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自衛艦旗降下〜平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊 「かしま」艦上レセプション

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晴海埠頭における練習艦隊艦上レセプションが始まって33分が経過した時、
場内のアナウンスが、今から自衛艦旗を降下するというお知らせを行いました。

大阪港の時には同じ「かしま」の艦上が東京の倍の人口密度だったため、
自衛艦旗降下といっても艦尾に行くこともできなかったわけですが、
今回は、アナウンスを聞いてから難なく艦尾に到達し、
最前列で写真を撮るということができました。

わたしの立った場所はカレー屋台の横で、屋台に併設された幟が邪魔で
前に進むと、今度はフレームに全体が収まらないという微妙な場所です。

幟を暖簾のように掻き分けながら写真を撮っていると、後ろに立った自衛官が
幟をずっと持っていてくれようとするので、慌てて断りました。

この自衛官は降下する係が冒頭写真の態勢になると

「5分後に降下となります」

とか、

「降下時間になると電飾が点灯するので露光が変わるおそれがあります」

などと、きめ細やかな解説をしてくださいました。
なのでわたしも、降下時間の定義について質問し、
それが気象庁発表による日没時間であることを確認しました。

待っていると案外長い5分間が過ぎ、降下開始。
本日の日没時間は1836です。


左側に灰皿がありますが、実はこの艦尾側、喫煙所に定められています。

この日は右舷側からの風が強く、そのため自衛艦旗が竿に巻きつくようになってしまい、
ラッパ発動中に横からそれを外すという光景が見られました。

無事に降下終了。
自衛艦旗降下の時にいつも海曹長が両横に立っているのは、
こういう時に手助けするためだったのかと勝手に納得しました。
(多分違う)

この後は降下を行った海曹と海士とで自衛艦旗を畳みますが、
降下が終わった途端、ここにタバコを吸いに来る人たちが殺到し、
写真を撮っているどころではなくなりました。

そこでわたしはもう一度いろんな方との交流を行ったのですが、
もちろんそれは新任幹部だけではありませんでした。


■ デルタ海将  元掃海隊群司令 

掃海隊が群あげて執り行う金刀比羅神社での掃海隊殉職者追悼式に
ここ何回か出席させていただいているわたしは、海将をお見かけしてから
じわじわと近づいていき、他の方との会話が終わるまで待って
ようやく一人になったところを見計らって挨拶させていただきました。

戦後日本近海の機雷掃海を行い、尊い犠牲となった殉職者を顕彰し
その御霊を祀る殉職者追悼式が年々忘れられてゆき、
掃海によって啓開された海に面する地方自治体の長ですら、
この慰霊式について知らないということを、掃海隊群司令時代の海将は
ずっと憂えていらっしゃったそうです。

そしてある時、九州の温泉を持つ地方の首長に追悼式のことを伝えたところ、
本人ではなく代理ではありましたが、式に出席してもらえたということです。
しかし、ご自身は

「今年の追悼式にはどうしても(現職の)用があって行けないんです」

と残念そうにしておられました。

ちなみにデルタ海将は掃海隊出身ではありません。
海自の人事の不思議なところで、必ずしも群司令はそこの出身でないこともあるようです。

 

■ エコー一佐 海上幕僚監部勤務

陸上勤務の自衛艦にも、わたしはついつい何出身か聞かずにはおれません。
マイク一尉が潜水艦出身と聞き、「せきりゅう」「せいりゅう」の引渡式、
そして「しょうりゅう」の進水式に出席したことをいうと、

「しょうりゅうという名前はわたしが考えました」

なんと!

エコー一佐、艦艇の命名をする部署に勤務されていたことが判明したのです。
そうとなれば聞きたいことがあります。

「やっぱり三つくらい候補をあげて、その中から命名者に選ばせるんですか」

「いや、最終決定したのを一つだけ・・」

「あー、命名者って本当に形だけだったんですね」

今まで自衛官の名前を選べるなんて防衛族冥利につきるし、
防衛政務官というのは役得だなあと思っていたのですが。

 

海上自衛隊ではこの秋にもりゅう型潜水艦の進水を予定していますが、
この名前を考えているのもこの方なんだそうです。

「だんだん『りゅう』が少なくなってきて大変ですね。
『せいりゅう』の時、連れ合いと色々予想してたんですよ。
でも、『きんりゅう』なんてラーメン屋みたいだからダメだろうと」

「きんりゅうは・・・まずないですねー」

「では『こうりゅう』は・・・」

「こうりゅうもないですね」

こうりゅうは特殊潜航艇の「咬龍」を想起させるからダメみたいです。

ただ、実在した「咬龍」は特攻兵器にされたわけではなく、
ほぼほぼ実戦経験もありません。

それに、大量生産されて待機しているうちに終戦になった「咬龍」は、
敗戦後、GHQの監視下で吉田英三らが密かに計画していた海軍の再建、
「新海軍」構想において、再利用される予定だったと言われます。

その際、準特攻兵器のイメージが強い「特殊潜航艇」という艦種名を避け、
「局地防備艇」という艦種名を新たに与え、60隻10隊から成る
「咬龍隊」が創設されることになっていました。

旧軍の名称だからダメというなら「蒼龍」は空母とはいえ立派な旧軍艦で、
しかもミッドウェーで撃沈されてますし、それが採用されているのであれば
「こうりゅう」は(漢字を鮫龍とかにすれば)なーんの問題もないと思うのですが。

とやたらこだわってみましたが、特に「こうりゅう」にしてほしいというわけではなく、
この秋に進水する潜水艦、わたしの予想としては、   (きんりゅうではなく)「こんりゅう」、「しんりゅう」「へき(碧)りゅう」
「ひりゅう」「どんりゅう」「たん(丹)りゅう」「すい(翠)りゅう」
「せん(茜)りゅう」「げんりゅう」・・・・   全く関係ないのに色々考えてるだけでなんか楽しいんですよね。
いいなあ、自衛艦の名前考える仕事・・・。       さて、ここで改めて本年度の遠洋航海航路図を貼っておきます。 海上自衛隊練習艦隊部隊の遠洋航海航路はいくつかパターンがあって、
それは大きく東回りか西回りかに分かれますが、今年は西回り。
そしてアメリカでも今年はサンディエゴだったから次の年はノーフォーク、
というように、できるだけいろんな港に寄港することになっているようです。   しかし、どちら廻りになっても必ず通過することになっているらしいのが
パナマ運河。
ここでご紹介した大正十三年度の海軍兵学校遠洋航海アルバムには、
当時の日本人が、まだ開通して間もないパナマ運河を、その規模と
アメリカという国の底力に心底感嘆しながら通過した様子が残されていましたが、
どうやら当時の彼らも知らなかったらしいことがあります。
このパナマ運河の一部を設計したのは、唯一の日本人技師である
青山士(あきら)という人物だったことです。   荒川放水路などを手掛け、日本の水門設計の第一人者であった青山士については、
またいつか別項でお話しできればと思っています。   練習艦隊の皆さん、パナマ運河のガトゥン閘門を通過するときには、ぜひ、
そこを設計したのが日本人であったことを少し思い出していただければと思います。

 
さて、そんなこんなであっという間に1時間半が過ぎ、艦内には
「オールドラング」、蛍の光が流れ出しました。 先ほど話をしたデルタ海将が、練習艦隊司令官時代の思い出として、   「レセプションの終わりに蛍の光を流しても全く人が帰ってくれない国があった」   と話しておられたのを思い出しました。
しかしここは日本。
蛍の光が流れた途端、自動的に脚が出口に向いてしまうDNAを持っているのが
我々日本人というものです。 わたしも帰ろうと思って、それまで話していた知人に   「お帰りになりますか」   と声をかけると、   「いや、ここで頑張って(逆らってだったかな)最後まで居残るんですよ」   この方は今回の「かしま」艦長の新任幹部の頃を知っているというくらい、
長年にわたって自衛隊を応援してこられた筋金入りのファンです。
掃海隊でご一緒したカメラマンのミカさんも同じことを言っていましたが、
最後に退出すると、もしかしたら何かいいものが見られるのでしょうか。     わたしは内なるDNAの声に逆らわず、素直にラッタルに向かいました。 絵に描いたような海自式の敬礼で見送ってくれた自衛官。     「かしま」の舷梯は他の同じ大きさの艦艇のものに比べると比較的緩やかで、
階段が木製であるなど、一般人を迎えることを前提の仕様になっています。   「かしま」は練習艦として実習幹部たちが実践訓練を行うのはもちろん、
世界の港でその土地の賓客などを迎えいれた時には社交の場となり、
その際にはこの艦上がその国の人々の触れることのできる「日本」となるのです。
そんな「かしま」の乗員には、スマートなネイビーらしい身のこなしや、
人を迎える際の誠実で暖かいおもてなしの表し方が総員に遍く行き届いていて、
この船を訪れる者をいつも感激させずにはいられません。   彼らの身のこなしや気遣い、ホスピタリティは、新任幹部たちにとって
彼らが一人前のネイビーになるための良き模範となることでしょう。     退出する一般人のために甲板から舷梯と岸壁があかあかと照らされ、
その灯りが、舷梯の下で堵列を作って見送りをするセーラー服の小隊と、
「かしま」を後にする招待客の影を艦腹に幻想的に映し出しています。     車で埠頭を離れるとき、ふと見ると、工事のフェンス越しにではありますが、
電飾に彩られた「かしま」と「まきなみ」がこんな風に見えました。     明日の朝、もう一度ここに帰ってきて体験航海の乗客となり、
今度は彼らと一緒に晴海を出港し、横須賀に向かいます。       「かしま」艦上レセプション編 終わり

 

乗艦〜平成三十年度 練習艦隊 体験航海

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 「かしま」艦上で行われたレセプションから明けて一夜、
わたしたちは再び晴海にやってきました。

晴海埠頭にはいつも車でやってくるのですが、今日は電車でJR新橋からタクシーです。
なぜなら今日は晴海から横須賀までのワンウェイだからです。

出港前、晴海のターミナルからレインボーブリッジを望むテラスから撮った写真。
今日は素晴らしい体験航海日和になりそうな空の色です。

テラス二階からこれから乗り込む「まきなみ」と「かしま」のメザシ状態を一枚。
岸壁には体験航海の乗客がいますが、まだ乗艦は始まっていません。

この時になって初めて、今年の練習艦隊が二隻で行われることに気がつきました。

この後、受付のために結構な時間並ぶことになりました。
今回のわたしは、TOの職場団体の一人としての参加です。

今回あることからTOが自衛隊に関わったところ、幹部学校が
体験航海への集団での参加をお誘いくださったため、わたしとTO二人で行こうか、
と思っていたら、TOの職場の人たちが我も我もと参加を申し込んできました。
中には在宅勤務で浜松から駆けつけてきた四人家族もいたほどです。

自衛隊の船になんとなく関心はあったものの、実際に乗る機会など全くないので、
それにすぐにでも乗れるとなると皆驚くほど『食いついてきた』とのことでした。

 

この日わたしたちは随伴艦の「まきなみ」に乗ることになっていました。
担当の自衛官が送ってこられた「ご案内」には、

「皆さんは(かしまではなく)まきなみに乗れてラッキーです!」

と!マーク付きで書かれています。
どうして「まきなみ」がラッキーなんだろう、という疑問は最後まで残りましたが、
今にして思うと、乗艦者の数の違いだったかもしれません。

「かしま」甲板にはもう一番乗りした乗客の姿が見えます。

受付済ませた後、わたしたちはグループにまとめられ、一緒に乗艦することになりました。
「まきなみ」組は「かしま」後方にある別のラッタルから乗艦するようです。

わたしたち一団を案内してくれた方は制服は着ていませんでしたが、
どうやら防衛省の職員が駆り出されていたようです。

「かしま」後部から左舷を回っていよいよ「まきなみ」に乗艦です。

案内されたのは格納庫。
ここでわたしたちは一行をこの日一日エスコートしてくれる自衛官とご対面しました。

「今日1日よろしくお願いします。
わたしは艦艇出身で、大抵のご質問には答えられると思いますので、
何か質問があったら遠慮なく聞いてください」

という挨拶を聞いた時、わたしは、どうやら今日の体験航海では
自分勝手にいろんなところに行くことはできないらしい、
と知りました。

いや・・・いいんですけどね。いつも自分勝手に動いてるので、たまには。

搭載ヘリの周りにはまるで結界を張るように舫が敷かれています。

「このヘリのプロペラの先の形、おもしろーい」

TOがいうので、この形でSH-60はKかJかを見分けるのだと説明したところ、
ものすごい勢いで博識ぶりに?感心されました。

そういえばわたしがそれを教えてもらったのもこのブログのコメント欄だったなあ・・。

形は違いますがどれにも「ガスタービン」の表示。

ガスタービンとは、燃料を燃やして動力を得るエンジンの一種です。 
取り入れた空気を圧縮し『燃焼器』の燃料に噴射して燃焼させると、
高温高圧で「ガス」になった気体が『タービン』を回転させ、推進力を得るので、
「ガスタービン」です。

ガスタービンは『圧縮機』で圧縮するために大量の空気を吸い込む必要があるので、
外側に先端が繋がっているのだと思ったのですが、果たしてこれは
「まきなみ」艦内のエンジンのためのものなのかどうか・・・・?

左舷側から煙突、艦橋など上部構造物を見上げたところ。

実は、この時わたしは格納庫で待たされているのにすっかり飽きてしまい、
勝手にグループを離脱して独自に艦内見学を始めてしまったのでした。

前甲板にはすでにたくさんの人が到着し始めています。

「まきなみ」からすぐ下の海面には、クラゲが大量に発生していました。
これは日本近海でどこにでも見られるミズクラゲですね。

四つの輪に見えるのは胃腔と生殖腺なんだそうで、この輪のせいで
「ヨツメクラゲ」という名称も持っているそうです。

端っこをお魚にかじられてしまったらしいクラゲもいました。

さて、勝手に艦内ツァーを決行中のわたしとTO。
出航作業を艦橋で見たいので、外階段から上がっていきます。
体験航海などの時、自衛艦は狭いラッタルを一方通行にすることがあり、
「まきなみ」でも艦橋には外付け階段から上り、退出は艦内の階段、
と決められていました。

外付け階段にはチャフ・ロケットシステムを見ながら上っていきます。

アルミニウム箔やワイヤー等の入ったコンテナを空中に射出して、
飛来するミサイルの誘導装置や、相手方のレーダーを欺くための装置です。

艦橋横ウイングに到達しました。
当たり前ですが停泊しているので速度は0ノットを指しています。

ウィングから甲板を見下ろす。

艦橋には本日参加のお子様たちがたくさんいましたが、どうもそのほとんどが
「まきなみ」乗員のご子息たちではないかと思われました。

ちなみに今モニターの前に座っているのが後ろに立っている自衛官の御令息で、
とーちゃんに「お前早くそこ次の人に代われ」などと言われ、
頭を叩かれたりしておりましたが(笑)息子はそれにもめげず色々と質問し、
とーちゃんもまんざらでもない様子でそれに丁寧に答えてあげていました。

そうか、この日は「昼間のパパはちょっと違う」を見せる絶好の機会でもあるのね。

艦橋にいた実習幹部のお嬢さん方。

操舵室後方には、今日の予定が丁寧な字で書き込まれています。

0940の「晴海出発」の後にあるMKNは「まきなみ」KSAは「かしま」でしょう。

1010 航空機ローターラン 

1245武器操法展示

1115手旗・ラッパ演奏(格納庫)

など、今日の体験搭乗者に見せるための展示予定も。

燃料等の「ネザミザコクザセリザチョリザヒリザ」
この表記にはいつ見てもウケます。

「在庫量」として「燃料」「水」とかじゃいかんのか。

先ほどの息子くんに、とーちゃん自衛官はずっと船のことを説明してあげていました。
実にほほえまC。


さて、このまま出航作業に入るのを待つか、とわたしたちが艦橋隅に落ち着くと、
その時TOの携帯に下にいる同行者から電話がかかってきました。

「みんなと一緒にいてほしいそうです」

とほほ、やっぱり単独行動は禁止されていたのか・・・。
出航作業を艦橋で見るのを諦め、格納庫に戻ることにしました。

甲板からは人がいなくなり、こちらでも出航作業が始まりました。

こちらはその時折しも海面に着水していた水上艇。

舫作業を行う時、必ず甲板のハッチが開けられます。

作業を行う海曹海士がスタンバイ。
右から二番めの人が持っている棒は何かしら。

舫の作業メンバー打ち合わせ中。

格納庫に行くために甲板まで降りてきました。

舫作業に合図を送る赤旗白旗の人もスタンバイ。

そして格納庫まで戻ってきました。

こちらでも出航作業の準備が始まろうとしています。

TOの職場の女性たちは、自衛艦に乗るのが初めての人たちばかりだったのですが、
彼女らが事前に、「もし海に落ちたらどうなるんだろう」と心配していたので、
わたしは艦尾にいる黒ウェットスーツのダイバーを指差し、

「その時には、あそこにいるイケメンが飛び込んで助けてくれますよ」

女子にこれをいうと、必ずと言っていいほど

「そんなことになったら恋が芽生えるかもですね!」(ワクワク)

という返事が返ってくるのももはやお約束のようなものです。

 

さて、いよいよ平成三十年度練習艦隊体験航海、横須賀に向けて出航です。

 

続く。

 

 

 

海上保安制度創設70周年記念観閲式

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ここのところ頂いたコメントに全く返事ができない状態が続いておりますが、
その理由は、またしてもイベントがいくつも重なってしまったからです。

その中にわたしにとって未知の世界、海上保安庁の観閲式&訓練展示がありました。


海上保安庁。

自衛隊とは方向性は違えども同じ海の防人であるこの組織に、
このわたし、興味がないどころではなかったのですが、
残念ながらこれまで全くといっていいほどご縁がありませんでした。


ところがこの度、ある重要人物からチケットをいただいたことがきっかけで、
(色々とありましたがそちらは本編で)参加がかなった海保観閲式です。

今日はまだ体験航海シリーズの途中でもありますし、まさに今日、
横須賀から練習艦隊をお見送りしてきたこともすぐにお話ししたいので、
例によって今日はダイジェストと参ります。

海保の観閲式が行われるのは平成25年以来、つまり5年ぶりです。
尖閣諸島問題やサミットなどが行われた関係で中止していたのですが、
今年は海上保安制度が制定されて70周年の節目ということで、
国民に広く業務に対する理解を訴えることを目的に行われることになりました。

観閲式は自衛隊より小規模となる巡視船四隻が単縦陣となり、
東京湾を航行する間、受閲部隊が逆行してくる形で行われます。

わたしの船は(艦じゃない、これだけでも新鮮!)いわゆる先導船で、
ここ横浜所属の「いず」となりました。

他の三隻はいずれも晴海からの出港となります。

乗船して出航を待っていると、横浜所属のFL01「ひりゆう」が出港していきました。
放水展示で大活躍する予定です。

しかし「ひりゆう」・・・なんと大胆なネーミング(笑)
「ゆ」を小さくしていない辺りにちょっと遠慮が見える気がします。

海保は消防船(フローティング・ボート)にあの飛龍を使ってしまっているのか。

出航の時にはわたしは船橋前部の、前甲板が見えるところから見ていました。
この出航作業も、海自と全く違って大変興味深いものでした。

同じ海の警備を行う組織で、しかも出自は同じ海軍でありながら、
海自と海保には文化の違いが多いこともこの日知ったことでしたが、
同じであることも発見。

例えば「帽振れ」です。

そして出航は1200。

「いず」船体が岸壁を離れて行くと、いつもドラマや映画などで
「横浜」を説明する時に必ず現れる景色がそのまま現れます。

総合訓練ならびに観閲式が行われる東京湾に行く「いず」は
出航後ベイブリッジの下を通過します。

羽田空港を左に見ながら航行していくことしばし、晴海から出航した
巡視船「やしま」「そうや」「だいせん」がいつの間にか後ろに。
訓練海域まで「いず」を先頭に、四隻でしばらく航行していきます。

二番船の「やしま」船橋上部に設えられた観閲台。
わかりやすくするため紅白の幕を張っています。

この日は防衛大臣政務官だったような気がします。

1400、観閲が始まりました。
関係機関など、船艇のパレードです。

これは石垣所属1,000トン型巡視船PL84「ざんぱ」。

登舷礼の行い方も、もちろん海自と一緒です。
海の儀礼は世界共通だからですね。

PL13「もとぶ」(横浜所属)。

PLとは巡視船を意味する「patrol vessel」のことです。
海保のことになるとこんなことすら調べないとわかりません。

ちなみに「もとぶ」はこの4月に就役したばかり、パリパリの新造船です。

右手観閲船隊、左が受閲船隊です。

そ こ に !

ああ、なんだかものすごく見慣れた光景。
ネイビーブルーのセーラー服が登舷礼に立っている灰色の艦体、
それは・・・・!

横須賀地方総監部から、我らが「はたかぜ」さんの登場です。
あーなんだろ、この、アウェイでいきなり知り合いにあったような安心感。

続いて、わたしにとっては懐かしい(アメリカで見たので)、アメリカ合衆国の
沿岸警備隊、コーストガードの「カッター」がゲストでパレードを行います。

Alex Haleyというこの名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、あの
「ルーツ」の作者であるアフリカ系作家と同一人物でした。

若き日に沿岸警備隊に入り、CPOまで昇進したそうです。

船艇の後は航空機のパレードも行われました。

ガルフストリームVのLAJ501「うみわし」。
高速道路横羽線の羽田付近を通ると海保の格納庫が見えますが、
「うみわし」はそこの所属のようです。

海保の観閲式ではこんなこともやるんですね。
消防船が水を盛大に撒き散らしながら通り過ぎる放水展示です。

まず先ほど横浜から一足先に出航した「ひりゆう」。

なんとびっくり、「はまぐも」は赤い水を出してるぞ。

川崎市消防局の消防艇「第6川崎丸」はド派手な蛍光色の緑。

市川市消防局「ちどり」はオレンジ色。

色とりどりの水を撒きながら進む消防船団の姿はなかなかシュールです。

続いて、人命救助訓練です。
まず、海に落ちた人をリペリング降下で救出するという訓練展示。

少し前に海に落ちたという設定の人が、オレンジの浮きの近くに浮かんでいます。

吊り上げ救助なう。

もう一回吊り上げ救助が行われました。
さっきと違ったアプローチでへローキャスティングを行います。

この要救助者は、ヘリに揚収された後、ヘリ搭載艦「とさ」に搬送されました。

息つく暇もなく、次の訓練展示が始まります。

今度はケミカルタンカー(のつもり)で火災に続く爆発発生(という想定)。

先ほどのカラー船団が寄ってたかって消火活動を行ってます。
あまりに水の量が多くて燃えている船が全く見えません。

続いて、訓練展示のハイライト(多分)、テロ容疑船捕捉、
制圧訓練が始まりました。

海賊のマークをわかりやすくつけた「はまかぜ」がアグレッサー?です。

ゴムボートで海面を飛び回るように走って不審船に警告し、
動きを止めるのが複合艇。

もうこれが凄いんだ。

複合艇というのはつまりゴムボートなんですが、これが凄まじいスピード。
この機動が半端じゃありません。

複合型ゴムボートに乗ってテロ容疑船を追いかけるのは
特別警備隊、略称特警。

この展示は高速機動連携訓練といいます。

容疑船は追いかけられて武力攻撃してきました。
「専守防衛」いただきました!

巡視船による正当防衛射撃がおこなわれます。

監視艇、警備艇が周りを取り囲み、移乗などを行い、
容疑者を取り押さえ、ついに容疑船は制圧されました。

海自の観艦式でもおこなわれる高速機動連携訓練です。
一斉回頭などを行いました。

大型巡視船と護衛艦「はたかぜ」が連携して行われるこの訓練には、
もう見ているこちらの心臓は高鳴りっ放し。

続いては小型の巡視船隊の機動訓練です。
「ひざん」「あかぎ」(なに、赤城だと・・・?)「つくば」が
空砲射撃を行いました。

というところで総合訓練は終了です。
ここからは楽しい「フェアウェル」の時間。

関係船艇艦艇が観閲船にお別れの挨拶をしてくれます。

ご当地色豊かに、各船工夫を凝らしたフェアウェルを行います。
例えばこの巡視船「ふどう」は神戸の・・・・あれ???

岡山の水島からはPC43「おきなみ」。

PS35「ともり」の船尾にいるこの怖い人は誰・・・・?
((((;゚Д゚)))))))

PS15「びざん」がどこの船かもうお分かりですね?

で、出た〜〜〜!

ああ、なんたる安定感。(個人の感想です)
我らが「はたかぜ」の艦尾には・・・・。

ピクルス王子とパセリちゃんが!

今日一番目立っていた気がする「ひりゆう」さんは水撒きながら最後のご挨拶。

この日「いず」の後ろをずっと警護してくれていた巡視船「のげかぜ」。
頼もしかったです。

横浜港に向かう「いず」に、挨拶してくれる「にじかぜ」。

こうして12時に出航、2時から約1時間の観閲式と訓練を終え、
4時半に「いず」は横浜港に無事帰ってきました。

 

次回からは詳しく、初めて見た海保の観閲式についてお話ししていきます。

 

続く。

 

遠洋練習航海出航行事〜平成三十年 海上自衛隊練習艦隊

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海保の観閲式のことをお話ししたと思ったら昨日は練習艦隊の出航だったため、
体験航海も海保もまだ全く触れていない海自基地隊見学も一切置いておいて、
この出航行事をお伝えしたいと思います。

 

冒頭画像は儀式が始まる前の横須賀地方総監部岸壁の様子です。
手前の白い塊が実習幹部たち、その向こう儀仗隊と海曹海士です。

これら一連の写真は、以前も降下始めの時に写真をお借りしたKさんの撮ったもの。

それにしても、これらはどこから撮った写真なんでしょうか。
逸見岸壁をこんなに見下ろす場所・・・。
不思議に思ってグーグルアースを見ると、現在のグーグルアース画像、
DDH「いずも」と書いてあるところに「いずも」でなく「しらせ」がおります(笑)

それはどうでもいいんですが、この瞬間わたしはどこにいるかというと、
おそらく、ゲートを入る車の後ろを車で走行していたはずです。
わたしの車はもちろんゲートには入れず、手前で左に誘導されました。

車を停めて入っていくと、ゲート左のテントで受付をします。

これも同じKさんの写真。
整列が済んでいますがまだヘリが来ていないので開始前かと思われます。
ヴェルニー公園か、それとも参加するとおっしゃっていた軍港めぐりの船の上から?

9時半から受付というお知らせをいただいていたのですが、外から見ると
岸壁には乗員の家族などがすでにたくさん来ておられる上、
実習幹部の整列が始まったので、入場することにしました。

車のナンバーはあらかじめ知らせてあり、門を入ってすぐに
名簿を持った自衛官が目視でチェックをしてそれを警衛のゲート前に伝え、
そこではダッシュボードに置く許可証をもらえます。

車を停めたところから岸壁に入っていくと、岸壁では自衛官が
赤絨毯に立つ自衛隊高官とVIPの名札をつける作業をしていました。

このパイプチェアが招待客の席です。
なんと、今年はテントがありません。

視界を良くするために今年はテントを無しにしたということでしたが、
わたしは、去年、強風の中テントが倒れないように、自衛官たちが総出で
一生懸命テントのポールを抑えていたことを思い出しました。
あれがテント中止の本当の原因だと思うな。

ただ、この日の日差しは結構強烈で、じっと座っていると結構大変でした。
帽子を着用してきてまだしも助かったと思ったものです。

わたしが席に着いたのは受付開始まであと10分といったところでしょうか。
彼らがすでに整列しているのは、招待客を迎えるためらしいことがわかりました。
長時間立っているのが日常茶飯事の自衛官ですが、こんな時にはいつも感心します。

式の開始まで小一時間、彼らは同じ姿勢で立っていたことになります。

儀仗隊に女性隊員が三人いるので少し驚きました。
こんなところにも男女平等か・・・・。

彼女らには悪いけど、こういう男女平等、わたし個人的に嫌いなんですよね。

この件についてはリベラル派からの非難を覚悟ではっきり言います。
儀仗隊はセーラー服の一団だけで行っていただきたい。
もし女性を混ぜるのなら、彼女らにセーラー服を着せてください。以上。

そして練習艦隊司令官はじめ、各艦艦長と幕僚が登場です。

家族席にも今年はテントがありません。
あまりの辛さに顔まで覆ってしまっている人あり。

日焼けを死ぬほど嫌う日本人女性のほとんどには
地獄のような試練だったかもしれん。(一応シャレ)

来年横須賀で練習艦隊お見送り予定のご家族の皆様、この仕様は来年も
同じである可能性が高いので、ぜひ帽子と日焼け対策を万全になさってください。

横須賀音楽隊も到着しました。
岸壁を走る手前の海曹の躍動感、ハンパ無し。

練習艦隊幕僚を先頭に、実習幹部たちが岸壁を指揮台の前に移動し始めました。
写真のクレジットを見ると0929、「海軍1分前」に発動したらしいことが判明。

いつも自衛官の幹部常装第一種夏服姿を撮ると、彼らの日焼けした顔色が
白の効果で暗く写ってしまうのですが、どうしたらいいでしょうか(相談)

まあ、気持ちマスク効果にもなっていいかなという気もしますが。

最近自衛隊の制服論議がこのブログでもありましたが、
幹部の夏の制服はやはり海自が最高だと思います。

このスタイルが世界基準であり、海軍の第二種軍服と似ているのもよろしい。

写真を下さったKさんのおばあちゃまは日本橋で鰻屋の看板娘だった頃、
此の制服で来る海軍士官に

「お嫁さんになる」

とつい言ってしまわれたそうです。
昔はこれに加えて腰に短剣でしたからね。破壊力もすごかったかと。

泉海将補、練習艦隊司令官として今から出航の儀式に臨みます。

泉海将補の向こうは「かしま」艦長金子一佐。

「かしま」乗員のうち海曹海士代表がここに立ちます。
「気をつけ」などの号令は右側の女性三尉が下していました。

海幕長が儀仗令を受け、巡閲を行う間は敬礼を行います。
それらの行事一切、わたしの座っているところからは見えませんでした。

式典の間「かしま」甲板から写真を撮っていた海上自衛隊写真員。

海自の写真員は千葉県柏市にある海上自衛隊第3術科学校で技術を学びます。
第3術科学校は哨戒機P-3C基地のある下総にあります。
そういえば、下総に表敬訪問した時、コクピットで撮ってもらった写真が
その少し後にはプリントアウトされて(文字入り)渡されたということがあったっけ。

なぜ航空基地に写真員養成期間があるかというと、写真員は海軍時代、
航空機による写真偵察を行うことを目的に誕生したからだそうです。

「かしま」前部寄り舷門にも二人立っています。

海幕長、現在巡閲中。

「かしま」VIP専用、特別仕様のボートを撮っておきました。

「いつかあれに乗ってみたいものです」

わたしの隣の方がわたしに向かって囁きました。
うーん・・これだけは国賓級の来客でないとダメじゃないかな。

今年はついに小野寺防衛大臣のご来臨を仰ぐことになりました。
いつ見ても腰の低い防衛大臣でいらっしゃいますが、この時は
御年91歳、元衆議院議長の綿貫民輔先生がここにおられたので、
もうほとんど平身低頭状態でご挨拶されているのです。

右側に仁王立ちしているのは防衛相のSPですが、
いつ何があっても小野寺防衛相に覆いかぶさって守る気満々な感じ。

練習艦隊出航に際し、防衛大臣からの挨拶。

防衛大臣の激励の辞に耳を傾ける実習幹部たち。
練習艦隊出航行事に防衛大臣本人が出席するのはわたしの知る限り初めてです。

国会の期間でもあるため、いつも政務官とかせいぜい副大臣なので。

そしてこの方も練習艦隊行事では初めてお見かけしました。
「文藝春秋」の腕章を携帯されているところを見ると、
どうやら次の写真集はここから出版されるようですね。

防衛大臣の次に挨拶されたこの方、みなさんどなたかご存知ですか?

元スピードスケートの選手で、引退後政治家に転身された
堀井学外務大臣政務官です。

練習艦隊は日本の親善大使の役割も担って世界を周航するのが任務です。
本日の式典には訪問先関係者である、メキシコ、スウェーデンの駐在武官や
在日大使館関係者も何人か来賓として参加していることから、
外務省代表として彼らを激励するために出席したのでしょう。

リンク先を読んでいただければわかりますが、堀井政務官は、日本では
オリンピックのメダリストとして初めて代議士になった人物だとか。

最後に村川海幕長の激励の辞。

「いかようにも変化する海の厳しさ、美しさを学んでほしい」

「伝統のユーモア精神を発揮して」

「半年後の諸君の帰りを一日千秋の思いで我々は待っている」

などといったフレーズは、練習艦隊出航の際の定型句です。

続いて練習艦隊司令官の出航あいさつが行われました。

「行ってまいります」

という内容のあいさつと敬礼を、普通の観閲官は黙ったまま受けるのですが、
律儀で心優しい(知らんけど多分)小野寺大臣は、アドリブで

「行ってらっしゃい」

とそれに返答したため、一瞬泉司令は戸惑ったように、一旦下ろした敬礼を
少し迷ってからもう一度行いました。

ちなみに最前列は全員政治家で、白髪はHSK議員です。
HSK議員、政界の大物綿貫氏には、

「先生!HSKでございます!」

と大声でアピールしておられました。

儀式が終わり、行進曲「軍艦」の調べの中、総員乗艦となりました。
今年の練習艦隊司令官は花束を持ったまま乗艦を行うようです。

例年、花束をもらってもすぐに副官に渡す司令官がほとんどで、その結果、
副官が花束を持って行進するということになるのですが、泉司令の場合、
持ったまま歩くのがご自身の雰囲気に似合っているような気がしました。

司令官が持って歩けば当然艦長たちも持って歩くことになりますね。
「まきなみ」の大日方艦長も。

そして、目の前を敬礼した実習幹部たちが通り過ぎていきます。

  

  

   

艦長乗艦。
次にこの逸見岸壁に彼らが降り立つのは、半年後の10月31日となります。

 

続く。

 

 

 

 

鹿島立ち〜平成三十年 海上自衛隊遠洋練習艦隊出航行事

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平成三十年度遠洋練習航海に出航する海上自衛隊練習艦隊、
出航に向けた激励のための儀式を終え、乗員は岸壁から
練習艦「かしま」に乗艦していきます。

「かしま」乗員が出航作業を粛々と行う中、前甲板側の舷梯から乗艦した実習幹部たちが
行進曲「軍艦」に乗って行進し、整列を行います。

今年の実習幹部は右舷後方に横4列に並んで帽振れを行うようです。

左から二人目にタイ王国からの留学生の姿がありますね。

定位置に着くと、帽子のストラップを顎に掛けて準備。

この配置だと、後ろの方に並んでいる幹部の顔が見えないので、もしかしたら
残念に思った家族の方もおられるのではないかとちょっと心配しています。

出航作業があるので舷側にずらりと一列、というのは出航してからのことになります。

「かしま」音楽隊が舷側にスタンバイ。
この時、岸壁では横須賀音楽隊が「軍艦」を演奏し続けています。

準備の間、横音は「錨を上げて」など軽快なマーチを中心に演奏していましたが、
隣の方が、何曲目かに、

「こういう時にアメリカの曲ばっかりというのはどうもね」

とまたしてもわたしに向かって呟きました。
言われてみれば4〜5曲めに演奏された「宇宙戦艦ヤマト」が
この日初めて演奏された国産のマーチというこの現状です。

「愛国行進曲」「太平洋行進曲」などは戦後世論への忖度ゆえ無理だとしても、
何年か前に演奏されたこともある「君が代行進曲」が最近さっぱり
演奏されなくなったのを、わたしは非常に寂しく思っております。

呉音楽隊が潜水艦をテーマにした委嘱作品を最近演奏しているように、
海自音楽隊は練習艦隊出航をテーマにした曲をどなたかに依頼してはどうでしょうか。
(提案)

ものすごいスピードで舷梯を引き揚げる作業が行われています。
またしても隣の方がわたしに、

「土曜日に海保の観艦式に行きましたが、あちらとは随分スピードが違いますな」

いや、わたしたちの乗った大型の巡視船は、何かあった時に
緊急出動するようなタイプの船ではないからでは・・・。

そんな好き勝手なことを言いながら見ている間にも、作業は早回しのように進みます。
舷梯に吊り上げのためのワイヤを引っ掛けて・・・。

牽引の準備が終わったら、最後に「かしま」乗員が乗り込みます。

前を上っている人が持っているのは、儀式で使ったお立ち台のようです。

手すりのない舷梯をものを抱えて駆け上るというのもなかなか怖いのでは・・。

この人が本当に本当の最後の「かしま」への乗艦者。

舷梯の吊り上げ作業を前列の国会議員は動画に撮っています(笑)

後ろ甲板では、作業の合図を待って、舫を持ったまま待機しています。

舷梯引き揚げの間、舷側から作業の進行を見守る係。

ところで、当ブログコメンテイター陣によると、「かしま」には
舷梯をぶつけてしまったと思しき痕が艦体に見られるわけですが、
一体どんな状況でそんなことになったのでしょうか。

これらの揚収作業を見る限り、よほどの強風でもない限り、
舷梯が外れるということなどありえない気がするのですが・・。

「軍艦」が終わると、「かしま」艦上の遠洋航海音楽隊に演奏は移りました。
写真を見て呉音楽隊のクラリネット奏者が参加されているのに気づきました。

遠洋航海に随伴する音楽隊は全国の音楽隊からの志望者で構成されます。

舷側の他には艦橋付近に立つ実習幹部もいます。

純白の制服で舷側に立つ若き自衛官の一団、清冽さに溢れなんと凛々しいことか。

招待客は岸壁での見送りを促され、わたしも赤絨毯の後ろにやってきました。
左端でたった一人後ろを睨め回しているのは、防衛大臣付きSPです。
防衛大臣、外務大臣政務官、海幕長、横須賀地方総監らは台上からの見送りです。

ほとんど前振りなしで「まきなみ」がすでに離岸を始めています。

この同時刻、Kさんは軍港巡りの船の上から岸壁を見ておられました。
出航した「まきなみ」、海上からの写真。

時間差で出航する「かしま」の艦上では出航喇叭を待つ状態です。

X字型にかかっている舫を、二人の乗員がずっと持っていますね。
紺色の軍服はスウェーデン海軍、その左は在日米海軍の軍人です。

陸自の隊員が二人写っていますが、こうして陽の光の下で見ると、
空自の青とは全く異質の、まさに「紫紺」としか言いようのない色です。
「陸自らしさ」のポイントは右腕のワッペンだとこの日わたしは思いました。

「まきなみ」乗員に「帽振れ」がかかりました。

岸壁でも帽振れ。

こうして見ると海上保安庁の制服は、海自と全く違いクリーム色です。
帽子の振り方も、海自の人たちは軽く円を描くように降りますが、
海保は横に振っているような、若干違う振り方のように見えました。

今鹿島立ちせんとする艦上の若武者を、帽振れで見送る高官たち。

これと全く同じ光景が、ここ横須賀では戦前から繰り返されてきたのだろうな、
と、彼らの後ろ姿を見ながらわたしはしみじみと考えていました。

艦橋の上でも帽振れが始まっていますが、練習艦隊司令(青ストラップ)、
「かしま」艦長(赤)の二人は帽振れは行わないようです。

「まきなみ」艦上では左舷から右舷に移動を始めています。

わたしはこの時点で柵外に出て、自分の車に乗り込もうとしていました。
今年も観音埼に先回りして、見送りしようと思ったのです。

走る車からウィンドウ越しに「かしま」が最後の帽振れをしているのが見えました。

こちらは「軍港巡り」の船上から撮ったKさんの写真。
ほぼ同じ時間だったかもしれませんね。

練習艦隊去りし後の岸壁の様子。

さて、わたしはおそらく当日車で来場していた招待客の中で一番早く
横須賀地方総監部を離脱し、一路観音埼に向かいました。

去年観音埼灯台から見送るという方(司令官の盟友)に教えていただき、
ここを横須賀出航して30分後に練習艦隊が通過することを知りました。

観音埼灯台の下の駐車場に車を停めて歩いていくと、
すでに「まきなみ」の姿が見えてきていました。
この写真を撮ったのは1125、横須賀で最後に撮った「かしま」の写真は
1058です。

この日の観音埼灯台下には去年のように自衛艦旗を振る人の姿もなく、
去年と同じ「ご安航を祈る」の旗を立てて船を撮影している人に、
女性(おそらく参加者の家族)が一人話を聴きながら見送っているだけでした。

わたしは深い考えもなく、去年行ったから今年も、と思ったのですが、
あとで「観音埼まで行った」というと、ほとんどストーカーですね、と言われました。

舷側に白い登舷礼の立つ「まきなみ」には、防衛大学校の学生が
走水から四隻の船を出してお見送りをするのが毎年の恒例となっています。

「まきなみ」前方にいるヨットは、知り合いなのか、このあとずっと、
「まきなみ」が姿を消すまで横を伴走し続け、ご安航のおじさんに、

「迷惑だ!あのヨット、ナンバー調べて通報してやる!」

とブーブー文句を言われていました。
写真を撮っているおじさんには邪魔なヨットだったかもしれませんが、
「まきなみ」にすれば別に迷惑でもなんでもなかったのでは・・・。

続いて艦首から艦尾まで一列の登舷礼が美しく並ぶ「かしま」がやってきました。

防大の四隻は、最後にきっちり並んで、
「かしま」が去っていくのを見送っています。

「かしま」からは帽振れも行われ、一度は汽笛も鳴らされました。

この日、去年わたしがヨットに乗せていただいた防大卒の方が、土曜日に行われた
ドリーミングという大型ヨットの学連OBレースの写真を送ってきてくれたのですが、
その写真で艇長として舵を取っている防大卒女子は、なんとなんと、
この「かしま」に乗って遠洋航海に出航する予定の訓練幹部でした。

彼女も今この登舷礼の中に立ち、後輩の激励を受けているというわけですね。

見送りが終わると、防大の小艇は走水に帰って行きました。
一隻の艇には十人くらいの防大生が乗り組んでいます。

「かしま」は浦賀水道を通過しながら最後にもう一度汽笛を鳴らし、帽振れを行いました。

もちろんこちらに向かって帽振れしたわけではないと思いますが、わたしは思わず
彼らに向かって最後に大きく手を振り、心の中で行ってらっしゃい、ご安航を祈ります、
と呟いてから観音埼を去りました。

 

(練習艦隊シリーズはまだ終わってないので続く)

 

出航作業〜平成三十年 海上自衛隊練習艦隊 体験航海

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 さて、練習艦隊は5月21日に出航し、今現在も平均時速12.7ノットで
一路インドネシアに向けて航行しているわけですが、当ブログでは
少し時間を巻き戻し、体験航海の続きについてお話ししたいと思います。

わたしとTOが格納庫に呼び戻されたのは、出航時間に人員を把握するため、
エスコートの自衛官がグループに招集をかけたからだとわかりました。

出航作業を行うために待機するボースンの皆さん。
職域的には運用員ということになるのでしょうか。

舫を扱うための手袋をきりりと身につけます。

サングラスの幹部は甲板作業を率いる指揮官です。
階級は二尉、旧軍の中尉ですが、このクラスの幹部が束ねるのは
三十人くらいの部隊、ということになっています。

甲板での作業は肉体的にも大変だと思いますが、最近の自衛艦では
女性自衛官の姿をここに見ることは決して珍しくなくなりました。

彼女はタグボートから受け取った牽引用の舫を固定しているようです。

出航を補助する曳船と「まきなみ」が舫で繋がれます。
「あすか丸」、芝浦通船所属の中大型タグボートです。

右舷側ではおなじみの「舫ダッシュ」が始まりました。
引き上げる舫を持って数メートル走って放ち、
また根元に行って同じことを何人かで繰り返します。

着岸した時にサンドレットを受け取り岸壁で行われる舫ダッシュと違い、
この舫は太く結構重たそうです。

この作業に女性が参加しているのを見るのは初めてです。
自衛隊こそ男女共同参画職場ですよね。

ここでふと興味が湧いて、この「舫取り、舫取りはずし」の作業が
民間では金銭的にいくらに換算されるのか調べてみました。

作業を行うのが岸壁なのか、片浮標か、両浮標かで料金は違ってきて、
当然船の大きさによっても違ってきます。

この場合は岸壁での作業なので、小さな船、299トン以下であれば
綱取料 9,500円、 放料5,800円といったものですが、
「かしま」クラスを総トン数5.400トン強だとすれば(最大排水量で計算)
今やっている舫はずしはある会社で19,400円。

ちなみに舫取りは31,700円、基本料金(おそらくどちらも行う)は
51,100円となっていました。

これらは平常の料金であり、

時間外割増 自 6 時 01 分 至 8 時 30 分······ 70%増
自 16 時 31 分 至 22 時 00 分·················· 60%増
自 22 時 01 分 至翌 6 時 00 分··············· 120%増

また、 荒雨雪天(気象庁の発表する注意報発令下)では
自動的に50%増となります。

これらの民間企業の行う舫作業と、海上自衛隊のそれは
どのようにかはわかりませんが、おそらく全く違うものでしょうから、
金銭に換算すること自体、意味がないかもしれませんが。

たくさん写真を撮っているので長時間やっているように見えますが、
実は作業そのものにかかる時間は15秒くらいのものです。

彼らの手袋を拡大して見ると、どの人のものも真っ黒でボロボロです。
昔は軍手で行なっていたんでしょうか。

岸壁の舫が放れると、同時にタグボートが引っ張りにかかりました。

その時、向こう側に自衛隊のタグボートがいるのに気がつきました。
はて、なんでここに?しかも何も仕事をしていません。

これは、後で甲板にいる自衛官に聞いて理由がわかりました。
晴海に「かしま」と「まきなみ」をメザシ状態に係留するのに、
両艦の間に入れていた防眩物を持って帰るために横須賀から来たのです。

YT10くんは、この後「かしま」から防眩物を回収して、
我々と同じ航路で横須賀に向かうことになっています。

タグボートの巨大な巻き取り機をアップにしてみました。
大型船を引っ張るタグラインはタグボートのものです。

艦首側のタグは「武蔵」という東港サービス所属の船です。
「あすか丸」は芝浦通船。
同時に作業を行う船が必ずしも同じ会社ではないみたいですね。

「まきなみ」の作業が終わり、「武蔵」は早速「かしま」に近づき、
「かしま」に今からタグラインを渡すところです。

ここで面白い光景を目にしました。
「あすか丸」の乗員が差し出した虫網のようなものに、乗員が何かを入れています。

トランシーバーのようですね。
タグボートと大型船の間では、トランシーバーや書類などを受け渡しするのに
原始的なようですが、この方法が一番確実で話が早いのだとか。

いつの間にか「まきなみ」は出航しましたが、格納庫の中からは
艦尾にいるダイバーの帽振れしか見ることはできません。

トランシーバーを受け取った「あすか丸」も「かしま」の作業にかかります。

「かしま」の左舷側にYT 10の回収する予定の防眩物があります。

そこに水産庁の漁業取締船「はまなす」が通りかかりました。
この時には知るべくもなかったのですが、写真を点検していて見覚えがあるのに気がつき、
海保の観閲式のパンフを調べてみたら、この子も参加していました。

「はまなす」は、密漁などを防止・摘発し水産資源を保護することを目的に、
水産庁が運用しており、外国漁船の違法操業に対しても
拿捕などの主権行使できるという結構強面のやつです。

乗組員は非殺傷性とはいうものの、手榴弾や警棒で武装していますし、
自身もボディアーマーに身を包んでいます。

HOS302 三連装短魚雷発射管については、もう今やTOの質問に
スラスラと答えられるくらいにわたしも成長いたしました。

「これどうするの」

「海に向かって落とすの」

「どうやって?」

「撃つ時は筒が海の方を向くの」

というか、「むらさめ」見学の時に、船が魚雷を撃つとは知らなかった、
と言って恥をかいたのを忘れたのか君は。

晴海を出港してすぐ、レインボーブリッジの下を通過します。
聞いた話ですが、この橋の下を通れない船って結構あるそうですね。
クイーン・エリザベス二世が干潮のときに通れる高さ、という基準で設計されましたが、
実際に女王陛下は晴海にご来臨されたことはないそうですし、
帆船でも「日本丸」「海王丸」豪華客船「飛鳥」も通れません。

そして、なんと自衛艦のうち半分以上、イージス艦は全部アウトだそうですが、
これは正確な資料を見たわけではないのであしからず。

国際都市である東京の港への入り口なのにこんな微妙な高さなのはなぜかというと、
近くに羽田空港があり、高さに規制がかかっているせいだそうです。

昨今は大型の外国客船が続々と増えているのにも関わらず、
そのほとんどが東京に入港できないというのはかなりの問題かもしれません。

「まきなみ」がレインボーブリッジ下に差し掛かります。
甲板の運要員の皆さんが帽振れをはじめました。

実習幹部らしいこの人も。
どこに向かって帽振れしているのかな?

レインボーブリッジ真下なう。

ブリッジ下の公園で自衛艦旗を振っている人がいたのでした。
この後、もう一度帽振れがあったのですが、なぜかわからなかったので
帽子を振っていた一人に聞いて見ると、

「あそこで自衛艦旗を振ってる人がいたので」

指差す方向を探しましたが、わたしには見えませんでした。
後でメールにより、それが知り合いの一団だったことがわかりました。

余裕でレインボーブリッジ通過。
わかっているけどついつい息を飲んで見てしまいます。

東京湾には実にいろんな船が生息しているものです。
警視庁の巡視船「かわせみ」が通りかかりました。

そして、またしてもわたしはこのとき知るべくもなかったのですが、
この直後海保観閲式で受閲船隊として邂逅することになった
本庁所属HL01、測量船「昭洋」の横を通り過ぎました。

測量船とは、海図、地図の作成や海上工事の資料収集等を目的とした測量、
測地を行う船舶のことです。

自衛隊では艦種記号AGSで「海洋観測艦」と称しており、現在就役しているのは
 「わかさ」「にちなん」「しょうなん」の3隻です。

さて、晴海を出港してレインボーブリッジ下を通過した「まきなみ」。
この後には、東京湾航行中に練習艦隊旗艦「かしま」に追い抜かされるという、
ある意味この航海におけるメイン・イベントが待ち受けていました。

 

続く。

 

 

 

 

ローター稼働展示と先導艦交代〜平成三十年 海上自衛隊練習艦隊 体験航海

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 体験航海では、一般乗客のために艦内でイベントが用意されますが、
ヘリ搭載艦「まきなみ」では、搭載ヘリのローターを回して、
その風力を体で感じてもらう、という企画(たぶん)が行われました。

格納庫にはロープが張られ、皆が見守る中、周りの手すりを全て取り払う作業が始まりました。

艦内で甲板の手すりが全くなくなるのを見るの初めてです。
ローターを回転させるだけであっても、こうすることに決まっているようです。

青と緑の作業服がきれいに交互に並んでの作業です。

舫の作業を行う運用員は黒の制服を着用しますが、
搭乗員とメカニックあるいは飛行作業などの部署はいつも通りでいいようです。

手すりは外に向けて倒すとそのままセーフティネットになる優れもの。

 作業終了です。

ヘリのドアがここで初めて開けられました。

インカム兼耳栓?の黄色いイヤフォンがミッキーの耳みたいで可愛い(笑)

空自のパイロットスーツは文句なしにカッコいいですが、
ベースボールキャップと合わせた海自の深緑の搭乗員服もいいなあ。
左腕の日の丸から、つい海軍航空隊を想起してしまいます。

そういえば最近すっかり忘れていましたが、そもそも
わたしがこの世界に興味を持つきっかけが海軍航空隊だったんだわ。

思えば遠くまで来てしまったものです。(遠い目自粛)

思うところあって最近任務中の自衛官であってもできるだけ顔にブラーをかけ、
はっきりと写さないようにしていますが、このコクピットの中だけは
パイロットの様子を見ていただきたいので、加工なしで出します。

「P3のパイロットはヘリパイほど目が良くなくてもいいらしい」

と航空志望の新任幹部に聞きましたが、こちらのパイロットは眼鏡着用。

Pー3Cのコクピットだとこちらから向かって右側が機長ですが、
ヘリコプターの場合反対側の左側が機長となります。

固定翼機は一般の航空機の交通ルールが右側通行なので左に席がありますが、
回転翼機の場合、低高度で航路を決めずに飛行することが多く、そのため
右側の視野を広く確保する必要性から右席になっているようですね。

ですから、管制官が誘導する際、固定翼機に対してはパイロット席のある側が
内側に来る左旋回を、回転翼機に対しては右旋回を指示します。

そして二人が被っているものに注目。

まるでスイミングキャップのような布の帽子ですが・・・。

機長が前に立つ誘導員にハンドサインを出しました。

そして次に写真を撮った時には二人ともヘルメットを着用していました。
ヘルメットに専用のマスク型のサンバイザー。
スイミングキャップはヘルメットの下に、蒸れないように(多分)つけるものだった模様。

そしてまたしても謎のハンドサイン「V」がむちゃくちゃカッコイイ。

これが最終の合図だったらしく、このあとローターが回り始めました。
わたしの近くに立っていたTOが慌てて帽子を脱ぎ出したので、

「格納庫にいる限り帽子が飛んだりすることはないと思う」

とこれまでの経験からアドバイスを送りました。

ちょうど羽田空港を過ぎたあたりで、国内線の航路を盛んに飛行機が通り過ぎます。

スマホでローターが回るのを延々と動画に撮っていた人が多かったようですが、
もちろん回して見せるだけが目的で飛び上がったりしません。

わたしの後ろに小学4年生くらいの男児がいたので、前に押し出して

「子供がいるので前に行かせてあげてください」

と言ったのですが、中学生くらいの子は自分も子供だという意識があるからか、
頑として動いてくれませんでした。

せっかくローターが派手に回っているので、シャッタースピードを30分の1に落としました。
ローター以外は動くものもなく、このスピードでもブレず楽勝です。

人の頭越しにしばらくローターが回るのをただ見ていましたが、
ちょっと飽きてきたので左舷側に出て外から撮ってみました。
こちらには誰もいません。

展示が終わり、ヘリがローターを止めたころ、後ろに「かしま」が見えてきました。

「まきなみ」に遅れて出港した「かしま」、これから「まきなみ」に追いつくようです。

こちらでは展示を終わったヘリのローターを畳んで、
見学者に触れられないように後ろにまとめる作業中。

デッキブラシのようなものでローターを扱っています。

「ミッドウェイ」について書かれた本で読んだ話ですが、
ある整備員が風でふわっと動いたローターを、スピードがなく
回り始めだということもあって、ふと手を伸ばして手で止めようとしたところ、
すっぱり指が切れてしまった、ということもあるくらい、
ローターを扱うのは危険な作業であるようです。

その整備員は負傷してすぐ、静かに「俺が悪い」と言ったとか・・・。

「かしま」がもりもりと接近中。
左舷側から追い越すつもりのようです。

「まきなみ」が行った後、「かしま」のまえを第三高神丸が横断しました。
東京湾で作業する砂利船だそうです。

ほとんどギリギリのように見えますが、よくあることなのでしょうか。

続いて通りかかった不思議な形の船。
真ん中部分の喫水線がほとんど海面と同じです。

船名が読めなかったのですが、何をする船かな?

ANAの飛行機が脚を出したまま上空を通過しました。
「まきなみ」の煙突からの空気で機体が歪んで見えます。

あっという間に「かしま」が「まきなみ」に追いつきました。

旗艦だから先に行くのか、単に横須賀に入港する順序の関係なのか、
その理由はわかりませんが、何れにしてもこの「追いつき、追い越し」が
本航海中の最大のイベントとなったことは間違いありません。

甲板から「まきなみ」の艦橋に士官が見えました。

実は今、高松市の金刀比羅神宮における追悼式を済ませ、
直会も終えて空港のラウンジでこれを製作しているのですが、
その食事会の席で、戦後掃海活動で殉職された隊員のご親族のかたが、
その遺志を継いで海上自衛隊に入り、「まきなみ」の
「長」配置にいるということを聞きました。

つまりわたしはこの時、その方の乗務する船にまさに乗っていたことになります。

 左舷側に並んだ「かしま」に対し「まきなみ」では登舷礼が行われました。
左舷側で敬礼を行う実習幹部たちです。

「かしま」甲板には立ったままの体験航海参加者がいっぱいです。

この日も船を降りた後、自分がクタクタに疲れているのに気がついたのですが、
よく考えると、航海の間というのはほとんど座ることがないんですよね。

見るものが多く、写真を撮ったりしているので2時間くらいは余裕で過ぎますが、
2時間揺れる船で立ちっぱなし、動きぱなしって考えたらかなり重労働です。
 

「まきなみ」と違い、「かしま」には艦橋の上の階が
観覧席のようになっていて、ここにも人があふれています。

いざとなれば国家元首級の方々の貴賓席にもなるような作りなのでしょう。

そこにものすごいスピードで現れたプレジャーボート?

撮っている時には全く気づかなかったのですが、この後ろに
ディズニー・シーが写っています。

左の山は「プロメテウス火山」、客船は「SSコロンビア」、
右側の建物は「タワー・オブ・ザ・テラー」ですね。

「かしま」に揚がっているのは「U」「W」「1」、
一番上の紅白三角は「回答」のようです。

「まきなみ」に対する回答だと思われますが、正確には

「協力に感謝する。御安航を(Thank your cooperation, bon voyage)」

となります。

一番上は、艦隊司令である泉海将補座乗を意味する二つ桜です。

ついに「かしま」の艦首が「まきなみ」と並びました。

その時、「かしま」艦橋から発光信号が送られてきました。

内容はアナウンスされたと思いますが、残念ながら記憶にありません<(_ _)>

発光信号を送ってきている探照灯の部分を拡大してみました。

さらにアップ。
さすがは解像度の半端ないNIKON810である。
ちなみに、この航海のために買ったタムロンの中望遠レンズ使用です。

「まきなみ」がこれに対してどう返答をしたのかはさらにわかりませんでした。

発光信号は、「かしま」が艦尾の艦名が読めるくらい前に進むまで続けられました。

航行中の「かしま」をこんなに長時間間近に見ることができたのは初めてです。
繰り返しになりますが、

「皆さんはまきなみに乗れてラッキーです」

とわたしたちに来た自衛官からの案内状に買いてあったわけが、この時わかりました。

 

 

続く。

 

 

掃海殉職者追悼式を政治利用?する野党議員

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毎年5月の最終週末には、高松の金毘羅宮にある
掃海隊殉職者慰霊碑の前で、戦後日本の近海における掃海活動に従事し、
殉職した七十九柱の御霊を追悼する殉職者追悼式が行われます。

わたしは、前日の立て付けに続き前夜掃海母艦で行われる艦上レセプション、
そして追悼式に今年も参加して参りました。

これらの参加記についてはまた例によって最初からお伝えしていこうと思いますが、
今日はとにかく、そういったこととは全く別に、この追悼式において
ある野党議員があからさまな場の政治利用を行なったことを糾弾しておきます。

 

 

この追悼式が行われる香川県選出の議員といえば、今一番有名なのが
玉木雄一郎議員ではないでしょうか。

なぜ有名かについては今更わたしがここでわざわざ書かずとも、
ネット媒体で情報を得ることのできる皆さんはよくご存知でしょう。


玉木議員は、昨年、香川県の議員として掃海殉職者追悼式に招かれ、
そこで追悼の辞を述べています。

当時、国会もメディアも安倍首相を糾弾するもりかけ報道の真っ最中で、
(今もそうだというのが全く情けないとしか言いようがありませんが)
連日の「疑惑は深まった」報道によって政権支持率が下がったことをもって、
バカなジャーナリストが、

「社会が安倍政権に制裁を加えている」

などとブログに嬉々として書くような状況でした。

この追悼式で玉木議員の名前がアナウンスされた時、少なくともわたし自身、
穏やかならぬどことか、内心反発しながらその追悼の辞に聞き入ったものです。

 

しかし、玉木議員の追悼の辞は(秘書が書いたものだとは思いますが)
戦後日本において自らの身を尊い任務に準じた掃海隊員たちに対して
哀惜の意を表す、ごく常識的かつ真っ当な形をなしていました。
(それは冒頭に挙げた電報の内容に近かったと記憶します)


玉木議員はその前日の艦上レセプションには姿を見せていません。

わたしは帰化人のHSK議員について、自衛隊を後援するような人たちが集まる会に
よくぞまあノコノコとやってきて周りの白い目に耐えられるものだ、と
折に触れて書いていますが、HSK議員に対して白眼視しながら何も言わない人たちも、
もしあの頃の玉木議員を目の前にしたら、きっと一言言わずにはいられなかったでしょう。

当時、玉木議員は香川獣医師会から献金を受けた途端、それまでの

「獣医師が不足しています。政府を挙げて早急な対応が必要です」

という意見を180度翻し、香川での大学新設を阻止する旨発言していたことが
ネット上ではすでに明らかになっていたのですから。

 

そんな場では、例えば自衛隊を退官して一般人となったお歴々、
例えば「北の馬鹿者が」とスピーチでも言い放ってしまうような元将官なら、
とっちゃん坊やの玉木議員などひと睨みして、ぐさりと何か一言いいそうですし、
わたしですら、もし目の当たりにしたら言ってしまいそうです。

「獣医師会から百万もらって忖度したって本当ですかあ?」

とか、

「辻本さんの件、逃げも隠れもしないって言ってたのにどうなったんですか?」

とか、

「お友達というだけで疑われるなら親族ならもっと怪しいですよね」

とか。

思うに、玉木議員という人は、そう言われても仕方がないことを百も承知で、
政治家としてのしがらみ上、平気なふりをしてそれをやっているのでしょう。

しかも、それが特大ブーメランとなって返ってくることを、これも重々承知の上で、
首相の「疑惑」を追求している(させられている?)わけですよ。

これら一連の流れも、本人は内心困ったことになったなあと思ってるはずですから、
それを非難されるに違いない自分の支持団体以外、アウェーの集まりになど、
いかに面の皮が厚くても、怖くて出てこられないに違いありません。

辛うじて出席できるのは、自衛官が立場上そんな様子をおくびにも出さず、
自分を国会議員として丁重に扱ってくれる追悼式などの式典だけ、となります。


しかしまあ、今にして思えば、それでも真っ当な追悼の辞を述べた玉木議員は、
まだしも人として、なけなしの良心を持つ部類であったと言えるのかもしれません。

 

さて、今年最初に追悼の辞を述べたのは、自民党の大野敬太郎議員です。
第三次安倍内閣から防衛大臣政務官を務めているので当然でしょう。
大野議員は前日の「うらが」でのパーティで、何を勘違いしたのか

「このようなおめでたい席に」

と言ってしまったらしく、怒っていた人もいましたが(笑)レセプション後の
「うらが」の視察には熱心だったらしく、長時間外に出てきませんでした。
(なぜ知っているかというと外で待っていたからです)

翌日の追悼式で、大野議員は

「8月15日の終戦を、のちに掃海隊員となった当時の海軍軍人たちが
どのような気持ちで迎えたか、その心情を思うに余りある」

という感じで追悼の辞をはじめました。

そして、隊員たちが「機雷の漂う死の海」であった日本近海を啓くという
尊い仕事を成し遂げ、その結果殉職したことについて、

「その死は無念ではあっても、任務を果たしたことに悔いはなかったと信じます」

というようなことを言い切った時、わたしは思わず顔をあげました。

「国のために死することを賛美するのはまかりならん」

という戦後の自虐史観が、特に公人の口を永らく塞いできたのですが、
特に最近、若い政治家を中心に、そのタブーが一枚一枚薄皮を剥ぐように
なくなってきたのをちょうど感じていたからです。


追悼の辞は、その後、掃海隊群司令、呉水交会会長、自治体の長と続きました。

どの追悼の辞も、戦後の日本に敢然と「掃海魂」をもって困難に立ち向かい、
日本の海を啓開したことに対する賛辞、命をかけたことに対する哀惜の誠を述べ、
そして、彼らの磨き上げた掃海技術が、その後世界も絶賛するレベルとなって、
ペルシャ湾の掃海で信頼を寄せられたことを讃えるものばかりでした。

 

そして、満を辞して(嘘)現れたのが、希望の党の小川淳也議員です。

・・・あ、失礼しました、希望の党じゃなくて無所属だったようです。
落選して希望の党で比例復活したのに、希望をお出になったのね( ゚д゚)、ペッ 

 

ところで、追悼式から帰って来た翌日、わたしは関西の知人から

「某野党議員の追悼の辞が面白かったらしいですね。
お聞きでしたら記事が楽しみです(^o^)」

というメッセージを受け取りました。
その方によると、

「昨晩の関西水交会の懇親会で聞きました」

ということですので、午前中高松で追悼式に参加し、その後
関西水交会に出席した人からこの噂が広まったようです。

やはり小川議員の挨拶が、自衛隊支援団体に出るような方々の間で、
眉を顰められていた(あるいは面白がられていた)ことを知り、
わたしは妙な安堵?を感じずにはいられなかったわけですが、
ここで安心している場合ではありません。

「しっかり広めてください٩( 'ω' )و」

というその方のお言葉通り、ここにできるだけその内容を記しておこうと思います。

 

まず、紹介され、霊名簿の前に進み出た小川議員は、何も持たず、
書いたものを見ずに澱みなくしゃべり始めました。

まずそこで、わたしは「?」と思ったのです。

若い議員にとって、掃海隊殉職は自分が生まれる前のことでもあり、
歴史的な経緯や実際にどんなことがあったかを全く知らないのですから、
誠実に追悼の意を表そうとすればするほど、間違ったことを言わないように
数字などをきちんと調べた上、文書にして読むのが正しい姿勢というものでしょう。

現に、小川議員以外の全員が、掃海隊について誰よりもよく知っているはずの
掃海隊群司令や水交会の会長ですら、紙に書かれた式辞を読み上げていました。

読み上げた追悼の辞は、そのあと霊前に供えることにもなるのですから、
その意味でも紙に書くのが追悼の意味に適っているとも言えます。

 

それではまず、小川議員がなぜ何も見ずに追悼の辞を述べることができたのか。

理由は簡単です。
小川議員は、

「掃海隊員が戦後、上の命令によって殉職した」

という形骸的な事実だけを念頭に、あとはほぼ一般論で、
空虚で白々しく、しかも我田引水の、
自分の政局に立った主張に沿って補強するためだけの言辞を
追悼の辞にすり替えてしまったからです。

それは追悼の辞という名前を借りた、 政治演説でした。


演説は、ごく一般的な始まり方をしましたが、とってつけたように
小川議員がいきなり、

「掃海隊員が殉職したのは、上層部の命令によるものだった」

ということを言い出したとき、わたしは思わず小さな声で

「は?」

とつぶやきました。

式典の最中なのでこの時も写真を撮らないことにしていたのですが、
後からこれを録音しておかなかったことを心から悔やんだものです。

一字一句を再現できないのは大変残念ですが、ある意味
忘れようもない強烈な言葉を使って小川議員が言いたかったことは、


「上層部が横暴(ホントーににそういった)だと人が死ぬ」

「今の日本はどうでしょうか。上層部が(以下略)」

「上層部の横暴・身勝手(ホントーにそういった)を許してはならない」

(強調するために明朝体にフォントを変えてみました)

 

「この人、一体何をいってるんですかね♯」

わたしが隣の防衛団体会長にささやきますと、会長は黙ってペンを出し、
紙に

「野党議員」(強調するために明朝体以下略)

と書きました。

いやだから、これが支持率視力検査並みの腐れ野党議員なのはわかってますよ。

 

問題は、戦後掃海任務を上層部(つまり日本)から命令された苦役と決めつけ、
その死を日本政府の横暴の犠牲であるということにしてしまったことであり、
それ以上にタチが悪いのは、小川議員は、戦後日本の文字通り復興の第一歩となった
掃海という国を救う事業に、なんの共感も、理解も、一顧足りとも与えないまま、

「上層部」「横暴、驕り」

という言い方で安倍政権と森友、加計問題を暗に(というかわかるように)
当てこすって見せたということです。


そして何より卑怯だと思うのは、誰にも反論される恐れのない追悼式で、
自分の言いたいことだけを言いはなち、意気揚々とその場を去ったことです。

案の定、そのあとの食事会に小川議員が姿を見せることはありませんでした。

つまり言い逃げです。

お利口さんな小川議員のことですから、そこにいた人々がほぼ全員、
自分と野党、ことに最近のもりかけ問題については、野党側を非難していることを
百も承知の上だったとわたしは思っています。


関西在住の方のメールの返事には、

「小川淳也、追悼の辞までモリカケかよ( ゚д゚)、ペッ」

さらに、「広めてください」の返事最後には

「追悼式を政治利用するな!( `д´)、ペッペッペッ」

と書いたわたし。

確かにその時にはそう思っていましたが、政治利用というのは
当たっているようで少し違っていて、つまり小川議員があの場でやらかしたのは、
そこにいる人たちに自分の政治理念(もりかけとはいえ)を暗に訴え、
共感を得ることではなく、自分に反感を持っているに違いない政権側議員と
それを支持する人々、つまり明らかな「自分の敵」に対して行なった

単なる鬱憤ばらしだったのではないか。

この項を製作しながら考えた結果、そう思っています。


鬱憤ばらしに過ぎないと考えれば、関西水交会でどなたかが言ったように
こちらもその政治家らしからぬ稚気じみた言動を面白がってやるだけのことですし、
さらにいえば、掃海隊追悼式はこんなことで何の毀損も受けておりません。


我々にできることは、このような議員に対しては次回の選挙で
民意を突きつけ、政治の場から退いていただくことだろうと思います。

 

 


「彩雲」〜平成三十年度 海上自衛隊遠洋練習艦隊 体験航海

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練習艦隊が晴海から出航地である横須賀に移動する際に
一般見学者と乗員の家族などを乗せてクルーズする特別企画、
体験航海に、今年は同乗させていただいております。

艦内で行われる最初の展示であるヘリのローター稼働がおわり、
「かしま」が当艦「まきなみ」を追い越す際に行われる登舷礼、
発光信号が実際に送られている様子を見るなど、次々に
見学者にとっては見逃せないイベントが続きます。

続いては甲板に搭載されている飛び道具の動的展示、ということで、
まずは近接防火器システム、ファランクス・シウスを動かして見せてくれます。

アメリカでは正式には「シーアイダブリューエス」だそうですが、
案の定、それが面倒な人がその形から「R2ーD2」と呼んでるらしいです(笑)

動かす前に、シウスの下側にある扉が開いて、中から人が出て来ました。
実際にこれが実弾を撃つ時にはここは開けっ放しにしないと思うのですが。

シウスはただ動かしてもあまり見ていて面白いものではないですが、
この時の展示ではご覧のように結構限界まで上を向けて見せてくれました。

「まきなみ」が搭載しているのは最新型の一つ手前だと思います。
(「かが」が搭載している白ではなくグレーのCIWSが向上型最新タイプ)

「まきなみ」の はそれまでのタイプに比べてマウントの改良により
俯仰角が大きくなったということですので、それを披露しているのでしょう。

空砲を撃つ時、弾倉が「ガラガラガラガラっ!」とすごい音を立て、
見学者はその度に「わっ」とびっくりします。

わたしはこの時、舷側の舫杭(ちょうど一人がけのスツール状)に座って
撮っていたのですが、その近くにいた海士くんとそのマミーが写り込んでいます。

展示が終わってから海士くんに

「どこの配置ですか」

と聞いてみると、通信士だとの答え。

「今はお仕事しなくてもいいんですね」

「家族が乗っている者は一緒にいてもいいことになってます」

そこで母上に、

「半年間息子さんが遠洋航海に出てしまったらちょっと寂しいですね」

この秋から息子が家を出る親としてはついそのように聞いてしまいましたが、
お母さんは笑いながらそんなこともない、との答え。
海上自衛隊に入った時にすでに親元を離れているので、今更、ということのようです。

確かに、ソマリアに派遣されるならともかく、練習艦隊の遠洋航海なら
親としての心配もかなり軽くなるのかもしれません。

続いては主砲オトー・メララの動的展示です。
これも、空砲を撃つとかそういうことはできないので、
砲身をぐーるぐーると動かして見せてくれるだけです。

しかし、この展示でわたしはすごいことに気がついてしまいました。
オトー・メララが台座ごと180度後ろを向くことができるということです。

つまり自分で自分を撃つことも理論的に可能だってことです。
てっきり何があっても自分には絶対に当たらないような設計だと思ってたのに。

そして砲口のカバーにこんなマークが入っているのも初めて見ました。
肉眼では「何かある」と思っても正体を確かめることはできませんが、
写真を拡大して初めてこれがメカジキのようなモチーフであることに気づきました。

ところで、わたしの頭上で話をしていた通信士くんとマミー。

わたしが声をかける前ですが、息子がふと、母親に向かって

「彩雲が見えるよ」

と優しい調子で呟きました。

わたしと彼の母親が空を見上げると、薄いですが綺麗な彩雲が
太陽の周りをぐるっと描く円となって浮かんでいます。

「あ、ほんとだ」

その母に向かって息子は

「彩雲が出ると吉兆だから、きっといいことがあるよ」

かつて彼が小さな男の子だった時、母はその手を引いて息子に
空を見ながら同じことを言ったことがあったのかもしれません。

その息子は長じて海上自衛隊の制服に身を包み、遠洋航海に船出しようとする今、
あたかも母を安心させるように吉祥の現れた空を指し示しているのです。

この会話に、わたしは息子を持つ母としての我が身を重ね合わせ、
彼らに思わず声をかけてしまったというわけです。

そこまでは聞きませんでしたが、「まきなみ」は大湊所属の船なので、
このお母さんはわざわざ青森から駆けつけてきた可能性もあります。
そうでなくてもただでさえ朝から立ちっぱなしで疲れているに違いない、と考え、

「どうかお座りください」

わたしは立ち上がって自分の座っていた舫杭を彼女に譲りました。

ダイジェストでも書いたように「風の塔」を間近で見るのも今回初めてです。

右側の、高さ90mの大きな塔はアクアトンネルへ外気の給気、
75mの小塔はトンネルからの排気と二つの塔の役割は違います。

東京湾上で南北に抜ける風は2本の塔の間を通り抜けます。
この時、ベルヌーイの定理により効率的な換気ができる設計です。

この青と白のストライプは、羽田空港を発着する旅客機からの景観や、
船舶からの視認性を高めるために採用されたとのことです。

ちょっと遠いですが、アクアラインの「海ほたる」が見えます。

週末空港に行く時、時間に気をつけないと、海ほたるに行こうとする車が
湾岸線にはみ出してきて渋滞が起こるんですよね(´・ω・`)

たかが海の上にあるパーキングエリアなのに、どうしてあれほど人が詰めかけるのか。

さて、続いてはヘリ甲板です。
ローターを回す展示が終わったあと、柵がもう一度元に戻され、
ローターが後ろ側に束ねられて、甲板への立ち入りができるようになりました。

ヘリパイと一緒に写真を撮ってもらう人あり。

ヘリのピトー管は固定翼機と形が違います。
空気を取り込むノズルにたくさん穴が空いています。

根元には「持つな」とダイレクトな注意が書かれていて、
ついウケたので写真を撮っておきました。

窓から覗いて撮ったコクピットテーブル。

コクピットの左舷の窓は機体の下部を目視できるようにドーム型です。
これをバブルウィンドウという模様。

ウィンドウの下の羽根状のものはパイロンなんですって。
その気になれば武器を牽引することができます。
海上自衛隊で武器を搭載することがあるのかどうかは知りません。

ローターを固定させておく器具は回転方向だけを抑えるものであることが判明。

息子を抱きかかえる父親の向こうにスネアドラムみたいなのがありますが、
フライトデータが記録される、つまりブラックボックスに相当するもののようです。

なぜ外付けになっているかというと、それは万が一海に墜落した場合でも
浮かび上がって回収することができるようにではないかと思います。

四角い箱はそうは見えませんが、チャフ・フレアランチャー。
ミサイルの接近を検知すると、自動でチャフやフレアを射出し、
ミサイルを誤誘導させます。

手前の親子三人は我々のグループの参加者です。
張り切って歩いている男の子はこの日をむちゃくちゃ楽しみにしていて、
ほとんど彼の希望で参加が決まり、一家は静岡県からわざわざ出向いてきたとか。

女の子はお兄ちゃんほど熱心ではないせいか、要所でぐずって
お母さんを手こずらせていました。

子供でもコクピットを覗けるように足台が置かれています。
女性海曹の左下に見える灰色のものはFRIR(forward looking infra-red)
 前方監視型赤外線装置といって、熱線映像装置です。

ヘリパイの左腕にあるマーク、日章旗じゃなくて海上自衛隊旗だったんですね。
OD色に紅白の旭日旗・・・・うーん、クール!

海曹のパパに坊主頭をどつかれながらというのと傾向は違いますが、
これもまたパパの職場見学の姿。

「パパー、わたし大きくなったらヘリコプター操縦する人になる」

とか?
今は回転、固定翼を問わず、女性パイロットが増えているそうですよ。

通信科の展示が始まることになり、同行の家族は
前列の特等席から見学することにしたようです。

まず、いきなり手旗で女性海曹が信号を披露しました。

「なんと通信したかわかりましたか?」

わたしが周りにしか聞こえない声で

「まきなみへようこそ」

というと、その直後、

「正解は『まきなみへようこそ』でした!」

おお、とどよめくわたしの周りの人々。
しかし実は全くの当てずっぽうでした。
というか、こういう時に通信することといえば、それ以外にないでしょう。

続いて、総員起こしに始まり、出航、巡検など信号ラッパの披露です。

格納庫の隅に、ヘリの着艦記録ボードがありました。
T/L U/L F/L  の意味を聞くのを忘れましたが、とにかくこの日で
トータル7540回の着艦を行なったということです。

「まきなみ」が就役したのは2004年の3月ですから、14年2ヶ月の間、
搭載日数はおよそ収益日数の半分、ヘリを搭載していたことになり、
述べにすると1日に1.4回平均の発着を行なっていたことになります。

このあとわたしたちはエスコートの自衛官からの招集によって
軽い艦内ツァーに出発することになりました。

 

続く。

 

 

オペレーション『MOE』〜平成三十年度 練習艦隊 体験航海

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格納庫前ヘリ甲板で手旗信号と信号ラッパの展示が終わったとき、
わたしたち御一行様にエスコート役のイケメン自衛官が招集をかけました。

「これから艦内の見学を行いますので私についてきてください」

ツァーはここから出発です。

「クラッシュクルー レスキューツール」。

うーん・・・意味はよくわかりますが、

「クラッシュした場合にレスキューに当たるクルーのツール」

なのか、

「クラッシュしたときクルーを助けるツール」

なのかどちらなんでしょうか。


さて、ツァーは始まり、わたしたちはこの画面左奥にある階段から階下に降りました。

有害ガス検知器とは、大気中の可燃性ガス,毒性ガス(硫化水素・一酸化炭素)
などを検知する器械で、ポータブルのものが市販されています。

応急工作、というよりもしかしたらダメージコントロール、といったほうが
もしかしたら皆様にはピンとくるかもしれません。

応急工作は海上自衛官の職種であり、つまりこのドアの中は
応急工作員の執務室?なのだと思われます。

応急工作とは、艦艇に乗り組んで火災や浸水から艦を守る仕事で、
船体や機械部品等が損傷した際に、溶接や旋盤で部品を作成したり、
修理を行ったりする隊です。

その特殊な技術は第2術科学校の海士応急工作課程で
5ヶ月をかけて習得します。

例えば、隊員食堂の前にあった角材、これなども
ダメコンに使うためのもので、自衛艦には必ずどこかに装備してあるものです。

応急工作員はこの木材を使ってドアを抑え、防水作業を行います。

右列が応急工作ならびに艦上救難員の任務の紹介です。

普段は艦内の修理などを行なっていますが、艦が危険に晒された時、
彼らの本来のスキルが本領発揮となります。

ちなみに左の「デミスター装置」には、気体中に含まれる液体の微粒子を
分離除去する機器という定義がありますが、ここでは空気を取り込んで
エンジンを稼働させる役割であるということです。

さて、エスコート自衛官がわたしたちを連れていったのはこのドアの前。
なんの変哲も無いドアには「倉庫」と小さな札があります。

「この部屋はなんだと思いますか?」

自衛官はわたしたち全員に質問しましたが、皆黙ったまま。
わたしとTOを除いて、全員、護衛艦に乗るのは初めてという人たちです。

そこで、

「・・・・艦内牢屋」

わたしが小さな声で答えると、

「その通りです!」

「えーすごーい」(周りの人)

いや、だって格子がついてるし下には食べ物を入れる窓があるし。
アメリカの軍艦に必ずあったジェイルのことを思い出したのさ。

自衛官の説明によると、普段は実際にも倉庫として使われているこの部屋、
いざとなったらチェンジャブルかつリバーシブルに牢屋に早変わりします。

アメリカの軍艦にある牢屋の役割は、主に規律を守らなかった乗員を収監することです。
が、まさか我が海上自衛隊が規則違反の自衛官を檻に閉じ込めるはずがありません。

つまりこの牢屋は、海賊対策で「まきなみ」がソマリアに派遣されるにあたり、
拿捕した海賊船のメンバー等を仮収監する為作られたのだそうです。

そして、なんとびっくり、実はこの牢屋には、実際に4名の海賊様ご一行が
ご宿泊されたことがあるという話を聞いてしまいました。

外国人の、しかも海賊を収監している間、「まきなみ」乗員も怖かったと思いますが、
捕まって海軍艦の牢屋に入れられる海賊はもっと怖がっていたと思います。

しかしながら、日本国自衛隊、他の国の軍隊みたいに問答無用で船を撃沈したり、
海賊をキャッチアンドリリースして海上に漂流させたりしませんし、
収監に当たってももちろん殴る蹴るなどの暴力もなく、それどころか
空調の効いた艦内で毎日三度三度ご飯を食べさせてもらえるし、下手したら
金曜日にはカレーが出たりするわけですから。

自衛隊に拿捕された海賊はまだしもラッキー!と思ったのではないでしょうか。

ほとんどの護衛艦はだいたい似たようなものが似たところにあります。
確か「あきづき」も、先任海曹室は食堂の階にあったと記憶します。

そして、ドアにはなにやら凝ったプレートが掲げられているのも共通。

 

食堂の全体写真を撮らなかったのは、そのテーブルというテーブル、椅子という椅子に、
すでに疲労困憊した人々が座り込んで虚ろな顔をしていたからです。

我々一行の家族連れは、食堂で空いたテーブルを見つけるや座り込み、

「わたしたちここでちょっと休憩しますからみなさん行ってください」

 

冷凍庫に「アイスクリーム」と書かれているので、TOは

「アイスクリーム食べられるの?」

と目を輝かせましたが、残念、自衛艦のアイスクリームというものは、
乗員たちの大事な大事な楽しみで、アイジャンで取り合うことはあっても、
一般客に売るために載せているのではありませんねん。

食堂には本日の手書きによるメニューが貼られております。

ちなみにこのメニューの下段、「具だくさん汁」のところをご覧ください。
「白葱」の「葱」の漢字を間違えたくらいで訂正印を押してあります。

「楽京」はラッキョウのことらしいのですが、こんな漢字だったっけ。

と見ているだけで楽しい(うるさくつっこんでごめんねー)メニューですが、
なんといっても最大の発見は、左上の「ポークカレー」が
カレー曜日の金曜日ではなく、月曜日の昼食であることでしょう。

どうも「まきなみ」では金曜日以外にもカレーを食べているらしいのです。

その「まきなみカレー」はポーク入り。
ちなみにレシピを拝見しましたが、しょっぱなに

「前日から鶏骨、人参、玉葱、キャベツ、にんにくを7~8時間煮詰める。
旨みの出ただし汁を作る。」

もうここで一般人には再現不可能、土下座して「まいりました」の世界です。
大量に作るからこそこのようなこともできるわけで、そりゃ美味しいはずだわ。

TOが衝撃を受けて写真を撮っていた、「食べ過ぎご飯例」。
トレイはお茶碗と違うのでついご飯を盛りすぎてしまうようです。

艦艇勤務は、運用などの目に見えてカロリー消費しそうな職種でなくとも
艦内を行ったり来たり、階段を昇ったり降りたりなので、多少食べすぎても
太ることなどないのでは、と一般人は思いがちですが・・。

若くて代謝のいい人はともかく、ついつい消費カロリー以上に食べ、
お腹周りに脂肪を備蓄しがちなお年頃の隊員に向けての警告かと思われます。

隊員の胃袋を賄う食材を搭載するのも大事な仕事です。
「ぶんご」で補給を見たことがありますが、やはりこの写真のように
バケツリレー方式で物品を運び込んでいました。

「まきなみラーメン?食べてみたい!」

「火曜日はラーメンの日」のご紹介。
これも大量に仕込むから、とんでもない手のかけ方をしているはず。
スープとか絶対に超美味しいよね。

 自衛隊の給養員は退官後、「行列のできるラーメン屋」も開けそうです。

 

電測と通信の任務を紹介しています。

電子整備(エレクトリックテクニシャン、つまりET)の係は、
高いマストに登って整備を行うこともあるとのこと。

また、万が一事故でアンテナが折れてしまった時も、
応急空中線(アンテナ)を展開して代替できるんだそうです。

軍艦には思いもつかないところにも二重三重にセーフティネットが張られています。

こちらは先ほど見学したCIWS(左)、アスロックなどの紹介です。

左はシウスの砲身を外して油を染み込ませた布を使い手入れしているところ。

オトーメララとHOSの紹介です。
先日紹介した砲口カバーのカジキは、「まきなみ」のロゴマークだそうです。
赤字で「百発百中!」と力強く言い切っているのが頼もしいですね。

経理の仕事にもちゃんとスポットを当てて紹介。
経理はメッセンジャーの仕事をすることもあるなどと書かれています。

真ん中の甲板散水、このシステムは、かつて米海軍で起こった
空母艦上の誤射爆破事故をきっかけに開発されたと聞きます。

違ってたらごめんなさい。

食堂を出たところにはどんな自衛艦にも大抵備えられている艦内神社。
「まきなみ」の御祭神はなんと奇遇にも、金比羅神社でした。

この体験航海の直後、わたしは金刀比羅での掃海殉職者追悼式に参加しています。

いつもそうするように、お参りの後ガラス戸を開けてお賽銭を寄進しました。
艦内神社で溜まったお賽銭は隊員さんのジュース代になることもあるようです。

食堂前通路にあった謎の蛇口。修理のため閉鎖中!です。

大抵の護衛艦内部の施設には、カメラと携帯は持ち込むのも不可です。
先日訪問した航空基地では、航空機内部や作戦司令室など、
わたしたちはもちろん、基地司令ですら携帯を預けて内部に入っていました。

ここはソナー室かCICか・・・・?

みんなと一緒に移動しながらだと。設定を変えないでシャッターを押すので
写真がことごとくお見苦しいものになりますがご容赦ください。

練習艦隊司令官勤務方針

伝統の魁 練習艦隊

「不屈」「向上」「自覚」

とあります。
晴海の艦上レセプションで泉練習艦隊司令官がおっしゃっていた

「三つのC」、

「うれC」「おいC」「うつくC」

とは一体なんだったのか。

コントロールルームにやってきました。

そしてこちらが艦内に異常がないかチェックするダメコンパネル。
(というのかどうか知りませんが)

このデスクの上にはいつも刻々と変わる艦の状況を書き込むノートがあり・・、

実習幹部らしい乗組員がなにやら書き込んでおりました。
別の護衛艦見学で、誰も周りにいないのを見計らって内容を写真に撮ったこともありますが、
今回は自粛しました。

艦内ツァーはこれにて終了。
あとは適宜好きな場所で過ごし、入港の時に操舵室を見学、ということになりました。

ツァーを終えて外に出たところには掃除道具をまとめてある箇所があります。

で、出た〜〜!

溺者救助人形「ミス・マキナミ」は、目力のめっぽう強い美人さんです。
遠洋航海での寄港先で「まきなみ」を訪れ、彼女を目にする外国の人たちは、

「さすがは日本のネイビー、溺者人形まで『MOE』(萌え)か!」

と我が意を得たりで感嘆することでしょう。

知らんけど。


 

続く。

 

海の儀礼〜平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊 体験航海

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晴海から横須賀までの体験航海もそろそろ終わりに近づいてきました。

簡単な艦内ツァーを行なった後、わたしたちはブリッジに上がり、
そこで入港の様子を見学することになりました。

最初、わたしは右舷側ブリッジのウィングに落ち着くことにしました。
そこに今回のツァーのアレンジをしてくださった幹部校の方がおられたので、
ご挨拶などをしておりますと・・・・・、

曳船YT10が「まきなみ」を右舷を軽やかに抜き去っていきました。

追浜が航路右手に現れるところにある防波堤には、ご覧の通り
赤い可愛らしい灯台が設置されています。

YT10の今日のお仕事は、「まきなみ」と「かしま」の間の防眩物を回収し、
それを晴海から横須賀に持って帰ることです。

上から見ていると、前甲板に運要員が出てきました。
舫などを出すハッチが開けられます。

ちなみに、右舷を歩いていく海曹さんを見てください。

朝と同じ位置に立ち、朝に持っていた同じ棒を手にしています。
舫作業は個人個人が作業を専門分担し、それが変わることはないようです。

舳先の赤メガホンの士官が甲板での作業を率いる指揮官ですが、
朝と同じくサングラス着用です。

そういえばどんな晴天下においても、海曹海士が制服姿でサングラスをかけているのを
見たことがない気がするのですが、禁止されているのでしょうか。

ハッチから太い舫が引き出されました。

「かしま」は米海軍基地の手前にあるブロックの向こう側を航行中。

このブロックですが、赤字で「航泊禁止」と書かれています。
向こう岸は米軍基地なので、海からの不審船の侵入を防ぐためのものでしょう。

米軍基地の白いビルに青文字で「 NEX Navy Exchange」とありますが、
ネックスは、アメリカでネイションワイドに展開する海軍直営の小売店です。
ファッション、雑貨、電化製品、家具、とにかくなんでも扱っているようです。

「かしま」の入港を補助するために、タグボートが2隻、
湾口でこんな風にちゃんと並んで待っています。

あー・・・・・いじらしくって、萌える(笑)

女性海曹の持っている物体、朝も見ましたが何にするのだろうと謎でした。
軽い不織布で作られているように見えますが・・・・。

その時、右舷側のウィングを立ち入り禁止にする旨告げられたので、
私たちは左舷側ウィングに移動しました。

「かしま」とタグボート2隻が合流し、連れ立って逸見岸壁に向かう、
こんな後ろ姿を見ることができるのも「まきなみ」乗艦者の特典かもしれません。

左舷側にいると、米海軍基地の艦艇を見ながら通り過ぎることになります。
艦番号89は横須賀ウォッチャーにはもうお馴染み、「マスティン」。
横須賀に来て、もう足掛け12年になります。

YOKOSUKA軍港めぐりの船とすれ違いました。
年々人気が出て乗客が増加傾向にあるそうで、この日も満員御礼の状態です。

もう今年でオープンして10年になるそうですが、最初の頃は、
出航するたび米海軍から監視船がずっと跡を付いて来ていたそうです。

左から

85「マッキャンベル」

65「ベンフォールド」

54「カーティス・ウィルバー」

の「アーレイ・バーク」型ミサイル駆逐艦三人娘。

「マッキャンベル」と「カーティス・ウィルバー」は、東日本大震災の時
トモダチ作戦に従事して災害救助活動を行なってくれました。

みなさんその節はありがとうございます。


ところで最近、震災当時横須賀地方総監であった高嶋博視氏著、

「武人の本懐」

を読みました。
あの未曾有の国難に当たって、海上自衛隊が災害と斯く戦ったかを、
災害地担当地方隊である横須賀地方総監部の指揮官が語るというもので、
ニュースやメディア媒体とは違う角度から見た震災の記録です。

同じように「トモダチ作戦」について、第7艦隊の中の指揮官によって書かれた
あの時の記録があれば、ぜひ読んでみたい、と思った次第です。

「かしま」後甲板には、すでに登舷礼の黒と白の列ができています。

信号旗は先ほどとは違うものが揚がっています。
「かしま」のコールサインは「JSUK」だそうですが、
わたしの乏しい知識でもこれが違うことくらいはわかります。

「横須賀港のどこそこに繋留する」

ということを意味するバース信号ってやつではないでしょうか。

    ブリッジから実習幹部らしき三尉が出て来ました。
外を見ながらなにやらノートに書き込んでます。   斜めに線がいっぱい書き込んである・・。     こんな風に。 うーん、当艦の艦位を示してるんだろうけど、
具体的にどこがが何をしめしているのか想像もつかないぞ。     「マッキャンベル」さん、ちょうど正面から。
こうしてみるとマストの形とか、自衛艦とは全く違いますね。     左、記録を続ける三尉の右腕。
ほとんどの実習幹部は「かしま」に乗り組んでいますが、
「まきなみ」にも何人かが乗艦し船務を行なっています。     「ベンフォールド」さんの艦橋をアップにしてみました。   赤白のストライプの真ん中に蛇がいて、   「わたしを踏みつけるな」(Don't tread on me)   といっている軍艦旗「ファースト・ネイビー・ジャック」が揚がってます。
「ベンフィールド」、イージスシステムのレーダー補修中みたいですね。     おっと、「ベンフォールド」の舷側に腰掛ける海軍軍人の姿発見。     見ているともう一人やって来ました。   「どうしたんだよカルロス・・・元気ないな」   「ああ、ジムか・・。
彼女のマリアからメールが来たんだけどさ・・・終わりにしたいって」   「リアリー?まじかよ!」   「俺が日本に行ってる間に俺のダチと付き合いだしたんだって」   「オーマイガー、そりゃひどいな」   「ガッデム、ホセのやつ、サンディエゴに帰ったらただじゃおかねー」   みたいな?
まあ違うと思うけど、決して楽しそうな雰囲気ではないのよね。     ほらね? ていうか、甲板でタバコ吸ってますが、いいんですかね。     と、そんな妄想をしている間にも、「かしま」の入港作業は始まっています。
「押し船」に右舷側を押してもらって、左舷側で着岸。     左舷側にはメルキュールホテルと、自衛隊の潜水艦基地が見えて来ました。
艦番号63は、これも「アーレイ・バーク」型の「ステザム」。       初めて護衛艦に乗り、初めて横須賀基地で米軍艦を見た人たちは、必ず   「アメリカの船って、全然サビとか補修しないんだね」(その心は”汚い”)   などと口にします。
この時の艦橋ウィングで、あちらこちらでこの会話が聞かれました。   特に「ステザム」さんの艦体はひどい。
これだけサビが筋になっているのに、なんとかしようという気ゼロ。
赤いのは錆止めだと思うんですが、工事中にも見えないし、
レーダーが真っ黒け、HEEEの文字もすげーテキトーに描いた感アリアリです。  
ところで、本件とは全く関係ないですが、「ステザム」って、
ハイジャック事件(トランスワールド航空テロ事件)で飛行機に乗っていて
犯人に射殺され、たった一人の犠牲者となった水兵の名前なんだそうです。
駆逐艦に名前を残すのは、昔から基本的に名誉の戦死者ということになっていますが、
不慮の事故で亡くなった場合というのもあるもんなんですね。     さて、それではその前方に目を移して、遠目にも手入れの行き届いた
我らが海上自衛隊の潜水艦でお口(目)直し?をしましょう。   どちらも「しお」型ですが、右側が明らかに新しいのがわかります。     左側のセイルの上アップ。
二人の姿があります。
士官は作業服でなく冬服を着ているのに注意。
双眼鏡のストラップは青なので、艦長ではないと思われます。
    あっ、右側の潜水艦の人はこっちを見てる!
どちらにも「UW2」、「ようこそ」の信号旗が揚がっています。
こちらも、冬服の士官と作業服の取り合わせです。
    「まきなみ」が潜水艦を横から見る位置までやって来ました。
この写真を拡大してみます。     実は肉眼では、人がいることすら見えない距離だったので、
写真を拡大してみて初めてそうだったのか、と思ったのですが、 2隻の潜水艦のセイル上の、士官と青い作業服の組み合わせ、 そして甲板上の二人、全員が正対してこちらを見守っていたのです。   「ようこそ」の信号旗を、練習艦隊を迎えるために揚げて。   海軍の伝統に則った「海の儀礼」は、現代の海上自衛隊においても、
如是粛々と継承されていることを、改めて確認した次第です。  
続く。    

横須賀入港〜平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊 体験航海

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さて、朝10時に晴海を出港してここまで着た時、時計は1240を指していました。
「まきなみ」、いよいよ横須賀に入港です。

米軍基地のこんな様子も船の上からしか見ることはできません。
ちなみにレンガの建物の

「DRY DOCKS 5↔︎4」

は、ドックに入渠する海上の船に向けてわかるように書かれました。
ちなみに4号ドックが完成したのは日露戦争直後の1905(明治38)年、
5号ドックはイギリス海軍の「ドレッドノート」ショック以降世界の趨勢となった
建艦競争に呼応する形で建造が始まり、1916年に完成したものです。

「かしま」はもう最終の接岸態勢に入っています。

 

 

岸壁には音楽隊が待機しており、横須賀地方総監が挨拶をする
台も用意されているようですが、一般客の姿はありません。

あくまでも横須賀入港を歓迎する行事ということなのでしょう。

わたしたちのいた左舷ウィングに、黄色い立ち入り禁止ラインが張られ、
ブリッジから「まきなみ」艦長大日方二佐が出てきて配置に就きました。

わたしは邪魔にならないようにラインの外からかぶりつきで見学です。

ブリッジ横の速力標が、ちょうど目の前の位置にやってきました。
艦の両側のこの赤い籠の位置で、速力を表すシステムで、
両側の籠がこの高さにあると、それは「微速」という意味です。

速力標の横で信号旗を合図があれば揚げ降ろししようとする二人の海曹。
左はこれから旗を揚げる係、右側は降ろした旗を受け取る係。

何を待っているかというと、左舷にいる艦長の号令によって接岸した瞬間です。
接岸した瞬間というより、速度が0になる瞬間かもしれませんがわかりません。

微動だにせず、発動の瞬間に備えています。
この女性海曹は先ほど「まきなみへようこそ」と手旗信号した人では・・。

その(接岸か速度0かどちらかの)瞬間「U」らしき旗が揚がりました。

そして上から「回答旗」など三旒の旗が降ってきます。

翻っている時に思うよりずっと旗って大きいんですね。
これを雨の日に行うと、結構大変なのでは・・・・・。

「まきなみ」接岸前から、風に乗って横須賀音楽隊の演奏が聴こえてきていました。

音楽隊の演奏は、「かしま」を横須賀に歓迎するためのものです。
そのせいか「錨を上げて」はなかったような気がします(笑)

ヴェルニー公園からはたくさんの人が見ていますが、この中には
わたしの知り合いもいたはず。

こちら、最後の瞬間までずっと入港作業を見守り続ける大日方艦長。

艦長の操艦は、言葉を発するとそれを同じウィングにいる人が復唱し、
舵手まで伝言で届けるという、当たり前ですが原始的な方法で行われます。

こればかりは昔の帆船だろうが最新のイージス艦だろうが変わりありません。

自分の号令一つで、大きな艦体を自在に動かす仕事。
やっぱり艦長配置というのは艦乗りの本懐なのだろうと、
横で大日方艦長の操艦ぶりを見ていて思いました。

さて、下艦の時間が近づきました。
わたしたち一行は再び招集をかけられ、格納庫に集合です。

いつの間にかヘリの後部にかけられていた立入禁止索が外され、
ヘリ甲板そのものへの立ち入りができなくなっていました。

格納庫で永遠と思われるほど長い時間待ってから、ようやく列が動き出しました。
この黄色いものはなあに?

ヘリのトウイングをするトーバーでしょうか。

やっと格納庫から舷側に出ることができました。
「護衛艦まきなみ」のバナーのある舷梯の下には、
万が一人が落ちた時のためにネットが張られています。

このことも、わたしは写真を見て初めて気が付きました。
一般人を乗せて航海する時、自衛隊とはここまで細心を払うのです。

 

この舷梯のどこから下に人が落ちる可能性があるのか、と思いません?
もしかしたらカメラや携帯を落とすことを考えてるのかもしれませんが。

乗艦者が全員降りきるまで、彼らは敬礼で見送ります。
左の運用員の女性海曹、今日は特に目立ってましたね。

岸壁に降り立ち、まずは「まきなみ」を見上げてみる。

右二人の女性海曹以外は、「まきなみ」乗組の実習幹部たちのようです。
十数人だけのようですが、彼らは航空志望でもあるのでしょうか。

少なくとも、わたしが晴海で話をしたブラボー三尉はそうでしたが・・。

「まきなみ」の実習幹部をバックに自撮りするカップル。

「かしま」の前を通った時写真を撮ろうと考えていたのですが、
「まきなみ」から降りた後は、グループごとにまとめられ、
きっちりそのまま裏を通って外にリリースされました。

門で警衛の人に乗艦の際に渡された番号札を返して、退出です。

あれ、この看板前に見たときは違うものだったような気が・・。
リニューアルしたんでしょうか。

メルキュールホテルにランチの予約を取っていたのですが、
全員が「できれば歩きたくない」モードだったので、
横須賀駅前からタクシーに乗ろうとしたら、一台も来ず、
諦めてスカレーくんの写真を撮ってから歩き出しました。

昨晩遅くまで仕事をしていて、今朝はギリギリまで寝ていたため、
何も食べずに乗艦してしまったという若い男性は、
しかも初めての自衛艦クルーズだったため、半死半生状態でした。

ヴェルニー公園ではバラが綺麗に咲いています。

お待ちかね、メルキュールホテル上階のレストランのランチビュッフェ!
ここの売りはその都度湯煎で温めて自分でトッピングするパスタです。

右側にピンクのボウルがありますが、これは「イチゴクリーム」。

「パスタにイチゴクリームかけるの?」

と皆は騒然としていましたが、一人チャレンジャーが試してみました。

「・・・・どう?」

「思ったよりいけるけど・・・・今、じゃない」

そんなの食べなくてもわかる。

ここの窓から見る軍港の眺めは最高です。

手前に「はたかぜ」がいますでしょ?

この時のわたしには知るべくもなかったのですが、この時からきっちり
一週間後、わたしは海保の観閲式で海上自衛隊代表として展示を行う
「はたかぜ」の雄姿に心躍らせることになります。

米軍基地側のミサイル駆逐艦娘たち。
艦体が汚いとか手入れがなっとらんとか、軍人精神がたるんどるとか、
だからアメリカ人は大雑把って言われるんだよ、とか言ってごめんねー。

「かしま」さん、そして「まきなみ」さん、ありがとうございました。
彼らはこの9日後、同じ岸壁から遠洋航海に向かって出航していきました。

ところでメルキュールホテルの一階の売店で、「しらせ」「ひゅうが」
「きりしま」などの缶入り艦艇カレーの中に、新作発見!
なんと、

「ちびしまカレー」

ですよみなさん!

艦番号1.74、横須賀地方隊のどこかの倉庫に定係されている
あの「ちびしま」、ついに!カレーが発売されました。

電車で帰らなければならないにも関わらず、その場でセットを買い求めました。

「ちびしま」というだけあって、お味は

甘口、子供用

というのが泣かせるじゃーありませんか。
辛すぎるカレーが実は苦手なわたし、大変美味しくいただきました。

皆様もぜひお試しください。

その日家に帰ったら、通いの外猫が「お疲れ」って出迎えてくれました。

 

練習艦隊体験航海シリーズ 終わり

護衛艦「いずも」の電飾 @ 横浜大さん橋

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この週末、息子の卒業式セレモニーが二日続けてありました。
その1日目が終わり、一人で車を走らせていたところ、知人から
このような写真が届きました。

「今日は横浜大桟橋でいずもの一般公開をやっているようですね。

大きさが実感?出来るように海軍の空母と並べて見ました。
上の写真で上から大鳳、いずも、翔鶴です。

いずもは引けを取りません。カッコいいと思います。」


「いずも」は「翔鶴」よりこんなに大きかったとは。

それはともかく、早速わたしは次の日の艦艇一般公開を検討したのですが、
大変残念ながら次の日は卒業式の本番があります。
大抵のことなら自衛隊行事を優先するわたしも、流石に諦めざるを得ません。

そこで、疲れた体に鞭打って、家に帰ってから着替えて、
日が沈んから行われるに違いない電飾を撮りにいくことにしました。

教えてもらって、全体が撮れる汽車道の延長からまず撮ってみます。
まだ電飾は点灯されていません。

それにしても大きい。陳腐ですがこれしか言いようがありません。

マリーンルージュは横浜港を就航するレストランクルーズ船です。

日が沈んで一層闇が濃くなってきました。

横浜といえばおなじみのみなとみらいの光景。
手前は警察署で、裏手には警察の巡視艇が係留されています。

巡視艇ですので「営業終了」ということはなく、夜間でも巡回を行います。

「いずも」は大桟橋にこの週末係留し、二日に渡って広報活動を行います。
昼間の艦内一般公開では格納庫から航空機用昇降機で甲板に上がり、
飛行甲板を見学することができます。

なぜか陸自音楽隊による音楽演奏、太鼓の演奏などがあり、
先着500名に豚汁が振舞われるという豪華イベント。

もう少し早く知っていたら、この日行事が終わって駆けつけたのになあ・・。

ちょっと横から撮ってみようと思い、通路を通って山下公園に行ってみました。
なんとびっくり、海沿いの遊歩道には、いずれも三脚に設置したカメラの放列が!

皆ご自慢のカメラで「いずも」の電飾を撮りにきたんですね。

わたしがここで悩みながらカメラをいじったりシャッターを押したりしていると、
なぜか何人にも

「何撮ってるんですか」

とかなんとか聞かれました。
他にいっぱい人がいるのに、なぜわたしにだけ聞くんだろう。

多分、他の人のプロっぽい感じとは違う、隙というか、
声をかけても怒られなさそうな感じがあったんだろうなあ。

一人目は、少し話すと外国の方とわかる男性。

「あそこにいるのは軍艦ですか」

「海上自衛隊のヘリ搭載艦ですよ」

「飛行機が飛ぶんですか」

(ここで日本人ではないことに気がつく)

「飛行機じゃなくってヘリコプターですね」

「あの橋は・・・」

「ベイブリッジです」

「レインボーブリッジは見えませんか」

「あれは東京ですのでここからはちょっと無理ですね」

人民解放軍のあるお国の方かしら、とちょっと興味が出て、

「旅行ですか?どちらから?」

と聞くと、なぜか

「近くに住んでいます」

しかしあまりこの辺のことはよく知らない模様。

「明日一般公開で艦内が見られますよ」

と言いかけてなぜかやめたわたしでした(笑)


二人目、子供連れの家族のお母さん。

「皆何を撮ってるんですか」

「あれは海上自衛隊の以下略」

「いつもあそこにいるんですか」

「今日明日だけです。明日は中に入れますよ。
お子さんが喜ぶから行って見られたらどうですか」

さりげなく見学を宣伝するわたし(笑)


三人目、自転車の男性。

「それで撮ったらどんな風に写るんですか」

わたしが上の写真を見せてあげると、

「いつも船とかよく撮られてるんですか」

に始まり、ひとしきりカメラ談義に突入しました。
実は談義するほどカメラのことなんて知らないんですがね。

「しかし、そういうスタイルで撮っておられると、なかなかいいですね」

単なる綿の白シャツに無印良品で買ったチノパンとスニーカーですが。

「なんでも形から入ることにしてるので・・・」

とかなんとか適当なことを言いつつ、その場をフェイドアウトしました。

元の陸橋の上に戻った頃、「いずも」の電飾が点灯されました。
時計を見るとフタマルフタキュウ、8時半からの点灯のようです。

この写真は青っぽく撮ってみたかったので、ホワイトバランスを「蛍光灯」で、
シャッターをミラーアップにしてみました。

Nikon810にはブレの原因となるミラーの振動を軽減するために、
ミラーアップという機能が付いているのですが、これを使ってみたのです。

それはいいのですが、ミラーアップでシャッターを押すと、
気が遠くなるくらいシャッターが切れるのに時間がかかります。

ぽちっとな、と押してから、シャッターが切れるまで待っている間に
現場でスクワットを軽く10回くらいできます。やらなかったけど。

ここでわたしは「いずも」が係留されている大桟橋に行ってみることにしました。

三脚を担いだまま移動です。

大桟橋に続く道を歩いていくと、「象の鼻突堤」という、
まさに象の鼻のようなカーブを描く形の突堤があります。

そこからのみなとみらい地区の眺めは最高で、
赤れんがパークのライトアップされた赤レンガの建物までが一望できます。

「フルノ」の機器を搭載した船ごしに撮ろうと三脚を立てていたら、
釣りをしていた人が、

「やっぱり見えている通りに撮れたりするんですか」

と話しかけてきました。

「見えている通りに撮れなくて苦労しているんですよ」

と笑いながら答えるわたし。
逆に、

「何か釣れるんですか?」

と聞いてみると、

「向こうの人はいまさっき何々を(忘れた)釣りましたよ」

「えーすごーい」

馬鹿みたいな反応ですが、他になんて言っていいかわからなかったのです。

大桟橋のウッドデッキに到着。
ここにもたくさんのカメラを持った人たちが三脚を立てています。

その大半が男の人で、観閲式や観艦式などで大きなカメラ持参で
朝の暗いうちから並んでいそうなオーラの人たちばかり。

どうして皆がわたしに声をかけるのか、少しわかったような気がしました。

同じような写真ですが、こちらはベイブリッジを背景に入れてみました。
ベイブリッジのタワーがブルーにライトアップされているのを初めて知りました。

電飾のやり方というのは自衛隊法で決まっていて、船の形を問わず、
艦橋から山形に舳先と艦尾に向かって垂らし、さらに艦首には
水面に向かって一筋電飾線を張ります。

それにしても「いずも」ともなると、舫の張り方がすごい。

舷門からは見ていると上陸していた隊員が時々帰ってきていました。
上陸の時には制服は着ていないので、帰ってくると舷門に立っている人が敬礼しても、
乗艦する人は敬礼を行なっていません。

一般公開の時にはここから乗艦し、艦載機エレベーターで上まで運ばれるのでしょう。

ボートを搭載している艦体比較的後方の右舷側を撮ってみました。
ボートを置いてあるところが明るくなったと思ったら、見回りが懐中電灯で
この部分に異常がないか見回っているところでした。

艦尾のファランクス・シウスとベイブリッジのマッチング。
昔と違って、今の電飾はLEDなので、安全面からも楽になったのではないでしょうか。

この日の月がちょうど「いずも」を彩る電飾の灯と同じ大きさです。

月といえば。
「いずも」甲板に設置されたアンテナが収納されているらしい、
スポンソンという丸いものの向こうに見える月。

月齢16.6の、満月から二日だけ欠けた状態です。

大さん橋のウッドデッキを上に向かって登ってみました。
ここにも三脚がいくつも立っています。

それにしても、このデッキの上、海からの風が容赦無く吹き付け、
6月になったとはいえ湿度の極めて少ないこの日は、日が沈むと
ただでさえ結構寒かったので、わたしは震えあがりました。

ここはデートスポットでもあるのですが、昼間の陽気に合わせて
ノースリーブを着てきたデート中の女性を目撃しました。

寒さのせいで無表情になっている彼女を、自分の上着を貸すこともなく
ただ連れ回しているこの男性がフラれるのはおそらく時間の問題であろう、
とわたしは預言者のように心の中でつぶやきました。

「いずも」の電飾ごしに、山下公園の氷川丸の電飾、
そして横浜マリンタワーが見えます。

NORQ-1スーパーバード衛星通信アンテナとマリンタワーの組み合わせ。
  もう一度、アンテナと月。 なかなか風流なものでございます。

この写真を最後に、わたしは大さん橋を後にしました。
今回内部を見学できなかったのは残念ですが、その代わり
日頃あまりみることのない夜の「いずも」を見ることができ、
ついでに夜間撮影の練習にもなりました。
ちなみに、大桟橋の現在状況は、ライブカメラで見ることが出来ます。
  大桟橋ライブカメラ       追加。日曜日の朝0940現在。   「いずも」の出航を見るために人が桟橋に集まっているようです。
この後もう一度見たら出航が始まっていました。
  0957。     0959。     1010。     1017。     1020には画面から完全に姿を消しました。 それにしてもこの画面に映ってた人、ライブカメラの存在を知らないんだろうなあ。          

卒業式

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「いずも」電飾の欄にも少し書きましたが、先週末息子が高校を卒業しました。
公立校しか知らなかったわたしには私学の卒業式は初めてのこと(そして最後)です。
ちょっとイベントとしても面白かったので、この場を借りてご報告します。

全てにおいて物事を確認するのが後手後手に回る傾向のわたし、
息子に「卒業式っていつだっけ」と聞いたとき、実は同日に行われた
阪神基地隊の開隊記念行事に行くという返事をした後でした。

「大抵のことなら自衛隊行事を優先するわたしも、流石に息子の卒業式とあっては
人(の親)としてそちらを優先せざるを得ません」

そう返事をして泣く泣くお断りを入れたのでした。

卒業式は二日にわたって行われます。
一日目の最初に行われるのが、近くの教会での卒業ミサ。

大変由緒のあるカトリック教会です。
学校には教会もあり、チャプレンもいますが、いろんな宗教の生徒が
集まってくるということもあって、宗教的な行事を強制されることはなく、
学期の最初と最後に出席をすればあとは自由参加です。

しかし卒業の時だけは正式なミサを荘厳に執り行うことが決まっています。

教会の前方に見えるこの日本画はキリシタン弾圧で殉教した親子でしょうか。

聖堂の後方にはパイプオルガンと聖歌隊のバルコニーがあり、
生徒と音楽の先生が演奏を行なっていました。

卒業生入場後、司祭が振り香炉による炉儀を行います。
ちなみにこの炉儀はカトリック教会のみで行われます。

ミサは聖歌と経文の合間に信徒たちが「アーメン」とか「聖霊とともに」
といって合いの手(っていうんじゃないと思うけど)を挟んで進行します。

ミサ全体で約1時間を要します。

そして司祭がお高いところからお説教を行いました。

その後、卒業生に対し司祭から神の祝福が授けられます。

ガウンと角帽は事前に用意し、写真撮影と床からの裾の高さを調整し、
本番に臨むことになっています。

帽子のタッセルは、卒業式の最後のセレモニーの瞬間まで、
左側にしておかなくてはなりません。

ミサが終わり、両側に卒業生が立ち、参列者は知り合いに挨拶しながら通り過ぎます。

ジスイズマイサン。

最後は階段に並んで全員で記念写真。
このあと、アワードの授賞式のために学校に全員で移動します。

学校のオーディトリウムのスクリーンでは、卒業旅行の画像が映し出されていました。
群馬の山中でレンジャー訓練、じゃなくて、ラフティングとか滝に飛び込むなど、
ワイルドな活動を行ったそうです。

そのうち卒業生が入場。
これは先日行われたばかりのプロムでの一コマ。

息子(右から三番目)にはこのためにスーツと靴を新調してやりました。
彼はブルーのドレスの娘に花束をあげた(恒例に則って)ようです。

この日のイベントは、成績優秀者の表彰です。

まず、先生が二人、掛け合い漫才のようにユーモラスに生徒全員の紹介を
エピソードを交えながら行います。

そして、各科目について、「メリット」そして「ディスティンクション・スタディーズ」
という優秀賞が最初に授与されます。

最初の生徒はもらえる賞が一つとか二つですが、表彰が後に近づくにつれ、
数がだんだん増えていくのです。
もちろん全くもらえない生徒もいます。

これは実にわかりやすく成績の順番がわかってしまうシステムでもあり、
あとでTOと

「もらえない子には意味残酷なセレモニーかもしれないね」

「もしかしたら成績発表の前に先生たちが生徒全員について触れるスピーチをしたのも
私たちは成績だけで生徒を見ているんじゃないという気遣いなのかな」

などと話し合ったものです。

途中でプレゼンテイターが代わり、そこからは「メリット」だけでなく、
「アウトスタンディング・コントリビューション」という
「特にその教科に優れているで賞」が授与されるようになってきます。

ここからが兵学校で言うところの恩賜の短剣組です。

ムスコが♪───O(≧∇≦)O────♪キター

4教科でのアウトスタンディング・コントリビューション、6教科でのディスティンクション、
そして6教科でのメリットを戴きました。

親としては、専門にする予定のフィジックス(ハイレベル)で
アウトスタンディング略をもらえたのがとても嬉しかったです。

 

そしてか学校からの賞とは別に、日本文化の普及を推進する協会から、
特に歴史の先生の推薦を受けて「日本の城」についての論文に対し
特別賞を戴きました。

「教師の私自身が初めて知る視点を与えられるほど素晴らしい研究だった」

賞品は木製の(多分日本産)ケースに入った木製ボールペンです。

さて、戦いすんで。(戦いじゃないか)
わたしとTOは学校近くのカフェにお昼を食べにいきました。

そこで食後のデザートに出てきた生プリン。

ニワトリさんの中には黄身が内蔵されていて、それをこのように
ポトンとプリンの上に「産み落として」戴きます。

一つをシェアしようと言ったのに、甘い物好きのTO、
抹茶掛けバージョンをお代わりしました。

このニワトリさんは即お買い上げとなりました。

明けて次の日、実はわたしは前日の「いずも」撮影で疲れたままでしたが、
学校で卒業式の本番が行われました。

「威風堂々」の調べに乗せて全員が入場します。

卒業演奏というのか、プログラム最初にMKがアレンジし、
セレクトしたメンバーで「シェルター」が演奏されました。

ちなみに譜面を書いてやったのはわたしです。

Porter Robinson & Madeon - Shelter (公式ビデオ) (A-1 Pictures & Crunchyrollによるショートフィルム)

シェルターとは「庇護」を意味し、巣立つ者がそれまでの庇護者に
感謝を込めて送ったメッセージ、というのが歌詞の内容です。

「シェルター 日本語訳」

続いて四人の卒業生による「思い出ぽろぽろ」。
笑いを交えて学生時代の思い出を振り返りました。

そして、一人一人が親や友人に対するメッセージとともに名前を呼ばれ、
卒業証書を受け取ります。

ここから「タッセル・セレモニー」が行われます。

左側に垂らしていたタッセルを、スクールマスターの掛け声とともに、
一斉に右側に移動させるのです。

タッセルを掛け替えることは一つのステージを終え、
新しいステージに向かう準備をおこなう、という意味があります。

準備を整えた卒業生たちは近くの者と抱き合って祝福しあいます。

最後に全員での「イッツ・タイム」(グリー)の合唱。
この時に何を歌うかは半年くらい前から協議して投票で決まりました。

MKはこの時、パーカッションを担当しています。

退場は二人ずつ・・・。

ですが、二人で打ち合わせてちょっとしたパフォーマンスをします。

ファイトー一発!

ケータイで自撮り。

ダンスは基本。

コマネチ・・・?

レセプションまでの間、幼稚園時代の教室を見て思い出に耽りました。

ここからは体育館でのアフターセレモニー。
卒業生は自分の知り合いや先輩後輩に招待状を出し、
招待された人は花やメッセージを持って訪ねてきます。

後輩。

主席と次席。

友達のお母さん。

仰げば尊し和菓子の恩。

ガールフレンド?(じゃないと本人談)

訪ねてきてくれた人とは必ずハグ。

親友。

息子(手前から三人目)とその友人たち。

友達とそのおばあちゃん。
おうちに泊まりに行った時にはカレーをご馳走になりました。

a

二人を撮っていると、あっという間に周りから人が集まってきて、
結局集団写真になります。

最後のイベントが帽子投げ。
これをもって、息子はめでたく学校を卒業いたしました。

 

長いようであっという間の18年間、秋からは親元を離れていきますが、
彼を生んでから今日まで、何か夢でも見ていた気分です。

母親としては寂しいような気もしますが、これからの彼の人生を
遠くから見守ってやりたいと思っています。

 

 

 

 

平成三十年度 掃海隊殉職者追悼式 於 金刀比羅神社〜参拝

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わたしが掃海隊殉職者追悼式の本番前日に現地に向かったのは、
たてつけに続く幹部の本殿参拝とリハーサルを見るためでした。

 

自衛隊で儀式などの会場を設営することを「たてつけ」というのですが、
耳ではよく聞くこの聞く言葉、今タイプしていて

「建て付け」なのか「立て付け」

なのかわからなかったのでひらがなで記しました。
どなたか正確なところをご存知の方がおられましたら教えてください。

 

掃海隊殉職者追悼式については、ここですでに一度取り上げました。

元民進党の野党議員が、追悼の辞にかこつけて、明らかにモリカケ問題を
政府に当てこするというゲスな真似をやらかし、その場の顰蹙を買い、
ただでさえゼロに近い支持率をまた減らしていたので、そのお手伝いをするべく
そのことだけにフォーカスしてここで取り上げましたが、本当のところは、
本来の追悼式を取り扱うのに不愉快な話題を混ぜたくなかったのです。

というわけで、追悼式前日の午前中からお話しします。

朝一番の便に乗り、一年ぶりの高松上空にやってきました。

高松自動車道が大きく海岸線に迫っている、ここはさぬき市の
青木海水浴場付近ではないかと思われます。

使用機材はANAの新しい飛行機と聞いていましたが、外に出て見ると
今時ガルウィングではないのがちょっとびっくりでした。
タラップからは機内清掃の人たちが乗り込んでいます。


空港からレンタカーを借り、ナビには金刀比羅神社の参道に面した
資生堂のカフェの位置をセットして出発です。

ところが、そのカフェの名前を入力しようとしてなかなかうまくいかず、
おかしいなと思ってネットで調べたら、(便利な時代です)
「神椿」を「玉椿」と勘違いしていたことが判明しました。

それにハッと気付くと同時に、去年、さらには一昨年も、
「神椿」と「玉椿」を勘違いしたことを思い出しました。

わたしはボケ老人か。

気を取り直してナビの指示通りに車を走らせると、このGPS、
参道と平行に走る、地元民しか通らない超狭い一本道を案内しやがったので、
たどり着くまでの間、向かいから車が来ないかヒヤヒヤ。

おかげでスリル満点のドライブとなりました。

というわけで「神椿」の駐車場に無事車を停め、おなじみの
「えがおみらいばし」を渡っていきます。

この橋、わざわざカフェと駐車場を結ぶためだけに山中に作ったんですよね。

忽然と山中に現れるモダンな建物。
お茶屋や、昔ながらの土産物屋兼飲食店しかないこの近辺で、
そのセンスの良さで鄙には稀な佇まいを見せる建物です。

資生堂と金刀比羅神社の繋がりについては昔このブログでも取り上げました。

聖地にあるせいか、いつ来ても「気」の良さを感じる店内。
追悼式で金刀比羅神社に来る時のわたしの密かな楽しみとなっています。

この日7時の飛行機に乗るために5時起きして以来、
水と紅茶以外何も口にしていなかったので、これが朝ごはんです。

なんとなく白身魚のカツサンドを選んでしまい、

「ビーフカツサンドも食べてみたかったかな」

と軽く後悔するのも、去年と全く同じであることに気がつきました。


実はこの間、自衛官だけが参加して執り行われる、神主が祝詞をあげる
正式な慰霊祭が行われているのをわたしは知っていましたが、
去年現場で感じた、「わたしがここにいてもいいんでしょうか」という場違い感、
ブログに上げるために神事を写真に撮るのは如何なものかという思いから、
今年は見学を遠慮しました。

目にも鮮やかな緑を愛でながら、お茶をお代わりなどして過ごしていると、
掃海隊を撮ることをライフワークとしているカメラマンのミカさんが登場。

二人で挨拶をしていると、横を白い制服の自衛官の団体が通り抜けました。

追悼式を執り行う呉地方総監と掃海隊群司令、そして阪神基地隊から
第42掃海隊司令ら掃海隊員のうち幹部が恒例の食事会を行うのです。

ミカさんに、

「下で食べないか誘われたんですけど、一緒にどうですか」

とお誘いいただいたのですが、そんなとんでもない、と一人で待っていると、
ちょうど観桜会の時に同地方隊に着任された、パリッパリの一尉が、
わざわざ名刺を持ってご挨拶に来てくださいました。

単に見物に来ているだけのわたしなどに、と恐縮いたしました。

例年、この食事会が終了してから、幹部のうち地方総監と群司令は
「海の守り神」でもある金刀比羅の神に内々に参拝を行います。

これは防衛省自衛隊の幹部としてというより、四方の海を護る使命を帯びて
任務を遂行する海の防人としての安全祈願であろうとわたしは解釈しています。

 

何年か前にそういう慣例があることをミカさんに教えていただいてから、
何回か、それを写真に撮る彼女に付き合って本殿まで参拝を兼ねてきていますが、
幹部が参拝に向かう様子を目の当たりにしようとすると、彼らより先に
山頂にある本殿まで、長い階段を上って到達していなくてはなりません。

下で食事を済ませてきた彼女から、

「まだまだみなさん食事は終わりそうにないです」
(その心は食事にワインが供されているから)

という報告を受けるも、自衛官の脚力というもののすごさを知悉しているので、
わたしたちは彼らがまだ食事をしているうちに石段を上り始めました。

上の旭社を左手に見ながら、賢木門(さかきもん)をくぐります。
この辺りは、石段を上ってきて上がった息をつけるところ。

最後の急な石段を上る手前にある鳥居と手水。
上から陽が射してくる、この光景はいつ見ても神々しいと思います。

これが百度石のある最後の難所、御前四段坂です。
さて、頑張って上るぞー!と気合いを入れて足を踏み出すと・・・

ここであっさり追い抜かれましたorz

日頃鍛えている人たちなので、こんな階段(下から七百八十五段、
神椿からなら二百八十五段)くらいなんでもないんだろうな。

海上自衛隊の白い制服は境内でも人目を引きます。

左側は神札授与所。
制服を着た自衛官が必ず誰か一人はお守りを買い求めています。

その前の玉砂利越しに見えるのは右側に見える本殿への渡り廊下。
南渡殿と言います。

拝殿前にある大きな御神木のクスノキ。
幹の周りは4〜5mありそうです。
高さは25メートルなんだとか。

拝殿ではなんと珍しい、お賽銭の回収作業をしていました。

しばらく待っていると、記帳を行い、祓厄殿でお祓いを受けた
幹部を迎えに、神官が渡り廊下を進んでいくのが見えました。

神官、大変お若くていらっしゃる。

玉砂利のところには、下から登って着たツァーが集合し、
黄色いベストのガイドが本殿などの説明を始めました。

黒い服の女性は最近すっかりスマートになったミカさんです。

神官を先頭に、呉地方総監、掃海隊群司令、地方総監副官、群司令副官らが
渡り廊下を本殿に向かいます。

着任して今年が初めての追悼式参加となる掃海隊群司令は、
久しぶりの掃海隊出身です。

一行が一礼して拝殿脇から本殿に入る姿を確認してから、
わたしたちはすぐさま追悼式場まで下山することにしました。

絵馬殿の屋根は修理中です。

旭社の拝殿でいつも目を引くマルキン醤油の奉納缶。

式場に到着すると、たてつけは終わり、慰霊碑前にはすでにテントが立っていました。

そしてすでに現場ではリハーサルのリハーサルのリハーサル(?)らしきことが行われている模様。
青い事業服二人は掃海隊員遺族役、現在行われているのは献花のリハです。

テントの向こうでは儀仗隊が細かくチェックを受けております。

献花のリハーサルのために、わざわざ白菊の造花を用意するというこの仕事の細やかさ><

呉地方総監役の女性隊員が、霊名簿の降納を行なっているところです。

国旗掲揚、国旗降納のリハーサルも入念に行われます。

次回、儀仗隊が参加してのリハの様子をお伝えしたいと思います。

 

 

続く。


立て付け〜平成三十年度 掃海隊殉職者追悼式 於 金刀比羅宮

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さて、金刀比羅宮の一角にある掃海隊殉職者の慰霊碑前で、
明日執り行われる予定の追悼式の立て付けが行われています。

前回「建て付け」か「立て付け」かふと疑問に思ったと書いたところ、
エントリがアップされてすぐ、元自衛官から一言

「立て付けなり」

というメールをいただきました。


そこで調べてみたところ、この「立て付け」という言葉、
「建て付け」、つまり会場の設営という意味ではなく、式典など
行事の前に一通り本番の予定を実施するという海軍用語なのだそうです。

つまり海上自衛隊が海軍から引き継いだ言葉の一つらしいのですね。


「立て付け」とは、本番通りに通して予行演習をおこなうことで不具合を洗い出す、
といういかにも海軍らしい慣習ですが、これさえすれば本番は完璧、
というものではもちろんありません。

いかに慎重に前日立て付けを行なっても、たとえば

引き渡し式で授与すべき自衛艦旗がない!

というようなことが起こってしまうのをわたしは実際に目撃しています。

ちなみにあの件をブログにアップしてから、合計三人の元自衛官から、

「実はわたしの現役時代にも似たようなことが・・・・」

と全く個別に打ち明けられました。
長い自衛官生活で、皆、それかそれに近いことを一度くらいは経験しているのです。

いかに組織として完璧を期しても所詮は人間のすることですから、
何かの弾みで事故は起こるということなのでしょう。

これは自衛隊だからとか、戦後だからというのではなく、
きっと海軍時代にも色々とあったはずだとわたしは思っています。

根拠はありませんが。

これが掃海隊殉職者の顕彰碑です。
この碑については以前も書きましたが、掃海任務で殉職された七九柱の名前が
刻まれており、刻まれた文字は吉田茂の揮毫によるものです。

会場ではリハーサルのリハーサルが続いています。
最後の国旗降下に入りました。

国旗降下に対し儀仗隊入場。
上衣がセーラー服でない以外は本番と同じスタイルで行います。

国旗を扱う時、それがリハーサルであろうが、リハーサルのリハーサルであろうが、
自衛官は必ず国旗に対して正対し敬礼を行います。

この時には本殿を参拝していた呉地方総監や掃海隊群司令は到着しておらず、
時々「総監の現在位置」を知らせる報が入ってきていました。

リハのリハでの内容について、その場にいる自衛官の間で協議が始まりました。

特に儀仗隊については実に入念に調整を行います。
儀仗隊長は三尉。

先日二尉が約30名の指揮官であることを「まきなみ」での体験航海のログで
書きましたが、その法則でいうと、三尉はまさにこの儀仗隊の
10名程度を指揮する指揮官である、ということかと思います。

つまり防大を卒業したばかりの幹部は、いきなり10名程度の部下を持つということですね。


それから、この写真で海士の着ている制服の襟が、

「セーラー服ではないのにセーラーカラーのようなデザイン」

であることに気がつきました。
開襟なのですが、どことなくセーラーカラーを思わせる形になっています。

学生時代にセーラー服を着ていた女子として言わせて貰うと、
セーラーカラーって、あれ、結構それだけで暑いもんなんですよ。
そこだけ布が二重になっているわけですからね。
たかが布一枚ですが、日本の夏には結構な意味を持ってきます。

わたしはこの時防暑用にキャンバス地のサマーハットをかぶり、
虫除けのつもりで白っぽい薄手の長袖の上着を着ていたのですが、
テントの下で写真を撮っていると、暑くて暑くて、ミカさんに

「どうしたんですか、顔真っ赤ですよ」

と心配されてしまいました。

この第二種制服には、夏の過酷な炎天下で日常の任務に当たる海士たちに
ちょっとでも負担を軽くしようというデザイナーの意図が見えます。

アイロンがけの手間もこれならかなり軽減できるでしょうし。

慰霊碑前の広場の一角には、前にも書きましたが江田島兵学校の桜があります。
兵学校出身の殉職者のために江田島から運んできて植えたものと思われますが、
この桜についての由来などは今に至るまでわかっていません。

そこに本殿への参拝を済ませた呉地方総監と掃海隊群司令が来場。
執行者立ち会いのもとで「立て付けの本番」が始まりました。

呉地方総監などの「役割札」を胸にかけた自衛官が本番通りに動き出しました。

地方総監も副官も、本人がいるのにどうして代役を使うかというと、
立て付けというのは「本人の練習」のためというより、全体的な進行に対する
問題点の洗い出しを目標としているからだと思われます。

入場に続き国旗掲揚。
儀仗隊は国旗を頂点とする三角形を作るような位置に整列します。

捧げ銃は「銃の敬礼」。
着剣した銃で行います。

捧げ銃が終わると、銃の台座を地面につけて右手で銃を軽く支え、
左手で剣を外し、腰のホルダーに装着します。

手首の角度や手の添え方、銃を置く場所、全てがピシリと揃っていますね。
ここにくるまでに何度も練習を重ねているからこそです。

わたしは本番には慰霊祭に参列するという立場で来賓席に座るので、
残念ながら弔銃発射の瞬間を写真に撮ることはできません。

だからこそ前日の立て付けに参加しているわけなので、チャンスはこの時だけ。

「前に出てもいいと思います?」

ミカさんに小さい声で聞いて、行くなら今ですよといわれ、前方に回り込みました。

弔銃発射に先立ち、隊長が慰霊碑前の霊名簿、七九柱に向かって敬礼を行います。

儀仗隊は海士ばかりで構成されますが、一番端に一人海曹が立つ決まりのようです。
リハーサルなので、幹部役の自衛官は敬礼をしますが、遺族役(右側)は行いません。

それにしても、この海曹の腕の惚れ惚れするような筋肉を見よ。

空砲を撃つ瞬間銃口から見える炎がちょうど写りました。
兼ねてからわたしはこの弔銃発射、全員ではなく、何人かしか
実際に撃っていないのではないかと思っています。

もし9名が全員空砲を撃ったら発射音はこんなものでは済まないでしょうから。
確かめようがないのでそれが正しいかどうかは謎のままですが。

発射が終わり、銃を傾けて持ち直します。

退場。
銃の台座には「うらが」と通し番号が打ってあり、
彼らが列の順番どおりの番号の振られた銃を持っていることがわかります。

続いて、慰霊演奏のリハーサルが始まりました。
ここで、追悼式始まって以来初めての試みが行われることを知りました。
例年演奏だけの「掃海隊員の歌」に、今年は歌が加わるのです。

指揮者でもある呉音楽隊副隊長が、イントロを指揮すると同時に
指揮棒をマイクに持ち替えて、朗々と一番を歌い上げました。

確かに、この「掃海隊員の歌」、メロディだけではあまり意味がないと感じる人もいて、
カメラマンのミカさんなど兼ねてから「歌も歌えばいいのに」と言っていたとか。

わたしもこの時無骨な男性の声で歌われてこその歌詞であると感じ、
この演出?に心から感嘆した次第です。

追悼演奏では、「掃海隊員の歌」の他、「軍艦」「海ゆかば」などが演奏される予定のようでした。
少なくともこの時はそうなっていたと思われます(伏線)

 

立て付けが終了後、呉地方総監池海将や総務課長、管理部長、そして
呉音楽隊長(演奏されないのに監督のために来られていたようです)と
ご挨拶をする機会がありました。

音楽隊長に、先日の練習艦隊出航の時、呉音楽隊のコンマスだったクラリネット奏者が
「かしま」に乗って出航していくのを目撃した、という話や、
わたしが見てきた呉音楽隊の色々について、気が付いたことなどをお話ししたところ、

「・・・・詳しいですね」

とびっくりされました。
まー、東音、横音、呉音についてはちょっとした追っかけみたいなもんですし。

ところでこの時、池海将を通じてとても嬉しいプレゼントをいただきました。
呉音楽隊新作CD、「HOMAGE」です。

八木澤教司氏の作品集であるこのCD、タイトルの『オマージュ〜海の守り詩』は、
呉音楽隊創設60周年記念に委嘱された作品で、儀礼曲「海のさきもり」を曲中に取り入れ、
同曲に対するオマージュが込めてあります。

昨年の自衛隊記念日に行われた呉での式典でも演奏されました。

「オマージュ」〜 海の守り詩/八木澤教司 作曲

このCDの解説のブックレット、曲目解説、ソリスト紹介などが後半には
英語翻訳されて掲載してあるのが目を引きます。

練習艦隊に乗り組んだ同隊クラリネット奏者の小村一曹が、世界の寄港地で配るためではないか、
と思ったのですがいかがなものでしょうか。

そして国旗降下が行われ、立て付けはここに終了いたしました。


この後は高松港に係留した「うらが」艦上で行われる
レセプションへの出席をすることになっています。

 

続く。

 

 

 

「うらが」艦上レセプション@高松港〜平成三十年度 掃海殉職者追悼式

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金毘羅宮で次の日に行われる掃海殉職者追悼式の立て付けが終了しました。

立て付け終了後、執行者呉地方総監、掃海隊群司令ら幹部が
信仰について司会役の総務課長らと問題点の洗い直しをしています。

なんか無駄にかっこいい。

その後、車で1時間かけ、高松市内のホテルにチェックインしました。

今年もシングルの予約取れなかったので、仕方なくツインをツイン料金で取りました。
チェックインの時にフロントで「一人で泊まる」というと、フロントマンが
なぜか二枚あった朝食券を一枚引っ込めようとするので、

「いえ!それはいただきます」

と強く言い切り、二枚もらって一枚をミカさんに献上いたしました。
こちとら二人分払ってるんだから当然の権利よね。

着替えと帰って寝るだけの部屋ですが、ベッドが二つあると、
遠慮なくそのうち一つにモノをぶちまけていくことができたので便利でした。

今年はお城跡側の部屋です。

約1時間半でチェックインと着替えを済ませ、高松港に突撃。
今年の艦上レセプションは「うらが」で行われます。

「うらが」さんには、かつて日向灘の訓練でもお会いしています。
掃海隊の機雷除去訓練を見学するために「えのしま」に乗った時ですが、
昼ごはんを「うらが」でいただくために「えのしま」を接舷しようとしたら、
その日は大変波が高く、舷梯を架けることがどうしてもできませんでした。

当時の掃海隊群司令、岡海将補が「うらが」の舷側に立って、ハンドマイクで
接舷を断念することを謝っておられるのを見たのがまるで昨日のことのようです。

岡司令はその後退官され、お食事をご一緒する機会は永遠に失われました。

岸壁埠頭に座って、しみじみと「うらが」舳先を眺めている女性。

もう乗艦が始まっていたので、入って行きました。
わーい、みんながにこやかにお迎えしてくれてるー。

高松港埠頭にあるレストラン「ミケイラ」には去年お昼ご飯を食べに訪れました。
景色もいいし味もおすすめです。

レセプションに訪れた客は、必ず会場入り口で呉地方総監と
掃海隊群司令にご挨拶をさせていただきます。

着物の女性は、わたしの知り合いの防衛団体会長が最近スカウトしてきた会員。
着付けの先生だそうです。

お料理にはサランラップがかかっているので、大阪の時のように
開始前から人が食べ始めるということにはなりません。

なるほど、これから大阪でのレセプションではこうすればいいのでは・・。

格納庫の壁には「うらが」と掃海隊についての知識を周知していただくため、
わかりやすい説明のパネルが掲げられています。

「うらが」のエンブレム、かんむり座のモチーフが
命名の元となった浦賀水道の走水神社に祀られている日本武尊の
冠伝説にちなんでいることはここで初めて知りました。

開始前、甲板後部から。
甲板の広い掃海母艦でのレセプションは、「かしま」艦上のように
芋の子洗う状態には決してなりません。

その広いスペースを利用して、甲板には機雷も展示されています。
これは係維式機雷K-13で、この台座ごと海に沈めると、
ツノのある機雷部分だけが係維、つまり糸に繋がれて海面付近まで浮き上がり、
赤いツノに航行する艦船が接触すると爆発する、という仕組みです。

係維機雷のうち「磁気機雷」かもしれません。

「うらが」の後ろには阪神基地隊からやってきた「あいしま」「つのしま」がいます。
今年も去年のように日曜には体験航海が行われたのでしょう。

レセプションが始まり、偉い人の挨拶が行われました。

指揮執行官の呉地方総監。
手前の男性は掃海殉職者のご遺族です。

レセプションの雰囲気を軽快な音楽で盛り上げるのは呉音楽隊メンバー。
バンド名は「マリーンナイツ(海の騎士)」です。

ボーカルも加わり、「スィート・メモリーズ」などを素敵な歌声で聞かせます。

途中で「YMCA」が演奏されたのですが、周りがほぼ全員と言っていいほど、
その直前に亡くなった西城秀樹について話題にしていました。

ある年代以上の人たちにとってはヒデキは関心の有る無しに関わらず
歌手にとどまらないアイドルの象徴みたいなものでしたからね。

マリーン・ナイツがこの曲を選んだことにも感心しました。

自衛艦に乗ったらカレーを食べずして何かを食べたとは言えません。
というわけで、「うらが」カレー初体験です。

カレーをよそっている人を写真に撮ろうとしたら、彼は
ピタリ!とおたまを止めて、シャッターを切るまでポーズしてくれました。

というわけでこれが「うらが」カレー。
黒いスパイスのような粒が見えることからも想像できるように、
かなりのスパイシーカレーでした。
具は・・・ビーフだったと思いますが美味しかったことしか記憶にありません。

とかなんとか会場を回遊しているうちに、自衛艦旗降下の時間になりました。
降下を行う乗員が5分前から旗竿の前で静止して時を待ちます。

じか〜〜ん!

同時に電飾が灯ります。

♪ ドーソードドミー ドーソードドミー ミミソー ミミソー
ミードミソーソー ミードドドー♪

ソーソソソーソ ミードーミードー ソーソソソーソー ミードーミードー
(最初に戻って♪で終わる)

この日は女性乗員が風で竿に巻きついた旗を外していました。

「あいしま」「いずしま」でも同じように降下が行われていたはずですが、
喇叭の音はそちらからは聞こえてきませんでした。

母艦の喇叭を聴きながら行なっていたのかもしれません。

降下終了。

灯りが点くと同時に、闇が一層濃く降りてきたように感じます。

レセプション会場にも電灯が灯るとより華やいだ雰囲気が漂います。

この日、わたしは会場でいろんな方と初めてご挨拶をさせていただきました。

自称「オールド・セイラー」氏。
地元の郷土作家。
江田島に生まれ育ち、幹部学校のことならなんでも知っているという方。
某防衛団体の会長にスカウトされて会員になった着物の先生。
掃海隊が高松港にくると必ず駆けつけてくるという熱心なファン。

「オールド・セイラー」氏はこう書けば当ブログ読者なら自衛隊関係の方ならずとも
きっと誰かわかる、東日本大震災の時の海自出動部隊指揮官だった方です。

後は掃海隊の司令官クラスの方々。

なんどもお会いしてすっかり顔なじみになった掃海隊司令が
もうすぐ転勤されると聞いたときは少しさみしい思いをしました。

開始から約1時間、めぼしい食べ物はほぼ食い尽くされた模様。

気がつけば高松港の玉藻防波堤灯台、通称赤灯台が赤く光っています。
世界初総ガラス張りの灯台で、内部に灯りがともると全体が赤く光ります。

本州と高松を結ぶコミューター、四国フェリーの「しょうどしま丸」。
緑のうどんの絵の下には「うどん県」と書かれています。

屋台はカレーの他には天ぷらと焼き鳥。
焼き鳥は割と早くに終了してしまったので、天ぷらを無くなる前に
一つ食べておこうと思ったら、前に並んでいた方が、

「ほらあんた食べなさい」

と順番を譲ってくれ、それでは、とエビ天一ついただきました。
ちなみに天ぷら屋さんの後ろにいる男性は、かの

「北の馬鹿者が」

の元司令です。

楽しんでいるうちに蛍の光が鳴りだしたので素直に退出。

地面のテントは明日行われる地元地本の広報ブースです。
掃海艇での体験航海の他にも、陸自が乗り物を持ってくるのかもしれません。

舷側に立つ自衛官は、一人一人に

「ありがとうございました」

と声をかけて見送ってくれます。

掃海母艦は大きいので、舷梯が長くて比較的急です。

わたしはこの日長いスカートを履いていたので、階段を上る時には
裾を踏まないように持って歩いたのですが、下りでは手すりを持つので手が使えず、
結果的に裾で階段を掃き清めながら降りていくことになりました。

帰って洗濯すればいいや、と思いながら構わず降りていたら、後ろの自衛官
(しかも帽子にカレー付き)がご丁寧にも声をかけてくださいました。

「裾・・・・持ちましょうか」

海軍軍人って、皆さんジェントルマン。

だがそれだけは断る。

岸壁に降りてからも、ここでまず呉地方総監が降りてくるのを待ち、
写真を撮るというミカさんに付き合って長時間立っていました。

防衛政務官の艦内見学が長引いて出てくるのに時間がかかり、
おまけに地方総監の退出シーンの撮影に失敗するし・・・

どう失敗したかというと、この大きさでしかお見せできないくらい。

電飾で彩られた掃海艇兄弟を撮りに行きました。

わたしたちの前をついさっきまで制服だった掃海隊司令らが、
私服に着替えて汗をかきながら通り過ぎていきます。

「風呂入ってきたんで暑いです」

この時に聞いたのですが、掃海艇などは司令とか艦長が一番にバスを使うため、
偉い人が早く入ってやらないと皆が入れないのだそうですね。

最後に「うらが」の電飾を撮りに艦首のところに行きました。

ところでこの写真を見てちょっとゾッとしました。
舳先のところにいるの、もしかしてさっき見た女の人でわ((((;゚Д゚)))))))

正面から。
「いずも」の時のように三脚もミラーアップ機能も使っていませんが、
埠頭のブイにカメラを乗せて固定して撮りました。

ミカさんに聞いたところによると、後ろの掃海艇二隻のマストの赤と青のライトは
通常点灯しない(だったっけ)ものなんだそうです。

海面に映る電飾が美しいですね。
わたしにとって最後に見る「うらが」に別れを告げ、埠頭を後にしました。

レセプション中枝豆一個しか食べていない、と豪語するミカさんのために、
(逆になぜ一個だけを食べることになったのか、むしろそちらが不思議)
去年地元の人に教えてもらって、ミカさん、わたし、そして元海将の三人という
シュールな取り合わせでうどんを食べに行った、「鶴丸」に再び。

わたしも、パーティではあまり食べていなかったので、さっぱりした梅うどんは
美味しくいただけましたが、それより朝早かったため眠気と戦うのが大変でした。

 

さて、一夜明ければ、いよいよ掃海隊殉職者追悼式です。

 

続く。

 



「掃海隊員の歌」〜平成三十年度 掃海隊殉職者追悼式 於 金刀比羅神社

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 金毘羅宮における本年度の掃海隊殉職者追悼式が行われる日になりました。

車は追悼式終了後の食事会が行われる旅館の駐車場に停めて、
そこから出発しているシャトルバスで会場近くまで運んでもらい、
そこから少し参道を下っていくと追悼式会場です。

山門前には「五人百姓」といって、古くから金刀比羅宮に奉仕してきて
境内で商売を許された五軒の飴屋さんがあります。

ミカさんにはここで売っているべっこう飴、「加美代飴」を
家族の人数分いただきました。

ここに来るとつい立ち寄らずにはいられないひやしあめの屋台。
生姜を入れるかどうか、聞いてもらえます。

ひやしあめ屋さんの舞台裏。
大村崑の「元気はつらつオロナミンC」の看板を廃物利用。

さてそろそろ、と会場に向かい始めると、隊伍を組んだ儀仗隊の列が
颯爽と追悼式会場に向かって階段を降りていくのを目撃。

参拝客は皆目を丸くするように立ち止まって見ています。

殉職者追悼式が行われることは、参道から少し入ればわかるように
大きな案内が出ています。

本日の天気は雲が太陽を隠し、晴天ではありませんが、むしろ
列席者にとっては大変凌ぎやすい天候だったと言えます。

会場で地レンジャー発見。

自衛隊のリクルートを行う地元協力本部のことを地方連絡部、略して
「地連」と言っていた頃には、存在していた「地レンジャー」ですが、
略称地本となった今は絶滅しました。

しかしこの本部長はレンジャー出身なので、
「地レンジャー」とお呼びしても良いかと思われます。

この日緑の制服を着ておられる地レンジャー本部長に

「まだ制服を新しいのに変えておられないんですか」

と質問すると、

「今日その質問100回くらいされてるんですけど」

と憮然として答えられました。
将官と新入隊員クラス、つまり上と下からじわじわと新しくなっているので、
真ん中の佐官クラスはもう少し後になるのかもしれませんね。

というわけでわたくしの席は、ここ。
一番前から執行官と幹部、政治家、歴代地方総監、そして掃海隊員、
と続き、掃海隊司令の真後ろです。

会場全面にテントを張る設営法は去年と同じ。
それまでは真ん中を通路として列席者が通路を挟み、
向かいあう形になっていたのですが、去年からこの形に変わりました。

これだと慰霊碑も国旗掲揚も見えないのではないか、などと、
去年追悼式が終わった直後、僭越ながらいくつか進言させていただいたのですが、
今回、追悼式の直前、それに対してこのようなご返答をいただきました。


1️⃣ 参列者の席の向きについて

慰霊碑に正対することが正しい座り方であり、
後方の席の方はテントの影になり見えにくくなりますが、
参列者が200名を超え、さらに朝日岡が慰霊碑に対し
長方形となっているため、止むを得ないものと考えています。

したがって配席は昨年どおりとします。

2️⃣ 儀仗隊の動線について

儀仗隊は本来待機場所から正面に出てくるもので、
参列者席の中央を通すやり方は礼式上、本来の姿ではないと考え、
本年度も昨年どおりとします。

3️⃣ 現職自衛官の配席について

ご指摘のとおり追悼式執行者は呉地方総監であり、
現職が掃海殉職者のご遺志を顕彰するものであります。
現職自衛官が最後列に位置するのは適切ではないため、本年度から
歴代総監、歴代掃海隊群司令の次に配席し献花順も改めました。

 

一番大切なことは殉職者に捧げる慰霊の形であり、それゆえ
列席者が慰霊碑に正対すべき、というお答えには得心がいきました。

何より、呉地方総監部が、たかが一般人のわたしごときの具申を拾い上げ、
検討してくださったことに対し、感激するとともに深く感謝する次第です。

まだ到着していない列席者の席もありますが、儀仗隊はご覧のように
微動だにせず待機して降ります。

会場の入り口でご遺族を迎え、政治家をエスコートするために待つ式執行官。

ここに見える金毘羅宮の宮司の名前、「琴陵」はことおかと読みます。
現権宮司琴陵容世氏は、金毘羅宮の宮内にブロンズ像のある

琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

の子孫で、琴陵は代々権宮司を務めてきた家の名前でもありますが、
その一人琴陵宥常は「金刀比羅宮」と言う神社名の「名付け親」でもありました。


ところでみなさんは、金毘羅宮がなぜ海の守り神となっているかご存知ですか?

こんぴらさんは象頭山という金毘羅宮が祀られている山そのものが神様という考えなのですが、
昔からこの山が航海するものの目印となっていたことが起源と言われています。


そして「海の神様」といえば琴陵宥常にまつわるこんな話もあります。

1886年、イギリス船「ノルマントン号」が紀州沖で沈没する事故が起きました。

この時、イギリス人船員は全員助かったのに、日本人乗客は全員水死し、これが
人種差別的な対応によるものではないかとして裁判にまで発展しています。

ノルマントン号事件

この事件の後、琴陵宥常は海上安全を祈願し、「大日本帝国水難救済会大旨」を作成し、
水難救助活動に携わる団体への顕彰、補償などを行うことを目的に
「海の赤十字」とも言われる「大日本帝国水難救済会」を創設しています。

現在、同会は

公益社団法人日本水難救済会

として、沿岸地に設置された民間ボランティア救助組織、
救難所に対する支援を行なっています。

殉職隊員の遺族の皆さんの入場です。

式典は、

国旗掲揚

霊名簿奉安

黙祷

に続いて追悼の辞が何人かによって行われました。

儀仗隊による敬礼・弔銃発射

が終わると、名前が呼ばれ、献花が行われます。
献花はまず遺族の方々から始まり、そのあとは前列から順番に行われるので、
わたしの献花の順番は現職自衛官のあと、最初ということになりました。

そして、呉音楽隊による追悼演奏が行われたのですが、

前日の立て付けの通り、追悼演奏の最初が歌付きの「掃海隊員の歌」。

独立日本の朝ぼらけ 平和の鐘は鳴り響き
大国民の度量を持て 雄飛の秋は迫りけり
今躍進の機に臨み ああ 掃海は世の鑑

このあと「軍艦」と「海行かば」が演奏される、と確か
昨日司会が言っていたはずなのに、曲は続きました。

・・・・あれ?二番も歌うんですか?

海上保安の重責をその双肩に担いつつ荒天怒涛もなんのその
浄めつくさん 機雷原 防衛庁(省、に変えて歌っていた)
内にその名あり  ああ 掃海は世の鑑

周りを見ると、皆配られた小冊子の歌詞を見ながら聴いています。

実はこの「掃海隊員の歌」、五番まであって、三番は
「北は室蘭稚内」と始まり、後段には「英霊眠れ安らけく」、

四番は

「肉弾砕く釜山港」「痛恨虚し対馬沖」

と、ストレートに朝鮮戦争などの表現が出てくるのです。
この三番と四番を歌うのかどうか、ドキドキしながら聴いていると、

挺身集う臨関掃 精鋭すぐる吉見沖
良心こめし丈夫が 水も漏らさぬこの布陣
成果は挙がるかくやくと ああ掃海は世の誠

という最終の五番だけを歌い、演奏は終わりました。

食事会の時に地方総監が暴露?したところによると、
やはり直前まで一番だけで終わる予定だったのが、どういう経緯か、
1、2、5番を急遽演奏することになったということです。

気の毒だったのはリハなしぶっつけ本番で歌わされた指揮者でした。

確かに1番は朗々と歌い上げていたのですが、2番、5番と、
明らかに声が遠慮がちだった謎が解けたというわけです。

「この次はちゃんと練習させるようにします」

食事会でご挨拶した時、地方総監がわたしになぜか恐縮しておられましたが、
音楽関係者としてはこの事情を聞いて歌手に大いに同情しました。

その後、霊名簿を降納し、国旗を降下して式典は恙無く終了しました。

歌、現場の設営、献花の順番、運営の全てに遺漏なく、曇りがちな天気も
列席者にはある意味天助となって、厳かで心に残る立派な追悼式となりました。

まあ、確かに中にはつまらない追悼の辞を述べた「小物議員」もいましたが、
この追悼式にとって全くどうでもいい話です。(断言)

毎年恒例の、遺族と自衛隊等による記念写真撮影。

カメラクルーの姿が見えますが、これはNHKの制作で、
またしてもどなたか遺族の方を追いかけているのだと聞きました。

去年の殉職者を扱った番組の内容を人伝に聞く限り、また今回も

「戦争の後始末をさせられて命を失った気の毒な人たち」

的なコンセプトで番組が作られるのは間違いないと思われます。
どなたか番組を視聴された方、またぜひご報告お願いします。

霊前へのお供えは果物、鯛、餅、酒に野菜、昆布など。

海軍の艦内帽を被り、杖をついて参加されている方を見ました。
かつて殉職者の同僚として共に掃海に当たった方でしょうか。

大正11年に東宮殿下がの御時とあります。
ということは、皇太子時代の昭和天皇のこととなります。

追悼式の後は、金毘羅宮を下山したところにある料理旅館で
遺族の皆様を囲む昼食会が行われました。

追悼式の後なので「乾杯」ではなく「献杯」を梅酒で行いました。
月桂冠のボトルが置かれていますが、飲めないわたしには無縁のものです。

この時隣に座った方が、現在大企業の子会社の社長をしておられる元自衛官で、
共通の知人がいたことから、初対面なのにすっかり話が弾みました。

執行官、呉地方総監池太郎海将のご挨拶。
この時に、指揮者の歌の後半がぶっつけ本番だったことが暴露され?

「後になるにつれだんだん声が小さくなってしまって、申し訳ありません」

という言葉には会場から暖かい笑いが起きました。

ご遺族代表で挨拶をされた方。
この方の親族である掃海隊員は、触雷ではなく、艇の沈没で殉職されました。

殉職当時追悼式で読み上げられた式辞は、当時遺族の手に渡り、
何年もの時を経てこの日皆に公開されたということになります。

語尾が「なり」「けり」で書かれた式辞は、今のものより
より濃く当時の空気を感じさせ、皆は真剣に聞き入りました。

この方の甥御さんは、殉職者の遺志を継ぎ、長じて海上自衛隊に入隊、
現在航海長として練習艦隊随伴艦「まきなみ」に乗り組んでおられます。

宴はたけなわでしたが、わたしは飛行機の時間があるので、一足先に会場を離脱しました。

飛行場の芝に「さぬき」と書かれていることをこの時初めて知りました。

離陸。
次に高松にくるのは一年後でしょうか。それとも・・・。


今年も戦後の日本の海の安寧を取り戻し、復興の足がかりとなった
尊い掃海活動に命をかけられた殉職隊員の皆様に対し、
追悼の誠を捧げることができたことに微かに安堵を感じながら、
わたしは翼の下に広がる讃岐の地に別れを告げました。

 

終わり 

 

 

乗艦〜海上保安制度 創設70周年記念観閲式及び総合訓練

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掃海隊殉職者追悼式についてのご報告も終わり、ようやく
海保観閲式の話題に戻ることができます。

ところで、当ブログエントリのカテゴリーには、海保の観閲式を
カテゴライズするものがなくて、どうしようと悩んだ結果

「お出かけ」

にさせていただきました。
海自でも海軍でもないので、いまいち納得いきませんが仕方ありません。

 

さて、今回は5月18日の出来事からお話します。

少し前に海保観閲式のチケットを鉄火お嬢さんから回していただき、
初めての海保関係のイベントに参加することに心躍らせながら、

「さて、チケットの確認をしておこうか」

と思ったのは観閲式前日の夕方1650くらいのことでした。
ところが、

「・・・・・あれ?」

チケットが入っている緑の封筒が、いくら探してもありません。

しばらく血眼で探した末、どうしても見つからないので鉄火さんに相談。
もうこの時には、誰かが見たらわたしの顔は蒼白になっていたと思います。

すぐに鉄火お嬢さんは、チケットを回してくれた方に連絡を取ったり、
通し番号はわかっているので、海保の偉い人から話をつけてもらうとか
アイデアを出して下さったのですが、(本当にご迷惑をおかけしました<(_ _)>)
如何せんその時には官公庁の業務は終了しており、確認の取りようがありません。

 

そもそも、どうしてチケットがなくなったかというとですね。
捨てちゃったんですよ。ゴミと一緒に。

それを確信したのは、鉄火お嬢さんが送ってきてくれたのと類似の
緑色の封筒、しかも捨てたと思った封筒が書類入れから出てきた時でした。

この捨てていい封筒の代わりに、チケット入りの方を紙ゴミにまとめ、
その日の朝、ゴミ集積所に持っていったのです。もちろん自分でね。

こういう時、心底自分が嫌になるわけですが、とりあえず最後まで諦めず、
足掻くだけ足掻いてみようと、わたしは、やはり
海保の観閲式に行くとおっしゃていた知人に事情を話し相談しました。

「どなたか海保の偉い人ご存知ないですか?」

チケットの現物がなくとも、偉い人の鶴の一声で、通し番号さえあれば
乗れるような超法規的措置は取れないか、と考えたわけです。

 

この知人というのは、自衛官なら知らない方はいないというくらい、
粉骨砕身、昔から私心なく自衛隊を応援しておられるNさんという方です。

昨年の横須賀地方総監部での練習艦隊帰国行事の時、たまたま
隣同士に座ったのがご縁で、おつきあいさせていただいているのですが、
交友範囲のとにかく広い方なので、もしかしたら、と思ったのでした。

すると、Nさん、

「もしよろしかったら余っているチケットお使いになりますか」

 

ゴミ集積所までいって、すでに資源ごみが回収されたことを確かめてから、
わたしは鉄火お嬢さんに平謝りし、急遽このNさんと一緒に
横浜港から出航する「いず」に乗ることになったのでした。

ちなみに失くした方は「だいせん」の乗艦券でした。

海自の観閲式であれば、朝一で並んだりするわたしも、
急遽余っていたチケットをいただくことになったからには、
Nさんが提案された、1030(ちなみに1000乗船開始)に桜木町駅前集合、
それから歩いて海保基地まで、という予定に大人しく?従う他ありません。

駅前から海保基地まではこの「汽車道」を通っていきます。

昔このブログにも書いたことがあるのですが、明治年間に開通した
貨物列車の線路を残してプロムナードにしているのです。

線路道を跨ぐようにデザインされた「ナビオス横浜」。
まっすぐ行くと赤レンガ倉庫に到達します。

海上保安庁の防災基地は、赤レンガの真横に位置します。

門内に入り、埠頭を歩いて行くと、骸骨のマークをつけた
警備船がいました。

海賊退治?の展示を行う際の「海賊役」はここから出航していたんですね。

海賊マークの巡視船は全部で3隻いました。
海保の観閲式について詳細与り知らぬわたしにも、この旗をつけた巡視船が
どういう役割か想像がつき、ワクワクしてきたものです。

「海保の観艦式ってもしかしたらものすごく面白いんじゃ・・?」

岸壁の向こうに今日乗船する予定の「いず」が見えてきました。

この日は朝からどんよりとした曇りだったにも関わらず、何も考えずに撮影し続けた結果、
このように写真が悉くお見苦しくなってしまったことをお詫びします。

乗艦前には「いず」の前のテントで受付とボディチェックを行いました。

しかし、この受付とセキュリティチェックを通ってわたしは思いましたね。

「チケットがなかったらこれ絶対入れてもらえなかったわ」

例えば通し番号のメモを見せて、

「チケット失くしてしまったのでこの番号でよしなに」

と訴えたところで、ここにいる人のほとんどは、そういうことを
独断で決定する権限など持っていそうにない職員です。
たとえ奇跡が起こって海上保安庁長官に連絡がついていたとしても、
それを証明する書類でも持っていない限り、

「チケットを持っていない方をお乗せすることはできません」

で終わってしまったに違いない、と。

まあつまり、Nさんに連絡を取ったのは正解だったということです。

乗船はもう1時間も前から始まっていたので、船上にはかなりの数の人が見えます。

いよいよ乗艦、じゃなくって乗船。
海保は巡視船なので大きさにかかわらず「船」と呼びます。

当たり前ですが海保の船、自衛艦とは随分色々と違います。

これはボートを揚げおろしするためのデリックのブームだろう、
ということくらいはわかりますが、ブームに「古河ユニック」という
クレーンの専門会社の企業名が大きく入っているのも不思議な感じ。

ブームの角度を表すケージ、針が稼働しているかどうかは謎。

甲板にまず出てきました。
哨戒、じゃなくて巡視ヘリコプターを搭載するという構造上、
ヘリ搭載艦に似ていますが、構造物の上の景色は決定的に違います。

CIWSも三連装魚雷ももちろんアスロックも当然ですがありません。

そのことに軽く驚きを感じる、というのも、わたしがすでにどっぷりと
海上自衛隊文化に首まで浸かっていていることを意味します。

と思ったら、武器があったー!

掃海艇などでもおなじみ、M61バルカン砲が。
海保の巡視艇にはあらゆる事態に備えて兵装を施してあるのですが、
あくまでも「護身」「警告」を目的としたものとなっています。

航空機を撃墜したり、艦船を沈めたりする必要はないので、
発射の威力もかなり落としてある、と聞きましたが確認してません。

また、船体をステルスにする必要も全くない巡視船は、
塗装も目立ちやすい白と青、そして部分的に赤を使ったりします。

わたしなどそもそもこの赤の部分がなんなのか、想像すらつきません。

熱狂的な海自フリークの知人女性は、

「白はダメ。グレーのフネでないと萌えない」

ときっぱり言い切っておりましたが、わたしはそこまでではありません。
グレーへの偏愛はもちろん既定路線ですが(笑)それはそれとして、
海保の白と青の船って視覚的に実に美しいと思うんですよね。

そう、こういうのを見ると、胸のときめきは抑えがたいものがあります。
おわかりいただけますでしょうか。

フェンネルのブルーに記されたマーク、そして

「Safety」

「Search and Rescue」

「Suvey」

「Speed」

「Smart」

「Smile」

「Service」

の7つのモットーを表す「S字章」、(ちょっと盛り沢山すぎる気もしますが)
「Japan Coast Guard」の表記、全てが「ネイビーブルー愛」を掻き立てます。

ちなみにこの時、PLH32「あきつしま」は、受閲船隊を編成するため
一足先に行動海面に出発していくところでした。

海保の観閲式は、海自とは違い、受閲船に人を乗せません。

海自もできればそうしたいところなんでしょうけど、年々観艦式に
応募してくる人数が増得ている現状では致し方ないのでしょう。

わたしとNさんはまず船内見学に出かけました。
一般客への公開を、海保は甲板と一部のキャビンだけに制限していて、
操舵室などには立ち入り禁止されています。

その代わり、上甲板階の広い部分(大会議室らしい)を解放して、靴を脱ぎ、
休憩ができるようなスペースを作ってくれていました。

丸窓も、護衛艦などでは艦長室でしか見たことがありません。
こんなものを珍しがっているのは多分わたしくらいだったと思います。

どこかで見たことがあるような佇まいだなあ、と思ったら「宗谷」でした。
会議室から出ると広い廊下が通っており、ドアが並んでいます。

ここで、Nさんがドアを開けて中から出てきた保安官を捕まえ、

「中を見せてもらえませんか」

といきなりお願いしました。

「いいですよ」

細マッチョイケメンの保安官は実に快くドアを開けてくれたのですが、
ベッド一つに執務机の、言うなれば空母「ミッドウェイ」の
飛行長クラスの大きさの部屋で、その広さにびっくりしてしまいました。

「こんな広い部屋に一人なんですか!」

聞いて見ると彼は3等保安正とのこと。

「海自だと三尉ですね・・・・うーん・・・」

Nさんも流石に驚いています。
よっぽど乗る人数が少ないのかと思ったらそうでもなく、(最大時110名)
これは海自でいう士官以上の特権のようでした。

「保安正って皆個室がもらえるわけですか」

「わたしは海保大学を出ているのですが、教育機関ではタコ部屋生活でした。
夜はいびきの合唱でしたね」

曹士に相当する保安士と保安士補は(初めて聞いたよこの言葉)
「いず」の場合下甲板の居住区で寝起きすることになっているようです。

もしかしたら海上保安庁、旧海軍より士官特権が大きい・・・?

 

乗艦するなり海自とのカルチャーギャップのカウンターパンチに見舞われ、
いろんな意味で衝撃の多い海保体験となりそうな予感がしてきました。

さて、これからどんな航海が待ち受けているのでしょうか。

 

続く。

 

 

出航〜海上保安制度創設70周年記念 観閲式および総合訓練

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本年度の海保観閲式、チケットをゴミと一緒に捨ててしまうという
情けないミスをおかしながらも、捨てる神あれば拾う神あり、
(今回捨てたのは自分ですけど)なんとかチケットを手に入れて、
横浜港から巡視船「いず」に乗り込んだわたしです。

この甲板はもらった案内図によると「船首楼甲板」と言います。
この言葉も、海自の艦では聞いたことがありません。

構造物の真ん中を通る廊下には、「いず」関わったの活動が写真で紹介されています。

(左上)有珠山噴火災害

(左下)三宅島噴火災害

宮城県沖地震(左から2番目上下)

中越沖地震、

東日本大震災、

伊豆大島土砂災害救援

の他、不審船の発見や、沖ノ鳥島工事作業員が死亡行方不明になった際、
海南対応を行ったなど。

21年10月には、転覆した第一幸福丸の船内から
海難救助を行うなどの活動も行いました。

この廊下の向こう側は、医務室となっています。
災害派遣されるので、広くて設備の充実した医務室を持っているのです。

これは手術台と酸素吸入器、気管内吸入装置などですが、
手術台は二台あり、同時に2名をケアする事も可能です。

廊下から中を覗き込み、「見学してもよろしいですか」と聞くと、

「どうぞどうぞ!」(本当にこう言った)

とドクターが超フレンドリーな雰囲気で招き入れて下さいました。
ドクターは東京都下で開業しておられる内科医で、海保の非常勤医師。
観閲式のようなイベントには必ず船医として乗り組んでおられるそうです。

お爺様も海保船医でいらしたということで「爺孫二代」海保船乗組だとか。

海上保安庁は自衛隊のように独自の医師養成組織を持たないので、
非常勤で医師を採用(週1日とか)しているんですね。

非常勤医師の募集要項を見つけたのですが、時給は2,260~5,020円で、
資格はもちろん「日本国籍を所有する者に限る」となっていました。

海自の「かしま」に当たる訓練保安士練習船「こじま」では、遠洋航海の際、
その都度乗り組む医務官を募集しています。
海保の遠洋航海も海外に行きますが、期間は三ヶ月ほどとなります。

ドクターの隣は国家資格をもつ救急救命士であろうと思われます。

ベッドも二台。
ここで二人重症患者を寝かせられるのは当然ですが、「いず」は大災害の時
多数の人員を収容することができる作りとなっていて、たとえば
船にしては妙に広い廊下も、いざとなったらずらっと人を寝かせるためだそうです。

これは蒸気湯沸かし器。
ここで手術や処置を行うことになった時、大量に必要となるお湯を沸かします。

医務室には廊下からも外側のデッキからも入れるように
ドアが二箇所に設けられています。

とてもにこやかで明るいドクター、聞くとなんでも答えていただけました。
内科が専門だということだったので、

「必要な場合は手術もなさるんですよね」

と伺うと、歯科治療以外はなんでもします、とのことでした。
船医というのはいわば総合専門医でないと務まりません。

 

出航直後、ドクターはおそらく船内をくまなく歩いて、
酔い止めがいるかどうか皆にコールして回っておられました。

ダイジェストでもお話しした、「ひりゆう」が動き出しました。
この面妖なバランスの船体、放水専門の「ひりゆう」くん、
訓練参加船として一足先に行動海面に出発です。

船内を一通り見終わって(というかそんなに見てまわるほど公開されてない)
とりあえずは船首楼甲板で船首の様子を偵察、じゃなくて確認。

うーん、違う。自衛艦とは景色が全く違います。

大きなウィンチ、キャプスタン、出入港作業のための機械類が
所狭しと並んでいる甲板。

そうか、自衛艦と違い、海保の船はここに武器を置く必要がないんだ。
当たり前のようですが、これは目からウロコの発見でした。

甲板が腰くらいの高さの囲いに囲まれているというのも、考えたら
自衛艦とは設計思想が全く違うからです。
艦そのものが武器として機能する自衛艦は、たとえば甲板が無人になり
CIWSやVLSを発射することを前提に設計されているわけですから。

こちらが商船や一般の船に近い、というより自衛艦というものが
いかに特殊であったかに、此の期に及んで初めて気がつきました。

水陸両用バスの観光客は、皆こちらの写真を撮っています。
昔ロイヤルパークホテルに泊まった時、真下の海でこのバスが航海訓練しているのを
ずっと部屋から見て楽しんだことがあります。

こんな機会でもないとお見せすることはまずないと思われますので、
その時の写真をここで無理やりアップします。

一台が先生、一台が生徒らしいです。

生徒バス、これから上陸の実地練習を行います。

先生「よし、行け!」

生徒「はいっ!」

「我レ突入セリ」

上陸ランプには進入のための目印の杭の間を通らなくてはなりません。

上から見ていると楽そうですが、実際に運転している者にとっては
針の穴を潜るような気分なのに違いありません。知らんけど。

はい、無事に上陸〜。

この時に練習していた運転手がこの時のバスの運転手と同じ人だったりして。

続いてPC43、巡視艇「おきなみ」が出航していきました。
「おきなみ」は第6管区水島(倉敷)所属、
この3月に就役したばかりのピッカピカの新造艇です。

前日に横浜にきて一泊してからの出航でしょう。

こちらも「前乗り」組、神戸から来たPC55「ふどう」。

自分のためにもう一度書いておくと、PCは「パトロールクラフト」。
「いず」などのPLはパトロールベッセルのラージを意味します。

「ふどう」は「よど」型の巡視艇です。
一体命名基準はなんだろう、と思って同型艇を調べてみると

ことびき、なち、りゅうおう、ぬのびき、りゅうせい、
たかたき、あおたき、みのお・・・・

これは間違いなく命名基準は「滝の名前」でしょう!

甲板での作業がよく見えるように、構造物を一階上に上がりました。
折しも出航作業のため人がたくさん出て来ています。

柵から乗り出して手すりを掴み、外を確認しながら
舫の引き揚げを・・・あれ?こちらは舫のある方じゃない・・・。

甲板全部を使って張り巡らされた舫は、大きな巻き上げ機で
巻き上げられているのが目で確認できます。

 

海自は舫を掴んで皆で走って引っ張ったり、着岸の前には
サンドレッドを投げたりして(それは海保も同じかもしれませんが)
体を使う場面が多いと感じるのに、観艦式や一般公開で甲板の運要員は皆、
「準正装」というべき制服を着込むのが普通です。

しかし海保はカポックにヘルメット、といかにも作業員そのもののスタイルです。

その時個人所有のボートが物珍しそうに横を駆け抜けました。
いや、ご自慢のボートを観閲式の一般客に見せびらかしに来たのかな?

もちろん海保も、岸壁と船体の間を監視するなど、
人間にしかできない作業ばかりです。

「いず」には子供の姿がたくさんありましたが、いずれもお揃いの
制服を着て、海洋少年団とかシースカウトではないかと思われました。

今回、海保観閲式に参加した人たちの口から、全く別々にわたしは

「(海自と比べて)出航まで作業に時間がかかりすぎる」

という辛口の批評を聞きました。

もしそうなのだとしたら、逆説のようですが、ほとんどを手でやってしまうのと、
機械に多くを任せるやり方の違いに起因するのかもしれない、いう気がします。

わたしが決定的な違いを感じたのは、海保の出航作業が文字通り
「作業」だとしたら、海自のそれは「儀式」と呼ぶに相応しく、
「定形」を踏まえて行なっているように見えることです。

儀式に見えるのは、海軍伝統を継承していることからくる印象、
と言ってしまえばそれまでですが、いかに海上自衛隊といえども
徒らに因習を墨守する意図でやっている訳ではないでしょう。

海自が出入港作業をほとんど海軍時代と変わらぬ方法で行なっているわけは、
おそらく、彼らが乗っているのが海軍時代とおなじ「軍艦」だからです。

古より干戈を交えた時代を経て代々受け継がれ、研ぎ澄まされてきた作業は、
恐ろしく合理的で、武器を搭載することが第一義の甲板で行うことを考えれば、
これが最良の方法であり、それがゆえに変える理由もないのでしょう。

かたや、船の甲板を埋め尽くす機械で舫を処理する海保のやり方は、
安全で確実な出入港のために考えられた最善の手段であり、むしろこちらが
「普通」なのだということを、わたしは眼下の光景を見ながら思っていました。

岸壁で出航の見送りをする予定の海保職員たち。
整列はしていますが、待ちポーズは様々です。

巻き取られる舫を当分になるようキャプスタンに巻きつける職員。

船端から下を確認するために乗り出すため足を乗せる台、
その際手で掴む手すりも最初から装備されています。

そして出航。船体が岸壁から大きく離れだしました。
海保はラッパではなく、こんな合図で出航をします。

海上保安庁巡視船 船内達し事項 『出港用意!』

「ぷっぷー」

「出航」「出航用意」

それから舫を外すようにアナウンスがあります。

海保も「帽振れ」を行います。
この時の姿勢も特に厳密には決められてはいない模様。
腕を下ろしている人あり、後ろに回している人あり、
足の開き方もまちまちでフリーダムな雰囲気です。

あかちゃん含む家族と一緒のところで帽振れしていた職員。

出航作業を岸壁で行なっていた人たちは帽振れではなく「手触れ」です。

 

さて、海上保安庁観閲式および訓練に向かう我らが巡視船「いず」、
いよいよ横浜を出航しました。

 

続く。

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