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小池百合子劇場

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山尾志桜里議員の不倫騒動をきっかけに、森友、加計問題で
マスゴミと一緒になって政府を半年以上責め立てていた民進党が
あっさりと政府より先に瓦解してしまいました。

まさに事実は小説よりも奇なり。

新代表になった前原誠司議員が

「自分は無所属で出る、民進党は役割を終えた」

とか言ったという今朝のニュースを見たとき、わたしはおもわず
声をあげて笑ってしまったもんですよ。

さらに、一足先に離党して希望の党に拾ってもらった細野豪志議員が
なぜか偉そうに民進党は選別してとか全員入れないとか言っているのを見て
つい蜘蛛の糸のカンダタを想像したので辛抱たまらなくなり(笑)
今日は久しぶりに政治ネタで絵を描いてみました。

しかもかわいそうなことに、9月29日現在で、公認候補の調整も、政党公約も、
希望の党側は全て若狭氏が行うということで、細野さんはつまり
自分で思っているほど希望の党では偉くないらしいことが判明。

まあ、まだ蜘蛛の糸は切られてないみたいですけど。

 

しかし今回民進党ってのは政治信念なんて何もない連中の吹き溜まりだったんだ、
とつくづく認識させられました。

昨日まで「戦争法」「共謀罪」反対、ってポスター持ってやってた連中が、
希望の党に拾ってもらうために(というか議員バッジを外したくないために)

「実はぼくちん改憲派で〜〜す」

って、恥ずかしくないんですか。
ほらそこの柚木、お前のことだ。

 

選挙のために赤い小池の共産党とも手を組もうとしていたくらいだから、
緑の小池と組むのなんてなんとも思っとらんのでしょうが、
しかも、「トロイの木馬」なんぞと嘯き、選挙に通った暁には
希望の党を第二民進党にするつもりだと公言している輩もいるらしい。

ほらそこの有田、お前のことだ。

 

かつてメディアに騙されて鳩山民主党に政権を取らせたという
黒歴史が日本国民にはありました。
しかしその民主政権の、特に震災対応におけるあまりの酷さに目が覚め、
さらに今回の森友加計問題で倒閣を目論むメディアの異様さに気づき、

「メディアの推す逆を選択すれば正解」

ということを今や多くが学んでしまったように思えます。

今後小池希望党が頭数のために政治理念の異なる民進党議員を受け入れれば、
きっとメディアは偽装民進党主体の希望の党で「政権交代」を夢見て、
2009年よもう一度、とばかりさらに偏向報道に舵を切ってくるでしょう。

問題はそれに騙される国民が前と同じくらいいるかどうかですが、
こんなことをレクチャーしてくれる人も今はいますしね。

マスコミが疑惑だけで罪人を作る三つの方法

民主党政権が生まれた日、わたしは日本国民ってもしかして
バカばかりなんじゃないのか、と絶望的になったものですが、
さすがにマスコミのやりすぎは一般人にも気づくところとなり、
多くが学んだことであろうと今ではなんとか思っています。

しかし、万が一、希望の党が第1党になったとしても、
改憲は規定事項となるわけだけど、マスコミさん的にはどうなんだろう。

とにかく

「アベでなければいい!(潰すのが簡単だから)」

ってことなのかな(笑)

 

 

 


痛バスと痛トラック〜第五十七回 全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト

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先週末、お台場のビッグサイトで開催された模型ホビーショーに、
またしてもご招待を受けて行ってまいりました。

本当は業者招待の金曜日に行けば駐車場も空いていたのですが、
どうしても外せない用事があって一般招待の土曜日に行くことになりました。

車を近隣のビルの駐車場に入れたので、初めてこのエントランスから入場しました。

年一度秋に行われる模型玩具の見本市であるホビーショー、
今年でなんと57年目を迎えるということになります。

会場は今回二箇所に別れていて、まずイベントステージのある方に進むと、
ガールズパンツァーらしきコーナーがありました・・・・が、
これはどう見ても旧ソ連のそり。

ガルパンコーナーにはなぜか果物とか野菜を売る店が出ていました。

去年も展示されていたプロモデラー奥川泰弘氏のジオラマ作品展から
見学することにしました。

これ自体が壁掛けになっている小さなジオラマ。
カリフォルニア州旗がペイントされている木の壁がいい具合に剥げています。

オート三輪のあるイギリスのパブの光景。
後ろが一輪で前が二輪の車です。

手前をぼかして本物っぽく撮る工夫をしてみました。
建物は公衆トイレではなく「バードソング」というバーです。

手前をぼかす設定のまま撮ってしまってこれは失敗(笑)

いかにもアメリカの農場主、なおじさんとトラクター。

フレームアームズガールというのはコトブキヤが出しているロボットの
プラモデルの「スピンオフ」というか擬人化イラストで、それを
バスに塗装した「痛バス」がそのまま展示されていました。

痛バスをバックに自分のモデル(ガンダムらしい)を
記念撮影していた人。

 

これでふと思い出したのですが、最近、自衛隊のイベントや研修会で、
自分のシンボルというか、トレードマークとしているらしいぬいぐるみ、
(あるいは自分のアバター?)をこういう場所に持参し、
自衛官に持たせて写真を撮っている人(100%女性)をよく見かけます。

わたしも、SNSにアップするために、自分の食べるものをすべて
小さなぬいぐるみと一緒に記録している人を一人知ってますが、
一人で楽しみとしてやっているだけならともかく、自己承認欲求のために
頼まれるとノーと言えない自衛官を顔出しでそんなことに使うのはどうなんだろう。

見て見て!
自衛官とわたしの〇〇(ぬいぐるみの名前)の取り合わせ!
このギャップが微笑ましいでしょ!

なんて嬉しがるのは自衛官に対する敬意が感じられないというか、
むしろ失礼?と思うのは、わたしのアタマがお堅いんでしょうか。



あきらかに戦記物の単行本の表紙で見覚えのあるタッチです。
ミリタリーアートの画家、生頼範義氏の原画ギャラリーがありました。

プラモにそう興味がなくても、こういうコーナーがあるので
十分楽しめるのが模型ホビーショーです。

会場でいただいたパンフレットに男性の顔があり、さらにカウンターに
そっくりな人が座っていたのでその人を生瀬氏だと思い込んでいたのですが、
ご招待くださったハセガワの方に聞くと、生瀬氏はもう2年前に他界されたこと、
生瀬氏の自画像だと思っていたのはジャンボ尾崎の肖像画だったことを知りました。

あっぶねー。
もう少しでその人にサインくださいっていうところだったぜ。

というくらい素晴らしい作品群だったのですが、アクリルのケース越しでは
写真もうまく写らず、ここにアップすることは断念しました。

さて、通路を隔てて反対側の会場は、各社展示となります。
入るとすぐ東京マルイというエアガンの会社の展示があります。

男子(とか元男子)が群がるようにお試しをしていました。
各展示ブースの上空に的があってそれに向かって撃つことができます。

製品のポスターを展示してあるコーナーから。

豆戦車って何!

とワクワクしながらググったら、

「軽戦車よりさらに小型・軽量・軽装備な戦車。
タンケッテ(Tankette)や豆タンクとも呼ばれる」

ということがわかりました。
ソフトスキンなのでガチンコで戦った場合には生存率は大変低かったようですが、
この九四式軽装甲車は、九二式重装甲車、九七式軽装甲車とともに
日中戦争でかなり有効だったとされています。

わたしはこれも一種の豆戦車?と思っていたのですが、
上に乗るんじゃ装甲の意味全くないですよね。

鹵獲したドイツ軍の自走地雷「ゴリアテ」で遊ぶアメリカ軍の人。

ゴリアテは11センチくらいの段差すら越えることができず、
しかも遠隔とはいえケーブル式なのでそれ切られたら終わり。
しかも費用が結構高く、ドイツでもなんのために作ったの?感満載だったとか。

まあ可愛いから許してあげよう。

ピットロードという会社の「真実の大和」というモデル。

模型会社で大和を出していないところはないと思いますが、
当社は呉市が行った海底の大和の調査結果を製品に反映させているそうです。

手前の「はるな」来年の三月に竣工、就役予定の「あさひ」のモデルがもう出ています。

「あきづき」の体験航海が終わって上陸するとき、工事中の「あさひ」の横に
メザシ状態で接舷してくれたので、甲板を通って岸壁に降りました。

おかげでわたしは「あさひ」の甲板を歩いた最初の民間人のうちの一人になれました。
(結構自慢)

このホビーショーに来ると、世の中にはどんなマイナーに見えることでも興味を持ち、
それを趣味にしている人が一定数いるんだなと改めて感心します。

エンジンの模型(もちろん実際に動く)専門店。

会場の片隅には、模型パーツのバラ売りコーナーがあり、多くの人が
熱心に「お宝」を商品に入れていました。

このコーナー、その名も

「お宝発見!ジャンク市2017」。

模型業界大手、タミヤのコーナー。

コルセアの大型モデル。

眼下に見えているのはラバウルのタブルブル山ではないでしょうか。
ラバウル攻撃をして意気揚々と帰還するところかもしれません。

F4U はこの夏見学した「ミッドウェイ」の艦載機でもあります。
キットで14,800円って結構いいお値段ですね。

ドイツ国防軍戦車兵セット。

戦車兵と士官のモデルは双眼鏡やホルスターなど細部まで表現され、
士官の帽子も野戦帽とサイドキャップから選べてお得です。

電波安全協会のコーナーには、何をするわけでもなく暇そうな感じで
左下に見えているキャップをかぶったおじさんが座っていました。

電波のルールを守るようにデーモン小暮閣下が熱く訴えているのは
総務省がこの6月に打ち出した

電波利用環境保護周知啓発強化期間

の周知ポスターです。
主に不法無線局を取り締まるのが目的みたいです。

模型といえばジオラマ。
息子と一緒に学校の課題であるジオラマを作るために、
ジオラマ模型専門の会社訪問までしたわたしとしては、未だに
この用の風景ジオラマを発見すると細部までまじまじと見てしまいます。

たいていのジオラマは鉄道模型のためのもので、メインではないのですが。

あのー、学校の校庭に人が転々と倒れているんですが・・・・。

新旧色々並んだ車のコーナー。確かABCホビーだったかと思います。
右上のパトカーはライトが点滅していました。

ハセガワさんに聞いたところ、模型を作るには基本車なら車の会社に
デザイン使用料の支払いが発生しますが、パトカーなども
トヨタならトヨタにその許可を得るんだそうです。

お城の模型を主力商品にしている会社(ウッディ・ジョー)もあります。

今息子が江戸時代のことをペーパーに書いていて、資料の中から
当時の城の設計図を見せてくれましたが、これどうやって書いたの?ってくらい
線が緻密で間違いがないので驚いてしまいました。

同社商品、浅草浅草寺の雷門。

日本化線というワイヤアートの専門会社の商品で、「仮面ライダー」。

針金工場としてスタートした同社は産業用だけでなく、このような
カラーワイヤーでのクラフトを提案しているそうです。

ブースの前では

「今ワイヤーがお安いです〜」

とお店の人が叫んでいましたが、安いと言われてワイヤー買う人がいるかしら。
これとんでもなく敷居が高いものなんじゃないのか。

この会社ではなんと盆栽を模型にして売っております。
ちっちゃな剪定ばさみが付いているということは、
剪定を自分でするってことなんだろうなあ・・・。

動物のフィギュアをメイン商品にしている会社も。

そうりゅう型潜水艦塗装前。

バンダイのコーナーはいつもスクリーン展示が多い。
ガンダムシリーズの新作らしいビデオが流れていて、ファンらしい男性が
ずっと熱心に見ていました。

スターウォーズのコーナーもここです。

模型にデコトラというジャンルがあるとは知らなんだ。

このキンキラキンのデコトラは、「女のなんとか〜」「あなたのために〜」
「耐えて尽くします〜」みたいな内容の演歌をBGMにぐるぐる回っていました。

警察が電飾などの取り締まりを強化したり、またこういうデコレーションが
ヤクザっぽいとか反社会的という目で見る傾向のある企業などが
眉をひそめたことから、デコトラのブームは下火になりましたが、最近では
こういうのがキッチュで面白いと模型業界では受け入れられているようです。

最近は「萌え」を取り入れた「痛トラック」も出現しているそうです。
これば別の意味で眉をひそめられそうだなあ。

模型ショーに来る楽しみは、こういう妙なコンセプトの模型に遭遇できることです。

昔は日本のどこでも見ることができたエレベーターなしアパート。
JRの職員住宅がちょうどこんな感じで、何人か友達が住んでいたりしました。
それを、自転車置き場付きで模型にしてしまうという・・・。

はっきり言って、皆同じ種類の布団ばさみで干した布団がリアリティを損ねてます。
わたしとしては人が退去して廃墟となった建物を再現して欲しいです。

 

 

後半に続く。

 



 

海底軍艦!〜第五十七回全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト

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模型ショーですら一日で紹介が終わらないというこのブログの
微に入り細に入り体質、自分でもなんとかしたいのですが、
あれもご紹介したいこれもご紹介したいとアップしていると、
あっという間に1日分のログを消化してしまいます。

というわけで模型ホビーショーのお話二日目。

前回、コルセアのパッケージの下に見えているのがラバウルでは?
と書いた件ですが、この機体は硫黄島の時に運用されていたものであり、
したがって下に見えている山は摺鉢山である、
というウンチク裏メールをいただきましたので、こっそり訂正しておきます。


さて、前回も申しましたように、今年のホビーショーも、模型業界大手、
ハセガワさんにご招待をいただきましたので、冒頭写真には
今年のハセガワのイチオシ商品をあげさせていただくことにしました。

11月に発売される新金型で、450分の1スケールの「ひゅうが」です。

「ひゅうが」といえば、まだ就役してまもない頃、彼女に取って初めての、
そしてわたしに取っても初めての観艦式で載せていただいたということで
個人的に大変親しみを覚えているヘリ搭載型護衛艦のネームシップです。

実はこのモデルには、ちょっとだけですがわたし自身に関係があります。

このモデル開発に当たっては同社は実際に同型のヘリ搭載型艦を見学し、
その結果が反映されているのですが、視察をするに当たって紹介の労を取られた、
海自の現場に強いパイプを持っておられるアマチュアモデラーさんは、
わたしが昔ハセガワさんにご紹介したという縁があるのです。

どこがそうなのか具体的には全くわかりませんが、ともかくわたしの行為が
この製品の出来栄えに多少なりとも影響しているってことなんだな。

大変光栄なことだし、何より嬉しいではないですか。
もしわたしがモデラーなら絶対買ってしまう。

というか誰かに作ってもらって飾っておきたいぞ。

「ひゅうが」の向かいには三番艦「かが」がおりましたが、
この甲板の上に・・・・

おい(笑)

ちなみにF35は「かが」キットに含まれていますし、
さらに「ひゅうが」搭載機にはさりげなくオスプレイが付いてきます。

オスプレイはソフトバンク?か何かの解説本に合わせて
モデルが発売されるようです。

今年の観閲式は空自で、百里基地で行われることになりますが、
その上空にこれが飛んできてくれるなどということは・・・・?

「わたしがハセガワさんに紹介した人情報」によると、
2017年の三月までに4機調達ということなので、まだ無理っぽい。

こちらも新金型の駆逐艦「朝潮」「峯雲」700分の1。

ウォーターラインモデルです。

模型業界では昔一度でて何十年も金型を変えていないものを
新しく作り変えて行くという風に商品を入れ替えて行くようです。

海外の会社と提携してモデルを輸入することもするそうです。
このフォードのモデルにはフォード(左)とそのチームのフィギュア付き。

ICMというクロアチアの会社だそうです。

ヨーロッパの会社ならではの製品ラインナップ。
ソ連のポリカルポフI-16だそうですが、これは
中国軍なども使用していたようです。

(かっこわるっ)

いや、前から見るとちょっと可愛いかもしれなし。

しかもこう見えて世界で最初にワイヤ駆動で作動する引き込み脚を搭載し、
速度は配備当時世界最速だったそうですから、根強いファンもいるかも?

ちなみに海外の会社とのおつきあいについては、やはり圧倒的に
アメリカとドイツの会社というのが信頼度が高いそうです。

「特に何かトラブルが起こった時の対処というのが大きく違います」

ハセガワさんが特に力を入れているのが根強いファンを持つ漫画とのコラボ。
これらを「クリエーターモデル」と称しているようです。

 「エリア88」のX-29風間真モデル。
後ろのミッキー・サイモンのトムキャットとは関係ありません。

こちらはサーブJ35Jドラケン(ドラゴンの意)風間真モデル。
これも新しい製品です。

おなじみキャプテンハーロックのアルカディア二番艦も
松本零士先生のイラストパッケージによる発売だそうです。

ハセガワにはこんなラインナップも。
懐かしの学校机と椅子、跳び箱にスチール机・・。

ちなみに前回にも言いましたが、「艦これ」ブームが売り上げに影響を与えたのも
最大風速的な一瞬だったようで(ゲームする人≒モデラーだからでしょう)、
ハセガワさんの今の主力商品は何かと伺ってみたところ、それは車だそうです。

「しかも、昔のタイプの車がよくでます」

「やっぱりノスタルジーみたいなところで?」

「それもありますが、私は昔のデザインの方がよくできてるなと思うんですよね」

というわけで、セリカGT。

しばらく車談義をしていたのですが、ふと見覚えのあるBMW発見。

「318i・・・あれ、これって・・」

「20年くらい前の型ですね」

ということは、わたしが初めて自分で買った記念すべきビーエムではないですかー!

このビーエムに到るまで、家の車に始まって国産車を4台矢継ぎ早に乗り換え、
(そのうち一台は東名高速御殿場付近でスクラップにして)やっとこれで
自分の車を見つけた!という満足を持ってアメリカに行くまで乗っていました。

あー懐かしいなあ。

わたしが模型を作る趣味があれば、やっぱりこれも買っちゃうかも・・。
というか誰か作ってくれるのならばぜひグレーガンメタ塗装でお願いしたい。

ビンテージモデルに女性のフィギュアをつけた新しい戦略、とのことです。
女性の服の色などは自分で好きなように塗装できます。

そのスタイルで衝撃的なデビューをしたマツダコスモ。

こちらトヨタの2000GTだったかな。

車といえば他社製品にこんなものも。
科学特捜隊だからと言って特別に仕掛けがある車に乗っているわけではなさそう。

てかなんで左ハンドルなんだ?

船といえばこれも業界大手のアオシマにはこんなものもありました。
第27漁栄丸は実在ではなく模型の世界だけに存在するイカ釣り船です。

旭日の大漁旗が見えていますね。

 

フィギュアがついているとつい立ち止まって写真を撮ってしまいます。
四一式山砲と山砲兵たち。

将校付きの陸軍のトラック。後ろの戦車は「ノモンハン」だそうです。

フィギュアはフィギュアでもわたしはこういうのには興味なし。

同じ会社の製品でリヴァイ兵長発見。

ところで防大漫画「あおざくら」のサカキ部屋長って、この人を思い出しませんか?

さすがは日本の模型会社、鎧兜のシリーズがあります。
外人さんへのお土産にも良さそう。

トムキャットのコクピットシートとヘルメット実物。

軍艦モデルを飾るためのとんでもない特殊ケースがありました。
なんと、ホログラムで戦闘シーンが一定時間再現されます。

主砲が火を噴く瞬間。

と思ったら今度はやられてるし。

「勝ちモードだけ」

とか選択できるんだったらすごいなあ。

ウォーターラインの軍艦ラインナップが異常にに充実している会社です。
中央に三笠がいますね。

最後に宮崎駿作品をジオラマにしたコーナーを見て終わりです。
「千と千尋」の世界を立体的に作り上げたもので、
電車の止まっている駅には千尋とカオナシがいます。

 

ところで、わたしが今回のホビーショーで個人的にウケたモデルは実はこれでした。

この独特なロゴも懐かしい、海底軍艦、轟天号がなんとモデル化されてました!
当ブログで映画「海底軍艦」を取り上げた時にはそれは盛り上がったものですよ。

しかもですね、この轟天号、先っちょのドリルが実際に回ってるんです。
ちゃんと土層を掘り進むことができるように、ドリルの先にはミツマタの
やりみたいなのが装着されていてなんだか強そう!

あーなんなの。この人ごととは思えない心のときめきは。

LEDランプが点灯!
ドリル回転!
水平翼、尾翼、艦橋が収納可能!

うーむ、これはおそらく空を飛ぶ時の(そう、飛ぶんですよ海底軍艦なのに)
モードだと思うんだけど、まさか艦橋まで収納式だったとは・・・。
収納されている時の艦橋の内部って、一体どうなる設定なのこれ。


ところで、あの映画製作時、このレベルのモデルを作ることができて、
撮影にに使うことができていたら、特撮のレベルはとんでもなく
クォリティの高い作品になっていたんだろうなあ・・。

今やCGの出現で特撮の概念も変わってしまいました。
ノーラン監督のように「信念」を持ってそれを拒否するというクリエイターでない限り、
CGをごく当たり前の映画技法として取り入れているのが現状です。

つくづく、五十余年の歳月は物事を大きく変えたと思わずにはいられません。

 

というわけで、モデラーでないわたしも大いに楽しめたホビーショーでした。
ご招待いただきましたハセガワ様に心から御礼申し上げます。

 

 

 

CICと「レンズマン」の関係〜 USS「ミッドウェイ」博物艦

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サンディエゴで展示艦となっているの空母「ミッドウェイ」。
去年と今年、2年にわたって見学してきましたのでご報告しています。

チケットはインターネットでの前売りもありますが、このブースで並んで購入します。
西海岸でおそらく最も人が多く訪れる記念艦だけあって大変な混雑でした。

わたしたちを連れていってくれたサンディエゴ在住の知人ジョアンナは、
前売りをネットで買ったようですが、結局窓口でチケットをもらっていました。
前売りで買うとおそらく少し安くなったのかもしれません。

「MIDWAY MUSEUM」という字があるのがフライトデッキの階、
その上のデッキに並んでいるのは、艦橋デッキを見学する人たちでしょう。

 

さて、「ミッドウェイ」の艦内に入り、右側から見学を開始した我々は、
まず「ミッドウェイ」の名前の元となったミッドウェイ海戦についての展示を見、
それから艦首部分へと進んで、「フォクスル」(Forecastle)と呼ばれる部分で
アンカーチェーンを見学しました。

さらに進んでいくと、CIC、戦闘指揮所が現れました。

 CIC、コンバット・インフォメーション・センター、戦闘指揮所は、
軍艦の「タクティカル・センター」(戦術中心)のことです。

CICはレーダーやソナー、通信によって集められた情報が集約される場所で、
自艦の状態を把握し、それに基づく指揮・発令を行うところです。

いわば艦の頭脳であるCICを失うと軍艦はその瞬間機能しなくなります。
故にどこの国でもこのCICは特に堅牢な作りに守られています。

我が自衛隊でもCICを「クリーンC」として頑丈に作っている、ということですが、
残念ながらこの「クリーンC」が何を意味するのかはわかりませんでした。

それはともかく、マイケル・ベイの「ザ・ラストシップ」と「バトルシップ」では
敵が攻撃してきた時、首脳幹部が全員艦橋にいてやられてしまうのですが、
前にもいったように特に現代の軍艦ではこれはありえないことで、
特に艦長たるものは、戦闘時に戦闘指揮所にいてしかるべきなのです。

艦橋から戦闘の様子を双眼鏡で眺める艦長、というのは肉眼で全て把握できた
第二次世界大戦までしかありえない光景なのですが、どういうわけか、
現代の海軍を描いた映画で、フネが全滅する時には艦長は必ず艦橋にいます。

パネルやコンピュータの並んだ暗いところより、こちらの方が絵になるからでしょうか。

「ミッドウェイ」の就役は終戦直後の1945年9月10日です。
それから大々的な改装工事を施して生まれ変わっているので、彼女のことは
「1960年代の空母」というカテゴリで区切ってもいいかと思われます。

ごく初期のCICというのは、艦橋の隣のチャートルームでレーダーを操作し、
電話で連絡を取って集約した情報を元に艦長が命令を下す、というものでしたが、
「ミッドウェイ」改装の60年代になっても、情報処理には計算尺が使われていました。

今までご紹介してきたCICには、「ホーネット」しかり、「イントレピッド」しかり、
必ずこの左のレーダー画面のようなクリアボードがあったわけですが、
これは自艦(空母)の位置を円の中心として、情報を書き込んでいくためのものです。

まだこの時代は情報を人が紙とかボードに記録するという方法が取られていたのです。
ここにレーダー手は敵艦や敵編隊の位置・進行方向・数といった情報などを
手で書き込むことで情報を集約していました。

「ミッドウェイ」CICの展示のすごさは、全ての機器に電源を入れ、
周りをぐるりと囲んだクリアボードも当時のままにしてあることです。

しかも、レーダーなどの機器の前の椅子には誰でも座ることができ、
好きなように触って動かしてみることも可能なのです。

わたしも時間があればぜひやってみたかったのですが、諦めました。

白いキャップにブルーのシャツの人たちはボランティアの解説の方々。
CIC内部だけで二人も配置されていました。

手前の椅子は、艦長がここで指揮をとるときに座る場所だと思われます。

なぜか座っているのが女の子ばかり(笑)

このCICからクリアボードがなくなるのは、デジタルコンピュータによる
戦術情報処理装置が搭載されるようになって以降のことです。

CICというのはシステムとしては偉大な発明であり画期的な進歩でしたが、
レーダーと発光信号や手旗信号、原始的な無線機、たとえ熟練のオペレーターでも、
同時に処理できる目標はせいぜい12機程度が限界であることが、
CIC先進国であるイギリスの実験によってわかったのです。

ちなみに実験結果によると20機以上になるともう手も足も出ない状態でした。

わたしたちを連れてきてくれたジョアンナは、この歳になるまで
「ミッドウェイ」に限らずアメリカ海軍の展示を実際に見にきたことはないそうです。

東部名門大学のビジネススクールをでて長年不動産業で成功してきた彼女ですが、
こういう関係のことは多くのアメリカ人と同じく、ほとんど知りません。
しかし、知的好奇心の旺盛な人なので、ツァーガイドの録音を聴きながら
熱心に見学をしていました。

「オルデンドルフ」「キャロン」などの駆逐艦、原子力空母「ルーズベルト」、
戦艦「ミズーリ」、「ウィスコンシン」、フリゲート「ジャレット」・・・・。

「キスカ」は給兵艦、「レイテガルフ」はミサイル巡洋艦(CG)です。

余談ですが、アメリカって明らかに大チョンボだった戦地でも船の名前にしちゃうんだ、
例えばキスカとか、と思って、このことを人(いわゆるライトなミリオタ系)に話すと

「いや、アメリカ的にはあれ勝って島を占領したってことですから」

これを聞いてわたしは目から鱗が落ちるような気がしました。
一人の犠牲者もなく島から日本軍が脱出した後、アメリカ軍は上陸し、
まだ日本軍がいると思い込んであちらこちらで同士討ちになったのですが、
よく考えたら、ライトなミリオタさんのいう通りです。

アメリカにすれば「キスカ」は別に負けた場所ではない、と_φ(・_・

 


さて、写真のボードを見てみると、「4433」「1223」などの数字に
「PIF」とありますが、「F」はフォーメーションのことだろうなと思いつつも、
なんの略かは今回わかりませんでした。

ちなみに、「ルーズベルト」「レンジャー」の名前が見えるので、これはもしかしたら、

湾岸戦争の時のこの陣形なのかもしれません。

「ミッドウェイ」左上、「セオドア・ルーズベルト」右上、
「レンジャー」左下 「アメリカ」右下

アメリカ海軍の4隻の空母は、「砂漠の嵐作戦」の時にこのような陣形を組み、

「バトル・フォース・ズールー」(Battle Force Zulu)

として、おそらくですが威嚇のための航行を行いました。
ズールーってば、つまりあれですよね?
各員一斉奮闘努力せよ的な、後がない的な意味の『Z』ですよね?

「砂漠の嵐作戦」も大概だけど、つくづくアメリカさんって中二いやなんでもない。

しかし結構驚くのは、「ミッドウェイ」「レンジャー」「アメリカ」、
このようなご老体(退艦秒読み)と原子力空母が一緒に軍事行動を取ったということ。
おそらく三隻の老空母の「花道」としてのZ作戦だったんだろうと思いますが、
CICのシステムが違っても全く不都合はなかったらしいのに少し驚きます。

 

地図は紙。

もちろん今でも護衛艦には紙の地図があり、定規やコンパスで書き込むのですが、
海軍戦術情報システム( NTDS)と武器管制システムを統合した

ターター-D・システム

さらにはそれを発展させたイージスシステムの発明後は、
CICの大きなクリアボードは全てディスプレイに変わっていくことになります。

艦内の通信を全て電話で集約する、というのもこの時代のCICの特徴。

大きなスピーカーには各部署を表すインジケーターがあり、
光ったところのボタンを押すと、音声が聴ける仕組みです。

このレーダーのところにいた人は、かつてCICに勤務していたベテランでした。
ジョアンナが質問したので、説明してくれているところ。

おじさんも「砂漠の嵐」参加組でしょうか。

当時のCICの様子をマネキンで再現したコーナー。
この部分は立ち入り禁止になっていました。

手前の椅子には「トラックスーパーバイザー」とあります。
もしかしたらにこやかに佇んでいる人がスーパーバイザーでしょうか。

椅子の背中には役名が記されています。

こんなところに、というかこんなところだからこそコーヒーは欠かせない。
ってことで、ちゃんとコーヒーディスペンサーがCICの片隅に設置されてます。

自衛艦のCICはもちろん飲食禁止ですよね?

謎の記号の上には「L・L・エバンス」という艦長らしき写真。
ちょうど目のところが隠れていますが、イケメンの予感。

この画面にはパイロットの名前が書かれており、
甲板の様子をモニターする画面があるので、航空管制室だと思われます。

 

アメリカでCICの導入が検討されたのは、真珠湾攻撃がきっかけだったと言われます。
「情報を集約する場所から指揮をとる」というコンセプトを実際に
海戦に応用した最初の軍艦は、水上レーダーを装備してた駆逐艦「フレッチャー」で、
作戦を適用したワイリー少佐は、この功績によってシルバースターを授与されました。

その後CICコンセプトを一般に適用するためのプロジェクトをまとめたC・ラニング中佐は

「CICコンセプトの源流はサイエンスフィクション、たとえば『レンズマン』の
巨大なスペースシップ『ディレクトリ号』などからきている」

と語ったそうです。

原作の「レンズマン」はエドワード・エルガー・"ドク”・スミスが
1937年からシリーズで書いたサイエンスフィクションです。
もしかしたら、

「銀河パトロール隊」

というSF小説を子供の時に読んだという元男子もいますでしょうか。

Lensman Anime Film SF新世紀 レンズマン アニメ 

なんとその「レンズマン」ですが、1984年に当時バブル真っ只中だった日本さんが
アニメにしていたということがわかりました。

その後のSFものでは当たり前に出てくる戦闘指揮所における統制戦ですが、
最初にそれが描かれたのが1937年だったということには驚かされます。

「レンズマン」はレンズを腕にはめるよって特殊能力を使用でき、
例えば戦闘空間を知覚化することなどもできるのですが、その情報を元に
指揮官が戦闘を行う、という概念がすでにこの初期に登場しているのです。

アメリカでは誰でも知っている「レンズマン」で、スタッフは

「日本のアニメ、アメリカ堂々上陸!(あわよくば席巻)」

を目論んだのだのでしょう。
しかし残念ながら、アメリカ人は字幕で映画を観るという習慣を持たないため、
興行は結局失敗に終わったということです。

ちなみに、主題歌を歌っているのは現在も現役活動中のアルフィーです。

 

続く。

 

 

WHAT IS THE CAG ?〜空母「ミッドウェイ」

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「ミッドウェイ」博物艦の見学、CIC、戦闘指揮所を見終わったところから続きです。
ジュニアオフィサー、日本だと初級士官のクォーターにやって来ました。

初級とはいえ、士官ともなると待遇は下士官兵とは全く違って来ます。
まず、ベッドが2段。
目覚めた時にベッドの上で体を起こすことができる空間。
これが軍艦という極限の狭い空間ではどれほど贅沢なことであるか。

quartersというのは軍隊用語で「兵舎」を指しますが、海軍では
船の中の「区画」というような理解でいいのかと思われます。

ベッド下には収納引き出しが三つもついていて、下士官兵の
「棺桶ロッカー」とはえらい違いです。

しかも士官にはハンガーで洋服をかけるクローゼットも用意されていました。
ブルードレス、ホワイトドレス、そしてカーキと一年の制服が全て収納可。
クローゼット内に帽子をかけることもできました。

ところでアメリカ海軍でもアイロンがけは自分で行うのでしょうか。
あまりそういうイメージがないのですが、どなたかご存知ですか?

初級士官のJ・アサートンさんは、まだ新婚ホヤホヤ。
デスクの上扉には愛妻の写真が。
写真立てには結婚式で仲間の作るサーベルのトンネルを潜る新郎新婦。
まさに愛妻に手紙を書いている途中です。

アサートン氏の左手薬指にリングがあればもっとリアリティが出たのに残念。

士官用のデスクは中段が天板式で、私物はベッド下とこのデスクの上下の引き出し、
そしてクローゼットに収納します。

シャワーを浴び終わって体を拭きながら出てくる士官が!
アメリカ人は湯船に浸かるということに全く執着しないので、
船の中で場所を取る浴槽はまず見たことがありません。

が、日本人は肩までお湯に浸からなければお風呂に入った気がしない、
という文化なので、どんな小さな船にも浴槽が設置されていますし、
艦長の部屋に至っては専用のバスタブ付き。

もっとも「あきづき」の艦長はゆっくり湯船に浸かることなどない、
とおっしゃっていましたが、アメリカの海軍軍人が護衛艦のお風呂を見たら、

「軍艦にバスタブがあるのか!」

って結構なカルチャーショックを感じると思うんですよね。

さてまた次の展示まで移動です。

廊下を走っているコードの束がすごすぎ。

これが「ミッドウェイ」のフライトデッキ、甲板階。
艦首部分から「ゾーン1」「ゾーン2」と区画分けされています。

ちなみにこの甲板の形は「ミッドウェイ」の最終形で、

1945年に就役した当時は一番左のような形をしていました。
これだと艦橋が一体どこにあるのかってくらい小さいですね。

そして真ん中が1955年から57年にかけて行われた改装による変化。
この頃から斜めのアングルドデッキが設けられたので左に形が膨らみ、
さらに右舷に艦載機用のエレベーターが増設されました。
カタパルトも蒸気式に変換されています。

このときはピージェットサウンド海軍工廠でオーバーホールがおこなれたあと、
大々的な近代化改装が施されました。

1957年改装後の「ミッドウェイ」。

ここはSDO (Squadron Duty Officer)の
コミニュケーション・コンソールという部署です。
つまり部隊勤務士官が待機したり命令を受けたりするところ。

奥にはいかにもパイロットな士官がフル装備で出番を待っているようです。

ここにSDOの義務というものについて箇条書きがあったので翻訳しておきます。

ー整備員がプリフライト・チェックを完了し、航空機をパイロットに割り当てる

ー「準備室」は飛行任務、トレーニング、ミーティングなどの一般任務を統括する

ー他の飛行部隊や船の他の部署とのコンタクトの中心となる

ー艦内の通信に必要な機器の操作を行う 航空機とは直接連絡はしない

ここに関係する隊員たちのネームプレートは、飛行機の形の台紙に刻まれていました。

後ろのホワイトボードには

「CRUSADEE'S 」

とあることから、飛行部隊の使用機はクルセイダーであったことがわかります。
ボード左側は「金曜日のフライトスケジュール」として、
”レッド”アイザックとか”パイレート”ニコルスさんなどのメンバーが、
右側には「フライオフ」として家に帰ってしまったメンバーの名前があります。

あれ、ちょっとちょっとみなさん!

よ、よく見ると帰宅組の一番上に

「マリオン・カール」がいるんですが。


とっとと家に帰ってんじゃねーよマリオン・カール。

って問題はそこじゃない?

F-8クルセイダーの勇姿色々。
左上には、

「F-8を降りるとき、それは戦闘機を降りるときだ」
(When you're out of F-8's you're out of fighters)

=俺はFー8にしか乗らない

というおなじみ?F-8部隊の標語があります。

写真右一番上は、クルセイダーがカタパルトから発進する瞬間。
その下はカタパルトにフックアップされたところで、いずれも1962年の写真です。

当時のパイロットが使っていたヘルメット、手袋、帽子、
「ミッドウェイ」艦上での航空関係マニュアル各種。

飛行機の形をプリントしたトランプがありますが、ミッションまでの待ち時間に活躍したのでしょう。

「スコードロン・レディ・ルーム」という搭乗員の待機室にあった椅子。
テーブルや吸い殻入れもあって、ふた昔前の飛行機の機内みたいです。
(日航機事故以前は機内でタバコが吸えたんですね・・今では信じられませんが)

待機室は通常35から45くらいのシートがあって、
フライトクルーなどが優先的に使用しました。

なぜかお花の素人っぽい刺繍とともに

「戦闘機パイロットはそれを手紙にする」

とありますが、このバナーはクルセイダー乗員控え室に寄付されたものです。

1970年に「ミッドウェイ」と USS「ハンコック」のクルセイディーは
10ヶ月半に及ぶ共同の任務を行いました。
二つの部隊搭乗員の妻たち、アン・ゲインズとベティ・アルバスは、
控え室のパイロット達の慰めにとレッドチェッカーを刺繍して彼らに贈りました。

このバナーは「ハンコック」がトンキン湾に1970年から1972年まで
勤務している間、ずっと艦内に飾られていたものです。

クルセイダーの搭載していた20ミリ機銃の銃口と周辺の機器。

1966年ごろ、ベトナム戦争でMiG17と戦っていた機が搭載していたものです。
この機を使用していたヴァンパテッラ中尉はその後別のF-8でMiGを撃墜しています。

キューバ危機からベトナムへ。Fー8クルセイダーの全盛期はまさにこの頃でした。
上段真ん中のイラストは、ヴォート・エアクラフト社の広告。
クルセイダーのバックに描かれた「十字軍の戦士」(クルセイダー)がかっこいいっす。

そして下二つの写真、左は1959〜1960に「ミッドウェイ」勤務だった
クルセイダーの搭乗員たち。
全員耐圧スーツを身につけています。

左は同時期の第24飛行隊(VF24)全員の記念写真です。

「ミッドウェイの CAGたち」。
 

CAGってなんなんでしょうか。

CAGとは、「航空部隊指揮官」、Commander Air Group
の頭文字をとったもので、
1938年に最初の空母航空群ができた時から使われてきた言葉です。

ベテランの部隊指揮官が航空部隊に帰ってきた時には、
彼らは「CAG」としてアサインされ、空母の戦闘機、爆撃機、
トルピード機の攻撃についての統括を任されることになります。


1950年代にはCAGは部隊には配属されなくなりました。
航空部隊は報告をCAGにあげ、CAGはそれを艦長に伝える役目です。

(中間管理職みたいになったと考えればいいのでしょうか)

1983年、CAGは大尉にランクが上がりました。(海兵隊は少佐の配置となる)
つまり、軍艦の艦長と同格のレベル、という位置付けになったのです。

今日、CAGは戦闘指揮官フラッグオフィサーの「アドミラル」として、
攻撃部隊の空母航空隊を率いる士官を指します。

 

上の写真は、「ミッドウェイ」における歴代「アドミラル」であるというわけですね。

 

続く。

 

 

 

”WE FIX'EM ー YOU FLY'EM”〜空母「ミッドウェイ」

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SDO、スコードロン・デューティ・オフィサーの動きを統括する
指令所、コミニュケーション・コンソールの見学が終わりました。

そこに接しているのは、航空機整備のオフィスです。
このオフィスには、シニアあるいはマスターの航空整備士(下士官)が
詰めており、空母の日常の飛行計画に基づいて行われる航空機の整備や
調達を責任を持って行うための仕事をしているのです。

ホワイトボードの右側には彼らの標語がありますね。

「We Fix'em〜You're Fly'em」

とは「我々が整備し、君たちが飛ばせる」。

パイロットだけでは飛行機は飛ばせません。
自分たちがいて初めて飛行機は彼らを乗せて空に飛び立つことができる。

整備部隊の強いプライドを表している言葉です。

奥のホワイトボードには情報を書き込んでいる下士官がいますが、
ボードには飛行隊の搭乗スケジュールがあります。

【VFA-195】  

は通称「ダム・バスターズ」という名門飛行隊。
どこかで聞いたことがあると思ったら、「ロナルド・レーガン」の艦載部隊でした。
TBMアベンジャーから始まって、スカイライダー、スカイホーク、
この時代にはコルセアIIの飛行隊だったかもしれません。

【VFA-151】

ニックネームは「ビジランテス」。
マスコットはナイフを咥えたガイコツくんで、名前は「オールドアグリー」。
大東亜戦争中はあのF4Fヘルキャットで日本とやりあった部隊です。

彼らが「ミッドウェイ」勤務になったのは1970年以降のこと。
その時の部隊使用機はF4ファントム IIでした。

【VAW-115】

早期警戒機の部隊なので上記二つの飛行隊よりは歴史が浅く、
1967年の結成です。
ニックネームは「リバティベルズ」。 
E-2「ホークアイ」で「ミッドウェイ」のトンキン湾、
湾岸戦争では「砂漠の嵐」作戦にも参加しました。

【HS-12】

ニックネームは「ゴールデン・ファルコン」。
ヘリ部隊です。
1990年代からシーホークを使用しています。
トンキン湾ではSH-3Aシーキングに乗っていましたが、そういえば
あの「ファイナル・カウントダウン」にもこれが乗っていましたっけ。

この時代(ヴェトナム戦争時代)には、まだまだ通信、情報の集約方法は
電話と紙に頼っていました。

デスクには電話とノートの類しかありません。

ダイヤル式の電話の横にあるのは当時最新だった計算機。
デスクにマッチと灰皿があり、喫煙は普通に行われていたことがわかります。

ここで余談ですが、アメリカ軍とタバコの関係について少し。

第一次世界大戦の頃、アメリカ軍は兵隊を集めるための「エサ」として
紙巻きタバコの配給を行ったということもあり、
それ以来軍人とタバコは切っても切れない関係になります。

民間の喫煙率は世界的にも低いアメリカですが、軍隊の喫煙率、
特に戦闘状態にある時期には、高い数値を維持することがわかっています。

紙巻き煙草は戦場の生活に調和するたため、簡単に快楽と安楽のシンボルになるのです。

第一次世界大戦で売り上げをあげて『味をしめた』タバコ会社は、
第二次世界大戦の勃発とともに無料の紙巻タバコを大量に部隊に送り、また
広告などで兵士の食糧品への紙巻タバコを同梱することを奨励したりしました。

軍の方でも、煙草で兵の精神状態が安定すると統率しやすいと考えたため、
1950年代には、喫煙による有害な健康影響の証拠が上がっていたにもかかわらず、
軍は食糧品に紙巻タバコを同梱するという状況を変えようとしなかったのです。

その状態は、世間で喫煙の害が大々的に喧伝されるようになった75年まで続きました。


喫煙の問題に注目し、最初にその対策に取り組んだのは海軍です。

1993年にUSS「ルーズベルト」がアメリカ海軍初の禁煙軍艦になりましたが、
この頃でもまだ軍人の喫煙率は42パーセントと民間より高い数字でした。

第二次世界大戦、朝鮮戦争に続き、ベトナム戦争でも
戦場にタバコを無料で送るという手で利益を上げたタバコ会社は、
4匹目のどじょうを狙って湾岸戦争時でもそれを試みますが、
国防総省がこれを拒否しました。

現在の軍人全体の喫煙率は32パーセント。

一般の喫煙率が21パーセントですから、相変わらず高い数値ですが、
この理由はストレスや退屈感、周りの影響であるということです。
しかも、現役時代にタバコを吸っていると、退役後にもどうしても
その習慣を止めることができないといった問題が国防総省を悩ませています。

確かに喫煙は体に悪い。
しかし、軍がどうしてここまで躍起になって喫煙率を下げようとするのでしょうか。


その理由は、単純に健康問題だけではなく、軍独自の調査によって、

「軍人の喫煙率と軍隊内での自殺の発生には大きな相関関係がある」

ということがわかったからだと言われています。

軍の死亡理由の13%を占める自殺のリスクは、日々喫煙される紙巻タバコの本数ごとに
著しく増加している傾向があることが調査の結果わかったからなのです。

逆に喫煙率が下げて自殺者が減るかどうかの資料は見つけることはできませんでしたが、
少なくともアメリカでは、少しでも自殺(軍隊を実はもっとも悩ませる問題)に
関連していると思われる要因を排除する、という考えで禁煙プログラムに取り組んでいるのです。

閑話休題。

デスクの上部にあるフライトデッキの航空機配置図です。

こんなにごちゃごちゃとくっつけて機体を置くのかねえと思いますが、
実際は甲板の両舷にあるエレベーターで片っ端から片付けてしまうのでしょう。

緑のシャツを着ているのは「CAG」のサポートを行う下士官です。
サポートスタッフの中でキーパーソンとなるのは、
航空隊と密接な仕事を行う整備長と、航空機の運行を指示する

「ハンドラー」

です。
このキーパーソンは、各種機器の状況、武器のローディング、燃料の現在状況、
そして全ての航空機の所在と行動の状況を完璧に把握していなければなりません。

この情報に基づき彼らは航空機の割り当て、武器、搭乗員の分配などを行なっていきます。

この”グリーンマン”があまりにもいるいるすぎて・・・。
しかもどこがとは言えないけど漂う70年代の空気。

誰かモデルがいるんじゃないかと思わせるリアリティがあります。

机の上に広げてあるのは詳しくはわかりませんが航空機の設計図のようです。

展示にあたっては、実際のヴェテランの私物を持ち寄ったり、意見を聞き
監修をあおいだりしてできるだけ忠実に再現されていると思われます。

ところでわたしはこのデスクの上の「愛妻写真」がなぜか
島田に留袖の女性であるのに気づきました。

アップしてみましたが、女性が目鼻立ちのはっきりした日本人なのか、それとも
アメリカ人女性が着物を着ているのかはわかりませんでした。

1973年の日米合意に伴い最初の空母機動隊が日本に駐留することになったとき、
「ミッドウェイ」は他2隻の空母とともに横須賀港に入港しています。

乗組員の家族も日本に連れて来て一緒に住むことができるようになりました。
この和服姿の女性は、その時日本までついてきて結婚式を挙げた新妻か、
それとも日本で知り合って結ばれた日本女性か・・・・・。

 

整備のボスを「ビッグ・ボス」と言い、航空機搭載武器を扱う下士官のチーフは

「ガナー」(GUNNER、銃撃手)

と呼ばれていました。
航空機に航空部隊のミッションに応じて適切な武器を正しく搭載する任務です。

ガナーは攻撃隊から必要な武器の要請を受けます。
彼は武器を扱う「ハンドリング・オフィサー」とともに、適正な武器の格納場所を確認し、
それらを弾薬庫からフライトデッキまで運搬し、各航空機に搭載します。

彼の決定に従い、何百もの「オードナンス・メン」あるいは「レッドシャツ」
(赤シャツを着ているから)が24時間体制で弾薬庫とフライトデッキを往復します。

艦内でもグラサン姿の「ガナー」。
彼の後ろのホワイトボードには上に挙げた航空隊の他に、

VFA-192 通称「ワールド・フェイマス・ゴールデン・ドラゴン」

VA-185 通称「ナイトホークス」A-6Eイントルーダーの部隊

VA-115 通称「イーグルス」として知られる F/A-18Eの部隊

などの情報が記載されています。

こちらは打って変わった実務的な雰囲気の事務系軍人がお仕事中。

CAGオペレーションは、毎日の飛行計画を上から受け取り、航空隊に配る仕事です。
このドキュメントには、発艦と帰艦の時間、ミッション内容、燃料の搭載、
空中給油予定、そして武器搭載などが事細かに記載されています。

飛行計画は各部隊が毎日のスケジュールを確認する前に配られ、
それによって搭乗員の割当などが行われます。

部隊をオペレーションする者は”Air Intelligence Officer”、
航空情報士官の助けを借りて、攻撃目標付近や作戦展開エリアのマップや写真を収集します。

それらを元にナビゲーションチャート、攻撃計画、偵察、そして救出計画などを
フライトクルーのブリーフィングのために作成するのです。

 

空母を見学したのはこれで3隻目ですが、パイロットを影で支え、
航空機を安全に航行させるために欠かせないスタッフの存在を
ここまでクローズアップした展示は、「ミッドウェイ」が初めてでした。

 

続く。

 

 

 

 

海の上の迎賓”艦”〜特務艇「はしだて」洋上懇談会

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皆様は海上自衛隊に『海の迎賓館』、『迎賓艦』、『迎賓艇』と呼ばれる
艇があるのをご存知でしょうか。

国内外の賓客を招いての式典、海自を訪問した諸外国の将校団との会議・会食、
マスコミやメディア関係者との懇親会などの『迎賓』を目的とした特務艇、
その名も「はしだて」。

「いつか機会があればぜひ乗艦してみられるといいですよ」

と自衛隊のイベントでご一緒する方から聞いて以来、
いつかそんな機会が来ればいいなあと思っていましたが、
乗ってみたいと思ったから乗れるというフネではございません。

とりあえずいつもするようにお星様にお願いしておいたところ、
ある日突然お話が来たのでございます。

と冷静に書いているようですが、実は

キタ━━━ヽ(゚∀゚)ノ━( ゚∀)ノ━(  ゚)ノ━ヽ(  )ノ━ヽ(゚  )━ヽ(∀゚ )ノ━ヽ(゚∀゚)ノ ━━━!!!!

と文字通り小躍りしてしまったものですよ。

 

今回の「はしだて」へのお誘いは海幕長主催の「洋上懇談会」です。
というわけでお話をいただいてから指折り数えて待っていた、その当日。

雨です。orz

始まる何時間か前に降り出した雨は、乗艦開始の1730には
すっかり激しくなっていました。

つい最近、メキシコ海軍の帆船を見に訪れたのと同じ晴海岸壁には
夢にまでみたあの「はしだて」の姿が。
しかし今日は外に出るのもためらわれるような篠突く雨が降り注いでいます。

この時間に晴海埠頭に訪れるのは「はしだて」参加者を乗せた車だけなので、
岸壁へ続く道に雨の中誘導のため立っていた自衛官たちは、(ご苦労様です)
誰何することなく仲間で車を通してくれました。

わたしは「はしだて」上でTOと合流するつもりで車に乗って来ましたが、
この写真で前にずらりと列を作っているのは、ほとんどがタクシーのようです。

わたしが到着した瞬間、「はしだて」艇上で自衛艦旗降納が始まりました。
来客を迎えるため雨の中を立ち働いている自衛官たちは、
その瞬間手を離せない人以外はその場で姿勢を正しています。

「あーこの時間に乗艇していたかったー」

雨で渋滞していたので、予定より到着が遅くなったことを悔やみつつ、
言われた場所に車を停めると、傘を持った自衛官が近づいて来て、
濡れないようにラッタルのところまで誘導してくれました。

乗艇開始時間になったばかりなのに、もうすでにかなりの人が到着しています。

この日は体験航海が予定されていたため、皆早めにきていたに違いありません。

ラッタルを登ったところで、今日の主催者である海幕長はじめ
お迎えしてくださる自衛官にご挨拶をしてからTOと合流し、
舷門近くにある舵輪付きのパネルと一緒に記念写真を撮ってもらいました。

あとで「乗艦記念」とかいう文字を打ち込んで送られてきたりして。

会場では最初から最後まで、ある一佐がわたしたちのアテンドに付いてくださり、
話し相手から各種質問にお答えいただいたのみならず、グラスや食べ物の心配まで、
申し訳ないくらい気を遣ってくださって、初めての会場を楽しく過ごせました。

会場に着いてすぐ、一佐は上部構造物の一階部分を見学させてくれました。
この豪華客船のような自衛艦らしからぬ内装をご覧ください。

金色の桜に錨だけがネイビーブルーのカウンターに刻まれています。
カウンターの上に飾る花は、ブルーとの調和を考えて、白いバラのアレンジ。

帽子置きにはこの日ここに集まった将官たちの帽子だけが並べられています。

当日出席した海将は、村川海幕長を入れて3名、海将補が7名。
ちなみに海上自衛隊には海将が現在18名、海将補は52名が在籍していますが、
この日出席した将官の職は、人事、装備、総務、補給など、
戦闘種ではなく主に後方支援であることに、渡された名簿からすぐ気づきました。

これがなぜかは海幕長の挨拶で明らかになります。

とても自衛隊と思えないこのクラブラウンジのような会議室。
カーペットの色にも深い海の色があしらわれております。

後で知ったのですが、自衛官はパーティまでに全員が
ちゃんと食事を済ませていたようで、これは海将、海将補たちが
前もって腹ごしらえをした名残だったのでした。


反対側にある「はしだて」会議室には大型のディスプレイがあり、
こ子では隣接する通訳室とリンクさせて同時通訳を表示する等の連携が可能、
つまり国際会議に使うこともできるそうです。

会議室は通訳室と併せて指揮所として運用することもでき、
災害時には対策本部となるのはもちろん、パーティー用スペースはテントを張って、
カンバスで区切りマットレスを並べることで臨時の医療室となりますし、
休憩室も、折り畳みベッドを並べて病室にすることができます。

この部屋は、現在降ろされているシャッターを上げると、
三方が窓で完璧な視界が開けるということでした。

ここ、「01甲板」は艦橋と煙突の間にあるスペース。
雨の日にはご覧のようにテントに加えカーテンをかけることができます。

この日のように雨が強いと、カーテンを伝って雨は内側に入りまくるのですが、
腰高の部分の床には水はけをよくするための溝があるので、
どんなに雨が降っても水が内側に流れ込んでくることだけはありません。

ちなみに甲板も手すりも防水加工が施されているそうです。

「はしだて」の煙突は2本ありますが。左舷側の煙突は排煙装置としての機能はない
“ダミーファンネル”で、通信アンテナ等を装備するマストとしても用いられており、
内部には艇内への階段が収められているということです。

そして甲板の奥にある艦橋はバーカウンターと化していました。
最初からここまで想定して設計されているとすればすごい。

中には黒いベストに蝶ネクタイをしたバーテンダー(でも自衛官)が
飲み物を作って提供しております。

艦橋からデッキに上がるための階段も超おしゃれな雰囲気。

雨が激しく、誰も外に出ませんでしたが、もし晴れていたら
デッキに上がって航海を楽しむことになっていました。

この日予定されていた「はしだて」の航路。
レインボーブリッジをくぐり、首都高速湾岸線が海中に埋まっている
ちょうどその上でUターンして約9キロの航程を4ノット、
時速7キロメートルでクルーズしてくるというものです。

しょっちゅう走っているレインボーブリッジも、海の上から見たら
どんなにか違って見えるだろうかと楽しみにしていたのですが、
雨が強くなったので結局出航は取りやめとなりました。

「はしだて」の最大の楽しみはそのお料理でもあります。

どこのレセプションに伺ってもご飯がおいしい、
というのは海軍時代からの伝統にも世間の定説にもなっているわけですが、
特にこの「はしだて」のキッチンは迎賓艇の名にふさわしいレベルの高さで、
数々の国内外の舌の肥えた来賓をうならせてきた実績があります。

調理部門の自衛官にとって、「はしだて」で働くことは大変な誇りとされ、
最高の目標の一つになっている、というのはよく言われることです。

「はしだて」乗組の経歴があれば、退官した後もまず調理人として職に困ることはありますまい。

例えば空自の格納庫でのレセプションでは、乾杯前からテーブルの食べ物を
いち早く食べている人がいて(笑)いつも少し驚くのですが、
あれは仕方がないというか、基本食べ物が追加されず、そこにあるものが
なくなればもう終わりなので、人々が我先にとがっついてしまうのはわかります。 

しかし、レセプションにおいてテーブルから料理がなくなった試しはなく、
パーティが終わりかけでもテーブルにはまだご馳走が山盛りというのが海上自衛隊。
いつも次々と食べ物が運ばれてくるのを知っているのか、人々も悠揚としています。

まあ、単にお行儀の問題という説もありますが。

この日も、入場していたたくさんの人は、アミューズ・ブッシュから始めるようにと
自衛官に勧められてから、初めて食事に取り掛かりました。


アミューズ・ブッシュは前菜より前に出される「小手試し」の小さな食べ物で、
客に食事の始まることへの心と口の準備をさせ、また、
シェフの料理術へのアプローチの片鱗を見せるために供されます。

小さなボウルに彩よくイクラをあしらったサラダ風、
そして食べてびっくりサツマイモ味のムース、シンプルに串に刺したポーク、
そして小さな小さな(直径2センチくらいの丸い)フィンガーサンドウィッチ。

今までどんな美味しい料理を供する自衛隊のどのレセプションでも
お目にかかったことのない趣向の、目にも楽しい料理が並べられ、
この後の期待ですっかり盛り上がってきた「はしだて」上の人々でした。

 

ちなみに配られたパンフレットによると、この日のメイン招待客は41名。

各自一人「だけ」同伴者が許されますので、全員に同伴者がいたとして、
80名くらいがこの洋上懇談会に招待されていたことになります。

 

そこで改めて招待された方々の肩書きを見てみますと、ほぼ全員が
企業の社長、取締役、役員、顧問、部長、理事・・・・。

この面々と、彼らを迎え撃つ?自衛官の配置を考え合わせると、
自ずと本日の「はしだて」懇談会の目的は見えてきますね。


つまり、本日招待されたのは、

「退職自衛官の雇用を積極的に行うことによって
自衛隊に多大なる貢献をしている企業の関係者」

であり、自衛隊側から感謝と今後のご愛顧をお願い、という気持ちを込めて
この皆様方のために一席設けさせていただきました、というのが、
「はしだて」艇上の豪華な懇談会であったというわけなのです。

 

続く。

 

海上自衛隊のチカラ〜「はしだて」洋上懇談会

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晴れていれば岸壁から広角レンズで全景を撮り、さらには
航海に出れば景色を撮ろうと、中望遠レンズまで持参していたというのに、
岸壁に降り立つこともためらわれるほどの雨で、航海も中止になったので、
「はしだて」のwikiページから写真を転載しております。

「迎賓艇」は文字通り迎賓を目的に戦後から存在していましたが、
かつての迎賓艇は、

「ゆうちどり」←飛行機救難船←海軍雑役船

「はやぶさ」←駆潜艇

「ひよどり」←駆潜艇

というふうに、ジョブチェンジしてそうなったものばかりでした。

駆潜艇は、潜水艦の高性能化と、対潜艦戦の戦法がソナーの発達によって
様変わりしたことで廃止になり、飛行機救難もその方法が変わったため、
役目を終えた小型艇を迎賓艇として再利用したのです。

しかし、「はしだて」は最初から迎賓艇として設計され就役しました。

冒頭写真を見ていただくと、その艇体が自衛隊の所属にはない
白とグレイのツートーンカラーであることがおわかりいただけるでしょう。

 

この日案内してくださった一佐に伺ったところ、
「はしだて」は武装しておらず、また艇内に宿泊施設も持っていないそうです。

wikiには「賓客用の宿泊施設は持っていない」、「宿泊艦ではない」とありますが、
来客が泊まれないのはわかるとしても、「宿泊艦でない」ということは、
つまり「兵舎としても使用していない」という意味になります。

つまり「はしだて」には夜間誰もいなくなるということなんでしょうか。
それとも「当直室」があったりする・・・・・?

さて、本来なら乗艇開始から1時間後に出航を行い、
東京湾をクルーズしながら開会時間の1845に
海上幕僚長のご挨拶が行われる予定だったのですが、
本日は岸壁から一ミリたりとも動かない状態での開式となりました。

村川豊海幕長は

「その分大いに飲みかつ語り、交流を深めていただきたい」

とこういう場合にありがちなご挨拶で始め、その後に、
本会の「趣旨」についてこんなお話をされました。

自衛官の定年の年齢は早い。
これは自衛隊の精強さを保つためであり、宿命でもある。

一般社会ではこれから働き盛りという年代に再就職をしなければならない。

しかし、その再就職先が安定して、しかも当人はもちろん、
退職自衛官の扶養家族にとっても十分に満足のいく優良な職場であることは、
自衛官を志す優秀な若者に、後顧の憂いを残さないためにも重要である。

というわけでみなさんよろしくお願いします。(意訳)


過去自衛隊のレセプションに赴いて、周りを観察してきた結果わかったのは、
もしあなたが自衛隊にとって「大切な存在」、「特別な存在」になりたければ、
もっとも確実な方法は、自分の会社、あるいは人事部ならその権限で
退職自衛官を積極的に雇用することに尽きるということです。

それだけ自衛隊は自衛官の再就職に大きな関心を払っており、
組織の最大にして最終的な問題としてこれを常に捉えています。

いかに国防の崇高な使命感の元に自衛官になろうと思いたっても、
退職後にろくな職もないということになれば、現実的な現代の若者は先を見て
自衛隊を就職先の選択から外してしまうからです。

(漫画『ライジング・サン』で、レンジャー隊員だった元自衛官が
退官して工事現場でライトを振っている、というのを否定的に描いていましたが、
今にして思えばあれ陸自からクレーム出なかったのかな)


海幕長の後には、企業代表の出席者が挨拶に立ちました。

「我が社の業績は・・・・」

と細々と数字を出して好調である旨話し出されたので、
一瞬訝しく思ったのですが、それは決して会社自慢ではなく、

そのような我が社で採用した退職自衛官は、現在
これこれこうで大変優秀、かつ仕事ができる。
元自衛官のスキルと能力はこれだけ一般社会に通用するものなので、
自衛官の雇用、オススメです。(意訳)

と続いたのでした。

その方の会社では、三名の自衛官を再就職で雇用したということですが、
そのうちの一人は海外の支店を任されて、そこで腕を奮っているそうです。

どんな配置であっても、練習航海に始まるネイビーとしての素養を身につけていれば、
語学はもちろんのこと、海外で仕事するのに必要なコミュニュケーション力、
危機管理や、何より団体行動と規律を守ることが自然に身についているわけですから、
経営者にとって、身元はもちろん能力的にも信用がおける人材となるはずですね。


今回、自衛官を雇用している企業経営者、担当者という招待者枠とは
全く違う立場でなぜか参加していたわたしたちでありますが、
unknownさんのご提案通り、将来パーカーみたいな執事兼ショーファーを
雇う日が来れば(来ないけど)、躊躇いなく元自衛官限定で求人を出すことでしょう。

さて、会場では次々とご馳走が運び込まれ、海自のレセプションではおなじみの
カレーコーナーもこのように設えられているのですが、

みなさん!

カウンターの中にいる自衛官のいでたちをご覧ください。
上から下まで、全く正式なシェフのそれではないですか。

たとえば帝国ホテルの調理人の帽子は

見習い:18cm
7年目以降:23cm
料理長以上:35cm

となっていますが、彼のシェフハットはどう見ても料理長クラス。
本格的なシェフコートの胸には

ASY 91

Hashidate

Since 1999

と刺繍されており、シェフスカーフまで着用しております。

自衛隊の調理員を「給養員」と呼ぶのですが、
これはどう見ても「シェフ」以外の何者でもありませんわ。

で、ここのカレーなんですがね。

屋台の上に「はしだてカレー」ではなく「海軍カレー」とあったので、
カウンターに近づいてみますと、そこにはまず

海軍主計兵調理術教科書

のカレーライスのレシピが。

「黒鍋にヘットを溶かしカレー粉及び麦粉を加えて
焦げつかぬようによく煎りスープを加えて」

この出だしだけでもう普通とは違う感じです。

こちら、

海軍割烹術参考書。

こちらも牛脂を引いたフライパンで小麦粉を炒めるのは同じです。


この屋台のカレーは、そのレシピを元に作ってあることがわかりました。
「割烹術」の方に、「チャツネを加えてだす」とあるのですが、
屋台の上にはちゃんとチャツネが添えられています。

で、肝心のお味なんですが、

「甘い」

「辛くないカレーだ」

わたしは辛くないお子様カレーが好きなので、まったり甘い、しかしながら
コクのあるこの日の海軍カレーはど真ん中ストライクで好みに合いましたが、
TOは辛いもの派なので、

「ちょっと甘すぎるかなー」

というか、昔の海軍さんたちは甘いカレーを食べてたってことなんですよ。

小籠包を紅白のもち米で包んだ点心は大人気。
現場には中国語の読み仮名付きで紹介されていました。

みなさん、現場に待機していた自衛官と楽しく語らっておられます。

わたしたちも何人もの自衛官と名刺交換をさせていただきましたが、
その中に、つい最近までうちの近所に住んでおられ、
さらには奥様の職場がTOの職場の近く、という将官がおられました。

ご縁というのは不思議なものです。

見てください。このお料理の素敵なこと。
ハンバーグ素材をズッキーニで巻いてさらに味をつけ、
付け合わせはこっくりと味のしみたペコロスと人参のグラッセ。

フォーシーズンズホテルでこの3倍大きなお皿の真ん中に乗って出て来ても
全く違和感のない完成度の高さです。

会場にいると聞こえにくいのですが、後方デッキでは東京音楽隊の
選りすぐりのメンバーが、ジャズやポップスの演奏を聴かせてくれました。

海幕長の前には開式直後から人が並んでご挨拶の順番待ちをしていました。

皆順番が来たら一言二言をかわし、名刺交換を行い、
海幕長夫人とともに海自のカメラマンに写真を撮ってもらいます。
最初から最後までひっきりなしにそれをしておられたので、

「海幕長も大変ですね」

と近くの自衛官に話しかけると、

「ディズニーランドのミッキーマウスみたいなもんですね」

どこかで見た構図だと思ったらそれだったか。
まあ、みんなが挨拶したり一緒に写真を撮りたがる存在という共通点はあるかも。


「この後のデザートには期待していてください。
見た目も綺麗で、スイーツはインスタ映えしますよ」

一佐の「スイーツ」「インスタ映え」に思わずウケてしまったのは、
ちょうど「インスタバエ」の記事を見た後だからでした。

それはともかく、このスイーツの完成度の高さ、ご覧ください。
インスタバエもこれなら大喜び間違いなし。
それぞれの小さなケーキには、巷のおしゃれなパティスリーの
ケーキに付いているような小さな金色のカードまでつけられて、
しかも形の美しいこと。

お料理のレベルが高い海自のレセプションと雖も、さすがにデザートに
これほどのケーキ類が出されたのは前代未聞です。

音楽隊の周りには、宴が進むにつれ聴衆がたくさん集まりはじめ、
特に、歌が始まってからはそれが顕著でした。

「ゆず」を熱唱する管楽器のお二人。
トロンボーン奏者の防衛男子は、昔音楽まつりでこの歌を歌っておられた記憶が。

やおら彼らを動画で撮影し始めるTO(右)。

「自衛隊の人とカラオケ行きたい」

な、何を言い出すのだいきなり。

「あの人達とカラオケ行ったら2時間3時間なんてすぐに経ちそう。
そんな機会ないかな。誰に頼めばいい?」

筋金入りのカラオケ好きであるTOの気持ちはよくわかるが、
たとえ海幕長に頼んでも、音楽隊員をカラオケに駆り出すのは無理だと思うぞ。

甲板の階から下のラウンジのある階にいく階段。
写真を撮っているところにはベンチがあり、
わたしたちがここでデザートのケーキに舌鼓を打っていると、
下からパティシエがケーキのトレイを持って上がって来ました。
全ての料理は下で作られ、この階段を登って甲板に供されます。

パティシエに思わず、

「デザート素晴らしいですね!」

と声をかけると、にっこり笑って

「ありがとうございます!」

その様子が自衛官風にキリッと爽やかで大変よろしい。

階下にある女性用化粧室のエントランス。
ここの化粧室は何しろ個室で一人しかはいれません。
会の終わり頃には、ここに長蛇の列ができていました。

そしてあっという間に楽しい時間は過ぎ、お開きの時間に・・。

「はしだて」艇長に続き、「はしだて」シェフの挨拶です。
いでたちといい、この貫禄といい、どこから見ても自衛官というよりシェフです。

「秋の味覚をふんだんに取り入れて、本日の宴席のために一生懸命作りました。
皆様もぜひ今の季節、このような食材を取り入れてお楽しみください」

続いて東京音楽隊選抜メンバーの紹介です。

バンドメンバーを代表して、なんとピアニストの太田紗和子二曹がご挨拶。
本日は「はしだて」での演奏ということで、メンバーもスペシャル?

最後に締めの乾杯と挨拶をされた海将たる補給本部長。
この方の挨拶が・・

「こんな天気になってしまいましたが、本日出席の皆さんはラッキーです。
最初から雨が降っていたため、今日は出航しませんでしたが、かつて、
「はしだて」は、出航してから大雨に降られたことがあります。
当然このような覆いもありませんでしたから、皆濡れ鼠になりました。
それを考えれば皆さんはラッキーです。

しかも、船というのは落雷を受けることもございます。
不運な船は出航して落雷を受け、全ての機能が壊れてしまうこともあります。
今、実際にそうなった船を佐世保で修理中でございます。
皆さんはそんなことにならずに済んだ。やはりラッキーです」

謹厳な雰囲気の漂う海将が飄々とこんなことをおっしゃるので、
満場は爆笑の渦でした。

この後ご挨拶させていただき、ついでに伺ったところ、

「落雷を受けて現在佐世保で修理している船」

のくだりは実話だそうです。

この海将のご挨拶で、すっかり和やかな雰囲気のままお開きになった懇談会。
今回も桜に錨のマークに「海上自衛隊」と刻印された升をいただいて来ました。

後から改めて配られた栞を見ると、主催は

防衛省海上幕僚監部

人事教育部援護業務課

となっています。
この援護業務課こそが、自衛官の再就職を支援しているところなのです。


今回このような懇談会に出席する機会をいただき、退職自衛官の雇用について
自衛隊がいかに心を砕き力をいれているかということを改めて認識しました。

退職自衛官採用のご案内 海上自衛隊のチカラ


この度の懇談会への参加をお計らいくださいました関係者の皆様、
自衛官の再就職に対し、より一層多くの企業からの理解が得られますよう、
心からお祈りして、今回のお礼の言葉に代えさせていただきます。

 

 

 


映画「人間魚雷 回天」〜出撃前夜

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元海軍予備士官であった映画監督、松林宗恵作品で1955年に公開されました。
脚本は

「潜水艦イ-57降伏せず」
「太平洋の翼」
「太平洋奇跡の作戦 キスカ」
「連合艦隊司令長官 山本五十六」
「連合艦隊」

などを手がけ、さらに特殊潜航艇に参加した10名の軍人について書いた

「真珠湾再考 二階級特進の周辺」

という著書もある須崎勝彌、とくれば価値ありと判断し、観ることにしました。
(観る価値がなくても観てここでネタにするのが当ブログでもありますが)

「人間魚雷回天」とはまた直裁な、センセーショナルなタイトルです。
この二人のコンビで回天を描くのであれば、当然ながら
散華した若者たちの苦悩に焦点を当てたドラマになるだろうと予想しましたが、
実際は予想以上でした。

舞台は大津島基地隊の回天基地。

瀬戸内に面した山口県の大津島を、漫画家の佐藤秀峯はその作品で
「特攻の島」と呼びました。
今でも訓練施設が残るその島で、おそらくこの作品も撮影されたのでしょう。
大津島には「回天記念館」が現在も当時の様子をしのぶよすがとして残されています。


さて、このこの基地で、潜航艇の搭乗訓練が今行われております。
早速予備士官である搭乗員が、乗り込みながら仲間に、

「今日の特別食の配給な、また酒を羊羹と交換してくれよ」

ああ・・・・・

戦争映画でその日の夕食の約束をした者が生きて帰ってきたことはない、
という黄金の鉄則があるというのに・・・・。

撮影データが残っていないのでわかりませんが、これらの引き込み線も
もしかしたら本当に元回天基地の遺跡だったりして・・・。

そしてしょっぱなからフラグを立てた回天搭乗員は、
案の定、岩に艇体を激突させて死んでしまうのでした。

(-人-)ナムー

教訓:出撃前に今夜の食べ物について語ってはいけない。

あと、

「子犬や小鳥などの小動物を飼ってはいけない」

「国に帰ったら結婚するんだ、と仲間にいってはいけない」

というのもありますね。

死んだ士官の席に軍帽を置いて、戦友の死を悼む予備士官たち。
艇には速度計もなく、ゲージが狂っていてスピードが出ているのに
操縦者が自分の艇の速さを全く認識できていなかったのが原因でした。

「乗ってるもんが速度わからへんやなんて、そんな兵器ありまっかいな」

「人間をもっと大事に取り扱ってもらわんと、回天も役に立たんなあ」

「こんな兵器に乗るのは嫌だ!」
「恐ろしいのは俺だけなのか?どうしてみな本当のことを言わない?」

極端にパニクる繊細な玉井少尉。(木村功)
彼の後ろには同時に着任したのに次々に事故で殉職した仲間の写真が。
十五人だったのが、今や半分以下の七人になってしまいました。

「みんな自分の気持ちをこらえるのに精一杯なんだ」

こんなときに場を収めにかかるリーダー格は朝倉少尉。(岡田英次)
和製ジャン・マレーです。

「みんなで岡田少尉の母校の歌を歌おう!」

「♪白雲なびく〜す〜る〜が〜だ〜い〜」

全員が明治大学の応援歌を知っていて、空で歌えるのが不思議ー。

そのとき、兵学校出身士官がその歌を聞き咎め、

「貴様らの娑婆っ気はなんだ!
仲間の一人や二人死んだからってメソメソするのは回天を怖がっている証拠だ!」

と言って鉄拳制裁を行います。

殴られ終わった玉井少尉が廊下の隅をふと見ると、

で、出た〜!

そこには出撃して壁の写真となっていたはずの仲間の予備士官村瀬少尉の姿が!
実は村瀬はトラック島で回天戦用意の声がかかるも、艇が故障して発進できず、
こっそり隊に帰って来ていたのでした。

驚きながらも村瀬少尉を暖かく迎える予備学生たち。

同じ回天戦で、やはり生きて帰ってきた予科練の玉井の部下は

「私は予科練の面汚しです」

と自分を詰りますが、玉井は兄のような気持ちで彼を慰めます。
そして村瀬のように自分にも生還の可能性があるのでは、とわずかな希望を抱くのでした。

そんな玉井少尉に生への執着を断ち切れ、と叱責する村瀬。
いや、そう言ってる本人が死なずに生きて帰ってきたんちゃうんかい。

しかし出撃しながら死なず生き残ったことは、村瀬に苦悩しか与えなかったのです。

「生きていれば苦しくなるだけだ」

訓練で玉井少尉は他の艇とニアミスをしてドルフィン運動で浮上してしまいます。

なぜか気を失っている玉井少尉。酸素不足かな?

「玉井!おい、玉井!」

(金属棒で外からコンコン)

これは酸素不足ではなくただ寝てただけに見えます。
当然、捕虜になったらどうするんだ、と兵学校卒士官にむちゃくちゃ怒られます。

「問題を起こすのはいつも予備士官だ!」

とプリプリしながら会議している基地の偉い人たち。
しかしそこで彼らの上官である兵学校士官がなぜか彼らをかばいます。

ところでこの真ん中の人・・・。

丹波哲郎さんじゃないですかー!

確かにクレジットには丹波哲郎の名前があるのだけど、こりゃーほんとにちょい役だわ。


とにかく、上層部は村瀬少尉を次に突入する部隊に編入しました。

「本人のためにも早く死なせなければ」

そんなことを上官が言っているのを立ち聞きし、さらに落ち込む村瀬。

しかも、この、自称18歳の老けた部下に、

「村瀬少尉が先発部隊に編入されたので私は編成から外されました。
私を元に戻してください!」

と文句を言われるはめに・・。
村瀬、上からも下からも踏んだり蹴ったりです。

「お前はせめて俺の歳まで生きてくれ」

さて、次の訓練では朝倉少尉の艇に問題が起こります。
海中で艇が動かなくなり、海底に鎮座してしまいました。

あれこれと試していると、艇は幸いにも浮上しました。

文字通り死の淵から生還した朝倉少尉がハッチから顔を出し、
生きている喜びを味わっていると・・

「・・・ん?なんだ?」

岸辺を歩いている子供達の歌う「赤とんぼ」が聞こえてきたのでした。
(ストリングスの伴奏付きで)

そこに彼を捜索に来た仲間たち。
朝倉は彼らに向かって、たった今感じた通りを口にします。

「おい、生きてるってことは文句なしに素晴らしいぞ」

思わず目を伏せる二人。

「どうしたんだ」

「朝倉・・・・出撃だぞ」

 

出撃が決まり、見かけは陽気に歌い、飲み騒ぐ搭乗員たち。
参加しないものも遺書を書いたり、私物をふるさとに送ったりして過ごします。

この司令官、出撃が決まった予備士官の隊長に、

「即成で教育した貴様たち予備士官の唯一のご奉公は特攻隊だ」

どうも須崎&松林コンビは、松林が予備士官だったせいか、
必要以上に上官を貶めて描く傾向にありますが、実際の回天隊司令、
板倉光馬少佐は体を張って部下の命を守ろうとしたのをお忘れなく。

だいたい今から死にに行く若者に、司令官がわざわざこんなこと言いますかね。

予備士官の隊長は関谷中尉。(沼田曜一)
「激闘の地平線」では陸自レンジャー過程の教官をしてました。

皆が最後の入湯上陸に賑やかに行ってしまった後の隊舎で。
どうも皆と一緒に飲みに行く気になれない玉井少尉。

同じく、最後の夜を一人静かに過ごしたい朝倉少尉。

出撃に備えて夜を徹して潜航艇の整備が行われています。

ここに一人やって来て、自分の艇の特眼鏡に数珠をかける僧侶の川村少尉。
京都龍谷大学卒業という設定です。

「これ一発で敵さん何千人も殺すんやさかい、どう考えても地獄行きやな」


川村少尉の艇を整備しているのは黄門様、西村晃ではないですか。

何をするでもなく、祖国での最後の一日をぶらぶらして過ごす朝倉少尉。
梨の木を植えている老人にふと目を留め、話しかけます。

「梨の実が取れるのは、わしの10歳の孫があんたくらいの歳になった頃だろう」

こんな老人にさえ10年後の夢を描くことが許されているのに
若い俺には明日の夢さえなくなった・・・。

あらためて絶望する朝倉少尉。

さて、その頃レスでは宴会の真っ最中。

ちなみに丹波哲郎のこの映画での役。

「司令室で黙って立っている」

「宴会で踊りまくる」

「玉井少尉に芸者と一晩過ごせとけしかける」

「玉井少尉の恋人にこの女はなんだという」

続いて各自持ち歌の披露。

「♪ 私は真っ赤なりんごです〜」

「♪ きっさまっとお〜れ〜と〜は〜同期の桜〜」

盛り上がると芸者を囲んで輪になってぐーるぐる。

皆が程なく死ぬのがわかっているので、芸者の様子も実に微妙です。

(朗報)ただし丹羽さんは死にません。

丹波哲郎は、主計士官の役なので役作りのためメガネをかけていますが、
残念ながらはっきりいって全く似合っていません。

主計士官どころか、どう贔屓目にいってもインテリヤクザって感じです。

芸者視点から見たみなさんの様子。

こちら回天隊基地。

予備士官の従兵二人が些細なことで下士官から修正を受けているところに、
ぶらぶらしていた朝倉少尉が遭遇します。

「私たちは海軍で10年飯を食っていました」

「これが海軍のやり方です」

制裁をやめさせた朝倉少尉に、下士官たちは傲慢に言い放ちます。
思わずカッとして拳を振り上げた朝倉少尉ですが、次の瞬間思い直し、

「人間を人間として扱わないことがもし帝国海軍の伝統なら、それは大変な誤りだと、
学生上がりの予備士官が言い遺して出撃して行ったことを時々は思い出してくれ」

これは予備士官だった松林監督の本音であったに違いありません。
ご自身もかなり殴られたんでしょうねえ。

修正の危機から救った従兵に朝倉が用を言いつけました。

「ベッドの上の本を持って来てくれ」

歩いて数歩のところにあるものくらい自分で取れよ、という気がしますが、
とにかく、その本の表紙は

「Krutif der reinen Dernunft」

このころの大学生ちうのは今と違って?インテリゲンチャですからね。
原語で「純粋性物理批判」なんかも読んでしまうわけだ。

そこでこの従兵、本を渡しながらさりげに自己アピールを行います。

「出撃の日までよくこんな本をお読みになれると思いまして」

「貴様、ドイツ語が読めるのか」

「はい、多少は読めます」

「シャバで何しとった」

「私立大学の教師をしておりました」

絶句する朝倉。驚く同僚の従兵。

「あなたはどこの大学ですか」

いきなり「貴様」呼ばわりから敬語になる朝倉少尉。

「帝大であります」

「じゃ先輩だ」

朝倉少尉は従兵に本を渡し、いつかまた教壇に戻る日が来たら
未来の若者たちに何ページかを講義してやってほしい、と頼むのでした。

「その人たちは僕たちよりもっと優秀で立派で、そして、
もっと勇気のある青年にならなければいけないのですから」

そういう朝倉少尉に、従兵の田辺一水は、慈しむような目を向け、
子供達から送られて来た自らのお守りの人形を渡すのでした。


続く。

 

 

映画「人間魚雷回天」〜出撃

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映画「人間魚雷回天」、続きです。

出撃を明日に控え、最後の娑婆の夜が過ぎていきます。
レスでは主人の求めに応じ、搭乗員が各々揮毫などを行なっています。

村瀬少尉(宇津井健)が書いている色紙は学帽をかぶった大学生のフクチャンの絵。

最初は皆と一緒にレスに行くことを拒んで隊舎に残った玉井少尉(木村功)、
寂しくなって後から合流したものの、色紙の揮毫を求められて

「やだよ!死ぬ前まで嘘をつきたくない!」

と言い放ち、宴席は静まりかえります。

いるよね。こういう空気読まずに自分の感情を爆発させる人。

 

美人のエス(芸者)を丹波哲郎に押し付けられ、夜を過ごすことになったのですが、
職務遂行しようとして迫ってきた彼女の手を振り払い、

「ばか!お前には女としての誇りはないのか」

と罵ります。

うえ〜嫌な奴。

こういう男が今の世に生きていたら風俗で女性に説教するおっさんになりそう。
っていうかこの後のセリフが

「俺は女というものはもっと美しいものだと思ってる」

マジで風俗で説教してるし。
しかしエスが涙ぐむのを見てすまん、と謝り、

「まるで気の狂ったような男たちを相手に・・・
お前たちのような女が、本当は美しいのかもしれない」

と高速手のひら返しを行います。

広間で一人呑んだくれていると、そこに突入してきたのは
玉井少尉の恋人、幸子です。(津島恵子)

特攻隊に行くことは知らないはずなのに、(多分)女の勘で玉井に会いにきたのでした。

幸子は玉井がすんでのところで芸者と一夜を過ごすことになっていたのを知り、

「出撃までの間、あなたのお心が幾らかでも安まるのなら・・」

と案の定(須崎作品ですから)我が身を投げ出そうとしますが、

「違うんだ!」「いいの」「違うんだ」「いいえ」「違うんだ」

の言い合いに。

幸子の熱情を拒み続けてすっかり煮詰まった二人は、
仕方なく月夜の海岸にやってきました。

未来のない自分の運命を嘆く玉井少尉を慰めようと、
幸子は砂浜でいきなりバレエを踊りだします。

それはいいのですが、この時のBGMが

♪ み〜↓らしどれ (白鳥の湖冒頭)

と始まるので、はいはい、と思って聴いていたら

♪ み〜らしどれ み〜ふぁみ〜

と続いたのでガクッときました。
この作曲センスはちょっとどうかと思う。

「僕には後3時間しかないんだ」

「私の3時間と合わせて6時間よ」

「そうか・・・」

空想の中で現実逃避する恋人たち。

「ここは江ノ島の海岸にしようか。
もちろん真夏の太陽がギラギラ輝いてるんだよ」

「僕たち二人以外は誰もいないんだ」

影の長さを見るに、撮影季節は冬だったようですね。

「僕たちは結婚して十日くらいってことにしようか」

津島恵子が美しい・・・・。

「僕たちは生きていることの幸福をしみじみと味わう。
僕には自信と力が湧いてくるんだ」

しかし現実は・・・。

このシーンがわたしに言わせるとこの映画のハイライトです。

回天搭乗員たちに出撃の時間が刻々と近づいていました。
僧籍にあるせいか、河村少尉は肝が座ったというか、もはや達観している様子です。

帝大哲学科の朝倉少尉は、帝大の先輩とわかった従兵の田辺一水と語り明かしています。

朝倉「僕たちの死は戦争が無謀なものと気づかせるためなんです。
それがせめてもの抗議になればそれでいいんです。
その本を書いたカントも死ぬときに言いましたね」

田辺「エ・・・エス・・イスト、グート・・・」

朝倉「そうだ、これでいい。何もかも、いい。もはやいうことはない」

夜が明け、回天の出撃時間となりました。

「七生報国」のハチマキを全員がつけているのは史実通りです。

菊の花束を抱き短刀を手にして敬礼しながら行進して行く搭乗員たち。
先頭に立つのは隊長の関谷中尉です。

恋人の幸子と別れてきたばかり、玉井少尉。

前回の出撃で生きて帰ってきて、一刻も早く出撃したがっていた村瀬少尉。

「エス・イスト・グート、負け惜しみではなく俺もその心境だ」

と田辺一水に語った朝倉少尉。

やはり生きて帰ってきて出撃待ちの18歳の部下に声をかける村瀬少尉。

「貴様の分もやってくるぞ」

朝倉少尉はシャバで寿司職人だった従兵に声をかけます。

「昨夜の寿司はうまかったぞ!」

田辺一水とはただ無言で見つめ合うのでした。

回天搭乗員の出撃の写真をご覧になったことがあるでしょうか。
実際の彼らも、やはりこのように微笑みを浮かべていました。

そして伊号36潜水艦に移乗する時がやって来ました。

実際の伊36も回天戦を二回行なっており、戦果を挙げています。
艦体は戦後まで生き残り、アメリカ軍によって処分されました。

伊36は最初に「南無八幡大菩薩」の幟を作って出入港時に掲げた潜水艦でした。
回天作戦が始まると潜水艦各艦もこれに倣って幟を掲げるようになったということです。

艦体に乗せた自分の回天の上に立ち、手を振る搭乗員たち。
回天艇内には、潜水艦内部からハッチで乗り込みます。

「慶應義塾大学経済学部出身、海軍中尉関谷武雄他3名、
回天特別攻撃隊、菊水隊として出発します!」

「天晴れな娑婆っ気だぞ!頑張れ!」

娑婆っ気が多すぎると彼らを殴っていた兵学校卒士官も、今はただ彼らに声援を送ります。
自分自身も回天搭乗員として明日にも出撃する身であれば、
今更兵学校出だとか予備士官だからどうだとか言っていられるでしょうか。

「刀振れ〜」

帽振れならぬ、「とう」振れ。

旭日旗の端っこが破れてギザギザなんですがこれは・・。

朝倉少尉に帽を振る従兵二人組。

一人玉井少尉は、遠く離れた海岸に向かって手を振ります。

なぜか。
そこには先ほど別れたばかりの恋人、幸子がいるからでした。

ただお互いだけのために手を振る恋人たち。
そして二度と会えない恋人を乗せた潜水艦が見えなくなったとき、
彼女はためらいもなくスタスタと海に向かって歩いていき・・・、

・・・・おいいいいっ!

いや、的(回天)の不調で発進できず、生還する例も時々あるわけだし、
玉井少尉がまだ死んだわけでもないのに、そんなあっさりと死ななくたって・・。

さて、こちら出撃中の伊36潜内で出撃を待つ予備少尉たちです。
コーヒーを配る従兵の手が震えているので朝倉が見咎めると

「特攻隊の皆さんは軍神であります」

「軍神か・・早いとこ化けの皮が剥がれないうちに神様になるか(笑)」

 

搭乗員たちの命の終焉の時が、刻一刻と近づいていました。

 

続く。

 

映画「人間魚雷 回天」〜散華

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映画「人間魚雷 回天」最終回です。

伊36号の中で、乗組員からすでに軍神として扱われる回天搭乗員たち。

しかし、相変わらずの玉井少尉は、体調を気遣う乗組の軍医長に対し

「我々みたいなのが病人になっても治し甲斐がないんじゃありませんか?
結局死んでしまうんだし」

と自虐して、またしても座を気まずくさせます。

言葉を慎め、と玉井少尉を諌める良識派、関谷中尉。

ソロモン諸島付近に進出したところで、彼らは同じ回天隊を乗せた伊90が
回天を発進することなく敵に撃沈されたことを知り、意気消沈します。

「あの人だけは空母か戦艦に体当たりさせてあげたかったな・・・」

あの人ってだれー!

その時、「魚雷戦用意!」の声がかかりました。
南方に来て初めて敵と遭遇したのです。

「発射用意よし!」「発射用意よし!」

「ヨーイ・・・・撃(テー)ッ!」

「大型輸送船轟沈!」「大型輸送船轟沈!」

特撮は武士の情けでここには上げません。(というくらいチャチ)

一息つく間も無く、今度は敵の駆逐艦が現れます。
艦長は潜行を命じるのですが、この時の内部から撮った映像と、これに続き
敵が落とした魚雷が爆発するシーンが、どう見ても本物のフィルム。

回天が潰れるのを気遣って深度を取らない艦長に向かって、
関谷中尉は自分が出撃して敵艦を沈める、と申し出ます。

「たかが駆逐艦に回天が使用できるか。
そのうち大物に出くわすから艦長に任しとけ」

と親心を出す艦長(井沢一郎)に向かって関谷は

「空母や戦艦を轟沈するのも進んで潜水艦を防御するのも私には同じことです!」

その言葉に艦長の目が深く頷き、

「1号艇、回天戦用意!搭乗員乗艇!」

「関谷中尉、往きます!」

一人先に行くことを決心した関谷中尉。

不意に先を越され、呆然とする三人。

実際の回天搭乗員もこうだったのでしょうか。
艇に乗り込むために艦内を昂然と歩む関谷中尉は、すでに軍神となり、
乗組員は最大の敬意をもってその最後の搭乗を見守ります。

回天には潜水艦内部と回天下部に穿たれたハッチを結ぶ筒を潜って搭乗し、
潜水艦側からハッチを閉めます。

回天と潜水艦を固定していた鎖が外れると、
搭乗員が母艦に戻ってくることは決してありません。
その瞬間、彼に残されたこの世での時間は数分単位となります。

艦内とは電話でつながっていますが、この電話の用途は二つ。
一つは出撃が中止になったことを伝えるため。
もう一つは最後の言葉を艦長と交わすためです。

ほとんどの搭乗員が最後に残していったとされるこの言葉を、関谷中尉も艦長に告げます。

「今までお世話になりました」

「関谷中尉、頼むぞ」

関谷中尉が一足先に出撃していくのを万感の思いとともにただ見ている三人。

そしてすぐに爆発音と振動が伊36を震わせます。
関谷中尉の命の火が消えたその瞬間でした。

そしてそのおかげで、伊36は、当初の目的であったアドミラルティ泊地での
回天戦を行うことができるようになったのです。

泊地での回天戦なら、空母だろうが戦艦だろうが、もう目標は選び放題です。

ところが、艦長が最大の苦心を払って湾口まで潜水艦をつけ、
回天戦の成果を最大限に上げてやろうとしている最中、司令部から無電が。

(本当は作戦中に司令部からの連絡があるなどとは考えにくいのですが、
そこはそれ、映画ということで)

なんの理由かはわかりませんが、ここで帰投命令がくだったのです。

呆然とする三人。
この刹那の命の猶予、出撃の延期がいかに残酷なことであるかを、
朝倉少尉は自分も知ることになったのでした。

「村瀬・・・貴様はこんな気持ちを二度まで耐えてきて・・」

玉井少尉だけは、その瞬間、恋人の幸子のことを考えていました。
写真を見、しばし彼女のいる世界に自分が生きていることに安堵を感じます。

幸子が自決してもうすでにこの世の人ではないことなど、知る由もありません。

しかしそれも一瞬のことでした。

そのとき、アドミラルティ敵泊地に敵の大艦隊が帰還してきたのです。
艦長は決断しました。

帰投命令に背いても、回天搭乗員に「死に花」を咲かせてやるため、
あえて回天戦を行うことを。

「昭和19年12月12日、伊号36潜水艦、
会敵の機会に接し、艦長は今は敢えて諸君に往けと命ずる」

「搭乗員乗艇!」

つい何時間か前、関谷中尉が受けた乗組員の畏敬の眼差しと敬礼を受けながら、
三人は回天に乗り込む、あまりに短い花道を歩いていくのでした。

ハッチの下には軍医長が待っていました。
軍医は搭乗員に自決用の青酸カリを渡すように言われていましたが、
彼らへの敬意からそれをせず、今はただ出撃を見送ります。

乗り込む最後の瞬間、手を握り合う三人。

村瀬には、従兵がなぜか近寄ってきて、

「い、い、い、生きとります」

なんと、乗り込もうとする村瀬にネズミの仔を渡そうとします。

「かわいいなあ。ありがとう」

「ありがとう。でも俺はいい。内地に連れて帰ってやれ」

嗚咽をこらえるのに必死な従兵でした。

朝倉少尉は帝大の先輩だった従兵から貰ったお守りを潜望鏡にかけ・・、

玉井少尉は幸子の写真を目の前に貼り付けます。

そして三基全部が潜水艦から解き放たれました。

海上に浮上し、突入目標を定めた玉井少尉。

「幸子さん、さよなら」

「大型空母、轟沈!」

えーと、戦艦・・・・「マサチューセッツ」?

機銃掃射(きっとボフォース機関砲)を受けながら、突入していく村瀬少尉。
監督は突入の最後の瞬間、目をつぶってしまう演技をどちらにも要求しました。

「戦艦、スクリュー音消えた、轟沈!」

艦長は総員に向かってアナウンスします。

「伊号36潜水艦は回天攻撃により大型艦2隻、駆逐艦1隻轟沈の成果をあげたり。
回天の勇士散華して今はなし。
我ら伊号36潜水艦乗組員は謹んで回天の勇士の冥福を祈り、これより帰途につく」

さて、ところでもう一人の搭乗員、朝倉少尉はどうなったのでしょうか。

実は発進時から水漏れを起こしていた朝倉少尉の艇、操縦不能になって
海底に鎮座した上、もうすでに腰まで海水が迫っていたのでした。

落ち着き払った様子で泰然と短剣を取り出し、潜望鏡に文字を刻み始めます。

十九年十二月十二日 一五三〇

我未ダ生存セリ

朝倉少尉の薄れゆく意識の中に、かつて聞いた子供の歌声が響いていました。

「夕焼け小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」

・・・・・・・・・・

予備学生が主人公の戦争ものは、えてして戦争とそれによって学問の道半ばで
命を断たれることの不条理を強調して訴える傾向にあります。

しかしこの映画は1955年作品で、戦争の記憶の生々しい頃に
元予備士官の監督のもと、軍隊や戦争を知るスタッフによって制作されたため、
その後の、厭戦気分だけをお涙頂戴で綴る作品とは異なり、その時代に生まれ、
そうせざるを得なかった若者たちの公と私の両面を描くことに成功していると思います。

特に、伊号36の艦長と回天搭乗員たちの、命令を下し、それに従う関係の中に、
この時代に生きた者にしかおそらくわからない「愛」が描かれていたのは
個人的に大変評価できる部分でした。

 


終わり

 

 

 

 

アメリカ海軍ヘリコプター史〜ミッドウェイ博物館

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サンディエゴにある「ミッドウェイ」博物館、空母艦載機の整備や
指令をだす部署の見学の見学が終わりました。

ここに、空母艦載機の一つである米海軍ヘリコプターの歴史コーナーがありました。

 

人類最初のヘリコプターが空を飛んだのは1940年5月24日。
この時には不安定で振動も多く、パイロットがテスト飛行で
縄をつないだヘリをかろうじて「持ち上げた」というものですが、
その後、技術は急速に進化していきました。

この技術進歩の歴史の中には、多くの勇敢な勇者たちの、
理想を追求した技術者たちの、そして計り知れない危険を承知で
戦いに挑んだセイラーの物語があります。

この展示では、過去七十年間にわたりアメリカ海軍のミッションの可能性を
大きく広げてきたヘリコプターの歴史についてを紹介しています。

ところで、皆さんは「ヘリコプター」というものを誰が発明したかご存知ですか?
去年の夏、ボストン郊外にある「シコルスキー」本社の写真を高速から撮ろうとして
失敗したということがありましたが、シコルスキー社を作った

イーゴリ・イヴァノビッチ・シコルスキー(1889−1972)

です。

自らが操縦することもでき、フランスで航空機の研究を重ねた彼は、
ロシアで飛行機開発に携わり、当時すでにのちのヘリコプターとなる
機体のアイデアを持っていたといいます。

ロシア革命の後アメリカに亡命したシコルスキーは、まず
商業空輸の会社

「シコルスキー・エアロ・エンジニアリング・コーポレーション」

を設立。

その後会社はのちにユナイテッド航空となったユナイテッド・エアクラフトの
ヴォート・シコルスキ部門として吸収され、そこの部長であった彼は
自らがパイロットとして飛びながら開発を行い、
1939年9月、ほんの数フィートではありましたがVS−300なるヘリで
空を飛ぶことに成功しました。

操縦しているのはシコルスキー本人。
これにカバーをつけて?操縦者の体を保護したバージョンも
その後開発されています。

機体の下にフロートが三つついており、史上初にして水陸両用が可能でした。

このいかにも危なっかしく見える機体をよく自分でテストしたものだと思うのですが、
自身がパイロットであったシコルスキーにしてみれば、
危険なテスト飛行だからこそ自分で行う方が気が楽だったのかもしれません。

余談ですが、シコルスキー社の前を通り過ぎた時、息子が

「最近(2015年)ここロッキード・マーティンに買収されたんだよね」

というので、なぜそんなことを軍事オタクでもないのに知っている?
と非常に不思議だったということがありました。
ネット時代の子供って・・・・・。

シコルスキーHSS。
海軍の対潜哨戒機の必要性から開発され、その後のSー58、
シーキングの原型となりました。

HO4S。
朝鮮戦争で活躍した乗員搬送ヘリの海軍用です。

MHー53。
海兵隊&海軍バージョンは「スーパースタリオン」と呼ばれます。

海上自衛隊でも使用されていましたが、順次退役し、最後の1機は
今年2017年の3月に除籍となって運用が終了しました。

ちなみに後継機は アグスタウェストランドのMCH-101。
掃海隊でおなじみですが、「しらせ」にも搭載されています。

 

シコルスキー本人は、

「私の行った個々の仕事は人類を進歩させるための火花を未だに放っている」

とおそらく晩年に豪語していたそうですが、これが決して
高すぎる自己評価でないことは皆さんも納得されるでしょう。

確か浜松の空自の資料館にパイアセッキのヘリが展示されていて、
それをここでご紹介するのに、

「パイアセッキとはさても面妖な名前であることよ」

と感じいったのですが(いつの時代の人だよ)、その後これが
ポーランド人にはよくある人名であることがわかりました。

フランク・パイアセッキ(1919-2008)

はポーランドから移民してきたテイラーを父に持つフィラデルフィア生まれ。
本人はペンシルバニア大学とニューヨーク大学で工学を学んでいます。

ちなみにこれも同一人物らしいのですが、どうして
「これ」が「あのように」なるのか理解できません。
外国人の歳の取り方って謎だわ。

小さい頃から飛行機模型を作るのが好きだった彼は、10代のうちに
ローターを上に付けた固定翼機

「オートジャイロ」

を開発するという一種のオタク天才でした。
シコルスキーとほぼ同時に友人と共同でシングルローターのヘリ、
PV-2(Pはパイアセッキ、Vは共同開発社のヴェンジー)を開発。

この時の貴重な実験の様子が残されていました。

Piasecki PV-2 first flight, April 1943

うーん、これで飛んだってことにするのか?それでいいのか?
という怪しい動きではありますが、一応宙には浮いています。
ヘリの足はどっかに飛んでいかないようにロープが付けられていますね。

1945年3月7日、パイアセッキは初めて「ちゃんと飛ぶ」タンデムローターのヘリ、
P-V エンジニアリングフォーラムXHRP-Xの開発に成功します。

P-V Engineering Forum XHRP-X, 1945

有名な「フライング・バナナ」の形をすでに備えていますね。
ってかあれが完成系というのも如何なものかって気もしますが、(個人的感想)
バナナに似ている度だけでいうと、こちらの方がかなり完成度は高いです。

パイアセッキの実験は記録が残っているものが多いらしく、
楽しい音楽とともにまとめた映像があったのでご紹介しておきます。

Straight Up: Frank Piasecki’s Flying Machine


さて、ヘリコプターを開発した人物は同時期に三人いました。
もう一人が、ローレンス・デイル・ベル(1894−1956)です。

 

どうしてヘリの開発者は皆全体的に似ているというか安定の良さそうな容姿なのか、
と少し不思議な気がするのですが、それはともかく、”ラリー”・ベルは
グレン・L・マーチンカンパニー(のちのロッキードマーチン)
でマネージャー、コンソリデーテッドでは副社長にまで登りつめたあと、

ベル・エアクラフト・コーポレーション

を立ち上げます。
1941年からヘリコプターの開発に着手したベルは、1943年、
伝説のヘリ、

BELL 30

の初飛行を成功させます。

Bell Model 30 Crash

実験ではものすごい失敗をしていますね。
地面に機体が叩きつけられると同時にパイロットは放り出され、
その瞬間ローターに激突しているように見えるのですが、
怪我は手首の骨折だけで済んだということです。

その後この事故を教訓として(多分)スタビライザーを開発、
1947年には「ベル47」を完成させました。

アメリカの人気戦争ドラマ「M*A*S*H」のオープニングクレジットでは
負傷者を搬送する朝鮮戦争のシーンがベル47を有名にしたそうです。

「スイサイド・イズ・ペインレス」(自殺は痛みなし)

というテーマソングとともに記憶しておられる方もいるでしょうか。

金魚鉢のようなユニークなキャノピーはオールラウンドビジョンが可能で、
スキッドの形は、荒れた地形に着陸することができ、
2つのエクステンション・ポッドが装備されているため、
重症者を搬送するのに活用されました。

ニクソンか?と思ってしまったこの悪役っぽいおじさん、
わたしが今回初めてその名を知った

チャールズ・カマン(1919ー2011)

は、26歳の時に発明したサーボフラップ制御式ローターを提げ、
友人二人と三人で立ち上げた会社、

カマン・エアクラフト・カンパニー

で1947年に初めてのヘリK−125を開発します。

海軍のために開発されたH43ハスキー。

カマンはその後艦載用対潜ヘリコプター、
Hー2シースプライトを産みました。

スタンリー・ヒラー・ジュニアについては、
サンフランシスコ空港近くの「ヒラー航空博物館」を見学した後、
一項を費やしてその作品群について語ってみました。

早熟の天才 スタンリー・ヒラー・Jr.

この項でも触れているように、ヒラーの発明歴は10歳前に始まっており、
12歳に動力付きミニチュアカーを売る会社の社長になりました。

最初にヘリコプターの発明をしたのは15歳のとき。

1944年には

XH-44 "Hiller-copter"(ヒラコプター)

を開発することに成功。
ヒラー・エアクラフト社は朝鮮戦争で規模を拡大し、
軍からの発注を受けるようになりますが、その中でも

 Hiller OHー23(レイブン)

はヒラー社でもっとも有名な機種となりました。
また、彼は「フライング・プラットホーム」という垂直一人用のヘリを発明。

「早熟の天才」のページでも説明した「ホーネット」というヘリは、
ティルトウィングで史上初の高速垂直離着陸を可能にした画期的なものでした。

ヒラー自身がこれに乗っている動画が見つかりました。
驚いてしまったのは、後付けしたローターの先が回る時にボーボー燃えてること。

Hiller YH-32 Hornet Helicopter (1951)

ヒラー氏、サングラスをかけて瀟洒なスーツのまま優雅にこれに乗り、
空中でサングラスを外してこちらにカメラ目線で声をかけております。

彼の案外なナルシーぶりが楽しめるお得な映像となっておりますので、
みなさまこれだけはぜひご覧ください(笑)

最後に。

ヒラーは自分がちびっこ社長だった頃、主力商品(ミニカー)の素材だった
金属を使ってままごとセットやハンガーも売っていますが、
チャールズ・カマンは自分がギタリストだったこともあり、
ヘリコプターで財をなしてからは、趣味の音楽事業の会社も作ってしまいました。
「オベーション」ブランドのギターは、今でもギタリストに評価を受けています。

続く。

 

 

 

 

艦載航空機部隊〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」には就役時に

F4U-4/F4U-1D (FG-1D) コルセア 96機
SBW-4E (SB2C-4E) ヘルダイバー 46機

で編成されたCVBG-74が配備されていました。

「ロナルド・レーガン」など「ニミッツ級」の艦載機が66機であることを考えると
この142機は随分多い気がします。

そう思って歴代空母の艦載機数を調べてみると、

「ラングレー」 55

「レキシントン」級 78−90

「レンジャー」 76−86

「ヨークタウン」級 80−96

「ワスプ」 76

「エセックス」級 100−123

「フォレスタル」級 78

「キティホーク」級 90

「エンタープライズ」 84

「ジェラルド・フォード」級 74

 

「エセックス」級とこの「エンタープライズ」級の艦載機数が図抜けています。
たくさん航空機を積めるというのは、甲板の広さとハンガーデッキの大きさもですが、

「ジェット燃料」「航空用ガソリン」「航空用弾薬」

などの物資を搭載することができて初めて可能になります。
しかし、「ニミッツ」「ジェラルド・フォード」などの搭載機が少ないのは
一つの航空機のスペックが昔より高くなったということなのでしょうか。

ちなみに「ミッドウェイ」ベトナム戦争時の搭載機群は以下の通り。

F-4B(ファントムII)戦闘飛行隊
F-8C/D(クルセイダー)戦闘飛行隊
A-4C/D(スカイホーク)軽攻撃飛行隊×2個
A-1H/J(スカイレイダー)中攻撃飛行隊
A-3B(スカイウォーリアー)重攻撃飛行隊
E-1B(トレーサー)早期警戒分遣隊
RF-8A(クルセイダー)写真偵察分遣隊
UH-2A(シースプライト)汎用ヘリコプター分遣隊

さらに、除籍寸前、1990年はどうだったかというと、

F/A-18(ホーネット)戦闘攻撃機×36機
A-6(イントルーダー)攻撃機×18機
EA-6B(プラウラー)電子戦機×4機
E-2C(ホークアイ)早期警戒機×4機
SH-3H(シーキング)ヘリコプター×6機

これを見てもおわかりのように、「ミッドウェイ」は戦後、
アメリカ海軍史にその名を残してきた艦載機を全て載せてきた、
といっても過言ではないでしょう。

 

さて、その「ミッドウェイ」の航空関連部門がある区画を見学しています。

空母の中にはこのような、なんなのか全くわからないながらたいそうな
パイプ的構造物があちらこちらにあります。
管内の各部屋には必ず「ベントサプライ」などの文字と方向が書かれたダクトがあります。

次に見た部屋では机に向かうヨーマンと、その横に仁王立ちになるパイロット。

ヘルメットの中に耳あてや手袋などを詰めて運ぶのはスタンダード?
「太平洋の翼」「加藤隼戦闘機隊」に出ていた佐藤充(まこと)に似てません?

パイロットは今からここでブリーフィングを行うというわけです。
「CO」「XO」「MANT」(メインテナンスのことかな)など、
座る椅子がその地位によって決まっているようですね。

このモニターでは飛行業務の色々について映像が流されていました。
ボマージャケットのイケメンは写真ですので念のため。

右に三人親子が写っていますが、おそらくこの年齢の子供は
ツァーガイドを聞いても何もわからないはずなんですよね・・。

ダディとマミーがどちらもつけているのを見て僕も持ちたい〜!
と駄々をこねたと想像。

結構ハンディホン重たいので、彼が自分で持てなくなり、
ぐずりだすのは時間の問題と思われます。

っていうかもうすでにその状態?

「HELANTISUBRON」?

何かギリシャ神話とかラテン語と関係あるのかな?と思ったら、
なんのことはない、

「HELICOPTER ANTI SUBMARINE SQUADRON」

のことでした。
対潜ヘリコプター部隊ですね。
そう思ってよく見ると、龍のようなタツノオトシゴのような生物が、
矢印の形の尾っぽで潜水艦をぐるぐる巻きにしてやっつけています。

VFA-151、部隊通称「ビジランテ」、正式名は

「ストライク・ファイター・スコードロン・ワン・ファイブ・ワン」

です。
サンダーバードなんかが好きだった元男子なら、口にするだけで
そのかっこよさについ陶酔してしまいそうな響きですね。


マスコットは「オールドアグリー」というナイフを口に咥えた骸骨、
とこの辺りも中二病的なかほりがそこはかとなく漂ってきますが、
その歴史を遡れば、1948年から今日まで第一線の名門部隊です、

「ミッドウェイ」が就役した最初に「コルセア」で乗り組んでいたビジランテは
「ハンコック」やミラマー基地の配属を経て、1970年代になると再び
古巣の「ミッドウェイ」に帰ってきて、ベトナム戦争に参加しました。
乗機は「ファントムII」でしたが、彼らは1986年に、この「ファントム II」が
空母から最後に飛び立つ歴史的瞬間に参加しています。
(日本ではまだ現役だってことは感興を削ぐのでこの際言いっこなしね)

この後、彼らは「ホーネット」に使用機を取り替えました。

各パイロットの割り当てとミッションを記したホワイトボードには
1983年8月13日という日付が見えます。

まだ彼らが「ファントムII」に乗っていた頃の記載です。

ここにも「セイフティ」「アドミニストレーター」?だけが場所指定。
彼らは一番前に座っていないといけないものなのでしょうか。

「GO UGLY EARLY! 」

「オールドアグリー」は日頃「アグリー」と呼ばれていた模様。

ちなみにこれがアグリーくん。
火のついたナイフを加えているけど、なかなか目が可愛い。

これがビジランテパイロットの出撃前のお姿である。
うーん、他のマネキンが色々と微妙なのに、これはまた思いっきりイケメン。

 

岩国の海兵隊基地でホーネットドライバーに案内してもらって
中を見学した時、こんなラックにかかっていたカップが
ことごとくろくに洗っておらずコーヒーまみれだったのを思い出します。

彼の愛妻は初めてそれを見たらしく

「ボーイズ・・・」(男ってこれだから・・)

と呆れていましたが、彼はそれに対して、

「ぼ、僕はちゃんと洗ってますよ?」

と言い訳していたのが可愛らしかったなあ。
その時もそうでしたが、カップにはタックネームをプリントしています。

「スプーク」(幽霊?)「ル・ドゥシェ」(フランス語で水)「イッチー」(かゆい)
「スネーク」「ドラゴン」「ボトルロケット」「ポニーボーイ」「マグー」・・・。

その時の海兵隊航空隊にも、このようなロッカー室がありました。
息子はここで耐圧スーツを身につけさせてもらったものですよ。


あー、こんな人いそう。

胸に旭日入りの部隊パッチをつけた、

VFA-192 「ワールド・フェイマス・ゴールデンドラゴン」

のマーク・マーレー司令。(多分)
「ワールドフェイマス」は煽り文句かと思ったら、これも含めて部隊名だそうです(笑)

手前に鳥居がありますが、これぞ横須賀勤務の証ですね。

 

ところで少し前、旭日模様を社旗としている某新聞社が

「日本軍が使った旭日旗を揚げると、悲惨な戦争の記憶が蘇り問題視される」

という記事を書いてお前がいうな!と世間の笑い者になっておりましたが、
ぜひこの新聞社や旭日旗を問題視する国の方々は、積極的に(できるものなら)
旭日を使っている全ての在日米軍部隊に文句をつけていただきたいと思います。

VFA-192 World Famous Golden Dragons

ホーネットでの離発着シーン(パイロット目線)と空中給油、攻撃、
模擬戦などの様子が見られるドラゴンのかっこいい映像があったので貼っておきます。

1:40あたりで本当に艦船を爆破しております。

ちょっと、これ一人の控え室?
パイロットってこんなに優遇されるってことかしら。

彼もワールドフェイマス(以下略)のパイロットですが、クローゼットには
パジャマの上に着るガウンまで装備されていますね。

隊長とパイロットの気さくなひととき。
(でもないか、地図見てるし)

注目すべきは指令官の後ろの派手なアロハシャツ。
後ろに耐圧スーツもヘルメットもあることから、まだこの司令は現役です。

それにしても壁の息子らしい写真は一体・・・。

廊下が赤いランプになっているので、夜という設定だと思いますが、
ある士官寝室では・・・・・・。

あらら、随分と消耗しておられる様子。
航空作業に必要な一切合切を持ってロッカーの前に立つパイロットですが・・・、

落ち込んでるむっちゃ落ち込んでる。
肩を落とし目は虚ろ。
訓練でチョンボして思いっきり怒られてしまったかなー?

横から見ると明らかにがっくしと首を落としております。

何があったかは知らんが、今日の失敗が明日の精強なパイロットを作るのだ!
頑張れ!(適当)

 

 続く。

 

 

四月のホワイトクリスマス〜空母「ミッドウェイ」と「頻繁な風」作戦

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空母「ミッドウェイ」博物館の見学記、続きです。

 

ところでいきなりですが、皆さんは「ミス・サイゴン」のストーリーをご存知ですか。

一言でいうとベトナム版「蝶々夫人」で、「蝶々夫人」のアメリカの海軍士官と芸者を
ベトナム戦争時の海兵隊軍属(元兵隊)と売春宿で働くベトナム女性に置き換えています。

【吹奏楽】ミュージカル「ミスサイゴン」より "Miss Saigon"

4:00くらいから打楽器でヘリの音を表現しているのですが、本日のテーマでもありますし、
ぜひよかったらここだけでも聴いてみてください。

さて、「ミス・サイゴン」。
現地の女性とアメリカ軍人が恋をして、軍人が恋人を残して本国に帰ったことに
絶望した女性が自ら命を絶つと言う悲劇ですが、この背景はベトナム戦争末期、
「フリークェント・ウィンド作戦」とそれに至るまでの時期でした。

ベトナム戦争末期の1975年4月、陥落寸前の南ベトナムの首都サイゴンから、
艦載航空機で在留アメリカ人、南ベトナム難民などを救出してしまおうというのが
本作戦の内容です。

アメリカ政府はこれに先立ち、C-5、C-130などの固定翼機で、在留米人に
国外脱出させて、救出作戦相当の人員数を減らすことから行いました。

そして、決行に当たっては海軍艦艇を上図のような配置で待機させます。
空母である「ミッドウェイ」と「ハンコック」は、人員を搭載したヘリを受け入れるため
陣形の外側近くに配置されていました。

作戦前、待機中の「ミッドウェイ」甲板ではシコルスキMH-53が並んでいました。

ところで、この時の参加艦艇名簿を眺めていたわたしは、「タグボート」の欄に

「 CHITOSE-MARU」「 HARUMA」「 SHIBAURA-MARU」

という日本の船の名前を発見しました。

当時日本政府がベトナム戦争を支援していたというのは、今でも共産党が
集団的自衛権についていちゃもんをつけるときに引っ張り出してくる事例ですが、
このとき、日本政府は公船が出せないので、民間船を現地に派遣していたらしいのです。

本作戦の意義とその内容について知った今では、日本人としてわたしは
このことを大変誇りに思うものですが、もしこれが当時何かのきっかけで
国内に報道されていたら、おそらく左派とマスコミが大騒ぎしたに違いありません。

救出作戦は開始されました。
警護のため銃を抱えた陸軍軍人の見守る中、
「ミッドウェイ」の甲板に向かってくるヘリコプター「シースタリオン」。

甲板には「チヌーク」、向こうから続々とこちらを目指しているのは「ヒューイ」。

ヒューイが乗せてきたベトナム難民たちの表情は明るく、
何人かの顔には微笑みすら見えます。

ところが、ここで混乱が起こります。

あまりにも多くのヘリが飛来し着艦したため、たちまちスペースがなくなりました。
乗っているのが軍人ならばホバリングしてラペリング降下させるところですが、
ご覧のように乗せてくるのは女子供を含む難民と一般人です。

そして、後述する理由で何が何でも甲板を空けねばならなくなった
「ミッドウェイ」の甲板からは・・・

「せ〜〜のぉ!」・・・・ぼちゃん!

なんとアメリカ海軍、ヘリコプターを海に投棄して場所を空ける作戦に出ました。
ヘリより難民の人命、惜しげもなく億単位の機体を海に放り込むその決断、
さすがは人命重視のアメリカさんやでえ。

おっと、彼ら(海軍軍人)が放り込んでるのは陸軍機だというのは言いっこなしだ。

というのはもちろん冗談として、このとき結果的に45機のヒューイ、
1機のチヌークが南シナ海の藻屑にされたといいますから、驚きます。

しかも、そのうちの何機かは、甲板に人員を降ろし終わった後、
再び離艦し、空母の比較的近くで搭乗員が空中から脱出して機体を海に墜落させ、
自分は待機しているタグボートに拾ってもらうという、
考えただけでゾッとするような危険な方法で投棄されたというのです。

いろんな意味で「綺麗なアメリカ」の真骨頂を表す作戦だったと言えましょう。

ところで、最初に搭載していたヘリが帰艦し、その他のヘリも増えるとはいえ、
幾ら何でも一応「作戦」なのだから、最初からそれくらい計算しとけよ、
と思う方もおられるかと思います。

もちろんアメリカ海軍、最初から計画はバッチリ、
できるだけ短期間にたくさんの人数を輸送し、ギリ甲板に収まるだけの
参加ヘリの機数は計算しつくしていたはず・・・と言いたいところですが、
投棄されたヘリの数を見ると、案外適当だったのではないかという気もします。

これもある意味アメリカさんらしい、大局のためには些事にこだわらない
いい意味でのいい加減さが発揮されていたと言えるのではないでしょうか。

そして、だめ押しで突発的なこのような事件も起きました。

「ミッドウェイ」で艦載機関連施設の見学を終えて階段上の出口から降りてくると、
そこにはこのような飛行機が展示してあります。

O-1セスナです。


この一連の「頻繁な風」作戦実施中、「ミッドウェイ」上空に一機のセスナが飛来しました。
セスナを操縦していたのはベトナム共和国空軍のパイロット、ブワン軍曹。
セスナは「ミッドウェイ」甲板に一枚のメモを落としていきました。

「当機は貴艦への着艦を希望する。
当機は後一時間燃料が保つが、その間に甲板のヘリを脇にどけてほしい。
どうか助けてくれ。

ブワン軍曹と妻、そして五人の子供たちより」

「ミッドウェイ」の指揮官、ラリー・チェンバース艦長は、すぐさま
飛行甲板乗務員に甲板を空けさせるように命令を下し、その結果、
1000万ドルのヒューイが南シナ海に投棄されることになりました。

さすがは人道重視のアメリカ軍!そこに痺れ(略)

と言いたいところですが、その時点で、すでに甲板を空けるために
何機もヘリを海に捨てていたことを思い出してください。

こんだけ捨ててるんだから、ヒューイ1機くらい今更なんてことないよね、
と艦長は考えたに違いありません。(知らんけど)

 

その後、ブワン軍曹の操縦するセスナは「ミッドウェイ」甲板にアプローチし、
一度バウンドして見事に余裕の着艦を決めました。

これによってブワン軍曹は

「空母に着艦した史上初の艦載機でない固定翼機パイロット」

となりました。

空母着艦は何時間もの訓練のすえ身につける技術で、おそらくは軽飛行機といえど
経験のないパイロットにとっては薄氷を踏む思いであったと思われるのですが、
妻と子を生きて脱出させたいという火事場の馬鹿力が彼にそれを可能とさせたのでしょう。

セスナの着艦を誘導する「ミッドウェイ」の誘導員たち。

甲板に無事着艦したブワン軍曹とその家族(丸で囲まれた部分)の周りには
甲板で着艦を見守っていたパイロットたちがたちまち詰めかけました。

ほとんどがその勇気と快挙を讃えているものと思われます。

しかしほとんどが子供だったとはいえ、よく全部で7人も
この小さなセスナに乗れたものだと感心します。


さて、余談ですが、当時脱出作戦をひかえ、アメリカ大使館は
在留米人対象に、安全のための手引き書を配っていました。

それは避難発令が出た時のためのもので、

「ヘリコプターにピックアップしてもらう集合場所」

「アメリカ軍ネットワークラジオで避難の合図が発令されること」

「このことを決して人に話さぬこと」

と書かれていました。
そしてその合図とは次のようなものでした。

「サイゴンの気温は105度でなお上昇中」

〜これに続いて、「ホワイトクリスマス」が流される〜

ジャーナリストのフランク・スネップは到着を待ちながら
ラジオから季節外れのホワイトクリスマスが流れていたことを

「奇妙で実にシュールな(kafkaesque、カフカの小説じみた)時間だった」

と回想しています。
さらに余談の余談ながら、この脱出作戦の合図が配布されたあと、
現地にいた日本人ジャーナリストたちが

「どんな曲か間違えたらいけないから、メロディを歌ってみてくれ」

とアメリカ人たちに頼んでいたという話があります。

なにぶん命がかかっていることなので、彼らも念には念を入れて
確認をしたということだと思うのですが、
どんなに音楽に疎くてもこれだけは間違えないだろう、ということで
わざわざこの曲が選択されたことを知っているアメリカ人たちは

「日本はキリスト教国じゃないのでホワイトクリスマスは有名じゃないんだ」

と彼らのせいで思い込んだに違いありません(笑)


ミッドウェイシリーズ 続く。

 

ヒーローたちの肖像〜空母「ミッドウェイ」博物館

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「ミッドウェイ」のヘリコプター歴史コーナーに、メダルオブオナー、
名誉勲章を受賞した二人の海軍軍人が紹介されていました。

彼らの写真の下にそれぞれの乗機の写真があることでもおわかりのように、
彼らは名誉勲章をもらったヘリコプター操縦士です。

それぞれの写真の横には、彼らに授与された感状のコピーがあり、
その功績が記されています。

ジョン・ケルビン・ケルシュ中尉は、名誉勲章を授与された史上初めての
ヘリコプターパイロットです。

ヘリ部隊 HU-1のパイロットとして USS「プリンストン」乗組になったケルシュ中尉は、
元山で墜落した飛行機の搭乗員を海上から救助する任務に就いていました。

1951年、元山の偵察任務中撃墜されたコルセアのパイロット、ウィルキンズ大尉ら
乗組員3名を救助するために武装を持たないヘリで現地に向かったケルシュ中尉は、
霧の中単独山地に降り、まず捜索を開始。

程なく彼らを見つけ、負傷者をロープで引き上げている間に敵の放火をあび、
乗って来たヘリは墜落してしまいました。
9日間山中を逃げた末敵の捕虜になった彼らは虐待され、尋問されましたが、
ケルシュ中尉は拷問にあってもこちらの情報を自白せず、他の捕虜をかばいました。

その強さ、誇り高い様子は他の捕虜たちに強い艦名と勇気を与えましたが、
捕虜になって3ヶ月後、ケルシュ中尉は栄養失調と赤痢のため亡くなりました。

クライド・エヴァン・ラッセン中尉が功績を挙げたのは
ベトナム戦争中のことです。

1968年、撃墜された USS「アメリカ」の艦載機F-4Jのパイロットを
救出するためUSS「プレブル」から「シースプライト」で向かったラッセン大尉は
鬱蒼としたジャングル、敵の対空砲火の中、捜索のために
機体を極限まで低空飛行させ、無事パイロットを揚収することに成功しました。

ギリギリまで捜索を続けたため、帰還したときに彼のヘリには
燃料があと5分しか残っていなかったと言います。

ラッセン中尉はベトナム戦争で名誉勲章を受けた最初の海軍航空士官となり、
ペンサコーラ基地の司令官まで昇進しましたが、がんのため引退し、
その2年後、わずか52歳の若さで亡くなりました。

彼の名前はUSS「ラッセン」に残されました。
「ラッセン」は第7艦隊に配備中、横須賀でその姿を我々に見せてくれ、
2015年の海上自衛隊観艦式には外国海軍部隊として観閲を受けました。

2016年1月「ラッセン」はUSS「バリー」と配備を交代し横須賀を去りました。

 

通路には甲板の上で仕事をする人たちのパネル人形が立っていたりします。
白のジャケットですので、彼の仕事はエアウイングの品質管理要員、飛行機検査員、
安全管理などですが、最もよく知られている白いシャツの着用者は

着陸信号役員(LSO)です。

何かイヤーカバーのようなものを持っているので彼もLSOかもしれません。
LSOは「Landing Signal Man Officer」のことで、フライト・デッキ左舷後方にある
LSOプラットフォームに立ち、着艦するためアプローチしてくる艦載機の
高度・スピードなどをパイロットに無線で指示する係。
パイロットでないとできない仕事とみなされていて、
それぞれの艦載機部隊から順番に任務を行うのです。

LSOはフライトデッキで唯一ヘルメットを着用しない係なのですが、
彼はせめて帽子はかぶった方がいいと思います。

 

また、白シャツはすべての郵便物、貨物および乗客の取り扱いと運搬をする係、
また航空機および医療従事者に液体酸素を供給する乗組員であったりします。

 

ここまで見終わると、またハンガーデッキに戻って来ます。
2機の大東亜戦争時の戦闘機を見てから、その向こうの
「ミッドウェイ海戦」コーナーに入り、一つ上の階から出て来たことになります。

再びハンガーデッキの展示を見ていきましょう。

「カクタス・コリジョン」(サボテン衝突)
とありますが、1980年5月横須賀勤務を終えた「ミッドウェイ」は
7月29日、フィリピン北部のパラワン島付近を航行中、
パナマ船籍の商船「サボテン」と衝突しました。

衝突は液体酸素プラントの近くで起こったため、不幸にして
ちょうどプラント内で作業していた2名の乗組員が死亡し、
3名が負傷するという大事故になってしまいました。

「ミッドウェイ」艦体も軽微なダメージを受け、飛行甲板にあった
F-4「ファントム」のうち3機も破損したということです。

航空機がぐしゃぐしゃ・・・・。

さぼてんくんはもっとぐしゃぐしゃです(´・ω・`)

フィリピンで修理を受ける「ミッドウェイ」。

ここには「グリーンマン」がいます。

「トラブル・シューター」と呼ばれており艦載機部隊の整備です。
整備が緑、なんとなく納得の色ですね。

飛行作業が始まると、エンジン整備、電気系統、機体、武器、エレクトロニクス、
安全装置の係がそれぞれの部隊から各一人ずつフライト・デッキに待機していて、
万が一機体にトラブルが発生するとすぐに対応するのです。

また、

●カタパルトとアレスティングギアのクルー

●貨物取り扱い

●フックランナー

●写真係

●ヘリ着艦の際の信号員

などもグリーンシャツです。

O2N2プラントと液体酸素コンバーターのある通路。
中国人の観光客多し。

さて、以上を見学すると、もう一度ハンガーデッキに戻ってくることになります。

ハンガーデッキには何機もの退役機が展示されていますが、
どれも大変手入れが行き届いています。
割と近年塗装をやり直したのではないかと思われるこの機体は、

F4U-4 コルセア戦闘機。

今初めて知ったような気がしますが、コルセア”CORSAIR"という単語を辞書で引くと
古語で「海賊船」という意味が出てきます。

冒頭の写真を見ていただけると一目瞭然ですが、その特徴は逆ガル翼。
プロペラを大きくする代わりに、逆ガル翼によって重量のある主脚を短することで
艦載機に必要な着陸時の衝撃に対処するという思想のもとに設計されたものです。

連載中の「アルキメデスの大戦」でも、逆ガル翼は

「飛行中の直進安定性の高さ、中翼配置は空気力学的に優れ、
限られた翼端長でより大きな翼面積が得られ旋回性能が高められる。
胴体と地面の余裕幅が大きく取れるので推進効率がよく、
大口径プロペラが装着できる。
さらにはW型の主翼は通常翼より前下方視界が良い」

と櫂少佐が絶賛しておりましたですね。

ただし櫂少佐はこの後三菱の堀越次郎氏に

「空母着艦時の大迎え角時の姿勢安定に不安がある」

というわけですが、このシーケンスのアイデアはコルセアの失敗から
取ったのではないかとわたしは思います。

実際コルセアは当初

「失速挙動を起こす」「前方視界が不十分」
「プロペラブレードが長く、着艦時に甲板にプロペラを打ち破損する可能性」

を懸念され、空母艦載機としては通用しないという評価を与えられたため
初期精算機は全て海軍ではなく海兵隊に引き渡され、陸上で運用されることになりました。

ここにあるコルセアは、翼の下をご覧になればわかりますが海兵隊機です。

コルセアの横に、胸に航空バッジと海軍の防衛徽章(ってアメリカでもいうの?)
をつけたやる気満々のベテランがいて、立ち寄る人に説明をしていました。

「第二次世界大戦のベテランと語ろう」という企画で、
本日のベテランは

ドン・ハバード海軍少佐(元パイロット)

です! ( ̄∇ ̄ノノ"パチパチパチ

いやー、若い時のハバード少佐、超イケメンじゃないですかー。

もう一度、若い時の写真と並べてみる。
こちらのハーレーダビッドソン乗りのいかついおっちゃんが話を聞きながら

「はえ〜」

って感じになっているのを見ても、アメリカ人から見てかっこいい爺さんなんだろうな。

ちなみに調べてみたところ、彼が海軍に入隊したのは1943年。
ウィングマークを取ったのは終戦後の1947年ですから、煽り文句の
「第二次世界大戦のベテラン」とは正確には違います。

しかし、戦争中にもかかわらず飛行士の訓練にこれだけ時間をかけるのは
アメリカの信念というか、余裕があったのだと感じずにはいられません。

それだけに一人のパイロットにはお金と時間をかけた価値があると考え、
人命重視の装備を開発し、さらには救出に力を入れ、搭乗員を死なせまいとする。

日本軍とは根本的に考え方が違っており、ましてやこんな軍隊からは
搭乗員の一つしかない命で、最大限うまくいったとしても敵艦一隻しか沈めることのできない
特攻などという非効率的で非科学的な外道の作戦は生まれるべくもないと思いました。

残念ながらわたしたちはこの後の予定があり、脚を止めていられなかったので、
ハバード少佐のお話は聞けなかったのですが、彼の経歴で特筆すべきは、
朝鮮戦争中、

AJ-2「サベージ」

に乗って、命令がくだれば

中国と朝鮮に原子爆弾を落とす

という任務を負っていたことでしょう。
原子爆弾は長崎のファットマン型で、中国に2発、
そして朝鮮半島に1発が割り当てられていました。

しかもホームページによるとこのおっさん、

” Nice to think about killing 10,000 people with one bomb!”

(少し差し障りのある内容なので翻訳は自己責任で)
なんて嬉々として書いてるんですよね・・・・。

いやはや、勝った国の軍人ってのは全く言いたい放題ですな。

これを知っていたら世界唯一の核被爆国の日本人代表として
本当にあんたそれを知っていても原爆を落としてみたかったのかい?
って聞いてみたかったなー(棒)

こちらは別の日にゲストで来ておられたらしいヴェテラン、
スタン・アベール司令のお写真。

アベール司令もコルセアに乗っていたようですね。

スタンさんは、現在94歳です。

毎週ここ「ミッドウェイ」にやってきては、かつて現役時代に
海軍で体験したこと、ことにパイロットとして乗り組んでいた

「空母バンカーヒルで体験したカミカゼ2機の突入」

について皆に生き証人として語っているのだそうです。

それによると、特攻機が突入してきた時、彼は日本機を自軍の機だと思いこみ、
それが撃墜されてしまうと!心配していたのだそうです。
それが間違いで、「ジャップだ!」と気付いた時にはすでに特攻機は激突していました。

キャットウォークに逃れたアベールは、爆発の引き起こす猛烈な火と煙から逃れ、
他のメカニックらと共に海に飛び込んで救助を待ち、そして助かりました。

甲板に引き上げられた時、炎は消えていたものの、そこに並んでいたのは
無数にも思えるキャンバスバッグで包まれた仲間の遺体でした。

 

この日アベールさんは「ミッドウェイ」にはきていなかったようですが、
この方の話も、日本人としてはぜひ直に聞いてみたかったと思いました。

その後、コルセアは後期型になって着艦に向かないという欠点を克服し、
「バンカーヒル」にも配備されることになります。   ドン・ハバードがウィングマークを取って乗ったのも、
スタン・アベールが「バンカーヒル」で乗っていたのも、このコルセアでした。       ミッドウェイシリーズ、続く。    

V.J-DAYの勝利のキス@タイムズスクエア〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」博物館のハンガーデッキは、皆が最初に足を踏み入れるところなので、
案内所があったり、ショップがあったり、いろんな情報が掲示されています。

ボランティア募集の看板。

「メイク・ザ・ミッドウェイ・マジック」

とありますが、ミッドウェイマジックとは彼女のあだ名?です。

艦内にはウィングを利用したカフェがあり、スターバックスが参入しています。

売店では「チョコレートアーモ」という商品名の弾薬型チョコを売っていました。
陸自の知人にお土産にしようと買って帰ったのですが、嫌な予感がして食べてみると、
チョコレートが壮絶にまずかったので、あげなくてよかったと胸をなでおろしました。

  さて、冒頭写真です。

空母「ミッドウェイ」が展示されている岸壁の向こうには、隣の岸壁にある
「ツナ・ハーバーパーク」に立つ巨大な「勝利のキス」像があり、
「ミッドウェイ」の甲板からよく見えます。

このモニュメントは言わずと知れた、アルフレッド・アイゼンスタットの写真、

V-J Day in Times Square

を表したもので、現地では

”Embracing Peace" Statue

と呼ばれています。

割と最近だった記憶がありますが、このキスされている女性、
イーディス・シェインさんが91歳で亡くなったというニュースが流れたとき、
あのキスは恋人同士のものではなく、通りすがり同士だったということを知り
ちょっと驚いたのはわたしだけではなかったのではないでしょうか。

日本との戦争が終わり、喜びに沸くタイムズスクエアに友人と共に向かった彼女は
地下鉄を出たところで、いきなり見知らぬ水兵に抱きしめられ、キスされます。

この水兵は、グレン・マクダフィであるという説が現在最も有力です。

ガールフレンドに会うためにタイムズスクエアにきていた彼は、
戦争終結の報に接し、捕虜になっている兄弟が解放されることに喜び興奮し、
近くにいる看護師を抱き寄せてあの歴史に残るキスをしたといわれます。

その時に、それもたまたま近くにいて民衆の様子を撮っていた写真家が、
すかさず二人を撮りだしました。

その写真が有名なアルフレッド・アイゼンシュタットのものです。

この二人を撮ったカメラマンはもう一人いて、違うアングルの写真が残されています。

ただし、同じ人物の同じキスの瞬間でありながら、撮る場所の違いで、
ヴィクター・ヨルゲンセン(海軍写真班)のこの写真は、残念ながら
ドラマチックさや構図においてアイゼンシュタットのに見劣りします。

この二人の写真を比べてみると、いかに写真は撮る場所と構図であるかがわかり、
自衛隊イベントで場所取りに躍起になって我を忘れる
大人気ないおじさんの気持ちが理解できるような気がしますね。

共感はしませんが。

ここで注目すべきはアイゼンシュタットがプロのフォトジャーナリストであり、
ヨルゲンセンは、プロといっても海軍所属カメラマンであったことです。

この写真の違いは、偶然ではなく、実はプロとセミプロの違いであった、
とわたしは思わずにいられないのですが、いかがでしょうか。

ちなみに、この写真で後ろにいる驚いた顔のおばちゃんも特定されていて、
ユタ州のケイ・ヒュージス・ドリウスさんというそうです。

 

さて、この時のアイゼンシュタットの追想は次のようなものです。

「V-Jデイにタイムズスクエアで、わたしは一人の水兵が通りに沿って走ってきて
片っ端から女性という女性を抱き寄せてキスしている光景を目にした。
お婆さん、太ったの、痩せてるの、若かろうが年食ってようがおかまいなし。
わたしはチャンスとばかりライカを持ったまま走って彼に近づき、振り返って
後ろを見回したんだが、他にはわたしを喜ばせるような絵になる被写体がいなくてね」

失礼なやつだな(笑)

「その時だ。突然わたしの視界に飛び込んできた白い塊が彼に捕まえられた。
わたしは振り向くと同時に水兵と看護師にシャッターを切った。
もし彼女がダークな色のドレスを着ていたら、わたしはシャッターを押さなかったよ。
逆に、もし水兵が白いユニフォームを着ていても同じだ。撮らなかったと思う」

ほうほう、ネイビー×ホワイトの二人であるから撮ったのだと。
白×白、ダーク×ダークでは絵にならないから撮らなかったというわけね。

面白いことに、別の媒体ではアイゼンシュタット氏、こういっています。

「VJ-デイの日、わたしは撮るものを探しながら群衆の中を歩いていた。
水兵がこちらに歩いてくるのをみた。
彼は手当たり次第に老若構わず女性をひっつかんでみんなにキスしていた。

その時わたしは群衆の中に看護師が立っているのに気がついた。
わたしは彼女に意識をフォーカスしながら、水兵が彼女に近づいて、
体を曲げてキスすることを期待した。

今にして思えば、もし彼女が看護師でなければ、さらにダークな色の服を着ていたら、
わたしは写真を撮っていなかったかもしれない。

彼女の白いユニフォームと水兵のダークな軍服の色のコントラストが、
写真に特別なインパクトを与えたのだ」

気がついた時には白いものが目に入ったのでシャッターを切った、というのと
看護師に気がついて水兵がキスすることを期待していた、というのでは
全く状況が違いますが、どちらも本人の記憶によるものです。

あまりにも有名な写真の作者として、いろんなところで何回も喋っているうちに、
当人の記憶でありながら、微妙に書き換えがおこなわれてきたのかもしれません。

 

さて、この時、水兵のグレン・マクダフィは、自分たちが撮られていることを察知して、
カメラマンが何枚もシャッターを切るまでずっとキスを続け、
方やイーディスの方は、キスされながら

「彼ら(水兵)は自分たちのために戦ってくれたのだから
(好きなだけ)キスさせてあげよう」

と思っていた、と述べているそうです。

アイゼンシュタットの写真の背景には、イーディスが一緒に来たという
看護師の同僚の姿が写っていますし、水兵の姿も多数見えます。

 

ところで、こういう話になるとありがちなことなのかも知りませんが、
彼らの素性が明らかになる過程がなかなか面白かったので、書いておきます。


ながらく特定されずにきたこの二人の素性がわかるきっかけになったのは、
イーディス本人が写真家にあの看護師は自分であると連絡したことからです。

見知らぬ水兵にキスされたことを、花も恥じらう乙女であった彼女は、
(自分がタイムズの紙面を飾ったのを見てびっくりしたものの)
それが自分であることを長らく口外しなかったのですが、70年代後半になって、
「若い日の思い出」としてそれを人に何気なく話をしたところ、相手に
写真をもらっておけば?といわれ、ついその気になったのでした。

アイゼンシュタット氏は彼女を見るなり、まずその脚を見て

「あの時の看護師だ!」

と叫んだのだそうですが、その連絡を氏から受けたタイムズ紙は、
彼女が本物であるかどうかを確かめるために、紙面で情報提供を呼びかけました。

ところが驚いたことに、それに対して、なんと

11人の男性と3人の女性が

わたしがあの当事者である、と名乗りを上げたというのです。

ジョン・エドモンソン、ウォレス・ファウラー、クラレンス・ハーディング、
ウォーカー・アーヴィング、ジェームズ・カーニー、マービン・キングズバーグ、
アーサー・リークス、ジョージ・メンドーサ、ジャック・ラッセル、ビル・スウィースグッド。

マクダフィ以外の10名、彼らは全員が元水兵で、全員が自分があの写真の人物だ、
と名乗り出たと言いますからちょっとしたホラーです。

写真でもわかるように、水兵はタイムズスクエアにたくさんいたわけですし、
看護師とキスした覚えのある人も本当に何人かはいたのかもしれません。

そうでない人は一体何を目的に?と少し暗澹たる気持ちになってしまいますが、
あの水兵であるということになれば、老後はイージーモード、
注目を集め有名人となり、下手したら財産を残せるかも、と
虫のいいことを考え、何十年も前の出来事で裏が取りにくいのをいいことに、
ちゃっかり名乗りを上げた不届きな男もいたのかも・・・・・

とここは控えめに勘ぐっておきます。

 

というわけで、「自称水兵イレブン」からの特定は困難を極め、
写真の男の正体は、長らくわからないままでした。

 

その後2005年になって、11人のうち一人、ジョージ・メンドーサが、
海軍の写真解析によって、キスする水兵といったん認定されました。

当時メンドーサは駆逐艦「サリバン」勤務の水兵でした。
休暇で一緒に映画を見ていたフィアンセと外に出た時、終戦の知らせを聞きました。
そのあと戦勝を祝う人波を歩いていた彼は、

「酔っ払っていたので通りがかりの看護婦にキスした。
写真の後ろには許嫁のリタも写っている」

と主張したのです。
そうだとすれば、もしかしたらこれが原因で彼女が機嫌を悪くし、
それを記憶していたため、彼は水兵は自分だと確信したのではないでしょうか。

しかし、フィアンセがいるのに他の女性にキスするかねえ。

ところが、この説には科学的な見地から物言いがつきました。
テキサス州立大学の学者の説で、(学者がこんなことを真面目に検証)

「メンドーサの説明によると、キスをしたのは午後2時ごろだったが、
写真の影の位置は、午後5時以降に撮影されたものである。

ヨルゲンセンの写真に写っている時計(どこにあるかわかりませんでしたが)
は分針が10時近く、時針がほぼ垂直に下向きに向いており、約5:50を指している。

∴ 水兵はメンドーサではない」


名乗りを上げたべつの一人、カール・マスカレッロさんの

「俺が自分をあの水兵であると思う理由」は?

「あの時たくさんの女性とキスした覚えがあり、水兵には自分と同じ手に傷がある。
母親も写真を見て自分だといっている。
ただ、酔っ払っていてその時の正確な記憶はない」

うーん・・・メンドーサさんもそうですが、酔ってて記憶がないので、
自分じゃないかと思うってことですか・・・。

さて、それから時は過ぎ、2007年になって、グレン・マクダフィは

「自分があのキスの水兵である」

ということを訴える裁判を起こします。
おそらくですが、こうすれば科学的に検査をしてもらえると思ったのでしょう。
そしてそれだけ自分だということに自信があったのではないかと思われます。

法医学的分析によって水兵の写真ととマクダーフィの現在の写真とが比較され、
そしてマクダーフィはポリグラフ検査を5回受けて全てパスしました。

(はっきりいって数十年後で自分が堅くそう思い込んでいる場合、
ポリグラフの結果というのはまっったくあてにならないと思いますが)

彼の場合、当初の問題は年齢でした。
1928年生まれの彼は、あのキスの時まだ18歳だったことになり、
海軍では当時水兵への応募資格が18歳と決まっていたことから、
彼が駆逐艦に勤務していたという経歴は辻褄が合わないとされたのです。

これは本人が、15歳の時に18歳だと偽って入隊した、と説明したそうですが、
いくら何でも15歳が18歳だといって受け入れられるってのはおかしくないか?

まあ、海軍としても戦争中だったし来るものは拒まずウェルカム、ということで、
明らかに嘘を言っていると思っても見て見ないふりをしたのかもしれませんが。

本人は、

「普通にあの写真の水兵は自分だ、と言えますよ。あれは私です。
他の(名乗り出た)皆さんには、自分こそがあのポーズを再現することができる!
とお伝えしたいですね」

「あの日、わたしがキスをしようと彼女に近づいた時、
男が猛然と走ってこちらに来るのが見えました。
目の端で彼を見ながら、嫉妬深い彼女の夫か彼氏が殴りに来るのかな、
と思っていたんですが、次にキスしながらちらっと見たら、
彼はわたしたちの写真を熱心に撮っていました」

と述べています。

それにしても18歳で誰彼構わず女性にキスって、おませさんだったのか、
それともこの年代の若者にありがちなお調子ものだったのか・・・。


というわけで、女性も男性もめでたく特定できた

・・・・・・・と思いきや、ありがちな話ですが、未だに彼らにも疑義
(イーディスの身長は低く、グレンと抱き合った時にああはならないといった)
が未だ百出している状態で、必ずしも「最終決定」ではないそうです。

しかし、本人たち(水兵イレブンも含め)が死んでしまった以上、これ以上
真実に近づくことはもはやできなくなり、疑義は残るがここで打ち止め、
となっているというのが現状です。

キスのカップルと一応最終認定された彼らは、それぞれ91歳と86歳で亡くなるまで、
様々な媒体に露出し、各種の追悼イベントやパレードに引っ張りだこの余生を送りました。

本人たちも、自分たちが”本物”だと認められたことで満足しながら、
あの世に旅立ったのではないでしょうか。


「ミッドウェイ」のスーベニアショップで見つけた「勝利のキス」
ポパイとオリーブバージョン。

そう言えばポパイって海軍の水兵さんだったんですよね。

最後に。

写真は、1995年8月23日、マーサスビンヤードに浮かべた船の上における
写真家アイゼンシュタット氏の姿です。

被写体と違って、彼がこの写真を撮ったのは動かしようのない事実なので、
彼はその後も「V.J-DAYのキス写真を取ったフォトグラファー」として生き、
事実一生それにまつわる仕事で過ごしたようです。

この時も、来客に所望されたのか、サイン会でもあったのか、
彼の人生そのものとなった作品にサインをしようとしているところです。

おそらくその人生で最後のサインを。

この8時間後、彼は終生愛したこの島のコテージのベッドで眠りにつき、
そのまま2度と目覚めませんでした。

96歳の穏やかな最後でした。

合掌。

 

ところで、最後に念のために説明しておきますと、「V.J-DAY」のV.Jとは
「ヴィクトリー」「ジャパン」で、つまり対日戦争勝利の日です。

 

 

 

 

ダム・バスターズ〜空母「ミッドウェイ」博物艦

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行くつもりをしていた方ならご存知ですが、
今日は本来なら航空観閲式の予行が行われていたはずでした。

しかし、中止になってしまったのです。

台風が来ているという予報があったので、わたしが知り合いに

「中止になることなんてあるんですか」

と聞くと、その返事は

「よほどのことがないと中止になりません」

そこでわたしはNIKOND810専用のレインコートを買って(笑)
苦行に耐える心の準備をしていたのですが、なんと防衛省の方から
なぜか直々に電話がかかって来て、中止になったと知ったのが金曜日。

やはり台風直撃が予想されるというのは「よほどのこと」だったのでしょう。

もしかしたら百里基地でファントムさんが炎上したこともちょっと
中止になった原因だったかもしれないなあなどと思ったり。

それにしても、今回のチケットを闇で買った人、泣くに泣けませんね。
来週は晴れますように。



さて、博物艦「ミッドウェイ」のハンガーデッキは、見学者がここからツァーに出発する
スタート地点として、ターミナルのようになっています。

飛行甲板、船首上甲板、各甲板、艦橋、機関室。

わたしはこの2016年の訪問で船首上甲板とCAGエリアを見学し、
今年の訪問で飛行甲板と居住区でもある第2、第3甲板を見ました。

しかし、まだ肝心の艦橋と機械室は見られないまま終わりましたので、
最低でもあと一回は行かねば全制覇できません。

いつになるかはわかりませんが、必ずみなさんにディティールを
ここでご報告することをここで一人勝手に誓いたいと思います。

さて、今日はハンガーデッキの展示をご紹介していきます。

ちゃんとした丸ごとの航空機の他には、このように操縦席だけ
切り取って、コクピットに座ることのできる展示もあります。
これは

A-7コルセアII。

ノーズを切り落として丸いドームに変え、特徴的なインテイクは
塞いでしまっているので、5年くらい前のわたしなら
これが何か特定することは不可能だったと思われます。

「ミッドウェイ」には1970年代から1985年まで、
ヴォートのFー8「クルセイダー」とともに配備されていました。

ヘリコプターH2「シースプライト」のコクピット部分。

「ミッドウェイ」など空母に搭載される汎用ヘリとしてデビューしましたが、
多目的戦闘システムを組み込むことで対潜、対地戦闘、対艦ミサイルからの防衛、
監視の他、救難、輸送、援護、訓練支援など幅広く活用されることになりました。

アメリカでは「スーパーシースプライト」を最終形として2001年に除籍になりましたが、
他国海軍ではまだまだ現役でその姿を見ることができます。

ハンガーデッキは人の往来が激しく、人が写り込まない写真はまず撮れません。

この黄色い機体を見たとたん、「テキサン」とわかってしまったのは、

Tー6 SNJ ノースアメリカン社

が歴代の戦争映画に「零戦役」で数多く出演し、それについて語ってきたからです。
空母着艦の練習をするために、着艦フックをつけたものも存在しました。

「テキサン」というあだ名は大量に作るための工場がテキサスにあったからで、
アメリカ海軍ではここの案内板にも書いてあるように「SNJ」、陸軍ではAT-6、
イギリス連邦諸国では「ハーバード」の名称で認識されていました。

静浜基地のTー6を見学した時、操縦資格のある隊員が少なくなっていくにもかかわらず、
エンジンにはオイルを入れて年に何回か稼働させ、飛べる状態を保っている、と聞いて
空自のロマンみたいなのを感じたものですが、今でもそうなのかしら。

かつて艦載機部隊として所属した航空隊のマークが入った航空魚雷も、
天井からつった状態でこのように展示してあります。

紫ジャケットの航空燃料係が立っている上にある、

「FREELANCERS」とは、VF(戦闘飛行隊)21

のニックネームです。
飛行機が三つ描かれていますが、これは撃墜マーク。
同航空隊はベトナム戦争中にMiG17を3機撃墜した、と
パイロット名が刻まれているというわけです。

白い眉毛付き目玉マークの魚雷は、

VMFP-3 (Marine  Tactical Reconnaissance Squadron 3 )

つまり偵察舞台の所有です。

偵察部隊→見張り→目玉→\( ˆoˆ )/

というわかりやすいマーク。

手前こちらの魚雷のマークの部隊、

VFA-195 「ダムバスターズ」

は今厚木にいる第5空母航空集団で「ロナルド・レーガン」に乗ってます。

ところで、陸自音楽隊のCDに、調子のいい出だしにかっこいい中間部を持つ
「ダムバスターズ・マーチ」というのがあって、てっきりわたしは
この航空隊の讃歌だと思っていたのですが、こちらではなく、第二次世界大戦時
ドイツのルール地方の貯水池(つまりダム)を破壊した(つまりバスター)

英国空軍第617中隊、通常ダムバスターズ

のことだったと知りました。

ダム・バスターズ・マーチ(The Dam Busters)

同盟国にあやかったのかなと思ったのですが、アメリカ海軍のは
朝鮮戦争中に北朝鮮のダムを壊した部隊という意味の「ダムバスター」です。

ぜひこの勇ましいマーチを一度聞いて見てください。


1965年といいますから、「ダムバスターズ」戦闘機隊がMiGを撃墜していた頃の
空母「ミッドウェイ」ハンガーデッキの写真。

「あなたはここにいます」というところに飾ってあります。

ハンガーデッキの床がほとんど見えないくらいの航空弾薬、
扱う水兵たちはTシャツか上半身裸で作業しています。

画面右奥には大きな扇風機が回っていますが、ベトナム湾の
「ヤンキーステーション」における艦内の気温はさぞものすごかったことと思われます。


続く。



「ラングレー」と「ジェラルド・フォード」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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しばらくお話しして来た「ミッドウェイ」シリーズ2016年編も最終回です。

こちらはハンガーデッキにあった全面アクリルで半透明の「ミッドウェイ」模型。
全て半透明で艦内の各部が可視化できる大変な労作です。(模型的に)

2017年は一人で見学できたのですが、この時には推定年齢67歳のジョアンナはじめ
連れがいたので、あまり細かく写真を撮ることができませんでした。

次に行くことがあったら、もう少し詳しくご紹介できればと思います。

ハンガーデッキの最後尾に「ファンテイル」という名前のカフェがあります。
スタンドで買った飲食物を持ち込んでサンディエゴの海を見ながら過ごすことができます。

最終的に「ミッドウェイ」は甲板拡張に伴い艦載機用のエレベーターを
合計3基備えていましたが、ここはなんと!左舷後方のエレベーターのスペースです。
上にフライトデッキの階が見えてますね。

海に張り出すような屋根のない部分がお休み処にぴったり。

ここでは A-4「スカイホーク」を見ながらお茶を飲めます。

しかしこういう光景を見るといつも思うのですが、皆自撮りが好きですね。
艦載機であろうが展示物であろうが、自分を入れて撮りまくっているのを見ると、

「一体なんのために・・・・」

と思ってしまうわたしは少数派ですか。


さて、ダグラスの「スカイホーク」は艦上攻撃機として開発されました。
「ファントムII」や「クルセイダーズ」より小型なので、小型艦船に搭載され、
「ミッドウェイ」級空母にも「コルセアII」の登場まで就役していました。

アクロバット航空隊「ブルーエンジェルス」の使用機にもなっています。

ちなみにこのA-4 の大きさですが、

艦載機の話題の時、モデラーさんに送ってもらった貴重な画像。
左からA-4、F-4、F-14です。
こんなに大きさに違いがあるとは改めて驚きますね。

A-4、ほとんど F-14の半分くらいしかないじゃないの。


さて本題。
この模型を見て途端ににっこりしてしまったあなたは、相当アメリカの軍艦に詳しい。

左はアメリカ海軍の次世代空母「ジェラルド・フォード」ですが、右側、
これはアメリカに最初に導入された航空母艦、

「ラングレー」CV−1

なのです。
昔、「タスクフォース」(邦題”機動部隊”)という映画について書きましたが、
主人公はこのアメリカ海軍初の空母艦載機のパイロットという設定でした。


「ラングレー」がデビューしたのは1922年。

給炭艦「ジュピター」を改装したもので、1922年10月17日に初発艦、9日後、
最初の着艦、11月18日にカタパルトで初めて発艦が行われています。

そういう「初めて」だらけの空母ですが、「ミッドウェイ」と比べると
これほど小さいんだよということがよくわかる模型展示です。

もちろん両者は同じ時期に存在していませんのであくまでも「夢の(中の)共演」です。

ところで、あまりアメリカでは大きく報じられない(報じたくない?)ことかもしれませんが、
「ラングレー」を沈没させたのは、我が帝国海軍の飛行隊であることがわかっています。


1941年12月7日の真珠湾攻撃発生時、「ラングレー」はフィリピンにおり、
その後日本軍に対抗してオランダ領東インドに配属されました。

その頃の南方作戦での日本軍の進撃は留まる事を知らず、
やがてジャワ島に対しても空襲が行われるようになりました。
連合軍は「ホーカー ハリケーン」や「ブリュスター バッファロー」で対抗しますが、
はっきり言ってこの頃イケイケだった日本軍の敵ではありません。

連合軍は零戦に対抗するため「カーチス P-40」を採用することにし、
貨物船と「ラングレー」に機体の輸送を命じます。

その前後、すでにバリ島に進出していた高雄航空隊の一式陸攻が「ラングレー」と
一緒に航行していた「ホイップル」「エドサル」の3隻に襲いかかりました。
3隻は爆撃を受けると同時に各方向に分離して回避運動を行いますが、
攻撃隊の陸上用爆弾6発が命中、ラングレーは大破し、操舵が困難となります。

不運なことに艦上に輸送のため搭載していたP-40の燃料に火がつき
次々炎上し、折からの強風で消火が困難となりました。
さらには機関室も浸水し、ついに総員退艦が命じられるに至ります。

そして「ラングレー」は「ホイップル」が処分のために放った魚雷によって沈没。

「ラングレー」の乗組員は救出され、給油艦「ペコス」に移乗しましたが、
その後すぐ3月1日に「ペコス」も南雲忠一中将率いる機動部隊の空襲により
撃沈されたため、そのほとんどが助かることはなかったということです。


一方、ラングレーを攻撃した高雄航空隊では不思議なことが起きています。

上層部はこの大戦果を「空母一隻撃破」としか評価しなかったというのです。
直接「ラングレー」を葬ったのは確かに味方の「ホイップル」なのは間違いありませんが、
攻撃隊指揮官がそれを見届け、撃沈報告をしているのにもかかわらず・・・・。

このカラクリはこうでした。

その少し前に大本営が”伊25潜水艦が「ラングレー」を撃沈した”と
発表してしまっていたのです。
その後になって「ラングレー」を沈めたのが高雄航空隊だったのが
電文によってわかったのですが、大本営発表が出てしまった後なので、
航空隊上層部は上に忖度して

「高雄航空隊は”特設空母”を撃破」

とかなんとかうやむやな報告をあげたらしいことがわかっています。

おいおいおいおい。
さすが忖度体質の縦割り国家日本、軍隊まで、いや軍隊だからこその忖度。

これは航空隊現場の士気だだ下がり間違いなしの事案ですが、
残念ながら忖度「された方」はずっと気づかないままなんだよな・・。

 

というわけで、ハンガーデッキから退出口に出てきました。
右舷の後方に出口があり、前方の入り口の外付け階段が見えています。

この立派なお髭のお爺ちゃん、よく見たら歩行器付きですが、
自分の「ミッドウェイ」での体験を語り継ぐため、
こうして体の動く限り毎週ここに足を運んできているのでしょう。

「お元気で」

と心の中で声をかけながら通り過ぎましたが、今年(2017年)は
まだ元気でおられたかなあ・・。

外側の作業に使うらしい真っ赤なボートが牽引されていました。

そもそもこれは現役なのか、それともただの展示なのか。

階段を下りながら後方の艦載機エレベーターを臨む。

下にエレクトリックハウスらしきものが見えます。
このエレベーターは物資をここから上げ下ろししているに違いありません。

青いプラスチックのものはリサイクルのゴミ箱です。
「ミッドウェイ」では一般見学時間を終えて閉館したあと、ディナーパーティを行ったり、
お泊まりイベントを開催したりするので、それだけゴミも大量に出ることになります。

「アメリカの生ける自由のシンボル」

とバナーには書いてあります。

岸壁に降りて、艦尾を見ながら歩いて行きました。
写り込んでしまった手前の親子孫(東南アジア系)がシュール。

こうして下から眺めると、空母とは誠に巨大な構造物であると圧倒されます。

艦尾の旗竿はなぜか4本あって、現役時代はいろんな旗を揚げたのでしょうが、
今揚げていいのは星条旗だけ。

画面右のハンガーデッキ階ウィングに人影が見えますが、ここは立ち入り禁止。
この時は気づかなかったのですが、今年の訪問で二体の人形であることがわかりました。

・・・・え?もう一人、デッキのドア部分に人影が見えるって?

そ、そんなはずは・・・・・・・((((;゚Д゚)))))))

 

2017年編に続く。

 

 

 

 

シーボードを買いに〜 カリフォルニア雑景

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今年の夏のアメリカ滞在で、サンフランシスコとロスアンジェルスを往復しました。
その時の写真をサンディエゴとシリコンバレー滞在時のも含め淡々と貼って行きます。

まず冒頭写真はシリコンバレーのマウンテンビューにあったファストフード、
「ウィングストップ」というお店の内装です。

単なるチキン専門店なのですが、なぜかコンセプトが航空。
壁一面にボマー(B-17?)の写真があるかと思えば、

テーブルはこの通り。

「彼らを飛ばせよ!」

というポスターに描かれているのはBー24リベレイターですかね。

壁にはいたるところに航空関連の額。
こちらダグラスDC3の設計図。

コクピットの陸軍パイロット。

なぜチキン屋さんがここまで?という謎なのですが、メインの商品が

「チキン・ウィング」→「ウィング」→「飛行機」→\(^o^)/

らしく、チキンが飛べないことはこの際無視している模様。

サンディエゴ空港の通路になぜか折り紙モチーフ。
サンディエゴの日本人会というのは大変しっかりした組織だそうですが、
関係あるのでしょうか。

紙飛行機と折り鶴があしらってあります。
これを普通に外国人は「オリガミ」と呼びます。

サンディエゴ空港ならでは?
見るからに初々しい感じの海軍軍人がグループで飛行機を待っていました。

同じ飛行機だったと見えて、その中で一番階級が上の人(中佐)が比較的前に座り、
若い人たちは全員遥か後ろの方に・・・。

ところで、中佐の前に座っている人たちのガタイが皆異様にでかいのですが、
彼らはこの日サンディエゴで試合を済ませたジャイアンツの選手団です。

わたしたちは試合があったこともその結果も知らなかったのですが、
機内で機長がわざわざジャイアンツのメンバーが乗っていること、
ついでに試合は今日は負けた、とアナウンスしていました(´・ω・`)

いやそこはわざわざ触れてやるなよ。

小型飛行機のタラップはキャリーも使えるこんなタイプ。
あくまでもバリアフリーです。

ジャイアンツの皆さん、気のせいかあまり元気がありません。
まあ、プロですからいちいち一喜一憂しないんでしょうが。

さて、そのロスアンジェルス空港に到着後、車でホテルまで移動中、
前を走っていた楽譜付バス。

なぜ「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」?

予約したホテルを探してうろうろしていたら、なんとすぐ近くに
ノースロップ・グラマンを発見。

本社はバージニア州らしいので、ここは工場だと思われ。

航空機会社なので管制塔があるんでしょうか。

ちょっと迷ってホテルに到着。

キッチン付なのでいつも選ぶマリオットのレジデンスインです。

マリオットだけでなく、ここには3つもホテルが並んでいました。
その理由は、おそらくこの巨大な送電線。

空港ホテルにするくらいしか土地の使いようがないのでしょう。

アメリカではどんなところにあるホテルでも必ずと言っていいほどプールがあり、
夏場は必ず人が泳いでいます。
このプールも朝から晩まで大盛況でした。

ここからビバリーヒルズ。
ビバリーヒルズにもホームレス(しかも女性)はいます。

ジャパニーズレストラン「ボス・スシ」。
この名前は絶対日本人の経営ではない、に太巻き一本。

アメリカでも犬がいなくなるということがあるんですね。
なんだろう・・・散歩中に逃げたとか?

 


 

この日の外出の目的は、この楽器屋さんにキーボード「Seaboard」を買いに来ること。
カード会社に探してもらったら、西海岸ではこの店にしか現物がなかったのです。

 

 

アメリカの楽器屋というのはいつもそのスケールに驚かされます。
ギターコーナーだけでこの有様。
ミュージシャンには天国みたいなところでしょう。

 

ロス中のミュージシャンが、ジャンルを問わずここにやって来るに違いありません。

 

 

早速「Seaboard」を見つけて触ってみる息子。
息子はピアノは弾けませんが、作曲のためにこれが欲しいそうです。

 

Seaboardは映画「ララランド」で主人公が弾いていたので有名になりましたが、
そういえば「LA LA Land」って、ここロスアンジェルスのこと・・・。

 

 

お店のお姉さんがとても親切でかつ知識豊富なプロでした。
というわけでSeaboardを手に入れてにっこり、の息子。

ところでなんでシーボードという名前なのか。
息子に聞いてみると

「音がフローするから?・・シラネ」

だそうです。

 

 

後ろに飾っているウクレレに北斎柄が!
しかしこの違和感の無さは一体・・・?

ウクレレ→ハワイ→日系→北斎

と自然につながっていく気がする。

 

 

そのあと近くで食事をしましたが、横にこんな看板がありました。

 

「マシュマロって何?」

 

「有名なDJだよ。いつもマスクを被ってて正体がわからないの」

 

Adele - HeLLo (marshmello Remix) 

 

このリミックスは悪くないと思うのですが、息子は「嫌い」だそうです(笑)

たった今、なんで嫌いなのかもう一度聞いて見たら

「何聞いても同じだから」

うーん、それをオリジナリティって言わないかな。

「オリジナリティじゃなくて単なるワンパターンなんだよ」

なるほどね。それならわかる気がする。


 

おまけ*

ロスアンジェルス空港近くを走っていて見かけた大きなドーナッツ、
「ランディズ・ドーナッツ」の看板。
息子が

「スパイダーマンが映画で飛び乗ったところだ」

というのですが、本当でしょうか。
写真を撮る場所を考えれば、飛行機がドーナッツの輪を
潜っているところも撮れるかもしれません。

 

 

 

 

 

 


婦人自衛官と和文タイプライター〜タイプライター博物館

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今年のアメリカ滞在中には、国内移動を二回行いました。
まずボストンからサンフランシスコ、東海岸から西への移動です。

上空から見ると、街の様子が都市によって全く違います。
広大な土地を持つ土地を持つアメリカならではで、その点日本はどこに行っても
上から見ても下から見ても良くも悪くも同じ景色ばかりです。

まあ、日本全体がカリフォルニア州にすっぽり入るわけですから
それも当然かもしれませんが。

というわけでこれはボストンの西部、わたしがいつも滞在している地域ですが、
一軒家と緑が連なっていると上からこう見えます。

ちなみにこれは離陸直後にトイカメラモードで撮った写真です。

これはサンフランシスコからロスに向かう飛行機に乗った時。
窓から外を見ていたら、荷物の積み込みが窓の下で始まりました。
飛行機が小さいのでこんなシーンも間近に見ることができます。

「あ、うちの荷物積み込んでる!」

ちゃんと機械でプライオリティタグのチェックをしている模様。
カウンターで預けた自分の荷物が積み込まれているのを初めて見ました。

アメリカの荷物の扱いは荒っぽいものと思い込んでいましたが、
この時見ていた限りでは大変丁寧でした。

一つ一つ番号をスキャンしてチェックしていました。

ロスアンジェルス空港に降りるために高度を下げています。
さすがはロス、全体的に緑が少なく殺伐とした感じです。

そこでもう一度ボストン空港上空。

左側に空港ホテルのヒルトンが見えています。
やっぱりわたしはボストンが好きです。

サンフランシスコ空港で「タイプライター展」をやっていました。
移動のための広大なスペースを利用して、空港ではよくこのような
ニッチなジャンルのミニ・ミュージアムが企画されており、以前にも
ここで日本の民芸品展覧会を目撃しご紹介したことがあります。

これはアメリカのタイプライター会社が会社の資料を空港で展示していたようです。

「ザ・シカゴ」とあるのが1905年製、赤いのが1927年製。
一番左はもっとも古く、1875年の製品です。

世界で初めて特許をとったタイプライターは1800年初頭には世に出ていたそうです。

こちらは1890年の製品。

タイプライターは誰か一人が発明したというものではなく、原型から
様々な人が改良を重ねて形にして行ったものなのですが、とりあえず

「タイプライター」

という名称を最初につけたのはアメリカ人で、1873年に、ミシン会社だった
E・レミントン・アンド・サンズ社が作った機械、

ショールズ・アンド・グリデン・タイプライター

という商品名にその名称が組み込まれました。

これらも全て1890年製。

この頃にはイタリアのオリベッティ社もタイプライター生産を行なっていました。

資料を置くのかタイピングする紙を置くのかわかりませんが、
その部分がとても装飾的に作られたタイプライター。

1989年に発売された、最初のダブルキーボード(上が大文字)だそうです。

わたしがこの展示に立ち止まり、写真を撮ったのはこれがあったからでした。
なんと、日本で発売された日本語タイプライターです。

とても古いように見えますが、戦後の1951年製。
マツダタイプライターという商品名だそうです。
販売元は

Tokyo Shibaura Kabusshiki kaisya (TOSHIBA)

とあります。
電気製品でもないのに、東芝が生産していたんですね。

日本語のタイプライターなので、漢字が含まれることになり、
ご覧のように膨大なキーが必要となるので、習熟も難しく、
プロのタイピストが使うくらいで一般には普及しませんでした。

和文タイプライターは1915年に日本では杉本京太によって発明されました。

邦文タイプライターのマニュアルは本一冊文だったようです。

タイプの活字は漢字を含み、ひらかな、カタカナで最低でも1000、
小型汎用機種でも大抵は2000を越える漢字を含む活字の中から、
適切な文字を探して一文字ずつ打ち込んで行くため、かなりの技能が必要で、
英文ライターのようにブラインドで打ち込んでいくことなどまず不可能でした。

このロール式のタイプが日本で使用されている様子。

世にワードプロセッサーというものが登場するまで、和文タイプライターは
日本の官公庁における書類の作成や印刷業界の版下制作を支えていました。

特に書類作成では、学校などの公共機関、企業が内外の関係者に配布する書類、
そして連絡文章の作成に威力を発揮し、1970年代まで手書きによる謄写版と並行して、
普通に活用されていたのです。

もちろん自衛隊でも使われていたそうですが、和文タイプライターの活字配列は、
検定に使用する場合も含め、一般的に五十音順なのに、どういうわけか
自衛隊ではいろは順の並びの機種を採用していたのだそうです。

当時の婦人自衛官には和文タイピストという職務があったということになりますが、
自衛隊が「いろは順タイプ」を採用していたため、入隊して隊内の検定で得た
タイピストの資格が、退職後全く役に立たないという弊害が生まれたそうです。

一般の和文タイプの検定試験は商工会議所など、いくつかの団体が行なっていました。

日本語でこうなんだから中国語はどうなる?って話ですが、
例えばこの「shuangge」製のタイプライターのキイは
2450個あるということです。

配列を覚えるだけで何年もかかりそう。

しかし毛沢東先生のために大躍進しながらタイプする中国人(適当)。

有名人が実際に使用していたタイプライターが展示されていました。

インペリアルのタイプライターはジョン・レノンの所有していたもので、
彼がというより、彼が住んでいた叔母のミミのうちにあったものです。
ポール・マッカートニーは

「ジョンのうちに行くと彼はタイプの前に座っていたけど、
リバプールにはタイプライターがあるうちなんてなかったし、
友達のうち誰もそもそもタイプライターが何かさえ知らなかったよ。
誰もそんなもの持ってなかったからね」

と言っています。

レイ・ブラッドベリとその愛用のタイプライター。

『R is for Rocket 』ウは宇宙船のウ、『The Octorer Country 』
十月はたそがれの国、また『Fahrenhei451』華氏451などの小説を
読んだことがなくとも、彼が何作かを手がけた「トワイライトゾーン」
を観たことがあるという人もいるかもしれません。

初期の作品、「華氏451」は、図書館にあるコイン式の
タイプライターで執筆されたということがわかっているそうです。

テネシー・ウィリアムス。

「焼けたトタン屋根の上の猫」「欲望という名の電車」「ガラスの動物園」
などを遺した偉大な劇作家です。

彼は執筆するときいつもタイプを打ちながらセリフを大声で朗読するのが常でした。

アーネスト・ヘミングウェイと「ローヤル」というメーカーのタイプライター。

オーソン・ウェルズのタイプライター。

ケースには名前と住居にしていたと思われるパリのホテル、
オテル・ドゥ・ラ・トレモワイユの名前が刻まれています。

手直ししまくった原稿らしきものの実物も見ることができました。
下半分ほとんどボツになってますね(´・ω・`)

うちにもオリベッティのタイプライターがあった記憶がありますが、
おもちゃにするだけでちゃんと使うことなくいつのまにかなくなっていました。

もちろん和文タイプライターなどというものがあったのも、そしてそれが
当時文書製作の主流となっていたことも初めて知ったわけですが、
一番気になったのは、

なぜ自衛隊だけが普及型ではないいろは順のタイプを導入したのか、
そこに何があったのか

ということです。

今更ですし、そもそも何があったとしてももうとっくに時効なんですがね。


ちなみに冒頭画像はいろは順のタイプライターの文字列です。
ちょっと見ただけでもう無理ゲーな漢字、いや感じ(笑)


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