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潜水艦救難艦「ちよだ」進水式に出席

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いつかは見てみたいと思っていた進水式ですが、夢が叶いました。
「三井造船玉野で行われる潜水艦救難艦の進水式に、
なんと直前の2週間前に参加させていただくことになり、
この度岡山県玉野まで足を運んできたのです。

なぜそんなウルトラ離れ業で参加が決まったかについて、
いつもならばここで微に入り細に入り説明するところですが、
大人の事情によりそこのところはさっくりと省略。


実はこの直前にも自衛艦は潜水艦「せいりゅう」が(清流ではなく
清瀧権現から取っているとか) 神戸で、今週には三菱でDDの進水式が
行われており、進水ラッシュの海上自衛隊であります。



三井造船玉野には、わたくし「ふゆづき」の引き渡し式のときに参加し、
土砂降りの中の感動的な船出を見届けたというご縁があります。
そのときに控え室になった三井造船の迎賓館?のような社屋にあった
社の資料館で見学したことどもを当ブログで取り上げたのですが、



一項を割いて三井造船建造の403「ちはや」について話したとき、
すでにその頃決定していた404の潜水艦救難艦の名前を

「城の名前だからあおばに違いない」

と締めくくりました。
艦名をかなり前に予想していた艦の進水式に出ることになろうとは。
ただならぬご縁に興奮してしまいますね。

まあ、タイトルですでにおわかりのように、艦名は「ちよだ」でしたが。
(あおばもいい線いっていたと思うけどな)


今回は飛行機で行ったので、岡山には前日入りしました。
岡山駅からマリンライナーで児島まで楽々ノンストップでいきます。
児島で降り損ねたらもう次は四国に行ってしまうと聞いて大変緊張しました(笑)

岡山駅にはこの「アンパンマン電車」が停まっていました。



児島駅からタクシーで20分くらい?
温泉もあるというリゾートホテルが一番近い宿泊所です。
タクシーの運転手さんが話好きで、領収書の裏に自分の名前を書き、

「指名してくれたら観光案内しますよ」

と熱心に売り込んでこられましたが、観光に来たんじゃないしな。

朝起きたらホテルからはこんな素晴らしい眺めでした。
三角のおにぎりのような島が「鬼ヶ島」かな?



おお、はるか向こうに瀬戸大橋が見える!



四国の金比羅宮で行われた掃海殉職者慰霊式のあと、わたしは
この瀬戸大橋を渡って帰ってきたのですが、そのとき何の気なしに

「地震が起きたら海に落ちるのでは」

と書いたところ、大変詳しくその安全性についてご教授くださった方あり。
それ以来、わたしは瀬戸大橋のファンです。



このボートは釣り用かな?

それにしてもみなさん、お天気が非常に怪しいと思いませんか?
前日にSiriさんに聞いてみたところ、彼は暗い声で(わたしのSiriは男性)
あまりお天気は良くないでしょう、と言い放ったので、
あの「ふゆづき」引き渡し式のときの悲惨な天気を思い出し、

もしかして、わたしが玉野に行くから雨が降るのか・・・?

と大変申し訳ない気持ちになったものです。
とりあえず午前中だけ保ってくれるように祈りながらホテルを出ました。



ところで、自衛艦の誕生に行われるセレモニーについておさらいしておきましょう。
まず、順調な工事と建造中の無事を祈って神事を行うのが起工式。

英米の艦船について書いたときに「キール・レイド」、つまり
キール(船の背骨になる部分)を最初に敷設するのが起工式である、
と知ったのですが、現代の艦船では少し違うようです。

なんかすごーく地味なことをしているように思うのですが、これは
制服を着ている防衛省の代表がスイッチをぽちっとする瞬間。

この瞬間溶接が開始されて、これをもって建造の開始とされます。



若宮けんじ氏が出席しているのでこれは「ふゆづき」のときです。

右側が三井造船の社長で、防衛省の代表である若宮氏が証書を受け取っています。

造船所で進水式の後艤装が完了し、海上公試を行った艦船は
その後会社から防衛省へと引き渡しされ、
関係者一同が見守る中、造船所の岸壁を離れて旅立っていきます。



その「ふゆづき」のときの進水式。
定義としては

「組み立てられた船体がほぼ完成した段階で水に浮かべる作業」

というのが進水式です。
まず防衛省代表によって「命名式」が実地され、それまで隠されていた
艦体の名前の部分の覆いがはずされてお披露目されます。

船の誕生にまつわるセレモニーの中で最も重要なものといえます。

「進水式って船の誕生日なの?」

同行したTOが聞くので、

「誕生日は起工式だから・・・なんだろ、元服ってところかな」

「上手いこと言うね、元服」

それでいうと、引き渡し式は出陣式というところでしょうか。



見覚えのある三井造船正門前に到着。
看板の向こうのポールには国旗を中心に社旗と自衛隊旗が
翻っています。
奇しくも紅と白2色の旗が三旒靡く様子は大変美しいものでした。



戦前からある趣のある迎賓館の前では、社員が並んで
次々とやってくる来賓をエスコートしていっています。



この右側にはテントがあり、ここで受付を行います。
実はわたしたちは地元経済界の重鎮!みたいな方の車で
ホテルまで迎えに来ていただきこれで一緒にやってきたのですが、
いくら黒塗りの車で偉い人と一緒に行っても、ランクが上がるわけではないので、
重鎮は偉い人の控え室に行ってしまわれました。
(前回はわたしひとりだったのでどさくさに紛れてチートした)



我々の控え室はこちらでした。
部屋にはエスコート係として1佐がアテンドしてくださり、
その方が皆の写真も撮ってくれました。

そう。

ここでわたしは悲しいお知らせをせねばなりません。
進水式の写真を撮るために、わたくし、32Gのメモリーカードを二枚買い、
Nikon1には広角と30-70mmのレンズ二本持ち、そしてデジカメと
万全の用意をして来たというのに、この1佐に念のため聞いたところ

「工場の中に入ったら写真撮影禁止」

だというではありませんか。
思わず目の前が真っ暗になったわたしです。

「その分わたしがみなさんをお撮りしますから」

とおっしゃるので、そんなものかーと思っていたら、
向こう側にいる一般客も、こちら側の客も、なんか写真撮ってるんですけど。
ちなみに今、玉野市のHPで本日の進水式見学情報というのを見てみたら

「進水式以外の撮影は禁止です。」

と書いてあるではないですか。
ってことは、進水式なら撮ってもよかったってことなんじゃあ・・。

わたしの周り(もと自衛隊の将官とか防衛団体の人たち)でも、
進水式も禁止だよ、とまことしやかに牽制し合う人たちがいて、
それにしては皆携帯やデジカメで撮ってるけどなあ、と思っていたのですが。

まあ、この1佐が写真を送ってくださるとのことなので、
それを待つことにいたしましょう。




ちなみにこれが三井造船の建造した自衛艦たち。
三段目の一番右に先代の「ちよだ」がおりますね。

こちらは1985年の就役で、もう退役しているはずなのですが、
まだウィキペディアの情報が書き換えられておらず、
本日進水した「ちよだ」のことも

後継艦としてDSRVを搭載するASR-404「ちよだ」(5,600トン型)
の取得が表明されている

などとなっています。

・・・ん・・・?「ちよだ」?・・・「ちよだ」の取得?

これってつまり、すでに名前はこのころから
「ちよだ」であることは決定していた、ということになりますね?

なんだ、わたしが知らなかっただけか(がっくり)



掃海隊の訓練の時にお世話になった「ぶんご」。
ここ三井造船玉野の出身だったんですね。


というわけで、撮った写真をもとにいろいろお話しできないのが
大変辛いところですが、引き続き進水式の様子をお話していきます。




降下降下降下!〜映画「桃太郎 海の神兵」

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さて、桃太郎部隊の空挺部隊がいよいよ出撃することになりました。



映画ではここでいきなりインドネシア、いや「ゴア王国」が、
白人の支配に遭うまでの経緯が説明されます。
南の島々の中にうかぶ宝石のように美しい島。



ある日この島の港に現れた不思議な黒い船。
島はたちまち上を下への大騒ぎに。



船から降りて宮殿に伺候したのは鼻の尖った白人。


 
「わたしたちはこの島の人々と仲良くしに来た商人です。
この島のどこかに休息できる場所をお譲り願えませんか」



「わたしたちの船が積んでいる世界の珍しい宝をお見せするのに、
それらを並べる土地が必要なのです。
何、銅貨ほどの敷地で十分でございます」

王様がそれを承諾すると、

 

「これが我が国の商法でございます」

国土のほとんどが硬貨で覆われてしまいました。



そして彼らの攻撃が始まりました。
戦いの末、ゴア王国は黒船に負け、支配を許してしまいます。



この島のジャングルに深く眠る石碑に書かれて曰く、

「月明明るき夜に東方天子の国より白馬にまたがりたる
神の兵来りて必ずや民族を解放せん」

インドネシアに実際に伝わっていた「ジョボジョボ伝説」というのが、
戦時中からすでに日本の知るところとなっていたことがわかります。



翌日夜明け前。
ただ身じろぎもせず立つ隊員たちのシルエットが浮かび上がります。
流れるのはラッパ譜「君が代」。

しかしこの厳粛な雰囲気も、動物たちが皆で走り回り、

「そらそらかけろそら走れぐんぐんかけろどんどんかけろ皆々かけろ」

という実に妙な歌が流れ、はっきり言って台無しに(笑)

 

いよいよ飛行機にエンジンがかけられました。
降下兵たちが落下傘を背負って次々と搭乗していきます。



飛行機の入口に立ち、一人一人を厳しい目でチェックしているのは
本編主人公(だよね)の猿野猿吉兵曹。



乗り込んだ順にシートに座りますが、やっぱり熊は
でかすぎて皆の迷惑になっております。肩身が狭そう。

実際の空挺部隊の輸送機内での写真を見ると、これどころか
その向かいに座っている者とほとんど膝がくっついています。
激しい緊張の中、この輸送機の中の状態はきつかったと思われます。



降下兵とは違うハッチから乗り込む航空隊員。
本機搭乗員は全員がウサギ。



あのー、イヤフォンが(うさぎの)耳から外れてるんですが・・・。


 
一人が上部ハッチをあけて外を立ちます。
車輪止めを外す、手を交差させてから払うあの仕草をするためです。



地上員たちが車輪止めを外していきます。

「よーそろ!」「よーそろー!」



タキシングする航空機を、地上員たちはじめ駆けつけた
動物たちが見送る中、敬礼を送る搭乗員。

子供向けの動物を使ったアニメなのに彼らの動作はとにかくかっこいい。
これを見た子供たちはこの時期においてなお海軍に憧れたに違いありません。

あー、こういうところが「国策映画」だといわれるんだな。



窓越しに見送る人々に敬礼を送る猿野。



浮き上がる車輪の横を、走って追いかけてくるチータたち。



耳をなびかせ、帽触れで航空機を見送る地上員。



猿は手を、象は鼻を、リスは尻尾を振ります。



ここで軍歌調の歌が流れます。

祖国離れて何千里 海を渡りて敵の陣 鍛え鍛えた鉄の胸 翼頼むぞいざ運べ

本来ならば「空の神兵」を流したいところですが、この曲は
いろいろあって陸軍のテーマソングのようになってしまったので、
海軍としては意地でも使いたくなかったのだと思われます。

古関裕而は大物ですが、それでも映画のためのこの曲には
やっつけで作った投げやりな感じが拭えません。

この名曲を陸軍に「取られて」しまい、実質自分たちの方が早かったのに
陸軍落下傘部隊だけが世間にもてはやされたことを海軍が
よほど悔しく思っていたらしいことがうかがえます。

 

この軍歌に乗って、攻撃隊の様子が活写されます。
お守りの人形をコクピットに下げた搭乗員たち、



互いに肩をたたき合う降下員たち。
その様子を隊長はにこやかに見守ります。

 

援護の飛行機が手を振り基地に帰っていきます。
ところが、このあとにわかに一点がかき曇り、攻撃隊は荒天に苛まれます。

 

基地ではすでに台風のレベル。
そもそも落下傘降下は雨が降った時点で実行不可能です。



攻撃隊の様子を案じて地上員たちはせめてもとてるてる坊主を作るのでした。

 
 
一転、まず搭乗員たちの顔が空のように晴れやかになります。
天佑神助によって空は晴れてきたのでした。



砲塔に登り、銃座を確かめてから見張りを再開する砲手。

メナド降下作戦では輸送機が一機墜落し、乗員が
12名全員戦死しています。

 

雨の間ずっとうつむいて航空機の隙間から入る雨水を避けていた
(っていうか、飛行機に雨漏りがしていたっていう)
乗組員たちはすっかり元気づき、お弁当を広げて腹ごしらえです。




搭乗員も食事を始め、航空員だけの特権?であるキャラメルを
皆に振る舞ったりしているうちに、降下地点まで30分の距離に。

機長からは「みなさんの成功を祈る」というメッセージ。

 

桃太郎隊長の「全員位置につけ」の号令とともに緊張が走ります。



各々が厳しい表情で装具の点検を行い、機内には
金属音だけが聞こえます。



機長によって降下地点上空を知らせるブザーが三度鳴らされます。

「降下あ、よおおおい!」



ハッチに向かう降下員は、一人ずつコクピットの搭乗員に敬礼をしながら。

 

傘を開くための環を外し、それを航空機上部のバーにつけます。
今も第一空挺団が同じ方法で降下を行っています。


 
環をバーに連結した桃太郎隊長、指揮官先頭の海軍は
隊長が真っ先に降下します。



緊張のひと時を前に見張りを行う砲手。

 

ブザーが二回鳴らされ、ハッチがいよいよ開けられます。



機長がブザーを長押しすると同時に、隊長が一声、

「降下アア〜〜ッ!」



続く。


 

進水台の仕組み〜潜水艦救難艦「ちよだ」進水式

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さて、平成28年10月17日に三井造船玉野で行われた
潜水艦救難艦「ちよだ」の進水式。
ウルトラ離れ業で無理くり出席させていただいたまでは良かったのですが、
式典前に言われたのは

「内部での写真はご遠慮ください」

という非情のお達し。

それにもかかわらずこの写真は何事か!?
と色をなす人がいるかもしれないので、なぜわたしが
岸壁から飛び降りる思いで撮ったこのたった一枚の写真を
挑戦的にもここに発表することにしたのか、説明いたしましょう。

控え室からバスで現地に向かう間にエスコートの1佐から聞いた

「工場内に入った瞬間から撮影禁止」

という無情のお言葉。
工場敷地の写真は「いずも」の引き渡し式が行われた
横浜のJMUでも禁止されていたのでそれはわかるとしても、
一般に許されている進水式の撮影までがなぜ?

あとから思い当たった理由があります。

お節介船屋さんの送ってくださった産経のニュース写真には、
玉野市が一般に広報して当日集まった市民の姿が写っていますが、
わたしたちの席は船を挟んで彼らの反対側にありました。

まず艦首の正面には執行者(この場合呉地方総監)始め、命名者、
テープカットを行うための台がビルの三階くらいの高さに設えられており、
右舷側が別の門から入ってきた一般客、そして左舷側にはテントが並び、
執行台に近い方から音楽隊、自衛隊・防衛省関係者、そして三番目が
わたしたちの見学場所となっていました。

周りにはこれまで防衛団体関係の会合でお会いしたことのある方、
それからやはり防衛団関係でご挨拶させていただいた顔見知りの
元将官の方々などもおられました。

(その中のお一人に、『いやー、どこにでも出没しますねえ』
とからかわれて顔を赤らめたのははここだけの話)

つまり、ぶっちゃけ(ぶっちゃけなくても)我々は賓客です。
要は、賓客が来賓席から身を乗り出して、あまつさえ大きなカメラで
写真を撮りまくるのは式典の格というか見た目にいかがなものか?
ということで敢えて「禁止」となっていたのではないでしょうか。

わたしがこれを確信したのは、周りの人たちが小さなデジカメや携帯で
艦の写真を撮っていても、全く制止されないのを見た時でした。



実は招待客の中に、これまで何度か自衛隊のイベントで見かけた、
いつも馬鹿でかいカメラ持参のアマチュアカメラマンがおられました。
この人はどうしていたのだろうと思っていたら、どうやら彼はなんと、
紅白の台の下に降りて進水式の一部始終を独自に撮影していたようです。

おそらく参加目的が撮影ということで独自に交渉したのでしょう。
この方が撮影を許されていたからには、進水式そのものが
撮影禁止の特定秘密事案でもなんでもなかったってことです。よね?

というわけで、皆がカメラを出して撮り始めた時に、わたしは
スパイがマイクロフィルムにこっそり資料を収めているときも
かくやというくらい緊張しながら、たった一枚写真を撮りました。

それがこれです。 


さて、皆が定位置に着き、周りの人たちと名刺交換などしていると、
顔見知りの元自衛官(偉い人)が話しかけてこられました。

「今日の進水式が見られるのはラッキーですよ」

なぜなら今日は進水台から滑り落とす本来の方法で行われるから、
ということなのですが、進水式ってそんなもんなんじゃないのかしら。
しかしながら地元経済界の重鎮氏によるとそうとも限らないようです。

「今は進水台から落とすのではなく、ドックに注水して浮かべるのとか、
簡単なのになるとくす玉が割れて終わり、というのもありますからね」



ちなみにこの日の進水式について説明しながらまいりましょう。
これは「ふゆづき」ですが、進水は同じ仕組みで行われます。

式典そのものは大変短いものです。
艦を引き渡ししたり、旗を艦長が受け取って全員が艦に乗り込み、
さらには防衛省関係者の訓示があったりその後出航したり、
という作業が全部行われる引き渡し式などと違い、進水式というのは

「艦名が発表される」

「支綱切断する」

「船が進水する」

これだけの式典です。
この三つを続けてやったとしたら正味3分もかかりません。 



呉音楽隊の演奏が場を華やかに盛り上げる中、
人々が日の丸と自衛隊旗を一旒ずつ渡されて席に着きます。
席といっても、時間が短いのでパイプ椅子はほんの少しあるだけで、
皆立ったままの見学となります。
 
式典はまず君が代の奏楽が行われます。
日本の国旗はすでに掲揚されています。
式台の上に立って、海上自衛隊東京音楽隊の歌手である
三宅由佳莉三等海曹がアカペラでの独唱を行いました。

彼女が岡山県出身なので参加していたのか、それとも
先日の神戸、この日の岡山、20日(あ、今日だ)の長崎と、
進水式の君が代独唱のために「君が代特別ツァー」
を行っているのかはわかりませんでした。

ちなみに、三宅三曹の君が代を聴くのは二回目ですが、確か2年前、
空自主催の観閲式のとき歌ったときとは段違いに声量も増え、
声に深みが出ており、さらにはフレーズとフレーズの間の間合いに
絶妙とも言える巧みさが聴いていて感じられました。

東京オリンピックでの彼女の君が代独唱も決してありえないことではない、
とわたしは実は思ったりしたのですが、さてどうなるでしょうか。


続いて、玉野市の市長(たしか)が挨拶し、その後、支綱切断を行う
防衛政務官の宮沢博行氏による挨拶が行われました。

わたしがこの日ご一緒した重鎮氏によると、進水式の支綱切断は、
慣例的に女性が行うことが多く、

出資銀行頭取や関係企業CEOのの姪か令室

などだそうです。
これを聞いたとき、わたしが進水式のテープカットをする可能性は
今生ではまずないものと思い知ったわけですが(泣)

ちなみに重鎮氏は”そういう立場の方”なので、奥方は何本もの「槌持ち」。

「夫婦げんかになった時にはかなり不利な状況です」

「それは凶器的な意味で__?」

「はっはっは」

あー、こんな冗談を言える(言わせる?)立場になってみたかった。



艦番号の「404」の上には紅白の幕で隠されている艦名が。
艦名は宮沢防衛政務官が

「ちよだと命名します」

と言った瞬間にするすると幕が上がりお披露目となります。
(ン?ということは誰か乗ってたってことか・・・)

それまで雑談していた元自衛官に

「艦名ご存知なんですか」

と聞いたところ、あっさりと

「知ってます。ちよだです」

とおっしゃったので、わたしは内心

(またまた〜、”ちよだ”ってもうあるじゃないー。
きっと勘違いしておられるんだわ)

とツッコミを入れていたのですが、元自衛官は間違っておらず、
つまり今回の救難艦は「ちよだ2号」であったことが次の瞬間わかりました。
 



会場に着くと、胸まである防水ゴムを着た造船会社の社員が
4人から6人くらい艦体の横の波打ち際に立っていました。

一連の作業を行うための係です。

挨拶が終わった後、巨大な艦隊を支えているのが「支綱だけ」
という状態にまで持っていくための作業が行われます。

まず、ピンを抜くとその上の砂が下に落ち、盤木が船底から離れます。
艦の重量は全て滑走台にかかっている状態。



滑走台の行き脚を止めるための支柱が
ジャッキを下ろして外されると、いよいよ艦体を止めているのは
トリガーだけ、という状態になります。
トリガーを固定しているのは安全ピンです。

ちなみに滑走台は鑑底にくっついたままボールの上を転がり落ちます。

 

そのトリガーを止めている安全ピン(本当にピンという感じ)を
外すと、艦体を支えているのは今やトリガーを固定している
支綱一本、という状態になります。

準備の段階でここまで行うので、式典の時間の半分がこれに費やされました。

しかるのち、宮沢政務官が合図とともに式台の中央に設けられた
テーブルのようなものを槌で叩きます。

 

すると、紅白のくす玉が割れ、中空からシャンパンの瓶が
艦体に叩きつけられ、失敗なく割れます。
同時に支綱が切断される、といった具合にまるでピタゴラスイッチ状態。 


支綱が切られると、支えていたトリガーが、この図によると、
「青」「赤」「黄色」の順番で下に落ちて外れ、これによって
支えるものがなくなった滑走台ごと艦体は重力に従い、
スロープを海に向かって滑り降りていくというわけ。 


 

実際は紙テープとともに紙吹雪が舞い、大変華やかです。

ところでですね。

写真が撮れないということでこの瞬間を見逃すまいと、
息を詰めてみていたところ、船台から船が滑り落ちる瞬間に
後ろから

「こっちみてくださーい!」

という声が。
そう、進水していくフネをバックにみなさんの記念写真を、
と気を利かせてくださったらしいアテンド係の自衛官が
カメラをまさにこちらに向けているではありませんか。


いや、はっきり言ってわたし、自分の写真なんてどうでもいいんですけど。
写真に撮れないのならせめてその瞬間をこの目で見たいんですけど。

そんな内心の叫びとは裏腹に、おそらくカメラを見ない人がいると
彼もシャッターが押せないであろうと、無理してそちらを向くわたし。
しかし、ああっ、後ろが、後ろが気になるうううう! 

誰かが

「早く見ないと行ってしまいますよ」

といい、次に振り向いた時には、艦首から色とりどりのテープを靡かせ、
「ちよだ」は埠頭から思いがけない速さで遠ざかっていくところでした。



続く(泣) 

進水式の支綱切断〜潜水艦救難艦「ちよだ」進水式

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10月17日に行われた潜水艦救難艦「ちよだ」の進水式。
無事に支綱切断は行われ、巨大な艦体は音を立てて滑って行きました。

「ふゆづき」のときに出席された方が、「ものすごい音だった」
と言っていたのでちょっと身構えていたのですが、実際は
騒音についても考慮されているのか、意外なほど静かなものです。

切断をする台が下から見えたわけではないので、どのような部分を
どうカットするのかわかりませんでしたが、槌が降ろされると
同時にあれよあれよとくす玉が開き、そこからシャンペンの瓶が
自動的に舳先に叩きつけられ割れる仕組みになっているようでした。

たった一枚とった写真を最大活用(笑)

これはシャンパンを破るためだけに考案された仕掛け。
切断とともに紐が切れ、紅白の布で包まれたシャンパンの瓶は
振り子のように振り下ろされて、舳先に付けられた
「シャンパン割り場所」ともいうべき部分に当たります。
人間の手でやるのと違って、まずこれだと失敗することはありえません。

シャンパンが割れた瞬間、艦体に叩きつけられたように見えましたが、
ちゃんと瓶を受ける場所があったのをこれで知りました。
シャンパンの瓶のかけらも布で包んであるので飛び散ることはありません。

昔は進水のときに艦体に叩きつける酒は赤ワインでした。
これは「いけにえの血」を意味していたのだそうです。
いつの間にかめでたい酒であるシャンパンを用いるようになりましたが、
この瓶が割れなければ不吉、とは大昔から言われていたことです。


「ちよだ」の進水を寿ぐ儀式についてのブログでなんですが、
その吉兆を占う儀式に失敗した進水式というのも過去ありました。

シャンパンの瓶を破るのに失敗し、そのせいか不運ばかりが続いた、
というので有名な例はなんといってもロシアの原潜K-19ですね。
映画「K-19 ウィドウメーカー」では進水式でこの失敗をしたのが
女性だったことになっていましたが、実際は男性が行ったそうです。

K-19が不運だったのは、本来女性がやることになっている洗礼を
このときに限って男性が行ったからではないか、と後々まで言われたそうです。

あの映画では原子力事故だけしか描かれませんでしたが、
実際のK-19が「ウィドウメーカー」(後家作り)と言われたのは、
原子力事故(1961年)の後、米潜との衝突事故(69’)、さらには
火災事故(72’)と次々と大事故を起こしたからでした。

最後は91年にもう一度原子炉のトラブルを起こし退役していますが、
よくまあこんな潜水艦を30年も使い続けたものです。

結局「原子炉事故では8名が被曝して1週間以内に全員死亡、
火災事故では28人も亡くなった」というのに・・・。



最近ではミシェル・オバマが潜水艦「イリノイ」の進水のときに
艦体にボトルを叩きつけても割れず、やっと3度目に
自分自身がびしょびしょになって破ることができた、
というアクシデントが起こったばかりです。

First lady Michelle Obama christens Navy submarine
named after her home state of Illinois


「イリノイ」に今後何か起こったら「あの失敗のせいだ」
なんて言われてしまいますから、ぜひ無事故でいって欲しいものですね。


さて、今回の支綱切断からシャンパンが割れるまでの見事な
「ピタゴラ装置」を見る限り、日本の進水式では
あまり失敗というか事故は起こらなさそうなのですが、
この日同行した方は、進水式の失敗を目撃したことがあるそうです。

石原慎太郎が都知事であった時代、小笠原への交通手段として
高速客船「テクノスーパーライナー」が就航することになりました。
進水式ではその船には石原夫人が

「スーパーライナーオガサワラ」

と自ら名付け、テープカットも彼女が行ったということです。
おそらく、石原夫人は「こういうこと」をやってみたかったんでしょうね。

本来銀行や企業(つまり船会社のスポンサー)の妻か娘か姪が
行うことになっている進水式の命名&支綱切断。

夫がその決定者である都知事なら、自分にはこれをする権利がある!
とばかりに夫の職権を濫用したという批判もあったようです。
(週刊ゲンダイとかゲンダイとかゲンダイとかで)

まあわたしも自分がそういう立場になったとしたら、嬉々として
やらかさずにすむ自信はまったくありませんから、ここで
石原夫人を非難するつもりはありませんが、問題は本番です。



ここからはどこを探してもそういう記事が出てこないので、
現場でで見ていた方の目撃談となるのですが、とにかく、
このときのテープカット、1度目は失敗してしまいました。
とたんに、

「造船会社の社長が顔色を変えてすっ飛んできました」

オバマ夫人の失敗は周りのみんながニコニコと見守っており、
三回目の成功したことで終わりよければ全てよし、という感じですが、
縁起を担ぐ日本の企業としては顔色を変えてしまったわけですね。

「そのせいかどうかわかりませんがね。
この客船、結局就航しないまま船はドックに繋留してあるそうです」

「それはどこの・・・」

「玉野ですよ」

え、ということはその進水式が行われたのはここだったのね。

実際は、この運用にあたり10億〜20億の赤字が見込まれることになり、
しかも都はその援助を行わないことになったので、
船会社としてはとてもそんな事業に手を出せないまま計画は頓挫。

鳴り物入りで進水させた船も、ドックで無聊をかこつだけの存在になりました。

ところがそんなある日、東日本大震災が起こります。
彼女はこのとき進水以来初めての実質稼働となる航海を行い、そればかりか
宮城県石巻市の石巻港に停泊し、被災者に無料で1回当たり最大181人、
延べ2,400人程度を受け入れ、1泊2日でバイキング形式の夕食、
およびシャワーなどを提供する支援活動を行って人々の役に立ったのでした。


わたしにこの話をしてくれた方は「まだ玉野にいる」
とおっしゃっていましたが、調べたところ彼女はその後
江田島の解体業者に身柄を引き取られて現在内部から解体中だそうです。

まあ、とにかく一度は役目を果たし、有終の美を飾れてよかったですね。
建造費115億円がほとんど還元されなかったのは勿体無かったですが。



玉野では皇太子殿下のご臨席を賜り、進水式を行ったこともあります。
うーん、雅子妃殿下の姿がお見えにならないようですが(棒) 



このとき進水した船は「大成丸」といい、 東京海洋大学海洋工学部
(旧東京商船大学)、神戸大学海事科学部(旧神戸商船大学)、海技大学校、
商船高等専門学校及び海員学校の学生・生徒の航海実習訓練を目的として
建造された練習船です。




さて、あっという間に終わってしまった進水式。
沖を見ると、滑り出した艦体は、タグボートが二隻寄り添って向きを変え、
艤装のためのドックに運んでいくところでした。
(こういうシーンを撮りたかったんですけどね)

あとはここまで乗ってきたバスに乗って元来たところに。
控え室となった建物に隣接したこちらが祝賀会場となります。



ところで控え室の建物は昭和初期にできただけあって、
当時から内装を変えただけで使い続けている大変風格のあるものです。
階段の向こうをふと覗いてみると、そこはまるで昔の学校の
宿直室のようなコンロのある台所があったりしました。



入ってすぐのところに飾ってあったディーゼル機関の模型。
海上自衛隊の駆潜艇のエンジンとして採用され、昭和31年に
初号機が完成した

Mitsui B&W 635VBU-45 ディーゼルエンジン

です。
「かもめ」「つばめ」「みさご」などのかもめ型駆潜艇、
「うみたか」「おおたか」「わかたか」「くまたか」
などのうみたか型駆潜艇などに搭載されました。

この二階には前回来た時に写真を撮って皆さんにお見せした
三井造船の資料室もあります。
待ち時間に少し開けてくださったのですが、わたしは
靴を脱がなければいけないと知って(紐靴だったため)
脱いだり履いたりが面倒なのでパスしました。 



というわけで、次回は祝賀会の様子などについてお話しします。
さすがは造船会社の祝賀会、しかも海上自衛隊が執行者となっての進水式。
出されたお料理はどれも大変美味しかったですよ。


続く。

祝賀会と鳥人幸吉の話〜潜水艦救難艦「ちはや」進水式

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三井造船において行われた潜水艦救難艦「ちよだ」進水式。
一番大事なことを書くのを忘れていましたが、進水の瞬間、
呉音楽隊が演奏したのは行進曲「軍艦」でした。

そしてその瞬間、沖合には花火も上がったことを書いておかねばなりません。

当たり前といえば当たり前ですが、世の中にこれ以上の曲があろうか、
というくらい、「軍艦」は、色取り取りのテープを靡かせ紙吹雪を撒きながら
「鋼のその城」が滑り出していく瞬間に相応しいと思いました。

ところで、海保や民間船の場合はどんな音楽が進水式に使われるのでしょうか。

いくつかの動画を当たってみたところ、 「錨を上げて」がポピュラーですが、
特に何にするかについてはっきりと決まっているわけではないようです。
北日本造船の「ジェニューイン・ビーナス」はなぜか「軍艦」でした(´・ω・`)


さて、進水式が終わり、華やいだ気分のまま、参列者はそれぞれ
バスに乗って、式典の後の祝賀会会場へと向かいました。
迎賓館となっているこの建物は、入ってすぐに映画館のようなクロークがあり、
皆そこで荷物を預けてパーティに参加します。



自衛隊関係者が集まるので壁際には「帽子置き」と書かれたテーブルが。

いつ見てもこの正帽は、色も形も千差万別だと思います。
右のほうに陸自の地元駐屯地の司令の帽子がありますが、
ならんでいる二つの帽子にはあまり違いがないように見えます。
その後ろには空自の帽子がひとつだけ。
これは他と比べようがないのでなんとも言えませんが、
これほど個体差があるのは海自だけではないかという気がしました。

刺繍の金色の色調とか、錨の部分の刺繍の濃さ、縁飾りの密度、
どれひとつとして同じように見えるものがありません。

手作りならではですが、なぜ海自だけがこうなのかはナゾです。



この迎賓館は内部が大きく二つに分かれており、左の部屋には
招待客の中でも議員とか三井造船の経営陣などの席です。

前回わたしは畏れ多くも偉い人にくっついてここに紛れ込み、
若宮けんじ氏の挨拶を真横で聞いていたりしたわけですが、
今回は知り合いの偉い人は式典に参加せず、ついでにTOも
その人と一緒に別の会合に行ってしまったので、会場では
一人で話す相手もなく、こちらでおとなしくしておりました。

皆が揃ったころ、奥から本日の命名者、防衛政務次官の宮沢氏が、
海幕長と一緒に入場してきたので、皆拍手でお出迎えです。

この方の風貌と「宮沢」という名前から、宮沢喜一氏の関係者かと思ったのですが、
全く関係ありませんでした。

宮沢博行

レストランの厨房、貿易会社の営業、塾講師、工場の派遣社員等、
多様な職種を経験した

とありますが、わたしそういえば、東大を出て某放送局に入るもやめて、
パチンコ屋の店員になって、床にこびりついたガムを剥がしていた、 
という人を一人知っていましてね(笑)

その人はその後弁護士になり政界に進出し、今は某市の市長さんです。



そんなことはどうでもよろしい。
やはり皆さんには、この日のお料理をお見せせねば。
進水式の写真を撮れなかった分、張り切ってテーブルのご馳走を撮ってきました。

まず、前にもご紹介した国旗と海上自衛隊旗がクロスした
テーブルの上専用の飾り。
これは、戦前からここにあって、海軍の艦艇が進水や引き渡しされたとき、
同じ旗が立てられて卓を飾ったのと同じものはないかとわたしは思っています。

ビールはサッポロ。
お酒を飲まないから知りませんが、アサヒでもキリンでもないというのは
やはり大人の事情でそういうことに決まっているんでしょうか。




向こうのローストビーフは大変結構なお味でした。
手前の帆立貝のグラタンも一つ頂いてみましたが、
こちらは暖かかったらもっとおいしかっただろうなと思いました。



前回は気が付きませんでしたが、灯籠を設えた庭があって、
タバコを吸いながら談笑したい人たちが外に出ていました。
館内は控え室も含めすべて完全禁煙です。



屋台のうどんが出ています。
これも本館を出た外の屋根の下にありました。
雨が降っても一応営業できる場所です。



揚げたてのてんぷらが食べられるコーナーも。
うどんを頼んで、ここでてんぷらを乗せてもらい、「てんぷらうどん」
にしている人がいて、おお!と感心したのですが、わたしは食べませんでした。

実は胃の調子があまり良くなく、今週に胃カメラを予定しているのです。
夏みかんを大量にいただいたので毎日一つ食べていたら、
ある日胃が痛くなってしまい、それ以来時々それがぶり返しておりまして。
みかんの酸って胃壁に悪いんですってね。



伊勢海老の爪の部分がありましたが食べている人はいませんでした。
わたしも基本甲殻類は苦手なのでこれもスルーです。



そのとき、上座で宮沢政務官のスピーチが始まりました。
その中で、面白いお話があったので少し書いておきます。



船には全く関係ないのですが、ここが岡山ということで宮沢氏は
この話題を披露することを思いついたのでしょう。


ライト兄弟が1902年に人類による動力飛行を行うより前、
あらゆる方法で人々は空を飛ぼうとした、という話については
このブログでも何度か扱った記憶がありますが、その一人が
なんと、ここ岡山出身の日本人であったというはなしです。

サンマテオのヒラー航空博物館には、この絵のような飛行機が
実物や復刻版を含めて多数展示されており、それによって
命を失った人少なくなかった、という内容でここでも書いたことがありますが、
この飛行機はまさにこれはヒラーに展示してあったのと同工異曲のもの。
しかもこの飛行機の原型、ヒラーにあったどの飛行機よりも
昔に発明され、実際に空を飛んでいるのです。

ある一人の愛すべき「丘の上の愚か者」"Fool On The Hill"の手によって。

彼の名は鳥人幸吉。
本名を浮田幸吉といい、1757年、ここ備前に生まれました。

幼い頃から空を飛ぶ鳥に興味を持っていた幸吉は、
鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究し、

「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。
それを人間の体に相当する翼を作れば
人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」

と結論付け、奉公先の表具店の道具を使って翼を作りました。
絵を見ると、障子のような翼ですが、彼が飛ぶために奉公先を
ここに決めたのか、それともただの偶然かはわかりません。 

1785年夏、幸吉28歳。ついに川にかかる橋の欄干から初飛行します。
風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したともwikiにはありますが、
地元に伝わる伝説はこれと少し違っていて、

「ちょうど宴会をしているところに空から降りてきて、
皆が逃げたあと宴会の料理を飲み食いして顰蹙を買った」

どうもこちらは眉唾っぽいですが、ちゃんと飛べたということみたいです。

気の毒なのはこの後で、幸吉はこの後藩士(武士)によって取り押さえられ、
世間を騒がせた罪で「所払い」(ところばらい)の処分になってしまいます。
つまり県外追放ですね。 

「そのあと幸吉は、わたしの出身地である駿河の国、静岡に行きまして」

さすが政治家、すかさず自分の選挙区をアピール。



八浜というのはここ玉野にあり、いまではこのように

「鳥人幸吉の里」

として観光資源にもなっているようです。
鳥人間コンテストも本来ここで始めるべきだったのかも・・。

幸吉の最後はよくわかっていません。
ここでも空を飛んで死罪になった、という噂もあるようですが、
亡くなったのが90歳らしいので、その可能性は薄いでしょう。




さて、こういう昼の宴会は概してダラダラ行わないもので、
小一時間後にはおひらきになり、皆はバスに乗り込みました。

黒塗りの車も連れ合いもいなくなってしまい、このあといったいどうやって
岡山空港まで行こうと途方に暮れていましたが、なんと、
出席者のためにバスが岡山駅と空港にも行ってくれるとのことです。



バスは約1時間で岡山駅前に到着しました。
ここでわたし以外の客が全員降りてしまい、慌てました。
たった一人残っていた三井造船の社員さんらしき方に、

「皆降りてしまいましたが、わたしも降りた方がいいのでしょうか」

と聞いたところ、

「大丈夫ですよ。私も空港ですから」

たった二人を乗せた大きなバスは空港に向かいました。



岡山空港には台湾や中国、韓国からの乗り入れをしているので、
そのせいで市内にはアジア系、とくに中国人のの観光客が多いと感じました。
昔なら外国人客などまず見ることもなかったであろう児島のホテルすら
インド人や中国人、白人系の外国人客がいたので少し驚いたものです。



「いせ」に乗った時に、着岸に思ったより時間がかかり、飛行機に遅れそうになって
呉から空港までタクシーに乗ったことがあったので、
今回は余裕を見て最終便を押さえておきましたが、さすがに空港に着いたのは2時。
4時の飛行機に繰り上げてかえることにしました。
ついでにプレミアムクラスが空いていたのでこちらも繰り上げ。



小さなサンドイッチにサラダといった軽食と焼き菓子は持って帰れます。



夕焼けが照らす雲の下に瀬戸内海の島が見えています。

おまけ:



この日自衛隊の方からいただいた記念品を自慢してしまいます。
メダルとともにうちの家宝決定。


初めての進水式は、色々な意味で大きな収穫を得ることとなり、
まさに至福の体験と成りました。



 

パウダー・ハンドリング・ルーム〜戦艦「マサチューセッツ」

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シックベイ、つまり医療施設の集まっている区画があるからには
ここも結構艦の下の方だと思ったのですが、このあと、
またしても下に続く階段がありました。





 
ここで艦内断面図を見てみましょう。
撮った写真をすべて遡ってみると、兵員食堂やゲダンクはセカンドデッキ、
つまり甲板の下の階にあり、同じ階にシックベイもあったということになります。
シックベイはいざという時にけが人の救護所となるので、
あまり下の階にないのが普通なのかもしれません。

さらに、「バーベット」という砲塔の外側のカーブが2つありました。
このことから、シックベイは艦橋から艦首よりの甲板下にあったということになります。

というわけで、これからサードデッキに降りていくということになります。



階段をの途中から見えるドアの上部のプレートには

「16インチ 火薬庫と火薬取り扱い室」



火薬室やその取り扱い室まで見学客に公開するという
展示を行っていたのは、後にも先にもここだけでした。
そういう意味では皆様にも貴重な報告ができる、
この通路を歩いていきながら思わず期待で胸がドキドキしました。



そのまえに、ここは「TBXエキップメント・ルーム」。
equipment=機材とこの場合訳したらいいでしょうか。

TBXというのはこのころ使われていたトランシーバーで、
このコンパートメントで管理されていました。

TBX6

小さなポータブル式でバッテリーとアンテナが内蔵しており、
上陸時に携行していくためにここにストックされていました。

この部屋ではまた、無線機器各種の修理も行われました。



まえにもお見せしたと思いますが、このレールで火薬を移動させます。
この写真の右側にある壁はわずかに弧を描いていますが、ここが
主砲の機構を取り囲む「バーベット」と呼ばれる部分です。

バーベットの定義は「ターレットの機能を取り囲むシリンダー」で、
非常に堅牢に作られており、敵の攻撃からも中が守られるようになっていました。

このレールは電動式ではなく、単にコロの上に弾丸を乗せ、
押して滑らせて移動させたようです。



火薬タンクだったキャニスター。
中に火薬が残っていないことを示すために
缶の蓋には「エンプティ」と印が付けられているものもあります。



コロのあるレールの右側に真四角のハッチがありますが、これを
下に向かって覗き込んでみました。

かつてはここは火薬専門のリフトのハッチであったようです。



火薬タンクとラック。



この通路の壁もバーベットになります。
向こうには弾薬が並べられていました。



ここで下の階に降りていきます。
さっきハッチから覗き見た下の部分につながっています。
長年砲員たちが駆け上り駆け下りた階段は角がすり減ってしまっています。



灯油缶のようなキャニスターのラックとなっている通路。

 

ふと上部を見上げれば、ここにモノレールの終点がありました。 



よく見るとレールは扉のあるところを通っているのですが、
いざといときにどうやって戸を閉めるつもりだったのでしょうか。



おお、こここそ「バーベット」の内部!
つまり砲塔の一番根っこの部分に来たというわけです。
右側が外郭、そして左が内郭で二重構造になっています。
ここを「パウダー・ハンドリングルーム」(火薬取り扱い室)といいます。



赤い印の入り口から見た様子が、二つ上の写真です。

パウダーバッグと言われる16インチ砲の弾薬は、「スカットル」と言われる
ドアを通じてこの部分に運び込まれたのち、ここからホイスト(巻上機)で
上部の砲塔に運ばれます。

上の写真で言いますと、右側のゴミ捨て場みたいなところで受け取って、
左側の別のスカットルに移すわけですね。
図でいうと、輪を貫く6つの長方形がありますが、それが
受け取りスカットルとホイストに載せるスカットルです。


安全性のために必ず一つのホイストには一人が就き、持ち上がった先にも
一人が専属で降ろす作業を行います。 

安全性といえば、火薬と弾丸は砲に装填されるその瞬間まで
決して一緒に扱われることはありませんでした。

もし火薬がハンドリングルームにこぼれ落ちるようなことがあった場合や、
火薬の悪化がわかった場合には、それらはすぐさま廃棄処分となり、
水の入ったタンクに入れられました。


 

説明がありませんでしたが、消火器のような形です。



これがパウダー・ハンドリングルームの内側。
上の図でいうところの二重丸の一番内側になります。
ここには立ち入ることはできず、外側からガラス越しに写真を撮りました。

一番向こうにスカットルが見えています。
床は黄色い線が引かれていて、その内側の床はもしかしたら
シリンダーの回転に伴い動くのではないか?と思われました。
(違っていたらすみません)




そこでスカットルなるものがどれかなんですが、



これ。
説明によると「扉が素早く開き、素早く閉まる」ということですが、
どこに扉があるのかよくわかりませんでした。
パウダーバッグは、外部のスカットルから運び込まれ、、プラットフォーム上を
転がされてハンドリングルームに到達します。
ホイストには人の手で乗せられます。

スカットル内部はパウダーバッグにぴったりフィットする大きさで、
カミソリの刃のような薄い、防火扉(写真に見えているもの)で
覆われたのち、稼動して上部に運ばれていきました。


スカットルは「フラッシュ・プルーフ」、即ち金属を扱うときに起こる
火花を防ぐ仕様となっていました。





この写真には、バーベットの二重になっている壁のそれぞれの扉が写っています。
なぜわざわざ二重にするのか?というと、一にも二にも安全性。
「バーベット」はこのようにして、主砲を保護する役目を持っているのです。




そのとき、わたしは細くて狭い階段があり、
ここを登って上に行くことができるのに気がつきました。

つまり、バーベットの内部を登っていく階段です。

上にはいったい、何が・・・・・?!


続く。

平成28年度自衛隊記念日 観閲式 概要

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観艦式が行われたのが一年前というのが信じられないくらいです(笑)
あっという間にやってきた自衛隊記念日の観閲式に行ってまいりました。

今日はともかく式典の最初から最後までを
さっくりとご紹介するために写真だけを貼っていきます。
当日3時に起きて4時に家を出、帰りは2倍の時間をかけて
やっと家にたどり着いたたため、写真を貼るのが精一杯。

詳細については明日からまた改めてお話ししていきたいと思います。



観閲感が臨場するまでに準備として観閲行進部隊が入場します。
一番最初は防衛大学校学生隊。
第一大隊の隊長は女子学生でした。



防衛医科大学校学生隊。
女子学生が先頭を歩く率が大変高い気がします。



グレーに赤のトリミングの制服、普通工科学校学生隊。
とてもそうは見えませんが皆高校生です。



赤いマフラーは普通科部隊。歩兵です。



大きな旭日旗を先頭に立てた、海上自衛隊部隊。

座った位置の関係で、これ以降の入場部隊は写真が遠くなってしまったので割愛。



最後に陸海空合同音楽隊が演奏位置につきます。
防衛大学校の横に行進していく先頭には三音楽隊の隊長。
一番向こうは先日東京音楽隊隊長になったばかり、
樋口好雄二等海佐。 



観閲部隊指揮官、第1師団長の西浩徳陸将。
立てられている旗は師団のものではなく団長旗のようです。



陸海空自衛官によって正面に運ばれる国旗。



自衛隊の式典は、必ず執行者を伴います。
本日観閲式の執行者(conductor)となるのは東部方面総監、
森山尚直陸将。



旗に向かって敬礼する普通科部隊。



内閣総理大臣旗(紫)防衛大臣旗(海老茶)防衛副大臣旗(旗)
と陸海空団長旗が登場。
この警備の物凄さをご覧ください。




儀仗隊である第302保安警務中隊。
ちなみにここまでが観閲式の準備段階です。



プログラムの1番、つまりここからが観閲式。
観閲官臨場で車から降りた安倍総理大臣。
後ろにいる白いスーツ青ベルト&ストームヒールは稲田防衛大臣。
安倍総理のシルクハット&モーニングに格を合わせたようです。



儀仗隊の栄誉礼を受ける観閲官。
この後開式の辞によって正式な観閲式の開始となります。



その後、オープンカーの上に立ち、まずは順閲。
安倍総理は観客席の前を通り過ぎるとき、ずっと観客を見つめたままでした。



車は方向転換して、ここからが順閲です。



順閲のとき、部隊は顎を上げて車列を見守ります。
高等工科学校の生徒たちが持っているクラッチバッグの中には何が?



プログラムにはありませんでしたが、祝賀降下が行われました。
フリーフォールによる落下傘降下です。



こちらも祝賀飛行として飛来した空自の新型輸送機C-2。
向こうはC-1・・・でしょうね。



さて、これからは徒歩部隊の観閲行進が始まります。
まずは一番端にいた音楽隊が行進を始めます。



第1師団長は観閲部隊指揮官というだけあって「シキツウ」での受閲。



今回少し残念だったのは、敬礼の瞬間が後ろからしか撮れなかったこと。



先ほどの順番で観閲行進が行われます。
防衛大学校学生隊。



防衛医科大学校学生隊。



看護部門は医科大学校に統合されたようです。



高等工科学校生徒隊。



普通科部隊。



空挺部隊の団長は兒玉恭幸陸将補。



白いマフラーにグレーの鉄帽の空挺部隊。



音楽が「陸軍分列行進曲」から「軍艦」に変わり、
海上自衛隊部隊。



航空自衛隊部隊。



陸海空の女性部隊が続きます。
陸自主催なので、陸上自衛隊の指揮官が先頭に立ちます。



海上自衛隊女性自衛官部隊。



女性部隊を写真に撮ろうと待ち構えるメディア(笑)



続いては観閲飛行です。(展示飛行ではありません)
受閲されるので、編隊を組んで次々と現れました。



CH-47がこういう編隊で飛ぶのは珍しい気がします。



続いてP-3Cオライオンが2機。
鹿屋から来たそうです。



観閲式でしかお目にかかることのないU-36A 。
なぜこんな目立つ色をしているかというと、これは
艦艇部隊の対空訓練支援専用機だからです。



続いて車両の観閲行進が始まりました。
まず最初に国際派遣部隊。
南スーダンに派遣されていた部隊(と言っていたような気がします)。



偵察部隊のオート(バイク)隊。



普通科部隊。
全員が顔を出して観閲行進を行います。



89式装甲戦闘車は普通科のトレードマーク?



トラックの後ろに乗ったまま行進する歩兵。



即応予備自衛官と予備自衛官部隊が続きます。
こちらの指揮官も82式指揮通信車での行進です。




施設科部隊の重機類も行進。
この後ろに牽引されているものをよく覚えておいてください。



予備自衛官を乗せた車両。



こちらも施設科部隊。
92式地雷原処理車も施設科の装備です。



無線搬送装置第1号で行進する通信科部隊。



大きな赤十字はもちろん衛生科部隊。



情報科部隊。
いわゆるインテリジェンス部隊ですね。
ドローンによる航空写真もこの部隊の任務です。



西部方面普通科連隊。
水陸機動団なのでトレードマークの戦闘強襲偵察用舟艇。



空自ペトリオット部隊は今回総理大臣に表彰されました。
対北朝鮮のミサイルにおける任務の遂行に対してだそうです。



高射特科部隊の最初にやって来たのは87式自走高射砲。



155mm榴弾砲も、総火演ですっかりおなじみです(わたし的に)。



オレンジの旗は野戦特科部隊。



99式自走155mm榴弾砲。



最後に観閲行進するのは戦車部隊。
まず最初に10式戦車が軽やかに登場。



そして90式先輩。



90式の上で敬礼する車員。
戦車はこれで終わりです。

・・・・え?これで終わり?

と思う人と何も思わない人がこの世には二種類存在しますが、
わたしはもちろん思った人でした。



アメリカ陸軍から特別参加の祝賀部隊、
米陸軍ストライカー旅団。



実は単なる?歩兵装輪装甲車ですが名前がいいじゃないですかー。
ストライカー装甲車。ストライカー旅団。実に強そうです。



こちらも出血大サービスの祝賀飛行。
米軍のヘリは物々しい武器を装備しての飛行です。



そしてこの不可思議な機影は・・・・!



なんと、ブルーインパルスの演技までが行われました。
前々回は問題外としても、前回より内容が格段濃い観閲式でした。



閉式に際して儀仗隊の栄誉礼を受ける安倍首相と稲田大臣。



観閲官が退場してからは工科学校の儀仗隊によるファンシードリル演技が。



今度はベレー帽で見事な演技を披露しました。



そしてこちらも恒例、自衛太鼓の迫力ある演武。



本日の観閲式は、わたし個人に取っても過去最高のものとなりました。
最後の陸自東部方面合同音楽隊演奏で、一度は生で聴いてみたいと思っていた
「あの曲」がついに聴けたのです。



ヒント:120mm迫撃砲 


さて、それでは明日からしばらく見学記にお付き合いください。


 

防衛相のストームヒールパンプス〜平成28年度自衛隊記念日 観閲式

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さて、それでは当日の朝から振り返ってみます。

今回のチケットは某所からやってきた二枚。
別口で手に入れたチケットを持っていた人の主導で
午前5時半に最寄駅集合、それから歩いて現地着、
開門を待つというスケジュールとなりました。

わたし一人で行っていたらまずこんなこと、自分でそう決めていても
時間通りに実行できるとは思えません。
前回のイベント総火演でも牽引車となって無茶な計画を立ててくれた
この主催者にわたしは心から感謝しております(笑)

わたしのチケットは、この主催者を通じてある方に渡ったのですが、
世間は狭いというのか、彼女の夫は元自衛官でわたしの知っている
自衛官の同期であるだけでなく、他にも共通の知り合いがいました。

この日わたしは早く入って彼女のために隣の席を取っておいたのですが、
こういう二人なので観覧中も話が尽きず、わたしは主に

「自衛官と結婚したらこんなことがある」

というテーマで興味深い話をたくさん聞かせていただけました。



入場する門は二箇所。
どの席に座りたいかでどちらからはいるかが決まるのですが、
今回わたしは中央に向かって左側のシートの上段に座りました。
驚いたのは、開門前(6時くらいだったかも)だというのに
すでに100人くらいの人が並んで待っていたことです。

しかも手荷物検査を終えたら皆走る走る。
グループで、単独で、子供の手を引いて・・・。

実際に入場行進が始まるのは9時半ということでしたが、
8時までにこないと席がなくなると言われており、
わたしの座ったスタンドは7時には下2列を残して埋まっていました。 

その頃やってきた一人のおじさん、上まで上がってきて
空いている席がないかを鋭い視線で物色し、隣の
大臣招待の白いシートが敷いてある部分(誰もいない)に行って

「ここは座れないの」

とわざわざ自衛官に聞いて回っていましたが、
座れないから誰も座っていないんだとなぜ気づかない(笑)



観閲代の向う正面にも赤、黄色の席がありましたが、こちらは
一定の時間が経過するとこちらに来る通路を閉鎖するので、
それ以降に入場した人を詰め込む?ための一角となっていました。
こちら側のいい席は報道関係者専用になっていたようです。



入って少し経つと、会場の準備らしきことが始まります。
前の方は防衛省とか武官など、バスで入場する人たちの席ですが、
名簿と席の名札を照らし合わせて確認しているようです。 



陸自主催なのでOD軍団が主ですが、とりあえず陸海空全ての制服が勢ぞろい。



観閲台正面の席も埋まり始めました。
ちなみにこちらを向いて立っている警衛の隊員たちは、開門直後から
ずっとこんな感じで身動きせず、首も動かさずに立っていました。



観閲官が立つ台を点検しているようです。
床とかパイプイスの裏側などにも不審物がないかチェック。

向うとの往来が止められる前に装備を見学に行く人もいましたが、
わたしは買ってきた朝ごはんを食べたりして過ごしました。



そして、陸自音楽隊員のスネアドラムに合わせて、
9時半に徒歩部隊の入場が始まります。 



この入場の時に、隣の自衛官妻、Hさんに

「この間連休のときみなとみらいのホテルに泊まったのですが、
防大の学生さんが彼女のカートを引いて歩いているのを見ました」

というと、

「それは1年生ですね」

なんでも防大では1年生の間はどこにいくのも(もちろんデートも)
制服を着て外出すべし、と決まっているそうです。
なぜ1年生だけなのかわかりませんが、目立つ制服では自ずと
行く場所もすることも限られてしまいます。
防大の制服の彼素敵!ということで好きになった場合は
彼女の方もなかなかおつなデートなのかもしれませんが。

ちなみにHさんはたまたま知り合ったのが防大生だったということで、

「防大って、灯台守の養成所?」

という認識だったそうです。
わからないでもないがその間違いはおかしい。 



防衛大学校の学生隊は、4つの大隊に分かれて行進します。
これは日頃の学生生活がこの大隊単位で行われるからで、
防大を見学したときに知ったところによると、生活する校舎も
大隊ごとに分かれているのです。

これは第1大隊が静止したところですが、指揮官?は女子学生。
やっぱり優秀な学生が選ばれるのでしょうか。



こちらは第4大隊の隊列ですが、こちらの指揮官も女性でした。
女子が髪を伸ばすことは禁じられていないようですが(そりゃそうだ)
こういうときには帽子の中に髪を入れてしまうようです。 
さすが指揮刀を構える姿勢がビシッと決まっています。



防衛医科大学校の旗は緑色。
意匠が桜を中心に陸海空を表すものとなっています。
防衛医大の行進の先頭が女子学生である率が高いのですが、
女子が初めて入校したのは1985(昭和60)年のことです。 
防衛医大自体、開校は昭和48年と決して古くはありません。



確か前回、3年前の行進では防衛医大と看護学校は別でした。
今年看護学校は廃止になり、防衛医大に看護学科が開設されたので、
そうなってから初めての行進ということになります。 

つまり先頭の女子学生は看護学科の指揮官かもしれません。



続いて高等工科学校の入場。

開門前に道路脇に列を作って待っていたとき、
前にいた女性の息子は工科学校の生徒でした。
なぜそれがわかったかというと、彼女がその前に並んでいた男性に
有無を言わさない関西弁トークで話しかけ、

「うちの子、列の何番めのここにいるから見たってー」

とスマホの写真を見せたりしていたからです(笑)
そんなん知らんがな、ともいわず、会話に付き合ってあげていた
若い男性の優しさにわたしは猛烈に感動していました(T_T)

そんな「おかん」も息子娘の晴れ姿を楽しみに全国からやってくる、
それが陸自の観閲式なのだと改めて思いました。
観艦式では自分の関係者のフネに乗れる確率は低いですし、
空自も息子の「晴れ姿」を見ることができる家族はほんの一握りです。 

 

防衛大学校、高等工科学校、そして普通科部隊が同時に写っている構図。
ちなみに陸自の迷彩服ですが、採用されたのは昭和48年です。

それまではレンジャー部隊ですらただのOD色の戦闘服を着ていました。



ここで立てられている旗は陸上自衛隊の自衛隊旗です。
四方に金色?のトリミングがされているのが戦前と違うところ。
左のほうの旗は普通科の赤をあしらった大隊旗です。



ちょうどそのとき、来賓の中に存じ上げている陸自関係の、
しかも普通科出身の方発見!

 

普通科の赤もいいですが、空挺部隊の白もいいですね。



空挺部隊の旗は浅葱色の横線が「空」を想像させます。
全員の敬礼の瞬間、旗も敬礼を行います。
大隊旗の敬礼は地面に平行に竿を出し、
大きな自衛隊旗の敬礼は斜めに捧げ持ちます。 



敬礼をされているのは観閲部隊指揮官たる第1師団長。
されている側なので師団長旗はまっすぐ立ててあります。

 

指揮刀での敬礼は捧げ刀というようです。
これは旧軍の昔から正式なものとして変わることはありません。

このポーズ、結構刀を固定させておくのが難しそうです。



防衛大学校学生のメガネ着用率高し。



見よこの整然とした隊列の醸し出す統制美。
旗を持っている人はどんな状態になっても、頭を振ったり
首を傾げたりして位置を直すことはできません(笑)



抜刀したままの「休め」の姿勢がこれ?



そのとき整然とした隊列に異変が起きました。
防衛医大の列の中から三人が同時に抜け出し、後ろに向かって歩いていきます。



一応足並みをそろえて行進をしていましたが、これは一体・・・?

わたしの周りにはどうも息子娘が自衛官という人が多かったような気がしますが、
その人たちの中から、

「今の子は体力ないわねえ」

「前のあのときも途中で退場した子が何人か」

みたいな会話が聞こえてきました。
ということは、この三人は貧血でも起こしたって言うのでしょうか。
防大時代に観閲式の徒歩部隊に参加した方が、

「最初の方に位置についてずっとそのまま立っていることになるので、
鼻が痒くなっても掻けなくて大変辛かった」

ということを言っておられましたが、鼻の痒さどころか
立っていることもできなくなったということなんでしょうか。

それにしても同時に3人揃って行進していくのはどうにも解せません。

部隊の隊員でも防大生でもなく、彼らが防衛医大生であるというあたりで
「貧血説」も納得出来る気がしないでもないですが・・。

ちなみに少し後にもう一人しゃがみ込んでしまった人がいましたが、
それも防衛医大の生徒でした。
我々が思っているよりずっと、このような状態で直立し続けるのには
体力が要るということなんじゃないかと思われます。



次に執行者の森山陸将(東部方面総監)に敬礼。
海自の旗は超特大なので旗手は捧げ持つのも大変です。



頭左。
正面から右下に抜刀した刀をおろすのが「刀の敬礼」。



高等工科学校の先頭に立つ生徒は銃のホルダーを着用しているようですが、
もしかしたら着剣用かもしれません。



この頃には正面のスタンド席は全部埋まっていました。
実はこの右側に向かってずっと観客席が続いていて、
「緑」のチケットの席は芝生のスロープだったりします。
おそらく観閲台など全く見えないのではないかと思われますが、
それだけこの式典を見に来る人はたくさんいるということです。



全員同時に敬礼などの動きを統制するために、スタンドより高いお立ち台に立つ
この旗持ちインカム着用の係が旗を振って合図しているらしいことがわかりました。

こういう台は幾つかの場所に設置してあり、彼らはインカムの指令によって
旗を上げたり下げたりして合図を送ります。



奥から総理大臣旗、防衛大臣旗、防衛副大臣旗、
陸海空の各幕僚長旗となります。



そこに執行官をお迎えするための保安警務中隊がラッパの音色とともに登場。
後ろの儀仗隊は男性隊員だけですが、ラッパ隊には女性もいるように見えます。
第302保安警務中隊儀仗隊とは頭一つ背の高さが違いますね。



警務中隊の特別儀仗隊には「容姿端麗」という条件がある、
という噂もありますが、重視されるのは身長体重で、
全体的に見たときにそこだけ違和感を感じさせる、というような
風貌でさえなければ十分ではないかと思われます。 

しかしまあこの写真だけを見てもイケメン率は高そうですね・・。



安倍首相は黒塗りの車で入場しましたが、黒塗りの車は何台も並走していて
どれに乗っているのか車が止まるまで全くわかりませんでした。
結局他の黒塗りに囲まれているようにして走っていた車がそうでした。

おそらくこれらは全てゴルゴ対策だと思われます。



安倍さん、なんか言ってますね。

わたしは稲田防衛相の腰の水色のリボンが
スーツに付けられたデザインなのか、わざわざ後から付けたのかが
個人的に大変気になりました。

この人のファッションセンスには、特にジブチ視察のときには、
疑問の声が世間に渦巻いたと記憶しておりますが、そのことも踏まえ、
今回、就任後初めてとなる自衛隊式典にあたり、防衛大臣としては
何を着るかについてさぞ頭を悩まされたことであろうと察します。

結果白を選ばれたのは賢明というか、華やかで目立ちながらも
清廉な雰囲気のこのスーツ(水色リボン付き)に全く異論はございません。
ただ、この色のパンツスーツに10センチのストームヒールを履くなら、
黒はちょっとおやめになった方がよろしかったのでは、と思いました。

わたしのところからは見えませんでしたが、ヒールが高いので
台に上がるときに大臣は手を添えて支えてもらっていたようです。

わたし個人は稲田氏の思想には同調する部分も多く、むしろ国会答弁では
陰ながらがんばれと応援しながら見ている立場ではありますが、
こういうところを一般人に見られてしまうと、
答弁の途中で涙ぐんでしまったことまで合わせて囁かれてしまうので、
つい、心の中でこんな風に彼女を叱咤してしまいました。

「防衛相なんだから見かけだけでも”強い女性”を演じきらなきゃあ」



続く。



 


安倍首相訓示はどう報道されたか〜平成28年度 自衛隊記念日 観閲式

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朝霞で10月28日に行われた自衛隊記念日の観閲式についてです。
観閲式が本当に始まるのは、徒歩部隊が入場し終わって、
観閲官たる内閣総理大臣が臨場する瞬間です。



車から降りた安倍総理が観閲を行うことを宣言した後、

「こちらへどうぞ」



皆で団子状態になって移動(笑)
紫の旗はもちろん内閣総理大臣旗です。



第302保安警務隊の前に立ち、儀仗隊の栄誉礼を受けます。 
この後 紅白の台の上で国旗掲揚されるのを見届けた後、
オープンカーに乗り込みます。



車のフロントガラスに掲示していある5つの星は総理大臣の印。
自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣の旗と同じです。



巡閲のためには徒歩部隊の一番端までまず移動するのですが、
それには観客席の近くを車が走行することになります。
安倍首相はその間ずっと観客に座っている人々に視線を向けていましたが、
これは政治家としての習い性とでもいうのか、

「どこか見ているように見えるが実はどこも見ていない」

という状態だったのではないかと思われます。
それにしても最近安倍さん、父親の安倍晋太郎に似てきましたね。

 

みなさんここぞと写真を撮りまくり。



オープンカーを先導する白い車にはSPが乗り込んで
厳しい視線を四方に注いでおります。
エンドまで行った車はここでUターンして帰ってきます。



そして部隊の巡閲を行うわけです。
総理の後ろの車には「防衛大臣旗」が付けられています。
後ろ座席に乗っているのはもちろん稲田大臣。



近くに座っていた人が、

「”晋ちゃんと稲田姫”っていうお菓子があったけど、
すぐ無くなってしまいそうだから買っとこうかしら」

と会話していましたが、おいおい(; ̄ー ̄A 

稲田大臣の隣は森山陸将です。



で、この安倍首相の隣の青マフラーは誰っ?!
職種はこの色だと通信科ということになるのだけれど、
安倍氏の隣に座るからにはボディガード兼用ですよね?
確かに強そうでは、ある。



合同音楽隊の演奏は、曲によって指揮者が交代します。
このとき「巡閲の譜」を演奏していたのは海上自衛隊
東京音楽隊の隊長樋口2佐でした。




さて、準閲が終わり、観閲間の訓示が行われました。
毎年毎回、マスコミというのはこの安倍首相の訓示の中から
安倍政権の目指すところを指し示すような象徴的な部分だけ
取り出して報道してきましたが、今回の訓示はどう頑張っても
マスコミ的に「美味しい」内容とは言えませんでした。

つまり全編自衛隊への感謝に終始していたのです。
ここで安倍首相のこのときの訓示を要約してみます。 


大災害が起きたとき被災者にとって自衛隊はまさに「希望の光」です。
台風10号での被害、熊本地震、いずれにおいても自衛隊は
危険も顧みず、夜を徹して、懸命の捜索・救助活動にあたり、
被災者の不安な心に寄り添いながら、生活支援に全力を尽くしました。
 「真に国民のための自衛隊たれ」
自衛隊創設以来のこの素晴らしい理念を、その身を持って、実践し、
今、国民から揺るぎない信頼を勝ち得た、諸君たちを誇りに思います。

 

カンボジアPKOに始まる、自衛隊の国際貢献の歴史は、20年を超え、
南スーダンでは世界の60を超える国々ととも国連PKO活動に従事しています。
 
首都ジュバで共に活動しているカンボジアの部隊の若い女性隊員が、
ある時、自衛隊員にこう話しかけてきたそうです。
 「約20年前、日本は、私の国を支えてくれた。」
内戦に苦しんだカンボジアが、国連PKOの下、平和への道を歩み始めた90年代初頭、
まだ幼い少女であったその隊員はこういったそうです。

「かつて日本が私たちにしてくれたのと同じことを、
わたしたちは今南スーダンの人たちにしている。
日本の人にこの姿を見てもらえて嬉しい」

自衛隊が撒いた「平和の芽」はカンボジアに花を咲かせ、
今また南スーダンに種が植えられているのです。 

危険の伴う、自衛隊にしかできない責務を立派に果たしてくれている諸君に、
心から敬意を表すとともに、今後も、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、
国際的な舞台で活躍してくれることを期待しています。

戦後、日本はひたすらに平和国家としての道を歩んできたし、
今後も、その歩みが変わることは決してありません。

 

国際情勢が激変する時代にあって、国際社会と手を携えながら、
平和国家として歩んでいくために平和安全法制はあるのです。
 

平和安全法制により日米は、一層緊密に、協力できるようになりました。
のみならず世界、フィリピンを始め、東南アジアの国々、豪州やインド、
欧州の国々、ASEANやEUからも、強い支持を得ています。

この法制によって、諸君には、尊い平和を守り抜き、次の世代へと引き渡す
新しい任務が与えられるでしょう。
隊員諸君には、かけがえのない平和の守り神として、
精強なる自衛隊をつくりあげてほしいと願っています。
 

今この瞬間にも、我が国の領土、領海、領空を断固として守り抜くため、
自衛隊の諸君は任務に当たっています。



一人の海上自衛官が、5日前、31年に及ぶ自衛隊人生に幕を下ろしました。

 「父は、ほとんど家にいなかった。たまにいても、ゴロゴロしていた。」

高校2年生となった彼の息子さんは、そんな父親に反発した時期もあったそうです。
しかし今月、同じ艦(ふね)の仲間が開いた送別会に招待された息子さんが
そこで見た写真には、家では見たことのない厳しい表情で、
真剣に任務に打ち込む、若かりし日の、制服を着た父の姿がありました。
イージス艦一筋だった父がミサイル防衛の最前線でいかに重要な役割を果たしてきたか、
どれだけ多くの後輩たちから尊敬を集めてきたかを聞かされた息子さんは、
送別会の最後、マイクを握り、こう言ったそうです。

「父の背中が、今日ほど大きく、偉大に見えたことはありません。
僕も、お父さんのように、立派な自衛官になります。」
 

隊員たちの御家族の皆様、どうか、誇り高き彼らの姿をよく御覧ください。
国民の命と平和な暮らしを守るというこの崇高なる任務を、
高い使命感と責任感で全うする彼らは、日本国民の誇りであります。

御家族の皆様。
大切な伴侶やお子様、御家族を、隊員として送り出して下さっていることに、
最高指揮官として、心から感謝申し上げます。
皆さんの支えがあるからこそ、彼らは、全力を出し切り、
国民の命と平和な暮らしを守ることができる。本当にありがとうございます。
彼らの任務遂行に万全を期すことを、改めてお約束いたします。
 

隊員諸君。
私と日本国民は、常に、諸君を始め全国25万人の自衛隊と共にある。
その誇りと自信を胸に、それぞれの持ち場において、
自衛隊の果たすべき役割を全うしてください。
常に自らの職責の重要性に思いを致し、日本と世界の平和と安定のために、
益々精励されることを切に望み、私の訓示といたします。


あまり要約になっていませんが、つまりはそういうことです。
自衛隊員とその家族への感謝、彼らを誇りに思う気持ち、
安倍首相が自衛隊式典で行う訓示の主眼は常にそれなのですが、
各マスコミのタイトルはこうです。  

朝日 安倍首相、自衛隊観閲式で訓示「平和の守り神として」

NHK 安倍首相 自衛隊観閲式で訓示 新任務に万全期すよう指示

毎日 「国際的な舞台で活躍を」首相、観閲式で訓示

時事 新任務への備え指示=安倍首相、自衛隊観閲式で

産経 安倍晋三首相「平和の守り神として精強なる自衛隊を」 
   観閲式で訓示 安保関連法の意義訴え   どうも、マスコミというのは、自衛官へのねぎらいの言葉などは
訓示の「基礎部分」なのでニュースにする価値もないと思っている模様。


続いて、安倍首相は各自衛隊の中で特に功労に価する任務を果たした
部隊に特別表彰を行いました。

陸自 第101不発弾処理隊

沖縄県における不発弾処理に対する表彰です。

海自 護衛艦「こんごう」「きりしま」「ちょうかい」「みょうこう」  
お分かりのように、北朝鮮からのミサイル防衛のために出動した
イージス艦隊です。

空自 警戒航空隊

領空侵犯に対するスクランブルなどに対する功績に対して。
 

このあとは観閲台の前を徒歩による観閲行進を行うため、
部隊は皆左手、中央から退場していきます。



国旗も退場。



そのとき、ほぼなんの前触れもなく航空機から
自由降下が行われました。
金色のパラシュートで行う降下は落下地点を操作しにくく、
さらに落下速度も速いため、二本足で地面に立つのは難しいのですが、
自由降下だとピンポイントで降りる場所を決められます。



三人の降下員は、選び抜かれたベテランに違いありません。
風のない日とはいえ、高高度から観閲台の正面に間違いなく着地し
二本足でアスファルトに降り立つ姿に観衆は惜しみない拍手を送ります。



瞬く間に傘をたたみ、集合して観閲官に向かって敬礼。
簡単に見えて実は大変な訓練と個人技の賜物なのでしょう。


ここまでで式次第のほぼ半分が過ぎました。
いよいよ観閲行進が始まります。


続く。

 

女性徒歩部隊の秘密兵器〜平成28年度自衛隊記念日 観閲式

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観閲感訓示、部隊表彰式に続き、観閲感の前を行進する
観閲行進が始まります。



シルクハットを胸に当てて立つ総理大臣、そして胸に手を当てる防衛大臣。
これは世界的基準で言うところの「閲兵」ですが、
わが自衛隊においてはこのような言葉で言い表しています。

6年前の民主党政権下の悪夢の観閲式では総理大臣が出席せず、
なぜか財務大臣だった菅直人が代わって出席し、
北沢防衛大臣はどういうわけかこれも出席をしなかったので、
本来防衛相の立つべき場所にいたのもなぜか外務副大臣の福山哲郎でした。

自衛隊最高指揮官が出席を拒否したのみならず、代理で出席した男は
自分がなるまで総理大臣が自衛隊最高指揮官であることを知らなかったという。

今考えたらものすごい観閲式だったですね(遠い目)



まず、全部隊に先立って陸海空合同音楽隊が行進。
向こう側の定位置について全部隊の行進音楽を演奏する関係上最初になります。

というわけで一番最初に観閲を受けるのは各音楽隊の隊長ということになります。
音楽隊のタクトはオケのものより長いみたいですね。



陸海空はそれぞれ中央音楽隊、東京音楽隊、中央音楽隊。
この三音楽隊が防衛省の直轄部隊となります。



一番後ろの、体に巻きつけて行進するのはスーザフォン。
その手前がチューバです。
いずれも低音を担当する楽器ですが、観閲式では最初から最後まで
この楽器と共に立ち、歩き続けなければなりません。
貧血を起こしている場合ではありません。

音楽隊に次いで行進するのは観閲部隊本部ということでした。
英語では「Commander of Unit」となっています。

続いて防衛大学校学生隊。
蛍光色の目立つベストを着せられているのは報道陣。
前回はこのようなものは着ていなかった気がしますが・・。



防衛医科大学学生隊の先頭は、医学科と看護学科が同時に行進します。



この集団は医学科のはず。
はやりクラスヘッドは女子学生のようです。



高等工科学校学生隊の向こうに空挺部隊、その向こうに海空の徒歩部隊。
さすがに木の向こうがわは少しリラックスしているように見えます。



腰に吊るしているのは銃のホルダーだそうです。(知ったばかりの情報)



普通科部隊指揮官。



旗を片手でまっすぐ支えるのはかなり難易度が高そうです。普通科。



うーん、これは、強い(確信)
空挺部隊の指揮官なんてどんな化けも・・いやなんでもない。



行進のときには脚絆を巻いていた旧海軍の伝統を引き継いで、
海自は足元に白いチャップス(というのかどうか知りませんが)
を着用しますが、これがまたいいんですよねー。



士クラスの制服はなんといっても海自のセーラー服が一番です(断言)

旧軍の昔、神宮球場で行われた陸海合同の式典で、
スタンドにいた女子学生が海軍軍人にばかり声援を送って陸軍憮然、
という逸話を聞いたことがありますが、今でも一般的に

「海自の制服が一番かっこいい」

とされているとのことです。
その割には「(就職先として)一番人気がない」そうですが。



で、一番人気があるのはというと、実は空自らしいんですね。

海自が「伝統墨守 唯我独尊」で、
陸自が「用意周到 頑迷固陋」だとしたら戦後生まれの空自は

「勇猛果敢 支離滅裂」

この支離滅裂がフリーダムに通じるといいますか、悪く言えば適当、
よく言えば窮屈そうでない闊達な感じが、若者の職場として
好まれるのではないかとも思っております。

(全て印象で語っておりますので念のため) 



続いて陸海空女性自衛官部隊です。
そんな部隊、いったいどこで活躍しているのか?
とあまり自衛隊に詳しくない方は思われるでしょうか。

それもそのはず、この女性部隊は観閲式前に結成される
「観閲式行進のための部隊」であるからです。



例えば海自の女性部隊ですが、全国の海士クラス約100人を9月下旬に招集し、
横須賀で約1か月かけて行進の動作を訓練しています。

この晴れ舞台において一糸乱れぬ行進を披露し、二日後の25日、
彼女らは横須賀の海自横須賀教育隊で解散式を行ったそうです。



これを今回讀賣新聞は

「観閲式の立役者」…女性自衛官徒歩部隊が解散

というタイトルで報じています。

解散式では、同教育隊司令の池田秀人1佐が

「高い練度で観閲式の立役者となった」とたたえ、海士を代表して
鈴木菜央1士が「無事終えることができた」

とあいさつした。
指導した教育第2部長の飯塚真由美2佐は、

「3自衛隊の中で最も目立つ行進を披露してくれた」

と喜んだ。

讀賣新聞がなぜ海自女性部隊だけを記事にしたのかはわかりませんが、
横一列で同じような記事ばかりの報道のなかで、
女性部隊の解散式にまで触れたのは讀賣一社でした。



あ、余談ですが、空自人気の理由の一つに

「美人の隊員が多いから」

という俗説があるそうですね。
実際は知りません。

 

ところで、スカートにストッキング、パンプスでの行進。
靴が脱げてしまうということなどないのだろうか、とわたしは
女性の視点から大変気になっていたのですが、今回写真を
ここまで拡大してみて初めて合点がいきました。

彼女らは靴の上から透明の靴バンドを着用していたのです。
男性の方はおそらくこんなものが世の中にあるとは
全く気づかないまま今日まで生きて来られたと思いますが、
この靴バンド、夏のサンダルやミュールの脱げ防止に、
女子の間では普通に認知されている秘密兵器でもあります。

やっぱりこれ、自衛隊がまとめて購入したりするんでしょうか・・。 




さて、これをもちまして徒歩部隊の行進は終了。
続いては航空観閲である観閲飛行です。

プログラムには観閲飛行部隊指揮官として、
第1ヘリコプター団長、田尻祐介陸将補が紹介されていました。
おそらくですが、このCH-47のどれかに乗っていたのだと思われます。



偵察ヘリOH-6D、カイユース。



AH-1Jコブラ。



多用途ヘリコプターUH-1Jヒューイ。 



AH-64Dアパッチロングボウ。
映画「シン・ゴジラ」では大活躍しました。
アパッチに限らず、陸自の装備はフル出演の感がありましたが。



続いて LR-2。
ビーチクラフト社の多用途機で、 連絡・偵察任務のほか、
災害派遣としての緊急患者輸送も行います。



P-3Cオライオン。
わたしの隣の自衛官妻Hさんのご主人はこれに乗っていたそうです。
このP-3Cは鹿屋から来たとのことでした。



U-36 A。
これも海自の飛行機です。
訓練支援機なので、曳航標的やチャフポッドなど、
小柄な機体のに多様な装備を吊下して飛ぶのだとか。
うーん、見てみたい。

コールサインは「キューピッド」だそうで、雰囲気出てますね。
ちなみに、コールサイン「YAMATO」というのがあるそうですすが、
これなんだと思います?



ここからは空自機。
輸送機C-130。



そこであらためてこちらを見ると、輸送機にスマートさなど必要ねえ!
と力強く言い切ってもいいような気がしますね。



F-2もFー15も来ましたが、いつもうまく撮れません。
特にF-2は色も「あれ」なので、逆光になると全くダメです。


さて、というところで、続いては車両行進となります。

続く。 

オスプレイと抗議デモ〜平成28年度自営隊記念日 観閲式

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続いて、車両部隊の行進となるわけですが、その前に
この音楽隊の写真を見ていただけます?



音楽隊の写真なんですが、この中に歌手の三宅三曹がいると
教えていただきましてね。
この写真ではそうなのかなあという感じですが、
少し検索してみたら楽器も演奏されるようですね。

公式のプロフィールにはそういう経歴はないので、
もしかしたら音楽隊の誰か(偉い人)が、楽器を
やってみることを最近彼女に勧めたのかもしれません。

それにしても、この時の音楽隊ですが、写真でもおわかりのように
全員暗譜、つまり楽譜を見ないでで全ての曲を演奏しています。
自衛隊の音楽隊であれば頻繁に演奏する曲ばかりとはいえ、
これはさすがプロだなあと一人感心していた次第です。



それではまた車両部隊の説明に戻りましょう。
まずは国際協力平和活動派遣部隊からです。
この時に流れるのが「祝典ギャロップ」。

この曲を作った須摩 洋朔(すまようさく)は、陸軍戸山学校出身、
陸自中央音楽隊の生みの親ともいうべき人です。

このほかにも「順閲の譜」、空自のテーマソング「大空」、
「起床」「点呼」「食事」「会報」「課業(状況)開始」
「課業(状況)終了」「消灯(弔銃)」 などの陸自ラッパ譜を作りました。

個人的に「順閲の譜」は悪くないと思いますが、陸自の「分列行進曲」
海自の「軍艦」と比して「大空」ははっきり言ってテーマからして軽すぎ。
(第2テーマはちょっとマシですが)正直全く評価できません。 

この祝典ギャロップもこの作曲者特有のセンスが発揮されていて、
なんというか、芯のないキャベツみたいなスカスカした印象の曲です。
(感想には個人差があります)

ただ、スピード感だけはあるので(笑)、車両行進にはぴったりかと。



続いて偵察部隊。
指揮官は二等陸佐です。



偵察隊はオート(バイク)含め27両で編成されていました。



89式装甲戦闘車中隊。
自衛官妻Hさんは、これらのものが全て「戦車」にしか見えないと言っていました。



 
89式装甲戦闘車は、平成26年の御嶽山噴火の際、
救援活動に出動し活躍しています。



ところで、このトラックで行進している部隊なのですが、
(予備自衛官部隊だったと思います)
この手前の後ろ向きの人と向こうに女性が座っています。
よくよく見たら、ほかにも女性らしき隊員の姿が。


即応予備自衛官と予備自衛官の違いは、召集されて
前者は現職自衛官とともに第一線の任務に就き、
予備自は 第一線部隊が出動した時に、駐屯地の警備を実施する等、
後方地域で任務につくというところだそうです。



水か燃料タンクかな?と思ったら違いました。
施設科のこの車両は92式浮橋。

なんと、この上に乗っているものをぽちゃんと水に落としたら
それがぱかっと開いて浮橋になるという・・・

92式浮橋展張


ご存知でなかったらぜひどうぞ。
橋の展開は1:50からです。 



化学科部隊のNBC偵察車。
放射能で汚染された地域での情報収集を行います。
NBC とは「核」「生物」「化学」を意味しています。



おなじく化学防護車。

車内の密閉度を上げ、空気浄化装置を装備することによって
乗員を外部の汚染から守りながら、
車外の放射線の測定や毒ガスの検知を行うことができます。



これもおなじく除染車。
2500Lの水槽と加温装置を搭載しており、
地域、施設等の大規模な除染作業を行います。

地下鉄サリン事件でも出動しました。

 

需品科部隊の浄水車。



このまま上に乗っているものが伸びて行き、タケコプターのように
くるくる回るのではないか、という形状をしていますが、
情報科部隊の通信車で、稼働時にはこれがひっくり返って
「ディッシュ」、つまり受信装置になります。

衛星単一通信可搬局装置 JMRC-C4。 

 

こちらも通信科。
85式地上レーダ装置1号(改) JTPS-P23


機甲科に配備されているとwikiにはありますが、これも
ブルーのマフラーの通信科車両として行進していました。



後ろに乗っているドローンに目が釘付け(笑)
今年はなぜか車両行進をしました。
これも通信科です。



前にも説明しましたが、揚陸用のゴムボートは彼らの中心となる「武器」。
西部方面普通科連隊。
指揮官は1等陸尉です。

日本版海兵隊 自衛隊水陸機動団



空自迷彩にブルーのスカーフ。
空自ペトリオット部隊です。

実を言うとなぜ空自に高射部隊があるのかいまだに謎なんですよね。
もともと陸自にあったみたいだし、部隊も習志野にあるし・・。

空自も少しは地上でのミサイル迎撃負担してもらわんと!
みたいな感じで創設されたんでしょうか。



弾道ミサイルを撃墜する能力を持つペトリオットPAK3の
レーダー装置や発射装置が続きます。



アンテナ・マスト・グループ(AMG)

あーまーげー(笑)とか読まないように。



総火演でおなじみ高射特科部隊。
対空戦闘部隊として侵攻する航空機を要撃するとともに、
広範囲にわたり迅速かつ組織的な対空情報活動を行います。



この発射を撮るのが好きです(弾速が遅くて撮りやすいから)。
93式近距離地対空誘導弾。





射撃用レーダー「信号処理部」。
地対空ミサイルセットの一部です(適当)



87式自走高射機関砲中隊。
航空機を撃ち落とすから付けられた愛称スカイシューター。
でも現場ではガンタンクとかハエたたきと呼ばれたり。


 

レーダー部分は装備展示のとき可愛らしくくるくる回っていましたが、
行進のときにはぢっとしていました。



野戦特科部隊の88式地対艦誘導弾。
総火演のときにはいつも

「沿岸に迫る敵舟艇を撃破します」

と画面で説明されるだけで実際には射撃は行いません。
普段はどこでどんな実弾練習をしているのでしょうか。 

 

155mm榴弾砲・FH70中隊指揮官。
シキツウに乗っての行進です。

 

155mm榴弾砲のノーズはこんな風にして支えていたんですね。 
総火演では富士山を描く高射を行ったりします。

一両あたりの調達価格が9億6,000万円と高額なため、
年間の調達数は数両に留まっている

ということです。 

 

榴弾砲の上で銃を構えながら観閲行進する隊員たち。



そして最後に戦車隊です。
おなじみ10戦車。
前回の観閲式における装備展示では人が群がっていましたが、
今年は動いているとき以外は誰も関心を払っていませんでした。
それだけみんな見慣れてきたってことなんでしょうね。



毎回、戦車の行進は思ったより進むのが速いので、周りに

「速い!」「速い!」

という嘆声が起こります。



そして90式。

前回ちらっと書いたのですが、なぜか今回74式の行進は行われませんでした。
総火演では普通に活躍していたのですが。
残念ながらそろそろ引退が近づいているということなんでしょうか。



陸自隊員の敬礼は明らかに海自のそれとは違います。
「今はあまり違わない」(防大で皆同じだから)という話もありますが、
こうしてみるとやはり肘を張って上げ、真横に突き出していますね。



ここまでで一応車両部隊の観閲行進は終わり、前にも書いたように
海外からの祝賀部隊が行進をします。



アメリカ陸軍ストライカー旅団のストライカー装甲車。
そして・・・、



海兵隊の機動展開部隊、MV-22、オスプレイです。



実は今回、こちらが比較的静かになったときだけ、
遥か向こうで拡声器の音がしているなあと思っていたんですよ。

「もしかして、なんか抗議してる?」

「なんかかすかに聞こえるね」

この程度だったんですけどね。

実際にオスプレイが通り過ぎたとき、彼らが石を投げたり
凧をあげたりするんじゃないかとワクワクしていたのですが、
それらしい報道もなかったのでメディアにも無視されたようです。

唯一自分たちであげてたHPによると、
朝霞駅から駐屯地近くまで抗議デモをやってたみたいですね。

「やめろ!軍事パレード 行っちゃだめ!南スーダン」

だそうです。



ところで、ストライカー装甲車のこのデコデコした装備は一体?
なんかわからないけどいろんな機能がありそうだなあ。



名前だけでなく、車体の横もやたらデコラティブで、
やたら強そうに見えるストライカー装甲車です。



続く。

自衛隊殉職者慰霊式 於呉地方総監部

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毎年防衛省では、任務に殉じて亡くなられた自衛隊員のための
自衛隊殉職隊員追悼式を、自衛隊記念日の時期に行います。


先日、自衛官の殉死と、その命を捧げるべき大義について、
元海将の書かれた一文を元に少しお話しする機会がありましたが、
殉職隊員の慰霊に関しては、一般国民に膾炙しているとは言い難い、
とこのとき私見を述べさせていただきました。

しかし防衛省ならびに政府がこれを疎かにしているというわけではなく、
毎年、市ケ谷の防衛省慰霊碑前に於いて、殉職隊員のための追悼は
内閣総理大臣ならびに歴代防衛大臣が出席してこれを執り行います。

今年顕彰された御霊は全部で31柱。
その内訳は、

陸自7柱 海自12柱 空自10柱 防大1柱 防医大1柱

というものです。



1年に31名の殉職、という数字を皆様は多いと考えられますか?


国会で民進党の阿部知子議員の質問に(もちろんこの人も慰霊式は欠席)
答えた安倍首相の答弁書から、平成15年以降の殉職者の数を書き出してみます。

陸海空その他で色分けをしています。

平成15年 48 17 10 16

平成16年 64 16 14 6

平成17年 64 15 14 8

平成18年 65 19 9 8

平成19年 48 13 12 6

平成20年 51 16 9 7

平成21年 53 15 12 6

平成22年 55 10 12 6

平成23年 49 14 15 8 

平成24年 52 7 20 4

平成25年 47 16 13 6

平成26年 43 12 11 3

これを見てどう思われましたでしょうか。
全員で31名というのがむしろ少ないほうだと知って
驚かれた方もおられるのではないでしょうか。

あと特筆すべきは各自衛隊での殉職者の数が
これによると毎年ほぼ一定していると言うことですが、これは
危険の多寡ではなく、隊員数比によるものだと思われます。

あと、自殺は殉職に含まれるのか、ということについても
書いておくと、

「 自殺は、自衛隊員の自損行為による災害のため
原則として公務災害とは認められないが、
公務の負荷により精神疾患を発症し、当該疾患が原因で自殺した場合は、
公務に起因して死亡したものと認めている」

とされています。
この自殺だけに特定した資料によりますと、1年に自殺した自衛官の数と、
一般の国家公務員の10万人あたりの自殺者の数を比較したものがあります。


年度    自衛隊 一般(単位人)
 
平成15年      31.4    17.1

平成16年      39.3    19.0

平成17年      38.6     17.7

平成18年      38.6     23.1

平成19年      36.0     20.3

平成20年      33.3     21.7

平成21年      34.9    23.6

平成22年      33.8     22.7

平成23年      34.2     20.7

平成24年      35.2     15.9

平成25年      33.7     21.5

平成26年     29.1    (調査中)


一般職と比べてやはり自衛隊は自殺者の割合が高いのがわかりますが、
どちらもどちらもその比率にさほど増減はありません。

自衛官の総数は22〜3万人なので、10万あたりの割合から類推すると
実際に自殺する隊員数は年間7〜80人ということになります。


そこで気になったのですが、この自殺者の「自殺理由」が
「公務の負荷であるか否か」についての認定はどうなっているのでしょうか。


テロ対策にもとづく勤務従事における自殺者の内訳は

海上自衛隊 25人 航空自衛隊 0人

イラク措置法に基づく勤務12における自殺者内訳は

陸上自衛隊 21年 海上自衛隊 0人 航空自衛隊 8人

でしたが、その個々の理由には借財、家庭関係なども含まれます。
実際にこれが派遣との因果によるものだと認定はできませんが、
このうち公務災害と認められたのは

陸上自衛隊 3人 航空自衛隊 1人

となっています。




さて、ところでこれだけの隊員が任務中に亡くなっていることを、
国民のどれほどが認知しているかというと、そもそも全ての事故が報道されず、
慰霊式が行われることすら全く一般に知らされない(もちろん報道もほとんどない)
という現状を考えると、皆無に等しいのではないでしょうか。

ただ、今年は少し事情がいつもと違いました。
産経新聞がこのような記事を出し、それがネットで広まったからです。

殉職自衛官追悼式、野党議員で参列したのは1人だけ 
安倍晋三首相が追悼「国民の命と平和を守り抜いていく」

 

防衛省は22日、平成28年度の自衛隊殉職隊員追悼式を行い、
安倍晋三首相らが参列した。
しかし、国会で安全保障関連法の施行に伴う
自衛官のリスク増大を批判する野党議員の姿はほとんどなかった。

追悼式では新たに31柱の名簿を慰霊碑に奉納。
首相は「ご遺志を受け継ぎ、国民の命と平和を守り抜いていく」と追悼の辞を述べた。

追悼式に出席した現職の国会議員は13人で元職は5人。
このうち現職の野党議員は民進党の大野元裕参院議員だけ。

民進党や共産党など野党は今国会で、南スーダン国連平和維持活動(PKO)
に派遣される陸上自衛隊部隊をめぐり、安保関連法で認められた
「駆け付け警護」任務などを負わせる政府方針を批判。

民進党からは自衛官の安全を心配する質問も出た。


防衛省は国会議員に関し、元首相と同省の元政務三役に
追悼式の招待状を出している。
また、自ら出席を申し出た場合、席に余裕があれば受け入れている。


衆参両院事務局によると、今国会の予算委員会で

自衛官のリスクに関する質問をしたのは民進、共産、社民各党の計8人。
この中で出席したのは元防衛政務官の大野氏だけだった。



産経新聞は、ここで野党議員のダブルスタンダードを非難しています。

追悼式の報道に関しては毎年ほとんど行われることはありませんが、
今年は産経以外には毎日新聞社がほんの少しだけ報じています。
しかしそれは

「安保法制に伴う危険の増大に対しても、変わらず
任務を全うすることを自衛隊に要請し期待する安倍首相」

という図式を補強するための通り一遍な記事に過ぎず、
野党議員の欠席についてはもちろんスルーでした。

 

前にも書きましたが、現職の自衛官の口から

「あの人たちに自衛官の命の心配をしてもらうことになるとは
夢にも思いませんでしたよ」

と苦笑まじりに実際に聞いたことがあるわたしとしては、
この産経新聞の記事を読んでもまったく驚きません。

そこであらためて防衛省のホームページを確認したところ、
記事にもあるように防衛省は出席者を

「現職総理大臣と元防衛大臣」

と決めており、それに従って招待状も出しているということです。
そこには追悼式が始まった昭和32年の岸総理をはじめとして、
出席した歴代総理大臣の名前が記録されているのですが、
たった一人、出席しなかった総理大臣がいました。

民主党政権時代、総理を務めた野田佳彦、あの菅直人ですら
(野田総理は2年連続で出席している)出席しているというのに、
史上唯一、鳩山由紀夫だけは追悼を頑として拒んだのです。

なんでもその日、無理やりなにか予定を入れたという話ですが、
それが追悼式以上に優先すべきことであったとは誰しも思わず、
つまりは観閲式同様、「逃げた」のだといまでも言われています。

おそらく、自衛隊最高指揮官であることからも逃げたかったのでしょう。



さて、先日呉地方総監部で執り行われた地区における
殉職隊員追悼式に、今回はわたしも参列させていただきました。



参加が決まったのは直前のことであったので、
わたしは出欠のやり取りをファックスで行い、当然ながら
当日どこにどういう風に赴けばいいのかもわからないまま、
朝一番の飛行機に乗り、空港バスで呉まで辿りついてからタクシーで
呉地方総監部を目指しましたが、ここで痛恨のミスがありました。

本来、こちらから入場することになっていた慰霊碑近くの門を、
こちらには来たことがないため通り過ぎてしまったのです。



江田島の旧海軍兵学校と同じで、呉総監部もこの港が
「正門」であり、あとは「裏門」であるそうです。



この港を望む開けた場所に、殉職隊員のための慰霊碑があります。
本日の慰霊式のために献花台と花が飾られているのでした。
参列者はこの前に設えられたテントの名前の書かれた場所に座ります。 



ところがファックスでやり取りしたわたしにはそんなことはわからず、
来たことのあるこちらの庁舎側の門から入って行ってしまいました。

入り口で聞くと、「坂を下りていったら慰霊碑があります」

今にして思えば慰霊式出席者ならタクシーでそのまま下に行くように
指示してくれても良かった気もしますが、まさかこんな間違いを
する参列者がいるとは警衛の隊員さんも思わなかったのでしょう。

初めて見る赤煉瓦の横の坂を下って行くと、慰霊碑とテントが見えました。
そこで警衛の隊員に止められました。

「招待状を見せてください」

仕方なくファックス用紙を見せると

「これはファックスですね(だからダメですの意)」

わたしはもう今にも式が始まりそうなのに、ここで
隊員と押し問答をしている時間はない!と判断し、
出席が急に決まったことと、招待者の名前を告げてそこを突破しました。



そのときには追悼式開始までまさに10分といったところです。
これらの写真は全て式典終了後に撮りましたので念のため。



これは式が終了したあとですが、献花台に続く専用の道を
挟んで、白いベルトの隊員が護るように直立していました。



自衛隊の殉職隊員追悼式に参列するのは2度目です。
1度目の前回は掃海隊殉職者であったため、
殉職隊員の遺族は年配の方が多く、しかもその参列者は
年々減っていっている、という話をそのとき伺いましたが、
呉の担当区における殉職者の遺族の方々には、
亡くなった隊員の若さを表すかのように、まだ若々しい両親、
そして新婚であったのかもしれない若い女性や母親に抱かれた幼児、
そしてまだ月齢の赤ちゃんを抱いた母親もいました。

弔銃発射のとき、自動車のおもちゃを抱えて抱っこされていた
男の子がその音にびっくりして泣き声をあげ、それをなだめるために
母親が彼を抱きしめる様子には、思わず涙を誘われました。

続いての献花では、一人ずつ名前を呼ばれ祭壇前に進み出、
白菊を霊前に捧げて御霊のご冥福を祈ります。

そのあと行われた呉地方音楽隊による追悼演奏では、

「海をゆく」

「ふるさと」

「海ゆかば」

の三曲が奏楽されました。

この日最後に遺族代表の方がされた挨拶全文です。


追悼式を執り行っていただきまして心から厚くお礼申し上げます。
私ども遺族にとりまして、何ものにも代えがたい大切な肉親を失った悲しみは、
崇高な使命のためとはいえ、言葉に尽くせないものがありました。
この深い悲しみを乗り越え、今日まで頑張ってくることができましたのも、
歴代の呉地方総監を始め、隊員の隊員の皆様方の温かい励ましや
親身な支えがあったからこそと心から感謝しております。

私たち遺族は、これからもお互いに手を取り合い、故人、
そして残された者のためにも、そして残された者のためにも明るく、
さらに力強く生きていくことを、ここにあらためてお誓い申し上げます。

近年全国で続発する大規模な自然災害における救援活動、及び、
諸外国におきましても活躍され、国の期待がますます高まっていく昨今、
どうか隊員の皆様にはくれぐれも健康に留意され、
わたしたちの夫や子供、父、そして兄弟たちが果たせなかった
国防の任務を全うされますよう祈念申し上げますとともに、
今後とも私たちを末永く見守っていただきますようお願い申しあげます。
本日は、平成28年度呉地区殉職隊員追悼式を、かくも厳粛に挙行していただき、
またこうしてお招きいただきましたことに、重ねてお礼申し上げ、
遺族代表の挨拶とさせていただきます。



あらためて、任務に殉じて尊い命を捧げられた隊員の方々の
ご冥福を心より祈ります。




 

龍崎先生の殉職〜横須賀歴史ウォーク

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もう夏前のことなので自分でも記憶が薄れているくらいですが、
横須賀市の観光協会のようなところがボランティアのガイドによる
歴史ツァーを行なっておりまして、わたしはコースに含まれている

「料亭小松」

という言葉に激しく反応し、参加をしたということがありました。
わたしがこのツァーに参加し、それについて調べているまさにそのときに、
料亭小松は不審火によって全焼してしまったというショッキングな
結末?を迎えたという話を覚えておられる方もおられるでしょうか。

ツァーについて、その後一つだけアップしていない記事があったので、
今更、という気もしますがお話しておきたいと思います。

まずはお昼休憩をした横須賀自然博物館と文化会館の周辺から。



横須賀文化会館の正面に立つブロンズの日本にしては巨大な像。

「この感じ、どこかでみたような気がしませんか」

ガイドに言われてもはて、と皆が首をかしげるだけだったのですが、
これは長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望(せいぼう)の作品なのだそうです。

そう思ってみるとそう見えないこともないけど・・・って感じですね。
長崎の像にもあのポーズにはいちいち意味があるそうなので、
(垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている)
この自由の女神にもそのポーズに何か意味があるのかもしれません。



ちなみにこの女神、アップにすると口を開けており、
いかにも何か雄叫びをあげている風です。

この像隣には説明のためにわざわざ立派な黒曜石の碑があり、それによると

● この像は西村西望先生の作で名作である
● 昭和52年市制施行施行70周年祈念に所有者が寄付した
● 台座は広島産の御影石で30トンである

ということですが、自由の女神そのものについては全く書かれていませんでした。
長崎の祈念像ですら税金の無駄遣いだといってわーわー騒ぐ人がいたくらいなので、
きっとこれにも文句をつける人がいたかもしれません。

まあ、中央公園の核兵器廃絶の碑とか、舛添知事の豪遊外遊よりはまともな使い道だと思いますが。



次に歩いて到着したのは通称「赤門」。
ここは、先日訪れた旧横須賀鎮守府、田戸台庁舎の近くです。
鎮守府の見学の帰りに写真を撮った古いつくりの八百屋を右手に見ながら
京急のガードを一旦くぐってもういちどガード手前に戻ったところにあります。

赤門の由来はこの門が昔はもっと鮮やかな朱色で塗られていたからです。
それにしても、こういった文化財(ぽいもの)の前に民家風のフェンスはいったい・・・。
と思って調べてみたら、この門に変える前にもブロック塀の上に金網を立てた、
ごく普通の「当時の民家の塀」でした。

ここは代々永島家の家屋であり、今でもつまり「民家」なのです。

「自由の女神」設置の市制70周年のとき、この古くから伝わる
(江戸時代に作られたと言われる)民家の門が横須賀市の
「風物百選」に選ばれたので、ローカルツァーにも組み込まれているんですね。

今でもこの後ろ側には永島家の子孫が住んでいて、ガイドさん(自称後期高齢者)は

「ここの人が幼稚園の先生で私の子供が教えてもらっていた」

というような話をしていました。
江戸時代にこういう門を作るだけのことはあって、永島家は名主であり、
浜代官であり、(このあたりは昔海岸だった)庄屋でもあったという地元の名家です。

こういう、門でありながら住居部分を持っている形式の建築を「長屋門」といいます。
昔の武家屋敷では、外郭に家来のための長屋があり、警備を兼ねてそこに住んでいました。
門の脇の格子の窓からは入る人をチェックしていたのかもしれません。

ちなみに、赤門そのものは江戸時代のものですが、その他の部分は
長年の間に幾度となく手が入れられているということでした。

冒頭の苔むした墓石などは、このあたりにあった供養塔や墓を
整地する時にまとめてここに祀ることにしたもののようです。
まだ比較的新しくはっきり刻字が読めるものもありますが、
経年の剥落により全くなんのためのものかわからなくなってしまったものも。



そこから少し歩いたところに、横須賀市立田戸小学校があります。
その校門の一角に、こんな石碑がありました。

「噫龍崎訓導の碑」

くんどう、を変換しても教師を表す「訓導」という漢字は出てきませんでした。
ガイドの人も、

「先生のことを”訓導”なんて言ったんですね」

などと全く聞いたこともないような口ぶりで言っていましたが、 
昔親の本棚にあった石坂洋次郎とか有島武郎とか、山本有三あたりの
昭和の学校ものを読んだことのあるわたしには珍しい言葉ではありません。

龍崎ヒサ先生は戦前、ここにあった田戸国民小学校の「訓導」でした。
昭和17年11月19日、4年の生徒202名が校外学習のために学校を出発したのですが、
龍崎先生の組が東京急行電鉄(今の京浜急行電鉄)の踏切にさしかかったとき、
右手のトンネル内から浦賀行きの下り電車が来たので一同はその通過を待ちました。

悲劇はその次の瞬間起こりました。
下電車が通過したあと、反対側の線路に上りの特急がやってきているのに
一人の生徒が飛び出して踏切を渡ろうとしたのです。

「危ない!」

先生は叫びながら線路に飛び込み、生徒をを向こう側に突き飛ばしましたが、
自分自身はやってきた上り電車に接触し、死亡しました。 

先生の殉職は大きく報じられ、その学校葬には、文部大臣をはじめとして、
神奈川県知事、横須賀市長、帝国教育会長、 神奈川県女子師範学校長、
横須賀教育会長、市会議長から追悼文が寄せられました。

中には横須賀鎮守府司令長官海軍大将古賀峯一からのものもあったそうです。
近隣を歩いて知りましたが、横須賀鎮守府とこの田戸国民学校、
そして事故現場となった線路は大変近いところにあります。

龍崎先生は享年30歳。
兄は陸軍士官学校を経て当時少尉として戦線にあり、母を前年度亡くしており、
さらに弟は病床にあったため、彼女が家の働き手であったということです。


「今の先生にも立派な方はおられるんでしょうけどね」

ガイドさんは彼女の殉職の様子を説明した後、こんな風に言いました。
このころ教師は「聖職」と呼ばれ、教師はその矜持と使命感なしでは務まらない、
というのが一般的な認識だったのですが、確かにいまでは先生が「聖職」なんて、
なにやらタチの悪い冗談のような気すらしてきます。

確かに志の高い先生も世の中にはたくさんおられるでしょう。
誰だって夢と使命感を持って教師になるのですし、わたし自身、ごくわずかですが、
あの先生はよかった、と思える先生に出会ったこともなかったわけではありません。

しかし、いざとなった時に身を呈して生徒の命を守るような行動が
とっさに取れる先生がどれだけいるかというと、限りなくゼロに近いのではないでしょうか。

わたしはこのことを嘆いたり非難するつもりで書いているのではありません。
龍崎先生が亡くなった昭和17年頃の、もっと言えば戦前の日本人と今の日本人は
政治家から末端の庶民まで、全く人間の「質」が違ってしまっているのではないか、
ということを龍崎先生の死から感じ、かすかに絶望しこそすれ・・。



龍崎先生は即死ではなく、その後病院に運ばれて夕方に死去されたそうですが、
意識のある時にはうわごとにも救った児童の安否を案じていたそうです。



このあと、お龍さん終焉の地を案内してもらい、横須賀中央駅に向かって
最後のガイド地に向かう途中にあった小さな祠。
三浦帝釈天だそうです。

ガイドさんが、「この祠を立てるのに私費を投じた人がいて」
(だったかな)という説明をしたとき、一人の参加者が

「その人は県会議員にでも立候補するつもりだったの」

と揶揄するように聞きました。
このおじさんは何かとこういう目立つ「決め台詞」を言いたがる人で、砲台では

「B29が来ても一つも落とせなかったんだろう」

とバカにしたように言ったり、古い建物などを見ても

「これ、どこかから補助出ているの?出てない?じゃあダメだな。もう持たないね」

といってみたりって感じでした。
現役時代、会社ではさぞウザがられ・・・・おっと。



ごちゃごちゃと飲み屋が連なるところの隙間に、
「米浜」と台座にある日蓮上人霊場の碑がありました。
これももともとここにあったのを動かせずに、このようなところに設置した模様。



最後の見学地、諏訪神社に到着。この時午後2時です。
朝の9時半から、50分の休憩を挟んでずっと歩いていたことになります。

全国の諏訪神社というのは、信濃の国、長野県にある諏訪神社から
ご祭神を頂いてきて創建したものですが、ここもまた1573年に
「諏訪明神の御分霊を勧請す」と伝わっているそうです。
享和元(1801)年本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年造営のものです。



本殿脇の倉庫のような建物も、大正時代の建築なのかもしれません。



同行者がまたまた「小泉」という名前を見つけてきて
あの小泉家の親類だろうか、とかわいわいやっていました。

大正時代のご造営のときに寄進した名前が刻まれています。

「尾張屋」「大工 小林弥助」「八百秀」「理髪店 加地勇」

「待合 千代田」「待合 三河亭」・・・・・。

 ガイドは「ほら、ここに待合もあるんですよ!」とワケありげにいうのですが、
どうもその口ぶりから、「待合」というのを娼館かなにかと勘違いしているように見えました。

同じ待合という名を冠していても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、
小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、
その格にも相当な違いがあった(wiki)わけですが、どうも最近の人たちは
待合をその「下の方」だというようなイメージで捉えている人が多いようです。

格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であったそうで、
まるで京都の店のような格を保っていましたが、少なくともこの時代
名前を刻むほど神社の造営に寄進するからには、よほど流行った、
しかも格式の高い方の待合であったことは確かだと思います。


余談ですが、海軍士官は海軍兵学校を卒業し少尉候補生となって
遠洋航海に出発する前、皇居遥拝や明治神宮参拝などの行事をこなすため
しばらくの間東京近辺に宿泊します。

関東にある候補生の実家に彼の仲のいい級友を泊めることが普通に行われ、
昼間の行事をこなせば夜は皆で連れ立って銀座などに繰り出したのだそうですが、
そのときに少尉候補生では禁じられている待合に行った、という話を
戦後に書かれた追想記で読んだことがあります。

海軍さんの隠語では待合のことを「チング」(待つ=ウェイチングから)
といったそうですが、このときも地方出身の候補生が

「かねてから(つまり卒業前から)約束していたチングに案内しろ」

と言い出し、皆でこわごわと「初めてのS(芸者)プレイ(遊び)」を
したが、もし見つかったらえらいことになるので、泊まる(つまり芸者さんと)
と言い張る一人を引きずって連れて帰った、という話でした。

当時の海軍士官は、遊ぶならブラック(玄人)と一流のレス(料亭、レストラン)
でさっぱりと遊べ、と教育されていたので、待合は待合でも
怪しげな待合に、しかも候補生がいるのが見つかったら大事だったのです。




横須賀界隈の飲み屋さんでは、ブランデーとジンジャーエールをミックスした
「横浜ブラジャー」という目眩のしそうな名前のドリンクをやたら推していて、
今やどこにいってもこれが飲めるそうですが、美味しいかどうかという以前に、
このネーミングセンスと、シンボルとなっている絵があまりに酷いと思います。

ところで焼きそばとご飯を化学調味料で味付けし、ソースでぐちゃぐちゃにする
「そばめし」なる下品な食べものをわたしの郷里神戸で広めようとする一派がありまして、
(発祥は知る人ぞ知る長田地区)
こういう志の低いもの勝手に神戸名物にするな!とは神戸出身の一人として
糾弾しこれを阻止しようとするものですが、きっと横須賀にもこの運動を
快く思わない人もいるに違いない、とわたしは勝手に思っています。

 

ちなみに駅周辺の小道にはこのようなスナックとカバーとかが林立しており、
どれもこれも築年数の古そうな、地震に耐えられるのかと心配になるような
建物にギュウギュウという感じで立ち並んでしました。

その並びで発見した「赤レンガ」と「錨」という店の並びに何かを感じたので、
カメラに収めておきました。


これをもちまして、横須賀歴史ウォークシリーズ、やっとこさ終わりです。
またこのような企画があったら参加してみることにしましょう。

 


 

潜水艦と赤煉瓦〜自衛隊記念行事 記念式典

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殉職者追悼式の日は朝から雨模様でした。
空港からのバスの車中、だんだん強くなる雨足を見ながら
心配していたのですが、地方総監部に到着する頃には雨は上がり、
式典の間は一粒も降らず、
閉会となり、皆が席を立つと同時にまた降り出すといった具合。

またもや「わたしが中国地方に来るとは必ず雨」という
ありがたくないジンクスに悄然としていたのですが、
前回の進水式も今回も、結果式典に傘は不要となり、翌日の記念式典には
綺麗な秋晴れとなったのを見て、

「もしかしたら新呉地方総監は強烈な晴れ男かもしれない」

と思ったわたしです。


当日の朝、同じ地球防衛協会系(仮名)の方にホテルまで
車で迎えに来ていただき、少し時間が早かったので
皆で潜水艦でも観に行こう、ということになりました。



綺麗に晴れて海の色が朝独特の深い色をみせる呉港。
いつ見ても、何時間見ていても飽きないこの景色です。
わーい、潜水艦だー!



「男たちの大和」のロケ地にもなった?潜水艦桟橋の門。



新型の潜水艦がいました!



今は使われていないブイもなにかいわくありげ・・。



補給艦「とわだ」がいます。

2013年には台風の被害を受けたフィリピンにここから出航し、
輸送艦「おおすみ」と護衛艦「いせ」への給油などを担当し、
レイテ湾では救援物資輸送や医療、防疫活動を実施しました。

洋上給油を行うためのブームと黒い蛇管がここからも見えます。



こちらは音響測定艦「はりま」。
「ひびき」とともに「灘」の名前を与えられたこの艦種は、
同じ海自の隊員からも「いつもどこで何をやっているのかわからない」
と言われるくらい謎に包まれているそうです。

それもそのはず、音響測定艦の「敵」は潜水艦。
ケーブルで監視用曳航アレイ・ソナー(SURTASS)を曳航し、
人間の「指紋」にあたる潜水艦の「音紋」を採取して
データベース化しているのですから、特に中国海軍にとっては
「一番嫌な船」ということになるのかもしれません。

潜水艦というのも、その実態は厳密に秘匿されているものですが、
潜水艦に対峙するのがお仕事なのですから、さらに音響測定艦は
秘密のベールを何重にもかけて情報を遮断されているのだそうです。

一般公開はもちろん、観艦式などにも決して参加しません。




同行者の誰もこれが何のための艦かすらわからなかった艦番号483。
調べてみてびっくり、敷設艦「むろと」でした。

敷設艦などという艦種が未だにあるとは全然知りませんでした。
敷設艦、というとどうしても日露戦争の時に海底ケーブルを敷設して
殊勲賞をもらった「沖縄丸」のことを思い浮かべてしまいますね。

いま検索したところ、児玉源太郎の海底ケーブル敷設について
まとめて書いたのは不肖当ブログだけだったようで、
改めて読んだら我ながら内容に感心してしまったので(笑)再掲しておきます。

「児玉ケーブル」と「光海底ケーブル」



しかもこちらも「はりま」同様、その実態については
何も公表されておらず、「謎の船」なのだそうです。

つまりここは潜水艦始め、秘匿性の高い艦船をまとめてあるってことらしいですね。



アレイからすこじまのある港は、呉海軍墓地を抱く住宅街の連なる
屏風のような斜面から一望できるのですが、(造船ドックも見下ろせる)

「あのへんの家には中国人が住み着いてるんじゃないの」

と同行者の一人が言い出し、皆眉をひそめて頷きました。
横須賀の海自基地を見下ろす高層マンションを中国人がどんどん買っている、
という話も聞いたことがありますが、なんとかならないんでしょうか。

「何か理由つけて制限すればいいのに」

昔は呉も横須賀も地図に載らず、住居はもちろん立ち入りさえも制限されていたそうです。

同行のおじさまたちは、さらにここにあった観光案内の看板に、
中国語とハングルが書かれているのに甚くお怒りで、

「こんなもんなくてよろしい」

「日本語が読めないんだったら英語を読めばいい、目障りだ」

とそれを指差してぶつくさ言っておられました。
わたしも、あのおでんみたいな象形文字が日本語と同じ大きさで
まるでこの国の言葉のように併記されている看板などを見ると、

「なんで少数旅行者のためにここまでしなきゃいけないんだ」

とうっすらと不愉快になることがあるのでその気持ちはよくわかりますが。




潜水艦基地には道向かいの潜水艦隊から歩道橋を通って
外に出ることなく隊員が岸壁にたどり着けるようになっています。

鉄の門扉は常に閉ざされ、何人たりとも近づくことができないよう
潜水艦の前では警衛がいつも見張りをしています。

もちろんこの鉄条網によって夜間こっそり忍び込むことも不可能です。



見ていたら潜水艦の向こうに水煙が上がっているのが確認できました。

「見に行っていいですか」

皆さんに断って、何をしているのか正面に移動してみました。
これは朝の始業点検みたいなものですかね?
水煙だけでなくよく見るとずいぶん水を吹き出しているように見えます。




岸壁に沿って散歩道が敷かれ、ここが呉市の整備する
観光スポット的な扱いとなっているのは、いまだにこのような
昔のレンガ倉庫や工廠だった建物が残っているからです。



この建物の横にはコンビニがありましたが、そこから建物側面を見ると、
爆撃を防ぐために窓ガラスを外して塗りつぶしてしまったらしい跡。

レンガの隙間から草が生えている様子に、古い建築物フェチのわたしは
もう陶酔してしまいました。



レンガの建物といえば、呉地方総監部で行われた慰霊式のため
上から入場して坂を下っていったところにこんなレンガ棟があります。

あせって移動しながらも機密に抵触しなさそうなこういう場所を
歩きながら素早くシャッターを切っておきました。
クーラーもありますし、これどう見てもまだ現役ですね。



そしてガラスの歪みから、これらはまず間違いなく
戦前から呉鎮守府として機能していた海軍の建物でしょう。

本当は感激している場合ではなかったのですが、
とりあえずこのようなものを見られたのは間違いも怪我の功名でした。

一応自衛隊内部なので、建物の後ろに写っていた構造物は
Photoshopで綺麗に消しておきました。 
初心者なのであんまり上手くないですがお許しを。




昔地下防空壕につながっていたのかもしれません。
そういえば、慰霊式のとき、儀仗隊は会場横の防空壕みたいなところから
いきなり出てきたのでちょっと驚きました。

奥が地下3階くらいの秘密基地の入り口になってたりして・・・。



もう一つついでに呉基地内から撮った呉港。
昔ここに「さみだれ」を見に来たことがありますが、そのときには
ここに泊まっているのは掃海艇だと思っていました。
いまなら一目でこれらが支援船であることがわかりますが。 

ちなみにここに見えているのは

水中処分母船(YDT04)

EOD、つまり水中処分隊の輸送と作業支援を行う船。

曳船(YT65とYT73)

自走重油船 25型 ( YO44)


アレイからすこじまの道を隔てて向かいのコンビニには
呉土産が置いてあります。
同行の方はここでお土産を買い込んでおられました。

さすがに潜水艦基地の前だけあって、

潜れ!ぼくらの潜水艦ケーキ

なる自衛隊みやげがあります。
レモンケーキだそうですが、シェイプが潜水艦の形をしていたら
大変評価できると思います。
「!」がよく見ると潜望鏡の形をしているのと、
商品名の「潜れ!」がなんかじわじわきますね。



その横にあったこの商品、「近大マンゴーのぷっちょ」。
わけがわからなくて後ろを読んでみたら、このマンゴー、
近畿大学附属農場湯浅農場で栽培されたもので、デパートなどに流通しています。

平成4年から主に、関西の百貨店を中心に販売されていて、今年で25年目。
毎年、同大学農学部農業生産科学科、バイオサイエンス学科や
応用生命化学科の学生たちが農場実習の一環として、栽培・収穫に携わっています。
今回も約100人の学生がこの"近大マンゴー"を作り上げたということです。

ちなみにお値段は一個3〜7000円だそうで・・・・高っ。

カリフォルニアじゃ一個1ドルからせいぜい2ドル台ですぜ。



さて、そんなこんなですっかり満足したわたしたちは
本日の会場である呉教育隊に向かいました。

車の方は前もって駐車票を取っておられたので、
ダッシュボードを確認しただけでノーチェックで中に入れました。


この中に入るのは二度目ですが、そういえばその時も
ここ呉は結構激しい雨だったんだわ。
そのずいぶん後の呉地方総監表敬訪問の時も雨。
「いせ」で行われた戦艦「伊勢」慰霊式も見事に雨。
「ふゆづき」の進水式はむちゃくちゃ雨。(全部別の日)

やっぱりわたし+中国地方=雨であり、前回今回の
後半の晴れは、式典でも「晴れ男」だといわれていた呉地方総監の
パワーがそれに打ち勝った結果なのでは、と真剣に思えてきました。



会場はこの体育館です。
テントで受付をすると、名札をもらえますが、その裏には
式典会場での席がちゃんと記されていました。



土足で全員が上がれるようにシートを敷き詰めています。



整然と並べられたパイプ椅子はにはそれぞれ番号が振ってあります。
偉い人順に前からきっちりと全員の席次が決まっており、
こういう準備を遺漏なく行うことはさぞかし大変なことだろうと感心しました。



自分の席を探しながら後ろから歩いて行ったら、
なんと、結局こんな前に来てしまいました。
これは断じてわたし自身が偉いからこうなったのではありません。

いろいろと事情があって、今回、「偉い人の代理」という立場で
出席することになってしまったというだけのことなのですが、
その偉い人が半端でなく偉い人だったので、結果として前後左右、
政治家やら各界のトップやらのおじさま方に囲まれてしまい・・。



そうこうするうちに呉音楽隊がスタンバイを始めます。

さて、こんな身分不相応な扱いを受けることになった自衛隊記念日式典(笑)
どんな出来事が待ち受けているのでしょうか。


続く。



 

進水式の支綱切断〜潜水艦救難艦「ちよだ」進水式

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10月17日に行われた潜水艦救難艦「ちよだ」の進水式。
無事に支綱切断は行われ、巨大な艦体は音を立てて滑って行きました。

「ふゆづき」のときに出席された方が、「ものすごい音だった」
と言っていたのでちょっと身構えていたのですが、実際は
騒音についても考慮されているのか、意外なほど静かなものです。

切断をする台が下から見えたわけではないので、どのような部分を
どうカットするのかわかりませんでしたが、槌が降ろされると
同時にあれよあれよとくす玉が開き、そこからシャンペンの瓶が
自動的に舳先に叩きつけられ割れる仕組みになっているようでした。

たった一枚とった写真を最大活用(笑)

これはシャンパンを破るためだけに考案された仕掛け。
切断とともに紐が切れ、紅白の布で包まれたシャンパンの瓶は
振り子のように振り下ろされて、舳先に付けられた
「シャンパン割り場所」ともいうべき部分に当たります。
人間の手でやるのと違って、まずこれだと失敗することはありえません。

シャンパンが割れた瞬間、艦体に叩きつけられたように見えましたが、
ちゃんと瓶を受ける場所があったのをこれで知りました。
シャンパンの瓶のかけらも布で包んであるので飛び散ることはありません。

昔は進水のときに艦体に叩きつける酒は赤ワインでした。
これは「いけにえの血」を意味していたのだそうです。
いつの間にかめでたい酒であるシャンパンを用いるようになりましたが、
この瓶が割れなければ不吉、とは大昔から言われていたことです。


「ちよだ」の進水を寿ぐ儀式についてのブログでなんですが、
その吉兆を占う儀式に失敗した進水式というのも過去ありました。

シャンパンの瓶を破るのに失敗し、そのせいか不運ばかりが続いた、
というので有名な例はなんといってもロシアの原潜K-19ですね。
映画「K-19 ウィドウメーカー」では進水式でこの失敗をしたのが
女性だったことになっていましたが、実際は男性が行ったそうです。

K-19が不運だったのは、本来女性がやることになっている洗礼を
このときに限って男性が行ったからではないか、と後々まで言われたそうです。

あの映画では原子力事故だけしか描かれませんでしたが、
実際のK-19が「ウィドウメーカー」(後家作り)と言われたのは、
原子力事故(1961年)の後、米潜との衝突事故(69’)、さらには
火災事故(72’)と次々と大事故を起こしたからでした。

最後は91年にもう一度原子炉のトラブルを起こし退役していますが、
よくまあこんな潜水艦を30年も使い続けたものです。

結局「原子炉事故では8名が被曝して1週間以内に全員死亡、
火災事故では28人も亡くなった」というのに・・・。



最近ではミシェル・オバマが潜水艦「イリノイ」の進水のときに
艦体にボトルを叩きつけても割れず、やっと3度目に
自分自身がびしょびしょになって破ることができた、
というアクシデントが起こったばかりです。

First lady Michelle Obama christens Navy submarine
named after her home state of Illinois


「イリノイ」に今後何か起こったら「あの失敗のせいだ」
なんて言われてしまいますから、ぜひ無事故でいって欲しいものですね。


さて、今回の支綱切断からシャンパンが割れるまでの見事な
「ピタゴラ装置」を見る限り、日本の進水式では
あまり失敗というか事故は起こらなさそうなのですが、
この日同行した方は、進水式の失敗を目撃したことがあるそうです。

石原慎太郎が都知事であった時代、小笠原への交通手段として
高速客船「テクノスーパーライナー」が就航することになりました。
進水式ではその船には石原夫人が

「スーパーライナーオガサワラ」

と自ら名付け、テープカットも彼女が行ったということです。
おそらく、石原夫人は「こういうこと」をやってみたかったんでしょうね。

本来銀行や企業(つまり船会社のスポンサー)の妻か娘か姪が
行うことになっている進水式の命名&支綱切断。

夫がその決定者である都知事なら、自分にはこれをする権利がある!
とばかりに夫の職権を濫用したという批判もあったようです。
(週刊ゲンダイとかゲンダイとかゲンダイとかで)

まあわたしも自分がそういう立場になったとしたら、嬉々として
やらかさずにすむ自信はまったくありませんから、ここで
石原夫人を非難するつもりはありませんが、問題は本番です。



ここからはどこを探してもそういう記事が出てこないので、
現場でで見ていた方の目撃談となるのですが、とにかく、
このときのテープカット、1度目は失敗してしまいました。
とたんに、

「造船会社の社長が顔色を変えてすっ飛んできました」

オバマ夫人の失敗は周りのみんながニコニコと見守っており、
三回目の成功したことで終わりよければ全てよし、という感じですが、
縁起を担ぐ日本の企業としては顔色を変えてしまったわけですね。

「そのせいかどうかわかりませんがね。
この客船、結局就航しないまま船はドックに繋留してあるそうです」

「それはどこの・・・」

「玉野ですよ」

え、ということはその進水式が行われたのはここだったのね。

実際は、この運用にあたり10億〜20億の赤字が見込まれることになり、
しかも都はその援助を行わないことになったので、
船会社としてはとてもそんな事業に手を出せないまま計画は頓挫。

鳴り物入りで進水させた船も、ドックで無聊をかこつだけの存在になりました。

ところがそんなある日、東日本大震災が起こります。
彼女はこのとき進水以来初めての実質稼働となる航海を行い、そればかりか
宮城県石巻市の石巻港に停泊し、被災者に無料で1回当たり最大181人、
延べ2,400人程度を受け入れ、1泊2日でバイキング形式の夕食、
およびシャワーなどを提供する支援活動を行って人々の役に立ったのでした。


わたしにこの話をしてくれた方は「まだ玉野にいる」
とおっしゃっていましたが、調べたところ彼女はその後
江田島の解体業者に身柄を引き取られて現在内部から解体中だそうです。

まあ、とにかく一度は役目を果たし、有終の美を飾れてよかったですね。
建造費115億円がほとんど還元されなかったのは勿体無かったですが。



玉野では皇太子殿下のご臨席を賜り、進水式を行ったこともあります。
うーん、雅子妃殿下の姿がお見えにならないようですが(棒) 



このとき進水した船は「大成丸」といい、 東京海洋大学海洋工学部
(旧東京商船大学)、神戸大学海事科学部(旧神戸商船大学)、海技大学校、
商船高等専門学校及び海員学校の学生・生徒の航海実習訓練を目的として
建造された練習船です。




さて、あっという間に終わってしまった進水式。
沖を見ると、滑り出した艦体は、タグボートが二隻寄り添って向きを変え、
艤装のためのドックに運んでいくところでした。
(こういうシーンを撮りたかったんですけどね)

あとはここまで乗ってきたバスに乗って元来たところに。
控え室となった建物に隣接したこちらが祝賀会場となります。



ところで控え室の建物は昭和初期にできただけあって、
当時から内装を変えただけで使い続けている大変風格のあるものです。
階段の向こうをふと覗いてみると、そこはまるで昔の学校の
宿直室のようなコンロのある台所があったりしました。



入ってすぐのところに飾ってあったディーゼル機関の模型。
海上自衛隊の駆潜艇のエンジンとして採用され、昭和31年に
初号機が完成した

Mitsui B&W 635VBU-45 ディーゼルエンジン

です。
「かもめ」「つばめ」「みさご」などのかもめ型駆潜艇、
「うみたか」「おおたか」「わかたか」「くまたか」
などのうみたか型駆潜艇などに搭載されました。

この二階には前回来た時に写真を撮って皆さんにお見せした
三井造船の資料室もあります。
待ち時間に少し開けてくださったのですが、わたしは
靴を脱がなければいけないと知って(紐靴だったため)
脱いだり履いたりが面倒なのでパスしました。 



というわけで、次回は祝賀会の様子などについてお話しします。
さすがは造船会社の祝賀会、しかも海上自衛隊が執行者となっての進水式。
出されたお料理はどれも大変美味しかったですよ。


続く。


表彰式と懇親会(と愚直たれコンテスト)〜自衛隊記念日式典

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さて、というわけで自衛隊記念日の式典が始まりました。



まずは起立して国家斉唱。
このときに伴奏を行ったのはもちろん呉音楽隊ですが、
最初に呉地方総監が式辞の際こう述べられました。

「先日薨去された三笠宮崇仁親王に哀悼の意を捧げ、
本日の音楽演奏は国家斉唱だけにさせていただきます」

本来はその他の場面にも予定されていた音楽演奏は
「自粛」という扱いになった模様です。

そういえば、昭和天皇崩御の際にはその前後を通じ、
歌舞音曲の類を自粛するという空気が日本を覆った覚えがあります。



池太郎呉地方総監は最初に親王殿下に対する弔意を表し、
続いて海上自衛隊と三笠宮家との繋がりについて説明されました。

前にも一度書いたことがありますが、海自は練習艦隊の新幹部たちの
マナー講習をを昭和44年から三笠宮殿下から賜り、
平成になってからは親王殿下の孫にあたる遥子女王殿下、彬子女王殿下が
跡を引き継がれて現在に至るという深い関係を持っています。

それ以外にも両女王殿下には基地での行事へのご来臨、
ならびに講演を賜ることもあったということでした。

呉地方総監は、このあと、

◯呉地方総監部は鎮守府時代から121年の間、地元の人々とともにあった

◯近年様々な防衛論議がなされている状況であるが、その中においても
自衛隊は国民の期待と負託に応えるべく努力していかねばならない

◯わが国を取り巻く厳しい情勢の中、海上防衛を全うするためには
隊員一人ひとりが各自に与えられた任務を愚直に完遂していくことが不可欠である

と挨拶されました。
この「愚直たれ」は池新総監の座右の銘であり、当ブログでも
一度紹介させていただいたことがあります。

◯草鹿任一は兵学校生徒を前にこういった
「軍人として職責のために絶対必要なものは何か
心に嘘偽りがあって迷いがあれば戦いに勝つことはできない」
「海軍の敢闘精神とは真の正直であることである
正直者こそが真のリーダーになる」

◯愚直さとは草鹿中将のいう”真の正直さ”に相当する
生の保存という本能にすら打ち克ち、任務を全うせんとするならば
それはこの愚直さあってこそ可能である。

◯諸君とともに任務遂行のために愚直さを追求していく所存である





来賓の挨拶は政治家が三名続きます。
まず寺田稔衆議院議員。
見るからに官僚タイプだなあと思ったらやっぱりそうでした。

財務官僚時代には大和ミュージアムの創設に尽力しています。



宇都隆史議員はもうお馴染みです。(わたし的に)
ご存知のように宇都議員は航空自衛官出身。
外地でのご遺骨収集に関わる法制の整備に奔走したことについて
ある会合でお話しした時に、国民の一人として
わたしは直接お礼を申し上げたことがあります。

参院選当選後初めてお会いしたので、この日は
まず当選おめでとうございますと挨拶したところ、

「この度外交防衛委員長に就任いたしまして」

と嬉しそうに新しい名刺をくださいました。



森本信治議員は民進党の参議院議員です。

「民進党議員は一人しか慰霊式に出席しなかった」

と書きましたが、昨日の慰霊式に野党議員がどれくらいいたのか、
わたしはよくわかりません。

「法務大臣とは良いですね。二つ覚えときゃ良いんですから。
”個別の事案についてはお答えを差し控えます”
”法と証拠に基づいて適切にやっております”まあ、何回使ったことか」

という発言で有名になった柳田稔が慰霊式の弔電披露で名前を呼ばれていたので、
たとえどんな主義主張の人間にも招待状は出すんだなとは思いましたが、
この日民進党の議員が実際に出席していたのには少し驚きました。
挨拶の内容は忘れましたが、そんな変なことは言っていなかった気もします。

ただ、選択的夫婦別姓制度を熱心に推し進めていたり、
蓮舫や社会民主党党首の吉田忠智と連名で、集団的自衛権の行使容認を
支持しないようオバマ大統領に求める文書を在日米大使館に提出したり、
という人がここにいるとはねえ、と多少不思議な気はしましたが。

 

自衛隊記念日の主な行事は、自衛隊に貢献した
民間人に感謝状を贈呈することです。

この日表彰されたのは6名の方々。
賞状と盾を呉地方総監から授与されたあとは
こうやって全員が地方総監と並んで写真を撮ります。



功労の内容はいろいろで、例えばこの方は
元アナウンサーで、自衛隊員に「話し方講座」を行ったとか。

他にはJMUの人事で退職隊員を多く受け入れてくれた、とか。



こちらの女性の感謝状には、

「特に呉基地業務隊において休日や課業時間外も厭わず
四十四年の永きにわたって理髪店を営業され、当地区で勤務する
隊員の清潔なみだしなみの堅持と部隊全体の威容の保持に
寄与されるとともに、広島東洋カープに関する話題を通じて 
隊員間の融和保持に多大なる貢献をされました。

自衛隊記念日にあたりここに深く感謝の意を表します。」

とあります。
奇しくもこの日、ペナントレースを制した広島東洋カープは
日本ハムと日本シリーズの第1戦目に入ろうとしていました。

わたしは野球の動静については全く認識をしていなかったので、
カープが優勝したことも空港のポスターで知ったのですが。

カープはともかく、懇親会でこの方とお話ししましたが、
80歳になったら引退する、とおっしゃっていました。

新入隊員の時に頭を刈ってもらったたくさんの自衛官が
退官の時にもまだこの「理髪店のおばちゃん」は
現役で仕事をしていた(している)ということになります。



記念式典のあとは、懇親会のために講堂に移動しました。

わたしはただの一般人ですが偉い人の皮を被っていたため、
こんな上座に名札が置かれていて恐縮しました。
家に帰ってTOに

「右側が陸自の総監代理で左が検事正だったんだよ〜」

というと、

「検事正wwwwあんた一体何様www」

と爆笑されました。



しかしあちらもこちらも広くて立派な建物があるもんですね。
その広い会場を埋め尽くす招待客。

40代くらいの女性の一団がいたのでなんだろうと思ったら
みなさん防衛モニターの名札をつけていました。
なるほど、防衛モニターになるとこういうご招待があるんですね。



海上自衛隊のパーティというとかならず出現するのが舟盛り。
鯛のお頭が二匹も直立しております。

懇親会の最初に池総監が呉地方隊の先任伍長を紹介しました。



皆代わる代わる台の上に立ち、自分の関わる任務についての説明を行いました。

給油だけを行う基地で任務をこなしていたり、
エルキャックなどの整備を専門に行う部署での任務だったり。
巨大な自衛隊という組織が動いていくためには、
一般の目に触れないあらゆる部門にわたって、
その専門分野で力を尽くす自衛官の努力が必要なのです。



左端の女性は、呉地方隊の女性海曹の最高位。
左腕のマークが「洗濯板」だー。



本日の懇親会に出された美味しいお料理を作った料理人も、
こうやってちゃんと紹介されます。

潜水艦隊で出している焼きそばを作った、と紹介されている人もいましたし、
たしか一番右の隊員はカレーを監修された方。
 


「海軍カレーが出てますよ、行きましょう」

同行の方にこう誘われて(海軍じゃないし)まだ誰もいないうちに
早速一皿いただいてみました。

 

とにかくジャガイモの多さが印象的だった中辛のカレー。
大盤振る舞いで大変量が多く、これを食べきったら
あとはお刺身くらいしか食べられませんでした。



最後に挨拶された方は

「とにかく今海上自衛隊は隊員の募集に苦労している。
皆様もどうかご留意の上ご協力をお願いしたい」

ということを力一杯おっしゃっていました。 
そうじゃないかとは思ってましたが本当にそうなんですね・・。



ところで、「愚直たれ」をモットーとして就任した新呉地方総監。

今回わたしは自衛隊のHPに「愚直たれコンテスト」なるものをみつけました。
指導方針を広く告知しあまねく隊員に浸透させるための試みです。
てっきり「自分の愚直エピソード」を競い合う企画かと思ったら、

愚直たれコンテスト

・・・そっちかい。 

「厳正な選考」を行っている会議の真剣な様子がじわじわきます。
いやー、味見してみたいですねえ。「愚直タレ」。 

ちなみに結果発表。
「愚直大賞」ラベル部門とレシピ部門の表彰式の様子です。

愚直たれコンテスト結果発表&表彰式



ブルーインパルスと序曲「1812」〜平成28年度 自衛隊記念日観閲式

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一つのイベントについてあまり細々話をしていると、
秋のイベントシーズン、次から次へと話をすることが増えてしまい、
エントリの掲載に支障をきたすことがわかってきました。

というわけで、今日は陸自主催の観閲式について
最後までお話ししてしまおうと思います。

車両行進のあとのプログラムにはただ「展示飛行」とだけ書いてありました。
展示飛行と観閲飛行の違いってなんなんだろう、
と思っていたら、こちらはなんと、ブッルーインパルスの演技だったのです。



前回も前々回も予定すらされていませんでしたし、
今回ブルーが来るという予告にも全く気づかなかったので、
(そもそもプログラムに書いていない)
6機の「ドルフィン」が会場に飛来した時にはちょっと驚きでした。





いきなり2番目のプログラムにスランテッド・ハートきました。

 

水平のハートにはキューピッドの矢は刺さりません。
まあ、総理大臣観閲ということで堅くいったのでしょう。

ブルーの演技はNikon1で撮っていましたが、
ハートを描くために飛行機が離れだしたのでコンデジに持ち替えました。



続いてファンブレイク。



あまり覚えていませんが、ロールしながら飛んでいた気がします。

演技の間にクルーの紹介が行われていました。
防大が一人、一般大が二人、あとは航空学校卒でした。
隊長が日本体育大学出身とアナウンスされたとき、まわりから

「ほおおおー」

といった声にならない声が上がったのがなんかおかしかったです。
ちなみにもう一人の一般大出身者は明治でした。


 
この日も演技について説明のナレーションが行われていましたが、
それはクルーになって1年目の隊員が担当すると決まっているそうです。

ブルーインパルスの任期はわずか3年と決まっており、最初の1年は
訓練待機(TR)という立場で任務を習得する立場にあります。




レベルオープナーが本日の「締め」でした。



そういえば今日11月3日は入間航空祭ですね。



ブルーインパルスの展示飛行そのものも観閲式の「トリ」でした。
これをもってプログラムは終了。

まず儀仗隊が観閲大の前に整列します。



安倍総理はシルクハットを左胸に当て、稲田防衛相は
右手を左胸に当てる姿勢で降納を見守ります。


 
国旗降下は君が代で行い、儀仗隊とともに喇叭で退場します。
この前に観閲官はじめ来賓は車とバスで退場。
安倍首相の車には手が振られ、「安倍さーん」という声もかかりました。
スモークガラス越しに手を振っている首相が確認できました。



さて、ここからは観客を一気に帰らせないため(たぶん)、
しばらくの間エンターテインメントが行われます。
まずは高騰工科学校の儀仗隊によるファンシードリル演技。



高等工科学校は前述したように

「陸上自衛隊少年工科学校」

から2010年に改編になりこの名称に変わりました。
2回前の陸自主催の観閲式のころ、わたしは

「観閲式に行きたいけどどこに頼めば行けるのかしら」

などと他人事のようにここに書いた覚えがありますが、
(あれからもう6年経つんですね)
その年の3月にこの改編が行われ、民主党政権下で行われた
あの最初で最後の()観閲式においては、「高等工科学校」として
初めて朝霞を行進したと言うことになります。



かつて彼らの身分は「自衛官」とされていましたが、
改編時に防大生と並び「自衛隊員」になりました。

「自衛官」と「自衛隊員」が同じものだと思っていた方はおられませんか?

簡単に言うと自衛官は制服を着ている「武官」、
自衛隊員は防衛事務次官などの官僚や一般事務官・技官(いわゆる背広組)等、
自衛官候補生、即応予備自衛官、予備自衛官、予備自衛官補のことです。

ここに防衛大学校学生、防衛医科大学校学生、そして彼ら、
陸上自衛隊高等工科学校生徒及び非常勤職員も含まれるということになります。

つまり改編前、彼らはいわゆる「制服組」とされていたことになります。



「陸上自衛隊」と頭についているので、卒業したら自動的に
彼らは「陸曹」の身分が与えられるわけですが、防大に入ったり、
あるいは航空学生になることで、海上、航空自衛官に進路変更することもできます。

 

防大とおなじくクラブ活動は必須です。
ここでドリル演技をしているのは「ドリルクラブ」の生徒たち。
ドリル部を含むロボット研究部・吹奏楽部・和太鼓部のことは
「特定クラブ」といい、このいずれかに属していればこれだけに専念できますが、
これ以外のクラブに属する場合は、体育クラブと文化クラブ二つを
掛け持ちしなければならないという規則があるのだそうです。



皆さんお上手で最後までほぼノーミスの演技でした。
ほぼ、というのは一番最後に一人が銃を落としかけたのですが、
ちゃんとフォローして無事にリカバーしたからです。

その生徒には皆の温かい拍手が送られました。



お上手!



敬礼しながら銃ぐるぐる回しをなんと全員で。



続いては自衛太鼓の演舞です。
朝霞振武太鼓以外にも「アルプス太鼓」が松本駐屯地から見参。

 

黄緑に赤いラインが自衛隊音楽まつりでも印象的。
北富士天王太鼓。
陸自北富士駐屯地は山梨県の文字通り富士山の北に位置し、
総火演でもおなじみ第1特科隊を擁します。




音楽まつりでは武道館全体が太鼓の振動で地鳴りをおこすほどです。



どんな瞬間を写真に撮っても皆のポーズが異様に決まっています。



この腕の筋肉を観よ。
きっと腹筋なんかもバキバキに割れてたりするんだろうなあ。



さて、いよいよ演目最後は陸自音楽隊合同演奏。

「チャイコフスキー作曲、序曲『1812年』です」

と曲目がアナウンスされた途端、知り合いのいる黄色席に座っていたわたし、
脱兎のごとく最上段に駆け上ってカメラのモードをビデオにしました。



ナポレオン軍をロシア軍がやっつけていく様を表し、
チャイコフスキーがその譜面に実際の大砲を指示しているこの曲。
ときおり陸自では音楽隊と120迫撃砲のコラボをやっています。

 

実際に自分がこの演奏に立ち会えるとは夢にも思っていませんでした。

 

動画を撮りながらのシャッターなのであまりいい画質ではありませんが、
砲火の瞬間が撮れました。

[HD] 1812 Overture - Tchaikovsky - with JGSDF 105mm Cannons 2010


大砲出演の部分だけ抜粋した映像が見つかりましたのでどうぞ。
砲員たちの動きがとにかくかっこよくて思わず見入ってしまいました。



続く。

 

平成28年度入間航空祭〜午前の飛行展示

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11月3日というのは、

「その前後の日と比べて偶然とは思われない程の高い確率で晴れになる」

特異日です。
入間航空祭が例年この日に行われるのも1年に4回しかない
晴れの特異日でありかつ祭日であるからです。

今年の11月2日つまり前日、航空祭の招待券をいただき、
行くつもりになっていたところ、結構厳しい雨が降ってきて
次の日も午前中は雨、という局地予報を見たときには
珍しいけどこういうこともあるのだなと思っていたら、結局
特異日の特異日たるゆえん、予報は早々と更新され、
航空祭当日の早朝にも全く持って行った傘は必要なくなりました。

そして雲ひとつない秋晴れです。

ちなみにこの「特異日」のことを英語でシンギュラリティといいますが、
これは「確率が高い」という意味ではなく、ある気象状態が、
「その前後の日と比べて」大きな確率で現れる日のことです。
つまり晴れの多い季節で前後にも晴れが多ければこう呼ばれません。


さて、今回わたしは招待客用入場券をいただいたので、
一人で行動したのですが、最近の異常な「早乗り」が習い性となったのか、
4時台に家を出ずにはいられず(笑)6時半にはすでに現地におりました。

去年招待券を持っていたら正門の脇の小さな門から別に入れたので
どうしようかなと思っていたのですが、今年は稲荷山門で待つ人が
去年の推定3分の1以下になっていたので、結局皆と一緒に入りました。

招待者用のテントに行くと、そこでレセプションに参加か否か聞かれ、
参加するのなら三千円也を支払って胸にリボンをつけてもらいます。

「このリボンが無くなったらスタンド席には入れませんので」

念を押されて、エスコートの自衛官に招待席まで連れて行ってもらい
まだ選び放題のシートに落ち着きました。



今回はスタンド最上階に座ってみました。

前に並んでいるC-1の前で取材用の撮影を行っています。
今日のプログラムに空挺部隊の降下があるのですが、
第一空挺団の隊員とそれを輸送するC-1の機長がガッチリ握手、の構図。

陸空の広報が付き添っていますね。

招待席は椅子に座れるのでシートを広げることもできない
エプロンに比べるともう天国のようなのですが、
(招待券くれた方、心から感謝しております)
ただ、ブルーインパルスの地上での様子は全くわかりません。

 ウォークダウンなど気配さえもわからないくらい遠くです。

整備中のT-4の向こうのCH-47Jが展示準備中。
ノーズの先にある赤い大きなバケツにご注目。



U125Aが一番に離陸を始めました。



T-4のクルーが登場してキャノピーを閉じています。



最初はCHの模擬消火展示でした。
先ほどの大きな赤いバケツを空輸しています。
U125Aが消火する場所を偵察して指示します。



バケツがひっくり返っていないのにどうして放水しているのか
仕組みが説明されないのでわかりませんでしたが、もしかして
原子力事故の際福島で陸自のCHがやらされたあれと同じ方法では・・・。

かなりの水量(たしか18トンとか)なのにそう見えません。



後ろを向いたチヌークの後部が開いていて人の姿が見えます。
バケツを監視する人?



救難展示、続いてはUH60J。
それはそうと、向こうのビルの屋上に見物人がたくさん・・。
これは絶好の見物ポイントですね。

今マップで調べてみたらここには狭山区役所が・・・。



空自ではどう言っているのか知りませんが、陸自でいうところの
リペリング降下をした隊員が、引き揚げ用の担架に人を乗せ、
自分も一緒に引き揚げてもらうの図。



担架を先に収納してから引き揚げてもらいます。



最後にお辞儀をして退場しました。
礼儀正しいロクマルさん(UH-60Jの愛称)です。



離陸前のひととき。
機体の整備をするクルーの紹介も行われ、整備機体には
整備する係の名前が書かれることも説明していました。

入間に最初に来た時にはパイロットの名前だと思っていて
読者の皆さんに教えてもらったりしたものです。



あれー?なんか見慣れないT-4がいる・・。

現地でも説明していましたが、この1機は「レッドドルフィン」仕様といい、
もともとは芦屋基地第13飛行教育団の機体だったものです。

第13飛行教育団のT-4の定数がカリキュラムの変更で削減され、
浜松基地第1航空団にそのうちの何機かが移動したのですが、
塗装を変えなかったので、通常塗装とレッドドルフィンが混在した状態なんだとか。



こちら通常塗装の浜松基地第1航空団機。
パイロットが手を振ってくれています。



こちらは後席のクルーが両手を振ってご挨拶。
T-4部隊の紹介に、たしか

「経験を積んだツワモノです」

みたいな台詞があったのですが、皆ベテランなんですよね。



CHの搭乗員を乗せた車が到着。
一番愛想よく観客に手を振っていた人。



こういうシーンが見られるから航空祭は好きです。



搭乗前の各種打ち合わせも和やかに。



こちらにも敬礼している未来の女子自衛官。



いよいよ離陸が始まりました。
まずは2機が同時にテイクオフ。
669のパイロットは646の方を見ているようですね。



完全にシンクロしていて1機にしか見えません。



レッドドルフィンも発進。



赤の塗装を施しているのは、通常のT-4が尾翼の先端に
視認しやすい蛍光色の赤を塗っているように、視認性のため。

T-4は練習機なので、視認性第一なのです。



最初は4機編隊での飛行。



そのときエプロンを空自制服の一団が通り過ぎました。
中に美人な隊員がいる気がする・・・。



T-4演技中ですが、C-1がタキシングを始めました。
結構煙がたつもんですね。



この角度から見るとこの飛行機は猛禽類そっくりです。
体は大きいですが、駆動性にも優れているのです。



こちらラストの〆に入ったTー4軍団。
1機ずつひらりひらりと垂直降下していきます。



そのとき一瞬ですが機体は斜め上を向いた状態になります。



そして演技を終わって帰ってきたT-4。



結構長い間後輪だけで滑走路を走ります。
お疲れさま〜。



続いてはC-1。



わたしがよくこんなものが空を飛ぶなあ、と思う飛行機ナンバーワン。
しかも結構これで身軽だっていうね・・・。



なぜかいつもC-1と行動を共にする U-4も離陸。
全然同じジャンルの飛行機?と思えないんですが、
この理由をどなたかご存知のかたおられますか。



そのとき滑走路向こうをオイルタンクを積んだトラックが通りました。
あっ、「ブルーインパルス」って書いてある!



C-1が全機飛び立ち、どこか海の上で編隊を組んで
もう一度入間上空に帰ってくるまで結構な時間が必要でした。
というわけで、その間エプロンではミス航空祭の皆さんがまず
一人ずつご挨拶をしたようです。

ようです、というのは、わたくしこの間しばらくの間
猛烈な眠気に勝てずに目を閉じて仮眠を取っていたものですから・・。

ちなみにこのミス航空祭は、この中からさらに「ミス」「準ミス」
を選んだりするわけではありません。
賞金が出るとか水着審査があるとかそういう殺伐としたものでもなく、
いかにも空自らしい華やかなイベントとして地元に親しまれているようです。



とかなんとかやっていたら、C-1の編隊飛行、キター。
あの大きな機体のC-1がこんな編隊を組んで・・・・。



壮観です。



横から見たC-1、何かに似ていると長年思っていたのですが、
あれですよ、あれ、お座敷芸の「シャチホコ」。

参考画像



にてねーよ!ちう声も聞こえますがあくまでも個人的な感想です。

続いてC-1からの空挺降下が行われます。
まずお試し降下として一名だけ。



普通降下で用いられるゴールドの傘での降下です。



地上では落下目標と風向きを示すためにスモークが焚かれています。
見事そのスモークの真ん中に着地。

スモークの向こうにはちゃんと消防車も待機しているという。



続いては10人くらいが降下を行いました。
まず最初の人。



飛び降りるときには両手を胸で組むようです。



続いて二人目。

何回飛び降りてもこの瞬間は怖いだろうなあ・・。



10個の傘が開いているところに、別のC-1が低空飛行でやってきました。

「あぶなーい!」

「低すぎるよ、低すぎる」

「傘にぶつかったらどうするの」

皆口々に心配していましたが、実はかなり向こうを飛んでいます。
ブルーインパルスのすれ違い演技と同じで目の錯覚を利用しているんですね。



鈍重な体型のC-1の中をツバメのようにスイスイと飛んでいる
(ようにみえる)U-4。
要人の輸送に使われることも多い飛行機です。



しかし何を思ったか(笑)垂直になってみせたりするC-1。
君らの見かけによらない軽快な駆動力はようわかった。



はりきってこんなこともしてくれます。
これ、中に乗っているパイロット以外の人ってどうなってるんだろう・・。



演技を終えて帰ってきたC-1。
皆普通にランディング後の滑走を行いましたが・・・、



最後の1機が着地して短い距離で滑走を止めてしまう技を披露。

「どんな狭い飛行場でも着陸することができます」



そして全機でタキシングしつつ元の場所に移動していくC-1。
それにしてもこの轟音の中電話するのは無茶な気がするがどうか。


続く。



 

ブルーインパルス〜ウォークダウンからスローロールまで

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午前中のプログラムは終わりました。
いつもだいたい同じようなものだと思うのですが、
今年は例年にも増してあっという間に終わった気がします。

夢中で写真を撮っていると時間の感覚がなくなりますね。

前回の写真を見た方が「大きなカメラは体にきますので気をつけて」
とご心配を下さったのですが、入間航空祭に来るたびに
少しずつ撮影そのものによる疲労の度合いはましになっている気がします。

それと正比例して、写真の失敗率も随分低くなり、プロの人たちが
例えば広角と望遠をカメラ二台持ちするように、Nikon1とデジカメで
フォーメーションが広がったときに持ち替えるなどという、
初期からは考えられないような対応も取れるようになってきました。


今回両隣に座った夫婦はどちらも夫の方がハイエンドカメラ持ち。
右はNikonのD500(これはサブだと言っておられましたが)で、
左はキャノンの白レンズ。
どちらも奥さんはカメラには全く興味はなさそうで、ときどき
携帯で写真を撮っていると言う感じです。


こういうカメラを持っている人たちに結構ひどい目にあったという
過去の経験から、当初は少し身構えでないでもなかったのですが、
今回は嬉しい方に予想は外れました。

どちらの方とも和気藹々で会話が弾み、右の人には
ご自慢の野鳥の写真を見せてもらい、左の人とは撮影の合間に

「今のはうまく撮れましたか」

「まあまあです」

などと声を掛け合って楽しく交流しながらの撮影となりました。
こちらの人はフォーメーションがレインフォールなどで広がると、

「あああ〜おさまらなかったー」

と実に残念そうにし、2機がクロスしたときなど、

「失敗!撮れなかった」

と言いながらも撮ることを心から楽しんでいる様子。
どちらのおじさんも奥さんと普通の夫婦より仲良さそうでしたが、
”いいカメ爺と悪いカメ爺”の違いはつまりコミュ力にあるのかもしれません。


ところでわたしは、先ほども言ったように、ブルーインパルスの撮影中は
普通のカメラ好きがサブにするNikon1をメインにし、サブのソニーのRX100は
主に散開隊型を撮ることと、アナウンスされる説明の音声を
記録するためだけにずっと動画モードにしておき、
あとはレセプションや会場の様子などを撮るために使っていました。

実は今回、そのカメラを会場で落としたのです。


すべてのプログラムが終了したとき、

「今日は早めに会場を出て少しでも楽に電車に乗ってやるぜ!」

と招待会場から外に向かって線路沿いを歩いていてふと気づくと
右肩にバッグと一緒にかけておいたはずのカメラが、ありません。


カメラが落ちたのに全く気づかないというのもどうかと思いますが、
おそらく芝生の上に落として音がしなかったのでしょう。

気づいた途端、歩いてきた道を取って返したのですが、見つからず。
そこここに立っている自衛官のうち一人を捕まえて聞いてみました。

「あのー、たった今、道の途中で落し物をしたみたいなんですが、
どうしたらいいでしょう」

「大事なものですか」

「カメラです」

「・・・・それは大事ですね」

自衛官はとりあえず近くのテントに届いていないかどうか確かめてくれ、
その後遺失物センターまでわたしを連れて行ってくれました。

先を行く彼の後ろを(早足なんで大変でした)小走りで追いかけ、
人ごみを縫うようについていくと、そこはなんとエプロンの向こう端。
本日立ち寄りもしなかった機内展示場とブルーインパルスの近くです。

ちなみにこの日、iPhoneのバイタルチェックを後で見ると、
1日の総歩数が1万8千歩を記録していたのですが、
このときの歩数が結構大きかったとわたしはいまでも思っております。


落としたばかりでまだ届いていないだろうなとは思ったのですが、
カメラの機種と名前、電話番号を紙に書いて届けておきました。

先ほどの道をもう一度探しながら歩くため戻ってみると、
案内してくれた自衛官がもうすでに元の場所に戻ってお仕事をしていました。

「さっきはありがとうございました」

声をかけると、

「ああ、ありましたか」

「届いてませんでした・・・」

すると、近くにいた彼の上司らしい人が

「例年次の日になるとものすごい量の落し物が出てくるんで、
今日なくても明日に電話してみられるといいですよ」

「はい、明日電話する番号もいただいてきましたから」

彼らにそう声をかけてもらうと見つかるような気がしてきます。
帰ってしばらくしたら携帯に着信記録が入っていました。
次の日番号にかけると、

「航空自衛隊です」

という返事。
なんとこちらがかける前に見つかった旨連絡をくれたのです。

あれだけの人がいるイベント会場でも落としたカメラがちゃんと届く。
ここが日本でしかも自衛隊イベントならば不思議なことではありませんが、
相談した自衛官の対応の良さも相まって感動もひときわでした。

それはともかく、長々と説明してきましたが、そういう事情なので、
午前中のプログラムについてお話しした後書くつもりだった
昼間のレセプション写真は、デジカメが入間から
着払いで週明けに帰ってくるまで見ることもできません。

というわけで、今日は午後からのブルーインパルス演技についてです。

13時05分からウォークダウンが始まりました。
こればかりはどんなことが行われているのかここからは見えません。

入間基地航空祭2016 ブルーインパルス・ウォークダウン ・飛行前点検・タキシーアウト 

ウォークダウンからの動画をどうぞ。
なんかみんな不思議な歩き方をするんだなと思ったのですが、
歩くとき手を動かさないのであんな風になるみたいです。
それから、クルーの敬礼が瞬間芸か?というくらい早いのも特徴。

理由はわかりませんがそういうことに決まってるんですね。
もうここから演技は始まっているという感じです。


 

映像には、彼らがGスーツをつけるところも少し写っています。
G-スーツは下半身を締めることによって、飛行中に
脳から血液が失われることを防ぎます。

タキシングは最初の離陸隊形のまま行われます。



ブルードルフィンが駐機してあるレッドドルフィンの横に差し掛かります。

それぞれの番号に搭乗するパイロットは決まっています。
たとえばこの1番機は編隊長、Leaderの搭乗機。

後席に乗っているクルーもいずれは編隊長として1番機を操縦します。
後席は手が空いているので両手を振る人が多いですね。 



アプローチを始める場所でスモークの点検が行われています。

まず4機がほとんど密集形のまま離陸。

ウォークダウンが始まった頃には招待席まで
航空燃料の独特の匂いが強く立ち込めていました。

密集隊形での離陸はそれ自体が大変技術を要するそうです。

まずはダイアモンドテイクオフ&ダーティターン。

4機のT-4がフィンガーチップフォーメーションで離陸、
エアボーン直後に4番機が機体を滑らしてダイヤモンドフォーメーションを組みます。

大きく旋回を行い会場正面より進入、後方へ離脱します。

なお、1番機はフライトリーダー、2番機、3番機はそれぞれ
レフトウィング、ライトウィングと呼ばれます。

4番機は「スロット」だそうですが、slot には中央の意味があるので、
おそらくこの隊形にも見られるように真ん中にいることが多いのでしょう。

まだこの時点では脚を出したまま演技を行っています。
正面から見ると着陸灯も点けて飛んでいるのがわかります。



5番機と6番機はこのあと2機で離陸しました。
5番機のことをリードソロ、6番機をオポージングソロといい、
どちらも6機の中でソロをとるパートのようです。

5番機は離陸後そのまま超低高度を飛行し、ハーフループを行い、
ループに達したらロールを行いながら降下し、水平飛行を行います。

先の4機が超密集隊形のファンブレイク。
お互いの機体の間は1mくらいしかないそうです。
高い技術と互いへの信頼あってこそのフォーメーション。 

チェンジ・オーバーターン。

5機で行いますが1機フレームアウトしてしまいました。
トレイル隊形といって縦に積み重なったような状態で進入し、
一瞬にしてこうやって編隊をデルタ型に組み替えます。

そしてそのまま大きく旋回。
旋回しながらだんだんと機体の間を狭くしていくのが見もの。

最終的にはここまで密集します。



ソロ機が急上昇後垂直降下。
インバーテッド&コンティニアスロール です。



降下後、連続ロールを行いながら会場を離脱します。

続いてレインフォール。

ご覧のようにこの日はまったく「ブルーインパルス日和」というべき
素晴らしく条件の良い空模様でした。
晴れ渡って雲一つなく、風もそんなに強くありません。

ループに入り、ほぼ下を向いたところでスモークがON。

そのまま大きく広がっていくのですが・・・・。

実際はわたしはこの直後カメラを持ち替え、
散開したスモークをデジカメで撮ったわけです。

んが、縷々冒頭で述べたように、デジカメは今まだ
入間航空基地の遺失物係にあるので、ここから先をお見せすることはできません。

演技後半のエントリ作成までにカメラが帰ってくるといいのですが。

気を取り直してもう少し先に進みます。
6番機、オポージングソロ機によるバーティカルクライムロール。 

ロールを行いながら急上昇します。

次も6番機によるソロ演技、スローロール。
ゆっくりと右ロールを行いながら左から右に抜けるこの演技、
飛行機にとって「ゆっくり進む」ということは大変難しく、
地味に見えますが高度なテクニックを要するのだそうです。



ロールしていると機首が下向きになるので、
この演技はやや上昇してから行うことになっています。


続く。


 


 

2016年入間航空祭 ブルーインパルス 後半

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2016年度入間航空祭におけるブルーインパルスの演技、後半です。

1番機から4番機までで行うチェンジオーバーループ。
まず4機のトレイル編隊で進入してきます。 


このときの密集隊形がもうほとんど触れ合わんばかり。
おそらく互いの距離は1mといったところでしょう。

トレイル編隊のまま上昇。



上昇しつつダイヤモンド編隊に素早くチェンジ。

頂点に達したら左に捻り込みながらロール。

続いてレターエイト。
4機で進入し、1機だけが編隊を外れ、3機とは反対方向に円を描きます。



こうして全く違う方向に外れていってしまい、1機と3機が描いた円が
8の字型になるところからレター8。 

円を描き終わった4番機はいつの間にか3機に追いつき、
ダイアモンド隊形を整えるというもの。

ちなみにこの写真でスモークを消しているのは1番機で、
追いついた4番機は皆と一緒にスモークを出しています。 

追いついた後は密集隊形で離脱。

続いては5番機と6番機で行うオポジット・コンティニュアス・ロール。

高速で交差するのは一瞬なので今まで撮れたことがなかったのですが、
今回は一機のロールする様子を追いながら撮影し、
すれ違う少し前から連写のシャッターを押し続けたのが正解。



正面から見るのとは違った角度なので、両機が実は前後に離れて
クロスしていることがよくわかりました。

3機に見えますが4機で行っているフォーシップ・インバーテッド。

1、4番機がまず同時に背面になり、続いて2、3番機が背面になったところ。



全機が一斉リカバリーを行ったところ。
スモークの形でロールしたことがわかります。

続いては5番機と6番機。

背面を合わせて飛行します。

「まるで水に映った影のようにぴったりと飛ぶ様子をご覧ください」

というアナウンスがありました。
この写真を見ると、地面から見て完全に同位置ではなく、
少しですが手前と向こうに機体をずらして飛んでいるらしいことがわかります。

気流のこととか、なにか安全上の理由があるのかもしれません。

 



ソロ演技も幾つか行われましたが、これはループだったかな。

続いてはワイド・トゥ・デルタ・ループ。
1番機から5番機までの5機が会場後方より間隔の大きな
デルタ編隊で進入してきます。



頭上を通過後そのままループに入りデルタ隊形のまま降下。

徐々に隊形を縮めていき、最終的にはここまでになります。



そこに6番機も加わって全機での演技。
デルタ・ループです。


 
4番機が「スロット」というわけがこれを見るとわかりますね。

そのまま全機で垂直上昇していきます。

6機でデルタ隊形を飛ぶときには、1番機はスモークを出しません。
スロットにまともにスモークをかけてしまうからでしょうね。



今回わたしが撮った中で会心の一撃というべきショット。(当社比)
ループで描く円は直径2kmの大きさだそうです。

バレル(たる)ロールを編隊を組んだまま行うこのフォーメーションですが、
バレルロールとは横転(ロール)と機首上げ(ピッチアップ)を同時に行うもので、
仮想の樽の胴をなぞるように螺旋を描くことからその名があります。

ブルーインパルスが「戦技班」という名称を持っていることからもわかるように、
航空機のマニューバとはつまるところ航空戦を想定しているわけですが、
例えばバレルロールは敵機の背後をとるための機動の一つとされています。



5機で行う上向き空中開花に入りました。

昔は下向き空中開花という演技がありました。
有名な話ですが、1982年、静岡県・浜松基地のエアショーで、
4番機がこの演技中に墜落、パイロットが殉職すると共に、
周辺住民に12名もの負傷者を出す大事故を起こしたことから
それ以来、演目から削除され実施されることはなくなりました。




デルタ隊形で上昇と同時にスモークON。 

隊形を維持したまま上昇。

徐々に花が開いてゆきます。
開ききったスモークの写真はコンデジで撮りました(T_T)

バーティカルキューピッド、スタークロスの写真もしかり。
カメラが入間から帰ってきたらまたお見せしようと思っております。 

ちなみにこれは今からハートを描こうとしている5、6番機。

今回は撮影には不思議なくらい失敗がなかったのですが、
肝心のカメラを落とすというありえない失敗をしてしまったわたしです。

5番機と6番機がまたもやデュオをしておりますが、
これなんでしたっけ・・・忘れました。
タッククロスのようにも見えますが・・・。 

ぴったり後ろをついているようですが、スモークを被らないように
絶妙のコントロールで飛んでいるらしいことがわかります。 

毎日これを鍛錬しているとはいえ、まるで神業のようです。



そしていつも演技の最後を締めくくるのがコークスクリュー。
5番機が背面で飛び、6番機はバレルロールをおこなって
5番機のまわりを螺旋を描くようにして飛ぶのでこの名があります。 

今回の撮影の反省点はこれでした。
2機の駆動を追いかけるあまり、スモークが「スクリュー」になっている
様子を撮ることができなかったのです。

ただ、これをうまく撮ろうと思ったら撮影の場所が
5番機の進行方向の延長線にあるのが望ましく、わたしのいた
エプロンの右端近くでは2機の駆動を真横から見ることになり、
どんなにうまく撮っても残念な構図にしかなりません。 

もう少し引きで撮らないとダメだったですね。

というわけでコークスクリューも無事終了。
バードストライクなどの事故もなくブルーインパルスの演技は終了しました。 



そして今度は1番機から順番にランディングして駐機場所に戻ります。
機体から降りるところも見逃すまいと待ち構えている人たちが
駐機場の前には分厚く人垣を作っていました。

最初に入間に来た時には人の頭の上から写真を撮ることもできましたが
今回は着陸を見届けた途端わたしは会場を後にしました。

このときにカメラを落とすという想定外のアクシデントがなければ
案外早くに電車に乗れたような気もしますが、結局遺失物せンターまで
歩いて、届出の後は元来た道を辿って帰り、 間違えて稲荷門から出たため
池袋行きの電車に乗れたのは夕日が沈みかけるころでした。 



車を停めた所沢駅からさらに家まで渋滞で2時間、
買い物をして家に帰ったときにはもうへろへろでしたが、
そんなわたしに次なる指令が下されました。

メールチェックをしたわたしを待っていたのは、
その次の日に横須賀地方総監部に入港する練習艦隊を出迎える、
しかも幹部の家族として・・というミッションだったのです。

この練習艦隊帰国についてはもう少し先にお話ししたいと思います。



 

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