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海上自衛隊東京音楽隊 第57回定期演奏会「シンフォニックコンサート」

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去る2月18日、東京オペラシティコンサートホールで
海上自衛隊東京音楽隊の第57回目になる定期演奏会が行われ、
タイトルでも「シンフォニックコンサート」と銘打たれた通り、
特に交響的な色彩を感じさせる楽曲を心ゆくまで楽しんできました。

 

会場は例年通り新宿東京オペラシティのタケミツメモリアルホールです。
数ある都内のコンサートホールの中でもわたしがダントツで好きなホールで、
ここで東京音楽隊が定演をしてくれるのをいつも楽しみにしています。

備え付けのパイプオルガンはスイスのオルゲルバウ・クーン社製。
ホール竣工20周年をライティングによるデコレーションでアピールしています。

 

この日割り当てられた席は二階の正面席。
開演の合図から程なく、後ろから物々しく一団がやってきたと思ったら、
その中心は何と我らが小野寺防衛大臣でした。

大臣をエスコートしていたのは村川豊海幕長夫妻で、周りをSPが固め、
真後ろの席は空け、周囲に自衛隊現役幹部を配すという気の配りよう。

こんなに大臣の近くに座らせてもらったということは、
一応身元が確かと思われてるってことだよね、と
妙なところで安心するわたしたちでした。

 


この日、開演に先立ち、君が代斉唱が行われました。
音楽まつり以外で君が代を斉唱するコンサートはなかったように思うのですが、
これはやはり日本国防衛大臣が臨席しているからということでしょうか。
それともわたしが忘れてるだけ?

この君が代斉唱で気づいたことがありました。

例年武道館で行われる自衛隊音楽まつりでは、演奏前に君が代斉唱が行われます。
舞台にいる音楽隊の演奏と一緒に歌うのですが、いつも事前に

「前奏はございませんので演奏に合わせてお歌いください」

と断ったうえでいきなり演奏が始まるというのが通例になっていました。
もちろん最初の音を始まりと同時に出せる人など会場にはほとんどおらず、

「・・・・・・みーがーよーはーー」

とほとんどの人が最初の音をミスしてしまうわけです。

わたしも何だかなあといつも思っていたのですが、これに対して
心を痛めていた人はわたしだけではなく、第11代東京音楽隊隊長であった

谷村政次郎氏が、水交会の会報で連載しておられるエッセイで

「前奏なしで皆で頭から歌えるわけがない。
出だしを歌わない国歌斉唱なんて国歌に対する敬意が全く感じられない。
斉唱の時には前奏をつけるべきである」

ということを音楽まつりの後主張されました。
それを読んだわたしはよく言ってくださったと内心喜んでいたのですが、
今回はちゃんと前奏として2小節が演奏されたのです。

東京音楽隊が元音楽隊長の苦言を受け入れて前奏を加えたのか、
全く偶然、樋口隊長がそのようにすることにしたのかはわかりませんが、
何れにしてもこの「小さいことだけれど大事な問題」が解決したことに違いありません。

会場にもし谷村氏がおられたとすれば、きっと我が意を得たりと
会心の笑みを浮かべておられたことと思われました。

 

さて、無事に?国歌斉唱が終わり、前半のプログラムが始まりました。

■ 舞踊詩「ラ・ペリ」のファンファーレ ポール・デュカス

La Péri Fanfare- Paul Dukas

 

「魔法使いの弟子」という曲が有名な(魔法使いの弟子ミッキーが箒と戦うあの曲)
ポール・デュカスのファンファーレでコンサートは始まりました。

 バレエ音楽「ラ・ペリ」に後から書き加えられたファンファーレで、
金管楽器奏者にとっては大変やりがいのあるレパートリーではないでしょうか。

デュカスという人は、後期フランスの、ドイツロマン派風の構成に加え、
フランス風の鮮やかな色彩を感じさせるオーケストレーションを特徴とし、
この次の演目となった

■ 牧神の午後への前奏曲 

のドビュッシーとともにフランス印象派の代表的な作曲家です。
その点この最初の二曲の選曲は好カップリングというべき組み合わせでした。

 

この曲の「主役」は何か?というと、それはフルートです。
フルート奏者にとっては主役になれる協奏曲のような曲かもしれません。


皆さんは「パンの笛」という言葉を聞いたことがありますか?

パンというのは半獣半人の「牧神」のことで、出だしのフルートは
もともと「パンフルート」という楽器で演奏することになっています。

「牧神の午後」はドビュッシーがマラルメの官能的な詩にインスピレーションを受けて
書いたもので、半音階を使った怪しげなフルートのメロディから始まり、
この半獣半人が昼寝しながらニンフたちに懸想するという、それだけのお話。

ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」カルラ・フラッチ&ローマ歌劇場バレエ団
Carla Fracci, Debussy, L'après midi d'un faune

せっかくなのでバレエの舞台の動画をあげておきます。
牧神の「牛柄」タイツは初代ダンサーのニジンスキーと同じものとなっています。

10:40(最後)で腕立て伏せを始めるかと思ってドキドキしてしまった(笑)

そして、そのエロチックな内容にくわえ、ニジンスキーが当時の倫理コードを
ぶっちぎって「行きすぎた表現」をしたため、警察が出動するという
大騒ぎになってニジンスキーも流石に自重したという曰く付きの音楽でもあります。

どの部分ででその’行き過ぎ’があったのかちょっと気になるのはわたしだけ?

 

パンフルートの代理ということもあり、この曲はフルートが主役と言いながら、
楽器の構造上響きにくいC# から半音階の下降から始まります。
あえて響きの地味な中音域で奏でることで霞のかかったような気だるい雰囲気を表し、
半獣半人の好色なおっさんがデレデレと睡を貪りながらけしからん妄想をしている、
という内容にふさわしい隠微な音色を作り出しています。

ただ、フルートを中心に聴かせたい場合、例えばゴールウェイなどは、
音程を上げた録音を残しているようです。
これだと全体の雰囲気は作曲者の意図と違うものになってしまいそうですが。

もともと管弦楽の曲ですが、本日の吹奏楽による演奏においても、
この中間色のようなまったりした色彩は損なわれていなかったと思います。

 

♪NHK大河ドラマ「真田丸」のテーマ

 

フランスの印象派の、エスプリ溢れる色鮮やかな楽曲が続いたと思ったら、
いきなり大河ドラマのテーマになるのが自衛隊らしいですね。

曲が始まる前に司会の俳優村上新悟さんと、いつもは司会役のハープの荒木美香三曹が
楽しいトークを繰り広げて、雰囲気もすっかり変わりました。

村上新悟さんは大河ドラマ「真田丸」で直江兼続役が大変好評だったということで、
敬意を表して?この曲が選ばれたようです。

どうして村上さんが司会をすることになったかという経緯も説明がありましたが、
なんと隊長の樋口二佐と行きつけの飲み屋?で隣同士になり、
そこで(多分)意気投合し、隊長にスカウトされたのがきっかけだったとか。

荒木三曹が、

「上司が無茶振りしまして(汗)」

と謝っていましたが、本当にそんなことが、というか、
音楽隊の隊長ってそんなこともできるのか、と驚きました。

 

村上さんはその後荒木三曹におだてられ?て、時代劇喋りで

「皆の者、用意はできたでござるか。
しかし・・・軍師殿(隊長のこと)がおらぬではないか?どこじゃ?」

などと低音の美声で演じ、

「この後も兼続さまに司会をお願いしてよろしいですか」

という荒木さんのお願いに

「それは・・このままだとこの後の進行に何かと不都合が出てきてしまうのでな」

と返すなど、会場はすっかり笑いと暖かい雰囲気に包まれました。

ちなみに、この日村上氏は所属していた無名塾主催の仲代達矢氏が、
若き日にカンヌ映画祭で着たタキシードを着ていました。
仲代氏にそれをもらったという人から借りてきたそうです。

 

「真田丸」のテーマは本来ヴァイオリンのソロで始まりますが、
吹奏楽編曲ではその部分はクラリネットに置き換えられていました。


♪ 悲しくなった時は 中田喜直 

海自の音楽隊らしく海をテーマにした日本の歌曲を三宅由佳莉三曹が歌いました。

いくつか動画を探してみたのですが、気に入った演奏がなかったので、
寺山修司の書いた歌詞だけあげておきます。


悲しくなったときは 海をみにゆく
古本屋の帰りも 海をみにゆく
貴方が病気なら 海をみにゆく
心貧しい朝も 海をみにゆく

あぁ海よ 
大きな肩と広い胸よ
おまえはもっと悲しい
おまえの悲しみに
私のこころは洗われる

どんなつらい朝も
どんなむごい夜も いつかは終わる
人生はいつか終わるが
海だけは終わらないのだ

悲しくなったときは 海をみにゆく
ひとりぼっちの夜も 海をみにゆく


三宅三曹の歌はこういう曲の時にピュアな声質が歌詞の淡々とした調子と
とてもうまくマッチする気がします。

 

ところで、オペラからアニメソングまで、なんでも歌わなくてはならないという
「宿命」から逃れることはできないのが自衛隊の歌手というポジションです。
ある意味、どんなプロの歌手より過酷で難しい現場であると言えるかもしれません。

だからこそ、東京音楽隊でも横須賀音楽隊でも、歌手を大事にしてあげてほしい。
歌手の特質と音域を踏まえて、選曲だけは慎重にして欲しいと思います。

 専属歌手が常駐している音楽団というのは世界広しといえども
自衛隊音楽隊をおいてないと思うのですが、歌も楽器の一パートとして
「適宜使いこなす」ことがこれからの自衛隊音楽の鍵になるでしょう。

くれぐれも「何にでも挑戦させようとしないであげてほしい」と、
老婆心ながら聴衆の一人としてここでこっそりと呟いておきます。


♪ 海峡の護り 片岡寛晶 A Strait Defense for Wind Orchestra

東京音楽隊の演奏が見つかりました。
樋口二佐が横須賀音楽隊の隊長だった頃、委嘱作品として作曲されました。

海の「SEA」を音名にした「Es-ミ♭E-ミA-ラ」という音が、音群として表れるという
海上自衛隊の委嘱作品ならではの「仕掛け」のある曲で、最近ではコンクールなどでも
各団体に取り上げられているようです。


海峡の護りとはそれこそ海自や海保のためにある言葉ですね。

会場では司会の村上氏が

「今この瞬間も遠い海域で多くの自衛官が昼夜を問わず活動していることに
想いを寄せていただければ大変嬉しく存じます」

というようなことを言っておられました。

自衛隊音楽隊のもっとも大事な活動は「広報」でもあるのです。

広報といえば、プログラムにも活動記録が紹介されています。
これを見て大相撲の千秋楽にも音楽隊が出演していたと知りました。

そうそう、村上氏の司会起用には、東音がニコニコ超会議に出演した時、
村上氏が別に出演していたという奇縁もあったと聴きました。


♪ キャンディード序曲  Candide Overture 

後半はバーンスタインをトリビュートしたプログラムで、まずは
オペラ「キャンディード」の序曲です。

♪ スリー・ダンス・エピソード オペラ「オン・ザ・タウン」より

このブログでもご紹介したことがありますが、3人の水兵
(シナトラとジーンケリー含む)ニューヨークで24時間の休暇の間に
巻き起こす出来事を描いた映画「踊る大紐育」の原題は実は

「オン・ザ・タウン」。

つまりこのミュージカルが映画化されたものです。
途中で「ニューヨーク・ニューヨーク」のフレーズも現れます。

今回検索していてこんな映像を見つけました。

ON THE TOWN performs ON LOCATION in New York, New York!

昔の録音にパフォーマンスを現代のニューヨークで行なっているものですが、
まず、水兵が出てくるのが博物艦「イントレピッド」。
アップルやハリーポッターが出てくるのが「今」です(笑)

♪シンフォニックダンス ミュージカル「ウェストサイド物語」より

 

東京音楽隊の48回定期演奏会の映像が見つかりました。
見覚えのあるメンバーの今より7年前の演奏が見られます。
その後呉に籍を移した団員さんもいますね。

この組曲の2番目「サムウェア」というアダージョの曲は、独立して
歌詞もついてバラードとして歌われる大変美しい曲です。
原曲のメロディはチェロで始まり吹奏楽ではそれをホルンが受け継ぐのは同じ。

ところでホルンというのは跳躍の難しい楽器と言われていて、
木管楽器のようにオクターブキイもないので、素人ながらこの最初の
「B-A」の跳躍、「C#-C#」の1オクターブ跳躍、そして
ハイDへの跳躍は緊張するものではないかと思います。

東音のこのyoutubeでもDでミスってますが、バーンスタインの
NYフィルの演奏でさえ最初の「B-A」でちょっと危ねー、な感じです。
やっぱり難しいんでしょうね。

個人的には、バーンスタインのオーケストラ版原曲にはない、
「チャチャ」の時の「マンボ!」という掛け声をかけるかどうかが気になりましたが、
東京音楽隊では(口の空いている人が)することになっているようです。

そういえば、時期をずらして行われる横須賀音楽隊の次回定期演奏会では、
やはりこの「シンフォニック・ダンス」を行う予定だと聴いています。

両者の同じ曲を聴き比べられるのが楽しみです。


♪ トゥナイト

アンコールに、「ウェストサイド物語」の「トゥナイト」を
三宅三曹とトランペットの藤沼直樹三等海曹がピアノ伴奏で歌いました。

クリスマスコンサートで「美女と野獣」を歌い、満場を感動の渦に引き込んだ
ゴールデンコンビによる現代版「ロミオとジュリエット」のアリア。

吹奏楽のアレンジがなかったのかピアノ伴奏だけというのが少々残念でしたが、
初々しい雰囲気がとても見ていて微笑ましい「トゥナイト」でした。

藤沼三曹は最後のハイトーンも原曲通り歌い切り、歌手ぶりを魅せてくれました。

パンフレット掲載のすみだトリフォニーホールで撮られたらしい全員の写真。
今回のパンフレットにはメンバー表がありませんでしたが、
演奏している人の名前を見たい人も多いと思うので、ぜひご配慮をお願いします。

演奏会が終わってロビーを通り過ぎる時、パンフレットがあったので
一部取ったところ、中にCDが挟まれていました。
そのうちCD付きであることをを知った人たちが群がって?きて、
一人で何枚も持っていこうとする人(主に中年女性)が現れ出したため、
自衛官が「一人一枚でお願いします!」と叫ぶ事態になっていました。

このミリタリータトゥーの写真はそのパンフに掲載されていたものです。
CDは昨年度行われたすみだトリフォニーでの定例演奏会と、
オペラシティでの第56回定期演奏会のプログラムからのセレクトで、

「ファッシネーション」「アメイジング・グレイス」「アヴェマリア」

「天国の島」「斐伊川に流れる櫛名田比売の涙」「交響的レクイエム」(バーンズ)

そして三宅三曹の歌う「アヴェ・マリア」などが収録されていました。

帰りの車で聴きながらこの日のステージの余韻を楽しんだのですが、
この、ファンに対する素敵なプレゼント含め、去年の定期演奏会と比べても、
幅広く一般の人が心から楽しめる内容となっていることを確認しました。

常に真摯に技術を研鑽するのみならず、毎回新しいものを取り入れて
わたしたちを心から音楽で感動させてくれる東京音楽隊。

今回、音楽には素人であるTOの感動ぶりを見て、
改めてその万人に訴える魅力を確認した次第です(笑)


最後になりましたが、コンサートの参加にあたりまして
ご配慮いただきました皆様に心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。

 

 


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜横須賀帰国

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さて、しばらくお休みをいただいていた練習艦隊シリーズ、
再開です。

大正13年度帝国海軍練習艦隊はいよいよ帰国の途に向かいました。

大正13年7月24日に兵学校を卒業し、国内巡航に出航したのち、
11月10日、遠洋航海に向けて横須賀を出航した練習艦隊、
帰ってきたのはいつだと思います?

4月4日ですよ。
つまりこの時代の遠洋航海は9ヶ月弱だったということなのです。
海外の遠洋航海が5ヶ月であったことを考えると、長かったのは
江田島を出てから遠洋航海に行くまでの国内巡航だったことがわかります。
当時は日本であった満州や朝鮮半島にも行っていれば、時間もかかりますよね。


■ 南洋

(ホノルルよりヤルートまで
航程 2243哩  航走 9日23時)

南洋と椰子。椰子の果実水と脚気。自然の力。

なんかひとつ腑に落ちない言葉が混じってるけど気のせいかな?


 

■ ヤルート

(自 3月14日 至 3月15日)

絢爛たる物質文明の影はホノルルを以って終わり、3月14日
艦隊は我委任統治の最初の島ヤルート島ジャボールに投錨した。

初めて見た南洋、それは候補生には人文地文の上に於いて
大に裨益(ひえき、助けになる)する所があった。

ヤルート島は流石マーシャル諸島の都だけあって
土人の服装等は中々立派な物である。

この頃別に土人という言葉に軽蔑的な意味は含まれていなかったので、
普通に地元の人、くらいの意味で土人を連発しています。

「土の人」=「現地人」

どこが悪いのかと思いますよね。

彼らが「立派な服装をしている」と感心した彼らの服装は、
ちょっと洋装風なのが日本人にはしゃれて見えたのかもしれません。

ヤルートは今「ジャルート環礁」といい、戦後はアメリカ統治を経て
1986年に独立したマーシャル諸島の一部となりました。

続いてはやはり日本統治下にあったトラック島に移動。
艦隊航行中、「恒例検閲」という観閲が行われていたようです。
艦隊司令百武中将が艦内の下士官兵を閲兵して歩く儀式です。

規律を維持し緊張を保つ意味で頻繁に行われていたのだと推察されます。

写真最前列の真ん中が練習艦隊司令官百武中将です。

■ トラック

(ヤルートよりトラックまで
航程 1084哩 航走 4日23時)

(自 3月20日 至 3月29日)

トラック諸島には春夏秋冬の四大島と七曜島其の他
十数の小島から成り、サンゴ礁が之を囲繞(いにょう・巡らす)して
天然の防波堤を作っておる中々良い港である。

此処には二十日から二十五日迄五日間おった。
此の間恒例検閲、石炭搭載、水中爆破、陸上見学等があった。
又島の学校の運動会、余興の土人の踊りも見た。
そして支庁の「ベランダー」に幾度涼みに行ったことであろう。

トラックの「土人の踊り」を皆で見学。

案外近代的でスマートな形のカヌーですね。
バランスを取るための仕掛けがアバンギャルドでなかなか面白い。

トラック島はよほど暑かったと見え、候補生たちはなんどもトラック支庁の
風通しのいいベランダに涼を求めて立ち寄ったということです。

トラック島は西太平洋、カロリン諸島に位置する島で、今では
そのあたりの島を含めてチューク諸島と名前を変えています。

「日本の真珠湾」と呼ばれるくらい、そこは帝国海軍の一大拠点となっていました。
1944年2月には大規模な米軍の空襲を受け、壊滅しました。

この時逃げ遅れた船は全て撃沈されていますが、ただ一隻の例外は、
座礁しながらも沈まず助かった「宗谷」でした。

 

トラック諸島を出航し、練習艦隊はサイパンに到着しました。

行き先はどうでも、最後にはこれら委任統治されている島に立ち寄るのが
当時の帝国海軍練習艦隊のおきまりのコースだったようです。

■ サイパン

(トラックよりサイパンまで
航程 615哩  航走 2日17時)

(3月28日 午前8時着 同日午後7時発)

朝8時に到着して、夜7時には島を後にしています。

 

サイパン島は小笠原の南方750マイルの処にある、
土人の家、殊に「チャムロ」族の住み家などは内地人のそれより立派だ。
甘藷栽培は今後益々有望である。

 

滞在時間が11時間だったということは、おそらくこの写真もスナップではなく
現地で売られていた「イメージフォト」の類ではないでしょうか。

「チャムロ族の娘」と説明がありますが、チャモロはグアムの先住民です。
旅行に行った時に現地のフィリピン人ホテルマンが言っていたところによると、
政府に保護されているので働かずに太ってばかり、ということです。
(未確認情報ですので念のため)

こちらはカナカ族の夫婦の正装。

そういえば映画「さらばラバウル」では、平田昭彦演じる若い士官搭乗員が
日本人の経営する飲み屋で働くカナカ族の娘と熱い恋をする、
という設定でしたが、この映画について書いたとき、

「カナカ人の娘は・・・ないんじゃないかな」

と否定してみました。
いくらなんでも当時の兵学校出士官ですからねえ。

「土人」と呼んでいる人との結婚は流石にハナから考えないと思うの。

しかもこれを見る限り子供も大人も完全に「裸族」ですから。

この写真も11時間の間にどこかに滞在して撮影されたものでしょうか。
どうもチャモロ人とカナカ族では随分生活レベルが違ったようです。

■ 小笠原

(サイパンより小笠原まで 
航程 750哩 航走 3日14時)

(4月1日午前8時着 同 午後5時発)

小笠原に上陸して警察署の表札を見ると

京橋区築地警察署 小笠原分署 

と書いてある。なんとなく内地に帰った気分になった。
たった半日の滞在に、砲台、捕鯨会社、正覚坊の池、
帰化人村などを見学した。

さすが帝国海軍、どこまでも前向きでアクティブです。
この「正覚坊」というのは地名だと思っていたらそうではなく、
この写真にも写っているアオウミガメの別名なんだそうです。

絶滅危惧種なので、ほぼどの国でも法令でその捕獲禁止がうたわれていますが、
現在もなお、かなりの数が世界中で捕獲され続けています。
小笠原諸島では、今でも父島および母島において食用目的のウミガメ漁が認められており、
ただし年に135頭の捕獲制限が設けられているのだとか。
近年人工孵化と稚ガメの放流が行われており、生息数は安定してきているそうです。

「南洋の産物、清涼品」とありますが、バナナ、パイナップル、
ヤシの実にマンゴーといったところで、この頃は珍しかったのでしょう。

鯨見物とありますが、捕鯨会社でとれとれのクジラの解体を見学したようです。
見物している候補生や水兵さんが心持ちドン引きしているような・・・。

鯨を捌く様子など当時の日本でも滅多に見られるものではなかったでしょう。

■ 横須賀寄港

(小笠原より横須賀まで
航程519哩 航走 2日15時)

大正14年4月4日午前8時横須賀に入港し、ついに
146日2万416哩の外国航海を無事に成し遂げたのである。

 

到着です。お疲れ様でした〜!

というわけで最後のページにはこのようにあります。

四月八日、九日両日にわたり 畏も摂政殿下より拝謁を賜り
建安府拝観を差許されぬ 

ちなみに、この練習艦隊司令官を務めた百武三郎中将は、
拝謁と「建安府拝観」6日後に佐世保鎮守府長官に就任しています。

さらにいうと、この練習艦隊に参加した「出雲」は、到着後の5月、
秩父宮雍仁親王イギリス留学のため香港まで殿下のご座乗の栄誉を賜りました。


最終回に続く。



「出雲」追悼式と「名取」殉難碑参拝〜大正13年 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

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さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の遠洋航海はついに横須賀に寄港、
無事に帰国してきたわけですが、最終回として航海中に二回行われた
慰霊式典についてお話ししておきます。

寄港地に我が同胞が命を落とした場所、あるいは現地の殉国者の墓などがあれば、
慰霊に赴き花を手向けるのも昔からの遠洋艦隊の大事な行事です。

例えば平成29年度の海上自衛隊練習艦隊においては、

パールハーバー:アリゾナメモリアル

サンディエゴ:海軍墓地

チアパス:日本人移民墓地

ニューポート:ペリー提督慰霊

バンクーバー:日系人慰霊碑

アンカレッジ:アッツ島日本人戦没者

ウラジオストク:太平洋艦隊の戦闘名誉慰霊碑 
      日本人死亡者慰霊碑

ピョンテク:ソウル顕忠院

と、ほとんどの寄港地で慰霊を行ってきました。
調べたところによると、海上自衛隊の遠洋航海は、バンクーバーでは
エスカイモルトに立ち寄ることもあるということですが、
もし次回同じ機会があれば、練習艦隊途上客死した海軍士官候補生
草野春馬の墓参を行なってあげてはいただけないだろうか、と提案しておきます。


大正13年度遠洋練習艦隊も、いくつかの慰霊を行なったわけですが、
そのうち一つが、「出雲」殉難者のために行われたという慰霊です。

■ 出雲殉難者追悼会

異郷の海のバンクーバーの水底深く不慮の最後を遂げた
可惜十一勇士追悼会はホノルル在泊中出雲艦上でしめやかに行われた

説明にはこうあり、アルバムの一ページ全て使って写真が掲載されています。

「出雲」の殉難者ということで、「出雲」艦長が参拝している写真です。

ところが「出雲十一人の殉難」というのが全く検索にかかりません。

 

そこで第一次世界大戦時にそんなことがあったのかどうか調べてみました。
あまり知られていませんが、帝国海軍は日英同盟を盾に?
イギリスから出征を要請されて、臨時的に

「特務艦隊」

を結成し、船団護衛部隊を出しています。

「出雲」はその第二船団の旗艦としてメキシコ、その後地中海のマルタに派出され、
ドイツ海軍の潜水艦と戦ったという経歴を持ちます。
ちなみに同戦隊中の駆逐艦「榊」からは多数の戦死者を出しており、マルタには
戦没者の慰霊碑が建てられているのです。

そして「出雲」は第一次世界大戦が勃発してすぐ、遣米支援隊の旗艦として
この練習艦隊にも同行している装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」とともに
アメリカ西海岸を防衛する任務に当たったことがわかりました。

もしバンクーバー付近で「出雲」が殉職者を出すとしたら、この時か?

と思ったのですが、もしその時殉職者があれば、それは戦死扱いとなり、
少なくとも歴史に残っていなければ変です。

またしても謎にぶち当たり、首をひねりながら写真を見ていてあることに気がつきました。

写真を見ると、わざわざ神官による祈りが捧げられ、
立派な祭壇に十一命の名前が祀られているのがわかります。

で、その後ろにあるの、これ、骨箱じゃないですか?11柱の。

しかも、そのあと仏教会の人々による読経も挙げられ、
殉職者の宗教に配慮している様子まであります。

「各団体よりの香り花の数々」もあまりに豪華なものですし、
特務艦隊の護衛の時の殉職者慰霊にしては盛大すぎやしないでしょうか。

つまり、考えられるのは、当練習艦隊がバンクーバー付近を航行時、
何らかの事故が起こり、11人が「水底に沈んで死亡」したため、
ご遺体をホノルルまで運美、現地の方の協力を仰いで荼毘に付し、
艦上で追悼式を行なったという可能性です。

それらしい「出雲」の事故の記事はどこを探しても出てこないので、おそらくは
あまり対外的には問題にならない範疇の事故だったのではと想像されます。

 

 練習艦隊はサイパンにほんの少しだけ寄港していますが、
その時にも慰霊を行なっています。

サイパン寄港のメインの目的はこれだったのではないでしょうか。
「名取」殉難者の碑参拝。

軽巡洋艦「名取」は大正11年三菱長崎造船所で竣工された
「長良」型の2番艦です。

この練習艦隊の3年前の大正11年3月、演習中にボイラーが爆発し、
一戸機関中尉以下11名の殉職者を出したということが伝えられますが、
この「演習」は南方、つまりサイパン付近であったということでしょう。

名取殉難者の記念碑に詣で、そぞろ2年前の勇士の
壮烈な最後が偲ばれて思わず暗涙にむせんだ。

 

その後「名取」は昭和19年8月18日、敵潜水艦「ハードヘッド」の雷撃を受け、
レイテ島東方海面において沈没しています。

この時に総員退艦で海に逃れた乗員のうち、当時二十七歳だった航海長は、
先任将校として、カッター三隻に分譲した生存者195名の命を預かることになり、
水も食料もない中、船を漕いでフィリピンに向かうことを決断しました。

この計画を無茶だと思う生存者が救助艦を待つようにと提言しましたが、
若い先任将校は頑として所信を変えることはしませんでした。

そのため、航海中はこの計画を懸念する乗員によって航海長暗殺も計画されます。
しかし、結局13日目、短艇隊はついにスリガオにたどり着き全員が助かりました。

先任将校が決断を素早く行い時間のロスがなかったこと、その後の不安な局面でも
部下から進言されても計画を翻さなかったこと、そして何より断行と決定するや
全員が命をかけて漕ぎつづけたからこその生還であったといわれています。


ところで、このアルバムの主、つまりこの遠洋航海に参加した海軍軍人とは
誰だったのでしょうか。

最後の個人写真用のページに貼り付けられた二枚の写真がありました。
これがアルバムの持ち主であったことは間違いないと思われます。

この通常礼装と帽子から士官であることはわかります。
なんとなく感じとして特務少尉みたいな雰囲気もないではありませんが、
勲章が多いのでそれは多分違うでしょう。

参加した人が別個にもらう個人写真も最後の方に貼ってありました。
この中にこの人がいるはずなんですが、そもそもこれはどういう写真でしょうか。
軍楽隊の人たちがメインにおり、士官が両はしにいるように見えます。

もしこれが「練習艦隊司令部付附き」だとしたら士官と
の軍楽隊、主計兵曹、兵たちが全員写る可能性はあります。

それにしてもこの人はどこにいるのか、全くわかりません。
そもそもこの人らしきヒゲの人があまりにも多すぎて・・・(笑)

野球部に関わっていたらしいこともこの写真からわかりました。

そこでもう一回出してくる幕僚の写真。
この後列中央の人、その左の人もこの人に見えなくもありません。
だとしたら司令部八雲乗り組みの山際忠三郎中尉である可能性があります。

実は名簿の山際忠三郎の名前の横に赤線が引いてあったので、
もしや?と思ったのですが、本人がわざわざ引くとも限らないし・・。

野球の写真を検索していて、この人じゃないかな、と思った人(右側ひげ)の
隣の人の膝に艦隊キャットがいたのでサービスとして拡大しておきます。

やっぱりねずみ対策で軍曹猫を乗せてたんでしょうか。

 

最後に。

この練習艦隊参加の有名人の中には、「出雲」の分隊長兼衛兵司令、
有馬正文大尉、そして軍楽隊長の内藤清五軍楽特務少尉がいました。

有馬大尉は第1分隊長を務め、その分隊には源田実候補生がいましたが、
源田はのちに有馬のことを

「誠心誠意であると共に、非常な気魄に充ちた人であった」

「海軍で私が範とした一人」

と回想しています。
遠洋航海終了時、分隊長として候補生たちに向けたはなむけの言葉は

「他人のために酒を呑むな」

だったということで、源田はこの言葉に強烈な印象を受けたそうです。

有馬正文は少将になってから自発的に特攻を選んだ軍人です。

「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、
もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。
特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」

として1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず
司令自ら一式陸攻に搭乗し特攻に出撃してしまいました。

出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた
「司令官」という文字を削り取っての出撃でした。

そして前にも一度あげたこの写真ですが、右側の指揮者が内藤少尉(当時)です。

「軍艦」作曲者の瀬戸口藤吉に指揮を習い、日本で最も有名な
軍楽隊長として、内藤は最終的には少佐まで昇進しました。
戦後は東京都消防庁音楽隊長を務めていたそうですが、
最後まで武人のような厳しさでタクトを振っていたという話があります。



さて、アルバムを一冊具(つぶさ)に読み込み、現代の練習艦隊と比べて
変わっていないところ、その精神をいまだに受け継いでいる部分をあまりにもたくさん発見し、
ネイビースピリッツを養成する鍛錬の形というのは、時代が変わっても
そうやすやすとうつろうものではないということを改めて知ったような気がします。

 

また今年も、江田島を巣立っていく若き士官たちが、船と航路は違えども
太平洋に漕ぎ出し、この頃と全く変わらぬ厳しさと、そして希望を持って
遠洋練習航海に参加していきます。

彼らの若々しい顔にこの時代の若者の面影を重ね合わせるとき、海の武人に
求められるものは永遠に普遍かつ不変であることをまた思わずにいられません。

 

大正13年遠洋航海シリーズ  終わり。

「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

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少し前のエントリで、大尉時代の児玉源太郎と陸軍の同僚だったという
我が家の祖先の話をしたことがありますが、その後少し調べてみました。

児玉源太郎の大尉時代というとだいたい明治7(1874)年〜です。
まだそのころは「鎮台」であったのちの師団で同じ階級であったことになります。

この頃の軍人というのは軍制により士族しかなることはできませんでした。
児玉が徳山藩士の家の出であったように、祖先も土佐藩士です。

彼らが大阪鎮台にいた頃は、大村益次郎が提唱し、大村暗殺後は
山縣有朋が継承した徴兵制による国民皆兵が始まったばかりでした。
ご存知とは思いますが、大村を暗殺したのはこの軍制改革(廃刀含む)
に不満を持つ士族の一派だったと言われています。


明治維新によって元皇族、公家、大名、明治維新時の勲功者、そして
「功をあげた軍人」にも爵位が与えられることになったため、
日清・日露戦争で功をあげたことによって叙爵された軍人が華族となりますが、
その対象はあくまでも士族の出自に限られていました。

例えば東郷平八郎海軍大将の家族東郷家、乃木希典大将の乃木家には
伯爵位が叙爵され、児玉源太郎は子爵となっています。

日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよびました。

 

ところである日、明治維新当時の華族について
写真を紹介しているyoutubeを見つけました。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

この映像の最初のタイトルの一番左側が、今日冒頭に画像をあげた
会津松平家の12代当主松平保男(もりお)の海軍大尉時代です。

このyoutube、アニメ「エルフェンリート」のテーマソング「Lilium」が
かつて日本に存在した華族階級の映像と不思議な融合を見せ、
思わず惹きこまれて見てしまいました。

(ちなみに『リリウム』はラテン語の経文がそのまま使われているため、
アニメの内容()をおそらく全く知らない外国の教会などで
聖歌として昨今非常によく歌われていると知ってちょっと驚きました)

映像には当時の丸の内や東京駅を上空から見た写真などがあり、
大変興味深いものでしたが、それより華族の団体写真の中に軍服姿が多いのに
興味を惹かれ、「武功」が大きくモノを言ったという華族制度を
今一度調べて見る気になりました。

その何人かの軍人の中でも一際目を引いた美男の松平保男をサンプルに
今回お話ししてみようと思います。


会津松平家は江戸時代に陸奥国会津を収めた松平士の支系です。
徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を「親藩」と言いますが、
(いわゆる『御三家』も親藩からなる)松平家はその一つで、
徳川秀忠の四男が家祖となって作った家系です。

松平家はは廃藩置県になった時に子爵を叙爵され、これをもって
華族に列せられることになりました。

松平家12代当主である松平保男は1878年に生まれ、1900年(明治33年)、
海軍兵学校28期を卒業しています。

この年の兵学校卒業者は総員104名。
首席はのちに工学博士になった波多野貞夫、次席が海軍大将永野修身です。
クラスは52名ずつ二グループに分かれ、波多野候補生組(厳島)と
永野修身組(橋立)に乗り組んで練習航海を行っています。

松平の成績は86番と後ろから数えたほうが早かったのですが、最終的に
予備役入りとほぼ同時とはいえ、少将(今の海将補)にまで出世しています。

これは彼が少佐の時に家督を継ぎ、松平家の当主となると同時に
子爵となっていたことと大いに関係があると思われます。

基本優秀であれば平民でも出世できたのが海軍という組織ですが、
建軍当初の士官が全て士族であったこともあり、実際には
家柄というのが出世の大きなファクターであったのも事実なのでしょう。


さて、それでは海軍での松平保男の経歴についてです。

1902(明治35)年 24歳  海軍少尉任官

  横須賀水雷団第一水雷艇付

1905(明治38)年 27歳 海軍大尉

  日露戦争に「鎮遠」分隊長として参加

  防護巡洋艦「明石」砲術長

  戦艦「河内」砲術長心得

1910年(明治43年)34歳  海軍少佐

1916年(大正5年)40歳 海軍中佐

   戦艦「山城」副長

1920年(大正9年)44歳 海軍大佐

   戦艦「伊吹」艦長、「摂津」艦長」
   
   呉鎮守府付(簡易点呼執行官)

     横須賀海兵団長  

1925年 (大正14年12月1日)49歳 海軍少将

    (大正14年12月15日)予備役編入

 

「鎮遠」はドイツ製で、日清戦争では「勇敢なる水兵」の乗っていた
「松島」に損害を与え、勇敢な水兵三浦虎次郎三等水兵は戦死したわけですが、
その後鹵獲されて戦利艦として海軍が使用していました。

「鎮遠」が日本海海戦に参加したのは実は1904年なので、松平が大尉として
「鎮遠」に乗って参加したのは日本海海戦ではなかったはずです。

youtubeにはこの写真も出ていたのでご覧になったと思いますが、
真ん中が保男、左側が兄であり養父である?松平容大(かたはる)、
右も兄の(のちに養子となって山田)英夫です。

兄、容大は11代会津松平家の当主、つまり保男の前の当主です。
保男と同じく容大は先代の側室の子供、英夫もおそらくそうでしょう。

側室が産んだ三兄弟が陸、陸、海の軍人となり、記念写真に収まっているという図です。

英夫は陸軍士官学校を出て歩兵少尉に任官後、日露戦争にも出征しており、
乃木大将の副官を務めたこともあります。
歩兵中佐で予備役に編入され、そのあとは貴族院の伯爵議員となりました。

ちなみに彼の息子も陸軍軍人になりましたが、インパール作戦で戦死しています。

 

長男の容大は少し複雑で、幼い時から御家再興の期待をかけられすぎたせいか、
これに反抗して大変な問題児になってしまいました。

校則違反で学習院を退学、同志社英学校に入るも、ここでも問題を起こし、
最終的に東京専門学校(今の早稲田)をようやく卒業する事ができました。

卒業した明治26年、志願兵として陸軍に入り、日清戦争に参加。
軍人が彼の水に合ったのか、その後大尉まで昇進してから予備役に入りました。

この写真が撮られたのは袖章から見て保男が中尉時代のことですが、
スタートラインがこのように遅かった兄容大は、9歳年下の弟と同じ
中尉であった可能性があります。


容大はこの6年後の1910年、予備役に編入され、貴族院議員を務めていた
40歳の時に(おそらく病気で)逝去してしまいますが、
彼に子供がなかったことから、その子爵位を保男が継ぐことになりました。

ここで驚くのが、容大の死後、弟の保男は弟でありながら
容大の「養子」つまり息子になったということです。

これも当時の華族が家督を継ぐための手続きです。

保男の妻は沼津藩主水野家の娘です。
この時代の結婚は好きも嫌いもなく、家同士のものでした。

ところでこの写真、保男と女性が二人写っていますが、どういう関係だと思います?
妻とその姉妹?それとも子供の乳母かなんか?

驚くなかれこれ、どちらも「夫人」なんですよ。
どこにもそう書いていないけど、そう想像するしかないのです。

記録に残る保男の子供は全部で七人。
上から5番目までが全員女の子です。
そしてその下に次代当主である初めての男の子が生まれ、末の子も男。

両方の女性が「夫人」となっていることから考えて、
女の子が五人生まれたところで保男は世継ぎを得るために
側室を娶ったと考えるのが順当でしょう。

つまりこの写真は保男と正妻と側室共が、彼女らの子供を一人ずつ抱いて、
最初の男の子の誕生日に写したものではないかとわたしは思います。


側室制度というのは今現在女性蔑視、人権侵害ということになるわけですが、
当時は華族典範によって、

爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位する

と決められており、女系は認められていなかったため、
正妻との間に子供が生まれない、もしくは女の子しか生まれなければ、
華族男性は世継を産むための側室を持つか、養子を取るしかなかったのです。

 

しかし、この写真を見る限り、松平当主、実に慈愛深く?家族を、
というか正室側室二人の妻を見守っている感じですね。
どちらも妻として大事におもっているよ、みたいな・・・。

男前だからそんな風に見えてしまうってのもありかと思いますが。

もちろん女性二人の間には色々とあったのだと思いますが、
当時の華族に嫁入りした女性の、これも運命だと受け入れたのでしょう。

しかしこれって戦前の海軍には、側室を持つ軍人がいたってことなのか・・・。

 

しかもこれだけではありません。

保男には写真に写っていない松平恒雄という兄がいました。
その兄は彼とは母親の違う、つまり父親の別の側室の子供です。

保男は異母兄の長女と秩父宮雍仁親王との間に結婚の話が出た時、
平民である兄の家からは皇族に嫁入りすることは出来ないということで、
異母兄の娘を養女にし、松平当主家の娘として皇室に嫁がせているのです。

いやー・・・。(絶句)

この時代ってほとんどウルトラCな操作で血筋を維持していたってことですよね。
養女はともかく側室が許されなくなった現代の世に、天皇家の存続の危機が
懸念され叫ばれるのも、こういうのを見ると当然のような気もします。

 

晩年の松平保男の軍服姿。

この「ザ・権威」の塊のようなお姿をご覧ください。

その軍歴の中で、松平は

軍令部出仕兼軍事参議官・上村彦之丞附

皇族付武官(伏見宮博恭王付)兼軍令部出仕

という、華族ならではの後者の任務もこなしています。


一言で言って彼は、日清・日露戦争に尉官で参加し、無事に軍での任務をこなし、
予備役編入2週間前に海軍少将になるという順風満帆な軍人生活を遂げた、
良き時代の幸運な帝国海軍軍人だったという気がします。

言ってはなんですが、海軍兵学校時代のハンモックナンバーが
さほど優秀でなかったということもそれに寄与しました。

早めに予備役に入ったその後は定石通り貴族院子爵議員となり、
会津出身で構成される県人会、「会津会」の総裁、同じく
会津の軍人で構成される「稚松会」の総裁を兼務、と名誉職一筋。

同じ学年の永野修身が、これもこんな言い方をするとなんですが、
なまじどっぷりと優秀で、海軍大将にまでなったせいで敗戦の責任を問われ、
極東軍事裁判にA級戦犯(国家指導者)として出廷することになったのを考えると、
いかに松平の血筋を後ろ盾にした

「ほどほど海軍人生」

がある意味イージーモードであったかということです。
本人がそういう人生に満足していれば、さらにいうことはありません。

名誉職まみれの?晩年を過ごし、さらには壮健だった松平家12代当主、
子爵松平保男海軍少将が逝去したのは1944年1月19日のことでした。
発病してまもなくの、急逝とも言える最後だったそうです。

 

葬儀委員長は同期生の永野修身海軍大将、
やはり同期だった左近司政三中将が葬儀委員を務めました。

神道である松平保男の死後の霊号は「海誠霊神」。

最後の最後まで彼の何が幸運だったといって、それは祖国と海軍の敗戦を
その目で見ることなくこの世を去ったことに尽きるのではないでしょうか。

 

 

呉音楽隊第48回定期演奏会(おまけ 呉地方総監の恋ダンス)

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週末、わたしは朝一番の広島行きの飛行機に乗っていました。
海上自衛隊呉音楽隊の定期演奏会を聴くためです。

自衛隊音楽隊の定期演奏会は同じ時期に微妙に日をずらして行われるので、
東京音楽隊、呉音楽隊と重なることなく参加することができます。

呉音楽隊は呉地方総監部を本拠地として、自衛隊音楽隊としての
公式の任務を行うだけでなく、地元呉を中心に広く活動範囲を持ち、
人々に親しまれる演奏を通じて自衛隊の広報を行なっています。

少し前には大ヒットした映画「この世界の片隅に」をテーマとした
コンサートでコトリンゴさんと共演したり、世界的ジャズ奏者
日野皓正氏、それからついにAKB48とも共演を果たしてきたそうです。
(当日の呉地方総監の説明による)

東京音楽隊とも、横須賀音楽隊とも違う音楽への独特な取り組みが
何度か聴くうちにある明確な形となって見えてきたように思っていたところ、
研鑽の集大成とも言える定期演奏会を聴く機会をいただきました。

朝一の飛行機で演奏会を聴き、終わったらすぐトンボ帰りというハードさですが、
呉音楽隊の演奏を聴くためなら、強行軍もなんのそのです。

いつものように金屏風前で(だったかな)お迎えしてくださる
地方総監夫妻にご挨拶し、席まで案内してもらいます。

少し到着が早いかなと思ったのですが、早くきただけいいことがありました。
ステージでは打楽器奏者二人が大変珍しいマリンバのデュオによる
ミニコンサートを行なってくれていたのです。

到着した時周りには誰もおらずわたしだけでしたが、時間につれて
周りの「名札組」(なぜか招待客は入り口で名札をつける仕組み)
のお歴々が到着し始め、周りでは挨拶や名刺交換が行われ、
そのうち中央席には国会議員や呉市長なども着席されました。


♪ スラブ舞曲 アントニン・ドボルザーク

Dovrak Slavonic Dance op.72 No.7 Filarmonica TCBo Hirofumi Yoshida

本日の演奏会、第一部のテーマを一言で言うなら「ヨーロッパの舞曲」。
民族色濃い短めの舞曲を集めた「スラブ舞曲」の中から、
アレグロ・ヴィバーチェ、ハ長調4分の2で華々しくコンサートは始まりました。

ドボルザークはブラームスの「ハンガリー舞曲集」に影響を受け、
この曲を最初はピアノ連弾として作曲したそうですが、それより、
わたしはこの二人が知り合いだったことを今回初めて知ってびっくりしました。

ドボルザークがオーストリア政府主催の奨学金審査に応募した時に、
彼を選んだ審査員がなんとブラームスで、この後ブラームスは
彼の才能を認めて生涯支援を続けたそうです。

ブラームスってドイツ3Bとか言われてたのに、ウィーンに住んでたってこと?

ところでスラブってどこのことかと言いますと、スラブ民族の住む地域、

ウクライナ、ベラルーシ、ロシア、スロバキア、チェコ、
ポーランド、スロベニア、クロアチア、セルビア、ブルガリア

この辺りのことです。

♪ ルーマニア舞曲 ベラ・バルトーク

お次はルーマニア。
バルトーク(1881〜1945)は近代の作曲家らしく、民族的な雰囲気に
近代的なリズムとちょっと斬新なコードづかいを施したピアノ曲は
子供のピアノ教本となっていて小さい時にこれで練習したと言う
ピアノ学習者もいるかもしれません。

わたしがこの曲で最も好きなのは出だしのメロディ。
これさえ聴けば後はもうどうでもいいと言うくらい(笑)好きです。

♪ バレエ「眠れる森の美女」よりワルツ P.I.チャイコフスキー

 

吹奏楽でいいyoutubeがなかったのですが、どんな曲か
知らない方のためにせめてもと思い、踊り付きの映像を貼っておきます。

ソロはシルヴィ・ギエム。

前衛的なピエロの衣装とかエグザイル風や、
体操風とかでんぐり返しとか、はっきり言って全然音楽と合ってませんが、
普通のより見ていて面白いのは確かです。

眠りの森の美女の舞台は「ヨーロッパのどこか」。
ワルツは舞曲なので、第一部のテーマそのものですね。

あまりにも有名で何度も聴いてきた曲ですが、吹奏楽は初めてでした。

♪ バレエ「恋は魔術師」より火祭りの踊り M.ファリャ

題名を知らなくても聴いてみたら知っていた、と言う曲、ありますよね。
もしかしたらこれなどもそんな曲の一つかもしれません。

画像のように、呉音楽隊のクラリネットセクションが
バスクラリネットなど音域の違う楽器に持ち替えて8重奏を行いました。

この曲ももともとジプシー舞踊家の依頼で作曲されたもので、
この「火祭りの踊り」は当日司会の丸子ようこさんの説明によると、
「除霊のための踊り」と言う設定なんだそうです。

と言うわけで、民族的な舞踊音楽として選ばれたこの曲、
クラリネット8重奏で聴くのはこれも初めてですが、
低いクラリネットのトリルが唸りのように響き、呪術的な雰囲気そのもの。
このアレンジはプログラムによると未出版ということですが、
もしかしたらクラリネットセクションが独自にアレンジしたのでしょうか。

♪ ゲールフォース P.グレアム

Gaelforce - Swiss Army Brass Band

スイス陸軍バンドの演奏が見つかりました。(うまい)
なんとスイス陸軍バンド、今時女性が一人もおりません。
黒地に赤いストライプのスーツとあまり軍楽隊らしくない制服です。

それはともかく、この「ゲールフォース」、演奏会前に
「予習」のために聴いたときには、カタカナのこのタイトルから、
「ゲール」=フランス語の「戦争」かなと勝手に思い込んでいました。

実はゲールはブリテン諸島(アイルランド、スコットランドなど)における
ケルト人の一派のことで、ゲールフォースとは、

「ゲール人のちから」「ゲール人だましい」

みたいな意味だったようです。
で、これが実にいい曲でした。
曲は3つの曲からなっており、

「ダブリンへのロッキー・ロード」ジーグ

「ミンストレル・ボーイ」1:50〜

「羽を投げる」リール 4:07〜

ジーグもリールも舞曲の名前でいずれも輪になって踊る
速い曲というイメージです。

「minstrel」というのは中世の宮廷音楽家や吟遊詩人のことだったり、
あるいは顔を黒塗りにする白人のショー(浜ちゃん?)だったり
いろんな意味がありますが、とにかくアンサンブルが美しい!

ちょっと「命を捨てて」を思わせるしみじみとした曲調です。

そして「羽を投げる」では最初にケルト風の旋律を
ユーフォニアムが超絶技巧で(多分)提示し、クライマックスへと。

スイス陸軍のこの演奏では最後に全員が立ち上がっていますが、
呉音楽隊はドラム奏者を二人、マーチングの時の出で立ち(着帽)で
ステージ両側に配し、最後のドラムの聴かせどころ(5:14〜)で
二人が歩み寄り中央に立つという痺れるような演出を見せてくれました。

ここまでが第一部です。
ここまでの指揮は副隊長である田中孝二二等海尉が行いました。
エネルギッシュでキレがあり、見ていてとてもワクワクする指揮でした。

♪ てつのくじら 天野正道

呉音楽隊の委嘱作品で、本邦初演です。
てつのくじらとはもちろん海上自衛隊呉資料館てつのくじらのことです。

ありがちな雰囲気、ありがちなメロディかなと思ったら、突然
音楽理論的に腑に落ちない和声や解決しないメロディが出てくるので、
はてな?と思いながら聴いているとそのまま終わってしまいました。

あとで作曲者のコメントを読むと、どちらも通常のパターンではないとのこと。
頭では納得はしましたが感覚的には腑には落ちないままです(笑)

潜水艦の推進力や質感を表現されたというメインの部分については、
わたしはなんとなく「潜水艦は潜水艦でも進水式の描写だなあ」と・・・。

確かに潜水艦が海上を波を分けて進む感じはあっても、海底に潜む、
あるいは深海を進む潜水艦は今回描写されていないような気がしました。


♪ もののけ姫ハイライト 久石譲

「もののけ姫」セレクション-久石 譲

呉音楽隊は久石嬢がお好き?
結構よく取り上げている気がします。


ただし今回はまるで映画の伴奏のような編曲スコアでした。
この編曲を行なったのも「てつのくじら」の天野正道氏だそうです。
ここに貼ってあるアレンジよりももう少し効果音っぽい部分が多かったと記憶します。

呉音楽隊には歌手もピアニストもいませんが(ハープは打楽器兼の男性奏者がいる)
必要に応じて出動できる戦力が常時備蓄されていると見え、「もののけ姫」では、
クラリネット奏者(前回”アイガットリズム”でソロをした人)が大変重要な
(というか目立つ)ピアノパートを演奏していました。

 

第二部からは明確にテーマと雰囲気が変わりました。
「てつのくじら」は委嘱作品なのでその範疇には入っていませんが、
第二部のテーマは「神話」です。

もののけ姫が神話なのか?という向きもありましょうが、
劇中でもしょっちゅう「荒ぶる神」とか「オッコト主」とか出てくるので、
「神々」がテーマであることは間違い無いでしょう。

♪ プロセルピナの庭 アルフレッド・リード

プロセルピナって何だったかしら。サプリメント?
それはプロポリスや。
と自分で突っ込んでしまうわけですが、実はギリシャ神話の
ペルセルポネーという春の女神のことなんだそうです。

リードは有名な「アルメニアン・ダンス」「エル・カミーノ・レアル」
を始め、名曲を残し吹奏楽シーンで神と言われる(かもしれない)作曲家です。

アンサンブルがとても美しく、春の女神の庭で
色とりどりの花が咲き乱れる情景を彷彿とさせる佳曲です。
特に

「♪ ミソ↓レ〜 ミソ↑シラソミソー ミソレ〜」(移動ド)

のメロディがしみじみと心に沁みます。

♪ 吹奏楽のための神話〜天の岩屋戸の物語による 大栗裕

(Legend for band - After the tale of AMA - NO - IWAYADO : Hiroshi Ohguri)

ご存知天岩戸に天照大神が閉じこもってしまったので、困った八百万の神が
岩戸の前で宴会を開き、力持ちの神様が岩戸を開けてこの世に光が戻る、
という神話を情景描写的に表した曲。

おそらく本日の第二部のテーマ「神話」というのは、
この曲をコアにして決まってきたのではないかと思われました。

3:35から現れる8分の10拍子が、いわゆる天宇受売尊の踊りと、
周りで宴会に興じる神々の狂騒なんだそうです。
宴会というよりも、どちらかというと神々の内心の焦燥が強い、
不安を感じさせる描写が延々と続くのですが。

天照大神が引きずり出された後?の喜びのテーマもなにやら暗く、
最後まで緊張感を保ったまま終わり、これも作曲者の解釈なんだろうな、
と思うしかありません。

という具合に曲そのものに対しては色々と思うところはあったものの、
後半にタクトを振った野澤健二隊長はこの難解な構成をうまくまとめ、
最後まで緊張感を維持して音楽を作り上げておられたと思います。

♪ 目覚めよと我らに呼ばわる物見らの声 J.S.バッハ

第一部、第二部いずれのテーマとも違う宗教曲がアンコールです。
バッハのカンタータから、有名な第1曲コラールが演奏されました。

    ここで普通ならセオリー通り軍艦行進曲が最後に演奏され終わるのですが、
前回「呉氏」が登場してきた衝撃を考えると、ただで終わるはずがない。

ましてやお行儀よく?バッハの宗教曲で終わる呉音楽隊ではない。

とわたしはこの時点で次に起こることをワクワクしながら待っていたのですが、
登場したのは呉氏ではなく、呉地方総監池太郎海将でした。

呉音楽隊の活動について冒頭のように紹介されたのですが、自己紹介として

「”愚直たれ”の池太郎です」

とおっしゃったので会場は笑いに包まれました。
わたしの近くに座った人たちが、

「(呉地方総監は)伊藤さん(伊藤俊幸海将)のあとの人も
伊藤という名前だった(実際は池田徳裕海将)」

などと事実とは全く違うことを話し合っていたのを小耳に挟みましたが、
それも無理はありません。
退官後テレビで活躍されている伊藤元海将の知名度があるのは当然としても、
普通の人は歴代地方総監の名前など全く気にせずに生きているものです。

しかし、現地方総監については割とそうでもないようです。
現役でこれほど地元に知名度のある地方総監もないのでは、
と会場の反応を見て改めて思ったわたしですが、流石にこの日、
その伝説が上書きされることになろうとは、神ならぬ我が身では
全く想像するべくもなかったのです。

 

♪ 恋

その後地方総監がステージ上で自らリクエストをするという暴挙に出たため、
衝撃のデビュー以来「指揮者も踊るんかい!」で有名になった
「呉音楽隊の恋ダンス」が二曲めのアンコールとして演奏されました。

そうそう、こうでなくちゃ。
「ネタ」がわかっている人たちは、いつ野澤隊長が踊り出すかと
息を呑んで(嘘)待ち続けていました。

「恋」 海上自衛隊 呉音楽隊『たそがれコンサート2017』

あれ以来キレのいい自衛官と(特にこの映像右から2番めのホルン奏者さん)
キレの中にも一抹の哀愁漂う野澤隊長のダンスは大反響を呼び(多分)
youtubeでもいくつか動画が上がっています。

どのバージョンでも隊長はサプライズとして最後のワンコーラスだけをキメます。
そしてこの日も恋ダンス、いよいよ最後に差し掛かりました。

(来るぞ来るぞ来るぞお!)←脳内
と指揮者を注視していたその時、舞台の袖から突如現れた人影。

それは呉氏、ではなく、ダンス用に白手袋をはめた池海将の姿でした。
会場はどよめきました。
わたしも思わず「うそっ・・・」と口に出して言ってしまったくらいです。

あとは言うまでもありません。
きっと仕事の合間に呉地方総監庁舎二階奥の総監室で密かに、あるいは
奥様の前でも何度も練習したに違いない完璧主義の(知りませんが多分)
地方総監の恋ダンスは、すっかり主役の座を隊長から奪ってしまいました・・。

もし万が一、呉音楽隊がこの定期演奏会の様子をアップしたら、
日本国海上自衛隊現役アドミラルの見事な踊りっぷりは全世界の人々に
衝撃を与えると思いますが、いかがでしょうか。

呉地方総監部広報の皆さん、難しいかもしれませんがぜひご一考を。

そしてこれも呉音楽隊恒例、最後にコンサートホール内を
「蛍の光」に乗せ、会場の皆さんに手を振りご挨拶しながら総員退館。
そのままホールに全員が立って、観客と触れ合うというサービス付きです。

 

地方隊音楽隊の使命は何と言っても地域と自衛隊の親和を図ること。
メンバーは地元の学校吹奏楽部にも頻繁に赴き、演奏指導をしているそうですが、
そういう熱心な取り組みやこの日に見せてくれた観客との触れ合いを見ても
呉音楽隊はその役目を十二分に果たしていると感じました。

練りに練った緻密なプログラム構成と、日頃の錬成の成果に加え、
楽しいサプライズと硬軟取り混ぜての定期演奏会。
地方総監の体を張った協力もあって、呉音楽隊の魅力を存分に満喫した一日です。

 

最後に、当日の演奏会参加に当たって、
お気遣いいただきました皆様に心よりお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。

 

 

 

 

イギリス海軍対ドイツ海軍〜模型展「世界の巡洋艦」

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1日で終わるかと思っていた模型展「世界の巡洋艦」のご紹介ですが、
いざ始めてみると案の定色々とお話ししたいことが出てきてしまい、
何日かに分けることになりました。

というわけで今日は展覧会のタイトルと同じ「世界の巡洋艦」です。

さて、それでは世界の巡洋艦、まずは御大キングダムから参りましょう。

イギリス海軍の
蒸気フリゲート艦「ユーライアラス」(Euryalus)。

日本に縁のある船で、あの「生麦事件」が起きてから横浜に来て、
薩英戦争(1863)と馬関戦争(1864)に参加しています。

余談ですが、この長州藩と英米蘭仏の連合国との間に起きた馬関戦争で、
17歳の「ユーライアラス」乗組の水兵、ダンカン・ボイズが戦功を挙げ
ビクトリア勲章を授与されました。

しかしダンカン君、戦後になって海軍基地の門限に遅れて戻り、
基地内に塀を乗り越えて侵入し海軍を懲戒除隊されてしまいました。

ダンカン・ボイズ

彼はその後重度のアルコール依存症とそれに伴う精神衰弱に陥り、
静養先のニュージーランドで家屋の2階窓から飛び降り、
22歳という若さで死んでしまったということです。合掌。

「帝国海軍がボカチンしてやりました巡洋艦」が・・・。

巡洋戦艦「レパルス」(左二つ)。

巡洋戦艦というのは、イギリスが生んだ「さらに攻撃力を増した巡洋艦」で、
巡洋艦の拘束性と戦艦と同等の大口径砲を併せ持った強力な軍艦という位置付けです。

だからこそ、民族的に見下していた日本人にこの「レパルス」と戦艦
「プリンス・オブ・ウェールズ」をボカチンされたチャーチルは
ショックであうあうあー状態になってしまったわけですね。

巡洋戦艦という概念は英国とそれから日本海軍だけが採用したもので、
両国合わせて7隻しかこの世に生まれていません。

この写真で「レパルス」の右側にある2隻、「レナウン」もその一つ。
イギリス海軍はこれに「フッド」を加えた3隻で、日本側はおなじみ

「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」

の計4隻が巡洋戦艦となります。
「フッド」はドイツ海軍の「ビスマルク」に撃沈されたので、
この中で生き残ったのは「レナウン」(有名という意味)だけでした。

こちらもヒズマジェスティーズシップの

航空巡洋艦「フューリアス」。

wikiには「世界初の空母」ってあるんですが、これほんと?

もちろん、この模型の頃は改装前の航空巡洋艦時代ですが。
甲板にはその頃搭載していたソッピース・キャメルらしい姿が見えます。

スキージャンプ台みたいになっている後甲板から離艦するのだと思いますが、
それでは着艦はどうしていたんだろう、と気になりませんか?

はい、こうしておりました。

流石に艦橋に突っ込む恐れがある後甲板へのアプローチをするのではなく、
なんと、艦首側前甲板に海に向かって降りていたようです。
このころの飛行機が二枚羽で推力がそんなになかったことと、
着艦の際には船を航行させてスピードを相殺していたのかもしれません。

しかし見る限りアレスティング・フックやワイヤーはまだなく、
乗員が総出で駆け寄っているところを見ると、飛行機を

手でつかんで止めたのではないか

という疑いが・・・・・・。
というか、実際に手で機体を捕まえている人がいますね。

いやー、これ、海に落ちる飛行機は後を立たなかったと思う。

イギリス海軍にとっては「悪者退治」みたいな位置付け?

海戦シリーズ展示としてイギリス隊ドイツ海軍の「ラ・プラタ沖海戦」がありました。

ドイツ海軍の装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と同型艦
「ドイッチュランド」は、神出鬼没、通商破壊をしまくっていましたが、
イギリス海軍はこれを叩くため、捜索部隊を結成。

「アキリーズ」「エイジャックス」「カンバーランド」「エクゼター」

からなる「G部隊」はAGSをラ・プラタ沖で捕捉し、挟撃による壊滅を図りました。

 

「アドミラル・グラーフ・シュペー」は英国海軍の「エグゼター」に砲撃、
「エグゼター」は大きな損害を負いましたが、G部隊のハーウッド准将は
駆逐艦上がりだったシュペーのハンス・ラングスドルフ大佐より一枚上手でした。

海戦の結果、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は大きな損害を負い、
ウルグアイに逃走しますが、イギリスから手が回っていて修理ができず、
結局自沈されることになりました。

ラングスドルフ大佐は、その後アルゼンチンで拳銃による自殺を行いました。

「このような状況におかれた時、名誉を重んじる指揮官なら
艦と運命を共にする。それが当然の決断だ。

私は、部下の身の安全を確保することに奔走していたために、
決断を先延ばしにしていた」

という遺書が夫人に残されていたそうです。合掌。

海軍力でイギリスに劣るドイツ海軍の船には

「イギリス海軍の船と交戦しないように」

という指令が出ていたにも関わらず、戦闘を行なったとして、
ヒトラーはラングスドルフを非難しましたが、おそらく
親衛隊ではなかったラングスドルフが死の際、ナチス旗ではなく
ドイツ海軍旗を体に巻いていたことが気に入らなかったのかもしれません。


なお、「アドミラル・グラーフ・シュペー」に傷を負わされた
「エクゼター」は、のちに我が帝国海軍にスラバヤ沖海戦で撃沈されています。

この時に大本営は、

「『アドミラル・グラーフ・シュペー』の仇を取った」

と発表したということです。

HMS「アレトゥーサ」。

アレトゥーサはギリシャ神話のニンフの名前で、ストーカーから逃げるため
アルテミスの力で水に変えられたという「アレトゥーサ湖」伝説を持ちます。

「アレトゥーサ」級巡洋艦は、

「ガラテア」「ペネロペ」(海の女神)「アウロラ」(暁の女神)

のギリシャ神話シリーズ四姉妹で構成されます。

飛行機を搭載している部分を拡大してみました。

下から見た本級のタイプシップ「パース」級の水上機施設。
「アレトゥーサ」搭載のものは旋回式のカタパルトだそうです。

イギリスといえば無敵艦隊を倒した、無敵艦隊というと「インビンシブル」。
というわけで、ある意味もっともイギリスらしい?名前である
巡洋戦艦「インビンシブル」(Invincible)(右から2番め)と
その改良型巡洋戦艦「インディファティガブル」(Indefatigable/不屈)。

「インヴィンシブル」級はネームシップの「無敵」に対して2番艦、

HMS「インドミタブル」(Indomitable/不屈)

3番艦、

HMS 「インフレキシブル」 (Inflexible/融通がきかない)

全て「不屈」を表す、「IN-不」で始まるシリーズです。
「インヴィンシブル」は

世界初の巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)

として鳴り物入りで誕生し、「巡洋艦より早く、戦艦のように強い」を
謳ってこの象徴的な名前を与えられたのですが、色々と残念な設計ミスがあり、
爆風を避けるために砲を撃つたびに艦内に入らなければならなかったり、
巡洋艦同士で撃ち合った場合、艦尾が丸裸同然で脆弱だったり、
中でも一番の問題は、

主機関が弾薬庫に挟まれていた

ということで、この結果、ユトランド沖海戦で、「インヴィンシブル」は
主砲弾が砲塔を貫通した瞬間、誘爆のため艦隊が真っ二つに割れ、
ぽっきりと折れて轟沈してしまっています。

乗組員1032名のうち、生存者はわずか6名でした。

ちょうどワシントン軍縮条約が締結され、「インドミダブル」
「インディファティガブル」はそれで廃艦になり、
「インフレキシブル」も陳腐化して同時期にスクラップになっています。

こういうのをなんていうんだっけ・・・名前負け?

 

それでは「ラ・プラタ」でイギリスと戦ったドイツの巡洋艦と参りましょう。

手前、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」。

ドイツの軍艦というのは名前がたまらなくかっこいいので、きっと
その界隈では、萌え化されているだろうなと思ったらやっぱり
「艦これ」にいましたよ。

プリンツ・オイゲン(ちゃん)

「プリンツ」というからには王子のことなんだろうなとは前から思っていましたが、
今回初めて調べてみたところ、

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

というオーストリアの軍人さんでした。

「プリンツ」は日本で言うところの「ハンカチ〜」とか「はにかみ〜」とか
「海の〜」(笑)のような、アイドルやミスコンの男版のような意味は全くなく、
単純に「公子」という位を表す言葉です。

オイゲン公

「プリンツ・オイゲン」のイメージが変わった!どうしてくれる!
という方、オイゲン公の独創的なカツラに免じてお許しください。

「プリンツ・オイゲン」の水上機搭載部分もアップにしておきます。

彼女は我が帝国海軍の「雪風」と同じく、「幸運艦」と呼ばれています。
イギリス軍とのバトルで一度は操縦不能になるも、あとは航空攻撃でも
命中弾を受けず、僚艦とぶつかっても相手ほど被害も受けず、きわめつけは
アメリカ軍に戦後摂取されて、名前を

「プリンツ・ユージーン」(笑)

と英語読みされ、ビキニ島の原爆標的艦となったのですが、結局
二回の実験にも沈まず、曳航される途中でマーシャル諸島のクェゼリン環礁に座礁し、
今でもそこに放置されています。

念のためグーグルマップで調べてみたら、観光地?になっていました(笑)

装甲巡洋艦「シャルンホルスト」

なんて名前も実に厨二心をくすぐりますよね。
少なくとも

装甲巡洋艦「マンマス」

なんて言うのよりもかっこいいのは確か。

装甲巡洋艦というのは「装甲を施した巡洋艦」のことです。
ただ、「インヴィンシブル」がそうだったように、攻撃力を上げても
巡洋艦というスピードを重視した艦体において防御力は致命的に弱く、
どうなるかというと、同級で撃ち合った時に当たった方が負ける、
という素人にもわかる結果となったのでした。

ところで、このテーブルは、ドイツとイギリス海軍の間で行われた

「フォークランド沖海戦」

の参加艦艇が展示されています。

第一次世界大戦中に英領フォークランド沖に攻め入った

マキシミリアン・フォン・シュペー中将

率いるドイツ東洋艦隊が、イギリス軍の迎撃を受けて敗北した海戦で、

旗艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ライプツィヒ」
「ニュルンベルグ」は撃沈、唯一残った「ドレスデン」も自沈

とドイツ側の完敗に終わっています。

イギリス海軍「カーマニア」(Carmania )

ドイツ帝国海軍「カップ・トラファルガー」(Cup Trafalgar)。

どちらも戦時に武装していた「武装商船」「仮装巡洋艦」です。
客船だった「カップ・トラファルガー」は砲艦から10.5cm砲2門と
3.7cm砲6門が移され、仮装巡洋艦B (Hilfskreuzer B) となって
通商破壊作戦に従事していました。

ドイツの船なのに英語で、しかも「トラファルガー」が使われているのは、
これがハンブルグー南アメリカ航路の客船だったからです。

「カーマニア」も4.7インチの砲 8門を搭載しており、2隻は
武装商船同士としてたまたま遭遇したものです。

戦闘に際し「カーマニア」が警告弾を発射、それに対し、
「カップ・トラファルガー」はドイツ軍艦旗を掲揚して戦闘が始まりました。

相手の喫水線付近に砲撃を集中した「カーマニア」と、船橋を集中攻撃した
「カップ・トラファルガー」の戦いは、「カーマニア」に軍配が上がり、
「カップ・トラファルガー」は転覆し、沈没しました。

 

というわけで今日ご紹介してきた英独海戦は、ことごとく
イギリス海軍の勝利に終わったことになります。

やっぱりイギリス海軍、腐っても「無敵艦隊の敵」の末裔ってことかもしれません。

 

続く。

 

 

人民海軍&王立海軍 甲板の「視認性」〜模型展「世界の巡洋艦」

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この模型店は今年で23年目ということです。
伺ったところによると、ここ何年かの発表会テーマは

『巡洋艦』→『欧州艦艇史』→『海上自衛隊観艦式』→
『空母』→『駆逐艦』→『戦艦』→『英国艦』→
『日本海軍』→『第一次大戦』→『冷戦期の艦船』

→今年の『巡洋艦』

というものだったそうです。
10年経って一巡してきてまた巡洋艦になったというわけですね。
この勢いで行くと来年2019年は『ヨーロッパ大陸の海軍』になる予定?

会場で会の方と少しだけお話ししたのですが、

「去年はレイセンだったので・・・」

とおっしゃるので、冷戦を零戦だと勘違いして

「飛行機の時もあるんですか!」

と聞いて恥をかいてしまいました。
普通零戦のことは皆「ゼロ戦」っていうよね(笑)

それにしても「海上自衛隊観艦式」の模型って見てみたいですね。
自衛隊に限らず、海軍時代の観艦式のシリーズもやってくれないかしら。

さて、今年のテーマ「世界の巡洋艦」、続きと参ります。

巡洋艦は水上艦だけではありません。
というわけで、巡洋潜水艦のコーナー。

書いて字の通り、「潜水もできる巡洋艦」という位置付けです。

「インディアナポリス」を「ボカチンさせてやりました」ところの
伊58もそうですし、海戦当初、アメリカ西海岸に接近して
搭載している水上機で攻撃していたのも巡洋潜水艦です。

そういえば、スピルバーグの「1941」というおバカ映画では、
サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ付近に三船敏郎が艦長を務める(!)
巡洋潜水艦伊19が浮上するシーンから始まるんですよね。

伊19は実際にも西海岸の通商破壊作戦に従事していますが、
魚雷を一回撃ったらそれが「ワスプ」「ノースカロライナ」「オブライエン」
にいっぺんに当たってしまったというレジェンドが有名です。

スピルバーグとゼメキスがこの潜水艦を伊19にしたのも、
そのレジェンドに敬意を評してのことだと思います(多分ね)

写真の真ん中に、フランス海軍の巡洋戦艦「スルクフ」が見えます。

アメリカの「潜水艦のふるさと」グロトンの潜水艦博物館で、
ここに寄港した「スルクフ」の姿を描いた絵をご紹介したことがあります。

模型にも確認できる大きな連装砲がこの絵ではとても目立っています。
「スルクフ」はこの寄港の1年後である1942年、米商船と衝突し、
今でも事故現場のカリブ海で眠っているはずです。

その右側の「ナーワル」(Narwhal)は「ナーワル」級潜水艦の
ネームシップで、名前はツノの生えたイルカ類の「イッカク」を意味し、
実際にもこの模型のように「白い潜水艦」だったようです。

これがナーワル=イッカク。うーんきもい。

こうして見ると全く潜水艦に見えないんですがこれは。

真珠湾にいながらドック入りしていたため損害を免れた同艦は、
通商破壊作戦で日本の商船やタンカー、定期船などを多数撃沈しています。


さて、日露戦争の日本海海戦に絡めてロシア海軍の船を紹介しましたが、
それ以降のソビエト海軍の艦船のコーナーと参ります。

ちゃんと旧ソビエト国旗の上に展示して敬意を評しています。
ちなみに、会の方に

「展示会の内容が決まったらそのテーマに沿ったものを作るんですか?」

と尋ねてみたところ、ほとんどは昔に作っておいたものなのだとか。

手前の3隻はミサイル巡洋艦で、

「マーシャル・ウスチノフ」

「アドミラル・フロタ・ロボフ」

「スラヴァ」級ミサイル巡洋艦で、いずれもまだ現役艦です。

向こうの大型の巡洋艦はこちらもミサイル巡洋艦、

「キーロフ」

「アドミラル・ナヒーモフ」

「ピョートル・ヴェーリキー」

といういずれも「キーロフ」級です。

「ピョートル・ヴェーリキー」は、建造時は「ユーリ・アンドロポフ」
だったそうですが、ソ連が崩壊したので「ピョートル大帝」を意味する
現在の名前に変えられてしまいました。
「アドミラル・ナヒーモフ」もソ連時代には「カリーニン」(ミハイル)
を1800年代の海軍軍人の名前に変えたものです。

クーデターや政権交代が起こる可能性のある国で、政治家の名前を
船につけるのはやめといた方がいいってことですかね。

戦術航空巡洋艦「モスクワ」

一口で巡洋艦といってもいろんな種類があることを、この展覧会に行って
改めて知ったような気がしますが、特にこの「戦術航空巡洋艦」、
「対潜巡洋艦」「ヘリコプター巡洋艦」は初めて見聞きする言葉です。

どれもこの「モスクワ」を意味するのですが、ヘリ着艦のための
後甲板の仕様も初めて見るもので、興味を引きました。

「モスクワ」はソ連海軍初のヘリ搭載対潜巡洋艦です。

冷戦時代の対潜巡洋艦、というと、これは間違いなく米原潜対策でしょう。

当時アメリカ海軍は潜水艦発射弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)
を地中海で戦略パトロールに投入しており、これは、ソ連にとっては
いつ核攻撃されてもおかしくないという意味でもありました。

そこでソ連海軍は、1958年より対潜ヘリコプターを艦隊配備し、これを
多数ヘリ母艦に搭載することでこの脅威に対処しようとしたのです。

ヘリをこのように後甲板に搭載するタイプの対戦哨戒艦は当時
英仏伊などでも導入されており、いわば時代の流行りだったようです。


この模型を見て、ヘリを置くスペースのために甲板が大きすぎないか?
と素人なりに思うわけですが、案の定実際もこれでスペースを取りすぎて
しわ寄せは乗員の居住区の劣悪な環境に現れたということで、
艦要員700名、航空要員の100人余は、極限の狭さを耐え忍んだはずです。


事故も多く、当直将校がソナーのフェアリングの引き揚げを忘れ、
暗礁と衝突したり、発電機室から出火しているのに皆お昼を食べに行っていて
気がつかなかったとか、近代化改修工事に時間がかかりすぎて、(7年)
完成した時には元の乗組員が残っておらずに苦労したとか・・・。

きわめつけはソ連が崩壊した後、ロシア共和国とウクライナとの間で
海軍艦隊の帰属問題が生じて、艦隊全体が混乱に陥ったことでしょう。

特に「モスクワ」は補給品の不足と給料不払いで、乗員の士気が急速に低下し、
混乱の中で予備役に編入、その後除籍となっています。

わたしたちは想像したこともありませんが、あのソ連崩壊によって、軍組織、
特に艦隊、艦艇レベルが巻き込まれた困難はかなりのものだったはずです。

ソ連海軍の艦船モデルを見ていて、甲板の色が独特だなあと思ったのですが、
どうもこの写真を見る限り、本当にこんな土色をしていたようですね。

上空からはさぞ目立ったと思うのですが、どんな理由があるのでしょうか。

ちょっと調べたところ、

「洋上にあっても母なる大地を思い出すため」

という意見が見つかりましたが、違うだろ?
つい先日中国の潜水艦が海自の潜水艦に捕捉された時、

「お昼ご飯のために中華鍋でチャーハン作ってた音で見つかった」

とか言われていたのをなぜか思い出してしまいましたよ。

この茶色は、リノリウムの色である、という説が多いのですが、
ひと昔とはいえ戦後の軍艦の外甲板、しかもヘリが着艦する甲板にリノリウム?
と真っ当な疑問が湧き上がってくるわけです。

これは想像ですが、特にヘリ搭載艦の場合、ステルス性よりも
着艦のしやすい、つまり視認性の高い塗装がされるはずですよね?

つまり、凍結した海の上で着艦する可能性の多いソ連海軍の搭載艦は、
グレーより氷上で見分けやすい色にする必要があったので、
それでわざわざ「大地の色」にしたのではないでしょうか。

目立てば彼らの好きな赤でもなんでもよかったけど、
流石に冷戦時代だったので、茶色というのが妥協カラーだったのでは?

と思うのですが、実際はわかりません。

さて、続いてはイタリア海軍です。

イタリアもヘリ巡洋艦を建造した、と先ほど書きましたが、
その一つである「ヴィットリオ・ヴェネト」(右)
「アンドレア・ドーレア」があります。

「ヴィットリオ・ヴェネト」はオーストリア軍にイタリア含む連合国が
ぼろ勝ちした第一次世界大戦の戦いで、この体験が忘れられないのか?
イタリア海軍は同名の戦艦も第二次世界大戦中には持っていました。

やはり先ほどのソ連の「モスクワ」に次いで作られたもので、
2003年に引退した時にはヨーロッパでは「最後の巡洋艦」となっていました。

そして軽巡「サン・マルコ」、「アンコーナ」。

軽巡の命名基準は都市名のようです。
イタリアにはサン・マルコという命名が非常に多く、軍艦だけで4隻、
部隊名が一つ(サン・マルコ海兵旅団)、最近は人工衛星にもあります。

言っちゃなんだけど、あまり強そうに思えないのよね。サン・マルコ。
ていうか、イタリアの軍艦の名前って、どれもイタリアンレストランか、
バッグか靴のデザイナーの名前にしか思えないので困ったもんです。

上「アルベルト・ディ・ジェッサーノ」

同級の軽巡で、1941年、イギリス、オランダ海軍の船に撃沈されました。

下「ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」

同級3番艦。
名前のバンデ・ネーレは15世紀のメディチ家の軍人で、

"理(ことわり)なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず"

という格言を残した人です。
日本の武士道を思わせますね。

目立つといえばこの甲板の赤と白のストライプは斬新です。

重巡洋艦「ボルツァーノ」

重巡洋艦「トレント」

「ボルツァーノ」は共同交戦側イタリア軍(自由フランスみたいなの?)の
人間魚雷「リムペットマイン」にやられて1941年沈没しました。

人間魚雷の起源は実はイタリアだったりするわけですが。
もちろん日本の「回天」のように人間が自爆するという意味ではありません。

「トレント」はマルタ行きの船団攻撃を行なっていて、
イギリス軍の軍機による爆撃と潜水艦によって1942年戦没しています。

 

先入観で見るせいかもしれないけど、イタリアの戦艦ってデザインが
やっぱりスマートというか、洗練されている気がします。

赤白ストライプはここにも健在ですが、その昔、「大鳳」なんかでも
着艦標識のために赤白に塗っていたそうですね。

「ザラ」など普通の巡洋艦にもストライプがあるというのは、
やはり

「これはイタリア軍の船であるから攻撃しないように」

と味方にわかりやすく伝えてフレンドリーファイアーを防ぐため?

さすがデザイン王国、こんなことにもデザイン魂を発揮せずにはいられない。

というか、イタリア軍のパイロットというのはここまでしなきゃ
自軍と他軍の艦船の見分けもつけられないのかい。

 

続く。

 

 

「済遠」と東郷大佐の「高陞号事件」〜模型展「世界の巡洋艦」

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模型展「世界の巡洋艦」についてお話ししております。

展示は各テーマに沿ってテーブルの上に模型が置かれ、このように
帝国海軍の巡洋艦コーナーはちゃんと旭日旗が敷かれていました。

「球磨」「多摩」「木曽」「北上」

100分の1の「北上」には度肝を抜かれましたが、会場には
普通に1/700の「北上」はじめ、軽巡群もちゃんといます。

一番左は見切れていますが、20年就役ということは・・・・
やっぱりやめとこう。また外れそうだから(笑)

 

軽巡「球磨」ですが、わたしの知り合いの父上が艦長をしていた頃、
中国のどこか(多分警戒していた青島)から神社の小さな社を積んで帰り、
その社を庭に飾って?いたという話を聞いたことがあります。

いかに昔の海軍では艦長職が「やりたい放題」だったかということですね。

ちなみに、その「球磨」、沈没の場所が特定されてからしばらくして、
マレーシアの業者が違法に引き揚げ作業をして、鉄くずとして

1トン当たりわずか2万円

で売り払ってしまったということです。
もう日本には所有権がないとはいえ、なんとかならなかったんでしょうか。


さて、「世界の巡洋艦」と言うことで、いわゆる大国の艦船を紹介してきましたが、
今日は大小取り混ぜてお送りしたいと思います。

まずは清国海軍。

19世紀末期に清国に存在した海軍で、日本とは日清戦争で戦い、
壊滅した北洋艦隊が知られています。

黄海海戦で日本と戦った北洋艦隊の有名な「定遠」「鎮遠」は
いずれも戦艦なので本日の展示には見ることはできません。

 

中国の船なので、全て漢字二文字なのはいいとして、

超勇(Chao Yung) 
揚威(Yang Wei) 
済遠(Sai En)
致遠(Chih Yuan)
靖遠(Ching Yuan)

とかいわれても、英語の人には全く覚えられなさそうです。

左にある「済遠」が黄海海戦のほか、

豊島沖(ほうとうおき)海戦

に参加したとありますが、これは1894年、清国と戦争をすることを
決定した日本側が相手に最後通牒を送り、その返事を待っている間、
接近した日清の海軍部隊の間で起きたフライングの海戦のことです。

日本側の「吉野」「難波」「秋津洲」は、北洋艦隊の「済遠」「広乙」
とすれ違った際、「どちらともなく」撃ち合って戦闘が始まってしまいました。

日本側の報告には

「吉野」が国際海洋法に則って’’礼砲’’を放つも「済遠」は返礼せず
戦闘準備をし、又はやがて実弾を発射して来た」

となっており、清国側はもちろん「日本が撃ってきた」と言っています。

日本の「つもり」はともかく、日本が先に撃ったことは間違いありません。
問題は本当に礼砲だったのか、それとも礼砲を撃つことで日本は
清国側が勘違いして攻撃してくればラッキー、と思っていたのか・・。

それは今でもわかりません。

 

この海戦の結果、「広乙」は「秋津洲」に追い込まれて座礁し、
総員退艦ののち自沈。
「済遠」は白旗を上げながらも逃走し、結局逃げ切っています。

この時、途中で遭遇した「高陞号」と「浪速」の間には、
有名な「高陞号事件」が起こりました。

当時「浪速」の艦長は大佐時代の東郷平八郎でした。

日本側の艦隊の司令官は坪井航三(本名?)少将です。

坪井司令が白旗を揚げながら停止せず逃げていく「済遠」を追っていると、
そこにたまたま通りかかったたのが輸送船「高陞号」と「操江」でした。
わかりやすくするために会話形式でやります。

坪井少将「高陞号には清国の兵隊が乗ってるじゃないか!止まれ!」

済遠「しめたある、奴らが気を取られている今のうちに逃げるあるよ!」

坪井「東郷大佐、高陞号を頼む!わしらは済遠を追う」

東郷「わかりました!」

「浪速」、「高陞号」に近づき、停船させる。

東郷「高陞号止まれ!浪速の砲はそちらに向けているぞ」

人見善五郎大尉「ハロー、臨検に来ました。あなたはどこの船ですか?」

ウォルズウェー船長「ワタシタチー、イギリスノフネデース。
 シンコクセイフニチャーターサレテ、ヘイタイサンハコンデマース」

人見大尉「と言ってますがどうしますか」

東郷「うーん・・・我が艦に続けと船長に伝えてくれ。
 そして、イギリス人の船長は『浪速』に移るようにと」

清国兵「それはダメある!許さないあるね!
 もしイギリス人が船を降りるなら殺してやるあるよ」

東郷「こいつら、脅迫するつもりか・・・。
 Captain, leave your ship!」

船長「It's impossible.」

東郷「うーむ、これは高陞号が清国兵に乗っ取られた、
 つまり叛乱状態(mutiny)にあるということだな。
 よろしい、ならば攻撃警告だ」

「浪速」のマストに攻撃警告の赤旗が揚げられた。
「高陞号」船上は清国兵が右往左往するばかり。

東郷「4時間経った。魚雷発射!」

清国兵「う、撃って来やがったある!」

イギリス人船員「今のうちだ、海に飛び込んで日本の船に移れ!」

東郷「カッターを出せ!イギリス人を救助せよ」

しかし魚雷は届かず不発。

清国兵「向こうに行かせないあるよ!イギリス人を撃てある!」

何人かがそれで殺害されたが、日本側はウォルズウェー船長を含む
イギリス人船員3名の救出に成功。

東郷「船長を確保したか。では遠慮なく撃て!」

「浪速」は右舷砲2門の砲撃で「高陞号」を撃沈。
結果、900名近くの清国兵がが死亡した。

 

NHKの「坂の上の雲」でもこの事件が扱われていましたが、描き方としては
海戦後、「高陞号」が沈んでいった海に漂っていたという設定の(笑)
爽やかにに笑っている清国兵乗組員の記念写真が映し出されるなど、

「罪もないのに殺された清国の若い人たち」

というイメージを強調した、あからさまな日本非難にうんざりしたものです。

連合艦隊の出港シーンに国旗が一本もないとか、義和団の乱を
大国の横暴への反乱にすり替えるとか、本当にこのころのNHKの
中国への忖度ぶりは眼に余るものがありましたね。

あ、今現在もそうか(笑)

NHKはこの事件を日本に非があるように描きましたが、その後行われた裁判で、
ウォルズウェー「高陞号」船長にも、日本軍艦の行為にも、国際法に照らし
違法はないとの判決が下されることになりました。

まあただ、当時のイギリス世論が日本擁護に動いたのは、情勢が後押ししたにすぎず、
この時のイギリスの”都合”によっては、この行為が「違法」となっていた、
という可能性は十分にありました。

何しろ日本は言い訳はともかく開戦前に攻撃を始めてしまったのは確かなのですから、
これを問題視されなかったというのには何らかの意思が働いていたに違いありません。

「歴史に正しいも間違っているもない」

とわたしが常日頃主張しているその典型的な一例がここにあります。

中華民国海軍の巡洋艦「海圻」(Hai-chi)。

中華民国海軍というのはいつからあるのか、ということを
わたしは今まで考えたこともなかったわけですが、それは1913年です。

これもあらためて知ったのですが、中華民国は
第一次世界大戦で戦勝国側にいた関係で、戦利艦を獲得し、
これらを近代中華民国海軍建軍の基礎にしています。

巡洋艦「海圻」は「海天」級防護巡洋艦で、清国海軍の軍艦です。
つまり中華民国海軍って清国海軍と同一とされているってことですか?


「海圻」は1898年竣工し、1899年5月10日に就役しました。

1911年にはジョージ五世戴冠記念観艦式にも参列していますが、
1937年9月15日に、日本海軍の爆撃により沈没しました。

「浪速」の右側はチリ海軍「エスメラルダ」。

ノートルダムの傴僂男?と思ったのですが、そもそも「エスメラルダ」とは
「エメラルド」という意味で、チリ海軍でこの名前を受け継ぐ船としては
これが6隻目、つまり大変由緒ある名前だそうです。

こんなところにあるので古い船かと思ったら、1954年就役、現在も現役の
練習帆船で、世界で2番目の檣長を誇るバーケンティンという帆船です。

これだけ檣長があると、帆を張るのも大変そう・・・。
訓練を行うチリ海軍の軍人さんもさぞ鍛えられることでしょう。

ギリシャ海軍 装甲巡洋艦「イェロギオフ・アベロフ」。

アベロフという名前はロシア人みたいですが、実は

「イェオールイオス・アヴェローフ」

が正しいんだそうです。
普通に日本でもそう呼べばいいんじゃ?って思いますが。

とにかくこのアヴェローフさんは、ギリシャ海軍がイタリアから
この艦を購入した時に購入代金の3分の1を出資した海商王だそうです。
オナシスみたいな感じでしょうか。

ギリシャ海軍なんて、別に戦争してないんだからそりゃ大事にしていれば
軍艦の一つくらい残ってるでしょうよ、と思ってしまってすみません。

ギリシャって連合国側で戦ってドイツに結構やられてるんですってね。
「アベロフ」が就役した頃、天敵オスマン帝国海軍とバルカン戦争もしてますし。

「アベロフ」は現在記念艦として公開されています。

第二次大戦でドイツ侵攻を受け、ギリシャ海軍が自沈させようとしたところ
「アベロフ」乗組員は命令に背いて出航し、アレキサンドリアで
連合国に組み込まれるというドラマチックな戦後を迎えたためです。

命令に忠実な軍人ばかりなら、彼女の今はなかったことになります。

現存する世界でただ一つの装甲巡洋艦でもある彼女を、
ギリシャでは敬意を評して「戦艦」(θωρηκτό)と呼んでいます。

ギリシャ海軍が「アベロフ」を調達しなければならなかった原因は
何と言っても隣国オスマン帝国との間の軋轢でした。

隣り合った国で仲がいいなんてケースは世界には稀で、(日本と台湾除く)
地図を見ていただければ、どうしてこの両者がいがみ合うのか一目瞭然です。


バルカン戦争、希土戦争と、両者はやり合ってきたわけですが、これは
そのために生まれたオスマン帝国海軍の巡洋艦「メジディイエ」です。

沿岸部の防備のためにオスマン帝国がウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社という
アメリカの会社に注文し1903年に就役しました。

バルカン戦争ではブルガリアの戦隊と海戦を行なっています。


「メジディイエ」は第一次世界大戦時、黒海を遊弋中触雷し、
着底してしまったところをのちにロシア軍に鹵獲されてしまい、

着底&鹵獲なう

巡洋艦「プルート」

という名前に変わり、黒海艦隊の一艦として古巣のオスマン帝国を相手に、
トラブゾン侵攻作戦 (Trebizond Campaign)などで戦う運命になったということです。

 

さて、模型展「世界の巡洋艦」最終回は、いよいよアメリカの巡洋艦です。

 

続く。

 

 


シャルンホルストとヘネラル・ベルグラノの戦没〜模型展「世界の巡洋艦」

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模型展「世界の巡洋艦」、続きです。
今日はその他の国々の海軍と巡洋艦についてお話ししたいと思います。

今まで考えてもみなかった海軍とその巡洋艦について多くを知るところになりました。
この模型展を開催してくれた「ミンダナオ会」の皆様には本当に感謝に堪えません。

その前に、イギリスの巡洋艦で主にドイツと海戦を行なったもの以外に
一つ載せ忘れた「大物」艦がありました。

 

イギリス海軍 軽巡洋艦「ベルファスト」

ロンドンのテムズ川には、今でもこの軽巡が

大英帝国戦争記念博物館

の一つとして係留されています。
「ベルファスト」は「タウン」級軽巡洋艦で、ロンドン軍縮条約の結果
「名ばかりの軽」になったというのは日米仏伊いずれの国とも同じです。

コメントでも出ていましたが、軽巡洋艦とはロンドン条約で規定された
「排水量節約型」の巡洋艦のことです。

もう一度おさらいしておくと、ロンドンより先に行われた
ワシントン軍縮条約の目的は、「戦艦」と「巡洋戦艦」の保持制限で、
巡洋艦についてはこれを規定するものではなく、つまり

巡洋艦なら制限なしに持つことができる

という解釈が成り立ちました。

というわけで当然ですが、各国が競って巡洋艦を造りはじめました。
結果として、制限ギリギリの巡洋艦の「建艦競争」となってしまったので、
全然軍縮になってないじゃん、ということになり、改めて
巡洋艦の制限を定める目的で行われたのがロンドン会議です。

 

この条約では巡洋艦を砲の口径だけで「カテゴリA」(重巡)、
「カテゴリB」(軽巡)に分け、各国で所有できる艦船の上限を

合計排水量で

決定しました。
するとどうなるかというと、制限排水量をギリギリまで大きくし、
砲だけ小口のものを積んだ「重巡より大きな軽巡」が生まれてくるわけです。

 

特に日米英では、排水量の上限である1万トン級の軽巡が生まれました。

「ベルファスト」の「タウン級」(町の名前だからタウン)も

サウサンプトン級 11,540 トン
グロスター級 11,930 トン
エディンバラ級 13,175 トン

と、例えば日本の重巡「青葉型」9,000トンよりはるかに大きく、
重巡「利根型」11,213トンと同等の艦体を持ちます。

ちなみに「利根」型は、軍縮条約に批准しつつ大型の艦体を備え、
晴れて?日本が国連を脱退してからは砲を大口に換装し、
重巡として生まれ変わっています。

「ベルファスト」は1939年に就役し、第二次世界大戦では
「北岬沖海戦」という

ドイツ戦艦「シャルンホルスト」

戦艦「デューク・オブ・ヨーク」軽巡洋艦「ジャマイカ

重巡洋艦「ノーフォーク

軽巡洋艦「ベルファスト」「シェフィールド

駆逐艦4隻

という、とっても不公平な海戦に(当然とは思いますが)勝利しています。
しかし、9対1で戦って負けたとはいえ、「シャルンホルスト」は相手に

重巡1・駆逐艦1中破
戦艦1・軽巡1小破
戦死11
負傷11

という打撃を与えたわけで・・・・これってすごくないですか?

wikiによるとイギリス海軍の勝因は「レーダーを保持していたこと」らしいですが、
レーダーを持っていてこれってことは、もしなかったら
一隻の戦艦相手にもっと被害が大きかったってことなんでは・・・。

そう思ったのはわたしだけではなく、海戦後、イギリス艦隊の指揮を執った
ブルース・フレーザー司令は、将校たちに次のように訓示しています。

「紳士諸君、シャルンホルストとの戦いは我々の勝利に終わった。
私は君たちの誰かが、戦力が倍以上違う相手と戦うことを要求された時、
艦をシャルンホルストと同じぐらい立派に指揮することを望む。」

 


手前、スペイン海軍の重巡洋艦「カナリアス」。

同級の1番艦で、2番艦は「バレアレス」。
軍縮条約とは全く関係なく生きてきたスペイン海軍にとって、
これが最初で最後の重巡洋艦となりました。
批准していないわりに、同級は軍縮条約の基準に沿って造られているそうです。
(基準排水量10,670トン、砲口203センチ)

それはいいのですが、スペイン人らしいというのか、でれでれと建造しているうちに
スペイン内戦が起こってしまい、彼女らは反乱海軍に乗っ取られて、
スペイン政府軍と戦うという数奇な運命を辿り、妹艦の「バレアレス」は
政府軍にされてその命を閉じています。

「カナリアス」は数々の武功を立て、傷一つ負わずに戦乱を生き抜いて、
1975年まで悠々自適の老後を過ごしたようです。

上 アルゼンチン海軍軽巡「へネラル・ベルグラノ」

スペイン語なのでGをハ行で発音するのはわかりますが、
「ジェネラル」でも「ゲネラル」でもなく「ヘネラル」。
やっぱり軍事用語にラテン系言語はあんまり、と思ってしまいました。

元々は真珠湾攻撃の時に生き残った軽巡「フェニックス」を
ファン・ペロン(奥さんがあのエビータ)大統領が貰い受け、
戦功のある軍人の名前をつけたものです。

「フェニックス」として就役したのは1939年、その後は
アルゼンチン海軍の象徴のような存在として長生きしてきた「ヘネラル」、
なんと、

1982年の5月2日、フォークランド戦争で戦没

していたことがわかりました。

イギリス海軍のチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」に、
魚雷を2発撃ち込まれて轟沈したというのですが、いやー・・・
これ、すごく不思議じゃありません?

なんだって1982年の戦争に、真珠湾の生き残りを投入するのか。
アルゼンチン海軍にとっていくら象徴的な存在だったとしても、これって
湾岸戦争にアメリカが「ミズーリ」を出してくるようなもんじゃないですか。

別にアルゼンチン海軍、船に困っていたというわけでもなく、
イギリス海軍との間で行われた海戦で喪失した艦船の数だけでいうと、
イギリス海軍の方がはるかに上回っていたというのにですよ?

しかも、この「海軍の象徴」であった「ヘネラル」を失ってから、
アルゼンチン軍の士気はガクッと落ち、1ヶ月後には戦闘停止を決めているのです。

アルゼンチン海軍軍人にとって、彼女は永遠に海軍そのものであり、
神聖化された最後の砦のようなものだったのでしょうか。


我が戦艦「大和」、「シャルンホルスト」、そして「ヘネラル・ベルグラノ」。
これらの軍艦たちの戦没を敢えて言葉で表すなら、それは

「誇り高き勇者の最後」。

永遠に彼女らの名と孤高の戦いは名誉と共に語り継がれるべきでしょう。

 

下・アルゼンチン海軍「ヴェンティシンコ・デ・マヨ」

「ヴェンティシンコ」とはスペイン語で25。「マヨ」は5月。
5月25日はアルゼンチンの革命記念日に当たり、
「ジュライフォース」のように、それ自体が革命記念日の意味を持ちます。

本艦は、イタリアに発注された重巡で、1931年から就役しました。

南米においても「近隣国との間の諍い」というのは普通にあって、
アルゼンチンの場合、第一次世界大戦後の仮想敵は、隣国チリとブラジルでした。

アルゼンチンが海軍力で優位に立つために持つことにしたのが
本艦をはじめとする重巡と軽巡です。

軽巡は一隻でイギリス製、その名も「ラ・アルヘンティーナ」と言いました。

スウェーデン海軍 巡洋艦「トレ・クロノール」


「トレ・クロノール」とは「三つの王冠」を意味し、国産です。
高角砲を持たず、対空対策としてはボフォース砲を搭載していました。

スウェーデンという国はそれこそ戦争してなかったのに、なぜ巡洋艦を?

と思ったのですが、これは19世紀以後、スウェーデンが国策として
武装中立を決めたため、海軍もそれに伴い重武装化していたのです。

冷戦時代にもスェーデン海軍はソ連海軍との戦いに備えて対潜能力の強化を行なっていますが、
ご存知のように実際にスウェーデンが、近代以降、他国と交戦した事は一度ありません。

スイスもそうですが、中立であるということは武装を固めるということでもあり、
武器を持てば戦争が起こるという理論で非武装都市などとたわけた寝言をいう人に、
この武装中立の国々の姿勢をどう思うかちょっと聞いてみたい気がしますね。


というわけで今日で終わるつもりが、アメリカ海軍まで行き着きませんでした。
今度こそ最終回に続く。

   

アメリカ海軍の巡洋艦と模型を見ることの意味〜模型展「世界の巡洋艦」

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模型展「世界の巡洋艦」のご紹介もついに最終日になりました。

英、独、露、ソ連、スペイン、そしてアルゼンチン海軍の
歴史的な巡洋艦をご紹介してきましたが、この国がまだ残っていました。

オランダ海軍 軽巡「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」 

「 デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」 というのは「7つの州」を意味し、オランダの美称です。 日本のことを「秋津洲」とか「大八洲国」というようなものですね。
「敷島」「秋津洲」「大和」「扶桑」
これらの美称を軍艦の名前にする慣習のある日本国民としては
このオランダのネーミングに親しみを持つところです。 オランダ海軍は、1600年代から近代に至るまでに、 戦列艦、海防戦艦、巡洋艦、フリゲート艦と、合計8隻の
「 デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」を持っています。   軽巡の「デ・ゼーヴェン」は「デ・ロイテル」級の2番艦で、
当時の植民地保護のために建造される予定でした。
ところが建造中に世界大戦が始まってオランダはドイツに侵攻されてしまい、
ドックごと接収されて、2隻ともドイツ海軍の練習艦にされることになってしまいます。   オランダにとって幸い、占領下で建造のスペースが遅かったのもあって、
連合軍による解放と同時にまた元のオランダに所有が移り、
じっくりペースで結局1953年に完成に至ったという経緯があります。   その後「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」はヘリコプター巡洋艦に改装され、
ペルー海軍に譲渡されて、1999年まで現役で活動していました。     同じくオランダ海軍の、左から   軽巡洋艦「デ・ロイテル」   軽巡洋艦「ジャワ」   軽巡洋艦「トロンプ」   「デ・ロイテル」は1939年に就役し、植民地保護のために東南アジアに投入されましたが、
まず1942年2月4日、アメリカの重巡洋艦「ヒューストン」軽巡洋艦「マーブルヘッド」
ここにある軽巡洋艦「トロンプ」駆逐艦7隻と共にスラバヤから日本艦隊攻撃に向かう途中、
マカッサル海峡で日本軍機の攻撃を受け、至近弾により小破(ジャワ沖海戦)。

1942年2月27・28日、軽巡洋艦「ジャワ」はアメリカの重巡洋艦「ヒューストン」
英国の重巡洋艦「エクセター」、オーストラリアの軽巡洋艦「パース」
駆逐艦9隻と共に日本軍と交戦(スラバヤ沖海戦)し、日本の重巡洋艦
「那智」「羽黒」の発射した酸素魚雷2本が命中し、撃沈されました。

「ジャワ」もスラバヤ沖海戦で「那智」の雷撃に撃沈され、翌日哨戒中の第五戦隊
「那智」「足柄」および駆逐艦「山風」「江風」は漂流するジャワの生存者を発見、
「江風」は37名の「ジャワ」乗組員を救助しています。

小破した「トロンプ」はその後も船団護衛などに従事し、何度か被弾もしましたが、
結局生き残って1968年に除籍処分となりました。


さて、いよいよアメリカ海軍の巡洋艦です。

アメリカ海軍のフリゲートといえば、何と言ってもこれ、
「ナショナル・シップ」であり、現在でも現役艦であるフリゲート、
「コンスティチューション」(USS Constitution)を置いてありません。   「コンスティチューション」については、当ブログで実際に見学し、
歴史についてもかなり掘り下げてここでお話ししてきたので、
もし興味がある方は「軍艦」カテゴリで検索してみてください。     まさに帆に風をはらんで帆走している「コンスティチューション」の姿。
模型の帆船は布をプラスチックに貼り付けて帆を制作するそうですが、
ちょっと調べたところ、わざわざ紅茶で布を染めて「汚す」そうですね。   「コンスティチューション」に限らず、帆船をいくつかアメリカで見ましたが、
帆はむしろ真っ白なものだという印象があるので、この模型を始め、
まるで羊皮紙のような色をしているのはちょっと不思議でなりません。     この辺りの船も「巡洋艦」にしてしまうの?という気もしますが。 いわゆる「黒船」のコーナーです。   蒸気フリゲート「サスケハナ」「ミシシッピ」   帆走スループ「プリマス」「サラトガ」   は、1853年7月8日、東京湾行口の浦賀沖に姿を現した
4隻のアメリカ軍艦で、そのうち2隻は日本人が初めて見る蒸気船でした。   「たつた四杯で夜も眠れず」   と当時の狂歌に詠まれた「上喜撰(じょうきせん)」は
蒸気船と掛けた素晴らしく気の利いたシャレだったわけです。

そもそも幕府は、アメリカ軍艦が開国を求めて日本に来航するつもりである、
ということをオランダからの情報ですでに知っていました。 ただし、蒸気を動力とし、煙突から黒煙と火の粉を撒き散らし、
風の力を借りず自在に動くことのできる「黒船」はそれこそ
「夜も寝られない」ほどのカルチャーショックを与えたのです。
模型制作者によると、この展示を3m離れて見ると、

「浦賀沖約2キロに投錨した4隻の黒船を、海岸から
人々が眺めていたのと同じ光景を体験することができる」   ということです。

そしてアメリカの巡洋艦群。

手前、軽巡洋艦「マーブルヘッド」。   冒頭にお話ししたオランダ巡洋艦の「デ・ロイテル」と共に、
ジャワ沖海戦に参加した巡洋艦です。   マーブルヘッドというのは、ボストンから海岸沿いに上がっていった
突き出した半島を持つ街で、住んでいた時に遊びに行ったことがありますが、
一軒一軒がとんでもない豪邸ばかりで、しかもその数の多さに思わず
日本人としては落ち込むくらいのショックを受けたものです。   ローガン空港から飛び立ってすぐ、マーブルヘッドの沿岸に
ヨットが数え切れないほど係留されているのを写真に撮って、
ここでお見せしたこともありますが、歴史あるヨットクラブを擁し、
とにかくアメリカでも大金持ちが住んでいることで有名な街です。   ジャワ海戦で「マーブルヘッド」は一式陸攻の攻撃によって
艦首と艦橋、艦尾を損傷しましたが、応急処置でなんとか離脱しました。
その間「高雄」と「愛宕」が駆逐艦「ピルスバリー」を撃沈しましたが、
日本側は自分たちが撃沈したのは「マーブルヘッド」だと思っていたということです。
同じ4本煙突だったというのが間違えた理由だそうですが、
「マーブルヘッド」は「ピルスバリー」の1.5倍は艦体が大きいですし、
いくらなんでも駆逐艦と巡洋艦を間違えるだろうか、という気もします。
きっとわたしみたいな人が勘違いしたんだろうな。  
画面左上は軽巡「サバンナ」(Savannah)   練習艦隊とは少し違う、士官候補生訓練艦隊の旗艦として、
アナポリスから候補生を400人乗せて出航し訓練を行っていました。   当時のアメリカ海軍の士官教育はこのように行なっていたんですね。   画面右、重巡洋艦「ルイヴィル」(Louisville)   「ノーザンプトン」級重巡の3番艦で、最初は軽巡でしたが、
ロンドン軍縮会議の結果重巡に艦首変更した船でした。   真珠湾に向かう途中で真珠湾攻撃を知り、そのまま西海岸に向かっています。
「キスカ」「アッツ」への砲撃に参加し、クェゼリンの戦いでは僚艦である
「インディアナポリス」にフレンドリーファイアーを受け損傷するも、
トラック、マリアナ、パラオ、テニアン、グアム、パラオ(ペリリュー)
そしてレイテ沖海戦、ルソン島の戦いと、激戦コース一択でした。   ルソンでも沖縄でも次から次へと日本軍の特攻機に突入され、
大きな損害を受けたという点でも、当時のアメリカ海軍の船として
フルコースの洗礼を受けたといってもいいでしょう。   彼女は第二次世界大戦の間だけで13個の従軍星章を受けています。   画面右上、重巡洋艦「ポートランド」   「ルイヴィル」と同じく激戦コース組で、レイテ沖海戦、スリガオ沖海戦に参加、
スリガオ沖では日本艦隊に丁字戦法を用いて打撃を与える側でした。   沖縄戦の支援も行い、24回特攻の攻撃を受けていますが損傷はなかったようです。     大型巡洋艦「アラスカ」。   模型も立派ですが、重巡でも軽巡でもなく「大型巡洋艦」とは?
巡洋戦艦と呼んでも差し支えなさそうな巡洋艦です。   アメリカがこの大きな巡洋艦を作った背景には、まずドイツが
「砲力重巡以上、速力は戦艦以上」(逆じゃないのこれ)と宣伝していた
ドイッチュラント級装甲艦」の存在と、同じ頃、アメリカ情報部が
どこで仕入れてきたのか、日本海軍が
基準排水量15000t、12インチ砲6門搭載を搭載した「秩父型大型巡洋艦」
もしくは「カデクル型大型巡洋艦」
なる艦を秘かに建造しているという誤情報を掴んだことにありました。   そこでアメリカ海軍はこれらの艦に対抗するため、 ドイツの装甲艦や日本の大型巡洋艦を火力・防御・速度で上回り、
通商保護が行える長大な航続力を持った艦を検討し始めたのです。   これがアラスカ級大型巡洋艦でした。(以下略)   しかし「かでくる」って・・・。
日本人ならこの時点ででもう大嘘だってわかるんですが(笑)       重巡洋艦「ミネアポリス」   真珠湾攻撃の時、たまたま砲撃訓練に出ていたという「ミネアポリス」。 日本側が「鼠輸送」と呼ぶ「トーキョーエクスプレス」を阻止するため、
ガダルカナルに進出してすぐ、ルンガ沖海戦を経験します。   ルンガ沖では「ミネアポリス」は「高波」を攻撃し、爆発炎上させますが、
その間に向かってきた二水戦の酸素魚雷が命中、艦橋から先がもぎ取られました。     あかん、これは酷すぎる。   「ミネアポリス」が凄かったのはここからで、応急措置で沈没を防ぎ、
さらにこの船を操艦してツラギ島に後退したということでしょう。   ただこの時のアメリカの巡洋艦隊はこの他にも「ノーザンプトン」沈没、
「ニューオーリンズ」大破という大敗を、駆逐艦隊相手に喫しました。
  重巡洋艦「タスカルーサ」(Tuscaloosa)   アラバマ州にはこういう街があるそうです。(駄洒落禁止)
「ニューオーリンズ」級の4番艦で、主にヨーロッパ戦線で戦いました。     あまりにもたくさんありすぎて、全部ご紹介できないアメリカの巡洋艦ですが、
これだけはしっかり上げておきます。   重巡洋艦「ニューポートニューズ」(左)   重巡洋艦「セーラム」(中央)   その理由は、このブログの読者の皆様ならご存知かと思いますが、わたしが
フォールリバーに展示されている「セーラム」を実際に見学し、
ここで詳しくお話ししたからです。   もしご興味がありましたら、「軍艦」カテゴリで検索してみてください。   右は重巡洋艦「キャンベラ」   「ボルチモア」級の3番艦です。
アメリカの船なのにどうしてこの名前?と思った方、あなたは鋭い。
当初3番艦は「ピッツバーグ」になる予定だったのですが、
1942年8月8日、9日の第一次ソロモン海戦で日本軍の攻撃により喪われた
オーストラリアの重巡洋艦「キャンベラ 」(HMAS Canberra, D33) 
に因んでこのような命名を受けました。   「キャンベラ」も「セーラム」と同じフォールリバーで建造されています。     「セーラム」と「フォールリバー」部分。   「セーラム」はここで紹介されていた「ラ・プラタ沖海戦」を描いた
「戦艦シュペーの最後」で、「アドミラル・グラーフ・シュペー」を演じました。 一切改装なしで、しかも艦番号すら「セーラム」のままドイツ軍艦を演じるのは
かなり無理があったと思うのですが、それについては劇中、   「アメリカ軍の艦に偽装するため塗装を変更した」
と登場人物に説明させているそうです。
そんなわけあるかーい(笑)         右重巡洋艦「メイコン」   左重巡洋艦「フォールリバー」   「フォールリバー」はその名のフォールリバーにあるバトルシップコーブで
艦首の先だけ実際に見たことがあります。
これについても説明しておりますのでご興味があれば(以下略)     というわけで、やっとの事で「世界の巡洋艦」をテーマにした模型展、
ご紹介し終わりました。  

テーマに沿ってこの模型製作会の皆さんが精魂込めて作った作品を
一堂に見る機会を得て思うことは、

「模型から見えてくるものはあまりにも多い」

ということです。

サイズを小さくして視覚化することで「神の視線」を得ることすら
場合によっては可能なのですから、特にわたしのように一つの船を
そのもののみならず、その歴史的意味や時にはまつわる物語まで、
多角的に知りたいと思う者にとっては、模型展の行われている小さな部屋は
まるで宇宙のごとき無限の広がりを持っているとも言えるのです。

「制作には全く興味はない模型ファン」として、これからも
機会があればまた模型展に訪れてみたいと思っております。

 

終わり

 

海上自衛隊東京音楽隊 第57回定期演奏会「シンフォニックコンサート」

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去る2月18日、東京オペラシティコンサートホールで
海上自衛隊東京音楽隊の第57回目になる定期演奏会が行われ、
タイトルでも「シンフォニックコンサート」と銘打たれた通り、
特に交響的な色彩を感じさせる楽曲を心ゆくまで楽しんできました。

 

会場は例年通り新宿東京オペラシティのタケミツメモリアルホールです。
数ある都内のコンサートホールの中でもわたしがダントツで好きなホールで、
ここで東京音楽隊が定演をしてくれるのをいつも楽しみにしています。

備え付けのパイプオルガンはスイスのオルゲルバウ・クーン社製。
ホール竣工20周年をライティングによるデコレーションでアピールしています。

 

この日割り当てられた席は二階の正面席。
開演の合図から程なく、後ろから物々しく一団がやってきたと思ったら、
その中心は何と我らが小野寺防衛大臣でした。

大臣をエスコートしていたのは村川豊海幕長夫妻で、周りをSPが固め、
真後ろの席は空け、周囲に自衛隊現役幹部を配すという気の配りよう。

こんなに大臣の近くに座らせてもらったということは、
一応身元が確かと思われてるってことだよね、と
妙なところで安心するわたしたちでした。

 


この日、開演に先立ち、君が代斉唱が行われました。
音楽まつり以外で君が代を斉唱するコンサートはなかったように思うのですが、
これはやはり日本国防衛大臣が臨席しているからということでしょうか。
それともわたしが忘れてるだけ?

この君が代斉唱で気づいたことがありました。

例年武道館で行われる自衛隊音楽まつりでは、演奏前に君が代斉唱が行われます。
舞台にいる音楽隊の演奏と一緒に歌うのですが、いつも事前に

「前奏はございませんので演奏に合わせてお歌いください」

と断ったうえでいきなり演奏が始まるというのが通例になっていました。
もちろん最初の音を始まりと同時に出せる人など会場にはほとんどおらず、

「・・・・・・みーがーよーはーー」

とほとんどの人が最初の音をミスしてしまうわけです。

わたしも何だかなあといつも思っていたのですが、これに対して
心を痛めていた人はわたしだけではなく、第11代東京音楽隊隊長であった

谷村政次郎氏が、水交会の会報で連載しておられるエッセイで

「前奏なしで皆で頭から歌えるわけがない。
出だしを歌わない国歌斉唱なんて国歌に対する敬意が全く感じられない。
斉唱の時には前奏をつけるべきである」

ということを音楽まつりの後主張されました。
それを読んだわたしはよく言ってくださったと内心喜んでいたのですが、
今回はちゃんと前奏として2小節が演奏されたのです。

東京音楽隊が元音楽隊長の苦言を受け入れて前奏を加えたのか、
全く偶然、樋口隊長がそのようにすることにしたのかはわかりませんが、
何れにしてもこの「小さいことだけれど大事な問題」が解決したことに違いありません。

会場にもし谷村氏がおられたとすれば、きっと我が意を得たりと
会心の笑みを浮かべておられたことと思われました。

 

さて、無事に?国歌斉唱が終わり、前半のプログラムが始まりました。

■ 舞踊詩「ラ・ペリ」のファンファーレ ポール・デュカス

La Péri Fanfare- Paul Dukas

 

「魔法使いの弟子」という曲が有名な(魔法使いの弟子ミッキーが箒と戦うあの曲)
ポール・デュカスのファンファーレでコンサートは始まりました。

 バレエ音楽「ラ・ペリ」に後から書き加えられたファンファーレで、
金管楽器奏者にとっては大変やりがいのあるレパートリーではないでしょうか。

デュカスという人は、後期フランスの、ドイツロマン派風の構成に加え、
フランス風の鮮やかな色彩を感じさせるオーケストレーションを特徴とし、
この次の演目となった

■ 牧神の午後への前奏曲 

のドビュッシーとともにフランス印象派の代表的な作曲家です。
その点この最初の二曲の選曲は好カップリングというべき組み合わせでした。

 

この曲の「主役」は何か?というと、それはフルートです。
フルート奏者にとっては主役になれる協奏曲のような曲かもしれません。


皆さんは「パンの笛」という言葉を聞いたことがありますか?

パンというのは半獣半人の「牧神」のことで、出だしのフルートは
もともと「パンフルート」という楽器で演奏することになっています。

「牧神の午後」はドビュッシーがマラルメの官能的な詩にインスピレーションを受けて
書いたもので、半音階を使った怪しげなフルートのメロディから始まり、
この半獣半人が昼寝しながらニンフたちに懸想するという、それだけのお話。

ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」カルラ・フラッチ&ローマ歌劇場バレエ団
Carla Fracci, Debussy, L'après midi d'un faune

せっかくなのでバレエの舞台の動画をあげておきます。
牧神の「牛柄」タイツは初代ダンサーのニジンスキーと同じものとなっています。

10:40(最後)で腕立て伏せを始めるかと思ってドキドキしてしまった(笑)

そして、そのエロチックな内容にくわえ、ニジンスキーが当時の倫理コードを
ぶっちぎって「行きすぎた表現」をしたため、警察が出動するという
大騒ぎになってニジンスキーも流石に自重したという曰く付きの音楽でもあります。

どの部分ででその’行き過ぎ’があったのかちょっと気になるのはわたしだけ?

 

パンフルートの代理ということもあり、この曲はフルートが主役と言いながら、
楽器の構造上響きにくいC# から半音階の下降から始まります。
あえて響きの地味な中音域で奏でることで霞のかかったような気だるい雰囲気を表し、
半獣半人の好色なおっさんがデレデレと睡を貪りながらけしからん妄想をしている、
という内容にふさわしい隠微な音色を作り出しています。

ただ、フルートを中心に聴かせたい場合、例えばゴールウェイなどは、
音程を上げた録音を残しているようです。
これだと全体の雰囲気は作曲者の意図と違うものになってしまいそうですが。

もともと管弦楽の曲ですが、本日の吹奏楽による演奏においても、
この中間色のようなまったりした色彩は損なわれていなかったと思います。

 

♪NHK大河ドラマ「真田丸」のテーマ

 

フランスの印象派の、エスプリ溢れる色鮮やかな楽曲が続いたと思ったら、
いきなり大河ドラマのテーマになるのが自衛隊らしいですね。

曲が始まる前に司会の俳優村上新悟さんと、いつもは司会役のハープの荒木美香三曹が
楽しいトークを繰り広げて、雰囲気もすっかり変わりました。

村上新悟さんは大河ドラマ「真田丸」で直江兼続役が大変好評だったということで、
敬意を表して?この曲が選ばれたようです。

どうして村上さんが司会をすることになったかという経緯も説明がありましたが、
なんと隊長の樋口二佐と行きつけの飲み屋?で隣同士になり、
そこで(多分)意気投合し、隊長にスカウトされたのがきっかけだったとか。

荒木三曹が、

「上司が無茶振りしまして(汗)」

と謝っていましたが、本当にそんなことが、というか、
音楽隊の隊長ってそんなこともできるのか、と驚きました。

 

村上さんはその後荒木三曹におだてられ?て、時代劇喋りで

「皆の者、用意はできたでござるか。
しかし・・・軍師殿(隊長のこと)がおらぬではないか?どこじゃ?」

などと低音の美声で演じ、

「この後も兼続さまに司会をお願いしてよろしいですか」

という荒木さんのお願いに

「それは・・このままだとこの後の進行に何かと不都合が出てきてしまうのでな」

と返すなど、会場はすっかり笑いと暖かい雰囲気に包まれました。

ちなみに、この日村上氏は所属していた無名塾主催の仲代達矢氏が、
若き日にカンヌ映画祭で着たタキシードを着ていました。
仲代氏にそれをもらったという人から借りてきたそうです。

 

「真田丸」のテーマは本来ヴァイオリンのソロで始まりますが、
吹奏楽編曲ではその部分はクラリネットに置き換えられていました。


♪ 悲しくなった時は 中田喜直 

海自の音楽隊らしく海をテーマにした日本の歌曲を三宅由佳莉三曹が歌いました。

いくつか動画を探してみたのですが、気に入った演奏がなかったので、
寺山修司の書いた歌詞だけあげておきます。


悲しくなったときは 海をみにゆく
古本屋の帰りも 海をみにゆく
貴方が病気なら 海をみにゆく
心貧しい朝も 海をみにゆく

あぁ海よ 
大きな肩と広い胸よ
おまえはもっと悲しい
おまえの悲しみに
私のこころは洗われる

どんなつらい朝も
どんなむごい夜も いつかは終わる
人生はいつか終わるが
海だけは終わらないのだ

悲しくなったときは 海をみにゆく
ひとりぼっちの夜も 海をみにゆく


三宅三曹の歌はこういう曲の時にピュアな声質が歌詞の淡々とした調子と
とてもうまくマッチする気がします。

 

ところで、オペラからアニメソングまで、なんでも歌わなくてはならないという
「宿命」から逃れることはできないのが自衛隊の歌手というポジションです。
ある意味、どんなプロの歌手より過酷で難しい現場であると言えるかもしれません。

だからこそ、東京音楽隊でも横須賀音楽隊でも、歌手を大事にしてあげてほしい。
歌手の特質と音域を踏まえて、選曲だけは慎重にして欲しいと思います。

 専属歌手が常駐している音楽団というのは世界広しといえども
自衛隊音楽隊をおいてないと思うのですが、歌も楽器の一パートとして
「適宜使いこなす」ことがこれからの自衛隊音楽の鍵になるでしょう。

くれぐれも「何にでも挑戦させようとしないであげてほしい」と、
老婆心ながら聴衆の一人としてここでこっそりと呟いておきます。


♪ 海峡の護り 片岡寛晶 A Strait Defense for Wind Orchestra

東京音楽隊の演奏が見つかりました。
樋口二佐が横須賀音楽隊の隊長だった頃、委嘱作品として作曲されました。

海の「SEA」を音名にした「Es-ミ♭E-ミA-ラ」という音が、音群として表れるという
海上自衛隊の委嘱作品ならではの「仕掛け」のある曲で、最近ではコンクールなどでも
各団体に取り上げられているようです。


海峡の護りとはそれこそ海自や海保のためにある言葉ですね。

会場では司会の村上氏が

「今この瞬間も遠い海域で多くの自衛官が昼夜を問わず活動していることに
想いを寄せていただければ大変嬉しく存じます」

というようなことを言っておられました。

自衛隊音楽隊のもっとも大事な活動は「広報」でもあるのです。

広報といえば、プログラムにも活動記録が紹介されています。
これを見て大相撲の千秋楽にも音楽隊が出演していたと知りました。

そうそう、村上氏の司会起用には、東音がニコニコ超会議に出演した時、
村上氏が別に出演していたという奇縁もあったと聴きました。


♪ キャンディード序曲  Candide Overture 

後半はバーンスタインをトリビュートしたプログラムで、まずは
オペラ「キャンディード」の序曲です。

♪ スリー・ダンス・エピソード オペラ「オン・ザ・タウン」より

このブログでもご紹介したことがありますが、3人の水兵
(シナトラとジーンケリー含む)ニューヨークで24時間の休暇の間に
巻き起こす出来事を描いた映画「踊る大紐育」の原題は実は

「オン・ザ・タウン」。

つまりこのミュージカルが映画化されたものです。
途中で「ニューヨーク・ニューヨーク」のフレーズも現れます。

今回検索していてこんな映像を見つけました。

ON THE TOWN performs ON LOCATION in New York, New York!

昔の録音にパフォーマンスを現代のニューヨークで行なっているものですが、
まず、水兵が出てくるのが博物艦「イントレピッド」。
アップルやハリーポッターが出てくるのが「今」です(笑)

♪シンフォニックダンス ミュージカル「ウェストサイド物語」より

 

東京音楽隊の48回定期演奏会の映像が見つかりました。
見覚えのあるメンバーの今より7年前の演奏が見られます。
その後呉に籍を移した団員さんもいますね。

この組曲の2番目「サムウェア」というアダージョの曲は、独立して
歌詞もついてバラードとして歌われる大変美しい曲です。
原曲のメロディはチェロで始まり吹奏楽ではそれをホルンが受け継ぐのは同じ。

ところでホルンというのは跳躍の難しい楽器と言われていて、
木管楽器のようにオクターブキイもないので、素人ながらこの最初の
「B-A」の跳躍、「C#-C#」の1オクターブ跳躍、そして
ハイDへの跳躍は緊張するものではないかと思います。

東音のこのyoutubeでもDでミスってますが、バーンスタインの
NYフィルの演奏でさえ最初の「B-A」でちょっと危ねー、な感じです。
やっぱり難しいんでしょうね。

個人的には、バーンスタインのオーケストラ版原曲にはない、
「チャチャ」の時の「マンボ!」という掛け声をかけるかどうかが気になりましたが、
東京音楽隊では(口の空いている人が)することになっているようです。

そういえば、時期をずらして行われる横須賀音楽隊の次回定期演奏会では、
やはりこの「シンフォニック・ダンス」を行う予定だと聴いています。

両者の同じ曲を聴き比べられるのが楽しみです。


♪ トゥナイト

アンコールに、「ウェストサイド物語」の「トゥナイト」を
三宅三曹とトランペットの藤沼直樹三等海曹がピアノ伴奏で歌いました。

クリスマスコンサートで「美女と野獣」を歌い、満場を感動の渦に引き込んだ
ゴールデンコンビによる現代版「ロミオとジュリエット」のアリア。

吹奏楽のアレンジがなかったのかピアノ伴奏だけというのが少々残念でしたが、
初々しい雰囲気がとても見ていて微笑ましい「トゥナイト」でした。

藤沼三曹は最後のハイトーンも原曲通り歌い切り、歌手ぶりを魅せてくれました。

パンフレット掲載のすみだトリフォニーホールで撮られたらしい全員の写真。
今回のパンフレットにはメンバー表がありませんでしたが、
演奏している人の名前を見たい人も多いと思うので、ぜひご配慮をお願いします。

演奏会が終わってロビーを通り過ぎる時、パンフレットがあったので
一部取ったところ、中にCDが挟まれていました。
そのうちCD付きであることをを知った人たちが群がって?きて、
一人で何枚も持っていこうとする人(主に中年女性)が現れ出したため、
自衛官が「一人一枚でお願いします!」と叫ぶ事態になっていました。

このミリタリータトゥーの写真はそのパンフに掲載されていたものです。
CDは昨年度行われたすみだトリフォニーでの定例演奏会と、
オペラシティでの第56回定期演奏会のプログラムからのセレクトで、

「ファッシネーション」「アメイジング・グレイス」「アヴェマリア」

「天国の島」「斐伊川に流れる櫛名田比売の涙」「交響的レクイエム」(バーンズ)

そして三宅三曹の歌う「アヴェ・マリア」などが収録されていました。

帰りの車で聴きながらこの日のステージの余韻を楽しんだのですが、
この、ファンに対する素敵なプレゼント含め、去年の定期演奏会と比べても、
幅広く一般の人が心から楽しめる内容となっていることを確認しました。

常に真摯に技術を研鑽するのみならず、毎回新しいものを取り入れて
わたしたちを心から音楽で感動させてくれる東京音楽隊。

今回、音楽には素人であるTOの感動ぶりを見て、
改めてその万人に訴える魅力を確認した次第です(笑)


最後になりましたが、コンサートの参加にあたりまして
ご配慮いただきました皆様に心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。

 

 

大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜横須賀帰国

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さて、しばらくお休みをいただいていた練習艦隊シリーズ、
再開です。

大正13年度帝国海軍練習艦隊はいよいよ帰国の途に向かいました。

大正13年7月24日に兵学校を卒業し、国内巡航に出航したのち、
11月10日、遠洋航海に向けて横須賀を出航した練習艦隊、
帰ってきたのはいつだと思います?

4月4日ですよ。
つまりこの時代の遠洋航海は9ヶ月弱だったということなのです。
海外の遠洋航海が5ヶ月であったことを考えると、長かったのは
江田島を出てから遠洋航海に行くまでの国内巡航だったことがわかります。
当時は日本であった満州や朝鮮半島にも行っていれば、時間もかかりますよね。


■ 南洋

(ホノルルよりヤルートまで
航程 2243哩  航走 9日23時)

南洋と椰子。椰子の果実水と脚気。自然の力。

なんかひとつ腑に落ちない言葉が混じってるけど気のせいかな?


 

■ ヤルート

(自 3月14日 至 3月15日)

絢爛たる物質文明の影はホノルルを以って終わり、3月14日
艦隊は我委任統治の最初の島ヤルート島ジャボールに投錨した。

初めて見た南洋、それは候補生には人文地文の上に於いて
大に裨益(ひえき、助けになる)する所があった。

ヤルート島は流石マーシャル諸島の都だけあって
土人の服装等は中々立派な物である。

この頃別に土人という言葉に軽蔑的な意味は含まれていなかったので、
普通に地元の人、くらいの意味で土人を連発しています。

「土の人」=「現地人」

どこが悪いのかと思いますよね。

彼らが「立派な服装をしている」と感心した彼らの服装は、
ちょっと洋装風なのが日本人にはしゃれて見えたのかもしれません。

ヤルートは今「ジャルート環礁」といい、戦後はアメリカ統治を経て
1986年に独立したマーシャル諸島の一部となりました。

続いてはやはり日本統治下にあったトラック島に移動。
艦隊航行中、「恒例検閲」という観閲が行われていたようです。
艦隊司令百武中将が艦内の下士官兵を閲兵して歩く儀式です。

規律を維持し緊張を保つ意味で頻繁に行われていたのだと推察されます。

写真最前列の真ん中が練習艦隊司令官百武中将です。

■ トラック

(ヤルートよりトラックまで
航程 1084哩 航走 4日23時)

(自 3月20日 至 3月29日)

トラック諸島には春夏秋冬の四大島と七曜島其の他
十数の小島から成り、サンゴ礁が之を囲繞(いにょう・巡らす)して
天然の防波堤を作っておる中々良い港である。

此処には二十日から二十五日迄五日間おった。
此の間恒例検閲、石炭搭載、水中爆破、陸上見学等があった。
又島の学校の運動会、余興の土人の踊りも見た。
そして支庁の「ベランダー」に幾度涼みに行ったことであろう。

トラックの「土人の踊り」を皆で見学。

案外近代的でスマートな形のカヌーですね。
バランスを取るための仕掛けがアバンギャルドでなかなか面白い。

トラック島はよほど暑かったと見え、候補生たちはなんどもトラック支庁の
風通しのいいベランダに涼を求めて立ち寄ったということです。

トラック島は西太平洋、カロリン諸島に位置する島で、今では
そのあたりの島を含めてチューク諸島と名前を変えています。

「日本の真珠湾」と呼ばれるくらい、そこは帝国海軍の一大拠点となっていました。
1944年2月には大規模な米軍の空襲を受け、壊滅しました。

この時逃げ遅れた船は全て撃沈されていますが、ただ一隻の例外は、
座礁しながらも沈まず助かった「宗谷」でした。

 

トラック諸島を出航し、練習艦隊はサイパンに到着しました。

行き先はどうでも、最後にはこれら委任統治されている島に立ち寄るのが
当時の帝国海軍練習艦隊のおきまりのコースだったようです。

■ サイパン

(トラックよりサイパンまで
航程 615哩  航走 2日17時)

(3月28日 午前8時着 同日午後7時発)

朝8時に到着して、夜7時には島を後にしています。

 

サイパン島は小笠原の南方750マイルの処にある、
土人の家、殊に「チャムロ」族の住み家などは内地人のそれより立派だ。
甘藷栽培は今後益々有望である。

 

滞在時間が11時間だったということは、おそらくこの写真もスナップではなく
現地で売られていた「イメージフォト」の類ではないでしょうか。

「チャムロ族の娘」と説明がありますが、チャモロはグアムの先住民です。
旅行に行った時に現地のフィリピン人ホテルマンが言っていたところによると、
政府に保護されているので働かずに太ってばかり、ということです。
(未確認情報ですので念のため)

こちらはカナカ族の夫婦の正装。

そういえば映画「さらばラバウル」では、平田昭彦演じる若い士官搭乗員が
日本人の経営する飲み屋で働くカナカ族の娘と熱い恋をする、
という設定でしたが、この映画について書いたとき、

「カナカ人の娘は・・・ないんじゃないかな」

と否定してみました。
いくらなんでも当時の兵学校出士官ですからねえ。

「土人」と呼んでいる人との結婚は流石にハナから考えないと思うの。

しかもこれを見る限り子供も大人も完全に「裸族」ですから。

この写真も11時間の間にどこかに滞在して撮影されたものでしょうか。
どうもチャモロ人とカナカ族では随分生活レベルが違ったようです。

■ 小笠原

(サイパンより小笠原まで 
航程 750哩 航走 3日14時)

(4月1日午前8時着 同 午後5時発)

小笠原に上陸して警察署の表札を見ると

京橋区築地警察署 小笠原分署 

と書いてある。なんとなく内地に帰った気分になった。
たった半日の滞在に、砲台、捕鯨会社、正覚坊の池、
帰化人村などを見学した。

さすが帝国海軍、どこまでも前向きでアクティブです。
この「正覚坊」というのは地名だと思っていたらそうではなく、
この写真にも写っているアオウミガメの別名なんだそうです。

絶滅危惧種なので、ほぼどの国でも法令でその捕獲禁止がうたわれていますが、
現在もなお、かなりの数が世界中で捕獲され続けています。
小笠原諸島では、今でも父島および母島において食用目的のウミガメ漁が認められており、
ただし年に135頭の捕獲制限が設けられているのだとか。
近年人工孵化と稚ガメの放流が行われており、生息数は安定してきているそうです。

「南洋の産物、清涼品」とありますが、バナナ、パイナップル、
ヤシの実にマンゴーといったところで、この頃は珍しかったのでしょう。

鯨見物とありますが、捕鯨会社でとれとれのクジラの解体を見学したようです。
見物している候補生や水兵さんが心持ちドン引きしているような・・・。

鯨を捌く様子など当時の日本でも滅多に見られるものではなかったでしょう。

■ 横須賀寄港

(小笠原より横須賀まで
航程519哩 航走 2日15時)

大正14年4月4日午前8時横須賀に入港し、ついに
146日2万416哩の外国航海を無事に成し遂げたのである。

 

到着です。お疲れ様でした〜!

というわけで最後のページにはこのようにあります。

四月八日、九日両日にわたり 畏も摂政殿下より拝謁を賜り
建安府拝観を差許されぬ 

ちなみに、この練習艦隊司令官を務めた百武三郎中将は、
拝謁と「建安府拝観」6日後に佐世保鎮守府長官に就任しています。

さらにいうと、この練習艦隊に参加した「出雲」は、到着後の5月、
秩父宮雍仁親王イギリス留学のため香港まで殿下のご座乗の栄誉を賜りました。


最終回に続く。



「出雲」追悼式と「名取」殉難碑参拝〜大正13年 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

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さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の遠洋航海はついに横須賀に寄港、
無事に帰国してきたわけですが、最終回として航海中に二回行われた
慰霊式典についてお話ししておきます。

寄港地に我が同胞が命を落とした場所、あるいは現地の殉国者の墓などがあれば、
慰霊に赴き花を手向けるのも昔からの遠洋艦隊の大事な行事です。

例えば平成29年度の海上自衛隊練習艦隊においては、

パールハーバー:アリゾナメモリアル

サンディエゴ:海軍墓地

チアパス:日本人移民墓地

ニューポート:ペリー提督慰霊

バンクーバー:日系人慰霊碑

アンカレッジ:アッツ島日本人戦没者

ウラジオストク:太平洋艦隊の戦闘名誉慰霊碑 
      日本人死亡者慰霊碑

ピョンテク:ソウル顕忠院

と、ほとんどの寄港地で慰霊を行ってきました。
調べたところによると、海上自衛隊の遠洋航海は、バンクーバーでは
エスカイモルトに立ち寄ることもあるということですが、
もし次回同じ機会があれば、練習艦隊途上客死した海軍士官候補生
草野春馬の墓参を行なってあげてはいただけないだろうか、と提案しておきます。


大正13年度遠洋練習艦隊も、いくつかの慰霊を行なったわけですが、
そのうち一つが、「出雲」殉難者のために行われたという慰霊です。

■ 出雲殉難者追悼会

異郷の海のバンクーバーの水底深く不慮の最後を遂げた
可惜十一勇士追悼会はホノルル在泊中出雲艦上でしめやかに行われた

説明にはこうあり、アルバムの一ページ全て使って写真が掲載されています。

「出雲」の殉難者ということで、「出雲」艦長が参拝している写真です。

ところが「出雲十一人の殉難」というのが全く検索にかかりません。

 

そこで第一次世界大戦時にそんなことがあったのかどうか調べてみました。
あまり知られていませんが、帝国海軍は日英同盟を盾に?
イギリスから出征を要請されて、臨時的に

「特務艦隊」

を結成し、船団護衛部隊を出しています。

「出雲」はその第二船団の旗艦としてメキシコ、その後地中海のマルタに派出され、
ドイツ海軍の潜水艦と戦ったという経歴を持ちます。
ちなみに同戦隊中の駆逐艦「榊」からは多数の戦死者を出しており、マルタには
戦没者の慰霊碑が建てられているのです。

そして「出雲」は第一次世界大戦が勃発してすぐ、遣米支援隊の旗艦として
この練習艦隊にも同行している装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」とともに
アメリカ西海岸を防衛する任務に当たったことがわかりました。

もしバンクーバー付近で「出雲」が殉職者を出すとしたら、この時か?

と思ったのですが、もしその時殉職者があれば、それは戦死扱いとなり、
少なくとも歴史に残っていなければ変です。

またしても謎にぶち当たり、首をひねりながら写真を見ていてあることに気がつきました。

写真を見ると、わざわざ神官による祈りが捧げられ、
立派な祭壇に十一命の名前が祀られているのがわかります。

で、その後ろにあるの、これ、骨箱じゃないですか?11柱の。

しかも、そのあと仏教会の人々による読経も挙げられ、
殉職者の宗教に配慮している様子まであります。

「各団体よりの香り花の数々」もあまりに豪華なものですし、
特務艦隊の護衛の時の殉職者慰霊にしては盛大すぎやしないでしょうか。

つまり、考えられるのは、当練習艦隊がバンクーバー付近を航行時、
何らかの事故が起こり、11人が「水底に沈んで死亡」したため、
ご遺体をホノルルまで運び、現地の方の協力を仰いで荼毘に付し、
艦上で追悼式を行なったという可能性です。

それらしい「出雲」の事故の記事はどこを探しても出てこないので、おそらくは
あまり対外的には問題にならない範疇の事故だったのではと想像されます。

 

 練習艦隊はサイパンにほんの少しだけ寄港していますが、
その時にも慰霊を行なっています。

サイパン寄港のメインの目的はこれだったのではないでしょうか。
「名取」殉難者の碑参拝。

軽巡洋艦「名取」は大正11年三菱長崎造船所で竣工された
「長良」型の2番艦です。

この練習艦隊の3年前の大正11年3月、演習中にボイラーが爆発し、
一戸機関中尉以下11名の殉職者を出したということが伝えられますが、
この「演習」は南方、つまりサイパン付近であったということでしょう。

名取殉難者の記念碑に詣で、そぞろ2年前の勇士の
壮烈な最後が偲ばれて思わず暗涙にむせんだ。

 

その後「名取」は昭和19年8月18日、敵潜水艦「ハードヘッド」の雷撃を受け、
レイテ島東方海面において沈没しています。

この時に総員退艦で海に逃れた乗員のうち、当時27歳だった航海長は、
先任将校として、カッター三隻に分乗した生存者195名の命を預かることになり、
水も食料もない中、船を漕いでフィリピンに向かうことを決断しました。

この計画を無茶だと思う生存者が救助艦を待つようにと提言しましたが、
若い先任将校は頑として所信を変えることはしませんでした。

そのため、航海中はこの計画を懸念する乗員によって航海長暗殺も計画されます。
しかし、結局13日目、短艇隊はついにスリガオにたどり着き全員が助かりました。

航海長が決断を素早く行い時間のロスがなかったこと、その後の不安な局面でも
部下から進言されても計画を翻さなかったこと、そして何より断行と決定するや
全員が命をかけて漕ぎつづけたからこその生還であったといわれています。


ところで、このアルバムの主、つまりこの遠洋航海に参加した海軍軍人とは
誰だったのでしょうか。

最後の個人写真用のページに貼り付けられた二枚の写真がありました。
これがアルバムの持ち主であったことは間違いないと思われます。

この通常礼装と帽子から士官であることはわかります。
なんとなく感じとして特務少尉みたいな雰囲気もないではありませんが、
勲章が多いのでそれは多分違うでしょう。

参加した人が別個にもらう個人写真も最後の方に貼ってありました。
この中にこの人がいるはずなんですが、そもそもこれはどういう写真でしょうか。
軍楽隊の人たちがメインにおり、士官が両はしにいるように見えます。

もしこれが「練習艦隊司令部付附き」だとしたら士官と
の軍楽隊、主計兵曹、兵たちが全員写る可能性はあります。

それにしてもこの人はどこにいるのか、全くわかりません。
そもそもこの人らしきヒゲの人があまりにも多すぎて・・・(笑)

野球部に関わっていたらしいこともこの写真からわかりました。

そこでもう一回出してくる幕僚の写真。
この後列中央の人、その左の人もこの人に見えなくもありません。
だとしたら司令部八雲乗り組みの山際忠三郎中尉である可能性があります。

実は名簿の山際忠三郎の名前の横に赤線が引いてあったので、
もしや?と思ったのですが、本人がわざわざ引くとも限らないし・・。

野球の写真を検索していて、この人じゃないかな、と思った人(右側ひげ)の
隣の人の膝に艦隊キャットがいたのでサービスとして拡大しておきます。

やっぱりねずみ対策で軍曹猫を乗せてたんでしょうか。

 

最後に。

この練習艦隊参加の有名人の中には、「出雲」の分隊長兼衛兵司令、
有馬正文大尉、そして軍楽隊長の内藤清五軍楽特務少尉がいました。

有馬大尉は第1分隊長を務め、その分隊には源田実候補生がいましたが、
源田はのちに有馬のことを

「誠心誠意であると共に、非常な気魄に充ちた人であった」

「海軍で私が範とした一人」

と回想しています。
遠洋航海終了時、分隊長として候補生たちに向けたはなむけの言葉は

「他人のために酒を呑むな」

だったということで、源田はこの言葉に強烈な印象を受けたそうです。

有馬正文は少将になってから自発的に特攻を選んだ軍人です。

「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、
もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。
特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」

として1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず
司令自ら一式陸攻に搭乗し特攻に出撃してしまいました。

出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた
「司令官」という文字を削り取っての出撃でした。

そして前にも一度あげたこの写真ですが、右側の指揮者が内藤少尉(当時)です。

「軍艦」作曲者の瀬戸口藤吉に指揮を習い、日本で最も有名な
軍楽隊長として、内藤は最終的には少佐まで昇進しました。
戦後は東京都消防庁音楽隊長を務めていたそうですが、
最後まで武人のような厳しさでタクトを振っていたという話があります。



さて、アルバムを一冊具(つぶさ)に読み込み、現代の練習艦隊と比べて
変わっていないところ、その精神をいまだに受け継いでいる部分をあまりにもたくさん発見し、
ネイビースピリッツを養成する鍛錬の形というのは、時代が変わっても
そうやすやすとうつろうものではないということを改めて知ったような気がします。

 

また今年も、江田島を巣立っていく若き士官たちが、船と航路は違えども
太平洋に漕ぎ出し、この頃と全く変わらぬ厳しさと、そして希望を持って
遠洋練習航海に参加していきます。

彼らの若々しい顔にこの時代の若者の面影を重ね合わせるとき、海の武人に
求められるものは永遠に普遍かつ不変であることをまた思わずにいられません。

 

大正13年遠洋航海シリーズ  終わり。

「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

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少し前のエントリで、大尉時代の児玉源太郎と陸軍の同僚だったという
我が家の祖先の話をしたことがありますが、その後少し調べてみました。

児玉源太郎の大尉時代というとだいたい明治7(1874)年〜です。
まだそのころは「鎮台」であったのちの師団で同じ階級であったことになります。

この頃の軍人というのは軍制により士族しかなることはできませんでした。
児玉が徳山藩士の家の出であったように、祖先も土佐藩士です。

彼らが大阪鎮台にいた頃は、大村益次郎が提唱し、大村暗殺後は
山縣有朋が継承した徴兵制による国民皆兵が始まったばかりでした。
ご存知とは思いますが、大村を暗殺したのはこの軍制改革(廃刀含む)
に不満を持つ士族の一派だったと言われています。


明治維新によって元皇族、公家、大名、明治維新時の勲功者、そして
「功をあげた軍人」にも爵位が与えられることになったため、
日清・日露戦争で功をあげたことによって叙爵された軍人が華族となりますが、
その対象はあくまでも士族の出自に限られていました。

例えば東郷平八郎海軍大将の家族東郷家、乃木希典大将の乃木家には
伯爵位が叙爵され、児玉源太郎は子爵となっています。

日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよびました。

 

ところである日、明治維新当時の華族について
写真を紹介しているyoutubeを見つけました。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

この映像の最初のタイトルの一番左側が、今日冒頭に画像をあげた
会津松平家の12代当主松平保男(もりお)の海軍大尉時代です。

このyoutube、アニメ「エルフェンリート」のテーマソング「Lilium」が
かつて日本に存在した華族階級の映像と不思議な融合を見せ、
思わず惹きこまれて見てしまいました。

(ちなみに『リリウム』はラテン語の経文がそのまま使われているため、
アニメの内容()をおそらく全く知らない外国の教会などで
聖歌として昨今非常によく歌われていると知ってちょっと驚きました)

映像には当時の丸の内や東京駅を上空から見た写真などがあり、
大変興味深いものでしたが、それより華族の団体写真の中に軍服姿が多いのに
興味を惹かれ、「武功」が大きくモノを言ったという華族制度を
今一度調べて見る気になりました。

その何人かの軍人の中でも一際目を引いた美男の松平保男をサンプルに
今回お話ししてみようと思います。


会津松平家は江戸時代に陸奥国会津を収めた松平士の支系です。
徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を「親藩」と言いますが、
(いわゆる『御三家』も親藩からなる)松平家はその一つで、
徳川秀忠の四男が家祖となって作った家系です。

松平家はは廃藩置県になった時に子爵を叙爵され、これをもって
華族に列せられることになりました。

松平家12代当主である松平保男は1878年に生まれ、1900年(明治33年)、
海軍兵学校28期を卒業しています。

この年の兵学校卒業者は総員104名。
首席はのちに工学博士になった波多野貞夫、次席が海軍大将永野修身です。
クラスは52名ずつ二グループに分かれ、波多野候補生組(厳島)と
永野修身組(橋立)に乗り組んで練習航海を行っています。

松平の成績は86番と後ろから数えたほうが早かったのですが、最終的に
予備役入りとほぼ同時とはいえ、少将(今の海将補)にまで出世しています。

これは彼が少佐の時に家督を継ぎ、松平家の当主となると同時に
子爵となっていたことと大いに関係があると思われます。

基本優秀であれば平民でも出世できたのが海軍という組織ですが、
建軍当初の士官が全て士族であったこともあり、実際には
家柄というのが出世の大きなファクターであったのも事実なのでしょう。


さて、それでは海軍での松平保男の経歴についてです。

1902(明治35)年 24歳  海軍少尉任官

  横須賀水雷団第一水雷艇付

1905(明治38)年 27歳 海軍大尉

  日露戦争に「鎮遠」分隊長として参加

  防護巡洋艦「明石」砲術長

  戦艦「河内」砲術長心得

1910年(明治43年)34歳  海軍少佐

1916年(大正5年)40歳 海軍中佐

   戦艦「山城」副長

1920年(大正9年)44歳 海軍大佐

   戦艦「伊吹」艦長、「摂津」艦長」
   
   呉鎮守府付(簡易点呼執行官)

     横須賀海兵団長  

1925年 (大正14年12月1日)49歳 海軍少将

    (大正14年12月15日)予備役編入

 

「鎮遠」はドイツ製で、日清戦争では「勇敢なる水兵」の乗っていた
「松島」に損害を与え、勇敢な水兵三浦虎次郎三等水兵は戦死したわけですが、
その後鹵獲されて戦利艦として海軍が使用していました。

「鎮遠」が日本海海戦に参加したのは実は1904年なので、松平が大尉として
「鎮遠」に乗って参加したのは日本海海戦ではなかったはずです。

youtubeにはこの写真も出ていたのでご覧になったと思いますが、
真ん中が保男、左側が兄であり養父である?松平容大(かたはる)、
右も兄の(のちに養子となって山田)英夫です。

兄、容大は11代会津松平家の当主、つまり保男の前の当主です。
保男と同じく容大は先代の側室の子供、英夫もおそらくそうでしょう。

側室が産んだ三兄弟が陸、陸、海の軍人となり、記念写真に収まっているという図です。

英夫は陸軍士官学校を出て歩兵少尉に任官後、日露戦争にも出征しており、
乃木大将の副官を務めたこともあります。
歩兵中佐で予備役に編入され、そのあとは貴族院の伯爵議員となりました。

ちなみに彼の息子も陸軍軍人になりましたが、インパール作戦で戦死しています。

 

長男の容大は少し複雑で、幼い時から御家再興の期待をかけられすぎたせいか、
これに反抗して大変な問題児になってしまいました。

校則違反で学習院を退学、同志社英学校に入るも、ここでも問題を起こし、
最終的に東京専門学校(今の早稲田)をようやく卒業する事ができました。

卒業した明治26年、志願兵として陸軍に入り、日清戦争に参加。
軍人が彼の水に合ったのか、その後大尉まで昇進してから予備役に入りました。

この写真が撮られたのは袖章から見て保男が中尉時代のことですが、
スタートラインがこのように遅かった兄容大は、9歳年下の弟と同じ
中尉であった可能性があります。


容大はこの6年後の1910年、予備役に編入され、貴族院議員を務めていた
40歳の時に(おそらく病気で)逝去してしまいますが、
彼に子供がなかったことから、その子爵位を保男が継ぐことになりました。

ここで驚くのが、容大の死後、弟の保男は弟でありながら
容大の「養子」つまり息子になったということです。

これも当時の華族が家督を継ぐための手続きです。

保男の妻は沼津藩主水野家の娘です。
この時代の結婚は好きも嫌いもなく、家同士のものでした。

ところでこの写真、保男と女性が二人写っていますが、どういう関係だと思います?
妻とその姉妹?それとも子供の乳母かなんか?

驚くなかれこれ、どちらも「夫人」なんですよ。
どこにもそう書いていないけど、そう想像するしかないのです。

記録に残る保男の子供は全部で七人。
上から5番目までが全員女の子です。
そしてその下に次代当主である初めての男の子が生まれ、末の子も男。

両方の女性が「夫人」となっていることから考えて、
女の子が五人生まれたところで保男は世継ぎを得るために
側室を娶ったと考えるのが順当でしょう。

つまりこの写真は保男と正妻と側室共が、彼女らの子供を一人ずつ抱いて、
最初の男の子の誕生日に写したものではないかとわたしは思います。


側室制度というのは今現在女性蔑視、人権侵害ということになるわけですが、
当時は華族典範によって、

爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位する

と決められており、女系は認められていなかったため、
正妻との間に子供が生まれない、もしくは女の子しか生まれなければ、
華族男性は世継を産むための側室を持つか、養子を取るしかなかったのです。

 

しかし、この写真を見る限り、松平当主、実に慈愛深く?家族を、
というか正室側室二人の妻を見守っている感じですね。
どちらも妻として大事におもっているよ、みたいな・・・。

男前だからそんな風に見えてしまうってのもありかと思いますが。

もちろん女性二人の間には色々とあったのだと思いますが、
当時の華族に嫁入りした女性の、これも運命だと受け入れたのでしょう。

しかしこれって戦前の海軍には、側室を持つ軍人がいたってことなのか・・・。

 

しかもこれだけではありません。

保男には写真に写っていない松平恒雄という兄がいました。
その兄は彼とは母親の違う、つまり父親の別の側室の子供です。

保男は異母兄の長女と秩父宮雍仁親王との間に結婚の話が出た時、
平民である兄の家からは皇族に嫁入りすることは出来ないということで、
異母兄の娘を養女にし、松平当主家の娘として皇室に嫁がせているのです。

いやー・・・。(絶句)

この時代ってほとんどウルトラCな操作で血筋を維持していたってことですよね。
養女はともかく側室が許されなくなった現代の世に、天皇家の存続の危機が
懸念され叫ばれるのも、こういうのを見ると当然のような気もします。

 

晩年の松平保男の軍服姿。

この「ザ・権威」の塊のようなお姿をご覧ください。

その軍歴の中で、松平は

軍令部出仕兼軍事参議官・上村彦之丞附

皇族付武官(伏見宮博恭王付)兼軍令部出仕

という、華族ならではの後者の任務もこなしています。


一言で言って彼は、日清・日露戦争に尉官で参加し、無事に軍での任務をこなし、
予備役編入2週間前に海軍少将になるという順風満帆な軍人生活を遂げた、
良き時代の幸運な帝国海軍軍人だったという気がします。

言ってはなんですが、海軍兵学校時代のハンモックナンバーが
さほど優秀でなかったということもそれに寄与しました。

早めに予備役に入ったその後は定石通り貴族院子爵議員となり、
会津出身で構成される県人会、「会津会」の総裁、同じく
会津の軍人で構成される「稚松会」の総裁を兼務、と名誉職一筋。

同じ学年の永野修身が、これもこんな言い方をするとなんですが、
なまじどっぷりと優秀で、海軍大将にまでなったせいで敗戦の責任を問われ、
極東軍事裁判にA級戦犯(国家指導者)として出廷することになったのを考えると、
いかに松平の血筋を後ろ盾にした

「ほどほど海軍人生」

がある意味イージーモードであったかということです。
本人がそういう人生に満足していれば、さらにいうことはありません。

名誉職まみれの?晩年を過ごし、さらには壮健だった松平家12代当主、
子爵松平保男海軍少将が逝去したのは1944年1月19日のことでした。
発病してまもなくの、急逝とも言える最後だったそうです。

 

葬儀委員長は同期生の永野修身海軍大将、
やはり同期だった左近司政三中将が葬儀委員を務めました。

神道である松平保男の死後の霊号は「海誠霊神」。

最後の最後まで彼の何が幸運だったといって、それは祖国と海軍の敗戦を
その目で見ることなくこの世を去ったことに尽きるのではないでしょうか。

 

 

呉音楽隊第48回定期演奏会(おまけ 呉地方総監の恋ダンス)

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週末、わたしは朝一番の広島行きの飛行機に乗っていました。
海上自衛隊呉音楽隊の定期演奏会を聴くためです。

自衛隊音楽隊の定期演奏会は同じ時期に微妙に日をずらして行われるので、
東京音楽隊、呉音楽隊と重なることなく参加することができます。

呉音楽隊は呉地方総監部を本拠地として、自衛隊音楽隊としての
公式の任務を行うだけでなく、地元呉を中心に広く活動範囲を持ち、
人々に親しまれる演奏を通じて自衛隊の広報を行なっています。

少し前には大ヒットした映画「この世界の片隅に」をテーマとした
コンサートでコトリンゴさんと共演したり、世界的ジャズ奏者
日野皓正氏、それからついにAKB48とも共演を果たしてきたそうです。
(当日の呉地方総監の説明による)

東京音楽隊とも、横須賀音楽隊とも違う音楽への独特な取り組みが
何度か聴くうちにある明確な形となって見えてきたように思っていたところ、
研鑽の集大成とも言える定期演奏会を聴く機会をいただきました。

朝一の飛行機で演奏会を聴き、終わったらすぐトンボ帰りというハードさですが、
呉音楽隊の演奏を聴くためなら、強行軍もなんのそのです。

いつものように金屏風前で(だったかな)お迎えしてくださる
地方総監夫妻にご挨拶し、席まで案内してもらいます。

少し到着が早いかなと思ったのですが、早くきただけいいことがありました。
ステージでは打楽器奏者二人が大変珍しいマリンバのデュオによる
ミニコンサートを行なってくれていたのです。

到着した時周りには誰もおらずわたしだけでしたが、時間につれて
周りの「名札組」(なぜか招待客は入り口で名札をつける仕組み)
のお歴々が到着し始め、周りでは挨拶や名刺交換が行われ、
そのうち中央席には国会議員や呉市長なども着席されました。


♪ スラブ舞曲 アントニン・ドボルザーク

Dovrak Slavonic Dance op.72 No.7 Filarmonica TCBo Hirofumi Yoshida

本日の演奏会、第一部のテーマを一言で言うなら「ヨーロッパの舞曲」。
民族色濃い短めの舞曲を集めた「スラブ舞曲」の中から、
アレグロ・ヴィバーチェ、ハ長調4分の2で華々しくコンサートは始まりました。

ドボルザークはブラームスの「ハンガリー舞曲集」に影響を受け、
この曲を最初はピアノ連弾として作曲したそうですが、それより、
わたしはこの二人が知り合いだったことを今回初めて知ってびっくりしました。

ドボルザークがオーストリア政府主催の奨学金審査に応募した時に、
彼を選んだ審査員がなんとブラームスで、この後ブラームスは
彼の才能を認めて生涯支援を続けたそうです。

ブラームスってドイツ3Bとか言われてたのに、ウィーンに住んでたってこと?

ところでスラブってどこのことかと言いますと、スラブ民族の住む地域、

ウクライナ、ベラルーシ、ロシア、スロバキア、チェコ、
ポーランド、スロベニア、クロアチア、セルビア、ブルガリア

この辺りのことです。

♪ ルーマニア舞曲 ベラ・バルトーク

お次はルーマニア。
バルトーク(1881〜1945)は近代の作曲家らしく、民族的な雰囲気に
近代的なリズムとちょっと斬新なコードづかいを施したピアノ曲は
子供のピアノ教本となっていて小さい時にこれで練習したと言う
ピアノ学習者もいるかもしれません。

わたしがこの曲で最も好きなのは出だしのメロディ。
これさえ聴けば後はもうどうでもいいと言うくらい(笑)好きです。

♪ バレエ「眠れる森の美女」よりワルツ P.I.チャイコフスキー

 

吹奏楽でいいyoutubeがなかったのですが、どんな曲か
知らない方のためにせめてもと思い、踊り付きの映像を貼っておきます。

ソロはシルヴィ・ギエム。

前衛的なピエロの衣装とかエグザイル風や、
体操風とかでんぐり返しとか、はっきり言って全然音楽と合ってませんが、
普通のより見ていて面白いのは確かです。

眠りの森の美女の舞台は「ヨーロッパのどこか」。
ワルツは舞曲なので、第一部のテーマそのものですね。

あまりにも有名で何度も聴いてきた曲ですが、吹奏楽は初めてでした。

♪ バレエ「恋は魔術師」より火祭りの踊り M.ファリャ

題名を知らなくても聴いてみたら知っていた、と言う曲、ありますよね。
もしかしたらこれなどもそんな曲の一つかもしれません。

画像のように、呉音楽隊のクラリネットセクションが
バスクラリネットなど音域の違う楽器に持ち替えて8重奏を行いました。

この曲ももともとジプシー舞踊家の依頼で作曲されたもので、
この「火祭りの踊り」は当日司会の丸子ようこさんの説明によると、
「除霊のための踊り」と言う設定なんだそうです。

と言うわけで、民族的な舞踊音楽として選ばれたこの曲、
クラリネット8重奏で聴くのはこれも初めてですが、
低いクラリネットのトリルが唸りのように響き、呪術的な雰囲気そのもの。
このアレンジはプログラムによると未出版ということですが、
もしかしたらクラリネットセクションが独自にアレンジしたのでしょうか。

♪ ゲールフォース P.グレアム

Gaelforce - Swiss Army Brass Band

スイス陸軍バンドの演奏が見つかりました。(うまい)
なんとスイス陸軍バンド、今時女性が一人もおりません。
黒地に赤いストライプのスーツとあまり軍楽隊らしくない制服です。

それはともかく、この「ゲールフォース」、演奏会前に
「予習」のために聴いたときには、カタカナのこのタイトルから、
「ゲール」=フランス語の「戦争」かなと勝手に思い込んでいました。

実はゲールはブリテン諸島(アイルランド、スコットランドなど)における
ケルト人の一派のことで、ゲールフォースとは、

「ゲール人のちから」「ゲール人だましい」

みたいな意味だったようです。
で、これが実にいい曲でした。
曲は3つの曲からなっており、

「ダブリンへのロッキー・ロード」ジーグ

「ミンストレル・ボーイ」1:50〜

「羽を投げる」リール 4:07〜

ジーグもリールも舞曲の名前でいずれも輪になって踊る
速い曲というイメージです。

「minstrel」というのは中世の宮廷音楽家や吟遊詩人のことだったり、
あるいは顔を黒塗りにする白人のショー(浜ちゃん?)だったり
いろんな意味がありますが、とにかくアンサンブルが美しい!

ちょっと「命を捨てて」を思わせるしみじみとした曲調です。

そして「羽を投げる」では最初にケルト風の旋律を
ユーフォニアムが超絶技巧で(多分)提示し、クライマックスへと。

スイス陸軍のこの演奏では最後に全員が立ち上がっていますが、
呉音楽隊はドラム奏者を二人、マーチングの時の出で立ち(着帽)で
ステージ両側に配し、最後のドラムの聴かせどころ(5:14〜)で
二人が歩み寄り中央に立つという痺れるような演出を見せてくれました。

ここまでが第一部です。
ここまでの指揮は副隊長である田中孝二二等海尉が行いました。
エネルギッシュでキレがあり、見ていてとてもワクワクする指揮でした。

♪ てつのくじら 天野正道

呉音楽隊の委嘱作品で、本邦初演です。
てつのくじらとはもちろん海上自衛隊呉資料館てつのくじらのことです。

ありがちな雰囲気、ありがちなメロディかなと思ったら、突然
音楽理論的に腑に落ちない和声や解決しないメロディが出てくるので、
はてな?と思いながら聴いているとそのまま終わってしまいました。

あとで作曲者のコメントを読むと、どちらも通常のパターンではないとのこと。
頭では納得はしましたが感覚的には腑には落ちないままです(笑)

潜水艦の推進力や質感を表現されたというメインの部分については、
わたしはなんとなく「潜水艦は潜水艦でも進水式の描写だなあ」と・・・。

確かに潜水艦が海上を波を分けて進む感じはあっても、海底に潜む、
あるいは深海を進む潜水艦は今回描写されていないような気がしました。


♪ もののけ姫ハイライト 久石譲

「もののけ姫」セレクション-久石 譲

呉音楽隊は久石嬢がお好き?
結構よく取り上げている気がします。


ただし今回はまるで映画の伴奏のような編曲スコアでした。
この編曲を行なったのも「てつのくじら」の天野正道氏だそうです。
ここに貼ってあるアレンジよりももう少し効果音っぽい部分が多かったと記憶します。

呉音楽隊には歌手もピアニストもいませんが(ハープは打楽器兼の男性奏者がいる)
必要に応じて出動できる戦力が常時備蓄されていると見え、「もののけ姫」では、
クラリネット奏者(前回”アイガットリズム”でソロをした人)が大変重要な
(というか目立つ)ピアノパートを演奏していました。

 

第二部からは明確にテーマと雰囲気が変わりました。
「てつのくじら」は委嘱作品なのでその範疇には入っていませんが、
第二部のテーマは「神話」です。

もののけ姫が神話なのか?という向きもありましょうが、
劇中でもしょっちゅう「荒ぶる神」とか「オッコト主」とか出てくるので、
「神々」がテーマであることは間違い無いでしょう。

♪ プロセルピナの庭 アルフレッド・リード

プロセルピナって何だったかしら。サプリメント?
それはプロポリスや。
と自分で突っ込んでしまうわけですが、実はギリシャ神話の
ペルセルポネーという春の女神のことなんだそうです。

リードは有名な「アルメニアン・ダンス」「エル・カミーノ・レアル」
を始め、名曲を残し吹奏楽シーンで神と言われる(かもしれない)作曲家です。

アンサンブルがとても美しく、春の女神の庭で
色とりどりの花が咲き乱れる情景を彷彿とさせる佳曲です。
特に

「♪ ミソ↓レ〜 ミソ↑シラソミソー ミソレ〜」(移動ド)

のメロディがしみじみと心に沁みます。

♪ 吹奏楽のための神話〜天の岩屋戸の物語による 大栗裕

(Legend for band - After the tale of AMA - NO - IWAYADO : Hiroshi Ohguri)

ご存知天岩戸に天照大神が閉じこもってしまったので、困った八百万の神が
岩戸の前で宴会を開き、力持ちの神様が岩戸を開けてこの世に光が戻る、
という神話を情景描写的に表した曲。

おそらく本日の第二部のテーマ「神話」というのは、
この曲をコアにして決まってきたのではないかと思われました。

3:35から現れる8分の10拍子が、いわゆる天宇受売尊の踊りと、
周りで宴会に興じる神々の狂騒なんだそうです。
宴会というよりも、どちらかというと神々の内心の焦燥が強い、
不安を感じさせる描写が延々と続くのですが。

天照大神が引きずり出された後?の喜びのテーマもなにやら暗く、
最後まで緊張感を保ったまま終わり、これも作曲者の解釈なんだろうな、
と思うしかありません。

という具合に曲そのものに対しては色々と思うところはあったものの、
後半にタクトを振った野澤健二隊長はこの難解な構成をうまくまとめ、
最後まで緊張感を維持して音楽を作り上げておられたと思います。

♪ 目覚めよと我らに呼ばわる物見らの声 J.S.バッハ

第一部、第二部いずれのテーマとも違う宗教曲がアンコールです。
バッハのカンタータから、有名な第1曲コラールが演奏されました。

    ここで普通ならセオリー通り軍艦行進曲が最後に演奏され終わるのですが、
前回「呉氏」が登場してきた衝撃を考えると、ただで終わるはずがない。

ましてやお行儀よく?バッハの宗教曲で終わる呉音楽隊ではない。

とわたしはこの時点で次に起こることをワクワクしながら待っていたのですが、
登場したのは呉氏ではなく、呉地方総監池太郎海将でした。

呉音楽隊の活動について冒頭のように紹介されたのですが、自己紹介として

「”愚直たれ”の池太郎です」

とおっしゃったので会場は笑いに包まれました。
わたしの近くに座った人たちが、

「(呉地方総監は)伊藤さん(伊藤俊幸海将)のあとの人も
伊藤という名前だった(実際は池田徳裕海将)」

などと事実とは全く違うことを話し合っていたのを小耳に挟みましたが、
それも無理はありません。
退官後テレビで活躍されている伊藤元海将の知名度があるのは当然としても、
普通の人は歴代地方総監の名前など全く気にせずに生きているものです。

しかし、現地方総監については割とそうでもないようです。
現役でこれほど地元に知名度のある地方総監もないのでは、
と会場の反応を見て改めて思ったわたしですが、流石にこの日、
その伝説が上書きされることになろうとは、神ならぬ我が身では
全く想像するべくもなかったのです。

 

♪ 恋

その後地方総監がステージ上で自らリクエストをするという暴挙に出たため、
衝撃のデビュー以来「指揮者も踊るんかい!」で有名になった
「呉音楽隊の恋ダンス」が二曲めのアンコールとして演奏されました。

そうそう、こうでなくちゃ。
「ネタ」がわかっている人たちは、いつ野澤隊長が踊り出すかと
息を呑んで(嘘)待ち続けていました。

「恋」 海上自衛隊 呉音楽隊『たそがれコンサート2017』

あれ以来キレのいい自衛官と(特にこの映像右から2番めのホルン奏者さん)
キレの中にも一抹の哀愁漂う野澤隊長のダンスは大反響を呼び(多分)
youtubeでもいくつか動画が上がっています。

どのバージョンでも隊長はサプライズとして最後のワンコーラスだけをキメます。
そしてこの日も恋ダンス、いよいよ最後に差し掛かりました。

(来るぞ来るぞ来るぞお!)←脳内
と指揮者を注視していたその時、舞台の袖から突如現れた人影。

それは呉氏、ではなく、ダンス用に白手袋をはめた池海将の姿でした。
会場はどよめきました。
わたしも思わず「うそっ・・・」と口に出して言ってしまったくらいです。

あとは言うまでもありません。
きっと仕事の合間に呉地方総監庁舎二階奥の総監室で密かに、あるいは
奥様の前でも何度も練習したに違いない完璧主義の(知りませんが多分)
地方総監の恋ダンスは、すっかり主役の座を隊長から奪ってしまいました・・。

もし万が一、呉音楽隊がこの定期演奏会の様子をアップしたら、
日本国海上自衛隊現役アドミラルの見事な踊りっぷりは全世界の人々に
衝撃を与えると思いますが、いかがでしょうか。

呉地方総監部広報の皆さん、難しいかもしれませんがぜひご一考を。

そしてこれも呉音楽隊恒例、最後にコンサートホール内を
「蛍の光」に乗せ、会場の皆さんに手を振りご挨拶しながら総員退館。
そのままホールに全員が立って、観客と触れ合うというサービス付きです。

 

地方隊音楽隊の使命は何と言っても地域と自衛隊の親和を図ること。
メンバーは地元の学校吹奏楽部にも頻繁に赴き、演奏指導をしているそうですが、
そういう熱心な取り組みやこの日に見せてくれた観客との触れ合いを見ても
呉音楽隊はその役目を十二分に果たしていると感じました。

練りに練った緻密なプログラム構成と、日頃の錬成の成果に加え、
楽しいサプライズと硬軟取り混ぜての定期演奏会。
地方総監の体を張った協力もあって、呉音楽隊の魅力を存分に満喫した一日です。

 

最後に、当日の演奏会参加に当たって、
お気遣いいただきました皆様に心よりお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。

 

おまけ:たった今知り合いの方にyoutubeで「恋」が出ていたことを教えていただきました。
ちょっと遠目ですがご参考までに。(消される可能性がありますのでご了承ください)

星野源の「恋」 海上自衛隊 呉音楽隊 第48回定期演奏会  

 

 


ミュージカル「ハミルトン」と「ベアー」の殊勲〜沿岸警備隊博物館

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Ten Minutes of Hamilton Clips

コネチカット州のテムズ川。
イギリス人がここに入植し、祖国ロンドンを思い出すために、
ニューロンドンという街に流れる川をそのように名付けました。

独立戦争中にはここに海軍の作戦基地があり、19世紀になってからは
捕鯨の拠点になるなど、良質の港として海上交通の重要な拠点となりました。

このブログでも度々お話ししているアメリカ海軍の潜水艦のふるさとグロトンは、
このテムズ川を挟んで対岸にあります。

ニューロンドン側には、アメリカ沿岸警備隊、コーストガードの士官養成校、
コーストガードアカデミーがあるのです。


グラウンドでちょうど行われていた訓練や、ロビーに飾ってあった
カッターと呼ばれるコーストガードの船、そして慰霊碑など、
少しここでもお話ししたのですが、今日は博物館展示についてご紹介します。

私はコーストガーズマンだ

私は合衆国国民に奉仕する

私は彼らを守る(protect )

私は彼らを守る  (defend)

私は彼らを守る  (save )

私は彼らの盾になる

彼らのためにわたしは常に備える(semper paratus)

私はコーストガードの真髄に生きる

私はコーストガーズマンであることを誇りにする

我々はアメリカ合衆国コーストガードである

 

2011年と言いますから割と最近定められたというエトス(団体の慣習)
がエントランスに大きく掲げてあります。

ところで、冒頭youtube、なんだと思います?

独立戦争後に初代財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンをテーマにした
ブロードウェイで今人気のミュージカル「ハミルトン」です。

つい先日、MKが自分のiPhoneを車内で再生し始めた時のこと。

MKはわたしと違い、ラップやトランスも大好き少年なので、最初は
またラップかー、と思いつつなんとなく聞き流していました。

すると「アレキサンダーハミルトーン」と確かに聴こえてくるのです。
思わずMKに

「もしかしたら・・アレキサンダーハミルトンって言ってる?」

「言ってるよ。ハミルトンっていうミュージカルの曲だし」

「はー、アメリカではミュージカルになるような人なのか・・」

アメリカ人には日本人にとっての坂本龍馬くらいの歴史的人物なんですね。

ただし日本人でこの名前を知っている人はあまりいないため、
このミュージカルも日本で取り上げられることはないに違いありません。


さて、そのハミルトンの偉業というのはアメリカの税収を立て直したことです。

独立戦争の後のアメリカは、収入源を関税と酒税に頼っていました。
この説明にも、

アメリカは独立戦争後、大変脆弱な状態でした。
独立の燃えるような興奮は、いきなり冷たい現実に直面します。
建国の父も空っぽの歳費で政府を創建せねばなりませんでした。
それどころか戦争で70万ドルの借金が残っています。

政治的独立を確保するためには財政的な独立をせねばなりませんが、
駆け出しのアメリカ経済は途方もないプレッシャー下にありました。
頼みの綱の植民地経済も、商船が弱体化してしまっているので動きません。
さらには生産業もまだ未熟で、国内には輸入品ばかりが溢れている状態でした。

と書いてあります。

それはともかく、当時関税の徴収というのは国家の大きな課題であったわけです。

そこで外国とアメリカの商品、そして船舶に関税とトン数による税金を掛けて
税収にすることを天才ハミルトンは考え出しました。

つまりこれによって税収と国内産業の保護を一気に推し進めようとしたのです。

そこでハミルトンは議会に10隻のカッターを購入することを要求し、その乗員である、
80人の成人男性と20人の子供からなる艦隊に関税と税金をかけました。

その「税収(を目的とした)カッター部隊」が沿岸警備隊の元祖であり、
そのための養成学校も「税収カッター養成学校」とそのものズバリの名前でした。


 

さて、ハミルトンが作ったカッター部隊の目的は税収、そして密輸を取り締まることです。
当時はこんなもので武装した海賊がうようよしていて、輸送船を襲いました。

アメリカとしては、不法に我が国の大事な通商船から物資が奪われることは
国家の財政危機にも繋がるとして、カッター部隊に警備をさせました。

最初にカッター部隊が海賊を阻止することに成功したのは1793年、
チェサピーク湾で「ディリジェンス」という船でした。

1819年にはフロリダで、ジャン・ラ・ファルジという海賊の船「ブラボー」と
「ルイジアナ」「アラバマ」という税収カッター部隊の船が対峙し、
カッター部隊はファルジの船に乗り移って一対一の戦闘を行い、
最終的には彼らの根城を殲滅してアメリカの領土にしています。


海軍は税収カッター部隊の設立に大変前向きでした。
海軍の船が苦手な湾岸線の浅瀬での活動を税収カッター部隊に任せ、
その部分での海軍の任務はそのままカッター部隊が引き受けることになります。

なお、カッター部隊が初めて戦争で殊勲賞を獲得したのは1812年、
「ビジランテ」がイギリスの私掠船を捕獲した戦功によるものでした。

手縫いのアメリカ国旗は1795年、ハミルトンが提案した税収カッター部隊の
士官第一号となったホープリー・イートンHopely Yeatonが製作し、
その船に掲げられていたものだそうです。

イートンさん。
なんかこんな人今でもいるよね。

USRC ハリエット・レーン(1858−1962)。

最初の税収カッター(RC)とはこのようなものでした。
ハリエット・レーンとは合衆国第15代大統領ジェームス・ブキャナンの姪で、
生涯独身だったブキャナンのファーストレディ役を務めた女性です。

その髪型や服装が国民に注目され、真似をされるほどのファッションリーダーで、
彼女の名「ハリエット』を生まれた女児につけることが流行ったというくらい
カリスマ的人気があった彼女ですが、税収カッター部隊は
彼女の名前をつけたカッター「ハリエット」を、を沿岸警備隊になった後も、
三代にわたって(もちろん現在も)保有しています。

写真のカッターは、南北戦争が勃発すると合衆国海軍(北軍)に移管され、
この艦上から南北戦争における海軍最初の砲撃が行なわれました。

2代目は1926年に就役し、1946年に退役しています。

同じく3代目のカッターは、USCGC Harriet Lane (WMEC-903) で、
1984年5月に就役し、2014年現在、現役で運用されています。

1855年ごろの税収カッターに乗り込んでいた部隊の皆さん。

「これらのみすぼらしく質素な男たちは孤独な砂上の住人である。
そしてもっとも危険な海に横たわる今にも差し迫った危機の上に
彼ら自身の手で命をつなぎとめるのだ。

しかしなんのために?

祖国と彼らの愛する人々、他を生かすため
(That others might live)であることは間違いない」

南北戦争の後も、国家は税収カッターサービスを
増大する外敵からの防衛のため、
そして人命救助のため使い続けました。

1960年代になって、組織は改変され、税収カッターサービスは
近代的な沿岸警備隊へと生まれ変わることになります。

1897年には最初の電動ジェネレーターを搭載したカッターが何隻か
ライフセービングサービス、救難隊に導入され、1899年には
無線も導入され始めましたが、基本救難隊は、このような
オールでボートを漕いで救難活動を行っていました。

1897年、税収カッター部隊のジャービス中尉、バートホフ大尉、コール軍医は、
レスキュー隊の3人と400頭のトナカイを率いて、アラスカで氷に閉じ込められた
8隻の捕鯨船の乗員265人のために食物や必要なものを届けました。

ポートランドを11月29日に出航したカッター「ベアー」は12月16日アラスカに到着、
そこから1500マイルのツンドラ地帯をマイナス40度の低温の中、
3ヶ月かかって走破、382頭を現地に残しまた3ヶ月かけて帰投しました。

現地の住民から手に入れた記念品。

右側の籠や人形なども現地調達の記念品です。

税収カッター部隊の活動範囲はベーリング海にも及びました。
アザラシの皮でできた服を身につけた現地の子供達。

ダールグレン・ボートハウザー砲。

米西戦争の間、アメリカは小艇からも銃撃可能な小さな銃を必要としました。
それらは湾岸線で上陸してくる敵を掃討するためにも必要でした。

1849年、ダールグレン社は滑空式ボート用ハウザーを開発し、
ランチやカッターに装備が始まります。

この24lbsハウザーは特に税収カッターのために製作されました。

おそらくネイティブインディアンの名付けた地名からきたのでしょう。
Quonchonontaugはコノーチョントと発音するロードアイランドの地名で、
ニューロンドンよりケープコッドよりにある港町です。

ガラスケースの上部にあるのはこの街にあった沿岸警備隊のステーションの看板。

ラクロスのラケット見たいなのは、スノーシューズ、カンジキです。
これで、先ほどお話しした雪中救助隊が3ヶ月の行軍を行ったのです。

400頭のトナカイはソリを引いてくれなかったので(T_T)
彼らは3ヶ月、氷点下40度の中をこれで歩き続けました。

潜水服のヘルメットのようなビナクルも雪中行軍救助隊「ベア」の装備。

フロックコートはデイビッド・ジャービス中尉が着ていたもの。

左上のライフルは船から岸にラインを渡すために使用されました。
そのロープに救出用ブイを通すためです。


創立と同時に、これまで海軍がやっていた沿岸での救助をすることを
使命として活動してきた税収カッター部隊ですが、この「ベアー」の殊勲は、
その後の沿岸警備隊にとって目標とすべき大きなモニュメントとなったのです。

 

続く。


”トラブルシューターズ”〜コーストガード・アカデミー博物館

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沿岸警備隊士官学校に併設された博物館の見学記です。

今日は、灯台守、ライトハウス・キーパーと、税収カッター部隊と
のちに併合する、救難救助隊の活躍についてお話しします。

ほとんどの市民はアンクルサム(アメリカ)の
「Devil Dogs」(海兵隊)「Gobs」(船員たち、海軍)
そして「Dough Boys」(陸軍)を知っている。

しかし、どれくらいの人々が「トラブルシューターズ」
つまり沿岸警備隊を知っているだろう

328フィートのエレクトリックエンジン、5インチ砲搭載のカッター、
全国250もの基地、19箇所の無線基地、災害派遣車、
携帯短波ラジオ搭載トラック、5000マイルのテレグラフケーブル、
電話による通信システム、特別に設計された陸空兼用飛行機を持ち、
トラブルを解決するために完璧な仕事を行う者たちのことを


サムナー・インクリース・キンボール

インクリースというのがミドルネームという人を初めて見る気がしますが(笑)
このキンボールは弁護士で、1848年に海難救助を行うために
ライフセービングサービスを創設し、その初代代表となった人物です。

民間や地域の人道的努力から形になったこの組織は、1915年、
税収カッターサービスと合併して沿岸警備隊となりました。

1897年には最初の電動ジェネレーターを搭載したカッターが何隻か
ライフセービングサービス、救難隊に導入され、1899年には
無線も導入され始めましたが、基本救難隊は、このような
オールでボートを漕いで救難活動を行っていました。

■ フレネルレンズ灯台

コネチカットの「ミスティック・シーポート」で、実際に稼働している
灯台が、このフレネルレンズでした。

フランスのオーギュスタン・フレネルが、最初から
灯台の灯に使うためにこのレンズを開発しました。

通常のレンズを同心円状の領域に分割し厚みを減らした設計で、
その表面にノコギリ状の断面を持っています。

皆さんは、表面がギザギザのルーペをご覧になったことがないでしょうか。
字は確かに大きくなりますが、見にくいものですよね(笑)
あんなギザギザでは結像性能が良くないのは当たり前です。

このギザギザの分割数を多くすればするほどレンズは薄くなるので
材料を減らし軽量化が可能になります。
まさに灯台のためだけの発明だったと言えます。

左の婉曲したものが一個のフレネルレンズで、これをいくつも重ね、
光を一方向に投射することができるというわけです。

ガラスの組み方の違う大型のフレネルレンズ灯台。
少ない、あるいは小さな光源でも一定方向に光と集めて照射することができます。

こちらは外側のケース付きフレネルレンズの灯り。 

これはソーラー・ビーコンだそうです。

今のソーラーの意味ではなく、鏡の反射を利用したビーコンだと思われます。

コーストガードの活動記録から。
洪水になった街に出動して住民を救助しています。

税収カッターサービスと並行して活動していた「救助部隊」
United States Life Saving Service(USSL)のバナーには
今でもコーストガードのシンボルである鷲が描かれています。

下のボイラーみたいなものは「ライフ・カー」(Life-car)といい、
1845年にジョセフ・フランシスなる人物が発明したものです。

当時もっとも成功した海難救助のための発明と言われ、このライフカーで
1850年、ニュージャージーで座礁した船から199名の乗客を運び出し、
船から岸へと搬送することができたと言われています。

こちらも救助グッズで「Breeches Buoy(ブリーチズブイ)」という道具です。

ブリーチというのは、この浮き輪状のものにくっついているキャンバス地の
「脚を入れて履けるような形状になっているもの」のことです。

難破した船から比較的近い沿岸に一人ずつ人を輸送する道具で、
小舟も使えない荒れた海の上では大変有効な道具でした。

ロープは船の一番高いところにセットし、岸に向かって滑車を滑り落とすように
人を乗せて動かしたそうです。

乗っている方はとっても怖かったと思うがどうか。


船の救急救難グッズは昔からいろんなものが発明され試みられてきましたが、
こんな失敗例もあるということで。

救命浮き輪のプロトタイプ(試作品)です。

1875年ごろ、マクレランド・カンパニーという救命グッズを手がけた
専門の会社によって試作されました。
実際見ると小さくて、こんなものどうやって使うのか、というくらいですが、
手錠のように外して、首にがちゃんとはめて使用することになっていました。

たとえ意識がなくなっても、手足が動かなくても、これを嵌めればとりあえず
首から上は海上に出たまま浮いていることができる、というコンセプトでしたが、
いざ海に脱出するときに両手で持って運ばなくてはならず、
(確かにこれは片手では持てないかも)木の輪っかなので危険というか、
つけたまま船体に挟まれたりした場合、最悪首を骨折する危険さえありました。

いうまでもないですが、このアイデアは試作品のままで終わり、製品化されませんでした。

■ ライトシップ(灯台船)     うっかり説明の写真を撮るのを忘れたのですが、他の類似の船を調べたところ、
これは「light ship」(灯台船)と言われる船であるようです。   灯台船は読んで字の通り灯台として機能する船のことで、
目立たせるために明るい赤の船体に白の大文字でその場所の名前が書かれます。   通りかかった船にここがどこか知らせるためです。       「ヴィンヤード」は「マーサスヴィンヤード(マーサの葡萄畑)」のことで、
この島の隣にある「ナンタケット」では、同型の灯台船がニューヨークで
お仕事(といっても繋留されているだけですが)しています。   灯台船は灯台を設置するには震度の深すぎるところに繋留して錨を下ろし、
固定するものなので、一部を除いて推進手段を持たない、とされています。 設置や補修の時には牽引されるものだと思われます。   灯台船は霧の中、および日没1時間前から日の出の1時間後まで点灯するのが仕事ですが、
ずっと繋留されているその船には、船員が寝泊まりしていたのでしょうか。
補修の時にしか移動しないのなら、乗員はランチで通勤していたのか・・・・?   ところでここになぜ灯台船の模型があるかと言いますと、
灯台船を設置するのは沿岸警備隊の役目だったからです。   灯台船の使用は1985年、最後の一隻「ナンタケット」の退役によって終了しました。
全部がコストパフォーマンスの観点から「テキサス・タワーズ」と呼ばれる
沖合の照明プラットフォームまたは大型の航法ブイと置き換えられました。
  ■ エリー湖の事故と救助隊の殉職     右は「メモリアル・オールで作った木彫のトークン」だそうです。   1893年の5月、クリーブランドのエリー湖でで二人の少年を助けようと出動した
ライフセーバーのボートが転覆し、5名のキーパーが殉職しました。
ステーション隊長のローレンス・ディステルと2名の要救助者は
タグボートに救出され、助かっています。
隊長のディステルはその時使用されていて粉々になったオールから、
失われた部下を悼むためにトークン(コインのようなもの)を作りました。   ■ 女性灯台守

腕を組み、キリッとした表情でレンズを見ているこの女性、
アイダ・ルイス(1842-1911)は、1881年、灯台守として
女性で初めてゴールドライフセービングメダルを授与され、今でも
「アメリカン・ヒーロー」の一人とされています。

ロードアイランド州ニューポートに生まれた彼女は、16歳の時
ライムロック灯台の灯台守だった父が発作のために倒れた後、仕事を継ぎ、
1858年、近隣の家族4人の船が転覆した時に彼らを救出しました。

こんな軽装で夜の海に漕ぎだしたのか、と思いますが、まあこれは
あくまでも「イメージ」なので、実際の様子とは異なるかもしれません。

彼女はこの英雄的な救助劇のその後も、ライムロックで灯台守を一生の仕事として、
その生涯には少なくとも18人の市民を救ったとも言われています。

しかし、彼女はそのことを記録に残さなかったため、正確なところはわかりません。

最初の救助で人気者になった彼女の元には、人々が見物に押しかけましたが、
彼女は注目されることを良しとしなかったということです。

ライフセーバーに一生を捧げた彼女の最後の救助は、彼女が63歳の時で、
ボートから落ちた自分の友人を救ったというものです。

彼女が69歳で亡くなった時には、周辺の灯台守や船のほとんどの乗員が葬式に訪れ、
港湾内のすべての船が汽笛を鳴らし、半旗を挙げて彼女の死を悼みました。

沿岸警備隊の「キーパー」級説標船の1番艦

USCGC 「アイダ・ルイス 」(WLM-551)

は、彼女の出身地であり、ライムロック灯台のあるロード・アイランドを
母港としています。

説標船とは、灯浮標など航路標識の設置や回収を主な任務とする船で、
英語では

「Bouy Tender 」

と言います。

”That others might live”、

一生を安全な船の航行のためにかけた彼女の名に相応しい船ではありませんか。


 

続く。

 

 

 

 

 

第一次世界大戦と「ラム戦争」〜沿岸警備隊遺産博物館

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コーストガードアカデミーに併設されている博物館シリーズです。
税収カッター部隊に始まって、救命救急部隊と併合し、
沿岸警備隊となる1915年までの出来事についてお話ししています。


1895年、米西戦争が起ったとき、税収カッターサービスは
この戦争にアメリカ海軍として参加することになりました。

USRC「ハドソン」は税収カッターサービスの手に入れた最初の船で、
スチールの船体に蒸気機関によるエンジンを搭載していました。

まず海軍工廠に搬入された彼女はこの絵にもあるコルト製の機関銃などを搭載し、
鋼板を厚くして防御力を補強した上で警戒に赴きます。

1898年、キューバのカルデナス湾で起った海戦で、敵の砲撃によって
乗員が死亡し、動力を失ったアメリカの「ウィンズロー」を支援して、
彼女の艦体を牽引し、安全な場所まで最終的に運びました。

その過程で「ハドソン」もまた戦闘行為を行ない、その後、
マッキンリー大統領から「カルデナス勲章」を授与されました。

カルデナス勲章の受賞の言葉を読むと、

「ハドソン」のニューカム中尉は敵の攻撃の中牽引のためのラインを
「ハドソン」から「ウィンズロー」にわたすという英雄的な行為を行なった

とあります。

国旗の下のメダルがその「カルデナスベイ・勲章」。
国旗は救急救命隊が使っていたもの。
ジャケットは救命ステーションの「サーフマン」と呼ばれる隊員のものです。

いつものストームシグナルが揚がると 
全ての船という船が風を避けるための物陰を探す

しかし、アンカーを揚げたカッターだけは仕事に出て行く

ハリケーンがケープコッドに吹き巻く時も、嗚呼、
サーチライトを灯したカッターはまるで神の使いのようだ

彼女はセイバー、デストロイヤーではない
人を殺すためではなく、ただ誰かを救うために作られた船を
人々が称賛することはない

ーアーサー・ソマーズ・ローシェ 「ザ・コーストガード・カッター」

 


写真はゴッドフライ・L・カーデン大尉。
第1次世界大戦中、ニューヨーク港のキャプテンだった人です。

人を殺す船(つまり軍艦)ではない沿岸警備隊のカッターは、しかし
アメリカの戦争には第五の軍として参加し、戦没することもありました。

■ USCGC「タンパ」の犠牲

「力の出し惜しみせず喜んでベストを尽くせ」

とモットーの記されたのはUSS「メイ」
第一次世界大戦中に米海軍がドイツから購入したヨット?で、
沿岸警備隊がパトロールに使用していました。

1917年10月7日は彼女が就役した日です。

左はカデットのジャケット。
後に司令官となったラッセル・ランドルフ・ワシェチの学生時代のものです。

ワシェチ

右のドレスコートは第一次世界大戦で戦没した「タンパ」のキャプテン、
チャールズ・サッタリーが着用していたものです。

サッタリー

USCGC「タンパ」はUボートに魚雷を発射され、大戦中もっとも多くの
(111人の海軍警備員、4人の米海軍人員、11人の英国海軍軍人、5人の民間人)
犠牲を出して戦没したカッターとなりました。

彼女は同行中の船団を守って犠牲になったとされ、戦死者全員に
パープルハート勲章が授与されています。

■ コーストガード第一号パイロット

黄色いモデルは

カーティスSO-03シーガル(シーミュウ)

海軍が使っていた偵察用水上機なのでなぜここにあるのかわかりませんが。

こちらはパイロット用の帽子で、フライトヘルメットと呼びます。

沿岸警備隊航空隊を創立した一人、エルマー・ストーン使用のものです。

エルマー・ファウラー・ストーン司令官の勇姿。

この時被っているものがこれかな?
それにしても・・・うーん、とっても重量級。

こんな体型ですが、テストパイロットとしても相当優秀だったそうです。

ここでは男前に描かれてます。って失礼?

調べてみたら、この人が沿岸警備隊のパイロット第一号でした。
この飛行機でアトランティックを横断したとありますが、
その時に着用していたのがこのフライト・ヘルメットなんだそうです。

左のフロックコートは、「カーペンター・レイティング」のウォーラント・オフィサー、
特務士官が着用していたものです。

スキルと経験豊富な特務士官は、待遇も士官と同じで、高収入の配置です。
沿岸警備隊の階級は海軍のそれに準じるということは1920年に決められました。

「カーペンター・レイティング」は船の構造物などの建造や修理を担当し、
それゆえ大変重用される立場にありました。
1948年には、この部門は「ダメージコントロール」に特化されます。


 

■ 沿岸警備隊の創設

 

「税収カッターサービス」と「ライフセービングサービス」が合併し、
「沿岸警備隊」が生まれたのは1915年のことです。

その最初の最高司令官となった

エルスワース・プライス・バーソルフ代将(commodore)。

若い時には先ほどの捕鯨船を救助するための雪中行軍にも加わり、
ジャービス中尉らと共に氷点下45度の雪原で救助活動しています。

彼がここまで出世したという理由の一つに、おそらくですが、
少し日本も関係しています。

日露戦争が終わってから、沿岸警備隊のベーリング海での警備は忙しくなりました。
日本が勝ったので、日本の漁船もアシカ狩り操業に来るようになったのですが、
問題は日本は シール・ハンティングに関する条約を結んでいなかったことです。

税収カッター部隊の警備において、彼は少なくとも2隻の日本の船を拿捕し、
アラスカのウナルラスに彼らを搬送して連邦裁判所で証言しています。

まあそんなこんなで優秀だったバーソルフですが、最初に彼は海軍兵学校に入学し、
2年で退学しかも追放されたという暗い過去を持っています。

気になるその理由は、

「慣例として行われるヘイジング(イニシエーションとか通過儀礼の類?)に参加し、
そのことで軍事裁判所沙汰になって追放になった」

であったという噂です。

まあ16歳だったので、調子に乗ってやりすぎてしまったってとこでしょうか><
そこで人生終わりにならないのがその頃のアメリカのいいところで、
彼は即座に税収カッターサービス養成学校に入り直し、結局はそこで
初代司令にまでなってしまったのですから、人間諦めてはいけませんね(適当)


■ 禁酒法と沿岸警備隊

第一次世界大戦直後、沿岸警備隊は活躍を求められる場面が増えました。

これの促進剤は1919年のあの禁酒法(ボルステッド)法でした。
アメリカ合衆国の中でアルコール飲料の製造、販売と輸送を禁止するもので、
他の連邦機関は海上で新しい法律を実施する用意が全くできていなかったため、
ヴォルステッド法を実施するための主戦力は沿岸警備隊となったのです。

「昔、こんな良からぬ噂が立った。
押収された酒は、腐敗するか、密かに売られるまで、
沿岸警備隊の波止場に留め置かれていた、というものである。
国の法律がそう決めたことに対し、我々の個人的な意見など関係ない。
我々の義務はすべての現行法を実施することであり、何より
捕らえられた酒類密輸入者が沈黙しているということは、沿岸警備隊が
粛々と与えられた義務を果たしているということの証左でもある」

沿岸警備隊のTide Rips(潮衝 《潮流が衝突して生ずる荒波》)という
機関紙に当時寄稿されたコーストガードの隊員の手記です。

沿岸警備隊がこの「ボルステッド・アクト」に向き合ったというのは
この時代の非常に象徴的な出来事でした。

沿岸警備隊は施行と同時に全米に100隻もの船を警戒船として出し、
大西洋、太平洋、湖や湾岸をパトロールしました。

議会はこのために特別予算をつけ、そのおかげで沿岸警備隊は
ラム・パトロール専用に設計された船、「マザーシップ」、航空機、
密輸業者とコンタクトを取るための船までが充実していったのです。


結果、この「ラム戦争」は沿岸警備隊に基礎体力と活力を与えました。

 

しかしながら、そもそも禁酒法という法律が全く国民の賛同を得ず、
稀代の悪法として当時から嫌われていたため、「政府の手先」として
前述のような噂が立つなど、沿岸警備隊にはある意味辛い時期だったと言えます。

しかし、人生は糾える縄の如し。(ちょっと違うかな)

政府が惜しみなく予算をつけたおかげで、この時代の間に建造された巡視艇は、
その後何十年にもわたって継続される後年のクラスのための
プロトタイプとなりましたし、通信装置の使用に関するノウハウや諜報方法もまた
大きく革新を遂げる結果になりました。

何より、この時酒類密輸入者と戦うために開発された戦術と技術が、
数十年後、麻薬密輸者と戦うために役に立つことになります。

沿岸警備隊では最近も国際法に照らし、麻薬対策を強化していますが、
その手法はそれまで培われてきた経験の積み重ねに多くを負っているのです。

「ラム・ランナー」に威嚇を行う沿岸警備隊の船。
舳先では業者たちが両手を挙げて降参しています。

左側の通信機器は、いわゆる「ラムランナー」と呼ばれる酒を密輸する船と、
「母船」との間の会話を探知するために使われた
「ライン・テスティング・ディバイス」だそうです。

ちなみに禁酒法にまつわる攻防を「ラム・ウォー」、
禁酒法に基づき密輸摘発任務に従事したアメリカ沿岸警備隊の艦隊を
「ラム・パトロール」(Rum Patrol)、
禁酒法の時代に、ヨーロッパで製造された酒を積んだ密輸船が
停泊していたアメリカ領外地域の通称を、「酒屋通り」(Rum row)と言いました。

沿岸警備隊のスキルはこの「平和な時代の法律」(つまり禁酒法)によって
その基礎を作り上げられた、といっても過言ではありません。

おまけ:

「サンクスギビング・フォー・ウェット」

と題された当時のカートゥーン。
ウェットは禁酒を意味する「ドライ」に対する「お酒のある状態」です。
沖に泊まっているのが「ラム・ロウ」、つまり摘発対象外の場所に錨を下ろし、
「ラム・ランナー」に酒を積んでいる商船です。

「モリル」という沿岸警備隊の巡視船は事情があって?
出動できない状態なのをいいことに、ラムランナーたちがスコッチやライ、
スピリッツの類を満載して前を通り過ぎていきます。

折しもサンクスギビング(感謝祭)。

「いつも労働ご苦労さん、でも今日はゆっくり休んでね!」

ということで感謝しているラムランナーズのみなさんでした。

 

その後、アメリカを襲った大恐慌によって、禁酒法は廃止になります。

続く。

 

 

 

 

 

海上自衛隊 横須賀音楽隊 第52回定期演奏会@横浜みなとみらいホール

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3月の声を聴いたとたんいきなり春めいた先週末、
横浜のみなとみらいで行われた横須賀音楽隊の定演に行ってまいりました。

東京音楽隊、呉音楽隊、そして横須賀音楽隊と海上自衛隊の音楽隊の
定期演奏会を続けて聴く機会を得たわけです。

会場はみなとみらいホール。
ホワイエやロビーに広がりこそありませんが、ルーシーというオルガンを
中心に備え、大変重厚感のある好きなホールです。
写真を見てお分かりのように、ちょうど二階の真正面の席でした。

この日は少し事情があって席に着くのが開演ギリギリになってしまったのですが、
始まるまでにステージではジャズっぽい曲のミニコンサートがあったようです。

これがあるから、自衛隊音楽隊のコンサートは早く行くべきなんですよね・・。

拍手に迎えられて、ステージに人が乗りました。
(オケの人は出演することを『乗る』といいます)
最初に思ったのが、制服を着ていない、つまり民間のエキストラが多いなということ。
念のためプログラムで調べてみたら6人。
それだけでなく、東音、呉音、佐世保、大湊(!)からのトラは12人でした。

音楽隊の人事についてよくわからいないのですが、通常このように
各音楽隊に応援を要請することになっているものなのでしょうか。

ダンス・セレブレーション 建部知弘
  華やかにオープニングを飾ったのは邦人作品。
わかりやすくて楽しい、打楽器が活躍する曲です。   詩的間奏曲 ジェームズ・バーンズ Poetic intermezzo : James Charles Barnes   「これはずるい」   と主旋律を聴いて思いました(笑)
いわゆる「文句なしにいい曲」です。   ミーファレードレー レーーミドーシドー
ドーレシーラ ドレシーラシ〜〜〜   このゼクエンツ系メロディがホルンのソロで始まるんですよ。
(”遠すぎた橋”と全く同じ音形ということは言いっこなし)
それで壮大に盛り上がっていきます。   2:58くらいから始まるオーボエは、まるで雲間から光が差してくるよう。
とにかく魅力的な曲でした。
  エクストリーム・メイクオーヴァー〜チャイコフスキーの主題による変容
ヨハン・デ・メイ   アンサンブルリベルテ吹奏楽団
  チャイコフスキーの名曲を極端に(エクストリーム)メイクオーバーしたものです。   最初はがっつりと「アンダンテ・カンタービレ」。 1:57から、交響曲4番の第1楽章のテーマ。
3:20ごろもう一度「アンダンテ・カンタービレ」。 3:45に交響曲第6番第1楽章。 4:00に交響曲第4番冒頭のファンファーレ。
(中略)   ところどころにアンダンテ〜のかけらがちりばめられたりして、
色々と混ぜ込まれ、最後は序曲「1812」で終わります。   いずれも有名なメロディなので、知っているメロディを探すだけで
ワクワクするという曲ですが、全てのエレメンツがオリジナルそのものの形で
出てくるわけではないので、ちょっと高度な宝探し気分です。   技量に定評のある横須賀音楽隊ならではの、粒の揃った音が、
このややもすると散漫になりがちな変容していく曲を
集中を途切れさせずに聴かせていました。   ここまで前半の演奏は副隊長の石田敬和一等海尉が務めました。       演奏会用序曲「スラヴァ!」レナード・バーンスタイン

 

最初は「序曲」と言いつつも華やかで派手で、
そこはかとない退廃を感じさせるバーンスタインの曲で始まりました。
最初の部分を指折って数えながら聴いたところ7拍子でした。
うーん、いいねえ7拍子。

バーンスタインは今年生誕100年なので、盛んにその作品が取り上げられています。
みなとみらいホールのロビーにも記念コンサートのポスターがありましたし、
記念のアルバムも発売されているようです。

「スラーヴァ」というのは司会の説明によると、ロシア語の感嘆詞ということでしたが、
スラヴ言語で言うところの「栄光」、日本正教会では「光栄」と訳しているそうです。

そういえばカウンターテナーの歌手スラーヴァという人がいますが、
スラーヴァは本名「ヴャチェスラフ」である彼の愛称です。

「スタニスラフ」「ヤロスラフ」「スヴィヤトスラフ」

など、後ろに「スラフ」の付く人は「スラーヴァ」が愛称になるそうですね。
実はこの曲、バーンスタインの友人でもあった偉大なチェリスト、

ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ

の愛称をタイトルにしたのだそうです。
ロストロがナショナル交響楽団の指揮者に就任したお祝いに書かれたそうですが、
サービス満点というか、最後に団員がみんなで

「スラーヴァ!」

と叫んで(3:25)終わります。
実は原曲にはロストロの飼い犬の名前(Pooks )を叫ぶという指示があるのだとか。
絶対これふざけてるよね。

蛇足ですが、ロシア海軍には「スラーヴァ」という軍艦が過去4隻ありました。

スラヴァ (戦艦) - ロシア帝国で建造された戦艦(艦隊装甲艦)
スラヴァ (軽巡洋艦)(ロシア語版) - ソビエト連邦で建造された軽巡洋艦
スラヴァ級ミサイル巡洋艦 - ソビエト連邦で開発されたミサイル巡洋艦
スラヴァ (ミサイル巡洋艦) - その1番艦で、現在はモスクワに改名し黒海艦隊の旗艦

ご参考までに。ってなんのご参考だ。


「烏山頭」〜東洋一のダム建設物語 八木沢教司

休憩時間に隣に座った元海将が

「(元東京音楽隊長の)谷村(政次郎)さんの肝いりで作られた曲です」

と教えてくださったのですが、これが驚いたことに台湾の
八田與一が取り組んだ通称八田ダム、烏山頭ダム建設をテーマにした新作で、
この日が世界初演となるとのことでした。

当ブログを読んでくださっている方なら、もしかしたら何年か前に
わたしが台湾旅行をした際にこのダムを見学し、その時に
八田與一の銅像を守った台湾の人々のことや、八田その人のこと、
さらには乗っていた船が攻撃されて沈没し、戦没したこと、そして
あとを追うようにダムに身を投げて自死した八田夫人のこと・・・、
様々なことを書いたのを覚えてくださっているかもしれません。

八田が心血を注いだダムの姿と、そのダムによって今日も青々と
水を湛えた嘉南大圳を実際にこの目に焼き付けたわたしは、
この曲をおそらく会場にいる人たちの中でも特に感慨を持って
聴いていた一人ではないかと自負しています。

気宇壮大なダム建設への意欲とその取り組み、そして

「ああ、ダムが敷かれて今大地に水が流れ出した」

と確かに感じる部分や、中国風のメロディが少し顔を出すなど、
思い入れがあってもなくても、その輪郭はくっきりと、
作曲者の意図を音を通じて伝えることに成功しているように思いました。

ところで、司会が八田與一の功績について説明するとともに、
夫人の死にもわざわざ触れたので少し不思議な気がしたのですが、
あとでライナーノーツを見ると、それが曲に織り込まれていたからでした。

その部分とは、具体的に女声で表され、横須賀音楽隊歌手の
中川麻梨子三等海曹(昇進されたんですね)が歌詞のないヴォカリーズで
その「悲しみの歌」を歌い上げました。

曲に先立って来場していた八木沢氏とともに、この曲を作曲するにあたり
八田ダムについてインスピレーションを与えた谷村氏も紹介されました。

詳細についてまでははわかりませんでしたが、この曲はそのうち
台湾でも演奏される予定だということです。


「シンフォニック・ダンス」ウェストサイド物語より
レナード・バーンスタイン

この日のプログラムに書かれていたので初めて知ったのですが、
ウェストサイド物語の主人公のカップルは、当初

「ユダヤ系移民の青年とイタリア系カトリックの少女」

という設定だったそうです。
バーンスタインがこの案に消極的だったのは、この現代版「ロメオとジュリエット」を
宗教対立の上に描くことをユダヤ人である彼自身がよしとしなかったからでは、
と今更のように考えてしまいました。

結局この二人がプエルトリコ系とポーランド系という設定になったのはご存知の通り。

偶然というか、やはりバーンスタイン生誕100周年ということで、
メインの曲が東京音楽隊と被理、同じ曲をこの関東在住の精鋭音楽隊で
聴き比べることができたのは素晴らしい体験でした。

みなとみらいホールは管楽器全体をまろやかに包み込むように響き、
オペラシティはどちらかというと輪郭がはっきりと聴こえてくるという
ホールの特性の違いも楽しめたと思います。

「サムウェア」のホルンのソロは感情表現含め素晴らしかったです。

 

ムゼッタのワルツ オペラ「ラ・ボエーム」より
ジャコモ・プッチーニ

 


前回の定演では同じくプッチーニの「ある晴れた日に」を歌い上げた
中川麻梨子三曹ですが、今回も超有名なアリアを聞かせてくれました。

youtubeは「オーケストラの少女」だったディアナ・ダービンが
立派に成長した姿を見ることができます。
どうもこの男性は、ディアナ・ダービンと訳有りですね(小並感)

画像には字幕がついているので見ていただければわかりますが、
ムゼッタは昔の恋人ロドルフォの前に金持ちのパトロンとやってきて、
「私が街を歩けば皆が振り向くの」とモテ自慢に始まり、盛んに
ロドルフォを誘惑しようとするというのがこの歌の内容。

・・・ディアナ・ダービンのは清純っぽすぎるかな(笑)

行進曲 軍艦 瀬戸口藤吉

みなとみらいホールの「軍艦」の響きが好きです。
低音がずっしりと重く、全体的に音色に厚みが出るので、
ここで聴くとすごく立派な感じがします。

始まった途端、会場では拍手が起こりましたが、わたしの周りでは
元海自の偉い人が多かったせいかほとんどが拍手なしで聴いておられました。

 

この日同行した自衛隊音楽隊のファンの知人が、盛んに

「さすがですねー」

と繰り返していたように、昔からその実力には定評のある横須賀音楽隊、
この日もプログラムの構成を含め、大満足の一夜となりました。

個人的な収穫は何と言っても「烏山頭」の世界初演を聴いたこと、
それから「詩的間奏曲」を知ったことだったでしょうか。

最後に今回の演奏会参加にご配慮いただきました皆様に感謝いたします。
どうもありがとうございました。

 

 

映画「イン・ザ・ネイビー」〜はみ出し者たちの「スティングレイ」

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というわけで、また潜水艦映画を紹介してしまいます。

 

この「イン・ザ・ネイビー」、原題、

「ダウン・ペリスコープ」(潜望鏡を下げろ)

「第二次大戦の遺物であるバラオ級潜水艦スティングレイで
はぐれ者や変人役立たずの部下を率いて最新鋭原子力潜水艦に挑む
落ちこぼれサブマリナーの物語」

という内容を見ただけで、迷わずぽちっと購入してしまいました。

それにしても、

”DOWN PERISCOPE"

という英題を見て、皆様何か感じませんか?
冠詞がないんですよ。
日本人の英語には冠詞がない、というのはよく言われることですが、
それはともかく、このタイトルにどうして「The」がないのか?

もしかしたらこれが潜水艦の現場では普通の号令となっているから?

アメリカ海軍も海軍ならではの「省エネモード」で(例えば日本海軍では
『お願いします』を『ねえす』『おはようございます』を『おおす』だったような)
独特の言語を発しているのかな?

一つわかったことは、この映画が1959年の真面目な?潜水艦映画

"UP PERISCOPE!"

からその題名をシャレで取ってきているということで、
こちらの「真面目な方」にも冠詞がないところを見ると、これが潜水艦での
「慣用句」なんだろうなと思うしかありません。

舞台はバージニア州ノーフォーク海軍基地から始まります。
世界最大の海軍基地であるここには現在ロスアンゼルス級を中心とした
原子力潜水艦隊を擁しています。

折しも行われている潜水艦隊司令部の首脳会議。
人事と昇進を決定する会議の席で、ある潜水艦副長の人事が話題になります。

原潜「オーランド」副長トーマス・ダッジ少佐は、潜水艦学校の成績も優秀、
指揮官としての資質も持ちながら、なぜか今まで艦長になるチャンスを逃してきました。
会議で名前が挙がるのは3度目です。

彼の昇進を阻んできたものは、航海士時代ロシアの潜水艦とニアミスをした
過去の失敗と、・・・多分このおっさん。

なぜか潜水艦隊司令部のグラハム少将は、ダッジを目の敵にしているのです。

おそらくその理由は、この型破りな性格。

「ナイス・オン!」


グラハム少将「それだけじゃないんですぞ!
彼は少尉時代、泥酔して、ぴ━━━━(゚∀゚)━━━━!!に刺青を入れたんです!
『ウェルカム・ア・ボード』とぴ━━━━(゚∀゚)━━━━!!に!」


(うんざり・・・)

ところが、この後なぜかダッジ少佐のもとに辞令が。

「潜水艦長に任命する」

「ブルーの潜水艦だといいな!」

意気揚々とノーフォークに愛車で乗り付けるダッジ少佐。

しかし、現実は過酷でした。
嫌味ったらしく、わざわざグラハム少将が直々にボートに乗り込んで、
彼が艦長に着任するその潜水艦を指し示します。(暇なのか?)

「君の船、USSスティングレイ、SS161だ」

「スティングレイ」という名前の潜水艦は実際に2隻、

第一次世界大戦時のCクラス潜水艦、
第二次世界大戦時の「サーモン」級SS-186

として存在しています。
SS-186は16回もの哨戒を務め上げ最後まで生き残った
精鋭艦ですが、この映画では微妙に番号をずらしています。

そして実際のSS-161潜水艦は第一次世界大戦時のSボートの改装後となります。

「南北戦争の甲鉄艦メリマックといい勝負です!
原潜に乗せてください!」

憤然とするダッジに、グラハム少将はサディスティックにほくそ笑み、

「任務を拒否するのか?("Are you refusing take a man?")」

と凄むのでした。
しかも、

「私自身がスティングレイの乗員を全員選んでおいた」

暇なのかこのおっさん。

ダッジは早速、米海軍大西洋司令官隊の潜水艦隊司令である
ウィンスロー中将に直訴しにいきます。
しかし彼を「スティングレイ」の艦長にしたのはウィンスロー中将本人だったのです。

「ディーゼルエンジンの潜水艦が各国に流出しているという現在、
もしディーゼル艦で海軍基地が攻撃された場合を想定して
潜水艦隊はこれを阻止するための策を練らねばならない。

スティングレイを整備して大西洋岸でウォーゲーム(模擬演習)を行え」

「む・・・無理です」

「何を言っとる!ぴ━━━━(゚∀゚)━━━━!!に刺青する勇気を持て!」

「その点はまあ・・じゃ攻略できたら原潜の艦長にしてください」

 

チャールストン海軍基地、ノーフォーク海軍基地に侵入し、
ダミーの戦艦に魚雷を二発撃ち込んだら原潜の艦長にしてやる、
という約束を取り付け、ダッジは艦長として着任しました。

 

まずは副長のエグゼクティブオフィサー、パスカルが元気すぎるお出迎え。

まずはギャンブラー「スポッツ」二等水兵。
本命をスって靴無しの乗艦です。

地獄耳の電信員、「ソナー」。

海軍刑務所から直送されてきた乗組員も。
警衛のガードを従えての華々しい登場です。

一級エンジン技師、ステパネック。

「一週間で監獄へ送り返されてやらあ!」

こんな彼の父親は実は提督だったりします。

調理員のバックマンと無線技師の本名ナイトロ(ニトロ)。

「マイクとかいうあだ名はどう?」

「お前バスケットの選手”ストーンボール・ジャクソン”だろ。
お前のおかげで1000ドルスった」

「ディフェンスされてシュートできなかったんだ!悪いか」

    やれやれ、とダッジ艦長がやってきた埃だらけの艦長室。   実はこの映画、内部の撮影をサンフランシスコの海洋博物館に
繋留されている潜水艦「パンパニト」で行いました。   「パンパニト」については、このブログでもお話ししたことがあります。
わざわざ撮影のために古びた塗装に塗り直し、蜘蛛の巣まで付けたようです。   ちなみに錆だらけの「スティングレイ」も「パンパニト」が演じました。

艦長室には「最後のスティングレイの艦長」のものらしい写真が・・・。

その時艦長室にやってきた美女が。

「あー・・・わかった!
いたずらで誰かがストリッパーを呼んだんだな?
ああ、服は脱がないでね。皆忙しいから。
でも制服がよく似合うねえ!」

「ストリッパーではありません、サー。
潜行指揮官エミリー・レイク大尉です」

「女は潜水艦には乗れないはずだが」

「グラハム提督がわたしを女性潜水艦乗り第一号にと」

「あんの野郎・・・」


ちなみに、この映画公開の1年後、最初の女性潜水艦乗組士官が誕生しています。

そして作業が始まりました。

そしてみんなで楽しくスティングレイの整備と塗装、とにかく
乗れるようにしなければ。

しかし、艦長と副長から見て彼らの仕事ぶりは・・・・・。

海に放水されてしまう副長パスカル。

「あーあ・・・・」

怒りの副長、早速調理員のバックマンに八つ当たり。

副長は移動を申し出ますが、ダッジはにべもなく拒否します。

そうこうするうちに整備が終わりました。

艦体にはスティングレイのマークも描き込まれました。

早速制服をこっそり小さなサイズに取り替えられるという
セクハラの洗礼に遭うレイク大尉。

いよいよ新生「スティングレイ」出航です。
ここで鳴り響くのはコーラス付き「錨を上げて」。

艦橋には本当にダッジ(ケルシー・グラマー)が乗っています。

この撮影の時、「パンパニト」は自走できないので、曳航されています。

この写真をよく見ると、曳航している船の航跡らしき波が写っていますね。

CPO、機関室チーフの「エンジンルームの主」、ハワード。
演じているハリー・ディーン・スタントンは実際にも
海軍軍人として沖縄戦にも参加しています。
ただし、配置は調理師だったそうです。

「潜ったことがあるのか。事故以外で」

「模擬訓練300回以上、75回は強い潮流でした」

「さぞいい成績を」

「あなたより上でした」

「(カチーン)」

「潜行用意!」

あれ、「パンパニト」本当に潜ってませんか?


これは模型らしいですが。

しかし潜行するなり艦体が傾いて艦内は阿鼻叫喚に。
悠々としているのは機関室の主ハワードとダッジ艦長だけ。

皆床を転がり、ある者は祈り、ある者はオッズを賭け・・。

ベント開放でことなきを得ましたが、艦長、ここで
500フィート潜行を命じます。

実は「バラオ」級潜水艦は構造上400フィート以上に潜行することは
不可能だということになっています。
400フィート越すと文字通り「クラッシュダイブ」の危険があるのです。

「このヒモを見てな。
深く潜行するとこのヒモはたるんでくる。
つまり空き缶みたいにひしゃげていくんだ。ふぉっふぉっふぉ」

爺さん、すっかり楽しんでるだろ。

ギャンブルコンビの操舵手。

400フィートくらいから艦体が軋み、ヒモはだらんだらんに。

セオリー通り、レイク大尉は

「この艦の最大潜行可能深度は400フィート(121m)です」

と中止を進言しますが、艦長は不敵にも限界まで挑戦することを言い放ち、

「怖いのか」

と大尉を挑発するのでした。

嫌な金属音がしてどこからともなく浸水し、ビスが弾け、
電球が割れてみんながもうだめ!と首をすくめた瞬間・・・・。

「ビンゴ!500フィートだ!
もうたまらんぜ!」

"I love this job!” はダッジ少佐の口癖です。

「諸君、おめでとう。
模範的な潜行(テキストブック・ダイブ)だった!」

この無茶振りでダッジ艦長は乗組員の心をがっちりとつかんだのでした。

さて、こちらは悪代官・・・ではなく、グラハム提督。
かつてのダッジの上官である「オーランド」艦長ノックスに、
「スティングレイ」が仕掛けてくるであろう模擬戦の説明をしています。

海軍の規定により、ノックスが相手の存在を知らされることはありません。

「一つ言えることは、その未知の敵は厳選の相手ではないだろうということだ」

「戦うのが楽しみです」

 

しかしそんなノックス艦長も、まさか自分に戦いを挑んでくるのがかつての部下、
ダッジ率いるディーゼル式潜水艦であろうとは夢にも思わなかったのです。

 

 

続く。

 

 

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