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平成30年度 呉地方隊観桜会

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暮地方総監部で行われた恒例の観桜会にご招待を受け、行ってまいりました。

去年は3月末の異例の寒さに見舞われ他だけでなく、空港付近は雪が積もり、
桜もほとんど咲いていない教育隊の体育館で宴会が行われる、という
非常に残念な観桜会になってしまったものですが、今年は幸い
天候も気温も、桜の咲き具合もパーフェクトなタイミングです。

わたしはこの日のために買った(そうなのか?)単焦点レンズを
Nikonの810に装着し、広角レンズを付けたNikon1との2本持ちで、
「桜と錨」を写真に収めるのを楽しみに、その日を迎えました。

 

早めの飛行機で広島入りして、某所で見学を済ませ、すでに開場が始まっている
呉地方総監部までやって来ました。

受付のテント前にはすでに人がたくさん・・・・
皆自分の受付番号前に並んでいるようです。

「招待状なんてもらった?」

「もらった・・・ような気がする」

「持って来てないの」

「うう・・忘れた」

なんか同じメンバーで前にも全く同じような会話をしたような気がするぞ。
しかしなんだってこう、何度同じことをしても学習しない夫婦なのか。

「仕方ない。こうなったら顔見知りのいつものウェーブさんを探そう」

周りを見回しても見つからず、仕方がないので受付に並んだら、
その探していたウェーブさんがそこにおられました。
彼女はご挨拶するなり即座にわたしたちの名札を持って来てくれました。
なまじこういう行き届いた自衛隊の気遣いが、わたしたちのような
向上心のない人間を一層怠惰にするのではないかと思った一瞬です。

 

受付終了後、テント受付の近くに、

「地下壕見学をされる方はお申し出ください」

と書かれていたので、わたしだけが見にいくことにしました。
呉地方総監の肝いりで就任直後から取り組まれていた地下壕プロジェクト、
調査を経てのち、地下壕司令室の一般公開を目標にしてきたのですが、
去年の観桜会の時点では入り口の扉の外からしか見学できなかったのが、
今年はついに中に入ることができるまでになったのです。

地下壕はこの道を降りて行って普通に見られます、と言われて、
花見会場であるいわゆる「表玄関」を左上手に見ながら坂を下りて行きました。

赤レンガの庁舎の角の樹木脇にに木の杭があって、

「呉造修補給所開所十周年記念植樹」

と書いてあります。

造修補給所というのは、海上自衛隊における後方支援組織の一つで、
各地方隊隷下に置かれ、造修、すなわち艦船等の修理・整備、
及び各部隊への補給を主な任務とする部隊です。

当初は、造修を主任務とする「造修所」、補給を主任務とする「補給所」
は別々の部隊でしたが、1998年(平成10年)に統合され造修補給所となりました。

この「開所十周年」ということは、2008年に植樹されたということになります。
呉造修補給所は、工作部と吉浦の貯油所に分かれて存在しているようです。

地下壕のところまではこの坂を下って行きます。
坂の上には桜が大きくその木の枝を伸ばし、向かいの桜と手を取り合っているようです。

地下壕の見学については項をあらためるとして。
見学を終わり、会場に続く階段を登っていくと、総監部庁舎の前をぐるりと繞らした
桜の木が、まるでスクリーンのように会場を囲んでいました。

これらの桜の木は紛れもなくここが呉鎮守府となった時代からここに根付き、
毎年変わらぬ色の花を咲かせて来た歴史を持ちます。

おそらく観桜会という催しも、海軍時代から続いていて、
年に一度のその日には、今や歴史に名前を残している海軍大将たちが
同じ場所で桜を愛で、ひとときの宴に興じたのに違いありません。

前にも書きましたが、呉地方総監部の表玄関は、海です。
桜に囲まれたこの前庭からは長い石段が続いていて、今ここに見えている
桟橋の横にある小屋で、将官たちは出航までの時間を待ったのでした。

桜で囲まれた前庭には宴席が設けられ、開始を待つ招待客が
自分に割り振られたテーブルの周りで笑いさざめいています。

桜の木近くの地面に不思議な構造物があるのに気がつきました。
地崩れでも起こしたので補修したんでしょうか。

満開の桜越しに臨む呉の町と自衛艦艇。
教育隊が訓練で使用するデリックが岸壁に並んでいます。

今回の撮影に当たっては、案の定勉強は何もしておりませんが、
とりあえず素人考えでピンクが美しく出るように色度調整はしてみました。

呉音楽隊選り抜きの精鋭チームによるバンドが、時折女性ボーカルも加え、
軽快なボサノバやジャズなどを中心に会場を彩ってくれました。

わたしは習慣でアドリブソロになるどんなところにいても、
何をしていてもなんとなく耳を傾けて聴いてしまうのですが、
ピアノが特に上手いなあと思ってそちらを見ると、なんとクラリネットの奏者でした。

ど〜〜〜〜〜〜〜んと大きな舟盛り。
いわゆるメインテーブルに一隻?だけとはいえ、流石に海自、刺身が豪華です。

鯛は爪楊枝で無理やり口を開けさせられていました(涙)

伊勢海老のお造りに丸一箱の雲丹、イクラ。
ちなみにこの雲丹に最初に箸をつけたのはこのわたしです。

「かしま」のレセプションでは、雲丹はもちろん、刺身もすでにありませんでした。
そもそもここでは開演前に食べ物に箸をつける人など皆無です。

またしても飾りスイカが・・・。

つい先日同じようなものを見たわけですが、明らかに技量はこちらが上。
このバラの花びらの彫刻の繊細なことよ。

しかも別の面にはこれ。
ちゃんと日の丸と旭日の赤が浮き出るようになっているという・・・。
特に旭日の部分のカットにものすごいテクニックが必要ような気がする。

それと、今気づいたのですが、桜の木を立てている鉢もどきは実はかぼちゃで、
こちらにも親の仇のように飾り彫りが!

呉地方隊給養にはとんでもない手練れの”匠”がいると見た。

舟盛りの「幟」には「呉地方隊観桜会」の文字。

TOとわたしは勿体無くも焼きそばの近くに名札を置いていただきました。
結果的に政治家の先生方と同じテーブルを囲むことになり大変恐縮です。

そしてまず呉地方総監池太郎海将のご挨拶。
総監はまず、ご自分が就任されたからのプロジェクトであった
鎮守府時代の地下壕の整備と一般公開についての説明をされました。

ここで地下壕の公開にあたって事前に現地調査を行った方が紹介されました。

各テーブルには例の「愚直たれ」が一つづつこのように置かれていて、
何にでもかけられるようになっていました。

総監の指導方針「愚直たれ」がそのままたれになったという経緯について、
わたしは当ブログでも何度かお話ししてきたわけですが、
激辛カレー味のこのたれを提供する呉市内の店は今では10店舗。

最初は年度末ということなのか、この三月いっぱいまでの契約だったそうですが、
この度池総監の任期中は継続して提供することが決まったということでした。

この「愚直たれ」、テーブルに置いてありましたが、わたしは個人的にこのソース、
実は一番美味しいのはキュウリなど生野菜にドレッシングとしてかける方法、
と思っていますので、掛けたいものが近くになかったのは少し残念でした。

寿司や唐揚げ、しゅうまいやサンドウィッチじゃソースのかけようがありません。

生野菜以外では、やはり愚直たれ掛けオススメはホットドッグです。
今回その噂の「呉総監ドッグ」をいただいてきましたが、その話はまた後日。

左のカメラマンが、総監がメラメラ燃えている「愚直たれラベルコンテスト」の、
右の女性が”たれ”そのもののレシピコンテストのそれぞれ優勝者となります。

このお二人の名前が改めて紹介されました。

続いてこのマイクの持ち方もおなじみ、国会議員寺田稔先生のご挨拶。
国会が長引いて気を揉んだけど、「なんとか間に合った」ということでした。

なんと!呉市長がいつの間にか小村和年氏では無くなっていました。
去年11月の選挙で当選した無所属の新原芳明(しんばらよしあけ)氏は、元財務官僚。

ニコニコと実に嬉しそうに、

「こんな素晴らしい観桜会に来られて、本当に市長になってよかったと思いました」

実感なんでしょうねえ・・(意味深)

宴会が始まると同時に総監や寺田先生の前には行列ができてしまいました。
総監の右側におられるのは確か元海幕長でいらしたかと。

会場から望む休山(ですよね)の斜面にはいたるところ
自生した山桜のものらしいが色づいています。
この日関東では桜はすでに葉桜になりかかっていましたが、
呉では満開のど真ん中という素晴らしい桜日和でした。

この宴会で、わたしは加入している防衛団体の地元地本の自衛官が
着任したばかりということでご挨拶させていただきました。

陸自の方はなんとレンジャー!過程出身でした。
わたしは生のレンジャー隊員とお話するのが2回目だったので、
今までここで書いてきたいろんなことを思い出し、つい盛り上がってしまいました。

「レンジャーのビデオ観たんですけどー」

というと、

「そんなものを観る人って本当にいたんですね」

と呆れたような顔をされました(´・ω・`)
ちなみに蛇は決して美味しくないけど、イノシシなんかより数が多く、
カエルより捕まえやすいから食料にするそうです。

「えっ、養殖の蛇を持っていくんじゃなかったんですか」

と聞くと、

「そんなことしませんよ」

帰りに車で送ってくれた自衛官にその話をすると、

「わたしも養殖の蛇だと聞いたことがありますが」

「あー、その方の頃は野生だったってことなのかも」

野生の蛇を食べて病人がでたから禁止になったとかかしら。
どなたかご存知の方がおられたら・・・・いるわけないか。

 

それから、地本の海自の方は、花粉症が辛そうにしていて気の毒でした。
聞くと、家族全員がなんらかの花粉症で、しかもアレルゲンが皆違うので、
時間差で誰かが必ず苦しんでいるという悲惨な状況だそうです。

提供されていたカレーは呉教育隊オリジナルでした。

ふと気づくと、太陽が西に沈みかかっています。
落日前の空を撮りたくて、この後人垣の間を縫って、
桜の木の向こうまでたどり着いたのですが・・・・・、

太陽が落ちる最後の瞬間は本当に早く、カメラを構える一瞬前に沈んでしまいました。
皆夕日が沈む瞬間をスマホで撮るためにここまで来ていましたが、すれ違った人が

「鉄塔が邪魔でダメだー」

いや、このマジックアワーに浮かび上がる鉄塔のシルエット、素晴らしいじゃないですか?
ちなみにカメラのホワイトバランスはオレンジを強くしてみました。

呉地方総監庁舎もレンガの色に夕日の残照が溶け込んでオレンジに染まりました。

鉄塔の向こうに陽が沈んだ瞬間は1830でしたが、その11分後、
国旗の降下が行われることになりました。

皆国旗の方向に正対し、「君が代」に耳を傾けます。
後ろから見ていると、明らかに自衛官の立ち姿には一種の緊張があり、
握った拳や伸ばした背筋、肩の線は、一般人と全く違います。

「国家に仕える軍人」

という言葉がなぜかこの時頭をよぎりました。

しばらくすると、桜にライトアップが行われました。
ただし、ほとんど同時にお開きの時間となりました。

以前「北の馬鹿者」発言をされた水交会の会長によるご挨拶で締めです。

人の流れに乗って退出口まで歩いていくと、総監夫妻がお見送りしておられました。

地方総監部庁舎の重厚な石造りのエントランスは、ライトアップされると
まるでギリシャかローマの神殿のような神々しさ。

駐車場からみた庁舎。

こうして見ると、旧海軍の施設は呉にとって大変な観光資源であることがわかります。
地下壕の見学をコースに組み入れた観光ルートをアピールしていこうという動きや、
カレーグランプリや今回のドッグ、タレのような地元とのコラボも相変わらず盛んです。

呉という街が、旧海軍と海上自衛隊にイメージの多くを負っていることを
あらためて思った一夜でした。

最後になりましたが、観桜会の参加におきまして手厚いご配慮いただきました
呉地方総監部の皆様方に心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。 

 


旧呉鎮守府庁舎 地下壕作戦室

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さて、というわけで、観桜会の模様をお伝えいたしましたが、今日は
その前に見学した呉鎮守府時代の地下壕の内部をみた話をします。

その前に、我が家の自慢の桜が満開の様子を。
桜が満開の時だけ、寝室のカーテンを開けて寝たりします。

昔この低層マンションの敷地には何かの長官公舎があったので、
その名残で桜の木が植えられているのです。

呉地方総監庁舎前からもう一度。
ちなみにこれはNikon1で撮影したものです。
このあと受付をして、庁舎の間の坂道を降って行くように指示されました・

この桜の向こう側が、庁舎の海側に面した「表門」の前庭であり、
今回の観桜会会場となります。

坂道を下っていくと右手に見えてくるのがこの小屋です。
天井につけられた通風換気口の形状といい、屋根といい、
作られたのはまず確実に鎮守府時代だと思われます。

窓が小さく、消火栓があること、さらには扉は鉄なのに、天井は抜ける素材。
可燃物あるいは爆発物を収納していたのではないでしょうか。

小屋の向こう側に石段が見えていますが・・・・、

ここを上っていくと、観桜会会場への近道となります。
明かりが用意されているようですが、夜に備えてわざわざ設置したのでしょうか。

地下壕司令室の入り口はわざわざ土で覆い、芝を生やしてカムフラージュ。
これは特に上空の飛行機から見え難くしています。

地下壕の下に立ち、上を見上げたところ。
ここを入っていったところに作戦司令室があります。

作戦司令室はこちらから見ると一階にあることになりますが、
長官庁舎のところから見ると「地下三階」ということになります。

かつて地面に植えた蔦が、コンクリート面を覆い隠していたのでしょう。
それにしても不思議なことに、ある高さから下には全く蔦が這った形跡すらありません。
いったいどんな事情でこんな造形になってしまったのでしょうか。

日本の城の銃を出す穴のような、鉄扉の覗き窓がいくつかあります。

「地下壕プロジェクト」は一応の完成を見たようです。
壕の入り口には全天候型の説明看板が設置されていました。

グーグルマップを加工したらしい地図と地下通路の所在を合わせたものです。
この前に見学を行なった潜水艦基地の説明の方が、

「昔はここから総監部まで地下でつながっていたという話です」

とおっしゃっていたように、地下道は鎮守府を中心に広範囲に
張り巡らされていた時代があったのです。

ここに書かれている解説を書き出しておきます。

「昭和17年、日本は米軍機による初空襲を受け、昭和19年ごろからは
連日のように空襲を受けるようになり、爆撃の被害を避けるため
日本海軍の地下施設は地下に建設されるようになった」

うーん・・・記述内容はともかく、この文章にいい点はあげられないな・・
って何様だよ、と言われそうですが、それはともかく。

「当確施設は、呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を
切り開いて建設されており、昭和b17年設計、昭和n18年夏頃に着工、
昭和20年4月ごろに完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。

また、空襲による被害を最小限とするため、当確施設完成ごは重要書類なども
『地下作戦室』で保管されるようになった」

これは去年のサマーフェスタで初めて施設が一般公開された時に配られたパンフの一部です。
今回入っていくのが「旧地下作戦室」ということになります。

この番号6番は、この時観桜会が行われていた会場の真下になりますが、
ここは掘りかけてやめた趾があるのだそうです。

ここに限らず、掘りかけはあちらこちらに見られるのだとか。

呉海軍、ただの防空壕にとどまらず、ワクワクしながら一大地下要塞、
「少年探偵団・僕らの秘密基地」を作ろうとしていたんじゃ・・・。

なお、4番は地方総監庁舎の脇から出てすぐのところにある
地下道へ続く階段があります。
庁舎で執務をしている人たちが、素早く地下に避難するためです。

実は去年、わたし、この階段を降りかけてやめております。
観桜会の時でひどい雨が降っており、しかもよりによって
後ろ下がりの白いスカートを履いていたもので、階段を三歩おりた途端、
裾に階段の泥がべったり付いてしまい、それ以上進むのを諦めたのでした。

壕への入り口は大人なら屈まなければ入れません。
階段は50段で、大変急なものです。

地図でいうと3番、急な階段を降りていって、作戦室に通じる道を
進んでいくと、地下道が崩落してしまっている部分があります。

 

庁舎の脇を通り、坂道が始まる辺りの地下にも道が掘り進められていますが、
そこは地下水が染み出し、地面がぬかるんでいるそうです。

どこからともなく湧いて来る地下水のせいで、地下壕の湿度はいつも高いのだとか。

去年は扉越しに中を見せてもらいましたが、
確か撮影はご遠慮ください、と言われました。

外側は大きなレバーで施錠する頑丈な鉄の扉(変形しないような工夫あり)、
それを開けて内側には普通の木の扉が残されています。

「火気厳禁」の文字が往時を偲ばせるレトロな字体です。

レバーを回すと上下にわたしたバーがどうにかなって、
(どうなるんだろう)扉がしっかりと閉まる仕組みのようです。

木の扉はかつて赤に塗られていたのでしょうか。

それ以外の部分はどうも最近補修したように見えます。

ここが地下作戦室。

地下壕の中で一番広いこの空間は幅約14m、高さは最大で約6m。
空港からここに来る時に必ず通る休山トンネルとほぼ同じくらいの大きさです。

戦時中は呉鎮守府司令部が作戦指揮の会議をするのに使っていました。

見学のために入っていけるのは、入口の平方10メートルほどのスペースだけ。

内部に立ち入ることができないように柵が設けられています。

左のほうに見えるのが元々の床だったのではないでしょうか。

中に入っていけないその理由が、この天井です。
プロジェクト進行中の段階で聞いていたところによると、天井が
ところどころ破れていて崩落しかねない状態であるため、
見学者には全員にヘルメット着用を義務付けるとか、
そういう案も出ていたようです。

実際にメディアに公開した時にはヘルメットを着用させたとも聞きました。

最終的に、入り口から内部を見るという展示法に決まり、
観覧場所の入口付近上部には足場を組んでそこだけ屋根を付け、
剥離による崩落の対策としました。

左奥の扉は後から作り直したもののようです。
 OD色の金属らしい構造物がありますが、これが何かはわかりません。

この階には会議室の他に発電機室、換気施設、排水施設がありました。

二階部分に通路があって、鉄の扉の開け閉めを行えるようになっています。
壁にも天井にもいたるところにワイヤが見えていますが、たとえ直撃があっても
崩壊しないような堅牢な作りになっているのでしょう。

この灯りの支柱は昔のままのようですね。

ここが作戦室だった時、奥の壁一面には西日本の作戦図が掲示されていて、
敵の飛行機が飛来すると、その地図上のランプが点滅して、
瞬時にその進行方向を把握することができたそうです。

庁舎横の階段を降り、地下通路を抜けるとこの扉の向こうにやってきます。

ただし、

扉は錆びついてしまって開けることは不可能です。

外部を封鎖した時のために、分厚いコンクリートの壁(厚さ1m以上?)に
空気を流通させるためらしい穴が穿ってあります。

この堅牢さにより、昭和20年の呉大空襲の際、庁舎が爆撃されても
壕内は全くの無傷で、保管されていた重要書類等も無事でした。

こ見学のための入口部分を保護するために設置された屋根のパイプです、

作戦室の前は玄関のエントランスのようなスペースがあります。

エントランス脇には部屋が二つありました。
奥の部屋は先ほどの新しい鉄扉から出入りできます。

その一つの部屋がこれ。

もう一つの部屋。
なぜか室温計が設置されていました。

入口を入って右側には二階に続く階段があります。

作戦室の上部は吹き抜けになっていて、通信室、事務室、映写室、
それから休憩室があったということです。

ここで夜を明かすこともあったのかもしれません。

地下壕の設計が始まったのは南雲忠一が呉総監だった時です。
完成したのは昭和20年の4月なので、南雲はもちろんその時には
とっくに転勤し、のみならずサイパンで戦死していました。

完成当時長官だった沢本頼雄中将はすぐに転勤しているので、
結局壕の恩恵に浴したのは、呉鎮守府長官として大空襲を経験した
金沢正夫中将ただ一人だったということになります。

これを左に入っていくと、さっきの分厚い扉の向こう側。
おそらく換気施設と排水施設があったものと思われます。

去年の夏、サマーフェスタで配られたパンフの表紙。

今回、地方総監の提唱によって、これだけの整備が行われました。
観桜会でも話題になっていましたが、現在、呉の観光コースの一部に
この壕見学を組み入れるという計画もあるようです。

 

プロジェクトに取り組んだ呉工業高等専門学校の学生と教員有志の皆さん。

何れにしても、誰も手をつけなければ、陽の目を見ることもなく
もしかしたら朽ち果ててしまっていたかもしれない地下壕を、
調査と修復によって公開できるまでにしたことは
後世に残す偉業であったとわたしは心から賞賛せずにはいられません。

何より実行を決断された呉地方総監と、プロジェクトに携わられた方々、
呉地方隊には、国民の一人として心からお礼を申し上げたいと思います。

 

 

 

 

呉総監ドッグ(愚直たれ使用)を喫食 @ てつのくじら館

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呉地方隊で観桜会が行われた週末、西日本の自衛隊基地では
少なくとも聞く限り、舞鶴と由良基地分遺隊でも観桜会が行われたそうです。
どちらも満開の桜日和であったということで、まずは喜ばしいことです。

観桜会がうまくいくと、新年度が幸先いいという気がしますものね。

さて、観桜会の日、わたしはここでも皆様にお約束した

呉総監ドッグ

を是非とも味わって皆様に報告をするべく、観桜会開始時間の
たっぷり4時間早く到着する便を取りました。

わたしとTOとで観桜会までてつのくじら館でも見て時間を潰そう、
と計画していたのですが、諸事情により、いつの間にか
到着後、潜水艦基地で「潜訓」と言われる訓練施設を見学、
さらにてつのくじら館で総監ドッグをいただきその後観桜会という、
海自主導のパーヘクトな計画が立案されていたのでございます。

その分刻みの進行表に監督印まで押してあるのを見て、わたしたちは
海上自衛隊呉地方隊の緻密さおそるべし、と震撼しました(嘘)

 

というわけで、今日は潜訓見学記に先立ち、てつのくじら館に行った話を。

またもや無駄に大きな画像ですみません。
通称てつのくじら館、略称てつくじ、海上自衛隊呉資料館の前の
潜水艦「あきしお」の尻尾の下にやって来ました。

つまり、許可を得た車しか入れない駐車場で下ろしていただいた訳です。
この角度の「あきしお」の写真が撮れるチャンスはおそらく最初で最後。

ここに来て初めて、スクリューの下に、鎮座する際のつっかえ棒になる
構造物(なんて言うのか知りませんが)があったのに気がつきました。
本職でもこの部分を下からまじまじ見たことがある人はそういないと思われます。

昔この「あきしお」について、

「展示保存されることになった時一番嬉しかったのは、
『あきしお』に乗ったことのあるサブマリナーに違いない」

と書いたことがあるのですが、つい最近、実際に「あきしお」で
水雷長として勤務していた、という方を知りました。

ご本人によると、潜水艦というものは寿命が短いだけに、
自分が乗っていた艦が半永久的に残されるのは嬉しいものだそうです。

しかもこの方の場合、勤務時代自分が1年半もの間寝起きしたベッドが
艦内に入ってすぐのところにあって、公開されているそうです。

てつのくじら館に行くたびにかつての自分のベッドで寝てみたくならないでしょうか。

さて、もう一度、話を「愚直たれ」から始めることにします。

この観桜会に招待された客には、もれなく封筒に入ったこの
「愚直たれラベル」がプレゼントされました。

このラベルは観桜会でも紹介された呉地方隊のカメラマンである海曹の作品です。

火柱が呉総監の正帽からまっすぐ立ち昇ってメラメラと燃え上がっている、
というのがいかにも

「脳天を突き抜ける」

がごときパンチのある辛さを予想させて秀逸です。
これをまじまじと見るまで気づかなかったのですが、総監のバックにあるのは
・・・もしかしたら護衛艦かなんかの一部でしょうか。

ただ「呉といえば鎮守府庁舎」、シンボルとなっている庁舎を使えばいいのに、
という気もしますが、歴史的建造物を燃やしちゃ縁起悪いってことかしら。


このラベルの裏には『万能調味料「愚直たれ」とは』としてまずその説明があります。

第43代呉地方総監 池 太郎 海将の指導方針「愚直たれ」を隊員に周知させるため、
「ユーモアは一幅の清涼剤である」という旧海軍の伝統を元に、
隊員からラベルおよびレシピを募集したものである。

多数の応募から選考されたラベルは呉地方隊の各部隊で掲示されるとともに、
レシピは呉市内の10店舗に池海将の在任期間中提供され、好評を博している。

 

全国ネットで「愚直たれ」が放映された時、呉総監の元にはたちまち中央から

「あれはなんだ」

と御下問があったらしいのですが、経緯を説明すると
何の問題もなく、了解というか承認されて終わったそうです。

もしかしたら、こういうのも海自ならではなのかもしれません。


空自の指揮官はそもそも「愚直たれ」的な愚直な標語とは無縁に見えますし、
陸自は、司令官のお言葉をこんな風に弄ってしかも広報が製品化、
などということにはまず絶対にならないでしょう。
たとえ誰かが思いついても、それを上に提案し、上が了解したうえで
本人が率先して宣伝、なんて体質じゃなさそうです。

わたしにとって、この「愚直たれ」の成立にまつわることどもは、
東郷大将に向かって「そこどいてください」と甲板掃除の水兵が声をかけ、
同行の陸軍高官を驚愕せしめた、という旧海軍のエピソードを彷彿とさせます。

「フネという運命共同体にあればこそ、下の者も意見具申可」

のリベラル精神が、大げさなようですが、垣間見えるような気がするのです。



さて実はこのカード、愚直たれレシピも載っております。
せっかくなのでそれも掲載しておきます。

【材料】

コンソメ(粉)・・   2.5g
水  ・・・・・・・・25cc
上白糖 ・・・・・・・ 10g
ガラムマサラ・・・・・3g
カレー粉・・・・・・・10g
マヨネーズ ・・・・・50g
ごまドレッシング・・100g

【作り方】

1、コンソメ、水、上白糖をよくかき混ぜながら火にかける

2、沸騰したら火から下ろす

3、カレー粉をフライパンで1分間乾煎りする

4、ガラムマサラをフライパンで30秒乾煎りする

5、マヨネーズを器に入れて3と4を混ぜる

6、5にごまドレッシングを混ぜる

7、6に2そ加えて混ぜる

 

市販のごまドレを使う段階で、あまり厳密に分量を守らなくても
そこそこ美味しいものができるような気がします。(主婦の勘)
ポイントは粉を乾煎りすることですか。
わたしはこれ、上白糖でなく今話題のココナッツシュガーでもイケると思います。

わたしたちは鉄のくじら館入ってすぐ左のカフェ、その名も

JMSDF CAFE

に案内されました。

ここの館長に当たるという方が出てきてご挨拶したのですが、
制服をきた普通の?自衛官でした。
裏の駐車場の誘導をしていたのも自衛官だったし、改めて
ここが海自の広報施設であることを認識した次第です。

今まで、資料館に来たら時間の全てを展示を見るのに使ってしまい、
カフェの方には足も向けないで終わることが多かったのですが、
今回はここが目的です。

「ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」の作者竿尾悟氏のサイン入りハンカチ。
ハンカチはここで売っているもののようです。

左は竿尾氏の、右は原作者の柳内たくみ氏のサイン色紙。

あきしおケーキとは、自衛艦旗を立てたフォンダンショコラケーキに
あきしおの形のクッキーを添えたもの。

やはりフォンダンショコラであきしおの形を作るのは不可能だったか・・・。

人気のあきしおカレーは売り切れていました。

ご飯の潜水艦がカレーの海を泳ぐという斬新なアイデアです。
これはぜひ食べてみたいよね。

この写真からはよくわからないのですが、潜水艦の後方には
ハンバーグのクジラが二頭並走しているという設定です。
白い波頭に見立てたガーリックチップスがいい味のアクセントになりそう。

何より、サラダが付いて850円というお値段が嬉しいではないですか。

あきしおカレーも関係者の認定証付きです。

第10代あきしお艦長の福永一佐の名前で認定証が授与されていますが、
その認定基準が具体的には何がポイントなのかは明らかにされていません。

第10代あきしお艦長「美味しいです。合格!」

それだけか〜い!みたいな?
左に立っている海自の制服姿のしろくま?はどこかで見たことがあるけど
なんだっけ?

で、出た〜!呉氏関連商品。

ソーダに呉氏のクッキーがぷかぷか浮かんだものだそうです。
クッキーの形そのものを呉氏にすることは・・・できなかったのかな。

あと不思議なのは、海を思わせるブルーのソーダが
オレンジ風味であるということ・・・・。

自衛隊の旗や階級章についた桜のことを

櫻星(さくらぼし)

というのだそうです。
今まで”さくらぼし”というと、イワシやキスを開いてみりん醤油に漬け、
干した、いわゆる「みりん干し」のことだと思って生きて来た
このわたしにとって、この事実は大変な衝撃でした(嘘)

櫻星スカッシュはその名の通り桜の味とのことです。

てつのくじらはもうすっかり呉のみならず広島のランドマークです。

「愚直たれ」の認定店舗には、呉地方総監名でこのような
認定証が授与されることになっています。

あきしおカレーの認定もそうですが、お堅いはずの自衛隊が
こうやって真面目に遊んでくれることで、市民は一層
その存在を身近に、親しみを感じるという絶大な広報効果があります。

「せいりゅう」引渡式の時に副官に手渡された衝撃的な呉総監ドッグの宣材名刺。
てつのくじら館のカフェに「愚直たれ」認定証が授けられているのは、
この総監ドッグに愚直たれが使われているからなのです。

てつのくじら館でしか食べられない呉総監ドッグ、今回は
わざわざわたしたちのために取り置きしてくださったそうです。

わたしとTO、案内してくださった一尉の三人分が、一枚ずつ
呉総監ドッグカードを添えて用意されました。

この専用紙皿は、まさにホットドッグを食べるために開発された優れもの。
上のポスターで池総監もこのお皿から食べておられます。

さて、どんなお味?

ぱく。一口め。

「美味しい〜」「美味しいね」「美味しいですねー」

三者ともに第一声はこれ。
シャウエッセン風のウィンナーソーセージのパリッとした歯ごたえも上々。
ところが、「愚直たれ」の宣伝文句にもあった

「脳天を突き抜ける辛さ」

といったものは、えてして後から猛烈に効いてきます。
わたしは3口目くらいからその辛さがじわじわときて、
たまらず、あっという間にコップの水を全部飲んでしまいました。

一尉も

「これは・・・辛いですね・・・」

と言いながらやはり水を口に運んでいます。
ところが、美味い美味いと言いながら、一口も水を飲まずにTOは完食し、
おかわりに行こうとするわたしに

「お水あげようか?」

と平然と言うので呆れました。
辛さに対する感度って本当に個人差があります。

いいです、と断って、カウンターにいったついでに、
ホットドッグに混入していた、カリッとした食感のものが
なんだったのか聞いてみました。

「あれはクルミです」

なるほど、愚直タレの味が強烈なので風味はほとんど感じないものの、
食感を楽しむためにナッツが投入されているというわけですか・・。

ついでに、お店の方にミニインタビューを決行しました。

「どういう風にこのレシピが決まったんですか」

「愚直たれを使ったメニューを考案してほしいという依頼を受け、
こちらのキッチンで考案したのがこのドッグでした」

なるほど、最初から総監ドッグを作ってくれという依頼ではなかったのね。

他の協力店舗と同じように、愚直たれメニューを開発したところ、
それがたまたまホットドッグであったということのようです。
もしかして、それが特に呉地方総監のお気に召したから、
「呉総監ドッグ」というメニュー名が特に与えられたのかな?

 

というわけで、この呉総監ドッグ、池海将就任期間は日本でただ一箇所、
てつのくじら館でのみ食べることができます。
これが美味しいことは、このわたし(どのわたしだ)のお墨付きです。

さあ皆の者、呉に行ったら、てつのくじら館に走れ!
そして今しか食べられない伝説の呉総監ドッグを試すがよい。
 

ただし辛いのが苦手な人はミルクティーかなんかと一緒にね。 

 

潜水艦「せいりゅう」入港式典@横須賀

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呉地方隊観桜会関連のシリーズがまだ終わらないのに、
またしても皆様にお伝えしたいイベントに参加してきました。

先日、神戸三菱で引渡式を見届けたばかりの潜水艦「せいりゅう」。

呉での慣熟訓練を終えて、母港である横須賀に入港するにあたり、
好例として行われる式典に出席が決まったのは、前日の昼でした。

今まで、進水式や引渡式には何度か参加してきましたが、
恥ずかしながら、自衛艦を母港に迎え入れるに当たって、
このような式典が行われていることを、わたしは

「せいりゅうの入港式典に行くのなら連れていってもらえまいか」

というイベント友達の依頼を受けて初めて知ったという次第です。


そこで、同じ職種つながりならなんとかなるかも、と潜水艦関係の方に
恐る恐るお願いしてみたところ、返事をいただいたのは翌日。

なんとそれは「せいりゅう」入港の前日でした。

当日午前中に入っていた歯医者の予約はあっさり変更し、
(のっぴきならない用事ができた、と本当にその通り言った)
わたしは急遽横須賀に駆けつけることになったのです。


予約受付時間の1時間前には横須賀のスターバックスで知人と合流。
本日のカメラは相変わらずの単焦点レンズとNikon1+望遠と広角レンズです。

やはりというか、再会するなり単焦点レンズを見とがめ?られ、

「ズームレンズ買いましょうよ・・」

と呆れたように言われてしまいました。

4月4日というと、例年桜の満開かまだちらほら、という時もあるというのに、
この日はまるで初夏のような陽射しの照りつける1日となりました。

帽子が欲しかったな、などとチラッと考えながらヴェルニー公園を歩いていくと、
横須賀地方隊の岸壁が見えてきます。

いつもなら DDH「いずも」のいる岸壁には、これから
「せいりゅう」が入港するらしく、艦の姿はありません。

ヴェルニー公園に設置された戦艦「陸奥」の主砲です。

「陸奥」主砲設置に際して募金を募っていたことをここでご紹介しましたが、
その後芝が植えられ、周りを鉄柵で囲んだ立派な展示が完成しました。

門のところで名前を告げ、首から下げる許可証をもらって横須賀地方隊敷地に入ります。

入港予定の岸壁には潜水艦に架ける舷梯?が用意され、すでに
入港作業を岸壁で行う自衛官が待機していましした。

向こうにいるのは艦番号107、「いかづち」です。

「いかづち」は、映画「亡国のイージス」で「うらかぜ」の役をしましたが、
何かと験を担ぐ海自が、よく沈められるフネのモデルを許可したものだと思います。

まあ、「バトルシップ」で「みょうこう」(の役をしたあたご)も沈んでますけどね。

こちらはお向かいにいたアメリカ海軍第7艦隊の「マッキャンベル」。

2007年と言いますからもう10年以上横須賀に勤務していて、
東日本大震災では「トモダチ作戦」に出動してくれたミサイル駆逐艦です。

甲板に結構たくさんの人影が見えていますね。

この部分には我が自衛隊の「しお」型潜水艦が二隻。

同行した知人(ミリオタかつ事情通)によると、潜水艦基地は
もうすぐ移転になって、ヴェルニー公園から姿を消すとかなんとか。

「今のままだとあまりにも人目が多すぎるから奥に隠すんですかね」

と冗談のつもりでいうと、

「そうらしいですよ」

と返事が返ってきてびっくりしました。
本当にそうなのか?

横須賀音楽隊がバスから降りてきました。

ブルーのチェッカーフラッグが、舫杭の場所を示すために置かれています。

ほとんど風はなく、午前9時半というのに太陽が照りつけて気温は上昇中。

「せいりゅう」入港を支援するタグボートが出勤してきました。

その時、場内にアナウンスがありました。

「せいりゅうが沖合に現れました。
到着まであと20分くらいかかります」

曳船はまっすぐ「せいりゅう」に向かっていきます。
潜水艦の上部に乗員が立っているのは、この時はまだ肉眼ではわかりません。

岸壁の入港支援隊が(というのかどうか知りませんが)整列休め。
右端二人が士官です。

沖の浮き灯台のところを通過していく「せいりゅう」。
やはり新しいだけあって、艦体がピカピカしています。

あまり数多くはありませんが、赤リボンの招待客もいました。

実は、前日というのに出席を取り計らってくださった、この日のスーパー恩人が、

「招待席は必要ですかと(横須賀地方隊に)聞かれたのですが、
バックステージで動き回れたほうがいいだろうと思いまして」

と気を遣って?招待者扱いを断ってくださったのでした。
確かに言われてみればその通りです。

おかげで、気兼ねなく立ったまま写真を撮ることができました。

「せいりゅう」を迎えに行った二隻の曳船は、後ろにくっついてきています。
これを見て思い出したのがてつくじの「あきしおカレー」。

ちょうど二頭のクジラに見立てたハンバーグが、カレーの海を泳ぐごはんの
「あきしお」を追いかけていましたが、あれと同じ構図です。

「あきしおカレー」もハンバーグを「曳船」ということにしたら、
もっとリアリティが出ると思うがどうか。(お節介)

横須賀音楽隊は、進水式や引渡式などのようにきっちりと決まった曲ではなく、
隊長が状況を見ながら曲名をその都度その場で伝えながら
(近かったので聞こえた)演奏を行なっていました。

音楽隊によってこういう時に選ぶ曲も若干の違いがあるようです。
例えば横音は、呉音楽隊が必ず演奏する「国民の象徴」はやらないとか_φ(・_・

嬉しかったのは、「せいりゅう」到着を待つ間、演奏された曲の中に

「サンダーバードのテーマ」

があったことです。

わたしは昔からこの曲を、サビからの転調の繰り返しだけでいうと
ユーミンの「中央フリーウェイ」に匹敵するマジ神曲、と思っていますので、
植田隊長に駆け寄り、手を取って感謝を述べたいくらいでした(最後だけ嘘)

艦番号の509は「そうりゅう」型9番艦という意味です。
ちなみに先日進水式を行った10番艦の「しょうりゅう」が510です。

「そうりゅう」型はこの510で終わるのではないか、という噂もありますね。
問題は次の艦名ですが、まさか、「つる」・・・?

511「しょうかく」512「ずいかく」513・・・あれ、もう思いつかないや(笑)

それじゃ511「ひりゅう」でそこからは「ひりゅう」型ってのはどうだろう(提案)
潜水艦はやはり鶴より龍の方が親和性ありと思うんだな。

いつの間にか艦上の人たちが回れ右して向こう向きになっています。

「せいりゅう」は取舵を取り、艦首をこちらに向けて岸壁ヨーソロです(適当)

それにしてもフィンの上の二人、気持ち良さそうだなあ・・。
左の人は岸壁のチェックに余念がありません。

「かーちゃんと子供は来てるかなー・・あ、いたいた」

え・・・違う?

神曲「サンダーバード」の他で耳?を引いたのは、「聖者が街にやってくる」でした。
さすがジャズも得意とする横須賀音楽隊です。
そしてこの選曲からも、入港の儀式のカジュアルさが伺えますね。

音楽隊は、定番の「宇宙戦艦ヤマト」もきっちりと演奏した後、
いざ入港という時になって行進曲「軍艦」を演奏しました。

後ろを付いて来ていた曳船が、回り込むように「せいりゅう」に近づき・・、

左に回頭した艦体にほぼ直角に接触するべく待ち構えています。

二隻の曳船で艦首と艦尾部分をじわじわ押していって着岸させるのです。
互いの間で舫を受け渡しして、いつの間にか曳船と艦体が連結されました。

押した時に艦体が離れていかないようにつなぎとめたのでしょうか。

曳船からは黒煙が時々噴き上がります。

潜水艦と曳船の間の舫がピンと張られ、完全に艦体と曳船が連結された状態になりました。
長年の経験の蓄積により出来上がった、合理的かつ安全な方法なのでしょう。

操艦を指揮するセイルの上から、時々フィンの上の人にも指示が飛びます。

岸壁が近づくと、艦上の入港作業準備が始まります。
二人が手にしている白いものは、岸に向かって投げるサンドレットです。

じわじわと艦体が岸壁に寄せられていくのを、
岸にいる人たちは今はただ見ているだけ。

あと数メートルで着岸です。

つい一週間前(3月27日)着任したばかりの横須賀地方総監、渡辺剛次郎海将。
到着するなり、ご挨拶に来られました。

渡辺海将の職種は回転翼機の操縦で、前職は教育航空集団の司令だそうです。

サンドレッドを持っている乗員は艦首側に二人、艦尾側に二人、計四人います。
掃海艇で投げていたものより小さくて、投げにくそうに見えますが・・・。

さて、これから岸壁への繋留が行われます。

 

続く。



繫留作業〜潜水艦「せいりゅう」入港式典 @ 横須賀地方隊

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「せいりゅう」入港式典、潜水艦が沖に現れてから接岸するまでで
案の定一日を費やしてしまった当ブログですが、皆様方におかれましては
ここはそういうものだと諦めて、どうかお付き合いください。

わたしが前回タグボートのことを曳船と書いたところ、
「自衛隊では押しぶねと言っている」というコメントをいただきました。
確かに見ていた限りこの日は曳船というよりは押す仕事ばかりしていたので、
わたしも今後その日の任務によって呼び方を変えようと思います。


こちら、そのころの艦橋。

いつもこの上の構造はどうなっているんだろうと不思議です。
中はラッタルになっているらしいですが、
それでは上半身出している人はどこに立っているのか。

一度でいいからここに上がってみたいものです。

「そうりゅう」型潜水艦の艦長は二佐職です、
肉眼ではわかりませんでしたが、写真に撮ってみると、
小さな旭日が根元にある「長旗」が揚がっているのに気づきました。

長旗は各艦艇を指揮する士官の旗章として掲揚されるもので、
このことだけは旧海軍と全く変わっていないと思われます。

こんなところに羅針儀らしいものが設置されていました。
ここから操舵に指示を出していた、でOK?

艦首側では接岸の瞬間を待って、サンドレッドの投擲用意がされました。

サンドレッドとは、船舶の太い係留索を陸上に渡すために、最初に
日ービング・ライン(heaving line 引き綱)という細いロープの先端に
遠くに投げやすいようにつけた先端のおもりのことです。


今回の出席をお取り計らいいただいた方に、式典から帰って
無事に参加できた旨連絡をしたところ、

「サンドレッドは一発で届いたでしょうか?」

と御下問がありました。
掃海艇のサンドレッド投擲を見たことのあるわたしには、
はっきり言って潜水艦のがそんなに大変なこととは思えなかったので、
思わず

「あれ難しいんですか?」

と質問したところ、

「初度入港でレッドが決まるかどうかは注目の的で、
モタモタしたら後世まで語り継がれます(−_−)」

海に落とすのも絶対にダメだろうな。
入港の社業は時間の勝負なので、ちょっともたつくだけでも伝説になっちゃうのか。
それは大変ハードルが高いぞ。

右から2番目、そして5番目が投擲を行うレッドマンと呼ばれる人です。
普段の入港ならともかく、これだけ観客が多い初度入港でサンドレッドを投げる
レッドマンは、「ある意味艦長以上に緊張するもの」なのだそうです。


緊張、してますかー?

 

ヒービングラインは太いラインに繋がれて、舫杭にかけられます。
船は係留の際、

前後に動かないように バウ及びスターンライン
横に動かないように ブレストライン
前後および横に動かないように スプリングライン

という舫の掛け方をすることになっています。
潜水艦は小さいので普通の船よりラインが少ないようです。

こう言った入港作業の間、音楽隊はずっと演奏を続けていました。
華やかな音楽付きで、しかも皆が写真を撮りまくっているこの状況、
いつもと同じ作業には違いありませんが、艦隊の皆さんはどんな気持ちでしょうか。

これは明らかに着岸の瞬間を「今っ」と指示する人だと思われます。
それと同時にサンドレッドが投げられるのでしょうか。

インカムの人は着岸と同時に国旗を揚げる用意をしています。

彼が指差しした次の瞬間、右の海士くんがサンドレッドを投げたのだと思われますが、
当方この時状況が読めず、国旗の揚がる瞬間も投擲の瞬間も撮り損ないました。

艦上と岸壁ではハンドサインが交わされているようです。

その頃、仕事を終えた一隻の押し船はあばよっと去っていくのでした。
お疲れさま〜。

艦尾側の子はまだお仕事中です。

あれ、ラインが黒いぞ。

相変わらず状況が読めず、またしても艦尾側の第1投を撮り逃しました。
しかし最初のサンドレッドが岸壁に届いた瞬間、ラインマンたちが
ものすごい勢いで走ってレッドを回収。

全員で輪になって、順番にヒービングラインを拾っては離し、
また後ろに行っては拾うという方法でラインを引き揚げていきます。

入港作業は自衛官たちにとっては日常作業ですが、一般人には
はっきり行って、これはちょっとした派手な見ものです。

自衛官たちの躍動感ある走りをご覧ください。

いつの間にか艦首側の国旗じゃなくて艦首旗が揚がっています。
潜水艦用の可愛らしいサイズです。

延々と写真を撮っていますが、経過時間はだいたい2分くらいの間の出来事です。
写真の記録を見たら、着岸が1000と決まっていたらしいことがわかりました。

そして太い舫を舫杭に掛けている後ろでは、艦尾側二人目のレッドマンが投擲。

サンドレッドは岸壁のラインマンによってすぐに拾われ、
すでにヒービング・ライン(細いロープ)を引き揚げて・・、

チームその2によってまたぐーるぐるが始まります。

なんか楽しそうに笑っているようですが、そう見えるだけの人かもしれません。
(そういえば、笑ってないのに笑っちゃいけない時に笑った!とか
マスコミにいちゃもんをつけられた自衛隊のトップがいたという話を最近聞いたな)

この「ヒービングダッシュ」(わたし命名)をするのは海自だけでなく、
入港先の地本の人(大抵陸自)が参加したりすることもあります。

レッドマンは全部で四人でしたが、全員がいっぺんに投げると
ラインマンの人手が足りなくなるので、何回かに分けて行います。

  

あとはヒービングラインに繋いだ太い舫を杭に掛ける作業があります。
待機している二人が持っている舫は、流石に新造艦だけあってまだ真っ白です。

潜水艦は、艦首と艦尾で2本ずつラインを係留するようです。
大型艦になると、これが8本くらいになります。

たった今調べたところ、索を巻きつけているのはボラード、
左の索を引っ掛けているのは一種のフェアリーダーだと思うのですがどうでしょうか。

係留索の呼び名は様々で、係船索・ロープ・ホーサー・もやい・ムアリングラインなど。
自衛隊では舫と呼んでいるかもしれません。

舫杭に「せいりゅう」の舫が掛けられました。

押し船に「ご安航」の信号旗が揚がっていたことをこの写真で知りました。

艦尾側でも皆でこれから岸壁に繋ぐ舫を引っ張る作業です。
決して広くもないこんなところで力仕事、なかなか大変な作業です。
作業をする全員が救命胴衣を付けるのも、転落の可能性がゼロではないからです。

艦尾の舫なのでこれも「スターン・ライン」というんでしょうか。
全員で運動会の綱引きのように引っ張ります。

「オーエス!オーエス!」

という声が聞こえて・・・きませんが、これではまるで綱引きそのもの。

ところでこのオーエスってなんなんだろうと思っていたのですが、たった今調べたところ、
フランス語の「オーイス(Oh, hisse)」ではないかという説が有力で、

「hisse」:(帆や旗などを)揚げる・巻きあげる 

だそうですから、今現在のこの状況にはまさにぴったりですね。
ただわたしは、綱引きを明治時代に伝えたのがイギリス人であることから、
実は「オーエス」は

「Oh, yes! Oh, yes! 」

だったんじゃないかと思っていますが。

その時、米軍基地からやってきたのはアメリカ海軍の巡視艇。
わざわざ回り込んで「せいりゅう」の手前でユーターンしていきました。
これ絶対新しい潜水艦見に来てるよね。

君たち、「DBF」(ディーゼルボート・フォーエバー)って知ってる?

 

水上艦で舫を扱う人は皆手袋をしていたと記憶しますが、この日は皆素手でした。
楽々とやっているようで舫の係留作業は大変危険なこともあるらしいので、
手袋なしで大丈夫なんだろうか、と見ていて少し心配になりました。

潜舵の上の人たちは、この間もずっとここに立ちっぱなしです。
潜水艦は、例えば関門海峡なんかを通過するときに、必ず

「航海保安配置」

として艦橋から見張りを行いますが、その際にはこの潜舵にも
艦橋とは別に見張り員が上がるということです。

この日の潜舵の見張りはお天気も良く気持ちがよかったと思いますが、
荒天の時にはまともに波を被りそうです。

というわけで、舫を掛ける係留作業が完了いたしました。
「せいりゅう」艦上の士官が小さなメガホンで指示を行うと・・・・、

直ちに岸壁に用意されていた舷梯を掛ける作業が始まります。

皆、作業時着用していたオレンジのベストを脱いで、
ハッチから中に入れています。

潜水艦用のラッタルには専用の木の階段を設置して完成です。

この後乗員は上陸し、入港式典に臨みます。

ちなみに、着岸の瞬間からラッタルがかかるまでの所要時間はジャスト10分でした。

 

続く。

邂逅〜潜水艦「せいりゅう」入港式典 @ 横須賀地方総監部

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さて、潜水艦「せいりゅう」の入港式についてお話しするのも最後になりました。
ラインを岸壁と艦の間に渡し、係留して固定する作業が終わり、続いては
全員が上陸する準備にかかります。

艦橋の艦長以下青いストラップの幹部は、一人ずつハッチに消えました。

潜舵からも甲板に降りることができるのを初めて知りました。

潜舵横に付けられた足場を降りていくことができるんですね。

潜舵に出入りするドアはどちらも解放されていたので、下からは
向こうがドア越しに見えるというなかなか珍しい光景が見られました。

自衛隊の潜水艦は川崎重工と三菱重工で交互に作っていますが、両社の製品は
同じ規格でも微妙に違うのだそうで、例えばこのドア部分、

「四角いのが三菱、丸いのが川重」

で見分けることができるのだそうです。
(裏を取ってないので確かな情報かどうかは知りません)

作業中に着ていたオレンジの救命胴衣を脱ぎ、全員が艦尾甲板に整列を行いました。

入港してくるときに行進曲「軍艦」の演奏を行った横須賀音楽隊、
乗員の上陸に演奏したのは「海をゆく」でした。

艦長を除く幹部を先頭に、上陸が始まりました。
わたしはてっきり「入港」というのは形だけのことで、「せいりゅう」は
昨日のうちに一度入港していわゆる「立て付け」を行っているはず、と
思い込んでいたのですが、本当のところやはりこれが「初上陸」なのでしょうか。

 

この日の見学者は招待客、隊員の家族や関係者、水交会などの団体、
防衛モニターといったところだったと思います。

彼らの行進を見て、近くにいた防衛モニターらしい女性が

「あー、鼻血出そうになった」

となかなか斬新な感想を述べていました。

幹部は艦長を入れて5名。
副長、航海長、船務長、水雷長、それから機関長かな?

あれ?さっきラインを岸壁で引いていた人がいるような気がするぞ。
ということは、やっぱり事前に「上陸」していたのかしら。

海士の皆さんの帽子の真新しいリボンには

「第6潜水隊」

の金文字が眩しく光っています。
水兵さんの帽子に所属を記すのは帝国海軍からの伝統ですが、
この漢字表記って、外人さんからは結構クールに見えると思うんだな。

川崎重工で行われた「しょうりゅう」の進水式の時、新造艦の艤装艦長は、
必ずどこかの艦長を経験していなければいけない、とどなたかに聴きました。

横須賀地方総監に着任の報告を行います。

わたしは3月12日、神戸で「せいりゅう」の引渡と就役を見届けましたが、
その後、「せいりゅう」は約三週間呉で習熟訓練を行ったのち、
ここ横須賀に着任したという流れだそうです。

入港式典は非常にシンプルで、総監に挨拶の後は、
横須賀の議員が艦長に花束を贈呈、花を抱いたまま艦長挨拶、
その後は横須賀市長代理が市長の激励の言葉を代読、というものでした。

それが終わると、岸壁に乗員が整列したまま、式典も終了となります。
終わって、なんとなく自分の家族や関係者をその場で待っている乗員の皆さん。

わたしが今回初めて入港式典に参加してよかったと思ったのは、
進水式、引渡式では決して見ることのできない、乗組員たちの
久々の家族との再会シーンをそこここで見ることができたからでした。

制服のまま久しぶりに我が子を抱き上げるパパの姿があちこちに・・・。

海士の皆さんはまだ独身が多いので、再会するといっても地元のご両親や
あるいは友達だったりが多いようでしたが、中には若いパパらしき人も。

潜水艦をバックに家族写真。

「せいりゅう」乗員は艤装中は神戸にいたと思われますし、その後は呉。
家族の顔を見るのはどれくらいぶりなのでしょうか。

お父さんの帽子を被って敬礼。
将来有望だ。

この男の子は、お父さんの首に手を回してしがみついていたと思うと、
小さな手と顔を制服の胸にしっかりと押し当てたままじっとしていました。

まるで父親の存在を確かめるように。

艦内で配置に着いていて、家族と会うために(多分)いそいそと降りていく
乗員がいれば、かたや当直で、ずっと立っていなければならない人たちも。

できたばかりとはいえ、進水以来二年間ずっと海に浸かっていたわけですから、
それなりに水垢のようなものが付着しています。

艦首部分にあるこのコブのようなものは、ソナーシステムのうちの一つで、
魚雷警報装置(逆探ソナー)だそうです。

艦体には色々と貼られていますが、これらはターゲット・ストレングス
TSレーダーでのRCSに相当する概念)低減のため、入射音を
音源と異なる方向に全反射させる反射材や水中吸音材です。

ところで、潜舵の横から降りていくと、こんなところを通って行かねばなりません。
手すりもついているし床は滑らない素材だとは思いますが・・・。

そして乗員はほとんどが岸壁に出ていってしまいました。
なんども言っていますが、潜水艦は外殻の厚みを知られないように、
ハッチにカバーをかけて隠してしまいます。

任務に就くと消されてしまいますが、この日は艦体に

「せいりゅう」

と文字が書かれていました。
この日も来ておられた着物の女性は書家で、自衛隊内で
書道を教えたり、揮毫をされるという話を知人に聞きましたが、
この「せいりゅう」もその方が書かれたのかもしれません。

 

自衛艦に入ると必ずそこにある艦名が書かれた名札は、
例えば「いずも」「いせ」などはその名前の神社の宮司が手掛けますが、
それ以外はこの書家が担当することが多いということでした。

「そうりゅう」型から採用されたX舵。
それはいいのですが、藻がすごい・・・・。

まあ、新造艦とはいえ進水して2年経っているので無理ないか。

艦体の素材も反射やら吸収やらでデリケートだからゴリゴリ削るわけにいかないし、
いくら取ってもすぐに付いてしまうのであきらめモードなのかも。

ところで書家の人はこの字をまさかここに直接書いたのではないですよね?

家庭持ちの乗員はずっと岸壁にいましたが、海士クラスの若い人は
誰も来ていなければとっとと艦に戻って行く傾向にあり。

給汽、というのは気体を供給することで、航空自衛隊には
「給汽員」というボイラー関係の資格職があるそうですが、ここにあるのは
どう見ても船に給気する装置です。

Mpa は空気の圧力の単位で「パスカル」ですね。

でも、具体的にどんな船にどういう目的で給気するものかはわかりませんでした。

程なくわたしたちは横須賀地方総監部を後にし、メルキュールホテルの一階で
お約束の「ゆうぎりカレー」を早めのお昼にいただいて帰りました。

神戸で引渡式とその出航を、そしてこの日に配備された横須賀への入港を見届けて、
その独り立ちと、これから任務に就く彼らの姿に大いに感銘を受けたのも事実ですが、
何より久しぶりの家族と邂逅する父親、あるいは夫としての同じ人々の姿を見たことで、
自衛官と彼らを支える家族に対する感謝の想いが一層深まるのを感じました。

 

今回、直前にも関わらず入港式典参加をお取り計らいくださった皆さま、
この場をお借りしてお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。





大阪では笑いを 東京ではマナーを〜練習艦隊寄港行事@大阪

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このエントリ制作を、オヘア空港のユナイテッドラウンジでやってます。

事情があって、この週末からしばらくニューヨークに行くことになり、
シカゴに降り立ったら気温が2度でした。
さらに今から行くところも最低気温は余裕で零下という噂に慄いています。

練習艦隊行事と「ちよだ」引渡式の時にあまりに寒く、続いて
関東では雪が降って震え上がった先週ですが、今は確実にそれより寒い世界へと・・。

どうなるわたし(笑)

 

さて、ブログの進行上、玉野で行われた「ちよだ」の引渡式を先にしましたが、
今日は一日遡って、その前日の大阪で行われた練習艦隊の壮行会の話をします。

3月17日、卒業式を行い江田島を出航した練習艦隊は、まず呉港に一泊したのち
3月19日、大阪港に錨を下ろし、そこで二日にわたる寄港行事を行いました。
わたしがご招待いただいたのは、まずその最初の行事である、
大阪の水交会が主催という形で行われた練習艦隊を囲む夕べ的なパーティです。


写真編集の関係で無題に大きな画像ですみません。

今回驚いたのが、新幹線の新大阪駅周辺がやたらとこぎれいになっていたこと。

新幹線から地下鉄御堂筋線に乗り換えるコンコースなど、昔は暗くて何もなくて、
実に殺伐とした雰囲気だったのに、いつの間にか同じ場所に、小洒落デリの最高峰?
ディーン・アンド・デルーカのカフェなんぞができていたので、
ついふらふらと入って、これから宴会だというのにサラダを頼んでしまいました。

◆ 会場

壮行会会場は上本町駅の上にあるシェラトンです。
上本町も昔知っていた頃とは全く別の街になっていました。

受付では会費1万円也をお支払いいたしました。
出席者が練習艦隊の皆さんを激励するためにもてなし、練習艦隊側は、
翌日の艦上レセプションでこれに対する返礼を行う、という形のようです。

会場入り口には政治家からの祝賀電報が所狭しと展示されていました。

ちなみにこのアイラブオオサカの中山泰秀参議院議員は、中山正暉氏のご子息で、
おじさんが中山太郎、お祖母さんが中山マサ(日本初の女性閣僚となった政治家)、
政治一家の世襲議員です。

マサさんは父親がアメリカ人ですが、濃い顔の血が受け継がれていますね。

◆ 練習艦隊入場

練習艦隊は大阪港に入港したあと、会場に直接やってきたということです。
練習艦隊司令官泉博之海将補を先頭に、まずは練習艦隊幹部が入場。

練習艦隊の新任幹部が軍艦行進曲が流れる中、金屏風の前に整列を行います。

入場してくる訓練幹部の皆さんを見ると、全員が横刈り上げの短髪で、
上の方の人たちよりいわば画一的な髪型をしているように思えます。

皆が同じ理髪店で有無を言わせず同じ髪型にされてしまうのか?

それとこうして見るとやはり眼鏡をかけた人が多いですね。

まず全員で国歌斉唱を行いました。

このあと練習艦隊の「かしま」「しまゆき」「まきなみ」艦長、
そして練習艦隊幕僚の皆さんが挨拶をされました。

◆練習艦隊司令官の挨拶

そして練習艦隊司令官、泉海将補のご挨拶。
この表情だけでなんとなくどんなことを言っているかわかりそうでしょ?

実は司令、

「ユーモアは海上自衛隊の海軍時代から続く伝統となっております。
ここ大阪といえばお笑いの本場です。
練習艦隊は大阪でお笑いの精神を学び、東京ではマナーを学びます!」

ということをおっしゃってるんですねー。

ユーモアと大阪のお笑いは少々方向性が違うと思わなくはないものの、
これには会場も大ウケで、

「なんや、ワシらのマナーが悪いとでも言いたいんかいな」

などと気色ばむユーモアのわからない大阪人などいません。(多分)

今回、練習艦隊行事と「ちよだ」の引渡式、どちらにも出席した自衛官が、

「あの海幕長の挨拶といい、練習艦隊司令官のスピーチといい、
伝統のユーモアは健在だと改めて思わされましたね」

と最後の日に評していましたが、何しろ新任のうちから口を酸っぱくして?
箸の上げ下ろしのたびにユーモアユーモアと連呼する組織だけのことはあって、
その伝統は脈々と息づいていることが、今回も立証されたのでした。

◆一般大卒自衛官

泉海将補は一般大卒(早稲田大)と聞きますが、最近将補に栄進された
知己の自衛官も一般大ですし、存じ上げる限り一般大卒の司令官は少なくありません。
海自ではもはや防大でないと出世できない、というようなことは全くないようですね。

 

ところでこの日、会場でお会いした旧知の一佐が、手近にいる新任幹部を捕まえては
ちょっとしたインタビューのきっかけを作ってくださったので、
比較的引っ込み思案のわたしにしては()驚異的にいろんな話が聞けました。
話のとっかかりはまず無難に、

「防大か一般大か」

から入りますが、北海道の大学を出たという人、東京の私大卒という人などもいて、
一般大卒が思ったより多いという印象です。

ここで思うのは、一般大を出た人というのは、
卒業すれば自衛官になるのが当たり前の防大卒と違い、

「職業選択の結果として」

ここ自衛隊にいるということです。


わたしがこの日お話しした一佐も国立大卒で、専攻した学部卒では
自分の望む就職ができないと判断し、自衛隊を選んだということでしたが、 
もちろん動機は千差万別で、最初から

「船乗りになりたくて」

幹部学校にやってきたという人もいました。

ちなみにこの人になりたい職種も聴いてみると、なんと掃海隊でした。
一般大にいてよく掃海隊なんて知ってたなあ、と正直かなり驚いたものです。

気のせいか、食べ物が無くなるのがどの祝賀会より早い(笑)

ここにお皿を持ってぼーっと立ったまま、列が向こうに移動してくれるのを待っていたら
どんどん後ろからなだれ込んできて、いくら並んでいても無意味だとわかりました。

大阪っちゅうところは、ぼやぼやしてるもんに甘い世界やおまへんで〜。

 

◆ 宝塚歌劇団

飲食が始まる前、大阪での寄港行事としてはもう伝統となっているイベント、

宝塚歌劇団の有志による歌のステージ

が行われました。
まず、最初に宝塚のお嬢さん三人が登場して、練習艦隊の新任幹部代表
(おそらくクラスヘッド)に花束を贈呈します。

そして、ステージに袴姿に草履という伝統的なタカラジェンヌファッションで
男役二人、女役一人が立ち、ミニショーを行うという趣向。

 

聞いたところ、このイベントは今の将官クラスが練習艦隊に出た時には
すでに慣例として行われていたということです。
そういえば、宝塚歌劇団と自衛隊って、教育という点で似たところもあるかも・・。

 

練習幹部は後ろに気遣って中腰になってかがんだままの鑑賞です。
そんな姿勢でしんどくないのかとつい心配してしまいましたが、
彼らは足腰を日頃から鍛えているのできっと何でもないのでしょう。

タカラジェンヌはまず三人で「ビバ・タカラヅカ!」「すみれの花咲く頃」
ともう一曲の宝塚のテーマソング的なものを歌い(よく知らないのですみません)、
練習艦隊幹部に激励の言葉を送りながら一人一曲ずつ歌を歌いました。

面白かったのは、男役と娘役は同じ曲を歌っても一オクターブ違いで、
娘役はほぼ絶叫状態で、男役はどす低い声で歌っていたことで、それは
最後の自衛隊の公式隊歌?「海をゆく」の時も同じでした。

昔から「海をゆく」が歌われていたのかは、もう何十年も前に練習艦隊だった
自衛官は「覚えていない」ということでしたが、この日宝塚の人たちが
ちゃんとカラオケを用意していたところを見ると、最近の定番のようです。

ところで、会場入りの時から、繰り返しアナウンスで

「演技中の宝塚歌劇団の写真はご遠慮ください」

と注意がされていたのに、歌の途中で写メを撮っているおじさんが
わたしの周りだけでも二人いました。


 ◆海をゆく

ところである現役自衛官はこの時、

「わたしは『海をゆく』を歌うとき、心の中で、いつも元の歌詞を歌っています」

とおっしゃっていました。

当ブログでは昔、警備隊時代に生まれたこの曲の最初の歌詞、

「男と生まれ 海を行く」

が時代に合わないということで、最後以外全部変えられてしまったことを取り上げ、
私見から「改悪だ!」などと散々文句を言ったものですが、
(これ、今にして思えば公募で当選した作詞者には大変失礼?)
やはり同じように思っている現場の人も少しはいるらしいことがわかりました。

 

かつて東京音楽隊長を務められた谷村政次郎氏もこの点同じ考えで、
そのご著書の中で(今出先なので文章は正確ではないですが)

「男と生まれ、の部分はそのままにしておいて、女性は女と生まれ、
とその部分だけ別の歌詞を歌ってもよかったのではないか」

とおっしゃっておられます。

かつて「海の民なら男なら」という出だしの戦時歌謡があったわけですが、
「海の男」という完璧な一つの概念となった言葉と比べると、「女と生まれ」というのは
はっきり言って歌詞としてあまり美しくないと個人的に思うんですよね。

よって、わたしの考えは、男を「漢」として、拡大解釈すればいい、つまり

「おとこと生まれうみをゆく」

のままでよかった、というものです。

つまり徹頭徹尾「変えるな」ってことですね(話になら〜んw) 

昨年度の練習艦隊は、大阪には「諸事情」により寄港しませんでした(意味深)
そのせいなのかどうかはわかりませんが、大変な盛会です。

 ◆ 自衛官と方言

わたしは練習艦隊の艦上レセプションには何度か出させていただきましたが、
よく考えたら地元が主催する壮行会は初めてなので、国内の各寄港地で
歓迎会が行われる時、その土地出身の幹部を紹介する慣習を初めて知りました。

居並ぶ幹部の中から、大阪府出身、兵庫県出身、京都府出身、そして
奈良、三重、和歌山と近畿出身の者の名前を読み上げ、紹介するという趣向です。

出席している地元出身の幹部の家族にも喜ばれるでしょう。

 

この時、多くの関西出身者の元気な返事を聴きながら、

「この人たちは全員大阪弁スピーカーなのか・・」

とわたしは割と当たり前のことを考えていたのですが、同時にふと、
日頃接する自衛官の喋り方に全くお国訛りがないということに気づきました。

「オフになるとやっぱりお国言葉になるんですか」

広島出身という自衛官に聞いてみると、どうもそのようです。
仕事の時にはオンスイッチが入って、敬語の標準語になり、
自分のことは『私』というと言ったお定まりの喋り方になるのです。

防大や幹部学校に入った時点では、方言しか喋ったことがない青年も、
いつの間にか公務の時には標準イントネーションで話しているのでしょう。

冒頭の「手当たり次第捕まえてインタビュー」の機会に
そのことも質問してみたのですが、

「私は関東出身なので、全く違和感がありませんでした」

という人以外は、ほぼそういう経緯で自衛隊喋りを身につけているようでした。
旧軍の昔と違って、今では皆テレビやラジオでいわゆる標準語を聞いて育つので、
頭を切り替えさえすれば、さほど苦労せずとも標準アクセントで喋れるのです。

ただ、インタビューした中に、例外として、

「自分は関西人でもなんでもないのに、防大の部屋のメンバーが
たまたま強力な大阪人ばかりなのでうつってしまった」

というかわいそうな人もいました。

「あー、大阪人はね・・・」

「どこに行っても絶対に大阪弁しか喋らないから・・」

と思い当たる節のあるわたしたちは深く頷きあったのです(笑)

大阪人が大阪弁しか喋らないというのは、フランス語しか喋らないフランス人の
エッフェル塔並みに高いプライドとかいうのとは違って、

「東京弁や標準語を話す自分に照れがあるorカッコつけてるみたいで恥ずかしい」

という意識からくるのではないか、とわたしは兼ねてから思っているのですが、
そんな大阪人も、自衛隊では公務の時には普通に標準語になるから不思議です。

 ◆ 志望職種

インタビューでは、どこの職種に行きたいか、というのも聴いてみました。
航空で回転翼、と答えた新任幹部がいたので、

「SHですか」

と聞くと、

「MCHです」

MCH-101は2008年に導入されたばかりのヘリコプターで、
海上自衛隊の保有数はまだ10機しかないため、
多分SH-60より狭き門になるのだと思われます。

航空と潜水艦は身体条件が厳しいので、それだけでも限られた人になりますが、
さらにその中の新鋭機となると、大変な競争率になることは容易に予想されます。

「どうすれば、つまりどうなれば自分の志望するところに行けますか」

と、当事者には答えにくそうな質問をしてみたところ、その幹部からは

「毎日自分に与えられたことを着実にこなして行くしかないと思います」

即座にまっすぐで真っ当な返事が返ってきて、正直わたしは感動しました。


皆さん、ぜひ夢見た自分の将来の姿を実現させてください。

 

続く。


式典と邂逅〜潜水艦「せいりゅう」入港式典 @ 横須賀地方総監部

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さて、潜水艦「せいりゅう」の入港式についてお話しするのも最後になりました。
ラインを岸壁と艦の間に渡し、係留して固定する作業が終わり、続いては
全員が上陸する準備にかかります。

艦橋の艦長以下青いストラップの幹部は、一人ずつハッチに消えました。

潜舵の上からどうやって下に降りるかというと・・・、

潜舵横に付けられた足場を降りていくことができます。


潜舵の横から降りていくと、こんなところを通って行かねばなりません。
手すりもついているし床は滑らない素材だとは思いますが・・・。

潜舵に出入りするドアはどちらも解放されていたので、下からは
向こうがドア越しに見えるというなかなか珍しい光景が見られました。

自衛隊の潜水艦は川崎重工と三菱重工で交互に作っていますが、両社の製品は
同じ規格でも微妙に違うのだそうで、例えばこのドアの形状、

「四角ければ三菱製、丸いのが川重製」

と見分けることができるのだそうです。

ちなみに川崎重工業製の「せきりゅう」が呉に入港したとき。
ちょうどここのドアが開いていて、形状が丸いのが確認できますね。

三菱重工業神戸造船所は、商船建造を2012年6月に撤退ており、
同造船所にとって「せいりゅう」は「じんりゅう」進水以降、
2年ぶりの進水式を行った船ということになりました。

作業中に着ていたオレンジの救命胴衣を脱ぎ、全員が艦尾甲板に整列を行います。

入港してくるときに行進曲「軍艦」の演奏を行った横須賀音楽隊、
乗員の上陸にのために演奏したのは自衛隊公式歌「海をゆく」でした。

艦長を除く幹部を先頭に、上陸が始まります。

わたしはてっきり「初入港」というのは形だけのことで、「せいりゅう」は
昨日のうちに一度入港して、いわゆる「立て付け」を行っているはず、と
思い込んでいたのですが、本当のところはどうだったのでしょうか。

 乗員の総数は65名と公表されています。

この日の見学者は招待客、隊員の家族や関係者、水交会などの団体、
防衛モニターといったところだったと思います。
彼らの行進が終わったとき、近くにいた防衛モニターらしい女性が

「あー、鼻血出そうになった」

となかなか斬新な感想を述べていました。

幹部は艦長を入れて5名。
副長、航海長、船務長、水雷長、それから機関長かな?

あれ?さっきラインを岸壁で引いていた人が行進いるような気がするぞ。
ということは、やっぱり事前に立て付けのために上陸していたのかも?

海士の皆さんの帽子の真新しいリボンには

「第6潜水隊」

の金文字が眩しく光っています。
水兵さんの帽子に所属を記すのは帝国海軍からの伝統ですが、
この漢字表記って、外人さんからは結構クールに見えると思うんだな。

第6潜水隊が所属する第2潜水隊群は、先日就役した潜水艦救難艦の
「ちよだ」を直轄艦とし、

第2潜水隊「うずしお」「なるしお」「たかしお」

第4潜水隊 「ずいりゅう」「やえしお」「せとしお」

第6潜水隊「こくりゅう」「せいりゅう」

という編成です。

川崎重工で行われた「しょうりゅう」の進水式の時、新造艦の艤装艦長は、
必ずどこかの艦長を経験していなければいけない、と聴きました。

「せいりゅう」艦長の平間武彦二佐の前職は、奇しくも?同じ第6潜水隊の
「こくりゅう」艦長であったということです。

艦長が横須賀地方総監に着任の報告を行います。

わたしは3月12日、神戸でこの「せいりゅう」の引渡と就役を見届けましたが、
その後、「せいりゅう」は約三週間呉で習熟訓練を行ったのち、
ここ横須賀に着任してきました。

入港式典は非常にシンプルで、総監に挨拶の後は、
横須賀の議員が艦長に花束を贈呈、花を抱いたまま艦長挨拶、
その後は、横須賀市長代理が市長の激励の言葉を代読、というものでした。

それが終わると、岸壁に乗員が整列したまま、式典も終了となります。
終わって、なんとなく自分の家族や関係者をその場で待っている乗員の皆さん。

ここから先はプライベートの時間なので、顔にマスクをします。

わたしが今回初めて入港式典に参加して何よりよかったと思ったのは、
進水式、引渡式では決して見ることのできない、乗組員たちの
久々の家族との再会シーンを実際に見ることができたことです。

制服姿の乗員が久しぶりに会う我が子を愛おしそうに抱く姿は、
こういうことに極めて弱いわたしの涙腺を刺激せずにはいられません。

海士の皆さんはまだ独身が多いので、再会するといっても地元のご両親や
あるいは友達や兄弟が多いようでしたが、中には若いパパもいます。

潜水艦をバックに家族で写真。

「せいりゅう」乗員は艤装中は神戸にいたと思われますし、その後は呉。
家族の顔を見るのは果たしてどれくらいぶりなのでしょうか。

お父さんの帽子を被って敬礼。
将来の海上要員だ。

この男の子は、お父さんの首に手を回してしがみついていたと思うと、
小さな手と顔を制服の胸にしっかりと押し当てたままじっとしていました。

入港作業中艦内の配置で、家族と会うために(多分)いそいそと降りていく
乗員がいれば、かたや当直で、ずっと舷門に立っていなければならない人たちも。

できたばかりとはいえ、進水以来二年間ずっと海に浸かっていたわけですから、
それなりに水垢のようなものが付着しています。

艦首部分にあるこのコブのようなものは、ソナーシステムのうちの一つで、
魚雷警報装置(逆探ソナー)だそうです。

艦体には色々と貼られていますが、これらはターゲット・ストレングス
TSレーダーでのRCSに相当する概念)低減のため、入射音を
音源と異なる方向に全反射させる反射材や水中吸音材です。

そして乗員はほとんどが岸壁に出ていってしまいました。
なんども言っていますが、潜水艦は外殻の厚みを知られないように、
ハッチにカバーをかけて隠してしまいます。

任務に就くときには消されてしまいますが、この日は艦体に

「せいりゅう」

と文字が書かれていました。
この日も来賓で来ておられた女性書家が、自衛隊内で
書道を教えたり、看板などの揮毫をされていると伺いましたが、
この「せいりゅう」もその方が書かれたのかもしれません。

自衛艦に入ると必ず艦名が書かれた木のプレートがありますね。
例えば「いずも」「いせ」はその名前の神社の宮司の揮毫が使われましたが、
横須賀のフネはこの女流書家が引き受けることが多いという話でした。

「そうりゅう」型から採用されたX舵。

それにしても、艦体に付着した藻がすごい・・・・。
まあ、新造艦とはいえ進水して2年経っているので無理もありません。

艦体の素材も反射やら吸収やらでデリケートだからゴリゴリ削るわけにいかないし、
いくら取ってもすぐに付いてしまうので、速力に影響が出るレベルまで放置なのかも。

この「せいりゅう」の文字、それにしてもどうやって書いたのでしょう。

家庭持ちの乗員はずっと家族と一緒に岸壁にいましたが、海士クラスの若い人は
誰も家族が来ていなければ、とっとと艦に戻って行きます。

給汽、というのは気体を供給することで、航空自衛隊には
「給汽員」というボイラー関係の資格職があるそうですが、ここにあるのは
どう見ても船に給気する装置です。
Mpa は空気の圧力の単位で「パスカル」ですね。

でも、具体的にどんな船にどういう目的で給気するものかはわかりませんでした。

程なく、わたしたちは横須賀地方総監部を後にし、メルキュールホテルの一階で
お約束の「ゆうぎりカレー」を早めのお昼にいただいて帰りました。


さて、というわけで、わたしは潜水艦「せいりゅう」の引渡式とその出航、
そしてこの日に配備された横須賀への入港を見届けたことになります。

新鋭艦が生まれ、命を得て、新たな任務に就く瞬間に立ち会えた喜びもさることながら、
何より久しぶりの家族と邂逅する父親、あるいは夫であり子である
乗員たちの素顔を垣間見たことで、自衛官と彼らを支える家族に対する
感謝の想いが一層深まるのを感じました。

 

今回、直前にも関わらず入港式典参加をお取り計らいくださった皆さま、
この場をお借りして心から厚くお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。






「そうりゅう」型潜航訓練装置〜潜水艦教育訓練隊

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呉から帰ってきてすぐに「せいりゅう」の入港式典に立ち会ったため、
そちらのご報告が先になりましたが、もう一度呉観桜会の日に戻ります。

観桜会の日、会場入りの前にてつくじで総監ドッグをいただいたわたしたち、
その前に潜水艦訓練基地、通称『潜訓』の見学を行いました。

 

ところで、アレイからすこじまに行けば、係留されている潜水艦を見ることができ、
ここも呉観光の一つのポイントになっているにも関わらず、
その道を隔てて向かいの潜水艦基地についてはあまり知られていない気がします。

潜水艦そのものが「秘密の塊」であることから、おそらくその訓練施設や基地は
まず一般には公開される機会も少ないのだろうと思っていたのですが、
今回その中の訓練施設を見学するという大変貴重な機会をいただいたわけです。

訓練施設については写真の許可を得ておりますので、ブログでの公開についても

「全く問題ない」

と現役自衛官から保証していただきましたので、安心して進めたいと思います。 

わたしたちを乗せた車が第一潜水隊群の門を入っていきますと、
駐車場の端に可愛らしい潜水艇が展示してありました。

潜水艇「ちひろ」です。

先日就役を見届けた潜水艦救難艦「ちよだ」が搭載しているDSRVとは、
何らかの理由で浮上できなくなった潜水艦の乗員を救助するために
潜水艦にドッキングさせ、乗り移らせて救助するものです。

この「ちひろ」はそれらの導入に先立ち、各種研究を行うための実験艦で、
昭和50年、川崎重工によって建造されました。

戦後、レスキューチャンバーという救難装置、つまり脱出カプセルというか
鐘のようなものを潜水艦のところまで降ろして人員を救う、という方法が
それまでの「潜水艦を丸ごと引き上げる」のに変わって編み出されました。

しかしこの方法は、脱出した時に潜水艦にいた人員は、どうしても
深海の圧力に晒されることになり、潜水病の危険は避けられません。

チャンバーは潜水救難艦からワイヤで降ろす方式ですが、その方法では
たとえば潜水艦が横になっていたり、チャンバーが海流で流されても
うまくハッチに接続することはできません。

そこで一歩進んで、自走する潜水艇で潜水艦のところまで行って、
ハッチに被せたスカートを通って脱出するという方法が考えられました。

それが深海救難艇、DSRV(Deep Submergence Rescue Vehicle)です。

「ちひろ」が技術研究本部に導入されてから10年後、DSRVを搭載した
最初の潜水艦救難母艦「ちよだ」が就役しました。

これが先日就役した潜水艦救難艦「ちよだ」の先代となります。

 

潜水艦救難艦の命名基準は「城の名前」です。
個々の潜水艦を城に仕える武士に見立てているようですね。

救難艦でもなんでもないので、この救難艇の実験艦には「ちよだ」「ちはや」、
どちらにも似た、(しかし城ではない)「ちひろ」という名が与えられました。

DSRVが就役を行うことによって、その役目を早々と終えた「ちひろ」ですが、
廃棄されずにここ第一潜水隊軍の敷地内に記念として残されているのは
彼女に対する深い感謝と敬意の表れに違いありません。

見学する「潜訓」の正式な名称は、

潜水艦教育訓練隊本部

といい、国内でここだけのサブマリナー養成機関です。
かつてニューロンドンにある潜水艦基地博物館見学記の一項で、

「グロトンがアメリカのサブマリナーのふるさとならば、
海上自衛隊のサブマリナーの故郷は呉である」

と書いたことがありますが、ニューロンドンの潜水学校のように、
日本の潜水艦乗りも、初級訓練で全員がここに学び、
節目節目でまた戻ってきて訓練を受けることになっています。

「つまり自衛隊の潜水艦乗りは全員ここの出身です」

伺ったところ、現在進行形で訓練を受けているのが全部で200名。
そのうち幹部が約20名といったところだそうです。

「昨今は以前より増える傾向にあります」

 

うーん・・・潜水艦は今、海国日本の最前線だからなあ。

海上自衛隊の潜水艦徽章はしゃちほこのような対の魚です。

潜水艦徽章といえば、ちょっとこれ見てくださいます?

先日扱った、「ダウン・ペリスコープ」(イン・ザ・ネイビー)という映画の
劇中、第二次大戦の生き残りのじーちゃんが、

「生きててよかったぜ!DBF!(ディーゼルボート・フォーエバー)」

と叫んでいたことから調べて見たところ、在日米海軍に当時まだ存在していた
ディーゼル式潜水艦の乗組員が作ったこのDBFバッジのことがわかり、
そのストーリーについてはここでもお話させていただいたわけですが、
その後、検索していてアメリカのミリタリーショップでこれを見つけました。

日本人(横須賀)の業者が作った割には人魚の顔とか雑すぎる気がしますが、
ともかく、これが下士官兵用のDBFバッジの本物です。

人魚の下の6個の穴は貫通しており、「原潜を助けた回数」だけ
星をつけることができるようになっていました。

このように、徽章というのは魚とかイルカ、人魚が必ず
向かい合うデザインが圧倒的に多いような気がします。

 

さて、閑話休題。
本日案内してくれる士官と一緒にこのエントランスを入っていきますと・・、

 

さすがは自衛隊、「愚直たれ」ほどインパクトはないものの、
各課程ごとに指導方針が標語となって書き記されております。

スマホの方のために書き出しておきますと、

幹部専修科潜水艦過程

一、幹部の視点で考え、積極先取の姿勢で臨め

二、幹部に必要な素養を高めよ

幹部専修科潜水艦戦術過程

自己の弱点を把握し克服せよ

第二九〇一期海曹士専修科 潜水艦武器システム過程

技能を磨け

第二九〇一期海曹士専修科 潜水艦救難艇操縦過程

努力を惜しむな

第二九〇一期海曹士専修科 潜水艦過程

一、潜水艦を知れ

二、同期を大切にせよ

三、心身を鍛えよ

 

「努力を惜しむな」とか「技能を磨け」とか、
当たり前のことしか言っとらんじゃないか、などというべからず。
標語というものは本来そういうものなのです。
それを心に刻み愚直に実践することに意味があるのです。

ここで特筆すべきは「潜水艦を知れ」。
出たよノウユアボート。

潜水艦といえばノウユアボート、ノウユアボートといえば潜水艦。
最初にして最後、いわば彼らの「心臓」となる言葉でもあります。

ほら、ここにもありますでしょ?
昭和44年に制定されて、一度たりとも変更されていません。

ということは、今現役のサブマリナーは全員この基本方針で鍛えられたってことね。

実はここの潜水艦基地は、戦前も潜水艦基地でした。
さらにその前はここに神社が祀ってあったということです。

「この階段は昔参道だったのをそのまま使っています」

階段の下左側に見えているのは昔手水に使われていました。

「はー・・・古いですねえ・・もしかしたらあれ防空壕跡ですか」

「防空壕だったところです。
地下には地下道が掘られていて、庁舎まで続いていたという話です」

 自然の崖の斜面を生かして壕を作っていったんですね。
奥の建物も終戦前のもののようです。
窓を取り替えたりしながら使い続けているんですね。

旧海軍時代もここは潜水艦基地で、桜の木が大木となって花を咲かせていました。

小説「海軍」では、主人公(真珠湾の軍神になった横山正治少佐がモデル)
の谷真人が、海軍を諦めて海軍画家となった親友の牟田口がここに案内し、
当時「6号艇神社」として飾ってあった(おそらく『ちはや』の場所)
佐久間勉艦長の殉難潜水艦を見学するシーンがあります。

第6潜水艇は終戦後進駐軍によって解体を命ぜられましたが、
その船体は桟橋となり、一部は密かに残されて、現在同敷地内の
潜水艦教育訓練隊資料室で保存されているということです。

終戦間際にあった呉の大空襲の際、ここは爆撃を受けませんでした。
進駐後、自分たちが使うことを想定していたからです。

念のために案内の自衛官に伺ってみると、今左手に見えている建物も
その時に攻撃一つ受けず、生き残って現在も使用されているものです。

わたしたちが案内されたのは「そうりゅう」型潜水艦の訓練装置棟でした。

真ん中のイラストが、訓練装置の全容です。
上部の構造物そのものが、操舵に忠実に動くようになっており、
潜水艦操縦におけるあらゆるシチュエーションを模擬体験することができます。

建物には靴を脱いで入ることになっていて、このシミュレーターには
ステップから乗り移ります。
まさにテーマパークのアトラクションに乗り込むような感じです。

「どうぞお座りください」

「えっ、座っていいんですか」

操舵席に座らせてもらいました。

「動かしても構いませんよ」

「わーい」

調子に乗って一気にぐいーーんと前にレバーを押してみました。
これが本当の『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』だ。
レバーのボールはちょっと小さいみたいだけどね。

しかし何も考えず、気持ちの赴くまま押していると、

「お・・おお?」

床があっという間にものすごい角度で傾き、立ってられないくらいの傾斜に。
わたしは座っていたので大丈夫でしたが、座席の下にサングラスが落ち、
ずずーいと前方に行ってしまいました。

「潜水艦で潜航するって、本当にこんな風なんですか」

「そうですよ」

何を当たり前のことを言うのか、と言う顔をされてしまいました。

何年か前モルジブで遊覧潜水艦に乗ったことはありますが、
こんな急速潜航をしたわけではないので(そらそうだ)
これがわたしの体験した初めての潜水艦の動きと言うことになります。

「うーん・・・なかなか気持ちの悪いものですね」

「潜水艦に最初に乗る前に、学生はここで潜水艦内部の動きを体験します」

TOにも操舵を変わってあげました。

このシミュレーターのパネルについても、現地で写真許可が出ていたのですが、
これを公開してもいいかどうか潜水艦関係者にこっそり伺ってみたところ、

まさかとは思いますが、深度計(安全潜航深度までの目盛りがついている
「深深度計」の方です。)にカバーがかかっていることを念のためご確認ください。

と返事をいただきました。

深深度計といわれましても・・・・・ここには写ってませんよね?

「そうりゅう型」シミュレーションとはいえ、例えば最新の「せいりゅう」などでは
もうこんな前時代的な機器は搭載されていないような気がするのですが。

「合戦準備盤」と言う言葉は物々しいですが、自衛隊では普通に「合戦」を
アメリカ軍の「バトル」と同じ意味で使っているようです。

「外から見たほうが、どんな動きをするかわかりやすいでしょう」

と言うことで、一旦退出してから、中に残った人がシミュレータを動かしてくれました。

スノーケルによる吸排気の配線?配管図も、現場に大きなパネルになっていました。
訓練者学習用です。

と言うところで「そうりゅう」型の訓練室の見学を終え、資料室に向かうことに。
途中には「おやしお」型潜航訓練講堂がありました。

ここにも今のようなシミュレータがあるのだということです。
潜水艦の訓練を受ける者は、

「すべからくどちらの型の潜水艦をも知るべし(ノウユアボート)」

と言うことで、両方の潜水艦に関する基礎を当分に叩き込まれます。

海上自衛隊初の潜水艦、それはアメリカから貸与されたガトー級「ミンゴ」でした。
「くろしお」と名付けられたその潜水艦を、海軍潜水隊出身の自衛官たちが
アメリカから持って帰ってきた、という話はここでもしたことがあります。

その「初代くろしお型」のために設置された潜航訓練装置です。

かつてはここに備え付けられて、くろしお型に乗組む潜水艦員たちが
訓練を行ったものですが、戦後初の国産潜水艦「おやしお」が就役した時、
その役目を終えて、撤去されたものと思われます。

 

さて、わたしたちはこの後、ここでサブマリナーとして訓練を行う自衛官たちが
精神的な心構えを学ぶための大切な施設、資料館を見せてもらうことになりました。


続く。



残る桜と散る桜〜岡山玉島 散り花見旅行

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呉の観桜会では満開の桜を楽しんだわたしですが、
実はその翌週に「予備のお花見旅行」の予定を立てておりました。
(厳密にはわたしではなくTOがほとんど勝手に立てた計画ですが)

一年も前から予約していたその宿は、ここ備後屋。
岡山県玉島に大正年間から営業している老舗旅館です。

大正三年創業、この洋風の建物部分は当時燃料会社のオフィスだったとかで、
レトロな雰囲気です。

備後屋といいつつ、ここは備前岡山に位置します。

神戸出身で関東在住のわたしたち夫婦が、震災後くらいから
何かと足を向けることが増えたこの土地ですが、つい最近、
なんと、我が家の先祖が備前岡山出身であったことが判明しました。

児玉源太郎の陸軍時代の同僚で、退役後某地方の群長になり、
ワシントンに桜を寄贈することについても尽力したというこの先祖を
さらに辿ると、その本流は備前岡山だったらしいのです。

我々が山陽地方に行くようになったのも先祖の縁のなせる技だったのか、と
若干不思議な思いを感じずにはいられません。

その話はともかく、ここは備前藩の屋敷跡として史跡指定されています。

これが備後屋創業以来変わらない正面玄関。
この内部は燃料会社だったビルと内部で繋がっています。

チェックアウトするときに中からショパンのピアノ曲が聴こえていました。
伺ってみると、弾いているのは当家のご令嬢であるということでした。

ロビーに当たる部屋には雛人形が2セット並べて飾ってありました。
関西では旧節句(4月3日)まで仕舞わないことが多々あります。

ここは庭園の中に戸建ての部屋が点在するという稀な形状の宿で、
「庭園旅館」と銘打っています。

チェックインすると、黒いスーツ姿の若い女性がトランクを持って
坂をスタスタと上って部屋まで案内してくれました。

予約したのは敷地の一番奥の二階建ての棟です。

この二階が居室、一階でお食事をいただきます。
上にいる間に、いつの間にか一階に食事が用意されているので、
中居さんが来るたびに居住まいを正したりする必要はありません。

布団の上げ下ろしも食事をしている間にいつの間にか済んでいます。

床の間の花は季節の菜の花と木蓮。
北海道土産のような熊の木彫りが少々謎です。

昭和初期ごろ設置されたと思われる洗面台。
蛇口は取り替えてあり、トイレもちゃんと暖房付きの最新型でした。

庭の敷石はよく見たらところどころ石臼が埋め込んであります。

怖い顔のカエルさんが睨みをきかせる小さな池が玄関先の
茶室の前設えてあり、桜の花びらで表面が埋め尽くされていました。

池には金魚が二匹だけ生息しています。

晩御飯は軽い懐石コースを頼みました。
これは固形燃料で熱し熱々をいただく、自分で卵汁を投入して作る卵とじ。

食前酒には岡山なので桃のワインが出されました。
あまりに香りが良いので、つい飲めないのに二口飲み、無事泥酔いたしました。

鰆の蒸し物、鶏の治部煮など、季節の旬をあしらったお椀が続きます。

メインはなんとチーズを載せた白身魚。ソースはバターとジェノベーゼです。

わたしたちの部屋の入り口には、

「夏炉冬扇」(かろとうせん)

という書板があるのですが、はて・・・・・。

夏炉冬扇=時期はずれで役に立たない物事のたとえ。
夏の囲炉裏や冬の扇は、時期がはずれていて役に立たないことから。

なぜこんな(変な)言葉をわざわざ揮毫し、しかもそれを飾ってあるのか。
何かの間違いでなければ、皮肉とか洒落とか・・・?

この旅館には岡山県出身の政治家犬養毅が泊まったこともあるそうです。

「どの部屋だったんだろうね」

茶室に近く、一番奥まったところにあるこの日泊まった部屋は、
もし犬養木堂翁が泊まるならば一番可能性は高いと思いますが・・。

本旅館開業の大正3年頃の旅館から見た前の河川風景。
右手が瀬戸内海で、三井造船書のある玉野より広島側に位置します。

朝食は茶碗蒸しに湯豆腐の鍋といった和食。
納豆は西日本のせいか付いてきませんでした。

二階は寝るときに昔ながらの雨戸を引いて真っ暗にしてしまいます。
朝自分たちで開けようとしたのですが、どうしても仕組みがわかりませんでした。
戸袋の内側の障子を開けて、戸を一枚ずつ引き入れて奥に押し込んでいくのが正解。

昔のうちはみんなこうしていたんですね。

それからこの天井。
昔の日本家屋のほとんどはこんな天井だったですよね。
鴨居の装飾にはめ込んであるのは刀の鍔を模した木彫です。

関東では花びら一枚残っていませんでしたが、ここではまだ
桜の散るのを楽しむことができます。

TOは満開の時にここから桜を眺めたらさぞ美しかろうと一年前から予約していたそうです。
一週間、もしかしたら三、四日遅かった・・。

しかし、桜吹雪と地面に散った桜もまた風情のあるものです。
開けた窓からはひっきりなしに花びらが舞い込んできました。

家を出てすぐのところに祠がありましたが、ご神体はなさそうです。

茶室があったので戸を開けて見ました。
にじり口はこの反対側にあります。

 

茶釜は電気コンロで沸かす方式というのが風情としてはイマイチですが。

別棟の裏口は。これはもしかしたら大正モダニズム?

倉敷は戦争中アメリカ軍の空爆を免れました。
高梁川を軸として反対側に位置する水島は、当時三菱航空機製作所があったため
(今は三菱自動車)爆撃を受けて犠牲者二人を出しています。

しかし、倉敷が爆撃目標から外されていたわけではなく、戦後の調べによると
終戦にならなければ8月22日に米軍は倉敷を攻撃する予定であったそうですし、
その2日後には岡山が目標の予定だったそうです。

何れにしてもここ玉島には当時も目標となるような施設は何もなかったので、
大正年間操業の建築物を今日でも目にすることができるのです。

旅館の部屋である棟を結ぶつづら折りの石段を登っていくと、
最後の部屋の近くにライトアップされた桜のある小さな広場があり、
かなり年季の入ったらしい石のガーデンチェアとテーブルがありました。

水道が完備していなかった頃は、ここから水を汲んで使ったのでしょう。

使われなくなって久しいようで、井戸はすっかり枯渇していました。

旅館は山の斜面をつづら折りに登っていくと
そこに各々の部屋となる棟が点在しているのですが、
さらにそれをどんどんと登っていくと、頂上と思しきところに
倉敷市が戦後建立した英霊の招魂碑があります。

公園は倉敷市の管理ですが、ここにあるのは玉島市の慰霊碑です。

高額寄付者は昭和27年当時の35万円。
今の300万円くらいの価値でしょうか。

この遺族会の方のお名前の中に「柚木」とあります。
そういえば希望の党の比例当選議員でそういう名前の人がいましたが、
岡山県に多い姓みたいですね。

一言余計なことを言わせてもらえばこの柚木とかいう代議士、
政治家としての信念も全くなく、恫喝と揚げ足取りしかしていない人、
というイメージしかなく、わたしは政治家として全く評価しておりません。

同じ広場の敷地内には「魚霊」を慰める碑も。
漁業で生計を立てている人が多く住んでいる地域だったようです。

しかし、鶏や牛馬の慰霊碑はソーセージ工場の入り口で見たことはありますが、
魚の慰霊碑は初めてです。

広場の横に、素敵(!)な廃屋がありました。

廃屋マニアには垂涎の物件ですが、残念なことに内部が
全くうかがい知れなかったので、わたし判定ではその点失格です。
(人がいたという痕跡が残っていなければだめ)

むしろ、その向こう側のいかにも100年ビンテージものが興味をそそります。

この公園の桜は、まだ十分花びらを残していました。

満開の桜もいいものですが、その後、樹に残る桜と地面に散る桜が、
同時に楽しめる時が、これもほんのひとときやってきます。

まさにこの日の玉島がその瞬間でした。

二週続けて桜の咲き誇る姿と散りゆく姿を満喫することができました。

こういう旅館のチェックアウトは10時と大変早いので、
お天気がよければ倉敷観光でもしようと思っていたのですが、
この日は寒波が戻ってきて大変な寒さだったので、まっすぐ帰ることにしました。

新倉敷からは岡山までこだまで10分で到着します。
ただし新倉敷に止まるこだまは1時間に1本しかありません(T_T)

おまけ:新倉敷駅で目撃したマナー啓蒙用ファイルホルダー。

もう一つおまけ。

新幹線の岡山駅で見た人材派遣会社ポスターです。
これ「桃太郎の」という言葉はなくても理解できたと思う。

 

 

 

 

 

潜訓の桜〜潜水艦訓練教育隊資料館

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呉地方隊の観桜会の日、開始までの時間に潜水艦教育訓練隊、
略称「潜訓」の見学をさせていただき、「そうりゅう」型の
訓練用シミュレータに座るという体験をしたわたしです。

 

シミュレータ体験の後、わたしたちが案内されたのは
ここでサブマリナーになるための技術を学ぶ幹部曹士が、
潜水艦乗員としての精神訓練を行うための施設、資料館でした。

ここに一枚ずつ掲示してある信号旗は、まさに

「ご安航を祈る」

の意味です。
この年季が入った旗の「素性」ですが、その説明はありませんでした。

それから「航海の安全祈る!」の後の「SNAT」、
これはどうやら

潜水艦用航海術科訓練装置

のことらしいのですが、もしそうだとするとこ言葉は少し意味不明です。

訓練施設ですから、いたるところに標語的なものがあります。
「後がない」という意味もあるZ旗の下にあるのは

「百般のこと 〇〇を持って基準とすべし」

ああっ、肝心なところが光ってしまって全く意味のわからない言葉に。
超拡大して字の端っこから類推するに、それはどうやら

「百般のこと 戦闘を持って基準とすべし」

のようなのです。
海自の最前線の一角とも言える潜水艦隊における訓示と思ってみると、
この「戦闘を以って」という言葉にただならぬ重みを感じませんか。

資料館に入る前の廊下には、歴代潜水艦ネームシップの写真が掲示されていました。
アメリカから貸与され「自衛隊潜水艦第一号」となった「くろしお」、
戦後初の国産潜水艦となった「おやしお」。

下段の「うずしお」は、「うずしお」型のネームシップで1971年就役。

ここの説明には

「排水量はこれまでで最大となったがずんぐりした形になり」

という一文があります。
潜水艦の人たちはシルエットを見ただけで何型かわかるようになるんでしょうか。

「なつしお」(1963)「おおしお」(1965)
そして「あさしお」(1966)。

「あさしお」は訓練中潜望鏡を護衛艦「なつぐも」のスクリューと接触するという
事故を起こしたことがありますが、幸い双方軽傷で済んでいます。

艦体は除籍となってスクラップと消えても、艦名を刻んだ盾はずっと残ります。

てつのくじら館で展示されている「あきしお」に始まって、

「たけしお」「ゆきしお」「さちしお」「なつしお」「はやしお」・・・

「そうりゅう」型と違って、「しお」型は名前のバリエーションが多くていいなあ、
とこれらを見ているとつい考えてしまいました。


ちなみにこの金型を作っている会社をわたしは知っていて、
以前この工場の金型倉庫を見学し、ここでご紹介したことがあります。

ある自衛艦の金型を作るとき、一部が少し凹んでしまったが見た目差し支えないので、
一応自衛隊に「構いませんか?」と了解を取ろうとしたところ、
担当者が血相変えて、

「海上自衛隊は験を担ぐので、”凹んだ”は絶対にダメです」

と言われて作り直しを余儀なくされた、などという話を聞いたものです。

「こういうのも時代によって流行りがあるんですよね」

「ふゆしお」「わかしお」「みちしお」の頃、どうやら
潜水艦隊では陶器のプレートが流行っていた模様。

「このデザインはどうやって決めるんですか」

これは(わたしよりは現場の事情に詳しくない)TOの質問。

「乗員がデザインするんです」

「ほーーー」

日本では一つのクラスがあれば、必ずその中に絵の上手い人、音楽ができる人、
スポーツのできる人などがいるものですが、
潜水艦という少人数の単位であっても同じ。
その中に一人は下手したらプロ並みに絵が上手い人がいたりします。

(わたしは海外でいろんな飛行機のノーズペイント等を見てきた経験から、
アメリカ人はあれだけ人間がいる割にその割合が少ないと思っています)

このイワトビペンギンが魚雷に乗っている「みちしお」のデザイン、
これなんかもう完全にプロの仕事ですよ。

「じんりゅう」の盾は刀を抜く侍と桜、これもなかなかすごい。

さて、資料室に入るとき、案内の自衛官は一礼を行いました。
彼らの先輩の遺品や写真があるのですから、ここは聖域でもあります。
わたしたちももちろんそれに倣いました。

寄贈のあった海軍の制服や揮毫などがガラスケースに収められています。

ここでも時間がないので案内の方はいくつかの展示を抜粋して選び、
それについての説明をしてくれました。

この写真は説明を受けたものではありませんが、少し気になって写真だけ撮り、
後で調べたところ、今まで知らなかった潜水艦事故のことがわかりました。

第43潜水艦沈没事故です。


大正13年3月19日、「佐世保鎮守府第一回基本演習」参加中の
第43号潜水艦は、佐世保湾を潜望鏡深度にて航行中の8時53分、
巡洋艦「龍田」と衝突して推進36mの海底に沈没しました。

演習はすぐに中止されて全艦艇が救助に当たりました。
沈没潜水艦の位置は浮標ブイが浮上してすぐに特定され、
電話機も備わっていて沈没艦と地上と交信する事もできたと言います。

海軍はすぐさまクレーン船を派遣しましたが、引き揚げは困難を極め、
同日の19時30分には電話を万歳三唱が聞こえ、数名を残して死亡。

20時には

「あと二、三人しか残っていない」

とまだ生存していた兵曹長から連絡がありましたが、

その兵曹長の言葉も

「ただ天命を待つ」

を最後に、20時38分、通話は途絶しました。


潜水艦が引き揚げられたのは、沈没から一ヶ月が経過した4月19日で、
翌日には遺体の収容が行われたということです。

このケースは帝国海軍潜水艦隊の資料など。

潜水艇の青写真や第1潜水艇が竣工した時の記念写真や、
海軍潜水艇の生みの親でもある海軍大将井出謙治についてです。

井出謙治大将は兵学校ではなく海軍機関学校卒で、
アメリカに私費留学した際潜水艦に興味を持ち、
帰国後も潜水艦の必要性を訴え、その獲得に尽力した人物です。

時間がない見学時間で、案内の方がまず説明されたのがこの伊53潜の模型です。

甲板には6基の「人間魚雷」回天が搭載されています。

これを製作し、寄贈したのは伊53潜の元乗組員である会社社長。
潜水艦で使用する潜望鏡の内筒部分で製作したものです。

潜望鏡の外側は、現在呉市上長迫にある呉海軍墓地に、
呉鎮守府戦没潜水艦合同慰霊碑とともに展示されているそうです。

次に説明を受けたのは、伊47潜乗組だった軍人が、
甲板で航空機の攻撃を受け、戦死した時に持っていた手帳。

胸のポケットに入れていた手帳には、銃弾の跡が残ります。

手帳の記述には

2日 1904 伊47

2日0915 駆逐艦1、大型輸送艦1発見

0945 1号艇発進 惜別 駆逐艦1発見 1010轟爆音2、
10252号艇発進 1118轟爆音1

回天戦用意

戦訓

などと読み取れます。

伊47はあの仁科関男中尉が乗った回天を搭載し回天戦を行った潜水艦ですが、
この記述によると、手帳に書かれているのは1945年5月2日
沖大東島での回天戦の様子であると推察されます。

手帳には「パレンバン空挺降下(十七)」と印刷されており、
手帳の持ち主はどうやら空挺部隊の隊員ではないかと思われます。

「こういうのを見ると今のわたしたちと変わりないと思いますね」

説明の方が指差したのは

邦子「ハシカ」ラシイ

という手帳の一文でした。

このケースには真珠湾の軍神の写真、テレビの放映に使われた
真珠湾突入の際特殊潜航艇を搭載していた伊号の模型などがありました。

軍艦旗は「 咬龍」が使用していたもの、その横にあるのは
特殊潜航艇「海龍」の四式時期羅針儀二型そのものです。

「わかしお」の潜望鏡接眼部、 ネームプレート、銘板など。

除籍になって形を壊された潜水艦たちの、「遺品」がここにあります。

広角レンズでも全部入りきらなかった(笑)潜水艦模型は、あの!
映画「真夏のオリオン」で撮影に使われたものだそうです。

最後に案内の方が立ち止まったのは、このおなじみの(わたし的に)写真の前でした。

戦後、海上自衛隊が最初にアメリカから貸与された潜水艦第1号、
それが潜水艦「くろしお」です。

ここには、ニューロンドンのグロトンで訓練を受け、
サンディエゴでガトー級の「ミンゴ」という戦時中は日本と戦っていた
年代物の潜水艦を受け取った時の写真とともに、その時の証書、
マニュアルらしきブックレット、諸元表などが展示してあります。

「ミンゴ」いや「くろしお」の甲板に日米海軍軍人が乗るの図。

以前もこの経緯を書いたことがありますが、日本側はスノーケルすらない
モスボール化していた潜水艦を、体良く「押し付けられた」といったところです。

「大戦中は日本と戦っていた潜水艦ですものね」

わたしがいうと、

「そうです。日本の船を何隻も沈めています」

日本軍と戦って実際にいくつもの日本人を殺戮している潜水艦を
その日本に与えるのですから、日本人ならあからさまな悪意を感じるでしょうが、
案外、というか例によって

「アメリカ人はそこまで深く考えていない」

というのが案外正解ではなかったかとも思います。

「しかし、これを見てください」

案内の自衛官が指差したのは「くろしお」の潜航実績回数でした。

米海軍時代 1,423回

海上自衛隊 3,630回

海自が使用していたのは15年、アメリカ海軍は12年。
比率は5:4、しかし潜航回数は2.5倍も海上自衛隊が多かったのです。

ここで彼は、わたしも知らなかったこんなエピソードを教えてくれました。

モスボール化していた「ミンゴ」を「くろしお」として受け取り、
サンディエゴから祖国にこれを回航していくことになった時、
アメリカ海軍の誰かが「くろしお」艦長にこう聞いたそうです。

「君たちは潜水艦をどうやって持って帰るのか」

同じように潜水艦を貸与されたカナダ海軍は

「海上を航走して帰る」

やはり同じくアメリカから潜水艦を受け取った韓国海軍は

「間違って潜らないように(どこかに何らかの)設定した上、海上航走して帰る」

しかし、海軍兵学校卒で、戦時中は伊号潜水艦乗りだった艦長は

「我々は潜水艦乗りだ。
どうやって帰るかなどと聞かれるのは心外だ。
いうまでもなく、我々は日本まで潜航して帰る」

ときっぱり言い放ったということです。

この回航には、監視のため?米軍軍人が乗り込んでいましたが、
日本までの航海中、当然のように毎日訓練を行う様子を見て
その熱心さに驚嘆したという話も残されています。


しかしわたしがそれより感動したのは、その話を語る自衛官の口調でした。

初代「くろしお」の乗員たちが守ってきた気概と志を受け継ぐ者、
日本国海上自衛隊潜水艦隊の一員であることに心から誇りを感じている様子が、
その熱い話ぶりから手に取るように伝わってきたからです。

かつて海軍の潜水艦隊があったここ潜訓には、敷地内にいくつもの桜木があります。

入り口で車を待つ間、向かいのアレイからすこじまの潜水艦基地を見ていると、
ちょうど潜水艦が一隻、帰投して来るのが見えました。

二隻の押しぶねを従え、今から岸壁に向かいます。

少し離れた呉地方総監部に咲く桜は、昔から観桜会で多くの人々に賞賛される一方、
潜訓の桜は、昔から潜水艦を住処とする武人たちのためにのみ咲き、
彼らの眼を慰めてきたのに違いない、とわたしはこの満開の桜を仰ぎ見ながら思いました。

 

呉観桜会シリーズ終わり。

 

オヘア少佐とF4Fワイルドキャット〜シカゴ・オヘア国際空港展示

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今回のアメリカ行きでトランジットを行なったのは、シカゴのオヘア空港です。
何しろ最終目的地の空港への便が少ないことから、前人未到、
空港で6時間という、アトランタで予定便に乗れなかった時以来の
待ち時間を経験することになってしまいました。

どんなラウンジで過ごすかは、待ち時間の快適さを左右する要素です。
オヘア空港にはユナイテッドのプレミアムクラス用「ポラリスラウンジ」があり、
そこでなら6時間も苦ではないだろうと思ったのですが、残念なことに、
乗り継ぎを行う便はシートにクラス差がないという共産主義的な機体しかなく、
ラウンジの門番(怖いおじさん)に

「これから乗る便のクラスがプレミアムでないとダメ!しっしっ」(脚色してます)

と追い返されてしまいました。

「く、悔しい〜〜」

涙を飲んで普通ラウンジで行きのトランジットをやり過ごした我々は、
帰りにちゃんとポラリスラウンジへのリベンジを果たしましたとさ。

確かに、席に着いたら注文したメニューが食べられるレストランがあるとか、
トイレが一つ一つ個室になっているとか、設備はまあそれなりでしたが・・。

アメリカにしては出ている料理がちょっと気が利いているという程度。
しっしっされた恨み抜きで言っても正直期待したほどではありませんでした。

 

ところで、この時ポラリスラウンジの場所をチェックしていて、
この第一ターミナルにオヘア空港の名前となったパイロット、

エドワード・ブッチ・オヘア( Edward Butch O'hare)1914ー1943

のメモリアル展示があることを知りました。

リチャード・”ブッチ”・オヘア海軍少佐が愛機にしていたF4Fワイルドキャットが
空港ターミナルの検査場(右側)の横に展示されているのです。

現地で実物を見るとそれほどとは思いませんが、こうやって写真に撮ると
戦時中の白黒写真で覚えのあるずんぐりした躯体がやっぱりワイルドキャットです。

アメリカの空港は地名である通称名以外に人物の名前をつけることがあり、
ケネディ空港、ハワイのダニエル・ケン・イノウエ空港、ジョン・ウェイン空港、
ルイ・アームストロング空港(ニューオーリンズ)、ダレス空港、
サンノゼのノーマン・ミネタ空港などがよく知られた人名空港です。

ちなみに世界にはサビハ・ギョクチェン(女流飛行家)空港(トルコ)、
フレデリック・ショパン空港(ワルシャワ)、レオナルド・ダ・ビンチ空港、
アントニオ・カルロス・ジョビン空港(リオ)、チンギス・ハーン空港(モンゴル)
ニコラ・テスラ空港(セルビア)などが有名なところとしてあり、
最近ではついに我が日本にも、

高知龍馬空港

が誕生しました。


エドワード・”ブッチ”・オヘア少佐の父親エドワードは弁護士でした。
シカゴでアル・カポネの一味として随分と際どいことをやって財をなし、
ドッグレースの支配人などをやっていた一筋縄ではいかない人物でしたが、
その一面、飛行機に大変な愛着と憧れを持っていたと言われます。

エドワードの夢は息子のエドワードを海軍の士官パイロットにすることでしたが、
当時のアナポリス入学には国会議員の推薦が必要だったというくらいで、
ましてやギャングのビジネスパートナーの息子ではとても入学は不可能でした。

そこで彼は、まずギャング仲間の脱税を当局に密告します。
さらに、アル・カポネが裁判で陪審員を買収していることを暴き、通報。
つまり息子の兵学校への入学と引き換えに仲間を売ったのです。

カポネが牢屋に入って2年後、息子のブッチはアナポリスに入学しました。

しかし、組織は裏切り者を許しませんでした。
ブッチ・エドワードが、何者かに銃撃され父親が死亡したという知らせを聞いたのは
彼が兵学校を卒業し、飛行訓練を行なっている時だったといわれています。

その後彼は優れたパイロットとなり、「サッチ・ウィーブ」の開発者、
ジョン・サッチの飛行隊に配属され、サッチと共に
そのマニューバの開発を行なっています。(右側がサッチ少佐)

彼の技量によってグラマンF4Fワイルドキャットは、

「ジャパニーズ・”ゼロ”・ファイター」に対し、速さにおいても
その駆動性についても優位に立つことが可能に
(現地の英文を直訳)

なったといわれます。

これは、とりもなおさず、それまでのアメリカ海軍飛行隊が
零式艦上戦闘機に圧倒されていたということを表しているわけですが、
それはともかく(笑)彼はアメリカ海軍最初の「トップガン」だったのです。

向こうがオヘア、手前のF-1がサッチです。
「レキシントン」艦載機部隊時代。

ハワイ上空を飛行するサッチとオヘアのワイルドキャット。
彼らはUSS「レキシントン」に配備されていました。

1942年2月20日、「レキシントン」はソロモン諸島ラバウルを攻撃しましたが、
これは第二次世界大戦における最初の空母からの航空攻撃となりました。

迎え撃ったのは帝国海軍第4飛行隊の18機の爆撃機で、この戦闘で
オヘアは今にも「レキシントン」に爆弾を落とそうとしていた
「ベティ」(一式陸攻)を4分間の間に5機撃墜しています。

この戦闘で第4飛行隊は18機のうち15機を失い、この日のうちに
オヘアは「エース」(5機撃墜が条件)になりました。

早速撃墜した5機を意味する海軍旗を愛機にペイントするオヘア。

「レキシントン」艦上のサッチ率いる第3飛行隊VF-3グループの記念写真です。

 USS「レキシントン」。
「サラトガ」と共にアメリカ海軍最初の空母となります。

建造中の「レキシントン」。
「サラトガ」と共に1927年に建造された、歴史上最長の船となります。

1942年の「コーラルシー」(珊瑚海)での海戦で戦没しましたが、
ここには

「しかし、ヨークタウンの機動部隊はショーホーを撃沈し、
ミッドウェイではズイカクとショーカクを撃沈」

などと書いてあります。
んもー、負けず嫌いなんだからー。

「サラトガ」艦上の戦闘機。

「サラトガ」甲板から発進するF4Fワイルドキャット。

戦争が始まった頃、アメリカ海軍は七隻の空母を保持していました。
オヘアの勤務してた「サラトガ」のコードはCV-3です。
空母には4個の航空部隊、戦闘機隊、爆撃機隊、偵察隊、
そして雷撃隊が搭載されていました。

オヘアの配属された戦闘機隊は「急降下爆撃」のパイオニアで、
優れたパイロットばかりを集めたエリート部隊でした。

「フィリックス・ザ・キャット」の作者パット・サリバンは
この精鋭部隊のために爆弾を抱えたフィリックスをデザインし、
これが彼らのインシニア(シンボル)となります。

彼らの乗っていたのが「ワイルドキャット」であることも
少しは関係していたかもしれません。

 

エドワード・ヘンリー・”ブッチ”・オヘアが生まれたのは1913年3月13日。
31歳になる寸前、1942年2月20日の爆撃機5機撃墜に対し名誉メダルが授与されました。

1942年、ホワイトハウスでのメダル授与式でFDRと握手をするオヘア。
彼の首にメダルを掛けている美人は彼の妻リタ・オヘアです。

彼女はこのわずか2年後に愛する夫を失い、未亡人となる運命です。

その時のメダルのレプリカがここに展示してありました。

1日の戦闘において一気にエースの一員に名を連ね、アメリカでは
今でも飛行場に名前を残すほどの英雄となりました。

オヘアの所属していた第3航空隊の編隊飛行。

1940年から1943年までの間に、グラマンF4Fワイルドキャットは、
その翼を畳むことができないにも関わらず、艦載機として300機弱生産されました。

第二次世界大戦が始まってすぐ、アメリカの当面の脅威は
東海岸とカリブ海近海に出没する潜水艦だったため、
まずアメリカ海軍は空母艦載機の訓練をミシガン湖で行っています。

蒸気船を改造して空母の形にした「ウルヴァリン」と「セーブル」の二隻で
海軍パイロットは空母での離発着の訓練を行いました。

訓練中の事故で飛行機のいくつかが失われ、それらは
戦後ずっとミシガン湖の湖底に沈んでいました。

1990年、そのうちの一機を引き揚げようというプロジェクトが立ち上がりました。

ダイバーによって湖底から発見された後は、AT&Tの提供したソナーによって
正確な鎮座地点が特定され、海軍が主体となって引き上げ作業を行なった結果、
45年ぶりに一機のF4Fが冷たいミシガン湖の底から陽の目をみることになったのです。

湖底でバラバラになっていた部品も一緒に引き上げられ、
その後、ボランティアの尽力によって復元されたものが・・・・、

今オヘア空港で見ることができるこの機体です。
ペイントはオヘア機を再現したということです。

所有者はペンサコーラにある国立海軍博物館となっていますが、
オヘア少佐をトリビュートする展示が空港内に設置されることが決まり、
空港が借受けるという形で展示されているというわけです。

胴体には引き込み足がぴったりとはまる格納場所があります。
オリジナルの部分はほとんどないのではないかというくらい綺麗に復元されていますね。

5機撃墜後、一夜にしてエースとなったブッチ・オヘアですが、1944年11月27日、
ギルバート諸島のタラワ環礁で日本軍と交戦中、未帰還になりました。

パブリック・ロー(公法)490項第5条の定めるところにより、
11月27日にオヘア少佐の死亡が認定されています。

ギルバート諸島のアベママ島にある「オヘア・フィールド」、
海軍の駆逐艦USS「オヘア」DD899、そして彼の出身地であるシカゴの
オーチャード・フィールド飛行場は、ここ、

「シカゴ・オヘア・インターナショナル・エアポート」

となって英雄だった彼の名前を後世に伝えています。

ところで余談です。

わたしがここを発見した時飛行機の周りには誰もいなかったのに、
写真を撮っていたら、たちまち通行人が足を止めはじめてご覧の状態に。

誰もいない店舗に一人でふらりと入っていくと、いつの間にか
人が次々と入ってきて大混雑になっているという「招き猫体質」は
わたしにとって実は決して珍しいことではないのですが、

「何もこんなところで発動しなくても・・・・」

TOに笑い混じりに言われてしまいました。

もし、シカゴ空港第1ターミナルに立ち寄ることがありましたら、
ぜひこのコーナーを一目見られることをおすすめしておきます。


終わり


ギャレー配置は辛いよ〜空母「ミッドウェイ」博物館

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今回の「ミッドウェイ」見学には驚きました。
セカンドデッキに降りるなり、そこはギャレーだったのです。

配膳を行うカウンターの後ろは全部のスペースが調理スペースでになっています。

ギャレーというのは船上で兵員の食事を用意するキッチンのことです。
「ミッドウェイ」のギャレースタッフは、70名の

「メス・マネージメントスペシャリスト」

「メス・コック」

から成り、これらのメンバーで毎日13,000食を賄いました。

「目」という漢字の形のような通路に、機能的に設備が並んでいます。

ギャレーは24基のコンベクションオーブン、80ガロンのケトルが6個、
4基のディープフライヤー、2つの圧力調理器、そしてダイニングテーブル大の
二つのグリドル(鉄板)が備えられていました。

L字型のヒーターパイプで何かを温めるのだと思いますが、
それがぐい〜んと持ち上がるようです。

4基あるという、ディープフライ(揚げ物)用のシンクがこれかな?

「エブリデイ・イズ・ア」までが見えていたので、

「ペイデイ」「ニュー・デイ」

などと勝手に想像してみたのですが、全部写った画像がありました。

EVERYDAY IS A NEY DAY PRESS ON

ネイ、というのは前回も説明した、

キャプテン・エドワード・F・ネイ・メモリアル・アワード
(エドワード・F・ネイ大尉記念賞)

のことで、アメリカ海軍の飲食設備がすべからくその受賞を目指して
日々刻苦勉励すべし、と目標にされているところの優秀賞です。

ネイデイ、というのは、ネイ・アワードを審査するために、審査員が
抜き打ちで(ミッドウェイ現役の頃は告知があった模様)やってきて、
施設の清潔さやメニューの充実度、味やサービスの状態をチェックする日。

大抵はネイ・デイだからと特別に審査員にアピールすることをしたり、
その日に向けてキッチンを大掃除したりしますが、
付け焼き刃というのは得てして厳しい審査員の目には見破られてしまうもの。

「たとえ審査の日でなくても毎日ネイ・デイのつもりで仕事しましょう」

というキャンペーンを行なっているわけです。

"press on"というのは「推し進める」とか「ゴールを目指す」という意味があります。

キッチンにはいたるところにかつての給養員の写真と
彼の「思い出の一言」がパネルになって飾られています。

どの写真も、ヒゲや髪型に時代を感じさせます。

「リブ(肋骨部分)がメニューに乗ると、僕と友達は
だいたい2トン以上の肉をカットすることになったよ。

一日それをやって肉を処理し終わったあとには、
いつも腕の筋肉がズキズキと痛んだものだ」

H・タスカー 1989

おう・・・それは大変でした。

まさにタスカーさんが持ってるのが、問題のリブ肉です。
骨も切らないといけないし、大量なのでさぞ辛かったでしょう。

だいたいリブ肉なんて人の手でないと処理できないんですよね。

これ全てが「80ガロンのケトル」というものです。
ケトルというと日本語ではヤカンというイメージを持ちますが、
つまり大きなお鍋ですね。

ちゃんと煮込む時のために蓋ができるようになった造り付けです。

これは大変そう・・・。
絶対調理する人の汗とか色々入ってるよね(断言)

「ケトルの担当には、いつも特に優秀な調理人を配膳しました。
なぜなら、彼らは圧力鍋の蒸気の音を聴き分けて、火加減を知り
調理をするということが身についていたからです。

朝食に煮込む大量の”海軍豆スープ”を調理するためには、
優れたカンを持っていなければならないのですよ」

C.リングランド 1984

リングランドさんは厨房人事のエキスパートだったようです。

それにしても「海軍豆スープ」(Navy Bean Soup)って・・・何。

デスク型の機械は何をするものか全くわからないのですが、
近くにベーカリーの説明があったので粉物を処理する何かです。

左は小麦粉を練るものだと思うのですが・・・。

こちらは「アフト・ベーカリー」。

 

「広さはたった350平方フィートだったが、乗組員が欲しがれば、
650個くらいのパイを一晩で焼いてやったものだ。

小麦粉が立ち上ってまるで霧のような状態になったよ」

B. ブリストル 1978

そういうところで働いた人たちは、後々喘息や慢性気管支炎など、
小麦粉の粉塵による深刻な呼吸器障害を患うことが多かったと言われます。

見たところマスクなどしていないようですし・・・。

見るからに若い調理員は肉などの下処理の係です。
下っ端のうちは食器洗いとか、こういう仕事しかさせてもらえません。

「メニューにチキンがあるとなるとうんざりしたよ。
つまりそれって1,100羽のトリをそれぞれフライにするために
9,000ピースにカットするってことだから。

僕はいまだに自分にグレーズソースの匂い染み付いてる気がするよ」

G.アヴガレノス 1958

なるほど、先ほどのディープフライヤーにトリをセットしてますね。

「ギャレーの仕事ってのはとにかくキツかったよ。
地獄のように猛烈に蒸し暑いところで長時間皮を剥き、食材を刻み、
揚げ物をしてそれを綺麗にする。その繰り返しだ。

でも、そんな中でもできる限りの美味い飯を作ってきたと思ってる」

J.ロサス 1965

というわけで今夜のディナーにはフライドチキンが・・・・。
アブガレノスくん、御愁傷様です。

と思ったら、あれれ?

ヴュルカン(バルカン、火の神)という製品名の大型オーブンでは
チキンがいい具合に焼けている模様。

今夜はフライドチキンじゃなかったの?
丸焼きならアブガレノス君は少し楽できたかもしれませんね!

 

キッチンの隅の、ちょうど凹んだようなスペースにぴったりはまる机は
メニューを考案する係のお仕事デスクのようです。

机の上に置かれているのは、レシピとメニュー表など。
あとは食材を注文するための用紙だったりします。

レシピの一つ、「マンハッタンクラムチャウダー」は・・・

材料 生ベーコン、刻みドライオニオン セロリみじん切り
  缶入りクラム トマトピューレ 人参 じゃがいも

1、ベーコンをカリッとするまで焼く(レシピL2参照)
  取り出して、刻む ベーコンの油を2のために取っておく

2、オニオンをソテーしセロリとともにベーコンの油に投入、
  7分間「テンダー・クリスプ(少し柔らかく少し硬く)」になるまで調理

3、クラムを水洗い 汁は取っておく

続きはありません。

無くなったとかではなく、ここまでしか書いていないのです。
このあとは・・・じゃがいもと人参を刻んで炒め、あさりの汁を入れて煮て
トマトピューレを加えて最後にあさりとベーコン投入したらいいんじゃないかな。

主婦のカンですが。

それと、マンハッタンとボストンクラムチャウダーとの違いは、
赤いか白いかだと思います(これもカン)

あとレシピは「サヴォイチキン」「焼いた缶入りハム」とか。
しかしサヴォイチキンはともかく、缶入りハムを焼くのにレシピなんている?

と思って読んで見ると、

「砂糖と酢を混ぜ、クローブを加えたものをフライパンのハムに振る」

というとっておきの隠し味が書いてありました。
うーん・・・ハムに砂糖と酢・・・醤油があれば黒酢あんだけど・・。

これが週間献立表。
せっかくなので、ある一日のメニューをご紹介しておきましょう。

朝食

冷たいフレッシュフルーツ、フレッシュジュース

熱々のオートミール 

ゆで卵 卵お好みで オムレツ お好みで

オーブンでフライしたベーコン
グリルしたカナディアンベーコン

ハッシュブラウンポテト

ホットワッフルにシロップを添えて

昼食

ニューイングランド・クラムチャウダー

サヴォイ・ベイクド・チキン

バーベキューしたスペアリブ

マッシュポテト

ごはん(スティームドライス)

チキングレービー

カニのスパニッシュ風

スクァッシュとズッキーニのメドレー

熱々のディナーロール

デザートバー サラダバー

(お急ぎの方用;スピードライン)

ベイクトポテトバー

ベーコン、ブロッコリのチーズ掛け

蒸したフランクフルトソーセージ

チリビーンズ

フレンチフライ

ベイクド・ビーンズ

夕食

ビーフヌードル

ローストターキー/グレービー

ヤンキーポットロースト/レッドドレッシング

人参のグラッセ、蒸したカリフラワー、

ディナーロール、

デザート /サラダバー

 

「ヤンキー・ポット・ローストって何ですか」

とSiriさんに英語でお伺いしてみたところ、
(これ発音の練習になります。下手だと聞き取ってもらえないので)
ブラウンソースのポークシチュー的なものを紹介されました。

Traditional Yankee Pot Roast

ちょっと作ってみたいと思いました。

メニューですが、「スチームドライス」とか「ビーフヌードル」などがあるのは
「ミッドウェイ」」が横須賀にいた時の影響かなと思ったり・・・・。

デザートのレシピも。
左はバナナクリームパイ、右はファッジブラウニーです。

うーん、Yum-yum!!

(クリームが多すぎるとか虫わきそうに甘いに決まってるとかはこの際なしで)

 

続く。

 

 

 

「ホーリー・ヒーロー」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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さて、空母「ミッドウェイ」の内部を探索しております。
ギャレーという兵員用の調理室の見学を終わると、案内板には

「シティ・アット・シー・ループ」

として、メインデッキの艦尾側の区画を巡るコースが示されます。
ガイダンスを聴きながら歩くと約30分かかるということですが、
ここは乗組員が生活するための施設が集まっています。

ここから先は「オフィサーズ・カントリー」という案内が現れました。
現役当時からあったらしい医療関係のグッズのボックスが通路に。

ここはギャレーの近くにあるS-2ディヴィジョン。
S-2のメンバーは、ミッドウェイのギャレーの各々のメニューに必要な
材料を用意するために配置されていた係です。

なぜかはわかりませんが、その食材は船のあちらこちらに置かれていて、
しかも気の遠くなるほどのアイテムの多さでした。

それらの場所を把握し、メニューに応じて材料を集めてくる。
それだけの仕事のために人が必要だったということです。

このドアの内側もかつては生鮮食料品が置かれていたため、
エアコンがいつも効いていたようで、「開放禁止」とあります。

いきなりこのような何もない(ように思える)空間に出てきました。

「ミッドウェイ」のような巨大な空母に必要な物資を運び入れるのも
専門の係を必要とする大変な仕事です。

かつてその仕事についていたベテランは

「3,000パウンド(約1.4トン)もの貨物を4階もの地下まで降ろす時は
本当に神経を払ったものだよ。
ゆっくりゆっくりと下ろしていくんだが、なかなかエキサイティングな仕事だった」

と語っています。
まあ、お仕事を楽しんでおられたようで何よりです。

右側で笑っている人が持っているのはワイヤを降ろすためのスイッチでしょうか。
それにしても写真に写っている水兵さんたち、皆幼いですね。

下の階は「オフィサーズ・カントリー」(士官居住区)とあります。
アクリルの板が張られて降りることはできませんが、覗くと
居室に組んだ足が見えています。

これが「脚だけ」の展示である、に1ミートローフ。

ハッチの「19」は、オーディオツァーの説明の番号です。
「サプライ・デパートメント」とありますので、補給部門の説明をしてくれるのでしょう。

CHAPはこの先にある教会、つまりチャペルを意味するのだと思います。
その下の緑の看板は

「考えよ 我々の目標は無事故である」

という標語が書かれています。

廊下には人工呼吸の方法が図解で。
実際に訓練していなくても毎日のように見ていたらなんとかなるだろう、
という期待の元にこういうものが目につくところに貼ってあるわけですが、
いざとなると資格があったり経験者でもないと、臆してしまって
倒れている人に手は出せないのが普通ではないでしょうか。

市長が大相撲春場所で挨拶中に土俵の上で倒れてしまった件でも、
周りにいる男性の誰一人として呆然として手を拱いていたため、
女性の有資格者が意を決して上がっていったという経緯があります。

わたしは「そう昔から決まっていること」を、特に現在の社会的常識とされること
(得てしてそれは差別という言葉に帰結する)を根拠に覆すことには
基本的に反対なので、女系天皇も「海をゆく」の歌詞も、女性が土俵に上げることも
現状を変えることはしないほうがいい(あるいはよかった)と考えるものですが、
この件では伝統やしきたりより優先するべきは人命救助の緊急性であったのは自明の理です。

まあただ、

「事後、塩をたくさん撒いていた」

ことまでヒステリックに非難するのは如何なものかとは思います。
女性が上がったからというより、それ以前に人が倒れたわけですから、
清めの塩くらい多めにしてもいいんじゃない?

 

さて、閑話休題。

というわけで艦内教会です。
日本の軍艦にも艦内神社は必ずありましたし、現在も自衛艦には
船の大きさの大小を問わず神棚が備え付けてあります。

軍艦の中ということをあまり感じさせない木を基調としたインテリアで、
心の安らぎを求めてやってくる乗員たちへの配慮が行き届いています。

しかし椅子が24隻しかないようですが、こんなのでことが足りたのでしょうか。

 

注目すべきはステンドグラスです。
自然光を通す一般の教会と違い、船の中の教会はライトを透かしたものです。

モチーフは太陽と空、そして海と星。

室内の内装そのものがキリスト教然としていないのは、この頃のミッドウェイには
ユダヤ教や仏教の礼拝が行われることもあったということでしょうか。

その隣には士官の個室がありました。
階級は中佐ですが、机の上に広げられている本はどうも賛美歌と
聖書のように見えます。

奥にかかっている軍服をアップにして見ました。
中佐(コマンダー)を表す3本線の上には通常星のマークがありますが、
これは十字架、つまりここは教会のチャプレン、従軍牧師の個室です。

そしてそのお隣は?

フライトスーツとギアがさりげなく置いてあるので、彼はパイロットですね。
ブルーの錨のマークには

「NAVY-MARINE CORPS RELIEF SOCIETY」海軍ー海兵隊互助協会

のものです。
1904年に設立された非営利団体で、海軍と海兵隊のメンバーに
経済的、教育的、その他の援助を行うためのファンドを運営しています。

これがなぜここに張られているのかというと、おそらく展示のために
基金からのなにがしかの援助が行われたのではないかと思います。

士官の個室には専用の洗面台もあるので、朝は快適です。
流石にシャワーまでは付いていません。

アメリカの洗面台は鏡が扉になっていて、開けると薬棚がありますが、
ここも軍艦の中ながら同じ仕様のようです。

辞書を見ながらタイプライターで何かお仕事をしていますが、
チョコチップクッキーを齧りながらはいただけませんなあ。

アメリカ社会では夜にチョコチップクッキーが振舞われることが多く、
ホテルなどでもよく夜にフロントの横を通りかかると
チョコチップクッキーが誰でも取れるように置いてあります。

なぜ夜なのか、なぜチョコチップなのか、いまだにわかりません。

おそらく彼は夜士官用キッチンを通りかかって、
クッキーとコーヒーを持って自室に戻り、仕事をしながら
ささやかな背徳?を楽しんでいるところなのでしょう。

それはそうと、彼の後ろには「ヒンズー教」「ユダヤ教」「カトリック」
「イスラム教」「プロテスタント」「仏教」についての本があり、
ヘルメットにはなぜか十字の印が刻まれています。

ということは、この士官も宗教関係・・・?
アメリカには「司祭パイロット協会」なるものがあって、
パイロットの資格を持ちその布教活動に航空機を用いる司祭の協会、
なんだそうですが、このパイロットもそういう「空飛ぶ司祭」なのかしら。



一般的に、空母には牧師が必ず最低一人は乗り組むことになっています。
戦時中はバラオ級潜水艦にすら乗り込んでいたらしいことが、
バトルシップ・コーブの潜水艦「ライオンフィッシュ」見学でわかりましたが、
今は流石にないような気がします。

「ノーチラス」の南極行きも、いわゆる司祭がお祈りで使う「セット」はありましたが、
実際に牧師が乗り込んでいたという記録はありません。
乗員に一人くらい牧師の資格を持つ者がいたのかもしれませんが。

さて、空母の牧師の階級は特に決まっていませんが、一般的に
上級将校が多く、佐官以上というイメージがあります。

お祈りのお勤め以外にも、乗員の人生相談に乗ったり、
あるいは告解などを聞いたりするので、あまり若いとダメなのでしょう。

カトリックやプロテスタントなど、個人的には何らかの宗派に属しているはずですが、
艦内で行われるミサや集会の時には、集まる信者によって
カトリックになったりプロテスタントになったり、結構アバウトだったようです。

軍人の人種も様々となった昨今では、「ミッドウェイ」でも
仏教徒、イスラム教などの集まりや儀式が行われていたそうですが、
キリスト教の牧師のような職種は海軍には現在もありません。

「ミッドウェイ」がバトルグループを組織して行動している間などは、
「ミッドウェイ」乗組の牧師が全艦艇の宗教行事をはしごして回ることになっていました。

どうやってするかというと、ヘリコプター部隊の出番です。

毎週日曜日になると、ヘリコプターは牧師さんを乗せて、一つづつ
機動部隊の艦艇を訪れ、お祈りが終わるとはい次、はい次、といったように
お祈り巡幸?を行なって回るのです。

これを

「ホーリー・ヒーロー」HOLY HELO

と海軍では称しています。
カタカナで書くとまるで「聖なるヒーロー」みたいでかっこいい響きですが、
この場合の「ヒーロー」は海軍式のヘリコプターの略称です。

どうやらチョコチップクッキーの士官さんは、ホーリーヒーローの牧師なので、
自分で操縦するわけではないですが、そのお勤めの時にパイロットスーツをきて
ヘリに乗り込んでいたってことなんでしょうね。


海上自衛隊の掃海部隊では、水中処分員というダイバー資格者を
ヘリコプターから海中に降ろすことを

「ヘローキャスティング」(Helocasting)

といいますが、この「ヘローキャスト」の「ヘロー」も英語では
どちらかというと「ヒーロー」と発音することになっています。

RとLの発音は英語の人には全く別の発音と認識されるので、
わたしたちが思うほど「英雄」と似てるとは思わないみたいですが。

余談ですが、ヘリコプターのことを「ヒーロー」というのは海軍だけで、
陸軍も空軍も、ヘリは「チョッパー」と呼んでいるそうです。

「チョッパー」という言い方(何をチョップするのか)は非常にカジュアルで、
正式なものではないという説もありますので念のため。

 

この「ホーリー・ヒーロー」の際、ヘリ部隊にもちょっとした役得があります。
牧師さんをハシゴさせる際、ついでに郵便物を配ったり物資を運んだり、
といった用事もすることから、そういうものに餓えた?艦艇の乗員からは
えらく感謝され、お礼の品を積んで帰ってくることもしばしばあったということです。


つまり、ちょっとした「ヒーロー」扱い・・・?


続く。



XOは決して笑わない〜空母「ミッドウェイ」博物館

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兵員用のギャレーと艦内教会を見てきた「ミッドウェイ」、
歩いていくと、アクリルで階下が見えるように覆いをしてありました。


この下が「オフィサーズ・カントリー」、士官居住区のようです。

階段の下には、掃除中の水兵さんの姿あり。
彼はアジア系、しかも中国系っぽい東アジア系です。

当時の「ミッドウェイ」の士官達の写真を見ると、やはりというか
驚くくらい白人種しかいません。

当時「ミッドウェイ」乗組だった日系アメリカ人のジロミ・スミス氏に言わせると、
士官はどんな格好をしていても(たとえトレーニングシャツでも)
見分けがついたそうです。

「不思議と将校は風貌がわれわれ下々のものとはちょっと違っていて、
たとえジョギングウェアーでもなんとなくそれと分かる。
肌が綺麗で髪が整い、無意識のうちに気取っているのか・・・・・。
きっとそのように訓練されているのだろう」

 

今の海上自衛隊はどうなのだろう、とふと考えた時、
あるエントリに対しての要望に加え、

「華やかな幹部の世界と曹士の世界はまったく別物である
上の世界だけを見て、今の海上自衛隊は語れないと思う」

というご意見を送ってこられたことを思い出しました。

軍隊ならあって当たり前の「階級差」ですが、自衛隊の場合、
幹部と曹士の間には「職域の違い」「権限の違い」こそあれ、

「華やか」「上の世界」

という言葉に表されるような隔絶があるとは感じていなかったので、
それだけにこの言葉のセレクトそのものがわたしには結構な衝撃でした。

 

確かにわたしの立場で海上自衛隊と接する時、その接点そのものは
幹部、しかも高級幹部と言われる自衛官になることは否めません。
しかしあえてこの方にこの場を借りて私見を述べさせていただけるのならば、
逆説のようですが、一般人が自衛隊を見て幹部の世界、この方のいう
「上の世界」だけを見ることは不可能だと思うのです。

(外から窺い知るだけの上っ面の世界、というならまだわかりますが)

なんの行事に参加しても、どんなイベントを見学しても、そこに居て
船を動かし、料理を提供し、儀仗を行い、音楽を演奏するのは
幹部に指揮された曹士であり、それら全てを以って我々は「自衛隊」だと認識しています。

どんな組織にも色んな立場からの視点や意見があって然るべきだと思いますが、
むしろそのようなヒエラルキーに立ち、曹士を”下層”と見なすのは、たとえそれが
曹士の「側」のご意見であっても、否、それならば尚更、
誇りを持って任務に就いている自衛官に対して敬意を欠くことにならないか、
とわたしは少し複雑な思いを抱いたのでした。


さて、少々重たい話になりましたが、先に進みます。

立派でしかも広々とした部屋が現れました。
ここは「XO クォーターズ」、エグゼクティブオフィサーの区画です。

「XO」と呼ばれるところの「エグゼクティブオフィサー」とは、
艦上における日々のあらゆるアクティビティに責任を持ち、統率する役目で、
指揮権でいうと2番目の権限を持つ・・・つまり副長です。
その所掌範囲は広く、例えば艦内の衛生問題などにも関わります。


例えば懲戒処分になるようなこと起こった時、艦長にあげる前に
スクリーニング、事情を聞くといったことも XOの仕事です。

XOは上級士官食堂の中でも先任なので、ご覧のようにその居住区は
「ミッドウェイ」の中でも最高の環境に設えられているのです。

壁にはかつてここでブイブイ言わせていた(かどうかは知りませんが)
XOの誰かの写真とともに、「ミッドウェイ」ベテランの

「XOが笑っているところなど、現役中に見たことがなかった。
艦長が艦上での仕事がうまくいっているか確かめるために彼に目を向けたり、
乗員との接触という場面では、それが普通だったよ」

という言葉が書かれています。
XOというのはそれだけ「睨みをきかせる」役割だったようですね。

船のどこかをかたどったような円形のソファテーブルには
当時の「スターズアンドストライプス」が挟んでありました。

この飛行機、JALじゃないですか!

日本赤軍(Japanese red Army)がダッカで日航DC8を・・
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件が報じられています。

この時に彼らが要求したのは、勾留中の赤軍派メンバーの釈放。
福田赳夫政権は超法規措置で赤軍派を釈放しましたが、その時に

「人命は地球より重い」

と言ったとか言わなかったとか。
この時にハイジャックを起こした犯人の一人、坂東國男は、もともと
浅間山荘事件で収監されていたのを、バングラデシュで赤軍派が起こした
ハイジャック事件で釈放されたという人物です。

このころの「超法規措置」は、次のテロやハイジャックを産む事になり、
その反省に鑑みて現在では

「テロには屈しない」

という姿勢がスタンダードになっている気がします。

 

右側は7月4日の独立記念日特集号です。

さすが船のナンバーツー、「最高の環境」であるXOの寝室です。
枕元には燭台ふうのランプがあしらわれ、木目のインテリアにベッドカバー、
そしてカーペットは深い海のネイビーブルー。

壁全体が収納棚になっていて、これは快適そう。

木星に見えますが、クローゼットの扉、木を貼り付けたスチール製です。
これだけクローゼットが広ければ、たとえサックス5thアベニューで仕立てた
特別製のお洋服を持ち込んでも余裕で収納できますね!

近くには専用のシャワーとトイレ、洗面台のコーナーまで。
XO以外は使うことを許されません。
シャワーカーテンまでネイビーブルーのこだわり。

そしてちゃんとシャワー横にはタオルとガウンを掛けるバーまで。

 

思い出したのですが、呉の「てつのくじら」館に展示されている「あきしお」では
士官用シャワー室を見ることができます。
あれを何度見ても、シャワーブースの中にタオルや着替えを持ち込む余地はないし、
かといって外にも着替えを置くような場所もないのが不思議でたまりませんでした。

先日、ある会合で海自の方に聞いたところによると、彼らは着替えなどは持たず、
タオルで体を拭いたらそのままの姿で艦内を練り歩いて行くのだそうです。

うーん、潜水艦に女性幹部を乗せる話があると聞きましたが、これ無理じゃね?

さて、そんな「ミッドウェイ」の特権階級XO、スタッフも充実です。
彼の元で事務を行うスタッフの執務室もこの通り、スペースも広い。

彼は一等海曹、ペティオフィサー・ファーストクラスで勤続9年。
Yeomanという書記下士官だと思われます。

XOのもとで必要な書類を作成中です。

部屋にあるこの謎の機械は・・・テレックスというやつかしら。

日本ではテレックス業務は終了し、世界的にも商用では、
コンピュータネットワークの構築や、ファクシミリの登場、インターネットの普及で、
多くの一般商用テレックス通信は電子メールに移行されたことで終了しましたが、
実は軍用指揮通信などの特殊な用途では一部現役と言われています。

英字を縦に打っているので妙な感じのファイルです。
端から

NAVAL EDUC (ナーバルエデュケーション)

SUPPLY PUBS (サプライパブリックス0

NEOCS MAN (Navy Enlisted Occupational Standards)

MILPERS (ミリタリー・パーソネル)

4000LOGISTICS (補給)

7000FINANCE (予算)

NAVPERS (Navy Personnel Command )

DOD PUBS (?)

などの呪文が書かれています。

 右は電卓(大きい・・)、ブラザーの電気式タイプライター。

これは1970年台に主流となった電子タイプライターのようです。

このSX-400を検索してみたところ、1978年に発明されたデイジーホイール式で、
ウォルマートで同じ形のものがつい最近まで売られていた形跡がありました。

当時は最新型のツールが真っ先に持ち込まれたんですね。


淡々と出てきた順番に写真を貼っていきましょう。

「ファイアーファイティング・ステーション」とあります。

オフィサーズカントリー、士官区画にあるこの設備は、出火しやすく
それゆえその対策をしっかり行わなければいけない空母に必須のものです。
これは「ミッドウェイ」全体で16あるAFFF(消火フォーム)ステーションの一つで、
巨大なタンクは600ガロンのAFFFの濃縮液を貯めておくことができます。

液は消火用の水と混ざって泡を作り、ガソリンのような可燃液体を
包みこむことによって火を消し留めるだけでなく、火の回るのを食い止めます。

このステーションは1分間に250ガロンのAFFFを放出することができます。

赤とブルーのストライプにはここに包括される液体を表し、
赤は消火用の水で海からダイレクトに組み上げられ、
ブルーはAFFFの濃縮液を意味しているのです。

赤と青のテープが巻かれていることで、それらのブレンドがここにある、
ということを示します。

この向こう側は士官用の食堂です。
入室する前にこのたくさんのフックに帽子を掛けるのだと思われます。
自衛隊だとテーブルにおく方式が多いような気がしますが、米軍は、
横須賀米軍基地もそうですが皆フック方式だったと思います。

副官が自分の帽子の上にボスのをのせる、なんて文化は旧海軍からの
日本だけのオリジナルのような気がしますね。

守衛室のような小さな部屋発見。
この椅子に座ってここで待機し、窓越しにチケットか何かを確認したのかな?

このパネルは文字を差し込んで毎日変えられるようになっています。
ガラスの扉を開けて毎日メニューの文字を付け替えたんですね。

スープはクレオール。
クレオールというのはルイジアナのニューオーリンズあたりの風土料理です。
ケイジャンと共通するもの(ガンボやジャンバラヤ)も多いですが、
こちらはこの地に入植したフランス人の影響が大きいかもしれません。

ちなみにクレオールスープはスネ肉の煮込みスープ。
「怪談」の小泉八雲、ラフカディオ・ハーンはルイジアナ出身で、
クレオール料理の本を日本語で書いています。

ジャマイカン・ジャークチキンというのもジャマイカ料理ですが、
単純にチリペッパーなどの香辛料を使ったフライドチキン様のもの。

サリスベリーステーキは以前米軍基地の食堂でご飯を食べた時、
メニューにあった覚えがありますね。

サリスベリー博士が「健康にいい肉料理」として考案した
ミンチ肉と玉ねぎを混ぜた、ハンバーグステーキみたいなもの。

玉ねぎ混ぜたくらいで健康にいいとは笑ってしまいますが、
アメリカ人はなかなか野菜をメインにしないので仕方ありません。

そして、下の方には「本日の映画」として

「トータルリコール」

出演 アーノルド・シュワルツネッガー シャロン・ストーン

1990年の公開ですが、「ミッドウェイ」退役の2年前ですね。
この頃「ミッドウェイ」は湾岸戦争で北アラビア海に展開していました。
長い航海で故郷を離れているしかも戦争中ですが、
艦内で乗員の慰安は普通に行われていた・・というか、だからかな?

ところで上の写真の左端、変なものが写っています。

・・・腕?

にしては写っている場所が下すぎるんですが。角度も変だし。
そもそも袖(しかも内側?)にこんな字を書いた服ってあるかなあ。

((((;゚Д゚)))))))ナニコレ・・

 

続く。

 

 


クリーンシャツ・ワードルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

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 「ミッドウェイ」には4500人もの人が生活するため、いくつも
飲食をする施設があります。

艦長や艦隊司令などが食事をする個室の他には将校が食事をする「ワードルーム」。

チーフ(E-7,8,9 )が食事をする「チーフズ・メス」。

そして、E-1からE-6の兵員食堂を「メス・デッキ」とか「ギャレー」と呼びます。
ギャレーは二ヶ所あって、これらの「区分け」は厳密です。

階級の上下を問わず、正式に招待されない限り、それぞれの階級の食堂以外に
立ち入ることは許されていません。

前にも言いましたが、例外は、「殿上人」である艦長が水兵の士気を高めるため、
そして彼らの「雰囲気」をチェックするため、そして親睦を深める?ために
ギャレーにふらりと現れて食事をすることがあるくらいです。

さらに、若い士官は時々ギャレーでの食事を義務付けられていていたそうですが、
彼らは例外なく水兵と会話するわけでもなく、黙々と食べて、
シートに何やらコメントを書き込んで出て行く、といった具合だったようです。

前回までギャレーをご紹介してきましたが、今日はワードルーム、
すなわち士官用の食堂を見ていきましょう。

海自の士官用食堂などもテーブルリネンはブルーでしたが、
ここは椅子も一つづつ肘掛けが付いているお揃いのカラーです。

シルバーがちゃんとセットされていて、金線の入った食器がセッティング。
毎日こんなきちんとしたテーブルで食事をしていたんでしょうか。

これはセルフサービスなどではなく、ちゃんと給仕がサーブするテーブルですね。

と思ったら当時の食事風景の写真がありました。
ちゃんと給仕がお皿をサーブしています。

これを見てお分かりのように、士官は全員白人、
給仕がそれ以外の、ほとんどがヒスパニックかアジア系です。

食事が終わっても、彼らは自分で食器を片付けたりする必要はありません。

「ジョン・デ・ブランの想い出のために」

デ・ブラン氏は「ミッドウェイ」のボードメンバーで、本艦の博物館化に
大いに寄与した人物であったようです。

写真の子供は子供時代のデ・ブラン氏で、一緒に写っている彼の父親、
アーネスト・デブラン大尉は「ミッドウェイ」でダメコンの士官でした。

写真は1945年、このワードルームで行われたクリスマスパーティでの一枚です。

一緒に写っている男の子はその後父と同じ道を歩んだでしょうか。

映画鑑賞もこの部屋で行われていたんですね。

CDで映画が手軽に見られる時代ではないので、
かなりの数の嵩張るフィルムを持ち込んでいたものと思われます。

ラックの下には巨大なフィルム缶が積み重ねてあります。

逆から見た映写機。
操作はシンプル。走行、止める、早送り、巻き戻し、ボリューム、以上。

映写機のメーカーは(ミシンの)シンガー社です。

前にも書きましたが、シンガー社は戦争中各国と武器製造の契約をしてたため、
ノルデン照準器やガーランド銃なども作っていた会社です。
戦後、特に1960年代から多角化に舵を切って生き残りました。

電卓など作っていたことは知っていましたが、映写機もあったんですね。

 

ジュースクーラーやウォーターサーバーなど。
この辺りはギャレーと同じカフェテリア方式です。

唐突に壁に飾ってあった扇子。
彼らがどこで手に入れたのかはわかりませんが、和風というより中国風です。

この部屋は

The 'Clean Shirt' Wardroom

と呼ばれていました。
このワードルームを使用するとき、士官は必ず制服(作業服ではない)を着用したので、
「クリーン・シャツ・ワードルーム」と呼ばれることになったのです。

兵員食堂と違って、士官はワードルームでの食事をその都度支払らうことになっています。
その分を貯めておいて時々スペシャルメニューを奮発する、というのも可でした。

先ほどのブースは、士官たちが支払いをするための会計係が座っていたんですね。

ワードルームは食事だけでなく、ミーティングや映画鑑賞にも使われました。

ワードルームでは銀器が用意されていました。

これは重巡洋艦「トレド」CA133で実際に使用されていた銀器一式です。
「トレド」は1945年の5月、第二次世界大戦の終わり頃就役し、
終戦後は日本で占領政策に従事したということです。

銀器はお金がかかるだけでなく、いつも手入れをしていなければならない
「執事泣かせの」食器なので、ご予算はもちろん精神的にも余裕があったということです。

 

各プレートはトレドの名前と海軍のマーク、所縁の地が刻まれています。
このお皿はトレド美術館、他はトレド大学に教会など。

パンチボウルもゴージャス。

現地の説明によると、こういう意匠も日本風を意識しているのだそうです。
障子を透かして桜を見るような壁照明、なかなかモダンジャパネスクって感じ。

何しろ「ミッドウェイ」は十八年間日本に勤務していて、その間
一度も母国に帰ったことがなかったのです。

しかし、「ミッドウェイ」での日本勤務を経験した海軍軍人は、
上は将官から若い水兵まで、例外なく皆が日本を大好きになったそうです。

その理由は、日本人のもてなしの精神であり、あるときは市井の人々の親切であり、
他にはない魅力的な文化などでありましたが、特に海軍軍人として、
日本と触れ合う窓口となる海上自衛隊の人々、そして在日米軍基地で働く人々の
ずば抜けた技術、能力、ならび仕事に対するプライドには感嘆させられた、
と、かつての司令官が語っています。


「砂漠の嵐作戦」における「ミッドウェイ」の勇姿。
このとき「ミッドウェイ」の母港は横須賀で、最後の出撃となりました。

湾岸戦争開戦翌日の1991年1月16日に「レンジャー」とともにペルシャ湾に入り、
航空攻撃を行ったのが、「ミッドウェイ」の名実ともに最後の戦争です。

母港の横須賀には戦争終了後の3月11日に戻り、同年8月に「インディペンデンス」に
横須賀での後任を譲り、よく年引退しています。

 

海軍士官がこのようにいちいちシルバーでちゃんとサーブされた食事をする意味は、
自分たちが特権階級であることを自覚させるため・・・というより、
士官のアラマホシキ姿を目指す「ジェントルマン教育」の一環という説があります。

望むと望まざるに関わらず、海軍士官というのは海軍の顔、
場合によっては国の代表として振舞わなくてはならなくなる時がやってきますから、
テーブルマナー一つとっても普段からの慣れが必要というわけです。

日々の生活が「ナイフ・アンド・フォーク・スクール」なんですね。

こちらではやはりアジア系の乗員がテーブルセッティング中。

ナプキンまでブルーです。
重厚な椅子カバーまでかけられたダイニングチェアの背中には、
座る人の階級と名前を入れるようになっています。

この部屋にも大きな扇子がありますが、そもそ巨大な扇子を壁掛けにするって、
どちらかというと中国の文化で、日本人はやりませんよね。

日本では扇子は扇子立てに立てて飾るものです。

ここにも日本勤務の証、テーブルの上にはさりげなくキッコーマンの卓上瓶が!

兵員食堂の住人だった元乗員によると、「ミッドウェイ」の食事は
ギャレーであっても決して悪くなく、むしろ美味しいほうだったそうなので、
ワードルームはさらに美味しいものが出ていたのではないかと思われます。


「将校連中が食事から戻ってくると、皆腹回りが目立って大きくなっていて、
しばらくの間動きが鈍い。
椅子に座ったまま立ち上がる気配も見せない。
やはり美味いものを食っているのだろう」

(J. スミス 空母ミッドウェイ アメリカ海軍下士官の航海記)

それでも仕事はハードなので、さしものアメリカ人でも太る人は滅多にいなかったそうです。
しかし食べ物はいくらでも食べられてしかも無料なので、中には食べすぎて太る人も。

船では太り過ぎを測る基準に「緊急用のハッチを潜れるかどうか」というのがあり、
このハッチに体がつっかえるレベルになると、イエローカードが出され、
ある一定期間までに体重が落とせないと、海軍から(船からではない)追い出されます。

 

なぜか扉が和風の引き戸・・・・
きっと横須賀で改装したなこれは。

ここがワードルームのキッチンです。
サーブ方式なのでギャレーのコックとは違う苦労があったと思われます。

何かをしているようで何もしていないキッチンのクルー(笑)

ここに入るときには・・・何をカバーするのかな?
頭?口?靴?

’チーフは我々に食べ物を提供することを誇りに思えと言っていたよ。
「その気持ちが食事を作るんだ」ってね。’ E.C. ロンゾン 1972

彼はフィリピン系ですね。

鳥の丸焼きに山盛りのフルーツ。
サンクスギビングのご馳走かもしれません。

”ホリデイの食事はまさにご馳走だった。
海上勤務で同じような食べ物が続いたあとは特に感動したね”

”食器洗い場は、もう暑くてうるさくて信じられないくらいだった。
汚れた食器が次々とやって来て永遠に終わらないような気がしたよ”

”我々の食事は兵員にサーブされるものよりいつもいいものだった。
そうなったのは食事代を直接個人が支払うようになってからさ”

L.ジャクソン 1978

ワードルーム士官のお話です。
そうでない時代には大したものではなかった、と・・・。

ここからはオフィサーズ・メス。
ここも呼び名は違いますが士官専用食堂です。

45年間サービスを続けて来たこと、全てのアメリカ海軍の中で
ここがもっとも「ファイネスト」なワードルームであると書かれています。

こちらは士官たちが普通に食事をする日常的な食堂でしょう。
流石の士官も毎日ワードルームでナイフとフォークの持ち方を練習するほど
暇ではなかったと思われます。

左から

「ホワイトミルク」

「ホワイトミルク」

「チョコレートミルク」!!!!

コーヒーディスペンサー。

「ミッドウェイ」がサンディエゴで展示されるようになって見に行った
元乗員によると、このような設備は当時と全く変わっておらず、
間違いなく実際に使っていたものがそのままなどが残されているということです。

アイスクリーム・ディスペンサー?

アメリカにいると、学校やプレイルームなどではしょっちゅう
「ピザナイト」「アイスクリームソーシャル」などという
食べ物を餌に?した社交に参加する(させられる)ことになるのですが、
軍艦といえどもその傾向に変わりはなく、「ミッドウェイ」でも
「ピザ食べ放題」「アイスクリーム食べ放題」などという
イベントがしょっちゅう行われていたということです。

デザートがいつでも食べられる専用の回転ケース。
やはりこういうものは士官食堂にしか見ることはできません。

今日のデザートはチェリーパイとアップルパイです。
でかい(白目)

アメリカ人の作るパイの甘さを知っているわたしは、
こういうの見ただけで全力でごめんなさいしてしまいます。

朝食用のトースターとシリアルボックスディスペンサーもあります。

士官室にはソフトドリンクが取り放題のアイスケースまであります。
ウェルチのフルーツジュースやV-8などがありますが、
かつてはコーラやスプライトが主流だったと思われます。

士官もメスでは朝食は兵員と同じように並んでサーブしてもらう、
カフェテリア方式です。

ベーコン2スライスで86カロリー、ハム2スライス116カロリーなど、
なぜかカロリーが明記してあります。

「カロリーが同じならば何を食べても太りやすさ、やせやすさは同じ」

だから健康のためにはカロリーを抑えないと、という
いわゆるカロリー神話が全盛であった頃だったってことですね。

ちなみに現在では

「カロリーと脂肪を制限するよりも、糖質を制限するほうが減量効果は高い」

という「糖質制限」がダイエットの主流になっているようですが、
その説にも異論が出始めているようで・・・・(笑)


「ミッドウェイ」の士官さんたちは、カロリー計算なんてするくらいなら
甘いパイや炭酸飲料を控えるだけで十分ダイエットできたんじゃないかな。

 


続く。

 

 

 

 

海軍の身だしなみ規則とホテルサービス〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」博物館、「クリーンシャツ」と呼ばれる士官用の施設、
ワードルームと士官たちに食事を作るギャレーまでを見てきました。


ところでオフィサーズ・カントリー(士官居住区)には

デッキ・デパートメント・オフィス

というボースンズ・メート(BM's、boatswain mates )の一部署があります。
艦首楼(フォッスル)にあるアンカー関係のギア、ロープやラインなど、
船を安全に岸壁につけるための道具を操り、これらを管理する係です。

「ミッドウェイ」が海上で補給を行うとき、補給艦との間に
補給パイプを渡すための索具を操作することも、BM'sの仕事です。

また、空母からボートを海面に下ろしたり上げたりする仕事も行います。

Navy Boatswain's Mate

最初に「スモールボート・オペレーション」と言っていますね。

「自分のことを”シーウォリアー”(海の戦士)だと思ってるよ」

とセカンドクラスのBM'sが言ってるこのビデオは、アメリカの
テレビ広告用に製作されたものです。

アメリカでテレビを見ていると、軍の宣伝を見ます。
陸軍と海軍がほとんどで、時々海兵隊という感じですが、
不思議なことにエアフォースの宣伝は見た覚えがありません。



さて、何千人もが暮らす空母は昔から「一つの街」です。

生活が全てそこで完結し、不足ないようにあらゆる必要なものを積んでいるのですが、
面白いことに「どこに何があるのかを把握する係」という部署があります。

メインテナンス・マテリアル・マネージメント、

通称3Mは「ミッドウェイ」の上で大変広範囲の仕事を行いました。

艦内に備えられた全ての機器設備の部品は、大きなものから小さなものまで
PMS(女性特有の症候群にあらず)と呼ばれる

「プランド・メイテナンス・システム」

が管理し、その統一と管理そのもの、代価以外のこと全てに責任を負っていました。

いわば船の神経中枢のようなものです。

各機器の部品が適正に管理され、それらがスケジュールにそって
適正に運用されるための調整を行うのがPMSの仕事でした。

”船のあちらこちらにある全ての設備や機器の百千のパーツの
在庫と貯蓄を管理していたのが私たちでした。
必要とあれば、たった一個のワッシャーとかボルトであっても
我々はすぐさま用意をしたものです”   S.ミラー 1980

艦内の理髪店です。
理容師は留守で、椅子の上のクッションには

「15分で戻ります」

とメモが貼り付けてあります。

出入り口の左のボードには15分刻みにスケジュール表があり、
自分が散髪してもらいたい時間の欄に名前を書き込むシステムです。

というか、たった15分で散髪も髭剃りもやってしまっていたんですね。

まあ、基本バリカンでゾリゾリっとやるだけなのでそんなものかもしれません。
ところがこの写真につけられたキャプションによると

”いつも誰かが手早く『トリム』してもらうのを待っていたよ。
「ミッドウェイ」の水兵たちは、
基本ヘアカットには10分しかかからないと思っていたから”

なんと15分ではなく10分でしたか・・・。
これでは髭剃りも肩もみも当然なしだな。

ところで、どこの海軍もそうであるように、アメリカ海軍にもヘアカット、その他
「毛」に関することについては決まりがありました。

「アメリカ海軍軍人の身だしなみについての基準」

というこのポスターをちょっと見てみましょう。

【ヘアカット】

耳の上と首回りの髪の毛は絶対にえりにかからないこと、
長いところでも絶対に4インチ(10cm)以上にならないこと、
耳にかからないこと、被り物を取った時に眉毛にかかっていないこと、
部分的にも2インチ以上にはならないようにすること。

1970年代ごろには一般の男性の間にもみあげを長くしたり、
ヒゲを途中でカットする(アフリカ系に多い)などというのが流行りましたが、
海軍軍人たるものそのような流行りに身をやつすことは決して許されません。

まあでも、当時の写真を見ると皆大なり小なり時代の影響を受けているんですけどね。


【もみあげ】

当時の流行りを見越して(笑)注意には

「もみあげは裾広がりにしないこと、耳の真ん中辺まで伸ばさないこと」

としっかり釘をさしております。

【口髭】

口髭についてもあれこれと決まりがあります。

「口の端のホリゾンタルライン」つまり延長線より
ヒゲが外にはみ出てはいけませんよということになっています。
また口の端から「バーティカルライン」を引いて、それより
4分の1インチ(6mmくらい)以上外に出てもいけません。

カイゼル髭や長岡外史みたいなのは問題外です。

例にちゃんと白人とアフリカ系を使っているあたり気を遣っていますね。

女性も何かと決まりが大変そうです。

【襟部分の裾】

襟に髪の毛が触れるのは構わないが、それより長くしない。
襟のラインと髪の毛の裾が平行に同じ線であること。

開襟は上部から最大2.5-1.25cm下まで可。
(結ばない場合)長さは頭皮から5cmくらい。

【ブレイド】

ブレイドというのは編み込みヘアのことです。
アメリカではよくアフリカ系が縮れた毛を編んでしまっていて、
その全てにビーズがついているのを時々見かけるのですが、髪の毛は
どうやって洗うのか、そもそも洗っているのか心配になります。

制服での編み込みヘアは直径を4分の1インチに抑えること。
固く編み込んで頭皮にしっかりまとめること。

わざわざこの項目を作っているのは、アフリカ系への配慮と思われます。

【ヘッドギア】

と言っても、宗教団体が修業で使うものではなく(そらそうだ)
帽子など被り物の総称です。

ギャリソンキャップやコマンドボールキャップの場合、
前頭部のブリムから髪の毛が見えてはいけない。

command ball capというのは自衛隊でも使用している
ベースボールキャップ型の帽子のことです。

ボールは「ベースボール」のボールのことだと思います。

全てのヘッドギアは頭部の一番大きな部分にきっちりと、
快適にフィットするようにかぶること。

ところで下の写真Dの真ん中と右端にセーラーの女性がいますね。
アメリカ海軍は女性もセーラー服を着る事があるんですか?

しかもこの真ん中とその右のベレー帽みたいなの、初めて見るような気がするのですが。

ヘアカットとヘアスタイルは均整のとれた見た目にする事。
極端に左右不対称でバランスが悪い髪型は規則違反になります。

左右不対称・・・例えば片側だけ長ーく伸ばして、反対側は
耳のすぐ下で切ったような髪型のことですね。

学生時代山本さんという人がやってたけど、山本さん元気かな。

さて、ここはワードルームの近くなので、彼らがくつろぐラウンジがあります。

うーんどうですか、この内装のジャパーンなこと。
白木の腰板はまるで日本の温泉旅館にありそうですし、壁のライトは雪洞風。

奥にはこれは間違いなくメイドインジャパンの日本人形(冒頭写真)、そして


五月人形として製作されたと思われる武者人形がケース入りで。

「馬乗大将 光陽」

とありますが、この「光陽」というのは加賀人形によくついてくる銘です。
もしかしたら最初の原型を作った職人なのかもしれませんが、
オークションなどでも普通に出回っているようで、多分単なるブランドでしょう。

冒頭の女性の人形は「鼓」というタイトル付きです。

どちらも「ミッドウェイ」が横須賀にいた時に日本の団体から
寄贈された記念品のようなものではないかと思われます。

ワードルームラウンジでくつろぎすぎるくらい寛いでいる士官たち。
てかあんたら基本的に行儀悪すぎ。

天井の灯りが同じなのでこの部屋だと思われますが、内装は違います。

やはり当時からほんのりとジャパネスクですね。

ワードルームラウンジに飾ってあった絵その1。

「海上での補給」

そうそう、これですよ。BM'sが行うのは。
補給艦との間に索具やパイプを渡すのは大変な仕事だとこれを見ても思います。

絵その2。

「補給作業中」

何を補給しているかというと、弾薬の類。

「ミッドウェイ」にはここに、

「ホテル・サービス・オフィス」

なるカウンターがありました。

一般に、民間の人たちや将官は「ミッドウェイ」勤務となった場合、
最低一晩から最長6ヶ月までの期間、艦上で過ごすことになります。

このオフィスはそんな臨時の「お客様」のためにリネン類や、
お泊りに必要な各種アイテムを取り揃えてお越しをお待ち申し上げています。

艦上でとった食事代も、ここで徴収することになっていました。

枕やシーツ、毛布の他にタオルや洗面道具、シャンプーや髭剃りに至るまで。
金銭管理も(書面上で)行うので、ファイルなども全て棚には並んでいます。

ホテルサービスのフロント係。
名前はきっとジェームズさん。

ジェームズの上司、アランさんはタイプライター(電動式)で書面を作成中です。
大きなカウンターがあって、貸し出すものの受け渡しはここで行います。

専門のこんな部門があるということは、毎日のように利用があったということでしょう。
さすがは海上の都市、巨大空母です。

これだけ至れり尽くせりで全てが揃うなら、ぜひ1泊くらいならしてみたいですね。

 

続く。

 

 

 

ランドリー〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」の乗組員、そして士官の「食」の場を中心にお話ししてきました。
今日は軍艦の「衣」についてです。

ワードルームを過ぎ、通路に沿って歩いて行くと、階段を降りるように指示がありました。

オーディオツァーの人のためにあちらこちらにある黄色い道案内には

「階下にランドリーの展示があります」

と記されています。

軍艦見学の時に階段があったら必ず写真を撮ることにしています。
あとで見た時にどこを見たかわからなくなるのを避けるための工夫です。

空母のランドリーはざっくり言って4,500人の洗濯をするところです。

いきなり洗い終わった後の洗濯物をかけている部屋に出てきました。

赤のV型赤ライン3本で鷲のマークが付いているのは

一等海曹
ペティオフィサー・ファーストクラス
Petty Officer First Class  (PO1)

翼のついているのは航空徽章のようなものだと思われますが、
ラインが緑というのは初めて見た気がします。

おまけに白い夏服も(なぜ一緒にあるのか謎ですが)緑の線ですね。

袖についていて所属階級がわかるものを「レイティング・バッジ」と言いますが、
その部分をアップしてみます。

 

左から2番目のようにマークに翼が生えているものはだいたい航空関係ですが、
写真の「錨に翼」はそのものズバリ、

 AN Airman

航空兵のマークとなります。

一番右から、電子マークに翼は、

AT Aviation Electronics Technician

航空機の電気技師ですね。
その左、プロペラに本をあしらったのは

AZ   Aviation Maintenance Administration man

航空機メンテナンスの管理を行う部門です。
その左は本と羽ペンのマークですが、

PS   Personnel Specialist

パーソナルのスペシャリスト、つまり人事記録の管理、報告書の作成、
会計処理の実施に関わる事務および行政業務を行なったり、
レイティングの決定、訓練、昇進、賞、教育機会、および軍人の福利厚生や
人事管理に関する名簿などの刊行物の管理を行う全般的な仕事です。

その横、鍵のようなものがクロスしているのに羽がついているのは

AM Aviation Structural Mechanic

AME - Equipment

航空機の機体を専門とするメカニックがAM、
航空機の装置を専門とするのがAMEというレイティングです。


一番左は、航空マークの下にアスクレピオスの杖があるのでそれだけであれば

HM Hospital Corpsman

なのですが、それに『D』が被せてあるので・・・・ドクター?
でもドクターが水兵の服を着るというのもなんだか変だし。

と思ったら、頭文字Dはデンタル、歯科のDでした。

棚に収納されているのはランドリーバッグ。
クリーニングする衣類はこのようなバッグにまとめられて運ばれてきます。

毎週、1,075以上のランドリーバッグが艦内のあちこちから運び込まれてきます。

 

ベケットという乗組員は1990年ごろここで働いていました。
食住全てに階級差があるのが軍隊ですが、どうも洗濯も士官のものは
特別に行われ、扱われていたようです。

「士官は大抵いいものを着ていたからね。
僕たちの仕事は出来上がった服を仕分けし、パッケージして、
彼らの寝台や居室まで運ぶまでだったよ」

サックス5thアベニューで特別に仕立てた軍服ですねわかります。

水洗いできない制服などは、船の中にも関わらずドライクリーニングができたようです。
ただし毎日ではなく、

士官は 火・木・土、CPOは月・水・金

と決まっていました。

「ブラックバッグ」は多分中身が見えないようなバッグのことだと思うので、
下着などだと思いますが、これは毎日出すことができました。
ブラッグバッグの場合は

受け取り時間 0730−0930

兵による受け取り 0830−0930

航行中 1500−1800

寄港中 1300−1600

兵による受け取りは、持って来なくとも集配してくれるサービスでしょう。
航行中と港に停泊している時で時間が違うのがなぜかはわかりません。

アメリカでコインランドリーの洗濯をしたことがある方は、この形の
小型の洗濯機を使った事があるかと思います。

大抵、上にコインを入れるスロットや引き出し式のコイン投入口があって、
(溝に指定の数のクォーターを並べ、引き出しをがちゃんと押し込むと投入される)
しかるのち、モードを「ホワイト」「カラー」「デリケート」などから選択するのです。

軍艦ではおそらくこの段階で仕分けしてはいないような気がします。
(してたらごめんなさい)

洗濯物の入ったバッグは40パウンド(約18キロ)。
艦内のあらゆるところ、人間が生活し、服の洗濯を必要とする全ての場所から
集まってくる汚れた衣服の集積場であるここは、とにかく暑くて
汗まみれで仕事をしていた、と彼、ラックナーくんは述懐しております。

特にバッグを抱えて階段を上り降りするのは「リアル・ベア」、
我慢できないくらい酷い仕事だったよ、ということです。
艦内のあらゆるところからこのバッグを集めてくるわけですから・・。

ドライヤー、乾燥機の中ではずっと白いシャツがぐるぐる回転していました。
一応確認のために触ってみたのですが、熱はありませんでした(笑)


ちなみに、アメリカの乾燥機は家庭用であっても基本巨大なので、洗濯物が
シワなく仕上がりますが、自宅に帰って乾燥機を使うと、
小さいせいでイマイチアメリカの時のようなパリッとした仕上がりになりません。
優秀な日本の白物家電ですが、乾燥機だけはこの点かなり不満を持っています。

この乾燥機はアメリカのコインランドリーにあるものの二倍くらい大きいです。

”毎日毎日山のような洗濯物にアイロンをかけていたよ。
一日に 4,750パウンド(2.3トン)の洗濯物がドライされてくるんだからね”

 

海軍では洗濯物を一つづつプレスするということになっていました。
しかし、2トン3千キロの洗濯物を全部手でやっているわけにはいきません。

そこで活躍したのが、このプレスマシーンです。
もっとも多いシャツは、ここにセットしてプシュー!とやれば
少なくとも細部以外はプレスすることができます。

ズボンもセットするだけでOK。

まあ、これを使うことそのものが結構重労働に見えますが。

今はシャツのプレス機は立体成型なので、この頃よりは楽になっているはずです。
それにしてもこんな大きなプレス機、事故はなかったのでしょうか。

先日プロ用のへアアイロンを使っていて、ちょっと先っちょを当ててしまい、
おでこを火傷してしまったわたしにすれば、なんだか嫌な予感のする作りです。

いやー、ヘアアイロンってね、ちょっと触っただけで火傷になるんですよ。
「ペチコート作戦」で艦長が上に座っただけでお尻に火傷してましたけど、
あれは絶対にあるあるだな、と今回実感しました。

これは「ランドリー・マングル」という機械です。

マングルなどという単語を初めて知ったわけですが、つまり洗濯ローラーのことです。
「三丁目の夕日」で洗濯機が初めてやってきたとき、横にローラーがあって
これで水を絞っていましたが、あれを英語で「マングル」というんですって。

その「マングル」使用中の写真。

基本大きなシーツやテーブルクロスを乾かすために使われました。
乾燥機よりも手早く水気を取ることができたのだそうです。

熟練のオペレーターならこれでシャツやパンツもプレスしてしまえたとか。

彼はプレス機の係だったデイビス君です。

”一度に三つのプレスを大急ぎでしなければならなかった。
おまけにとんでもなく暑いプロペラのところにそれを持っていかなきゃならない。
プロペラの振動が脚に伝わってきたよ”

かなりのつらい仕事であったようですが、ロバーツ君は

「何人かはここにずっとアサインされていたよ」

と言っています。
ずっとですか・・・それはひどいな。
彼は自分の元の配置に戻ることができるまでの90日間、
残りの日数を毎日毎日「カウントダウン」していたということです。

はあ・・・よっぽど辛かったんですね。

ここは袖章を付けたり外したりつけたり外したり(以下略)する部署です。

ここはランドリーよりちょっとは楽かもしれません。(ちょっとだけな)
艦内のミシン仕事というのは1日にかなりの数あるとは思いますが。

一日中レイティングバッジをつけたり外したり(略)というのも、
単純労働的な意味でかなり辛い仕事なんじゃないでしょうか。

マークをつけるのを待っているシャツなどがいくつも置いてありますが、
毎日やっていたらかなりうんざりしそう。

ニューズウィークの「AT WAR」はもちろん湾岸戦争のことでしょう。

こちら、洋服の手入れ全般をする専用の台がある部屋です。

”船の上で縫い物がどれだけ必要とされているかを知ったら皆驚くと思います。
ユニフォームが破れたに始まって、新しいレイティングバッジをつけたり、
ミッドウェイの旗の修繕なんていうのもありました”

1967年頃勤務していたホッジさんの回想です。

海軍をやめたら洋服屋さんに就職できたかもしれません。

こちら裁縫師。

”艦上の裁縫師というのは、ミッドウェイの中でも歩合で仕事をする
数少ない一人でもあるんだ。
ただしもらったお金は、水兵仲間の福利厚生基金に行くわけだけど”

なぜか自分では使わなかったんですね。
技術職なのに・・・。

”洗濯物は部隊に返されるとき、大きなバッグごと部屋に置かれているんだ。
で、その仕分けは自分たちでやるわけだが、
よくステンシルの名前が消えて読めなかったりするんだこれが(怒)”

二人とも、すげー嫌そうな顔して洗濯物を仕分けてます(笑)

実際の量は決してこんなものではなかったでしょうが、一応どんな感じか理解するために、
バッグが「山のように」(小山?)積んで置いてあります。

 「階下にランドリーバッグを投げ落とさないこと」

「バッグを担いで階段を上り下りするのが一番辛かった」

という先ほどの水兵さんの話を思い出すと、この注意書きに笑ってしまいますね。
逆に何故ダメなのか、とも思いますが、もしかしたら下を歩いていた人に当たって
不幸にも負傷したとかいう事故があったのかもしれません。

 


続く。

 

 



彷徨える日本人の幽霊〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」のランドリーコーナーを見学しました。
まだまだ続く展示を先に進んでいきます。

コード的なものを巻いておくものが壁に設置されています。
こういうどうでもいいようなものも一応撮っておくことにしています。

クリーニングのために0830から1000までは施錠する、
ということがドアに書かれていますが、肝心の

MIDWAY INST

という部門が何かはわかりません。
インスティチュートかな?
今ならインスタグラムもINSTだけど・・・。

おおっ、もしかしたら後ろに積んであるのは札束でしょうか。
乗員のスナイダーさんは

「ペイデイ(給料日)は女房に40ドル送ることになってたよ。
そのお金で彼女は各種支払いをするのさ」

としみじみと語っています。
1962年ごろというと日本ではドルが360円だった頃です。
日本円だと今の14万4千円になりますが、向こうの感覚ではもう少し安かったはず。

しかし、お給料は札束で支給されたんですね。
今でもそうですが、アメリカのお札の最もよく使われる単位は20ドルで、
こちらで購入した50ドルや100ドル札をペラっと出すと、レジの人は
マジックインキの茶色みたいなマーカーで印をつけて、本物かどうか
確かめたりします。

滅多に高額紙幣を見たことがないので、しげしげと眺めて透かす人もいます。
マーカーは、偽札ならペンの跡が残るけど本物なら残らず消えてしまう、
という便利もの。
これを使う時、お店の人はちょっと嬉しそうにします。
レジにいつ100ドル札が来てもいいようにペンを常備してあっても、
滅多に出番がないので、やっと使う日がキター!
という達成感みたいなのがあるのかもしれません。

話が逸れましたが、そういうわけで、電子マネーでない頃には
これがペイデイのありふれた光景であったというわけです。

 

ドアにかかっているバッグ、さっきもどこかで見たなあ、と思ったら、
士官用食堂の料金徴収ブースの中でした。

個人用でなく、仕事で何か(お金?)を運ぶためのバッグだと思われます。

この階段を登ってしまうとまたハンガーデッキに戻ってしまいます。
階段の下に謎の穴が空いていますが、ハッチを開けた時のハンドルが当たらないように?

売店でタバコとか歯ブラシを購入している乗員。

「艦内の売店ではなんでも買えたよ。
上は150ドルのロレックスから、下は15セントの歯磨き粉まで」

H .カーマイケル(もしかしてホーギー・カーマイケル?)さんは
このように言っておられます。

1962年なのでこれも日本円にすると・・・ロレックスが5万4千円?

物価指数で計算し直してもこれ今の10万8千円にしかならないんですが、
ロレックスってこんな安い時計でしたっけ?

不思議に思って調べてみると、アメリカが自国時計産業保護を行っていた時期、
ロレックス社はケースやムーブメント部品を輸出し、
組み立て工場を設立して、北米で生産をしていたことがあるそうです。

つまりセカンドラインなら10万円でロレックスが買えたということみたいですね。
ひょんなことからどうでもいいことを知ってしまった(笑)

あるいはロレックスは軍人割引?対象だったかもしれません。
ダグラスさんの思い出によると、

「マルボロ一箱がたった10セントだったよ!」

ということですから。
これも換算してみると当時の36円、現在の価格だと360円ですが、
日米の物価の違いがあるので今の180円って感じかな(適当)

今JTの価格表を見てきたのですが、タバコって400円もするんですね。

さて、シャワー室にやってきました。
オフィサーズ・アイランドの一角なので士官用だと思われます。
ドアの外に洗濯バッグやガウンをかけて今使用中。

なんと、ここにやってくると「ジャー」という水音と、
シャワーを浴びながら誰かが鼻歌を歌っているのが聞こえてきます。

セントラルヒーティングも完備のシャワールーム。
ただし時間は1分半で済ませてね。

1分半だと一曲歌い終える前に時間になってしまいますが。

洗面セットを持ち込んでいる人もあり。
歯磨き粉はアメリカでおなじみのコルゲートです。

洗面台に大理石柄のデコラボードを貼ってあるあたりが士官用って感じ。

ちなみにシャワーのお湯はアメリカ海軍では真水です。
海水を真水にする担当の係、というのがいて、彼らは自分たちの仕事に
大変な自信と誇りを持っていたそうです。

それだけ昔はすごい技術とされていたのでしょうか。

ただし、シャワーのお湯はなんとなくヌルヌルしていて、石鹸も落ちにくく、
その日によって微妙に成分も違うという感じだったそうです。

まるで海水そのもののようなしょっぱい日があるかと思えば、
なぜかジェット燃料JP-5の匂いがすることもあるなど、安定していませんでした。

そしてお湯の温度も全く一定でなく、真冬の日本海を航行する時には冷水、
時として熱湯が出てくるときもあって、なかなか大変だったそうです。

冷水の方が気合いを入れればなんとかなるだけマシで、熱湯の場合は
一瞬ボタンを押して霧のような熱湯を何度かに分けて浴び、
此れを以てシャワーとする、みたいな体の洗い方をせねばなりません。

こんな時にはシャワー室のあちらこちらから悲鳴が聞こえてきます。
とても鼻歌など歌っている場合ではありません。

兵たちは、悲鳴が聞こえてくると腰にタオルを巻いたまま、
別の、状態のマシなシャワーを求めて艦内をうろうろすることになります。

よそのコンパートメントでも、マシなお湯が出るという情報が広まると、
あっという間にそこに行列ができることになるのです。

今の空母は原子力ですからおそらくこんな悲劇はないでしょう。
たとえあったとしても、普通に女性軍人が同居している艦内で、
タオル一枚で歩き回ることはもはや不可能です。

トイレットだったと思います。

床は全体的に緑のタイル張り。

階段の下を覗いてみると、そこは兵員用の居住区の様子が少し見えます。
ロッカーから洗濯物をランドリーバッグに詰め終わったらしい人がいます。

その向こうに脚だけ見えている人がいますが、影を見る限り
このマネキンは「下半身だけ」の可能性があります。

なかなかのイケメン青年、ローズボロ君が上半身裸で荷物の搬送の真っ最中。

「UNREPは全く面白くない仕事だったよ。
洋上での再補給をこなすと背中が痛むほどだった。
何時間も、作業終了まで箱が次々とやってくるんだ」

UNREP(underway replenishment)

は進行中の洋上で燃料や軍需品、日用品などを船から船へ移動させる作業です。

洋上補給=アンダーウェイってことでOK?

キャプテンズ・コール・ボックス。

つまり艦長に何かを直訴するための目安箱というわけです。
船という運命共同体を住処とする海軍では、こと船の安全については
意見具申を末端から上に上げることのできる組織と言えます。

いじめや各種ハラスメントについての訴えもあったかもしれません。

ここにも補給でクレートを積み込んでいる写真がありました。

「我々が積み込まなくてはいけないクレートっていうのは本当に
大きくておまけに重いものばかりだったんだ。
チームワークで皆協力して運ばなければいけない。

再補給に11時間かかるっていう”最高記録もあったよ」

あの、その11時間の間に食事くらいはもちろん取れたんでしょうね?

こちら、補給部門のオフィスの様子です。
職場が・・・・狭いです。

「補給オーダーはトイレットペーパーからテレタイプのテープまで、
ありとあらゆるものが毎日机の上を行き来していたよ」

J.リンカーン

映画「ペチコート作戦」劇中、実話として、ある潜水艦の艦長が、
補給部門に見本付きで送ったトイレットペーパーの要請を無視され、

「諸君は本品の代理に何を使えというのか」

と気色ばんで補給処に手紙を送ったことが紹介されていましたっけね。
トイレットペーパー・・・人間の尊厳を守るためにも必要です(笑)

高圧電流が流れている「何か」。

この出入り口の上をみてください。

STARBOARD OPEN

POET LINE OPEN

という二つの電光掲示があり、右側の『スターボード』が点灯しています。
右舷と左舷を意味するわけですが、これが何かというと、

「チャウ・ライン」

すなわち食事を待つ列に並ぶ許可を表しています。
空母は巨大な都市なので、特に給料日は郵便局や食事の列が混雑し、
長蛇の列となってしまいます。

そこで、左舷、右舷に居住区がある人員を分けて、
「今並んでいいのは左舷側の乗員」として混雑緩和をしたのです。

そんな状態ですから、食事にはゆっくり時間をかけることは許されません。
ほんの数分で空腹を満たすと、すぐに彼らは次にテーブルを譲り、
仕事へと帰っていくのです。

アメリカ海軍に限らず、自衛隊でも一度経験すれば「早寝早食い」は
もう身についてしまうと言いますよね。

 

ところで冒頭写真をみてください。

床にあるハッチを開けて作業をする場合には、ご覧のようなネット状のガードを置いて、
間違って人が落っこちてしまうことを防ぎました。

これが置いてあっても上を歩かないでね、と書いてあります。

それから、ハッチを開けておくことによって、

「中に人がいる」

ということを知らせることにもなりました。
ここでわたしたち日本人には非常に興味深い話をしましょう。


「ミッドウェイ」が横須賀勤務だったころ、床にハッチのある通路付近に

日本人の幽霊が出る

という乗員たちの噂が

「ミッドウェイ」が日本に来てしばらく立った頃、塗装の工事で
乗艦してきた日本人が、普段あまり人の出入りがない場所で作業をしていたところ、
中に人がいると思わなかった乗員がハッチを閉めてしまったのだそうです。

何日も経ってからその日本人は死体で発見されました。

その後、出航のたびにそのハッチ付近から声が聞こえたり、
いるはずのない日本人の姿を見たという証言が相次いだのだそうです。

((((;゚Д゚)))))))

「空調中なので閉めてください」

と書かれた青いドアは

「フライング・ミシップマン・クラス」(飛行士官候補生)

が何かやっている途中なので入室禁止、とあります。 

ところで、艦内にあったこの注意書きを見て日本人のわたしとしては
思わず立ち止まってしみじみと眺めてしまいました。

そして「ロナルド・レーガン」を見学した時、彼女はちょうど補修中でしたが、
甲板で作業をしている工事関係者のほとんどが日本の会社からの派遣で、
日本人だったのを思い出しました。

 

ハッチに閉じ込められて幽霊になってしまった日本人の事故などを経て、
「ミッドウェイ」では、注意書きに日本語併記をするようになったのでしょう。

(-人-)ナムー

 

 

続く。

 

 

 

兵器庫とサス・ケージ〜空母「ミッドウェイ」博物館

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ここ空母「ミッドウェイ」のメインデッキ見学が続いています。
この階に展示されているクルーと士官のメスつまり食堂など、
施設を見学して一巡してくると、だいたい30分かかって
元のところに戻ってくるようになっています。

この案内図を見ると、設備は全て艦尾側にあったことがわかります。
赤丸のツァー開始地点には兵員用のメス、艦体の中央部分にギャレーがあり、
艦尾まで行って帰ってくるとまたギャレー部分が現れるというわけです。

艦尾のある位置に来ると、階下に機械室が広がっているのが見えました。
ここは上から見学するだけで見学は許されていません。

眼下には

AFT EMERGENCY DIESEL GENERATOR
(艦尾 非常用ディーゼル発電機)

が見えていました。

発電機など電気関係の機器がある階で、関係者しか立ち入りを許されていません。

続いて赤いドアのある部屋の小窓越しにやりとりしている警衛あり。
ドアには大きな「W」の文字、ここは

SHP'S ARMORY (艦内兵器庫)

で、小型の武器、たとえばピストル、ライフル、ショットガン、手榴弾、
煙火を発する火器一式などがここで管理されていました。

gunners mate(砲手)が沿岸をパトロールする際に使用する、
あるいはセレモニーで使用するための武器です。

ドアの「W」はWeaponの意味があったんですね。

武器庫内部の写真。
「マガジン」と言います。

マガジンはこの階ではなくこの階下にありました。

小さな武器を受け渡しする窓口の前部には金網のドアが敷設されています。
当時からあったのか展示を保護する意味で作ったのかはわかりません。

小さく開けた窓口越しにピストルを受け取っているのは、袖に
錨が交差したボースンズメートのレイティングを付けた乗員。

ちなみに、このレイティングのウィキが大変面白いのであげておきます。

List of United States Navy ratings

ビルダーは指矩、料理のスペシャリストは本の上に鍵(秘密のレシピ?)
音楽隊は竪琴、ヨーマンは羽ペン、インテリアコミニュケーションは
地球儀の上に電話(今でもそうなのかしら)。

アメリカらしいなと思うのが「レリジョン・プログラム・スペシャリスト」。
これは文字通り宗教の行事に関わる部門の専門家のこと。

行政と予算関係で従軍牧師の補助を手がけるのが主な仕事で、
宗教関係文書を保管し、地域機関や聖職者との関係調整を行います。

礼拝や宗教教育、ボランティアプログラムを企画し、ライブラリ、
牧師のオフィスを監督し、行政事務や秘書業務を行います。

また宗教的なプログラムによる訓練を通して宗教活動を行うという、
従軍牧師とは別に属する組織なのです。

宗教が人心の支えになっている欧米ならではですね。

武器(その他器具、腕章含む)などは「 Officer Of the Deck」、
OODと呼ばれる士官、あるいは下士官兵であるジュニアOODが受け取ります。

またマリーン・デタッチメント(MARDET)という部門は
こことは別に武器庫を持っていて、独自に管理していました。

武器庫の右手にはエレベーターがあります。

これは階下にある武器庫に武器類を出し入れするために作られたものです。
確かに武器を持って階段を上り下りするわけにはいかないですが、
そのためだけにわざわざエレベーターを作ってしまうんですね。

エレベーターシャフト越しに下の階をのぞいてみました。
武器を扱う人が着る赤いシャツの乗員が、弾薬の整備をしているのが見えます。

ケージは下の階にあり、今武器を上に運んで来るという設定です。

この写真の右下の写真が、このエレベーターがハンガーデッキに到達したところです。

なぜエレベーターでわざわざ下から持ってこないといけないかというと、
空母の武器類はできるだけ船底の、船殻に近いところのマガジンに収納するからです。
ここにあるような武器運搬専用のエレベーターシャフトは魚雷や爆雷などを
マガジンからここセカンドデッキにあるメスデッキエリアまで運ばれます。

低い階にエレベーターがあるという意味は、4階下にあるマガジンと
直接的に連結できるということです。

セカンドデッキからハンガーデッキには別の武器エレベーターが開通しています。

こうやって分けることによって万が一運搬中にが爆発した場合、
ダメージを最小に止めることを目的としています。

要するに、最初に武器の収納ありきで軍艦というのは設計されており、
これがため、少々おかしなことも起こります。

 

皆さんもお気づきかと思いますが、この武器受け取りのエレベーターは、
見学通路の途中、すなわちギャレーの動線にありまして、つまり
爆弾専用のエレベーターが食堂のど真ん中にあることになるのです。

わたしも最初この配置には首を傾げずにはいられませんでしたが、
爆弾の艦底での収納場所からエレベーターの位置はここしかない、
ということでそういうことになったのでしょう。

万が一、実際に爆弾を実戦で扱うような事態になったときには、
誰もご飯を食べている場合ではありませんので、同じ場所でも不都合はないのです。

 

ただ、普通に「ミッドウェイ」では訓練も行うわけで、訓練中には
数千人の乗員のうち誰かが食堂でご飯を食べているわけです。

というわけでその人たちは、食事中、馬鹿でかい爆弾が
食堂を突っ切っていくというシュールな光景を目にすることになりました。

 

冒頭の写真の入り口のような施設を「サス・ケージ」と言います。

「サス」が何をサスのか、これは日本語の本で読んだのでわからないのですが、
このサス・ケージ、艦内にはここ以外にももう一箇所ほど存在しているそうです。

ご覧のようにワンウェイミラーになっていて向こうからは見えても
こちらから中を見ることはできないようになっています。

ケージの中にいるのは海兵隊員で、窓の前に座っていつでも見張りをしており、
前に誰かが立つだけですかさず対応してくる仕組み。

このマジックミラー越しに入室許可証を出してきた関係者だけが
中にはいることができ、大変厳格でした。

初めて「ミッドウェイ」に乗ったものは、大抵
このサス・ケージの真っ黒な窓の向こうに何があるかがどうしても気になって、
つい顔を窓にくっつけて中を覗こうとします。
すると、中にいる海兵隊員が

「こらあっ!すぐそこをどけえ!」

と大声で怒鳴ってくるのです。

なまじ食堂への通路にあったりするので、好奇心に駆られる水兵は後を絶たず、
1日になんども前に立って顔を押し付けてくる間抜けヅラを怒鳴りつける
海兵隊員も、いい加減うんざりしていたことと思われます。

 

 

ところで、かつて「ミッドウェイ」の下士官だった「ミッドウェイ」の著者
J. スミス氏が初めてサンディエゴの「ミッドウェイ」を見学したとき、この部分は
艦内ツァーの対象にもなっておらず、パンフにも乗っていなかったようです。

おそらく、このような人形もその頃はなかったのに違いありません。
スミス氏が「ミッドウェイ」を訪れたのは、彼女が博物館としてオープンした
2004年のことで、もう14年も前のことなので、無理もありません。

この本が書かれた時に著者がインタビューした博物館のマーケティングディレクター、
スコット・マックガウ氏は、

「ミッドウェイの博物館への変身は最長10年かけて行う予定である」

と言っており、そのころの「ミッドウェイ」は博物館というより
ほとんど現役時代の空母そのままを展示しているようなものだったとか。

(それはそれで意味があるのでは、という気もしますが)

 

ついでに「ミッドウェイ」の博物館化までの話をしておくと、
サンディエゴ市が日本での任務を終え、1992年に退役していた
「ミッドウェイ」を博物館にする計画を起こしたのは、1996年のことです。

1997年に除籍になった「ミッドウェイ」はその後オークランドでドック入りして
2003年にサンディエゴに回航され、次の年にはもう博物館として公開されています。

最初は一般公開している場所も非常に限定的であったそうですが、
ディレクターのいうように、10年をめどに展示を整備していき、
甲板の航空機や映像コーナー、そしてあちこちの「ミッドウェイ」人形など
充実を図ってきた結果が、現在の展示艦「ミッドウェイ」の姿です。


現在「ミッドウェイ」が係留されている桟橋は、もともと海軍の所有でしたが、
オープンの3年前に、急に海軍が権利を放棄する決定をしたので、
複数の連邦機関が桟橋の所有権を欲しがって動き出したと言うことがあり、
それは博物館「ミッドウェイ」オープンへの最大の難関でした。

マックガウ氏ら関係者はワシントン詣でをして嘆願を行い、
桟橋の所有権はサンディエゴ市の港湾局に渡って一件落着したそうです。

しかし、その間博物館への寄付金を募ることができず、大変だったとか。

「ミッドウェイ」の運営と、次の大きな問題だった環境に対する税金は
全て寄付金で賄いました。

また、環境問題の他にも、「ミッドウェイ」係留によって海岸線の景観が損なわれる、
という理由で博物館を許可しない、と言う事を言ってきた州政府組織もありました。

このことが公聴会で図られることになった時、なんとしてでも
「ミッドウェイ」博物館をオープンさせたい人々は作戦を練りました。

公聴会がテレビで放映されることになったので、推進派はサポーターを集め、
このプロジェクトが多くの市民のサポートを得ている事を強調しようとしたのですが、
公聴会では発言のあと拍手をすることが許されていません。

そこで、500人のサポーターには小さな国旗が配られました。
賛成発言が終わるたび、声を出さず、全員で一斉に旗を振ると言う作戦です。


このような努力が実を結び、全会一致で「ミッドウェイ」博物館のプロジェクトを
推進する許可を得ることができたということです。


こういった事をマックガウ氏からインタビューで聞いたあと、
かつて下士官としてここに勤務し、やっぱり好奇心に駆られて小窓を覗き込み、
海兵隊員に怒鳴りつけられたスミス氏は、ここぞと

「特殊兵器格納室を見せてください」

と頼んでみたそうですが、

「まだ照明と消火設備が整っていないので消防署によって現場は封印されている」

ということで、あっさりと断られたということです。

ちなみに特殊兵器庫をガードしている海兵隊員はM-16を手にしていて、
海軍軍人だったスミス氏からみても「とても怖かった」とか・・・。


それから14年経った今も、「ミッドウェイ」の特殊兵器庫はまだ公開されていません。



続く。



 

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