Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2814 articles
Browse latest View live

ワイズ機関士の勇気〜実験潜水艦 USS 「ドルフィン」 AGSS-555

$
0
0

 

カリフォルニア州サンディエゴのマリタイムミュージアム、海事博物館には
帆船から潜水艦まで、様々な船のコレクションが公開されています。

左の「スター・オブ・インディア」、それと直角に繋留しているのがレプリカ「サプライズ」、
その後ろがソビエトの潜水艦フォックストロット型の「B-39」。

これらを見学して来たわけですが、その真ん中にある白い客船風のが
蒸気フェリーの「バークレー」。
ここは全ての展示船のための中心的なオフィスがわりになっています。

この中に入っていくと、反対側にもう一つ潜水艦があるのに気がつきました。

深度実験潜水艦であった「ドルフィン」です。
潜水艦の実験艦というのがあるとはこれを見るまで知らなかったのですが、
例えば「ドルフィン」での実験によって、1990年末には新しいソナーが
潜水艦隊に導入されたりしています。

「ドルフィン」という名前のつけられた艦はこれで7隻目になるそうです。

建造は1960年、同じ頃に隣にある「B-39」が起工からたった2ヶ月で
就役したのに対し、こちらは4年半もが費やされています。

実験艦であると同時に彼女自身の艦体が実験的な仕様だったせいです。

もし潜水艦に詳しい方がこの写真を見ておられたら、
この潜水艦の画期的なところに気づかれるかもしれませんね。

そう、この潜水艦にはシュノーケルマストがないのです。

実験艦であり戦略のために長時間潜行する必要がないからでしょうか。
その辺の理屈はわたしにはどうもよくわからないのですが、とにかく、
ディーゼルエンジンが稼働している時には必ずハッチを一つ開けておいた、
と英語の記述にはあります。

蒸気船「バークレー」の船内からドルフィンへのエントランスがこのように繋がっています。
現地でこの

「 DEEPEST DIVING SUBMARINE」

を見た時にはアメリカ海軍のフネによくあるキャッチフレーズみたいなものだろう、
と思ったのですが、実験艦であったと知ると、別の意味が見えて来ますね。

「ドルフィン」は1964年12月19日にメイン州のポーツマス海軍造船所で起工し、
進水式は1968年6月8日、あのダニエル・イノウエ夫人によって命名されました。

ダニエル・ケン・イノウエは日系人部隊出身の上院議員で、つい最近、
出身であるハワイの空港に彼の名前がつけられたことで知る人も多いでしょう。

ついでにサンノゼ空港には「ノーマン・ヨシオ・ミネタ」という名前がついています。

右側の潜水艦の全貌をご覧ください。

「ドルフィン」の外殻は全くの直径の円筒であり、その端部が
半球形の頭部で閉じられているだけというのがよくわかるでしょう。

シンプルなのは外殻だけでなく、バルクヘッド、内部隔壁も同じく、
代わりにフレームを使うなどして単純化されていました。
構造実験や試行での使用を容易にするためです。

就役してわずか2ヶ月後の1968年、「ドルフィン」は
3000フィート(914m)の深々度に潜行することに成功し、
これは当時の世界新記録となりました。

アメリカ海軍の記録でも、これは現在も破られていません。

また、翌年の1969年、「ドルフィン」は最も深い深度からの
ミサイル発射を行なった潜水艦として世界記録を更新しました。

 

調査と研究のために作られた潜水艦だったので、乗員は
海軍軍人(士官3名、兵員18名)以外に、民間の研究者が
4名乗り込んでいました。

彼女の功績についてはおいおいお話ししていくとして、
早速中に入って見ることにしましょう。

実験艦と知って中身を見れば、兵器としてのそれとは若干佇まいが違うというか、
搭載している機器類もその目的に応じていて非常に実験室的であります。

 

説明がないのでよくわからないのですが、真ん中の7角形に

5ミクロン フィルター

とあります。
海水を採取するものらしいと想像。

わざわざ洗眼器を備えている潜水艦を初めてみました。
確か「コンスティチューション」のメインデッキにも洗眼器がありましたが、
あれは作業的に目を洗う必要があるのだろうという気がします。

潜水艦の実験等で目を洗う必要がかなりあったということですよね?


 

洗眼器がどういう際に役に立ったかを知ることは、実験艦
「ドルフィン」の活動についてより詳しく知ることになりそうです.

アンプがあることから、通信室だと思われます。

スツール式の椅子はレールの上を稼働するようになっていますが、
違いが干渉し合わないような仕組みでこれも初めて見ます。

「あきしお」の中の士官用バンクにとても似ています。
整然と天井まで並んだ4段式のバンク。
機能的かもしれませんが、蚕棚みたいできつそうですね。

説明にもあるようにレイディオ・ルームです。
衛星を通じて声とデジタルデータで通信を行なっていました。

UHFのアンテナはセイルの頂上部分に設置されています。

レイディオルーム、反対側。
わざわざ「フォー・ディスプレイ・オンリー」として
展示用であることを断っている機器もあります。

この一帯がコントロールルーム。

ここに勤務するのは操舵手、バラストと推進をコントロールする
「コーントロールマン」2名、ナヴィゲーター、レーダー員、
デッキオフィサー、 艦首と艦尾を担当するメッセンジャー兼パシリ、
つまりランナーとなります。

この船窓のような丸い窓は中が真っ暗でしたが何でしょうか。

ここに写っているのはレーダーというかトレーサーだと思われます。

この下がポンプルームで、この説明には「ドルフィン」が遭遇した事故と、
それを救った「英雄的な行為」(ヒロイックアクション)について説明されています。

2002年5月21日、「ドルフィン」はサンディエゴ沖合およそ100マイルの海域で
作戦行動中浮上して航行しバッテリーを充電していたところ、

魚雷発射管の密閉ドアが故障し、海水が浸水してきたのです。

 

折しもサンディエゴは強風のため10から11フィートの波が立ち、
そのせいでおよそ70から85トンの海水が艦に流入してきました。

 

そして浸水による電気パネルのショートで火災が発生します。

「ドルフィン」はその時点で14℃の海水が溢れてきていました。

主任機関士のジョン・D・ワイズ・ジュニアは、海水が増していく
ポンプ室の中にためらいなく飛び込んでいきました。 

90分後、艦長のスティーブン・ケルシー中佐は41名の乗組員、
および2名の民間人に対し総員退艦を命じます。

付近で活動中であった海洋研究船「マクゴー」(McGaw) は直ちに応答し、
乗員は小型ボートに乗って「マクゴー」に移乗。

移乗中に海に落ちた2名は沿岸警備隊のヘリによって救出されました。

その間にも乗組員は迅速にダメージコントロールを行い、
火災と浸水の危機から脱した艦はついに安定した状態になりました。

この日サンディエゴは荒天であったため、牽引することはできず、
その場に放置された「ドルフィン」ですが、翌日潜水艦支援艦の
「ケリー・チョーエスト」(MV Kellie Chouest) によって母港に戻りました。

この時の機関士ワイズ・ジュニアの働きは壮絶とも言えました。

区画内の機器の状態が全くわかっておらず、コンパートメントの中に
酸素がある状態かどうかもはっきりしないのに、彼はたった一人で
ポンプ室の中に残り、14°Cの水に浸かったまま、まず
区画内に1フィート未満の通気性の空間を確保して、海水弁が並んでいることを
確かめた上で、ポンプによる排出を開始できるようにしました。
弁を開けた後は、ポンプが詰まるのを防ぐために90分以上留まり、
一人で奮闘を続けたのです。

この勇敢な功績により、彼は海軍と海兵隊からメダルを授与されています。

「すべてのものが自分の仕事をしていました。
私は自分のいた場所で起こったことについて自分のやるべきことをしただけです。
とにかく私は艦から海水を放出することだけを考えていました」

受賞の時、ワイズ機関士はこう語ったと言います。

「メダルは『ドルフィン』に贈られたものです。
これを身につけることを許された一人になったのは
ただラッキーだったにすぎません」

同様の事故を起こした他の潜水艦で3名の死亡者を出したことを考えると、
荒天の中でのこの事故での犠牲者がなく艦体も残ったことは
このワイズ機関士の勇気あってこそだったと思われます。

 

続く。

 


殊勲艦〜実験開発潜水艦「ドルフィン」AGSS-555

$
0
0

さて、前回この実験潜水艦「ドルフィン」が遭遇した事故と、
最悪の状態から死傷者をゼロにし艦体を失わずに済んだのは
一人でポンプ室で排水を行った機関士の働きのおかげ、ということを
お話ししたわけですが、その原因は魚雷発射管の扉の故障でした。

艦内から魚雷を外に撃つ仕組みというのは、魚雷発射管に魚雷を装填した後に
扉を閉め、管内に水を注入してから前扉を開けるというものです。

魚雷発射管から海水が逆流してきたという状況には間違いがないと思うのですが、
英語での解説によると

when a torpedo tube door gasket failed, and the boat began to flood.

となっているので、どうやらドアのパッキンの不具合のようです。
つまり、魚雷発射管のドアを閉めているのに水が入ってくる、どうして?
となった可能性がありますね。


機関士の献身的なダメージコントロールのおかげで沈むのを免れた「ドルフィン」は、
その後サンディエゴで3年半に及ぶ修復工事を受けました。
その後任務に復帰したのですが、一年も経たないうちに海軍は退役を決めています。

この理由はなんだったのか、なぜ50億円以上もかけて修理したのに
わずか1年で運用をやめなければならなかったのかはあまり詳しくわかりません。

修理したもののどうも調子が良くなかった(一度海水に浸かってしまった機器類に
不具合が出るのは当然)ということも考えられますが、わたしはむしろ海軍としては
一度海水が流入した潜水艦を実験艦として使うことはもうできないとしながらも、
せっかくヒーローが命をかけて沈没から救った艦体を無下にスクラップにするにしのびず、
とにかく使えるようにして再就役させることにしたのだと踏んでいます。

1年、つまり形だけ使ってもういいよね?って感じでこの金食い虫(運用費が年20億円)
を仕方なくといったていで退役させたのではないでしょうか。

さて、続きと参りましょう。

このドア(丸窓がついていたところ)はここから外に出入りできるようになっており、
全ての乗員と全ての物資はこのセンターハッチを通りました。

もし大型の機器類を搭載する場合には、分解して小さくするか、主要構造物の場合には、
艦体をカットして運び入れることもありだったそうです。

今回わたしたちが通ってきた入り口と出口はここに展示されるようになってから
見学者のためにつけられたものでもともとはありません。

「ドルフィン」には外付けの換気口があり、海上航走などの際に
エンジンルームに空気を送っていましたが、
潜航中のエンジンを動かすためのシュノーケルはありません。

開口部はブリッジ部分へと繋がっており、そこには通信機器やsound-powered phone
(外部電源を使用せずに、ハンドセットを使用して話すことができるデバイス)
などがあります。

いかにも冷戦時代の潜水艦内部ですが、1968年の就役ですから当然です。
つまり、そろそろお役御免という2002年になって事故を起こしたのですから、
やっぱり本来はそこで廃艦のはずが、命をかけて艦を救った機関士に免じて
あえて修理して1年間だけ使ったというのが正解のような気がしてきました。

だとすると、アメリカ海軍というのは情を汲む組織というか、
「ヒーロー」というキーワードにはあくまでも敬意を払うんだなと思います。

この部分はバラストコントロールやベント、
非常用のバルブ操作スイッチなどがあるパネル類です。

電源パネル。ウィットモア社製品です。

アンプなど電気関係パネル。
それにしても、この前にみたソ連の潜水艦とはほぼ同時期に建造されているのに、
この違いというのは一体なんなのでしょうか。

建造にかかった期間も4年(ドルフィン)に対して2ヶ月(ソ連潜)です。

時代を感じさせるスライド式のスイッチはエンジンの状態をチェックするもの。

個室のデスクに星条旗柄のリボンとともに置かれた白いヘルメットには

「コマンディングオフィサー USS ドルフィン」

とあります。

こちらはお手洗い。
手は?手はどこで洗ったらいいの?

アクリル板で塞がれたハッチがありました。
左に二本のレールがありますが、ここを両手で握って、ハッチ下の
梯子段に足を乗せ、上り下りするわけです。
一度実際に入ってみて知ったのですが、潜水艦の上り下りはこのように、
ハッチを密閉する必要から梯子が繋がっていないのが普通みたいですね。

一人だったらもう少し丁寧に下の階を撮ったのですが・・

しかも左側壁のバーを掴んで降りていくと、その先で梯子段が奥に変わるので、
体をねじりながら降りていかなくてはなりません。
大変難易度の高い梯子なので、寝ぼけていたり酔っていたら踏み外すのは必至。

ダイニングホール、ワークステーション、レクリエーションエリアなど、
食事全般を作るキッチンで、軍艦には珍しく階級によって分かれていません。
全体の人数がそんなに多くないせいか、大変リベラルというか民主的な作りです。

ところで、なぜか調理台の上にゆで卵の殻が落ちてるんですが・・・いつの?

ここではお泊まり企画はもちろん、貸し出しもパーティもしていないはずですが・・。

エンジンのような大きな構造物の上に建物が載っているような部分。
プロペラ(推進器)のモーターがこの下にあります。


なんとここにも洗眼器があるではないですか。
よっぽど目に埃の入りやすい状況だったのか?

DOLPHININST 5400. 2D CH-13

としてスピードの段階別の推進器の状態が書かれています。

おそらく「ドルフィン」の推進器ということで勝手に名前をつけたのではないか、
と思われるのですが、下線部の部分、スペルミスではないかという疑いが・・。


このピカピカしたテーブルはぐるぐる回すともしかしたら人力でプロペラが回るとか?

ここにあるのは推進器関係のモーターなどです。

機械関係がメインデッキ階に収まっているのが独特の構造です。

こういうのをみても何が何だかわからないのですが、一応わかる人もいるかと思いまして。
AHPって何かしらと検索してみたのですがわかりません。
別のところに ”HP AIR DISTRIBUTION”とあるので、空気を送るものだと思うのですが。

こちらはHPAC関係ときた。

Heating Piping Air Conditioning

って感じ?(適当)

さて、実験艦「ドルフィン」の見学はここで終わりです。
おそらく下の階には寝室やレクリエーションセンターなどがあったのでしょうが、
そこに行くには先ほどのラッタルを降りて行くしかないので公開していません。

さすがに一般人用の階段をもう一段設置する余力は博物館にはなかったようです。

外に出ると、後ろにもう一つ帆船が展示されていました。
スコットランドの城主のために建造されたスチーム式木造ヨット、
「メデア」号ですが、朝からずっと見学を続けたわたしたちは
さすがに疲労困憊して「メデア」を見る気は全く残っていませんでした。

「ドルフィン」の尾翼上には、これでもかと鳥避けが建てられています。
こうでもしないと、彼らの落し物で真っ白になってしまうからです。

退出するためには一人しか通れない通路をこうやって一列で進んで行くしかありません。
ちなみに前の一団は我が日本国のボーイズでした。


こうやって改めてセイルを見ると、潜望鏡は一本だけ。
あとは通信関係のアンテナらしきものがあるのみです。

もちろん実験艦ですから魚雷を撃ったりはするわけですが、ナイトビジョンなど
潜望鏡を二本つける必要はなかったせいか、大変シンプルな外観です。

ボランティアの解説員らしいおじさんがニコニコとお見送りしてくれました。
あ、よくみたらカメラ目線だ(笑)


最後に、実験艦「ドルフィン」の「戦果」をあげておきましょう。
彼女がどんな実験と記録達成を行なったかの一覧です。

●潜水艦から航空機への光通信に最初に成功

●レーザーイメージングシステム鮮明度を上げる開発

●オハイオ級潜水艦用超低周波(ELF)アンテナの開発

●様々な非音響ASW技術の評価

●アクティブソナー傍受の様々な評価

●モバイル・サブマリン・シミュレータ(MOSS)システムの初の潜水艇発射

●BQS-15ソナーシステムの潜水試験に最初に成功

●高精度(10cm)の牽引体位置監視システムの開発

●障害物除去 Sonarシステムの開発

●高精度な目標管理システムの開発

「5th・システム・オブ・ネイチャー」の評価

●潜水艦から航空機への双方向レーザー通信に最初に成功

●最深度潜行、3000フィート以上に成功

なお、一度改装された後に行われたソナーシステムの実験の結果、
現在のアメリカ海軍の潜水艦はそれを搭載しています。


これだけの実績を上げ、かつ乗員の英雄的な行動で沈没を免れたという
功績艦なのですから、こうやってその姿を後世に残すことになったのも
アメリカ海軍的には当然だったといえましょう。

 

 

艦内告知板「今日のプラン」〜空母「ミッドウェイ」博物館

$
0
0

空母「ミッドウェイ」の見学はシックベイとそれに続くデンタルなエリアまで来ました。
そこに現れたのが、艦内告知板。

アメリカの学校でもおなじみの「Bulletin board」は、
広報だったり、参加のためのサインアップといった紙が貼られる掲示板です。

ここにかつて「ミッドウェイ」で本当に貼られていたと思われる
三枚のお知らせがありました。

まず、一番左は毎日貼り替えられる「今日のミッドウェイ」情報で、
日付は1990年の3月23日となっています。

イラクのクウェート侵攻が1990年の8月、「ミッドウェイ」がそれを受けて
北アラビア海に展開するのは11月のことですから、これは嵐の前の
(ちなみに作戦名はデザート・シールド作戦)静けさといった、
横須賀でのある穏やかな1日であったということになります。

司令官以下セキュリティマネージャー、CMCの官姓名が記され、火災をはじめ
非常時の内線番号が型通り記された後は、甲板士官の名前が書かれています。

■甲板士官

00-04 トーマス少佐     ゴンザレス少尉
04-08   ブランフォード大尉  レハード中尉
08-12   メイヤー大尉     フローレス大尉
12-16   オーウェン中尉    ゴンザレス少尉
16-20   トーマス少佐     レハード中尉
20-24   ブランフォード大尉  フローレス大尉

といった風に。
前者はAT-SEA OOD (オフィサー・オブ・ザ・デッキ)
後者はAT-SEA JOOD(ジュニアオフィサー・オブ・ザ・デッキ)
トーマス少佐とブランフォード大尉は2回、
JODはゴンザレス、レハード、フローレスの三人で交代しています。

■今日のユニフォーム

今日、どんなユニフォームを着用するのか。
いくつもパターンがある軍隊では、いつもどうやってこの服装を
伝達するのかと思ったら、こういう仕組みだったんですね。
こんな風に記されています。

【今日のユニフォーム】

士官&CPO: サマーホワイト/サマーカーキ
下士官兵E1-E6: サマーホワイト

【作業服】

士官&CPO:カーキ
下士官兵E1-E6: ダンガリー

【海上での制服】

リラックスユニフォームが許可されてます

海の上ではリラックスユニフォームを着ていていいよと。
えー、どういうのがリラックスなのー?

■定期作業

0730,1530,2130 清掃
0730, 1730  CHECK  YOKE

ヨークをチェック、というのがわからなかったのですが、
舫など船を繋留する装具の点検でしょうか。

■今日の宗教サービス

0600  NSA
0645  カトリックミサ
0800  十字架のステーション
1130  カトリックミサ
1230  ゴスペル聖書勉強会
1700  キリスト教フェローシップアワー

どうもよくわからない時間もありますが、一つの宗教だけに
教会が使われている訳ではないことだけはわかります。

■食事

【士官& CPO】

ランチ 1100-1400
牛肉と大麦のスープ、仔牛肉、ニジマス、ポテトグラタン、
ライス、芽キャベツ、インゲン、冷たい飲み物、サラダバー、デザート

夕食 1600-2000
『フロム・ザ・フィリピン』

【下士官兵】

ランチ 1030-1400
グラウンドビーフのバーベキュー、フレンチポテト、サラダバー

ディナー 1630-1930
コールドカット、フレンチポテト、サラダバー

夜食 2300-0100
コンボサンドイッチ、フレンチポテト、サラダバー

士官の食事が「フィリピン風」ということだと思います。
それから面白かったのが夜食のことを

MIDRATS (midnight rations)

とスラングで書いてあること。
ミッドナイトレーションズ、略してミッドラッツ。
レーションズが「ネズミ」になっているのが秀逸です。

真夜中にネズミさんが台所をあさっているのを想像してしまいました。

その後は電気や機械関係、エアコンなどのトラブルが起きた時の
内線番号などが書いてあり、次には

艦尾教室 15時から

というお知らせがありました。
艦内作業について勉強会?でも行うのでしょうか。
ちなみにこの日のテーマは

「航行中補給について」

です。

■ 告知

1、上陸時の自由時間においても、すべての乗員は知り得た情報について
それがどんな種類のものであっても船上の海軍情報局に、または、
セキュリティマネージャーにに報告することを要求されます。

このお知らせが横須賀を母港としているときに出されたとなると
なんだか色々と考えてしまいますね。

2、講座

a. ファンクショナル・スキルというリーディングと英語、数学の
海軍トレーニングプログラム、「ブラッシュアップ」のお知らせ。
勤務中に行われるこのトレーニングの目的は、任務に必要なスキルの向上であり、
カレッジレベルのコースを修得しておくことによって、ASVABテスト
(Armed Services Vocational Aptitude Battery )はじめ、
海軍の各種試験の準備をすることもできます。

英語、リーディング、そして数学のクラスは横須賀の海軍キャンパスで、
次回の停泊期間に行われます。
技術向上クラスは通常一日4時間、2週間で終了するプログラムです。


興味のある方はオフィスに申込書を用意してあります。

b.横須賀ネイビーキャンパスでは特別に「シップス・セメスター」を開催します。
期間は4月9日から5月18日まで。
応募は全ての「ミッドウェイ」乗員が対象となります。
勤務中手当として75%の授業料が免除となります。
授業は月、火、木曜日の夕方で、6週間行われます。

授業のコースは下記の通り。

「数学」代数の概念  
「日本語」 日本語入門 
「数学上級」数学III
「スペイン語」 ビジネス&仕事会話

興味のある方は応募用紙にて3月25日までに申し込んでください。
これらの授業は上級下士官の方々が士官になる際にも有利です。
この「ゴールデンチャンス」をお見逃しなく。
申し込まれた方には4月1日の「アフトクラスルーム」で説明顔をします。

大学に行かなくても、海軍のプログラムである程度の基礎教育をうけることができ、
それが海軍内でのキャリアアップに繋がるというわけです。

【今月の水兵】

今日0900からCPOメスでセイラー・オブ・ザ・マンスの会議を行います

【人事事務所】

今日は事務所を閉めています

【法的警告】

香港で刺青を入れた者の海軍施設への立ち入りを禁ずる

ちょっと・・・これ、「香港で刺青を入れたものがいるらしい」
という報告を知った上でのお知らせって気がするのですが、
それともこれから香港に行くので、
「刺青入れたらこうなるからな」という警告なんでしょうか。

この後も教会牧師からの礼拝のお知らせとかが続きますが、
実は写真のピントが奥にはあっておらず、読みにくいのでここまでにします。

さて、告知板のお知らせを読んでいるうちに、すっかり
「ミッドウェイ」の乗員気分になったところで、次に進みます。

檻のある窓口、ここは艦内郵便局になります、
現金の受け渡しをするので、このようになっているわけですが、
ここを使用する人が基本海軍の、しかも乗組員に限られているというのに
割と人を信用していない雰囲気が漂う設計という気がします。

基本どんな団体も内部に対して性善説では対処しない、
というのは日本以外の国ではスタンダードなのかもしれません。

「ミッドウェイ」から送る小包の仕分けをしている人あり。
ここの責任者のCPO(勤続15〜17年)の制服がかかっています。

海軍に入って郵便一筋!みたいなチーフなんでしょうか。
ちなみに仕分けしている人はダンガリーを着ているので水兵さんです。

「Letters on the sand」という映画ポスターのようなものがありますが、
同名の歌「砂に書いたラブレター」しかヒットしませんでした。

読みにくい文字をなんとか解読してみると、郵便局の宣伝で、
「ハードカバーのパーソナルヒストリー」が作れるとかなんとか。

黒字以外はぼやけていて細部はわかりませんでした。

故郷に送る手紙、故郷からの手紙は海軍乗組員、特に「ミッドウェイ」のように
本国を離れた定係港に勤務する軍人にとっては何よりも嬉しいものです。

一体どんな経緯でここにあるのかはわかりませんが、横須賀時代に
乗員が家族からもらった手紙がここに飾ってありました。

ところでこの手紙や家族の写真など、乗員が送られたもののはずなのに
なぜこんなにたくさんここにあるのでしょう。

「ミッドウェイ」あてに届いたものの、受け取る人がいなくて、
大量に残されていた、とかいうのではないといいのですが。

続く。

日米空挺降下の違い〜平成30年度 陸自第一空挺団降下はじめ

$
0
0

さて、ブラックジョークに近いアメリカ陸軍空挺隊の「愛唱歌」、
「ライザーの血」について解説しましたが、空挺という危険な兵種で
その最悪の事態を起こさないための安全対策というのは、当然としても、

「ちゃんと安全確認しないと死ぬよ」

とか、

「空挺で死んだらこうなるよ」

という程度のことをどうしてこうくどくどと歌にまでしないといけないのか。

わたしは思うのですが、アメリカ陸軍の兵の裾野というのは大変広く、
自衛隊のようにある程度のレベルの学力がないと入ることもできない軍隊と違い、
特にこの歌が生まれた第二次世界大戦時には、ほとんど字も読めないレベルの
兵隊が山ほどいたので、そんな彼らに教科書を読むことでなく
感覚で失敗の怖さを植え付けるために、陸軍ではこのような啓蒙ソングを作り、
繰り返し歌わせたのではないでしょうか。

さて、そんな空挺の系譜である特殊部隊、陸自グリーンベレーの空挺が行われています。
彼らの使用している傘と陸自のそれの違いを見比べられただけでも価値があります。

よく考えたら、日本において日米の訓練展示を見る機会など初めてです。
去年からの降下始めへの米軍参加は、米軍側からの申し入れだったそうですが、
注目すべきは本日参加したグリーンベレーが沖縄駐留部隊であること。

戦車を投入した島嶼防衛のシナリオによる想定訓練はありませんでしたが、
これはよく考えたら、いやよく考えなくても、彼らは尖閣への空挺を想定しており、
これもまた角度を違えた島嶼防衛訓練であると見ることができるのです。

そりゃ共産党市議が文句の一つも言いたくなりますわね。

ちなみに今年の訓練について共産党が抗議したというニュースは
今のところ寡聞にして知りません。

とにかく、初めて見るアメリカ陸軍の空挺、傘の形だけでなく
陸自空挺団とのやり方の違いに注目してみましょう。

この降下している人を拡大してみると、女性らしいことがわかりました。

ね?女性でしょ?
前回女性空挺兵が乗り込んでいくのを写真上で見つけ、探してみたのですが、
どうやら彼女がその一人のようです。

しかし、グリーンベレーの女性・・・凄すぎる。

第一空挺団の降下も間断なく行われます。
我が空挺団の降下は、両足を揃え、腕を閉じて行われます。

少しでも空気抵抗を少なくすることが主目的ですが、
索が伸長する際に腕に絡まる万が一の危険を排除するためでもあります。

降下中、手は補助傘においている人が多いようです。
陸自仕様のスタティックラインジャンプ用傘は

696MIパラシュート、通称12傘(ひとにいさん)

といいます。
いちにがさと読むんじゃなかったのか。

ここで米軍のジャンプを見てみます。
多分この時も「エアボ〜〜〜ンッ!」とか言ってると思います。

米軍も腕を組んでいますが、脚は踏み出したまま宙を歩くような感じ。
陸自と違って脚を揃えることにはなってないみたいですね。

米軍の傘も二種類があり、指揮官が使っていた四角っぽいのと
別のタイプは、自衛隊のヒトニイサンに形は大変よく似ています。

あっ、この左上の降下者も女性かな?

自衛隊の傘との違いがよくわかる画像。
キャノピーの空気抜きのある反対側表面が二重のダーツが取られていて、
その中に空気を含んで傘の形が膨らんでいます。

色も空挺団のゴールドに対し、オリーブドラブ色に近い感じ。

彼らにとっても、こんな住宅街の真ん中に降りる経験は貴重かもしれません。

米軍の着地してからの様子にも注目してみましょう。

遠目に見て彼らと陸自の見分けは、靴の色でつけることができます。
靴の部分が赤いですが、何かバンドを巻いている模様。

そして着地。
もうすでに地上にはいくつもの傘が・・・ん?まだ落ちてる?

その訳はですね。
アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーの皆さん、着地した後は、
こうやって結構長い間横になってぢっとしているからなのです。

目の前で起こっていることが信じられなくて、なんども確認したので間違いありません。
前半エントリで米軍の指揮官がいつまでも寝ていたというのをご紹介したところ、
招待参加の方から

「落下傘を束ねるのが苦手で、風で煽られ落下傘に振り回されるのが
みっともないから、お手伝いが来るのを待っていた・・んじゃないの」

と指揮官降下経験者の元自衛官が言っていたと教えていただきました。

なんでもこの元指揮官は、指揮官降下で無事に着地までは良かったのですが、
その後傘を束ねようとして、風で煽られた落下傘のあとを追いかけて走り回り、
ご家族の前で面目丸潰れになったという経験則から米軍司令官の寝たきり事件を
上記のように解析されたのだということですが・・・。

んが、ここで寝ている人たちはお手伝いが来てくれるような偉い人じゃありません。

そもそも空挺部隊というのは基本地面に降りてからがお仕事開始なので、
こんなにのんびり空を見ていていいのかと心配になります。

心配になるほど横になって休憩していたかと思うと、ようやく
首をもちあげて起きる気になった様子です。

ははーん、これは、あれだな。

陸自の人も、訓練の合間に一瞬の隙があれば「寝る」っていうじゃないですか。
あの瞬間、彼らは心から幸せだと思うという話をどこかで読んだのですが、
きっとグリーンベレーのお兄さん(お姉さんもいるけど)は降下直後、
しばし大地に横たわって一息入れているのに違いありません。

一応起き上がったら走って行動しております。
向こうでは傘の片付けも終わりそう。

傘の入っていたコンテナ(背嚢)をわざわざ外して索の先まで運びます。

向こうではキャノピーを畳んでいますが、なんだかずいぶん仕事が丁寧ね。

まず索を先端からまとめて、っと・・・・・。

まとめた索の先から順番にコンテナに詰めていきます。
これがまた結構時間がかかるんだ。

ようやく詰め込み作業完了。
・・・ってか現場でここまでやるんだ・・・。

ちゃんとコンテナのベルトを留めて、よっこいしょういちと背負い退場。
一仕事終えた感満載の後ろ姿です。

さて、その間にも、次々とヘリコプター、航空機が空挺部隊を降下させます。
C-1からの降下はよく「走る新幹線から飛び降りるのと同じ」と言われ、
しかもそれが東京タワーの高さからだというのですが、タワーよりずっと高く見えます。

 

C-1 やC-130Hなど固定翼機からの降下は両側のドアから行います。

ほら、一航過するだけで驚きの降下が!(洗剤のCM風に)
20名が一度に飛び降りました。

すると、まだその先陣が降りきらないうちにもう一度C-1航過!

「ああ純白の 花負いて  ああ青雲に 花負いて 」

「空の神兵」にもこう歌われているように、その頃の傘は真っ白でした。

視認性を低くするために今では白い傘は軍用には使われなくなりましたが、
旧陸軍の空挺降はさぞ幻想的で美しかったことでしょう。

この傘がそのまま白かったら、と空想し、ついでこんなことを考えました。

「メナドやパレンバンに侵攻したときの落下傘もこんなだったのかな・・・」

空の神兵

本当にこんな感じです。
降下する直前の彼らの表情、陸攻のパイロットが下を見つめる表情、
(この人がものすごい男前!)貴重なフィルムを歌とともにどうぞ。


降下中の姿勢は日米両軍ともに変わりなし。
傘の索の中には、降下者が引っ張れば傘の形を変えて
降下地点をある程度操作できるコントロールラインがあります。

この降下者は右手でそれを引っ張り、操作しています。

そして着地してから。

5点着地によって衝撃を緩和するように着地した後は、
空挺団はすぐさま立ち上がり、傘の片付けに取り掛かります。

寝転んで空を見ているなどという悠長なことは我が空挺団には許されません。

体に付いたままの索を束ね、振り回すように回転させながら
手元に引き寄せて手早くまとめていきます。

降下してから傘をまとめるまで、ほんの2〜3分という感じです。

そして、そのまま傘を抱えて走って退場していきます。

先ほどの写真の米軍兵が寝ている間に、自衛隊は2機の航空機から空挺が着地し、
米軍が落下傘をコンテナに詰めている間に、着地したそれらの2グループは
ほとんどが傘をまとめて撤収していきました。

つまり、一番の日米両軍の違いは「降りてから」だったのです。


もっとも、万が一実戦となれば、米軍も傘を片付けたりはせず
そのまま次の戦闘行動に移るのでしょうし、自衛隊も抱えて走ったりせず、
落下傘をその場に脱ぎ捨てていくのだろうと思われます。

そして最も大きな違いがこれ。
グリーンベレーはスマホでインスタ映えも狙えてしまう模様。


続く。


ハワイ・ヒロ寄港〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

$
0
0


横須賀を出航した我らが帝国海軍練習艦隊。
ここからがいよいよ「遠洋航海」の始まりです。

そしてこの艦隊には個人的な想いから遠洋航海を古川中将から
横取りした(笑)百武三郎中将が練習艦隊司令として
今や意気揚々と乗り込んでいることでしょう。

 


■ 航海中 

横須賀よりヒロまで航程3859.1哩航走
16日と13時間

海は神秘なり海洋は偉大なり
藍碧の洋と碧瑠璃の空と相呼応する状は無限なる宇宙の一つの「シンボル」なれ
見よ、雄大、偉大、荒天、平穏、寂寞、単調と海洋の有する種々の相を
おゝ我が帝国の使命を有する海神の寵児等が艟艨(どうもう)海に浮かぶるの時、
幾千年、幾万年の太古より溢れ湛えし水は驚愕し、歓喜し、舞踊し、
果ては舷側近く喜びの音楽を奏でて陽の光に輝く波の宝玉を齎らしぬ


まず、平成29年度練習艦隊の横須賀出航は5月22日、
ハワイの真珠湾到着は6月2日。
11日しかかかっていないわけですが、この頃の「4日の違い」
がその頃と今の船の性能の違いであるわけです。そして、それに続く大変詩的な文章の中にある

艟艨(どうもう)

という言葉ですが、各々の漢字は舟編に童の艟、同じく舟編に蒙と書いて、
どちらも訓読みで「いくさぶね」と読みます。

いくさぶね+いくさぶね=いくさぶね

で、艟艨(どうもう)=いくさぶねとなるのです。

言葉自体に感嘆の意を含むので、戦後自国を守るためにであっても
「日本の保有する船はいくさぶねではない」という建前から、
「駆逐艦」「戦艦」という言葉を無くしてしまった自衛隊では
さらに一層使われることのない死語と成り果てた言葉の一つでしょう。

現在海上自衛隊遠洋航海で出港前に行われる海幕長の訓示では、

「さまざまな形に姿を変える海」

という言葉が必ずと行っていいほど出てきます。
冒頭の言葉にも、形を変える海の姿がさまざまな表現で言い表されています。
そしてこれはある日の艦首に砕ける波の様子。

もちろんこうなると甲板に出るのは禁止になるはずですが、
海の怖さを甘く見ている空自出身の某空母艦長などは、わざわざ台風の時に
甲板にのこのこ出ていって

「私はお前を恐れぬ!」

とか言って波をかぶり、脚を掴んで海に落ちるのを防いだ副長に呆れられます。

全く、パイロット出身の空母艦長ってのはよお・・・。

ところで日本国自衛隊が保持を予定している空母「いずも」においては、
艦長は海自からなのか、それとも空自出身がすることになるのか、
気になるところですね。

アメリカ軍空母はパイロット出身が勤めることになっていますが、
先日ある海自の幹部の方に聞いてみたところ、

「操艦できない艦長なんてありえない!」

ということでした。

太平洋航海中の写真も残されています。
訓練の一環で実弾射撃が行われました。
5〜6の水柱が水平線に立ち上がっているのが見えます。

候補生たちは事業服を着用しているようですね。

11月21日の午前9時半、東経180度子午線を通過しました。
慣例に従って神事とお祭りを行なった様子です。

「今日御祭す 波路一百八十度」

後ろにはいわゆる「土人」に扮した乗員の姿が見えますが、
この神職は一体・・・?

まさか従軍神父みたいに神職が乗り込んでいたわけでもないだろうし・・・。
これもまさか・・・コスプレかな。

 

 

■ ヒロ

(自 11月26日 至 12月15日)

在留同胞の万歳の辞と日の丸の旗に迎えられて
艦隊は悠々弧月湾に入る。
一万四千尺の高峯「マウナロア」は我らの眼前に控え、
若人の憧れて椰子の木茂る布哇島は月光を浴びて我が舷側に其の姿を浮かべた。

想えば三十年の昔、「キャソリック」寺院の鐘の響が
椰子の葉末を渡る時、夕陽淋しき入相を待ちし「ヒロ」の街も今は
自動車の鋭く強き眼光の交錯する市と化し、
一圓茫々たりし原野も緑滴る甘蔗畑と変わった。

されど想え、この発展の歴史の中に潜む在留同胞の汗と力を。

文中の「弧月湾」から臨む「 マウナケヤ」です。

「弧月湾」というのが現在ないので想像ですが、これは「カーブ」を意味する
「ハナウマ湾」の日本人、日系人だけの呼び名ではないかと思われます。

ハワイの日本人移民が始まったのは1868年のことで、
1902年にはサトウキビの農家の70%が日系だったとされています。

ただし、この練習艦隊がハワイに訪問したのと同年の1924年、
アメリカではついに排日移民法が成立しました。

本土では日系人が収容所送りにされたのはご存知だと思いますが、
ハワイではすでに彼らが社会の中心を担っていたため、もし彼らを収容所に入れると
現地の経済がたちまち立ち行かなくなるという現実的な理由から、
ごく一部の者だけが「見せしめ」に収容されるということになりました。

この写真の頃にはすでにそれが交付された後で、
したがって練習艦隊の海軍軍人たちもそのことを重々承知をしていたはずです。


この写真に見えるのは、おそらく自分たち日系人の行く末に不安を感じつつも、
昨日と同じいつも通りの生活を続けているらしい人々の姿です。

「されど思え、この発展の歴史の中に潜む在日同胞の汗と力を」

と称揚しながらも、練習艦隊の乗員たちが、忍び寄る暗雲を
現地の人々の様子から感じる瞬間があったやもしれません。

「ヒロ公園より軍艦望遠」とキャプションがついています。
今でもヒロ湾を一望する湾岸には公園が幾つか広がっているので、
おそらくそのうちの一つであろうと推察されます。

右上はヒロに入港したときの様子。
デリックで海面に降ろされる内火艇に3人乗っているのが見えますね。

左下は横須賀出航以来初めての燃料の補給です。
この頃は石炭を積み込むことが「燃料補給」でした。

 

■ キラウエア火山

壮観か?凄惨か?将(はたま)た恐怖か?
ある時は魔の蛇のごとく、ある時は呪いの女神の焔の如く湧出し、
飛散し昇騰する噴焔の物凄さよ。

 

この頃のカラー写真というのが、フィルムからカラーだったのか、それとも
後から彩色したのかというと後者だと思うのですが、
それにしても真っ赤っかにしすぎではないだろうか。

というキラウエア火山の噴煙の写真。(冒頭)

ヒロのあるハワイ島の活火山で、1883年から噴火を繰り返しており、
よくまあこんなところに人が住んでるなあという状態なのですが、
桜島もそうであるように、そこに住んでいる人は割と平気みたいです。

まあ日本そのものも、外国から見たらよくそんなところに住んでるなと
言われても仕方がない国なんですが、みんなわかってて住んでますしね。

初めて外国に出て、このようなものを目の当たりにした練習艦隊乗員たちの
感動と驚き、自然に対する畏怖がいかばかりであったかは想像に余りあります。

その火山見学に、練習艦隊の皆さんは無謀にも白い制服でやってきました。
11月ですが、ここでの季節を夏と規定して、皆さん夏服を着ている訳です。

こちら、百武司令(一番左)と3人の練習艦艦長たち。

候補生たちも火山口を夏服で見学です。
以前紹介した六十七期の遠洋航海では、火山見学の時
わざわざ冬服とマント着用でやってきていましたが、それは
この先達の経験から忠告を取り入れてのことだったかもしれません。

火山までは車をチャーターするほかないわけですが、これを全て
地元の日系人たちが手配したということが書かれています。

■ 歓迎

布哇島が生まれてよりこの方。
嘗て無かったと言われるほどの所謂(いわゆる)島を挙げての
在留同胞の心からの歓迎!!
それは到底筆で表すことはできない。

殊に自動車の百数十台を連ねて三十哩を距てた
キラウエア火山への案内等には乗員一同如何に感謝したことであろう。

そしてハワイを発つ日、日系人同胞は熱烈に練習艦隊を見送りました。
錨を上げた艦隊の周りを、岸壁はもちろん手作りらしい日章旗を
押したてて漕ぎ、名残を惜しむ日系人の姿が写真に残されています。


思い出多き滞在の日も慌ただしく過ぎて、艦隊は
艦も沈まんばかりの同胞の贈り物と熱誠な見送りの裡に
墨國はアカプルコに向け出航した。

 

続く。




アカプルコ・赤道直下の餅つき〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

$
0
0

 

さて、ハワイ出航後の練習艦隊は南アメリカに向かいます。
航路途中、訓練を行うのは今も昔も同じです。

■ 公開中の諸訓練

(ヒロよりアカプルコまで

航程3190.5マイル 航走 17日14時間)

真の偉大に接し、無限を味合わんとするものは先ずまさに海に往くべし。
艦ゆけば雲もまた追い雲行けば艦もまた追う。
洋中に於いて視界幾十哩は実に我等の自由なる天地なり。
如何に我等が弾丸を飛ばし、小銃を放つと雖も無限に寛大にして何等の羈絆なし。

我等は天際の空の水平線に接するあたりを眺めて我が職務に勉るのみ。

写真に添えられた文章は、特に当時の基準として格調高い訳ではありませんが、
それにしても時々現代ではお目にかかることもない熟語が出てくるので、
なかなか漢字の勉強になります。

羈絆(きはん)

は「おもがい」「きずな」「たびびと」と読む羈と言う字に
脚絆の絆を合わせたもので、行動するものの妨げになるものの意味です。

つまり、如何に我等が弾丸を飛ばし小銃を撃っても、なんの妨げるものもない、
と言う意味になります。

我々には生涯経験することのない「無限に寛大な海」を、海軍軍人は
航海中に行われる訓練によってその初心に叩き込むことになります。

艦腹から突き出るこの時代の砲から立ち上る白煙。
艦砲射撃の訓練とそれを見守る候補生たち、帯をして訓練に臨む水兵の様子。


船の形や訓練の方法は変わっても、この航海が初級士官である彼らの
初めて海の武人としての基礎を身につけるための最初の試練であることに変わりありません。

 

さて、遠洋航海に乗り出し、ハワイで過ごした後、練習艦隊の寄港地は
メキシコのアカプルコです。

大昔のユーミンの曲に「ホリデイはアカプルコ」と言う曲があって、そのような
地の果てのような場所ででホリデイを過ごすなんてどんなリッチな主人公なんだ、
と漠然と思った記憶があるのですが、その後アメリカに移住してみると、
メキシコは(当たり前ですが)目と鼻の先の隣国でした。

そのため、在米中にはユカタン半島の先っちょにあるリゾート、
カンクンでのホリデイを体験することもでき、アカプルコもわたしの中では
決して「地の果て」ではなくなりました。


ところで平成29年度海上自衛隊の遠洋航海も、ハワイの後はサンディエゴ経由で
メキシコに向かい、チアパスに寄港後、これも恒例のパナマ運河を経由してから、
帰路にマンサニージョと言う都市に寄港しています。

マンサニージョは「Manzanillo」と綴るため、日本語の読みは
「マンサニーニョ」「マンザニーヨ」とどうも落ち着きませんが、
実は大正13年の練習艦隊も「マンザニーヨ」と記しているところの
この地に寄港したことがわかりました。

もしかしたら、明治の遠洋艦隊実施の際に寄港地に選ばれた都市が、その後も
連綿と海軍、そして海上自衛隊の継続的な寄港先になっているのかもしれません。

 

それでは太平洋航行中の訓練風景からお送りしましょう。

「臨戦準備」とタイトルのある写真。
アーティスティックに吊られた舫越しに、甲板上の機銃が見えます。

その機銃射撃の訓練を行なっている最中の候補生たち。
右側で体育座りしている人の着ているのが幻の候補生の制服だと思われます。
しかし艦内で座り込んでこんな訓練をするのに白い服とは・・・・。

古い白黒写真でもはっきりとわかるくらい黒ずんで汚れていますね。

射撃を行なっている右には衝立のようなものを支えもつヘルメット着用の下士官がいます。

護衛艦などで甲板を探すと、大抵「溺者救助用」のダミー人形がありますが、
その伝統も遡れば明治大正の帝国海軍からのようです。

ただしこの訓練は「溺者」などと言う甘いものではありません。

「傷者運搬」

つまり、戦闘状態になった時、負傷した者を運搬する訓練です。

広瀬中佐が殉職した閉塞作戦から帰還した中佐の部下の写真でも、
ちょうどこの写真のようなものに簀巻きにされていた人がいましたが、
骨折などで体を動かさない方がいいような重傷者も、これに包んで
体に負担を与えず移動させることができるグッズです。

これだと階段を引っ張り上げることもできますね。

「砲側通信」と説明があります。

この頃の砲撃は、目視によって目標 (敵艦) の対勢、即ち照準線に対する向きと
速力を判定し、射撃計算、即ち発砲諸元の算出を行い、旋回手や 俯仰手は、
「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正し、
砲手のそばにあるブザーが2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 。
引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけで、 そして 「撃てー」 の合図で、
どちらかの舷側の 6インチ砲は一斉に射撃を行うことになっていました。

そして弾着の修正も行われます。
一発撃つのにこれだけの手間が必要ということは、各部署間の連絡が
必要となってくるわけですが、これらの組織・系統を結ぶ通報器や電話、
伝声管などの通信装置のうち、射撃指揮所と方位盤、測的所、発令所を結ぶものを

「射撃幹部通信」

発令所と各砲塔・砲廓砲を結ぶものを

「砲側通信」

と言いました。

よくわからないのですが、この真ん中にあるものが通信機器なんでしょうか。

■ アカプルコ

(自 12月19日 至 12月21日 二日間9

ここは三百年の昔伊達政宗の命を奉じて遠く騾馬に使した
支倉常長以来屡々(しばしば)我が国船の往来した處として
頗る縁の深い市である。
廃墟のようなサンヂエゴ砲台、厚い壁に小さな窓の民家、
石コロの路、豚と蝿、ペリコとインコ等何れも談の種となるものである。

「豚と蝿」という記述がすごいですね。
もちろん今ではそんなものはないでしょう。

ユーミンがホリデイにバカンスをするお洒落なリゾート地なんですから。


文中の支倉常長(はせくらつねなが)は安土桃山時代の武将で、
伊達家の家臣として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、
アジア人として唯一無二のローマ貴族となり、さらには洗礼を受けて
ドン・フィリッポ・フランシスコの洗礼名を持つに至りました。

支倉常長さん

支倉は油絵で肖像画を描かれた最初の日本人と言われています。

その後日本では切支丹禁止令が出たので、本人は失意のうちに死去、
子孫も処刑により支倉家は断絶の憂き目にあいました。

(切支丹禁止令といえば、余談ですが、遠藤周作原作、映画『沈黙』、
まだご覧になっていなかったら是非見ていただきたい映画です。
リアム・ニーソンやスターウォーズのカイロ・レンの俳優が出ていて、
浅野忠信の英語がやたらうまくて、窪塚が絶妙ないい味を出してます。)

ちなみにこの説明による「伊達政宗の命」とはスペインとの通商の締結でしたが、
その途中に寄港したのが、スペイン領だったここアカプルコだったのです。

 

 

街並みはテラスのあるスペイン風の二階家が見えています。

「アカプルコ公園」だそうです。
ベンチには二人で座っている水兵さんの姿がありますね。

「砲台より港を臨む」

この砲台というのは、海賊からスペインの貿易船を守るため、
1616~1617年に建造されたサンディエゴ要塞のことです。

ダウンタウンの小高い断崖の上に位置し、堀を巡らせた建物は五角形、
石造りの砲台が並んでいる昔ながらの観光地となっています。


サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」。
一番後ろ、二本煙突が「浅間」です。

サンディエゴ要塞入り口。

同じ方角から見た現在の入り口の写真を上げておきます。
当時は橋に手すりなどはなかったようですね。
城壁の上部の白い構造物は後から設置(復元?)したようです。

「アカプルコ土産」という題がついています。

当時の写真には珍しく、軍服でニコニコしていますね。
冒頭の紹介文にもあるように「ペリコとインコ」が当地の名産です。

ペリコというのも緑色の「アカガタミドリインコ」のことですが、
練習艦隊の皆さん、お土産についインコを買ってしまった模様。
全員が一羽ずつ、手に乗せたり肩に乗せたりして嬉しそう!

階級章はこの写真ではわかりませんが、特務士官という感じですね。
インコちゃんたち、ちゃんと日本に連れて帰ってもらえたのよね?

「武器・体技・遊技」とタイトルがあります。
これらの催しは、アカプルコを出港し、バルボアまでの、
航程1478マイル、7日と22時間の航海中に行われました。

剣道、銃剣、弓術、すもうなどが武技・体技です。

アカプルコでは剣道、柔道などを現地の賓客に観覧していただきました。
どんな試合が行われているかは、皆さんの表情から伺い知れますね。
前列に座っている全員の顔が・・・・・・・・(笑)

( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)

さぞ白熱した試合が展開されたのでしょう。
右から三番目の白の軍服が、練習艦隊司令百武三郎中将です。


かと思えば、片足を縛ってケンケンで紐の先の飴を咥える「飴食い競争」。
真面目な顔で一生懸命やっている様子がじわじわきますね。


■ 航海中

 

毎日目に見える様な気温の昇騰と共に「バルボア」は近づき、
記念すべき遠航の正月は眼前に迫ってきた。
甲板からは景気の良い餅搗く音が一日中聞こえた。

 

冒頭写真は艦上での餅つき大会の様子です。
今と違い、餅つきはお正月を控えた日本人の特に大事な、そして
故郷を思い出す心の行事だったので、盛大にこれを執り行った様です。

アルバム中、全員が相好くずして笑っているのは唯一この写真だけです。

ただし日本のお正月準備とは違い、ぐんぐん上がる気温のため
現場では大変な暑さになっていたことが写真からもわかりますね。


 

続く。

 

 

パナマ運河通過!〜大正13年度 帝国海軍遠洋練習艦隊

$
0
0

さて、アカプルコから大正13年度帝国海軍練習艦隊はパナマに向かいました。
パナマ運河を通過するというのは遠洋航海のハイライトです。

当時の船は石炭を動力としていたので、艦隊の皆さんは寄港地で
船に石炭を摘む作業を総出で行いました。

頭から顔を覆うヒサシ付きの帽子をかぶり、サングラス、脚絆着用。
これぞ、この時代の艦隊勤務につきもの、石炭積み作業。

明治、大正の戦争文学にも石炭を使ったボイラー室の仕事の過酷さが出てきますが、
その石炭を積むのも並大抵の重労働ではなかったらしいことがこの写真からもわかります。

右側に後ろを向いて何かを運んでいる人の列がありますね。
まさかとは思いますが、これも石炭を機関室に運んでいるのでしょうか。

石炭は低い石炭船の船倉から、外舷の高い軍艦に、すべて人力で積み込み、
10メートルもある外舷に板で階段を造り、その一段ごとに兵員が腰を掛け、
下の石炭船から丸い大きな竹籠にいっぱい石炭を入れては、次から 次と
手送りで上に揚げていくことになっていました。

船まで石炭の荷を上げるまでの仕事は水兵が行いますが、
下士官や候補生もそれを見物していたわけではもちろんありません。

手拭いで頬かむりをし、眼鏡を掛け、口にはマスクを当てて 、
写真ではわかりませんが、チョークで顔を白塗りしていたそうです。

石炭船から上げるだけでなく、これを機関室(船の底)まで
運ばなくてはいけないのです。
大正年間にはエレベーターがあったという話もありますので、
おそらく彼らは機関室につながるエレベーターまで石炭を運んでいるのでしょう。

この写真で旗艦が「出雲」になったということを初めて知りました。
どうも当時旗艦は航海中交代するものだったようです。

写真には

大日本帝国練習艦隊 旗艦出雲
大正十三年十二月廿九日 バ航 入港

とあります。

という訳で大正13年度帝国海軍練習艦隊は、南米のアカプルコを出立し、
パナマのバルボアに到着しました。

■ パナマ運河

世界一を標榜する米国民は流石にえらい仕事をして居る。
パナマ運河もその一ツで構造の豪壮、設備の完全共に驚嘆に値する
我が国には「船頭多くして船山に登る」という諺があるが
此処では閘門(運河の水量を調節する水門)によって本当に
船が山に登って向こう側の海に降ろされる。

パナマ運河は、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して
太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河です。

1913年、つまりこの遠洋航海のわずか11年前に開通したというのは
世界的にも大変な出来事として衝撃的に喧伝されていたものと思われます。

 

日本人にとっては地球の裏側の出来事で、あまり関心はなかったかもしれませんが、
何しろそれまでは太平洋側と大西洋は南北アメリカ大陸で遮断され、
船を使った運輸を行おうと思ったら、わずか80キロの反対側の海に行くため
南米大陸先端のマゼラン海峡やドレーク海峡を回らなくてはならなかったのですから、
南北アメリカ大陸の国々にとってはこの快挙はそれこそコペルニクス的転回だったのです。

練習艦隊で此処を通過した海軍軍人たちも、この巨大な構造物とそれを成し遂げた
技術には大いに驚き、アメリカという国の底力に感嘆した様子が記されています。

帝国海軍の練習艦隊の行き先に「パナマ運河」が初めて出てくるのは
大正10年、太平洋横断後、パナマ運河経由でヨーロッパに回るコースの時です。

その前年度の初めての世界一周、大正7年、鈴木貫太郎が司令官だった時の
練習艦隊も通過していた可能性はありますが、こちらは資料がなく定かではありません。


さて、そこでこの写真をご覧ください。

我が日本国海上自衛隊の遠洋練習航海においても、パナマ運河は必須コース。

最近の練習艦隊でパナマ運河でなくマゼラン海峡をあえて超えた例がありましたが、
これは「艱難辛苦汝を珠にす」的な意味で選ばれたのでしょう。(多分)

練習艦隊司令官真鍋海将補が後日水交会で行なった報告会では、
パナマ運河を航行する「かしま」の艦橋から撮った映像が早回しで上映されました。

「こんなに速く進めたら本当に楽なんですけどね」

と真鍋海将補は会場の人々を笑わせていましたが、実際、
パナマ運河というのは最小幅91m、最浅12.5mという難所でもあるので、
熟練の操舵をもってしても目を瞑ってスイスイというわけにはいかないのです。

待ち時間を含めると、通過には現在でも丸々24時間かか流ということです。

パナマ運河は当初アメリカ統治下で、総督を置き、軍が管理をしていました。
民政となったのちも、運河総督は代々アメリカ陸軍軍人が務めています。

それ以外にも陸軍はパナマ運河軍と称する防衛隊を結成したようですね。

月夜のパナマ運河、これはどう見ても絵・・・ですよね?

紹介文に出てきたところの

「閘門によって船が山に登って向こう側の海に降ろされる」

というのが具体的にどういう意味かというと、パナマ運河を大西洋側から入ると、
まずガトゥン閘門というのがあり、此処で3つの閘門を越すと、
船は結果的に海面から26mの高さに持ち上げられることになるということです。


出典:海上自衛隊ホームページ 平成29年度練習艦隊活動報告

これがまさに船が山に登って降ろされているの図。

パナマ運河を通過するアメリカの艦船。
流石に自分たちが通過している写真を撮ることはできなかったようです。

「カレバカット航行中」とありますが、現在の日本語では「クレブラカット」、
 別名「ゲイラード・カット」と呼ばれる分水嶺の地帯のことです。

パナマ運河の太平洋側の都市バルボアで艦隊は正月を迎えました。
現地の陸軍を観閲するために正装して歩く司令長官百武中将と艦長たち。

案内はアメリカ陸軍軍人が行なっていますね。

■ バルボアの正月

(自12月28日 至 1月5日 8日間)

遠く太平洋を隔てて常夏の国で白服に汗を流して
思い出多い正月を迎えた我々は清しき椰子樹の陰に佇みて
はるかに祖国の雪景色と炬燵情調を偲ぶのであった。

白服で 雑煮を祝う 椰子の国

お正月を迎えた出雲の舷門の様子です。

こちらは「八雲」のお正月舷門。
注連縄をかけ門松の代わりに椰子の木でデコレーションしていますね(笑)

1月5日、バルボアを出発するにあたって、旗艦が「出雲」から
「浅間」に交代される事になりその引き継ぎの儀式が行われているところです。

状況がわかりませんが、捧げ銃の儀仗隊の前を、これから
敬礼した練習艦隊が下艦し「浅間」に乗り替えるところでしょうか。

遠洋艦隊中、旗艦の交代は2回行われました。
つまり、全部の艦が一度ずつ旗艦を務めたことになります。

ガトゥン湖の水力発電所を見学する候補生たち。
皆さん手ぶらですが、大きな水筒を背負っている用意周到な人もいますね。

一番右の人は制服を思いっきり汚しているのを写されてしまいました(笑)

バルボア、というのはスペインの探検家で征服者?というか植民地政治家だった

ヴァスコ・ヌニェス・デ・バルボア将軍

の名前から取られた地名です。
スペインからカリブ海を通ってパナマ地峡をあの悪名高い?ピサロと一緒に進み、
海が見えたので、

「新しい海(太平洋)を発見した」

と報告し、ついでに自分の名前をその地につけたというわけです。
当時のスペインの探検家らしく、結構残虐なこともやらかしています。

同性愛者を犬に食べさせるの図。

なぜ同性愛者なのか、なぜ犬なのか、色々疑問ですが、
ツッコミどころは見物している人々が全員モデル立ちしてることでしょうか。
なにポーズ決めてんだよっていう。

それと犬の首が妙に長いのも気になりますね。

ちなみにバルボア将軍、黄金を求めてさらに探索しようとしていたら、
かつての部下ピサロに処刑されてしまったそうです。(-人-)ナムー

いやー、義理も人情もあったもんじゃありませんわこの時代は。

大西洋側のコロン県クリストバールには載卸炭場がありました。
当時は石炭が動力だった船のために、此処で給油ならぬ給炭を行なったのです。

現在のコロンにはコロンビアの麻薬組織が蔓延り、周辺の移民が流入し、
ただでさえ危険なイメージのある中南米一危険な土地と言われています。

300年前海賊モルガンに壊滅させられたオールドパナマの廃墟、

と説明があります。

モルガンことヘンリー・モーガンはカリブの海賊、
つまり「パイレーツ・オブ・カリビアン」でした。

イギリス出身のカリブの海賊で、この一帯を遠征しては荒らし回っていましたが、
軍隊並みに力を持っていて、パナマ遠征では2時間の戦闘で市を壊滅させた、とあります。

モーガンの経歴を読んで驚くのは、海賊をやめた後、彼は

イギリスから重用され、治安判事、海事裁判所長などを歴任し、
1680年には、なんとジャマイカ島代理総督にまでなった

ということです。
「カリブの海賊」の話って、ファンタジー以外の部分は割と実話に基づいてたんですね。
イギリスが海賊を利用していたっていう。


バルボアを1月5日に出航、練習艦隊は再びメキシコの
マンザニーヨに向かいました。

航程1747.3マイル、6日と21時間の航程です。

儀式やレセプションではもちろん、艦内での娯楽として
コンサートを行なった軍楽隊の演奏中の写真が残されています。

アルバムによると、艦内では乗員の慰安のために、何度となく
音楽演奏が行われたといいますから、これもその一環でしょう。

指揮者と何人かの隊員は腰に短剣を佩しています。
検索してみると、ヤフオクでは「軍楽隊高級士官用短剣」なるものが
オークションに出たという形跡もありました。

それから彼らの軍服が兵学校生徒のそれのように裾が短いのにご注意ください。
これでよく知らなかったり暗かったりすると兵学校生徒と間違えて
うっかり敬礼してしまい悔しい思いをした下士官が結構いたそうです。

 

寄港地で日本からの便りを受け取ることもできました。
家族が鎮守府宛に出すと、海軍が先回りして届けておいてくれたようです。

わたしも練習艦隊あてに手紙がいつ届くのか知りたいという下心もあって、
実は手紙を出したことがあります。(もちろんお礼がメインの目的ですが)

とりあえず呉地方総監部にある練習艦隊宛に出したところ、
出航前の艦上レセプションの段階では届いていないようでしたが、
結局どこかの寄港地で追いかけるように先方は受け取ったようでした。

 

毎日発行されていたという「軍艦新聞」。
ガリ版に手書きで書いて、謄写版で刷って配られました。

現地の観光案内などもあり、皆が情報を得るのに重宝していたようです。

 

謄写版のローラーを動かす水兵さん、楽しそう。
この頃はカーボンのようなインク紙に、直接それを削り取る鉄筆で原稿を書き、
それを一枚一枚刷っていたのです。

ほぼ毎日のように発行されていたといいますから、大変な努力ですね。
きっと当ブログ主のように、皆に読んでもらうことが何よりの喜びだったのでしょう。

なんちゃって。

 

 

 

続く。



サー・ニールス・オラフ准将(ただしペンギン)〜ミリタリー・アニマル

$
0
0

 

何の気なしに始めた「ミリタリー・アニマル」シリーズですが、
結構面白いので制作のために調べることをとても楽しみました。

犬や猫、クマですら階級を与えられて任務についていたという話は
まるでおとぎ話を聞いているような気すらします。

人の命令を聞かない猫はともかく、頭のいい動物はわかった上で
人間に従うものだということも数ある例が証明していますね。

さて、頭のいい動物というと、その筆頭はイルカではないでしょうか。

 

■ イルカ

 

かつて地球上に現れた高い知能を持つ動物が二種類いた。
陸に住むことを選んだのが人間、海に残ることを選んだのがイルカ。

いや、それほどじゃないだろう、という話も聞かないわけではないですが、
とにかく「わんぱくフリッパー」以来、イルカの知能の高さはワールドワイドで
有名になったと思われます。

 

しかしアメリカ海軍ではそれよりもっと昔、50年以上前からイルカに
救われてきた歴史を持っています。

1965年には、海軍で「海軍海洋生物プログラム」というプロジェクトが始まり、
写真のバンドウイルカの「タフィー」が200フィートもの深海に潜水し、
SEALAB IIと呼ばれた海底のステーションに滞在するアクアノー
(aquanaut、水の中で生きる人の意で宇宙飛行士のアストロノーの水中版)
のところまでなんども往復してツールを運搬する役目を果たしました。

シーラブ計画とは飽和潜水(減圧症を避けつつ深海に人間が滞在するための技術)
の可能性と、長期間隔離された人間の生活を証明するために1960年代から
アメリカ海軍によって開発された実験的な水中ステーション計画です。

イルカのタフィーが導入されたのはその第二計画を意味するIIからで、
アクアノーの一人は30日間、その他は15日の滞在記録を作りましたが、
地上からダイバーへ、ダイバーからダイバー(カプセルは一人用)の元を回遊し、
メッセージを運んで非常時には水上警察に連絡することもできました。

タフィーの活躍でIIは成功で、次回プロジェクトにも彼を投入するということが
ほぼ決まっていましたがが、SEALABIIIでは海洋ではなくIIの三倍の深海と同等の
圧力をかけたチェンバーで実験されたため、彼の出番はありませんでした。

なお、海洋で行われた実験では二酸化酸素中毒による殉職を出しています。

冒頭写真のタフィーが加えているのは認識用のブイで、
彼は例えば機雷を発見したら近くに目印になるブイを設置して
人間がそれを処理できるようにすることもできたということです。

高速で泳ぐことができ、ステルス性のあるイルカは優秀なスパイになります。

セキュリティネットをかい潜ることを訓練すれば、例えば敵の艦船に近づき
情報を収集することも可能でしょう。

これは名前をK-ドッグという名前のバンドウイルカで、
ペルシャ湾での機雷処理を任務としていました。

彼が右のヒレにつけているのはスパイ用ではなく、ハンドラーが
潜水中の彼がどこにイルカがわかるためのカメラです。

イルカが初めて戦闘に使われたのはベトナム戦争時、70年代初頭でした。
その時の任務は、停泊している艦船の周囲を彼らの反響定位を用いて
不審なものなどがいれば人間に知らせるという仕事をしていました。


反響定位(エコロケーション、Echolocation)はしばしば動物に備わっている
ソナーのようなもので、イルカの他にはクジラ、コウモリ、一部の鳥に見られます。

水中で、自分が出した音が何かにぶつかって反響し帰ってきた音から、
その何かの方向と位置を知ることができるというもので、コウモリが暗闇でも
活動できるのはこの能力によるものです。

2003年から始まったイラク戦争にもイルカは投入されています。

食べ物や医薬品、そのた救急用品を港に運ぶ船が安全に航行できるように、
ペルシャ湾の機雷を探知するのが彼らの役目でした。

外地だけでなく、アメリカ国内でもイルカは海軍の仕事をしています。

1996年、「海軍イルカ」は共和党全国大会がサンディエゴで行われている間、
シークレットサービスの周辺海域の警備警戒を助けたということです。

(仕事が終わったらサンディエゴのシーワールドに帰ったのかな)

イルカというのは案外目つきが悪いとこの写真を見て思うわけですがそれはともかく。
彼がくわえているのは何かはわかりませんが『スパイグッズ』だそうです。

その下にちらっと見えるのがバスケットボールをくわえるベルーガで、
海軍はベルーガも訓練して何か利用できないかテストをしたことがあります。

その成果についてはわかっていませんが、ベルーガがターゲットになったのは
イルカやアシカより深海に行くことができ、さらには低温にも強いからだとか。

というわけで色々と海軍は彼らを使う方法を模索し続けてきたのですが、
現在ではロボットを採用する方向に進んでおり、「ドルフィンソルジャー」が
海軍によって正式に雇用される機会は少しずつ減ってきています。

しかし、それらがイルカと同等のソナーや何より高度な知能を持つ日は
まだまだ先のことだと言われています。

 

■ アシカ

イルカの持つ探査能力ーソナーはおそらく海洋生物一でしょう。
しかし、彼らに備わっていない優れた探査能力を備えているのがアシカです。

カリフォルニアアシカはずば抜けた視力と聴力を備えており、
たとえ夜間や暗黒、濁った海中でもはっきりとものを捉えることができます。

そのアシカの優れた視力を海軍は海中探査のために利用しています。

海軍が訓練などで使用し、海底に落としたり沈んだりした武器や装備。
こういうものを探し出すことで、彼らは海軍に何百万ドルもの利益を提供します。

彼らは650フィートもの深海にも楽々と泳いで行くことができるのです。

アシカは訓練を施すことによって、不審なスイマーを発見すると、その足に
警戒船と繋がった紐の先のクランプや手錠をかけることまでできるようになります。

あとは船上から魚釣りのように紐を引っ張って文字通りお縄、という流れ。

アシカが泳いできたと思ったら可愛らしく足の先に手錠?をかけてしまう。
彼らの海中での動きは目にも留まらぬくらい早く、しかもほとんどの人は
自分の足に金具がはまってからそうと気付くくらいの素早さなんだとか。

こんな体験ができる人をちょっと羨ましく思いませんか?

ついでに、アシカは逃げ足も早く、悪者(笑)がそうと気づいて
アシカに危害を加える前に現場を離脱し、船上の人間に

「今悪い奴がいたので、ア シ カ ら先に手錠かけてきましたー」

と報告するのだそうです。

 

ちなみに、海軍に雇われているアシカは「Neutered」、
つまり去勢したオスと決められています。
去勢した動物のオスは一般的によく言えば温和に、悪く言えば覇気がなくなり、
アグレッシブさがなくなるので人間にとっては扱いやすくなるのです。

海軍アシカ軍団はボーイズラブ・・じゃなくてボーイズクラブってことですね。

体重も300パウンドを維持するように厳しく管理されており、海軍では
デブのオカマは使い物にならない、とされているようです。

■ ペンギン

階級章を肩?につけて閲兵を行ういかにも偉そうな・・・このお方は?

軍隊が採用する動物は多々あれど、命令を下す側の動物は滅多にいません。
しかし、スコットランドはエジンバラ動物園のこのペンギンは
Norwegian Royal Guard、ノルウェー陸軍近衛部隊の司令官で、
「サー」の称号を持つニルス・オラフ(Sir Nils Olav)。

彼は2016年現在で准将の地位と騎士号を持っています。
(言っておきますが本当に持っています)

一体どうしてこんなことになったのでしょうか。

自衛隊の音楽隊も参加することで有名になった世界の軍楽隊による音楽祭、
ミリタリー・タトゥーが1961年にここエジンバラで行われた時のことです。

ノルウェー陸軍近衛部隊もこの祭典に参加するためにエジンバラを訪れ、
その際隊員たちは余暇を利用して動物園に遊びにきたのですが、
隊員の一人ニルス・エジェリン中尉はペンギンにいたく魅了され、
その次に行われたなんと11年後のミリタリータトゥーで、ここのペンギンを
正式にマスコットにしたいと動物園に申し出たのです。

動物園側が快く承諾したため、一羽のペンギンはニルス・オラフ(国王の名前)
と名前をつけられて上等兵からの軍人生活をスタートさせました。

その後、音楽祭に近衛部隊が参加するたびに彼は昇進してゆき、1982年に伍長、
1987年には軍曹となりました。

しかし軍曹に昇進してまもなく、1世は死去したので、引き続き2世が指名され、
階級を引き継いで1993年には連隊上級曹長、2001年には名誉連隊上級曹長となります。

2005年には、ニルスは名誉連隊長(Colonel-in-Chief)の称号が与えられ、
エジンバラ動物園に銅像が設置されることになりました。
2008年にはニルス・オーラヴ二世に対し、ノルウェー国王より
騎士号が授けられましたが、二世はそこで死去。

その後、ニルス・オーラヴ3世が引き継ぎ、2016年には准将に昇進しました。
その際ノルウェー陸軍近衛部隊50名が参加しての「閲兵」セレモニーが行われており、
この写真はその時のものです。

動画もあるので閲兵の様子をご覧ください。

Sir Nils Olav promoted to Brigadier by Norwegian King's Guard

指揮官の前で立ち止まり、羽をパタパタさせるのが可愛すぎる・・。

それにしてもなぜノルウェーとスコットランドが?と思ったのですが、
実はエジンバラ動物園に最初にペンギン三羽を送ったのがノルウェーなんだそうです。

1913年に 捕鯨に行って連れて帰ってきたペンギンだったとか。

 

■ ヤギ

アメリカの独立戦争におけるあのバンカーヒルの戦いにおいて、
野生のヤギがイギリス軍の兵士たちの一団を案内して戦場を突っ切り、
丘を登り、アメリカ軍の防衛ラインを急襲することに成功させたという話があります。

それ以来、ロイヤル・ウェールズ・フュージリアーズ連隊(Royal Welch Fusiliers)
ではヤギを正式なマスコット、というか軍隊階級を持つメンバーとしているのだそうです。

ちなみに「フュージリアー」とは本来、「フュージル」(fusil)と呼ばれた
軽いフリントロック式マスケット銃で武装した兵士のことです。
この言葉は1680年頃に初出し、後には連隊の名称として使われるようになりました。

現在のRWFでマスコットになっているヤギは、そのツノも神々しい

ウィリアム・ウィンザー二世(William Windsor II )。

ウィリアムなので、あだ名はビリー・フォー・ショート、
普段はライトにビリーと呼ばれているようです(笑)

二世というからには当然初代もいたわけですが、南北戦争の後、
イギリス王室は定期的に王室所有のヤギの中から一匹ずつ、
連隊にプレゼントしていたのだそうです。

先代のウィリアム・ウィンザー一世は、2006年のエリザベス二世の
80歳の誕生日がキプロスで行われた時、

「不適切な行動をとった」

ということでマジで降格になってしまったことがありました。
その不適切な行動とは、

列の中にいることを命じられたにもかかわらず命令に従うことを拒み

足並みをそろえることに失敗し

ドラム奏者に頭突きをしようとした

「ヤギ少佐」であった22歳のデイビス兵長は、ビリーを統御することができず、
ビリーは「容認できない行動」「無礼」「直列指令への不服従」で告発され、
懲戒委員会の後に、フュージリアー(兵士)に格下げされました。

ビリーが兵長だった時、兵士たちはすれ違うさい敬礼をしなくてはいけなかったのですが、
この処置のあとはその必要がなくなったわけです。

ここでなぜかカナダの動物愛護団体が出てきて、彼は「ヤギらしくふるまった」にすぎず
復位されるべきだと述べイギリス陸軍に抗議する騒ぎになりました。

3か月後の勝利を祝うパレードでビリーはもとの地位に復帰しました。

「彼はひと夏中女王の生誕祭での彼の振る舞いをよく反省し、
明らかにもとの階級にふさわしい振る舞いをした」

と評価されたのです。
ヤギの反省の形がどのようなものか知りたいような気もしますがそれはともかく。

 歴史的にこのような措置をされたのはビリーだけではなく、「将官への無礼」に対して
最終的に軍法議会にかけられ降格させられたり、制服のズボンのストラップを固定するために
身をかがめた大佐を角で突いたりして降格されたヤギは存在するそうです。

特にこの出来事は「不服従の恥ずべき行動」と言われ厳しく非難されたそうですが、
まあなんちうか、ヤギ相手に何をやっているのかという気もしないでもありません。

現在のビリー二世は、そういう問題をできるだけ避けるために、
性質の穏やかで「冷静な」ヤギを厳選したということですので、
今のところ問題は起こしていないようです。

 

アメリカ海軍では船にペット兼非常食として船にヤギを載せていたことがあります。

また、ある時一人の士官が海軍兵学校対どこかのフットボールの試合の時
面白半分にハーフタイムに剥製になっていたヤギの皮を被って
サイドラインを走り回ったところ、後半になって海軍兵学校が大勝したことから、
その後兵学校のマスコットはヤギと決められているのだそうです。

 

 

さて、今まで「ミリタリーアニマル」についてお話ししてきましたが、
最後に、動物をマスコットにしている軍隊(主にイギリス軍)を列挙しておきます。


(イギリス軍)

第1ビクトリア女王近衛竜騎兵連隊 ポニー(エムリス)

ロイヤルスコッツ近衛竜騎兵 ドラムホース(タラベラ)

クィーンズオブ・ロイヤルアイルランド ドラムホース(アラメイン)

パラシュート連隊 シェトランドポニー(ペガサスとフォークランド)

ロイヤル・スコットランド連隊 シェトランドポニー(クルアチャンとイズレー)

ロイヤル・アイリッシュ連隊 アイリッシュ・ウルフハウンド(ブライアン・ボル)

アイリッシュガード アイリッシュ・ウルフハウンド(ドムナル)

メルシャン連隊 スウェルデール羊(ダービーラム)

ロイヤル・レジメント・オブ・フュージリアズ アンテロープ(ボビー)

第3大隊メルシャン連隊 スタッフォードシャーブルテリア(ワッチマン)

ヨークシャー連隊 フェレット (インファルとケベック)

 

(アメリカ海軍)

USS「ヴァンデクリフト」FFG-48 犬(シーマン・ジェナ)

(米海兵隊)

ブルドッグ (初代ジグ一等兵に始まり現在は十六匹目、チェスティ)

(アメリカ陸軍)

ウェストポイント 騾馬

(カナダ軍)

ロイヤル22連隊 ヤギ(バティス)

(オーストラリア軍)

王立オーストラリア連隊 第1大隊 シェトランドポニー(セプトムス)

第5大隊 スマトラ虎 (カンタス)

第6大隊 オーストラリアカウドック(リッジレイ・ブルー)故人

空軍 はやぶさ(ペニー・アラート)

(ニュージーランド軍) 亀

(スペイン軍) ヤギ

(スリランカ軍)象

 

やっぱりスリランカ軍は象ですか。
個人的に虎をマスコットにしている王立オーストラリア連隊と、
はやぶさを飼っているオーストラリア空軍はイケてると評価します。

あと、イギリスパラシュート連隊のポニーが「フォークランド」がじわじわきます。
たいていの動物はパレードに借り出したりするわけですがフェレットは無理かも。

 

ミリタリーアニマルシリーズ、終わり。

 

 

 


サンディエゴ海軍基地と伊21の酸素魚雷〜サンディエゴ海事博物館

$
0
0

サンディエゴ海事博物館で、帆船「スター・オブ・インディア」、
レプリカ帆船「サプライズ」、ソ連海軍潜水艦B-39、そして
深海実験潜水艦「ドルフィン」の見学を終えました。

キーステーションになっている蒸気船「バークリー」には
海事博物館としての館内展示がありましたので、今日はシリーズ最後に
これらをご紹介しようと思います。

冒頭画像は、いわゆるブリッジのエキップメント、ジャイロとか
エンジン・テレグラフ、コンパス、ビナクルなど一式ですが、
これは「タイコンデロガ」のブリッジにあったものなのだそうです。

アメリカ海軍は現在に至るまで同盟の軍艦を5隻引き継いできましたが、
これは

タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV/CVA/CVS-14)

エセックス級航空母艦で、同級空母の10番目艦のことだろうと思われます。

その後ろに、駆逐艦4隻が並び、乗組員が全員写っている写真がありますが、
これには

Tin Can Sailors

とタイトルが付いています。
駆逐艦のことが「ティン・カン」(缶詰)と呼ばれていたことは以前も書きましたが、
彼ら駆逐艦乗りは誇りを持って自らをこのように称していたのです。

真ん中の USS 「ジョン・H・デント」のところだけアップにしてみました。
写真が撮られたのは1930年、「デント」は18年から就役しています。

駆逐艦は軍人の名前をつけることが当時の慣習となっていましたが、
デントもまたバーバリ戦争に出征し、「コンスティチューション」艦長をしていました。

この写真で他に名前のわかるのは

 USS 「シラス・タルボット」DD-114

ですが、これも「コンスティチューション」艦長だった人物の名前です。

ウィッカー級の艦名は、「コンスティチューション」の艦長の名前を
順番につけているのか?と思ったのですが偶然でした。

ちなみに「Tin Can Sailors 」で検索すると、駆逐艦乗りだった
退役軍人の会が出てきます。

 
こちらは「ロサンゼルス」級原子力潜水艦

 USS「ラホーヤ」SSN-701

の記念グッズコーナー。
「ボトム・ガン」というのが愛称だったようですが、
ボトムガンで調べても石油の掘削用語でしか意味が出てきません。

単純に潜水艦なので「ボトム」ってことでいいのかな。
もしかしたら「トップ・ガン」の向こう(と言うか下)を張った名前?

「ラホーヤ」は初めてトマホークミサイルを射出した潜水艦であり、
当時の艦長ガーネット・C・’スキップ’・ビアードは、のちに映画
「クリムゾン・タイド」のアドバイザーに名前をクレジットされています。

ここサンディエゴを母港として一週間くらいのクルーズが体験できる
レプリカ帆船「サンサルバドル」の写真。

帆船で6泊7日、というのはぜひ生涯に一度くらい体験してみたいですが、
一人999ドル(12万円くらい?)で可能だそうです。

ただセーリングするだけなら4時間で49〜99ドル。

ここはサンディエゴ、ということで

ドック型輸送揚陸艦 USS「サンディエゴ」 LPD-22

の大掛かりな模型もありました。
ドック型揚陸艦というのは、ウェルドック(艦艇の船尾、喫水線直上にある
デッキ状のドック式格納庫)をもつ揚陸艦です。

海上自衛隊の「おおすみ」型輸送艦が備えているのもウェルドックです。
「うらが」型掃海母艦などのもそうですね。

ちなみにLCACなどはそのウェルドックから出入りするわけですが、
一度LCACの艇長だったという自衛官に聞いたところによると、
「降りるのは簡単だけど乗るのは結構大変」だそうです。

このコーナーは海軍の街サンディエゴの基地の歴史について。

上の写真はここに駆逐艦の基地ができたばかりの1922年。
下は海軍基地をここに作ろうとしていた頃の1918年、
当時バルボア・パーク(今は博物館や動物園がある市民の憩いの場)
にあった訓練場での様子です。

海事博物館のあるのが、下の地図でいうとちょうど真ん中。
手前の半島?がコロナドですが、今と形が違います。
どうも海軍基地になってから大幅に埋め立てられたようです。 

現在の海軍基地は、サンディエゴ、その海岸と対岸にあるように見える
長い半島状の土地コロナドの先端のほぼ全て、そしてそのまた対岸の
ラ・プラーヤというところにも展開しています。

どうもこの説明によると、ラ・プラーヤが最初だったようですね。

 

この二つの写真がコロナドの基地です。
ここに基地ができたのは戦争中の1943年。
太平洋側に強力な海軍基地が必要ということで、おそらく
日米開戦後から増設を始めたのではないかと思われます。 

アンフィビアンベースがあった、と説明されています。
ネイビーシールズは、現在もここコロナド(もう一つのはバージニア)
に基地を持っていますので、これが彼らの元祖に違いありません。 

模型は駆逐艦「ポーター」(USS Porter,DD-356)

「ポーター」は真珠湾攻撃の二日前に現地を発って難を逃れ、
その後サンディエゴを母港として出撃していました。

ガダルカナルで不時着した「エンタープライズ」の雷撃機の救助に向かい、
そこで日本軍機の雷撃を受け損傷。
乗組員は艦を放棄し、「ショー」 (USS Shaw, DD-373)
の砲撃によって沈められ、その後除籍になりました。

新兵さんたちの到着と、その訓練の様子が本になっています。
大型艦の甲板から海に飛び込む訓練も当時は日常的にやっていたようです。
今の海軍はその辺りをどうしているのかわかりません。

 

戦艦「ミズーリ」の模型がありました。
サンディエゴとはあまり縁がないのになぜ?という気もしますが、 
そこに模型を作りたい誰かがいたってことなんでしょう。

おそらく日本で行われたこの降伏調印式の様子の模型を置きたくて作ったのかと。

その時「ミズーリ」艦上には甲板にも艦橋にもデッキにも、
あるいは砲の上とかにもアメリカ軍の兵士が掃いて捨てるほどほどいたわけですが、
さすがにそれは再現できないので、サインしているニミッツら4名、
日本全権団は重光葵外相と梅津美治郎陸軍大将の二人という超省略メンバーです。

製作者のコメントによると、後ろの3名は手前からフォレスト・シャーマン中将、
ハルゼー提督、そしてマッカーサー将軍だそうです。
 

それはそうと、軍艦の上で行われたこの調印式もアメリカ海軍の規定に慣い、

「乗艦している最先任の海軍将官の将旗のみをメインマストに掲げる」

と言うことになっていたはずだったのですが、ところがどっこい
陸軍のマッカーサーが強く要求したため、超例外的に

海軍元帥の将旗と並んで陸軍元帥の将旗も掲げられた

ということです。
マ元帥と犬猿の仲だったニミッツ元帥はさぞムカムカしていたことでしょう(笑)

そして余談ですが。

この調印式の時に重光外相の横にいるタキシードとシルクハットの役人は
外務省の加瀬俊一氏と言いますが、なんとオノ・ヨーコのおじさんだそうです。

この方の奥さんが小野さんという家の出身(日本興業銀行総裁の娘)で、
ヨーコさんのお母さんは彼女と姉妹という関係。

おぜう様だったんですね。

こちらも大変力の入った大型模型。
素人の作品ではなく、博物館が依頼してプロに作らせたものだと思われます。

サンディエゴを母港としていていた

護衛空母「シャムロック・ベイ」USS Shamrock Bay  CVE-84

は、沖縄戦で1200回もその甲板から航空機を発進させました。

旭日旗のマークが9個描かれていますが、彼女は海戦をしていないので
旭日旗は墜とした飛行機という意味でしょうか。

沖縄にもウルシーにも出撃していますが、特攻攻撃には遭わなかったようです。

甲板上の飛行機はグラマンのF4Fワイルドキャットだと思われます。
この時代エレベーターは外付けではなく、甲板の真ん中にあったんですね。

マスタージャイロコンパスです。 

「マスター」とついているのは文字通り「大元」になるジャイロで、
このコンパスの示す方位を分配器を経由してレピータコンパスに伝えます。

マスターコンパスの下には独楽が回っており、電気信号を送り出します。
レピータコンパスはこの信号を受け取って、方位盤を動かすのです。

操舵スタンドの中や操縦コンソール内に収められており、
そこからブリッジ中央、ウィング、フライングブリッジなどにある
レピータコンパスに信号を送ります。
レーダーや無線方位測定器などもジャイロコンパスから信号を受け取ります。

Long Lance Torpedoというのは、つまり酸素魚雷です。

このひっそりと展示されている航空魚雷は、実は伊21の発射したものなのだとか。

これはカリフォルニア沿岸で発見された酸素魚雷だそうですが、
伊21は1941年から1921年にかけて、アメリカ西海岸の沿岸地域で
通商破壊作戦に従事しており、オイルタンカー2隻を攻撃、いずれも
撃破することに成功したということですので、 その時の残骸でしょう。

 

そしてこれがその時伊21に沈没させられたタンカー「モンテベロ」の模型。
これもやたら力入ってます。 

「AT WAR! TANKER IS SUNK!」

の文字の隣の絵には、しっかり伊21潜水艦の姿が描かれているではありませんか。
この時期(開戦当初)アメリカは本当に危機感を覚えていたってことですよ。 
雑な言い方をすると、やられればそれだけ燃える闘争的な国民性なので、
これから終戦までに日本の民間船は復讐に燃えたアメリカ潜水艦によって
それこそ倍、倍々返し、というくらいの甚大な被害を被ることになります。

いやー、アメリカさんの執念深さを見たって気がしますわ(適当)

さて、というわけで海事博物館の館内展示を見終わりました。
この日サンディエゴではコミコンという(本当です)全米でも有名なコミケがあって、
そのせいで空港も街中もコスプレな人たちが変な格好でウロウロしていました。

70年以上前は日本とドンパチやり合っていたのと同じアメリカ人が、
その日本文化を取り入れて楽しんでいる姿を、展示を見て出てきた途端目撃し、
平和に感謝するとともに、仲良きことは美しき哉、と心から思ったのでした。 


サンディエゴ海事博物館シリーズ終わり

 

 

桑港・接伴艦「コロラド」級三姉妹〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

$
0
0

 

大正13年練習艦隊は中南米の航程を経て、西海岸にやってきました。
アメリカでの寄港地はサンフランシスコです。

この頃、現在の練習艦隊が必ず寄港する西海岸最大の軍港、
サンディエゴには寄港していません。

なぜなら、昨日もお話ししたようにサンディエゴが海軍基地となったのは1922年。
この練習艦隊の2年前です。
とても海軍基地として外国の艦隊が寄港できる状態ではなかったのでしょう。


■ 桑港

(マンザニヨより桑港まで 航程1573哩 航走 6日15時)

(自 1月23日 至 1月30日 7日間)

吾練習艦隊歓迎の為、米海軍の精鋭「ウェストバージニヤ」
「コロラード」「メリーランド」の三艦が、各浅間、出雲、
八雲の接伴艦の役を取られたのは実に嬉しかった。

日米国旗の交叉される所彼我の間には正義と平等、
親善と理解の曲が高鳴らされて居た。

「ウェストバージニア」は1923年、つまりまだ就役して1年の新鋭艦です。
当時の超弩級戦艦でかつ最新型。
「コロラド」「メリーランド」ともに同じコロラド型の三姉妹です。

実はですね。

この時にアメリカがわが接伴艦にわざわざ戦艦、しかも「コロラド型」三姉妹を全て
出してきたということを知り、わたしは後世の歴史を知る者として軽く戦慄しました。

その訳をお話ししておきましょう。
彼らのサンフランシスコ見学について紹介する前に、
このことだけはぜひ知っていただきたいと思います。

 

ちょっと面倒臭い話になりますが、この少し前に行われたワシントン軍縮会議に遡ります。

ご存知のように英米日で5・5・3と決まった軍艦保有割合を日本は不満に思いましたが、
実はアメリカはアメリカで、日本に対して大変な危機感を持っていました。

この軍縮会議までに日本は16インチ砲を持つ戦艦「長門」をすでに保持していました。
対するアメリカが保有していた16インチ砲搭載艦も「メリーランド」ただ一隻。

つまり、世界にたった二隻の16インチ砲級を、日米が一隻ずつ持っている状態だったのです。

 

しかも、ワシントン軍縮会議では、会議までに完成していない軍艦は廃棄すること、
と決められたのにも関わらず、日本は当時未完成だった長門型2番艦「陸奥」を
もう完成済みだと言い張って保有を認めるようにと強硬に主張してきました。

「5・5・3の3の保有しかないくせに、
16インチ砲搭載戦艦を二隻持つだとお?」

とアメリカさんは頭にきたんですねわかります。
ここで「陸奥」所有を認めてしまうと、日本が圧倒的に有利になってしまいますからね。

 

そこでアメリカがどうしたかというと、本来廃棄対象であったはずの
「コロラド」級の「コロラド」「ウェストバージニア」を、
「陸奥の保有を日本に認めさせる代わりに」建造することにしたのです。

なお、この措置のため就役した順番が、

「メリーランド」「コロラド」「ウェストバージニア」

となってしまったので、本級を「メリーランド級」ということもあるそうです。

 

とにかく、この時練習艦隊の接伴艦に、アメリカがこの三姉妹を出してきたのです。
日本にとっては割とどうでもいい話だったかもしれませんが、アメリカにとっては
因縁も因縁、大変な「問題の艦」を見せつけてきたことになります。

現在の感覚では、どう好意的に解釈してもこれはアメリカ側の「威嚇」であり、
「嫌がらせ」としか思えないわけですが、当時の練習艦隊がこれをどう受け止めたのかは
このアルバムの調子からは全く読み取ることはできません。

皆さんもご存知のように、軍縮会議の結果決められた保有数に日本は不満たらたらで、
その不満が日本の進む方向を変えたといえなくもないわけですが、
これもアメリカ側からいうと、

「日本は(陸奥を持つことができて)参加国中一番特をした国」

だったということになります。
日露戦争以降、アメリカは日本を「オレンジ計画」で仮想敵国として
潰しにかかっている真っ最中だったのですから、これも当然の意見かと思われます。

ワシントン軍縮会議が行われたのはこの練習艦隊寄港のわずか2年前だったことを考えると、
アメリカがこの時なぜわざわざ接伴艦に「コロラド」級三姉妹を選んだのか、
その意図は歴然としているではありませんか。

「貴国が16インチ砲搭載の戦艦『長門』をゴリ押しで持つことになったので、
我が国はやむなくこの二隻をそれに対抗して持つことになったのだ」

とアメリカが嫌味ったらしくこれらを見せつけてきたのに対し、

「実に嬉しかった」

とアルバムの筆者は無邪気にこれを喜んでいます。
さらには、

「彼我の間には正義と平等、親善と理解の曲が高鳴らされて居た」

などと、言わせてもらえばオメデタイというか、お花畑のようなことを
(アルバムのキャプションに過ぎないとはいえ)書いているわけです。


まあ、実のところ、練習艦隊という立場で訪米をしているに過ぎない海軍軍人は
性善説で相手の行動を量るものですし、万が一2年前の経緯をこの接遇に
因果付けして何かを感じたとしても、胸の内にしまっておいたに違いありません。


しかし、少なくともこの写真で練習艦隊旗艦を観閲するアメリカ海軍の
「ワイレー中将」は、そんなおめでたいことは考えて居なかったと思われます。

この「ワイレー中将」とはおそらく、

Admiral Henry Ariosto Wiley (1867 –1943)

のことで、1924年当時には現地の海軍基地司令であったことがわかっています。

米西戦争に参加し、第一次世界大戦では戦艦「ワイオミング」の艦長として
他の戦艦9隻(戦艦部隊ナイン)とともに英国艦隊に派遣され、そこで功を挙げています。

この写真の3年後に海軍大将になり、アメリカ合衆国艦隊司令を務めたほどの軍人ですから、
このとき、日本の練習艦隊に向かって、にこやかに握手をしながら
テーブルの下で匕首を突きつけるがごとき訳ありの接待を考案したのも、
もしかしたら実はこの人物の意向であったかもしれません。

もっとも、日本側が「テーブルの下」の匕首に気づいていたかどうかは、
先ほどもいったようにあくまでもこの写真集からは読み取ることはできません。

知っていても知らないふりをし、表情に出さずに静かにやり過ごしていきなり

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス

と暴発するわけわからない国、というのが真珠湾攻撃以降の日本への
世界的な評価になったという気がしますが、少なくともこの軍縮条約のとき
そのおとなしい日本にしてはよくごねたものだ、という感想を持ちます。

なお、現場の海軍軍人たちが国と国のいざこざとは一切関係なく交流するのは
古今東西同じ傾向でもあります。

そういえば軍人ではありませんが、つい最近我が河野外相と中国の女性報道官
華春瑩氏とが実にいい笑顔でセルフィー撮ったのが話題になりましたよね。

国家間の軋轢が深刻な両国の外相と報道官のツーショット。
これを見た日中両国民の感想は概ね好意的で、中国国民のネットの意見も
むしろこれを非難した民進党議員を逆に非難するという調子でした。

 


練習艦隊の接伴を行った「コロラド」三姉妹のその後について書いておきます。

戦艦「メリーランド」USS Maryland, BB-46

ー「大和」との対決を望むも叶わず

 

真珠湾攻撃の際には、内側に係留されていたために損傷は軽微であった

タラワ、クェゼリン、サイパンの戦いに参加
1944年10月、レイテ島スリガオ海峡海戦では戦艦「山城」以下の撃沈に貢献 

陸軍特別攻撃隊靖国隊の一式戦「隼」が突入し主砲塔に命中
大破炎上、31人が死亡し30人が負傷

1945年3月ウルシー環礁に到着、戦艦「大和」との会敵が予想される直前、
またしても特攻機が突入し3番砲塔に直撃して使用不能に

メリーランドの艦長も乗員たちも、「大和」との対決を望んで戦列を離れようとせず、
戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠したが、
その時すでに「大和」は大和は坊ノ岬沖海戦で戦没した後だった

メリーランドは戦争を生き延び、1947年4月3日に退役し廃艦処分にされた

 

戦艦「コロラド」USS Colorado, BB-45

ーフレンドリーファイアで破損ー

 

真珠湾攻撃の時にはオーバーホール中で、太平洋艦隊で唯一健在な戦艦となった

1944年5月サイパン、グアム、テニアン島で支援砲撃任務に従事

11月27日、陸軍特別攻撃隊八紘隊の一式戦「隼」2機が「コロラド」に突入し、
19名が死亡、72名が負傷、船体にも損傷を負う

1945年1月9日、友軍の誤射により上部構造を破損し18名が死亡、51名が負傷

終戦後は厚木飛行場への占領部隊空輸の支援を行う 

1959年にスクラップとして売却される 

戦艦「ウェストバージニア」USS West Virginia, BB-48

ー真珠湾の遺恨をレイテで晴らすー 

真珠湾攻撃では、甲標的と航空機によって左舷に6本の魚雷が命中
40㎝徹甲弾を改造した2発の爆弾も命中(不発)
砲塔上のカタパルトの水上機から航空燃料が漏出し発生した火災で30時間も燃え続ける
浸水によって着底し、乗員は艦を放棄して退避 

修復と近代化の改修工事を受けて1944年に太平洋艦隊に復帰

同年レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で「扶桑」「山城」をはじめとする
日本海軍艦隊を撃破

1945年9月2日の降伏文書調印式に臨席
当艦軍楽隊から5名が「ミズーリ」に移乗し、式典で演奏を担当する 

その後日本に駐留し占領政策に従事 

不活性化のため係留されたシアトルでは隣は姉妹艦の「コロラド」だった

1959年スクラップ処分される

 

続く。

 

 

サンフランシスコ「在留同胞よ健在なれ」〜大正13年 帝国海軍練習艦隊

$
0
0

さて、練習艦隊がサンフランシスコに寄港したのは一週間という期間でした。
その間、彼らはわたしにとって非常に馴染みのあるあの街を探訪したようです。

冒頭の写真は、サンフランシスコの現在のベイブリッジ側ですが、
まだ橋など影も形もなかった頃で交通の全ては船に頼っていました。
今、市のモニュメントとなっているクロックタワーはフェリーの発着所でした。

■ 市中及び近郊見学

黄金花咲く金門公園内に燦然たる日本の茶亭を見出すのも懐かしい。
加州大学、スタンフォード大学、オークランド、アラメダ等と
候補生の見学は中々忙しかった。
亦ロスアンゼルスの日本人会の招待で乗員の一部は此の短い滞在の
二日を割いて遠くロスアンゼルス市の油田及び市中見学に赴いた。

クロックタワーがこの右手突き当たりにある当時のマーケットストリートの様子です。
マーケットストリートはサンフランシスコのダウンタウンのメインストリートで、
企業や銀行、デパートなどがあり、今でも同じ線路の上を路面電車が走っています。

サンフランシスコ在住時、TOの勤め先はちょうどこの右側にあり、
市のはずれの我が家からは路面電車で乗り換えなしで来ることができました。

どこでも車で行くことが出来るアメリカも、ダウンタウンは駐車場が高く、
路上のコインパーキングも少しでも時間をオーバーすると、
鵜の目鷹の目で狙っている駐車違反切符係が飛んできて、それこそ
目玉が飛び出る程の罰金を払う羽目になるので、この辺りのオフィスワーカーは
オーナーや重役もない限り公共機関で通勤しています。

この写真の説明には、

「金門公園の海岸に建てられたる家」

とありますが、このブログを読んでくださっている皆さんのなかには、
もしかしたらこれが「クリフハウス」という温水プールのあるスパハウスの
付属レストランであることを覚えている方もおられるかもしれませんね。

これを「家」と一言で言い切ってしまっているのは、もしかしたら彼らは
実際にここに行き写真を撮ったわけではなく、絵葉書か写真を買ってきて
アルバムに掲載したのではないかという疑いが保たれます。

ここはわたしが毎年のように訪れているサンフランシスコ西北端の「クリフサイド」です。
昨年の夏もここでクジラを見たことなどをご報告させていただきました。

lこれも繰り返しになりますが、ここにはスートロ・バスズという
温水プールと、当時の併設されたレストラン施設「クリフハウス」があり、
この写真に見える建物は、焼失した初代に代わって建てられた2代目です。

しかもこの2代目クリフハウスは

1907年に台所からの火事で消失している

はずなのです。
せっかくサンフランシスコ大地震で持ちこたえたのに、よりによって
その翌年、わずか11年で姿を消してしまいました。

1907

で、なぜ1924年の練習艦隊のアルバムに写真があるのかなー?(棒)

当時の日本とアメリカの距離はあまりに遠く、事実を確かめることなどできないと
甘く見て、アルバム製作者は買ってきた写真でお茶を濁したのでしょう。
実は焼失してもう存在していなかったため、行っていないことがバレてしまったと。

まあ、バレたと言っても指摘しているのはわたしだけですが(笑)
当時の貨幣価値とスケジュールの多忙さを考えると無理からぬことという気はします。

ちなみにクリフハウスは建て替えられた後にも続けて4回火事で焼けています。

この、ゴールデンゲートパークにある「ジャパニーズティーガーデン」の写真も
どう見ても買ってきたハガキではないかと疑われます。

まあ、行ったかどうか怪しいクリフハウスと違って、ここは実際にも見学しております。
と言いながら、わたしは住んでいたくせに今まで一度も行ったことがありません。


ゴールデンゲートパークの日本庭園は、1894年に開かれた国際博覧会の際に造園され、
公共の日本庭園としては米国で最も長い歴史を持っているということです。

博覧会が終了した後、ここで茶店を経営していた日本人の萩原真という事業家は、
この訪問時点ではまだギリギリ生存していたということですが、翌年、
1925年に萩原は死去し、萩原の遺族が管理を続けていました。

その後1942年になってルーズベルトの出した日系人排斥令にしたがって
萩原の家族はこの家を追われて強制収用所に収監されることになります。

排斥令に伴い「ジャパニーズ・ディーガーデン」は「オリエンタル・ティー・ガーデン」
に改名され、園内のティーハウスの運営も萩原家から中国人の手に渡りました。

戦後、元の「ジャパニーズ」に名称も中身も戻されたのはいいのですが、
2007年時点では、どういうわけか経営はやっぱり中国人だったそうなので、
多分今でもそうなんだろうと思われます。(投げやり)

「加州大学」で軍事教練を見学中、とあります。

加州大学とはカリフォルニア大学のことですが、ご存知のようにカリフォルニア大学には
「バークレー」「ロスアンゼルス」「デイビス」「サンディエゴ」など、全部で
10大学を含むシステムで、ここに写っているのはおそらくサンフランシスコ校、
UCSFということになります。

昔から医学で有名な大学なので、軍事教練をしていたというのが不思議な気がしますが、
普通大学でも教練が行われていた時代がアメリカにもあったということでしょうか。

写真は現在のUCSFのある地帯で、朝らしく、霧が濃いのがわかります。

練習艦隊御一行様、この7日間の間にスタンフォード大学まで行っています。
サンフランシスコからスタンフォードまでは今でも車で1時間、
当時の道路事情と車の性能ではもっと時間がかかったと思うのですが、
それでも西海岸の有名大学をこの機会に一眼見るべきと判断したのでしょう。

写真に写っているのは今でももちろんキャンパスにある

スタンフォード・メモリアルチャーチ

です。
1903年に建造され、大地震では大きな被害を受けて再建されています。

今のスタンフォードは観光地化していて
いつ行ってもどこに行っても人が溢れています。

このメモリアルチャーチは、大学創業者である

リーランド・スタンフォード(1824−1893)

の死後、夫人が彼を慰霊する意味で建てたものです。
実はスタンフォード大学は正式名称を

「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学」
 Leland Stanford Junior University

と言います。(今も)
かれの15歳で腸チフスのため亡くなった息子の名前で、
父親であるスタンフォードが永久にその名を残すために作った大学です。

カリフォルニアの州庁舎所在地がサンフランシスコではない、ということを
実はわたしはこの写真によって初めて知りました。

サンフランシスコを内陸に車で1時間半くらい行ったところにある
サクラメント市というのがカリフォルニアの州都だったのです。

ちょっと不思議な気もしますが、この理由は州都制定当時(1854年)、
ゴールドラッシュの影響で人口が多かったということからです。
ゴールドラッシュはサクラメント近郊で1847年金が発見されたことに端を発します。

ちなみに米墨戦争以降、州都は

サンノゼ→バレーホ→ベニシア→サクラメント

と変遷してきています。

サクラメント市はカリフォルニア州議会を持ち、
今でも写真の議事堂で上・下院議会を行っています。

1890年以降、ロサンゼルスに油田が発見されました。

以後、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー各地で油田の発見が相次ぎ、
ゴールドラッシュでサクラメント近辺に集まっていた人口は
今度は「オイル・ラッシュ」でこちらに民族大移動してきます。

金鉱を掘り当て一攫千金のチャンスをものにした人などごく一握りで、
食い詰めていた人たちが多かったということなんですね。
ちなみにリーランド・スタンフォードはその「ごく一握り」の成功者です。

一大石油産地となったロスアンゼルスは、その後テキサスで油田が発見されるまで
アメリカの石油消費の大部分を支え続けて成長しました。


さて、我が帝国海軍練習艦隊の乗員の一部は在米7日の間に、
2日を割いてロスアンゼルスまで行ったとあります。

当時、これもスタンフォードが作った鉄道会社によってサンフランシスコから
ロスまで汽車で行くことができたので、それを使ったのだと思いますが、
サンフランシスコーロス間は今でも汽車で8時間はかかります。

たった二日の行程で、これは体力的にもかなりきつかったと思われますが、
ロスの日本人会のたっての希望でどうしても断れなかったのかもしれません。

現地の日系が、練習艦隊の寄港をいかに楽しみにしていたかがわかります。

 

説明にもあるように、候補生たちは此の短い日程でオークランド、
そして当時は海軍の軍港があったアラメダにも行っています。

前回ご紹介した「ワイレー中将の艦隊訪問」はここで行われたものと思われます。

 

駆け足だったに違いないロスアンゼルス市内観光では、なんと
ワニ園を見学しているという相撲部員の写真が・・・。

なぜ相撲部?なぜワニ園?色々と謎です。

今現在ではロスにワニ園と関係する施設は存在しません。

 

勇ましき出航用意の喇叭は響きぬ。
早くも数台の飛行機に爆音勇ましく濃霧尚晴れやらぬ中
空に雁行をなして我を見送り、日章旗揚げし「ボート」は
数多艦隊近く続りて別離を惜しむ。

さらば 桑港よ 金門橋よ

  在留同胞よ 健在なれ

 

艦隊が訪れる直前の1924年7月、アメリカでは移民排斥法が成立しました。
これにより日本人を含む「白人以外の移民」はこれを禁止されることになり、
移民先を失った日本は満州にこれを求めたという説があります。

何かと非難される日本の大陸進出の遠因は、実はアメリカが作ったという考え方です。
もちろんそれは単なるこじつけだという説もありますが、実際満州に
新天地を求めて行った人の多さを考えると、それもそう大間違いではないような。

少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて
1人も移民できなくなるのとでは、超えられない差が存在する(wiki)のです。

いずれにせよ、排日移民法が当時の国内外日本人の反米感情を産んだのは間違いなく、
当のアメリカにこれだけ追い込まれては、戦争は単にきっかけ次第だったという気もします。

日本からの練習艦隊がサンフランシスコを離れる日、アメリカ海軍は
当時主流だった複葉機の編隊飛行を行い、艦隊を見送りました。

詳細は記されていませんが、練習艦隊が出航したのを見計らって
飛行機が上空を追い抜いていくように飛び去ったのだと思われます。

これもアメリカの日本海軍に対しての国力と戦力誇示であったと考えるのは
少々穿ちすぎる考え方かもしれませんが・・。

 

 

続く。

バンクーバーに眠る士官候補生〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

$
0
0


南米から西海岸側を北上し、桑港に停泊した練習艦隊。
7日間の帰港中、ロスやサクラメントまで足を伸ばし、
西海岸を満喫しました。

現地の日系同胞たちの歓待ぶりは大変厚いものであったようです。

その後艦隊はさらに北上し、カナダはブリティッシュコロンビアを目指しました。

当時のブリティッシュコロンビア州総督、州大統領、そしてビクトリア市長の写真。

BC州バンクーバーにはエスカイモルト軍港があります。

■ エスカイモルト

(桑港よりエスカイモルトまで
航程 784哩  航走 三日1時間)

(自 2月2日 至 2月6日 4日間)

濃霧に悩まされ激浪に弄ばれつつ北航せし艦隊は2月2日払暁
威風堂々ジャン・デ・フカ海峡にその雄姿を現せり。
一日我等は百武司令官の同窓草野候補生の墓前に花輪を捧げて英霊を葬いぬ。

皆様、お待たせしました。

わたしが当シリーズ最初に、

「当初予定されていた練習艦隊司令官を、翌年の別コース予定だったはずの
百武中将が直前になって古川中将と交代したのはこのためではないか」

と推察した、例の「同級生の墓参り」の写真です。

キャプションによると、練習艦隊乗員たちは丸一日を費やし
この墓参りを行なったとのこと。

もう古くなった墓石には大きな花束が二つ。
おそらく一つは現地に案内したカナダ海軍からの弔意を表すものでしょう。
ここはカナダ海軍墓地でもあるのです。

百武司令は右から6番目におり、その右側にはカナダ海軍軍人、そして
練習艦隊各艦の艦長が三人並んでいます。

この墓石の下に「百武司令の同級生草野候補生」が眠っているのです。


海軍兵学校名簿によると百武三郎が50名中一位のクラスヘッドとして
卒業した兵学校第19期のクラスに、「草野春馬」という生徒がいました。

彼ら兵学校19期は1892年(明治25年)海軍兵学校を卒業し、少尉候補生となり、
当時の遠洋航海に出航しました。

兵学校の練習艦隊が正式に海軍の行事となったのは明治36年、11年も後のことですが、
記録にはないものの、当時の兵学校学生も練習艦隊による遠洋航海を行なっていたのです。

当時はまだパナマ海峡は影も形もありませんので南米に立ち寄ったかどうかはわかりませんが、
ハワイとバンクーバーを含む北アメリカを就航したと思われます。


その航海中、百武中将のクラスメートだった草野春馬(しゅんま)候補生は、
航海中に肺炎に罹り、急死してしまったのでした。

ちなみに当時は「ビタミンの父」(又の名を海軍カレーの父)と言われた
軍医総監の高木兼寛がタンパク質と麦飯の導入で航海中の脚気を激減させたばかり。
これによって遠洋航海が可能になったということではあったものの、
当時の医療技術では若い候補生の命を救うこともできなかったのです。

今ならもし長期航海中に死者が出たら、冷蔵庫で遺体を保存して連れて帰ることができます。
大正13年のこの遠洋航海においても、どうやら航路途中に事故があって、
11名もの乗員が死亡した「らしい」のですが、彼らの遺体はホノルルまで運ばれ、
そこで荼毘に付されたのではないかと思われます。

しかし当時はそれすらもできず、寄港していたビクトリアの当時の管轄省の許可を得て、
特別に同地にあるエスクワイモルトの海軍墓地に遺体を葬ったのでした。

この写真を見ると、練習艦隊司令官百武三郎中将は、『どんな無理をしてでも』
彼の人生で最初で最後となるであろう同級生の墓参りをしたかったのだろうなと思います。

 

現在、かつての海軍候補生草野春馬の墓は、同じ場所でこの写真と同じ姿のまま、
現地の人々によって管理されているということです。


そしてこの草野候補生には、百武司令と海軍兵学校の同級生がおそらく
夢にも知らなかったであろう出生にまつわるこんな噂があるのです。

坂本龍馬の隠し子か?! カナダに眠る カナダ龍馬会、バンクーバー島へ墓参

「カナダ龍馬会」なる団体が存在するというのも驚きますがそれはともかく。

草野という男が貰い受けた元遊女が、当時2歳の男の子を連れており、
彼女がその男の子の父は坂本龍馬だと言っていた、というのだけが証拠だそうです。

確かに歴史的には全く証拠のない話で、現在顧みられていないのも当然かもしれません。

しかし男と違って女性は子供の父が誰かは一番よく知っているでしょう。
だからもし本人が意識的に嘘をついていなければ、という条件で
それは本当のことである可能性がないわけではない、と控えめに肯定したいところです。

遊女の産んだ子供が長じて海軍兵学校に入学できるほどの俊才となったのも、
龍馬の血を引いていたから、と考えれば説得力が増しますしね。

何が何でもその真偽を知りたければ、現在ならお墓を掘り起こして
現在も続いていると言われる龍馬の血筋を持つ子孫との間で
DNA照合をすることもできるでしょうが、今のところそこまでの話はなさそうです。


いずれにせよ坂本龍馬の隠し子が海軍軍人を目指して兵学校に進み、
異国の地で客死した、というのは何か秘められたロマンを感じさせますね。 


■ ビクトリア市

エスカイモルトの南3マイル、電車にして10分にして、
ビクトリア市に達す。
ビクトリア市人口7万、閑静にして且つ壮麗

一度春風駘蕩の季に会せんか緑樹鮮明にして百花爛漫、
市は忽ちにして一大公園に化すと。

右は議事堂、真ん中が歓迎会の行われた「エンプレスホテル」。

今はフェアモント資本によって経営されている5つ星ホテルで、
ブリティッシュコロンビアのシンボルのようになっている建物です。

1908年開業という同州でもっとも古いホテルとして有名ですが、
彼らが訪れた頃にもすでに開業して20年近く経ち風格が出ていたことでしょう。

市の東方サーニッチ小丘上に72寸の望遠鏡を有する
世界第二の天文台あり。

「ビクトリア天文台」とキャプションがあるので、これを頼りにすると
探すのに苦労しましたが、これは写真にも

Dominion Astrophysical Observeatory

と書いてあり、またロイヤルBC天文台とも呼ばれるようです。
1918年に開設されたので、この頃はまだ数年しか経っていません。

真ん中が百武司令、右端八雲艦長、左端浅間艦長、後列左出雲艦長。
百武司令左がバンクーバー市長であろうと思われます。

写真が撮られたのは裁判所前の階段ということです。

カナダのボーイスカウトの海軍版、シースカウトの少年が歓迎してくれました。
セーラー服を着ていますが、カヤック、カヌー、帆船、
その他の手漕ぎ舟などをスカウト活動で行います。

今の日系カナダ人は中国系の圧倒的多数に隠れて全く存在を見聞きしませんが、
第一次世界大戦の時には、カナダに忠誠を誓うため、日系男性が数多く
志願してヨーロッパで戦闘に加わり、52名もの戦死者も出ています。

バンクーバー市はこの時第一次世界大戦に出征した日本人兵士達を讃え、
このようなモニュメントを建てて顕彰しました。

このモニュメントは現在も残っています。
それどころか、

T. IWAMOTO MM   I. KUMAGAWA LCPL

など、戦死した52名の名前が刻まれたプラークの下には

第二次世界大戦 C.W. MAWATARI    M.TANAKA

朝鮮戦争 T. TAKEUCHI

アフガン戦争 M. HAYAKAZE

と最近までの日系人戦死者の名前が記されているのです。

 

その後、日米開戦に伴い、カナダ国内でも日系人は国民の激しい敵意にさらされ、
強制的に移動させられ、労働キャンプに言ったり、収容所に入れられたり、
中には日本に強制送還になった者もいました。

この慰霊碑も、その間はいつも燃えている火が消されていたといいます。



ところで、平成29年度の自衛隊練習艦隊も、同じバンクーバーに寄港しています。
日系移民150周年、日系人強制収容75周年に当たるということで、
練習艦隊はまさにこの慰霊碑に献花を行なっています。(9月19日)
写真には、この慰霊碑を取り囲み、全員で敬礼をしている様子が残されています。

また、来年は日加修好90周年に当たるということで、その歴史についても
現地の友好行事でアピールしあったということです。

 

 

歓迎会の催されたのはバンクーバーホテル。
これも現在はフェアモント系になっています。

バンクーバー、グランビルストリートの当時の眺め。

現在の同じ場所と思われるところをストリートマップで。
はっきり言って見る影なし。

C.P.Rホテルから見たバンクーバーの街。

こんな豪壮なホテルで歓迎会が行われたようです。
しかしホテルバンクーバーに似てますね。

候補生の皆さん、ノースバンクーバーのキャピラノ吊り橋に行ったようです。
キャピラノ吊り橋はキャピラノ川に架か理、現在の橋は長さ140m、
川からの高さは70mであるということです。

赤道直下でお正月を迎えたかと思えば、このような極寒のカナダへ。
マントを着ていますが、それでも寒かったでしょうね。

スタンレーパークで撮られた写真ですが、乗っているのは候補生ではありません。
現在写真を検索してもこのようなものはなく、おそらくは
現在ではこれほど大きな木は無くなったか、保護されているのでしょう。

ほとんどの巨木は、過去三回(一番最近は2006年)の暴風雨で倒れたそうです。

英語版のwikiを読んでいただくとわかりますが、
ここがスタンレー卿によって公園になることが決められた時、
まだ内部にはたくさんの人が住んでいたのだそうですが、彼らは
かなり強硬に(中国人移民は家に火をつけられている)追い出されたようです。

カナダ人も大概ひどいことしますね。


続く。



大正13年 帝国海軍練習艦隊〜さらばホノルルよ

$
0
0

大正13年帝国海軍練習艦隊は、バンクーバーを出航し、その後
また太平洋航路を再びハワイに向けて航海を行いました。

ところで、このアルバム、ホノルルの最初のページだけが明らかに
ちぎり取られていて存在しません。
ここにどんな写真があったのか少し気になります。

 

行きにはハワイのヒロ、帰りにホノルルと同じハワイを経由するコースです。
ホノルル港にはたくさんの日系同胞が迎えに来ており、この後
司令官以下幹部を運ぶためかたくさんの車も埠頭に横付けされています。

写真は日報時事ホノルルのサイン入り。

岸壁にはたくさんの日系人が歓迎のため集まりました。
ほとんどが当時のアメリカ人と同じ洋装ですが、
わざわざ今日のために選んだらしい着物で来た女性もいます。

右の男の子は日米開戦の時には30代半ばごろです。
日系部隊の一員として戦争に加わったかもしれません。

ファーリントン氏が誰かわからなかったのですが、おそらく
ホノルルの市長というところかもしれません。
奥方、油断して鼻を掻いたところを写真に撮られてしまいました。

■ ホノルルに於ける日本人歓迎会

日の御旗を慕い集まる在留同胞の熱狂的歓迎には
乗員一同は深く感銘したことだった。


この広いグラウンドが歓迎会会場となったようです。
行進曲軍艦で行進し整列した練習艦隊乗員一同。

お高いところから歓迎会の挨拶を行う司令官百武三郎中将。
飾り付けられた生花のまた豪勢なことよ。

現地在留邦人による歓迎会は野外の広場で行われました。
2月ですが、ハワイでは外でちょうどいい気候ですね。

特に美しい乙女等の真心込めた歓迎の劇や唱歌は
海の若人を極度に喜ばした。

「極度に喜ばした」という表現は大げさでも何でもなかったでしょう。
この写真に写っているお嬢さん方を見ても、「海の若人」が
久しぶりの『日本女性』に思わずポーッとなったに違いないと推察します。

練習航海も一種の出会いであり、例えば兵学校67期の遠洋航海では
ハワイの富豪の家に遊びに行った候補生たちの思い出として、

「富豪のナイスな(美人の)娘が(真珠湾の九軍神の一人になった)
横山正治候補生一人に露骨に好意を示したので皆を腐らせた」

という逸話が残されています。

ところで、これは約30年くらい前の、我が海自練習艦隊の寄港行事です。
平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補が新任幹部として加わっておられます。

この時艦隊はハワイを出航して以来二週間ぶりの寄港だったということですが、
現地美女の半裸でのダンスは、練習艦隊乗員たちを「極度に喜ばせた」どころか、
「この日は頭に血が上って大変なことになった」という話です。

写真は「パペーテ」という港に寄港した時で、踊っているのはタヒチ美女。
タヒチというと、世界でも指折りの「肥満愛好国」でもあります。

太っているほど美人と言うお国柄なので、ここで踊っている美女は
たとえ今現在お元気であってもこの時の原型を留めていないと想像されます。

おまけ:この写真をくださった方の新人幹部時代。(可愛い///)
両側を思いっきり濃い人たちにがっちり挟まれての記念写真です。

■ ホノルルに於ける野球と相撲

練習艦隊士官および候補生の野球「チーム」は、ホノルルの実業及び
新聞記者団「チーム」と闘って四対二の「スコア」で見事に之を破った。

歓迎野球試合はワイパウで行われ、百武司令が始球を行いました。

野球チームを構成したのは士官と候補生だけだったようです。
真ん中のグラサン士官は「監督」かな?

「八雲」の相撲部員だけでこんなにいたみたいです。
いただいたコメントによると、相撲をさせるためにわざわざ連れてきたという
相撲部員がいたようなのですが、やはり気合い入ってます。

本格的なまわしに旭日や錨のマークをあしらっているのが海軍らしいですね。
それと皆さん体格が流石に立派!

左は「浅間」乗組の相撲部員。
行事の正式な着物を着た人までいます。

そして右写真はホノルルで行われた相撲大会の模様です。

亦各寄港地の在留同胞の好角家と競技して勝ち続けた艦隊角力部員は
此処地に於いても所謂天狗力士と闘って悠々勝ちを占めた。

寄港地の一般力士を「天狗力士」などとディスるのはどうもいただけませんが、
まあ、日頃鍛えている艦隊力士の敵ではなかったということでしょう。

 

親善剣道試合も行われました。
艦隊の皆さんは防衛大学校の生徒のように、必ず何か一つ
武道をすることになっていたのかもしれません。

■ ヌアヌパリ

古戦場「ヌアヌパリ」の陖崖に立てば一望千里美しく続く甘藷畑の緑、
遥かに展開する太平洋の大海原、恍惚として澄み渡る碧空をあおげば
冷風颯々として衣を払う一霊境。 

 

ここでいう「古戦場」とは、その昔ハワイ王朝の元祖であるキング・カメハメハが
ハワイ統一の王としての地位を築くために対立していたカラニクプレ酋長の一族と戦い、
このヌアヌパリ渓谷に敵をを崖っぷちに追い詰めたカメハメハの軍隊は
一人残らずこの谷から突き落とし、勝利を治めた場所であることを言います。

「霊境」とは日本人らしい言いかたです。

一行はホノルル市内を見学。

(此の自動車の数を見よ)とキャプション付き。
縦列駐車の車間距離がほとんどありません(汗)

この頃は「バンパーはぶつけるもの」だった?

■ 布哇(ハワイ)と砂糖  

実際布哇の存在は砂糖によりて認められて居ると云って良い。
更に吾人は此処地に於る「パインアップル」と
「アイスクリーム」の美味には永久に忘れぬ事であろう。 

「ハワイは世界一アイスクリームが美味しい」という伝説がありましたが、
もしかしたら練習艦隊の軍人たちが持ち帰った土産話から来たのかも。

ワイキキの海岸には今こんな東屋のようなものはないと思いますが、
この頃はのんびりした海岸だったのかもしれません。

「サンヂエモン氏日本式公園」とありましたが意味わからず。
地元の個人宅の庭でしょうか。

■ ホノルルに於ける「アットホーム」

旗艦浅間の後甲板は旗や幕で彩られ、甲板上の所々には
面白い飾り物が作られていた。
「アットホーム」に集まった白人邦人の綺羅を飾った紳士淑女たちは
明るい溶け合った気分で角力、剣道、柔道、さては演芸、そして
軽いご馳走に満足の一日を艦上にし過ごした。

候補生は此等の来賓の為に接伴役として天晴れ外交官振りを発揮した。

 

艦上レセプションのことを当時は「アットホーム」と称したようです。
女性は流行りのドレスに帽子をつけ、お洒落していますね。

現在でも練習艦隊の艦上レセプションに行くと、(毎年ではありませんが)
練習幹部が各グループをエスコートして、会場で世話をしたりしてくれます。

海軍軍人は須く国際的な社交に通じるべし、ということで、
昔からテーブルマナーやパーティでの振る舞いが仕込まれますが、
これも海軍軍人が外交を務めるという国際的な慣習に従ってのことです。

テーブルの上には今ほど「ご馳走が並ぶ」というわけではなく、
軽い茶会くらいの感じでお菓子が提供されています。

「面白い飾り物」とはこれのことでしょうか。
一富士二鷹三茄子を具現化した・・って茄子はどこ?

浅間の演芸部は各地で「もっとも好評を得た」ということです。
カツラや衣装一式を航海に持ち込み訓練の合間に練習をして臨みました。

前で脚本を持って居るのが脚本家、軍服は演出美術大道具その他。

■ ホノルルと別るゝの日

ヤルートに向って静かにその巨体を動かした旗艦八雲の
後甲板から聞こえた勇ましい軍艦「マーチ」は
いつしか悲壮な「ロングサイン」に変わって
桟橋を埋めた同胞の誰もの顔に異様の緊張さが見えた。

別離! 別離! 

さらばホノルルよ、在留同胞よ、永久に健在なれ。

 

悲壮な「ロングサイン」

同胞の顔に「異様の緊張」

という表現は少し大仰すぎないか、と思ったのですが、これは
ホノルルでいかに彼らが愛されたかの証でしょうか。

それとも日系に訪れるこの後の運命を双方が予感していた・・・?

日系兵士で構成された日系部隊は、「GO FOR BROKE!」という
ピジン英語で「当たって砕けろ」という意味のモットーのもと、この後
彼らの祖国アメリカのために戦うことを余儀なくされます。

余談ですが、平成29年度の海上自衛隊練習艦隊の活動報告を聞きに行った時、
紹介スライドの端に常にこの「GO FOR BROKE!」という文字が見えるのに気がつきました。

練習幹部が自分たちで考案し、取り入れた「練習艦隊のモットー」だったそうです。


練習艦隊を見送る為に現地の邦人たちは、日の丸を満艦飾風に
揚げた船を何艘も出してきてくれました。

「何処迄送つてくれるのだらう」

彼らは艦隊の後をいつまでもいつまでも追いかけてきました。

そして出航した後の岸壁からはいつまでも見送りの人々が手を振り続けました。

ホノルル在泊中、旗艦は「八雲」に変更されました。
司令官を乗せたランチが「八雲」に向っていきます。


この時参加した何人かの士官候補生の中には、この17年後の1941年12月7日、
真珠湾攻撃のためにハワイに帰ってきた者がいました。

空中指揮官として攻撃を指揮した淵田美津雄、
そして航空参謀として計画を立案した源田実の二人です。

奇襲決行時、特に淵田は、真珠湾に向かう機上、この時のハワイへの寄港と、
そこに住む日系人たちの熱烈な歓迎の日々を思い起こすことがあったでしょうか。 


続く。


「八雲」と日本海海戦の立役者たち〜模型展「世界の巡洋艦」

$
0
0

週末、月島のコミュニティセンターで行われた模型展を観てきました。

「元モデラー(しかし現在はROGANのため制作休止中)」

の知人の方がお付き合いしているという模型の会の作品展で、
毎年この時期に定期的に行われていて今年で23回目の開催だそうです。

毎年テーマを変えて作品が集められるのだそうですが、今年は
巡洋艦を中心とした展示ということで楽しみにしてまいりました。

 

いきなり模型ではなく絵をご紹介してすみません。

「日本海海戦 佐藤鉄太郎の決断」

というタイトルの絵画です。
佐藤鉄太郎(1866−1942)は日本海海戦時、第二艦隊、旗艦「出雲」の副長です。

 戦闘中、舵が故障した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」(国オヤジ座ろう)を見て、
バルチック艦隊が北へ向かうと誤認した旗艦「三笠」は、これの追撃を指示しましたが、
上村彦之丞中将と副官の佐藤中佐は舵の故障と即座に判断、「三笠」の命令を無視して
「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃していきました。

この絵はその後の「出雲」を描いたものだと思われますが、状況はよくわかりません。

この決断の結果、巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという
前代未聞の作戦が実施されることになり、敵を挟撃することに成功しています。

というわけでその巡洋艦「出雲」。

先日来お話ししている大正13年の遠洋航海練習艦隊に参加していますね。

こちら装甲巡洋艦「八雲」。
大正13年度練習艦隊を「出雲」と組んでいるもう一隻の船です。

「八雲」は、ここに見えている紹介にもありますが、ドイツ生まれで、
シュテッテン・ヴュルカン造船所で誕生した装甲巡洋艦です。

練習艦隊の江田島の出航の写真を掲載した時にも書きましたが、
終戦後進駐軍はこの船体にラム(RAM)が付いていることに興味を持ったそうです。

ラムとは日本語の「衝角」のことで、喫水線下の艦体につけられた
尖ったツノのことで、「体当たり用武器」です。

軍船同士が接近戦を行う際、敵船の側面に突撃し、船腹を突き破ったり、
舵手がいる船であれば操舵を不可能にするために突き出しています。

フルハル模型だとその尖ったツノの形状がよくわかりますね。

大艦巨砲主義どころか、帆船の時代のような接近戦を想定した武器なので、
装備していた当の帝国海軍もこの機能をあてにはしていなかったでしょう。

ところでたった今気がついたのですが、高橋留美子作「うる星やつら」の
ツノの生えた鬼娘「ラムちゃん」という名前って、もしかして・・・?

手前、「八雲」、向こう側は「浅間」。
これに「出雲」を加えた三艦が、大正13年度の遠洋航海練習艦隊です。

「八雲」は日露戦争後練習艦として、ほぼ毎年のように、少尉候補生を乗せた
遠洋航海に活躍し、戦後は復員の輸送にも従事しました。

「浅間」は遠洋艦隊の項でもお話ししましたが、何度もお召艦になっているため、
もしこの年度に高松宮殿下が遠洋航海に参加することになっていれば、
この船をお召しになる予定でした。

航海記念アルバムの艦別名簿の「浅間」の欄には、一番最初に
病気で参加を断念された高松宮殿下の御名前が消されずに残っています。

日露戦争、「出雲」、上村彦之丞といえばこの巡洋艦です。

装甲巡洋艦「リューリック」(中央、黒艦体)

日露戦争時の「敵兵を救助せよ」で有名になったロシアの軍艦で、
「出雲」を旗艦とする第二艦隊、第四艦隊に蔚山沖で撃沈されました。

この形を見ればよくわかりますが、水面からの乾舷(水面から原則までの高さ)
が艦首から艦尾まで高く、これを「平甲板型船体」と言います。

ウォーターラインなのでこのモデルではわかりませんが、
「リューリック」も艦首水面下に衝角をもっていたということです。
この時代の流行りだったのかも。

艦体は分厚い鉄板が使われ、特に防御に重点を置いた作りだったそうですが、
上村中将の「国民に露探と罵られた恨み」を思いっきり晴らされて、
下瀬火薬の餌食となって蔚山沖の藻屑と消えていきました。

その際「出雲」が「リューリック」の乗員を救助したことで、
上村中将は一転して「上村将軍」という歌までできるなど、国民から
手のひら高速返しで英雄扱いされることになります。

海戦後、凱旋行進で熱狂的に自分を讃える群衆を見ながら

「少し前にはわしを無能とか露探とか罵った奴もいるじゃろうのう」

と上村中将は内心慨嘆したことでしょう。

一番左から「出雲」「吾妻」「常盤」「磐手」。

これが日本海海戦で、

「三笠の命令を無視して突進していった巡洋艦部隊」、

つまり上村艦隊、第二艦隊第二戦隊のメンバーです。

模型の展示とはいえ、こういう風に「わかる人にはわかる」
並べ方をしてくれていると、本当に嬉しくなってしまいますね。

旗艦の「出雲」に対して当時最新鋭艦だった「磐手」は、
艦隊で狙われやすい殿(しんがり)艦を務め、そのため被害を受けましたが、
上村中将が命じた「敵兵を救助せよ」の命令を受け、海上に漂う
「リューリック」の生存者の救助に当たっています。

ちなみに「出雲」はドイツ製、「磐手」「常盤」は英国のアームストロング社製、
「吾妻」はフランスのロワール社製と、この中に国産艦は一つもありません。

「常盤」はその後昭和2年に謎の大爆発事故を起こし、二度も触雷している上、
終戦直前の8月9日、大湊にいたところをジョン・マケイン・シニア中将率いる
任務隊の攻撃によって擱座しましたが、結局終戦までしぶとく生きぬいています。

殿艦として損害を受けながらも生き残ったタフさは最後の最後まで健在で、
1899年に就役して終戦まで現役だった巡洋艦(途中で敷設艦に転換)は
海軍の歴史の中で「磐手」ただ一隻だったということです。

 

ロシア海軍の左から

「アドミラル・ナヒモフ」「ドミトリー・ドンスコイ」
「ウラジミール・モノマフ」「アルマース」。

「ナヒモフ」は日本の装甲巡洋艦に30発の砲弾を受けて自沈処分、
「ドミトリー・ドンスコイ」「モノマフ」も同じく自沈。

生き残ったのはウラジオストック入港に成功した「アルマース」だけです。

別の方の作品で、これも「アドミラル・ナヒモフ」。

「ナヒモフ」巡洋艦ではなく装甲フリゲートとして生まれましたが、
フリゲートといってもよくよく見たら帆走フリゲートではないの。

就役は1888年で、ご覧のようにマストと一本煙突の船だったのですが、
10年後の1898年、近代化改装を施されて生まれ変わりました。
改装後は、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストは
ミリタリー・マスト(見張り台や機関砲を乗せるためのマスト)に交換されました。

見張り所には速射砲を配置し船体中央部にあった操舵艦橋は
前部マストの背後に移動されるなどの大改装でした。

日本側からは覚えにくいので「ごみ取り権助」と一方的に呼ばれていた
「ドミトリー・ドンスコイ」をアップにしてみました。

実はごみ取り権助も巡洋艦ではなく、「装甲艦」という種別になります。

同じく同時期のロシア海軍巡洋艦、左から

防護巡洋艦「ノヴィーク」、二等巡洋艦「イズムルード」「ゼムチューグ」。

「イズムルード」も「水漏るど」なんて言われてたようですね。
「ゼムチューグ」は日本海海戦で生き残りましたが、負けたせいなのか、
戦後に下士官兵の反乱が起こってしまったとかなんとか。

これも巡洋艦ではないですが、戦艦「オスリャービア」。
日本側には「押すとピシャ」とか言われてました。

日本海海戦の2年前に稼働できるようになったばかりの新鋭艦でしたが、
第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいたため、
海戦が始まるなり、日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうち、
7隻から、

「目標ー!押すとピシャー!テー!」

と一斉に集中砲火を一身に浴びせられ、最初に戦没することになってしまいました。

日本が丁字戦法によって戦隊の先頭艦を集中攻撃したこと、そしてその際
「オスリャービャ」が三本煙突で識別しやすかったことが原因だそうです。


515名近くが戦死し、その中には軍医、従軍司祭、そして
総員退艦を命じながら自らは艦橋を退くことを拒み艦と運命を共にした
ウラジーミル・ベール艦長なども含まれます。

ベール艦長


 

「香取」と「鹿島」。
「鹿島立ち」という言葉の由来について練習艦隊の項でお話ししましたが、
「鹿島」「香取」共に、最初から練習艦として設計されました。

それまで練習艦として遠洋航海に使われていた「出雲」が
石炭艦であったことと、老朽化してきたことから後継のため建造したもので、
艦名には、士官候補生の「旅立ち」の艦であることから
「鹿島立ち」という言葉に由来するこの名前を採用したのです。

Wikipediaには「艦名は鹿島神宮に由来する」とあるのですが、
神宮はむしろ後付けで、

「人生の門出、出発」

を意味する古語から引用したと考えた方がいいかもしれません。

 

最後に。
練習艦だった「八雲」は戦後、復員船として改装を加えられました。


戦後復員輸送船となった時代の「八雲」の模型までありました。

武器も何も積んでいない丸裸の元巡洋艦がこうやって模型で表現されているんですね。

「艦橋天蓋は固定化。艦橋後部に構造物」

「後部艦橋はエンクローズドされてる。
訓練用操舵室が残されている」

「スタンウォークは撤去」

全盛期?と復員時の「八雲」の模型を並べてみました。
どこがどう変わっているのか一目瞭然なのも模型ならではです。


続く。

 

 

 

「北上」と第一次ソロモン海戦〜模型展「世界の巡洋艦」byミンダナオ会

$
0
0

 昨日に続き、模型愛好会「ミンダナオ会」の展示会、
「世界の巡洋艦」をご紹介させていただきます。

冒頭写真は作品展中最も大型の作品、軽巡洋艦「北上」。
1/100の大作で、それこそ製作期間は想像もつきません。

模型素人のわたしは海の色と白波の再現だけでも感動モノです。

右舷側から観た本作品。
こりゃーよっぽどの速度で航行していますね。(小並感)

反対側。とにかく波しぶきの表現がすごい。
いや、そっちじゃなくて模型についてもう少し語ろうよ。

というわけで、四連装魚雷発射管細部。

この企画を教えてくださった元モデラーの方に大量に写真をいただいたので、
ありがたく掲載させていただくことにしました。
いただいた写真には●印をつけています。

これが両舷に10基あるので、この「北上」の姿は竣工時ではなく、
その後重雷装艦に改装された時の姿であることがわかります。

重雷装艦への改装を施された巡洋艦は本艦と姉妹艦の「大井」2隻だけです。

見よ、これが重雷装艦の四連装魚雷である(笑)
まるで親の仇みたいに魚雷砲を積んでおります。

実際空母による航空戦が主流となり、艦隊決戦の時代が終わっていた頃に
遅れてきた大艦巨砲主義の遺物のようなこの改装。
はっきり言って「無用の長物」の感はぬぐえません。

これが全部対空砲なら使いようがあったのかもしれないけど・・(小並感その2)

実際にも、この後高速輸送艦に転用された「北上」からは、
最終的に4基を残して全て魚雷発射管は外されることになります。

50口径14cm単装砲に波除のカバー?がかかっています。

この砲は見ただけでもなんとなく予想がつきますが平射しかできなかったので、
重武装の時代が終わり、その後回天を搭載して南方に進出した時には
当然のように高角砲に換装されることになりました。

それにしても甲板のと継ぎ目の真鍮の質感がやばい。

アンカーチェーンのフェアリーダー?が甲板に直接あるタイプ。

艦橋だけでも何ヶ月もかかっているように見えます。

後甲板が一段低い形状、自衛艦にもこんなのありましたよね?
それにしても甲板の上に錨がゴロンと寝ているというのはすごい。
ウィンチを巻き上げたら海に降ろせるようになっていたのでしょうか。

本当に旭日旗が風になびいているように見える!

内火艇は4隻、後部甲板の一段高いデッキに搭載されています。
手前左側はもしかしたら手漕ぎボートだったりする?

この模型製作者の父上は「北上」に実際に乗っておられたそうです。
なるほど、この心血を注いだ作品の出来栄えにも納得ですね。
そして甲板の隅に立っている白い作業着の乗員がその父上だそうです。

スケールは1/100、とにかく圧巻の大作でした。

と思えばいきなり時代が江戸時代へと(笑)
右、幕府海軍の「開陽丸」。

幕末期に幕府海軍が所有していたオランダ製のコルベットでした。

フリゲート(帆走の小型軍艦)がその後巡洋艦になったという歴史はありますが、
コルベットはそれより小さく、巡洋艦とは全くといっていいほど関係ありません。

 

さて、「ペリー・ショック」で幕府は海防の必要性を思い知り、早速
駐日大使タウンゼント・ハリスを通じてオランダから船を買い付けました。
それがこの「開陽丸」です。

この引き受けかたがた日本は15名の留学生をオランダに送りましたが、
その中にはのちの

榎本武揚(政治家)

西周(にしあまね 哲学者 教育家)

伊藤玄白(医師)

などが含まれていました。

「開陽丸」は蒸気機関410馬力、当時の最新鋭であった
クルップ砲を26門搭載した立派な軍艦で、勝海舟はこの船で
最初の海軍としての訓練を行い、乗員にはオランダ海軍に倣って
階級によって服装を分けた海軍の軍服を制定し、支給しています。

つまり「開陽丸」は日本海軍が近代海軍軍人として軍服を来て
乗組むことになった最初の軍艦だったということです。

さらに巡洋艦からは遠ざかっていくわけですが(笑)

 幕末まで徳川水軍が使用した御座船「天地丸」。
一応水軍の船なので軍艦と言えないこともありません。

徳川時代は平和で海戦が起こらなかったので、軍船といっても
実質大名のクルーザーのような役割を果たしていました。
黒船来航後は近代海軍の誕生とともに廃止されました、

しかもこの模型、船というより江戸城がメインなのではという気がしますが、
まあ見る方には色々あったほうが楽しいからいいか。

 

ここからは本当の巡洋艦をご紹介していきます。


ジャングル迷彩(?)の重巡洋艦「高雄」。
こんな緑色でしかも迷彩を施された時期があったんでしょうか。
それとも模型の世界ではこういうのもありということなんでしょうか。

その「高雄」型2番艦「愛宕」。
搭載砲が白とブルーの二色塗装なのですが、これもオリジナル?

この模型の会、「ミンダナオ会」の会員は20名くらいで、
女性(会員の奥さんらしい)もおられるようですが、その「カミさん」の作品。

こちらも重巡「高雄」で1/3000という可愛らしいもの。

額に入れて、海は製作者がお描きになったものとか。

「1/700への道はまだ遠いのだった・・・」

とコメントがありますが、やはり模型は大きくなるほど制作も難しいってことでOK?

その1/700モデルの重巡たち。

「金剛」の砲が4基全く同時に発砲しているッ!

ちなみにその左側も同じ「金剛」ですが、ずいぶん違う印象ですね。
発砲「金剛」はハセガワ製で向こうは別の会社(写ってなくてわからず)ですが、
模型会社によって同じ艦でも全くイメージは違ってくるものだそうです。

形ですらそうですから、特に艦体や機体の色など、白黒写真時代のものは
再現するにも「こうだろう」と想像するしかないんですよね。
零戦も「21型は飴色」とか言われても、そもそも「飴って何?」な世界ですよね。

飴の味によって色も違うだろうし・・・ってそういう話じゃない?

第一次ソロモン海戦の参加艦艇を集めたテーブルがありました。
さっくりいうとガダルカナルの泥沼への第一歩となった海戦です。
(さっくり言い過ぎ?)

三川軍一中将が座乗した第八艦隊旗艦の

重巡洋艦「鳥海」。

そしてこちら、第六戦隊旗艦だった

重巡洋艦「青葉」。

水上艦を搭載しています。

「青葉」といえばですね。
会場の壁に、初めて見る「この世界の片隅に」のポスターがありまして。

呉軍港内を航行している軍艦の姿が描かれているのですが、
これがどうも「青葉」みたいなんですよ。

それにしてもこのポスターいいなあ(欲しい・・・)

会場には備え付けのピアノがあったのですが、わたしがいる間、
会員らしい女性が演奏しておられたのが、この映画のテーマソング

「悲しくてやりきれない」

とソ連国歌

「祖国は我らのために」

の二曲でした。
展示にまつわる曲をセレクトして演奏しておられたようです。

こちら連合軍側の北部部隊、

「ニューオーリンズ」級重巡洋艦「アストリア」。

この時「アストリア」は三川艦隊からの攻撃を受けて戦没しました。
当ブログでは戦前の日本大使斎藤博の遺骨を日本に運んだことなどを、

重巡洋艦アストリアの運んだもの

というページにまとめたことがあります。
この項を書いた時にはなかった斎藤大使遺骨礼送についての説明が
今回wikiの「アストリア」のページに追加されているのを見て、
大変嬉しく思った次第です。

「アストリア」艦体中央部分。
両舷に筒のような柱が立っていてその上に通路?が・・・。

上二つはオーストラリア海軍の

重巡洋艦「キャンベラ」「オーストラリア」。

下が

重巡洋艦「シカゴ」駆逐艦「バグレイ」。

「キャンベラ」は「鳥海」が発射した魚雷2本が命中、
さらに20発以上の砲弾を受け大破炎上し、193名の死傷者を出しています。

「キャンベラ」が一気に破壊された後、「シカゴ」は魚雷の回避運動を行いますが、
一本が命中し大破する運命です。

この時艦長のハワード・ボーデ大佐は被雷直前まで寝ていたそうですが、
被弾沈没の責任を問う査問会議で事情徴収された後、思うところあったのか
海軍宿舎のバスルームで拳銃による自殺をしてしまったということです。

 

というわけで、

「海戦には勝ったが作戦で負けた」

(つまりたくさん敵艦を沈めたが、結局敵の揚陸を許し、逆に
日本軍輸送船団は米潜水艦の攻撃で撃退され、早期奪還作戦は頓挫)

と評価される第一次ソロモン海戦をご紹介してまいりましたが、その横に、
なんだかこのソロモン海戦の後の神参謀が言っていそうなことが
書いてあって、ある意味とてもウケたのでこれもあげておきます。

向こうから、

ヒューストン(42.3.1 バタビア沖海戦)

ビンセンス(42.8.9 第一次ソロモン海戦)

ノーザンプトン(42.11.30 ルンガ沖夜戦)

クインシー(42.8.9 第一次ソロモン海戦)

アストリア(42.8.9 第一次ソロモン海戦)

シカゴ(43.1.30 レンネル沖海戦)

インディアナポリス(45.7.30 伊58の雷撃による)

つまりこのコーナーのテーマは

「帝国海軍がボカチンさせてやりました重巡」

というものなのです。
しかし逆にいうと、日本軍がボカチンした重巡って
たった7隻だったってことなんですよね・・。

そしてそのうち3隻が第一次ソロモン海戦だったってことですわ。

この海戦の結果、神参謀が図に乗るようになって、どんどん海軍の作戦が
ドツボにはまっていった(一部の意見です)という意味では、
もしかしたら「最悪の勝利」だったんじゃ・・。

まあ後からならなんとでも言えますけどね(笑)

 

続く。



 


イギリス海軍対ドイツ海軍〜模型展「世界の巡洋艦」

$
0
0

 

1日で終わるかと思っていた模型展「世界の巡洋艦」のご紹介ですが、
いざ始めてみると案の定色々とお話ししたいことが出てきてしまい、
何日かに分けることになりました。

というわけで今日は展覧会のタイトルと同じ「世界の巡洋艦」です。

さて、それでは世界の巡洋艦、まずは御大キングダムから参りましょう。

イギリス海軍の
蒸気フリゲート艦「ユーライアラス」(Euryalus)。

日本に縁のある船で、あの「生麦事件」が起きてから横浜に来て、
薩英戦争(1863)と馬関戦争(1864)に参加しています。

余談ですが、この長州藩と英米蘭仏の連合国との間に起きた馬関戦争で、
17歳の「ユーライアラス」乗組の水兵、ダンカン・ボイズが戦功を挙げ
ビクトリア勲章を授与されました。

しかしダンカン君、戦後になって海軍基地の門限に遅れて戻り、
基地内に塀を乗り越えて侵入し海軍を懲戒除隊されてしまいました。

ダンカン・ボイズ

彼はその後重度のアルコール依存症とそれに伴う精神衰弱に陥り、
静養先のニュージーランドで家屋の2階窓から飛び降り、
22歳という若さで死んでしまったということです。合掌。

「帝国海軍がボカチンしてやりました巡洋艦」が・・・。

巡洋戦艦「レパルス」(左二つ)。

巡洋戦艦というのは、イギリスが生んだ「さらに攻撃力を増した巡洋艦」で、
巡洋艦の拘束性と戦艦と同等の大口径砲を併せ持った強力な軍艦という位置付けです。

だからこそ、民族的に見下していた日本人にこの「レパルス」と戦艦
「プリンス・オブ・ウェールズ」をボカチンされたチャーチルは
ショックであうあうあー状態になってしまったわけですね。

巡洋戦艦という概念は英国とそれから日本海軍だけが採用したもので、
両国合わせて7隻しかこの世に生まれていません。

この写真で「レパルス」の右側にある2隻、「レナウン」もその一つ。
イギリス海軍はこれに「フッド」を加えた3隻で、日本側はおなじみ

「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」

の計4隻が巡洋戦艦となります。
「フッド」はドイツ海軍の「ビスマルク」に撃沈されたので、
この中で生き残ったのは「レナウン」(有名という意味)だけでした。

こちらもヒズマジェスティーズシップの

航空巡洋艦「フューリアス」。

wikiには「世界初の空母」ってあるんですが、これほんと?

もちろん、この模型の頃は改装前の航空巡洋艦時代ですが。
甲板にはその頃搭載していたソッピース・キャメルらしい姿が見えます。

スキージャンプ台みたいになっている後甲板から離艦するのだと思いますが、
それでは着艦はどうしていたんだろう、と気になりませんか?

はい、こうしておりました。

流石に艦橋に突っ込む恐れがある後甲板へのアプローチをするのではなく、
なんと、艦首側前甲板に海に向かって降りていたようです。
このころの飛行機が二枚羽で推力がそんなになかったことと、
着艦の際には船を航行させてスピードを相殺していたのかもしれません。

しかし見る限りアレスティング・フックやワイヤーはまだなく、
乗員が総出で駆け寄っているところを見ると、飛行機を

手でつかんで止めたのではないか

という疑いが・・・・・・。
というか、実際に手で機体を捕まえている人がいますね。

いやー、これ、海に落ちる飛行機は後を立たなかったと思う。

イギリス海軍にとっては「悪者退治」みたいな位置付け?

海戦シリーズ展示としてイギリス隊ドイツ海軍の「ラ・プラタ沖海戦」がありました。

ドイツ海軍の装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と同型艦
「ドイッチュランド」は、神出鬼没、通商破壊をしまくっていましたが、
イギリス海軍はこれを叩くため、捜索部隊を結成。

「アキリーズ」「エイジャックス」「カンバーランド」「エクゼター」

からなる「G部隊」はAGSをラ・プラタ沖で捕捉し、挟撃による壊滅を図りました。

 

「アドミラル・グラーフ・シュペー」は英国海軍の「エグゼター」に砲撃、
「エグゼター」は大きな損害を負いましたが、G部隊のハーウッド准将は
駆逐艦上がりだったシュペーのハンス・ラングスドルフ大佐より一枚上手でした。

海戦の結果、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は大きな損害を負い、
ウルグアイに逃走しますが、イギリスから手が回っていて修理ができず、
結局自沈されることになりました。

ラングスドルフ大佐は、その後アルゼンチンで拳銃による自殺を行いました。

「このような状況におかれた時、名誉を重んじる指揮官なら
艦と運命を共にする。それが当然の決断だ。

私は、部下の身の安全を確保することに奔走していたために、
決断を先延ばしにしていた」

という遺書が夫人に残されていたそうです。合掌。

海軍力でイギリスに劣るドイツ海軍の船には

「イギリス海軍の船と交戦しないように」

という指令が出ていたにも関わらず、戦闘を行なったとして、
ヒトラーはラングスドルフを非難しましたが、おそらく
親衛隊ではなかったラングスドルフが死の際、ナチス旗ではなく
ドイツ海軍旗を体に巻いていたことが気に入らなかったのかもしれません。


なお、「アドミラル・グラーフ・シュペー」に傷を負わされた
「エクゼター」は、のちに我が帝国海軍にスラバヤ沖海戦で撃沈されています。

この時に大本営は、

「『アドミラル・グラーフ・シュペー』の仇を取った」

と発表したということです。

HMS「アレトゥーサ」。

アレトゥーサはギリシャ神話のニンフの名前で、ストーカーから逃げるため
アルテミスの力で水に変えられたという「アレトゥーサ湖」伝説を持ちます。

「アレトゥーサ」級巡洋艦は、

「ガラテア」「ペネロペ」(海の女神)「アウロラ」(暁の女神)

のギリシャ神話シリーズ四姉妹で構成されます。

飛行機を搭載している部分を拡大してみました。

下から見た本級のタイプシップ「パース」級の水上機施設。
「アレトゥーサ」搭載のものは旋回式のカタパルトだそうです。

イギリスといえば無敵艦隊を倒した、無敵艦隊というと「インビンシブル」。
というわけで、ある意味もっともイギリスらしい?名前である
巡洋戦艦「インビンシブル」(Invincible)(右から2番め)と
その改良型巡洋戦艦「インディファティガブル」(Indefatigable/不屈)。

「インヴィンシブル」級はネームシップの「無敵」に対して2番艦、

HMS「インドミタブル」(Indomitable/不屈)

3番艦、

HMS 「インフレキシブル」 (Inflexible/融通がきかない)

全て「不屈」を表す、「IN-不」で始まるシリーズです。
「インヴィンシブル」は

世界初の巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)

として鳴り物入りで誕生し、「巡洋艦より早く、戦艦のように強い」を
謳ってこの象徴的な名前を与えられたのですが、色々と残念な設計ミスがあり、
爆風を避けるために砲を撃つたびに艦内に入らなければならなかったり、
巡洋艦同士で撃ち合った場合、艦尾が丸裸同然で脆弱だったり、
中でも一番の問題は、

主機関が弾薬庫に挟まれていた

ということで、この結果、ユトランド沖海戦で、「インヴィンシブル」は
主砲弾が砲塔を貫通した瞬間、誘爆のため艦隊が真っ二つに割れ、
ぽっきりと折れて轟沈してしまっています。

乗組員1032名のうち、生存者はわずか6名でした。

ちょうどワシントン軍縮条約が締結され、「インドミダブル」
「インディファティガブル」はそれで廃艦になり、
「インフレキシブル」も陳腐化して同時期にスクラップになっています。

こういうのをなんていうんだっけ・・・名前負け?

 

それでは「ラ・プラタ」でイギリスと戦ったドイツの巡洋艦と参りましょう。

手前、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」。

ドイツの軍艦というのは名前がたまらなくかっこいいので、きっと
その界隈では、萌え化されているだろうなと思ったらやっぱり
「艦これ」にいましたよ。

プリンツ・オイゲン(ちゃん)

「プリンツ」というからには王子のことなんだろうなとは前から思っていましたが、
今回初めて調べてみたところ、

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

というオーストリアの軍人さんでした。

「プリンツ」は日本で言うところの「ハンカチ〜」とか「はにかみ〜」とか
「海の〜」(笑)のような、アイドルやミスコンの男版のような意味は全くなく、
単純に「公子」という位を表す言葉です。

オイゲン公

「プリンツ・オイゲン」のイメージが変わった!どうしてくれる!
という方、オイゲン公の独創的なカツラに免じてお許しください。

「プリンツ・オイゲン」の水上機搭載部分もアップにしておきます。

彼女は我が帝国海軍の「雪風」と同じく、「幸運艦」と呼ばれています。
イギリス軍とのバトルで一度は操縦不能になるも、あとは航空攻撃でも
命中弾を受けず、僚艦とぶつかっても相手ほど被害も受けず、きわめつけは
アメリカ軍に戦後摂取されて、名前を

「プリンツ・ユージーン」(笑)

と英語読みされ、ビキニ島の原爆標的艦となったのですが、結局
二回の実験にも沈まず、曳航される途中でマーシャル諸島のクェゼリン環礁に座礁し、
今でもそこに放置されています。

念のためグーグルマップで調べてみたら、観光地?になっていました(笑)

装甲巡洋艦「シャルンホルスト」

なんて名前も実に厨二心をくすぐりますよね。
少なくとも

装甲巡洋艦「マンマス」

なんて言うのよりもかっこいいのは確か。

装甲巡洋艦というのは「装甲を施した巡洋艦」のことです。
ただ、「インヴィンシブル」がそうだったように、攻撃力を上げても
巡洋艦というスピードを重視した艦体において防御力は致命的に弱く、
どうなるかというと、同級で撃ち合った時に当たった方が負ける、
という素人にもわかる結果となったのでした。

ところで、このテーブルは、ドイツとイギリス海軍の間で行われた

「フォークランド沖海戦」

の参加艦艇が展示されています。

第一次世界大戦中に英領フォークランド沖に攻め入った

マキシミリアン・フォン・シュペー中将

率いるドイツ東洋艦隊が、イギリス軍の迎撃を受けて敗北した海戦で、

旗艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ライプツィヒ」
「ニュルンベルグ」は撃沈、唯一残った「ドレスデン」も自沈

とドイツ側の完敗に終わっています。

イギリス海軍「カーマニア」(Carmania )

ドイツ帝国海軍「カップ・トラファルガー」(Cup Trafalgar)。

どちらも戦時に武装していた「武装商船」「仮装巡洋艦」です。
客船だった「カップ・トラファルガー」は砲艦から10.5cm砲2門と
3.7cm砲6門が移され、仮装巡洋艦B (Hilfskreuzer B) となって
通商破壊作戦に従事していました。

ドイツの船なのに英語で、しかも「トラファルガー」が使われているのは、
これがハンブルグー南アメリカ航路の客船だったからです。

「カーマニア」も4.7インチの砲 8門を搭載しており、2隻は
武装商船同士としてたまたま遭遇したものです。

戦闘に際し「カーマニア」が警告弾を発射、それに対し、
「カップ・トラファルガー」はドイツ軍艦旗を掲揚して戦闘が始まりました。

相手の喫水線付近に砲撃を集中した「カーマニア」と、船橋を集中攻撃した
「カップ・トラファルガー」の戦いは、「カーマニア」に軍配が上がり、
「カップ・トラファルガー」は転覆し、沈没しました。

 

というわけで今日ご紹介してきた英独海戦は、ことごとく
イギリス海軍の勝利に終わったことになります。

やっぱりイギリス海軍、腐っても「無敵艦隊の敵」の末裔ってことかもしれません。

 

続く。

 

 

人民海軍&王立海軍 甲板の「視認性」〜模型展「世界の巡洋艦」

$
0
0

この模型店は今年で23年目ということです。
伺ったところによると、ここ何年かの発表会テーマは

『巡洋艦』→『欧州艦艇史』→『海上自衛隊観艦式』→
『空母』→『駆逐艦』→『戦艦』→『英国艦』→
『日本海軍』→『第一次大戦』→『冷戦期の艦船』

→今年の『巡洋艦』

というものだったそうです。
10年経って一巡してきてまた巡洋艦になったというわけですね。
この勢いで行くと来年2019年は『ヨーロッパ大陸の海軍』になる予定?

会場で会の方と少しだけお話ししたのですが、

「去年はレイセンだったので・・・」

とおっしゃるので、冷戦を零戦だと勘違いして

「飛行機の時もあるんですか!」

と聞いて恥をかいてしまいました。
普通零戦のことは皆「ゼロ戦」っていうよね(笑)

それにしても「海上自衛隊観艦式」の模型って見てみたいですね。
自衛隊に限らず、海軍時代の観艦式のシリーズもやってくれないかしら。

さて、今年のテーマ「世界の巡洋艦」、続きと参ります。

巡洋艦は水上艦だけではありません。
というわけで、巡洋潜水艦のコーナー。

書いて字の通り、「潜水もできる巡洋艦」という位置付けです。

「インディアナポリス」を「ボカチンさせてやりました」ところの
伊58もそうですし、海戦当初、アメリカ西海岸に接近して
搭載している水上機で攻撃していたのも巡洋潜水艦です。

そういえば、スピルバーグの「1941」というおバカ映画では、
サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ付近に三船敏郎が艦長を務める(!)
巡洋潜水艦伊19が浮上するシーンから始まるんですよね。

伊19は実際にも西海岸の通商破壊作戦に従事していますが、
魚雷を一回撃ったらそれが「ワスプ」「ノースカロライナ」「オブライエン」
にいっぺんに当たってしまったというレジェンドが有名です。

スピルバーグとゼメキスがこの潜水艦を伊19にしたのも、
そのレジェンドに敬意を評してのことだと思います(多分ね)

写真の真ん中に、フランス海軍の巡洋戦艦「スルクフ」が見えます。

アメリカの「潜水艦のふるさと」グロトンの潜水艦博物館で、
ここに寄港した「スルクフ」の姿を描いた絵をご紹介したことがあります。

模型にも確認できる大きな連装砲がこの絵ではとても目立っています。
「スルクフ」はこの寄港の1年後である1942年、米商船と衝突し、
今でも事故現場のカリブ海で眠っているはずです。

その右側の「ナーワル」(Narwhal)は「ナーワル」級潜水艦の
ネームシップで、名前はツノの生えたイルカ類の「イッカク」を意味し、
実際にもこの模型のように「白い潜水艦」だったようです。

これがナーワル=イッカク。うーんきもい。

こうして見ると全く潜水艦に見えないんですがこれは。

真珠湾にいながらドック入りしていたため損害を免れた同艦は、
通商破壊作戦で日本の商船やタンカー、定期船などを多数撃沈しています。


さて、日露戦争の日本海海戦に絡めてロシア海軍の船を紹介しましたが、
それ以降のソビエト海軍の艦船のコーナーと参ります。

ちゃんと旧ソビエト国旗の上に展示して敬意を評しています。
ちなみに、会の方に

「展示会の内容が決まったらそのテーマに沿ったものを作るんですか?」

と尋ねてみたところ、ほとんどは昔に作っておいたものなのだとか。

手前の3隻はミサイル巡洋艦で、

「マーシャル・ウスチノフ」

「アドミラル・フロタ・ロボフ」

「スラヴァ」級ミサイル巡洋艦で、いずれもまだ現役艦です。

向こうの大型の巡洋艦はこちらもミサイル巡洋艦、

「キーロフ」

「アドミラル・ナヒーモフ」

「ピョートル・ヴェーリキー」

といういずれも「キーロフ」級です。

「ピョートル・ヴェーリキー」は、建造時は「ユーリ・アンドロポフ」
だったそうですが、ソ連が崩壊したので「ピョートル大帝」を意味する
現在の名前に変えられてしまいました。
「アドミラル・ナヒーモフ」もソ連時代には「カリーニン」(ミハイル)
を1800年代の海軍軍人の名前に変えたものです。

クーデターや政権交代が起こる可能性のある国で、政治家の名前を
船につけるのはやめといた方がいいってことですかね。

戦術航空巡洋艦「モスクワ」

一口で巡洋艦といってもいろんな種類があることを、この展覧会に行って
改めて知ったような気がしますが、特にこの「戦術航空巡洋艦」、
「対潜巡洋艦」「ヘリコプター巡洋艦」は初めて見聞きする言葉です。

どれもこの「モスクワ」を意味するのですが、ヘリ着艦のための
後甲板の仕様も初めて見るもので、興味を引きました。

「モスクワ」はソ連海軍初のヘリ搭載対潜巡洋艦です。

冷戦時代の対潜巡洋艦、というと、これは間違いなく米原潜対策でしょう。

当時アメリカ海軍は潜水艦発射弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)
を地中海で戦略パトロールに投入しており、これは、ソ連にとっては
いつ核攻撃されてもおかしくないという意味でもありました。

そこでソ連海軍は、1958年より対潜ヘリコプターを艦隊配備し、これを
多数ヘリ母艦に搭載することでこの脅威に対処しようとしたのです。

ヘリをこのように後甲板に搭載するタイプの対戦哨戒艦は当時
英仏伊などでも導入されており、いわば時代の流行りだったようです。


この模型を見て、ヘリを置くスペースのために甲板が大きすぎないか?
と素人なりに思うわけですが、案の定実際もこれでスペースを取りすぎて
しわ寄せは乗員の居住区の劣悪な環境に現れたということで、
艦要員700名、航空要員の100人余は、極限の狭さを耐え忍んだはずです。


事故も多く、当直将校がソナーのフェアリングの引き揚げを忘れ、
暗礁と衝突したり、発電機室から出火しているのに皆お昼を食べに行っていて
気がつかなかったとか、近代化改修工事に時間がかかりすぎて、(7年)
完成した時には元の乗組員が残っておらずに苦労したとか・・・。

きわめつけはソ連が崩壊した後、ロシア共和国とウクライナとの間で
海軍艦隊の帰属問題が生じて、艦隊全体が混乱に陥ったことでしょう。

特に「モスクワ」は補給品の不足と給料不払いで、乗員の士気が急速に低下し、
混乱の中で予備役に編入、その後除籍となっています。

わたしたちは想像したこともありませんが、あのソ連崩壊によって、軍組織、
特に艦隊、艦艇レベルが巻き込まれた困難はかなりのものだったはずです。

ソ連海軍の艦船モデルを見ていて、甲板の色が独特だなあと思ったのですが、
どうもこの写真を見る限り、本当にこんな土色をしていたようですね。

上空からはさぞ目立ったと思うのですが、どんな理由があるのでしょうか。

ちょっと調べたところ、

「洋上にあっても母なる大地を思い出すため」

という意見が見つかりましたが、違うだろ?
つい先日中国の潜水艦が海自の潜水艦に捕捉された時、

「お昼ご飯のために中華鍋でチャーハン作ってた音で見つかった」

とか言われていたのをなぜか思い出してしまいましたよ。

この茶色は、リノリウムの色である、という説が多いのですが、
ひと昔とはいえ戦後の軍艦の外甲板、しかもヘリが着艦する甲板にリノリウム?
と真っ当な疑問が湧き上がってくるわけです。

これは想像ですが、特にヘリ搭載艦の場合、ステルス性よりも
着艦のしやすい、つまり視認性の高い塗装がされるはずですよね?

つまり、凍結した海の上で着艦する可能性の多いソ連海軍の搭載艦は、
グレーより氷上で見分けやすい色にする必要があったので、
それでわざわざ「大地の色」にしたのではないでしょうか。

目立てば彼らの好きな赤でもなんでもよかったけど、
流石に冷戦時代だったので、茶色というのが妥協カラーだったのでは?

と思うのですが、実際はわかりません。

さて、続いてはイタリア海軍です。

イタリアもヘリ巡洋艦を建造した、と先ほど書きましたが、
その一つである「ヴィットリオ・ヴェネト」(右)
「アンドレア・ドーレア」があります。

「ヴィットリオ・ヴェネト」はオーストリア軍にイタリア含む連合国が
ぼろ勝ちした第一次世界大戦の戦いで、この体験が忘れられないのか?
イタリア海軍は同名の戦艦も第二次世界大戦中には持っていました。

やはり先ほどのソ連の「モスクワ」に次いで作られたもので、
2003年に引退した時にはヨーロッパでは「最後の巡洋艦」となっていました。

そして軽巡「サン・マルコ」、「アンコーナ」。

軽巡の命名基準は都市名のようです。
イタリアにはサン・マルコという命名が非常に多く、軍艦だけで4隻、
部隊名が一つ(サン・マルコ海兵旅団)、最近は人工衛星にもあります。

言っちゃなんだけど、あまり強そうに思えないのよね。サン・マルコ。
ていうか、イタリアの軍艦の名前って、どれもイタリアンレストランか、
バッグか靴のデザイナーの名前にしか思えないので困ったもんです。

上「アルベルト・ディ・ジェッサーノ」

同級の軽巡で、1941年、イギリス、オランダ海軍の船に撃沈されました。

下「ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」

同級3番艦。
名前のバンデ・ネーレは15世紀のメディチ家の軍人で、

"理(ことわり)なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず"

という格言を残した人です。
日本の武士道を思わせますね。

目立つといえばこの甲板の赤と白のストライプは斬新です。

重巡洋艦「ボルツァーノ」

重巡洋艦「トレント」

「ボルツァーノ」は共同交戦側イタリア軍(自由フランスみたいなの?)の
人間魚雷「リムペットマイン」にやられて1941年沈没しました。

人間魚雷の起源は実はイタリアだったりするわけですが。
もちろん日本の「回天」のように人間が自爆するという意味ではありません。

「トレント」はマルタ行きの船団攻撃を行なっていて、
イギリス軍の軍機による爆撃と潜水艦によって1942年戦没しています。

 

先入観で見るせいかもしれないけど、イタリアの戦艦ってデザインが
やっぱりスマートというか、洗練されている気がします。

赤白ストライプはここにも健在ですが、その昔、「大鳳」なんかでも
着艦標識のために赤白に塗っていたそうですね。

「ザラ」など普通の巡洋艦にもストライプがあるというのは、
やはり

「これはイタリア軍の船であるから攻撃しないように」

と味方にわかりやすく伝えてフレンドリーファイアーを防ぐため?

さすがデザイン王国、こんなことにもデザイン魂を発揮せずにはいられない。

というか、イタリア軍のパイロットというのはここまでしなきゃ
自軍と他軍の艦船の見分けもつけられないのかい。

 

続く。

 

 

「済遠」と東郷大佐の「高陞号事件」〜模型展「世界の巡洋艦」

$
0
0

 

模型展「世界の巡洋艦」についてお話ししております。

展示は各テーマに沿ってテーブルの上に模型が置かれ、このように
帝国海軍の巡洋艦コーナーはちゃんと旭日旗が敷かれていました。

「球磨」「多摩」「木曽」「北上」

100分の1の「北上」には度肝を抜かれましたが、会場には
普通に1/700の「北上」はじめ、軽巡群もちゃんといます。

一番左は見切れていますが、20年就役ということは・・・・
やっぱりやめとこう。また外れそうだから(笑)

 

軽巡「球磨」ですが、わたしの知り合いの父上が艦長をしていた頃、
中国のどこか(多分警戒していた青島)から神社の小さな社を積んで帰り、
その社を庭に飾って?いたという話を聞いたことがあります。

いかに昔の海軍では艦長職が「やりたい放題」だったかということですね。

ちなみに、その「球磨」、沈没の場所が特定されてからしばらくして、
マレーシアの業者が違法に引き揚げ作業をして、鉄くずとして

1トン当たりわずか2万円

で売り払ってしまったということです。
もう日本には所有権がないとはいえ、なんとかならなかったんでしょうか。


さて、「世界の巡洋艦」と言うことで、いわゆる大国の艦船を紹介してきましたが、
今日は大小取り混ぜてお送りしたいと思います。

まずは清国海軍。

19世紀末期に清国に存在した海軍で、日本とは日清戦争で戦い、
壊滅した北洋艦隊が知られています。

黄海海戦で日本と戦った北洋艦隊の有名な「定遠」「鎮遠」は
いずれも戦艦なので本日の展示には見ることはできません。

 

中国の船なので、全て漢字二文字なのはいいとして、

超勇(Chao Yung) 
揚威(Yang Wei) 
済遠(Sai En)
致遠(Chih Yuan)
靖遠(Ching Yuan)

とかいわれても、英語の人には全く覚えられなさそうです。

左にある「済遠」が黄海海戦のほか、

豊島沖(ほうとうおき)海戦

に参加したとありますが、これは1894年、清国と戦争をすることを
決定した日本側が相手に最後通牒を送り、その返事を待っている間、
接近した日清の海軍部隊の間で起きたフライングの海戦のことです。

日本側の「吉野」「難波」「秋津洲」は、北洋艦隊の「済遠」「広乙」
とすれ違った際、「どちらともなく」撃ち合って戦闘が始まってしまいました。

日本側の報告には

「吉野」が国際海洋法に則って’’礼砲’’を放つも「済遠」は返礼せず
戦闘準備をし、又はやがて実弾を発射して来た」

となっており、清国側はもちろん「日本が撃ってきた」と言っています。

日本の「つもり」はともかく、日本が先に撃ったことは間違いありません。
問題は本当に礼砲だったのか、それとも礼砲を撃つことで日本は
清国側が勘違いして攻撃してくればラッキー、と思っていたのか・・。

それは今でもわかりません。

 

この海戦の結果、「広乙」は「秋津洲」に追い込まれて座礁し、
総員退艦ののち自沈。
「済遠」は白旗を上げながらも逃走し、結局逃げ切っています。

この時、途中で遭遇した「高陞号」と「浪速」の間には、
有名な「高陞号事件」が起こりました。

当時「浪速」の艦長は大佐時代の東郷平八郎でした。

日本側の艦隊の司令官は坪井航三(本名?)少将です。

坪井司令が白旗を揚げながら停止せず逃げていく「済遠」を追っていると、
そこにたまたま通りかかったたのが輸送船「高陞号」と「操江」でした。
わかりやすくするために会話形式でやります。

坪井少将「高陞号には清国の兵隊が乗ってるじゃないか!止まれ!」

済遠「しめたある、奴らが気を取られている今のうちに逃げるあるよ!」

坪井「東郷大佐、高陞号を頼む!わしらは済遠を追う」

東郷「わかりました!」

「浪速」、「高陞号」に近づき、停船させる。

東郷「高陞号止まれ!浪速の砲はそちらに向けているぞ」

人見善五郎大尉「ハロー、臨検に来ました。あなたはどこの船ですか?」

ウォルズウェー船長「ワタシタチー、イギリスノフネデース。
 シンコクセイフニチャーターサレテ、ヘイタイサンハコンデマース」

人見大尉「と言ってますがどうしますか」

東郷「うーん・・・我が艦に続けと船長に伝えてくれ。
 そして、イギリス人の船長は『浪速』に移るようにと」

清国兵「それはダメある!許さないあるね!
 もしイギリス人が船を降りるなら殺してやるあるよ」

東郷「こいつら、脅迫するつもりか・・・。
 Captain, leave your ship!」

船長「It's impossible.」

東郷「うーむ、これは高陞号が清国兵に乗っ取られた、
 つまり叛乱状態(mutiny)にあるということだな。
 よろしい、ならば攻撃警告だ」

「浪速」のマストに攻撃警告の赤旗が揚げられた。
「高陞号」船上は清国兵が右往左往するばかり。

東郷「4時間経った。魚雷発射!」

清国兵「う、撃って来やがったある!」

イギリス人船員「今のうちだ、海に飛び込んで日本の船に移れ!」

東郷「カッターを出せ!イギリス人を救助せよ」

しかし魚雷は届かず不発。

清国兵「向こうに行かせないあるよ!イギリス人を撃てある!」

何人かがそれで殺害されたが、日本側はウォルズウェー船長を含む
イギリス人船員3名の救出に成功。

東郷「船長を確保したか。では遠慮なく撃て!」

「浪速」は右舷砲2門の砲撃で「高陞号」を撃沈。
結果、900名近くの清国兵がが死亡した。

 

NHKの「坂の上の雲」でもこの事件が扱われていましたが、描き方としては
海戦後、「高陞号」が沈んでいった海に漂っていたという設定の(笑)
爽やかにに笑っている清国兵乗組員の記念写真が映し出されるなど、

「罪もないのに殺された清国の若い人たち」

というイメージを強調した、あからさまな日本非難にうんざりしたものです。

連合艦隊の出港シーンに国旗が一本もないとか、義和団の乱を
大国の横暴への反乱にすり替えるとか、本当にこのころのNHKの
中国への忖度ぶりは眼に余るものがありましたね。

あ、今現在もそうか(笑)

NHKはこの事件を日本に非があるように描きましたが、その後行われた裁判で、
ウォルズウェー「高陞号」船長にも、日本軍艦の行為にも、国際法に照らし
違法はないとの判決が下されることになりました。

まあただ、当時のイギリス世論が日本擁護に動いたのは、情勢が後押ししたにすぎず、
この時のイギリスの”都合”によっては、この行為が「違法」となっていた、
という可能性は十分にありました。

何しろ日本は言い訳はともかく開戦前に攻撃を始めてしまったのは確かなのですから、
これを問題視されなかったというのには何らかの意思が働いていたに違いありません。

「歴史に正しいも間違っているもない」

とわたしが常日頃主張しているその典型的な一例がここにあります。

中華民国海軍の巡洋艦「海圻」(Hai-chi)。

中華民国海軍というのはいつからあるのか、ということを
わたしは今まで考えたこともなかったわけですが、それは1913年です。

これもあらためて知ったのですが、中華民国は
第一次世界大戦で戦勝国側にいた関係で、戦利艦を獲得し、
これらを近代中華民国海軍建軍の基礎にしています。

巡洋艦「海圻」は「海天」級防護巡洋艦で、清国海軍の軍艦です。
つまり中華民国海軍って清国海軍と同一とされているってことですか?


「海圻」は1898年竣工し、1899年5月10日に就役しました。

1911年にはジョージ五世戴冠記念観艦式にも参列していますが、
1937年9月15日に、日本海軍の爆撃により沈没しました。

「浪速」の右側はチリ海軍「エスメラルダ」。

ノートルダムの傴僂男?と思ったのですが、そもそも「エスメラルダ」とは
「エメラルド」という意味で、チリ海軍でこの名前を受け継ぐ船としては
これが6隻目、つまり大変由緒ある名前だそうです。

こんなところにあるので古い船かと思ったら、1954年就役、現在も現役の
練習帆船で、世界で2番目の檣長を誇るバーケンティンという帆船です。

これだけ檣長があると、帆を張るのも大変そう・・・。
訓練を行うチリ海軍の軍人さんもさぞ鍛えられることでしょう。

ギリシャ海軍 装甲巡洋艦「イェロギオフ・アベロフ」。

アベロフという名前はロシア人みたいですが、実は

「イェオールイオス・アヴェローフ」

が正しいんだそうです。
普通に日本でもそう呼べばいいんじゃ?って思いますが。

とにかくこのアヴェローフさんは、ギリシャ海軍がイタリアから
この艦を購入した時に購入代金の3分の1を出資した海商王だそうです。
オナシスみたいな感じでしょうか。

ギリシャ海軍なんて、別に戦争してないんだからそりゃ大事にしていれば
軍艦の一つくらい残ってるでしょうよ、と思ってしまってすみません。

ギリシャって連合国側で戦ってドイツに結構やられてるんですってね。
「アベロフ」が就役した頃、天敵オスマン帝国海軍とバルカン戦争もしてますし。

「アベロフ」は現在記念艦として公開されています。

第二次大戦でドイツ侵攻を受け、ギリシャ海軍が自沈させようとしたところ
「アベロフ」乗組員は命令に背いて出航し、アレキサンドリアで
連合国に組み込まれるというドラマチックな戦後を迎えたためです。

命令に忠実な軍人ばかりなら、彼女の今はなかったことになります。

現存する世界でただ一つの装甲巡洋艦でもある彼女を、
ギリシャでは敬意を評して「戦艦」(θωρηκτό)と呼んでいます。

ギリシャ海軍が「アベロフ」を調達しなければならなかった原因は
何と言っても隣国オスマン帝国との間の軋轢でした。

隣り合った国で仲がいいなんてケースは世界には稀で、(日本と台湾除く)
地図を見ていただければ、どうしてこの両者がいがみ合うのか一目瞭然です。


バルカン戦争、希土戦争と、両者はやり合ってきたわけですが、これは
そのために生まれたオスマン帝国海軍の巡洋艦「メジディイエ」です。

沿岸部の防備のためにオスマン帝国がウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社という
アメリカの会社に注文し1903年に就役しました。

バルカン戦争ではブルガリアの戦隊と海戦を行なっています。


「メジディイエ」は第一次世界大戦時、黒海を遊弋中触雷し、
着底してしまったところをのちにロシア軍に鹵獲されてしまい、

着底&鹵獲なう

巡洋艦「プルート」

という名前に変わり、黒海艦隊の一艦として古巣のオスマン帝国を相手に、
トラブゾン侵攻作戦 (Trebizond Campaign)などで戦う運命になったということです。

 

さて、模型展「世界の巡洋艦」最終回は、いよいよアメリカの巡洋艦です。

 

続く。

 

 

シャルンホルストとヘネラル・ベルグラノの戦没〜模型展「世界の巡洋艦」

$
0
0

 

模型展「世界の巡洋艦」、続きです。
今日はその他の国々の海軍と巡洋艦についてお話ししたいと思います。

今まで考えてもみなかった海軍とその巡洋艦について多くを知るところになりました。
この模型展を開催してくれた「ミンダナオ会」の皆様には本当に感謝に堪えません。

その前に、イギリスの巡洋艦で主にドイツと海戦を行なったもの以外に
一つ載せ忘れた「大物」艦がありました。

 

イギリス海軍 軽巡洋艦「ベルファスト」

ロンドンのテムズ川には、今でもこの軽巡が

大英帝国戦争記念博物館

の一つとして係留されています。
「ベルファスト」は「タウン」級軽巡洋艦で、ロンドン軍縮条約の結果
「名ばかりの軽」になったというのは日米仏伊いずれの国とも同じです。

コメントでも出ていましたが、軽巡洋艦とはロンドン条約で規定された
「排水量節約型」の巡洋艦のことです。

もう一度おさらいしておくと、ロンドンより先に行われた
ワシントン軍縮条約の目的は、「戦艦」と「巡洋戦艦」の保持制限で、
巡洋艦についてはこれを規定するものではなく、つまり

巡洋艦なら制限なしに持つことができる

という解釈が成り立ちました。

というわけで当然ですが、各国が競って巡洋艦を造りはじめました。
結果として、制限ギリギリの巡洋艦の「建艦競争」となってしまったので、
全然軍縮になってないじゃん、ということになり、改めて
巡洋艦の制限を定める目的で行われたのがロンドン会議です。

 

この条約では巡洋艦を砲の口径だけで「カテゴリA」(重巡)、
「カテゴリB」(軽巡)に分け、各国で所有できる艦船の上限を

合計排水量で

決定しました。
するとどうなるかというと、制限排水量をギリギリまで大きくし、
砲だけ小口のものを積んだ「重巡より大きな軽巡」が生まれてくるわけです。

 

特に日米英では、排水量の上限である1万トン級の軽巡が生まれました。

「ベルファスト」の「タウン級」(町の名前だからタウン)も

サウサンプトン級 11,540 トン
グロスター級 11,930 トン
エディンバラ級 13,175 トン

と、例えば日本の重巡「青葉型」9,000トンよりはるかに大きく、
重巡「利根型」11,213トンと同等の艦体を持ちます。

ちなみに「利根」型は、軍縮条約に批准しつつ大型の艦体を備え、
晴れて?日本が国連を脱退してからは砲を大口に換装し、
重巡として生まれ変わっています。

「ベルファスト」は1939年に就役し、第二次世界大戦では
「北岬沖海戦」という

ドイツ戦艦「シャルンホルスト」

戦艦「デューク・オブ・ヨーク」軽巡洋艦「ジャマイカ

重巡洋艦「ノーフォーク

軽巡洋艦「ベルファスト」「シェフィールド

駆逐艦4隻

という、とっても不公平な海戦に(当然とは思いますが)勝利しています。
しかし、9対1で戦って負けたとはいえ、「シャルンホルスト」は相手に

重巡1・駆逐艦1中破
戦艦1・軽巡1小破
戦死11
負傷11

という打撃を与えたわけで・・・・これってすごくないですか?

wikiによるとイギリス海軍の勝因は「レーダーを保持していたこと」らしいですが、
レーダーを持っていてこれってことは、もしなかったら
一隻の戦艦相手にもっと被害が大きかったってことなんでは・・・。

そう思ったのはわたしだけではなく、海戦後、イギリス艦隊の指揮を執った
ブルース・フレーザー司令は、将校たちに次のように訓示しています。

「紳士諸君、シャルンホルストとの戦いは我々の勝利に終わった。
私は君たちの誰かが、戦力が倍以上違う相手と戦うことを要求された時、
艦をシャルンホルストと同じぐらい立派に指揮することを望む。」

 


手前、スペイン海軍の重巡洋艦「カナリアス」。

同級の1番艦で、2番艦は「バレアレス」。
軍縮条約とは全く関係なく生きてきたスペイン海軍にとって、
これが最初で最後の重巡洋艦となりました。
批准していないわりに、同級は軍縮条約の基準に沿って造られているそうです。
(基準排水量10,670トン、砲口203センチ)

それはいいのですが、スペイン人らしいというのか、でれでれと建造しているうちに
スペイン内戦が起こってしまい、彼女らは反乱海軍に乗っ取られて、
スペイン政府軍と戦うという数奇な運命を辿り、妹艦の「バレアレス」は
政府軍にされてその命を閉じています。

「カナリアス」は数々の武功を立て、傷一つ負わずに戦乱を生き抜いて、
1975年まで悠々自適の老後を過ごしたようです。

上 アルゼンチン海軍軽巡「へネラル・ベルグラノ」

スペイン語なのでGをハ行で発音するのはわかりますが、
「ジェネラル」でも「ゲネラル」でもなく「ヘネラル」。
やっぱり軍事用語にラテン系言語はあんまり、と思ってしまいました。

元々は真珠湾攻撃の時に生き残った軽巡「フェニックス」を
ファン・ペロン(奥さんがあのエビータ)大統領が貰い受け、
戦功のある軍人の名前をつけたものです。

「フェニックス」として就役したのは1939年、その後は
アルゼンチン海軍の象徴のような存在として長生きしてきた「ヘネラル」、
なんと、

1982年の5月2日、フォークランド戦争で戦没

していたことがわかりました。

イギリス海軍のチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」に、
魚雷を2発撃ち込まれて轟沈したというのですが、いやー・・・
これ、すごく不思議じゃありません?

なんだって1982年の戦争に、真珠湾の生き残りを投入するのか。
アルゼンチン海軍にとっていくら象徴的な存在だったとしても、これって
湾岸戦争にアメリカが「ミズーリ」を出してくるようなもんじゃないですか。

別にアルゼンチン海軍、船に困っていたというわけでもなく、
イギリス海軍との間で行われた海戦で喪失した艦船の数だけでいうと、
イギリス海軍の方がはるかに上回っていたというのにですよ?

しかも、この「海軍の象徴」であった「ヘネラル」を失ってから、
アルゼンチン軍の士気はガクッと落ち、1ヶ月後には戦闘停止を決めているのです。

アルゼンチン海軍軍人にとって、彼女は永遠に海軍そのものであり、
神聖化された最後の砦のようなものだったのでしょうか。


我が戦艦「大和」、「シャルンホルスト」、そして「ヘネラル・ベルグラノ」。
これらの軍艦たちの戦没を敢えて言葉で表すなら、それは

「誇り高き勇者の最後」。

永遠に彼女らの名と孤高の戦いは名誉と共に語り継がれるべきでしょう。

 

下・アルゼンチン海軍「ヴェンティシンコ・デ・マヨ」

「ヴェンティシンコ」とはスペイン語で25。「マヨ」は5月。
5月25日はアルゼンチンの革命記念日に当たり、
「ジュライフォース」のように、それ自体が革命記念日の意味を持ちます。

本艦は、イタリアに発注された重巡で、1931年から就役しました。

南米においても「近隣国との間の諍い」というのは普通にあって、
アルゼンチンの場合、第一次世界大戦後の仮想敵は、隣国チリとブラジルでした。

アルゼンチンが海軍力で優位に立つために持つことにしたのが
本艦をはじめとする重巡と軽巡です。

軽巡は一隻でイギリス製、その名も「ラ・アルヘンティーナ」と言いました。

スウェーデン海軍 巡洋艦「トレ・クロノール」


「トレ・クロノール」とは「三つの王冠」を意味し、国産です。
高角砲を持たず、対空対策としてはボフォース砲を搭載していました。

スウェーデンという国はそれこそ戦争してなかったのに、なぜ巡洋艦を?

と思ったのですが、これは19世紀以後、スウェーデンが国策として
武装中立を決めたため、海軍もそれに伴い重武装化していたのです。

冷戦時代にもスェーデン海軍はソ連海軍との戦いに備えて対潜能力の強化を行なっていますが、
ご存知のように実際にスウェーデンが、近代以降、他国と交戦した事は一度ありません。

スイスもそうですが、中立であるということは武装を固めるということでもあり、
武器を持てば戦争が起こるという理論で非武装都市などとたわけた寝言をいう人に、
この武装中立の国々の姿勢をどう思うかちょっと聞いてみたい気がしますね。


というわけで今日で終わるつもりが、アメリカ海軍まで行き着きませんでした。
今度こそ最終回に続く。

   

アメリカ海軍の巡洋艦と模型を見ることの意味〜模型展「世界の巡洋艦」

$
0
0

模型展「世界の巡洋艦」のご紹介もついに最終日になりました。

英、独、露、ソ連、スペイン、そしてアルゼンチン海軍の
歴史的な巡洋艦をご紹介してきましたが、この国がまだ残っていました。

オランダ海軍 軽巡「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」 

「 デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」 というのは「7つの州」を意味し、オランダの美称です。 日本のことを「秋津洲」とか「大八洲国」というようなものですね。
「敷島」「秋津洲」「大和」「扶桑」
これらの美称を軍艦の名前にする慣習のある日本国民としては
このオランダのネーミングに親しみを持つところです。 オランダ海軍は、1600年代から近代に至るまでに、 戦列艦、海防戦艦、巡洋艦、フリゲート艦と、合計8隻の
「 デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」を持っています。   軽巡の「デ・ゼーヴェン」は「デ・ロイテル」級の2番艦で、
当時の植民地保護のために建造される予定でした。
ところが建造中に世界大戦が始まってオランダはドイツに侵攻されてしまい、
ドックごと接収されて、2隻ともドイツ海軍の練習艦にされることになってしまいます。   オランダにとって幸い、占領下で建造のスペースが遅かったのもあって、
連合軍による解放と同時にまた元のオランダに所有が移り、
じっくりペースで結局1953年に完成に至ったという経緯があります。   その後「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」はヘリコプター巡洋艦に改装され、
ペルー海軍に譲渡されて、1999年まで現役で活動していました。     同じくオランダ海軍の、左から   軽巡洋艦「デ・ロイテル」   軽巡洋艦「ジャワ」   軽巡洋艦「トロンプ」   「デ・ロイテル」は1939年に就役し、植民地保護のために東南アジアに投入されましたが、
まず1942年2月4日、アメリカの重巡洋艦「ヒューストン」軽巡洋艦「マーブルヘッド」
ここにある軽巡洋艦「トロンプ」駆逐艦7隻と共にスラバヤから日本艦隊攻撃に向かう途中、
マカッサル海峡で日本軍機の攻撃を受け、至近弾により小破(ジャワ沖海戦)。

1942年2月27・28日、軽巡洋艦「ジャワ」はアメリカの重巡洋艦「ヒューストン」
英国の重巡洋艦「エクセター」、オーストラリアの軽巡洋艦「パース」
駆逐艦9隻と共に日本軍と交戦(スラバヤ沖海戦)し、日本の重巡洋艦
「那智」「羽黒」の発射した酸素魚雷2本が命中し、撃沈されました。

「ジャワ」もスラバヤ沖海戦で「那智」の雷撃に撃沈され、翌日哨戒中の第五戦隊
「那智」「足柄」および駆逐艦「山風」「江風」は漂流するジャワの生存者を発見、
「江風」は37名の「ジャワ」乗組員を救助しています。

小破した「トロンプ」はその後も船団護衛などに従事し、何度か被弾もしましたが、
結局生き残って1968年に除籍処分となりました。


さて、いよいよアメリカ海軍の巡洋艦です。

アメリカ海軍のフリゲートといえば、何と言ってもこれ、
「ナショナル・シップ」であり、現在でも現役艦であるフリゲート、
「コンスティチューション」(USS Constitution)を置いてありません。   「コンスティチューション」については、当ブログで実際に見学し、
歴史についてもかなり掘り下げてここでお話ししてきたので、
もし興味がある方は「軍艦」カテゴリで検索してみてください。     まさに帆に風をはらんで帆走している「コンスティチューション」の姿。
模型の帆船は布をプラスチックに貼り付けて帆を制作するそうですが、
ちょっと調べたところ、わざわざ紅茶で布を染めて「汚す」そうですね。   「コンスティチューション」に限らず、帆船をいくつかアメリカで見ましたが、
帆はむしろ真っ白なものだという印象があるので、この模型を始め、
まるで羊皮紙のような色をしているのはちょっと不思議でなりません。     この辺りの船も「巡洋艦」にしてしまうの?という気もしますが。 いわゆる「黒船」のコーナーです。   蒸気フリゲート「サスケハナ」「ミシシッピ」   帆走スループ「プリマス」「サラトガ」   は、1853年7月8日、東京湾行口の浦賀沖に姿を現した
4隻のアメリカ軍艦で、そのうち2隻は日本人が初めて見る蒸気船でした。   「たつた四杯で夜も眠れず」   と当時の狂歌に詠まれた「上喜撰(じょうきせん)」は
蒸気船と掛けた素晴らしく気の利いたシャレだったわけです。

そもそも幕府は、アメリカ軍艦が開国を求めて日本に来航するつもりである、
ということをオランダからの情報ですでに知っていました。 ただし、蒸気を動力とし、煙突から黒煙と火の粉を撒き散らし、
風の力を借りず自在に動くことのできる「黒船」はそれこそ
「夜も寝られない」ほどのカルチャーショックを与えたのです。
模型制作者によると、この展示を3m離れて見ると、

「浦賀沖約2キロに投錨した4隻の黒船を、海岸から
人々が眺めていたのと同じ光景を体験することができる」   ということです。

そしてアメリカの巡洋艦群。

手前、軽巡洋艦「マーブルヘッド」。   冒頭にお話ししたオランダ巡洋艦の「デ・ロイテル」と共に、
ジャワ沖海戦に参加した巡洋艦です。   マーブルヘッドというのは、ボストンから海岸沿いに上がっていった
突き出した半島を持つ街で、住んでいた時に遊びに行ったことがありますが、
一軒一軒がとんでもない豪邸ばかりで、しかもその数の多さに思わず
日本人としては落ち込むくらいのショックを受けたものです。   ローガン空港から飛び立ってすぐ、マーブルヘッドの沿岸に
ヨットが数え切れないほど係留されているのを写真に撮って、
ここでお見せしたこともありますが、歴史あるヨットクラブを擁し、
とにかくアメリカでも大金持ちが住んでいることで有名な街です。   ジャワ海戦で「マーブルヘッド」は一式陸攻の攻撃によって
艦首と艦橋、艦尾を損傷しましたが、応急処置でなんとか離脱しました。
その間「高雄」と「愛宕」が駆逐艦「ピルスバリー」を撃沈しましたが、
日本側は自分たちが撃沈したのは「マーブルヘッド」だと思っていたということです。
同じ4本煙突だったというのが間違えた理由だそうですが、
「マーブルヘッド」は「ピルスバリー」の1.5倍は艦体が大きいですし、
いくらなんでも駆逐艦と巡洋艦を間違えるだろうか、という気もします。
きっとわたしみたいな人が勘違いしたんだろうな。  
画面左上は軽巡「サバンナ」(Savannah)   練習艦隊とは少し違う、士官候補生訓練艦隊の旗艦として、
アナポリスから候補生を400人乗せて出航し訓練を行っていました。   当時のアメリカ海軍の士官教育はこのように行なっていたんですね。   画面右、重巡洋艦「ルイヴィル」(Louisville)   「ノーザンプトン」級重巡の3番艦で、最初は軽巡でしたが、
ロンドン軍縮会議の結果重巡に艦首変更した船でした。   真珠湾に向かう途中で真珠湾攻撃を知り、そのまま西海岸に向かっています。
「キスカ」「アッツ」への砲撃に参加し、クェゼリンの戦いでは僚艦である
「インディアナポリス」にフレンドリーファイアーを受け損傷するも、
トラック、マリアナ、パラオ、テニアン、グアム、パラオ(ペリリュー)
そしてレイテ沖海戦、ルソン島の戦いと、激戦コース一択でした。   ルソンでも沖縄でも次から次へと日本軍の特攻機に突入され、
大きな損害を受けたという点でも、当時のアメリカ海軍の船として
フルコースの洗礼を受けたといってもいいでしょう。   彼女は第二次世界大戦の間だけで13個の従軍星章を受けています。   画面右上、重巡洋艦「ポートランド」   「ルイヴィル」と同じく激戦コース組で、レイテ沖海戦、スリガオ沖海戦に参加、
スリガオ沖では日本艦隊に丁字戦法を用いて打撃を与える側でした。   沖縄戦の支援も行い、24回特攻の攻撃を受けていますが損傷はなかったようです。     大型巡洋艦「アラスカ」。   模型も立派ですが、重巡でも軽巡でもなく「大型巡洋艦」とは?
巡洋戦艦と呼んでも差し支えなさそうな巡洋艦です。   アメリカがこの大きな巡洋艦を作った背景には、まずドイツが
「砲力重巡以上、速力は戦艦以上」(逆じゃないのこれ)と宣伝していた
ドイッチュラント級装甲艦」の存在と、同じ頃、アメリカ情報部が
どこで仕入れてきたのか、日本海軍が
基準排水量15000t、12インチ砲6門搭載を搭載した「秩父型大型巡洋艦」
もしくは「カデクル型大型巡洋艦」
なる艦を秘かに建造しているという誤情報を掴んだことにありました。   そこでアメリカ海軍はこれらの艦に対抗するため、 ドイツの装甲艦や日本の大型巡洋艦を火力・防御・速度で上回り、
通商保護が行える長大な航続力を持った艦を検討し始めたのです。   これがアラスカ級大型巡洋艦でした。(以下略)   しかし「かでくる」って・・・。
日本人ならこの時点ででもう大嘘だってわかるんですが(笑)       重巡洋艦「ミネアポリス」   真珠湾攻撃の時、たまたま砲撃訓練に出ていたという「ミネアポリス」。 日本側が「鼠輸送」と呼ぶ「トーキョーエクスプレス」を阻止するため、
ガダルカナルに進出してすぐ、ルンガ沖海戦を経験します。   ルンガ沖では「ミネアポリス」は「高波」を攻撃し、爆発炎上させますが、
その間に向かってきた二水戦の酸素魚雷が命中、艦橋から先がもぎ取られました。     あかん、これは酷すぎる。   「ミネアポリス」が凄かったのはここからで、応急措置で沈没を防ぎ、
さらにこの船を操艦してツラギ島に後退したということでしょう。   ただこの時のアメリカの巡洋艦隊はこの他にも「ノーザンプトン」沈没、
「ニューオーリンズ」大破という大敗を、駆逐艦隊相手に喫しました。
  重巡洋艦「タスカルーサ」(Tuscaloosa)   アラバマ州にはこういう街があるそうです。(駄洒落禁止)
「ニューオーリンズ」級の4番艦で、主にヨーロッパ戦線で戦いました。     あまりにもたくさんありすぎて、全部ご紹介できないアメリカの巡洋艦ですが、
これだけはしっかり上げておきます。   重巡洋艦「ニューポートニューズ」(左)   重巡洋艦「セーラム」(中央)   その理由は、このブログの読者の皆様ならご存知かと思いますが、わたしが
フォールリバーに展示されている「セーラム」を実際に見学し、
ここで詳しくお話ししたからです。   もしご興味がありましたら、「軍艦」カテゴリで検索してみてください。   右は重巡洋艦「キャンベラ」   「ボルチモア」級の3番艦です。
アメリカの船なのにどうしてこの名前?と思った方、あなたは鋭い。
当初3番艦は「ピッツバーグ」になる予定だったのですが、
1942年8月8日、9日の第一次ソロモン海戦で日本軍の攻撃により喪われた
オーストラリアの重巡洋艦「キャンベラ 」(HMAS Canberra, D33) 
に因んでこのような命名を受けました。   「キャンベラ」も「セーラム」と同じフォールリバーで建造されています。     「セーラム」と「フォールリバー」部分。   「セーラム」はここで紹介されていた「ラ・プラタ沖海戦」を描いた
「戦艦シュペーの最後」で、「アドミラル・グラーフ・シュペー」を演じました。 一切改装なしで、しかも艦番号すら「セーラム」のままドイツ軍艦を演じるのは
かなり無理があったと思うのですが、それについては劇中、   「アメリカ軍の艦に偽装するため塗装を変更した」
と登場人物に説明させているそうです。
そんなわけあるかーい(笑)         右重巡洋艦「メイコン」   左重巡洋艦「フォールリバー」   「フォールリバー」はその名のフォールリバーにあるバトルシップコーブで
艦首の先だけ実際に見たことがあります。
これについても説明しておりますのでご興味があれば(以下略)     というわけで、やっとの事で「世界の巡洋艦」をテーマにした模型展、
ご紹介し終わりました。  

テーマに沿ってこの模型製作会の皆さんが精魂込めて作った作品を
一堂に見る機会を得て思うことは、

「模型から見えてくるものはあまりにも多い」

ということです。

サイズを小さくして視覚化することで「神の視線」を得ることすら
場合によっては可能なのですから、特にわたしのように一つの船を
そのもののみならず、その歴史的意味や時にはまつわる物語まで、
多角的に知りたいと思う者にとっては、模型展の行われている小さな部屋は
まるで宇宙のごとき無限の広がりを持っているとも言えるのです。

「制作には全く興味はない模型ファン」として、これからも
機会があればまた模型展に訪れてみたいと思っております。

 

終わり

 
Viewing all 2814 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>