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リスの喧嘩とワイルドターキー〜スタンフォード・ディッシュトレイル

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当ブログと長年お付き合いいただいている方であれば、スタンフォードにある
ディッシュトレイルのリスについてご存知かもしれません。

というくらい、ここ何年か、わたしはシリコンバレーに来るたびに、
ここを訪れ、リスの写真を撮りまくってきたものです。
今年は西海岸での滞在もいつもほど長くないのですが、一度だけ、
朝7時という今まで来たことがなかった時間にカメラ持参で行ってきました。

そう、もちろんリスの写真を撮るためです。

トレイル(TRAIL)というのはもともと「引きずる」という意味があるそうですが、
アメリカでは州立公園や山間部、海岸沿い、小川沿いに、
市民が散歩したりバイクで走ることのできる小道のことをさします。

シリコンバレーはイメージよりずっと自然に恵まれていて、例えばグーグルでも
キャンパスと呼ばれる会社の敷地にヤギを飼うことのできるスペースがあったり、
すぐ近くが州立公園だったりしますし、フェイスブックも周りにトレイルがある
丘の中にポツンと建っていたりします。

スタンフォードディッシュトレイルは、高低差の大きな丘の一帯に
一周すると歩いて1時間少しの距離のトレイルを設けて解放しています。

最初にここにきた時には、いきなり足元にリスがいたのでびっくりしました。
もちろん大喜びで写真を撮りまくっていたのですが、地元民にとっては
リスなど珍しくもなんともない、雀とか野良猫みたいなものなので、
さぞかし物好きに見えていた(る?)ことでしょう。

ここにいるリスは、日本で見るシマリスとは大きさも模様も全然違う、
カリフォルニアジリス(地面に生息するリス)という種類です。

このリスでだいたい体長15センチといったところでしょうか。
シマではなく白い斑点があるのが日本人には大変珍しく見えます。

エントランスを入っていくと、まず心臓破りの坂?を登っていくのですが、
そのあと道は二手に分かれます。
右は降り、そして左はさらにきつい登り。

わたしは心臓破りの後の選択として、どうしても右に行ってしまうのですが、
ものすごいスピードで左を駆け上る人もいます。

この二人の男女は右側選択組でしたが、とにかく飛ばしていました。
カップルでマラソンにでも出るつもりかもしれません。

今回初めて早朝に来てみたのですが、期待していたよりリスがいませんでした。
しかも、カメラを向けると一瞬固まったのち、脱兎の勢いで逃げてしまうので、
望遠レンズの出番です。

花の種らしい綿毛を食べていたリス。
綿菓子みたいな感覚かもしれません。

道沿いの木に何か違和感を覚えてよく見ると、スズメバチの巣でした。

いつもは息子をサマーキャンプに送り届けてから、つまり9時ごろから歩いていましたが、
この時間はその頃と全く違い、空気がひんやりして寒いくらいです。
それが太陽が昇ると同時に猛烈な暑さとなり、昼間はとても外を歩けるような状態ではありません。

湿度が低いシリコンバレーでは、朝と夜の温度差が激しく、夜は寒くてコートが要るくらいになります。

朝早くならリスもたくさん出て来ているだろうと思ったのに、そうでもありません。
やっぱり夜行性で暗い時に活発なんでしょうか。

夜行性といえば、ここにはマウンテンライオンやコヨーテもいます。
わたしはお目にかかったことがありませんが、トレイル内に二つも
この看板があるということは、遭遇する人も結構いるのでしょう。

ただ、わたしは今回、道端にそのいずれかののものだろうと思われる
糞をいくつか発見しました。
そのいずれもがリスの毛がふんだんに混じっていたことから、
彼らの主食はどうやらリスらしいことを知ったのでした。

 

歩き出してしばらくいくと、リスの巣穴がたくさんあるゾーンに来ます。
ここでリスを見ることを期待していたのですが、今年はついに
二度目となるリスの喧嘩を撮ることができました。

いきなりX字型にがっぷり組んでおります。

残念だったのは喧嘩の場所までかなり距離があって、ピントが合わなかったこと。
レンズを調整する時間もないまま喧嘩が継続してしまいました。

彼らは巣穴の近くで餌を食べていた中くらいのリス同士ですが、
今まで遭遇した喧嘩に共通するのは、喧嘩するのは同じ大きさのリス同士です。

決して大きなリスが子リスと戦っているという構図にはならないようです。

そして、必ずどちらかが圧倒的に強く、強い方がそうでない方を押さえつけます。

しかし、弱い方もやられっぱなしではありません。
背中に乗って反撃を試みますが・・・

「ていっ!」「やられたっ!」

ということで、この表情です。
わたしはこの写真を見て鳥獣戯画を思い出しました。

倒れたリスが体制を立て直す前に飛びかかろうとするリス。

飛びかかられた方は逃げ出しました。
しかし、なんで喧嘩なんてするんだろうなあ・・・。

ここで終わらず、強い方が追いかけて行ってだめ押しの乱闘があったのですが、
その時彼らはわたしのカメラに気がつきました。

「・・・・・・」「・・・・・・」

外敵がこちらを狙っているのに、俺たちはなぜ今まで喧嘩なんかしていたんだ。

・・・・とか?

まあ、人間でもミサイルが隣国から飛んで来ているのに、マスコミと結託して
自分の国の政権を転覆させることしか考えていない人たちもいますので、
リスのことを愚かだと決して笑えません。

どうしてリスが少ないのかといいますと、このとき空には
トンビなどリスの天敵が獲物を探して旋回中だったからです。

朝早い時間は鳥のご飯タイムというわけです。

こちらの鳥さんは、地面におりて、盛んに足を踏みならしていました。
何をしているのだろうと思ったのですが、もしかしたら足で音をさせて、
出て来た虫を食べようとしていたのではないかと思われます。

 

もしそうだったら賢い鳥だなあ。

半分くらい歩いたところで、トレイルの名前になっている「ディッシュ」が出て来ます。
大型のアンテナがここには二つあるのでディッシュトレイル、というわけです。

スタンフォードディッシュという名前ですが、大学とは関係ないと思われます。

その時、遠くにワイルドターキーの一団を見つけ、
わたしの胸が高鳴りました。

朝早いとこういう大型の鳥類も見ることができるようです。

ところでさきほどの写真をみていただければわかりますが、

「ワイルドターキーに遭遇したら」

という注意書きがあり、

●近づかないこと
●大型のワイルドターキーは大きな音を出せば逃げる
(ちなみにこの看板の’deterred'のスペルが'detered'となってます)
●向きを変えて反対の方に逃げること

とあります。

ということは、結構どう猛な鳥とされているみたいですね。

わたしが前回別の公園で遭遇した一団も、今回も、こちらが何もしなければ
襲う様子もなく、むしろゆっくりとではありますが逃げていく様子です。

唯一、このターキーだけがこちらをガン見して、何か怪しい動きをすれば
その時はこの俺が黙っちゃいないぜ的な空気を濃厚に醸し出しておりました。

わたしが写真を撮っていると、歩いていた他の人たちも立ち止まり、
何人かはスマホで写真を撮っていました。

今時は下手に小さなデジカメならスマホの方が画像が良かったりします。

慌てず騒がず。
ゆっくりとターキーの一団は、悠々と見える様子で歩いていきます。

ところで、日本でワイルドターキーと調べると自動的に「七面鳥」となるのですが、
七面鳥とワイルドターキーは全くシェイプが違いますよね。

四羽のターキーの後ろ姿。

そういえば、今年の夏のアメリカではやたらビートルズが取り上げられてまして、
なぜか写真集なんかがたくさん発売されているみたいです。

トレイルには高低差があるので、もっとも高いところまで登ってくると、
スタンフォード大学のフーバータワーがこんな風に下の方に見えます。

ニコン1(いつのまにか代替わりして今のはV3)の望遠レンズを今回駆使しましたが、
思いっきり寄せて撮ったリスの瞳に自分が写っているので感動しました。

空にはまだ鳥が旋回していたので、いつもは柵の上にたくさんいるリスも、
今日はこの子たった一匹だけでした。

こういう時にいつもどおりに見つかりやすい場所にいるリスって、
危険を認識していないのか、それとも自殺願望でもあるのか・・・・。

つい最近、「イルカは自殺する」(水の底に潜ったまま呼吸をせずに自発的に死ぬらしい)
という話を聞いて心からショックを受けたばかりなので、ついこんなことを考えました。

ちなみにイルカの場合、自殺の原因はストレスや絶望感などで、飼育されている場合、
飼育員など自分が親しかった人間に事前に別れを告げてから死ぬそうです。

なんて悲しい話なのー! 

というわけで、今年のスタンフォードのリスについてのご報告を終わります。

 

 

 

 

 

 


マウント55〜重巡洋艦「セーラム」

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重巡洋艦「セーラム」には、主砲の他に副砲として、8" / 55口径5インチ砲を搭載していました。

その準備をするためのコンパートメントから見ていきましょう。
レディサービスルームというこの区画は、砲の真下に位置します。 

稼働中はハッチを中から締めることになっていたようです。
合戦時にドア・ハッチを締める印である丸エックスがついています。

 

かろうじて読めた説明によると、この区画は

Secandary Battery Mount #5 (AKA Mount 55)

第5副砲、通称マウント55

だそうです。
通称がマウント55なのは55口径.。
5番目というのは前から数えて5基目ということでしょう。 

8" / 55キャリバーガン 

現地の説明には本艦が搭載していたのはMk32であると書かれていますが、
それは重巡洋艦に特化した仕様となっていたようです。 

このコンパートメントは、パウダーケースと発射体が一時貯蔵されますが、
それが尽きたとき、弾薬はデッキ下部の取扱室から運ばれます。

 

もう一度この部分をご覧ください。

写真は解説図の「アッパー・ハンドリングルーム」の部分です。
一つのマウントに対し27名が稼働に必要でした。

ここでプロジェクタイルーホイストに装填した弾が、この上にある
「ガンハウス」に上昇していきます。 

これは上の図解でパウダーホイストの右側にあるプロジェクタイルホイスト。
発射体がちょこっと顔を出していて可愛いですね。 

缶ケース入りの装薬がゴロゴロと積み重なっています。

全てこのマウントで使用されたもの。
C、Dは装薬、 E、Fは発射体。

細かい説明は写真に失敗したのでできません!(いばるな)

ここにストアされていたこれらの弾薬や装薬は何種類かありました。

この区画は火薬などを扱うので特別の安全装置が施されています。
いざという時に部屋中にスプリンクラーが作動するのもここならでは。
このハンドルは直接的に手で回して作動するスプリンクラー。

印刷室にはボランティアの人が詰めていて何やらお仕事中だったので写真は撮りませんでした。
平日の昼間なので、艦内はほとんど人がいませんでしたが、廊下ですれ違った
一人のボランティアのおじいちゃんは、わたしがカメラを持っているのを見て

「なんかに載せるのかね。熱心だね」

とニコニコして声をかけてきました。 

ギャレーの隅にはゴミを処理する部屋がありました。
おそらくこのトレイに乗っけて粉砕するのだと思いますが、そのあと
どうなるのかは全く想像がつきません。 

テーラーショップがありました。 

制服を作ったり修繕したりする部署です。

 

下士官のジャケットにサービスユニフォーム、セーラー服もあります。
キャンバスの布がたくさん積み重ねてありますね。 

ズボンのアイロンはセットして挟んでしまうだけ。
ワイシャツもこんな挟み込み方式で綺麗にアイロンできてしまうんですね。
これはこれですごい技術が必要だったのでは・・・。 

売店は今は展示だけです。

貼り紙には、オリジナルキャップやTシャツなど、ストアショップが別のところにあるので、
そちらでどうぞ、と書いてあるのですが、どこを探してもそれらしい店はありませんでした。 

バイタリスの空き瓶、コーヒーミルクの紙パックなど、
ほとんどゴミ置きと化しているショーケース。 

売店の窓に貼ってあった大雪の日の「セーラム」の写真。
マサチューセッツは雪が降りますが、さすがにクインシーは
海沿いなのでここまで降ることは珍しいのでしょう。 

 

この洗面所はおそらく現在は使われていないでしょう。
手を拭くためのペーパーがないので。 

何のためにあるのかわからなかった部屋。
現在は物置のようになっています。

「セーラム」の現在のオフィスです。

昔からここにあったらしい写真と、同じ女優さんの新しい写真が並んでいました。

ここにもあった。「ウィッシング・ウェル」。
ここのように艦の底深くまで見通せるのは、おそらくここがバーベットの
脇にあるからだと思いますが、それを利用してコインを投下し、

「一番深いところに落ちたら願いが叶う」

などというノリで遊んでもらおうという趣向。 

小さな筒に狙って、実際に入れルノに成功した人も何人かいる模様です。

さてさて、「セーラム」にもありましたよ。艦内監獄が。

「ブリッグス」という艦内監獄、犯罪はもちろんのこと、規律違反、
例えばフネに乗り遅れたりした乗組員はここでお過ごしいただくことになっていました。

ブリッグスはここでは2つだけ。
「マサチューセッツ」では3つありましたが、まあ二つで十分というところでしょう。 

欧米人にとって床で寝るというのは、辛いだけでなくかなりの屈辱みたいです。
日本人は畳に布団で寝るのに慣れていますが、彼らは家の中も
靴で生活するので、その高さで寝るということは基本「無理」なんでしょうね。

というわけで、監獄の中ではこんな風に床で寝なくてはならず、
肉体的にも精神的にも辛さもひとしお、といったところでしょう。

ここにあった「ブリッグの規則」によると・・・

a. 収監者は常に身体検査を受けなくてはならない。
 検査は収監前、衛生士官、監獄士官?看守に寄って行われる

b.ブリッグスペースはいつも清潔にしておくこと

c.専用の衣服を身につける。
収監中は貴重品などを預かるが、釈放時に返却する。
もし無くなったりした時には捜査依頼にサインすること

d.規定の髪型にカットすること(坊主かな)
収監中は清潔を保つこと。口髭は禁止。靴を磨くこと

e.重労働収監者は仕事にアサインすること。
「パンと水」収監者は見張りのいるところでしか活動できない

(パンと水の収監者ということは、それしかご飯がもらえないとか?)

f.司令官かブリッグオフィサーが、イベントにおける行動を指揮する。

g. 収監者は一日に30分から1時間、運動か訓練に参加することができる。
もし状況が許せば。

いいように捉えると、訓練に1時間参加するだけで、あとは部屋で寝ていればいいと・・
(清潔にしながらね)

それなら収監の方が俺は向いてるぜ、という人も稀にはいるかもしれませんが、
まあこんなところで監視されながら、一日全く自由な時間なしに過ごすわけですから、
やっぱりあまりありがたくないものだと思われます。 

軍艦で悪いことはしないに越したことはありません。

ところで「セーラム」の写真の中に、アメリカで進行中の「ザ・ラストシップ」の
シーンが紛れていたのでついでに載せておきます。

ちなみにこれはすでに1年前現在のアメリカでのテレビです。

真田がね・・・悪いんだよ。

「奴らを皆殺しにしろ」

とかいって。

愛する人が死んでしまうとかいうそれなりの同情に値することもあったみたいですけど、
これ今どうなったのかしら。(フォローしてません)

続く。 

稼働中の8インチ砲〜重巡洋艦「セーラム」

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アメリカ東海岸はマサチューセッツのクィンシーに繋留展示されている
戦艦「マサチューセッツ」についてお話ししています。

艦内見学を終わって出て来ました。
連装砲としてマウントされているMk.12 38口径127mm砲です。

別の連装砲正面から。
38口径の砲は、スペックによると12門あるということなので、
マウントは6基あることになります。

展示している軍艦をチェックするには、グーグルマップが便利。
上空からの写真でどこに何があるか、甲板の上は全てわかります。

それによると、艦橋を守るように前後、右舷左舷に1基ずつ4基。
そして、艦橋の前後にある主砲を守るようにどちらも主砲塔の真後ろに1基ずつです。

「セーラム」設計の時にはまだ日本との戦争が終わっておらず、
その時のアメリカ海軍艦船の脅威というのは実は日本の特効だったので、
対空砲としてこのような設置を行なったということが、空から見るとわかります。

キャプスタンには直径10センチはありそうな舫が巻き取られています。

見学客は数える程いませんでしたが、ここには「昔海軍だったぜ!」
みたいなおじいちゃん(左)とその友人、みたいな二人とすれ違いました。

今年で第二次世界大戦が終わって72年。

アメリカでも日本との戦争を戦った人たちは時の流れとともにいなくなり、
まだ生きているとしても、終戦時には若い水兵だったり、士官でもせいぜい少尉。

司令官として戦争体験をした人たちは全てこの世を去りました。

彼らがベテランだとしても、それは朝鮮戦争かベトナム戦争のことでしょう。

後甲板にある三連装手法も、砲塔の中に入ることができます。
前甲板の主砲は、甲板より何段か階段を上がったところにありましたが、
こちらは甲板に直付けしてあります。

そのせいか、前甲板のように見学用のデッキではなく、直接登って行って入る
階段が設置されていました。

砲員たちは砲塔にかけられたラッタルを登っていました。

ハッチ状のドアは砲塔稼働中はぴったりと閉ざされました。

中に入ってみます。
二つのドアからしか光が入らないのに、明るいのが不思議です。

砲塔の中は二階構造になっていて、入ったらそこは1階の「トレイン」を上からみる
デッキかバルコニーのようになっています。

8インチ砲の最初の型式、Mk9が導入されたのは1925年のことです。
「ルイビル」 CA-28には、当初型の30キロはあろうかというものが積まれました。
「ルイビル」はリンガエン沖で2機、沖縄でなんと4機(陸軍の飛燕)の特攻を受け、
ズタズタになりながらも生き残った船です。
さぞかしその対空砲はその度に激しく火を吹いたのでしょう。

その後開発されたMK12、14、15まで全て手動式で、このMk16になって
初めて完全自動式の装填設備を備えることとなりました。

完全自動、ということは、砲員はローディングしなくてもいいので、
この上のデッキから操作をしていたのかもしれません。

 

三連装なので、「デモイン」「ボルチモア」「オレゴンシティ」クラスの砲は

「スリー・ガン・タレット」あるいは「トリプル・タレット」

と呼ばれていました。

 トレインには、まさに砲弾が一つ装填されようとしているところです。
砲弾を支えているようにアームが置かれ、後ろから押して装填するための、
ところてんの「突き棒」みたいなのが見えています。

今まで同じ大きさの砲弾を人間が実際に抱えて装填していたことを考えると、
自動的に装填し、砲撃に集中できるこのシステムは、神の恵みに思われたでしょう。

8インチ砲は1分間に10発、6秒に一回射撃することができました。
「スリーガンズ」ですので、砲塔単位でいうと1分間に30発撃てるということになります。

 三つあるトレインの一番左側。
砲弾を装填するアームのスリットからは砲弾が見えています。

後に挙げた「セーラム」の動画では、砲塔に入るところから、
入るなり全員がヘッドフォンをつけて準備するところ、
ローディングのために、一つづつスイッチをつけていくところなどがみられます。

それによると、この写真では砲塔下部から送られてきた砲弾が、筒状のこのアームに
送り込まれた後、アームは右から左に逆振り子のように振れて、
トレインに弾薬を置くと、元に戻り、次の弾薬を受け取る仕組みです。

とにかく、このビデオの5:00〜からみていただければよくわかります。
ピタゴラスイッチみたいで思わず食いついちゃったよ。

USS Salem Rapid Fire Guns Video

なお、動画によると、最初になんだろうと思っていたこれ、

この物体は『砲塔の中からでも外の様子がわかるオートマチックディレクター』と動画中で説明してますね。

最初の日にこれがなんであるかコメントですぐに教えていただけました。
持つべきものは博識の読者だと改めて感謝している次第です。

これはサイレンかなんかでしょうか。

砲塔に入る人は全員ヘッドフォンをつけていて、
司令室からや下の弾薬庫からの連絡はそれで聞き取っていたようです。

 ドアの上にターレット・スプリンクリング(散布)システムのガイドがあります。
始動のさせ方と止め方、「空気供給のボタンを押すこと」などとあります。

テーブルの四隅にはストッパー付き。
カウベルみたいなのが乗っていましたが、何かわかりませんでした。
理科の実験に使った「分銅」という感じの形です。 

 

さっき見たのとは別のところに時鐘があります。
赤いパイプということは消火設備でしょうか。

赤いパイプの先はドアの上まで来ていました。

外に降りるラッタルの横に、「セーラム」維持のための寄付をするポストがありました。

左のポストは、消防設備関係の点検や見回りで訪れる署員の連絡用だと思われます。

ラッタルを渡りきったところにある機雷も、その気になれば手でさわれます。
「セーラム」が積んでいたというわけではないので、なぜここにあるのかわかりませんが。

ラッタルを降りたところに小屋がありました。
入るときには誰もいなかったので、そのまま通り過ぎましたが、
このときに見ると、夫婦のような男女が二人、中にいました。

「入るときに誰もいなかったので・・・」

と声をかけてみると、そのときに初めて入館料を徴収する始末。
払わずに見るだけ見てそのまま帰ってしまった人も結構いたと思うがどうか。

鷹揚なのかいい加減なのかわかりませんが、決して資金が潤沢でもないのは
艦体のそこここが荒れて劣化しているのを見ても明らかなのに、
もう少しせっせとお金を取ることを考えたほうがいいんじゃないかなと思いました。

上に挙げたユーチューブでは、火を噴く砲塔や艦体など、
できたばかりで最新式の自動装填を誇る「セーラム」はピカピカの新品です。

その68年後の姿をしみじみと眺め、艦に入ったときにふと浮かんだ、

「つは者共が 夢の跡」

という言葉をいま改めて噛みしめるのでした。

 


あと少し、館内展示のお話を続けます。

 

 

 

艦内展示〜重巡洋艦「セーラム」最終回

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マサチューセッツに繋留展示してある貴重な重巡「セーラム」、
見学記もこれで最後です。

まずは載せ忘れた写真から。

ギャレーメスの食べ物を取るカウンターの手前には、このように
金属製のトレイがあり、フォークやナイフと共に取ってから進むようになっています。

金属製で食べ物を乗せるくぼみのあるトレイは、現在自衛隊で使われているのと同じ。
あのお皿の発祥はアメリカ海軍だったんですね。

棚に何本もの棒が檻のように立っていますが、これは何かわかりません。

ギャレーや士官、准士官の居室、医療施設などがあるこのセカンドデッキには、
唯一、「シップビルディング・ミュージアム」の部屋がありました。

ここクィンシーには、ジェネラル・ダイナミクスの造船部門があったのです。

潜水艦建造から企業した同社は、「ホランド型」という初期の潜水艦から、
「ノーチラス」などの原潜も手がけると言ったように潜水艦専門でしたが、
今ではコングロマリット企業としてアビオニクス、航空宇宙の分野まで進出しています。

奥の女性3人は、戦時中造船所で働いていた「ロージー・ザ・リベッター」たち。

「セーラム」についてお話しする前に取り上げた戦艦「マサチューセッツ」の
造船過程を記録した写真が展示してありました。

ブロック工法とかではないということはわかります。当たり前か。

このころは下から順番に作っている感じですね。

おそらく日本の造船、「大和」なども同じような工程を経て建造されたのでしょう。

説明はありませんが、後ろに現在と同じブリッジが見えているところを見ると、
初めてここクィンシーに展示のため運ばれたころ(1992年)の「セーラム」だと思われます。

艦体の塗装がことごとくはげ落ちているのが悲惨な感じですが、
1959年に退役してからずっとモスボール保存されていたためでしょう。

フォラデルフィアで保存されていたころの「セーラム」。
隣にいるのは艦番号134は、同型艦の「デモイン」です。

「デモイン」も退役してから同じフィラデルフィアの海軍不活性艦艇整備施設
(Naval Inactive Ship Maintenance Facility, NISMF)でなんと
2006年まで保存されていたそうなので、その時の写真です。

この施設では、彼女ら姉妹は隣同士に並べられていたんですね。

説明に肝心の時期とこの戦艦が何かが欠けているのですが、彼らの制服と、
艦橋の形から、第一次世界大戦の頃の写真ではないかと思われます。

「セーラム」は、戦闘に参加したことはなく、災害救助で活躍しました。

1953年、ギリシャのイオニア諸島を襲った大地震の被害に対し、「セーラム」は
緊急出動して、物資の運搬や現地の復興を支援しています。

マグニチュード6.4から7.2の揺れにサンド見舞われた現地は壊滅し、
人命だけでなく、貴重なギリシャの歴史的遺跡が多く失われました。

ボストンのギリシャ系コミュニティが「セーラム」に組織して集めた救援物資を託し、
「セーラム」艦長に渡すということも行われています。

ちなみに、あの「小泉八雲」ことラフカディオ・ハーンはイオニア出身です。

ここで趣向が変わって?スターズアンドストライプス紙の漫画を。

アドルフ・ヒトラーという人は、実にいろんな語録を残していて、例えば

「マスコミは下衆である。
この下衆が所謂世論の2/3を製造し、その泡から議会主義という神の愛が生まれたのだ。
口当たりの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、
単なる馬鹿である。用心すべし。」

という結構賛同できるような(笑)ことも言っていたりするのですが、
このシリーズはヒトラー語録を紹介するもので、なんとこれが連載3回目。
いろんな語録に、それとはあまり関係なく漫画をつけています。


この漫画は、ヒトラーに影武者が何人かいた、という噂に基づくもので、

「本物はこいつか、それとも我々のうちの誰かかな」

北の黒電話にも影武者が何人かいて、耳の形が違うと指摘されてますね。
今はネットで細かい部分をチェックできるので影武者をやりおおせるのも難しい(笑)

ヒトラーの演説を聞いていて倒れてしまった人。

「かわいそうなルードヴィッヒ!
聖書のペリシテ人みたいに、顎の骨(ロバの)で虐殺されたんだな」

With the jawbone of an ass, heaps upon heaps,
with the jaw of an ass have I slain a thousand men.

が聖書の原文ですが、すみません、わたし聖書には詳しくなくて・・・。

部分が欠けているので読めないのですが、

「たった一語も空に書き遺すことが出来んのか!」

とパイロットに無理なことを言っております。

アドルフ・ヒトラーの墓石。

「これはわたしの最後に求めた領土である」

他の土地を焼け野原にしておいて、ってところでしょうか。

「セーラム」の乗組員フィレンツェなう。

サードデッキ、メインのギャレーなどがある階の一階下、
かつては兵員の寝室などであった部屋は、資料展示室となっていました。
そのうちの一つ、「シップモデル・エキジビッド」。

モデルシップの愛好家がこぞって作品を提供しています。

西海岸でこれも見学した空母「ホーネット」が、ドゥーリトル空襲を行うために
陸軍機を満載しているあの時の再現モデル。

ドゥーリトル空襲というのは、アメリカ人にとってよほど誇らしいことらしく、
未だにその日がくると記念日と称して色々イベントを開催したりしてるのですが、
この右下の本も、「65周年記念」に参加したベテランが編纂した写真集です。

右下はFDRに勲章をつけてもらう(FDRは車椅子に座っているらしい)
ジミー・ドゥーリトル准将。

この写真で初めて、ドゥーリトルが当時から禿げていたことを知りました。
スペンサー・トレイシーもアレック・ボールドウィンも禿げてませんでしたがそれは。

ところであの世紀の駄作「パールハーバー」、我々日本人はあまりの偏向的描写に
ネタとして楽しんでしまうか、せいぜい不快感を感じるくらいでしたが、
ドゥーリトルを実際に知る人たちが、あのボールドウィンに対して

「あれは違う!あんなのはジミーじゃない!」

ということで怒り狂ったということがあったらしいですね。
何がそんなに逆鱗に触れたのかまではわかりませんでしたが・・
まさか髪の毛じゃないとは思うけど。

昔の造船所の船台で建造中の駆逐艦「ヤーネル」DD-143 YARALL。

1917年から4年間の間に建造された「ウィックス級」駆逐艦は、
このように四本煙突がトレードマークです。

造船台の下の組み木の台まで内部の仕組みがわかるような模型になっていますね。

「ミズーリ」の後ろには、艦上で行われた日本の降伏調印式の写真が。

1944年10月14日、午後18時40分。
CA-70「キャンベラ」を牽引するタグボート、「ムンシー」ATF-107

台湾沖で一式陸攻の雷撃が命中し航行不能になった「キャンベラ」を牽引するために出動しました。
画面下の海面に日の丸をつけた航空機が見えます。

これは説明によると、50口型銃で撃墜したフランシス(銀河)だそうで、

「パイロットの一人はすでに海の下のデイビージョーンズに会う準備をしていた」

だそうです。
海で亡くなることをアメリカ人はよくこのように表現します。

「ガダルカナル任務艦隊第62機動隊」と書かれたキャップは、
60周年を記念して同窓会が行われた時に作られたものです。

ちょうどラッパで艦番号が隠れてしまい何かわかりません。

時代は飛んでいきなりベトナム戦争。

どうやらUSS「セント・ポール」の展示のようです。
「セントポール」の日本語wikiには、1945年の呉の大空襲、そしてその後
戦艦「マサチューセッツ」も参加していた釜石への攻撃に加わったことが
書かれているのみで、朝鮮戦争、ベトナム戦争については特に言及がありませんが、
実際に最も活動したのはベトナム戦争のときだったようです。

ベトナム戦争では右舷側に砲撃を受けたこともあります。(1967年、写真中央上)

そしてネイビーシールズのコーナー。
彼らの帽子の形を見ると、ベトナム戦争ではなく最近撮られた写真かもしれません。

かつらを被せないマネキンに迷彩メイクを施してます。

「セーラム」の妹艦、「デモイン級」の「ニューポート・ニューズ」のコーナー。

野球はアメリカのごくごく一般的な暇つぶし(パスタイム)です。
海軍では本格的なユニフォームまで作って、艦対抗の試合を行ったようです。

自衛隊でも艦対抗のスポーツ試合は群単位で集まる訓練先で行われますが、
例えば掃海隊でいうと、

「フネ対抗」

の原則は崩さないそうです。
つまり大人数の掃海母艦対掃海艇、という対決が行われることになるわけですが、
その方が盛り上がるらしいですね。

ここからは海軍ユニフォームのファッションショー。

左はわかりますが、右のこの格好、実に普段着っぽいですね。
ダンガリーのシャツとジーンズっぽい水兵の基本スタイルの上に
オレンジの救命ベストとカーキ色のジャケット。

寒冷地用にニットキャップも用意されていました。

この帽子は、「踊る大ニューヨーク」でシナトラが被っていたタイプです。
「SP」の腕章をつけていますがショアパトロールのことでしょうか。

アメリカ海軍ではこの夏の制服のことを「ホワイツ」と称するそうです。

手前士官のホワイツ、後ろは下士官と兵。

こうしてみると、自衛隊の制服ってアメリカ海軍とほとんど同じですね。
まあ、今は制服、特に海軍の制服はグローバリズムとでもいうのか、
冬服はネイビーブルーのスーツに夏は白の半袖、水兵さんはセーラー服、
とほとんどこの基本ラインは世界共通となっています。

江田島の幹部候補生学校卒業式でも、タイ王国の軍人さんが一人いても
肌の色も全員が同化してほとんど見分けがつかなかったですからね。

さて、というわけでこれで重巡洋艦「セーラム」、隅から隅まで紹介しました。


わたしとしては、ここの繋留期限が切れる4年後、「セーラム」がどうなるか、
果たして展示艦としてその後も保存されるのかどうかを注視していきたいと思います。

 

 

終わり。

原発事故と中央特殊武器防護隊〜陸上自衛隊化学学校見学

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渡米前、防衛団体の研修会で陸上自衛隊大宮駐屯地に行ってまいりました。
大宮駐屯地は知る人ぞ知るさいたま市の西方4キロの住宅地に囲まれた基地で、
終戦までは旧陸軍の造兵廠大宮製造所があり、戦後は進駐軍の接収を経て

化学学校 通信補給処 武器補給処

などが開設されました。
施設の市ヶ谷移転に伴い、ここには埼玉県全体の防災警備を担当する
第32普通科連隊が移駐してきて現在に至ります。

本日の研修目的は、陸自化学学校の見学。

皆さんは、あの東日本大震災の時、メルトダウンを起こした福島第一原発に
注水作業をした陸自の部隊が、ここから派遣されていたことをご存知でしょうか。

福一だけではなく、原発事故発生後、現地に取り残された人々を救出したり
各地のモニタリングを行なったのも、当基地の

中央特殊武器防護隊
(Central Nyclear Biogical Chemical Weapon Defence Unit)

を中心に組織された陸自の部隊であったのです。

本日はその派出元となった大宮駐屯地で、原発災害派遣された部隊の
指揮官から直々に話をうかがえると聞いたわたしは、迷わず参加を申し込みました。

大宮駅の構内で集合した一同は、陸自側のマイクロバスに乗り込みます。
一台のバスにぎうぎうになって街中を走ること15分くらい、
基地に到着し、わたしたちはレクチャーの行われる建物の前で降ろされました。



それにしても自衛隊の建物って、どこもここもどうしてこんなに似てるんでしょう。
階段を中心に左右にウィングを広げた鉄筋コンクリートの建物は、
ここが下総基地だったか、阪神基地隊だったか、久里浜だったか
ふとわからなくなるくらいの既視感に満ち満ちた無機質な佇まいです。

こうしてみると、海自の呉と舞鶴の総監部というのは(おそらく佐世保も)
自衛隊の中でも異常に特殊なパターンというべきでしょう。

階段を登り、二階に到着すると必ず左手に曲がり、廊下の左手に
レクチャールームが用意されている、というのまでこれまでと同じです。

 

 

レクチャーは原発事故を想定した「特殊災害」における派遣活動についての説明から。
講師は化学学校副校長であり、当時対原発災害対処部隊の隊長であった一佐です。


さて、一旦災害が発生したら、まず災害状況の把握、避難誘導に続き、
行方不明者の捜索と救助を陸自の特殊車両を派出して行います。

入浴支援は今や陸自の災害派遣活動のシンボルのようになっていますが、
昔はその活動についても自治体側からは理解が乏しく、阪神大震災での対応が
「塩」だったのは、コメント欄でお節介船屋さんがおっしゃっていた通り。

しかし、日本人にとって入浴というのは被災者の精神支援ともなるもので、
わざわざ「入浴支援」と取り上げるのにも意味があるというわけです。
阪神大震災の時にはこういうことすら認知されていなかったんですよね。

原子力事故発災以降、陸上自衛隊が行った活動が時系列で表にしてあります。

3月17日のヘリでの空中放水の様子を、息を飲みながら日本全国の人々が
テレビで凝視したのは記憶にも生々しいですが、
わたしなど、今でも、あの時CH-47に乗ったの3名の自衛官の写真を見るだけで
涙が込み上げてくるのを抑えることができません。

その後、モニタリングを行い、要所に除染所を設営するなど、
当時の誰もが尻込みするような任務を、彼らはただ黙々と行いました。

災害発生直後から自衛隊は活動を始めました。

阪神大震災では、命令系統の麻痺によって、自衛隊が発災直後に出動できず、
そのために失われなくても済んだ多くの人命が失われたという反省から、
法改正が行われ、この震災では自衛隊の迅速な災害派遣が可能となりました。

3月12日には当日のヘリ偵察によって状況を把握した主力部隊が
現地入りして活動を始めています。

地震発生後、冷却装置注水不可能となっていた1号機への海水注入作業が、
13日深夜1時23分、津波の恐れが去ったと判断されたため再開されました。

使用した海水には、中性子を吸収し核分裂反応を抑える作用のある
ホウ酸が添加されていました。

14日といえば3号機の建屋が爆発した日でもあります。
政府は水素ガス爆発であると発表。

この爆発で建屋は骨組だけになり、作業をしていた東京電力と協力企業の作業員、
および自衛隊員の合わせて11人が怪我をし、東京電力の作業員1人は被曝しています。

3月27日付の英テレグラフ電子版は、3号機が爆発した時現場に居合わせた
陸上自衛隊中央特殊武器防護隊の6人が、爆発に巻き込まれ死亡していたと報じたそうですが、
政府発表でもそのようなことは報告されていませんし、この時のレクチャーで
作業に当たった陸自隊員は死亡はもちろん健康被害も今のところ見られない、
と一佐は明言していました。

水素爆発を起こした瞬間立ちのぼった煙と倒壊した建屋の様子。

もうなんかこの辺りになると「日本もうダメかも」って気になりましたよね。

しかし、そんな中、陸上自衛隊は黙々と給水作業を行っていました。

「生命の危険を顧みず」とは彼らの服務の宣誓ですが、このような
前代未聞の、誰も一瞬先がどうなるかわからない最前線の現場に出て、
本人たちよりもおそらく、彼らの家族は苦しい思いをしていたことでしょう。

白い防護服は自衛隊、黄色は東電の作業員だと思われます。
テレビ映像でも頻繁に目にしたこの白にブルーの作業服の背中には
マジックで書き殴られた自分の所属と名前が見えます。

わたしはこの日、駐屯地内を移動していて、体育館のような建物の中に
この防護スーツを着用した隊員たちが訓練を行っているのを目撃しました。

水素爆発の時現場にいた隊長の戦闘服は、6ヶ月後に計測しても
上限値の300倍を表す汚染値が測定されました。

右側で爆風を受けたらしく、右胸が最も汚染されています。

「もちろんずっとそのままでいれば蝕まれますが、事後に
除染をきちんと行えば、命に別条は全くありませんし、
あれから6年経っておりますが、現場にいた自衛官の中で
健康被害があったという者は一人もおりません」

これも目からウロコというか、実に衝撃的な一言でした。

もっともこの話をある人にしたところ、

「今はなんともないかもしれないけどねえ」

と意味ありげに言われました。
その点についても、のちに隊長からある説明がなされました。

福一内の汚染状況が、可視化できる表。

爆発した3号機の周辺に散るコンクリート片が最も汚染されているほか、
1、2号機の配管が特に数値が高いですが、それ以外はそうでもありません。

まず17日9時48分、使用済み核燃料プールの水位が低下していた3号機に対し、
陸上自衛隊第1ヘリコプター団のCH-47ヘリコプター2機が消火バケットを使い、
計4回30トンの放水を行いました。

作業前のモニタリングでは、高度300フィートでも高い放射線量が検出されていましたが、
作業にあたった自衛隊員の浴びた放射線量は全員1ミリシーベルト以下だったそうです。

ヘリの床はタングステンで防護し、全員がヨウ素を服用しての作業でした。

この後、自衛隊の消防車が機動隊の高圧放水車と交互に放水を行いました。

 

映画「シンゴジラ」のヤシオリ作戦でこのシーンを思い出したのは
わたしだけではなかったと思います。

このとき、自衛隊の各飛行場から集合した大型破壊機救難消防車と救難消防車計5台が
3号機に対して約30トンの注入を行いました。

海自は下総基地から、空自は百里基地より3台、三沢基地より1台、小松基地より1台、
入間基地1台の合計6台を派遣しています。

自衛隊だけでなく、消防局もハイパーレスキュー隊の車両を多数投入し、
懸命の作業を続けたことも忘れてはいけません。

この時に全国から集結し、結成された増強中央特殊武器防御隊。
化学防護隊を持つ全ての駐屯地から、福島に部隊が派遣されました。

この時の会議の様子。中央のモニターに正対しているのが岩熊隊長です。

その後、放射能汚染した住民の除染を目的として設置された除染所。
立ち入り禁止になった円の外側を最多として、1万5千600名ものモニタリングを行い、
そのうち136名に対して除染処置を行いました。

作業に当たったヘリの除染もここで行っています。

除染作業所では、全員が例の白い防護服着用です。

Jビレッジはサッカーのトレーニングセンターですが、原発事故発生後、
自衛隊のヘリや消防車、人員や車両の除染を行う拠点となりました。

その後も作業員がここで作業服に着替えて原発に向かう「中継基地」となっていて、
芝のフィールドはヘリポート・駐車場・除染場・作業スペース・資材保管場所となりました。

Jビレッジの復興を支援するための資金をふるさと納税で当てているようですが、
今のところどうなっているのかは不明です。

ポイントをいくつか置き、そこでモニタリングを行い、
車などの除染もここで行っていました。

避難中の住民に一時立ち入りが許可された時、そこにも除染所が設けられました。
これは彼らの汚染に対する不安を取り除くのに大変役立ったと思われます。

自衛隊は南相馬市、浪江町など、立ち入り禁止になっていた地域での
行方不明者の捜索も行っていました。

原発被害だけでなく津波被害のあった部分でもあります。

瓦礫を持ち上げ、その下も捜索し(中央下)、捜索で発見され運ばれていくご遺体に対し、
合掌で見送っています。(右下)

捜索に当たった後、隊員自身が念入りに除染作業を行いました。
白の作業服はもしかしたらドラム缶に入れて廃棄処分でしょうか。

 

さて、こんな自衛隊の任務状況を淡々とお話される隊長は、
化学部隊の指揮官というだけあって、もし陸自の制服を着ていなかったら、
白衣を着て研究室にいるのが似合っているような学究タイプにお見受けしました。

ただしそれは知的な風貌がそう思わせるだけで、首から下は鍛えられた体、
そして何より真っ黒に日焼けしたたくましい腕と、どこからどう見ても自衛官です。

隊長の名前を検索すると、原発事故関連でいろんな記事が出てきますが、
その中でも目をみはる思いがしたのは、

14日朝、冷却機能が停止した3号機に冷却水を補給するよう東電から要請があり、
隊長ら6人が原発近くの拠点から、給水車2台と小型のジープ型車に分乗し向かった。
防護マスクと防護服に身を固めた。

3台が3号機の目前に到着した午前11時1分。
岩熊隊長が車を降りようとドアノブに手をかけた瞬間、
「ドン」という低い爆発音と共に、爆風が押し寄せた。
がれきが車の天井の幌を突き破って車内に飛び込んできたため身を伏せた。

ホコリで前も見えず、「助からないかもしれない」と思ったという。

という記事でした。

6年経った今、当時を語る隊長は、その中で一度もこのようなことを言いませんでした。
そのせいで、わたしはやはり化学の専門知識を持っている部隊の指揮官は、
ある程度任務の安全性を予測していたのかと考えてしまったくらいです。


「助からないかもしれない」

6ヶ月後になっても高濃度の放射能汚染を示す陸戦服は、その時の隊長の
指揮官としてではない、人間としての本能的な恐怖を代弁しているようでした。

しかし、それにも怯むことなく、当時日本中がすでに死の地域になってしまったと
思っていた福島で、彼らは「生命の危険を顧みず」、任務に当たったのです。

 

隊長の話は、この後福島とチェルノブイリの比較に入りました。

 

続く。



放射線量と健康被害〜陸上自衛隊化学学校見学

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東日本大震災の伴う福島第一原発の原子力事故と最前線で戦った、
陸自中央特殊武器防護隊の隊長であり、化学学校副校長の
岩熊真司一佐が直々にこの日のレクチャーを行いました。

一佐は事前にこの日研修に参加した人々の名簿を見てこられたらしく、

「住所を見ると大変遠くから来られた方もいて、感激しております」

とこの日大宮までやってきた参加者に感謝の意を述べられ、
そのことがまたわたしたちを感激させたのでした。

福一の事故が起こった時、チェルノブイリやスリーマイル島と同等の
規模の災害になるかのように報道され、また今でもそんなイメージで
捉えている人もいるかもしれません。

岩熊一佐の講義は、事故発災直後からの陸自が行なった活動の説明を終わり、

「原子力事故全般」

についての説明に移りました。
これは、原子力発電にいたずらに忌避感を持っている人たちにもぜひ聞いて欲しいものでした。

まず、福島第一とチェルノブイリ事故との比較。
この数字を見れば両者の性質が全く違う性質のものであることがわかります。

そもそもメルトダウンと原子炉爆発が根本的に違っていたわけですね。

小さい頃、

「雨に当たると放射能のせいで禿げる」

などと言われたことのある人はいませんか?
実家にある父所蔵の漫画、ちばてつやの「ハリスの旋風」には、
弟が雨の中走っていく兄を心配して

「にいちゃんハゲなきゃいいけど・・・」

と禿げた主人公石田国松を想像するシーンがあります(笑)

あれは中国の核実験の影響だったのですね。
ってかすごい数値ではないですか!

でもそれなりに雨水にも数値が出ているが?と心配する人のために。
放射能が体に及ぼす影響をグラフにしております。

緊急作業を行う際、0.1シーベルトを限度にしているということですが、実際は
その2倍半の数値でも臨床的には症状は現れないということになります。

確実に危険というのが黄色が赤になっているゾーンで、
4シーベルトからは

半数致死線量(60日)造血障害死

7シーベルトからは

全数致死線量(60日)腸障害死

で、ここからが確実に死に至る線量です。

左上赤に白抜きの JCO、 A氏とB氏の被曝量というのは、
東海村JCO臨界事故の被害者のことです。

これは核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。
これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、
1名が重症となった他、667名の被曝者を出した事故です。

全て一人の人物の損傷の変化を事故発生から3ヶ月に亘り撮影したもので、
左から9月30日、10月10日、11月10日、12月20日、1月4日の撮影。
11月10日には皮膚の70%が剥がれ落ちたため、1月4日には
顔面にも皮膚移植を行いましたが、DNAの損傷により皮膚再生能力は失われていました。

「恐ろしいのは被曝した直後は身体的になんの損傷もなかったことです」

汚染地域にあって作業をする隊員たちの防護、作業後の除染は
徹底的に行われました。

事故発災後、原子力事故であるJOCの被害者の写真などが出回ったり、また
危機感を煽るような無責任なネット言論に振り回された人も多かったことと思います。

陸自でこの時任務に当たった隊員たちの健康状態についてはは、おそらくその後も
追跡調査が行われていることと思うのですが、6年経った今日、
隊長は彼らに健康被害は全く現れていない、と言い切りました。

わたしなどそれを帰ってから人に話したところ

「今はなんともないかもしれないけどね」(意味深)

と言われたわけですが、ガンの発生率と放射線量の相関性について、
このような表を今回見せていただき別の考えを持ちました。


ホルミシス効果というのは

大きな量(高線量)では有害な電離放射線が小さな量(低線量)では
生物活性を刺激したり、あるいは以後の高線量照射に対しての
抵抗性をもたらす適応応答を起こす仮説

で、これを活用したものにラドン温泉というのがあります。

ホルミシス効果を考慮した結果、赤の点線はガンの発生率を下げているわけですね。

してその因果関係が明らかになるのは100ミリシーベルトより上、となります。
100ミリシーベルトは0.1シーベルトであり、しかも放射線は
瞬間に受けてもこのレベルでは影響がないことがわかっていますので、

毎時シーベルト(mSv/h)

という形で人体への被曝量を表すことがあります。

25 μ(マイクロ)Sv/h の被曝を2時間にわたって受けると、
被曝量は 50 μSv = 0.05 mSv = 0.00005 Sv 

毎時 400 ミリシーベルト (400 mSv/h) の被曝を15分間受けると、
被曝量は 100 mSv (ミリシーベルト) = 0.1 Sv 

毎時10シーベルト(10 Sv/h)の被曝を30分受けると、
被曝量は5 Sv = 5,000 mSv = 5,000,000 μSv

などと表すのです。

そこで、発ガン性と被曝量の相対リスクという表をご覧ください。
毎日三合以上の飲酒をする方、喫煙、肥満、運動不足、辛い物好き、
野菜が嫌いな方は、つまり発がんリスクがこれだけあるということになり、
毎日タバコを吸っている人が放射能放射能と騒ぐのは滑稽ではないか、
ちうことでもあるのではないかと考えさせられますね。

ただし、タバコを吸っていたとしても発がんリスクは1.6倍、
これを1.6倍も高くなると考えるのか2倍にも満たないと考えるかは
もはや医学というより生き方の問題という気もしてきます(笑)

 

さて、というところでレクチャーは終わりました。

つまり、原子力事故に最前線で取り組んだ指揮官自身から
あの事故は最低ではあったが最悪には至らなかったということ、
陸自化学部隊は発生後の混乱を最低に抑え速やかな収束に寄与したこと、
そして、除染を徹底すれば、放射能そのものをむやみに怖れる必要がないということを、
直接聞くことができたのです。

レクチャー後は外に出てまず装備の見学を行いました。
なかなか盛りだくさんな見学です。

まずは除染車。

除染3型といい、地域・施設・人員などが化学物質や放射性物質によって
汚染された場合に、汚染物質を取り除く「除染」を行う装備です。

東日本大震災でも大活躍したものだと思われます。

実際に除染をする様子を見せていただきました。
まず向こうの方に向かって合図を送りますと・・・・

なんと、車体の下から車の前方に向かって水が噴き出してきました。

散布装置は車体前部だけでなく側面にも設置されています。

車体後部から出ている約15mのホースで散布することも可。
トラックのタンク容量は2500Lです。

こちらが散布車全体像。

隊員は防護服を着用して乗車し、散布銃を携行して車両タンク部の荷台から散布したり、
停車時の除染車自体への除染を行ったりします。

散布車後部。両側に見えるのはホースのリールってことでよろしいでしょうか。

このようなハンディな除染ノズルもあります。

人員を除染するためのシャワー室のような除染装置。

ハンディノズルで散布の様子を見せていただきました。

その時ふと駐屯地の柵の外に、隊員クラブ「はなの舞」を発見。
外に出ることなく一杯やれる隊員さんたちの飲み屋さんでしょうか。

先日フェリーの中で陸自隊員がお酒を飲んで騒いだと他の乗客から指摘があり、
自衛隊が謝罪するというしょぼい話がありましたが、
自衛官だってお酒を飲んで騒ぎたい時があるわけで・・・。
このクラブなら思いっきり飲んで歌っても大丈夫!に違いありません。

我々のために装備をこのように用意して見せてくれているわけです。
いやありがたい。

これは NBC警報器で、

N=放射能 B=生物剤 C=有毒化学剤

を検知し、警報を発することによって現地に投入される部隊に防備を促します。

警報が鳴るような有害物質も用意されていて、画面が真っ赤になるのを見せてくれました。

なんと画面ではN警報を感知しているぞ!

さて、続いてはこちら。
観閲式で遠くを走っているのをよく見る

NBC偵察車

を今回は間近で見学することができました。

乗員が外気に触れることなく、外側の状況を検査することができる装備で、
化学科に3台配備されています。

中から外の物質を採取するためのマニピュレーターを付けることは
ご予算の関係から見送られたそうですが(T_T)その代わり、
内部から検知するためのノズルつき棒が出てきて、例えば放射砲汚染されていたら
『ATOM』と書かれたおもり付きの三角の旗を地面にポトっと落とします。

中からはゴム手袋のようなもので操作しているように見えました。

サービスで?「ガス」という旗も落としてくれました。

外の石などを検体として採取するためのハサミも見えています。

説明してくれた隊員さん。

NBC偵察車は今後50台まで調達することが決まっています。

見学は二手に分かれて行いました。
半分のグループが散水車の説明を受けています。

この後、全員で移動を行いました。

「移動中の撮影はご遠慮ください」

わたしはうっかりしていてカメラのメモリーに空きがなくなってしまったので、
ここから先の写真は皆スマホで撮りました。

格納庫のような建物に到着すると、中にはフライングエッグや戦車などがあります。
除染をするための練習用に、お役目が終わった装備をここに集めてあるのでした。

化学科の訓練では、ここで戦車にジャバー!ヘリにプシュー!車両にドバー!と
除染用の水やら液体やらをかけているというわけです。

みんなは戦車の前で記念写真を撮ったりしていました。(冒頭)
退役した装備としてはこの第二の人生はなかなかいいものではないかという気がします。

 

続く。

ゴミ箱を漁る希少種黒リス〜シリコンバレー・ショアラインパーク

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今いる西海岸のマウンテンビューは、いわゆるシリコンバレーの中の一つの街です。
気候が「クリエイティブな仕事をするのに最適」で湿気のなさがコンピュータに向いている、
ということで近年発展してきた地域です。

この街にはコンピュータ歴史博物館というものもあります。
サンフランシスコに住んでいたとき、その後の渡米を含めて
滞在中に何度か息子を連れて遊びにきたことがあります。

そしてマウンテンビューといえば、グーグル。

「グーグル」というストリートもあり、元々は何もないところに、会社を作ると同時に
道まで作ってしまったらしいことがわかります。

今年はスタンフォードディッシュと同じく、家族が寝ている間に、わたし一人、
朝早くショアラインパークにやってきました。

やはりこの時間に来ると気温が低く、歩きやすそうです。

いつもは9時過ぎにきていたので知りませんでしたが、朝早いとそれだけ
動物の動きも活発なようです。

まず驚いたのは駐車場の隅にあるゴミ捨て場にリスがゴミ漁りにきていたこと。

しかも、ここでは初めて見る黒リスが混じっています。

去年も一度街中で黒いリスを発見しましたが、
その時はこういう種類のリスがいるのだと思い込んでいました。
ところが、これはいわゆる突然変異種で、メラニン不足のアルビノの反対、
メラニンが多すぎるメラニズムというものだということがわかりました。

 

その希少種である黒リスがゴミを漁るの図。

珍しいのでアメリカではネズミ扱いされているリスの中でも別格で、
マスコットとして珍重されているとか。
ちなみにこの辺りの黒リスは元々スタンフォード大学が導入し(人工的に?)
その結果、パロアルトやメンローパーク中心に見ることができるようになりました。

メラニンが多い、つまり人間でいうとアフリカ系みたいなもの?
アフリカ系は暑さに強いようですが、メラニズム種は日光を吸収しやすいので、
逆に寒さに強いのだそうです。

この種類のリスもここでは初めて見ました。
ボストンの東部灰色リスに似ているような・・・。

ゴミ箱あさりの合間に、一目散に走っています。

何をするのかと思ったら、水たまりの水を一生懸命飲みだしました。
リスの水飲みは初めてです。

終わったら一目散に退散。スピード感ハンパなし。

ちょっと止まって体を掻いてから(笑)

喧嘩も始まりそうでしたが、惜しいところで弱い方が逃げました。

こちらのリスさんは一生懸命巣に必要な建材を運搬中。
なんかアニメのシーンみたいです。

最近、この近辺ではあちらこちらでグーグルの自転車を見るようになりました。
本当にグーグルの人が乗っているのか怪しいくらいです。

こういう落書きをするようなカップルに限って長続きしない(確信)
以前、自分の名前の刺青を入れた彼氏に感激しておいて、13日後に
別れてしまった女性のツィートが話題を集めたことがありますが、
これよりはまあ被害は少ないかな。

こちらはこの木がある限り世間に向かっておばかを曝すことになるわけではありますが。

公園の中に入っていきますと・・・・いたいた、いつものリスどもが。
やっぱりわたしは灰色リスよりこちらの方が好きかなあ。可愛いし。

灰色リスは木の上に巣を作るので、巣に使う材料を運ぶのはわかりますが、
このジリスは土中に穴を掘って住むので、そんなことはしないと思っていました。

手と顎で藁を抑え、二本足で巣に運んでいきます。

前にも書いたことがありますが、リスも環境によって人への警戒度が変わります。
ディッシュトレイルのリスは上空から天敵がいつ襲ってくるかわからないので、
そのぶん人影にも敏感で、こちらがカメラを向けただけで素早く逃げますが、
ここのリスはたくさんある木の根元に巣を作っているので、
空から敵が襲ってきていきなりさらわれるということがなく、
あまり人間にも警戒せず、向こうから近寄ってくることすらあります。

比較的近い距離で望遠レンズを向けても知らん顔で食事しています。

ここはディッシュトレイルより緑の植物が多いので、
枯れたような茶色い植物を食べているディッシュのリスより
ビタミンが足りているという気がします。

このリスが食べているのも、肉厚の葉っぱで、美味しそう。

食べ物が性格を作るというのがリスにも適応されるのならば、
ふんだんに緑の植物を食べることのできるショアラインのリスは、
人間であれば穏やかで安定した性格なのかもしれません。

ジリスの学名は

Otospermophilus beechey(オトスパームオフィラス・ビーチー)

と言います。
イギリスからカリフォルニアを探検してこのリスを見つけたのが、

フレデリック・ウィリアム・ビーチー

だったからなのですが、このビーチー、なんと地理学者でありながら

海軍将校(しかも男前)

で米英戦争やフランスとの戦いにも参加した人だそうで・・・

このブログが熱心にカリフォルニアジリスについて語ってきたのも、
もしかしてそういう縁の為せることだったから?と思いたいわたし。

何食べてるんだろう。調理前のラーメン?

アップした写真を見ると、どうも木の根の先端のようです。

またもや黒リスを別の場所で発見しました。
全部で1万匹くらいしかいない割にこの日は二回も遭遇したことになります。

ちなみにカリフォルニア大学デービス校ではこのリスの研究が進んでいて、
例えばがらがら蛇の捕食から逃れるいくつかの手段をリスが持っていることは、
この大学の共同研究によってわかったことだそうです。

いいなあ・・・リスの研究。わたしもやってみたい。

この日撮った中の一番の美リス。多分メス。

犬猫がそうであるように、リスにも個体差があります。
体つき、尻尾、顔も写真を撮ると皆違います。

リスは巣穴から140メートルの範囲のみで生活し、他所には行かないそうです。
リスにとって直径280mの円が世界の全て、というわけです。

これはますます生まれた環境によって性質も変わってきそうですね。

リスのいる木陰の地帯を抜けると、ショアライン湖が広がります。
例年はわたしが散歩していると、ここで行われているサマーキャンプで
水上スポーツを習う子供達の姿が湖上にみられるのですが、この日は
朝早いので、湖面は鏡のように静かに静まり返っています。

と思ったら、ここにもいた!巣材運搬系リス。

咥えられるだけ藁を咥えて(笑)

このリスさんは一家の長で今まで家族のために戦ってきたのか、
左耳がかじられて欠損しています。

見ていると、いそいそと藁を咥えたまま穴に姿を消しました。
穴の中でも藁を敷いて快適に暮らしたい。

より良い住環境を求めてやまないのはジリスといえども同じ。


さて、その直後、わたしはここで再会することを大げさではなく夢見ていた、
「ある幻の動物」と遭遇したのでした。

 

なぜか続く。






シリコンバレーのジャックラビット

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シリコンバレーにあるショアラインパークで見た動物についてお話ししています。

さて、わたしが湖のほとりでリスにフォーカスしていると、目の端に動くものを捉えました。

まさか・・・・!?

ジャックラビットです。
昼間にはほとんど出てこないので遭遇することも滅多にないジャックラビット。
去年はフェイスブックの近くの山で一度だけ見かけたのですが、
それもカメラを構える前に逃げてしまいました。

今年はかなり遠いせいか、こちらに全く気づかない様子です。

高鳴る胸を押さえてレンズをのぞいていると、もう一羽が出てきて追っかけっこを始めました。

とかなんとか言いながらとっさのことでレンズを調整することができなかったので、
いまいちアップにするとピントが甘いのが残念ですが、それでも
両者の個体差がよくわかるくらいには撮れています。

追いかけられているうさぎは三白眼、後ろは黒目。

ていうか、うさぎってこんなに顔にバラエティがあるものだったのね。

後ろがメスで、しつこいオスを撃退しているという仮定を立ててみました。

一旦追い払った後、追いかけていた方はくるりと向きを変えて・・・

ピタリ。
これはもしかして追いかけておきながら誘い受け?
いわゆる一つのツンデレという形でしょうか。

どうやら仮定は当たっていたらしく、ちゃんとオスは戻ってきました。
メスの背後に着いて様子を伺います。

・・・が、

「いやだって言ってんでしょ?あっち行って」

「・・・・ちっ」

みたいな?

「全くしつこいんだから!」

みたいな様子でオスの後ろ姿を睨むメス(たぶん)

しばらく睨んでいたと思ったら、踵を返し、後ろの藪に消えました。

と  こ  ろ  が (笑)

こいつ全く諦めてないっぽい?

二匹がいなくなったのでメスの消えた藪の前を通り過ぎて、
もしやと思い振り返ってみると、オスが出てきていました。

ストーカーのような表情でメスの消えたところを凝視するオス。

で、改めてじっとしているジャックラビットの写真を撮ったのですが、
うーん・・・・可愛くない。全く可愛げがない。

なんか妙に表情が人間ぽいというか、不気味というか・・。

カリフォルニアの野ウサギは三種類いて、オグロジャックラビット(Black-tailed hare)、
オジロジャックラビット(White-tailed hare)、カンジキウサギ(Snowshoe hare)の3種類。
オグロ、オジロのジャックラビットがふつうジャックラビットと呼ばれます。

このウサギの尻尾は茶色なので「オグロジャックラビット」です。

だいたいこの、目が怖いんだよ目が。

そしてついでに失礼ながら下半身もアップ。
オスなのかメスなのかもこの写真からは判然としませんが・・・。

しばらく佇んでいたジャック、諦めて?藪に戻って行きました。

写真をご覧になってもこのウサギの体長が大きいのがわかると思いますが、
実際にカリフォルニアに生息する野ウサギでは最大の体長となります。
だいたい45センチから大きいのになると60センチを超えるそうで、
この二匹はその中間くらいの大きさだったでしょうか。

これだけ大きいということは肉もたくさんあるということで、
しかも徹底した菜食しかしないため大変その肉は美味しいらしいので、
カリフォルニアでは毎年結構な数、ハンターの餌食になっているということです。

農作物を荒らす害獣であるとすれば殺す大義名分もたつというものです。

それにしてもジャックラビット、うさぎとして何が妙かというと、
この脚の長さって気がするんですよね。
もちろん後足が長いからこそ、うさぎは早く駆けることができるわけですが、
それにしてもこれはバランスが悪いというか、後足長すぎないか?

これだときっと下り坂はむちゃくちゃ苦労すると思う。

というわけで、思わぬ収穫に興奮しつつ、先に進みます。

湖から湿地帯に抜けてきました。
去年は水不足でここもカラカラに乾いていたものですが、少し復活しています。

何より去年していた強烈な沼の匂いが少し軽減しています。

鳥のためにわざわざ設えられたらしい木の柱の止まり木。
各木の上に一羽ずつ止まれる止まり木、これが本当の「お一人様専用バー」です。

一本足と二本足。

ただ、去年までペリカンの巣になっていたところは、水が減ってしまい、
カモメやガチョウの溜まり場に変わっていました。

大型のペリカンはどこか水深のあるところに巣を移してしまったようです。

こうしてみると例年と変わらないように見えるのですが。

よくみると、去年干上がっていた湿地帯は、一応復活しているようで、
水鳥の足跡が転々とつくくらいでした。

カリフォルニアで普通によくみるカップルの形。

彼らはまず間違いなく、自分と同じようなタイプと付き合います。
どちらかがマッチョで片方がデブ、という二人はあまり見ません。

彼らは白人と黒人ですが、この取り合わせもあるようでちょっと珍しいかな。

ちなみに、特にこの辺りの若い男性(痩せて筋肉質の体限定)は、走る時必ず上半身裸です。
ボストンではあまり見ないので地域的な流行なのかもしれません。

ペリカンに会えなかったのを残念に思いながら池まで帰ってくると、
さっきはいなかったダイサギが出勤してきていました。

少し離れたところにはイグレット(小サギ)もいます。

写真に撮るとわかりませんが、両者の大きさは三倍くらい違います。

さて、そろそろ帰ろうと出口に向かって歩いていく途中で見たこのリスさん、
何かを一生懸命食べていたのですが・・・、

わたしが立ち止まってカメラを構えていると、食べるのをやめました。

そしてずんずんこちらに向かってキタ〜!

この後目の前の足元で立ち上がってくれたのですが、急なことでピントが全く合いませんでした。
なんだったんだろう・・・・。

そして、一番最後におそらく先ほどのどちらかだと思うのですが、
一匹だけでひょこひょこと走っていくジャックラビットを発見。

うーん・・・・・・・・結局フラれちゃったわけかな・・・・・。

 

また来年ここにきて彼らと遭遇できることを祈って、
わたしはこの後シリコンバレーを後にしました。

 

 

 

 

 


千福醸造元株式会社 三宅本店の”海軍コレクション”

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練習艦隊の遠洋航海に先駆けて行われる艦上レセプションの席では、
練習艦隊とプリントされたパックのお酒が振舞われます。

三宅本店製造「千福」のお酒で、我が家には最初のレセプションで
持たせてもらったものが今でも食品庫の片隅で陽の目を見ることなく
ひっそりと保存されております。(何年前のだ)

その後、海軍糧食について研究しておられる高森直史氏の著書や講演会などで、
三宅本店と海軍の関係について知ることになったわけですが、このたび
降って湧いたようなご縁で、三宅本店の工場と資料館見学ができることになりました。

飲めないこともあり、酒造そのものに激しく興味を持っているわけではありませんが、
軍港呉にあった故に、海軍そのものと深い歴史的つながりを持ってきた
酒造会社見学となれば、全く話は別です。

話を持って来たのは、案の定そんなことを夢にも知らなかったTOですが、
異様なほどのわたしの食いつきぶりに驚きつつ、日程をセッティングしてくれました。

呉駅前からタクシーに乗ると、「千福」だけで会社の前に到着。
升をかたどった噴水?が道沿いに看板がわりに置かれています。

このキャッチフレーズのCMはダークダックスの歌で記憶している方も多いでしょう。
サトウハチローの「思いつき」から生まれたそうです。

先日ここにアップした昔の呉でロケされた刑事もののシーンで、
この煙突が写っていましたね。

今ほど周辺に高い建物のない頃はこんなに目立っていました。

芸予地震(2001年)では三宅酒造も大きな被害を受け、酒蔵が倒壊しましたが、
やはりというか煙突は無事だったそうです。

保護のために煙突に金属枠を取り付けたため、白煉瓦にところどころサビが浮く結果に。
煙突が白いのは耐熱性の珪質岩を使っているからです。

今の人たちは「シリカ」といった方がピンとくるでしょうか。

「これ、下から見ると歪んでるのがわかるんですよね」

と三宅さん。

ヒットしたアニメ「この世界の片隅に」のシーンでは、空襲で焼け跡になった呉の街に
この煙突が立っている様子が描かれているそうです。

「千福」紙パックの大きな看板がある工場見学路の入り口。

「モンドセレクション銀賞受賞」

だそうです。(棒なし)

ところで左側の吊り屋根の下にぶら下がっている丸いもの、
みなさん何かご存知でしたか?

これは杉玉と言いまして、杉の葉先を集めてボールの形にしたものです。

造り酒屋などの軒先に吊すと、それは「新酒を仕込みました」というお知らせ。
吊るされたばかりの緑色の杉玉はやがて枯れて茶色がかってくるわけですが、
新酒の熟成具合がその枯れ具合で誰が見てもわかるという仕組みです。

看板であり、時計の役割をしたり、アイキャッチャーとしての存在感もあり、
昔の人々の科学的な知恵は粋なものだと感心するのですが、
元々はお酒の神様に感謝を捧げるという神事的な意味合いを持っていたとか。

まあ、酒そのものが神事に欠かせない神聖なものでもありますからね。

同社は一般にも工場見学を受け付けております。
酒造会社がこのように見学ルートを設けることは当時は珍しかったとか。

見学コースは工場の上に設けられた回廊を歩きながら工程、
例えばラインで流れてくるパッケージや中身に少しでも違う部分があれば弾き出し、
それを人が手にとって確認している様子などを見ることができます。

が、基本製造工程というものは大々的に公開するものではないので、
工場そのもののの写真を撮ることはご遠慮くださいとのこと。


しかしながらわたしにとっては、ラインの写真など(っていっちゃいけないか)
撮れなくとも、痛くも痒くもありません。

冒頭写真のような「海軍的に」意味のある資料の撮影さえ許していただければ。


さて、ここで冒頭の写真をもう一度見ていただきたいのですが、
つまり海軍が同社に対して発行した「証明書」です。

画面を見にくい方のために転載しておくと、

証明書 清酒呉鶴 瓶詰め

右は本艦大正9、10年度練習航海に於いて酒保に搭載し
南阿南米方面を公開して内地帰省まで二百二十余日を経過し
その間赤道を通過すること二回、太陽直下を通過すること六回に及びしも、
変質変味等なく毫も飲用に差し支えなかりしものたることを証明す

大正十年四月十四日 軍艦浅間

酒保委員長海軍中佐 成富保治 酒保委員海軍大尉 小島正

 

三宅酒造が海軍御用達になったのは、海軍のお膝元、というより海軍が造った街、
呉に発祥したからであることは間違いありませんが、海軍の要請に答えて
練習艦隊の長期航海にも品質が変わらない酒を研究し、実際に船に乗せて
その結果このようなお墨付きをもらうというような「テスト」に合格したからです。

ちなみに、最初にこのテストに合格したのはご存知「千福」が先で、
大正3(1916)年のことでした。

おそらく、この「呉鶴」は千福の後継商品で、発売に当たって
千福で行ったのと同じ「練習艦隊の船に乗せて品質が変わらないかどうか」
というチェックを行い、証明書を発行してもらったのでしょう。

ともあれ、三宅本店は(当時は河内屋)呉鎮守府だけでなく、海軍全体、
つまり各地の鎮守府に酒を卸すようになったのです。

さて、ラインの写真は撮れずとも、見学コースの至るところにある
これら「海軍的骨董品」はいくら写真を撮ってもオーケー、と了解を取り、
目を輝かせてお酒のことよりこちらの質問ばかりするわたし。

盃を中心に展示されているこれらの食器類は、(おそらく社長ご自身が)
呉の古物商を回って収集したものなのだそうです。

その数は膨大で、これだけのものを集めるのには大変だっただろうと思いきや、

「こういうのは美術的価値は全くありませんので、呉では
一山いくら、みたいな値段でいくらでも出てきます」

とはいえ数限りのあるものであるし、誰かが収集して体系的に整理すれば
立派な価値を持つ歴史的遺産となるわけです。

その意味でも、三宅本店さんという海軍と所縁の企業が、こういうことを
積極的に行い、しかもそれを公開してくれているということに、
わたしは当ブログ主催者として?心から感謝したのでした。

この棚には、下段に海軍で使用されていたブルーの錨マークの食器、
上段には漆に象嵌の盃が展示されています。

これら、桜、錨、そして旭日旗の模様の入った盃がどうしてこう
たくさん残されているかと言いますと、それは主に個人が、
除隊記念に海軍らしいデザインの盃を誂えるという習慣があったからです。

入隊の時にではなく、満期になってお勤めを終えた時、
特別あつらえの盃で乾杯をした、ということのようですね。

そのための盃、「海軍満期」などと金文字で描かれているものの他に、
この中央上にも見えるように「軍艦◯雲 回航記念」などというのもあります。

今でも自衛隊の艦艇では、戦技を互いに競い合う訓練を行います。
大正15年、第一艦隊で行われた弾薬供給競技で一位となった
軍艦「長門」が賞品として授けられた銀杯がありました。

予備練習生、海軍機関兵などの満期記念に混じって、

「征露記念」

の盃もあります。

「ははあ、征露記念・・・征露丸ですね」

わたしが何気なく呟くと、横にいたTOがびっくりして、

「え!正露丸ってそういう意味だったの」

「戦後は正しいという字に変わってしまいましたけどね」

元々、ロシアに戦争に行ったみなさんのお腹の調子を整えるためというか、
あの森鴎外が音頭をとって、チフスや赤痢対策に陸海軍に配られた、
つまり「露西亜征伐のお供」だったわけです。

ちなみに商品名のマークに喇叭が採用されたのは日露大戦後。
あの死んでも喇叭を離さなかった木口小平さんの逸話からです。

桜に錨、そして菊の御紋に短歌が書かれている盃。

「大君に 捧げし命 ながらへて

目にこそうつる 古郷の ◯◯」

肝心の最後の二文字がわかりませんが、除隊になって長らえた生を謳歌し、
故郷の光景を目に刻んでいる(多分)喜びを詠っています。

生きて帰ってきてすみません、みたいな風潮はまだなく、
日露戦争は勝ったせいかまだしも「古き良き戦争」という一面がありました。

右側の海軍どんぶりは、深川製磁のものでしょう。
復刻版が横須賀軍港めぐりのチケットカウンターで売っていたので、
大変高価なものでしたが、わたしは大枚叩いて二つ購入し所持しています。

元々、軍艦の中で割れにくいように作られた食器類ですが、
使っている復刻版はさらに輪をかけて、不気味なくらい()丈夫です。

この写真のお菜の器には

「大村海軍航空」

と記されています。
大村海軍航空隊は長崎県にあり、昭和20年4月の菊水一号作戦には
16機もの特攻機を出したのをはじめとして、特攻と邀撃を繰り返し、
空襲で壊滅的な被害を受けたこともあって5月5日には解体されました。
721空に編入された搭乗員も、5月17日の特攻により壊滅しています。

つまりこれらの食器でご飯を食べた多くの若い隊員たちは、おそらく・・・・。

 

現在、大村航空基地には救難任務を主とする第72航空隊が配備され、
UH-60Jを擁する救難部隊は、水難救助、五島列島や壱岐島・対馬の急患搬送など、

陸海空自衛隊でもっとも多数の災害派遣、救助任務に出動する部隊

として日々の任務にあたっています。

漆に象嵌で、錨鎖の巻きつく錨をあしらったもの、そして
海軍旗が掲揚されたマストを描いた凝った仕様の盃。

これだけ手がかかっていても、明らかに戦前のものであっても、
美術品としての価値はゼロ、というのがなんだか少し遣る瀬ない気がしますが、
だからこそ一企業が散逸する前にここまで収集することができたとも言えます。

三宅本店の「海軍コレクション」は、この他にも海軍に関心を寄せる者なら
まさに垂涎ものがたくさんありました。

続いてそれらをご紹介していこうと思います。

 

続く。

 

呉海軍工廠の観覧券〜三宅本店 海軍関係資料より

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広島県呉市の酒造業、三宅本店の見学で見たものをお伝えしています。

三宅本店が海軍に重用されるようになったのは、赤道や熱帯域を長期航海しても、
その酒品質に変わりがないということを認められてからです。
その長期航海とは、つまり今現在も海上自衛隊で受け継がれている
初級士官の訓練である練習艦隊の遠洋航海に他なりません。

この写真は、練習艦隊で「八雲」に乗り組んでいた根本文助くんという
二等水兵が、自分の航路を示す立派な額を、神社仏閣に奉納した額です。

本村出身とありますが、おそらくは広島県安芸高田市か庄原市の「ほんむら」でしょう。

遠洋航海のルートは、ハワイからサンフランシスコ、そのあとサンディエゴなどの西海岸に
寄港した後は、ヤルード、ボナペ、トラック、サイパンと、その後の海軍兵学校の
遠洋練習航海の基本となるパターンであったことがわかります。

兵学校67期の遠航についてお話しした時にも説明しましたが、
ヤルード以降のミクロネシアの帰港地は、いずれも第一次世界大戦後、
日本に譲渡され、統治していた島ばかりです。

 

ところで、今現在でも練習航海と同じコースを一般人が船で巡ることは、
富豪でもない限りまず不可能でしょう。
昔はさらに、一生外国など見ずに死ぬ人がほとんどでしたから、
練習航海のために海軍に入る者がかなりの数いたのです。

根本二水はきっと裕福な家の出で、自分の息子の誇らしい体験を
後世に残す意味もあって、家族がこのような額を奉納したに違いありません。

資料室にはこんな練習艦隊の全体写真がありました。

文字が読みにくいのですが、昭和8〜9年、「浅間」艦上でしょうか。
この時の練習艦隊は、地中海ルートでスエズ運河を航行しています。

こちらは「浅間」の水兵さんが全員で写真に収まったバージョン。
真ん中に、艦長など、幹部がいます。

当たり前ですが、皆若いですね・・・。

こちらは陸軍軍人が山東出兵の記念に授与されたらしい塗りの茶碗。

先ほどの南洋諸島のように、山東、そして青島も、元はドイツの権益でしたが、
第一次世界大戦で日本が攻略し、その後講和条約で権益を得たものです。

ところが、中国側がドイツから日本に権益が移るのに反発し、学生を含め
反乱のような武力行動を取り出したため、日本は自国民を保護する目的で
出兵を行いました。

この一連の騒動で「漢口事件」と呼ばれるものは、海軍の水兵が中国人少年に投石され、
それがきっかけで口論になったのに乗じた中国人の群衆が建物を破壊し、

「日本の水兵が中国人を殺した」

というデマを流しながら日本租界になだれ込み、殺戮を行った事件です。
南京大虐殺とやらを未だに日本に突きつける中国ですが、この件一つ取っても
放火、略奪のほか妊娠中の女性に暴行したり、遺体を放置したりと、
残虐なのは明らかに中国の暴徒がわであったことは明らかです。

日本側は海軍陸戦隊が威嚇のために発砲をしただけでしたが、
彼らはこれで中国人が数十人死んだ、と例によって嘘の情報を日本側に突きつけ、
謝罪と陸戦隊の撤退を要求しています。

 

この茶碗の箱に刻まれた昭和3年の出動というのは、第2次出兵で、
この時にも北伐軍は日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、
略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、済南事件を起こしています。

このページの中程にある日本人被害者の検死記録は、文字を見ただけで
凝然となるような残酷なものですが、中国側は、この時の検死写真を
のちに731部隊の人体実験写真だと偽って誤用しました。

 

曲がった煙突が特徴的な海軍の軍艦をかたどった物入れ。
上半分がぱかっと外れます。

名前は聞きませんでしたが、屈曲煙突を持つ「長門」ではないかと思われます。

屈曲煙突は、軍艦の高速航行中、艦橋が風を切って艦橋後方の気圧が下がり、
排煙が艦橋に流れ込むのを防ぐための形で、「芋虫煙突」とも称しました。
友鶴事件で設計不備の責任を取らされ、謹慎処分になった藤本喜久雄大佐の考案です。

平賀譲大先生はその問題に対して煙突に蓋をさせたのですが、
うまくいかず、結局屈曲煙突に換装されました。

平賀譲は案の定不格好だと言って腐していたそうですが、それに限らず、
大先生は保守的で、斬新なアイデアをだす藤本そのものが嫌いだったようです。

旭日旗の書かれた茶碗、日の丸の茶碗には

「ハハノセナカデ チサイテデ フウッタ アノヒノヒノマルヲ」

と書かれています、
左下の物体は、紙粘土で作られたらしい戦車。

双眼鏡。
おそらく三宅さんの強いご意志の賜物であると思われますが、
かなり丹念に海軍グッズを買い集められたようです。

ただの双眼鏡ではなく、「呉 廠」と刻印されています。

これは実際に三宅本店が河内屋だった頃に使われていたものかもしれません。

「とにかく・・・・重いです」

と三宅さん。
木材は紫檀か何かでそれだけでも重そうなのに加え、大理石があしらわれ、
レジスターですが、つまりは金庫の役目もしていたので、盗難防止かも。

「海軍は必ず錨、陸軍は星が入っていることが多いです」

左の茶色い盃は陸軍カブトをかたどったもの。
なぜか緑色の銃とカブトをくっつけた「箸置き」もあります。

当時のタバコパッケージコレクション。

「ピース」「光」「敷島」「暁」「ゴールデンパット」
「チェリー」「響」「みのり」「昭和」・・・・。

皆どこかで聞いたり、多分昭和の小説などに出てきた覚えがある名前ですが、
さすがにパッケージには見覚えがありません。

さて、わたしがあまりにも資料に目を爛々と輝かせて食いついたせいか、
三宅さんは一般公開されている工場の見学路から離れ、
海軍的歴史資料が無造作に置かれている一室に連れて行ってくださいました。

もしもわたしが一人でこれらを見ることができたら、思う存分一つづつ、
資料を読み、写真を撮って過ごすところですが、そうもいきません。

解説を聞きながらそれでもできるだけたくさんを写真に収めました。

この3枚一組の絵画は、呉に天皇陛下がご行幸賜った時を描いています。
天皇陛下の在わすお召艦には「かいもん」と読めないことはないのですが、

「海門」

という、開聞岳から名前を取られた(漢字は違うけど)スループ船、
三等海防艦しかそれに近い名前の船はありません。

昭和9年、呉鎮守府で行われた相撲大会で優勝したのは「榛名」チームでした。
というわけで、みなさんにこりともせずに記念写真を撮っております。

士官が椅子に座り、その後ろに下士官、床に座ったり後ろの方にいるのが水兵さんたち。
結構なイケメン水兵やイケメン士官が混入しております。

海軍技手、山田学一くんは、職務が格別勉励であったため、
ご褒美として97円50銭をもらえることになりました!

これって、現在のいくらくらいだろうと思って計算したら、
このころの1円はざっと今の1,000円くらいの価値がありますから、
なんと10万円くらいを褒賞としてもらったことになります。

よっぽど真面目で優秀な技手だったのでしょう。
ていうか、海軍太っ腹ですよね。

 

左は呉海兵隊で使われていた教科書のページをコピーしたものです。
右ページは見張りの時にこの左舷前方のことを「左舷バウ」、
艦尾右舷側であれば「右舷クォーター」と呼ぶ、などということが書かれています。

左ページには

「測深器具、測定器具の概要及び使用法」

として、「測沿線」(レッドライン)とか底質を知るためにとか、
まあそういう説明がかいてあります。

こちらは、千坂智次郎(ちじろう)という明治期の海軍軍人の辞令。

明治32年に八雲の航海長となった千坂少佐は、よく年
八雲から夕霧の艦長に転勤を命じられました。

調べてみたらちゃんとウィキに写真まで載っている人でした。

兵学校卒業時の席次は43人中29番。
優等生ではありませんが、同級だった鈴木貫太郎は13番で大将になり、
千坂さんも中将にまでなっています。

こちらは海軍少尉十川仁八の水雷学校卒業証明。

「卒業したから学生を被免」

という言い方をするのだそうです。
左は佐々初喜という呉の造船部員になった人のもの。

なになに、マル秘のハンコが押された資料があるぞ。

「匿名検閲準備参考資料」

とされた昭和9年の軍艦「山城」の名前入り秘密文書。

どうも内部で口頭諮問が行われ、そのために用意した資料のようです。
昭和9年というと、「山城」艦長はあの南雲忠一大佐でした。

何か事故でもあったのか?と思ったのですが、左のコピーを見る限り
大したことではなさそうです。

 

今でも海自の施設に入るには、なんらかの手続きが必要ですし、業者もそうでしょう。

これは鎮守府内での作業のために出入りしていた銭高組の大工、森本さんのために
発行された木片の「門艦」。

こちらも辞令です。

明治期には見張りのために海軍は要所に「望楼」というポイントを定め、
そこから海上交通を監視していたのですが、この篠崎さんという人は、
望楼に取り付けられた器具の点検のため、和歌山県の日ノ御埼沖の望楼に出張を命じられました。

昔の呉の地図は軍港の部分が塗りつぶされていて、大変監視が厳しく、
国民は目を塞がれ耳を塞がれ、と暗黒時代であった・・・。

 

というのがテロ等準備罪に顔色変えて反対した民進党と共産党とその他の主張ですが、
(もうわたし、山尾志桜里の質疑を聞いてあまりのバカさに爆笑させていただきました。
”インターネットの監視を行う”ってつまり監視社会じゃないですかー!とか、
”目配せしたら犯罪になるのかー!”とか、キノコ採りとか同窓会とか。
あれをやたらと持ち上げてる小林よしのりとその一派も、お里が知れますわ)

それはともかく、なんかこういう資料を見ていると、普通に海軍、工廠の中とか
見学させてるんですよね。

一枚で二人まで、しかも「観覧券」。
気軽に一般開示している様子がこの観覧券から伺えるのですが・・・。

何でもかんでも「戦前に戻りつつある」とか言ってる人たちって、
戦前がとてつもなく暗黒時代であったということを大前提にしているわけですが、
実は当時のことをあまり知らないで言ってるんじゃないのかなとふと思いました。

 

続く。

 

 

 

海軍の作った街、呉〜千福製造元・三宅本店の資料

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呉の酒造会社、「千福」製造元である三宅本店にある海軍資料についてお話ししています。
まずそこで見せていただいて驚愕した、昔の呉の地図をご覧ください。

地図中央下部分を拡大してみますと・・・

ほとんど何が書いてあるか読めないのですが、「からす小島」だけはわかります。
ここが現在の「アレイからすこじま」、潜水艦基地のあるところ。

前回も言いましたが、海軍がこの地にやってきて以降、この部分を全部
埋め立てて地続きにしてしまったのです。

横須賀にも土地を切って水路を作ってしまうし、海軍おそるべし。

これが現在の呉。
画面下部中央の緑色の突堤がからす小島だった場所です。
淀川製鋼のあるところも、市街地もほとんどが海軍が埋め立てました。

軍港になってからの呉の地図です。
「大呉市」という言い方が、海軍のお膝元ならでは。

上の地図も、拡大図も軍港部分は消されています。

呉の写真。
電柱には「呉鶴」という三宅本店の広告が見えます。
昔は電柱というのは重要な広告媒体だったんですね。

何か見覚えのある景色だなあと思ったのですが、もしかして・・・?

「『この世界の片隅に』に出てましたっけ?」

「多分そうだったと思います」

藤森清一郎少将の遺品をまとめて手に入れたようです。
ちなみにこの名前で画像検索すると、大量にオークションサイトが出てきます。
どこからかその筋に手紙などが流れたみたいですね。

三宅さんがオークションでこれらを手に入れたのかどうかは確かめませんでした。

藤森少将は「伊勢」副長、「間宮」艦長、「朝日」「平戸」艦長、
「岩手」艦長など、艦艇畑を一貫して歩んできた人です。

「防備隊」という文字が見えますが、横須賀防備隊司令も経験しています。

兵学校ではあの井上成美と同期で、卒業時のハンモックナンバーは
89名中25番(井上は2番、草鹿任一は21番)でした。

 

松岡大使の写真があるので、国連脱退の件についての論説ではないかと思われます。

そもそも日本が国連を脱退したのは、満州国建国を反対されたからですが、
松岡大使はこの時

「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである」

と日本の立場を訴えました。
結局日本以外の全会一致で建国に反対され、松岡は席を蹴立てて?
日本に帰国したわけですが、日本国民の声は肯定的なもので、
さながら凱旋将軍を迎えるかのような熱狂の声が起こったそうです。

この新聞にはしかし、

「外国記者の印象 松岡全権の演説好評」

とあり、当時のメディアが必ずしも国の代弁者ではなかったことの証明になっています。

まあもっとも、自国の首相が外遊で成果を収めても、だからこそ報道しない
(もし失敗していたら叩くために報道する)のが現在のメディアですから、
昔も今も国の意見と同調することの方が珍しいわけですけど。

「どこの部分で何の役に立っていたかもわからない」

戦艦「陸奥」の部品。
特別なルートで入手したものでもなんでもなく、引き揚げられたとき、
小さなパーツは無造作にその辺にごろごろ転がしてあったので、
適当に見繕って持って帰ることができたという驚愕の証言がありました。

謎の理由で爆沈した艦のパーツなので、少し何かお祓いみたいなことを
するべきではないかと思ったのですが、全くその様子はありません。

おっしゃるように、昔は何かとおおらかというかいい加減だったのでしょう。

呉軍港は、終戦間際の20年7月に二回大空襲を受けています。
この写真は米軍が空撮した爆撃の様子。

攻撃されている軍艦は戦艦「榛名」であると英語で書かれています。

説明が書かれていませんが、やはり同じ空襲の空撮。

着底して重油が流れ出しています。

昭和20年9月になって作成された「海軍英霊に関する件」。

経費として

●遺骨箱 ●同包装 は従来通り交付のこと

●供物料 ●埋葬料

あとは、階級別供物料として

● 高等官 63円
● 判任官 43円
● 兵・軍属 33円

呉鎮長官より各5円宛

とあります。

なんという名前かわかりませんが、儀式用らしい酒樽がありました。

これを海軍に納める時には、このようなカバーをかけたようです。
向こうに見える旭日模様は、おなじみアサヒビールの箱。

昭和13年と書かれた覆いもありました。

再びガラスケース内の海軍グッズコレクションに戻ります。
塗りに象嵌のお盆には複葉機と富士山が描かれ、

「飛行第三連隊」

とあります。

進水式の記念ハガキがありました。

その左、除隊記念に自分の顔写真をプリントした盃を製作した人がいたようです。

「この時代にこんなものを作ったら、さぞお金がかかったでしょうね」

「いいとこの坊ちゃんだったんでしょう」

なんと電球にも錨のマーク入り。

当時の真空容器。
大日本防衛食株式会社と銘があります。

物資不足は全国に蔓延していた頃も、有田というのは石炭の産地だったせいで
比較的裕福な地域とされ、有田焼の窯元にはこのようなものを作らせていました。

ゴムのパッキンが蓋に付いていて、食べ物を入れてから容器を熱湯に入れ、
その後急冷することによって中を真空状態にするという仕組みでした。

蓋には

「矢印のくぼみを釘などで叩くと蓋が割れます」

と書かれており、これが缶詰のように使い捨てだったことがわかります。
これを贅沢というのかなんというのか。

有田には余裕があったので、この容器はかなり製作されましたが、
肝心の詰める食べ物がなかったため(^◇^;)生産は中止されました。

帆立貝のグラタンを作った後に、記念皿に再利用した例(嘘)

軍艦「伊勢」が対象3年9月、日本をぐるーっと回って、
セントウラジミールに寄港したという「巡行記念」です。

なぜ帆立貝のカラなのかはわかりません。

軍艦でピアノを運ばせたり、神社一式を持ち帰ったり・・。

昔の軍艦艦長は結構やりたい放題だったらしいことを、わたくしは
「長門」の艦長の息子という人に散々聞いたことがありますが、
普通の軍人は流石にそこまでの特権はなかったようで、
軍艦に便乗してどこかに行く目的がある時には、このような証明書が必要でした。

呉鎮守府の発行で、この収入役の長谷部栞(しおり?)さんという人は、
名古屋まで乗せてもらっています。

三菱のマークの入った進水式用の斧は「羽黒」進水に使われたものです。

「大和測量記念」という文字がかろうじて読める壺。
なんの測量なのか、なんでそれが壷を作ることになるのかはわかりません。

こちら全体的に陸軍の盃を集めたコーナー。
支那事変、満州事変、上海事変などの参加記念並びに凱旋記念。

戦争も末期になるとこんな悠長なことをしている場合ではなくなりましたが、
勝っていた頃は、いちいち戦争に「参加記念」を配っていたようです。

陸軍除隊記念の盃で、ヘルメットの形をしたものの底には、
飛行機、プロペラなどをあしらい、除隊した人の所属を表しています。

戦艦「榛名」に昭和8年乗っていた乗組員の記念の寄せ書きのようです。
その「榛名」は、先ほどの写真にも写っていましたが、呉大空襲で大破着底しました。

wikiには詳細な写真が掲載されていたので最後に挙げておきます。

続く。

 

米艦隊日本訪問の真実〜千福製造元・三宅本店資料室

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「千福」酒造元三宅本店所蔵の海軍歴史資料のご紹介はほぼ終わりましたが、
一つだけ載せ忘れがあったので、上げておきます。

これは明治41年発行の「海軍」という雑誌ですが、この号の特集が

「米艦隊歓迎号」

つまり、アメリカから海軍の艦隊が日本に寄港したので、
歓迎して色々とそれについて述べているというものなのです。

オーストラリアを出発して北に帰る途中で米海軍太平洋艦隊が横浜に寄港するので、
アメリカの親友として日本はこれを歓迎しましょう、という論旨です。

その前に、本号ではアメリカ艦隊について詳しく書いているので、
歓迎の饗宴を開く前によく読んで勉強してね、って感じでしょうか。

今でこそ日米、特に海軍同士は日米安保もあって大変な仲良しですが、
タイマン勝負をした番長同士が河原に寝そべれば自動的に友情が芽生えるように、
戦後に初めて仲良くなったのではなく、このころ少なくとも日本は
アメリカの「親友」を標榜していたらしいことがなんとなくわかります。

然し乍らアメリカは、日本が日露戦争に勝利した瞬間、
その潜在能力に警戒心を抱きはじめ、この艦隊寄港の明治41年ごろには
そろそろこいつ仮想敵にしちゃおっかなーみたいに考えていたはず。

ということは・・・・・?

そう、日本側が無邪気に

「親友である彼らを歓迎しましょう!」

とかいいつつ迎えたこの米艦隊の目的は親善などではなく、

日本への戦力誇示を目的としていました。

 

日露戦争で、特に帝国海軍がロシア艦隊に決して偶然ではない実力で勝ち、
白人国であり世界の支配側であった列強は、大変な危機感を覚えました。

日英同盟を結んでいて、日露戦争においては日本に情報提供していたはずの
イギリスでも、日本海大戦における連合艦隊勝利の知らせに、町中が
まるで誰かの訃報に接したように静まり返ったといいます(孫文談)

そこで、早速アメリカはアメリカ艦隊の世界一周を計画しました。
日本に寄港したのは偶然やついでなんかではなく、その海軍力と国力で、
デビューしたばかりで調子こいている日本を恫喝するためだったのです。

こえーよ、アメリカこえーよ。

 

しかし、日本人も結構したたかで、その意図は十分承知した上で、

「アメリカさん強そう!でも僕ら親友だからね!うふふ」

と恫喝を表面上はスルーして無邪気にはしゃいでみせました。


ちなみにあのチェスター・ニミッツが少尉候補生として乗り込んだ「オハイオ」は
その「日露戦争で勝った日本を恫喝し隊」の第一陣に加わっており、
寄港時にニミッツ少尉候補生は東郷元帥と直に話をしてファンになりました。

のちの米海軍元帥は、戦力誇示が目的の艦隊派遣で日本の元帥に感化されて帰ってきた、
ということになりますが、この時の感激が、のちに日本占領時における
東郷神社や三笠保存への働きかけに繋がっていくのですから、縁は異なものです。

 

さて、今日は「千福」酒造元として、酒蔵ならではの資料を中心にします。

手前の「千福」の瓶は輸出用に英語のラベルが貼ってあるもの。
中身はもちろん当時の酒?

「違います」

看板に描かれている女性が満州娘ですが、三宅本店は
満州にも会社と工場を持っていたということです。

日本が戦争に負けて、会社の資本は全てそのまま帰国を余儀なくされましたが、
その施設は普通にソ連が接収して稼働していたようです。

左は、当時の社員の記念写真であろうと思われます。
右には昭和8年の特別観艦式の記念絵葉書があります。
三宅本店は呉海軍にとって重要な出入り業者であったため、観艦式にも
見物のご招待があったのでしょう。

なんだろう・・・干菓子を作る木型かしら。

千福の広告に混じって、取扱店指定のポスターがあります。
当たり前ですが、日通のマークは現在も同じものが使われています。
会社創立は昭和12年ですが、大東亜戦争中には海軍は運輸業務のことを
「日通」と隠語で呼んでいたということです。

歴史的な資料として、こういうものを保存してくれているというのに感謝です。

進駐軍の利用する米軍向けのPXの店内にあったと思われる鏡には、なんと

「日本人に非課税のタバコを売ることは法律違反です」

と書かれています。
横流し禁止の警告が、なぜ鏡にプリントされているのか・・・・。

酒造会社ですから、酒造りに使われた道具も展示してあります。
せいろのようなものは「室葢」といい、麹を発酵させるのに使います。
風呂桶のようなものは柄杓。

後ろの大きな丸いものも麹の生成に必要なものだったと思います。
(説明を聞いたのですが、海軍と関係ないので忘れてしまいました)

水桶の前にあるのは「綏芬河」行きの汽車にかかっていた行き先プレート。
右上には南満州鉄道、満鉄のMをあしらったマークがあります。

綏芬河市は現在の黒竜江省にある国境沿いの町です。
国境の向こうは・・・・そう、昔はソ連だったんですよね。

陸海軍御用達を大きく謳ったラム酒のポスター。
ここにも描いてありますが、サトウキビが原材料なんですよね。

タバコの宣伝になぜかタバコを吸っているわけでもない美人画。
「ターキシエーエー」というのは当時の高級両切りタバコの銘柄らしい。

千福の醸造工程がわかりやすく描かれています。
左は上が呉、下が満州工場。

特筆すべきはさりげなく「呉鎮守府検閲済み」と書かれていることでしょう。
しかしなんのためにこんなものを検閲・・・?

三宅さんによると、昭和20年代後半のころの写真ではないかということです。

当時はタバコは今ほど悪者にされていませんでしたから、皆が吸っていました。
営業の人などは、吸えなくても手に持って「吸っているフリ」をしていたと聞きます。

上はタバコ盆セット(後ろは弾丸?)、
下段は銀のタバコ入れと灰皿のセットで、海軍マーク入り。

灰皿は日の丸をあしらっており、そこに立っている小さい札?に

「君が代は千代に八千代にさざれ石の」

までが描いてあります。
日の丸に灰を捨てるというのもどうなのかって気もしますが。

レトロなパッケージのコレクションもあって、コレクターには垂涎。
風邪薬六神丸の「トンプク」の箱。

味の素、サクマドロップス、フルーツキャンデーの缶など。


昔の子供用の人形は、兵隊さんや水兵さんをかたどったものがあります。
まあ、外国でもそうですよね(鉛の兵隊とか)。

馬に乗った騎兵、飛行服をきた搭乗員、明らかに明治時代の水兵。
敬礼をしているものが多いですね。

セーラー服を着て日本の旗を持った赤ちゃんに靴を履かせる女の子。

ハーモニカは「ミリタリーバンド」が商品名です。

わかりにくいですが、軍艦の模型は「三隈」。

「蘇生」とはなんだろうと思ったら、「天然カルシウム」だそうです。
カルシウムによって増血ができる、と書いてありますが、そうなの?

続く。


ダウンフォール作戦と半潜航型スパイ搬送艇「ギズモ」または「ギミック」

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マサチューセッツのバトルシップコーブにある戦艦、潜水艦、駆逐艦など、
メインの軍艦は全て紹介し終わったわけですが、展示はこれだけではありません。

敷地内には哨戒艇というジャンルでPTボートを紹介しているドームがあります。

ここでわたしはアメリカ軍の極秘作戦に使われた潜水艇を発見しました。
近年まで秘匿されてきたその作戦そのものもさることながら、
いろんな意味で衝撃的だったので、今日はそのことについてお話しします。

 

その「作戦」とは、日本本土に上陸し、侵攻して全土を制圧する、という、
今にして思えばそんなことが可能だったのかと訝られる壮大な計画でした。

「ダウンフォール作戦」。

 

今日8月6日は72年前アメリカによる日本への原子爆弾投下があった日です。
それではその原爆投下が決まったのが正確にはいつかご存知でしょうか。


アメリカが「マンハッタン計画」が成功させたのは、前月の7月の16日、

つまりアメリカは、完成して20日後に
原子爆弾を人類に対して使用したということになります。

人類初の原子爆弾投下という神をも恐れぬ行為に与えられた決断までの時間が
たった20日であった、というのはあまりに不遜であり傲慢、というのはさておき、
それだけアメリカ軍も日本に「手を焼いていた」ということもできます。


マンハッタン計画については、それを計画したアメリカ上層部も、
いつできるのか、そもそも成功するかどうかについて確証がなかったのでしょう。
ダウンフォール作戦とは結果からいうと、

もし原子爆弾製造が成功しなければor原爆投下がなければ

日本に対して行われるはずの本土侵攻作戦でした。

作戦は二段階にに分けて行われる予定となっており、
それが「オリンピック作戦」と「コロネット作戦」だったのです。

 

以下、作戦内容について書いておくと、

 

【オリンピック作戦】

実施予定45年11月1日

志布志湾(鹿児島)、吹上浜(同)、宮崎海岸(宮崎)の3カ所から上陸
約3千隻の艦隊、数十万人の部隊を投入して両県の大半を占領

【コロネット作戦】

実施予定46年3月
九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)から上陸
東と西からの挟み撃ちで首都侵攻を行う

であり、簡単にいうと前者は九州侵攻作戦、後者は帝都侵攻作戦です。

 

まずオリンピック作戦の目的は、日本の封鎖と、攻撃拠点の確保でした。
九州をとりあえず制圧すれば、そこからB−29が全土に爆撃を行えます。

日本の周囲近海に機雷を撒き、通商を破壊する「飢餓作戦」(オペレーション・スタベーション)
も、東京空襲と前後して1945年3月には始まっていました。

そして最終的にはコロネット作戦によって日本の要所、最終的には首都を制圧し、
あわよくば完全な勝利を得る、というのが本作戦の全貌でした。

 

後からならなんとでも言えるとはいえ、原子爆弾が落とされる前から
日本政府は終戦への道を探っていたというのは歴史的にも確認されていますし、
日本の降伏の直接原因は原爆投下ではなく、ソ連の参戦だったという説もあり、
何れにしても、これらの作戦が実行されていた可能性はほぼゼロに近いですが、
万が一首都侵攻まで行われていたら、それこそどんなに国土は荒廃したことか。

その後の日本の独立への道もおそらくは閉ざされることになった・・いや、
それどころか、この作戦によって日本は物理的に壊滅していた可能性もあります。

 

それにしてもアメリカをこの作戦実施に駆り立てた原因はなんだったのか。
というとそれは、他ならぬ「沖縄戦」の苦い経験だったと言われています。

東京大空襲を指揮したルメイ将軍は、

「空襲だけで日本は1945年10月には降伏する」

と豪語していましたが、彼らにとって計算外であったことは、
いざ本土上陸となったときの日本人がいかに厄介な敵であったかということでした。

1ヶ月もあれば沖縄は落ちるという予想に反して、実際には
軍民一体となった激しい沖縄県民の抵抗に遭い、死闘は2ヶ月以上続きます。
特に海軍では特攻の恐怖で精神をやられる者が続出するという事態になりました。

あのニミッツ元帥は沖縄戦をこう評価しています。

「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。
約13,000名の米兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。
艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」

「日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、
我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援、艦砲射撃、
砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような
強力な戦闘力を発揮する事が沖縄の実戦で証明された。

日本軍はまとまった人数で降伏したことはなく、
わが軍が膨大な死傷者を出さずに日本軍を撃破する事は不可能である」


ダウンフォール作戦は、そんな日本に何が何でも勝つため、
甚大な犠牲を覚悟に計画された最終作戦であり、
アメリカにとっても後のない背水の陣作戦であったといえます。

 

さて、「オリンピック作戦」の目的とは、九州への侵攻作戦であったことを
今一度思い出していただきたいと思います。

この作戦に備えて、アメリカは、

chord name「ギミック」あるいは「ギズモ」

という潜航艇を建造し、これに投入しました。
この潜航艇は、

「セミ・サブマージブル・コバート・スパイ・ベッセル」

つまり直訳すれば「半潜行型秘密のスパイ船」ということになります。
正式には、

 United States,  OSS Semi-Submergeble

で、OSS とは「Office Of Strategic Service」戦略情報局のこと。
このOSSはご存知CIA、アメリカ中央情報局の前身となりました。

 

半潜水艇「ギズモ」または「ギミック」は、極秘に2隻だけ建造されました。
その目的は、

日本軍の本土防衛計画に関する戦略的情報を収集するスパイを送り込むため

であり、これこそが

「オペレーション・オリンピック」

を成功させるための情報活動であったのです。

 

さて、ここで、我々日本人には「あっ・・察し」となってしまうこんな情報を。

「ギミック」(あるいはギズモ)の乗員は3名でした。
一人は艇長であり、残り二人は日本に送り込むために養成された

朝鮮人のスパイ

朝鮮人のスパイ

朝鮮人のスパイ

であった、と現地の説明には書かれています。

具体的にはどうするかというと、深夜、海軍の潜水艦によって
密かに運ばれてきたギ潜航艇は、日本の沿岸20マイルまで近づくと、
離脱して半潜行状態で海面下を航行し、本土を目指します。
ギミックの艇長の任務は、潜水艦から上陸地点までを2往復し、その都度

朝鮮人スパイを二人ずつ

日本本土に送り込むということでした。

スパイが日系人や英語の喋れる日本人でなく朝鮮人だった、というのは
当時はカネで同胞を裏切る日本人や日系人がいなかったということでしょう。

 

とにかく、潜水艦から沿岸にスパイを送り届けて帰ってくるまで、
距離にして40マイルの1往復には、だいたい

7時間

かかったということです。

極限まで小さな半潜航艇は、波の動揺をもろに受け、
さぞかし艇長とスパイたちは苦難を強いられたと思われますが、
日本人としては全く同情する気にはなれません(笑)


このスパイ朝鮮人たちに課せられた諜報活動とは次のようなものでした。

ラジオの情報を集め送信する

上陸可能な沿岸の情報を集め送信する

日本軍の防備の状態の情報を集め送信する

人口密度、地勢、沿岸部の海深を調べその情報を集め(略)

そのほかにも、アメリカ側が九州の侵攻をするに必要な情報を
片っ端から送ることを、彼らは命令されていたと思われます。

 

これだけのことを調査する能力があるということは、
日本で生まれ、日本語の能力に長けた朝鮮人でなければなりません。

どういう経緯で、とりあえずは日本国民であった彼らが、国を売る
スパイになったかはわかりませんが、ここに書いてあることから推察するに
少なくともその人数は”かなりの数いた”ことは確かです。 

しつこいようですが、それに比して(笑)日本人というのは民間の一人に到るまで、
国のためには自死も厭わず死ぬまで戦うものであるということを、
アメリカは沖縄でいやというほど思い知りました。

アメリカにとってダウンフォール作戦とは、そんな日本に勝つために行う
犠牲を覚悟の最終的作戦であったといえますが、それとても、
西欧人とは全く違う価値観をもつ日本人に対しては、どういう結末になるのか
全くわからないまま計画され、実施された後もどんな結果になるのか
予想できなかったというのが本当のところではなかったでしょうか。 

 

ところがここで、アメリカにとってその懸念を吹っ飛ばす朗報が訪れます。
半潜航艇「ギズモ」が朝鮮人をせっせと本土に送り込んでいたと思われる7月半ば、
「マンハッタン計画」が成功し、原子爆弾が日本に使用できることになったのでした。

原子爆弾さえ落とし都市を壊滅させれば、自軍の犠牲を払って侵攻する必要も無くなります。
問題は広島に捕虜として収容されているアメリカ軍人ですが、それでも侵攻作戦で
沖縄以上の犠牲者数が出ることを考えれば、彼らの犠牲など微々たるものです。
彼らには運が悪かったと諦めてもらおうということに(多分)決まります。

 

そして広島と三日後の長崎への原子爆弾投下が行われました。

 

よくアメリカ人が

「原子爆弾が戦争を終わらせなかったら、何万人もの犠牲が出ていただろう」

という論調で原爆投下を正当化してみせますが、実際に本土決戦になっていたら
それこそ日本は最後の一兵までゲリラ化し抗戦したであろうことは確かなのです。
そういう意味では彼らのいうことにも一理あるといわざるをえません。

あくまでもアメリカ側の都合にすぎませんが、代わりに落とされた原子爆弾によって 本土侵攻で奪われていたかもしれない何万人もの命が助かったのは事実なのですから。   まあ問題は原爆による十万もの民間日本人の犠牲ですが、
戦争を始めた、しかも有色人種の日本が負うのであればなんの問題もない、
というのがアメリカの国内向け主張です。

さて、あらためてギミック、あるいはギズモたる半潜航艇のスペックを書いておきます。

OSS 半潜航艇

製作:ニューヨークシップヤード、ロングアイランド NY

完成:1945年6月10日

価格:約200万ドル

全長:5.84m

全幅:1.613m

推進:グレイマリンライト4エンジン 4気筒16馬力

   パワー1800/分 69ピストン

かっこわる〜。(個人的感想)

吸気パイプは上部に刺さっていて、レーダーに探索されることを防ぐため、
スティールパイプでで包んであったということです。

小さなガラス張りの四角い部分に人の頭が見えていますね。
これが艇長で、朝鮮人スパイは艇内で小さくなっています。

何れにしても7時間この操縦を行う艇長は精神的緊張もあって極限状態だったでしょう。


ところで今ふと気になったのですが、日本に潜り込んで諜報活動をしているうちに
終戦を迎えた朝鮮人スパイたちは、どこに行ったのでしょうか。

アメリカの功労者としてアメリカの市民権をもらっていればいいですが、
そのまま日本に住み着いたのも何人かいるのでは・・・((((;゚Д゚)))))))

この作戦は、2011年まで国家の秘密となって公開されませんでした。

ここにある半潜航艇ですが、1945年の10月1日、つまり本来なら
オペレーション・オリンピックが行われていた予定より1ヶ月前に
CIAから海軍にギミックプログラムとして譲渡されました。

しかし、長らくダウンフォール作戦そのものについては世間に公開されず、
人々はこの潜航艇が

日本海軍の特攻潜航艇

であると説明され、そうだと信じられていたということです。

2011年以降、これらが情報公開法によって公開されたので、
そこで初めて作戦の全容とこの船の正体が明らかになり、
歴史に残されることになったのです。

舫の巻き方がアーティスティック。

 

オペレーション・オリンピックと半潜航艇「ギズモ」または「ギミック」。

皆様はこの存在をご存知でしたか?

 

 

 

 

「千登と福」〜千福製造元・三宅本店資料室

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ベエゴマ、おはじき、おままごとセット・・・。
幼いころ、こんなミニチュアの食器セットが欲しくて仕方ありませんでした。

大きくなってアメリカに行ったら、まさに欲しかったものがIKEAにあり、
つい大人買いしてしまったものです。

積み木、ビー玉、おはじき、おもちゃのピストル。
今の子供はおもちゃの銃なんて与えられないんでしょうか。

「ステイション積み木」とは、積み木で線路の周りの町を作り、
おもちゃの汽車を走らせるというジオラマ的おもちゃですが、
それにしてもパッケージの汽車の疾走感が半端なし。

「パイロット」のインク瓶には見覚えがあるなあ。

手前のインクの商品名が「エリスインク」なのが気になる。

満州にあったらしい「奉天醤油」の醤油瓶。

左は海産乾物問屋のパッケージなのですが、よくよく見ると墨で

「結納」「肴料」などの試し書きがされているのに気づきます。
「海産」の横に同じような字体で「海産」「物」の下に「物」など、
箱に書かれた文字を使ってお習字の練習をしていたとみた。

これは実際に三宅本店で使われていたかもしれない電話。
壁掛け式でもないのにダイヤルはなく、ハンドルが付いています。

それから約80年後、コンピュータが市場に出回る世の中に。
相当珍しかったと思うのですが、シャープの製品です。
なんとカセットテープを挿入するタイプですが、まさかこれがデータ?

お値段は横にあるパンフレットによると20万超となっています。
今の貨幣価値でいうと・・・50万円くらい?

さすがは三宅本店、このようなコミニュティルームでは、時々講演会やコンサートなど、
イベントが開かれているのだとか。

酒樽にうまくカムフラージュしたスピーカー。
メッシュの部分も木肌の色に合わせるこだわりようです。

この部屋にも酒造に必要な道具などが無造作に展示されています。

「こういう道具も、実はつい最近まで使われていたりしたんですよ」

左の「千福」ラベルは、よく見ると酒盛りをしているのが全員女性。
そもそも、「千福」という名前は、初代三宅さんの母親である「千登」(チト)さん、
奥さんである「福」さんの名前を一字ずつ取ってつけられたものです。

三宅さんによると、女性の身内の名前を商品名につけるというのは
女性の人権が公的には顧みられなかったこの時代には大変珍しいことで、
女性たちの「内助の功」に感謝し、それをこんな形で表した三宅清兵衛さんは
当時の男には珍しいフェミニストであったということができるかもしれません。

ラベルの「女だけの宴会」もその表れではないでしょうか。

 こんな遺品も寄贈されて飾ってあります。
「千福」の文字が入った徳利は、川本福一という広島の方が、
得意先招待用に所持していた数十本のうちの一本。
残りは全部破損したそうで、残ったこの一本も釉薬が溶けて流れています。
釉薬が溶けるほどの温度とは・・・・・・。


東郷元帥の肉声を収めたレコードがここに!
「連合艦隊解散の辞」ではなく、軍人勅諭が発布されて50周年記念の録音だそうです。

「海と空」という雑誌は5月号で、海軍記念日特別号だそうです。

映画の一シーンに「千福」が使われました。
これ、なんの映画でしたっけ。

こちらにいる士官がなぜか第三種軍装をしているのに、第一種がいるし・・?

状況から見て、大和特攻のシーンではないかと思うのですが。

錦絵のようなタッチですが、実は製作されたのは去年の秋。

呉に昭和20年7月2日空襲がありました。
この時三宅本店の従業員は、海軍消防隊の来援を待つまでもなく
焼夷弾によって起こった火災を「危険を犯して」「毫も撓むことなく」完全鎮火させ、

「軍納酒2500石を確保した」

しかもその後、

「無償で海軍将兵と罹災者に清酒を提供し」!!!!

たことに対し、海軍憲兵隊からこのような感状が出されたものです。
最後の方には

「金一封を添えて賞詞を贈りその労を多とす」

と書いてあるのですが、

「これ、結局感状だけで(金一封なしで)済まされてしまったらしいです」

という三宅さんの重大発言が!

まあ、どこからお金を出そうか鳩首会議しているうちに大きな空襲が二度も来て、
そうこうするうちに原子爆弾が落ち、あれよあれよと終戦になってしまったわけですから、
呉鎮守府だけを責めるのも酷かもしれません。

物産展への出品や鉄道敷設に関する評議員を三宅社長が勤めたということで感謝状。

こちらは昭和7年、軍艦「大井」凱旋記念、とあります。
この凱旋というのが何を指すのかわかりませんでした。

煙突もそうですが、耐火性のある白煉瓦が酒蔵には使用されていました。
呉軍港大空襲では、この「明治庫」「大正庫」の一部だけが喪失を免れました。

終戦後、進駐してきたイギリス連邦軍に占領軍に三宅社長の本邸は接収されています。
きっと洋風の建築で将校が住むのに手頃とされたのでしょう。

同年、明治庫と大正庫を修復し、新しく「昭和庫」が竣工されました。

戦後、「千福」が有名になったのはサトウハチロー氏のあのロゴですが、
このようなマジックインキで書いた字体とともに同社のアイコンにもなりました。

そしてダークダックスの歌。
佐良直美も人気絶頂の頃CM出演していたんですね。

言ってはなんだが、誰得カット。

現在の販売ラインも展示されていました。
この大吟醸「提督」のラベルは、杉山靖樹第28代呉地方総監の書だそうです。

海自関係(特に将官)の方へのご進物におすすめです、とは三宅さんのお言葉。

見学コースとは別のところに物販店があり、ここからはお酒を全国発送することもできます。
ここでいくつかお土産を買い終わった時、三宅さんが

「ここに来たらソフトクリームをぜひ食べてください」

とオススメするので、ゆずと甘酒の二種類あるソフトクリームから
問答無用で甘酒アイスを選んでいただいてみました。

お店の隅には、昔三宅家にあったらしきアップライトピアノに、三宅家の誰かが
練習したのかもしれないドビュッシーの「雨の庭」の譜面が置いてありました。

 

海軍に興味を持って軍港の町呉に訪れる方に、大和ミュージアムも江田島も、
海軍墓地も全て見てしまったら、その次にはぜひ呉海軍御用達であった
千福製造元、三宅本店の見学をされることをおすすめして、シリーズを終わります。

 

 

 

 

即応体制〜自衛隊大宮駐屯地中央特殊武器防護隊

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大宮駐屯地における防衛研修会、原発事故災害に派遣された部隊長のレク、
戸外に出て、その時実際に投入された機器やそれを搭載する車両の見学、
そして、NBC災害の時に投入する車両やヘリの除染訓練を行う場所の見学、
と見学過程が終わりました。

続いてわたしたち一行が案内されたのは駐屯地内にある資料館でした。

大宮駐屯地には、陸軍が光学レンズなどを製造・組み立てしていた
陸軍造兵廠大宮製作所がありました。

戦後進駐軍の接収を経て1957年(昭和32年)、化学学校の駐屯に伴い、
大宮駐屯地がここに新設されることになります。

1999年(平成11年)、第32普通科連隊が市ヶ谷駐屯地から移駐してきました。
この木製の看板は、それまで市ヶ谷に置かれていたものだと思われます。

以前陸自のレンジャー過程に入る不良青年を描いた映画「激闘の地平線」について

ここでお話ししたことがありますが、あの時に映画に登場していた
朝霞駐屯地の映像で不思議に思ったのが、表札にも

「駐とん地」

とひらがな混じりで表記されていたことでした。
当時は「屯」という字が当用漢字ではなくなって使えなくなり、
陸自も不承不承「駐とん地」と表記していたのでしょうか。

この新聞記事は、進駐軍から変換された陸軍造兵廠跡に
大宮駐屯地が晴れて新設されるということを報じたものです。

今では考えにくいですが、駐屯地司令の顔写真などを新聞に載せていたんですね。

初代駐屯地司令の外山一佐は陸軍士官学校43期、陸大55期卒ですが、
今でも幕僚にいそうな典型的な陸自タイプです(個人的感想)

警察予備隊駐屯時には、陸軍から存続していた「武器補給処」がまだ残っていました。
これが廃止されたのは1995年と言いますから、割と最近のことです。

ここに展示してある制服は、そういえば「激闘の地平線」でも見たような・・・。
帽子の形が独特ですね。

隊友会は自衛隊退職者を中心に1960年に結成された協力団体です。
防衛庁所管の社団法人として発足し、現在は公益社団法人となっています。

上は自衛隊となってからのものだと思いますが、下二枚は
造兵廠の頃ここで撮られた記念写真のようです。

硫黄島から収集してきた遺品のコーナーもありました。

遺骨収集団が現地で採取してきた壕内の土や水筒、ヘルメット、珊瑚など。

陸軍の制服、マント、ゲートル、カバンに略帽、ラッパ。

左下の表彰状は、中国戦線で17年に敵線を突破した
牧野曹長率いる鈴木隊と牧野小隊の戦功に対して出されたものです。

明治時代の儀礼服が大変良い保存状態で軍刀とともに展示されていました。

出征に際して寄せ書き(全員が男性)された日の丸。
「なにくそ」「ちえすと」などの激励の言葉に混じって、「祝健康」もあります。

 

余談ですが、アメリカには結構あちこちにこのような日の丸の寄せ書きが展示されています。
これは、アメリカ人の「記念品好き」のさせる技で、海軍でも特攻機が激突した後、
パイロットのマフラーや時計を皆が奪い合うように取っていたそうですし、
日本兵の屍体から何か記念になるものはないかと漁ることもしょっちゅう行われました。

ベトナムではアメリカ人のその習性(?)を利用して、屍体の周りに地雷などを仕掛け、
トラップにかかって死ぬ米兵が続出したため、上層部からは

「屍体のお土産あさり禁止令」

が出たとかなんとか。

この資料館になっていた建物は、昔進駐軍が駐留していた時に教会でした。
この鐘は「ドル支弁財産」といってドル建てで製作され、進駐解除になった後は
敷地内の土中に埋まっていたということです。

平成2年、掘り起こされ、元の場所である資料館に戻ることになりました。

化学隊がある関係で、世界の防護装備の展示もあったりします。
にしても、もう少しちゃんと展示してあげて!と思うのはわたしだけ?

チェコスロバキアやロシアのガスマスク。

左からチェコ、アメリカ、ドイツ、イギリス(砂漠迷彩)フランス、
各国の防護衣ファッションショー。

ドイツのものは「サラトガスーツ」といって、毒ガスや細菌、放射性物質から
兵士を守るための個人用NBC防護服です。

上下ツーピースに分かれており、グローブ、ブーツ、ガスマスクとあわせて全身をカバーし、
長時間着用しても疲れにくいよう工夫されているそうです。

こちらは旧軍の化学隊(といったかどうかは知りませんが)コーナー。

上段の察しは「防毒耐水具取り扱い」「手投げ火炎瓶取り扱い書」など、
まあつまり取説と、「航空兵瓦斯防護教程」などという教科書。

下段の「津森大尉の雨下教育」は調べましたがわかりませんでした。

化学兵器の写真集というのには、全員ガスマスクをした記念写真がありますが、
これ、わざわざ記念写真を撮る意味があったのかと・・・・。

後から見ても誰が誰だかわからないよね。

左から、青酸、一酸化炭素、ypérite、ルイサイトの標本。

 

欧州大戦というのは、当時そう呼んでいなかった第一次世界大戦のことです。
よく考えたら、いやよく考えずとも、第二次世界大戦が起こるまで、というか戦後まで
第一次世界大戦というものは存在しなかったんだなあと気づきました。

それはともかくその欧州大戦で使用された毒物の標本。

第一次世界大戦というと、ガスマスクの兵士を想像してしまうくらいで、
つまり毒ガス兵器のデビュー戦だったわけですね。

軍用犬や馬用のガスマスクも生まれました。

 

青酸は例えば列車の消毒でナンキン虫を殺す、などと、
本来の目的と使用法についても写真付きで解説してあります。

旧軍の使用していたガスマスクセット。
下の波状の表面の缶は酸素発生缶でしょうか。

毒ガス兵器の登場とともに欧州戦線ではマスクも普及したため、
兵器としての効果はこれで激減したということです。

むっちゃ重たそう。旧軍の防護衣です。

どちらもゴム引きのマントとスーツ。
わたしマントを見てユパ様を思い出してしまいましたわ。

ラジオゾンデとは、地上から上空の気温、湿度、気圧を随時観測するために、
主にゴム気球で飛ばされる無線機付き気象観測機器のことです。

ラジオは英語で無線電波、ゾンデはドイツ語やフランス語で探針のことであり、
「ラジオゾンデ」は情報を電波で伝送する計測システムの一部分を称します。

箱の蓋には「毒ガス性状一覧表」とあるのですが、この
6本セット豪華木箱入りがガスなのかどうかがよくわかりません。

見たところ、まだ液体が充填されているようですが、もしこれが
液化ガスなどの場合、こんなところにぞんざいにおいても大丈夫なんでしょうか。
(一応心配しておきます)

なぜか広島と長崎に落とされた原子爆弾のジオラマがありました。
化学学校で当初教材として作られたものだったかもしれません。

あまりにも壮大すぎて思いが至りませんが、原子爆弾というのは
最大の化学兵器であり、当部隊に深く関係があるわけです。

それにしても、こうして見ると、地形的にアメリカがなぜ
広島と長崎に原爆を落としたのか、理由は歴然としてきますね。
山に囲まれ、効果が集中しやすく、事後の研究対象としてもデータが得やすいというわけです。

当初原爆投下計画が四方を山に囲まれた京都となっていたことも思い出します。

左の熱戦によってできた影の写真は初めて見ました。
はしごの下にもこれもう一人影がありませんか?

現在陸自で使用されている防護衣各種。

左は東日本大震災でもうすっかりおなじみの放射線用。
左から三体は化学防護用、一番右は戦闘用個人防護衣。

サリン事件の時に出動したのも大宮駐屯地の化学部隊でした。

陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、
初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。

事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、
化学科職種である第101化学防護隊、第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)
及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣されました。

除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし、
各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行いました。

また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から
医官及び看護官が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、
硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する
『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行いました。


幸い、自衛隊中央病院から駆けつけた医官が、直前の幹部研修において
化学兵器対応の講習を受けたばかりで、現場派遣時とっさに講習資料を持ち出し、
到着した聖路加病院で講習で得た知識・資料と患者の様子から
化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言し、
このことも早期治療に繋がったということです。 

第101化学防護隊の看板がなぜここにあるかというと、現在は
中央特殊武器防護隊と編成替えされたからです。

当部隊は東日本大震災、地下鉄サリン事件のほか、東海村 JCO臨界事故の時にも
災害派遣要請を受けて出動しています。

この時はまだ第101化学防護隊という名称でした。

事故と同年の12月、自衛隊法は改正され、自衛隊の行動区分において
それまで一緒であった

「災害派遣」とは自然災害による派遣

と、自衛隊法第83条の3として設けられた

原子力事故に起因する災害派遣は「原子力災害派遣」

とは別個のものとして、対処されることとなりました。

 

レクチャー後の質疑応答で、北朝鮮の核弾頭ミサイルと、生物兵器の搭載の可能性について
増員などは視野に入れているのか、という質問があったのですが、
陸自としてはそういうことは考えていないという返事でした。

 

わたしたちは北朝鮮からのミサイル問題が「起きてから」
どうなっているのかと不安になるのですが、中央特殊武器防護隊を頂く
陸自化学部隊は、我々国民が平和のうちに安寧を貪っていた時も、即応体制のもと、
日本の安全のために研究と訓練をたゆみなく行なっているということでしょう。

自衛隊への感謝と尊敬を新たにした、大宮駐屯地研修会でした。

 

 

 


アメリカのオーガニックスーパー ホールフーズ

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アメリカ国内でホテルを決めるとき、いくつかのチェックポイントがあります。
車で動くのが当たり前なので、交通の便はあまり問題ではありませんが、
たとえ短期間でもキッチン付きのスイートと言われるタイプを選ぶこと、
そしてそこで料理をするために食材を買うスーパーマーケットが近くにあること。

しかしスーパーならなんでもいいわけではなく、オーガニック系のものとなると、
トレーダージョーズ、サンフランシスコのリアルフード、そしてホールフーズに限られます。

 

グルメ・フード、自然食品、オーガニック・フード、ベジタリアン・フード、
輸入食品、各種ワイン、ユニークな冷凍食品も品揃えし、
いわゆる「グルメ・スーパーマーケット」と呼ばれる
比較的高級志向の食料品小売店に分類される。

ホールフーズについて日本語のwikiでは大変簡単に書かれていますが、
わたしたちにとって、このスーパーマーケットの商品が占める食の割合は大変多く、
食材の出どころが明らかになっていて、オーガニックかそうでないかを
正直に店頭で示して売ってくれるホールフーズは、不可欠なのです。

もう一つ、ホールフーズに頼る大きな理由は、どこの店舗であっても
ホットフード、コールドフードなどを好きなだけパックやお皿にとって、
持って帰れるのはもちろん、イートインコーナーで食べることができること。
簡単に食事を済ませたい時に、こんな便利な方式はありません。

 

デリは中のキッチンで作ったもので、その内容はお店によって千差万別。
西海岸はヒスパニック系や中国系が多いせいか、豆料理やタコスの中身、
スパニッシュライス、チャーハン、焼きそばが並ぶ店もあります。

サラダは好きなだけとったらゴマやおかき(!)のトッピングをかけて、
各種ドレッシングやオイルで調味することもでき、どちらも
お皿をそのままレジに持っていくと、レジの下にスケールが内蔵してあるので
それで重さを計ってお値段を出してくれます。

ちなみに、アメリカにしてはこのフードケース、安い値段ではありません。

高級スーパーなので当然ですが、貧民層には高くて手が出ないのもありますし、
そもそもそういう地域にはホールフーズは出店をしないのです。

テキサス州で個人が始めた小さなオーガニックスーパーが発祥である同マーケットは、
西海岸での第1号店をシリコンバレーの超高級住宅地、パロアルトに出しました。

それ以降の店も、いわゆる裕福な層が住む地域にのみ展開しており、
ホールフーズがあることがその地域のグレードを表すと言っていいくらいです。


しかし都市部の店舗はどうしてもいろんな人が紛れ込んでくることになり、
わたしはこれまでサンフランシスコ市内に2店舗あるホールフーズのデリで、
一度は明らかにホームレスがフードケースの周りをうろついて、
人目のないのを見計らって手づかみで口に放り込んでいるのを、
もう一度はレジを通さずにテーブルで堂々と食べ物を食べていた男に、
ピストルを持った警備員が詰め寄っているのを目撃しました。

日本では考えられないほど底辺のモラルが低い国ですので、
こういうことを避けたければ都市部に展開しないのが無難なのはわかっていても、
営業的には痛し痒しなのかもしれません。

さて、今日は今回の滞米中訪れたホールフーズでみた食べ物をご紹介します。

アメリカのスーパーはどこも巨大なので、「普通」のスーパー「セーフウェイ」でも
「ウォルマート」でもエスニックフード、特に健康食の豆腐を扱っていますが、
やはり「オーガニック度」が高くなるほど、豆腐の占める場所は大きくなります。

我が家は朝ごはんに豆腐を食べることが多いので、アメリカでも買いますが、
アメリカの豆腐はどういうわけか「ファーム」(硬い)スーパーファーム(超硬い)
が主流で、日本の絹ごしのようなソフトなものはありません。

左の豆腐はこの写真を見ただけで岩のように堅そうなのがわかりますね(笑)

この「 NASOYA」という会社が出している文字通り「SILKEN」が
一番絹に近いですが、それでも我々の感覚では硬い感じがします。

絹ごし豆腐には、「これでスムージーもできますよ」と言いたいのか、
とても豆腐のパッケージには思えない写真が・・・・。

豆腐とくれば味噌。
わたしは使いきれないこともあり、アメリカの滞在では味噌を買ったことはありません。
この「ミソマスター」のおじさん印の味噌は、住んでいた時に買ったことがあるような。

感心なのは、白味噌、赤味噌、メローホワイト味噌(黄色いの?)
と各種取り揃えていることです。
上の段のサウスリバー社製品には「ひよこ豆味噌」もありますが、
果たしてひよこ豆を使ったものを味噌というべきなのかどうか・・・。

味噌はいずれも10ドルから12ドルと結構高額です。

ちなみに、「ミソマスター」の会社は「グレート・イースタン・サン」。
なかなか日本に敬意を払っているようでよろしい、と思いきや

何世紀もの間、日本の職人は天然発酵を使って大豆や穀物をさまざまな味の味噌に変えました。
(略)日本の味噌メーカーは玄米を使って味噌を作ったことがないので、
「伝統的」という言葉は使われていませんが、

日本人が玄米味噌を作ったことがないって・・・味噌で顔を洗って出直してこい!

これは、マウンテンビューのいつもいく巨大なホールフーズで見つけた新しい飲み物。
ここは、オレンジジュース絞り器を設置していて、スイッチをひねりボトルを下に置くと
いくつものオレンジがガーーーー!っと粉砕されて超フレッシュなジュースが買えます。
つくづくカリフォルニアって果物がやすいなあと思わずにはいられないわけですが、
この新商品、ただの水(おそらく)に果物やミント、キュウリを入れて売っています。

ほんのり味がついた水を楽しむってことなんだと思いますが、しかし売るかねえ。
ちなみに商品名は「スパウォーター」。

これは今回ボストンで初めて見つけた「代替米」的なもの。
ブロッコリーやカリフラワーを米粒の大きさに粉砕したもので、
これを炊いてご飯の代わりにしましょうという考え。

まあ確かに

「ご飯に似たのがブロッコリー」

という歌もあるくらいで。
今調べたら、ブロッコリーをご飯がわりに、というのは日本でも広まっている模様。

こちらは代替パスタ。
ボストンのニーマンマーカスのレストランに行ったら、ズッキーニで
パスタを仕上げたお料理があり、結構美味しかったのですが、
ここでは、右側のオレンジのが「スィートポテト」、
左の黄色いのが「サマースクァッシュ」となっています。

サマーなんちゃらは日本では「ペポかぼちゃ」というそうですが(可愛い)
かぼちゃというより黄色いズッキーニみたいな感じのものです。

そういえば日本でもそうめんカボチャってのがあったわねえ。
あれはカットしなくてもそうめん状になっておりますが。

レジの近くにも、いろんな商品があります。
バーベキューに必要なチャコールは、必ずレジの近く。
アメリカの家庭ではバックヤードがあればバーベキュー、なくてもベランダでバーベキュー、
家になければ公園でバーベキューと、もう親の仇のようにバーベキューを行うので、
チャコールは普通のスーパーでも買うことができます。

で、バーベキューを焼くのは「男の仕事」。
なぜかアメリカの父親は芝刈りとバーベキューをしないなんてありえない!らしく、
バーベキューでは一人がグリルに張り付いてせっせと肉を焼く係をします。

我々は自分の食べたいものを自分で焼けばいいじゃないかと思うのですが、
彼らは基本的に食べる人は調理をしない、というのが常識らしいですね。


この写真は、レジ横の雑誌コーナーが気になったので撮りました。
今回わたしはホールフーズの雑誌コーナーで、

「BATTLE OF THE ATLANTIC」

という写真ムックを見つけて買ったように、侮れないものがあります。

注目していただきたいのは下段のヤギさんが笑っている(よね)写真の

「モダーン・ファーマー」

という専門雑誌。
日本でもこんな雑誌があるのかどうか知りませんが、今月号の特集は

「あなたのヤギを手に入れる!」

ヤギなんて美味しくもないミルクをとる以外農家になんのメリットがあるんだろう、
と思い、つい中をパラパラ見たところ、

「ヤギはミルクも取れるし可愛いから飼う価値があるよ」

みたいなことが大特集で熱く語られていました。

可愛いかどうかとミルクが美味しいかどうかを別にして、
別に特集を組んでもらわなくってもそんなことは知っとる。 

とは思わない人が買うんだろうな。

ワインなどのお酒も普通に売っています。
これはジンのコーナーですが、「ワイルダージン」のラベル、
佇むスナフキンとくまさんのシルエットが目を引きました。

もっと目を引いたのがこれ。
「FUGU 」というお酒のボトルに描かれたのは紛れもなくフグ。

なぜウォッカが「フグ」なのか、しかもウォッカの「ハバネロ」とは何か、
確かめようにも飲むこともままならないわたしには永遠の謎です。

このようにアメリカには、わかってるのかわかってないのか、

「なぜそこにその名前を」

と首をひねってしまう日本語の商品名が存在するのですが、
パロアルトの「ウマミ・バーガー」のように納得できるものもたまにあります。

日本には存在しない「ライスクラッカー」。
なんのことはない、ポン菓子を固めてセンベイ状にしたもので、
アメリカ人はライスクラッカーというとこれだと思っております。

甘みはなく、日本のせんべいのように化学調味料も使っていないので、
これはこれとして、おやつに時々食べていました。

おやつといえばケーキ。

オーガニックを標榜するホールフーズといえども、日本人が決して受け入れない
「ブルーのケーキ」を作ってしまうのがアメリカです。

これは独立記念日当日のボストンのホールフーズで撮ったもので、
必ずジュライ・フォースのパーティ用に、赤白青の三色を使ったケーキ、
これがショーウィンドウに並ぶわけです。

言っておきますが、ここのケーキ群は、アメリカのその他のグロサリー、
ペストリーショップに並ぶものに比べれば、かなりマシな方です。

CAKE BOSS

このテレビ番組の画像を見れば、アメリカ人の考えるところのケーキ、
というものがどんなものかわかるかもしれません。

アイデア賞・・・・・なのか?

海を表すブルーのクリームでデコレーションし、砂を表すケーキクラムの上で
スコップと戯れるかにさんの図。

というかどうしてケーキでこれを表現しなければならないのか。
なぜフラミンゴを描くのか。

アメリカ人はこれを見て美味しそう!このケーキ食べたい!と思うのか。

いろんなことを考えさせられます。

シリコンバレーで一番「勢いのある」ホールフーズといえば、クパチーノ店でしょう。
何しろここには、アップル本社があり、名だたるIT企業が軒を連ねています。

そのクパチーノ店で、去年初めて見かけたこのモチアイス。
へー、と感心して実は一つだけ食べて見たのですが・・・。

(−_−)まずい

冷やせばモチは硬くなるんだよ!
そもそもそのモチが分厚すぎるんだよ!

と散々笑い者にしたのでしたが、なんと今年になってアメリカに行くと、
ボストン、サンフランシスコ、シリコンバレー、サンディエゴのすべてのWFで
このモチアイスのケースが設置され、大々的に売られているではありませんか。

クパチーノで実験的においてみて、どうやら好評だったらしく、
ネイションワイドで売ることに決めたみたいなのです。

えー、あれ、まずかったよ?
と言いながらも各店舗のケースの状況をうかがったところ、これが結構売れてる。
必ず何人かが前に立ち止まり、いくつかを袋に入れて買っているのです。

アメリカ人がアイスクリームになると節操をなくすのは知っていたけど、
モチアイスをこれほどあっさり受け入れているとは・・・・・。

さて、最後にサンディエゴのホールフーズで夜見かけた海軍迷彩を。
一人暮らしのお嬢さん(ただし海軍軍人)が帰宅途中に立ち寄って買い物をしていました。 

 

 

 

南北戦争の”男装の軍医”〜ミリタリー・ウーメン

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フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする

「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」

がありました。

すでに女性の最高位が陸海軍に生まれているアメリカですが、近代になって軍が組織され、
第二次世界大戦に至るまで、女性はどのように関わってきたのでしょうか。

今日は、独立戦争、米英海戦、南北戦争時代に軍とか変わった女性についてお話しします。

当コーナーでは、ぐーんと遡って、1775年、つまり独立戦争時から
軍と関わりのある女性について、歴史を紐解いてまいります。

例のボストンティーパーティーは愛国心からイギリス製品をボイコットした
女性のムーブメントも大きなうねりとなり繋がっていった、
ということについて一度書いたことがあります。

この女性はアビゲイル・アダムス。
言わずと知れた第二第アメリカ大統領となったジョン・アダムスの奥さんで、
第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズの母でもあります。

「リメンバー・ザ・レディス」

という言葉は、アメリカでは有名で、ミュージカルにもなっているそうですが、
1776年に革命を成し遂げたアメリカ議会に対し、彼女が送った

「女性たちのことを忘れないでください。
そして彼女たちに対して寛大かつ好意的であってください。
夫の手中にかようにも絶大な権力を与えないでください。
全ての男たちが、暴君となりうることを忘れないでください。
もし女性たちに特別の注意が払われないのならば、
私たちは謀反を煽動することを決心するとともに、
私たちの声が反映されていない、
いかなる法律に私たちが縛られることもないでしょう」

という、女性の権利を求める最古の文章とされています。

しかし、ウーマンリブの元祖はあまり軍と関係ない気がしますね。
そう、ミリタリーウーマンというのはこういう人でないと。

彼女の名前は、メアリー・ルードヴィッヒ・ヘイズ、別名モリー・ピッチャー。
1778年、独立戦争の「モンマスの戦い」で夫の砲兵部隊に付き添っていた彼女は、
兵士たちに水を供給する任務を買って出て、このあだ名を奉られました。

炎天下の中の長時間の戦闘においても彼女は任務を離れることなく、
彼女の夫が戦闘で倒れた後、スカートの間に砲弾が落ちても
怯まずに戦闘に参加し、その功績をたたえて、今でも陸軍砲兵隊部隊には
彼女の名を冠した名誉協会が存在するのだそうです。

彼女の名はデボラ・サンプソン。(1760-1827)

アメリカで最初に軍人として戦闘に参加したことで知られる女性です。
ただし、女性として採用されたのではなく、体の大きな彼女は
自分を男性だと偽って砲兵隊に入隊しました。

このころ、入隊に際して身体検査なんてのをやらなかったんですね。

マサチューセッツ第4連隊に配属になり、1782年ターリータウンの戦いでの
初めての銃撃戦で、彼女は2発のマスケット銃の弾丸を受け負傷します。

1発目は腿に命中して弾が体内に食い込み、2発目で額を抉られるというもので、
治療を受けるも、腿の弾は取り出せず、再び戦場に戻ることはできませんでした。

最後まで女性であることを悟られないまま17ヶ月従軍し、除隊。
彼女は故郷に戻り結婚し、退役軍人年金を受給して幸せに暮らしましたとさ。

ちなみにUSS「サンプソン」の名前にはなっていませんので念のため。

「事実かフィクションかはわからないながら」

と但し書きのある「お針子物語」の図。
ベッツィー・ロスというお針子は、初めて星条旗を製作したという女性。
軍服の修繕やテントの修理など、裁縫で銃後の守りをしてきた彼女は、
次々と?夫を戦争で失いながらもたくましく腕一本で生き抜いた女性です。

彼女がワシントン提督のために国旗を作ったというストーリーは、
その孫が彼女の死後に手紙にそう書いてあったということで主張を始め、
国民もそれを受け入れたものの、真偽には証拠が乏しいとされます。

当ブログでもかなりの時間をかけてお話しした帆船、
USS「コンスティチューション」にも女性の影が?ありました。

「コンスティチューション」の就役は1797年、1812年の英国海軍との戦闘で
いかに弾を受けようとビクともしなかった彼女には

「オールドアイアンサイズ」(鉄の横っ腹野郎?)

というあだ名が奉られました。
その「コンスティチューション」に、なんと男装の女性が乗っていたというのです。
彼女の本名は「ミス・ルーシー・ブリューワー」。
彼女は16歳で恋人の子供を妊娠しましたが、相手に結婚を拒否され、
その赤ん坊もメイドの仕事を探すうちに死んでしまいます。
止むを得ず三年間売春婦として生き延びた末、「ジョージ・ベイカー」と名乗って
「コンスティチューション」に乗り込む・・・・というお話。

そう、これは「フィメール・マリーン」という当時の小説なのですが、
問題は、ブリューワーなる女性が実在し、この小説は

「自伝的小説」

である、とされていることです。

うーん、本当にそんな人がいたのか?
帆船の中の、しかも兵員の生活でそれがバレないわけがないと思うけど・・。

さて、ここまでがアメリカの「国家創成期」です。

この後、南北戦争、米西戦争と、片時も休まず戦争するアメリカですが、
戦争における負傷者の手当に、女性が活躍の場を広げることになっていきます。

彼女はクララ・バートン。(1821– 1912)
アメリカ赤十字社の設立者で、看護師のパイオニアです。

当時、クララは看護学校に通っていなかったため、自分自身が学んだ看護の仕方を
戦場での経験をもとに教えたということです。

彼女の名前を冠した学校や病院などの施設は全米に点在しています。

アメリカでは1901年に「ナース・コーア」、看護部隊が軍組織になりました。
しかし多くの女性が従事するのは第一次世界大戦が始まってからでした。
陸海軍の従軍看護婦たちはその働きに対して多くが顕彰され、
少なくとも三名が最高栄誉に値する十字賞を、また二十名を越す女性たちが
French Croix De Guerre、フランス十字勲章を与えられています。

 

ところでこの目がとても怖いおばあちゃまですが、

スーザン・ブロウネル・アンソニー(1820-1906)

特に女性の権利獲得を提唱する公民権運動の指導者です。
これもはっきりいってミリタリーとはあまり関係がないような気もしますが、
権利を獲得することが、つまり従属する立場から同等に、最終的には
「ミリタリー・ウーメン」の誕生への道筋をつけたということでしょうか。

彼女が男権論者をやっつけるの図。

強い(確信)

あの禁酒法もこのおばさまが先頭に立って進めた結果生まれたという説もあり、
映画に出てくる「あの手のおばさま運動家」の雰囲気満点です。

彼女らは

「聖なる二十人」(Sacred Twenty)

という、海軍直属の看護師部隊です。
看護師として正式に海軍のもとで任務を行なった最初の女性たちで、
22歳から44歳までの看護師資格保有者を中心に、海軍医療部隊のトップが選出。

ちなみに米国市民であることはもちろん、結婚することも許されませんでした。

様々なスキルを訓練によって習得した彼女らは、世界中の病院でその後
実務のほか医療指導を行い、海軍看護の基礎となったことから、
このような敬称を奉られることになったのです。

さて、このイケメン医師は、南北戦争に従事し軍医として活躍しました。
活動中、スパイとして敵にとらわれ、捕虜生活をしたこともあります。

前線で外科医として勇敢に任務を行なったことに対して、
アンドリュー・ジョンソン大統領名で彼女に対し

・・彼女に対し、

名誉勲章も授与されました。

彼女の名はメアリー・エドワーズ・ウォーカー博士。
( 1832年11月26日 - 1919年2月21日)

冒頭の写真は彼女の中年時代です。

アメリカでも当時珍しい学位を持った女医(シラキューズ医大卒)でしたが、
北軍に民間人として従軍を志望し、女性の軍医が認められていなかった当時のアメリカ軍で、
看護婦という資格で採用され、実質は医者として活動していました。

そして、のちに女性として初めての陸軍軍医として採用されます。

勇敢なその任務に対して叙勲された彼女ですが、戦後は、
男装姿によって逮捕されるなどと言った経験から、女性の権利、
女性の衣装改革などといったテーマで言論活動を行いました。


さらには戦後、合衆国議会の

「直接戦闘に関わったわけではない者は、名誉勲章受賞に値しない」

という決定によって勲章を返還するように求められましたが、
これを断固拒否し、死ぬまで勲章を身に付け続けたそうです。

 

彼女の名誉回復がなされたのは死後58年経った1977年。
当時のジミー・カーター政権によって勲章受賞が復権されました。

また、第二次世界大戦中にも、彼女の名前はリバティ船、

SS「メアリー・ウォーカー」

に残されています。

ちなみに、彼女は南北戦争時には、男装をしていたわけではなく、
戦争に参加する女性のためのオリジナル軍装などを自分でデザインして、
それを世間に流布するように求めたようですが、叶わなかったので、
その後の生涯で人前ではシルクハットにズボンという姿で通しました。

(タイトルは少し事実とは異なりますので念のため)

さて、ウォーカー博士は南北戦争でスパイ活動をしていたとも言われます。

きっとその手段に際しては、女装をうまく利用したのではないか、
ということがなんとなく想像されるわけですが、この写真の女性は同じ時代、
女優という仮面の下で北軍のためにスパイ活動を行なっていた女性です。

ポーリーヌ・クッシュマン。(1833 –1893)

フランス系の移民の娘として1833年に生まれた彼女は、
ケンタッキーのルイビルで舞台女優として活動していました。

のちに北部での舞台の後、連合国大統領のジェファーソン・デイビスのために
「乾杯を行なった」ことをきっかけにスパイの道に入ります。

敵の幹部に女優として近づき、得た情報は靴に隠すなどして諜報活動を行い、
二度逮捕されて一度は死刑を宣告されたこともありますが、
罹っていた病気が悪化しているという演技で死刑を延期させることに成功し、
そうしているうちに連合軍が侵攻してきて命永らえました。

女優としてのスキルが自分の命を救ったというところです。

いくつかの資料によると、彼女は男装姿で北軍に復帰したということです。
まあ、どう見てもこちらは男性には見えませんが、
彼女の女優としてのコスプレ精神がそれを強く望んだに違いありません(笑)

(しかし、この女優さん、軍服が似合わねー)

このころの女性と軍隊の関係は、看護という分野でなければ、
このような非合法的活動によるものにすぎませんでしたが、
だからこそ男装の女医といい、スパイ女優といい、のちに女性が権利を得て
軍に参加するようになる時代にはあり得ないような、
小説じみたロマンを感じさせる逸話が生まれてきたのかもしれません。

 

続く。

 

 

”トレイルブレザー”たち〜ミリタリー・ウーメン

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フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする

「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」

がありました。
冒頭ポスターの写真では、

「あなたは心に星条旗を持った女性ですか?」

という決め文句でワック、つまり陸軍への入隊を勧誘しています。
陸軍では何千もの職種があなたを必要としている、とありますね。

 


海軍ではもう少しプラクティカルに、

「 WAVEがもらえるお給料って?」

という感じで、入隊から下士官になるまでの給与体系をズバリ
このような表にしてリクルートに繋げようとしております。

この表はシーマン・リクルートと呼ばれる二等水兵のあと、Seaman Apprentice (SA)
(一等水兵)からPetty Officers(下士官)までが記されています。

ちなみにシーマン・ファーストクラス(上等水兵?)を例にとると、

基本給 66ドル

食事手当 54ドル

住居手当 37.50ドル

合計月額 157.50ドル

となっており、月額は現在の円で換算すると約25万円の高給取りです。
しかも軍では階級に即して給与が決まっていて、性差はなかったので、
単に就職先として考えても大変人気のある職場だったかもしれません。

下士官は169.50ドル(29万円)から217ドル(35万円)と
幅がありますが、これは三等兵曹から先任伍長までを表しますから
開きがあって当然です。

このように書くことこそ、女性が昇進していずれは先任伍長になることも
制度として可能であった、ということに他なりません。

1930年代初頭から旧陸軍省は女性搭乗員を軍に採用することを検討していましたが、
陸軍の方ではこの案を「全く実現不可能なもの」、なぜなら

「女性は感情的すぎて非常事態にも冷静になれず飛行機の操縦には向いていない」

とにべもなく却下したことから、第二次世界大戦が始まり、輸送路線が海外に拡大して
国内輸送を行う搭乗員の数が足りなくなるまで、女性の登用はありませんでした。

その後二つの女性搭乗員部隊が結成されることになり、千人以上の女性が
軍人パイロットとしてその活躍の場を空に求めていきます。

ジェラルディン・プラット・メイ大佐(1895−1997)

彼女はアメリカ軍で初めて大佐となり、司令官となった女性です。
カリフォルニア大学バークレイ校を卒業して1942年に結成された
女性の輸送補助部隊に入隊した彼女は、陸軍で初めての女性士官となり、
六千名の女性士官、下士官兵からなる空輸部隊の司令官になりました。

そして、アメリカ全土と海外の任地での女性兵士の状況について
視察を行い、その向上のために提言を行うなどしました。

戦争において必要とされた女性部隊が、戦後も廃止されず、そのまま残されたのにも、
彼女がその時に司令官であったことが大きく関与しています。

WAFS (Women's Auxiliary Ferrying Squadron)女性空輸補助部隊と
クィーン・ビーと書かれた機体、とくればこれは、

WAFS女性部隊の司令官となったナンシー・ラブを思い出してください。
(以前のエントリのために描いたイラストを引っ張り出してきました)

陸軍上層部の「万が一敵の捕虜になるようなことがあっては大変」という考えから
彼女らの任務遂行範囲は北米大陸を出ることはありませんでしたが、
もともと陸軍航空士官を夫にもち、自分の会社を持って操縦を行なっていた彼女は、
WAFSのコマンダーとして

ノースアメリカン P51マスタング 戦闘機

ダグラス Cー54 スカイマスター輸送機

ノースアメリカン Bー25 ミッチェル中型爆撃機

の空輸のための操縦資格を取った最初の女性でした。

ナンシー・ラブ〜クィーン・ビー

もしハップ・アーノルドという偉い人に止められなければ、
彼女はBー17フライングフォートレスを操縦して大西洋を渡った
史上初めての女性となっていたはずです。

このほかにも陸軍航空にはのちに「レディ・マッハ・バスター」とあだ名された
「女版チャック・イェーガー」が、女性パイロットの訓練学校の司令をつとめ、
彼女ら民間パイロットを戦時に招集する道筋をつけました。

WAFSとこのWFTD( Woman's Flying Training Detachment)は統合され、
WASP(Woman's Airforce Service Pilots)となりました。

 

 

さて、陸空海とくれば(正確には陸軍航空ですがそこはひとつ)海兵隊です。

ロレイン・ターンブル一等整備兵は、千人もいる海兵隊の一人にすぎませんが、
特筆すべきは彼女が女性であったということで、さらには
特に選抜されて本土以外での任務にあたったという優秀なメカニックでした。

彼女はハワイのエバにあった海兵隊航空基地に配属になり、
航空整備士として男性と全く同等の仕事をこなしました。

 

そして「第4の軍」である沿岸警備隊です。

”スペア(余り物)にならないで・・・SPARになりましょう”

まあダジャレの域ですが、SPARとは

Semper Paratus

=Always Ready

「センパー・パラタス」という歌を以前ご紹介しましたが、
そのラテン語の頭文字と「オールウェイズ・レディ」の計四文字で「SPAR」。

SUPAR、沿岸警備隊に入りましょうとお誘いしている女性は、
アメリカを擬人化したアンクル・サムとまるで花嫁の父のように腕を組んでいます。

しかしもしこの「スペア」が「結婚できない人」という意味だとしたら、
アンクルサムとともに彼女が歩いていくのは未来の花婿のもと・・・、
つまりこの場合はお相手は「沿岸警備隊」ということになりますね。

「売れ残りになるくらいなら沿岸警備隊にこない?」

という意味がかくされている、に1ドル50セント。

コーストガードの素敵なネイビーカラーのコートが展示されていました。
やはり女性を集めるには制服がお洒落できてみたいと思われなくてはね。

さて、最初に沿岸警備隊の女性用制服を着ることになったのは、
双子の姉妹でした。

ジェヌビエーブとルシール・ベイカー姉妹は海兵隊の予備部隊から1918年に転籍し、
書記下士官を意味する「ヨーマン」の女性複数形である

「ヨーマネッツ(Yeomanettes)」

の愛称で知られる存在でした。
まあ、それだけ女性が軍籍にあるのが珍しかったということでもあります。

1939年、個人所有のボートなどを使って沿岸のパトロールを行う
民間人で構成された沿岸警備予備隊が編成されました。

それには女性も含まれていましたが、彼女らは自分たちでヨットや船を所有する
典型的な富裕層であったことは興味深い事実です。

第二次世界大戦が始まり、大々的にマンパワーを戦争に導入されることになった時、
沿岸警備隊は「SPARS」という名称の女性部隊を編成しました。

彼女らの多くが海軍の WAVESからの転籍で、初代司令には

ドロシー・コンスタンス・ストラットン大尉

が任命され、 SPARSの名称も彼女が考案したということです。

フロリダのパームビーチにあったホテルを改装して作られた
通称「ザ・ピンクパレス」という施設で彼女らは訓練を行い、
1944年にはアフリカ系アメリカ人女性が初めてこの部隊に加わりました。

その後、ニューロンドンにコースとガードアカデミー(わたしが見学したあれ)
ができた時、ここに入ってきた女性たちは、

史上初めて軍学校に入校した女性

というタイトルを得ることになりました。

ほとんどのSPARSはオフィス勤務でしたが、1944年にはアラスカやハワイに派遣され、
そこで募集窓口や勧誘、店舗などの経営などに携わり、
少数ですが、パラシュート整備や航空管制、無線通信任務やメカニックなどもいました。

厳選されたごく少人数は、東海岸のLORAN ステーションと言って、
ボストンのチャタム灯台の監視業務に当たることもありました。

男性も第二次世界大戦時にはアフリカ系からなる航空隊、そして陸軍部隊があり、
いずれも優秀であったことで有名でしたが、このころは要するに、
人種隔離政策というか、黒人は黒人部隊、日系人は日系人部隊、と
人種ごとに部隊を分けていたということになります。

つまり人種差別や偏見というものがベースにあったことは否めませんが、
それでもアフリカ系女性は率先して陸軍に志願しました。

アリゾナ州の陸軍駐屯地フォート・フアチュカには第二次世界大戦中
アフリカ系女性だけの軍用郵便物の配布業務を行う部隊がありました。

「シックス・トリプル・エイト」と呼ばれた黒人女性だけの部隊、
6888郵便大隊を観閲する

チャリティー・アダムス・アーレイ中佐(1918−2002)。

1942年にWAACに入隊後、黒人女性として初めて士官に昇進しました。
彼女らの郵便大隊もまた後方支援業務として、前線での任務を行いました。

先ほども書いたように、当時のアメリカ陸軍では民族ごとの分離部隊があり、
アダムス中佐も南部に生まれ差別されてきたアフリカ系として、この

「セグレゲーション」(Segregation)

に苦しめられてきた者として、軍での民族分離には反発し、
それを言明することを彼女は決して恐れませんでした。

それは彼女の一生をかけた民族闘争でもあったのです。

 

例えば、黒人女性だけの新しい訓練部隊を編成する計画ができた時、
その司令官に打診された彼女はこの昇進を断っています。

赤十字が分離部隊用のレクリエーション施設を寄付すると申し出てきたのに対しても、
彼女は「白人用を一緒に使うから全く必要ない」とこれを拒否し、
またある時は、上層部から白人の中尉を監督のために司令にすることを告げられ、

「わたしの屍を越えて行ってください(Over my dead body, sir.)」

と言い放ったこともあるそうです。

前線においても、戦地から帰ってきた白人男性と彼女の部隊の女性兵士たちが
交流し、民族的な対立や緊張が起こらないような雰囲気を作るのも、
戦地の住民との融和を図るのも、彼女は積極的に取り組んだテーマでした。

 

彼女は戦後、ペンタゴンのオファーを受けて勤務し、さらにそれから
大学で心理学の学位を取って、余生を教育に捧げました。

 

ラブやコクラン、メイらの軍における最初の女性とともに、
アフリカ系女性の軍における地位獲得にその一生をかけたアダムス中佐も、
また偉大なる「トレイルブレザー」(Trailblazer・先駆者)であったのです。

 

”マダムX”〜ミリタリー・ウーメン

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昨日に続き、「マサチューセッツ」内の展示
「ミリタリー・ウーメン」から、抜粋してお送りしています。

「ハローガールズ」というのをご存知でしょうか。

通信業務、電話交換などの仕事は軍の計画と調整に不可欠です。

第一次世界大戦では、陸軍は電話線を前線に沿って建設しましたが、
オペレーターは不足していました。
同盟国同士で通信を行うためにはプロフェッショナルな交換手が必要で、
軍隊は国内の民間交換手を登用することにしました。

彼女らは経験豊富であることはもちろん、フランスの回線に接続するために
英語とフランス語の両方を話す必要がありました。

彼女ら「ハローガール」たちは、アメリカ軍に特殊能力で参与した最初の女性となります。
その勇敢さと卓越性は、軍隊における女性の境界を広げ、
その後、戦地への参加を増やす道を開いたと言えましょう。

当時軍人を志望した女性の前職で圧倒的に多かったのが秘書だったそうですが、
彼女は何と海洋学者でした。

写真だけ見ると、カウンターに座っている店主のおばちゃんみたいですが、

メアリー・シアーズ Mary Sears (1905-1997)

はネイビー・リザーブのコマンダーであります。

1943年にWAVESに中尉として入隊した彼女は、海軍水路局に海洋研究ユニットを作り、
そこで海軍に戦略的優位性を与えるために潮、波の高さ、
および海洋指標などのデータを集め、分析することによって
海軍の戦略・作戦立案に多大な貢献をしました。

最初は「ユニット」だった彼女の部隊は、じきに「ディビジョン」となり、
彼女は最終的に400人もの部下を統率する司令官までになります。

戦後も海洋学の研究によって多くの論文を著わし、
各界から名誉賞を与えられた彼女は、現在海軍の

海洋調査船USNS Mary Sears

にその名前を遺しています。


さて、真珠湾に先んじること6ヶ月前、「なぜか」戦争情報局は政府、
そして軍のどちらにも情報局を設置して、諜報、破壊工作、
プロパガンダやその関連を取り扱う

戦略諜報局( OSS)

を統合しました。
その設立者となったのが、「アメリカ情報機関の父」「 CIAの父」と呼ばれる
弁護士出身のウィリアム・ドノバンという人物です。

OSSには時節柄多くの女性が勤務することになり、郵便物整理やファイリング、
電話応対だけでなく、暗号解読や記録などの任務を行いました。

  

また、アメリカはまたスパイに女性を登用しています。

 ヴァージニア・ホール・ギヨ Vaginia Hall Gillot(1906-1982)

 はドイツ側から

 「連合国スパイの中で最も恐ろしい人物」

という評価を得ていました。

彼女は当初イギリス、のちにアメリカの戦略諜報局の特殊作戦部に加わり、
身分を偽って高速魚雷艇でブルターニュからフランスに潜入、
ゲシュタポの捜査から逃れ、フランス中央部の抵抗組織と接触し、
連合軍の補給物資と部隊の降下地点の指定を行い、セーフハウスを築き、
ノルマンディーで上陸した連合軍と現地部隊の連絡を取り持ったほか、
ドイツ軍に抵抗する3つの大隊へのゲリラ戦術訓練を支援し、
9月に連合軍が彼女の部隊と合流するまで重要な報告を続け、そして・・・

勲章をもらいました。
彼女に勲章をつけているのは、 CIAの父、ウィリアム・ドノバンです。

若い時に狩猟で間違って自分の足を撃ってしまい、切断して
義足だった彼女のことが、ドイツ側の手配書には

 「足を引きずる女」

 と書かれていたということです。

 パトリシア・フォウラー Patricia Fowler。

USS「ダンカン」に乗組の海軍軍人であった彼女の新婚の夫は、
彼女が妊娠中の1942年の10月、「サボ沖海戦」で戦死してしまいました。

息子を出産してから軍に職を求めた彼女は、新しく設置されたOSSに採用され、
なぜかいきなり諜報員の訓練を受けることになりました。

おそらくですが、その怜悧さ、特に記憶力と語学力を買われたのでしょう。

トレーニング終了後、彼女はスペインに派遣され、
解読された暗号翻訳とそれをタイプする任務を行いました。

情報活動を行うにあたり、彼女はボヘミアンのようなライフスタイルで、
フラメンコなどを始めることを()組織に奨励されていたということです。

 

米国海軍暗号解読Bombeを操作するWAVE

第二次世界大戦中、海軍の女性部隊 WAVESが600人、
ドイツのエニグマ暗号を解読するために働いていたことをご存知でしょうか。

彼女らは1943年から米海軍暗号解読機「ボム」の建設とその操作を支援しました。
プロジェクトは秘密のベールに包まれ、多くが携わっていながら
2トン半のマシンの正確な機能を誰も知りませんでした。
そして任務に関わるWAVESは、割り当てられた部屋に入る時、
海兵隊の警備員に必ず身分証明書を提示することが求められ、
自分が関わった仕事について徹底した守秘義務を求められました。

大勢のWAVESが携わったプロジェクトによって、
大戦中にエニグマは解読されたわけですが、その成果は徹底的に秘密にされ、
終戦までドイツ軍はエニグマを使い続けました。

 

アグネス・メイヤー・ドリスコール Agnes Meyer Driscoll(1889-1971) 

は「ナチュラル・ジーニアス」な(天賦の才能を持った)

「クリプタナリスト」(Cryptanalyst 暗号解読者)

でした。
人呼んで、「ミス・アギー」または「マダムX」。


統計学と音楽を大学で勉強した彼女は、また語学に非常な才を発揮し、
英語の他に独仏語、ラテン語、および日本語まで流暢に話したといいます。

第一次世界大戦が始まってから海軍に入隊し、書記事務をしていた彼女は
その仕事をこなすうちにその図抜けた優秀さを認められることになりました。

そしてコードと信号の部門の事務に割り当てられ、暗号解読に携わったのです。


そこでまず彼女は暗号の作成、デコード(解読)を行う器械の開発に、
その後米海軍の標準装備となる
CM(コミニュケーション・マシン)という暗号器械を
共同で発明しています。

また日本軍のM-1暗号機(米軍にオレンジマシンとも呼ばれていた)を破り、
帝国海軍の暗号を解読するための暗号解読機を開発したのも彼女でした。

また、1926年に日本の外務省が採用していたの手動コード、通称レッド暗号、
「 Red Book Code」を三年かかって解読しています。

 

「暗号解読者の一覧」

 というウィキのページを見ると、彼女については

「エニグマや日本軍の暗号を沢山解読した」

 となっています。
ミッドウェイ海戦における日本の大敗の理由を、単純に

「日本側の暗号が解読されていたから」

と評価するなら、米海軍勝利の立役者は「マダムX」だったということもできます。

アメリカの女性暗号解読者には他にも、

エリザベス・スミス・フリードマン夫人(1892−1980)、

ジェヌビエーヴ・ヤング・ヒット(1885-1963)

などがいます。

フリードマン夫人は夫も同業でしたが、常に単独で解読を行いました。
ジェヌビエーブ・ヒットはアメリカ初の女性暗号学者で、陸軍のために
暗号解読の解説書を書き、コーディングとデコードに携わった先駆です。

彼女は生涯を通じて誰にも師事せず、その知識を独学で得ていました。

さて、本項冒頭の「映画女優」が誰なのか知りたいという方、お待たせしました。

みなさんが今日普通に使用しているBluetoothやGPS、そしてWi-Fi、
これらの理論の基礎となる技術を開発したのが
この付けまつげバッサバサの美女だと言ったら驚かれるでしょうか。

へディー・ラマー Hedy Lamarr(1914-2000)

女優のような、ではなく彼女は本当に女優です。
1930年母国オーストリアでデビュー後、1933年の『春の調べ』で全裸シーンを披露し、
それで有名になった彼女は、その後アメリカに移住、1930年代から1950年代までの間は
ハリウッドスターとして活動し、シャルル・ボワイエ、スペンサー・トレイシー、
クラーク・ゲーブル、ジェームズ・ステュアートなど錚々たる面々と共演しています。 

で、なぜこの人を取り上げるかと言いますと、彼女は女優でありながら
発明家、科学者というもう一つの顔を持っていたのです。

 

時は第二次世界大戦真っ最中。

彼女は海軍の魚雷無線誘導システムが頻繁に枢軸国側の通信妨害を受け、
目標を攻撃することに失敗していることを知り、日頃お世話になっているアメリカのために
妨害の影響を受けないような無線誘導システムを開発しようと思い立ちました。

彼女と共同研究者のジョージ・アンタイルは、魚雷に送る電波の周波数を頻繁に変えれば
妨害されにくいと考え、周波数ホッピングシステムの基礎設計案を作成します。

ちなみにアンタイルも、科学者でありながら音楽家でした。


彼らはこの基礎理論で特許も取るのですが、実装が困難であったことに加え、
肝心のアメリカ海軍が軍隊の外(しかも外国人女性)の発明を受け入れることをせず、
案は長い間棚上げにされていたということです。

改良された彼女の理論が軍艦に採用されたのは、キューバ危機になってからのことでした。

 

これだけの天才で美貌も兼ね備えた、側から見ると天から二物を与えられた
誰でも羨むような女性であるのに、彼女の晩年は決して幸せではなかったようです。

生涯に六人もの夫を取り替え、死んだ時には天涯孤独の独身。
全ての夫との生活は長くて7年、短くて1年と短期間で終わっているだけでなく、
二回万引きで(しかも万引きしたのは目薬と下剤)逮捕されています。

また、若い時の美人が陥りがちな加齢による醜形への異常な恐怖から
整形手術ジャンキーになってしまい、なんども手術を受けたそうですが、
その結果は決してよくなかったという話も残されていますし、
亡くなった時には薬物中毒であったという息子の証言もあります。

 

85歳で心不全のため亡くなった彼女は、遺言によって、
故郷のウィーンの森に散骨され、そこで永遠の眠りについています。

彼女のなした発明は、現代における

「周波数ホッピングスペクトラム拡散技術」

の前身の一つです。
その原理はこんにち全てのワイヤレス技術の基礎となって、
後世の我々の日常に大きな恩恵をもたらしています。

 

 

続く。 


アメリカで、食べる。

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今日は今回アメリカで食べたいろんなものの写真を淡々と貼っていきます。
その前にコミックショップで見たネタ画像を。

トランプのトランプ。それだけです。

海軍の「私を踏みつけるな」のガズデンフラッグがあったので見ていたら、
その周りにはトランプをバカにする系のステッカーが・・・。

鼻の下にバーコードはまたしてもヒトラーになぞらえてるんですかね。

「WTF?」というのは「What The Fxxk」のことで、なんだこれ?みたいな。

さて、ボストンではあまり外食をしなかったのですが、
いつも滞在中に一度は行くことにしている

「リーガル・シーフード」

に今回も一度だけ行ってきました。
アメリカでクラムチャウダーの有名なのはボストンとサンフランシスコ。
奇しくもわたしのアメリカでの滞在地ですが、特に夏はあまり食べたいと思わないので、
ここのオススメのロブスターも実は食べたことがありません。

どーん!と大皿に守られてくる見た目にこだわらないシーフード。
この日はシュリンプを頼みましたが、いつも半分しか食べられません。

残ったものは紙パックに入れてもたせてくれるので、持ち帰り、
次の日再加工して美味しくいただきました。

もしかしたらお店で食べるより次の日の方が美味しかったかもしれません。

ボストンで見学に行った大学のキャンパスで。
ベンチでランチを食べてる学生さん?を見てキアヌを思い出すわたし。

そしてあっという間に異動の時期になり、ボストンからサンフランシスコまでユナイテッドで異動。
とてもファーストクラスの食事には見えませんが、そもそもエコノミーは食事なし。
食器がプラスチックでないだけましというものです。

パン用に一つ付いていたバルサミコ酢入りオリーブオイルの小瓶は大変便利で、
持って帰ってホテルで使いました。

確か魚を選んだ記憶が・・・。
しかし、味は仕方がないとしても(仕方なくないけど)、せめて
盛り付けくらいもう少し人間らしく、と思うのはわたしだけでしょうか。

ちなみに、色の変わった緑の野菜ですが、一口食べた途端、
ジャリっと砂を噛むような、というか実際に砂の味わいだったので、
その後を食べるのは断念しました。

そしてデザート・・・・・何も言いますまい。

サンフランシスコの中心、ユニオンスクエアには一度だけ行きました。
息子がここにある靴のアウトレット「DSW」で買い物がしたいと言ったため。

ユニオンスクエアの周辺はここ数年間ずっと道路工事中です。

買い物が終わり、ニーマン・マーカスでお茶を飲むことにしました。

レストランはいつ作ったのかと不思議になるくらい風格のある吹き抜けがありますが、
これは実は1906年の地震で生き残った「シティオブパリス」で、
ニーマンマーカスがこれを買い、元の部分をできるだけ残して、
周りの外壁は最新式のガラス張りにするという画期的な方法で改装したのでした。

お金のある企業が歴史的な建築を保存するために出資をする、
これがアメリカでは普通に行われるので羨ましくなります。

シリコンバレーでのお気に入りの店、メイフィールド・カフェにも行きました。
隣はまるでパリにあるようなベーカリーが隣に併設されています。
中は朝食にしてはお値段が高いので、サンドウィッチを買い、外のテーブルで食べる人もたくさん。

まるでパリのカフェのよう。カフェオレはどんぶりに入って出てきます。

目の高さに鏡が貼ってあるのも店内を明るく広く感じさせます。
スタンフォード大の近くにあるせいか、ここで朝ごはんを食べているのは
いかにも学者っぽい知的な雰囲気の人ばかり。

朝ごはんには大きすぎるくらいボリュームのあるオムレツ。
もちろん家族3人でシェアします。

「ブラックティー」を頼むと、四角い小さな鉄瓶にお湯を入れて持ってきてくれます。

スタンフォード・ショッピングモールの一角にある中華料理にも一度は足を運びます。
P.F.Chan's は一応全国チェーンのレストランですが、お手軽で、
個人経営のチャイニーズにありがちな匂いや暗さがないのがありがたいところ。

揚げ豆腐のあんかけ、焼きそば、春巻きなど。

アメリカにある日本食レストランは、ジャパニーズと言いながら
得てしてコリアンかチャイニーズ経営の”インチキジャパニーズ”です。

今回ボストンで「アオイ」という名前に騙されて入ってしまった店は、
入るなり嘘くさい日本風壁画と変な匂いにまずドン引き。
ひと組だけいる先客が店主と中国語で大声で喋り、まるで人んちに来たようで、
きわめつけは箸が金属で、メニューにキムチがあったことでしたが、
ここは紛れもなく日本人の経営で、店主が板前をしている”本物”。

いつでも現地の日系人中心に客で賑わっています。

「ヒグマ」、という店名は、おそらくオーナーが北海道出身だから。

インチキジャパニーズの店内にある胡散臭い飾りと違って、
ここのは日本人ならこれはありだなあと思われるノリのものばかり。
壁には干支のカレンダーと熊の毛皮(状のもの)。

北海道の熊は鮭を咥えているのが普通ですが、ここの熊さんはなでなでしています。
お店の人もこちらが日本人だとわかると、普通に日本語で接してくれました。

TOとMKはラーメンが大好きで、たまに無性に食べたくなるようです。
わたしは寿司の盛り合わせを食べ、二人はラーメンの違う種類を頼みました。
日本国内の普通に美味しいラーメン屋と全く変わりない味だったそうです。

もう一つ西海岸で評価している日本食の店は・・・やよい軒。

そう、日本で普通に見るあのやよい軒です。

シリコンバレーの中でも、もっともおしゃれで活気があり、
住民の経済レベルが高い地域のアーケードにあります。

親子丼が16ドル、とろろ鍋定食23ドル、納豆、味噌汁が2ドルと、
こうして書き出すと結構な高級路線ですが、12%のチップを払う必要はありません。
オーダーは全てテーブルに置かれたiPadで行い、「調理済み」
「キッチンをでました」「配膳済み」など刻一刻と状況を知ることができる
 ITシステムを採用し、人件費を安くあげているからです。

つまりチップも必要ない、とお店の方でこれを断っているのですが、

「どうしても払いたい方はそのお金を寄付させていただきます」

とのことです。

白米はアメリカで食べるどこの店のものよりも美味しく、味噌汁も本物。
今の所全米でもっとも美味しい日本食、日本の日常食が食べられるのは
もしかしたらこのパロアルトの「やよい軒」ではないかと思っています。

さて、最後の一週間、事情があってわたしたちはロスアンジェルスに飛びました。

そこで息子とわたしが欲しかった「ROLI」のキーボードを売っている楽器屋に。
カード会社に調べてもらったら、西海岸ではここしか現物がなかったのです。


後から、ここが「サンセット・ブルーバード」であることがわかりました。
ビリー・ワイルダー監督、グロリア・スワンソン、ウィリアム・ホールデン主演の
映画「サンセット大通り」がここであったことに気がつき、少し感激しました。

楽器屋の向かいにあったレストランで、レタス包みなどを夕食に。

これはオニオンスープ(パイ包み)。
全く期待していませんでしたが、なかなかでした。

ロスにも暴走族がおります。
サンセットブルーバードで大音響を出して走り、ウィリーをする珍走団。

ロスアンジェルス近郊で見かけたドライブ大好き犬。
窓から顔を出して風を感じるのが好きらしく(笑)耳がバタバタとあおられていました。

ロングビーチを通りがかった時ピンと来て入ってみたピッツェリア。

これが大当たりでした。
お昼が終わって店内が空いていたのもグッド。

お店はザガットサーベイでアワードを取っています。

面白いのは、隣に同じオーナーのオーセンティックなレストランがあったこと。
マイケルさんは、レストランをいくつも持っているシェフなのに、この時も
ピザ屋の厨房でピザを焼いていました。

おそらくこの人の原点はピザを焼くことにあるので、二店舗のオーナーになり、
夜は高級レストランのキッチンでおされーな料理を作る今も、
昼間はピザを焼くということをやめていないのだと思われます。

たっぷりの野菜にオリーブオイルをかけ、オーブンで焼いたシンプルな料理。

そしてメインの「カルボナーラ」というピザですが、絶品でした。
残さずに耳を全部食べたいと思うピザは、ありそうでなかなかありません。

マイケルズの横にあった(おそらく)インチキジャパニーズ。
その名も「キホン」・・・・・・基本?

さて、その後サンディエゴに移動。

ある夜、街を探検していて「Under Belly」(お腹の下)というお店を見つけました。
とても流行っていて、若い人たちがバーのように集っているのが外からわかります。

なんとここ、ラーメンを主体としたジャパニーズレストランでした。
地元の知人に聞くと、経営はアメリカ人だそうです。
しかし、インチキジャパニーズのように「日本らしさ」を演出することなく、
あくまでもアメリカのイケてるなバーの外見に、メニューだけが和風というコンセプト。

窓際のカウンターに腰をかけましたが、座って気がついたのは、
完璧に水平になる窓ガラスを倒してカウンターテーブルにしていたことです。
店の外から中を向いて座る椅子も並べられていました。

夜は涼しくてクーラーのいらないサンディエゴだからこそできることです。

ホールフーズでもみた「スパ系」水。キュウリが浮いてます。

アメリカで枝豆を頼むと、なぜか塩なしで出てきます。

オーダーは完璧に前払い制で、その時にトッピングも選びます。
チキンとベーコン(チャーシューのつもり)そしてプルドビーフ入りのボリュームタップリ。
アメリカ人向けではありますが、麺とスープがまともすぎるくらいまともで、
これなら日本国内であってもかなりの人気店となると思われました。

みなさま、サンディエゴをご訪問の際にはぜひ。

サンディエゴで泊まったホテルに帰ってきました。
みなさん、この電飾が何かご存知ですね?そう、「ミッドウェイ」です。

サンディエゴに泊まることが決まったので、わたしは独断で
ミッドウェイに歩いていけるマリオットに部屋を取りました。

まだできて年数が浅く、大変モダンで快適なホテル。
テラスが5階にあり、ここからミッドウェイの艦飾をみながら夜景が楽しめます。

フロントの売店でアイスクリームを買ってきて、夜景を見ながらみんなで食べました。

食べ物に関してアメリカは西高東低であることを再認識した今回の滞米です。

 

 

 

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