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ブッシュネルの亀〜アメリカ潜水艦事始め

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潜水艦というものを最初に考え出したのは誰でしょうか。

グーグル先生によると、はっきりと名前が残っているのは

コルネリウス・ヤコプスゾーン・ドレベル 

というオランダ人だということになっています。
ドレベルは顕微鏡や望遠鏡などを発明した人で、イギリス海軍のために
1620年代に木製の潜水艇を世界で初めて考案しました。

これは今にして考えるとなかなかのもので、亀の甲らのような
木製の船の内部に革を貼って防水したものでした。
"nitre"(硝酸カリウムか硝酸ナトリウム)を加熱して酸素を作り、
櫂を漕ぐ16人くらいの乗員を乗せて数メートル潜行し、
3時間ほど水中に滞在することができたと言います。

ただしこれは実戦に投入されたわけではありません。

最初に武器として開発され実際に使用されたのが、
冒頭写真の「ブッシュネル・タートル」と呼ばれる潜水艇です。


空を飛びたいという欲望は純粋にロマンでしたが、
海に潜るための技術開発というのは、常に戦争がそれを
推進してきたという側面があります。

ドレベルの潜水艦もイギリス海軍のための発明でしたし、
ブッシュネルの潜水艇は独立戦争が開発のきっかけでした。

ニューロンドンのサブマリンミュージアムには、実物大の
ブッシュネルタートルの模型が展示されています。
中が見えるように壁をくりぬいたかたちで。

発明したのはコネチカットのデビッド・ブッシュネル。
1776年のことです。 

その目的は、水中からこっそり敵の船に爆弾を仕掛けることでした。

具体的な方法は船の船体に穴を開けて59kgの火薬を詰めた樽を埋め込み、
時限信管で爆発させる。
こんな大仕事をゴソゴソやっていたらたちどころに気づかれそうですが、
それを水中で行うというのが当時としては常識的にあり得なかったので、
とにかく最初はいけると思ったのでしょう。

この発明を大統領だったジョージ・ワシントンに進言したのは、
愛国者であり軍人であり政治家でついでに画家だったジョン・トランブルでした。 



使用法具体例。
赤白のボーダー柄のTシャツと変な髪型につい目がいってしまいますが、
作業を行なっているのはエズラ・リーという人物です。

最初の実験はコネチカットリバーで行われました。

のちにコネチカットに潜水艦基地ができたのも、
元をたどればブッシュネルがコネチカットの人間だったからに違いありません。 

なんだかとぼけた顔のおじさんですが、ブッシュネルの弟だった、
という説もあります。

ブッシュネル・タートルの断面図。


上部に爆薬の詰まった樽がついているのは、ハッチから体を出して
作業を行うからで、船底に取り付いてからは浮上することになり
潜水兵器というより時々沈んで身を隠すための潜水艇といった感じです。

ちばてつやの名作戦記漫画「紫電改のタカ」で、主人公の滝城太郎ら
飛行兵曹たちがなぜか秘密基地に送り込まれ、その島にいた
ヒゲの義足義手の爺さんに命じられて行う作戦というのがまさにこれで、
ボートで夜間米軍の艦艇に近づき、艦底に爆薬を取り付けるのです。

しかしこちらはただのモーターボート。
普通に考えて、錨泊中の艦艇に敵がボートが近づいていけば見張りに見つかります。
まだ「ブッシュネルの亀」の方が現実的に可能性があると思われます。
しかもこの作戦、爆薬を収めた金属のケースを磁石だけでは外れるので
艦腹にドリルでゴリゴリ穴を開けて設置しなければなりませんでした。

案の定艦長がそのゴリゴリに気づき、

「長年軍艦ニ乗ッテキタワタシノ勘ダ」

とか言い出すのですが、そんなもん長年乗ってなくとも皆気づきますがな。

確か、米軍艦を爆破することは漫画では成功したような覚えがありますが、
軍艦の艦腹に手で穴が開くかーい!とか、
そもそも紫電改のパイロットがなんでこんなことさせられとるんじゃー!
とか今にして思えばツッコミどころ満点な漫画でした。
面白かったけど。 

 

それはともかく、もう一度仔細に断面図を見ていただきますと、
いっちょまえに操舵、潜行用と推進用のプロペラ、
なんとバラスト(海水を取り入れて重力とする)まであって、
潜水艦の基本を一応抑えているといってもいいくらいです。

内部に空気を取り込むスノーケルもあって、基本この部分は
外に出ていましたが、いざ潜行すると30分は保ったそうです。

港に停泊している船がターゲットだったので、やはり活動するのは
滝城太郎の秘密部隊のように夜限定ということになりましたが、
問題はそうなった時に中が真っ暗で何も見えなくなることです。

ろうそくではすぐに空気を消費してしまう、ということから、
ブッシュネルは科学界の大物、あのベンジャミン・フランクリンに相談しました。
なんだか大物の名前がずらずらと出てくるので驚いてしまうのですが、
フランクリン大先生の解決策は、こういうものです。

「生物発光の燐光を使うのがいいだろう」

生物発光。

日本ならば蛍の光窓の雪ですが、この場合はフォックスファイヤーという
腐食した木に発生する真菌を用いたそうです。

ところが、フランクリンは雷には詳しかったけど、
生物学にはあまり詳しくなかったようで、 フォックスファイヤーは
温度が低いと光らなくなる、すなわち
海の中ではほとんど光らないということが実験でわかり、
そのことを知ったブッシュネルはフランクリンに聞きました。

「にいちゃんなんでフォックスファイヤーすぐ死んでしまうん?」

じゃなくて、

「にいちゃん他になんかいい方法知らへんのん?てか何とかして」

しかしながら、フランクリンはこの問いに知らんぷりんを決め込んだため、
ブッシュネルは

「冬にはこの装置は使わない」

という素晴らしい解決策を多分腹立ち紛れに見出したのです。

 

さて、それはどうでもよろしい。よくないけど。
とにかく、爆薬を敵の船に取り付ければいいんです。 

ちなみにこれが爆薬(マインとありますね)部分。
150パウンドの火薬を詰め、中心部には時限発火装置が仕込まれています。
タートルが海中に沈むとこの部分も水に浸かってしまうわけですが、
火薬が湿気たりする心配はなかったのでしょうか。

 

スーツに革靴の紳士が手で回して漕いでるし。

潮流がなければ時速4.8kmで進んだということですが、
30分しか沈んでいられないのですから、ちょっと問題ですね。

さて、この開発はワシントンの後ろ盾(というスポンサード)によって
行われたということですが、ブッシュネルはこれを秘密兵器として
秘密保護法を適用、じゃなくて秘密が漏れないようにとお願いしていました。

しかし、すぐにこの情報はニューヨーク議会の議員、イギリスの王党派スパイだった
ジェームズ・ボンドじゃなくてジェームズ・デュアンによって報告されていました。

その報告書には、イギリス本国に対してブッシュネルの亀が
ボストンに駐留していたイギリス艦隊への脅威となることが書かれていたそうです。

 

さて、ブッシュネルの亀はどのように実践に投入されたのでしょうか。

1976年、ワシントン将軍は、今や軍曹となったエズラ・リーに、
ニューヨークのガバナーズ島停泊中のHMS「イーグル」攻撃を許可しました。

(命じた、ではなく許可した、というのに腰が引けてる感じがしますね)

本人が残した文書によると、タートルは英軍艦のできるだけ近くまで
曳航されて近づき、上げ潮と川の流れが潮流を止めて艦体に取り付くことができる
2時間前から待機していました。

ここまでは完璧で、タートルは軍艦に悟られぬように接近できたのですが、
最初の爆薬取り付けは失敗に終わりました。

船殻が銅で覆われていたため、ドリルが通らなかったとする説もありますが、
それは最初から予測されていたことでもあります。

当時、イギリス海軍は、フナムシの付着を防ぐために船殻に銅を貼るという
ことをし始めたばかりでしたが、このころの銅は紙のように薄く、
ドリルで穴を開けることは不可能ではなかったはずでした。

それにもかかわらず失敗したというのは、大変残念なことに、
タートルが海面で安定しなかった(そりゃそうだ)ため、 
ドリルを回し船体に穴を穿つことができなかったせいだと言われています。
(同じ理由で”紫電改のタカ”の作戦も実行不可能だったと思うのはわたしだけ?) 

さらにエズラがどの部分にドリルを打つかの判断ができなかったのは、
彼が潜航中に二酸化炭素中毒になりかかっていて、
正確な思考ができない状態であったからではなかったか、
というのも後世の評価となっているようです。

さて、さすがにこの時代でも、エズラの行動は敵の察知するところとなり、
英軍兵士が小型艇を出して追いかけてきました。

亀、ピーンチ!

そこでエズラは、「トルピード」(魚雷)と呼んだ樽の爆薬を英軍兵士の
船に向かって「爆発するぞ!」とか言いながら放流したため、英軍側は
不審な漂流物に恐れをなして帰っていき、彼と亀が敵の手に落ちるのは回避されました。

問題は、放流した炸薬入りの樽です。

エズラの報告によると、この樽はどんぶらことイーストリバーに流れて行き、
そこでイギリスの小型船を爆破しました。

「爆発した破片を撒き散らす猛烈な威力であった」(本人談)

ということは、これを彼は見ていたということになるのですが、はてどこで?
亀の中からかな?
不安定で30分しか潜れないタートルで、エズラは爆薬を追いかけ、
イーストリバーまでこれを操縦していったということになるのですが、
誰もそれに突っ込まないのはなぜ?

ともかく、これが

「史上初めて潜水艦が艦艇を攻撃した瞬間」

ということにアメリカではなっているようですが、残念なことに、
イギリス側の記録では、

英海軍の船が爆破されたという記録も、HMS「イーグル」が
謎の潜水艇に爆破を仕掛けられたという報告もない

ということです。

昔は映像も残らないし、敵の記録と照合しようもない。
・・・・つまりエズラとブッシュネルは
ワシントンにお金を出してもらっている関係上、この亀が
役立たずではないことを何が何でも証明するために、
なかったことをあたかもあったように捏造したのでは?

と疑われますね。

わたしですらこう思うのですから、歴史家はもっと容赦なく、
イギリスの海事歴史家リチャード・コンプトン−ホールは、

「浮力の原理を考えても、この垂直プロペラが役に立ったとは考えられない。
またタートルは「イーグル」を攻撃するためには潮流を横切らなければ
ならなかったが、おそらくそれはエズラの体力的にも無理だった。

つまりこのストーリーは、アメリカ軍が士気鼓舞のために作成したもので、
もし本当だったとしても、エズラはタートルの中にいたのではなく、
覆いのあるボートに乗って見ていただけなのではないか」

という推測をしているということです。
まあ状況証拠からも限りなくクロですわね。

ちなみにアメリカ軍の潜水艦は、これから200年後の第二次世界大戦中も、
撃沈隻数とトン数を上げるため、存在しなかった日本の駆逐艦「岩波」を
撃沈したと報告するということをやらかしています。

 

さて、この攻撃から約一ヶ月後の1776年10月。
エズラ軍曹はマンハッタン島沖に錨泊した英海軍艦に
炸薬を取り付けることを試みました。

んが、見張りが彼を発見したので、断念しました。

そしてその数日後、ニュージャージーのフォート・リーで
「柔らかい船」(ソフトベッセル)がその上に乗り上げたため
沈没しました。

orz

ブッシュネルの記録によると、それを引き上げるとか引き上げたとか、
そういうことが書かれているそうですが、真相は謎のままです。

まあ要するに、この潜水艇の戦果は本人だけが証言している
イギリス船の爆破(しかも爆薬が流れていって爆発したという無理筋)
だけで、それも証拠なし、という結末に終わったのです。

スポンサーであり計画を後押しした(させられた?)ワシントンは

「天才の努力の成果」(an effort of genius)

としながらも、この試みが成功するためには

「あまりに多くの要素が必須だった」

と言っているそうです。
つまり

「発想は良かったけど、いろいろ無理すぎたね」

ということですな。


その試みを後世に残すために、 レプリカが作成され、ここニューロンドンの
潜水艦博物館に展示されたのは1976年、独立200年目のことでした。

そしてこの潜水艇にはもう一つ後日譚があります。

2007年8月3日、3人の男性がイギリスからやってきた豪華客船
RMS 「クイーン・メアリー2」にタートルのレプリカを一人が操縦、
二人が護衛してあと60mというところまで接近しました。

当然彼らはすぐに発見され、身柄を拘束され、タートルのレプリカは
ブルックリンのクルーズ船ターミナルに曳航されて停泊させられました。

タートルを作成したのは、ニューヨーク在住のアーティスト、
フィリップ・デューク・ライリーとロードアイランドの 2人の住人です。

沿岸警備隊は、「危険船舶保持」と「クイーンメリー2」への保安上
立ち入り禁止海域となっている区域への侵入でライリーを起訴し、
彼はニューヨーク市警察に逮捕されました。 

ライリーにどんな罪状が問われたかについてはわかりません。
ちなみに、この時作戦に加担したロードアイランドの住人の名前は

ジェシー・ブッシュネル(Jesse Bushnell)

と言いました。
お分かりと思いますが、彼はデビッド・ブッシュネルの直系の子孫です。

何やってんだ(呆)

 

 


 


京都お花見(+グルメ)旅行

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全国的に桜が満開になった先週末、恒例の京都お花見に行ってきました。
朝の「のぞみ」に乗って、昼前にはもう京都着。

新幹線に乗る前もすでに関東地方は雨でしたが、こちらも降ったり止んだり。
ということでタクシーでまず向かったのは、同志社大学。

ワンパーパスドーシシャでございます。

重要文化財になっている建物もいくつかある同志社キャンパスですが、
最近建築されたものも統一性をもたせて全てが煉瓦造りの洋風です。

この「寒梅館」が完成したのは2004年のことでまだ14年しか経っていませんが、
煉瓦造りのせいで大変風格を感じさせるたたずまいとなっています。

なぜわたしたちがここにやってきたかというと・・・、

法科大学院(つまりロースクール)などが入っている寒梅館の最上階には
「WILL」という名前のフレンチレストランがあるのです。

近隣や卒業生の主におばさまがたで週末は予約がなかなか取れないくらい
隠れた人気スポットとなっているレストランですが、
今回は早めに予約しておいたので窓際の上席に案内してもらえました。

眼下には同志社大学のキャンパス越しに雨に煙った京都の山々が見えます。

予約の時に頼んであったコースの前菜は菜の花のキッシュ。
ほろ苦さがキッシュと意外なマッチングをしています。

肉か魚か選べたのでスズキのメインディッシュを選びました。
肉厚で脂がよく乗った美味しいスズキでした。

食事の後、雨が降っているのでタクシーを捕まえ、

「桜の咲いているところを走ってください」

と頼んでお花見をしました。
運転手さんが走ってくれたのはまず鴨川から分かれる高野川の河原沿い。

川沿いの信じられないくらいの桜並木をお目当てに車が大渋滞しているので
窓を開けて桜を撮ることができます。 

ちょうど望遠レンズを持っていたので対岸のサギも撮れました。

高野川は東側に桜並木があり、西側の住宅沿いにはほとんどありません。

タクシーは高野川沿いを上っていき、北大路通りで左折し、もう一度鴨川の西岸を下りました。

河原にはお天気の怪しいのにもかかわらず、桜を見に来る人たちがいっぱい。
着物でキメて河原を歩くカップルもいました。

運転手さんによると、来週の火曜日までが見ごろだそうです。
つまり今日が今年最後の週末花見。

今や世界の人々が「京都の桜」を見にやって来るので、街全体が
外国人観光客で埋め尽くされていましたが、河原でシートを広げているのは
間違いなく日本人ばかりです。

河原では雨と雨の間隙を縫って、無理やりシートを広げ、お花見パーティをしているグループもあり。
楽しそうで何よりです。

桜の下をそぞろ歩く人、お弁当を広げる人。

個人宅の前の桜ですが、目をみはるほど見事。

着物を着て歩いている人もちらほら。
いつもは川の流れに向かって座るベンチも、今日は逆向きに座ります。

桜そのものを撮るのもいいですが、わたしは桜を楽しむ人が入っている構図が好き。

ここにも鷺がいました。

ご自慢のカメラを持ったご主人と奥さん。
走る車の中からの花見でしたが、すっかり満足です。

TOは用事があったため、もう一度乗ったところに戻り、
わたしと息子だけがホテルに向かいました。

梅田雲濱(うめだ・うんぴん)の屋敷跡の碑を車から発見。

梅田雲濱は幕末の儒学者で、安政の大獄の時逮捕され、
箒尻での笞打の拷問を受けても口を割らず、獄中で死亡しました。

そして夕食は、昨年秋オープンしたフォーシーズンズ京都へ。

近年世界中から観光客が詰めかけている京都ですが、それを受けて
大小のホテルがオープンしています。
フォーシーズンズ京都はリッツに続く5つ星ホテルのオープンです。

隣接地域には一部屋5億円のレジデンスもオープンしたそうですが、
売り出されるたびに売り切れていくのだとか。

食事に付いて来るパンのセットすらここではこの通り。
フォカッチャに桜味のバゲット、桜のバターを添えて。

家族で一番美味しいと意見が一致したモッツァレラチーズとトマト、マンゴーのお皿。

牛肉のタルタルは、乗せられた卵の黄身の色からして只者ではない感じ。

わたしが迷いなく選んだのは鴨のコンフィ。
リゾットとパリパリした食感のごぼうのフライが添えられています。
昼は魚だったので大丈夫!と思ったのですが、案の定多すぎました・・。

ホテルのロビーには何か石でできた花の形のオブジェが。
今回花見にいくことを思いついたのが直前だったので、
もちろんながらこのホテルは取れなかったのですが、ハイシーズンなので
そう大きくない部屋でも一泊15万円というお値段がついていたそうです。

明けて次の日。
わたしは一旦6時過ぎにiPadのアラームで起きたもののすぐに二度寝して、
今度起きたら10時という立派な朝寝坊でした。

起きてチェックアウトしていたらお昼になってしまったので、
昨日夜でしかも雨が降っていてよく見えなかった庭を見にもう一度フォーシーズンズへ。

オープンにあたっては贔屓にしていた東京のフォーシーズンズからたくさん
ホテルマンが移動していて、あちらこちらにおなじみの人がいましたので、
外のテラス席を取ってもらうこともできたのでした。
持つべきものはホテルマンの知り合い。

フォーシーズンズの敷地はずっと病院だったそうです。
ハイアットリージェンシー京都も昔病院だったそうですが、
病院跡というのはあまり家を建てたがらないため、ホテルが買い取ることが
多いということなのかもしれません。 

ゴミが投棄されていた元沼地、しかも空港騒音の緩衝地帯だったところに
学校が建つとロンダリングになって土地の価格が上がる、ということを
期待して学校法人に便宜を図って土地を売るようなもんですかね(棒)

 

しかしこの庭は、名のある(忘れた)人物の屋敷の一部で、実に800年昔に造られたものだそうです。

「そんな庭なのに、桜が一本もなかったんだ・・・・」

「桜をあえて植えないというのもポリシーがあってのことだったんだろうね」

ホテルができてから、建物側にホテルが植えた桜の木がかろうじて一本あります。
池の向こう側に見えるのは茶室。

ここでは軽いコースを取りました。
ポーチドエッグを潰してその黄身を絡めるマグロのサラダ。

デザートはざくろのメレンゲとキウイの乗ったパンナコッタ。
これは最高でした。

息子が隣で横で読んでいた本。

「The Sailor Who Fell From With The Sea 」

こんな三島由紀夫の小説あったっけ?と思ったら「午後の曳航」でした。

「こんなの読んでんだ・・」

「英語の宿題で読まないといけないんだよ」

宿題・・・・だと? (驚愕)

テラス席は今日のような曇りで暑くも寒くもない日には最適です。

日曜の午後でテラス席はこの通り満席です。

帰りに顔見知りのマネージャーとばったり会い、館内のスパを案内してもらいました。

「さっきご飯食べてたら庭を猫が横切りましたよ」

この写真で見える石の橋を猫が渡っているのを見たのでそういうと、

「あ、黒い猫じゃないですか」

「いえ、シマシマの」

「黒猫が住み着いているのは確認されているんですが、シマもいましたか」

「池の鯉を狙っていたのではなさそうでしたが・・・
鯉は1匹しか見ませんでした」 

「はあ、ホテルが落成した時、大成建設さんの方から鯉を50匹いただいて
放流したのですが、サギが来てほとんど食べてしまいました」

「あらら」

「じゃ、あの鯉はその生き残りだったんだ」

大きな鯉になってしまえばもうサギに狙われることもないのですが、
大成建設からもらった時には稚魚だったため、ほとんど鷺が
美味しくいただいてしまったということのようです。

 

当初食後は疎水に桜を見に行こうと思っていたのですが、ホテル見学に時間を使ってしまい、
タクシーの運転手さんが

「道が混むので新幹線の時間が決まっているんだったらやめたほうがいい」

というのでそこからは京都駅にむかいました。

智積院前を通り・・・、

博物館を右に見て、「うぞうすい」の前を通り過ぎ・・・。
七条通りの小さな和菓子屋さんの写真を撮りながら

「こういう店もちゃんとお客さんがきて生業が成り立っているのかな」

などと考えていると、女の子が二人店に入っていって
おばちゃんから桜餅を買って行きました。

暗くなりかかった頃帰宅。
週末一泊家を空けている間に、自宅の窓から見る桜がすごいことになっていました。

「京都の桜もすごいけど、実はうちの桜って最高だって帰ってくると思うよね」

なんか去年とその前の年も全く同じことをいった記憶が・・・・。 

 

 

 

 

 

対日戦の「バトルフラッグ」〜グロトン・サブマリンミュージアム

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コネチカット州グロトンにある「サブマリンミュージアム」の
展示から、今日は我々日本人にとって特に微妙な感慨を呼び起こす

「対日戦におけるアメリカ海軍潜水艦の戦果」

と、それを誇示するフラッグについてをお送りしようと思います。
冒頭写真の太平洋地図は

● 日本の貨物船

▲ 日本のタンカー

● アメリカの潜水艦

の戦没した場所を表しています。
戦艦の形は、レイテ、フィリピン、ミッドウェーなど、大きな海戦のあったところ。

Battle of the Komandorski Islands 

というのはアッツ島沖海戦のことです。
日本近海が赤丸で真っ赤に埋め尽くされています。
これほど多くの日本の貨物船が沈められたということに
改めて凝然としてしまうわけですが、これらの戦没のほぼ全ては
アメリカ海軍の潜水艦の攻撃によるものでした。

アメリカ側の記録によると、潜水艦が沈めた日本の軍艦は214隻、
商船や貨物船は「少なくとも」1,113隻だということです。

「潜水艦隊は、島国の「アキレス腱」である補給線を断つために
徐々に通商破壊を行なった。
1945年の春には、日本のほとんどの船は喪失していた」

ということで、この写真は「コンバットパトロール」、
哨戒をして船団を迎え撃つための作戦を練っているところ。

1943年には、米潜水艦部隊は、ドイツのUボートが行なっていた
「群狼作戦」の真似をして、

「ウルフパック」

なる3隻か4隻からなる部隊を組む作戦を開始しました。
それらのグループには、司令の名前を冠したあだ名がつけられました。

「バートの箒」「ブレアの爆風」「パークの海賊」

などなど。
箒というのは、潜水艦の「(海の)掃除」とかけてよく使われたようです。 

海上を航行するときには、見張りは途切れなく行われます。
右は USS「パーチ」艦上で見張りを行う乗員たち。

「パーチ」はウルフパックを「ピクーダ」「ピート」と
構成し(頭文字Pだから?)、最初の哨戒に出ました。

ちなみに左下は日本の商船が沈没していく姿を潜望鏡越しに
撮った写真のようですが、説明ではこの船の名前は「丸」となっています。

そんな名前の船ないっつーの。

しかし、アメリカ人は一般的に「丸」が最後につく民間船を
とりあえず全部「マル」と呼んでいたようですね。

 USS「トロ」の艦上にて。

「小さな船は魚雷が勿体無いのでデッキガンでやっつけた」

だそうですよ。

これは USS「シーウルフ」のクルーがデッキガンのアクション中。

 USS「ジャック」のクルーが甲板で誇らしげに見せている
「バトルフラッグ」。
つまり何隻日本の船を沈めたかをこうやって旗にしたり・・・、 

艦体にペイントしたりするわけですね。
上の「ジャック」民間船25、軍艦1。

「フラッシャー」は民間船14、軍艦2、帆船2(ええ〜?)
漁船2、という内訳です。

ちなみに、この「フラッシャー」が潜水艦としては撃沈したトン数が
第二次世界大戦中を通して最も多かった潜水艦となっています。 

 

帆船だとなぜわかったかというと、このチャートから。
バトルフラッグは哨戒活動を終えて母港に帰還するとき、
凱旋の意味を込めて潜望鏡に立てて戦果を誇示しました。

敵と戦うと同時に、彼らは他の潜水艦とその成果を戦っていたのです。

米潜水艦は信号旗を補修するためのミシンと布を搭載していて、
カリカチュアライズされた自艦の名前の魚が魚雷を抱いたりしている
トレードマークを作成し始めたのだそうですが、そのうち
これらのように戦果を見せるための旗を作り出しました。

 

上のチャートを見ていただくと、「帆船」=ジャンクを沈めたマークがあります。

当時帆船なんていたのか?とつい思ってしまいましたが、
戦時の日本船のリストを見ると、「帆船」「機帆船」も結構たくさんあるので、
おそらく彼らのいうジャンクとはこのことでしょう。

機帆船というのは、機械による動力付きの帆船です。
こんなものまで徴用して南方に送るというくらい日本は切羽詰まっていたのです。

支那事変が始まった頃から、昭和16、7年頃までは、 主として陸軍が
機帆船を徴用して揚子江やその他の水・海域の沿岸輸送を行なっていました。
その頃は勝ち戦だったので、船主と軍の契約に従い一定期間が過ぎれば、
徴用解除となって船も乗組員も無事帰還し、
村では凱旋将軍を迎えるようなお祝いをしてもらえたということですが、
日本が制海権を奪われ守勢一方になると事情は一変します。

例えば突然陸軍の下士官二人が乗船して来て、

「本船を陸軍暁部隊に徴用するために検船する」

と云って簡単に船を見たのち、 全員を船橋に集めて

「何か具合の悪い所があるか」

と形だけ状態を聞き、

「船・乗組員ともに合格、 明日朝8時に船長以下全員暁部隊に出頭せよ」

と一方的に命令して30分で引き上げるという有様。
機帆船の太平洋戦争) 
 

そして制海権も制空権もない、敵潜水艦がうようよしている海に
海防艦に守られて出て行くことになったのでした。 

 

アメリカの潜水艦では新しく若い艦長が赴任すると、彼らは全体的にアグレッシブに、
イケイケになり、もう目につく敵国船はジャンクだろうがなんだろうが
「掃除」(潜水艦が敵を掃討することをよくこう称した)して、
とにかくバトルフラッグを賑やかにすることに血道をあげたものだそうです。

戦艦や駆逐艦はともかく、機銃しか防御のない機帆船を撃沈することなど
彼らにとって鼻歌交じりの「楽しみ」ですらあったでしょう。

しかし、日本船が潜水艦に体当たりしてくることも多々ありました。
潜水艦は前述の通り、小さな船を狙うときには魚雷を使用せず、
デッキガンを撃ってくるために海上を航走してきたからです。

まさに「窮鼠猫を噛む」。
そんな時、賢明な艦長なら深追いせずあっさりと諦めることもあったようです。


さて、これらの旗の表示は正式なものではなく、狭いコミュニュティで
お互いにわかる信号に過ぎなかったので、同じ「軍艦撃破」でも
何種類ものフラッグがあるということになるわけです。

それにしても、「捕虜を捕まえた」という旗まであって、それが
「8」というのはどういう意味なんでしょうね。 

USS「シーライオンII」(SS-315)のバトルフラッグ。
 「II」は正式にはつかないのですが、初代艦長エリ・トーマス・ライヒ少佐
が過去にシーライオン (SS-195) に乗り組んでいたことから、
しばしばシーライオン II と呼ばれていました。

右上のシーライオンIIの獲物になった戦艦6隻の中には「金剛」がいます。
このときに「シーライオン」にはCBSの従軍記者が乗り込んでいて、
その瞬間が録音されています。

米潜「シーライオン」による戦艦金剛撃沈時の音声

バックスバニーをイメキャラにする潜水艦もありました。
「アポゴン」のバトルフラッグは半分の日本国旗が撃破を表しました。

叙勲されたサブマリナーの紹介コーナー、「オナーギャラリー」の上には
米潜水艦撃沈トン数3位だった「バーブ」の戦果が記されています。

「ラッキー・フラッキー」とあだ名された艦長、フラッキーの艦ですね。
魚のマークの上にあるひときわ大きい軍艦旗のマークは
空母「雲鷹」に違いありません。

日の丸の中央に矢が刺さっているのは陸地に対する攻撃で、
「SHARI」は北海道の斜里町、「SHIKUKA」は日本統治時代のサハリンポロナイスク、
当時の地名は敷香敷香町(しすか)町の間違い(笑)。

ウィキには記載されていませんが、ドイツ海軍の軍艦も沈めたようですね。 

 

 USS「ポーギー」SS-266のロゴは、哨戒中に行われた
「乗組員ロゴコンテスト」で優勝したホリス・ラーソンの作品です。

この優勝ロゴ(上)は、「ポーギー」の艦長ラルフ・メトカーフによって
ウォルト・ディズニー・スタジオに持ち込まれ、ディズニーのキャラクターが
ラーソンの作品に加えられて完成(下)しました。 

写真が鮮明でないので、こちらが乗員の作品。

こちらがディズニーが完成させた最終ロゴ。

フライング・タイガーのロゴもディズニーのイラストレーターの作品でしたが、
おそらくウォルト・ディズニー・スタジオは、これらの仕事を
バックスバニーやポパイの制作会社と共に率先して引き受けていたものとみられます。

 

続く。

 

 


 

第一明方丸の進水旗〜グロトン・サブマリンミュージアム

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サブマリンミュージアムに展示されている、第二次世界大戦中の
潜水艦が、対日戦の戦果を誇示するためにいつしか揚げるようになった
「バトル・フラッグ」についてお話ししています。 

館内の映画館で放映されていたフィルムより。

これはすごい。
 USS「トリガー」(SS−237)は12回もの哨戒に出て
(その間艦長は三人交代した)民間船を随分沈めたようです。

結局12回目の哨戒で「トリガー」は海防艦に撃沈され終焉を迎えましたが、 
11個の従軍星章、殊勲部隊章を三度受章しました。

撃沈の戦果は18隻、その総トン数は86,552トン。
これは、第二次世界大戦中のアメリカ潜水艦の公認戦果としては
どちらも第7位に記録されます。

オリジナリティを持たせようとして失敗した例(個人的意見です)。
日本の旗の代わりに額に日の丸をつけた髑髏をあしらってみましたー。

「ガトー」SS-212のバトルフラッグだそうです。

魚雷といい上に乗っている犬?狐?といい、
素人臭さがたまらんわー。

「シーフォックス」( SS-402)はバラオ級で、その名前の意味は
トラザメなんですが、クルーは「海の狐」といいたかったみたいね。
まあこれが狐だったとしたらの話ですが。


あの「クィーンフィッシュ」(SS/AGSS-393)が
緑十字船「阿波丸」を撃沈するという悪名高い国際法違反をやらかしたとき、
さすがのアメリカも慌てて、近くの海域にいた、この「シーフォックス」に
現場への急行と生存者の救助を命じたのですが、
「シーフォックス」が到着した時には海面には何も残っていませんでした。

ちなみにこのときの「阿波丸」の乗員2000名余はほぼ全員死亡しました。

「シーフォックス」は朝鮮戦争、ベトナム戦争にも少し参加し、
最終的にはトルコ海軍に譲与されてそこで就役を終えています。

上に写真のあった「撃沈トン数ナンバーワン」、
「フラッシャー」(SSー249)のバトル・・・フラッグじゃないですねこれは。

「フラッシャー」は、成績を上げるために駆逐艦「イワナミ」を撃沈した、
という虚偽の報告をあげるということをやらかしていますが、
右下の部分が「イワナミ」かな(棒) 

以前一項を割いて紹介した、英雄ハワード・ギルモア艦長と
その「グラウラー」のコーナーがここにもありました。
わたしは最近まで知らなかったのですが、もしかしたらアメリカでは
広瀬中佐並みの知名度のある軍人なのかもしれませんね。

潜水艦「グラウラー」とハワード・ギルモア艦長

コーナーのタイトルは

「テイク・ハー・ダウン」(TAKE HER DOWN! )。
=「艦を潜航せよ!」 

重傷を負った自分を収容せずに、敵から逃れて艦を潜航させよという言葉です。 

オナーギャラリーにはギルモア中佐の遺品の中にメガネがありましたが、
この写真は眼鏡をかけています。
アメリカ人の船乗りには珍しかったのではないでしょうか。 

映画にでもなったのか?と思ったのですが違うようです。
伝記や戦記に使われた挿絵と思われます。 

なんと「テイク・ハー・ダウン」という曲までありました。
やっぱり「広瀬中佐」みたいですね。
欧米の船乗りの歌らしく、8分の6拍子で書かれています。 

お節介かと思いましたが、コーラス部分から翻訳してみました。

 

TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN!

海の下は潜水艦の我が家

TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN!

至上命令は俊速なる行動 

1, もしその気になれば大海を余さず掃除し尽くす
そしてその箒で我が家に飛んで帰るぜ

2, 頭上の敵がくたばったら拳骨で殴ってやるぜ
奴らをデイビー・ジョーンズのロッカーに送り込んでやろう

そう、

TAKE’ER DOWN, down, down, down, down, down, down,

TAKE’ER DOWN, TAKE’ER DOWN !

 

デイビージョーンズのロッカーとは、「幽霊船の棺」
=葬ってやる、というニュアンスだろうと思われます。

楽譜の読める方は是非簡単ですのでメロディを追ってみてください。
"Take Her Down"は「テイク・ハー・ダウン」ではなく「テイカーダウン」と発音します。
くだらないのは歌詞だけではないのがお分かりいただけるかと思います(迫真) 

ちなみにその「グラウラー」 (SS-215)のバトルフラッグ。
ガイコツくんがかわE。 

「グラウラー」はギルモア艦長の戦死の時には帰還することができましたが、
その後船団攻撃中に海防艦の攻撃を受け、戦没しました。 

さて、この博物館で、わたしと一緒に見ていたTOが思わずその前で
言葉を失ってしまった旗があります。

おそらく米潜水艦に撃沈されたのに違いない・・漁船、
第一明方丸の従業員有志一同による進水祝いの旗。 

どうもアメリカ人はこの旗の意図するところを
判じかねているらしく、何種類もの翻訳を試みています。

1、祝 第一アケガタ丸
  (意味:初日の出の船)
  乗員一同

んー、まあこれが結果的に一番近かったかなという感じ。
ニアピン賞です。
もしかしたら日本人に翻訳させたのかもしれません。

ただし、これは「めいほうまる」と読むのではないかと思われます。 

 

2、無事の航海を祈る
  ボートの名前は「ナンバーワン」
  同じ任務、同じ目標、同じ意志
  団結し共に働くことを希望する

なんか意訳しすぎでわけわからんことになってます。
だいたい同じ任務とか団結とか一体どこから出てきたんだよう。 

 

3、第一アケガタ丸の進水を祝う
  一つの志の元に集う従業員

「有志一同」から勘違いしちゃった感じ?
もしかしたら中国人に翻訳させたんじゃないかな。 


4、「アーリー・モーニング・ドーン 」
  「丸」型第一号艦「アケ イチ ダイ」
   従業員一同より 

悪いけどこれ爆笑させてもらいました。
なーにが「丸」型第一号艦だよー。

あ!

これ、「丸 方 明 一 第」を左から読んだのか! 

方と型の漢字の違いがわかってなかった例?

 

5、進水おめでとうございます
「メイホー丸」か「アケガタ丸」 ダイイチ(ナンバーワン)
「スタッフかクルー、すべての戦闘員」か「すべての戦い」 

「メイホー」と読むかもしれない、と考えたのはこのバージョンだけ。
それはいいのだけど、あくまでもこのフラッグが戦闘艦のものだと
思い込んだため、ものすごく苦しい推測になってしまいました。

多分だけど「有志」にそういう意味があると勘違いしたんだな。

 

というわけで、これだけ時間的な距離が近くなっても、文化というものは
全く理解されないものなんだなあと悲しくなってしまいました。

よっぽど暇だったら、潜水艦博物館のキュレーターに

「どれも間違ってまっせー」

とメールを送ることもやぶさかではないのですが。

 

今回、この第一明方丸が戦時徴用船としてどのように運命を辿ったのか、
調べてみたのですが、ネットからだけではわかりませんでした。 

 

 

 

潜水艦暮らし〜ニューロンドン・サブマリンミュージアム

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コネチカット州グロトンのサブマリンミュージアムの展示より、
今日は「潜水艦暮らし」を伝える写真などをご紹介します。

冒頭の写真は第二次世界大戦中、場所は・・・・・・

多分鱶とかサメとかのいないところじゃないかな。

皆の表情も何も見えないので、これが運動を兼ねた
憩いのひと時なのか、いざという時のための水泳訓練なのか、
そもそも潜水艦の名前もいつの写真かもわかりません。

でもまあ、娯楽のない潜水艦暮らしでは訓練だったとしても
若者たちには結構な気晴らしとなったかもしれません。

「潜水艦では食べることが最大の楽しみ」

つい最近見学した現代の自衛隊の潜水艦でも
全く同じことを聞きましたし、軍艦ならずとも、
豪華客船でさえ全く同じ理由で、特に腕利きのシェフが
乗り込んでいるものです。

つまり、場所を問わず人間の最大公約数の楽しみが
食べることだというのは間違いないことなのですが、
潜水艦のように、狭い、きつい、臭い、危険、暗いの5K職場で
ストレスが大きくなればなるほど、食事にかかる情熱は正比例して高くなります。

潜水艦乗り込みの調理員は、きっとそんな自分の双肩にかかる
期待と責任に応えるために使命感に燃えていたんだと思うんですよね。

そんな潜水艦調理員に勲章が与えられるということもありました。

大統領名でブロンズスター勲章を与えられたのは、
ジョージ・ワシントン・ライトル一等コック。
 

「USS「ドラム」の6回に亘る敵海域への哨戒活動における
英雄的な任務の遂行に対して。
前部機関銃の装填手として、搭載した水上機を含む68,083トンの敵艦を
仕留めるために司令官(艦長)の補助を行い見事に役目を果たした。

彼の冷静な判断と勇気と敢闘精神は、すべての乗員の模範となり
米海軍の任務の歴史においても高い位置を占める伝統となるだろう」

調理員は戦闘中の配置として、銃弾の装填手を任されることが
多かったようですが、ブロンズスターメダルを受けたライトルが
具体的にどのように敢闘精神を発揮したのかまではわかっていません。

現在、彼の名前は潜水艦関係の書籍にしか残っておらず、
「ドラム」のWikipediaのページにすら言及されていなないようです。

潜航中の艦内における乗員の表情。
(それにしても若いですね)

レンチを落としたり、靴のかかとが鳴ったり、あるいは
誰かがくしゃみをしても、その音は敵のソナーに
探知される危険性があることから、潜水艦勤務を

「サイレント・サービス」「サイレント・ラニング」

と呼んだりしました。
敵の艦船が真上にいて爆雷を投下される危険を伴うとき、
乗員の緊張は極限まで達しました。

「トルピード・ローディング・サイン」(魚雷装填サイン)。

シンプルな木の看板が何かのどかな様子ですが、これは
内部発射管の蓋に「生きている」魚雷が入っている時に下げた札です。

これは訓練中「ウォーショット」、実弾を誤って発射することを
防ぐために重要なサインでした。

魚雷発射管の内部が海水で満たされている時には

「デンジャー、チューブ・フラッデッド」

という札が掛けられました。
その状態でチューブの蓋を開けたら、魚雷は逆流してきます。
この札はUSS「ティグロン」SS−419のものです。 

中央のいかにも士官な人が何をしているのかはわからず。
ここで注目していただきたいのは制服です。

士官はとりあえずちゃんとした格好をしていますが、
基本皆さんはTシャツとか袖捲り上げとか、
・・・まあ要するに南洋における潜水艦乗りはラフです。

カットオフしたカーキの「元制服」、サンダル、そして
我慢できないほどきつい仕事で汗にまみれた裸の胸。
これが潜水艦乗りの基本スタイル。

そして、その仕上げとして・・・髭です。
髭も生えまーすぶしょーおーひーげーってことで、
他の配置にはないサブマリナーファッションの出来上がり。

我が日本だとこれが褌となり、さらにマニア向け。


今でも潜水艦の中でインターネットをする人はいないと思いますが、
時間つぶしとしてよく行われたトランプでは、
この写真で右側の人がつけている「赤のゴーグル」
を着用すると、ハートとダイアモンドのカードが見えなくなります。
そこで、潜水艦オリジナルのトランプは赤を使わず、
ハートとダイヤのマークはただ黒線で囲んだものでした。

赤レンズのゴーグルは、潜水艦員が暗闇になっても
視界が失われることのないように使用されました。

 

潜望鏡カメラ。
潜望鏡の映像を撮影するための特別仕様で、海軍のために
イースタンコダック社が製作したものです。

レンズは35ミリ、「マーク1」と表示があります。

 

 

木の枝になんかいろんなものを指してバーベキュー。
アメリカ人にとってバーベキューは特別の儀式ですからね。

ソーセージやハム、所々に怪しげな肉が・・・。

「艦隊暮らしが船を降りた暮らしよりマシなんてことは絶対にない。
だから、彼らは岸に上がればそこが南方の島だろうがなんだろうが、
ワイキキビーチのロイヤルハワイアンホテルであるかのように
キャンプをして楽しんでしまうのである」

また、彼らは狭いクォーターから逃れて、ボートを「母艦」に
繋留し、その横で自由を楽しむこともありました。 

「ライフ」を読みながら娑婆を思う様子の水兵。
このころの米海軍水兵のズボンって、本当にジーンズみたいですね。

上、USS「スコルピオン」のplaque(金属・焼き物・ぞうげなどでできた額、
飾り板で、事件・人物などを記念するための金属または石製などの銘板)。

プラークって、歯垢の他にこんな意味もあったんだ・・・。

右のボトルは「スレッシャー」のコミッショニングボトル、とあります。
進水式の時に艦体に叩きつけて割るボトルですが、
シャンパンが割れた時に破片が散ったり吹きこぼれないように、
胴体の部分を脆弱にしておいて、ここを叩きつけて中を破る、
という専門のボトルケースがあるらしいですね。

ネックには進水する船の名前が書かれ、叩きつけた跡が
凹んで残っています。

さて、ここからは画家によるスケッチをどうぞ。

「テンダー・チェウィンクと一緒の#70と#71」

潜水艦基地のここニューロンドンでの光景で、
チェウィンク(AM-39)、SS70( O-9) 、SS71(O-10)
共に第一次世界大戦時の艦艇です。

皮肉なことに、この絵が描かれてわずか2週間後、SS-70は
浮上できなくなる事故に見舞われ、チェウィンクは
救助のため現場に赴きましたが、助けることはできませんでした。

ということは、この甲板の上に描かれている乗員は全て・・・。

「魚雷調整室」(1941)

ニューロンドンの潜水艦基地にあった魚雷調整室の光景です。

「スルクフ」(1941)

「スルクフ」は自由フランスの「クルーザー潜水艦」で、彼女が
ニューロンドンに寄港した時を描いたものです。

航空機も搭載していた対戦中最大級の潜水艦で、画家も
その珍しさに駆けつけて筆をとったのかと思われます。

この絵でぜひ注目していただきたいのは艦尾艦上に見える大きな二本の銃身。
当時「スルクフ」は連装砲を装備していたんですね。

このころの潜水艦の獲物は基本敵国の商船で、魚雷は大型商船や
敵軍艦に「取っておいて」小型商戦は主に大砲でやっつけていたのです。
加えて当時の潜水艦は海中速度より(最高でも10ノット)海上の方が
倍くらいの速さを出せたので、商船を発見すると浮上して追いかけ、
沈めるのを常としていました。 

ちなみに「スルクフ」はこの翌年の1942年、 カリブ海でアメリカの商船と衝突、
艦長ブレゾン中佐以下130名と共に沈没し、今もそこに眠っています。

「司令塔」(1943)

USS 「マッケレル」SS-204の司令塔から見張りをする乗員。

実験潜水艦として設計された「マッケレル」は、
ニューロンドンで水中音響研究所での支援任務および
艦長候補者学校での訓練任務を担当し、
水上艦艇及び航空機の対潜水艦戦訓練を行っていました。

大戦中にマッケレルは一度だけ敵と接触しています。

1942年4月浮上したままニューロンドンからニューバージニアに向かう途中、
2本の魚雷が向かってくるのを発見したので回避し、
浮上中の敵潜水艦に対し2本の魚雷を発射したということなんですが、
これって・・・帝国海軍かドイツの潜水艦がここまで来ていた?

「潜水艦隊のためにもう一隻スコアを追加」

あまり良くない翻訳ですが、まあそういうことです。
USS「ドラド」 SS-248が、1943年5月に遭遇した「エレクトリックボート」
(ドイツ)をデッキガンで攻撃しているシーン。 

写真以上にその戦闘中の怒号や銃声が生き生きと聞こえて来そうな・・。
 

「まどろみ」(1943)

見張りと戦闘の合間のわずかな時間に眠る乗員たち。
魚雷の上のベッドとハシゴの下で眠る彼らの様子が
従軍画家によって残されました。

「発射管の中に入る人がいるから立ち入り禁止にしているに違いない」

と「ライオンフィッシュ」の展示を見て書いたのですが、
その悪い例がこれですね・・・・って、おい、
よく見たら犬を連れ込んでるではないの。

しかもコッカスパニエルかなんか?
これは野良犬を拾ってきて可愛がっているって感じじゃなさそう。

今日はこのパイプの乗員、犬と発射管で一緒に寝るのでしょうか。

 

続く。




 

「艦隊で最も多忙な奴」の機関室〜駆逐艦 ジョセフ・P・ケネディJr.

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マサチューセッツのフォールリバーにあるバトルシップコーブ。
ここに展示されている駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディJr.」 について
中断していましたが、残りをお送りします。


よく考えたら、いやよく考えずとも、この「ジョセフ・ P・ケネディJr.」、
愛称ジョーイPが、わたしの実際に見た初めての駆逐艦です。

駆逐艦。デストロイヤー。

この口に乗せるだけで軽く高揚してしまいそうな艦種名を
なぜ日本では使えなくしてしまったのか。
とわたしはかなり昔からこの件に関して憤っているわけですが、
呉で護衛艦を案内してくれた自衛官になんとなく

「自衛隊では使いませんものねー、駆逐艦って言葉」

と言いますと、

「あ、言いますよ。駆逐艦」

と返ってきたので軽く驚いた覚えがあります。
それでは自衛隊では「駆逐艦」というときそれは何のことなのか。

そもそも自衛隊では戦艦も空母も巡洋艦も持ちません。

空母に関しては戦後、自衛隊の前身である警察予備隊結成の際、
海軍の生き残りが奔走して保有までこぎつけ、アーレイ・バークの賛同まで得たのに
大蔵省が「大人の事情で」それを潰したという話もありますね。

というわけで、自衛隊では主要艦が全てDDとなっておるのです。
ヘリコプター搭載艦もミサイル搭載も、対空も対潜も全てDD。
となると、自衛隊の中の人が「駆逐艦」という場合それはどれのことか。

考えられるのは汎用護衛艦(あきづき型とか今度できるあさひ型)?

書類上は未だに創世記の呼称である「甲型警備艦」=駆逐艦、
ってことじゃないかと想像してみましたが、どんなもんでしょう。 

 

とどうでもいい疑問で始めてみましたが、アメリカにおける駆逐艦とは
おそらく帝国海軍でもそうであったように、俊敏な機動力と破壊力を持ち、
巨艦に敵を寄せ付けないknightといったようなイメージで捉えられています。

艦隊で最も多忙なフネ

駆逐艦、それは愛らしい(lovely)奴だ

おそらく全ての戦闘艦のうちで最もナイスな奴
小綺麗で清潔な感じのするライン、スピードと荒々しさ、そして果敢さ

戦いに身を投じれば斥候を行い、最初の接触を試みる
輸送船団を組み、それを護るために奔走する
たとえどんな修羅場であっても真っ先に駆けつける存在

戦艦のように壮大で立派でもなく、司教のような巡洋艦風でもない

しかし何よりも、駆逐艦とそこで働く男たちは「海の男」だ
荒れた海では荒々しく、愚直なまでにそれに立ち向かう 

駆逐艦の男たちは戦いの中で寸時も退屈することはない
なぜなら駆逐艦は海の男の船だからだ 

篠突く雫の下をもかいくぐり、35ノットで波を切り裂いて
回り込み、戦い、そして走り、海中の敵に爆撃を加える

それは無限なき能力を秘めた危険そのものなのだ

 

現地にあった「駆逐艦礼賛の詩」です。
照合されないのをいいことに適当に翻訳してみました(笑)

 

それにしても、駆逐艦を表すのにこんなぴったりとした詩がありましょうか。
やはりその魅力は全世界共通なのだとわたしもファンの一人として胸を熱くするのですが、
ところでこれを書いた人、誰だと思います?

なんと、第二次世界大戦の時、従軍記者として

駆逐艦「ファーレンホルト」DD-491 ベンソン級駆逐艦9号艦

に乗り組んでいた、ジョン・スタインベック、その人です。

「怒りの葡萄」「月は沈みぬ」「エデンの東」の作者で、
ノーベル文学賞も受賞しています。  

 

ところで今更ですが、当ブログのトップ写真は、ロビさんが制作してくださった、
ELLIS  DD-527(5月27日の海軍記念日にちなむ)です。

「エリス」という名前の船を作っていただけることになった時、
駆逐艦を提示されたので迷わずオーケーした、というくらいですが、
駆逐艦のどこに魅力を感じるのかを、このスタインベックの詩を
翻訳しながら再認識したような気がします。 

 

アメリカには展示軍艦が多いですが、それでも空母や戦艦、
潜水艦が主流で、駆逐艦は西海岸でもみたことがありません。

「錫の缶」とあだ名された艦の性質上、ジュースを絞るように使い倒されて(笑)
最後はあっさりスクラップにされて別の形で生まれ変わる、というのが
駆逐艦という身上に似合っている気がするとはいえ、これは実に残念なことです。

しかし、ジョーイPだけは、その名前がたまたま大統領の兄のもので、
その大統領の政策に従って任期中は活躍したので、
こうやって生き残って展示されているということなのでしょう。


 

さて、今日はその駆逐艦の心臓である機関室に続く狭いラッタルを降りていきます。

これはボイラーのバルブ調整するものでしょうね。
いっておきますが、「マサチューセッツ」ほど懇切丁寧に
部分部分に説明があるというわけではなかったので、
あまりちゃんと理解しないまま写真をあげることになりますがよろしく。 



ジョーイPのボイラーは

バブコック・アンド・ウィルコックス(B&W)社製の
重油専焼式水管ボイラー

(伝熱部が水管になっているもので、循環方法が重油)
 が4缶搭載されていました。。

 

 B&W社は1908年には日本でボイラ部品の製造会社を設立しており、
「東洋バブコック」として存続していましたが、現在は日立に資本吸収され、
みなとみらいにある「バブコック日立」にその名残を残しています。

日本に来た途端名称の後半の「ウィルコックス」はなくなってしまったのね(笑)

 

排煙パイプが二本並んで直立しています。

SOOT BLOWERS はボイラーの煤煙を排気するための機械。

煤煙がボイラー内に溜まると、局所的なホットスポットが内部で発生し、
ボイラーが破損する恐れがあるのですが、スートブロワーで排気することによって
煤煙の火災やその被害の危険性を低減します。

機関室はどんな艦でもこのような通路が張り巡らされていて、
かつてはここを機関兵たちが駆け回ったのでしょう。

今は転落の危険があるので、アクリルガラスで柵ができています。 

下がったと思ったらまた上がる階段。
たった一人でこんなところを歩き回るのにもすっかり慣れて来たわたしです。 

また下がって行ったところがひらけていて、比較的広いスペースが。
他と違ってレバーが皆赤いのが気になります。
小さなのぞき穴らしき窓もあるのですが、ここは何? 

とってつけたような狭い通路。 

電気の配線はこの通り。
ウォータークーラーもフラム改装の頃のものらしく、
もう使われていませんでした。

この階には消磁スイッチボードというものもあります。
船舶の磁気を中和するために、船舶全体に水平方向および
垂直方向に巻かれたコイルに直流電圧を送り、それによって
磁気機雷から船舶を保護する働きをします。

歩いて行くと、いきなり普通のスペースが現れました。 

デスクがあって、ここの責任者が使用したもののようです。 
デスクは不思議なことに金網の部分に入る扉の前を塞いでいます。 

金網で覆われた部分は高圧電力のモーターであろうかと思われます。 
危険なので机で塞いでしまったのかもしれません。 

ボイラーに空気を送り込むコンプレッサー。
キッチンにもあった消火設備がここにも見えます。 

蒸気タービンはジェネラル・エレクトリック社製。
あちこちに温度計がつけられています。 

機械室にあまり説明がないので、こういうものを撮っておけば
あとで何かの手がかりになるかもしれないと思い・・・。

ベントコンデンサーの圧力や郭内圧力計など。

微妙に床の高さが違うので、数段階段を上がったり下がったり。
赤字で書かれた注意書きには、階段は手すりを握ってゆっくりと
上り下りしてください、とかかれてありますが、その中の

「船のラダーは従来の家庭用の階段より傾斜が険しいです」

という当たり前情報がなんかじわじわ来ました。 

なぜか焼却炉の上に突如現れるジョーイPのマーク。
海の中から(おそらく)ポセイドンが銛を突き出しているデザインです。

ここはD.A.タンク、「DEAERATING FEED TANK」 。
分離タンクには三つの働きがあります。

1、 圧縮した蒸気を酸素から取り出す凝縮液から

2、 ボイラーに供給される水に熱を加える

3、  ボイラーからの給水需要が急激に増加した場合貯水池の役割をする

 

1番は逆に、蒸気から溶存酸素を除去するということができます。
多くの場合、DFTは、主復水ポンプの後ろ、
メインフィードブースターポンプの前に位置しています。

ということでこれがポンプであるらしいことが判明しました。

ポンプ類の開閉、観察はここで行うようです。

温度計、圧力計など計器ばかりがハンドルの上に並んでいます。
足元には鍵がたくさん。 

艦の中にしては座り心地の良さそうで安定性のいいスツール、
上にはハンドセットイヤフォンが置かれています。
一日ここに座って異常がないかチェックしている係もいたのでしょう。

非常の際に鳴り響くベルもパネルに備えてあります。 

ここにこんな大きなトラッシュ缶があるのもなんだか妙な気がしますが。

FIRE FLUSHING PUMP、消火ポンプの電源?

前にも一度説明したエヴァポレーター。

通路から一階下を覗き込んで見える景色。
この階は「ポンプレベル」と言われており、エンジンルームをサポートする
全てのポンプが集まっています。

循環ポンプ、オイルポンプ、ボイラー供給ポンプ、そして消火ポンプ。
蒸溜塩と真水のポンプ、ブースターポンプにコンデンサーポンプ。 

ジョーイPは1969年に地中海への航海を行なっていますが、
その時その時写真の J. J ピケットくんとジョン・モロスコくんは
このMM3にあるメ主減速ギアの内部を掃除しました。 

「彼らとその仲間たちは、ギア内部を完璧にクリーンアップしたことを
今でも誇りに思っています」

ということです。
なんかわかりませんが、よほど大変な仕事だったってことでしょうか。 

彼も地中海クルーズに参加した乗員、コックスくん。
絵を描くのが得意だった彼は、メンバーの似顔絵を艦内の壁に描いたようです。
指差しているのが彼自身のようですね。(自分の絵は描きにくかったらしくグラサン着用)

 

この絵が今はどこにあるのかは、説明されていませんでした。

 

 

続く。
 

キーストーン駆逐艦隊〜駆逐艦 ジョセフ・P・ケネディJr.

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ジョーイPこと駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」見学記、
最終回です。

現地にあった説明の艦体断面図ですが、 番号の振られた部分を説明しておくと、

1、 マシンガン

    第二次世界大戦の駆逐艦の名残で防空のために搭載していた
    冷戦時代は特に当時現れた戦闘機には役に立たなかった

 

2、爆雷(DEPTH CHARGE)

   MK-10/11 対戦迫撃砲ヘッジホッグ(ハリネズミの意)は写真にもあるように
   1952年に取り外されました。

3、 D.A.S.H 前にもお話しした無人ドローンです。

4、ASROCK 対潜ロケット

5、 CIC  コンバットインフォメーションセンター

6、魚雷

7、ソナー

8、エクスパンション(拡張)ジョイント

   波の力が艦体にかかる時にねじれて裂けることがないように、
   構造を二つに最初から分けて接合してある部分。
   これによるとその断層は艦橋構造物の真後ろにある。

9、パワープラント

今回、主に冷戦に備えて施された「フラム改装」をクローズアップしましたが、
それ以前のことも話しておくと、彼女は朝鮮戦争にも参加しています。
1950年7月には「共産侵略に立ち向かうために」予備訓練に入り、
翌年明けてすぐにパナマ、真珠湾、ミッドウェー経由で日本に向かいました。 

(下線部分はwikiですが、意図が感じられる一文ですね)

佐世保到着後弾薬等を補充し、第77機動部隊に合流、
敵の補給ラインをストップさせるための哨戒を台湾海峡で実地しました。
これを海軍では「フォルモサ・パトロール」と称していたようです。
朝鮮半島での任務はその年6月まで続けられました。

写真はフラム改装前の対空戦訓練中の一コマ。

さて、機関室を歩いて行くと、こんなものがありました。
機関部の装備かと思ったのですが違うようです。

「マシーナリーショップ」、つまり修繕課の器具でした。
艦内の全ての機械を修理し調整する部署です。

供給課にはあらゆる部品がストックされているとはいえ、
何がどう壊れて何が必要になってくるかまでは
その時にならねばわかりませんから、そういう時に
マシーナリーショップは必要なものを作る役目を負います。

それこそ小さなスクリュー一つから発射筒に至るまで。

ミッドウェーで航行中、他の艦の供給ポンプが焼けてしまったので
別の艦のマシンショップが38時間かけて部品を青写真から作り上げ、
間に合わせたという話も米海軍には残っているそうです。

兵員のバンク、ベッドのある部屋にやってきました。
さすがに戦艦ほど大きな部屋でみんなが寝ているというわけではなく、
こじんまりとしてしかしそう狭くもありません。

 

ベッドの下部には引き出しらしきものも見えますが、
ちゃんとしたロッカーも各自に与えられていたようです。

この下の段に寝る人は赤いランプが眩しかっただろうと思われ。

ちゃんと縦型のロッカーが備えてありますが、これはおそらく
各自のものではないか、あるいは下士官以上の使用するものでしょう。

「ロナルド・レーガン」ですら、兵員は持ち物をベッド下の
小さな引き出しに入る分しか持ち込めないらしいですから・・。

このドアの中には配管ステーションがあったようなのですが、
真新しい黄色い紙にはここに入る時の注意事項として

このスペースでは防護具を必ず身に付けること

使い捨てジャンプスーツ

防毒マスク

フルフェイスの安全シールド

使い捨て手袋

ゴム靴

必ず作業をする時には二人で行うこと

とあります。
現在でもなんらかのメンテナンスが行われるということでしょうか。 

ウォータークーラーの下の排水トレイはサビサビです。
飲み口には「口に含んだものは決して吐かないこと」とあり。

もう使われていないようです。

 

消火器が収納されていた棚。
ゴミ入れのポリ袋は何もなし。

もしかしたら、「マサチューセッツ」だけではなく、
ここでも「お泊まり大作戦」と称するオーバーナイトの
プログラムが子供向けにあるのかもしれません。

1泊ぐらいなら軍艦のベッドで寝てみたいよね。

艦内の購買部がありました。
カウンターだけの実にこじんまりとした売店です。
係の使用する椅子にはこちらに向けてオリジナルジャンパーがかけてあり、

ペプシの瓶が置いてあったり。
箱の中は「ボール・ポイント・ペン」が積んであり、
ジッポーライターを買えば店頭でオイルを入れてくれたようです。

「ロナルド・レーガン」の売店にもあった、干しぶどうのパック、
リッツもマルボロ、キャメル、ラッキーストライクも今と変わりません。

右上は整髪料各種で「バイタリス」、歯磨き粉は「コルゲート」。

コームには軍服のポケットから落ちないような留め具付き。

駆逐艦の中でラジオを買う人がいたんでしょうかね。
当時最新のトランジスタラジオ(大きいですが)、
ペナントになんと、腕時計も買うことができます。

それどころかカメラ(レンズカバーにPETALの文字あり)
8ミリカメラ(BELL &HOWELLのズーマティック撮影機)なども。

ベルハウエルはもともと映写機の会社ですが、現在では文書処理、マイクロフィルム機器、
スキャナ、金融サービスを供給する企業として存続しています。

このズーマティック8mm映写機は、ケネディ大統領暗殺の瞬間を撮った
ザプルーダー氏の名前から「ザプルーダーカメラ」と呼ばれていたそうです。

ここはなんとなくものを置いておく倉庫の模様。
修理待ちのものとか?

箱の上に並んだ5cmのマグネットのようなものは、

RADIAC DETECTOR 

これ、ミリタリーグッズ通販なんかで時々見ますね。
(え?こんなもん見たことも聞いたこともないって?)
この場所からはわかりにくいですが、布製のベルトに通して
腕時計のように装着する放射線測定器で、
吸収蓄積中性子とガンマ放射線量を測定するために使用されます。

軍用なんだそうですが、アメリカ軍というのはこんな頃から
こんなものを作って兵士に与えていたんですね。

ちなみに日本のミリグッズ通販では一つ500円から買えます。
って役に立つのかこれ。 

廊下にこんな地図が貼ってありました。
世界の海域にピンが打ってあり、糸を伸ばした先に艦名があります。

米軍の駆逐艦が沈んでいる場所を示しているようです。
例えば英仏海峡から伸ばした紐の先には

DD-463 CORRY  MINE  6 JUNE 44

といった具合に。
「コリー」はノルマンジー作戦の後、触雷して沈んだようです。

そこで断然気になるのは日本と戦って沈んだ駆逐艦ですが。
大変不鮮明な画面なのですが、頑張って解読して見ました。

【潜水艦による攻撃】

DD695 クーパー 412ハムマン 391ヘンリー 
415オブライエン 579ポーター 467ストロング 

【航空攻撃】

483アーロン・ワード 526アブナー・リード 518ブラウンソン 529ブッシュ
606コグラン 85コルホーン 751 J.ウィリアム・ディッター 579WOポーター
469ド・ヘイブン 741ドレクスラー 393ジャービス 79リトル 522ルース
364マハン 733マナート・L・エーベル 434メレディス 560モリソン
226パーリー 477プリングル 369レイド 409シムス 591ツィッグス 

あとは海戦が15隻、触雷が2隻、陸上からの砲撃が1隻。

あの!ハルゼー&マケインが指揮して台風に突っ込んで沈んだ駆逐艦
350ハル、354モナハン、512スペンスもちゃんと?名前がありますよ。 

しかしこうしてみると、ハルマケコンビの判断ミスは痛かったねえ。 
駆逐艦三隻沈没って。
明らかにこれ指揮官の判断ミスなのに、一応戦没扱いなんだ・・・・(棒) 

あと、衝突が1件、読めなくて艦名もわからないのが1隻(おい)。
駆逐艦だけで合計53隻が日米の戦場で今も眠っているのです。

 

ハッチの階段はもはや段が剥がれ落ちてしまって使用できなくなっていました。

ジョーイPの艦腹には KEYSTONE SQUADORON24のマークが。
キーストーン部隊は1956年にニューポートで設立された駆逐艦隊です。

米国の有人宇宙飛行計画にも参与したジョーイPは1966年、
ジェミニ12の回収作業を行い、「ライトスタッフ」ぶりをアピールしましたが、
ベトナム戦争には参加せず、そのまま1973年に海軍籍は抹消されました。

 

しかし、その栄光ある名前のため、艦籍廃止の直後から保存を望む声が起き、
すぐさまここバトルシップコーブに運ばれてきてその姿を今日も留めています。


2000年制作のキューバ危機を描いた映画「13デイズ」にジョーイPは写真で参加しています。

 Trailer Thirteen-Days 

 

 

終わり。  

映画「海軍」昭和18年版〜海軍兵学校入学

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真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗ってハワイに出撃し、
九軍神と呼ばれた軍人たちがいました。

その死に様に感銘を受け、一人の小説家が朝日新聞に
彼らのうち一人をモデルに連載を始めました。

それが岩田豊雄作「海軍」です。

連載と同時に人気となり、朝日文化賞を受賞したこの作品は、作者曰く

「伝記ではなく、軍神を生んだ海軍をテーマとする方が適当だと思った」

ということで、もっとも海軍に縁の深い鹿児島出身だった
67期の横山正治少佐がモデルに選ばれました。

今回わたしは戦時中に制作された作品、そして戦後18年経ってから
もう一度リメイクされた作品を両方見比べてみました。
今日ご紹介するのは、 昭和18年、海軍省の後援で制作されたものです。

戦意高揚のための作品だったため、終戦と同時にGHQに接収され、
戻ってきたものの、最後がカットされていて、
真珠湾攻撃で特殊潜航艇が攻撃をするシーンからあとは逸失してしまっています。 

タイトルと「英霊に捧ぐ」などの部分はなんと木彫りです。
この時代ですからおそらく本当に木彫したのだろうと思われます。

主人公、谷真人のうちは横山正治少佐と同じ精米店を営んでいます。
父親を亡くし、兄と姉、母と真人の四人で店を切り盛りしています。

真人の学校は横山少佐と同じ、鹿児島二中という設定ですが、
戦後ここは鹿児島県立甲南高校という名前に変わっています。 

甲南高校のHPを見ると、この写真のドームがまだ健在なのに驚きます。
体操しているのは当時の鹿児島二中の生徒たち。 

真人の学校の英語の先生。
のちの水戸黄門、東野英治郎です。

真人の親友、牟田口は大の海軍好き。

絵が得意な牟田口は、軍艦の絵を描いて部屋に飾っています。
今でいうミリオタですね。

牟田口の妹、エダ。
幼馴染の真人に実は心を寄せているのですが、それを知られないように
つんけんして憎まれ口をきく素直でない娘。

憎まれ口を叩いて兄に怒られると・・・。

実際の横山はいわゆる女嫌いだったと旧友は証言しており、故に
小説でエダという女性を横山の恋愛の相手に設定したのには
本人はきっと不本意だろうという声もあったそうです。

しかし、同じ作者の岩田豊雄が67期卒の軍人に聞いたところによると、
遠洋航海で訪問したハワイ日系の富豪の『ナイスな』娘が、
居並ぶ少尉候補生の中でなぜか横山にご執心で、彼にだけ親切で、
露骨に好意を見せたので一同をクサらせた、と証言しているので、
おそらく横山少佐本人は女性を惹きつける何かがあったのでしょう。

牟田口のお母さん。
このころの俳優さんは顔は綺麗でも歯並びは悪い人が多いです。
矯正という技術がなかったし、歯並びの悪さはマイナスにならなかったんですね。 

お父さんはあの小沢栄太郎です。

「皇国の荒廃この一戦にあり!」
「天気晴朗なれども波高し!」

当時の軍国少年にとって、東郷元帥はまるでアイドル。
二人で熱く東郷さんの偉大さを語り合います。

「お前も海兵受けんか」

牟田口に誘われるのですが、家業を継ぐつもりの真人は暗い顔で俯いて・・。 

しかし、牟田口の説得で母の許しを得、海軍兵学校見学ツァーに参加することに。
陸軍から来ている中学の軍事訓練の教官、これ誰だと思います?

なんと笠智衆なんですよ。
おじいさんのイメージしかなかったのでこれを見て驚きました。 

そして海軍兵学校到着。
この「裏門」の表札文字は勝海舟の筆跡です。 

海軍兵学校についてまず説明を受ける一同。

「海軍軍人は天皇の海軍に命を捧げ祀る武人であります。
そして海軍兵学校はその軍人を鍛え上げる道場であります」 

「だからこそ生徒館正面には燦然とご紋章が輝いているのであります」

そして、これでもかと学校内の威容を湛える建築物が
厳かな音楽とともに映し出されます。 

いやー、これは当時の青少年の憧れを誘ったでしょうねえ。

おそらく、現在一番海寄りにある、改築された建物の裏側だと思われます。

すっかり夢中になった牟田口は、夏の海軍兵学校の制服に身を包んだ自分が
大講堂をバックに颯爽と歩く夢を見(冒頭画)、真人をより熱心に海兵に誘います。

ついに気持ちが抑えられなくなった真人、母に海兵を受けさせてくれと頼みます。 

「私は・・・私は軍人になりたいです」

息子の言葉を一瞬呆然とした顔で聞く母。

数秒後、笑い顔を作って

「お前がそう決めなんなら・・それでよか」

しかし彼女の笑いはまた引っ込んで、一瞬ですが絶望的な色を見せます。

この滝花久子という女優さん、すっかりお婆さんの役ですが、
この時まだ実際の年齢はなんと37歳です。

今なら恋愛もののヒロインだってやっている年ですよね。 

二人は早速鹿児島の海軍遺跡巡りに出かけます。

大山巌生誕の地とか(加治屋町に現存)
東郷平八郎誕生の地( 同じく加治屋町)とか。

忘れちゃいけない西郷さんの銅像。

弾痕が壁に残っているのですが、西南の役の時のもので、今もあります。
西南戦争弾痕跡 

岩田豊雄の原作にもあった「軍人組」。
陸士、海兵を受験する生徒たちを集めて集中講義を行うことになりました。

しかし、配属将校のお仕事はこれで終わりです。

「断じて行えば鬼神も之を避く」

この言葉を残して学校を去っていく笠智衆。

浜辺で「両舷前進ビソーーーク」などと大声を出して
すっかりその気の二人ですが、牟田口が不吉なことを・・・

「月が三つにも四つにも見える・・・」

そう、牟田口は目が悪くなっていたのでした。
あれだけ海軍に入ることを熱望したのに、視力ではねられてしまったのです。

合格した軍人組「・・・・・・・・・」 

そして真人にいよいよ待ちに待った合格通知が・・・!

「お母さん、私は海兵に合格しました!」

「・・・・・・・・・・」

もうこの反応ええっちゅうに(笑)

真人は喜び勇んで親友の牟田口に報告に行きますが、妹のエダが憎まれ口。 

「自分一人海軍に入って威張ってる」

この娘、自分が好かれようという気全くなし。 

というわけで真人は入学を果たし、場面はいきなり兵学校のグラウンド。

なんと、あの軍歌演習を俯瞰で(多分ビルの最上階から)撮っています。
映画製作時、つまり昭和18年に兵学校に在籍していたのは 

兵学校72期、73期、74期。

74期は兵学校最後の卒業生となった期で、大世帯でした。

この画像を見てお分かりかと思いますが、軍歌演習の向こう側の白い部分は
校舎の間の部分までみっちりと人が立っている状態。

横山少佐をモデルにしているのでこれは67期という設定ですが、
67期在学中にはこれほどの大人数ではありませんでした。

 

この生徒たちは本物の海兵生徒ということになります。

「江田島健児の歌」が歌われているという設定なのですが、
本物の映像を使っているせいか、口と歌詞が全く合っていません(笑) 

というわけであっという間に夏休みになり、海兵の制服で帰郷する真人。
これを着ていると皆の注目の的となり、特に若い女性には
憧憬の眼差しで見られるので、合格した生徒はこの時ほぼ初めて

 「海兵に受かってよかった」

と喜びを感じるのが常だったそうです。
そして、この姿に憧れた後輩男子が自分も海兵を目指すと・・。

 

しかし、あれだけ海兵を熱望していた牟田口は今年も体格で不合格でした。
っていうか、いっぺん視力で不合格になった人がなぜ翌年も受けるのか。 

帰校した真人は、一人静かに教育参考館に足を向けました。

当時は大理石の床に絨毯はなく、全ての人が靴を脱いで入ることになっていました。

昔は正面に東郷元帥の立像が掲げられていたようです。

遺髪のある聖堂で深々ともう一度礼。
「ハワイ・マレー沖海戦」でも同じシーケンスがありましたね。
主人公の同郷の憧れの海兵生徒が教育参考館を訪れるシーンです。 

兵学校生徒となったのちの「軍神」、谷真人が教育参考館を見学します。

真人が粛然とその前で首を垂れたのは軍神広瀬中佐の遺書と
第6潜水艇事故で佐久間艦長が最後に記した遺書。

「部下の身を案じてその結果戦死した広瀬中佐」

「事故潜の中で部下とともに従容と死出の旅についた佐久間大尉」

これは、主人公である谷が、その後部下とともに決死の作戦に出撃し、
自らが「軍神」となる未来を暗示しています。 

 

後半からは、真人の海兵生活、そしていよいよ海軍軍人としての
彼の最後の姿が描かれることになります。

 

後半に続く。 


映画「海軍」昭和18年版〜真珠湾突入

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戦時中に映画化された岩田豊雄原作「海軍」、続きです。

本編主人公を演じるのは山内明(やまのうちあきら)。
この映画が実質デビュー作で、この映画で人気が出てスターになったそうです。

そして時は矢の如く過ぎ去り、真珠湾攻撃の軍神の一人、横山正治をモデルとした
谷真人が兵学校の一号生徒としてカッター競技に檄を飛ばす日が来ました。

「全身で漕げ!気力で漕げ!いいか、死んでも勝つぞ」 


当時の在校生たちが探偵競技を見るために岸壁に集結しています。

もちろん映画のために生徒を動員するわけがありませんから、これは
実際の競技の様子を映画クルーが撮影していたのでしょう。

現在使用されていない「陸奥」の砲塔横の建物の窓にも、
競技を見ている白い事業服の生徒たちの姿がはっきりと残っています。 

今でもそうするのかどうか知りませんが、競技前にスルスルと二色の旗が上がります。

「よーい!」で皆が一線に並んだ状態。

これを見て確信したのですが、先日卒業式の時に彬子女王殿下がお立ちになり、
幹部校長と海幕長とともに卒業生を見送った桟橋とポンツーンは今と全く同じです。
向こう側には練習艦らしき観戦の姿が見えています。

手前に「陸奥」の主砲が見える位置、ということは岸壁沿いに建つ
今は使用されていないビルの最上階にもカメラが入っていたということになります。

スタートは、表桟橋の旗が一気に引き降ろされ、号砲が鳴った時です。 

短艇は一斉に水を滑りだしますが、この間ありがちなBGMはなく、
生徒の掛け声も声援もありません。
ただ、オールが水をかく音だけが聴こえてくるという感じで、
あざとい演出のなさが却って緊迫感を感じさせます。

 

真人は舳先に座って「頑張れー!」とかいう係。
号令をかけ、指揮をするこの配置を「艇指揮」と呼びます。
船尾には舵取りをする「艇長」がいるはずですが、どういうわけか
このボートには艇長がおらず艇指揮の真人だけが乗り込んでいます。

声を枯らして漕ぎ手たちの漕走を指揮する真人。 

競技が終わり、真人が艇指揮をとるカッターはゴールしました。

「かいーたてえー」

「かい立て」と言って、オールのグリップを下にして垂直にたてる動作をさせると
なんとその一つが倒れてしまいます。

こ、これは・・・?

短艇競技が終わり、表彰式を行うため、総員が移動中。
それにしてもこれを見ただけでもわかる、当時の生徒数の多さよ・・。 

「本日の短艇競技において第67期生徒野村誠一が最後まで渾身の力を持って
力漕し決勝戦に入りてかいを立てたるも力尽きて再び立つ能わざりに至り・・」

なんと野村生徒、死んでしまいました。
彼は病気を隠して(なんの病気?)競技に参加していたのです。

「不撓不屈、斃れしのち止まずの軍人精神を如実に発揮、
本校生徒の伝統精神を敷衍するものにして将校生徒の規範たり」

67期史にこのような事故のことは書かれていないので
おそらくは創作だと思われますが、こんな死も軍人精神になっちゃうんだ・・。
ちなみに、原作の「海軍」にもこのシーンはありません。

「野村は偉いやつだ」

いや、なぜ病気を隠して訓練中死ぬのが偉いのかと小一時間(略)
価値観が違うといってしまえばそれまでですが。 

「軍人の本分を尽くして死んだのじゃから野村も本望じゃろう」
 
いやこれもなんか違う気がしますが価値観が(略)

真人は、自分に人を指揮する力がなかったから野村は死んだ、と悩みます。
だから本人が病気を隠していたって言ってんだろうが。 

そして真人ら67期生徒が江田島を巣立つ日がやってきました。

このシーンを今年二回この目で見たわたしとしては思わず食らいつき。
画像が暗くてなんだかよくわからないことになっていますが、
敬礼しつつ表桟橋に向かう卒業生の側から撮られたカットです。

ああ、これも間近で見ましたねえ・・。

桟橋先のポンツーンにメザシ状態で並んだボートに卒業生が乗りこみ、
外側から順番に出航していく様子。

ちなみにこれを見る限り、この時のランチ出航はスムーズでした(笑) 

そして行進曲「軍艦」に変わり、練習艦から帽振れを行う卒業生。 
もしこれが本当に卒業式の映像であるとすれば、撮影中の昭和18年に
卒業した72期であるはずです。

彼らはこの後遠洋航海も近海航海もなく、そのまま各員配置の艦や
現場にそのまま乗り組み、戦場に赴いたと伝えられます。 

しかしこれは67期の卒業式であると言う設定なので、映画の卒業生は
最後の世界一周航海となった遠洋航海に赴きます。 

なんどもこのブログで書いていますが、横山少佐の67期はハワイに寄港し、
その際真珠湾の入り口を見ています。

「貴様たちのうち何人かはここに帰ってくる」

「だから見たものをスケッチをしておけ」

そう言われて湾口をスケッチした候補生もいたということです。 

「エンタープライズがおる」「アリゾナもおるぞ」

などといっていた級友が海中にフカが泳いでいるのを示すと

「潜水艦みたいじゃないか」

そんな同級生の言葉に何事かを決心する風の谷真人。
ここは原作ではこう書かれています。

彼は、何事も忘れたように、鱶の群を眺めた。
すると彼の軀が、スルスルと水中に曳きこまれた。
あたりが、エメラルド色の世界になった。
青白い海底の砂が見えた。彼は鱶になったのである。
鱶が一列になって、音もなく、真珠湾の方へ進んで行くー 


少尉になった真人が帰国し銀座を歩いていると、そこでばったり
海軍軍人になりたくて挫折し、姿をくらましていた牟田口に遭遇します。

牟田口は東京で画家を目指していました。
真人は牟田口に海軍画家になることを勧めます。 

全てを割愛して真人は潜水艦乗り組になり、その後色々あって
特殊潜航艇でのハワイ突入のための特殊訓練を行います。 

潜航艇には艇長に対し艇附という下士官がペアで乗り組みます。
真人が悩んでいたのはその指名を行うことでした。

行けばおそらく生きて帰ってくることのない作戦に
同伴を命じることに苦悩する真人。 

逡巡しつつ作戦の内容を打ち明ける真人に下畑兵曹はこれを熱望。
ちなみに、随分と下畑は年配のような描かれ方をしていますが、
実際横山正治と同行した上田定は作戦当時まだ25歳です。

真珠湾攻撃後、米軍は特殊潜航艇とその乗組員の遺体を4体発見し、
いずれも埋葬していますが、一人は上田兵曹である可能性が高いと言われます。 

特殊潜航艇に乗りくむ若い将校たちは最後の帰郷を許されました。
向こう側の四人が潜航艇で出撃したという設定ですが、
少佐の左側に、一人何も言わずに立っている軍人らしき人がいます。

この作戦で捕虜になってしまった酒巻和男少尉は、翌年の海軍省の発表では
最初からいないことになり、10人の出撃が「九軍神」とされたのはご存知の通り。

しかし、海軍としては創作に際してその存在までを消すことは忍びず、
ここにこっそり酒巻少尉を登場させた、と考えるのですがどうでしょうか。

最後の帰郷となって、まず東郷元帥に挨拶をする真人。

失礼ですが、昔の俳優さんは脚が短いなあと思ってしまいました。

 

桜島を望む錦江湾では、折しも真珠湾攻撃に参加する航空部隊が
錦江湾を真珠湾に見たてた爆撃訓練を行なっていました。 

帰郷してきた真人に

「わたしはお母さんのご飯が食べたい。お母さんのご飯が一番美味しい」

と言われて微笑む母。
しかし彼女は何かを感じ取っていました。 

 

そしてこの世で最後の家族で囲む食卓・・・。
真人は兄に母のことをよろしく頼むと言い遺して故郷を後にします。 

そしていよいよ真珠湾攻撃部隊が集結。(これは多分本物)

「同乗の下畑兵曹の遺族に対しては気の毒に堪へず・・」

艦内で真人が書き遺す遺書。
横山少佐の遺書にも、同じことが書かれていました。

「同乗の上田兵曹の遺族に対しては気の毒に堪へず・・」 

そこに真人付きだった従兵がやってきて、揮毫を所望します。

真人が記した書を押し頂くように受け取る若い水兵でした。

さらに特殊潜航艇に乗組む4人の士官たちも各々遺筆をしたためます。
ここではすでに酒巻少尉はいなかったことになっています。

「断じて行へば鬼神もこれを避く」

かつて笠智衆扮する配属将校が真人たちに遺した言葉を
彼はこの世の最後の彼の言葉に選びました。

出撃前の彼らのためにお弁当にサイダー、チョコレートなどが並び、彼らは

「まるでハイキングだ」

と笑いあうのですが、それを司令官は物陰で聴きながら悲痛な表情を見せます。
この逸話は、17年3月に行われた海軍省発表のあと、国民に広く有名になりました。 

そしてついにやってきた昭和16年12月8日、未明。

大本営発表の「帝国陸海軍は戦闘状態に入れり」を聞いて
呆然とする母、ワカ。

ちなみに、横山少佐の母、タカは、その後「軍神詣で」で自宅を
たくさんの人が訪れるなど軍神の母として持て囃されましたが、
昭和20年6月17日の鹿児島空襲で横山の3人の姉と共に亡くなりました。

同じ放送を聞いても「やった!」とばかりに会心の笑みを漏らす真人の兄。 

姉の表情にも動揺がありました。

かたや真人の幼馴染でいつも憎まれ口を叩いていたエダも・・。
戦後撮られたもう一つの「海軍」と違い、ここでの真人と彼女は
最後までお互いの思いを全く伝えずに永遠の別れを迎えています。 

そして実家に帰って画家をしていた真人の親友、牟田口も・・・。
もちろんこの大本営発表の段階では誰もこの時真人が出撃したことを知りません。

原作の「海軍」では、牟田口は真人の尽力で海軍省の嘱託となっており、
真珠湾攻撃の特殊潜航艇に真人が乗っていたことを知らないままに、依頼されて
潜航艇のハッチから顔を出す若き士官の絵を想像で描くのですが、
その後、海軍省発表で真人が戦死したことを知り号泣します。

改めて絵を見ると、実はその士官は真人にそっくりだった、となっています。

原作の小説では、真人の出撃する様子、潜航艇の中の様子などは一切語られていません。
昭和18年になって、映画化するにあたり、海軍省はこの小説を海軍の宣伝とするため、
原作にはなかった攻撃シーンを あえて盛り込んだのだと思われます。

海中で操舵をする下畑兵曹に谷中尉が

「静かになったなあ」

と話しかけます。

「日本の攻撃が終わったのでしょう」

「よし!浮上!」 

「浮上します!」

 

潜望鏡を覗くと、そこには日本の攻撃で惨憺たる真珠湾の様子が明らかになっていました。

実際のフィルムはここで一旦切れてしまっています。
ここから先がGHQにカットされ、DVDはここで終わってしまったのですが、
youtubeで上がっているバージョンにはその後見つかった最後の部分があります。

時間の経過を示す表示が残り、非常に画質の悪いそのフィルムによると、
谷中尉は「江田島健児の歌」などを口ずさみながらその後下畑兵曹と
二人で腹ごしらえをしながら、最後にこう語り合います。

「富士山に登ったことがありますか」

「ないんだ」

「一度登りたかったですね」

そして日本に向かって敬礼し、「アリゾナ」攻撃を行います。

「前進微速」

「発射管注水」

「前扉開け」

「発射用意」

「テー!」


 

下畑兵曹の手が発射管のレバーを引き、そこで突如フィルムは終了します。
もし最後まで映画を観ることができたら、最後のシーンは、攻撃を成功させた
真人と下畑兵曹が、艦を自沈させるところで終わっていたのでしょう。


まさに軍神を軍神として描くことを目的にした本作ですが、
戦後リメイクされた「海軍」は一変して、その作品テーマが

「戦争によって引き裂かれる二人の恋人たち」

になるのです。

 

続く。 

 

駆逐艦「カッシン・ヤング」DD-793

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ボストンのチャールズタウンにある海軍工廠跡に、
かの帆走フリゲート「コンスティチューション」が係留されています。

何日かに渡って「コンスティチューション」についてお話をし終わったところですが、
今日は同じヤードの少し後ろ側に係留されて、「コンスティチューション」を
まるで護衛するかのようにその姿をとどめているフレッチャー型駆逐艦

「カッシン・ヤング 」USS Cussin Young DD-793

についてお話ししておこうと思います。

アメリカ海軍の現役のフリゲート艦であると同時にアメリカ議会で定められた
「ナショナルシップ」であり、歴史的遺産でもある「コンスティチューション」は、
この、ボストンのシティホールのある古くからの中心街ノースエンドを
対岸に望む河口沿いのチャールズタウンにあります。

この河口はハーバード大学やMITのあるケンブリッジのあるチャールズリバー、
タフツ大学のあるミスティック・リバー、そしてチェルシーリバーと
三つの大きな川が流れ込み、波もなく穏やかで、港としては絶好の地形なのです。

ちなみに時計台のあるシティホールだけでなく、教会や、この手前に見えている
アパート群はいずれも地震のないボストンでは100年を優に超える建物ばかりです。
 

チャールズタウンの海軍工廠は、このようになっています。
右側の端っこが変ですが、これは現地の看板が大きさを合わせるのに失敗したらしい(w)

左に「コンスティチューション」、その後ろに見えるのが「カッシン・ヤング」。
ちなみに「YOU ARE HERE 」というところに立ってみると・・・、

「カッシン・ヤング」はこのように見えます。
この右側は水陸両用の観光バス、定期船、クルーズ船のターミナルです。 

 

最初に「コンスティチューション」を見学するためにここに来た時、
このドックについてなんの予備知識も持たなかったので、
「コンスティチューション」に入るためのチェックゲート(左)から、
こんな景色が見えるのにまず驚きました。

「コンスティチューション」の後ろに堂々と聳える駆逐艦。
まるでナショナルシップである彼女を後ろから護衛しているようです。 

到着したのがそんなに早い時間ではなかったので、わたしはまず
こちらの軍艦を見学しようと、「コンスティチューション」を後回しにして
右側に向かって進んでいきました。

重量物を運搬するためのレールが何本も走る岸壁。
「カッシン・ヤング」の向こうには、観光船である帆船の姿も見えます。 

岸壁に立っている年代物のクレーンの様相に思わず目を見張ります。
これはかなり古いものに違いありません。

 

現地の説明。
古いものから最新型(左下写真のもの)まで、海軍工廠の「腕」です。

見学時間が終わってしまう前に、とこちらを優先してたどり着いた
「カッシン・ヤング」の舷門。

「ウェルカムアボード」

という垂れ幕があるにもかかわらず、前まで行ってみたら
見学は終了していました。orz

仕方がないので外側だけからの見学です。
「カッシン・ヤング」は「フレッチャー」級の

・・・・・何号艦かはわかりません(笑)

「ジョセフ・P・ケネディ」のギアリング級駆逐艦の前身とも言え、
大戦時に大量に生産され、その名前は功績のあった海軍軍人にちなみ、
さらには戦後世界の海軍に譲渡されたというのも同じです。

海上自衛隊には2隻が貸与され、「ありあけ」型とされました。

 ヘイウッド・L・エドワーズ (USS Heywood L. Edwards, DD-663) 

 が1960年から「ありあけ」DD-183として、

リチャード・P・リアリー(USS Richard P. Leary, DD-664)

が1959年から「ゆうぐれ」DD-184として、つまり「朝と夕方」の名前で
15年間自衛艦に在籍していました。 

「エドワーズ」「リアリー」はどちらもまさにここ、ボストンの海軍工廠で
1943年に就役し、いずれも対日戦に参加しています。

ほぼ哨戒任務だけで目立った海戦を行なっていない「エドワーズ」と違い、
「リアリー」の方は、ペリリュー上陸作戦の支援、レイテ湾沖海戦に参加し、
1944年10月29日のスリガオ海峡での海戦においては

戦艦「山城」に魚雷を発射し、敵機一機を撃墜

という戦いを行なっているわけですが、当時の海上自衛隊にはまだ多くいた
旧海軍軍人が、「ゆうぐれ」に乗ってどんな感慨を持ったか知りたいものです。

スリガオ海峡での海戦で、「山城」の生存者は10名。
この10名は「アメリカの駆逐艦に助けられた」ということですが、
それがこの「リアリー」であった可能性は大です。

そういう意味では彼女の人生は日米の狭間で誠に数奇なものであったと言えます。

 

現地の説明板の写真より。
「ファイアコントロール」とは砲撃手のことです。
「フレッチャー」型駆逐艦は5インチ38口径単装砲 を5基搭載していました。

当時駆逐艦の砲撃手は、花形の配置だったと思われるのですがどうでしょうか。

1944年、ウルシーにおける「カッシン・ヤング」(一番右)。

「ベンソン」級の「ケンドリック」DD-612、
「シムス」級の「オブライエン」DD-725などと並んでいます。

 

艦隊における「カッシン・ヤング」は、レーダーピケット艦として
特攻隊の攻撃から空母を守る役目をしていました。

レーダーピケット艦は機動部隊本隊から遠く先行し、レーダーによる情報収集を行い、
敵の攻撃隊を探知すると、味方機動部隊本隊にその情報を送信するのが役目です。

この情報を受け、艦隊旗艦の迎撃戦闘機隊が迎撃を行います。
もし戦闘機による迎撃をくぐり抜けた攻撃隊があれば、それを攻撃するのが
駆逐艦の役割でした。

地図上に「 USS PRINCETON SINKS」という十印がありますが、
空母「プリンストン」がレイテ湾沖海戦において、
雲間から現れた日本海軍のたった一機の彗星に、

「まるで悪魔のような熟練の技で」 

500キロ爆弾を投下されて沈められてしまった場所です。

(実は滝沢聖峰氏の漫画のあの場面が忘れられないわたしである) 


地図には「カッシン・ヤング」が特攻の突撃を受けたことも
飛行機のマークによって記されています。

いずれも「ピケットNo. 1」「ピケットNo.9」と、ピケット艦の
ポジションが記録されています。

駆逐艦は先ほども説明したように、航空機が迎撃しそこなった
特攻機と対峙せねばなりませんでした。
特攻する方は、駆逐艦などではなく中央の空母を狙うのですが、
状況によっては被弾した航空機が手近の駆逐艦を道連れにするため
突っ込んでくるということも多々あったのです。 


というわけで、「カッシン・ヤング」上で1945年に行われた海軍葬の様子。


これがおそらく4月12日と7月30日に突入した特攻機による死者のための儀式でしょう。

4月12日に第3神蕾桜花隊ら大量の特攻機が沖縄に出撃した
菊水2号作戦で、海軍103機、陸軍72機が出撃したものです。

「カッシン・ヤング」は特攻機5機を撃墜し、1機が頭上で爆発したため
1名が死亡、58名が重傷を負いました。

日本側の未帰還機は 海軍69機、陸軍49機です。

7月29日に行われた特攻作戦では、「カッシン・ヤング」は右舷に特攻機の激突を受け、
銃撃統制室にひどいダメージと火災を生じ、22名が死亡、45名が負傷しています。

写真はおそらくこの時に行われた海軍葬だと思われるのですが、
この時に出撃した特攻隊は海軍の第3龍虎隊(93式陸中練)ということがわかっています。

現在博物艦となっている「カッシン・ヤング」ですが、
1942年から44年までの2年間に、175隻も建造された「フレッチャー」級 駆逐艦は
全てが退役を済ませ、標的艦となったりスクラップとなったりして、
現存する4隻のうちの貴重な一つとなっています。

展示されて現存しているのはDD-537「ザ・サリヴァンズ」
DD-661「キッド」、DD-581 「チャレット」、
そして「カッシン・ヤング」の4隻。

「フレッチャー」級の175隻中第二次世界大戦で戦没したのは17隻。
そのうち特別攻撃隊の突入による戦没は9隻。

9隻も特攻機に沈められたのと同型艦を戦後の日本に貸与するというのは
アメリカ海軍にも思うところがあったのではないかとわたしはつい
そこまで考えてしまうのですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

 

蛇足ですが、戦没とカウントされている1隻(DD-512 『スペンス』)は
あのマケイン&ハルゼーコンビの指揮によるコース選択ミスが招いた
コブラ台風による沈没です(涙) 

 

もう1日、「カッシン・ヤング」についてお話しします。

 

 

 

米軍艦「HEEEEE」の謎〜駆逐艦「カッシン・ヤング」

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さて、息子をサマーキャンプに送り届け、TOが帰国した後、
わたしは一人で「コンスティチューション」を観るために、ここ
ボストンのチャールズタウン海軍工廠まで来ました。
その日は曇りで夏の装いでは震え上がるくらい寒かったのですが、
3週間経って息子をピックアップし、家族三人で来た時には
ご覧の通り、わたしなど暑さで顔が真っ赤になるくらいの夏模様。

西海岸と違って、昼間の気温差が結構大きいのがボストンです。

1度目の訪問の時、ここに展示されている「カッシン・ヤング」には
もう見学のゲートを閉じてしまっていたので、わたしはこの時も二人に

「閉まる前にあちらの軍艦の中を見たいんだけど」

と促して最初にここにやって来ました。
ところが、この日もゲートは閉じたまま。
そんなに遅い時間でもなかったのに、全くやる気のないアメリカ海軍です。


さて、この日も中を見学することはできなかったので、外側の写真をご紹介していきます。
まずは艦尾部分。
「フレッチャー」級の艦尾は尖ったように小さくなっているのが特徴で、
そのためこの下には階層が二段しかありません。 

舷門から中央部分を見上げたところ。 

舷門近くにあるのは5連装533mm魚雷発射管です。
護衛艦の魚雷発射管を見慣れた目には、とてつもなく大きなものに見えます。

昔は2基搭載されていましたが、戦後一つ取り外されてこれだけになりました。

こうして見ると舷側が海面から低く、まるで掃海艇のようです。
「フレッチャー」クラスは掃海艦 (全長67m)よりはもちろん大きいですが、
114.8mと駆逐艦としても小型で、この前に見学した「ジョセフ・P・ケネディ」の
「ギアリング」級(約120m)より2階級下となります。

乗員は329名。
先日体験航海で乗った「あきづき」型は全長150.5mで乗員は約200名ですから、
いかに昔の軍艦が有事には人手を必要としていたかがわかります。

我が日本の当時の駆逐艦と比すると、基準排水量2000トン、全長118mの
「朝潮」型や「陽炎」型のようなものでしょうか。 

 

マスト部分を別方向から二枚。

大きなアンテナはAN/SPC-6C、SCレーダーのもの。
いわゆる一つの対空レーダーです。

頂上の湾曲しているのはSGレーダーAN/SPS-10
レイセオン社が開発したもので、対水上レーダーとなります。 

フェンネルの前のこれらは対水上用の SOレーダー(左)と思われますが
どこにも書いていなかったのでわかりません。 

第二次大戦中はボフォース40mm連装砲が装備されていましたが、
戦後ツインの4連装に置き換えられました。

冒頭に書いたように、「カッシン・ヤング」は1945年、
レーダーピケット艦として沖縄で艦隊行動をとっていた時、
特攻隊の攻撃を受け、死傷者を出しています。

記録によると、それは前方の煙突の近くのメインデッキの右舷側だった、
とありますので、まさにこの写真の右側だったと言うことになります。 

その戦闘において、日本の特攻機は記録にあるだけでも7機が、
「カッシン・ヤング」の対空砲で撃墜されたわけですが、
少なくともそれがこの連装砲ではなかったようで、なぜかホッとしました。

 

 

フェンネルは二本。
煙突の先だけが後方に煙の流れが向くように曲がっています。 

「DESRON 30」で検索するとネットでこのマークが出てきます。
第30駆逐艦隊のロゴですが、「カッシン・ヤング」が参加したという資料が
どこからも出てこないのが謎です。
 

主砲は全部で前後に5基搭載されています。
おなじみ Mk12,  5インチ砲です。

これは艦尾側に置かれた2基の5インチ砲の一つ。

こちらは前甲板にある2基。

5インチ砲の構造のわかりやすい図を拾ってきたので載せておきます。
あたりまえのことですが、このころは「中の人」がいて撃ってたんですね。 

これも戦後つけられた「ヘッジホッグ」(ハリネズミの意)。
対潜迫撃砲です。

上にある徽章に韓国の旗のマークらしきものが見えますが、
これは「ヤング」が1954年、第7艦隊と演習を行った時に、
「韓国パトロール」に参加したという印のようです。
 

溺者救助用のボートの上に覆いのある「何か」があります。

写真を見ながら気がついたのですが、上部構造物に入るための
ドアが木で塞がれています。
もしかして改装中で見学は行われていなかったのでしょうか。

最初に来た日、遠くから人が甲板にいるのが確かに見えていたのですが。

岸壁に可愛らしい家が建っていて、海軍の人がここに来た時の
作業所兼休憩所になっているようです。
(展示艦の中ではくつろげないってことですねわかります)

Quality Assurance とあるので、営繕課のようなところの人がくるようです。

「カッシン・ヤング」は1951年、ここボストンの海軍工廠で
現在の形になる改装を受け(フラム改装ではない)、
1953年から1960年まで就役し、その後非活性化されて、
海軍から「永久貸与」という形で1978年からここに展示されています。 

「カッシン・ヤング」の横には、ミサイル巡洋艦「ボストン」CAG-1の
時鐘と対空砲だけが展示されていました。
 

「ボストン」も第二次世界大戦のために建造され、
戦後はミサイル巡洋艦に変更されてベトナム戦争にも参加した艦です。

彼女の艦体は1975年、売却されてスクラップとなりました。

 

「カッシン・ヤング」は1946年に一旦退役し、その後は
「モスボール艦隊」といわれる予備艦として保存されていましたが、
朝鮮戦争の勃発に伴い、1952年にここチャールズタウンで改装を施され、
大西洋とカリブ海での4回ものサービスを勤めています。

 この間彼女は5回にわたるオーバーホールを受けながら、
老いた体に鞭打つようにして勤務を続けました。
本来ならとっくに引退している歳なのに、何度も整形手術を受けて
若い娘の役も演じてしまったりする女優の執念みたいなもんでしょうか。

ちょっと違うかな。

その功績を讃えられ、彼女は「バトル・エフェクティブネス・アワード」、
つまり戦闘効果賞を与えられました。

そして、このことを調べていてわたしは長年の謎が氷解したのです。

これは、横須賀にいる「チャンセラーズヴィル」の艦橋ですが、
これ!この

「HEEEEE」

ですよ。
かねがね、米軍艦のこの「へええええ」って何だろうと思っていたの。
これが、「戦闘効果賞」受賞の印であったことが判明したのです。

この「E」を「バトルE」といいまして、賞を受けるごとに
Eを艦体に書いてそれを表しているというわけです。
この写真でいうと、黒い影をつけた金色のEがそれ。
Eは「エフェクテブネス」=効果のEだったんですね。 

それでは「HEEEEE」の最初、下三本線の「H」は何かと言いますと、

「 フォースヘルス&ウェルネスユニット賞」

 といい、Hは文字通りヘルス=健康の意。
艦に置ける健康増進とか医療の充実が受賞の対象になり、例えば
「チャンセラーズヴィル」の緑のHの下の三本線は、今まで
この賞を3回受けたという証になります。

もし彼女が後2回、つまり全部で5回この賞を受賞することがあれば、
その時にはHの下の斜線は消えてHの上に星が描かれます。

画面をよくみていただければ、青と赤のEの下が特にペンキムラがあり、
斜線をけした跡があるのがわかります。ってかちゃんと綺麗に塗りなさいよ。 

「E」アワードは一年に一度審査があり、受賞すれば増えていきますが、
一度取ればあとは斜線と星でその回数を表します。

色によっても意味があって、黒の「マリタイムウォーフェア」以外には

"E" =ファーストウォーフェア/防衛優秀賞 赤 "E" =エンジニアリング/存続可能性優秀賞 緑 "E" =指揮統括優秀賞 ブルー "E" =物流管理優秀賞 黄色「E」=海軍陸上軍(CNSF)船舶安全賞司令官 紫 "E" =効率優秀賞

これでいうと、「チャンセラーズヴィル」はかなりの優秀艦であり、これまで
もっとも多く評価されたのが「物流管理」であることまでわかるというわけです。 

 

 

後一日、「カッシン・ヤング」にまつわることについてお話ししたいと思います。



ヤング大佐と「海戦」、キャラハン兄弟と「ミズーリ」特攻

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「カッシン・ヤング」について説明した項のコメント欄でunknownさんに
「ファイアコントロール」とはつまり銃撃統制室だということを
教えていただいて、その上で初めて気がついたことがあります。 

その時にこの写真をご紹介したわけですが、そもそも
展示艦となっている「カッシン・ヤング」の前の説明版の写真に 
なぜこのファイアコントロールのメンバーの写真だけがあったのか、
ということをわたしは最初の項において考えませんでした。 

しかし、彼らが「銃撃統制室」のクルーだった、ということを念頭に置いて
その日の記述を改めて読んでみると(自分で言うのも変ですが)

1945年7月29日、特攻機が右舷に激突し、その際銃撃統制室に
ひどいダメージと火災が生じ22名が死亡45名負傷

ということだったですね?
つまり、 ここに写っている銃撃統制室のクルーは全員亡くなった可能性があるのです。


そう思って改めて写真を見ると、また違った感慨が浮かんできます。


さて、「フレッチャー」級駆逐艦「カッシン・ヤング」の名前になったのは
カッシン・ヤング大佐(1894−1942)ということはすでにお話ししました。
重巡洋艦「サンフランシスコ」の艦長として第一次ソロモン海戦で
壮絶な戦死を遂げ、その戦績を称えて駆逐艦に名前を残しました。

 

いつもなら似顔絵を描きたいところですが、今回は実際の写真です。
なぜかというと、この人が俳優のボー・ブリッジスに瓜二つで
わたくし結構驚いてしまったもので。

ってそれだけの理由かい!

と言われそうですが、 ちなこれがボー・ブリッジス。

ね?似てるでしょ?
だからなんだって話ですが。

ブリッジス大佐じゃなくてヤング大佐は海軍兵学校卒業後、
戦艦乗り組みと潜水艦にも少し勤務し、司令として、
先日来お話ししていたグロトンの潜水艦基地に赴任していたこともあります。

真珠湾攻撃の時にヤングが艦長を務めていたのは工作艦「ヴェスタル」でした。
日本軍の爆撃による爆風で彼は海に吹き飛ばされましたが、隣にいた
「アリゾナ」が炎上し始めたのを見て、ヤング艦長は油の海を泳いで艦に戻り、
「ヴェスタル」を「アリゾナ」から引き離して被害を防ぎました。

彼はこの英雄的行為に対し、名誉勲章を授与されています。

 

1942年9月、ヤングが艦長として乗り組んだ「サンフランシスコ」はソロモンに進出。
11月13日、ダニエル・キャラハン少将が座乗する旗艦として、第三次ソロモン沖海戦で
阿部弘毅少将率いる日本艦隊と遭遇し、激しい砲撃戦を繰り広げました。

この海戦で「サンフランシスコ」は軽巡洋艦「アトランタ」 (USS Atlanta, CL-51) を
誤って攻撃したのち、日本側の戦艦「比叡」と一騎打ちの状態になるも、
日本側のもう一隻の戦艦「霧島」からの三斉射が「サンフランシスコ」の艦橋を直撃して、
ヤングはキャラハンら任務群幕僚とともに戦死を遂げたのでした。


当ブログでは、この第三次ソロモン海戦において、「鳥海」に従軍記者として
乗り組んでいた作家の丹羽文雄の「海戦」をご紹介したことがありますが、
この作品中「サンフランシスコ」について書かれた部分を抜粋してみます。


やがて甲巡の艦尾の方も燃えはじめた。まん中が黒く切れている。
煙であろう。
燃える艦首が海に映る反射であろう。
白みをおびた赤い油絵具をどろりと海上に落としたようであった。
すきとおる紅蓮の焔であった。生涯忘れられない色であった。
生涯思い出すたびに、心臓の一部が針を立てられるような痛みを覚えるであろう
鮮やかな色の印象であった。
燃えながら敵は討っていた。(略)

「つっこんでくる。つっこんでくる」

そう言われてみると、左舷に向かいサンフランシスコ型甲巡が
艦首をこちらに向けて、ぐんぐん接近してきた。
すでに敵艦は後半身を火焔につつまれていた。
火焔を背負い、うき出した艦橋前の砲門からぱっぱっと閃光を放ち、射ってきた。
はげしい気魄が私の胸をつらぬいた。倒れるまでの必死のつっこみ方であった。
切ない呼吸のように三斉射をあびせてくる。

私はこの時になって、初めてどきっとなった。
自分の身にせまる危険を感じた。
私をめがけて突進してくるように見えた。
火焔を背負った敵艦は全身で怒鳴りながら、喚きこむように接近した。
砲口から吐く最後の火には人間の執念がこもっていた。
兵たちも黙ってしまった。
伝声管の兵は蓋をしめて、その上に軽く手を乗せていた。
びっくりしたように三斉射しながらぐんぐん距離を詰めてくる敵艦を眺めていた。
旗艦のはなった弾が敵艦のすぐ前のところに落ちた。
ものすごい水柱をあげた。

散布界をこちらから一つにかためて見るので大きな水柱になって見えた。
敵の姿は消えた。
しかしすぐ姿を現したが、敵は後半身をやられているので、 
操舵の自由を失っていたのであろう。
体当たりに突っ込んでくるより他に舵がとれない、悲しい身振りであった。
討ってきた。泣くばかりに討ってきた。

私は奇妙な瞬間を待った。
射たれることが判っているのに身動きをしないのだ。
無抵抗に最後を待っていた。

 

あらためて本職の作家というのはものすごいものだと感心してしまうのですが、
丹羽が見たこの情景の中で、カッシン・ヤング艦長は壮絶な戦死を遂げ、
その名をこの駆逐艦に残すことになったのです。

更に言えば、ほとんどが廃棄された大量の「フレッチャー」級駆逐艦の中で、
たった4隻の博物艦の一つとしてその名前が現在も人々の耳目に触れているのは
海軍軍人であったヤング大佐にとってまことに本望というべきかもしれません。


ところで、本稿で述べたダニエル・キャラハンと、日本の特攻機搭乗員を
海軍葬で葬った「ミズーリ」のウィリアム・キャラハン艦長を混同し、
別項で同じ人物であるかのように書いてしまったわたしですが、
その件をコメント欄でご指示いただき、「ミズーリ」のキャラハン艦長が
ダニエル・キャラハンの弟であったことを初めて知りました。

こちらが「ミズーリ」艦長であったウィリアム・マッコーム・キャラハン。
彼もボー・ブリッジスと弟のジェフ・ブリッジスくらい似ていません。
この兄弟は同じ高校を卒業し、同じように海軍兵学校を経て
海軍軍人になり、どちらも戦闘艦の艦長という道を選んだわけですが、
年齢にして二人は7歳も違います。 

Daniel Callaghan 

ともかく、この件について改めてお詫びとお礼を申し上げるとともに、
そのことを知ってから一つ思い当たったことがありますので書いておきます。 


艦隊司令として「サンフランシスコ」に座乗したダニエル・キャラハンの戦死は1942年です。
ウィリアム・キャラハンが海軍軍人として、兄の仇を取るような気持ちで
日本軍と戦ってきたであろうことは想像にかたくありません。

しかし彼は、自艦に突入し果てた敵国の特攻隊員を、

"The young Japanese airman had done his job to the best of his ability,
with honor, and deserved a military funeral.

「この若い搭乗員は彼の能力の全てを尽くして仕事をしたのだ。
その行為は敬意を持って、海軍葬で弔われるのに値する」

として海軍葬を執り行ったということで有名になりました。

クルーだった人物は後年、この時のことをこう語っています。

「わたしは遺体を回収し、他のクルーにこれを海に投棄していいかと聞いた。
キャラハン艦長は

”いや、遺体はシックベイ(医療区画)に降ろせ。明日葬儀を行う” 

といった。

搭乗員の上半身はデッキの上に散らばっている状態だったが、
残りの下半身は別のクルーがもうすでに海に投棄してしまっていた。
上半身だけを検査のためにシックベイに運んだ後は、クルーが記念のために
衣服やヘルメット、スカーフ、ジャケットをそれぞれ持ち去った。

検査が終わって、遺体は錘のために弾薬のケースと一緒にキャンバスの袋に入れられた。

翌日、日本のパイロットの海軍葬が行われた。
遺体は乗員が一晩で縫った日の丸の国旗に包まれていた。
従軍牧師が祈りを与え、6人の乗員が儀式に則って遺体を投下し、
そして弔銃の発砲が行われた」

ある乗組員はまたこう記しています。

「少なくないクルーにとって、このことは当時苦々しく思われた。
しかし、今ならあのことを誇りに思える」

2001年のミズーリ式典の段階でも、なおアメリカ人の中には
このことを良く言わない層がいて論争があったそうですが、
彼の息子は

「父は死ぬまでそれは正しいことだと信じていた」

と語っています。
また、ある提督はキャラハンのことを

「 戦時には勇気というものは強いリーダーシップをもつ個人の行動により測られる。
キャラハン艦長の見せたリーダーシップの質というものは 、
我々海軍の幹部が後に続くべき理想の具現であったとも言える」

と絶賛しています。
  

 

そしてキャラハン艦長が海軍葬でセレモニーの時に述べた言葉はこうでした。

「この勇士は勇気と献身を我々に示した。
祖国のために戦ってその身を犠牲にすることによって」

 

 

キャラハン艦長の立場に立ってみるまでもなく、
彼の個人の怨讐を超えたこの判断が、いかに軍人として、いやそれ以前に
人間として高潔なものであったかを考えると、
我々もまたこの人物の強さと勇気に賞賛を送らずにはいられません。

弟のウィリアム・キャラハンは1991年、93歳の長寿を経てなくなりました。
彼が冥府でダニエル・キャラハンと再会することがあれば、
半世紀ぶりに出会う兄は、自分を殺した敵国の兵に敬意を持って海軍葬を行った
弟の話を聴き終わってにっこりと頷き、

「それでいい。俺はお前を誇りに思うよ」

と彼を抱きしめたに違いない、などとわたしは夢想してみたりします。

 

 

 

映画「海軍」昭和38年版〜海軍兵学校

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戦中に発表された岩田豊雄原作の映画「海軍」について、
二日に渡ってご紹介してきました。
今日は昭和38年東映映画の同名映画についてお話しします。

タイトル画は、前回の構成で人物だけを入れ替えました。
この俳優陣をみて、有名スターが勢揃いしているのに驚かれるでしょうか。

この映画の貴重なところは、こののちアクション俳優として有名になった
千葉真一の「それ以前」の姿が見られることです。

当時千葉真一は俳優になって2年目ながら、器械体操で鍛えたバネのある体と
この映画でもわかるキュートなフェイスでメキメキ売り出し中で、
「海軍」の主人公、谷真人役に最初に抜擢されていました。

ところが牟田口隆夫役の北大路欣也が、千葉と主役の交換を要求。

北大路は子役としてすでに俳優歴は長かったのですが、「髷物」ではない
映画の初主演をこの「海軍」で果たしたかったのだと見られています。

大スターで東映の役員も兼務していた市川右太衛門の御曹司とあっては
逆らうこともできず、 東映は要望を聞き入れたという経緯がありました。


千葉が内心面白くなかったであろうことは想像に難くないのですが、
しかし実際の映画の出来を見ると、眉が太く濃い顔の北大路が谷真人役、
甘いマスクで線の細さももつ千葉が牟田口隆夫役というのは、
結果的にこちらの方がはまっていたような気がします。

北大路って「そういうやつ」だったのかー、という失望感は否めませんが、
まあ本人だけの意向ではなかったかもしれませんし。 

さて、このころの映画ですが白黒です。
タイトルには昭和35年に引き上げられ、第一術科学校に展示された
特殊潜航艇がバックに映し出されます。

音楽は音楽関係者なら誰でも知っている林光。
リリカルな合唱曲などで有名な作曲家ですが、タイトルからは
意外なくらいロマンチックなテーマ曲がこの画面に流れます。

なぜか。

戦時中に制作された「海軍」はまごうことなき戦意高揚のための
海軍省後援の「海軍宣伝映画」でしたが、戦後18年、同じ小説を
東映はヤングスターを使った恋愛要映画にリメイクしたのです。

映画は、実際のニュース映像で世界状況の解説を織り込みながら進められます。
主人公の誕生とその名付けから始まり、彼が8歳になったある日・・・。

主人公谷真人の父が亡くなりました。

谷真人のモデルとなった真珠湾の九軍神のひとり、横山正治の父も
彼が8歳の時に他界しています。

真人の親友、牟田口の妹、エダ役は三田佳子。
昭和18年版では、エダが憎まれ口を叩いたままなんのフォローもなく
真人は出撃してしまいましたが、本作では後があるので(笑)その辺は控えめです。

むしろ、積極的なエダに対し、照れから戸惑う真人といった感じ。

海軍オタの牟田口(千葉真一)はグラフの「長門」を見ながら
「この艦長になりたい」などと熱く語ります。  

「鹿児島は日本の海軍を生んだ土地なんだよ。
お前も海兵にいかんか?」

真人の母親、ワカ役は伝説の杉村春子。
真人の兄である長男の大陸出征を複雑な表情で見送ります。 

真人らは夏休みに江田島の海軍兵学校見学にやってきました。

赤煉瓦の生徒間の前で整列する生徒たち・・・なんですが、
ここでびっくり、なんと生徒館正面に掲げられているのは菊の御紋です。

昭和38年、もうすでにここは海上自衛隊第一術科学校となっていたはず。
CGによる修正技術は夢物語やSFの中にしかないころですから、
この紋章は映画のためにわざわざ付け替えられたのだと思われます。 

赤煉瓦から颯爽と出てきた白い二種軍装の当直教官に案内してもらい、
江田島構内を歩く一同。

カッターのダビッドも、今とほぼ変わりありません。 

教室となっていた鉄筋の校舎が大きく映されます。
このころはまだ窓枠が茶色い木製であるのが確認できます。 

おそらく建て替えられた学生課のある建物の内側だと思われますがどうでしょう。

作ったばかりらしい池があるので少し驚きました。 

生徒の自習室を見せてもらっています。
見るからに新しい机と椅子が並び、黒板の上には「五省」が掲げられていますが、
これは幹部候補生学校としてスタートするために改装した部屋でしょう。 

一同は赤煉瓦の廊下を二列で歩いていきます。
下にちらっと「同期の桜」が見えますが、当時の同期の桜の横には
今のような無粋なプレハブではなく、赤煉瓦の倉庫があったようです。 

おお、これは先日わたしが卒業式で控え室に用意していただいた部屋そのもの。
幹部候補生学校になってからも、ここが寝室だったようで、表札には

「第4分隊寝室」

とあります。 

きっちりと畳まれたシーツ、チェストは海軍時代そのまま。
昔の幹部候補生は海兵生徒のように赤煉瓦で寝起きしていたんですね。 

これは術科学校の方だと思います。

当直の教官は江原真二郎ではないですか。
若々しい声で兵学校の沿革などを語っています。

「ここでは一個の人間としての教養にもっとも力を入れております。
ここを巣立っていく人は将来斧日本の運命を背負う人となるからです」

何事かを心に決める真人。

って、当然海軍にいくことなんですけどね。

「お母さん、僕、兵学校に行こうと思うんだが」

「そうか・・・海軍いくか」

息子の言葉に思わず微笑みが凍りつく母。

早速真人は牟田口らと「軍人組」で特化した勉強を始めます。

「両舷、前進ビソーク!」

浜辺で掛け声ごっこをしていると、牟田口隆夫が・・・

「月が三つや四つに見える・・・」

どう見ても乱視ですありがとうございま(略)

いきなり真人の家にやって来たエダは喧嘩腰で

「兄がお会いしたいのでちょっときてくださいな!」

一定の距離を取って歩く真人。

エダが立ち止まって振り向けば、真人も立ち止まり、
決して近寄ってこようとしません。

「わたしが怖いの?弱虫!」

だからその態度が怖いんだよ。分かれよ。

「俺、眼医者に行った・・・海軍はダメだ!」

絶望して号泣する牟田口。
千葉ちゃんが可哀想やー!

さて、真人の海兵の試験が始まりました。



学科試験は英語から。最初は机全部が埋まっていたのに・・・、

歴史。
合格点に達しない生徒は試験がすむごとに切ってしまうんですね。 

兵学校に受かった人というのはそれだけですごい倍率を
潜り抜けた俊才であったことがわかります。

真人はそして無事、

「カイヘイニ ゴウカク イインテウ」

の電報を受け取りました。

「ドッドドッドドッミド ソッドドッミド
ミッミミッミソッミソッミ ドッミソッソドー」(移動ド)

兵学校の朝は起床ラッパで始まります。
「起きろよ起きろよそら起きろ 起きないと班長さんに叱られるー」

次の瞬間飛び起きてばね仕掛けのようにアクション。
現在でも全く変わることなく自衛隊で毎朝見られる光景です。 

ここからは兵学校生活が活写されます。
まず相撲。 そして柔道。

先日卒業式で女王殿下がお立ちになった浮桟橋に櫓を置いて飛び込み。

同じく浮桟橋から飛び込んで遠泳。
これで見る限りポンツーンは木製でボロボロです。
戦前からのものに違いありません。

現在も幹部候補生学校の必須、遠泳。
泳いでいるのは当時の幹部候補生たちだったりするのでしょうか。
兵学校生徒は全員坊主頭が義務付けられていましたが、よく見ると
この中には長髪の人たちが混じっています。 

これは絶対に本職がやっていると思われるカッター操作。

カッターに二人ずつ乗ったまま海面に下ろしていきます。
幹部候補生に昔の事業服を着せて撮影したのだと思われます。

兵学校名物、棒倒し。
防衛大学校では今でもこの伝統を受け継いで棒倒しが行われます。 

一応参加している北大路欣也。棒の根元で抑える役。
これは大変ハードな配置で、この生徒が圧死したこともあります。 

食事の前にはお祈り・・・じゃなくて軍人勅諭の斉唱。

ここに食堂があるということですが、はて、これは一体どこ?
門から入って左側の売店のあるところかな? 

そして夏休み。
兵学校生徒にとっては最初の「故郷に錦を飾る」瞬間です。
ただいま、と米屋の戸口にたつ兵学校の生徒姿の真人。

海軍式敬礼もすっかり板について。 

頭から爪先までを凝視し、無言で目を潤ませる母。

牟田口家に海兵の制服のまま出かけて晴れ姿をエダにみせつける真人。
もうエダ、ドキドキが止まりませーん。 

休暇をエンジョイしていると、陸士を目指していた旧友と西郷さんの像の前でばったり。
しかし、真人は彼の口から、隆夫がどうしても海軍に入りたいと受験した
海軍経理学校も、肺炎の痕が残っていて不合格だったことを聞かされます。 

失意の隆夫は訪ねてきた真人に会わず、追い返してしまいます。
見かねた隆夫の父(加藤嘉)は彼を諌め、ついでに東京に行くことを勧めます。

「東京に行ってお父さんの知り合いの画家に絵を習うといい」 

ここで

「お前の若さと勇気をお父さん信頼している」

などと言い出すあたりがいかにも戦後って感じ。 

おお!これは田園調布の駅舎ではありませぬか。
なんと貴重な映像でしょう。

この駅舎は大正年間から1990年まで駅舎として現役でしたが、
一度解体されて現在はシンボルとして復元されています。

その画家ってのは田園調布に住んでいるってことね。 

なんと前作で鹿児島二中の先生をしていた黄門様こと東野英治郎、
今作では「花と女の裸ばかり描いている画家」を演じています。 

「僕は軍艦を描きたいんです!」

かたや兵学校にいる真人の元に、兄が中国で戦死したという知らせが届きます。
兵学校を見下ろす古鷹山の頂上から兄の名を呼ぶ真人。 

そして谷真人ら兵学校67期の卒業式の日がやってきました。
ここでわたしが目を奪われたのが、今まで見てきた兵学校の卒業シーンでも
おそらく唯一、玉座の前に天皇陛下らしき人物を配していることです。

つまり、現在では正面で行われる校長の卒業証書授与は壇の右側で。
恩賜の短剣を右の壇で受け取ったクラスヘッドは・・・・、 

陛下の御前に進み出、その後短剣を捧げ持って一礼し、
その後もう一度右側に戻って後ろ足に壇を降りていたことが判明しました。

67期のクラスヘッドは中村梯次生徒。のちに海上幕僚長になりました。 

真人のモデルとなった横山正治は、兵学校の卒業時、
ハンモックナンバーはちょうど100番でした。

横山が潜水艦乗りになることをいつ志したのかはわかりません。
「五十鈴」「長鯨」乗り組みの後、わずか数ヶ月の「千代田」
( 特潜母艦)での訓練、すなわち三机での特訓を経て、
彼は真珠湾へと出撃して行くのです。

 

続く。 

 

 

 

 

 

 

映画「海軍」昭和38年版〜真珠湾出撃

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本作は卒業式の行進と表桟橋からの出航なしで、卒業式から
いきなり遠洋練習艦隊の「磐手」艦内のシーンになります。

 

67期の練習航海は「磐手」と「八雲」で行われ、
以前ここでお話しした潜水艦の越山澄尭候補生は「八雲」、
当ブログ筆者ご贔屓の笹井醇一候補生は「磐手」乗り組みでした。 

士官候補生の制服というのを初めて見たのですが、軍帽は士官と同じ、
詰襟にボタン、しかもグレーという微妙なスタイルです。

遠洋航海先から送られて来た真人のハガキに

「末筆ながらエダさんによろしく」

と書いてあるのを見て嬉しさを隠せないエダ。
こちらのバージョンは随分とエダ、素直です。

「なんだ!わっははは!
母さん、ビール持ってきなさい、谷くんに乾杯だ」

うーん、このノリ、とても戦時中に思えないんですが。 
どう見ても戦後のホームドラマ。 

 

さて、練習艦隊はハワイに到着しました。

少尉候補生達はダイヤモンドヘッドを心持ち緊張の眼差しで見つめます。

 

遠洋航海が終わった後、67期生のほとんどは潜水艦であっても航空であっても、
軍艦乗り組みを経験することになっていました。
その後航空は「飛行学生」、潜水艦は「潜講」という訓練を受けます。

最初の軍艦乗り込みは、海軍軍人として船の考え方を基本にするための初級訓練です。

横山少尉は遠洋航海の後「五十鈴」に乗り組んでいました。
その「五十鈴」が故郷鹿児島に寄港したという設定。 

親友の隆夫は東京に行ってしまって不在なので、ここぞと真人に密着、
アピールする積極的なエダ。

真昼間から暗くなるまでただ歩き回るだけのデートが終了しました。

「・・じゃ」

「・・・家まで送ってくださいな」

というわけで送っていき、エダの家に到着。

「・・じゃ」

「 ・・・もういっぺん浜へ行って見ましょうか」

あんたら朝からずっと浜にいたんじゃなかったのか。

そしてついにエダ暴発。

「谷さん!あたし決めたの!
あなたのお嫁さんになりたいの!」 

「僕はいつ死ぬかわからない軍人だから結婚はできない」


その後母港である横須賀に「五十鈴」が入港し、
真人が上陸で銀座を歩いているとでばったり隆夫に遭遇します。

ここは銀座の資生堂かどこか?
ちなみにお店のBGMはポンキエッリの「時の踊り」です。 

隆夫くん、今や髪を伸ばし黒縁メガネをかけております。
しかし、千葉真一って若い時は結構線の細いイケメンだったのね。 

隆夫の下宿に行くと、無駄に肌を露出した女が出てきます。
これは枯れ木も山のにぎわいというやつで(ちょっと違うかな)
この女優さんを使うために原作にもなかった隆夫の恋人をキャスト。

彼女は北原しげみという東映のお姫様女優だそうですが、
それにしても昭和16年の格好じゃないでしょこれ・・。

隆夫の下宿で二人は話し合います。
戦争について。生と死について。 

「君は戦いでいつ死んでもいいと思ってるのか?」

「死ぬことが目的じゃないが任務の遂行なら命のままに赴くね」

「それは誰のためだ?」

「・・・誰のため?・・・自分のためだ」

場面変わって、呉駅。
当時はまだ普通に走っていた汽車がホームに到着する様子が見られます。
真人と呉で会う約束をした隆夫がやってきたのでした。

二人が真人の下宿に到着すると、隆夫の部下の下畑兵曹が待っていました。
昭和18年版でもえらくおじさんの艇附でしたが、(配役のクレジットすらなし)
こちらも当時34歳の加藤武が演じています。

横山正治の艇附だった上田定兵曹は真珠湾突入時25歳。
確かに22歳の横山よりは年上ですが、どちらも少し年嵩すぎるというか。

下畑兵曹は、彼らにくだった出撃命令を谷中尉に知らせに来たのでした。

真人の下宿からは軍港呉の景色が望めます。
昭和38年の映像なので、ドックには大型船が入っている様子がありますね。

握手で別れる二人。
これが親友同士のこの世で最後の邂逅となります。

「お互いに一生懸命生きよう」

 

その夜鹿児島に帰った牟田口隆夫は、妹のエダが
真人と結婚する気満々なのに愕然とします。

「谷とは結婚できないかもしれないな・・・」

真人が出撃を控えているらしいことを兄から聞いたエダ、

「わたし、呉に行って谷さんに会う!」

ここは三机港。
真珠湾に出撃する特殊潜航艇の訓練が行われていました。

岩佐大尉をモデルとした秋田大尉を演じるのは若き梅宮辰夫です。
ちなみに岩佐直治大尉は当時26歳。
婚約者がいましたが、破談にして作戦に臨んでいます。 

こちらは呉に押しかけて来たエダ。
真人が引き払った下宿に籠城して彼を待つ長期戦の構えです。 

いよいよ決死作戦への出撃が迫りました。
部下の下畑二曹に妻を呼び寄せるための電報を打てと命じる真人。

「中尉、その心配には及びません!」

「お前が心配なくても奥さんは会いたいはずだ!打て!」

当時の呉駅はまだ右から左に書かれていたようです。
呉の隣の駅は安芸阿賀と川原石。

下畑兵曹の奥さんに敬礼する真人。
呉駅まえの「BOOKS」という本屋の看板が見えていますが、
昭和16年に英語の看板が果たして呉にあったんでしょうか。

最後の晩、赤ん坊を寝かせて狂おしく抱き合う二人。
戦前の「海軍」でももちろん原作でも全くなかったエピソードです。

ちなみに横山中尉の艇附であった上田定兵曹は独身のまま戦死していますし、
そもそも、実際に攻撃隊の10人の中に妻帯者は一人もいませんでした。

呉での最後の夜、なんとなく下宿に来て見た真人がそこで見たものは・・・・

でたあー!

自分を待って二ヶ月間ここに住み着いているエダの姿でした。

「わたしの全部をあげようと思って来たの!全部をとって!」

と激しく迫るエダに、

「理性を失ってはいけない」

と直球で諭す真人。
こりゃー軍神横山少佐の伝記とはとても言えない方向に・・・。

「あなたは僕の胸の中でいつも気高く崇高に生きて来た。
僕は死ぬときにはあなたの美しさを抱いて死にたい。
二人の青春を美しいものにしておこう!」

もしかしたら谷真人、自分に酔ってますかー?

でも、誠実な男性ならおそらく皆こう言ったよね。

辛い一夜が明け、真人は下宿を一人で出てゆくのでした。

移動の汽車の中、二人の男たちはこの世に残していく
愛するそれぞれの女性のことを考えつつ、無言です。

そして昭和16年12月8日。

「下畑、いいか」

「はっ」

「いくぞ」

「はっ」

二人の出撃シーンはこれで終わり。
あとは無限に続く海が映るのみ。

日米開戦の報に世間が沸き立つ狂乱の最中、真珠湾の九軍神の名前が広報されます。

当時捕虜になった酒巻少尉以外の「九軍神」は、全て
撃沈ではなく戦果を上げたあと自沈したと報じられました。

三机港、桜島、そして鹿児島二中の(今も残る)校舎。
軍神横山少佐のゆかりの場所の映像が映し出されます。 

軍神たちの合同葬が行われ、葬列がしめやかに通り過ぎます。

海軍旗をたて、儀仗兵、そして神官に続く砲車。
誰の遺骨もなく、そこには軍神の遺髪と遺爪が乗せられています。

人々は歩道に正座し、頭を垂れて葬列を見送ります。
それにしてもエダさんのこのお洋服はどう見ても1963年の流行りの(略)

遺骨(じゃないけど)が自宅に帰って来た夜、葬儀の席では
横山少佐の遺書と同文の真人の遺書が読み上げられます。

フラフラと庭に出て来て井戸端で泣き崩れる母。

 

昭和38年当時の流行りのシルエットの喪服を着たエダは、
一人で桜島の見える天保山の浜に佇んで一人呟くのでした。

「真人さん、わたしは悲しまない。
あなたのためにわたしは悲しまない」

(糸冬)

 

 

戦後の「海軍」のサブタイトルは

「青春の全てを祖国に捧げた日本の恋人たち!」

となっていて、はっきり言って「海軍」とか「戦争」は
恋愛のお膳立てとして扱われているといった感じで、しかも
恋人たちがその恋を成就できず引き裂かれる戦争なんてよくないよね?
というわかりやすい反戦ものになってしまいました。

原作者の岩田豊雄(このころは獅子文六)はこの演出に内心唖然としたでしょうが、
もともと彼はどちらかというとヒューマン路線の作家だったので、
これそのものについてはご時世と諦めていたというか、
原作者としてあまり抵抗をしなかったのではないでしょうか。

ただ、彼のエッセイ、「海軍随筆」などを読むと、
豊田は67期卒の海軍軍人にかなり綿密にインタビューをしていて、
海軍という組織を見る目にも非常な敬意と愛情が感じられ、
それだけに、彼が横山少佐を「谷真人」のモデルとして
特別に愛していたことは間違いないことに思われます。

だから作者が横山少佐本人に対して

「こんなことになってすまん」

と内心思っていたかもしれないことは想像にかたくありません。


シリーズ最終回では、原作となった小説「海軍」を検証してみることにします。 

 

続く。

 

 

小説「海軍」〜古本で見つけた或る”書き込み”

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映画「海軍」について、昭和18年版と38年版の
戦中、戦後の映画化作品についてお話ししてきました。

ここでやはり原作を読んでおこうと、現代語版を取り寄せたのですが、
どちらの映画でも取り上げられなかった部分が、実はこの小説の
大変大きなパートを占めていることに気がついたので、ご紹介しておきます。

幼い頃から海軍好きで、海軍に入ることを夢見てきた、
主人公谷真人の親友、牟田口隆夫。

視力で海兵の試験に落ち、さらには海軍経理学校も肺炎の後が残っていて
完全に夢を断たれた彼は、東京で画家の修行を始めます。

しかし、ほとんど当てなく上京し、目が出る見込みも感じられず、
果ては何を描いていいかもわからなくなった隆夫は、絵を辞める決心をし、
そのままフラフラと電車に乗りました。

ところがその電車を横須賀軍港を通り抜けた瞬間、彼のかつての
海軍ヲタの血が騒ぎ出したのです。 

そして、横須賀中央駅から電車に乗ってきた海軍軍人の姿、
ことに海軍主計の軍章をつけた制服姿の軍人を見て、自分がこれまで

「海軍にはいれないから海軍から逃げていた」

ということを思い知るのでした。
そして彼が逗留していた久里浜で決定的なことが起こります。


隆夫は、艦尾に翻る旗の模様を認めた。
やがて、日を負った艦姿がくっきりしてきた。
長い鉄橋のような、艦体が見えた。マストが見えた。主砲の砲塔が見えた。

(重巡だぞ)

(おや、高雄級らしいぞ!)
彼は胸を突かれたような気がした。
手を拍(う)って、雀躍(こおど)りしたい気持ちになってきた。
高雄級の軍艦こそ、彼が軍人組の一人だった頃、夢に通うほど憧れていた艦だったのである。
新式な重巡として、また、見るから頑丈な、魁偉な外貌が、
どの軍艦の写真よりも、彼の心を捉えていたのである。

そのトン数も、兵装も、速力も、彼は恋人の齢や顔立ちのように、
今でも、心に誦んじているのである。

(高雄級が、おれの目の前を、走ってる!)

「いいなア・・・・・実に、いいなア!」

激しい感動のために彼は口に出して叫んだ。
まるで、青黒い鋼の鎧を着た荒武者が悠々として出陣して行くようだった。

 

その後隆夫は「海事画家」と言われるジャンルの画家、例えば
ドイツの潜水艦艦長出身の画家、クラウス・ベルゲンなどのことを知り、
自分も海軍画家になる決心を固めます。 

ベルゲン作


修行中のある日、隆夫は銀座でよそ見をしながら歩いていた男に
体をぶつけるのですが、なんとそれは谷真人でした。
軍艦「五十鈴」乗り組みの彼は、横須賀に艦が停泊中とあって、
プレーン(背広)で上陸中だったのです。

下宿に誘った真人が、想像だけで描いた伊号潜水艦が航走する絵を見て

「貴様、本当に、立派な腕前になった!」 

と激賞するのに勇気を得る隆夫。
そして、彼は谷少尉の招きで「五十鈴」の見学もさせてもらいます。

横須賀で待ち合わせた真人が、少尉の軍服と白手袋の挙手の礼で迎えるのを
隆夫はうっとりと眺め、じかに見る海軍の香りに陶酔するのでした。

昭和18年版では「先生」の存在は全く描かれず、38年版では黄門様が

「花と裸ばかり描いている、高尾の父親と昔母親を取り合った画家」

として出てくるわけですが、小説では全くそんなことはありません。
この市来画伯が、隆夫の描いた軍艦の絵を勝手にコンクールに出し、
その画は海軍大臣賞を獲得します。 

 

呉で谷真人と再会し、隆夫は呂号潜水艦の中を見せてもらって大興奮。
さらに潜水学校の敷地にある海底探査用の豆潜航艇を見て、 思わず

「真人!
こんな小さな潜航艇に魚雷を積んで敵の軍港に忍び入ったら、面白かろうね」 

叫ぶその言葉に、真人と案内の少尉は無言で急に眼をそらすのでした。

 

作者の岩田豊雄は、連載に当たって海軍に綿密な取材を行い、
横山少佐の同期である67期出身の軍人に思い出を語ってもらったり、
あるいは第6潜水艇の中を見学させてもらったりしており、
そのことを「海軍随筆」というエッセイにも生き生きと描いています。

牟田口隆夫の妹、エダの描き方も、両作品ともに全く原作と違います。
ツンツンだけで「デレ」も何もないまま終わってしまう戦中作品、
呉に押しかけて「私の全てを取って」( "ALL OF ME"の歌詞通り)
と激しく迫る戦後版の何れとも原作は異なっており、いわば
その二つを足して2で割った状態。

ってどんなだ、と言われるでしょうか。

つまり、原作では兄の隆夫は画家になるために「家出」するのですが、
(戦後版は父の物分かりが気味が悪いほど良く、息子に東京行きを勧める)
家を出ている5年の間にエダはすっかり二十歳のお年頃になり、家族総出で

「お嫁にやるなら谷の真人さんがええ」

ということで衆議一決したというのが原作です。


(豹が、猫になってしまった・・・・)

あんなにも女というものは、変わるものかと、隆夫は微笑した。
しかし、妹が真人になんの関心も持たないとしたら、少女の頃に
あんな不思議な敵意を、示すこと同いわけだった。
つまりあの敵意は、強情な好意だったのだ。



(画になるな)

隆夫は、真人が軍刀をエダと父に見せたというその光景を想像してそう思った。
そして、画になる若い士官に、妹が心奪われたのが、いよいよ当然に思った。

(エダの奴、眼が高いよ)

 

再び隆夫が呉を訪ねた時には、真人は下宿を引き払ってしまっており、
代わりに東京に真人からの手紙がきていました。

 

手紙には、その昔中学生時代に『軍人組』として江田島見学をした時、
案内してくれた飛田大尉が、現在少佐になり、
しかも海軍報道部に勤務していることがわかったので、
隆夫のことを画家として紹介しておいた、と書かれていました。

隆夫の夢に、真人は自分のツテを使って道筋をつけようとしてくれたのです。

原作では飛田少佐は「眉目清秀」ということになっているので、
江原真二郎はそこまで考えた配役だったということになりますね。


おかげで、隆夫は海軍嘱託の身分に採用されます。
採用にあたっては、警察が聞き込みに来るという調査を経ていました。

これはある意味当然で、

「画業を全うするために軍艦に乗せてもらったり、
実弾射撃を見たりする手蔓を求めて」

その資格を得ようとしていたのですから。
ここを読んでわたしが思ったのは、

「画業」を「ブログ」に変えると、まんまわたし?

ということなんですが(笑)
わたしが自衛隊の内部に入り込んで?見たものや聞いたことを
ブログにかいているのも、結局今が平和だから、ということになりますね。

いつまでもこんな世の中でありますように。

 

さて、隆夫の「初仕事」は報道班員として演習を取材するために
旗艦に乗り組み、模擬戦等の様を心ゆくまで目に収めることでした。

そしてやってきた、12月8日の朝。
隆夫はラジオを聴き、

(やったア・・・やったア) 

そのうちに軀がガタガタ震えてきた。
万感胸に迫って、心も体も、躍り出すのだった。
やがて、彼は首を垂れた。我知らず、天へ祈る心が起きた。
大粒な涙が、ぼたぼたと、床へ落ちた。

(真人は喜んでいるだろな。
そして、どこにいるだろうな。
飛行将校なら、第一線に出て入るかもしれないが、真人は・・)

 

隆夫はすぐさま真珠湾攻撃の絵を宣伝用に依頼されそれを描きあげますが、
その後年も明けた三月になって、さらに特殊潜航艇の攻撃の様子を
画に仕上げるようにという飛田少佐の命令を受けます。

「君・・・・」

飛田中佐が後ろから呼び止めた。

「は?」

隆夫がふりむくと、潤んだ中佐の眼が、ジッと、彼をみつめていた。

「いや、用ではない・・・」

中佐は、急に、横を向いて、仕事を始めた。

 

隆夫は早速特殊潜航艇の攻撃の画を制作に入りました。
白昼強襲図、そして月の出夜襲図。

第二図の方は、特殊艇が半潜行の状態で、至近距離に迫り、
一人の士官が、アリゾナ型の後半部に高い水柱をあげて命中したのを
確認している画を描いたのでした。

その直後、彼は海軍省発表において、ついにその名前を聞くことになります。

「任海軍中佐湯浅尚士・・・・任海軍少佐谷真人・・・」

 

隆夫は、自分の描いた夜襲の画を、ジッと見つめた。
やがて彼は驚きの声を発した。
ハッチから半身を露わしている士官の軀つきが、真人ソックリだった。
しかも、その姿は、潜水学校の六号艇のハッチから、
真人が軀を乗出した時の印象にちがいないのだ。
隆夫は、知らずして、真人を描いていたのである。 

 

 そして彼は、呉の料亭で真人と一緒に一夕を共にし、
「おす」とか「コーペル」(娘)などという海軍隠語を教えてくれて
快活に笑いあった中尉や、潜水学校の中を案内してくれた少尉が、
真人とともに二階級特進して「軍神」と呼ばれていることに感銘を受けます。


隆夫が唯一不満だったのはエダのことでした。
家からの手紙には、

「エダの縁談も一場の夢となったが、当人も別に悲観している様子はない」

などと書かれているのです。
隆夫は腹立たしく、つい「ちくしょうめ!」などと罵りながら、

(エダがどう想ってるかーそんなことを真人が知らないで、
却って、よかった)

真人は、もう軍神なのだ。
永遠に、二十三歳の海軍少佐であり、また、童貞の英雄なのだ。
あらゆるものが、美しいのだ。
真人を形作るすべてが、美しくなければならないー

 

戦後の映画では、これと同じようなことをその真人本人が
身を捧げてくるエダに言い聞かせてこれを思いとどまらせる、
ということになっていたわけですが。

 

戦後作品で描かれていた海軍葬についても、小説には詳しく書かれています。
実際には九軍神の海軍葬は、昭和17年の4月8日(月命日)
海軍では広瀬中佐以降初めて、日比谷公園で行われています。 

葬列を待つために隆夫とエダは一時間路上で待ち続けました。
時間が来て黒い砲車の上に乗せられた白い柩が通ります。

(真人が行く・・・・真人が・・・・)

閉じた瞼の中に、砲車の上から、真人が、ニッコリ笑って、
此方を見たような、現像が映った。
途端に、隆夫は堪えきれなくなって、大声で、嗚咽を始めた。
それに伝染したように、此処彼処にすすりなきの声が起った。
ただ、エダだけは、泣かなかった。
彼女は、土下座の膝を、キチンと揃えて、微動もせずに、合掌していた。
噛んだ唇は、震えていても、声も、涙も出さなかった。

公園の中で、海軍軍楽隊の”いのちをすてて” の奏楽が起った。

命を捨てて
 

映画では、これがショパンの葬送行進曲になっています。
現在も自衛隊の慰霊式典では、この曲の最初の8小節のあと弔銃発射が行われ、
それが何度か繰り返されるので、ご存知の方もおられるでしょう。 

(おお、真人のお母さんだ・・・・)

彼は、黒い喪服の葬列の中に、小柄な、痩せた躰を俯けた
老人の姿を、目敏く発見した。

やがて、エダが、ヨロヨロして立ち上がった。
ふと、隆夫は、妹の絹靴下の膝頭が、長い土下座のために擦り切れて、
血が滲んでいるのを見た。

 

この後、隆夫は、葬列を見送っただけで鹿児島まで変えるという
エダを東京駅に送っていき、同じ汽車で故郷に戻る
軍神たちの遺髪と遺爪を白木の箱を抱いた遺族が通るのを
二人で遠くから合掌するシーンで小説は終わります。

 

戦中、そして戦後の映画、そして原作の小説を読んで、
映画というものが到底描ききれないことがあまりに多かったのに
愕然とする思いです。

やはり、文字から想起され想像力によって頭の中に展開するシーンは
とても商業映画なのでは描きつくせないものなのだなと
改めて知る結果になったことは、そうとは知っていたとはいえ驚きでした。

 

ところでわたしはこの原作をamazonで古本を適当に選んだのですが、
送られて来た小説の最後のページに鉛筆書きで、

60・5・18(土) 

小生を海軍に導きし本

四十三年ぶり再読・涙せり

と書かれていました。
そして、前の本の持ち主が、小説が連載されていた昭和十七年には
中学二年(つまり真人が軍人を志したころ。13−4歳)であったことも、
他のページへの書き込みでわかりました。

この方は、その後この本に「導かれて」海軍に・・・・、
もしかしたら海軍兵学校に入学し、在学中に終戦を迎えたか、
あるいは予科練に行ったのかもしれません。

現在ご存命であれば、 89歳のはずですが、古本屋に蔵書が、
しかもこれほどに思い入れの深い本が売られたということは、
もうすでに前の持ち主は谷真人と同じ世界に行ってしまわれたのでしょうか。

 

ともあれ、この書き込みのある書を偶然手にしたことによって、
小説「海軍」は、ひときわ強い印象をわたしの心に残したのでした。

 

終わり 


 


出航前夜〜護衛艦「いせ」転籍壮行行事

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護衛艦「いせ」は2011年に就役して以来、母港を呉としてここから
フィリピンの台風災害に関して派遣された救援隊に参加、あるいは
リムパックに参加するなど、国防の任を負ってきました。

今まで軍艦「伊勢」の着底海域(音戸町坪井沖)で行われた
慰霊式に参加したのが、わたしと彼女の唯一のリアルな接点ですが、
当ブログ上ではサンカイ(フィリピン語で友達)作戦と呼ばれた救難活動にあたり
当ブログにおいて彼らへの激励の一稿を献呈させていただきましたし、
その後「日向」「伊勢」姉妹の北号作戦について書いたこともあります。

そういうご縁のある「いせ」ですが、この度、呉での最後の彼女の姿を見てきました。


この3月に就役した「かが」が第4護衛隊群第4護衛隊に編入され、
呉にやってくることになったのと同時に、6年間の呉での勤務を終え、
第2護衛隊群に転籍になった「いせ」が佐世保にいよいよ出航するにあたり、
呉地方隊が執り行う壮行行事に参加させていただくことになったのです。

お誘いくださったのは当ブログでもおなじみ鉄火お嬢さん。
彼女は後援会員でもあるので、その前日の

「いせ乗員との懇親会」

から参加を取り計らっていだだきました。

場所は呉のレス、いや料亭。
昔から海軍軍人の御用達であった「海軍料亭」です。

昨年焼けてしまった「パイン」こと小松のように、海軍さんは
何かと料亭を英語のダジャレ的隠語で呼んだものですが、それでいうと
五月荘は「メイ」でした。

十三丁目の飲み屋も華やかだが、士官の飲み屋は所轄長以上が華山(フラワー)、
佐官級が吉川(グッド)分隊長級が徳田(ラウンド)ガンルームが岩荘(ロック)・・
ところが、潜水艦一家は団結が固く、上下とも五月荘(メイ)を利用することが多かった

ということがHPに書かれていますが、「潜水艦一家は」のところで
ハッとしたことがあります。

つい昨日まで、特殊潜航艇で12月8日真珠湾に出撃した横山少佐をモデルにした
「海軍」について書いていたわけですが、たとえば東京からきた
主人公谷真人の親友牟田口を呉で迎える、というようなことが実際にあったとしたら
それは間違いなくここ「メイ」だったに違いありません。

特殊潜航艇のメンバーが「メイ」を利用したということが書かれた記録はありませんが、
呉にいる間に「団結が固かった」潜水艦乗員として、彼らも一度や二度は
ここで飲んだことはまず間違いないと思われます。

HPによると、昭和20年夏、「伊勢」が着底することになった呉軍港空襲で
海軍料亭「五月荘」もまた全焼してしまったのですが、
3年後には同じ場所に建て直した建物は基本的に今も変わっていません。

来呉前からそういったことを知りワクワクしていたわたし、
お座敷に通されるなり部屋の額に注目しました。

タイトルも状況もわかりませんが、ずっと「メイ」の壁にあって、
旧軍の軍人たちが目にしてきたものであるのは間違いないばかりか、
大正14年の制作となっているので、これは状況的に

「於日本海海戦聯合艦隊丁字戦法なうの圖」

かもしれません。

同じ部屋の別の壁には戦艦陸奥が。
こちらも大正14年制作、ということは当然ですが当時就役して
最新型だったころの「陸奥」の姿ということになります。

その後ご存知の通り「陸奥」は柱島沖において謎の爆発を起こし、
その主砲やスクリューは「大和ミュージアム」の前に展示されています。



さて、ここで行われた護衛艦「いせ」といせ後援会との懇親会の様子は
個人情報もあるので割愛しますが、自衛官で出席したのは艦長、副長、
先任伍長はじめ、「長」のつく幹部と女性幹部二人、3尉から1佐まで総勢13名。

こちら側もそれほど多くの出席者ではなかったので、宴会中には皆が
てんでに席を立って入り乱れ、独自に親交を深めることとなりました。
かくいうわたしも引っ込み思案に鞭打って?ほぼ全員にご挨拶を果たし、
お仕事のことなど聞きたかったことを色々伺うことができました。

そういったことにこれからおいおい触れる機会もあることでしょう。

さて、懇親会が終わり、会員が先に出て乗組員の皆さんをお送りする、
ということになっていたのですが、なぜか真っ先に出てこられた艦長。

この日はわたしが呉に行くということで当然のように雨が降ったのですが、
(皆さんすみません)ここに艦長の持ってきておられた傘のインパクトがすごい。

「艦に戻った時、これをさしていたら艦長が帰ってきたとすぐにわかるので」

なるほど、まず、自衛官は制服の時には傘をささないが、
さすがに私服の時にはその限りにあらず、と_φ(・_・

それからやっぱり艦長が帰ってきたとなると迎える方も色々と心の準備があるので
遠くからわかるように目立つ傘をさすのも一つの「気遣い」かもしれません。

(ところでこんな傘どこで売ってるのかしら)

宴会出席者には、「いせ」から素敵なプレゼントが用意されていました。

佐世保に転籍した日付つきの写真。転籍は「かが」就役と同時なので、
公式には今年の3月22日となっています。

去年のVLA訓練発射で、ミサイルが顔を出した瞬間の写真。
すごいシャッターチャンスです。

ところで、VLAといえば宴席では鉄火お嬢が例によって

「そんなに・・・・僕たちの力が見たいのか」

のジパングネタを当の自衛官に振っていましたが、あれ、
自衛官だからって誰でも知ってるわけじゃないのね。

その幹部氏は「ジパング」も「沈黙の艦隊」も読んだことはなく、
アスロック米倉も知らず、「ファントム無頼」に至っては

「そんなのがあるんですか」

という方だったのでそんなものかー、と思った次第です。

そして衝撃的だったのはこれ。

以前ここでもちらっとお話しした件ですが、

(『あきづき』の艦長時代に猫モチーフにマークを変えさせた現『いせ』艦長が、
今度の職場でも艦長権限でマークを猫に変えさせようとしているという話)

あの時はまだ軍機密だった「いせ」の新マークが、この佐世保転籍を機会に
実質正式に変えられたらしいことがこの写真によって明らかになりました。

とほほほ・・・

当の艦長の説明によると

「マークのニャンちゃんは(ホントーににこういった)相当悪いニャンちゃんです。
ニャンちゃんの周りに降り注いでいるのはソノブイで、
ちうごくの(ホントーにこういった)潜水艦を踏んづけてます」

やってしまいましたなあ艦長。

アメリカでこういうノリのノーズペイントをいやほど見たわたしとしては、
日本にもこういうマークがあってもいいと個人的には思いますけど。

 

さて、明けて翌日。

その前夜、別れる時に翌日の打ち合わせをしていて

わたし「結局タクシーの運転手に行き先なんていったらいいんですか」

鉄火お嬢「昭和基地です」

お見送りするのは「しらせ」なのか鉄火お嬢。南極に行ってどうする。

ともかく「いせ」出航は0900なので、0845には昭和基地じゃなくて
昭和埠頭の正門前に到着すると、待っていた自衛官、どこかで見覚えが。

「あのー。もしかして『ふゆづき』に乗っておられました?」

玉野で行われた「ふゆづき」引き渡し式の日、土砂降りの雨の中、
自衛艦旗を艦長から受け取って乗艦したあの時の副長、K2佐でした。

継続は力といいますが、ブログを続けている過程で結果的にこういうことがあると
「線が繋がった」という一種の達成感があって、大変嬉しいものです。

ちなみにK2佐は「ふゆづき」では自衛艦旗を受け取る立場でしたが、
その後の乗組で自衛艦旗を「返す」配置に付くことになり、

「一人の人間が自衛艦旗を受け取り、返したということになりました」

「それはお話が繋がったというか、『完結した』という感じですね」

「誰にでもあることではありません」

こんな話が聞けるようになったのも、継続のおかげです。

なぜ7時45分に集合ということになったかというと、
「いせ」後援会の皆様に自衛艦旗掲揚を見ていただこうという
艦側のありがたいお心遣いによるものでした。

入り口から埠頭まで随分あるので、後援会会長は車に乗っておられましたが、
我々はここから現地まで歩いていかねばなりません。
にも関わらず、遅れてきた人もいたりして(中心部からここまで来るには
一車線しかない道路なので通勤時は必ず渋滞する)
果たして15分でたどり着けるのか?というレベル。

歩いて行くとまず「おおすみ」が見えてきました。

昔「さみだれ」をこの右側バースに見にきたことを思い出します。
というか、今もここにいるんですよね。

向こう側に「いせ」の巨大な姿が見えてきました。

ここまでご案内くださった総監部の(個人的に)お馴染みS1佐、
わたしがご挨拶するとびっくりしておられました。
昨日の夜「五月荘」でご挨拶した呉地方総監とほぼ同じ反応でした。
きっとどこにでも現れるやっちゃとか呆れられたんだろうなあ。その通りだけど。

S1佐はみんなに

「ちょっと急いでください〜」(汗)

と声をかけながら先導します。
たとえ遅れても自衛艦旗掲揚は待ってくれませんから。

朝日を浴びて輝くシウスくんの姿を仰ぎ見る。
あれ?ところで「いせ」の自衛艦旗掲揚なんてどこで見るんだ?

わたしも小走り気味に歩きながらせっせと写真を撮ります。
ラッタルのところまでたどり着くと、乗艦を促されました。

ええっ!これから甲板まで上がるっていうの?
いやまあ確かにどれだけ歩き回ってもいいように、安全靴みたいな
歩きやすい編み上げで来てるのでわたしはおーけーですけど・・。

 

果たして我々はあと数分で甲板までたどり着くことができるのか?

続く。

 

自衛艦旗掲揚〜護衛艦「いせ」転籍壮行会

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佐世保に転籍する「いせ」を見送るために、「いせ」後援会の皆さんに
混ぜていただいて、現在なぜか一緒に「いせ」にいるわたしです。

ラッタルを上がったところにある「いせ」の艦名板だけは急いでいても撮る。

これは伊勢神宮大宮司、鷹司尚武氏の揮毫によるもので、
木材は宇治橋に使用されていた欅なのだそうです。
宇治橋も式年遷宮の時に掛け直したってことなんでしょうか。

「いせ」乗員は、名前を受け継いだ旧軍艦「伊勢」の慰霊と、
伊勢神宮への参拝は欠かさず行っているそうです。

 

さて前回の最後、0800の自衛艦旗掲揚まであと数分しかないのに、
後援会+野次馬(←わたし)の団体が、甲板までたどり着くことが可能なのか?
とあえて不安を煽ってみましたが・・・・・・・、

「それではみなさん、一度に上がっていただきますのでここに立ってください」

なーんだ、艦載エレベーターに乗せてもらえるのか。
それなら多少足腰の不安な年配の方でも瞬時にして甲板まで行けるわね。


「いせ」「ひゅうが」に乗ったことがある、あるいはご存知の方、あなたは
そんな時はエレベータに決まっとるじゃないか、と最初から思っておられましたか?

しかし誰とは言いませんが、どちらにも乗ったことがあり、観艦式では
「ひゅうが」のエレベーターで何度も上下したくせに直前までそのことに思い至らず、
甲板階までラッタルを駆け上る悲壮な覚悟を固めていた人もいます。

というわけで、後援会の皆さんがエレベーター上に参集。
会員の皆さんは横断幕と幟まで持って来ておられました。
これで艦内のラッタルを登るのはそもそも物理的に無理でしたね。

艦載機用エレベーターに乗るのは観艦式以来です。
あの時には持っていなかった広角レンズのおかげで今やこんな写真も撮れます。

エレベータの台を引っ張りあげるのは四隅のワイヤですが、
よく見ると1本は細いワイヤ4本でできています。

周りの黄色い安全柵が上がると同時にエレベーターは動き出しました。

「動き出したら揺れますのでご注意ください」

と注意がありましたが、実際は思ったほどでもありません。
こういう時には脳内に BGMの「サンダーバードのテーマ」が流れます。

甲板が見えて来るとそこはちょうど自衛艦旗掲揚が行われる艦尾の真っ正面。
後ろに腕を組んだ旗掲揚係の自衛官がすでに待機していました。

いきなり海軍伝統の厳粛な世界にわたしたちだけが放り込まれた感じ。
まるで艦載機エレベーターの周りに見えない壁がめぐらされていて、
わたしたちだけ別の世界からこの瞬間を垣間見ているような気分です。

 

甲板レベルにエレベーターがせり上がり、停止した時、
なんと時間は3分、いや2分前だったかもしれません。
つまり、我々はここから掲揚を見て速やかにそのまま退場するのです。

このおそるべき海自流時間管理の技に、心から戦慄したわたしでした(嘘)

どれくらいギリギリだったかというと、わたしがカメラのレンズを
それまでの広角から望遠に付け替える暇もなかったくらいで、
結果としてやたら遠くで行われている掲揚シーンとなってしまいました。

自衛艦旗の掲揚は、自衛官でない者にとってもピリリと身が引き締まるというか、
思わず背筋を伸ばしてしまうような緊張があって、何度立ち会っても感動です。

掲揚が終わり、エレベーターが下がる前にやっとレンズを付け替えることができました。

ところで、喇叭譜の吹鳴は0800にサウンド発動なのですが、
いくつもの艦が繋留している岸壁では各艦で演奏のタイミングが微妙にズレます。
自分が吹いていると隣のラッパの音しか耳に入ってきませんから、
他の艦とは最後まで同期することなくそのまま行ってしまうんですね。


わたしは最初これが気になって仕方がありませんでしたが、
最近ではこれもまた軍港ならではの風情、と思うようになってきました。

 

その時後ろにこんなにたくさんの自衛官がいたことに初めて気がつき軽く驚きました。
これから出航作業ですが、帽ふれなどの儀礼もあるので全員が第1種制服です。

エレベーターの真ん中で立っていたら、昨夜お会いした何人かの幹部が
わざわざ柵の中まで(笑)ご挨拶にきてくださいました。
中には昨日お渡しできなかったので、と言いながら名刺をくれた方も。

あとで住所を見ると、全員すでに佐世保地方総監の住所になっていました。
新しい名刺が間に合わなかったということかもしれません。

「いせ」甲板からみる呉軍港の朝。
今気がついたんですが、ノーマルモードなので甲板に柵がありません。
前回慰霊式で乗った時には確か柵が立っていたと記憶します。

いつもわたしたちは一般人を乗せるモードでしか見ることがないので
こういう「素」の姿を見ると、逆に、そういう時には彼らがどれだけ事前に
準備をして一般人の安全に配慮しているのかを改めて思い知るのです。

甲板にいた時間はトータルで10分くらいでしょうか。
もう本当に自衛艦旗掲揚のためだけのエレベーター稼働です。

柵の外に出ることもなく、そのまま舞台のセリに降りるように退場するわたしたち。

ところで、前夜の懇親会には飛行長兼任の副長と航空管制長も来られていました。
どちらもヘリコプター搭載型護衛艦において大変な重責を担う幹部です。

副長は当然ですがSH−60のパイロットであった方で、お話中

「(JとK)どちらも操縦します」

とおっしゃるので、ふと気になって

「JとKって操縦違うんですね・・・どちらが難しいですか」

と聞いてみたところ、Kだそうです。
やっぱり新型になって操作する部分が増えたってことなんですかね。

わたしが

「掃海隊の訓練で掃海母艦に降りるヘリを見たんですが、
あれだけ波の高い日向灘で着艦するのは怖いだろうなと思いました」

というと、

「うらがやぶんごなら波が高くても目をつぶっていても降りられます」

としれっとおっしゃいます。

「降りるのが難しい艦はやっぱりありますよ。ゆき型とか。(だったかな)
でも、それより怖いのは夜間着艦することですね。
女性にこんなことを言ってなんですがあれが『縮みあがり』ます」

経験はありませんが、それはよっぽど怖いってことなんですねわかります。

「それと荒天で風が強かったりすると、ヘリが飛び立った瞬間、
こりゃやばい!果たして無事に着艦できるのかとその時から思います」

「そんな日には索敵訓練中も着艦のことばかり考えてしまう・・・?」

「そうです。
このテーブル(指差して)のスペースに、夜間でほとんど見えなくても
誤差センチ単位で降りないといけませんから。
しかし機長が少しでも不安そうな様子を部下に見せるわけにいきませんから、
内心どんなにビビっていても、平気な顔をしていなければならない」

「でも、海自でヘリの着艦事故って起こったことありませんね」

「ありませんね。山中に機体が墜落とかはありますが」

「やっぱり極限の緊張をしている時は却って事故は起こりにくいんでしょうか」

「そうでしょうね」

また、印象的だったのはこんな話でした。

「着艦は海自のパイロットにしかできませんね。
空自や陸自のヘリでは絶対に無理です」

「陸自のフライングエッグとかOH-1なら」

「ダメですね。コブラとかでもダメです」(きっぱり)


まあ、餅は餅屋ってことですかね。
SH-60だってグレネードランチャー撃てとか宙返りしろって言われたら困るだろうし。

 

甲板上にもハンガーデッキにも航空機は積まずにお引越しするようです。
ところで艦載機のいない時には例えば航空管制官は何をしてるんでしょうか。
航空管制長にもこの点を伺ってみると、

「仕事がない時もありますから、広報を兼任してます」

自衛艦に限らず軍艦というのは、全員がいろんな仕事をこなすのが当たり前。
一つのことだけしていればよくて仕事のない時には遊んでいられる、
というような楽なポジションは決してないということです。

ハンガーデッキからラッタルのあるところに繋がるドアの上には、
「いせ」本来のマークが描かれていました。

北斎風の波が甲板に降りかかる中、自衛艦旗を立てて、
雄々しく進む護衛艦「いせ」の姿。
向こうに見えている山は何でしょうか。

これはこれで普通に悪くありませんし、いただいた名刺には
これともまた違うサーベルがクロスしたモチーフのものもありました。

例の「悪い猫バージョン」は決して「変えさせた」というものではなく、
場面と乗組員個人の好みで使い分けるための選択肢が一つ増えただけ、
と考えるのが良さそうです。

外に出る前に、幹部の写真を忘れずに撮っておきました。
ちなみに昨夜の懇親会にはこの中から6名が来られていました。
熱くヘリ着艦について聞かせていただいた副長のお顔だけがベルトで見えません。

ちなみにこの写真の形式は決まっておらず、艦ごとに適当に撮るのだそうです。
自衛艦旗の旭日をバックに、なかなかいい構図ですね。

しかし、なぜか艦長だけが妙にスナップショット風。
これもご本人の希望によるものでしょうか。

ちなみに艦長をご存知の方の言によると、

「歌も上手いしいい男だしスポーツ万能なのでモテるはず」

とのことです。
(本当は『モテる』じゃなかったのですが忖度しました)

他はともかく、「歌が上手い」というのは実はわたし知ってるんだな(笑)
そのことはまた後日。

というわけでわたしたちは退艦。
今最後の方(『いせ後援会』の会長さん)がラッタルを降りようとしております。


この後岸壁では「いせ」お別れに向けて、壮行行事が行われることになっています。

 

続く。

 

 



乗組員乗艦〜護衛艦「いせ」転籍壮行行事(+社会人としてのカラオケ道)

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護衛艦「いせ」が呉から佐世保に転出する日、自衛艦旗掲揚をエレベーターから見届け、
そのまま降りてきたところまでお話ししました。

「いせ」の前には、幹部、海曹、海士の代表が儀式のために並びました。

「いせ」後援会の皆さんは、その間ずっとこのようにのぼりと横断幕を
持ってきて、「いせ」に向けておられました。
のぼりを持っている女性が帰りに乗り込んでいた車は奈良ナンバーでしたし、
後援会会長、理事は「いせ」のためにいつも大阪から来ておられたそうです。

これは乗艦用に駆り出されたごく一部の代表メンバーです。
他の「いせ」乗組員は、皆この後の出航作業にかかっています。

艦長が代表メンバーの前にたちました。
列のなかには、昨夜ヘリ着艦の話を聞かせてくださった副長兼務飛行長、
佐世保に是非遊びに来てください、と言ってくださった先任伍長もいます。

巨大な「いせ」の艦橋は岸壁からは随分遠く見えます。
いろんな人が出港前の作業で入れ替わり立ち替わりここに立ちます。

先任伍長は昨年の7月から「いせ」勤務だそうです。
艦艇の勤務に限らず自衛官の任務は1年から長くても2年が普通で、
しょっちゅう転勤があるので、わたしが前回乗った時とは
艦長、副官以下幹部はほぼそっくり入れ替わってしまっています。

しかし、個々の自衛官にとって自分の乗った船というのは特別の感慨を持つようです。

 

今回お話しさせていただいたある幹部は、最初の勤務が「みょうこう」でした。
中学生の頃、「イージス艦が日本に導入される」というニュースを聞き、
胸躍らせて自衛官になることを決心したこの幹部は、念願叶って最初の配置が
ど真ん中のイージス艦であったことに狂喜したそうです。

「でも『バトルシップ』で『みょうこう』沈められてしまいましてね」

「あー、実際に使われたのは『あしがら』だったみたいですけどね・・・。
しかし、よくあれ、自衛隊が現役艦を沈められる設定を許しましたよね」

「何処かの国じゃなくてエイリアンだからいいか、ってことじゃないですかね。
それに、そもそも『みょうこう』はその前に『亡国のイージス』でも
『うらかぜ』役でやられてますから」

エイリアンじゃなくて同じ護衛艦にですけどね。
あれは石破茂の鶴(には見えないけど)の一声があったからでしょう。

「もうあれでふっきれたってとこじゃないですか」

とにかく、自分の自衛官人生で最初に乗った艦がよりによって創作物で
二度も沈められた、というのは彼にとって決して楽しいことではないとか。

 

このとき撮影が行われた「みょうこう」の乗組員は、撮影終了後
真田広之と記念写真を撮ったりしたそうですが、

「あんなかっこいい先任伍長は自衛隊には絶対におらん!」

というのが皆の一致した感想だったということです。

さて、壮行式典が始まりました。
まず、呉地方総監池海将が、「いせ」が災害派遣でフィリピンに赴いたこと、
そして呉で行われたカレーグランプリで優秀な成績をあげたことに触れながら、
これまでの呉での勤務をねぎらい、佐世保での活躍を希望すると挨拶されました。

「いせ」艦長高田一佐が決意表明のような挨拶をし、敬礼。

高田一佐は通算9年間に渡り合計4隻の艦長を歴任してこられ、
この「いせ」艦長で自衛官生活を終わる予定です。

もっと多数の船で艦長をやった人はいますが、通算9年間は最長記録だそうで、
これは同期や後輩からやっかまれても不思議はないくらいなのだとか。
今や「暗い夜道は気を付けよう」とさえ言われているということです(笑)

この後呉の市議会議員の方などの挨拶がすみ、乗艦が始まりました。

この小隊で掛け声をかけていたのは女性士官でした。

埠頭にスタンバイしていた呉音楽隊の行進曲「軍艦」の演奏とともに行進開始。

ラッタルを上がって艦内に消えていきます。

副長(兼飛行長)が隊列の一番最後を歩きます。

最後に艦長が見送りの皆さんにご挨拶をして行かれます。


最後のギリギリに声をかけられ、駄目押しの敬礼を。

高田一佐の敬礼は少し指を開くのが癖みたいですね。

そしてサイドパイプが吹鳴される中、艦長乗艦。

次の瞬間、早回し映画でもみているような機敏な動作で、
舷門に控えていた乗組員がラッタルの片付けを始めます。
まず手すりにかかっていた艦名入りのカバーを外し・・・・、

上から出てきたブーム式のクレーンでうぃーんと引き上げ。
ラッタルの引き出しの時には、岸壁に待機している自衛官がみんなで
とにかく引きまくれ!みたいな感じでロープを引っ張って
出すものだと思っていたのですが、さすがにDDHは完璧に自動化されているようです。

ラッタルは空中で向きを変え、艦内に収納されます。

繋留してあるもやいを外す作業のために岸壁を疾走するセーラー服。

もやい杭にかかるもやいが外されていきます。

外したもやいがするすると引き上げられ登って行く様子。
向こうの岸壁に見えている建物には「工作部」とあります。

あっという間に艦長が赤いストラップをつけ艦橋デッキに姿を現しました。
青ストラップの二人は手前が砲雷長、トランシーバーを持っているのが船務長。
「いせ」幹部のトップが並んだ瞬間です。


ここからは個人的な感想の類になりますが、わたしはこの光景を見て、
ある感慨もひとしおでした。

この瞬間から遡ること半日、懇親会が終わった後、
今から二次会に行かれる幹部の一人にお誘いを受け、
わたしは呉市内のとある雑居ビルにある小さな飲み屋さんにいました。

お店の隅には「いせ」が日向灘の細島に寄港した時の記念酒が。
細島岸壁というと、わたしがミカさんと掃海隊訓練で掃海艇を見に行ったところです。
このお酒は、この地域で自衛艦を支援する後援会のような団体から送られたようです。


会社勤めをしたことがなく、合コンなどの類も全くご縁がなかったわたしは、
こういう飲み会に参加すること自体この長い人生において何度目か、というレベル。
ましてや自衛官の方々のプライベートを垣間見ることもなかったため、
この呉での一夜には驚かされました。

参加メンバーはおそらく懇親会参加組の女性二人と初級士官を除くほぼ全員で、
つまり艦長からトップ何人かということになるでしょう。

今の飲み会というのはイコールカラオケ大会ということになっているようで、
一人が時差で入店するごとに盛大に乾杯が行われ(笑)
あとは途切れることなくカラオケ、カラオケ、カラオケ。

難しいことを考えず、喧騒に身を任せてオンオフを切り替えるのが、
自衛官に限らず社会人のリフレッシュ法なんだなと知った次第です。

ところで恥ずかしながらそういう社会経験のないわたしは、
まさか人生何度目かのカラオケに呉で参加することになろうとは夢にも思わず、

「こういう時に歌うべき歌」

の見当すらつきません。
右側の船務長にも左側の艦長にもデュエットの曲をお誘いいただいたのですが、
ことごとく知らない曲ばかり。
かろうじて聞き覚えのある「居酒屋」を艦長と歌って終わりました。


あとでその道の達人であるTOに散々だった体験を話し、

「ああいう時って、一体どんな曲を歌えばよかったの?」

と聞くと、

「構成する年代にもよるけど、無難なのはサザン」

あー、サザン歌ってた人いたなあ。

「あとは懐メロ。誰でも知ってるやつ」

あー、「高校三年生」も出たなあ。

「♪あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜 海上自衛隊〜♪」

って替え歌歌ってたっけ。

「憧れのハワイ航路なんかは?」

「古すぎる。だめ」

「わたしに歌えるのなんて英語の歌くらいだったんだけど」

「英語の歌は上手くても下手でもシラケるだけ」

そして、はえーと思ったのは以下の言葉でした。

「自衛隊のようなはっきりとした階級社会は、例えばそういう時に
絶対に艦長の持ち歌は歌わない、みたいに皆気をつかうべきところは遣ってたはず」

はえ〜。

 

艦長は知人の方もおっしゃっていたようにお上手で、福山などを歌い、
(TO曰く『福山を歌う人は内心自分をいい男だと思っている傾向にある』)
KinKi Kidsの「青の時代」のあと、

「いい曲でしょ。
退職の日にはこれを流すつもりなんです」

とおっしゃっていました。

 

ともかく、社会人たるもの、こういう時にどういう曲を歌うかということまで、
実は仕事の一環としてちゃんとインプットしているものらしい。

「じゃわたしが『居酒屋』一曲でお茶を濁したのは・・・」

「それ正解」

「宇宙戦艦ヤマト」や「月月火水木金金」、ましてや英語の「錨を上げて」
なんて歌わなくてよかったってことみたいです。


しかしそれより何より、懇親会の後、カラオケで歌い狂い、
マラカスを振りまくって時々エグザイルみたいに踊りまくるという

(参考例)

イレギュラーな初対面の翌日、その同じメンバーが別人のように
(`・ω・´)シャキーン!としている様子に、いかに社会人とは
オンオフ切り替えてバランスをとって日々の仕事をこなすものであると
常識として知っていたとはいえ、そのギャップのあまりの大きさには、
わたくし、たいへんなカルチャーショックを受けました。


この日懇親会が行われた「五月荘」はかつて海軍料亭でした。
その頃の呉軍港の海軍軍人たちも、彼らのようにオフには陽気に歌い踊り、
(ただし上下関係には気を遣いつつ)それでも時間が来れば嘘のように
平常モードになって、艦に戻っていったのでしょう。

こんなところにもある種の「海軍伝統」を垣間見た気がしたわたしです。


続く。

 

「いせ」と「かが」〜護衛艦「いせ」転籍壮行行事

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さて、カラオケの話が前回意外にに盛り上がりましたが(笑)、
カラオケの効用といいますか、乗組員の皆さんのオフの顔を見たことで、
なんといいますか、お見送りするのにぐっと思い入れが深まった気がします。

壮行行事が終わり、乗員が乗り込んでいった後、佐世保に向かう「いせ」は
出航に向けて作業が行われています。

ラッタルは機械操作でハッチに収納されていきます。

もやい杭にかかったもやいの輪を3人がかりで外します。

一度岸壁から海を覗き込んでいますが・・・・

3人で輪の部分を運んでいきます。

ただ外すだけでなく、色々とポイントがあるようです。
わたしがこの作業を写真に撮っている間に舷側に登舷礼の列ができていて、
声がかかりました。

「帽振れ!」

甲板上で帽振れを行う乗員はほぼ全員が海曹たちでした。
少なくとも海士は一人も見えません。

こちら艦橋から後ろの甲板。
彼らの前にある盾のような形状のものは、後ろにある物体の「蓋」だと思うのですが、
これは展開式の救命ボートですか?

ベテランの海曹長の横にまだパリパリの三等海曹がいるという・・。
こういう時の並び方は特に階級に厳密ではないのかも・・。

むむっ、この左の女性士官は確か昨日の懇親会でお見かけしたような。

懇親会には、これも士官の任務ということなのか、先任伍長以外は全員が士官で、
艦長の一佐を筆頭に三尉まで、全階級を網羅していました。

そのうち女性は水雷士の二尉と通信士の三尉。
彼女は水雷の方ですが、先ほど壮行行事で隊員に号令をかけていたと記憶します。

彼女と少し話したのですが、今水雷には結構女性が多いということでした。
もう一人の女性士官は「通信士B」と役職が書かれており、
同じ三尉の男性が「通信士A」だったので、彼女と話をした時、
なぜBなのかを尋ねたところ、「Aが上司」だということでした。

彼女は結婚しておられましたが、夫はやはり同じ水上艦勤務で、
少し前に「いせ」に乗っていたとのこと。

「ということは入れ違いですね」

同じ艦艇に夫婦が割り当てられることはまず自衛隊もしないでしょうが、
だからと言って夫と妻が転勤ですれ違いっぱなしというのも・・・。

「佐世保では部屋を借りるとかされるんですか」

と聞くと、なんと答えは「船に住みます」でした。
別の士官の奥様は、転勤先には必ず付いてきてくれるということです。

「でもまあ、子供が学校に行きだすといちいち引越しするわけにいかないので、
単身赴任になってしまいます。
そんななので、うまくいかなくて離婚する人は多いです」

「そうなんですか・・・・」

これを聞いて、迂闊に自衛官に結婚しているかと聞くことはやめておこうと思いました。




ところで例のカラオケの時、同席した士官がわたしと鉄火お嬢さんに、

「水雷士(わたし)と通信士(鉄火お嬢)」

とふざけて任命してくれたんですが(笑)
それだけどちらも女性が多いってことなんでしょうかね。

この間にも「いせ」の艦体は岸壁を離れ始めます。

「帽振れ」が終わった時にはすでに岸壁から10m以上離れていました。
昨日懇親会で、「出航準備で大変だった」と幹部がいうのを聞いたのですが、
こうやって岸壁から離れるまでに、いくつもの用意と手順と確認を踏むのです。

ただ舵をとって動かせばいいというものではないのですが、
もちろん外の我々にはそういったことは一切見えません。

完璧に岸壁を離れ、わたしのいる位置から普通レンズで艦全体が捉えられるようになりました。
これが個人的にDDHがもっともかっこよく見える角度だと思います。

途端に支援船、YTをつけたタグボートがやってきます。
タグボートが「ご安航を祈る」の信号旗を揚げているのに気づき、笑みがこぼれます。

しずしずとバックしていく「いせ」を見守るように、
回頭するポイントまでタグボート二隻が両側を併走していくと、

「『いせ』はこの後転回していよいよ出航となります。
皆様、どうぞ前方の岸壁に移動してお見送りください」

とアナウンスがありました。
早速全体が突堤の端まで大移動を始めます。

袖にベタ金の幹部たちも移動中。
「いせ」の同じ岸壁には「さざなみ」が停泊しているのですが、この時
ブルーの作業服の乗組員たちも全員艦首側に移動しているのに気づきました。

「いせ」の乗員と地上の自衛官しか目に入りませんでしたが、
「さざなみ」からもお別れの帽振れが行われていたんですね。

二隻のタグは、一隻が艦首側、一隻が艦尾側を押して、
「いせ」を左回転させるつもりのようです。 

「いせ」がいなくなったので、向かいの岸壁が見えるようになりました。
なんと、練習航海真っ最中の「かしま」がいるではないですか。

江田島で出航をお見送りした練習艦隊旗艦「かしま」、あの後
九州まで行き、それから瀬戸内海を神戸まで行って、呉に帰ってきていました。
この後舞鶴、大湊、北海道にも行って、そのあとは遠洋航海に出発する
横須賀に5月には入港する予定です。

昭和埠頭の入り口からこの岸壁まで歩いて来る途中、車が追い越して行き、
中からどなたかがご挨拶してくださっていたのですが、後から聞くと
それが練習艦隊司令の眞鍋海将補であったようです。

この写真を拡大すると、どうやら一番左が眞鍋司令である模様。
「いせ」見送りのために乗艦されたのかもしれません。

タグボートが健気にお仕事中。
「いせ」が転回してちょうど真正面を向いた時に撮りました。

いつのまにか登舷礼が左舷に移動しています。

登舷礼をみると、よくもこうきっちりと等間隔に
間違いなく並ぶものだといつも思います。

登舷礼は英語で”Manning The Rail”といいますが、英語の「Rail」は
「舷側」と考えて、直訳すると「舷側の仕事」みたいな感じですかね。

これはもともと、帆船時代にそういう場合にはヤード(セイリング)
に立つ儀礼を "Manning The Yard "と言ったことから転じています。

Manning the yard

こんなところに立って出航しなきゃならないなんて、
帆船時代の船員も大変だ。

こんな巨体を小さな二隻で回してしまうのですから、曳船のパワーってどんだけ。
例えば「ロナルド・レーガン」などの空母を動かすのも、
たった二隻のタグボートだといいますから驚きますね。

やはりそういう役目のため、曳船はトルクバリバリの
1万馬力くらいのエンジンを積んでいるのだそうです。

「いせ」が完全に左舷側を見せました。
艦橋が間にないので、全く途切れない綺麗な登舷礼ができています。

それにしても人と人の間の距離、どうやってこんな短期間に等間隔に取れるの。

もう一度、「帽振れ」の声がかかりました。
回頭して今度こそ本当の出航です。

岸壁の全員が手や帽子を降って「いせ」を見送ります。
「さざなみ」乗組員も帽振れしてますね。

向きを変えてもしばらくの間、曳船は近くを離れません。
まるで、

「もう大丈夫かな」

と見守っているように見えます。

 

「いせ後援会」の他にも水交会や隊友会など、支援団体がお見送りしていました。
これは防衛大学校同窓会の旗。

そうそう、岸壁で出航準備を待っている時、

「昨日はどうもありがとうございました」

と声をかけてきた女性がいました。
誰かと思ったら、二次会でカラオケをしたバーのママさんでした。
そういえば隊員の皆さんに

「明日見送りに行くからね」

と言っておられたのを聞いた覚えがあります。

わたしはこういうのをすぐに海軍と結びつけてしまうのですが、かつて
軍港に店を構える置屋で、海軍御用達の料亭に務める芸者のことを

「ネイビー・エス」(エスはシンガーのS)

と言い、彼女らもまた艦隊の見学に行ったり、また出航の時には
見送りに行ったものだそうです。

彼女はこういう時には必ず隊員の門出を見送るのが常で、
そのために水交会にも入っているということでした。

曳船が離れていき、「いせ」が遠ざかっていきますが、
登舷礼の列はずっとたち続けています。

「いつまで立ってるんでしょうね」

「多分完全に港を出るまででしょう」

「いせ」のこちら側を、ピンクの塗装をした船が通り過ぎました。

「おんど2000」という瀬戸内で活動している海面清掃船で、
浮遊するゴミや油の回収・清掃業務を行うだけでなく、
水質・底質の健全度を調査し、データを取って公開しています。

今日はこれからどこに行くのでしょうか。
くっついているといいことがあるのか、鳥が一緒に飛んでいました。

突堤に来て初めて気づいたのですが、沖合になんと!

「かが」がいます。
レディかが、お姉様が出て行った後、同じ岸壁に入れ替わるつもりか?

この写真を拡大してみたら、岸壁からは肉眼では見えませんでしたが、
「かが」にもちゃんと登舷礼ができていました。

「いせ」は後をよろしく頼みます、と、挨拶をして往ったんですね(´;ω;`)ウッ

さて、いつまでも見ていたいところでしたが、S一佐から車で
次の場所まで送ってくださるというお申し出をいただき、
ありがたくお言葉に甘えることにして、入り口まで歩いて戻りました。

潜水艦が今日はいっぱいいいます。
この中のどれかが、この間引き渡しを見送った「せきりゅう」のはず・・。

奥の「かしま」と練習艦隊僚艦である「やまゆき」(3519)
向こうに同じく「しまゆき」(3513)がいます。

練習艦隊ともまた横須賀で会えるといいなあ。(願望)


さて、というわけで「いせ」のお見送りは終わったわけですが、
わたしたちの「呉」は、まだ始まったばかりなのだった(笑)


続く。

 

 

WHITE BASE 「かが」〜呉艦船めぐりツァー

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海上自衛隊呉地方総監部の昭和岸壁で行われた「いせ」の壮行行事と、
出航見送りも無事に終わりました。

広島空港への空港バス発車までまだたっぷり時間があるので、
とりあえず入船山公園にでも行こうか、となんとなく考えていたのですが、
次に行くところまで送ってくださるというS一佐の車に乗り込む前に
鉄火お嬢さんが呉港クルーズはどうか、と言い出し、時間も調べたところ、
ちょうどいいタイミングで船が出ることが判明。

「入船山じゃなくて、ターミナルまでお願いします」

と行き先変更を告げると、S一佐、ターミナル入り口で車を留め、
ご丁寧にも中の受付デスクまで先導して連れて行ってくださいました。

受付はターミナルに入れば誰でもわかるところにあるので、
わざわざご案内までしていただかなくても問題なかったのですが、
なんと言ってもバリッとした男前の一等海佐に先導されてロビーを歩くと、
心なしか周りの見る目もちょっと違っている気がしてくるではないですか。

わたし「せっかくだからもう少しギャラリーがいてほしかったなあ」

鉄火お嬢「そこで見栄をはりますか・・・」(呆れ)

 

艦船めぐりの運行は日中に平日は3回、土日祝は4回、
最終便は時間が決まっておらず、日の入り時刻15分前に出航します。

「夕呉クルーズ」と銘打ったこのクルーズだけが、呉軍港の自衛艦が
喇叭譜君が代の吹鳴とともに自衛艦旗を降ろすところを間近で見られます。
一度参加してみたいものですが、この日はなぜか欠航となっていました。

所要時間は30分。
潜水艦桟橋の少し先まで行って帰ってくるだけなので、
時間もかからず、料金も1300円というものです。

チケットを買うとき、デスクの係の方が

「今日はテレビの取材陣が乗っていますのでご了承ください」

と断りを入れて来ました。
先ほどまでの「いせ」の出航には、朝日新聞の記者もおり、

「防衛問題と絡めて、なんかまたつまらんことを書くつもりだな?」

とわたしはそちらに向かって密かにガンを飛ばしていたのですが(笑)、
クルーズを取材するくらいならきっとローカル局でしょう。
取材はお断りしますけど、どうぞ宣伝してあげてください。

と思って乗ったら、結局取材クルーは、最初から最後まで二人だけ
甲板?に立ちっぱなしで写真を撮りまくるわたしたちを
触れてはいけない人だと判断したらしく、取材どころか近寄っても来ませんでした。

船は船室と船上に席があり、全員がデッキに乗りました。
カップルが多く、見るからに外国人のお二人もいて国際的。

デッキ後方はまるでヘリパッドのような甲板になっており、
わたしたちは相談もなく当然のようにここに立つことに。

船尾にはちゃんと国旗が掲揚してあります。

甲板の隅に、布製の自衛艦旗がたくさん刺してあるのでわたしたち大喜び。
自衛艦に向かって振ることができるように、という心遣いです。

いいねいいねー。

自衛艦を見せていわば「お金をとってる」のだから、遊覧船の会社も
こういう具合に、自衛隊に配慮するのが礼儀というものですよね。

時間通りに遊覧船は10時きっかり出航しました。
岸壁では係の人が両手を振ってお見送りしてくれています。

海上から見るてつのくじら館の「あきしお」は格別。
スクリューの下には、イエローサブマリン、「しんかい」が見えます。

この画面の左からほぼ右端までが「大和」実際の大きさ。
わたしは最初に来たとき、「大和ミュージアム」が休館日だったので、
MKとこの公園を散策したのでよく知っていますが、地面には
大和の甲板を縦半分に切った形が示されていて、その大きさだけでも
せめて体感できるような工夫がされているのです。

ツァーの解説の方はあとで聞いたらやはり自衛隊OBでした。
最初に見えてくる「大和のふるさと」を示しながら、その昔
「大和」が極秘に造られていた頃にそれを隠すために作った

「大和の大屋根」

の紹介から始まりました。

と思ったらいきなり曳船が登場!
ここぞと自衛艦旗を振ると、船上の自衛官が手を振り返してくれました。
一人はなんと帽振れしてくれています。

この曳船はさっき「いせ」を押していた子かなと思ったのですが、
「いせ」を回頭させている写真を確かめると「97」と「08」でした。
おそらくこの曳船は「かが」の入港を支援してきたのでしょう。

あっ、こちらの子は「いせ」を押していた08だ。
彼女は「かが」の着岸作業を終えたばかりでしょうか。

「いせ」に続いて「かが」を支援する、曳船にとってこれは
なかなかやりがいのある仕事だと思いますがどうでしょう。

続いて「くにさき」の作業艇が通ります。
湾内の哨戒でも行なっているのでしょうか。

こういう時の自衛官は完全に「仕事モード」なので手も振りません。

昭和桟橋の艦艇たちが見えてきました。

掃海母艦「ぶんご」、手前が護衛艦「いなづま」。
奥にいるのは訓練支援艦の「くろべ」のようです。


いくつもの艦檣がそそり立つくろがねの塊の中に、鮮やかな旭日旗。
誰がなんと言おうと、我が海上自衛隊旗は世界で最も美しい軍旗であると思います。

それらが過ぎると忽然とその巨大な姿を表した「かが」。
やっぱり「いせ」が出て行くと同時に同じ場所に着岸していたのね、

「かが」の前には青い制服の自衛官の姿が何人も見えます。
3月22日の就役以来、その姿を横須賀基地に見せていた「かが」ですが、
「いせ」の佐世保移転のために横須賀から太平洋をやってきました。

乗組員が上陸するのも久しぶりのことに違いありません。

ところで、「かが」就役の時に、こんなものを送ってきてくれた方がいました。

「かが」のキャッチフレーズ?は「ホワイトベース」・・・・。

”White Base”というのは、ご存知の方はご存知だと思いますが、
「ガンダム」に出てくる架空の兵器で、「地球連邦軍」の母艦です。

なぜ「かが」がホワイトベースなのかといいますと、実は空母だから。
・・・・ぢゃなくて、加賀の名山である「白山」とかけているのだとか。

送っていただいた方によると、

マンガ由来としては「ゆうぎり」の”Dragon Ball”と
「すずつき」の”Sailor Moon”がありますが、
”White Base”は世界のガンダムヲタクに通じることでしょう。
Cool Japan!

 

その通りだけど、ドラゴンボールもセーラームーンも、
世界中のアニメヲタクに十分過ぎるくらい通じると思うぞ。

ちなみに「いせ」は"  Ocean Queen"、「みょうこう」は"Samurai Sprits"、
「あしがら」は”Golden Boy "(金太郎)・・・・。

最後のは嘘です。ごめんなさい。

さっきまで同じ形の「いせ」がいたところに、生まれたてのピカピカ、
芳紀1ヶ月の「かが」ちゃんがおります。
さすがに若い娘は艦肌のツヤが違いますわ。ってわたしはおっさんか。

しかし、岸壁からではなく海上から船に揺られて見る護衛艦はまた格別ですなあ。

「さざなみ」のスマートな姿と「かが」の取り合わせ。
さっきまで立っていた突堤がとても小さなものに見えます。

遊覧船はこのまま「さざなみ」を左舷に見るように入り込んでいきました。
護衛艦群にこんなに近づいていけるツァーは呉だけかもしれません。

「さざなみ」の後甲板越しに「いせ」のハッチが見えてきました。
舷門にはリラックスした様子で隊員が佇んでいます。

暖簾のように「加賀」と漢字で書かれたトレードマークがかかっていますが、
これは肉眼で見る限り素材がわからなかったので、

「まさか加賀友禅でできてたりして・・・?」

と騒然となったのですが、(二人で)さすがに高価な友禅を
護衛艦の暖簾に寄贈するほど気前のいい企業はなかったようで、
普通のシート素材であることがアップしてわかりました。

ここに見える「かが」のロゴマークは、一般公募されたもので、
採用されたのは群馬県在住の大学生の作品であるとか。

金箔や加賀友禅など加賀藩の名産品や、加賀藩主である加賀前田家の
家紋でもある梅などを取り入れたデザインである。
日本を代表する四季の花々を春夏秋冬の順番で配置し、そのバックに広がる蔦には、
日本海の波しぶきと、加賀を吹き抜ける風を表し、
中央の海鳥はヘリコプターが力強く飛び立つイメージを表している。(wiki)

著作権の関係でインターネットにロゴそのものをあげることはできないので、
ぜひ皆さんちゃんとしたマークは自衛隊のHPで見ていただきたいと思います。

ロゴにあしらわれた季節の花と、花言葉、そして自衛官の心構えは以下の通り。

梅 「fidelity 忠実」 「使命の自覚」 桜 「a good education 優れた教育」 「個人の充実」 牡丹 「compassion 思いやり」 「責任の遂行」 桔梗 「honesty 誠実」 「規律の厳守」 コスモス 「harmony 調和」 「団結の強化」

桜の花言葉が「優れた教育」だったなんて、初めて知りました。
この花言葉と心構えの比較は概ね賛成ですが、梅の「忠実」は、
昔でいうと「忠勇」とかもっというと天皇陛下への至誠となっていたはずで、
その辺りがタブーとなってしまった戦後の日本では、忠実とはあくまでも

「職務に対する忠誠」

と解釈するしかありません。
それが「使命の自覚」となっているのは、単純に

「〇〇の〇〇」

という字数制限に合わせるためなのだと勝手に推測します。
真面目に考えると「優れた教育」が「個人の充実」というのにも
かなり無理がありますが、これも解釈が回り回ってこうなったのでしょう。


帰りにもう一度「かが」左舷側を通りました。
91の番号をつけた支援船が艦腹に近づいていきます。

91の番号で現役なのは、調べても「曳船91号」しかないのですが、
どうも防舷物を設置しに行っているように見えます。

「かが」の向こう側には、今回初めて見る掃海艇「あいしま」がいます。

 

 

続く。

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