晴海埠頭における練習艦隊艦上レセプションが始まって33分が経過した時、
場内のアナウンスが、今から自衛艦旗を降下するというお知らせを行いました。
大阪港の時には同じ「かしま」の艦上が東京の倍の人口密度だったため、
自衛艦旗降下といっても艦尾に行くこともできなかったわけですが、
今回は、アナウンスを聞いてから難なく艦尾に到達し、
最前列で写真を撮るということができました。
わたしの立った場所はカレー屋台の横で、屋台に併設された幟が邪魔で
前に進むと、今度はフレームに全体が収まらないという微妙な場所です。
幟を暖簾のように掻き分けながら写真を撮っていると、後ろに立った自衛官が
幟をずっと持っていてくれようとするので、慌てて断りました。
この自衛官は降下する係が冒頭写真の態勢になると
「5分後に降下となります」
とか、
「降下時間になると電飾が点灯するので露光が変わるおそれがあります」
などと、きめ細やかな解説をしてくださいました。
なのでわたしも、降下時間の定義について質問し、
それが気象庁発表による日没時間であることを確認しました。
待っていると案外長い5分間が過ぎ、降下開始。
本日の日没時間は1836です。
左側に灰皿がありますが、実はこの艦尾側、喫煙所に定められています。
この日は右舷側からの風が強く、そのため自衛艦旗が竿に巻きつくようになってしまい、
ラッパ発動中に横からそれを外すという光景が見られました。
無事に降下終了。
自衛艦旗降下の時にいつも海曹長が両横に立っているのは、
こういう時に手助けするためだったのかと勝手に納得しました。
(多分違う)
この後は降下を行った海曹と海士とで自衛艦旗を畳みますが、
降下が終わった途端、ここにタバコを吸いに来る人たちが殺到し、
写真を撮っているどころではなくなりました。
そこでわたしはもう一度いろんな方との交流を行ったのですが、
もちろんそれは新任幹部だけではありませんでした。
■ デルタ海将 元掃海隊群司令
掃海隊が群あげて執り行う金刀比羅神社での掃海隊殉職者追悼式に
ここ何回か出席させていただいているわたしは、海将をお見かけしてから
じわじわと近づいていき、他の方との会話が終わるまで待って
ようやく一人になったところを見計らって挨拶させていただきました。
戦後日本近海の機雷掃海を行い、尊い犠牲となった殉職者を顕彰し
その御霊を祀る殉職者追悼式が年々忘れられてゆき、
掃海によって啓開された海に面する地方自治体の長ですら、
この慰霊式について知らないということを、掃海隊群司令時代の海将は
ずっと憂えていらっしゃったそうです。
そしてある時、九州の温泉を持つ地方の首長に追悼式のことを伝えたところ、
本人ではなく代理ではありましたが、式に出席してもらえたということです。
しかし、ご自身は
「今年の追悼式にはどうしても(現職の)用があって行けないんです」
と残念そうにしておられました。
ちなみにデルタ海将は掃海隊出身ではありません。
海自の人事の不思議なところで、必ずしも群司令はそこの出身でないこともあるようです。
■ エコー一佐 海上幕僚監部勤務
陸上勤務の自衛艦にも、わたしはついつい何出身か聞かずにはおれません。
マイク一尉が潜水艦出身と聞き、「せきりゅう」「せいりゅう」の引渡式、
そして「しょうりゅう」の進水式に出席したことをいうと、
「しょうりゅうという名前はわたしが考えました」
なんと!
エコー一佐、艦艇の命名をする部署に勤務されていたことが判明したのです。
そうとなれば聞きたいことがあります。
「やっぱり三つくらい候補をあげて、その中から命名者に選ばせるんですか」
「いや、最終決定したのを一つだけ・・」
「あー、命名者って本当に形だけだったんですね」
今まで自衛官の名前を選べるなんて防衛族冥利につきるし、
防衛政務官というのは役得だなあと思っていたのですが。
海上自衛隊ではこの秋にもりゅう型潜水艦の進水を予定していますが、
この名前を考えているのもこの方なんだそうです。
「だんだん『りゅう』が少なくなってきて大変ですね。
『せいりゅう』の時、連れ合いと色々予想してたんですよ。
でも、『きんりゅう』なんてラーメン屋みたいだからダメだろうと」
「きんりゅうは・・・まずないですねー」
「では『こうりゅう』は・・・」
「こうりゅうもないですね」
こうりゅうは特殊潜航艇の「咬龍」を想起させるからダメみたいです。
ただ、実在した「咬龍」は特攻兵器にされたわけではなく、
ほぼほぼ実戦経験もありません。
それに、大量生産されて待機しているうちに終戦になった「咬龍」は、
敗戦後、GHQの監視下で吉田英三らが密かに計画していた海軍の再建、
「新海軍」構想において、再利用される予定だったと言われます。
その際、準特攻兵器のイメージが強い「特殊潜航艇」という艦種名を避け、
「局地防備艇」という艦種名を新たに与え、60隻10隊から成る
「咬龍隊」が創設されることになっていました。
旧軍の名称だからダメというなら「蒼龍」は空母とはいえ立派な旧軍艦で、
しかもミッドウェーで撃沈されてますし、それが採用されているのであれば
「こうりゅう」は(漢字を鮫龍とかにすれば)なーんの問題もないと思うのですが。
この秋に進水する潜水艦、わたしの予想としては、 (きんりゅうではなく)「こんりゅう」、「しんりゅう」「へき(碧)りゅう」
「ひりゅう」「どんりゅう」「たん(丹)りゅう」「すい(翠)りゅう」
「せん(茜)りゅう」「げんりゅう」・・・・ 全く関係ないのに色々考えてるだけでなんか楽しいんですよね。
いいなあ、自衛艦の名前考える仕事・・・。 さて、ここで改めて本年度の遠洋航海航路図を貼っておきます。 海上自衛隊練習艦隊部隊の遠洋航海航路はいくつかパターンがあって、
それは大きく東回りか西回りかに分かれますが、今年は西回り。
そしてアメリカでも今年はサンディエゴだったから次の年はノーフォーク、
というように、できるだけいろんな港に寄港することになっているようです。 しかし、どちら廻りになっても必ず通過することになっているらしいのが
パナマ運河。
ここでご紹介した大正十三年度の海軍兵学校遠洋航海アルバムには、
当時の日本人が、まだ開通して間もないパナマ運河を、その規模と
アメリカという国の底力に心底感嘆しながら通過した様子が残されていましたが、
どうやら当時の彼らも知らなかったらしいことがあります。
このパナマ運河の一部を設計したのは、唯一の日本人技師である
青山士(あきら)という人物だったことです。 荒川放水路などを手掛け、日本の水門設計の第一人者であった青山士については、
またいつか別項でお話しできればと思っています。 練習艦隊の皆さん、パナマ運河のガトゥン閘門を通過するときには、ぜひ、
そこを設計したのが日本人であったことを少し思い出していただければと思います。
さて、そんなこんなであっという間に1時間半が過ぎ、艦内には
「オールドラング」、蛍の光が流れ出しました。 先ほど話をしたデルタ海将が、練習艦隊司令官時代の思い出として、 「レセプションの終わりに蛍の光を流しても全く人が帰ってくれない国があった」 と話しておられたのを思い出しました。
しかしここは日本。
蛍の光が流れた途端、自動的に脚が出口に向いてしまうDNAを持っているのが
我々日本人というものです。 わたしも帰ろうと思って、それまで話していた知人に 「お帰りになりますか」 と声をかけると、 「いや、ここで頑張って(逆らってだったかな)最後まで居残るんですよ」 この方は今回の「かしま」艦長の新任幹部の頃を知っているというくらい、
長年にわたって自衛隊を応援してこられた筋金入りのファンです。
掃海隊でご一緒したカメラマンのミカさんも同じことを言っていましたが、
最後に退出すると、もしかしたら何かいいものが見られるのでしょうか。 わたしは内なるDNAの声に逆らわず、素直にラッタルに向かいました。 絵に描いたような海自式の敬礼で見送ってくれた自衛官。 「かしま」の舷梯は他の同じ大きさの艦艇のものに比べると比較的緩やかで、
階段が木製であるなど、一般人を迎えることを前提の仕様になっています。 「かしま」は練習艦として実習幹部たちが実践訓練を行うのはもちろん、
世界の港でその土地の賓客などを迎えいれた時には社交の場となり、
その際にはこの艦上がその国の人々の触れることのできる「日本」となるのです。
そんな「かしま」の乗員には、スマートなネイビーらしい身のこなしや、
人を迎える際の誠実で暖かいおもてなしの表し方が総員に遍く行き届いていて、
この船を訪れる者をいつも感激させずにはいられません。 彼らの身のこなしや気遣い、ホスピタリティは、新任幹部たちにとって
彼らが一人前のネイビーになるための良き模範となることでしょう。 退出する一般人のために甲板から舷梯と岸壁があかあかと照らされ、
その灯りが、舷梯の下で堵列を作って見送りをするセーラー服の小隊と、
「かしま」を後にする招待客の影を艦腹に幻想的に映し出しています。 車で埠頭を離れるとき、ふと見ると、工事のフェンス越しにではありますが、
電飾に彩られた「かしま」と「まきなみ」がこんな風に見えました。 明日の朝、もう一度ここに帰ってきて体験航海の乗客となり、
今度は彼らと一緒に晴海を出港し、横須賀に向かいます。 「かしま」艦上レセプション編 終わり