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ミリタリー・アニマル〜ポーランド陸軍一等兵ヴォイテク(ただしクマ)

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前回に続き「軍と動物シリーズ」です。

【ミュール】

ミュールってあれよね、かかとを覆わないサンダルのことよね、と
女性なら思うわけですが、Muleという同じスペルで、こちらは
騾馬(雌馬と雄ロバを掛け合わせた雑種)のことです。

サンダルのミュールの語源は騾馬からきていたということ、というかアレが
騾馬の蹄みたいだからか、と愕然とするわけですが、その話はさておき。

騾馬はロバより賢く脚も早かったそうですが、馬と比べてどうかはわかりません。

画像の「ジョージワシントンの騾馬」という囲み記事ですが、
ワシントンの騾馬の父ロバは「ロイヤルギフト」という名前で、
スペイン国王からプレゼントされたというそれがどうした情報です。

プレゼントのロバをわざわざ雌馬と掛け合わせて騾馬を作っちゃったのか・・。

 

大変力が強く、重量のある荷物をご覧のような山間地で運ぶ時、
騾馬の存在は大変役に立ちました。
アメリカ軍は第一次世界大戦では船で30万等の騾馬を輸送したそうですが、
騾馬が乗っている船となると、ドイツ軍は最優先で攻撃しました。

いかに彼らが有益であるか知っていたからだそうです。

上の写真は第二次世界大戦のイタリアでの一コマだそうです。
ジープも戦車も、馬も通れない場所でも騾馬なら平気。

現在でもアメリカ軍はアフガニスタンで騾馬を投入しています。

「ハンビーより、ヘリより役に立つ」

から、だそうです。


【猫】

冒頭写真は朝鮮戦争での一コマ。
兵士が生まれたばかりで目の見えない子猫にミルクをやっています。

猫は主に軍艦で重要な役割を演じていたことが知られています。
ここでも以前「アンシンカブル・サム」(不沈のサム)としてお守りになった
軍艦猫についてお話ししたことがありましたが、特に船では昔から猫は
鼠を捕るため重宝されていました。

現在はどうか知りませんが、割と最近までロシア海軍の軍艦には一艦に一匹、
軍艦猫を雇っていましたし、日本でも猫、特にミケのオスは珍重されました。

一般に黒猫というのは魔女の使いとして忌み嫌われる傾向にあるヨーロッパですが、
(アメリカでもその傾向は強く、朝市で開催されていた猫のアダプティングで
”黒猫は引き取り手が少ないのでぜひもらってください”という張り紙を見ました)
セイラーたちはオカと違って特に黒猫を船のお守りとして歓迎したようです。


■ クリミア戦争中の1854年のことです。

イギリスとフランスの中隊はロシアの港を占拠しました。
しかし現地人が一切秘匿してしまったため、彼らは食べるものに困り始めます。

その時、「クリミアン・トム」として知られていた一匹の猫が彼らを案内して、
食べ物の隠してあるところに連れて行ってくれた、というのです。
おかげで彼らは生き延びることができ、感激してイギリスに連れて帰り、
軍籍を与えたということです。

 

■ 時は降って第二次世界大戦中。

イギリス海軍のHMS「アメジスト」乗組猫「エイブルシーキャット・サイモン」は
もともと中国の揚子江で負傷しているところを拾われ救われた猫でした。

傷の手当てをしてもらったサイモンは「アメジスト」に乗って彼の役割を
忠実に果たし、鼠をたくさんとってなんと正式にオナーメダルを授与されています。

彼が亡くなった時、彼の亡骸はたくさんのメダルとともに葬られました。

イギリス軍では勇敢な軍の動物に与えるための

「ディッキン・メダル」Dickin Medal

というものがあります。
メダルには

「We Also Serve 」(私たちも勤務します)

という言葉が刻まれています。(冒頭画像右上のメダル)

 

■ アメリカ軍の軍猫ハマー1等兵は、イラク戦争に従事しました。
兵士たちの貴重な食料を荒らす極悪鼠を次々と殺傷し、
兵士たちにとってよき友人でもあったこの猫を部隊は名誉隊員とし、
一人の兵士が彼の故郷のコロラドに連れて帰ったということです。

 

■ 鼠を捕ることと兵士の友になることのみならず、CIAは
冷戦時代に猫をスパイ作戦に投入しようとしたと言われています。

その作戦名は、

オペレーション・アコースティック・キティ。

1961年、CIAは猫の耳に超小型のマイク、尻尾にアンテナ、そして
体内にそれらのバッテリーを埋め込みました。

ってまじかよ。ひどいことするんじゃねーよ。

そしてその猫をソビエトの政府要人のいる建物の窓枠から忍び込ませ、
議会を盗み聞きさせたらいいんじゃまいか、というのが作戦の全容です。

5年間かかってトレーニングを行い、スパイ猫は準備を終了。
テストとしてまずワシントンのソ連から来た人々の多い地域に放ちました。

ところが、大変不幸なことに、猫は放出直後に

タクシーにひかれてしまいました。(-人-)ナムー

CIAが計算外だったのは、猫というものが気まぐれであちらに行けといっても
本猫がそう思わなければ決して行ってくれず、それのみならず基本的に
人間の命令を全くきかないという性質であることでした。

しかし、はっきり行ってあまりのCIAの認識の甘さには唖然とするばかりです。
5年の訓練期間中に一人くらいそのことに気づく関係者はいなかったのでしょうか。

アコースティックキティ作戦は1967年、正式に中止になり、
その後猫をスパイにする計画は二度と立てられていません。

ウクライナの国旗カラーのリボンを誇らしげに巻き、威嚇する戦車猫。
国を守る気概にあふれた精悍な表情をご覧ください(適当)


【さる】

長年、ある中国軍の航空基地では鳥に悩まされていました、
ちょうど基地のあるところが鳥の繁殖地だったのです。

昔から基地のあるところにわざわざ引っ越してきて繁殖し、基地騒音に対し
文句を垂れる馬鹿者というのが一定数生息することが我が日本でも認められています。

この場合は先住していたのは鳥さんたちで、後からやって来た航空基地は
筋からいうと(笑)文句をいうに値しないわけですが、
飛行場の近くを鳥がたくさん飛ぶとバードシューティングが頻繁に起こり、
最悪の場合は飛行機が墜落してしまうのでまあ仕方ありません。


これを重くみた中国軍は鳥の巣を徹底的に排除したり、カカシを置いたり、
花火をあげたりして対策しますが、効果はいまひとつ。
やってもやっても鳥は帰って来てしまっていました。

そう、中国軍の誇る秘密兵器を投入するまでは。

訓練を受けたマカク猿はホイッスルを吹けば木に登り、たちまち
巣を落としてしまいます。
しかも、その際匂いを残していくので、鳥が二度と帰ってこないのです。

さる軍曹(彼は特に階級はもらわなかったそうですが一応)のおかげで
基地付近から鳥は減少し、安心して飛行機を飛ばすことができるようになりました。

よかったですね。

 

【アレチネズミ】


イギリスのCIAに当たるMI5は1970年代、飛行機でやってくるテロリストを
訓練したネズミを使ってその嗅覚で識別することを考えました。

最初にそのアイデアを思いついたのはイスラエル防衛軍で、
空港のセキュリティチェックにネズミを入れたカゴを置いて、
扇風機でパッセンジャーの匂いを嗅がせるという方法をとりました。
アレチネズミの鋭敏な嗅覚がアドレナリンを噴出?させた人物を嗅ぎ分けると
ボタンを押すようにトレーニングしたのです。

いやこれ、ちょっと待って?
別の理由でアドレナリンを噴出させてる人だって結構いるんじゃないかと思うの。
テロリストはゲートをくぐる時に最大限緊張するに違いないから、ってことだと思うけど。

そして案の定( 笑 )

すぐにこの試みは失敗であることが判明しました。

空港のセキュリティゲートをくぐる時の一般人のストレスは
案外高く、それは潜在的テロリストレベルだったのです(´・ω・`)

つまりアレチネズミさんはひっきりなしにボタンを押し続けたか、
あまりの人々のアドレナリンを嗅ぎ分けるのに疲れてしまったか、

・・・とにかくイスラエル軍はこの計画を放棄しました。

 MI5も諜報員ジェームス・ボンドから得たそれらの情報から解析を行い、
アレチネズミを空港に置くという計画を断念したのです。

 

【ブタ】

古代ローマでのブタの軍事活動というものは、極限まで飢えさせた彼らを
敵地に放ち、その食料となりそうなものを徹底的に食べさせることでした。

あるいは敵が採用する軍象に対抗する動物として採用されることもありました。
古代ローマでは軍象を使って攻撃を仕掛けてくることもありましたが、
これを迎え撃つ軍は攻撃の最前線に子豚をたくさん放つのです。

もちろんかわいそうな子豚ちゃんたちは次々と踏み潰されてしまうのですが、
不思議なことに、象軍団は象突猛進をやめ、踏みとどまってしまうだけでなく
引き返してしまうのでした。

実は巨大な体躯を持つ象は案外リスや子豚などを怖がる性質があるのです。

「あー、やべーなんか踏み潰したけどこれ何?何?
ちっちゃくて柔らかくて罪悪感半端ないんですけど」

という心情になるから・・かどうかは知りません。

近代になって、アメリカ軍はボディアーマーの耐性実験にブタを使っていますし、
(実験の後は皆でポークチョップなんだろうなあ)
イギリス軍ではブタを使って戦場における緊急手術のトレーニングを行います。
(訓練の後は皆でポークステーキなんだろうなあ)

これらの実験に対しても、動物愛護協会は廃止を申し入れているそうです。

どうせポークチョップになるんだから実験してもしなくても一緒だろうがよ!
と英米軍が彼らに言い返したかどうかは知りません。

 

【クマ】

第二次世界大戦時、ポーランド軍には「軍熊」がいたそうです。
階級は一等兵、名前は「ヴォイテク」(Wojtek)。

1943年イランに進駐したポーランド軍の兵隊さんが子熊だった彼を拾い、
餌を与えていたらすくすくと育ってこんなに大きくなりました。

ヴォイテクは人間とレスリングをしたり、泳いだりして遊びました。
大変賢かったようで、敬礼をすることもできたというのですが、
そればかりかシャワーの使い方を覚えてしまい、しかも彼がシャワーを使うと
水がなくなってしまうので、バスルームの鍵をかけなくてはならなかったそうです。

ある時彼は鍵を閉め忘れてシャワーを浴びている人のブースに忍び込み、
あろうことか彼の武器を盗み出したこともあり、これですっかり英雄になりました。

(本来なら怒られそうですが、どうも怒られたのは盗まれた兵隊さんだった模様)

部隊がヨーロッパに船で移動することになった時、彼らはヴォイテクを連れていく
唯一の方法は彼をソルジャーということにするしかないと、正式に彼に
ポーランド陸軍の軍籍を与え、階級とシリアルナンバーを与えました。

「ヴォイテク」という名前は

「スマイリング・ウォリアー」「戦いを楽しむ男」

という意味があるそうです。

イタリアのモンテカッシーノの戦いでは、ヴォイテクは武器運搬に従事しました。
戦後、無事に凱旋した部隊と共に、ヴォイテクはスコットランドのグラスゴーで
ポーランド軍の一員として凱旋行進を行なったと言われています。

その後、部隊は祖国に帰国することになったのですが、ヴォイテクだけは
イギリスに残ることになりました。
連れて帰ることができなかったのか、他の理由だったのかはわかりません。

スコットランドのエジンバラ動物園を引退後の住まいと決められた彼は、
そこで(多分)悠々自適の生活を送りました。

かつての戦友はしばしばプレゼントを持って彼に面会に来ていたそうです。

 

 

続く。

 

 

 


かつての敵に囲まれて〜ソビエト連邦海軍潜水艦 B-39

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ところで、このお正月、「スターウォーズ」観た方おられます?

話の出来についてはいろんな意見があるかと思いますが、それは抜きにして、
自己犠牲により我が同胞を守る、という行為が一度ならず語られ、しかも
それが絶賛されて(というか感動的に語られて)いましたよね。

ホルド副司令の「Godspeed rebels」が出たとき、わたしなど内心
「おおっ」と色めき立ってしまったのですが(笑い)、
皆様はどうご覧になりましたでしょうか。


さて、年末に途中までお話ししたソ連潜水艦B-39の続きです。

前部魚雷発射室からハッチを抜けたところにある士官区画を抜けると、
次に来るのがメインコントロールルームです。

ここはいきなり夜用の照明、つまり真っ赤でした。

昼夜の違いがわからない潜水艦内では、自衛隊の場合昼間は白灯、
夜間は赤灯に切り替えていると以前ここにも書いたことがありますが、
このソ連海軍潜水艦B–39は夜間という設定のようでした。


照明を赤くするのは、ここメインコントロールルームだけになります。
なぜかというと、夜になると当たり前ですが海上は真っ暗です。
潜望鏡を覗くとき室内が明るいと、外の暗さに順応できず、何も見えません。

だから、潜望鏡のある発令所は暗くしておく必要があるのです。
なんでも赤いライトは白色より目に対する刺激が弱く、夜間に暗順応
(明るい所から暗い所に移った場合に目が慣れること)を乱さない、
というのが第一の効果で、昼夜を認識するというのは実は副次的な効果です。

同じ理由で夜はその他の居住区も暗くしておきます。

潜水艦のふるさとであるグロトンで潜水艦見学をしたとき、
彼らが艦内で使用していたトランプのハートとダイヤに黒の縁取りがされ、
赤色灯の下で赤のカードがが見えるようになっていたのを思い出しました。

ソーナーも暗い方がモニターを見やすいので暗くしていましたし、
電子式の潜望鏡になって全員で外の状況をモニターで見られる現代でも
暗い方が画像がわかりやすいという事情は同じでしょう。

ほとんど替え電球やコードリールなどの物置と化しているようですが、
ここがレーダー室だったのかもしれないと思ったり。

ここでまたしてもハッチをくぐります。
あれ?ところで、メインコントロールルームに入るハッチに

「音と光のショー」

って書いてあったはずなんだけど何も起こらなかったぞ?

ハッチの厚みは約40センチ。
というわけで、ここを潜るにはまず片足を向こうに踏み入れ、
一瞬40センチの部分に馬乗りになるようにして上半身を横向けにして
潜って移動することになります。

でも、実際に非常時の乗員はそんな悠長なことしてられなかっただろうな。

ハッチを出たところに謎の文字が書かれた全く何かわからない機器が。
今ロシア語アルファベット表を引いたところ、

「F M SH ー200」

英語のアルファベットに変えるとこうなりました。
余計わかんねーし。

他のハッチは蓋が外されていましたが、ここのはちゃんと元のまま残っています。
ロシアは日本と同じメートル表記なのでわかりやすくていいですね。
しかし、このハッチに書かれた数字の意味はやっぱりわかりません。

縦型テレビ?

ではなくて、こちらに向けてテレビ画面を見せるためには
立てて置くしかなかったのだと思われ。

それにしても内装がアメリカの潜水艦より木造部分が多いのに気づきます。
まるで掃海艇の中のようです。

ここも一応は一人で寝ることができるベッドが・・・。

先ほどの士官用より一回りくらい小さな食堂兼休憩室がありました。
明らかに作りは雑です。

食事はこれは世界共通だと思うのですが、一日4回、
0700の朝食に始まって、夕食、夜食、(6〜7時)、
ティー&スナック2200に提供されました。

やはり潜水艦なのでソビエト海軍の中でもっとも内容が豪華で充実しており、
栄養価も非常に考慮されたものであったということです。

誕生日には恒例としてスペシャルケーキがつきました。
(誕生日を迎えた人だけだったのか、皆で食べたのかは謎です)

こちらも一人部屋・・・・なので、もしかしたら兵用のバンクは
全く別のところにあって、これらも12名の士官用なのかもしれません。
ここなど通気用高なんだかわからない大きな機械と一緒なので
決して静かに寝られそうにはありませんが、それでも

「ホットバンク」(二人でベッドを交代で使う)

でないだけましというものですし、何より一人で寝られるのは
潜水艦勤務では何よりの贅沢というものでしょう。

ここも一人部屋のようです。
ソファは夜ベッドになるということでしょうか。

士官用に飲み物やスナックを用意するスペースまであります。

わざわざロシアの食料品店に行って買ってきた缶詰、おかし、
ビールなどが展示されていて、なかなか凝った演出です。

ソビエト海軍は潜水艦の中で酒を飲むことが許されていたんでしょうか。

なんでもロシア人は酒好きで、嫌なことがあったらウォッカで忘れる、
みたいなイメージがありますし、最近でも入浴剤や工業用アルコール、
飲んではいけないものを酒がわりに飲んでしまうという話もあるのですが、
それはまあ特殊な例としても、潜水艦の中でお酒が飲めたのか、
どなたかご存知でしたら教えてください。

こちらはキッチンです。

ロシア人もマスタードを食べたのか・・・。
それにしても、言葉がわからないというのは、こういうものも
全く読めないので本当に困りますよね。

外国人が日本に来て日本語しか書いていないとどれだけ困るか、
なんだかこれで初めてわかるような気がします。

この中で中身が想像できるのは赤のケチャップだけ。
あっ、ケチャップの横、オートミールって読める(ような気がする)!

左側に説明板があって、Tで始まる何かが書いてあるのですが、わかりません。
何かをテストする部屋のようです。

ここで何段かの階段を降りて行きます。

こちら、潜水艦の心臓部、エンジンコントロールルーム。

ここには兵用の三段バンクがあります。
アメリカの潜水艦と比べると、ちょっとしたスペースがあると
寝床にしてしまっているという感じに見えます。

エンジンコントロールルームの一部。

トイレは案外広いスペースにあります。
足元にレバーがあってそれで水を流していたようですね。

アメリカの潜水艦のトイレと違って、ちゃんと木の蓋がありました。
しかもこの蓋が装飾的で案外なレトロ風おしゃれ。

ここはもう後部魚雷発射室となります。

ベッドに登る乗組員は、靴をいつどこで脱ぐんだろう、と
しばし真面目に心配してしまいます。
まさかベッドの上まで土足ってことはないと信じたい。

しかもこの梯子段だと、寝ている人の上を歩いて
空いているスペースまで行かなきゃならんよね?

ホットバンクの意味は、例えば一つのスペースを二人で使う、といったような
計画的な?ものではなく、このベッドを見る限り、

「自分が寝る時間になった時、空いているスペースでどこでもいいから寝る」

といういいかげんシステムだったのでは・・・((((;゚Д゚)))))))

大きめの薄型モニターでは、冷戦時代のドキュメンタリーが流れていました。
これは・・・アメリカの潜水艦ですよね?

ところで、この部屋に来た途端、結構色彩が華やかというか、
その原因はあちらこちらに付箋が貼ってあるからだということに気がついたのですが、

どこかで付箋を配られて、感想を貼り付けているようです。
そのほとんどが左のようにジスイズソークール、というレベル。
右のは

「MIND BLOW! 」(びっくり、ショック、面白い)

として、絵文字風の顔が書いてあります。
ちなみにこの夏、アメリカではどこにいっても「Emoji movie」の宣伝をしていましたが、
割とみんなEmojiが日本語であることを知らないようでした(笑)

後部魚雷発射管は4基あります。

魚雷発射管の部分は立ち入り禁止のネットが貼ってあったのですが、
皆が付箋を貼るために乗り越えるので、こんな風に垂れ下がってしまって・・。

まあ、どうせ貼るならチューブに貼りたいとか思うんでしょうけど、
それにしてもアメリカ人行儀悪すぎ。

というわけで、外に出るための階段を上がっていくことにしました。
その途中にこんな棚があって・・・

なんとこんなところでも寝ていたようです。

甲板の上は直接歩くことはできず、このデッキを通って外に出ます。

上から覗き込んでみました。

どうも鳥のおうちになっているようです。

セイルの部分も、鉄板の継ぎ目がこんなに浮き上がっています。
よくこんなで潜水できたなあ・・。(木曽艦長的感想)

ここは出口だから入っちゃダメ、とシェパードを連れた
兵士が"Comrade"(同士)と呼びかけて注意しております。

「コムラード」というのは苦労を共にしてくれるような親しい僚友、
仲間、同志、組合員、共産党員という意味で、
もともとスペイン語の「同室の仲間」から来ているそうです。

これを製作したアメリカ人は、「共産党員」という意味があることから
てっきりロシア語源だと思い込んでいたか、アメリカでは
ソ連時代のロシア人がしゃべる時の一つの「パターン」としてこの
コムラードを使っているのかもしれません。

ところで、どこを探してもなぜこの潜水艦がアメリカにあるのかがわかりません。
サンディエゴ海事博物館のHPには

「冷戦終結を告げるベルリンの壁の崩壊から20年も経たないうちに、
彼女はここサンディエゴ湾、かつての敵国にその姿をつながれています」

とあるだけで、ここに来た経緯が全く説明されていないのです。

かつてのソ連海軍潜水艦として、間違いなく米船を攻撃して来た側の彼女の
甲板に立つと、確かに”かつての敵国”の船に囲まれているのを実感します。

っていうか、今でも一応敵国か。


B-39シリーズ 終わり。

大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜遠洋航海アルバムとの出会い

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ある日TOが「OLD IRONSIDES」という洋書を買ってきてくれました。

この「オールド・アイアンサイド」(鉄の横っ腹)は他でもない、
ボストンで見学し、ここでも長きにわたってお話ししたアメリカの
「ナショナルシップ」、コンスティチューションの今昔について
リタイアした海軍軍人が書いた写真入りの英語の本(1963年発行)です。

写真を撮っていて初めて気がついたのですが、JFKが前書きを書いています。

「私の小さな時の海軍にまつわる最初の記憶は、チャールズタウンの
USS「コンスティチューション」を見に行ったことだった(以下略)」

「新橋の駅前で古本市が始まってたのでとりあえずこれを買ってきてあげたよ」

「うわ、嬉しいー!ありがとう」

「海軍兵学校の写真集なんかもあったよ」

「それ買ってきてくれればいいのに」

「でも高かったし、そもそも要るかどうかわからなかったから・・・。
来週いっぱい古本市やってるみたいだし、行ってみたら?」

 

ちなみに「オールド・アイアンサイド」は「安かった」そうです。

というわけで、週明けに早速新橋駅前のロータリーに並んだテントの
古本市に足を運びました。

たくさん本屋が出ているので、その中からTOのいう遠洋航海の写真集とやらが
一体どこで売っているのかわかるだろうかと大変不安を感じたのですが、

「そういう系統の本を扱っているところは一部だから」

という言葉を思い出し、一通りざっと回遊してみました。

すると、向こうの方から存在を主張するかのように、あるいは
見つけてくださいと言わんばかり目に飛び込んできたきた一冊の古びた本。

 

「これだ」

わたしは思わず口に出して独り言をいいました。

元は白かったと思われる縒った紐を四、五本ずつ束ねて製本した
布表紙に金文字で

「大正十三 十四年 練習艦隊巡行記念」

と書かれています。

手に取ってみると、中をめくってみられないように
本はビニールで包んでセロテープできっちりと止めてありました。

「すみません、これ中見せてもらえますか」

お店の人に声をかけて、中を見ました。

大正13〜14年の遠洋航海といっても、果たして大枚をはたいてまで
わざわざ買う価値があるものなのだろうか。

もし中を見て、全く興味を惹かないようなら潔く諦めよう、
そう思ってページをめくると、

「軍艦八雲」「軍艦浅間」「軍艦出雲」

というおなじみの軍艦の名前、そして候補生の名簿からは

「猪口力平」「淵田美津雄」「源田実」

の名前が目に飛び込んできました。
それを確認するなり、わたしは「これください」と頼んでいました。

店の人は、

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人しかもらえなかった、
つまり出版されたわけではないのでものすごく価値があるものですよ」

と言いながらも、こんな古本を5分もかけずにお買い上げになったのが
女性であったことに少し驚かれたようで、

「・・なんか本でも書かれるんですか?」

としみじみ聞いてこられました。

まあ、仕事が物書きで、資料に必要という事情でもなければ
古本にポンと3万円も出すのは奇矯な部類に属するかもしれません。

「いえ、興味があるだけなので・・・もし他にこんな系統
(海軍関係)があれば見てみたいですが」

そう言って他のお店を物色しているとそこで見つけたのが「海軍兵学校名簿」。
もし成績順になっていれば買おうと思って中を見せてもらっていたら、
(あいうえお順だったので購入を断念)さっきの本屋さんが後ろから忍び寄ってきて、

「あのー、こんなんありましたけど」

見せてきたのは

「軍艦香取聖戦記念写真集」

おっ!とまたしても目を輝かせたわたしの様子を見るなり、

「さっき買ってくれたからこれ五千円値引きしますよ」

大変商売上手な本屋さんでした。

 

というわけで、ほとんど衝動買いした練習艦隊記念アルバム、
せっかくですのでここでご紹介していきましょう。

というか紹介したい。紹介させてください。

 

 まず、練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆による

「内省実行」


という書が最初のページに出てきます。
海軍兵学校をクラスヘッド、恩賜の短剣で卒業した百武は海軍大将で予備役となり、
二・二六事件の後負傷した鈴木貫太郎に代わって侍従長を務めました。


そんな人物ですので、当たり前に達筆です。
バランス、墨のカスレ、省略、デフォルメ、全てが芸術的。

このころは今より「書は人なり」が生きていたのです。

このページを見て、練習艦隊司令官が二人いるのにはて?と思い、
次に『大正十三、十四年』と書かれているのに首をひねりました。

ウィキによると、

【大正13年度練習艦隊】

司令官古川 鈊三郎海軍中将
兵学校52期、機関学校33期、経理学校12期
「出雲」「八雲」「浅間」

【大正14年練習艦隊】

司令官百武三郎中将
兵学校53期、機関学校34期、経理学校13期
「磐手」

それなら両中将が同じ写真集におさまっているのはなぜなのか。

アルバムを見ていくと、実際の艦隊司令官は百武中将で、古川中将はいません。
しかし写真の上3人は右から「出雲」「八雲」「浅間」の艦長。
(下3人は右から先任参謀、軍医長、機関長)

実際にも参加艦艇は「出雲」「八雲」「浅間」の3隻で間違いありません。

どう見ても、大正13年度の練習艦隊司令(古川)と14年度の艦隊司令(百武)
の名前が入れ替わっているのです。

わたしはいきなり難問に直面し、うーんと唸ってしまいました。

ちなみに名簿に載っている少尉候補生の期数は52期。
考えても調べても、この違いを埋める発見はついに現れません。

しかし唸っていてもラチがあかないので、とりあえず写真集を具に見ていけば
何事かわかるかもと思い直し、先に進むことにしました。


アルバムの最初には高松宮宣仁親王のお姿がありました。

高松宮親王は海軍兵学校予科を経て兵学校52期に入学しましたが、

「無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より
知的・体力的に劣らざるをえなかった。
宣仁親王の予科入学に際してはレントゲン検査も含め
健康管理に万全の準備が整えられていたが、凍傷になったため
他の生徒とは異なる厚手の作業着が用意された」wiki

兵学校跡である現在の第一術科学校の坂を上っていったところには
高松宮のために作られた一軒家があります。

一般の学生は余暇を「下宿」で過ごすことになっていましたが、
平民の家が殿下を受け入れるわけにもいかず、ということで
殿下が週末を過ごすための別邸が殿下入校が決まってから建てられました。

それまでにも皇族の方々の在校を仰ぐことはありましたが、
この度は畏れ多くも天皇陛下のご子息の初めての入校とあって、
全てにおいて特別扱いがあったことがこの一事からもうかがえます。


さて、アルバムにそのお写真があるものの、高松宮親王は兵学校卒業して
少尉候補生になった9月、赤痢を罹患し遠洋航海参加を断念されることになります。

健康に万全の注意を払ったはずなのに、嗚呼、文字通り殿様育ちの殿下は、
あっさりと赤痢なんぞにお罹り遊ばしてしまわれたということになりますが、
一体その直接の原因は何だったのかがとっても気になります。

考えたくはないですが、何か下賎なものでもこっそり買い食いされたとか・・・。


しかしここだけの話ですが、練習艦隊司令部は殿下の参加が叶わぬとなった時、
実は内心ホッとしたのではなかったでしょうか。

殿下が乗艦されるとなると、司令部、幕僚から候補生、下々のものまで
殿下の一挙一動に神経を払わなくてはなりませんし、寄港地の側も気を遣います。
迎え入れる方も大変ですし、おそらく専用のスタッフが一個小隊必要になってきます。

何より航海中に万が一の事態が起こり怪我や事故、病気などということでもあれば、
下手したら関係者の首が一つならず飛ぶことにもなりかねません。

当時の医療では航海中の不慮の事故や病気に対応するにも限界がありましたし、
実際に遠洋航海中死亡して異国の地に葬られた候補生もいたという時代です。

今回の遠洋航海では、そんな不幸な候補生の墓にお参りをするという行事が
スケジュールに組み込まれていたくらいでした。

病み上がりの殿下を1年近い航海に連れ出すのはあまりに双方に負担が大きく、
畏れながら不参加になっていただき助かりました、というのが本音でしたでしょう。

司令官と各艦艦長、及び幕僚の艦上での記念写真です。

百武司令の左が浅間艦長七田今朝一大佐、その左が
八雲艦長鹿江三郎大佐、一番右が出雲艦長である
重岡信治郎大佐らしいことはわかりました。

この頃の軍服はまだ変更前の、ウィングカラーシャツのダブルスーツです。
今現在の海自の制服はこちらに近いとも考えられますね。

そして、しつこいようですがもう一度思い出してください。
ここには古川中将の姿はありません。


現在の資料には残っていないけれど、何かの事情があって
14年度の練習艦隊司令古川中将が参加できなくなり、
仕方ないので司令官だけ百武中将と交代した。

古川中将の写真が掲載されているのは、一応敬意を表して、ということで、
実は古川中将は翌年の14年度の司令官を務めたのでは・・・?

というのがこれまでのところのわたしの推理です。

というか、結局最後までこれを覆すような発見はなかったわけですが、
もしどなたかこの事情を解き明かすか実際のところをごぞんじであれば
ぜひ教えていただきたく思います。

 

続く。


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜淵田美津雄を探せ

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今風にいうと大正13年度遠洋練習航海、当時の名称で
帝国海軍練習艦隊の遠航アルバムを手に入れたので、それをここで
ご紹介していくことにしました。

なお、平成29年度遠洋練習航海の航路と重なっている寄港地については
水交会で行われた練習艦隊報告会で艦隊司令真鍋海将補が紹介された
スライドの写真などを活用してお話ししていくつもりです。

前回は艦隊司令官の名前がアルバムと違っているということで
その謎を解き明かそうとしてみましたが、やっぱりわからないので断念。

今日は練習艦隊参加艦艇とその乗組員、参加した候補生の写真を紹介します。


まず、軍艦「八雲」の乗組員総員写真です。

たくさんいすぎて後ろの人は顔が全く確認できませんが、
それではこうやって目立ってやろうとばかり、
マスト横で変なポーズをしている人がいますね。


軍艦「八雲」はドイツから輸入した装甲巡洋艦で、1900年から就役し、
日露戦争に参戦したあとは練習艦の代名詞のようにもなっていました。
その後、老体に鞭打って大東亜戦争にも対空砲専門で参加をしています。

そして戦没を免れて生き残ったあとは、近距離専門の復員業務に携わり、
ここでも触雷などに逢うこともなく無事にその一生を全うしました

 

冒頭画像は軍艦「浅間」総員の写真。
主砲に座って得意そうに腕組みをしている水兵さんたちを拡大しました。

写真を撮るときに動いてしまい、顔がブレてしまった人がいますね。

みんな20歳前後、もしかしたら十代が多いのかもしれません。
こうして特にセイラー服や下士官姿の青年を一人ずつ見ていると、
当たり前ですが、そのまま今の海上自衛隊の海曹海士にいそうな顔ばかりです。

この写真は1924年に撮られたものですから、彼らは今の海士のひいお爺ちゃん世代。
確実に全員がこの世にいないのが何か不思議な気がしてきます。




「浅間」も「八雲」と同じく装甲巡洋艦で、戦後まで生き残っています。

イギリス製で、なんども天皇陛下が座乗されるお召し艦になっており、
もし高松宮殿下のご参加があったなら「浅間」に乗り組まれていたに違いない、

とわたしは予想したのですが、その後、参加候補生名簿を見て驚きました。

あったのです。

「浅間乗り組み候補生」の最初に「宣仁親王」のお名前が。

アルバムが作成されるということは、その時点でもう練習航海は終わっていたはずですが、
写真はともかく、なぜ殿下の御名前が参加名簿から消されなかったのか・・・。

まあ、理由はわかりますが、何だか配慮申し上げすぎて変なことになってますね。

 

さて、第一次世界大戦で派出されたメキシコで座礁、その後広島湾でまた座礁、
(こちらは当直将校のミス)とご難続きの「浅間」さんでしたが、
大東亜戦争では幸い最後まで生き残りました。

「浅間」に乗った少尉候補生の中には福地周夫(ふくちかねお)の名前があります。

福地は「陸奥」運用長を拝命直後、大動脈瘤と誤診され、療養のため退艦したことで
その直後におこった謎の爆沈事故から逃れたという強運の持ち主です。

また福地大佐は珊瑚海海戦において被弾した「翔鶴」において、運用長として
冷静な判断による的確なダメコンを行なった、ということを評価され、
当時帰国して講演会をしたそうですが、その時肝心の艦隊主要指揮官幕僚は
「あの」ミッドウェイ海戦に備えた図演のため一人も参加していなかったという・・。

こうして後から知ると何という歴史の皮肉なのでしょうか。

軍艦「伊勢」総員写真です。

「伊勢」は日露戦争の殊勲艦で、あの上村艦隊の旗艦として
蒜山沖海戦ではロシアのリューリック号を撃沈し、
さらには海上の敵兵を救助したことでも有名になりました。

日本海海戦では「磐手」とともに連合艦隊のしんがりで活躍しています。

そんな「伊勢」ですが、その後第一次世界大戦ではメキシコ動乱に
警備艦として派出され(集団的自衛権の行使というやつですね)
帰ってからは装甲巡洋艦の類別のまま練習艦に採用されていました。

この写真の頃には一等海防艦に種別変更されています。

「伊勢」の右舷側もアップにしてみました。
一人お立ち台に立っている水兵がいますが、ここは
この時代の軍艦の信号兵のポジションでしょうか。

波が高い時にここに立つのはむちゃくちゃ怖いと思うんですけど。

しかし、海軍の団体写真では誰一人歯を見せたりしてませんね。

「八雲」の准士官以上です。

准士官とは下士官出身で士官に準じる待遇を受けるもの、という定義で、
この頃にはそれまでの上等兵曹から兵曹長という呼称に変更されていました。

写真を見ると年配の軍人はほとんどが口髭を立てています。
この頃の流行りでもあったんでしょうね。
海上自衛隊では髭は先任伍長、というイメージがありますが、
オフィサーで髭を生やしている人は見たことがありません。

右から5番目は艦長の鹿江三郎大佐ですが、足の揃え方といい、
視線が明後日を向いていることとい、どうも緊張感がないような・・・。


「浅間」の准士官以上です。

「浅間」の撮影の日は運悪く雨が降っていたようです。
軍人は傘をささないという習慣がありましたから皆は平気だと思いますが、
写真屋さんはさぞかし苦労したことでしょう。

この写真を見る限りかなりの雨が甲板を濡らしています。
こういう雨の中で撮られた海軍の団体写真はあまり見たことがありません。

よく見たら上階で何やらお仕事をしている水兵さんがいますね。

雨が降っているので信号旗のラックにカバーでもかけているんでしょうか。
作業が写真に写ってしまうのは構わなかったのでしょうか。

「出雲」の准士官以上。
手すりに幕が貼られています。

現代の自衛艦も、出国、帰国行事の時にはこのような白幕が貼られます。
「出雲」は着々と出国行事のための準備中だったのかもしれません。

それにしても「出雲」はこの時就役して26年たっているはずですが、
さすがの日本海軍、手入れが行き届いて主砲はピカピカ、ペンキは塗りたて。

これも全て出国行事に合わせて万全の補修を施したのでしょう。

「八雲」に乗り組む予定となった士官候補生たち。
兵学校の短いジャケットからもうすでに士官用の長いジャケットに変わっています。

「八雲」に乗り組んだ少尉候補生の中には、後年真珠湾攻撃の飛行隊長となった
淵田美津雄、「神風特別攻撃隊」の命名者となった猪口力平がいます。

猪口力平の顔まではわかりませんが、あの!淵田大佐なら、
きっとどこにいるかわかるに違いない!

とわたしは半ば確信を持って全員の顔を熟視して探してみたのですが、
最上段に立って非常に目立っている二人のうちの左側、

この人淵田さんじゃないですかね。
遠目に見た方が淵田美津雄っぽく見えるかもしれませんのでお試しください。

なお、少尉候補生の名簿は、どうやら成績順らしく、「八雲」の2番目に

内藤雄(たけし)大佐

の名前があります。
兵学校卒業時の成績は236名中6番、クラスでも昇進がトップグループだったため、
福地周夫が少佐の時、もう中佐で、小沢治三郎を補佐する参謀になっていました。

戦闘機に進んだ源田とともに「戦闘機の源田、爆撃機の内藤」として知られ、
海軍爆撃術の体系化に功績があった士官搭乗員です。

しかし優秀で、連合艦隊司令官古賀峯一の参謀にまでなったことが彼の死を早めました。

昭和18年4月。
古賀長官と共に内藤が乗り込みダバオに向かった二式大艇は
その途中で行方不明になり、撃墜されたと後に認定されました。

この「海軍乙事件」で、内藤は死後1階級昇進し大佐に昇進しています。

 

こちらは「浅間」の士官候補生たち。

先ほどの水兵さんはカバーをかける仕事を終わったようですね。

それから、左手の舷門のところに鳥打ち帽をかぶった一般人が
ちょうど仕事を終わったのか退出していくのが写り込んでいます。


それから、一人なぜかこの雨の中サングラスをかけている候補生が・・・。
目が腫れているかなんかで見せたくなかったんでしょうか。

しかし皆キリッといい顔をした青年ばかりですね。

そして「出雲」の士官候補生たち。
この写真のどこかには少尉候補生時代の源田実が、小柄な体躯ながら
ぎょろりと鋭い眼をレンズに向けて写っているはずです。

この真ん中の人・・・・どうですか?

また、この「出雲」には、のちに日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、
その技量と統率力から「陸攻の神様」「 海軍の至宝」と言われた

入佐俊家少将

も乗り組んでいました。
常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも信頼を受けた指揮官でした。

入佐は1944年(昭和19年)、小沢治三郎中将のたっての指名を受け、
第六〇一海軍航空隊司令兼空母「大鳳」の飛行長となりますが、
その後マリアナ沖海戦で「大鳳」が爆沈した際に戦死しました。

戦死後は二階級特進し、海軍少将に任ぜられています。

続いて、練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊の写真。

この写真の司令部付きというのはおそらく従兵のことではないかと思われます。
士官の世話を身近で行う従兵は気が利いて頭の回転が早く、
しかも清潔感のある人物しかなれなかったので、それだけにその後の出世も早かったとか。

最後に、軍楽隊の皆さんをアップにしてみました。
自衛隊の練習艦隊音楽隊は各音楽隊からの志望で結成されているそうですが、
この頃はどうなっていたのかはわかりません。

さあ、これで練習艦隊全部隊の紹介を終わりました。
それでは次回からいよいよ航海の写真をご紹介していきましょう。

まずは江田島での卒業式、江田湾出港からです。


続く。

大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜百武中将の司令官交代と兵学校卒業式

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さて、新橋の古本市で手に入れた大正時代の練習艦隊の記念アルバムを
順を追ってご紹介しています。

次に進む前に、わたしは読者の皆様にも推理していただいた、

「艦隊司令官が古川中将から百武中将に変わっていた件」

もう一度整理してみます。
皆様のご意見を見ながらつらつら考えていて、実は
ある可能性を発見したのです。


●まずこの練習艦隊が大正13年に出航をしたことは間違いありません。
13年、14年というのは遠洋航海が14年にも及んだという意味で、
「13年度遠洋航海」を意味することはもはや確定です。

●そして大正13年度遠洋航海の参加艦艇は「八雲」「出雲」「浅間」。

●参加した兵学校の期数は52期です。

wikiにも載っている、つまり海軍に残された遠洋航海に関する正式な記録は

大正13年海兵52期等は古川司令官
大正14年海兵53期等は百武司令官

というものですが、アルバムを見れば一目瞭然。
実際の大正13年遠洋航海艦隊司令は最初から最後まで百武中将一人です。
そもそもこのアルバムには、全行程を通して一切古川司令官の姿はありません。

だいたい司令官が二人いて、前半と後半で交代、などは考えられませんよね。

なお、

●アルバムの揮毫は百武三郎中将のものだけである

●参加名簿の艦隊司令官は百武三郎の名前しかない

つまり、

大正13年度 海兵52期等遠洋航海司令官は 百武中将だった

 

というのが史実であり、現在残っている記録はその訂正を行なわず
間違ったまま残されたものではないか、というのがわたしの出した結論です。

それでは、なぜそのようなことになったのか。

まず司令官交代の考えられる理由としては三つです。

1、大正13年の艦隊司令だった古川鈊三郎が何らかの事情で行けなくなった

2、百武三郎がどうしても今年参加しなければならない事情があった

3、その両方


実は、この遠洋航海について最後まで精査した今、わたしは
2番、百武中将の事情でこうなったのでは、大胆にも仮定します。

 

アルバムに沿ってご紹介していく過程でそのうちお話しすることになりますが、
今回の遠洋航海のルートは南米からアメリカ、そしてカナダに寄港するのがメインです。

カナダではブリティッシュコロンビアのエスカイモルトに寄港しますが、
一行はここで、かつて練習航海途上、不幸にも病気で命を落とした兵学校19期卒の
士官候補生、草野春馬の現地にある墓所を訪ね、慰霊を行なっているのです。

 

百武三郎は兵学校19期のクラスヘッドとして卒業しています。
その彼が士官候補生として参加した遠洋航海航路途中の悲劇でした。

ここからは全くのわたしの推測です。

 

大正十三年六月。
兵学校五十二期の卒業と国内巡航を一カ月後に控えた日のことである。

百武三郎は大正十四年度練習艦隊司令官に任ぜられたとの知らせを受け、
かつて士官候補生の時に経験したまゝもう一生行く事も無いと思つてゐた
外国を艦隊司令として再び見られることに内心欣喜雀躍した。

「さうだ、『クラスメート』の草野が死んだブリチッシュコロンビヤに行き、
彼の墓参りをする最初で最後の『チャンス』ぢゃ無いか」

百武は客死した「クラスメート」の棺を候補生全員で涙と共に葬り
彼を一人異国の地にに残してきたあの日をまざまざと想ひ出した。

「草野・・・・貴様の墓所に花を供えに行つてやるぞ」

しかし、百武は14年度の予定航路を具に聞くや愕然とした。

東南亜細亜、そして豪州だと・・・・。

一生に唯一度、艦隊司令官として遠洋航海に出ると云ふのに、
嗚呼痛恨の極み、一年違ひで北米廻りでないとは!!

・・・否。

俺たちが士官候補生として遠洋航海を行なつたのと
今年の練習艦隊の『コース』は、ほぼ一緒だと聞く。

それなら、今年行けば善い。来年でなく、今年行くのだ。

さうだ、古川に今年の司令官を交代して貰へばいいのだ。

幸ひ古川は俺より二期学年も下だからなんとかなるだらう。

彼奴が四号の時に俺が修正した事も多分なかつただらうと思ふ。(笑ひ)
頼めば快く今年の艦隊司令を代わつて呉れるに違い無い。

きつと・・・・・。

 

こんな風に考えた百武中将は、クラスメートの眠っている墓所を訪ねる、
というこれ以上ない「行かねばならぬ理由」と、古川より二期上のクラスヘッド、
という立場を強権的に生かして(笑)出航間際に
無理やり司令官を交代してしまったのでは?というのがわたしの推理です。

どうでしょう。
え?まるで司馬遼太郎並みの針小棒大な創作だって?


百武は古川とは同じ中将といっても二学年上というだけでなく、
佐賀藩士出身で、二・二六事件のあとは鈴木貫太郎に代わって侍従長を務め、
後に天皇陛下の第三皇女、和子内親王の教育係を行なった、
というくらいの超エリート軍人ですから、いかに理不尽な願いでも
申し出を断ることは周りもできかねたのではないでしょうか。

しかし、謎はもう一つあります。
直前に急遽変更になったとはいえ、なぜその後も書面は書き換えられなかったのか。
そしてそのまま今日までその情報が残されているのか。


これも推測ですが、百武中将のゴリ押しが本当に出航の直前だったため、
司令官の交代が急で、辞令とかそれに伴うお役所仕事をゼロからやり直す暇もなく、
書面上は「13年度古川中将」のままで百武中将が実質司令官となったのでは?

そして練習艦隊は出航してしまったので、書類は結局書き換えられず、
のちの歴史にも変更前の記述が残っているのではないでしょうか。


この推理がもし、万が一当たっていると仮定すればですが、
艦隊司令の突然の交代申し入れは、ことに事務方にとって
大変な迷惑でしかなかったにも関わらず、結局海軍は
百武中将の無茶な希望を叶えてやったということになります。

それも、書面を変更せずにしれっと人間だけすげ替えてしまうという
今なら考えられないようないいかげんなやり方で。

だとすれば、海軍というのは建前は建前として、なかなか粋な計らいをする、
”情を汲む組織”であったといえますし、百武ほどの軍人であればこんな無理も通る
「隙のある」組織であったということもできるかと思います。


もちろんこの一連の推理はあくまでもわたし個人の判断に基づくものですので、
どなたか司令官交代と文書の整合性について、何か史実をご存知でしたら
ぜひご教授いただければ幸いです。

 

さて、練習艦隊の第一歩は海軍兵学校の卒業式から始まります。
(一緒に参加する海軍機関学校の卒業式については写真や資料がないので
お話しすることができないわけですが、今はさておきます)

それにしてもこの冒頭の写真は一体・・・・。

江田島に行ったことのある方なら、これが大講堂の裏門に近い出入り口、
例えばこの頃ならかしこき辺りの方々が出入りになられるところを
現在の「レストラン江田島」のある建物の前から見たところ、
とおわかりいただけると思いますが、それにしてもフォーカスが無茶苦茶です。

建物にはもちろん、手前の柳の葉にもピントが合っていない不思議な写真。
しかもこれがページいっぱいの大きなものです。


「偉大なる海を想い、渺茫たる太陽を憧憬せし若人の
華やかなる活動の舞台は将に展開せんとす
見よ、江田島の湾内に浮かぶ練習艦隊八雲浅間出雲の三艦
希望に輝く初夏の空、恭しくも聖上陛下第三皇子高松宮殿下を
御同窓として戴き祝福されたる若人の門出
輝く軍艦旗の下にたちて、江田島よ、さらば!」

わたしは幸運にも昨年度の幹部学校卒業式に出席していますが、
同じ江田内に「かしま」をはじめとする自衛艦が浮かんでいたのを思い出します。

煙突からは黒煙を噴き出しているという船の姿形の違いはあれど、
あの光景を知っている目には、この白黒の写真から実際の空気の色まで想像できます。

練習艦隊は卒業式をを目前に、江田湾で壮途への出航をいまかと待っています。

そして大講堂での兵学校52期の卒業式が行われました。

大正一三年七月二十四日

山階宮武彦王殿下の御台臨を辱ふし
古鷹山下海軍兵学校に於て卒業式挙行さるる


52期の卒業式は真夏に行われました。
写真で玉座におられる山階宮武彦殿下は、父君の菊麿王に続き兵学校46期卒、
皇族として初めて海軍航空隊に所属し、「空の宮様」と異名をとった殿下です。

経歴を見ていて驚いたのですが、この前年の大正12年の関東大震災で
山階宮家の鎌倉別邸にたまたま滞在中であった武彦王は
初子懐妊中の妻佐紀子妃を建物の倒壊によって亡くしているのです。

wikiには、その結果、武彦王は精神を病み開かずの間にお籠りになった、
ということが書かれているのですが、この時には少なくとも海軍軍人として
こうして人前で儀式を行っておられます。

ちなみに当時殿下は二十六歳、薨去された佐紀子妃はまだ二十歳でした。

武彦王はこの翌年の1925年(大正14年)3月には、民間航空振興のため、
練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関、『御国航空練習所』
を建立しておられます。

この写真の直後には早くも後添えをお貰いになる話が出たということですが、
その縁談も王の病状が原因で破談になったということです。


尚、52期クラスヘッドは入江籌直ですが、戦史にはその名前を残していません。
源田実は17番、淵田美津雄は108番の成績です。

卒業式を終え、大講堂から表門に敬礼しながら退場される高松宮殿下。
殿下が赤痢にお罹り遊ばすのはこの2ヶ月後の9月です。

どうも殿下は卒業後、国内巡航には最初から参加されなかったようです。
つまり11月の横須賀からの遠洋航海に参加するつもりをされていたのが、
9月に病気になって、参加が取りやめになった、ということではないでしょうか。

卒業後、皆は「伊勢」など練習艦にランチで乗り込んでいくのですが、
殿下のランチだけは一応表玄関から卒業していったものの、どこかで乗り換えて、
一度は都にお戻りになったということではないかと思われます。
ランチの天蓋の下には、遠目にもそうとわかる殿下の制服姿が確認できます。

あ、ということは赤痢は卒業後罹ったということに((((;゚Д゚)))))))

練習艦隊の軍艦に乗り込んで「帽振れ」をする候補生たち。
この頃の軍艦の舳というのは海面からほぼ垂直にそそり立って見えます。

そして「帽振れ」は今よりずっと、なんというかフリーダムな雰囲気ですね。
今は自衛隊では登舷礼で並ぶ位置にマーキングして美しく整列するようですが、
これを見る限り、帽振れの最中も手すりを掴んで舷側に鈴なり状態。
少なくとも当時は今ほどかしこまった儀礼ではなかったように見えます。


この後、大正、昭和と時代が進むにつれ、帽振れは徐々に儀礼化してゆき、
今の形に落ち着いたのではないかと思われます。

もっともこの頃の軍艦は、候補生が一列に整列して並べる形状ではなかった、
ということなのかもしれませんが。

 

さて、江田島を旅立った士官候補生を乗せた練習艦隊は、まず国内巡航、
国内の寄港地を周る訳ですが、この頃の国内巡航には今では存在しない
「外地」が含まれていました。

中国大陸、そして朝鮮半島です。

 

続く。

大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜特別編:司令官交代問題結着す

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当初から話題になっている司令官交代問題ですが、
もしかしたら、最終結論が出たかもしれません。

今北産業のかたのためにもう一度説明しておくと、

wiki、つまり海軍に残っている資料によると艦隊司令は

大正13年度 古川 鈊三郎 大正14年度 百武三郎

であるのに、実際の13年度艦隊司令は百武三郎だった(三行)

という謎です。

とりあえず、大正13年度の遠洋航海に、なぜか14年度の司令官であるはずの
百武中将が司令として参加している、ということは、はっきりしました。

海軍がその交代を書面処理しなかったらしいこともわかりました。

問題は、その変更によってあちらこちらに起きるはずの人事の混乱を捺してまで、
いくら海軍の歴史で唯一の兄弟で海軍大将になるようなエリート軍人のいうことでも
こんな無茶を海軍がホイホイと受け入れるものだろうかということです。

unknownさんがおっしゃるように、ここはのっぴきならぬ
古川中将側の事情があったのではないか、という予想はもっともです。


しかし、一枚の写真の発見が、この問題をどうやら解決させたような気がするのです。
今一度、我慢してお付き合いください。

 

大正13年度遠洋航海練習艦隊は卒業式を終え、江田島を出航しました。

現代の練習艦隊は国内巡航は基本時計回りに寄港地を巡り、
最終的に横須賀に到着することになりますが、この頃の練習艦隊は
そもそも期間が長かった(7月24日に出航して翌年4月4日に帰国)のです。

というのも、当時日本が持っていた統治地方、「外地」をまず最初に
巡ることが決まっていたからでした。

練習艦隊はまず大連、旅順、そして朝鮮半島の鎮海に帰港しました。
順番が最後からになりますが、鎮海寄港の様子をまずお話しします。


【鎮海】

立派な巴里式都市の設計まで出来乍ら、気の毒にも流産した鎮海の町
完成の暁はどんなに美麗であったろう
程遠からぬ統営の古戦場を訪ねて忠烈詞に詣で朱舜臣の健闘を偲ぶ


鎮海要港部庁舎

鎮海は大韓民国の最大の軍港です。

遠洋航海の外地巡行の最後の都市は要港部のあった鎮海を訪問することになりました。

「要港部」というのは舞鶴、大湊と同じような根拠地のことで、大陸には
他に旅順、馬公も要港部とされた港湾がありました。

1904年2月、日露戦争開戦に際して、日本海軍は鎮海湾一帯を掌握、
海軍根拠地の建設が行われ、日本海海戦ではここが連合艦隊の集結地となりました。

日露戦争後は、鎮海湾に軍港を建設する計画が進められ、1910年から
鎮海軍港と都市の建設が開始され、1916年に完成しました。

以後、鎮海は日本海軍の軍港都市として発展します。
写真は当時の要港部庁舎と説明があります。

 

紹介文の

「気の毒にも流産」

が何を意味するのかちょっとわからないのですが、日本の統治後、
「巴里風の」都市建設を計画していたのが何かの理由でダメになった、
という事情か何かがあったのでしょうか。

現在の鎮海は市の中心部にあるロータリーをはじめ、随所に
往時の日本の都市計画の姿を見ることができ、また、
地名には末尾が「町」となる、日本式の地名が付与されたということなので、
ある程度の都市開発は出来たのではなかったかと思うのですが・・・。

水運び

藁葺きの家に石を積み重ねただけの壁、
水道などもちろんないので水運びを子供も行います。

洗濯は井戸の周りで。

忠烈詞というと台湾の衛兵交代のあれしか検索しても出てきません。
統営(トンヨン)の忠烈詞は李舜臣を祀っている廟です。

かつて朝鮮水軍の李舜臣がここに統制営を置いたことから、この地の名前は
統営になったという言い伝えがあります。

李舜臣は文禄、慶長の役で日本と戦って朝鮮の英雄となりましたが、
統治後の日本では、李舜臣を「水軍の名将」として敬意を表していたため、
こうやって海軍軍人が忠烈詞を参拝しているわけです。

 

ちなみに、現在でも自衛隊は外国に赴くと、その国を護って亡くなった
軍人の慰霊碑や墓に慰霊訪問を行うことが慣例となっています。

例えば2013年には韓国海軍哨戒艦「天安」沈没事件で犠牲になった46人に
幹部候補生学校の学生が黙祷を捧げるために訪問していますし、
練習艦隊ハワイ寄港時にはでアリゾナ記念館で必ず慰霊を行っています。

今年も顕忠院で「リース・レイイング」を行なったという報告がありました。

 

国際関係は、合意の履行を巡って最近さらに不穏になりつつある日韓ですが、
平成29年度の練習艦隊報告会ではそれを受け、最後の質疑応答の時に初老の男性が

「韓国に行って何か反日を感じるようなことはなかったのか」

と質問されました。
真鍋海将補のお答えは「全くそのようなことはなかった」というものでした。

HPに発表された各地における活動記録を見れば、少なくとも自衛隊と
韓国海軍の間には不穏不快な夾雑物はないものとわかります。

これはスクリーンを撮影したものですが、両手を振っている韓国海軍の軍人たちの
後ろのバナーには、「歓迎 日本練習艦隊訪問」として日韓の国旗が描かれています。



自衛隊寄港の際旭日旗が大騒ぎされたとか寄港を断わられたとか聞きますが、
少なくとも韓国海軍はそのようなことに関わっていないはずです。

 


さて、冒頭に挙げた写真ですが、もう一度ご覧ください。

キャプションには練習艦隊寄港中、「斎藤総督」が訪問した、とあります。
真ん中の海軍軍人、第3代朝鮮総督の斎藤実(まこと)大将のことです。

斎藤は兵学校での中でも「天才」と言われるほど特に優秀な生徒だったそうで、
海軍大将、のちに総理大臣にまで登りつめますが、内大臣だった時に起こった
二・二六事件で坂井直率いる蹶起将校に殺害されることになります。

天皇を誑かす者として、青年将校たちの目の敵にされていたためでした。

 

そして皆さん!お待たせしました。

わたしは皆様に謝らなければなりません。

前回「古川中将はこのアルバムに写っていない」と

きっぱりと言い切ったのですが、申し訳ありません!

斎藤総督の左側・・・古川中将が写っています!

参考画像

これは何を意味すると思いますか?

最初は斎藤大将の右側に座っている人物を百武中将だと思い込んでいましたが、
どう考えても艦隊司令が二人、大将の両脇に座るなんて変ですよね。
そもそも右に座っている人、百武中将に似ているけど少し雰囲気が違う・・・・。

もしやと思って、当時の当時鎮海要港部司令官だった犬塚太郎中将の写真を確認すると・・・、

犬塚太郎中将

ね?

何がね?だ、って話ですが、斎藤大将の右は要港部司令犬塚に間違いありません。
つまり国内巡航の司令官は最初の予定通り古川中将が務めてるってことなんです。

念のため目を皿のようにして国内巡航の写真全て確認したところ、
豆粒のようなものしかありませんが、司令官は百武ではなく
古川中将のような体型顔型をして見えるんですよね。


・・・つ  ま  り  。

練習艦隊出航直前に百武中将は

「同級生の墓参りに北米行きたいから司令官代われ」

と言ったものの、当時舞鶴要港部の司令官という仕事がまだ残っていたので、

国内巡航は古川中将が当初の予定通り行なった

11月からの遠洋航海から司令官が百武中将に交代した

という可能性が出てきました。
これなら書類を書き換える必要は・・・あるけど、まあなんとかセーフ?


ちなみに百武中将は舞鶴要港部司令を

10月3日に退職しています。

そして遠洋航海練習艦隊司令官として、

11月10日に横須賀を出港。(゚д゚)ウマー


そして、遠洋練習艦隊は翌年、大正14年4月4日に帰国。
百武は帰国から11日後の

4月15日に佐世保鎮守府長官に着任。(゚д゚)ウマー


かたや古川中将はというと。
当初の辞令通りに、7月末から11月まで13年度練習艦隊国内巡航に参加。

(それでアルバムには両者の写真が掲載されているというわけです)

練習艦隊司令を百武に交代した11月から何をしていたかというと、

軍令部出仕

という謎の職場(なこたーない)で忍び難きを忍び、翌年、
身分は軍令部に置いたまま、百武の代わりに

大正14年練習艦隊司令として国内巡航(2度目)を行い(笑)

そして遠洋航海を最後まで恙無く終えて、4月帰国。

大正14年6月、舞鶴要港部司令官に着任

わずか半年後、百武の後任として(百武からの”御礼”だった可能性あり)

佐世保鎮守府長官に就任(゚д゚)ウマー


どうですか?

これで二人のこの2年の行動が矛盾なく綺麗にトレースできました。

 

つまり、百武中将がなんとしてでも級友の墓参りをするために、
遠洋航海の部分だけいいとこ取りした可能性が限りなく高くなったのです。


百武中将の佐世保鎮守府長官の赴任期間は大正14年4月から15年の12月。
結論をいいますと、海軍にはこの1世紀近く、百武中将の

練習艦隊司令官(大正14年〜15年)

佐世保鎮守府長官(大正14年〜15年)

という一人の人物に同時に起こりえない経歴が公式に残されてきたことになります。
どうしてこの矛盾に突っ込んだ人がこれまでいなかったのか。

歴史の些事といえばこんなどうでもいいこともありませんが、
それでもその一つがこうやって明らかになったことで、
今のわたしは、まるで金鉱でも掘り当てたようにワクワクしているのです。


というわけで、最新の結論が出ましたが、今後も
写真を解説しながらハードエビデンスを探していきたいと思います。

エビデンス?ねーよそんなもん、と思ってしまったらそこで終わりです。
(虚構じゃなくて某自称大新聞に対する嫌味です)

 

最後におまけ。

この有名な、東郷元帥、秋山真之、加藤友三郎が写っている三笠艦上での写真の
後列右上の清河純一という士官の名前を見つけるたびに、
ここで紙面?を割いてせっせとご報告しているわけですが(笑)
今回扱った鎮海要港部大正14年度の司令長官に、この清河さんが就任しています。

若い時に連合艦隊参謀だった清河純一大尉(この頃)、
ちょうどこの練習艦隊の頃には百武、古川と同じ中将になっていたのですね。

 

ちなみに、米内光政も清河中将の二期後に鎮海要港部長官を務めました。

 

さて、大正13年度練習艦隊、順序が逆になりましたが、
もう一度江田島出港直後から外地巡航についてお話ししたいと思います。

 

続く。



 

戦火の馬〜ミリタリー・アニマル

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「ミリタリー・アニマル」シリーズ、犬のエントリにはつい入れこんでしまいました。

そこで犬についてこれだけは付け足しておきたい、今回知った情報ですが、
ベトナム戦争でアメリカ軍が撤退するとき、軍犬は「装備」としてしか見なさされず、
犬のハンドラーはもちろん兵士たちが熱心に連れて帰ることを希望するも
現地に放棄する旨厳重な命令を出したということがありました。

人間のためならば何億もするヘリを惜しげも無く捨てるアメリカ軍が、
犬の命にこうも冷淡だったというのは少し不思議な気がしますが、
軍命令として許可を出してしまうと当然誰も犬を手放したがらない以上、
危急の際の人命第一の観点から仕方がなかったのかもしれません。

鬼怒川の洪水で自衛隊員が犬を助けたことにも非難が起きたように、
飼い主にとって家族でも公的には「もの」に過ぎないのが動物です。

ベトナムではアメリカ軍に4000匹以上の犬がいましたが、
その多くは多くは何らかの形で生命を犠牲にしたと言われます。

軍が撤退するとき、24時間、365日彼らとともにいたハンドラーたちは
泣く泣く犬たちを手放し、帰国せざるを得ませんでした。

彼らが戦地で数千人のアメリカ軍兵士を何らかの形で救い、
軍犬としての任務を十分に果たしたにもかかわらず・・・・。

 

■ ラクダ

さて、気を取り直して続きはラクダからです。

ラクダは中東と北アフリカで古代から軍隊の一部分となっていました。
過酷な砂漠の気候でも耐え抜くタフな動物で、水を取ることもなく
長い距離を重い荷物を背負って歩くことができるからです。

1800年代中ごろ、アメリカでもラクダが使われ始めます。
西部開拓者が砂漠を縦断するのに彼らを必要としたのです。

1856年、66頭のラクダが北アフリカから大西洋を超えてアメリカ大陸に到着、
そのまま彼らはテキサスへの道を歩き始めました。

それからしばらくは、南西部開拓団の軍隊もラクダを配備するようになります。

南北戦争の1861年、南部連合の中隊が南部で物資輸送のために
使われたラクダは戦争が終わると動物園やカーニバルに売られていきました。

第一次世界大戦時、イギリス軍には

Imperial Camel Corps(帝国ラクダ部隊)

なるものが存在し、砂漠での敵掃討に使われましたが、
基本的には彼らの任務は水を運搬することでした。

彼らの運んだ水で数千人もの人命が生き延びることができたのです。

 

ちなみにラクダの性質は決して温厚ではなく(笑)
敵の攻撃に対しては平然としているのはいいとしても、
急に走り出して逃げてしまったり、自分に乗っている人間の膝頭に
首を伸ばして噛み付く(首が長いので)のがデフォなんだそうです。

■ ゾウ

ゾウ軍団に対抗するには小さな動物をたくさん放てば良い、という話を
豚の欄でお話ししましたが、これは小さければいいのではありません。
象が自分で踏んづけちゃったことが認識できなければなんの意味もないので、
子豚くらいがちょうど?いいのです。子豚にはかわいそうですが。

さて、象は古代では戦車のような位置付けで軍に使われていました。

ギリシャの王ピュロス(エピロス)はローマを侵略するのに象の軍団を編成し、
攻め込んでいくとローマ兵は象の姿を見ただけで逃げたという話があります。

ただしこの時の「ピュロスの勝利」は「勝ったけど損害が大きく実質敗北」
という勝負を表す言葉になってしまっています。
象の飼育代が高くつき過ぎたから、に1アウレウス。


 

近代になっても戦争シーンに象は欠かせませんでした。
第二次世界大戦では例えばビルまでジャングルに橋や道路を作るのに
象の力を必要としました。(アニメ空の神兵でも描かれていましたね)

頭がいい彼らはバランスよく大きな木材を鼻で持ち上げたり、
それをちゃんと指定された場所に置くこともできたのです。

写真の吊り下げられている象さんの名前はリジー。

もともとサーカスで活躍していた象ですが、徴兵?されて彼女がやってきたのは
後ろの景色を見てもおわかりのようにここはイギリスの鉄鋼業の街シェフィールド。

第一次世界大戦で象さん、じゃなくて増産体制に入ったイギリスは、
鉄鋼業に力を入れましたが、そこで運搬に投入されたのが象だったのです。

彼女はこの街で鉄鋼の運搬を運搬する仕事に従事していました。
石畳の道を荷を曳きながら歩くのは体重の重い象にとって辛かったと思うのですが、
リジーは子供達にも人気、すっかり街のアイドルだったそうです。

 

第二次世界大戦でイギリス軍が敵国(日本ですが)を迎え撃つために
東南アジアの戦場で頼りにしたのもやはり象でした。

47頭からなる象軍団のうちの一匹、「バンドーラ」と名付けられたメス象は、
あたかも象の司令官のような統率力で軍団を率いて信頼が厚かったそうです。
行軍が終わると彼女はパイナップル畑に分け入り、900個をペロリと平らげました。


ベトナム戦争では象をヘリで輸送したという記録があります。

山間の村からベトナム人をリクルートして結成した特殊部隊に、アメリカ軍は
キャンプを建設させることにしましたが、材料も人手も道具もあるのに、
ただ一つ、その村には象がいなかったのです。

今ベトナムに旅行に行くと象使いの村に行って象に乗るということもできるそうですが、
どこにもここにもいるというものではないので、アメリカ軍は象を二頭、
ヘリコプターで村までの300マイル(482キロ)の距離を空輸しました。

象を吊り下げて行ったとすれば、東京から滋賀県くらいの距離を飛ぶ間の
象さんの気持ちとか、その間の象さんはどうしていたかとか、
その間象さんの落としたもので地上では何事も問題はなかったのだろうかとか、

いろんなことを考えてしまいますね。

ちなみに成象の重さはだいたい23トンくらいだそうです。

小さな村に木材などを運ぶことをベトナムでは

「Operation”Barroom”」

と呼んでいたそうですが、これは決して「バールーム」のことではなく、
象がガスを噴出するときの音だそうです。

実際に象と一緒に暮らした者でないとまず思いつかない作戦名ですね。

 

■ ネズミ

ネズミがシェフになるというピクサー映画「ラタトゥイユ」は
イタリア料理の「Ratatouille」の最初三文字が RAT、
ネズミであるというシャレから(のみ)成り立っていたのに(多分)
邦題は何の関係もない

「レミーのおいしいレストラン」

となっていて、心底残念に思ったものです。
翻訳しなくてもよかったんじゃないかと思いますが、それだと
ネズミを英語で「マウス」としか認識しない日本人には
さらに何のことやらわからなくなってしまうので仕方なかったのでしょう。

それはともかく、ラットです。

あの荒唐無稽なアニメには、たったひとつ真実があります。
ネズミの嗅覚は大変鋭敏であるということです。

レミーが優れたシェフになれたのは、彼が優れた嗅覚を持っていたからでしょう。 


ネズミが軍隊で何か役に立つとすれば、それは間違いなく
嗅覚を生かして地雷を検知するためです。

写真のアフリカオニネズミは2000年ごろから地雷を検知する
訓練を受けて投入されてきました。
彼らがモザンギークでで見つけ出した地雷は7000個、
爆弾は1000個以上であったという記録が残っています。 

彼らの強みはなんといっても体が軽いこと。
地雷の上に乗っても爆発することはありませんし、
犬よりも小さなスペースに入って行くこともできます。

彼らが任務を果たすのはただ餌のため。
しかし兵士の「携帯用ペット」としては大きさ的にも最適です。

 

■ 馬

「戦火の馬」(War Horse)という第一次世界大戦時に徴用された
軍馬の物語についてお話ししたことがあります。

馬は近代まで戦争につきものでした。

古くはアレキサンダー大王の伝説に、彼は愛馬ブケパロスを含む
4頭立てのチャリオットで、自分を侮辱したうえで挑戦してきた
ニコラオスを轢殺し、優勝したというものがあります。

アメリカでは独立戦争以来、いつも戦場には馬の姿がありました。

《ジョージ・ワシントン》

独立戦争中に初めてアメリカで騎兵隊を組織しました。
イギリスとの戦いで組織された騎兵部隊との戦いに負けたあと、
彼自身の馬と専門の「ホースマン」を持っていたそうです。

《南北戦争》

南部の方が北部より馬も馬子も潤沢に持っていました。
その点では北軍は不利だったと言えます。

馬が運搬するものは物資や負傷兵ですが、最も戦争で重要な
武器を運ぶことができたからです。

南部連合軍のロバート・リー将軍は、有名な騎手でもありました。
彼の愛馬「トラベラー」は、合衆国の北軍のグラント将軍の
「シンシナティ」と並んで名の知れた名馬です。

ちなみにリー将軍がグラント将軍に降参した1865年4月9日、
南北戦争は終わりを告げました。

《第一次世界大戦》

「戦火の馬」は第一次世界大戦を背景にした、戦馬ジョーイと
青年アルバートのふれあいの物語で、これを映画化したのは
スピルバーグでした。

騎兵隊だけでなく物資や食料、武器を運ぶために多くの馬が
ヨーロッパに渡り、参戦していました。
ガス攻撃に備えて馬専用のガスマスクもデザインされましたが、
彼らは次々と命を失い、アメリカから参加した8万頭以上のうち、
生きて祖国にアメリカ兵士を乗せて帰ることができたのは
わずか数千頭だったといわれています。

《第二次世界大戦と戦後》

ジープ、戦車、そして飛行機が登場するようになり、それらは
確実に馬よりも優先されるようになりました。
戦馬が戦場で命を落とす悲劇は第一次世界大戦が最後でした。

しかしながら、戦車も進んでいけないような地形の戦地、
例えばイタリアの山岳地帯やビルマのジャングルなどでは
やはり馬を投入するしかないことも多々ありました。

 

戦後は騎兵隊は廃止されましたが、馬は特定の地域での
軍の活動のために未だに一部特殊部隊で使用されています。

冒頭写真はアフガニスタンでカウボーイハット(階級付き)
をかぶり馬に乗ってかける陸軍軍人の雄姿ですが、ここでも
戦車やハンヴィーでは行くことができないところには
馬で行くしかないのです。

ワールドトレードセンターが攻撃された2001年の同時多発テロ後、
アフガニスタンに侵攻した特殊部隊の攻撃は馬で行われることもありました。

ベトナム戦争では顧みられなかった馬の人権?ですが、
第一次世界大戦後には

アメリカンレッドスター アニマルリリーフ

という団体が立ち上がり、傷ついた馬の介護とケアをしよう、
という呼びかけがなされたそうです。

第一次世界大戦でヨーロッパに投入されたほとんどの馬は、
最前線に出されてからせいぜい12日くらいしか生きられませんでした。


続く。

 

 

 

2018年度 陸上自衛隊第一空挺団 降下始め〜部隊展開

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去年は天候不良とやる気の欠如により参加を取りやめた陸自降下始めですが、
今年は寒波が襲来する厳しい寒さの中、参加決行してまいりました。

 

今まで経験した降下始めで寒さだけでいうと最低レベル。
体感気温は終始0度くらいでしたが、これか風が強かったためで、
実際の千葉市の本日の気温は午前中で2度、門の前に並びだした頃は
0.2度だったということです。

過酷な寒さはある程度予想していたので、セーターの上に薄手のダウン、
その上からアメリカで買ったコロンビアのオムニヒートとかいう
体温を利用して保温する仕掛けのパーカーコートを着込み、
マフラーにマスク、座っている間は膝にフリースとダウンのひざ掛けを掛ける、
靴の中底には羊毛のふかふかの中敷プラス靴の中専用カイロ、という
前代未聞空前絶後の防寒対策で、車の中は暑くて暖房を消したくらいなのに、
やはり遮蔽物のないフィールドでじっと座って待っているのは辛かったです。

しかも、あろうことか、というかわたしにはありがちなことですが、
仏作って魂入れず、カメラ持ってきて電池入れずという痛恨のミス。

忘れた理由は・・・いや、言い訳はやめましょう。
とにかく現地でカメラを出したら電池がなかったのです。
電池がない一眼レフなんて、ただの重しです。
というわけで、当初の目的だった降下始めの一眼レフデビューができず、
しかもサブで持ってきたニコン1のV2(ああ、V3の電池も忘れたんだよ!)
の電池は1個だけ。

電池の消耗の早いニコン1で降下始めを撮りきるには、節約しかありません。

というわけで、これまでのように何でもかんでもとりあえず撮る、
というのはやめ、本番が始まるまで写真はお預け状態となりました。

これはiPhoneで撮りました。

座った場所は、前がすぐ切り立った斜面となっている草地の最前列で、
前には黄色いロープが全面的に渡されています。

なんでも数年前に転がり落ちた人がいて、それ以来張られるようになったのだとか。

「携帯とかレンズとか落っことしたら大変ですね」

と同行者と話していると、目の前で近くの人がカメラのレンズフードを落としました。

誰かが呼び止めた自衛官が、下からフードを持って斜面を上がり、
落とした人に届けていましたが、ああいう余計な仕事を自衛官にさせないためにも
ものを扱う時には以降神経を払って行おう、と自分に言い聞かせました。

あまりの寒さで手がかじかんでいて、注意していてもものをとり落す、
ということが実際に起こりかねなかったのです。

右側の斜面は隊員家族や招待者などの観覧席。

招待者には演習終了後「野宴」と称する焼肉パーティ、という
いかにも陸自的な宴会が催されることになっており、隊員のご子息を持つ
知人は、その前日

「肺炎にならないように防寒対策をして行きます」

とメールをくださっていました。

招待者なら、早くから門前に並んで場所取りをする必要もないし、
寒いとはいえ一応パイプ椅子もあるので、肺炎になる確率は
こちらよりはかなり低いものと思われます。

この野宴にはぜひ一度行ってみたい、とこの方と話をしていて言うと、
地本の知り合いがいれば頼めば行けるかもしれない、ということでしたが、
この特別席を見る限り、写真は撮りにくそうだし、第一宴会のために
そんなコネクションを使うのも厚かましい気がして、断念しました。


ところで開始を待っている間、時間つぶしに同行者と話をしていたのですが、
その中で知った今回1番のニュースは、

今年海自の観艦式は行われない

のがほぼ確実になったということでした。

実はだいぶ前からその件は噂程度にあちこちから聞いていたのですが、
理由はやはりオリンピック。

つまり、オリンピックを前に稼働が最も増えるのが陸自、
(駐屯地を物資の待機所にしたりという物理的な理由が大きいらしい)
正規の順番で行くと、2018海、2019陸、2020空なのですが、
オリンピックイヤー前年に陸を「空けておきたい」ので、
海と陸を交代させるのが目的だということらしいです。

まあ、これも本当かどうかわかりませんので眉唾で聞いておいて下さい。

 

それにしても、皆さん、少しこの光景に違和感を感じませんか?

そう、一台も戦車がスタンバイしていないのです。

おかげで始まるまでに写真を撮る場面もなく、
寒さに耐えながら過ごしていると、フライングエッグが登場。

星を三つつけているので、陸将を乗せてきたようです。

乗ってきたのは後ろ姿でもそうとわかる陸将(右から3番目)。
カバンを持っているのは副官です。

そこにいきなり偽装車、カモフラージュした車が登場。

「あれ?いきなりモフ車って・・・」

2年前と全く展開が違います。
実は、招待者席辺りでは本日の訓練についての順番を
あれこれと説明していたのですが、アナウンスがそこだけなので
こちらには風の関係で断片的にしか聞き取ることができません。

2年前にはアナウンスは全会場に聞こえていましたし、そもそも
会場にあった映像を映し出すスクリーン車も今年はなし。

「経費節減に伴う規模の縮小でしょうかね」

「展示の内容が大幅に変わっているようですね」

とか言いながら見て居ると、なんと続々と偽装車登場。
いつもはせいぜい二台だったのに・・・・。

偽装車大量投入です。

「もしかして。これって戦車が出せないから」

「戦車の代わりにせめて、ってことですか?」

「いや、可愛いから個人的にはいいですけど」

見ていると、偵察を行うために投入された偽装車は、しばらく走り回り、
定位置に駐車するとそこでじっとしています。

それにしても、この匠の技をみよ。

どの車も、タイヤさえ見事に隠れていて、動いていなければ車だと思えません。
ギリースーツで偽装したスナイパーも「忍者」と言われるようですが、
これはまさに世界最高レベルの「ニンジャ・カー」。

全方位全く隙なし。

ところで中は暖かいんでしょうか。

「待機中にちょっと仮眠していても良さげな雰囲気ですね」

「少なくともここよりは快適でしょうね」

フィールドにはチヌークが着陸し、陸海空迷彩とスーツが降りてきました。

我々の目の前には、7人の隊員が駆け足でやってきました。
近いので、写真に写っている全員の名前が読み取れます。

流石に最初に行われるのは模擬戦らしいことがわかりました。
チヌークが高機動車と迫撃砲を牽引して飛来しています。

招待者観覧席はまだガラガラ。
報道のカメラゾーンもまだ人はあまりいません。

アパッチの参加は一機だけです。
同行者によると整備の関係で出せるのが一機だけだったんでしょう、ということです。

アパッチの導入についても、何か問題点が色々とあったようで・・・。

アパッチ攻撃ヘリの調達、なぜ頓挫?
問われる陸自の当事者能力

筆者は例によっていつものジャーナリストの方ですが。

ヒューイが隊員を運んできました。
もしかして、いつの間にか状況開始している?

ヘリの隊員が機上から降ろしている錘のようなものは?
地雷探知機とは形が違うようですが、これ何でしょうか。

釣りをしているように錘を下ろしたままのヘリ、
ということは、隊員が飛び降りるためのギリギリの高さに
ヘリをホバリングさせるための「目印」で、釣りをしている隊員が
保持するべき高さになったところで声かけを行うものと推測します。

地面からのスキッドの高さはだいたい1メートル強くらい。

降りるなりダッシュ。
ヘルメットの赤いバンドは、模擬戦の「紅組」の目印だと思われます。

カムフラージュメイクもばっちりよ。
彼らはスナイパーなので左目部分はノーメイクです。

それにしてもヘルメットに何が仕込まれているのか大きい・・。

スナイパー、モフ車の影で狙撃準備完了。

迫撃砲セットを牽引しているチヌークは一機だけです。
これは例年通り。

牽引している機体の真下は肉眼で確認できませんよね?

これを見るとヘリパイってすごいなあと思います。
武器を傷めないようにじわりじわりと降ろしていく匠の技。

ヘリは、装備を降ろした後、絶妙の位置に移動して人員を降ろします。

後部ハッチから隊員がリペリング降下。

高度が10メートルくらいの時は、カラビナを使わず手だけで降りる
リペリングを行います。(ということを2年前の降下始めで知った)

 

紅組の隊員は迫撃砲部隊です。
吊り下げルためのロープを目にも留まらぬ速さで外し、
状況に備えます。

高機動車に迫撃砲を牽引するために接続、この間1分(くらい)。

全員がリペリングによって地上に展開する用意ができました。

遠くの方に偵察用バイクのオート隊が出現。

何年か前、オート隊のバイクは観客の眼の前に来て、
バイクから降り銃を構えて見せてくれたものです。
その時撮ってアップした写真を見た家族の方がコメントを下さり、
原サイズのデータをお送りしたということがありました。

今年はオート隊は遠くを走り去るのみで、パフォーマンスはなし。

CH-47のハッチから紅組の部隊が降りて来ました。

全員小銃を手にした赤の小隊です。

右の隊員が背負っているのは通信機器ですか?

ベルトによって名前が見えなくなっているので、緑のテープに
名前と階級、所属を書いて貼り付けているのが確認されます。

軽装甲機動車、通称「LAV」が3台、いずれも狙撃手を車上に進入。
赤のマークをつけています。

どうやら赤が自衛隊、青が仮想敵国という設定のようです。

スナイパーの舞台は二人一組で展開を完了。

今年はどうも戦車を投入した「島嶼防衛」というシナリオではないようです。

「もしかしたら肉弾戦ですかね」

「てことはないと思うのですが・・・」

 

果たして本年度模擬戦のシナリオとは?

戦車は・・・戦車は見られるのか?


続く。

 

 


バトラー(BATRA)による模擬戦〜平成30年度 陸上自衛隊降下始め

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ところで、習志野駐屯地演習場の極寒に耐えたあと、
立ち上がった時には足首から先の感覚がほぼなく、
寒い時に人が寝るとなぜ死ぬのかよくわかったような気がしました。

ジンジンする痺れがましになったのは車まで戻り、
イオンタウンのなんとかいうご飯屋さんで遅昼を食べ、
暖かいものを体に入れ終わってからのことです。

秋田のスキー場のランタン祭りですらこんな辛くなかったのに、
ひとところでじっとしてると寒さというのはこんなにも凶暴に
人の体力を奪うことを改めて体で知ったといいますか。

ところで日本の昼間でこんな辛いのに、平昌五輪って大丈夫なの?
しかも開会式は夜らしいけど、下手すると低体温症で死ぬよ?

迫撃砲が2基、フィールドに設置され、支援のための陣地が構築されました。
前に置いてあるスコープは狙いをつけるためのもの?

と思っていたのですが、これが何かはあとでわかります。

盛んにどんぱちやっているのでもう攻撃は始まっているようです。
彼らは赤軍の部隊の進攻を支援するという任務です。

偵察部隊の偵察の後、赤軍が進撃を開始しました。

説明が聞こえないのでこちらからは状況が全く見えなかったのですが、
招待席にいた知人(陸上自衛官の父上)から後で訓練について
メールで教えていただいたところによると、

「レーザーを用いた交戦装置、通称バトラーでの模擬戦」

だったことが判明しました。

しかもこの模擬戦、「赤が自衛隊、青が仮想敵国」ではなく、
完全にガチの模擬戦?で、シナリオはなかったようなのです。(え、あった?)

バトラーとは、小銃などに取り付けられた発射機(プロジェクター)から
発振されたレーザー光線を受光機(ディテクター)が感知し、
命中弾を判定する装置のことで、正確には

レーザー交戦装置、交戦用訓練装置
(自衛隊呼称:BAttle TRaining Apparatus:BATRA、通称:バトラー)

自衛隊の装備です。

BATRAならば英語圏なら「バートラ」とか「ベイトラ」と発音しそうですが、
両者よりはバトラーがかっこ良さげに聞こえるかもしれません。

この装備は、陸戦訓練を行うときに銃器に取り付けた光線発射装置により、
実弾を使用することなく実戦同様の交戦訓練を可能にしてくれる機材で、
これで陸自の人は演習の時、口で「ばんばーん!」とか言わなくてもよくなったのでは、
と彼らのためにその開発導入を喜んでいる次第です。

 

しかも装着可能な装備は小銃だけではありません。
機関銃・無反動砲・戦車・攻撃ヘリコプター・対戦車ミサイルの発射機、
全てにこの搭載が可能で、しかも戦車などの車両では、射撃時に

擬似的な発射音や煙を発生させる補助装置

が使用できるので、訓練していて気が削がれることなく、
割と実弾に近い射撃練習が行えるという優れものの装備なのです。

 

それだけではありません。
攻撃の内容だけでなく、バトラーはリアルタイムで訓練部隊や隊員の位置、
死亡者、負傷者数など被害が統計、記録されるという近代らしいシステム搭載。

バトラーは基本富士トレーニングセンターでの訓練に使われているということなので、
空挺団へは降下始めのために貸し出されたということでしょうか。

ところで、招待席から見ていた方の解説によると、この後

「んーんっ!優勢と思いきや丘の手前で堅固な青軍陣地に苦戦中!」

となったらしいのですが、もちろんわたしたちのところからは
説明も聞こえないので何が起こっているかわかりません。

チヌークがやってきてはリペリング降下によって兵員を追加していきます。
(この後の写真は失敗///)

こちらは青軍の部隊だったそうですが、赤軍が展開している陣地より
後方にあるので気づかれていないという設定。


なぜか白いヘルメット?の偵察が二人物陰に潜んでいました。
後方に侵入した青軍が前進するための偵察を行っていたようです。

招待席とその周りに立つ案内係の自衛隊員の人垣越しのアパッチ。

この写真でも確認できますが、ローターの周囲は巻き上げられた土で
土色に煙っています。

この高さにだけ土色の帯ができる理由はわかりませんでした。
チヌークからこちらにもリペリングで人が降りるようです。

後からメールで知ったところによると、これが青軍のヘリで、
これからリペリングで大量投入された部隊による強襲があったそうです。

え?もしかしたら本当にシナリオなし?

どうしてアナウンスが聞こえにくいかこの写真を見てわかりました。
ボーズのこの小さなスピーカーを、しかも向こうを向けて設置してあるのです。
スピーカーが何個かはわかりませんが、これではこちらには聞こえません。

おお!陣地を死守する赤軍の前、素手で仁王立ちになる兵士がいる。

とかなんとかやっているうちに、決着がついたようです。

赤い旗があるここは赤軍の本部だったのですが、右手からきた青軍の
急襲部隊によって、今制圧されたのでした。

青軍が戦国時代のような幟を持っているのですが、
これを持って攻撃したってことなんでしょうか。

結局最後まで戦車は投入されませんでした。

実を言うとこんな広いフィールドなのに人間が走り回るのが基本なので、
なんか豪華なサバゲーを見学しているような気分だったのですが、実際に

「レーザーが当たればその場で戦死」

と認定されるというシステムの上でまじでやっていた戦闘だったのです。
「サバゲーみたい」じゃなくこれは本格的なサバゲーだったことが判明しました。

なんでも、その死傷率は両軍60パーセント超えると言う結果だったそうです。

♪ ソードソードミードミードソミドミドソド〜(状況終了)

現場では何がどうなったのかわからないままでしたが、ともあれ青軍が勝ちました。

 

偽装車はこの時になって初めて動き始めました。
模擬戦中、中で寝ていた人もいたと思う。

ところで前回この車のことを、もふもふしているから「モフ車」と呼びましたが、
「カ”モフ”ラージュ」から取ったのではなく、ただの偶然です。

先ほど小走りに皆の前に現れた小隊は、その間ずっと胡座をかいて待機。
隊長はずっと膝をついて同じ姿勢でした。

こういう時には体育座りをするものだと思っていましたが、
体育座りを想像してみるとちょっと迫力?に欠けるかもしれません。

さて、この人たちは何かと言うと、空挺隊員です。
第一空挺団なんだから当たり前なんですが。

ということは、全員落下傘降下を体験している人たちな訳です。

何をするためにここにいたかというと、飛行機から降下のために
飛び降りる時の姿勢、空中での姿勢を実演してくれるのです。

「降下始め」ってくらいですから、空挺降下をアピールするのが意義、
いわば原点に立ち返ったということなのでしょうか。

一番前の人は今飛び降りているところ。
二番手がハッチに手をかけて準備。

全員降下中なう。

全員着地、いまっ!

ということで、飛び出してから着地までの基本姿勢がよくわかりました。
皆さんご苦労様でした。

次は、空中で傘がどのように開いていくかをゆっくりと、
目の前で実演してくれました。

実演者が立ち、あとの二人は「黒子」です。

飛び降りる降下員。
背中に負った落下傘につけられたベルトは、機体にカラビナで接続されています。

飛び降りることでベルトが引っ張られ、

傘が伸長していきます。

背中のバックパックの折りたたまれた部分には、傘の紐が
丁寧に畳んで収納されていますが、紐がバックパックを開き、

傘の紐部分が人体の重みで展開していきます。
バックパックは背中から離れます。

傘、バックパック、傘の紐、人体という順番。
これで傘が全部伸びきった状態です。

傘が風で開きます。

無事に開傘し、無事に降下するというわけ。

展示を終えて退場していく演技者の皆さん。

傘はそのまま後ろの人が抱えて持っています。
ちなみに、落下傘の重さは2.5kgということでした。


招待席で事態を把握しながら見ていた方は

「驚くべきは死傷率で両軍60%を超える結果に、此れが戦闘の現実かと・・。
攻めても守っても、勝手も負けても被害は甚大で完勝などあり得ないということです」

戦車を投入し、ドカンドカンと火砲を炸裂させてシナリオ通り

「敵を制圧しました!」

とやるより、ある意味戦争のリアリティをじわじわと感じさせる模擬訓練です。

これが訓練で無くなる事態、つまり戦争だけはやっちゃいかん、と、ある意味
どんな派手な訓練より切実に思わせる効果があるとわたしは思いました。


  続く。    

特別ヘリEC225登場〜平成30年度 陸自第一空挺団降下始め

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 さて、バトラーという交戦システムを用いたサバゲー方式の
模擬戦は青軍の勝利で終わり、いよいよ本題であるところの空挺降下です。

まずは降下に先立ち、試験降下が行われました。

UH-1ヒューイから一人降下!

最初にコンディション確認のために降下する試験降下員です。
試験降下を行う隊員に特別の資格が必要です。

この日、何百人もが習志野の空に舞った降下始めの、
その先陣を切るたった一人になる訳ですから、それも当然。

流石に安定の降下であると素人目にも思われました。

ふわりと軽々着地。
後ろに赤い風船がいくつか見えていますが、これは風向、風速の確認のために
時折一つづつ空に放され、その都度華やかな色彩となって昇っていきました。

さて、上空にチヌークヘリがやってきました。
どこに行くのかと思ったら・・・。

我々の前に後部ハッチを向けて着陸しました。

ローターの巻き上げる枯れ草が飛んできて、ゴミが目に入ってくるし、
しかもそのおかげで冷たい空気が吹き付けてくるのです。

今までこんな近くにチヌークが降りたことは降下始めではありませんでした。

しかも、もう一機やってきて前に降りるではありませんか。

ただでさえ「寒い」「寒い」とあちらこちらから声が上がっていたところに
眼前にチヌークが2機も駐機して、しかもローターが強力に回りっぱなし。

「ローターの風、キツイですね」

「あーもう、早くどこか行ってくれないかな」

周りからはそんな声が上がっていたほどでした。

しかしなんのために?

招待客の観客席向こうにも一機駐機するようです。

なるほど、空挺隊員が乗り込むところを皆に見てもらうためですね。
ところで、これは・・・・・!

よくよく見れば、いや一目でわかりますが、アメリカ軍の方ではないですかー!

「指揮官降下と聞いていましたが・・・」

「だからアメリカ軍の指揮官ですよ」

「なるほどー、確かに指揮官らしい体型の方ですね。
あまり鍛えてないっていうかデb・・いやなんでもない」

それにしても、陸軍の偉い人いうのは日米ともに揃えたように
「こういう感じの体型」なの?

自衛隊の方は”ゴツイ”感じ、米軍はそれに脂肪をトッピングした
プロレスラー型という違いはありますが。

去年の部隊と同じであれば、この方は現在沖縄県に駐留している

第1特殊部隊群第1大隊 通称「グリーンベレー」

の大隊長ということになります。
このブログでも、アメリカ滞在中に観たテレビ番組、
グリーンベレー兵士になるための厳しいテストのドキュメントを
報告したことがありますが、海のネイビー・シールズ、海兵隊特殊部隊、
さらにデルタフォースなどのような特殊な試験と訓練に耐えた
エリート集団のトップがこの人というわけ。

指揮官搭乗をエスコートしているのは陸自の隊員です。

グリーンベレーの参加は2017年の降下初めからで今年2回目です。

ちなみにアメリカ軍が空挺降下を行うときの合図は単に「GO!」で、
日本のように「降下降下降下!」などと3回繰り返したりしません。
降下者は飛び出しながら「AIRBORN!」と叫ぶのがお約束だそうです。

続いてもう一人、重量級の指揮官が乗り込むようです。
お尻にパッドみたいなのを付けてますが、まさかこれクッションですか?
着地の時に尾骶骨を骨折したりしないように?

彼らもそれなりに衝撃を逃がすための受け身を習得していると思われますが、
それでも万が一の体の防護に手抜きは行わないということなのでしょう。

まあ、お国変われば空挺の思想も変わる、ってことですが、
日本というのは昔から結構個人の技能に多くを任せる傾向にありますよね。

陸海空迷彩の集団が移動を始めました。
機上から降下を視察する一団だと思われます。

先ほど米軍の指揮官が乗り込んでいったヘリコプターに、
防寒の迷彩の上着を着せられた一般人の団体が乗り込んでいきます。

どうやら、自衛官だけでなく、チヌークに同乗して空挺降下を機内から見学する、
という夢のような?体験を許された人たちではないかと思われます。

「わー、いいなあ・・一度くらい乗ってみたいですね。写真はダメだろうけど」

「頑張ればなんとかなるんじゃないですか?」

「頑張るったって何をどう頑張れば・・・・」

続いて、空挺を行う4名の隊員が乗り込みます。
どうやらこれが指揮官降下を行う指揮官たちのようです。

本日の降下始めは、空挺降下そのものを強力にアピールするという構成上、
今まで高み、じゃなくて低みから見物していたその他の指揮官もすべからく飛ぶべし、
ということで、指揮官も大量投入されているのだと思われます。

降下始めそのものの内容が変わったのは、わたしが来なかった昨年からでしょう。

決定後、指揮官降下対象になった一佐以上の指揮官の中には
現役を離れて、マインドはともかく体力的にかなりやばい!
と冷や汗をかいた人が一人くらいいたんでしょうか。

それとも空挺団は必ず技能を維持するために1ヶ月に最低一度は降下すべし、
と決まっているため、一佐だろうが海将補だろうが、
いつでもばっちこーい、な状態なんでしょうか。


いくら年齢を考慮しても部下と満場の観衆の前で指揮官が失敗、
例えば傘が流されて隣に行ってしまったりなんてことになったら
やっぱり部下の統率はできなくなることは間違いなしなので、
指揮官たちにとってもこの降下始めは緊張するものでしょう。

組織を上から下まで引き締めるという意味で、第一空挺団が今回
降下始めで空挺降下を中心に据えたことは、大変有効だったと言えます。

こちらにも4名が乗り込んでいきます。
ということは、指揮官降下を行うのは全部で8名ということになります。

その時、習志野上空に白と青のスマートなヘリがやってきました。

陸自の誇るVIP用特別輸送ヘリ「EC225」です。
国内の要人はもちろん、来日した各国の国賓や首脳などの移動手段となるヘリで、
“スーパーピューマ”の愛称を持っています。

平成18年度から、木更津駐屯地の陸自「第1ヘリコプター団」隷下の
「特別輸送ヘリコプター隊」に3機が配備されています。

フランスのユーロコプター社製で、前のAS332に比べ機内が広く、
20名を収容できる(旧型は12名)ゆとりの大きさで、さらには
振動を低減するため、メインローターを5枚羽根にするという配慮がなされています。

コクピットガラスに防衛大臣旗が貼ってありますね。
シャキーン!シャキーン!と音がしそうなくらい折り目正しい歩き方で
ドアを開けるために歩いていく陸自隊員。

小野寺防衛大臣を先頭に何人かが降りてきました。
ローターが頭の上で回っているとつい頭を屈めてしまう人。

特別ヘリから観閲する席まで歩いて向かいます。
防衛大臣といえども、この草地を歩いて行かなくてはならないのが定め。

去年はここを稲田朋美元防衛相が歩いたわけか(遠い目)
まさか、まさかパンプスとスカートで来たりしてなかったですよね?

しかし小野寺さん、またここに来られて嬉しいだろうなあ。

防衛大臣旗が途中までお出迎えに来ております。
それから陸自の隊員の中に、空挺降下を行う直前みたいな格好の人がいます。

空挺隊員が防衛大臣をご案内〜。

ということは、この方はこれから指揮官降下を行う
第一空挺団長兒玉陸将補である可能性が高いですね。




それにしても、先ほどのサバゲ、じゃなくて模擬戦闘は、
防衛大臣が来る前に終わってしまったわけですが、これはつまり
全くの「前座」扱いだったってことになりますね。

2年前までは、島嶼奪回をシナリオとした模擬戦が後半のメインだったはずなのに・・・。
今年は本格的に、空挺降下を中心に据えた訓練展示をするつもりなんだ、
とここでようやく気づいた現地のわたしでした。

 

続く。

 

指揮官降下〜平成30年度 陸自第一空挺団 降下始め

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平成30年度降下始め、試験降下は無事に終了しました。
その間に、最初に降下を行う日米両軍の指揮官が乗機したヘリは
離陸し降下に向けて再び演習場上空に差し掛かります。

第一空挺団長を乗せたチヌークが飛来しました。

団長降下降下降下〜!

 

この時に高らかに(招待席付近中心に)鳴り響いていたのが、
他でもない第一空挺団の実質的なテーマソングである、

「空の神兵」(梅木三郎作詞 高木東六作曲)

であることを、わたしは大変嬉しく思っておりました。
2年前にはなぜか一度もこの曲が鳴らなかったので、
もしや”要らん配慮や忖度”か?と内心不満だったのですが、
今年は空挺が中心というところで堂々と流すことにしたのでしょう。

余談ですが、空挺隊員は酔っ払うと上半身裸になって「空の神兵」を歌うとか。

なぜ脱ぐか?というと、日頃上半身裸で駆け足を行なっているので、
脱ぐことになんの抵抗もないからだそうです。

指揮官降下、というのはまさに「空の神兵」からの伝統です。

海軍でも指揮官先頭というモットーがありますが、陸軍挺進部隊においても
指揮官は自ら率先陣頭に立ち、部隊を指揮するため、
先頭降下員として降下することが伝統になっているのです。

第一空挺団長は兒玉恭幸陸将補。
2年前の降下始めにも指揮官降下を行なっており、このブログでも
その時の様子をお伝えしたのですが、3度目となる指揮官降下で兒玉陸将補、
今回は(前回は知りませんが)なんと!

フリーフォール後自分で開傘するFF降下

を行なったのです。

この白いカマボコ型のパラシュートを用いるFF降下は、なんでも
FF徽章をもらえる特別な有資格者しか行うことができないはず。

兒玉陸将補はもともとFF持ちだったのが、2年前は久しぶりだったので
自動開傘するタイプの12傘での降下を行なったものの、空挺団長三年目になり
心構えも訓練もバッチリ、ってことで、昔取った杵柄FF降下を披露しているのかも。

やはり精鋭無比の空挺団のトップに立とうと思えば、
52歳の御大も指揮官先頭を実践する世界なのです。

FF、高高度降下の最大の利点は、傘を開くタイミングを自分で決められることです。
どういうことかというと、自由落下の時間が長ければ長いほど、
つまり傘を開くタイミングが地面に近ければ近いほど、
傘の視認性が低くなり、敵に見つかりにくくなるのです。

もちろん降下始めではそこまで命の危険を侵す必要はないので、
フリーフォールしている時間はわずかなものだと思われます。

それでも飛び降りれば自動的に開傘するのとFFでは降下者のメンタルは違うでしょう。
兒玉陸将補は今回降下を行った最高齢隊員(52歳)だったそうですが、
その年齢にしてあえてこちらを選んだことには敬意を払わずにはいられません。

鷲は舞い降りた。

空挺団長、目標(多分白いタイヤ)に向けて着地です。

おっと、膝をついてしまわれましたか。

FF降下する隊員は大抵二本足で軽々と着地を決めるのですが、
それは決して簡単なことではありません。
簡単に見せているだけで、その影では日頃の厳しい錬成によって
技量を維持する努力が常に行われているということを、いわば
改めてうかがわせてくれた指揮官降下だったかもしれません。

 

別サイトの報告によると、空挺団では最低月一度の降下は必須であり、
一回降下するたびに「降下手当」が貰えるのだそうです。

一等陸尉で5200円ということなので、陸将補だと・・・うーん、いくらだろう。

全くの個人的意見ですが、指揮官降下の見どころの一つは、「副官」です。

ボスの降下をハラハラしながら見守り、着地地点が定まるとそこに向かって
カバンを持ったまま全力疾走していく姿には感動せずにいられません(適当)

そして、指揮官のパラシュートを現地の係と二人掛かりで外して差し上げます。

陸将補閣下、左腕を見せております。
なんか計器みたいなのを付けて飛んだのかな?

副官はカバンを置いて、陸将補どのの帽子を持ち、待機中。

この陸将補の写真を拡大しその首筋の盛り上がりを確認したわたしが、思わず

「空挺団の偉い人って皆こういうタイプですね。
いかにも陸自オブ・ザ・陸自ズというか」

というと、

「陸自のあるべき姿というか理想像を実在化するとああなるのかと」

なるほど、こんな人になら付いていける!
極論を言うとこの人の下でなら死ねる!と思うような指揮官でないと説得力なし。

兵たちの願望を形にすればそれがこういうタイプになるのか。

ではこういうタイプだから偉くなるのか、偉くなる段階でこうなっていくのか・・・。

指揮官降下は団長以下各群長、大隊長、支援隊指揮官ら20人くらいが行います。
陸将補以下一佐。二佐もいたかな?

どうも白いタイヤが着地の目印になっているようですね。

空挺団長、着地は見届けずに通過しました。

実は空挺団長のパラシュートは地面に放置してあり、
「片付け係」の隊員が撤収を行っています。

「おっとっとっと」

陸将補と全く同じところに勢いづいて走ってきた二番手の指揮官。
この人もFF降下です。

指揮官降下、次はチヌークからです。
FF降下は団長以下2名だけで、後の指揮官は普通降下でした。

位の上から順番に飛び降りているとすると、この降下者は三番手です。
階級は一佐でしょうか。

そう思った理由は・・・着地点に走ってくるのが一人だからです。
副官は将補以上の部隊長に従属することになっています。

「一佐どのお〜〜〜ッ!大丈夫でありますか!」

「うむ・・・足を挫いてしまったわい」

なんちゃって。

一佐どの、着地したら「5点着地」といってですね、

足の裏→膝→臀部→背中→肩

の順番で地面に付けていくわけですよ。
ちょっと具体的にどうするのかわかんないですけど。

何しろ12傘での着地は二階から直接飛び降りるのと同じくらいの
衝撃があるので、片足で着地すると骨折等怪我をする恐れがありますし、
着地の瞬間膝(前)から臀部(後ろ)に動き衝撃を逃すわけです。

上空からはチヌークから残りの指揮官が降下中。

一機から5名の降下です。
招待者席のあたりでは、アナウンスで一人一人の名前と階級が紹介されていましたが、
残念ながらわたしの座っているところからはよく聞こえませんでした。

そしてこれから空挺降下を行う隊員が前を通り過ぎていきます。

この日降下した空挺隊員は日米合わせて200名だということです。
最年長は陸将補の52歳、そして最年少は18歳の陸士。

続いてやってきたチヌークからも降下が始まりました。
あっ、遠目にもすごく見覚えのあるこのシルエットは?!

在日米軍第1特殊部隊群第1大隊の指揮官降下です。
特殊部隊の通称はご存知グリーンベレー。

同じチヌークからもう一人。
アメリカ空挺隊にも指揮官先頭という概念はあるようですね。

それとも降下始めに参加するためには指揮官降下必須と言われたので
去年から頑張って飛んでる?

飛び去るチヌークからは彼ら二人の残したロープがなびいています。

今まで一度も見たことのない傘の形です。
風抜きが大きく開いていて、全体的に箱のような傘の形。
傘が大きいのでその分索が短く、日本の傘より寸詰まりな印象ですが、
安定性はありますし、何と言っても他のパラシュートと接触しても
糸が絡まることはなさそうです(ここ伏線)

降下する人の上にあるひまわりのような形が遊び心を感じさせませんか?
ちなみにこの下、ハーネスと吊索をつなぐ部分を英語で

「ライザー(Risers)」

と言います。
次回の伏線ですので少し記憶に留めておいてください。

米軍のパラシュートは背負っているコンテナから直接出てくるタイプのようです。
わたしたちの前で説明してくれたところによると、自衛隊の傘は
背負っているコンテナごと背中から外れて吊索が伸長する方式でしたが。

最初に降下したアメリカ軍指揮官、着地態勢に入ります。

足、膝、ときて臀部を接地なう。

背中接地完了。

動かぬ指揮官の上に傘がゆっくりと覆いかぶさっていきます。

うーん・・・いつまで仰向けで寝ているつもりなのか・・・。

駆け寄っている米軍司令官の副官、このシルエット女性に見えません?

副官が助けに来るまでこのまま寝てるもんね。

指揮官を乗せて降下させたチヌークが戻ってきました。

コクピットガラスに三つ桜が見えます。
海上自衛隊の感覚だと桜三つはイコール海将ですが、陸自だと
中央即応集団司令官、方面総監、師団長(いずれも陸将)を意味します。

今回陸将は飛んでないはずですが、先ほど乗り込んでいた迷彩服視察団の中に
将官がいたということでしょうか。


さて、指揮官が降下し終わり、いよいよ全部隊による降下始め、
いや「降下まつり」が本格的に始まりました。

 

続く。

 

 

空挺隊員のシニヨンと空挺歌「ライザーの血」〜平成30年度 第一空挺団降下始め

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「今日は『降下まつり』でしたねー」

次々これでもかと行われる空挺降下を見ながら口に出た言葉です。
下は18歳から最高齢52歳までの空挺隊員が日米合わせて
200名空挺降下を行ったというこの日の降下始め。

アメリカ陸軍の空挺部隊が参加するようになったのは去年からですが、
そのことについて某レッドフラッグ新聞が詳しく?報じています。

この日同行者との会話で、

「サヨクの人たちはとにかく武器武装についてすごく詳しいらしいですよ」

という話を聞いたのですが、この記事も大手新聞などより
米軍が降下始めに参加することになった経緯がよくわかるのです。


なんでも彼らは1月8日に行われる降下まつりの直前の5日になって、
米軍の参加を嗅ぎ付けたようです。

「敵地奥深くに投入され危険な任務を実行する日米部隊の
連携強化、一体化が進んでいます。」

うーん、この書きぶりは、つまり

「集団的自衛権が行使できるようになったので、米軍の戦争に巻き込まれ
奥地つまり敵国に投入されて危険な任務で自衛隊員が死んでしまう!
一体化が進んで、自衛隊が米軍のいいように利用されて日本が戦争する国になる!」

と言いたいわけですね。
日米両軍が一体化って正月早々何をわけわからんことを(笑いも起きない)


米軍の参加は前年度の12月21日に決まったそうで、
レッドフラッグによると防衛省の担当者は、

「米軍から『日米の連携強化をアピールしたい』との要請があった」

と米軍が訓練に参加することをこう説明したということです。

日米連携というのは日頃から両軍が陸海形を変えて行っていることで、
今更何を目くじら立てることがあろうか、とわたしなど思うわけですが、
記事の最後はやはりレッズらしく、ある共産党市議による

「米軍から要請されたら断れない。
今回の訓練を出発点に歯止めがきかなくなるのでは」

という懸念の表明で締めくくっているのが様式美です。



沖縄に駐留する米軍の空挺隊が、自衛隊と共にその訓練を公開する。

日本に何かことあれば俺たちがいるぞ、という示威は、つまり
第一列島線を破るために、日夜攻撃を現実に仕掛けてきている某国に対して
ショウオフするための軍事行為に他ならないのですが、赤い人たちって、
どうして現在進行形で行われている侵略については口を噤みながら
その一方、それを防ごうとする日米の同盟関係にばっかり文句を言うわけ?


さて、わたしたちにとっては寒いのであまり嬉しくないのですが、
空挺団を乗せるためにCH47チヌークがまた目の前に降りて来ました。

極限まで乗り出して着地地点の確認をしています。
この人落ちそうなんですけど、後ろで抑えてもらってるんですよね?

UH-1も目の前に降りました。
2年前まではどこか別のところで降下員を搭載して飛んでいましたが、
降下が展示のメインになったので乗り込むところも見せてくれます。

落下傘を背負った空挺隊員が一列になってヒューイに乗り込んでいきます。

乗り込むのに案外時間がかかるものです。

ドアを開けたままなので落下防止用のロープを張ってあります。
乗り組んだ隊員さんは皆胡座で待機。

将官旗を付けたチヌークからは迷彩軍団が降りて来ました。
やはり上空から指揮官降下を見学したようです。

そのあと、同じチヌークに米軍の降下員が乗り込んでいきました。
ところでこの写真を見て何か気づきませんか?

右から4番目、ヘリのクルーの右側にいる降下員、シニヨン結ってます。

・・・・・つまり女性です!

こりゃたまげた、アメリカ陸軍は空挺団に女性兵士がいるのか。

調べてみたところ、空挺団の女性採用が決まったのは2015年からで、
戦闘任務の部隊でも女性の加入を認める声明が出されてからです。

海兵隊の特殊部隊養成プログラムに女性が加わり、ようやく一人が
それを終え指揮官として40人規模の小隊を率いることになる、
というニュースがオバマ政権末期に耳目を集めていましたね。

グリーンベレーも例外ではなく、厳しいプログラムを経て、
空挺隊に男性と同じ条件で加わる女性兵士が既に出現しているのです。

その後もしげしげとこの写真を見ていて、ヘルメットの形が
二種類あるのに気づいたのですが、グリーンのシニヨンの人が被っているのと
同じヘルメットの後ろの隊員も、体型が女性っぽい気がしてきました。

女性グリーンベレー、一人じゃない?

あれ、また小野寺防衛大臣がお供を引き連れて歩いて来ました。
いつの間にかチヌークに乗って機上から降下を視察したようですね。

まず先ほど乗り込んでいったヒューイから陸自の降下がありました。

そして女性隊員を含むアメリカ陸軍の降下が行われます。

この時、BGMは「リパブリック讃歌」に変わりました。
「リパブリック讃歌」は日本では「太郎さんの赤ちゃん」、首都圏では
「ヨドバシカメラのテーマ」など、替え歌で親しまれているメロディですが、
なぜこの曲?

アメリカではよく替え歌を軍隊のテーマソングにするので、
この曲もそうではないかと思って調べてみると、ビンゴ。

空挺団御用達の

「ライザーの血」 Blood On The Risers

という替え歌が見つかりました。

ライザー(Risers)というのはパラシュートのキャノピー、
吊索とハーネスをつなぐ四つのストラップ部分のこと。
そのライザーの血・・・・・・・嫌な予感がしてきませんか。


実は、この歌、新人の空挺隊員がスタティックライン(傘を開くために
フックで機体に引っ掛けるケーブル)にフックを引っ掛けずに飛び降りたため、
パラシュートが開かず、予備傘も絡まってしまい、
地面に激突して哀れ死んでしまうという内容なのです。

日本人なら縁起でもない、というところですが、あちらでは
啓蒙ソング(Cautionary tale)として、すなわち
空挺隊員の精神の戒めのために空挺団で広く歌われているのだとか。

 

 

1、彼は新米の空挺隊員、怖くて震えが止まらない
装備を点検しコンテナもきっちり閉めた
飛行機に乗ると飛行機のエンジンがこういっているようだ
”お前は2度とジャンプできないぜ!”

(コーラス)

血みどろ、血だらけ、なんて死に様だ
(三回繰り返し)
彼はもう2度と飛ぶことはない

 

元歌サビの「グローリー、グローリハレルヤ!」のところが

Gory, gory, what a hell of a way to die,

と変えられているのは誰が考えたかほんとに誰うま、って感じです。


しかし現地で鳴っていたのはサビの歌詞の字余り感を考えても
本家「リパブリック讃歌」の方だったと思います。

こんな内容をわざわざレコーディングして流すことはなく、
空挺隊員のブラックジョークというか、ランニングしながら歌う、
ミリタリー・ケイデンスのような位置付けで現場で愛唱されているのではないか、
とわたしは全部訳し終わった今、そう思っています。


というくらい、この歌詞、実に凄惨でシャレにならないくらい酷く、
内容はかなりの「閲覧注意」ですが、このノリもまた
アメリカ軍の一面ということで包み隠さず最後まで翻訳しておきます。

2、「誰かやる気のあるやつはいるか?」軍曹が探してる
俺たちのヒーロー、フィーブリーが「はい」と立ち上がった
凍りつく気流に飛び込んだが、スタティックラインに掛け忘れた
だからもう彼は2度と飛ぶことはない

(コーラス)

3、長いこと大声でカウントし、彼は衝撃の瞬間を待った
風を感じ、寒さを感じながら、落ちて行った
彼の予備傘から絹が溢れ、彼の両足にまとわりついた
だからもう彼は2度と飛ぶことはない

4、ライザーが首に巻きつき、コネクターが傘を壊す
サスペンションラインが彼の細い骨の周りに結び目を作った
傘が彼の経帷子になった 彼が地面に激突していったから
だからもう彼は2度と飛ぶことはない

5、生き、誰かを愛し、笑ったあれこれが走馬灯のように巡った
故郷に残してきた彼女のことを思った
彼は救護部隊のことも考えた 彼らがどんなものを見る羽目になるかと
そして彼は2度ともう飛ぶことはない

6、救急車が待機してる ジープが走り回ってる
メディックはジャンプして一斉に叫んでる 腕まくりして笑いながら
なぜって前回の「降下失敗」からもう一週間経ってるから
そして彼は2度と飛ぶことはない

7、地面に激突した時、ピシャーンと音がして血が高く噴出した
その直前彼の仲間は聴いた「なんて死に方だ!」という彼の声を
彼は横たわっている  自分の血糊の中で
そう、彼は2度と飛ぶことはない

8、(ゆっくりと二倍の遅さで)
ライザーの上に血、パラシュートの上に脳味噌、
降下服から内臓が飛び出してる
もう彼はむちゃくちゃだ 
皆で彼を拾い集めてブーツから彼を搔き出した 
そうさ もう彼は飛ぶことは出来ない

替え歌の元歌はここで終わりですが、この曲が生まれた第二次世界大戦後、
というかつい最近になって第101空挺部隊のベテランが、この続き、
「フィーブリーの息子バージョン」を作りました。

 

彼の妻と赤ん坊の息子に手紙が送られてきた
”奥さん、大変遺憾でありますがあなたのご主人は亡くなりました
しかしあなたが空を見上げれば、彼の名が空に刻まれています”
そう、彼はもう2度と飛ぶことはない

息子は長じて「僕も落下傘部隊に入る」といった
お父さんのような空挺兵に僕もなりたいんだと
お父さんの半分でもいいから上手に飛ぶのが望みだと
しかし彼はもう2度と飛ぶことはない

彼はアフガニスタン、続いてイラクに送られた
弾丸が飛んできて彼の背中深くめり込んだ
地面に倒れながら彼は手榴弾を敵陣に投げ込んだ

だから彼はもう2度と飛ぶことはできない

夫を、息子を失ったことは彼女を深く悲しませた
しかし彼女は誇りに思っている  二人が101部隊にいたことを
彼女は空を仰ぎ見る 夫と息子に彼女の嘆く声が届くだろう

彼はもう2度と飛ぶことはない

この歌はアメリカ陸軍の全空挺部隊で正式に採用されているそうです。
グリーンベレーは空挺部隊ではありませんが、その身上は

陸、海、空から作戦地域に潜入及び離脱ができる

というもので、空からはHALO(高高度降下低高度開傘)など
特殊な降下法を使用し、敵地にパラシュート降下することから、
空挺の時には空挺部隊のテーマソングを流していたのだと思われます。

チヌークから飛び降りた、女性を含む10人のグリーンベレーの傘が開きました。


ところで今回のことを調べていて知ったのですが、空挺部隊のソルジャーは
伝統的に歩兵と敵対というか、彼らをバカにしているらしいことがわかりました。

歩兵のことは「LEG」(歩くから?)と蔑み、喝を入れる時に

「なっとらん!お前らダーティレッグスか?」

とか罵るわけです。
同じ陸軍の中でも色々とあるんですね。
外の人には理解できないヒエラルキーが(笑)

 

 

続く。

 

 


日米空挺降下の違い〜平成30年度 陸自第一空挺団降下はじめ

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さて、ブラックジョークに近いアメリカ陸軍空挺隊の「愛唱歌」、
「ライザーの血」について解説しましたが、空挺という危険な兵種で
その最悪の事態を起こさないための安全対策というのは、当然としても、

「ちゃんと安全確認しないと死ぬよ」

とか、

「空挺で死んだらこうなるよ」

という程度のことをどうしてこうくどくどと歌にまでしないといけないのか。

わたしは思うのですが、アメリカ陸軍の兵の裾野というのは大変広く、
自衛隊のようにある程度のレベルの学力がないと入ることもできない軍隊と違い、
特にこの歌が生まれた第二次世界大戦時には、ほとんど字も読めないレベルの
兵隊が山ほどいたので、そんな彼らに教科書を読むことでなく
感覚で失敗の怖さを植え付けるために、陸軍ではこのような啓蒙ソングを作り、
繰り返し歌わせたのではないでしょうか。

さて、そんな空挺の系譜である特殊部隊、陸自グリーンベレーの空挺が行われています。
彼らの使用している傘と陸自のそれの違いを見比べられただけでも価値があります。

よく考えたら、日本において日米の訓練展示を見る機会など初めてです。
去年からの降下始めへの米軍参加は、米軍側からの申し入れだったそうですが、
注目すべきは本日参加したグリーンベレーが沖縄駐留部隊であること。

戦車を投入した島嶼防衛のシナリオによる想定訓練はありませんでしたが、
これはよく考えたら、いやよく考えなくても、彼らは尖閣への空挺を想定しており、
これもまた角度を違えた島嶼防衛訓練であると見ることができるのです。

そりゃ共産党市議が文句の一つも言いたくなりますわね。

ちなみに今年の訓練について共産党が抗議したというニュースは
今のところ寡聞にして知りません。

とにかく、初めて見るアメリカ陸軍の空挺、傘の形だけでなく
陸自空挺団とのやり方の違いに注目してみましょう。

この降下している人を拡大してみると、女性らしいことがわかりました。

ね?女性でしょ?
前回女性空挺兵が乗り込んでいくのを写真上で見つけ、探してみたのですが、
どうやら彼女がその一人のようです。

しかし、グリーンベレーの女性・・・凄すぎる。

第一空挺団の降下も間断なく行われます。
我が空挺団の降下は、両足を揃え、腕を閉じて行われます。

少しでも空気抵抗を少なくすることが主目的ですが、
索が伸長する際に腕に絡まる万が一の危険を排除するためでもあります。

降下中、手は補助傘においている人が多いようです。
陸自仕様のスタティックラインジャンプ用傘は

696MIパラシュート、通称12傘(ひとにいさん)

といいます。
いちにがさと読むんじゃなかったのか。

ここで米軍のジャンプを見てみます。
多分この時も「エアボ〜〜〜ンッ!」とか言ってると思います。

米軍も腕を組んでいますが、脚は踏み出したまま宙を歩くような感じ。
陸自と違って脚を揃えることにはなってないみたいですね。

米軍の傘も二種類があり、指揮官が使っていた四角っぽいのと
別のタイプは、自衛隊のヒトニイサンに形は大変よく似ています。

あっ、この左上の降下者も女性かな?

自衛隊の傘との違いがよくわかる画像。
キャノピーの空気抜きのある反対側表面が二重のダーツが取られていて、
その中に空気を含んで傘の形が膨らんでいます。

色も空挺団のゴールドに対し、オリーブドラブ色に近い感じ。

彼らにとっても、こんな住宅街の真ん中に降りる経験は貴重かもしれません。

米軍の着地してからの様子にも注目してみましょう。

遠目に見て彼らと陸自の見分けは、靴の色でつけることができます。
靴の部分が赤いですが、何かバンドを巻いている模様。

そして着地。
もうすでに地上にはいくつもの傘が・・・ん?まだ落ちてる?

その訳はですね。
アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーの皆さん、着地した後は、
こうやって結構長い間横になってぢっとしているからなのです。

目の前で起こっていることが信じられなくて、なんども確認したので間違いありません。
前半エントリで米軍の指揮官がいつまでも寝ていたというのをご紹介したところ、
招待参加の方から

「落下傘を束ねるのが苦手で、風で煽られ落下傘に振り回されるのが
みっともないから、お手伝いが来るのを待っていた・・んじゃないの」

と指揮官降下経験者の元自衛官が言っていたと教えていただきました。

なんでもこの元指揮官は、指揮官降下で無事に着地までは良かったのですが、
その後傘を束ねようとして、風で煽られた落下傘のあとを追いかけて走り回り、
ご家族の前で面目丸潰れになったという経験則から米軍司令官の寝たきり事件を
上記のように解析されたのだということですが・・・。

んが、ここで寝ている人たちはお手伝いが来てくれるような偉い人じゃありません。

そもそも空挺部隊というのは基本地面に降りてからがお仕事開始なので、
こんなにのんびり空を見ていていいのかと心配になります。

心配になるほど横になって休憩していたかと思うと、ようやく
首をもちあげて起きる気になった様子です。

ははーん、これは、あれだな。

陸自の人も、訓練の合間に一瞬の隙があれば「寝る」っていうじゃないですか。
あの瞬間、彼らは心から幸せだと思うという話をどこかで読んだのですが、
きっとグリーンベレーのお兄さん(お姉さんもいるけど)は降下直後、
しばし大地に横たわって一息入れているのに違いありません。

一応起き上がったら走って行動しております。
向こうでは傘の片付けも終わりそう。

傘の入っていたコンテナ(背嚢)をわざわざ外して索の先まで運びます。

向こうではキャノピーを畳んでいますが、なんだかずいぶん仕事が丁寧ね。

まず索を先端からまとめて、っと・・・・・。

まとめた索の先から順番にコンテナに詰めていきます。
これがまた結構時間がかかるんだ。

ようやく詰め込み作業完了。
・・・ってか現場でここまでやるんだ・・・。

ちゃんとコンテナのベルトを留めて、よっこいしょういちと背負い退場。
一仕事終えた感満載の後ろ姿です。

さて、その間にも、次々とヘリコプター、航空機が空挺部隊を降下させます。
C-1からの降下はよく「走る新幹線から飛び降りるのと同じ」と言われ、
しかもそれが東京タワーの高さからだというのですが、タワーよりずっと高く見えます。

 

C-1 やC-130Hなど固定翼機からの降下は両側のドアから行います。

ほら、一航過するだけで驚きの降下が!(洗剤のCM風に)
20名が一度に飛び降りました。

すると、まだその先陣が降りきらないうちにもう一度C-1航過!

「ああ純白の 花負いて  ああ青雲に 花負いて 」

「空の神兵」にもこう歌われているように、その頃の傘は真っ白でした。

視認性を低くするために今では白い傘は軍用には使われなくなりましたが、
旧陸軍の空挺降はさぞ幻想的で美しかったことでしょう。

この傘がそのまま白かったら、と空想し、ついでこんなことを考えました。

「メナドやパレンバンに侵攻したときの落下傘もこんなだったのかな・・・」

空の神兵

本当にこんな感じです。
降下する直前の彼らの表情、陸攻のパイロットが下を見つめる表情、
(この人がものすごい男前!)貴重なフィルムを歌とともにどうぞ。


降下中の姿勢は日米両軍ともに変わりなし。
傘の索の中には、降下者が引っ張れば傘の形を変えて
降下地点をある程度操作できるコントロールラインがあります。

この降下者は右手でそれを引っ張り、操作しています。

そして着地してから。

5点着地によって衝撃を緩和するように着地した後は、
空挺団はすぐさま立ち上がり、傘の片付けに取り掛かります。

寝転んで空を見ているなどという悠長なことは我が空挺団には許されません。

体に付いたままの索を束ね、振り回すように回転させながら
手元に引き寄せて手早くまとめていきます。

降下してから傘をまとめるまで、ほんの2〜3分という感じです。

そして、そのまま傘を抱えて走って退場していきます。

先ほどの写真の米軍兵が寝ている間に、自衛隊は2機の航空機から空挺が着地し、
米軍が落下傘をコンテナに詰めている間に、着地したそれらの2グループは
ほとんどが傘をまとめて撤収していきました。

つまり、一番の日米両軍の違いは「降りてから」だったのです。


もっとも、万が一実戦となれば、米軍も傘を片付けたりはせず
そのまま次の戦闘行動に移るのでしょうし、自衛隊も抱えて走ったりせず、
落下傘をその場に脱ぎ捨てていくのだろうと思われます。

そして最も大きな違いがこれ。
グリーンベレーはスマホでインスタ映えも狙えてしまう模様。


続く。


あわや事故!〜平成30年度 陸自第一空挺団 降下始め

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アメリカ陸軍のエアボーン・アカデミーの映像が見つかりました。
巨大なC-17にたくさんの空挺隊員が乗り込んでいく様子、スタティックラインに
フックをかけてとびだしていく様子が映っているので観てみてください。

 Paratroopers Static Line Jump From C-17

やはりこの中にも女性隊員の姿が見えます。
C-17のコーパイも女性だし、スタティックラインを押し出す係も女性ですね。
2年前に解禁になって、過酷な兵種にも女性が参加し、
普通に男性並みの任務をこなしているのがこの映像からもわかります。

日本でもついに潜水艦に女性士官を乗せるという話もありますね。

 

ところで冒頭写真をスクロールして途中でぎょっとされた方もおられるかもしれません。
これ、どうなっているのかすぐにお分かりでしょうか。

大量に空挺降下が行われたこの日の降下始め。
これでもかとC-1やC-130Hなどの航空機からも傘がばら撒かれました。

大型輸送機からの降下は、ハッチの両側から同時に行われます。
わたしの隣に座っていた常連の方(この方も去年は来なかったらしい)が
傘が改良されてから降下と降下の間を開けなくてもよくなったので
両側から飛び降りることができるようになったのだと教えてくれました。

どういうことかというと、傘同士が絡みにくくなったということでしょう。

航空機は時速200キロで航過するので、その結果
両側から同時に飛び降りた二つの傘が固まって降りていきます。

こうやって見ると、ペアになって落下していくようです。

間を開けなくとも飛び降りられるということは、狭い範囲に
一航過で何十人もの降下兵を投入できるということでもあります。

米軍の空挺を見ていただいてもわかりますが、飛行機から出たばかりの落下傘は
ひとかたまりになって傘同士がぶつかり合ったりしています。


自衛隊の使用落下傘もその点を考慮された設計であるはずですが、
それでも100パーセント安全ということではないのです。

それを実証するかのように、異変が起こりました。

 

 

前後して降りた二人の降下者の、一人のメインキャノピーが
少し上にいた人の索に絡まり付いてしまったようです。

「傘が絡まってるー!」

わたしの周りでこれに気づいた観客は騒然となりました。

少し上空で起こったアクシデントであったらしく、わたしが見たときには
すでにこの状態になっていました。
傘が相手の索に絡んだ瞬間、下の降下者は予備傘を迅速に作動させ開いたようです。

今や二人はメインとその約半分の傘で、繋がったまま降下していました。

メインの傘を絡ませた方も、絡みつかれた方の隊員も、お互いを見ながら
そのままの体勢で降りていきます。

絡みつかれた方はもしかしたら手で絡んだ傘を外すこともできたかもしれませんが、
そうした場合、相手が無事に降下できるかどうかはわかりませんから、
このまま降りようと二人で声を掛け合ったのかもしれません。

いざという時に開く予備傘ですが、メインの傘でも地面に降りた時の衝撃は
二階から飛び降りたくらいだといいますから、こんな小さな傘では
命の保証はあってもその衝撃はかなり激しいものだと推察されます。

空挺団ならきっと予備傘での降下訓練もしていると思うのですが・・。

しかもよりによって、この二人は傘以外に何か大きな荷物を持って降下しています。
遠目ですが、この二人の心中は手に取るようにわかりました。

こんな体勢のまま二人は運命共同体となって降下していきます。
だいぶ高度も下がり、地面が近づいてきました。

ほっ、ここまでくればおそらく事故になることは避けられるでしょう。
しかし肝を冷やしました。

当人たちにとってはこの何十秒かが長く感じられたに違いありません。

一般観衆、マスコミの報道、防衛大臣の前で、しかも降下始めという
「一年の安全を祈願する儀式」で事故が起こるという、
不吉な出来事にならずに済んだことにわたしは胸を撫で下ろしました。

傘を引っ掛けてしまった人がパニクって予備傘を開くタイミングが遅かったら
繋がったまま二人とも墜落してしまう可能性だってゼロではなかったと思います。

当事者が冷静であったことが最悪の事態を防いだと言えるでしょう。
二人とも若い隊員だと思いますが、この場合は最良の選択だったのではないでしょうか。

予備傘でまず一人が着地。
先に降りて傘を回収していた仲間が心配そうに見守っています。

絡みつかれた方も無事着地。
勢いが逆になくなって、着地そのものは二人とも楽だったかもしれません。

とにかく無事でよかったです。

「二人とも怖かったでしょうねー」

「あとで殴り合いになってたりして・・・」

「いや、それより正座で反省会じゃないでしょうか」

「でもミスとか心の緩みとか、誰が悪いという話でもないし」

「それでも教訓にするのが自衛隊というもんですよ」

「ということはやっぱり二人とも怒られちゃうのかな」

ほっとして勝手なことを言い合うわたしたちでした。

招待席で観覧していた方の話によると、周りにいた空挺のOBも

「かなりヤバイ状態だった」

と苦笑いしていたとのこと。
苦笑いですんでほんとよかったです。

もし、傘が絡むというアクシデントがなければ、この二人は抱えた荷物を
このように吊るして降下することになっていたのに違いありません。

非常事態なので二人とも荷物は体に付けたままにしていました。

なんのために荷物を吊るすのかわかりませんが、錘の代わりかな?

問題の二人のところには、どこから表れたのか青いキャップの自衛官が来て、
絡まった傘を解く前に状況を写真に撮っているようでした。

二度とこういうことが起こらないように対策をしっかりしなければ・・・、
と言っても、今回のような偶発的な事態は起こってしまったら防ぎようがないからなあ。

その間もC-1が惜しげも無く傘を撒いていきます。
一つの航空機には20人が乗っています。

次々と航空機からばら撒かれる傘に、皆圧倒されます。
200名もが降下して全ての傘が事故もなく、よそに流れることもなく、
(冗談抜きで習志野は空挺降下をするには少し狭いらしい)
無事に降りることができてよかったと思いました。

今まで見たことがないほど傘が密集しています。
ワンショットで同時にこんなたくさんの傘を画面に捉えられること自体初めての経験です。

C-130Hは愛知県の小牧基地に所属していて、第一空挺団の降下訓練を
支援するのも重要な任務の一つです。

機体は小牧からやって来ているようですが、
一体どこで空挺団を乗せて飛んでくるのでしょうか。
C-1と一緒に入間基地を使用しているのかな?

空挺団の人たちはチヌークか何かで滑走路のある基地に運ばれ、
そこで固定翼機に乗り込んで、習志野に降下するのだと思われます。

日常の訓練のたびにそんなことをしているのだとしたら、
移動手段だけ考えても大変な手間がかかっているってことなんですね。

ところで、空挺団を支援する航空機のパイロットというのは、
空挺降下訓練にどのような感想をお持ちなのでしょうか。

今日さるところでチヌークのパイロットから聞いて来たばかりの話を披露すると、

「あれはなんとも言えない変な感じです」

何十人も乗り込んでいたのに、ある瞬間からかき消すように皆いなくなる。
まあ飛び降りてしまうのだから当然なんですが、操縦席の人間にすると、
さっきまで後ろでひしめき合うように乗っていた人間が、次に振り向いたら、
しかも何秒間かの間に忽然といなくなっているわけですから・・・。

凍えるほど寒い一日でしたが、そのおかげで雲は低い位置にしかなく、
傘が大変綺麗に蒼天に散りばめられているような光景が見られました。

招待席の方の感想は

「まさにマーケット・ガーデン作戦、映画『遠すぎた橋』です」


ヨーロッパで第二次世界大戦中行われた有名な空挺作戦で、
「マーケット作戦」「ガーデン作戦」が行われたので「マーケット・ガーデン作戦」。

映画になってましたが、結局空挺作戦は失敗し、連合軍は敗北してるんですよね。

失敗の原因については後世の歴史家がいろんなことを言っていますが、
アメリカの歴史家は「イギリスが悪い」イギリスの歴史家はアメリカが(略)
と、互いに責任を押し付けあっているようです。


ふわふわと降りていき、地面でゆっくりと潰れていく。
まるで水に漂うクラゲを見ているような気分です。

こういう特殊な光景を目に刻む機会はそうあるものでなく、
戦車の活躍はなくとも、十分やってくる価値はあったと今は思っています。

降下する人数が多いと、こんな光景も見ることができます。
ところで彼らはどこに向かっているのでしょうか。

次々とやってくる航空機と降下を見るのに一生懸命になっているうと、
こうやってどこへともなくいなくなってしまう大量の空挺隊員たち。

空挺支援のパイロットではありませんが、これも実に不思議です。

嘆いても詮無いことではありますが、この傘の列を
ぜひ一眼レフで撮ってみたかったなあ・・・・・・・。

 


続く。



陸将補のFF資格取得〜平成30年度 陸自第一空挺団降下始め

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平成30年度降下始めシリーズ最終回です。 

 

フリーフォールを今度はかなりの高高度から行うようです。
本日降下を行った中でも選りすぐりのベテランがトリを務めるのです。

説明が聞こえなかったのでどのくらいの高さから降りたのかわかりませんが、
グリーンベレーが行うHALO(ヘイロー)降下、高高度降下低高度開傘は、
文字通り高高度から降下して、そのまま自由降下して、低高度では傘を開き、
それは実際には

高度10,000メートルから降下

高度300メートルで開傘

という凄まじいものです。

生身で9,700メートル落下していくというのはどんなものなのでしょうか。
その間ブラックアウトしたり、手足の自由が利かなくなったり、
精神に異常をきたしたり、と人体の調整がちょっと狂っただけでも
残り300mで間違いなく開傘することは不可能になるような気がします。

飛行機が敵のレーダーに捉えられないくらい高高度からの降下は、
生身では確実に失神しますので、酸素マスクと防寒着が必須です。

しかし自衛隊ではさすがの空挺団もこんな無茶な降下は行いません。

もちろん彼らのことですからやらなければいけなくなったら装備を使って
やるでしょうが、そもそも HALOを用いる作戦というのは

「国境付近などの潜入任務に用いられることが多い」

ということなので、自衛隊ではそこまで想定していないのでしょう。
場面もそうですが潜入する国境がそもそもありませんのでね。

自由落下はある程度高さがないと逆に危ないと思われます。
ただ、習志野で高高度から降下をすることは、あまりに着地範囲が狭いので、
やはり訓練されたベテラン隊員にしかできないに違いありません。

前々回ご紹介した「ライザーの血」のライザーは、この写真で
ハーネスから4本出ているベルトのことです。
人一人の命をたった4本のライザーで傘とつないでいるって考えたら凄いですね。

そうそう、兒玉陸将補のFF効果について、とっておきのニュースがあります。
陸将補は昔FFの資格を持っていて、「昔取った杵柄降下」を行ったのではないか、
と書いたのですが、その後、防衛団体の新年会で陸自の方から聞いたところによると、

「兒玉陸将補は空挺団長になってからFFの資格を取った」

ということが判明しました。
これはもう素直に凄いの一言です。
こんな老齢(52歳)でFFの資格を取った例は過去の歴史でも初めてだそうで、
陸自の中でも当時相当話題になったということでした。

そうかと思えば、やはりわたしがここで薄々予想したように、それまでの配置が
補給とか装備とかで、全然体がなまりきっていたところに内示が来て、
しかも着任の10日くらい後に指揮官降下をしなければならないと知り、
慌てて毎日特訓をして当日に備えた指揮官の話も聞きました。

その方はおっしゃったそうです。

「天はわたしに味方しました」

ナイスコンディションで、10日の付け焼き刃でも華麗に飛べたのか?
と思いきや、

「降下始め当日、天候不良で降下が中止になったのです」

・・・・それ、味方って言わないと思う。

しかしこの人たちはそんな付け焼き刃降下とは次元の違う、
熟練のダイバーであることは、この着地にも表れています。

もうほとんど楽しいお散歩状態で着地してます(笑)

ふわり。

彼らの着地を見ていると誰にでもできそうな気さえしてきます。

傘を動かして降下する方向を調整するブレークコードは、
フリーフォールで飛び降り、傘が開いてからこれを探して掴むので、
目の端でも捉えられるように取っ手が赤になっています。

降下後、一列になって退場していくFF降下の隊員たち。
このヘルメットはもしかしたらインカムついてるんですか?

目印に焚かれたスモーク越しに降下した後の隊員がたくさん見えます。
青いキャップをかぶった隊員は安全係のようです。

これをもって200名の空挺降下は終了です。
ひやっとなる場面もありましたが、無事にすんで何よりでした。

最後に、陸自のヘリコプターがご挨拶がわりに習志野演習場を通過していきました。
まずAh-1コブラ2機。

アパッチロングボウ。
国内で保有している11機(2015年現在)のうちの貴重な1機です。

多用途ヘリUH-1は傑作機といわれ、自衛隊でもたくさん装備しています。
UH-1JとHの見分け方は単純に「おでこにツノのあるなし」なのですが、
この3機はツノがあるのでUH-1Jということになります。

まだHも活躍中なんですよね?

たくさんの降下をさせ大活躍のチヌークCH-47も2機でご挨拶です。

あっ、窓からのぞいている人が写ってる!

演習が終わってからマイクのセッティングを行う隊員。

これで降下訓練は全て終了です。
本日小野寺防衛大臣の訓示を受ける部隊が整列し、敬礼。
中央音楽隊は観閲の音楽を最初と最後にわずか8小節演奏するために
寒い中延々と待機していたことになります。

こんなに寒いと、金管楽器は冷えまくりで、音程が下がるはずなので
特にフルートなど結構大変なのではないかと思います。

指が凍えても手袋をして演奏するわけにいきませんからね。

小野寺防衛大臣は、

「北朝鮮が核、ミサイル開発を進めており、また、
昨日には潜没潜水艦と中国艦艇が同時に尖閣諸島接続水域に入域するなど、
我が国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増しております」

と訓示をしました。
この「潜没潜水艦」という言葉をどの報道機関も横並びで記事にしていました。
「潜水艦が急激に潜行すること」という意味の「潜没」を
小野寺大臣が本当に使っていたからです。

耳で聞いただけでセンボツを「潜没」という意味だと理解した人は
おそらく現場にはあまりいなかったのではないかと思われます。

また、小野寺大臣は、鳥インフルエンザに対する災害派遣や
海賊対策での海外派遣などを例に挙げて、

「自衛隊への期待がこれまでになく高まっている」

とも激励しました。

ちなみに、降下始めについて報じた新聞は軒並み

「小野寺大臣が檄」

というタイトルで、中国潜水艦や北朝鮮などの言葉を含む訓示内容が中心だったのですが、
産経新聞だけは、そのタイトルを

「精鋭無比」の陸自空挺団 降下訓練始めで「傘の花」

とし、

陸上自衛隊第1空挺団の降下訓練始めが12日、
陸自習志野演習場(千葉県船橋市など)で行われた。

「精鋭無比」を標語とする空挺団員ら約500人に加え、
米陸軍も沖縄や米アラスカの部隊から約80人が参加。
団員らはヘリコプターや空自の輸送機から次々とパラシュートで降下し、
澄み切った青空に「傘の花」を咲かせた。

小野寺五典防衛相は訓示で「空挺団の精強性は諸君の気概に加え、
厳しい訓練で培われた高い技量に支えられている」と激励した。

という、至極真っ当な報道を行ったとわたしは思いました。

アメリカの部隊がアラスカからも来ていた、ということについては
そう言われてみれば現地の放送で小耳に挟んだ覚えがあります。

産経新聞を見て初めて調べることができたのですが、
これは

第4旅団戦闘集団(空挺)第25歩兵部隊
4th Brigade Combat Team (Airborne), 25th Infantry Division

であったことが判明しました。

過日ここでご紹介した「ライザーの血」という空挺歌は、
まさにこの部隊が代々歌い継いで来ているものです。

なるほど・・・この部隊のために流していたのか・・・。

この写真がこの日最後に撮ったものです。



一度も立ち上がらなかったため、終わってから自動車教習所横の出口を出て、
駐車場まで足が痺れたまま歩いていました。

あまりにもこの日の寒さが過酷だったせいで、その後、どんなに寒くても

「あの日の辛さに比べればヘーキヘーキ」

と思えるようになったから凄いものです。

帰ってからは「もう二度と降下始めなんて行かない」と思うのですが、
来年になればまた喉元過ぎれば寒さを忘れて行ってしまうんだろうなあ。

まあそのときにはせいぜいカメラの電池を忘れないようにしようっと。

 

さて、降下始めそのもののご報告はこれで終わりですが、次回、
番外編をお送りします。


続く。

 

 

 

 

 

 


野宴〜平成30年度 陸自第一空挺団降下始め:番外編

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平成30年度の降下始め、ようやく微に入り細に入りの報告が終わりましたが、
番外編をお送りします。

ところで、今回、日本の空挺団歌である「空の神兵」の聴き比べ企画が見つかりました。

空の神兵


07:23ボニージャックス

09:04ペギー葉山、ボニージャックス

12:46橋幸夫

26:09陸軍士官学校・海軍兵学校出身者有志

29:53戸楽会(陸軍戸山学校軍楽隊出身者有志)

31:52帝國陸海軍軍楽隊大演奏会

35:00四谷文子、鳴海信輔

41:40坂本博士、ボーチェ・アンジェリカ

44:55灰田勝彦

48:20帝國吹奏楽団

陸軍戸山学校軍楽隊出身の有志が上手いのは全員管楽器奏者だったから
当然と言えば当然ですが、旧陸士海兵有志がうまいのでちょっとびっくりです。

ボニージャックスの演奏はNHKで放映されたもののようですが、
現在のNHKから考えるとこのような企画を行ったことが信じられません。

ボーチェ・アンジェリカ(天使の声)とは女性ばかりのコーラスグループで、
代表的なヒット曲は「忘れな草をあなたに」。

この曲を彼女らのために書いたのは江口浩司。
「月月火水木金金」の作曲家江口夜詩(えぐち・よし)の息子で、
海軍兵学校76期に入学しましたが、在学中に終戦を迎え、
戦後は流行歌の作曲家として活躍しました。

わたしの知人である兵学校同期の方は、江口氏が芸能界で派手に活動していた頃、
「一緒によく遊んだ」ということです。
この方のおっしゃる「遊んだ」とは山登りや麻雀のことではありませんので念のため。


さて、番外編はこの日演習終了後、習志野演習場で招待者を招いて行われた
「野宴という名のバーベキュー大会」です。

招待者参加だった知人の方、K氏が野宴の写真を送ってくださいました。

これはぜひ皆さんにお見せしたいものだと思い、当ブログ上での公開をお願いしたところ、
快くお許しをいただきましたので、ここでご紹介させていただきます。

これはまたお高いところからの写真ですね。
空挺降下しながら撮ったと言われても信じてしまいそう。

野宴の会場は、一般参加者には全く目に触れない、奥の方にあります。

降下始めが降下中心になる前は、降下始めが終わったらフィールドに
ヘリや装備を並べて展示を行っていましたが、その準備を待つ間、
どこからともなく風に乗って肉を焼く匂いが漂って来たものです。

 

もちろん会場の全景を見たのは初めてですが、思っていたよりずっと広大。
これだけキャパがあるならば、誰かに頼めば一人くらい、
簡単に入場資格は得られそうな気もしますね( ̄ー ̄)

ただ、この日の外にいるだけで辛くなるほどの寒さを思うと、
こんな寒々しいところでバーベキューとはいえ食事をすることはどうか、
と思えないこともないのですが・・。

招待者席にも若干の問題があります。

K氏によると、招待者観覧席は傾斜が緩く、正面も左右も視界は悪い上、
招待者は全席指定で否応無く場所が決められるので、写真を撮る気なら
朝から並んだ今回のわたしの席の方がずっといいと思う、とのことでした。

ところで、わたしの座っていたところからは撮れなかった、
小野寺防衛大臣のご来臨の時の写真もアップさせていただきます。

防衛大臣の着ているジャンパーには左胸に「小野寺」と刺繍されています。
空挺団のキャップは現場から贈呈されたものでしょうか。

スーツの人たちは防寒用に迷彩のジャケットを借りて着ています。
そういえばわたしも朝霞の「りっくんランド」で迷彩を借りたことがありますが、
毎日洗濯するのか、洗い立てのような香りがしていました。

ほー、Kさんはこんなところから写真を撮っておられたんですか。
随分前の方ですね。

これもせっかく送っていただいたので。
なんと、「大臣用」。
「小野寺防衛大臣用」と書かなかったのはさすがです。(何が)

しかし、これってどうなんだろう。

自分一人だけのブースを用意されていても嬉しくないというか、
積極的にありがた大迷惑って気がするんですけど。

特に女性は絶対に嫌だろうなあ、と考え・・・あっ、去年は(略)

さて、冒頭写真は野宴会場の正面ですが、国旗の上に

「祈 降下安全」

という文字が掲げられています。
やはり降下始めは年の初めに安全を記念する行事だってことですよ。

くどいですが、本当に今回、あの傘が絡んだアクシデントで怪我人等が出なくて
よかったと今更ながらに思いますね。


毎年この野宴会場のセッティングは決まっているようで、スロープの高い部分に
防衛大臣始め政治家などが座る「貴賓席」が設けてあります。
天幕を張って寒さを防いでいますが、きっと偉い人たちは吹きさらしで寒かったと思うの・・。

会場の外側には、エスコートやお世話係の自衛隊員が中腰で待機してます。

そこからずずーいと後ろに下がっていくとこんな光景が。
手前には「特科大隊」と旗がありますね。

向こうには「空挺団本部中隊」など、大隊、中隊ごとに
関係者が焼肉テーブルを囲むという趣向になっていることがわかります。

宴会に先立ち、やはり小野寺大臣のご挨拶がありました。
元空自隊員(自称”空飛ぶ参議院議員”)宇都隆史議員の姿がありますね。
(普通のスーツで寒そう・・・)

そして、小野寺大臣の後ろ、酒樽越しに見えるのは、
野田佳彦元総理大臣ではございませんか!

野田元総理は選挙区が千葉県。
父上が自衛官と言うことは知っていましたが、改めて調べると、
父親の勤務がここ習志野駐屯地だったので、ここで育った、
と言う経緯があるようです。

なるほどー、それでは呼んで差し上げるのが礼儀というものですね。

余談ですが、わたしの所属している某国防団体の総会、親睦会では
いつも民進党の小西洋之議員を呼ぶことになっています。

先日市ヶ谷で行われた賀詞交換会でも名前が呼ばれていますが、
わたしはこの議員が出席しているのを今まで見たことがありません。

自衛隊の家族会などと合同で行われ、メインの賓客が防衛大臣で、
(今回は小野寺大臣、稲田朋美元大臣などもお目見え)挨拶では
必ず「憲法改正に向けて」という一言を付け加える議員がずらずら、
という席に、どうしてこの議員を呼ぶのか正直全く理解できません。

ご本人も決して出席しようとせず、頑なに代理の秘書を出席させているのは、
やっぱり「佐藤議員に殴られた後どうだった?」とか
「いつ亡命するの?」とか聞かれる(というか弄られる)からかな。

まるで国会内外でわかりやすいヒールを演じているがごとき言動も
国会議員というものが「あれを仕事でやっている」からこそ、
とはわかってはいるのですが、何より本人が痛くて見てられないので、
防衛団体ももうコニタンを呼ぶのやめてあげて!といつも心の中で思います(嘘)

宴会開始前の野宴会場風景。

折りたたみ式の真ん中をくり抜いた焼肉テーブルがずらり。
ODカラーの毛布が掛けられた椅子がわりの箱はもしかして
弾薬か何かが入っていたものかな・・・?

待機している自衛隊員たちは宴会が始まったら甲斐甲斐しく
肉を焼いたりして接待します。

自衛隊が一般人を招待する宴会では、海自は専門の調理員が
刺身と海自カレーに腕を振るい、空自はほとんど業者にお任せする感じ。
(入間だけの情報ですが)、陸自は一般隊員が一切を任されるというイメージ。
ここで調理をしているのもどうやら一般隊員のようです。

炊き出しのカレーも一般隊員が力づくで?作ってしまうのが陸自です。

しかし、この日の実働部隊で一番楽で楽しいのはここだっただろうな。
調理中の様子にも、笑いが見え、それを裏付けています。

ここには

「陸上自衛隊が世界に誇る?秘密兵器」

とKさんおっしゃるところの「野外炊具2号改」という、
無駄にかっこいい名前の調理器具が投入され、熱々の豚汁が
無尽蔵に参加者に振舞われたということです。

豚汁・・・それはこの寒さの中でさぞ美味しかったことでしょう。

さすが陸自、真昼間からアルコールOKの宴会だったようです。

ビールの他に竹筒に入れた日本酒がありますが、これは
小野寺大臣の後ろにあった酒樽の酒で、おそらくは鏡割りも行われたのでしょう。

新年らしく寿のは仕入れが用意され、各テーブルにはなんと
出席者の名札がちゃんと置かれています。

焼肉なのに指定席とは・・・!?

 

肉を甲斐甲斐しく焼くのは陸自隊員の役目。
ちゃんと手袋をして、トングで次々と食物を投下しています。
流石に日本の焼肉だけあって、ちゃんと緑のものが見えますね。

アメリカでバーベキューっていうと、パテを焼いてハンバーガーを
食べることだったりするので、野菜なんてせいぜいコーンしかないのですが。

服が汚れないように紙エプロンまで用意してあるみたいだし、至れり尽くせりです。

女性ばかりのテーブルで半分が制服。
この女性たちは入隊希望者だったということですが、
まるで女子会のような楽しいひと時を過ごして、
彼女ら、自衛隊入隊の決意が固まったかな?


写真を多数送っていただいて、ここでご紹介しているうちに、
参加していないのにすっかりその気になったわたしです。

これを作成している今、首都圏は大変な大雪が降っています。
4年前、降下始めの次の日がこんな雪だったのですが、今年も重ならなくてよかったですね。

おまけ:

アップしてからK氏より追加で送られて来たバトラーのデジタル情報。
K氏の同行者が

「貴賓席にしかディスプレイがないはずなのに」 

と不審がられながら撮ったものだそうです。

丘の麓で赤軍が狙い撃ちされて死屍累々になっている様子が判ります。
実際のデジタル管理システムでは兵士の脈拍・血圧(!)まで把握し、
生存・怪我・戦死を判定するのだそうです。

血圧を測られたら、わたしなど低血圧すぎて負傷扱いされてしまいそう(笑)


資料提供して下さったKさんに御礼を申し上げます。


降下初めシリーズ終わり。




ヒーロー GIジョー(ただし鳩 )〜ミリタリー・アニマル

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軽い気持ちで始めたミリタリーアニマルシリーズ、
今日は「飛ぶ小動物、鳥、そして虫など」です。 

■ コウモリ

第二次世界大戦中、勝利を祈るアメリカ人のうちの一人、

ライトル・S・アダムス博士

は、コウモリに小型爆弾を装着して飛行機で日本上空に放つ
→日本本土は火の海→米軍大勝利→ ( ゚Д゚)ウマ〜

ということを真剣に提唱しました。
まあそんなことをせずとも、硫黄島とサイパングアムを奪取した後は
直に爆弾を撒きまくることができるようになったわけですけどね。

そもそもアダムス博士は日本の工場は紙と木でできており、
火をつけたコウモリを飛ばせばあっという間に工場壊滅、
と考えていたフシがあり、幾ら何でもそりゃ認識が間違っとる、
って話ですが、陸軍、海軍、海兵隊までもがこのプログラムを

「プロジェクトXレイ」(Project X-Ray)

として真面目に検討していたということです。
しかしながら、研究はいきなり困難に直面します。

(BGM: やっぱり地上の星)


人間の言うことを全く聞かず、訓練もできない上、
当時の技術では爆弾をどんなに小型化してもコウモリはなぜか

爆弾の重さで地面に落ちてしまうのでした。

というわけで、プロジェクトは1944年に中止になりましたが、
現代の技術であればコウモリが乗せて飛べる爆弾は十分開発できるでしょう。

いや、もしかしたらもうDARPAがやってるかも?
あの組織はゴキブリ爆弾も開発してるからな。

■七面鳥

最初にこの鳥を食べた人は偉いなあとこの写真を見て思うわけですが、
七面鳥、美味しいんですよねー。
脂身がなくあっさりしていて、ブロイラーのチキンよりずっと好きです。

それはともかく、1936年から3年間にわたって、
人民戦線政府(共和国派)と、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした
右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争ったスペイン内戦。

ソ連が支援していたスペンヌ共和国軍と民兵団は、
物資をエアドロップ(飛行機からの投下)で行なっていました。

しかし、薬の瓶などが衝撃で割れてしまうので、考え出されたのが

七面鳥に物資をくくりつけて上空から落とすこと。

もちろん飛べない鳥なので、結局は地面に落ちるのですが、飛べないなりに
彼らは本能で翼をバタバタやるので、地面に激突する衝撃が軽減されます。

本日カテゴリの「飛ぶ小動物・鳥」には厳密にいうと入っていませんが、
「飛ぼうとする鳥」というジャンルではあったわけです。

で、かわいそうに七面鳥は結局地面に激突して皆死んでしまうのですが、
どっちにしろ後で食べるのでシメる手間が省けるという具合です。

しかし、こんな方法で七面鳥の命を弄んだ人民軍は結局敗北しました。

結局スペイン内戦はナショナリストが勝利を収め、その後66年間、
フランコ政権は続くことになります。(写真は凱旋パレード)

これ絶対七面鳥の祟りだから(断言)

 

■ はと

 

靖国神社の境内に軍バトの鎮魂碑があったことからわかるように、
ハトと軍隊というのは密接な関係にありました。

電話・電信、もちろんインターネット普及以前は、
もっとも早い通信手段はハトだったのです。
古くは古代ギリシャ時代からハトによる通信は行われてきました。

第一次世界大戦時が最近でもっともハトが活用された戦争で、
両陣営の陸軍には50万羽以上の軍バトがいました。
足にくくりつけたカプセルにメッセージ、地図、そして写真、
首に小さいカメラをくくりつけていることもありました。

今でいうドローンの役目ですね。

ハトは賢いので、90パーセントの割合でミッションを成功させてきました。

犬にも猫にも、軍隊には「ヒーロー」が(熊にもね)いたわけですが、
さすがにハトのヒーローはいないだろうと思ったら、

シェール・アミ(Cher Ami)フランス語の”親愛なる友”

というヒーローバトがアメリカ陸軍第77歩兵隊にいたんですよ。

1918年、チャールズ・ウィットルジー少佐と500人以上の兵士が、
敵の背後にある丘陵地帯の小さな窪みに追い詰められ、
しかも連合軍からのフレンドリー・ファイアを受け始めました。

味方がいると知らない自軍の攻撃によって、次々と兵士は斃れ、
ついに194名にまでその数を減らすに至ります。

司令官は味方にそのことを知らせるべくハトの脚にまず

「たくさんの兵が負傷した。避難できない」

とメッセージを結んで飛ばしたのですが、ハトはドイツ軍に撃墜されます。
二羽目のハトに

「皆苦しんでいる」

というメッセージをつけて飛ばしますが、これもドイツ軍の
超優秀なスナイパーに撃ち落とされてしまいました。

三羽目の正直として司令官はシェール・アミの足に

「貴軍は今味方の上に直接砲弾を落としている。
神の御名によって直ちに砲撃をやめよ」

というメモをくくりつけて飛ばしたところ、やはり今回も狙撃を受けます。
しかし驚いたことに、弾を受けたにも関わらず彼は任務を諦めませんでした。

(彼か彼女が知りませんが一応)

傷を負いながらも彼は25マイル(40キロ)を飛び、メッセージを届け、
帰ってきたところを、また銃撃され・・・・。
壕に帰ってきたシェール・アミは胸を撃たれ、片方の目は血で覆われ、
片方の足は腱だけでぶら下がっているという瀕死の状態でした。

陸軍軍医の必死の救護活動によって彼は一命を取り留めました。
脚はどうしてももとどおりにならなかったので、彼のために
小さな木の専用義足が作られました。

シェール・アミはその後パーシング将軍に拝謁を行い、
名誉の除隊となって帰国し、英雄としてクロワ・ド・ゲールを授与されました。

しかし一年後、この時に受けた傷のために死亡しています。

シェール・アミは片足のない姿のままで剥製にされ、
現在スミソニアン博物館に英雄として展示されています。

 

第二次世界大戦が始まる頃には無線通信が普及していましたが、
軍バトは相変わらず重要な役目を負っていました。

スパイ側も兵士たちも、どちらもがトップシークレットについては
ハトを使ってメッセージを送ることが多かったのです。
無線はどうしても近くにいると傍受されてしまうからでした。

敵に取り込まれて孤立した部隊には、上空から飛行機で
ハトのケージをパラシュートで落とすという方法も取られました。

Dデイ、ノルマンジー上陸作戦の時には何千ものハトが
投下されたと言われています。

それを見つけたフランス市民がドイツ軍の現在状況を記し、
ハトを送り返すという方法で諜報活動を行なったのです。

上陸作戦まで、ほぼすべての連絡はハトを使って行われました。 
中でもグスタフという名前のハトは、150マイル以上も飛び続け、
イングランドまで重要な情報を届けたという話もあります。

第二次世界大戦で最も有名となった軍バトは「GIジョー」でしょう。

彼は1943年10月18日、ドイツ軍の制圧下にあるイタリアの街、
カルビ・ベッキアの住人とイギリス軍を救ったことによってヒーローとなりました。 

カルビ・ベッキアからはドイツ軍は撤退しており、そのあとに
イギリス軍の旅団がいたにも関わらず、何かの間違いで爆撃が要請されたのです。

間違いに気づいた時には攻撃開始時間は迫っていました。
ラジオで攻撃を中止することを伝えようにも時間がありません。

そこでGIジョーが攻撃中止の報を持って飛ばされました。

彼は(多分)20マイル(32キロ)の距離をわずか20分で飛び、
攻撃の始まる寸前に中止を伝えることに成功したのです。

鳩が飛ぶ速度は平均で時速35〜40マイルと言われていますから、
GIジョーがいかにスーパーピジョンであったかがわかりますね。 

この功績により、GIジョーは国家に功績のある動物に与えられる
ディッキンソンメダルを授与し、フォートモンマスにあるロフトで、
他の24羽の「ヒーロー鳩」と共に老後を過ごし、18歳で亡くなりました。

彼もまた剥製になってアメリカ陸軍電気通信博物館に安置されています。

ちなみに、鳩が通信の主流だった頃、これに対抗するために
鷲や鷹を訓練して、前線の鳩を襲わせるということも行われました。

 

■ハチ

ハチも軍隊に就職し、偉大な任務をやり遂げることがあります。

古代ローマでの軍でのハチ使用というのは、せいぜい蜂の巣を
敵の陣に投石器(カタパルトという)で投げ込むくらいでしたが、
近代の戦争ではハチの優秀なアンテナが軍に利用されています。

ハチの嗅覚は大変優れていて、遠くに離れた花粉の匂いを嗅ぎわけて
その花に間違いなく到達する能力を持っています。

軍の科学者たちはこの知覚能力が活用できる日が来るとしています。

彼らが花粉を探索する時、花の方がその「ご褒美」として
ハチの「吻」と言うストローのような口に蜜を吸わせるのですが、
そのご褒美を利用してハチをトレーニングし、爆弾の匂いを覚えさせ、
安全対策に投入するということもできます。

今のところ、実現はしていないようですが。

■ ツチボタル

第一次世界大戦といえば塹壕、塹壕といえば第一次世界大戦。

というくらい塹壕戦のイメージのあるこの戦争で、兵士たちは
塹壕足と呼ばれる症状に苦しみました。
濡れた手足が風にさらされるとしもやけ、さらに凍傷になります。
気温10℃の塹壕のぬかるみにずっと浸かっていたためで、
足が変色、膨張して凍傷になり切断した兵士がたくさんいたのです。

しかも当時は携帯のランプなどありませんから、塹壕では
暗さにも苦しめられました。

そこでたくさんの土ボタルを集めてきて、ランプにしたのです。


透明の瓶に入れ、これが本当の蛍の光。

その光のもとで、彼らは文字通り「文読む月日重ねつつ」、
故郷への手紙を書いたのです。
 

ちなみに「オールド・ラング・サイン」を蛍の光と呼ぶのは
我が日本だけですが念のため。

ツチボタルは成虫に成長する前の幼虫の状態で、
その段階で発光するのですが、これは一種の化学反応で、

bioluminescence(バイオルミネッセンス)

といい、この言葉そのものが生物発光を意味します。

2010年までの研究によると、「蛍の光」になるくらいの
生物発光をする虫は10種類しかいなのだそうです。

■ナメクジ

ナメクジが戦争に役に立つということもあります。
やはり第一次世界大戦の塹壕では、ナメクジが一斉に丸まったら
マスタードガスが撒かれた可能性があるとして、兵士たちは
それを見てガスマスクを装着しました。

ナメクジは人間の嗅覚よりもずっと早くガスに反応するのです。

マスタードガスというのは西洋ワサビに似た匂いを発することから
この名前がつけられたびらん性のガスで、残留性が強く、
しかもすぐには知覚できないという恐ろしい武器でした。

第一次世界大戦では1917年にドイツがカナダ軍に対して使用し、
それ以降両軍によって使われることになりました。

ガスマスクといえば第一次世界大戦、第一次世界大戦といえば(略)
というイメージはマスタードガスによって普及したのです。

ナメクジを探知のために使うことはアメリカ陸軍が1918年に始め、
その後5ヶ月間に渡って多くの兵士の命を救ったということです。

■ ロボ・トンボ

これを生物といってしまうと差し障りがありそうですが、
アメリカ軍はロボットの飛行体、つまりドローンを
第二次世界大戦の頃からずっと使っています。

CIAも30年以上、

insectothopter 

というトンボ型のロボットを開発していたそうです。

上が本物、下がロボトンボ。
もしこれが飛んでいたとしても、まずわかりませんよね。

ガソリンエンジンで動き(!)羽は本物と同じく4枚、
体躯には小さな盗聴装置が仕込まれていました。  

 し か し ( 笑 )

悲しいことに、このロボトンボ、強風が吹くと飛ばされて、
どこかにいってしまうことがわかったのです。

というわけで、30年かけたロボトンボ開発は終わりを告げました。

しかし、たとえ風が吹かなくても、そこがもし日本なら、
夏休みの子供に網で捕まえられ、

「なんだこれ!」「ロボットじゃ!」「おまわりさんに持ってくべ!」

となって機密がダダ漏れという結末になっていたでしょう。

え?

CIAは子供がトンボ取りするようなところに盗聴器を放ったりしない?
それに今時の子供はトンボ取りなんてしない?

これまった失礼しました〜。


続く。


 

 

「外地」と言う名の日本〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

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大正13年度帝国海軍練習艦隊、「司令官交代の謎」を追って
ひょんなことから隠されていた(と言うか放置されていた)史実を発見し、
古本屋でのこの写真集との出会いは大変価値のあるものだったと
今更ながら自己満足にふけっているわたくしです。

一度帰国までのエントリを全部作成し、アップする際にチェックし、
その後新しくわかったことや間違っていた箇所を加筆訂正しているのですが、
今回はアップしてから読者の皆様方に問いかけ、アイデアをいただき、
もう一度全てを見直すことで限りなく正解に近づくことができました。

この場をお借りして御礼を申し上げる次第です。


ところで、ひょんなことといえば、最近、我が家のご先祖が
土佐藩士出身の陸軍軍人であったことがわかりました。
海軍でなかったのは残念ですが、わかったことは児玉源太郎と同期で、
児玉が大尉時代には大阪陸軍省で同僚だったという事実です。

今回、ご先祖が児玉源太郎と一緒に写っている写真を発見し、
江ノ島の児玉神社に詣でたことや、日露戦争の勝因の一つとなった
「児玉ケーブル」というべき海底ケーブル敷設について
児玉の功績をここでアップしたのも何かのご縁かと浮かれてしまいました。

この人物のその後もわかっているのですが、予備役となった後、
為政者として地域に貢献し、地元の名士になったようです。

歴史を紐解くことは現在と過去の対話、という言葉がありますが、
写真ひとつが時には過去を解き明かすドアとなるということが、
練習艦隊司令官問題に続いて実感できた不思議な出来事でした。


さて、問題解決のために、キイとなった鎮海要港部での写真を
皆様にお見せするために順序が入れ替わっていましたが、
改めて江田島出港を果たした練習艦隊が、国内巡航に先立ち、
国内は国内でも当時日本であった「外地」に赴くところから始めたいと思います。

「外地」「内地」

今では聞きませんが、終戦までの日本では普通に使われていた言葉です。

「外地」の定義は「大日本帝国における内地以外の統治区域」で、
「属地」と呼ばれることもありました。

具体的には以下の地域を指します。

台湾 樺太 関東州 朝鮮 南洋群島

 

この「関東州」の欄を開いていただければお分かりのように、大連は関東州、
1905年のポーツマス条約で日本がロシアから引き継いだ租借地にあります。 

一応念のためにあえて書き添えておきますと、ポーツマス条約は
日露戦争講和条約のことで、アメリカが仲介をして締結されました。

これもお節介かと思いますが、講和内容を記しておきます。

日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。

日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。

ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。

ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、
付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。

ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)
の租借権を日本へ譲渡する。

ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。


これ以降、大連、そして旅順は「日本」となったというわけです。
朝鮮半島についていえば、もし日本が日露戦争で負けていたら、
朝鮮は日本が行ったような「統治」ではなくロシアの一地方として組み込まれ、
勿論今でも独立することはなかったと誰が見ても明白なのですが、
それでもあそこの人たちは、日本に「ひどい収奪支配を受けた」とか言って
いまだにひどい精神的苦痛を受け続けているらしいですね。

そして、日本の中国大陸進出のきっかけは、福島瑞穂()が口を開けばいうように
「侵略」というものではなく、戦争後の条約によってアメリカの立会いで認められた
正式な権利であったということになるのですが、その話はともかく、
赤太字の項目で日本が正式に得た租借地、それが関東州だったのです。

大正13年当時、大連も旅順も租借地になってすでに20年が経過しており、
日本が心血を注いで外地に求めた「理想の都」がすでに形になりつつありました。



【大連】

臼杵(うすき)佐世保を経、平穏なる海上に翡翠の漣を立てて
亜細亜大陸の一角大連港を訪う

豪壮な建物、美しき道路、緑滴る並木、完備せる埠頭、
先ず吾等の眼を驚かす星ヶ浦、老虎灘などに杖を曳いた後、
市の中央大和ホテルの屋上に立ちて全市を瞰下する時、
吾等の胸に去来するものはなんであったろうか

 

冒頭写真は大連の中心部。
放射状の市の中心部広場は実に美しいですが、
これらは皆日本統治となってから整備されたものです。

塔の前の銅像が誰のかはわかりません。

大連に上陸する練習艦隊の士官候補生たち。
埠頭には出迎えの人たちが並び、日本国旗が随所に見えます。

ヤマトホテルは現在でも営業しているということです。
ここにも銅像がありますが、軍人のようですね。広瀬大佐とか?

南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営し、多くの要人が利用した歴史があり、
2階には清朝最後の皇帝溥儀が泊まったという部屋も残されています。

スパイとして中国当局に処刑された愛新覚羅の血を引く川島芳子も
ここで最初の夫と結婚式を挙げ、その写真が残っています。

戦艦「大和」がその巨大な艦体をトラック島に停泊させていた時、
彼女は「大和ホテル」と揶揄されていましたが、そのネタ元はこちらです。

大連市の中央通り。

旧横浜正金銀行大連支店(中国銀行大連分行)など、
日本が統治していた1910年代ごろに建てられた欧風の建物で
今も大連市内に残って使用されている建築物はいくつかあります。

アメリカに入植してきたイギリス人が「テムズ川」「ニューロンドン」と名付けるように、
日本も整備した新しい橋に「日本橋」という名前をつけたようです。

そういえば「三丁目の夕日」で「今にこの上に高速道路が走る」と
登場人物が予言していたところ、薬師丸ひろ子のトモエさんが、
戦争前に思いを寄せ合った男性と偶然再会する場所にとても似ていますね。

道ゆく人々も全て和装で、ここは日本だったんだなと思わせます。

日本が租借した遼東半島の「関東州」の大きさは鳥取県と同じくらいの大きさでした。
旅順はその最南端というべき位置にあります。

【旅順】

錨地から眺めると港口の狭いのに今更ながら閉塞隊の苦心を思う

白玉山頂二万五千の霊に捧げるに、若き勇士は何を以ってしたことであろう
赤い夕日の沈む時、上甲板に涼をとりつつ回顧する老雄の感慨や蓋し無量
緑の間にチラツク赤い建物は一寸外国を覗いた様な気を起こさせる

 

旅順というと海軍の閉塞作戦、そして水師営の会談などを思い出すわけですが、
この頃、大正13年はまだ日露戦争から22年しか経っていません。

それはちょうど彼ら候補生が生まれた頃にあった戦争で、
彼らは幼い頃、その武功や英雄伝をおとぎ話のように聴きながら育った世代です。

おそらく彼らは学校の訓育において、広瀬中佐の部下を思う責任感や、
そして勝って驕らず敗者をいたわった乃木将軍の武士道を学んだのでしょう。

そんな彼らが広瀬中佐や東郷元帥と道を同じく海軍を志し、
夢見て入った海軍兵学校、機関学校を卒業した今、
士官候補生としてその戦跡をみる気持ちは如何ばかりであったでしょうか。


練習艦隊が旅順を訪問することになっていたのも、彼らにその地を見せ、
先人の苦労を目の当たりにするとともに、海軍将校の一員であることの
責任を自覚させるというところに目的があったのでしょう。


そして紹介の文中にも窺えますが、この練習艦隊に参加した者の中には
将官から熟練の下士官に至るまで、若き日に日本海海戦、もしかしたら
旅順攻撃に参加したという軍人がまだ残っていたのです。

例えば司令官の百武三郎中将は「松島」「鎮遠」などを擁する
第三艦隊参謀として日本海大戦に参加しています。

水師営の会見が行われた建物を見学です。

20年前の建物ですが、前に石碑を建てて保存してあります。
これはもちろんその後中国側に破壊されたはずです。

 

候補生たちは市内観光に馬車を利用したようです。
三、四人で一台をチャーターすれば、一日観光できたのではないでしょうか。

閉塞作戦を記念する碑も見学しました。
この碑の台になっているのは、ロシア軍が使用した砲台の基でしょうか。

表忠塔というのは白玉山にあります。

戦争が終わってから、東郷元帥と乃木将軍が共同で作ったもので、
材料は日本から運ばれてきた、と説明されているそうです。

旅順港を一望俯瞰できるこの塔は、現在も保存されており、
現地の観光スポットになっているそうです。

中国人は何処かの国のように「日本憎けりゃ杭まで憎い」とばかりに
統治時代のものを測量の杭だろうが桜の木だろうが、なんでも破壊してしまうという
稚気じみた国民ではないので、日本が建てた堅牢な建築物はそのまま使い続けます。

ここも「そんなことがあったから残しておく」という態度で現在でも保存されているのです。

まあ、これが普通だと思うんですけどね。

爾霊山(にれいさん)記念塔。

日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成しました。
銃弾形の塔は二〇三高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を
溶かし鋳造して作られたのでこれだけ年月がかかったということです。

そう、ここは二百三高地。
ここを

爾霊山(二百三高地→203→にれいさん\(^o^)/)

と名付けたのは他ならぬ乃木将軍であったそうです。

乃木将軍の二人の息子もここで戦死したことを考えると、
爾(なんじ)の霊の山という字を選んだわけが自ずと見えてきます。

爾霊山慰霊碑も未だに健在で、一世紀を経たその姿を見ることができます。


さて、練習艦隊はこの後、外地の一である朝鮮半島は鎮海に帰港し、
その後内地に帰って本当の国内巡航を行うことになります。


続く。


 

 

内地巡航〜大正13年帝国海軍練習艦隊

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大正13年から90年後の海上自衛隊においても、練習艦隊遠洋航海は
代わりなく行われています。

実習対象が「少尉候補生」から「新任幹部」と変わっても、
江田島での卒業式の後、表門から出航していった練習艦隊が
まず国内巡航を行ったのち、世界一周に向けて船出し、世界の各地で
文化交流や現地の海軍との「グッドウィル・エクササイズ」と呼ばれる演習、
そして「リース・レイイング」なる現地での戦績などでの慰霊式などを行って、
海軍軍人としてのスキルと見識、見聞を深めるという意義に変わりありません。

当時は国内巡航で当時国内であった大連や旅順、そして鎮海(チンフェ)に
まず寄港したのち、本土を廻るというのが慣例となっていたようです。

さて、というところで今日は国内巡航についてです。


■ 杵築(出雲大社)

縁結びの神様が鎮座まします。
誠心込めて詣でたる若人等には嘸ぞや霊験いやちこであろう。

一生懸命「きづき」で変換していたのですが、杵築は『きつき』でした。
朝鮮半島の鎮海からまず九州に戻ってきた練習艦隊は、まず
出雲大社に参拝するために島根県杵築に立ち寄りました。

この鳥居は現在はコンクリート製のものに変わっているようです。

出雲大社が縁結びの神というのは冒頭にも書かれており、
練習艦隊乗員も、「誠心込めて」お参りをしているわけです。
若い独身男性が多いので当然かと思いますが、それにしても
海軍兵学校の練習艦隊なのに

「縁結びの神様なので、一生懸命お願いすれば、
きっと君にも素敵な彼女ができちゃうかもよ?」

みたいなノリなのがほっこりしますね。

「霊験いやちこ」という言葉を見てはて?と思い調べると、

「いやちこ」=灼然

で、「あらたか」の別の言い方なんだそうです。
そういえばあらたかは「灼か」と書きますね。

今口で「霊験いやちこな神様だから」などと言っても、
十中八、九「は?」と聞き返されるのがオチでしょう。

あーこれで一つ日本語の読みに詳しくなった。

稲佐の浜には弁天島といって、現在は豊玉毘賣の命を祀っている岩があります。

現在の弁天島。
左の亀裂が深くなり、明らかにこの90年で岩の形が激変していますね。

■ 舞鶴

舞鶴は飛んで三景の一天橋立に遊ぶ
白砂青松十数町の間涼風を浴びつつ散歩する
爽快なる気分は忘れ難い

島根県から日本海を時計回りで舞鶴に寄港しました。
今でも練習艦隊の国内巡航は時計回りと決まっているようです。

天橋立の海岸沿いに全く建築物が見えません。
今は両岸にぎっしりと住宅が立ち並び町ができています。

天橋立といえば股覗きですが、この慣習には仕掛け人がいて、明治後期に
吉田皆三という人が環境事業の活性化の一端として(つまり町おこし)
喧伝され、観光客を通して広まったものです。

まあ、寿司業界が初めた「恵方巻き」古くはチョコレート会社が仕掛けた
バレンタインデー、それに続くホワイトデーみたいなもんですね。

天橋立は『丹後国風土記』でイザナギが天へ通うために作ったものとされ、
股のぞきを行うことで、天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬
天にかかるような情景を愉しむことができることから考えついたようです。

練習艦隊のみなさんも、皆で股覗きを真面目に行ったことでしょう。

■ 新潟

何処となく古の江戸情調の偲ばれる新潟の市は
新来の我等には一汐なつかしい味を興へる

信濃川と万代橋、米と石油、雪と美人がここ新潟の名物とか。

候補生は石油工業見学の為、新津油田に赴いた。

 

この頃すでに「秋田美人」というのは全国でも有名だったのですね。
なぜここに美人が多く、京都、博多と並ぶ美人の産地となっているかについては
いろんな説があるのですが、日照が少なく色白の肌の人が多い、
という理由以外で面白いのは

「関ヶ原の戦い以降、常陸国(現在の茨城県)の大名佐竹義宣が江戸幕府から
秋田への転封を命じられた腹いせに、旧領内の美人全員を秋田に連れて行ってしまった。
その後水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏へ抗議したところ、
秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきた為、
秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地の1つ(他の2つは仙台と名古屋)になった」

という説ですが、これって・・・・どうなの。

ってか誰がその送りつける女性の人選を行ったんですか。

候補生は新津油田の見学をしたとありますが、江戸時代から平成にかけて
ここでは採掘が行われていたそうです。

この頃には12万klを達成し、名実ともに産油量日本一の油田でしたが、
1996年に最後の井戸の採掘が終了し、油田としての役目を終わりました。

万代橋は現在でも国の重要文化財に指定されているということですが、
明治年間に信濃川に初めて掛かった橋でした。

重要文化財となっているのは1929年(昭和4年)完成と言いますから、
練習艦隊の写真のおそらく直後に取り壊しが始まり、架け替えられています。

白黒写真でわかりにくいですが、橋脚は木で組んでいるもののようですね。

新潟市街。

右に見えているのが信濃川だとすると、現在の新潟駅と川の間の地域でしょうか。
(新潟に詳しくないので適当に言ってます)

それにしてもこの写真・・・随分高いところからですが、何処から撮ったんでしょう。

■ 函館 

聞いてさえ血湧き肉躍るボートレース!!!
海の男の兒にふさわしいボートレース!!!

その火の出るような競漕が波静かな「ウスケシ」の海で行われた

鴎群れ飛ぶ「ウスケシ」の港
楡の若葉に日は溢れ
谷間の鈴蘭の香も揺らぐ

練習艦隊、なんと函館に来てまでカッター競技を行ったようです。

右下はまさに二艘のカッターが「波の火花」を散らして
雌雄を決しているところです。

そして左下、賞品が授与されたところ。
防衛大学校でもカッター競技には皆大変なファイトを燃やし、
全力で勝負に挑むそうですね。(参考:あおざくら)

もちろん幹部学校でも。

■ 大湊

緩やかな傾斜をなす鉢伏山の裾野に大湊が横たわる
淋びたりと雖も我が北海の重鎮!!!

冬季は「スキー」に「スケート」に高適の地である。

 

この頃の習慣として外来語をかっこでくくって書いてあります。
大正13年当時にスキー、スケートって一般的だったんでしょうか。

そういえば昔、ある海軍士官がスキーをしている写真を見せてくれた人が、

「この時代にスキーをやるなんてどんだけ特別階級だったんでしょうね」

とおっしゃっていたのですが、雪や氷があれば手作りの道具でもできるため、
案外庶民的な遊びでもあったのかなと思えてきました。

大湊要港部、現在の海上自衛隊大湊地方隊です。
掲揚台には少将旗が上がっているのが確認されますが、
これは大湊要港部の司令官が少将配置であるからです。

ちなみにわたしが存じ上げている海軍軍人の父上は、
この写真の撮られた10年ほど後に司令官を拝命しています。

宇曽利湖は恐山付近のカルデラ湖です。
グーグルマップで見ると、現在でも湖岸には建物一つもありません。

(しかしそんな土地で営業している”恐山アイス”って一体)

大湊というところにわたしは行ったことがないのですが、恐山が近い、
というだけで北海の要所ながら淋しいところなんだろうなあ、と
冒頭の紹介文を読むまでもなく想像しておりました。

艦隊陸戦隊の上陸とあります。
練習艦隊のことだろうと思うのですが、陸戦隊を臨時結成したとか?

大湊要港部のスキー陸戦訓練、とあります。
雪中訓練というと昔は陸軍、今は陸自の専売特許のようなイメージですが、
何がいつ起こってもいいように海軍の皆さんはこうやってスキーで
陸戦訓練を行なっていたということのようです。

やはり日露戦争を経ての経験から得た教訓でしょうね。


現在の海上自衛隊大湊地方隊は、かつての非鎮守府基地から「昇格」したことになります。
冷戦時代にはもっとも緊張していた基地であり、現在もなお、
日本の北端部の守りを行っている「我が北端の重鎮」であることに変わりありません。

■鳥羽

鳥羽から汽車で一時間宇治山田に着く。
国の鎮めの伊勢神宮に参拝す。

 何事のおわしますかは知らねども
     かたじけなさに涙こぼるる

 

最後のは有名な西行のもので、家族を捨てて修行の旅にでた西行が
伊勢神宮にたどり着き、その神々しさに打たれて詠んだ句です。

陸奥からいきなり三重県に回航、伊勢参拝を行いました。

山田駅前の集合、とキャプションがありましたが、これは伊勢神宮に近い
「宇治山田駅」のことで、当時は単なる「山田駅」らしかったことがわかります。

船ではなく各地に宿を取り、参拝の朝駅集合になったようですね。 

ところで、参拝をするために行進しているこの写真の先頭、
おそらく練習艦隊司令官だと思うのですが、これはおそらく
国内巡航の時のみ艦隊司令を務めた(と判断しているところの)
古川中将には見えません。

この姿形、どう見ても百武中将ではないでしょうか。

 

百武中将はこの時まだ舞鶴要港部司令の職にあったはずですが、
国内巡航で「ここぞ」という寄港地の時には舞鶴から馳せ参じ、
その時だけ練習艦隊司令官を交代して素知らぬ顔で?務めたようです。

 

続く。

 

 

 

「鹿島立ち」横須賀出航〜 大正13年 帝国海軍練習艦隊

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さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の国内巡航、もう一息で終了です。

■ 名古屋

その昔那古野(なごや)と云われた荒涼な原野も今や
人口六十余万を有する大都会となって、その繁華、
流石中京の名に背かぬ。

「尾張名古屋は城で持つ」謳われた城は市の北方に聳え、
天守閣上の金鯱は燦として輝く。
乗員一同はすぐ近くの熱田神宮に詣でて武運長久を祈った。

城で持つという名古屋城。

昨日の俗説によると、名古屋は不美人の三大産地の一つということですが、
こちらは何を根拠にそうなっていることやら、と思い一応調べてみたら

「徳川御三家の尾張藩が美人をみんな江戸に連れていったから」

もう一つの仙台についても、伊達政宗が美人をみんな(略)と、
甚だ怪しげな俗説にすぎないようです。

同じ俗説でも秋田、博多に美人が多いというのはなんとなく納得しますが。

名古屋城見学をしている水兵さんたち。

このスタイルは、(上夏服、下冬服)合服です。
ということはこの写真が撮られたのは9月後半、7月末に日本を出港し、
出雲から名古屋まで約2ヶ月かかったことになります。

「中京」というのが「中部の京」を意味していたことを今知りました。

この頃から結構な都会だったんですね。
中心部には市電も走っています。

一行は熱田神宮に参拝を行いました。

官(朝廷、国)から幣帛ないし幣帛料を支弁される官幣神社である
熱田神宮は現在でも神宮(伊勢神宮)を本州とする神社本庁です。

三種の神器である草薙剣を祀っているそうです。

そして、現在でもそうですが、伊勢神宮の後、練習艦隊は横須賀に入港し、
その後遠洋航海までの間帝都で様々な行事をこなすことになります。

中でも皇居に赴き天皇陛下の拝謁を賜るのが最も大事な行事となっていました。

 

しかし、アルバムにはただこの冊子中唯一のカラー写真として
皇居お堀と橋の画像(昨日の冒頭写真)が挟まれているだけで、
他の寄港地のような感想もなんの説明すらもありません。

そのことが、皇居参内の儀式を神聖なものとみなし下々の語るところではない、
としたように思われました。
アルバムの写真に添えられた感想ごときで陛下の拝謁について述べるのは
あまりにも畏れ多い、とされたからでしょうか。

おかげで、皇居参内を率いたのが国内巡航を行なった古川中将なのか、
それとも遠洋航海司令となった百武中将なのかもわかりませんでしたが、
翌年全行程を率いるのが古川中将ということに決まっていたので、
この時だけは舞鶴から百武中将が馳せ参じたのではないかと考えます。


国内巡航を無事に終え、大正13年度練習艦隊は横須賀に寄港し
帝都における行事の合間に候補生たちは東京見物や見学などを行います。

明治神宮や海軍関係の施設、靖国神社参拝より何より、
若い地方出身の候補生たちにとってもっとも楽しみにされていたのが、
実は銀座だったらしいということが、後年の彼らの供述から推察されます。

銀座ツァーには東京出身の地元に詳しい候補生をガイド役に、
カフェーや天ぷら屋、買い物を楽しんだということです。

 

また、この頃は寄港地出身の候補生の家に宿泊することも許されていたので、
各地の候補生の実家ではクラスメートを地域を挙げて歓迎したものでした。

そして、美人の妹の写真を何かの折に見て密かに期待を寄せ、
練習艦隊寄港の際に彼女を見たさに級友の実家に押しかけ、
実際に嫁にしてしまう候補生も結構いたという話です。

戦前は海軍士官の結婚には届けが必要で、身分が不釣り合いな女性
(芸者とか外国人とか)はその許可が下りなかった頃ですから、同級生の妹、
というのはある意味最も確実な結婚相手候補とされていたのです。


■ 横須賀出航 大正13年11月10日

雄々しい首途!!
希望に輝くその鹿島立ち!!
「ロングサイン」の「メロディ。
万歳の叫び。
帽の波。
横須賀あとに万里の長途にのぼる我等は、
「日本の御山富士よりどんな臆を受けたことであろう。

 

平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補は、江田島を発つとき

「鹿島立ち 見よ若桜 みをつくし(澪標)」

という句を詠まれました。

練習艦隊旗艦が「かしま」であることと、「旅行に発つこと・旅立ち」を意味する
「鹿島立ち」を掛けたのは素晴らしく気の利いた洒落だと感心したものですが、
そもそも練習艦隊旗艦を「かしま」「かとり」としたというのも、遡れば
「鹿島立ち」にあやかってのことだった、ということを皆様はご存知でしょうか。

 

いい機会なので説明しておきますと、「鹿嶋」「香取」は旧軍艦の名前になっているように
いずれも元々は軍神であり、両神宮共に武運の神を祀る処とされています。

鹿島立ちの語源とされている説は二つあります。

一つは奈良時代のこと。

東国から筑紫、壱岐、対馬などの要路の守備に赴いた防人は、
任地へ出発する前に鹿島神宮の前立ちの神たる阿須波神(あすはのかみ)に
道中の無事を祈願したということから、のちの武士にもこの習慣が伝えられました。

もう一つは、鹿島の神、武甕槌(たけみかづち)、香取の神、経津主(ふつぬし)が
天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だって、
葦原中津国(あしわらのなかつくに)を平定したことからという説です。

防人が無事を鹿島神宮に祈願するようになったのは(前説)
後説の伝説が流布したから、ということですよね・?

つまりどちらも正しいとわたしは思うんですが・・・。

 

それはともかく、この練習艦隊参加の「出雲」や、翌年参加の「磐手」の後釜として
設計された練習艦の名前はまさに「鹿島」「香取」と言いました。

この頃の武人の語彙に「鹿島立ち」という言葉が生きていたからこその命名です。

このアルバムの頃には軍艦「鹿島」「香取」は存在もしていませんが、
その壮途に対し「鹿島立ち」といういにしえの言葉が送られているのです。

さて、そんな具合に、国内巡航でいいことがあった候補生も、
なかった候補生も、等しく横須賀を出航する日がやってきました。

横須賀に停泊した練習艦隊旗艦には、海軍大臣財部彪が来訪しました。

財部は前にも書いたように軍神広瀬中佐と同期で恩賜の短剣のクラスヘッド。
山本権兵衛の娘婿だったこともあり超スピード出世で、この頃には
加藤友三郎内閣の海軍大臣にまで成り上がっていました。

この数年後、ロンドン軍縮条約で全権を務めた財部は、当時の艦隊派や
肝心の海軍軍令部(が味方につけた犬養毅と鳩山一郎)に糾弾され、
統帥権干犯問題で辞任することになっています。

(時の海軍と組んで、『日本の艦隊保有量が不公平だ』とする側に
野党の犬養が与したことについて、以前そのダブスタを指摘したことがあります。
結局犬養って今の野党と同じ、単なるアンチ政府主義だったってことですよね。
『憲政の神様』はそれらを思うと過大評価ではないかといつも思います)

不鮮明ですが、手前の白い列が見送りの軍人たち、そして
艦上の候補生たちが帽振れをしているのが確認できます。

これは現在護衛艦が繋留している岸壁でしょうか。

帽振れをしているので出航直後だと思いますが、場所は・・・
右側が現在の潜水艦基地にも見えるのですがどうでしょうか。

岸壁を離れ横須賀港を出て行く「八雲」「浅間」「出雲」。
動力は石炭なので、煙突からは黒々とした煙がたなびいています。

横須賀に停泊している海軍の艦船の乗員たちが見送っています。
ここで注意して欲しいのは、練習艦隊と見送りが白の第二種なのに、
この艦上では全員が冬服を着ているということです。

季節的には秋の衣替えシーズン過渡期(多分9月)で、
一般にはもう冬服が着用となっていたのが、練習艦隊は
出航の儀式は白と決めて行ったようです。

そういえば!

我が日本国自衛隊の練習艦隊も出航は5月で衣替えには早いですが、
純白の礼装で臨むのが慣例になっています。
過渡期であれば出航は白、というのは海軍時代からの不文律だったのでは・・。

 

 

 

続く。

 

 

 

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