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オーシャンビーチのクジラ〜サンフランシスコ

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今夏のアメリカ西海岸滞在は、前半がシリコンバレー、最後にロスアンジェルスと
サンフランシスコ空港を降りるや否や南下してしまったわけですが、
それでもかつて住んでいた「アメリカの故郷」であるサンフランシスコには
家族で一度は行っておこうということになりました。

そうなると、ユニオンスクエアで買い物してディナーは
太平洋を望むこの街の「最北西端」、通称クリフで、というのが
全員の一致した意見になります。

まずユニオンスクエアの地下に車を停めて買い物へ。
道を横切るときにケーブルカーを必ず目撃します。

用事があって乗る人もたまに入るのかもしれませんが、
ほとんどが観光客で、必ず彼らはこうやって外の
「お上りさん専用お立ち台」に立って楽しみます。

日本ではまずありえませんが、アメリカでは
万が一落ちて怪我をしても自己責任、を貫いています。

いつ行ってもオフィスワーカーと観光客で人通りの絶えない市街地ですが、
通りの建物は昔のままの姿です。

市街地から太平洋側に向かって西に行くゲイリーストリートは、
中心から離れるに従って周りがチャイナタウン化していきます。

ちょっとウケた「沸騰」(ブートン)という麺の店。

海に近づくにつれ、道は狭くなって行くのですが、
そこにはロシア正教会のモスクがあります。

そしていつものサンフランシスコ最西端に到着。
いつ来ても清々しいくらい手の加えられていないままの海です。

この海岸は「オーシャンビーチ・ファイアーピッツ」という名前で
国立公園として政府が管理してるので、業者が何かをすることが許されません。

「シール・ロックス」と名前のついた岩礁は、
シールではなくカモメの休憩所になっており、その結果
岩が彼らのフンで真っ白に・・・。

手前の岩山は、海岸沿いにあって引き潮の時だけ上に登ることができます。
昇り降りは結構大変そうですが、いつ見ても観光客の姿があります。

レストランの窓際に席を取ってもらい、景色を見ていたら、
ロボス岬という名前の小さな岩の岬の先端のベッドで釣りをしている人が。

「あんなところに立っていて大丈夫なのかな」

と見ていたら、夕刻になって波がまともに覆いかぶさるように・・・。
さすがにこの後釣り人は諦めて帰っていきました。

海岸では、写真撮影会真っ最中。
カメラマンもモデルもプロではなさそうですが、
波打ち際を歩く姿を熱心に撮影しております。

そういえば大学生の時、友人の別荘に合流するために砂浜をトランク下げて一人で歩いていたら、
そこにいたカメラマンに撮らせてくださいといわれ同じようなことしたことがあります。

地方のコミニュティ雑誌のカメラマンで、あとで掲載された号を送ってもらいました。

というような何世紀も前の話はさておき、お料理です。

レストラン「クリフサイド」では去年に引き続きエビと帆立貝を注文。
粒の大きなクスクスとアスパラのペーストの色合いが食欲をそそります。

息子の頼んだのは鴨のロースト。

レストランの窓からの眺め、俯瞰にするとこうなっています。
注文を待つ間、食事中もずっとこの海に目をやっているわけですが、
少し時間が経って来たころ、海面の異変に気がつきました。

異常なくらい海鳥が海面を開いしているのです。

よく見ると、鯨のあげる水煙。
しかも一箇所ではなく、見渡す限りの海面いたるところに頻繁に上がります。

魚の群れを追って来た鯨の大群が海面下で「踊り食い」しているようでした。

私たちのテーブル係だったうウェイターによると、彼にとってもこんなことは
初めてで、今までに一度も見たことがない、ということでした。

写真に写っているのを見ても、彼らが二頭単位で行動しているらしいことがわかります。
鯨って一夫一婦制だったんでしょうか。

早速レンズを中望遠(まさかと思っていたので望遠レンズを持っていなかった)に変え、
海面に鯨が姿を表すのをずっと待っていたのですが、鯨というのは基本
イルカみたいにジャンプしないので、これが限界でした。

これは背面ジャンプしてますね。

鯨撮影の合間にデザートが来ました。
いつも一つだけ頼んでみんなで食べる「ラーバ(溶岩)ケーキ」。
最初に来た時、ナイフを入れるとまさに溶岩のようにチョコレートが溢れ、
感激してそれ以来毎年頼んでいるのですが、年々噴出量が少なくなり、
今年は「とろ」っと出るだけになっていたのが残念でした。

いつ来ても基本曇っているクリフですが、なぜか鯨の頃から日が差して来ました。
ゴールデンゲートブリッジをくぐって来たばかりの「コスコ」の貨物船が通ります。

おそらく日本にも貨物を運んで行くんだろうな。

食事が終わってレストランからでるとき、ここに「ビナクル」、
つまり羅針儀架台があるのに気がつきました。
去年もこれありましたっけ?

ビナクルの両側にあるのは「ケルビンのボール」と言って
保障磁石が内蔵され、磁気の干渉を避けるための工夫です。

レストランの向かいのカフェには、モニターが最近取り付けられました。
フットボールの試合を見るためのものだと思われます。

この時、白黒の映画が上映されていたのですが・・・、

映画の舞台がどう見てもこのレストランの前の道。

レストラン前が駐車スペース(今も無料)なのも一緒。
後ろの崖はこの頃むき出しですが、今は補強されています。

車の形を見ると、1950年ごろの映画でしょうか。

なんかカーチェイスをしているらしいことはわかった。
車の後方にはゴールデンゲートブリッジが見えているので、
ブリッジ上の山道を走っているという設定らしいです。

それにしてもなんだろこの映画。

食事が終わって、外に出て少しだけ海を見ました。
岩山の上にもずっと鯨を見物しているらしい人々がいます。

砂浜では愛犬を連れて来たらしい旅行者の姿。
思いっきりここで運動させてあげようとしているようです。

この後飛び上がってボールをナイスキャッチしました。

先ほど同じ場所から撮ってから1時間後だとは思えません。
こんなに穏やかに晴れたオーシャンポイントは久しぶりに見ます。

アウトドア雑誌に登場しそうな装備の人たちが、海岸で釣りをしていました。
太ももまで浸かれる長靴着用で気合が入りまくりです。

サンフランシスコ湾ではヒラメやカタクチイワシ、キングサーモンが釣れるそうですが、
さすがにこんな浅瀬ではどうかなあ。

海岸に面した住宅街はほとんどがアパートで、サーファーが海の向かいだからと
ここに住居を借りるらしく、よくボードを持ってグレートハイウェイを横切ります。

風車は公園に二つあり、こちらは「ダッチ(オランダ)ウィンドミル」。

もう一つの風車は「マーフィ・ウィンドミル」といいます。
1902年に作られ、風で稼働していましたが、その後モーターになりました。
風車の足元にはチューリップ畑があり、写真スポットとなっています。

 

わたしたちにとっての今年最後のサンフランシスコは、印象的な晴天でした。
さようなら、また来年。

 

 


メキシコ海軍練習帆船「クアウテモク」号 @ 晴海埠頭 前半

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コンスティチューション先週末、二回晴海に足を運んできました。

防衛団体の研修会でご一緒するKさん(ご子息が自衛官)という方が、
頻繁に見学や研修に頻繁に参加していることに少し驚き、

「どうやっていつもそれだけ色々情報を手に入れるんですか」

とお聞きしたところ、当方のメールに色々とHPなどを送ってくださったのですが、
その情報で、晴海にメキシコの帆船と「おおなみ」が来ることを知ったので、
早速土曜日息子を御茶ノ水に送っていった後、晴海にいってみたのでした。

今まで何度か練習艦隊を見送った同じ岸壁に、帆船がいます。
満艦飾と巨大なメキシコ国旗に彩られたその船は美しく、これが帆を張り
紺碧の海をゆく姿はさぞ美しいだろうと思われました。

岸壁には一応ゲートがあり、テーブルが置いてあって自衛官が並んでいます。
メキシコ海軍の練習船である「クアウテモク」を迎えるために、横須賀から
「おおなみ」が駆けつけて同じ岸壁で公開しているので、海自の隊員と
メキシコ海軍の軍人が共同で手荷物検査を行なっているのでした。

しかし、念のため聞いてみると、見学は4時で締め切り。
時計を見るとすでに3時40分です。
これではどちらも見るのはキツイと判断し、翌日出直すことにしました。

 

翌日、一人で再び晴海埠頭にやってきました。
風が強く、巨大なメキシコ国旗が一瞬も垂れることなく翩翻としています。

それではいよいよ「クアウテモク」に乗船します。

デッキでシマシマの制服を着た水兵さんが携帯電話中。
勤務中の電話はありみたいです。

「クアウテモク」はメキシコ海軍の練習用帆船です。
文字通り、メキシコ海軍の士官候補生が練習用に乗り込むものですが、
驚くべきはこれが帆船であるということです。

アメリカでいくつもの帆船を見てきましたが、海軍によって今も生きている
「コンスティチューション」のは海軍の象徴、あるいはレガシーとされています。

が、「クアウテモク」は実際に海軍士官候補生の練習用に就役している現役船。

船の前に立ててあった甲板には、英語で乗艦者への注意事項が書いてあります。
マストに登るな、子供から目を離すな、雨の日は滑るから走るな、等々。

この注意を怠って怪我をしても一切の責任はとりません、と最後の一行に。

階段も案内も、帆船のグレードに合わせた木目調で重厚感があります。

手すりがチーク材らしいラッタルは緩やかな傾斜で、舷側には階段を下ります。
そこでは軍曹クラスの乗員が立っていて、女性には手を出してくれました。

Thank you. と反射的にいってから、ふと思い出して

「ムーチョスグラシアス」

といってみると、ちょっと嬉しそうな顔をしました。

甲板から艦尾方向を望む。

見張り用のマストは当然ですが、木製です。
右側はフェンネルのようですが、補助動力のものなので小型です。

メインの動力はもちろん帆船ですので風ですが、現代の帆船は
エコを目的とした環境に優しい船で、どちらかというと風力を補助とするものが多いようです。

腐食しやすい甲板上の構造物は基本金属で表面を覆われていますが、
外側扉を開けると、中は昔ながらの木に真鍮のドアが姿を現します。

フェンネルの真ん前に立ってみました。

Armada De Mexico Buque Escuela "Cuauhtemoc"

メキシコ海軍練習船「クアウテモク」

Escuela Por La Extaltacion Del Espiritu Marinero

海軍精神高揚のための教育機関

という文字が刻まれています。

「コンスティチューション」でもお目にかかったビレイング・ピンにかけられた索。
当然ですが、帆船は帆を張る作業を手で行います。
ホテルのカーテンみたいに、ボタンを押したらブイーンと帆が貼られてしまう
便利な帆船では、士官候補生の訓練にも何もなりやしません。

大航海時代と同じようにマストに登ってその高みから海を見下ろし、
張った帆で帆走することを、彼らは船乗りの基礎として学ぶのです。

これはある意味原初的な船乗り精神を潮気とともに叩き込むのに
もっとも効果的な訓練ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

艦尾のデッキ上階に登ってみました。
船内の所々では、候補生らしい姿もありますが、基本彼らはお休みらしく、
晴海のバス乗り場から数人で連れ立って東京見物に出かけるらしいのを目撃しました。

軍服を着ていなければ、彼らもただの外人のお兄ちゃんです。

これは護衛艦などとほぼ同じの探照灯。

両舷には実に美しい木造の作業艇が吊るされています。
動力がなんだったのか確認するのを忘れました。

帆船ばかりで集まって何かをする大会があるようです。
いわゆる帆船レースというやつでしょうか。

セイル・トレーニング・インターナショナルという組織は、トレーニングを行う
帆船の協会で、協議を行ったり、練習場所の提供を行うなどして彼らを助けているそうです。

ケルビンのボール(中に磁石入り)が赤と緑、真鍮製で木造の
昔ながらのビナクルがありました。

今日びの帆船はコンピュータ制御のものもあるそうですが、この練習船は
どこまで近代化されているのでしょうか。

見上げてみると、帆船に必要な無数の索のところどころに、
まるでお掃除モップのような緩衝材が巻いてあるのが目につきました。
帆船での航海は決して静かなものではないらしいですね。

エンジン音はそんなにしなくとも、帆や索が風を受ける音は物凄そうなのを
後ろの大国旗が受ける風の音で察しました。

乗艦するなり目についたこれ。
まさか、インマルサットみたいな衛星通信アンテナ・・・?

調べてみたところ、どうやらこれみたいです。

SAILOR

これで乗員のみなさんもインターネットができるってわけだ。

エクステリアも木目と真鍮、そして白が基調。
窓から皆中を覗き込んでいましたが、わたしは遠慮してしまいました。

展開式の非常用救命艇。

「クアウテモク」は世界を回るメキシコ海軍の親善大使のような役割を果たします。
自衛隊の遠洋練習艦隊もそうですが、特に帆船とあって、その効果は絶大。

船を通じて今まで全く知らなかったメキシコへの興味を持つ人もいるかもしれません。
この大メキシコ国旗は、そうやって各国を回る「クアウテモク」にとって、
自国を強くアピールするために不可欠なものなのです。

ちなみに艦尾にも国旗がありますが、これが国際的慣例通り海軍旗なのか、
それとも帆船に限りここに国籍旗を揚げるのかはわかりませんでした。

艦尾から後方の岸壁を見ると、あれー?
後ろにも帆船がいるぞ。

この時質問ができるような人が周りに誰もいなかったので確認していませんが、
どうもこの色形から、我が国の帆船

「海王丸」

である可能性が高いですね。
こちらも海技教育機構が所有する練習船で、平成元年に就航した2世です。

こちらの記述で初めてわかったのですが、可変ピッチプロペラを採用しているので
水流の抵抗を抑え、優れた帆走性を確保したそうです。

現代の帆船は、どこかしらに近代化の恩恵を受けて、全く昔のままの
機構ではないらしいことがこれによってなんとなく想像できますね。

また、海王丸は2004年に暴風の際、走錨のため座礁事故を起こしています。
幸い164名の乗員は全員救助され無事でした。

「海王丸」は「クアウテモク」の寄港を歓迎する意味でここにいて、
帆船同士の交流を持っていたのかもしれませんが、
一般に対しては全く公開しておらず、立ち入ることのできない
柵の向こうに繋留してありました。

 

後半に続く。

 



メキシコ海軍練習帆船「クアウテモク」号 @ 晴海埠頭 後半

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メキシコ海軍練習帆船「クアウテモク」見学記、続きです。

それにしても「クアウテモク」とは変わった名前だと思われませんか?
これはアステカ王朝第11代目の君主、

クアウテモク・トラトアニ (1495年頃 - 1525年2月28日)

のファーストネームから取られたものです。
昔、スペイン人の陥る「イスパノフォビア」について一項を記したことがあります。

イスパノフォビア〜情報戦に敗北した国

このブログの後半で「ジパノフオビアについても書くつもりだ」とあるのは、
『この時はそう思っていたが、その後諸事情によって考えがまとまらなかった』
と理解の上、生温かくスルーしていただきたいと思います。

それはともかく、この真ん中辺にちらっと書いてある、
1521年にスペインがアステカ王国を滅ぼした、という件ですが、
この時アステカの王として君臨しており、スペインと戦ったものの敗北し、
最後の君主になってしまったのがクアウテモクだったのです。

三ヶ月に及ぶ戦いののち、攻め込まれて城が落ち、敵将であるコルテスと
対峙したクアウテモクがコルテスの短刀を指さして『殺せ』と言ったにもかかわらず、
コルテスは彼を殺さず、勇者として讃え、手をさしのべました。

しかしその後、アステカに黄金が眠る場所があると知ると、コルテスは彼を拷問にかけ、
その場所を吐かせたうえで、反乱を企てたとして絞首刑にしてしまいました。

(もしかしたらゲーム「大航海時代V」をしている人はよくご存知かもしれません)

ともかく、メキシコではこのクアウテモクは国民的大英雄となっている人物です。
最後の最後まで勇敢に戦った悲劇の民族的英雄、という位置づけでしょうか。

さて、その英雄の名前が、上甲板の上にある木製の、これはおそらく索などの用具入れ、
兼ベンチにも金の文字で刻まれております。

 

横から見ると観音開きに左右対称の豪華家具調。(家具といえば家具だけど)
甲板掃除のためのモップなども入ってそうですね。

船端の排水溝になっている部分に舵輪のマークのステンシル。
電灯艦飾の電球らしきものが見えます。
帆船の電灯艦飾、見てみたかった・・・・。

チェストの反対側には舵輪がありますが、昨日していない装飾のようにも見えます。
ビナクルも雰囲気を出すための飾りでしょうか。

自衛隊ではみたことがないロープの並べ方。

こちらのロープの並べ方は少しぞんざいかな。

舵輪はメインデッキにももう一つありました。
こちらは本物っぽい。

ヒスパニック系らしい女の子が写っていますが、現地には
噂を聞きつけて訪れた東京在住のメキシコ人らしい人が結構いました。

寄港歓迎の式典ではメキシコ大使が出席して彼らを激励したようです。

アッパーデッキの右舷側角に、座り心地の良さそうな椅子がありました。
帆船の場合一般の船の艦橋に当たるのはおそらく前方の二階デッキだと思うので、
これは後甲板見張り用の椅子ではないかと思われます。

帆船が航走するとき、ここに座って風を受けるのはさぞ爽快でしょう。

メインデッキの構造物天井部分。
明かり取りの丸窓は、檻状の枠で防護されていますが、それも皆真鍮。
細部まで素材に気を使った美しいエクステリアです。

「クアウテモク」は1981年に建造され、すでに36年が経過していますが、
木製の船は案外劣化が遅いのか、それともしょっちゅう改装を行うのか、
とてもそんなに古い船には見えませんでした。

不思議なことにメインデッキの前部構造物後ろに錨があります。
ここから海に投錨できるとは思えないし、いわゆる飾りというやつでしょうか。

信号旗の「1」を意味する旗はもしかしたら日本に敬意を評しているのかな。
しかしそれだと横の「8」の意味がわからない・・・。

そういえば今は無きディズニーシーの「ストームライダー」では、
信号旗「1」を目の前にかすめて飛ぶという日本に対する「サービス」がありましたね。

うーん、なんかとても「和」のテイスト。

昔の日本の農夫が天秤棒で担いでいたのと同じような桶です。
甲板掃除の時に使われるバケツまでが木製なんて、徹底しすぎ。

船首側の甲板上部構造物、内部は厨房になります。
そういえば、ボストンティーパーティ事件に参加した船(復元)でも、
ちょうどこの部分が小さいキッチンになっていました。

壁には星が7つ飾られていますが、その下にある

"MENCIONES HONORIFICAS"(言及・引用) 

の意味がよくわかりません。
無理やりスペイン語の翻訳にかけてみると、どうやらアメリカ海軍の
『HEEEEE』に相当する軍隊のメリットであるらしいことがわかりました。

キッチンの入り口になぜかグラインダーが。
ミルクを常温でこんなところに置いておいて大丈夫なんだろうか。

ちなみにこの右手奥では、シマシマ服の水兵さんが、外まで聞こえるくらい
元気よく歌を歌いながらキッチンのお仕事をしておられました。
ラティーノって基本陽気です。

これはレーダー?
しかし、遠目には近代的な装備は全く目立ちません。

あっ!FURUNOだ!

こんなところに我が日本企業の技術が・・・・・。(感激)

帆船を操作するにはとてつもなくたくさんの索を操ることになりますが、
船首側の上部甲板の床にもフェアリーダー(と呼ぶのかどうか知りません)
が、しかも実に美しく甲板の木目のアクセントとして配置されていました。

もし自衛隊であれば、こういうものに人がつまづかないように、突起物として
黄色と黒のシールか赤いリボンをつけてしまうところですが、基本そういうのは
日本だけの慣習らしく、メキシコ海軍が一般公開に際して何か特別に
配慮をしているというような様子は全くありませんでした。

諸注意は甲板に書いておいたから(英語とスペイン語で)もう十分、という感じです。

これが船首部分。
ネットが貼ってあるということは、何か用事で先まで行くこともあるんだ・・・。

まあそうですよね、この先にまで帆を張るわけですから。

ちなみに海が大荒れになると、この部分はこうなります。
こえええ〜!

船首部分からふ甲板全体をみるとこんな感じです。
右側に見えているのは有明通りの通る晴海大橋です。

メキシコ海軍のHPをみると、「クアウテモク」が晴海に入港した時の写真が
すでにアップされていて、船員がこのマストに綺麗に立っている様子も見ることができます。

Buque Escuela Cuauhtémoc en Tokio, Japón.

 

ここにもメキシカンな人発見。
体格がいいし、もしかしたら休暇中の乗組員かもしれません。

ところで、一応見張りのために立っている海軍軍曹ですが、人目もはばからず
熱心にスマホをいじっております。

しかも彼だけではなく(笑)士官(真ん中)もみんなスマホ。
迷彩服の軍曹だけは熱心にお仕事しておりましたが。
一応彼には「写真撮っていい?」と聞いて撮らせてもらいました。

海上自衛隊ではほぼありえないこの光景。
こういうのがもしかしたら今時の海軍なのね、と思ったのですが、
一つここで思い出したことがあります。

メキシコでは南部の州でこの二日前、マグニチュード8越えの大地震が起こり、
大変な被害があったというニュースです。

わたしにこの情報を送ってくださったKさんなど、

「地震のことがあるので気を遣ってどうも行くつもりになれない」

とおっしゃっていたくらいでした。

来てみると特にそのようなことが起こったことを示すものは何もなく、
皆の求めに応じてにこやかに写真に収まるなど、悲壮な様子はありませんでしたが、
メキシコシティでもかなりの揺れを完治したという地震で、被害が増大しているので
彼らも気が気ではなかったのではないでしょうか。

その地方出身の乗員がいたかもしれませんし、家族や知り合いの情報を得るために
皆がスマホで情報をチェックしていたとも考えられます。

ちなみに「クアウテモク」の乗員数は234名。乗員の平均年齢は24歳です。

「ARMADA DE MEXICO」はメキシコ海軍を意味します。

というわけで一通り甲板を見学し終わり、ラッタルから退出です。
ラッタルの角にまで名前が刻まれているという豪華版。


出入りのラッタルはここ一つなので、両側にボランティアの人(日本人)がいて、
交通整理までやっておられました。

基本メキシコ海軍さんはそういうことまでやらないようです。

岸壁から船首部分を撮ってみました。
しょっちゅう屋形船が近づいてきて観光客に帆船を近くで見せるサービスを実施。

白地に「CUAUHTEMOC」の文字の深い緑が美しい。

この緑は、昔ながらの船首につけられたフィギュアヘッドの像が
身につけているマントなどの色と同じです。

このフィギュアヘッドが誰かは、最初から読んでくださった方にはもうおわかりですね。

満艦飾の信号旗はメインマストから艦首に向かって

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とするのが自衛隊のやり方らしいのですが、これ明らかに違いますよね。
英語のウィキ「ドレッシング・オーバーオール」を調べて見ると、

「ドレッシング・ライン」の旗の順番は国によって違う

と書いてあるので、これがメキシコ海軍式の満艦飾なのでしょう。
しかし、これは国際的に共通として、

外国訪問中満艦飾を行う場合、メインマストに相手国の国旗を揚げる

というプロトコルがあります。

この写真の帆と帆の間に、日の丸が見えているのがおわかりでしょうか。

 

 

さて、というところで「クアウテモク」の見学を終え、わたしは同じ岸壁を
後方に進んで行きました。

メキシコ海軍からのゲストを迎えるために、日本国はホストシップとして
海上自衛隊の「おおなみ」を晴海に派遣し、この日はそちらの公開も行なっていたのです。

それでは、いざ「おおなみ」へ!


続く。

 

 

 

防衛大臣来臨〜平成29年度富士総合火力演習

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平成29年度総火演本番の予行が続いています。
前回も少し書きましたが、この日の御殿場は爽やかな風が吹く過ごしやすい日でした。
地元に帰っても同じだったので、どうもこの日は関東一円涼しい一日だったようです。

ジリジリと強い太陽に炙られ、不快な湿気のある空気に全身を包まれて
自分が塩漬けのように感じられるほどに汗をかきかき過ごすのが総火演である、
と覚悟していただけに、この日の御殿場での快適さはまるで奇跡のように思われました。

おそらく今後何回行っても、こんな総火演は2度とないのではという気がします。

さて、特科火砲が終わり、ヘリ火力の中でもアパッチが試射を行うと、
本番前のリハーサルは終了です。

C席の上段から見て初めて知ったのですが、アパッチの射撃点の真下には
地面にバラバラと落ちる薬莢を受け止めるため、ネットが貼ってあります。

薬莢もリサイクルするために収集するんでしょうか。それとも産廃?

駆動の軽快性を見せつけるように飛ぶアパッチ。
こういう角度からのヘリを見ることができるのも東富士演習場ならではです。

今回は、去年米海兵隊が装備展示の時に乗って来た水陸両用車、
AAVのお披露目が一つのハイライトでもあります。

リハの時からフィールドを走り回っていたのですが、

「なんか妙に速くね?」

と皆がざわざわするくらい体の大きさの割に速くて軽快でした。

去年展示されていた海兵隊のものとはカラーが全く違います。
側面の鎧のようなギザギザと穿たれた鋲が斬新。

防衛省は、去年ここで公開された海兵隊の水陸両用車AAV7、通称アムトラックを
25年度予算以降調達してきたのですが、速度がイマイチなため、
より高性能の車両が必要と判断し、研究開発費50億を投じて開発したのが本装備です。

なるほど、どうりで速いわけだ。

高速度を得たというと、素人に思いつくのは装甲を軽くしたんではないか?
ということですが、零戦トラウマ的にいうとこのアンフィビアン、
(陸自の人にアンフィビアン、とぽろっと言ったところはい?と聞き返されました。
あんまり一般的な単語じゃないみたいですね)防御は大丈夫なんだろうか。

2回にわたるアメリカ海軍イージス艦の事故で、現代の武器は想定範囲外の攻撃に
案外脆いものだということがわかったような気がするのですが、
例えば諸島での実践に投入されたとして、敵の対戦車攻撃ということまで
想定されているのかが普通に気になります。

というところでリハーサルは終わりました。
フィールドの整備が始まり、まず施設科の整備隊が金属探知機を持って歩いてくるのですが、
まるでミュージカルかブラスバンドのドリルのように()皆歩調を合わせ同じポーズ。

この後全員が金属探知機を振り回し「俺たちがいなきゃ(総火演は始まらない)」という
曲に合わせて踊りまくるところまで軽く想像できました。

この可愛いキャタピラトラックの正体がわかりました。
金属探知チームが拾った金属片を後ろの荷台に集め運搬します。

会場では、あちこちで射撃目標の設置が始まっていました。
何もないところにいきなり指向性散弾の的である風船がポッと現れたので
写真を撮りアップにして見ると、車の中から隊員が風船を運び出しています。

風船は、ちょうどジムのバランスボールと同じくらいの大きさです。

車の荷台の中で膨らませて、その都度取り付けていきます。

こちらは黄色い風船の設置班。
作業しているのは二人とも女性に見えるけど気のせいかな?

風船を荷台から引いてきたエアーポンプの管で膨らませているようです。
施設科でこの係をしているお父さんが、この夏休み、海水浴に家族を連れていって、
子供の浮き輪ビニールプールを膨らませたことを思い出し、

「あーなんかついこの間同じことしたばっかりだなぁ」

としみじみしたりするんだろうか。

こちらは青いバルーン(狙撃手の目標)を設置する人たち。
残っているバルーンの破片を片付けています。

迫撃砲などの目標地点でも整備が行われています。
遠目に白い線に見えている目標地点のラインですが、白い土嚢なんですね。

「+」の書かれたボード設置中。
作業中の人がボードと一体化していてワロタ。

地面の整備を行うグレーダ(向こう)とロードローラー。

これを見ながら、同行者に「激闘の地平線」のストーリーを
事細かく最初から最後まで話してしまったわたしでした。

後にも先にも、施設科の隊員が主人公という映画は
(後からレンジャー隊員になるとはいえ)これだけだと思われます。

「映画的には地味な職場ですが、実際は地味でもなんでもないですよね」

「今の陸自では、最も実践的に活躍しているのが施設科ですからね」

東日本大震災でも、その日頃のスキルを生かした活躍ぶりは凄まじく、
寸断された道路などの応急的な復旧なしでは、救助も物資も届くことはありませんでした。

ところで、AAV7ですが、30年度までに52両調達。
同年度末までに新設される陸上自衛隊の「水陸機動団」のために配備されます。

ただ、AAV7は水上でも速度が遅く、ぷかぷか浮いているうちに
あっさり撃沈されてしまう可能性があるため、その問題を解決するための
新型開発というわけです。

戦車は陸自のシンボルではありますが、日本という国で保有していても
海外にPKOで持っていく以外は実際の使い道がなく、
訓練では諸島防衛とかいっていても実際に尖閣に持っていくことはできず、
というか、実際に日本で戦車が出ていかなければならなくなったら
おそらくその時には攻め込まれて終わってるということでもあります。

というわけで、水陸両用車を保有する新部隊設立は、ある意味陸自の存在意義を
実戦によりフォーカスした、「生き残り作戦」という面もあるような気がします。

その頃、音楽隊の演奏が始まりました。
前回と同じく「士官候補生」に始まり「ゴジラ組曲」、
先日呉音楽隊の演奏で聴いた「平和への行列」など。

「ゴジラ」については、周りの人が

「これ聞くとテンション上がっちゃうんだよなー」

とつぶやいていました。

指揮は第一音楽隊の一等陸尉が務めました。

モニターでは自衛隊紹介の映像を流していました。
陸自の普通科に配属された女性のインタビューなどです。

会場の左前列の一角は報道席です。
報道陣カメラマンの中に不肖宮嶋茂樹氏発見!

ホームページで自慢しておられる、

カメラバッグとカメラベストの「いいとこ取り」だ。
両手が完全に自由になり、重さを両肩と腰に分散させる独特の構造で、
機材の重さが気にならない。
かつ、常にバッグが体に密着しているので、盗難の心配も解消される。

というnewswearのカメラバッグを装着されてます。
この商品ページを見てたら、レディースのが欲しくなっちゃった。

いや、実は今一眼レフを安く譲ってもらえるという話がありましてね・・。

この頃から会場に来賓が到着し始めました。
この方は、あの、「官邸のラスプーチン」と言われたこともあるらしい、
飯島勲内閣官房参与じゃございませんか。
奥方らしき女性は白の上下に夏らしいカゴバッグで参加です。

富士学校長が陸幕長に演習を報告。

国分良成防衛大学校長が海自迷彩の自衛官に誘導されて到着しました。

「国分校長だ」

「わたしこの人嫌いなんですよね。
李登輝氏の来日と慶應での講演会を妨害した張本人だし」

「少し前日本に来てませんでしたっけ」

「来ましたね。
わたしはご挨拶できませんでしたが、夫がお目にかかりました。
あの時はもう防大校長だったので運動できなかったんじゃないですか」

国分氏の専門は現代中国政治です。

開始10分前に、例の無線傍受おじさんが、

「小野寺防衛大臣ただいま出発」

とアナウンスしてくれました。でっていう。
招待された来賓は、富士学校で待機し、時間ギリギリに車でやってくるようです。

黒塗りの車の窓を開けて中から小野寺防衛大臣が観衆に答え、
穏やかな微笑みを浮かべて手を振っているのが見えました。

防衛大臣になってマスコミが早速粗探しをしていますが、堅実すぎて隙がなく、
(加計問題での前川元事務次官への追求はすごかったですね)
つい最近は、

防衛相、イージス艦を「隠密視察」 都内で政務のはずが(朝日新聞)

とかどうでもいいことをほじくってネチネチと難癖をつけております。

稲田前防衛大臣を政権の弱点とばかり執拗に攻め続けたマスコミが、
この防衛大臣2度目の小野寺氏を、今からなんとか引きずり落とすきっかけを
虎視眈々と狙っている様子がうかがえますね。

車は防衛大臣旗を立てたジープに先導されて来ます。

お立ち台の上で富士学校長の敬礼を受ける小野寺防衛大臣。

この次の瞬間、平成29年度富士総合火力演習の幕が切って落とされます。

 

続く。

 

 

 

始まりからへり火力まで〜平成29年度富士総合火力演習

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平成29年度富士総合火力演習が始まりました。

この総火演、実は8月いっぱい、ほぼ一ヶ月行われていて、皆が見ることのできる
公開展示演習は、その締めくくりという位置付けとなっています。

つまり、同じ公開は公開でも、平日に行われるのは富士学校主催の
名目上一般非公開の演習(団予行、学校予行、教育演習)。

一般非公開とは「隊員家族や防衛団体、その他招待客のための公開」という意味で、
ハガキで申し込む日曜日のいわゆる本番が、陸上幕僚監部主催による「公開演習」です。

日曜の公開演習は陸上自衛隊の広報活動の一環でもあるので、
どんなに人が大勢詰め掛けて会場が大変なことになったとしても、
陸幕がこのチケット数を減らすことはおそらくないだろうという話です。

もう一度装備展示からになりますが、前回は予行、今日は本番です。

まずは中遠距離火力、つまり特化火力と迫撃砲などの展示です。

最初に203ミリ自走榴弾砲が迷彩メイクを施した砲手を乗せて入って来ると
キタキタ!と心が沸き立つのはわたしだけではありますまい。

せっかくなので車上のみなさんをアップにしちゃう。
右目だけメイクしていない人は、スコープを覗く役目があると思われます。

155ミリ自走榴弾砲もすでに到着しています。

発砲による後ろへの反動を受け止めるためスペード(駐鋤)を地面に固定します。
実際の映像を見ると、射撃の瞬間激しく後方に全体が揺さぶられますが、
固定された足元はびくともしていません。

着弾の瞬間。

弾丸威力の違いを見せるため、続いて155ミリ砲が発砲します。

わたしの席からはちょうどFH70が弾薬車に遮られていて準備が見えませんが、
装填し終わると弾薬車は移動していきました。

それにしても弾薬車の助手席ドアって高くて乗り込みにくそう・・・。

射手(射手席に座って後ろを振り返っている人)は、手前の合図係が
赤い旗を持った手を振り上げると、それを合図に射撃を行います。

FH70の射撃時の写真に炎が写っているのを撮ったことがありません。
いつもこのように三方向から真っ白な煙が噴き出します。

20榴と同じところに着弾しますが、少し控えめな爆破力です。

 

さて、曳火射撃で横一列に並べたり、富士山を描いたりする同時弾着射撃を
自衛隊ではTime On Target、TOTといいます。

「こちらFSC、対TOT 富士、発動!」(と聞こえた)

そして冒頭写真の通り、本番は完璧な形を決めてきました。

リハーサルの時には頂上が見えているだけだった富士山が、
この時には風に雲が吹き払われ、ほぼ全容を現していただけに感動もひときわです。

初めて見る人はもちろん、周りの常連さんたちも思わず嘆声をあげ、
会場は一瞬そのどよめきに包まれました。

一人一人の声は小さくても、全員が同じタイミングで声をあげると
本当に「どよめき」になるのを、わたしは総火演で初めて知った気がします。

会心の富士を描くことができ、おそらく達成感に包まれての陣地変換準備。
FHの砲身の向きは人力で変えることを知りました。

車に乗り込むのにも、周りの警戒を怠りません。
陣地変換を行うのは、敵からレーダーなどで標的となるのを避けるためです。

続いては迫撃砲と対戦車誘導弾の装備展示に移ります。
120ミリ迫撃砲を牽引したトラックを運輸してきました。

ヘリ後部から降りてくるとき、皆頭をぶつけないように姿勢を低くして、
乗員のうち二人が地面に降りて周りを警戒します。

後ろ向きの隊員はヘリ乗員で、背中に垂れているのは安全ベルトだと思われます。

銃を構えながら狙撃地点に移動。

こちらでも車に牽引された120ミリ迫撃砲の準備が始まりました。

今回の場所は会場のほぼ中央ですが、迫撃砲に関しては前回より遠くなり、
あまりちゃんとした写真が撮れませんでした。

迫撃砲は砲弾を上に向けて撃つことで、弾道が山なりになるため、
山や建物の裏側に隠れている敵を制圧することができます。

射撃が終わり、陣地変換のための撤収準備を速やかに行います。
装填する砲手が砲を車両で牽引するための先端の装具をつけています。

続いて対戦車部隊の対戦車誘導弾の展示があります。

通称「チュウタ」の紹介では、連続して3発弾を発射しますが、事前に

「短時間に3発発射いたしますので見逃さないようご注意ください」

とアナウンスされます。

弾体が発射される筒の後部から装填されたところを覗くと「シーカー」という
目標を捜索、発見、そして識別する索敵装置が見えます。

赤外線誘導方式を持つチュウタのミサイルは本体にシーカーが搭載されています。
3発の弾は、同時に撃ちながら全く違うところにそれぞれ着弾させることができます。

 

続いて近接戦闘の射撃です。

指向性散弾のリモコンスイッチ発動。
風船係の隊員さんたちが苦労して設置したバルーンが一瞬で破裂。

続いて対人狙撃銃によるの狙撃です。
ギリースーツを身につけた二人の狙撃手が赤いヘルメットと二人一組で狙撃を行います。

いつも標的は車の中に書かれた人ですが、前回これが倒れなかった気がして

「木曜日これ命中しましたっけ?」

と横の人に尋ねて見ると、やっぱり当たらなかったという答えでした。
今まで外したのを見たことがなかったので少し驚きましたが、
今日は本番なのできっちり当てて来るはずです。

二人の狙撃手が同じ目標を狙うので、命中の確率は高くなるとはいえ
・・・お見事です。

狙撃地点から目標までの距離は800mです。

軽装甲機動車、愛称「ラヴ」がA道に入って行きました。

フィールドから黄色い風船を狙うのは96式装輪装甲車、通称WAPCです。
擲弾銃だけでなく、ブローニング重機関銃を搭載しています。

ちなみに今この時、車内には6名の男性が乗っています。
この気温で重装備、膝がくっつかんばかりの狭い車内・・・。
考えただけで汗が噴き出しそうですが、車内には最大8名乗せることができます。

コンバットタイヤを8輪装着していて、たとえ全部パンクしても
走り続けることができます。

まず96式40ミリ自動擲弾銃が敵歩兵に見立てた黄色い風船を狙います。

擲弾は目標そのものというより、目標付近で破裂して、相手を殲滅します。

続いて同じWAPCが12.7mm重機関銃を撃ちます。
三箇所に銃弾の曳光が写っているのがお分かりでしょうか。

小銃小隊は下車戦闘に移行し、徒歩部隊が06式小銃擲弾で青い風船を撃破します。
擲弾ですので、これも山なりに撃って破裂させそこにいる敵を制圧するものです。

撃ってから着弾するまでだいたい10秒くらいかかります。

手前にある黄色い風船は、小銃の的となってこのあと破砕される運命。

 WAPCの車上から84ミリ無反動砲、カールグスタフで射撃。
個人携帯無反動砲は、対戦車、対人、夜間照明、発煙など多機能に使用できます。

今回は対戦車擲弾を撃ちます。

擲弾が空中で破裂した瞬間。
この火玉の形、とにかく破壊力がありそう。

ドウン!と音がして、周りが凄まじい爆風で土を巻き上げているのが見えます。
対戦車榴弾は、コンクリートなどの構築物に対しても使用されるというのがわかりますね。

このあと無反動砲は同じ地点に発煙弾、そしてマルヒトATM、
(01式軽対戦車誘導弾)つまり追尾式の打ちっ放しミサイルの展示を行いました。

89式装甲戦闘車、通称FVです。

これがドンドコと撃ってる時、隣の人が

「破壊力あるんですよね。35ミリ機関砲だから」

というので、ふと思いついて

「ストライカー師団の装甲車とかが積んでなかったですか」

と適当なことを言うと、

「エリコンなのでアメリカは使ってなかったと思いますね。
ドイツのゲパルト自走対空砲が積んでたかと」

「ゲバルト・・・学生運動ですかね」

節子それゲバルト(Gewalt=暴力)ちゃうゲパルト(Gepard=チーター)や。
欲望という名の電車ならぬ暴力という名の戦車(じゃないけど)などない。

草葉の陰からコブラが顔を出しました。
ヘリ火力展示の始まりです。

本番ではTOW(対戦車ミサイル)の発射の写真を撮り損ねました。

戦闘ヘリコプターAH-64D アパッチが30ミリ機関砲を撃ちます。
砲口から炎が噴き出す一瞬が撮れました。

薬莢も盛大にばらまかれています。

ランプの点灯している部分はわたしのカンに間違いがなければ
エンジンとその排気口なのですが、ランプがなんなのかはわかりません。

赤外線?(赤いから)

 

装備展示は続いて対空火力、戦車火力に入り、会場はいよいよ盛り上がってまいります。

 

続く。

 

 

戦車火砲〜平成29年度富士総合火力演習

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遠中距離、近距離火力、ヘリ火力の展示が終わり、
続いては対空火力である87式時装甲車機関砲の展示です。

87式辞装甲車機関砲、通称「ハチナナAW」。
いつもぐるぐる回っているちょんまげのようなものは索敵を行うレーダーのアンテナ、
前を向いているお皿は追尾レーダーのアンテナです。

 

薬莢が散らばっているのが確認できます。
前回話したゲパルト自走砲をモデルに作ろうとしたため、やはりこれにも
エリコンの35ミリ機関砲を2門搭載しております。

火を噴くと同時に砲のあちらこちらから白煙が噴き出してきます。

銃撃は4秒で終わりましたが、搭載砲は1分に550発撃ちますから、
この間に目標に撃たれた弾丸は全部で150発くらいということになります。

その一つ一つが破壊力のある35ミリ銃弾であるわけで・・。

ちなみに、89式装甲戦闘車が搭載しているのは同じ35ミリでも
弾速が1分間に200発というタイプ( KDE)です。

 

さて、次はいよいよ戦車火力の展示です。
周りのカメラ陣がすわっ!と緊張を高める空気が伝わってきました。

まずはみなさんが

「タイミングがわかりにくいので撮るのが難しい」

とおっしゃるところの74式戦車ですが・・・、

どうよ。

と思わず得意になってしまうくらい、今回は当たりました。
冒頭写真は爆発する炎の中から飛び出す砲弾の曳光が捉えられています。

74式戦車はいつもそれ専用に設置された坂を登り、登坂姿勢のままで
射撃を行うことができるという特性を見せるための展示を行います。

坂をうぃ〜んと登って行って、停止したのち発射。
というわけで、周りで、

「停まったら3秒後!」

とまるで合言葉のように大きな声で繰り返している人がいましたが、
実際に映像で確かめると3秒ではなくだいたい4秒少しくらいでした。
この1秒の違いが大きいのですが。(´・ω・`)

どうよ。

今回嬉しかったのは74式がよく撮れたことです。

こんな周りからの情報と自分のカンを駆使して一瞬を逃さぬように
シャッターを押し、コンマ単位の瞬間が大当たりして会心の写真が撮れたりすると、
否が応でもアドレナリンが噴出してくるのを感じます。

こと写真に関してはそんなに欲のないわたしですら。

皆やっぱりこの瞬間のために、苦労していい席を取るんだろうなと思いました。

ちなみにこの後74式戦車は、停止直後でも正確に射撃できることを示すため、
停止してしてすぐ発砲しますので、タイミングは4秒後とは限りません。

というわけで展示を終えて軽快に退場する74式。

戦車隊の人がほぼ全員メガネをかけているようなのですが、気のせいですか。

 

74式戦車は採用後40年近く経っているとは言え、主砲の105ミリ弾に
93式徹甲弾を採用しているので、現代の戦車とも「対等に戦える」そうです。

航空機や潜水艦と違って、模擬戦ができるってもんでもないと思うのだけど、
どうやって戦車戦の勝ち負けって判定するんでしょうかね。

続いて90式戦車が入場してきました。
4台の90式が土煙を立てながら坂を降りてくるシーンは圧巻。

イメージだけではなく三つの戦車の中でもっとも車体が大きいのが90式です。

 

90式のエンジンは150馬力で、10式より大きいのですが、
車体が重たいのでスピードは遅くなります。

「とまれえっ!」

の掛け声で急ブレーキをかけて車体をつんのめらせるのも展示ならでは。
74式と比べると車体が重くてなおかつスピードが速いので、こうなります。

これを「殺人ブレーキ」と呼ぶ人もいるとかいないとか。

74式の成果に比べ、今回は不思議なくらい90式は撮れませんでした。
唯一写っていたのがこの左側の砲弾らしき炎です。

戦車火力の最後はお待ちかねヒトマル式戦車です。
とは言え、制式採用されてからもう7年になるんですね。

火力、機動力、防護力を向上させ、さらにコンパクト化されていますが、
砲塔の大きさは90式より大きいので、見た目も大きく見えます。

左稜線に進入し、後続の同小隊の2両を援護するために射撃したところ。

いえーい。

コンマの狂いもなく同時に砲撃を行なっています。

先ほどの稜線にいた2両が1班、続いて進入してきた2両が2班となります。

「後進射撃」というから後ろ向きに走りながら撃つのかと思ったら、
普通に進入すると同時に撃ちました。

砲撃の瞬間、砲塔の上の人は相当熱いのではないかという気がします。

炎が消え、戦車の前部に煙がまとわりつくところもいとおかし。

報道写真やその他ネットに出回る写真にはあまりない瞬間なので載せておきます。

これもあまり出回っている写真にはないシーン。
砲撃の一番最初の瞬間で、シャボン玉のように可愛らしい炎が噴き出しています。

続いて2班の戦車は小隊長に

「前方に障害確認、後退する」

と報告をします。
10式を10式たらしめる性能を見せるため、後退蛇行射撃を行うのです。

言っておきますが、この蛇行射撃の時の撮りにくいことと言ったら、
74式戦車の時の比ではありません。

しかし・・・

やっほーい。

後退蛇行しながらの射撃は極めて高度な技術を要します。
10式の安定性と高い起動性能あって初めて可能となった攻撃&避退です。

ちなみにバック走行時の速度は、10、90、74式戦車の順に速くなります。

90戦車は”どんがら”の割に案外速いのですが、74式は90式より小さいのに
まずこれでは敵から追撃された時助かるまい、というくらいノロノロ走行ですし、
もちろん後退しながら銃弾を撃つこともできません。

んが、日本で運用するぶんには(つか実戦に投入される予定もないので)無問題。
それこそゴジラでも出てきて、ヒトマルもキュウマルもやられてしまい、
残った装備で特攻作戦を余儀なくされた時くらいですかねー。(失礼か?)

こうして挙げていくと、今回は結構発砲シーンが撮れていたように見えますが、
実はちょっと悔やむべき失敗があったのでした。


といいますのも、Nikon1V3のスマートフォトセレクターという

「適当に押せば5枚ベストショットを残してくれる」

というお節介機能を使うことをふと思いついたのですが、隣のNikon持ちが、

「それ、40枚の保存もできますよ」

と現場で(しかも展示が始まってから)悪魔のように囁いたため、
90式の展示前に切り替えてもらったら、なんとシャッター押し直後、

「保存枚数を超えています」

という謎メッセージが出て、しかもリカバーするのに時間がかかり、
貴重なシャッターチャンスが失われたからです。
あとで余計なお世話だったと謝られましたが、反省すべきは
現場で初めてのモードを試そう、などという気になったわたしでした。

手前を狙っていたのに後ろの戦車の発砲炎が撮れた例。
要は失敗ですが、これはこれで。

炎が消えていく瞬間。

本日のベストショットはなんといってもこれ。
こういうのが撮れると、ついついその気になってしまいます。

というわけで、この後、隣のNikon持ちから、買い替えのために
下取りに出すというD810の購入を決意したわたしであった。

くねくね蛇行しながら後退、というのも最近は見慣れてきたものの、
こうして実際に妙に身軽な動きを見ると、改めて10式戦車とは
日本の誇るヘンタイ技術の粋を集めたっぽいと感心してしまいます。

今年は際に履帯が外れたり破片が飛んできたりという事故もなく、
無事に安定した展示を見せてくれた戦車隊でした。

 


装備展示、もう少し続きます。

 

 

護衛艦「おおなみ」甲板公開

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「クアウテモク」を見学した後、ホストシップとして彼女をお迎えした
我が海上自衛隊の「おおなみ」も見てきました。

珍しい帆船を見にきた人も多かったでしょうが、実はお目当はこちら、
という人も結構いたかもしれません。
わたしの近くにいた高校生二人は、「クアウテモク」から出てきて

「さあ、メインの”おおなみ”行こうぜおおなみ!」

と言っていました。(これ本当です)

「おおなみ」が繋留してあるのはちょうど駐車場の前の岸壁になります。
わたしが到着したのは12時少し前だったのですが、人の流れから
おそらくお昼は一般公開を一旦打ち切るために「追い出し」を行なっているのだろうと思い、
しばらく車の中で時間をつぶしました。

見ていると、メキシコ海軍の水兵さんたちの姿があります。
水兵さんたちも「おおなみ」の見学をしていたようですね。

1時になってから「クアウテモク」を見学し、続いて「おおなみ」です。
「おおなみ」は横須賀地方隊所属で、「たかなみ」型の2番艦。
今回初めて知りましたが、愛称は「オーシャンタイガー」だそうです。

艦尾の右舷側にあるラッパの朝顔のような二つのものはデコイ発射用のランチャーです。
デコイとは敵のホーミング魚雷に対する欺瞞用の囮のことです。

自衛艦の公開などでは「常勝」とか「必勝」とかいう文句を被せた
艦名のバナーがしばしば一緒に飾ってあります。

艦対抗でスポーツの試合をするときには活躍するのでしょう。

HOS-302、Mk32短魚雷発射管は外から見た方が全貌がはっきりわかります。
というわけで、説明の看板を岸壁に。

見学者サービスで外側に筒を向けて展示してあります。

階段を登る人々がせき止められ、一瞬ですが長蛇の列ができました。
何だろうと思って確認すると、少々足許のおぼつかない年配の方が
登り切るまで前後をガードして、慎重にエスコートしていたためだと判明しました。

こちらも応援バナーでしょう。
Z旗の上で咆哮しているトラ、すなわち愛称の「オーシャンタイガー」です。

甲板に上がると、左回りに甲板を舷側に沿って歩いて行く順路となっていました。

主砲のオトーメララの下では、砲弾が公開されていました。

「どうぞ、触っちゃって大丈夫ですよ」

隊員さんの勧めでそこにいたお子様が座り込んで砲弾を持ち上げようとしています。

ここから撃ったらどこまで砲弾が届くか、という地図がありました。
横浜市、習志野市、川越市はすっぽり入ってしまう感じです。

昼からの公開が始まって30分くらいは経っており、甲板は見学者でいっぱい。

甲板の装備については必ずパネルで説明が行われます。
真ん中のパネルはバーチカルラウンチングシステム、VLS、
垂直発射装置のもので、この柵の向こう側にセルがあります。

艦首部分には一般公開でも観艦式でもあまり一般人には立ち入らせません。
横須賀に繋留している艦で艦首部分を公開しているのを何度か見たことがありますが。

船首から望む向こう側にはレインボーブリッジが見えます。

オトーメララ越しに見る「おおなみ」艦橋。
応援バナーはマスト両舷に同じものがはためいています。

艦橋の写真を撮っていて、ウィングで帽振れをする人影を発見しました。

近くの隊員に艦長ですか?と聞いてみましたが、違うとのこと。
写真を拡大して少尉さんであることが判明しました。

どうやら、行き交う船に「ファンサービス」で帽子を振ってあげているようです。

見ていると、もう一人出てきてこちらは艦内帽を振り出しました。
港湾めぐりなどで自衛官が手を振ってくれると嬉しいものなんですよね。
だから、船の人たちもこれには大喜び。

この屋形船には女性も乗っていて、彼女が手を振りながら大きな声で、

「きゃあ〜〜」

「あたし、あの人(手を振ってくれている自衛官)と結婚する〜〜!」

と叫んだので、周りでそれを聞いていた人たちが皆笑いました。

そのとき海面に怪しい船発見。
なんかわかりませんがやたら走行性の良さそうな車みたいなシェイプです。

クルーズディナー船でしょうか。
そういえば昔一度だけ東京湾でこんなクルーズ船に乗ったことがあります。
バブルの名残のような男性が、ロシア人の女性と、当時流行っていた
「タイタニックごっこ」をきゃっきゃとはしゃぎながら船首でやっていましたっけ。

ファランクスCIWS (クローズ・イン・ウェポン・システム)の
動的展示など、体験搭乗や観艦式などで行われるようなデモは本日はありません。

前甲板からは左舷を通って後ろに進むことになります。
マクラメ編みの防眩物が実に芸術的な縛り方で固定されています。

左舷を歩いて行くと、先ほどと反対のところに水上発射管が現れるのが必定。
説明のために自衛官が一人配置されていました。

このシステムはソーナー探知により敵潜水艦の方向に発射された
短魚雷が、着水後ジャイロ航走により目標を捜索し、相手を見つけたら
そのとき速度を上げて接近し、命中するという仕組みのものです。

ここにあるのは2・4・6の管なので、状況から察するに右舷には1・3・5があるはずです。

先ほどのは潜水艦で、こちらは対艦ミサイルとなります。
90式艦対艦誘導弾 SM-1B。

水中を敵のところまで進んで、近くになったら海から飛び出し、
海面すれすれを飛んで相手に当たる、なんて誰が考えたの。

あっという間に後甲板に出てきてしまいました。

日中、航行していないときに揚げる自衛艦旗越しに、
ゲストシップである「クアウテモク」が見えています。

帰りにわたしの前を歩いていたカップルの男性の方が、旭日旗を指差しながら

「ほら、あの旗さ、なんて言ったっけ」

女性の方がそんなことも知らないの、というような調子で言下に

「日章旗!」

「・・・そうだっけ。ほら、他になんかなかった?」

「だから日章旗だって!」

ここで一言余計なことを言えば、女性に恨まれかねなかったので、
わたしは黙って後ろを歩いていました。

後甲板にあるヘリ拘束装置。
ヘリから出したプローブを引っ掛けて格納庫から出し入れします。

これをRAST、
(リカバリー・アシスト・セキュリング・アンド・トラヴァーシング・システム)
といいますが、AをUと決して間違えないように。

横で隊員さんの説明を聞いていると、

「この上にヘリが降りて降着装置を出して引っ掛けるんです」

みたいな感じでした。
そう言えば、「いせ」の飛行長が、

「これくらいのスペース(そこにあったテーブル)に、真っ暗だろうが
どんなに揺れていようが、間違いなく降りなくてはいけないんですからね」

とその難しさを熱く語っていたことを思い出します。
これどう見ても一辺1m以下ですよね・・。

格納庫も人で賑わってるぞ。

格納庫内ではロープの結び方教室実施中。
隊員さんは全員プロレスラーのマスク着用で任務に臨んでいました。

しかし、この「本日のおすすめ」を見る限り、マスクは

「おおなみタイガー」

つまり

「俺たち基本的にオーシャンタイガー→タイガーマスク!」

みたいな意味も兼ねているようでした。

こんなマスクどこで手に入れてきたんだろう・・・・。
横須賀メルキュールのあるビルのダイソーかな。(地方ネタ)

本日のメニューは「アゲマキ結び」と「宇宙結び」のようです。

その名の由来が知りたい。

こちらのテーブルではアゲマキ結び伝授中。
ここで一回やったくらいじゃ多分覚えられないんですけどね。

お子さん三人の五人家族、乗艦記念写真撮影中。
お兄ちゃん二人がヘリ、女の子は護衛艦勤務です。

自衛官の生活、みたいな感じの紹介写真。
左下、これ女性自衛官ですよね。すごいパワフル!

ヘリパイのお仕事風景の写真もありました。

甲板ではなんと!ヘリ管制ブースの中に入れるという大サービス中!

一人の自衛官が説明と見張りのために立っていて、この人の誘導で
代わり番こに中に入って写真を撮ったりできるのです。

日頃並ぶのが大嫌いで、大抵のことはスルーするわたしも、今回は
並んで(と言っても数人の列だったけど)みることにしました。

離着艦するヘリと交信したり、RASTの操作などをここから行うわけだな。

色々詳しく見たいけど、後の人がいるので写真を撮るだけ。


これが左側、つまり右舷側。
ヘッドフォンは一つだけ。
聞き忘れましたが、一人で任務を行うのでしょうか。

モニターと艦内と話す電話もあります。

やっぱりというか、ちゃんとあった、安全祈願のお札。
日本の船ですねえ。

一字かけていますが、香取大神宮のお札でしょうか。
だとしたら、香取神宮は千葉県にある神社ということになるのですが。

もしかしてこのハッチは下の階に繋がっている・・・?

メインのスイッチは、誘導灯など、ヘリの離着艦の目印となる灯りのものです。

管制ブースの中からみた甲板風景。
もちろんいつもはこのパネルはありません。

中はひんやりしていて、クーラーが効いているのがわかりました。
どこから冷気が入ってくるのか確認したのですが、どうやら床のようです。

 

もう一息、格納庫側の天井を撮ってみました。
偏光ガラスがはまっていて日除けにもなっているらしいのが色でわかります。

というところで公開されている主なポイントを見終わりました。
あとは右舷側を通って外に出るだけです。

この壁面を利用して、隊員さんの写真作品展が行われていました。

今では行われなくなった観艦式での潜水艦のドルフィン運動に、補給艦の給油。

ネームシップの101「むらさめ」から109の「ありあけ」までが勢揃いした瞬間。
そして超広角カメラで撮った、接舷するLCAC。

この「写真展」、ほとんどすべての人が立ち止まって熱心に眺めていました。
カメラを持っている人たちにとっても、大変興味深い作品ばかりです。

というところで見学を終え、岸壁に降りてきました。
「おおなみ」はこの翌日、「クアウテモク」の出港と前後して晴海を発ち、
母港の横須賀に帰ったそうです。

 

終わり。

 

 

光と影〜陸自衛生学校 医学情報資料室「彰古館」

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さて、衛生学校で公開された第1級救難衛生訓練見学を終わり
次に資料館の見学を行いました。

彰古館。

陸上自衛隊衛生学校、教育部教材課に設置された
「参考品展示室」を母体として、かつて軍陣医学と呼ばれていた
軍事医療の資料を収集している、全国でも稀有な医学情報資料の公開施設です。

ここは、体系的で機能的な展示の仕方も、湿度管理が完璧に行える
専門の電気ショーケースを使った資料の保存も、今まで見たどんな資料館をもしのぎ、
しかも資料館の担当である自衛官の説明は素晴らしいの一言でした。

資料を見ながら軍事医療について時系列に語ってくれるのは従来通りですが、
単にものの説明にとどまらず、幕末期から大東亜戦争までの軍事医療の発展と
改革を横軸に、縦軸として近代日本の軍事史をおさらいしているような感じです。

ある程度のことを知っている者にも、全く軍事を知らない者にとっても、
その名も悉知(しっち)さんという自衛官の解説は明快でわかりやすく、
歴史に対する興味を掻き立てずにはいられない魅力に富んでいました。

おかげでみっちり1時間の解説が、全く長いと感じられなかったほどです。

というわけでこの見学について詳しくお話ししたいのは山々ですが、
内部にはあちらこちらに写真撮影禁止の貼り紙がありました。

貴重な資料で保管にも最新の注意を払っているせいかと思いきや、
説明終了後に「撮っても構いません」

ただし、写真はご自分の飼料用としてお使いくださいとのことでした。
というわけで、本日画像は現地にあったものではなく、
パンフレットからの転載になります。

 

資料館外には陸軍病院と軍医学校の写真が展示してあり、
こちらは公開しても大丈夫そうなのででご紹介しておきます。

明治3年、政府に要請されて来日していたオランダ人医師ボードウィン(右上)
が大阪軍事病院の中に陸軍医学校を設立しました。

こちらは昭和4年に牛込に設立された陸軍軍医学校玄関。
広大な敷地に最新の建築が並びました。

標本館と図書館だそうです。

関東大震災の時には倒壊した建物から毒ガスが漏れるなどの騒ぎになったそうです。
現在ここには現在、厚生労働省戸山研究庁舎(国立感染症研究所および独立行政法人国立健康・栄養研究所)
新宿区立障害者福祉センター、全国障害者総合福祉センターが設置されています。

内部資料のコピーなどが一部だけですがロビーに展示されていました。
資料館では、原子爆弾投下に関する資料、例えば黒の部分だけ焼け焦げた
着物の切れ端などを見ることができます。

日華事変から終戦までの資料は、その多くが戦災や焼却処分、さらには
戦後の混乱期に散逸してしまったのですが、当資料館(というか防衛省?)は
その欠損を埋めるべく収集活動を継続しているということです。

また和紙に書かれた資料は大変保存がきき、現在も展示していますが、
特に大東亜戦争中の紙の資料は酸性化が進んでしまっているので、
これ以上の劣化を防ぐために公開していません。

しかし、将来の公開に向けて、電子ファイル化を進めているとのことです。

展示室入口にあった指差しマークは明治40年に使われていた
野戦病院への方向を示す道標がプリントされて使われていました。

これが彰古館の広報パンフレット表紙です。

医療を表すアスクレピオスの杖(蛇が絡まっている)と桜が組み合わされ、
英語で「メディカルスクール」と記された衛生隊のマークの下に、
赤一文字の医療背嚢を背負った西南の役での看護卒の後ろ姿の絵があります。

この赤一文字はどういう意味があるのでしょうか。

当時、軍衛生部の標識を決めることになった時、当然ですが
海外で使われているレッドクロスを採用するという運びになりました。
ところがここで、

「キリスト教の十字架はまかりならん!」

と時の太政大臣がしゃしゃり出てきて使用することを禁止したため、
やむなく十字の縦の棒を取り去って、横に赤一文字だけを描き、
いざとなると縦の棒を描き加えて十字にすることにしたのです。

ただしこれは西南戦争の時だけの措置だったようです。

これらも全て所蔵物で実物を見ることができます。

当時のメスや、顕微鏡、薬籠など。

上記の赤一文字背嚢も現物が展示されています。
右側は、西南戦争の戦傷者の形成手術ビフォーアフターを詳細な絵に描いたもの。
このビフォーアフターはコピー化されてファイルになったのを見ることができます。

これ以外にも頭皮からの傷口への移植手術の過程を表したリアルな模型、
(もちろん当時のもの)があって、医療関係者は必見!だと思います。

森林太郎、ペンネーム鴎外の肖像や写真も当然ですがありました。

森軍医総監は脚気論争で海軍の高木軍医と対立した時、高木の

「B1欠損による脚気併発論」

を嗤い、俺理論で突っ走ったため、
日清日露戦争で脚気蔓延の大惨事を招きました。

文学者としては明治の最高峰と言われた森鴎外ですが、軍医としては
その業績において後世に残る汚点を残したと言えるかもしれません。

 

右は日露戦争の捕虜収容所となった習志野捕虜収容所の写真。
当時の日本は国際法を守り、捕虜の扱いを人道的にどころか
教育まで与えるという紳士ぶりで世界の評価をえました。

バルトの楽園(予告編)

第一次世界大戦後になりますが、四国にあった捕虜収容所を舞台にした映画

「バルトの楽園」

という映画がありましたね。
日本で初めてベートーヴェンの「第九」を演奏したのが
ここに収容されていたドイツ人捕虜だったという実話に基づくものです。

軍トップの給料が九十円だった時代に、当時新しくドイツで使われ始めた
X線レントゲンを、

「どうしても欲しいんだい!」

とばかりに千円のポケットマネーで買ってきた芳賀栄次郎軍医。
持って帰ってきたX線に、たちまちみんなは興味津々。
どこも悪くないのに競ってレントゲンを撮ってもらったようです。

ただし、フィルム代はバカ高いので偉い人だけ。
あの乃木大将も好奇心を抑えきれなかったらしく(笑)
足の骨を撮ってそれが残っています。(左)

そして、右は、戦後腕を失った兵隊がタバコだけでも吸えるようにと
乃木大将自ら発明した「乃木式義手」で、これも実物が見られます。

 

乃木式義手といえば、わたしが個人的にここで一番印象的だった展示は、
ある陸軍近衛士官が、西南戦争の戦傷に受けた手術で取り出した骨の写真でした。


皆さんは渡辺淳一の直木賞受賞作「光と影」を読んだことがあるでしょうか。
わたしは知り合いの編集者のいう三文エロ小説家()になる前の、
医療小説ばかり書いていたころの渡辺淳一の小説が今でも好きなので、
ここで悉知さんの口からその題名が出た時、思わずぱあああっ(aa略)
となっちゃいましたよ。

「光と影」のモデルになったのは二人の軍人です。

西南の役の戦いで、ほぼ同じ時にほぼ同じ傷を
それぞれ右腕と左腕に受けた二人の若い軍人がいました。
寺内寿太郎大尉、そして阿武時助少尉です。

二人は同じ日に大阪陸軍病院の佐藤進院長の手術を受けることになりました。

当時の医学ではそのような銃創を受けた腕は切り落とすのが常識で、
カルテが先になっていた阿武大尉の腕はあっさりと切断されました。

ところが、ここで執刀者の佐藤軍医は、二人の運命を大きく変える
ちょっとした「気まぐれ」を起こすのです。

「あまりにもたくさんの腕を切りすぎたので」

同じことをするのに嫌気がさし、腕を残して粉砕した骨片を取り出す
ランゲンべックの方式を寺内の傷に試してみることにしたのでした。

(これは小説に基づいて書いていますが、実際の理由はわかりません)

結論としては腕の機能が戻ることはありませんでしたが、
それでもとにかく自分の腕が残っていたことで、寺内は軍務に復帰。

腕を切られた小武大尉は寺内より優秀であると自覚していましたが、
負傷後軍を去り、その後設立された偕行社の事務長になります。

小説では二人の運命の分かれ道が「カルテの上と下」にすぎなかったと知り、
小部は精神に異常をきたして、最後は巣鴨の廃兵院の鉄柵の嵌った
精神病患者用の部屋で亡くなるという結末となっていました。

寺内はその後フランスに皇族の補佐官として派遣され、
陸軍士官学校長を経て、なお順風満帆の出世を遂げ、
陸軍大臣、そして内閣総理大臣寺内正毅として歴史に名を残します。

 

 

昔なん度も読み返した渡辺淳一の初期の小説の中でも特に印象的であった
「光と影」のストーリーが現場の説明で一気に蘇り、
「小部敬介」とこちらだけ仮名になっていた阿武時助の面影(イケメン)を
写真で見ることができ、感慨もひとしおでした。

ネットでは阿武時助については寺内正毅についての記述においても
何も出てこないので、彼の写真を見ることができるのはここだけかもしれません。

 

家に帰って早速「光と影」を読み返してみたのですが、小説中、
陸軍大臣となった寺内が偕行社の事務長である小武に

「この紹介状を持って行けば乃木式の義手を作ってもらえる」

というシーンがあります。

この乃木式義手というのがパンフレットの写真にも出ているそれで、
ここにはその実物が展示されているのです。

ちなみに小説では小武は陸軍大臣の前にもかかわらず、
自分より劣っていたはずの寺内を妬む心と劣等感に堪えきれなくなって
この申し出に激昂し、

「生半可な同情なぞはやめてくれ。俺は俺でお前はお前だ」

と暴れるということになっていました。

今回この資料を見て考えたことが二つあります。
渡辺淳一は、おそらく小説を書くために、この資料館を実際に訪れたであろうこと。
そして小説に書かれた小部の寺内に対する気持ちと、二人の間に起こったこと、
例えば教官になった寺内が学生に

「同期に小部という優秀な男がいた。彼が怪我しなかったら今頃偉くなっていただろう」

とその名前を喧伝していたことなどは全て創作であるということです。

そう断言する理由は、二人の階級。

小説では同期ということになっていますが、戦傷を受けた時点で二人は大尉と少尉。
カルテでは上と下でも、両者が同期で俺お前の仲であろうはずはありません。

偕行社の事務長として阿武が陸軍大臣の寺内と会うということはあったかもしれませんが、
そこで寺内に情けをかけられ(たと思い)キレて暴れるということなど考えられないし、
佐藤軍医が二人のカルテの順番や処置の違いについて、問われるままに
彼に真実を告げるというのも守秘義務の点でまずありえません。

「創作は創作」。

夢中になって読んだあの頃から何十年後になって、そのことに気づいてしまったわたしです。

 

さて、乃木大将といえば、海水浴場で撮られた半裸の写真がここには展示してあります。
実に均整のとれたしなやかな肉体で、説明によるとこれは
日露戦争より後のものだということでした。

「司馬遼太郎の小説だと日露戦争で乃木将軍はもうヨボヨボみたいに書かれてましたが」

そうそう、映画でもやたらどんよりしてやる気のない乃木将軍を
柄本明に演じさせてましたっけね。

「でもこれを見る限り、乃木さん全く若々しいです。
司馬遼太郎という人は・・」

そうそう、乃木さんのことあまり好きじゃなかったんでね。

「陸軍については随分いい加減なことも書いてます」

そうそう海軍についても・・

「海軍については正確に書いているみたいですが」

いやいやいやいや(笑)

司馬遼太郎は、不詳わたくしがブログのために行った程度の調査でも、
かなりの部分で「やらかして」いるのが判明してますよん。

 

展示にはこのほかにも、八甲田山の生存者の凍傷にかかった手足のカルテや、
戦後広島でGHQが作成した原爆患者の英文カルテ、
731部隊の石井四郎が考案した浄水器の実物などがあり、
軍事医療のみならず戦史に興味のある方なら一日いても飽きないかもしれません。

 

ロビーにあったイラク復興支援の際部隊が身につけていた防暑服。
胸には英語とアラブ語で「日本」と書いてあります。

マスクのようなものは砂塵マスクでしょうか。
この服装で「防暑」ができるとはちょっと信じられませんね。

 

 

当資料館の開館日は平日、希望者は2時間前までに予約をすれば
いつでも誰でも見学することができますので、みなさま折あらば是非
時間をかけて見学されることを心からオススメしておきます。

 

【陸上自衛隊衛生学校広報室】
 TEL (03)3411-0151

 広報 内線2211
 彰古館 内線2405

 

 

 

「マサチューセッツ」艦内メモリアル・ルーム〜バトルシップ・コーブ

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マサチューセッツのフォールリバーにあるバトルシップコーブ。
そのメイン展示は何と言っても戦艦「マサチューセッツ」です。

1日ではとても全てを見終わることができず、結局二日続けて通いました。

今日はもう一度「マサチューセッツ」艦内に戻ってお話しします。

「マサチューセッツ」シリーズの時にご紹介しそこなった、来客用のスナックスタンドです。
この日は平日のせいか営業していませんでした。

砲弾の上に跨った得体の知れない動物が「ジョージ」。
「チャウライン」とは、兵隊用語で「食事に並ぶ列」のことです。

ハンバーガーやホットドッグの類とはいえ、なかなか充実したメニューです。
スープにはボストン名物のコーンチャウダー、トマトビスクまである!

ここはメインデッキのある階ですが、「ジョージのチャウライン」を通り過ぎ、
一旦甲板に出てもう一度中に入ると、メモリアル・ルームが現れます。

「このドアの向こうは、第二次世界大戦で祖国を守るために亡くなった方々を
慰霊顕彰するためのメモリアルルームです」

「一万三千人以上の人々の御霊の名前が艦内の区画に刻まれています」

「入室の際には帽子を取り、室内では御霊に敬意を評して静粛にお過ごしください」

「飲食は禁止です。12歳以下のお子様は保護者と一緒にお入りください」

これを読んだわたしはその場でキャップを取り、室内に入りました。
ちなみにビデオを見るためにベンチに腰掛けた際、帽子を置き忘れたのですが、
次の日また来たら、置いたところにそのままありました。

入室するとまず、「メダルオブオナー」のガラスケースと旗の数々。

海軍・海兵隊・沿岸警備隊の栄誉賞はデザインが同じであるようです。
「エアフォース」とありますが、よく考えたらアメリカも日本と同じく、
第二次世界大戦が終わるまで「空軍」というものは存在しませんでした。

案外知られていないことですが、1947年まで「航空」は基本陸軍が受け持っていたのです。
日本の場合は陸海軍が別々に同じ規模の航空隊を持っていたため、
これでお互いの確執が深まったのではないかと思っていますがそれはともかく。

メダル・オブ・オナーの旗のすぐ近くの壁の白黒写真です。
いつ、どの船のものかはわかりませんが、第二次世界大戦中、
今から海に葬られる戦死者の遺体が納められたボディバッグが甲板に並びます。

そしてこの写真の横には・・・・・・。

パールハーバー生存者協会の作った慰霊碑が。
生存者協会は1958年の12月7日に結成されました。

「日本帝国海軍の手によってオアフ、ハワイで戦友を殺された者が集い」

「リメンバー・パールハーバー、キープ・アメリカ・アラート」

ちなみに、アメリカでは「戦死した」と記す時には、事務的に「KILLED」と書きます。
ですから、「Killed by I. J. N」は「帝国海軍に殺された」という読み方をせず、
「帝国海軍の攻撃によって戦死した」と書かれていると解釈すべきなのでしょう。

同じように撃墜・撃沈記録には「スコア」という単語を使いますが、これを
日本語の感覚でスポーツ感覚だ!などと怒ったりするのは愚かなことだと思います。


このプラークには、

攻撃は0845に始まり0945まで続いた
日本側の損失(航空機29、潜水艦1、潜航艇5、計64名)
アメリカ軍人と民間人の犠牲者数(2403名)

と書かれています。

そして最後には被害に遭った艦船の名前。

ジョン・フォードの映画「真珠湾攻撃」では、日本軍の攻撃は全く大したことなく、
どの艦船もすぐに修理できるようなプロパガンダがされていましたが、
実際は戦艦9隻の沈没ないしダメージ、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、
180機を超える航空機の喪失と、被害は甚大でした。

そして、陸軍、海軍を始め民間人の全ての犠牲者の名前が。
名簿の一番最後には、陸軍の看護部隊にいた3名の女性看護師の名前があります。

 

同じ一角にあった「砂漠の嵐」「砂漠の盾」作戦のメモリアル。
ご存知湾岸戦争は多国籍軍の「砂漠の嵐」作戦開始をもって開始されました。

ランドルフ、リン、ヒンガム、ウェイマス、そしてここフォールリバー。
マサチューセッツの各地出身の9名の犠牲者の名前が記されています。

 

 

さて、ここからは朝鮮戦争のコーナーになります。

ゴールデンゲートブリッジの近くにあった朝鮮戦争メモリアムについて話した時、
朝鮮戦争の経過も簡単に説明したことがありますが、もう一度。

1945年、日本が降伏し、北半分をソ連が、南半分をアメリカが占領していたときの様子です。

ちなみに当然のことですが、日本海にはちゃんとシーオブジャパンと記されています。

朝鮮戦争のフェーズ1というのは、つまり北朝鮮が1950年6月25日に
北緯38度線で砲撃をいきなり始め、奇襲してきたときです。

ソウルは占領され、韓国軍は敗退して釜山に追い詰められました。

フェーズ2では、我らが?マッカーサーがバターン号で日本から駆けつけ、
東京を起点にそこから毎日専用機で戦場に通い、アメリカ軍を指揮。
9月15日から10月24日で戦線は大きく押し戻されることになります。

ちなみにこのとき最初に韓国軍の参謀総長になったのは(すぐ解任されましたが)
陸軍士官学校49期卒で砲兵科少佐であったチェ・ビンドク(蔡 秉徳)でした。

フェーズ3、11月25日になんと中国人民軍が参戦してきます。
人海戦術の前に国連軍もアメリカ軍も疲弊を強め、
戦線はまたも大きく南下することになりました。 

この後、戦線は少し北に押し戻し、現在の国境に落ち着き?ます。

おそらくアメリカが参戦してすぐ、国境線を北に押し戻した頃でしょう。

あなたは今38度線を超えています

米国陸軍第7騎兵連隊のご厚意により

ギャリーオーウェンというのは、第7連隊の公式ニックネームで、
アイルランドの同名の曲から取っています。

GarryOwen - Original Lyrics~7th Cavalry Regimental March

 

さて、先日「ミリタリー・ウーメン」と題して軍に関わった女性を取り上げましたが、
ここには朝鮮戦争と関わった女性についてのパネルがありました。

海軍看護部隊は朝鮮戦争のためにUSS「リポーズ」(病院船)で現地に向かい、
朝鮮半島沖で任務にあたりました。

前列の女性たちの足のクロスの仕方が時代を感じさせます。

「彼女らが手を差し伸べた幾多の命」

戦闘で傷ついた兵士たちに手を差し伸べているのはA.ドリスデール中尉。
彼女は第801医療空輸部隊の所属で、彼らを日本に運ぶ
C-54スカイマスターの機内で手当をしています。

「フライトナース」のイレーヌ・ウィレー大尉。
「スカイマスター」の機内で薬を用意しています。
飛行機は沖縄経由で台湾に向かっているところ。

コミュニスト(共産主義者)の包囲網が迫る中脱出する飛行機に
優先的に負傷した兵士を乗り込ませたジャニス・フェーギン中尉(左)
とリリアン・キンケイラ中尉の二人。

靴を脱いでかじかんだつま先をストーブで温めています。

陸軍の看護師(右)が負傷しハワイに搬送された弟のお見舞いに来ています。

海兵隊のエドウィン・ポラック将軍と会話する秘書のアナ・ロゼンバーグ。
彼女は朝鮮半島に赴いています。

朝鮮のテジョンにあった陸軍病院のナースたち。

前にもご紹介したことのある有名な写真ですが、人民解放軍参戦以降、
戦線が押し戻され、疲弊を強める1950年8月に撮られました。

戦友を失って他の兵士に抱きかかえられる海兵隊員の向こうで、
事務的に死んだ兵士の名前を記録する兵士がいます。

一生残る傷を負いながらも昂然と顔を上げて写真に収まる負傷兵。
彼は海兵隊員で、応急治療を経て病院に搬入されるところです。

USS「フィリピン・シー」空母艦上で戦死した二人の軍人の海軍葬が行われています。

第24歩兵隊のエドワード・ウィルソン一等兵。
前線で負傷し、病院に搬送されるのを待っている状態です。

チョーウォンでの戦いの後、傷ついた仲間を運ぶ第24大隊のメンバー。

朝鮮半島の戦地となった場所には、戦死したアメリカ兵の遺体が眠っています。
彼のつけていたヘルメット、ライフル、そしてベルト。

一時撤退後帰って来た時の目印です。

釜山にあるアメリカ人兵士の墓地、1951年。
二人の兵士が捧げ銃をする後ろで、朝鮮人の女の子が花輪を捧げています。

朝鮮戦争終結の条約は1953年7月27日に締結されました。
7月10日、条約締結の会議に向かう首脳部の車。

上写真はその時のメンバー。
下は人民解放軍と朝鮮人民軍からなる終戦締結の派遣団。

アメリカ代表のマーク・W・クラーク将軍が調印のサインを行なっています。

朝鮮戦争の終結を知らせるボストンヘラルド紙。

「 HALT」はドイツ語の「止まる」が語源で、「War halts」で「終戦」と表現しています。
「IKE」はアイゼンハワー将軍で、警戒を続けるために同盟を召集、とありますね。

戦争は終わりました。
となると次は捕虜を取り戻し生きて祖国に返すことが次の最大の目標です。

解放されたアメリカ軍の捕虜たちが、中国の志願護衛兵に守られて行進しています。

解放されたばかりで髭だらけの捕虜が、フライトナースとともに日本に向かうところ。
彼らが掲げている星条旗は、捕虜キャンプで手作りしたものだそうです。

朝鮮戦争で戦死したここフォールリバー出身者の名前を刻んでいます。

ここからは、壁面いっぱいに引き伸ばされていた慰霊室の写真をご覧ください。

第二次世界大戦時の艦隊でしょうか。

朝鮮戦争。
険しい山道を超えるため、皆でジープを押しています。

戦車の上に立って記念写真。

第二次大戦時の空母から爆装をして飛び立つ艦載機。

ヨーロッパ戦線で瓦礫の街を進む兵士たち。

コンソリデーテッドのBー24リベレーター。(と言っておこう)
B-24は日本の本土空襲も行なっていますので、もしかしたら雲の下に見えるのは・・。

 

砲弾を棒で装填している野戦中の兵隊たち。


メモリアルルームには、過去の戦争で戦死した人々の名前が全て、
最終的にはアルファベット順で管理されているものがこうして壁に記されています。


ここに立ち、

「一万三千人の名誉賞を受けた人々の名前に取り囲まれ」

るうち、この一人一人に名前とともに人生があり、
愛し愛されていた誰かがあったということを思わずにはいられませんでした。

 

「巡洋艦年鑑」〜重巡洋艦「フォールリバー」CA-131

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先日、デ・モイン級重巡「セーラム」についてお話しし終わったところですが、
ここバトルシップコーブのある市フォールリバーの名前をもつ重巡がありました。
ボルチモア級重巡洋艦の10番艦、

重巡洋艦「フォールリバー」CA-131

です。

以前も書いたように、完全な形で記念艦として残されている重巡は、
世界でも「セーラム」くらいだと思うのですが(もう一つあったかも)
戦艦、空母、巡洋艦は繋留する場所やそのために乗り越えなければいけない
諸事情(主に維持費)から、歴史艦として残すのが難しいものです。

「フォールリバー」も、1947年に除籍になり、それから長らく
どこかで繋留されてはいたようですが、1971年にスクラップにされました。


スクラップにする際、舳先のごく一部分だけを切り取って、
記念として翌年の1972年、ここバトルシップコーブに展示されています。

今日はその「フォールリバー」についてお話しします。

「フォールリバー」のキャッチフレーズは

「ファスト&フューリアス」「ノックアウトパンチをお届け」

どっしりした戦艦と俊敏な駆逐艦の間にあるのが巡洋艦です。
第二次世界大戦時の巡洋艦は、強力な火砲と並外れたスピードを兼ね添え、
あたかもサメのように敵船団に襲いかかりました。

巡洋艦は「クルーザー・ウェルフェア」(戦闘クルーザー)のあだ名にふさわしく、
百にも及ぶ銃身からの猛烈な攻撃力を誇り、
海軍軍人達にも「ライト・バトルシップ」と任じられていたのです。

「ボルチモア」級重巡「フォールリバー」は
第二次世界大戦時にデザインされた巡洋艦の傑作とも言われています。

 

1921年のワシントン軍縮条約では、各国海軍に巡洋艦の保有制限が設けられましたが、
日本はその際、米英に比べ不利な保有割合を強いられます。

1941年の真珠湾攻撃によりその条約批准の制限から解き放たれた造船業界は、
16,400トンの「ボルチモア」級、また27,000トンのもはやリバイアサンのような
巨大な「アラスカ」級の生産に入りました。

「疑う余地もなく『ボルチモア』級は海洋戦における最高峰であった」

ある海洋歴史家はこのように彼女らを評しています。

「フォールリバーでもっとも有名な市民」

として艦の説明とともに紹介されていたこの女性はだあれ?

彼女の名はリジー・ボーデン
両親を斧で殺した嫌疑をかけられるも、なぜか無罪になった女性です。

それにしてもなんで軍艦の解説にわざわざこんな人を取り上げるかね。

現地の説明を元に解説していきます。

1883年3月:議会は海軍最初の3隻の巡洋艦
   「アトランタ」「ボストン」「シカゴ」を承認した。
    アメリカの最初の鋼鉄の船であり、最新式の砲を備えていた

1890年:海軍の「ダイナマイト砲搭載巡洋艦」が就役
    口径15インチ3連装ダイナマイト砲1基を主兵装とした
    ダイナマイト砲巡洋艦「ヴェスヴィオス」(Vesuvius)
    火薬の代わりに圧縮空気が用いられた

1898年5月1日:米西戦争で名を知られることになった
    「オリンピック」艦長デューイ准将は、後に有名となる

    「きみの準備ができたら撃っていいぞ、グリッドレイ艦長」

     の言葉とともにスペイン太平洋艦隊に対する攻撃を開始
    約6時間の戦闘で、味方の被害は負傷者9名のみという大勝利だった

1904年:ルーズベルト大統領はモロッコで無法者に誘拐されたアメリカ国民を救出するため、 
   巡洋艦「ブルックリン」で海兵隊を派遣した
(この話は映画『風とライオン』のベースとなった)

1905年7月23日:海軍の英雄ジョン・ポール・ジョーンズの遺体が
   鉛製の棺の中からアルコールで防腐処理された姿で発見されたため、
   4隻の巡洋艦からなる艦隊でその遺体を持ち帰り、その後
   アメリカ海軍兵学校の礼拝堂に埋葬された

1910年11月4日:民間人ユージーン・イーリーはカーティス複葉機で 
   巡洋艦「バーミンガム」甲板から史上初の飛行機の離陸を行なった

1915年11月5日:ヘンリー・マスティン大尉が初めて動く船から
   カタパルトでの飛行機離陸に成功
   彼の名前は「マスティン」として海軍艦に残された

1918年7月19日:第一次世界大戦でドイツ海軍の潜水艦が仕掛けた 
   機雷に触雷し、巡洋艦「サンディエゴ」が沈没
   この大戦で沈んだ唯一のメジャーな軍艦であった 

 

全部翻訳してみて、この年表が「巡洋艦の主な事件年表」らしいことに気がつきました。

重巡「フォールリバー」CA-131は、1944年8月13日に進水を行いました。

フォールリバー市長の妻が出資者として進水式のシャンパンを割っています。
1945年7月1日といいますから終戦直前に就役し、
初代艦長デビッド_クロフォード大尉が1140名の士官と下士官兵を率いました。

この写真には

「しなやかな筋肉が乗艦!」

とタイトルがつけられ、セオドア・ルーズベルト大統領の

Speak softly and carry a big stick(穏やかに話し、大きな棒を運ぶ)

大口を叩かず、必要なときだけ力を振るう、というモットーを
真珠湾攻撃が変え、それは「フォールリバー」などの大鑑巨砲が体現する
「砲艦外交」へと国民を駆り立てずにはいられなかった、とあります。

うーん・・・何でもかんでも真珠湾のせいにしたいのはわかるけど、
もう少しそれまでに自分たちが散々日本に対して加えてきた圧迫や、
オレンジ計画なんかについても国民にもちっと説明するべきでは?

 

「フォールリバー」という都市の名前は、1800年初頭に
クェクェチャン河の滝にちなんでついたものです。

フォールリバー市民にとって「フォールリバー」は「我が街の船」。
市民はこぞって「フォールリバー」の設備を寄贈しました。
その結果、

ラジオーカメラ一体型プレーヤー

膨大な数の書籍

ジム用の運動器械各種、スポーツ用品

ゲーム各種

娯楽用映画設備と充実したプログラム

各種宗教の祭礼に必要なアドレス一覧

そして

ピアノ二台。

(この二台は、士官用と下士官兵用の部屋に公平に置かれたのでしょう)

おかげで「フォールリバー」乗員は、至れり尽くせりの設備の中で
何不自由ない艦隊勤務を行うことができたということです。 

彼女が就役したのは1945年のことですが、その前の巡洋艦年表をみてみましょう。

1942年8月8〜9日:日本海軍の三川軍一中将は「サボー・アイランドの戦い」
   でアメリカ海軍の歴史上最悪の敗戦を我が方に与えた
   これにより巡洋艦「アストリア」「ビンセンス」「クィンシー」(写真)
   が戦没

連合国が「ザ・バトル・オブ・サボーアイランド」と呼ぶ海戦は、
日本の「サボー沖海戦」ではなく、第一次ソロモン海戦です。

 

1942年11月13日:巡洋艦「ジュノー」は第三次ソロモン海戦の後
    伊26の攻撃により20秒で轟沈
    「ジュノー」にはサリヴァン家の五人兄弟が乗り込んでおり全員戦死
    以後アメリカ軍では、親類兄弟は分散配置することになった

しかし、何かあれば全員戦死の船にわざわざ5人兄弟を全部乗せるかね。
この海軍の決定は「プライヴェート・ライアン」に影響を与えています。

1943年1月29〜30日:6隻の巡洋艦がソロモンのレンネル沖で攻撃を受け
   このうちUSS「シカゴ」は魚雷を受けて沈没した

1945年7月29日:1196名の乗員のうちわずか317名しか助からなかった
   USS「インディアナポリス」艦長のチャールス・マクヴェイ三世は、    
   軍事裁判では無罪になったが、遺族からも責められ、退役してから
   その責任を取って自殺

ちなみに「インディアナポリス」を撃沈した伊号潜水艦の艦長橋本以行大佐は、
戦後の裁判でもマクヴェイを擁護する証言をしていたばかりか、
彼の名誉回復のために奔走したそうです。
2001年、クリントン政権において無罪が改めて証明され名誉回復がなされました。

 

続く。

海上自衛隊呉音楽隊 岡山ファミリーコンサート

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明日から連休という夜、わたしは晴れの国岡山に行っておりました。

この日に呉音楽隊が岡山でコンサートを行うということは
ある事情で企画の段階から知っており、この日はそれを聴くために
何が何でも!わたし的には岡山にいなくてはいけなかったのです。


その時には九月十五日というのが随分先のことのように思えましたが、
明日は岡山入りということをスケジュールでチェックしたとき、
改めて年月の経つのは早いものだと軽い驚愕を覚えずにいられませんでした。

場所は岡山シンフォニーホール。
6時半開演と、自衛隊のコンサートにしては始まりが遅い感じです。

そして、2時間後、わたしを含め会場に訪れた観衆のほとんどが
心ゆくまでブラスの響きを楽しみ、そして何より自衛隊を以前より一層好きになって、
幸せな気持ちで帰路に着いたのではないかと思うのです。

このコンサートは同じプログラムで今日18日にも呉で行われる予定なのですが、
いくら言葉で説明しても、百文は一聴に如かず。
実際に聴くときの驚きは当ブログを読んだくらいで損なわれることはありませんので
呉でのコンサートに行く予定の方は安心して本文を予告編のつもりでお読みください。

 

第1部 ゲームミュージック・オン・ブラス

ドラクエがスーパーマリオと人気を二分していた頃、在京オケの木管メンバーの
気軽なポップスコンサートのために、何曲かを編曲したことがあります。

「ドラゴンクエスト・コンサート」などもよく企画された頃ですが、
自衛隊の音楽隊がこれだけ真正面からゲーム音楽に取り組んだコンサートは
寡聞にして聴いたことがありません。

後半、自衛隊アピールを兼ねて(というかこちらが目的?)ご挨拶にステージに上がった
呉地方総監の池海将が、隊長である野澤健二一尉に、

「今までこんなコンサートしたことはありますか」

と聴いたとき、隊長はやはり「ない」とおっしゃっていたのでやはり珍しいのでしょう。

【ドラゴンクエスト I 「序曲」】

【モンスターハンター「英雄の証」】

【スーパーマリオブラザーズ】

【ファイナルファンタジー】

前半ではなんとこの全部を

【グランブルーファンタジー「メインテーマ」】

を挟んで全曲、前半にガッツリと演奏したのです。
モンスターハンターの「英雄の証」は音楽まつりでも聴いたことがありますが、
そのほかはよく知っている曲でありながら、こうやってまともに聴くのは初めて。

いやーしかしねえ。
今やゲームが「日本文化」であることは、リオで安倍首相がスーパーマリオになる前から
世界の共通概念となっていることに疑いを挟む余地はないと思われるのですが、
ゲーム付随音楽、ある意味これも独自の立派な日本文化であることよなあ、と、
これらの作品群に共通する、

「日本人にしか作れないメロディ」

を聴きながらわたしは一人で心の中で頷いておりました。

誰にでも理解できる平易さという意味での敷居の低さを持ちながら、
ゲームの世界観を見事に表すこれらの音楽は、例外なく
高い音楽技術に支えられた立派な大衆芸術としての確固たる位置を占めています。

そして何より聴いていて楽しいのです。

 

昔ウィーンフィルの東京公演で、同フィルと関係の深いニーノ・ロータの曲が
前半を費やして演奏されたことがあるのですが、休憩時間ロビーに現れた人の中には
明らかに

「映画音楽を聴くためにウィーンフィルのコンサートに来たのではない」

という不満げな顔をしているのがいて、実際にそんな声も耳にしました。

音楽に関しては井上大将と同じ「ラジカルリベラリスト」であるわたしなどは、
その時も、いい演奏でいい曲が聴けたんだから別にいいじゃん、
と思うだけでしたが、やはりお金を取るプロオケには、聴衆の求めるものも

「ベートーヴェンやマーラーなどの(いわゆる)高尚な古典作品」

が中心になってしまうのは致し方ないことだと思います。

その点、自衛隊はその呪縛から解き放たれている特殊なプロフェッショナル音楽隊です。
なぜなら自衛隊音楽隊の大きな位置を占めている存在意義とは

「自衛隊の広報活動」

であるのですから、お堅いクラシックファンが嫌う「ポピュリズム」も
厭わぬどころか(自衛隊だけに)武器にしてしまうわけです。
という意味で、当夜の選曲、特に前半のゲーム音楽は、自衛隊員募集の目的に照らし、
実に観衆のツボを押さえたというか、(自衛隊だけに)戦略的ですらありました。


聴いていて楽しく、さらに会場の多くの世代にアピールするゲーム音楽。
ほとんどの人たちがなんらかの形でゲームを知っているなら当然です。

ステージで池海将は、ご自身と同年代であるらしい隊長に、

「ゲーム(なんて)やったことありませんよね?」

とお互いがそうであることを確かめておられましたが、それは池海将や隊長が
ゲーム全盛期にそんなことをやっている場合ではなかっただけ(多分)でしょう。

「スーパーマリオブラザーズ」は1985年、「ドラゴンクエスト」Iの発売は1986年、
すでに30年以上前から「ゲーム世代」は始まっているのですから。

 

また、これらのゲームは基本「戦闘」という要素が入ってくるので、
曲調は戦闘シーンや、戦いの覚悟を秘めたような勇壮なものになりますが、
何しろ演奏しているのが「戦いの本家」自衛隊であるとこちらが思い入れるせいか、
聞いていてテンションがやたら上がります。

野澤隊長も、要所要所での「魅せ方」を心得ていて、

「おおっ、かっこええ」

と思わず目を奪われる指揮ぶりでゲームの世界観を体を張って?表現していました。

また、コミカルな「スーパーマリオブラザーズ」は
クラリネットの小アンサンブルで行われました。
二人のクラリネット奏者が赤と緑のマリオ帽(どこで売ってるのこれ)を被り、
ステージの両袖をマリオのような動きをしながら出たり入ったりして、
クラリネットでゲーム音を表す、という楽しい演出もありました。


第2部 ポップス・ステージ

なんども言いますが、本日のコンサートの大きな目的は
岡山における自衛隊の宣伝、もっとぶっちゃけると「自衛官募集」、
つまり自衛隊に興味と親しみを持ってもらうことに他なりません。

その目的にあくまでも忠実に、ゲームミュージックで満場を惹きつけた後も、
いろんな仕掛けを繰り出して、聴衆を飽きさせることはありませんでした。

【ディズニー・コンサート・オープナー】

第二部が始まってもステージには誰もいません。
すると、客席扉から、まず打楽器群がリズムを打ちながら入場してきます。

この打楽器の奏者の中に、東京音楽隊で華麗なドラムを披露していた方に
そっくりな人がいたので、トラかな?と思ったのですが、どうやら
1曹に昇進してこちらに転勤になられたようでした。

ステージに打楽器が辿り着くと音楽はディズニーミュージックのメドレーとなり

「美女と野獣」「星に願いを」「ミッキーマウスマーチ」

などを楽器ごとにワンフレーズずつ演奏しながら席に着くという具合。
「オープナー」と言いつつ、「ウォーマー」の効果もあったようで、
これですっかり会場は盛り上がりました。


【アイ・ガット・リズム】

ガーシュインのスタンダードナンバーをクラリネットソロをフィーチャーして。

まず導入部が「ラプソディ・イン・ブルー」の雰囲気から
4ビートのコーラスに移るという心憎いアレンジです。

ソロをとったクラリネット奏者は、カデンツァでもちょっと
「ラプソディインブルー」を入れこみ、そのあとはクラリネットらしく
縦横無尽天衣無縫に駆け巡っていたと思ったらいきなりトーンダウンして、

♪「ソーラソソミ ソソミドレ〜 ドドレレミミレ〜ミミララソ〜」(移動ド)

あー、そういえばここは桃太郎さんの国でした。
いわゆる一つのご当地サービスってやつですか。

ところで、呉地方総監のパンフレットに記されたご挨拶によると、

呉音楽隊が岡山でコンサートを開催するのは平成19年以来となります。
10年前の平成19年といえば、防衛庁が防衛省として新たなスタートを切った年であり、
十年一昔の感がありますが、10年ぶりに岡山にて演奏できるのは、(略)

なんと、そんな長い間コンサートが行われることがなかったということらしいです。
なんでも岡山は神戸と呉の間、つまり両海自基地の間の「隙間」というか、
正直なところあまり存在感が発揮されていないお土地柄であったため、
今回のコンサートによってプレゼンスを高めようと、まあこういう狙いがあったのです。

このほかにも、隊員紹介の時に確かバスクラの女性が

「岡山出身です!」

とアピールするなど、地元アピールは随所に見られました。

 

【サマータイム】【フライミートゥーザムーン】

ここで横須賀音楽隊の中川麻梨子士長が登場し、歌を聴かせてくれました。
どちらもスタンダードナンバーで、英語での歌唱です。

「サマータイム」の前奏が流れた時、こんな低いキーで歌うの?と訝っていたら、
なんと歌い出したのはその1オクターブ上だったのでびっくりしました。

中川さんの歌はクラシックの本格的なアリアとか、日本の歌曲で
特にその本領を発揮する、と密かに思っているのですが、この日は
コンサートの目的通り、親しみやすさと耳なじみのいいポップスが選ばれたようです。

本日の演奏には、まさに岡山県出身である東京音楽隊の歌手、
三宅由香莉三曹を起用することを呉地方総監部では考えていたのですが、
翌日、東京音楽隊は演奏会を控えており(こちらもわたしは行ったんですけどね)
スケジュール的に無理という事情があったようでした。

今日の中川士長はアンコールの「夕焼け小焼け」が特に素晴らしかったです。
そしてわたしはこの「夕焼け小焼け」をアレンジした人のセンスにも脱帽しました。

こういう代理和音の使い方に弱いんですよね。わたし。


【ジャパニーズ・グラフティXX〜小林亜星作品集】

読んで字のごとく、小林亜星の作品をメドレーで繋いだもの。
曲が変わるたびに二人の自衛官が曲名を書いたボードを見せてくれますが、
教えてもらう必要もないくらい有名な曲ばかりで、この曲も小林亜星だったのか!
とむしろそちらに驚きました。

ざっと覚えているのを順不同で挙げると、

「ファミリーマート」

「魔法使いサリー」

「ひみつのアッコちゃん」

「ブリジストン・どこまでも行こう」

「北の宿から」

「この木なんの木」

「積水ハウス」

特に「積水ハウス」のアレンジが無駄に壮大で感動的だったことが、
個人的にはものすごくウケて心の中で大笑いしてしまいました。

 

【恋】

4名の若い隊員男2女2が「恋ダンス」を披露。
最後にいつのまにか50代の隊長が加わり、若いもんには負けへんでー!
なキレッキレのダンスを見せてくれて、観衆大喜び。

隊長若いよ隊長。

【ジェラート・コン・カフェ】

 

真島俊夫氏のラテンな曲を真面目にやって本日の演奏の締めとなりました。

そして、アンコールの「夕焼け小焼け」の後、「軍艦行進曲」となり、
いつものように聴衆の拍子を取る拍手が始まったのですが、
Bメロと中間部の「海行かば水漬く屍」の歌詞の部分、(トリオと言います)
ここで指揮者の野澤隊長が振り返って

「お静かに!」

みたいに客席に指示をしたのが個人的には大受けでした。
また「守るも攻むるも」に戻ったら、

「はい元気よく拍手〜!」

の指示。
すっかり客席の皆も演奏に参加している気分です。

従来の自衛隊コンサートでは、「軍艦」が終わればもう演奏は終わり、
という原則を堅く守り、拍手が鳴り止まなくてもそこでステージから去るのですが、
今回だけは違いました。

 

なんと、軍艦の後、ドラムがリズムを刻み、全隊員がステージから降りて
客席に挨拶しながら後方へと退場していったのです。
近くを通った隊員に皆が手を振り、声をかけ・・・、
これは一層親しみが湧くなあ、とこの演出に感心しました。

しかもそれだけに終わらず、全隊員がロビーでファンサービス。
野澤隊長と中川麻梨子士長は大人気です。

向こうでは呉地方総監夫妻がご挨拶。

いつも脚をクロスして演奏するスタイルが素敵なコンマスの写真も、
こっそり撮らせていただきました。(こっち見てるけど)


この日演奏会に来られた岡山の人々の心に、呉音楽隊の演奏によって
自衛隊に対する好感と興味が生まれ、

あ わ よ く ば

ここから自衛官の応募という呉地方総監部の悲願に繋がりますように。

 

続く。(えっ)

 

 

海上自衛隊東京音楽隊 第56回定例演奏会 @ 昭和女子大 人見記念講堂

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続く、と前回終わったのは、呉音楽隊の演奏を岡山で聴いた翌日、
他でもない東京音楽隊の定期演奏会に突撃してきたからでした。

今日は東京音楽隊のコンサートについてお話しするのですが、
その前に、今日の呉でのコンサートについて少しお話ししておくと、

●岡山で「桃太郎さん」を入れて皆を喜ばせたガーシュインの曲の
クラリネットのソロが、今日は「パリのアメリカ人」を入れてきた

●今日は呉だったので、アンコールは「赤とんぼ」ではなく、まさかの
呉ー市ー GONNA 呉ー市ーだった

PVに出ていたダンスの人二人と呉氏が踊りまくり、
あの歌を中川麻梨子士長が歌い、ラップの部分をチューバ奏者が!

あとで地方総監部の方から聞いたのですが、呉氏には
「子供バージョン」があって、小さい呉氏がいるんだとか。

●横須賀音楽隊からトラでアルトサックスの「薫」くんがきていた

●恋ダンスは夏頃からの呉音楽隊のレパートリーだった!

キレッキレ自衛官の恋ダンス!まさかの指揮者も!呉音楽隊・阪神基地サマーフェスタ2017


つまり、私は

金曜夜 岡山 呉音楽隊

土曜昼 東京 東京音楽隊

月曜昼 呉 呉音楽隊

という音楽隊づくしのシルバーウィークを過ごしたことになります。


空港から連休中で激混みの湾岸線を経由して、世田谷区まで。
住所は太子堂、つまり先日の陸自衛生学校と同じ場所ではないですか。

(えー、陸自衛生学校の記事が突然消えたので、不審に思われた方、
その理由はおそらく皆様のご想像の通りです。
各欄にコメントもたくさんいただいていたのにすみません)

それこそ道を挟んで衛生学校&中央病院の隣にある昭和女子大学の
キャンパスには、このような立派な人見記念講堂というホールがありました。

いつもはコンサートホールで行われるのに、はて?

この理由は、最後まで演奏会を聴いていたらわかりました。

学校の正門を入っていくと

「トルストイ研究会」

の集まりがあるというのでトルストイねえ、と不思議に思いながら
講堂の前に行ってみると、ここにもトルストイ像が。

なんでも、創立者の人見夫妻がトルストイの考えに共鳴し、

「人と人、自然と人間との調和に最大の価値を求め、
平和を愛し、仲間を大切にし、労働をいとわない」

これらを建学の精神にしているところからだそうです。

内部は実に昭和な感じのホールですが、コイン式のピンク電話があったのでびっくり。
カードも使えない電話なんて、なん年ぶりに見るでしょうか。

指定されたチケットの席は、二階席でした。
ここで三日前に東京地本に表敬訪問したばかりの陸将補殿や、
元海将にお会いしたので、どうやら周りは全部自衛隊関係の招待者のようでした。

まずびっくりしたのは、最初の演目が

【行進曲 軍艦】

であったこと。
この段階でわたしは、エンディングとアンコールに「何か」をするつもりなんだな、
と鋭く(もないか)察知してしまったわけですが、それは正しかったことが
後になってわかります。

しかし、この変速のおかげで、ほぼ初めて「拍手なし」の軍艦を聴くことができました。

「軍艦」を聴くと、わたしはかつて帝国海軍軍人たちが、これと寸分違わぬ
同じ調べを聴いていたということについて思いを馳せずにはいられません。

本日のコンサートのサブタイトルは

「多彩なゲストとともに」

というものですが、いきなり大物キタ〜♪───O(≧∇≦)O────♪
元祖三人娘の最後の一人、雪村いづみさん。

【テネシーワルツ】【スワニー】

いずれの曲も、オールドファンならずともジャズファンなら誰でも知っているナンバー。
半テンポくらい遅らせて、伴奏を追いかけるようなメロディの取り方が、
いかにもあの時代全盛期だった歌手らしい歌唱で、わたしなど内心

「このハラハラ感がたまらんわー」

とその点に関してだけは、個人的好みから、わずかなストレスを感じつつも、
さすがの大ベテラン、半世紀は優に超える現役生活に培われた
見事なステージングと、全く衰えていない声量には圧倒されました。

ブルーのロングドレスにハイヒールで颯爽と背筋を伸ばして歩き、演奏が終わってから
樋口隊長に手を差し伸べる様子は、もはや女王の貫禄です。
(樋口隊長にはできれば二人でダンスをし、さらには手に恭しくキスをして欲しかった)

念のために調べてみて、彼女が80歳であったことを知り、心の底から驚きました。

平原、という名前でもしや、と思ったのですが、やはり平原綾香さんのパパだそうです。

【ハート】

平原まこと&たわらもと吹奏楽団

♪ ソラドソミ〜  ソラドソミ〜 レーラ ミ〜(移動ド)

というテーマが美しい、平原さんのオリジナル。
平原さんは先ほどの雪村いづみさんから、

「江利チエミさんのものだったムラマツのフルート」

というのを貰い受け、ここで披露していました。
1950年代の、ムラマツの創始者村松氏が作ったのではないかというくらい
古い楽器で、製造番号は2000番代。

今の楽器の製造番号はもう5万台ではないかということです。
実はわたしもムラマツのフルートを実家に持っているのですが、
今度製造番号見てみようっと。

【ミラージュIV 】真島俊夫

つい最近この名前をタイプしたなと思ったら昨日でした。
呉音楽隊の演奏した「ジェラート・コン・カフェ」の作曲者です。

海自音楽隊で河邉一彦隊長時代に演奏しているものがあるので貼っておきます。

全体的に見て、この曲が後半の「魔法使いの弟子」と並んで、今回の東音が
「課題」として取り組んだ曲なのかなと思われました。

同リーズで、真島氏はジャズ・イディオムをシンフォニックな響きで表現する、
という試みを行なっています。
この曲も、テーマは16ビートやスウィングなどに乗せて展開されていきます。

この曲を海上自衛隊が好んで演奏している理由は、中間部が
静かで広大な海を表現しているからだと思ったのですが、どうでしょうか。

 

【ファンタズミック!】

 

息子とほぼ二ヶ月おきにディズニーシーに行っていたころが
音楽によって走馬灯のように駆け巡りました。

呉音楽隊の第二部の幕開けもディズニーのメドレーで始まりましたが、
東京音楽隊のこの日のコンサートは、ディズニーシーのメデティレーニアン・ハーバーで
毎夜行われるショウの音楽、「ファンタズミック!」で後半の幕を開けました。

わたしも息子も前のショウ「ブラビッシーモ!」が好きすぎて(笑)
新しくなってからほとんどかぶりつきで見たことがありませんが、
ディズニーの音楽はどれも基本よくできてるなあといつも感動します。

今回のコンサートのパンフで、これを作曲したのが

B.ヒーリー

という人であることだけはわかりました。
ディズニー・ファンティリュージョンなども作曲しているようですね。

【「交響詩 魔法使いの弟子」P.デュカス】

先生である魔法使いが、留守の間に覚えたての魔法を使って楽をしようとしたら、
箒が水をどんどん組んでくるのを弟子は止めることができなくなった、という話を
そのまま表現した典型的な標題音楽で、これもディズニーの

「ファンタジア」

で、ミッキーマウスが魔法使いの弟子になって出演?しました。

もちろん自衛隊音楽隊で演奏するには、交響詩であるスコアを
ブラスバンドに編曲しないといけないわけですが、この曲に関しては
ブラスでの演奏が非常に合っているせいか、高校のブラスバンドでも
しばしば演奏されています。

 

さて、このあたりで、そろそろあの歌声が聴きたいものだ、
と思った方も会場には多かったでしょう。

【愛は花、君はその種子】

ベット・ミドラーの「ローズ」で彼女が歌った「ザ・ローズ」。

そのメロディに、「おもひでぽろぽろ」の監督、高畑勲氏が
ほぼ原詩に忠実に翻訳した歌詞をつけ、都はるみが歌ったものです。

これを歌手の三宅由佳莉三曹が歌いました。

中低音でのビブラートの幅が大きく触れ気味なのが個人的には残念でしたが、
この曲のシンプルでピュアなメロディに潜む力強さを汲み取り、
英語の原詩に見られる一種の「激しさ」もちゃんと表現されていたと思います。



さて、ここから、大変珍しく興味深い試みが行われました。
つまり、この演奏会場の元々の住人である昭和女子大付属昭和中学校、
昭和高等学校の吹奏楽部と東京音楽隊の共演です。

【宝島】

 

およそ日本の中高ブラスバンド部でこの曲をやったことがない&知らないという人は
皆無であろうと思われるブラバン界の名曲中の名曲。この曲も真島作品です。

自衛隊と共演するということになったとき、中高生ブラス部が
これまで何度となくやっているという理由で選曲されたのでしょう。

そして、隊員も皆、彼らの学校時代を思い出しながら、
心の底から楽しんで演奏していたに違いありません。

中高生にとってはトロンボーンとトランペットが特に大変な曲だそうですが、
余裕でこなしてしまうお兄さんお姉さんの横で演奏した経験は、
彼女らにとっても大変な宝島、じゃなくて宝物になったのではないでしょうか。

そう、これがきっかけで自衛隊音楽隊に入りたい、と思う子もいたかも?


【君をのせて〜天空の城ラピュタより】

昭和関係者の出演はブラバンだけではありませんでした。
なんと、ステージの端から制服の合唱部が登場し、

「地球〜はま〜わ〜る〜」

とこの有名な曲を歌ったのですが、その中に
・・・引率の先生?それとも歌のお姉さん?

いえ、三宅三曹その人が加わって、女子ズと一緒に歌ってくれたのです。

その微笑ましくも美しい演奏に、思わずニコニコしてしまいました。

 

そして最後に、本当の本当に全員合同で

【小さな世界〜It's A Small World】

このステージに全員の椅子を乗せることができないので、
演奏はなんと、立って行われました。

ディズニーランドの「世界一幸せな船旅」、イッツアスモールワールド。
このようにわざわざ「船旅」と断るのも、海上自衛隊のコンサートならではです。

普通のざっと二倍のブラスによる演奏は音量も見た目も迫力十分でした。

そこで、どうして最初に「軍艦」をやらねばならなかったのかがわかったのですが、
こうやって合同で行うことによって、大学の講堂を使うこともでき、
さらには生徒自身や彼女らのの父兄や友人といった、今まで東京音楽隊に
全く馴染みがなかった層に自衛隊のアピールもできるというメリットが加わり、
一石二鳥、三鳥にもなったということのようです。(よね)

ついでにいうと、「小さな世界」の前には

【昭和女子大学付属昭和中学校、昭和高等学校校歌】

が合同で演奏され、それを同校の顧問の先生が指揮したのですが、
これも会場をお借りしたことに敬意を払っての計らいだと思われます。

 

さて、こうして4日間に二つの音楽隊の演奏を三回聴くことになったわけですが、
東京音楽隊、呉音楽隊、どちらの音楽隊にも共通するのは
わたしたち聴衆をいかにしていい意味で驚かせ、楽しませようかと
センスのいい中の人たちが一生懸命になって企画を練った結果、
そのパフォーマンスは、一般のプロオケ(ブラスバンドのプロも含む)とは異なる、

「自衛隊音楽隊の演奏会」

というカテゴリの、独特なエンターテインメント世界となっているということです。

その集大成は秋の音楽まつりということになろうと思いますが、
のみならず、彼らの真摯な研鑽の成果である音に、日本に住んでいるわたしたちは、
いつでも簡単に、そして驚くほど気軽に浴することができるというわけです。

知れば知るほど、音楽を愛する者としてその存在に感謝せずにはいられません。
ありがとう、自衛隊音楽隊。

と改めて言いたくなるほど充実した「音楽隊ウィーク」でした。

 

 

 

 

クロスロード作戦と「ボルチモア」級重巡洋艦

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艦首部分だけが残されている重巡洋艦「フォールリバー」の説明から、
巡洋艦の歴史について合わせてご紹介してきました。

ここでもう一度「フォールリバー」についてお話ししておきます。

すこし小さくて見にくいですが、要所に番号が振ってあります。

1)木製のデッキ

第二次世界大戦中の戦艦や巡洋艦は、いくつかの箇所が木で覆われていました。
その理由としては

●火花の防止:デッキがなぜ木製かというと、弾薬などの積み込み&積み卸しの際に
    火花が発生しにくいから。特に火薬バッグなどは火花厳禁である。

●安全性 :滑り止めのようなもので覆わないスティールの床は濡れると滑って危険。
    木のデッキなら洗った後も潮に洗われても大丈夫。

●断熱効果:木製デッキでない巡洋艦はこの理由で暑い南方の任務に就けなかった。

●伝統の発現:木製のデッキは「木船」海軍の伝統の継承であり、堂々とした主力艦の証

というわけで、デッキに座り込んで手入れをする水兵たち。
我が帝国海軍でも、ソーフ(雑巾)を持ってかがみこみ、
「回れ回れ」と言われながらデッキを綺麗にしたもんですよ。
見たことはありませんが。

自衛隊ではさすがにデッキモップで掃除してるみたいです。

 

2)フローター・ネット

救命ボートの後ろに設置してあるフローターネットとは?
万が一総員退艦の事態になった時、乗員は一刻も早く救命道具にたどり着く必要があります。
救命ボートは当時扱いにくくクレーンで海上に降ろさなくてはいけませんでした。
(現在では自動で海に落とし展開するボートが主流)

重量のある救命ボートや展開式のフロートは、収納場所にも限りがある上、
対空武装を増強したため、いざという時に数が足りないことがわかったので、
このフローターネットが装備されることになったのです。

フローターネットは浮きを付けたメタルのバスケットで、収納場所を大幅に節約でき、
いざという時には海に放り込むだけでボートになってくれます。

ただしこれ、乗ってる人濡れるよね?

3)ボフォース重砲

効果的な対空武装として、ボフォース40ミリ機関砲が搭載されました。
スェーデンのボフォース社製で大戦中最も普及した対空砲です。
というだけあってバトルシップコーブで最も多く見られ、
戦艦「マサチューセッツ」駆逐艦「ケネディ」、潜水艦「ライオンフィッシュ」、
そしてPTボートの617と796どちらにも搭載されています。

12トンの銃座には基本11人のクルーを砲術長が率いました。

 

4)メイン&セカンダリーバッテリー

「ボルチモア」クラスは艦尾に5インチ連装砲を搭載した最初の巡洋艦です。
ただし、1920年代から5インチ砲は巡洋艦のメインに用いられてきました。

メインバッテリー:
「フォールリバー」は三連装の8インチ砲を9基搭載していました。
固定しない発射体を火薬袋と共に用いるもので、同クラスの船や
陸地攻撃のためにちょうど良い高さのプラットホームとなりました。

セカンダリー・バッテリー:
水平線や対空攻撃のためにデザインされた5インチ38口径二連装銃は、
第二次世界大戦中の艦隊において多用されました。
発火した発射体が目標の的にに接近したとき、その先端に埋められた
ミニチュア・ラジオトランシーバが弾頭を爆発させる、というのが
当時注目すべき革新的な点でした。

5)機雷と防雷具

「今回”は”足の上に落とすなよ?いいか?」

などとしょうもないことを言っている人は無視してください。

機雷は、船との間接的にも非間接的な接触に対しても有効となる静的な武器です。
水面下で、または水面で「戦略的な距離を保って」浮かせるだけで、
ほとんど目に見えず、しかしながら絶大な効果を発揮することから、
敵に対し心理的にも大変な効果を与えることができるのです。

機雷原と目される海域を航行するとき、乗組員たちは
防雷具を曳き、機雷を掃海しながら進む必要がありました。

防雷具の曳き船用の綱が機雷の綱ケーブルを引っ掛けると、
ケーブルは防雷具の切削ヘッドの方へすべり、そして、機雷は切り離されます。

これを銃などで爆発させて処理するのを「機雷掃討」と言い掃海隊のお仕事です。

6)アンカー

「俺が時計をなくした時にはここまで大騒ぎにならなかったよ!」

と嘆く水兵さん。
「フォールリバー」の姉妹船「ピッツバーグ」が沖縄侵攻の際台風に遭い、
艦首を落としてしまった後、錨を見つけ引き上げるところ。

んー、確かに時計をなくすよりはおおごとになっている気がする。

ピッツバーグは台風で130km / hの風速と高さ30mの波と7時間戦い、
艦首をもぎ取られましたが、人員に被害はありませんでした。

まあ、日本人として言わせてもらえば、台風シーズンに沖縄をウロウロしていたバチですな。

彼女がグアムに時速11キロでよたよたとたどり着いた後、
「McKeesport」(ピッツバーグの郊外)と名づけられた艦首が見つかり、
曳船で引っ張ってグアムに持ち込まれました。

調査の結果、フォアリバーでの艦首の溶接が甘かったことがわかったそうです。 

写真は艦首が見つかり、錨を回収しているところです。
当時戦艦、巡洋艦クラスの巨大艦に装備されていた「ダンフォース型」錨です。

シャフトと二つの突起から成り、俗に'Flukes'(まぐれ)と呼ばれていました。

7)蒸留器

ここで、事情を知らない方にははて?と首をかしげるかもしれませんが、
とりあえず現地の説明をそのまま翻訳します。

「フォールリバー」は海水を吸い上げ、蒸気ボイラで濾過して
飲料水を作ることのできる蒸留器を搭載していました。

問題のある、しかし見た目は全くわからない海水を
盛大に組み上げて飲料用としていたのです。

軍のプランナーは綿密に原子爆弾の爆発性影響の備えを行いました。
しかし、彼らは放射性物質が何兆ガロンの海水も汚す、しかも
長期的な影響を予測することを怠りました。

放射能汚染が自然に解消するのには何年もかかるのですが、
おそらくそれまでに船は退艦しているでしょう。

 

・・・これは、どういうこと?

はい、これでございます。
「クロスロード作戦」ってご存知でしたか?

我々日本人にはビキニ環礁核実験の方がわかりやすいかと思いますが、
アメリカは1946年に「エイブル」「ベイカー」として二回核実験を行い、
これらを総称して「クロスロード作戦」と言います。

このキングスライムみたいなのは「ベイカー」実験の方で、
我が帝国海軍の戦艦「長門」が標的艦の一つになったことで有名です。

で、「フォールリバー」の経歴を見ると、「クロスロード作戦に参加」
とありますが、実際に彼らが現場で何をしていたのかはあまり記述されていません。


それにしてもこの写真、すごいですね。
爆発の次の瞬間で、まだ海面には泡に引き込まれる前の軍艦が多数姿を確認でき、
泡の表面を駆け上るかのように吸い込まれる艦が一隻見えます。

ちなみに「長門」が沈んだのは実験の四日後でした。


ところで「クロスロード作戦」のアメリカの目的はなんだったのでしょうか。

日本に原子爆弾を落とし、敗戦後の日本に乗り込んで都市部へのその
貴重な「実験結果」のデータを収集することができたものの、
艦艇、飛行機、そして軍設備(軍港)に対する原水爆の効果については
信頼できるデータがなかったから。

というのが実験に踏み切った表向きの理由ですが、まあ本当のところは
戦争に勝った余勢をかってやりたい放題だった、というのと、
あとは「次の敵」と目されるソ連への威嚇というところでしょうな。


実験に際しては参加機動部隊が構成されました。
90隻もの艦艇がターゲットとして集められ、その中には最も古いアメリカの
主力艦も含まれており、三隻のドイツ艦、日本艦、駆逐艦、戦艦、潜水艦、
(いくつかは浮かべ、いくつかは潜行した状態で置かれた)輸送艦、
揚陸艦、コンクリートバージ、浮きドックまでもが対象になりました。

標的艦は燃料を搭載、つまり「リアルなコンディション」で置かれました。

新聞報道には、このように爆発の瞬間が記載されています。

「”マッシュルーム”が突然頂上で壊れ、雲の色が変化した。
2〜3分の間、それは巨大なアイスクリームコーンのように見え、
完全な白色へと変わっていった。
それはあたかも浮遊するホイップクリームの層のように見えた。

次に色はピーチとクリーム色に変化した。
30分後雲は太った『Z』の形となり、1時間後雲はかき回され、
まるで幼い少年の夢の中の巨大なドラゴンのようになった」

 

さて、「巡洋艦年表」の残りをを最後まで続けましょう。

1950年7月2日:

朝鮮戦争の期間中、2隻の英国艦船とともに
軽巡洋艦「ジュノー」が三隻の敵魚雷ボートを撃沈

この「ジュノー」は第三次ソロモン海戦で沈んだ巡洋艦ではなく、その後継艦です。

1958年5月28日:

ミサイル巡洋艦USS「ガルヴェストン」は、TALOS 対艦ミサイルを初めて搭載

RIM-8 タロス (Talos) は長距離艦対空ミサイル。
照準線ビームライディング誘導方式を採用し、通常の固体燃料によるロケットと、
ベンディックス製のラムジェットエンジンを使用しています。

Talos(タロス)とは、ギリシア神話に登場する青銅の巨人の名前。

1965年4月17日:

巡洋艦「キャンベラ」は衛星通信を初めて行った海軍の艦船になった

1975年11月22日:

巡洋艦「ベルナップ」はシチリア沖で、空母「ジョン・F・ケネディ」と衝突
この事故で、ベルナップ側で7名、ケネディ側で1名が死亡し、ベルナップ側には火災が発生


2010+:

未来 CG(X)プログラムは巡洋艦の形を変えた能力も向上し、
乗員数も大幅に少なくなる



「ボルチモア」級のあだ名は「太平洋の誇り」だったといいます。
「フォールリバー」は14隻の「ボルチモア」級の10番艦で、
それまでに建造された中で、最大級の重巡洋艦でした。 「クリーブランド」級をさらに大きくしたもので、実際にそれらは
戦艦「マサチューセッツ」よりわずか5フィート短いだけでした。   「ボルチモア」級重巡の第二次世界大戦の投入は少し遅きに失したのですが、
対空砲は、特攻に限定したおかげで随分と充実したものになりました。
戦後海軍は、『ボストン』と『キャンベラ』2隻の重巡の艦尾のターレットを外して、
世界初のミサイル巡洋艦へと変換を行っています。

その後冷戦に向けて「シカゴ「コロンブス」も同じく、
「テリア」「タロス」、そしてアスロックを含むハイテク武器に換装されました。  
その後40年にわたってその形が継承されることになった名作「ボルチモア」級。
彼女らは史上一隻も戦闘による沈没はしていません。                

USS「ミッドウェイ」博物館〜ミッドウェイ海戦

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今まで他のことばかりお話ししてきたため、一年経ってしまいましたが、
実は去年の夏、サンディエゴに行ったついでに「ミッドウェイ」の見学をしました。

TOが留学した大学の同窓会のツテで、来日時に観光案内をしてあげたのが縁で
知り合った老年カップル、ジムとジョアンナ(仮名)から、
サンディエゴに来た時にはぜひ泊まりに来てくれと言われていたので、
お言葉に甘えて押しかけ、自慢の丘の上のプール付き豪邸に数泊したのです。

前もって彼らに、サンディエゴに行くならぜひミッドウェイを見たい、
と希望を言っておいたら、ジョアンナはチケットを予約して連れて言ってくれ、
三日目の朝食にはかつて横須賀に駐在武官として赴任していた元海軍軍人
(ちなみに潜水艦出身)を招待して話を聞かせてくれるという歓待ぶりでした。


「ミッドウェイ」にはジョアンナ(推定年齢68)が連れて行ってくれたのですが、
艦内の狭いところを歩いたり階段を上り下りするうち、彼女電池が切れてきました。

見るからにしんどそうなので、デッキ階とその下を見たところで

「今日はこのへんで終わりにしましょうか」

と気遣うと、ホッとした様子で

「本当?もうこの辺でいいかしら」

「大丈夫ですよ。またくればいいですから」

顔で笑って心の中で泣きながら途中で引き上げたのでした。

 

今年はロス近郊の大学をいくつか見学するという用事があったので、
中2日をサンディエゴ訪問に充て、いつでも見に行くことができるよう
「ミッドウェイ」のある岸壁から歩いて5分のホテルを予約し、
スケジュールの合間を縫って、一人で思いっきり見学をしてきました。

というわけで、去年見残したその残りと甲板の見学を果たしたわたしとしては
ここに満を持してミッドウェイシリーズを始めたいと思います。

それではぼちぼちと参りましょう。

「ミッドウェイ」は西海岸でもっとも人が集まる旧軍艦の展示でしょう。
同じ西海岸の「ホーネット」、ニューヨークの「イントレピッド」に続き、
わたしが見学するアメリカの三つめの(そして最後の)空母となります。

展示してある岸壁の前面は一応駐車場となっていますが、わたしたちは
前まで車で送ってもらいました。

チケットブースの手前には、かつてのミッドウェイの勇姿、
そして「親指立てる人」「甲板の管制員」のカラー&白黒今昔二態。

チケットはジョアンナがインターネットで予約してくれていました。
まず階段を昇り、ハンガーデッキの階から艦内に入って行きます。

赤いボートが宙づりになっていますが、何かの作業用らしく、
今年はもう左の工事現場もボートもなかったような気がします。

同じ場所からみた右側。

ハンガーデッキから甲板に航空機を上げ下げするエレベーターがありますが、
ほとんど下げっぱなしのままにしてあるようです。

夜になったら施錠するらしい入り口。

右側の海軍士官はわかるとして、左の水兵さんの人選が面白いですね。
敬礼しながらボースンパイプを咥え、乗艦する「あなた」(将官とか艦長になったつもりで)
のためにホヒーホー♪と吹いてくれています。

・・・ということにここで気づく人は、乗艦者のうち何パーセントくらいかな?

ミッドウェイのフラッグは剣と空母から飛び立つ航空機(右下)からなります。
甲板から飛び立つ飛行機に動線が付いているのが漫画的。

艦載機エレベーターとそこにつながる回廊の部分は一般人は立ち入り禁止です。

入り口でまず独立戦争の英雄、ジョン・ポール・ジョーンズがお出迎えしてくれます。

「署名せよ、若者たち、そして共に航海に出かけよう。
我々の意思は自由の松明を絶やさず燃やし続けることにある。

この厳粛な目的のために我々は若者を、勇気のある者を、
強き者を、そして自由な者を呼びあつめる。

我が呼びかけに答えよ。海に来たれ。共に漕ぎ出そう」

ここハンガーデッキから全てのツァーは始まります。
かつて管制員がデッキ内を監視していたガラスブースは今は使われていません。

ここからアイランドを見るか、居住区を見るか、それとも甲板に上がるか、
見学の順番を自由に選ぶことができます。

わたしたちはなんとなく航空機が展示してある方向から見学を始めることにしました。

それにしても、アメリカ人というのはTシャツとショートパンツ以外の服を持っていないのか。
と思われるほど写っている全員が同じ格好です。

チケット代には、案内の録音が聞けるセルフオーディオツァー代が含まれます。
いつもならなしで行くところですが、なんとサンディエゴに在住なのに
ミッドウェイに来るのは初めて、というジョアンナが欲しがったので
わたしもお付き合いして日本語のものを借りました。

躍動感を出すために飛行機が斜め吊りされています。

 偵察機SBD ドーントレス。

ちょっと待て、空母「ミッドウェイ」は建造が始まったのは1942年だが、
就役したのは1945年9月10日、日本との戦争が終わってからじゃなかったか、
と思われた方、あなたは正しい。

第二次世界大戦の戦地が名前になっていても、日本軍とはカスリもしてないのに、
なぜドーントレスがここにあるのか。

はい、それは「ミッドウェイ」という名前の空母に来た皆さん方に、
その名前のもととなったミッドウェイ海戦について説明しよう、
とこういうわけですね。

ちなみに、「ミッドウェイ」で地図を検索しても、
川崎のバイク買取業者とかの所在地しか出てこないんですが、
「ミッドウェイ島」検索で、初めてハワイの近くの環礁が見つかります。

ミッドウェイ海戦とは、ミッドウェイ島の攻略をめざす日本海軍を
アメリカ海軍がが迎え撃つ形で発生しました。

逆にいうと日本軍は、同島を攻撃することによってハワイから出て来る
アメリカ艦隊に戦いを挑む、という作戦を立てたのです。

 

にしてもこの地図は全くミッドウェイじゃなくね?ってことですが、
このプロジェクターではミッドウェイ海戦に至るまでの経過説明中。
”アメリカ軍は日本軍の盟友オーストラリアへの侵攻を妨害した”と書かれています。

ミ海戦の前の月、5月に行われた珊瑚海の海戦で、日米艦隊は初めて衝突しました。

この時に日本海軍は米空母「レキシントン」を沈め、「ヨークタウン」中破など
大戦果をあげていますが、「翔鶴」などを喪失してしまったのは痛手でした。

結局ミッドウェイ海戦の時に投入できた正規空母と熟練搭乗員の数が少なかったことが
日本の敗因であったと今日ではいわれています。 

ハンガーデッキから右側は、このような「ミッドウェイ海戦コーナー」でした。
見学者がわたしたちのようにたまたま右側を選択すると、自動的に見学は
ミッドウェイ海戦、つまりこの空母の命名元の説明から入ることになります。

ご存知のように、真珠湾攻撃による開戦後、防戦一方だったアメリカ海軍が
日本海軍に初勝利し他のがミッドウェイ海戦でした。
戦局を分水嶺として変えたその一点がミッドウェイ海戦であったとあらば、
アメリカ人がこのように誇らしげに展示を行うのももっともかと思われます。

ミッドウェイ海戦の「主人公」は航空であった、といっても過言ではないでしょう。
アメリカ軍の空母艦載機部隊搭乗員のマネキンが入り口にありました。

よくミッドウェイではサッチウィーブで米軍航空隊圧勝!零戦破れたり!
ということばかりが言われますが、数字を見ると、実は米海軍の艦載機搭乗員の
戦死数は128名(陸上基地航空隊も合わせると172名)、
日本海軍は110名と米軍航空隊の被害の方が甚大なのです。

新戦術サッチウィーブで戦った「ヨークタウン」の航空隊は、
これでかろうじて零戦5機を撃墜しましたが、艦攻は全滅。
「ホーネット」艦攻隊は早々と15機全てが全滅、「エンタープライズ」艦攻隊は
14機のうち10機を失うも、その空戦における日本側の損失はゼロでした。

ミッドウェイ基地隊から出たドーントレスも
日本側に損害を与えぬまま16機のうち半分を失っています。

サッチウィーブは役に立たず、戦闘機が爆撃機や艦攻を全く守れなかった、
というのは当時からアメリカ海軍の中から出ていた非難の声でした。

 

もっともアメリカ海軍も多くの搭乗員の犠牲を想定し、
発艦が済んだ艦は攻撃に向かう(つまり帰艦を待たなかった)といった、
「非情な作戦」(byスプルーアンスの副官ブラウニング)で臨んだ、
ということも忘れてはならないでしょう。

勝つために非情であったのは日本軍の専売特許ではなかったのです。

F4F ワイルドキャット。

「ヨークタウン」「エンタープライズ」「ホーネット」の戦闘機隊使用機として、
各艦に25〜27機搭載されていました。

バランスをもたせているつもりか、帝国海軍の搭乗員もおりましたが・・
なんというか、なぜこの人をわざわざモデルに?というか・・。

ミッドウェイ海戦に至るまでの日米戦の流れをざっと説明してくれています。
左から:

1941年12月7日 真珠湾攻撃

12月8日 大統領FDRが議会の承認を得て開戦の承認を行う

1942年4月18日 ドーリトル少佐を指揮官とする攻撃隊が日本本土を急襲
   被害は甚大ではなかったが、日本側に大変な危機感を与える

1942年5月5日 日本軍、アメリカ本土攻撃の拠点としてミッドウェイ島を攻略

5月4〜8日 珊瑚海海戦 「レキシントン」沈没、「ヨークタウン」中破

 

右半分は写真を撮り損ねました(てへっ)が、おそらくはミッドウェイで
アメリカ軍を叩くための作戦を日本が立案することなどが表されていたのでしょう。

大変力のこもったミッドウェイコーナーの入り口を入っていくとそこはシアターで、
このために製作されたと思われるショートムービーが上映されていました。

左の参謀が

「閣下、すぐにミッドウェイ島の航空基地を攻撃するために戻る必要があります」

と進言しているので、右側は第二航戦司令官の山口多聞少将だと思われます。
山口少将は爆装を変えずに攻撃発進することを具申しますが、
南雲長官が攻撃隊に雷装への換装を下命したあとでした。

この時に換装せずすぐに第二次攻撃に向かっていたら日本は勝っていた可能性がある、
というのはしばしば語られる歴史の「IF」となっています。

勝っていたかどうかはわかりませんが、負けた原因であるのは確かでしょう。

さて、「ミッドウェイ海戦」はアメリカにとっては輝かしい勝利への
転換点となった、というのは歴史の示す通りです。

とあれば、ミッドウェイ海戦の2ヶ月後発注された米海軍の正規空母
(命名基準は戦場となった場所)が、「ミッドウェイ」の名前をつけられたのも当然です。

ただ、この映画は、世界中の人々が見るということもあって、アメリカ万歳風ではなく、
至極淡々と開戦の経過を説明することにつとめているように思われました。

 

続く。

 

艦隊暮らし〜展示艦「ミッドウェイ」

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「ミッドウェイ」という名前の元となったミッドウェイ海戦のコーナーを出ると、
そこからは空母「ミッドウェイ」の艦内見学となります。

クロスした錨に翼をあしらった" Aviation Boatswain's Mate"のマーク。

「航空」を意味する『Aviation』がなければ、ボースンズメイトは略称BM、
例えばオナーが乗艦する時にパイプを吹くのはファーストクラスのBMです。

彼らのカジュアルな呼称は「ボーツ」(Boats )。
日本語だと航海士、海自だと航海科でしょうか。

それに「航空」がつくと、一口で言って、甲板の上で離着艦のために働く人たちです。
このブログでも何度となく甲板上でそれぞれの職務ごとに赤、黄、白、茶、紫、青、
緑などの色分けをした制服について話したことがありますが、あれですね。

「Quatermaster」は陸軍と海軍で全く意味が違います。

陸軍では「需品(補給)係の将校」のことで、宿舎割り当て・糧食・被服・燃料、
そして運輸などをつかさどる配置ですが、海軍ではこのマークが錨であることを見ても
おわかりのように、「操舵員」を意味します。

略称はQMで、彼らは航海図とナビゲーションの保守、修正、および準備を担当します。
また、航行器具や航行時間、監視や操舵を担当しています。

このブログではすっかりおなじみ、「ゲダンク」の扉前にいきなり出てきてしまいました。
「ゲダンク」の語源については、当ブログでも
何度か説明を試みてきたわけですが、ここ「ミッドウェイ」では

中国語で「怠惰の場所」を意味する音

と言い切っております。

怠惰の場所ってそもそも中国ではどんな場所のことなの。

他の説明ではソーダパーラーのようなスタンドや、アイスクリームスタンドを
「ゲダンク」と称しているところもあったはずですが、ここでは「売店」となっています。

この説明によると、最初にこの言葉が現れたのは1931年に発行された
「レザーネック」という海兵隊マガジンの中で、メインの艦内のストアに対し、
4つある補助的なスタンドのことを「ゲダンク」と称していました。

ちなみに「レザーネック」そのものは、昔の海軍軍人がつけた革製の立ち襟のことです。
頬の高さまでになっているスタンドカラー、そう、わからない方は
マシュー・ペリーの肖像画(というか写真)を思い出していただければいいかと思います。

あれは、型が崩れないように皮革で作られていたんですね。
実用本位で、格好はいいかもしれませんが、いかにも着心地は悪そうです。

というわけで、「ミッドウェイ」的にはこれが「ゲダンク」となります。
つまり売店です。
「ゲダンク」をアイスクリームスタンドのように称していた艦もありましたが、
ここでは少なくともアイスクリームは扱っていなさそうです。

一つの言葉を取っても、艦ごとにいろんな説があったようですね。

ただし、石鹸や髭剃りのフォーム、靴磨き、ブラシや櫛、フットパウダーまで、
日常生活に必要なものはとりあえずなんでも手に入りそうです。

レジのおじさんのとぼけた表情に敬意を評して、アップにしてみました。
レンタルビデオの料金が書かれ、「インディアナ・ジョーンズ」のポスターが見えます。

「新作」のコーナーにはインディジョーンズの他に1991年の「ホットショット」、
1988年のコメディ「裸の銃を持つ男」が入荷したとのお知らせが。

艦内での水兵さんたちの生活の一コマが写真パネルにされていました。
かつて「ミッドウェイ」に乗務していたベテランの一言が添えられています。

左:
「常に暑すぎるか寒すぎるかのどちらかだった。
寝る時に毛布をかけても、朝起きたら汗まみれなんてこともあったよ」

右:
「あんまり狭いので足元で靴をモタモタ引っ張り出してる
”お洒落なやつ”の頭を潰してしまわないように
注意しなけりゃならなかった」

「他のやつとツラ付き合わせて寝ることだけはマジでごめんだったね。
そいつが休み明けだった日にはビール臭い息が直撃だ」

この写真からは、確かにそんな匂いが立ち込めてきそうです。
ところでどうでもいいことですが、こちら側の人、自分の足の間に手を挟んで寝てますね。

あーむさ苦しい。

一人ずつの棚式ベッドなら、狭いとはいえビール臭い息の直撃の心配はなさそうですが、
残念ながらこちらは水兵さんの居室ではありません。

「Enlisted Berthing 」と説明されていて、マネキンが向こうを向いて寝ています。

「 Enlisted」とは、海軍では「シーマンリクルート」であるE-1から
「マスターチーフ・ペティオフィサー」であるE-9までのレートを指します。

ちなみに海軍では階級を「ランク」ではなく「レート」で表します。


「ミッドウェイ」は約4,500人以上の男たちの「ホーム」です。
その「ホーム」で、下級の兵たちはマットレスの下に隠された、通称
「棺桶ロッカー」と呼ばれる6立方フィート(17㎠)のスペースと、
縦型の三段ロッカーの一つに全ての私物を収納することになっていました。

これがいわゆるその「棺桶ロッカー」。
軍服一式、作業着、下着、日常品とその他がきっちりと収まっています。

キャンバス式のベッドと違い、とりあえずはマットレスのベッドで、しかも
顔の部分には光よけのカーテンが設置されているのが少しは人間扱いされてるって感じ。

アフリカ系、ヒスパニック系、アジア系、ヨーロッパ系の乗員たち。
もしかした厨房の制服の人が肩に手を置いているの一人は女性ですか?
戦後のアメリカ海軍のダイバーシティ(民族多様性)を象徴するような写真です。

「誰が”ファースト・リバティ・パーティ”に所属しているかは、彼が着ている
ドレスユニフォームと顔に浮かんだ微笑みで見分けることができた」

「ファースト・リバティ」という政党はもちろん実在のものではなく、
「都民ファースト」のようにいわばイメージとしては「リバティ最優先」、
つまりもしこんな名前の政党があったとしたら、その政党のモットーは
間違いなく「自由」と「愛国」であるということになります。

「仕事のない時には大抵バックギャモンやハーツ(トランプ)
をしたり、映画をテレビで見ていたよ」

ロッカーに「ブルー・ホワイト」とあるのは、制服の色のことでしょう。
米軍では制服のことを「ブルードレス」「ホワイトドレス」などと称します。

棺桶ロッカーの上に整然と並んだベッド、縦型のロッカー。
しかし、今まで見てきた軍艦の中では広い部類に入るでしょう。

たとえ原子力潜水艦であっても、下士官兵の居室はこんなものではありません。

 

右側の写真には、床に座ってゲームをしている二人が写っています。

「百時間くらい甲板でチェッカーを振った後は、
どこにでも座り込んでしまったよ」

一日って何時間だっけ、とこの確信的な言葉でゲシュタルト崩壊を起こしてしまいました。

アメリカ人というのは靴を履いて生活するせいか、疲れていようがいまいが、
確かにどこにでも座り込んでしまいます。
「バーンズ・アンド・ノーブルス」のMANGA コーナーなど、ホリデイには
どうやってきたのか、中学生が皆地面に(と言ってもカーペットを敷いてありますが)
座り込んで立ち読みならぬ座り読みを決め込んでいますし、
子供に限らず、外でどこにでも座り込み、どこにでも行った靴のまま
家の中を歩き、地面に座ったそのままの服でベッドやソファにも腰掛けます。

この写真も、さすがに皆が靴で歩く通路でこれは如何なものか、と日本人としては
思ってしまいますが、おそらく今の海軍でも似たようなものだと思います。

そこにいる者の肌の色がなんでも、彼あるいは彼女が「アメリカ人」である限り。


続く。


フォクスル(艦首楼)とチップログ〜展示艦「ミッドウェイ」

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「ミッドウェイ」の見学が続いています。 

「エンリステッド」のベッドや「ゲダンク」と呼ばれていたらしい
売店などを見ながら進んでいくと、そちらは艦首側になります。

そのまま進んでいくと、「ミッドウェイ」の艦首部分に到達します。
アンカーの鎖が広いスペースに走っている、アンカーチェーンルームです。

艦首部分にある区画のことを「船首楼」、英語で「Forecastle」といい、
乗員たちは省略して「Foc'sle」(フォクスル)と呼びます。

「楼」には「キャッスル」の意味はないと思うのですが、
英語では「前方の城」になり、なかなか面白いネーミングです。

ウィンドラスの前にはにここで働いていた人々の写真が飾ってありました。
その説明によると、

「とにかく覚えていることは、雪や雨がオープンの艦首から
錨鎖を取り込む前にフォクスルにまともに吹き込んで来たことさ」

こればかりは現代の軍艦であってもどこかでスイッチ一つ押せば鎖が巻き上げられ、
それを暖かい部屋でコーヒー飲みながら見ているわけにはいきませんでしょう。

船の運用の原点である錨の揚げ降ろしに、大航海時代と現代の差は
動力の違い以外はあるようで実はあまりないのです。

 

ちなみに錨鎖の長さは1,800フィート、(549m)
錨鎖のリング一つの重さは156パウンド(約70キログラム)です。

現役時代にはおそらく何も描かれていなかったと思われますが、どうでしょう。
アンカーのキャプスタンのお皿部分には「ミッドウェイ」のマークが。

「セーラム」の内部を説明した時に取り上げた「ウィンドラス・ルーム」を覚えていますか?
この一階下にあるデッキには動力となるモーターがあります。
お皿からまっすぐに階下に降りている軸は、さらにその下の階にある
「チェーンロッカー」から鎖を巻き上げてきて、投錨するという仕組みです。

当たり前ですが、錨は艦首の両側にあるので、キャプスタンも二つ並んでいます。

よく考えたら、いやよく考えずとも、ここは空母の艦首。
先端は下の階がなく、錨を降ろすために下は海、という場所です。

鎖を海に降ろすための上戸のような形の穴が床にありました。
今まで見たことがなかったので、これにはかなり驚かされました。

プラーク(銘板)各種がかけられた通路。
目を引いてしまうのは、実に雑な壁のペンキの塗り方です(笑)

手前のものは

「ミッドウェイのオフィサーズ・アンド・メン(つまり士官と下士官兵)へ」

とされたサンフランシスコ海軍工廠からのプレゼント。
1970年とありますから、1966年からここで行われた「ミッドウェイ」の
大々的な近代化改修が終わったことを記念して贈られたものでしょう。

このときの改修で、フライトデッキは11,300㎡から16,200㎡まで拡張され、
エレベータの可搬重量は約59トンとなって再配置されることになりました。


また、最新型カタパルト、着艦制動装置、エアコンの集中化が行われ、
予算が当初の8,800万ドルから2億200万ドルまで超過したため、
気の毒に、「フランクリン・D・ルーズベルト」(CV-42)の改修計画はキャンセルされました。

この時の費用があまりにも高かったことは、国内に大変な論争を呼んだそうですが、
海軍工廠からみれば、潤沢な予算をつぎ込むことによって、
「船屋さん」なら誰でもやってみたいあれやこれやの改修作業で、
思う存分腕を奮うことができたのですから、立派なこの銘板には、

「改修してくれてありがとう!(あるいは毎度おおきに!)」

という彼らの心からの感謝の意が込められているに違いありません。

これも下部に向かって大きく穿たれた船窓で、丸い小さな船窓とともに
アクリルガラスで外が見えるように開けたままになっています。

もやいを出す穴でしょうか。

そのもやいは、太いロープを2本ずつ三つ編みにしたものであることが判明。
巨大空母を岸壁とつなぐものだけあって、半端ない太さです。

右側は1942年に起工、1945年進水、1945年の就役と書かれたおそらく竣工時の銘板です。

「1942年6月3日から6日まで行われたミッドウェイ海戦にその名をちなむ」

と書かれています。

左には「USNA」(ユナイテッドステーツ・ナーバルアカデミー)
つまり海軍兵学校の1942年卒の記念プレートがあります。
これによると、この年の海軍兵学校の卒業生は537名となっています。

最後の学年に日米開戦を迎えた彼らは、卒業するとすぐに戦地へと向かったわけですが、
そのうち5名は任官するなりいきなりミッドウェイ海戦に投入されています。

”少尉に任官してすぐに、歴史的な海戦に身を投じた級友の艦は撃沈され、
泳いで海に逃げたものの、そのうち一人は戦死した。

1942年クラスは、この後二度と日本が優位に立てなくなったこの戦いに
参加したことを心から誇りに思うものであるが、
その後三年間に亘り、多くの級友が斃れていったことを思うに、
二度と『同じようなこと』が繰り返されてはならないと願うばかりである”

 

このプラークがいつ作られたかはわかりませんが、その後のアメリカは、
朝鮮戦争にベトナム戦争、そしてこの「ミッドウェイ」が参加することになった湾岸戦争と、
戦争していない時はないというくらい、「同じようなこと」を繰り返すことになります。

アメリカという国の軍人であるからには、「フリーダム」なり「リバティ」なりを
守るという名の下に、戦争を「是」としているのだろうとなんとなく思っていたのですが、
やはりこういう場合にはこう綺麗にまとめて?しまうんですね。

「現役の軍人ほど戦争が嫌いな者はいない」

「戦争がやりたくて軍人になる者はいない」

とはよく聞くことですが、この言葉にその本音の一端が表れています。

巨大なワイヤのキャプスタンや”もやい”などが展示されたこのコーナーに、
なにやら大きな糸巻きのようなものがガラスケースで展示されています。

これは

「チップログ(The Chip Log)」 

というものです。

 

ところで皆さん、いきなりですが、どうして船のスピードを
「ノット(Knots)」で表すのか、ということをこれまでの人生で
疑問に思った瞬間はないでしょうか。

その答えが、実はこのチップログなのです。


昔の船乗りは、航行速度をどうやって測ったのかといいますと、
水に浮くものを船からロープに結びつけて海に投下し、
ロープが引っ張られる早さをその単位としました。

その際使われたのが、15世紀には完成していた
「チップログ」(またはハンドログ)という道具です。

具体的にどういうものかというと、このチップログ、手用測程器は、
14.08mごとに結び目のあるロープの端に、扇形板の吹き流しが
(この写真のものは三角形ですが)結びつけられています。

この写真にも小さな砂時計が見えていますが、実際にどうやって使うかというと、
まず、航走する船上から扇型の吹き流しを海に落としてから、
砂時計できっちり30秒を測ります。
そして30秒の間にロープの結び目(ノット)がいくつ現れるかを数えるのです。

例えば30秒の間に結び目が10個現れたら、10ノット。
これは時速で表すと1.852km/毎時になるのです。

このやり方は、発明されてからなんと20世紀初頭まで使われていたそうです。

というとことで、みなさん、船の速度がなぜ「ノットKnots」で表されるのか、
今こそお分りいただけただろうか。

 っていうか、なぜここにハンドログがあるのかは謎でした。
いうまでもなく「ミッドウェイ」では全く必要のないデバイスです。

 

.

「ミッドウェイ・マジック」と書かれたこのポスターの写真。
全員が鎖などにかがみこんでなにやら作業をしていますね。

というのも、「ミッドウェイ」のフォッスル展示は、CPOに「選ばれた」
100名のボランティアが奉仕することで可能になったのでした。
彼らは毎週末にここにやってきて、細かい部分のペンキ塗りや
重量のある器具の移動などを行い、公開にこぎつけることができたのです。

全員が素人なのですから、壁のペインティングが雑でもこれは仕方ありません。
いちいち指摘したりしてごめんなさい。


ところで、本稿においてなんども「フォクスル」or「フォッスル」と書くたびに
なぜか犬の姿が脳裏にちらつくなあと思っていたのですが、今ふとその理由がわかりました。

伍長時代のヒトラー(右)の愛犬(下)が「フクスル」という名前だったんですよ。
でっていう。

 

続く。

 

 

 

「軍艦旗」掲揚〜第四十七回 呉海軍墓地合同追悼式

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呉市街から休山新道を北東に登っていくと、傾斜地に
長迫公園、旧海軍墓地があります。

海軍兵学校の同期会で元兵学校生徒だった方々とここに訪れ、
上から下まで写真を撮ってここで紹介したこともあるわたしにとって、
ここで年一度行われる合同追悼式の出席が叶ったことは大変な光栄でした。

10時半からの開式ということで、羽田初0700の始発に乗り、
空港で朝食をとってから現地へ。
公園の前の道は狭く、こんなことでもあると人の乗せおろしも大変です。

公園にはその後友人と一度、撮りそびれた写真のために来ましたが、
その時には公園にはほぼ誰もおらず、深閑としていました。
今日は開始までまだ30分以上あるにもかかわらず、すでにこんなに人が!

テントで来賓受付をすると、そこで控えていた中学生の女子が、
赤いリボンを胸につけ、席まで案内してくれました。
近隣の中学(多分和庄中)のボランティアのようです。

近隣住民や自衛隊、そして近隣の学校の生徒は、率先して
この長迫公園の清掃などを普段から行なっているということです。

時間があったので、戦艦「大和」の碑の辺りまで行ってみました。
時代を感じさせる「軍艦大和」と刻まれた額に入った「大和」の写真が
白百合と白い石楠花、千福などのお供え物に囲まれて置かれています。

「大和」の慰霊碑のところからふと上を見上げると、
潜水艦戦死者の慰霊碑前に白い礼装で立つ自衛官の姿があります。

呉地方総監部の潜水艦隊の幹部たちが慰霊式をしているようです。

碑に「潜水艦戦死者慰霊碑」と読めますが、現地で購入した
慰霊碑の便覧と戦死者名簿を兼ねた冊子

「海ゆかば」

には、潜水艦戦死者慰霊碑の記載がありません。
さらにネットを検索したところ、平成三年と比較的新しく建立されたもので、
戦没潜水艦35隻、潜水艦の戦死者三千余柱を合祀した碑であることがわかりました。

先日の呉音楽隊の呉での演奏会の時、隣同士に座り、開演までの少しの間
潜水艦のお話を聞かせていただいた司令がおられるに違いありません。

席に戻ろうとしたら、儀仗隊がスタンバイしていました。
海曹が各自の服装と装備を点検してまわっています。

呉音楽隊もスタンバイ中。

慰霊式台には国旗と軍艦旗が掲げられ、その前には
戦死者の霊に手向けられた白菊が美しく活けられています。

大小の白菊を使った、白菊の咲く丘に竜胆や向日葵が咲いている
風景画のような飾り付けには、呉の人々のこの慰霊式に対する
深い関心と畏敬の気持ちが表れているようでした。

この白菊もそうでしたが、この日のわたしは特に居並ぶ慰霊碑について
当ブログで語るために戦歴を調べたという思い入れのせいか、
少しのことで感情がリミッター解除されてしまい、感極まっておりました。

受付そのものは0830から始まっていたそうですが、
1000(ヒトマルマルマル)に正面の鐘で時刻を表す
四点鐘(カンカーン カンカーン)が鳴らされました。

鐘を鳴らしているのも中学生のようです。

1025には総員着席し、1030には
時刻を表す五点鐘(カンカーン カンカーン カーン)が
鳴らされて、式典が開始されました。

公益財団法人「呉海軍墓地顕彰保存会」の委員長は、
式辞の中で、

「戦死された英霊よ、願わくば天上からここに降りて我らの慰霊を受けられんことを」

(記憶ママ)

と述べられましたが、時鐘の点打を聞きつけて、「降(くだ)ってきた」
英霊もあるいはいるやもしれない、とわたしは密かに思っていました。

儀仗隊の入場です。

式典次第をアナウンスする声が、

「国旗・軍艦旗掲揚」

と言ったとき、わたしは思わず心の中であっと声をあげました。
見れば配られた式次第にもちゃんと「軍艦旗」と書かれています。

十六条の旭日旗は、海軍時代は軍艦旗とされていましたが、戦後になって
海上自衛隊の旗を決めるときに、米内光政の親戚である米内穂豊画伯が、
旭光をモチーフにした新しい旗を依頼され、

「黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、光線の配合、
これ以上の図案は考えようがない」

という主張のもとに全く旧軍時代と同じ意匠を提出したことにより、
結果として全く変わらない旗を使い続けているということになっています。

ただし、その名称は「自衛隊旗」であり「軍艦旗」とは全く別のもの。

のはずだったのですが、ここではこれをまさに「軍艦旗」と呼んだのです。


米内画伯と、さらにそれを認めた当時の吉田茂首相の英断もしなかりせば、
例えばこの海軍墓地における今日の慰霊祭にはどんな旗が翻っていたのか。

海軍英霊の慰霊のために旧軍艦旗を揚げることは、今の自衛隊に果たして可能だったか。

歴史のIFは言い出せばキリがありませんが、少なくともこの点に関しては
神の配慮とでもいうべき完璧なる偶然(画家と施政者が誰であったかという)の結果、
自衛隊で現行使用中の十六条旭日旗を堂々と?海軍追悼式に掲げることができるのです。

時鐘の音を聞きつけた英霊がこの日天から降(くだ)ったとして、海軍墓地に翻っているのが
他ならぬ旭日軍艦旗であることは、彼らの魂をいかに慰めることでしょうか。

海軍墓地が最初にこの長迫に生まれたのは、明治23年3月22日でした。
当時は葬場上屋及び番舎をもち、

「海軍葬儀場」

と呼ばれていたそうです。
墓地だけでなく、ここで葬儀も執り行われていたということですね。

ちなみに戦前はほとんど個人墓が中心であり、例えば
昭和2年の呉鎮守府による埋葬規則を見てみると、

「埋葬は准士候官以上は親族より指令長官に出願、海軍兵学校生徒と
下士官兵は所轄長もしくは海兵団長より建築部に協議せよ」

「甲乙丙丁の四等に区別し、
甲=将官 乙=左官、尉官、特務士官、候補生
丙=准士官、海軍兵学校生徒 丁=兵 と埋葬する」

「死刑に処せられたるものは建築部長に区割りを相談」

というなかなか興味深い記述が見られます。

死刑にされた者でも海軍墓地に葬っても良いというのは、
一度でも海軍の釜の飯を食んだものに対する温情でしょうか。

 

さて、終戦とともに荒廃していたこの地でしたが、戦後になって
軍艦や部隊の生存者が中心となってここに慰霊碑の建立が進みました。
実はここにある慰霊碑で、戦前にあったものは個人墓を除けば

「厳島」「比叡」「広丙(こうへい)」「天龍」
「高砂」「矢矧」「早蕨」「深雪」「吉野」

などの軍艦慰霊碑、そして

「上海事変」「第四艦隊事件」

の慰霊碑の合計11基だけなのです。
あとは全て戦後のものになります。

かつてこの慰霊祭には、各慰霊碑の前に生存者、関係者が集い、
慰霊碑横の竿に軍艦旗を揚げて、そこから下の広場で行われる式典を見守る、
という光景が見られたものだそうですが、今日では生存者も減り、
ついに人の集わなくなってしまった慰霊碑も少なくないそうです。

わたしの座っていたところからは軍艦「信濃」の碑がよく見えましたが、
そこに一人のご老人がずっと立っておられました。(冒頭写真)

かつて「信濃」に乗っておられたのでしょうか。

保存会委員長の式辞の後、追悼の辞は広島県知事と呉市長が行いました。

「日本の現在の繁栄は英霊の皆様の犠牲の上にある」

「日本は今武力による現状変更を行うならず者国家に囲まれている」

「しかし強固な意志と団結力、国際協力の元に平和を希求し
戦争のない平和を築いていくことこそ、英霊の皆様に報いる道である」

というようなことが形を変えてスピーチされたと思います。

 

 

先般、国会で河野外務大臣に向かって共産党の議員が
その”ならず者国家”へのアメリカの圧力を非難し、

「両国に軍事的衝突があったら日本に累が及ぶので絶対に避けろ!」 

「アメリカの抑止力は脅しだからすぐにやめて今こそ対話せよ!」

としつこく今更の対話路線を強調(というか強要)するということがありました。
あたかもアメリカが北朝鮮を一方的に挑発しているような物言いに、河野大臣は

「緊張を一方的にエスカレートさせてるのは北朝鮮である」

「対話を繰り返してきた結果が現状である」

の2フレーズを答弁のたびに繰り返すことで、暗に

「オメーは一体どこの国の議員なんだ」

と共産党議員を批難しておりましたね。

軍事的衝突を避けるには、いかなる武力的圧力に対しても武力で対抗せず、
対話による解決を追求し、さらには相手に対する刺激となることすら避け、
要するにひたすら頭を下げて敵国の機嫌をとるべし、というお花畑的考え方が
右ではなく、政府の取る現実路線の対立軸として存在するのが、
今の日本という国です。



口で「戦争のなき平和」を語るのは実に簡単なことでありますが、
しかしここで国に殉じた英霊を前に、

「戦争のない世界を希求していくのが皆様へのご恩返し」

と言ったところで、実際に本土上空にミサイルを撃ちまくる国が隣にいる現状では、
何か大事なことをあえて見ないふりをしていると思えてなりません。


かつて帝国海軍は、

「座して死を待つことなく相手を先に攻撃することで国を護る」

という言葉の下に真珠湾攻撃を挙行し、それをもって大東亜戦争は火蓋を切りました。

その戦争に殉じた英霊の前で、現在進行形で国土の上をミサイルが飛んでいくのを
指をくわえて(しかも防衛をアメリカ頼みで)見ていながら、口では

「平和を希求し戦争のない世界を」

と言ったところで、英霊諸氏にはその「平和」の意味は到底理解できないのではないか。

「何が平和だ」

「もうすでにお前たちは国土を蹂躙されているではないか」

「大和民族の誇りはどうしたのだ」

彼らの殉じた大義を思うとき、わたしは彼らが今日の我々に投げつけてくるであろう
そんな言葉さえ容易に想像することができます。


そもそも、

「戦争しないこと’だけ’が平和である」

という九条の旗のもとに、他国に国防の主権を握られている、
国家的自己撞着に陥った日本という国の現状を英霊がもし見たら、一様に

「こんな国にするために我らは戦ったのではない」

と怒りを覚えるのではないかとさえわたしは思うのです。


もちろんこういう挨拶をされた来賓の方々を責める意図でそういうのではなく、
さらには責める資格もわたしには全くありません。

わたしもまた、そんな日本で平和の安寧を貪り、たとえミサイルが飛んできていても、
心のどこかで、本土に実際に落ちるわけなどない、さらには戦争など起こるわけがない、
と思いたい、正常バイアスのかかりきった愚者の楽園の住民でなのですから。


続く。



「翠嵐の長迫 英魂を祀る」〜第四十七回 呉海軍墓地合同追悼式

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昨日は予定になかったのについ思うところを語ってしまいました。

unknownさんの「防衛の主権を握られているは言い過ぎだ」というコメントには、
わたし個人の現状理解という見地からは全面的に賛同します。(おい)
あれはあくまでも

「英霊の皆様から、彼らの大義に照らして見た場合」

を忖度して代理で述べたものであるとご理解いただければと思います。

憲法で手足を縛られ、ポジティブリストでしか動けない防衛軍、自衛隊をもち、
その分他国の軍隊に駐留してもらって周りに睨みをきかせてきたが故に保たれてきた平和。
このことそのものを、国のために命を捧げた方々はどう思うのでしょうか。

「そこに主権はない」

そうおっしゃるとは考えられませんでしょうか。

もっとも、もしそういうことを目の前で言われたとすると、
現代に生きるわたしとしても、彼らにこんな言い訳をすることでしょう。

「そうなったのも全て日本が戦争に負けたから。
防衛体制も、それを律する憲法も全て占領下で構築しなければいけなかったから。
しかしその後歩んできた70余年を鑑みると、日本の選んだ道は
必ずしもベストでなかったにせよ、考えうる限りのベターでした」


だからこそ、それをさらにベターにするために、保守派と呼ばれる人々は
自主憲法の制定と、戦後レジームからの脱却を悲願としているのだと思います。

ちなみに、この国では保守派が改革を目指し、いわゆるリベラルが現状固持に執着するという
社会学的に見て実に不思議な構造となっています。
日本は未だにダラスのいう「ワンダーランド」からまだ抜け出していないのかもしれません。



さて、次に主催である公益財団法人、呉海軍墓地顕彰保存会の委員長、
県知事、呉市長の追悼の辞が終わり、続いては近隣にあり、
ボランティアで清掃も行うという長迫小学校の児童が3名代表で追悼の辞を読み上げました。

この日購入した呉海軍墓地誌「海ゆかば」の冒頭には
第三十四回の合同追悼式の写真が掲載されていますが、それによると
長迫小の児童が「ついとうのことば」を数人で読み上げる、というのは
例年の慣いになっていることでした。

「長迫小学校の児童はいつもこの公園で楽しく遊んでいます」

に始まり、児童が月に一度、学年ごとに公園の清掃を行っていること、
6年生である彼らは今72年前の戦争について勉強し、語り継ぐことができるよう
取り組んでいる、と続きました。

「呉には海軍工廠があったので繰り返し空襲を受けたこと、
広島、長崎に投下された原子爆弾のこと、そこでたくさんの人が大切な命を失い
愛する家族や友達と引き裂かれたことを知りました。

どんなに辛かったことでしょう。苦しかったことでしょう。
考えるだけで胸がとても苦しくなります」

「戦争はとても悲しいこと。戦争は決してしてはいけないことだと思います」

そして、映画「この世界の片隅に」について、作者は戦火を生き抜いた
祖父への思いをきっかけにこの作品を描いた、として、
映画の延長線上に現在の「わたしたち」の平和な生活があることを思うと、
戦争で亡くなった人々、焼け野原から日本を復興させた人々を誇りに思い、
かけがえのない日常を守ることの大切さを強く感じる。
今この瞬間にも戦火に倒れ家や命を無くしている人たちがいると知るたびに、

「こんなことは絶対に無くさなくてはいけない。
世界中の人々が笑顔で暮らせる未来を作らなければならないとと心に誓うのです」

 

もちろんその通りです。

わたしも子供が学校の先生に推敲してもらって読み上げる弔辞にまで
あれこれとツッコミを入れるほど野暮ではございません。
ただ、それではどうしたらいいか、という彼らの言葉には
少し複雑な気持ちで考えこんでしまいました。

「世界の出来事を知り正しい考えを持って平和について考え、
伝えていこうと思います」

子供たちが純粋な心で信じているほど、「正しい考え」とはなんなのか、
何が正しく何が間違っているかを突き止めることは簡単なことではありません。
ましてや彼らがその弔辞の中で言っていたように、

「新聞を読み、ニュースを見」

るだけでは、とてもその正解に近づけるとも思えません。
しかしながら、それも彼ら自身がいずれ気づいていってくれることでしょう。

そう期待するのは、彼らがインターネット時代に生を受け、
情報を与えられるものからでなく自分で選択することのできる時代に生きていくからです。

この合同慰霊式において47年前から代々小学生がここで弔辞を述べてきました。
「海ゆかば」の冒頭写真に残っている第三十四回慰霊式の子供たちは今25歳です。

その世代の青年たちが、世界情勢にしても歴史の真実にしても、
新聞とテレビだけから情報を収集しているわけがありません。

この日弔辞を述べた子供たちは、彼らの先生たちなどよりもずっと柔軟な心で
メディアリテラシーを獲得し、よりグローバルな視点から歴史と世界情勢を学び、
さらには戦争と平和について考えるようになってくれるはずだ、そうあってほしい。

わたしは彼らの一生懸命な朗読を聞きながらそう考えていました。

続いては追悼吟詠です。

もののふの勲(いさお)は永遠に霊碑(いしなみ)が
文字に刻みて 伝え護らん

至誠一貫 燦乾坤 しせいいっかん けんこんにさんたり

無限忠肝 靖国源 かぎりなきのちゅうかん やすくにのみなもと

蓋世功名 誉不朽 がいせのこうみょう ほまれはくちす 

翠嵐長迫 祀英魂 すいらんのながさこ えいこんをまつる

という「追悼の詩」が尺八と詩吟で奏楽されました。

第四十三代呉地方総監、池太郎海将が参拝と献花を行います。

続いて儀仗隊による敬礼、そして弔銃発射が行われます。
ここで、「命を捨てて」が呉音楽隊によって演奏されました。

命を捨てて

掃海隊の殉職者追悼式など弔砲を発射する場合は
「葬送式の場合」に準じて、頭の8小節を速度を早く毎発射後直ちに
演奏するという方法が取られましたが、今回は三回の発射のみでした。

この曲を聴かれると、明治25年にはこの曲の原型が礼式曲として
宮内庁によって作曲されていたことに驚かれるのではないでしょうか。

昭和4年には海軍が「命ヲ捨テテ」、陸軍は「吹ナス笛」という曲を
弔砲弔砲発射の際には演奏していたという記録があります。
(参考:谷村政次郎著 海の軍歌と禮式曲)

今日でもその頃からの伝統を墨守しているのが海上自衛隊なのです。

ちなみに弔銃発射時は写真を撮りませんでしたが、

終わってから撮ったこの写真の手前に写っているテントの結び目が、
綺麗なもやい結びなのに感心しました。

続いて遺族代表、来賓、そして自衛官の順で献花を行います。
わたくしも来賓の末席を汚す身として献花をさせていただきました。

自衛官はこの日夏の礼装で臨みます。
これが冬服より帝国海軍の第二種軍装に酷似していることも、
英霊の方々への気遣いではないか、とわたしは密かに想像していました。

平均年齢70歳のコーラスグループ「コーラス丘の上」と
呉赤十字奉仕団本通り分団の合同演奏、

追悼歌「長迫の丘」(潮路はるかに)

が行われました。
昔の軍歌のような曲調で、英霊の皆様方には大変親しみやすいのでは、
などと考えながら、2コーラス目からは一緒に歌いました。

呉海軍墓地には大正3年に別の場所に建立された

看護の碑 「呉海軍看護合葬碑」

もあります。
合葬されている27名の氏名などは全く今日ではわからないそうです。

呉地方音楽隊による追悼演奏が行われました。

「同期の桜」

「巡検ラッパ」

「海ゆかば」

「行進曲 軍艦」

の四曲です。
海軍の英霊を慰めるための曲を四曲選ぶならこれしかない、
という究極の選曲と言えましょう。

音楽隊のコンサートの最後に盛り上がって拍手をしながら聴く
「軍艦」とこの日の「軍艦」は、同じ音楽隊の演奏でありながら
全く異なって聴こえました。

そして「海ゆかば」。

この調べに思わず涙が込み上げるのは、平成26年の練習艦隊が
ソロモン諸島で収容された戦没者のご遺骨を「かしま」から退艦させる際、
奏楽されていたのを聴いて以来のことになります。

その時晴海埠頭で感じたように、「海ゆかば」の調べが流れる長迫の
緑なす木々のそこここに、わたしは英霊の存在をありありと感じました。

  追悼電報の披露のあと、遺族の代表が謝辞を述べられました。
この方は戦没者である海軍中尉の長女の夫、という方で、
義父であるその英霊の戦歴を詳細に紹介しておられたので、
それをここに記しておきます。   呉海兵団入団 第4艦隊勤務 第2艦隊勤務 横須賀航空隊教官 霞ヶ浦海軍航空隊教官 連合艦隊司令部付   横須賀鎮守府第一特別陸戦隊第二中隊小隊長 セレベス島カカスに落下傘による戦闘降下を敢行
チモール島クーパンに落下傘による戦闘降下敢行   つまりこの方の義父は第一特別陸戦隊、「海の神兵」だったわけです。
昭和17年2月に行われた海軍落下傘部隊の降下は大きな戦果をあげ、
セレベス島、クーパンのどちらにおいても占領に成功したので、 その年の海軍記念日に連合艦隊司令長官山本五十六大将から
感状を授与されています。   このころは怒涛の進撃で連戦連勝だった日本軍ですが、次第に
アメリカ軍の物量作戦に敗色を深めていったのはご存知の通りです。   落下傘奇襲部隊も「翼なき落下傘部隊」となり、地上戦において
本来の『陸戦」を行うことになったのですが、この海軍中尉も
昭和十九年八月二日、テニアン島における敵との交戦中戦死しました。   その時31歳だった海軍中尉には、6歳の長女を頭に三人の子がありました。   「ここ長迫の海軍墓地に眠る英霊は、
新生日本の魁となられた尊い御霊であります」   この方は、決して「戦争のない平和な世界を築いていくのが死者への恩返し」
などという具体性のない(さらに言えば実現性も薄い)空虚な言葉を弄すことなく、
「全国から集まった遺族の皆様とともに未来永劫、
十三万余柱の御霊をお護りいたします」   とただ静かに述べられました。
その言葉が胸に響いたのは、もちろんわたしだけではなかったのでしょう。
すべての人々がその言葉に心から耳を傾けために、長迫の丘はしんと静まり返り、
この時期には不思議なくらいたくさんの蝉の声だけが響いていました。     遺族代表謝辞が終わると、国旗と軍艦旗が降納されました。
降納中は写真が撮れないためご了承ください。     降下した国旗と軍艦旗を、海曹海士が二人一組でたたみ、
それを腕章をつけた当直?士官が見守ります。   まず横に二つ折りをして・・・・、     それを縦に三つにたたみます。     小さな長方形まで畳んだら、それを対角線でもう一度折り、
片手で掲げて持てるように三角にたたみます。   これらの所作も海上自衛隊においては旧軍からの伝統を受け継いでいるのでしょう。 我々の誰もそれを確かめることはできませんが、おそらく百年後の海上自衛隊も、
(そのころはどういう名称になっているのでしょうか)同じ旗のもとに
「軍艦」を奏で、追悼には「命を捨てて」が死者の魂に捧げられるのに違いありません。     式典が終了した後、会場の希望者はすべてが献花をすることができたようです。
たくさんの白菊がそのために用意されていたということですね。     おまけ*   海軍陸戦隊らしき軍装をした人がいました。
周りの人には彼の姿が全く見えていないようでありますが、
つまりこれって見て見ぬ振りをしているだけなんだろうな。     終わり。    

「しらせ」の名の由来〜砕氷艦「しらせ」艦上レセプション

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朝7時の羽田発広島行きの飛行機に乗り、午前中は海軍墓地で追悼式、
そのあと呉地方総監の講演会を拝聴したわたしですが、なんとそのあと
神戸に移動して「しらせ」のレセプションに出席するというハードモード。

朝4時半に起きて以来まるで遊説中の政治家のように移動を繰り返し、
立食パーティが終わって「しらせ」から降りたあと、さすがのわたしもつい、

「足痛い・・・」

と弱音を吐いてしまったのですが、TOはきっぱりと、

「自業自得」

はい、その通りです。
しかし、かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂、
という吉田松陰先生のお言葉にもあるように、止むに止まれぬ気持ちが
この日のわたしをここまで駆り立てたのでした。

海軍墓地追悼式!

呉地方総監講演!

「しらせ」艦上レセプション!

ちなみに呉地方総監の講演内容は、海軍航空隊と海自航空隊の制度を比較、
さらにその教育方法から将来の展望を語る、というものでした。

このどれにも、多少の無理をしても全て参加したいという気持ち、
このブログに来られる方ならご理解いただけるのではないでしょうか。

地方総監の講演が終わったあと、会場では総監を囲む懇親会がありましたが、
わたしはそれには出席せず神戸に向かい、新神戸駅直結のANAクラウンプラザで
一緒に出席する予定のTOと待ち合わせをしました。

ここが新オリエンタルホテルだった頃にはわたしたちのどちらも阪神間在住、
つまり神戸っ子だったので、「しらせ」のお誘いを受けた時、二人とも

「行きたい!」

と目を輝かせてしまったものですよ。

TOなどエスコートしてくださった一佐が世間話で

「神戸はいいですね」

というと、

「いやー、ここに来るともう空気が違うんですよ!」

と、それは他の土地の人にはおそらく理解しにくいだろう、と思える
超主観的なご当地自慢を始める始末。

しかし神戸を離れて幾星霜、しばらく来ないうちにホテルの名称どころか、
今までなかった陸地ができたりして激変し、見覚えのない建物だらけになっていました。

神戸空港だって当時は影も形もなかったのですから。

第4突堤のポートターミナル駅に来るのも実は初めてです。

「しらせ」はここで一般公開をしていたこともわかりました。
応募した人にだけ、一日三回、2〜3時間ずつ公開されていたようです。

あとで聞いたところによると、南極に行ったこともある砕氷艦は人気があるので、
あちこちからお呼びがかかり、日本にいる間は引っ張りだこだそうです。

デッキから埠頭を見下ろすと、そこには夜目に浮き上がる「しらせ」の姿が!

ちなみにカメラの設定をほとんどいじらず、ISO感度だけをあげたので
全般的にお見苦しい写真となっておりますがご辛抱ください。

「舳先が丸いんだ・・・・」

砕氷艦といってもこのタイプは先端でギリギリと氷を割りながら進むわけではないので、
艦首部分はまるでお風呂の洗面器のように曲面だけでできています。

先代の「しらせ」と比べても艦首の形の変更は明らか。

今の砕氷艦は力づくで氷を割るのではく、散水装置から水を撒きながら
氷に自重でのしかかるように割っていくもののようです。

つまり、

「衝突力で氷を割る!」

「氷上に乗り上げる!」

「船体の重みで氷を割る!!!」

こうやって前進していくのが砕氷の方法です。
(ちょっと勢いをつけて表現してみました)

これだけのことをするのに、小さな船ではとても役目は果たせません。

なるほど、「しらせ」の実物は唖然とするほど巨大に見えました。
しかしたとえば「おおすみ」と比べると、基準排水量は「おおすみ」の8,900トンに対して
12,650トンと桁違いですが、全長は「おおすみ」より40mも短い138mということです。

実際「ましゅう」が登場するまでは、「しらせ」は海上自衛隊一大きな艦でした。

散水のシステムをハル・ウォッシュ・システム(Hull wash system)といい、
海水を取り込んでポンプで船首部の氷板上に噴射していきます。

これはわたしが最初に考えたように「氷を溶かすため」だけではなく、
船首と氷板との摩擦を減らすという目的もあります。

分厚い氷、例えば氷厚約1.5メートル以上の氷は、いったん艦を
200~300メートル後退させ、最大馬力で前進し、
氷に体当たりするとともに氷に乗り上げ、艦の自重で氷を砕きますが、
そういうやり方でも砕氷が容易でないこともあるそうで、ひどいときには
丸一日かけて1mしか進めなかったり(というか進んでないし)するのだとか。

デッキには日没後にもかかわらず結構たくさんの人が手すりにもたれて
「しらせ」を見物していました。

「しらせ」の神戸港への寄港は、平成12年9月、平成23年9月と、6年ぶり3回目だそうです。

いよいよ「しらせ」に乗艦です。

岸壁のテントで受付をするのですが、

「招待状をお持ちですか」

と聞かれて

「持ってる?」「持ってない」「そっちが持ってると思った」「わたしも」

という情けない会話を始めるわたしたち。
名簿で確認してもらい、無事受付を済ませたあとは、なんと小柄な女子隊員が
わたしのキャリーバッグとTOのガーメントバッグを軽々と抱え、
普通より長いラッタルをスタスタと登っていきます。

・・・・・このラッタルが実に不思議な形状なのよ。

足を乗せるところが、なんというか奥に向かって落ちるカーブを描いていて、
ギザギザの割竹踏み健康器に足を乗せているような感じ。
雪がつもりにくく特に降りるときに階段が凍っていたとしても
前に足が滑らないようにしてあるんだなと思いました。

でもとりあえず平常時には大変上り下りしにくかったです(笑)

階段を登っていくと、舷門には数人の乗組員がお出迎えしてくれ、
控え室として隊員食堂らしきところに連れて行かれました。

少し早めに着いたかなと思ったら、たくさんの人がすでに到着して
始まりを待っていました。
後から挨拶した県議会議員の方によると、

「待ちきれなくて早く来てしまった」

という人たちがこんなにいたということになります。

ここで配られたパンフレットで皆は「しらせ」の予習を行います。
「しらせ」艦番号の前の「AGB」は

Auxiliary Icebreaker 

の略、とここには書いてあるのですが、これだとGがどこにもなくね?

ちなみにAuxiliaryは「補助」という意味がありますが、つまりこれは
「砕氷を補助する」という意味で使われている言葉なのでしょうか。

ヘリコプターはアグスタ・ウェストランドのCH-101を2機、
小型のユーロコプター「エキュレイユ」(フランス語で”リス”の意)1機、
計3機を乗せて南極へ赴くのが基本となっているようです。

海自でMCH−101として運用している同型のヘリは、グレイがかった白ですが、
真っ白な世界で運用することになる「しらせ」搭載型CH-101は、
ご覧のように濃いカーキグレーを基調に、視認性のあるオレンジを
ボディ下部とテールに使用しています。

ヘリコプターお仕事中。
「しらせ」から例えば基地に人員や物資を輸送するときには
周りが氷なので、ヘリコプターに頼るしかありません。

砕氷艦というのは、南極で氷を割って進むことが主目的なので、
例えば「宗谷」や先代の三代目「しらせ」なども、
艦を安定させるためのビルジキールが装備されていません。

そのため、外洋航行時、特に時化ている時などは、通常の艦船に比べて揺れが激しくなります。

この日聞いたのですが、「しらせ」の最も大切な任務の一つは、
半年ごとに南極に観測隊員を連れていき、帰りには帰国する隊員を連れて帰ることです。

自衛官はともかく、素人である観測隊員は行きも帰りも
ひどい船酔いと戦わなくてはならないのが宿命と言えましょう。

ビルジキールのない初代「しらせ」の2001年の航海では暴風圏を通過中、
左に53度、右に41度傾いたことが傾斜計に記録されていますが、
これは今でも海上自衛隊の最大動揺記録として残っているのだそうです。

揺れに関してこの二代目「しらせ」についてはどこにも言及がありません。
つまり、ビルジキールの問題をクリアし、揺れはましになっているということなのでしょうか。

わたしは早く行けば艦内を案内してもらえるかも、と思ったのですが、
早く行っても開始まで食堂で待機し、甲板までの通路を見るのが精一杯でした。

食堂ではずっと「しらせ」の活動を記録したビデオ映像が
(もしかしたらテレビで放映されたものかも)モニターから流れていました。
それに気づいて二人で熱心に見始めたのですが、すぐに会場に移動になってしまいました。
しかしその僅かな時間にみた映像だけでも、「しらせ」隊員がどんな場所で
いかに非日常的な任務に当たっているかを垣間見ることができ、

「あんなところ(南極)で仕事したら、きっと人生観変わるよね・・・」

と移動しながら言い合いました。
ちなみにレセプション席上で「しらせ」艦長と少しだけお話しさせていただいたとき、
その通り、

「あんなところに行ったら人生観変わりませんか」

と聞いて見たところ、この表現は決して大げさでもなんでもないらしく、艦長は言下に

「変わります!」

とお答えになったのが印象的でした。

 

食堂を出たところに、南極点到達した白瀬矗(しらせのぶ)のブロンズ頭部像がありました。

三代目南極観測艦に名前をつけるとき、先代「ふじ」に続いて名前は一般公募されました。
この一般公募の結果がwikiに残されています。

1位さくら、2位やまと、3位しょうわ、4位おーろら、5位あさひ、6位みずほ、7位とき

砕氷艦は自衛隊では「砕氷艦」ですが、南極観測隊的には「砕氷船」と呼称するのです。
先代「ふじ」は「宗谷」から南極観測船の役割を引き継ぎましたが、
この際、運用が海上保安庁から防衛庁に移管されたので、
区分は「砕氷船」ではなく「砕氷艦」となり、命名基準も自衛隊のそれ
(名所旧跡のうち主として山の名)に準拠することになりました。

んが、この公募結果の中で該当するのは「しょうわ」(昭和新山)、
そして「やまと」(白瀬中尉が南極点に到達し、そこを『大和雪原』と名付けた)
だけということになります。

「やまと」は、この名前をを砕氷艦に使ってしまうことで、将来
自衛艦「やまと」が生まれる可能性を潰したくなかった防衛庁の意向を受け(多分)
対象から外されました。


一般公募の結果を全く無視する形で(笑)人気投票で7位以内にも入らなかった
「しらせ」に最終的に艦名が決まったのは、白瀬矗中尉の功績を讃える意味で
この名前を採用してほしい願う人々の熱心な請願があったからと聞いたことがあります。

自衛艦には人名は命名しない、という基準も、「白瀬氷河」とつけられた
巨大氷河が昭和基地の近くに存在することで一件落着となりました。

 

ちなみにこの胸像は、白瀬隊が南極点からの帰りにニュージーランドの
ウェリントン港に寄港してから95年目となる2007年に、
白瀬南極探検隊記念館からカンタベリー博物館に永久貸与されたものの複製だそうですが、
こうしてわざわざブロンズ像を飾っているところを見ると、
「しらせ」とは他ならぬ白瀬矗中尉その人の名前から命名されている、
つまり命名基準はこの場合「建前」であることを自衛隊は全く隠す気がないようです(笑)


さて、我々は「運動一流我が航跡に続け」状態で、一階上に当たる
上甲板の格納庫まで案内されました。
そこで「しらせ」の艦上レセプションが行われるのです。


続く。 




動揺〜砕氷艦「しらせ」艦上レセプション

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 砕氷艦「しらせ」艦上で行われたレセプション。
甲板にはここぞと「南極の石」がディスプレイしてあります。
ディスプレイ用の台は、石の形状を考慮して設計された模様。

レセプション開始の時間になりました。
案内の自衛官に連れられて、わたしたちは一列になり、
待機していた食堂から格納庫までの通路を歩いていきます。
立ち止まるわけにいかないので写真はこれしか撮ってません。

なんというか、究極の無機質な空間という感じ。
普通の自衛艦と違うのは、薄いブルーの壁の色かもしれません。

顔にマスクをかけなくてもいいように、カメラの設定を工夫して
画像をボケさせてみました。(大嘘)

格納庫のレセプション会場入り口では呉地方総監夫妻がお迎えしてくださいます。

海軍軍人というのは上に行けばいくほど外交官のような役目を期待されます。

この席上、海将が昔英国の王立国防大学に留学した時の話を伺ったのですが、
その当時ヨーロッパの若い各国軍人たちの中での日本という国の知名度は大変低く、

「日本?それ中国の一地方?」

みたいな反応をされ、ショックを受けた海将は、これではいかん!と
皆の前で例えば天ぷらを揚げたり着物を着たり(これは聞いてないけど多分)して
日本文化のアピールにこれ努められたということです。

「じゃあその頃の学生たちは今ではそれぞれの国で偉くなって・・」

「その時のドイツからの留学生は、今防衛大臣です」

今ではこんなアピールの必要もないくらい、日本文化は「イケてる」とされ、
例えばそのドイツなどでも「ヤーパンデイ」は大変盛況であると聞きます。
息子がオンラインゲームで「日本人だ」というと、返ってくる返事は必ず

「COOL !」

しかし、海将の留学時代にはインターネットも普及していませんから、
今思う以上に文化の断絶というのは大きく、 日本という国の存在感そのものが
特にイギリスでは小さかったのだと思われます。

(イギリス軍人のくせに、初めて自分とこの戦艦を沈めたアジアの国を知らない、
ってのはさすがに当人に問題があるような気がしますが)

そんな中、若き日の海将が一介の軍留学生の身ながら、「日本の代表」
であるという自覚と責任感の元に外交的役割を果たしてくださったことに、
わたしは今更ながら感謝の念を抱きました。


余談ですが、当然国際プロトコルにおける社交は全て夫婦単位になりますから、
将官はもちろん、駐在武官になるような優秀な自衛官は、それ相応の女性を
奥さんに選ばないといけないんだろうなあ、といつも一緒にこういう場に立たれる
呉地方総監夫人のお姿を拝見するたびに思います。

さらにいうと「奥さんがどんな人か」でその自衛官に対する評価というのは
微妙に変わってくるというのは周りの話を聞いていて感じることです。
 

格納庫に並べられたテーブルの周りに人が集まっていますが、
「ぶんご」や「かしま」と比べて全体的に人が少ない気がします。

「しらせ」の厨房で作られたご馳走の数々。

お刺身の船盛には「しらせ」と旗を立てるのは海自のお約束。
もしかしたらこの「艦名船盛」、海軍時代からの伝統だったりして。

格納庫には紅白の幕が張られ、国旗と自衛艦旗が中央に掲げられています。

格納庫の天井の高さには驚かされました。
「しらせ」は砕氷艦としても世界最大クラスなのだそうです。

甲板に「南極の石」が置かれているほかは何もないスペースになっていました。
甲板越しに高速道路とポートライナーの線路が美しく浮かび上がります。

甲板からは探照灯を真上に向けて4つ照らし、光の「柱」を形作るという、
自衛艦らしい派手ではないけれども小憎い演出もありました。

そしてレセプション開始。
呉地方総監池海将が、ご挨拶と「しらせ」の紹介を行いました。

最初に、

「しらせは『砕氷艦』です。『砕氷船』ではありません」

とおっしゃった時、横にいたTOが

「砕氷艦と砕氷船って何が違うの」

と聞くので

「自衛”艦”だから砕氷艦ってことなんじゃない?」

と答えましたが、そういうことですよね?

パンフレットの「しらせ」構造図より。

万が一氷山が外側を傷つけることがあっても大丈夫なように
船殻構造が二重構造になっています。
またビルジキールがないことで先代の「しらせ」の動揺が激しかった、
という話をしましたが、これを見ると、二代め「しらせ」には

「減瑶タンク」

と称するものが装備されています。
このタンクによって船体の重心を移動させ、揺れを抑える仕組みだそうですが、
彼らの目的地である南極の周りには数多く暴風圏が出現するので、
こんなものではとても実際の揺れを防ぐというわけにはいかないとのことです。

「しらせ」は本年度、11月(14日)に日本を出発し、12月に昭和基地付近に到着。
そして半年後、帰国します。

神戸市長久元喜造氏のご挨拶。
今プロフィールを見たら地元灘高卒東大での官僚出身政治家でした。

続いては第六代「しらせ」艦長宮崎好司一等海佐の挨拶兼決意表明。

宮崎艦長は今年の7月に艦長に着任したばかりで、当然ながら
今度の任務が艦長としての「初南極体験」ということになるそうです。

「家族とは今でも半年に一回会えるかどうかです」

海上自衛官の奥さんって、ほんと大変だ・・・。
前回書いたように、

「南極に行ったら人生観変わりませんか?」

という質問に対して、変わります、と答えた宮崎一佐ですが、
それはどのように?とさらに聞いてみると、

「まず、一人では何もできないということです。
人間一人の力なんて小さなものなので、協力し合わないと何もできません」

「それから、日本で暮らしている時の悩みなんてものが
いかに小さいことであるかを実感します。
特にテレビなんかでやっているニュースの類ですね。
本当にあんなものはくだらない、という境地になります」

あれ?
でも7月に艦長就任ということはまだ南極行ったことがないんじゃあ・・。

実は艦長の前職は海幕で、

防衛部運用支援課
南極観測支援班長

という役職についています。
「しらせ」の歴代艦長の前歴を見るとほぼ全員が同じこの配置なので、
艦長として南極に行く下準備みたいなことを行うんでしょう。

つまり南極のなんたるかはすでにバーチャル実感されているということのようです。


この艦長もそうですが、「しらせ」の乗組員は希望を出して配置される人が多く、
乗組が決まった時には「やった!」という気持ちになるんだそうです。

「やっぱり、南極行ってみたいじゃないですか」

レセプション会場でお話しした三尉もこのように言っていました。
一般人は一生行くことのできない南極に南極観測員以外で行けるのは、
実は自衛官だけである、というこの事実にわたしは今回初めて気がつきました。

というわけで、

一生に一度は南極に行ってみたいという君、ぜひ自衛隊へ!

(宣伝)

艦長にはペンギンさんのことも聞いてみましたよ。

「近寄ってくるってほんとですか?」

「きます。でも5m以内に近寄っちゃダメなんです」

じゃあれか、近づいてきたらニゲロ!って追いかけっこになったりするのか。
あーうらやましい。うらやましいぞおお!

地元である中部方面隊総監、岸川陸将がご挨拶されました。
存じ上げている陸将補とついこの前まで防大教官という配置で一緒だったり、
そのほかにもいくつか偶然でニアミスしていることがわかって少し盛り上がりました。

陸自からは兵庫地本の本部長である一佐も来ておられました。
本部長は最近の自衛官応募状況について

「求人有効倍率が高くなったのでなかなか難しいものがあります」

とおっしゃっておられました(´・ω・`)

地本的には「しらせ」公開をなんとか応募に結びつけたいところです。

挨拶の間、床にこれがあったので撮りました。ってか何?

殻付きのウニなんてあったのか・・・食べればよかった。

パーティーのBGM担当は、呉音楽隊の有志によるジャズバンド、
同じみ(わたしにとっては)「マリーン・ナイツ」(ナイトはKnightの方)。

何度か彼らの演奏jは聞かせていただいてますが、選曲が通好みでなかなか渋い。
「ST. THOMAS」とか、「THERE'S A SMALL HOTEL」とか。

最後の方、さりげにご当地ソング「そして神戸」を演奏していたのにはウケました。

これが「しらせ」カレー!

ご飯が「コーヒーライス」か「ガーリックライス」が選べました。
コーヒーライスはおそらくコーヒーを入れて炊いているはず。
カレールーはまったり系で極まろ(やか)でした。

カレーをよそっていたのが女性隊員だったのでこの方に聞いて見ると、
「しらせ」には

「士官が三人、兵隊が八人乗ってます」(ホントーにこう言った)

だそうです。

広い甲板に参加人数が少ないので、甲板はいつもこの状態。

ところで、このレセプション席上、ある司令に名刺を渡した途端、
どうしてわかったのか、当方がネイ恋のブログ主であることを看破されました。

「ブログやってますよね?」

「いやー・・人違いじゃないですか」(震え声)

一応否定してみたのですが、なぜか司令ったら妙に確信的に会話を進めてくるので、
わたしもじきに観念して、

「ということはお読みになったことが・・・?」

「それどころかもう5年くらい前から読んでます」

 

当ブログ、開設して7年ですので、ほぼ初期からの読者ってことになります。
さらに、

「他の自衛官で『エリス中尉』の名前の由来を知ってる人はいましたか?」

と妙〜に踏み込んでこられるではないですか。
思わず動揺でクラクラしながら、(ちなみに艦の動揺は全く感じられませんでした)

「いえ・・(そもそもその話が出るのは初めてです)」

エリス中尉がTVドラマ「謎の円盤UFO」のルテナン・ゲイ・エリスであることを
わたしはこれまでコメント欄以外で説明したことはなかったのですが、
やっぱりわかる人はわかっておられるんですね。って当たり前か。

「なんでその名前にしたんですか」

中尉、とついた女性キャラなら実はなんでもよかったんです。

・・・・とは言えませんでした。
実は結構いい加減なネーミングなんです司令。

 

天ぷらも、並ばずに揚がるのを待って出来立てをいただく天ぷら屋カウンター状態。
キスとアスパラの天ぷら、美味しかったです。

ここで「しらせ」の調理長が紹介され、ご挨拶をされました。
記憶に間違いがなければ、もう10年くらい「しらせ」に乗っているそうです。

「しらせで調理長をなさるくらいだから腕が良いんでしょうね」

あとで艦長にお聞きすると、

「食事は特に大事ですから、特に優秀な調理長を引っ張ってきました」


海上自衛隊というところは、みんながみんな「うちは特に食事が大事」といって
優秀な調理員を血眼で取り合っているのではないか、とふと思いました。

「しらせ」で食事が特に大事であることに異論はありませんが。

呉地方総監は天幕の向こうまで調理長を送っていかれました。
皆の見ていないところでもお礼をいっておられたようです。

そうしてあっという間にお開きの時間となり、
わたしたちは飛行機の時間があるので最初に「しらせ」を降りました。

ラッタルの下には水兵さんたちが堵列を作ってお見送りしてくれ、
女性隊員が手を差し出して、最後の段を降りるのを助けてくれます。

「しらせ」の女性隊員については産経新聞が去年取材して記事にしていますので、
興味があればぜひご覧ください。

【砕氷艦しらせ 女性自衛官に聞く】


「しらせ」は11月15日に出発後、オーストラリアのフリーマントルに寄港して
燃料や生鮮食料などを搭載してから南極に向かいます。

航海中には海洋生物や水質の調査、実験の補助を行い、南極大陸到着後は、
観測支援に加え観測棟など建物の設営など、観測隊とともに任務を行います。

自衛艦や海自の基地で行われるレセプションで振舞われるお酒は、
このような升でいただくのですが、これは記念にいただくことができます。

この日アテンドしてくださった一佐が、なくならないうちに、
とお酒を飲まないわたしたちに升だけ持ってきてくださいました。
海外レセプション用に英文でも艦名が刻まれています。

これ、名刺を整理しておくのに便利なんですよねー。

氷の中を進む「しらせ」の艦首と搭載ヘリ、
コウテイペンギンを対であしらったマークです。

こちらは飛翔する(というか泳いでる)アデリーペンギンを使用。
やっぱり「しらせ」のシンボルはペンギンなのね・・・。

9/21皇帝ペンギン昭和基地来訪1

映像に「やばいちょっと近づいて来たやばい」というのと

「怖い。ちょっと怖い」

という音声が入っています(笑)

というわけで南極で生ペンギンに遭遇したいという方も、とりあえずは自衛隊へ!(宣伝)

 

 

終わり

 

 

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