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ブートキャンプとスチールビーチ・パーティ〜空母「ミッドウェイ」博物館

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Enlist、という単語はそのまま訳すと

「軍隊などに進んで入隊する」

という意味があります。

enlisted manとは〔男性の〕下士官兵のことで、省略形はEM。

enlisted personnel
enlisted soldiers

という言い方も同じく下士官兵のことです。

それでは女性はどうなるかというと

enlisted woman

階級的には将校(commissioned officer)の一つ下、
准尉(warrant officer)のひとつ下までを言います。

ここからは、その下士官兵の制服が展示されています。

まず、この制服はレイティングではなく赤十字を付けています。
医療関係であることが一目見てわかるようになっています。


首からボースンズ・パイプ(サイドパイプ)を吊り、胸ポケットに入れています。
ボースンズパイプとは、日本語では号笛といい、マイクを通してお知らせの前に
その内容を告知する意味で使われたり、舷門では艦長や艦隊司令など、
「偉い人」が乗るときに吹鳴する笛のことです。

それからこの制服を見て初めて気がついたのですが、米海軍のセーラー服の
袖カフスのライン、横に長〜〜〜い「日」の形をしています。

わたしの出た中学はセーラー服だったわけですが、ラインは端まで伸びていました。

日本は帝国海軍の時代から袖にカフスがなく、したがってラインもありません。
現在の海自の海士の制服も昔と同じです。

左はどちらも1864年当時ですから、南北戦争時代の水兵服です。
アメリカ史では北軍・南軍という用語の代わりに、この時代のアメリカ合衆国を
特にユニオン(Union)、その軍隊をユニオン軍といいます。

「Petti Officer Union Navy」

は北軍の海軍下士官、ということになります。

そして右側のSeaman(水兵)は"Confederate Navy”。

これはアメリカ連合国海軍、南部連合軍の海軍という意味です。

当然ですが、南北に分かれていたため軍服は二種類あるわけです。


右側の額の二人は1905年、日露戦争当時の下士官兵で。
左はCPO (上等兵曹)、右は Coxswain(舵手)です。

どちらも第二次世界大戦の頃のユニフォームで、
真ん中の人は喇叭手(Bugler)です。

なぜか冬服と夏服の水兵さんが一緒にいる光景。
なぜか張り切って指を立てる下士官。(人差し指ですので念のため)

左袖二の腕部分に付いているラインは「年功章」といい、
一本につき3年勤め上げたことを表します。

これを「フル・ドレス」または「パレード・ユニフォーム」と言います。
ブルーの「ジャンパートップ」、ズボンのボタンは13個。
セーラー服のタイと靴は黒。

映画「ペチコート作戦」でボタンが13個のわけ(建国時の州の数が13)
についてわざわざ言及するシーンがありましたね。

そしてこのパンケーキのような帽子を「ホワイトハット」と言います。

メダルの類は左のスラッシュポケットに縫い付け、
リボンなどが付いたものは公式の場に着用しました。

このアフリカ系のシーマンはまだ勤続3年以上5年以下です。

彼は航空徽章を付けていて、レイティングも「エアー・クルー・マン」です。

オペレーター、メカニック、ナビゲーションに提出するレーダーでの探査、
電子機器での操作などを行っている部署の水兵さんです。

このユニフォームを「サービスドレス」「ホワイトユニフォーム」と言い、
検査と航海中の穏やかな天気の時に着用しました。
軽量の「ダッククロス」(キャンバス地)でできていて、熱帯地域でも
快適に過ごすことができる工夫がされていました。

これもメダルをリボン付きに変えることで、フォーマル仕様になります。

素材が「ダンガリーシャツ」なので「ダンガリー・ワークウェア」。

この作業用の軽いシャンブレーのシャツは長袖、半袖とあり、
下にはダークブルーのズボン(ジーンズに見えますが違います)。

このスタイルは作業中灰色か白の艦体から見分けやすい色となっています。
ブルーの野球帽には必ず艦名が入り、白い帽子とはデッキの天気で
使い分けられました。(軍人は傘をささないのでこの選択は重要です)

これに黒のベルト、作業靴、(ブーツ)を合わせると完璧な水兵スタイルです。

我が日本国自衛隊でも作業服は日常着にしては鮮やかなブルーを採用していますが、
一にも二にもこれは艦上で見分けられる事を目的としています。

「 BOOTCAMP LOCKER INSPECTION」

海上での生活環境というのは、狭さとの戦いです。(多分)

1970年ごろ、CPO以下の下士官兵は一つのロッカーに
全ての個人携帯物を収納しなくてはなりませんでした。

もちろん今でも似たようなものだと思います。

このロッカーはその一例ですが、全ての水兵たちにとって、
自分の持ち物を収納する空間を見つけることはちょっとしたチャレンジでした。
物を持たなければいいんですが、勤務上どうしても持っていないとならない、
必要最低限のものを直すにも、大変な苦労だったのです。

一応はよく考えられていて、海の男として勤務に必要な最低限の荷物は
きちんと治るように設計されていました。

そして、これが一人の水兵の荷物全て。

新兵教育(Boot Camp)の一つに、荷物の整理の仕方、というのもあります。
ご覧のグッズは、彼らがどのように衣類などを収納したか、私物をどのように
検査されていたかということを見本で示しています。

これを叩き込むことで、新兵は

「フネの上で暮らすとは、狭さとの戦いであり、それをどう克服するか」

の初歩段階を知ると言われます。

これだけしか荷物が持てないのに、洋服ブラシ、靴墨に靴ブラシは一人1セット。
洋の東西を問わず、海軍というのが身だしなみにいかにうるさかったかの証でしょう。

自衛隊ではどうか知りませんが、アメリカ海軍のおしゃれな若者は、
艦が港に入るとそれこそ目一杯着飾って上陸するのだそうです。

もっとも、わたしは「着飾っているアメリカ人の男」というのをこれまで
あまりというかほとんど見たことがありません。

どこに行っても、夏はTシャツに半ズボン、ベースボールキャップにサンダルという
基本のセットに若干のバリエーション(タンクトップに運動靴とか)があるのみです。

ですから、この「着飾る」の意味がわからないのですが、艦隊勤務の場合、
乗員は起きているときは作業服、寝ているときは下着というアイテムの繰り返しなので、
普通のアメリカ人よりはフラストレーションが溜まるのに違いありません。

というわけで、彼ら基準で言うところのおしゃれな若者は、ネックレスをつけたり、
指輪をはめたり、香水を振ったりしてめかしこんで上陸するのです。

 

寄港している時には上陸という楽しみがありますが、出航して長期の航海に出ると、
海軍では乗組員たちのために時々は気晴らしを企画します。

艦上での慰問コンサートだったり、映画スターの慰問だったり
(ミッドウェイには一度ブルック・シールズがヘリで飛来したことがあるらしい)

「スチールビーチ・ピクニック」(鉄のビーチでのピクニック)

と呼ばれるフライトデッキでのパーティだったりするのです。

このスチールビーチ・ピクニックは、必ず出航して45日目に行われる、
ということが決まっており、大抵は一回だけで済むのですが、
一度、「ミッドウェイ」がどこの港にも入らず、111日間、
航海を続けた時には、二回行われたということです。

スチールビーチ・ピクニックは、艦載機を全て艦首に集めて、
中央から艦尾にかけての部分を「ビーチ」ということにし、
特設ステージを用意してバンド演奏(おそらく皆乗員)が行われ、
乗員たちはあちこちで歌ったりビールを飲んだり、あるいは
その辺に用意されているビニールプールに入って本当に「海水浴」をします。

一階下のハンガーベイではその間ボクシング大会やバレーボール大会が行われ、
勝者にはちゃんとトロフィーも用意されます。

そしてメインはやっぱりバーベキュー。

アメリカ人のピクニックはバーベキューがなくては始まりません。
ということは、「ミッドウェイ」にはバーベキューセットが
一つならず搭載されていたということでもあります。

グリルはデッキ最後尾に用意されて、ハンバーガーやホットドッグ
の具を次々と焼いていきます。
(アメリカ人のいうバーベキューとはハンバーガーとホットドッグのこと)

こんな時だからビールも飲み放題かと思ったらとんでもない。

一応アメリカ海軍は「艦内での酒禁止」を公的には謳っているいるので、
スチールビーチでしか出てこないビールも、一人二本だけと決まっています。

乗員には前もって二枚のビール券が渡され、それ以上飲めないのですが、
そこはそれ、名前が書いてあるわけではないので闇の取引が行われ、
ビールを飲めない者も高値で売る目的でビール券を購入するというわけ。
(せこい)

甲板では冷え冷えのビールなど望むべくもないのですが、それでも
若い連中はそんな生ぬるいビールを最高で20ドル出して
闇取引で購入していたということです。

ちなみに、スチールビーチ・パーティは問答無用の全員参加。

なぜならその日は艦内の食堂は全て閉鎖、
お腹が空いたらフライトデッキでバーベキューを食べる他ないからです。

この日ばかりは、艦長もこわーい副長も、水兵と同じ場所で
同じハンバーガーやホットドッグにかぶりつくというわけです。

 

続く。

 

 

 

 


映画「深く静かに潜航せよ」前編

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潜水艦映画について多くを語りながら、
今まで取り上げる機会を逸してきたのですが、最近何かと
潜水艦づいていることもあり、気合いを入れて今回この名作、

「Run Silent, Run Deep」(深く静かに潜航せよ)

に取り組んでみることにしました。

 

この映画が昔から潜水艦の戦闘映画として高く評価されているのは、
原作者の

エドワード・ビーチ少佐(Edward Latimer Beach Jr.)

が大戦中に「トリガー」「ティランテ」「パイパー」など
実際に潜水艦に乗り組んでいた人物だったと言う理由が大きいでしょう。

 

映画は1942年の豊後水道から始まります。

この「豊後水道」が、この映画では親の仇のように何度も出てくる
キーワードとなっているのですが、アメリカンの発音ではなぜか

「ボンゴ・ストレート」

となります。

映画冒頭、クラーク・ゲーブル扮するリチャーソン中佐が指揮する潜水艦は
日本の輸送船団の護衛に当たっていた

「豊後ピート」

とあだ名されるおそるべき駆逐艦「アキカゼ」と対峙しました。

これまで3隻ものアメリカ軍潜水艦を撃沈している「アキカゼ」艦長は
目の前をうろうろしている潜望鏡をあっさりと見つけて叫びます。

「潜望鏡、潜望鏡、水中爆弾投下」

こういう場合の命令としてこれが正しいのかと言われると多分違うと思うのですが、
まあ、俳優が日本人であるらしいだけましというものです。

この日系俳優はどこにも名前がクレジットされていません。

戦闘による名誉の負傷のつもりか、この「豊後ピート」艦長、
筋肉少女帯の大槻ケンジさんのようなメイクを目元にしております。

それに答えて横の乗員が

「スイチュウパクダン、ジュンピセヨ」

残念、こちらは「日本語でおk」な人でした。

船団に向かって魚雷を二発放ち、さてー、どうなってるかな?
と潜望鏡を除いたリチャードソン艦長が見たのは、なんと
こちらにまっすぐ向かってくる駆逐艦の姿でした。

慌てて潜航を命じる艦長ですが、轟音とともに・・・・

潜水艦はバラバラに。

映画開始からわずか2分半で帝国海軍との勝負はついてしまいました。

一年後、真珠湾基地。
リチャードソン中佐は、陸に上がって鬱々と臥薪嘗胆の、つまり
暇に任せて復讐のための図演をやって時間を潰す日々を過ごしていました。

図演には彼に心酔しているヨーマンのミューラーが付き合ってくれます。

「やった!これで200連勝です!負けたのは一回だけです」

「でもその一回は机の上じゃなかったしな」

「・・・・・・」

ついつい僻みっぽい愚痴を言ってしまうリチャードソン。
部下に気を遣わせてんじゃねーよリチャードソン。


ミューラーから、「アキカゼ」に撃沈された潜水艦がまた一隻増えた、
というニュースを聞き、心穏やかではないリチャードソン、
いきなり模型を机から叩き落とします。(おいおい)


そして、戦闘で負傷した艦長が艦を降りる潜水艦「ナーカ」(Nerka、ヒメマス )
の入港の噂を聞くや、何が何でもその艦長になったる!と一人で決心するのでした。

 

「ナーカ」が入港してきました。
この映画で「ナーカ」に扮したのは、「レッドフィッシュ」SS-395です。

「レッドフィッシュ」は戦争中、

「ぱとぱは丸」タンカー「第二小倉丸」「瑞穂丸」

「鳳山丸」空母「雲龍」

を撃沈、多くの船を撃破しています。
朝鮮戦争にも参加し、この映画のすぐ後に退役して標的艦となりました。

これまで副長だったブレッドソー大尉(バート・ランカスター)が艦長になるというので、
「ナーカ」の乗員はお祝いのジャケットをプレゼント。

ブレッドソーも大喜びでそれを受け取って皆ではしゃいでいると・・・

いきなり仏頂面の偉い人が乗り込んできました。
こういう人は大抵悪い知らせを持ってくるものです。

「これはなんだ」

「グッドラック・トークン(お守り)ですよ。
戦闘配置につく前にお尻を触ってやるんですよ」

にこりともせず、

「面白い」(interesting)

 

あれ?人事の大佐、今から戦闘配置なの?

案の定、偉い人のお知らせは、「ナーカ」の次期艦長はブレッドソーではなく
リチャードソンに決まったというものでした。

「彼は第7海域に詳しい。
ホットスポットの第7海域にはアキカゼがいて、4隻撃沈された。
参謀本部は彼に仇を討たせたいのだ」

「わたしではダメなんですか!」

「いやー、リチャードソンがかなり頑強にねじ込んできてねー」

というわけで怒り心頭のブレッドソー、自宅を急襲です。
そんな彼に向かって、リチャードソン、呑気に

「防虫剤のスプレーとって?」

「お断りします!」

要するに彼は、艦長だと思っていたのに今更副長なんてできねえ!
部下の手前もあるしいっそ艦から降ろしてほしい、
ということを言いにきたのでした。

「君の気持ちもわかるが、これも上からの命令でね」

「命令じゃないでしょう。あなたが彼らのところに行ったんだ。
かわいそうな(sad)人事の司令官のところに」

「とにかく君の申し出は断る。これはわたしからの命令だ」

「うっ・・・・」

おまけに、

「主人をお願いね」(ニコニコ)

命令に加えて奥さんにこんなことを言われたら、
ジェントルマンの軍人としてはいやでも

「お任せください」

って言わざるを得ませんわ。

憤懣やるかたないブレッドソー副長の思惑を乗せたまま「ナーカ」号は出航。

乗組員はどの水域に出陣することになるか、賭けを始めます。

「僕は7」

「なにいいいい?」

誕生日が7日だからという理由で「7」に賭けたジェシーくん、
皆に縁起でもない、アホタレが!と突っ込まれて涙目。

ところで、彼の後ろの魚雷発射管の蓋には日本の国旗のペイントがありますね。
実際に「レッドフィッシュ」はここから、日本の船を攻撃していたのです。

そして艦長がいよいよどの海域に出撃するかを告知する時がきました。

「当艦の進路を第7海域に向ける」

「うっわ・・・・最悪」

 

問題の豊後水道は避ける、とする言葉に皆は一応安堵しますが、
ヨーマンのミューラーは驚いて手を止めます。

艦長、「アキカゼ」に復讐するんじゃなかったのか。

「ナーカ」は訓練を行いながら豊後水道を避けて第7海域に進みます。

その訓練とは、深度50フィートで魚雷発射できるよう、
潜行と同時に潜望鏡をあげ、艦が平行になると同時に射つというものでした。

訓練は執拗に繰り返され、何回やっても満足しない艦長の

「ダイブ!ダイブ!」

が何度も艦内に響き、そのうち士官の中には疑問を持つ者も現れます。

「どうして豊後水道を避けるのにこんな訓練をする必要がある?」

さらに、初めて遭遇した日本の潜水艦に対峙せず、これを見逃す艦長に、
兵の心にも不満が芽生えていきます。

「これは出撃じゃない。”模擬出撃”だ」

「艦長は敵が怖いんだな」

士官室でも新艦長の評判は散々です。

「彼の慎重さに感謝しなきゃな。石橋を叩いてまだ渡らない」

「ドリルマスター(訓練の達人)の艦長に乾杯!」

そんな士官をなだめるブレッドソー副長も皆から孤立していくようでした。

 

そんなある日訓練で事故発生。
甲板にゴミ捨てに出た人を置いたまま、「ダイブダイブ」をやっちゃったのです。

「危うく死者が出るところだった。訓練の責任は君にある」

艦長は副長のブレッドソーを頭ごなしに叱りつけ、カチンときた彼は、

「いくら訓練をしても艦長が攻撃する気がないなら無駄です」

と言い返してしまいます。

しかしついに艦長が戦闘命令を下す時がやってきました。
大型タンカーを護衛する駆逐艦「モモ」に遭遇したのです。

「モモ」って、もしかしたら「雑木林」と言われた「松型」の4番艦「桃」のことかな?

「桃」は実在しましたが、1944年からだだーっと作られた駆逐艦なので、
1943年という設定のこの頃にはもちろんまだ存在していません。

なぜ「モモ」にしたかについては、わたしは

「アメリカ人にとって発音しやすかったから」

の一点だと思っています。
「アキカゼ」も全員が発音に苦労してるんですものー。

タンカーをやられて初めて「ナーカ」に気がつく駆逐艦「桃」の見張り。
そんなことで護衛艦が務まるか!

右側の士官はその報告を受け、

「〇〇舵いっぱい、なんとかなんとか」

と言いますが、残念ながらこの人の日本語も全く聞き取れません。

戦闘態勢になって甲板を走ってくる「桃」の乗員ですが、こんな時に全員が
第一種軍装を着込んでいるのはおかしいと思います。

それから、水兵さんたちが全員長髪なのでアウト。

向きを変えてこちらに直進してくる駆逐艦「桃」。

臆病な艦長のことだから多分潜航して逃げるだろうと皆が思っていたら、
正面から駆逐艦を迎え撃ち、潜行して艦隊が平行になった途端、魚雷発射!

そう、つまり訓練はこのためにやっていたのです。

「アキカゼ」との対決では、正面からくる「アキカゼ」から逃げたのが敗因だったので、
艦長はそれを克服すべく訓練を繰り返したのでした。

 

現金なもので、乗員たちは

「艦長はわかってる!」

と手のひらぐるんぐるんに返して褒め称え始めました。

「正面から突っ込んでくる駆逐艦を見て震えたが、艦長は落ち着いたもんさ。
顔色一つ変えず魚雷発射を命じてた!」

 

しかし、士官には懐疑的な者もいました。

「潜水艦を無視して駆逐艦には全力で・・・・
あれはなんかの実験なんじゃないでしょうか」

いや、実際そうなんですけどね。
リチャードソン艦長の目的は、「アキカゼへの復讐」一点なのですから。

次にリチャードソン艦長が輸送船団を見逃した時、ついにブレッドソーはキレました。
艦長の命令した航路を自分で割り出すと、行き先はまぎれもない豊後水道。

「豊後水道に行くつもりですか?」

「そこにアキカゼがいるからな」

「行かないと言っていたのに?」

「命令はその状況に応じて変わる」

いやー・・・これは艦長としてアウトじゃね?
最初っから豊後水道にいくつもりしていたのに、皆に隠していたわけだから。

「あなたは魚雷温存のために潜水艦を見逃し、艦首攻撃のために船を危険にさらした」

「我々は艦首攻撃でモモを沈めた。またやれる」

「相手はアキカゼです。艦首攻撃はアドバンテージなんかじゃない。
失敗したら軍法会議ですよ」

「失敗などせん」

「人の命がかかっているのに何を言い切ってるんですか」

もはや、リチャードソンは「ナーカ」を「アキカゼ」への復讐のために
恣意的に利用しようとしているとしか思えません。

ていうか実際にそうなんですけどね。

やはりキレた士官連中はブレッドソーに謀反をそそのかしますが、
漢の彼はそれをきっぱりと断ります。

艦長の意見には絶対反対ですが、海軍の男として
彼の矜持がそれだけは許さないのでした。

「艦長の腰巾着」と言われて士官と喧嘩したミューラーが、
艦長にその一部始終を報告しています。

「大尉は謀反をはねつけましたよ」

「そうだろうな」

「なあミューラー、俺も馬鹿者かな」

「は?」

「副長はそう思っている」

「本当にアキカゼをやれば誰も文句はないでしょう。
我々は前にアキカゼにやられた時とは違う」

「そう思っていいかな」

「豊後ピートの葬式を出してやりましょう」

 

潜水艦長として、復讐を任務より優先させるリチャードソン艦長。
彼に賛同してくれるのはミューラーだけというこの孤独な状況で、
宿敵「アキカゼ」と戦うことはできるのでしょうか。
 

続く。


映画「深く静かに潜航せよ」中編 

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映画「深く静かに潜航せよ」中編です。

今回冒頭に載せるゲーブルの絵を真面目モードで描いてしまい、
3カットこのタッチで描くのはキツいので、シリーズを2回で終わらせることにして
内容のペース配分を早めてしまったのですが、前編がアップされた後、
「続」編を楽しみにしています、という現役の自衛官からメールをいただき、
現役の声に弱いわたしとしては、もう少し細かく進めてみようかなという気になりました。

というわけで、今回は前、中、後編に分けることにして、
前回、「ナーカ」の艦長になるはずだった副長のブレッドソーに
艦長はごり押ししてきたリチャードソンに決まった、ということを告げにきた
人事の大佐その他について、ちょっと補足しておきます。

仏頂面でいつの間にかみんなの輪の外にいた大佐、
挨拶もそこそこに

「ギャレーにミルクはあるか」

「粉ミルクですが」

「構わん」

そしてギャレーでブレッドソーが粉ミルクを調合するのを待つ間、

「サブマリン・・・・肝臓を壊された。歳を感じてゾッとするよ」

などと軽口を叩き、

「君は潜水艦が好きか」

ブレッドソーが

「わたしは任務を志願したんです。もちろんです」

という言葉を聞きながらミルクを受け取り、一息で飲み干してしまいます。

 

実は今わたしは、行きつけのクリニックで体組織検査の結果勧められた
水溶ビタミンを朝晩摂取しているのですが、あまりにまずいので、
小さなコップに水溶液、横にチェイサーを置いて、一気に水溶液を飲み、
息をしないまま急いでチェイサーで匂いを洗い流す、という技を開発しました。

この大佐がミルクを飲む様子がまさにそれ。

ミルクが好きだから飲んでいるのではなく、肝臓を壊して医者に言われ、
仕方なく1日に三杯のミルクを飲むことを課せられた人みたいな飲み方です。

ちょうどミルクの時間にブレッドソーに引導を渡す仕事をすることになったので、
この際潜水艦の粉ミルクでもいいや、とばかりにこれを所望したと思われます。

潜水艦勤務というのがいかに大変であるかを「身を以て知った」軍人、
ということが深読みすればわかる、なかなか印象的なシーンだったのですが、
冒頭の自衛官もここが

「この映画の”ツボ”だった」

と書いておられました。
何か思い当たる節がおありなんでしょうか(笑)

 

それから、作者のエドワード・L・ビーチは呉の潜訓に来た事があったとか。

実際に潜水艦に乗って日本軍と命の取り合いをしていた人なので、
その著書では日本人ディスりが激しい傾向にあるらしいのですが、
実際に日本に来て潜水艦施設を見るくらいですから、個人的な恩讐はなかったのでしょう。

たとえあったとしても、日本に来た後はそれも無くなっていたと信じたいですね。

もう一つ、映画について細かく突っ込んでおくと、陸に上がったリチャードソンと
ヨーマンのミューラー(ジャック・ウォーデンという名優)が
図演を行うシーン、テーブルの上にはご覧のように模型があります。

この模型は、ミューラーが

「施設のあっちこっちから盗んで来た」

図演用模型という設定ですが、模型に詳しい人に言わせると、
これは明らかにどれも

「レベル」Revell

というアメリカの模型会社の製品で、しかも50年台半ばに発売されたもの。
このうちUSS「ミズーリ」の模型でそれが顕著にわかるそうです。

 

そして、この脚本には大変な「穴」があることを知ってしまいました。

冒頭、豊後水道でリチャードソンの乗っていた潜水艦が「アキカゼ」にやられて
乗員は海に投げ出されます。

艦長のリチャードソンも、ヨーマンのミューラーも生き残ったということは、
このあと彼らは救助されて真珠湾まで帰還したということなのですが、
悲しいことに、1942年当時、まだ米国の艦船はこの区域に入って来ておらず、
したがってこの海域で艦を破壊され海上を漂流することになったが最後、
彼らは自動的に日本軍の捕虜になっていたはずだ、というものです。

いわばこの話の大前提なので、この決定的な矛盾は辛いものがありますね。

原作者のビーチ前川は軍人だったので潜水艦の操作運用については正確ですが、
残念ながら実際の歴史との整合性にはあまり拘らなかったようです。

 

さて、前回の続きと参りましょう。

かつての仲間を葬った宿敵「アキカゼ」に復讐するという、
ある意味軍人としてはあるまじき、私怨を晴らすという下心を持って
「ナーカ」の艦長に無理やり就任したリチャードソン中佐は、
打倒駆逐艦に特化した訓練を行い、これで駆逐艦「モモ」を倒します。

艦長の姿勢に士官連中は反発し、ついに造反の計画まで囁かれるに至りますが、
「ナーカ」は艦長命令により粛々と、「アキカゼ」のいる豊後水道に航路を向けるのでした。

海上航走の際の見張りはこうやって行います。
双眼鏡を見ながら肘が支えられる仕組みなんですね。

さて、その豊後水道で、「ナーカ」は日本の船団を発見しました。

「先導の船からやりますか」

尋ねる部下に艦長は

「あれは平底船だから(シャロー・ドラフトなデコイ)十発撃っても下を通過する」

とベテランらしい冷静な意見を。
こういう記述がいかにもサブマリナーだった作者らしいと思わされます。

この船団を護衛するのは艦長が遭遇を焦がれていた豊後ピート、駆逐艦「アキカゼ」でした。
どうして潜望鏡から見ただけで「アキカゼ」と特定できるのかはわかりませんが。

それをいうなら前回も遭遇するなり駆逐艦「桃」だ!と言っていましたが、
海上で見ただけでは艦種はともかく普通艦名までわからないんじゃ・・・。

 

それはともかく、艦長はまず船団の輸送船を攻撃することにし、
スピードがある「アキカゼ」は訓練通り正面から魚雷を撃つことにしました。

まず二本の魚雷で輸送船を攻撃。

いくら駆逐艦でもそのスピードはないわー、という信じられない速さでやってくる
我らが「アキカゼ」。
いくら速いと言っても、艦尾が完璧に浸水してるのはやりすぎと思うがどうか。

そして「アキカゼ」は「ナーカ」が照準をするより早く撃って来ます。

おまけにそのとき、空からも零戦隊が掩護にやって来て爆雷を落としてきました。
てかこれアメリカ映画には珍しく本当に零戦じゃね?

ギリギリまで「アキカゼ」を仕留めるにブリッジで頑張っていた艦長ですが、
航空機の攻撃があまりにも熾烈になったため、初めて潜航を命じました。

魚雷がこちらに向かってくるのを確認するや、隔壁の閉鎖を各所に命じます。

たちまち各区画の間にあるハッチがしめられていきます。
どこかに破損があって、そこが浸水しても被害を最小に食い止めるためです。

深く静かに潜航して、敵の攻撃をただ当たらないように祈りながら待つ、
潜水艦映画おなじみのシーンです。

この映画は、戦後に作られた潜水艦映画の名作中の名作と讃えられていて、
のちのいくつかの潜水艦映画にもこの映画へのオマージュや応用が見られるそうですが、
敵の攻撃を息を潜めて待つシーンについてはこれがオリジナルではありません。

この映画の影響は、「レッド・クリムゾン・タイド」「U-boat」などに顕著らしいので、
そのうち何かの機会に検証してみたいと思います。

一発目の魚雷は艦体を逸れて通過していきました。

ソナーマンが上に駆逐艦が停止したことを察知します。
「アキカゼ」が「ナーカ」の位置を特定したのです。

そして爆雷は雨あられのように撒かれはじめました。

そして、ついに・・・・・。

「ナーカ」の魚雷発射室に命中し、損害を与えました。

魚雷のスクリューが勝手に周り出したりしたとおもったら、
ハッチの鎹が損傷し、水漏れがしてきました。

ちなみにここにアフリカ系の水兵がいますが、1943年当時、潜水艦では
黒人は兵員食堂のコックか給仕としてしか乗り込むことはできなかったはずです。

よせばいいのに、魚雷発射室と連絡がつかないからと、わざわざ被害を見に行った
リチャードソン艦長、三発の爆雷が爆発した衝撃で床に転倒し、頭を打ってしまいます。

思ったのですが、どうせ見にいっても何の役にも立たないのだから、
艦長は本分を守って司令タワーから動かない方が良かったのではないでしょうか。

そして、乗員同士で賭けをしたとき、

「アンラッキー7」

に賭けて悪夢の第7海域を引き当て、掛け金を一人勝ちした若い水兵、
ジェシー君には惨劇が待ち受けていました。

爆発の衝撃で、留め金が外れ、そのショックでスクリューがぐるぐる回っていた
魚雷がラックから落下し、床に転倒していた彼を直撃したのです。
いやー、このシーン酷すぎて思わず声が出ちゃったよ。

艦長はジェシーの近くで倒れていたので直撃は受けませんでしたが負傷し、
ジェシー君を含む3人が犠牲になりました。

(-人-)ナムー

そして、トドメをさすまで諦めそうにない「アキカゼ」に対し、
これも潜水艦映画でおなじみの「死んだふり作戦」、つまり魚雷発射孔から
沈没したと見せかけるためにものを排出する作戦が取られることになりました。

「オイルを流出させ、毛布やギア、あらゆるものを射出しよう」

そこでリチャードソン、艦長として非情の命令を下します。

「さっき亡くなった者の死体を発射しろ」

潜水艦が偽装のために艦内のものを魚雷発射管から射出する、というと、
こんなシリアスな展開の時になんですが、1959年作品「ペチコート作戦」を思い出します。

日本の潜水艦ではないことを証明するために、アメリカ人女性の下着を射出する、
というこの時のクライマックスは、2年前に公開された本作のパロディだったのでしょうか。

だとしたらかなり不謹慎な気もしますが。

一瞬息を飲み、続いて「イエス・サー」と返事をするブレッドソー副長。

若い水兵の遺体をチューブに入れる時、彼らの表情にはえも言われぬ
苦衷と諦めの色が浮かぶのでした。

そして、遺体が射出されていく発射管の覗き穴を直視できないミューラー・・・。

あれ?この人ヨーマン(下士書記官)なのに何で魚雷発射室で仕事してるの?

魚雷チューブの独特の揺れと音を、潜望鏡の周りでただ黙って聴く艦長以下乗員。
今射出されているのはさっきまで一緒に戦っていた乗員なのです。

射出後、「アキカゼ」がこれに騙されてくれるか・・・・。

海上には射出された諸々が浮かび上がりました。
それを発見した「アキカゼ」の乗員、

「ヤッタ、ヤッタ、チンボツダ!」

だから日本語でおkっていってるだろ!(怒)

 

ところで、このシーンにおける「アキカゼ」艦長(中佐)の襟章、
なぜか金線が4本の土台に桜がついていますが、

こちらが本物ですので念のため。

潜水艦が沈没したと判断した艦長は、流暢な日本語で

「最大戦速、護送船に復帰せよ」

と命令、日本語でおkな部下が電話を取り上げて復唱する前に場面は切り替わります。
(きっと復唱できなかったんだと思う)

「スクリューの音が小さくなりました」

助かった!と皆でホッとするのですが、その時彼らは
「アキカゼ」が発する不気味な通信音を耳にするのでした。(伏線)

というわけで最大の危機は去ったわけですが、ここでリチャードソン艦長、
懲りもせず、わざわざ「どうだ」と一言聴くために魚雷発射室まで出かけて行き、
そこで先ほどの負傷が祟って昏倒してしまいました。

だから艦長は司令塔で大人しくしていろとあれほど(略)

この時、魚雷発射室にやってきたリチャードソンが辛そうにしているのに
誰も気づかず、しかも倒れ込んだときも後ろの異変に御構い無しに
皆ぞろぞろと発射室(しかもまだここは修理が必要)を出ていってしまい、
艦長を支えるのがミューラーただ一人、というのが何やら切ない。


つまり艦長、乗員に基本相手にされてない(あるいは避けられてる)ってことでおk?

 

続く。

 

 

映画「深く静かに潜航せよ」〜宿敵秋風撃破

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映画「深く静かに潜航せよ」三日目です。

最初2編で終わるはずが三日に分けざるを得なくなり、
ヒーヒー言いながら三作目の絵を仕上げてエントリ製作したら、
なんと字数オーバーで4回連載にすることを余儀なくされました。

というわけで、まるで締め切りが迫った漫画家のように、
掲載時間に間に合うように絵を製作したのですが、これがね・・・。

こんな時に限って、ソフトの画面が突然落ちるんですよ。
これまで絵をほとんど仕上げた状態でソフトがクラッシュして呆然としたことは
はっきり言ってなんどもあり、そのために少し書いては保存して、
というのを習慣にしていたつもりですが、今日はたまたま保存なしで進んでいて
見事クラッシュ、というのを三回繰り返しました。

後になるほど保存は進んでいるのでダメージは少なかったのですが、
ロゴを入れた直後、一瞬にして消えてしまった時にはもう泣こうかと思いましたよ。

というわけで、本日のタイトルは、コニングタワーで指揮をとる
クラーク・ゲーブルとバート・ランカスターの二人のショットです。

あとで説明しますが、この時には副長の謀反が成立したあとなので、
艦長がランカスター、ゲーブルは元艦長、という立場です。


さて、前回、わざわざ魚雷発射室まで被害を見にいって転倒し、
戦闘終了後、昏睡に陥ったリチャードソン艦長。

目覚めると兵員のバンクに寝かされており、ミューラーと軍医が見守っていました。
兵たちは艦長が倒れたというのに部屋を出ていってしまったようです。

昏睡の原因は転倒の際に後頭部を打ったことで、おそらくは脳震盪というより
脳挫傷らしく、軍医は

「下手すると永遠に昏睡することになる」

とおどかすのですが、艦長はそれを誰にもいうな、と押しとどめます。

っていうかさー、くどいようだけど、戦闘中にわざわざ艦長が
魚雷発射室などに行かなければこんなことになってないよね?


実はそう思ったのはわたしだけではなく、これを演じるクラーク・ゲーブル本人も、
このメインプロットに強い拒否を示し、撮影を実際にボイコットしているのです。

つまり、こんなトンマな理由で(とはどこにも書いてませんが多分)負傷し、
潜水艦の指揮をバート・ランカスターに取って代わられる、という筋書きに対し、

「わたしがこれまでMGMで築き上げてきた20年の名声にそぐわない」

とゲーブルはきっぱりと言い切ったのでした。

このとき、クラーク・ゲーブル57歳、バート・ランカスター45歳。
いずれも中佐と大尉を演じるには歳をとりすぎていたことは確かですが、
この時ランカスターがよせばいいのにゲーブルの歳を揶揄するという事件があり、
ゲーブルはこれですっかりへそを曲げてしまったと言われています。

共演の少し前、『OK牧場の決闘」でワイアット・アープを演じてノリに乗っていた
ランカスターに対し、全盛期を過ぎていた自分の衰えを感じて
軽口が許せなかったということなのかもしれません。知らんけど。


結局どう説得されたのかはわかりませんが、ゲーブルは2日間のストライキののち、
プロットを受け入れてスタジオに復帰するという騒ぎになりました。

さて、そんな訳ありの二人の絡みです。

重賞を隠してリチャードソン艦長はブレッドソー副長を呼びつけ、
二週間で修理を完了したら豊後水道に戻ると宣言します。

まだやる気なのか艦長。

「人命を弄ぶのはもう終わりにしましょう。限界を超えてます」
(We're through playing with lives. It's the end of the line. )

と真っ当なことをいう副長に対し、

「魚雷の事故は百に一つだから今度は大丈夫だ!」

いやー、ゲーブルがこの役を嫌がったわけがよくわかりますわ。
この艦長、全くだめだもん。
戦闘指揮官たるものが、なんの根拠もなく「今度は大丈夫」とは。

案の定副長に、

「どうしてもそうしたいなら泳ぐか救命ボートで行けば?
私たちは艦で帰りますから」

とか冷たく言われちゃうし。
しかもそれに対し、

「その言葉は高くつくぞ。考え直した方がいい。
ちょっとでもこの艦を動かしたら君は絞首刑だぞ!」

とまるで映画のチンケな悪役のようなセリフで副長を脅す艦長。

いやー、ゲーブルがなぜこの役を嫌がったか(略)

おまけにこんなことまで言われちゃうし。

「それなら一緒に絞首刑になりましょうや。
あなたの作戦行動が命令違反なのは明白だ」

そして、有無を言わせず航海長を呼び、「ナーカ」は真珠湾に戻ること、
そしてこれからの指揮は自分が執ることを宣言しました。

「♪グッバーイボンゴ(豊後)、ハローパール(真珠湾)」

乗員たちは皆大喜びですが、そのうちの一人が不機嫌に、

「42年からこっち5回哨戒に出たが、十五発の魚雷と一緒に真珠湾に帰るのは初めてだ」

そう、リチャードソン艦長が、真珠湾に戻ると宣言する副長に対し、

「潜水艦が無傷で母港にもどるのか」

と詰ったように、戦争しに来たのに戦わずして帰還するのを良しとしない者もいます。
はしゃいでいたみんなは、これを聞いて恥ずかしげにしゅんとしてしまいました。

そこに士官カートライトがやってきて、艦長のことを

「どうせならもっと早く倒れてりゃよかったのに」

と揶揄したため、彼を天敵とみなすミューラーは彼を殴りつけます。

早速「自称新艦長」ブレッドソーが飛んできて

「俺に優しく扱ってもらえると思ったら大間違いだぞ!」

こちら、新艦長が皆の前で士官を叱りつけたことで最悪の雰囲気の士官室。
ラジオからは

「It's been a long long time」

というスタンダードナンバーが流れていますが、おっと残念、この曲が発表されたのは
1945年のことで43年という設定のこの頃には存在していません。

それはともかく曲に乗せておなじみ東京ローズの放送が始まるのですが、

「この世にいないナーカの皆さんにお悔やみを」

といいつつ、艦長以下兵員の名前までをずらずらと読み上げ始めます。
え?なんで兵の名前まで知ってるの?

豊後水道で捨てたゴミを拾われていたことを突き止めたブレッドソー、
なぜかピコーン!とあることを決心し、リチャードソンに

「豊後水道に戻ります」

日本軍が拾ったゴミからこちらの動向を特定していたのであれば
その情報を逆手に取って戦えると判断したのでした。

この理屈も実はよくわからないんですが、どなたかわかる方説明お願いします。

「君はいずれにせよ撤退などしないと思っていたよ。軍人ならな」

「グッドラック、ジム」

わかりやすく豊後水道に向かうことを表すためにUターン。

ちなみにこの時、水平線には明らかに大型の艦影が見えていますが、
これは米海軍の空母(もちろん1968年当時の)であるといわれています。

戦いに戻ることと、艦の指揮をとることを改めてブレッドソーが宣言すると、
乗員はどうぞどうぞ、と新艦長にお守りをタッチさせてあげます。

ああやっぱり彼が艦長になると皆嬉しいんだ。
同じ命令をしても、受け入れられる人と反発される人がいるという・・・・(涙)

これはやっぱりゲーブルにとっては面白くない脚本だったと思われます。

そして豊後水道に戻った「ナーカ」は船団と護衛の「アキカゼ」についに遭遇しました。

作戦は輸送艦を攻撃し「アキカゼ」を引き寄せて、近づいたら艦首を狙う、
というリチャードソン艦長が立てたそのままです。


ところでこのシーン、あまりに不思議なので何回もリピートしてしまいました。
「ナーカ」の艦体が鋭角に浮上しているのにも関わらず、潜望鏡は
海面に対して90度の角度をキープしたままなのです。

潜水艦の潜望鏡がこんな動き方をするのも不思議だし、万が一それができたとしても
浮上の時にそんなことをするものだろうか、と疑問です。

「ナーカ」の放った魚雷に輸送船を撃沈され、見張りの水兵が

「〇〇ノセンビ、アカリアカリ」

と全く意味不明の報告をすると、「豊後ピート」艦長、(小説によるとこの艦長は
ナカメ・タテオという名前らしい)またもや

「取舵一杯、水中爆弾準備せよ」

 というか、いつも命令が水中爆弾準備せよだけなんですけど、
よくよく聞くとなんかこの人の日本語も少し怪しい。

魚雷を受けた輸送船の横をこちらにやってくる「アキカゼ」。
艦橋のてっぺんに大きな探照灯をくっつけて主砲はどう見てもMk12、5インチ砲。
うーん、どう見てもこれは日本の駆逐艦には見えませんがな。

それどころかマストもないし、ギアリング型でもなければフレッチャー型でもない・・・。

「ナーカ」の艦橋からは、「アキカゼ」のコースに合わせ、進路を決定、
いよいよ正面衝突です。
甲板まで浸水した位置で直進してくる「アキカゼ」に魚雷を打ち込むのです。

「艦を水平にしろ」(Rig out bow planes.)

「1500ヤード接近で魚雷発射」(Commence firing at 1,500.)

魚雷を放った次の瞬間、艦橋から降りて潜航です。
そして・・・・、

正面から放った二本の魚雷が「アキカゼ」を艦首から爆破しました。
リチャードソン艦長の作戦通りに、ついに宿敵「アキカゼ」を沈めたのです。

寝ながら首だけ起こしてアナウンスに聞き入っていたリチャードソン、
「アキカゼ」撃沈に湧く艦内の声に、安堵の表情を浮かべるのでした。


ところで、リチャードソンが昏睡状態の時に、彼がベッドで幻聴のようになんども聞く

「What is it, Sir?」

「I can't make that out.」

 「これはなんですか?」「私にはわかりません」という会話の意味が全くわかりません。
何か過去の任務で起こったことを思い出しているようなのですが・・・。

これも原作を読めば理解できるのでしょうか。





続く。

映画「深く静かに潜航せよ」〜伊潜との対決

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この映画が潜水艦映画の名作であるという評価は決して大げさではありません。
要らない要素を一切廃して、ただ復讐に燃える男とそれに共鳴する男が
潜水艦という極限の兵器での限界に挑むその姿を、リアリティに裏打ちされた
戦闘描写で骨太に描いている「本気の戦争映画」だとわたしも思います。

そして、さらにその映画に深みを与えているのが、宿敵である「アキカゼ」や
「ナーカ」と戦う日本の潜水艦の緊張までを丁寧に描写していることです。

というわけで、最終日の冒頭イラストには、この潜水艦の艦長を描きました。

日本人役の俳優は誰もクレジットされていないのですが、調べまくったところ、
この俳優が

TERU SHIMADA(島田テル)

という名前であることを突き止めました。
「007は二度死ぬ」にも出演していた人ですね。

セリフを聞く限り、この人は日本語が母語であったらしいことがわかります。

「アキカゼ」の艦長役も日本語で育った人だと思いますが、こちらは
とうとう名前すらわかりませんでした。

てか、ちらっとしか出てこないアメリカ人は全員クレジットされていて、
日本人の名前が全くないってどういうことよ(怒)


その時、潜航中の「ナーカ」にまた再びあの音が聞こえてきました。
沈没を装って「アキカゼ」から逃れた直後に聞こえてきた、通信音です。

それを聞くなり、瀕死のはずのリチャードソンはベッドから起き上がり、
急速潜行を命じるのですが、その時・・・・、

近くで「ナーカ」を狙っていた帝国海軍の潜水艦がありました。

艦長「××××」

通信員「フタフタマル」

艦長「射程」

通信員「距離イチゴーマルマル」

この映画の評価できる点は、敵の潜水艦や駆逐艦を描くのにも、
余計な印象操作をせず、むしろリスペクトを感じさせる描き方を
して見せてくれるところだと思います。

この潜水艦内のカットなんか、日本の潜水艦映画もお手本にして欲しいくらい。

そう、この人口密集度ですよ。
日本の潜水艦映画って、時々だだっ広いところにポツンと
潜望鏡があるみたいなセットだったりするのよね。
この点、わたしが評価するのは「人間魚雷出撃す」だったりします。

ただしこの艦長、「撃てーい」と実に普通というかお気楽モードで号令し、
係は復唱もせず、これまた至極あっさりと魚雷レバーを引きます。

おそらくこれが正しいかと言われると多分違うと思うのですがどうでしょうか。

で、この艦長がかっこいいんです。
最後にちょっと出てくるだけなのに、思わず冒頭画像に描いちゃったよ。

謎のピーピー音を聴いたリチャードソンは寝床から起き上がり、日本の潜水艦がいることを告げます。
艦の指揮を取られて寝てるだけではわしのプライドが許さん!というか、
ベテランの知恵袋ってやつを披露したかったのだと思われます。

ということはこのピー音、伊潜のピンガーかなんか?(適当)

いきなり伊潜が平常心のまま放った魚雷は、危ういところで「ナーカ」の艦体を逸れ、
両者は互いに無音潜航しながら異常接近し、ギリギリをこのようにすれ違います。

これ、大きい方が「ナーカ」でしょうか。

「聞こえました」

「うん、機関停止」

しかし、よく見ると通信員の帽子も艦長の階級章も全く違う。
特に帽子に錨のマークには肝心の桜がありません。

この頃はインターネットもないし、正確な資料に基づいて
軍服をちゃんと検証して作るということが難しかったのだと思われます。

そしてまたもや潜水艦映画おなじみの行き詰まる心理戦が始まりました。

両者ともに機関停止して、無音での「にらめっこ」です。

ちなみに冒頭画像はその時の一シーンなのですが、艦内の深度計が
「ナーカ」の深度計と同じ118を指しています。

しかし、当時は(今もそうですが)日本の計器はメートル法表記だったはずなので、
日米が同じところを指しているというのはおかしいと思います。

「ナーカ」で使っているアメリカ製の深度計に、
「塩水」「深さ」と日本語で書きたしただけに見えますが、どうでしょうか。


しかしいくら潜水艦でも、機関停止したまま深度を維持するのは無理です(よね)。
いずれは必ず動かさないといけませんが、このように睨み合いになってしまったら
先に動いた方が負けなのでは・・・・・

ナーカでもこんなセリフが密かに囁かれます。

「彼らが先に動いてくれることを期待しましょう」

かたや伊潜では・・・

「早くエンジンをかけなれば潜航てわかてきます」

ちょっと意味わかんないんですけど、それに答えて艦長が

「敵潜航艇の方が早くエンジンを発動するのを祈る方がなんとか」

あのね、どうでもいいけどこれだけ聞き取るのに何回聞き直したと思う?
島田テルさんだけは比較的日本語を日本語として聞こえるような発音をしてるんですが、
それでもヒソヒソ声になると何言ってるか全くわかんないのよ。

はい、ここで緊張に耐える両潜水艦の様子を並べてどうぞ。
うっかり咳をした人を皆ものすごい勢いで睨んだりしてもう最高です。

この間、しょうもないBGMは全くなく、本当に無音なのも
映画の手法として高く評価できます。

と こ ろ  が (笑)

ここでいきなりリチャードソンが、

「相手潜水艦の最後の方位がわかっているなら、浮上させて海面で戦う」

そしてまだ海上にいるはずのさっきの日本の船団をそこで2隻ほど沈めろ、
と言い出します。

いきなりエンジン始動した「ナーカ」の気配に気づいた伊潜の艦内では、

艦長「フゴー!」

乗員「フゴー!」

だからフゴーってなんだよフゴーって。
それをいうなら浮上だよ。(怒る気力なし)

ここでついに島田テルさんですら日本語でおkな人だったとバレてしまったのでした。
ほかのアメリカ映画と同様、日本人から見るとこの映画、この点が画竜点睛を欠き、
作品そのものに対する評価がだいぶ低くなってしまうんですよね。

大変残念なことですが。

それはよろしい。よくないけど。
「ナーカ」はあっさりと浮上し、都合よく現場海域に浮かんでいた輸送船に魚雷発射!

なぜか先般護衛艦がやられたのに1ミリも動かずそこにじっとしていた輸送船団は、
あっさりと魚雷の餌食になってしまいました。

そこに「ナーカ」を追いかけて浮上してきた件の潜水艦。

「あそこにいるぞ!」

この時英語では

「There he is.」

と潜水艦を男性の代名詞で呼んでいます。
船は女性扱いというのが常識ですが、潜水艦ってもしかして男性形だったの?

その『彼』の艦橋では・・・

「あそこにおる! 全速力!」

「ゼンソクロク!」

・・・だから『あそこにおる』はないでしょうってば。
もう少しそれらしい何時何分に潜水艦発見、とかなんとか、
かっこいい台詞をお願いしますよ・・・ほんとにもう。


潜水艦は「ナーカ」を追いかけてフゴーじゃなくて浮上してきて、
海面の船団を守るのかと思ったら、前半で艦長が「船底の浅いデコイ船」と言っていた
船の後ろに隠れようとします。(あのセリフは伏線だったのか)

日本の潜水艦ともあろうものが自国の船を盾にして隠れたりするかね、
という微かな不快感が日本人の感覚としては沸き起こるのを正直否めません。

普通に撃てば船の下を魚雷が通過して、後ろに隠れている潜水艦に当たるよね?

ってことで、ブレッドソーは誰が命令してもヒット確実の魚雷発射の命令を
ふらふらのリチャードソンにやらせ、最後に華を持たせてあげることにしました。

いいやつだなあ。

「5番魚雷発射!」(Fire five.)

「6番魚雷発射!」( Fire Six.)

船の下を通過して向かってくる魚雷を発見した艦橋では

艦長「取舵一杯、緊急最大速力!」

乗員「取舵一杯、緊急最大ソロク!」(りょ、って外人には難しいのね)

しかし時すでにお寿司。
潜水艦は魚雷を回避することはできず、「アキカゼ」轟沈です。

そして、リチャードソンが最後の命令を下します。

「クリア・ザ・デッキ・・・・・・」(潜航)

これが艦長としてだけでなく彼の人生最後の言葉にもなりました。

魚雷発射室で転んで頭を打ったのが原因で、お亡くなりになったのです。

危険海域を脱し、真珠湾に帰投する「ナーカ」の甲板で
P .J. リチャードソン艦長の海軍葬が行われることになりました。

「亡き戦友の魂を万能の神に その肉体を海に委ねます。
願わくば永遠の命に生まれ変わらんことを。
海がその死者を次の世に送り出されんことを」

∠( ̄^ ̄) ∠( ̄^ ̄) ∠( ̄^ ̄)

 

リチャードソン艦長のこの映画における描かれ方については、
最後の最後まで正直海軍軍人としてどーよ、と言わざるを得ません。

潜水艦艦長として指揮を執りながら壮絶に死ぬというラストシーンは、
それまでの失態を文字通り水に流すためなのかとすら思えます。

 

ただし、この映画が彼を英雄的軍人としてではなく、怨讐に突き動かされる
弱い一人の人間として描くことを最初から意図していたのなら、
これは単なる戦争映画ではなく、複雑な陰影を持つ人間ドラマでもある、
ということになり、また評価も変わってくるのかもしれません。

それならば、そういう人間を演じることもまた俳優としての本懐であるはずですが、
クラーク・ゲーブルという人はおそらく戦争映画というカテゴライズにおける、
「良い軍人、ダメな軍人」の二択で言う所の後者としかリチャードソンを捉えられず、
スタアとしての彼の美意識がどうしてもその軍人像を受け入れなかったのでしょう。


説得されて結局現場に戻った彼が、どこまで自分の美学と折り合いをつけたのか。


ゲーブルが59歳という若さで亡くなったのは本作品出演の僅か3年後のことでした。

 


終わり



 

CPO「俺たちがスタンダード」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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何回調べても、アメリカ海軍の階級、特に下士官のそれは複雑で覚えにくいものです。
特にEnlisted Personnel の下士官(Non-Commissioned Officers )の中だけで、下から

OR-4 三等兵曹

OR-5 二等兵曹

OR-6 一等兵曹

OR-7 上等兵曹

OR-8 上級上等兵曹

OR-9 最先任上等上級兵曹

          部隊等最先任上等曹

    艦隊・司令部最先任上等兵曹

OR-9 海軍最先任上等兵曹

と6段階にこれだけの階級があるわけですから、階級を聞いただけで
どの地位にあるのかなどとはピンとこないのが当たり前でしょう。

上級兵曹の上に「シニア」をつけて上等上級兵曹とかいうのもわかりにくいです。
指揮体系と給与体系の関係でこういうランクづけをしているのでしょうが。

 


存在感のあるこの洗濯板はCMCという立場のチーフです。
東洋系ですが、名前が「KEETCH」。

キーチ・・・・・・喜一?

とにかくこの喜一さんは

「ミッドウェイ」のCMC(コマンド・マスター・チーフ)。

CMCというポジションは、ベトナム戦争時代から運用されています。
給与体系でいうとE-9、下士官の最高なので、名称はこれに「ペティ・オフィサー」が付きます。

日本語だと、

「部隊等最上級兵曹長」(Command master chief petty officer)


役割を一言でいうと「艦長の特別なアシスタント」であり、具体的には
クルーのモラルとか勤務状態をモニタリングして統制し報告をあげたり、また、
艦上での生活全般のクォリティを向上させるために広聴を実施する役目です。

「ミッドウェイ」のCMCは特に、航海中の水兵の家族をアシストし、
心配がないように頻繁な配慮を行うことを留意していたという話があります。


 CMCには立派なオフィスがありますが、勤務中の彼は艦内をくまなく周り、
必要とあれば乗員と話をするなどして、彼らの状態を把握すると同時に
対処していたので、彼が実際にオフィスにいることはあまりなかったかもしれません。

それでは上記ランキングの中でCMCはどこに所属するのでしょうか?

OR-9(NATOランク)の海軍最先任上等兵曹のことは

「Master Chief Petty Officer Of The Navy」

といい、これが一番近い気がするのですが、それではこの
MCPON(マクポン?)とCMCではどちらが偉いんでしょうか。

ついでに記述しておくと、下士官の最高ランク、E-9にはCMCの他に

最上級兵曹長(Master chief petty officer) 艦隊/司令部最上級兵曹長(Fleet/Force master chief petty officer) 海軍最上級兵曹長(Master chief petty officer of the Navy) などの役職があります。  
ところで、海軍というところは士官に向かって話す時には語尾に
「サー」を付けますが、この「サー」を間違ってチーフやマスターチーフに
使ってしまったらえらいことになるといわれています。   「サーだとお?バカにするなあ! 俺は将校じゃねえぞ!」   と怒鳴りつけられること間違いなし、なんだそうです。
つまり下士官というのは「士官ではない」ということを誇りにしているのか、
それとも叩き上げ特有の「エリートコース」に対する反発なのか知りませんが、
士官に対するような扱いをされることを嫌がる傾向にあるらしいんですね。   一般に「チーフ」と称する人種は敬礼をされても怒るというくらいで、
どうもアメリカ海軍では敬礼される対象は”士官だけ”というのが常識である模様。

今回は「ミッドウェイ」のCPOカントリーを見学したのですが、そのエリアに
こんなカリカチュアがあったのでご紹介しておきます。

左の陸軍軍人が

「チーフは少尉になれるのに、少尉はチーフになれないってちょっと変だと思うんだ」

右のお魚模様のコーヒーカップを持ったCPOが

「俺らが基準だから」

どういうことかというと、海軍では「チーフ」と呼ばれるチーフウォラントオフィサー、
そしてやはり「チーフ」であるCPOには絶大な権限を持たされていて、それは
ペーペーの少尉がそれでも彼らより軍隊の階級が上とはとても信じられない、
と言いたくなるほどだということなんだと思います。

どこの軍隊でも(もちろん自衛隊でも)士官学校を出た士官は、どんな若造でも
洗濯板のような功労賞を腕に付けた下士官より階級だけは上です。

しかし持たされている権限も責任も、勿論海軍の飯を食った年数などははるかに
下士官のチーフは上、ということで、ついこのような疑問を抱きたくもなるのでしょう。

そして下士官たちは、自分たちが基準であり、士官の階級というのは
おまけか表面だけのこと、少なくとも初級士官なんぞ階級バッジだけの
取るに足らない存在、と考えているということに他なりません。

たぶんですけど。

武器庫エレベーターを過ぎると「空母の歴史」コーナーがありました。
「未来の空母」として「ジェラルド・フォード」が紹介されています。

CVN-78 「ジェラルド・R・フォード」は去年の 2017年7月22日 就役し、
現在はノーフォーク海軍基地で慣熟訓練中だそうです。
「ジェラルド・R・フォード」級で予定されている2番艦は
今年進水式が予定されているCVN-79「 ジョン・F・ケネディ」。
就役は2020年予定です。

3番艦は今年起工が予定されているCVN-80 「エンタープライズ」。
またエンタープライズか、と思うわけですが、フォード、ケネディときて
なぜいきなり人名でなくなるのかちょっと不思議ですね。

ネタ切れかな。

ここに制限区域の始まりがありました。
怖い顔をした警衛のおじさんが睨みを利かせています。
そしてここにも横須賀時代の名残り、日本語での警告が・・・。

「制限区域につき立ち入り禁止

許可された者のみ立入可
許可無き者の立ち入りについては即刻厳罰に処せられます」

怖い。奈良東大寺の仁王像みたい。

こちらの階段を降りるとCPOメスがありますよ、の看板があります。

海軍の艦船は十分な収容スペースがあったので(!)
士官を含む「チーフ」の付かない乗員がオフリミットの、
「CPOだけの区画」を、艦内にいかようにも設けることができ、
特別の住人からの招待状がないと、何人たりとも(勿論士官も)
ここに立ち入ることはできないということになっていました。

海軍用語ではここをCPOメス、あるいは冗談(tongue in cheek)で
「ゴート・ロッカー」とも呼ばれていました。

つまりCPOは「ヤギの集団」ってことになりますが、一般に英語圏でヤギというと
おなじみ「スケープゴート」の意味の「身代わり」以外に、
なぜか「好色な男」という意味があるのだそうです。

「ヤギのように強情」とか「馬鹿な真似」という場合にも使われます。
どれがメインの理由なのかは、英語圏でないものにはわかりませんが、
まあ、全員がヤギっぽかったってことなんでしょう。

さて、士官や下士官兵のギャレーやメスのある階を見学し終わると、
順路は階下のCPOカントリーへと続いていきます。

おお、階段の壁ですら木目があしらわれ、ちょっとゴージャスな雰囲気?

無機質がスタンダードであるはずの軍艦の中で最大限に「潤い」を
インテリアに求めた結果が、これ。

全面木目の壁に角をなくしたカーブ、布のソファ。
個室の床はなんと白黒のアール・デコもどきの配色タイルです。

ボードには今日の彼らの夕食メニューが書かれています。

サーフアンドターフ(ロブスターとステーキ)

ベイクドポテト

グリーンビーンズ サラダ

パイとアイスクリーム

サーフ(海、ロブスター)とターフ(牧草地、牛)とはまた
思いっきり力技なメニューですが、まあ要するにCPOとは
こういういいものをしょっちゅう喰っていた連中なのでしょう。

そして本日上映される映画は・・・

「THE PLAINS MAN」

一瞬「平野の男?」と思ったのですが、ゲイリー・クーパーの

「平原児」1936

でした。
西部開拓史上の伝説的ガンマン、ワイルド・ビル・ヒコック(クーパー)と
カラミティ・ジェーン(ジーン・アーサー)を描いたものです。
兵員のギャレーでは「トータルリコール」という最新映画を観ているのに、
古い西部劇をチョイスするあたりがいかにもCPOらしいのかもしれません。

ボードに映画の制作年を1900年とありますが、それだと
ゲイリー・クーパーはまだ生まれてないっての(彼は1901年生まれ)

それと「ウォルター・ブレナン」はこの映画に出演していません。
ブレナンはガンマン俳優なので、あの人確か出てた!って感じで
調べずに適当に書いちゃったのね・・・。

CPOの執務室一例。
メスの経理関係の部屋ではないかと思われます。

壁のカーブに沿って作り付けのゴージャスな布のソファーに、
脚を組んでやたら態度のでかいおじさんが!

いやー、なんかこの佇まい、いかにもCPOって感じ。

マネキンではなく、服ごと人形をこのためだけに作ってしまったようです。
確かに凝った人形ですが、ご予算はこの人一人で力尽きたようです。

ちなみに彼は勤続12〜14年のCPOで、鷲の羽の上に二つ星があるので
階級ランクでいうと

マスター・チーフ・ペティ・オフィサー
Master Chief Petty Officer (MCPO)

であり、「ミッドウェイ」下士官界の最高峰にいる人となります。

道理で偉そうだと思った。

彼のすぐ上の階級は少尉となりますが、確かに昨日入ったばかりの少尉より
この人の方が階級が下だなんて、「ODD」、つまり奇妙だと思いますよね。

そして綺麗に揃えた髭を立てているのもCPOのお約束です。

髭は一説には「男らしさの誇示」の意味がありますから、叩き上げで
海千山千の海の男たちの上に立ち、彼らを率いていくCPOが、見かけを
まず「manly」にキメる傾向にあるのは至極自然なことのような気がします。



続く。




CPO(先任伍長)は神である〜空母「ミッドウェイ」博物館

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CPOの中でも先任の執務室にお邪魔しました。

椅子から立ち、ご挨拶してくれています。
ゴミ箱に紙くずがいっぱい入っているのがありがち。

横須賀を母港としていた時代手に入れたものでしょうか。

「流水不争先」

流水先を争わず。

日本の本因坊高川格(たかがわ かく)が信条としていた言葉で、
読んで字のごとく「流水は先を争わない」という意味です。

人を掻き分け、人に先んじて自分が先に出ようとする心を
戒め、自然に身を委ねることを説く意味があると思われます。

もちろんこれを手に入れたCPOは、(名札によると名前はモストラーさん)
この言葉の意味に感銘を受けてここに掲げていたのでしょう。

空母って結構いびつな形なのね、と思わせる空母型のボード。
結構大きいんですが、何に使うんでしょう。

個室に洗面台は「艦内特権階級」の証。

壁に貼られているポスターは、水兵さんが魚雷に乗っていて
(まるでロデオのように)、

海軍に来たれ!戦う男たちの職場へ

と勧誘しています。

元あった室内の装備は全部運び出されてしまったらしい部屋。
鏡の扉は洗面台の上にあるアメリカおなじみの薬棚だと思われます。

最先任チーフならではの一人でのお食事。
まるでリッツのような青いグラスにバラの一輪挿し。
後ろに謎の人影?があり、パイプむき出しの部屋とはいえ、
最大級に特権階級をエンジョーイ!しておられます。

この区画も時鐘で時間を知らせていたんですね。
取っ手が永年の使用黒ずんでいます。

どこか海外にいった時に屋台のお土産(貝殻があるので多分海沿い)を
難しい顔で物色しているCPO?

「CPOとして、上陸した時のパトロール任務の時、私はいつも
我々の水兵たちと地元の商人の間にいざこざが起こらないか見て歩いた。
とにかく彼らは何かと水兵から暴利を貪ろうとしたものでね」

つまりこれは物色しているのではなく、

「こんなものをうちの乗員に高値で売りつけているんじゃなかろうな」

とお店を調査して歩いているといったほうがよさそうです。
彼の右腕にはパトロールを表す「P」が縫い付けられています。

売り場のおばちゃんがむっちゃ怯えてる〜〜(笑)

ここがCPOのメス、食堂です。
床のタイルの配色といい、固定椅子の色といい、
アメリカンダイナー、って感じですね。

朝ごはんのトーストを焼いたりジュース、サラダを取る台は皆ほぼ同じ。

出たー!「サーフ&ターフ」のステーキとロブスターが!
これをどちらも食べるなんてカロリー取りすぎじゃね?

こんなカリカチュアもありました。

「ネイビーチーフ、〇〇から見れば・・・・?」

左回りに行きます。

上半身が全部口でできてるモンスター;水兵たちから見れば。

シャツからお腹が見えてるだらしない男;所属部隊の士官から見れば。

手のつけられない赤ん坊;彼の妻から見れば。

粋でダンディ、ちょいワルでスマート;自分から見れば。

「靴ばっかり磨かせやがって!」;彼の直属の部下から見れば。

「何でもかんでも持ち出すんじゃねえ!」;補給士官から見れば。

壁には先ほどのカリカチュアと並んでこのような文言が。

チーフはいつも正しい

彼は間違った思い込みをしてるかもしれないし、
不正確で、頑固で、気まぐれで、無知で、
おまけにありえないくらい馬鹿者かもしれないが、

しかし!決して間違っていない

とほほ・・・・。
水兵の皆さん、士官の皆さん、御愁傷様です。



そして、その横の「ネイビー・ストラクチャー」ですが、面白いので全部訳しました。

「アドミラル」

高層ビルを飛び越えることが出来る;
機関車より力強く、弾丸より早い;
水の上を歩くことができる:
神に対して説教することが出来る

「キャプテン」大佐

中くらいのビルなら一回のジャンプで飛び越える;
スイッチエンジンよりもパワフル;
水の上を歩くことが出来る。もし海が穏やかなら;
神と話すことが出来る。

「コマンダー」中佐

低いビルなら助走をつけて風の勢いを借りれば飛び越える;
ほとんどスウィッチエンジンと同じくらいパワフル;
スピードのついたBB?よりは速い;
室内プールの水の上なら歩ける;
もし特別に望みを聞き届けられれば神と話せる。

「ルテナント・コマンダー」少佐

かろうじてとても低い建物なら飛び越える;
機関車と綱引き(tug-of-war)出来る;
スピードのある弾丸を撃つことができる;
ほんの時々、神に呼ばれることがあれば話せる。

「ルテナント」大尉

飛べば低層のビルの高いところまで届く;
機関車を追い越すことができる;
自分を怪我させることなく銃を持つことができる;
プールで犬かきができる;
動物と話すことができる。

「ルテナント・ジュニアグレード」中尉

ビルを掃除するためにそこまで走っていくことができる;
3回のうち2回は機関車だとわかる;
弾薬を支給されない;
施設が許せば救命胴衣を着て浮かんでいることができる;
壁と話すことができる。

「エンスン」少尉

ビルに入ろうとするときにドアの階段でこける;
「見てー!ポッポー!汽車ポッポー!」と喋れる;
水鉄砲で自分がびしょ濡れになる;
水たまりで遊ぶことができる;
独り言を言う。


「CPO」先任伍長

ビルを持ち上げ、さらに歩くことができる;
機関車をひと蹴りして遠くに飛ばすことができる;
歯で弾丸を受け止め、さらにそれを噛み砕くことができる;
人睨みすれば、水をも凍らすことができる;

彼こそが、神である。



続く。






サンフランシスコ海事博物館

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サンフランシスコに住み、毎年訪れているにも関わらず、
フィッシャーマンワーフにあるこの海事博物館をわたしは今まで
ちゃんと見学したことがありませんでした。

以前「ジェレマイア・オブライエン」について書いたときに、

「ここにはバルクルーサという帆船も展示されているよ」

と教えていただいていたので、前回の訪問の時に行ってまいりました。

いつ行っても激混みなので、フィッシャーマンズワーフのお店には基本昼間入ったことがなく、
どんな店があるかも全く把握していなかったのですが、ここも
それなりに新しいお店に入れ替わっていっているようです。

スシアンドバー、フライング・ニンジャ。

ニンジャはわかるとしてなぜ「フライング」なのか。
こういうネーミングをする寿司屋はまず間違いなく日本人の経営ではありません。

メニューの見本写真が、全く海苔を外側に巻かない
(アメリカ人は黒い海苔が巻いてあると食欲が湧かないらしい)
いわゆるカリフォルニア巻きといわれるものばかりですが、
これも非日本人の経営する店であることを物語っています。

さて、サンフランシスコ海事博物館は、フィッシャマンズワーフの外れ、
埠頭側の一角全てを使って船舶と海事に関するものの展示を行っています。

これは海側からチケット売り場(右手建物)を見たところで、
サンフランシスコ名物の坂道が前方に続いていきます。

「There's more to see」(こんなものもあります)の看板で
隠されている部分から、ハイド・ストリートの坂は急斜面となり、
そこでは車は道路に対して直角に停めなくてはいけません。

(縦列駐車では転がる危険があるので)

赤い囲みがエントランスの写真の部分ですが、これを見て
ここにまだ行ったことがない「マリタイム・ミュージアム」があることを知りました。
写真左下の3番の部分です。

今度行ったら訪ねなくては・・・。

それにしても海事博物館の規模の大きなこと。

エントランスからまっすぐ歩いていくと、係留された船を見学することができる
岸壁が現れるのですが、その光景の中にあるものを発見。

「人が・・・・泳いでる・・?」

泳いでるむっちゃ泳いでる。
それもぷかぷか背泳ぎや平泳ぎなんかではない、本気のクロールだ。

まあもっとも、この辺は水温が異常に低いので(アルカトラズ監獄から囚人が
どうしても海を泳いで脱出できなかった理由の一つ)、
ちんたら泳いでいたら体が凍えて溺れてしまうこと確実。

ちなみにこれは8月の映像ですが、フィッシャーマンズワーフは夏場でも風が強く
寒いので、こんな風に砂浜で裸になっている人を見たら、大抵は

「この寒いのになんて物好きな・・・・」

という気持ちになること請け合い。

木の桟橋もあり、ゴムボートが干してあります。

砂浜に下りて泳いでも、船に乗っても咎める人はいないので、
子供達がこうやってボートごっこで遊ぶこともできます。

アメリカ映画の農場風景で見たことがあるような機械がありました。
サイロのようなボイラーのような・・・。

これは何かと言いますと、

スチーム・ドンキー・エンジン

です。
ドンキーというのはその通り、ロバのことで、その語源はwikipediaによると、
語帆船に設置して荷の積み下ろしを行うウィンチを動かしたり、帆を揚げたり、
ポンプの動力となった小さなエンジンのことを「ドンキー」と言ったから。

・・・・というのですが、それってなぜドンキーなのかという説明になってないよね。

現地の説明には

「昔は馬がやっていた仕事が置き換わったから」

いやだからなんでロバなんだよー!

写真は1920年ごろ撮られた、ここサンフランシスコの港での荷積み風景。
ここには「二つのドンキーがある」と説明があり、わたしは最初、
中央に写っている動物がロバなんだと錯覚していました。

もちろんこれはドンキーエンジンのことです。

1800年代終わり頃登場したドンキーエンジンですが、使用期間は
せいぜい1920年までと大変短い流行であったようです。

この機械は特に説明がなかったのですが、後ろに「ロープ」の
宣伝看板があるところを見ると、ロープを巻き上げるウィンチかも。

これはディズニーシーに行ったことがある人なら知ってるはず。
蒸気船の後ろで推進する水車のようなホイールですよね?

こういうのを英語では「リバーボート」「パドルボート」「パドルホイーラー」、
日本語では「蒸気外車線」「外輪船」などと称します。

中でも、これが船尾に一つついたタイプを「スターンホイール」と呼びます。

サンフランシスコ湾を内陸に北上していくと、「ペタルマ」という街があります。

このホイールは、今のように橋と陸上交通で都市間が結ばれていなかった19世紀、
そこを拠点としてサンフランシスコ湾(正確にはサンペドロ湾)
の内陸の交通に活躍したスターンホイーラーに装着してあったものです。

ここの説明によると、この地方の交通がスターンホイーラーに依存していたのは
103年間、まる一世紀の間であったということです。

海に浮いて動かすことができるので、これは何かというとボートです。
しかし、ボートというよりは家。ハウスボートです。

波が穏やかで転覆の心配のないサンフランシスコのベルヴェデア湾付近では
このような家が流行った時期がありました。

「アーク」というのは普通に「ノアの箱舟」のことですが、
そこで暮らせるだけの設備を持った箱舟は「アーク」と呼ばれました。

もちろん香港の人たちのようにそこにずっと住むのではなく、
あくまでも「サマー・ハイドウェイ」(夏の隠れ家)です。

つまり当時のリッチな人たち専用のお遊びみたいなものですね。

このアークは1900年に作られ、何人かのオーナーを経て
1960年代に海事博物館に寄付されました。

それでは中を見ていきましょう。
絨毯は豪華ですし、椅子の手すりにライオンが彫刻されているのが目を引きます。

足踏みオルガンも当時の最高級品のように思えます。
コーナーにあるのはコートハンガーでしょう。

なんと、船内に暖炉があります。
暖炉の煙突は背後から外に出ているのでしょうか。


転倒しないように低い本棚には、本がたくさん。
当時のアメリカ人の余暇の過ごし方というのは読書に音楽、
デッキから釣り糸を垂らしたり、泳ぐこともあったのでしょうか。

寝室のベッドは作りつけです。
キルトのベッドカバーが可愛らしいですね。

こちらキッチン。あれ?コンロは使わなかったのかな?

シンクに向かって調理台が傾斜していますが、これがもし
水はけを良くするための工夫ならちょっとすごい。

ダイニングルーム。
やはり船の上なので大仰な家具は置かないものなんですね。

右側にシャワールームがあります。

船ではバスルームのことを「ヘッド」と称することが多いですが、
このハウスボートでは普通に「バスルーム」で、
湾岸に係留されてビーチコテージにされていた時期もありました。

つまりあくまでも家主体で「船扱い」ではなかったということです。

 

食品棚、あるいはもしかしたら冷蔵庫(氷を入れて使う)でしょうか。


ハウスボートの見学を終わると、そこに工房がありました。

SHIPWRIGHT SHOP とあります。
見てもわかるように、シップライトとは「船大工」を意味します。

 

サンフランシスコベイエリアの多くの船大工は、彼のシップヤードを
しばしば高い木が多く生えている森の中に作ったという話です。

木工するのに必要な材料の輸送の必要がなかったという理由だったとか。

この木工ショップは展示などではなく、実際に展示する船の部品などを
ここで調整したり復元したりしています。

 

ショップの奥に「バルクルーサ」と書かれた何かがあります。
「バルクルーサ」はサンディエゴの「パール・オブ・インディア」の仲間で、
やはりアラスカでサーモンなどを採っていた帆船です。

この近くで展示を行っています。

「ボニータ」という名前のついたなんの変哲も無いボートがありました。

この小さな船は積荷(主に木材)を地上から船へ、船から地上に下ろすための
ワイヤ敷設を行っていたようです。

スチームによる動力で外車が回転し推進する「パドル・タグ」。
エップルトン・ホール(EPPLETON HALL )。

その気になれば船内を探索することもできましたが、先が長いので見送りました。

1914年にイギリスで建造された石炭運搬船専用タグボートです。
タグボートというだけあって、上の写真下図にも見られるように
エンジンは2基搭載されていて、それらは両翼のパドルに繋がっており、
独立して右だけ、左だけと動かすことができました。

このエンジンを「サイドレバー・エンジン」、しばしば
「メルトホルツ・エンジン」「グラスホッパー・エンジン」などと称します。

あと大きな特徴としては、ボイラーを海水で使用できるように特別に鋳造されていることです。
もともと河川などの淡水で使用されるために作られたこのタイプのボイラーは
6週間ごとに取り外し、蓄積された塩をすすぎ落とされなければならなかったのです。

高いところ(向かいのフェリーの甲板上)から見た「エップルトン・ホール」。
煙突とホイールのケースのデザインがリンクしているのもおしゃれです。

なんと1967年まで、人員輸送に使われていたという記録があります。

最後のオーナーはスクラップにするために(一応鋼鉄製ですから)
売り払われましたが、縁あってここの展示の一つに加わることになりました。

係留中に何者かが忍び込み、火災を起こして内部が全焼したにも関わらず、
彼女はイギリスのシーハムからサンフランシスコに自力でやってきたそうです。

マストも一つしかないし、なんか同じ船だと思えませんね。

この後わたしたちは「バルクルーサ」を見学したのですが、それは
別の項で詳しくお話しするとして、岸壁にはこのような、
主に子供の体験学習用の展示もあります。

セイラーたちは、重たい荷物をどうやって船に積んだのか、というとそれは滑車ですが、
滑車に通すロープと持ち上げるために持つ部分の本数の割合が
左から1:1、2:1、4:1となっていて、さてどれが一番楽でしょうか、
というのを実際に確かめることができます。

少々危険なので、係りの人がいないと動かすことができないようですが、
タルの重さは20パウンド(約9キログラム)なので、9歳くらいから
このクエストにチャレンジすることができます。

舫の結び方を紹介し、それをやってみることができるこんな展示も。

「フィギュア8ノット」、文字通り「8の字結び」です。

これが舫の結び方の王道とされる「もやい結び」。
船乗りなら何を結んでもこのやり方にいつの間にかなってしまう、
というくらいポピュラーな結び方で、英語では「ボウライン・ノット」と言います。

 

日本では「巻き結び」と呼ばれている結び方です。
昔の日本では徳利を吊るす方法として使われたので「徳利結び」とも言ったそうです。

もやい結びよりこちらを「結び目の王」であるとする専門家もいるとか。知らんけど。

小さなボートをリングや部位に係留するときにこの方法で結びます。
「ラウンド・ターン&2ハーフ・ヒッチズ」の日本語での呼び名は・・・
わかりませんでしたが「錨結び」とかかな?

さて、これからここで見学した船について、引き続きお話ししていきたいと思います。

ところで・・・よくみると「遊泳禁止」の看板があるような・・。
やっぱりあの人たちは違法だったのか・・・?!
(その答えはかなり先)

 

続く。

 

 


シック・コール〜空母「ミッドウェイ」博物館

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「ミッドウェイ」シリーズ、続きです。
前回の「CPOは神」シリーズ、お楽しみいただけたでしょうか。

アドミラルから始まって、各ランクのビルを飛び越す跳躍力、
機関車と比べた場合のパワー、水面を歩けるか、神との関係、
という比較対象はは少佐まではとんでもなく人間離れしていますが、
大尉から急に「犬かき」とか「壁と喋る」とか普通の人間以下になってきて、
中尉は普通に「ダメな大人」レベル、少尉になると、

ビルに入ろうとするときにドアの階段でこける;
「見てー!ポッポー!汽車ポッポー!」と喋れる;
水鉄砲で自分がびしょ濡れになる;
水たまりで遊ぶことができる;
独り言を言う

これまんま二歳児じゃないですか・・・。

しかし、これらの段階を全てぶっちぎって、CPOは神、
と自分たちで言ってしまうのがCPOのCPOたる所以なのでしょう。

つまり海軍で一番実力があるのは俺たちだぞ、と。

「CPOから少尉になれないのはおかしい気がする」

という疑問の答えがまさにここにあります。
彼ら自身は自分より一階級上の少尉を二歳児だと思っているわけですからね。

ちなみに中尉の「救命具で浮いていることができる」ですが、
原文では

「Can stay afloat~ in the Mae West」

メイ・ウェスト?そんな女優さんいたわね。
ちなみにアメリカの俗語では、救命具のことを彼女の豊満な体型にたとえて
「メイ・ウェスト」と呼ぶこともあるんだそうです。

これか。こりゃ確かにメイ・ウェスト(救命具)だわ・・・・。

またひとつ、どうでもいい知識を得てしまった。

 

さて、ここからはバトルステーションから本格的に負傷者を送り込むシックベイ、
軍艦の医療施設が集まった区画となります。

シックベイに行くには、メスデッキからさらに一階下に降りなくてはなりません。
重症者はもしかしたらさっきの担架でここから降ろしたのかしら。

だとしたら、GQ(想定訓練)では早いところ怪我するか死ぬ人が勝ちってことだ。

ここからがメインの医療施設・・・なのですが、なに?

「帽子を取ってください」

だと・・・?
医療関係者、特に医師に敬意を表しましょう、ってことでしょうか。
ドアに直接貼り付けた注意書きなので、当時からあったのだと思いますが、
わざわざこんな大書しなければいけなかったのでしょうか。

それと「これは演習である」のGQの時にはもちろん無視でいいんですよね?

毎朝8時と夕方の4時、1日に二回、水兵たちは健康診断をして、その
健康診断書をシック・ベイに繋がるラッタルの下からピックアップする仕組みでした。
これを「シック・コール」と言います。

彼らは医師か医療軍曹にスクリーニングを受けるため、順序を待ちます。

もし咳が出るとか、捻挫、縫合が必要な切り傷、微熱が出たと言った場合には
最優先で手当をしてもらえます。
もし甚だ深刻な状態であれば、検査のためもう一度診察を受け、
場合によっては入院して治療を受けることになります。

一度そのような手当を受けた患者は、治れば元の配置に戻りますが、
「制限されたデューティ」、ベッドで休むことを含む軽い労働に回され、
危険だったり重労働の職場には、医師の許可が出てからでないと戻れません。

二段ベッドに風呂釜のようなもの、奥の青いドアには

「PATIENT HEAD」

とあります。
患者の、頭・・・・?

下には掃除を1000から1100の間に行うこと、とあります。
ということは、これは患者様のトイレということですね。

アメリカ海軍ではトイレのことを「ヘッド」と呼ぶ、ということは
このブログでもなんどもお話ししてきていますが、あくまでもそれは
隠語的な名称であって、まさかこんな堂々とヘッドと称してるとは思いませんでした。

なんども説明しておりますが、なぜヘッドというかというと、帆船時代
トイレは舳先に設けてあり、そこから自動的に色々を海に落下させる作りだったからです。

ここで治療を受けるのは海軍軍人以外にいないので、表記もこうしているのです。

下の方にバスと書いてあるので患者用の風呂であることは間違いありませんが、
問題はこんなお風呂にどうやって患者を入れるかですね。

いくら脚の長いアメリカ人でも跨いで入ることはできないだろうし、
そもそも患者という状態の人がそんなことできるのか?

疑問を解く鍵はバスタブの左にある器具だと思います。
覗き込んでみれば何かわかったのかもしれませんが、先を急いでいて
その余裕がありませんでした。

先ほども言ったように、「ミッドウェイ」の医療機関は大変充実していて、
1日2回、「シックコール」と呼ばれる乗員の健康報告がなされていました。

そして空母ほど大きな船となると、バトルドレッシングステーションはあちこちにあり、
ヘルスサービスが、必要に応じていくらでも受けられました。

写真は練習か本物かわかりませんが、手術中です。

手術室です。

船の中という極度に限られたスペースでありながらも、「ミッドウェイ」では
事故や戦闘で受けた外傷に幅広く対応できる手術室をふんだんに備えています。

荒天時にはあたかも航空部隊が飛行作業を中止するように、艦内で手術中、
艦長はできるだけ艦体が動揺しないような操舵を命じます。

実際にそういうことがあったかどうかは記録にありませんが、
おそらく想定訓練の時にはそういうことも訓練されたのでしょう。

検査室のようです。
船の上では人間の、例えば兵員の持ち物ロッカーひとり分のスペースなどより
ずっと大きな薬棚があります。

シャーレに入れたものを拡大する電子顕微鏡は作り付けです。
片目で覗き込むアナログのとは全く違う形をしています。
直接写真も撮れる機種ではないでしょうか。

こちらは可動式の電子顕微鏡ですが・・・メーカーはオリンパスだ!

皆さんの中には、オリンパスがカメラの会社だと思っておられる方もいるかもしれませんが、
実は1919年に高千穂製作所が創業した時から顕微鏡などの理化学機器が専門で、
現在も国内医療光学機器のシェアは70パーセントを超えるのです。

余談ですが、オリンパスという名前は、最初の社名に使った「高千穂」が
神々の山だったっことから、

ギリシャの神々の山=オリンポス→オリンパス

ということで戦後になって「オリンパス光学」を社名にしたのだそうです。

実際に「ミッドウェイ」がオリンパスを使っていたのだとしたら、
これは横須賀時代に導入されたという可能性もありますね。

薬品とビーカー、フラスコなどの器具が並んだ戸棚。
特にガラス戸などは付いていないようですが、船が動揺したとき
棚から物が落ちたりしなかったのでしょうか。

それとも空母はよっぽどのことがないとそんなに揺れない?

こちらはガラスの扉の中に薬が並んでいますが、よく見ると
サーモンから取った骨粗鬆症の薬だったり、ケトロラックトロメタミン
(非ステロイド性消炎鎮痛剤の経鼻用スプレー剤)だったりと、
言っては何ですが、大した薬はありません。

この辺りは明らかに展示用にどこからか調達してきたものだと思われます。

薬剤師の資格を持つ乗員(准尉とか?)がお仕事中。

無影灯があるのでここでも手術は可能です。
手術用器械を置くスタンドも用意してあります。

手術室がいくつもあるということは、そこで稼働できるだけの
医療関係者も乗艦していたということになります。

殺菌棚には緑色の手術着が4着スタンバイ。

「SCUTTLEBUTT」(スカットルバット)というのは「噂」という意味です。
(今息子にこんな言葉使う?と聞くと、古すぎて使わないといっています)

このウォーターファウンテン、水飲み器はもう使われていませんが、
その「噂」によると、本当に「ミッドウェイ」に乗っていたものだとか。

70年代からずっと「ミッドウェイ」の上にあって酷使に耐えてきたというのですが、
それが「噂」になるということは、これ即ち展示されている機器の類は
ほとんどがオリジナルではない、ということの証明でもありますね。

診察を受ける部屋には医師の姿なし。
右手を怪我してしまった水兵さんだけが待たされている間腹筋運動をしています。

彼の座っている診察台には紙がしいてありますが、これはアメリカの医療機関で
今でも普通に見られ、一人の患者を見終わったら、ロールを引き出して
新しい紙に取り替えてしまうという衛生的なものです。

息子をボストンのチルドレンズ・ホスピタルに(ほとんど物見遊山で)
治療に連れていったときに受けた診察室もこうなっていたのですが、
先生はわたしたちに説明しながら盛んに紙に落書き(本人は説明に使っている)
していて、そこは診療が終わればそこは捨ててしまう部分なので、
実に合理的?な仕組みだと感心した覚えがあります。

そういうことをするために使い捨て紙にしてるんじゃないとは思いますが。


こちらはレントゲン室。
何とこの乗組員、足を骨折してしまったようです。
緑のシャツを着ているということは、彼の仕事は

射出・着艦装置士官
貨物操作員、ヘリ着艦信号下士官
地上支援機材修理係

のどれかということになりますが、士官ではなさそうなので、
貨物の操作という、もっとも怪我しそうな部署の人だと推測します。

貨物の操作していて脚を骨折って、何をやった・・・・((((;゚Д゚)))))))

 

 

 

続く。


ジェネラル・クォーターズ(想定訓練)〜空母「ミッドウェイ」博物館

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前回、「ミッドウェイ」の医療区画についてお話ししましたが、
今日のテーマは負傷者救助を含む訓練です。

前回こわーい警衛のおじさんが立っていたメスデッキのブースの近くに、
救急救命用のステーションがありました。

駆逐艦「JPケネディJr.」でも見たのと同じストレッチャーです。

メディックのウィスラーさんが佇んでいます。
ここはバトルドレッシングルーム、戦闘時に負傷したものの応急手当てをします。

何かあったとき、ここで怪我の程度を判断し、
シックベイに送る優先順位を決定するトリアージもここで行います。

 

バトルドレッシングルーム内部。
トリアージや搬送にかかる前に大きな十字のついた上着を上から着て、
負傷者が倒れていた場合のために器具の入ったショルダーバッグを背負います。

半裸で目を剥いた人が治療を受けていますが、ご安心ください。
これは実戦ではなく戦闘訓練中、負傷したという設定です。

訓練中、負傷者認定された乗員はメスデッキのここ、
トリアージステーションに行かねばなりませんでした。
ただし、何人かはメディックの訓練のため倒れたところで
そのまま手当を受け(るふりをさせられ)ることになります。

バトルドレッシングステーションは、広い空母の一箇所ではなく、
いたるところに点在していました。

日本語でどういうのかわかりませんが、「ジェネラル・クォーターズ」って
聞いたことがありますか?
よくアメリカの戦争映画で、(真珠湾攻撃の時とかね)

「This is not a drill. this is not a drill 」(これは訓練ではない)

という放送があるじゃないですか。
それに続き、

「General quarters, general quarters, 

All hands man your battlestations.」

全ての(担当)者はバトルステーションに行け、
とコールするわけです。

冒頭のYouTubeは、かつてこのブログでも取り扱った映画
「ファイナル・カウントダウン」における1シーンですが、
最初に上記通りのことがアナウンスされています。


ジェネラル・クォーターズ、バトル・ステーションズ、または
アクション・ステーションズとも言われるこの警告音が鳴ると、
各々の医療ステーションには少人数のメディッククルーと医師、
あるいは歯科医が駆けつけて待機します。

海軍では軍艦に乗り込む歯科医は、全て止血と応急手当てについて
最大限の訓練を受けることになっているのです。

 

GQで発生した負傷者の傷の具合を観察し、トリアージを行うと、
この近くにある手術室に送り込む患者と、手元で治療をする患者に分け、
より重症者や一刻を争う負傷者はすぐさま手術室に搬送されます。

 

このジェネラル・クォーターズ、GQについてお話ししておきましょう。

 

GQは艦内全域が対象で、特にフライトデッキとハンガーベイを中心に行われます。
予告されて行われますが、発令された時、フライトデッキにいる者はそこに残り、
ハンガーベイにいればやはりそこに残ることになります。

各ショップにいる者は、訓練内容に応じて参加したりしなかったり。
冒頭のシーンでは、ショップからも全員が出て行く様子が描かれています。


乗員にとってのこの訓練目的は消火と負傷者救出で、フライトデッキとハンガーベイ、
同時に行われ、乗員はたまたまどちらかにいたら、そこでの活動に参加します。


参加の際気をつけることは、

「ズボンの裾を靴下の中に入れる」「まくってある袖はおろす」

だそうです。
訓練の行われる時間はまちまちで、午後8時から開始という場合もあったようです。

艦長から

「ミッドウェイ、艦長だ。
たった今、ミッドウェイのインテリジェンスから、イランから飛び立った
ミグ戦闘機が2機、ミッドウェイに接近中との連絡が入った。
ミサイル攻撃の可能性がある。GQに入る!」

と説明がなされると、身の毛もよだつような

グオーン、グオーン、グオーン

という警報音が艦内に鳴り響きます。

「これは訓練である。これは訓練である。
ジェネラルクォーターズ、ジェネラルクォーターズ。
総員戦闘配置につけ!」


うおおお、かっこいい!
やっぱ海軍軍人になったらこういうこと言ってみたいよね。
たとえ訓練でも。

そして、訓練は2時間各所で行われます。

たとえば、フライトデッキでは・・・。

「さあ、みんな、GQだ。戦闘配置につけ」

と、エアボスの静かで落ち着いた声がフライトデッキに流れる。
その直後、それまで真っ暗だったフライト・デッキにライトが点灯し、
デッキの上は昼間のように明るくなる。
そして、数百人がそれぞれの持ち場につき、次の指示を待つ。

が、なかには訓練の参加を嫌がり、そっとデッキから離れ、
どこかに雲隠れする不届きものも必ず何人かいる。

後でハンドラーの子分の小僧たちに見つかり、晒し首にさせられるのが関の山だ。

(J.スミス『空母ミッドウェイ』)

ハンドラーというのは中佐職で、フライトデッキとハンガーベイの責任者。
艦載機用のエレベーターなども、この人の許可がなければ作動しません。

彼の下で働いている「小僧たち(ボーイズ)」は、ハンドラーが放つ歩兵で、
ハンドラーの指示がなければ一歩も動かず、の絶対的な権限をかさにきて
皆が威張っているのが普通です。
サボっている人たちをショップの「穴ぐら」からつついて追い立てる、
というなかなか楽しそうな仕事も彼らの特権でした。

GQ訓練の想定はいつも同じではなく、たまに何もなかった、という状況で
作戦本部だけの訓練に終わることもあり、皆はそれを期待するのですが、
どっこい上層部の気分によっては(たぶん)そうは行かないこともあります。

最悪のパターンというのは・・・・・

「ミグ戦闘機からミサイル発射!ショックに備えよ!」

皆デッキに伏せたり、手近なものに捕まったりして衝撃に備えますが、
訓練だからとぼーっと立っていたり無駄口を叩いていると、
黄色いシャツの小僧たちに大声で怒鳴られることになります。

アメリカ人が好きな「非常時のジョーク」も海の上ではご法度です。

そして、ミサイルが命中し、火災が発生したというアナウンスがあると、
その時は皆にとってもっとも嫌なシナリオとなるのです。

ファイアーマンである赤いシャツが消火活動を行う間に、
黄色シャツが牽引車を火災現場に急行させ、引火を防ぐために
火災現場から艦載機を移動します。

移動される艦載機にはブレーキ・ライダーという名前はちょっとかっこいいですが、
なんのことはないコクピットに乗って万が一の場合に備える係が呼ばれ、
全力疾走でフライトデッキを駆け抜けて飛び乗ります。

この全力疾走具合がエアボスのお気に召さないと、その航空部隊の
FDC(フライトデッキ・コーディネーター)は後日彼に個人的にご招待を受け、
蛇に睨まれたカエルの気分を満喫することになるのです。

FDCというのは各艦載機部隊に一人いて、フライトデッキを仕切る下士官です。
一般的に「部隊の生贄」と呼ばれており、こういう場合文字通り
生贄のカエルとなって叱られるというチーフの中でも損な役割の人です。

火災現場では、黄色シャツが主導して炎上している艦載機を
放射状に取り囲むように縦数十人の列が数カ所にできると、
黄色いシャツが前から順番に、

「消火ホースを持って位置につけ」

「消化器を持って後に続け」

「担架を持って待機」

「情報伝達せよ」

などと次々に指示を出していきます。

自分の仕事が終わると、すぐさまもう一度列に並ぶことになりますが、
短い列に並ぶとすぐに指示を出されることになるので、皆
自然と長い列の後ろを選んで並ぶのだそうです(笑)


この中でも消火活動に配置された人は不運で、2時間の間黄色シャツやボースンから

「おい、こら!なんだそのホースの握り方は!
もっと上下に大きく動かせ!」

などと怒鳴られながら、水の出ていないホースを動かして消火するふりをします。
さらに、火災が他の機体に広がり、爆発して負傷者が出た、ということになると、
負傷者に認定された者は怪我を負ったふりをしたり、死んだふりをして
デッキに横たわり、じっと救助がやってくるのを待つのです。

 

かたや救助者に認定されると、艦内いたるところにある担架を持って、
倒れている人を乗せて診療所まで運んでいくのですが、これが大変。

自衛隊で同じ訓練をしても、担架で運ぶ人の体重が重すぎる、
というようなことは滅多にないと思われますが、アメリカ人というのは
普通に100キロ超える体重の人がゴロゴロしていますからね。

倒れている人が巨漢だと、

「ちょと起きてあそこまで歩いてくれんか」

「ノー、俺は足を骨折してるんで歩けねえ。運べ」

などという会話がこそこそ囁かれ、途端に

「こらあ、出血多量で死ぬぞ!さっさと運ばんか!」

と黄色シャツから怒鳴られる羽目になります。

 

ハンガーベイでは、想定現場が自分のショップと離れていると

「ベイ2だって・・・行く?」

「ここベイ1だし、行かなくてもいいんじゃね?」

などと言いつつ、小僧たちが今にも来そうで気が気でない者がいれば、
そんな時にも現場がどこであろうとすぐに飛び出して行く愚直な人もいます。

どんな社会にもこういう二種類の人間がいるものです。


艦載機が火災になった、というお知らせは

「火災発生、ベイ1、機体番号612、HC-1、ヒーロー」

などとアナウンスされますが、これが自分のところの機だったとなると、
全員が否が応でも現場に直行することになります。

自分の部隊の艦載機が火災になるというのもかなりの低確率ですが、
下手すると1000はあろうかというコンパートメントの一つが
火災発生の想定場所で、それがたまたま自分のコンパートメントだった、
などというのは宝くじに当たるようなものだったそうです。

「神」であるところのメインテナンスコントロールのマスター・チーフは
自分のヒーローが火災になったとなると、インターホンに向かって

「お前ら全員消火活動に参加してるか?おい、こら返事しろ」

などと、もうすでに誰もいないショップに向かって怒鳴り続けるのが仕事ですが、
そんなチーフも自分のコンパートメントが火事になったとなると・・。

「火災発生、コンパートメントナンバー02、HC-1、メンテナンスコントロール」

「おっ、聞いたか、うちのメインテナンスコントロールだ!
おもしれえ!マスターチーフ、今頃慌ててるぞ!」 (空母ミッドウェイ)

などと下の者は面白がります。



1991年の湾岸戦争の前後には、火災、救出活動と同時に、化学、生物、
もちろん核兵器という攻撃を受けた場合の想定訓練も行われました。

イラクが実際に毒ガスを使ったという事実もあり、「ミッドウェイ」では
ガスマスクの装着訓練は頻繁に行われていました。


練習はまず部隊ごとに数人のグループに分かれ、なんどもなんども、
マスクと防護服を確実に、指定された時間内に装着できるようにします。
それができるようになると、検査官のテストを受けることになります。

このテストとは、特別に訓練を受けた検査官によって行われます。

マスクをつけた検査官と防具を持った被験者が特設の小さな部屋に入ると、
電気が消されて部屋の中は真っ暗にされます。

入室時にドキドキしていた被験者も、そのうちアメリカ人らしく雑談を始め、
マスクをした検査官はダース・ベイダーの声で雑談に加わり(笑)
和やかな雰囲気になったと思った頃を見計らって、
部屋に催涙ガスのようなものが流れ込んで来ます。

シューという音にたちまちパニックに陥る被験者たち。

しかしダース・ベイダーが、

「マスクは合図があるまで装着するな」

「ひえー!目が痛い!喉も痛い!検査官、ガスが出てるぞう!」

「わかっとるわかっとる」

わかっとるわかっとるって、自分はマスクしてるじゃねーかよ!
わかってねえ、オメーはわかってねーよ、と心で罵りながら苦しんでいると、
30秒たってようやく検査官、

「よし、マスクを装着しろ」

しかし練習の段階で目をつぶったままでも装着できるようになっていたはずなのに、
慌てているのと部屋が暗いので皆思うようにできません。

訓練がこれから行われる、と心の準備ができているのと、
想定外の手順で来られるのでは全く勝手が違うということを
身を以て知るための「検査という名の訓練」だったというわけです。

 

GQの頻度は週に1度、多くて2度というものですが、訓練の内容がよくない、
と判断されると、二日、時として三日連続で行われることもありました。

もちろん連日の訓練に乗員は全員が辛い思いをすることになりますが、
そんな時にはかえって緊張感が出て結局は充実した内容になることが多かったそうです。

 

ちなみに、GQが始まって早々に負傷者になると、何もしなくていいので、
特に死亡者に割り当てられると「ラッキー」と皆が思ったとか。

 

続く。


参考:「空母ミッドウェイ アメリカ下士官の航海記」J. スミス著

兵器庫とサス・ケージ〜空母「ミッドウェイ」博物館

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ここ空母「ミッドウェイ」のメインデッキ見学が続いています。
この階に展示されているクルーと士官のメスつまり食堂など、
施設を見学して一巡してくると、だいたい30分かかって
元のところに戻ってくるようになっています。

この案内図を見ると、設備は全て艦尾側にあったことがわかります。
赤丸のツァー開始地点には兵員用のメス、艦体の中央部分にギャレーがあり、
艦尾まで行って帰ってくるとまたギャレー部分が現れるというわけです。

艦尾のある位置に来ると、階下に機械室が広がっているのが見えました。
ここは上から見学するだけで見学は許されていません。

眼下には

AFT EMERGENCY DIESEL GENERATOR
(艦尾 非常用ディーゼル発電機)

が見えていました。

発電機など電気関係の機器がある階で、関係者しか立ち入りを許されていません。

続いて赤いドアのある部屋の小窓越しにやりとりしている警衛あり。
ドアには大きな「W」の文字、ここは

SHP'S ARMORY (艦内兵器庫)

で、小型の武器、たとえばピストル、ライフル、ショットガン、手榴弾、
煙火を発する火器一式などがここで管理されていました。

gunners mate(砲手)が沿岸をパトロールする際に使用する、
あるいはセレモニーで使用するための武器です。

ドアの「W」はWeaponの意味があったんですね。

武器庫内部の写真。
「マガジン」と言います。

マガジンはこの階ではなくこの階下にありました。

小さな武器を受け渡しする窓口の前部には金網のドアが敷設されています。
当時からあったのか展示を保護する意味で作ったのかはわかりません。

小さく開けた窓口越しにピストルを受け取っているのは、袖に
錨が交差したボースンズメートのレイティングを付けた乗員。

ちなみに、このレイティングのウィキが大変面白いのであげておきます。

List of United States Navy ratings

ビルダーは指矩、料理のスペシャリストは本の上に鍵(秘密のレシピ?)
音楽隊は竪琴、ヨーマンは羽ペン、インテリアコミニュケーションは
地球儀の上に電話(今でもそうなのかしら)。

アメリカらしいなと思うのが「レリジョン・プログラム・スペシャリスト」。
これは文字通り宗教の行事に関わる部門の専門家のこと。

行政と予算関係で従軍牧師の補助を手がけるのが主な仕事で、
宗教関係文書を保管し、地域機関や聖職者との関係調整を行います。

礼拝や宗教教育、ボランティアプログラムを企画し、ライブラリ、
牧師のオフィスを監督し、行政事務や秘書業務を行います。

また宗教的なプログラムによる訓練を通して宗教活動を行うという、
従軍牧師とは別に属する組織なのです。

宗教が人心の支えになっている欧米ならではですね。

武器(その他器具、腕章含む)などは「 Officer Of the Deck」、
OODと呼ばれる士官、あるいは下士官兵であるジュニアOODが受け取ります。

またマリーン・デタッチメント(MARDET)という部門は
こことは別に武器庫を持っていて、独自に管理していました。

武器庫の右手にはエレベーターがあります。

これは階下にある武器庫に武器類を出し入れするために作られたものです。
確かに武器を持って階段を上り下りするわけにはいかないですが、
そのためだけにわざわざエレベーターを作ってしまうんですね。

エレベーターシャフト越しに下の階をのぞいてみました。
武器を扱う人が着る赤いシャツの乗員が、弾薬の整備をしているのが見えます。

ケージは下の階にあり、今武器を上に運んで来るという設定です。

この写真の右下の写真が、このエレベーターがハンガーデッキに到達したところです。

なぜエレベーターでわざわざ下から持ってこないといけないかというと、
空母の武器類はできるだけ船底の、船殻に近いところのマガジンに収納するからです。
ここにあるような武器運搬専用のエレベーターシャフトは魚雷や爆雷などを
マガジンからここセカンドデッキにあるメスデッキエリアまで運ばれます。

低い階にエレベーターがあるという意味は、4階下にあるマガジンと
直接的に連結できるということです。

セカンドデッキからハンガーデッキには別の武器エレベーターが開通しています。

こうやって分けることによって万が一運搬中にが爆発した場合、
ダメージを最小に止めることを目的としています。

要するに、最初に武器の収納ありきで軍艦というのは設計されており、
これがため、少々おかしなことも起こります。

 

皆さんもお気づきかと思いますが、この武器受け取りのエレベーターは、
見学通路の途中、すなわちギャレーの動線にありまして、つまり
爆弾専用のエレベーターが食堂のど真ん中にあることになるのです。

わたしも最初この配置には首を傾げずにはいられませんでしたが、
爆弾の艦底での収納場所からエレベーターの位置はここしかない、
ということでそういうことになったのでしょう。

万が一、実際に爆弾を実戦で扱うような事態になったときには、
誰もご飯を食べている場合ではありませんので、同じ場所でも不都合はないのです。

 

ただ、普通に「ミッドウェイ」では訓練も行うわけで、訓練中には
数千人の乗員のうち誰かが食堂でご飯を食べているわけです。

というわけでその人たちは、食事中、馬鹿でかい爆弾が
食堂を突っ切っていくというシュールな光景を目にすることになりました。

 

冒頭の写真の入り口のような施設を「サス・ケージ」と言います。

「サス」が何をサスのか、これは日本語の本で読んだのでわからないのですが、
このサス・ケージ、艦内にはここ以外にももう一箇所ほど存在しているそうです。

ご覧のようにワンウェイミラーになっていて向こうからは見えても
こちらから中を見ることはできないようになっています。

ケージの中にいるのは海兵隊員で、窓の前に座っていつでも見張りをしており、
前に誰かが立つだけですかさず対応してくる仕組み。

このマジックミラー越しに入室許可証を出してきた関係者だけが
中にはいることができ、大変厳格でした。

初めて「ミッドウェイ」に乗ったものは、大抵
このサス・ケージの真っ黒な窓の向こうに何があるかがどうしても気になって、
つい顔を窓にくっつけて中を覗こうとします。
すると、中にいる海兵隊員が

「こらあっ!すぐそこをどけえ!」

と大声で怒鳴ってくるのです。

なまじ食堂への通路にあったりするので、好奇心に駆られる水兵は後を絶たず、
1日になんども前に立って顔を押し付けてくる間抜けヅラを怒鳴りつける
海兵隊員も、いい加減うんざりしていたことと思われます。

 

 

ところで、かつて「ミッドウェイ」の下士官だった「ミッドウェイ」の著者
J. スミス氏が初めてサンディエゴの「ミッドウェイ」を見学したとき、この部分は
艦内ツァーの対象にもなっておらず、パンフにも乗っていなかったようです。

おそらく、このような人形もその頃はなかったのに違いありません。
スミス氏が「ミッドウェイ」を訪れたのは、彼女が博物館としてオープンした
2004年のことで、もう14年も前のことなので、無理もありません。

この本が書かれた時に著者がインタビューした博物館のマーケティングディレクター、
スコット・マックガウ氏は、

「ミッドウェイの博物館への変身は最長10年かけて行う予定である」

と言っており、そのころの「ミッドウェイ」は博物館というより
ほとんど現役時代の空母そのままを展示しているようなものだったとか。

(それはそれで意味があるのでは、という気もしますが)

 

ついでに「ミッドウェイ」の博物館化までの話をしておくと、
サンディエゴ市が日本での任務を終え、1992年に退役していた
「ミッドウェイ」を博物館にする計画を起こしたのは、1996年のことです。

1997年に除籍になった「ミッドウェイ」はその後オークランドでドック入りして
2003年にサンディエゴに回航され、次の年にはもう博物館として公開されています。

最初は一般公開している場所も非常に限定的であったそうですが、
ディレクターのいうように、10年をめどに展示を整備していき、
甲板の航空機や映像コーナー、そしてあちこちの「ミッドウェイ」人形など
充実を図ってきた結果が、現在の展示艦「ミッドウェイ」の姿です。


現在「ミッドウェイ」が係留されている桟橋は、もともと海軍の所有でしたが、
オープンの3年前に、急に海軍が権利を放棄する決定をしたので、
複数の連邦機関が桟橋の所有権を欲しがって動き出したと言うことがあり、
それは博物館「ミッドウェイ」オープンへの最大の難関でした。

マックガウ氏ら関係者はワシントン詣でをして嘆願を行い、
桟橋の所有権はサンディエゴ市の港湾局に渡って一件落着したそうです。

しかし、その間博物館への寄付金を募ることができず、大変だったとか。

「ミッドウェイ」の運営と、次の大きな問題だった環境に対する税金は
全て寄付金で賄いました。

また、環境問題の他にも、「ミッドウェイ」係留によって海岸線の景観が損なわれる、
という理由で博物館を許可しない、と言う事を言ってきた州政府組織もありました。

このことが公聴会で図られることになった時、なんとしてでも
「ミッドウェイ」博物館をオープンさせたい人々は作戦を練りました。

公聴会がテレビで放映されることになったので、推進派はサポーターを集め、
このプロジェクトが多くの市民のサポートを得ている事を強調しようとしたのですが、
公聴会では発言のあと拍手をすることが許されていません。

そこで、500人のサポーターには小さな国旗が配られました。
賛成発言が終わるたび、声を出さず、全員で一斉に旗を振ると言う作戦です。


このような努力が実を結び、全会一致で「ミッドウェイ」博物館のプロジェクトを
推進する許可を得ることができたということです。


こういった事をマックガウ氏からインタビューで聞いたあと、
かつて下士官としてここに勤務し、やっぱり好奇心に駆られて小窓を覗き込み、
海兵隊員に怒鳴りつけられたスミス氏は、ここぞと

「特殊兵器格納室を見せてください」

と頼んでみたそうですが、

「まだ照明と消火設備が整っていないので消防署によって現場は封印されている」

ということで、あっさりと断られたということです。

ちなみに特殊兵器庫をガードしている海兵隊員はM-16を手にしていて、
海軍軍人だったスミス氏からみても「とても怖かった」とか・・・。


それから14年経った今も、「ミッドウェイ」の特殊兵器庫はまだ公開されていません。



続く。



 

ジェネラル・クォーターズ(想定訓練)〜空母「ミッドウェイ」博物館

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前回、「ミッドウェイ」の医療区画についてお話ししましたが、
今日のテーマは負傷者救助を含む訓練です。

前回こわーい警衛のおじさんが立っていたメスデッキのブースの近くに、
救急救命用のステーションがありました。

駆逐艦「JPケネディJr.」でも見たのと同じストレッチャーです。

メディックのウィスラーさんが佇んでいます。
ここはバトルドレッシングルーム、戦闘時に負傷したものの応急手当てをします。

何かあったとき、ここで怪我の程度を判断し、
シックベイに送る優先順位を決定するトリアージもここで行います。

 

バトルドレッシングルーム内部。
トリアージや搬送にかかる前に大きな十字のついた上着を上から着て、
負傷者が倒れていた場合のために器具の入ったショルダーバッグを背負います。

半裸で目を剥いた人が治療を受けていますが、ご安心ください。
これは実戦ではなく戦闘訓練中、負傷したという設定です。

訓練中、負傷者認定された乗員はメスデッキのここ、
トリアージステーションに行かねばなりませんでした。
ただし、何人かはメディックの訓練のため倒れたところで
そのまま手当を受け(るふりをさせられ)ることになります。

バトルドレッシングステーションは、広い空母の一箇所ではなく、
いたるところに点在していました。

日本語でどういうのかわかりませんが、「ジェネラル・クォーターズ」って
聞いたことがありますか?
よくアメリカの戦争映画で、(真珠湾攻撃の時とかね)

「This is not a drill. this is not a drill 」(これは訓練ではない)

という放送があるじゃないですか。
GQはこの「訓練」のことで、「これは訓練である」に続き、

「General quarters, general quarters, 

All hands man your battlestations.」

全ての(担当)者はバトルステーションに行け、
とコールするわけです。

冒頭のYouTubeは、かつてこのブログでも取り扱った映画
「ファイナル・カウントダウン」における1シーンですが、
最初に上記通りのことがアナウンスされています。


ジェネラル・クォーターズ、バトル・ステーションズ、または
アクション・ステーションズとも言われるこの警告音が鳴ると、
各々の医療ステーションには少人数のメディッククルーと医師、
あるいは歯科医が駆けつけて待機します。

海軍では軍艦に乗り込む歯科医は、全て止血と応急手当てについて
最大限の訓練を受けることになっているのです。

 

GQで発生した負傷者の傷の具合を観察し、トリアージを行うと、
この近くにある手術室に送り込む患者と、手元で治療をする患者に分け、
より重症者や一刻を争う負傷者はすぐさま手術室に搬送されます。

 

このジェネラル・クォーターズ、GQについてお話ししておきましょう。

 

GQは艦内全域が対象で、特にフライトデッキとハンガーベイを中心に行われます。
予告されて行われますが、発令された時、フライトデッキにいる者はそこに残り、
ハンガーベイにいればやはりそこに残ることになります。

各ショップにいる者は、訓練内容に応じて参加したりしなかったり。
冒頭のシーンでは、ショップからも全員が出て行く様子が描かれています。


乗員にとってのこの訓練目的は消火と負傷者救出で、フライトデッキとハンガーベイ、
同時に行われ、乗員はたまたまどちらかにいたら、そこでの活動に参加します。


参加の際気をつけることは、

「ズボンの裾を靴下の中に入れる」「まくってある袖はおろす」

だそうです。
訓練の行われる時間はまちまちで、午後8時から開始という場合もあったようです。

艦長から

「ミッドウェイ、艦長だ。
たった今、ミッドウェイのインテリジェンスから、イランから飛び立った
ミグ戦闘機が2機、ミッドウェイに接近中との連絡が入った。
ミサイル攻撃の可能性がある。GQに入る!」

と説明がなされると、身の毛もよだつような

グオーン、グオーン、グオーン

という警報音が艦内に鳴り響きます。

「これは訓練である。これは訓練である。
ジェネラルクォーターズ、ジェネラルクォーターズ。
総員戦闘配置につけ!」


うおおお、かっこいい!
やっぱ海軍軍人になったらこういうこと言ってみたいよね。
たとえ訓練でも。

そして、訓練は2時間各所で行われます。

たとえば、フライトデッキでは・・・。

「さあ、みんな、GQだ。戦闘配置につけ」

と、エアボスの静かで落ち着いた声がフライトデッキに流れる。
その直後、それまで真っ暗だったフライト・デッキにライトが点灯し、
デッキの上は昼間のように明るくなる。
そして、数百人がそれぞれの持ち場につき、次の指示を待つ。

が、なかには訓練の参加を嫌がり、そっとデッキから離れ、
どこかに雲隠れする不届きものも必ず何人かいる。

後でハンドラーの子分の小僧たちに見つかり、晒し首にさせられるのが関の山だ。

(J.スミス『空母ミッドウェイ』)

ハンドラーというのは中佐職で、フライトデッキとハンガーベイの責任者。
艦載機用のエレベーターなども、この人の許可がなければ作動しません。

彼の下で働いている「小僧たち(ボーイズ)」は、ハンドラーが放つ歩兵で、
ハンドラーの指示がなければ一歩も動かず、の絶対的な権限をかさにきて
皆が威張っているのが普通です。
サボっている人たちをショップの「穴ぐら」からつついて追い立てる、
というなかなか楽しそうな仕事も彼らの特権でした。

GQ訓練の想定はいつも同じではなく、たまに何もなかった、という状況で
作戦本部だけの訓練に終わることもあり、皆はそれを期待するのですが、
どっこい上層部の気分によっては(たぶん)そうは行かないこともあります。

最悪のパターンというのは・・・・・

「ミグ戦闘機からミサイル発射!ショックに備えよ!」

皆デッキに伏せたり、手近なものに捕まったりして衝撃に備えますが、
訓練だからとぼーっと立っていたり無駄口を叩いていると、
黄色いシャツの小僧たちに大声で怒鳴られることになります。

アメリカ人が好きな「非常時のジョーク」も海の上ではご法度です。

そして、ミサイルが命中し、火災が発生したというアナウンスがあると、
その時は皆にとってもっとも嫌なシナリオとなるのです。

ファイアーマンである赤いシャツが消火活動を行う間に、
黄色シャツが牽引車を火災現場に急行させ、引火を防ぐために
火災現場から艦載機を移動します。

移動される艦載機にはブレーキ・ライダーという名前はちょっとかっこいいですが、
なんのことはないコクピットに乗って万が一の場合に備える係が呼ばれ、
全力疾走でフライトデッキを駆け抜けて飛び乗ります。

この全力疾走具合がエアボスのお気に召さないと、その航空部隊の
FDC(フライトデッキ・コーディネーター)は後日彼に個人的にご招待を受け、
蛇に睨まれたカエルの気分を満喫することになるのです。

FDCというのは各艦載機部隊に一人いて、フライトデッキを仕切る下士官です。
一般的に「部隊の生贄」と呼ばれており、こういう場合文字通り
生贄のカエルとなって叱られるというチーフの中でも損な役割の人です。

火災現場では、黄色シャツが主導して炎上している艦載機を
放射状に取り囲むように縦数十人の列が数カ所にできると、
黄色いシャツが前から順番に、

「消火ホースを持って位置につけ」

「消化器を持って後に続け」

「担架を持って待機」

「情報伝達せよ」

などと次々に指示を出していきます。

自分の仕事が終わると、すぐさまもう一度列に並ぶことになりますが、
短い列に並ぶとすぐに指示を出されることになるので、皆
自然と長い列の後ろを選んで並ぶのだそうです(笑)


この中でも消火活動に配置された人は不運で、2時間の間黄色シャツやボースンから

「おい、こら!なんだそのホースの握り方は!
もっと上下に大きく動かせ!」

などと怒鳴られながら、水の出ていないホースを動かして消火するふりをします。
さらに、火災が他の機体に広がり、爆発して負傷者が出た、ということになると、
負傷者に認定された者は怪我を負ったふりをしたり、死んだふりをして
デッキに横たわり、じっと救助がやってくるのを待つのです。

 

かたや救助者に認定されると、艦内いたるところにある担架を持って、
倒れている人を乗せて診療所まで運んでいくのですが、これが大変。

自衛隊で同じ訓練をしても、担架で運ぶ人の体重が重すぎる、
というようなことは滅多にないと思われますが、アメリカ人というのは
普通に100キロ超える体重の人がゴロゴロしていますからね。

倒れている人が巨漢だと、

「ちょと起きてあそこまで歩いてくれんか」

「ノー、俺は足を骨折してるんで歩けねえ。運べ」

などという会話がこそこそ囁かれ、途端に

「こらあ、出血多量で死ぬぞ!さっさと運ばんか!」

と黄色シャツから怒鳴られる羽目になります。

 

ハンガーベイでは、想定現場が自分のショップと離れていると

「ベイ2だって・・・行く?」

「ここベイ1だし、行かなくてもいいんじゃね?」

などと言いつつ、小僧たちが今にも来そうで気が気でない者がいれば、
そんな時にも現場がどこであろうとすぐに飛び出して行く愚直な人もいます。

どんな社会にもこういう二種類の人間がいるものです。


艦載機が火災になった、というお知らせは

「火災発生、ベイ1、機体番号612、HC-1、ヒーロー」

などとアナウンスされますが、これが自分のところの機だったとなると、
全員が否が応でも現場に直行することになります。

自分の部隊の艦載機が火災になるというのもかなりの低確率ですが、
下手すると1000はあろうかというコンパートメントの一つが
火災発生の想定場所で、それがたまたま自分のコンパートメントだった、
などというのは宝くじに当たるようなものだったそうです。

「神」であるところのメインテナンスコントロールのマスター・チーフは
自分のヒーローが火災になったとなると、インターホンに向かって

「お前ら全員消火活動に参加してるか?おい、こら返事しろ」

などと、もうすでに誰もいないショップに向かって怒鳴り続けるのが仕事ですが、
そんなチーフも自分のコンパートメントが火事になったとなると・・。

「火災発生、コンパートメントナンバー02、HC-1、メンテナンスコントロール」

「おっ、聞いたか、うちのメインテナンスコントロールだ!
おもしれえ!マスターチーフ、今頃慌ててるぞ!」 (空母ミッドウェイ)

などと下の者は面白がります。



1991年の湾岸戦争の前後には、火災、救出活動と同時に、化学、生物、
もちろん核兵器という攻撃を受けた場合の想定訓練も行われました。

イラクが実際に毒ガスを使ったという事実もあり、「ミッドウェイ」では
ガスマスクの装着訓練は頻繁に行われていました。


練習はまず部隊ごとに数人のグループに分かれ、なんどもなんども、
マスクと防護服を確実に、指定された時間内に装着できるようにします。
それができるようになると、検査官のテストを受けることになります。

このテストとは、特別に訓練を受けた検査官によって行われます。

マスクをつけた検査官と防具を持った被験者が特設の小さな部屋に入ると、
電気が消されて部屋の中は真っ暗にされます。

入室時にドキドキしていた被験者も、そのうちアメリカ人らしく雑談を始め、
マスクをした検査官はダース・ベイダーの声で雑談に加わり(笑)
和やかな雰囲気になったと思った頃を見計らって、
部屋に催涙ガスのようなものが流れ込んで来ます。

シューという音にたちまちパニックに陥る被験者たち。

しかしダース・ベイダーが、

「マスクは合図があるまで装着するな」

「ひえー!目が痛い!喉も痛い!検査官、ガスが出てるぞう!」

「わかっとるわかっとる」

わかっとるわかっとるって、自分はマスクしてるじゃねーかよ!
わかってねえ、オメーはわかってねーよ、と心で罵りながら苦しんでいると、
30秒たってようやく検査官、

「よし、マスクを装着しろ」

しかし練習の段階で目をつぶったままでも装着できるようになっていたはずなのに、
慌てているのと部屋が暗いので皆思うようにできません。

訓練がこれから行われる、と心の準備ができているのと、
想定外の手順で来られるのでは全く勝手が違うということを
身を以て知るための「検査という名の訓練」だったというわけです。

 

GQの頻度は週に1度、多くて2度というものですが、訓練の内容がよくない、
と判断されると、二日、時として三日連続で行われることもありました。

もちろん連日の訓練に乗員は全員が辛い思いをすることになりますが、
そんな時にはかえって緊張感が出て結局は充実した内容になることが多かったそうです。

 

ちなみに、GQが始まって早々に負傷者になると、何もしなくていいので、
特に死亡者に割り当てられると「ラッキー」と皆が思ったとか。

 

続く。


参考:「空母ミッドウェイ アメリカ下士官の航海記」J. スミス著

デンタル・シックベイ〜空母「ミッドウェイ」博物館

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さて、空母「ミッドウェイ」のシックベイ、医療区画を見学しています。
続いて、医療は医療でも歯科医療のコーナーに出てきました。

あー、こんな歯医者さん、いそう。日本人でも(笑)

といういかにもな歯科医が微笑んでおります。
カーキ色の士官用勤務服の上に白衣を羽織っており、
襟につけたシルバーの「II」のようなバッジから、
階級は大尉であることがわかります。

机の上にあるバインダーは「シックコール・ログ」で、
兵員居住区の各区画から上がってきた健康に関する報告です。

ここにあるからにはただの洗面所ではなさそうです。
洗面台上の赤いプレートには

「もしまだ歯磨きとフロスをしていなければ今やってください」

とあります。
歯の診察前にちゃんと歯磨きとフロスをしていくのは常識ですが、
駆けつけた場合はここで行うのかな?

と思ったのですが、上の「ミッドウェイ・デンタル・デパートメント」
という説明によると、ここは「口腔衛生室」。

この洗面台は、歯科衛生士による歯磨き指導が行われ、
また濃縮フッ素を塗布するためだけに存在します。

アメリカ人が口腔衛生を非常に重視する国民であることは有名ですが、
まさか軍艦内にここまでするプログラムが存在しているとは・・・。

それもそのはずで、日本ではまだ少数派に属する予防歯科という概念を
アメリカでは全海軍が重点的に推し進めているからです。

アメリカでは歯の白さはもちろん、歯並びで人間を判断するというのは本当で、
歯並びが悪いと家の貧困や教育の程度までを疑われてしまいます。

「あそこまでこだわるのは異常だ」

それを知る日本人にはこんなことを言う人もいますが、
審美的なこと以前に、口腔衛生を彼らがこれほど重視すると言うのは、
口腔の状態が悪いとそれが誘因となって病気や不健康な状態をを引き起こす、
というのが常識となっているからです。

ここは全部歯科の区画となります。
広い。とにかく広いスペースが全部歯科専門の分野です。

歯科技工士の専門のラボラトリーがありました。

ここでは歯科治療に必要な、差し歯や総入れ歯(必要な人がいれば)
から金歯、ポーセリン・クラウン(被せ物)を作ることができました。

専門の技術を学んだ二人のスタッフがここで作業をしており、
一人は主にセラミックの歯を作る技術に習熟していました。

金や銀の歯は「ロストワックス」という方法で作られ、
この部屋の奥にある遠心式の鋳造機で製造していました。

Dental laboratory casting

どんなものか具体的に見たい方はどうぞ。
時間がない方は1:30あたりからで十分です。

こちらの方がセラミックの専門家ですね。

この辺りに研磨機とか、その遠心鋳造機などがあります。
空母勤務の乗員はここが生活の場そのものなので、

「歯が悪くなったけど今度上陸した時まで我慢しなきゃ」

などということでは海軍の目指す歯の健康は保たれません。
船の上の虫歯は船の上で治す。
「ミッドウェイ」の上で全て完結してこそそれは可能となるのです。

治療室その1。

棚の上に「リングフラッシュ」というカメラが置いてありますね。
これは歯科で口腔内の状態をカルテに残すために使うカメラで、
レンズの周りにフラッシュをつけることによって、接写の際、
被写体の影が映り込むことを避ける機能を持ちます。

わたしの通っている歯医者では、Nikonのメディカルニッコールを使用していますが、
このカメラがどこのものかはこの距離からはわかりませんでした。

壁には歯科医の免許が額に入れて貼ってあります。
日本の歯科医大学を出た歯科医はあまりやらないようですが、
アメリカでは大学の卒業証書を診察室や待合室に掲げる医師がほとんどです。

日本で開業している医師も、海外の大学を出た医師はそうしています。

息子の矯正歯科医は、コロンビア大学の卒業クラスの顔写真入りの証書を飾っていて、
同級生のアフリカ系のヘアがブロッコリー風だったり、白人男性は
もみあげが妙に長かったり、という時代が感じられる写真の中に
失礼ながら今では見る影もない青年だった頃の先生の姿があります。

「アーリーミッドウェイ」というのは就役した1945年から70年代までくらいでしょうか。

 

施術室その2。

こういうのが当時の典型的な歯科治療用の椅子で、ここでも使われていました。
歯を削るのに使われたドリルはベルト回転式で5,000rpm /1分間といったところでしたが、
これでもかなり速度的に改善した方だと言います。
ちなみに現在のエアタービン式によるドリルの速さは30万〜40万rpmくらいです。


昔は麻酔していたとしてもかなり痛みがあったんじゃないでしょうか。
そして次にわたしのこの推測を裏付ける展示が現れました。

このコーナーに近づいていくと、なにやら男のうめき声が聴こえてきました。

「あう〜〜〜・・ああ〜〜〜・・」

という苦悶の声がエンドレスで流され、写真の治療中の乗員が
あまりの痛さに叫んでいるということが部屋を覗いて判明しました。

それにしても、今の歯科治療って、そんなイメージありませんよね?

わたしも過去の治療で親知らずの抜歯を含め、痛い思いをしたことはありませんし、
昔歯科矯正に通っていた大学病院で、待ち時間に歯を削っていたらしい
おじさんかお爺さんの絶叫を一度だけ聞いたことがあるという程度です。

「このころの歯医者は痛かった」

という説にはちゃんとした理由があって、まず一つは麻酔の針。
現在は大変細い針が出ていて、麻酔が歯茎に確実に刺さるため、
ちゃんと麻酔が効いてなにをしても痛みを感じなくなったこと。

もう一つは、昔は歯の接着剤が良くなかったため、詰めものがとれないように、
深く削って詰めなければならなかったのが、15年ほど前から優れた接着剤が登場し、
大きく削らなくともよくなったのだとか。

ちなみに日本製の接着剤はこの分野では世界のトップで世界に輸出しているそうです。

とにかく、この患者さんは麻酔をされても深く削らなくてはならなくなって、
治療中に大の男が大声をあげてしまっているというわけ。

この展示は渾身のできで(笑)ご丁寧にも患者さんの脚が
交互にバタバタ動いていました。

当時、せめて日本製の優秀な接着剤が世に出ていれば、
この患者さんもここまで苦しまなくて済んだのかもしれません。

治療室その3。

やっぱり何千人もが生活する空母では、1日に何人もが歯科治療に訪れるのでしょう。
治療が必要な状態になるまえに、予防歯科で虫歯を作らないようにするのが
海軍の目標である、ということのはずですが、実際はどんなに啓蒙しても
虫歯になってしまう人が出てきてしまうのが常なので、おそらく海軍は乗員に
定期的な歯のチェックと清掃を義務付けていたのだろうと思われます。

ちなみにわたしのようにミュータンス菌を生まれつき持っておらず、
毎日のケアに異常なくらいの熱意を払っているような人間であっても、
歯周病との戦いにおいては最近負けが込んでいるというくらい、
人間の歯というのは普通にやっていては健康を保つことが難しいものなのです。

この部屋では被せ物や義歯を患者に作るための検査と、できた歯を
装着するという作業が行われていたらしいですね。

部屋の上のこれ、今でも全く同じの使いますよね!

クラウンなどを作るためには、まず口の中を再現するために
石膏の模型を作るのですが、このシャベルみたいなのにワックスを乗せて、
口に突っ込み、そのまま固定させて何分かじっとそのままにしておくのです。

時間が来たら「んがっ」という感じでシャベルを引き抜くと、
ワックスに歯の形がそのまま残っているので、それを使って
石膏を流し込み、歯型を作って、噛み合わせを再現するのです。

どれだけの患者がこの治療を必要とするのかわかりませんが、
歯型を保存しておくだけでも結構なスペースを取ったはずなのに、
さすがはアメリカの軍艦、その手間と空間を確保していたんですね。

人工的にクラウンを作るときに必ず見せられる歯の色見本。
その奥のグリーンのものは、右上の白いトレイに詰めて、
石膏型を作るための型取りワックスです。

グリーンの横には型取をしてワックスで形を作り、鋳鉄して作った
金属の歯に降下プラスチックを貼り付けた歯が石膏型にはまっています。

患者さんが来たら、これからこの歯を装着するのです。

なんども言いますが、これらの治療を空母の上でやっていたとは驚きです。

「ミッドウェイのデンタルな野郎ども」

の顔写真コーナー。

司令官(左上)から順番に

シニア・デンタル・オフィサー(中佐)

LCDR(liutenant commander) (少佐)

CPOであるチーフ以下下士官のDT (デンタル・テクニシャン)

シーマンが中心のDN(デンタル・ナース)

という構成です。

電卓と電動タイプライターのある机。
ファイルには縦書きで

「デンジャラス・ドラッグス」
「医療計画」
「ホスピタル・コーア」(医療部隊)
「予防メソッド」「手術メソッド」

そして歯科関係の医学書などが並んでいます。

レントゲンを撮る部屋です。
毎日のようにX線で撮影を行うため、部屋は銅でシールドされていました。

これも、歯科医でX線撮影をしたことがある方ならご存知だと思いますが、
写真は、口の中に写真を撮る幹部に当てるように小型のフィルムをセットし、
(プラスチックの器具を無理無理口に抉じ入れるので痛い時もある)』
外側に器具を当ててドアの外に出て、撮影を行います。

今はデジタルですぐさま画像を見ることができますが、
この頃はいちいち現像を行なっていました。

現像室は冒頭写真の部屋の後ろ側にあります。

会計も行うのだと思いますが、チェックインもここで行なったようです。
窓の上に大きく

「カバーを外してください」

とあります。
保険証とか、IDとかのカバー?

その上には

「先にチェックインしてから座ってください」

こんなことをわざわざ書かなくてはいけないとは・・。

受付に座っているSaluta (サルタ)さんの表情がなんとも言えない
いい味を出しているので冒頭写真でもアップにしておきました。

痛いのが当たり前だった頃の歯科の受付として、
彼はこのスマイルでここに来る気の毒な人々を癒していたのでしょう。


続く。

 

 

「バルクルーサの”ピッグルーサ”ただ今トン走中」〜サンフランシスコ海事博物館

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さて、サンフランシスコ海事博物館のメイン展示といってもいい、
「バルクルーサ」についてお話することにします。

バルクルーサは1860年台にイギリスで建造された貨物船です。
イギリスの旗を揚げて航行している期間、サンフランシスコには
5回、石炭と貨物をヨーロッパから運んでやってきて、帰りには
カリフォルニア産の麦を積んで戻っていったという経歴があります。

1903年から1930年までの間は、鮭缶を作る工場のために
サンフランシスコとアラスカを往復し続けました。

「バルクルーサ」は3本マスト、船殻は鋼鉄、スクエア・リグの船です。
彼女の複雑な装備と25枚の帆を海上で船を扱うには約26人の乗組員が必要でした。

さて、それでは岸壁から非常に緩やかな傾斜になるように斜めに渡された
舷梯を登って、まずは甲板と上部構造物を見ていくとしましょう。

「バルクルーサ」に乗船するための舷梯は、このように
甲板までは楽に上り下りできるようなスロープです。

帆船の気の遠くなるような数のリグを結ぶためには、
このビレイピンという独特のペグを使用します。

さすがはサンフランシスコ海事博物館の展示だけあって、今まで見てきた
展示船、展示艦の中でも説明などが大変凝っているという気がします。

手書き風のレタリングも麗しいこういった説明のボードがいたるところにあります。

で、この「ザ・カーペンターズ・シップ」というタイトルの説明ボードには。

「通常船大工は北部出身者であった」

と赤字で書いてあります。
スコットランド、フィンランド、スェーデン、ノルウェー、
ノバスコーシア(カナダ)の出身者は得てして優れた造船職人であり、
船で必要な様々な仕事において大変重用されたということです。

未完成の状態の帆柱に登って船を仕上げるような危険な仕事は
木材の伐採に関わってきた職人の得意とするところだったんですね。

ボストンで見学した「ティーパーティー」参加船のレプリカでもそうでしたが、
船の修繕を行うカーペンターズショップは甲板にありました。

甲板の上の構造物はこういう「平屋」となっていて、ここにいくつかの施設があります。

例えばその一つ、キッチン。
この写真だけ見ると、一般家庭の台所みたいです。
天井には明り採りが設けられ、明るくて何よりも風通しのいい環境。
床のタイルもオシャレですが、これは多分改装されたものでしょう。

もっとも、この船がアラスカにいるときには風通しの良さが辛いことに。

「船のコック」についての説明ボードの展示も、なんともいい感じ。
時化の船上でてんやわんやのキッチンの一コマが描かれています。

昔の船のコックはそれは大変だった。
私はその中の一人、老いたネズミのようにタフな一人を忘れられない。
彼は航海中、決して靴を履かず、ギャレーとキャビンの間を裸足で往復していた。
どんな極寒の気候であっても。
海が時化たとき、靴を履いていると転倒してしまうからというのだ。

彼は自分の鍋やフライパンなどに名前をつけて呼んでいた。
大抵は12使徒から取ったもので、ヤコブとかヨハネとか。
そして時化の時にお皿が飛んだりすると、彼らの名を罵っていた。
おそらく使徒たちもこれにはびっくりだっただろう。

 

1894年に書かれたある船長の回想です。
何に”ユダ”という名前をつけていたのか気になるところですね(笑)

昔の船は家畜、鶏や豚を積んで航海を行いました。
卵は船長や上級船員たちの口には入らない貴重な食材です。

生きたまま”食材”を連れて行くことを「ライブストック」と言いました。

ところで、1920年ごろの「バルクルーサ」にはこんな記録が残っています。
ここに入れていた豚さんが逃げ出して、乗員総出で「メリーチェイス」
(愉快な捕物)を行なったというのです。

船内報が早速出されました。

「バルクルーサのブタ”ソウクルーサ” Sowcluthaが今日檻から逃げました。
誰か彼女を見ませんでしたか?」

"sow" にはメスの豚という意味があります。
さしずめ日本なら「ブタクルーサ」「トンクルーサ」「ピッグルーサ」ってとこでしょうか。

このころのボートはこんな状態で搭載していたようです。
雨水や海水が溜まらないので方法としては頷けますが、
一体どうやって積み下ろしを行なったのか・・・・。

船内に通じる伝声管。
向こうからの声は聴こえてきたのでしょうか。

しかしこの形状、海水入ってこなかったのかな。

アラスカではこんな状態になることもよくあったようですから。

アラスカでのサケ漁に帆船が使われていた、という話を
サンディエゴの「パール・オブ・インディア」の見学で知ったとき、
なんて無謀なことをするのだと内心驚嘆したものですが、
実際にも「帆を使っての海とのバトル」は凄絶なものだったと書かれています。

激しい風雨に見舞われたとき、全ての見張り員はメイン、あるいは
前檣の帆を畳む、あるいは収納するために上に配置されました。

現場に貼られた、ぐらぐら揺れる足ロープの上に立ち、不規則に揺れる
半エーカーのカンバスを引っ掻いて指からは血が滲ませながら
彼らはガスケットが風を受けないように格闘しました。

その具体例。

「あなたが立っているところの頭上にその帆柱を見ていただくことができます」

はい。

帆柱の根元。

「コイリング・ダウン」Coiling downは「巻きおろす」作業のこと。

ここで行われていたハリヤードやクルーラインなど巻き下ろしをする作業が
絵にも描かれています。

形状と配置場所がまんまVLS(笑)。

上部構造物のさらに上にデッキがあります。

この階段を登っていって上を見てみましょう。

船のトップデッキに出ました。
立入禁止区域はなく、全部をくまなく見て歩くことができます。

まずはここからの眺めを楽しみましょう。
向こう側に見えているのは左が蒸気タグボート「ヘラクレス」、
右側は蒸気フェリー船「ユーリカ」です。

「ユーリカ」も今回中を見学してきましたので、またここで取り上げます。

バウスプリット越しに望むサンフランシスコの街。

タグボート「エプルトンホール」の向こうにあるのは
「CA セイヤー」というスクーナーですが、今回は公開していませんでした。

バウスプリットの上も普通に歩いていかなければならないのが船乗り。

この海に突き出た角材のことを「キャット・ヘッド」と言います。



船が入港するアプローチポイントに来ると、船の錨は
キャットヘッドから「リング・ストッパー」と呼ばれる鎖で吊るされます。

錨の反対側のチェーンはキャットヘッドにくっついていて、
「レリゴー!」・・・・じゃなく「レットゴー!」の号令が下ると、
ちょっとしたピタゴラ装置のおかげで(いいかげん)投錨が行われるのです。

キャットヘッドを全部入れるために変な角度で写しましたがお許しください。

要は錨を吊るす釣り竿みたいなものなので、両舷に突き出していて、
それが猫のひげみたいに見えるからこのネーミングだそうです。

キャットヘッド、外側から見たところ。
下部に滑車らしきものがあるようにも見えます。

上甲板から船尾側を写しました。
手前のが前檣、その後ろがメイン、一番後ろが後檣です。

「バルクルーサ」と名前の入った時鐘は長年の使用により青サビが浮いて・・・。
おそらくこれは間違いなく1886年建造時から変わらないものと思われます。

 

続く。

 

 

 

「ポンプ、ポンプ、ポンプ!」〜帆船「バルクルーサ」サンフランシスコ海洋博物館

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サンフランシスコ海事博物館にある帆船「バルクルーサ」を見ながら、
十九世紀末の帆船で働く人々について、現地の説明ボードを元に
お話ししています。

いやー、しかし、そうではないかとは思っていましたが、
このころの船ってもうブラック企業なんてもんじゃありませんわ。

ブラック企業でも一応社員は自分の意思で入社してきた人ですが、
こちらは下手したら攫われてきて仕方なく働いてたりしますから。

「バルクルーサ」甲板から遠くゴールデンゲートブリッジを臨む。
波が全くありませんが、これはこの部分が突堤に囲まれているからです。

橋の左に倉庫のようなものが見えているかと思いますが、ここは
フォート・メイソンといい、先日ご紹介した映画「ダウン・ペリスコープ」
(イン・ザ・ネイビー)のラストシーンで、主人公たちが乗っていたディーゼル艦、
「スティングレイ」が入港した岸壁です。

映画に使われた潜水艦「パンパニート」は今いるところのすぐ後ろにある
「フィッシャーマンズワーフ」の岸壁に展示されていて、映画のために
わざわざフォートメイソンまで引っ張っていったといわれています。

この説明にある「メインロイヤル」というのは、帆船で一番上に張られる帆のことです。

一番高いところにある帆ですが、その割にこれを張る仕事は
他のいろんな船上の仕事の中でも簡単な部類に属するのだそうです。

その大きな理由は、帆そのものが一番上のなので小さいことがあげられます。

高い部分なので大抵は修行中の少年が船の動きを覚え、
できるだけ早く仕事に慣れるためにそこでまず仕事をさせられます。

「ロイヤルを畳むこと」

これが船乗りとして最初にインストールするべき基本なのです。
もちろん、いきなりそんな高いところに登らされる初心者の少年は
誰しもパニックすれすれになるくらい緊張するわけですが、
そんな彼らに対し、ベテランの船乗りはこう言い聞かせます。

「一つの手は自分のために、もう一つは船のために使え。
自分の手元だけを見て、決して下を見るな」

それでは逆に、一番船員たちに嫌われていた仕事とはなんでしょうか。

それは間違いなくこのポンプ作業だったと思われます。
このころの船は、船の水を外に出すことを人力でせねばならなかったのですが、
これは木製の船の日課といってもいい厄介な仕事でした。

午後はドッグワッチの時間、あるいはそれだけで十分でない場合、
4時間のワッチ時間の終わりにも行われました。

ポンプの仕事はハードでひどく評判の悪いものでした。
ですから、強風が隙間の詰め物が強風で飛んでいってしまったりする
木造の船に乗る人は鋼鉄の船を懐かしがったものでした。

「ポンプ、ポンプ、とにかくポンプだ。
さもなければ溺れるしかない。
波風をやり過ごすために帆をたたみ、
そしてポンプを押し続けなければならない。

船がひっくりがえって怒り狂う海に飲まれ、
時間のない世界に迷い込む前に、
とにかくポンプ、ポンプ、ポンプだ」

やってもやっても終わりがない状態の時には、無益な労働を繰り返さざるを得なかった
シーシュポスもかくやと思われる無常感と絶望感におしひしがれたでしょう。

ただし、シーシュポスと違い、彼らの仕事には
「死なないために」という最終にして最大の目的があります。


これがポンプの断面図です。
人力で動かすしか方法がなかったというのが辛いところですね。

 

しかし「バルクルーサ」がアラスカでサケ漁を行なっていた時、
こんな事件がありました。

1904年、アラスカからサンフランシスコに向かう『バルクルーサ』は
強風に見舞われ、船内に海水が浸入して左舷側に船が傾いてしまい、
とても人力でポンプを動かしていては間に合わない、という事態になったのです。

当時、「バルクルーサ」には貨物の積み降ろしのためにドンキー・エンジン
(ここの入り口に飾ってあったあれ)が搭載されていたのですが、
この非常時に、船員はこれを使うことを思いつきました。

急遽リグでポンプのベルトを作り、ポンプをエンジンの力で回すことによって、
左傾した船体から海水を汲みだし、無事に生還することができた、というのです。

これを思いつき、実行し、成功させた頭のいい人がいて本当によかった、
と乗員は皆胸をなでおろしたことと思われますが、
それより、急遽担ぎ出したドンキーエンジンが、あっという間にポンプのクランクを回し、
水があれよあれよと汲み出されていくのを見て、日頃ポンプ仕事を

「一番嫌な仕事」

として嫌々やっていた船員たちは、一様に

「最初からこういうの作ってくれよ・・・」

と情けない思いを抱いたのではなかったでしょうか。

だいたい、世界では(日露戦争もこの頃)石炭船が主流、
そのほかにも海底ケーブルだの無線だの科学の進歩が凄まじいこの時期、
帆船でアラスカに鮭を獲りに行かせるなどという前時代的なことを
労働者にやらせていたということ自体がブラック業界だったよね。

この上部構造物には入れないようになっていました。

ポンプの後ろにある構造物に入っていきます。
意外なくらい大きなスペースが広がっていました。

ここが昔なんだったのかはわかりません。

床はおそらく建造当時のまま。
時代を感じます。

この部屋に、「バルクルーサ」の生涯航路が地図で表されていました。

「バルクルーサ」は1886年にスコットランドで建造された船です。
1890年までは、ヨーロッパで収穫された麦をサンフランシスコに輸出していました。

その時はまだ運河が開通していないので、航路は大きく喜望峰を周り、
(ということはマラッカ海峡を帆船で超えたということですね)
太平洋を北上してサンフランシスコに到達していました。

もうこの頃には蒸気船も登場していたわけですが、優れた建造技術で
仕上げられた帆船「バルクルーサ」は、そんなことは御構い無しで
貨物を積んで世界中をまたにかけていました。

当初船員の構成は多国籍で、イギリス人が最も多く、その次に多いのがアメリカ人、
フランス人にイタリア人もいました。
アラスカでサケ漁をする頃には中国人がひどい環境で働いていたと言います。

1890年からは、「バルクルーサ」はニュージーランドにも寄港しています。
目的はイギリスのロンドンに持ち帰る羊毛と獣脂でした。

10年後には彼女はハワイ、ワシントン、オーストラリア間で
木材を主に貨物として航海を行っています。

なんども言っているように1904年からは、アラスカ・パッカーズアソシエーションが
彼女を購入し、同社のサケ漁船の一隻となり、同時に名前を

「スター・オブ・アラスカ」

と変えられました。

サンディエゴの「スター・オブ・インディア」という帆船について
ここでご紹介したことがありますが、同社のサケ漁船はその全てに
「スター」という名前がついており、自らその船を

「スター・フリート」

と呼んでいたのです。


続く。


平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊行事(ダイジェスト)

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早いもので、今年も練習艦隊出航関係の行事の季節となりました。
わたしの場合、その年の状況と自衛隊との関係によって、
参加するイベントは微妙に変わりますが、今年はまず晴海での艦上レセプション、
そして翌日の晴海から横須賀までの体験航海に参加してきましたので、
とりあえずクタクタに疲れている今日はダイジェストをお送りします。

東京晴海埠頭に停泊している「かしま」にとって、東京での最後の夜となるこの日、
艦上レセプションが行われました。

去年は横須賀でのレセプションに参加させていただきましたが、今年は
大阪と東京でのレセプションにお招きいただくことになりました。

わたしは開始時間より1時間も早く着いてしまい、車の中で約40分、
ある程度人が入るまでこんな写真を撮りながらじっと待っていました。

バスの横にいる一団は実習幹部の皆さんで、来客につき一人、
ラッタルの下から艦内までをエスコートするために待機しています。

30分待って入ったのに、会場はまだオープンしておらず、
クロークとなっているところでしばらく待つ羽目になりました。
会場が開場されて最初に入っていったという感じです。

「かしま」の隣には「まきなみ」が係留されています。
明日の体験航海にはこちらに乗ることが決まっています。

この艦上レセプションはわたし一人での参加となったため、
引っ込み思案に鞭打って、実習幹部はじめ結構たくさんの人とお話ししてきました。
本編ではそのことについてもお話ししたいと思います。

この日は日没時間の1836、自衛艦旗降下が行われました。


明けて翌日。今日は体験航海です。
同じ場所の同じところに朝8時に到着。

「かしま」の甲板を通り抜けて「まきなみ」に乗艦いたしました。
この日晴海から横須賀まで一般人を乗せて体験航海を行うのは
旗艦の「かしま」と「まきなみ」の二隻です。
自衛隊からいただいた体験航海の案内には、

「皆さんはまきなみに乗れてラッキーです!」

と書いてあったのですが、その理由は航海中に判明しました。
まあただわたしは「かしま」に乗ってみたかったかな・・。

この写真では隣の「かしま」艦橋上に人がたくさんいるのがわかります。

この日は事情があって自分で勝手に動くことができなかったのですが、
それでも航海中全ての見所はちゃんと抑えられたと思います。

甲板上の出航準備。

タグボートは二隻やってきて、「まきなみ」を引っ張りました。
向こうに海自のタグボートがいますが、なぜここにいるかは
現場の自衛官に理由を聞いて判明しました。

格納庫から見る出航作業。

「かしま」横を離岸(舷?)しました。
オランダ坂の下にいるのは「まきなみ」の救助要員です。

最初の見せ場?はなんといってもレインボーブリッジ下を通過する瞬間。

体験航海参加者のために艦内ではいくつかの展示が用意されました。
最初は搭載ヘリ SH-60Kのローターを稼働させる展示です。

この時甲板の柵が全くなくなっているのにご注目ください。

そして最大の山場?は、「かしま」が「まきなみ」を追い抜く瞬間です。
なぜ「まきなみ」に乗れたらラッキーだということになっているのか、
わたしはこの時わかったような気がしました。

艦内で次に行われたのは武器関係の動的展示です。
CIWSをぐるぐると動かし・・・・・・、

オトーメララを真上に向けたりしてくれました。
こんな角度で撃つ場面があるのかどうかは知りませんが。

アイロン・・・?

ではなく、アクアラインの「風の塔」です。
今アクアラインの真上を横切るように航行中。

今まで立ち入りを禁止されていた飛行甲板がオープンになり、
そこで喇叭の展示が行われました。

この日わたしは個人参加ではなかったため、グループに一人、
エスコートの自衛官がいて、この方が艦内ツアーもしてくれました。
食堂を見学した際、

「まきなみでは火曜日がラーメンの日」

という驚くべき事実を知ってしまいました。

続いて機関室も見学します。

観艦式でもそうですが、一般見学者が体験航海で立ち入ることができるのは
甲板下の階までなので、艦内で見るのはいつもこの程度です。

しかし、わたしたちの一団のうち、わたしたち以外は誰も今まで
自衛艦というものに乗ったことがなかったため、周りでは
どこに行ってもすごいすごいの声が巻き起こっていました。

わたしが自衛艦内で見るもの聞くもの初めてで、何をみても大興奮だったのは、
あれは一体何年前のことだったか・・・・(遠い目)

晴海から横須賀までの航海は正味3時間。
盛りだくさんのイベントに艦内ツァーを行ううち、あっという間に
入港の準備が甲板では始まっていました。

先に行った「かしま」が横須賀港の入り口を入っていきます。

第7艦隊のアメリカ海軍の軍港をじっくり見ながら「まきなみ」入港。

我が自衛隊の潜水艦基地も、海上からじっくり見ることができました。

入港が迫った時、わたしたちの団体は艦橋に登るように言われたので、
わたしは最初右ウィングにいたのですが、そこが入港準備のため閉鎖になると、
ずっと左側ウィングに張られたロープの手前に移動しました。

いよいよ着岸となった時、艦長が左のデッキに出てこられ、
操舵のための指令を全部聞くことができたのはラッキーでした。

「かしま」が一足先に着岸を行なっています。
横須賀では歓迎行事があったらしく、この時、岸壁からは
横須賀音楽隊の演奏が聞こえていました。

そして朝8時40分から12時30分までの短い航海は終わり、
わたしたちは岸壁に降り立ちました。

横須賀での「定位置」に定係された「かしま」。
今月21日にはここから遠洋航海に出航していきます。

わたしたちはこの後メルキュールホテルの上層階レストランで昼食を取りました。
横浜地方総監部を退出する頃には岸壁に実習幹部たちの姿がありましたが、
食事が終わった時には「かしま」と「まきなみ」が、
ほとんど人気のない速見岸壁に係留されているのが見えるだけになっていました。

次回からは、この一連の練習艦隊行事について、
例によって微に入り細に入りお話しできればと思っております。

 

 

艦内告知板「今日のプラン」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」の見学はシックベイとそれに続くデンタルなエリアまで来ました。
途中にはメタルショップの区画があり、その一隅にはかつてここで
マスターチーフとして1948年から1953年までの5年間働いていた、
ドナルド・バーレットの愛すべき思い出のために、というボードが掲げられています。

 

ところで、このエントリを確か前にも読んだことがあるような気がする、
と思われた方、大変すみません。それは決して気のせいではありません。

実は、個人的にはよくあることなのですが、エントリをアップするとき、
アップ時間を間違えて入力してしまい、何ヶ月も先に掲載するつもりが
短いときには数秒、長いときには丸1日ネットに上がってしまうことがあります。

連載ものでなければいいのですが、「ミッドウェイ」シリーズのように
艦内を順番に見ていくような内容の場合、前後の繋がりがなくなってしまい、
掲載者としても心苦しい展開になるので、間違えたとわかった時点で
潔く引っ込めて正しい時期にしれっとアップするということをよくやります。

このエントリは比較的長い時間アップされていたので、それを読んで
コメントをくださった方には大変失礼を申し上げました。

2回目に読む方のために若干内容を補足しておきましたので、
ぜひもう一度目を通していただけると嬉しいです。


さて、マシンショップ展示からさらに歩いていくと、艦内告知板が現れました。

アメリカの学校でもおなじみの「Bulletin board」は、
広報だったり、参加のためのサインアップといった紙が貼られる掲示板です。

ここにかつて「ミッドウェイ」で本当に貼られていたと思われる
三枚のお知らせがありました。

まず、一番左は毎日貼り替えられる「今日のミッドウェイ」情報で、
日付は1990年の3月23日となっています。

イラクのクウェート侵攻が1990年の8月、「ミッドウェイ」がそれを受けて
北アラビア海に展開するのは11月のことですから、これは嵐の前の
(ちなみに作戦名はデザート・シールド作戦)静けさといった、
横須賀でのある穏やかな1日であったということになります。

司令官以下セキュリティマネージャー、CMCの官姓名が記され、火災をはじめ
非常時の内線番号が型通り記された後は、甲板士官の名前が書かれています。


■甲板士官

00-04 トーマス少佐     ゴンザレス少尉
04-08   ブランフォード大尉  レハード中尉
08-12   メイヤー大尉     フローレス大尉
12-16   オーウェン中尉    ゴンザレス少尉
16-20   トーマス少佐     レハード中尉
20-24   ブランフォード大尉  フローレス大尉

といった風に。
前者はAT-SEA OOD (オフィサー・オブ・ザ・デッキ)
後者はAT-SEA JOOD(ジュニアオフィサー・オブ・ザ・デッキ)
トーマス少佐とブランフォード大尉は2回、
JODはゴンザレス、レハード、フローレスの三人で交代しています。


■今日のユニフォーム

今日、どんなユニフォームを着用するのか。
いくつもパターンがある軍隊では、いつもどうやってこの服装を
伝達するのかと思ったら、こういう仕組みだったんですね。
こんな風に記されています。

【今日のユニフォーム】

士官&CPO: サマーホワイト/サマーカーキ
下士官兵E1-E6: サマーホワイト

【作業服】

士官&CPO:カーキ
下士官兵E1-E6: ダンガリー

【海上での制服】

リラックスユニフォームが許可されてます

海の上ではリラックスユニフォームを着ていていいよと。
えー、どういうのがリラックスなのー?


■定期作業

0730, 1530, 2130  清掃
0730, 1730  CHECK  YOKE

ヨークをチェック、というのがわからなかったのですが、
舫など船を繋留する装具の点検でしょうか。


■今日の宗教サービス

0600  NSA

0645  カトリックミサ

0800  十字架のステーション

1130  カトリックミサ

1230  ゴスペル聖書勉強会

1700  キリスト教フェローシップアワー

どうもよくわからない時間もありますが、一つの宗教だけに
教会が使われている訳ではないことだけはわかります。

ところでNSAって

国家安全保障局( National Security Agency)

のことなんですよね。
何か宗教関係の略語かと思って調べてみると

バハーイ教(National Spiritual Assembly)

の意味もありました。

バハーイ教というのは全国精神行政会と翻訳され、イランで誕生、
バハー・ウッラーが祖となって生まれた唯一神を信仰する宗教ですが、
実はこれ、さりげに信仰者数はキリスト教の次に多いといわれています。

もしかしたらもしかして、本当にバハーイの信者が「ミッドウェイ」にいた?



■食事のお知らせ

【士官& CPO】

ランチ 1100-1400
牛肉と大麦のスープ、仔牛肉、ニジマス、ポテトグラタン、
ライス、芽キャベツ、インゲン、冷たい飲み物、
サラダバー、デザート

夕食 1600-2000
『フロム・ザ・フィリピン』

【下士官兵】

ランチ 1030-1400
グラウンドビーフのバーベキュー、フレンチポテト、サラダバー

ディナー 1630-1930
コールドカット、フレンチポテト、サラダバー

夜食 2300-0100
コンボサンドイッチ、フレンチポテト、サラダバー

士官の食事が「フィリピン風」ということだと思います。
それから面白かったのが、夜食のことを

MIDRATS (midnight rations)

というスラングで書いてあること。
ミッドナイト・レーションズ、略してミッドラッツ。
レーションズが「ネズミ」になっているのが秀逸です。

真夜中にネズミさんが台所をあさっているのを想像してしまいました。

その後は電気や機械関係、エアコンなどのトラブルが起きた時の
内線番号などが書いてあり、次には

艦尾教室(アフトクラスルーム)1500から

というお知らせがありました。
艦内作業について勉強会?でも行うのかと思ったら、艦尾のスペースを利用した勉強会でした。
ちなみにこの日のテーマは

「航行中補給について」(UNREP)

です。


■ 告知

1、上陸時の自由時間においても、すべての乗員は知り得た情報について
それがどんな種類のものであっても船上の海軍情報局に、または、
セキュリティマネージャーにに報告することを要求されます。

このお知らせが横須賀を母港としているときに出されたとなると
なんだか色々と考えてしまいますね。

2、講座

a. ファンクショナル・スキルというリーディングと英語、数学の
海軍トレーニングプログラム、「ブラッシュアップ」のお知らせ。

勤務中に行われるこのトレーニングの目的は、
任務に必要なスキルの向上であり、
カレッジレベルのコースを修得しておくことによって、ASVABテスト
(Armed Services Vocational Aptitude Battery )はじめ、
海軍の各種試験の準備をすることもできます。

英語、リーディング、そして数学のクラスは横須賀の海軍キャンパスで、
次回の停泊期間に行われます。
技術向上クラスは通常一日4時間、2週間で終了するプログラムです。


興味のある方はオフィスに申込書を用意してあります。

b.横須賀ネイビーキャンパスでは特別に
「シップス・セメスター」を開催します。
期間は4月9日から5月18日まで。
応募は全ての「ミッドウェイ」乗員が対象となります。
勤務中手当として75%の授業料が免除となります。
授業は月、火、木曜日の夕方で、6週間行われます。

授業のコースは下記の通り。

「数学」代数の概念  
「日本語」 日本語入門 
「数学上級」数学III
「スペイン語」 ビジネス&仕事会話

興味のある方は応募用紙にて3月25日までに申し込んでください。
これらの授業は上級下士官の方々が士官になる際にも有利です。
この「ゴールデンチャンス」をお見逃しなく。
申し込まれた方には4月1日の「アフトクラスルーム」で説明会をします。

大学に行かなくても、海軍のプログラムである程度の基礎教育をうけることができ、
それが海軍内でのキャリアアップに繋がるというわけです。

勉強したい人にはいくらでもその機会が用意されているんですね。


【今月の水兵】

今日0900からCPOメスでセイラー・オブ・ザ・マンスの会議を行います

レストランやサービス業で投票によって「今月のウェイター」
「今月の優秀店員」を選ぶというシステムはアメリカ発だと思いますが、
まさか水兵でこれをやっているとは知りませんでした。

【人事事務所】

今日は事務所を閉めています

【法的警告】

香港で刺青を入れた者の海軍施設への立ち入りを禁ずる

ちょっと・・・これ、「香港で刺青を入れたものがいるらしい」
という報告を知った上でのお知らせじゃないでしょうね?
それともこれから香港に行くので、
「刺青入れたらこうなるからな」という警告なんでしょうか。

香港で刺青を入れたらどうしてここまで警戒されるのかわかりませんが、
万が一そうしてしまった場合は、連れて帰ってもらえないってことですか?


この後も教会牧師からの礼拝のお知らせとかが続きますが、
写真のピントが奥にはあっておらず、読みにくいのでここまでにします。



続く。

平成三十年度 海自練習艦隊 「かしま」艦上レセプション@晴海埠頭

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前回練習艦隊行事ダイジェストをお送りしてから、一泊二日で
某自衛隊基地訪問兼観光の旅に出ており、その間行き帰りの新幹線を含め
一度たりともパソコンを開くことができませんでした。

体験航海の次の日早朝に家を出てから予定がぱんぱんに入っていたことと、
移動時間はタブレットを見るのがやっとというくらい疲れていたためです。

やっと家に帰ってきたので、艦上レセプションに戻り、そこから
改めてお話ししていこうと思うのですが、この間あまりに濃い時間を過ごし、
もうこの日のことがものすごく昔のことに思えるから不思議です。

艦上レセプション当日、晴海埠頭にレセプション開始の1時間前に到着。
この時点でわたしは去年との大きな違いに気がつきました。
皆さんはお分かりになりますか?

そう、いつもなら練習艦隊は岸壁に縦に係留し、「メザシ」状にはしません。
これは、その後別の海自基地で幹部と話をしていて知ったのですが、
晴海一帯が工事をしていて縦に並べるだけのスペースがないらしいんですね。

それで、練習艦隊はわざわざ横須賀から防眩物を持参して、
このような留め方をせざるを得なかったということのようです。

車で内部には入れましたが、この頃にはご覧のように
来客一団体につき一人エスコートに付くために、実習幹部が
ラッタルの下にようやく集合し始めたばかりでした。
ここでしばらく車を停めて様子を見ていると、わたしの前に
すでに到着していた二台が中に入って行ったのでそれに続きました。

「かしま」後甲板は、ご覧のように全天候型のパーティスペースになる
天蓋が最初から備えています。
雨が降った時はもちろん、今日のような晴天下でのレセプションも、
風を防ぐために天蓋と紅白の幕で覆ってしまいます。

この日は風があったので、幹部のほとんどは帽子ストラップを顎にかけていました。
ラッタルの下には堵列と行って、海士たちがお迎えの列を作り、
来客は右側にいる実習幹部が順番に中にエスコートしてくれます。

ただ連れて行くだけでなく、社交(ソーシャル)を行うことも
実習幹部にとっての大事な「訓練」の一貫という考え方なので、
彼らはどんな相手にもそつなく会話をし、飲み物を用意し、
わたしの場合のように、会場がオープンになるまで話し相手を務めます。

こういう慣習は、自衛隊の中でも海上だけにあるもので、それも皆
世界の海軍におけるスタンダードに倣っているというわけです。
これが例えば海外で行われる場合は、彼らは外国の賓客などを相手に
同じことをしなければならないということなんですね。

ところで上の写真を見ていて、「かしま」の艦腹に、いかにもタッチアップした、
というように見えるいくつかの部分を発見しました。

横須賀で米海軍の艦艇を見たことがある方なら、自衛隊の艦艇が
いかに綺麗に保たれているかにびっくりされると思いますが、
その中でも「外交」を行う練習艦隊旗艦である「かしま」には、見たところ
米軍艦に見られるようなサビのようなものは染みサイズでも確認されません。

この部分は、何かが当たって傷ができてしまい、それを修復した痕のようですが、
傷が結構深いらしく、隠せていないのと、そこだけペンキが浮いたようになっていました。

しかし、こんな努力をしていることそのものが凄いですよね。

ラッタルの上、舷門と呼ばれるらしいところには、何人かの
「お迎え要員」が待機を始めました。

左に停車しているバスは電車の駅と現地を往復するシャトルです。
タクシーで来場した客が現れ、実習幹部たちが姿勢を正しています。

初めて「ホヒーホ〜〜」とサイドパイプが聴こえてきました。
袖に俗称「ベタ金」つまり、「金成分の多い」階級章をつけた
海将が空自の幹部を伴って来場したようです。

階段の上、右手にサイドパイパー(号笛を吹く人)が見えますね。

40分くらい経って意を決して車を降り、歩いて行くと、
どこから現れたのかというくらい気配を感じさせずに
背の高い実習幹部が斜め後ろからやって来て横に立ち、

「ご案内いたします」

この方には会場までご案内いただき、待ち時間に少しお話をしました。

◾️実習幹部 アルファー三尉

「防大ですか?一般大ですか?」

実習幹部には必ずこのことを聞くことにしています。
アルファー三尉は一般大卒で、

「いくつかの一般企業と自衛隊を比べた結果」

自衛隊にきた、と語りました。
つまり職業選択の段階でいくつかの選択肢の中から選んだのが自衛隊だった、
というパターンです。
そしてそういう幹部のほとんどは、

「自衛隊でしかできないことにチャレンジしてみたい」

というのが選択の大きな動機となっているようで、アルファー三尉も
固定翼機操縦が志望だということでした。

「眼鏡はパイロットになるのに問題はないんですか」

アルファ三尉が眼鏡着用なので聞いてみると、

「P-3の場合はヘリパイロットほど重要視されないようです」

実はわたしはこの後、海自の飛行基地訪問をし、関係者と話していて

「昔はパイロットは坂井三郎みたいに視力5.0とか(!)ないとダメで
さらに航法も機上で手動計算していたため、適性が大変厳密だったけれど、
今は科学の発達に助けられる部分が多く、間口が広がっている」

というふうなことを聞きました。

ヘルメットで視力も矯正できてしまうらしいですし、
その点昔よりは間口が広がったのかもしれません。

アルファ三尉には、改めて本年度の遠洋航海の航路を説明してもらいました。
彼は待機していたクロークルームに貼ってあった航路図の前にわたしを案内し、
今年の航路が西回りで、インドネシアのジャカルタからスエズ運河経由で
ヨーロッパを周り、スペイン、イギリス、そして北欧から大西洋横断、
パナマ運河を去年の反対側から通過して最後にハワイ、というものであることを
説明してくれました。

そのうち開場になり「かしま」後甲板のレセプション会場に到着。
当たり前のように豪華な舟盛りが、正面、そして両舷?のテーブルに一杯ずつ。

写真を撮りながら顔見知りの方に挨拶などするうちに人がどんどん入ってきます。
そこで気が付いたのが、

「来場者の誰一人として食べ物に手をつけようとしない」

ということでした。
艦上レセプションには東京と横須賀にしか参加したことがなかったわたしは
これが当たり前だと思っていたわけですが、決してそれは
全国スタンダードでないことを大阪南港でのレセプションで知ったばかり。
今更ながらに練習艦隊司令泉海将補が大阪のパーティで言い放った、

「実習幹部には大阪ではユーモアを学ばせたい。
東京ではマナーを学びます」

というのがある意味至言であると納得した次第です。

大阪人の名誉のために申し上げておくと、彼らの行儀が東京より悪い、
ということでは決してないのですが、大阪人というのは「花より団子」と言いますか、
建前(社交)と本音(食べ物)があれば後者をまず取る実利的な傾向にあり、

「はよ食べんとなくなってまう!急がな!」

という特有の’いらち’気質も手伝って、誰か一人が乾杯前に手をつけると、
我も我もと続き、結果、開始の頃にはメインテーブルの食べ物がなくなってしまう、
ということになるらしいのです。

あくまでも噂ですが、練習艦隊では例年大阪でのレセプションの際、
他の地域との比較でいうと、

「食べ物2倍、カレー3倍」

の量を用意しているそうです。

しかも、わたしも少し勘違いしていたのですが、水交会などのパーティはともかく、
練習艦隊がホストとなるレセプションでは、実習幹部はエスコートと社交で
参加客をもてなすことを厳命されているため、彼らが若い食欲に任せて食い尽くす、
ということは全くないわけですから、(食事は軽く済ませているらしい)
これは単に大阪人が特別健啖かつ遠慮をしない結果なのでしょう。

そんなことを考えながら写真を撮ったりしていると、そこに
飲み物のおかわりはいかがですか、と声をかけてくれた実習幹部がいました。

◼️ 実習幹部 ブラボー三尉

ブラボー三尉はすらりと背が高く、さらに見惚れるほど姿勢の良いイケメン君です。

「姿勢がいいですねえ!」

防大出身者と一般大出身者に、我々素人にも見てわかる僅かな違いがあるとすれば、
それは姿勢の良さかもしれません。
4年間の生活でそれが習い性となっている防大出身者は、
姿勢の良さに年季が入っていると感じる瞬間があります。

もちろんそれは微々たる違いで、練習艦隊出発前のレセプションで、
出身を聞いてやっぱり、と感じる程度のことに過ぎないのですが、
彼の場合は、その姿勢の良さからてっきり防大出身者だと思ったくらいでした。
しかしそれをいうと、

「剣道をやっていました」

という答えが返ってきて、ものすごく納得した次第です。

ブラボー三尉も就職活動の段階で一般企業などもリクルートし、
その結果選んだのが海上自衛隊であったということで、その理由は

「船乗り(になりたいと思ったから)です」

ということでした。

地本の方などに、海上自衛隊への志望者の少なさで苦労している、
などと聞くこともあるわたしは、こんなきっぱりした答えを聞くと
なぜかとても嬉しくなってしまいます。

ちなみに翌日、体験航海で乗った「まきなみ」で、ブラボー三尉に再会しました。
出港前に甲板ですれ違ったのですが、「船乗り志望」という彼の言葉を思い出し、

「今日(の航海)はよろしくお願いします」

と声をかけて熱い激励に変えさせていただきました。

「かしま」には右舷から入り、クロークを経て左舷舷側から坂を下りるように
入場することになります。
レセプション会場には練習艦隊司令官夫妻、「かしま」艦長、そして
「まきなみ」艦長が並んでお出迎えをしてくれます。

この写真で今司令とご挨拶されているのは海将です。
会場にはちらほらと政治家の姿も見え、たくさんの人がすでに入来していますが、
皆、飲み物を片手に静かに談笑し、この雰囲気はやっぱり東京、という感じ。

国内巡行を済ませた今、レセプションを通じて知る土地柄や人の違いなども、
何もかも初めての実習幹部には興味深く映ったかもしれません。

 

続く。

「三つのC」〜平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊 「かしま」艦上レセプション

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平成三十年度練習艦隊出航行事、晴海での艦上レセプションについてです。

艦上では練習艦隊に随伴する音楽隊メンバーの演奏が雰囲気を盛り上げます。
「ビギン・ザ・ビギン」や「黒いオルフェ」など、ラテン系のナンバーが中心ですが、
時々日本の曲も聴こえてきました。

練習艦隊音楽隊は、各地方音楽隊からの志望者中心に構成されているそうです。

特大舟盛りのお刺身も、まだ誰にも箸をつけられず美しいままです。
このメインテーブルの向こう側には代議士の先生方がおられ、
最初に司会者によって紹介されました。

手前は自民党の杉田水脈議員、向こうは阿部俊子議員。
両議員ともに防衛団体の会合でご挨拶していますが、
杉田議員にはその後ツィッターでの恐喝事件などがあったことから
お見舞いを申し上げたところ、

「全く気にしていません!」

と明るく言われました。(強い)

あとご挨拶したのはS藤M久議員の秘書の方。
囲む会にご招待いただいていたのですが所用で行けなかったことを詫びると、

「実はあの日、本人は日報問題で行けなくなったので、そのほうがよかったかと」

日報問題ね・・・。
なんかよく知りませんが、あれって公開することになんの意味があるの?
逆に例えば日米両軍で連携するような事案の場合、アメリカに

「勝手に日本側でなんでも公開してんじゃねーよ」

って言われるようなことにならないの??
それはともかく、

「いつかS藤先生には防衛大臣になっていただきたいです」

と申し上げたところ、秘書氏はぱっと顔を輝かせ、

「本人は決してそのようなことを申しませんが、周りの者はそう思っています」

前にも頂いたはずなのにもう一枚名刺をくださいました(笑)

政治家といえば、ちょっと不思議なことがあったのでご報告。

元朝鮮日報の日本支局長である帰化人議員HSK先生(何党だっけ)が、

招待もされていないらしいのに

この日会場におられたことでございます。

そういえば去年だったか、ある防衛団体の会合で、引退したE田S月という元議員が、
招待もしていないのに祝賀会場に急に現れたことがありました。

「呼んでないのに来ちゃったんですよー。なんでわかったんだろう」

スタッフが困った様子でこちらに囁いていましたが、E田先生、
休日で暇を持て余していたのか、先生先生と呼ばれる生活が忘れられなかったのか、
それとも単にご飯を食べに来たのか・・・。

急遽用意した椅子に腰掛け、紹介されることもなく、
(だって呼んでませんし)何か喋ることもなく、この写真からもわかるように
周りから腫れ物扱いでちんまりと座って食べるものを食べ、黙って帰っていったものです。

E田先生がなぜ呼ばれてもいないのに来たかはなんとなく分かりますが、
HSK先生が来たことについてわたしは色々と考えてしまいました。

最近、

「国民の敵問題」

でおそらく全自衛隊を敵に回したと思われるあのK西H之ですら、
党で防衛に関わる役職であることから、出席者が自衛官だらけの某防衛団体では
総会などに招待することになっていますが、流石に空気読んでか、
本人は決して来たことがなく、欠席あるいは事務所の代理出席です。

 

よくわからないのはHSK先生です。
以前「かしま」艦上で、先生を思いっきり汚いものを見る目で見ていたところ、
本人と目が合ってしまったという話をしましたが、このように自衛隊行事には
先生を国民の敵のように思っている出席者だって決して少なくはないと思われます。
当然先生にとって、決して居心地の良い場所ではないと思うのですが、呼ばれたので
仕方なく来ていたのかと思ったら、なんと呼ばれてもいなかったらしいのです。

ちなみにこのあたりに議員の先生方が集まっていました。

この一団にいたわけでもなく、もちろん紹介もされなかったため、
わたしは「呼ばれていないのに来た」と判断したのですが、
もし遅れて来たのに紹介されなかったとしたらそれもなぜだろうと・・・。


案の定HSK先生の前には名刺を持った人が列を作るということもなく、たまに
誰かと話していたとしても、それは社交することを任務として命じられた
実習幹部に限られ、その他の客からはやはり遠巻きにされている状態でした。

なんだろう。

あえて自分が肯定的に迎え入れられない環境に身を置いて、
政治家として一種の「修行」をしているのか、根っからのマゾヒストなのか、
それとも「悪名は無名に勝る」を信じていて、とにかく「顔を売る」のが目的なのか。

  

 さて、代議士の先生方の紹介が終わると、お待ちかね?司令官始め幹部の挨拶です。

今挨拶しておられるのは「かしま」艦長の金子純一一佐。
練習艦隊司令官、泉海将補のご挨拶は、

「練習艦隊は三つの”C"を目標にしたいと思います!」

でした。
そんなことを言われたら、普通、

CAREFULLY (注意深く)

COOPERATE(仲間と協力して)

CHALLENGE(チャレンジする)

みたいなものじゃないかと思うじゃないですか。
(ちなみにこの三つのCはわたしが今すごくテキトーに考えました)
しかし、あの泉司令がこんな普通のことを言うわけがありません。
果たして三つのCとは、

「うれC」

「おいC」

「うつくC」

でした。orz

 

もちろんCじゃなくて「しい」なんですが、あえてこう書かせていただきました。
もうこれウケるためだけに挨拶考えてるよね。

してその心は。
皆さんとこうやって過ごせて嬉しい、
「かしま」の給養が精魂込めて作ったお料理が美味しい、
そして、会場に流れる音楽も美しい・・・・・。

わたしが思いついたようなつまんない3Cなどより、よっぽど人の心に残る
シンプルで根源的な標語、なんというか心が暖かくなるような気がしますが、
標語というよりこれはむしろ精神到達目標・・・・・?



そして「おいC」の説明では、泉海将補、

「本日のテーブルには呉地方総監の指導方針である愚直たれを
用意しておりますのでぜひお試しください!」

「愚直たれ」はちゃんとこのテーブルのこちら端に写っています。
そうそう、練習艦隊って呉地方総監部の隷下にあるんですよね。

わたしは大阪では泉司令にご挨拶しそびれていたのですが、
今回ようやく名刺をお渡しすることができました。

ちなみに泉海将補は一般大学(早稲田)卒でいらっしゃいます。

実はわたしの親族には早稲田大学関係者がいたりするので、
泉将補とご挨拶することになった時、そのことをパーティトークに織り交ぜつつ、
他の実習幹部に聞くように、泉海将補にもなぜ自衛官になったのか、
そこのところを伺ってみました。

すると、

「大学を卒業して、一般企業に一度入社しているんですよ。
3年間勤めたのですが、働くうちに、自分は何のために働いているのかと・・。
会社のためなんかじゃない、かといって自分のためにとも思えない。
そこでふと『国のために働くと言うのはどうだろう』と思ったわけです」

思いついた時には一般幹部候補生の募集年齢制限まで1年を残すのみ。
本当にギリギリでの転身をされたと言うことらしいです。

「大学では何を専攻されたんですか」

「第二文学部です」

「あの早稲田第二文学部・・・小説家コースですね」

「そこしか入れなかったんです」

何をおっしゃいます。
永六輔、澤地久枝、吉永小百合、田原総一郎という錚々たる卒業生を生んだ・・・
あれ、ゴリゴリの左派ばかりだ(笑)
えーと、他にはタモリ、高橋伴明、橋田壽賀子、東国原英夫、実相寺昭雄、
石井浩郎、大瀧詠一、風間杜夫、加藤剛・・・。

それにしてもすごい。
中退者を入れると日本一たくさん有名人を排出している学部じゃないかしら。

 

こちらが大阪でもご挨拶した「まきなみ」艦長大日方孝行二等海佐です。
今確認したところ、3人の中で防大卒は大日方二佐だけでした。

大日方二佐には、

「明日まきなみに乗艦することになっていますのでよろしくお願いします」

とご挨拶させていただきました。
奇しくも次の日、横須賀岸壁に着岸する時の大日方艦長の勇姿を
間近に拝見するという願っても無い機会を得ることができたのも、
この時のご挨拶の後利益だとわたしは信じています。


ところで泉海将補との話で印象に残っているのは、泉将補が入隊を決めた頃、
世間はバブル真っ最中で、自衛隊には

「(就職先として)誰も見向きもしなかった」

そのため、決心さえしたらあとは大変スムーズにことが運んだということでした。
そして、

「今はあんなに自衛隊に入るのは簡単じゃないんですけど」

と笑いながら付け加えられました。

世間が好景気に浮かれていたあの頃、自衛隊が「日陰者」扱いだったこともあって、
早稲田を卒業した会社員が、わざわざ自衛隊に入り直すということ自体、
大変な決断だったに違いありません。
しかし、そのおかげで海上自衛隊は、4半世紀後、
こんなに魅力的な司令官を頂いた練習艦隊を、我が日本国の代表として
世界の港を巡る遠洋航海に送りだすことになったわけです。


若き日の泉海将補の英断に、乾杯。



続く。


栴檀は若葉より〜平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊 「かしま」艦上レセプション

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平成三十年度の海上自衛隊練習艦隊出航行事の一つ、
晴海埠頭で行われた「かしま」艦上レセプションについてお話ししています。

ところで、前々回に挙げた写真の一部を拡大してもう一度お見せします。

わたしが「空自の三尉」と間違えたこれ、これが

陸自の新制服

だったなんて・・・・。
いや実はですね、わたくし今日、防衛団体の総会に出席したところ、
懇親会で、半袖のシャツに紺色のズボンを履いた一団がやってきたのです。

「あれ、空自?」

「似てますが・・空自のパンツに金線なんてなかったでしょう」

ビュッフェ台で横に来て食べ物をとっていたその幹部に、

「それが陸自の新しい制服ですか」

と聞くと、そうですとの答え。
なんと、パッと見てどちらかわかる人はいないかもというくらい似てます。
彼によると、制服は三月から支給されているのだそうですが、
別の方(一般人)に聞いたところ、

「全部が新しい制服に変わるまで3年くらいかかるそうですよ」

んー・・・それまでは新旧入り混じりってことですか。

先日、どこかの陸自駐屯地で入隊式に出席された方の話によると。
新人隊員は全員紫紺の新制服の集団、その他の自衛官は従来のOD色ということになり、
どうにも妙な構図になってしまっていたとか。

現在支給されている制服も一着だけで夏服でも洗い替えはなく、
洗濯中は旧制服を着ることでしのぐそうです。

そして肝心の新制服の評判ですが、

「なんか満州国の警察官の制服みたい。
やっぱり今までの緑の制服の方がいいなあ」

その方はきっぱりとそう言い切りました。
その人がなぜ満州国の警察官の制服を知っているのかは謎ですが、
わたしも、わざわざ空自と見分けがつきにくい色にする意味がわかりません。

それに、これはわたしが感じたもっとも大きな問題点ですが、これは
若くて何を着てもそれなりにいける自衛官が着ることを想定して作られていて、
「いわゆる陸自タイプ」の将官、空挺団出身にありがちな、首が太くて、
「猛者」とかいわれていそうな猪首体型の指揮官世代については、
デザインの段階で全く考慮がされていないように思われました。

この懇親会の時も、まさに「そういうタイプ」の恰幅のいい自衛官が、
薄いクリーム色のシャツに金線入りの紺色のパンツを履いているという姿を見て、

「全く似合わねー」

と思ったのが正直なところです。

制服そのもののデザインは決して悪くないと思うのだけれど、
着る人に貫禄が出るほど、それじゃない感、残念な感じが漂うといいますか。

空自の制服に全く問題がないとすれば、あそこはお年を召した将官でも
職種のせいか、すらりとスマートで背が高い方が多いからだと思います。

この懇親会でわたしは空自の元パイロットと名刺交換をし、
航空祭は入間より岐阜がいいなどという情報を教えていただいたのですが、
この方現役時代はF-86に乗っていたというお年ながら、今でも絵に描いたような
すらり、しゅっとした「空自タイプ」で、あらためて

Manar maketh a man ならぬ Careers maketh the man 

だと感じ入った次第です。


今回の陸自の制服変更については色々言われていますが、陸自には
若い人たちに制服を気に入ってもらうことで、これをリクルートにつなげたい、
という下心があるらしいとどこかで読みました。

そして、どうも陸自の偉い人たちは、陸自らしくみえるということより、
若者に受け入れられるというコンセプトを優先したようなのです。

しかし、もしそうだとしたら、これはわたしに言わせると全くの読み違いです。
以下それが間違っていると思う理由です。


世間一般、特に若い人の認識によると、三自衛隊の制服の中で
一番カッコよく、着ていれば誰でもモテるのは海自のそれです。

これはわたしが勝手に言っているわけではなく、様々な媒体で、
例えば三自衛隊ファッションショーなどのコメントにも見られるものです。

自衛官、ボーイズコレクションで決めポーズ 一番モテ服は?


何と言っても冬は黒のダブル、夏は白の詰襟、それに士クラスには最強のセーラー服。
三自衛隊が揃い踏みすると、その見栄えにおいて圧倒的ではないか我が軍は、となります。
(個人の感想です)

しかし、しかしです。

わたしはこの日、防衛団体総会でとっても悲しいお知らせを聞いてしまいました。
今年、自衛官の入隊者数が募集目標の8割にしかならず、その中でも
海自入隊者は目標数のなんと5割に留まった、というものです。

どうですか。

自衛隊一かっこいいモテ制服のはずの海自なのに、他より入隊者が少ないのです。
つまり、陸自が思っているほど、制服のかっこよさは少なくとも入隊志望に
あまり、というか全く影響を与えていないことになります。

それなら、わざわざ制服を若者に人気のない(と彼らが信じる)緑をやめて
紫紺にしたところで、全くそれは効力がないばかりでなく、
陸自らしいアイデンティティが薄れることになりはしませんかね。

わたしはそういうわけで制服を変える必要は全くなかったと思っていますが、
どうしても変えなくてはいけないのなら、わたしは個人的に旧軍の
「カーキと赤」の採用をお勧めします。

陸自は海と違い、陸軍を全否定することから戦後を始めたそうですが、
旧陸軍の制服、あれはデザイン的には大変優れていますし、
こちらの方が若い人には人気が出るように思うのですがどうでしょうか。

 

さて、気を取り直してレセプションについてのお話に戻ります。

この日の「かしま」給養が放つスイカカーヴィング。
しかし今まで一度として同じデザインのを見たことがないな。
今日のこれは・・・・ラフレシアかなんか?

先日訪問した自衛隊基地で基地幹部の皆さんとそれはそれは美味しい
昼食をいただいた時、海自の給養には大使館のキッチンでも通用するような
凄腕のシェフがいるほどだという話を聞いたものです。
おそらくその最高峰が「はしだて」とか「かしま」配属されるんだろうな。

そのときに幹部が誇らしげに、

「陸空にこういう食に対する熱意はありません。海だけです」

とおっしゃるので、

「陸自は専門の調理師がいないって本当ですか」

と聞くと、やはり

「普通の隊員が調理をするようです」

ということでした。
今まで噂だと思っていたのが本当らしいとわかりました。

ちなみに舞鶴には調理員を養成するための第4術科学校がありますが、
専門の調理師訓練施設を持つのは海と空のみ。

旧海軍の「間宮」などの給糧艦が命をかけて美味しい食料を届けたように、
食事に大きな生きがいを感じている艦艇乗員のために、海自の給養員は朝昼晩、
さらに夜食やおやつ、すべて全力を注いで作ることを求められるのです。

ニコリともせず真剣にカレーをよそっていた人。
専門のはっぴのようなものに頭巾をつけ、まるで炉端焼きの店員のようですが、
実は「かしま」の乗員だったりします。

「かしま」にはレセプション用の各種コスチュームも充実していて、
お酒を持ってくる人は蝶ネクタイをしていたりします。
皆乗組員です。

「かしま」のカレーが美味しいことは随分前から承知していたので、
美味しそうだな、食べようかなと考えながら見ていたら、
知り合いと会ってしまい、そのあとはその人が知り合いに紹介してくれたりして、
とにかく抉りこむように社交を行うことになり、結局食べ損ないました。

とにかくこの日は最初に刺身を数切れつまんだだけで終わってしまい、
わたしが今まで出席した中でもっとも食べた量が少ないパーティとなりました。


せめてフルーツだけでも(スイカじゃないよ)口にしておこうかなと考えつつ
前のテーブルに行ってみたら、またしてもそこにいた知人がいて、
彼が話をしていた実習幹部と会話をすることになりました。


⬛️実習幹部 チャーリー三尉

上の写真の右上にいるのがチャーリー三尉です。
自衛官には時々自分のことを「わし」という人がいるのですが、チャーリー三尉も
自分のことを「わし」と発音します。

最初にこの「わし」を聴いたのは呉でのことだったので、わたしはてっきり
広島弁なのだと思っていたのですが、そのうち出身地には関係なく、
自衛官には「わたし」派と別に「わし」派が生息していることに気がつきました。

自衛官になると自分のことを「私」と呼ぶように教育されますが、
毎日毎日言っているうちにいつの間にか「た」が抜けて、本人は言ってるつもりでも
結果「たぬきのわし」になってしまうのではないかというのがわたしの洞察です。

海軍の「おはようございます」を「おおす」「お願いします」が「願います」、
など、なんでも短くしてしまう慣習が引き継がれていて、燃料在庫量がネザとか、
水在庫がミザとか、謎の呪文が堂々と正式に使われているのが海上自衛隊ですので、
もしかしたら「たぬき」も口癖ではなく「わし」が「省略形」として認知されている、
という可能性もありますが、この件についてはさらなる調査をしていきます。

 

さて、チャーリー三尉は防大卒です。
出身地を聞くと関西、その後わたしを含めその時話をしていた三人が
全員関西出身であることで一瞬盛り上がりましたが、だからと言って
いきなり三人が関西弁で話を始めるということにはなりませんでした。

たとえコテコテの大阪人でも、自衛官、特に防大卒となると敬語で話す場合には
関西弁は全く影を潜めてしまうのが普通です。

ところでチャーリー三尉、希望職種は?

「掃海隊です」

おお!と必要以上に盛り上がるわたし。
「船乗り」と言われる以上に、この一見地味な職種に
最初から興味を持っている新任幹部がいると聞くのは嬉しいものです。

特にわたくし、ある掃海部隊の後援団体に形だけとはいえ名前を連ねていますのでね。

「掃海隊はいいですよね。いかにも船乗りの原点って感じで」

でも揺れるんですよね(遠い目)
わたしが日向灘の訓練で「えのしま」に乗った時ライトに船酔いした話をすると、

「大きな船は外洋に出るまでほとんど大丈夫ですが、小さな船は・・。
船酔いは何度も経験して慣れるしかないんですよ。
それまでは便器と友達、いや一体化して耐えるんです」

「自分で吐いた物を飲み込むといいとも言いますな」

「いやあああ」((((;゚Д゚)))))))

海自を選んだからには皆が受ける洗礼というか通過儀礼?みたいなもの?
そこでもう一人の方が、チャーリー三尉に

「全然酔わない人もいるって本当?」

「稀にいますねー」

まじか。
でもそんな人に限って艦艇志望じゃなかったりするのよね。


チャーリー三尉は明るくて人懐こく、クラスに一人はいる”いちびり”の人気者、
というタイプです。

「わし、棒倒しで”サル”だったんですよ」

棒倒しのサルとは、防大名物棒倒し競技で、棒のてっぺんに乗っている
文字通り猿のような役割のことです。
言われてみれば、小柄でいかにも敏捷そうな体躯はあの役割にうってつけ。

「あれ、怖くないですか?皆が自分を引きずり下ろすためにやってくるって」

それに対する答えは怖いとか怖くないとかではなく、

「自分の第二大隊はその時優勝しましたから」

「第二大隊って、何色でしたっけ」

「青です。去年の棒倒し、また第二大隊が優勝したんですよ」

チャーリー三尉が猿を務めた時の優勝戦は見損ないましたが、
去年の青チームの優勝は目の前で確かに見届けています。

「やっぱり自分のいた大隊が優勝すると、卒業後でも嬉しいものですか」

「嬉しいですねー」(ニコニコ)


彼と話していると楽しく、こういう幹部はどこに行っても、
そして上からも下からも好かれるのではないかという気がします。


そういえば今日、防衛団体総会で話したある理事の方は海自のOBで、
村川現海幕長が新任幹部として練習艦「かしま」に乗った時、
「かしま」乗組だったそうですが、この方が若き日に見た村川三尉は
率先して体を動かし、下からも敬愛される新任幹部だったそうです。

この話を聞いて「栴檀は若葉より芳し」という言葉を思い出しました。


続く。

 

 

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