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映画「イン・ザ・ネイビー」〜原子力潜水艦対バラオ級潜水艦

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潜水艦映画「イン・ザ・ネイビー」二日目です。

第二次世界大戦時のバラオ級潜水艦「スティングレイ」の艦長として、
最大深度限界突破を成功させたダッジ少佐。
いよいよチャールストン海軍基地に模擬戦を仕掛ける時がやってきました。

ちなみにノースカロライナ州にあったチャールストン海軍基地ですが、
冷戦が終了してその役目を果たしたとみなされ、1993年には
3年後の基地閉鎖が(地元の反対を押し切って)決められています。

この映画は公開が1996年3月。
海軍基地の閉鎖は製作段階でもうわかっていたはずなのですが、
あえてこの名前を残すようにしたのは、もしかしたら海軍の
内部からそのような要請でもあったのでしょうか。

「未知の攻撃者」を迎え撃つのは原潜「オーランド」艦長カール・ノックス。
かつてのダッジの上官です。

「スティングレイ」艦内ではダッジ艦長がソナー員のソナーの
地獄耳を通り越した変態っぷりに呆れていました。

「何か音は拾えたか」

「バックマンがオレオを食べてます」

「いや、そういうんじゃなくて」

「さっきクジラのナイスカップルが上を通りました。
俺がクジラの泣き真似をするとたまに返事が返ってきます」

「・・クジラに原潜が通ったら教えるように言っておいてくれ」

「アイアイサー」

こちらまともな、じゃなくて優秀な「オーランド」のソナー員。
早速「スティングレイ」のエンジン音を探知します。

「近寄ってピンを打て」

日本では「ピンガー」と言いますが、これはアクティブ・ソナーによる探知のことで、
探信音(Ping)を発信(”ピンを打つ”という)します。

ここでも副長が

「こちらの位置も悟られてしまいますが」

と言っていますが、この方法はかなり離れた敵に探知されることになります。
しかし、ピンを1回打つことにより目標の正確な方位と距離が測定できます。

現代の潜水艦戦ではピンガーは

「そこにいることはこちらはわかっているぞ」

と相手に警告するために打たれます。
つい最近でもありましたね。我が自衛隊潜水艦と某国潜水艦の間で。

「艦長!ピンが打たれました!」

そこでダッジ少佐、ためらいなく浮上を命じます。

「ジャクソン、外の空気を吸いに行かないか」

「へ?」

「潜望鏡の先に灯りを吊せ!」

「海軍の募集ポスターにこんなこと書いてなかったっす」

「運動神経のありそうなのはお前しかいないんだ」

ライト点灯。

「ん・・・・漁船か?」

あとはみんなでどんちゃん騒ぎするだけ。

「皆で歌ってます」

「なるほど・・酔いどれ漁師の船を追尾したか」

「ははは・・・」

こちらチャールストンまでわざわざダッジの悪口を言いにきたグラハム提督。
受けて立つのはウィンスロー中将です。

「私は模擬戦で負けたことはない。三つ星も目前です」

「君が私と同じランクに上がってくるとはねえ」

「ふっふっふ」

ところがその瞬間、チャールストン軍港に侵入を果たした「スティングレイ」の
放った照明弾が目の前で炸裂しました。

「ディーゼル式潜水艦もやるじゃないか」

いやあの、ディーゼル潜水艦に基地がやられては困るからこその模擬戦でしょ?
ウィンスロー提督、潜水艦隊司令としてそこで喜んじゃっていいの?

「君の昇進は危ないな、グラハム」

あ、つまりグラハム司令が嫌いなのか(笑)

「2度と奴の思い通りにはさせません!
奴の刺青したぴ━━━━(゚∀゚)━━━━!!を
わたしのオフィスの壁に釘付けして飾ってやる!」

「・・・・・・・(ドン引き)」

頭に血が上ったグラハム提督、模擬戦のルールを勝手に変えて、
「スティングレイ」の活動海域を半分にしてしまいました。

「こちらの魚雷の射程内に入ればその瞬間ダッジの負けだ!」

あー、ゴールポストを動かしまくってるー。


本気のグラハム提督、狭い海域を駆逐艦3隻、フリゲート艦を出してきて
徹底抗戦の構え。

ダッジ艦長は潜航指揮官レイク大尉に海底への鎮座を命じます。

「海底鎮座については把握しているのか」

「シミュレーターで何度もやっております!」

しかし鎮座の際、レイク大尉のオーダーミスで艦体は激しい衝撃を受けることに。

「ナイス・ジョブ、レイク!まるでピアノ落としたみたいだったな!
万が一奴らに最初の音が聴こえてなかった時のためにも一回やってみなよ!」

レイク大尉を罵るスタパナック。
こいつ潜水艦から降りたいから作戦が失敗した方がよかったんじゃなかったのか。

衝突音は「オーランド」にすぐさま探知され、ノックス艦長は
今度はアクティブではなくパッシブソナーでの探知を命じました。

潜水艦映画おなじみの「無音潜航」の息詰まる緊張です。

ところが、ここで普通の潜水艦映画には起こりえないアクシデントが発生。

そういうことをするためにキャスティングされたに違いないこのデブが、
この「深く静かに潜航中」の非常時に大音響で(以下略)

「なんだ」

「何かの爆発音のようです」

「(すんません・・・)」

しかし彼らの不幸は、乗っているのがディーゼル艦であることでした。
狭く空調の利かない艦内に有機ガスがたちまち流出し、阿鼻叫喚に。

苦し紛れにダッジ少佐はあることを思いつきました。

(ソナー、あれだ、あれやってくれ)

(あれって・・・?)

(ほら、クジラの鳴き声だよ!なんでわかんないの)

(あれだってば!)

(いやだからそれなんすか)

(だからあれだよソナー)

クジラの音声を録音したテープを指差し、

(ああ〜クジラ!)

(やっとわかってくれたか)

どうしてこの人たち紙に書いて筆談しないの?

「いぃぃぃぃ〜〜〜〜〜、おぉっおぉっおぉっおぉっおぉっ」(繰り返し)

「チキチキチキチキチキ」

「クジラが・・・・・動き回っています。
二頭いるようです」

「ええい、探知の必要なし!」

こうして「スティングレイ」は危険を脱しました。
ダッジ少佐は艦長室に戻って「前艦長」の写真に敬礼します。

「現役復帰しましたよ。("Live to fight another day,")ブーン艦長」

そして失敗をしたと落ち込むレイク大尉を慰めるのも忘れていません。

後部魚雷発射室を個室にしている彼女のところにいき、

「海底の地形は想像できない。鎮座を命じた私の責任だ」

「私のせいで艦の位置が敵に悟られ皆を危険に晒しました。
私が経験のある軍人だったとしても許しましたか」

「そのつもりだ」

「艦長、ソ連艦の失敗をどう克服されましたか」

「酔いつぶれて刺青を入れた。刺青は入れるなよ」

ドアを開けると全員が聞き耳を立てていました。

 

ここでウザい性格の副長パスカルが反乱を起こします。
指定海域を出たことを服務違反として指揮権を自分に譲れと言いだしました。

しかし乗組員の誰も彼を支持しないので、ダッジ艦長は彼を逆に
海の上での反乱罪を起こしたと見なし・・・・

「裏切り者のマーティを処刑に処す!」

だからなんでこうなるの。

乗組員全員(レイク大尉除く)はノリノリで処刑に加わります。
皆で海賊になりきり、「スポンジボブ・スクエアパンツ」の替え歌を歌い・・。

「これ何?」

「カリブの海賊が肩に乗せてる鸚鵡のつもり」(実は鶏肉)

「逃すなよ。俺のだから」

「マーティ、何か言い遺すことは?」

「近代海軍でこんなこと許されん!海賊じゃないぞ!」

そしていよいよパスカル処刑の瞬間がやってきました。
ソナーのキーボード(CASIO)にあわせ、皆が葬送行進曲を歌います。

「だーんだーんだだーんだーだ だだだだだーん」

「ダッジ!気が狂ったか!お前死刑になるぞ!」

「万物の母なる海よ。マーティ・パスカル大尉を受け入れたまえ。
主よ、哀れなる彼の魂に慈悲を与えたまえ!」

「おかあちゃ〜〜〜〜ん!」

「・・・・あれ?」

「アメリカ海軍は諸君のご協力に感謝します!」

「いつでもどうぞ!」

(ビールうめー)

案の定その噂は潜水艦隊司令部に達します。

「副長を処刑しただと?」

「さよう、奴は軍法会議ものですな。
わたし自らが探し出して捕まえてやる」

うーん、このおっさん全く凝りとらん。
それにしてもこの人、ダッジ艦長にどうしてここまでこだわるんだろう。

 

続く。

 

 

 


映画「イン・ザ・ネイビー」〜「ディーゼル・ボート・フォーエバー!」

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映画「イン・ザ・ネイビー」三日目です。

今や15隻のピケットラインに迎撃体制を取らせるノーフォーク潜水艦基地。

これは「スティングレイ」の潜望鏡(の模型)だと思われます。

ソナーマンのソナーは、この時点で海上にいる艦船が

「駆逐艦5隻、フリゲート3隻」

である、というのですが・・・・、

さっきのも、これも、

これも、「タイコンデロガ」級のしかも同じ巡洋艦に見えます。
角度を変えたら違う船がたくさんいるように見えるってか?

この頃アメリカの主流だったP3-C、対潜哨戒機まで繰り出してきました。

一度ならず2度までも、第二次世界大戦中の「バラオ」級潜水艦に
してやられた原子力潜水艦「オーランド」。

決して潜水艦そのものの性能による勝敗でなかっただけに、グラハム少将、
矢も盾もたまらず、提督自ら「オーランド」に乗り込んできました。

「WELCOME ABOARD, sir.」

ああっ、その言葉はグラハム少将には禁句・・・。
案の定グラハム少将、それを聞くなり喧嘩腰で、

「それはどういう意味で言ってるんだ?」

グラハムがここまでダッジ少佐を毛嫌いする理由というのは、もしかしたら
この言葉をぴ━━━━(゚∀゚)━━━━!!に刺青したということに尽きるのかも・・。

なんか嫌な意味で琴線に触れるものがあったんでしょうかね。

流石の「オーランド」艦長ノックス中佐も、乗り込んでくるなり偉そうに
踏ん反り返ってあれこれ言うグラハムにムッとせずにはおれません。

早速アクティブソナーで探信をかけてきた「オーランド」。
港も封鎖され、「スティングレイ」が追いつかれるのも時間の問題です。

どうするダッジ艦長。

「生き残るには奇抜で(bizarre)危険な戦術で行く。
(民間の)タンカーに向かって全速前進(All ahead full)」

「タンカーですか、艦長」

「スクリューの間からタンカーの下に潜って隠れる」

「無理です。わたしにはできません」

「そうか・・・わたしがやろう」

あれ?なんだかこのお腹が出て額の後退したおじさんがやたらイケメンに見える・・。

ターゲットはフィラデルフィアのタンカー「デナリ」号。
念のため調べてみたら同一かどうかはわかりませんが、実在していました。

DENALI IMO7506039

この巨大タンカーの二つのスクリューの間を通過してコバンザメのように
船の下に潜り込もうと言うのです。

ただし、本物の「デナリ」にはスクリューは一つしかないとのこと。
まあ映画だから多少はね?

「Three degrees down bubble.(下げ舵3度)」

下げ舵に「バブル」と言う言葉が出てくるとは知りませんでした。

「3度ですか?」

ダッジの指令に思わず口を出してしまうレイク大尉。

「黙ってろ。でなきゃ君が指揮をとれ!」

「無理です!」

「ここでこれができるのは君だけだろうが!」

ギリギリになっていきなり覚醒するレイク大尉。

「機関1/3、面舵いっぱい!」

「機関パワー2/3、船の中央に舵を切り下げ舵ゼロ!
方位 2−7−0!」

「全力で突っ込め!(Balls to the wall, boys!)」

「ボールズ・トゥ・ザ・ウォール」

と言うのは、航空機の飛行速度をコントロールする
丸いボールの形をしたスロットルを壁側に目いっぱい押して、
全力で飛行するというところから来た米俗語で、DVDの翻訳のように
「ボールズ」に決してそれ以上の深い意味はない(と思う)のですが、
そんなレイク大尉にボーイズは目を見張ります。

操舵のギャンブルコンビ(賭けた方と賭けられた方)の頑張りもあって、
すっぽりとスクリューの間から船の下に潜り込むことに成功。

「オーランド」は「スティングレイ」を見失いました。

しかし機関室ではどう言う理屈かわかりませんがパイプが破損して浸水が!
ここでも覚醒した、提督の馬鹿息子、ブラッド・スタパナック。

機関室に飛び込み必死のダメコンで間一髪艦を救います。

「潜水艦は嫌いだ!一緒に死ぬなんてごめんだぜ!」

危機を脱し、敵の目から姿をくらますことに成功したダッジが艦長室で顔を洗っていると、
そこにレイク大尉がやって来て・・・・

「あと何秒わたしが指揮を執るのを待てました?」

「心臓の鼓動の半分の時間くらい」

それよりレイク大尉が覚醒しなかったらどうするつもりだったのか知りたい。

感極まったレイク大尉、思わず艦長の頬っぺたに・・。
レイク大尉もダッジがイケメンに見えたんですね。

共に危機を乗り越えるとそう言う感情が湧く、っていうの、
なんて言いましたっけ?
ストックホルム症候群・・・じゃないし(笑)

そんな唐突なレイク大尉の愛情表現になぜか驚きもしないダッジ艦長。

その後、タンカーが進路を変えたので、ダッジは勝負に出ます。
ノーフォークを攻撃するためにタンカーから離れた「スティングレイ」を探信した
「オーランド」では、すっかり興奮したグラハム提督が強権発動。

「The admiral has the conn.(提督が操縦桿を執る)」

ご存知の通り、潜水艦というのは艦長絶対の掟があります。
潜水艦内に入られたことのある方はご存知だと思いますが、艦内にある
「最上席」は、艦長にしか座ることを許されず。たとえどんな高位の者が
乗艦して来ても、決して譲られることはありません。

グラハムはサブマリナーでありながら憎悪に我が身を忘れ、
艦長絶対の掟を破って自分が指揮を執ることを宣言したのでした。

「提督、お言葉を返すようですがこれはわたしの船です。
(Admiral, with all due respect, this is my boat.)」

ノックス艦長も流石に気色ばんで反抗しますが、

「いや、言葉を返すようだがこの瞬間からそうではない。
(Not right now it's not, with all due respect.)」

嫌な奴〜。
もはやノックス艦長に同情してしまいますね。

海上は曇っていて対潜哨戒機からは見つかりにくいと判断した艦長、
浮上して海面を航行し目的に突っ込むことを決めました。

「全速力で航行だ!(It's time to kick this PIG!」

「ペチコート作戦」でお話ししたように、アメリカでは潜水艦のことを
「ピッグボート」と言います。

この豚を蹴っ飛ばして走らせようぜ!というわけです。
ついでに

「グラハムにキーキー言わせてやれ!(Leave graham squealin' from the feelin'!) 」

すると即座に

「 ギャーギャー言わせようぜ(Squeaking' from the freaking'!)」

「ぶっ叩いてブーブー言わせてやれ(Oinking from the boinking!)」

韻を踏んで楽しんでいるだけで、深い意味はありません。

今や堂々と浮上した「スティングレイ」。

おそらく海軍の大サービスで、ドルフィン運動を見せてくれます。
「スティングレイ」を追って海面に浮上して来た「オーランド」のつもり。

ところで「雲が厚くて哨戒機に見つかりにくい」という設定だったはずなのに、
この快晴はいかなることでしょうか。

まあこれも映画だから多少は・・・ね?

グラハムが無線で「スティングレイ」に連絡してきます。
実際は「バラオ」級と無線でトランスミッションを通してコンタクトすることはできません。

(そこで『ニトロ』が自分の体に通電させて通信をつなぎます)

 グラハムは単に挑発するつもりですが、ダッジに

「捕まえられるもんなら捕まえてみな!(Catch us if you can!)」

と逆に煽られ、文字通り「キーキー言わされる」ことに。

「ハワード、全速力だ!」

という艦長命令に、機関室のハワード(第二次大戦の生き残り)は

「生きててよかったぜ!DBF!」

と叫びます。
これは、

DIESEL  BOAT    FOREVER

という意味なんですが、ちょっとこの話をしておきたいと思います。

この徽章は、1970年代のアメリカ海軍潜水艦隊のサブマリナーの間で
非公式に流行っていたものです。

原子力潜水艦が哨戒の中心となっていた当時、原潜の哨戒部隊には
このようなバッジが与えられていました。

ところが、まだ当時生存していたディーゼル艦のサブマリナーには
平時ゆえ認識のためのピンが作られず、まあそのほかにも色々あって、
潜水艦隊内部は原潜とディーゼル真っ二つに割れ、両者の仲は険悪な状態だったそうです。

(レギュラスミサイルを搭載したディーゼル艦には徽章が与えられた)

当時できたばかりの原潜には特に推進機関に何かと問題も多く、
与えられる様々な任務に対応しきれないこともありました。

1959年に就役したディーゼル式エンジンのUSS 「バーベル」SS-580は、
そんな原子力潜水艦の任務の穴埋めをするために活動していましたが、
1969年には主にそのために日本に配備されています。
(なぜかこのことは日米のwikiには記述されていない)

横須賀にいる時、原潜のための「特別任務」をしていた「バーベル」の乗員は
「原潜の失敗を祝うために」あるいは「原潜をやっつけるために」?
ポラリス哨戒部隊のそれに似た自分たちの潜水徽章を作ることを考えました。

早速コンテストが行われ、元アーティストだった「バーベル」乗組員の
人魚が向かい合って潜水艦に覆いかぶさっているデザインが選ばれました。

「ディーゼル艦よ永遠に」を表すDBFが艦体に描かれ、リボンの穴には
その後にもらう予定の殊勲賞に応じて星をつけられる仕様です。

横須賀に到着した「バーベル」はそのデザインを元に地元の業者に製作を依頼し、
(泥棒横丁にそれはあった、と記述がありますが、どぶ板通りのことかも・・)
金メッキは士官用、銀は下士官兵用のDBFバッジを何千個も作りました。

そこまでは良かったのですが、依頼した乗組員が、うっかり金型を
業者のところから回収するのを忘れてしまったのです。

元々の製作の意図は、ディーゼル艦によって少しでも多くの(ダメな)
原子力潜水艦を救い、あわよくば星もつけたピンを乗員の胸につけたい、
というそれだけの話だったのですが、彼らの意に反して(笑)
横須賀のクラフツマンは、その金型を元に、商売を始めてしまいました。

1970年には、原画を海軍の相当部署に送り、なんとか公的に
このデザインを認めてくれるように依願したのですが、認められず、
寛大な司令官の協力にも関わらず、結局公的な支援も得られなかったので、
ついに徽章の制定の話はたち消えになりました。

そして星の数は元々のディーゼル艦乗りの悲願であった、

「原子力潜水艦を助けた回数を表す」

という意味ではなく、

「ディーゼル艦が助けた船の数」

という妥当なものになったということです。

現在このバッジをネット検索すると、たまに日本でもオークションに出されているようですが、
彼らの意図などつゆ知らず、アクセサリー感覚で買った日本人も多かったんだろうな(笑)

 

最終回に続く。

 

映画「イン・ザ・ネイビー」〜ウォーゲームの勝利

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さて、案の定「 DBF」で脇道に逸れて三日で終わらず、
四日目になだれ込んだ映画「イン・ザ・ネイビー」です。

「生きてて良かったぜ、DBF!」

と叫んで、第二次大戦の生き残り、CPOハワードが、エンジンに
自分がそれまで飲んでいたウィスキーを注ぎ入れます。

しかし、「バラオ」級潜水艦ののスクリューはトランスミッションからではなく、
というよりむしろ、バッテリーを動力としたジェネレーターで動きます。
もちろん理論的に「エンジンが50回転は良くなる」ということはあり得ません。

というような映画にありがちな部分は実は指摘しきれないほどあるのですが、
その専門の人が見たら

「ないわー」

ということだらけ、というのが映画・ドラマのお約束ですので、仕方ありません。

そもそも最初の訓練で、ダッジが限界深度を越えた潜航を命じた時点で
彼は海軍裁判所送り、というのが海軍の常識だそうですし。

「スティングレイ」に魚雷をターゲットしようと追う「オーランド」。
セイルの上に人が3人立ってるんですが、この状況でこれってあり?

かたや「スティングレー」艦長は魚雷の装填を命じました。
ウィンスロー提督との約束である、

「ダミー艦を魚雷で攻撃」

を、後ろからロックオンされる前にやっちまおうという考えです。

このシーン、本当に装填っぽいことをしているんですが、
やっているのは映画のどのシーンにも登場したことのない人ばかり。

もしかしたら本職に手伝ってもらってる?

発射孔側から見た装填される魚雷の先端。

発射チューブのハッチが閉められました。

「ファイアー・ワン!」「ファイアー・ワン!」」

「ファイアー・ツー!」「ファイアー・ツー!」

「スティングレイ」から放たれた二本の魚雷が海中を滑走している間に、
「オーランド」は後ろから「スティングレイ」をロックオンしました。

勝利を宣言するためにグラハム提督は「スティングレイ」に連絡してきます。

「君の艦はミサイルのターゲットになったぞ」

キルコールに対し、ダッジ艦長は至極あっさりと、

「キルを認め、オーランドとその素晴らしい乗員におめでとうと申し上げる」

なんだ?結局負けたのかよ?と暗い雰囲気の乗員たち。

艦長の降参宣言にがっかりを隠せないエミリー・レイク大尉です。

「しかしながら」

「この無線が入る前に我々は二本魚雷をすでに発射している」

「なにっ?」

「我々の魚雷(フィッシュと言っている)は、今海軍基地にある
ダミー船に向かっているところである。
これが当たれば・・・・我々の勝ちだ」

「サノバビッチ!」

「オーランド」副長、 内心が隠せてない〜!

一発目命中!

二発目も。

「Sweet!(やった!)」

最初に確認したのはソナーマンのソナー。

いつも食堂から覗き込んでいるバックマン、ガッツポーズ。

海賊コスが気に入ってやめられないニトロも。
体を張って無線を繋いだ甲斐がありました。

「イエスッ!!」

早く艦を降りたくて作戦が失敗することを願っていたはずのスタパネック、
いつの間にかこんな熱〜い男に。

仲がいいのか悪いのかわからない操舵コンビも、互いの健闘をたたえ合います。

そして静かに微笑むエミリー・レイク大尉。

「God, I love this job! (楽しい仕事だ!)」

ダッジ少佐お得意のセリフがまたもや出ました。

艦内ではみんなで喜びのダンス。

なんかいいコンビですねこの二人。

副長「・・・・・」(ニコニコ)

艦長「・・・・・」(20ドル札を渡す)

あんたらこっそり賭けをしとったのかい。

さて、というわけで「スティングレイ」凱旋帰還です。
いちいちそんなことをするのかどうかわかりませんが。

後ろにいる支援船の上の人は本物らしいです。(多分潜水艦を引っ張ってきたタグ)

しかし、艦長はじめ全員が出てきた出入り口は・・・

これって展示用に作られた観光客用のものですよね?

こんなドアを使う潜水艦は古今東西ありません。
潜水艦の出入りには垂直のハッチを上り下りするものです。

埠頭を行進する「スティングレー」のメンバー。
・・・なんですが、男性士官やCPOより、水兵が前を歩いております。

こちらわざわざヘリで言い訳に駆けつけるグラハム少将。

「模擬戦は無効です。ダッジは指定海域を離れ・・・」

「君が勝手に指定海域を狭めただけだろうが」

「しかし彼は私の命令を聞かず・・」

「彼はもっと上からの命令を受けておる。
君は三つ星はもう諦めろ」

でもまあ、模擬戦に負けたから中将になれない、というものではないし、
こんなに上の人から嫌われている時点で昇進はないよね。

将官人事も、結局「人が決める」わけですから。

ウィンスロー中将が乗員を直々にお出迎えです。

∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)(´・ω・`)∠( ̄^ ̄)

一人敬礼しない子は誰だ〜?

「よくやった。

が、

君をロスアンジェルス級の艦長にすることはできない。
代わりにシーウルフ級潜水艦の艦長にしてやろう」

このセリフも一見まともなようでかなり変です。

なぜなら「シーウルフ」級潜水艦は「ロスアンゼルス」級の不具合を補う
という意味で建造された後継型だったからです。

この映画撮影時にはまだ艤装中で、海軍的にはこれを宣伝したかったのかもしれません。

ただ、アメリカ海軍がその後コストパフォーマンスの点で最終的に
「ロスアンゼルス」級の後継に選んだのは「ヴァージニア」級でした。
「シーウルフ」は建造費用が高すぎて、3隻で製造をやめています。

こんな事情を踏まえると、この提督の「その代わり」という言葉の真意は
いまいちよくわかりませんが・・・一旦がっかりさせてあとで喜ばせるための演出?

「次の金曜日に進水する潜水艦のメンバーを選びたまえ」

ちょっと待って?
進水まで一週間を切っているのにまだ艦長も決まってなかったてこと?

それはスルーして(笑)、ダッジ少佐はお約束の

「お断りします」

おことわり、キター。

「今回のクルーなしでは私の昇進もありませんでした。
彼らと一緒でなくては私も乗艦することはありません」

ちなみに彼女の徽章はこの時だけ潜水艦に変わっています。
誰かが気づいたんでしょうね。

調理員のバックマン。

ソナーマンのソナー。まともな人に見える。

電気技師のニトロ。こちらも海賊コスの時とは別人。

ギャンブラーの操舵手スポッツ。

バスケットプレイヤーのジャクソン。
ジャクソン、いつの間にヒゲを生やしたのか。

ウィンスロー提督、そこで爆弾発言。

「そうか。倅(スタバネック)の根性も直るだろう」

「ぶっ」

噴き出す機関室チーフ、ハワード。
慧眼のチーフは彼がウィンスローの息子だと知ってたんですね。

ところでこのアロハシャツに昔の軍帽という服装規定違反の
見本のような格好のハワードですが、ハワードを演じた俳優の、
ハリー・ディーン・スタントンは、1979年の映画「エイリアン」で
やはり機関士であるサミュエル・ブレットの役をした人です。

覚えてますかー?
繭にされちゃった人ですよね。

ハワード役は、この時と同じようなアロハを着ているのです。

「しかも彼の敬礼はなっとらん」

さっきいい加減な敬礼をしたのもちゃんと見られてました。
それを聞いて、これでどうだ、とばかり敬礼をする息子。

ちなみにこれが同一人物の登場シーン。
父はそんな息子に答礼してその場を去ります。

「解散!」「わーーーーい」

ところで「スティングレイ」が着岸した岸壁に、
潜水艦基地にはありえない柵が見えるんですが・・・。

「ところで、(よく話題になってた)刺青ってどういう意味ですか?」

「それは、話せば長いことなんだが・・・・」

うーん、その話はせっかく好意を持ってくれている彼女をドンびかせると思うが。

そしてこれがラストシーン。
あー、この写真でこれがどこかわかっちゃった。

サンフランシスコのフォートメイソンの、3本付きでた突堤の一番右側、
「フェスティバルパビリオン」と言われているところです。

ここにはお気に入りのレストラン「グリーンズ」があったり、
息子の「お歌の会」があってよく通ったものですよ。

映画のために「パンパニト」をフィッシャーマンズワーフから引っ張ってきたのね。

さて、映画は終わりましたが、続いてのエンドロールでわたしは思わず、

「これだったのかー!」

とつぶやいてしまいました。
その昔、ヴィレッジ・シンガーズのヒット曲に「インザネイビー」ってのがあって、
当時人気だったピンク・レディが「ピンク・タイフーン」という題でカバーしました。

インザネイビーの歌詞など全く気にも留めなかったわたしですが、

「インザネイビーがどうしてピンクレディーになるんだ」

と、まるで今なら「もぐもぐタイム」に通じるある種の気持ち悪さを感じていたものです。
(え?あの語感気持ち悪くないですか?)

それはともかく、この映画を見たことで初めてわたしは
あの曲が海軍のリクルートソングであることを知ったのでした。

Village People-- IN THE NAVY, OFFICIAL Music Video (1979) HD

彼らが乗り込む船は、

フリゲート艦「リーズナー」(USS Reasoner, FF-1063)

で、撮影が行われたのは1979年のことだそうです。
「リーズナー」は2002年に退役し、標的艦となりました。

最後にはなぜかブルーエンジェルスが上空を通過(しているような演出)。

 

歌詞を要約すると、

「飛行機の操縦を教えてくれて、
スポーツはもちろんダイビングもでき、
海洋学も学べるところはどこだ?

サインナップするか
観客席で見ているだけか
君のチームが相手を迎え撃つことになったらどっちを選ぶ?

海軍に入ろう 七つの海を越えて
海軍にきてね 気持ちがいいぞ
応募しよう 海軍に
君の手が必要なの  わからない?
さあ一緒に母国を守ろう」

みたいな?

ちなピンクレディの歌で

「やっちゃいな やっちゃいな
やりたくなったら やっちゃいな」

と言っていたところですが、

「They want you, they want you

They want you as a new recruit」

(海軍は君の入隊を待っている)

となります。
アメリカでも海軍は常に人手を必要としているんですね。
地本の人に提案して、これを海自隊員募集のテーマソングにするように
進言してみようかしら(笑)

ヴィレッジ・シンガースの「インザネイビー」がヒットしたのは
1979年で、映画公開時にはすっかり懐メロとなっていました。
エンドタイトルでは出演俳優が当時のヴィレッジシンガーズと一緒に登場します。

この映画も日本公開時は原題の通り「潜望鏡を下げろ」でしたが、
DVD発売に際して「イン・ザ・ネイビー」にタイトルが変えられました。

まあ個人的にはっきり言って全くその必要はなかったかと思います。
それと、wikiの映画説明で「戦争映画コメディ」とありますがこれ間違い。

「ウォーゲーム」は「戦争」ではありません(きっぱり)

 

 

終わり〜。


 

三戸中将の軍刀と日章旗〜米国沿岸警備隊と第二次世界大戦

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ニューロンドンの沿岸警備隊士官学校遺産博物館、続きです。

今までご紹介してきた艦砲や救出ブイ、ライフセービングカー、
そういったものは、こんな感じで展示されています。

モデルシップや「我々の息子はコーストガードにいる」という看板、
これは多分家のガレージとかに貼ってアピールするためのものでしょう。


左にあるのは、フレネルレンズを使用した灯台ライトです。

沿岸警備隊のミッションは

海上安全
海上警備
海事管理

です。
かつて「人を殺さない船、カッターに乗ったトラブルシューター」と言われた
沿岸警備隊ですが、実は陸海空軍、海兵隊に次ぐ第五の軍です。

1915年1月28日に設立された沿岸警備隊は、常に軍隊であり、
米国軍隊のブランチとなる。
沿岸警備隊は、海軍の勤務として運営されている場合を除き、
国土安全保障省の業務とする。

と法律でも規定されています。

第二次世界大戦前から、沿岸警備隊は北大西洋の巡視、
そしてグリーンランドの警戒を担当していました。

 

1944年七月から八月にかけてのグアム侵攻後、

「海兵隊と沿岸警備隊がグアム侵攻に大きな役割を果たした」

後半は、彼らが我々をここに来させたが我々はここにいる事を望む、
つまりお前ら(かどうか知りませんが)のせいでここに来たけど
来たからには徹底的に侵攻してやんよ、という感じでしょうか。

これに先立つガダルカナル侵攻における上陸は、沿岸警備隊が
最初に行い大変象徴的な働きをしました。

 

LST-832、揚陸艦「マッドフーリガン」(多分自称)艦上の沿岸警備隊員たち。

説明の写真を撮るのを忘れたので間違っていたらすみません。
おそらく、ノルマンジー上陸作戦の作戦図だと思います。

沿岸警備隊は「ネプチューン作戦」、「君主作戦」における海軍の銃撃を補助し、
オマハビーチへの上陸の成功に寄与しました。

この日、沿岸警備隊は多くの小艇を失い、80名の戦死者と38名の重症者を出しています。

第二次世界大戦が始まった時点で、沿岸警備隊は海軍の一部となっており、
同等の武器を搭載して戦闘行為を行なっていました。

中でもUSCGC スペンサー(WPG-36)は、北大西洋の哨戒中、
ドイツの潜水艦U-175と戦ってこれを沈没させています。
写真は爆雷がUボートに命中した瞬間で、潜水艦が沈む前に
スペンサーはUボートの乗員を救出し、捕虜にすることに成功しています。

LCI(L) FLOTILLA「フロティラ」は歩兵上陸用の強揚陸艦の旗艦です。

潜水艦との対決はもちろんそうそうあったことではありません。
沿岸警備隊の北大西洋での主任務は船団の保護でした。

1、ガダルカナル ソロモン諸島
2、サンサポール ニューギニア
3、ウルシー、西カロリン諸島
4、グアム、マリアナ諸島
5、パールハーバー、
6、オラン、アルジェリア
7、ノーフォーク、 VA
8、バルボア、C.Z

まだまだ続きますが、USS「レオナード・ウッド」APA-12に乗り込んでいた
エドワード・アレン中将(最終)の寄贈したもので、これらは全て
レオナード・ウッドの展開した場所です。

 

通信士だった沿岸警備隊の水兵、ダグラス・マンローが授与された勲章と賞状です。

マンロー

マンローはガダルカナルで海兵隊の船団が避難する間、日本軍と味方の間に
自分の船を置いて、たった一隻で敵の砲火を引き付けるために銃撃を行いました。

後方が脱出する海兵隊のボート。

結果彼は銃弾に斃れて壮烈な戦死を遂げましたが、彼の防御によって
船団は最後の一隻までビーチを脱出することができたということです。

右側のステアリングは彼の乗っていたボートのものだと思われます。

ニュージャージーの沿岸警備隊訓練センターには、彼の功績を讃えて、
信号旗を持ったマンローの像が設置されています。

 

 

部屋に入るなり目を引いたものの一つは巨大なナチスの旗でした。

これは、ヨーロッパ戦線、シェルブールで移動中、ドイツ軍の中隊と出会った
クェンティン・ワルシュ少佐がドイツ軍司令官に

「もう周り囲まれてるし、投降したほうがいいんじゃないかな」

と説得したところ、相手はあっさりと、

「そうなん?じゃーそうするわ」

と言って捕虜になった時に確保したものです。

日本軍相手では絶対にこうなっていなかったでしょうし、アメリカも
おそらく日本人相手ならこの説得を試みることもしなかったと思われます。

目を引いたもののその二は、日本の軍刀でした。

軍刀仕立てにした時に付けられたと思われる桜の刻印が見事です。

鞘の先にも桜。

柄も軍刀仕立てでサーベル仕様になっています。
握り手の白い部分はエイの革ではないかと思われます。


ここにあった説明によると、「バイス・アドミラル・ヒタシ・ミト」が
ダグラス・マッカーサーに第二次世界大戦が終わり日本が降伏した時に渡した、
ということなのですが、まずこの「ヒタシ・ミト」とは

三戸寿海軍中将(1981−1967)

のことです。
おヒタシなんて日本人の名前ないっつの。「かでくる」を思い出すわ。


リンク先を見ていただければわかりますが、三戸は終戦時少将で、昭和20年11月、
いわゆるポツダム進級(退官手当や恩給がなるべく多くもらえるように、
ポツダム宣言以降階級を一つ昇進させることを、陸海軍ともに行った) による
ポツダム中将だったわけです。

ちなみにキスカ作戦の司令官だった木村昌福もポツダム中将となっています。


しかし、わたしもこの軍人の名前は寡聞にして知りません。

調べたところ、ポツダム進級後、海軍次官に就任して同省廃止まで勤め、以後は
第二復員省で働いていましたが、戦時中の日本海軍潜水艦による商船撃沈時に
捕虜となった乗務員が殺害された戦争犯罪に関して、第一潜水戦隊命令において
乗務員の「徹底的撃滅」を指示していたことから戦犯裁判にかけられました。

三戸は命令書は偽造されたものだと主張しましたが、結果禁固8年の判決を受け、
1955年2月まで服役していたということです。

その三戸少将がマッカーサーに軍刀を献呈したという話は、
ネット上では少なくともどこを探しても見つかりません。

もらった側のマッカーサーにしても、あまり有難いと思わなかったらしく、
1945年(つまりもらってすぐ)にコーストガード・アカデミーに寄付しています。


この刀は日本の歴史上最も優れた刀鍛冶の一人
「九州のタダヒロ」作である

我々の太平洋での戦いに様々な形で寄与してくれた
アカデミーの息子たちへの記念として

というもっともらしい言葉と共に。

トージョーやヤマモトのならともかく、それ誰よ?な少将の刀では
アカデミー側にとっても正直「微妙な寄贈品」だったのではないかと思われますが、
他ならぬ押し付けてきたのがマッカーサーでは、おし頂くしかなかったのでしょう。

多分。

目を引いたもの、その3。というか一番目を引いたもの。

日章旗です。

また例によってどこか戦地で日本兵の死体を漁って獲ったものか、
と思ったのですが、その通りでした。

「沖縄の近くの島の洞窟」

渡嘉敷とか慶良間とかの島のことでしょうか。

何か書いてあるので、アップにして見たら(冒頭写真)なんと
万年筆でこれを拾ったアメリカ兵の名前がサインされているじゃありませんか。

説明によると、

「16名のアメリカ兵のサインがある」

ということなのですが、なぜ日の丸の部分にされた全員のサインを
どうしてちゃんと見せず、隠すように制服を展示してあるのか。

やっぱりあんまり褒められたことではないと思ってるからでしょ?

それから、中央近くに明らかに血痕と見えるシミがありますね。
隠れた部分にはもっと大きなシミがあるのでは?
つまり、これを取得した人物が、どうしてその経緯を明らかにしていないかというと、
この日章旗は洞窟で自決した日本兵の死体の近くにあったからでは?

まあこんなことを考えてしまうのも、わたしが日本人だからです。

真実はもはや誰にもわかりません。


 

 

続く。

  

カデットと『不愉快な存在』〜コーストガード・アカデミー遺産博物館

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ニューロンドンはテムズ川のほとりにあるコーストガードアカデミー、
そこに併設されている遺産博物館のご紹介をしています。

もう一度学校の正門をご紹介しておきましょう。

もうとにかく立派の一言です。
沿岸警備隊の士官になろうと思ったら、ここに入学して4年間勉強し、
理学士の学位を得て少尉となります。

せっかくなのでサービスとしてホワイトドレスのコーストガードオフィサーの写真を。

左がウォーラント・オフィサー、右がオフィサー。
基本海軍のかっこいいところをそのまま継承したデザインで、
正帽の徽章が鷲をかたどっているのが大きな特徴です。
サーベルが凛々しくて大変よろしいですなあ。

 

さて、沿岸警備隊士官学校、コーストガードアカデミーは

Revenue Cutter Service School of Instruction 

税収カッターサービス養成学校として始まり、

1914年に「Revenue Cutter academy」となり、翌年に、サムナーが結成した
「救命部隊」と合併して「コーストガード・アカデミー」になり現在に至ります。

ここで学ぶ学生を「士官候補生」(CADET)と呼びます。

このミュージアムを案内してくれたキュレーターのジェニファーは、
見学の申し込みをしたとき、メールで新入生のことを

「明日はニューカデットが午前中見学に来て忙しいので」

と言っていましたっけ。
で、いつのものかは正確にはわかりませんが、「カデットの1日」が
漫画になっていて、これが大変個人的に気に入りました。

6:00 寝ています

6:10 起床・・ベッドで頭を打ちました

6:29 着替え

6:30 点呼

起きてから20分で点呼、これは江田島の幹部候補生よりは緩いですよね。

6:59 走ってます

7:00 旗の掲揚かな?

7:05 朝食


上から3つ目、一番右に不思議な文章が。

報告

ソーケム候補生

洗面台から検査の結果雑菌が発見された
・・・・・・50demerits(罰点)

報告 グローシェ大尉 U.S.R.C.S

 

デメリット、というのは成績がいいときにもらえるメリットの反対です。
アメリカの学校は学期の終わりに、優秀な成績であれば、
教科ごとにこのメリットが授与されることになっています。

それにしても洗面台の検査をなぜ行ったのか、その結果見つかった
雑菌がどうしてソーケム候補生のデメリットになるのか、
果たしてその雑菌とは何だったのか、色々と不思議な報告ですね。


8:32 授業。「Bum recitation」は何かの暗唱だと思うのですが、何だろう。
そのあと、ラインを張ってライフセービング実習、砲撃実習、カッター、
行進など士官候補生に必須の訓練が続きます。

レクリエーションとしては野球などが人気だったようです。

就寝時間までは自習「スタディ」のはずですが・・・・。
あー、これむちゃくちゃ親近感覚えるわー。
よく見ると床で寝ている人もいますね。

そして就寝は10時。8時間睡眠でも眠たいんだ。

そんな学生生活をしていたカデットの皆さん。

この頃の軍帽は日本のもそうですが、縦長で郵便ポストの上部様のデザインです。
制服は海軍兵学校のタイプに似ていますね。

この頃の士官候補生学校の名称は「税収カッターサービス養成学校」でした。

カデットは充実したカリキュラムと実習で海自の基礎を叩き込まれ、
実際の航海に出て海を住処とする救難部隊の心構えを学びました。


■ オブジー・ザ・ベアー(マスコット熊)

これ、なんだと思います?
  クマの檻の頭部装飾です。
なんだってこんなものが沿岸警備隊のヘリテージミュージアムにあるのか。
「ミリタリー・アニマル」の話題になった時、最後に名前だけを挙げたことがありますが、
実は、コーストガード・アカデミー、1926年に熊の仔をマスコットとして
(もちろん本物です)学校に迎え入れてさらには一緒に生活していたということがあったのです。

なぜ熊か?というと、例のあの、アラスカ雪中行軍の英雄を乗せたカッターが
「ベアー」号だったから、という割としょうもない理由です。
どこでそんなものを手に入れてきたのか知りませんが、とにかく
学校の当時の最高責任者であったキャプテン・ヒンクリーという人に許可を得て、
熊を学校に連れてきたのだそうです。   熊の名前は Objee(オブジー)。 "objectionable presence"(不愉快な存在)の省略形です。     子熊時代のオブジー。
偉い人にミルクを飲ませてもらってご機嫌だ。     コーストガードアカデミーのいつもの朝。
起きて廊下に出ればそこに熊がいる。     本物がいなくなっても、熊がマスコットであることには変わりません。 シュールだわー。
てか熊の銃の持ち方おかしくね?     右から提督、学校長、熊。コーストガードアカデミーです。     「不愉快な存在」というイメージにぴったりの憎たらしい熊。
熊のくせにシックスパック作ってんじゃねー(笑)     と、つい無駄に写真をいっぱいあげてしまいました。
熊を飼う習慣は第27代オブジーが亡くなるまで50年続いたそうですが、
熊という動物は2年やそこらで亡くなるということはあり得ませんから、
不祥事を起こしたり、大きくなるたびにチェンジしたのかもしれません。    

「税収カッターサービス養成学校」だった頃のカデット野球チーム。

USRCは「United States Revenue Cutter 」の頭文字です。


第二次世界大戦では捕虜になり、死亡した沿岸警備隊士官が居ました。

そのジェームズ・クロッティ中尉の遺品となります。
クロッティ中尉は1812年以来最初の、沿岸警備隊で捕虜になった人物です。

第二次世界大戦のコレヒドールでの戦いで日本軍の捕虜になり、カバナチュアン収容所に
移送されてからジフテリアに罹って診断されてから三日後に亡くなりました。

遺体は収容所外の共同墓地に他の2700人と共に葬られました。

クロッティ中尉はアカデミー在学中、4年間フットボールクラブに参加し、
最後の年にはキャプテンを務めていました。

その80年後に当たる2014年、アカデミーのフットボールチームは中尉を顕彰して
ジミー・クロッティ記念シーズンとし、全員がオリジナルのステッカーを
ヘルメットに貼り、寄せ書きを行なっています。

在りし日のジミー・クロッティ中尉。
艦橋から双眼鏡でワッチしている姿も凛々しく。

捕虜収容所で仲間が描いたクロッティ中尉の最後の姿だと思われます。

「シックス・トゥ・オール・ステイング!」

「メッセージ: シックス・イズ・ナウ・オン・(?)」

死の床で彼がつぶやいていたと思われる言葉。
フットボールをしている夢を見ながら逝ったということでしょうか。

果敢に相手のフィールドを攻める夢を見ながら捕虜の身を粗末な寝床に横たえ、
そのまま2度と故国の土を踏めなかったのは、いかほど無念なことであったでしょうか。

クロッティ中尉は、機雷処理のエキスパートとして現地に出征していたということです。

 

ところで、沿岸警備隊員の非公式のモットーとして、

"You have to go out, but you don't have to come back!" 


というのがあります。

「出動せねばならない、しかし帰還することを考えるな」

というのは、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め」という
我が自衛隊の服務の宣誓をもっとドラスティックに言ってみた感じでしょうか。

ことに臨んでは帰って来られる保証はない、いやむしろ帰れないと心得よ。

たった一隻のボートで荒れ狂う海に漕ぎ出し難破した船を助けに行くことにも
なんの躊躇いも持たない、それがコーストガード精神の原点なのです。

 

続く。 

 

 

 

 

 

マイノリティの沿岸警備隊〜コーストガードアカデミー博物館

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リチャード・イサーリッジ (Richard Etheridge)は、アフリカ系として初めて
湾岸救命ステーションの指揮官になった人物です。

ノースカロライナで1843年奴隷として生まれたイザーリッジは、南北戦争の間は
連合軍のために任務をしていましたが、戦後は救命隊に戻りました。

 

左端がイザーリッジ、ピー・アイランド・ステーション庁舎前の部下との写真です。
部下が全員黒人であることがおわかりいただけるでしょうか。

イサーリッジを指名したのは救命部隊を創設したキンボール本人だったそうですが、
当時の社会的通念から、黒人の指導者の下に白人を置くわけにいかず、
結果ピーアイランド・ステーションは全員が黒人の職員となりました。

ちなみにイサーリッジの着任5ヶ月後、ステーションは放火されています。

つまり黒人ゆえ常に監視され、わずかなミスを起こしても彼自身とクルーは
簡単に白人にポジションを取って代わられかねない状態にあったわけで、
彼はそのことを重々承知し、非常時への対応準備を常に怠りませんでした。

そして1896年10月11日、その努力が身を結ぶことになります。

スクーナー「ニューマン」はハリケーンの襲来した日
乗員のほかに船長の妻と3歳の娘を船上に乗せていました。

見張りだったセオドア・ミーキンス(写真左から5番目)は信号を察知し、
イサーリッジと共にコストン・フレア(マーサ・コストンが発明した信号)を発射して
「ニューマン」に通信を送ります。

ピー・アイランドのクルーは難破した船まで巨大な波が打ち寄せる海岸から
ボートで近づきますが、波が強すぎて近寄ることもできません。
ビーチ・ブイを設置するためのアンカーを打つこともできず、
最終的に2人の隊員が波の中を泳いで、難破船にラインを引くことに成功します。

 

(ビーチブイ使用例。結局隊員はラインを繋いだ海を泳いで救助を行った)

その後も彼らは何度も海に入り、船長の3歳の娘から乗客と乗組員を全て救出しました。
伝わっている話によると、隊員の中で最も水泳に長けていたミーキンスは、
そのほとんどの救出活動に加わっていたということです。

RESCUE MEN The Story of the Pea Island Life Savers Film Trailer

ミーキンスはその後21年以上に亘りピーアイランドで暮らしていました。

1917年に亡くなった日は休暇中で、ボートに乗っている間に嵐が起こり、
彼は海岸に泳いで帰ろうとして溺死したといわれています。

ピー・アイランドには長い救助用の何かを持ったイサーリッジの
ブロンズ像が、彼の功績を称えて建てられました。

「コンバット・アーティスト」という言葉を初めて知りました。
ジェイコブ・ローレンスは、軍所属のアーティストになった最初のアフリカ系です。

戦艦「マサチューセッツ」にも、絵が得意で艦内の絵描きとして活動し、
戦後プロになってしまったカートゥーン作家というのが居ましたが、
彼の場合は沿岸警備隊に戦争中入隊してそこで元々の技能を披露したところ、
トントン拍子に「公式画家」の地位を得たという人物です。

大戦が始まって、アメリカ政府は兵力の増加を目的として、
公式に人種差別を撤廃し、沿岸警備隊士官学校へのアフリカ系入学許可、
そして予備士官への登用をはじめました。

ローレンスもその一環として入隊後、

カールトン・スキナー(1913〜2004)

が艦長を務める気象観測船「シークラウド」にその他の黒人兵とともに配属されます。

中尉だったスキナーは乗り組んだ「ノースランド」で、停止したエンジンを動かすのに
白人のエンジニアを優先し、どうしようもなくなって初めて黒人エンジニアに任せたら
その途端エンジンが動き出す、という事件を目撃して以来、人種差別は軍、特に
海の上ではなんのメリットももたらさない、という考えの持ち主でした。

そんな艦長の元でアーティストとして各地でスケッチを行い、船のペインティング、
その他イラストの必要な仕事を任されるようになったローレンスは、戦後
「戦争シリーズ」と称する一連の作品群をものし、評価を高めます。

ちなみに彼が他の隊員に見せているのがこの絵。
 
「Embarkation or possibly Landing Craft」

というタイトルだそうですが、タイトルもさることながら、
見ている同僚の皆さん、全員「?」な感じ。

彼が沿岸警備隊にいるときに製作した絵画は行方が分からないものが多いそうです。

おまけ:美人の嫁グェンドリンさんとローレンス。

■ ジョセフ・ジェンキンス

デトロイト出身のジョセフ・ジェンキンスは、沿岸警備隊初の黒人士官でした。

講演会を行った時の紹介記事を読んでいただくとわかりますが、ジェンキンスは
アカデミーで予備士官になるための訓練をする前に、すでに名門ミシガン大学の工学部で
黒人初の学生となり、卒業して高速道路の設計者として働いていた人物です。

雪の積もる「シークラウド」の甲板でOKサインをするジェンキンス中尉。
左のクラレンス・サミュエルズ中尉もアフリカ系です。

そう、つまり「シークラウド」は実験的にアフリカ系を士官として採用した船で、
艦上での人種差別は非合理的だとするスキナーがその艦長になったというわけです。

これもおまけ。
ジェンキンス中尉の結婚式での一コマ。

ジェンキンスら黒人士官の登用実験は大変うまくいき、彼らのおかげで
その後のアフリカ系の軍での採用は大幅に進むことになります。

ジェンキンスは沿岸警備隊に在籍したままミシガン州兵のエンジニアリング部隊の
隊長を務め、さらには土木エンジニアとしても生涯第一線にありました。

実験的に予備士官としてジェンキンスが入学してから20年も後のことになりますが、
写真のマーレ・スミスJr.はアフリカ系で初めてコーストガードアカデミーを卒業しました。

正式な黒人のコーストガーディアンは彼が1966年に少尉となるまで居なかったことになります。

ヒゲが無い時代、コーストガードアカデミー卒業式でのスミスJr.。
握手しているのはお父さん、マーレ・スミス陸軍大佐、奥が学校長です。

上の写真はベトナム戦争時、カッターの指揮官としてブロンズスターを授与されるスミス。

お父さんもまるで映画に出てきそうなイケメン黒人ですが、
陸軍では核兵器に関する防諜部門にいたため、仕事の関係でスミスJr.は
ドイツとそして日本で幼少期を過ごしています。

あまりにかっこいいので写真をもう一枚。
ポイント級カッターでデッキガンの操作を指導するスミス艦長。

スミスはその後ジョージ・ワシントンで法学を修め、
法学部門のディレクターとして古巣で活躍し続けました。

しかし、まるで映画の1シーンですね。

 

さて、真珠湾攻撃以降、戦地に男性が取られその抜けた職場を埋めるため、
どの軍も女性軍人をこぞって募集し始め、沿岸警備隊も1942年から

SPARs (SENPER PARATUS  ALWAYS READY)

という名称で1946年までに1万人もの女性を採用しました。

モーターを前に講義している教官も内心ウッキウキ(多分)

そんな中、アフリカ系の女性も採用されました。
初のアフリカ系女子コースト・ガーディアン、
ジュリー・モズレー・ポール嬢、そしてウィニフレッド・バード嬢。

絶対これ合格には容姿も考慮されてるでしょ。

アフリカ系女性として初めて沿岸警備隊の制服を着用し配置についた、

オリビア・フッカー Olivia J. Hooker(1915〜)

彼女はヨーマン、つまり書記下士官のセカンドクラスまで昇進し、
戦後は超名門コロンビア大学で心理学の博士号を取得しています。

米国心理学界の知的発達障害部門の創設に携わり、大学で教授職、
ケネディチャイルドスタディセンターのディレクターを務め、
引退後は悠々自適の生活を送り、2018年現在、102歳でまだ健在です。

これは凛々しい。
固定翼パイロット、

ジャニーヌ・マクリントッシュ・メンツェ(Jeanine MacLntosh Menze)。

特記すべきは彼女がジャマイカ生まれで、アメリカには帰化したことでしょう。
それでも彼女のタイトルは

「アフリカ系アメリカ人女性初めてのパイロット」

となっています。
つまりアフリカ系って色の黒い人のことっていう括りなの?
何だか乱暴だなあ・・。

名札は「マクリントッシュ」となっていますね。
胸のウィングマークがよくお似合いです。

以前も一度ご紹介したことがある、アフリカ系女性初のヘリパイロット、
ラ・シャンダ・ホルムス(La'Shanda Holmes)。

Female Changemakers: LaShanda Holmes.mp4

彼女の映像が見つかったので挙げておきます。

こちらはアフリカ系で初めてマスターチーフ・プティ・オフィサー、
つまり下士官の最高位にまでなった、ヴィンセント”ヴィンス”・パットン曹長。

腕の洗濯板が本当に洗濯板そのものです。

アフリカ系のヴァイス・アドミラルすなわち中将も生まれました。

マンソン・ブラウン (Manson Brown)VADM

学位は土木工学、イリノイ大学でも学位を取っています。

 

ところで割と最近のことになりますが、アメリカの空軍士官学校で
黒人に対する差別的な落書きがあり、それについて学校長が

「他人を尊重できない者はここから去れ」

と厳しい調子で訓示をしたことが話題になりました。

優秀なら特に軍では昇進になんの障害もないのがアメリカ社会ですが、
人の心に潜む差別、もうこればかりは如何ともし難いのが現実。


ちょっと住めば日常生活の中でも、例えば白人の娘が郵便局で
中国人の局員に向けるさも汚いものを見るような目とか、
逆にアジア系の客の精算を済ませた後、次の客(わたしね)に
わたし中国人嫌いなの、と言ってくる白人店員とか、黒人の居住区は
どこでも本当に黒人しか住んでいないとか・・・
山のように差別の片鱗を発見することができるのがアメリカです。

士官学校の落書きも、そんな「日常」から出てきた、本人にすれば
悪戯程度のことという認識だったのかもしれません。

犯人探しをしたという話は伝わっていないので、この件では誰も
処分されるということにはならなかったようですが、その代わり
落書きをした学生は自分の認識の大いなる過ちと罪悪感を
一生十字架のように背負っていくことになったわけです。


優秀なアフリカ系の先人について軍人として多くを学んでいれば、
彼あるいは彼女の差別心は、少なくともこんな形で外に現れることは
なかったかもしれないと、この項をまとめ終わった今わたしはそう思います。


 

続く。

 

潜水艦「せいりゅう」引渡式 @ 三菱重工業株式会社 神戸造船所

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週末風邪を引いてしまい、半ば無理やり寝込んでいたのですが、それというのも
週明けの3月12日、神戸の「せいりゅう」引渡式を控えていたからでした。

そうりゅう型潜水艦9番艦に当たる最新鋭艦の船出をこの目で見る機会を
体調不良で逃すなど、このブログの名前にかけてもあってはならないことです。
(と、思っているのは本人だけであるのは重々承知していますが、そこはそれ)

本日貼り付けた産経新聞ニュースの動画を見ていただければ、引渡式そのものの概要は
おおよそわかっていただけるとは思いますが、当日そこにいた者にしか見えないことなどを
中心にお話ししたいと思います。

当日は0620羽田発神戸空港着飛行機で乗り込みました。
何しろ前日まで病気で寝ていた人が、4時半に元気に飛び起きるのですから、
自衛隊イベントがある種の人たちに与える覚醒効果は大したものです。

会場の三菱重工業に一番近く、時間的にもこれしかないという便でした。

写真はモノレールから撮った埋め立て地である神戸空港の端っこ部分です。

住んでいた頃には全くなかった砂上の楼閣、じゃなくて埋め立て地上の街には
広い敷地を求めた大学キャンパスや企業のビルが続々と増えていました。
うーん、神戸も変わったわねえ。と思いながらモノレールに乗っていると、

王蟲じゃ〜!王蟲がいるぞ!

ポートターミナル前に到着。
ここで降りてこの写真に見えているオークラまでタクシーで行こうと思ったら
朝なのでタクシーは一台もいませんでした。

結局もう一回乗って終点の三宮まで行き、そこからオークラまでタクシーで。
朝ごはんをいただいて、そこからまた三菱までタクシーに乗りました。

タクシーの運転手さんが話好きで、自分の見た「駆逐艦」の話とか、
潜水艦をオーストラリアに売るのがダメになった話とか、
果ては自分が神戸に来た頃(60年前)には神戸は大都会に見えたとか、
楽しい話を聞かせてくれたのですが、いかんせん、到着先を間違えて、
正門と言ったはずなのに通用門で車を停めたため、わたしはなぜか
通用門の警備窓口に招待状を出す羽目になってしまいました。

『?』

という感じで錨のマークのついた招待状を眺めながら、
警備のおっちゃんはどこかに電話をしていましたが、長時間の会話の末
受付が正門であることがようやく判明した次第です。

改めて正門に車を回してもらい、顔なじみの?呉地方総監部の女性自衛官に
受付をしていただき、ようやく一安心。

控室までエスコートしてくれた自衛官は阪神基地隊から出張しているとのことでした。
神戸での自衛隊行事なので、執行者である呉地方総監部と阪基が合同なんですね。

渡された封筒には参加者リボンが入っていたので、招待客はこれを付けます。

 

◆ 引渡式

式典開始予定時刻の45分前、現場に向かうバスが出発しました。
造船所内、とあって写真の撮影は厳禁されています。
撮影していいのは報道の許可を得た団体個人のみ。

「御社は厳しいですね」

お隣の某社での引渡式は進水式ほど制限されていなかったのを思い出し、
三菱の社員の方と話をした時にちょっと聞いてみたところ、

「SNSがその時より盛んになったってことじゃないでしょうか」

なるほど、確かにあの頃は「インスタ映え」なんて言葉もなかったな(笑)
慰霊式典ですら同時発信するようないわゆる「インスタ蝿」がいる今日、
禁止しなければその辺収集がつかなくなると主催者側は判断したのかもしれません。

会場はこんな感じでした。

やっつけで描いたのでアス比は適当です。
わたしは音楽隊のよく見えるところに座りました。

清流の乗組員、儀仗隊、音楽隊はもうこの頃から整列していました。

11時きっかり5分前に赤絨毯の先に防衛省の山本副大臣を乗せた
黒塗りの車が到着し、海幕長、呉地方総監と共に大臣入来。
最初に黛敏郎作曲の(知らなかった・・)栄誉礼曲が奏楽され、
続いて、大臣が「巡閲の譜」と共に儀仗隊巡閲を行いました。

その後、式台において、三菱重工業の代表が、「せいりゅう」を
防衛省に引き渡し、防衛省の代表が「受領しました」と宣言すれば、
実は引渡式は終了です。

そしてそれまで揚がっていた三菱の社旗が、社歌の演奏と共に
降ろされます。


◆ 自衛艦旗授与

「せいりゅう」の自衛艦旗が授与されます。
まず、三角に折りたたまれた旗は艦長が防衛省から受け取り、これを
艦長は副長に渡して乗員とともに乗艦することになります。

この時に奏楽されるのは儀礼曲「海のさきもり」です。
この日2コーラス目に女声ボーカルが加わりました。
声から横音の中川三曹ではないかと思いましたが見えなかったのでわかりません。

ちなみに、自衛艦旗を受け取った艦長の歩調は異常に早足でした。

産経新聞社

行進曲「軍艦」に乗って乗組員乗艦です。

巨大艦と違い、少人数の潜水艦の乗艦は音楽を合わせるのが
難しいのではないかと思いましたが、この日はサビ無しで、
AB部分の繰り返しだけで超絶うまく収まってよかったです。

全員が乗艦したところで艦長乗艦。

「ホヒ〜ホ〜」

のサイドパイプの音とともに「自分の艦」に乗り込みます。

そして、自衛艦旗が「せいりゅう」の艦尾に揚げられました。

 

 産経新聞のこの旗掲揚までの映像まとめが素晴らしいので揚げておきます。  

◆ 防衛大臣乗艦、訓示

山本朋広大臣が海幕長、呉地方総監と共に乗艦し、艦上で訓示を行いました。
この訓示の一説に

「船の性質は最初の乗員によって作られるとお聞きしました」

とあったのが印象的でした。
新鋭艦に魂を吹き込む最初の乗組員になるのは、
海上自衛官の本懐というか、名誉なことであり、彼らの今の心境は
「腕が鳴る」という言葉そのものであろうと思われます。

訓示の後、これも恒例となりますが、防衛大臣(代理)は艦内ツァーを
海幕長らと共に行うため、約15分くらいの間艦外では音楽演奏が行われます。

そして最初の曲が始まったのですが、おそらくそこにいた来賓の中で
その曲名を知っていたのはわたし一人だけだったでしょう。

◆てつのくじら

先日の呉音楽隊定期公演で、本邦初演となった曲です。
ここでもご紹介したかと思いますが、そのタイトルは「てつのくじら」。

その時に

「水中深く沈んだりじっと潜伏している潜水艦ではなく、進水式や
あるいは波を切って航走する潜水艦だと思う」

と曲から受ける印象を語ってみたのですが、まさに引渡式の今日、
この聞き覚えのあるメロディを再び耳にすることができ、改めて

「まさに今日の日のための曲だ!」

と一人頷いていた次第です。
今から船出、という華やかさ、力強さ、未来を思わせるメロディの明るさは
この日の素晴らしい晴天にも絶妙のマッチングを見せていました。

あとで伺ったところによると、あの演奏会以来この日が「てつのくじら」
2度目の演奏であったとの由。
潜水艦関係の式典におけるプログラムの定番になりそうです。

もしこの日の映像が上がったら、最初の曲に注目してみてください。

音楽隊の演奏はこのあと2曲マーチを挟み、定番の「宇宙戦艦ヤマト」を含む
5曲くらいが行われました。

 

このあと副大臣が退場して、引渡式は終了です。

◆ 祝賀会

祝賀会は最初に控え室となった社屋の高層階にある(その割に外は全く見えない)
宴会場で行われることになりました。
こんなところから海を含む敷地全部を見渡したらさぞ眺めが良かろうと思うのですが、
扱っているものがものだけにそういう仕様にはなっていない模様です。

控え室にカメラも携帯も置いてきてしまい、それをピックアップできないかと
会場にいた社員の方にご相談していたのですが、なんとその方が、
あちらこちらに連絡してくださって、鍵を開ける手配をしてくださったうえ、
立食会場でローストビーフ(゚Д゚)ウマー とかやっていたわたしを探し出して
現場まで送り迎えしてくださったのでした。

天下の三菱重工業の社員にこんなことをさせてしまってすみません(´;ω;`)ブワッ

ちょうど食べかけていたローストビーフの皿を置いてきたこともあって、
一緒にエレベーターに乗った時に

「御社のお料理は本当に美味しいですね!」

とお世辞抜きでつい言ったところ、

「それはもしかしたら近隣の某社との比較で言っておられますか」

あー、こういう社員さん好きだ。
実はちょっとその通りだったりします。

カメラを取って帰ってきたので早速呉地方総監のお写真を一枚。

この時にいい機会だと思い、先日の呉音楽隊定期演奏会アンコールにおける
「地方総監の恋ダンス秘話」を伺っておきました。
それによると、

● 本当は9月ごろの発表予定だったが、事故のため延期になっていた

● もう一度やるということになった時、メインでは無理だが
 アンコールでならいいでしょう、と音楽隊の許可が出た

● 練習は呉音楽隊が地方総監部庁舎まで出張して一緒に行なった

● 例の『異常に上手い』ホルン奏者くんの指導は大変厳しく、
 細かいところまで逐一ダメ出しが出るほどだった

● ダンスする時間はにわずか35秒なのだが、生演奏になると
 テンポがどうしても早くなるので、その度に違って大変だった

● 自衛隊の中でもあのダンスは月曜日には全軍布告並みに知れ渡った

何より、これを語る池海将のお話しぶりから、こう言ったことにも
大変真面目かつ真摯に全力で取り組んでおられる様子がわかりました。

まさに指導方針の「侮らない」を地で行っている感じです。


池総監とのご挨拶をしたあと、P3出身の呉地方総監部の管理部長とご挨拶。

「飛行機出身の者にはこういう式典は本当に珍しいんですよね」

「飛行機はいちいちこんな受け渡し式しませんものね」

などと話していると、管理部長の同期で飛行の整備だったという海将補が加わりました。
なんでも、装備という部門になったおかげで、先日の「あさひ」に続き、
今日が2度目の受け渡し式だということで、こちらも管理部長と同じように

「飛行機の人間には・・・」

とおっしゃったのでちょっとおかしかったです。
そういえば「ふゆづき」の引渡式でお会いした陸自の方も

「戦車はいちいち式典とかしないので、びっくりです」

とおっしゃってたなあ。
同じ自衛隊でも海、海の中でも船だけが古来の伝統を墨守しているってことです。

ところで、アメリカやイギリス海軍でもキールレイド、起工式や
進水式は古来の通り行われていますが、それでは日本の引渡式に相当する
儀式はあるのかどうか、どなたかご存知ないでしょうか。


さて、同級生二人が旧交を温めに入ったのと入れ替わりに、
潜水艦出身の地方隊司令が登場。

先日来当ブログにおいて潜水艦映画「ダウン・ペリスコープ」(イン・ザ・ネイビー)
を扱ったので、その話で盛り上がりました。

「ディーゼルボート・フォーエバー」のバッジについても話題になったのですが、
よく考えたら、いやよく考えずとも、日本の潜水艦ってディーゼルボートな訳で。

「原子力潜水艦よりディーゼルは劣る」

というアメリカ海軍の常識のもとに当時の潜水艦乗りは敢えてこのバッジで
反骨精神を示していたわけですが、今にして思えば、というか
日本がディーゼルエンジンでこれだけのものを生み出している今となってみれば、
ディーゼルか原潜か、というのは思想というか推進力の選択の違いにすぎない、
という気がします。

第一、原潜の最大のメリットは「何年でもその気になれば潜っていられる」
ことですが、「人間の神経はそこまで保たない」ことに変わりはないんだから、
その点絶対的な優位とは言えないよね。(とわたしは素人として思う)

今後、万が一日本が原子力を潜水艦に使ってもいいような国になったとしても、
自衛隊はディーゼルを選ぶんじゃないかな。

つまりこれが本当のDBFってことだ。知らんけど。



潜水艦出身の司令には時間の許す限り色々質問もしましたが、今回は
潜水艦乗りになるための身体条件の話で

「航空と潜水艦になるための身体条件はほぼ同じである」

という話が出たので、

「それではそこから先はどう分かれていくのか」

とお聞きしたところ、やはり本人の希望が第一だそうです。
まあそれはそうですわね。
希望の配置にいけないとなると、やる気もなくなってしまいますし。

そこで、司令に潜水艦は志望だったのかとお聞きしてみると、
最初は航空が志望であったとのお返事です。

それではなぜに君は潜水艦へ?

「ちょうどその頃、映画『Uボート』が公開され、それを観たんですが、
潜水艦にだけは行きたくない、と思いました」

そうでしょうとも。
あれを観て潜水艦に乗りたい、と思う人が一人でもいるのかわたしはそれを知りたい。

「ところが、実際の潜水艦を見たら広くて綺麗で、なんだ全然あんなのと違うぞと」

「それって映画のせいで許容ラインが異様に低くなっただけじゃないですか」

「その通りです。あの映画のおかげです」

「じゃ潜水艦を選ぶきっかけになったのは映画『Uボート』だった、で間違いないですね」

いやー、久しぶりにこんなクリティカルヒットみたいな話を聞いた気がします。

この辺りにおられるのは日本電機やNTT、新日鉄、三菱製鋼などの方々。
わたしのいるテーブルの前には制服が多かったなあと思い後で名簿を見たら

「しょうりゅう」「せきりゅう」「こくりゅう」

「けんりゅう」「じんりゅう」「もちしお」「まきしお」

の各艦長(全員二佐)が勢揃いしていたのでした。
知っていたら写真撮っておくんだったなあ・・・。

 

◆ 出航見送り

祝賀会が終わって、出航を見送る人はもう一度バスに乗り埠頭に戻りました。
いつもそうですが、見送りの時には椅子は片付けられ、全て立ったまま見学です。

会社から艦長、先任伍長、士長に花束が渡され、艦長が挨拶をすると
会場にずっと控えていたクレーンがラッタルを外して出航準備。

海上自衛隊 そうりゅう型潜水艦 SS-509「せいりゅう」引渡式・出港

対岸からこの日の式典の様子を撮影している人がいました。
タグボートが三方から潜水艦を上手に操って動かす様がよくわかります。

00:57くらいに猫の声が聞こえる気がするんだけど気のせいかな。

13:45には牽引を終え、警笛と帽フレで挨拶を交わした後、港口を出て行くまで。
第2潜水隊群に配備されることになった「せいりゅう」は、これから太平洋に出て
一路横須賀に向かうのです。


この日いただいたお土産のパッケージにおける「せいりゅう」。
公試の時の写真でしょうか。

その記念品とはこれ。
レーザーカットされた薄い金の栞です。
写真を元にしたものらしいですね。

このパッケージに印刷された記載によると、

全長 8.4m

幅  9.1m

深さ 10.3m

基準排水量 2.950t

主機械 ディーゼル・スターリング電機推進1軸

軸馬力 8,000 PS

水中速力 20ノット

スノーケル 

潜水艦ソーナーシステム

 

なお、「せいりゅう」とは命名基準の吉祥動物である龍を意味し、
「清瀧権現」から命名を受けているということです。

なお、清瀧権現の「瀧」、氵に龍は「海を渡る龍」を意味します。
艦内神社はやはり川崎大師に分祀をお願いすることになるのでしょうか。

 

最後に、出航見送りの時、帽振れの合間に横須賀音楽隊は「錨を上げて」など
いくつかの楽曲を演奏しましたが、一番最後の曲は「てつのくじら」だったことを
明記しておきたいと思います。

 

おまけ:

裏:

この日地方総監副官からこっそりいただいた「呉総監ドック」のお知らせ。
皆様、「てつのくじら館」で食べられるそうですので、ぜひどうぞ。

(鋭意ステマ中)



That Might Be Others Live〜コーストガードアカデミー遺産博物館

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コーストガードアカデミー博物館シリーズ、最終回です。
冒頭写真は館内中央にどーんと飾ってあったワシのモニュメント。

旗、そして帽子のエンブレムにもその姿があるように、
コーストガードのシンボルはイーグルです。

■ ベトナム戦争

ミュージアムの最後の方に絵画コーナーがありました。
説明がないのでいつの出来事を表しているのははっきりしませんが、

USCGC ポイント・リーグ
USCGC ポイント・スラカム

が攻撃しているということは、ベトナム戦争中のことで、彼らが
弾薬を積んだ北ベトナム軍のトロール船を捕獲した時のことでしょう。

ベトナムでモンスーンに遭遇し、まるで木の葉のように身を揉まれるカッターのすがた。

銃が2丁展示してあって、どっちがどうなのか説明も全くなかったのですが、
どうやらこちらはフランス製の、

Chatellerault Model (シャテルロー)軽機関銃

のようです。
このタイプはベトナム軍で使用されていました。

カラシニコフのAK-47銃です。
ベトナム戦争では北ベトナム軍、中国共産軍が使用していたそうです。

黄色い旗はベトナム軍が使用していた軍旗になります。 

USCG ポイント・ウェルカム(WPB-82329)。

ベトナム戦争でダナン付近をパトロールしていたポイント・ウェルカムでは、
1966年8月11日、フレンドリーファイア(味方からの攻撃)を受け、指揮官であった

デイビッド・ブロストローム(David C. Brostorom )

がそれによって死亡するという悲劇が起こりました。
ベトナム戦争では沿岸警備隊員は7名が戦死していますが、彼は
そのうちの一人となったのです。

巨大なザルみたいなのが展示してありました。
ちなみに、展示物の向こうには、この日館内を案内してくれたキュレーターの
ジェニファーさんの乗っていた車椅子が見えています。

葦を手で編んだ「バスケットボート」は、ベトナム戦争時のベトナム国内では
水辺を移動するポピュラーな交通手段として使われていました。

バスケットボート使用例。

っていうか、なんでこんなものをアメリカまで持って帰ってきたのか・・・。
展示物の横には「素材は極端に繊細なので触らないでください」
と注意書きがありました。

ベトナム戦争中に撮られた写真を元に描かれた絵画です。
現地の少女と交流している沿岸警備隊員。

ヘリがぶら下げているのは・・・・・・「ボディバッグ」、
つまり戦死した兵士の遺体が入った袋です。

なんというか・・・・遺体に対する考え方の違いだとは思いますが、
思いっきりモノ扱いですね。

2015年に描かれた「現在」の絵です。

少年は何かのきっかけで、ベトナムに沿岸警備隊員として参加していた
祖父の手紙、そして写真、ペナントを発見しました。

手紙を読みながら少年は何を思うのでしょうか。

ベトナム出征時の沿岸警備隊のカーキ・ドレス。
非常に簡易に、略帽にはイーグルの刺繍がしてあります。

■ 9.11同時多発テロ事件

2001年9月11日、ご存知のように同時多発テロが起こりました。

沿岸警備隊は水路から人々を避難させ、通信と安全を確保するために

高貴な鷲作戦(Operation Noble Eagle )

をカナダと共同で立ち上げ、国内テロに特化した活動を開始しました。
まず遭難した人々を救出すること。
さらなるテロの追随に備えて海の警戒を徹底すること。

そして、グラウンドゼロとなった現場を「クリーンアップ」することが
そのミッションでした。

第二次世界大戦終了以降、一度にこれだけの沿岸警備隊員が派出されたのは
初めてのことであったといわれています。


現地で救出作業を行う沿岸警備隊と、ライフベストを支給されて待つ人々。
突堤に911と描かれていますがこれは偶然です。 

■ 「フリーダム・イラク」作戦

911同時多発テロの後、米英は実行犯であるアルカイダとイラクを関連付け、
イラクが大量破壊兵器を保持していると決めつけて(?)開戦しました。

写真は2003年、イラク派兵に伴い現地のパトロールを行う沿岸警備隊。
全員の表情に尋常でなく緊張した色が見て取れます。

彼らのうち一人はこう語りました。

「私のような人間には今まで見たこともない、興味深いものがそこにはあった。
それは『戦争の音』であり『戦争の色』とでもいうべき空だった。

空というのは重要なファクターだったよ。
煙でぼんやりとして、そして大音響が満ちた空。
我々の船PC-10、「ファイアボルト」。

海軍の船はその音が鳴り響くたびに震えた・・・」

「イラクの自由作戦」で政府は沿岸警備隊に海上警備と国防を任命しました。

沿岸警備隊は2隻のカッターと8隻の警戒船、4個の警備ユニット、海兵隊員、
そして2個のメンテナンスサポートユニットをもってペルシャ湾に赴きました。

全沿岸警備隊員のおよそ半数にあたる人数が動員されたと言われています。

上記で「空の色」について語った沿岸警備隊員、

ネイサン・ブルッケンタール(Nathan Bruckenthal )

は、それからちょうど1年後の2004年4月24日、カブールでのアクションにおいて
ベトナム戦争以来初めての沿岸警備隊員の戦死者となりました。

オイルターミナルで待ち伏せしていたテロリストの自爆に巻き込まれたのです。

アーリントン墓地に葬られるブルッケンタールの遺体です。

 

■ メキシコ湾原油流出事故


さて、沿岸警備隊が海軍の下に入って出征する戦争がない時も、
その存在意義は常に災害における人命救助にあります。

このライフベストは、2010年に起こった掘削リグ、

「ディープウォーター・ホライズン」

の爆発事故が起こった時、不明者捜索を行った沿岸警備隊員が
着用していたものです。

日本ではメキシコ湾原油流出事故として知られています。

爆発と火災によりリグは沈没、11名の関係者が亡くなるという大惨事でした。
放水によって四方から水をかける間、生存者を捜索しているのが沿岸警備隊です。

サンハットと「こういう時のマニュアル」手帳も、流出事故に参加した
沿岸警備隊の必携であった模様。

■ ハリケーン・カトリーナ

 

2005年、ハリケーン・カトリーナがアメリカの南西部を襲いました。

映像で見たレスキューの様子から、その救出劇はオレンジのヘリコプターから
ヒロイックに救難救助スイマーが降りていくイメージが強いかもしれませんが、実は、
市中に溢れた水、すなわち「Toxic Soup」(毒のスープ)のなかを
ボートで漕ぎまわり、人を拾い上げていくというのがあの時の沿岸警備隊の姿でした。

「少しボートを進めてエンジンを切る。
その静けさの中で救いを求めている声がしないか、
ビルの内側から壁を叩く音がしないか、
そして屋根の上に体が引っかかった人の手が振られていないか、
窓から誰かが覗いていないかを確かめる、それが仕事だった」

沿岸警備隊の救難部隊司令官の言葉です。
捜索に投入された沿岸警備隊員は全米49の部隊から集められた167名。
彼らによって救出された住民はこの地域だけで1万2千310名に上りました。


マス目のついた市街図は、航空隊員(主にヘリ部隊)のクルーに渡されたものです。

最終的に投入された沿岸警備隊員は5000名、3万3千名の被災者が
コーストガードによって命を救われたと言ってもいいでしょう。

”それは悲惨の一言だった。
とにかく無茶苦茶で、暑くて、汗ばむ気候で、あたり一帯が汚染されていた。
そして人々はおそらく誰にとっても初めて経験する最悪の事態に苦しめられていた。

しかし、我が沿岸警備隊はまるでスイス製の時計のように正確に駆けつけた。
本当に、本当に誇らしい瞬間だったよ。
私の沿岸警備隊人生にとってもそれはハイライトと呼ぶべきものだった。
自分がその一員として救助に加わることができたのは素晴らしい出来事だった。
我々にとっての、あれが戦争なんだよ。わかるか?我々の戦争だ”

 

全米の歴史の中でも最悪と言われたハリケーンがルイジアナを襲った後、
その救難活動に参加した沿岸警備隊員がのちに語ったことです。

ハリケーン・カトリーナの被災者たちは、沿岸警備隊を一様にこう呼びました。

「ニューオーリンズの聖人たち」

と。

 

 

沿岸警備隊遺産博物館シリーズ 終わり

 

 


スタンウェイ製「G.I ピアノ」〜サンディエゴ メイキング・オブ・ミュージック・ミュージアム

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サンディエゴに行ったとき、お宅に泊めて頂いた現地の知人、
ジョアンナとそのボーイフレンド(夫婦ではない)は、海事博物館に続いて
どうやら航空博物館を案内してくれるつもりだったようなのですが、
わたし一人ならともかく、年配の二人に案内をさせるには
野外の航空博物館はあまりにも申し訳ない、それにわたしたち自身も疲れているし、
ということで提案したのがローカル情報で見つけた音楽博物館でした。

これなら室内で空調も効いて快適だろうし、彼らにとっても負担にならず、
わたしも息子も皆がハッピーだろう、と考えたのです。

果たして、彼らはサンディエゴに住んでいながら、ここのことを知りませんでした。

フリーウェイ沿いでいつも目につくすごいデザインの教会。
この角度から見ると一棟しか見えませんが、同じ形の塔が
対になっている設計で、実に豪壮な感じがします。

モルモン教の末日聖徒教会だそうです。

この日も焼け付くように暑かったサンディエゴ、建物に入るとホッとします。
エントランスに入ると、ピアノが・・・・。

本物のピアノを利用して作った受付デスクでした。

展示はアメリカにおける楽器の歴史を現物を見て学んでください、というもの。
実は、スーザの使っていた指揮棒とか楽器が最初にあったのですが、
写真を失敗していました。

右側はそのスーザフォンですが、もともとこれはジョン・フィリップ・スーザが
海兵隊のバンドで使われていた低音楽器のヘリコン(今は使われていない)に
不満を持ち、代わりとなるものを楽器店に依頼して作らせたものです。

「スーザフォン」で調べると、まさにこのスーザフォンが1893年に製作された、
として写真が出てきます。

前の変な形のギターはクヌッセンという楽器会社の

「ロウワー・バス・ポイント・ハープ・ギター」

奥のマンドリンのお父さんみたいなのは1912年製作、

「マンド–バス」

ということなので、マンドリンの低音楽器みたいですね。

雲型の弦楽器は「マンドリンとギター」。(どっちだろう)

奥の縦型ピアノは、ロールを仕込んだ自動演奏ピアノです。
このパンチに録音されたガーシュウィンの演奏があるそうですね。

残されているロールはミスタッチを修正してあるものが多いそうです。

スタンウェイの初期の装飾ピアノ。
ピアノの蓋の裏には、ヘンリー・スタンウェイのサインがあるそうです。

この「メイキング・ミュージック博物館」をその昔立ち上げたのは
どうやらヘンリー・スタンウェイその人だった模様。

ペダル部分は竪琴を象ってあり、全体に彩色画が施されています。

ドイツ系移民のヘンリー・エンゲルハルト・スタンウェイがアメリカでピアノ製造を始め、
1853年に「スタンウェイ&サンズ」社をニューヨークで立ち上げました。

写真はヘンリーの孫にあたるヘンリー・ツィーグラー・スタンウェイです。

スタンウェイ一族。
右側の立っている男性がスタンウェイ、前列は彼の祖母(つまり初代ヘンリーの妻)
あとは従兄弟と従姉妹たち。

シンバルといえばジルジャン、ジルジャンといえばシンバル。
シンバルに書かれている文字はこれかYAMAHAしか見たことない、
というイメージです。

もともとトルコのシンバル職人が400年前に興したのが祖で、
あのムスタファがその仕事に感謝してシンバル職人の称号「ジルジャン」
(Zildjian、アルメニア語で"Zil"はシンバルやベルの意味、"dj"はメーカーとか職人の意味、
"ian"は息子もしくは継承者・家元の意味で、シンバル職継承者という意味の名前)
と製造許可を授桁のがその名前の由来です。

ジルジャンがアメリカに渡ってそこで会社を作ったため、
本社は今ではマサチューセッツにあるということです。

写真はジルジャンのシンバルができていく過程を示したもの。

再生器も展示されていました。
大きなラッパが木製というのが迫力ですね。

ヒズマスターズボイスのマークを思い出します。

「Jazz It Up!」と題されたノーマン・ロックウェルの作品。

「Jazz up」は「盛り上げる」というイディオムですが、このバイオリン弾きのおじさんは、
これからはジャズなのかなあ、とサックスへの転向を考え出しているようです。

1930年ごろの作品です。

自動演奏の仕掛けが鍵盤の下に引き出しのように仕込まれた例。
蓋の上に置いてあるのはピアノロール、データを打ち込んだ巻き紙です。

ロール式の再現機械の限界というのは

「同音の連打が再現できない」

ということだったのですが、驚くことにデジタル式となった現在でも
同音が連なるパッセージは再現できないことがわかっています。
ピアニストの指使いを機械が完全に再現することは今の科学でもできないのです。

電子オルガンの先駆はレスリースピーカーを伴うハモンドオルガンです。

1934年、ローレンス・ハモンドが発明したこの電気式のオルガンは、
当初パイプオルガンの設置できない黒人の教会などが導入し、そののち
ジミー・スミスのようなジャズオルガニストが採用して新しい世界を開きました。

しかし、大きくて持ち運びできないハモンドオルガンは、軽量・小型していく
鍵盤楽器の隆盛に押されて、次第に衰退していくことになります。

音色そのものが飽きられた事もあり、1980年代には生産も終了しました。

なんとエレガントなアコーディオン、と思ったら、これは
女優のジンジャー・ロジャース専用。

この人アコーディオンなんて弾けたんだろうか、と思ったら、
映画「Shall We Dance?」(日本では『躍らん哉』)に使われた小道具とか。

本当に演奏したのかどうかはわかりません。

さて、本日タイトルの「GIピアノ」です。
ピアノの塗装は今まで木目と黒の他に白、赤(紅白で使ったらしい)、
アクリルの透明と見たり触ったりしたことがありますが、オリーブ・ドラブカラー、
カーキ色は流石に初めてのような気がします。

実はこのピアノ、第二次世界大戦、そして朝鮮戦争の間を通して、
スタンウェイ&サンズ社が

「ビクトリー・ピアノ」

として何千台も戦地に送ったのと同タイプなのだそうです。
その目的はというと

「 Boost morale  and entertain the troops」
(士気高揚と兵士たちの慰撫)

OD色の塗装は戦場におけるカムフラージュを目的にしており、まるで箱の様な
本体のデザインは、軍隊での少々の荒い扱いにも耐えるための仕様でした。

ピアノの上の楽器も戦地仕様で、トランペットはプラスチック製です。

「アント・ルウ」という戦地歌手がキャンプで慰問演奏を行うの図。
こちらは外地ではなくノースキャロライナのキャンプだそうです。

戦時中のミュージックショップ店内。
スタンウェイ、キンボール(今も時々アメリカでお目にかかる)などのピアノメーカー、
ビクター、デッカのレコード製造会社、ギブソンはギターですね。

アメリカのお店の店員さんが皆スーツを着てネクタイを締めていた頃。

戦争が始まって、音楽業界も戦争協力をアピールし始めました。

シュミットミュージックカンパニーが、中古のプレイヤーを
戦地に送るために修理業者を派遣している写真です。

レコードショップが自分で商品を探してレジに持っていくという
セルフサービス形式になったのは、第二次世界大戦中からです。
人手を補うための策がその後もスタンダードとなりました。

戦争中もレコードは製造されましたが、新しく製造されるものについては
物資は制限されたので、カリフォルニアのあるレコード会社は
一枚3セントで中古のレコードを引きとり、それで新譜を出すことにしました。

この方法は好評で、6ヶ月の間に4万枚のレコードが出せたそうです。

同行してくれたジョアンナさんのボーイフレンドの後ろ姿。
この人くらいがエルビス世代かもしれません。

左はミュージックショップで使われていたレジスター、
右はお店のショーケースで、マウスピースや管楽器のリード、
弦楽器の弦やロージン、 金管楽器のオイルなどが収められています。

さて、ここで我々日本人にはちょっとびっくりする展示がありました。

ローランドというメーカーを知っていても、

梯郁太郎(かけはしいくたろう)1930〜2017

という個人名をご存知の方はあまりいないのではないでしょうか。

日本人でハリウッドのロック・ウォークに手形を残し、さらには
テクニカル・グラミー・アワードを受賞、バークリー音楽大学からは
長年にわたって電子楽器の発展および普及に努めた多大な功績により、
名誉音楽博士号を授与しているにも関わらず、あまり個人名が出てこず、
日本よりアメリカで有名なのはなぜかと思ってしまいます。

”1960年にエース電子工業を設立し、最初の電子オルガンをデザインした。
1972年、ローランドコーポレーションを設立、革新的な製品を世にだす。
世界初のプログラミングできるドラム、リズムコンポーザー。
そして最初のデジタルシンセサイザー(エフェクト搭載)D-50、
そしてこれも世界最初のコーラスエフェクトペダル搭載、BOSS CE-1である。

1930年日本に生まれた梯は様々な逆境のうちに成長した。
孤児として生まれ、祖父の手で育てられ、10代には結核を罹患している。
療養しているときには来る日も来る日も一日中ラジオを聴いて過ごし、
このことが彼に音楽の癒しの力を確信させる事になった。”

本当は、療養所でも梯さんはラジオどころかテレビを作ってしまい(!)
それを見るために人々が彼の部屋に押すな押すなだったんですが、
その辺りはさっくりと省略してあります。

しかしとにかく、日本よりはずっと評価されていることがわかりました。

あとは歴史的なギターのいろいろ。
左のお花型のは

「デイジーロック プロトタイプ」

右側は見てその通り、

「リックターナー プレッツエルギター」

見ただけで凝りまくっているのがわかるギターの数々。
奥のなんて、まるでカメオみたい。

楽器が置いてあって、好きに触って楽しめるコーナーもあります。
一枚でドラムセットの全ての音が出るドラムマシーン。

学校ではドラムもやっているMKが早速叩きまくり。

小さなエレクトリックドラムのフルセットも。
子供に「はえ〜」って感じで見つめられておりました。

パネルに映し出される世界の楽器シリーズ。
日本はもちろん「Taiko Drum 」です!

東京オリンピックではぜひグラウンドを埋め尽くしての太鼓演奏を見てみたい。

低周波の音を体験できるコーナーがありました。

低周波音の定義は100 Hz以下。
また、20 Hz以下は超低周波音と呼ばれます。

ここではダイヤルを回せば、周波数を低くしていくことができ、
それがどんな音なのか体験することができます。

さて、というわけで展示を見終わり、お土産ショップで五線柄の傘、
ジョアンナさんがわたしに音符柄のスカーフを買ってくれました。

見学を終えて出てくると、受付のピアノデスクの裏がこんなだったことを知りました。

この日は併設されている音楽ホールでヴァイオリンのコンサートがあったので、
その受付が始まってこれだけ人が多かったようです。

サンディエゴに来て時間があれば、ぜひ見学をお勧めします。
音楽に興味のない方でもそれなりに楽しめますよ。

 

 

 

「ミッドウェイ」のある光景〜サンディエゴ

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サンディエゴで「ミッドウェイ」を見学するというのを2年続けて実行したわけですが、
後半の「ミッドウェイ」見学編に突入する前に、サンディエゴという街の様子を
少しご紹介しておきます。

最初の年に泊まらせていただいたジョアンナの家。
大学の同窓つながりで知り合ったボーイフレンドのうちも近所です。

当たり前のように自宅にプールがあります。
今年行ったら、

「今年はトイレをジャパニーズスタイルにしたの!」

ジャパニーズスタイルって?と思っていたら、TOTOのウォシュレットを導入したのでした。
何を今更、という気がしますが、アメリカでのウォシュレットの普及は、現在でも
わたしの知る限り公的な場所ではゼロで、裕福な個人宅に限られています。


眼下にはサンディエゴのシーワールドを一望できる眺めです。

二回ともロスアンゼルス空港から車で向かいました。
アメリカのフリーウェイを走ったことのある方には「あるある」な光景でしょう。

ジョアンナのうちの近くでみた光景。
一人ずつゴミ袋を持ってゴミを拾って歩く仕事で、従事しているのは非白人ばかりです。
マイノリティやホームレス予備軍にも仕事を与えるという市の施策によるものです。

そういえば、サンディエゴは街の中心部にもホームレスはあまり見なかった気がします。
気候的にはホームレスが暮らしやすいので集中しそうなんですが、
こういった公的な対策が功をそうしているということなんでしょうか。

2回目のサンディエゴ滞在のホテルはわたしが自ら選びました。
ポイントはキッチン付き、そして「ミッドウェイ」に近いところ。
となると会員にもなっているマリオットのレジデンスインしか選択肢はありません。

ミッドウェイまで歩いて5分という、これ以上ない立地です。

近隣には同じレジデンスインが他に二つありますが、ここが
一番新しく、インテリアのセンスも他より洗練されている感じ。

パーキングは4つ星、5つ星ホテルと同じようにバレーを頼むことができます。

部屋は2ベッドプラスソファーベッド。
息子が大きくなってからはいつもこのタイプの部屋を選びますが、
誰がソファーに寝るかは適当にその日の気分で決めます。


素晴らしかったのは窓からの眺め。
ミッドウェイとじゃ反対側でしたが、海事博物館の帆船
「スター・オブ・インディア」の帆と星条旗がこんな風に見えます。

こちらは車上から撮った「スター・オブ・インディア」。
海沿いの遊歩道は朝方散歩やウォーキングをする人で賑わいます。

寝室の角は全面ガラス張りで、この開放感!

眼下にはパシフィック・ハイウェイという幹線道路が走り、サンディエゴの
「タワマン住み」御用達のツインタワーレジデンスが真横に立っています。

朝、ゴミ収取車がいたので、連続写真を撮ってみました。
路上に何曜日朝、と決められた時間に出したゴミの巨大なケースはゴミ収集車が
抱えて持つことができるスライドを両脇に備えています。

アームをグイーンと操作すれば、中のゴミがちゃんとタンクの中に。
この時にゴミが残っていると、アームを戻す時にぶちまける結果になります。

その例


ホテルには中層階に一応アメリカのホテルには必須のプールがあります。
朝、誰もいないプールをカモメが泳いでいました。

朝ごはんはバッフェ式で、ピーク時には座るところを探すのも大変です。
この日は外のテラスが空いていました。

プールで水浴びしていた鳥さんたちが虎視眈々と見張りを・・。


ウォーターフロントに建つのはホテル以外は駐車場や倉庫だけ。
向こう側はサンディエゴ空港で、飛行機は右手の山側から着陸し、海に向かって
離陸するのがずっと見ていると幾度となく繰り返されて飽きません。

エレベーターホールは景色を見るために全面ガラス張りで、
そこからの眺めはわたしにとって眼福としか言いようのないものです。

「ミッドウェイ」の向こうの海軍基地、そこに係留されている空母。
サンディエゴの海軍基地は正確には

ノースアイランド海軍航空基地
(Naval Air Station North Island, NAS North Island)

と言います。

ちなみに左の建設中の建物もホテルになるようです。

手前が「ミッドウェイ」と来客用のパーキング、そしてその向こうに空母。

「ホテルから空母が見えました」

というと、サンディエゴ在住のジョアンナのボーイフレンドは

「何だろう・・セオドア・ルーズベルトかな」

こちらはまずこの時にiPadで調べて、

「カール・ヴィンソン」USS Carl Vinson, CVN-70

であることがわかりました。

「カール・ヴィンソン」の愛称は「スターシップ・ヴィンソン」。
ハインラインの「スターシップ・トゥルーパーズ」と関係あるのかどうかは知りません。

2017年にはメンテに入った「ロナルド・レーガン」の代わりに西太平洋に進出し、
北朝鮮半島沖に展開、「あしがら」「さみだれ」と訓練を行い、
「レーガン」が復帰してからはその打撃群艦隊、海上自衛隊の「ひゅうが」、
「あしがら」及び航空自衛隊F-15戦闘機と共同訓練を実施しました。

この画像を撮った時には、その訓練から帰還してすぐだったことになります。

艦橋部分をアップにしてみました。
白い車以外は人影もなく、稼働している様子は全くありません。
帰港して乗組員は夏休みでも取っていたのでしょうか。

ちなみに今現在時点でスターシップヴィンソンは日本近海におられます。

空母の周りには手前に見えている柵が張り巡らされ、船が侵入できないようになっています。
この柵はグーグルアースでも確認できます。

そして、「カール・ヴィンソン」の隣にももう一隻空母が。

「セオドア・ルーズベルト」(USS Theodore Roosevelt, CVN-71)

ボーイフレンドはさすがサンディエゴ在住だけあって、ここを母港にしている
空母の名前をちゃんと認識していたんですね。

「セオドア・ルーズベルト」の愛称はコールサインとおなじ「ラフ・ライダー」。
ルーズベルト大統領が米西戦争に参加した時に指揮した騎兵隊の名前です。

以前、湾岸戦争における「バトルフォース・ズールー」という3隻の空母を
航行させる示威作戦についてお話ししたことがありますが、
そのうちの一隻、唯一の原子力空母が「セオドア・ルーズベルト」でした。

思い出していただきたいのですが、この作戦で「ルーズベルト」が一緒に航行した
「ミッドウェイ」は、今彼女の向かいで展示されているわけです。

「ズールー戦隊作戦」の後、「ルーズベルト」は

「ミッドウェイ」「レンジャー」(CV-61)「サラトガ」(CV-60)
「アメリカ」( CV-66)、「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)

とともに、史上稀に見る空母6隻による戦隊航行に加わっています。

 

また「セオドア・ルーズベルト」は「砂漠の嵐作戦」に参加した
唯一の原子力空母となりました。

なお、「セオドア・ルーズベルト」は2017年11月12日、日本海において、
「ロナルド・レーガン」「ニミッツ」と護衛艦「いせ」「いなづま」
「まきなみ」他、艦艇数隻と日米共同訓練を実施しています。

つまり、この写真の後「ルーズベルト」はここを出航して日本に向かったのです。

エレベーターホールのガラス越しに、望遠レンズを投入して写しました。
スーパーホーネットらしい戦闘機が一機甲板の上に見えますね。

71という艦番号はライトアップできるようになっており、
番号の横の黄色い文字は、「プロペラとローターの回転に注意」とあります。

「ミッドウェイ」の手前は「ネイビー・ピア」という突堤ですが、
ここからはクルーズ船が発着します。

「ミッドウェイ」甲板上には数多くの飛行機が展示されているのがお分かりでしょうか。

ヘリのローターや、艦載機の折りたたまれた翼などが雑然と。
もう見学時間は終わり閉館しているはずですが、「ミッドウェイ」艦上ではこれから
パーティが行われるらしく、テーブルセッティングされ、人の姿もチラホラ見えます。

結婚式や誕生日パーティ、会社のパーティ、そして海軍関係者のパーティと、
この甲板は市民に会場を提供してそのお金を運営費に回しています。

他の展示軍艦とは桁外れに集客数を誇る「ミッドウェイ」ですが、維持していくために
寄付以外にもパーティスペース、子供のキャンプ会場として貸し出しているのです。

 

赤いシャツの人は「ミッドウェイ」の従業員、パーティ参加者はついでに見学もできます。

岸壁側の「ミッドウェイ」。
赤で描かれている飛行機のシルエットは実は「ミッドウェイ」艦載機の
戦闘機パイロットが撃墜したMiGなのですが、これについてはまた後日。

「ミッドウェイ」はもうアメリカ海軍の軍籍にないので、旗の掲揚も軍艦のそれとは違います。

甲板に展示されているF-8C(F8U-2)クルセイダー。

今回は前には同行者の体力的に無理だった甲板に行って
艦載機を全部見学することができました。
そのうちご紹介していくつもりなのでどうかお付き合いください。

ホテルのテラスは「ミッドウェイ」と海軍基地の灯りを見るための特等席です。

「ミッドウェイ」の三色のライトアップと艦燭は、サンディエゴの夜景のシンボルです。

こちらはジョアンナたちに連れて行ってもらったコロナド(海軍基地側)
から見たサンディエゴ市街と「ミッドウェイ」。


さあ、これで準備が整いました。
次号からは「ミッドウェイ」についてお話していくことにしましょう。



アメリカ空母発祥の地 サンディエゴ〜空母「ミッドウェイ」博物館

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「ミッドウェイ」についてお話ししていくと言っておきながらなんですが、
その前に、ここ「ミッドウェイ」のあるサンディエゴと、海軍のつながりについて
艦内見学に入る前に3回に分けてお話してみようと思います。


「ミッドウェイ」フライトデッキの艦首に立つと、
この写真のようにその向かいにある海軍基地が見えます。

昔はそう大きくなかった砂州のような土地に基地を作り、
だんだん土地ごと大きくしていった結果、現在のような
西海岸最大の海軍の根拠地が形成されていったのですが、
ここに立って基地を眺める人誰もがおそらく知りたいと思うかもしれない
「海軍基地の成り立ちとその歴史」が、パネルにまとめられていました。

こんな感じです。

「サンディエゴ:海軍基地発祥の地」

として、

◆ 先駆者たち 1911ー1924

から説明は始まっていました。

一番初めに顔写真があるのは「海軍航空機の父」である

グレン・H・カーチス。

”グレン・カーチスは自らがデザインした飛行機を自分で操縦した
例えばエルロンロッドは自分の肩で操縦したりしていた
このようにしてライト兄弟のシステムは大きく進歩することになったのである”


サンディエゴのイブニング・トリビュート、1911年1月21日付の記事です。

「グレン・H・カーチスの偉業により世界がサンディエゴに注目」

とヘッドラインがありますね。

サンディエゴに到着してわずか6週間後、カーチスはここに飛行学校を設立しました。
それは、この「ミッドウェイ」のちょうど艦首の左側にあったそうです。
(タイムズスクエアのキスのあたりかもしれません)

その時の初めての生徒の中に、当ブログでもお話ししたことがある
「海軍パイロット第一号」となった

セオドア・ゴードン・エリソン中尉

がいました。
エリソン中尉の他の3人は陸軍士官です。
写真の水上艇の上にいるのはカーチスと4人の生徒たちの授業風景です。


カーチスの最大の功績は水上艇の発明をしたことでした。
陸上と水上のどちらからでもテイクオフすることができる優れものです。

上の新聞記事は、カーチスがサンディエゴ湾を横切り、
機体を見事着水させた記念すべき偉業を行った時のものです。

その時カーチスは巡洋艦「ペンシルバニア」に機体をホイストさせ、
続いて甲板から もう一度舷側に沿って海上に機体を降ろさせています。

(つまり船での運用の方法を示したということですね)

彼のこのデモンストレーションを目の当たりにして、
これからの海軍に航空機が重要な役割をするであろうことを
誰一人否定する者はありませんでした。

カーチスは彼の初期の水上艇を「スパニッシュバイト」という
彼自身の水上艇基地で製作していました。

デモを見た海軍は、早速カーチスに3機の水上艇の注文をしましたが、
翼の上にオプションで「浮き」をつけることを要求したということです。

海軍としてはいまいち飛行機の「浮上性能」を信じてなかったんでしょうか。

 

さて、その後1917年9月25日、海軍は初めての「海軍航空基地」を
半島のノースアイランドに設立し、早速ここから「ミッドウェイ」のある
陸地と直接往復を開始しています。

なんのことはない、航空機運用の練習も兼ねて、水上艇はノースアイランドと陸地を
頻繁に往復し、便利な交通手段として早速活用され始めました。

ノースアイランドの飛行学校には、パイロットの養成だけではなく、
同時にメカニックの学校も併設されています。

その海軍最初の飛行機パイロットとなったセオドア・エリソン中尉。
白黒で写真からはわかりませんが、赤毛なので「スパッズ」とか呼ばれていたようですね。

海軍は次に彼にカーチスの基地のあった「スパニッシュ・バイト」で
11名の士官とともに訓練を受け、史上初の

「空飛ぶオフィサー」

となっています。

後年彼が娘の病気を見舞うため乗り込んだ飛行機が墜落し、
帰らぬ人となったという話は、当ブログ

「天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始」

でお読みください。

1941年までに、ノースアイランドは「スパニッシュバイト」として
知られている浅い入江によってコロナドと分けられました。

つまり上から言うとコロナド、スパニッシュバイト、そしてノースアイランドです。

この写真の赤い矢印のところに海軍基地ができたのは1917年のことでした。

1924年までにはノースアイランド海軍航空基地は
国内でももっとメジャーな海軍基地となりました。

この写真にある赤の矢印2つの部分が、水上艇の離発着の場所となります。
当時は「ミッドウェイ」のあるあたりを、しょっちゅう飛行機が行き交っていたのです。

 

◆ 空母の発展 1924ー1940

 

1924年、海軍の最初の空母、「ラングレー」がノースアイランドに繋留されました。
石炭による動力で、500フィート(152m)の長さの甲板を持ち、
34機の戦闘機、爆撃機、そして偵察機を搭載することができました。

写真は「ラングレー」とそのハンガーデッキです。
ハンガーデッキには当時の爆撃機と戦闘機がぎっちり搭載されています。

そういえば当ブログでも「機動部隊」というゲイリー・クーパーの
主演映画をご紹介したことがあるわけですが、この映画でクーパーは
「ラングレー」の最初の艦載機パイロットという中尉の役を
40がらみで無理やり演じております。

甲板から海に落ちて殉職した同僚パイロットの奥さんと結婚するという
実にありがちなストーリーでしたね。

1925年に行われたノースショアでの「ラングレー」からの
カタパルトでの発艦実験の写真。

思いっきり「ラングレー」が岸に近く着けているのが目を惹きます。

この時に使用された飛行機はカーチスの

SBC-4「ヘルダイバー」Helldiver 偵察爆撃機

でした。
1934年には「ダイブ・ブレーキ」「ランディングギア」など、
空母に着艦するための革新的な技術が導入され艦隊に導入されました。

パイロットの他に後部座席に銃撃手を配する、というその後の
戦闘機の基本となる形もこの時に確立されることになります。

1928年、アメリカ海軍は空母「サラトガ」と「レキシントン」を導入しました。
どちらも巡洋艦の艦体に空母使用の甲板を備えた仕様です。

写真は現在のサンディエゴのブロードウェイ・ピアに投錨した
竣工したばかりのUSS「サラトガ」。

写真の丸で指し示した棒の先が、現在のネイビーピアの当時の姿です。

こちらはUSS「レンジャー」。

少し後のことになりますが、1935年に初めて最初から空母として建造されました。
ちなみに、我が帝国海軍では「ラングレー」登場の3年前に当たる
1922年において既に最初から空母として建造された「鳳翔」を生んでいます。

実は「鳳翔」は「世界最初の空母」と言っていいかと思います。

世界で最初の空母として船を建造していたのはイギリス海軍でしたが、
(1918年起工)その「ハーミーズ」は第一次世界大戦が終了し、
完成を急ぐ必要がなかったのでのんびりと建造していたら、
後発の「鳳翔」に竣工だけ先を越されてしまったというわけです。

「鳳翔」は確かに国産ですが、その技術は多くをイギリスと
イギリス海軍から招聘した技術者に頼っていたということもあり、
イギリスの立場では

「日本が最初に空母を完成させた」

と言うことには渋い顔をしていると思われますが。

写真は、完成後の「レンジャー」が初めてサンディエゴにやってきたときのものです。

ここの説明には、

”1928年、「サラトガ」と「レキシントン」が「ラングレー」に続き
サンディエゴにやってきて、海軍搭乗員の訓練が行われるようになった

このことは14年後のミッドウェイ海戦でアメリカに勝利をもたらすことに
大きく寄与したと言うべきであろう”

と書いてあります。
まあ言われてみれば確かにその通りなんですが・・・・。

単に「ミッドウェイ」と言う文字を使いたかったので無理やり
こじつけてみました、みたいな?

「ニューホーク」(新鷹)と言うあだ名で知られていた

カーチス BF2C-3 爆撃戦闘機

は、

「上空から敵の船を見つけ、それを沈めることができると言うことで広まった」

と割と当たり前の説明をされていますが、当時の常識からは
これは全くの「新戦法」で画期的だったのです。

ちなみに「ヘルダイバー」と言うのは実は鳰(カイツブリ)のことですが、
急降下爆撃をすると言うイメージと「地獄の」「ダイバー」と言う響きが
ぴったりだったため、後年誰もこの名前を鳥だと思わなくなりました。

こちらは「レンジャー」に艦載されていた偵察機SU-4。

偵察機の当時のミッションとは、敵の艦船を発見したら
その位置を空母に報告し、攻撃・爆撃機を発進させることでした。

PM-1 長距離偵察機。

1923年には海軍に導入され、沿岸部の警戒に当たりました。
小さくて航空機が搭載できる無線セットが普及した後は、
無線情報を沿岸の無線局で中継し陸上や艦載機に送ることができるようになります。

1930年、空母「サラトガ」に着陸する海兵隊の第14偵察部隊の飛行機。

 

1940年、サンディエゴには空母「ヨークタウン」そして「エンタープライズ」が
サンディエゴを母港としていました。

第二次世界大戦前夜のノースアイランドには、あらゆる航空母艦で
活用されることになる航空機が集結していたのです。

なぜかハルゼーの写真と説明がありました。

ウィリアム・F・”ブル”・ハルゼー・Jr.提督が
初めてサンディエゴを訪れたのは、彼の少尉時代。

1908年に「グレイト・ホワイト・フリート」の一員である
USS「カンサス」に乗り組んでいたときのことです。

「グレイト・ホワイト・フリート」とは1907年12月16日から1909年2月22日にかけて
世界一周航海を行ったアメリカ海軍大西洋艦隊の名称です。

略称「GWF」、日本語では「白い大艦隊」「白船」と訳されることもあります。
名前の由来は、GWFの艦体が白の塗装で統一されていたからでした。

この艦隊の目的は、実は

日露戦争で勝った日本を牽制するため

であったと言われています。
呉の三宅酒造の資料室でこの艦隊を迎えたときの日本の論調について
あまりにも無邪気にその立派なことを讃えているので、

「これは確信的か、それとも故意的か」

とここでも書いてみたことがありますが、実はそのとき、
若きハルゼー・ブルドッグは日本に来ていたわけですね。

この時に彼は日本で東郷元帥にも会っていますが、実際に会って
東郷元帥のファンになったニミッツやスプルーアンスと違い、彼は

「舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいる」

と言い放ち、日本嫌いをさらにこじらせていったようです。
まーなんと言いますか、最初から

「日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃」

と決めてかかっての日本来航ですから、頑固(そう)な彼には
日本で見るもの聞くものそれを覆すことに至らなかったのかなと。


ともかく、ハルゼーはGWFのサンディエゴ寄港の際、
初めてこの地に立ち寄ったということになりますが、実はこの寄港、
その後の海軍とサンディエゴを結びつける大きなきっかけとなった出来事でした。

その経緯については次回お話したいと思います。


ところでここの展示にも書いてありますが、ハルゼーは52歳の時に
訓練を受け、搭乗員資格を得ています。

こ当時のアメリカ海軍のシステムで、パイロットの資格がなければ、
航空関係の指揮官になることはできなかったからなのですが、
彼は航空オブザーバー課程という上級士官中途教育コースを受け、
後にパイロットコースに変更し、成績は最低ながらとにかく終了しています。


彼が偉かったのは、52歳で大佐という階級でも訓練課程を一切省略せず、
パラシュートをたたむなどの雑務も自分でこなしたということでしょう。

失敗をした者に与えられる不名誉なマーク(多分デメリット)も甘んじて受けました。

ダグラス TBD  「ディバステーター」Devastator 艦爆

は、最初の総金属製単葉機で、海軍の注文によって製造されました。
1937年には艦隊に導入された、最初の電動式折りたたみ翼機でもあります。

クルーはパイロット、爆撃手、銃撃手で構成され、「サラトガ」や
「レキシントン」「レンジャー」などの空母の艦載機の基準となりました。


1940年ごろ、サンディエゴに会った海軍の組織は以下の通りです。

ノースアイランド海軍航空基地 

32番ストリート 海軍駅

バルボア 海軍病院(現在のバルボアパーク)

海軍無線中継基地 (チョラス・ハイツ)

海軍補給処 (ブロードウェイ・ピア)

海軍訓練センター(ウェストコースト)

海兵隊入隊事務所 (ウェストコースト)

 

 

続く。

 

グレイト・ホワイト・フリートとサンディエゴ市民〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」甲板上で、この艦首部分に突き出した部分が
なんなのか、色々調べましたがわかりません。

どなたかご存知の方、教えていただけないでしょうか。

という切なるお願いはともかく、この部分に設置してあった

「サンディエゴの海軍基地歴史」

についての展示版について、3回に分けてご紹介しております。

前回はここでカーチスが航空機の空母運用実験を行なって以来、
発展して来た海軍航空隊について、1940年までお話ししました。
今日はなぜか、時代は遡ります。

アメリカ海軍がここサンディエゴに根をおろすきっかけとなった出来事についてです。


◆ 「約束」 1908ー1910

第26代大統領、セオドア・ルーズベルトは、自分の政権下で

「グレイト・ホワイト・フリート」

と称する白で塗装させた大艦隊を組織させ、世界一周の航海を行わせました。

Dispatched largely as a goodwill gesture to Japan

現地の展示にあった言葉、

「日本に対する善意のゼスチャー」

という言葉がなかなか当事者ながら辛辣ですね。

これが日露戦争で勝った日本に釘をさすためであり、米国の軍事力を
見せつけるのが第一の目的だったというのはなんども書いてきたことです。

このバックの南米アメリカ大陸の地図に見えるオレンジの矢印は、
艦隊が出発したヴァージニア州のハンプトンロードから始まっています。

時に1907年12月16日。

こうやって示威行動を見せつけたにも関わらず、ちょうどこの日から34年後、
日本は「暴発」して両国は戦争に突入することとなってしまいますが・・。

というか、こういうことをやりながら禁輸政策を取り、日本をイジメ倒すから
窮鼠猫を噛んでしまったのだとわたしは思いますが、それはともかく。

この頃はパナマ運河も開通しておらず影も形もありませんから、
艦隊は南アメリカを時計回りして、サンディエゴとサンフランシスコに寄港し、
その後太平洋を横断し、ニュージーランド経由で日本に向かうことになりました。


ここで、サンディエゴの歴史を決定的に変えることになる一人の男が現れます。

このジョン・D・スプレックルズさんは、サンディエゴの地元の実業家。
艦隊の北上のニュースを知った彼は、艦隊を寄港させれば地元に大きな利益をもたらす!
と確信し、早速アクションを起こしました。


音頭をとって蒸気船をチャーターし、メキシコ最北の州である
「バハ・カリフォルニア」を出航した後艦隊をサンディエゴに立ち寄らせてはどうか?
と考えたのです。

当初海軍にはこの地域への寄港の予定がなかったのですが、彼は司令官を直接説得し、
サンディエゴに艦隊が寄港するスケジュールを無理やりねじ込もうと考えたのです。

強引なおっさんやなー。

スプレックル氏の扇動、じゃなくて先導により、是非とも「おらが街」に
艦隊のみなさんを招聘するべ!そうするべ!と賛同したサンディエゴ市の
商工会議所の有志一同は、いてもたってもいられず(たぶん)、
艦隊が寄港しているメキシコのバハ・カリフォルニア州にあるマグダレナ湾まで
直々に押しかけ、

「次の寄港はうちに!ぜひうちにお願いしまっす!」

と艦隊司令にお願いに行きました。

皆難しい顔で写真に写っていますが、結構悲壮な覚悟だったみたいですね。
町興しが成功するかどうかの瀬戸際ですから、こんな顔にもなるでしょう。

これはグレイト・ホワイト・フリート、GWFの戦艦「イリノイ」。

強引に熱烈歓迎を決めたサンディエゴ市のチャーターした船が
補給の荷を積んで接近してくるのを大人しく待っているところです。

つまり・・・・熱烈なお願いは功を奏したのです!

ちなみに、現在の記録を見ても、白艦隊はメキシコのマグダレナから
直接サンフランシスコに行ったことになっています。
残念ながらサンディエゴ寄港は公式に記されていないわけですが、
それは記録の上だけで、実際のサンディエゴ寄港は海軍、サンディエゴ市民、
どちらにとっても大変なイベントになったのでした。

この写真はすごいですね。
当時の軍艦は石炭艦なので、単縦陣で航行するとこうなるわけです。
まるで黒煙でビーズのように船が繋がれているように見えますね。

「ホワイトフリート」の名前の通り、艦体は全て白く塗られているので、
かろうじてその分だけが明るく白いのが何か不思議な構図です。

これは、サンディエゴ商人の熱烈な押しに負けて、(かどうか知りませんが)
ついにGWFがサンディエゴ沖に堂々その姿を現したところです。

ちなみに「グレイト・ホワイト・フリート」は当時は正式名称でもなんでもなく、
当時の大衆紙がそう名づけて記事に書いたのが始まりだそうです。

そしてこれがサンディエゴ商人に押し切られたところの艦隊司令。
なかなか凄みのある面魂を感じさせる軍人です。

と思ったらその名前も、

ロブリー・D・” ファイティング・ボブ”・エヴァンス少将

でした。
やっぱり写真に現れてくるものってありますよね。

そして、非公式にとはいえ、GWFのアンカーがサンディエゴ沖に降ろされたのは
1908年4月14日、ヴァージニアを出航してから4ヶ月後のことでした。

サンディエゴ市民が船でメキシコまで赴いてまで、司令官と交わした約束。
「ファイティング・ボブ」司令官は、約束を守ってくれたのです。

(このパネルのタイトルが『プロミス』であるわけがここでやっとわかりました)

サンディエゴ市民にとって、これは名誉なことであり、感激のひとときでもありました。
この時だけで、2万人もの市民が海辺に集まり、艦隊を熱烈に歓迎しました。

 

写真はこの時サンディエゴに寄港した8隻のGWFの船です。
しかしよく考えたら、いやよく考えずとも、この時サンディエゴには

港はなかった

のですから、そんな場所に海軍の艦隊を寄港(じゃないよね、厳密には)させるように
頼みに行った人たちの度胸は大したものだったと言えるでしょう。

艦隊が投錨している間、小さなボートがしょっちゅう艦体と錨の間を縫って
軍艦から人を乗せて陸との往復を忙しく続けました。

サンディエゴ市民の歓迎ぶりはとどまるところを知らず、岸壁では
あらゆるガラ・イベント(祝祭行事)が計画されました。

そしてこれが、「ファイティング・ボブ」が座乗していた旗艦、
USS「コネチカット」。
コロナド沖に投錨している周りには、小舟がたくさん待機しています。

 

◆ セレブレーション

ここではサンディエゴにおけるGWFの様子をお話しします。

沖に投錨した艦隊からは、サンディエゴ市が用意した蒸気ボートが
乗員を次々と乗せて岸に運搬を続けました。

岸壁には艦隊の乗員がきちんと整列して待っています。
彼らはこの後、このブロードウェイ・ピアからシティハイツまで
パレードを行い、市民はこれを暖かく迎えたということです。

「偉大なる大西洋艦隊が到着」

何千人もが船を見るために出かけた

彼らを声援しよう!

艦隊は今ここに!

のような見出しが踊ります。

艦隊から総出となる5千人の水兵たちは街をパレードし、
カリフォルニア州知事は彼らを歓迎するためにわざわざサンディエゴまでやってきました。

文中にある「The U.S. Grant Hotel 」は現在もあって、
その荘重な姿を残しています。

この一番左部分が昔の写真に見えていますね。

艦隊がサンディエゴに投錨していたのは4日間でした。
この間、市では委員会まで立ち上げて、艦隊を歓迎するために
舞踏会、市内観光ツァー、お茶会、そして演芸などが途切れることなく行われました。

この歓迎に対し、艦隊は64小隊からなるブルージャケッツ(海軍)と
海兵隊のオフィサーからなるパレードも挙行しています。

このパレードを実に7万5千人の市民が見たと言われています。

コロナド沖に投錨していた「ヤンクトン」の甲板で
乗り込んできたカメラマンの求めに応じてポーズをとる乗組員たち。

イブニング・トリビュートの紙面はこう始まっていました。

「それは”偉大なアメリカのアルマダ(艦隊)”が港にやってきたという
ただそれだけのことであったが、そのことは、この国の人々に
サンディエゴという街が地図上に存在していることを気づかせた」

写真は街をブルードレスで行進する水兵と観衆。

この訪問によって、海軍はサンディエゴという街を新たに心に留めるようになりました。

「サンディエゴは海軍に感謝し、海軍はサンディエゴに感謝した」

と当時の海軍広報も書き残しています。
互いにとってランデブーともいうべきその後の蜜月のきっかけとなったのは間違いありません。

艦隊を歓迎する行事に出席したり、彼らのパレードを見るために
人が集まってきたので列車の混雑がもう無茶苦茶、とか、
この件に関して市長が出した公式声明とか、とにかくすごいことになっています。

艦隊の皆さんも、他にはない歓迎ぶりに感動したに違いありません。

こうして一連のグレイト・ホワイト・フリート寄港招致と、その歓迎、
その後のこの地での海軍の発展を見ると、サンディエゴがその後
海軍の街になることは、他ならぬサンディエゴに住む人々が望んだ結果であり、
艦隊の寄港は両者を永遠に結びつけた、どちらにとっても
幸せな出会いだったのだと思わずにはいられません。



そして、サンディエゴが海軍の船を迎えるために新たに浚渫した港
(『ミッドウェイ』が現在係留されている突堤の横)に
USS「カリフォルニア」が堂々とした姿を現し、その錨を下ろしたのは、
グレイト・ホワイト・フリート寄港からわずか約2年後の1910年のことでした。 


続く。

 

 

 

 

潜水艦救難艦「ちよだ」引渡式 @ 玉野三井造船

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今週月火と二日間に渡り、怒涛の自衛隊行事参加を果たしてきましたので、
そのご報告をさせていただきたいと思います。

まず、時系列としては

19日夕 練習艦隊行事 大阪のホテルで壮行会

20日午前中から ちよだ引渡式 岡山三井造船

20日夕 練習艦隊「かしま」艦上レセプション大阪港にて


つまり関東から関西まで行って、さらに大阪と岡山の間を往復するということに。

せいりゅう引渡式の前日まで引いていた風邪もすっかり治り、
体調も万全だったわたしにとってもなかなかチャレンジング、
かつハードなスケジュールでもありました。

昨夜深夜に地元に帰ってきたときには在来線のホームで
震え上がったものですが、その後関東では冷え込んで、
今現在雪が蕾も膨らんだ桜の枝に白い雪の花を咲かせつつあります。

こんな天気で「ちよだ」引渡式が行われることにならなかったのは
全くもって良かったという他ありません。

画像処理の関係で無駄に大きくなってすみません。
というわけで、前日大阪の上本町で練習艦隊の壮行会に出席し、
その日のうちに岡山入りし、朝、岡山駅前から玉野まで
バス一本で行くことになりました。

いつ見ても猿の姿勢にウケる桃太郎像の横のバス停から出発です。

すごく変な意味で「琴線に触れるシェイプ」の駅前噴水も健在です。

バス停なので両備バスのキャラクター、故たま駅長デザインの
「たまバス」を見放題。

たまバスはご存知のように正面から見るとバスに猫耳が生えてるんですが、
この日わたしは大変なことに気づいたのでした。

このたまバス、猫耳の色はたま駅長と同じ左黒、右茶です。

ところが両耳黒い「たまバス」発見!
茶色い耳が品切れしてたのかな・・・。

岡山には「とらのあな」も存在するようです。

以上それがどうした情報でした。

バスは途中から瀬戸内海沿いを走ります。
直島に行ったときのフェリー乗り場近くの宇野駅前に、
謎のマスト状オブジェがありました。

アートの島、直島が近いせいか、駅前は彫刻などがたくさんあって、
これもその作品の一つ、これは日時計の針ということです。

バスは岡山駅から1時間弱で玉野の三井造船前に到着しました。

わたしたちの控え室も用意されていたはずですが、到着すると
顔なじみのウェーブさんが近寄ってきて、

「お電話させていただいていたのですが・・・」

なんでも現地入りする時間が早くなったので、控え室には行かず
直接バスに乗って岸壁まで向かってくださいとのことでした。

海上自衛隊を敬語で呼ぶと「海上自衛隊殿」になるのか・・。

ということに気づかされる歓迎の看板は、いつもここに掲げてある模様。
「ぶんご」は知っていましたが、LCACもここで作ってたんですね。

わたしたちの後何人かが乗り込んできて岸壁まで出発です。

現場に到着すると、ほとんどの招待客はもう席に着いて待っていました。
ここに来るのは「ふゆづき」の引渡式以来ですが、本日の天気は
あの時ほどではないにしろ、同じような雨模様の曇天。

この「ちよだ」進水式もその日の朝まで曇っていたし、
わたしがここに来ると雨が降るというジンクスは健在でした。

せめて「ふゆづき」の時のような土砂降りにならないことを祈るばかりです。

来客の中ではわたしたちが最後の入場となりましたが、その後、
防衛省、自衛官が入来し、最後に村川海幕長が来場しました。

本日は政治家ではなく、海幕長が主体の式となるようです。

呉音楽隊が「栄誉礼」を奏楽します。
お天気が怪しい野外での演奏時、金管は大丈夫ですが
クラリネットなど木管は濡れないようにカバーを掛けています。

儀仗隊の隊長が海幕長に凛々しい声で
巡閲の用意が整ったことを報告したのち・・・、

「巡閲の譜」の流れる中、儀仗隊長が先導して、
儀仗隊の隊列を「閲兵」して歩きます。

手前に立っているのは防衛装備庁長官である佐藤直人海将です。

続いて「ちよだ」のマストから、三井造船の社旗が降下されました。

さて、この状態で、今「ちよだ」は形式上「誰のものでもない状態」の「はず」です。

こののち、「ちよだ」乗員には自衛艦旗が授与され、それを初めて
艦尾に揚げて、この艦に命が吹き込まれる、という「設定」です。
(伏線)

しかしその設定がこの直後覆されることになろうとは。


始まりは不思議な空白でした。
皆が今か今かと待っているにも関わらず、司会は沈黙したままなのです。

沈黙が場を支配し、誰一人動かない中、呉地方隊の一人の一尉が
ラッタルを駆け上がり、舷側を全力疾走して艦内に突入していくのを
皆呆然と見つめていました。

後ろで何が起こっているか全く見えていない音楽隊の表情にも、
何事かを察したような普通ではないものが見て取れます。

この頃になると、観客席ではヒソヒソと

「何が起こったの?」

という会話が交わされ始め、わたしは自慢ではありませんが、
不思議な沈の直後から何かの事情で授与する自衛艦旗が調達されなかったらしい、
と推察していたので、

「多分中に自衛艦旗を取りに行ったんじゃないかな」

と隣のTOに向かって囁きました。

さらにはかつて「あきづき」の先任海曹室を見学した時、
「自衛艦旗」と書かれた箱を勝手に開けて(笑)中を見たことを思い出し、

「先任海曹室に多分予備があるはずだから」

とこの時そこまで大胆にも言い切っていたわけですが、
式典に出席していた自衛官と、この後の大阪でその話になって初めて、
その推察がほぼ正解であったらしいことを知りました。

そして、艦内から取ってきた自衛艦旗を式台に届けるために舷梯を全力疾走。

後から自衛官に聞いたら、この間、「あー」とか「あらあら」などと、
どちらかというとのんびり?見ていた一般人とは違い、皆背筋を寒くしていたとか・・。

地方総監副官が、盆に載せた自衛艦旗を式台まで運びます。

「ちよだ」艦長が三角に折りたたんだ自衛艦旗を海幕長より受け取りました。

自衛艦旗を左手に受け取ったまま、右手で敬礼。

ちなみに、今この画面で左端に見えているマイクの前の一佐は、
確か「ふゆづき」引渡式の時に、副長として自衛艦旗を受け取る立場でした。

慣例に従い、自衛艦旗は艦長から副長に渡されます。
副長はこの艦に「命を吹き込むべく」自衛艦旗を掲げて一番先に乗艦し、
後部マストにこれを掲揚させるのです。

この時に演奏されるのが儀礼曲「海のさきもり」ですが、今日は
これを歌っている女性歌手がよく見えました。
前回と同じ声、呉音楽隊の女性隊員(専門の歌手ではなく楽器担当)のようです。

「せいりゅう」の引渡式での「海のさきもり」を歌ったのと同じ方でしょう。
荘重でこの儀礼曲にふさわしい声の歌手だと思いました。

自衛艦旗が副長の手に掲げられて舷梯を進んでいきます。

もし先任伍長室にあったものだとしたら、このために
三角形に畳んでから持って出てきたのだと思われますが、
これを見る限りきちんとしていて、そんな様子には見えません。

大げさですが、いざという時、危機の時にそれをいかに対処するかを、
今回の海上自衛隊は「試された」と言ってもいいかもしれません。

行進曲「軍艦」が奏楽される中、「ちよだ」乗員が乗艦を行います。

舷側を歩いていって、このラッタルを登り後甲板へと・・・。

ところで、この階段を登る時、階段はリズムに合わせたのか、
右手だけでも手すりを掴んだのか、ちょっと気になります。

潜水艦救難艦という艦の性質上なのか、女性自衛官が少ないような気がしました。

色々とやり終えて、万感の思いこもる表情(多分)

全員が乗艦し、後甲板に整列が終わると同時に「軍艦」は終了。

今日の「軍艦」は、整列終了してから曲の終わりまでに8小節くらいかかりましたが、
ちょうど曲の終わりで演奏が(途中で切られず)気持ちよく終わり、
音楽隊長の判断にわたしは密かに拍手を送りました。

個人的な感想ですが、特に軍艦は最後まで行ってくれないと残念な気持ちになります。

 

軍艦終了後、サイドパイプ、号笛の音に乗って艦長乗艦が行われます。

海上自衛官にとって一つの艦を任されることは、わたしたちが思っている以上に
名誉であり男として(これからは女性も多々ありですが)
本懐というものであることを今回、元艦長という方から伺いました。

その話はまたいずれ。

続いて海幕長、海将が訓示と視察のために乗艦を行います。

色々ありましたが、いよいよ自衛艦旗掲揚。
こんな時に限って旗が竿に絡んでしまい、掲揚しているこちら側の人が、
旗をなびかせようと苦心しているらしい様子がわかりました。

この間、君が代が奏楽されるので、自衛官は敬礼、一般人は起立を求められます。

今日は政治家がいないので、艦内視察は海幕長が行います。
その間、音楽隊は会場の人々のために音楽演奏を行いました。

一曲目は先日の呉音楽隊定演で初演された委嘱作品「てつのくじら」。

その名の通り潜水艦を表す楽曲なので、本日の潜水艦救難艦の
引渡式にもふさわしいとして選ばれたのでしょう。

二曲目はいつも通り「国民の象徴」。
三曲めの前に今までの経験から

「宇宙戦艦ヤマトだと思う」

と予想したところ、正解でした。

視察を終えて舷梯を降りる際、自衛官は自衛艦旗に向かって敬礼を行います。

後ろから来ているブルーのネクタイの方は、三井造船社長です。

この後話した知り合いの地本勤務陸上自衛官が、
舷梯での自衛艦旗への敬礼について、

「全員がするとは限らないのが不思議なんですよね。
見ていると副官はしないみたいですし・・よくわからない」

とおっしゃっていました。
陸の人から見ると、やはり海の慣習はわかりにくい部分があるようです。

海将、海将補から少し遅れて、村川海幕長退艦。

もう一度儀仗隊長が海幕長に報告と捧げ銃を送ります。


というところで、引渡式は終了しました。

式典に際して自衛艦旗が用意されていなかったということは、
慣例に厳格に法って儀式を執り行う伝統の海上自衛隊にとって痛恨のミスに違いなく、
もしかしたら中では今大変なことになっているのかもしれません。


ただ、新たに与えられるべき自衛艦旗が、(諸事情により)艦内から調達された
自衛隊史上おそらく初めての船として「ちよだ」の名前は歴史に残ることは確かです。

海幕長が訓示でも述べたように、艦の気質は最初の乗員によって作られます。
(これって、引渡式の定型句だったのね)

乗員の皆さんは、このアクシデントを決して縁起が悪いなどとネガティブに捉えず、
むしろそれを跳ね返し、

「命を与えられる(自衛艦旗を与えられる)前に自らの力で
(艦内の予備の旗を探して来て)自らに命を吹き込んだ船」

である誇りを持ってこれからの「ちよだ」を作り上げていかれることを望みます。

そしてこの件には、全てが救われ、むしろこの引渡式を印象深いものにし、
これこそが海上自衛隊の本領発揮と言ってもいいような「オチ」が存在するのですが、
それについては次回お話しさせていただこうと思います。


 

続く。

祝賀会での出来事〜潜水艦救難艦「ちよだ」引渡式

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さて、潜水艦救難艦「ちよだ」に自衛艦旗が兎にも角にも授与され、
引渡式は終了しました。
式典会場からバスで工場の入り口付近に戻り、祝宴会場に移動です。

今回の列席者は多くて従来の迎賓館?には入りきらなかったのか、
会場は二つに分けられ、制服や防衛省関係以外の一般人は
ほとんどがこちらの会場に案内されました。

三井造船と自衛隊旗のクロスしたテーブルの飾りもないし、
あくまでも向こうとの比較ですが、雰囲気的にはちょっと残念な感じです。

テーブルの端には完工記念のパンフレットが誰でも取れるように重ねてありました。

排水量 基準5,600t / 満載7,100t
全長 128.0 m
最大幅 20.0 m
深さ 9.0m
吃水 5.1m
機関 ディーゼルエンジン×2基
推進 可変ピッチ・プロペラ×2軸
速力 20ノット

とスペックが書かれています。

今回は軽いというだけの理由で単焦点レンズを持って行ったので、
せめてお料理を美味しそうに撮ることを心がけましたが、向こうの会場と違い、
蛍光灯の照明の下では、さすがにこれが限度。

海自が絡む祝賀会、特に造船会社主催の宴席には必ず尾頭付きが乗ります。
鯛がカメラ目線で写っているわけですが、こういうの外国人は苦手なんですよね。

そういえば練習艦隊旗艦「かしま」が世界各地で艦上パーティを行う際に
このような「尾頭付き刺身」を出すのかどうか、ちょっと興味があります。

海幕長も三井造船の幹部も向こう側にいるので、こちらの会場では
乾杯の音頭が向こう会場の様子を放映するモニターから流れるのですが、
そのせいなのか、会場に入るなり飲み物もなしで料理を食べ始める人続出。

ご飯は「いただきます」してから食べると躾けられなかったのか?

わたしなどこういう光景を見るとお行儀が悪い!と思ってしまうんですが、
世間一般の常識的にはこれってどうなんでしょう。
最近パーティに行くと必ずこの手の人を見るので、自分の基準に自信がなくなってきました。

会場ではトレイに乗せたカレーを配って歩いていたので、一ついただきました。
「三井造船ビーフカレー」はまろやかでコクがあり、
その割には具が存在を主張していて、好みの味でした。

潜水艦救難艦「ちよだ」は平成26年度ここ玉野で進水式を行っています。
その式典に立ち会い、「ちよだ」誕生の瞬間を目撃してここでお話ししたのはもう1年半も前のことです。

進水式の時会場では写真が禁止されていて、進水の瞬間を撮ることはできませんでしたが、
今では三井造船の手によってこのような映像記録にまとめられたものを見ることができます。

会場には2箇所に大きなモニターがあって、このビデオ映像がエンドレスで流れていました。
乾杯の発声などの時にはビデオは中断され、本会場のカメラと切り替えられます。

進水式を控える「ちよだ」の雄姿。
艦番号404の上部に架けられた紅白の幕で艦名を隠しています。

命名式の時に執行者が「本艦をちよだと命名する」と言った瞬間、
幕が取り外されて、艦に名前が与えられるというわけです。

続いて三宅由佳莉三等海曹が国歌を斉唱。

進水式参加をここでご報告した時にも進水の仕組みについて説明しましたが、
実際のこの映像があればもっと分かりやすかったですね。

進行を見ている人に行程ををお知らせする昔ながらの看板は、その行程が終わったら、
パネルを斜めに倒すと、正面から見えなくなるという実に賢い仕組みです。

今は2番の「行止支柱」、船の行き脚を止めている支柱を外しています。

上の看板には一般人にもわかるように「安全ピン」と書いてありますが、
支鋼切断すれば、艦体が転がっていくように、全ての安全装置を取り外す工程です。
作業員の左手の先に積まれているのがその安全ピンです。

これらの作業を行う時、作業員は全力疾走です。

防衛政務官による支鋼切断の瞬間。

造花に囲まれた専用の台に設置してある支鋼を文字通り切断します。

それを一本切断するだけで、ピタゴラスイッチのように、まずシャンパンの瓶が
艦首で割られ、くす玉が開き、巨大な艦体がスルスルとレールを滑り落ちていきます。

艦体の向こう側にたくさんの見学者がいますが、玉野市が見学を呼びかけて
一般市民に来てもらおうという企画に応募した人たちです。

関係者として列席するよりこちらの方が遠慮なく撮ることができたのですが・・。

レールの上を転がり、走っていく艦体。

作業員の前を轟音をあげながら通過していく艦体の艦腹に見えているのが、
「ちよだ」に四基備え付けられているという、サイドスラスターだと思われます。

潜水艦救難艦という性質上、自力で横にも移動できるようになっているんですね。

さて、そんな進水式の場面を眺めながら歓談していると、本会場における
乾杯の音頭や来賓等の挨拶のたびに画面が切り替わります。

金屏風の前には海幕長始め海将、海将補が並び、その向かいに三井造船側の幹部がいます。
ここでは自衛隊は三井造船の「お客様」なのですね。

そして三井造船の社長の挨拶に先立ち、村川豊海幕長の挨拶が行われました。


ところで、午前中の式典における「自衛艦旗未調達事件」は、おそらく
この場にいた関係者に重い影を落としていたと思われます。

今回は単純に、現場の手違いというようなミスですが、しかしながら
その対象となったものは、自衛隊にとってその魂というべき自衛隊旗。

伝統墨守を旨とする海上自衛隊たるもの、その扱いに不手際があったとなれば、
一般人はともかく、自衛官たちの内心は華やかな現場とは裏腹に消沈していたかもしれません。

 

例えば前回の「せいりゅう」引渡式の祝賀会で、出席した防衛副大臣が冒頭、
その日森友学園関係の集中審議の初日であったことを受けて

「ただいま国会では色々と大変な審議が行われているわけですが、
ここではそういったことは忘れて歓談し料理を楽しみ、
せいりゅうのこれからを祝福しようではありませんか」

と挨拶をし、笑いと暖かい拍手を受けたものですが、国会議員が心配する
政局なんぞと一緒にしてはいけないとはいえ、今回のように、そこにいる者が
心に留めている「一点の曇り」について、それをなかったことにするか、
副大臣のように少々自虐的でも、口に出してあえて笑いとばすか・・・。
こういう場でスピーチをする人間は、重大な選択を迫られることがあります。

 

海幕長はこの場における自衛隊の長として、そのどちらでもない、
言うなれば「ネイビー・ウェイ」ともいうべき第三の選択をされたのでした。

まず、式進行上ミスが起こってしまったことについて真摯に謝罪し、その上で

「ああいうことになって、自衛艦旗がいかに大切なものであるか、
我々はそのありがたさを痛感いたしました」

と述べたのです。

この一言で、本会場はもちろん、モニター越しにスピーチを聞いていた
(静まり返って誰も私語を交わす人はいなかった)別会場においても、
ほとんど”どっ”という感じで笑いが起き、気のせいか場はそのせいで明るくなりました。

もちろんわたしのいた会場には自衛隊の指揮官クラスの関係者はいなかったので
明るくなったといってもそれは本会場の比ではなかったでしょうけど。


海上自衛隊で例年行われる練習艦隊出航の際の訓示においては、海幕長は
シーマンシップを身につけるための訓練を乗り切る航海において

「帝国海軍伝統のユーモアを大事にして欲しい」

と必ず付け加えて述べるのが慣例になっています。

ユーモアは船という運命共同体を住処とするネイビーにとって、強力な
潤滑剤であり、時として救急薬であり、また修復材ともなるクレドの一つなのです。

 

その意味では、伝説となった、

「女王陛下のキス」

事件で、練習艦隊旗艦「かしま」に流されて接触してしまい、謝罪に訪れた
英国艦「クィーン・エリザベス」責任者に対し、当時の練習艦隊司令官が

「女王陛下にキスされて光栄に思っております」

という言葉を贈って彼らを感激せしめたのは、ユーモアを旨とするネイビーの
真骨頂とも言えるものであったと云えましょう。


村川海幕長が、そのスピーチで、

「自衛艦旗がいかに大事なものか」

といった時、多くの者の脳裏にはまず、自衛艦旗が一刻も早く届けられますように!
と祈るような全員一丸の気持ちにあった岸壁でのひとときが過ぎったに違いありません。

そして、次の瞬間、自衛艦旗の「精神的重要性」と「物理的重要性」を
さらりとかけたこの一言によって湧き上がった笑いが、まるで全てを昇華させるが如くに
その場の空気を変えたのを、わたしは奇跡のように感じていました。

責任者として謝罪しながら誰も傷つけず、失敗した部下を気遣い思いやる気持ちが
遺憾無く発揮された、わずか一行分の、しかし大きな意味を持つユーモア。

個人的な意見ですが、わたしはこの一件をもって
村川海将を名海幕長と呼ぶことに吝かではありません。

 

そのまま和やかな雰囲気で祝賀会はおひらきになり、一同はもう一度岸壁に戻りました。

母港の横須賀への出航を見送るため、日の丸と旭日の紙でできた小旗を
手に手に持った列席者を乗せたバスが出航準備の整った「ちよだ」の待つ
三井造船の岸壁へと向かいます。

 

続く。

 

 

出航見送り〜潜水艦救難艦「ちよだ」就役@三井造船玉野

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「ちよだ」引渡式典に立ち会った話を始めて三日目にして、
わたしは先代の「ちよだ」が

潜水艦救難”母”艦

であり、この日就役した「ちよだ」が

潜水艦救難艦

であることに気がつきました。

潜水母艦とは、前進根拠地や泊地などにおいて潜水艦を接舷させ、
食料、燃料、魚雷その他物資の補給を行う役目を持ちます。

また狭い潜水艦乗組員が手足を伸ばして過ごせるようなの休息施設もあり、
先代「ちよだ」はこの設備と救難設備が併設されている、ということで
このような艦種に定められることになりました。

 

新しい「ちよだ」は災害発生時に被災者を収容することも視野に入れているので、
当然ながら潜水母艦としての役割も果たすと思われますが、
それなら「母艦」という言葉を外したのはなぜでしょうか。

 

さて、引渡式を終え、母港横須賀に出航する「ちよだ」の見送りのために、
わたしたちは祝賀会場からバスで再び岸壁まで移動を行いました。

午前中までパイプチェアが並んでいたテント下は、片付けられ、
見学者は立って出航を待ちます。

艦長、海曹、海士代表に花束贈呈を行うメンバーが、
(ミスナントカ見たいな広報担当と三井物産の社員)
軽くリハーサルなどしながら和んでいます。

「あの信号旗はなんか意味があるんでしょ?」

と顔なじみの防衛団体の偉い人が言い出し、さらに
市ヶ谷のグランドヒルに売っていたという信号旗一覧のハンカチを出して、
ああでもないこうでもないと解読しようとしているので、

「たて三つ並んでいるのは上二つが『ご安航を祈る』で、
一番下に日の丸みたいなのをつけることで
『ご安航を祈る』に対する返事になるんですよ」

と教えて差し上げました。

同時に、少し前まで何も知らなかった自分が、門前をウロウロしているうちに
いつの間にか習わぬ経を少しは読めるようになったことに気づきました。

出航の式典に何度か立ち会って気づいたのは、どんな式典にも必ず一人か二人、
「ご安航を祈る」のマイ信号旗を持参してきている人がいることです。

 

出航準備を終えた状態で、舷門の要員も起立して待機中。
遠目に見ればきっちりと並んでいますが、アップにしてみると
表情はまだオフ状態のようにリラックスした様子が見られます。

艦尾側は海曹中心。
出航作業をする&帽触れ要員。

音楽隊員も待機。
大雨になりませんでしたが、この頃にははっきりとわかる
雨粒が落ちてきていました。
木管楽器は専用の雨カバー装備です。

「ふゆづき」の就役の時には、最初からものすごい土砂降りだったわけですが、
確かその時の音楽隊はテントの下にいた記憶があります。

出航準備の整ったファンネルからは薄い黒煙が絶え間なく立ち上っていました。

開始時間になり、全員が起立して姿勢を正します。

黒塗りの車で海幕長と呉地方総監が来場。
後ろを歩いている鞄を持った一尉は海幕長副官です。

副官は潜水艦徽章、地方総監は航空徽章をつけていますが、
戦闘種出身ではない海幕長の胸には徽章がありません。

あらためて、村川海幕長が、戦前戦後通うじて初めて出現した
経理補給部隊出身(旧海軍なら主計科)出身の制服トップであることを
この写真によって思い出しました。

ご本人が就任の際そのことを記者から質問されて、

「オペレーションとロジスティクスというのは、
一体化してやっていかなければいけない。
どんな職種の者が海幕長になったとしても、そのことは
考えなければいけない重要な課題である」

というようなことをおっしゃったと聞きます。

海幕長が到着すると、すぐさま式典が始まりました。
海自の式典はスケジュールが分刻みで決まっているので、
さくさくと物事が進んで待たされることもなく、小気味好い感じです。

まずは三井造船とミスなんとかから「ちよだ」乗員代表への花束の贈呈。

そして初代艦長布田英二一佐があいさつを行いましたイージス艦と同じく潜水艦救難艦艦長職は代々一佐が務めます。

∠( ̄^ ̄)敬礼。

そして艦長乗艦です。
布田一佐は前職が潜水艦隊司令部ということなので、
職種潜水艦ということなんだと思います。

そこからがちょっとドラマチック?でした。
艦長が乗艦すると、艦橋にまっすぐ向かうことになっているので、
普通の?艦は舷門から一旦姿を消すのですが、「ちよだ」は構造上、
舷門から艦橋まで外付けの階段が続いていて、それを登っていくので
皆は

「はえ〜」

と(いう感じで)それを見守ることになったのです。

しかしこの階段、ほぼ垂直でほとんどハシゴですね。
上りはともかく、降りるときは自衛官でもちょっと気をつけないと・・。

なお海が時化ている時には下を見たら軽く死ねる模様。

そんな階段を艦長はいとも軽やかに駆け上っていくのでした。

ところで、今回わたしは軽いということだけを根拠に、単焦点レンズを
一眼レフのために購入して無理やり全行程を撮影していたわけですが、
単焦点レンズというのはご存知のようにズームができないので、
撮りたい対象物に自分で近づいていかなくてはなりません。

当然自衛艦の艦橋の上をズームアップすることはできませんので、
一応その辺りを写しておいて、あとで切り取るしかないわけですが、
幸いD810というカメラは(呉地方隊のカメラマンが同じのを持ってた!)
伊達に3,635万画素!驚異の解像力!などと謳っておりません。

この通り、画面のごくごく一部、ピンの先くらいを切り取っても、
とりあえず誰かわかる程度の解像度を維持しているので感心しました。

やっぱり一眼レフとミラーレスの間には超えられない壁があるわ・・・。

艦長が乗り込むと同時に舷梯の収納作業が行われます。
「ふゆづき」などと違って、あくまでこちらは人力で持ち上げる模様。

「案外原始的なやり方で片付けるんですねー」

周りの人が言っていました。
軍艦は半端でないいろんな先端機能を搭載するのが精一杯なので、こういう、
人間が苦労すればなんとかなる部分にはお金をかけてないってことだと思います。

知らんけど。

こちらでは舫を外す作業が始まりました。
表向きにはこの日初めて舫を外した、という設定だけあって、
扱われている舫が真っ白で綺麗です。

岸壁側の舫を外すのは三井造船の社員です。

舫の作業で安全旗をあげているハンサムな女性海曹!
うーん、かっこいいっす。

舷梯は引きあげられ、艦内に姿を消しました。
画面右下は雨除けをしたスピーカーです。

出航ギリギリまで作業は続きます。
確かこの頃、出航ラッパが鳴り響きました。

舷梯が片付けられ、舫が放たれると、

「見送りの方は前方にお越しください」

とアナウンスされ、皆テントから出て岸壁に近づいていきます。

艦橋の艦長、船務長らが厳しい目で見つめるのは、
艦体が岸壁を離れる瞬間。

そしていよいよ岸壁から艦体が離れ始めました。

この頃から皆は配られた紙の旗を振り始めます。

「帽〜振れ!」

女性海曹ここにも発見。

舫の収納される籠も、舫の白も真新しい感じがここから見てもわかります。

「ちよだ」はこのあと横須賀の潜水艦隊第二潜水艦群に配備されます。

「帽触れ」をしている時間は案外短いものです。
帽子を振っている人を全部写真に撮りきることは大抵できません。

「帽戻せ」。

「ちよだ」は同名の潜水艦救難艦がこの日まで存在していました。

先代「ちよだ」の艦歴を調べると「3月20日退役」となっています。
つまり、こちらの「ちよだ」が就役すると同時にどこかで(多分横須賀)
その役目を終えたということになります。

後継艦が同じ名前を引き継ぐ例は「しらせ」「むろと」と
この「ちよだ」ぐらいしか例がないということです。

「ちよだ」が岸壁を離れると、雨の量が増えていたこともあり、人々は
皆テントの下に戻ってバスの到着を待つことになりました。

そんな中まず最初に海幕長が退出します。
海幕長の視線の先には三井造船の社長がいます。

造船所の門まで皆を移送するバスに乗り込みました。
窓の外、岸壁にこれから船につける巨大なスクリューがその置き場に設置してありました。

これは何トンクラスくらいの船のスクリューですか?

というわけでようやく正門前に到着。

わたしたちは出席していた地元経済界の大物(今はリタイアして
孫が可愛くて仕方がない普通のおじいちゃん)だった方に岡山駅まで
送っていただくことになり、その方の車を待っていました。

この頃は(日本人的には)かなりの雨が降っていて
向こうの迎賓館の前では、VIPが車に乗るまでに濡れないように
社員が傘を一人2本ずつさして屋根付き通路を作るという、
日本の会社組織ならではの美しい光景が展開されていました。

 

わたしはこの後新幹線で大阪まで行き、夕刻から大阪港に寄港している
練習艦隊旗艦「かしま」上での艦上レセプションに参加しましたが、
そのことについては前日の壮行パーティからお話ししたいと思います。

ところでこの「ちよだ」の救難艇があると思われるブリッジ状の構造物の上の、
ここから見ると糸車のような構築物は一体何なのでしょうか。

「深海救難艇」DSRV

を操作するものではないかと推察しましたが、どうでしょうか。

 

終わり

 


大阪では笑いを 東京ではマナーを〜練習艦隊寄港行事@大阪

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このエントリ制作を、オヘア空港のユナイテッドラウンジでやってます。

事情があって、この週末からしばらくニューヨークに行くことになり、
シカゴに降り立ったら気温が2度でした。
さらに今から行くところも最低気温は余裕で零下という噂に慄いています。

練習艦隊行事と「ちよだ」引渡式の時にあまりに寒く、続いて
関東では雪が降って震え上がった先週ですが、今は確実にそれより寒い世界へと・・。

どうなるわたし(笑)

 

さて、ブログの進行上、玉野で行われた「ちよだ」の引渡式を先にしましたが、
今日は一日遡って、その前日の大阪で行われた練習艦隊の壮行会の話をします。

3月17日、卒業式を行い江田島を出航した練習艦隊は、まず呉港に一泊したのち
3月19日、大阪港に錨を下ろし、そこで二日にわたる寄港行事を行いました。
わたしがご招待いただいたのは、まずその最初の行事である、
大阪の水交会が主催という形で行われた練習艦隊を囲む夕べ的なパーティです。


写真編集の関係で無題に大きな画像ですみません。

今回驚いたのが、新幹線の新大阪駅周辺がやたらとこぎれいになっていたこと。

新幹線から地下鉄御堂筋線に乗り換えるコンコースなど、昔は暗くて何もなくて、
実に殺伐とした雰囲気だったのに、いつの間にか同じ場所に、小洒落デリの最高峰?
ディーン・アンド・デルーカのカフェなんぞができていたので、
ついふらふらと入って、これから宴会だというのにサラダを頼んでしまいました。

◆ 会場

壮行会会場は上本町駅の上にあるシェラトンです。
上本町も昔知っていた頃とは全く別の街になっていました。

受付では会費1万円也をお支払いいたしました。
出席者が練習艦隊の皆さんを激励するためにもてなし、練習艦隊側は、
翌日の艦上レセプションでこれに対する返礼を行う、という形のようです。

会場入り口には政治家からの祝賀電報が所狭しと展示されていました。

ちなみにこのアイラブオオサカの中山泰秀参議院議員は、中山正暉氏のご子息で、
おじさんが中山太郎、お祖母さんが中山マサ(日本初の女性閣僚となった政治家)、
政治一家の世襲議員です。

マサさんは父親がアメリカ人ですが、濃い顔の血が受け継がれていますね。

◆ 練習艦隊入場

練習艦隊は大阪港に入港したあと、会場に直接やってきたということです。
練習艦隊司令官泉博之海将補を先頭に、まずは練習艦隊幹部が入場。

練習艦隊の新任幹部が軍艦行進曲が流れる中、金屏風の前に整列を行います。

入場してくる訓練幹部の皆さんを見ると、全員が横刈り上げの短髪で、
上の方の人たちよりいわば画一的な髪型をしているように思えます。

皆が同じ理髪店で有無を言わせず同じ髪型にされてしまうのか?

それとこうして見るとやはり眼鏡をかけた人が多いですね。

まず全員で国歌斉唱を行いました。

このあと練習艦隊の「かしま」「しまゆき」「まきなみ」艦長、
そして練習艦隊幕僚の皆さんが挨拶をされました。

◆練習艦隊司令官の挨拶

そして練習艦隊司令官、泉海将補のご挨拶。
この表情だけでなんとなくどんなことを言っているかわかりそうでしょ?

実は司令、

「ユーモアは海上自衛隊の海軍時代から続く伝統となっております。
ここ大阪といえばお笑いのほんばです。
練習艦隊は大阪でお笑いの精神を学び、東京ではマナーを学びます!」

ということをおっしゃってるんですねー。

ユーモアと大阪のお笑いは少々方向性が違うと思わなくはないものの、
これには会場も大ウケで、

「なんや、ワシらのマナーが悪いとでも言いたいんかいな」

などと気色ばむユーモアのわからない大阪人などいません。(多分)

今回、練習艦隊行事と「ちよだ」の引渡式、どちらにも出席した自衛官が、

「あの海幕長の挨拶といい、練習艦隊司令官のスピーチといい、
伝統のユーモアは健在だと改めて思わされましたね」

と最後の日に評していましたが、何しろ新任のうちから口を酸っぱくして?
箸の上げ下ろしのたびにユーモアユーモアと連呼する組織だけのことはあって、
その伝統は脈々と息づいていることが、今回も立証されたのでした。

◆一般大卒自衛官

泉海将補は一般大卒(早稲田大)と聞きますが、最近将補に栄進された
知己の自衛官も一般大ですし、存じ上げる限り一般大卒の司令官は少なくありません。
海自ではもはや防大でないと出世できない、というようなことは全くないようですね。

 

ところでこの日、会場でお会いした旧知の一佐が、手近にいる新任幹部を捕まえては
ちょっとしたインタビューのきっかけを作ってくださったので、
比較的引っ込み思案のわたしにしては()驚異的にいろんな話が聞けました。
話のとっかかりはまず無難に、

「防大か一般大か」

から入りますが、北海道の大学を出たという人、東京の私大卒という人などもいて、
一般大卒が思ったより多いという印象です。

ここで思うのは、一般大を出た人というのは、
卒業すれば自衛官になるのが当たり前の防大卒と違い、

「職業選択の結果として」

ここ自衛隊にいるということです。


わたしがこの日お話しした一佐も国立大卒で、専攻した学部卒では
自分の望む就職ができないということから自衛隊を選んだということでしたが、 
もちろん動機はさまざまで、最初から

「船乗りになりたくて」

幹部学校にやってきたという人もいるわけです。

ちなみにこの人になりたい職種も聴いてみると、なんと掃海隊でした。
一般大にいてよく掃海隊なんて知ってたなあ、と正直かなり驚いたものです。

気のせいか、食べ物が無くなるのがどの祝賀会より早い(笑)

ここにお皿を持ってぼーっと立ったまま、列が向こうに移動してくれるのを待っていたら
どんどん後ろからなだれ込んできて、いくら並んでいても無意味だとわかりました。

大阪っちゅうところは、ぼやぼやしてるもんに甘い世界やおまへんで〜。

 

◆ 宝塚歌劇団

飲食が始まる前、大阪での寄港行事としてはもう伝統となっているイベント、

宝塚歌劇団の有志による歌のステージ

が行われました。
まず、最初に宝塚のお嬢さん三人が登場して、練習艦隊の新任幹部代表
(おそらくクラスヘッド)に花束を贈呈します。

そして、ステージに袴姿に草履という伝統的なタカラジェンヌファッションで
男役二人、女役一人が立ち、ミニショーを行うという趣向。

 

聞いたところ、このイベントは今の将官クラスが練習艦隊に出た時には
すでに慣例として行われていたということです。
そういえば、宝塚歌劇団と自衛隊って、教育という点で似たところもあるかも・・。

 

練習幹部は後ろに気遣って中腰になってかがんだままの鑑賞です。
そんな姿勢でしんどくないのかとつい心配してしまいましたが、
彼らは足腰を日頃から鍛えているのできっと何でもないのでしょう。

タカラジェンヌはまず三人で「ビバ・タカラヅカ!」「すみれの花咲く頃」
ともう一曲の宝塚のテーマソング的なものを歌い(よく知らないのですみません)、
練習艦隊幹部に激励の言葉を送りながら一人一曲ずつ歌を歌いました。

面白かったのは、男役と娘役は同じ曲を歌っても一オクターブ違いで、
娘役はほぼ絶叫状態で、男役はどす低い声で歌っていたことで、それは
最後の自衛隊の公式隊歌?「海をゆく」の時も同じでした。

昔から「海をゆく」が歌われていたのかは、もう何十年も前に練習艦隊だった
自衛官は「覚えていない」ということでしたが、この日宝塚の人たちが
ちゃんとカラオケを用意していたところを見ると、最近の定番のようです。

ところで、会場入りの時から、繰り返しアナウンスで

「演技中の宝塚歌劇団の写真はご遠慮ください」

と注意がされていたのに、歌の途中で写メを撮っているおじさんが
わたしの周りだけでも二人いました。


 ◆海をゆく

ところである現役自衛官はこの時、

「わたしは『海をゆく』を歌うとき、心の中で、いつも元の歌詞を歌っています」

とおっしゃっていました。

当ブログでは昔、警備隊時代に生まれたこの曲の最初の歌詞、

「男と生まれ 海を行く」

が時代に合わないということで、最後以外全部変えられてしまったことを取り上げ、
私見から「改悪だ!」などと散々文句を言ったものですが、
(これ、今にして思えば公募で当選した作詞者には大変失礼?)
やはり同じように思っている現場の人も少しはいるらしいことがわかりました。

 

かつて東京音楽隊長を務められた谷村政次郎氏もこの点同じ考えで、
そのご著書の中で(今出先なので文章は正確ではないですが)

「男と生まれ、の部分はそのままにしておいて、女性は女と生まれ、
とその部分だけ別の歌詞を歌ってもよかったのではないか」

とおっしゃっておられます。

かつて「海の民なら男なら」という出だしの戦時歌謡があったわけですが、
「海の男」という完璧な一つの概念となった言葉と比べると、「女と生まれ」というのは
はっきり言って歌詞としてあまり美しくないと個人的に思うんですよね。

よって、わたしの考えは、男を「漢」として、拡大解釈すればいい、つまり

「おとこと生まれうみをゆく」

のままでよかった、というものです。

つまり徹頭徹尾「変えるな」ってことですね(話になら〜んw) 

昨年度の練習艦隊は、大阪には「諸事情」により寄港しませんでした(意味深)
そのせいなのかどうかはわかりませんが、大変な盛会です。

 ◆ 自衛官と方言

わたしは練習艦隊の艦上レセプションには何度か出させていただきましたが、
よく考えたら地元が主催する壮行会は初めてなので、国内の各寄港地で
歓迎会が行われる時、その土地出身の幹部を紹介する慣習を初めて知りました。

居並ぶ幹部の中から、大阪府出身、兵庫県出身、京都府出身、そして
奈良、三重、和歌山と近畿出身の者の名前を読み上げ、紹介するという趣向です。

出席している地元出身の幹部の家族にも喜ばれるでしょう。

 

この時、多くの関西出身者の元気な返事を聴きながら、

「この人たちは全員大阪弁スピーカーなのか・・」

とわたしは割と当たり前のことを考えていたのですが、同時にふと、
日頃接する自衛官の喋り方に全くお国訛りがないということに気づきました。

「オフになるとやっぱりお国言葉になるんですか」

広島出身という自衛官に聞いてみると、どうもそのようです。
仕事の時にはオンスイッチが入って、敬語の標準語になり、
自分のことは『私』というと言ったお定まりの喋り方になるのです。

防大や幹部学校に入った時点では、方言しか喋ったことがない青年も、
いつの間にか公務の時には標準イントネーションで話しているのでしょう。

冒頭の「手当たり次第捕まえてインタビュー」の機会に
そのことも質問してみたのですが、

「私は関東出身なので、全く違和感がありませんでした」

という人以外は、ほぼそういう経緯で自衛隊喋りを身につけているようでした。
旧軍の昔と違って、今では皆テレビやラジオでいわゆる標準語を聞いて育つので、
頭を切り替えさえすれば、さほど苦労せずとも標準アクセントで喋れるのです。

ただ、インタビューした中に、例外として、

「自分は関西人でもなんでもないのに、防大の部屋のメンバーが
たまたま強力な大阪人ばかりなのでうつってしまった」

というかわいそうな人もいました。

「あー、大阪人はね・・・」

「どこに行っても絶対に大阪弁しか喋らないから・・」

と思い当たる節のあるわたしたちは深く頷きあったのです(笑)

大阪人が大阪弁しか喋らないというのは、フランス語しか喋らないフランス人の
エッフェル塔並みに高いプライドとかいうのとは違って、

「東京弁や標準語を話す自分に照れがあるorカッコつけてるみたいで恥ずかしい」

という意識からくるのではないか、とわたしは兼ねてから思っているのですが、
そんな大阪人も、自衛隊では公務の時には普通に標準語になるから不思議です。

 ◆ 志望職種

インタビューでは、どこの職種に行きたいか、というのも聴いてみました。
航空で回転翼、と答えた新任幹部がいたので、

「SHですか」

と聞くと、

「MCHです」

MCH-101は2008年に導入されたばかりのヘリコプターで、
海上自衛隊の保有数はまだ10機しかないため、
多分SH-60より狭き門になるのだと思われます。

航空と潜水艦は身体条件が厳しいので、それだけでも限られた人になりますが、
さらにその中の新鋭機となると、大変な競争率になることは容易に予想されます。

「どうすれば、つまりどうなれば自分の志望するところに行けますか」

と、当事者には答えにくそうな質問をしてみたところ、その幹部は

「毎日自分に与えられたことを着実にこなして行くしかないと思います」

即座にまっすぐで真っ当な返事が返ってきて、正直わたしは感動しました。


皆さん、ぜひ夢見た自分の将来の姿を実現させてください。

 

続く。


練習艦隊旗艦「かしま」艦上レセプション 於 大阪天保山

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大阪上本町のホテルで行われた練習艦隊壮行祝賀会の翌日、
岡山の玉野三井造船における「ちよだ」引渡式を終えたわたしは、
同日の夜、また再び大阪にとんぼ返りすることになりました。

大阪港天保山に係留している「かしま」艦上でのレセプションにも
ご招待をいただいていたからです。

岡山を出る頃にはすっかり本降りになっていた雨は、ここ大阪でも
傘が必要な程度には降り出していました。

わたしは地下鉄に乗り換え新大阪からなんばまで行き、
地上に出てタクシーを拾うことにしました。

幸い運転手さんは混雑している幹線道路でなく、
裏道を行ってくれたので思ったより時間はかからず現地到着。

前日とこの日、練習艦隊のうち「まきなみ」のみ、
一般公開が行われていたということです。

その一般公開に、たまたま周りに来ていた中国人観光客が押しかけたらしく、

「中国人なんか入れるな!」

と他の見学者が影でブーイングをしていたとあとで聞きました。
見学者に国籍条項を付けていない以上、観たいと行ってくれば
入れないわけには行かないんでしょうけど・・。

そういえば、前もって登録と申し込みが必要な防衛省内の見学を、
(超法規で)させてくれ!と門の前で騒いでいる中国人を見たことがありますが、
この人たちって、旅行先の国家に対する礼儀というか遠慮というか、
畏れみたいなものを欠片でも持っていないんでしょうか。

これは退出してから撮った写真です。

タクシーで埠頭のギリギリまで付けてもらい、柵で区切られたゲートを入る時、

「招待状をお見せください」

バッグから封筒を出しかけたら、角がチラッと出たところで

「もう結構です。あちらの受付で手続きをしてください」

テント下で受付をし、名札をもらうと、自衛官が一人、
艦内の会場入り口までエスコートしてくれます。

事情があって開宴ギリギリになってしまったので、
「かしま」の舷梯をのぼって、後数段で舷門に辿り着くという時、
自衛艦旗掲揚のラッパが始まってしまいました。

「ああ〜、旗の掲揚、間に合わなかった・・・・」

わたしは心の中で呟いたのですが、その時、
舷門に上がったエスコートの自衛官が立ち止まりました。
しめた、ここで彼が敬礼してくれていると、一緒に自衛官気分が味わえるなと
ちょっと期待したのですが、立ち止まった次の瞬間、周りの自衛官が、

「立ち止まらないで!」「いいからお送りして!」

と一斉に声をかけたので、エスコート係はまた動き出しました。

「え・・・敬礼しなくていいんですか?」

と心底残念そうな声で(笑)尋ねると、その自衛官は

「旗掲揚の時、任務遂行中であれば敬礼はしなくてもいいことになっています」

なんだー、じゃなんであなたはさっき一瞬立ち止まったの?
それはともかく、その「任務」とは、わたしをエスコートすることって意味ね。

とそれはそれですごく嬉しくなってしまったわたしでした。

荷物を預けて会場に入ると、ちょうど誰かの挨拶が終わったところでした。

どういう状況かわかりませんが、到着してすぐに撮った写真。
「まきなみ」の今若艦長であったと記憶します。

「皆さま、本日はこちらにお酒もございますので、ぜひどうぞ!」

みたいな感じかな。

さすが「かしま」の宴席料理、尾頭付き刺身は一匹にあらず。
しかし、この写真をよく見ていただければお分かりのように、
こちら側のアワビの殻には一片たりとも残っておりません。

わたしが到着したのは開始時間と同時だったはずなのですが・・・。

流石にフルーツタワーまでは誰も手をつけておりませんが・・・。
それにしても、全てのフルーツを飾り切りしてあるのがすごい。

練習艦隊専用の舟盛りには、「練習艦隊」の旗(のつもり)が・・。

松の木や造花の飾り付けなども、他の船では見られないものです。

こちらの刺身盛りもほぼ壊滅状態。
始まるなり、皆刺身に殺到したんですね。

ただ大阪の名誉?のためにいっておくなら、この食べ物の
盛大な消費の主原因は、ここが大阪だからというより、参加者の
若くて食欲旺盛な新任幹部が怒涛の勢いで食べつくしてしまうから、
といったほうが正確かもしれません。

東京の水交会での宴会でも、始まると同時に皆がテーブルを囲み、
次の瞬間何もなくなっているという食べっぷりにいつも驚きます。

飾り切りといえばちょっと見ものだったのがこれ。
スイカをカットして花びらの部分で実の赤を見せるという手法です。
食べさせるのではなく、飾りにするだけのために、季節外れのスイカを・・・。

欄干の上には和菓子が提供されていましたが、もはやこの惨状。
そういえば去年の横須賀では最後まで和菓子などは残ってたんですけどね。

やっぱりこの辺は大阪ならではかな?

舟盛りのあたりで

「何も食べるものがない・・・」

と呆然としていたら、知り合いの自衛官がなんと!
カレーをわざわざ持ってきてくださいました。

そのまろやかさと何と言ってもご飯の美味しさには、
最初に頂いた時に感動したという「かしま」カレー。

今回シェラトン、三井造船、そして「かしま」と、
二日間に三種類のカレーを味わうことができたのですが、
ナンバーワンは文句なく「かしま」であったと断言します。

 

その後、カレーを持って来てくださった自衛官と幹部との間で雑談になりましたが、
早速そこでも三井造船での事件が話題になりました。

引渡式に出席した自衛官によると、本件は夕方には部内外に広まっており、
レセプション時に某協力団体の方から

「何かあったらしいね。」

と開口一番聞かれたということです。

 

しかし、そういう事件ほど格好の酒の肴にもなるものです。
ひとしきり話題になった後、わたしが

「しかし、艦内から調達して間に合わせたことで、引き渡しされて
新しく就役する船に自衛艦旗が初めて授けられる、という
従来の『設定』が崩れてしまったってことになりますね」

というと、官姓名は厳に伏せますが、ある自衛官が

「あっ、絶対に存在しないはずの自衛艦旗がなぜか艦内に!(笑)
川口かよみたいな〜(笑)」

もしもし?川口探検隊って何年前の番組ですか?


対外的には海幕長の絶妙なるフォローによって治まる形を見せましたが、この一件は
その海面下に(海自だけに)ちょっと深刻な問題を孕んでいるとも考えられます。

今回やはりその件を目の当たりにしたある方が、その問題とは、

「現場が疲弊している」

ことの表れではないか、とおっしゃいました。

自衛隊に詳しいその方によると、海上自衛隊は、拡大する任務・業務を
限られた人員で必死に(自転車操業的に)こなしている現状が
疲弊を生んでいるのではないかということです。

もし現場の人間が日々の業務に追いまくられていたら、自分のことで精いっぱいで
相互チェックが効かず、一人のミスが看過されて重大な事態(事故)につながる、
というのが、自衛隊ならずとも十分想像されうる組織の陥りがちな危険性です。

それを補うのは、部署の垣根を超えた情報交換と相互チェックであるはずなのですが、
現状ではなかなかそれも難しいのでは、というのがその方の感想でした。

この方は、この二日間、大阪と岡山をわたしと同じように往復した、
つまり自衛隊を愛する方でもあります。
故にこれは真に愛情ゆえの苦言であるとわたしは理解しました。

その方もきっと、この一件が、組織全体が陥りがちな問題に
自らが気づくきっかけになればと思っておられるのでしょう。

当日の新幹線に乗らないといけないので、中締めの終わる前に挨拶して退出しました。
舷門を降りる前に撮ったイメージフォト(ピントを合わせなかっただけ)

舷梯を降りる前に一枚。
階段を降りようとする、特に女性に対しては、自衛官が

「急がずゆっくりと降りてください!」

と声をかけ、傘も禁止、下に着くと手を貸してくれます。
いつもながらのことといえ、この気遣いに感激させられます。

「かしま」の向こうにいるのは「しまゆき」です。

艦上では「しまゆき」の大日方艦長とお話しさせていただきましたが、
SH-60Kを搭載して、渡航先でも飛行をさせるのだとおっしゃっていました。

飛行志望の練習幹部を乗せる以外にも頻繁に活用するのだそうです。
詳しくはわたしには説明できませんが、ヘリ搭載艦には
そのオペレシーションにも特別な技術と注意が必要らしいですね。

帰りは地下鉄を乗り継ぐことにして大阪港駅まで歩きました。
駅からはほんの5分ほどです。

この先の信号で、東南アジア系の女性に英語で駅はどこかと聞かれました。
いつの間にか、こんなところに外国人が観光に来るようになったんですね・・。

闇夜にそびえ立つキリンはレゴランドの宣伝。
後ろのハーバービレッジの建物も、昔は影も形もなかったものです。

そしてこれ。天保山大観覧車。
1997年と言いいますから、わたしが関西を離れてからできたので、
この日が見るのは初めてです。

天気によって色が変わり、晴れ=赤、曇り=緑、雨=青なのだとか。

単焦点レンズなので画面に全部入りきりませんでした。

駅に行くまでの道沿いにあった洋服屋?さん。
このTシャツを一番前にディスプレイしたのは、練習艦隊入港を歓迎してのこと・・・かな。

こんなところにいるはずのない大阪名物ビリケンさんが!
(川口探検隊のナレーション風に)

 

さて、練習艦隊のこの後の予定は

3月22日(木)~3月23日(金) 鳥羽沖(かしま、しまゆき、まきなみ)
3月24日(土)~3月25日(日) 宿毛沖(同 上)
3月30日(金)~3月31日(土) 石 垣(同 上)
4月 2日(月)~4月 4日(水) 沖 縄(同 上)
4月 6日(金)~4月 8日(日) 佐世保(同 上)
4月10日(火)~4月12日(木) 舞 鶴(同 上)
4月15日(日)~4月17日(火) 大 湊(同 上)
4月20日(金) 三 机(かしま、しまゆき)
4月20日(金)~5月 5日(土) 呉 (同 上)
5月 7日(月)~5月12日(土) 晴 海(かしま、まきなみ)
5月12日(土)~5月20日(日) 横須賀(同 上)

となります。

 

各地で一般公開なども行われると思いますので、もしお近くに寄港したら
ぜひ駆けつけて新任幹部を激励してあげてください。

 

 

 

 

アメリカ東部に春休み旅行

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息子の春休みを利用してアメリカに行きました。
今回の目的地はアメリカ東部、ニューヨーク州とコネチカット州です。

ユナイテッドコードシェア便なので、シカゴのオヘア空港でトランジットです。
シカゴ空港は巨大ハブ空港ですが、ダラスなどより雰囲気がまともです。
空港ロビーにはシカゴ空港の名物、恐竜の骨がこのように鎮座しています。

もちろんレプリカです。

ターミナルの地下を繋げる通路は、シカゴ空港のシンボルともなっており、
映画によく登場します。

今回ユナイテッドの広告がすごいことになっていました。
スタッフがスーパーヒーロー風です。
ちゃんと登場人物の人種も偏らないようになっているのがミソ。

パラリンピックの応援を兼ねているようですね。

空港のラウンジで6時間もの時間を過ごしたのち、乗り換えです。
ニューヨーク州の某地方は、内陸なのでいまだに雪がこの通り。

最高気温が1度と聞いていたのでかなりビビって重装備をトランクに用意しましたが、
流石に3月だけあって、思ったほどではありません。

体感的には日本の12月といった感じでしょうか。

よく知っているホテルチェーンを宿泊先に選びました。
ホテルの佇まいも、カントリーロッジ風です。
田舎のせいか、駐車場の IDタグも、Wi-Fiのパスワードも必要ありません。

夏にパロアルトで泊まったのと全く同じ部屋の形です。
ロフト風の二階があって、ここを今回もわたしが独占しました。

二階から下を見たところ。

一階のベッドが全面引き出し式でした。
壁のようですが、これをよいしょっと引き出すとダブルベッドが現れます。

ホテル敷地内も田舎ならではの佇まい。
折しも夕焼けが真っ赤です。

この一棟に同じ二階タイプの部屋が4室があります。

バックヤードにはまだ積雪が残っていました。
夜間は零下まで気温が落ちるので、街のあちこちに雪が解けないまま積み重なっています。

アメリカには全米にどこにいっても同じチェーン店が展開しているので、
それを探せばだいたい同じものが手に入るというのが便利なところです。

ここでも迷いなくホールフーズを探し出し、食材を買いに行きました。
やはり土地の安い地域の店舗は占有面積が大きくて立派です。

ニュースでアマゾンがホールフーズに参入したというのは聞いていましたが、
オンラインで購入し、ここに商品を取りに来るというシステムのロッカーを
初めてここでみることになりました。

店舗に来ることはできるけど、店内をお買い物して回る時間のない人向け。

アメリカでは今、高校生が主体となって銃規制に対して反対デモが起きています。
高校で頻発する銃撃事件に対し、なんと

「教師に銃を所持させる」

というアホな選択をした結果、その教師によって、間違えて
(この時のニュースの聞き間違えがなければ)
二人の生徒が射殺されてしまったので、皆が怒っているのです。

彼は高校生ですが、亡くなった二人のティーンの名前を挙げ、
銃の規制と撤廃を呼びかける演説をして喝采を浴びていました。

到着して次の日、わたしたちは車で近郊のある街に行きました。

実はうちのティーンがいよいよ大学進学という運びになったのですが、
行ったことがなく、ツァーにも参加していない大学から合格通知が来て、
学校を決定しようにも判断材料を欠くということで、実際に見に来たのです。


アメリカの大学を受験するシステムというのは、学校の成績と共通テスト、
エッセイと推薦状を送ればよく、全く行ったことが無い学校でも、 
受験することができてしまうので、こんなことも多々起こります。

大学の周りの街並みを見るのも大事な目的、というわけで、
街の中心街?でお昼ご飯を食べました。

 

アメリカに住むのにいちばんの問題となるのは治安です。
先ほどの話題では無いですが、銃撃事件が頻繁に起き、
治安の悪いことで有名な街に名門校があることも珍しくありません。

ただ、ここの場合は田舎ということもあってその心配はなさそうです。

古い町並みに、落ち着いた雰囲気のお店が並ぶ、鄙びた郊外の街という感じ。

街の中心の広場に、モニュメントがありました。
イギリスとアメリカの間に起こった海戦について記念するプレートが埋め込まれ、
その中にはコンスティチューションとイギリス海軍の戦いもありました。

額縁屋さんのショーウィンドにあった「歴代大統領トランプをする」の図。

ケネディ、クリントン、カーター、ニクソン、FDR・・・
後ろ向きのはもしかしてジャクソン?

うーん・・・人選の基準がわからん。
にしても誰が欲しがるんだ、こんな絵。

ちょうど滞在中にキャンパスツァーがあることがわかったので参加することにしました。
対象は来年度以降の受験者ですが、別に受かっていても参加は可能です。

実は

「もし他のところに受かっていてもうちに来てね」

という意味の合格者対象のお願いパーティが既に開催されていたのですが、
そちらには都合がつきませんでした。

アメリカの大学は、メインの建物以外に、学外に一軒家のような施設があり、
そこが入試オフィスだったり、事務だったりします。

そしてレクチャーが1時間。
これから受験する人たちに向けての説明ですから、プログラムについての他に、
当大学にどんな企業が協賛しているかという説明があります。

そして、

「うちは工科大学なので、一流企業からのオファーがたくさんあります」

ということで、みんなが気になる卒業者の就職先です。
錚々たる大企業ですが、やはり技術系大学の出身者は安定してますね。

アメリカの大学のシステムとして、工学部に入り、その後、
自分が興味があり、向いていると思えば医学に進む、ということも可能です。

この一覧を見てちょっとわたしが個人的にうけてしまったのが、
ファランクス・シウスなど武器を製造しているレイセオン、そして
ロッキード・マーチン、ボーイングがあることでした。


それから実にプラクティカルというのか、この大学の卒業生は就職後、
サラリーは最低でもいくらから始まって、平均給与はいくら、
という具体的な説明までありました。

この説明会の後、化粧室で他のお母さんが

「どう思いました?」

とか話しかけて来たけど、何について聞いているのかわからず、

「いいんじゃないでしょうか」

と適当に答えておきました。

続いて、現役の学生を案内役にしての校内ツァーです。
アメリカの大学は大きいので、1時間たっぷり歩き回ることになります。

どう見ても教会にしか見えないこの建物、現在では
コンピューターセンターとして使われているということでした。

ランキングで常に上位につける、当大学建築学科の卒業者が設計したコンサートホール。
ほとんどの日本のホールよりモダンで立派なので、軽くめまいがしました。

ちなみにこのコンサートホールの出入り口はこのようなもの。
まるで宇宙船に乗り込んでいくようなエントランスです。
それを温かみのある木材で作ってしまうのがポイント。

歴史のある学校なので、古い建築物が多いですが、中身は近代化されています。
、敷地には開放感があり、明るい感じもわたしの気に入りました。

あとは研究室や教室なども見て回ります。
3Dプリンターだけの部屋(外から見える)もありました。

「3Dプリンタ、熱が出るし、臭いから一つにまとめてるんだと思う」

と息子。
そうだったんだ・・・。

 

何でもこの学校は入ってからが難しく、(アメリカの大学の傾向ですが)
就職率がいいのもその厳しさに耐えた人材であるという保証があるからなんだとか。

都会の誘惑がないのが不幸中の幸いと言えるかもしれません。
田舎というのは親としては治安の点から言っても安心ですが、息子は

「女の子が・・少ないんだよ」

まあ工学部ですから。
でも、キャンパスツァーで回って歩いたところ、結構女子もいたよ?

「30パーセントしかいないんだって」

母数が多いから30パーセントでも十分じゃないかという気がしますが、
若者にとっては大きな問題なのかもしれません。

「その代わり、街に女子大があって、そこで彼女を探したりするらしいよ」

君はそんなことを前もって調べているのか。

この大学からは、過去宇宙飛行士を輩出しています。

学生なら無料で使い放題のジムもあり。
ヨガなどの教室も定期的に開かれているということです。

まるで中世の城のような大学正門。
古い建物に近代的な建築が溶け込んでいます。

学生のドミトリーは三人部屋が基本で、一人部屋もあるそうです。
全く外に出なくても4年間生活できるだけの環境ですが、
やはり皆外のアパートを借りたりすることもあるようです。


さて、というわけで一つ目の学校のツァーが終わった途端、
わたしたちはその足でコネチカットに向かいました。

コネチカットにあるリベラルアーツの大学も見ておきたいと思ったのです。

時差ボケで睡眠不足のため、途中で仮眠を取りながら瀕死でたどり着いた、
これが全米トップ3のリベラルアーツ大学だ。

息子は受けておきながら、あくまでも工学部優先なので、
こちらにあまり興味はないのか乗り気ではなかったのですが、
見るだけでも見ておこう、となだめすかしてやってきました。

いやー・・・こちらの大学もすごい。

こちらも街の雰囲気はボストンのウェルズリーあたりに似ていて、
古くてリッチな感じの街並みで、治安的には大合格です。


あとは息子の行く気ですが、さて、どうなることやら。

おまけ;

コネチカットの街にあった海兵隊の宣伝。

 

第二次世界大戦とその後のサンディエゴ軍港〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」甲板上にあった「サンディエゴと海軍」シリーズ、
最終回です。
サンディエゴに海軍が来るきっかけになったのは、なんと日露戦争に勝利した
日本に対して釘をさす意味で行われた示威運動とされている

「グレイト・ホワイト・フリート」

に地元民が熱心に寄港を誘致したことであった、ということを知りました。

つまり、ぶっちゃけサンディエゴに海軍があるのは日本のおかげなのです!

というのは勿論冗談ですが、無関係ではないわけですよね。良い意味ではないにしても。

◆ ウォータイム 

そしてそのブースターとなったのが、1941年の開戦でした。
開戦と同時に市内に労働者がなだれ込むように移入してきて、
サンディエゴ市の人口は5万人以上も爆発的に増えることになったのです。

交通や住宅事情はたちまち人口増加とともに混雑を極めるようになり、
街外れの空き地だったところですら、トレーラーでごった返すようになりました。

そして政府主導で、約3000世帯が新たにメサ(メキシコ特有の台地)
の近隣の空き地に作られた住宅地に移入してきました。

各写真を引き伸ばしてみました。

人でごった返す市街地は、それまでここでは見られなかった光景でしょう。
海軍がやってきたので彼らを相手の商売も絶好調です。

この「サムの店」では、水兵さんのセーラー服などを専門にしていたようですね。

街のいたるところにセーラー服が見られる街。

戦争中だというのに、この写真から見られる街の活気はいかなることでしょうか。
戦争が「産業」であることはアメリカという大国の実相であると
我々はなんとなく歴史から想像するわけですが、こういうのを見ると
少なくともサンディエゴという街は、日本との戦争が起きなかったら
これほどの発展を遂げたかどうか疑問であるとすら思えます。

艦隊のお兄さん御用達の店、「ボマー・カフェ」。
こういった便乗商売?も含め、サンディエゴは海軍関連企業で振興しました。

エンターテイメント産業も大いに賑わった分野で、水兵たちを乗せた
トロリーやバスは、次々と彼らをダンスホールに運び、
そこではアーティ・ショーやグレン・ミラー、ベニー・グッドマンなど
綺羅星のようなタレントが、連日朝から晩までショウを繰り広げていました。

のみならず、タトゥー・バー、ペニー・アーケード(ゲームセンター)、
このボマー・カフェやエディーズ・バーなどのランドマーク的なお店が
それこそ休む間も無く営業を行っていたのです。

 

戦時中、海軍の空母は太平洋戦線に戦いに赴く前には必ず
航空部隊の機材と人員をノースアイランドで搭載するのが常でした。

一隻の空母が出撃していったあとは、別の空母が途切れることなく
やってきて、艦載機のパイロットはここで文字通り「月月火水木金金」
(アメリカ風にいうとセブン・デイズ・ア・ウィーク)の体制で
訓練を行いました。

かれらが、戦闘で失われることが既定路線となっているパイロットの
補充要員であることは誰もが知っていました。

街に海軍は産業をもたらした、というのはなんども言うことですが、
海軍が次々と投入する飛行機に携わる労働者も膨れ上がりました。

写真は、コンソリデーテッド・エアクラフトの組み立て工場で働く
労働者の出勤風景です。

そういえば、わたしが今密かに?楽しみにしている漫画
「アルキメデスの大戦」で、「大和」を作らせまいとする主人公
櫂少佐に向かって、艦隊派の平山中将はこう言います。

「これがどれほど呉の地域経済に貢献していることか。
呉だけではない。
船渠改修工事には中国、四国、九州からも出稼ぎに来ている。
海軍工廠の仕事によって日本全国の人々の仕事が
支えられているといっても過言ではない。
雇用を創出し経済の好循環を育むためのこの事業は
日本の将来を見据えた、いわば投資である。

つまり国防とは国家の経済政策!
公共事業なのだ!」

櫂少佐はそれに対し、

「軍需産業を活況にする目的ならば大型戦艦
建造である必要はない。
空母や直掩型戦艦でも同様の経済効果は得られます」

と反論するのですが、その話はご興味がありましたら
本編を読んでいただくとして、戦争が雇用を生み出す
経済活動でありひいては国の経済政策であることは
アメリカに限ったことではないのです。

海軍に志望してくる入隊希望者に軍事訓練を行うことも
どんどん拡大していく海軍基地では一層盛んに行われました。

上、行進の訓練を受ける新入隊員。
下は海軍トレーニングセンターで「ジェイコブズ・ラダー」
と呼ばれる縄ばしごを登る訓練を受けています。

Jacob's Ladder ヤコブの梯子(ヤコブのはしご)

とは、旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、
天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子ですが、
このことから日本でいうおもちゃの「パタパタ」、
いつまでも続く階段のようなものの総称に使われることがあります。

海軍でこの単なる縄ばしごをこう呼んでいるのは、
登っても登っても終わりがないからに違いありません。


そして、ここサンディエゴからは、次々と、日本との戦いのために
太平洋に向かう海軍の船が出航していきました。

上は「エセックス」。
24機のSBD偵察爆撃機、11機のF6F戦闘機、
18機のTBF艦攻を乗せ、太平洋を西に向かって進んでいます。

下はUSS 「ワスプ」。
西方に出撃する前にサンディエゴに帰還するときの姿です。

左から時計回りに

SBD ドントレス F4F ワイルドキャット TBF アヴェンジャー爆撃機
F6F ワイルドキャット F4U コルセア 戦闘爆撃機 PBYカトリーヌ

当時海軍航空基地は6箇所にあり、例えばカタリナ水上機は
サンディエゴ湾をくまなくパトロールして、敵の潜水艦が
この要所に忍び込むことのないように見張りを行いました。

アドミラル『ブル』ハルゼーの率いる第三艦隊が
1945年8月、機動部隊を率いて日本に出撃するときの様子です。

ハルゼーは1943年に第3艦隊司令官になって以降、一言で言って

「特攻と台風」

との戦いに明け暮れていました。
1944年10月末、フィリピンで特攻を受け、12月18日、コブラ台風に巻き込まれ、
(駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人)

1945年、4月末、ニミッツの命令で作戦途中でスプルーアンスと指揮官交代させられ、
同時にこの時、海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、
この損害が神風特攻によるものと知ってショックを受けます。

さらに6月5日、またまた台風に遭遇。(艦船36隻が損傷、航空機142機喪失)
更迭されかかるもマッカーサー一人に勝利の功績を独り占めさせてはならじ、
という海軍の陸軍に対する敵愾心がなぜか彼を守って、無罪となっています。

7月、日本攻撃の際イギリス海軍空母部隊が援軍で到着するも、この目的が

「マレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるため」

という漁夫の利を狙うものと疎ましく思ったハルゼーは、
(この人たち案外こんなことばっかり考えてるのね)
イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、
アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地呉に向かわせています。

もうほとんど反撃する力のない日本海軍相手にフルボッコ、
これは本当のところ、誰が日本に引導を渡したかはっきりさせるための
イギリスとの権力争いから来ていたということを意味します。
一方日本にとって、このときのアメリカ艦隊の攻撃は

呉大空襲

で残っていたわずかな海軍艦船を永久に失うことを意味しました。

この写真は8月に入ってからの日本行きということなので、
おそらくハルゼーが広島・長崎へ原爆が投下された後に、
再度爆撃を行うために出撃したときではないかと思われます。

ハルゼーは「日本は降伏したがっている」というサンフランシスコの
ラジオが報じた噂を聞いて、そうはさせまじと(笑)もう一度爆撃を行うために
エニウェトク島(マーシャル諸島)への帰港を取り消して、日本へ引き返したのでした。

 

ところがちょうど日本が8月15日に降伏してしまい、ニミッツは最高機密で最優先の電報で
「空襲作戦を中止せよ」との命令をハルゼーに対して送って来ました。

しかしハルゼー、此の期に及んで

「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。
ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」

という命令を出していたということです。
おっさんよお・・・。

戦争が終結する頃、サンディエゴの人口は以前の二倍にまでなり、
経済規模が増大して西海岸でも経済の中心地の一つとなりました。

写真右上は終戦の知らせを受けたサンディエゴ市民。
市民の中に普通に水兵さんが混じっています。

俯瞰写真に見えているのは、1944年にクェゼリンの戦い、
マーシャル諸島侵攻でその役目を担った軍艦ばかりだそうです。

ちなみに、今「ミッドウェイ」が係留されているのはこの写真の
右下の赤い線で指し示された部分に当たります。

 

◆ PROSPERITY (繁栄) 1945ー

現在のサンディエゴです。
赤で指し示された部分は、全て海軍関係の施設となります。

コロナドの砂州途中には「海軍水陸両用部隊基地」があり、
内陸には海軍病院や補給処、海兵隊基地などもあります。


軍隊の施設が第二次世界大戦後縮小されたのに伴い、
海軍は業務をウェストコーストでのオペレーションに集中して行きました。
冷戦中にはこの地域は人員、艦船、そして航空機補給のための訓練施設がほとんどとなります。
(トップガンなどもその一環ということができますね)

写真は USNS「コンコルド」に洋上補給するUSS「バターン」(左)
「バターン」が補給艦とは・・・なんて意味深な(笑)


それはともかく、こんにち、9万5千人以上の人々が
このサンディエゴエリアにいるわけで、海軍はこの地で一つの組織として
もっとも巨大な雇用先という言い方もできるわけです。

付け加えれば、海軍だけでおよそ14万2千500人もの民間人の仕事を
艦隊のサポートのために生み出しているのです。
この数字は、サンディエゴ地域全体のトータルの雇用者の20%を占めます。

例えば「ニミッツ」。

この空母一隻に関わる軍人と民間人の数を考えただけで万単位の数字が浮かびます。

「チャンセラーズビル」。

このパネルが制作されたのは2015年以前であったらしく、
現在横須賀にいるはずの「チャンセラーズビル」の写真が(笑)

それまではサンディエゴが母港だったんですよね。

F/A-18 ホーネット。
ついこの間墜落してパイロットが二人亡くなっていましたが・・。

そういえばホーネットドライバーの唯一の知り合いであるブラッドは

「ベイルアウトすることは、たとえ死なずに済んでも、
搭乗員としてもう終わりということでもある」

と言っていましたっけ・・。
死なずに済む確率はだいたい2分の1、残りの2分の1が
頚椎損傷などで二度と操縦はできなくなるとかなんとか。

ところで艦載機1機にも雇用という意味では莫大な人間の数を必要とします。

SH-60 MK IIIシーホーク。
対潜哨戒のほか、救助ヘリとしても運用されます。

 

この紳士はピーター・バートン・ウィルソン。
サンディエゴ市長、上院議員、カリフォルニア州知事として、
サンディエゴ市のダイナミックな発展に寄与した人物です。

特に上院議員時代、サンディエゴ地域における海軍の
強いプレゼンスを維持し続けることを効果的に提唱しました。

軍港には最適な海深を持つ現在のサンディエゴ軍港は、
例えばニミッツやカール・ヴィンソンなどの原子力空母であっても余裕で擁し、
9隻もの輸送艦も備えています。

アメリカ海軍とサンディエゴは、100年以上パートナーシップを結んできました。
軍港に最適な地形、訓練に最適な環境をを海軍はサンディエゴに見出し、
サンディエゴは1908年の祖先が結びつけたその関係をさらに発展させ、
街の繁栄を共存することで、一層強固なものにしていくことでしょう。

 

続く。

 

 

 

ミッドウェイマジックと「ネイ」賞〜空母「ミッドウェイ」博物館

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さて、サンディエゴという街に海軍が根を下ろしたきっかけ、
その発展と現在に至るまでの両者の深い関係について
三日に渡ってお話しして来ましたが、いよいよそこに係留されている
歴史的軍艦「ミッドウェイ」の内部に再び入っていくことにします。

 

今までの「ミッドウェイ」見学記ではハンガーデッキから艦首側に進み、
艦名の由来となったミッドウェイ海戦についての展示を見た後、CIC、
そしてフォクスルと呼ばれる艦首楼を通ってもう一度戻ってくるというコースで
見たものをご紹介してきました。

後半となるシリーズでは、ハンガーデッキから入館した後、
前回の反対側、艦尾側から攻めて行くことにします。

その前に、今一度ハンガーデッキの様子を。

まるでゲームセンターのような様相を呈しております。
コクピットにいる気分でシミュレーションできるゲームに
いいおじさんが真剣に挑んでいる姿が。

岩国の海兵隊基地で、実際のホーネットパイロットが日常的に
トレーニングを行うシミュレーションを体験したことがありますが、
あれもつまりこのゲームをもっとリアルに近づけたものです。

実際に飛ばない時も、パイロットは技量を維持するために
真剣にシミュレーションを行なっていることをその時知りました。

ただし、本物の軍仕様のものは、画面に300度くらい囲まれ、
操作する機器は本物と全く同じであるということが大きく違います。

専門のオペレーターが別のブースからシミュレーションをモニターしており、
(記録するためか、単に何か起こった時のためにいるのかはわからず)
わたしたちが一般客だと知ると、オペレーターはブースから出てきて
パイロットに

「錦帯橋くぐって見せてよ」

と完全にお遊びモードだったのがおかしかったです。
ちなみにその時もご報告しましたが、彼は2回水面に激突して殉職後、
3回目に見事に錦帯橋の下をレガシーホーネットで潜ることに成功しました。

そこここに見えているブルーと黄色のカプセルはここの売り物アトラクションで、
中に人を乗せてぐるぐる回すエアコンバット360というライドです。

Flightsim F18 Fighter "San Diego Air & Space Museum" Flight Simulator

これもF18らしいですが、レガシーかスーパーかはわかりません。
2017年の1月に機材を全部入れ替える前のシルバーカラーです。

外にいる人は乗っている人の阿鼻叫喚の表情で楽しめるという趣向。

体験のお値段は一人一回8ドルでございます。

前にも紹介したF-8 のコクピット部分。
シャークマウスペイントは現役時代からのものでしょうか。

「ミッドウェイ」を発艦しようとするF-8の画像を見つけました。
機体の番号は00と27です。
展示してあるノーズは300番代なので後期の発展型でしょう。

クルセーダーは1958年から65年まで「ミッドウェイ」に搭載されていました。

シースプライトヘリのコクピットです。
元少年たちもこういうのを見ると乗ってみたくなる模様。

シースプライトは62年から65年までの間の搭載です。

E-2ホークアイのコクピットも体験できます。
ミッドウェイにはC型が1971年から退役までの間搭載されていました。

GEアビエーションの航空用エンジンT58が展示されています。

タービン排気を利用して軸推進するターボシャフトエンジンで、
1955年から84年までの間に6,400台生産され、ボーイングの
バートールCH46 、シーキング、カマンのシースプライトに搭載されました。

プラット&ホイットニー社、R-2800、通称は「ダブルワスプ」エンジン。

空冷星型複列18気筒の航空用で、第二次世界大戦期において、
F4Uコルセア、P-47サンダーボルト、グラマンF6Fヘルキャットなど戦闘機、
ダグラスA-26インベーダーなどの爆撃機に採用されました。

下の解説図には、

Couter Barances For Smoothing Vibration

なるものがシャフトに組み込まれていると書かれています。
つまりバランスシャフトと慣性平衡装置と言われるもののことですが、
大出力発揮に比例して生じるクランク・シャフトの二次元的振動を解決するものです。

このエンジンには前後両端に2倍の速さで逆回転する装置、
「カウンターバランサー」取り付けられているのですが、当時の日本航空技術陣は
墜落したアメリカ機からその存在を確認していたにも関わらず、
それがおそらくは何に役立っているのか理解しなかったようです。

そして、高出力発動機の起こす第二次振動に終戦まで悩んでいました。

うーん・・・日本の技術陣、まだまだだったな。

ホーネットの330ガロンセンターラインタンクだと説明があります。

「サンライナーズ」は第81攻撃隊群の愛称で、このタンクも
スーパーホーネットに使用されていました。

こちらは前にもご紹介しましたがもう一度。
日本ではまだ現役のファントムを使っていたVMFP-3、
海兵隊の偵察部隊です。(だから”目玉”でアイズ・オブ・ザ・コーア)

海兵隊の偵察隊がなぜここに?というと、「ミッドウェイ」が第7艦隊に組み込まれた頃から、
1884年まで、アイズは「ミッドウェイ」に展開していたからです。

海兵隊は1990年に偵察業務をホーネットに移しています。

ノースアメリカンの訓練機North American SNJ-5C、
T-6「テキサン」も確か2回目だと思いますが、とりあえず。

暮にご紹介した映画「ペチコート作戦」でも、このT-6が
零戦に扮しておりましたね。

いうほど似てるか?といつも言っていますが、特に尾翼と、
この角度から見ると、決定的に風防のラインが似てなさすぎ。

まあしかし、だからと言って零戦になれるような実機が
他にあったか?というと・・・。

今だとCG処理で零戦くらいいくらでも再現できそうですが。

前回、「今度来たらもっとちゃんと写真を撮る」と誓ったのですが、
先を逸る気持ちから、一枚だけ撮って先に進んでしまいました。

アクリルの透明素材で作られた半透明の模型、細部を撮れば
色々発見もありそうですが・・・・もし次があれば撮って来ます。

なぜ逸ってしまったかというと、この矢印がそこにあったから。

トゥー・セカンドデック!ですよ。



それではそのセカンドデッキにいざ降りていこうではないか。
あれ?この、ダイナーみたいな床のタイルは・・・・?

いきなり兵員食堂(クルー・メス)でしたー!

自衛隊でも使われている全く同じようなシルバーのトレイを
フードケースの前を通過しながらよそってもらう方式。

音楽博物館について書いた時、自分で欲しいものを探し、
それをレジに持って行ってお勘定してもらうというレコードショップの形態は
実は第二次世界大戦で男手が無くなったので始まった、ということを知って
目から鱗みたいに納得したものですが、この方式も、もしかしたら
案外軍艦内の兵員食堂が始まりなんじゃないかという気がします。

 今やディズニーランドはじめテーマパークではこの方式が多いですけどね。
クルー・メスの食事に並ぶ列のことを「チャウ・ライン」と言います。    

ハッシュブラウン、スクランブルドエッグ、ベーコン。
これは間違いなくアメリカンブレックファースト。

ハッシュドブラウンは(ハッシュブラウン)という言い方もあります。
HASH はそれだけで肉や野菜、芋を細かくして炒めたり煮込んだりした料理のこと。

そいつを固めて成型し、油で揚げたものをこういいます。

最初にハワイに行った時に飛行機が朝到着だったので、
海沿いのカフェで朝ごはんを食べたのですが、ハッシュドブラウンを注文すると、
カレー皿大の皿にお好み焼き状態で乗って出て来たので
アメリカ人は朝からこんなもの食っとるのか、と驚愕したものです。


お腹のすいた乗員に食べ物をサーブするここのCPOには
一人分のポーションサイズを用意する「テクニック」が必要です。

札の上にいちいち「ミッドウェイ・スペシャル」とあるのが微笑ましい。
なんとなく美味しそうに思えますものね。

この日のメインは「チップド・ビーフ」。
付け合わせは玉ねぎのクリーム和え的なもの。

カウンター越しににこやかに見つめてくれる配膳係の人(笑)

後ろの、当時からあった看板には

「Everyday Is A ??? Day Magic Midway」

とあります。
???に入るのは「New?」それとも「PAY」?(笑)

カウンターの下にあるのは、今でもアメリカ海軍で給養サービスの
向上に功績があったと認められる者や団体に与えられる

The Edward F. Ney Memoral Award『ネイ賞』

についての説明です。

1958年に海軍長官が音頭をとって制定された賞で、
なかなか毎年盛大に授賞式が行われている模様。

当初、審査日程は予告されていましたが、1999年以降、
評価チームが抜き打ちサプライーズ!で朝いきなり現れて審査しています。
日頃の真面目な精進が大切、ちうことですね。

ちなみに2017年度の「ネイ」受賞者は

空母の部「ロナルド・レーガン」

大型艦の部 「アメリカ」(強襲揚陸艦)

中、小型艦艇の部「アッシュランド」(ドック型揚陸艦)

潜水艦の部 「ミズーリ」

地上部隊広域の部 サンディエゴ基地「マーサーホール」

地上部隊地域の部 共同遠征基地 「リトル・クリーク」

海軍の補給部隊のホームページには

「どうしたらネイの勝者になれるのか?」

というクェスチョンに対し、アンサーは

“Think Ney every day.” 

と一言。
毎日「ネイ」のことを考えよ・・・なんか当ブログ的に人ごとではない(笑)

それにしても、この肝心の「ネイ大尉」については、

「1940年〜45年まで補給部隊のヘッドであった」

ということしかわからず、どんな人だったのか、なんの功績があったのか、
なぜ彼の名前が残されることになったのかはどこを調べてもわかりません。

そしてこの「ミッドウェイ・マジック」というのは彼女の愛称です。

それをいいことに、何かとこのワードを活用してるわけですが、
ここではこんな風に・・・・。

「ミッドウェイ・マジック」

オムレツのオーダー 

「あなたのお好きな方法で」

ハム、チーズ、トマト、グリーンペッパー、
オニオン、マッシュルーム、

全てでも組み合わせでも可

食事を楽しんで良い1日をお過ごしください

 

うーん・・オムレツくらいでマジック言っちゃいますか。

 

 

 

 

続く。

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