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Vメール〜ミリタリー・ウーメン

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戦艦「マサチューセッツ」艦内における展示「女性と軍」シリーズ、
独立戦争から近代までの戦争と女性、そして20世紀になって現れた
飛行機という兵器と関わるなど、軍隊におけるパイオニアとなった女性。
昨日は暗号解読や発明など、頭脳で軍とか変わった女性についてお話ししました。

展示場にあったビデオ映像では、軍と関わった経歴を持つおばあちゃまが、
かつての自分の思い出を語っておりました。
時間がなかったので彼女が何をしていたかはわかりませんでしたが、
彼女の後ろにある写真を見ると、実際に軍籍があったようです。

今日もそんな女性を紹介していきましょう。

まずは政治家の立場から軍隊に関与した女性。

エディス・ヌース・ロジャース。(1981-1960)

なかなか可愛らしいおばあちゃまですが、女性として初めて
マサチューセッツ州議会議員になった女性で、晩年は議会の最長老議員でした。

真珠湾攻撃以降、軍に女性の補助的マンパワーが必要となったことを見通し、
正式な軍人としての女性登用を法制化する原動力になった政治家です。

 

ルーズベルト大統領の承認によってWAACと呼ばれる女性補助部隊が発足したのは
1942年の5月のことです。

この補助部隊は、あくまでも後方勤務に限られた活動をすることが厳重に規定され、
死の危険のある任務や任地に女性は配属せざるべし、ということになっていました。

なお、同年7月にはWAVES(ちなVはボランティア-志願-のV)、海軍の女性部隊、
沿岸警備隊の SPARS、海兵隊の女性予備部隊も44年には議会承認されました。

WAACはその後「補助」を意味するAがなくなった「WAC」となります。

例えば前々回話した沿岸警備隊の「ヨーマネッツ」や海兵隊の女性事務は、
男性の同ランクと同じ給料をもらい、退役後の扱いも同等でした。

しかし部隊に所属した看護師たちは軍服こそ着ていましたが、給料の点でも
退役後も、あくまで補助的な扱いしか受けていませんでした。  

WACはこの点でも完全に男性と対等の給与体系を取っていました。


また、彼女は、男女を問わず退役後の軍人の再就職やローンの面倒を見る

G.I.BILL

という名前の法律を作るのに大きな働きかけをしています。


軍が募集した女性の人材は、看護や事務、そして新たに必要となった
航空業務関連の仕事に就いたわけですが、そのための特別な訓練をするキャンプは、
マサチューセッツのスミス大学、マウントホリヨーク大学などの女子大に設けられました。

おそらく、東部の「セブンシスターズ」と呼ばれる、憧れの名門女子大で
訓練が受けられる、ということで人が集まるという効果も見据えてのことでしょう。

さらに、軍に何らかの関わりを持った女性政治家というと、この人。

「今どこかで誰かがわたしのために死んでいることを忘れてはいけない」

戦争の陰にある個人の生死と彼の残された家族について、
常に深い関心を寄せていたエレノア・ルーズベルトさんの図。

彼女はリベラル思想を死ぬまで貫き、

「戦争が最高の解決策なんてとんでもない。
この前の戦争で勝った者はだれもいないしこの次の戦争でも誰も勝たない」

という言葉も残していますが、左翼・共産思想は徹底的に批判しました。

その彼女の夫は「戦争しない」ということで大統領になったのに、
日本軍の真珠湾攻撃が起こり、否応無く開戦を決めてしまいましたが。

一旦そうなってからは、彼女は戦争遂行を決定した大統領の妻として、

「わたしは今死んでいく人たちのために何ができるのか?」

をモットーに、精力的に兵士たちの訪問を行なったということです。 

さて、前回、アフリカ系女性だけの「郵便大隊」があったという話をしましたが、
今日は戦時中の軍隊と郵便について少しお話しします。

このポスターは、

「心を込めて書いた手紙が戦地にいる彼の元に届くことで
あなたは彼と一緒に居られるのです」

つまり

「戦地の恋人に手紙を書きませうキャンペーン」。

このポスターの下部には

「Vメールは確実で個人情報も守られます」

と書かれていて、これが戦時中に戦地に届けるための手紙システム、

ビクトリーメール=Vメール

の宣伝であったことがわかります。

Vメールとは、第二次世界大戦中、アメリカが海外に駐留する兵士に
対応するための主要かつ安全な方法として使用された、いわば
「ハイブリッドメールプロセス」でした。

軍事郵便システムを通じて、元の手紙を転送するコストを削減するために、
V-mailとして投函された手紙は検閲され、フィルムにコピーされ、
目的地に到着すると、紙に印刷されだものが宛先人に配達されるという仕組みです。

なぜこんなことをしなければならなかったかというと、本来の手紙によって
占められる何千トンもの貨物搭載スペースを、少しでも節約するためでした。

例えば1,600字の普通紙の重さは23kgですが、フィルムの1,600字はわずか140g。
今では電子メールによって解決している問題ですが、当時は切実だったのです。

 

Vメールはマイクロフィルムでサムネイルサイズの画像として撮影され、
運ばれる前に、メールセンサーを通過させます。

目的地に到着すると、ネガは印刷され、元の原稿サイズの60%となる
10.7cm×13.2cmのシートが作成され、受取人に渡されました。

Vメールに使われた封筒。
もともとマイクロフィルムの画像で手紙を撮影して送るシステムは、イギリス発祥で、
イーストマンコダック社が開発し、軍用ハトに運ばせたりしていたものです。

 

ところで上のポスターには「あなたの個人情報は保全される」と書いてありますが、
マイクロフィルムで撮影する段階で検閲され、第三者の目に触れることになるわけで、
その時点で個人情報は漏れる可能性が出てきますね。

Vメールを運営する軍としても、この問題については色々と対策をしており、
Vメールで送る情報をスパイから守るために、

●インビジブル・インク(目に見えず何らかの手法でしか再現されないインク)

●マイクロドッツ(機器を通して長い文章をピリオド一つ分にまで圧縮)

●マイクロプリンティング(小さな文字を専門のプリンタで打つ)

などという手法を用いたということですが、それにしても
見えないインクで書かれたVメールって、どうやって再現したんだろう・・。

こちら、1944年のクリスマスのためにデザインされたVメールカード。
C.B.Iとは「CHINA-BURMA-INDIA」THEATERの略。

Theater には戦場という意味もあり、これは中国、ビルマ、インド戦線のことです。

第二次世界大戦時代、戦地に届くメールは何よりも兵士たちの心の支えとなり、
生きて帰ることの希望の糧となり、そして士気にも大きく影響するものだったので、
郵便物に関わることを専門にした部隊が、女性を中心に編成されました。

写真はフランスのどこかの病院で1944年に撮られたもので、
メアリー・ファーレイ中尉が看護部隊の女性兵士に手紙を配っているところ。

 


 

従軍記者も本来は男の仕事ですが、女性の従軍記者もいました。

マーサ・ゲルホーン Martha Ellis_Gellhorn(1908−1998)

記者として一流であったという彼女ですが、ヘミングウェイの三番目の妻として有名です。

「私が愛したヘミングウェイ」(原題は”ヘミングウェイとゲルホーン)というタイトルで
ニコール・キッドマンがゲルホーンを演じたテレビドラマがあったようですね。

Hemingway & Gellhorn: Tease

 

このドラマのwikipediaを見ると、そのストーリーは・・・

 

1940年、(ヘミングウェイは)ゲルホーンと再婚する。
しかし、時は第2次世界大戦下。
戦時特派員のキャリアを重視して海外に向かいがちなゲルホーンから
ヘミングウェイの心は次第に離れていき、2人はついに正面から衝突するように・・。

というものらしいです。

つまりゲルホーン女史は結婚生活を第一にするよりも、
従軍記者としての仕事を優先していたので、男の心は離れてしまったと・・・。
まあよくある話ですが、女史にとって不運だったのは、その男が
文学史に名を残す大文豪であったことかもしれません。

彼女の仕事を見ると、第一次世界大戦、第二次世界大戦共に従軍記者をつとめ、
フィンランド、香港、ビルマ、シンガポール、イングランド、
そしてノルマンディー上陸作戦も病院のトイレに隠れていたとはいえ、
現地から報道を行ってきた剛の者です。

当然ですが、自分の仕事にプライドを持っていた彼女としては、後々まで自分が
ヘミングウェイの付属品のように扱われることがよっぽど頭にきていたようで、

"I do not see myself as a footnote in someone else's life."
(私の人生は、誰かの人生の”脚注”ではありません!)

 という至極ごもっともな怒りのお言葉を残しておられるのでした。

合掌。

 

続く。

 


空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウーメン

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 戦艦「マサチューセッツ」内展示の「ミリタリーウーメン」から、続きです。

 

「我らの眼は空にある」

というこのポスターはC・A・P、シビル・エア・パトロールのもの、
アメリカ空軍の補助組織として真珠湾攻撃以降の1941年に組織されました。

ハワイを襲撃に続き本土が攻撃されるかもしれないという警戒を深めたアメリカは、
民間のボランティアを組織し、ローカルエリアでの空の守りを固めんとします。

空からの監視を任されることになったアマチュア飛行家たちは、
まず機影を見分けるための訓練を受け、非常用装置も軍によって供出を受け、
航空攻撃の訓練もレギュラーに受けていたということです。

CAPは民間パイロットの軍補助組織として、国境や沿岸の監視のほか、
軍の訓練補助、空輸業務、その他の任務をこなしました。

戦争中、 CAPは57隻ものUボートを攻撃し、そのうち2隻を撃沈しています。
これらの実績が認められ、戦後CAPはそれまでの陸軍から
新しく編成されたエアフォースに編入されることになりましたが、
それはあくまでもボランティアの非営利団体としてであって、
かつ慈善的な性質を帯びたものであるとされ、
直接の戦闘の活動に決して関与することは二度とありませんでした。

 

ちなみに、女性搭乗員による補助空輸部隊、WAFS、そして女性飛行部隊
WASPの発足は、男性パイロットの負担を大きく軽減することになりましたが、
軍のために史上初めて空を飛んだ女性パイロットたちは、戦争中
そのうち38名が軍務遂行中に亡くなっています。

 

物資の不足にあえぐ戦争末期の日本では「ガソリンは血の一滴」と言われ、
官民一体となって大変な節約を余儀なくされたものですが、
金持ち国アメリカもほぼ同じような呼びかけをしていたらしいですね。

当時のアメリカのリサイクル事情については、以前戦艦「マサチューセッツ」について
お話しするついでに述べたことがありますが、なんとこのポスター、

「廃油を爆弾のためにとっておきましょう」

として、リサイクル油の節約を呼びかけています。

アメリカの一般家庭は、当然ですが、開戦に対し衝撃を感じました。
今までとは違う、という意識が各家庭に節約の意識を持たせ、
台所から無駄を出さないような意識が浸透し、国からの呼びかけもあって、

「贅沢は敵だ」

というムードになったということです。

そして可能なかぎり、戦争に必要な武器の原料のために
市民はあらゆる消費者製品をリサイクルしました。

例えばナイロン、合成繊維のストッキング、布切れ、スクラップのタイヤや金属、
ビニール製のレコード盤、そして死んだ動物など。
(死んだ動物とは具体的に何かわかりませんでした)

この写真は当時偏在した、典型的なリサイクルを呼びかけるポスターで、
マニキュアをした手が持つフライパンが廃油をリサイクルし、それが
武器に必要な燃料の生産に繋がっているというイメージを強調しています。

 

マーサ・レイ Martha Raye (1916-94)

チャップリンの「殺人狂時代」にも出ていたコメディエンヌで女優。
この写真を見れば、まるで軍籍にあった女性のようですが、そのあだ名も

「マギー大佐」(Colonel Maggie)

もしかしたら、これは「ボギー大佐」のもじりかもしれませんね。
蛇足ながら、「ボギー大佐」のボギーとは人名ではなくゴルフの「ボギー」のこと。

作曲者アルファードの友人にいつもゴルフでボギーを叩き、
「カーネル・ボギー」というあだ名を奉られた人物がいたということです。

ついでに超蛇足ながら、「ボギー大佐」には英語圏で有名なこんな替え歌が・・

Hitler has only got one ball

 

それはともかく(笑)、彼女がなぜ大佐になったかというと、
第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争を通じ、
精力的に前線の慰問を行ったことからです。

ベトナム戦争の時、彼女は米国陸軍特別部隊を訪問することによって
「名誉グリーンベレー」となるなど、その真摯で誠実な軍への協力は
いつしかグリーンベレーの兵士たちに彼女をこう呼ばせました。

マギー大佐。


1994年に彼女が亡くなったとき、アメリカ政府は彼女の戦時中の
功績をたたえて、アーリントンの国立墓地に埋葬することを提案しますが、
生前の彼女の遺志により、ノースカロライナ州フォートブラッグ内の墓地に、
アメリカ軍全体の名誉中佐、並びにアメリカ海兵隊名誉大佐の待遇で埋葬されました。

彼女はこの場所に葬られることになった唯一の民間人です。

わたしはこのことを知った時、ベット・ミドラーが主演した映画、

「フォー・ザ・ボーイズ」

を思い出し、主人公はマーサがモデルではないかと思ったのですが、
実は映画公開後、マーサ・レイ本人が、

「映画の内容は自分の経験談を無断引用したものだ」

として、ミドラーと映画プロデューサーを告訴し、結局
マーサ側の敗訴に終わったということがあったと知りました。

なんか、どっちもどっちというか、色々と全体的に残念すぎるというか・・・。

 

さて、陸軍がWAACを組織した2ヶ月後、エレノア・ルーズベルトが
推し進める形で、女性の海軍組織、WAVESが作られました。
WAVESについてはなんども言及していますが、

Woman's Volunteer Emergency Service

の頭文字を合わせたもの。
戦時ゆえ「ボランティア」「イマージェンシー」 という言葉が入っていることにご注意ください。   アメリカ海軍で現在も女性海軍軍人を WAVESというのはこの流れですが、
「ボランティア」(志願)はともかく、「イマージェンシー」という言葉が
組み込まれたこの名称が海上自衛隊の女性隊員に使われていることには
はっきり言って、かなーり違和感というか疑問を持っているわたしです。

 

ミルドレッド・ヘレン・マカフィー Mildred Helen McAfee(1900-1994)

のことは以前一度女性軍人を取り扱った項で話したことがあります。
彼女は第2次世界大戦中に米国海軍のWAVES初代司令官となった学者で、
また海軍功労賞を受賞した最初の女性でした。

学者であった彼女は、錚々たる軍歴の他に、ボストンの名門女子大学
ウェルズリーカレッジの第7代学長、ユネスコの米国代表団、
ジョンF.ケネディ大統領の民間人権委員会の共同議長などを歴任しています。

 

1944年の10月になって、WAVEに最初に入隊したアフリカ系女性の中から
二人が海軍士官に任官しました。

マサチューセッツのノーザンプトンにあった海軍予備士官学校を出た
ハリエット・アイダ・ピッケンズとフランシス・ウィルズ(写真)です。

また、陸軍のWACに所属していた6500名のアフリカ系女性のうち、
146名が士官でした。

今日のアメリカ軍では全体数の15パーセントが女性士官であり、
女性全体の33パーセントがアフリカ系であるという統計があり、
今や彼女らの中から大将、代将、そして中将も誕生しています。

 

さて、次は陸軍です。

女性部隊の発足が一番早かったのは陸軍で、当初は

WAAC( Woman's Army Auxiliary Corps 女性の陸軍補助部隊)

と言いました。
戦場に行くことで不足する男性の代わりに補助業務をするのが目的でしたが、
翌年には「補助」のAuxiliaryが外されて現在の WACになりました。

オベータ・カルプ・ホビー Oveta Culp Hobby(1905-1995)

は、女性で初めて陸軍の女性隊 WACの初代司令となった人物です。
残された写真を見てもかなりの美人とお見受けしましたが、
彼女はテキサス州知事夫人という身分でありながら、最終的に
大佐というランクにまで昇進し、女性初の戦中功労賞を受けています。

戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで保健福祉省の最初の事務官となって
その分野で活躍をしました。

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)

というのが彼女のキャッチフレーズです。


ルース・チーニー・ストリーター Ruth Cheney Streeter(1895-1990)

ストリーター大佐は海兵隊における女性司令官第一号です。
1943年に発足した女性の予備海兵隊は最終的には831人の士官、
17714人の下士官兵という規模になりました。

海兵隊における女性部隊の役割も、男性の負担軽減というのは他軍と同じです。
海兵隊の女性部隊が行ったのはパラシュートの調整、地図の作成、
そして無線通信分野など、多岐にわたりました。

また、コーストガード、沿岸警備隊の女性部隊SPARSは、なんども書いていますが
「センパー・パラタス」というラテン語とその英語の「オールウェイズ・レディ」、
つまり「即応」という意味を表す言葉の頭文字4つからできた名称です。

戦時中、書記官から掌帆兵曹までが沿岸警備隊の女性軍人が受け持ちました。

さて、ここで彼女らの制服をご覧いただきましょう。
左から順番に、

●WACジャケット 100%ウール 
 帽子は金のパイピング入り 陸軍航空部隊のパッチ付き

●海兵隊予備部隊制服 当時の女性軍人の制服で最も人気があったデザイン。

●WAVES ドレスブルー パラシュート整備の女性たちの製作による

●WAFS ジャケット 袖刺繍、ボタンはシルバー、襟に「US」のピン    

(左)海軍 ディナードレスユニフォーム、1980年台
     
公式なフォーマルイブニング、民間人なども出席する夜会の時に着用するドレス。
「フラッグ・オフィサー」つまり海軍将官、勤務中の海軍士官には
プロトコルとしてこのドレスの着用が要求されましたが、基本はオプションでした。

(右)カデット・ナース ジャケット 綿サッカー製

カデットナースというのは見習い看護師のことで、高校を出てすぐ、   
看護学校で訓練及び準備中の看護学生を意味します。

1943年から48年まで、14万人もの若い女性が給料をもらって訓練を受けました。

 

どれも素敵ですが、海兵隊の制服が女性に人気があったのはよくわかりますし、
海軍のドレスは「オプションであった」としても、皆が着たがっただろうなと思います。

当時のアメリカ軍が女性を軍に徴用したのは男性が戦地に取られ、
本来なら男性がしていた仕事を女性が埋める必要性あってのことですが、
そういう切羽詰まった事情であっても、イメージ戦略を怠りなくし、
特に制服についてはかなり女心をくすぐるおしゃれなものを
各軍が競って採用したらしいことが、これを見てもよくわかりますね。

 

続く。 

 

ナイチンゲールとドーナツ・ドリー〜ミリタリー・ウーメン

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 女性が軍と関わることになった原初的な理由は、看護師の必要性でした。
戦闘によって必ず出る負傷者の手当は女性にもできるからです。

南北戦争の時も、例えば彼女、メアリー・ウォーカーズ博士は医師の資格がありながら、
軍医ではなく、看護婦として従軍することを余儀なくされましたが、それは
看護婦以外の女性の従軍が許されていなかったからです。

南北戦争時、「民間人によるボランティア」という形で活動していた看護隊ですが、
その後1908年になって、アメリカ海軍は初めての看護部隊を編成しました。

それが彼女ら、「聖なる二十人」といわれた看護師たちの部隊です。

説明がなかったので詳細は不明ですが、ヘルメットの形とガスマスクから、
第一次世界大戦時に撮られた写真であることは間違い無いでしょう。

前線にいるわけでは無いのですが、ガスマスクを支給されたので
ちょっとつけてみました的な・・・?

この戦争では看護衛生以外、例えば彼女たちのように
メッセンジャーの役割で従軍していた女性たちがいたようです。

これも艦内の壁をくり抜き、ガラスをはめて展示してあった割には説明がなく、
どこで使用されていた鐘かは不明なのですが、装飾してある木製の台を見ると、
アスクレピオスの杖かな?と思われる紋章が入っているように見えます。

このマークはアメリカ陸軍医療部隊のものです。

蛇足(文字通り!)ですが、医療のシンボルとされるアスクレピオスの杖は、
蛇が一匹だけ杖に絡みついているものを指します。

こちらはアスクレピオスの杖ではなく、蛇が二匹で上に翼がついており、

ヘルメスの杖である「ケリュケイオン」(カドゥケウス)

であるというのが正解です。
ケリュケイオンの杖は、医療ではなく「商売や職業や事業」を表すもので、
これを医療部隊が使うのは「誤った認識によるものである」(wiki)のですが、
ケリュケイオンの効能?の中に

「眠っている人を目覚めさせ、目覚めている人を眠りにいざなう
死にゆく人に用いれば穏やかになり、死せる人に用いれば生き返る」

というものもあるので、あながち間違いと言い切れないような気もします。

赤十字の看護師を募集するポスターには、まるで映画の一シーンのように、
傷つく兵士を抱きかかえる美人の看護師が描かれ、

「戦う男たちには看護師が必要だ」

という直裁な誘い文句が書かれています。

ここに展示されているのは、いずれも医療関係の女性軍人の制服ばかり。
左から解説していきますと、

(黄色のシャツドレス)第二次世界大戦時

コットンのシャツドレスはアメリカ赤十字の女性たちが製作したもの。
ドレスにはプリンセスシームとダーツがあしらわれ、
女性らしいラインを強調するデザインになっています。
ポケットは飾りではなく実際に使用することができ、カフス、襟と
看護帽の前を白くしてデザインのポイントと看護着らしさを表現。


(グレイのシャツドレス)第二次世界大戦後

このコットンドレスも、病院のメンバーと赤十字のメンバーが
レクリエーションとして縫ったものと言われています。
このタイプはのちに「グレイ・レディス」と呼ばれていました。

白のカフスとエポーレット、そして看護帽前部が白というもので、
これがナーススタイルの典型とされたスタイルです。
結局このタイプは十五年間くらい使用されていました。


(黒のケープ)第二次世界大戦中

グレイ・レディスの上に着用している黒のライトウールのマント、
これは非常にレアなものだそうです。
マンメイド、つまりカスタムメイドではなく特注となり、
値段もお高かったので、誰でも持っているというものではなかったのです。

言われてみると、スタンドカラーといい、裏地にグレイという
凝った作りといい、いかにも手がかかっているような感じ。

ケープそのものもスリーパネルのはぎ合わせで、裁断も素人には無理そうです。
赤十字の人が余暇に作ることはできないでしょうから、
おそらくテーラーに注文して手に入れるものだったのでしょう。

それでもどうしても着たい!ってことで作っちゃう
おしゃれな(そしてリッチな)看護師さんもいたんだろうな。


(グレイ・ドレスジャケット)第二次世界大戦中

チャコールグレイの上着はウールで、裏地はダクロン・ポリエステル製。
バックにはダーツが入っています。

ラペルのブルー刺繍がポイントのこのジャケット、左袖には
二つのパッチが縫い付けられ、非常に珍しいものだそうです。
右袖にはこれを寄付した人物が所属したところの、
陸軍第7大隊のマークがついています。


(グレイ・ベルト付きコート)第二次世界大戦時

エポーレットには緑のパイピングが施されています。
シングル打ち合わせのコートはこれも裏地がダクロン製。
ウィングチップのカラー、ショルダーパッド入り、
背中はハイキックプリーツのベント。
エポーレットとマッチするように、カフスにも緑があしらわれています。 

アメリカ赤十字社は1881年、南北戦争に従軍し、

「戦場の天使」「アメリカのナイチンゲール」

と言われたクララ・バートンによって設立されました。

戦時、赤十字はアメリカ軍のために様々なサービスを行うわけですが、
最も重要と思われるのは、家族と戦地を結ぶ緊急連絡をとりもつことです。
また退役軍人の団体などと緊密に協力し、彼らにきめ細やかなサービスを提供しています。

ただし、戦争捕虜は国際機関である国際赤十字委員会の所掌となっています。

赤十字の活動の中に、前線の後方で女性がコーヒーとペストリーを兵士に配る、
(彼女らはボランティアで志願)というものがありましたが、彼女らは

「Doughnut Dollies」(ドーナツ・ドリー)

という愛称で兵士たちに親しまれていました。

こちら、赤十字社の創立者、クララ・バートン女史でございます。

南北戦争が起こった時、志願して従軍した彼女は、負傷者の手当だけでなく、
物資の配給や、患者の精神的ケアも行い、いくつもの前線を体験しました。

彼女はこの戦争で前線の病院の責任者に軍から任命されています。

 

4分くらいから彼女が登場し、妙にロマンティックなストリングスのBGMの中、
天使と言われた彼女の活動が描かれます。(おヒマな方用)

 

南北戦争後、彼女は多くの家族や親戚から戦争省あてに
兵士の行方を問い合わせる手紙が来ていることを知り、
無名兵士の墓などに埋葬されてしまって行方が分からなくなっている兵士の
身元調査を行う活動の許可を、リンカーン大統領直々に願い出ました。

その後起こった普仏戦争にも従軍した彼女は、帰国してから
アメリカに赤十字を設立する運動を開始し、その8年後の1881年、
設立が成った赤十字会長に自らが就任しました。

時にバートン、60歳。

普通なら男性でも仕事を引退してそろそろ楽隠居という年齢です。
しかもそれから23年もの間、実際に被災地に赴くなど精力的に活動を行い、
会長の座に君臨し続けたのでした。

しかしさすがに83歳になったとき、

「公私混同を非難され」

引退を余儀なくされた、となっています。
自分で作った組織という意識が老いの頑迷さも手伝って、
専横な振る舞いに繋がってしまったということかもしれませんが、
まあ・・・83歳ですからね。
それまで無事にやってこられたってのが逆に不思議なくらいです。

 

こちらのアーミー・フィールズコートは、女性用外套です。
バスローブのような打ち合わせの、裏地のついたコートですが、
目を引くのは全面に縫い付けられた無数のパッチ。

負傷などで入院していた兵士たちが全快して退院するとき、自分がここにいた記念と
お礼を兼ねて、置いていった自分の所属部隊のパッチを縫い付けたものです。

このコートはマーガレット・クリスト大尉(写真)の所有で、
彼女はイギリスの第155陸軍病院に勤務していました。

公式に陸軍に看護部隊ができたのは1901年のことになります。
第二次世界大戦時、2万人以上の女性が看護師として海外に赴き、
後方にあった1000もの病院の勤務に就いていました。

多くの戦場で、彼女たちは最前線にごく近いフィールドテントにも詰め、
そこで傷ついた男性の治療に当たることもありました。

これは「モア・ナース・ニーデッド」(もっと看護師が必要です)
と書かれた陸軍看護師募集のポスターですが、
こちらを見ながら渋く語っているらしいイケメンの

「The Touch Of The Woman Hand...」

という言葉にグッとくる女性を狙ってのことでしょうか。
そもそもこの男性が医者なのか患者なのかもわからないわけですが。

白い肩パッドの入ったテーラードスーツ、タイトスカート。
海軍のナースの制服のなんと凛々しく美しいこと。

南北戦争時代、「レッドローバー」という病院船があり、
それに看護師が乗っていたという記録はありますが、
冒頭写真の「聖なる二十人」の誕生する1908年まで、
海軍には正規の看護部隊はありませんでした。
彼女らが先鞭をつけることで、第一次世界大戦の頃には看護師の数は拡大し、
海外、フィリピン、サモア、グアムなどの海軍病院や訓練学校に配属されていきました。


そうと聞いても驚きませんが、彼女らにとってもっとも困難だった仕事の一つは、
海軍病院の部隊で教官となったとき、女性から命令されることに反発する
男性の訓練生の指導であったということです。


第一次世界大戦時、海軍の看護師部隊は、基本的にイギリス、フランス、
アイルランド、スコットランドなどに派遣され、前線近くの
陸軍基地に、一時的に陸軍のために仕事を行うこともありました。

1918年から1919年の間に12万人の水兵や海兵隊員が犠牲になったといわれる
スペイン風邪のパンデミックのときには、彼女らの中に数名の殉職者を出しています。

真珠湾攻撃の時、海軍の看護師たちは、海軍病院で何百人もの負傷兵の治療にあたりました。

そういえば、映画「パールハーバー」のヒロインは海軍のナースでしたね。
トリアージをするのに、自分の真っ赤な口紅をバッグから出して、
負傷兵のひたいに「緊急」「後回し」「死ぬ」など印をしてましたっけ。(悪意あり)

そして、

「あんたの破れた血管を手でつかんで血を止めてやったのは誰?」

とかいって入院していた兵隊を脅迫し、自分の恋人の居所を聞き出すとかね。

・・・・・ろくなもんじゃねえこの看護師(笑)


さて、そのような戦後の映画が作り上げた架空の人物のことはどうでもよろしい。
最後に、看護師の職に準じたある若い女性をご紹介しましょう。

 

フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)

彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。

彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。

その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。

そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。

「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」

これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。

その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。

 

 

続く。

 

 

ロニー、ウィニー、ロージー・ザ・リベッター〜ミリタリー・ウーメン

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戦艦「マサチューセッツ」内の展示、ミリタリー・ウーメンシリーズ最終回です。

航空、事務、医療、通信、暗号などの仕事で軍に直接関わった女性だけではなく、
戦地に出た男手が足りないのを補うため、軍事産業に携わる民間人女性がいました。

 

日本では世界大戦が始まってから、国家総動員法が制定され、
「国民皆兵」をスローガンに徴用が始まり、勤労動員として
軍需工場などに女性も働きに出ることになります。

余談ですが、朝鮮人徴用について少し触れておきますと、
国民徴用令が出されてもしばらく彼らは適用外とされていました。
しかし戦争が激化し、1944年8月に徴用決定後は終戦まで継続されます。
ちなみに日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月で終了しています。

徴用は宿舎を用意され、正当な報酬が支払われたため朝鮮人の間で人気があり、
三菱鉱業が朝鮮人対象に求人したところ倍率は7倍になったそうです。

戦後、賃金の一部が未払いであったことが問題になりましたが、
それも戦後、両国間の協定によって未払い賃金を含めた経済支援が韓国に行われ、
完全かつ最終的に解決された・・・・・はずなんですが、
今頃になって韓国が徴用を「強制」とし、大企業を訴えたりしてますね。

つまり「協定で解決済み」で終わる話なんですが、とにかく相手は
日本からの謝罪と賠償のネタを失いたくないばかりに、
ゴールポストを動かし続ける国ときていますから、最近も
「徴用工の像」なるものを作って嫌がらせにかかっています。


さて、国家総動員法が布告されたわけではありませんが、アメリカでも
同じように出征した男性の穴を埋めるために、それまでの男の職場に
女性が働き手として進出することになりました。

主婦を対象に働き手を募集することになったある企業のポスターには

「ミキサーは使えますか?それならあなたはドリルを操作することもできます」

という誘い文句が書かれていました。
家事がおろそかになるとそれに文句を言う(戦争に行かない)夫たちに対しても、
当の女性たちにも、彼女たちの労働が兵士たちを支援することになることに
誇りを覚えるようなプロパガンダが政府主導でなされたのです。

「ロージー・ザ・リベッター」はそのアイコンとなりました。

女性の働き手が国策によって男性の職場に進出しだしたのは真珠湾攻撃以降ですが、
彼女らを象徴的に表す「ロージー」の出現は、1942年になってからです。

この「ロージー・ザ・リベッター」と言う歌は、ナットキングコールやドリス・デイのために
作詞したこともあると言うレッド・エバンスとジョン・ロエブによって作曲され、
ビッグバンドなどがカバーして有名になり、流行しました。

歌詞で「ヒストリー」と「ビクトリー」の韻を踏んだり、

「彼女のボーイフレンド、チャーリーは海兵隊にいる
彼女は工場で働き、彼を守ることに誇りを持っている」

などといういかにも官製プロパガンダといった内容とはいえ、
そんな歌詞を流行りのスタイルに乗せた、ノリのいい曲です。

リベッターの『R』で「Rrrrrrrr」と舌を巻くのは個人的にいまいちですが。

最後には

「またキッチンに私たちを戻してね」=「早く戦争を終わらせてね」

とエプロンをした女性が呼びかけています。

 

戦時中の軍需産業勤労女性の象徴となった「ロージー」のモデルと言われる人物は
何人か名前が挙がっており、
サンディエゴのコンベア社(現在はジェネラルダイナミクス社に吸収)で
働いていた、ロージー・ボナヴィータであったとする説、
ケンタッキーのウィロー・ラン航空会社でBー24、Bー29を作っていた
ローズ・モンローだと言う説、

ローズ・モンロー

コルセアでガルウィングのF4U戦闘機のリベットを打っていた
ロザリンド・P・ウォルターであったとする説。

実際のところ、本物のロージーはなく、歌ができてから
「それらしいロージー」を仕掛け人たちが探し歩き、
見栄えのいい(モンローは映画出演も依頼されている)
ロージーを何人かでっち上げ?たというのが本当のところのようです。

日本ではあまり有名ではありませんが、アメリカではこのポスターを
例えば軍事博物館の売店などで見ないことはありません。

わたしもいろんなところでこれを頻繁にみるうちに、いつのまにか
これが「ロージー・ザ・リベッター」であると思い込んでいたのですが、
こちらはウェスティングハウス・エレクトリック社が依頼したポスターで、
よく見ると右襟には同社の身分証明バッジがつけられています。

つまり、これはロージーとは何の関係もなく、WE社が二週間使っただけで
ほとんどのアメリカ人は第二次世界大戦中このポスターを見たこともなかったのです。

ロージー・ザ・リベッターを広めるためにポスターを依頼されたのは、
実はあのノーマン・ロックウェルでした。

しかしこちらは、ロックウェルの著作権がガッチリと生きていたため、
戦後もそれほど有名になることはなかったということです。

”WE CAN DO IT! ”のポスターは長らく埋もれていましたが、1982年に再発見され、
当時はいわゆるウォーマンリブ、フェミニズム運動のシンボルとして使われ、
それ以降全米で有名になりました。

撮影年、場所は不明ながら、当時の”ロージー”たち。
頭につけた防具から、溶接の担当であったらしいことがわかりますね。

女性が、となるとどうしてもこういう、こんな美人がこんなことしてますよ、
というギャップで注目を集めようとする傾向が生まれるのはこれはもう
人の世の常というか、致し方ないことかもしれません。

モノクロ写真でもはっきりと彼女が当時の流行りの口紅
(パールハーバーでヒロインがつけていたような真っ赤)
をつけて溶接作業を行おうとしているのがセクシー。

ここで実際に「その他大勢のロージーの一人」に、当時のことを語ってもらいましょう。

ヘレン・マーフィ・オコネル・マーチェッティさんはこう語ります。

”金属加工の第二シートに配属されたの。
プレスをする仕事だけど、男の仕事をわたしができるか最初は不安だったわ。
でも、数週間経つと完璧に仕事をマスターしたの。

そう、わたしはやったのよ。

最初の日にボスのマクドナルドさんが私たちにやり方を見せてくれて、
そのあと実際に誰かやってみろ、って言ったのね。
エセルが14人いた女性の一番前にわたしを押し出したので、
そのおかげでわたしは、

「最初にここで仕事をした女性」

となったってわけ。
マクドナルドさんは

「あー、君はこのマシーンに興味があるみたいだね?」

なんていうのでガックリ来ちゃったけど。
でも結局私たち全員、この仕事をちゃんとマスターできたのよ。

この機械はとにかく騒音がものすごくって、そうね、
最初に働き出した時には巨大なコーヒーミルの中にいるみたいだった。
全ての機械が「ガーッ!」「ガーッ!」「ガーッ!」これが一日中。
そして戦争が続いている間、これがずっと続いたのよ。”

また、エレノア・へガーティ・ウィリアムスさんは、当時の工場勤務の女性が
男性から受けた仕打ちについてこう語っております。

”男たちの私たちに対する扱いはいいとは言えなかったわ。
彼らは私たちを野次ったり、口笛を吹いたり、仕事ができなくて
困っている時にも助けるどころかあざ笑ったりしていたの。

誰一人として私たちが困難な目にあっても助けようとしなかった。
だから頼れるものは自分だけ。
造船所の旋盤の前でも、船の上でも、野外であってもよ。

わたしたちは重たい索をバルクヘッドから引いて来て手で引っ張ったわ。
死ぬほど辛かったけど、でも誰も男の手を借りにいこうとはしなかった。
彼らにそれを知らせることすらしなかったわ。

労働環境は最悪、だってもともと男が働くための施設なんですからね。
労働者にはサボタージュする者もいたし、強姦や窃盗すらあったわ。
だからそこにいる時には全身に神経を張り巡らせ、自分を守るの。
一人では行動せず、いつもパートナーと動かねばならなかった。

それはともかく、わたしがここで働いていてもっとも誇らしかったのは、
何と言っても重巡洋艦「ピッツバーグ」が進水した時だったかしら。
彼女の巨大な船体が水の中に進んでいくのを見ながら

「ああ、あのターレットやバルクヘッドの一部はわたしが作ったのよ!」

って・・・感無量だったわ。
わたしには兄弟が3人いて、一人は海兵隊、一人は海軍、
もう一人は沿岸警備隊にいたの。
彼らの乗る船も、わたしのような女性が精魂込めて作ったものだったのよ。”

さて、ここ「マサチューセッツ」が展示艦となっているフォーリバーには
造船所があったことを前にも「キルロイワズゼア」の落書きについて説明するついでに
お話ししたかと思いますが、この「ロージーさん」は、フォーリバーに関する蘊蓄を

「Ten Fast Facts」

として10項目教えてくれる係。

ざっとご紹介しますと、

1、クィンシーは、ジョン・アダムスが最初に海軍を結成した地です。
 議会は彼の提案を承認し、米国海軍がここに誕生しました。
 アダムスは生涯自分が海軍の父の一人であることを誇りにしていました。

2、米西戦争が起こった後、アメリカは鋼鉄製の船を必要とするようになり、 
 それまでの木製から鋼鉄製に船を造り変えていくために造船所を作りました。
 グラハム・ベルの電話の発明に関わって財を成したトーマス・ワトソンが、
 ここにフォーリバー造船所を造り、歴史に名を残しました。

3、フォーリバー造船所はあらゆるタイプの造船が可能な設計で、
 空母から戦艦、巡洋艦、そして潜水艦を全て作ることができました。
 民間船でもフルーツボートから豪華客船まで、作れないものはないというくらい。

4、海軍の船の艦名はどうやってつけているか?というよくある疑問について。
 戦艦(今は潜水艦)は州名、巡洋艦は都市名、駆逐艦は人名、そして
空母は大統領名か、戦争の時の提督の名前です。

5、「キルロイ・ワズ・ヒア」というのは、第二次世界大戦時に流行った落書きです。
 ジェームズ・キルロイはここクィンシーの検査官で、検査済みの箇所に
「キルロイ」のサインをチョークで入れたことから、海軍軍人を通じて広まりました。

(この写真の説明下部に”キルロイ”の例の顔が見える)

6、ガダルカナルの戦いでヒーローとなったレオナルド・ロイ・ハーモンの名前をつけた
 駆逐艦「ハーモン」はここクィンシーで建造されました。
 これは史上初めてアフリカ系軍人の名前がつけられた軍艦になりました。

 彼は同じ薬剤師の同僚を庇って「サンフランシスコ」艦上で敵の銃弾を受け死亡しました。

7、最初の原子力搭載艦はクィンシー造船所で建造されました。
 原子力ミサイル巡洋艦「ロングビーチ」とミサイル巡洋艦「ヴィンセンス」です。

8、第二次世界大戦の間、史上初めて女性が工廠の仕事をすることになりました。
 彼女ら※「ウィニー・ザ・ウェルダー」たちは偉大な労働者であることを証明し、
 戦時非常態勢において、その造船数は記録的なものになりました。

9、第二次世界大戦中にクィンシーで建造された船には、
日本側が三度も撃沈したと発表するもその度に生き返って姿を現したことから
「ブルー・ゴースト」とあだ名されていた空母「レキシントン」、
そして35回の戦闘において一人の人命をも失わなかった
戦艦「マサチューセッツ」などがありました。

「マサチューセッツ」の16インチ砲は、第二次世界大戦の最初と、一番最後に発砲されました。

巡洋艦「クィンシー」はDーデイの時に最初に砲弾を撃ちました。
彼女は現在もクィンシーセンター駅に残されている鐘を残し、解体されました。

JFKの兄であるジョセフ・P・ケネディJr.の名前をつけた駆逐艦も
ここで建造されました。
彼は爆撃機のパイロットでしたが、任務途中で戦死しました。

10、 USS「セーラム」も第二次世界大戦中にここクィンシーで建造が始められました。
しかし彼女が運用されたのは戦後で、一度の戦闘も行わずに引退しました。

彼女の名前「セーラム」には「平和」という意味があります。

 

 

また当時「ウィニー・ザ・ウェルダー」というロージーの別バージョンもあり、
カリフォルニアのカイザーリッチモンドリバティー造船所の労働者である
ジャネット・ドイルをモデルにしていたといわれています。

このほかにも、

ロニー・ザ・ブレンガン・ガール(Ronnie, the Bren Gun Girl)

と言って、カナダでブレン軽機関銃を組み立てていた女性を
カナダ系軍需労働女性のシンボルにするというムーブメントもありました。

彼女はジョン・イングリスという兵器工場の労働者で、名前は

ヴェロニカ・フォスター。

組み立てたばかりのブレン軽機関銃を前に、タバコを一服やっているフォスター。
外は真っ暗。
夜遅くまで仕事して、しかもまだ帰れないらしいことがわかります。

ブレンガンガールのロニー、ウェルダーのウィニー、そしてリベッターのロージー。

国策でもてはやされた勤労女性の象徴の戦後はどのようなものだったのでしょうか。
先ほど体験談を語ってもらったエレノア・ハガーティはこんなことも言っています。


「戦争が終わって女性が解雇された時、複雑な感情だったわ。
男の人が戦争から帰って来て元の職場に戻るのは確かに喜ばしいことだけど、
わたしは途方に暮れてしまった。
『じゃあわたしはこの後ここからどこに行けばいいの?』って・・。


彼女らのアイコンであった「ウィ・キャン・ドゥー・イット」が、80年代に発掘され、
女性の人権を訴える運動のシンボルに担ぎ上げられたのは、何かの因縁でしょうか。

 


ミリタリー・ウーメンシリーズ終わり



アメリカの大学・東海岸編

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今回のアメリカ滞在中、いくつかの大学を見て周りました。

TOの留学先、息子のキャンプ先などでよく知っている学校は除き、
学校のアドミッションが主催するツァーにスケジュールが合ったものに限ります。

アメリカの大学の内部を見る機会など滅多にないので、実は観光気分です。

最初はボストンの中心部に近いとあるユニバーシティ。
勝手に規模が小さいと勘違いしていましたが、とんでもない。

そもそも「ユニバーシティ」というからには、いくつもの学部の集合体で、
国土の広いアメリカではそれだけで一つの街というくらい規模が大きいのが普通です。

案の定この大学も集合場所近くのパーキングはすでに満車。
指示されて停めたタワーからは気の遠くなるような距離がありました。

おまけにボストンはこの季節、昼間は焼け付くような日差しです。
集合場所であるオフィスにたどり着いた時にはホッとしました。

アメリカの大学の規模と設備に改めて驚きます。
下手するとこんなクラスルームがいくつも学内にあったりするのがアメリカ。

ここで学校についての概要のレクチャーが行われるようです。

この日のツァーは、当大学工学部の見学でした。

「エンジニアリングとは何か?」

やたら壮大なテーマですが、結局答えはなんだったのかと尋ねられると困ります(笑)

 

アメリカの大学にはこういう場合に『マイクを握って半世紀!』
みたいな学校案内専門のスタッフがいて、
その喋り方や質問の受け答えなど、まさにプロといった喋りをします。

アメリカ人はこういう場で質問をしないということはほとんどなく、
説明の時間半分が質疑応答になってしまったりします。 

バイオ工学、化学、コンピュータ、機械工学、環境、産業などの単体のの学問を、
「コンピュータ工学とコンピュータ科学」「機械工学と物理学」などのように
融合させたフレキシブルな専攻があります、らしいです。

内容はフレキシブルな選択というところで適当に理解してください。
右側に転々と足跡がありますが、大学のマスコットのものです。

大抵の大学には、犬やクマ、狼、鳥類、爬虫類、時々虫など、
オリジナルマスコットがいます。
大抵はアイドル化しやすい哺乳類ですが、ナメクジ(サンタクルーズ大学)とか、
「木」(スタンフォード大)なんてのもあります。

木・・・なんかいろいろと盛り上がらなさそう。

当大学の学生数は2万5千人。
3年連続で、全米大学トップ50校以内に選出されており、最も革新的な大学のカテゴリーでも
上位にランクインする東海岸の名門トップ大学(wikiによる)です。

本日の説明会にhほとんどの学生は親と一緒に参加していました。
夏休みなので、家族旅行かたがた大学を見に来たという家庭
(我々もそうですが)も多そうです。

この後、見学者はグループに分けられ、現役の学生に案内され学内を廻ります。
このパターンはどこの大学に行っても同じでした。

案内役は夏休み帰郷しない学生のアルバイトです。

広大なキャンパスを歩き、改めてアメリカの大学の規模の大きさを思い知ります。
工学部のある研究棟には、浮世絵コレクション(本物)が何枚も壁にかかっていました。

彼らのツァーには必ず学生が生活するゾーンが含まれます。
こちらは学生寮に近いカフェテリアですが、左側の「オー・ボン・パン」
(ボストン近辺で展開しているベーカリーチェーン。日本でいうと神戸屋?)
は、一般道に面しており、誰でも利用することができます。

図書館にもほとんど個人名がついています。
成功した卒業生が自分の出身大学に建物を寄贈して名前を残すのです。

このブロンズ像は「シルマンの猫」というそうです。
ロバート・シルマンは当校で『も』学位を取り、「コグネックス社」の創立者となりました。

シルマン氏はまだ存命ですが、この銅像の詳細(なぜ猫なのかとか)
については実のところはっきりしていないようです。

当たり前ですが、アメリカの大学にはどこも中心となるところに
国旗が掲揚されています。

学舎を寄付するほどの富豪になれずとも、自分が在籍していた証を残すことはできます。
卒業生の名前が刻まれたロータリーの敷石。

また別の日。

わたしたちはまたしても同じ大学のツァーに参加しました。
今回は建築専攻科の見学をするためです。
前回と打って変わって、この日の天気は一日中雨でした。

ただしアドミッションオフィスの近くに車を止めることはできました。

当大学は1916年に開学しました。
ちょうど第一次世界大戦(1914−8)の真っ只中に創立されたということになります。

ということは、このベテランズメモリアルは、それ以降の戦争の犠牲者のものでしょう。
慰霊碑には第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の写真があしらってあります。

さて、今回わたしたちは建築科の説明を聞くために参加したのですが、
建築は工学部ではなく「アーツ・メディア・デザインカレッジ」に含まれます。

デザインのほか、「メディア」はコミュニケーション学科、
メディア・スクリーン研究、音楽学科、映画、ジャーナリズムなど。

ということで、前回の参加者とは明らかに参加者の雰囲気が違いました。

一口で言うと、女子、しかも明らかにあわよくばキャスターになったる!的な
気合の入った化粧バッチリ系が全体の雰囲気を支配していたといいますか。

卒業後の就職先にはテレビ局もあり、どの局のなんとか言うキャスターは
うちの出身ですよ、みたいな説明もありました。

説明を聞いていた中から、志望学部ごとにツァーが出発していき、
最後に残ったのはメディア専攻とは全く雰囲気の違う、
よく言えば理系、悪く言えば地味系の見学者が建築科見学者でした。

説明をしていたデザインカレッジのディレクターは建築科の主任で、
わたしたちは彼に連れられて、建築専攻の建物に向かいました。

建築の建物はキャンパスが接している線路の高架下を利用しています。
時折大きな音を立てる作業なので、高架下はちょうどいい場所なのでしょう。

高架下なので、細長く延々と続く作業室は全て建築科の領域です。

天井にはむき出しで電気と温水のパイプが張り巡らされ、
長いソケットが天井からブラブラとぶら下がっています。

一応その辺のポスターも写真に撮っておきました。
いわゆる絶叫マシンのデザイン、などと言うカテゴリもあるんですね。

集合住宅のデザイン。
アメリカのように土地のあるところにはいくらでも家が建てられるので、
集合住宅の需要はあまりないと思われがちですが、都市部では決してそうではありません。

昔の公衆電話のように生徒なら誰でも使えるコンピュータがあります。

合格率の低さに反比例して学費は大変お高い大学でしたが、
アメリカの大学は名門になるほどこの傾向が強くなります。

さて、東海岸ではもう一つ大学のキャンパスを見学しました。

ボストン郊外の緑の多い高級住宅街の中に忽然と現れる工学系カレッジ。
2000年以降に生まれた新しい大学ですが、工学系大学関係者や、
企業からはその先端的な教育で大変注目されています。

創業者の肖像。
アドミッションツァーに参加する学生の数は前回の総合大学とは全く違い、
全部で10人くらいで、全員がツァー前に自己紹介しあいました。

学校の規模も一学年が80名と大変少なく、生徒3人に教授が一人、という割合です。

しかしアメリカのカレッジなので、キャンパスは日本規模なら「広大」と言っていいでしょう。
何しろ、グラウンドとスポーツコート、学生宿舎をもつキャンパスが、
それまでただの森であったところに突如現れるのがアメリカなのです。

アドミッションの説明は、当大学の特殊で革新的な教育がいかに注目されているか、
その創立の意義などから始まりました。

古い映画のポスター風の「大学ができます」というお知らせがユニークです。

専攻は電気・コンピュータ工学、機械、工学一般の三種類。
工学一般はバイオエンジニアリング、コンピューティング、デザイン、
材料科学、システムなどに分かれます。

工学教育におけるコミニュケーションやチームワークを重視しているのも特徴です。

工学、といっても、アーツ、ヒューマニティ、社会科学、起業の要素の融合させ、
学生がここで学んだことが社会に即役に立つことを目標としています。

オーケストラも「クラブ活動」の域ではなく、授業の一環として重視されています。

「スポンサー」というのは、この大学に1年あたり5万ドルを供出する企業です。

そのお金は学生のプロジェクトに充てられ、学生はスポンサー企業と連絡を取り合って
企業の求める研究や商品の開発を行うのです。

面白いのはそこで終わるのではなく、それらの市場におけるニーズ、
ビジネスとして成立するかについても分析を行います。

そんな大学ですから、卒業後の進路はよりどりみどり。
109の会社がリクルートに訪れた、とありますが、卒業生はせいぜい80名。

いかにこの新設大学卒業者が企業側からも嘱望されているかがわかります。

そんな大学ですから、学費が高くて当たり前。
というか、高いので有名なんだとか。
しかしこれは額面で、奨学金で半分は賄えるそうです。

説明の後は他の大学のように現役学生が案内するツァー開始です。

合格する学生の学力は大変高く、SATスコアはMITやカルテックレベルとか。
右側の男子生徒はジョージア工科大学にも合格したそうですがこちらを選んだそうです。

女子の方は『家から近かったから』。

学内どこに行ってもこのような、雑然としながら秩序のあるクリエイティブ雰囲気があります。

彼らの説明によると、ビリヤードは彼らに取って非常に意味のあるホビーなんだとか。

ラーメンを食べているプシーン猫のイラストを目敏くを見つけて写真を撮るわたし(笑)

椅子や机はあちらこちらに配置され、ソファーがあったりして実に自由な空間。
どの机の上も何かの途中で席を立ったようにモノが放置され、
潔癖症なら気が狂いそうになるかもしれません。

ここはなんと「ライブラリー」ということになっている部屋。

吹き抜けの空間を臨む腰高の仕切りにはコンピュータデスクがありますが、
そこに向かっている男子生徒は裸足で、右足を左脚の膝にかけ、
一本足の姿勢で立ったまま、ずっとコンピュータに向かっていました。

なんかとにかく凡人じゃないって感じ。

というわけで大変印象的な大学見学は終わりました。

この周辺には東部の名門カレッジが多くあり、当大学は大学間の
相互乗り入れや共同講義を行っているということです。

住んでいた時代からお気に入りだったベーカリーの支店がここに。


西海岸でも大学見学を行いましたので、後半はそのご報告です。

 

 

アメリカの大学・西海岸編

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東海岸で二校、計三学部の見学をしたというご報告をしましたが、
西海岸移動後にも二つの大学のツァーに参加したので今日はそのお話を。

今回も今まで見た&行ったことがない大学です。

まず、ロスアンゼルス郊外にある、リベラルアーツカレッジ。

リベラルアーツとは、人文科学・自然科学・社会科学及び学際分野にわたる
学術の基礎的な教育研究を行う四年制大学のことです。

卒業者はロースクールやメディカルスクールに進学することもあり、
いずれの分野についてもここで基礎を学ぶことができるという仕組み。

リベラルアーツカレッジの多くは、学業に専念できるように
キャンパスを郊外や小都市にに持っているところが多く、また、
全寮制で学生生活は学内で完結するため、大抵は少人数で
ファミリー的な雰囲気であると言われています。

この日見学した大学も、ロス郊外の住宅地に突如現れました。

 

わたしたちはこの前日までサンディエゴにおり、10時のツァーに間に合うように
6時30分にホテルを出発したのですが、フロントの人に

「これからロスアンゼルス?それは大変ですよ」

と真顔で忠告されて大いに不安でした。

後から知ったのですが、ロスを中心とした周辺のフリーウェイは
ほぼ毎日、通勤帰宅時に大渋滞となるのだそうです。

案の定5車線も7車線もある道路がギチギチに混む地獄のような渋滞に巻き込まれ、
目的地に着いた時には10時15分。
わたしが車を停めている間に二人は走って集合場所まで行き、
かろうじてツァースタートの前に滑り込むことができました。

「将来何があってもロスには住みたくないね」

グランドピアノが二台向かい合わせにおいてある談話&娯楽室。
ここからツァーは開始しました。

実は恥ずかしながらわたしはこの日までこのカレッジの名前すら知りませんでした。
アメリカ在住の友人も知らなかったので、そんなものかとも思うのですが、
カリフォルニアでは最も歴史のあるリベラルアーツカレッジだそうです。

キャンパスには手入れの行き届いた緑が広がります。
「アメリカで最も美しいカレッジキャンパス」の6位に入賞したこともあるとか。

東海岸以上にカリフォルニアの昼間の日差しは強烈なので、
ツァーが室内に案内されるとホッとします。

このソファや椅子のたくさんあるスペースには、どう見ても学生でない人たちが
明らかに涼むためにきて座り込んでいました。

入り口に門衛がいるわけではないので、アメリカの大学はその気になれば
誰でも入って来ることができるのです。

侵入者が「ペルソナ・ノン・グラータ」かどうかは、どこの大学にも設営されている
「スクールポリス」が判断し対処します。

 

学校がある時にはラボらしいこの部屋では、小学生対象のキャンプが行われていました。

この後、全寮制のこの大学の学生寄宿舎を見学。
TOは「こんなところに3人なんて狭い」と文句を言っていました。
学生のドミトリーなんてどこでも似たようなもんだと思うんですが。

建物は「古きカリフォルニア」というか、南欧風。
東海岸の古い大学とは全く違う方向ですが趣があります。

「ドクターOの庭」というプレートがはめ込まれた石が置かれた一角。

1986年から2012年までここで化学を教えていた大槻哲夫先生を偲んで。
この名前でぐぐると、有機化学の本などが出てきます。

少人数制で一人一人の生徒に手厚い教育を行うという体制であるため、
リベラルアーツカレッジの学費は大変高額なものになります。
そのためアメリカにおける上流階級やアッパーミドル階級の価値観を大きく反映しており、
実際に上流階級やアッパーミドルクラス出身の学生が多いのも現実です。

「いかにも白人の子弟のための学校って感じ」

わたしたちは見学が終わってから感想を言い合いましたが、ただ昨今は
ダイバーシティの観点からマイノリティと言われる層の取り入れにも熱心で、
学生の42%がいわゆる非白人だそうです。

このサイエンスセンターのロビーにはこんなモニュメントが。
吹き抜けの天井から下がっている振り子、実は時計だったりします。

次は図書館。
返却された本を一時的に置くコーナーで日本語の本発見。

「はぶぁないすでい」という、実にイラっとくるタイトルです。

この学校が有名になったのは、オバマ前大統領が在籍したことがあったからでしょう。

 3年が終了した時、このカレッジはコロンビア大学ロースクールに転学するという
プログラムがあるのですが、オバマはそれを利用したようです。

アメリカ人は最初から最後までその大学でしか勉強しなかった、というより
(たとえハーバードのような名門校でも)、オバマのようにこの大学から始めて
最終的にハーバードやカルテックなどの総合大学で自分の専攻を極めるという方が
イケてる、と捉える傾向にあることは、何人かのアメリカ人と話して気づいたことです。

噂によるとバラク・オバマはここの学生時代決して優秀ではなかったそうですが、
学校の方は今や「オバマ大統領の出身校」を売り物?にしている様子。

今調べたら、ベン・アフレックもこの大学出身で、大学時代から映画を作っていたとか。

このガラスケースは、大統領始め当大学出身の有名人コーナーであるようです。

ロス近郊の丘陵地にあるため、キャンパスは緩やかな傾斜に沿って建物があります。
昔の写真を見たら、1900年代初頭でほとんど今と変わっていませんでした。

この建物はダイニングとカフェ。
スタンフォード大学もこのような地中海風の建物が多く見られます。
これはカリフォルニアの古い大学の傾向なのかもしれません。

有名な建築家が1939年に校内の多くの建物を設計しましたが、
このホール始めその全てが現在も使用されています。

最後に説明が行われた教会のようなホール。
入るなりムッとした古い匂いが鼻をつき、明らかにこれは創立当時からあると思われました。

ここでアドミッションの人の説明がありましたが、その最中、中国本土からの参加女子が
袋菓子を取り出し、大きな音をさせて食べていました。

白人の価値観が色濃く残るこの大学では、留学生は全体のわずか3パーセント。
いかにお行儀の悪いアメリカ人であっても、こういうのは嫌がるだろうなと思いました。


さて、続いてはやはりロスアンジェルス近郊にある総合大学。
歴史もあり西海岸の工科系大学の雄ともされる有名大学です。

例によって指定された駐車場は集合場所までとてつもなく遠いところに・・・・。
昔からのキャンパスの道を隔てたところにはこのような超前衛的なビルがあります。

見ているだけでなんか不安になってくる建物です。

こちらが創学当時から存在するキャンパス。
設立は1891年、アメリカの大学ですから決して小さくはありませんが、
そのスペースに学生数は2200人。

集合場所となっているアドミッションオフィスに行く途中に、
日本企業の名前を見つけてびっくり。

この後ツァーで歩いていたら、明らかに日本人であろうと思われるグループが
白人の教授っぽい人と英語で話しながら歩くのとすれ違いました。

こういう建築様式をチューダー調というんでしたっけ。
庭園に囲まれたホテルといった趣ですが、これも学校の一部。

この中で参加者は集合し、この後グループに分かれてツァー開始です。
ギリシャ神殿のような装飾の柱ですが、アメリカでこの手の柱は大抵が木製。

中は冷房が効いていてホッとしましたが、狭いので、全員が集まった時には立錐の余地もありませんでした。

工科大学らしく、元素周期表を利用して大学案内をしています。

V23(バナジウム)

最終試験の週、ワグナーの「ワルキューレの騎行」が毎朝7時、
「耳もつんざけんばかりの音量で」鳴り渡る

卒業生がその後ワグナーが嫌いになること間違いなし。

遠くてわかりませんが、パティオの下には白と青のクロスのかかったテーブルがあり、
今夜ここでディナーが行われるようなかんじでした。

この時間はフライパンで煎られるように暑いですが、夕方からは寒くなります。

校舎は回廊式というか、このような渡り廊下で繋がれています。

柱の上部に彫り込まれたのはフットボールの選手・・・
じゃなくておそらく戦の神ヘルメス。

学生寮の内部も見学しました。
これまで見てきた大学の中で最も寮内部は雑然としており、
変な落書き(ここにとても出せないような)があちらこちらにされていました。

みんな半端なく頭のいい学生のはずですが、もしかしたらこのレベルになると
実質「紙一重」みたいなのが多いんだろうか、とふと思ったり。

この後ツァー参加者が一堂に集められ、例によってアドミッションの説明を聞きました。

本学出身のノーベル賞受賞者は34名、ノーベル賞は35回!
(つまり一人が2回取ってるってことです)

これまでの全ての受賞者の総数がそれ以下の国の人として、軽くビビります。

なぜか構内に本物のキャノンがありました。
普仏戦争で活躍した本物で、現在はランドマークとしてここにあるのですが、
このツァーで面白い話を聞きました。

この大砲、卒業などのイベントで空砲を撃つこともでき「生きている」のですが、
2006年に東部の某有名工科大学の学生が、メンテナンスのフリをして運び出し、
盗んでボストンに持って帰ってしまったことがあったそうです。

普通に窃盗な訳ですが、こちらの有志も負けておらず、わざわざ相手校に乗り込んで取り返し、
大砲のあった場所にミニチュアを置いて帰りました。

両校のライバル意識を表す話として結構微笑ましく語られているようですが、
実は結構当事者には笑い事ではなく、こちらでは、胸に「CALTECH」のロゴ、
背中には『MIT=CALTECHに入れなかった人の入る大学』
とプリントされたTシャツが堂々と売られているんだとか。

おお、ここにも日本人教授のお姿が!

Toshi Kubotaと学生証にはあります。
調べてみると、1957年に元海軍士官だったゴトウタケイチ、
オグロハルオさんと一緒に撮った卒業写真が出てきました。

海兵卒でここを卒業した人がいたんですね。

というわけで、世界の最高レベルである工科大学の見学を終わり、
駐車場に帰ってきました。

実はこの球技場全面の地下は、地下三階の駐車場になっています。

アメリカの大学おそるべし。

って何に感心してるんだか(笑)

 

 

 

 

 

 

 

平成29年度富士総合火力演習 予告「来てはいけない人」

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今年も富士総合火力演習、通称総火演にいってまいりました。

前日2時半にうちを出て帰って来たのが夕方の6時半、ということで
昨夜は夢も見ずに爆睡したのですが、今日起きて写真を整理していたら
今回同行したイベント仲間からメッセージが来てこんなニュースを知りました。


【東富士演習場で男性が一時、行方不明 演習中止に】

24日、静岡県御殿場市の東富士演習場で男性が一時、行方不明になる騒ぎがあり、
夜間に予定されていた陸上自衛隊の演習が中止となりました。

東富士演習場では24日、陸上自衛隊による国内最大規模の実弾射撃訓練、
「富士総合火力演習」の予行演習が行われていて、地元の住民などに公開されていました。
このなかで、静岡県浜松市に住む90歳の男性が行方不明になったと
一緒に訪れていた人から自衛隊に通報がありました。
そのため、陸上自衛隊は男性が演習場内に入った可能性もあるとして、
午後7時半から予定していた夜間の予行演習を中止しました。

その後、男性は自宅に戻っているのが見つかり、25日から演習は予定通り行われます。

 

こんなとほほな事情で中止になるとは、夜間演習を楽しみにしていた人たちも
怒りを通り越してがっくりでしょう。

わたしは去年夜間演習のチケットをいただき参加しました。
昼間の演習を見学終了後、御殿場市内で夜まで時間を潰し、
早めに列に並んだおかげで最上段に座ることができたのですが、
(例によってお仲間の無謀とも言える作戦立案の成果)もしあの苦労が
今年のようなことがあって無駄になっていたらと思うと・・・。

暴動を起こさなかったこの日の観客の民度を賞賛せずにはいられません(笑)

 

要はおじいちゃん(かなりの確率でボケていると思われ)が勝手に会場を離脱して
勝手に帰宅していたのに、携帯など持っていないので連絡が取れなかったと。

心配した同行者が自衛隊に連絡したところ、それが90歳の老人であることから、
どこに徘徊しているかわからない(つまり演習所にフラフラ入り込む可能性あり)
と自衛隊も判断したため、当人が見つかるまで演習を中止にしたと。

自衛隊の判断としては、当然のことだったといえます。

しかもこれ、

その後男性は自宅に帰っているのが見つかり

って、家族が家に帰ったらいたってことですよね?
お風呂に入ってさっぱりした(かどうかは知りませんが)じいちゃんが。

「あー!おじいちゃん帰ってたの!何で黙って帰っちゃうの!」

と驚き呆れながらもホッとした家族は慌てて自衛隊に連絡し、平身低頭
(かどうかは知りませんが)で謝ったということが想像されるのですが、
おそらくその連絡を受けるまで、東富士演習場では何十人(もっとかな)
単位の自衛官を導入して必死の捜索活動をしていたと思われるのですよ。

本人生存(笑)の報を受け、その後陸自では状況終わりとなり、
何事もなく終わったわけですが、自衛隊側から見るとこんな迷惑な話はありません。

そもそもこんな騒ぎの責任は、皆さん誰にあると思いますか?

おじいちゃん?

ではありません。
90歳の老人を総火演に連れて来たという同行者です。

本人がたとえ今生の思い出に総火演を見たいと言い張ったとしても、
(かどうかは知りませんが)

「いや、あそこは90歳の人にはきつすぎるからやめといたほうがいい」

と諌めてでも参加を阻止するべきだった、周りの人たちです。

きついというのは体力的なことだけをいうのではありません。
要するにこの老人は大混雑の現場ではぐれて、とっとと帰ってしまっていたのでしょ?

そこで同行者に連絡を取ることもできないような判断力のない老人を、
そもそもこんな場所に連れてくるなって話です。

・・・こんな場所。そう、こんな場所です。

総火演が「どんな場所」だか全くわからないで来ている人というのを
わたしは過去何回かの総火演体験で見て来ました。

自衛隊広報は、総火演がどんなに過酷で老人子供に不適切な場所かを
もう少し広報すべきだと思いますが、ここでわたしが心を鬼にしていいます。

1、老人は来るな

2、乳幼児を連れて来るな

3、ハイヒールで来るな

4、マナーを守れない者は来るな

 

1、老人は来るな

老人というのは本人に自分が衰えているという自覚がありません。
体力はもちろん判断力も加齢によって若い頃より低下しているのに、
本人は自分だけは大丈夫だと過信して、安易な気持ちでやってくる。

そして、今回のようなことをやらかすのです。

観艦式の時に、艦上で倒れた年配の方がいましたね。
すぐさまヘリから病院に救急搬送され、自衛隊の危機管理能力の高さに
現場にいた人は拍手を送ったということですが、結局その方は亡くなったと聞きます。

亡くなった方には失礼を承知で言いますが、そういう可能性が少しでもあるなら
そもそも観艦式などのイベントへの参加は自重するべきではなかったでしょうか。

 

3、ハイヒールで来るな

上の写真は演習場となっている正面の会場に駐車場から歩いていく道です。
黄色いロープの仕切りは、各駐車場に向かうバス待ちの列ごとに分かれているからで、
ここを歩かねば、全ての人は入場も退場もできません。

もちろん政府関係者や特別招待客などで、駐車場に迎えが来ていたり、
車で会場の真ん前まで連れて来てもらえる人は別ですが。

で、この道が、5センチ台の大きさの砂利がゴロゴロしている坂道で、
急いで歩いても15分はかかる距離です。

 

今回杖をついて歩いている人が、途中で立ち止まってゼイゼイ言ってるのを見ましたが、
会場に着きさえすればもう大丈夫、というわけには行きません。

冒頭の写真は朝7時半の画像。
シート席の人たちは自衛官に誘導されて順番に前列から座っていきますが、
ここでは携帯椅子も使えませんし、足も伸ばせず、炎天下で全く影がありません。
雨が降って来ても傘をさすことはできませんし、一旦座ってしまったら
席を立ってトイレに行くのも人混みで一苦労という環境です。

わたしは今回、駐車場の開門を4時過ぎから待っていました。
もちろん同行者はこの前の時間からスタンド席の列に並んでいます。

2、乳幼児を連れて来るな 

6時に駐車場からのバスが発車し始めました。
しかし、このバスで会場に着いた時にはスタンド席待ちの列はいっぱいでした。

ところで、お恥ずかしい話ですが、この時わたしはバスに乗ってから

カメラを車の中に忘れているのに気づき、

同行者にチケットを渡して入場し、席を確保してからもう一度
駐車場にバスで取りに戻りました。

朝なのでわたししかいないと思ったら、同じバスに、

「来てみたけれどやっぱり帰ることにした」

という乳幼児連れのお母さんが乗っていました。

英断です。

どんなところか全くわからず家族で来てみたものの、
喃語でうにゃうにゃいうだけの歩けない人間と一緒にこの環境では、
親子共々とても1日保たないと判断したのでしょう。

バスの中で、女児がパパー、というと、母親はスタンドを指して

「パパあそこにいるよ」

と言っていたので、おそらく父親は現地に残ることにしたようです。
これ、多分お父さんが来たかっただけなんだろうな。
どんなところか知っていたら最初から一人で来てたんでしょうけど。

もちろんベビーカーなど使えないので、(物理的にも規則的にも)
お母さんは会場から足元の悪い砂利の坂道を子供を抱いてよたよたと降りて来て、
まず自分がトイレに行っている間バス会社の社員に子供を抱っこしてもらい、
バスに乗ったら今度は子供を座席(しかも最前席)に置いたまま、

・・・なんと携帯でメールを始めました。

バスの運転手は横目で赤ちゃんがシートの上でウゴウゴしているのを見ながら、
ビクビクという感じで時速10キロで這うように運転しています。

見かねて、

「お母さん、お子さんそこで大丈夫ですか?抱かないと危ないですよ」

と声をかけると、彼女はすみません、と言って赤ん坊を膝に抱きました。
会場から離脱するだけでも女手一つではあまりに大変だったので、
バスに乗ってホッとして、少しだけでも手を離したくなったのでしょう。

そこで携帯というのは常識的にどうかとは思うものの、わたしも
子育て経験者として、彼女のこの時の気持ちは痛いほどわかりました。

 

しかしだからこそいいます。乳幼児は連れて来るな。
いや、乳幼児がいるなら参加はもうその時点で諦めていただきたい。

子供を空気も振動するような戦車発砲の轟音に晒したり、火砲の煙火を見せたり、
炎天下で日よけもない直射日光の下に長時間居させるなど言語道断です。

 

去年、ミニスカートで12センチのストームヒールのサンダルを生足で履き、
しかも3歳児の手をひいて歩いていた母親を目撃しましたが、
これなどここに来てはいけない人の標本みたいなもんです。

本人だけが辛い思いをするならそれは自業自得ですが、
判断力のない子供を親のエゴで虐待するな!と言っておきます。

 

これはわたしが忘れ物を取って帰って来た時、8時半の様子です。
シート席に座るつもりなら、この時間でも10時ギリギリでも同じです。

むしろ、早くから来てずっと地べたに座っているのがしんどいのなら、
9時ぐらいに来てシートの後ろの方に座った方がましかもしれません。

しかし、こういうイベントでいつも思うことですが、老人(男)の
マナーの悪さ、これは眼に余るものがあります。

4、マナーのない者(老害)は来るな

これも、自分がマナーがないということを自覚している人はいないからねえ(笑)

観艦式でも不愉快なマナー違反をするのは必ず団塊の世代のカメラ持ち男性でしたが、
こういう過酷なイベントで、自分だけが少しでも楽をするため、
自分勝手な振る舞いをして恥じないのはこれもなぜか必ず団塊老人です。

会場は最終的にはこんな状態になります。

これは後段演習の一番最後のシーンですが、シート席に空きがあるのは
前半終了後混雑を嫌って帰ってしまう人が結構いるからです。
しかし、フェンスの向こう、通路は立ち見している人がぎっしりいる状況。

シート席は、始まる前にも予行演習中も、自衛官が誘導して順に座らせていくのですが、
誘導を待たず、勝手に自分の好きな場所に座ってしまう人が必ずいるのです。

今回も二人の男性を目撃しました。

誘導の自衛官がやってきて、ちゃんと順番に並んでください、と注意するのですが、
見ているとなんやかんやと寄ってたかって言い返し、根気よく説得する自衛官に
逆に食ってかかり、果ては無視を決め込んで居座り続ける構え。

「あれ、どうなるんでしょうね」

上から見ていたわたしたちですが、結局自衛官は根負けしてしまいました。

「あーあ、ごね得だ」

「自衛官もそれ以上強くいうことができませんからね」

「故意犯ですね」


独自のルールで、勝手に階段の通路に座り込む輩も全員が団塊です。

前段演習が終了した頃、入り口で立っていたその世代のおっさんたちが、
わたしたちの一角のスタンド席通路に上がってきてちゃっかり座りこみました。

警備の自衛官が『通路ですので』と注意しても例によって知らん顔。
わたしたちの周りに座っているのは全員が早くて前日の夜、遅くとも朝4時に現地入りして
ずっと座って並び、この高さのシート席を確保した人たちです。
皆が内心ムカムカしていたと思うのですが、一人の男性がついに声を荒げました。

「通路に座ってんじゃないよ!そこどけよ」

すると、最上段近く、前日徹夜組の横の通路階段に座っていた団塊夫婦の夫の方が

「みんな座ってるじゃないか」

と下3段くらいに座り込んでいる人たちを指して言い返したのです。
ちょっと信じられない図太さですが、自衛官と違って遠慮しない男性はそれに対し、

「みんなやってるって子供かよ!
あんたは誰かがやってたらって理由で人殺すのか!」

と怒鳴りつけました。

「だいたいみんな何時から並んでここ座っていると思ってんだよ!」

この決め台詞に、わたしを含め周りの人たちが一斉に頷く空気になり、
冷たい目で周りから見られるのに、さしもの団塊も堪り兼ねたらしく、
(というか奥さんがきっと我慢できなくなったんだと思う)
去って行きましたが、男性は容赦無く彼らを睨みつけ、

「あいつら、立ち見(つまりギリギリにきた)だったんじゃないか」

といかにも厚かましい、といった様子で吐き捨てました。

「こんな場所」であることを知らず、始まる直前に来て見たら座る場所もない、
立って人垣越しに見るのは辛い、ということで我慢できず暴挙に及んだのでしょうが、
少しでもいいところで見たい人はそれなりの苦労をしているのだから、
ちょっとこういうのは遠慮して欲しかったですね。

周りも不快だし、皆の冷たい視線を浴びて観戦しても楽しくないでしょうし。
それに、前日徹夜組を怒らせたら、怖いよ(笑)

 

というわけで、もしこのブログを目にした方で、土、日の参加を考えている人、
少しでも自分を振り返って思い当たる節があるなら、悪いことは言いません。
総火演の参加はやめた方がいいです。

というかぜひやめていただきたい。

イベントが終わっても車で来たが最後、夕方まで御殿場市内は渋滞し、
高速に乗るだけで2時間はかかり(特に日曜日)ます。

行きの駐車場で、今や陸自にも出現したらしいトーキング系自衛官が

「本日はディズニーランド以上の大混雑が予測されます。
これは嘘ではありません。わたしは嘘をついたことはありません」

と何回も繰り返してみんなの笑いを誘っていましたが、
わたしも嘘は言いません。(嘘をついたことがないとまでは言いませんが)
幼児と老人と体力のない人には徹底的に優しくない過酷な現場、
甘い考えで行けばそれだけ痛い目を見る、それが富士総合火力演習の実態です。

 

さて、蛇足ですが、冒頭のテレビ朝日の案の定なニュースについて。

今回の演習中止は全く自衛隊に責任も落ち度もありません。
しかし、なんとなくこのニュースに自衛隊を非難する調子が含まれており、
しかも、最後にこんな一行をつけ加えずにはいられないテレビ朝日に、
わたしは「やっぱりマスゴミだわ」と嫌な意味で感心し、納得しました。

曰く。

「演習が行われている東富士演習場では先週、
訓練中のヘリコプターが不時着する事故が起きています」

いや、この事故も知ってたけどさ。
ボケ老人が世間を騒がしたこととなんか関係あるのっていう。
今回迷惑かけられたのは自衛隊ですよ?

 

というわけで、参加報告の前にちょっとした苦言と提言を呈させていただきました。
それでは上記対象「以外」のみなさん、ルールを守って楽しい総火演見学にしましょう。

Have  A Nice SOUKAEN!

 

 



曳火射撃〜平成29年度富士総合火力演習

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前回もお話しした通り、車の中にカメラ(しかもカメラバッグごと)
忘れて、バックパックと三脚だけを持って身軽にバスに乗り込んだところ、
出発した瞬間そうと気がつき、駐車場と会場の間を往復したわたしです。

前回思いっきり「判断力の低下した老人は総火演に来るな」と言っておきながら、
ちょっと寝不足だっただけでこの判断力の低下。
説得力も何もあったもんじゃありませんが、とにかくこれで往復に1時間かかったので
会場に戻った時には、リハーサルはほとんど終わりかけでした。

わたしが席についてカメラを取り出した時には、96式装輪装甲車が退場するところでした。
で、これが第1写なのですが、車上の隊員・・・

これどう見ても女性に思えません?
写真をアップにして

「これ女性ですよね?」

すると同行の人は同じく自分の写真を見せて

「でもこれ、ヒゲがあるようにも見えますよ」

「うーん・・・どっちだろう」

「どっちだったとしても失礼な会話ですね」

検索してみたところ、今年の6月付で

普通科中隊に全国初の女性(御殿場、陸自滝ヶ原基地)

というのが出て来たので、もしかしたらこの人かとも思うのですが、
彼女の配属は第2中隊(軽装甲機動車)で96式の第4中隊とは違うし・・・。

せっかくの総火演なので顔見せできるように特別に96式に乗せたとか。

AH-64D、アパッチロングボウの射撃練習でリハは終わりみたいです。

アパッチのメザシ状態。

攻撃ヘリアパッチの射撃は、鼻からフンガー!と煙を出す人のように
(例えが悪い?)二股に分かれた白煙が出ます。

先日、同演習場でヘリが不時着して脚が折れたという事故がありましたが、
これがアパッチだったのか?と教えてくれた人に聞いてみると

「アパッチじゃないです。これ日本に13機しかないんで折ったら大変です」

ほー。たった13機のうちの2機が今ここにあるわけか。

脚を折ったのはコブラで、こちらは今年の3月時点で59機が現役。
今後順次退役して行く運命なんだそうですが、だからって脚を折っていいわけもなく、

「あー、もう正座で反省会ですね」

「反省会どころじゃないです。もしかしたらパイロット降格かも」

なんでも夜間演習のことで、暗くて着地地点が見えなかったせいだとかなんとか。
人身事故に繋がらなかったのは不幸中の幸いだったというしかありません。

・・というところで本番前の演習場整備の時間です。
金属探知機を持った施設隊の隊員たちが歩いて入場。

こちら偽装網とOD色のカメラカバーで完璧に現場と一体化しているカメラ隊。

何これ可愛い(笑)

クレーン付きのキャタピラ車。

次々とトラックが土をフィールドに落としていきます。


そして落とされた土をあっという間に均していきます。

映画「激闘の地平線」では諸事情により戦車やヘリが使えなかったので、
(前作で自衛隊に協力させておきながら反軍備のメッセージに利用したので防衛庁激怒)
主人公は施設科に入隊するということになっていましたが、施設科の仕事、
映画的には確かに地味かもしれませんが、実のところ大変重要で陸自の基本でもあります。

災害時の活躍はもちろん、いざ実戦となっても実は一番頼りにされる部隊が施設科です。

その徽章が「お城が三つ、それぞれ橋で繋がれている」というのがなんとも深い。


大型特殊免許があれば一度運転してみたいと思うのはわたしだけ?
車輪が前に二つ、後ろに一つでこれは大きな三輪車。

マカダム式ローラーという装備だそうです。

わたしたちの席からはほぼ肉眼で確認できないような遠くで演奏していた音楽隊。
いつものように富士学校音楽隊と第一音楽隊の合同演奏です。

スーザの「士官候補生」に始まり、「ゴジラ組曲」などで聴衆を楽しませます。

そういえば去年の総火演の頃には「シン・ゴジラ」の上映中でした。
まさにアパッチやコブラの攻撃を経て、ここ東富士演習場から撃った
M270 MLRSのロケット砲が、70キロ先の(ちなロケット砲の射程距離は30キロ)
新丸子橋にいるゴジラを攻撃するという設定だったため、
映画を見たばかりの人は、必要以上に装備に対する親近感が湧いたはずです。

76式戦車が砲撃を行う坂道で水撒きをしているタンク車。

小さな散水車もくまなく走り回って水を撒きます。
今回撒きすぎて?フィールドの右手に小さな池くらいの水たまりができていました。

本番が始まる前には、E席前のシート席以外はまだガラガラで、
やんちゃ兄弟が追いかけっこ&ふざけて取っ組み合いをする余地あり。

彼らのパパは陸自隊員かな?

さて、フィールド右手には最初の演習部隊がスタンバっています。

全員顔を迷彩にメイクした203ミリ自走榴弾砲のみなさん。
本人たちが意識せずとも、総火演は彼らの晴れ舞台です。

さていよいよ前段演習、装備紹介編の始まりです。

まず開始に先立ち、わざわざ山腹にカラースモークを焚いて、

「黄色い煙が上がっているのが”二段山”、緑の煙が”三段山”」

などと演習場の紹介から入ります。

最初に入場してくるのは96式装輪装甲車。

兵員輸送車である通称96Wの後ろ扉から数名の隊員が走り出ます。

そして203ミリ榴弾砲の入場。

上に乗って移動してくるのがなんともものものしくてかっこいい装備ですが、
榴弾砲の稼働に必要な13名全員が上に乗るスペースはありません(涙)

榴弾砲の砲員の残り8名は、実はこれに乗ってきます。
87式砲側弾薬車。

砲弾と要員を運搬して榴弾砲にくっついてくるのです。
「砲弾側弾薬車」の「側」は随伴してくるという意味だと思われます。

99式自走155mm榴弾砲。

車体前の右側に頭が見えますが、ここが操縦席です。

こちらではFH70、155ミリ榴弾砲の準備が始まっています。
砲員たちの躍動感、半端なし。

砲の先に巻かれた移動のためのロープの先をみんなで掴んで
せーの!と砲口の方向を(一応シャレ)動かします。

砲口が目標地点に向けられました。
大の男四人がかりでやっと動かせるということなんですね。

砲口のロープを二人が外している間に、二人が後ろに向かってダッシュ!
今から後方で装填が行います。

こちら弾薬車の後ろ扉。
中から何か運び出しているようです。
203ミリの砲弾って手で運べるってことですね。

右が203ミリ自走榴弾砲、真ん中FH、左弾薬車。

203ミリの後部には「鋤」のようなその名も「駐鋤」(ちゅうじょ)
が反動を受け止めるためあります。
英語でも「鋤」を意味する「SPADE」(トランプのスペードと同じ)です。

FH70の準備ほぼ完了。

こちらは弾薬装填中。

FHの弾薬が4本ほど地面に並べられています。

砲撃開始。まずは155ミリ榴弾砲から。
飛び出した砲弾が飛んでいくのが写っています。

これにも飛翔する砲弾がとらえられています。

203ミリ榴弾砲が第一射。

手をふりおろす合図で射撃が行われます。

この写真には砲手が手を挙げている人を振り返って見ているのが写っています。
射撃が終わった瞬間、下に座っている三人が立ち上がり装填を行います。

FH70の砲弾が目標地点に着弾した瞬間。

「ちゃくだ〜〜〜ん、イマッ!」

手で抱えられる砲弾なのにその破壊力の範囲の広さには驚かされます。

さて、そこでみなさんお待ちかね、曳火射撃の時間です。

曳火というのは英語でいうと「エアーバースト」、空気の破裂です。

地面に当たって炸裂する一般的な砲撃と違い、空中で炸裂するため、
大量の破片が地面に吸収されることなく敵の頭上から降り注ぎます。
つまり、姿勢を低くしたり塹壕に潜っている敵を殺傷することが可能で、
対人武器として大変有効な(残酷ともいう)方法と言われています。


が、わが自衛隊では異なる火砲でタイミングを合わせ、空中で同時爆発させて
それで線を描いたり富士山を描いたり・・・、
職人技を磨く装備であるという位置付けになっております。

遠距離、中距離火力砲で、しかも我々に見えないところからも参加して
(という噂)まずは一列に線を描いて見せてくれます。

お見事。
とはいうものの、少しいつもより間隔がまちまちなのは気のせい?

続いて富士山。
午前中は曇っていて見えにくいですが、後ろにも富士山です。

「うーん・・・今年は形がイマイチですね」

いや、でも実際の富士山もこんな風に裾が段になって見える場所ありますよね?
もしかしてそれをリアリズムで追求したのかも・・・ってことはないか。


ところで、最近は当然のようにこのシャッターチャンスを逃さなくなりましたが、
周りの人たちの気配と、聞けばなんでも教えてくれるイベント仲間と、
そして何回か参加してタイミングがわかってきたのと、
さすがにカメラの扱い方が最近は少しはましになってきたということでもあります。

曳火射撃の富士山で満場を沸かせたら、すぐに中・遠距離火力部隊は撤収です。
片付け終わったら全員が96Wに乗りこんでいきました。

跳ね上げ式の扉は運転席で操作するようです。
随分中は狭そうですが、もちろんクーラーなど効いていないでしょう。

155ミリ自走榴弾砲が離脱。

FH70、155ミリ自走榴弾砲も離脱。
これが自分の力で走っていく姿はいつ見てもシュールです。

 

というわけで中遠距離火力の装備紹介が終わりました。

 

続く。


89式装甲戦闘車のオレンジ旗〜平成29年度富士総合火力演習

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今年の総火演、チケット応募数は150,361通。
なんと当選倍率は29倍だったそうです。

自衛隊となんのゆかりもなく、防大に通う身内もおらず、
防衛団体とも縁がないという人たちにとっては応募するしかありませんが、
なぜかどこからともなくチケットを手に入れて、木土日と
三回全部参加したという人もいました。

なんでもその人は土曜日明け方前から駐車場に車を停め、
タクシーで現場に行って4時ごろから並び、イベントが終わったら車で仮眠。

(お風呂はどうするんですか、と聞いたら聞かないでくださいと言われました。
本当に聞かなきゃよかった)

日曜日のイベントのためには前日の晩0時くらいから現地で夜を明かすのだそうです。
そんなにしてまで・・・・。

 

さて、総火演予行、特化火力の前半のハイライト、曳火富士が終わり、
続いては近距離火力の装備展示です。

全員が赤いヘルメットをつけて車から降りてきました。

スコップで足元の土を掘り返しています。
遠くてわからなかったのですが、狙撃の際のお立ち台となる
何か特殊なシートを敷くようです。

衝撃吸収のためとか色々あるのでしょう。

狙撃手と判定官?を乗せたジープが到着。
整備の時に豪勢に水を撒きすぎて、水たまりができてしまいました。

まあこういうのも効果としては陸自っぽくていいんじゃないかと思ったり。
トラックの後ろには120ミリ迫撃砲を牽引しています。

高機動車から通称120迫(ひゃくにじゅっぱく)を取り外します。

ほぼ数十秒後には迫撃の用意は終了していました。仕事早い。

120mm迫撃砲の発砲は、銃弾を落とし込んで行います。
砲手が銃撃を行うというより、筒の中に砲弾が落ちると自動的に発射されるのです。

モード切り替えによって、落とし込んで発射するモードにしたり、
砲手が任意のタイミングで撃発用のロープを引っ張って発射するモードに変えたりできます。

砲身後部の撃針を突出させておけば墜発式(砲口から装填された砲弾がすぐに発射される)、
逆に後退させておけば拉縄式(装填された砲弾は砲身後端にとどまり、砲手が発射させる)
と使い分けができます。

発射は、上げた旗を下ろすのではなく、旗を上げた時が合図です。
FH70とは逆なのですが、何か理由があるのでしょうか。

砲手は砲弾を支えていた手を離すと同時に体を沈めて爆風を避けます。

一人だけ耳を押さえている人がいますが、他の皆さんは大丈夫なんでしょうか。 

方向の先から銃弾が顔を出した瞬間、砲下方から白煙が立ち昇ります。

写真を見るとところどころに火花が散っていて、周りにいるのは
かなり危険なことに思われます。
砲弾の初速はそう速いものではないらしく、連写で撮れば失敗はまずありません。 

むしろ連写だと、こういう感じで弾がはっきり写ってしまい、今ひとつ迫力に欠けます。

今回唯一の成功例はこれ。

去年もこの形の炎を撮りましたが、『?』の形まで同じです。

次に中距離多目的誘導弾。


英語ではMMPM、通称「チュウタ」で、防衛省技研と川崎の開発によるものです。
対戦車・対舟艇ミサイルを車上の発射機から投弾する瞬間です。

これも発射時の速度が遅く、大きなミサイルが肉眼ではっきり見え、
何より写真が撮りやすいので好きです。

照準は「赤外線映像」、または「ミリ波レーダー」で行い、
誘導方式は光波ホーミング誘導方式です。
発射機の上に監視カメラのように立っているのがミリ波レーダーです。

総火演の射撃は赤外線画像による誘導方式で行われます。

ミサイルがはっきり写っているので、後部に翼がある形状がよくわかりますね。
一つの射撃機に砲弾は六発搭載することができます。

弾着した時、目標があまりにも遠いので、周りの人たちが

「あそこかー!」

「あんな遠くに飛ぶのか!」

とちょっとざわめいていました。

お次は指向性散弾の装備紹介です。

指向性散弾とは、要するに一定方向に対して仕掛けられた地雷みたいなもの。
地雷のようにその上を踏まなくとも、やってきた歩兵を全滅させることができます。

指向性散弾という武器そのものを知らない会場の人たちの多くは、風船が皆割れるので

「すげーゴルゴみたいー」

と感心しているわけですが、なんのことはない、ある場所に設置して
誰か通りかかったらスイッチオンで中に仕込まれた1センチの鉄球が飛び散る、
という仕組みなので、目をつぶっていても外しようがないわけです。

 

皆さんは「クレイモア地雷」って聞いたことがありますかね。
有名な対人地雷ですが、実は自衛隊の装備である指向性散弾は、
クレイモア地雷より大型で殺傷力、いや、威力が大きいのです。

日本は対人地雷の使用を禁ずる対人地雷禁止条約を批准していますが、
どうしてこんな地雷を持っているかというと、これがリモコン式で

「人がその上を踏んだら爆発する」

という仕組みではないからです。

残存する対人地雷で一般人が被害に遭うことを人道的見地からなくすため、
結ばれることになった対人地雷禁止条約ですが、リモコン式で

「スイッチを押す」つまり攻撃の意図が介在しなければ使用できない

という条件が加われば、条約の対象外となるというわけです。

76式戦車が砲撃を行う坂の上の使用例。

ギリースーツを着た狙撃手が会場の車の中の人物を狙撃します。

しかしこの時車の窓の中の人物はいつものように倒れなかったような・・・。

違ってたらごめんなさい。
陸自のゴルゴに限ってそんなことありませんよね。

ちなみに目標までの距離は800mあるそうです。

軽装甲機動車、通称ラヴ (Light Armoured Viecleから)が入場してきました。
歩兵車としてジープと同じ使われ方をしているのですが、窓がご覧の通りだったりして
日常使いには向かないというか、

「目立ちすぎてコンビニに寄れない」

という切実なクレームが部隊からは上がっていたそうです。
高速道路のパーキンギエリアなんかでは時々見ますけどね。

96式装輪装甲車が入場してきます。

操縦席は射手席の側の前部にあります。
上半身を出して立っていますが、これは車長か分隊長が必ずここに立ち、
周囲の安全確認をしながらでないと走行できないからです。

装輪装甲車備え付けの銃で目標を狙います。
青いヘルメットの人は安全確認を行う係だそうです。

総火演ではこのように隊員が赤ヘル(射撃補助関係)青ヘル(安全確認係)を
かぶって登場するのですが、もちろんこれは皆にわかりやすくするためで、
実際の訓練やましてや実戦では色分けは使用されません。

装輪装甲車の銃弾が目標の白いマーク真ん前に弾着。

狙撃手が目標に対し銃を構えました。
狙撃は狙撃手と観測手が二人一組で行います。

目標はこれも敵歩兵に見立てた青い風船。
敵歩兵ならきっとこんなにじっとしてませんが、そこはそれ。

ほぼ第1射で全部が割れてしまうのはさすが。

この射手の左側の人が撃った銃弾が赤く燃えた状態で飛来しています。

続いて84ミリ無反動砲。
自衛隊では使っていないかもですが、カールグスタフという名称がかっこいい。

本人は無反動砲というくらいで本人は反動を感じませんが、その代わり筒の後方から
猛烈な爆風が発生するので、後ろに誰もいないことを確かめて撃ちましょう。

携帯用とはいえ対戦車砲ですから、威力はこの通り。
こりゃー撃ってて気持ちいいだろうな。

89式装甲戦闘車、通称FVの装備展示が始まりました。
全部で四台が目標に正対して35ミリ機関砲を撃ちます。

わたしは一番こちら側のFVの発砲の瞬間を撮ろうと狙っていたのですが・・・

周りの人たちが

「あれ?」「撃ってないよね」「故障か?」
「一番右側撮ろうと思って狙ってたのに撃たなかった」

などとざわめき始めました。

するとこちら側2台のFVが同時にオレンジの旗を揚げました。
総火演でオレンジの旗を目撃するのは初めてと記憶します。

何かトラブルがあって、どちらも発射ができなかったようです。

「よくあることなんですか?初めて見ますが」

「まあ今日は予行ですからね」

 総火演はショーではなく「演習」なので、さしもの精鋭部隊であっても
小さいミスが全日程通して一度も起こらないなどということはありません。
毎年来ていると、たまに戦車の履帯が外れたり、破片が飛んできたり、
そういう派手な事故に出会う確率も増えてくるわけです。

もしかしたら、そういうアクシデントが起こることを、常連さんたちは
実のところ楽しみにしているのではないか?
と、周りの人たちがオレンジの旗を立てたFVを見ながら、結構ウキウキと
盛り上がっているのを見て思ったわたしでした。

 

続く。


偵察隊のアヒルと曳火富士の特練〜平成29年度富士総合火力演習 本番予行 

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というわけで、昨日富士総合火力演習見学のために御殿場におられた方、
お疲れさまでした。

老人が行方不明になったり戦車の破片が飛んでくるなどの事故は全くなく、
その上午前中からありえないくらい涼しい風が吹き渡る総火演会場で
あの演習を見る幸運を分かち合えたことを心から嬉しく思います。

木曜日に続き、日曜本番にも(というかこちらがメイン)参加し、
改めてやはり本番はいいなあと余韻を噛み締めているわたしですが、
予行の報告を途中でやめて(やめるのかい)今日は本番の予行からお話しします。

駐車場は前回と同じ高塚でした。
前回と同じ時間に着いたのですが、すでにその時数十台の先客が・・・!

仮眠を取っていると5時過ぎに自衛官に窓を叩かれて起こされました。
前回より早く、駐車場に車を入れることにしたようです。

車を動かしていると、道路右に「鶏魂碑」がありました。
昔この周辺に養鶏場か食肉工場があったのでしょうか。
今は演習の時に駐車場になるような広大な空き地です。


駐車場の入り口で誘導の自衛官が行き先整理をしていました。

「あの手を振っている自衛官のところに行ってください」

そちらを見た途端、後ろ向きにこちらを誘導していた自衛官が派手に後ろに転びました。

もちろん日頃鍛えている自衛官ですので、何事もなくすぐに立ち上がりましたが、
わたしが思わず息を飲んでいるのに、最初の自衛官は思いっきり大笑い。
転んだ自衛官も照れ笑いしています。

迷彩服にヘルメットの下の「普通の若い男の子」の素顔を見た気がしました。

 

車を駐めた人は駐車場に待機している大型バスにどんどん乗せていきますが、
0600の出発予定時間になるまでバスを動かしてはいけないらしく、
4台がきっかり満員になるまで皆は車中で出発を待ちました。

前にはバス二台、つまりわたしより早く来た人は100人くらいいたことになります。

し か し (笑)

バスが会場に近づいた時、E席前に人垣が分厚くできているのをみて、
E席チケットを持っている人たちがざわめきました。

「おい、もうあんなに並んでるぞ」

そして、現地に着くと、自衛官が

「Eスタンド席はもう満員で座れません」

そう、朝3時から駐車場前に並んだとしても、バスが6時にならないと発車しないので、
会場に着くのはどう頑張っても6時20分。(他の駐車場はもっと時間がかかる)

その頃にはもうE席スタンドは前夜徹夜組によっておさえられている、
これが総火演本番なのです。

この過熱傾向は年々酷くなる一方で、わたしの前述の知人など、本番前日は

「夜間演習の時(つまり7時ごろ)にはすでに並んでいた」

らしいのですが、それでも朝メールが来たところによると
ゲットしたのは最上階ではなく、上から2段目だったとか・・・・・。

このまま酷くなって何か問題が起こると、自衛隊側としても
何らかの措置を取らざるをえなくなってしまうかもしれません。

入場すると、すでにまず戦車がリハを始める状態で待機していました。
この写真は戦車隊のリハが6時半に始まって20分後の撮影です。
この時点ですでにこれだけシート席前4列が埋まってしまっています。

わたしは今回C席最上段付近から高みの見物(文字通り)です。

席についてほどなく、フィールドに待機していた戦車隊が
試射を始めたので、周りが途端に戦闘モードになりました。
戦闘モード、つまり高級機種カメラでの写真撮影です。

昨日家に帰ってから現地の熱心な人たち(冒頭の人とか)の話をしていて
TOに、

「その人たちって、そんなにしてまでなぜ、つまり何が目的なの」

と聞かれてわたしもふと考えたのですが、それはつまるところ、

「砲弾を発射し、爆発炎に包まれる一瞬の戦車を撮ること」

つまり、本日冒頭写真のようなのをたくさん撮ること、
ではないかと思うのです。

それを確信したのは、この戦車リハーサルの時の周りの様子でした。
リハーサルなので、フィールドに並んだ戦車のどれが次に撃つのか
というのは普通に見ているだけでは全くわかりません。

本番なら射撃命令が下され、それがアナウンスされるのですが、それでも特に
74式戦車の射撃のタイミングはわかりにくく、
このイベントに死ぬほど来ている人たちでも百発百中などないらしいのです。

ましてや、リハーサルになると・・。

しかも前回近くにいた「無線傍受おじさん」が今回もなぜか近くにいて(笑)
その方が大きな声で聞き取った部隊内の通信(総火演の時には公開しているらしい)
を逐一、

「次3号車!」「射撃用意!」

などと周りにずっとアナウンスし続けておられました。
みんなが次に撃つ戦車を狙えるように、おそらくは善意でやってくれていたのですが、
自衛隊の命令や通信もそんなに単純ではないため、予想通りにならないことがほとんど。

あっちが撃てば次にこれだと思っても、全く違う戦車が撃ったり、
つまり傍受おじさんの情報は往往にして役に立たないわけです。

周りの人たちが聞きたくなくても聞こえてくる傍受無線情報に
良くも悪くも翻弄されて、カメラを右往左往させては予想を外し、
落胆しているらしい様子を肌身に感じながら、わたしはふと
「モグラ叩き」という言葉を思い出したりしておりました。

というわけで、リハの最初で少なくとも近辺のカメラ持ちは
必要以上に精神を疲弊しまくったはずです(笑)

まあただ、予想によると皆このために来てるんだし、以て瞑すべしでしょう。
え、別に誰も死んどらんって?

ちなみにわたしは轟音から耳を守るため、早くから耳栓をしていました。

さて、戦車隊の試射が波乱のうちに()終わり、続いて偵察隊オート部隊のリハです。
偵察バイクで入場して来た隊員たちが、ジャンプ台のところに集合しました。

車でやってきた(多分)偉い人を迎えるために整列。

お、おおおおお!

右から二番目の隊員さんが去年も話題になったアヒルを持ってる!
皆が微笑みを浮かべてアヒルさんを見つめています。

ジャンプのために皆マスクを手早くつけながら、待機。

アヒルさんを両手で恭しく受け渡し。

このアヒルはお風呂に浮かべて遊ぶおもちゃではなく、
お酒(お神酒)が入っているらしいという噂を聞きました。

受け取った隊員はそれをジャンプ台にお供えしている模様。

しかるのち、全員が目を閉じて一礼を行いました。
つまりアヒルがはオート隊の安全祈願のマスコットだったんですね。

去年はジャンプ台の横に立っている人が腰につけていましたが、今年は
ジャンプ台の下から見守ってもらうことにしたようです。

装備展示を見た人の写真を検索していただければどこかに出て来ますが、
実はジャンプ台の下には祠状の窪みがあって、アヒルがいっぱい奉納?されています。
各アヒルには皆の安全祈願の一言が書き込まれているんだとか。

ジャンプのたびに安全を祈願してアヒルをお供えするという慣習でもあるのでしょうか。

全員で集まり、円陣を組んで掛け声。

「頑張ろう!」「おう!」

みたいな?
普通の国民が知ることのないこういう自衛隊の日常訓練の様子を
垣間見ることができるのも、総火演ならではです。

オート隊の見せ場は、全員が次々に行うジャンプです。
簡単そうに見えても、高い技量が必要だと思われます。

このオート隊は正確には富士教導団偵察協働隊に属します。

こちらの攻撃中の偵察車も同じ偵察教導団所属。

青ヘルの人何してるのかなー。

87式偵察警戒車、通称RCVが目標の25mm機関砲で白いボード攻撃中。
面白いくらい命中します。

写真班ではなく、偵察隊の人が宣材用?の撮影をしているようですね。
一番向こうはアヒルをお供えしていた隊長でしょうか。

続いて特科火砲のリハーサルに移りました。
当ブログ的にはもうおなじみ?203ミリ自走榴弾砲です。

横一文字の後の曳火射撃による富士山、富士が頭を出している絶好のチャンスですが

・・・・ん〜?

「あまり綺麗じゃないですねー、形が」

特に右半分が前回もそうですが、ガタガタです。

「まあリハだから、本番にはきっちり修正してくるんじゃないですか」

などと言っていたら、フィールドのリハーサルが終わってから
後方からの射撃で富士山がいきなり空中に浮かび上がりました。

「あ、練習してる!」

しかも間を空けて三度、練習は行われていました。
やっぱり今日は本番で防衛大臣観閲なので、念には念を入れたのでしょう。

ところで、フィールドには一台も曳火射撃を行う特科火砲はいないのに、
なぜ普通に富士山がなんども描かれていたのか全くわかりません。

もしかしたら、フィールドの火砲は空砲を撃ってるだけなのでは?
あの富士山は実は別のところにいる火砲だけで描いてるのでは?

という密かな疑惑がわたしの中で生まれた瞬間です。


とにかく、リハーサルで(おそらく)ダメ出しされ、3度に渡って行われた特訓。
この成果がどう表れたのかは、昨日御殿場にいた方ならご存知ですよね?


続く。



 

防衛大臣来臨〜平成29年度富士総合火力演習

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平成29年度総火演本番の予行が続いています。
前回も少し書きましたが、この日の御殿場は爽やかな風が吹く過ごしやすい日でした。
地元に帰っても同じだったので、どうもこの日は関東一円涼しい一日だったようです。

ジリジリと強い太陽に炙られ、不快な湿気のある空気に全身を包まれて
自分が塩漬けのように感じられるほどに汗をかきかき過ごすのが総火演である、
と覚悟していただけに、この日の御殿場での快適さはまるで奇跡のように思われました。

おそらく今後何回行っても、こんな総火演は2度とないのではという気がします。

さて、特科火砲が終わり、ヘリ火力の中でもアパッチが試射を行うと、
本番前のリハーサルは終了です。

C席の上段から見て初めて知ったのですが、アパッチの射撃点の真下には
地面にバラバラと落ちる薬莢を受け止めるため、ネットが貼ってあります。

薬莢もリサイクルするために収集するんでしょうか。それとも産廃?

駆動の軽快性を見せつけるように飛ぶアパッチ。
こういう角度からのヘリを見ることができるのも東富士演習場ならではです。

今回は、去年米海兵隊が装備展示の時に乗って来た水陸両用車、
AAVのお披露目が一つのハイライトでもあります。

リハの時からフィールドを走り回っていたのですが、

「なんか妙に速くね?」

と皆がざわざわするくらい体の大きさの割に速くて軽快でした。

去年展示されていた海兵隊のものとはカラーが全く違います。
側面の鎧のようなギザギザと穿たれた鋲が斬新。

防衛省は、去年ここで公開された海兵隊の水陸両用車AAV7、通称アムトラックを
25年度予算以降調達してきたのですが、速度がイマイチなため、
より高性能の車両が必要と判断し、研究開発費50億を投じて開発したのが本装備です。

なるほど、どうりで速いわけだ。

高速度を得たというと、素人に思いつくのは装甲を軽くしたんではないか?
ということですが、零戦トラウマ的にいうとこのアンフィビアン、
(陸自の人にアンフィビアン、とぽろっと言ったところはい?と聞き返されました。
あんまり一般的な単語じゃないみたいですね)防御は大丈夫なんだろうか。

2回にわたるアメリカ海軍イージス艦の事故で、現代の武器は想定範囲外の攻撃に
案外脆いものだということがわかったような気がするのですが、
例えば諸島での実践に投入されたとして、敵の対戦車攻撃ということまで
想定されているのかが普通に気になります。

というところでリハーサルは終わりました。
フィールドの整備が始まり、まず施設科の整備隊が金属探知機を持って歩いてくるのですが、
まるでミュージカルかブラスバンドのドリルのように()皆歩調を合わせ同じポーズ。

この後全員が金属探知機を振り回し「俺たちがいなきゃ(総火演は始まらない)」という
曲に合わせて踊りまくるところまで軽く想像できました。

この可愛いキャタピラトラックの正体がわかりました。
金属探知チームが拾った金属片を後ろの荷台に集め運搬します。

会場では、あちこちで射撃目標の設置が始まっていました。
何もないところにいきなり指向性散弾の的である風船がポッと現れたので
写真を撮りアップにして見ると、車の中から隊員が風船を運び出しています。

風船は、ちょうどジムのバランスボールと同じくらいの大きさです。

車の荷台の中で膨らませて、その都度取り付けていきます。

こちらは黄色い風船の設置班。
作業しているのは二人とも女性に見えるけど気のせいかな?

風船を荷台から引いてきたエアーポンプの管で膨らませているようです。
施設科でこの係をしているお父さんが、この夏休み、海水浴に家族を連れていって、
子供の浮き輪ビニールプールを膨らませたことを思い出し、

「あーなんかついこの間同じことしたばっかりだなぁ」

としみじみしたりするんだろうか。

こちらは青いバルーン(狙撃手の目標)を設置する人たち。
残っているバルーンの破片を片付けています。

迫撃砲などの目標地点でも整備が行われています。
遠目に白い線に見えている目標地点のラインですが、白い土嚢なんですね。

「+」の書かれたボード設置中。
作業中の人がボードと一体化していてワロタ。

地面の整備を行うグレーダ(向こう)とロードローラー。

これを見ながら、同行者に「激闘の地平線」のストーリーを
事細かく最初から最後まで話してしまったわたしでした。

後にも先にも、施設科の隊員が主人公という映画は
(後からレンジャー隊員になるとはいえ)これだけだと思われます。

「映画的には地味な職場ですが、実際は地味でもなんでもないですよね」

「今の陸自では、最も実践的に活躍しているのが施設科ですからね」

東日本大震災でも、その日頃のスキルを生かした活躍ぶりは凄まじく、
寸断された道路などの応急的な復旧なしでは、救助も物資も届くことはありませんでした。

ところで、AAV7ですが、30年度までに52両調達。
同年度末までに新設される陸上自衛隊の「水陸機動団」のために配備されます。

ただ、AAV7は水上でも速度が遅く、ぷかぷか浮いているうちに
あっさり撃沈されてしまう可能性があるため、その問題を解決するための
新型開発というわけです。

戦車は陸自のシンボルではありますが、日本という国で保有していても
海外にPKOで持っていく以外は実際の使い道がなく、
訓練では諸島防衛とかいっていても実際に尖閣に持っていくことはできず、
というか、実際に日本で戦車が出ていかなければならなくなったら
おそらくその時には攻め込まれて終わってるということでもあります。

というわけで、水陸両用車を保有する新部隊設立は、ある意味陸自の存在意義を
実戦によりフォーカスした、「生き残り作戦」という面もあるような気がします。

その頃、音楽隊の演奏が始まりました。
前回と同じく「士官候補生」に始まり「ゴジラ組曲」、
先日呉音楽隊の演奏で聴いた「平和への行列」など。

「ゴジラ」については、周りの人が

「これ聞くとテンション上がっちゃうんだよなー」

とつぶやいていました。

指揮は第一音楽隊の一等陸尉が務めました。

モニターでは自衛隊紹介の映像を流していました。
陸自の普通科に配属された女性のインタビューなどです。

会場の左前列の一角は報道席です。
報道陣カメラマンの中に不肖宮嶋茂樹氏発見!

ホームページで自慢しておられる、

カメラバッグとカメラベストの「いいとこ取り」だ。
両手が完全に自由になり、重さを両肩と腰に分散させる独特の構造で、
機材の重さが気にならない。
かつ、常にバッグが体に密着しているので、盗難の心配も解消される。

というnewswearのカメラバッグを装着されてます。
この商品ページを見てたら、レディースのが欲しくなっちゃった。

いや、実は今一眼レフを安く譲ってもらえるという話がありましてね・・。

この頃から会場に来賓が到着し始めました。
この方は、あの、「官邸のラスプーチン」と言われたこともあるらしい、
飯島勲内閣官房参与じゃございませんか。
奥方らしき女性は白の上下に夏らしいカゴバッグで参加です。

富士学校長が陸幕長に演習を報告。

国分良成防衛大学校長が海自迷彩の自衛官に誘導されて到着しました。

「国分校長だ」

「わたしこの人嫌いなんですよね。
李登輝氏の来日と慶應での講演会を妨害した張本人だし」

「少し前日本に来てませんでしたっけ」

「来ましたね。
わたしはご挨拶できませんでしたが、夫がお目にかかりました。
あの時はもう防大校長だったので運動できなかったんじゃないですか」

国分氏の専門は現代中国政治です。

開始10分前に、例の無線傍受おじさんが、

「小野寺防衛大臣ただいま出発」

とアナウンスしてくれました。でっていう。
招待された来賓は、富士学校で待機し、時間ギリギリに車でやってくるようです。

黒塗りの車の窓を開けて中から小野寺防衛大臣が観衆に答え、
穏やかな微笑みを浮かべて手を振っているのが見えました。

防衛大臣になってマスコミが早速粗探しをしていますが、堅実すぎて隙がなく、
(加計問題での前川元事務次官への追求はすごかったですね)
つい最近は、

防衛相、イージス艦を「隠密視察」 都内で政務のはずが(朝日新聞)

とかどうでもいいことをほじくってネチネチと難癖をつけております。

稲田前防衛大臣を政権の弱点とばかり執拗に攻め続けたマスコミが、
この防衛大臣2度目の小野寺氏を、今からなんとか引きずり落とすきっかけを
虎視眈々と狙っている様子がうかがえますね。

車は防衛大臣旗を立てたジープに先導されて来ます。

お立ち台の上で富士学校長の敬礼を受ける小野寺防衛大臣。

この次の瞬間、平成29年度富士総合火力演習の幕が切って落とされます。

 

続く。

 

 

 

始まりからへり火力まで〜平成29年度富士総合火力演習

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平成29年度富士総合火力演習が始まりました。

この総火演、実は8月いっぱい、ほぼ一ヶ月行われていて、皆が見ることのできる
公開展示演習は、その締めくくりという位置付けとなっています。

つまり、同じ公開は公開でも、平日に行われるのは富士学校主催の
名目上一般非公開の演習(団予行、学校予行、教育演習)。

一般非公開とは「隊員家族や防衛団体、その他招待客のための公開」という意味で、
ハガキで申し込む日曜日のいわゆる本番が、陸上幕僚監部主催による「公開演習」です。

日曜の公開演習は陸上自衛隊の広報活動の一環でもあるので、
どんなに人が大勢詰め掛けて会場が大変なことになったとしても、
陸幕がこのチケット数を減らすことはおそらくないだろうという話です。

もう一度装備展示からになりますが、前回は予行、今日は本番です。

まずは中遠距離火力、つまり特化火力と迫撃砲などの展示です。

最初に203ミリ自走榴弾砲が迷彩メイクを施した砲手を乗せて入って来ると
キタキタ!と心が沸き立つのはわたしだけではありますまい。

せっかくなので車上のみなさんをアップにしちゃう。
右目だけメイクしていない人は、スコープを覗く役目があると思われます。

155ミリ自走榴弾砲もすでに到着しています。

発砲による後ろへの反動を受け止めるためスペード(駐鋤)を地面に固定します。
実際の映像を見ると、射撃の瞬間激しく後方に全体が揺さぶられますが、
固定された足元はびくともしていません。

着弾の瞬間。

弾丸威力の違いを見せるため、続いて155ミリ砲が発砲します。

わたしの席からはちょうどFH70が弾薬車に遮られていて準備が見えませんが、
装填し終わると弾薬車は移動していきました。

それにしても弾薬車の助手席ドアって高くて乗り込みにくそう・・・。

射手(射手席に座って後ろを振り返っている人)は、手前の合図係が
赤い旗を持った手を振り上げると、それを合図に射撃を行います。

FH70の射撃時の写真に炎が写っているのを撮ったことがありません。
いつもこのように三方向から真っ白な煙が噴き出します。

20榴と同じところに着弾しますが、少し控えめな爆破力です。

 

さて、曳火射撃で横一列に並べたり、富士山を描いたりする同時弾着射撃を
自衛隊ではTime On Target、TOTといいます。

「こちらFSC、対TOT 富士、発動!」(と聞こえた)

そして冒頭写真の通り、本番は完璧な形を決めてきました。

リハーサルの時には頂上が見えているだけだった富士山が、
この時には風に雲が吹き払われ、ほぼ全容を現していただけに感動もひときわです。

初めて見る人はもちろん、周りの常連さんたちも思わず嘆声をあげ、
会場は一瞬そのどよめきに包まれました。

一人一人の声は小さくても、全員が同じタイミングで声をあげると
本当に「どよめき」になるのを、わたしは総火演で初めて知った気がします。

会心の富士を描くことができ、おそらく達成感に包まれての陣地変換準備。
FHの砲身の向きは人力で変えることを知りました。

車に乗り込むのにも、周りの警戒を怠りません。
陣地変換を行うのは、敵からレーダーなどで標的となるのを避けるためです。

続いては迫撃砲と対戦車誘導弾の装備展示に移ります。
120ミリ迫撃砲を牽引したトラックを運輸してきました。

ヘリ後部から降りてくるとき、皆頭をぶつけないように姿勢を低くして、
乗員のうち二人が地面に降りて周りを警戒します。

後ろ向きの隊員はヘリ乗員で、背中に垂れているのは安全ベルトだと思われます。

銃を構えながら狙撃地点に移動。

こちらでも車に牽引された120ミリ迫撃砲の準備が始まりました。

今回の場所は会場のほぼ中央ですが、迫撃砲に関しては前回より遠くなり、
あまりちゃんとした写真が撮れませんでした。

迫撃砲は砲弾を上に向けて撃つことで、弾道が山なりになるため、
山や建物の裏側に隠れている敵を制圧することができます。

射撃が終わり、陣地変換のための撤収準備を速やかに行います。
装填する砲手が砲を車両で牽引するための先端の装具をつけています。

続いて対戦車部隊の対戦車誘導弾の展示があります。

通称「チュウタ」の紹介では、連続して3発弾を発射しますが、事前に

「短時間に3発発射いたしますので見逃さないようご注意ください」

とアナウンスされます。

弾体が発射される筒の後部から装填されたところを覗くと「シーカー」という
目標を捜索、発見、そして識別する索敵装置が見えます。

赤外線誘導方式を持つチュウタのミサイルは本体にシーカーが搭載されています。
3発の弾は、同時に撃ちながら全く違うところにそれぞれ着弾させることができます。

 

続いて近接戦闘の射撃です。

指向性散弾のリモコンスイッチ発動。
風船係の隊員さんたちが苦労して設置したバルーンが一瞬で破裂。

続いて対人狙撃銃によるの狙撃です。
ギリースーツを身につけた二人の狙撃手が赤いヘルメットと二人一組で狙撃を行います。

いつも標的は車の中に書かれた人ですが、前回これが倒れなかった気がして

「木曜日これ命中しましたっけ?」

と横の人に尋ねて見ると、やっぱり当たらなかったという答えでした。
今まで外したのを見たことがなかったので少し驚きましたが、
今日は本番なのできっちり当てて来るはずです。

二人の狙撃手が同じ目標を狙うので、命中の確率は高くなるとはいえ
・・・お見事です。

狙撃地点から目標までの距離は800mです。

軽装甲機動車、愛称「ラヴ」がA道に入って行きました。

フィールドから黄色い風船を狙うのは96式装輪装甲車、通称WAPCです。
擲弾銃だけでなく、ブローニング重機関銃を搭載しています。

ちなみに今この時、車内には6名の男性が乗っています。
この気温で重装備、膝がくっつかんばかりの狭い車内・・・。
考えただけで汗が噴き出しそうですが、車内には最大8名乗せることができます。

コンバットタイヤを8輪装着していて、たとえ全部パンクしても
走り続けることができます。

まず96式40ミリ自動擲弾銃が敵歩兵に見立てた黄色い風船を狙います。

擲弾は目標そのものというより、目標付近で破裂して、相手を殲滅します。

続いて同じWAPCが12.7mm重機関銃を撃ちます。
三箇所に銃弾の曳光が写っているのがお分かりでしょうか。

小銃小隊は下車戦闘に移行し、徒歩部隊が06式小銃擲弾で青い風船を撃破します。
擲弾ですので、これも山なりに撃って破裂させそこにいる敵を制圧するものです。

撃ってから着弾するまでだいたい10秒くらいかかります。

手前にある黄色い風船は、小銃の的となってこのあと破砕される運命。

 WAPCの車上から84ミリ無反動砲、カールグスタフで射撃。
個人携帯無反動砲は、対戦車、対人、夜間照明、発煙など多機能に使用できます。

今回は対戦車擲弾を撃ちます。

擲弾が空中で破裂した瞬間。
この火玉の形、とにかく破壊力がありそう。

ドウン!と音がして、周りが凄まじい爆風で土を巻き上げているのが見えます。
対戦車榴弾は、コンクリートなどの構築物に対しても使用されるというのがわかりますね。

このあと無反動砲は同じ地点に発煙弾、そしてマルヒトATM、
(01式軽対戦車誘導弾)つまり追尾式の打ちっ放しミサイルの展示を行いました。

89式装甲戦闘車、通称FVです。

これがドンドコと撃ってる時、隣の人が

「破壊力あるんですよね。35ミリ機関砲だから」

というので、ふと思いついて

「ストライカー師団の装甲車とかが積んでなかったですか」

と適当なことを言うと、

「エリコンなのでアメリカは使ってなかったと思いますね。
ドイツのゲパルト自走対空砲が積んでたかと」

「ゲバルト・・・学生運動ですかね」

節子それゲバルト(Gewalt=暴力)ちゃうゲパルト(Gepard=チーター)や。
欲望という名の電車ならぬ暴力という名の戦車(じゃないけど)などない。

草葉の陰からコブラが顔を出しました。
ヘリ火力展示の始まりです。

本番ではTOW(対戦車ミサイル)の発射の写真を撮り損ねました。

戦闘ヘリコプターAH-64D アパッチが30ミリ機関砲を撃ちます。
砲口から炎が噴き出す一瞬が撮れました。

薬莢も盛大にばらまかれています。

ランプの点灯している部分はわたしのカンに間違いがなければ
エンジンとその排気口なのですが、ランプがなんなのかはわかりません。

赤外線?(赤いから)

 

装備展示は続いて対空火力、戦車火力に入り、会場はいよいよ盛り上がってまいります。

 

続く。

 

 

戦車火砲〜平成29年度富士総合火力演習

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遠中距離、近距離火力、ヘリ火力の展示が終わり、
続いては対空火力である87式時装甲車機関砲の展示です。

87式辞装甲車機関砲、通称「ハチナナAW」。
いつもぐるぐる回っているちょんまげのようなものは索敵を行うレーダーのアンテナ、
前を向いているお皿は追尾レーダーのアンテナです。

 

薬莢が散らばっているのが確認できます。
前回話したゲパルト自走砲をモデルに作ろうとしたため、やはりこれにも
エリコンの35ミリ機関砲を2門搭載しております。

火を噴くと同時に砲のあちらこちらから白煙が噴き出してきます。

銃撃は4秒で終わりましたが、搭載砲は1分に550発撃ちますから、
この間に目標に撃たれた弾丸は全部で150発くらいということになります。

その一つ一つが破壊力のある35ミリ銃弾であるわけで・・。

ちなみに、89式装甲戦闘車が搭載しているのは同じ35ミリでも
弾速が1分間に200発というタイプ( KDE)です。

 

さて、次はいよいよ戦車火力の展示です。
周りのカメラ陣がすわっ!と緊張を高める空気が伝わってきました。

まずはみなさんが

「タイミングがわかりにくいので撮るのが難しい」

とおっしゃるところの74式戦車ですが・・・、

どうよ。

と思わず得意になってしまうくらい、今回は当たりました。
冒頭写真は爆発する炎の中から飛び出す砲弾の曳光が捉えられています。

74式戦車はいつもそれ専用に設置された坂を登り、登坂姿勢のままで
射撃を行うことができるという特性を見せるための展示を行います。

坂をうぃ〜んと登って行って、停止したのち発射。
というわけで、周りで、

「停まったら3秒後!」

とまるで合言葉のように大きな声で繰り返している人がいましたが、
実際に映像で確かめると3秒ではなくだいたい4秒少しくらいでした。
この1秒の違いが大きいのですが。(´・ω・`)

どうよ。

今回嬉しかったのは74式がよく撮れたことです。

こんな周りからの情報と自分のカンを駆使して一瞬を逃さぬように
シャッターを押し、コンマ単位の瞬間が大当たりして会心の写真が撮れたりすると、
否が応でもアドレナリンが噴出してくるのを感じます。

こと写真に関してはそんなに欲のないわたしですら。

皆やっぱりこの瞬間のために、苦労していい席を取るんだろうなと思いました。

ちなみにこの後74式戦車は、停止直後でも正確に射撃できることを示すため、
停止してしてすぐ発砲しますので、タイミングは4秒後とは限りません。

というわけで展示を終えて軽快に退場する74式。

戦車隊の人がほぼ全員メガネをかけているようなのですが、気のせいですか。

 

74式戦車は採用後40年近く経っているとは言え、主砲の105ミリ弾に
93式徹甲弾を採用しているので、現代の戦車とも「対等に戦える」そうです。

航空機や潜水艦と違って、模擬戦ができるってもんでもないと思うのだけど、
どうやって戦車戦の勝ち負けって判定するんでしょうかね。

続いて90式戦車が入場してきました。
4台の90式が土煙を立てながら坂を降りてくるシーンは圧巻。

イメージだけではなく三つの戦車の中でもっとも車体が大きいのが90式です。

 

90式のエンジンは150馬力で、10式より大きいのですが、
車体が重たいのでスピードは遅くなります。

「とまれえっ!」

の掛け声で急ブレーキをかけて車体をつんのめらせるのも展示ならでは。
74式と比べると車体が重くてなおかつスピードが速いので、こうなります。

これを「殺人ブレーキ」と呼ぶ人もいるとかいないとか。

74式の成果に比べ、今回は不思議なくらい90式は撮れませんでした。
唯一写っていたのがこの左側の砲弾らしき炎です。

戦車火力の最後はお待ちかねヒトマル式戦車です。
とは言え、制式採用されてからもう7年になるんですね。

火力、機動力、防護力を向上させ、さらにコンパクト化されていますが、
砲塔の大きさは90式より大きいので、見た目も大きく見えます。

左稜線に進入し、後続の同小隊の2両を援護するために射撃したところ。

いえーい。

コンマの狂いもなく同時に砲撃を行なっています。

先ほどの稜線にいた2両が1班、続いて進入してきた2両が2班となります。

「後進射撃」というから後ろ向きに走りながら撃つのかと思ったら、
普通に進入すると同時に撃ちました。

砲撃の瞬間、砲塔の上の人は相当熱いのではないかという気がします。

炎が消え、戦車の前部に煙がまとわりつくところもいとおかし。

報道写真やその他ネットに出回る写真にはあまりない瞬間なので載せておきます。

これもあまり出回っている写真にはないシーン。
砲撃の一番最初の瞬間で、シャボン玉のように可愛らしい炎が噴き出しています。

続いて2班の戦車は小隊長に

「前方に障害確認、後退する」

と報告をします。
10式を10式たらしめる性能を見せるため、後退蛇行射撃を行うのです。

言っておきますが、この蛇行射撃の時の撮りにくいことと言ったら、
74式戦車の時の比ではありません。

しかし・・・

やっほーい。

後退蛇行しながらの射撃は極めて高度な技術を要します。
10式の安定性と高い起動性能あって初めて可能となった攻撃&避退です。

ちなみにバック走行時の速度は、10、90、74式戦車の順に速くなります。

90戦車は”どんがら”の割に案外速いのですが、74式は90式より小さいのに
まずこれでは敵から追撃された時助かるまい、というくらいノロノロ走行ですし、
もちろん後退しながら銃弾を撃つこともできません。

んが、日本で運用するぶんには(つか実戦に投入される予定もないので)無問題。
それこそゴジラでも出てきて、ヒトマルもキュウマルもやられてしまい、
残った装備で特攻作戦を余儀なくされた時くらいですかねー。(失礼か?)

こうして挙げていくと、今回は結構発砲シーンが撮れていたように見えますが、
実はちょっと悔やむべき失敗があったのでした。


といいますのも、Nikon1V3のスマートフォトセレクターという

「適当に押せば5枚ベストショットを残してくれる」

というお節介機能を使うことをふと思いついたのですが、隣のNikon持ちが、

「それ、40枚の保存もできますよ」

と現場で(しかも展示が始まってから)悪魔のように囁いたため、
90式の展示前に切り替えてもらったら、なんとシャッター押し直後、

「保存枚数を超えています」

という謎メッセージが出て、しかもリカバーするのに時間がかかり、
貴重なシャッターチャンスが失われたからです。
あとで余計なお世話だったと謝られましたが、反省すべきは
現場で初めてのモードを試そう、などという気になったわたしでした。

手前を狙っていたのに後ろの戦車の発砲炎が撮れた例。
要は失敗ですが、これはこれで。

炎が消えていく瞬間。

本日のベストショットはなんといってもこれ。
こういうのが撮れると、ついついその気になってしまいます。

というわけで、この後、隣のNikon持ちから、買い替えのために
下取りに出すというD810の購入を決意したわたしであった。

くねくね蛇行しながら後退、というのも最近は見慣れてきたものの、
こうして実際に妙に身軽な動きを見ると、改めて10式戦車とは
日本の誇るヘンタイ技術の粋を集めたっぽいと感心してしまいます。

今年は際に履帯が外れたり破片が飛んできたりという事故もなく、
無事に安定した展示を見せてくれた戦車隊でした。

 


装備展示、もう少し続きます。

 

 

今ここにある水陸両用車〜平成29年富士総合火力演習

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戦車火力の展示が終わり、10式戦車が退場すると、変わって
富士総火演では初めて動的展示を行う装備が入場してきました。

新しく開発された装輪装甲車、16式機動戦闘車、通称MCVです。
本年度以降新編される偵察部隊、即応機動部隊に配備されます。

このタイヤの駆動を見ていただければわかるように、
機動性に優れているので迅速に展開することが可能です。
最大速度は100キロですから、高速道路にも乗ることが(多分)できます。

「下半身装甲車、上半身戦車」というイメージでしょ?
それもそのはず、装甲車の機動性に、戦車火砲と同等の攻撃力を積んだ、
まさしく島嶼防衛に投入することを念頭に置いて開発された装備だからです。

火力は74式戦車と同等口径の105ミリ施線砲(ライフル砲、
砲腔『ほうこう』に腔線を設けた砲身を有する火砲)を採用していますし、
10式戦車と同等の射撃統制装置も搭載している・・・・・ということは、

装甲車のスピード

74式戦車の火力

10式のインテリジェンス(情報共有能力)

と、いいとこ取りをした夢の装備ということになります。

車体が軽いことも大きなメリットとなります。
船舶並びに航空機(C2など)による輸送が容易になり、諸島部にも展開しやすいのです。
車体自体の小ささで敵から発見されにくく攻撃の命中率も低くなります。

いいとこ取りと先ほど書きましたが、現行の89式装甲戦闘車は路上機動性が悪く、
また74式戦車は空輸することができません。

かといって87式偵察警戒車や軽装甲機動車などの装輪装甲車では火力不足で、
目標発見後速やかに射撃することができないため、普通科部隊への火力支援が困難。

さらにアメリカの戦闘車両は、

「小型であること」

「今使っている弾薬が適合すること」

などの条件から外れるため、導入をやめて開発が決定されました。

時代は

より小さく、より速く、より強く、より賢く

を武器により一層求めるようになってきたということですね。

そして、もう一つのお披露目装備は、水陸両用車AAVです。

今年の6月ごろ、米海兵隊から陸自がAAV7を大量購入したというので、

「なぜこんな水上で遅い時代遅れの骨董品を買わにゃならんのだ!
日本技術の発展にも米海兵隊にもデメリットをもたらす!」

とある戦争平和学者(って何)が騒いでいましたが、
(ただし後半は会員制記事だったため読んでません)
これって新しく陸自に設立された水陸両用部隊の訓練と錬成のために
とりあえず旧型を購入し、新型開発を待つってことなんでしょ?

ろくに現状を知りもせずに、このような視野の狭い所見で
偉そうにデメリット云々と騒いだ戦争と平和学者(だっけ)は、
新型水陸両用車の開発を知り、恥ずかしさのあまり夜枕を抱え、
あああ〜と叫んだことでしょう。

(まだだったらぜひそうしてください)

アメリカからは教導用と研究用を供与してもらったそうですが、
次世代配備には10年はかかるだろうという話もあります。

パンフの紹介では「AAV」となっていますが、
今ここにあるのはアメリカから購入したAAV7のはず、
ただし陸自用に化粧直し済みということのようです。

水中で外を覗く一人用のドームみたいなのが全部で3つ見えますね。
ちなみに乗員は4名ですが、二個分隊の人員を乗せることができます。

この日の展示では随分と高速走行しているように見えましたが、陸上速度は72キロ。
そして問題の水上速度は時速13キロとなっています。

これは、もういっそLCACに乗っけて運んだ方がよくない?
という速さではありますが、開発中の新型は速度向上を重視しているとか。

時速13キロはウォータージェット2基で水上走行を行うときの速さで、
万が一ウォータージェットがやられたら、その時はとりあえず
水中でキャタピラをぐるぐる回せば、ちょっとは前に進むんだそうです。

相手からは逃げられそうにはありませんが。

それからこの映像を見て思ったんですが、日本の海岸部ってテトラポットだらけで
こんな風に上陸できる場所って海水浴場しかないんじゃあ・・・。

今まで日本が保持したことがない水陸両用車なので、0から開発するのではなく、
既存の技術をたたき台にするということはわかりましたが、
日本の技術陣は小型化軽量化魔改造が得意なので、新型水陸両用車は
あっと驚くような切り口の装備になっていることを期待してます。

さて、続いては空挺団の降下が行われました。
雨が降ると中止になりますが、今回は木曜、日曜ともに決行されました。
まず会場右端で、目印となる白いスモークが焚かれます。

降下する隊員は、これを見て風の強さや向きを判断するのです。

高度1200mの高さを飛行しているチヌークから飛び出した空挺隊員は
およそ12秒間の間自由降下を行い、それからパラシュートを開きます。
パラシュートを開く高度は約900m上空です。

自由降下の間の落下速度は時速200キロ、新幹線と同じ速さで、
5名の空挺隊員たちは凄まじい風圧にその間晒されることになります。

自由降下は資格を持った隊員だけが行うことのできる技術です。

会場の奥では、飛び出し後4秒でパラシュートが開く自動索降下が行われ、
6名の空挺隊員がチヌークから飛び出しました。

観客席から遠いのと、自由降下の隊員ばかりが目立ち、
こちらの降下はいつもあまり注目されないのが気の毒です。

自由降下のパラシュートは、スパイラルを描きながら降りてきますが、
これは速度を調整(高度を急激に落とす、つまり早く降りる)ための技術です。

自動索降下の着地は、このような調整ができないので地面に転がるのが普通ですが、
自由落下の空挺隊員たちは軽々と地面に二本足で降り立ちます。

その度に観客からは拍手が送られますが、今まで転んだ人を見たことがありません。
万が一皆の前で転ぶようなことがあれば末代までの恥、と考えていそうです。

スモークにつつまれるように降り立った人。
同じところに降りないように示し合わせているのかもしれません。
ここに降りると退場口が近いので楽です。

両足綺麗に揃える派。

尻餅をつきそうですが、この後二本足で立ちました。
空挺隊員の仕事は降りることではなく、その先の活動などにあります。

メナドでもパレンバンでもそうでしたね。

あの頃は武器と一緒に降下して突撃、というのが空挺隊員の仕事でしたが、
現代では主に情報活動や遠距離火力の誘導による戦闘支援が主任務です。

地面に降り立った空挺隊員は次の瞬間索を引いて・・・

傘の中の空気を抜き、持って運べる大きさにたたみます。

この日の自由降下に選ばれる5名というのは第一空挺団の中でも
レジェンド級の精鋭隊員なんだろうなと思ったり。

顔の写っている人はとりあえずアップしてみましたが、
皆もう凄みがあるのを通り越して、ただものじゃない感じ。
(個人的感想です)

本番の時、隣の人が

「今日は観覧席前で挨拶するかもしれませんね」

というので期待していたのですが、何もせずに走って退場していきました。

ここで前段演習は終了です。
フィールドで整備が行われますが、何しろ20分しかないので、
わたしの周りは誰も動きません。

どうしてもトイレに行きたい人とか、前段演習だけで帰る人が移動していました。

わたしはこの日初めての食事をしましたが、買ってきたお弁当は
おかずが唐揚げ、肉団子、形成したエビのフライ、申し訳程度の青菜、
やたら辛い味付けのきんぴらというもので、値段は1,000円。

「これ千円って高すぎませんかね」

「ここでは仕方ないっすよ」

ぼやきながらこの時間を利用して腹ごしらえをしました。

そして、後段演習が始まりました。
オーロラビジョンには「状況開始」のお知らせが。

「ドッドドドッド ミッミミミッミ ドッドドソッソソ ドミドソド〜」(移動ド)

とラッパも鳴り響きます。

ところで後段演習は、統合運用における各種作戦の様子を展示するものです。
統合運用の「統合」とは、陸海空自衛隊のことで、特的の目的、つまり
日本に仇なす敵を(笑)やっつけるための作戦が「運用」となります。

で、この演習のシナリオとしては、ここ旗岡地区を「島」と仮定して、まず
海上から侵攻してくる敵部隊を統合部隊が撃破するところから始まるので、
本来ならば海上自衛隊の哨戒機であるP-3CやP-1が飛んでくるはずなのですが、
今回はP3C、演習に全く姿を見せませんでした。

何年か前飛んできたことがあったのですが、雲が厚かったので全く姿が見えず、
せっかく遠くからわざわざP3Cを飛ばしても、
ここ富士山近隣の変わりやすい天気では無駄になる確率が高いということになり、
ご時勢もあって(北朝鮮とかね)中止になったのだと思われます。

というわけで状況はいきなり中距離多目的誘導弾が、畑岡沖から
上陸しようとする敵舟艇を迎撃するところから始まることになりました。

装備紹介では3発連続でしたが、今回は相手が船なので1発です。

「目的管理番号、マルマルヒト、1発、撃てっ!」

で飛んでいくミサイルは・・・・・、

舟艇型のちょうど艦橋のど真ん中に大きな穴をあけました。
おそらくこの1発で艦橋にいた人たちは全員二階級特進したはずです。

しかし、敵もさるもの、こちらの攻撃をかいくぐり内陸部に進入してきたのです。
ってかチュウタの1発だけで防げるほど防衛は甘くないってことですわ。

こののち、上陸してきた敵部隊を迎え撃つ我が自衛隊統合部隊でした。

続く。

先遣部隊投入と諸島奪回作戦〜平成29年度富士総合火力演習

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会場の左稜線には、皆からよく見える場所に火力誘導班がいます。

ここから敵部隊の捜索、評定、火力誘導を行います。
具体的には、ここから目標にレーザーを照射するのです。

空中で待機していたF-2戦闘機が、火力誘導班の評定によって判明した敵に対し、
攻撃を行うために飛来してきました。

このF-2戦闘機は築城基地の所属だそうです。
まず皆の前を通過、弧を描いて一周し、戻ったところで爆弾を投下しました。

ちなみに誘導班と火力調整所のコールは日本語ですが、戦闘機は英語です。
ただし、終わった後の

「ミッションズ・サクセスフル、Fー2、グレイト・ヒット!」

以外は何を言っているのか聞き取れませんでした。

レーザーJDAMによる対地攻撃の爆破力の凄さ。
実際にはこの2倍の爆破力がありますが、安全のため炸薬を半分にしてあります。

JDAMそのものは無誘導ですが、Jシリーズの誘導装置キットを取り付けることで、
無誘導の自由落下爆弾を全天候型の精密誘導爆弾(スマート爆弾)
に変身させることができます。

レーザー JDAMは そのJDAMを進化させたもので、爆弾が投下された後、
(ここでは草むらに潜んでいる)火力誘導班が目標にレーザーを照射すれば、
爆破させることができるというものです。

日本は戦略爆撃機を保有していないので、今のところこのLJDAMが、
対地精密攻撃戦力の主力という位置付けとなっています。

しかしながら、敵の侵攻は止まらず、さらに二段山、三段山を占拠しました。
何をしている自衛隊統合軍。

そこで我が軍は本土からいよいよ機動展開を決行することにしました。
まずは先遣部隊が上陸しようという構え。

観測ヘリOH-6が偵察のために単機で乗り込んできました。

観測ヘリは攻撃力がないので、敵に狙われたら逃げるしかありません。
というわけで飛び回り、ほぼ垂直に上昇下降と小回りの効くところを披露していましたが、
その姿があまりに健気なので、冒頭写真でフィーチャーしてみました。

ちなみにこの時、コールで

「こちらオスカー」

と言ってましたが、これがOH-6Dの愛称らしいです。
オスカーはオート班(バイク班)に観測結果を報告します。

多用途ヘリUH-1が2機進入してきました。

オート班の隊員二人、バイク二台を載せています。
む、よく見るとヘリ乗員がオート隊員の肩をそっと抱いているぞ!

いや、「まだ降りないでね」って制止しているんだと思いますけど。

スキッドが地面につくかつかないうちに、バイクを下ろすためのレールをまず設置。

エンジンかけっぱにしていたらしいバイクを、素早くヘリから降ろします。

何をしているこちらのオート隊員!

もう一機のUH-1からも2台のオート班が降りてきます。

斥候班、一瞬合図を待つ。

バイクを降ろす補助を行なったヘリ隊員二人が乗り込むと同時に
ヘリコプターは空中に浮かび上がりました。

いくら命綱をつけているとはいえ、一応ドアが開いているのだから
そんなに傾くと乗っている人が危なくない?

続いて先遣部隊が侵入し、機動展開を行います。

チヌークとヒューイがやってきました。

アパッチは先遣部隊の進入を援護するために 攻撃を行ないます。

 UH-1からはリペリングのためのロープが降ろされました。

降下中狙われないように、あくまでも素早く、一瞬での降下。
ファストロープではなく、カラビナを使ってのリペリングによる降下です。

見分け方は、両手だけで降下していたらリペリング。

4人の隊員は、ヒューイの全開された左右の扉から、
背中向けになってアパッチの援護射撃が行われると同時に降下を行います。

地上に到達するのもほぼ同時となります。

降りた途端ロープを外し、要点確保のために走っていきます。

こちらはチヌーク後部ハッチ。
まずロープが降ろされ・・・・、

二本のロープに次々と、こちらはファストロープ(カラビナをつけていない)
で降りていきます。

チヌーク後部から地上までは短い距離で降りられるので、
器具をつけず、手と両腿でロープを挟んで降りるファストロープ方式で行います。

摩擦が手と腿にかかるので、特殊な手袋を着用するとはいえ、
普通に手を離したら、落ちます。
さらにヘリの位置から落ちたら軽く死ねます。

しかし、この方法は器具を使わないので素早く地面に展開できるのです。
簡単に見えますが、皆訓練に訓練を重ねた結果、こうやって何事もないかのように
地面に降り立っているというわけです。

地上に降りた先遣小隊は、海岸部要点(ということになっているところ)に展開します。

リペリングのロープがまだぶら下がっている状態で離脱。

そして海岸部の要点とされる場所に腹ばいになっております。

この後、設定としては LCACやオスプレイ、AAVなどが後に続き、
弾薬、燃料、人員や糧食などを輸送してくるというわけです。

チヌークもロープを引き上げつつ離脱。
向こうではアパッチが見かけは地味な機関砲攻撃でこちらを援護しています。

もう一機、チヌークが進入してきました。
中隊支力展開のために輸送を行う役目です。

観客席に(というか敵と反対側に)後ろを向けて着地したチヌークの
ハッチが開くと同時に、銃を持った隊員が地面に寝て警護。

ヘリの乗員が先に外に出て、降りてくるトラックの誘導を行います。
車体幅はハッチギリギリで、しかもこの傾斜はかなりありそうなので、
運転の下手な人なら車体をこすってしまいそう。

カエルの口から出てきた車には、5名の隊員が乗っています。

この間にもアパッチが援護射撃を継続しています。

車が動き出すのとほとんど同時にチヌークも離陸。
リペリングやファストロープで降りた部隊が敵陣のあるA道を突入していきます。

バンザイ突撃か?(たぶん違う)

この角度は木曜日の予行の際、E席上段から撮ったもの。

お次は占拠された領土奪還作戦へと移行します。
まずオート班が敵情視察を行うべく入場。

席が高いところにあると、オート班の写真はイマイチ迫力が出ません。

敵がいるのとは別の方向ですが、バイクを盾に周囲を警戒。

ポケットから出したスコープで敵の様相を確認、報告を行います。

すぐにRCV、早期偵察警戒車がやってきて、急襲射撃を行います。
これは、相手にダメージを与えるというより、その反応を見て
相手の戦力や位置を特定するという情報収集目的のためのものです。

その様子を偵察しているのがオート班の偵察部隊なのです。


そして本格的な攻撃に移行した富士教導団は、特化火砲で攻撃準備射撃を
敵陣地にブチ込む、というわけです。

 

続く。

 

 

 

 


戦果拡張の発煙弾〜平成29年度富士総合火力演習

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後段演習の仮想戦闘訓練が始まっています。

装甲機動車RCVが敵の兵力を測るための「様子見攻撃」を行いました。
敵を急襲し、それによっててんやわんやの大騒動が起きた、と仮定します。

オート班(バイクの偵察隊)は、その様子を観察しているという状態です。

急襲攻撃を終えたRCV班は急いで離脱するのですが、あれー?
本番の、しかも模擬戦闘だというのにオレンジの旗をあげたRCVが・・・。

オレンジの旗をつけた車両だけ、(´・ω・`)という感じで引き上げます。
早く離脱しないと相手に場所特定されちゃうよ?
予行とリハでは続出したオレンジ旗の装備は、仲間とは全く違う方向に
退場していくことに気がつきました。

「お仕置き部屋かな」

「・・・普通に整備するところでしょ」

オート班の報告によって、敵の居場所がわかったので、富士教導団は
A道、B道沿いに攻撃し、三段山を奪取することを決定しました。

まず、後方の特化火砲が敵陣地を攻撃し、間髪入れずに
74式戦車隊が射撃陣地を占領しようという構え。

会場左と右に2台ずつ配備します。

対戦車誘導弾を撃ち、それに反応して出てきた敵戦車を、
待ち構えていた74式戦車が撃破します。

74式戦車は決して移動しながら砲撃を行いません。
必ず移動し、止まって4秒目くらいに射撃を行います。

もし敵が三段山に展開していたら、被害多数。
もし本当の戦闘だったらここまで敵が何もしてこないなんてありえませんし、
こんな簡単にやられてくれる敵ならそもそも上陸なんかできそうにありませんが。

一連の攻撃は戦車隊、施設科、そして特科部隊によって行われます。

障害処理を行うため、特科部隊が援護射撃を繰り返す中、
発煙弾が弾着し、敵の戦闘行動を妨害します。

施設小隊の障害処理を妨害しようとする敵を再び74式が撃破!

今回改めて気づいたのですが、こういう「据え撃ち」に一番向いているのか、
実は後段演習で最も発砲回数が多いのが74式なのです。

引退が近いから花をもたせているのかなと思っていたのですが、
砲を換装して破壊力は普通にあるそうですし、つまり適材適所ってことなのかな。

次に施設小隊の地雷原処理車が地雷原処理ロケットを投射します。
画面が暗いですが、これは木曜日の予行の時の画像です。

この日は投射直後の煙も黒々としていましたが、本番は真っ白でした。
予行と本番では地雷原処理車の位置も投射方向も全く違いました。

理由はわかりません。

こちらが日曜本番に投射された地雷原処理ロケット。
右手から左手に向かって、予行とは全く逆方向から飛んでいきます。
(防衛相観覧席からの見やすさの問題かもしれません)

ロケットに付いている索には数珠のように丸いボールが連なっていますが、
これが爆薬ブロックで、地雷を爆発させ、戦車用の通路を確保します。

爆薬ブロックの数は24個ですが、展示用に爆薬を4分の1に減らしてあります。
ブロックがこんなにたくさんありしかも密接なのに、
爆発は広範囲に3箇所に分かれて起こるのがいつも不思議です。

特科部隊が見えないところから何度かに渡って前進支援射撃を繰り返す中、
ヒトマル式戦車が攻撃前進してきます。

10式の展示は常にその軽快な機動性を見せることを重視しています。

進入してきて4台が斉射。

この後FV戦車の攻撃を支援するため、またしても74式戦車が撃ちます。

74式が撃つのはこれで確か4回目となります。
支援専用にしたら一番出番が多くなったということでしょうか。

後段演習では今のところ90式戦車の出番が全くなし。

続いて10式戦車、二連続同時射撃を行います。
もうわかったから90式にも撃たせてあげて!

そこに敵の戦闘ヘリが現れたので、87AW、ガンタンクがたたき落とします。
「ハエたたき」のあだ名は伊達ではありません。

実は破壊力はあるけれど、航空機を確実に落とせるかというとそうでもない、
とこの時聞いたような気がしますが、きっと何かの間違いでしょう。(適当)

この後FV小隊、特科火砲、迫撃砲が入り乱れて突撃支援射撃を行い、
敵対戦車部隊を撃破してしまったということです。まじか。

戦車中隊の突撃を支援する射撃の最終弾が弾着した後、どう聞いても

「自衛隊は突撃する!自衛隊、前へ!」

と言っているように聞こえたのですが、これも不思議な言い方だと思いません?


ここで後段演習になって初めて90式戦車が現れ、
そして締めの一発というべき一斉射撃後、敵陣にいきなり突入し、数秒後には

「突撃成功!」

と通信してきて、ようやく脚光を浴びました。
ある意味楽して一番おいしいところを取ったと言えなくもありません。 

戦車部隊が敵地に殴り込みをかけている時、ふと左手上空を見ると、
ヘリ部隊がホバリングしてこちらをうかがっています。

ここから行われるのが、総火演名物の打ち上げ花火、じゃなくて、発煙弾発射。
総火演を象徴する写真としてよく使われるあのフィナーレです。

よく「白煙弾」とこれを表現している人がいるようですが、白煙弾だと
あの白リン弾と同義になってしまうようなので、注意が必要です。

自衛隊的にはこのシーケンスを「戦果拡張」と称しています。
発煙弾でこちらの存在を覆い隠し、同時に戦車教導隊が敵地に突入していくというわけです。

今回わたしは木曜日の予行の時、カメラを持ち替えなかったため、
望遠レンズ装着のままこのシーンに臨んでしまいました。
つまり失敗したということなのですが、おかげでこんな写真が撮れたのです。

空中にはっきりと分かるほどばらまかれた多量の発煙手榴弾。

大きさは小型ペットボトルくらいでしょうか。
確か新装備のMCVにも AAVにもついていたと思いますが、
発煙弾の発射機、スモーク・ディスチャージャーは、軍用車両であれば
普通に搭載している標準装備です。

戦車などには複数個まとめた状態で外装されており、車内からの遠隔操作で発射されます。

違う種類の装備がこうやって同じ発煙弾を上げることができるのはそのためです。
そしてこの写真を仔細に見ていただければ、点火前の発煙弾がほぼ一列、
同じ高さに打ち上げられているのがお分かりになるでしょう。

各装備はこの「戦果拡張」の際の発煙弾打ち上げの高さを揃えて投射します。
ほぼ同じ時間に点火し、同じ高さから美しい滝のような煙幕を降らせるというわけです。

これは放物線の頂点で発煙弾が発火する瞬間です。

火花によってフラミンゴのような淡いピンクに染められた白煙が、
投射した装備の上に降り注いできます。

どうしてこれが戦果拡張に必要なのか今ひとつなのかわかりませんが綺麗だから許す。

ちなみにこの写真から以降は日曜日の本番に撮ったものです。
二回参加してどちらも撮れたので、本当に良かったと思いました。

10式戦車にも、WAPCにも、等しく降りかかる火花と煙。
中にいる人はどんな気持ちで・・・あ、中からは見えないのか(笑)

段階に分けていますが、発煙弾発射の命令が下ってから火花が白煙に変わるまではほんの一瞬です。

発煙弾を上げた部隊が火花と煙のシャワーを浴びている間に、
74式戦車、87式AW、そしてヘリ部隊が会場左から現れます。

こんなこともあろうかと、今回は中望遠レンズのカメラに持ち替えておいたので、
ズームアウトし、スモークの全景も撮ることができました。

端っこのWAPCにはスモークはかかっていません。

最後の瞬間を写真に撮ろうとして頭上に伸びている腕の数が多すぎい!

そしていつのまにか敵は制圧され、畑岡地区は自衛隊統合群によって取り戻されました。
そして、残存する敵を今度こそフルボッコにするために、
全装備が空と陸を一斉に左から右へ移動していくのでした。

「状況、終わり!」

ソードソードミードミード ソミドミドソド〜〜〜

ソードソードミードミード ソミドミドソド〜〜〜(移動ド)

 

続く。

 

 

装備展示〜平成29年富士総合火力演習

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フィナーレの花火、じゃなくて発煙弾の投射も無事終わり、
平成29年度富士総合火力演習は無事に終了しました。

毎年、自衛隊はこの演習にキャッチーなコピーをつけるのですが、
今年のそれは、

「日本を防衛力(まもる)」。

去年は

「日本の本気」

であったと記憶します。
にしても、防衛力と書いてまもると読ませるのにはいささか無理というか、
「日本を防衛力」という文章が文章として成り立たないだけに、
イマイチな感じは否定できません。(ごめんね広報の人)
なんで今年がこうなのに昨年が

「日本の本気(マジ)」

でなかったのか、と個人的には思うものです。
どうしても防衛力を使いたければ、わたしなら

「日本の防衛力(まもり)」

にするな(提案)

さて、演習最後の頃の90式戦車の砲塔を、こんなこともあろうかと
アップで撮っておきました。

砲塔右側に、4つのノズルみたいなのが確認できますが、
最後の発煙弾はここから打ち出されます。

フィールドにいた装備が全て引き上げて行った後、
装備展示のための準備が始まります。
まずはヘリコプターが所定位置に着陸。

Cー47チヌークが他の装備に先駆けてグラウンドに降り立ちます。

続いて AH-64D戦闘ヘリ、アパッチ。

多用途ヘリコプター、 UH-60。

「ブラックホークダウン」という映画でダウンしていたブラックホークですが、
日本では単に「ロクマル」と呼ばれているようです。

海自も救難用に同じ形のものを保持しており、塗装はオレンジと白です。

今回事故を起こして脚を折ってしまったという対戦車ヘリAH-1S。
自他共に「コブラ」と呼ばれており、演習の時にも

「こちらコブラ」

とコールしていました。

アパッチよりたくさんあって、順次退役していく装備であることは
今回初めて知りました。

多用途ヘリコプター、UH-1、愛称ヒューイ。

「ヒューイ」になった経緯というのが最初の型番であった「HU-1」の
「1」を「I」に見立てて

「HUI」→「ヒューイ(HUEY)」

と読んだことに始まるそうです。
ただし我が自衛隊では単に「ユーワン」と呼んでいるとのこと。

何かに引っかかった時のためのワイヤーカッターが、
ツノのように突き出しているのがUH-1Jという現行タイプです。

しかしいつも思うのですが、このワイヤーカッター、役に立ったことあるの?

会場では施設科の隊員が、各装備の前に説明のための看板を置いていってます。

フライングエッグ、観測ヘリOH-6D、オスカー。
総火演に同じ観測ヘリであるOH-1ニンジャが来たこともありますが、
今日はオスカーくんだけでした。

OH-6は順次OH-1に置き換わっていくということなので、
できるだけ総火演で活躍させてあげようという親心?でしょうか。

後段演習には活躍しないけれど、展示には登場する装備もあります。
91式戦車橋。
これがまるでトランスフォーマーのようにあっという間に変身して
橋になってしまう動画は、みなさん一度見て損はないです。

91式戦車橋による架橋

特に4:00から後、橋を地面にどーんと置いちゃうんだよう。

74式戦車。
今日は特に後段演習では大活躍でした。

OH-6と同じ理屈で、花を持たせてもらってる可能性高し。(個人的見解)

せっかくなので車上の隊員さんをアップにしてみました。
そういえば、会場で流れていた自衛隊の広報ビデオで、

「顔を出して戦車に乗っている時、風を感じるのがたまらなく好きです」

というようなことを言ってる戦車隊所属の詩人がいました。

FV小隊も実は後段演習の殊勲賞というくらい出番が多かった気がします。
89式装甲戦闘車。

FVって、「ファイティング・ヴィークル」の頭文字なんですってね。
「戦う車」って漠然としすぎてませんかって感じですが、
英語圏ではこれを普通歩兵戦闘車、つまり

IFV:Infantry Fighting Vehicle

とか

ICV:Infantry Combat Vehicle

とか呼んでいるわけです。
ところが我が国に終戦後から蔓延する軍事アレルギーの空気を忖度した
(と思われる)防衛省が、「歩兵」はよろしくなかろう、と考え、
「Infantry」を外してしまったのでした。

こういうのを悪い忖度っていうんですよ?(個人的見解)

10式戦車の上の人。
10式戦車の部隊は正式には戦車教導隊第1中隊といいます。

ハクトウワシとその蹴爪が第1中隊のマーク。

90式戦車は戦車教導隊の第3中隊、マークはハチ。

流星のマークの90式を見たことがあるかもしれませんが、
90式の部隊は二つあり、こちらは第2中隊となります。

74式戦車は第4中隊で、ペガサスのシルエットがマークです。

96式装輪装甲車は普通科教導連隊第1中隊の所属。
こんなところに顔を出すハッチがあったんだ・・・・。

中距離多目的誘導弾、MMPM(ミドルレンジマルチパーパスミサイル)。
こうして見るとただのトラックぽいですが・・・・、

後ろの弾体射出機を持ち上げれば、おなじみの形に。

今回初お披露目となった水陸両用車AAVと16式機動戦闘車が並んでいます。

その向こう、隊員さんがヘアブラシみたいなのでお掃除しているのが
輸送防護車(ブッシュマスター)。

見たことない車だと思ったら、2014年に4両だけオーストラリアから購入し、
主に邦人救出を目的として中央即応連隊に配備されているのだそうです。

で、この検索をしていたら

「陸自が導入した輸送防護車は使えない」

として、

「この輸送防護車だけを導入しても邦人救出作戦は実行できない。
無理をすれば多大な犠牲を出して失敗する。

●子供や病人の輸送をどうするのか

輸送防護車は邦人保護に関する法改正に伴い、邦人救護輸送に関して
車輛が使用可能となったために調達されたものだ。
だが前回の調達分と、今回要求分の輸送防護車はすべてAPC(装甲兵員輸送車)型である。
回収車や輸送型、野戦救急車型は調達されていない。

耐地雷装甲車でも触雷やIED(即席爆発装置)の被害を受ければ無傷では済まない。」

という、何がいいたいんだお前は、と思わずツッコンでしまうヨタ記事があって、
しかもなんかすごいデジャビュ感があったのですが、それもそのはず、
今回の朝日記事と前回のAAV7の記事、どちらも例の戦争平和学者の筆によるものでした。

もう笑っちゃったよ。
このヒトの仕事って、防衛省の装備にとにかくケチをつけることなの?

装甲兵員輸送車で邦人を輸送するのは危ないからやめとけってこと?
回収車や輸送型、夜戦救急車はじゃあ地雷を受けないor受けても大丈夫だと?
全ての機能を備えた戦車並みの丈夫なスーパー装備が開発されるまで
邦人輸送のための備えはしてはいけないとでも?

要は邦人保護のために自衛隊が海外に派遣されること自体が気に入らないんでしょうけどね。
朝日とこの学者は。

これは木曜予行の、つまりE席スタンドから撮った写真です。
自走砲など高射部隊の装備が一番向こうの方にあります。

装備展示の準備が整い、待っていた人がグラウンドになだれ込みました。
わたしは去年と全く同じ、下まで行くのが面倒だったので、
スタンドから写真を撮りつつ皆の荷物番をしていました。

まっすぐに戦車の前に向かって行くのはほとんどが男性。

戦車の前でVサインする男の子。
早めに到着するとこんな写真も撮れます。

地面がぬかるんでいるらしいのも、わたしが下に降りなかった理由。

あっという間に戦車の前は人多すぎになりました。

74式戦車と俺。👍(いえーい)みたいな?

92式地雷原処理車。
処理弾を投射するときにはほとんど姿を見せないので、
実際に見ると投射機が大きいのに驚きます。

装備展示が始まるとシートには誰もいなくなります。
青少年のグループは未来の自衛官候補でしょうか。

ここまでが木曜予行の写真です。

日曜の本番の日、わたしと連れは後半が始まるまでに

「今日はどの段階で会場を抜けようか」

と謀議していました。
木曜日は装備展示を見たいとわたし以外の全員が言い張ったため、
その後引き上げるとバスまではともかく、御殿場インターに向かう道が
ギチギチにこんでしまって、大変でした。

しかもこの日は東名高速が大渋滞していて、昼過ぎに終わったはずのイベントなのに
家に着いたのは夕方の6時という大惨事となってしまいました。
前日夜中に家を出ているので、途中で仮眠をとったこともありますが。

そこで、ベテランである連れが、

「後段演習が終わる直前に会場を出ます」

ときっぱり。
発煙弾の写真を撮り終わった瞬間、わたしたちは脱兎のごとく会場を出て
同じように早めに会場を出た人々の驚くほどたくさんの人の列に加わり、
しかしながらあまり待つこともなくバスに乗り込みました。

バスの車窓から外を見ると、すでに帰宅の混乱が始まっている様子。

E席にいる人たちが手を振っています。
戦車などが退場するとき敬礼してくれているのに答えているのでしょう。

左手に会場となった黒の台やモニターなどが見えてきました。
驚いたのは、多くの人が側道を歩いていることでした。

ここから先は延々と舗装していない山道です。
武士の情けで?写真は挙げませんが、その中に
ひらひらのワンピース、麦わら帽子に10センチヒールのコルクサンダル、
しかも生足という高原の避暑に来たお嬢さんみたいな人がいてビビりました。

彼女が転けもせず、足に豆も作らずに数キロ歩き通すことができたことを
心の底から祈ってやみません(嘘)

朝は下の公園の無料駐車場に車を止め、トランクから自転車を出して
会場まで移動している人を目撃しました。
みんなすごいなあ・・・(と人ごとのように言ってみる)

いつもここを通るたびに気になって仕方がない慰霊碑。
調べてもこれに相当する慰霊碑についての詳細はわかりませんでした。

ここで亡くなった自衛隊殉職者の御霊を慰めるものであろうと思われますが・・。

歩いて帰る途中にラブと遭遇し、記念写真を撮る人。

蛇足ですが、わたしは同行者の的確な判断と行動のおかげで、
3時には自宅に到着していました。
あまりにも早く帰って来たので家族がびっくりしていたくらいです。


さて、こうして総火演の終わりとともにわたしの2017年夏も終わりました。

毎年同じようなことをしているようでも来るたびにいろんな発見があり、
故にどんな大変でも足を向けずにいられないのが総火演ですが、
今年はわたしにとっては今まででベストというくらい、
いただいたチケットから始まって予行と本番の席、本番の気候、そして
最後の帰宅まで全てがうまくいき、心から楽しめました。

日本を防衛力(まもる)自衛隊への知識もブログ製作と皆様のコメントによって
毎年少しずつでとはいえ、深まっていくのを感じます。
イベント運営には大変なご苦労もあると思いますが、広報の一環として
演習を公開してくれるのは国民の一人として実にありがたいことだと思います。

自衛隊の皆さん、そして今回東富士演習場に来られた全てのみなさん、お疲れ様でした。
また来年もお会いできることを心より祈りつつ。

 

終わり。

 

TCCC(ティースリーシー)とコンバットメディック〜陸自衛生学校見学

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総火演シリーズが続いていたせいで、色調も内容も圧倒的にカーキとか土色の
陸軍色となっていて、タイトルとの違和感が否めない当ブログですが、
もう一息、陸自関係の見学記を続けたいと思います。

総火演の熱気も去り、ついでに気温もぐっと下がってすっかり秋かと思いきや、
またもや蒸し暑さの戻ってきたこの日、都内某所にある自衛隊中央病院前にやってきました。

三軒茶屋から歩いて20分、こんなところに自衛隊駐屯地があるとは全く知りませんでした。
看板には中央病院の他に本日見学させていただく衛生学校、そして三宿駐屯地とあります。

正門前で点呼を取り、案内されて歩いていくと、石碑がありました。

こういう史跡に大変興味があるので一人ならば近寄ってみるところですが、
団体行動を乱すことにもなるので、写真を撮るに留めました。

この黒曜石に書かれたのは「内親王」が「近衛野砲隊」について詠ったもの。
この二つの文字をみて、たちまちピンときたわたしです。

ネットでは「日本のイケメン」写真特集となると必ずお目にかかる
陸軍軍服姿の美少年皇族として有名なお方。
北白川成久王のことであり、内親王とはそのお妃のことではあるまいかと。

当ブログでも触れたことがありますが、当時の皇族はヨーロッパ風の
ノブレスオブリージュに倣って、陸海軍に所属することになっており、
王は陸軍士官学校のち陸軍大学にまで進まれ、砲兵大佐で予備役となられました。

この石碑は、愛する夫君が所属する近衛野砲連隊を、その愛妻が

「あなた素敵〜、あなたの所属してる部隊も素敵〜」

と讃えたのだと思われます(適当)

ちなみにこの碑の一文に

「心に生くる世田谷乃 あゝ近衛野砲隊」

とありますが、野砲連隊は世田谷といってもここではなく、
下馬(今は都営アパート)にあったということです。

衛生学校の前には2009年に完成した白い巨塔がそびえています。
これが自衛隊中央病院。

今回敷地内に入るのにもセキュリティチェックが全くといっていいほどなく、
少し違和感を覚えたのですが、構内に一歩足を踏み入れると
ベビーカーを押したお母さんと子供が普通に歩いていて、ここが
一般病院の一面を持つ医療機関でもあることに改めて気付かされます。

ただし、診療を受けるには紹介状が必要で、もしなければ特定医療費が加算されます。
これは自衛隊病院が基本有事に負傷者を受け入れることを前提にしている、つまり
自衛隊組織であり防衛省の管轄の病院であるということからです。


以前ある会合で中央病院の副院長という自衛官と名刺交換をしました。
海将、つまり自衛隊の階級のトップです。

海将なのに副院長とはこれいかに、とその時は不思議に思ったのですが、
中央病院の組織図を改めて見てみると、副院長は二人、
陸将と海将が一人ずつ配され、院長は陸海空どの階級でもなく、

「防衛技官」

となっています。
現中央病院院長の前職は陸将ですが、院長になった時点で
『制服を脱ぎ、防衛技官となった』とHPでも述べておられます。

中央病院院長はつまり自衛隊員であるが自衛官ではないということになります。

 

この白亜の巨塔は地上階は旧病棟の2倍となる10階建て、地下2階、
延べ床面積は約2倍半になり、屋上には緊急輸送のためのヘリポートがあります。

免震構造を採用し、緊急時には平時の2倍1000床の増床が可能となりますが、
基本有事に負傷者を収容することを前提としているため、
常に一定の空きベッドを確保しているのが他の病院にはない特徴です。

そちらは見せてはいただけませんでしたが、今日の見学はこちら。

今までいろんな自衛隊の建物内に入りましたが、ここがダントツで
節電を徹底的に心がけているらしい省エネ照明だった、と断言します。
心がけすぎて、もう廊下がほぼ真っ暗です。

しかも、これは全自衛隊に共通の古い鉄筋コンクリート、実用本位の陰鬱な造り。

アメリカの湾岸警備隊や横須賀の海軍、岩国の海兵隊基地内部と比べ、
自衛隊の人たちの職場環境って基本顧みられなさすぎだといつも思います。

「仁」という理念はもちろん「医は仁術なり」から。

向かいの中央病院は三自衛隊共同機構ですが、こちらは陸自の教育機関となります。
額の緑は陸自、紫は内閣総理大臣旗と関係しているのではないかと思われます。

これまでの自衛隊見学のパターン通り、まず一室に通されて
担当自衛官からのレクチャーが行われたわけですが、
案内されるのが階段を登って行って右側、というのまで共通しているのに、
通された部屋は、偽装網で張り巡らされたこれまでにない画期的なものでした。

天井も偽装網で、床にもカモフラージュのシートが敷いてあり、
高校の文化祭の教室のデコレーションをつい思い出してしまいました。

レクをするためだけになんなんだこの雰囲気づくりは、とビビっていたのですが、
ここは実は衛生科隊員のトレーニングをする、

「シミュレーション・ラボ」

という施設であることがわかりました。

我々がパイプチェアを並べてもらって座ったのは、青の「収容所想定地域」です。
まあいわゆる一つの野戦収容所という想定ですね。

戦闘中の救護活動を想定したトレーニングを行うのが赤の部分で、
ここにはスクリーンやスポットライト、そして遮蔽物などがしつらえてあります。

赤と青の部屋の真ん中には音や光、煙などをコントロールするためのデスクがあります。


想定というのは非常にシンプルで、つまり敵の火力で味方が負傷する。
それをとにかく死なせないための応急措置を的確に行うことにつきます。

これを実際に体を動かしてなんどもなんども繰り返し、
体に叩き込むというのがこのシミュレーションラボでの訓練の目的です。

戦争映画で怪我をした人(とかその近くの人)が、

「メディーック!」

と呼ぶ、それが自衛隊の場合この衛生科隊員となるわけですが、
陸自衛生科の隊員が行うことができる医療行為は
最近の法改正によってその範囲が広がりました。


彼らに付与された「資格の必要な医療行為」とはどのようなものでしょうか。


アメリカの負傷者の死亡率の推移を表した以下の数字があります。

第二次世界大戦 19.1%

ベトナム戦争  15.8%

アフガニスタン、イラク戦争 9.4%

ベトナム戦争の時にはヘリによる輸送が死者を減らしました。
その後の飛躍的な死亡率の低下は、TCCCの導入にあります。

TCCC(タクティカル・コンバット・カジュアリティ・ケア)、
ティースリーシー、日本語では「戦術的戦傷救護」とは、
つまりメディーック!が戦場でできる救難行為の範囲を拡大し、
それまでの「止血のみ」から、

輸液(抹消血管・骨髄内)

挿管

気道確保

胸腔穿刺

などを行えるようになる資格と医療行為のことです。

陸上自衛隊衛生科隊員がこの資格を得た上で、
第一線戦場での救命措置が得ることができるようになった背景には、
自衛隊の行動範囲が、

「駆け付け警護」

によって拡大する可能性を踏まえてのことであるのは間違いないでしょう。

現在、この資格を持った衛生科隊員は全国で25名おり、
すでに各部隊に配置されているのだそうです。

 

これらのことが、スクリーンを見ながら説明されていたのですが、そのとき
いきなりブレーカーが上がり、映像が途切れたため(笑)、
レクチャーは急遽、質問タイムとなりました。

わたしはすでに海外に派遣された資格隊員がいるのかと聞きたかったのですが、
それはなんとなく聞きそびれ、代わりに

「それは国家資格か。
資格を持った隊員の前で一般人が(気道確保などの必要な状態で)
倒れていたら、救命できるのか」

と尋ねてみました。

答えは(当然ですが)ノー。

帰ってきて改めて調べれば明白でしたが、この資格はすなわち

「戦場で負傷した自衛官を助ける自衛官」

にしか適応されないものであったのです。

そして案の定、平和安全法制を「戦争法」と読んではばからない連中が

「戦場へ自衛隊を海外派兵しなければ、このような救護体制の検討は必要ない。
海外で武力行使するつもりだから、戦傷者の発生を想定しているのだ。
PKO「駆けつけ警護」とは、戦闘現場に自衛官が突入していくということで、
死傷者の発生は避けられない。 

自衛隊の戦時医療体制の構築という点からも戦争法の危険を明らかにし、
廃止を求めていこう」

って・・・。 

自衛隊の戦時医療体制の構築って意味わかんねーし。

どうしてこの手の人たちは、武器を放棄すれば戦争にならないとか、
戦闘を想定すれば戦争になるとかいう短絡的な考え方しかできないんだろう。

まあそんなことはこの際どうでもよろしい。よろしくないけど。

というわけで一応のレクが終わりました。
見学者御一行様は次の間、すなわち「戦場」へとご案内されました。

今まで説明してくれていた、第一線救護衛生員の資格者で教官でもある
衛生科の隊員さんに続いて次の間に入ると、なんとものものしい。
銃を抱えた戦闘フル装備の衛生科隊員(コンバットメディック)が二人。

今からシミュレーションラボでの訓練を実際に見せてもらいます。

ところで、レクの部屋の床のシートには、いたるところに赤い染みがあります。
これは、シミュレーションの際に実際に人体そっくりに作られた

シムマン3G

という高機能患者シミュレーターから流れる血を想定した赤い液体です。

「訓練ではそれが床に飛び散るのですが、どうしてもシミになってしまうんです」

((((;゚Д゚)))))))

もう誰か倒れてるし。
しかも爆風で足を吹っ飛ばされておる。

ちなみにこのシムマン3戦傷型(っていうのかどうか知りませんが)
はいつも同じ怪我をする訳ではなく、モジュールがたくさんあって、
いろんなパターンで負傷者を想定することができるそうです。

つまりこの時は足の先が逸失したタイプだったけど、

「今日は腹部損傷」

「今日は両手両足(”Johnny Got His Gun”Type)損傷」

という具合に日替わりで手当の訓練が行えるということ?


さてと・・・・・・・これから一体何が始まるんです?


続く。



第一線救護衛生員の資格拡大と駆け付け警護のこと

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さて、陸自衛生学校における第一線救護衛生員の実戦シミュレーションが
いよいよ始まることになりました。

写真は状況開始にあたり、定位置でまずポーズを決めるコンバットメディック。
この人ちょっとかっこよすぎませんか。

シミュレーションはこの二人(二人とも救護資格を有するCM)が
戦闘中爆風で負傷した部隊の仲間を救出するという設定です。

いきなり暗いところで想定が始まってしまったので、プログラムオートでは
画像がボケボケになってしまいましたがご了承ください。


後ろのスクリーンで戦闘が始まり、銃声が鳴り響きました。
映像は真ん中のモニター室のコンピュータから操作されています。

不鮮明なのでよくわかりませんが、ここが日本でないことは確かです。

スクリーン前に走ってきて、派手に一回転するコンバットメディック資格を持った衛生科隊員。
モードを切り替える前に戦闘が始まってしまったため、こんな写真しか撮れず残念です。

あっという間に負傷して倒れていた戦友を引きずってきました。

コンバット・メディック二人による遮蔽物の陰での応急処置が始まります。

あ、脚から血が、血が出てるう〜〜〜!

あとで案内の自衛官が、

「本日の写真はソーシャルメディアで宣伝していただいて構いませんが、
動画を撮られた方は、youtubeなどへのアップはご遠慮ください。
血が流れたりしているのを観て気分が悪くなる人がいるかもしれません」

最後の一行は明らかにそれ本当の理由と違うだろと思いましたが、
まあ自衛隊としてはそう言うしかありませんよね。

体温低下を防ぐため、体をシートで巻き、顔面を負傷しているので、
呼吸停止にならないように気道確保をまず行います。

あとで器具を見せてもらいましたが、アレルギーの人が持っている
エピペンみたいな針の飛び出す仕組みのものでした。

二人は負傷者に絶えず、

「大丈夫か!」「しっかりしろ!」

などの声をかけつつテキパキと手当を行なっています。

「傷は浅いぞ!しっかりしろ」

と言っていたかどうかは記憶にありません。
映画だとどんな重傷でもこう言ってますが。

そこになぜか部屋の隅から白煙まで噴き出してきました!!

訓練、しかも日常的に行う訓練にもかかわらず、どうしてここまでやるのかというと、
実際の状況に近い条件での訓練を繰り返すことにこそ意味があるからで、
音響、映像、発煙、照明などの効果も、少しでもリアルに近づけるためです。

特に外科医でもない限り、人体から多量に噴き出す血に動揺しない人間はいません。
そこで、実際に赤い液体を噴き出す模型人形を使うということをするのです。

一連の手当が終わり、シミュレーションをした隊員が追加説明をしてくれました。
彼が手に持っている止血帯は、隊員全てが標準装備しているもので、
手当の際にはまず本人の体からそれを外して使用するのだそうです。

片足を飛ばされたモジュールは実にリアル。
これも実際の負傷を目の当たりにして、

「キャー、血いい!ほ、骨が見えてるうう!うえええ」

などとパニックを起こさないように(そんな奴いないか)
できるだけ本物に近い模型で慣れることを目的としているのだと思われます。

追加説明を行う隊員さんは二人のうちの一人でした。
救護のために持っている装備を見せてくれ、質問に答えています。

わたしが

「状況開始してから負傷者が出るまで何をしてるんですか」

と質問すると

「わたしは小隊の隊長ですので・・・」

とそこでふと言葉を切ったので、

「戦闘行動ですか」

「そうです」

そ、そうだったのかー!

って、前回も書きましたが、専門の衛生部隊として待機しているのではなく、
あくまでも彼らは応急処置の資格を持ったソルジャーだと言うことになります。

 

手当をするときにも放さず持っていた銃。
近くでまじまじと見てもわからなかったのですが、本物だそうです。

まあ自衛隊なんだしわざわざ偽物を使う理由もないか。

戦い済んで日が暮れて。
先ほど手当してもらった負傷者は、次の訓練のために包帯を外され、
床にまたぞんざいに転がされております。

ちなみに、この人は実際の人体と同じ重さで6〜70キロあるということでしたが、
何人かの人が試しにもたせてもらったところ、全員が

「お、重い・・・」

意識のない人体を引きずって運ぶのですから、メディックも大変な力が要ります。

 

質問タイムに

「もし戦場で手脚が飛ばされるような負傷をしていた場合、
後々のことを考えてそれを持って帰るんですか」

と聞いている人がいました。

それについてはすでに想定済みらしく、

「できる限りそうすることになっています」

という答えがありました。

帰り際、

「やっぱり日頃から体力トレーニングやってらっしゃるんですか」

と聞いてみました。
さらりと「はい」と答えながらヘルメットを外したところを一枚。

状況開始前のポーズといい、この立ち姿といい・・・イケてます。

さっきレクを受けた部屋はもともと「野戦救護所」を想定した部屋です。
わたしたちが模擬訓練を見ている間に、部屋は椅子が片付けられ、
野戦ベッドが二台ならぶ平常モードに戻っていました。

ここにもシムマン3G(トムとかなんとか呼んでたけど忘れた)が二体。

せっかくなのでご尊顔アップ。

シムマン3Gは「レールダル」というノルウェーの会社の製品なので、
どうしても風貌が北欧仕様になってしまうようです。

「時間があったらこちらも見学していただきたかったのですが」

と説明してくださった隊員さん。
先ほどのシミュレーションを見せてくれた方とは同期だそうです。

 

 

わたしは今回ここで行われている第一線救命衛生士の訓練について、
全く予備知識なく現地に赴き見学をすることになったのですが、
これが「駆け付け警護」、そして「宿営地の共同防護」という
自衛隊新任務の実施にあたり反映されたものだったことがわかりました。


駆け付け警護については今更ですがあらためて説明しておきますと、
在留邦人のいる海外の地において、NGO及びPKOの職員から要請を受けた時、
自衛隊がその保護に当たることができるという法案です。

この法案制定に至る経緯はと言いますと、東ティモールやザイールなどで
市内で暴徒による大規模な暴動の発生や、NGOの車両への難民による
襲撃などの不測の事態が発生したことを受け、当時現地に派遣されていた自衛隊が
邦人から保護を要請されたことに端を発します。

しかしながら、当時自衛隊は海外での法律上の任務や権限が限定されており、
したがって保護に当たるための十分な訓練を受けてもいませんでした。

自衛隊が近くにいて助ける能力があるにもかかわらず、
人命救助を行うための対応ですら限定的なものにならざるを得なかったのです。

そこでPKO法改正によって自衛隊が救助を行うために必要な権限をきちんと追加し、
それに備えた十分な訓練を行うことができるようにしたわけです。

今回見学した訓練は、さらにその先、つまり任務遂行上戦闘行為に突入したことを
想定した上で、自衛官の命を失わないための取り組みの一環ということになります。

 


もちろんですが、駆け付け警護については反対意見もあります。
左側の人たちがよくいうのは

「戦闘に巻き込まれて自衛官の命に危険がある」

しかし現役の自衛官本人が

「あの人たちから命の心配をしてもらえる日が来るとは思わなかった」

と言っていたように(笑)これは単に反対のための耳障りのいい理由に過ぎず、
彼らの本音は一にも二にも憲法違反になるということに尽きましょう。

もう少し踏み込んで、

「メディックに付与される医療資格がまだ不足である」

というものもあります。
これは実は例のなんでも反対派の戦争平和学者(笑)の意見なのですが
この人がどう言っているかといいますと、

「自衛隊のコンバットメディックは麻酔もできない」

「装備の防御力があまりに弱い(特に車両関係)」

「戦車一台減らして隊員の命を守ることに金をかけろ」


しかしだからって駆け付け警護自体をに反対しているわけでもなさそう。
いやー、初めてわたしこの人と意見が一致したかもしんない。

もともと駆け付け警護については、日本の「国際平和協力法」が

「自己や現場に所在する他の自衛隊員等」

「自己の管理下にある者の防護のため」

にしか武器の使用を認めていないので、もし隊員が武装勢力に拉致されたとしても、
武器を使って取り戻すということもできないというのが現状で、
ここをなんとかしないまま自衛隊を派遣することには懸念を感じていたんですよ。

今回見学した衛生科でのコンバットメディック訓練は、
現地で人命を救助するための派出を行うという状況を想定したとして
それ以前に比べれば格段の進歩であるとは思いましたが、
それでもまだまだ全体を見ると「足りない」のは明白です。
駆け付け警護の際、実際に自衛隊員が戦闘を経験する可能性は
90式戦車が実戦を経験する可能性より高いのは確かでしょう。

中途半端な権限だけ与えられた自衛隊が現地で困難に陥ったり、
失われなくていいはずの人命(この場合は自衛隊員の)が
この不備が理由で失われるようなことにだけはならないように、
政府と防衛省はもっと真剣にこれらのことを考え、
よりプラクティカルに法改正を進めていっていただきたいものです。
今度佐藤議員か宇都議員にお会いすることがあったら
この点についての見解をお伺いしてみますかね。       さて、衛生学校見学のあと、わたしたちは案内の自衛官に連れられて別棟に赴きました。  
続く。

光と影〜陸自衛生学校 医学情報資料室「彰古館」

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さて、衛生学校で公開された第1級救難衛生訓練見学を終わり
次に資料館の見学を行いました。

彰古館。

陸上自衛隊衛生学校、教育部教材課に設置された
「参考品展示室」を母体として、かつて軍陣医学と呼ばれていた
軍事医療の資料を収集している、全国でも稀有な医学情報資料の公開施設です。

ここは、体系的で機能的な展示の仕方も、湿度管理が完璧に行える
専門の電気ショーケースを使った資料の保存も、今まで見たどんな資料館をしのぎ、
しかも資料館の担当である自衛官の説明は素晴らしいの一言でした。

資料を見ながら軍事医療について時系列に語ってくれるのは従来通りですが、
単にものの説明にとどまらず、幕末期から大東亜戦争までの軍事医療の発展と
改革を横軸に、縦軸として近代日本の軍事史をおさらいしているような感じです。

ある程度のことを知っている者にも、全く軍事を知らない者にとっても、
その名も悉知(しっち)さんという自衛官の解説は明快でわかりやすく、
歴史に対する興味を掻き立てずにはいられない魅力に富んでいました。

おかげでみっちり1時間の解説が、全く長いと感じられなかったほどです。

というわけでこの見学について詳しくお話ししたいのは山々ですが、
内部にはあちらこちらに写真撮影禁止の貼り紙がありました。

貴重な資料で保管にも最新の注意を払っているせいかと思いきや、
説明終了後に「撮っても構いません」

ただし、写真はご自分の飼料用としてお使いくださいとのことでした。
というわけで、本日画像は現地にあったものではなく、
パンフレットからの転載になります。

 

資料館外には陸軍病院と軍医学校の写真が展示してあり、
こちらは公開しても大丈夫そうなのででご紹介しておきます。

明治3年、政府に要請されて来日していたオランダ人医師ボードウィン(右上)
が大阪軍事病院の中に陸軍医学校を設立しました。

こちらは昭和4年に牛込に設立された陸軍軍医学校玄関。
広大な敷地に最新の建築が並びました。

標本館と図書館だそうです。

関東大震災の時には倒壊した建物から毒ガスが漏れるなどの騒ぎになったそうです。
現在ここには現在、厚生労働省戸山研究庁舎(国立感染症研究所および独立行政法人国立健康・栄養研究所)
新宿区立障害者福祉センター、全国障害者総合福祉センターが設置されています。

内部資料のコピーなどが一部だけですがロビーに展示されていました。
資料館では、原子爆弾投下に関する資料、例えば黒の部分だけ焼け焦げた
着物の切れ端などを見ることができます。

日華事変から終戦までの資料は、その多くが戦災や焼却処分、さらには
戦後の混乱期に散逸してしまったのですが、当資料館(というか防衛省?)は
その欠損を埋めるべく収集活動を継続しているということです。

また和紙に書かれた資料は大変保存がきき、現在も展示していますが、
特に大東亜戦争中の紙の資料は酸性化が進んでしまっているので、
これ以上の劣化を防ぐために公開していません。

しかし、将来の公開に向けて、電子ファイル化を進めているとのことです。

展示室入口にあった指差しマークは明治40年に使われていた
野戦病院への方向を示す道標がプリントされて使われていました。

これが彰古館の広報パンフレット表紙です。

医療を表すアスクレピオスの杖(蛇が絡まっている)と桜が組み合わされ、
英語で「メディカルスクール」と記された衛生隊のマークの下に、
赤一文字の医療背嚢を背負った西南の役での看護卒の後ろ姿の絵があります。

この赤一文字はどういう意味があるのでしょうか。

当時、軍衛生部の標識を決めることになった時、当然ですが
海外で使われているレッドクロスを採用するという運びになりました。
ところがここで、

「キリスト教の十字架はまかりならん!」

と時の太政大臣がしゃしゃり出てきて使用することを禁止したため、
やむなく十字の縦の棒を取り去って、横に赤一文字だけを描き、
いざとなると縦の棒を描き加えて十字にすることにしたのです。

ただしこれは西南戦争の時だけの措置だったようです。

これらも全て所蔵物で実物を見ることができます。

当時のメスや、顕微鏡、薬籠など。

上記の赤一文字背嚢も現物が展示されています。
右側は、西南戦争の戦傷者の形成手術ビフォーアフターを詳細な絵に描いたもの。
このビフォーアフターはコピー化されてファイルになったのを見ることができます。

これ以外にも頭皮からの傷口への移植手術の過程を表したリアルな模型、
(もちろん当時のもの)があって、医療関係者は必見!だと思います。

森林太郎、ペンネーム鴎外の肖像や写真も当然ですがありました。

森軍医総監は脚気論争で海軍の高木軍医と対立した時、高木の

「B1欠損による脚気併発論」

を嗤い、俺理論で突っ走ったため、
日清日露戦争で脚気蔓延の大惨事を招きました。

文学者としては明治の最高峰と言われた森鴎外ですが、軍医としては
その業績において後世に残る汚点を残したと言えるかもしれません。

 

右は日露戦争の捕虜収容所となった習志野捕虜収容所の写真。
当時の日本は国際法を守り、捕虜の扱いを人道的にどころか
教育まで与えるという紳士ぶりで世界の評価をえました。

バルトの楽園(予告編)

第一次世界大戦後になりますが、四国にあった捕虜収容所を舞台にした映画

「バルトの楽園」

という映画がありましたね。
日本で初めてベートーヴェンの「第九」を演奏したのが
ここに収容されていたドイツ人捕虜だったという実話に基づくものです。

軍トップの給料が九十円だった時代に、当時新しくドイツで使われ始めた
X線レントゲンを、

「どうしても欲しいんだい!」

とばかりに千円のポケットマネーで買ってきた芳賀栄次郎軍医。
持って帰ってきたX線に、たちまちみんなは興味津々。
どこも悪くないのに競ってレントゲンを撮ってもらったようです。

ただし、フィルム代はバカ高いので偉い人だけ。
あの乃木大将も好奇心を抑えきれなかったらしく(笑)
足の骨を撮ってそれが残っています。(左)

そして、右は、戦後腕を失った兵隊がタバコだけでも吸えるようにと
乃木大将自ら発明した「乃木式義手」で、これも実物が見られます。

 

乃木式義手といえば、わたしが個人的にここで一番印象的だった展示は、
ある陸軍近衛士官が、西南戦争の戦傷に受けた手術で取り出した骨の写真でした。


皆さんは渡辺淳一の直木賞受賞作「光と影」を読んだことがあるでしょうか。
わたしは知り合いの編集者のいう三文エロ小説家()になる前の、
医療小説ばかり書いていたころの渡辺淳一の小説が今でも好きなので、
ここで悉知さんの口からその題名が出た時、思わずぱあああっ(aa略)
となっちゃいましたよ。

「光と影」のモデルになったのは二人の軍人です。

西南の役の戦いで、ほぼ同じ時にほぼ同じ傷を
それぞれ右腕と左腕に受けた二人の若い軍人がいました。
寺内寿太郎大尉、そして阿武時助少尉です。

二人は同じ日に大阪陸軍病院の佐藤進院長の手術を受けることになりました。

当時の医学ではそのような銃創を受けた腕は切り落とすのが常識で、
カルテが先になっていた阿武大尉の腕はあっさりと切断されました。

ところが、ここで執刀者の佐藤軍医は、二人の運命を大きく変える
ちょっとした「気まぐれ」を起こすのです。

「あまりにもたくさんの腕を切りすぎたので」

同じことをするのに嫌気がさし、腕を残して粉砕した骨片を取り出す
ランゲンべックの方式を寺内の傷に試してみることにしたのでした。

(これは小説に基づいて書いていますが、実際の理由はわかりません)

結論としては腕の機能が戻ることはありませんでしたが、
それでもとにかく自分の腕が残っていたことで、寺内は軍務に復帰。

腕を切られた阿武大尉は寺内より優秀であると自覚し事実そうでしたが、
軍を去り、その後設立された偕行社の事務長になります。

小説では二人の運命の分かれ道が「カルテの上と下」にすぎなかったと知り、
小部は精神に異常をきたして、最後は巣鴨の廃兵院の鉄柵の嵌った
精神病患者用の部屋で亡くなるという結末となっていました。

寺内はその後フランスに皇族の補佐官として派遣され、
その後陸軍士官学校長を経て、なお順風満帆順風満帆の出世を遂げ、
陸軍大臣、そして内閣総理大臣寺内正毅として歴史に名を残します。

 

 

昔なん度も読み返した渡辺淳一の初期の小説の中でも特に印象的であった
「光と影」のストーリーが現場の説明で一気に蘇り、
「小部敬介」とこちらだけ仮名になっていた阿武時助の面影(イケメン)を
写真で見ることができ、感慨もひとしおでした。

ネットでは阿武時助については寺内正毅についての記述においても
何も出てこないので、彼の写真を見ることができるのはここだけかもしれません。

 

家に帰って早速「光と影」を読み返してみたのですが、小説中、
陸軍大臣となった寺内が偕行社の事務長である小武に

「この紹介状を持って行けば乃木式の義手を作ってもらえる」

というシーンがあります。

この乃木式義手というのがパンフレットの写真にも出ているそれで、
ここにはその実物が展示されているのです。

ちなみに小説では小武は陸軍大臣の前にもかかわらず、
自分より劣っていたはずの寺内を妬む心と劣等感に堪えきれなくなって
この申し出に激昂し、

「生半可な道場なぞはやめてくれ。俺は俺でお前はお前だ」

と暴れるということになっていました。

今回この資料を見て考えたことが二つあります。
渡辺淳一は、おそらく小説を書くために、この資料館を実際に訪れたであろうこと。
そして小説に書かれた小部の、寺内に対する気持ちと、二人の間に起こったこと、
例えば教官になった寺内が学生に

「同期に小部という優秀な男がいた。彼が怪我しなかったら今頃偉くなっていただろう」

とその名前を喧伝していたことなどは全て創作であるということです。

そう断言する理由は、二人の階級。

小説では同期ということになっていますが、戦傷を受けた時点で二人は大尉と少尉。
カルテでは上と下でも、両者が同期で俺お前の仲であろうはずはありません。

偕行社の事務長として小部が陸軍大臣の寺内と会うということはあったかもしれませんが、
そこで寺内に情けをかけられ(たと思い)キレて暴れるということなど考えられないし、
佐藤軍医が二人のカルテの順番や処置の違いについて、問われるままに
小部に真実を告げるというのも守秘義務の点でまずありえません。

「創作は創作」。

夢中になって読んだあの頃から何十年後になって、そのことに気づいてしまったわたしです。

 

さて、乃木大将といえば、海水浴場で撮られた半裸の写真がここには展示してあります。
実に均整のとれたしなやかな肉体で、説明によるとこれは
日露戦争より後のものだということでした。

「司馬遼太郎の小説だと日露戦争で乃木将軍はもうヨボヨボみたいに書かれてましたが」

そうそう、映画でもやたらどんよりしてやる気のない乃木将軍を
柄本明に演じさせてましたっけね。

「でもこれを見る限り、乃木さん全く若々しいです。
司馬遼太郎という人は・・」

そうそう、乃木さんのことあまり好きじゃなかったんでね。

「陸軍については随分いい加減なことも書いてます」

そうそう海軍についても・・

「海軍については正確に書いているみたいですが」

いやいやいやいや(笑)

司馬遼太郎は、不詳わたくしがブログのために行った程度の調査でも、
かなりの部分で「やらかして」いるのが判明してますよん。

 

展示にはこのほかにも、八甲田山の生存者の凍傷にかかった手足のカルテや、
戦後広島でGHQが作成した原爆患者の英文カルテ、
731部隊の石井四郎が考案した浄水器の実物などがあり、
軍事医療のみならず戦史に興味のある方なら一日いても飽きないかもしれません。

 

ロビーにあったイラク復興支援の際部隊が身につけていた防暑服。
胸には英語とアラブ語で「日本」と書いてあります。

マスクのようなものは砂塵マスクでしょうか。
この服装で「防暑」ができるとはちょっと信じられませんね。

 

 

当資料館の開館日は平日、希望者は2時間前までに予約をすれば
いつでも誰でも見学することができますので、みなさま折あらば是非
時間をかけて見学されることを心からオススメしておきます。

 

【陸上自衛隊衛生学校広報室】
 TEL (03)3411-0151

 広報 内線2211
 彰古館 内線2405

 

 

 
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