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ビナクルと「ケルビンのボール」〜戦艦「マサチューセッツ」

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ボストンのウォーターフォール市にある「バトルシップ・コーブ」。
自称世界一の充実した戦艦博物館ですが、その中でもメイン展示であり、
ここの目玉でもある戦艦「マサチューセッツ」の見学もようやく
艦内の主要施設に到達しました。

戦艦の心臓部が機関室だとすれば、頭脳に当たる、
CIC、コンバットインフォメーションセンターです。




しかしその前に、CIC周辺にあった施設を見ることにしましょう。
ここは「キャプテンズ・オフィス」です。
戦艦という社会単位における行政の中心となります。

というわりになんだかスカスカした間取りのような気がしますが、
いわばここは艦長の秘書室みたいなところですから、広々とした部屋で執務を行うべし、
ということかもしれません。
それとも、体重120キロだった最後の艦長シャフロス中将のための特別仕様?




部屋には執務机がいくつかあるのですが、これは艦長以外では
副官とか事務官なんかのオフィスワーカー専用であろうと思われます。

この入り口にあった説明には、

「フネが一つの市だとすれば艦長は市長、そして乗組員は市民。
ただしこの市民は全て市長のために雇われていて、衣食住、
給料から教育、交通や娯楽、訓練などのために働くことを求められます。

乗員にはキャプテンズ・オフィスに対して敬意を払うことが常に求められ、
艦長はこのオフィスに対して幾つかの権限を委任するのが一般的でした」

と書いてありました。



壁にはルーズベルト大統領の写真がありますね。

ところで権限が与えられていたわりに、彼らはこんなベッドで寝ていたようです。
まるで収納棚のような高いところにあるベッド、どうやって登るのでしょう。
仕事が終わったら机の上から靴のままよっこらせ、ってか?

この事務所の役割は、無線、下達された命令の全て、補給に関すること、
告知や通達の全てを記録(スコア)することでした。
海軍の活動についての広報も全てこのオフィスを通して行われました。



「Warrant Officer's Stateroom」

ベテランの専門職集団である准士官は下士官の特権階級です。
彼らの居住区(カントリーという)はセカンドデッキの一隅を占めており、
各々が個室を与えられていました。

英語では士官を「コミッションド」、下士官を「ノン・コミッションド」オフィサー、
といいますが、この「ウォーラント・オフィサー」というのは、いわば
「コミッションドとノンコミッションドの間」の地位にあたります。

現代の自衛隊では「准尉」がこれにあたります。
去年の観艦式で朝開場を待って並んでいたら、出てきた自衛官の一団が
そのうちの一人に「◯◯准尉」と呼びかけていたので、
海自にも准尉っているんだなあと思った覚えがあります。

海自では、准尉とは

掌船務士等(艦艇において副直士官として当直士官を補佐)

海上訓練指導隊指導官(艦艇乗組み幹部等の術科指導を実施)

司令部の班長等、特技に関する専門的事項について幹部を補佐する職

となっており、

「特技職における熟練者としての高度の知識及び技能並びに
海曹士としての長年の経験を背景に幹部を補佐する職」

「分隊士及び係士官として特技職に係る専門業務及び業務全般について
幹部を補佐する職」

やはりこちらも専門職であることを限定されています。 
ここでふと気付いたのは、自衛隊の規範には「幹部(士官)の補佐」
とあるのに対し、アメリカの准士官はそれだけで5階級に分かれており、 
非常に独立性が高い専門職であると明言されていることです。

このためアメリカでは、ベテラン准士官が将校よりも高給であることも
珍しくないそうですが、自衛隊がこの点どうなのかはわかりません。 



その准士官の居室の机の上を見てみましょう。
コーヒーにオレンジジュース、そして灰皿にはパイプ。
パイプを嗜むというのは結構手間のかかることのように聞きますが、
准士官とパイプ、というのはというのはイメージが合うのかもしれません。
机の上に置かれた木箱の「ダッチマスター」というのは、
今でも手に入れることのできるアメリカ製の葉巻のメーカーです。

読みかけの本はベテラン船乗りらしく、艦船のグラフ雑誌ですね。



部屋には二つのバンク、(あれ、二人部屋?)洗面所、
机、電話も備えてあり、これが典型的な当艦の准士官室の仕様でした。

手前の陸軍ちっくな軍服はおそらく「タン・ドレス・ユニフォーム」でしょう。



軍服といえば、廊下にいきなりガラスケースがあってそこに展示されていた
刺繍入りの下士官用軍服。
全貌はよく見えないのですが、裏地に縫い取られた刺繍の意匠は
どうみても、ドラゴン。

裏地に龍を刺繍で入れるなんて、まるで日本の堅気でない人みたいですが、
これには

Chief Carpenter's Mate Uniform Jacket

と説明がありました。
カーペンターズ・メイト、とは19世紀から1948年まで存在した海軍の所属です。
大工仕事をする小隊でCMと略称がありました。

所掌する任務は、艦内の換気、水蜜制御、塗装、そして排水に関わる全て。
戦闘時には砲撃の補助を行い、いざどこかが破損したとなると、
木材などで破口を塞ぐなどのダメージコントロールを行いました。

1948年にはこの名称は、「ダメージ・コントロールマン」と変わりました。


このジャケットはカーペンターズメイトのチーフであった
ジョン・フランシス・ドネリーが着用していたもので、彼は第二次世界大戦の
終わり頃、上海にいて船舶の修理に携わっていた人物です。

彼はタバコを吸いませんでしたが、配給品を必ず受け取り、
上海の路地にあった刺繍屋で煙草と引き換えにこの龍の刺繍をしてもらいました。
軍の規則があるのでジャケットの裏地にしてもらうしかなかったのですが、
戦争が終わり、帰ってきた彼を抱擁した彼の妻は、その刺繍の手触りを
制服の下にコルセットと包帯をしているのだと勘違いして動揺したそうです。



そのドネリー兵曹の職場であった「カーペンターズ・ショップ」。

平削りかんな、糸鋸盤、テーブル鋸など、木工に必要な道具があります。
また、ここは同時に「シップフィッター・ショップ」 でもありました。
シップフィッターとは、配管やダクト、溶接に関する仕事のことです。 

これらの作業のためのツール・ショップは艦尾にだけありました。



GEやシルバニアなど各社の電球のスペアが棚に並んでいます。



木工する際に必要な大きなテーブル。
向こうには電動糸鋸も見えます。



戦艦の中は一つの社会。
というわけで、乗組員は「ワーカー」ですから、当然お給料が出ます。
ここは「ペイ・オフィス」、給金を配布する事務所です。

このオフィスの責任者は”distributing officer”というのですが、
自衛隊で言うところの「会計隊長」といった感じでしょうか。
その下には、会計課の隊員がいて、業務をこなします。

どうでもいいですが、このオフィスのドアの前のパイプ、
どうしてこんなところに突き出しているのか・・・。



大きな金庫が右側に見えています。
この金庫には100万ドルの現金が常備されていました。

「ペイデイ」というお菓子がこの頃あったという話をしましたが、
この給料日は海軍の艦船の場合、半月に一度となっていました。
月二回ペイデイがあるというのも、なんだか得した気分ですね。
あったらあるだけ使ってしまう人にはありがたいシステムと言えます。
給料はチェックか現金で支払われました。

余談ですが、アメリカはチェックでしか払えないという場面があるので
(家賃などは必ずチェックを封筒に入れて支払ったりする)
わたしも口座を開設したときにパーソナルチェックを作りましたが、
数字は改ざんの恐れがあるので必ず、

eleven hundred forty five 50/100 dollars
(1145ドル50セント)

という書式で書かないといけないのです。もちろんその場でね。
よく映画で、金持ちがさらさらっと一瞬で書いて、
ピリッとチェックを切ってますが、あんな早く書けるわけないじゃん、
といつも思います。


ところが、ネイティブが切っても結構時間がかかるこれを
スーパーマーケットのレジでやおら書きだす人がいるんですわ。

今まで見たそういう人たちはまず間違いなくご老人(おばあちゃん)
なのだけど、そのせいで余計に時間がかかってしまうのが常で、
レジの前の老人がチェックブックを広げ出したら、わたしは
ああ・・・と絶望したものですよ。

と、全く関係ないですが、そういうチェックで給料を払う事務所。
全員の家族手当の記録や口座などの記録もここで保管されていました。



奥にあるグレーのスチール棚などにその記録が保管されていたのでしょう。
万が一、乗組員が危急の場合には、エグゼクティブ・オフィサーの許可のもとに
特別にお金が支払われるということもありました。

危急といえば、この「マサチューセッツ」のペイオフィスの金庫が
一度壊れて開かなくなったと言うことがあったそうです。
中には100万ドルが入っているというのに、押しても引いてもドアが開かない。
あらゆる手を使って開けることを試みたものの、結局ダメだったので、
仕方なく金庫を取り外して外で壊す羽目になったということです。



飾り付け?はしていませんが、これは士官の居室(ステートルーム)
であろうかと思われます。
ベッドの下に引き出しがたくさんあって収納は便利そうですね。



通りがかりに見たこの辺りのトイレ。
以外と広々しています。
機材が新しいところを見ると、今でも使っているのかもしれません。



ビナクル BINNACLEとはなんぞや。
たとえばヨット用語によると、

「ラットを保持する円柱状のポスト。ステアリングペデスタルと同じ」

となっていて、さらに意味がわかりません。

ここの説明によると、ビナクルは艦橋の、舵輪の正面に据え付けられており、
一つかそれ以上のコンパスとそれを夜間視認するための小さなライトでできています。
海事用語では「羅針儀架台」となっています。

ビナクルはナビゲーションを素早く見るためのもので、かつ繊細な機器を
保護する役目を持っています。
それは内部にジンバルを備え、これによって波の動揺などの干渉を受けず
磁石を保持する仕組みになっています。

速度を推定する砂時計(サンドタイマー)が格納されていることもあります。


左右にボールを支えて持っているようなデザインですが、このボールのことを
イギリスでは「ケルビンのボール」といいます。

木造の船の時には普通に使えていた磁石ですが、鉄でできた船の出現によって
狂ってしまうという問題が生じてきました。

そこで、この二つのボールの中に
compensating magnets、補償磁石?というものを入れて問題を解消した
ロード・ケルビンという人が特許を取り、こう呼ばれていました。

アメリカではシンプルに「ナビゲーターズ・ボール」と呼んでいます。


ビナクル、という言葉を探しても不思議なくらい日本語では出てこなかったのですが、
日本では単にこれを「磁気コンパス」と称しているからみたいですね。

ちなみに現在、日本の企業によって売られている磁気コンパスは
このようなものですが、昔のビナクルとほぼ変わりのないシェイプをしています。

それもそのはず、この磁気コンパスとケルビンのボールのシステムは
現在でも船舶用のコンパスに使われているからなのです。



続く。


 


コンバット・インフォメーション・センター〜戦艦「マサチューセッツ」

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海自の護衛艦を見学すると単に「CIC」と紹介されて、
この最初のCが「コンバット=戦闘」のCであることをつい忘れるのですが、
戦闘艦だけに存在するセクション、それが
「コンバット・インフォメーション・センター」、通称CICです。

CICの日本語は「戦闘指揮所」。
直訳すれば「戦闘情報所」ですから、「戦闘指揮所」は明らかに
旧海軍から受け継いだ呼称であることになるのですが、
こんなところまでチェックされることはないだろうということか、
米軍と同じ「CIC」という呼称をそのまま使っています。



CICはフネのどういう位置にあるのか。
やはり戦闘指揮所でもある艦橋はもちろん構造物の上階にあるわけですが、
ほとんどのCICはこれまで見た限りで言えば甲板より下の階にあったりします。

さらにわたしの見た限り、ほとんどは食堂の近くが多いです。
さらに、食堂の出口にはほぼ間違いなく艦内神社があったりしますが、
それはアメリカの鑑には関係ありません。

「マサチューセッツ」のCIC再現ルームは、上甲板から2階下の第3甲板(サードデッキ)にあります。
ゲダンクや准士官の居住区のあった第2甲板(セカンドデッキ)からこの階段で降りていきます。 



当時からそうだったのか、CIC内部の壁は真っ黒に塗装されていました。

ところで、この「マサチューセッツ」シリーズが始まって、
すぐに「コニング・ステーション」という分厚い金庫みたいな操舵室を
ご紹介したと思いますが、艦長は戦闘時にCICか艦橋にいるのが普通で、
いくら金庫みたいになっていても操舵室にいることはなかったよなあ、
と今になって気がついたわたしです。

それはともかく、「マサチューセッツ」の場合、このCICの本来の場所は
04レベル、つまり艦橋と同じ階にあったらしいんですね。
そういえば、海自の掃海母艦「ぶんご」のCICも艦橋レベルにあって、その理由は

「上甲板より下は機雷の爆発の影響を受けやすいから」 

と説明された記憶があります。


博物鑑にするにあたって、わざわざ第3甲板階にCICを再現したのは、
ほとんどの戦闘艦は慣例的に

「セカンドデッキの武装で守られるから」

という理由で、CICを鑑の深内部に持っていたからということです。


現在CICが窓のない甲板下の暗い部屋にあるのは、
明るいとレーダー指示器が読みにくいからという理由です。




ここに入るときにおおっ、と思ったのはこの入り口の高さ。
足を思いっきり高く上げてハッチをくぐり抜ける感じで入ります。
皆が同じところに足を置くのですっかりそこだけ塗装が剥げてしまっています。
もちろんドアも水密扉であると思われるのですが、その前段階で万が一
浸水してきたときにもかなりの時間区画に水が入ることを防ぐためでしょう。



「ドッグ」と呼ばれるレバーが8つもついたドア。



CICに入ってすぐ電話が設置されていました。
なぜかヘッドセット(イヤフォーン)用のジャックがあります。



ここがCICの中心で、艦長なり司令なりはこういう丸椅子に座ったのかもしれません。
丸テーブルは作戦に応じてペンで地図を書き込んだのでしょうか。
奥にあるモニターでは、CICに勤務していた乗組員がかつての任務の思い出を語っています。

CICとは、端的に言うと

「艦に集まってきた戦略的情報を収集・分類・伝達する中心機関」

ということになるでしょうか。
艦橋に窓があり外が見られるのに対し、CICに一切窓が必要ないのは、
集まってくるのがレーダー等のデータ化された情報であるためです。


そしてまたCICとは、戦闘中には

「自艦の現在状況のステイタスを監視する機関」

でもあります。
CICが艦の頭脳といわれる所以です。

このブラックボードには、文字通りその「タクティカル・ステイタス」を
その都度記載するようになっていました。



「コース2-5」「ジグザグプラン 6」「スターボード・スピード225°」

ジグザグプランというのはは帝国海軍も之字運動と称して
行っていた、潜水艦攻撃を回避するための航行です。

「艦隊速度」「隊形配列:ABLE」

「OUR T.G'S STATION」が0なのは、「マサチューセッツ」が旗艦で
艦隊の中心にいるからでしょうか。 

ちなみにボードはクリアですが、これは裏からも書いたり読んだりできるからです。 

 



当初はイギリスがリードしていたレーダー技術を昇華させたのは
やっぱりアメリカの工業力でした。

レーダーといえばこの丸い形を誰もが思い浮かべますが、
この形でのレーダーを最初に開発したのはアメリカです。

日本にも(八木アンテナなる発明があったくらいですから)
もちろんレーダーはありましたが、このようなものではなく、

「画面に現れる波形の位置や大きさから方向や高度を読み取る」

熟練の技を必要とするものだったため、戦場では使い物にならない、
と現場からの拒否に遭ったとか。

まあこれが平常時であれば、その解読技術が追求され、
いかなる波形からも敵艦の位置を読み取る「匠」が現れる、
というのが日本人の集団というものですが、それをするにはあまりにも
事態は切迫していてそれどころではなかったともいえます。

情けないのはそれだけでなく、当時の(当時も、か)縦割り行政と、
陸海軍の仲の悪さが祟って、その結果、無駄に近いところに
陸海がそれぞれレーダーのアンテナを建てたりしていたそうです。とほほ。



部屋の天井近くにあったダイヤルには横に電話が付いており、
目盛りには「JB」「JC」「JV」「JL」などが表示されています。
高圧受配線ダイヤルではないかと思いますが自信ありませんん。



各電信員が仕事をしていたデスクには、ダイヤル式の電話や
旧式のタイプライターなどが置かれています。
デスクの中央にはタイプライターを埋め込むことができる特別仕様。



気になったのは各受信機の前にシンバルのようなお皿があること。
画像検索しても実際にシンバルしか出てこないしorz
どなたかこのお皿の正体がわかる方おられますか。



左側にある無線受信機は「ナショナル」製。
われわれ日本人にとってナショナルは日立でしたが、
アメリカにもナショナル電気というのがあったんですね。

驚異的なパフォーマンスを誇ったHROコミュニケーションズレシーバー
などを生産した会社です。



"Hallicrafters"とは、シカゴにあった無線設備専門の販売会社で、
この画像の扇型のゲージも、同社の典型的なチューニングダイヤルのデザインです。
おそらくS-27というタイプではないかと思われます。
だとすればですが、

「28MHzから143MHzくらいまでを3バンドでカバーし、
FM、AM、CWが受信可能な本格的なVHF受信機」

だそうです。

無駄に大きな画像ですみません。
「E アワード」というのはいまでもアメリカの通商に関する優良企業に与えられる
賞ですが、この会社、ハリクラフターズ、戦時中にこれを受賞しています。

「アメリカの敵を叩くために大きな働きをしたことを
誇りに思いつつも謙虚にこれを受け止めたい」

などと書いてあるのがいかにも戦時中ですね。
日本なら戦後こういう会社が「戦犯企業」と言われてしまうわけですが、
アメリカは勝ったので無問題。

ただし、ハリクラフターズ株式会社は戦後の業績悪化後、
ノースロップに吸収されたのちも日本製の電気機器との競争に勝てず、
つまりかつて「叩いた敵国」に叩かれて(笑)業績に伸び悩み、
グラマンとの合併後、ノースロップ・グラマンとなって現在に至ります。


しかし今現在、ハリクラフターズの名前の付いた機器は、ビンテージとして
無線機器収集家の垂涎の的となっているそうです。



CICの機器に選定されるくらいですから、当時の最先端である
企業が競うように参入していたのは間違いないところでしょう。



端のデスクにはタイプした書類などをためておくファイルカゴがあります。
デスク正面は電話交換のジャックパネルのようなものが。

CICには艦橋や機関室、射撃管制室などと無電池電話の回線で
繋がっていたと言いますから、これがその交換所でしょうか。



CICというものが設けられるようになったのは1940年代になってからです。
ドイツの航空部隊を迎撃するためにイギリス海軍は
通信機器を一部屋に集めたことがその始まりだと言われています。

アメリカ海軍は日本軍の航空攻撃に悩まされていたため、
駆逐艦から実験的にそれを取り入れ、珊瑚海海戦(1943)で成果を上げたとして
全艦艇に搭載されるようになりました。

「マサチューセッツ」就役の1942年にはまだ実験段階で、
そのためまだ通信機器は艦橋近くにまとめてあるだけだったのです。



ここには帽子の上からヘッドフォンをかけた水兵さんがいました。
1943年以前、軍艦の艦長は艦橋で戦闘指揮を執ったのですが、
戦闘中のすべての情報が集約されるCICの導入以降、艦長はここから
指揮を執るという形態になりました。

艦長以外はレーダー員と砲術士(そして航空管制員)が配置されていたので、
この水兵さんはレーダー員ということになります。

現代の戦闘では、まずCICが攻撃目標の指示を出し、艦長がそれを許可、
砲雷長が復唱の上攻撃開始となります。
艦長がCICにいるか艦橋にいるかは必ずしも決まっていないようです。

ただし、戦闘時にはリスク分散で艦橋とCICに分かれるんじゃないかな。


アメリカ海軍を扱った映画といえば「バトルシップ」、
最近ではテレビドラマの「ザ・ラストシップ」(監督がどちらもM・ベイ)
などがありますが、今にして思えばこれ、どちらも艦橋に
艦長も副官も主要幹部が全員いるときにどかーん、というシーンありましたよね?

こういう場合、艦長か副長のどちらかはCICにいるんじゃないの?

とあらためて突っ込みたいのですが、艦橋にいてドコーンとやられる方が
映画的に「絵になる」からなんだろうな。きっと。



この無線室は、一人の電惻員のメモリアルとなっています。

"YEOMAN"という書記下士官だったジョセフ・ライリー2等兵曹は、
戦後、消防士となり地域に尽くしましたが、同時にビッグマミーの
乗員を組織する組合の副会長として、当博物館の設立にあたって
大いに貢献したため、このようにここに名前を残すことになりました。




おそらく、この水兵はかつてのライリー二等兵曹の姿を再現しているに違いありません。




続く。


 

「隼鷹」と「二式大艇」第56回 全日本模型ホビーショー@東京ビックサイト

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日本プラモデル工業協同組合が主催する模型ホビーショー。
東京ビックサイトで行われた催しに招待券をいただき、
今年も行ってまいりました。

9月23日から3日間行われ、23日は業者招待日です。
この日は平日だったし、チケットは業者用だったので
この日に行けばよかったのですが、当日は朝からお天気がぐずついて、
全く行く気をなくしてしまいました。

結局中日の土曜日に行くことにしたのですが、この日も結局
雨が降ったり止んだりであることに変わりなく、
しかも人多すぎで遠い駐車場に停めざるを得なかったという・・。

会場は西館、車を停めた東館駐車場から東館の中を歩いて
ようやく会場にたどり着きました。

まずは、敬意を表してご招待くださったハセガワさんの見学から。



写真を撮っているとハセガワさん(仮名)が声をかけてきてくださいました。
まずは今回の目玉というか、イチオシをお聞きしてみたところ、
そのひとつが11月に発売予定の航空母艦「隼鷹」だそうです。

「隼鷹」が人気があるのはこの説明にもあるように第二次世界大戦
(この場合大東亜戦争と言ってほしい)を戦い抜いた主力中型空母で、
実にいろんなところに参戦しているからでもあります。

ちなみに当ブログでも何回かこの空母について、

●海軍甲事件の後古賀大将を乗せた旗艦「武蔵」を護衛してトラックへ

●駆逐艦「秋風」が「隼鷹」を守って戦没したかどうかという件

●空母「ホーネット」にとどめを刺した艦載機を乗せていた

●艦載機パイロットに菊地哲生飛曹長という凄腕がいた

という内容で取り上げています。

ハセガワではこの「隼鷹」を最新の金型でキット化したのですが、
今回の売りは、これまであった航空母艦モデルで初めて

「甲板のキャンバー(凸湾曲)を再現した」

ことと、さらに艦橋や煙突も段違いに精密に再現してることだとか。



「隼鷹」がマリアナ沖海戦に参加した時の姿だそうです。
このイラストはデジタル絵画ではなく、なんと水彩だそうで、
ハセガワがその腕に惚れ込んでパッケージデザインを任せている
加藤単駆郎氏というまだ若いイラストレーターの作品です。

ちなみにこのかたのパッケージイラスト展が10月1日、
長野県上田市で行われるそうです。



さらにもうひとつの目玉商品は(目玉だから二つですね)
なんとっ!
わたしが渾身のエントリをあげまくった、エミリーこと二式大艇だ!
このイラストももちろん加藤氏の作品です。

この写真にも黒焼きの設計図が写っていますが、こういった模型を製品化するには
元々の設計図というものが必要になってきます。
ハセガワさんによると、そういった設計図は

「どこかから、出て来る」(笑)

のだそうです。あら不思議。
ちなみに当社では二式の前回の発売は30年前なのですが、
30年の歳月は模型の製品化にあまりにも大きな変化をもたらし、
精密度や再現力は30年前の「比ではない」ということです。
ただし、

「昔のものにはその頃にしかない良さがあります。
未だにアナログのレコードを聴く人がいるのと同じようなものですね」



「3Dプリンターで模型パーツを作るというのはまだ無理ですか」

「まだちょっと無理ですね」

そういえば、今年の夏うちの愚息がITキャンプで
3Dプリンターの作品を作ってました。

 

たとえばこういう設計図をコンピュータで作成します。



これを3Dプリンタにインプットすると、白い糸のような樹脂が
形通りにおよそ一晩かけて少しずつ成型を行います。



で、できたのがこれ。ピンボケですみません。



カリキュラムは月曜から金曜日までの5日間で、
金曜日は午後からショウケースといって発表ですから、
実質4日に二つの模型を製作するというわけ。



3Dプリンタの模型を見るのは初めてですが、ものが小さい
(どちらもだいたい4センチ四方以内)ので全体的には
おお、とその精密さに驚いてしまいました。

ただ、ハセガワさんがおっしゃるように、この模型の世界における
パーツの気の狂いそうな精密さは再現できないかもしれません。



他の模型会社の展示にも二式大艇がありました。

ハセガワではやはり鹿屋に展示されている現物を見に行った、
というだけあってこういう普通のとはちょっと違い、

●コクピットなど、外から見える内部構造を再現

●したがってセットには搭乗員が「多数」ついてくる

●艇体下部の波おさえ装置、通称「カツオブシ」は別部品で再現

というこだわりがポイントなのだそうです。
模型は好きだけど自分が作る気は全くないわたしですが、
これだけは万が一気が向いたら作ってみたいと思いました。
まあ、出来上がったのが買えればそれに越したことはありませんが。



特別マーキングを施した97式艦攻。
写真を撮るのをうっかり忘れましたが、向こうにある21型零戦、そして
99式艦爆とともに真珠湾攻撃時の塗装を再現しているみたいです。
まじですか。
真珠湾攻撃のとき、97式艦攻は「レッドテイルズ」だったのね・・・。

「何々攻撃時仕様」というふうに機体の塗装で史実を再現することも
モデラーと呼ばれる人の盛り上がりポイントである模様。



三菱 局地戦闘機「雷電」。
「雷電」とか「紫電」とか「烈風」とか「疾風」とか、
もう昔の戦闘機の名前かっこよすぎ。 



海軍のまるで中二病のようなネーミングの嵐に対し、
陸軍の爆撃機はキとか100式とかあまり名前にこだわってないのかと
思いきや、やっぱり愛称はあります。
こちら100式爆撃機、愛称「吞竜」。 




52型の零戦ですが、「撃墜王モデル」とネーミングされております。
岩本徹三の撃墜マーク入り搭乗機。



こういった模型の塗装は当たり前ですが、モデラーが自分で行います。
組み立てるだけでもめまいがしそうなのに、その上自分で塗装まで・・・。
ということでその道に踏み込めないわたしのような人もたくさんいるわけですが、
先ほどの「真珠湾モデル」のように、本当に凝る人は塗装こそが命。

このときに質問したところによると、塗料は別の専門会社で皆買うわけですが、
モデルの制作会社は色を指定するのだそうです。

「グレーに何色を何パーセント混ぜて」

みたいな指示なんでしょうか。
というわけで、同じモデルといっても各社微妙に色が違ってくるわけですね。

たとえば零戦21型の実物はもうすでにこの世に存在せず、
実際に乗っていた人や見たことのある人の記憶の中にしか
その色というのは存在しないわけです。
ところが色を言葉で再現することは容易ではありません。

21型を「飴色」なんぞと称する人がいたという話を聞きますが、
そんな漠然とした、はっきりいっていい加減な表現ってありませんよね。
それこそ「飴」って何飴だよ、というところから話をしなくてはいけないわけで。

ということなので、

「零戦の色一つとっても各社で違ってくるものなんです」

現物が戦後残っていた52型にしたところで、

「経年劣化がありますのでできたときには全く違っていた可能性もあります。
つや消し塗装みたいに解釈されていますが、出来たばかりのときには
ピカピカしていたという話もあったりします」

模型というのはそういう「想像」「空想」の入り込む余地が
あるからこそ、そこに楽しみを求める人もいるってことなんでしょう。



色だけではありません。
わたしが今回一番驚いたのは、

「模型は、実物の飛行機や船をそのまま縮小したものではない」

というのを聞いたことでした。
なんでも、そのままの縮小では「かっこよくならない」らしいんですね。
設計図が「どこからか手に入った」としても、それをそのまま
律儀に縮小して模型の設計図を仕上げるのではなく、

「微妙にデフォルメを加えてモデルとして見栄えがいいようにしてある」

らしいのです。

「たとえばどこをどんな風にデフォルメしてあるんですか」

という質問には、明確なお答えはいただけませんでしたが、
それが企業秘密だとかそういうことではなく、そのあたりも
設計図を引く段階での口には表せない微妙な「さじ加減」なのでしょう。



さて、デフォルメといえば(笑)忘れちゃいけないたまごヒコーキ!
今年も愛しのたまごヒコーキたちに萌えました。

手前のヘリははっきりいってあまり面白くないですが、
ハリアー(中央)やファントム(左奥)がこれって・・・笑えます。
スプリットベーンがなければたぶんこれ何かわかんないぞ。



「ブルーインパルス」の新旧使用機とブルーエンジェルス、サンダーバーズ、
つまりアクロバットチーム機ばかりを集めたコーナー。



しかし、なんだろうこのオスプレイの違和感のなさ・・・。

たまごヒコーキシリーズには一応萌えキャラがいて、
パッケージには萌え搭乗員が描かれているのですが、

「たまごヒコーキそのものがキャラクターなのに、キャラ必要ですかね」

「まあ、それがきっかけで買う人だっていますから」




フォッケウルフまでがこのような姿に(T_T)

さっきのデフォルメの話ではありませんが、このシリーズ、
「たまご型に極限まで近づける」という制限がありながらも
各航空機の特色を実にうまく取り込んでいるのがいいんですよね。
たとえばこのフォッケも、バランスとしてやたら足長の印象がありますが、
それがこの小さなたまご型でちゃんと表現されています。

一番ウケたのに写真を撮るのを忘れたP-38ライトニングだけは
特色も何もそれしかない形をしておりましたが。



パッケージが英語だけのものがあったので聞いてみたら、
「輸出用」だということでした。
これは国内用、と説明されているところです。

写真を見て気がついたのですが、このF-2の模型、

「21SQ  松島基地帰還記念」

とありました。

・・・・・・そうだったんですね。 しみじみ。



続く。 

とある模型会社の戦後〜第56回全日本模型ビッグショー@東京ビックサイト

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さて、ビックサイトで行われた模型の展示会。
ハセガワさんの展示のご紹介の続きから参りましょう。

昨日真珠湾攻撃仕様の97式艦攻ってレッドテイルだったのー?
と書いたところ、裏米で、

「何を朝から寝ぼけておるかこのうつけ者!」(意訳)

と叱責されてしまいました。
いや、朝ではなくこれを作成したのは夜でして、というのはともかく、
あれは指揮官、つまり淵田少佐搭乗機だけの塗装だったそうで、
そう言われてみれば指揮官機のマークを巻いておりますね。




ふむ・・・・これは、米軍で言うところのCAG機、つまり
「Commander Air Group」仕様だったといっていいのかしら。
 淵田少佐は単なる隊長だからこれとは違う?



こちらお馴染み「大和」「信濃」のコーナー。



F-15の周りには、「科学シリーズ」というんでしょうか、
「F-2の科学」「ドッグファイトの科学」「ミサイルの科学」
などの本があります。

これは「サイエンスアイ新書」(Si新書)のシリーズで、
ハセガワの模型とコラボ販売しているのだとか。



ブルーインパルスの科学なんて、ファンならずとも読んでみたくなりますね。



こちら「雷電」。
基地防衛用の局地戦闘機には「◯電」という命名基準があった、
というのをコメント欄で知ったばかりです。



これは大きかったですよ。ソッピース・キャメル。
なぜフランスのマーク?と思ったのですが、これは
イギリス国旗の三色を使っているというだけでした。



ハセガワさん(仮名)によると、この模型は

「昨年夏亡くなった前社長の肝いりで作られたものなんですよ」

この前社長とは長谷川勝重氏のことでありましょう。
ハセガワさん(仮名)に頂いたハセガワのムック本にはまだお元気に
ハセガワの歴史について語っている姿が掲載されていますが・・。


何でも長谷川氏の父上は菓子店を経営していたそうで、1940年に
静岡の大火で店を失い、それがきっかけで模型店を始めたのだとか。

静岡というのは昔から木工産業が盛んで、家具屋や建具屋が多いのですが、
障子の桟に使われる檜の棒をライトプレーンに転用しました。

当時は軍国の小国民、特に男子に早いうちから飛行機に対して
興味を持たせるためにも、ライトプレーンは欠かせない教材として
小学校の正規教科にも組み込まれていたのだそうです。

戦後は案の定、GHQからの規制がかかり、模型飛行機はもちろん、
船の模型を作ることも禁じられてしまったので、その間長谷川商店では
木製のジープを作ってしのいだそうです。
ちなみにこれは玩具に飢えていた当時の子供に大変人気だったということです。


その後、木の模型がプラスチックに移行する時代がやってきました。
当初、

「プラスチックの模型なんて模型じゃない」

というくらいの抵抗から始まったプラモ製作だったといいますが、
最初のプラスティック製品としてまずグライダーを手がけました。

当時は「零戦ブーム」で、東京のメーカーは零戦や隼を作っていました。
なのになぜこれがグライダーだったのかというと、ブームに追随するのに
抵抗があったからだということですが、これは長谷川氏によると
こだわりすぎて機を見なかったということで、戦略的には失敗に終わりました。

しかしその後ハセガワは、ジェット機モデル、F-104-Jスターファイターを
他社に先駆けて制作し、これが爆発的な売れ行きを記録します。
これはジェット機モデルそのものの嚆矢となって、これが結果的に
「飛行機のハセガワ」の評価につながっていくのです。

で、ここまでの話を知ってから、ハセガワさん(仮名)の
「社長の肝いりでできたソッピースキャメル」という言葉をもう一度思い返すと、
その思い入れの理由とは、グライダーから出発した小さな模型会社の頃の
原点に立ち返って、ということではなかったのかという気がします。


もちろんわたしごときに世界のブランドの創業者である人物の
思い入れなどが慮れるものではないとじゅうじゅう承知しておりますが、
これはあくまでも、なんとなく、ということで読み流してください。



タイタニック号もありました。
以前このブログで、我が家にタイタニックの艤装設計図があることを
お話ししたことがありますが、船の設計図並びにこうやって展示するとき
かならず船首が右に向きますね。

ところで、今話題の村田蓮舫が、右にお頭を向けて置いた写真をよせばいいのに
わざわざツィッターであげて皆に指摘され、恥をかいたことがありましたが、
焼き魚は左が頭が常識なんですよね。

じゃあ船が船首が右であるように、海外で魚を出すときには頭は右・・・?
・・おっと、欧米では魚料理のとき頭は絶対残さないんだった。
彼ら、特に魚の目が怖いんですってね。



漫画とコラボした製品の販売というのも行われ(前回はキャプテンハーロック)
今回は新谷かおる先生の「エリア88」でした。

 

F8- Eクルセイダー、「風間真」モデル。



同じシリーズでFー14Aトムキャット「ミッキー・サイモン」モデル。
垂直尾翼の先端に A-88と書かれています。



スーパーディティールシリーズの「龍田」と「天龍」(たぶん)。
スーパーディティールとは、ここにもある、エッチングパーツを付け、
より本物に近づいたモデルのことをいいます。

ちなみにエッチングパーツですが、金属板に光硬化樹脂を塗布し、
露光させてマスキングすることにより、不要な部分を薬液
(塩化第二鉄水溶液)によって溶かし、必要な形状の部分を残しています。

すごいですよね。
こんなもの一体どうやって作っているのかと思っていました。



基本中の基本、「三笠」の新金型版。
「フルハルシリーズ」となっていますが、FULL HULL(外殻)、
すなわち「ウォーターライン」に対して船体全部のモデルのことです。



今ブログトップにしている写真を加工するために一週間お試しで使っていた
Photoshopの機能を使って、上の画像の解説部分を加工してみました。
斜めから撮った写真がほらこのとおり。

いやー、人間ってすごいものを考え出すよね。 って全く関係ないし。




同じ「三笠」の、こちらがウォーターライン。
どちらも「日本海海戦時」となっておりますが、なぜか
二隻のシェイプがまっっっっったく違って見える不思議。



こちらはアパッチのイギリス陸軍仕様。
うーむ、そんなものをわざわざ作りたがる人がいるのか・・・。



「想像上の武器」をプロモデラーが手がけた作品です。
作者の横山宏(よこやまこう)氏はモデラーでありイラストレーター。

現場の説明をちゃんと写真に撮らなかったので想像ですが、
このシリーズは横山氏が手がけたモデルに後から細かい設定やストーリーを
付加するという雑誌の企画、「マシーネンクリーガーZbV3000」でしょう。
 
なんでも国内外の熱心なファンの活動によって長年支えられているとのことです。




さて、見学を終え、ハセガワさん(仮名)にお礼を言って
他の会社を見て回ることにしました。
あまりにたくさんありすぎるので、目を引いたものだけです。

青島のコーナーで陸自シリーズを見つけてつい食いつくわたし(笑)

「本製品は陸上自衛隊のご協力により開発されています」

とわざわざ断ってあるのが良いではないですかー。
そういえば「模型の聖地」静岡で行われる模型ショーには、
陸自の装備が民間の催しとしては初めて展示されました。

2005年にはブルーインパルスの展示飛行が行われましたし、
2014年にはなんと10式戦車も来たそうですよ。

先ほどの戦時下の飛行機模型の話ではありませんが、
自衛隊が模型業界にここまで協力的な理由は、
模型に夢中になる男子(女子でも)を潜在的な入隊予定者として
がっつりハートを掴みたいという下心?からってことかも。(ゲス顔)



ピットロードのコーナー。
87式自走高射機関砲と155mm榴弾砲の後ろには、
帝国陸軍時代の榴弾砲(G44 28糎)が。



ちょっと笑ってしまったのがこのコーナー。

ゲゲゲの鬼太郎シリーズと一緒に並んでいる
空気を入れて膨らませるシャーマンやティーガーの砲弾。
って、誰がこんなもの買うんだ、と思ったのですが、これはどうも
例の「ガールズ・パンツァー」のシリーズみたいですね。

でも後ろにどう見ても戦車関係ない海軍の91式徹甲弾があるでー。




それより問題は「やまと」と書かれた浮き輪ですよ。
これ、浮き輪として実用に耐えるものなんでしょうか。

これを持って海水浴に行き、救助ごっこをする人はいないと信じたい。


続く。

小さき者の視点〜第56回全日本模型ビッグショー@東京ビックサイト

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話し出したら案外面白くて3日目になってしまいました。
東京ビックサイトで行われた全日本模型ビックショーの模様です。

全日本、というだけあって、当日パーキングでは多くの他府県ナンバーを見ました。
浜松ナンバーが多かったのはまあわかるとして、京都府や大阪からというのも・・。
それほどまでに模型の世界に魅せられるたくさんの人々がいるということですね。 

 




青島のコーナーで見たウォーターラインシリーズです。
潜水艦にウォーターラインの需要があるとは知らなんだ。



まず右上の英海軍航空母艦「イラストリアス」。
「イラストリアス」というのは傑出した、とか高名なという意味で、
イギリス海軍に代々受け継がれてきた艦名です。

なんと初代「イラストリアス」は戦列艦、てことは帆船時代の船ですね。
このモデルは初代の空母であろうかと思われます。



こちらは帝国陸軍の誇る上陸舟艇母船(強襲揚陸艦)の「あきつ丸」。

ななんと飛行甲板を持ち、上陸用舟艇も多数搭載できる船を陸軍が・・。
陸自が強襲揚陸用にアンフィビアンを持ってるみたいなもんですか。

この「あきつ丸」、艦上に搭載するのは九七式戦闘機と三式指揮連絡機。
兵士約1000名、1個大隊の上陸が可能とされていました。
また、カ号観測機というオートジャイロを搭載し、
偵察や対潜哨戒が行うことも陸軍的には可能でした。

ヘリ搭載艦の先駆けだったということも一応できそうですね。 

「あきつ丸」は戦時徴用船という身分なので本来の所属は日本海運です。
もちろん軍「艦」ではないので、指揮官は「船長」と呼ばれていました。

1944年11月、五島列島航行中に米潜水艦の攻撃に没しています。



どこの会社か忘れました。「いずも」。



空母「ジョージ・ワシントン」。
原子力空母としては最初に日本に派遣されました。

ところで、「ジョージ・ワシントン」が第7艦隊に派遣されることになり、
横須賀入港したとき、「市民」の反対派が現地に詰めかけ毎日
「原潜は帰れ」とデモしていたそうですが、きっちり2週間目を境に
さっぱり消え失せたのだそうです。

なぜなら彼らは日当1万円で2週間雇われたバイトだったからですとさ。

そういえば他府県から沖縄に基地反対運動にいく人には飛行機代が5万もらえるそうですね。
いったいどこからお金が出てるんだろう(棒)



ジャンプ台式の空母、「アドミラル・クズネツォフ」。
一目見てなんと古めかしい、などと思ってしまいましたが、さにあらず。
1990年に就役し、バリバリの(かどうか知りませんが)現役です。
左舷側にカタパルトもあるのでこちらも併用しているようですね。



静岡模型教材協同組合(御三家始め静岡の模型会社の組合)
によるウォーターラインシリーズ各種。



病院船がありますが、これ氷川丸でしょうか。

ところで「 静岡模型教材共同組合」で調べていたところ、なんと、

静岡模型教材共同組合が「艦船ファン創出」「艦船模型の社会的認知度の拡大・発展」
に寄与したということで、感謝状を艦これ運営に授与した

というニュースを見つけました。
やっぱり模型業界は艦これのご利益がかなりあったってことみたいですね。



93式陸上中韓練習機、「赤とんぼ」。
練習機ゆえ生産台数が多く、そのためかつて赤とんぼにお世話になった、
という人が戦後たくさんいて、同期会などの活動は盛んだったそうです。


終戦間近には飛行機がなくなって特攻機にも借り出されましたが
これは ガソリンがない時代、アルコール燃料でも稼動できたからなんですね。
機体全体を濃緑色で塗装し(この時点でもう”赤とんぼ特攻”ではないのですが)
後席に増槽としてドラム缶を装着し、250 kg爆弾を積み込んでの出撃でした。

しかし、練習機というだけあってたいへん性能はよかったようです。

レーダーピケット艦でもあった駆逐艦「キャラハン」は、この赤とんぼ
(じゃないか)特攻で撃沈されていますが、これは、本機が木造製で
近接信管(目標に直接当たらなくとも一定の近傍範囲内に達すれば起爆する)
が作動しなかったためだったといわれています。



さて、船飛行機のモデルはこの辺にして。
会場にはエアガンを製造している会社の試弾場まであります。
初めて知ったのですが、エアガンなのに弾丸には薬莢があるんですね。



アニメのヤマト2が来年公開されるようです。
宇宙戦艦ヤマトのモデルもそれに合わせて出る模様。



そうかと思えばこのような世界も展開しておりました。
「蒼き鋼のアルペジオ」という漫画とのコラボ商品。

旧軍艦が「ヤマト」「ムサシ」とカタカナであるのは、
この世界の基準で、彼女たちは

2039年、突如現れた第二次世界大戦時の軍艦を模した正体不明の大艦隊。
現代の科学力をはるかに超える超兵器と、独自の意思を持ち乗員なくして動く、
“霧の艦隊”と名づけられたその勢力により、人類は海上から駆逐された。

という設定のキャラだからなんだそうです。なんだこれ。

つまり、この「艦むす」たちは人類の敵ってことですか。
その後、人類は「霧の艦隊」から潜水艦を仲間につけて彼女らと戦うのですが、
味方についたのがイ401などの潜水艦・・・・。


モデルは形は一緒でも塗装が全くオリジナルというのがポイント。

 

全体をくまなく見て回ったわけではありませんが、
今年はなぜかジオラマをあまり多く見つけることができませんでした。

しかし、ジオラマの世界には胸をときめかせずにはいられない魅力があります。
盆栽の鑑賞の仕方というものを聞いたことがありますが、
その世界の縮尺によって小さくなった自分を想像し、
その目線から木を眺めることを思い浮かべる、というものでした。
ジオラマの楽しみ方も実はそれに近いのではないかと思っています。



さて、そろそろ帰ろう、と思って出口に向かったところ、
そこは入り口であったことに気づきました。
とって返そうとしたところ、わきのブースにジオラマ作品を集めた
作家のコーナーがあることに気がついたので入ってみました。

ジオラマ作家の荒木智氏のコーナーでした。

何か混沌とした情景であるのが普通のジオラマと違う雰囲気です。
荒木氏の本職は家電メーカーで製粉のプロダクトを手がけるサラリーマンで、
ジオラマの世界は完璧に趣味なのですが、その作品はコンクールで賞を総なめ。
いまや世界にもその名を知られる作家だそうです。

この作品は「トタン屋根の造船所」
リンク先を開いていただければ、ライトアップした本物そっくりの写真がみられます。



イカ釣り船の部分をアップしてみました。
上のリンク先を見ていただければ、工場内のディティールも半端でないのがお分かりでしょう。

 

「混沌の街」
大地震の起きた直後?
御本人によると、この車の飛散防止窓ガラスのヒビは、
カッターの歯を鋭角にナナメに切り込んで割れを描いているのだとか。



「オール・イン・ザ・BOX」というシリーズで、タミヤのパンサーG型をつかったもの。
このタイトルの意味は、

「プラモデルの箱の中のものだけで作る(文字通り)」

という意味だそうです。
つまりそれを逆手にとって

「箱の中のもの全てを使ってどれだけすごいものができるか」

に挑戦したという作品。
どういう意味かというと、このジオラマ全て、箱の中のもの、
紙の箱はもちろんのこと、プラモ製品が最初の状態の時についてくる
部品を支えるためのプラスチックを火で炙って引き延ばすなどして、
ウインチや電線までを作っている、ってことなのです。

土は説明書などの紙を細かくちぎり水と木工ボンドを混ぜた粘土で。
石垣から生えている植物も説明書の紙を薄く削って作ってあります。



こちらのシャーマンもオールインザBOXシリーズ。
この人間は、ランナーを溶かしたもので成形してあります。
シャーマンのドーザ部分はもともとキットには含まれていませんが、
この部分は模型の外箱を利用して作ってあります。

ちなみにこのアメリカ兵は、シャーマンが道を作る時に、道端に咲いていたひまわりを
自分のヘルメットに入れて助けてあげているんだそうです。



「赤灯台の防波堤」

荒木氏のお父さんの故郷、五島列島の小さな漁港がモデルだそうです。



会場に飾ってあった写真。Photoshopかな?



ミゼットの焼き芋屋さんと呼び止める女の人。

「やきいも ミゼット」

ホームページのジオラマに写り込んでいる空は本物だとわかりました。
Photoshopじゃなかったんですね・・。



息子がこれを見せたら「行けばよかった」とつぶやきました。
(ちなみに彼はバットマンシリーズが大好き)

この製作についてはぜひアラーキーさんのHPをみてください。

ゴッサムシティー


いやー、美は細部に宿ると言いますが、もう宿りすぎ。
しかもそれがゴミだったり落書きだったりするというね・・。

ちなみに冒頭写真の東京タワーとビル群も荒木氏の作品です。



というわけで、3日間にわたってお話ししてきましたが、
わずか1時間少し、「小さな人になったつもり」で、全ての模型と
その世界を心ゆくまで堪能した「ビッグショー」でした。

ご招待いただいたハセガワさんにこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました!


終わり。
 

日本は ”自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか”

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先日、映画「シン・ゴジラ」を観て、わたしはあることを考えました。

主人公の官房副長官が、今から「ヤシオリ作戦」という名の
ゴジラ殲滅作戦に向かう陸自の部隊を前に、言葉を述べるシーンです。

「この中の何人かは生きて帰れないかもしれませんが・・」

正確なセリフではありませんが、つまり昔の司令官のように
出撃する隊員たちに、激励を行いました。

これは、言葉を換えれば自衛隊員たちに

「たとえ死ぬことがあっても戦ってほしい」=「死んでこい」

とあらためて念を押したということです。

わたしがこのとき感じたのは、巨大生物襲来という国難が起きるという設定の
この劇中の日本においても、ゴジラと戦って殉職するであろう隊員の
「弔われ方」というものは、おそらく今と寸分変わりないにちがいない、
という歯痒さと割り切れない思いとでもいうべきものでした。

この場合の「今」というのは、要するに、自衛隊員の殉職への慰霊が
防衛省と自衛隊が内々で行う年次行事にとどまっていて、国民には
それがいつどこでどのように行われたか全く告知されない、という状態です。

その慰霊碑も、一般国民の目の届かないところに、旧軍関係の慰霊碑と
まとめて(例 市ヶ谷防衛省敷地内)「隔離」されているという実情。
殉職隊員の慰霊には、例年自衛隊最高指揮官である総理大臣が出席しますが、

「日本列島は日本人だけのものじゃない」

とかつて言い放った某党首は、式典に外遊を当ててそれを理由に出席せず。
(こいつはその年の自衛隊の観閲式にも出席を拒否した)
左派、というより非日本人に政権を執られていたあの3年間は当然だったとしても、
その訓示において必ず自衛官の殉職に対する慰霊を盛り込む安倍首相の政権下でも、
自衛官の殉職に対する扱いは決して十分なものとは思えません。

そも、自衛官が殉職することの「意味」すら、全くあやふやなままなのです。

「自衛隊が憲法上違憲のまま」、つまり自衛隊の存在意義を曖昧にしたままでは、
彼らが何のために存在しているのかに始まって、彼らは何のために命を賭けるのか、
何のために危険を冒すのか、という問いにすら、明確な答えがでないのです。

彼らは自ら国民の負託に応えることを宣誓します。
それはすなわち「国」のために奉仕することでもある「はず」です。


しかし、その公務において、万が一尊い命が奪われたとき、
国のために犠牲になったはずの命なのに、その国から顕彰されず、
慰霊行事も日本国の名前で行われない、というのが現実です。

「シン・ゴジラ」で犠牲になった自衛官は、
果たして国を守るために殉職したとして特別に慰霊されるのか。
それともやっぱりこれまでのような国民不在の慰霊のままで済まされるのか。


ゴジラではなく、法案の改正によって自衛隊員の活動範囲が拡大したとき、
可能性として「殉職」という名の戦死が起こりうる可能性があります。
こういったことについて、新潮45の「死ぬための生き方」という特集に
海上自衛隊の福本出元海将が寄稿しておられます。

今日はこれをご紹介をさせていただこうと思います。



自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか


「湾岸戦争症候群」という言葉がある。

1991年1月、クウェートに侵攻したイラクに対し、
米国を中心とする多国籍軍が空爆を開始、のちに
「砂漠の嵐」作戦と呼ばれた戦車戦など激しい戦闘を展開した。
終結後、帰国した米兵達には、精神に異常を来すものや自殺を図る者が続出したという。
「湾岸戦争症候群」、いわゆる戦争ノイローゼである。

いずれ、日本もこうした症状に対処しなくてはならない日が来るだろう。

こう書くと、多くの人ばギョッとするかもしれない。
それほどまでに今の日本は平和で、戦争ノイローゼとはどこか遠い国の出来事だ。
自衛隊とて例外ではない。
目下、海外派遣はPKO(国連平和維持活動)がほとんど、
大規模な災害派遣の時もメンタルダウンする隊員がいないわけではなかったが
少数派で、世間の耳目を集めるほどではなかった。
しかし今後はどうだろうか。


平和安全法制が成立した今、前線か後方かはともかく、
自衛隊が「戦う舞台」として海外に派遣される可能性は飛躍的に高まった。
PKOや災害派遣とは異なる過酷な現場に向かうことになるかもしれない。
この時求められるのは、何より「死」を受け入れる覚悟ではないかと私は思っている。

かつての自衛隊は、存在するだけで意味があった。
しかし東西冷戦終結後は実際に運用できる組織や編成が求められ、
現在では「真に戦える自衛隊」としての訓練をおこない、
多国籍軍とともに任務に就いている部隊もある。

だが、強靭な刃を持つだけでは、本当の意味で強い武人にはなり得ない。
実力を培うことは言うまでもないが、同時に、
生と死について真剣に考える必要があるだろう。
海外派遣のたびに多くの隊員が「湾岸戦争症候群」のような症状に悩まされていては、
「真に戦える自衛隊」などとは言えないからだ。


人は「死」に向き合うと強くなる。
東日本大震災の災害派遣で、私は部下の姿にそれを痛感した。
当時、私は海上自衛隊の掃海隊群司令だった。

掃海隊群は三陸の沿岸部で行方不明者の捜索にあたっていた。
多くのご遺体を発見・収容した軍司令部の水中処分班に、ある一人の海士長がいた。
仮にA士長と呼ぶ。ついこの間まで高校生だった若者である。

彼は出勤する一ヶ月ほど前に、江田島にある第一術科学校の水中処分過程を修業していた。
彼が着任した水中処分班とは、海に潜って機雷の識別や処分を行う
特殊技能を持った隊員たちで構成されている。
A士長は、先輩たちと共に三陸の海に潜った。
しかし一週間後、潜水指揮官から船上作業員に指定された。
潜ることを禁止されたのだ。

彼はボートの上で、先輩たちに指示されながら、
発見されたご遺体をボディバッグに収容していた。

それまで彼が死んだ人に接した経験は、幼い頃に葬式で見た祖父の姿だけだった。
それも眠っているかのような、穏やかな姿だったそうだ。
だが水死体で発見されるご遺体は、それとは全く違っていた。

A士長が捜索現場で初めてご遺体を発見したとき───。
人間ではなく、布団が海に浮かんでいるのだと思ったという。
着衣も毛髪もなかった。
肌色は失われ、まるで漂白したかのように真っ白である。
体内に発生したガスで、異常に膨張していた。
眼窩はえぐられ、よく見ればところどころ白骨化している。
ボートに引き上げた途端に崩れ、腐敗した肉片や内臓が飛び散った。
A士長は思わず嘔吐してしまった。
異臭が鼻にこびりつき、船に戻ってシャワーを浴びても取れた気がしない。
ベッドに入って目を閉じても、昼間の水死体が瞼に浮かんだ。
眠れない日々。

夜が明ければ、再び捜索現場に出る。
沖合から沿岸部に近づいていくには、漂流するパドル(櫂)で
かきわけていかなければならない。
倒壊した家屋や漁船、筏などが水面を漂う中、先輩たちは
湾の奥へと処分艇(ゴムボート)を進めていく。
全く怯む様子はなかった。

A士長は、行かなければならないことは頭ではわかっていても、
怖くて足がすくむばかりだった。
水中の視界はほぼゼロ。
汚濁した海中に潜っても、バディと呼ばれる相方の先輩はおろか、
自分の手先すら見えない。
そんな中での捜索は、まさに手探りだった。
何かが指先にあたるたび、どきりとして呼吸が荒くなる。
ボートに揚がると、ボンベの残空気が先輩よりずっと少なかった。
潜水指揮官は、これ以上A士長が潜ることに危険を感じたのだ。

強さと優しさと

そのA士長が変わったのは、ある夜、
先輩のマスターダイバーから話を聞いたときだった。

「俺たちは、これまでも不時着水した機体の捜索、『なだしお』事故や
奥尻島の津波被災者の捜索に行くたびに、何人ものご遺体に接してきた。

俺も最初は怖いと思ったよ。
目の前に突然ご遺体が現れたときは、その瞬間、
海中でパニックになりそうになったこともある。
でも、ある日、気が付いたんだ。
どんなに変わり果てようが、この仏さんは誰かの親父やおふくろ、息子や娘なのだと。
家族が探したくても、それは俺らにしかできないんだと。

それ以来、おれはご遺体を見つけたら、
触れる前にまず手をあわせることにしている。
そして
『お待たせしました。寒かったでしょう。怖かったでしょう。もうすぐ帰れますよ』
と、心の中で唱えるようになった・・・・・」

A士長は、先輩の言葉で、ご遺体を怖いと思った自分が情けなくなった。
そして冷たくなった祖父に涙した自分を思い出した。
夜が明けたら、一刻も早く現場に向かおう。


先輩たちも、A士長の顔つきが変わったことに気付いていた。
彼は再び水中に潜り、捜索の任務に当たったのである。
津波によって破壊し尽くされた捜索現場は、大けがや感染症の罹患など
多くのリスクが伴う。
しかし隊員たちは疲れも見せず、危険をものともせず、
黙々と現場に立ち向かった。

一方で、船に戻り、機材の整備をしながら涙を浮かべていた隊員の姿も私は知っている。
それは何より、犠牲者とその家族を思っていたからにほかならない。
同時に「死」と真正面から向き合っていたからにほかならない。

A士長もまた、死者と向き合う先輩の姿を知り、残された家族に思いを馳せ、
恐怖を克服した。そして真の勇気を持ったのである。

私が海上自衛隊幹部学校長の職にあるとき、
菅野覚明先生(東京大学教授・当時)の講義を拝聴する機会があった。
菅野先生には長年、幹部学校で武士道についての講義をお願いしている。
先生は

「武士道の真髄は強さと優しさが表裏一体になっている姿である」

と説かれた。

守るべきものがある者は強い。

たとえば自分の家族や恋人、あるいは彼らが住む故郷、
これを守りたいと言う気持ちは、損得勘定抜きの愛情である。
我が身を顧みず困難に立ち向かおうとする勇気は、他者への優しさがあるからこそだ。

掃海隊群の中でも、当初、行方不明者の捜索に怯む隊員はいた。
A士長ばかりではなかった。
しかし被災地の人々から「ありがとう」という言葉を聞くたび、
彼らは強くなっていった。
この人たちのためにがんばろうと奮起したのだ。
私は未曾有の災害に立ち向かった隊員たちに、
真の強さを秘めた「武士道精神」を見たように思っている。
自衛官の勇気は、まさに国民の負託によって支えられているのだ。



今後、「真に戦える自衛隊」として、
日本も国際社会のなかで役割を果たしていかなければならない。
またそれを求められるようになっていくだろう。

自衛隊OBとして、後輩についてはあまり心配していないが、
一方で政府は、国民はどうだろうか。

これまでも自衛隊には職務中の事故で亡くなる者がいたが、
彼らは「殉職」であり「戦死」ではない。
しかし今後、自衛官の戦死者が出ることを想定しておく必要がある。
これを私達は真剣に考えなくてはならない。

自衛隊を戦場に送り出す政府は、国民は、
果たして「戦死」を受け入れる覚悟が本当にできているだろうか。
もし戦死者が出たことで時の政府がひっくり返るようなことにでもなれば、
自衛隊は戦うことなどできないのだ。

最悪の事態を想定することを、「言霊」を理由に忌み嫌い、その結果、
原子力災害を拡大させてしまったような愚を繰り返してはならない。

40年ほど前、「人の命は地球より重い」と言った首相がいた。
命の尊さという意味では、これは正しいのかもしれない。
しかしそれは、「事に臨んでは危険を顧みず」と服務の宣誓をした
自衛官の任務遂行を否定するものではないはずだ。

世界のどの国も、国家のためにその尊い命を捧げた者は永遠に顕彰され、
そのための施設が整っている。そこには他国の元首も訪れる。

翻って日本はどうか。

国民は死ぬことを従容として受け入れた自衛官を忘れずにいるだろうか。
また彼らを弔うに相応しい場所があるだろうか。

防衛省(市ヶ谷)には殉職者慰霊碑が建立されているが、
一般の人が気軽に訪れるような場所にはない。
国家元首が訪れる場所として想定されているわけでもない。
さりとて靖国神社は政争の具になってしまって久しい。

自衛官が戦死する。
そのときどう弔うのか。

「死」を意識しない国家の基盤は脆弱であると言わざるを得ない。 



著者  福本出 ふくもといずる

(株)石川製作所東京研究所長
元海上自衛隊幹部学校長(海将)

79年防衛大学校卒(23期)
在トルコ防衛駐在官、呉地方総監部幕僚長を経て、
2010年12月に掃海隊群司令。
14年8月退官。

 

ブラスに酔った夜〜横須賀音楽隊 ふれあいコンサート2016

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毎日毎日蒸し暑い曇りがちな日が続いていたものの、
一雨ごとに気温が下がっていって、ついに

「今日から秋になった」

とはっきりと思った日、わたしは横須賀に赴きました。
コンサートがあることすら前の週まで知りませんでしたが、
チケットを手にいれた人から一枚譲っていただき、2月末の定演以来
半年ぶりで聴く横須賀音楽隊の演奏です。

前隊長樋口好雄二等海佐が8月29日付で東京音楽隊長になられ、
新隊長である植田哲生三等海佐を擁しての(多分)初めてのホールコンサート。

「ふれあいコンサート」という名前ははっきりいってイマイチですが、
ジャズやポップスという軽いナンバーで一般市民と音楽がふれあう、
そんな機会にしようという試みなんだと思います。(多分)



さて、コンサートの日、よこすか芸術劇場の下に車を入れるため、
異常に早く到着したわたし。
ホテルメルキュールの喫茶で早い食事を取ることにしました。



横須賀のホテルだけあって、カレーに力を入れていて、
「海軍カレー」「海自カレー」「ホテルオリジナルカレー」と、
なんと3種類のカレーがメニューにありました。

そこでためらいなく頼んだ海自カレー。
「ゆうぎりカレー」だそうです。
こだわりポイントは隠し味にコーヒーを使っていること。



海自カレーを注文したら、サラダと一緒に牛乳がきました(笑)

「牛乳もセットなんですか」

軽く驚いて確かめると、

「海軍カレーには牛乳が付き物でございます」

そ、そうだったのか。ってかこれ海自カレーなんだけど。



海軍カレーといえば、レストランでこんなものも売っておりました。
新ちゃんとはもちろん小泉進次郎議員のことですが、これ、もちろん
本人に許可とってるよね?



パッケージの隅にいるこの人は誰。
海軍カレーなのに新ちゃんもこの人も海自の制服なのはスルーで。


実はわたしが現地に着いたのは3時半。
念のためホテルの前にホールの様子を見に行ってみたのですが、

・・・・・いるよ。もう並んでる人が。

今にして思えばこの日は入った順番で席を選べたので、
こだわる人は2時間前から並んでいたんですね。(椅子とシート持参で)

わたしは東京音楽隊の時のように、席番号とチケットを引き換えるのだと
思っていたので、早くから並んでもねえ、とご飯を食べに行ったのですが、
5時に戻ってきてみたらもう人がてんこ盛りに並んでいるではないですか。

それでも1階席の後ろの方に席を確保することができたので、
パンフレットを椅子の上に置き、ロビーに出て時間をつぶしました。




ロビーには自衛隊の活動についてのパネルがちょっとだけあり、
入隊に関する資料が並べてありました。



そういえばこの日、呉に「しらせ」がいて行事があったという話を聞きましたっけ。
「しらせ」に女性隊員が乗り組んだのは今回が初めてだったそうです。
医官一人を含む10人が、第57次航海に参加していました。



さて、そんなパネルを見て席に帰ってきたら、なんと。
確保しておいたはずの席に見知らぬじじばば、いや老夫妻が座ってるのです。

「あの・・・この席、プログラムが置いてあったはずなんですが」

すると、二人ともこちらに目も合わせず、じじの方が即座に

「なかったよ!」

と吐いて捨てるように答えて、そっぽを向きました。
そのあまりのレスポンスの良さに、これは気づかなかったことにして
ちゃっかり席を獲ったんだ(つまり故意犯)と確信したわたしでした。


自衛隊のイベントでは、こういう不愉快なことがよくあるわけだけど、
その主原因が必ず団塊世代なのは何故なんだぜ。


しかし、そんな団塊に拘っている場合ではありません。
この時には多くの人たちがすでに席を取ってしまっていたので、
一目散に二階に上がって冒頭写真の席に座りました。

はっきりいってじじばばに取られた場所よりよっぽどいい席でした。
ざまーみろってんだ。


さて、いよいよコンサート開始です。

ヴィヴァ・ムジカ

Viva Musica!.Tokyo Kosei Wind Orchestra.
 

ブラバンの人だけが知っていて、また知らぬ人のないアルフレッド・リード作品。
「エル・カミーノ・レアル」という曲が特に有名です。
ちなみにロスアルトスには全く同じ名前の幹線道路があります。

「ブラスの愉しみ」ということで、ブラスらしい曲をオープニングに選んだのでしょう。

稲穂の波

 

ある意味最もブラスらしい曲として、コンクールの課題曲から一曲。
日本のブラスバンドはレベルが高く、こういう曲を中学からやってしまいます。

隊員の中には学生時代練習したことのある人もいたことでしょう。


バスクラリネットにスポットライトを

Spotlights on Bass Clarinet - Jan Hadermann


入隊して41年を横須賀音楽隊で過ごし、このコンサートを最後に
退官するバスクラリネット奏者(曹長)がソロを取りました。
ということは19歳から60歳までをここで過ごしたということなのですね。
どなたか存じあげませぬが、本当に長い間お疲れ様でございました。

バスクラというのは主役になることがなく、その楽器の特性上
ベースの音で音楽を支えるというのが身上ですが、 この曲では
題名の通り、バスクラにスポットライトが当てられます。

作者のヤン・ハーデルマンはベルギーの作曲家です。
てっきりバスクラ奏者だと思っていましたが、違いました。
依頼されたか友達がこの楽器を吹いていたのでしょう。

この曲を聴いて思いますが、やっぱりバスクラって
全編主役を張るのは無理がある楽器だなあ・・・なんて言っちゃいけないか。

タイム・トゥ・セイ・グッドバイ

Time to Say Goodbye 海上自衛隊 横須賀音楽隊『サマーフェスタ演奏会』

わたしが最初に三宅 由佳莉3曹の歌を生で聞いたのもこの曲でした。
サマーフェスタでの中川麻里子士長の映像がありましたので貼っておきます。

この映像でもドラマチックな高音を効かせてくれるまりちゃんですが、
この当日の演奏はホールの響きも効果的に作用し、もう圧倒的でした。

一つだけいうなら、レシタティーボ風の出だしの部分、
「くぁんど その そろ そにょ〜れぱろーれ〜」のところ、
もう少しゆっくりと、歌詞を聞かせてくれてもいいように思います。
ピアノ伴奏とかならともかく、ブラスなのでちょっと煩雑に聞こえるんですね。 


余談ですが、サラ・ブライトマンのレコーディングでは

「け・あい・あっちぇーぞ」

の「け」の音が低くて、いつも「いらっ」とするわたしです(笑)


ドラゴンクエストによるコンサートセレクション

 

曲は初めて聞きましたが、悲しいことに全てのパートに聞き覚えがありました。
ええ、一時寝食を忘れてはまったことがありまして・・。
もちろん独身の時です。念のため。

さて、ここまでが第1部で、第2部はブラスジャズ・ポップとタイトルがありました。

A列車で行こう(ビリー・ストレイホーン)

でまずビッグバンドの雰囲気にぐいぐいと引き込み・・・・、

黒いオルフェ(ルイス・ボンファ)

でサンバを聞かせてくれます。
この曲、大好きで、ブラジル語ではなく仏語で歌えたりします(〃'∇'〃)ゝ

原題の「マーニャ・ジ・カルナバル」(カーニバルの朝)というニュアンスと
その内容から、オリジナルのボサノバで演奏されることが多い曲です。
それを、サンバ!
フルートがメインのメロディを担当しました。

リカード・ボサノバ

Manhattan Jazz Quintet-Recado Bossa Nova


「ザ・ギフト」という英題があり、英語の歌詞もあります。
大御所マンハッタンジャズクインテットの演奏でどうぞ。

おお!と思ったのは、皆さんソロがお上手なこと。
自衛隊音楽隊も世代交代してこういう耳を持った人が主流になったのか、
と感無量でした。

ジョージア・オン・マイ・マインド

特にすげー!と唸ったのはこのソロをとったアルトサックスのカオルくん。
(上の名前を忘れ、下の名前だけを覚えているので)
自衛隊のジャズチューン、特にレコーディングされたものを聞くと、
これ絶対アドリブじゃないよね?書いてるよね?という風味のソロが多いのですが、
カオルのソロは(なぜ呼び捨てw)そういうのとは全く違いました。

音色はとってもセクシー、アドリブフレーズ縦横無尽かつテンションパリパリ。
目を閉じて聴いていると自衛隊の制服を着ている人が演奏していることが
不思議に感じられるくらいイケてました。

マイ・フェイバリット・シングス

「サウンド・オブ・ミュージック」から「わたしのお気に入り」。
三拍子の曲をイントロではバラード風に、それからスピード感のある
ジャズワルツでぐいぐいとドライブしていくアレンジで、
ここでの主役はなんといってもまりちゃんの歌です。

イントロを声楽科出身独特の本格的な発声の英語で歌い上げたとき
正直この後どうなるのかドキドキしましたが、その後は

「薔薇の雫子猫のヒゲ」

「ドアベルとソリの鈴とシュニッツェルとヌードル」

てな感じの直訳の歌詞と英語を速いテンポに乗せてくりかえし、
それにカオルを始めイケイケのソロ軍団が絡むという趣向。

このアレンジはおそらく彼女の声を念頭にされたものだと思うのですが、
ラストをナチュラル9thのハイトーンで、まるでホーンのように終わらせたのには、
思わずあっぱれ!と感嘆しました。

なんかこういう終わり方が聴きたかった、という感じ。

スペイン チック・コリア

東京音楽隊の「スペイン」アレンジに関しては変拍子で数える

「1、2、3、1、2、3、4、5」の部分を

「1、2、3、4、1、2、3、4」

と普通にしてしまってつまらなくしてしまっていることと、
リフのメロディがオリジナルと違うことを
このブログで批評したという過去がございます。

海上自衛隊東京音楽隊/スペイン


リズムの件は「ドリルを行うから」という理由を聞いたのですが、
それではメロディが違うことには意味があるのか?と
しつこく突っ込んで嫌われた(にちがいない)わたしです。

この日もなんとなく覚悟(笑)していたのですが、なんと、
横須賀音楽隊、全く別のスコアを使っておりました。
考えたら別の組織なのだから当たり前かもしれませんが。

「スペイン」Spain 海上自衛隊 横須賀音楽隊『サマーフェスタ演奏会』



オリジナルにもある「アランフェス協奏曲」の部分をトランペットの
「たけちよ」というファーストネームの奏者が(こちらも苗字を忘れた)
原曲通りに吹き、リズムももちろんメロディもオリジナル通り。

リフ部分にはなぞの対旋律を独自にぶち込むという意欲的なアレンジです。

このユーチューブでは野外録音なので音質はイマイチですが、
カオルくんとタケチヨくんのソロが聴けます。

指揮しているのは転勤間近の前隊長樋口2佐ですが、樋口隊長は
この20日後に東京音楽隊の隊長になられたので、
東京音楽隊で「スペイン」をするときに例の部分をどうするのか、
わたしとしては(というかわたしだけが)大変気になるところです。


そして最後にまりちゃんがアンコールとしてJポップの曲
(わたしの知らない曲)を歌ってくれました。

わたしの隣にいた人が直接お話ししたことがあるらしく、
彼女が自分自身で、

「こういう曲(ポップス系?)が苦手なんです」

と言っていたと話をしていたのですが、この日聴く限り悪くなく、
いやそれどころか大変よろしかったと存じます。
何より場数を踏んで、随分歌手としてバランスが取れてきたと思えました。

立ち居振る舞いなどのステージングも含め、短期間に洗練されてきた、
というか、単純に言うとさらにうまくなったなあ、という印象です。


さて、そんなわけで存分に楽しんだあっという間の2時間。

自衛隊音楽隊のコンサートに行くと、「ふれあい」という名前の通り敷居が低く
親しみやすい構成で一般の人にも文句なく楽しめる内容でありながら、
ブラスバンドの魅力を遺憾なく発揮しているといつも思います。

内外に大変実力を評価されている横須賀音楽隊のブラスの音色に酔い、
これからもその演奏に注目し、応援していきたいと思ったひとときでした。





 

映画「桃太郎 海の神兵」〜海軍水兵たちの帰郷

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昔、高校生くらいのとき何かでこの「桃太郎 海の神兵」のことを知りました。
おぼろげな記憶のなかでも、当時の製作者が渾身の作品を作り上げたが、
スタッフが戦地で押収したディズニーの「ファンタジア」を見て打ちひしがれ、

「こんな国に日本が勝てるわけがない」

と絶望したということだけは強烈な印象を残しています。
日本のアニメーションにとって原点ともいわれている作品で、なおかつ
戦時中の戦意高揚のために作られたものであるということで、
いつか是非見てみたいと思っていたのですが、夢が叶いました。
なんと、これがDVD化されていたのです。

関係者の間でもこの作品は、戦後GHQによって戦意喪失のため没収、
焼却され失われた「幻の傑作アニメ」と言い伝えられてきました。
ところが近年、松竹大船の倉庫でネガが発見されたのです。
もしGHQの手に渡っていたら確実にこの世から消えていたでしょうから、
もしかしたら映画会社の誰かが隠して検閲を免れたのかもしれません。

そして新たにわかったところによると、実際は記憶と少し違っていて、
スタッフは「ディズニーを見て絶望した」のではなく、
「押収したディズニーのアニメをを目標にこれを作った」のでした。

言われてみると、たとえば旗や桃太郎たちのハチマキが風に煽られる様子、
表情を曇らせたり何かを思いつめたりするときの表情の変化に、
今のアニメ風とはまったく違うディズニー風のテイストが感じられます。

もっとも、物資不足でフィルムもろくに手に入らなかった当時、
ディズニー作品とこれを比べるのは酷というものに違いありませんが、
少なくともその限られた条件の中で、日本の制作スタッフが 、
「ファンタジア」に近づこうとした努力はいたるところに窺えます。

ところでこのシリーズのタイトル画ですが、全てわたしのタッチで
この映画の登場人物を想像し、人間に描き変えてみました。
どうぞその辺りもご覧いただけると幸いです。



昭和19年12月完成。
この、和紙に毛筆で書いただけのタイトルにもなにか
切羽詰まった感が拭えません。
この1ヶ月くらい前からは本土空襲が激化していました。

物資不足も深刻で、国策映画といえども製作に必要な資材の調達がままならなくなり、
質の悪いザラ紙の動画用紙は利用が終わると消して新たな動画を描き、
セルも絵具を洗い落として再使用するなどの大変劣悪な制作環境 (wiki)

ということですので、セル画が残されている可能性はまずゼロです。

 

さすがは海軍省が作った国策映画。
音楽監督は御大古関裕而、そして作詞はサトウハチローです。

ただしわたしは古関が全てを作曲したというようには思われません。
古関裕而は確かに山田耕筰などのようにクラシックの管弦楽法や
対位法をみっちりやって前衛的なものが書ける作曲家ではありませんが、
それにしても、後ろに流れる音楽に耳をそばだててみると
理論的に奇妙に聞こえる展開が多く、時々稚拙ですらあります。

若いスタッフは次々と徴兵、徴用されて減っていった。
その上、スタジオでは空襲警報が鳴る度に機材、動画などを持って地下へ避難し、
警報解除後にまた作業を再開するなど非常に困難な状況の連続で(wiki)

という状況が音楽にも影響を及ぼしたのかもしれません。 
ちなみにオケに「大東亜交響楽団」というような名前がついていますが、
こういうオーケストラ名が付いていたらそれは「寄せ集め」を意味します。(今でも)



この映画は「空の神兵」でドキュメンタリー映画にされた陸軍の
落下傘部隊に対抗するように、海軍の落下傘部隊を扱っています。

この陸海の落下傘部隊の軋轢?については以前も触れましたが、
海軍がこの時期にわざわざ開戦初頭のメナド降下作戦を題材にしたのは、
陸軍落下傘部隊だけが世間にもてはやされたことと無関係ではないでしょう。

ちなみに取材が行われたとされるのは、蘭印作戦で海軍の落下傘部隊が
メナドに侵攻してからちょうど1年後といったころでした。



物語は海軍水兵の四人組、猿・犬・雉・熊が帰郷してくるところから始まります。
彼らは皆、富士山の裾野に広がる美しい村の出身です。



全く期待せず、というか半ば侮ってこれを見始めたわたしですが、
最初のシーンにおいてもうすでに「何か違う」感じがしてきました。
故郷に帰ってきた彼らが鳥の声と風の吹きわたる光景を、
まるで初めて見るものであるかのように目を細めながら眺め、
そして空気の香りを嗅ぐ様子がいきなり長回しされるのです。



唯一名前が明らかになっていた「猿野猿吉」。
(軍服の胸に”サルノ”と記されていた)
彼が鳥のさえずりをその姿を追いながら眺め、そして思わず目を細めて微笑む様子。
爽やかな5月の風にセーラー服の襟がなびく様子。

戦後の白黒アニメでこんな風に表情の変化を描いたものはなかった気がします。



この表情の意味を、画面を見ている者は知っています。
もしかしたらこれが彼らにとって最後の帰郷になるかもしれないことも。



「海軍の水兵さんが帰ってきたよー!」

その知らせに沸き立つ村の人々。
これは猿野の弟猿、「三太」。

 

四人は村の神社にまず参拝を行います。

「拝礼」「なおれ、着帽!」

声をかけるのは熊で、どうも彼が最も上官であるようです。
ちなみに冒頭画像は手前から猿、熊、犬、雉の順番。 




ここまで全員無言。
鳥居を出て各々の家に分かれていくとき、まるで「帽触れ」のように
ゆっくりと帽を振る猿野。



このシーンは、村の子供達が猿野の荷物を持って行ってしまうのを
見送っているのですが、それを見ながら意味なく異常にふらふらしていて、
そのあとセーラー服の裾を直したり、とにかくアニメーターの

「細かい動きを表現したい」

という意欲が溢れすぎてわけがわからないことになってしまっています。
「帽振れ」のシーンとはアニメーターも全く違うという感じ。

 

「にいちゃん、何乗るの?水上艦?潜水艦?」

三太は兄に海軍で何をやっているのか聞くのですが、猿野は

「ううん」「違うよ」「海軍の兵隊さんは軍艦に乗るだけじゃないよ」
「もっと考えてごらん」

とごまかすばかりで肝心の答えをしません。

「わかった、飛行機だ!」

これにもノーアンサー。

 

ワン吉の両親は畑を耕しています。

 

雉は喋らないので名前がわかりません(笑)
仮に雉川雉兵衛(きじかわきじのひょうえ)としておきましょう。
餌を欲しがる赤ん坊(というかヒナ)の弟たちに糧食をやるもさらにせがまれ、
雉一は困った末、親と代わる代わる餌を捕ってきて口に入れてやります。

 

この世界では雉は鳥の巣に住んでいるようですが、熊は人家に住んでいます。
弟が五月の節句人形を箱から出して飾る手伝いをする兄、
それを目を細めて見ながらお茶を入れる母親。

なんと、このシーンでは熊が母親のお茶を待つ間膝を叩きながら体を揺らす、
という意味不明の動きまで見せてくれます。



猿野は近所の子供達に海軍の話をせがまれ、
航空隊に入隊して初めて単独飛行を許されたときの話、
戦闘訓練の様子を話してやります。

 

が、その間に兄の軍帽を横から取った弟の猿太。
憧れの海軍のマークをほれぼれと見つめて自分がかぶってみます。

 

そして自分の姿を水に写してうっとりと手旗信号の真似をしたり
敬礼したり、兵隊さん歩きをしているうちに帽子を川に落としてしまい・・・・、



それを拾おうとして川に流されてしまうのでした。



「大変だ大変だ、三太くん川に落ちたよ!」

このツバメの動きも大変目まぐるしく、セル画を何枚も使っているのがわかります。



猿野の驚きのポーズ(笑)
このあとつい動揺して慌てる様子も細かく表現されます。

 

知らせを聞いて犬山ワン吉も駆けつけてきます。
ワン吉は空中で回転して走っている皆を飛び越すというスーパー運動神経ぶり。
ついでに猿野まで追い越しております。

 

崖の上から飛び込んで弟を助けに行く猿野。
このときに、まるで手を水上機のプロペラのようにブーンと回転し、
泳いでいる猿野の体が空中に浮かび上がるのが、
いかにもディズニーにヒントを得たアニメならではの表現です。

 

ワン吉は体に縄をもやい結びで(多分)結びつけ、勝手知ったる故郷の地形、
流れに先回りして木のうろからダイブ、滝の手前で水面の猿兄弟をすくい上げることに成功。




村の子供たちが彼らのしがみつくロープを皆で力を合わせて引き上げます。

 

リスははっきり言って錘になってるだけの足手まとい。

 

桃太郎を入れて5人の主人公には、今のアニメシステムでは考えられない
贅沢な「キャラクター専属制度」が取られました。
つまりひとつのキャラクターに一人のアニメーターが専従したのです。
そう言われてみれば各自のキャラの傾向が少しずつ違います。
アニメーターの癖や好みが、キャラクターに反映されているのでしょう。

 

さて、熊野熊衛門(これも便宜上勝手に命名、あだ名はくまモン)
の家では、長男のくまモンが節句の飾り付けを行い、鯉のぼりを揚げます。
くまモンの家には三太が溺れたニュースは届かなかったようです。



しかしよく考えたら桃太郎に熊、いませんよね?

ここではくまモンは金太郎に投げ飛ばされている熊の置物を手に取り、
まいったまいった、と言いたげに無言でひっくりがえって見せます。
クマは桃太郎には出てこないが金太郎には登場する、だからこの出演となった、
と制作者が言い訳をしているかのようです。

ここで桃太郎の話に金太郎をフュージョンさせていることを説明しているのですが、
出演にあたってはきっと熊のプロダクションがゴリ押ししたのに違いありません。



くまモンの母、「クマ」(たぶん)が息子を見ながら微笑み、
体を倒した時に、居間の奥にかけられた東郷元帥の写真が一瞬映ります。

さすがに東郷元帥を動物に喩えることはしなかった模様。
この世界では将官や桃太郎など士官が人間で、兵士が動物ということになっています。

 

無事に弟を救出した猿野は、ワン吉ときっちりと敬礼をして別れ、
二人で熊雄の揚げた鯉のぼりを眺めます。
彼らはお互いに何かを語り合っていますが、画面にはセリフはありません。

弟の三太がまったく懲りずに猿野の軍帽で遊んでいる間、

 

猿野はたんぽぽが綿毛を飛ばしているのをうっとりとうち眺めます。

 

そして、その綿毛が空に舞うのをしばし見ていた猿野の耳だけに、
落下傘部隊が降下を行う合図に使われるブザーと号令が聞こえてきます。

ブーッ、ブーッ

「降下30分前!全員落下傘着け!」

ブーッ、ブーッ

「降下用意!」

「こうかあ〜〜!」

ブーーーーッ



ふたたび眼を上げたとき、猿野の表情は変わっていました。



これは、彼ら海軍空挺部隊が死を決して行う降下作戦前の、
最後の帰郷だったのです。


海軍挺進部隊の降下作戦は極秘のうちに訓練が進められ、
1942年の1月11日に行われました。
前にも書きましたが、これは陸軍より先に行われ成功したにもかかわらず、
陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戦の企図秘匿のため、
その戦果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本営発表で
パレンバン空挺作戦の成功とほぼ同時に発表されることになりました。

しかも、陸軍の第一挺進団の戦果、被害の少なさ、攻略したものの重要性が
海軍のそれを上回ったため、陸軍ばかりが目立つ結果となってしまいます。


また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、
後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画『空の神兵』の主題歌になり、
「空挺といえば空の神兵」という風潮は海軍空挺隊に不満を与えました。


「国策映画」「戦意高揚」

このアニメについて回るこれらの言葉には、非難の意味合いが含まれます。
しかし、わたしは前作「桃太郎の海鷲」で真珠湾攻撃を描いたときと違い、
このアニメを昭和20年にわざわざ海軍が後援して製作するにあたっては
海軍の陸軍落下傘部隊に対する対抗心が製作のモチベーションであり、
実は海軍落下傘部隊を世に知らしめるのが目的ではなかったかと思われるのです。

事実、この作品によって海軍挺進部隊は国民にある程度は知られることになり、
海軍の目的はほぼ果たされることになります。

国策映画というより海軍の宣伝映画の面が大きかったように見えます。

続く。

 


アイウエオの歌〜映画「桃太郎 海の神兵」

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昭和20年初頭に公開された海軍省後援のアニメ映画、
「海の神兵」、二日目です。

最初にあまり気合を入れずにみたときには「ふーん」としか
思わなかったのですが、なんども見ているうちにこの映画には
今のアニメ制作の現場にはあり得ないような気概、
そして泣きたくなるくらい必死に上を目指し、いいものを創ろうとする
祈りに似た気持ちすら感じられるようになっていました。 

これらのフィルムを手がけた人々の多くが徴用され戦火に散ってゆき、

”当初70名近くいたアニメーターは、完成時には15名ほどに減って”(wiki)

いたそうですから、渾身の思いで取り組んだ仕事の完成を見ぬまま、
戦地で還らぬ人となったスタッフの方が多かったということになります。

そのことを念頭に置いた上でこのアニメを観るとき、至るところに
亡くなっていった仲間へのオマージュとして挿入されたエピソードや、
連合軍への敵愾心、憎しみが隠せない部分があり、彼らもまたセルに向かいながら
彼らの戦争を戦っていたということを考えずにはいられません。



さて、猿野ら海軍挺進部隊の水兵たちの故郷から場面は変わり、
椰子の木が茂る南方の海軍基地です。



前作の「桃太郎の海鷲」もそうですが、この世界の海軍では
整備・見張りなどの兵は全てうさぎです。



ここにあるのは海軍設営隊。
メナドの、おっと鬼ヶ島への降下作戦を行うにあたり、
根拠地に基地を設営するところです。



鹿がツノに糸巻きを乗せて走り、格納庫の予定地に印をつけます。



こちら設営隊の測量技師。
こんな作業までを細かく映像化しています。



軍服を着ていない動物たちは、徴用された現地の人という設定。
史実に照らすのであれば、蘭印作戦のころの海軍設営隊は、
まだ軍人よりも軍属中心に構成されていたころです。

 

象や犀など力持ちがいるので重機は必要ありません。
ちなみに建設機械を担当するのは第1中隊となっていました。

 

海軍設営隊が組織されたのは開戦直前の16年8月ごろで、
太平洋における戦争が現実化してきたのを見据えてのことでした。

設営隊は基地施設建築や陣地築城を任務とし、大東亜戦争中には
200隊以上が編成され、南方の最前線などで飛行場などの建設を行いました。



ミュージカル仕立てで登場人物が歌いながら作業を行います。
ここには明らかにディズニーを意識している様子が見えます。

で、この不気味な動物は何?っていう話なんですが、



テングザルのつもりですね。
テングザルはオランウータン、チンパンジーの類人猿トリオででてきます。



設営隊が作っていたのは格納庫でした。
飛行場を造営するのは、設営隊にある4つの中隊のうち第2中隊です。
第3中隊は居住施設・耐弾施設・桟橋などを担当し、
第4中隊 - 隧道(ずいどう=トンネル)といったように、専門化されていました。



飛行見張り台の上には海軍旗が翻ります。



そこに飛行隊が帰投してきました。



控え所から駆け出してトラックに乗り込むうさぎの地上員たち。
航空機の爆音を耳にするなり、かぶっていた帽子の紐を
あわただしく顎にかける様子も描写されます。

 

トラックから飛び降りるなり飛行機の車輪止めを押しながら走る地上員。



陸攻を護衛の戦闘機が追い越していきます。



航空隊の動きを双眼鏡で追いかけるうさぎ地上員。

 

96式陸攻ですね。
線を巻いた陸攻にはこの基地の要人が乗っています。

 

見張り台に駆け上っていくうさぎのしっぽがかわいい(笑)
なんのために上がるかというと、飛行隊に某触れをするためです。 

 

陸攻の尾翼には桃の部隊マークが。
これこそ「桃太郎空挺部隊」の印なのです。
12と書かれた垂直尾翼がはためいている動きも再現されています。

 


着地の際のタイヤが軽くバウンドする様子まで再現された
飛行機の着陸シーンは、へたするとそのまま宮崎アニメに使えるくらい。
零式艦上戦闘機の21型のエルロンもちゃんと降りています。




哨戒機からはうさぎと雉の二人の搭乗員が降りてきました。
零戦が複座?と思ったのですが、偵察用に改造された複座が実際あったようです。



この搭乗員、セリフもなく勿論名前もわかりません。
搭乗機にカゴごとペットの小鳥を乗せて飛んだようです。



ところで、戦記ものには不滅の大原則があります。

「ペットを飼っている兵士は必ず戦死する」

・・・・。



陸攻の車輪止めを素早く行う地上員たち。



コクピットには操縦士が立ち上がって地上員の指示を行い、
その様子を現地の動物たちが物見高く見物しているのですが、このとき
機上の搭乗員の耳が風にあおられてなびいています。

「桃太郎の海鷲」製作後、押収したディズニーのアニメをみて、製作者たちが
もっとも感銘を受けたのが、旗や動物の耳が風になびく表現だったといいます。

このアニメはそういうディズニー的表現に追随しようと、とにかく
動物たちにあえて細かい動きをさせている様子がうかがえます。




航空隊が着陸してくるとき、原住民らしき動物たちは皆
びっくりして木のうろなどに隠れてしまいましたが、原住民の子供達は
無邪気に飛行場の隅を走り回り、なかでも「いちびり」が、
停止した飛行機の車輪を指で触って逃げたりします。

そこでいきなり、

「来たよー来た来た 何がやってきた」

というテングザルトリオの歌が始まり、



地上員たちは陸攻の前に整列を行います。
このうさぎたちそれぞれの動きがなんとも躍動的。



そして陸攻から出てくる隊長を敬礼で迎えます。

 

挺身隊隊長、桃山桃太郎中佐着任。
実際のメナド侵攻の際には空挺降下を行ったのは
横須賀鎮守府第1特別陸戦隊で、司令官は堀内豊秋中佐でした。
(海軍は基本結成された場所が部隊名になった)


堀内大佐(最終)はこの空挺作戦に参加したときすでに42歳。
いかに海軍体操の発案者といえ、この年齢で空挺降下を行うとは
さすが指揮官先頭の海軍ならではです。



敬礼のなか堂々と登場。
額に締めた日の丸の鉢巻が風になびきます。





このときに敬礼しながら隊長の動きを地上員は目で追うのですが、
冒頭の写真の角度からこのコマまで、一瞬の動きをコマ送りして数えてみると、
セル画はコンマ以下の秒に対して32枚も描かれていることが判明しました。



テングザル以下猿トリオの合唱。

「♪おやおや立派な人が出た(人が出た)
こりゃ不思議じゃな 不思議じゃな♪」

これの何が不思議なんだ、と突っ込みたくなりますがそれはともかく、
桃太郎隊長に続いてなんと、猿野やくまモン、犬養ワン吉が降りてきました。

隊長に続いて降りてくるということは、彼らは水兵ではなく、
少なくとも兵学校出の士官だったということになりますが、
あまりその辺りの辻褄合わせはしなかった模様。

まあ、桃太郎ときたら猿雉犬の家来ですからね。

猿トリオコーラス隊は続けて

「♪驚き桃の木山椒の木 僕らによく似た顔だわい
ほんにほんになんだかちょっと似てる ほんにほんにさ〜♪」

猿野のことを指しているようです(笑)



隊長が降りた後は、地上員は挺身隊隊員たちの降機にかかります。
横須賀鎮守府特別陸戦隊の隊員は落下傘兵750名を含む総勢840名でした。

メナド降下作戦にはこのうち450名が参加してしています。



桃太郎隊長は階級章をつけておらず、胸に「隊長」とあります。
この間子供たちの歌う軍歌が流れているのですが、何かわかりません。



隊長の敬礼に盛り上がる住民の子供たち。

 

輸送機から降りてきた隊員たちが飛行場に並べていく荷物が妙に丁寧に描写されます。
猿トリオは例によって

「本当になんじゃろ本当になんじゃろ」

と中身の詮索を始めます。

「バナナ」「サロン(腰巻)」「タバコ」とそれぞれ予想しますが、
勿論それらは違います。



このトランクには、彼らが空挺降下するための傘が入っているのです。



明けて翌日。
基地には出撃前の穏やかな1日が始まろうとしています。



現地の子供たちを集めて日本語を教える教室が開かれています。
先生は犬養ワン吉。
アップになったところを見ると軍服の襟には星二つ付いています。
1等兵のつもりなのか、それとも中尉なのか・・・。



笛を吹くなりいきなり黒板を指し示し「あ!」「あ!」
「あたま」「あたま」「あし」「あし」「あさひ」「あさひ」

 

しかし、原住民の子供たち、「最初から」といわれても意味がわからず、
教室は混乱しだし、てんでに鳴き声を上げるのみ。

 

そしてついには皆が勝手なことをしだして学級崩壊状態に・・・。

 

ワン吉の先生ぶりを見に来た猿野、同期が困っているのを見て
くまモンのハーモニカの伴奏で「アイウエオ」と即興の歌を。



「アイウエオ」を単純なメロディに乗せて繰り返すだけの歌。
この猿野のノリノリぶりをご覧ください。

 

リズムに乗せてカンガルーとお腹の子供が体を動かす様子は
明らかにディズニーのテイストです。
さらにいえば、この映画を見て「涙が出るほど感動した」という
手塚治虫が、のちに「ジャングル大帝」でこの動きをオマージュしています。

「ジャングル大帝」でオマージュしたのはこれだけではありません。

A-I-U-E-O Mambo


歌うのは弘田三枝子。
動物たちに言葉を教えるシーンのためについ先日死去した冨田勲が作曲しました。

   

何回か繰り返されるうちに全員がきちんと机に座り、
まじめに「あいうえお」を歌うように。
いやー、音楽の力って偉大ですね。

 

曲は声や編成を変えてなんどもなんども繰り返されます。
鹿が自分のつのに洗濯ロープをかけて洗濯物を乾かす様子。

 

皆で作る料理を煮込むいい匂いがテントから漂ってくる様子。

 

そしてガソリンの入ったドラム缶を積み込んだトラックが去っていく様子。
ここまで、猿野が歌い始めてからなんと6分間延々と歌は続きます。



猿野の絵を描いてやる雉川(だっけ)。
雉川は航空兵ですね。

そこに誰かが叫ぶ声が。

「おーい、郵便が来たぞ〜!」

猿野はポーズをとるのをやめて慌てて駆け出していききます。

 

「部隊長殿!航空便であります!」

海軍では階級に「殿」はつけない、「であります」ではなくできるだけ短く
「です」(おはようございますがおおす、お願いいたしますも願いますになる)
というものである、とわたしたちなどは聞かされているわけですが、
この言い方に海軍からチェックが入らなかったらしいところをみると、
それらは厳密なものではなく、雰囲気で使い分けがあったのでしょう。

チェックといえば、完成後に行われた海軍省のチェックは大変厳しく、
悲愴なシーンや軍機に触れると判断されるシーンなどに対して
多くがダメ出しをされてしまったという話があります。

 

内地からの待ちに待った航空便。
皆匂いを嗅いでから荷物を解いたりしております。

 
なんと、この兵隊の荷物にはアイスクリームのカップが入っていました。
皆が周りに集まってきて鼻をヒクヒクさせたり、思わず
唇をなめたり、唾を飲み込んだりします。

本当にアイスクリームのわけはないのですが・・・。

  

開けると中に仕込まれていた虫のおもちゃが飛び出して皆びっくり。

 

缶詰、マッチ、人形に下駄・・・。
雉川に送られてきた荷物には、故郷を後にした時にはまだ
むくげのヒナだった三羽の弟たち(妹かもしれませんが)が
すっかり大きくなった今の姿を伝える写真が添えられていました。

 

木陰に荷物を広げ、弟からの手紙を読む猿野。
猿野の荷物にも下駄、そしてココアの缶が見えます。

「ボクハ、ニイサンノオテガラヲ、マツテ イマス。
カイグンノ ニイサンヘ 三太」

 

体を起こして手紙を凝視していた猿野は、手紙から目を離すと
ゆっくりと面を上げてまた宙を見つめるのでした。





続く。

 

搭乗員の小鳥〜「桃太郎 海の神兵」

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一日で紹介するつもりが結構長くなって自分でも驚いていますが、
昭和20年公開の国策アニメ、「桃太郎 空の神兵」についてです。

手塚治虫は、勤労動員の休日であった封切り初日に大阪松竹座でこの作品を観ました。
(手塚は北野高校を卒業して戦時に医師を増員するために作られた
大阪帝大の専門部に入学が決まったところだった)
そして、

海軍の意図した戦意高揚の演出中に隠された希望や平和への願いを解し、
甚く感動し涙を流した(wiki)

とのちに語ったそうです。
因縁をつけるわけではありませんが、これだとまるで製作者は
戦意高揚のアニメを心ならずも作らされており、海軍が気づいたら
話を変えさせかねない平和思想をこっそり仕込んだような言い方です。


それでは、海軍は希望や平和への願いというものが表された部分に
作品完成後に行われた検閲の際気がつかなかったとでも言うのでしょうか。
そんなことはありますまい。

軍のチェックでダメ出しをされた部分を作りなおしたため、この映画は
公開予定を大幅に遅れることとなりましたが、ダメ出しされた部分は

「軍機に触れる部分、および残酷すぎる描写」

だったといいます。

軍機に触れる部分は当たり前として、「これは残酷すぎる」と
(おそらく敵兵を殺戮するシーン)をカットさせたのが軍だった、
ということに留意していただきたいと思います。

国策映画と悪の権化のようにいいますが、わたしがここでよく言うように、
戦時中に作られたすべての戦争映画は、決してガンガン敵を殺してスカッとする、
といった方向性でドラマが作られているのではなく、傾向としては
国を守るために莞爾として死地に赴く覚悟を讃えるというものであり、
戦争によって失われる命の尊さと戦った末不慮の死を迎える悲劇、
逆説のようですが、平和の希求というテーマにおいて、戦後の戦争映画と
なんら変わることはないと思うのです。

つまり手塚治虫は戦争映画の「原点」をこのアニメに見たということになります。
手塚がいつか自分の手でこのようなアニメを作りたい、と思ったのは
他ならぬこの映画を見たことがきっかけでした。

この映画が生んだのは手塚治虫という漫画の神様であり、とりもなおさず
いまや世界に独自の位置を占める手塚以降の日本のアニメでもあるのです。 

さて、本日の冒頭画像は、おそらく手塚が「涙した」のではと想像される
「喪失」をテーマにした部分です。



早朝、哨戒に出撃する搭乗員が身支度をしながら
自室を出て来ます。
隊長機の援護のとき、搭乗機にペットの鳥カゴを積んで飛んだ搭乗員です。



鳥かごに手を入れて指に止まらせた小鳥に餌をやるため、
飛行手袋を口にくわえてはずすシーン。



この眼差しと丁寧な仕草に、愛情がこもっています。



哨戒機のクルーに呼ばれ、彼は点呼のために走っていきます。
哨戒機隊長は猿鳥雉トリオの雉ですね。



隊長に敬礼をする搭乗員。
この間にも地上員が搭乗機のエナーシャを回しています。

「◯◯兵曹以下2名、偵察機フタマルサン号機搭乗!
敵地上空を偵察に参ります!」

雉川というのは勝手にわたしが便宜上つけた名前ですが、ここで
彼の名前と階級が明らかになります。
動物たちの声優は全員が小学生くらいの子供なので、どうしても
滑舌が悪く聞き取れない部分がけっこうあるのです。

 

「よし、鬼ヶ島上空、敵の警戒は厳重の模様である!
十分気をつけて行ってこい!」

 

棒剣術の訓練の休憩中だったものたちが偵察機を見送ります。

「おーい、しっかりやってきてよお〜!」



哨戒機が水平線の彼方に消えたあとの基地では、
前日、地上員たちが飛行機にかぶせた偽装のための布が風に揺れ、
波の音だけが響く静かな静かな一日が始まります。



そんなのどかな光の中、歩哨が銃剣を構えてゆっくりと歩いています。

 

彼の構える銃剣の先が、足取りに合わせて動く様子が表現されます。
なんと、映画のように後ろに見張り塔が現れるとフォーカスがかかります。



皆が銃剣術(棒術?)の訓練の続きを行っています。
くまモンは面を外し、滝のような汗を拭きながら

「暑いー、ああ暑い、暑いなあ」

なんの意図で挟まれたかいまいちわからないシーンです。
「ディア・ハンター」の病院のシーンで、何度見てもなんのために
挟まれたかわからない、スタッフがものを落とすシーンみたいなもの?

 

通信兵たちも全員がうさぎ。
通信音と「もしもし」などと答える声、通信文がやりとりされる喧騒のなか、
通信員たちは慌ただしく走り回っています。



「ハイルヒトラー」をしているのではなく、敬礼のあと、
なおれをするときに必ずこのように手をまっすぐ伸ばしているのです。

哨戒機からの連絡がない、という報告にひとこと「よし」
と答え、目を伏せて海図を凝視する桃太郎隊長。



不可解シーンまたもや。
滝のように汗を流しながら

「ああ〜、ああ〜暑い、ああ〜 ああ、ああ、ああ」




基地がにわかに慌ただしくなりました。
哨戒機が帰投してきたのです。



帰ってくる機を見つめる隊長。
その飛行機は・・・



片翼でした。
皆様は片翼飛行で帰還した樫村少尉の話をご存知でしょうか。

「片翼帰還の樫村」樫村寛一少尉


この映像には、奇跡的に片翼のまま600キロを飛んで帰ってきた
樫村機の飛行映像が残されています。
このニュース映像のアニメーション解説?によると、体当たりを敢行して
その結果翼がもぎ取られたように報じられていますが、実際は
避けきれずに翼を破損したのだろうと今日では言われています。

樫村寛一はこの奇跡的帰還で国民的英雄になり、
左翼が破損した96戦闘機は終戦時まで保存展示されていました。

しかし、それから6年後の昭和18年3月、南方に出撃した樫村兵曹長は
ソロモン諸島のルッセル島上空でF4Fと交戦し戦死しています。

このシーンで哨戒機が樫村機と同じ左翼を破損した状態で帰ってきたのは
明らかに樫村少尉(戦死後昇進)へのオマージュであると思われます。


さて、滑走路を外れながらなんとか着地した哨戒機には
地上員たちが駆け寄り、サイレンが響き渡ります。 



ここでなぜかあの搭乗員の小鳥が・・・・。
とくれば、映画的展開から行って嫌な予感しかしません。



隊長に帰投報告をする隊員は二人です。

「気をつけ〜!  なおれッ!
◯◯兵曹(どうしても聞き取れない)以下2名、偵察機フタマルサン号機搭乗!
鬼ヶ島偵察しただいま帰りました!
基地上空において地上砲撃により」



「一名戦死しました。 以上!」



「よし、ご苦労」



桃太郎隊長は表情すら動かさず、淡々としています。
搭乗員は報告後走って搭乗機の前まで行き、唯一感情を表す動作として、
機長が同僚の肩に手をかけて、二人で機体を見つめます。



彼らの視線の先にはさっきまで生きていた戦友が乗っていたコクピットが。



そして穿たれた穴からは、死んだ搭乗員の航空時計がぶらさがって揺れていました。



早速現像室では航空写真の現像が始まりました。



無言で写真を合成していく通信兵たち。
彼らが自らの命をかけて偵察してきた敵基地の全容が
これで明らかになったのです。

偵察搭乗員の命を引き換えにして得た敵地上空の写真。
これらを解析し、いよいよ出撃が行われることとなりました。

 

出撃に際し、桃太郎隊長の訓示が行われます。
隊長が敬礼をし皆を見回す様子が時間をかけて描かれます。



翻る旭日旗。
この映画の制作スタッフが心血を注いだアニメ的表現の一つに
「旗の靡く様子」があったといわれています。
これも、戦地で没収したディズニー映画「ファンタジア」の技術に
大いに影響を受けている部分でもあります。

 

部隊は猿、犬の小隊による降下部隊が主流を占めます。
雉はパイロットであることが多いようだし、熊は希少種なのか
部隊を組むほど人員?がいないようです。



「いよいよ我々の待ちに待った作戦は、明朝を期して火蓋を切ることになった。 
皆もすでに覚悟はできていることと思う。
我が海軍落下傘部隊の長い間、秘密のうちに黙々と鍛えた
訓練の成果を初めて表す時が来た。

お前たちはこの長い間、両親や兄弟には訓練のこはを語ることができず、
苦しいことであったと思う。
明日こそ我々は最後の一兵となるまで敵陣に突撃するのだ。
皆覚悟はできているか!?」


「はいっ!!」

この返事の時、全員の肩がわずかに上がり、
「はい」と同時に手を下に向かって伸ばす動きまでが描かれます。

「ようし!今夜は我々の最後の夜となった。
攻撃隊出発は明朝4時!以上!」



攻撃隊出撃に備えて基地は一丸となってその準備を行います。
搭乗員の飲み物には瓶入りのサイダー。

梅干し一つの日の丸弁当、そしてチョコレートが用意されます。



通信員と整備員はうさぎです。(この世界では)
翼に給油が終了。



慎重にバルブを回して空気圧を調整。



降下部隊の兵たちは、粛々と落下傘を畳む作業を行います。
索を一本一本慎重に重ね、束ねたものを切れる糸で縛り、
傘を丁寧に折りたたんで背嚢に収納していく過程が描かれます。

そして、それを背負った隊員たち一人一人を隊長がチェック。
「ヨシ!」と声をかけていきます。



そして出撃をまつ払暁の一瞬の静けさ。



優雅な仕草で手袋を外す隊長。
出撃のその時に向けて最後の休憩を取るのでしょうか。

続く。

 

降下降下降下!〜映画「桃太郎 海の神兵」

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さて、桃太郎部隊の空挺部隊がいよいよ出撃することになりました。



映画ではここでいきなりインドネシア、いや「ゴア王国」が、
白人の支配に遭うまでの経緯が説明されます。
南の島々の中にうかぶ宝石のように美しい島。



ある日この島の港に現れた不思議な黒い船。
島はたちまち上を下への大騒ぎに。



船から降りて宮殿に伺候したのは鼻の尖った白人。


 
「わたしたちはこの島の人々と仲良くしに来た商人です。
この島のどこかに休息できる場所をお譲り願えませんか」



「わたしたちの船が積んでいる世界の珍しい宝をお見せするのに、
それらを並べる土地が必要なのです。
何、銅貨ほどの敷地で十分でございます」

王様がそれを承諾すると、

 

「これが我が国の商法でございます」

国土のほとんどが硬貨で覆われてしまいました。



そして彼らの攻撃が始まりました。
戦いの末、ゴア王国は黒船に負け、支配を許してしまいます。



この島のジャングルに深く眠る石碑に書かれて曰く、

「月明明るき夜に東方天子の国より白馬にまたがりたる
神の兵来りて必ずや民族を解放せん」

インドネシアに実際に伝わっていた「ジョボジョボ伝説」というのが、
戦時中からすでに日本の知るところとなっていたことがわかります。



翌日夜明け前。
ただ身じろぎもせず立つ隊員たちのシルエットが浮かび上がります。
流れるのはラッパ譜「君が代」。

しかしこの厳粛な雰囲気も、動物たちが皆で走り回り、

「そらそらかけろそら走れぐんぐんかけろどんどんかけろ皆々かけろ」

という実に妙な歌が流れ、はっきり言って台無しに(笑)

 

いよいよ飛行機にエンジンがかけられました。
降下兵たちが落下傘を背負って次々と搭乗していきます。



飛行機の入口に立ち、一人一人を厳しい目でチェックしているのは
本編主人公(だよね)の猿野猿吉兵曹。



乗り込んだ順にシートに座りますが、やっぱり熊は
でかすぎて皆の迷惑になっております。肩身が狭そう。

実際の空挺部隊の輸送機内での写真を見ると、これどころか
その向かいに座っている者とほとんど膝がくっついています。
激しい緊張の中、この輸送機の中の状態はきつかったと思われます。



降下兵とは違うハッチから乗り込む航空隊員。
本機搭乗員は全員がウサギ。



あのー、イヤフォンが(うさぎの)耳から外れてるんですが・・・。


 
一人が上部ハッチをあけて外を立ちます。
車輪止めを外す、手を交差させてから払うあの仕草をするためです。



地上員たちが車輪止めを外していきます。

「よーそろ!」「よーそろー!」



タキシングする航空機を、地上員たちはじめ駆けつけた
動物たちが見送る中、敬礼を送る搭乗員。

子供向けの動物を使ったアニメなのに彼らの動作はとにかくかっこいい。
これを見た子供たちはこの時期においてなお海軍に憧れたに違いありません。

あー、こういうところが「国策映画」だといわれるんだな。



窓越しに見送る人々に敬礼を送る猿野。



浮き上がる車輪の横を、走って追いかけてくるチータたち。



耳をなびかせ、帽触れで航空機を見送る地上員。



猿は手を、象は鼻を、リスは尻尾を振ります。



ここで軍歌調の歌が流れます。

祖国離れて何千里 海を渡りて敵の陣 鍛え鍛えた鉄の胸 翼頼むぞいざ運べ

本来ならば「空の神兵」を流したいところですが、この曲は
いろいろあって陸軍のテーマソングのようになってしまったので、
海軍としては意地でも使いたくなかったのだと思われます。

古関裕而は大物ですが、それでも映画のためのこの曲には
やっつけで作った投げやりな感じが拭えません。

この名曲を陸軍に「取られて」しまい、実質自分たちの方が早かったのに
陸軍落下傘部隊だけが世間にもてはやされたことを海軍が
よほど悔しく思っていたらしいことがうかがえます。

 

この軍歌に乗って、攻撃隊の様子が活写されます。
お守りの人形をコクピットに下げた搭乗員たち、



互いに肩をたたき合う降下員たち。
その様子を隊長はにこやかに見守ります。

 

援護の飛行機が手を振り基地に帰っていきます。
ところが、このあとにわかに一点がかき曇り、攻撃隊は荒天に苛まれます。

 

基地ではすでに台風のレベル。
そもそも落下傘降下は雨が降った時点で実行不可能です。



攻撃隊の様子を案じて地上員たちはせめてもとてるてる坊主を作るのでした。

 
 
一転、まず搭乗員たちの顔が空のように晴れやかになります。
天佑神助によって空は晴れてきたのでした。



砲塔に登り、銃座を確かめてから見張りを再開する砲手。

メナド降下作戦では輸送機が一機墜落し、乗員が
12名全員戦死しています。

 

雨の間ずっとうつむいて航空機の隙間から入る雨水を避けていた
(っていうか、飛行機に雨漏りがしていたっていう)
乗組員たちはすっかり元気づき、お弁当を広げて腹ごしらえです。




搭乗員も食事を始め、航空員だけの特権?であるキャラメルを
皆に振る舞ったりしているうちに、降下地点まで30分の距離に。

機長からは「みなさんの成功を祈る」というメッセージ。

 

桃太郎隊長の「全員位置につけ」の号令とともに緊張が走ります。



各々が厳しい表情で装具の点検を行い、機内には
金属音だけが聞こえます。



機長によって降下地点上空を知らせるブザーが三度鳴らされます。

「降下あ、よおおおい!」



ハッチに向かう降下員は、一人ずつコクピットの搭乗員に敬礼をしながら。

 

傘を開くための環を外し、それを航空機上部のバーにつけます。
今も第一空挺団が同じ方法で降下を行っています。


 
環をバーに連結した桃太郎隊長、指揮官先頭の海軍は
隊長が真っ先に降下します。



緊張のひと時を前に見張りを行う砲手。

 

ブザーが二回鳴らされ、ハッチがいよいよ開けられます。



機長がブザーを長押しすると同時に、隊長が一声、

「降下アア〜〜ッ!」



続く。


 

突撃と残酷表現〜映画「桃太郎 海の神兵」

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「海の神兵」というタイトルはなんというか自然すぎて、
意味を考えぬまま納得してしまいそうになりますが、
これは明らかに「空の神兵」へのカウンターという意味合いを持ちます。
「空の神兵」といえば陸軍、それでは、とその向こうを張って
我が海軍の落下傘部隊を「海の神兵」と命名したのでしょう。

しかしこの名称も、「空の神兵」の知名度あってこそだったわけで、
海軍としてはさぞかし忸怩たるものがあったのではないかと察します。

さて、海軍落下傘部隊、「海の神兵」が降下を行うところからです。

 

空中に落下傘の花が次々と開いていきます。

 


この時に流れる音楽は、ハープの導入で始まるストリングスの優雅な音楽。
美しい調べに乗って一つづつ、まるで花のように開いていく落下傘。

適切な表現ではないかもしれませんが、実に優雅で美しいシーンです。



熊も無事に傘が開きました。

 

次々と地上に降下していく白い傘。
ちなみにこのとき、実際は横須賀第1特別陸戦隊(横一特、司令官:堀内豊秋中佐)
の落下傘兵334名がメナドのランゴアン飛行場へ空挺降下しています。

 

降下するなり索の根元を持って傘を引っ張り、すぐさま離脱。
猿野も無事に降下を果たしました。
彼らの目的はこれから敵陣に切り込むことであって、降下は手段にすぎません。
地上に立つことができたら、もう落下傘は地面に捨てて戦闘開始です。



桃太郎隊長が体を起こす頃には。敵がこれを迎え撃つ銃声が聞こえ始めていました。
このときの海軍の降下作戦では兵員の損害はほとんどありませんでした。


 

いよいよ海軍落下傘部隊が侵攻を始めました。



なんども言いますが、降下は手段にすぎません。
かれらにはこれから敵陣に武器で斬り込むという大事な使命があります。

ちなみに彼らの集合地点の目印はもちろん旭日旗でした。

 

銃声の切れ目になると体を起こし、突撃。
落下傘で落とされた武器の周りに身を伏せながらたちまち集まる兵たち。

これはアルミ製の円筒形の物料コンテナ30kg用で、サイズは107×36cm。
識別用に赤い帯を巻いており、専用の傘で降下させました。

 

ケースを開けて緩衝材の綿を取り去ると、口径50mm八九式弾薬筒が現れました。
それを取り上げ、走っていく降下兵たち。
これらの動作は一切セリフなしでで行われ、戦後のアニメのように
むだに「いくぞ!」などと声を掛け合ったりしません。
実際もおそらくはそうだったのでしょう。

ちなみに実際のメナド作戦では、八九式重擲弾筒は
分解した状態で投下されたのですが、回収できなかったので、
次のクーパン作戦では降下の際帯同されました。

 

ガチャガチャと金属音だけを響かせ、無言で装備を身にまといます。
ポケットがたくさんついている帯のようなものは、

日本軍落下傘部隊

という、ゴードン・L・ロトマンと滝沢彰共著のミリタリーシリーズで
(イラストはピーター・デニス)確認することができました。

これは三八式騎兵銃の布製弾帯で、小囊が17個連なったものを、
猿野がやっているように2本交差するように肩からかけて使用しました。

この本には装備を実際に身につけている日本兵の写真がありますが、
日系二世が扮しているのだと断り書きがあります。

他にも細部、たとえば帽垂れ(鉄兜から垂れる結び紐を兼ねたもの)は
小さな穴が開けられていることまで詳しく説明されています。

これによると、海軍では降下の際専用の「降下作業衣」と呼ばれる
ジャンプ・スモックを着用しており、これは吊索が装備品に絡まるのを防ぎ、
同時に樹上降下の際身体を保護する役割がありました。



適材適所、体の大きなくまモンが運ぶのは・・?
実際には八九式弾薬筒(4・5㎏)が降下作戦の際投下した
一番大きな火器だったのですが、それにしては大きいですね。



銃砲を組み立て、攻撃に入ります。

これは九二式重機関銃。
このとき、銃声に合わせて射手の顔の筋肉が細かく震える様子まで
ちゃんと表現されています。
たかが黎明期のアニメと思っていたら、この再現力に驚嘆させられるでしょう。

ただし、実際のメナド降下の際には九二式ではなく、
九九式軽機関銃が使用されました。

 

そして重砲撃。
海軍挺進隊の重砲装備は94式37mm速射砲だったそうですが、
砲身の形から見てこれではない気がします。
メナド、クーパンでは重火器は使用されなかったという記録もあります。

 

銃剣を持って突撃していますが、これが三八式騎兵銃。
三十年式銃剣が取り付けられています。

彼らは匍匐しながら前進し、敵砲撃の合間に突進を繰り返します。




桃太郎隊長が抜刀して突撃。
ちなみに士官は軍刀を携行して落下しましたが、これは
降下時には短いコードで吊り下げられるような専用の
離脱式ストラップが付けられていたようです。

  

なんとここで重量級のくまモンが敵壕に死角から忍び寄り、
重砲を横からむんずと引き抜くという荒技を。
それ普通無理だろう。



あとは銃を構えた降下兵たちが敵陣に雪崩を打って突入するだけ。



さて、連合軍、じゃなくて鬼ヶ島軍は装甲車で脱出を図ります。
ちなみに彼らは英語を喋っております。

 

ところが沿道で敵を撃たんと待ち構えている帝国海軍の斥候兵。
もはやどれが主人公の猿野かわかりません(笑)



敵の車が近づく気配に、あるものは手榴弾を握り直し、別の者は
腰の短刀を静かに抜いて備えます。



敵の行く手にまず数人が走り出て、手榴弾でタイヤを爆破し、
車を走行不能に。



 

こっからがすごいんですよ。
外側からハッチを開けるなり、無言で短刀を中に向かって振り下ろす猿。

 

 

ついコマ割りでアップしてしまいました(笑)



ナイフはいとも易くオランダ兵、じゃなくて鬼ヶ島兵の胸に突き刺さります。
この映画を最初にご紹介したとき、映画完成後の海軍による検閲では

「残酷なシーンが全部カットされた」

とあることをふと思い出しました。
今基準で言ったら、可愛らしいキャラクターがナイフで人間の胸を突き刺すなど、
それ自体がもうアウトなわけですが(笑)、この部分が問題がなくて、海軍的に
残酷とされたシーンには、いったいどんな残虐行為が描かれていたのでしょうか。







抵抗する術もなく殺されていく敵兵たち。(-人-)ナムー


今日われわれは、日の丸をつけた飛行機を撃墜して呵呵大笑する
ミッキーマウスのアニメを観てドンビキするわけですが、
やはり当方も同じようなことをやっておったわけです。

ただ、向こうではこれに加えて人種差別の要素を盛り込んだりしてます。
やっぱりというか、ポパイもバックスバニーもこんなことに・・・

POPEYE the SAILOR in "Your a Sap Mr. Jap


Popeye The Sailor 113 - Scrap the Japs [BANNED]


Banned Cartoons Japs--Bugs Bunny - Tokio Jokio - 1943 - B&W

やっぱりこいつら、日本と中国の違いが全く分かっておらん(怒)

まあなんだ、戦争するというのはこういうことなんですよね。
向こうは日本と違ってお金があるからさらにやりたい放題。
悲しいことにこの手のアニメは嫌になる程探せば見つかります。

ポパイがほうれん草を食べて力をつけてから、日本の軍艦を
まるで缶切りのようにオープナーで切ってしまう、というのは
なんとなく見ていて楽しいですけど(笑)

ただ、あちらのこの手の表現は、人種差別と侮蔑的表現がベースになっていて、
当のわれわれが見るとその不快感には拭いがたいものがあります。
まだこちらの戦闘行為を描いただけの表現の方がマシだと考えるのは
わたしが日本人だからでしょうか。 



ちなみに、ドナルドダックも落下傘部隊に所属していた模様。

World war 2 in cartoon: Donald Duck Sky Trooper (1943)



続く。





 

「イエスかノーか!」〜映画「桃太郎 海の神兵」

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「桃太郎 海の神兵」、最終回です。

帝国海軍挺進部隊は、蘭印作戦におけるメナドの戦いで、
セレベス島メナド、じゃなくて鬼ヶ島大江山に侵攻し、
日本軍が初めて行った空挺強襲作戦は成功を見ました。



司令部の建物からは連合国兵じゃなくて・・・もういいか。
兵がわらわらと逃げ出してきます。
一応彼らには鬼の角らしきものが付いているのがご愛嬌。

 

トランプに興じていたらしく、慌しく逃げ惑う足下に散らばるカード。
スペードのキングが画面に大きく映りこむとき、
彼らが砲撃にやられて

「ぎゃああああ」

と叫ぶ音声が被せられます。


 

次々と投降してくる連合国兵士たち。
彼らの動きは一様に手足がゆらゆらして、まるで昆布のようです。



野戦においても突撃をうけ、壕から白旗を上げてでてきます。

 

いくら外人でもお腹に刺青を入れる人はあまりいないと思うがどうか。



敵から多くの武器を鹵獲することができました。



さて、オーエヤマ司令部では、交渉が開始されました。
ということは、桃太郎隊長は、空挺部隊の司令でありながら、
山下奉文将軍のような軍司令官でもあったということになります。



ところが、この「鬼の司令官」の言い分によると、

「自分は全軍の司令官ではないので無条件降伏には応じられない」



鬼ヶ島の指揮権はオーエヤマ提督にあり、自分は限られた範囲での
指揮権しか持っていない、というわけです。

 

会談が続く間、参謀が必死で本をめくって何かを調べています。
桃太郎の参謀は雉。
水兵服を着ていたけど実は士官だったのか。

それとも全く別の雉?




オーエヤマ総督は2、3日前に飛行機でどこかにいったというので、
貴官を全権と認めるがよいか、と迫る桃太郎隊長、いや司令。

よく見ると左に猿野、その後ろに熊が。
やっぱりみんな将校だったのね。それとも別の(略)

ところがこのおじさん、「そう言われても困る」とあくまでもごねます。
ちなみにこのとき彼は英語で

”Oh, oh, oh, it mean a difficult position."

と言っております。

「わたしの責任は陸軍用飛行場と鬼ヶ島と近辺の軍事施設と、
鬼ヶ島の要塞地帯と併映と鬼が湖とこの飛行場に限られている」

限られているって、それ、ここ一帯ほとんどってことやないかい!
とにかく指揮権が全部ではないことをぐだぐだ強弁する司令官。

 

ついに桃太郎司令がここで一喝、

「イエスかノーか!」



・・・・いやちがいました。

「それなら我が軍は総攻撃を開始する!」

シンガポール攻略においての山下奉文中将の「イエスかノーか」は
象徴的に持ち上げられ、戦意鼓舞に使われたりしましたが、本人は

「簡潔にイエスかノーかだけ言ってくれ」

と言ったにすぎないとあとで語ったそうです。
山下はこの交渉前日、乃木大将とステッセルの会話を思い出し、
敗軍の将をいたわる様子を想像してうっとりしたりしていたのですが、
現実にはあまりにも日本側の通訳が要領を得ず、さらにはパーシヴァルが
あまりにもいろいろいうものだから、ついこう言ってしまったそうです。

しかし、桃太郎司令は激しく机を叩きながら言っております。

ご存知のように山下奉文は終戦後連合軍によって処刑され、
その死刑には米軍の計らいで英軍のパーシヴァルが立ち会いました。

桃太郎司令が戦後、同じ運命を辿っていないことを祈るばかりです。

 

実はこのときのパーシヴァルは、連合軍の食料弾薬が底をつきかけており、
後がなく後がなく降伏するしかなかったという状況でした。

ヒソヒソと鳩首協議する司令と幕僚を恫喝するように、
日本軍が司令部に向かって砲弾を放ち、テーブルに土塊が散らばり、
彼らは完全にビビリモードに。



猿野(あれ?いつの間に鉢巻を・・別の猿かな)は記録係。
犬養ワン吉も隣におります。



「それでは返事は今夜10時までにということで・・」

時間稼ぎをしてなんとか打開策を練ろうというのか。



「10時までとは何事か。
本官はすぐに降伏だけに応じる!
すぐに全軍に総攻撃を命ずる!」



「わかったから総攻撃だけは中止していただきたい」

「それでは全面降伏するか、戦闘を続けるか、
ただこれだけだ!」

あーこれ、やっぱり山下大将を意識してますね。
イエスかノーか、とまで言わなかったのは、これが海軍の協賛だから・・・
でしょう。たぶん。

 

あっさりしたことに、鬼ヶ島軍の司令が全面降伏するというと、
軍のシーンはそこで終わってしまいます。
そして一転、猿雉犬熊の故郷へと。

故郷出身の海軍兵士が、遠い異国で今どんな戦いを成し遂げたか
夢にも知らず、子供たちが無邪気に遊んでおります。

いや、三人がうつ伏せになった上を跳躍して回転するというのは
遊びではなく、確かこれは降下兵の訓練・・・・。 

遊びにしては彼らの様子は真剣そのもの。
跳躍の際「えい!」「やあ!」と気合を入れ、
横に立つ子供は「次!」「次!」と、まるで軍隊です。 



それに続いて、今度は木にハシゴをかけて登り、飛び降りるなど、
これはどうみても訓練そのもの。

彼らは、彼らの兄や知り合いのお兄さんたちが落下傘降下を行う
部隊にいたことすら、全く知らされていなかったはずなのに・・・。



飛越しは怖くて直前で止めてしまった猿野の弟、三太ですが、
「早くこいよ!」と言われて思い切って跳躍を成し遂げます。

・・・ところで、この地面に描かれている白い線って、
アメリカ大陸・・・・・?

うーん・・・。

これは、この映画製作時の昭和20年初頭、
日本がアメリカ本土を攻撃するその日のために、猿野の弟たち、
つまり未来降下兵たちが戦いに備えているという暗示でよろしいのでしょうか?

海軍では実際にも終戦間際に「剣号作戦」というマリアナ諸島の米軍基地に対する
エアボーン攻撃計画が立てられたことがありますが、使用予定の航空機が
アメリカ軍機動部隊の空襲で破壊されたため延期となり、
発動直前に終戦の日を迎えて中止となったということがありました。



そしてメナド侵攻を行った横須賀鎮守府第一特別陸戦隊、つまり
桃太郎を隊長とする空挺部隊ですが、その後改編で少なくなった残りの隊員は
サイパンで訓練を行いながら待機を命じられていました。

昭和19年6月15日、アメリカ軍の上陸を迎えることになった彼らは、
海軍地上部隊の最精鋭として陸軍部隊とともに上陸初日、
夜間総攻撃に参加しましたが、翌朝までにほぼ全滅したということです。


 

この映画が製作されたとき、スタッフはともかく海軍報道部は、
もちろんのこと挺進部隊の全滅を知っていたはずです。


「陸軍にお株を奪われた海軍落下傘部隊の宣伝」

と最初はわたしが考えていたこの映画の製作意図ですが、
もしかしたら、彼らへの慰霊と顕彰が込められていたのかもしれません。


駆けていく仲間の後を追う三太の後ろ姿で映画は終わります。

 

この映画は今年2016年の5月、カンヌ映画祭に出品されています。
最近の低迷を表すようにコンペティション部門には
エントリーすることすらなかった日本映画界ですが、
溝口健二監督の「雨月物語」とともに、「カンヌクラシックス」
という古い映画週間で上映されたというのです。

その際のタイトルですが、本日の冒頭画像にも入れたように

「MOMOTARO, SACRED SAILORS」(桃太郎、聖なる水兵たち)

とされました。
「空の神兵」という元ネタからのこの経緯を知っているものには
なんとなく本質と違ったタイトルに思えてしまいますが・・・。


のちの日本のアニメ界に大きな影響を与えた、この戦時中の
「国策映画」を、世界の映画人たちはカンヌでどう観たのでしょうか。





 

ナバホ コード・トーカーズ〜アメリカ軍の暗号戦

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戦艦「マサチューセッツ」の見学をしていて、
CICの片隅に乱数表が置いてあるのに気付きました。
それでふと、暗号について書いてみようと思ったわけです。

一度書いたことがありますが、海軍甲事件でアメリカ軍が山本元帥機撃墜に
成功したのは、山本元帥の行動予定が傍受されていたからでした。

昭和18年4月13日、「い」号作戦の指揮を直接執るために、山本大将は
旗艦「武蔵」から降り、一式陸攻でラバウルから前線に向かいました。
その航路は日本軍の制空権下だったにもかかわらず、米軍の P38ライトニング16機に
ブーゲンビル上空で急襲を受け、山本長官の乗った1番機は撃墜されたのでした。

米軍が傍受した視察日程の通信文は暗号で打電されましたが、
日本側の暗号はすでに解読されており、米軍としては、あとは予定通りに
やってくる長官一行の航空機を待ちぶせしていればよかったのです。

ここで注目すべきは、海軍が2週間前に変えられていた暗号を使わず、
従来の暗号を使って連絡していたという事実です。
まだ改変したばかりの暗号を把握していなかったらしい通信将校が、
暗号を変えずに通信したのが日本の運命を決めたということになります。

ところで、このとき護衛についていた6機の零戦の搭乗員が、事件後、
海軍から処分される、ということは公式にはありませんでした。
しかしこの後彼らは、みすみす長官機を失い、自分たちが生きて帰ったことに対する
責任を取るかのように(取らされるかのように」?)連日の出撃を続け、
腕を失う負傷をした一名以外は、終戦までに全員戦死してしまいました。

戦後長官機を撃墜したという米軍航空隊の搭乗員は、

「あのとき零戦1機が我々に体当たりしていれば長官機の撃墜は防げたのに、
彼らはなぜそれをしなかったのだろうか」

と不思議がっていたそうですが、5人はおそらく、全員が
それをどうしてあのとき自分がしなかったのかを
最後まで悔やみながら死んでいったのではないでしょうか。

話が逸れましたが、 わたしの疑問は、護衛機の搭乗員が暗黙の掟のうちに
自らが責任を取った形で死んでいったのに対し、このとき
暗号を変更せずに打電した者がなんらかの処分を下された、
あるいは責任を取ったという話が全く残っていないことです。

ある意味、この責任者の怠慢、暗号を変えなかったことが長官の死を
招いたということは護衛のミスより責められるべきことなのに。




さて、ここで暗号の歴史についてお話ししておきましょう。
世界最古の暗号といわれる「シーザー暗号」(Cieacer Cipher)は
あのカエサルが、通信に秘密を要するときに用いた暗号です。

シンプルなアルゴリズムによって構成されたこの暗号は、
「A→D」「B→E」などといった一定の法則を持っていました。

A B C D E F G H I J K L M N  
D E F G H I  J K L MN O P Q

O P Q R S T U V W X Y Z
R S T U V W X Y Z  A BC 

これが暗号表です。

QDYB  EOXH QL NRL(NAVY BLUE NI KOI)

などという具合に文章を作るわけですね。

英語で「暗号学」のことをCRYPTOLOGY(クリプトロジー)といいます。
暗号表を作ること(CRYPTOGRAPHY)や
暗号を解析すること (CRYPTANALYSIS)を研究する学問です。
暗号の歴史についての学術研究をするのも暗号学です。

日本で暗号が学問になっていたとは聞いたことがありませんが、
暗号開発は外務省と陸海軍によって行われていました。

日本の機械式暗号


情報戦を重視するアメリカは早くから暗号学に国を挙げて力を入れており、
このことも

「FDRは真珠湾攻撃のことを事前に暗号解読によって知っていた」

という通説の後押しをしています。


そのアメリカが、大戦中暗号戦に使っていた秘密兵器が二つありました。
一つはこれ。




このキイの少ないタイプライターみたいな機械、
これも「マサチューセッツ」のCICにあったものですが、
これこそがECM II MACHINEという電子暗号機です。

16世紀から19世紀にかけて、暗号解読技術の進歩と普及により
シーザー暗号のような単純なものは次々と解読されたため、
アルゴリズムを打ち込んだ機械式暗号機が20世紀になって現れました。

みなさんはおそらく一度くらい「エニグマ暗号機」という言葉を
どこかでお聞きになったことがあるでしょう。
アメリカ軍のECM IIと同じくローター式で、第二次世界大戦中
ナチス・ドイツ軍が使っていた暗号機のことです。

今は本題でないので詳しくは述べませんが、このエニグマ暗号機、
当時からアメリカイギリス始め、世界中がスパイを使ったり、Uボートや
ドイツの船を捕獲したりして解読を試み、それに成功するとドイツが
それに対抗して機構を難しくするといういたちごっこが繰り返された
伝説の暗号機です。
ウィキがまるでスパイ小説のあらすじみたいになってます。(笑)

エニグマ暗号機



ここはいわゆるひとつの暗号室。
部屋には厳重に施錠がされて関係者以外は立ち入り禁止でした。
見学用にドアはガラス張りになっていましたがもちろん当時は違います。
暗号機は特別製の専用コンソールに据え付けられています。

この暗号機は特別なローターを内蔵しており、そのローターのセッティングで
平叙文をエンコード化し、また暗号化された文をデコードします。

暗号機のオペレーターが使用していたマニュアルがキャビネット上の
ラックにおいてありますが、一般にオペレーターはこのマニュアルで、
ローターのセッティングを行いました。



極秘といえば、戦時中にはこんなポスターが日米どちらにもあったものですが、
アメリカのこれ(口を滑らせれば船が沈む、リップとシップが韻を踏んでいる)
は、日本のあれ(『進む防諜後押す聖戦』みたいな)と違い、
主に軍内部に向けて兵士の啓蒙のために作られたようです。

アメリカ軍の新兵教育では、防諜のための「10則」(TEN SUBJECTS) 
を教え込まれましたが、その中には家に出す手紙の書き方や、
会話での禁止事項、万が一捕虜になった時についての心構え
などが書かれていました。
 



さて本題。
アメリカ軍が用いていた暗号の「より洗練された方法」とは、
なんとネイティブ・アメリカンの言語を暗号に使うことでした。
それが本日タイトルの「ナバホ・コード」です。

大東亜戦争開戦直後は、日本軍はアメリカ軍の暗号をたやすく解読していました。
「暗号学」はありませんでしたが、アメリカ国内で学問をしたり住んでいて
それなりに文化について理解をしていたこともその糸口となったのです。


そこでアメリカ軍は、日本人には馴染みがなく想像もつかない言語をしゃべる
アメリカ先住民族の言葉を暗号に使うことを思いついたのです。

このアイディアを思いつき、オーガナイズしたのは
フィリップ・ジョンストンという人物でした。
父親が宣教師で、生まれた時からナバホ族の中で育ち、
ナバホ語にも堪能だったのです。

このとき、解読をさらに困難にするため、アメリカ人がナバホ語を取り入れるのではなく、
ナバホ族が暗号要員として雇われ、彼らは


「コードトーカー」(CODE TALKER )

と呼ばれました。
第1次世界大戦ではチョクトー族、コマンチ族が実験的に雇われたそうです。

これらネイティブアメリカンの言語はアルファベットを使わず、
さらに発音も独特で、その言語がマザータングでない者には習得は
まず不可能であるということが暗号に使われた大きな決め手となりました。

アメリカ軍はナバホ族の若者に教育を施し、コードトーカーたちは

ナバホ語には存在しない単語を存在する単語に置き換える
さらにそれをナバホ語に翻訳して暗号にする

という段階を踏んで、解読されにくい置換暗号を作りました。
たとえば、

BATTLESHIP(戦艦)→  WHALE(鯨)→  LO-TSO

AIRCRAFT CARRIER(空母)→BIRD(鳥)→TSIDI-MOFFA-YE-HI
 
MINESWEEPER(掃海艦)→BEAVER(ビーバー)→CHA

SUBMARINE(潜水艦)→IRONFISH(鉄の魚)→BESH-LO

DESTROYER(駆逐艦)→SHARK(鮫)→CA-LO


また、Cを表すのに、CATの猫を意味するMOSSIがつかわれたりしました。
結局日本がナバホコードを解読することは最後まで出来ませんでした。
(ドイツに関しては、ヒットラーが戦前にアメリカに先住民の言語について
暗号に使われているという情報を元に解読を指令したという噂を聞いて、
アメリカ軍はヨーロッパでのコードトーカー運用を中止していた)


日本軍がフィリピンで捕虜にしたナバホ族出身の軍人に
Joe・Kieyoomiaという人物がいました。
キヨミヤという名前でアジア系の顔立ちをした彼を
現地の日本兵は日系二世だと思い込み、裏切り者として虐待し、
ナバホ族であることがわかってからは、
ナバホコードの暗号表を自白させるために拷問したと言われています。

しかし彼はコードトーカーではなかったため、暗号について
日本軍は何ひとつ知り得ることはできませんでした。
アメリカ軍がナバホコードを置換暗号にしておいたのはこのためでした。

ちなみにこのキヨミヤはバターン死の行進を生き延び、
長崎で捕虜になっている時に原子爆弾の投下にも遭いましたが
コンクリートの独房にいたため助かりました。
彼は1997年まで生きて76歳で亡くなっています。





ナバホ族を投入するというのは、キヨミヤが日系人と間違えられたように、
日本兵からは外貌が一見敵か味方かわからないというメリットもありました。
この「ナバホ暗号部隊」に参加したナバホ族長老は、

「太平洋諸島最前線で日本人兵と至近距離で向かい合った時に、
後ろにいる白人たちよりも敵である日本人のほうが
自分たちと外見が似ており、親近感を覚え動揺した」

とのちに語ったそうです。

戦地では彼らは常に前線に立たされていましたが、その代わり、
白人の兵士に生ける暗号表として常に周りを護衛されていました。



さて、翻って我が日本軍において、軍の通信に薩摩出身者を使い、
早口の方言で通信をさせたと言うことがあります。 

わたしは昔、奥さんが沖縄県出身の人が

「嫁の実家に行くと、皆が何を話しているのかさっぱりわからない。
まるで外国」

とぼやいていたのを聞いたことがあります。
アメリカで知り合ったインド人の夫妻も、夫の方が妻の実家で
全く同じ目にあったと話していました。
どちらにも

「どうやって意思疎通してるんですか」

と聞いてみたのですが、どちらも返事は同じ。
妻の親族は自分に話しかける時にはテレビやラジオで
話される標準語を普通にしゃべってくる、ということでした。



とにかく、そのときアメリカ軍のコードブレーカーは薩摩弁を聞き取れず、
大変難儀したのですが、困り果ててある日系二世に聞かせたところ、
その二世がたまたま薩摩出身で解読成功、という奇跡が起こりました。


この話は、山崎豊子の小説「山河燃ゆ」のなかで、主人公の天羽賢治が
上から日本語の通信文のテープを聞かされ、出身地の方言であることに
気がつき通信内容を解読する、というエピソードになって登場します。

その二世が方言を聞き取ったことでアメリカ軍は日本軍の動向を知り、
その情報を元に行った攻撃によって日本人の命が失われることになり、
天羽はそれを知って懊悩する、という内容でした。


ナバホ族のコードトーカーの存在は戦争中はもちろん、 1968年に
機密解除になってからも秘匿されていました。

「コードトーカーを必要とする場面が(冷戦で)今後起こるかもしれない」

と考えられていた為だと言われています。

彼らの存在の秘匿が完全に解除されてから2年後の1982年に、
かつてのコードトーカーズはロナルド・レーガン大統領によって表彰され、
彼らを顕彰して8月14日がコードトーカーの日(National Code Talkers Day)
と定められることになりました。
また2000年、ナバホ族コードトーカーに、

議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)

が授与されました。


そして、2年前の2014年6月4日、アメリカ軍の生ける暗号であった
29人のナバホ族のうちの一人、チェスター・ネズ氏が
(日本軍に捕まっていたら日系二世だと思われたであろう名前ですね)
「最後のコードトーカー」として、93年の人生を終えました。

「過去の様々な経緯にもかかわらず、彼ら、ネイティブアメリカンは
アメリカのために勇敢に戦ってくれた」

2001年7月26日、名誉勲章金メダル授与式での時の大統領、
ジョージ・W・ブッシュの言葉です。


 

 

試験艦「あすか」見学

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もうかなり昔のことになりますが、本年度の練習艦隊を横須賀に見送り、
それが終わってから、わたしは試験艦「あすか」を見学させてもらいました。

「今日はどんな肩書きで見送ったんですか」

と聞かれて、

「一人のファンとして・・」

などと答え(ざるを得なかった)たわけは、今回基地に潜入?するにあたって
練習艦隊の見送りとは全く関係ない「面会」という名目を
セキュリティを通るときに申告して入ったからでした。

「あすか」の知人に面会に来たら練習艦隊が出港していたので、
たまたま見送った、というのが建前だったというわけです。



今から遠洋航海に発っていく「かしま」の右舷には、
初級幹部たちの整列する真っ白い制服が目にも鮮やか・・
向こうは「あさぎり」ですが、こちらはずっと左舷にいるようです。


・・・ん? 右舷?

岸壁では左舷に整列していたのに、いつの間に右舷に・・。

これって、艦がターンした途端、「右舷に整列!」とかいう
号令がかかって、みんなが一斉に反対側にダーっと走ったんでしょうか。
その瞬間を見ていなかったのが残念。



防衛副大臣の若宮けんじ議員を乗せたヘリが市ヶ谷に向かいます。
この写真を撮っていると、近くにいた自衛官が、

「わたしたちは毎日見てるので珍しくもなんともないですが・・」
(そんなにめずらしいもんですかね?みたいな)

と声をかけてきました。
すでにわたしに取ってもそんなに珍しいものではなくなってきてるんですが(笑)
そこはそれ、上空に軍用機が飛ぶと見過ごせないのが性(さが)ってもんよ。



練習艦隊見送りの人々は散会し、皆出口に向かう中、
わたしと同行者二人がこのあとの「あすか」見学のため、
人の流れと逆の方向に歩き出したところ、途端に自衛官が飛んできて

「そっちに行かないでください!」

と制止されました。

「いや、わたしたち実はあすかに面会がありまして」

と発起人が説明し行き先証明を見せて解放してもらいましたが、
わたしがお見送りに配られた自衛艦旗をバッグに刺していたので

「これは間違えられても仕方ないわ」

と、そこから先は旗を大きな紙袋に隠してもらいました。
我が心に一片の疚しい点もないというのに、よりによって旭日昇天旗を
こそこそ隠さねばならないというのはなんたる屈辱。 

とは全く思いませんでしたが、そこから先は誰何されるされることもなく、
「たかなみ」「おおなみ」「いかづち」の駆逐艦娘たちのところまでやってきました。



「おおなみ」の上では乗組員がなにやら作業中。

めざす「あすか」の対岸には、なんと艦番号604の「えのしま」さんが!
自慢ではないがわたしはこの掃海艇とは二度乗艇し、一度は船酔いをし、
一度は後甲板で転んだという、もう他人とは思えない?深い関係なのですが、
こうして横須賀で再会してみると、あのときのことが夢のように思えます。

船酔いと転倒をどちらも見られた権田司令にもあれは夢だったと思ってもらいたい。



というわけで、「あすか」に乗艦。
舷門で待っているとなんと艦長自らがやってこられました。
ツァー提唱者のお知り合いというご縁です。

これは「あすか」の系統図で、数えてみたら88人いました。
スペック的には70名乗員となっていますが、試験艦という性質上
これに試験要員と呼ばれる人員が100名は加わるという陣容なので、
なにかと人数に幅があるのかと思われます。



「試験艦」というのは自衛隊の中でもワンアンドオンリーの艦種で、
その試験目的は「ステルス化」「省力化」である艦兵器の実験です。

わたしたちには実感がありませんが、この「試験艦」というもの自体
世界の海軍でも大変珍しいとされています。
所属は海自上自衛隊自衛艦隊隷下の開発隊群にあたり、開発隊群は
陸自の開発実験隊に相当します。

開発隊群の任務は、艦艇等に搭載する装備品の運用に関する研究開発、
実用試験、性能調査等を行うことで、
「あすか」は開発隊群の唯一の直轄艦艇という特殊な位置付けです。



比較的スペースに余裕のある「あすか」、談話室も完備。
手前に一人で座る人が皆に尋問されそうなデザインです。

 

居住室を見せてもらいました。
なんと二段ベッドではありませんか。
これならがばっ!と起きても天井に頭ぶつけずにすむわね。

実に居心地の良さそうなこの居住空間、艦長によると

「海自はどうも(三自衛隊の中で)人気がなくって・・・。
それでせめて住環境を良くしようとしてこういうことになったんです」

ということです。
中の人の口から「海自は不人気」と聞くたびに、もしわたしにその資格があれば、
と申し訳なく思うわけですが、そんなありえない話はともかく、
不人気の理由が「職場=フネの住環境の劣悪さ」にあると
悩める上層部が考えたのだとしたら、それはあながち的外れでもないかもしれませぬ。



談話コーナーに設置された冷蔵庫と電子レンジは結束バンドで留められていますが、
壁とは連結されていないらしいので、冷蔵庫ごと倒れたらきっとアウト。
冷蔵庫にマグネットで取り付けられたトイレットペーパーがシュールです。



耐火スーツの色が他の艦とは違う・・。
「あたご」はオレンジ、掃海艇「えのしま」は黄色っぽかった記憶が。



後甲板の下階にきました。
護衛艦だと甲板下に収納されるもやいの巻き取り機などが皆ここにあります。



舫杭に巻きつけるそのやり方も海軍時代からの慣習に違いありません。



艦の後ろ側に係留してあるボートを見下ろしています。
他のフネより大きめのボートだと思うのですが気のせいでしょうか。



機材を膠着するための器具が船底から出ています。
試験艦という性質上、外から運搬され搭載する器具は多いのだと思いますが、
この位置から積み込むこともあるのでしょうか。



どうもここで立ったまま操縦するようです。
ものすごくシンプルな仕組みのようなコクピットです。



新聞を印刷する機械みたいですが、これは曳航式の装備を曳航するための索展開器。



変わった形の錨ですが、この前いただいた「錨のいろいろ」のページによると、
これはストークスアンカーに似ている気がします。

ここは正式な喫煙スペースとなっているようで、床据付けの灰皿があります。
艦内は禁煙なので愛煙家はいつも外で吸うことになっている模様。



後甲板下段もそうですが、一般公開でもここは見せてもらえないかもしれません。
わたしたちもこうやって覗き込んだだけですが、なにやら機械がたくさん稼働しております。



次に医務室を案内してもらいました。
医務室のドアに「時間延長はじめました」と、まるで
「かき氷はじめました」のようなノリのポスターがありますが、
これは自衛隊病院の歯科治療が6時半までになったというお知らせでした。



ここに常勤しているのは医官ではなく、海曹クラスの隊員であると聞きました。



次はお待ちかね隊員食堂。
ちょうどお昼の時間で食事中の隊員さんも何人かいます。



掃海母艦で予定されていた昼食が、移乗ができなくて食べられなくなったとき、
「えのしま」で代わりにこのトレイでの昼食をいただいたのでもうお馴染みです。
残念ながらあの時は船酔いで食べ物を口にするどころではありませんでした。

この金属プレートには「正しい盛り付け例」(推奨)があるようですが、
ここまで懇切丁寧な写真で解説されずとも皆こんな風に盛りつけるのでは・・。

「お箸とスプーンはここに置いて手で押さえておくと移動しやすいです」

移動しやすいというのは「持ち運びしやすい」ってことでOK?



昼食調理後のせいか、雑然として見える調理場。
実はこの見学の後、隊員の皆さんと同じメニューのランチをご馳走してもらえるという
願ってもない艦長からのお申し出があったのですが、残念ながらわたしは
この後地球防衛会の総会が市ヶ谷であったので涙を飲みました。

同行した後の二人は残って艦長と共に食事をされたようです。



「あすか」の艦内神社はちょっと変わった場所にありました。
だいたい護衛艦などは隊員食堂を出たところなどにあったりします。



御祭神は明日香村の神社にいただいているということです。
左に「叶神社」のお札がありますが、こちらは横須賀の浦賀にある神社です。



艦内神社の下はコピースペースとなっております。

記録をつけろ! 記録をつけない奴を見つけたら止用使用止め!

という注意書きがここは一般の会社とは違うと感じさせます。



相手の名前を必ず確認すること!

その後の「間違えることがあります」がじわじわとウケる。



自衛艦の写真を撮る時には必ず撮ってはいけないところを聞きます。
どんな自衛艦も、正確なスペックが表示されている艦内図などは撮影を断られます。

右側は真水タンクやバラストタンク、真水・海水ポンプなどの状況、
左は配電の監視を行うためのモニターとなっています。

いずれのモニターも切り替えて吸排気などの状況を確認するなど、艦内の状況を
ここで全て把握することができるのです。



このエントリを作成しだして「しまった」と思ったのは、間にイベントがあって
そちらの報告をしているうちにこの時に聞いた詳細な話を忘れてしまったことでした。
このストップウォッチが何に使われているのかも聞いて写真を撮ったはずですが、
それが何か忘れてしまいました。

最近清々しいくらい記憶力が低下していて情けないです。
一つのことを入れても、次の情報が入ってきたら書き換えられてしまうんです。
記憶のシステムが引き出し式ではなくところてん式になってしまったのかも。



艦の区画図が表されていますが、浸水や火災の時のハロン消化剤の状況が
リアルタイムで把握できるようになっています。



「バーベキュー大会のお知らせ」や「フットサル参加申し込み表」など、
「あすか」隊員の余暇生活の充実をうかがわせるお知らせ。



女の子の萌え風イラストが気になったのでアップにしてみました。
たぶん「あすか」という名前なんだと思います(適当)



いったい何桁の暗証番号を押すのだろう、と不安になるほどいかつい
鍵付きのドア。
もちろん携帯持込禁止。

それもそのはず、ここは技本事務室で、「あすか」に搭載され行われる
各種武装実験についてのデータなども全てここにあるのだと思われます。


わたしはこの上に貼ってある

「いつからいつまで新型の何々を実験する」

ということが書かれた紙を一般人のわたしが読んでしまっていいのか!?
と少しビビったのですが、艦長は

「あーここに(実験のことが)出ちゃってますねー」

という程度でした。
もしわたしたちが中国のスパイだったらどうするんだ!




続く。

 


試験艦「あすか」見学その2

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横須賀にある開発隊群の直属試験艦である「あすか」見学記、
二日目です。
実はわたしは「あすか」の見学は全く初めてというわけではありません。
去年の観艦式、わたしは本番でイージス艦「ちょうかい」に乗ったのですが、
「ちょうかい」の出航する木更津港には他に「こんごう」「あすか」が泊まっており、
前日には一般公開していたのでホテルチェクイン前に見学をしたのです。

そのときに、彼女らの舳先が並んでいる様子を撮り、「あすか」だけが
前に突き出したシャープな先端をしていることを確認しました。

こうやってイージス艦と並んでみると、違いは歴然です。
これは何度も説明していますが、艦首・底には新水上艦用ソーナー(OQS-XX)
を設置しているため、投錨したときに当たらないようなデザインなのです。
それは砕波発生装置からソーナーを遠ざけるためでもあります。

このことについて、後に艦長を囲んで歓談となったとき話題にしたのは、ひとえに
「実際に見たので知ってまっせー!」ということを言いたいがためでした(笑)


一般的に自衛隊装備の見学にやって来る一般人、特に女性に対し、
案内の自衛官は「この人はどの程度知っているのだろう」ということを
会話のリアクションから察知し、相手のレベルに合わせて説明してくれます。

それでいうと、わたしはまあそれなり、もう一人の女性はわたし以上に
現場主義?で見学をしょっちゅうしている人、男性は元中の人。
というわけで終わる頃には艦長も

「これはおそらくご存知だと思いますが」

といちいち説明の頭につけておられました。

試験艦「あすか」はいわば「お試し専用艦」なので、
搭載して実験した装備はほとんど外してしまうのですが、面白かったのは
イージスシステムのフェーズドアレイアンテナがはずされた跡のある、
今は何もないブリッジ外側の眺めでした。

写真を撮るのを忘れたのが残念です。



食堂階から艦橋に上がっていくことになりました。
「あすか」のこの階のラッタルはこのように上り下りが別の
広いタイプで、わたしは一度このことを

「技官などが乗ることも多いので船乗り以外に優しい仕様になっているのでは」

と推理してみたのですが、実はそれより重要な意味があったのです。



艦長が指差している先には、ロープが通せる穴の空いた部分があります。

「この階段が広いのは、ここから機材を搬入するためで、モノによっては
ここに通したロープで引き上げたりするんです」


 
さて、艦橋に上がってきました。

「広いですねー!」

同行の女性の第一声がこれ。
「ぶんご」「うらが」など掃海母艦よりは少しだけ小さく、護衛艦よりはかなり広め。
 
 

艦橋よりの眺め。
鑑番号116は「てるづき」、その向こうは「ちはや」でしょうか。



米軍基地には

ベンフォールド( USS Benfold, DDG-65)

が見えます。
ベンフォールドというのは朝鮮戦争で戦死した衛生兵の名前だそうです。
2015年10月、アメリカのアジア重視戦略「リバランス」の一環により
配備先のここ横須賀基地に到着し今日に至ります。



右舷側にチャートを広げるデスクがあるのはDDと同じ配置です。
「世界の艦船」「世界の国旗」などと並んで「日本漁具、漁法解説」という辞典が。




信号旗、信号灯と通信関係のファイルらしきもの。



ここに立つのは自衛艦の場合ベテラン海曹というイメージがありますが、
たとえばロナルドレーガンなどの空母では「操舵するだけなら若くてもできる」
と、平均年齢18〜9歳の水兵に任せているというので驚いたことがあります。

自衛隊は海軍時代下士官が操舵をしていたという慣習を受け継いでいるのしょうか。

 

決して特定秘密保護法には抵触しない事例と思われるので、
何が書いてあるかここで発表させていただきましょう。
この日行われた練習艦隊出航時の見送りについての注意点です。

わたしたちは岸壁から見送る人だけが練習艦隊の見送りだと思っていましたが、
実は同じ港内の自衛艦でも、それなりに艦隊見送りを実施していたらしいのです。

この通達によると、

「整列の人員は艦所定(当直員対応)艦首(右)〜艦尾(右)間
手前のマーキング」

「雨天時の雨衣着用の有無は0930のCOMM CKに続き示す」

この下にある、各艦に送られてきたらしい練習艦隊見送りの件は
宛先がたとえば「あすか」だと航海長、副長、当直士官となっていました。

「当日の当直・副直士官、航海科当直員、マイク員等等事前教育を
実地するとともに、整列位置の確認など事前準備をしておいてください」

という通達となっており、艦隊見送りという一事に対しても、上から下に
申し送ってきっちりと行われるものなのかと結構びっくりした次第です。 




デッドオアアライブ・・・ゲームのあれとは違いますよね。



OPA-6Dはレーダー指示器です。
先の繋がってないヘッドフォンをしている鳥さんにまた遭遇。 



後甲板をずっと映しているモニター。



艦橋デッキ。
望遠鏡の横に「見張り要領」が書かれている艦は初めて見ました。
それによるとこの望遠鏡の「眼高」は(海面から)14・6m。
図で方向角および方位角の判定と、注意事項などが記されています。



外に出ました。
他の艦ではみたことのないくらい広いスペースです。
観艦式の時には人がさぞ詰め掛けたのでしょう。
「あすか」は人員積載量が多いのと階段が前述の理由によって広かったりするので
観艦式などには必ず観閲艦として参加しています。

このもう少し上を撮っていれば、フェーズドアレイの跡が写っていたはずなのですが・・・。



ここも他の艦にはない独自のスペースです。



たくさんの人がシャワーを一度に浴びるためのホース・・・ではありません。
(ってかまじでなんだっけ(; ̄ー ̄A )海水を吸い込むホース?)



艦の性質上、将来的に何かを据えるためのブランクスペースというのもあります。



というわけで艦長曰く「駆け足で」見学を終了しました。
あと、写真を撮れなかったのですが、「あすか」の女性乗組員の
区画に、女性だけが入らせてもらいました。
中にいた女性乗組員の方は今から上陸ということで準備をしていて、
見学者が部屋に入るのに少し戸惑っておられるようだったのですが、
了解を得て少しだけ中を覗いてすぐに外に出ました。

中は自衛艦(というか自衛隊の敷地内)ではほとんど感じたことのない、
いかにも女性の居室ならでは空気が漂っておりました。
目をつぶって入っても、女性の部屋であることがわかるような。

「他ではありえない、いい匂いがしますね」

そして、士官室でお茶をいただきながらもう少しだけ話をして、
わたしだけが艦長自らのお見送りで退艦した次第です。



しかし、そこから出口までが遠かった(笑)
さらに、わたしは車を横須賀駅の向こう側のコインパーキングに停めたので、
舷門を降りてから横須賀を出発するまでたっぷり30分はかかった気がします。

帰りながらほかの船で行われている作業の写真を撮ったりしたし・・・。
これ何をしてるんでしょうか。

向こうに「いずも」らしき艦影が見えます。



艦番号111は「おおなみ」。



「あすか」を降りた時から、ラッパの音が聴こえていました。
見れば、イージス艦の誰も来ないこんなところで、おなじみ「出航ラッパ」から
「総員起こし」「かかれ」など、ラッパを順番に練習している信号員がいました。

やっぱりちゃんと吹けるようになるまでこうやって練習するんですね。


何かとてもいいものを見せてもらったお得な気持ちになりながら、
彼のラッパの音に送られて、横須賀地方総監部を後にしたわたしでした。


終わり。

コヨーテポイントのアシカ〜カリフォルニア・サンマテオ

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先日、サンマテオのコヨーテポイントで偶然見つけた
商船アカデミー跡のことを調べ、ここに戦争中だけ
カデットを育成する教育機関があったことを知ったわけですが、
その時に思ったのは、あの戦争はアメリカも本気だったんだなということです。

ベトナム戦争は知りませんが、911のときにボストンにいた者として、
あの事件直後の異様なアメリカ全体を覆い尽くしたショック、
それに次いでパトリオティックな空気が醸成され、音を立ててそれが
国民全体を包み込んでいく様子を見ていました。

ですから、ブッシュ大統領がその後「不朽のなんたら作戦」と称して
アフガニスタンに侵攻したときに、アメリカ国民がその攻撃を
パパブッシュの湾岸戦争のときほど支持していなかったのを、
外国人なりに少し不思議なことに思ったわけです。

今にして思えば、アメリカ国民もブッシュのこのときの性急さから
なにか胡散臭いものを感じていたのかもしれません。

少なくともこの戦争がアメリカ社会を大きく変えることはなかったし、
ましてや国民が一丸となって、なんて気配は全くありませんでした。


しかし日本との戦争で本気になったアメリカは、太平洋の戦場に必要な船に
乗せる船員(戦闘行為も有り)を、民間から徴用するのではなく、 
教育機関をパッと作ってしまったりしたわけです。

その気になったらこれくらい簡単にやってのけるアメリカという国は
やはり底力があったし、変な自負かもしれませんが、そのアメリカに
ここまでさせた日本もまた大したものだった、などと思ってみたりもします。



さて、そんな話はともかく、今年の夏もここに行ってみました。
今回は日本から休暇で来ていたTOと一緒です。



アメリカのいいところは、公園として解放しながら、
変に整備したりしないこと。
道沿いに柵くらいはつけますが、あとは放置。



商船アカデミー跡のシンボル、ソルティー・ザ・イーグルの像。
ここにアカデミーがあった証に、永遠にここに残されます。

ここでひとしきり調べたことをTOにレクチャーするわたしでした。



アカデミーがあった時代に作られたらしい人口の洲がありました。
左のほうの、かつてのアカデミーの港は、今ヨットハーバーです。



岩を積み上げただけの洲。



これまで歩いてきたところを振り返る。
右のほうにサンフランシスコ空港があります。





さて、このときわたしは望遠レンズとカメラを持ってきていました。
このコヨーテポイントからは、サンフランシスコ空港に着陸する寸前の
ギアを出した飛行機が間近に見えるのです。

この機体はアメリカン航空。



こちらもアメリカン。
こちらは3年前に導入された新デザインのボーイング 737-800らしい。
フライトアテンダントの制服もこのときに一新したそうですね。
全く乗らないのでどう新しくなったのかも知りませんけど。

あ、昔ここのエコノミーに乗ったとき、消灯後に、ものを落として
拾うためにかがんでいたら、体重1トンのプロレスラーみたいな
がさつなFA(男)に頭を思い切り蹴飛ばされたことがあったなあ・・。
よく脳震盪にならなかったもんだ。

「アーユーオーケー?」

とか聞いてたけど全然オーケーじゃなかったわい。 



いつもお世話になっております。
ユナイテッド。



去年乗ってなぜ皆が「デルタ、サックス!」というのか
わかった気がするデルタ航空。

そういえば、我が家はクリスマスにボストンからフロリダに行くのに
やる気のないカウンター職員がでれでれやっているためなかなか列が進まず、
予約したフライトに乗り遅れて最終便まで待たされたことがありました。



アメリカ国内だけを飛んでいる格安航空、ジェットブルー。
日本のエアドゥとかソラシドエアみたいなもんですね。
日本のは機内サービスの簡略化で節約?しているようですが、
アメリカの格安航空もまあ似たような感じです。

というか、どんなエアラインも大したサービスはしないので、
同じなら安い方がええやろ、と考えるむきもあるようです。

ジェットブルーは格安航空の中でお値段比較的高めですが、
レガシーキャリアと変わらないサービス、そして何と言っても
大容量の衛星通信導入によって国内他社の8倍の通信速度で
インターネットができるというのが売り。



イギリスのバージン・アトランティック・エアーが設立した、
これも格安航空のバージンエアー。
バーリンゲームといいますから、このコヨーテポイントの隣に本社があります。



ノーズ部分に”#nerd bird" と書かれているのを発見。

ナードバード、オタク鳥・・・・?

バージン・アトランティックエアは、機体に
ティンカーベル、マドモアゼル・ルージュ、ドリームガール、アップタウンガール、
ホットリップス、ピンナップガール、クィーンビー、ダンシング・クィーン、
などと「女の子」の名前をつけていることで有名ですが、こちらも
本家に倣って、鳥シリーズで名前をつけているのかもと思いました。

サンフランシスコとオースティンを往復する便の名前のようです。



鳥といえば、ここにはアジサシ鳥が頑張って漁をしていました。
飛んでいたかと思うと果敢に垂直降下して獲物を狙うやりかたで、
見ていて飽きません。

「アジサシ母さん頑張れ」

「あーだめだった」

などとわたしたちもつい応援してしまいます。



ブラックバードのメス。
メスとオスで色が違います。 



これは珍しい。
デンバーの格安航空会社、フロンティアの機体です。
アメリカの民事再生法に当たる倒産法を申請しましたが、営業してます。
アロハ航空とかは経営破綻してなくなってしまったのですけどね・・・。

 


飛行機を撮る合間に水鳥を撮ろうと思いまして、
ふと海面に目をやれば、遠目になにか黒い丸いもの発見。



肉眼ではわたしもTOも全く確認できなかったのですが、
優秀な望遠レンズで撮って、拡大してみて初めてそれが
息継ぎに出てきたこんなものであることを知りました。

「アシカ?」

「アザラシ?」

「オットセイ?」

言われてみれば、その違いなどを深く考えたこともありませんでした。
調べてみると、アシカにもオットセイにも「耳がある」そうですから、
穴が空いただけの耳のこれは消去法でアザラシということになります。

ちなみにカリフォルニアには「カリフォルニアアシカ」というのがいて、
モントレーなどでは海沿いを歩くと岩場にごろごろしています。



ぷはー、と目を閉じてるアザラシ。
ちなみにアシカは「シーライオン」、アザラシは「シール」、
(イアーレス・シールが正式)オットセイが 「ファーシール」です。

アザラシとオットセイが同じ「シールズ」とは知りませんでした。



空気を吸い込んでいるところなので思いっきり鼻の穴を広げております。
潜水のとき、この鼻の穴は自然にぴったりと閉じてしまいます。

ちなみにアザラシの目は色を見分けることができないそうで、
白黒の世界を見ているんだそうです。
アザラシに聞いたわけでもなかろうに、なんでわかるのだろう、と思ったら、
網膜に色を識別する錐体がなく、桿体だけしか持っていないため、
明るさは感じるけど色の概念がないということらしいです。

犬や猫も錐体が少なく、青と黄色しか見分けられないとか。

ほんの少しの間、こうやって空気をすーはーすーはーしてから、
アザラシは潜ってしまい、それっきり姿を見ることはありませんでした。







釣りに来ている人もいました。
楽しみでやっているのかもしれませんが、ちょっと真剣な感じです。



そんなあなたのために、「フィッシュ・スマート」。
いや、この場合スマートかどうかを問われるのは人間でしょう。

食べてもいいのはカレイにカニ(レッドロッククラブ)、
メバル(煮付けにすると美味しい)、ジャックスメルトという名前の
イワシ系の魚、そしてアトランティックサーモン・・・
ってこんなところで獲れるのか。

だめな魚はストライプバス、サメ、白チョウザメ、ヒラマサ、
そしてウミタナゴ。

ヒラマサがなんでだめなのかわかりませんでした。
日本じゃ刺身で食べますよね?

なお、左の看板の2番目は中国語で書かれている模様。



帰りにやっと全日空が来ました。
アメリカで機体の日の丸を見ると無条件でうれしくなります。



子供が二人で一つのスマホを見ながら歩いていました。
まだこのときには発売されて間もないポケモンゴーをしていたようです。
わたしがアメリカにいたときにはこのブーム、すごかったですが、
今では少し落ち着いているのでしょうか。






 

海の騎士道〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

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帆船「コンスティチューション」については、中に入っていかないまま
総火演シリーズに突入し、随分昔に話をしたような気がします。
一つのテーマについて書いているときにはそれなりに知識がつき、
資料を読むのも数字を調べるのも当社比で随分楽なのですが、
いったん中断してしまうと記憶からさっぱり細部が消えてしまい、
もう一度調べるのが二度手間ですね。(単なる愚痴)



二度目に家族と一緒に来たとき、前回は立ち入りを禁止されていた
甲板下に降りられることに気づきました。
見学客用に手すりが付いて滑り止めが施されたラッタルで下へ。



これがラッタルを降りた下の階部分。
ここから下に行く階段も同じところにあります。



今いるのが上甲板の一階下ですから、ここより下にまだ船底まで3階ありますが、
一般に公開されているのはここまででした。



ついにやってきたコンスティチューションの第2甲板。
この時代の船もそういうのかどうかはわかりませんが。

天井は大変低く、日本なら3m置きに「頭上注意」の指導が入るところですが、
コンスティチューションは海軍の記念鑑でまた現役鑑ですから、
この鑑内で起こることすべては見学者の自己責任となっています。

2mおきに立っている柱は結構新しいものに見えました。
当時このようなものは多分ですがなかったと思います。
左側の窓から砲口を出し、相手を攻撃する場所だというのに
こんな邪魔なものを作ったりするわけがありませんね。



こちらは左舷側の砲門というか砲眼。
大砲の砲口を出すところです。

コンスティチューションは「フリゲート」という艦種で、
このフリゲートには

小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船

という定義があります。
バトルシップ=戦艦、クルーザー=巡洋艦、デストロイヤー=駆逐艦、
と翻訳した日本ですが、どういうわけかフリゲートは訳さなかったので、
未だに「フリゲート」とそのまま呼んでいます。

フリゲートの語源は「フレガータ」(fregata )という小型のガレー船
(人力で櫂を漕いで進む軍艦)で、イギリスで発祥しました。
帆船時代の海戦においては、索敵などを行うのがフリゲートの役目です。
艦隊戦では主に戦闘を行う戦列鑑 (ship of the line )の外側に就きました。
ちなみに中国海軍ではフリゲートを「護衛艦」と翻訳しているそうです。
 
この戦列鑑というのもまた、同じように砲で戦闘を行う軍艦ですが、
帆船時代の砲が甲板ではなく艦内の「砲列甲板」(ガンデッキ)にあるのは
甲板は帆船の帆を張るための舫だけでいっぱいだからじゃないでしょうか。


帆船時代の軍艦による海戦はすなわち船腹の撃ち合いでした。

大変脆弱な弱点だった船首と船尾を敵の攻撃から守り、
船腹に沢山並んだ砲口を相手に向けるのです。

舷側には重い砲が並んでおり、砲門の穴が開いているので
ただでさえ強度は落ちますし、さらには発砲の衝撃が凄まじいため、
「オールド・アイアンサイズ」(鉄の船腹)ならずとも、一般に
軍艦の船腹はもっとも強度が考慮されていました。



コンスティチューション・ミュージアムにあったカロネード砲と
砲門を模したもの、そして拳を固めなにやら言っている人。


この写真で砲につながっている索を「タックリング」と称します。 
右側に赤い柄のモップみたいのがありますが、これは「スポンジ」で、
大砲の筒の中を掃除することは、砲員たちを危険にさらさないためにも
大事な作業の一つでした。
大砲は、撃つ都度、新鮮な火薬を詰め変えなくてはならないのですが、
古い火薬が残っていると、火花から暴発する危険性がありました。

ちなみにこの乗組員のフキダシには

「鍛錬は完璧を生む(Practice makes perfect)」

毎日俺たちは、我らが「ビッグウィル」で弾込め、照準、発砲の
正確さ、速さなどのスキルを磨いてきた。
砲の周りには9人のメンバーがいて各々の任務を行う。
お互いにエキスパートとして協力し合うことで
俺たちは(戦いのあと)生き残ることができるのだ。

事故の危険性以上に、相手を殺らなければ全員一緒に死ぬわけですからね。



この人の言っている「ビッグウィル」とは、9人の砲員が自分たちの
使っている砲につけていた愛称です。
各砲門は専用になっていたらしく、この「ブリムストーン」のように
名札が付けられていました。

 

こちらはバンカー・ヒル。
もちろん独立戦争以降の命名だと思われます。



10インチの弾丸実物がミュージアムに飾ってありました。
19世紀に用いられた砲丸には穴が空いていてボウリングの玉みたいです。

まず底に火薬、続いて砲丸を入れて、ヒューズに火をつけて爆発させます。
当時の大砲というのは、物理的に弾丸を飛ばしてぶつける、という仕組みで、
当時の技術では筒と砲丸の間に隙間ができてしまうため、発射効率が悪く、
そんなに遠くにまで弾丸を飛ばせたわけではありません。

したがって、戦闘とは常に至近距離で行われました。

 

大砲周りのグッズいろいろ。
手前のものはわかりにくいですがグレープショット=ぶどう弾といいます。

白いものは帆布製の袋で、ここに子弾を9発詰めてあります。
帆船における近接戦闘で索具類破壊と人員殺傷を目的に考案されました。
名称は小弾が詰まっている様がブドウに似ていることに由来しています。

向こうの筒状のものは「キャニスター爆弾」。



手前右の丸いのは「ラウンドショット」。
これがいわゆる普通の弾丸ですね。
その上の鉄アレイみたいなのは「ダブルヘッデッドショット」。

棒が繋がったみたいなのが「バーショット」(ショットバーではない)
あと、熱くして使う「ホットショット」なんてのもあったようです。

木製の金魚すくいの枠みたいなのが、丸い弾丸を載せるもの。
これを持って走り、一番早い人が勝ち・・ってそれは玉すくい競争だ。

手前の「match stick 」はその通り火をつける棒だと思います。



ところでこの博物館には、いたるところに当時衣装をつけた人のパネルがあり、
それぞれのフキダシによるセリフから色んなことを知る仕組み。
漫画的ですが、こういう展示は外国人や子供にもわかりやすくていいですね。

例えば手前の人は

「”ブリッツ”に勝ったからバケツにいっぱいお金をもらったぞ!」

と言いながら政府から発行された褒賞の証明書を掲げており、
奥のカップルの女性の方は

「もし船乗りに志願したら、この人酒場でクダ巻く時間もなくなるわね」

飲んだくれダンナを水兵にして長期間外に放り出す(もちろんお金も稼いでくる)
ことを考えております。



ここには敵であったイギリス海軍についての展示もあります。
その場合はパネルの人に当時の英国国旗をつけてくれているのでわかりやすい。

銃の手入れをしているこのシーマンは、
これまで長い長い時間沈黙に耐えて待った結果、やっと敵が見えた、
さあ戦いの準備だ、と言っております。 



こちらもイギリスの場合。

当時、同じ船乗りになるとしても、セイラーとマリーン(海軍士官)が
待遇面でどう違っていたかを表にしてあります。

面白いのは、セイラーには身長制限がありませんが、マリーンは
身長170cm以上ないとダメだったということ。(音楽隊は別)
セイラーが要実務経験に対し、マリーンの方は「経歴不問」。

制服もセイラーが「自分で調達」に対し、マリーンは

「たいへん目を引く(アイ・キャッチング)デザインの軍服が支給される」

うむ。 



こちらコンスティチューションの乗員。
なにやらシリアスです。

戦争の恐怖

初めての出撃で僕が見て感じたことを想像できるか?
ぞっとするようなうめき声と傷つき死んでいく人の姿・・。

イギリス船と戦ったあとの甲板の上には、血と脳みそ、
歯や骨のかけら、指、そして肉片で覆われていたんだよ。

これは、実際にコンスティチューション乗員だった人の回顧です。

彼の後ろにいる白衣の人物は医師。

「人間性が非人間性の後を付いていく」

として、戦闘後、倒れている人々から敵味方を問わず
生きているものを見つけて手当てをした、と言っております。



しかし、手当てといっても船の上でできることは限られていました。
当時、命に関わるような大怪我の場合、傷を負った手足は
腐敗しないように切り落とすしかなかったのです。

ここに展示されているのはそれを行ったといわれる大型のナイフ。
医師はさらにのこぎりで骨を切ったわけですね。

左上は、コンスティチューションの艦長であった
アイザック・ハル(Captain Isaac Hull)の述懐です。

「 戦いの日々にあってもわたしは冷静で、むしろそれに心沸き立ったが、
何より恐ろしいのは、日が経っていくことだった。
それにつれて傷つき苦しむわたしの部下が増えていくのを見ることになった」

右下は命と引き換えに脚を切られてしまった乗員のリチャードさん。

「あんたらまるで肉屋みたいだな」(意訳)

ためらいもなく怪我した手足を事務的に切り落としていく医者に、
ついついこのように言ってしまった模様。 


まあ、さっきの医者などは、切り落とした手足の骨で椅子を作った、
なんてことも言ってたみたいですから・・・。gkbr(AA略)




こちら旗を見てお分かりのようにロイヤルネイビーのキャプテン・ダクレス。

降伏

わたしは、ハル艦長の指揮とその乗組員たちの勇気について
言及する義務があると感じる。

わたしの部下たちは最も少ない犠牲で最大限の敬意と手当てを受けることができた。

おお、ここにも海の武士道ならぬ「海の騎士道」が存在したと。

しかも騎士道といえば、ハル艦長は、ロイヤルネイビーの士官に
捕虜になった後も帯刀することを許したという話がここに書いてあります。

降参するにあたって自分のサーベルをその印として
ハル艦長に渡そうとしたHMSゲリエール艦長。
それに対して、ハルはこう言いました。

「貴官は降参されるとおっしゃる。
そしてご自分の刀を本官に渡そうと・・・・。
いやいや、いけません。
本官はその使い方をわたしよりよく知っている人間から
それを取り上げるつもりはありませんよ」


いや、どちらもイングリッシュスピーカーで話が早くて良かったです。



しかし、勝てば官軍、負ければプリズナー。
勝ったコンスティチューションの乗員たちには栄誉が与えられます。

ハル艦長は敵を敬意を持って扱いましたが、ただしそれはマリーン(士官)のみ。
ゲリエールの水兵たちはその後、ボストンに帰るまでずっと甲板に繋がれたままですごし、
アメリカでもまるで罪人のような処遇を受けたのでした。

ただ戦闘に負けただけなのに。



ゲリエールの乗員。

「負けた・・・・」


海の男同士響き合うものがあったとしても、戦争は過酷で勝負は現実。
当博物館の展示はそんな戦士たちの悲哀にも光を当てております。(適当)


続く。




 

シック・ベイ〜戦艦「マサチューセッツ」

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さて、戦艦「マサチューセッツ」、どんどんと下の階に進んでいきます。
といいながらもうすでにわたしは自分がどこにいるのか、
甲板の何階下なのか、艦首側か艦尾側かわからなくなっておりました。

まあこれは乗組員であってもすぐには覚えられないのが普通だそうですから、
あまり悲観するようなことではないのですが、戦艦の医療施設である
「シック・ベイ」が、どこにあるか全く覚えていないのは如何なものか。

と悩みつつも進めてまいりたいと思います。

 

前回ご紹介した「暗号ルーム」など、CICのあった階に、
ずらりと並んだ計器なんですが・・・。

上から「A-50V」「A-54V」などの電圧、その下は水位を表し、
(EMPTYからFULLまで)その下は0から500までの目盛り。

この情報からは「バラスト水の注入」くらいしか思いつきません。

なお説明は近くになかった模様。 



さて、それではどんどんと艦尾に(艦首かも)向かって進みましょう。
CICのところもそうでしたが、この階は扉の高さが異常です。 



いきなり何の説明もなく現れた病室。
なるほど、ここからが医療エリアですか。

奥はバス、浴場だそうですが、アメリカなのでもちろんシャワーだけ。
当時からそうだったのかどうかわかりませんが、浴場にドアがありません。
病院のベッドなのにやたら広く、もしかしたら病室にも
士官用の特別室があるのかと思われました。



通り過ぎてから知ったのですが、ここは安静室でした。



執務机があったり小さな洗面台があったり、ということで
ここもかつては安静室の一つであったと考えられます。

「マサチューセッツ」は戦後一度モスボール化されていたので、
その間、ベッドなどは全部艦内から出してしまい、
必要とする別の軍艦に移してしまっていたそうです。



タイプライターを組み込んだ事務机、日付スタンプ。
医療事務を行う部屋であったと推測。



調剤室。
奥には薬棚があります。



同じく調剤室。
処方箋などの入っていたカードボックスと壁一面の薬棚。
奥にあるたくさんドッグレバーのついたドアには「X」マークがありますが、
これはわたしの記憶に間違いがなければ、

「航海・停泊いずれの場合でも常に閉鎖または停止する」

という印であったと思われます。
閉めておかなくてはならないドアの向こうになにがあるのかと、
警告表示を読んでみたら、

「コニング・スペース」

つまりこの向こうには操舵コーナーがあって、ここは
火災のような非常時以外は使わないこと、とあります。 



机の上に包帯などを煮沸するような圧力鍋状のものがあります。
左側のドラム状のものは医療廃棄物を捨てるところでしょうか。



シックベイと手術室があるという表示。

シックベイには常時3人の医師、2人の歯科医師、そして下士官である
看護師(Enlisted Medical Corpsman)が勤務していました。
すべての医療設備が整っており、乗員の日々の健康を支えました。
メガネを新しく作ることさえできたということです。



SICK CALL LINE というのは、おそらく診察や定期検診を待つ列だと思うのですが、

「バーベットの周りに列を作ってください。
通路に並ばないでください」

とあります。
バーベットというのは主砲の機構が内包されている部分(というかそのもの)
大きな筒状の壁のことで、そこに沿って並ぶこと、と言う意味です。

そして現場の説明に

「”シックコール”が鳴ると、治療を要する水兵がが列を作って医師と
メディックの診察を待ちます」

とあったのを見ると、どうやら彼らはいつでも病院に行っていいわけでなく、
シックコールとやらが鳴るまでは、不調でも我慢しなければならなかったようです。

病気の程度が深刻だと判断された場合には、「運が良ければ」
その水兵は

「体の楽な任務に就かせるように」

という手紙をもらうことができましたが、
まあ基本戦艦ですので(笑)大抵のものは治療をさっさと済まされて、
すぐさま持ち場に戻るのがデフォでした。

戦闘時には当然ここはメインのバトルドレッシング・ステーション
(応急手当て室)となります。



病室の入り口に来ました。
ドアがなく、天井には目立つ赤い色のレールが通っています。



前にも言いましたように、艦内にはいたるところに天井のレールが通っており、
これで重量物を吊り下げ式モノレールの機構で運搬しました。
狭い軍艦も、これで運べば階段を通らずにすみ、また事故も起こりません。

今ならそういったものはすべてエレベーターで運ぶと思うのですが、
そういえば他の軍艦でも、空母以外に艦内エレベーターは見たことありません。

試験艦「あすか」では滑車で荷物を階段から吊り下げると聞きましたが、
そういえば艦橋に重い荷物をどうやって運んでいるのでしょうか。



この部屋にも、モスボール化する前までは、ベッドが並んでいたに違いありません。
中央部に点滴を吊るすポールが集中しているところから類推すると、
ここには最低でも20床くらいのベッドがあったと思われます。

ところで、部屋の向こう側に先ほどのと同じ計器がありますね。
バラスト注入をまさか病室でやらないだろうしなあ・・・。


ちなみに計器のつけられたむこうの壁が「第1バーベット」、つまり主砲の真下です。
この部分がシックベイの始まりに当たります。




さて、いよいよ手術室までやってきました。
部屋の入り口にはスピーカーが備え付けられています。



オペ室です。

無影灯が5つ、床は洗い流せるようにここだけタイル敷き。

テレビの画面ではかつてここでオペをしていたという
Dr. オーリン・ダナが写っていますが、現場に医師の姿なし。
これから手術が始まるのに違いない。



と思ったらすでに開胸してるし。

肋骨を押し広げるための開胸器が見えてます。
この患者さん、しかも白眼をむいておられます。
はっ、これは「今から手術を始める」のではなく終わったのでは?
そしてなぜ彼が白眼かというと・・・((((gkbr))))(AA略)


こういう、髪の毛も描いてあるタイプのマネキンって、むかーし、
田舎のバス道沿いの洋品店のウィンドなんかにあった気がしますね。
(ここで『海と毒薬』の冒頭を思い出してしまうわたし)



というような不吉な話はここまでにしておいて。

どちらも入ることはできませんでしたが、左のドアは

「ダイエット・キッチン」。

療養食を用意する台所です。



中を見てみますと・・・。
キッチンとか言っても、あまり美味しいものが作れそうではありません。
一応兵員用のチャウ・トレイなんかも置いてあったりしますが。

奥にはここにも「X」のドアがあります。


ところでアメリカの療養食というのは、日本のおかゆに相当するのが
オートミールだったりするのですかね。

アメリカの病院食画像

全てではないですが、なんか随分酷いのもありますね。↑を見たところ、
ましな方でもチキン胸肉のバーガーだったり、ボテトにベーコンとか、
中には全く普通の機内食と見分けがつかないものも・・・。

アメリカで入院するようなことがなくてよかった、とあらためて思います。

右側の部屋は

「STERILIZING ROOM」(殺菌室)。

 

包帯やガーゼ、リネン、白衣などを殺菌するためのスチームがあります。
奥のハンドルが付いたものは包帯巻き取り器ではないかと思うがどうか。



おそらく水兵用のシャワー室がバーベット(右側)のスペースにありました。
右側の車椅子は、背もたれが籐でできています。



作り付けのベッドはそのまま残されていました。
比較的軽傷の病人怪我人はここに。
病室にはどこにも右下のような赤い非常ランプがあります。
総員退艦なんかの時に点灯するんでしょうね。



ISOLATION ROOM(隔離室)

安静室とはまた違う、もうこれは超シリアスな患者のための部屋。
面会謝絶とかいうときのですね。



一隻の戦艦に歯医者が二人、というのはアメリカ人の
一般的な口腔衛生に対する考え方をよく表していると思います。
診察台は一部屋になんと3台ありました。



歯科医師二人、下士官の助手、フルで患者を診ることができます。
この治療に士官と下士官が同じように並んだのか、それとも
士官は優先ラインがあったのかどうかはわかりませんでした。



頭を支えるヘッドパットがあり倒れる椅子、照明器具と
洗口器のついたスタンド。
現在の歯医者と仕組みは昔から変わっていないみたいですね。



ところで、アメリカの軍艦を見学してこんなディティール(はっきり言って
軍艦そのものにとっては割とどうでもいいことではある)を見るといつも、
日本の軍艦において、たとえばシックベイにあたる部分がどんなのだったのか、
とか歯医者はいたのか、という「どうでもいいこと」を知る術は、全ての旧軍艦が
三笠を除いてアメリカの手で全て廃棄されてしまったために
永遠になくなってしまった、ということを考えずにはいられません。

「こんなに何から何まで当時のまま残っている国もあるのに」

戦争に負けたせい、ということは重々わかっているのですが。
一瞬去来した苦々しさを振り払い、艦内をさらに進んでいきました。


続く。



 

パウダー・ハンドリング・ルーム〜戦艦「マサチューセッツ」

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シックベイ、つまり医療施設の集まっている区画があるからには
ここも結構艦の下の方だと思ったのですが、このあと、
またしても下に続く階段がありました。





 
ここで艦内断面図を見てみましょう。
撮った写真をすべて遡ってみると、兵員食堂やゲダンクはセカンドデッキ、
つまり甲板の下の階にあり、同じ階にシックベイもあったということになります。
シックベイはいざという時にけが人の救護所となるので、
あまり下の階にないのが普通なのかもしれません。

さらに、「バーベット」という砲塔の外側のカーブが2つありました。
このことから、シックベイは艦橋から艦首よりの甲板下にあったということになります。

というわけで、これからサードデッキに降りていくということになります。



階段をの途中から見えるドアの上部のプレートには

「16インチ 火薬庫と火薬取り扱い室」



火薬室やその取り扱い室まで見学客に公開するという
展示を行っていたのは、後にも先にもここだけでした。
そういう意味では皆様にも貴重な報告ができる、
この通路を歩いていきながら思わず期待で胸がドキドキしました。



そのまえに、ここは「TBXエキップメント・ルーム」。
equipment=機材とこの場合訳したらいいでしょうか。

TBXというのはこのころ使われていたトランシーバーで、
このコンパートメントで管理されていました。

TBX6

小さなポータブル式でバッテリーとアンテナが内蔵しており、
上陸時に携行していくためにここにストックされていました。

この部屋ではまた、無線機器各種の修理も行われました。



まえにもお見せしたと思いますが、このレールで火薬を移動させます。
この写真の右側にある壁はわずかに弧を描いていますが、ここが
主砲の機構を取り囲む「バーベット」と呼ばれる部分です。

バーベットの定義は「ターレットの機能を取り囲むシリンダー」で、
非常に堅牢に作られており、敵の攻撃からも中が守られるようになっていました。

このレールは電動式ではなく、単にコロの上に弾丸を乗せ、
押して滑らせて移動させたようです。



火薬タンクだったキャニスター。
中に火薬が残っていないことを示すために
缶の蓋には「エンプティ」と印が付けられているものもあります。



コロのあるレールの右側に真四角のハッチがありますが、これを
下に向かって覗き込んでみました。

かつてはここは火薬専門のリフトのハッチであったようです。



火薬タンクとラック。



この通路の壁もバーベットになります。
向こうには弾薬が並べられていました。



ここで下の階に降りていきます。
さっきハッチから覗き見た下の部分につながっています。
長年砲員たちが駆け上り駆け下りた階段は角がすり減ってしまっています。



灯油缶のようなキャニスターのラックとなっている通路。

 

ふと上部を見上げれば、ここにモノレールの終点がありました。 



よく見るとレールは扉のあるところを通っているのですが、
いざといときにどうやって戸を閉めるつもりだったのでしょうか。



おお、こここそ「バーベット」の内部!
つまり砲塔の一番根っこの部分に来たというわけです。
右側が外郭、そして左が内郭で二重構造になっています。
ここを「パウダー・ハンドリングルーム」(火薬取り扱い室)といいます。



赤い印の入り口から見た様子が、二つ上の写真です。

パウダーバッグと言われる16インチ砲の弾薬は、「スカットル」と言われる
ドアを通じてこの部分に運び込まれたのち、ここからホイスト(巻上機)で
上部の砲塔に運ばれます。

上の写真で言いますと、右側のゴミ捨て場みたいなところで受け取って、
左側の別のスカットルに移すわけですね。
図でいうと、輪を貫く6つの長方形がありますが、それが
受け取りスカットルとホイストに載せるスカットルです。


安全性のために必ず一つのホイストには一人が就き、持ち上がった先にも
一人が専属で降ろす作業を行います。 

安全性といえば、火薬と弾丸は砲に装填されるその瞬間まで
決して一緒に扱われることはありませんでした。

もし火薬がハンドリングルームにこぼれ落ちるようなことがあった場合や、
火薬の悪化がわかった場合には、それらはすぐさま廃棄処分となり、
水の入ったタンクに入れられました。


 

説明がありませんでしたが、消火器のような形です。



これがパウダー・ハンドリングルームの内側。
上の図でいうところの二重丸の一番内側になります。
ここには立ち入ることはできず、外側からガラス越しに写真を撮りました。

一番向こうにスカットルが見えています。
床は黄色い線が引かれていて、その内側の床はもしかしたら
シリンダーの回転に伴い動くのではないか?と思われました。
(違っていたらすみません)




そこでスカットルなるものがどれかなんですが、



これ。
説明によると「扉が素早く開き、素早く閉まる」ということですが、
どこに扉があるのかよくわかりませんでした。
パウダーバッグは、外部のスカットルから運び込まれ、、プラットフォーム上を
転がされてハンドリングルームに到達します。
ホイストには人の手で乗せられます。

スカットル内部はパウダーバッグにぴったりフィットする大きさで、
カミソリの刃のような薄い、防火扉(写真に見えているもの)で
覆われたのち、稼動して上部に運ばれていきました。


スカットルは「フラッシュ・プルーフ」、即ち金属を扱うときに起こる
火花を防ぐ仕様となっていました。





この写真には、バーベットの二重になっている壁のそれぞれの扉が写っています。
なぜわざわざ二重にするのか?というと、一にも二にも安全性。
「バーベット」はこのようにして、主砲を保護する役目を持っているのです。




そのとき、わたしは細くて狭い階段があり、
ここを登って上に行くことができるのに気がつきました。

つまり、バーベットの内部を登っていく階段です。

上にはいったい、何が・・・・・?!


続く。

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