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平成28年度富士総合火力演習予行〜ゴルゴ13入隊シリーズ

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25日、27日の予行を立て続けに参加したわたしですが、
さすがに本番の28日のお誘いには限界を感じお断りしました。

なぜなら、

「前夜中に御殿場駅周辺の駐車場に車を駐めて、そこで仮眠、
朝4時に主催者の車(駐車場券あり)に乗って現地で開場を待つ」

というプランだったからです(笑)

当日の現地の天気予報は曇りでした。
しかし土曜日の予行も、予報では小雨だったのに終盤に激しい雨が降りましたし、
山の天気は予報は全く当てにならないので、まずそれが不安材料。

そんな中、駐車場に戻るのに何時間もかけて、さらにその後、
御殿場から車を運転して帰ってくる、というのは、前日3時に起きて、
ただでさえ寝不足での身には辛いし、眠りに関しては無駄に神経質で
怖がりのわたしに、見知らぬ土地の駐車場で寝るなんてそもそも無理ゲーすぎ。


25日の予行日が晴天で(暑くて辛かったですけどね)、写真は
まあ普通のものがすでに撮れていたのも、断念する理由となりました。

総火演に行かれたことのない方や、行っても自衛隊幹部がエスコートについてくれ、
黒塗りの車で登場してそれで帰る人はおそらくご存知ないと思いますが、
このイベントの何が大変かといって、修了後の会場からの離脱なんですよ。

自衛隊が用意した駐車場は、中畑、鏡原、海苔川などいくつもありますが、
そのうちバスに乗らず歩いて往復できるのは一つだけ。
わたしは最初の年これだったので、早く来れて帰りも楽でしたが、
重い荷物を担いで大きな砂利の転がる道に延々と列を作り、
バスに乗り込むのに下手したら1時間かかるというのが普通なのです。

バスを待つ広場にたどり着くまでの道で、杖をついたご老人とか、
手を繋がなければいけないような幼児と一緒に歩いている人を
今回何人も見かけましたが、果たしてこのうち何人が、
会場周りの足場がこんなに悪いと知っての上だったのか・・・。




たまたま会場の様子を撮ったら写っていた、この子供連れのお母さんも
会場の様子をご存知なかったのでしょうか。
ミニスカートに高さ12センチのストームヒール、しかも生足です。

この靴で、5センチ大の砂利が転がる坂道を歩かなくても済んだことを、
せめてシート席(つまり地面)ではなく、スタンド席に座っていたことを、
他人事ながら祈ってやみません。


会場にはタクシーはしょっちゅうやってきますので、
3900円(特別料金)で御殿場駅まで行くのが帰りは楽ですが、
考えることは皆同じ、御殿場周辺の駐車場はまず当日は確実に、
そして前日夜からすでに満杯になってしまうようです。

しかしこんな大変だと知っていたとしても、やっぱりこれがなくては
夏の終わりを迎えられないと多くの人が参加するのが総火演です。

まるで花火大会みたいですが、花火大会より非日常的で、国防という
可視しにくい「日本の本気。」(今年のパンフレットより)が
この行事に凝縮されているからこそ、これほどまでに人が集まるのでしょう。

ちなみに今年のチケット当選倍率は28倍だったそうです。
三日目のチケットを体力の関係で無駄にしてしまったなんて書くと、
なんだか顰蹙を買いそうだなあ((((; ̄ー ̄A 



というわけで、リハーサルの続きからです。

この日は晴れていたため、ヘリがとてもいい感じで撮れました。
この写真のシャッタースピードは1/160です。



ヘリを撮るときにこれくらいのシャッタースピードだと
本体がぶれてしまうのですが、総火演ではアパッチは
攻撃のときにピタリと動きを止めてホバリングしてくれるので撮りやすいのです。



晴れていましたが湿度が高かったのでローターにベイパーが確認されています。
ペイパーとは、ローターからこぼれた空気が急減圧されたところに、
空気中に含まれる水分が凝結作用することにより発生してできる現象です。


早い時間に戦車隊がリハーサルを済ませてしまっていたので、
アパッチの銃撃でリハーサルは終了でした。

これから10時までおよそ2時間くらい、フィールドの整備が行われます。



整備は陸上自衛隊富士学校富士教導団の教育支援施設隊です。

ところで富士学校という名前ですが、普通科・野戦特科・機甲科(戦車、偵察)
及びその3職種の相互協同に関わる教育訓練を行うものの、
いわゆる学校(学校教育法で定められる)とは違う組織です。

防衛大学校が「大学」でないのと同じですね。



現場では施設隊について何も紹介がありませんが、パンフレットには
出演部隊としてちゃんと全員の写真が掲載されています。

ところでパンフレットの部隊紹介ページには、偵察教導隊の下に偵察警戒車、
普通科教導連隊の下に中距離多目的誘導弾や89式装甲戦闘車と
部隊に関係のある装備を載せているのですが、
教育支援施設隊の下にはなぜか「指向性散弾」の写真があります。

指向性散弾はつまるところ対車輌用の地雷です。
湾曲した箱状の本体に炸薬と直径1cmほどの金属球が数百個ほど仕込まれ、
爆発させるとそれらの金属球が前方の目標を一瞬にして制圧する武器。
ちなみに目標とは基本車両および人間のことです。

総火演では敵歩兵に見立てた風船を指向性散弾で破裂させますが、
これを設置するのはどうやら施設隊の任務らしいですね。

地面の整備だけではなく、ちゃんとこのような「戦闘行為」も
やっているんですよ!という説明でしょうか。 


さて、リハーサル終了から本番までの間、昼食になるものを
買ってきた方が良い、と言われて外に出ました。

スタンドの階段下には射撃中の表示と踏切のようなバーが。
駐車場との送迎バスの中から富士演習場の周りで見るのと同じものです。 
戦車や特科火砲などの射撃中には入場させないということでしょうか。

何か危険というなら、会場にいる人全てが危険ということになりますが・・。



丸い土管を切ったような構造物にドア。
隊員が入っていくところを目撃しました。
この時にはなんだかわからなかったのですが、演習終了後、
たくさんの人がこの前に列を作っていたのでトイレだったとわかりました。

会場にはたくさん仮設トイレが用意されていますが、あまりにも人が多く
終了後にはそれだけでは足りなくなってしまうので、
隊員用の「常設トイレ」を客のために貸し出したようですね。

ちなみに女性用は意外なくらい混みません。
やはり全体の人数に対して女性の参加者が少ないのでしょう。 

お弁当を買いに行くついでに物販店を見て歩きました。
総火演のことは「FUJI FIRE POWER」というのか・・_φ(・_・

Tシャツの「レンジャー5則」とは

一、飯は食うものと思うな
二、道は歩くものと思うな
三、夜は寝るものと思うな
四、休みはあるものと思うな
五、教官・助教は神様と思え

最後の「五」だけが「思え」って・・・。 
これはきっと教官か助教が作った標語だな(ドヤ顔) 


帽子がなくてはとても生きていける環境ではないため、現地で
お土産代わりに買ってしまう人もたくさんいます。

空挺団、レンジャー、90戦車隊はわかるとして、陸自迷彩に
「ブルーインパルス」のロゴ帽子が(謎) 

ところで会場で陸自戦闘服(ガチ)に陸自用らしい編上靴(これもガチ)
もちろん陸自用迷彩のキャップとガチガチにコスプレした女性を見かけました。
わたしの横にいた人たちが

「ああいうのはどうかと思う」

と非難していたのですが、元自衛隊か現役予備自かもしれないでしょ?
さすがに官品を着ているわけではないと思いますが。 



おなじみ「元気バッチリ!」そしてあの「撃!」などが売られています。
この「撃!」まんじゅうですが、なんとプログラム印刷を手がけた
防衛ホーム新聞社がアルバイトに作っているのだそうです。

それがなぜわかったかというと、プログラムに書いてあったからです。
曰く、


防衛ホーム新聞社は、昭和47年から自衛隊の広報紙を発刊し、
全国の部隊および自衛隊関連施設(一部の海外にも!)ご家族の方に
ご愛読いただいております。

私たちは新聞を作りながら「気になる存在だけれど、別の世界の話」とする
国民の意識と自衛隊の距離を常に感じていました。
そこで少しでも国民と防衛省・自衛隊の距離を縮めることはできないか、
応援することはできないか、さらに、身近に感じてもらうとともに、
もっと感覚的に受け入れてもらえる方法はないかと模索していました。

そして・・・・2001年に自衛隊土産におけるパイオニアとして
「撃まんじゅう」を考案しました。

「今までにない自衛隊商品」と数多くのテレビや雑誌などの取材・問い合わせが
殺到・・・・そのようなお力もあり、おかげでヒット商品となりました。

防衛省・自衛隊を茶化したり面白おかしくいじるでもなく、
「質実剛健なお饅頭が素晴らしい」と絶大な支持を現在でもいただいております。

「自衛隊のなかでしか買えないお土産”撃シリーズ”」の包装紙は
新聞社ならではの写真やイラストを使用。

借り物を使用しなくてもいいのです。

”撃シリーズ”には、おまんじゅうの他におせんべい、カレー、
ジーンズ(←)などがあり、各地の駐屯地や基地
(防衛省内では”防衛省限定”商品もあります)で販売し大好評を得ています。


つい思わず全文紹介してしまった・・・・。 

ところで、わたしがこのブースに目を留めたのは、翻る旗に描かれたゴルゴ13。



旗なので裏返ってしまっていますが、

「ゴルゴ13、自衛隊 入隊?」

というロゴに描かれた陸自ヘルメットのゴルゴ。
いやー、いいねえ。
なんて似合ってるんだゴルゴ。
ゴルゴが入隊って、年齢的にも新入隊は無理だから、
これは予備自衛官・・・・ってことかな? 

 

調べたところ、こんなコラボ企画があったことが判明。



ちゃんと設営隊まであるのが泣かせます。
別のイラストにはカレー食べているゴルゴ、なんてのもありました。 



で、ブルーインパルスバージョンなんかもあったりするわけですが、
個人的にはやはり陸自装備が似合ってる気がするのよね。

この日、対人狙撃銃や無反動砲など、遠距離からバンバン目標に当て、
絶対に外さない陸自隊員の「本気。」(パンフレットより)を見て、
周りの人が「ゴルゴみたい〜」といっておりました。
自衛隊とゴルゴのコラボ、これいいんじゃないでしょうか。

当ブログ的にもこのコラボグッズにこれからも注目してみたいと思います。
って何の話だ。


続く。
 


平成28年度富士総合火力演習〜TOTの富士山と”匠の弾道計算”

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さて、場外の見学かたがたお弁当を買ってきました。
本当はソフトタコスに巻いたケバブが食べたかったのですが、

「お昼まで食べないので普通のお弁当にしてください」

と同行者に釘を刺されたため、素直に従いました。



記念弁当「富士の国」。
いわゆる専門の仕出し弁当よりなんというか温かみがあっておいしかったです。
食べてる時には気づきませんでしたが、ごはん部分が富士山だったのね。
(本日の内容への伏線です)
パックされたわさび漬けやデザートに一口わらび餅、気が利いてます。


ところで、この総火演本番に韓国のメディアも取材に来ていたそうですね。

「名前とは異なり、戦争が可能な軍隊に変身している日本の自衛隊が、
28日、年中最大規模の総合火力訓練を実施しました」

に始まって、前回紹介した自衛隊グッズの露店を指し示しながら、

「これは、変貌する自衛隊を日本国民に見せ理解を求める趣旨です」

などと、あたかも軍事演習を「お祭り」の甘いコーティングで包み、
国民を騙してでもいるようなニュアンスの報道をしていたそうですが、
こんなもんあんたらの国が軍事政権だった頃からやってるっちゅーの。


だいたい、戦争が可能でない軍隊に一体何の意味があるのかと小一時間(略)

それにしても、韓国メディアの論調って、日本国内の野党・共産党、
そして左翼ならぬパヨクの皆さんと全く一致していますね。(不思議)



会場ではまだまだ整備が続いています。
実は設営隊がいないと、陸自は何も始まらなといっても過言ではありません。



そのとき、音楽隊による演奏が始まりました。
始まるなり向こうからこちらに「陸軍分列行進曲」を演奏しながら
行進してくるという、去年はなかった新企画です。

あまりにも広い会場、こちら半分の人が音楽隊の姿を
全く見ることもできず終わってしまっていたための配慮でしょう。



演奏は富士教導団音楽隊その他の皆さん。
富士学校に来校する内外の高官への儀礼を実施する必要から編成され、
現在は35名の音楽隊員で演奏活動を実施しています。

スーザの「サーベルと拍車」をフォーメーションを入れて演奏。
どうでもいい自慢ですが、わたしはこの夏、サンディエゴの
「音楽博物館」でスーザの着ていた軍服と指揮棒を見てきました。 



そして一曲終わったらまた向こうに行ってしまいました。



こちらにはマイクがあるのでどこにいても一応音は聞こえます。
女性隊員が「ひこうき雲」の歌唱を披露しました。

その向こうの報道カメラの放列が遠目にも凄い・・・・。



本番のストリームでの中継をご覧になりましたか?
わたしは今回本番のみこれで鑑賞しましたが、
砲撃の瞬間、カメラを目標に切り替えて弾着を見せてくれたり、
会場からは見えない戦車の通路を映してくれたり、
ある意味、現場で見ているよりもわかりやすくておもしろかったです。

現場ならではの空気を震わす轟音、振動などの臨場感を一度味わったら、
もう一度今度は映像で楽しむというのが、一番「効果的」というか、
通な総火演の鑑賞法ではないかと思ったくらいでした。

そして、その映像配信を行っているのがこの部隊。
陸自第301映像写真中隊・映像小隊の皆さんです。



偽装網の上は写真小隊の隊員が写真を撮っており、下はビデオです。
ビデオカメラは、ヘリのコクピット(おそらくパイロットのヘルメット)
や、戦車の操縦席にも設置されており、これらの映像を切り替える
映像小隊のディレクターもどこかにいるはずです。

左の可動車上タワーの頂点に備え付けてあるのは通称「千里眼」という
高感度・高性能カメラで主に弾着の様子をとらえて放映します。



富士学校の校長に報告を受ける偉い人。



なぜかこのときだけ大きな国旗を打ち振る観客あり。



そこに宮澤博行防衛大臣政務官が登場。
黒塗りの車から愛想よく皆さんに手を振っております。



そして会場では白い煙の上がる「二段山」、黄色の「三段山」など
会場の目標についての説明が行われます。
二段山は戦車の目標、三段山は特科火砲の目標となります。

目標は砲の種類によって距離を違えてあり、攻撃のたびに
放送がどこに当てるかを言ってくれます。



さて、そこでいよいよ装備紹介を目的とした前段演習の始まり。
まずは遠距離火力である特科火力の紹介からです。

特科部隊とは火砲とロケット、ミサイルを装備しています。



左から155mm榴弾砲、FH70(えふえっちななまる)、
203mm自走榴弾砲。
これらの射程距離は約30km。

そして99式155mm自走榴弾砲2門。
装填など全てに自動化が進んでいて準備いらずの楽なやつです。 
射程距離は約40km。

射程距離が違うこれらの砲で、同じところに同時に弾着させるという
超ハイパー技が特科火砲の展示の見どころとなります。



まず155mm榴弾砲が着発射撃(砲弾が地表で爆発する)。
号令では「自走15榴」と呼んでいました。



続いて203ミリ自走榴弾砲の集中射撃。
車上の砲員は射撃方向の反対を見ているのが不思議。
赤い旗の側の人が手を上げ、砲の根元にある発車のためのレバーを
押し下げる人は、それを凝視しています。



赤旗の横の人が手を振り下ろしたところで発砲します。



ストリームのキャプチャ写真で同じ瞬間を。
右側のレバー係は体ごと思いっきり下に押し下げていますね。

旗の人は次の瞬間赤旗を緑に付け替える役目です。



このFH70の砲撃は、後ろの方にいる(つまり見えない)中隊の
計5門が同時に弾着させるというもの。



「だんちゃ〜〜〜〜く、 いまっ!」

でほぼ同時に(写真は3発しか写ってません)弾着。
すごいー。 



TOT、と書くとまるで泣いている人みたいですが、
”Time on Target” のことで、ほぼ同じ地点に同時に弾着するように
タイミングを調整して間接砲撃を行う技術を意味します。

これらの装備がたとえ全く違ったところにいたとしても、
一点を同時に攻撃することができるのです。

ここでは合計22門が空中の一点を狙います。


だんちゃーく、いまっ。

とても22発の破裂には見えません。
一つだけ上方を撃ってしまったようですが、この日だけで、
27日の予行、本番は完璧でした。



続いてT0Tの「曳火射撃」です。
「曳火」とは英語で言うと「エアバースト」、空中破裂。

砲弾が空中で炸裂し、大量の破片が目標範囲に降り注ぎ、
敵の頭上から破片を降らせて敵を殲滅します。

この射撃は姿勢を低くしたり塹壕などの穴に潜った敵にも損害を与える、
大変有効な、つまり残忍な武器なのですが、わが自衛隊では
それで空中に絵を描くというとんでもないことをやってしまうのだった。

まずはFHと29榴が撃ちます。



少し遅れて15榴が。
そして・・・・。



お見事〜!!TOT (←これは顔文字)

放送でも言っていましたが、ことなる火砲、異なる場所からの車距離による弾着で
このように何かを描くというのはそれだけで高い技術を要します。
その中でも最も難しいのが、お待ちかね曳火射撃で描く富士山。

22門の火砲が描く富士山。
リハーサルではイマイチでしたが、今回はどうでしょうか。

「対 TOT富士、発動!」

という掛け声に続きまず20榴、一瞬遅れてFH70発砲。



そして15榴は2門が瞬きくらいの違いで発砲しました。



あっぱれじゃ〜〜〜!

  ___
  \●/ ))
(・∀・)ノ           /´・ω・`\



ところで今回はわたしもこれらの瞬間を全て撮り逃しませんでした。

なぜか。

答えは簡単、それは周りをがっつり固めていた撮り自な人たちの
カメラの操作音とか向きに、シンクロさせて撮ったからです。

Nikon1にはストップモーションという機能が付いていて、
シャッターを押している間撮り溜めしてくれるのですが、その機能か、
スピード優先シャッター(1/1250) 、5枚連射くらいでなんとか撮れました。

「どこでも写真は撮れる」などとうそぶいてしまったわたしですが、
27日にはそうでもないところに座ってしまい、ろくに撮れなかったので、
この周りの人たちの影響も含め、「撮る場所って大事」
とあらためて知ったのが今回の収穫かもしれません。


撮り自な人たちがあれだけして場所の確保に血道をあげるのも
こうなってはよくわかる、と言うしかありませんが、それを知ることが
わたし自身のために果たしてよかったのかどうかは謎です。



撃ち終わるとほぼ同時に敵がレーダーで陣地を補足して攻撃してくるので、
すぐに陣地変換を行います。



15榴は片付け要らずですが、一番大変なのがFH70。
砲口にかけたロープを全員でえいやー!と引っ張り、
手動で向きを変えて固定させ、自走して退却するまでがお仕事です。



それでも全部の自走砲たちが退場する最後尾に付くという素早さ。

ところで、この富士山ですが、100分の1レベルの弾道計算をもとに
発射のタイミングが決められています。
その弾道計算というのは、実は陸自の一隊員が行っていたらしいのですが、
今年か来年にその方が退官してしまうらしいんですね。

「その人が退官したら後それをする人がいないんだとか」

「計算、マニュアルにしてそれを受け継いでるんじゃないんですか」

「それが毎年違うらしいんですね」

「そんな・・・・匠の技みたいな・・・。
その人を永久隊員にして死ぬまで弾道計算やって貰えばいいのでは?」


まあ、自衛隊のことだから来年には誰かがしれっと後を継いでるような気もします。

ミツバチの世界だって猛烈に働いているグループを取り除いたら、
今までのらくらしていた怠けバチが猛然と働き出すらしいじゃないですか。


・・って全く関係なかったですね。すみません。


続く。


平成28年度富士総合火力演習〜"FIRE AND FORGET"

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さて、匠の技でTOTによる富士山を描いた特科火砲部隊が
満場の観衆を沸かせた富士総火演会場です。

弾着が決まると、皆は口々に「おおお〜」と呟くのですが、
その人数が多いため、ストリームの映像にはしっかりと
「おおお〜」といううねりが記録されていました。

なんでも会場には2万6千人の来場があったそうですから、
その10人に一人がつぶやいたとしても2600人分のどよめきです。




続いては120ミリ迫撃砲など、迫撃砲・対戦車誘導弾の展示です。
まず、CH47チヌークが迫撃砲を牽引して飛来しました。



 UH-60は、120迫を操作する隊員を運輸してきたのです。



衝撃を受けないようにそっと砲を着地させたら、上で牽引していたロープを外します。



残念ながらCHと砲を撮っているちょっとの隙に
リペリング降下が終わってしまっていました(´・ω・`)

120迫の砲員たちは地面に降りると迫撃砲に突進します。



組み立てはもう終わっているので牽引索を外せばあとは撃つだけ(多分)

120迫は榴弾、対軽装甲弾、発煙弾、照明弾など4種類の弾薬を
射撃することができ、軽くて持ち運びが簡単、
島嶼部などへの展開がしやすい装備となっております。



砲を目標に向けてもうすでに先端の牽引具を外し中。



そこに、車で81mm迫撃砲と120mm 迫撃砲を牽引してくる迫撃砲小隊あり。
これらの砲は小さいですが、弾道を高して撃つことで
山の裏側や壕に隠れている敵を制圧できます。

 

車が止まるなり飛び降りて、あっという間に準備完了。
この起動の速さが、戦車などに先駆けて敵に攻撃を仕掛けるのに向いています。



120mm迫撃砲は毎分15〜20発の射撃が可能です。

分隊長が指揮を執り、砲手、副砲手、操縦手、2名の弾薬手の
合計6名で射撃を行います。

81mmは分隊長、砲手、副砲手、弾薬手の4名で行います。




砲身に迫撃砲弾が埋まるようにして合図を待ちます。

砲身の内側にはライフリングという螺旋状の切り込みがあり、
砲弾面にはこれと噛み合わせるための突起が刻まれているそうです。



81mmの説明を読むと、この弾込め係は副砲手なんだそうですが、
120迫も副砲手ってことでよろしいんでしょうか。

そして、手を離したときがつまり発射のときなんですね。
なんでもこれを「落とし込み」といって、砲弾を自重で落下させると
撃発・発射するのが一般的な迫撃砲の仕組みなんだそうです。

手を離さない限り決して爆発しないので、持っている間は安全ってことです。



まず炎が噴き出し・・・、



その後弾薬が薬莢を脱ぎ捨てて?射出されます。



もう一発。



発射は全部で3回行われ、同時弾着を繰り返します。

 

迫撃砲小隊が陣地変換を行ったあとは対戦車部隊の登場です。
誘導弾の発射装置を車両に搭載しています。

これは87式対戦車誘導弾。
ただの車に見えますが、目標にレーザーを照射してミサイル弾を誘導します。 



中距離多目的誘導弾、96式多目的誘導弾システム(MPMS)など、
戦車の装甲の薄い部分に命中させたりする能力を持っている火器とともに
フィールドに一列に並びましたが、実際の射撃は後方への爆風が大きいので、
会場から見えないところに置いてある装備から発射を行いました。

このあと、本来は96式多目的誘導弾の発射が行われるはずだったのですが、
この日はどういう事情か実射はなく、映像だけの紹介となりました。



設営隊が設置するという指向性散弾。
あらかじめ仕込んでおいた鉄球が扇状に飛び散り、
相手歩兵を殺傷します。(こえ〜)



これが敵歩兵のつもり。



風船がこんなの受けたらそりゃ割れるに決まってますわ。

これ、昔は「指向性散弾地雷」といったそうですね。
日本が対人地雷の撤廃に批准したので「地雷」という言葉をなくした、
というんですが、これなんだか変じゃないですか?

名前が「地雷」じゃないからこれは地雷じゃない、ってこと?
対戦車用だから対人用じゃないって言い訳もなんだか苦し紛れみたいだし。

昔、批准の話を聞いたとき「周りの国はどこも批准してないのに日本だけが」と、
我が国のいい子ちゃんぶりに少し呆れたことがあるのですが、
なるほど、こういう抜け穴があったのか・・。

なかなか防衛省も悪よのう。いや、別に責めてるわけじゃありませんが。



続いて軽装甲の上から01式(マルヒトしき)対戦車誘導弾、
通称「マルヒトATM」が発射されました。

これ、適当に撃ってるみたいだけどどんな仕組みなんだろうと思ったら、
なんと、赤外線画像誘導システムを搭載した追尾式なので、
本当に適当に撃っていたことが判明しました。

あらかじめ何かを狙うというのではなく、とにかく撃ったら、
ミサイル本体が、戦車などが発する赤外線を捉えて追尾するため、
さっさと逃げてしまえるというわけです。

この撃ちっ放し能力を英語で”Fire&Forget”といいます。
いいなあファイアーアンドフォーゲットって響き。
昔そんなバンドありましたよねー。
それはアースウィンドアンドファイアーや。 


 
続いて対人狙撃銃の射撃です。
このクソ暑いのにギリースーツ着用でご苦労様なことです。

対人狙撃銃は狙撃手と観測手が2名一組で射撃を行うことになっていて、
800mくらいの距離なら目標にどんぴしゃり当ててしまいます。

やはりゴルゴ13が入隊の暁には適材適所でここにきてもらわねば。



当たり前ですが狙撃は陰に隠れて行うものです。
しかし皆に見てもらわないと意味がないので、総火演では
このように台の上から狙撃を行います。



目標はこの車の窓(のなかの人物)。
この日は最初から窓枠部分のボードが外れかけておりまして、
ゴルゴも多分やりにくかったんじゃないかと思います。



しかし依頼された仕事はきっちりやる。



続いて小銃小隊。
96式装輪装甲車が96式40mm自動擲弾銃を射撃。
近距離に敵がいるという設定です。



歩兵を乗せて続々と集結する96式。



まず敵歩兵に見立てた黄色い風船撃破。

次に同じ96式から12.7mm重機関銃の連射。
赤い弾道が隣に集中して吸い込まれていきます。

この重機関銃は一分間に400〜600弾を発射することができます。



96式が二種類の火器で敵を掃討しながら進むと、
車両内に乗っていた小銃小隊の歩兵が外に出てきて地域を占領します。



06式小銃擲弾による敵歩兵に見立てた風船撃破。

風船を直接狙わずとも、着弾してから破裂してくれるので、
ゴルゴばりの狙撃能力はとりあえず必要ないみたいです。

ところでこの06式小銃擲弾を作っている会社ってどこだと思います?
ダイキン工業なんですよ。
なぜ空調会社がグレネードを?

あまりにも不思議だったのでなんとなく呟いたら、近くにいたMKが

「クールだから」

  ___
  \●/ ))
(・∀・)ノ 




対戦車榴弾である84mm無反動砲、カール・グスタフさん射撃。



続いて携帯対戦車弾が炸裂。



無反動砲も撃って、白い+印のついたボード全員無事死亡。



最後に発煙弾。
このように、対戦車榴弾、対人榴弾、発煙弾、照明弾と
4種類もの弾薬を一つで皆撃てるお得な火器、
それが84ミリ無反動砲なのです。


そうそう、照明弾といえば、わたくし今回は夜間演習にも参戦いたしましてね・・・。
おっと、その話はまたいずれ。

続く。




 

平成28年度富士総合火力演習〜10式咆哮!

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平成28年度富士総合火力演習、前段演習もクライマックスに差し掛かりました。
クライマックスといっても、始まってすぐに特化火砲の富士山だったりするので、
観客は最初からもう盛り上がりっぱなしなわけですが。



続いては89式装甲戦闘車の登場です。
前にも取り上げましたが、この通称「FV」は最初「IFV」といって、
歩兵を意味する「infantry」の「I」に「ファイティングビークル」
が付いているというものだったのですが、「歩兵」がよろしくないというので、
わざわざ外してしまったという経緯があります。

「歩兵がダメでなぜ戦闘はいいのか」と決めた人たちに聞いてみたくなりますね。

こういった防衛省の「自主規制」には、首を傾げてしまうことが多いですが、
その中でもこれは最も不思議な配慮であると思います。

歩兵を運ぶから歩兵戦闘車なんじゃなかったの?

さて、このFVは二種類の火器を搭載していて敵の装甲車を撃破するほか、
今回初めて知ったのですが、車体横に見える特徴的なボールマウントは
銃眼(ガンポート)になっており、中の歩兵がここから小銃を撃つことができるのです。

この丸いの、前々からなんだろうと思ってたんですよねー。
ちなみに使わないときには蓋をしてありますが、その下には
銃口を出す穴と覗き窓が備えてあるんだとか。 



次にヘリ火力が展示を行いました。
対戦車ヘリコプターAH-1Sコブラが対戦車ミサイル「トウ」を撃ちます。

はて、「トウ」ってもしかしたら「TO」かなとおもったら

Tube‐launched, Optically‐tracked, Wire‐guided
(発射筒で発射され、光学的に追跡され、有線で誘導される)

でした。
今回は残念ながらこんな写真しか撮れませんでした。



そこで去年の写真を出してくるのだった。

コブラは撃ったらすぐ離脱(もちろん命中)。
いわゆる「ファイヤアンドフォーゲット」撃ちっ放し式ではないので、
着弾を見届けてから逃げないといけないようです。



続いてアパッチ・ロングボウ、AH64-Dの射撃です。
運用からもう20年経っているのですが、これが陸自的には最新鋭となります。



一緒にやってきたOH-6たんは観測係。
アパッチと一緒にいるのを見るとより一層萌えるわ〜。 



戦闘ヘリなので、対戦車ミサイルヘルファイア、ロケット弾、
空対空ミサイルを積むことができます。

今撃っているのは固定武装である30mm機関砲。
薬莢が下にバラバラと落ちていっているのが写っています。
なんでヘルファイアとか撃たないんだろう。もしかしたら高い?



30ミリ機関砲を撃っているところって、写真的にはあまり面白くないのよね。
せいぜいアップしてこれが確認できるくらいでした。



87式自走高射機関砲、通称87AW。
常に後ろのアンテナをくるくる回しているので初心者にも見分けやすい武器です。
このレーダーで敵航空機を感知し、局所防空を行います。

足回りは74式戦車と同じものを使っているそうです。
発射直後、写真のように煙が三方向に噴き出すんですね。



砲身は細く、航空機を狙うので「ばんざい」できるように2門両側にあります。
狙うのは他の火器と同じように地表の目標なのですが、
いちど飛翔体を狙って撃ってほしいなあ。たとえば使い捨てのドローンとか。



そしていよいよ戦車の登場です。
まずは74式戦車から。



74式は必ずこうやって稜線から射撃を行いますが、
これは、油着圧式懸架(サスペンション)装置を備えていて、
坂道でも安定して射撃できるという機能を見せるためです。
日本の山地の多い地形を考慮した作りになっているんですね。

「見ている方にはなんということのない傾斜だけど、
中の人はほとんど上を向いている状態なんですよ」

と隣の人がこのとき話していました。
乗ったことあるのか。

また、射撃ですが、まわりの撮りさんたちは、

「74は撮りにくい。なんの合図もなくいきなり撃つから」

といっていました。
2台同時に発射するのですが、戦車同士インカムで合図をしあうらしく、
見ている方にはまったくそのタイミングが測れません。

あと、まわりのオタ情報によると(笑)74式は離脱のとき、
全速力のバックで帰って行ったわけですが、74式の操縦席って
なんと後ろが見えないらしいんですね。
まあバックミラーついてるわけじゃないですからね。

何を頼りにしているかというと車長の指示だそうで、これは
「かなりすごいこと」なんだそうです。



90式は2種類の異なる弾薬、徹甲弾と対戦車榴弾を撃ちます。
二段構えで打つことで急に眼前に現れたどんな敵にも対応できるのですが、
その弾種を判断するのは車長。

その判断にすぐさま対応するのが射手などのメンバーで、
チームワークとかなりの練度を必要とする撃ち方だそうです。

90式戦車も砲が目標を自動追尾するシステムなので、
走行しながら射撃を行うことができます。



90式は一発徹甲弾を撃ったあと「止まれー!」で急停止しますが、
そのときにはこのように後輪が浮き上がるくらいです。



続いてヒトマル式戦車の入場です。
気のせいか会場が興奮マックスに。

この日までに行われた予行ではヒトマルが撃たなかったという噂もあり、
てっきり去年の履帯ハズレ事故のせいかと心配したのですが、
今日はもう平常通り展示を行うようです。

10式戦車小隊も同じ失敗を2度と起こさないような覚悟で臨んでいるでしょう。




10式の最も大きな強みは、ネットワークシステムで情報を互いに
共有して射撃の統制などを瞬時に行えるということでしょう。

写真は前進していた10式が不意に敵に遭遇し蛇行射撃を行っている、
という設定。



蛇行射撃2発目。
わたしにとっても会心の一撃でした(笑)



戦車の砲撃音が朝一番(6時半)に響くと、周りの人が一斉に
一瞬首を縮めてびくっとします。
2射、3射、しばらくの間は毎回同じような反応なのですが、
不思議なことにこのころになってくると皆慣れてきて、
最初の頃のような「体を思わず屈める」動きをしなくなります。

わたしは最初からずっと耳栓をしていましたからあまり変わりませんでしたが、
人間の耳ってこんな音にも慣れてしまうものなんだなと感心した次第です。



下半分と上半分が全く別。
下がクネクネしているのに砲はピタリと敵の方向に止まったまま。

これはきもい(笑)



これは、2射したあとバックして

「2班、止まれ!」

で急停止したところ。
このあと背面後進射撃といって、砲だけを後ろに向けて撃ちます。



地面についたキャタピラの蛇行跡をご覧ください。
このあとはものすごいスピードで一直線に退場していきました。

10式、いつ見てもいろんな意味で日本らしい戦車だなあと思います。



27日、そして本番の28日は行われませんでしたが、この日だけ
普通の降下がありました。

ただし・・・・・遠〜〜い!(笑)
降下地点も遥か向こうのほうだし、まるで傘が豆粒のよう。

これはせっかく降下を行う空挺隊員さんにとってもやりがいがないというか。
落下位置を操作しにくい普通の降下だと、総火演の会場は狭すぎるんでしょうか。



続いてはフリーフォール、自由降下です。
こちらは高高度から自由落下する、難易度が高い降下で、
これをするには資格を取らなくてはいけません。
資格を持っている隊員は胸に「FF」のマークがあります。

この日はチヌークの姿は見えませんでしたが、雲間から傘が降りてきました。

しかし、27日と本番の28日には曇天のため中止になったようです。
28日のストリームは、降下までのチヌークの中の様子を放映しており、
降下する隊員がどのようなことをしているかがわかるようになっていましたが、
隊長らしき隊員が皆に声をかけ、各自がバディの装備を点検して、その後
親指を立てて準備完了の合図。

その後、席に座って待機する隊員の顔はあきらかに緊張が見られ、
何度降下しても直前はこうなるのだなと思って見ていたら、
映像で隊員がチヌークの後部に移動したところでいきなりアナウンスが。

「本日は雲が厚く上空から着地地点が確認できないため中止します」

・・・・・・。
もしかしたらライブ映像じゃなかったってことがばれた瞬間?
 



フリーフォールの降下では普通の降下のように地表で
一回転したりして衝撃を逃す必要がないのかもしれません。
全員が軽々と二本足で地面に降り立ちます。



一人が降りるとその度に観客が盛大な拍手を送ります。
こんな中何かにつまづくなどの理由で転んでしまったら
おそらく立ち上がれないだろうなあ。(精神的に)



降りる方向はともかく、降下のスピードはコントロールできないようです。



この隊員さんをアップにしてみるとよくわかるのですが、両手に握られている
赤でトリミングされたハンドルで傘の端を引っ張ってコントロールするようです。



自由降下の場合、カラビナを飛行機に固着させて、飛び降りると同時に
開傘するという方法でなく、自由落下ののち自分で傘を広げます。

右肩にある赤いのが開傘するためのレバーだと思われます。



地表に降りたら傘をたたむ仕事。



あの空挺隊員の中でも選りすぐりの精鋭が、空気を抜くために
パラシュートと戯れる姿はなかなか微笑ましいものがあります。




おまけ*

28日の本番で、落下傘降下が中止になったと聞いた時の稲田大臣。
海自迷彩の河野統幕長と武居海幕長もおられます。
稲田大臣の右側は就任したばかりの岡部陸幕長でしょうか。

全員がはっはっはそりゃ仕方ないですなあ、と苦笑いしてます。

大臣の後ろ4人(5人?)は全員SP(セキュリティポリス)ですが、
大臣が女性なのでここに稀少な女性SPの姿を見ることができます。
SPになるには

身長173cm以上、柔道又は剣道3段以上、拳銃射撃上級、英会話ができ、
さらに3ヶ月間の特殊な訓練で選抜された者。
逮捕術、格闘術、射撃技能、強靭な体力、精神力が求められる。

パトカーの運転テクニック、同僚との協調性、自制心、自己管理能力、
法令遵守の精神、VIPを接遇する礼儀作法、そして極限状態では
人間の盾となり受傷、最悪の場合は殉職する自己犠牲の精神、
すなわち人間性が問われる職種である。
そのため、警察官の中でもそれらの条件に該当した者のみが任命される。

だそうですが、女性だからといってこの条件が緩和されるわけではないので、
女性SPは全体の5%しかいないそうです。


さて、それはともかく、これをもちまして前段演習は終わりです。

続く。

ビッグ・マミーたん萌え〜戦艦「マサチューセッツ」

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総火演のご報告が終わっていませんが、後段演習の前に
これも継続中の「マサチューセッツ」見学記を挟みます。 



ここまでで一応艦橋と甲板のハードは終了したので、
今日は艦内を展示室にした「ビッグ・マミー」関連展示などをご紹介します。

冒頭の巨大なアメリカ国旗は、”カサブランカ フラッグ” と彼らが呼ばれており、
「ビッグ・マミー」が1942年11月8日、「松明作戦」(operation torch)
に参加するため航行していたカサブランカ沖で、仏海軍の「ジャン・バール」と交戦した際
そのマストに翻っていた戦闘旗でした。



その時の使用例(手前)。
後ろ側のマストにも星条旗が揚がっていますが、それが、これ。

どちらも星は48個です。



前にも書きましたが、この戦闘で「マサチューセッツ」は枢軸国側から初めて攻撃され、
初めて16インチ主砲を放ち、初めて敵艦船に打撃を与えた戦艦となりました。



そのとき「ビッグ・マミー」と交戦した「ジャン・バール」は、
主砲砲弾と空母「レンジャー」艦載機の攻撃をまともに受け、こんな姿に。

たしかに艦首に浸水、電気系統に障害が発生し砲塔の旋回が不可能となったのですが、
アメリカ側が言うほどのダメージではなかったらしく、翌日の修理によって回復、
二日後の10日には重巡洋艦「オーガスタ」と交戦し主砲射撃を行っています。

「オーガスタ」は「ジャン・バール」が無力化されたと思い油断していたところ、
予想外の38cm砲弾を見舞われ、攻撃を中止し退却しているのですが、
アメリカ側の「マサチューセッツ」記述にはそこに触れてはいません(笑) 

周りに説明がなく(撮り忘れただけかもしれません)何かわからず。
砲弾の頭部分だと思うのですが、それにしては破損部分が綺麗すぎるような。



模型も至る所に見られました。
こちら「マサチューセッツ」記念コーナーに展示されていたウォーターライン模型です。



先ほどのより本格的な「マサチューセッツ」模型。
向こうにいるのは東洋系の中学生二人でした。



造船所で建造中の「マサチューセッツ」。
1939年に起工し、進水は1941年9月。
これは進水式を済ませて艤装の段階に入っているのではないかと思われます。
就役は1942年の5月12日となります。



彼女は就役した年の10月24日にメイン州カスコ湾を出港、
4日後に北アフリカ侵攻作戦に参加しました。
そのわずか10日後、カサブランカ沖でフランス軍艦「ジャン・バール」の
砲撃を受け、これに応戦して放ったのが、アメリカ軍艦として
最初に敵に向かって撃たれた砲弾となったのです。



はいそうでしたね。(投げやり)

「マサチューセッツ」はフランスと停船した後、一旦帰国して
そのあとは太平洋戦線に向かうための準備を行いました。

沖縄を筆頭に日本への直接攻撃を行うようになったのは
1945年には入ってからのことになります。



そしてあっという間に戦争は終わりました。

「WAR OVER」とあえて「IS」をなくしてドラマチックな効果をねらっていますが、
もちろん「War Is Over」が「戦争は終わった」であり、 
こういう時に使うのが正しい「War Is Over」の用法です。

わかりましたか?共産党下部組織シールズの皆さん。(あ、もう解散したのか)



「一旦交戦にいたれば激しい攻撃によって敵を掃討する。
それが我々にとっての栄光の全てだ」

うーん、かっこいいっすね(適当)

初代艦長ホワイティング大佐がカサブランカでの戦いの前に
「マサチューセッツ」乗組員全員に訓示したときのお言葉。

写真が撮られたのは1974年、「ビッグ・マミー」艦上です。
ホワイティング艦長はその後提督にまでなりました。



「ファーザー・ジョーみたいないい人には会ったことがない」

と「マサチューセッツ」では言われていたという従軍牧師。
こうやって写真が残されているくらいですから、よっぽどいい人だったのでしょう。(適当)



売店の倉庫だったと思います。
棚にはスナック菓子ばかり。



しかも当時の在庫がおそらく中に商品が入ったまま保存されています。
「リーズ」は今でもこのままのパッケージで売られていますし、
「ミルク・ダッズ」もまだあります。 

「 Oh Henry! 」はどう見ても「O・ヘンリー」のもじりだと思うのですが、
今ではネスレに吸収されて商品自体は無くなっているようです。 


「ペイデイ(給料日)」というのはどういう位置付けのバーでしょうね。
「給料日に買い込む」という感じでしょうか。



大変写真に撮りにくい透明ケースに囲まれていたテレグラフ。
「エンジンオーダーテレグラフ」(E.O.T)といい、艦橋から
船の変速の命令を出す(と書いてあるのでたぶん)ものです。

エンジンルームでは変速の際ベルが鳴りそれを知らせました。
その合図のベルが鳴ると、機関室では自分たちのEOTを命令と同じ速度に合わせます。

そのことから、彼らはこの命令のことを「ベル」と呼びました。
電子レンジにかけることを「チーンする」というのと同じノリですね。

たとえば命令が「flank」(最速のこと?)だとすると、彼らは
「Flank Bell がきたぞ」、などというわけです。
速度を増せ、という命令がきたら、ハンドルを三回動かすのですが、
このときにベルも三回鳴ることになります。
その結果プロペラがその分回転を増すわけですから、騒音もものすごいことになります。
敵に艦位を悟られるため、敵のいる海域では「フランクベル」は鳴らされませんでした。

この方式が使用されていたのはせいぜい1950年までで、現在のEOTは
電化、無線化、IT化されています。



説明なしにどーんと展示されていた舵輪。
まるで大航海時代の帆船の舵輪のようです。
(が、たぶん違うんだろうな)



この夏、見学した他の艦艇でも見た「ウィッシング・ウィル」。
wishing well 「よくなることを願う」に引っ掛けて、昔から
井戸に願い事をするという風習が英語圏にはあります。
井戸が命をつなぐ神聖な水の溜まり場である、ということもあるのですが、
なぜか軍艦の中で水もないのにこれをやってしまうのがアメリカ人。



おそらく昔はチェーンを吊るすのが目的のハッチだったと思うのですが、
それがセカンドデッキから底まで一直線、ということもあって、



このように公開しついでにお願い事をしてください、というわけ。
お金を放り込むようにしているのも、資金集めの一手段だと見た。



さて、少し前コメント欄で少し触れたのですが、
アメリカ海軍ではハッチやドアのレバーのことを「ドッグ」といいます。

子供向けに書かれているらしいこの説明書ですが、
ハッチやドアのレバーの名称について

「ある動物と同じ名前を持っていますが、なんでしょうか」

と、子供にもわかるように絵を描いた上で質問をしております。
答えは当然「ドッグ」なのですが、問題はその理由です。

こういう名称にありがちなのですが、伝わる理由はいくつかあり、

「ドアをこのレバーで締める仕組みが、犬が顎を閉じるのと同じだから」

「犬を飼うのはセキュリティのため、つまり犬=安全のため→レバーに”犬”」

 「レバーの形が犬の尻尾みたいだから」

うーん・・・全く説得力ありませんね。
どうでもいいことなので理由が分からなくなったと思われます。



戦艦には1800人以上の乗員が乗り組んでいるのですから、
その中には一人や二人、特別な技能に長けた者がいても不思議ではありません。
「ビッグ・マミー」にはウィリアム・キャンフィールドという「画伯」がいました。

彼が任務の合間に艦内生活を描いたスケッチを見る限り、素人にしてはうまい、
というレベルのような気がしないでもありませんが、ともかく
彼は司令官にその才能を認められて、司令部に「雇われ」、
作戦企画などの作成のためにその腕を振るったりしたそうです。 



海軍の発行している「艦隊雑誌」にそのことが書かれています。
戦後のキャンフィールド氏の写真を見ると、パイプをくわえた水兵は
自画像ではないのかというくらい似ていますね。

右下の写真は彼が上層部に雇われて仕事をしているところかと思われます。



ちょうどライトで光ってしまってタイトルが見えませんが、
「マサチューセッツ」を表すたくましい男性が「ファースト」「ラスト」
とかかれた砲弾をその腕に抱えています。

「ファースト」はカサブランカで「ジャン・バール」に撃ち込んだもの、
そして「ラスト」は終戦間近、日本で釜石に放った砲弾を意味しています。

乗員たちにとっても、あの戦争の最初と、そして最後に主砲が火を噴いたことを
不思議ではあるが大変名誉なことであったらしいことがわかります。

ちなみに、彼の後ろでは日本とドイツの艦船がビッグ・マミーの攻撃を受けて沈みかけ。
「ジャン・バール」はフランス海軍の艦船ですが、枢軸側だったため
フランスの旗ではなくあえてハーケンクロイツで表したようですね。



「艦これ」が世界最初に軍艦を女性に擬人化したコンテンツではありません。
昔から船は女性名詞で表されたため、とくに戦時中には自分の鑑を「萌化」して
あだ名をつけたり戯画を描いて楽しんだり、ということがとくにアメリカではありました。

というわけで、キャンフィールド絵師描くところの「ビッグマミーたん」。
アメリカ人の好みを反映して顔こそ日本のもののように童顔ではありませんが、
(これでは『たん』ではなく『さん』とか『さま』がぴったりくるような)
とにかく、首から下だけは体の線を強調した(というか、透けてるし)
セクシー路線のコスチュームに身を包んでいるあたり、コンセプトは同じ。

彼女が持っているのはショッピングカートではなく号笛、サイドパイプですが、
英語でこれを「Boatswaine whistle」といいます。
キャンフィールドが「Boatswaine's Mate 」、すなわち掌帆兵曹であったことと
この「アクセサリー」にはちょっと関係があるかもしれません。



「ビッグマミー」姉御、50歳になりました。
ということは、生れたのを進水式の時だとすると、1981年の作品ですか。

画像を検索してみると、どうもキャンフィールド2等兵曹は戦後
プロの画家(というか挿絵とか漫画の)になったようです。
その時には、艦内で余技で描いていた頃とは違いプロの絵になっています。
ちなみに彼女が首にかけているのはやはりサイドパイプで、
殊勲鑑として与えられた勲章を誇らしげにつけております。



説明がなかったのですが、これも他の媒体によるとキャンフィールドの作品だそうです。
プロになってから描かれたと思われるのですが、不思議なことに
画面の中心は帝国海軍の軍艦であり、火を噴きながらそこに突っ込んでいく戦闘機も
日の丸が翼に描かれているのです。

この状況をキャンフィールド画伯が本当に目撃したのか、それとも単に想像なのか、
なんの説明もなくただ飾られているだけの絵からは何も知る由がありません。

おそらくこれを飾った戦後の人々にもわからないのではないでしょうか。



続く。 

 

平成28年度富士総合火力演習〜「状況開始!」

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さて、総合火力演習、いよいよ後段演習が始まります。
後段演習は島嶼部奪回のための各種統合作戦の様相が実地されます。

まずは島嶼部に侵攻してくる敵を、水際で掃討する作戦からです。



会場にはすでに各種装備が待機しています。
中距離地対空ミサイル、通称中SAM。
中SAMが攻撃する目標は航空機ですが、スクリーンによる映像のみの紹介です。

12式地対艦誘導弾、通称ヒトニSSM、
このほかMLRS(多連装ロケットシステム)などもおります。

そして、これも全く見えませんでしたが、雲の上を通過するF2戦闘機の音がしました。
 

 

偵察部隊のP23レーダーは想定による沿岸部の開始を始めております。



状況開始がオーロラビジョンに映し出され、ラッパが鳴り響きます。

ドソド〜〜〜
ドッドドドッドミッミミミッミドッドドソッソソドミドソドー
(移動ド)

聞きなれない人は前半だけで「正露丸」と言ってしまいます。

まず、P3Cが偵察のため飛来しました。
んが、雲の上を飛行している気配だけで終わりました(笑)
比較的晴れた25日でさえそうだったのですから、27、28日など
果たして本当に来ていたのかさえも謎です。

とにかくP3Cと捜索標定レーダー装置の捜索によって、
敵艦船が沿岸部に近づいているらしいことがわかりました。

12SSMなどは海上の敵艦船を撃破するミサイルを撃ちます。
(という設定)。


 
中SAMの撃破をかいくぐった敵艦船が沿岸部に接近してきました。
中距離多目的誘導弾が、敵の舟艇を撃破します。



この発射は写真が撮りやすいので大好き(笑)

MMPMとはMiddle range Multi-Purpose missile
のことで、中距離多目的誘導弾は直訳です。



ミサイルは直径 約14cm、全長 約1.4m。
重量は約26kgとなっています。



目標がちゃんと船の形をしていたのにストリームで初めて気づきました。



ここでさらに攻撃を免れ上陸してきた敵に対し、
待機していたF2戦闘機が対地攻撃を行いました。

雲の上を通過したため姿が見えなかったF2ですが、
ここで初めて皆やっぱりいたんだーと知ったのでした(笑)

 LJDAM(レーザー・ジェイダム)は無誘導の弾薬に精密誘導能力を付加する装置です。
別の場所からこれを目標に照射することで、F2の精密爆撃が可能になります。



それにもかかわらず2段山、3段山に進出してきた敵。
観測ヘリOH-6が偵察にやってきました。



前方赤外線監視装置を搭載しているので、
夜間、あるいは熱源に対する観察も可能です。



いかに軽快な駆動性を持っているかを誇示するように・・・。



そういえばこの日はニンジャ OH-1の姿を見ませんでした。
その分張り切って飛んでいるような印象です。



斥候班のオート隊がヒューイに乗ってやってきました。
バイクが降りられるように板をかけます。



ストリームではヒューイから降りる寸前のオート隊員が映されました。
これは・・・・狭い。



2台のオートバイが降りてきました。

 

ストリーム映像。
別撮りしたものですね。



援護のためのアパッチが到着し制圧射撃を行います。



そこにやってきたUH60(愛称ロクマル)とチヌーク。



ロクマルからはリペリング降下のためのロープが下されました。



このときヘリ内部がどうなっているかというと・・・。



ハッチの両側に2名ずつ背中を外に向けて降下用意。
手前の人が両手を下に下げるのが降下の合図です。



リペリング降下開始。



4人が全く同じ速さであっという間に地面に降り立ちます。



しゅたっ。

ヒーロー戦隊もののオープニングみたいなポーズも決めっ決め。



チヌークからも偵察隊員が降下してきました。
こちらはカラビナを使わない降下方法を行っています。 



これだと地面に降りてから金具を外す手間がいりません。
彼らは前進しながら要点を確保し中隊主力の援護を行います。



先遣小隊が降下した後、輸送してきたヘリはいち早く離脱。


 
一列で要点を確保するため山道に入って行ってしまいました。



アパッチが援護射撃をする中、もう1機のチヌークからは車両が降りてきました。
まず銃を持った一人が降りてきて周りを警戒しています。
車が車両を降りるとき、皆一応頭をかがめています。



敵方向に銃を向けて警戒しながら戦闘に加入。



ここでこの展開に必要な各種装備のご紹介。
ご存知LCACですが、こうしてみると大きいんですね。
海の上をひた走っているのを見ただけではもっと小さいように思えました。



MCV。
16式機動戦闘車マニューバコンバットヴィークル。

今年の末に一部師団に配備されるそうですから、もしかしたら
来年の総火演ではこれが見られるかもしれませんね。



MV22、オスプレイ。
こちらは2017年から配備される予定です。



水陸両用車、通称 AAV7。
平成27年に30台配備されています。
この日の装備展示では初めて姿を拝むことができましたよ。

さて、このあたりから演習は「陣地奪回」に移りました。
これだけいろいろ防いだのに、敵の侵入を許し、島の一部を
占領されてしまったのです。



そこでまず強行偵察なるものを行います。
偵察と言いながら相手がどれくらい反撃してくるかを試すのです。

オート隊の敵情報告が小隊に行われると、小隊は攻撃による
敵情解明を試みます。



87式偵察警戒車RCVの射撃部隊が急襲射撃を行い様子を見ます。



そこでオート班は射撃によって起きた混乱状態を偵察。



敵の防御ラインを見極めた後は、特科火砲による攻撃準備射撃が行われ、
味方の攻撃前進を容易にします。

その後、74戦車が登場。

これも聞いた話ですが、本日出演の74戦車部隊は北海道から来ているそうです。
戦車は輸送するわけにいかないので人間だけが来たそうですが。

74式は敵陣ラインに現れた敵戦車を攻撃するという設定です。



撃!

相変わらず射撃のタイミングがよく分からない74式でしたが、
本日の会心の二撃目が撮れました。



2班に分かれた74式戦車が交代に射撃を行います。



こちらもまったく予告なしでしたがなんとか撮れました。

さて、これからは富士教導団がいろいろと撃ちまくって相手のライフをゼロにするわけです。


続く。







平成28年度富士総合火力演習〜「状況、終わり」

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後段演習、76式戦車が攻撃をしたところで、次は施設小隊の出番です。
地雷などの障害を処理する施設小隊を援護するため、特科部隊が発煙弾を撃ちます。



細い筋を長く引く独特な煙跡の発煙弾です。
煙はすぐに広がってあたり一帯を白煙で包み込みます。



制圧射撃を76式戦車が行ったあとはお待ちかね?
地雷原処理弾の発射が行われます。

準備の間にも76式はもう一発2台で一緒に制圧射撃を行います。
砲撃のあと、まだ次に打つ場合は

「命中、撃ち方、待てっ!」

と号令があります。



地雷原処理車のいるところは客席からはあまり見えません。
装備の正式名は92式地雷原処理車。略称MCV。
指向性散弾とともにこれも施設科が扱う武器です。

車体の上に2連装の92式地雷原処理用ロケット弾の発射装置が装備され、
その名の通り地雷を爆破処理して侵攻する道を啓開します。

まずは、爆薬を牽引するロケット弾が発射されます。



空中でしばらく黒煙を吐きながら飛翔します。



数珠繋ぎになった爆薬がミサイルの後部から出てきました。
左手に見える白いものがパラシュートのようです。



わかりにくいのでストリームをキャプチャしてみました。
確かに小さなパラシュートが開いています。



爆薬ひとつひとつは小さいのですが、ものすごい効果。
ブロックは26個連結されていますが、総火演ではいつも4分の1に爆薬を減らして行います。

26の4分の1?

と割り切れないので不思議に思って引き出される爆薬の数を映像で数えたら、
やっぱり26くらいあるんですね。

つまりひとつひとつの爆薬の大きさを4分の1に減らしているのでしょう。



特科部隊の前進支援射撃を受けてヒトマル式戦車小隊が攻撃。
目標は敵陣地に現れた敵戦車です。
4台が一斉に一点を撃破。

戦車対戦車の場合、逃げ足の速いヒトマル式は、相手より早く
先んじて攻撃をしなければなりません。



撃つとすぐに後退し、急停止して向きを変えます。



会場右手に4台が揃って移動中。
砲塔はぴたりと敵の側に向いたまま。



そこでFV小隊の前進を援護するため74式戦車が射撃。



FV小隊もここにきて戦闘に参加。
96式の射撃は3発続けてドンドンドン!と発射されます。
そして敵を制圧後、陣地変換の際の援護を10式に依頼。



FV小隊を狙って現れた敵戦車に4台同時一撃!



FV小隊が移動中ももう一発。

4台のヒトマル戦車が狙って撃った部分は、斜面の形が跡形もなく
変わるくらい激しくえぐれてしまっています。



この後、87 AWが敵航空機を叩き落したり、FV小隊が装甲車に撃ちまくったり、
とにかく相手が反撃してこないのをいいことにやりたい放題。

驚くべき精度で的を撃ち抜く技術に皆があっけにとられているうちに
いよいよ後段演習はクライマックスへと・・・・。

しかし、こういうのを見ると、あらためて現代の戦闘行為というのは
ハイテクを駆使しつつも後ひとつのところで「腕」がものをいうものであり、
ヘリ部隊、オート部隊、狙撃隊、何一つとってもプロフェッショナルとしての
鍛錬に培われた技能なしでは何も始まらないと嫌でもわかるわけですよ。

憲法改正関係で何かと言うと徴兵制になる!と騒ぐ人たちは、

「現代の戦争は素人を集めてきてなんとかなるものではない」

といろんな人が口を酸っぱくして言っても聞こえないふりをしていますが、
ぜひ一度総火演を実際に見て、これらの装備の扱い一つとっても
行進ひとつできない素人がどこに参加する余地があるのか、
ぜひその辺をじっくりと考えてみてはいかがでしょうか。

まあそこまで考えられるような人間なら最初からパヨクなんてやってないか。



ここで特科火力(迫撃砲など)による突撃支援射撃が行われます。
突撃が可能かどうかは、いままでに味方が撃破した戦車の数から
戦車隊の隊長が判断し、命令を下します。

向こう側の90式戦車は、2台1組で山道を突入していきました。
そして「突撃成功」の知らせが・・・。



ここですべてのヘリ戦力も加え、戦果拡張のための攻撃を行います。
残存する敵を殲滅し、陣地を完全に奪回するのです。


ここで出される指令とは、

「戦車中隊、1中隊は2段山、2中隊は3段山を攻撃せよ」

「戦車教導隊、前へ!」



前方に一列になった戦車教導隊が、発煙弾を一斉に撃つ瞬間。



一番最初に破裂した発煙弾。
線香花火の先のようです。
よく見ると、周りに無数の小さな弾薬のようなものが浮遊しています。



空中にまず炸薬が破裂し、まるで花火のような閃光をともなう爆発が起こります。



実はこの発煙段発射が、総火演のクライマックスだったりするんですね。
新聞の総火演を報じる記事も、一枚だけなら圧倒的にこのシーンです。



たまやー。

実は、この発煙段の種類がなんなのか知ろうとして、
どういうわけか白リン弾のページに行き着いてしまいました。
尾をひく様子が少しこの発煙弾に似ていたからです。

ガザ地区に落とされたこの爆弾について、ここでは書きませんが、
ナイアガラ花火のような美しさは一緒でも、こちらは大変非人道的な爆弾です。

ガザ地区に多く住むという子供たちが爆撃の犠牲になった、などという
ニュースを読むと、まるで花火のように射撃訓練をを見て楽しんでいる
この日本という国はなんと平和な国家なのだろうと改めて思います。



発煙弾の火花は一瞬で消え、弾幕となって前方を覆い隠しました。



左方から列を組んで進行していくヘリ部隊と地上部隊。
会場からはこのフィナーレに向かって大喜びで観衆が拍手を送ります。



「状況、終わり!」

ソードソード ミードミード ソミドミドソドー
ソードソード ミードミード ソミドミドソドー
(移動ド)

この花火(じゃないけど)とヘリ部隊の飛行を見ると、
ああ今年も夏が終わったなあと思う人もおられるのでしょうか。
わたしはどちらかというとまた日本に帰ってきたなあという感慨かな。


さて、この後は装備展示が行われました。
わたしはあまりにも暑くてかなりこの時間には眠いのもあって
立ち上がるのもしばらくは億劫だったので、スタンドから
この光景を眺めることにしました。


続く。




平成28年度富士総合火力演習〜装備展示と”陸自娘(りくむす)”

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実弾ではなく発煙弾を大量に発射して空中に弾幕を作る、
という実に日本国自衛隊らしいフィナーレを迎え、
今年も無事に終了した富士総合火力演習です。



煙幕がまだ色濃く残る中、終わったら一目散に出口に向かい、
少しでもバスに早く並ぼうとする観客もたくさんいますが、
約半数はこのあとの装備展示を待ってフィールドに出るつもりです。

わたしたち一行はこのあと一度御殿場まで戻り、各自の車で
夜間演習にも参加することになっていたので、急ぐ必要はありません。



戦車小隊が右手に向かって退場していきます。
10式戦車の上から観客に向かって笑顔で手を振る隊員たちに、
観客の多くが手を振って見送ります。



90式戦車の操縦席から顔を出している隊員も笑顔。
戦車も普通の自動車同様、アクセル・ブレーキ・クラッチで操縦するそうですが、
こうやって顔を出している時にはやっぱり立ってるってことなんですか?

戦闘中は顔を出せないので、カメラで間接視認を行うわけですが、
そうでない時はやはりこうやって直接外を見た方が運転しやすいし、
なんといっても外気に触れて気分もいいんだろうなとお察しします。

みんなに顔を見せて手も振れるしね。


 
手を振っているのは写真に見る限りほぼ全員男性でした。
やっぱり戦車は男子の憧れ!なんですね。



戦車砲塔には12.7mm重機関銃M2が装備されています。
両手を振っている隊員さんはこれを撃つ、つまり左目で照準を覗くため、
迷彩メイクを顔の右半分だけにしているのかもしれません。 



さて、すっかり煙幕も晴れたフィールドには、展示装備が
ヘリコプターから順番に並べられます。

まず一番最初にやってきたのがチヌーク、CH-47。



本日の訓練では偵察隊の降下、そして車両の運搬、
120mm迫撃砲の牽引などを支援しました。



主に味方の前進を支援する攻撃で活躍、武装ヘリアパッチ。



迫撃砲部隊を降下させたり、オート隊をバイクごと運んだり、
多用途ヘリというだけあって色々と大活躍のロクマル UH-60。



正面から見るとうっすーい戦闘ヘリAH-1コブラ。
対戦車ミサイルTOWの射撃では会場を沸かせました。 

航空祭などではちゃんとお辞儀もしてくれたりします。



ロクマルの向こうに降りて切るのは観測ヘリOH-6。
アメリカ軍ではカイユースと呼ばれていますが、見た通りの
フライングエッグという愛称もあるそうです。 

今年はOH-1ニンジャの総火演参加はありませんでした。
観測ヘリがかぶらないように配慮したんでしょうか。



ヘリが全て着地してからは装甲車など。
まずは87式偵察警戒車。

装甲車両に火力が備わっているので、本日も行われた
強行偵察(小手調べというか、攻撃してみてその反撃から
敵情を知る)が可能な、頼もしい偵察車です。 



あれ・・・・?
こんな装備、今日登場したかしら、と頭で考えるより早く、

「これは今まで見たことのない装備、すなわち最新式車両だ!」

と気づいてしまった わ・た・し。
思えば遠くに来たものでございます。

16式機動戦闘車( Maneuver Combat Vehicle, MCV) 

は、今年制式になったばかりで、まだこの総火演では
ただの機動戦闘車(試作)とされていました。



スペックもサイズしか書かれていないという・・・。



ノーズ(っていうんでしょうか)に書かれた桜のマークと
「富校一機」の文字もまだ真新しく。

履帯ではなく(キャタピラという言葉は商品名なので使わないそうです)
タイヤを履いているものの、砲のサイズが大きく、そのため
正式にではないけれど「装輪戦車」と呼ばれることもあるそうです。
実際にもその火力は74式と同等であるとか。

装輪であるための弱点(重量に耐えられないとか)はありますが、
逆に機甲師団や教育機関のある本土以外の四国や九州にも
配備することができるという利点を期待されています。

今年2016年の初頭に、防衛省はこの装備の名称を、
16式機動戦闘車とすることは決定しましたが、事実上はまだ
制定されていないので、ここでの紹介も単に「機動戦闘車」となっています。

早ければ今年の陸自観閲式でお披露目が行われ、来年の降下始めあたりに
機動戦闘車の実弾演習が公開されることになるかもしれません。



そしてまたしても”見たことないセンサー”が鳴り響き、
乗員すらガイジンさんであるという不思議なシェイプの車両が来ました。





こちらも看板には「水陸両用車」と書いてあるだけ。

正式にはAAV7、

Assault Amphibious Vehicle,personnel.model7
水陸両用強襲輸送車7型 

です。
アメリカ軍は海兵隊に装備されているので、乗って入る外人さんたちは
マリンコーアの方々であるということになります。

なんだかいっぱい乗っていますが、実際に操縦する乗員は3名。
基本兵員輸送用で、25人を運ぶことができるというので、
展示用にちょっと多めに乗せてみました、ということかもしれません。

こんな重そうな履帯があるのに水上滑走できてしまうという、
実に不思議な水陸両用車ですが、自衛隊がこれを配備することにしたのも
島嶼部防衛を強化させるため、つまり尖閣対策と言われています。

調達のあかつきには自衛隊内に創設される予定の

水陸機動団

に配備され、操縦するために必要な大型特殊免許と船舶免許
(やっぱりどっちも必要なんだ・・)を隊員に取得させて運用します。

水陸機動団に配備されるAAV7だけで52台になる見込みです。



なるほど、降りるときにはこうやって手をかけるのか_φ( ̄ー ̄ )
乗員たちが救命ベストをつけているのは水上用装備ですね。


さて、周りの人たちは装備が並べ終わった頃にはそわそわと、
カメラと荷物を手にフィールドに降りようとしておりましたが、
例年この装備展示がどのような状態になるのかよく知っているわたしは
近くに行っても人垣に囲まれて写真なんか撮れっこないし、
全体像の写真なら普通に上から撮ってしまったし、何よりも疲れて、
荷物を抱えて下まで行く気力を完全に無くしておりました。

そこで、

「わたしが荷物見てますから行ってきてください」

と申し出て、人垣のできた各装備品の混雑の有様を
荷物番をしながらぼーっと眺めておりました。

看板には英語と日本語で諸元説明がされています。


”水陸両用車として知られるこの装甲兵員輸送車は、
米海兵隊で1972年から運用され、世界10カ国で採用されています。
最近、日本の陸上自衛隊も本車両を採用することとなりました。

AAVは専用船から直接海上に進出し、
海岸部へ迅速に上陸し、戦闘を支援します。”


そして下の諸元表によると、水上での最高時速13.2km。
航続距離は水上で7時間。
7時間すぎたら後は動かなくなって漂うだけになってしまうのか。

走破性能は2.4mまでの塹壕とありますが、それぐらい掘っちゃうってこと?
また段差も91センチなら乗り越えるそうです。
91センチの段差を乗り越えているとき中の人がどうなるのか知りたい。


ところでマリンコさんたち、看板をこのために手作りして、
わざわざAAV7で運んできたんですね。



うーん、なんかすごくかっこよくないか?
疲れた体に鞭打っても下に行って近くで写真撮らせて貰えば良かった。



ところで、先日のニュースによると、アメリカ軍が尖閣付近に
強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」を投入したらしいですね。

明らかにこれは同海域に最近大挙して武装警備船や漁船を送り込んでいる
中国に圧力をかけるのが狙いだったと思われます。

「ボノム・リシャール」は世界最大級の強襲揚陸艦。
強襲輸送ヘリ、ハリアーII、オスプレイ、エルキャックを搭載し、
約2000人の海兵隊員を一気に揚陸させることができます。

8月に入ってから中国は、尖閣の接続水域や領海に公船や民兵の乗った
漁船を侵入させ、すわ、上陸かという緊張状態にありましたが、
「ボノム・リシャール」の出動の情報が流れた途端、漁船の大半が
姿を消した、という情報も流れてきていたそうです。

いろんなしがらみゆえ、がんじがらめで動けない自衛隊の代わりに
アメリカ軍がこうやって遊弋してくれたのは、決して日本のためだけではなく、
あくまでもこの地における米軍プレゼンスの誇示であろうと思いますが、
それでもこれだけ明らかな抑止効果があるのを見てしまうと、
やはり日本がまともな国になるまでは、アメリカと緊密に連携するしかない、
という現実を改めて思い知らされる気がします。

(そして反米軍、反基地勢力の陰では中共が糸を引いている、
という例の噂も真実味を帯びて聞こえますね)

とにかく、自衛隊が島嶼部奪回を仮定して部隊や装備を増強しても、
相手が何かしてくるまで指一本動かすことができないという事情がある以上、
抑止効果を高めつつ、アメリカとは仲良くしておかないといかん。

と思ったニュースでした。




さて、ところで、本日のパンフレットに、当ブログとしては看過できない
こんなゲームの宣伝を見つけてしまいましたのでご報告します。



彼女らを艦これの「かんむす」風に「陸自娘」で「りくむす」と呼びます。
木更津若菜とか市ヶ谷愛というのは「駐屯地の擬人化」で駐屯地娘、
装備の方たちは武器娘というそうで・・・。

りっく☆じあ~す 公式 プロモーション ムービー



いや、やっぱり日本って平和だわ(笑)


続く。

 


平成28年度富士総合火力演習〜120mm迫撃砲の落とし込み

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というわけで、撮った写真を追いながら最後まで総火演の
プログラムを追っていったわけですが、わたしにはまだ
もう少しご報告することがあります。

最初にもお伝えした通り、今回の総火演、わたしは
25日と27日に参加しました。
25日は晴天で、さらには同行したのが自衛隊を撮り続けて
この道10年以上、みたいな人のグループだったため、
3時半に御殿場集合という過酷なスケジュールとはいえ、
写真をとるには絶好の場所を確保することができたのです。

しかし、27日は全くの単独行動であったうえ、色々と読み違えて
写真をとるには最悪のポイントに座ってしまいました。

念のために書いておきますと、これでも駐車場(鏡原)に着いたのが
朝5時半だったのですが、駐車場にはすでにかなりの列ができていました。
もしかしたらこちらも前夜から車で来て、一人を会場で並ばせ、
車で夜明かししたという人がいたのかもしれません。

そこまで熱心に早く会場に行きたがる人がいるというのも驚きでしたが、
もっと驚いたのは、早く会場に着いたからといって
必ずしもいい席に座れるとは限らない、という事実でした。



シート席というのは陸上自衛隊施設科の恐るべき施工力によって、
なだらかなスロープが形造られており、後ろに座ってもフィールドは
ある程度見えるように設計されています。

しかし前列というのはフィールドと同じ高さであるうえ、
ちょうど目の高さに黄色いロープが貼られていて、それが
写真を撮るときいやでも写り込んでしまうのです。

前列に陣取って、しょっちゅう半腰になって撮っている人もいましたが、
後ろの迷惑になるのでまともな神経ではできることではありません。

わたしはすぐさま全てを撮るのをあきらめ、望遠で
この位置から撮れるものだけ撮るという方向にシフトしました。

この日は小雨がぱらつく曇天だったのも諦めた原因の一つです。



というわけで、今日はこの日の写真を淡々とご紹介。
まず、右手稜線の74式戦車。



90式戦車の砲塔。
思わず二度見してしまいますが・・・・、



実は車長の向こうにこんなポーズの人がいたのでした(笑)



96式装輪装甲車の射撃が+の中央に炸裂した瞬間。
周りには白く細い煙がたくさん散らばっています。



狙撃手二人と観測手のチーム。
ゴルゴの横顔が見えたのでシャッターを切りました。
ちなみにこのギリースーツ、コネチカットでは38ドルで買えます。



しかしこのスーツ、降下始めで見たものとあきらかに色とか、
もふもふ具合が違いますね。
「夏用」「冬用」が別にあるみたいです。

右のもふもふが持っている機械は距離測定器かなんかでしょうか。



さて、戦車火砲の類の写真をすっぱり諦めたわたし、
自分の位置から撮れるものを撮る、と決めたときに注目したのは
120mm迫撃砲の射撃でした。

今までいたどの場所よりも距離的に近く、撮りやすかったのです。
この日のテーマは12迫、といいきってもいいくらいです(笑)

ちなみにこのときには80mm砲も同じ射列で撃ちましたが、
前の人(前から2列目に座った)の頭の関係でこちらはあきらめました。

砲をセットし終わったら、副砲手がなんと中を覗き込んで点検。
なんか入り込んでたりゴミが詰まってないか確かめてるんですね。



こちらその隣の砲の落とし込みの瞬間。
何枚ものこの瞬間の写真を見る限り、全員が口を開けています。
どうも掛け声をかけながら行うようです。

二人の弾薬手は、耳を抑える人もいれば抑えない人も。



発砲の瞬間、筒の後方から煙が噴き出るのが写っています。



こちらの副砲手は落とし込みの時に小指立てる派。

これを行う者は防弾チョッキを着用すると決まっているようです。
暴発などの可能性を考慮しているのでしょう。



この副砲手の落とし込み動作はよっぽど素早いらしく、
手を離してから体を落とす途中経過が全く写っていませんでした。

十字形に炸薬が破裂した瞬間。



今回の12迫撮影で最もいい瞬間を捉えたのがこれでしたが、
黄色いロープと前の人の影が写り込んでこのありさま。



こちら小指を立てる隊員さんの砲。



砲の下にトレイのようなものが設置してありますが、
発砲の際に起きる後方への爆風を受け止めるためと判明。



きのこ状の炎が!



これ、周りにいる人には瞬間とはいえかなり熱波も来てそう・・。



砲弾が筒から飛び出すその瞬間。
周りの空気が歪んでいます。



特科火砲の実演に現れた155mm自走榴弾砲の射撃手。



というわけで、リハーサルはここまでです。
設営隊が射撃目標の整備を行っています。



狙撃を行った台で何か(多分薬莢)を拾っているらしい。



手に手に回収したものを入れる袋を持って一列で行進する施設科隊員。



音楽隊の演奏も一応近くで見られましたが、ロープと人の頭がご覧の通り。



「散水車と眼鏡を直す菊池隊員」←作品名



題「こちら危険物回収終了、異常なし」



この日はスタンドに名札も真新しげな若い隊員たちがいました。



題「自走砲上の漢(おとこ)たち」

砲を覗き込む役目の人は目の周りにメイクしません。



203mm自走榴弾砲の後部にあるショベルのようなものは、
地面に立てて発砲の際の衝撃を受け止めるためのものと思われ。



題「孤独の銃撃手」

ただ一人(実は左のほうに何人かいるけど)、
敵を見据えて銃を構える男の孤独を表現してみました。



題「戦友(とも)の背中は俺が撮る」



後ろでビデオカメラを構えている写真中隊の隊員。



題「砲の先のふうせん」



特科火砲の描く一直線の弾着跡はいかんせん近すぎてご覧の通り。
前に座ればいいというわけではでないことを痛感した瞬間。





題「俺についてこい!」



ヘリからリペリング降下して、チヌークから降ろされた
120mm迫撃砲のところに走っていく砲員たち。



そして本番。
メイクしていますがこの小指の立て方は紛れもなくさきほどの。



撃て!



弾薬が飛翔する。



やっぱり何か叫んでますね。



迫撃砲射撃終了。
車に砲の先をけん引させるために連結する作業は、
1分以内に終わってしまいます。




唯一25日より上手く撮れた気がする対戦車誘導弾の発射。



弾薬がほぼ静止して写っています。
シャッタースピードは1/500で前回は1/640だったのですが。



マルヒト式誘導弾は総火演では車上から発射されますが、
基本一人の射手が肩に担いで照準、射撃する個人携行式です。
 

というわけで、撮れなかったもののほうが多かった27日予行ですが、
あと一回だけ我慢してお付き合いください。
話題の「シン・ゴジラ」を観てきましたので、その感想とともに
お送りしたいと思います。

続く。


 

平成28年度富士総合火力演習〜映画「シン・ゴジラ」出演装備

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この日は午前中の小雨が予報でも言われていたため、
会場に来ていた人は皆雨具の用意をしていました。
途中で少しパラパラと雨が降り出した途端、周りの人たちが
キタキタ、と言って早々にレインポンチョなどを着込みだしました。

アメリカ人ならよほどの雨が降るまで傘は差さないので、
一瞬も濡れまいと皆が一斉に準備を始める様を見て、
ああ日本に帰ってきた、とあらためて実感したわたしです。

しかし、結局気配だけで午前中は天気は持ちこたえました。

一応Nikon純正のレインカバー(レンズのところをベルクロで留め、
手を中に差し入れるようにして透明の部分からファインダーを覗く)
を持ってきていたわたしもそそくさとバックパックから出したものの、
結局一度も使わないまま終わりました。

ところで冒頭のヒトマル式戦車射撃の瞬間は、25日の予行に撮ったのですが、
火炎の形が一番気に入っているので今日まで出し惜しみしていたものです。

さて、それでは続いて27日に撮ったもの、続きをどうぞ。



定位置に着かんとする96式装輪装甲車の車上。
今回写真を撮っていて案外眼鏡をかけた隊員が多いのに気付きました。

96式装輪装甲車は、機密性に優れているため、放射能汚染地域や
化学剤による汚染地域にも展開させることが可能です。

東日本大震災ではこのII型が災害派遣された実績があります。
II型には、最悪、原発職員が全員撤退するようなことになった時を想定し、
中央即応連隊がこれで救出作戦を行えるよう特別改造を施されていたそうです。

この際、放射能で汚染された原発施設に突入し、車両の上に人を乗せて脱出、
安全地域までそのまま運んで除染することができるように、
そのため踏み台、ロープ、落下防止の手すりが取り付けられ、拡声器も外付けしていました。
戦車部隊配備の車両もかき集め、数両がこの仕様に改造されたということです。

あのとき、政府が右往左往して手をこまねいて見ている中、
自衛隊ではこんなことまで想定して用意をしていたのです。(ここ伏線)



その96式が、96式40mm擲弾銃を2台で撃ち、
敵歩兵に見立てた黄色い風船が破裂したその瞬間。

この擲弾銃は、車上からも車内からも撃つことができます。



96式装輪装甲車は歩兵を10人まで運ぶことができます。
小銃小隊は下車して速やかに戦闘を展開できるというわけです。

というわけで、96式装輪装甲車が大変使える武器であることを知った
今回の総火演でした。



60からの偵察オート隊が降りてくる様子などは全く撮れませんでしたが、
飛行中のヘリコプターはまあ普通に撮ることができました。
武装ヘリアパッチの銃撃と・・・・、



弾薬が炸裂する瞬間。
アパッチの砲撃から出る煙はどういうわけか鮮やかなピンクです。



もう一つ、対戦車狙撃銃の爆発の瞬間。
中空の大きな火の玉の下地面には、無数の砂煙が上がっています。



ガンタンク、87AWにもこのように黄色いロープが入り込んできましたが、
この写真は2門の銃を手を挙げるのように空に向けており、
本来の自走式対空砲らしい動きをしていたので撮ってみました。

このあとの戦車の展示は、行われている場所が視線の高さで、
ほとんどが人の頭に遮られているか、見えても黄色いロープがあるかで、
もう撮る気もなくしてただ眺めていました。



戦車にはこのようにもれなく黄色いロープ付き。
これでは撮る気なくしますわ。



27日には行われなかったと書いてしまいましたが間違いでした。
この日はフリーフォール降下、雲の厚いのを圧(お)して行われました。

地上からヘリは全く見えませんでしたから降下員は雲の下が
どうなっているか全くわからないまま生身で飛び降りたということです。

これは・・・・きっと怖かったと思う。


さて、前段演習が終わり、後半が始まるという直前になって、
わたしは意を決して立ち上がり、会場を後にしました。
この場所で後段演習が前段よりまともに撮れるとは思えなかったし、
もうすぐ雨が降りそうな気がしたからです。



後段演習が始まっているのに外には結構な人がいました。
どうみても中東系の顔をしている軍人さんが自衛隊みやげを
物色していたので、つい写真を撮ってしまいました。


そして25日に食べそびれた富士山ケバブを食べながら帰ることにしました。
食べにくそうなので上に掛ける甘口ソースは無しで注文しました。
ソースがあった方が美味しかったと思いますが仕方ありません。



そして、こんな時だけ異常に当たるわたしのカンどおり、
ちょうどバスから停めてあった車に乗り込んだとたん、ポツポツと始まった
雨が、高速に向かう頃には激しく御殿場一帯に降り始めたのでした。


 

ところでいきなりですが、皆さん、映画「シン・ゴジラ」ご覧になりましたか?
わたしは観ました。

この日同行した撮り自さんの連絡メールに、

「今観てきましたが、自衛隊ファンなら是非お勧めしたい映画です」

とあったのですが、帰国後多忙でなかなか時間が取れず総火演を迎え、
現地に行ったらまたしてもここで同じ人に

「シン・ゴジラ見ましたか。行くべきですよあれは」

と熱烈にお勧めされてしまったばかりか、

「ここ(演習場)から自走砲がロケット砲撃って武蔵小杉まで届いてましたよ」

などという、思わず「なんですって!」と膝を乗り出してしまうような
その内容を聞き、矢も盾もたまらず、やっと時間を作って観てきたのです。

いやー、面白かったっす。

なんでもこの映画、「社会現象とも言ってもいいくらいの大ヒット中」。
思うに、作品のテーマを「日本対ゴジラ」とし、もしこんなことが起きたら
間違いなくこれ以上にグダグダになって収集つかなくなるにちがいない日本政府の、
予想範囲の混乱や総理の葛藤(笑)や対策委員会のありがちな錯綜、そして
らしくない内閣官房副長官(主人公・長谷川博巳)率いるオタクやはぐれものの
集まりである文科省・環境省の技術者集団のカオスな試行錯誤、
つまりそういう部分に焦点を当てたのが、案外成功だったって気がします。

ただ、これだけは確信するのですが、これは日本でしかウケないでしょう(笑)
現に現在のところ海外での評価は決して芳しくないとか。


わたしに言わせれば、そんなの当然です。

「自分が運命の決定者になることを好まない」指導者たちの逡巡、
後に引けない運命の中でいざとなると覚醒し力を発揮しだす人々、
そして、戦いに出る者を送り出す側の苦衷と痛切な感謝の思い。

こんな日本的心情がコアになった構成要素に加え、
何か起こったとき、全員が上から下まで、外敵に対してイケイケになるのが普通の
アメリカSF映画では決して顧みられない「戦いに至るまでのお役所仕事&手続き」、
しかも会議やら根回しやらを異常なくらいの比重で描いたこの映画は、
おそらくハリウッド映画のテンポを基準にする人々には全く退屈なものに違いありません。

加えて全員で右往左往するうちに、いつのまにか問題解決している、
集団になるとなぜか力を発揮するというのもよく言われる日本人らしさであり、
こういうことにカタルシスを感じる傾向もおそらく日本人に顕著だからです。


さて、この映画は防衛省自衛隊全面協力して制作されたため、
作品中で実施されるゴジラ打倒作戦については、スタッフが全て自衛隊と

「実際にゴジラが現れた場合、自衛隊はどのように対処するのか」

「ゴジラに対して武器の使用が認められるのか」

いったテーマでミーティングを繰り返し行い、脚本を書き、さらには
映像を得るため2015年の富士総合火力演習に参加して撮影を行ったそうです。


さて、最初の作戦「タバ作戦フェーズ1〜3」ですが、わたしの記憶によると
フェーズ1の最初の段階で登場するのはまず戦闘ヘリコブラでした。

コブラの銃撃程度では全く歯が立たず、続いてAH-64Dアパッチによる30mm弾、
それもダメで対戦車ヘリが河原に集結して攻撃。(いちいち総理の許可を得てから)
もちろんコブラのTOW攻撃もありまっせ。

その後、フェーズ2ではヒトマル式戦車がなぜか多摩川の河原を蛇行しつつ
攻撃したり、 富士演習場からM270 MLRSがロケット砲を撃ったりします。




これですね。

MLRSの射程距離はスペック上では30kmとなっています。
御殿場から新丸子橋までこれだと届かないわけですが、
弾体のセッティングを変えたら70kmくらいはなんとかなる、
とスタッフが自衛隊とのセッションから導き出し、
こういう設定にしたということでした。


25日の装備展示ではわたしは荷物番をしていたわけですが(笑)
このMLRSのところで、わたしにシン・ゴジラを勧めた人が、
装備の説明のために横に立っていた隊員に

「シン・ゴジラでこれここから撃ってましたねー」

と尋ねたんだそうです。
すると、あの映画に出ていたのがこの装備(つまりこの写真のもの)で、
その隊員さんがあの映画で装備を撃っていたご本人ということがわかりました。

そこでその人が隊員さんにもう映画を見たのかどうかときいたところ、

「まだです。今日帰りに観ます」

と言っていたとのことです。

この映画では、女性防衛大臣(余貴美子)が眼光鋭く
総理に自衛隊出動の決定を詰め寄るなどというシーンも見られます。

映画のエンドロールには、取材協力に元防衛大臣の
小池百合子東京都知事の名前がありましたから、
防衛大臣を女性にしたのは、小池氏の協力に対するオマージュかもしれません。
(ついでに震災時の官房副長官枝野幸男の名前があったけどこっちは知らん)


あくまでもゴジラは仮想の「想定外の国難」ですが、それが現実になったとき、
日本政府の対応はともかく(笑)、自衛隊はかく戦うであろう、
という映画上のこの想定「だけ」は、ほぼ間違いないことにわたしには思われました。

そして、例えば命令下達時の独特な発声も含め、自衛隊登場シーンは
細かなところまでかなりのリアリティを与えられています。
 

ところでリアリティといえば、これだけはどうしても書いておきたい。

大統領特使役の石原さとみがはっきり言っていろいろ酷すぎ。
だいたい祖母が日本人ってだけのクォーター、つまりアメリカ人が
あんなに日本語ぺらぺらでしかも英語が下手なわけなかろう?
二世ですら、アメリカ生まれならジョージ・タケイみたいになってしまうのよ?
日系三世ともなると、日本語が喋れる人の方が珍しいってくらいなのよ?

つい出てしまうらしい"Uh-huh."の短い発音ですら、
全くネイティブのセリフに聞こえなくて思わず苦笑してしまうレベルだったし、
おそらくアメリカ人には、彼女の言っていることより長谷川や竹野内の英語の方が
ちゃんと聞き取れたにちがいないってくらい酷い巻き舌。

ファンには悪いけど、発声も日本語のしゃべり方もウザすぎてイライラしたし、
だいたい日本人そのものの顔で「名門パターソン家の三代目」(意味不明)
とか、「親は上院議員」とか「40までに米国大統領になる」(爆笑)とか。

とてもじゃないけどそんな器には見えませんでしたわ。
人気の美人女優をヒロインにしたかった電通のごり押しなんでしょうが、
明らかにミスキャストだったと思いますね。

それから、もう一点。
劇中、官僚やら政治家が、「日本」「アメリカ」という言葉を使わないのよ。

「日本」のことはまるで規制でもかかっているように「この国」「この国」。
日本国の政治の中心にいる人たちが、まるで他人事みたいに「この国」。
誰か一人くらい「我が国」「日本」と言わないのか、と注意してたのですが。
これはとても違和感ありましたね。

それから「アメリカ」のこともなぜか全員が「米国」としか言っていませんでした。
文章で書くときはともかく、口語では普通に「アメリカ」っていいませんかね。


さて、批判はともかく、シン・ゴジラ、一緒に行った人が

「自衛隊ファンならば・・」

と書いていた意味が、観終わったあとよくわかりました。
ゴジラと戦う自衛隊はたとえ自衛隊ファンでなくとも
その頼もしさと誤解を恐れず言えばカッコよさに思わず胸が熱くなるでしょう。

海からくるゴジラを叩くのに海自の出番が少なすぎるという説もありますが、
これは空自が「F2が撃墜されるのは困る」と難色を示し
そのため出番が少なかったという噂から考えるに、海自もやはり同じように
「たかなみ」「いずも」が沈むのは困る、とか言ったからに違いありません。

むしろ、陸自の今回の出血大盤振る舞いぶりに(ネタバラしすると10式もやられる)
「何があった、陸自」と思わず聞いてみたくなります。

まあ、この映画、中国でも公開されたそうですし陸はともかく空海は色々と(略)


あと、個人的には、ピエール瀧のタバ作戦隊長がキマっていたことと、
統幕長の國村隼が長谷川に自衛隊出動の礼を言われて、

「礼は要りません。仕事ですから」

とさらっと答えるシーンなどにしびれました。



しかし、この戦いの中で多くの自衛隊員が犠牲になっていく姿も、
わたしたちはスクリーンで直視せねばなりません。
ある元海将が、退官後に新潮45に寄稿したエッセイで

「自衛隊を戦場に送り出す政府は、国民は、果たして(自衛官の)
『戦死』を受け入れる覚悟が本当にできているだろうか」

と、その「弔い方」を含めて投げかけておられた疑問を思い出さずにはいられない
この映画のラストシーンでした。





さあ、これで一応総火演の昼間についての見学記は終了したわけですが、
もう一つ、お伝えしたいことが残っています。
それはあまり一般の人が見る機会のない、夜間演習です。


続く。


 


 

平成28年度富士総合火力夜間演習〜暗視装置

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「明日の夜間演習のチケットが手に入ったのですが行きますか」

と25日の予行前日に、同行のメンバーからかかってきたお誘いの電話に
二つ返事で参加することを承諾したわたしです。

一般に公開されておらず、関係者と招待者だけが見学できるという夜間演習、
ついにこの目で見る日がやってきたのです。

「撮影されるなら三脚を忘れないでください」

「三脚なんか使っていいんですか」

「全員スタンド席なので大丈夫です」

そこでふと心配になったのは、カメラのバッテリーでした。
メインにしているNikon1はバッテリーを異常に喰うので有名で、
わたしは総火演であれば、必ず前段演習終了時に電池を取り替え、
装備や演習以外の撮影は電池を使わないRX100で行うことに決めているくらいです。

ただでさえ電池を消費しそうな夜間撮影、2つの電池で朝から撮り続け、
さらに夜の演習の最後まで撮ることができるのでしょうか。

「心配いりませんよ。夜間演習は30分で終わりますから」

あ、そうなの?
しかし、たった30分の演習をわざわざ一般に公開するとは・・・。



我々一行は昼間の演習が終わり、バスで御殿場まで戻ってから、
各自の車に乗ってファミレスで休憩をしました。

わたし以外は全員男性でしたが、皆さん見かけによらず甘党らしく、
パンケーキやらなんとかアラモードなどの可愛らしいものを食べておられました。
ここで隣に座っていた一団もどうやら「常連メンバー」だったらしく、
同行者の一人はあとで

「ファミレスの隣に”いつもの人”がいた」

などとおっしゃっていたのですが、おそらく向こうも
全く同じことを思っていたと思います。

かくいうわたしも、昨年の観艦式のとき、たしか「むらさめ」の甲板で
近くに座って超大型マグナムレンズで撮っていた同じ人をこの夜発見。
陸空海のイベントにどこにでも現れるコアな「撮り自」の人って、
もしかしたらいつも同じメンバーなのではないだろうかという気がしました。


さて、7時からの開演に先立ち、わたしたちは4時半に現場に到着しました。
夜の演習には送迎バスが出ないので、全員車での来場になりますが、
参加人数が少ないので、皆会場に近いところに駐めることができます。

昔は昼の総火演そのものがこんな感じで、官公庁などにいくとチケットが
窓脇に無造作に置いてあり、行きたい人(ものずき)が取っていくというもので、
本番であっても会場が全部埋まることなどなかったとこのとき聞きましたが、
なんだか信じられない話ですね。




現地ではこの日の朝のように、スタンドの外壁に沿って並びだして
ほとんどすぐ開場になり、中に入ることができたのでホッとしました。

スタンドに入ると最上段から順番に座らされるのですが、一応案内係も
”あいだを空けずにお座りください”というものの、昼よりは規制も緩い感じでした。



わたしは最上段の、前に席がないスタンドに座ることができました。
まあ、夜間演習なんて見るのも写真を撮るのも、こんな場所であっても
なんの関係もないということが後でわかるのですが(笑)


 
スタンドの最上段に立って開場の外側を見るとこんな景色。
昼間人でごった返していた同じ場所とは思えません。
食べ物を売っている店は一軒も開けていませんでした。

去年はこの右側のスペースに停めることができたそうですが、
なんの事情なのか、駐車場が遠くなったようです。
こちらの参加人数も増えているということなんでしょうか。



地面に敷かれたシートは迷彩柄のOD色なので、こうやってみると
まるで山間部に広がる水田のような眺めです。
最前列は報道とカメラのために確保されている模様。



日が沈む前で雲の合間からはときどき光が落ちてきます。
わたしは夜の部の参加のために着替えを持ってきており、
ファミレスで着替えてそのときに昼間の汗を濡れタオルで拭い、
実にさっぱりと爽やかな気分でこの場に座っておりました。

山間部の気候なので、日が傾くとすでに涼しくなりかけており、
この頃には冷たい風も時折吹くようになっていました。



やってくる人々も、気のせいか昼間のような殺気だった雰囲気もなく、
のんびりとしてまるで花火大会の始まりを待つような様子です。



そうこうしているうちにリハーサルが始まりました。



74式戦車と89式装甲戦闘車が現れ。



コブラも出てきてこんにちは。
夕焼けの逆光で叙情的なコブラが撮れました。



FV小隊が一線に並び、砲を目標地域に据えました。
まずコブラが試射を行います。



この日初めての照明弾と照明弾による攻撃。
上からひよひよと落ちてきているのが照明弾で、
さらに攻撃側は暗視装置を使って正確な攻撃を試みます。



照明弾というのは「candela」という単位でその明るさを表します。
こう見えて結構明るくなる、というか攻撃には十分な明るさなのです。

照明弾が落ちてくる様子は実に趣のあるもので、わたしなど
今年は行き損ねた大曲の花火大会の「昼花火」を思い出しました。



このあたりは自衛隊の人たち(もしかしたら賓客も)の席?



カメラマンの人たちもお互いの距離を十分に保てて撮りやすそうです。
自衛隊の写真中隊もここで撮影を行っていますね。



AH-1Sコブラの中には、C-NITE(コブラナイト)と呼ばれる
夜間行動能力向上型があるそうですが、おそらくこれもその一つでしょう。

機体の上下のワイヤーカッター、およびコクピット前にレーダージャマー送信アンテナ、
ローター下の受信アンテナが付いているのがC-NITEだそうですが、
上のコブラの写真をみると鼻先にポチッと何かがあるので、
これがレーダージャマー送信アンテナだと思われます。



90式戦車が射撃。
この頃、わたしは本番のために電池を温存する必要があったので
全てをデジカメで撮っておりました。



まだ明るいときには照明弾の効果はよくわかりません。

攻撃には暗視装置が使われますが、自然界に存在する微光を
増幅して視界を得る微光暗視装置と、赤外線装置があります。




スクリーンでは暗視装置の紹介が行われました。
75式照準用微光式暗視装置です。



69式暗視双眼鏡は微光式、偵察用。



微光暗視方式、偵察用個人携帯である暗視装置V3。
車の運転のときにも使われます。



赤外線方式の暗視装置V7。
離れた位置から観測ができます。


 
鉄帽に装着して使用する微光式個人携帯用の暗視装置V8。 



01(マルヒト)式軽対戦車誘導弾よう暗視装置は赤外線方式で、
発射機に取り付けて使用するタイプ。



82式対戦車誘導弾よう暗視装置も赤外線方式。
レーザー照射器に取り付けて使用します。



戦車・装甲車にも暗視装置が付いています。
89式装甲戦闘車に搭載された暗視装置は夜間において
広い地域の監視、攻撃が可能になります。
赤外線方式です。



90式戦車の暗視装置は夜間においても目標を補足するだけでなく、
赤外線ん方式で移動する目標を自動的に追尾して攻撃ができます。



74式戦車の暗視装置は、赤外線を対象に照射するタイプもあります。



夜間における野戦、つまり夜戦が今ではこういった装置のおかげで
完璧に可能となったということなんですね。


続く。





 

平成28年度富士総合火力夜間演習〜弾幕−破砕射撃

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平成28年度自衛隊総火演、夜間演習の続きです。
夜間演習の予行演習の間は、まだ日が落ちていませんでした。



前回74式搭載の暗視装置をご紹介しましたが、まだ明るいこの時点で
リハーサルに暗視装置は使われていなかったと思われます。



90式戦車しかり。
このときには普通に目標を射撃していたのではなかったでしょうか。



ちょうどこの頃日が沈みました。



フィールドを歩いている隊員たちがシルエットになっています。



暗視装置について前回紹介しましたが、夜間演習で活躍する装備には
標定装置というものもあります。

射弾の判定、観測などをし、修正を行う装置のことですが、

対迫レーダー装置(迫撃砲)

対砲レーダー装置(特科部隊)

そのほか、小型の火光標程器などがこれに使われます。
暗視装置で撃っても別に当たったかどうかを確認する必要があるからですね。



真っ暗な中暗視装置で射撃を行って、わたしたちに見えるのは
ただこのような弾道だけということになります。
決して花火大会のような派手な見せものを期待してはいけません。
(というのもわたしは終わってから知ったことなのですが)



これは演習の一番最後に行われる攻撃のリハーサルだと思われます。

というわけで、この後7時30分の開始まで、わたしたちは現場で
何をするでもなく冷えていく空気を楽しみながら待ちました。
同じ待つのでも炎天下や雨の中と違って、快適なので苦になりません。

わたしはこのとき周りの人にどんな風に写真を撮ったらいいのか
相談をしていたのですが、わたし程度のカメラ知識では
設定をバルブにしたところで、きれいに撮ることなど到底望めないことが
なんとなくわかってきたので、いさぎよく周りに

「写真は諦めて全編動画で行きます!」

と宣言しました。
動画を撮りながらでもシャッターを押すことができるし、
それが失敗でもあとからキャプチャすればいいと開き直ったのです。

そうと決まれば三脚を立てっぱなしで演習は肉眼で見ることができ、
おかげで鑑賞は大変気が楽で楽しいものでした(笑)



完全に暗くなる前の会場はこのような感じ。
暗くなると、並んでいる核装備についている緑のランプだけが
手前に一列に並んでいて、そこが射線だなあとわかるくらいです。



いよいよ始まりました。
装備の説明などはすべてここに映し出されます。



今朝夜明けを見た富士山の同じ日の日没後の姿を見ることになるとは・・・。
フィールドには左右から探照灯が照らされ、交差したところが
なんという目標かを説明してくれます。



つまんない写真ですみません。
緑のランプが装備の列。
演習最初に小銃と機関銃の射撃が行われた時の弾道です。

このあとは74式戦車、87式装甲戦闘車、01式携帯戦車誘導弾が
暗視装置を使って射撃されました。



マルヒト式携帯戦車誘導弾の命中の瞬間。

このあとの陣地侵入もすべて暗視装置を使って行われたので、

「カメラのフラッシュは危険ですので決して使用しないでください」

と警告がなされました。
しかし、本人は使っている意識がなくてもそういう設定に
なってしまっていることに気づかずカメラが光る人がいて(笑)
30分の間に何度も何度もアナウンスで注意されていました。

ひどい人には自衛官が直接やめるように言いに来るそうです。

なぜ危険かというと、暗視装置を使用していると昼間に比べ視界が狭くなるのです。
ただでさえ難しく操縦技術が必要なのに、フラッシュが光ると
暗視装置を通して見ることができなくなるらしいんですね。



89式装甲戦闘車の射撃。

このあたりまで、暗視装置を使う射撃の展示で、次からは
戦場照明下での射撃が実演されました。



ここからの「第2部」は、まず照明弾が撃たれ、その後
射撃が行われます。



80mm迫撃砲で撃たれ開傘した照明弾。
この照明弾の明るさは100万カンデラという単位で表されます。
1カンデラは1本のローソクの灯火の明るさですから、100万本のローソクに相当すると。

この照明下、迫撃砲が射撃を行いますが、着弾して光を放つのは
一瞬ですので、はっきりいって写真に撮って面白いことはありません。



照明弾の明るさは微妙に射撃する装備によって違います。
例えば特科火砲の目標になる照明弾は160万カンデラです。

特科火砲は照明弾のもと、昼間と同じような同時弾着を試みます。



84ミリ無反動砲も照明弾を撃ち、その後射撃を照らされたところに行います。
65万カンデラの明かりなのでそんなに暗くて大丈夫か、と思ったのですが、
目標が大変近いところだったので、射撃した後の煙までがはっきり見えました。 



照明弾には IR照明弾というものもあります。
周囲を照らしつつ、赤外線を発して暗視装置での観察を可能にするものです。
照明は大変弱い明かりでも、赤外線で確認することができるのです。


ついでプログラムは第3部へ。
第3部では、夜間の防御戦闘がシミュレーションされます。
山の方向から敵部隊が前進中、という想定で行います。

これらの状況をレーダーや標定装置で観察したのち、 
特科火砲が前進を防ぐための警戒射撃、「攻撃準備破砕射撃」を行います。



しかしさらに前進を試みる敵・・・・。
照明弾が81mm迫撃砲によって発射されます。



照明弾のもと、81mm迫撃砲が弾幕を発射。

そしてあっという間に終盤となり、最後は「対機甲突撃破砕射撃」。
弾幕の中、90式戦車、74式戦車、89式装甲戦闘車が敵戦車の破砕を行います。 



さらには突撃してきた敵に向けて破砕射撃を一斉に行います。 



ほんの一瞬でしたが、これで敵部隊は殲滅することができました。

「状況終わり」

この声を聞いて、わたしは思わず

「え、終わりですか」

と言ってしまったのですが、例年このようなものらしいです。
それにしても、明かりの全くない山間地でもハイテクを駆使するとこうやって
戦闘ができてしまう時代になっていたのですね。

しかし、今まで見たことのない夜間演習が見られて貴重な勉強をさせてもらいました。


と こ ろ で 。

わたしたちはこの夜間演習に際して、乗ってきた車を
駐車場となった空き地に縦横にずらっと駐車させられており、
その時からすでに

「前の車が出るまで動けませんのでご注意ください」

と注意されていました。
わたしはこれを聞いて、終わってから帰る時にもし前の車の人が
帰ってこなかったら、とふと不吉なことを考えたのですが、
案の定嫌なカンだけはよく当たるもので、わたしの前の軽の中の人が
いつまでたっても駐車場に帰ってこないのよ。

わたしたちのグループはこのあと足柄インターで集合、となっていて、
周りの車はどんどん出て行くのに、その軽のおかげで、
わたしとその後ろの車だけがいつまでも駐車場から出ることができないわけ。

   (空き地)

   軽 わたし  他の車
  ↓ ↓  


  □ ■  □  □  □  □  □  □  □  □

    (空き地)


右も左も出て行ってガラガラになったので、脇から出ようとしたら
整理係の自衛官が『出ないでください』と静止。

「あのー、連れが皆行ってしまったので早く出たいんですが」

と訴えると、今度は上官がやってきて

「前の車が出ないと出られないんです」

の一点張り。
自衛官は上からの命令を自分の判断で変更できないのですね。
よーくわかります。
が、周りを見てくれ。もう車が1台もいなくなっているんだから、
横に誘導してくれさえすれば、わたしと後ろの車全部がすぐに出られるでしょ?

と心の中で言いながら辛抱強く待っていました。
しかしその後いつまでたっても軽のドライバーが帰ってこないので
自衛隊側もこれは仕方がない、と判断したのか、超法規的措置で(笑)
軽の左側から出ることをようやく許してくれました。

「おそかったですね」

足柄インターで最後に合流した時にこの話をしたところ、

「気が利かないねえ」

「いや、自衛官ですから自分の判断で勝手にできないですよ」

と日頃自衛隊に理解のある皆さんなので同情的でしたが。



とにかく、駐車場の整理係の隊員だけでなく、この日
事故の無いように気を使って運営をしてくれた陸上自衛隊の
すべての皆さんにはただ感謝です。

それから、チケット関係でお世話になった陸上自衛隊の方、
富士学校普通科の方にも心からお礼を申し上げる次第です。
ありがとうございました。



総火演シリーズ終わり



アメリカ合衆国商船アカデミー跡〜サンマテオ・コヨーテポイント

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1年前の滞在の写真になりますが、サンフランシスコ空港近くの
サンマテオに「コヨーテポイント」というレクリエーションエリアがあり、
息子をキャンプに送り届けたあと、カメラを持って歩きにいきました。 



公園は対岸にサンフランシスコ空港を望む海沿いにあり、長い砂浜を持ちます。
夏なのでビーチで遊ぶ人はいるかもしれませんが、立て札には
ライフガードはいないのであとはわかるな?と書いてあります。 



砂浜を散歩する人。



海沿いにトレイル(小道)が整備されているので歩いて行くことにしました。



向かいに見えているのはオークランドです。 




サンフランシスコは朝方厚い霧で覆われているのが普通ですが、
空港近くになると途端に霧が晴れてきます。
昔国際空港をどこに作るかが協議されたとき、人々が
霧のかからない都心から最も近い場所としてサンマテオを選んだのだろう、
と空港に向かう高速で急に霧が晴れるのをいつも見て思います。

この日朝、サンマテオは薄曇りでしたが、この天気が1日続くことはまずありません。



ここはちょうど空港滑走路の対岸にあたり、国際便が
最終着陸態勢を取って次々と着陸していくのが見えるポイントです。
今年は三脚持参で望遠レンズ投入して撮ってみようかな。



早速散歩開始。
アメリカでこういうところを歩くと、時々誰もいなくて怖いときがあります。
ここは州立公園なので、入り口で料金を支払う仕組み。
決して浮浪者などが入り込んでくることはないのですが、それでも
心のどこかで軽く緊張しながら歩いています。



まあここにはこんなものもあるので犯罪の発生する率は低いでしょう。
もし変な人がいても、大きな声で叫べば飛んできて、
訓練を兼ねてみんなで寄ってたかって犯人をやっつけてくれそうです。



文字通り根こそぎ倒れてしまった木もそのまま。



トレイルに沿って歩いて行ったとき、わたしの「ネイビーセンサー」が
いきなり激しく鳴り渡りました。
なぜこんなところに船の錨がっ・・・・?!



黒曜石でできているらしいベンチに書かれた文句をドキドキしながら読むと、
1775年に創立された「U.S Marchant Marine」とそのマリナーに捧ぐ、とあります。
寄付した人々の名前には「キャプテン」の冠を持つ人も。



マーチャント・マリーンというのは直訳すると「商船」。
商業船として米国内の海域・水域で運輸に携わっているものの総称ですが、
商船のほかタグボート、曳船、フェリー、遊覧船、ボートなど全てを指します。

しかし、アメリカ合衆国がいったん戦争となった場合、軍事に
その機動力始め要員を提供する、という任務を帯びる組織です。



モニュメントがあるここには、かつてその乗組員を養成する
「マーチャントマリーン・アカデミー」がありました。
この石碑には「カデットーミシップマン」(cadet-midshipman)とあり、
当校に学ぶ学生をそう称していたらしいことがわかるのですが、
「カデット」は普通陸軍、「ミシップマン」は海軍における士官候補生を指します。
ちなみに先日行ったコーストガード・アカデミーでは「カデット」でした。

この理由は、第1次世界大戦を経て1936年、議会が商船法(多分戦時法を踏まえたもの)
を承認した時、付随して創立され教育組織が

「Marchant marine cade corps」

という名称だったことからだと思われます。
商船アカデミーというのは日本だと「商船大学」となってしまいますが、
日本の商船大学に相当するのは、アメリカでは強いて言えば
「海事大学」(Maritime Academy)
ではないかと思われます。
その海事大学も、卒業すれば海軍や海兵隊に少尉として入隊することが可能ですが。

商船アカデミーは航海士か機関士の免許を取って卒業後、
マーチャントマリーン(米国保有商船隊)に任官する学校です。




錨を足元に置いたワシは「Salty the sea eagle」というマスコット。
この場合「ソルティ」が愛称となります。
学校のモットーは

「 DEEDS NOT WORDS」(言葉より行動を=不言実行)
 



卒業生によって作られたメモリアルゾーンのプレートの最後には

「HEAVE HO!」

フネ関係の方なら、もしかしたらこれが錨を巻くときの海の男の掛け声だとご存知でしょうか。
この碑は全ての戦争で失われたアカデミーの卒業生の魂を悼んでいます。



Bearingsというのは、おそらく「方位法」をもじっているのでしょう。


現在商船アカデミーはニューヨークのキングスポイントにあり、
通常キングスポイントというと、この学校を指します。
戦争が始まって、戦地への軍艦以外の多数投入が急がれることになった時、
アメリカ政府は、船員を大量に養成する必要にかられ、西海岸にも
学校を作ることにし、1942年、サンマテオ商船アカデミーが創立されました。

日本では民間船を船員ごと徴用し、商船学校出身の学徒士官を
船長にしたのですが、さすがにアメリカはやることが違います。
彼らを「ミシップマン」と呼び、かっこいい制服も制定しました。

若者の士気が服装に影響されるということをよく知っていますね。



アカデミーの訓練風景。
海事トレーニングだけでなく、自分たちの駐在する施設を自分たちで作ったそうです。



夜、真っ暗な海にボートで漕ぎ出すのもトレーニングの一環でした。
短い歴史のあいだにはこの海域に出没するサメを捕まえたこともあり、いまなら
夏の恒例番組、ディスカバリーチャンネルの「シャーク・ウィーク」で放映されて
大いに住民に感謝されるところですが、地元民の感謝を彼らが知ることはありませんでした。



そして一晩中ボートを漕ぎ続けるという訓練も・・・。



マーチャントアカデミー通常兵装。
例えば、特殊潜航艇「回天」が撃沈した油槽艦「ミシシネワ」などのように、
彼らが乗り組んだ輸送艦もまた、南洋にその多くが戦没していきました。
ここに写っている彼らのうち、サインのない候補生の多くは船と運命をともにしています。



アカデミーがここに発足したことを封じる当時のニュース。
いまモニュメントがあるところにはこんな地球儀があったようです。



バーリンゲームというのはコヨーテポイントのある隣町です。
船を買ための資金調達のために、ここで彼らがかっこよく行進を行い、
国民に国債を買ってもらうというデモンストレーションのお知らせ。



かつての学校の配置図。
港としてこの時整備されていた部分は、いまヨットハーバーです。
警察学校以外には自然科学館があり、子供たちの夏のキャンプ場となっています。



学校ができるまでは放置されていたコヨーテポイントは、学校ができて以来
整備されて美しいポイントに変わったということを自慢しております。 



自艦が撃沈された時に海に飛び込む訓練(たぶん)。
みなさん鼻を押さえております。



どこの団体にも一人はいる、絵の上手い人による漫画。
いくら「微笑みを絶やさず」といわれても、こういう場合は嫌だよね。
(交換してもらう方は)



無事トレーニングを終了して、サンマテオを去る候補生。
マーチャントマリーンに任官することも、海軍や海兵隊に任官することも、
もちろん民間に就職することも彼らには可能です。



かつて彼が海へと続く未来に向かって歩いていった道は、今ではわたしのように
自然を楽しみにやってくる来園者や、バイカーのためのトレイルとなっています。

コヨーテポイントのアメリカ合衆国マーチャント・マリーン・アカデミーが
終戦を受けてここでの役割を永遠に終えたのは、1946年のことでした。




 

廃材記念グッズ〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

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ボストンの偉大な歴史遺産であり、観光資源であり、
またアメリカの象徴でもある帆船「コンスティチューション」。

1度目の訪問時には甲板下は公開されていなかったのですが、
わたしは「改修中なのでそんなものだろう」と思い、
来年の夏にでもまた来てみよう、と考えていました。



明日はボストンを離れるという日、息子をキャンプからピックアップし、
ルイーズランチで記念すべきお昼を食べてから、まっすぐボストンに向かいました。
フリーウェイは渋滞もなくスムーズで、3時にはボストン着。
レンタカーを返すまで時間があったのでどこかに行こうという話になったとき

「コンスティチューションっていう帆船がチャールズタウンにあるんだけど」

とわたしが家族に提案して2度目の見学が実現しました。



前回は曇っていて肌寒く、長袖を着ていても震え上がりましたが、
この日は晴天の、しかも湿度の高い1日。
観光客も皆半ズボンにサングラス、女性はノースリーブ、男性は
野球帽にサンダルや運動靴といった、

「夏のアメリカ人観光客・スターターパック」

に身を固めております。

参考画像

わたしたちもこのセキュリティチェックの列に並びました。
この写真で左側に見えている「コンスティチューション」の乗員に
並んでいる観光客が話しかけていたのを横で聞いていたのですが、
彼はなんと

「ここに配属される2週間前までブートキャンプにいた」

と言っているではないですか。
つまり、新兵さんとして海軍で言うところのリクルートトレーニングを受けた、
ということなのですが、口語的に彼はそれを「ブートキャンプ」と説明したわけです。

新兵訓練というとわたしたちは「ハートマン軍曹」を思い出すわけですが、
海軍だって兵隊を育てるわけだからそれは似たり寄ったりのはず。
その「地獄のブートキャンプ」を終わった彼が、

「はい君、初の任地はコンスティチューションね」

と言われて、は?と目が点になってしまったことが想像できます。

「コンスティチューション」の使命は海軍の歴史と象徴としてのこの船を
後世に伝えるスポークスマンです。
ですから、海軍のセーラー服ではなく、上下白に胸元バンダナ、といった
1812年当時の水兵コスプレ(プレイじゃないか)をするわけです。

「コンスティチューション」乗員

司令官を始め幹部3人は当時の士官のいでたち。
新兵さんの赴任地としては「は?」かもしれませんが、艦長にとっては少し違うようです。

当艦、America's Ship of State といわれる特別な船で、
艦長の名前はこの未来永劫アメリカに残す予定の艦内の金のプレートに刻まれ、
これも未来永劫残っていくのですから、やはり名誉職という位置付けなのでしょう。


「アメリカの艦艇にしては手入れが行き届いている」というご指摘がありましたが、
乗員たちの主な仕事が「艦内掃除」であるならそれも当然でしょう。
機械を一切用いない「軍艦」なので、それらのメンテナンスにかかる時間は全て
もやいをさばいたり、帆を張ったり降ろしたりの訓練、そして掃除に費やされるのです。

それに艦長の任期はせいぜい2年、他の乗員も頻繁に転勤しますから、
長い海軍人生の少しの時間でもこの歴史的帆船で過ごすことは
彼らにとっても貴重な経験ともいえるのではないでしょうか。
(決してずっとだったら嫌だろう、と言っているわけではありません)



この間より修復工事が進捗しておりました。
甲板に乗り込むためのラッタルと並行して、黄色い何かが
甲板から岸壁に渡してかけられています。



なんと荷物を滑り落とすための滑り台でした。
いや、まさか人が降りるためではないですよね?



見れば見るほどがっつりと足場を組んで、かなり大掛かりな修復であるのがわかります。
「コンスティチューション」がこの前に修理されたのは1996年で、これが44年ぶり。
今回は22年ぶりで、かなり修復の間隔を狭めてきているようです。

22年前とは修復技術にもかなり進歩の点で違いがあるのに違いありません。



塗装も腐食を抑える塗料が日進月歩で開発されているとか。



クレーンも、今ではクレーン車で岸壁ぎりぎりに設置することができます。
これは足場を組む機材を下ろすためのクレーンだと思われます。
そういえば、前回来てから約10日経っていましたが、足場が前より増えている気がしました。



向こうに見えているガントリークレーン、かなりの年代物に見えます。

この写真、結構貴重な修理過程ですよね。
主にウォーターラインより下の舳先部分の木材を取り替えているわけです。



破損した部分なども思い切りよく廃材にして作り直してしまうようですね。
「ミスティック・シーポート」もそうですが、こういう国の補助がある限り、
帆船の修復・造船技術は決して絶えることなく残っていくことができるわけで、
本当にその点アメリカという国は先進国であると羨ましく思います。 

見れば見るほど横須賀のドックに似ている、ここチャールズタウンシップヤードの
第1ドライドック。(できた時期はこちらが80年ほど早い)

地図を見るとたくさんドックがあるような形をしていますが、実際に
ドライドックとなっていたのは、第1とその後できた第2だけだったそうです。  



ここはアメリカ最古のドライドックですが、それでは世界最古はどこかというと、
やはり海洋王国イングランドのポーツマスに1495年にできたものだそうです。



チャールズタウン・ネイビーシップヤードは1800年に開設されましたが、
その12年後、アメリカにとって歴史的に重要な戦いが起こりました。

アメリカ人もだいたいのことは学校で習うのでしょうが、
やはりよく実際はよく知らない人が多いらしく、
コンスティチューション博物館には展示入り口にこんなことが書かれていました。

「誰が何のために戦ったのか、もしあまり詳しく知らないのだとしたら、
ここはまさにそういうあなたのためにある場所です。

さあ、それではこの忘れられた1812年の戦争と
コンスティチューションを知る旅のために、
帆を張る準備をしましょう」


アメリカ人でもこんなものですから、おそらく日本人は米英戦争といわれても
まったく知識がないか名前だけ知っている程度でしょう。(わたし含め)

そこでさくっと説明しておくと、この戦争は、新天地を巡って
アメリカとイギリスがアメリカ大陸各地の取り合いをしたんですな。

といってもそこはそれ、頭のいい白人様同士ですから、
米英はお互い先住民族(インディアン)を使って代理戦争をさせたりしたわけです。

戦争したり独立した割に米英の仲がそんなに悪くないのは、そのせいかな?(嫌味)



なんてリアリティのある海戦中の情景でしょうか。
ここにはこんなことが書かれています。

ここは1812年です。
あなたは戦うことを約束されたコンスティチューションの水兵です。
あなたの船は咆哮する大砲に激しく震え、煙の輪が目にしみて視界を奪い、
恐怖の涙は喉を伝い・・・しかしあなたは戦い続けねばなりません。

そして「皆は一人のために、一人は皆のために」という標語。
 





この二枚の「コンスティチューション」は、いずれも英国海軍との戦いで
勝利を収めて凱旋してきた彼女の姿を描いたものです。

当時の英国海軍は、世界で最も強大な力を持っていました。
500もの軍艦を保有しており、たった16隻の船しか持たない
まだ出来たばかりのアメリカ海軍とは桁違いです。

その駆け出しの海軍が世界最強の英国軍艦に勝つなど、誰も予想できなかった快挙でした。



1812年の海戦で、コンスティチューションは星条旗を揚げていました。
このシンボルはアメリカ人に

"Feel And Act For One Nation"(一つの国家のために感じ行動する)

の気概を象徴するものとして受け入れられていきます。



前回説明しましたが、なぜ彼女のあだ名が
「オールド・アイアンサイズ」になったかが書かれています。

1812年、HMS「ゲリエール」との海戦で、
その堅牢なオークの船腹が敵の弾を跳ね返したため、

”Huzza,her sides are made of iron!"
(やった!彼女の腹はまるで鉄で出来てるぜ!)

と言われたことがそのあだ名の起源です。 
 





コンスティチューションの船体設計図断面です。
コンスティチューション博物館には、

「昔の人はどうやってこういう帆船を設計していたのか?」

ということをレクチャーするコーナーがありました。



船のカーブをフリーハンズで描くのはまず無理です。

というわけで、18世紀から船体のデザインには、
まずカーブを木で作り、それで図面を描くという方法が取られました。
作図している手が当時の衣装を着ているというのが凝ってます。

右側の木片はジョサイア・フォックスという設計士が実際に使用した
定規で、これを「ドラウティング・カーブス」と呼びます。



「コンスティチューション」の設計をしたジョシュア・ハンプレイズの使った
ドラウティング・カーブスいろいろ。

手前のカーブが白黒なのは、パーツがバラバラにできるようになっていて、
各断面を図に描くことができるような工夫だそうです。

このコーナーには画面上で船が設計できるモニターもありました。



さて、現在修復中の「コンスティチューション」。
木造の帆船なので、修復するには船体を部分的に取り替えていきます。

それでは新しい木材に取り替えて出た廃材というのはどうするのかというと、



はい、「コンスティチューション・グッズ」の出来上がり。
宝石箱や飾り物、わけのわからないもの(8番)などなど。

実は何を隠そう、わたくしこの廃材で作ったボールペンを記念に買いました。
(冒頭写真)
おそらく前回の修復の時に出た廃材なので、少なくともその前の80年間は
コンスティチューションの一部であったことは間違いないのだろうと思います。



木造船の修復は、つまりそのたびに記念グッズを作ることができるわけで、
それが維持費を生むというメリットもあるのです。

ある意味「永久機関」ですが、いつの間にかその船体は
当時とは全く別の材質(もの)に変わっていくということでもあります。



こうして改めてみると、結構広範囲を取り替えてしまうんですね。
この部分だけでどれくらいのペンができるんだろう(棒)

ちなみにペンは1本60ドルくらいで、持ってみるとズシリと重みがあります。
歴史のとか比喩的な意味ではなく、純粋に重量的な意味で。

彼女が「アイアンサイズ」(鋼鉄の船腹)と呼ばれたわけがよくわかります。



続く。


 

PTボート艇長JFKと「天霧」艦長の手紙

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戦艦「マサチューセッツ」艦内には、コンパートメントを利用して
博物館のようにテーマを決め関連する展示を行っています。
これはカリフォルニアの「ホーネット」と同じ方式です。

今思い出せるだけでも、慰霊のための「メモリアル・ルーム」の他は
「ウーマン・プロテクティング・ US」(女性がアメリカを守る)という
「アメリカ軍と女性」に焦点を当てた企画、Dデイ、真珠湾攻撃コーナー、
それからPTボートと呼ばれる高速魚雷艇のコーナーなどがありました。



Patrol Torpedo boat、哨戒魚雷艇。
全長20m、排水量50t程度の木製の船体に航空機用エンジンをデチューンして搭載し、
40ノット(約70km/h)以上の高速で航行することができました。

「魚雷艇」ですので、中央部分にはMk13魚雷を積んでいます。
初期は魚雷落射器とのセットを4組搭載することが多かったようですが、
この艇は後期のものらしく、2組だけです。





魚雷や機銃や機関砲、さらには対戦車砲をも搭載する型もありました。
排水量あたりではかなりの重武装といえます。
これは40mm機関銃。




乗員のネズミがかわいいぞー。てかなぜネズミ?
艇首の茶色いネズミが撃っているのは、アス比が正確でないので
確かなことはわかりませんが、エリコン20mmのような気がします。



艇長(白ネズミ)と副長(茶ネズミ)はちゃんと軍帽着用。
テッパチにカポックの乗員もおります。



なぜかセーラー帽に青いシャツの水兵もいますが。
右側のテッパチ白ネズミさんの武器はブローニングM2機銃のつもりかと思われます。



なにやら記録しているエンジニアらしきネズミ。



戦争中には768隻(アメリカ向け511隻、ソ連向け166隻、イギリス向け91隻)と
量産され、1隻ずつが「スコードロン」だったので、いちいちこうやって
各艇のメモリアルコーナーをブースごとに並べているわけです。

一つ一つ見て歩きたいのは山々でしたが、いかんせん限られた時間、
写真を撮るにもあまりにもブースが多すぎて断念しました。




代表して一つだけ、スコードロン20のPTボートのコーナーの写真を撮りました。
正式な艇名は、「U.S.S. PT-252」というふうに呼称されていたものです。


中央のプレートが全艇員の名なのだとしたら、42名分あるわけですが、
定員は2〜3名の士官を含む11〜7名だったといいますから、
この勤務もせいぜい1〜2年で移動となったのかもしれません。

スコードロンマーク。

ついでに?となりのスコードロンマーク。

PTボートは予備役士官と応召兵で運用が行われました。
一般の大学に設置された予備役将校訓練課程( ROTC)を経た士官を
予備役将校といったわけですが、若き日のJFKもハーバードでこの課程を受け、
PT-109の艇長をやっていたことがあります。



右端がケネディ中尉だそうですが、なんというか同じ目線というか、
すっかりナカーマという感じのフレンドリーな雰囲気ですね。
写真を撮っている人を入れて11名が乗り組んでいたようです。

ケネディ艇長指揮のPT-109は、1943年8月2日、ニュージョージア島西方で
輸送任務に就いていた日本海軍の駆逐艦「天霧」に衝突され炎上・沈没しました。


これは戦闘行為ではなく、「天霧」の操艦ミスでした。
「天霧」に座乗していた司令官(艦長ではない)が、PTボートの接近を見て
魚雷艇に衝突してしまうと魚雷の誘爆に巻き込まれるかもしれないと判断し、
回避のために「取舵」をまず指令しました。
ところが艦長が次の瞬間「面舵」と号令してしまったのです。

なんでやねん。

と思うわけですが、実はこれは艦長に理がありました。
緊急回避の際は面舵いっぱいというのが艦船の通例であり常識だったので、
艦長はおそらく自分の「常識」から脊髄反射で「面舵」を口に出し、
次の瞬間司令の号令とは逆であることに気がついたのでしょう。

先日どこかに書いたように、海軍の慣例では、座乗している司令官が
たとえ階級的に上位であったとしても、艦の操艦権限は艦長にあります。
この場合、最初に司令が回避命令を出したのは越権行為というべきものでした。

しかし、そこで性格によるものか、空気を読んでしまったのか、それとも
出世とかあとあとの気まずさとかを日本人らしく考えてしまったのか、
次の瞬間艦長は「艦長絶対」と「操艦のセオリー」より、上官命令を優先し、
とっさに命令の言い直しをしてしまったのです。


つまりいったん出した「面舵」を「取舵」と修正して号令し、
その結果駆逐艦はPTボートに激突してしまったというわけです。

艦長が自分の出した命令を言い直しさえしなければ、衝突は回避できたかもしれません。
つまり、この衝突の最大の責任は、分をわきまえずに最初に命令を出した司令ではなく
艦長にあったことになります。



PTボートが木でできていたということを示すための展示。
このパーツはPT-139の「サイドセクション」だそうです。

普通のPTボートはマホガニーの2層のレイヤーでできていました。
レイヤーには水漏れを防ぐため、防水を施した航空機用のキャラコ布を挟んであり、
まさに板切れを鋼鉄のパーツでつなぎ合わせたという感じの代物です。



この下の木片は船底部分だそうです。
とにかくスピードを確保するために、軽い船体に航空機用のエンジンを
デチューンして搭載しているというのが売りだったのです。

さらに艇体の軟弱さは、航空機エンジン搭載のスピードでカバーできる、
という思想で、このケースでも本来なら衝突を避けるためにPTボートの方も
全速で逃げればよかったのですが、不運なことにこのとき、

日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、
三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。
ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、
回避が困難であった。(wiki)


というわけで駆逐艦「天霧」とぶつかったPT-109はひとたまりもなく、
胴体が真っ二つに割れ、海の藻屑になってしまいました。 


ケネディ艇長とその乗組員は近くの小島に漂着し、
数日後に救助されたのですが、このときのことが映画になってます。



1963年作品。監督レスリー・マーティンソン。(誰?)
きっと「天霧」の艦長が極悪人みたいに描かれてるんだろうなー(鬱)
見たいような見たくないような。

それにしてもこんな題材で2時間20分の超大作って。
まあ、おそらくこんな光景が展開されたのでありましょう。

この映画はケネディ暗殺の5ヶ月前に日本でも封切られているそうです。



ケネディのボートは、もともと日本軍と対峙していたツラギに配属され、
日本軍の輸送業務を妨害する任務でソロモン諸島に向かったのでした。
会敵できず帰投する航行中、不意に「天霧」に遭遇、いきなり衝突、
このときにすでに2名が戦死しました。

ケネディと残りの乗員たちは海の中で「天霧」が去るまでじっと待ち、
その後大破した船体の木にしがみついて、近くの島まで泳ぐことにしました。


このときケネディは負傷した部下の命綱を咥えて6キロ泳ぎ、さらには
島に着いた後、救助を求めて5キロ以上を泳いだということです。
ケネディはハーバード時代、水泳部だったのでした。
これを見る限り背泳はあまり上手ではありませんが。

7 Photos of JFK's Harvard Swim Team Days

ハーバードのプールは、タイタニック沈没でハーバード卒業生だった
息子を亡くした富豪ワイドナー未亡人の寄付でできた(ワイドナー図書館も)
といいますが、ということは、ケネディがこのとき命存えたのも、
間接的にワイドナーの寄付のおかげだったといえないこともありません。

しかしそれでなくても、鱶がうようよしている海でよくまあ無事だったものです。


彼らがたどり着いた島には水も食料もなかったため、ヤシの実がある島へ移り、
ココナッツにメッセージを刻んで、そこの島民に連合軍に届けるよう託しました。
それはうまくオーストラリア軍の手に渡り、6日後にケネディたちは救出されました。

ちなみにこのメッセージ入りのココナツは、その後彼が大統領になったとき、
執務室にずっと飾ってあったそうです。


艇沈没後の行動はともかく、海軍的には、このときのケネディ艇長の資質を
疑問視する声もあったと言いますが、ケネディの父ジョセフは、
海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわして息子をヒーローに仕立てました。
彼は政治家になる前にすでにこの件で十分に有名人だったのです。
後に下院に立候補した際には、宣伝材料としてこれを報じた記事が配られました。
(もちろん配ったのは父親) 

さて、ここで注目したいのが元「天霧」の艦長始め乗員たちです。

彼が上院議員に立候補したときそのニュースは日本に伝わりました。
「天霧」乗員一同は、自分たちが沈めたボートの艇長が
生きていて政治家になったことに驚き感銘を受けたのでしょう。
1952年の上院選と1960年の大統領選の際には元乗員一同の名で
ケネディに激励の色紙を贈ったりしたそうです。

天霧乗員たち(海自隊員の姿あり)

そして、そのケネディが訪日したとき、「天霧」の艦長は
こんな手紙を送りました。


1952年9月15日 

親愛なるミスターケネディ、

わたしはホソノグンジ医師から、1943年ソロモン海域での戦闘で
日本海軍の駆逐艦に沈められた戦闘艦があなたの指揮下にあったのを聞きました。

その駆逐艦の艦長であったわたしにはそれは大いなる衝撃でした。
1952年8月18日付のタイムマガジンにそのことが書かれており、
読んだ途端にわたしの記憶は新たに蘇り、まざまざとあのときのことが浮かびました。

(中略)

今こそわたしにあのときのことをお話しさせてください。
わたしは1940年10月以来「天霧」艦長を務めていました。

日米両国の最終的な外交努力の成功に最後の望みをかけつつも、
当時日本が置かれた経済状況を鑑みて、日本海軍は最悪の準備を行いました。

わたしたち若い士官にも、海軍力で劣るアメリカと英国を相手にすることが
いかに無謀なことかはわかっていましたが、極秘のうちに計画された
真珠湾攻撃を知ったときにはまさに動揺を禁じ得ませんでした。

ほとんどの海軍軍人はこの戦争の成り行きに普通に悲観しておりましたが、
東条大将の内閣の巧みな開戦時の宣伝によって
勝利への希望的観測を持たされていたといえましょう。

ミッドウェイ海戦以降、状況は変わり、日本とは違って
米国は政治的にも、国民の戦意も、全てが有利になっていきました。

わたしはソロモン諸島での戦いに従事しておりましたが、
ガダルカナルでの連続した敗北に対し、憂慮を感じていました。

1942年から3年5月までの間、わたしはトラック諸島での海上勤務で、
その後駆逐艦「天霧」の艦長を拝命しラバウルに移ったのは6月です。
その頃からアメリカ軍の反撃はますます激しくなりました。

制空権も取られ、昼間動けなくなった我々は、駆逐艦で夜になると
アメリカの人員と弾薬を輸送する任務を妨害しなければなりませんでした。

我々の旗艦はあなたがたの艦隊にいとも簡単に沈められました。
我々は知る由もありませんでしたが、レーダーの力です。
この後の連続的な敗北の後、我々はラバウルに後退しました。


1943年8月初頭、わたしは、駆逐艦としては大型のわたしの艦に
向かってくる小さな敵の艇を見ました。
銃に装填する間もなく両者は接近し、我が駆逐艦は
ボートにまず激突し、これを真っ二つにしました。

このPTボートがあなたの指揮する艇であったことは衝撃でした。

わたしは、あなたがこの戦いで見せた大胆かつ勇気ある行動に
心から敬意を表するとともに、また、あなたがこのような状況下から
奇跡の生還を遂げられたことを祝福するものです。

タイム誌の記事によるとあなたは次の選挙で上院議員に立候補されるとか。
あなたのようにかつての敵にも寛容である方が高位についてくださったら、
間違いなく日米両国の真の友好が、のみならず世界平和の秩序もまた
促進されていくものとわたしは固く信じています。


あまり丁寧に訳していませんがおおまかな意図は間違っていないと思います。

正直、とくに前半の部分は、読んでなんだかなあ、と思いました。
戦争の経緯ををことさら解説せずともケネディには周知のことだっただろうし、
全体的にも、なんだか自分たちを卑下しすぎやしないか、と感じたのも事実です。

ケネディもそのときは日本の輸送船を沈めるために出撃していた訳で、
お互い自国のために戦う軍人として相見えたというだけなのですからね。

ただ、衝突事件についてどっちが悪いとか、沈めてごめんなさいとかではなく、
健闘と勇気を讃えて、さらに政治家としての成功を祈るという、
非常に清々しい、ネイビーらしい手紙であるとも思いました。


あるケネディ研究者によると、この事件は、
ケネディのその後の人格形成に大きく影響しているそうです。
なかんずくそれは、大義のために死んでいくことへの疑問や
全面戦争とか総力戦といった言葉への嫌悪となって表れました。

”政治が我が子を戦場に送り出すことに留意するとき、
その目的には明確な信念と理由ががなければならない”としている。
そして大統領に就任後は、大国同士の誤算を懸念し、
意図せずして戦争に巻き込まれていく危険を常に意識していた。
(wiki・一部変更)


ケネディが手紙をどのように読んだのか、もはや想像するしかありません。

実際に彼がこの衝突事件で生死の境をさまよったことが
彼のリベラルな思想を形成した、という分析はほぼ間違っていないでしょう。

ゆえに未来の大統領は、かつての敵から送られてきた手紙の、とりわけ

「東條内閣の宣伝によって我々は勝てる気がしていた」

というところに、あくまでも「他山の石」的な意味で
小さく共感を覚えたのではなかったか、と想像してみます。

+おまけ+
 


ケネディのメッセージ入りココナツをオーストラリア兵に届けた
島の住民、ビウク・ガサおじいちゃん。

「J.F.K. はわしが助けた」のTシャツを着ています(笑)

 

 

 


「ゲダンク」の鉄則とリサイクル事情〜戦艦「マサチューセッツ」

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「マサチューセッツ」の艦内探訪、続きです。

先に艦内を最後までご紹介して、展示品については後日、
他の艦艇などをご紹介し終わってから(いつになるかわかりませんが)
取り上げていこうと思っていたのですが、PTボートとケネディの話に
食いついてしまい、中断してしまったのを<(_ _)>します。

さて、今日は調理場からです。
1日目の見学で、広い艦内の半分しか見られなかったため潔く撤退し、
次の日にまた続きとして見始めたのがここからでした。

ちょうどメインデッキの 一階下にメモリアルルームがあります。
わたしはアップルのキャップを昨日脱帽してベンチに置き忘れたのを思い出し、
真っ先にメモリアルルームに駆け込んでみたら、ビデオのプロジェクタの前に
昨日置いたままの状態で見つかりました。
思わず「あったー」と独り言。
ありがたく回収して昨日の続きから始めました。

メインギャレーと呼ばれる兵員食堂です。



ここの展示でマネキンに出会ったのはこれが初めてでした。
不自然に首が長いけど男前の水兵が一人でぼーっと
シンクに手を突っ込んでおります。
調理係であれば帽子やエプロンを身につけるはずなのですが。

彼が立っているのは大量にシチューなどを煮込む道具か、
上部で食べ物を温めておくテーブルではないかと思われます。

本日のメニューは、ハンバーガー、マッシュドポテト、そしてトマトスープ。



向こうの方にある金属トレイは、自衛隊でもおなじみ。
懇切丁寧な自衛隊の食堂では、「盛り付け例」を写真で解説し、
さらにはどこを指で持つといい、などと教えてくれますが。

にんじんのグラッセとグレービーソースらしきものも出ています。
食堂のキッチンは夜昼なく稼働しているものなので、調理係たちは、
時として天井から吊ったハンモックで寝なければならなかったそうです。

帝国海軍の兵員は基本ハンモックを吊って寝ていましたが、米海軍では
「よっぽどの場合」しか使われることがありませんでしたから、
厨房の仕事とは「よっぽど」が多かったということなのでしょう。




左手奥には大きなバスタブのような釜がずらりと並んでいます。


あえてクラムを散らして「いかにも今誰かがとっていった風」。
デザートはチョコレートブラウニー。

ここでは「マサチューセッツ」の2000人の男たちの胃袋が賄われます。
食事時になると「チャウ・ライン」(Chow line)という列がカウンターにでき、
それは右舷と左舷の通路まで延々と伸びて、食べ物を取った後も、
「バーベット」の周りのカウンターの椅子やベンチ、艦尾にある共同部屋まで続きます。



これがバーベット。
バーカウンターみたいだから”バー”ベット?とオモタのですが、
バーベット(Barbette)というのは旋回砲塔下部の装甲円塔をいいます。

16インチ砲の砲塔に弾薬装填を行うための鋼鉄で装甲された巨大なシリンダーは
砲塔からセカンドデッキまで、そしてその先甲板の下5階まで繋がっています。

ターレットはバーベットの上部に当たる部分にあるベアリングにそって動きます。
バーベットの内部には、発射体、トレイ、マガジンから弾薬を持ち上げる
ホイスト(巻上機)などがあります。

16インチ砲を稼働させるのには125名の人間が必要であり、
バーベットそのものの重量だけで駆逐艦1隻分に相当するそうです。
バーベットの壁面の厚さは12インチ(約30cm)。
この分厚い装甲が敵の砲弾や航空機の爆撃から砲を守ります。


で、そのバーベットのカーブ、またカウンターにぴったりなんだこれが。
というわけで、ここにも備え付けのチェアをつけてしまいました。
ついでに、このカウンター部分も「バーベット」と呼んでいたようです。



さて、それではここはなんでしょうか。



「米軍アイスクリーム事情 ハルゼー提督とアイスクリーム艦」という
項のためにマンガを描いたわたしとしては、あれを描く前にここに来ていたら、
と大変残念に思ったものです。

「アイスクリームによってアメリカ軍人は士気を鼓舞された」

という驚くべき事実について(笑)語るついでに、

「アイスクリームの元には階級なく皆平等」

という不文律にしたがいアイスの列に並んでいたハルゼー提督が
順番抜かしした若い士官を一喝したというあのお話を漫画化してみましたが、
いまいちどんなところに彼らが並んでいたのかがわからなかったのです。
まあ実際に見て、描いたものと差はない気がしましたが。

艦の「ソーダファウンテン」(ソーダファウンテンから出る清涼飲料水を
アイスクリームや軽食などと共に提供する店のこと)を

 GEDUNK(ゲダンク)

といいました。
アメリカ海軍内の「俗語」で語源はよくわかっていないのですが、
ベンディングマシーンの操作音が「GEE-DANK」と聞こえるという説、
もう一つは当時のマンガ「ハロルド・ティーン」の主人公ハロルドが、
地元のパーラーで「ゲダンク・サンデー」を食べていたからという説、
さらには、中国語で ”Place of Idleness" (怠惰の場所?)という言葉を
そう発音するからという説まであるということです。

艦内のソーダファウンテンは、兵士たちに故郷のグロッサリーストアや
薬局などを思い出させる懐かしい場所でもありました。
当時はそんなところにソーダファウンテンのカウンターがあったのです。

ゲダンクバーは1日に数回だけしか開けませんでした。
ハルゼーの座乗した艦でアイスクリームに行列ができた理由は
おそらくこれだったのでしょう。



ゲダンクのメニュはソーダファウンテンから出るソーダ、アイスクリーム、
そしてソーダアイスクリーム(案外ゲダンクが発祥だったりして)、
コークにグリルドサンドウィッチなどといったものが定番でした。

後ろのモニターではかつてゲダンクで働いた人が思い出を語っています。

後方に二酸化炭素のボンベがありますが、これはもちろんのこと、
ソーダファウンテンで炭酸飲料を作るためのでしょう。

アイスクリームのバーにはディッシャーを水につけておく部分があって
現代のものと全く変わりません。





ハルゼーのエピソードですっかり有名になってしまった話ですが、
ゲダンクにおいては階級にかかわりなく全員が平等でした。
これは絶対で、どんな艦においても存在した黄金のルールでした。

なぜならば、ゲダンクはどんなに大きな戦艦でも空母でも、
艦内に一つしかなかったからです。



C.P.O.チーフ・ペティ・オフィサーつまり上等兵曹のための調理場。
上等兵曹は「E-7」、シニア・エンリステッド・マン、下士官の一番上位です。
彼らには専用の食堂や専用のベッドコーナーでの居住が許されていました。

ところで、その他の下士官兵の食事の列を「チャウライン」といいましたが、
この「チャウ」と言う言葉、東京裁判で裁判の間収監されていた巣鴨拘置所で、
戦犯とされた元軍人らは食事のたびに


「チャウ」「チャウ」

と言いながら米軍兵が食べ物のトレイをおいて行ったことを皆が覚えています。

「”めし”という意味で、なんでもあまり上等な言葉ではないらしい」

と誰かが書き残していたそうですが、そんなに下賎な意味はなく、
兵隊のランクが食事のことを普通にこう言っていたにすぎません。

もっとも拘置所で出される食事は、囚人用をわざわざ分けて調理しなかったため、
ひもじい思いをしている国民に「申し訳ないくらい」豪華なもので、
海軍の嶋田大将などぷくぷくと太り始めたぐらいだったそうです。 




おしゃれなイラストで「ボタンを押す」とあります。
もうすでにそのボタンは無くなってしまっていますが、
中の人に用事があるときにはボタンを押したのかもしれません。



その他大勢の下士官兵だと、「チャウライン」を作らなければならないのですが、
上等兵曹になると、専用キッチンで作られた食事を、
自分の寝床から薄い壁で仕切られた「メス・コーナー」で食べることができました。

ギャレーで用意されたスナックなども「mess man」という専用の係に
運んできてもらうことができたといいます。



こうしてみるとその他大勢とあまり代わり映えしないメニューって気もしますが、
長い列を作るのと運んできてもらえるのは大きな違いだったでしょう。

ところで巣鴨拘置所で収監されている戦犯容疑者たちに食事を配る係が
もう少し上のランクならば、普通にミール、とか
ブレックファーストなどと言ったのかもしれません。
少なくともオフィサーの食事は「チャウ」ではなかったはずです。

それでは違うキッチンで専用の係が調理を行っていた
上等兵曹たちは食事のことを何と呼んでいたのでしょうか。
答えは

1、「ちゃう」

2、「ちゃうとちゃう」

さあどっち?





たしか「フードプリパレーションスペース」となっていました。
野菜の下ごしらえなどをする部屋のようです。
野菜、といってもとくにじゃがいもを大量に剥いたり洗ったりは大変。
というわけで、ちゃんと専用の機械を作ってしまったのです。

奥の機械はおそらくじゃがいもや果菜の洗浄機。
右はじゃがいもの・・・皮むき器だったりしたらすごいけど多分違う。



とにかく皮むきが必要なものがあるようです。



レモンのブランドがなぜか「カッター」。
沿岸警備隊向け商品だったのかな。



さて、そんな風にして人はゴミを出しながら生きていくわけですが、
そのゴミをいかに処理するかも船では結構な問題になってくるのです。

食品準備室と同じ階に巨大なゴミ捨て場がありました。
グラインダーと呼ばれる大きな桶でいわゆる生ゴミを粉砕し、
そのあとポンプで艦外ににどばーっと排出してしまいます。
この作業は通常日没以降に行われました。

また、ビルジ(淦水、船内に溜まる汚水や垢)が排出されると同時に
取り込まれる空気がススを煙突から吹き出す役目をしました。

これらの作業は夜明け前に行うことによって漂流物から
敵に艦隊の位置を特定されることを防止していました。



ゴミといえば(笑)本当に人間ってゴミを出しながら生きているものですよね。

アメリカではリサイクルとそれ以外、という大まかな分け方で捨てるだけです。
「ダーティジョブ」でやってましたが、業者が処理場で仕分けするんですね。
ところが日本はゴミを出す人が全ての仕分けを済ませる仕組み。
日本に帰ってきた途端牛乳パックや納豆のプラスティックを洗いながら、

♪ ぼくらはみんな生きている 生きているからゴミを出す
僕らはみんな生きている 生きているからゴミが出る
ゴミ袋を太陽に透かしてみれば 自治体・推奨・半透明
資源だって 普通だって 生ゴミだって
みんなみんな 捨てていくんだゴミの日なんだ ♪

とついつい自作の替歌を口ずさんでしまうわたしです。

それではビッグマミーが現役だった戦時中、リサイクルという概念はあったのか。

我が帝国では残念ながら金属が不足していたので、仏像や銅像も溶かして
リサイクルして砲弾なんかを作っていましたし、ガソリンも「血の一滴」として
大事に使ったり、代用燃料のために松の根を乾溜したりしておりました。

ネカチモ国アメリカはそんな必要なかっただろうと思いきや、
やはりリサイクルの概念はあまねく国民に行き渡っていたようです。

鉄、金属、アルミニウム、銅、金銀などの金属類。

廃油、ゴム、絹、石油製品、そして布類。

これらは全て戦時下でのリサイクル対象でした。
まず金属、これはもうリサイクルの基本です。

そもそも、現在アメリカの博物館や公園などで見られる
第二次大戦中の銃や大砲のほとんどが、南北戦争、米西戦争、
そして第一次世界大戦の時の武器をリサイクルして使ったものです。

廃油は爆発物に使うためのグリセリンに加工され、絹はパラシュート、
兵士たちのスカーフ、あるいは天幕に利用されました。

ゴムは車両や航空機のタイヤ、救命筏などや医療器具の部品、雨具に。
古新聞古雑誌は製紙業者に回収され、リサイクル。(基本ですね)


リサイクルといえばまたしても余談ですが、
蓄音機時代のSPレコードが何でできているか知ってますか?
実はshellacといってカイガラムシの分泌する天然樹脂で、
酸化アルミニウムや硫酸バリウムなどの微粉末を固めて作りました。

アメリカはこのカイガラムシを東南アジアで採取していたのですが、
日本が仏印進駐でベトナムに、そしてビルマ攻略の時にタイにも侵攻したため、
このカイガラムシが取れなくなって国内に少なくなってしまったのです。

この結果カイガラムシの樹脂を使ったSPレコードは廃れましたが、
コーティングにプラスティックが使われたのは軍関係の装備だけで、
相変わらずコーティング剤としては必要とされていたそうです。

カイガラムシくらいあの広いアメリカのどこかにいなかったのか。




覗き込んで落ちないように、ちゃんとプラスチックの蓋をしてある気配り。
焼却炉を赤くするというのはちょっとイケてるセンスだと思います。



焼却炉前のスペースは以外と小さく、膝の高さの通路のある壁で区切られています。
扉のドッグ(レバーのことですよ。ここ試験に出ます)は赤く塗装され、
いざ!という時にはここを閉めてしまいなさい的な雰囲気が漂っております。



この日は週末でバトルシップ・コーブ全体でみるとそこそこの
観光客がいましたが、わたしのように隅から隅まで見逃すまいと、
あちらにもぐりこんだり登っていったり降りたりと言うような見学を
している見学者は皆無でした。

というわけで、ここから先、さらにディープな部分へを
一人っきりで進んでいきます。

続く。


 

リッツ・カールトンホテル ラグナニゲール

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新婚旅行で泊まって以来のリッツカールトンのファンです。

アメリカではハーフムーンベイ、フロリダのキー・ビスケーン、
そしてロスアンジェルス近郊のラグナ・ニゲールのリッツが好きで、
機会があると食事や宿泊に訪れたものですが、この夏、
たまたまアーバイン在住の知人家族に会うことになったので、
そのついでにラグナニゲールリッツに一泊しました。

いつもなら1日いくらでホテルに泊まっているので、
外泊はもったいないという気になってしまうのですが、
今年は月単位でアパートを借りているのでその点気が楽です。

たまたまマリオットホテルのリワード(会員ポイント)が
もうすぐ期限切れというメールが来ていたので、
リッツの宿泊費に充てることを思いつきました。

少し金額を追加するだけで憧れのリッツ、しかもベイビューの部屋に一泊です。



友人と遅い昼をアーバインで食べ、さらには海水客でごった返す
海岸沿いの道路をナビが選択したため、ホテルに着いたのは日没前でした。



部屋は4階のベイサイド。
なんと、ポイントで部屋を予約したというのに、リワード会員だったので
ホテル側がアップグレードしてくれたらしく、クラブフロアでした。

部屋のベランダからは素晴らしい眺め。



ホテルの部屋は大きなベッドが一つだけだったので、予備ベッドを頼みました。
ただ、この日は忙しかったらしく、なかなか届けに来ませんでしたし、
スリッパも常備しておらず、これも注文して届いたのは翌朝。

「あの」リッツのちょっとした凋落を感じてしまったできごとでした。



と、いきなりネガティブ入ってしまいましたが、それは些細なこと。
夕日を見ながら部屋を楽しみます。



アメニティのブランドがアスプレイに変わっていたのも嬉しい。
アパート用にと、シャンプーと石鹸は皆持って帰りました。(貧乏性)

相変わらずゴージャスな洗面所ですが、大理石のシンクや床は、
どうも日本人には「冷たすぎる」と(特に床)感じます。
しかもそんなところで使ううがい用のコップがうっすーいガラス。
案の定、手が滑ってシンクに落とし、割ってしまいましたorz

お詫びのつもりでチップは多めに置きました。



一人部屋になりそうな広いクローゼット。



最初にラグナニゲールのリッツを知ったのは、この椅子の後ろから
広がる海を撮ったホームページの美しい写真でした。

念願叶って1階の、この椅子の後ろ側の部屋に泊まった時には、
はしゃいでその写真と同じ構図の椅子を撮ったりしたものです。



今日は結婚式がここで行われたようです。

パーティは一応終了したようですが、招待客がまだ語らっています。
やはりリッツで結婚式をあげる家とその知人ですので、
見た目もみなさんゴージャスでいらっしゃる。

アメリカ人は普段超がつくほどカジュアルですが、
いざパーティとなると男女ともにビシッと決めます。



両親がガゼボの下で写真を撮っているので、子供達は
横ではしゃいでいます。



男の子はネクタイにスーツ(ポケットチーフまで!)
女の子はお姫様のような裾の広がったドレス。

こうやって幼い時から「ふだん」とちがった「よそいき」の装いの基本を学ぶんですね。



子供たちが親に呼ばれて走って行くと、すぐにホテルの人が来て
あっという間にガゼボは片付けられてしまいました。



7時過ぎでも陽が沈まないのでサーフィンをしています。



望遠レンズで撮ると彼らの表情まで手に取るように写っていました。

「おらおら、そっちいくぜー!」

「おい、マジでこっちくんじゃねー!」



そしてその後日没を部屋から楽しみました。



開けて翌日。
クラブフロアは朝、昼、夕、夜と食べ物が出されるのでレストランいらずです。



早朝はパロアルト付近のように曇っていました。
しかしカリフォルニアはこのまま1日が終わることは決してありません。
早いと7時には太陽が雲を吹き払い、1日強烈な暑さとなります。

サーフィンをする人たちは夜明けとともにもう海に出るようでした。



またしても望遠レンズの威力を試すわたし。
このサーファーは肉眼では女性であることはわかりませんでした。



昨日結婚式会場になっていたところには椅子が戻され、
1階の部屋の人が朝の新聞を楽しんでいます。



わたしたちはクラブの隣の部屋だったので、せっせと朝食を運び、
テラスで海を見ながら食べることにしました。

アメリカ人は朝ごはんに決して葉っぱを食べないらしく、
どんなホテルでもビュッフェにサラダが出ていたことがありません。



わたしたちがテーブルに着くと、すぐにギャラリーが現れました。



食べ物を残したまま席を立つのを鳥視眈々と待ってます。

 

なんとなく望遠レンズで写真を撮って、あとから確認したら
目玉がしっかりこちらを凝視していました。



怖い。



向かいの椰子の木にもカラスが止まってこちらを見ています。
こちらは黒い目なのでそんなに怖くありませんが。



下の庭(結婚式をやっていたところ)に野うさぎ発見。



ホテルの4階から地面を撮ってこのズーム。
Nikon1の望遠レンズ、優秀です。



植え込みのところからおずおずといった感じででてきました。



なんかここの芝が食べてみたかった、みたいな?
うさぎの白目部分までちゃんと写っているのにびっくり。



そのうさぎを真剣にiPhoneで撮ってるおじさん(笑)
この写真、一応目にマスクをかけているのですが、あまり効果ありませんね。



野うさぎは白兎よりふたまわりくらい小さいのが普通です。
おそらくこれで体長20cm少しといったところでしょうか。

アメリカではうさぎはどちらかというと「食べるもの」「害獣」で、
日本人みたいにペットにするという感覚は全くないそうです。



見ていたらもう1羽出てきました。
捕まってリッツのディナーテーブルに乗らないようにねー。



チェックアウトを1時に延ばしてもらい、午前中を思い切り楽しむために
わたしたちはホテルから海岸に降りることにしました。



ホテルの周りには「塀」というものがなく、砂浜と行き来できます。



半円形のガラスのあるところはホテルのジムです。



一番端のコーナーまで来てみたところ、ここでヨガ教室をしていました。
驚いたのは、ヨガの先生がものすごく太っていたことです(推定体重1t)

「あんなに太っていてヨガの先生ってなんか説得力なくない?」

「っていうか、あれでいろんなポーズ取れるんだろうか」

実はかなりその点興味津々だったのですが、ジロジロ見るわけにも
さらには写真を撮るわけにもいかず、わたしたちはその場を去りました。



この脇の階段から海岸に降りていくことにしました。



ここにもサーフィンを楽しむ人々がたくさん。
みていると、プロ並みの人もいるのではないかと思われました。



どう見ても中学生。いや、小学生かな。



パンツが脱げそうで見ていてハラハラした人。



年齢も様々です。



男性と女性サーファー。



この人はプロ(確信)



サーフィンは激しいスポーツらしく、太った人はまずいません。



TOは砂浜を歩きに行き、わたしとMKはジムに行くことにしました。
運良く真ん中のマシンが空いていたのでここで海を見ながら運動。

わたしに言わせるとここは「世界で一番いい眺めのジム」です。



たっぷり汗をかいて部屋に戻り、シャワーを浴びて一休みです。
日曜日なので浜辺には海水浴客がこんなに。



サーファーもイモ洗い状態。(アメリカにしては)



水上バイクで競争している人たち。



クルーズかドルフィンウォッチ?ジェットボートで運ばれる人たち。



もう一度部屋からサーファーウォッチングを楽しみました。







チェックアウトしてからメインダイニングに昼食を食べに行きました。
十分昼ですが「ブランチコース」だそうです。



アイスティー(日本のよりあっさりしている)を頼むと
サトウキビのスティックが刺してありました。
飲み物が甘くなるほどではありませんが、噛むとほんのり甘みがあります。



ペット用のメニュー(どこで食べるの?)があったのには驚き。

挽いたサーロインをソテーしニンジン、セロリ、ポテト、ブロッコリ、
カリフラワーと混ぜて焼いた「ドッグボーンミートローフ」18ドル。

鶏胸肉と米とヨーグルトをミックスした「パピーラブ」18ドル。

生、あるいはグリルした鮭「キティーズ・サーモンシュプリーム」20ドル。

うーん・・・・・(絶句)。



デザートですか?いえ違います。
サンデー『ブランチ』なので最初にヨーグルトが出てきました。



幾つかのメニューから選べるので怖いもの見たさでスシを取りました。
ちゃんと海苔巻きのスシがでてきたのには感動しました。
(アメリカ人はノリの黒が嫌いなので外に巻かないことがある)



TOが頼んだホタテとマグロ。



わたしのはポーチドエッグの下にカニだったかな。



さらにデザートが一人一つ出てきたりするのだった。
家族で外食するとき、デザートはたいてい三人でシェアしますが、
ここではもう覚悟を決めるしかありません。
息子はチュロスは喜んで食べてしまいましたが・・・、



さすがにチーズケーキ(しかも大きい)は多すぎました。



なんでもリッツがここオレンジカウンティの「海以外何もない土地」にホテルを建て、
観光地にしてしまったというのがこのラグナニゲール・リッツ。

またこの大好きな場所で海を見ることができて幸せなひとときでした。





駆逐艦「長波」慰霊碑〜京都霊山護国神社

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夏前に京都護国神社に参拝した時のご報告です。
この広い境内に建立されている顕彰・慰霊碑を紹介していきましょう。



馬に乗った兵士の帽子から、明治時代のものだとわかります。

騎兵第20聯隊
騎兵第120大隊
捜索第16聯隊
捜索第53聯隊

の慰霊碑。

騎兵第20連隊は姫路で結成されましたが、錬成の地が京都の深草だったことから
京都の護国神社に慰霊碑が建てられることになりました。

車での移動中偶然見つけた「陸軍用地」の石柱をきっかけに
伏見が「陸軍の街」であることを知ったのですが、そのせいか、
この護国神社にも陸軍の部隊の顕彰碑が多くあります。

捜索第16連隊は大東亜戦争においてはすでに騎兵ではなく、
軽装甲車2中隊、自動車2中隊としてルソンで方面本部と共に戦い、
そこで終戦を迎えています。

ブロンズ像は結成時の、まだ騎兵だった頃の兵士の姿です。



馬と言えば、ここには愛馬の碑という、軍馬慰霊碑がありました。
「めんこい仔馬」という歌を思い出しますね。



野砲兵第122聯隊の顕彰碑。 

連隊は昭和13年伏見で編成され、直ちに大陸に渡り終戦をそこで迎え、
昭和21年復員してきました。
顕彰碑は生きて帰還を果たした元将兵たちの手によって建立されました。



ひときわ大きく人目を引いた「陸軍特別操縦見習士官之碑」。
揮毫したのは佐藤栄作首相(当時)です。(達筆!)
特別操縦見習士官とは大東亜戦争終盤、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を
予備役将校操縦者として登用した制度あるいは登用された者を指していいます。
特操と略し、学鷲(がくわし)と呼ばれることもあったようです。

4期生までが養成されましたが、そのうち特攻に動員されたのは1期生と2期生です。
あとは末期になって飛行機と燃料がなくなったため、大部分が生き残りました。

慰霊碑の横にある碑文には、

「二千五百余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として
祖国の危機に立ち上った。二期、三期、四期と続く。
ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、
ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした。

悪条件のもと夜を日についだ猛訓練を行ない学鷲は
遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃れ、
また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。」

とあります。
これも建立は「特操会」となっており、生存者らしいとわかります。 

慰霊碑には「隼」「飛燕」など陸軍の飛行機が描かれ、軍刀を手に
立つ彼の座っていた椅子には、書が開かれたたまま伏せて置かれており、
学業半ばにして彼らが戦いに身を投じたことを表しています。




さらに、碑文の脇にはラバウルから採取してきた石が展示されています。



こちらは海軍飛行予備士官の霊を祀る「白鴎顕彰之碑」。
上の区域にありました。

舞鶴に海軍基地はありましたが、京都で編成された部隊がなかったらしく、
海軍学徒士官の慰霊碑は密やかなものでした。




後ろの階段から先は一人300円の拝観料を自動改札機に入れて入場します。
理由はわかりませんが、国からの補助がなくなったことと、上には特に
坂本龍馬の墓(慰霊碑ではなく本当の墓所)があるので、誰でも入れるようにすると
何かと面倒なことが起こるからに違いありません。

ゲート手前の境内には並べられたいくつもの慰霊碑が。
左から

◯歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑
  
   ビルマ方面軍の指揮下で戦い当地で終戦を迎える



第128連隊が転戦した戦地が地図で示されています。



その戦地をめぐり集めてきた現地の石と共に、現地に遺されていたらしい
鉄兜と銃が据えてあります。

息子がこれを見て、継ぎ目などが消滅し銃口も塞がっているため

「これ、本物じゃないよね」

と勘違いしたくらい、経年の錆びと腐食が層になって銃身を覆っていました。



◯御宸筆 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納の地

◯歩兵第百九聯隊顕彰之碑 
   
   日中戦争から大陸にあり、最終地は湖南省



神社を抱く山の斜面には境内に慰霊碑のある部隊についての
編成から終戦に至るまでの戦歴を記したものがあり、



全員の名前が記されている巨大な石碑がありました。
戦死した者だけでなく、戦後亡くなった人も名を刻むことができるようです。

◯石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦歿勇士慰霊碑

   天津で編成され、北支から最終的には沖縄戦に参加
   昭和十九年沖縄に転戦米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末
   部隊は突撃を敢行全員玉砕す、と碑文にある

◯第二十三野戦防疫給水部 戦歿者慰霊碑

   ニューギニアで戦死 野上軍医少佐以下138名
   パラオで戦死 河原軍医中尉以下26名
   内地帰還後戦没 高渕軍医少尉以下26名

防疫給水部とは陸軍にあった、疫病対策を目的とした医務、ならびに
浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊を指します。
軍医が隊長を務めていたことから、衛生部隊をも兼ねていたようです。



右から、

◯鎮魂  前述・歩兵128連隊の慰霊碑


         
◯ビルマ方面派遣安 工兵第五十三聯隊顕彰碑

足元にはビルマの石で作った狛犬のような像あり
    
   「ビルマの各地に勇戦奮闘 工兵の本領を発揮して輝しい戦歴を残した
    然しながら 雨季の泥濘と乾季の灼熱に加え悪疫瘴癘の戦場に於て 
    長期激戦の為620余名の戦友が護國の神と化した」とある

    補給線を軽視した作戦のため多くの犠牲を出したインパール作戦に参加

◯嵐第六二二七部隊 輜重兵第百十六聯隊顕彰之碑
 
日中戦争後京都で編成された第116師団の輸送・需品科。
慰霊碑には
    
   「もの言わぬ軍馬の献身に支えられて七年間の悲惨な戦いに耐えた 
    長江の流れ アラカンの山 はるか遠い異境の地で 
    血と泥の戦場に散ったわが友よ 再び帰らぬ愛馬よ」
    
とあります。



◯第百十六師団衛生隊顕彰碑

     病兵の救出収容、警備、医療を任務とする衛生隊
     終戦を迎えた中国・安慶の石とともに



第116師団衛生隊の生存者によって書かれた大陸での戦歴。
5年の間に収容した患者数は13,000以上であることや、戦後生存者が
編成地の滋賀県と安慶市の間に友好を結ぶべく、桜を寄贈するなど
活動と努力を続けてきたことが記されています。



ほとんどがで編成された師団・部隊の慰霊碑となりますが、滋賀も含まれるようです。



ここで有料ゲートから奥の墓所・慰霊碑のある区域に入ってみました。
周りも荘重に設えられたこの一角はおそらく昭和14年からあるものでしょう。



碑の正面、裏面、どこを見ても全く文字が解読できないわけですがorz
これは、墓所の頂上に木戸孝允の墓があることと関係していると見え、

「木戸公神道碑」

と名付けられています。



碑の両脇に左右対称に植えられた樹木には

「明治維新百年記念植樹」

とあります。
明治維新元年がいつかという定義は難しいと思うのですが、仮にこれを
大政奉還の行われた慶応3年(1867年)だとすると、この植樹が行われたのは
1967年(昭和42年)ということになります。



水が淀んでしまっていますが、できた当時は人工滝となる予定だった池。
ここは「昭和の杜」という広場で、大東亜戦争参加者の慰霊のために整備されました。



乃木大将の母の慰霊顕彰碑がありました。

明治29年、乃木将軍は台湾総督となり、母親の壽子と夫人静子を伴いました。
赴任地の台湾で母親は亡くなってしまったのですが、遺言によって亡骸は
台北の共同墓地に葬られ、最初に台湾の土となった日本人移住者となります。

明治天皇大葬の日、乃木将軍夫妻が殉死したのち、
夫妻の遺髪だけが台北に送られ、母堂の墓側に葬られることになりました。

昭和35年中華民国政府は、北投にある中和禅寺に日本人無縁公墓を創建し、
それ以来乃木家の遺骨遺髪を、霊位とともに祀ってくれていましたが、
昭和43年、明治百年記念事業として日本の団体が、乃木家遺骨遺髪及び霊位を
故国に奉還し、ここに合祀して碑を建てたという経緯です。




京都という地勢上、当護国神社には海軍、ことに軍艦の碑は
ないものと思っていたのですが、たった一つあったのが駆逐艦「長波」の碑。

昭和十九年十一月十二日
レイテ島オルモック湾に於いて
戦没乗組員二百四十七柱

最近供えられたらしいかすみ草の花束がありました。

長波は1942年6月30日、大阪藤永田造船所で竣工
同年8月北方キスカ島へ船団護衛 
九月南方トラック島へ向う第二水雷戦隊の一艦としてショートランド基地として、
ガナルカナル島の陸軍部隊を支援10数回にわたる輸送を遂行
同年10月南太平洋海戦、11月にはルンガ沖夜戦にニ水戦旗艦として参加、
1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島の撤収作戦に従事す

この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港
修理後九月に南下ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加

11月11日ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となり、
巡洋艦「夕張」及び「長良」の両艦に延々5,000海里を曳航され、呉軍港に入港修理後、
翌年七月連合艦隊と共にシンガポール港に入港
10月ブルネイ港を経由レイテ島沖海戦に参加
11月マニラとレイテ島間の物資輸送護「エ」作戦行動中、オルモック湾において
米空母艦載桟350余機と交戦 激烈な対空戦闘の末ついにオルモック湾に戦没する

戦没者 247柱
時刻12時45分
東経124度31分
北緯10度50分



長波の名とともに何人かの記名がありましたが、人数の少なさからみて
これは碑の創建に携わった生存者ではないかと推察されます。



どこかで見た名前だなあと思ったら、このかた自民党の議員ですよね。
林田悠紀夫氏は舞鶴出身で、京都府知事を務めたこともありました。


林田氏は東京帝國大学法学部卒業後、海軍短期現役士官となり、

第三一航空隊主計長としてマニラ、ジョグジャカルタで勤務
1945年4月、ボルネオ海軍民政部経済課長を命ぜられパンジェルマシンに転属
7月連合軍のバリクパパン上陸によりボルネオのジャングルで戦闘に当たった
敗戦後1年間の捕虜生活を送り復員

とWikipediaの経歴にはありますが、「大鯨」勤務だったという記録はどこにもありません。
可能性としては「大鯨」で南方に向かった経歴があるといったところでしょうか。







 

スタンフォード・ディッシュ〜シリコンバレーリス模様

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 シリコンバレーのディッシュトレイルに生息する
海軍リス戦隊ことカリフォルニアジリスたちについてです。 

散歩コースは二通りありますが、右回りすると最後に
素晴らしい眺めを見ながらただひたすら降りていくことになり、
こちらがわたしのお気に入りです。 



前回自然界の厳しい掟を体現してくれたサギが、今日も来ています。
それにしてもどうして今までいなかったサギが今年はこんなに
ここにやってきて餌を漁っているのか、しばし考え、そして
このことに思い当たりました。

2015年から言われているカリフォルニアの深刻な水不足です。
どこのホテルでも、水不足なのでご協力くださいという告知が貼られ、
わたしもいつもペリカンを取りに行くショアライン公園で、
池の形が全く変わってしまったのを見てそれを実感していましたが、
もしかしたが彼らは水場が少なくなり、魚が取れなくなった地域から
こんな山の中に仕方なく餌を求めて出張してきているのかもしれません。



もちろん聞くわけにいかないので正解はわかりませんが、これは
かなりの確率で当たっているのではないかと思われました。
今までいた水場が干上がってしまったとしても、縄張りのこともあるし
他の水場に行けないといったサギなりの事情があるのに違いありません。

「だとしたらかわいそうにねえ」

「きっとサギだってトカゲなんて食べたくて食べてるんじゃないと思うよ」

「だよね。トカゲってほら、なんか苦そうだし」

「そういう問題じゃない」



超望遠レンズで撮った小さなトカゲさんはお昼寝中。
これで体長3センチくらいです。



坂を下りていくと、スタンフォード大学のシンボルであるフーバータワーが現れます。
このフーバータワー(フーバー大統領の名前だと思ってるけど実は知りません)は
飛行機でサンフランシスコに着陸する寸前にもはっきり見えます。



リスが食べるのはたいてい枯れたようなこの辺の茶色い草。
必ず両手でしっかり持ってお行儀よく食べます。



リスが一番可愛いのはこの手の使い方であると断言。



ときどき草以外のものを食べていることがあります。
このリスはなにかわかりませんが黄色いものをかじっていました。



黄色い花かもしれません。



食べているといえば、こんかい非常にショックな光景を見てしまいました。
一匹の小さいリスが、なにかを見つけたところ、他のリスも興味を示し、
最初のリスはそれを持って逃げ、誰もいないところで・・・、



ぱく。

「何食べてるんだろうね」

肉眼では確認できなかったので、わたしは何枚も望遠で写真を撮り、
そしてそれがなんだったかを知り、戦慄しました。(大げさ)



け、毛が・・・。
毛が生えているうう!



「んん?なんか文句ある?」



これって、リス以外の、野ネズミかモグラの赤ん坊の死骸なんじゃ・・。



知らんかった。
リスって肉食もするのか?
それとも、このリスは子供なので、食べられると勘違いしている?

いずれにしても、私たちの視線に気づいて、このリスは
獲物をくわえたまま逃げて行ってしまいました。
この子がその後ネズミの死骸を食べたたのかどうか気になります。



そこで出てくるネズミ画像。
リスとは動きがちがうのですぐにわかります。
体が小さいのでサギに捕まって食べられてしまっていました。

しかし、この一帯で動物の死骸というものを見たことがありません。
その理由は、死んだ途端、誰かが食べて片付けてしまうんですね。



ラズリくんも地面に降りて虫を探しています。
みんなみんな生きていくためには他の命を奪うしかないのです。



気づいたのですが、リスは青い草もときどき食べています。
リスなりにバランスというかビタミンの摂取に気を使うのでしょうか。



立って両手で草の先を食べる姿もよく見ます。






サギがいるところ、空をタカなどが飛んでいる時には、
地面には影も形も見せないリスですが、どういうわけか、
こういう手すりの上だと保護色になって狙われないのか、
彼らがいても平気な様子で外にいる時があります。



動かなければ上空からは視認されないのでしょう。



彼らは必ずお腹を陽に当てなければいけないようです。
お風呂に入るようなものかな。
じっと手を組んで、まるでお祈りをしているような姿のリスも。



物思う風。



いつも柵の上にリスがいる一帯があります。



そこではこんな光景もよく見られるのですが、このとき、
このうちの一匹がまた「空襲警報」を始めました。



警報を発令するリス、というのは決まっているのか、
それとも気づいたものが行うのか、ぜひ知りたいものです。



このときは空を天敵である鳶が飛んでいました。



この柵の上にいると鳥は来ないと信じているようです。
リスはここからずっと鳴き続けました。



柵の下段も、鳥に襲われない安全なゾーンらしく、このように
寝そべってくつろいでいます。



枝が邪魔で平たくなっているリス。



なんか柵を噛んでいるようなリスもいました。



アップにしてみましたが、マジで噛んでます。
歯の手入れ?で何かをかむこともあるのでしょうか。



リスはあまり団体で行動しませんが、たまに二匹の単位でいることがあります。



しかしほとんどのリスは餌場でバッティングするとすぐに喧嘩を始め、
強い方がそうでない方を自分の周りから追い払ってしまいます。



負けた方は文字通り尻尾を丸めて逃げていくのでした。



さて、今回は喧嘩ではなく、おそらくオスとメスの触れ合いを目撃しました。
おそらく、この後ろがわがオスです。



メスに近づいてきて、先に尻尾の下の匂い確認。



メスはすっかりその気・・・かもしれません。



ところがオスはひょいっと前に移動。



どうやらメスの顔を確認したいみたいです。
後ろ姿で、お、いい女!と思ったら、顔も当然見るでしょ、みたいな?



♂「うーん・・・・・・これは・・・」
♀「?」



♂「・・・もう一度確認させてもらえますか」
♀「このひと(男)何をぐずぐずしてんのかしら」



♂「あ、すみませんけど、ちょっと・・」
♀「え?なに?なんなのよいったい」



♂「ちょっと携帯が鳴ってるみたいなんで・・」
♀「はあ?」




♂「思ってたのと違うっていうか・・・ごめんねー!」
♀「はああああ?!」



♀「ちょっとなにあれ、ムカつく!信じられないんですけど!」


というわけで、例によって見ているときにはなにもわからなかったのですが、
写真を解析してみると、1秒そこらの間にこんなドラマがあったのがわかりました。
リスの世界にもいろいろあるんだなあ(涙)



というわけで、今年のリス戦隊レポートを終わります。
また来年(があるかどうかわかりませんが)をお楽しみに。


 

女流飛行家列伝~マリーズ・イルツ「恋に生き、空に生き」

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彼女の生まれた年1903、という文字をタイプしながら、
黎明期の女流飛行家と言われる人にこの年の生まれが非常に多い、
ということにあっと気がつきました。

というのは、この1903年の12月17日、他でもないライト兄弟が、
固定翼機による動力飛行を行っているのです。


人類はおそらく人類としての歴史が始まるとともに

「なんとかして鳥のように空を飛べないものか」

という探求を続けてきたのではないでしょうか。
紀元前4世紀には、蒸気式の飛行体をギリシアの学者が飛ばしたらしい、
という話もありますし、3世紀には諸葛孔明が天灯という熱気球を飛ばした、
という話も伝わっています。

ですから、ライト兄弟が「人類として初めて空を飛んだ」ということは全くないのですが、
それまでの飛行方法から一気に今日の「飛行機」に躍進するきっかけが、
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」だったわけです。

そしてこの年、1903年にこの世に生を受けた女性の少なくない人数が、
空を飛ぶということに人生を賭けたのは、決して偶然でも因縁でもなく、
それは空に乗り出す最初の女性になるべしとの「啓示」のごとく思われ、
進路を空に向けたのではないかという気がしてなりません。

まあ、簡単に言うとちょっとした世代の「ブーム」という説もありますが(笑)



操縦桿を使う最初の操縦者が出現するのが1907年。
1908年には次々とライト(弟)が飛行実験を成功させ、アメリカ陸軍が飛行機を採用し、
初めての「航空機事故で死んだ人間」の栄誉?を獲得しています。

1910年になると、この流れはビッグウェーブとなり、世界中で飛行機開発が
こぞって行われ、世界最速記録(時速106キロ!)も生まれるのですが、
なんと、この年には女性パイロットだけによるレースも行われているのです。

レースが行われた、ということは、それまでにも何人かの女性が
飛行機にチャレンジしていたということで、つまり女性パイロットというのは、
殆ど男性のそれと時を同じくして出現していたということにもなります。

「女たちは飛ぼうと思わなかったのだろうか」

と、以前作成した朝鮮人飛行家の朴敬元の伝記を書いたフェミニストは、
しょっぱなでこのように嘆いてみせましたが、もちろん飛ぼうとしたんですよ。
ただ、その絶対数が語るに足るほど多くなかった、ということです。

現在でもパイロットという職業はほとんどが男性で占められている、というのと、
実質的にその理由に変わりはなかったという気がしますがね。(嫌味)


ところで、この「世界初の女性パイロット」が生まれたのはどこだと思います?
意外とそれは飛行機王国となったアメリカではなく、フランスなのです。



この、レイモンド・ド・ラロシュという女性は、元々気球を操縦していました。
女優であったため(たぶん)男性の飛行士からの申し出で、
ヴォアザンという飛行機の操縦を習うことにしたのですが、
最初のタキシングのあと、制止されるのを振り切っていきなりスロットルを全開にし、
勝手にテイクオフしてしまいました。

というわけで、彼女が「最初に飛んだ女性」となったわけです。
1910年のことでした。

「今飛べば、わたしが世界初の女性だわ」

と内心彼女は「狙っていた」疑いが濃いですね。



ヒラー航空博物館で紹介されているのはほとんどがアメリカ人女性飛行家でしたが、
ライト兄弟の国にしかこういった女性は生まれなかったわけではもちろんありません。
黎明期の「初記録」には、アメリカと並んでフランスとベルギーのパイロットが
多くの名前を残しており、裾野も広かったということがわかります。

フェミニスト作家が「飛ぼうと思わなかったのだろうか」と嘆いた日本ですら、
1913年には初の女性飛行士(南地よね)が出現しているのです。


さて、本日の画像に描いたフランス美人、マリーズ・イルズ。

彼女の持っている「初」記録は、わたしたちにも関係があって、

「パリ—東京—パリを飛んだ最初の女性」

というものです。
この他、

「パリーサイゴン間の最速到達(4日)」
「パリ—北京間を飛んだ最初の女性」
「プロペラ機で1万4千310mの高高度到達した最初の女性」

という記録も持っていました。

マリーズ・イルズ、本名マリ−アントワネット・イルズは、
飛行士の免許を取るために、スカイダイビングで資金を稼いだという「ますらめ」です。
21歳の彼女は航空ショーで落下傘降下を何度も行い、その際、
しばらく翼の上に立つなどして聴衆を沸かせました。

この経歴は、後の1936年、女性最速記録に挑戦しているときに機が失速し、
パラシュートで脱出したときに生かされました。

彼女はまたメカニックを使わず、機の点検はすべて自分一人で行いました。


写真に残るマリーズは、ご覧のように大変エレガントな雰囲気の美人です。



物陰で着替えをする彼女の姿が残されています。
今から飛行服を着ようとしているのか脱いでいるのか、
それはわかりませんが、スーツの下はどうみてもワンピース。

このころは「モガ」ファッション全盛で、女性用のズボンなど、
ディートリヒやキャサリンヘップバーンなどが穿きだしたばかり。
ですから彼女のこのいでたちも不思議ではないのですが、
どちらかというとこれは、彼女がこの後、すぐに男性と会うため、
あえてこのようなものを着込んでいる気がします。

白い襟に腰にはベルト。
とても飛行服の下に切るのにふさわしいスタイルには見えません。

このようにわたしが勘ぐるのも、彼女について書かれたフランス語のサイトで、
日本のWikipediaには載っていない、彼女の恋についての記載を見たからです。

「1930年の初頭、彼女はパイロット仲間である
アンドレ・サレルとの情熱的な不倫に落ちた」

いやー、さすがはアムールの国フランスのwiki。
飛行士の経歴に不倫の恋なんて書いてしまうんですから。

フランスは偉大な哲学者を生んだこともあり、国民総哲学家みたいなところがあります。
何でも哲学してしまうあまり、サルトルとボーボワールのような関係、
つまりお互い自由意志に基づいて事実婚をしながら第三者との恋愛はOK、というような
すかした恋愛を偏重するきらいがあるようですが、また法律に捕われない恋愛、というのは
彼らにとってごく普通のことと捉えられているように思えます。

驚くほど事実婚、結婚前の同棲をするカップルが多く、気軽に結婚して気軽に離婚する
アメリカと比べると、離婚率も故に少ないのではないかと思われます。

マリーズは独身だったので不倫、ということは、相手の男性には妻がいたということなのですが、
wikiに残るくらい公然とした仲ではあっても、彼らは全く結婚を考えなかったらしい。
そして、どちらもが危険のない平穏な生活のためにキャリアを捨てることはもちろん、
法的に結ばれることすら全く望んでいなかったようです。

この恋愛関係はきっちり三年続きましたが、テストパイロットだった男性の事故死で
終止符が打たれることになります。
サレルは、1933年、フランスのファルマン航空機という会社のF420というタイプをテストしていて、
メカニックとともに墜落、殉職したのでした。
このタイプはそのせいなのかどうか、製品化されずに終わっています。

1941年から彼女はレジスタンスに加わり、レジスタンス空軍のパイロットとなります。
そのミッションの一つにはトルコのあるアルスーズに強行着陸するというものもありました。

戦後、シャルル・ド・ゴール政権で、第二次世界大戦中マリナ・ラスコヴァが作ったような
女性飛行隊を作ることが決まり、国内一流の女性パイロットが集められました。
このときにメンバーには、カンボジア方面司令となったマリーズ・バスティ、
初めてフランスで戦闘機パイロットとなったエリザベト・ボセリなどがいます。

この空軍は「試作」として、訓練が続けられていましたが、1946年、
軍備大臣が反対派だったため、あっさりと廃止されてしまいました。
しかしながら、空軍はこのときのリストから「使えるパイロット」を何人かリストアップ、
マリーズ・イルズとエリザベト・ボセリが選ばれ、特にボセリはA24ドーントレスから、
戦闘機パイロットに配置されます。

しかし、すぐに女性パイロットを空軍で活用するという試みは頓挫することになります。
もちろん予算の問題もあったようですが、原因は他でもない、マリーズ・イルズの墜落死でした。


1946年1月、悪天候のため彼女の乗ったSiebel24は地表に激突、
マリーズは中尉として、43歳で殉職します。

彼女の鎮魂のために、ル・ヴァロア・ペレのある公園には、
翼の形を象ったモニュメントが建てられています。




不倫の恋に身を焦がしてから死までの23年の間に、彼女が一度も恋をしなかった、
などということはその情熱的なことから考えてもありえないでしょう。

しかし、彼女は生涯結婚をしないままでした。
フランス人らしく恋愛至上主義であればこそ結婚という制約に縛られない愛の形を
常に選んだ結果だったでしょうか。

いつも空を飛びながら命の限界を見てきた彼女は、恋というものが命以上に儚い、
しょせんこの世のうたかたであることを達観していたのかもしれません。


 


 

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