷だらけで、大変人相の悪い鳥です。
気のせいか怒っているようにも見えます。



木の前を歩くサギに臆せずキッキッと声を浴びせ続けるリス。

「漢だ・・・」

「リスですらこうやって命を張って仲間を守るのに・・・」

おっと、その話はそこまでだ。



サギにはリスを威嚇する意図があったかもしれません。

 

いきなり翼を広げて飛び立ち、泣いているリスの木の前を通過して、
5メートルほど離れた草地に降り立ちました。

まるでリスに「お前なんか食べねーよ!」と言っているようです。



そこで彼は(かどうか知りませんが)立ち止まり、例の「首ゆらゆら」を始め、



あっという間に何かをくちばしに咥えました。
スピード優先シャッターでも首がブレるほどの高速です。



彼女が(彼?)つかまえたのはトカゲでした。



この辺でこのようなトカゲを時々見ることがあります。
大変小さな、せいぜい3センチくらいのトカゲなのですが、
彼女が捕まえたトカゲのように尻尾は青くもないし長くありません。



ああっとわたしたちが息を飲んでいる前で、サギは獲物を飲み込もうとします。



しかしトカゲも必死。
胴を食い破られながらも尻尾をくちばしに巻きつけ、
喰われまいと抵抗する姿が憐れです。



うーん、どうしよっかなー、としばし考え込むサギ。
魚はこのような抵抗をしてきませんから、彼女にとっては想定外でしょうが、
全く慌てず騒がず、巻きつくままにさせています。



そして・・・・。
なんと、くちばしで器用に咥え直して、尻尾を切り落としてしまいました。



尻尾のないトカゲをあっさり飲み込んでしまいました。
実はこの写真、大変残酷なうえ、トカゲの可愛らしい顔まで写っているので
アップにするにしのびませんでした。



血に染まったくちばしで、地面を物色するサギ。
先ほど切り落とした尻尾を見つけて残さず食べてしまいました。

ちなみにリスは、この間もずっと健気に泣き続けていました。
こんな美味しい思いをした場所を、この後もサギが去るとは思えません。
心を残して立ち去りましたが、もしかしたらあのリスは
陽が落ちてサギが帰って行くまで、警報を発し続けていたのかもしれません。



自然界の弱肉強食と、小動物なのに必死で、しかも自分の身ではなく
仲間を守ろうとするリスの姿に、何かすごく尊いものを見たような気がして、
わたしたちがそのまま歩き続けていると、こんなリスを見つけました。



とても和みました。


続く。(え?)



准士官食堂〜戦艦「マサチューセッツ」

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戦艦「マサチューセッツ」見学、甲板と艦橋を全部見終わり、
いよいよ甲板の下に入って行きます。

ありがたいことに、「マサチューセッツ」は、艦内要所要所に
このような艦内図に「今ココ」という印を書き込んでくれており、
今艦尾にいるのかそれとも艦首に向かっているのか、
そして甲板の何階下にいるのかを思い出すことができます。

特に海外で艦艇博物館の見学をしたことがある人はご存知でしょうが、
普通の人間は、あの空間をぐるぐるしていると、たちどころに
方位を失って、自分がどこにいるのかなど分からなくなるのです。



わたしの場合、その場で自分の位置がわからなくなるのより、
後から撮った写真の正体が分からなくなる方が怖いので、前にも書きましたが
このようにいちいち階段を上り下りする前に写真を撮るという規則を作りました。
 
冒頭写真の「今ココ」は上甲板のフロアで、ここにはちょっとしたデリがあり、
それを飲食するスペースがあり、そして「メモリアルルーム」があります。
「メモリアルルーム」についてはまた日を改めてお話しするつもりですが、
ここは「入室前に帽子をお取りください」とドアに書かれていたので、
わたしはアップルで買ったリンゴのマーク入りキャップを脱いで、そのまま
ビデオを鑑賞したベンチに置いたまま帰ってしまいました。

一応オフィスでそのことを言ったところ、

「係員が中を見て回収することもあるかもしれないけど」

広い戦艦の中で帽子の忘れ物を係が見つける可能性は低い、
といったニュアンスです。

この帽子はクパチーノのアップル本社ストアで買ったものですが、
アップルはここでしかロゴグッズを売っていないうえ、
去年改装をしてからグッズがとてもつまらなくなってしまい、
おかしな英文入りのTシャツもこのアップルマークの帽子も
もう買うことができないので、失くしたとしたら残念だなあ、
と思いつつ次の日行ってみたら、ベンチの上にそのままありました。

さすがにメモリアルルームで人の忘れていった帽子を盗るほど
アメリカ人は終わっていないわい、と思ったのですが、
ただ単に人が立ち寄らなかったからだったのかもしれません。



上甲板から降りる階段の途中で撮った、階下天井近くの構造物。
なんと、モノレールが敷設されておりました。
一部が見えているだけなので、説明がなければとてもそうは思えません。

「セカンドデッキとその下に重量のある機器などを運ぶものだった」

ということです。
ちなみにメインデッキが甲板階、セカンドがその下、サードデッキがさらにその下。
また、ターレットとターレット間で弾丸を運んだりしました。

モノレールは水密ドアの部分も走っていましたが、いざとなれば
ドアをしめるためにレールは取り外せるようになっていました。
3000パウンド(1360kg)までの重さのものが運べたそうです。

ちなみにレールの向こう側は「下水ステーション」。
説明はありませんでしたが、乗員に対する注意書きには

「つなぎを着ること」「顔を防護すること」「ゴム長を履くこと」

そして「必ず二人一組で作業に当たること」とあります。
けっこう、ちうかかなり危険な持ち場なんですね・・。



ここは「ジェネラル・ワークショップ」。
工作機械やメジャリングのための機器が備えられています。



その真後ろにあるのが、この「ツール・イシュー・ルーム」。
イシューというのはこの場合、「支給」という意味です。
つまり、ここでツールのリペアなどを行い各自に支給するわけですね。

小さなベンチと机だけの部屋で、研ぎ機があるくらいの部屋なので、
部屋に入らない道具の手入れは外で行ったのだそうです。




説明板が珍しくなかったのですが、場所からいうと
(食物準備ステーションが近い)小麦粉かなんかでしょうか。



机の上に置かれているのはタイプライターと日付を押すためのハンコ・・。
エンジニアの「ログ・オフィス」とあります。



米海軍の機関科は「ABEとM」のセクションに分かれています。
それぞれが頭文字をとって、

A・・・ポンプ、エアコン、水の浄化設備、モーターボートを含む補助機械
B、M・ボイラーとメインエンジンの修理、補修、メインテナンス 
E・・・電気関係

このオフィスでそれら全てを統括します。 




ここには全ての設計図や補修記録などが集められており、
全ての記録は週、日、時間単位で更新されました。

たくさん日付スタンプがあるはそのためですね。 



構造物を構成する金属を鋳造したり溶接する『ブラックスミス』鍛治場です。
さすがのアメリカ人も、天井に大きく「整理整頓」と注意書きを貼り出してます。

そして

「EXPECT THE UNEXPECTED TO THINK SAFETY」
( 安全性を考えるためには予期せぬことを予想せよ)

と、まるで海自の護衛艦の中でもすぐに使えそうな
標語もデカデカと書かれており、これはよほど危険なんだろうと思われます。 



実際にここで作業をしている当時の写真がありました。
危険な職場なのに人多すぎ。



焼却炉は赤と黒にペイントされており、なんだか粋です。
いつも思うんですけど、自衛艦って、グレー以外を使っちゃいけないんでしょうか。





ナビゲーターオフィス。
安全な航海のためのナビゲーションを統括する場所で、航行時間から
到着予定を割り出したり、危険海域を特定したりします。

チャートのほか、六分儀やディバイダー、双眼鏡、ストップウォッチなど、
ナビゲーションに必要な道具が揃っています。
ちなみに後ろにはチャートの棚がありますが、「太平洋」「アトランティック」
などの一番下に、「ターゲット」「ジャパン」(見切れている)の文字が・・・。



ここはポストオフィス。郵便局です。



これが金庫と事務デスクの上のベッドで寝起きしていた人。
究極の職住一体です。



乗員は自分の住所をかかずとも、専用封筒が用意されているので、
それで手紙を送ることができました。
戦艦のシルエットと艦名がすなわち送り手の住所です。



上の階にあった「レーダーワークショップ」。
レーダーのメンテナンスや修理に必要な機器とスペアのパーツ、
そしてマニュアルがまとめて置いてあります。



艦内は床と階段に非常出口への印として線が引かれています。



ここ一帯が兵員用のバンク。
時化たら転がり落ちそうなベッドですね。
さすがに潜水艦と違ってスペースに余裕があります。




この部屋の一角に、なんと1945年当時の「命令」が貼られていました。
どれどれ。



 1945年4月19日付、WAR WATCH OFFICERへの通達。
”WarWatch"とは日の出から0800まで海を見張ることみたいです。



こちらの通達は ”In Port Routine"、港に入っている時の時間割。

まず0300に調理班に「ワッチ」(起床)がコールされます。
0530にportswain(見張り?)とラッパ吹きがワッチ、0545には下士官がワッチ、
0600には調理係とスチュワードたちが朝食。

0630に総員起こし、のち朝食とここまでは毎日一緒なのだと思いますが、
0805からは週末と平日で少しだけ違うようです。
たとえば土曜日の0915には上陸のための点検があったりとか。



リングやネジなどのパーツだけが集められている部屋。



1941年の9月23日1245に、「マサチューセッツ」が「ランチング」するので、
近隣の小さな船は波にご注意、という注意張り紙。
おそらく港各地に告知のために貼られていたものでしょう。

この「ランチング」というのは、主砲の実弾発射訓練のことでしょうか。



ロープの結び方がわかりやすく実物で説明されていました。
自衛隊で実演なんかあると覚えておくと便利かも、と思ってやってみますが、
使う機会がないので一向に覚えられません。



ここは”Warrant Officers' Mess" 、准士官食堂です。
アメリカ海軍の准士官は、士官以下下士官以上に位置し、
そのどちらにも属さない別個の階級であり、一等から五等までの
五段階に分けられており数字が大きい方が上位です。



現在のアメリカ海軍にはWarrant Officerの階級はなくなり、
Chief Warrant Officerとして残っています。

フネの上のヒエラルキーというのは軍艦だけのものではありません。
わたしは西海岸に来てからサンフランシスコの海事博物館で
帆船「バルクルーサ」を見学しましたが、彼女がアラスカでサケを獲っていた頃、
船首の魚臭い、潮のかかる寒くて狭いところには中国人のクルーが詰め込まれ、
毎日手でサケを捌く「汚れ仕事」をさせられていた一方、船尾には
天鵞絨張りの椅子とテーブルのダイニングルーム、バスタブ付きの洗面所があり、
そこでは白人の船長とその家族が生活している、という究極のヒエラルキー空間でした。



准士官は日本では1920年以降「特務士官」と名称変更されました。
ただし士官との身分差はかなり大きく差異化されていたため、
このような豪華なテーブルセッティングで食事をすることはなかったはずです。

アメリカ海軍では准士官はその知識と高い専門性を持ったスペシャリストとして
大変尊敬され、従って専門の食堂とスチュワードを持ち、個室も与えられていました。



その簡単な食事の用意をするためのキッチン。
専用スチュワードと准士官の専用区とはコールボタンでつながっており、
呼ばれるとすぐに駆けつけるシステムになっていました。



当時の「マサチューセッツ」ウォーラント・オフィサー・メスで
軍服を着た准士官たちが食事をしているところを撮った貴重な写真。

洋の東西、時代を問わず、ベテランのたたき上げ士官たちは、
いかにも実務専門集団らしい硬派な雰囲気が漂っているものだと思います。


続く。


 


空母「タイコンデロガ」に突入した二機の零戦

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発表以来大きな反響を引き起こし、映画化、ドラマ化された
「永遠の0」のプロローグとエピローグを覚えておられますか。

あれはたしか終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。
しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった。

こういう出だしで始まる「タイコンデロガ」の5インチ高角砲の砲手の独白によって
主人公宮部久蔵の特攻死が、この小節の最後に語られます。

黒煙を吐いたゼロはいきなり急上昇した。
ゼロは燃えながら上昇し、期待をひねって背面になった。
そして空母上空に達すると背面のまま、逆落としに落ちてきた。
俺たちはなす術もなく、悪魔が上空から降りてくるのを見ていた。 


「永遠の0」は、その描写のほとんどを実際の戦記から収集し、
それを一つのストーリーに紬ぎあげるという手法でも話題になりましたが、
主人公宮部が特攻したのち、その遺体を海軍葬で弔うという栄誉で報いた空母の艦長とは、
戦艦「ミズーリ」のウィリアム・キャラハン艦長がモデルであり、
「ミズーリ」の甲板に突入した飛行士は、鹿屋航空基地を出撃した
第五建武隊の石野節雄二等兵曹(乙特飛)であったらしいとわかっています。

作者が、宮部の突入した米軍艦を空母「タイコンデロガ」という設定としたのは、
数多く散華した特攻隊員の、特定の誰か(例えば石野二飛曹)が
宮部のモデルになってしまう、ということを避けるためであったと思われます。


空母「タイコンデロガ」CV-14は、幾度か特攻機と遭遇し、一度は突入を受けました。
最初の遭遇はレイテ沖海戦を支援するために進出していたフィリピンでのことです。

「タイコンデロガ」の航空隊はここで「レキシントン」の航空隊に加わり、
重巡「那智」を撃沈することに寄与しています。
このとき航空隊は、日本機を6機撃墜したと主張しており、それゆえ、
11月5日に特攻機が急襲してきたことを

「The enemy retaliated by sending up a group of kamikaze aircraft.」wiki
(日本軍は 神風機のグループを報復として送ってきた)

と表現しているのですが、戦争に報復もへったくれもあるか、って気もします。
これが彼らの言うように報復だったのか、あるいはその前から計画されていた
特攻作戦だったのかは、もはや知るべくもありません。

日本側の資料によると、この日出撃した特攻機は4機。

左近隊  大谷寅男上飛曹(乙飛)
     三浦清三九二飛曹(特丙飛)

白虎隊  道坂孝男二飛曹(丙飛)
     住本種一郎二飛曹(丙飛)

の四人です。
この人数の少なさと、二人で一つの隊を名乗っていることを見ても
報復のために急遽結成された特攻隊であった可能性はなきにしもあらずですが。

ちなみに、左近隊の三浦二飛曹は特別丙種飛行予科練習生、
(海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵・台湾人日本兵)
すなわち朝鮮人日本兵であったということになります。

この日の特攻隊のうち2機は、Combat air patrol (CAP) 、戦闘機による
哨戒網を突破し、さらには対空砲火をくぐり抜けレキシントンに突入しました。



現在これも博物館になっている「レキシントン」には
この日突入に成功した特攻機をほぼリスペクトするかのような
説明を掲げています。
旭日旗に「ライジングサン」というタイトルまでつけて・・・。
これに在米朝鮮人の団体が噛み付かないことを祈るばかりです(笑)

このとき「レキシントン」に2機が突入しましたが「タイコンデロガ」は
運良くこの攻撃から逃れただけでなく「2機の撃墜を記録」しています。

日本側の記録と数が一致しますね。

その後、11月12日から13日にかけての「タイコンデロガ」航空隊の

「tallied an impressive score」(記録された大戦果)

 とは次のようなものでした。

軽巡「木曾」、駆逐艦「初春」「曙」「沖波」「秋霜」、7隻の民間船撃沈

その後、サマール沖海戦において「タイコンデロガ」は重巡「熊野」を撃沈しています。

「ハルゼー提督と台風」の項でお話しした、あの台風の被害のときには、
「タイコンデロガ」も同行していましたが、無事でした。



1945年初頭、「タイコンデロガ」は台湾沖まで到達していました。
1月21日正午、空母「ラングレー」に零戦1機が突入。
その僅か数秒後、雲間からもうもう一機が「タイコンデロガ」に向かってきました。

Kamikaze attack on USS Ticonderoga (CV-14) - 21 January 1945


零戦はフライトデッキを通り越し、第25番の130ミリ砲座付近に突入し、
そこでハンガーデッキに達する爆発を起こしました。

映像でもおわかりのように爆発によって炎が炎上した「タイコンデロガ」では、
消火のために乗員が必死の作業を行いました。
キーファー艦長は賢明にも、炎を煽る風を抑えるために艦のコースを変え、
誘爆を防ぐために、幾つかのコンパートメントに注水を命じました。
ダメコンの係に、最後には左舷への注水をさせ、消防士や航空機誘導員たちは
消火をするとともに、炎上している航空機を海上に投棄する作業をしています。

そのとき、新たな特攻機数機が「タイコンデロガ」に向かってきました。

砲手は対空砲でそのうち3機を撃墜しましたが、4機目は対空砲火をくぐり抜け、
右舷側のアイランド(艦橋)近くに激突しました。



写真を見てもわかるように、突入したときの穴から、ハンガーデッキで起こっている
火災のあげる猛烈な黒煙が立ち上っています。

彼のもたらした爆弾は航空機を炎上させ、ここで100人以上の乗員が死亡し、
キーファー艦長もこれによって重傷を負いました。

これほどの被害にもかかわらず、「タイコンデロガ」乗員は14:00には
火災を制圧し、なんとか帰港することができました。
 


冒頭の写真は、このとき突入した零戦の機体の破片です。
このように、わざわざ日章旗を思わせる額に入れてくれているのは
大変ありがたいのですが、「ホーネット」の艦内の部屋の一部にあって、
わたしのように隅々まで展示物を見て歩くような熱心な見学者でもないと、
目に止めることはまずない状態というのは残念なことだと思います。

この破片は、ノルバート・ケッツアとジョージ・アーネットという
衛生兵の名前で寄贈されたそうですが、どちらの人物もこの日、
この一連の「カミカゼ・アクション」で戦死しているそうです。



激突の際、「タイコンデロガ」艦上に散らばった破片から
乗員が「記念に」持ち帰ったらしい、幾つかのものが展示されていました。

模型は激突したのが零戦であるということを示すための展示です。



日本語の上下がわからないのか、縦向きに展示されたのをちゃんと戻してみました。
バネ巻き上げのネジ部分に付けられていたらしい金具、三菱のマークのプレート。
左の「胴 頭手足」とあるのは文字が擦れて見えません。



乗員の持ち物か、それとも機体の一部だったのか、磁石と、
2機のうち最初に突入した零戦の

「パート・オブ・ライジング・サン」

今日もなお、鮮やかな紅をとどめています。



これはなぜここにあったのかよくわかりません。
妙に新しい感じのする「日向」の水兵用帽子。

このとき、「タイコンデロガ」に突入した特攻機、零戦隊は、
日本の記録によると、全部で6機ということになっています。

「ラングレー」に突入した1機を加えると、アメリカ側の記録、

「2機突入、3機撃墜」

と完璧に数字が合うことになります。
この上で特攻隊の官姓名をあげておきます。

第1航空隊
  
  第3新高隊 川添実大尉(海兵69)
        斎藤精一大尉(海兵72)
        小川昇一飛曹(甲飛11)
        右松岩雄一飛曹(丙飛16)
  
 一航零戦隊  堀口吉秀少尉 (函館高水)
        藤波良信飛長(特乙飛) 


「ラングレー」に突入したのが一航零戦隊のうち一機で、「タイコンデロガ」に
向かってきた4機は第3新高隊の零戦であろうことはほぼ確実でしょう。

しかし、「ミズーリ」に突入した 特攻機のように、
アメリカはこの日の特攻作戦についてそれ以上の調査を行っていないので、
二隻の敵空母に突入することができた合計三機の零戦が
このうちの誰であったのかは、おそらくこれからも謎のままです。  




 

ボストン海軍工廠今昔〜USS「コンスティチューション」

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帆走船、USS「コンスティチューション」が展示されているのは、
かつてのチャールズタウン海軍工廠です。
名称はその後世界大戦に伴って規模が拡大されて「ボストン海軍工廠」
となりましたが、未だに前者の名前で呼ばれることも多いのだそうです。

ちなみにいつぞやお見せした第2ドライドックは20世紀に入り、
戦争の気配が近づいてきた頃建造されました。
ここで1934年以降建造された駆逐艦はそれだけで70隻弱。
とくに1942年建造のものが、ほとんどは対日戦に投入されています。



「コンスティチューション」見学1日目は、甲板しか公開されていなかったため、
そのものはあっさりと短時間で終了してしまいました。
これは入り口と反対側にある出口です。



「コンスティチューション」見学者のためのボディチェックをする小屋の前に
海軍迷彩服を着た二人が立っていますが、この一帯は彼女が停泊しているためか
海軍軍人が普通にウロウロしていました。
のみならず陸軍らしき軍人の姿もなぜか見かけました。



実際に大砲を船内展示していないせいか、このような大砲使用例が
ダミーの船体を作って展示されていました。



これが主砲として使われた「長砲」です。
「コンスティチューション」はこの砲を30門搭載していました。
入り口に転がっていた短い砲身の「カロネード砲」は20門搭載です。



もう一度訪れた時に晴天のもと撮った同じ場所。
ここは「USSコンスティチューション博物館」となっていますが、
この展示で、かつてのこの建物部分の地図がありました。



この地図の上辺端から撮ったのが先ほどの写真です。
つまり博物館になっているのはかつてエンジンハウスだったのです。

この工廠はアメリカ海軍にとって最初の本格的なものとなりました。
蒸気動力の時代となったころ第1ドライドックの水を汲み上げるのに使用する
スチームエンジンがここに設置されていました。

1905年に排水ポンプのエンジンが電気に変わると、電気のエンジンは
ここではなくこの近くの別の建物に設置されました。

今日、排水はポータブルポンプで行っています。



科学の発展とともに楽になっていくドライドックの排水法ですが、
最初はドックをドライにする技術すらなかったころがありました。
そんな時代、船の修理、修繕はどうやっていたか。

というと、この絵なんですよ。
船、倒してませんか?斜めに。

このやりかたを” Heaving Down"あるいは”Careening"といい、
浅瀬で斜めに船を倒して船底を露出させると言うものでした。
危険も多いしそもそも人力で船を傾けるのは重労働です。

船を維持するためには船底の付着物を定期的に取らなくてはいけませんが、
その度に昔はこんなことをやっておったわけです。
ちなみに、港などが使えない海賊も、その作業をしなければならないので、
彼らは静かで浅瀬のあるカリブ海の島などを根城にするようになりました。

「カリブの海賊」がカリブにいたのはそれなりに理由があったのです。



そこで、この大変な状況を改善すべく、一人の技術者が立ち上がりました。
ロアマイ・ボールドウィン・Jr.(Loammi Baldwin Jr.)。

ハーバード大学を出て弁護士をしていましたが、技術者に転向し、
ヨーロッパ、とくにフランスでの運河など公共事業の視察経験から
帰国後、海軍に奉職してドライドックの建設に着手します。 



ボールドウィンJr.が発明した最初の木造製ケーソン(浮き扉)。
なんと本物です。
中を空洞にし、海水を出し入れすることによって浮かせたり沈めたりできます。
1833年当時木製だったケーソンは1902年にはスチール製に変わりました。

このスチール製ケーソンが最初に設置されたのも、ここチャールズタウン海軍工廠です。
その時のケーソンは、なんと去年の2015年までずっと使われてきました。



1番、2番は鋼鉄製ケーソンの「ランチング」。
船舶の進水式みたいですね。

3番の写真は現在のケーソンの始業で、2015年3月の写真です。
左の先代ケーソンは取り外されて、今敷地の裏庭に置いてあるそうです。

もしかしたら将来的に展示するつもりかもしれません。



そしてこれが初期の木造ケーソンを使った第1ドライドックの模型。
模型は木製で、19世紀中に作られた年代物だそうです。
上のケーソンも、この模型も、ボールドウィンとその兄のクリスの作だとか。

ボールドウィンの父は有名な軍人であり技術者で、彼の5人の息子は
いずれも有名な技術者となってアメリカの歴史に名を残しています。



「コンスティチューション」奥の埠頭に展示されている
USS793「カシン・ヤング」の横に立つクレーンの様をごらんください。



同じものではありませんが、おそらく写真と同じ、1940年から45年の間に
大量に海軍艦を建造していたころのクレーンだと思われます。

第二次世界大戦の最初から最後までを通じて、ネイビーシップヤードでは
320隻の艦船建造、2000隻のドック入り、増設など改造2000隻、
そして3000隻のオーバーホールと修理を行いました。

1943年のピーク時には、"DE"(Destroyer Escort) 護衛駆逐艦なら4ヶ月、
この間お話しした戦車揚陸艦、”LST”なら4週間以下で造っていました。

やっぱり戦車揚陸艦が簡単で早くできるというのは本当だったんですね。 



「カシン・ヤング」の向こう側は船着き場になっており、そこからは
対岸のボストンの街が一望できます。



右側のビルと教会以外の高層建築は戦後にできたものでしょう。
真ん中の時計台のビルはむかし、“Custom House Tower”といって
税関でしたが、今はマリオット系列のホテルになっています。

手前の赤茶色の建物はほとんどが100年越えのビンテージです。



そのとき、この川の港を結ぶ定期船が到着しました。
通勤などで利用する人もいるのかもしれません。



これは観光バス兼遊覧船。
「ボストンの街を泳ぎます!」というキャッチフレーズの
「スーパー・ダック・ツァー」のバス(兼遊覧船)です。

市街遊覧のための天井の空いたバスを「ダックツァー」といいますが、
これは「スーパー」ということで、川にもずんずん入っていってしまうのだった。 



これは実際に乗るより見ている方が面白いかもしれない。
スーパーダックツァーは陸地を45分間、水上を45分間案内してくれます。



水陸両用車というものは決して今時珍しいものではありませんが、
ここまでバスそのものの形をしていると、シュールで思わず見入ってしまいます。



アメリカではところかまわず裸足になりたがる人が時々現れます。
先日、銀行で用事をしていたらデスクで銀行員と話していた初老の男性のところに、
値札をつけたままの服を着て入ってきた5〜60の女性がいました。

銀行員の横に立ち、無言で服を見せると、男性は無言で顔をしかめて
首を横に振り、それを見て彼女は出て行ったのですが、なんと裸足でした。

どうも銀行の隣のブティックで時間つぶしに試着していたら、
欲しくなったので旦那さんに見せに来たみたいです。

試着の服で隣とはいえ銀行に入ってくるのはいいとして(良くないけど)
なぜ裸足で歩いてくる?と目が点になりました。

と、全く関係ないですが、日本ではありえない感覚で靴を脱ぐ人が多いので、
このような看板を造って特に子供に注意を促しているようです。
工廠だったところですから、怪我しそうなものが落ちているのです。






ネイビーシップヤードのあるこの地域一帯が、保護されているのかどうか、
古い煉瓦造りの建物が道沿いに連なっていて新しいものはほぼありません。

この看板の「タデスキ」というボストンにちょくちょくある食料品店や、
「マサチューセッツ水上救難協会」なんてのもこんなレンガのビルに入っています。





これは「コマンダント・ハウス」(司令の家)と呼ばれています。
昔から、海軍の偉い人がここに住んできたのでしょう。



この絵は「コンスティチューション」がバリバリ現役だった頃の
1812年のネイビーシップヤードを描いたものです。

司令官クラスの偉い人はシップヤードの近く、職場を一望できる
位置にあるこういう家に住んでいました。(司令付きの軍人もです)


平の工員や職人たちは雨漏りのするバラックで10年間我慢していましたが、
資金が出たので、自分たちで新しいバラックを作りました。
絵の右側に見える白い建物がそうです。

 


今はこうなっていますが、建て替えたのではなく、150年かけて
自分たちが住みながら改築していった結果がこれです。
つまり「司令の家」とともに、当時と同じなんですね。




今はギャラリーとレストランが入っているこの建物、
「ビルディングビルディング10」といい、かつては
船を作るための木材が周りに積まれていたそうです。



その後無線機器のステーションになったり工廠の家族のための
洗濯機が置かれたりと用途を変えてきましたが、1948年からは
大西洋艦隊の使うソナー設備をストックしておくところになっていました。




ゴシック建築による八角形のキューポラ付き建物は「MUSTER HOUSE」。
1852年にエンジニアの事務所として建てられたものです。
持ち主の女性が1927年にボストンに贈与しました。



拡大してみると窓枠など腐って外れてしまったところさえあるのですが、
「パブリック・ウォークス・ショップ」とあるので、
工廠で働く人たちのものを売っているのかもしれません。



安全靴を履きましょう。







「三本マスト」がよく分かる艦首側から見た「コンスティチューション」
これを見ているうちに、一体どうやって帆船は帆を張るのだろうと思いました。



そこでふと思い出したのが「ミスティック・シーポート」で見た
この光景です。

これは遊んだりゲームをしていたのではなく()帆を畳んでいたんですね。

今彼らは安全索をつけた上でフットロープに足を乗せ、
手前にたぐり寄せるように帆をガスケットに巻きつけるという、
最後の作業をしているわけです。



近くには行けませんでしたが、海軍工廠趾の公園広場には
朝鮮戦争の慰霊碑が建てられていました。

大戦後、ボストン海軍工廠は艦隊近代化計画 (FRAM) に基づいて
艦艇の近代化のための作業に携わっていました。

しかし、工廠の作業は世界大戦中がピークで、
朝鮮戦争およびベトナム戦争のころは工廠の仕事はほとんどしていません。
どちらにおいても大規模な海戦が無かったためです。


ベトナム戦争が終わった1975年、ボストン海軍工廠はその役目を一旦終え、
閉鎖されていましたが、海軍の造船技術と歴史を後世に伝えるための施設として
ナショナルヒストリックパークの管轄下に置かれ、現在に至ります。


続く。

 

二人のベルギー大使と日白友好

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日白友好、とはあまり聞いたことがない言葉ですが、
日本と白耳義の友好、つまりベルギーとの友好を指します。

いきなり余談ですが、各国を漢字で表し「日●」とすると、妙なことになる国があります。

「日氷友好」ー日本アイスランド友好

「日乳友好」ー日本ニュージーランド友好

「日裸友好」ー日本ラオス友好

「日Q友好」ー日本イラク友好

「日豚友好」ー日本ブータン友好


ブータンは漢字表記では不丹なのに、なぜ一字だと「豚」なのか。

「ぶーた・・・ん???」



さて、もうはるか昔のことのような気がしますが、東京五輪のロゴ問題で
応募から選ばれた(ということになっていた)デザイナー、佐野研二郎氏の
デザインが、ベルギーの王立劇場のロゴにそっくりだったといわれたとき、
佐野氏を擁護一色だったマスコミが、テレビのコメンテーターに

「(そのベルギーの劇場って)有名なの?」「これで有名になったね」

などと劇場の売名行為であるかのような発言をさせ、劇場側が

「この抗議で私達にどんなメリットがあるのか説明してほしい」

と激怒したということがありました。


ベルギーは親日国であり、両国は大変友好な関係を築いています。
かつて日本が関東大震災に見舞われた時、アメリカ、イギリスに続いて
小国のベルギーが世界で三番目に多い義援金を送ってきたということがありました。

東日本大震災で、台湾がアメリカとほぼ同じ義援金を送ってきたようなもので、
このことは日本人を感激させ、かの国への親近感はぐっと深まったのです。
そんな両国間の友好にヒビを入れかねないこの無神経で相手をバカにした発言が
いかに大手広告会社の意を受けた浅はかな電波芸者によるものでも、
その無礼さに呆れた日本人はわたしだけではありますまい。

 

一人の人物や団体が2カ国間の固い信頼関係のきっかけとなることがあります。
日台における八田與一、日印におけるラダ・ビノッド・パル博士。
日本とトルコの間には難破したエルトゥールル号の乗員を助けた日本人たちと、
数十年経ってその恩を返してくれたトルコ政府。

日本とベルギーには、二人の外交官がいました。

アルベール・ダネタン(Albert D'anethan)は1893年(明治26年)に
特命全権公使として来日着任して以来16年の長きにわたってその職にあり、
その間、一国の代表としての任務にとどまらず、日本を理解し、
世界に向けてそれを発信してくれた「日本の恩人」でした。

自分の着任国が受ける誤解までを自分の足を使って解き、それを
世界に発信してくれた大使は、おそらくダネタン伯爵をおいてなかったでしょう。
その話をする前に、もう一人のベルギー大使をご紹介します。


日本とベルギーの間に国交が成立したのは1866年(慶応元年)。
ダネタン男爵は国交成立前の「特別全権公使」であり、正式な大使ではありません。
ダネタンの後任という形でベルギーが送ってきた正式な大使が、1920年に来日した

アルベール・バッソンピエール男爵

です。
この人物こそは当時のベルギーを東日本大震災における台湾のような
「小さい最大災害支援国」と知らしめた第一の恩人でした。

A.バッソンピエール

バッソンピエール大使は震災発生を受け、すぐに本国にそれを通知し、
「日本人救済ベルギー国内委員会」を結成してその推進役を務めました。
wikiに掲載されている大震災を描いた有馬生馬の絵には、白い第二種軍装をまとった
海軍軍人の横に、麻のスーツで立つバッソンピエール大使とその姪の姿が見られます。

犬養首相の孫娘、犬養道子氏の著書「花々と星々と」には、彼女の母親が
政府の親善パーティで「バッソンピエールさん」の席の隣に座り、

「気のいい話好きのおじさんで助かっちゃった」

と言っていたことがを書きのこされています。

このときのベルギーは、チャリティを目的の音楽会、講演会、バザー、さらに
『日本の日』が各地で催され、国を挙げてキャンぺーンに積極的に取り組みました。

しかし、この善意がバッソンピエール大使一人の掛け声で湧きあがったのかというと
それだけではなく、これはいわばイラク戦争におけるトルコ政府のように

「日本に恩返しをせねば」

という国民の声に後押しされたというべきものでした。
関東大震災(1923年)の9年前に起こった第一次世界大戦。

このとき、ドイツはべルギー領内を通過してフランスに攻め込もうとしました。
ベルギー王国は当時永世中立を標榜しており、国王のアルベール1世(イケメン)は

「ベルギーは道ではない。国だ」

「結果はどうであろうと、拒絶する。
我々(王族と軍人)の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない」

としてドイツ軍の侵攻に根気強く反抗しました。

アルベール1世

武力において圧倒的に劣るベルギー国防軍は、緒戦では敗退を余儀なくされましたが、
国境の一角を終戦まで死守しました。
連合国からは何度も援軍の要請がなされましたが、これをほとんどを拒絶し、
最後まで自国の防衛軍中心に戦い抜いたのです。


「自国を守れというけど血を流すということがどういうことかわかっているのか」

などと宣う落合恵子さんに、アルベール1世の気概をどう思うか聞いてみたいですね。


さて、そんな小国ベルギーの姿に、当時の日本人は感激し、熱狂しました。
戦闘が続いている間、日本人は勇敢なベルギーを応援するために
連日義援金キャンペーンを行い、支援活動を行いました。

なかでも、朝日新聞の創刊メンバーであり社長である村山龍平

「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも親しく陣中に在はして
将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰」
(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)

として、備前長船の名刀一振りを献上しています。
これらの激励と支援を、ベルギーの人々は感謝しつつ受け止め、
その記憶が終戦4年後の未曾有の震災における国を挙げての支援活動につながりました。

このときにベルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する文書には
ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して、支援と声援を寄せてくれた日本に
このときの恩義を今こそ返そうではないかということが書かれていたそうです。

ただ、その後、ドイツを相手に三国同盟を結んだ日本に対して、
当然のことですが、ベルギーは猛烈に抗議を行っています。
そして、抗議の印として日本大使引き上げという措置を取り、
日本を愛していたバッソンピエールは失意のうちに帰国したと言われます。 


さて、時間は巻き戻ります。
バッソンピエールの前任であったダネタン伯爵が
特命大使として着任した翌年、日清戦争が起こりました。

このことを、ダネタン大使は

「アジア人の間の戦争においてはおそらく初めてだと思われるが、
日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで
完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定は遵守されている」 

と書いています。

ところが、 旅順港の敗残兵掃討の際、日本軍が旅順市民を殺戮したということが
米紙などによって告発されました。

犠牲者数も当時ですら500人から1500人まで諸説あり、例によって
現在中国政府の見解は2万名弱と膨れ上がっているのが南京と同じ構図です。

日本軍が進撃する前に旅順に駐屯した支那兵は、恣いままに民家に乱入し、
家具を破壊し、略奪を始めたと現地の中国人が証言しており、
故に日本軍が来た時には時は旅順市街はすでに空っぽに近かったといいます。

しかも実際のところ、当初日本軍は

「被害者の死体を集めて焼き、骨を棺に入れて埋め、
「清国将兵の墓」と書いた木の札をたて」

つまり、敵兵の死骸を切り刻んだどころか、
彼らを火葬にして葬ってやっていたことになります。 

しかし現在、「旅順大虐殺」のWikipedia記述は「数はともかく虐殺はあった」
ということを前提にこの戦闘が論じられており、ダネタンの報告も、否定的だった
当時の世界の新聞の意見すら、全く顧みられていないのが異様な感じです。

戦死者に非戦闘員はいなかった、と証明することができないがため、
それが虐殺として定義されてしまっているというように思われました。 


そしてその曖昧さこそが、当時の米のマスコミと中国政府によって
この掃討戦が虐殺としてプロパガンダに利用されるきっかけとなったといえましょう。


その急先鋒であったのがアメリカの新聞ワールド紙で、この大虐殺について

「帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺した。
逃げられたのはわずか36人だけだった」

とまるで見てきたかのような記事を書いて日本を非難しました。

「無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は
言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」

という記事には、それが便衣兵か民間人かの論拠はなく、当初日本人の遺体が
切り刻まれ(体の部分を持って行ったら賞金が出たため)それに怒ったなどという
日本側の報復感情については全く考慮しない一方的な論調でした。

このときの他の新聞の論調は概ね「日本軍の行為は報復であった」というものでした。
ニューヨークヘラルドなどは虐殺があったとしながらも、
土城子戦への報復として正当化する形で日本を擁護していますし、
英紙「セントラル・ニュース」は

「公正な戦闘以外では一人の中国人も殺されていない」

またフランスは

「日本軍は味方の捕虜が支那兵に四股を斬り分けられるなどして
虐殺されたのを見たために支那兵を皆殺しにしたのだ」

と書き、残虐行為は日清双方にあったとし、オーストリアの各紙も
残虐行為は日清共にあり、ただし日本のそれは報復だったと書き、
ドイツの新聞は日本軍にやりすぎはあったが、正当な理由によるものとしました。


ダネタン大使はこれに対し、調査を行い、

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、
新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって
多分に誇張されたものであった。

その場に居合わせたフランス武官ラブリ子爵より直接聞いたところ、
殺されたのは軍服を脱いだ兵士で、婦女子が殺されたのは真実ではない。
住民は占領前に避難、残っていたのは兵士と工廠の職工だけ。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、
何とか敵を捕虜にするだけにとどめた。」

と日本の立場を擁護する報告をあげて本国に送信しました。

日本が本当に民間人を虐殺したのかどうか、それが
全て残虐な支那兵への報復であったのか、それは今はさておき、
心証だけから書かれた、事実とは全く異なる数字をあげ、
それをもって一国を非難することを目的に書かれた記事は訂正されるべきであり、
ダネタン大使はそれに断固声をあげてくれたのでした。




日露戦争においても同じようなことがありました。
戦争前夜、欧州の各紙が口を揃えて

「日本人の外国人への憎悪が増し、日露が戦うと在日外国人が虐殺される」

といいだしたことがありましたが、ダネタン大使は

「外国人への憎悪や敵意は日本に存在しない。
単身、あるいはメイドを連れただけで、外国人の婦人が日本各地を旅行している。
在日外国人は仮に戦時下になっても日清戦争同様、全く安全である」

と自分の体験に基づいてその意見に反論してくれています。
また開戦後も、ロシア兵捕虜が日本で虐待されているとする報道が流れたことがありました。

これもとんでもないデマで、実際は「敵兵を救助せよ!」の明治版である
上村将軍のリューリック救助で多くのロシア兵の命が助けられたばかりでなく、
(もちろんロシア側が撃沈した船の日本兵の命を救ったことなど一度もない)
彼らは日本の捕虜生活で大いに優遇され、虐待どころか読み書きの出来ない捕虜に
日本側は語学教室を開いてやっていたくらいでした。
(在日外国人キリスト教団の主導によるものだったといわれている)

さらに日本軍がジュネーブ条約に則り、直ちに艦の従軍司祭を自由にして
海戦で死亡したロシア兵をロシア正教の司式で葬ることを許したことも、
ダネタン大使は丁寧に説明を尽くし、世界に向けて誤解を解いてくれたのです。


よく、日本の戦争責任が日本にあるとしたら、それは外交で国際問題を解決せず
戦争という安易な道を選んでしまったことだ、という人がいます。

そんな人にわたしは聞いてみたいのですが、それではあの時日本が
外交でうまくやりさえすれば、日本は戦争をせずに済んだのでしょうか。
それ以前に、外交で戦争を避けるということを欧米の大国が許したでしょうか。

大陸に進出したのが日本の罪だという論説もあります。
しかし、それを非難していた当時の大国は全て例外なく植民地をもち
「お前が言うな」状態でした。
要は、既存の大国が、新興発展国の日本に
自分たちの地位を脅かすことを許さなかったということなのです。

盧溝橋事件以降の日中戦争は中共の挑発による疑いが濃厚であったにもかかわらず、
世界のメディアは、アメリカと中国の主張だけを聞いて全く日本の味方をしてくれませんでした。
その欧米メディアは、国民党中央宣伝部の手先になって、南京事件を
大虐殺事件に仕立て上げるに至ったわけですが、これも全て日本のせい、
すなわち日本の支那政策が失敗で、情報戦に勝てなかったことは日本の罪でしょうか。



後からならなんとでも言えますが、たとえば旅順事件のとき、日本政府は
政治的配慮から伊藤博文が我が国の立場を公式に表明すべく、

● 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった

● 住民は交戦前に逃亡していた。
逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。

● 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。

● 日本側は軍紀を守っていた。

● (ワールド紙の)クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。

● 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、
二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

 
とし、ちゃんと釈明を行っているのです。

それはアメリカの新聞に取り上げられて一応世界にも好意的に迎えられ、
(もともと虐殺を非難したのはアメリカだけだったのですから)
虐殺への非難は当時は収束を見たということになっています。

しかしアメリカは日本の大陸進出そのものを非難する立場であり、
虐殺を捏造したのもおそらく政府の意を受けてのことだったわけですから、
日本政府が懸命に潔白を証明しても、大局的にはあまり意味がなかったと言えます。

戦争という手段を選ばされた日本が、世界デビューしたばかりで外交の歩を
読み切れず、失敗したというのは大陸における日本の悔やむべき失敗とはいえ、
決して「安易に戦争の道を選んだ」と自分の国を責める問題ではない気がします。

あのとき欧米メディアを味方につけておけば、と後からいうのは簡単ですが、
こちらがどんなに理解を訴えても向こうには全く理解する気がなかったのですから
そもそもうまくいくわけがないのです。

その後中国は、蒋介石政府が稀代の毒婦宋美齢のお色気&お涙頂戴作戦まで投入し、
「かわいそうな中国」を演じてアメリカに取り入っていったわけですし、
ただでさえ権謀術数に馬鹿正直な日本人が、太刀打ちできたとは思えません。



さて、それはともかく、日白の関係に話を戻すと、歴史的に痛恨事といえるのは、
二人の偉大なベルギーの大使への大恩を返さないうちに、日本が三国同盟で
ドイツと手を組んでしまい、それがベルギーを失望させたことかもしれません。

現在では皇室外交でやはり王国でもある日白の関係は大変良好だそうですが、
いわば日本はまだその負債をベルギーを返済していない状態なのです。

日本人も今のベルギー人ももはやそんなことは誰も気にしていないでしょうけど。

それはさておき、今回のロゴ問題で、さらに日本とベルギーの間に
動かしがたい蟠りができた、とまでは思いたくはないですが、少なくとも、
なにか国際問題が起きたとき、世界に向けて第三者の目で公平に
日本の言い分を広報してくれるような国同士の儀礼を超えた友情があるかというと、
胸を張ってそうだ、とはいえなくなったような気がしないでもありません。





 

平成28年度富士総合火力演習予行〜オート隊のアヒル

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涼しいアメリカにいたと思ったら帰るなり熱い熱い総火演と暑い花火大会に参加。

まるで振り子の両極端のような環境にあえてこの身を置く、
というのがここ最近の恒例の行事になっているわたしです。

今年は主に世帯主の理由で花火大会には不参加と決まったため、
夏前から声をかけていただいていた予行に行くつもりで、
アメリカ帰りの時差ぼけをそのまま利用して4時起きの生活をしておりました。
これで朝早く起きて参加もばっちり。

と こ ろ が 。

世の中上には上がいる。というかこの道(どの道だ)奥が深いというか、
そんな準備も全く役に立たないハードな1日が待ち受けていたのです。

「払暁3時半御殿場某所で集合」

と、こんなことをやっているうちにできた蛇の道は蛇、というか
こんなことばかりやっている同病のじゃなくて同好のよしみ知り合いが
総火演前日送ってきたメールを見て、
わたしは一瞬思考が数光年の彼方にワープするのを感じました。

3時半集合ってことは家を出るのは1時半、で、起きるのが12時半ってこと?
普通の人はその時間に寝るんだって(笑) 

しかしこんなもので驚いている場合ではなかったのです。
後からこのメンバーと話したところ、土曜日の予行のためには
前夜11時に御殿場入りして現地で並ぶというツワモノさえおりました。
予想通りみなさん例外なくNikonの上級機種をお持ちの方ばかりです。


こういう人たちがそんなにしてまで良いポジションをゲットしたいと願うのも、
せっかくの良いカメラなので少しでも良い写真を撮りたいという欲望。
つまり必要以上に高いカメラに人間様が行動を操られているみたいなもんです。

いつも思うのですが、もしこの世に「カメラ」というツールがなければ
おそらく誰もここまではしないのではないでしょうか。

総火演をはじめとする自衛隊イベントが年々加熱傾向にあるのも
おそらくこの「撮り自(衛隊)」な人々の増加と関係があります。

誰にでもそこそこな絵が撮れるデジタルカメラの普及も罪なものだ。
とわたしは他人事のように思うのでした。



といいながら、3時半に集合し、そこからタクシーに相乗りして現地到着。
0400です。
日の出前の富士山麓には灯りが見えることを初めて知りました。

現地に到着した時、くらがりの中に(本当に暗かった)列を作り、中には
地面に完全熟睡する人や小さなテントを張る人たちの姿を見ました。



自衛官の話によると、早い人でやはり前夜11時から並ぶそうです。
それを聞いて同行の人は、

「やっぱり土曜は11時に来よう」

と決心した、というわけです。

「うーん・・・・馬鹿ですね」

と自嘲しながらも、

「カメラを持たずにゆっくり来て見えるところから楽しむ。
そんな楽しみ方も否定はしませんが、私はそうではないというか」

わたしもまたそんな考えを否定するものではありませんが、
なんか話を聞いていると心配したりイライラしたり・・。
いいポジションを取れるかどうかまでストレスマックスみたいなんですよね。 

体に悪くないか? 



まあ、そういう人たちと行動を共にしなければ、こんな席を確保することはおそらく無理。
ありがたくこの幸せに感謝することにいたしましょう。
夜明け前にやってきた人がわたしたちの列を見て、

「えっ、もうこんなに並んでいるの?」

と驚いていましたが、周りにいるのは全て「その道のベテラン」らしい人ばかり。
前の列の人たちなど、この10人足らずの機材だけで 、
足せば購入時価格1千万は下るまいというくらいの豪華版ばかりでした。

外国の軍演習のことは知りませんが、こんなの日本だけだろうなあ。 



わたしたちが会場に入れてもらえたのはたしか6時半。
人が増えて混乱するようになったので最近は少し早く入れるようにしたようです。 

自衛隊は総火演のために周囲に4〜5箇所の駐車場を用意していますが、
そのうち一つを除き、皆シャトルバスでの来場になるので、
駐車場を利用する時点でもういわゆる「いい場所」は諦めなくてはならない。
ということです。(皆さんの話によると)

戦車などのリハーサルはわたしたちが並んでいる時からすでに始まっており、
ヒトマル式らしい射撃音が聞こえていたのですが、
入場し、荷物を置いてカメラを取り上げた時には89式が試射を行っていました。

この時点ではシート席の前列にはまだ人が案内されていません。



区画ごとに前からびっちりと詰められるのが総火演の掟。
というわけで、Eスタンド前のシート席には3列並んでいます。
この時点で午前7時半。
まあ、カメラということさえ考えなければ、いや考えたとしても
この時間頃来たって十分って話もあるんですけどね・・。



続いてリハーサルを行う火砲集団が待機しています。
96式を先頭に、自走榴弾砲などのイカツイ面々です。



この時ほんの一瞬ですが雲の上から富士山がその頂上を見せました。
この日は1日晴天でしたが、富士山は雲に覆われたままだったので、
本当にこのときだけその姿を拝むことができたという感じです。

登山ができるくらいなので当たり前なのかもしれませんが、雪が全くないんですね。



シート席は一番前に座れても前にロープがあるので、「撮り自」的には
無理して取りたい場所ではないようです。

何でも昔はロープはなかったのだけど、例によって前に出る人がいたため
(確かめていないけど多分カメラ持ち)そういうことになったのだとか。

聞けば自衛隊イベントはこういう”撮り”のおかげでどんどんと規制が進み、
悪貨は良貨を駆逐するというのか、つまり自分で自分の首を絞めている状態。
他のカメラマニアにも言えることですが、結局こういう人たちって
自分たちがそのときにいい写真を撮ることしか考えてないんでしょうね。



時間がさかのぼりますが6時半には74式戦車の試弾は始まりました。
わたしは今年で総火演参加3年目。(だっけ)
もうそろそろ戦車の射撃の瞬間を撮れればいいなーと思いつつ、
この頃には、タイミングが測れませんでした。

74式はとくにリハーサルでは赤旗が上がってから号令もなく
いきなり撃つので、周りの人たちも「空振り」が多かったようです。



フィールドにいるのは90式先輩。
(74式の方が先輩だとかは言いっこなしね)



黒い排気をもうもうと立ててバックする90式。
確か去年の総火演で

「きっと台数も大したことないし、運用は山の中だし、
排ガス規制なんかやっていないに違いない」


と確信的に書いてしまったのですが、このとき同行の方が

「聞いたことあるんですけど、戦車ってみんな排ガス規制してるんですよ」

これを聞いて自衛隊にすみませんでした、と心の中で土下座したわたしです。
戦車は公道を走ることもあるのでこれがないと認可されないのだと聞いて納得。



74式のターレット部分拡大。
青いヘルメットの人が登っているのと、コマンダーキューポラ?
から戦車長ではないかと思われる隊員が顔を出しています。

それにしても戦車長(だとしたら)って、若いのねえ・・・。



次にどれが撃つのかわからないので、前に撃った戦車の隣とかに
狙いを定めて気配を窺ったりして(笑)、ようやく撮れた・・・・
と思ったらその隣の戦車の射弾でした。orz



1台1台狙っていては確率的に成功率が低すぎるので、3台まとめて狙い、
その結果ようやくこれが撮れました。

本当は快心の一写があったんだけど、今日は出し惜しみしちゃう。



「案内」の腕章の隊員さんたちは会場の整理係。
朝から注意事項をアナウンスしたり、階段に座っている人を排除したり、
手前に見えているロープで座る人の列を整理したり、
(何人か客がたまると、このロープで「追い込み漁」を行い、
ロープの前にきっちりとまっすぐ座るようにして列を作っていく)
今日の功労賞といってもいいくらいの大変そうな仕事でした。

「なんでここに座っちゃダメなんだ!」

とか食ってかかる人もいたみたいだし(´・ω・`)



さて、続いての予行はオート隊です。
以前見たオート隊の展示は6人以上いたと思うのですが、
今年は人員縮小なのか少数精鋭なのか、3人だけでした。

おそらく小隊長?が二人に何やら指示をしております。

「ぱーっと飛ぶんだよ。鳥になったつもりでな!」

ってそれはないか。



というわけで鳥になったわたし、その1。

鳥になったわたしその2。
実は当方の席からオート隊がジャンプするバンプまで大変遠く、
こんな迫力のない写真しか撮れませんでしたが、それでも
あの距離からこの写真が撮れるのだから、Nikon1の望遠、優秀です。



鳥になった、といえばですね。
このオート隊のジャンプを見守っている隊員がいたのですが、
なぜかその人のお腹に鳥が・・・・・いやアヒルがいるんですわ。



なぜアヒル????

これ、どう見てもジャンプするオート隊員のためですよね?

「ここを見て目標にジャンプするんだぞ!」

みたいな? それとも

「アヒルさんも見守ってくれてるぞ!頑張ろう!」

とか・・・(なんか不安になってきた)
 



さて、そんなわたしの不安もよそに、オート隊の予行は続きます。
オート隊というのは偵察部隊ですが、バイクの偵察隊を持っているのは
世界の軍隊でもあまりないらしいですね。(調べてません) 

バイクで偵察、非常に日本らしい気がします。
目的地に着いたら自分のバイクを盾に状況を偵察。



状況確認したら素早くその場を離脱。



偵察の結果は即時火砲隊などに伝えられ、攻撃が決定されます。

予行演習、まだまだ続きます。
 

平成28年度富士総合火力演習予行〜予行の富士山

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鉄火お嬢さんの前回のコメントに、

「チケットが盗難されたらしい」

とありましたが、これを見てハッとしたわたしです。
実はわたしにも、先方が確かに速達で送った、と仰った
25日のチケットが届かないという事件があったばかりだからです。

わたしが地元の郵便局に調査してもらったところ、当初

「配達係が全員戻ってきて聞いたが誰も届けていない」

ということだったのに、送り主が発信元の郵便局から調査してもらったところ、

「週末に茶封筒を確かに届けた」

という人が突如現れたというではありませんか。
なぜ配達係の証言がちょっとの間に変わっているのか。

「確かに届けた」と言った以上、誤配ではなかったということになりますが、
それならどうして郵便局の人は

「誰も届けていない」

などとはっきり言い切ったのか。

ヤフーオークションによると、今年の総火演チケットの相場は平均で2万円です。
そして失くなった封書をめぐる彼らの証言の整合性の取れなさ。

この二つを関連付けて決めつけるつもりはありませんが、それにしても釈然としません。

幸い、例の撮り自軍団にチケットが余っていたため、25日は無事に参加。
失くなったチケットを送ってくれた方は、なんと富士学校から直接、
つまり産地直送で27日の券を手配するように気を遣って下さったので、
本日も二回目となる総火演見学に行き、帰って来ました。

これがまた色々とありましてね・・・。

まあ、それはネタのつもりでまたご報告することにいたしましょう。



予行演習は6時半がいわゆる「初弾」です。
それからだいたい2時間くらい、プログラムとは少し違う順番で行われます。

偵察のオート隊が済んだら、次は近距離火力。
いわゆる普通科火力のリハーサルが行われます。

96式装輪装甲車が96式40mm敵弾銃を試射。



相手を怯ませておいてその隙に後ろから駆け出してくる人。
小銃の部隊です。

 

96式の弾着は40ミリ弾なので派手です。



89式装甲戦闘車は「歩兵戦車」といって、歩兵を運ぶという役割もあり、
そのときには後ろの観音開きのドアから出てくるんだと思います。
乗員3名以外に7名が乗ることができますが、形が「戦車」なので
近距離火力と言いながらなかなかの破壊力です。 




弾が違えば弾着後の破裂も違う。
これは対戦車砲(車体の両肩についている)ではないかと思われます。



そして89式が砲撃によって相手を掃討した隙に、



普通科教導連隊が120ミリ迫撃砲RTがやってくる、というわけ。
一台に乗っているのが1個射撃班といい、
車両の乗員2名と砲員4名の合計6名から成ります。



今回はこの迫撃砲に焦点を当ててみました。(撮りやすかった)
この4名が砲員となります。
まず砲口にかぶせてある牽引用のフック兼カバーを取ります。
この隊員だけが安全チョッキみたいなのを着ていますね。



組み立ての間赤ヘルと青ヘルは直立不動。
あのヘルの背中には通信設備が。

赤ヘルの人もただ立っているのではなく、安全確認をしています。
青ヘルは発射の指示をする係です。



木箱には弾が入っていたんでしょうね。
地面に転がっている黒い筒はきっと保護ケースかなんか?



赤ヘルが指差しているのはきっと「前方よし」みたいな確認だと思われます。
一人が撃ち、一人が銃身に弾を込め、後二人は弾の準備。 

以外と原始的?というか、よっこらせ!と上から弾を差し入れます。



ここから、防弾チョッキ?を着た隊員のほぼ一人部隊。いや舞台。
砲口で下に落ちないように合図が出るまで抑えているという。

青ヘルも赤ヘルも上に手を挙げています。



合図とともに手を離すのですが、その瞬間をアップにしてみました。
口が開いていますが、何か掛け声でもかけているのでしょうか。



青ヘルはまだ赤旗を挙げていますね。
砲口に弾を落とすと同時に体を銃の下に沈めていきます。
今、弾の先端だけが見えている状態。

隊員の一人が耳を塞いでいます。



彼が体を落とすと同時に腕を広げる動作をしたその瞬間、
砲身から放たれる熱波が周りの空気を歪ませます。
ほとんど同時に上空には弾が飛翔し・・・・、ってあれ?



さっき筒に落としたものと形が違うんですが・・・。



砲口が火を噴くのはその後なんですね。



終わった途端、「陣地変換」、つまり撤退です。
これらの動作には1分もかからなかったと思います。



砲を車に接続し、木箱もちゃんとお片づけ。
液体の入るコンテナを持っていますが、これは消火用の水かなんかでしょうか。



続いて特科火砲、遠距離火力砲のリハーサルです。
203mm自走榴弾砲がまず登場。



榴弾砲の車員(っていうのかな)たち。
射撃に必要なのは13名だそうですが、中に乗れないのでこうやって上に乗ってやってきます。
いざ戦闘となったらこんなことはせず、別の車両で運ばれてくるそうです。



99式弾薬給弾車。
99式自走155mmりゅう弾砲に随伴し、弾薬を給弾するための装備です。

 

こちらはFH70。
FHとは「フィールド・ハウザー」の意味があったんですね。

自走できるのは車両用のエンジンを積んでいるからです。
もともと西ドイツとイタリアの共同開発だったのでそれは
フォルクスワーゲンのエンジンだったのですが、自衛隊のは
富士重工業製水平対向エンジン(1,800cc)です。

基本的に牽引されるもので、自走能力はそんなに高くないようです。



上に乗っているのが砲手でしょうか。



この時には車に牽引されていたのですが、牽引部分と砲身をロープで結んであり、
今それを解いているようです。
黄色いマークは、解説のために置いてあります。



20榴は砲撃目標に向けて定位置に就きました。



異なった種類の砲を同時に弾着させたり、富士山の絵を描いたり。
ということで特科火砲の演目はおそらく戦車と同じくらい人気があります。

 

特科火砲は砲身から火を噴いているような写真は撮りにくい。
というかまだ撮ったことがありません。



砲手が後ろを振り返った・・・・と思ったら、



撃ちました。
何度見ても何が合図になっているのかわかりません。



さて、いよいよ?火砲で富士山!の時間です。
火砲によって弾着の速さが違うので、タイミングをずらし、
なおかつ富士山の絵を描くという超高度な技量を必要とします。

まずFHと20榴がほぼ同時に射撃。



続いて99式15榴(こちらのは向こうを向けて向きを変えて撃っている)。



富士山は右側から現れます。



遅れて左からも現れ、頂上が最後なのですが・・、



あれ?



あらあら、右斜面が欠けている富士山になってしまいました。

「失敗だ」

周りではそんな声が上がっていたのですが、ちょっとお待ちください。
これはリハーサルです。
彼らは全員が引き上げていきまししたが、その後会場から見えないところから 
今度は綺麗な富士山を描き、本番も完璧に決めてくれました。

本当に、わたしが知る限り、本番で失敗したことが一度もないんですよね。
恐るべし特科火砲部隊。


続く。



 

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