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600隻艦隊構想「彼女が延命された理由(わけ)」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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 Lockheed S-3 「バイキング」Viking 

艦上対潜哨戒機「トラッカー」S-2の後継機となるS-3「バイキング」は
アメリカ海軍初のジェット式対潜哨戒機です。

ちなみにプロペラ機時代の対潜哨戒機というのは2機1組になって行う

「ハンター・キラー・システム」(1機がレーダーで水上目標捜索を行い、もう1機が攻撃)

を用いていたのですが、1機で行えるようにした最初の対潜哨戒機がS-2です。

遠くからこうして全体を眺めて見ると、ペイントがそのままのせいもありますが、
どうも全体的にずんぐりとしてスマートとはとても言い難い機体の形をしています。
これは「ヴァイキング」の胴体が輪切りにするとほぼ四角形をしているからです。


機体の底から海面に投下して対潜哨戒を行うソノブイの穴が空いているという
P-3でおなじみのシステムはもうすでに「ヴァイキング」に搭載されています。


コクピットにはちゃんと誰か座っているという設定です。
Daniel D Beintema少佐、と名前が記してありますが、検索すると
元海軍パイロットで、今ではUSS「ミッドウェイ」の運営に力を持っているとかなんとか。

コクピットガラスの下の名前は

Bruce  W. Chuchill 大尉

とありますが、この人は検索にはかかってきませんでした。

博物館に貢献してくれた元パイロットの名前を感謝の意を込めてこのように
機体にペイントして残す、という慣習があるのかと思われます。

艦載機として設計されているので、翼は畳んで収納できるようになっています。
翼の中身がどうなっているのかこの展示を見ればわかります。

パイロンに牽引しているのはサイドワインダーでしょうか。

ピトー管に注目してみました。
ピトー管は流体の動きを測定することで航空機の速度を中にいながら知る仕組みです。
特にジェット機では速度がわからないと着陸することができなくなるため、
ピトー管のマスキングは飛行前に必ず外さなくてはなりません。

赤い「フライト前に外す」と記されたテープはこの確認のために付いています。


国内自衛隊の飛行機のメンテなどをする会社に見学に行った時、
どうしてピトー管が二つないといけないのか聞いてみたことがあります。

答えは

「一つだと万が一一つがダメになった時にこまるから」

というものでしたが、今ウィキで調べたら

「横風の影響を考慮して補正した数字を出すため」

であることがわかりました。
多分どちらも正しい理由なんだと思います。

「バイキング」は省スペースを目標に作られていて、例えばディスプレイも
様々なセンサーから上がってくるデータを同時に解析することができます。

そして例えば潜水艦がウロウロ(プラウリング)しているといったような
重要な局面に対処するため、翼とターボファンエンジンの組み合わせは
クルーズコントロールを容易にしました。

レーダー、ソノブイ、時期検出器、電子探査機、そして魚雷。

 S-3は空母機動隊の対潜戦を驚異的に強固にしたといえましょう。

 

ところで、「ミッドウェイ」が湾岸戦争に参加したときのこと。

ペルシャ湾で海戦を迎えた「ミッドウェイ」が緊張と次々に飛び立つ
哨戒艦載機のための飛行作業でクタクタになっている最中、一機のバイキングが
後方から近づいて来ました。

「ミッドウェイ」にはバイキングの飛行隊はありません。

しかもこのとき「ミッドウェイ」は敵に電波をキャッチされないように
EMCON(電波を使わないで通信するシステム)になっていました。


エアボス「スキッパー、(艦長)バイキングが着艦しようとしているが
一体どうなっているんだろう」

艦長「全くわからん。仕方ない、緊急着陸態勢を取ろう」


パイロットと通信ができないので、とにかく着艦の準備が取られました。
近づいて来るバイキングに、LSO(着艦のためアプローチする航空機に
高度などの態勢を指示する役目の白ジャージ)が

「高度を下げろ」

と何度も指示を出すも、高度を下げられなかったのかアレスティングケーブルに
フックをかけることができなかったバイキングはフルスロットルで飛び立ち、
もう一度着艦に挑戦しようと、ランディング・パターンに入りました。

「あいつは一体誰だ?
なぜミッドウェイに降りようとしてるんだ?」

最初のランディングをミスして、もう一度ランディング・パターンに入った直後、
エアボス(大佐。フライトオペレーションの総責任者)は、「ミッドウェイ」近くで
フライト・オペレーションをしていた別の空母の管制周波数を捉え、
送信はできないものの、管制官とパイロットの会話を受信しました。

そこで交わされていた会話は・・・

「バイキング、今どこにいる?報告せよ」

「どこにって、ファイナルです。
私の目の前がフライトデッキです!着艦します!」

「何言ってるんだ!お前の機を目視できてない。
ウェイブ・オフ!ウェイブ・オフ!」

バイキングのパイロットは自分の空母を間違えたのでした。

「ミッドウェイ」のサイズや煙突から出ている煙を見れば、
自分が降りるはずの原子力空母とは全く違うことは一目瞭然なのですが、
どうやら彼は極度の疲労で判断不能に陥っていたらしいのです。

(スコット・マクゴー著’ミッドウェイ・マジック’)

湾岸戦争の時、艦載機部隊のパイロットは、対戦哨戒の他にも、
ネイビーシールズを輸送したり、イラク兵の捕虜を運んだりと、飛び続けました。

フライトから飛行機が戻って来ると、エンジンを回したまま給油し、
パイロットと乗員が入れ替わってまた飛ぶという状態が続いたのです。
これを「ホットシート」フライトと呼んでいたそうです。
シートが冷える暇もない、ということですね。

疲労困憊したパイロットは、飛行が終わるとフライトバッグとヘルメットを持って
ふらふらとフライトデッキを降りていき、どこか適当なところで
横になって寝てしまうので、時間になったらそれを起こしてまた乗せて・・・。

この時艦を間違えた原子力空母艦載のバイキングのパイロットも同じ様態で、
もしかしたら着艦作業の時にすでに疲労で朦朧としていたのかもしれません。

そのせいなのかどうか、やはり湾岸戦争中航空機の事故は何件か起こりました。
しかし、「ミッドウェイ」だけは湾岸戦争中一機の事故も起こさず、
一機も艦載機を失うことはありませんでした。

これはまさに「ミッドウェイ・マジック」だったと言えましょう。


ところでついでにお話ししておくと、「ミッドウェイ・マジック」とは、
1945年から退役の1992年まで、丸々47年間というもの、
ベトナム戦争、そして湾岸戦争という二つの戦争を挟んで試験や哨戒、
そしてピナツボ火山噴火などの災害派遣をことごとく無事にこなし、しかも
海外を(ってそれは日本だったりするわけですが)母港にして18年間、
一度もアメリカ本土に帰ることがなかった稀有なこの空母を讃えた尊称です。

長年日本でその任務を果たしてきたため、彼女は

「Tip Of The Sword」(剣の切っ先)

とも呼ばれていました。

老齢になってもなかなか引退せず、他の同時期に就役した空母艦船が
ほとんどくず鉄になってしまった頃に、わざわざ日本で改造を施してまで
彼女が延命させられていたその理由は、1989年、アメリカ海軍がソ連海軍に対抗して

600隻艦隊構想(600-ship Navy initiative15)

艦艇600隻、15個航空機動群、4個水上打撃群という編成を謳った
キャンペーンが繰り広げられた時期が、ちょうど彼女が引退するかどうか、
という時期と重なっていたからでした。

この構想が打ち出された時、米海軍の艦艇数は475隻しかなく、
目標までのあと二割をどう確保するかという話になった時、
こうなったら原子力空母の建造を急ぐとともに、船の形をしていればなんでも、
とまでは言いませんが、古い軍艦を引っ張り出して来るしかない、
とアメリカ海軍は考えました。

映画「バトルシップ」で、主人公が記念艦「ミズーリ」を復活させていましたが
あれを地でやってのけたのです。

嘘みたいな話ですが、本当にモスボールされていたアイオワ級戦艦

アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン

に、トマホークとハープーンを積んで、現役復活させたのです。

そこまでやったのですから、40歳過ぎた「ミッドウェイ」を延命し、
次の空母が完成するまでのつなぎにするなど余裕です。

というわけで、その後継となる予定の

原子力空母「ジョン・C・ステニス」CVN-74

の1997年就役まで保たせるために「ミッドウェイ」は日本で延命工事を受けました。

この1986年の改修は今でも関係者の語り草となっています。

アメリカ国内で行えば確実に2年はかかると言われた大改造を、
日本の技術者たちは予算をオーバーすることなく半年でやってのけたのです。
これには当時「ミッドウェイ」の艦長であった

ライリー・ミクソン(Raily Mixon)

も度肝を抜かれ、日本の技術力の高さに驚きました。

皆さんも、もし「ミッドウェイ」を見学することがあったらその少なくない部分が
メイド・イン・ジャパンであることを思い出してください。


しかし、好事魔多し。

もともと、度重なる改修のおかげで船体がすっかり重くなり、
艦尾が艦首より低く沈んでしまい、その結果飛行甲板が
艦尾から艦首にかけて緩やかな坂になってしまっていたことで、
特にファントムIIの着艦の安全性に問題が生じていた、というのが改装の理由です。

もともと「ミッドウェイ」は

「USSロックンロール」

とあだ名がつくほどよく揺れ、少し波が荒れただけでも動揺が大きくて、
大型化する艦載機に対応できなくなってきたという事情もありました。

そのため、不要なて配線や鉄を撤去して艦隊の重さを400トン減らし、
代わりに船体側面に浮力を増すためのバルジ(ブリスター)を追加して揺れを減らし、
浮力を増すという計画に則って行われたのが今回の回送です。
次期F/A-18の運用に備えて、カタパルトを強化する工事も行ないました。

 

いよいよ改装が終わり、勇んで外洋に出るため横須賀をでた「ミッドウェイ」、
ところが湾を出た途端に1mの波で揺れだしたのです。

艦載機が1機も乗っていない状態で、しかもこんな小さな波で揺れるなんて・・。
ミクソン艦長はこの揺れを感知した時、同時に身の毛がよだったと言います。

改造を設計したアメリカ人技師は、

「プロジェクトを急いでいたので十分に設計する時間がなかった」

と説明(言い訳?)したそうですが、とにかく揺れは前よりも酷くなってしまったのです。

これで前より仕事が大変になったのがパイロットとLSOでした。
揺れる甲板に着艦するパイロット、着艦をパイロットに指示するLSO、
どちらも命の縮む思いをすることが増えたと思われます。


そして揺れやすくなった「ミッドウェイ」、初の長期航海でご丁寧にも
4つの台風に遭遇し、そのうちルソン島での強風では、それまでの人生で
初めての揺れ角度24度を記録し、達成記念Tシャツが作られることになりました。

ただ悪いことだけではなく、プリスター(付け足したコンパートメント)のおかげか
浮力が増し、小回りが利くようになったということです。

(ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』)

ちなみに、4分の1の工期で改修を完璧にやり遂げた日本の技術陣は、
工事の段階で

このこと(改装後揺れが酷くなるであろうこと)に気が付いていた

といわれています((((;゚Д゚)))))))


「しかしこんな改装して大丈夫なのかね」

「一体何考えてるんだろうな、アメさんは」

「まあ、俺たちは頼まれた仕事を1日でも早く完璧にこなすだけさ」

「そうだ、この際日本の技術力の高さを見せつけてやろうぜ」(キリッ)

みたいな会話もあったんでしょうなー、きっと。


そして最後に。

「ステニス」就役までは引退できないはずだった「ミッドウェイ」が
92年に引退することができた理由は、実にシンプルでした。

1991年、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦が終わったからです。

 

続く。

 

 

 

 

 


ミッドウェイ戦闘機隊 vs.MiG〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」飛行甲板の展示を順番にご紹介しています。
固定翼機をほとんど見たかなというところに、ファントムIIがありました。

「ミッドウェイ」は2度大改装を行なっていますが、そのうち一回は
主にジェット機搭載を可能にするためのものでした。

改造期間は2年。工事は艦席を一旦海軍から外して行われました。
前にお話ししましたが、最大の改造点はアングルデッキに変わったことです。

着艦する飛行機をメインのフライトデッキと角度を変えることにより、
たとえアレスティング・ケーブルをフックが引っ掛けることができなくとも
前に駐機している飛行機に突っ込むことなく飛び立つことができ、
何より離着艦の作業を同時に行うことができるようになりました。

という思想のもとに今の空母というのはああいう形になっているのですが、
我が「いずも」に航空機を搭載することになった時にどうするつもりなのか、
実はわたしはその点を大変気にしております。

この時に「ミッドウェイ」は改装に2年かけたと言いますから、例の
「日本人技術者マジチート」理論でいくと、たとえアングルドデッキへの変更でも
半年でやってしまうはずですが、さて、今はどうなんだろう。


冗談はともかく、この改装によって艦首にスチーム式のカタパルトをに2基、
アングルドデッキの先にも非常用を1基設けて、エレベーターを交換しました。

ファントムIIなどの大型になった艦載機に対応するためです。

改装後、艦席を海軍に戻した「ミッドウェイ」には、

VF-151 F-4ファントム戦闘機(ヴィジランテス)

VF-161 F-4ファントム戦闘機(チャージャズ)

という音速ジェット機部隊が乗り込むことになりました。
ちなみに爆撃機部隊は

VA-115 A-6イントルーダー攻撃機(イーグルス)

VA-56 A-7コルセア攻撃機(チャンプス)

VA-93 A-7コルセア攻撃機(ラヴェンズ)

の三部隊であり、あとはヘリ部隊、電子戦機、早期警戒機という陣容です。

世界最強と言われた機動部隊の最初の任務は、1958年、

中国が

台湾を解放するという理由のもとに

台湾隠岐の島を攻撃し

海上封鎖を行なった

(第二次台湾危機)

の時でした。
台湾危機という言葉すら初めて聞く、という方もおられるかもしれません。

1950年代から90年代にかけて中華人民共和国(中国大陸)と
中華民国(台湾)の間での軍事的緊張が高まった一連の出来事のことです。

この時なぜ中国が台湾を攻撃したかというと、アメリカとの軍事緊張を作ることで、
ソ連に原爆製造技術の供与を要請するためだったという説があります。

 

ハワイの真珠湾から台湾に直行した「ミッドウェイ」は、そこで
ワシントンからの中国攻撃命令を待ち続けました。

この時日本の元総理石橋と周恩来の会談が決裂していたら、
アメリカは戦闘態勢に入り、そうなればソ連も台湾を攻撃することで
間違いなく第三次世界大戦、しかも核戦争が起こっていただろうといわれています。


さて、ここまでは実際の戦闘を行わずにきた「ミッドウェイ」がいよいよ
実戦を経験したのは ベトナム戦争でした。

「ミッドウェイ」は当時最新鋭だったF-4ファントム戦闘機を載せて
フィリピン近海でオペレーションに参加することになります。

1965年3月。

戦闘機隊VF-21はビル・フランク艦長率いる「ミッドウェイ」の
一員として南東アジアに展開しました。

アメリカ人曰く北ベトナムに率いられた「コミュニスト」の暴動を抑える、
ということで展開された

「ローリング・サンダー作戦」

・・・・というより、わたしたちには

「北爆」

と一言で言った方がピンときます。

つまり南北に分かれた ベトナムを統一しようとして起こったもので、
ぶっちゃけ内戦ですが、アメリカが南ベトナム 支援のために介入したため、
長期の大戦争になってしまいました。 

 

北爆による空戦に最初に投入された迎撃戦闘機はF-4BファントムIIでした。

VF-21、通称「フリーランサー」に課せられたミッションは、
直ちに「攻撃ー爆撃」という前代未聞の二役機能をもつ
ファントムに適応し全員がこれに習熟すべし、というものでした。

1965年6月7日。
2機のVF-21のファントムが4機の北ベトナム軍のMiG-17と会敵しました。

ファントム部隊はそのうち2機をレーダー誘導中距離空対空ミサイル
AIM-7DIIIで撃墜することに成功しました。

これがベトナム戦争が始まって初めての敵航空機撃墜となりました。

最初に撃墜したのはルイス・C・ペイジ中佐と
右のジョン・C・スミス大尉のファントムです。

同じ空戦で二番目にMiG撃墜を果たした二人。
デイビス・ボストン大尉(右)とロバート・ドレムス少佐。

彼らの撃墜はベトナム戦争における最初の戦果であっただけでなく、
「ミッドウェイ」20年の歴史上で艦載機が果たした撃墜となり、さらには
ファントムという最新鋭機にとっても初記録となりました。

 

1966年2月。
まだまだ泥沼のベトナム戦争は続いていましたが、「ミッドウェイ」は
再び延命のための大掛かりな改造を受けることになりました。

15年寿命を延ばすという目的で行われたこの改造は4年に及び、
予算も膨れ上がって当初の二倍となる200億円以上となりました。

前にもこの大改造については述べましたが、あまりにお金がかかったので、
フランクリン・D・ルーズベルト」(CV-42)のために計画された
同様の近代化はやむなくキャンセルされたというくらいでした。

フライトデッキの大きさを前の1.4倍に大きくし、艦載機用のエレベータも
またまた取り替えて重い飛行機にも対応できるようにし、さらには
二基のカタパルトもパワーアップしたものに付け替えられたのですから当然。

この他にも、最新のエレクトロニクス機器を搭載したり、艦内の空調を
セントラル・エアー・コンディショニングにするなどの改造が加えられました。

本欄でもご紹介した「フォクスル」に、造船会社からの超豪華な
改造工事完成記念のプラークが飾ってありましたが、つまりあれは
これだけ儲けさせてくれて神様仏様ミッドウェイ、の証だったわけです。

ますます大型化していく搭載機をにらんだ改装でしたが、
それでもF-14トムキャットを搭載することは最後までできませんでした。

 

この「ミッドウェイ」の大改造が終了したのは1970年のことです。
翌年の1971年から、まだ続いていたベトナム戦争に復帰しました。

1972年4月。

ウェイン・オコネル艦長率いる「ミッドウェイ」は、再び南東アジアに展開しました。

アメリカ第7空軍とアメリカ海軍第77任務部隊がおこなった一連の
航空作戦「オペレーション・ラインバッカー」に参加するためです。

北ベトナム空軍にアメリカ軍の戦争捕虜を解放させること、そして
終戦に向けての方法を探ることが目的だった、と現地の説明にはありますが、
一応ウィキの説明も書いておくと、北に送られる物資を停滞させるためでした。

12ヶ月の間、ハイテンポで敵への攻撃作戦が繰り出され、
「ミッドウェイ」の艦載機部隊VF-161「チャージャーズ」はその空戦で
驚くべき戦果を達成することになります。

5月18日、MiG−19を撃墜したO・ブラウンとヘンリー・バーソロミー大尉、
同日やはり撃墜したP・アーウッド、J・ベル大尉の四人。 

18 MAY

72

MiG-19

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LT H. A. Bartholomay

LT O. R. Brown

 

18 MAY

72

MiG-19

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LT P. E. Arwood

LT J. M. Bell

 

23 MAY

72

MiG-17

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LCDR R. E. McKeown

LT J. C. Ensch

First of two kills on the same day

23 MAY

72

MiG-17

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LCDR R. E. McKeown

LT J. C. Ensch

Second of two kills on the same day

12 JAN

73

MiG-17

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LT V. T. Kovaleski

LT J. A. Wise

Last air-to-air kill of the Vietnam

この時期のファントムの撃墜記録が表になっていたのであげておきます。

 

1972年の5月23日に大金星を挙げた二人、
マッケオン少佐(左端)とエンッシュ大尉(そのとなり)。

1日に二機のMiG−17を撃墜しました。

1973年1月12日、「ベトナム戦争における最後の空戦」においてMiG17を撃墜した
コワルスキ大尉(左から二番目)とワイズ大尉(その右)。

一番左は「ミッドウェイ」艦長フォーリー中佐です。

この空戦がベトナム戦争の最後の空戦になったのは、三日後の1月15日、
ベトナムとの停戦協定が調印され、戦争が終結したからでした。

最後の撃墜を決めたコワルスキ&ワイズのファントムであるというペイント入り。

ベトナム戦争「最初」と「最後」の撃墜を果たした「ミッドウェイ」戦闘機隊は、
戦後海軍最高の部隊として、その功績を讃えられ表彰されています。

そこでもう一度岸壁から見上げた「ミッドウェイ」艦橋の写真を見てください。
これで、マーキングされた飛行機のシルエットの意味がわかりましたね。

つまりこれは撃墜したMiGの数なのです。

ファントムのスプリットベーンにも撃墜したMiG8機がが描かれています。

ベトナム戦争中撃墜されたMiGの総数は63機。
そのうち海軍航空隊によるものが20機であったことを考えると、
ベトナム戦争途中で4年間も改修のため参加していなかった
「ミッドウェイ」戦闘機隊の実力が図抜けていたかということです。

しかし、そのために払った犠牲も決して少ないものではありませんでした。
海軍の航空機損害は 合計54機。
そのうち戦闘での損失は43機。

F-4B/J ファントムII 8機(+3の非戦闘損失)
A-7A/C/E コルセアII 22機(+3の非戦闘損失)
A-6A イントルーダー 3機
F-8J クルセイダー 2機(+3の非戦闘損失)
A-4F スカイホーク 5機(+1の非戦闘損失)
RA-5C ヴィジランティ 1機
RF-8G 2機(+1の非戦闘損失)

「ミッドウェイ」は同年3月サンフランシスコのアラメダ海軍基地に戻りましたが、
その艦載機部隊は多くのパイロットを失ったのでした。

 

 

続く。

 

「ガンダムは搭載してません」〜強襲揚陸艦「アルビオン」来航

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今ボストンです。

息子が留学を始めるので、生活の立ち上げ支援を口実にくっついてきました。
今年は恒例のアメリカ滞在を後ろ倒しで行うことになったため、
いつもならサンフランシスコにいる時期に渡米して
1ヶ月の東海岸での生活をスタートさせることになったものです。

出国の日の暑さは相変わらず地獄の釜のようでした。
今日を限りにこの暑さともおさらばだわ!ホーッホッホッホ!
と内心高笑いしながら迎車に乗り込んだわたしでしたが、
ローガン空港を一歩出るなり、強烈な日差し、蒸し暑い空気に愕然。
なんのことはない、これじゃ日本と全く一緒です。

ボストンの夏ってこんなだったっけ。

そう、ベストシーズンといわれる6月しか暫く知らなかったため、
8月には日本並に蒸し暑い天気であることをすっかり忘れていたのでした。


ともあれ今回の出発までにしなければならない用事が多く、
特にコメントへのお返事ができなかったことをお詫びします。

 

さて本題、晴海埠頭にイギリスの揚陸艦「アルビオン」が来るので
見に行きませんか、とお誘いを受けたのは明日が出発という日でした。

他の艦ならそんな忙しいときに、わざわざこの暑い中晴海まで行くものか、
というところですが、どっこい今回やってくるのは女王陛下のHMSです。

これを逃したらロイヤルネイビーの艦などいつ見られるかわかりません。

午後からも用事が入っていたので、朝一で見学することにして、
駐車場に停めるために、なんと公開時間の2時間前に現地に到着です。

案外車で来る人は少ないらしく、駐車場はこの時間にはガラガラでした。

まず、デッキに出ていつもお馴染みの東京湾の光景を写真に撮ります。

8時なのに太陽がギラギラと照りつけ、ものすごい湿度。

「開洋丸」は水産庁の保有する漁業調査船で、もちろん現役です。
海保の観閲式で紹介した漁業取締船の「照洋丸」も昔は調査船でしたが、
今では「開洋丸」が現在水産庁が保有する唯一の大型漁業調査船です。

デッキに上ってみました。
「アルビオン」と一緒に公開されているのは掃海母艦「うらが」。

外国の軍艦が公開されるときには、必ず海自の艦がエスコートして、
このように仲良く並んで停泊しているのがいつものパターンです。

エスコート艦は横須賀地方総監部から派出されるようですが、
日本は強襲揚陸艦を持ちませんので、カウンターパート?として
大型の掃海母艦が選ばれたのかもしれません。

昨夜は夜間の電飾も行われたようです。
もしかしたら両艦の交流パーティなどもあったかもしれません。

甲板では早くも見学用の展示の用意が始まっています。

デッキの上から「うらが」の展示魚雷を撮っておきました。
阪神基地隊の「アイドルと学ぶ日本の海上防衛」のパネルディスカッションで、
基地隊司令がホワイトボードに描いていた機雷の絵を思い出してしまいました。

MN103機雷、「マンタ」の模型も展示していました。

「うらが」には去る5月の掃海隊殉職者追悼式の前夜、
高松港で行われた艦上レセプションでお世話になったばかり。

しかし、高松港で見るより艦隊が小さい気がする・・・。
これは、高松港と晴海埠頭の大きさの違いもありますが、
何と言っても・・・・・、

どおお〜〜〜〜ん。

と大きな強襲揚陸艦「アルビオン」が横にいるせいです。
この巨大な艦体と比べれば掃海母艦ですらスマートに見えてきます。

ほらね。

自家用艇が「アルビオン」の写真を撮りに近くに寄ってきていました。

デッキから見ていると、おお、女王陛下の海兵隊員の姿確認。
やっぱり強襲揚陸艦といえば海兵隊なんですね。

今調べたところ、揚陸要員は通常で310名、最大で710名搭載できるとか。
何しろ彼らはかつてあのノルマンジー上陸作戦にも参加してますからね。

ノルマンジーといえばあのオマハ・ビーチの死傷率があまりにも高く、
プライベートライアンなんかで戦後有名になりすぎて、英国とカナダは
参戦したことすらあまり語られない傾向にありますが。

それにしても、遠目にもさすがいいカラダしてるねえ君たち。

艦首側にはグレーのCIWS付き。

イギリスは近接戦闘用の兵器を国産していないので、
アメリカのレイセオン社製ファランクスを採用しています。

レドームが灰色なので、これは同社の最新型

Block1B BaseLine2

です。
砲身の右側には赤外線センサ(FLIR)を装備しています。

「アルビオン」艦首と艦橋。
艦首はバルバス・バウですが、海面から上のラインは直線的です。

見学者を受け入れる舷梯の前には見たことないオフロード車が!
これは

BVS 10 バイキング

という水陸両用車だそうで・・・こんなものが水に浮かぶのね。

遠くから見てもロイヤルマリーンの皆さんのガタイの良さとともに
肘から先にびっしりと刺青しているのがわかります。
袖を捲り上げることが多いので、ファッションで入れるみたいですね。

ところで自衛隊って、刺青入れてたらどうなるんですか?

海軍の艦艇のカラーは国によって全く違います。
日米は少し似ていますが、イギリスのグレーは日米より
若干明るくて薄く、少し青を加えたような色味です。

ところで模型界隈の常識ですが、昔は日本海軍も工廠によって
グレーの色合いが少しずつ違っていたそうですね。
こだわる人は、その色味の微妙な違いですら正確に再現するのだとか。

舷側にオフィサーの人影発見!

続いてブルーの作業服にベレーをかぶった乗員の姿も。
若いので水兵かと思ったら、階級章は大尉でした。

しかし、体のど真ん中に階級章とは・・・。

やっぱりあれかしら、遠くから階級章を見分けて、
敬礼されるのかするのか判断しやすいようにってこと?

ちなみにイギリスでは中尉の事を「サブ・ルテナント」というようです。

艦体にはライトアップするためらしいライトがたくさん突き出しています。
どうも標準装備みたいなんですが、なぜライトアップ?

この照明器具、航行中は畳んで艦体に添わせて置くことができるようです。

日本は揚陸艦を持たないので、この日のほとんどの見学者たちにとって、
「アルビオン」が生まれて初めて見るドック型揚陸艦になったことでしょう。

わたしはアメリカで「元揚陸艦でノルマンジーにも参加しました」
というフェリーにロングアイランドから乗ったことがありますが、
それもほとんど原型がわからないくらい改装されていましたし。

後ろのアンテナはイギリス国産製品で(BAE)

997型レーダーARTISAN 3D
(Advanded Radar Target Indication Situational Awareness and Navigation)

といい、最近996型から換装されたそうです。
メーカーは

「900以上の標的を追尾可能な他、マッハ3で移動するゴルフボール大の標的も識別可能」

と豪語しているとか。

こちら、キッチン勤務の調理係らしい男女が乗艦していきます。

こちらは下士官かな?

さて、ここまでは朝現地に車を停めてデッキの上から撮った写真です。
この後、一階に降りてみたら、すでに何十人単位の列ができていました。

今から並んだら早く乗艦できるんだろうなー、と思いつつも、
あまりの気温の高さにその気力をすっかり無くし、車の中で
ギリギリまでクーラーをかけて時間をつぶしました。

誘ってくださった方が到着したのも待ち合わせ予定より10分遅く、
揚陸艦なんて大きいんだし、早く並んだって一緒だろう、と思ったのです。

が、その時には長蛇の列はこんなことに(笑)

列は早く進み、岸壁で待つことになりましたが、カバンの中をチェックするのに
各列一人しか人員を手配していないので、遅々として進みません。

太陽にジリジリとあぶられながら、

「こんなに待つのなら来てすぐ並んだ方がましだったかな」

と思うも、後の祭りです。
ただ、話し相手がいるのといないのでは全く時間の感じ方も違いました。

ふと上を見ると、海軍と海兵隊の比較的偉そうな軍人さんたちが
黒山の人だかりを上から眺めています。

この表情・・・ドン引きしてる?それか呆れてる?


ちなみに、「アルビオン」の一般公開にあたり、産経新聞は

英海軍のドック型揚陸艦「アルビオン」が3日、
東京・晴海埠頭に入港するにあたって、在日英国大使館は
「ガンダムは搭載していません」と粋なツイートをした。
アルビオンは、人気アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズに登場する
宇宙世紀0083年の宇宙・大気圏内両用強襲揚陸艦と同じ名前。

英国大使館のツイッターは1日、
「ガンダム0083は搭載していませんが、
たくさんの皆さんのお越しをお待ちしています」
とつぶやいた。

と報道しています。
このことは早速wikiの「アルビオン」のページにも掲載されていますが、

「ブリティッシュジョークを披露した」

って・・・。
確かにユーモアではあるけど、厳密には反体制的で皮肉、人種ネタを含む
いわゆるブリティッシュジョークではないような気がします。

英国大使館が我々を喜ばせるためにリップサービスしてくれたのは確かですが。

さあ、揚陸艦「アルビオン」の艦内で何を見るのかわたし?

続く。



乗艦〜王立海軍ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

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ところでイギリス海軍の強襲揚陸艦がどうして日本にいるのでしょう。

現地で聞いた話によると、陸自の水陸両用部隊との合同訓練のためでしたが、
英語wikiによると、

In April 2018, Albion was dispatched to the Asia-Pacific
to assist in enforcing sanctions against North Korea.

北朝鮮への制裁措置の一環としての派出であると言い切ってますが、
入港行事での挨拶で艦長のティム・ニールド海軍大佐は

「『アルビオン』の寄港はイギリス海軍がアジア太平洋地域の
安全保障に、グローバルに関与する姿勢を示したものです」

とし、

「海上自衛隊との連携し、お互いに学び合いたい」

「東京港で多くの方と交流して日英の友好を深め、
日本文化に触れることを楽しみにしています」

と述べるなど、非常にソフトな印象です。
まあ、実態はそうであったとしても、

「日英同盟で今度はロシアじゃなくて黒電話をビビらせてやろうぜ!」

とは言いませんわね。

晴海埠頭に翩翻と翻るユニオンジャックの美しいことよ。

ところで自衛隊の旭日旗にいちゃもんつけているお隣の国の人たちは、
ユニオンジャックも、トリコロールも、スターアンドストライプスも、
その全てが彼ら基準で言うところの「血塗られた旗」であることを
こっちに文句を言う前に少し思い出していただけると幸いです。

「アルビオン」の艦番号はL14。
L1は「ローリー級ドック型揚陸艦」の1番艦「ローリー」で、
こちらは1962年の就役です。

Lは「Landing」、上陸のL、厳密にいうと

 landing platform dock (LPD)

となります。
定義は揚陸艦のうち、艦内に持つウェルドックに収容した
上陸用舟艇を用いた揚陸を主体として行う軍艦です。

舟艇はウェルドックから直接海上に出て、揚陸を行います。

「スラスターですね」

連れが白黒のマークを指さしました。
サイドスラスターの設置位置喫水線上に記されるマークです。

そりゃ強襲揚陸艦がタグボートに頼るわけはないでしょう。
と思ったのですが、「アルビオン」晴海入港の写真を見ると、
どうもタグボートが入港作業を支援してるんですよね。

乗り物ニュース

岸壁との間には浮き台(ポンツーン)をかましていますが、
盛大に艦体から水が噴き出していて浮き台を洗っていました。

今日は日曜日なので、休暇を取って東京見物に繰り出す乗員の姿も。
どこへ行きますか?
浅草雷門、それとも秋葉原かな?

艦長の挨拶ではないですが、ぜひ日本文化を楽しんでくださいね。

乗艦を待つ列はじわじわと進んで、ようやく「バイキング」のところまでやってきました。
途端にカメラを構えて激写する(というか暇だし)人々。

こうして見ると陸自の装甲車みたいですが、どっこいここれは
王立海兵隊の誇る水陸両用艇(車?)だったりするんだな。

こんなキャタピラ(商品名)履かせているのによく浮くなあ。

浮いているところを見たいと思って探したのですが、この画像しかありませんでした。
確かに浮いてますが、限りなく不安な感じです。

調べてみると陸上では65キロ、水上での時速は5キロ。
一般に人間の歩行速度と同じくらいということになります。

こういう部分も海水に浸かることを前提に作られているわけだが・・。
お弁当箱みたいなのは「可燃液体」で、取り扱いを間違うと、
木が枯れてお魚が干上がっちゃうとシールで警告してあります。

こんな不安定なものをどうして2両連結するのかという気もしますが、
後ろの車両には運転席がなく、その分人員が8名乗り込むことができます。

主武装は車上の重機関銃なので、シールドが標準装備されています。
てことは、天井は開くということですかね。

またウィンドウのところに筒がありますが、これはどうやら
グレネードランチャーではないかと思われます。

個々の車体には番号が基本手描きでペイントされてます。
それにしてももう少しちゃんと描くという考えはないのか。

「RF」のRは多分「ロイヤルマリーン」だと思うのですが、
Fは・・・フォ、フォース?

ちなみに、ロイヤルマリーンのモットーはラテン語で

"Per Mare, Per Terram" 

英語で"By Sea, By Land"、海に陸に、という感じですか。

並んだ列が時々全く動かなくなるのは、持ち物検査の列を4つに分け、
それぞれ違うテントに誘導して、かつ検査を行うのはそのうち一つだけ、
と決めていたためであることがここまできて判明しました。

わたしの荷物を点検した若いマリーンは、黙々とカバンを覗き込んでおりましたが、
どんな過酷な現場でも微笑みを絶やさない自衛隊のみなさんと違い、
この時点で既に魂が幽体離脱しているのか、目が死んでいました(笑)

きっとその晩は次々と日本人の荷物を調べる夢(やってもやっても終わらない)
を見たんじゃないでしょうか。

メイソンさんの水筒はグレネード型(笑)

荷物のチェックを終えても、列は一向に進みません。
こちらは出口となりますが、まだここは始まったばかりでガラガラです。

乗艦はここから、一列になって行います。
入り口の警備をしていたこの二人、かっこいいので何人にも
写真の撮影を求められていました。

この日の見学者。99パーセントが男性です。

たまに女性もいましたが、子供連れのお母さんがほとんど。
写真を撮らせて、といったらマリーンの兄ちゃん、屈んでくれました。

「アルビオン」艦体につけられたトレードマークは、かつて

「COMBINED OPERATIONS」水陸作戦司令部

第二次世界大戦時、ドイツに対抗する連合国間で結成された同盟の
司令部(戦争省管轄)のものでした。

今では機能していませんが、徽章は「第3コマンド」という
「アルビオン」の強襲揚陸部隊を含む旅団が引き継いでいます。

艦尾側舷側には舟艇とそのデリックが見えます。

このボートは両舷に1隻ずつ装備されていました。
色がどす黒くて、なんだか凄みがあります。

まあこれなら、多少汚れてもほったらかしておいて大丈夫?

浮き台が「タツミ」という港湾業者のものであることが判明。
(株式会社辰巳商會)

こういう大型艦の時には防眩物ではなく浮き台を挟むようです。

「うらが」の甲板にも既に見学の人の姿が見えます。

というわけで、ようやく舷門までたどり着きました。
舷門では物々しい銃を携えた警衛係の乗員(海軍)がお出迎え。
通り過ぎるほとんど全員が彼らを写真で撮りまくっていて、
若いロイヤルネイビー君は少し恥らう様子で、カメラを向けると
真面目にポーズを取ってくれました(冒頭)

そんなによく知るわけではありませんが、イギリス人というのは
一般的にアメリカ人ほど初対面の愛想は良くなく、
人見知りの傾向が実に日本人と似ていて、それを乗り越えると
アメリカ人よりも親身にに付き合ってくれるという印象です。

彼のこの時の様子から、ああやっぱりアメリカ人とは違うなあ、
とイギリス滞在で感じたことを思い出しました。

 

続く。

 

艦底のウェルドック〜ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

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晴海埠頭に来襲した女王陛下のドック型揚陸艦、「アルビオン」。
いよいよその中に入っていくことになりました。

揚陸艦の中に足を一歩踏み入れた途端、なぜ見学の列が
硬直したように遅々として進まないのかその理由が氷解しました。

入って直ぐのところにいきなりミリヲタならずとも目を輝かせて
興味津々で食い入るように見てしまう珍しい装備があるではないですか。
しかもムード満点、偽装網までデコレーションしてあります。

「こりゃー動きませんわ」

わたしと連れは頷きあったのでした。

乗艦した入り口の直ぐ右には、こんな車両が。
現地には説明が全くないので、何かわかりませんでした。

車両置き場で見張りをしている若い人、眠そう(笑)

ここに展示してあるのも岸壁にあった「ヴァイキング」ですが、
通信車両らしく、機器が展示されていました
左下は簡易アンテナでしょう。

直撃弾を受けても壊れない(たぶん)ハードユースのパソコン。
左はパナソニック製です。

ヴァイキングはドアを開けて展示してありました。

全員が写真を撮りながらなので、当然先に進みません。

ギザギザのブレードを備えたローラー、「ロードレイヤー」。

見学者の質問に、

「イエス、こんな風に地面を均すものだよー」

とアクションしながら説明しているロイヤルネイビー。
彼の階級はNATOコードのORー2、一等兵です。

ローラーを真横から見るとこんなになってます。
このページを見ると、このロードレイヤーの使い方がわかります。

ローラーに巻かれているのはブレードではなく金属の板で、
これを地面に押し付け、自分で板を踏みつけながら均していくわけです。

ロードレイヤー車を横から。
ローラーに巻かれた金属板をタイヤが踏んでいることに注意。

移動の時にローラーはどういう状態になるんでしょうか。

ローラーの向こうには冗談抜きで息を呑むような光景が展開してました。
ウェルドックと呼ばれるデッキ状の格納庫です。

岸壁の舷梯から乗艦した水陸両用車両は、ここに見える傾斜を降りて、
艦尾部分にあるハッチから展開し、揚収されます。

「ヴァイキング」以外にも舟艇や車両が格納されています。
右側の車両はとてもそうは見えませんが、ここにあるということは
水陸両用車で海に浮くことができるはず。

艦体はちょうど縦に半分で仕切られており、こちらは
ご覧のように下まで降りて見学ができるようになっていました。

何を見ているのかわかりませんが、とにかく人がいっぱいです。
わたしも連れも午後から用事が入っていたのでここはパスしました。

ところで、わたしはこの部分を見学しながら、ある「臭い」に気がつきました。
よく海岸近くで嗅ぐことのある、魚介類や海藻の腐ったような匂い。

それがここに立つと、どこからともなく立ち昇ってくるのです。

「なんか・・・磯臭いですね」

「まあしょっちゅう船や車を降ろしたりあげたりするわけですし」

ただ、もし運用しているのが海上自衛隊なら、毎日清潔にして
こんな匂いがするまで放置しておかないのではないかという気もしました。

この後、見学コースは甲板に続きます。
壁に掛かっているのは舟艇の取り外し式モーターのようです。

ベルトのようなものは舟艇に乗る際に使う安全ベルトだと思われます。

普通の陸用車両はこの階(岸壁と同じ高さ)に格納されています。

展示されている(というか普通に格納されている)車輌を見ながら歩いていくと
見学路が傾斜の車路が甲板までつながっていくという流れ。

現地の説明が一切ないので苦労しましたが、画像を検索していると
英語のオークションページにこの車が出品されているのを見つけました。

ROYAL MARINES WINTER/WATER LAND ROVER WOLF
110 HARD TOP

なんとイギリス陸軍ではランドローバーを標準採用していることが判明。

「ウィンター/ウォーター」というのは防寒装備と水密性を備えた、という意味です。
シュノーケル(車の右側についている煙突のようなもの)の装備で、
フロントガラスまでの水深でも走行が可能ですし、また
エンジンを予熱させる流体エンジンヒーターの装備などの改修点により、
車両や乗員は極限状態においても活動することができます。

海兵隊で運用されているのは強襲上陸作戦用の特殊深度走行型で、
潜望鏡付きのシュノーケルのほかは防水加工された電子システムおよび機器を装備し、
必要時にはヴァイキングのような完全防水装備の車両と一緒に行動できます。

また後部ドアはストラトにより支えられており、水の流入を許すことで
車両が漂流されるのを妨げ、着岸直後には急速な排水をすることができ、
車両による上陸演習時においても、乗員の身体が濡れることもありません。


ちなみにオークションでいくらの値がついて売れたのかどうかはわかりませんでした。

HMT600装甲車 コヨーテ(SUPERCAT社製)

Coyote Training

映像は冗長ですがお時間のある方はどうぞ。
究極のオフロード車っぷりがよくわかります。

別バージョンの名称は「ジャッカル」。
「コヨーテ」の先発でこちらは少し小さなタイプになります。

そして、今回最も驚きだったことの一つ。

見学者は艦内で一切階段を使わず、この車輌運搬用のスロープで
甲板まで上り、同じ車路を降りて退艦します。

この写真でもお判りかと思いますが、傾斜角はかなりのもので、
この坂を車輌に乗って移動するなんて信じられないほどです。

 

ところで、ロイヤルネイビーのHPから活動記録を調べてみると、
「アルビオン」は少なくとも7月8日(一般公開のほぼ1ヶ月前)には
日本に寄港していて、この日に保土ヶ谷にある英連邦兵士の墓地に
公式に弔問していることがわかりました。

HMS Albion proves big in Japan on landmark visit to Tokyo

文中、「東京の横浜墓地」とありますが、これはもちろん間違いです。

英連邦戦死者墓地は横浜にある「もう一つの外人墓地」です。
第二次世界大戦における捕虜の死者や戦後のイギリス連邦占領軍の任務中の
病死・事故死者も含む約1,800名が埋葬されています。

なお、このページによると、「アルビオン」は来日してすぐに
横須賀のアメリカ海軍第7艦隊で1ヶ月に亘り修理を受けたそうです。

やっぱり日本では憲法の関係で修理も頼めないので、ということでしょうか。


艦長のティム・ニルド大佐は今回の訪問について、

「我々は東京の訪問者として目を見張るような素晴らしい週末を楽しみました。
六千人を超える人々にご支援を頂き、また体験を共有することで
偉大な二つの国の間に強固な友情を築くことができたと思います」

そして

「われわれの訪問は、グローバルな英国海軍の活動をを証明するものであり、
当然のことながら、日本との緊密な関係を築くことが目標でありました」

と語っています。

この日の多くの見学者にとっても、「アルビオン」を通して
イギリスという国への理解が若干なりとも深められたことでしょう。


続く。


体験型装備展示の意味するもの〜ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

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さて、晴海で一般公開された強襲揚陸艦「アルビオン」に乗艦し、
車路になっている傾斜を昇って甲板にたどり着きました。

車輌が展示してあり、その上には海兵隊のいかつい兵士が。
太い腕に筋肉隆々な体躯、炯炯たる鋭い目つき。

・・これは何人か殺してる顔ですわ(比喩表現)

こちらにも。

予想通り甲板のうえは黒山の人だかりです。
それにしてもこの人の動かなさ、ただ珍しい装備を見ているだけではなさそう・・。
よくよく見ると、装備の周りに列ができてるじゃありませんか。

ええっ、もしかしたら車輌の上の銃の前に座らせてもらえるの?
まさか・・・・と思ったら、本当でした。

一度でいいから本物の銃の前に座って写真を撮りたい、
と願う少年と元少年、時々女性が甲板に長い列を作っていたのです。

車上の海兵隊員は一人ずつ銃の前に座らせ、カメラなりスマホを受け取って、
写真撮影をするために動員されていたのでした。

こちらはヴァイキング。
今緑の帽子の人が銃を構えています。
しかし、手間も時間もかかるこんなサービスをこの炎天下によく・・。

素晴らしい。王立海兵隊、なんて太っ腹なんだ!

こちら「コヨーテ」車上のロイヤルマリーンも、時々このように
誰に向かってかはわかりませんが、ポーズを取りながら、
にこやかに、というのではありませんが、実にフレンドリーな感じで
次々とやってくる日本人の相手をしています。

そうそう、車上のマリーンだけでなく「コヨーテ」も撮っておかなくては。
さっき艦内の壁にたくさん吊り下がっていたベルトのようなものは、
このように使われる(もしかして牽引用?)らしいことがわかりました。

ライトや信号灯が海中で浮遊物に当たって破損しないように、
車の前部にはガードが装着されています。

「コヨーテ」の武器は前部座席と後部上段に搭載されており、
今回皆が乗せてもらえるのはその後ろ側です。

ライフル銃を真横から撮ってみました。
銃座が車体に固定され、車両に座ったまま安定した姿勢で撃つことができます。
男子なら一度くらいこれで実際に撃ってみたいかも・・。

こちらも順番にのぞいて見ることができます。
この海兵隊のお兄ちゃんも、肘から先は(おそらく腕の根元まで)
倶利伽羅モンモンを入れています。

これはミニガンというやつでしょうか。

皆無茶苦茶楽しそう。

銃の型番とかはわかりませんでした。

それにしてもこの人の背中、汗でびっしょり濡れてますね。
とにかく甲板の暑さは大変なものでしたが、皆暑さもなんのその、
目を輝かせて銃を覗き込み、照準を合わせて引き金を弾いています。

甲板の上にはウォータークーラーが3台運び込まれて、
水分補給をすることができました。
わたしが手前のクーラーから水を注ごうとすると、
そこに座っていたおじさんが親切にも、

「こっちのが冷たいよ」

と教えてくれました。
わたしがこの日日焼けから肌を守るために掛けていたストールが
肩から落ちていたのを目ざとく見つけて、

「おネエさん引きずってる、引きずってる」

と教えてくれた人もいますし、全体的に雰囲気も和やかというか、
観艦式のあの殺伐とした雰囲気とは全く違うこの日の艦上でした。

おかげで人混みのなかで不快な思いをすることも全くなく、
心から楽しく過ごせたことをご報告しておきます。

女性なのにこんな巨大な無反動砲?を担いでる?

ということはありません。
三脚で固定した

NLAW(次世代型軽対戦車ロケット弾)

Javelin(対戦車ロケット弾)

(のどちらか)の下に潜り込んでスコープを覗かせてもらえるのです。
画像を検索すると、これ、実戦では普通に肩に乗せて撃ってます。
ということは、そんなに重くないのかな・・・。

指導しているマリーンの肩には「ロイヤルマリーン・コマンド」とあります。
この写真で気がついたのですが、この対戦車砲は練習用らしいですね。
砲身の上に「 DRILL」と書いており、砲口はダミーです。

アロハの人が担いでいるのがジャベリンだと思うのですが・・。
ちなみに「ジャベリン」とは槍投げ、または槍投げの槍を意味します。

それにしてもこの熱気を観よ。

東京ビックサイトでサバゲーに使うモデルに目を輝かせているのと
ほぼ同じ層の男たちが、嬉々として本物の銃に触るために
我慢強く順番を待っている様子は、なかなか微笑ましいものがありました。

つい夢中になって後ろに人がいるのにいつまでもブツを離さない人もあり。

わたしはこの光景からも日本の歪んだ現状を思わずにはいられませんでした。

一般公開で装備の銃を持たせたところ、たちまちパヨラーが発狂して大騒ぎ、
その後市民が銃火器に手を触れる機会は全くなくなったというのは一例です。

「武器を見せるな、持たすな、人目から隠せ、ないことにしろ。
つまり武器を持ったら戦争になる!っていう考えですよね」

「武装しなければどの国も戦争を仕掛けてこないって理屈に繋がりますね」

「そういうのを『ダチョウの平和』っていうんですよ」

こんな呆れた「常識」に屈しざるを得ない自衛隊の皆さんに対し、
国民の一人として隔靴掻痒のようなもどかしさと共に慚愧の念に絶えません。

自衛隊にこんな忖度をさせている責任は、実はわたしたち一人一人にあります。

海上自衛隊でもおなじみ、防火や救助のためのグッズ展示。
防火服の上にある測距儀みたいなのは何でしょうか。

Warfare、というのは交戦状態を意味する言葉で、

「The Warfare Department はHMSアルビオンを軍艦たらしめるものです」

というタイトルの元に、搭載できる最大の車両が

チャレンジャー2戦車

であることや、

LCUs(Landing Craft Utility)汎用揚陸艇

LCVPs(Landing Craft,Vhiecle, Personel)上陸用舟艇

4隻などを搭載している、という説明、さらに
2機の汎用ヘリコプター、ファランクスCIWS、

GPMGs(General Purpose Machine Guns)20mm汎用機関銃

Mk 44 6-barrelled Mini-gunsミニガン

を舷側に備えていることが書かれています。

それにしても皆さん、この景色を見て何か変だと思われませんか?

そう、女王陛下の強襲揚陸艦、一般見学というのに

柵がないのです。

もちろんこの向こうは海、と言ってもキャットウォークがあるので、
万が一端っこから落っこちたとしても大したことにはなりませんが。

自衛隊ならキャットウォークがあっても柵を張って、しかも
見学者にはもたれないようにとかいう注意が入るはずです。

「かが」の事故のように、自分で勝手にふらふらと歩き回り、
その結果穴に落ちたとしてもそれは自己責任。
軍艦の艦長がそんなことに責任を取らされることはありません。

日本以外の国ではだいたいそうなっております。

こちらでは匍匐姿勢による銃撃のエア体験ができます。
各銃に一人説明のマリーンが付いてくれるのが嬉しい。

ここは野営セットでしょうか。
テントも寝るだけのスペースにはこんなに低く建てるんですね。

つい先日海自のサマーフェスタでもお目にかかったばかりの
AED(自動体外式除細動器)人形にロイヤルネイビーの艦で再会しました。
救急医療セットの展示台になっているのは簡易式折りたたみベッド。

このコーナーでは防弾チョッキを(多分)試着できるぞ。
二人掛かりで装着してくれ、仕上げにはヘルメットも被せてくれるというサービスの良さ。

この甲板で見た光景は全くのカルチャーショックでした。

イギリス海軍は、おそらく自国でも一般公開の際には同じように
見学者に老若男女を問わず、装備を公開して、触ってもらい、
自国の防衛の実態を余すことなく知ってもらうということを
常日頃から普通にやっていて、ここでも同じことをしているのでしょう。

当然です。それが「普通の国」の軍隊というものです。

今、アメリカのニューアーク空港で飛行機を待っているのですが、
テーブルに備え付けのアイパッド(これで食べ物を注文する)では、
ゲームの待ち時間にすかさず海軍のそれはそれはかっこいいCMを入れてきます。


一方日本では、自衛隊に入隊を志望する人員が最近減少しているので、
年齢制限を引き上げるというニュースを最近耳にしました。

自衛隊がもしこの日の「アルビオン」艦上のような展示をやったら、
というか、もしここまでできるような組織であったら、おそらくですが、
ここまで募集に苦労するようなことにはなっていないはずです。

 

ついでに、この際真面目にいいますが、自衛隊の志願者を増やすためには、
まず大前提としてもっと国民が軍人にリスペクトを持たなくてはダメだと思います。

大災害の時には自衛隊の力をちゃっかりあてにする癖に、
学校や自治体で募集をさせてくれないとかは論外です。

また、一見味方のようでも、自衛隊員の労働環境をやれブラックだの
日常必需品にも困窮してるだの、殊更論って可哀想だ気の毒だと叫ぶ人を、
当の自衛隊員たちは決して自分たちの代弁者であるとは見なしていない、
むしろ自衛隊反対と叫ぶより「タチが悪いと思っている」とわたしは最近
「中の人」から伺ったので、ここにこっそりと書いておきます。

 

続く。

 

 

ホワイト・エンサインとロイヤルディナー〜強襲揚陸艦「アルビオン」

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強襲揚陸艦「アルビオン」の見学が続いています。

甲板に展示されている演説台には「アルビオン」の木彫の徽章が。

もう一度舷門のところにあったトレードマークを。
海の上にそびえる岩にライオン?が怖い顔をして吼えてます。
王冠のような帆と木造の船のモチーフはいかにも伝統的なロイヤルネイビーな感じ。

甲板に展示されているのは武器装備だけではありません。
例えばこのテーブルでは、戦闘糧食の紹介をしていました。

チューブに入った何か(歯磨き粉じゃないと思う)をスプーンに乗せて
試食させてくれるロイヤルマリーン。

見ていると、口にしたものの「うーん」と言ったきり、そのあとに
美味しい、とテイストグッド、とか言う人はほぼ皆無。

きっと微妙な味だったのではないかと察せられました。

お皿に出してあるのはほぼ皆シリアルとかナッツとかの類で、
こんなの美味しいも不味いもないのでは、と言う気がしましたが。

この画像のお皿に乗っているのなんか、どう見てもオートミールなんですが、
これは煮て食べるのが正しい食べ方のはず・・・・え、このまま食べるの?

食べ物が美味しくない、と言う風評だけは立ってしまっている大英帝国の、
しかも比較的どの国でもハンブルがスタンダードの軍隊糧食が、
美味しいわけがあろうか、いやない、と皆が考えているらしいことはわかりました。

この糧食についてはわたしは食べてみたわけではないので論評は控えますが、
イギリスでわたしはとんでもなく美味しい料理を食べたこともあるので、
風評は風評に過ぎない、とイギリス人の名誉のためにここに言明しておきます。

糧食コーナーは怖いもの見たさというのか(失礼)どれだけイギリス軍の食事が
ほにゃららなのか試してみたい人たちで賑わっておりましたが、
この日ここに詰めかけた人々の興味からは全く対象外だったらしいのがここ。

そう、女王陛下の軍艦での正式なディナーを紹介するコーナーでございます。

白いテーブルリネンにいまいち雑とはいえアレンジしたナプキンがあしらわれ、
よくまあ割れずに焼き上げることができたものだと感心するクッキー地で作った
オーナメント(たぶん)が誇らしげに飾ってあります。

どういう場面にあしらうのかわかりませんが、またこの巨大なオーナメント、
よくよく見るとリスさんがいたりしてこれが可愛いんだ。

わたしが眺めていると、やっと見学者が来た!とばかりに

「これは艦長とオフィサーのためのメニューです」

などとなどと張り切って説明してくれました。
あとは、自衛隊の幹部を招いてのレセプションなどでもこういうメニューだそうです。
ちなみにそのメニュー内容ですが、

ワイン 白ワイン リンデマンズ シャルドネ65年

    赤ワイン リンデマンズ シラーズ50年

Maitre d'hotel kalowekamo(メートル・ドテル カロウェカモ)

メニュー

前菜 帆立貝 カリカリパルメザン乗せ オランデーズソース添え

   ソースとコナッセトマト

主菜 パンフライドステーキ、自家製チップス乗せ

   サイドサラダとコールスロー

デザート レモンチーズケーキ

コーヒー

シェフ・ド・キュイジーヌ LCh リンチ

ヘッドウェイターの名前はカロウェカモ・・・どこの人だろう。
また、シェフのタイトルLChはランゲルハンス島細胞組織球症・・
ではなくてランス・コープラル・ヘッド(嘘)

ちなみに、こういうメニュー付きのコースは毎日ではなく、
特別なオケージョンの場合に限られるとのことでした。

「自衛隊の幹部を招いてのお食事」などもこれに入るそうです。

 

そんなキュイジーヌの一例として写真がありました。
うーん・・・・・肉いかにも硬そうじゃね?

実は今、ワシントンDCにおりまして、さっき、ミシュランの
星を取った「ワシントン一のイタリアン」を食べて来たばかりなのですが、
雰囲気と接客はいいけど、肝心のお味が・・・・。

「これなら東京フォーシーズンズのコースの方がずっとリーズナブル」

「なんで食後のチョコレートの中に本当のフォアグラ入れるかな」

「アメリカンチェリーに金箔まぶす意味ってある?」

「アメリカン・ワギュウって・・・和牛の意味知ってるのかな」

家族も文句の言いっ放し。
結論としては、日本、特に東京の食のレベルの高さを
改めて確認することになりました。
みなさん、日本に住んでるだけではっきり言って食事に関しては
世界の勝ち組だとわたしは太鼓判を押します。

ここにはジェネラル・メス、つまり兵隊さんたちの食事メニューが展示されています。
こんなのも熱心に写真を撮ったりしているのはわたしだけでした。

こんな感じ。
ちなみに、今年の6月26日、海上における1日の食事は・・?

朝食 シリアル グリルドベーコン ソーセージ スクランブルエッグ  

   ベークドビーンズ 焼いたトマト トーストとジャム デニッシュペストリー

昼食 今日のスープ BBQプルドポーク チキンとマッシュルームパスタの焼いたの

  ベジタブルナゲットとガーリックマヨネーズ(ベジタリアンメニュー)
  V字型チーズ ベークドビーンズ

  お好みのバゲット お好みのサラダ フレッシュフルーツ

夕食 ビーフシチュー チキンとブロッコリのラザニア モロッコ風ラム

  マッシュルーム・ストロガノフとライス(ベジタリアンメニュー)

  マッシュド&ボイルドポテト 焼き野菜 キャベツソース

  ミックスフルーツのクランブルカスタード添え

見ると、毎食必ずベジタリアン用のメニューも用意されているのがわかります。

しかし・・・どうなんでしょう。
みなさん、このメニューだけで「美味しそう!食べてみたい」って思う?

説明してくれたこの彼は尋ねるとシェフであるということでした。
ということはこの人がリンチさんかしら。

シェフが髭を生やす傾向はイギリスにもあるようです。

長靴まで一体型?
消火活動用、耐火スーツがぶら下がっていました。

さてこちら。どうもダメコン、ダメージコントロール部門の道具展示です。

見本用?あるいは訓練用?
亀裂を入れた金属ブロックに、信じられないくらいぴったりと、
応急に木材片がぎうぎう詰め込んで穴を塞いであります。
穴に木材を突っ込む時にはトンカチでガンガンやるようです。

「床に穴が空いてしまった時にも木材突っ込むんですね」

「こんなんで水が防げるもんでしょうか」

などと見ながら話していると、テーブルの向こうにいた人が
急ぎ足でこちらにやって来ました(足が写ってます)

もちろん木材片だけではダメで、その上に金属製のボウルのようなものを被せ、
さらにその上に平らな木材の板を乗せるのだ、と実演してくれました。

なぜ平らな板を最後に乗せるのかというと・・・・・、

その板の上に、このテーブルの一番向こうにある伸張式の鉄の棒を乗せて、
天井まで伸ばしてテンションをかけ、浸水を防ぐのだそうです。
これが横壁に入った亀裂なら、壁に突っ張った棒をかまして抑えるのだとか。

初めて知りました。
自衛隊でも艦艇の公開の時にはダメコンの展示もしてはどうでしょうか。

こちらも完全に暇そうにしていた、天測の係。
白いボールは天測用気球だと思います。

甲板での展示は、基本このような艦上レセプションに使うような
天幕を張ってその下で行われました。
暑いことに変わりはありませんが、直射日光がないだけ過ごしやすかったです。

「ヴァイキング」が一台(というか2両連結)だけテントの下にありました。
ペイントでなく、黒いテープで車両番号を書いているので、
「82B」などはこのようになってしまいます。

せめてデジタル文字風にすればいいのに・・・。

後甲板のこの「ヴァイキング」は医療用らしきマーク入り。

柵がないのでその気になればですが、キャットウォークに飛び降りることも可能。
甲板にはそこここにいろんなマークが描かれており、見ていて楽しいです。

ちなみに「DEMIN」とは

Disaster and Emergency Management Information Network

=災害・緊急時管理情報ネットワーク

のことです。

キャットウォークに備えてあるサバイバルキットのバレルは、
「一度だけ使い切り」とマークされています。

すぐそこにいるのは湾岸クルーズのボート。
屋根も何もない座席だけのクルーズ、大丈夫か?という気もしますが。
なぜここにいるかというと、船の漕ぎ手が「アルビオン」を見に来たらしいです。

「アルビオン」の後甲板にもファランクスCIWSが装備されています。
冒頭写真は艦尾の海軍旗ですが、わたしは今回ロイヤルネイビーの旗を
初めてちゃんと認識しました。

この海軍旗を正確には「ホワイト・エンサイン 」と称します。

イギリス海軍には、海軍旗とシップス・バッジズの使用に関して、
正式な習慣と伝統が存在しています。

航海中、そして港では、海軍艦艇は海軍旗を掲揚させ、艦艇と潜水艦は、
日中ホワイト・エンサインを艦尾に、航海中はメインマストに掲揚します。

艦首に掲揚してあるのは厳密には国籍旗なので、国旗を意味する
「ユニオン・フラッグ」ではなく「ユニオン・ジャック」と称します。

これはまたロード・ハイ・アドミラル(海軍司令長官)を含む
司令官が乗艦している、という意味でもあります。

 

このデザインのベースになっている白地に赤い十字の旗は、
もともとイングランドの旗であったもので、その一隅に、

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

通称イギリスの国旗があしらわれているというわけですね。

 

続く。

ロイヤルネイビーの「グロッギー」騒動始末〜強襲揚陸艦「アルビオン」

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強襲揚陸艦「アルビオン」見学、テントを一度抜けて、後甲板から
右舷舷側に出て来ますと・・・・、

びっちりと並ぶ2両連結の「ヴァイキング」。
見学者はその横をほとんど監視なしで通り抜けていきます。

その気になれば、車両を素手で触り放題。
もちろんお行儀の良い日本人は誰一人そんな暴挙に及んだりしません。

地面に鎖で車体を固定する装備が甲板に設置されているので、
そこに停めていくというわけです。

ちなみにその気になればですが、車両の間をすり抜けて向こうに出られます。
もちろんお行儀の良い日本人は誰一人として以下略。

車両の固定の仕方をよく観察してみましょう。

固着装置は甲板側に装備されており、そこから伸張された鎖を、
車体の前部にあるフック掛けにバッテン状に引っ掛けて固定します。

一つの固定場所からは二本鎖が出ていて、別々の車を固定します。

このキッチリ感がたまらないですね(個人的に)

「ヴァイキング」は水陸両用車ですが、基本ウィンド部分までは沈まないので、
運転席とその横の席の窓は普通にガラスです。(強化ガラスだと思いますが)
ただし、車体の割にとんでもなく窓が小さくて外が見にくそう。

窓に車両情報が内側から貼ってありました。
いや・・・ただのサンシェードがわりかな?

車体は、特に喫水線にあたる部分は傷だらけです。
もっとも傷がついても修理するという考えは一切なさそう。

ところでこのシェイプ、窓ガラスから前部にノーズが伸びていますが、
これ、運転者の「脚を収納する部分」であることがわかりました。

中を覗き込んだ連れが、

「信じられないくらい中狭いですよ!」

というのでわかりにくいのは承知で写真を撮ってみました。
確かに・・・・狭い。

「しかし、イギリス人って、体のでかい人が多いのに、ミニクーパーといい、
ヴァイキングといい、どうしてこう運転席の小さな車を作りますかね」

「狭いところが落ち着くというタイプが多いんじゃないでしょうか」

偽装網が掛けてありますが、適当なので、通路に偽装網が落ちて、
歩く人がそれを避けて通るということになっていました。

もちろん自衛隊ではこんな不精な展示の仕方はしませんが、
これもまたお国柄の違い、ということで皆楽しんでいます。

一周してもう一度テントに戻って来ました。
スコープなどを中心に装備を展示しています。

向こうにあるのはもちろんスコープ付きの銃。
これを構えてスコープを覗かせてもらえるのです。

手前にあったのはナイトビジョン付きのヘルメット。

ODカラーのユニオンジャックの真ん中に剣があしらわれていますが、
これが王立海兵隊「アルビオン」乗組部隊のトレードマークだと思われます。

ヘルメットにナイトビジョンを付け、それで視界を確保しながら
闇の中を移動したりするというわけです。

なぜここにあるのかわかりませんが、マシンガン銃撃の基本を記した
マニュアルのような小冊子がありました。
もし突っ込んで質問すれば、これをもとに説明してくれそうな勢いです。

わたしと連れがナイトビジョンスコープを見ながら話し合っていると、
向こうにいた若い海兵隊員が

「こうやって使うんだよー」

と被って見せてくれました。
そして、この後、わたしにほいっと渡し、

「被ってみて(Try it.)」

日頃こういうのには参加しない主義ですが、直接言われれば仕方ない。
受け取って被ってみましたが、重いのにびっくり。

「ちょっと・・・これ重いんですけど」

「重いすか」

「こんなんで匍匐前進とかしたら絶対脊椎損傷すると思う」

「そんな大げさな・・・」

これもロイヤルマリーンの説明によると、暗視装置。
わたしも覗かせてもらいました。

自衛隊も暗視装置くらいなら手にとって覗くことはできますよね?

さっきこの甲板に到着した時に前列で武器を持たせてもらっていた人が、
一周回って帰って来たこの時にも最前列にいることに気がついてしまいました。

気持ちはわからないでもありませんが。

ジャベリンと呼ばれる無反動砲も担ぎ放題。
軽々と持っているように見えるんですが、案外見た目より軽いのかな。

それを知ることができるだけで、貴重な機会であることは間違いありません。

ところで、女王陛下の艦では天蓋に紅白のストライプを使っているので、
この写真などまるで旭日旗があしらわれているように見えます。

さて、後甲板の見学をこれで一通り終わったわたしたちは、右舷沿いに
艦首までを歩いて舷側を見学していくことにしました。

時鐘は風で揺れて強打されないように二箇所で固定してあります。

エア・インテークですから、空気を吸い込む場所なのですが、
前方から歩いて来た人が手をかざしているのにはわけがあります。

右舷の艦首寄りに、同じような装置があり、こちらは排気、
つまりここからは冷たい風が吹き出していたのです。

この部分を冷房しているわけではなく、全艦内の冷房された空気が
排気管を通ってここから出て来ただけなのだと思いますが、この猛暑の中、
ひとときの涼を求めて、前にしばらく張り付いている人もいました。

構造物の様子も、自衛隊とも米軍とも違う佇まい。
ここは・・・「ボトルストア?」

上半分が紙で隠れているので暫く悩みましたが、
「ヘリウム」らしいことが判明しました。

ヘリウムガスを大量に必要とする軍艦の設備となると、
やっぱり偵察気球に詰めるか、非破壊検査用か、潜水のボンベ用か・・・。

少なくともドナルドダック効果で遊ぶ為ではないと思います。

こちらはクレンジングステーションだそうですが、何を洗うんでしょうか。

Ras Winchというのは、

Replenishment-at-sea systems (RAS)

つまり洋上補給の時に使用されるシステムを動かす
ウィンチのことで、給油装置はFuellingのFをとって
「FAS」と呼称することになっています。

画面左にある赤いのが RASのウィンチ関係だと思うのですが、
とにかく、訓練を受けて資格を取った者しかこれを扱わないこと、
とわざわざここに書いてあるのです。

エア・エスケープはわかるとして、DIESO filling tankって何かしら。

DAISOなら最近アメリカにも進出してあちらこちらで見ますけど、
こちらは検索しても何もひっかかってきませんでした。

熟練していなくても最悪の事態にはならないように壁に操作法が書いてあるのは
一見親切ですが、基本人間の能力を信用していないことから来るのかもしれません。

赤い字は、弾薬などの運搬を行うためのホイストの使用法で、
EDUCTORは「浚渫する」という意味らしいです。

海に落ちると自動的にサバイバルキットが積まれたボートが展開し、
遭難時の乗組員をインディアナポリス状態から救うラフト。

何かの弾みで落ちないようにロープでつないでありますが、
もちろん非常時には切り離されるんだと思います。

この時で時計は12時13分、公開が始まってから2時間経っていますが、
乗艦を待つ列は全くと言っていいほど解消しておりません。

何重にも折りたたまれた列が焼け付くような正午の太陽の下、
辛抱強く乗艦を待つ人たちの姿。

「アルビオン」の乗員のみなさんも、ここまでして我が女王陛下の船を
一目観ようと詰めかける日本人たちの熱心さに感動してくれたのではないかしら。

というわけで艦首にたどり着きました。
ウィンドラス(揚錨機)は危険なのでここから先は立ち入り禁止。
艦首でタイタニックごっことかやられても困りますし・・・

だって、艦首旗竿の真下には巨大な穴が空いているんですもの。
乗員にとっても危険なので赤でマーキングしてありますね。

時にみなさん、今回の来日で、「アルビオン級強襲揚陸艦」のページに
こんな輝かしい?記事が付け加えられてしまったことをご存知でしょうか。

佐世保に寄港中の5月には乗組員の男が酒に酔い、雑居ビルのガラスドアを
蹴破った他、男性の手を傘で刺したとして逮捕・送検されたが、
長崎地検佐世保支部は不起訴処分として乗組員の男は釈放された。

あーらら・・・。

ちなみに、案の定佐世保地元の西日本新聞ではこのことを

英艦アルビオンが長崎県の佐世保港に入港した11~24日には、
佐世保市内の繁華街で酒に酔った英国海軍の軍人が騒ぎを起こす様子が目立った。
常駐して「綱紀粛正」を打ち出している米軍とは異なり、
英国などの国連軍が一時的に佐世保を訪れる際、トラブルを起こすケースが多いという。

英語のネオンサインが並ぶ外国人バー街。
米兵が酒を飲むのは日常的な光景だが英艦の入港期間は様子が違った。

外国人バーの店員(20)はその振る舞いについて

「店のライトと窓を殴って割られた。
トイレットペーパーをトイレの中に詰め込む人もいて、むちゃくちゃだった」。

明け方、店の周辺にはビール瓶などが散乱していたという。

別のバーの店主(36)は

「アメリカ兵は門限もあり、ルールを守って飲んでくれる。
初めて訪れる他国の兵士が暴れることが多い」

と打ち明ける。今回、けがを負った男性(43)は

「外国人によって佐世保に根付いた文化もあり、外国人が来ることに反対はしない。
ただ今後もこのような騒ぎが続くと怖い」

と話した。

在日米軍の動向を監視する市民団体「リムピース」の篠崎正人編集委員は

「軍隊が絡むと窃盗や傷害、器物損壊などの事件の起訴率がほぼゼロになる」

と指摘。

「示談で手打ちではいけない。
犯罪をちゃんと処罰しないと犯罪抑止につながらない。
日本の検察は明らかに外国の軍隊の犯罪に及び腰だ」

と訴えた。

 

と報じています。

最後の市民活動家、どさくさに紛れて余計なこと言ってね?
だからアメリカ軍はお行儀がいいってみんな言ってるだろうが!(怒)


ところで、今回「アルビオン」のおかげで知ったのですが、日本語の
「グロッキー」は、大航海時代、酒の持ち込みに寛容だったイギリス海軍で
飲まれていた"Grog"と呼ばれるラムの飲み物を飲みすぎて酩酊状態に陥った者、
という意味の「グロッギー(groggy)」が転化したものなのだそうです。

(今、疲れていることをグロッキーという人は滅多にいない気がしますが)

戦後アメリカ海軍は不祥事を恐れて艦にお酒を搭載しないことにしてしまい、
それに追随した海上自衛隊に向かって、当のアメリカ軍人が

「君ら、実につまらんことを真似したもんだなあ」

と言い放ったという話は有名ですが、船乗りとお酒、この組み合わせは
軍隊という組織にとって全くの鬼門であることが、また証明されてしまいました。

王立海軍でも艦内の飲酒は禁止されているはず、と言いたいところですが、
さっき見たメニューには赤白ポートと各種ワインもしっかり載っていたしなあ・・。

今回、「グロッギーな」水兵のご乱行を不起訴にするために、艦長と駐日英大使が
日本政府と掛け合って奔走したに違いないことは想像に難くありません。
そして、おそらく東京でのさらなる不祥事を防ぐため、王立海軍としては
厳しく乗員の綱紀粛正をはかり満を持して晴海に入港したはず・・・

だといいですね。

それにしても、ロイヤルネイビー、お酒が入るとみなさん結構お行儀悪いんだ。
女王陛下の名前を冠した海軍軍人たるもの、他国ではもう少し
身を慎もうとかいう自覚を持つべきだと思いますが、羽目を外しすぎたかな。

 

続く。

 


「シタデル・イン」〜ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

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英国からやってきた強襲揚陸艦「アルビオン」見学記、最終回です。

舷側を左回りに歩いていくと、左舷に銃が装備されていました。
強襲揚陸艦ですから、機銃があるのは当然ですが、これも見学者は触り放題。
驚くことに、周りには海兵隊どころか乗員は誰もいません。

海兵隊のHPによると、この銃はMk44ミニガンということでした。

一般的に艦上に搭載される電動式の6砲身の武器で、
最高6000/rpmの高速度で7.62mm x 51mmの砲弾が発射されます。

写真を撮っていると、あっという間に男性の手が伸びてきました(笑)
こんなところに置いてあって触り放題、誰でもちょっとのぞいてみたくなります。

wikiによると「アルビオン」は12.7mm機銃を4基備えているということです。
12.7mmということは、ブローニングM2重機関銃だと思いますが、
これはブローニングM2の典型的なタイプだと思います。

右下の袋で薬莢を受けるんですね。

救命艇は「サバイバルスーツ」と称するようです。
非常用なので一回ごとの使い捨て。

というか、これを使う場面になったらもう終わりです。

左舷側のドア、ここに書いてある

CITADEL IN

という言葉に注目してみましょう。
「シタデル」というのは普通は「城塞」などを意味する言葉です。

企業名にもよく使われるようですが、海事用語で「シタデル」というと、
軍艦など、特に戦艦の司令塔や、砲塔、機関部などのような重要な部分だけに
集中的に装甲を施す防禦形式のことを指していいます。

強固に内部を守る城塞になぞらえているんですね。
つまり、このドアの部分は特に装甲を厚くしてあるはずです。

装甲を分厚くすることは、艦の生存性をあげることにつながりますが、
部分的に重要な部分だけに装甲を施すことで、排水量を抑えることができます。

このアイデアは、主に排水量が大きくなかった前弩級戦艦に用いられました。

旧海軍ではこれを弩級戦艦や超弩級戦艦に用いた場合

「集中防御方式」

と称していましたが、海外ではこの区別はなく、一律「シタデル」とします。

「シタデル」は軍艦だけに存在するわけではありません。
例えば民間の船舶でも海賊などの襲撃を受けた場合に備えて
避難・籠城を目的とした強固な防壁を施した部屋を持っていることがあり、
この部屋や区画を「シタデル」と呼部こともあるということです。

日本の護衛艦とか、例えば今日横に泊まっている「うらが」もそうですが、
上部構造物の舷側はここまで広くありません。

「アルビオン」の舷側甲板がここまで広いのは、集団が舟艇に
ここから一気に乗り込んでいく場合に備えているからだと思われます。

その広い通路に、地面に何やら置いて展示しているコーナーあり。
海兵隊員ではなくネイビーが見張りに説明のため立っています。

舟艇に乗り込む場合に装着する救命ベストとヘルメットですね。
ヘルメットは軽量に見えます。

RIB (Rigid-hulled Inflatable Boat)

は複合艇のことで、海上保安庁でもこのように称しています。

先日、海保の観閲式で海賊退治?の模擬展示をご紹介しましたが、
あれで海の上をボンボン跳ねながら海賊船を追いかけ、周りを回って
追い詰めていた「トッケイ」の硬化ゴムボート、あれが「RIB」です。

救命ベストに書かれた

Rib's only Manual

という意味がいまいちわからないのですが、
複合艇でのみ使用される、ということかしら。

 

大変写真が撮りにくかったのですが、これが複合艇のようです。
今調べたら、イギリス海兵隊のRIBを製造しているのは

BAE Systems Halmatic

という会社であることがわかりました。
実は昨日までわたくし、ワシントンDCにいたのですが(理由はわかるね?)
ファランクスを作っているレイセオンの近くに、この
「BAE」の巨大なビルを見つけ、

「あれ、これなんだっけ、最近ブログで扱ったな」

と考えたところでした。
「BAE systems」はイギリスの国防・情報セキュリティ・航空宇宙関連企業、
「Halmatic」は同社のボートを作っている部門なのです。

RIBに乗り込むチキはこのようなオレンジのスーツに先ほどのジャケット、
ヘルメットを身につけます。
ボートの操縦をする席は馬にまたがるようになっていますね。

揚陸を支援するための銃が装備されたこちらのボートは?

こんな大型の舟艇が吊ってありました。

これは

LCVP(Landing Craft, Vehicle, Personnel)

という上陸用舟艇です。
最初にこのタイプをRMが採用したのは1962年で、
「アルビオン」搭載はそのMk5、第五世代となります。

1隻あたりの収容人員は海兵隊35人、操作する海軍が3人。
1隻38名、4隻で一個中隊140名を揚陸させることができます。

無理やり中を覗き込んでみる。
搬送される海兵隊員はここにぎっちりと座るわけです。
複合艇のように海上を高速航走するわけではないのでベルトはありません。

ボートには可動式の屋根があり、天候に対応化。
船の周囲には物を入れる棚付です。
中で糧食を取ったり仮眠をするというような場面もあるのかもしれません。

ここがLCVPの操舵室。
ここは全部が「シタデル」状、装甲はかなり強固に施されているはずです。

本日の展示には珍しく、装備のスペックを紙で貼り出してくれていました。

舷側から撮ったLCVPの上部。
一体何がどうなっているのかわけがわかりません。

ちなみにこれがwikiのLCVP全体像。
甲板にカプセルを積んでいるように見えますね。

というわけで前甲板を回って元のところに戻ってきました。
同じ海兵隊員が見学者の写真サービスに勤しんでいます。

いやー、しかしいい笑顔だ。

見学を終わり、先ほど上ってきた傾斜を下って行きます。

この見学では一切階段を上り下りすることがありませんでした。

だからなのか、見学者の列の中には車椅子の方もいましたが、
流石にこの坂を車椅子では無理なので、屈強の隊員が椅子を抱え、
軽々と持ち上げて甲板に連れていってくれたのではないでしょうか。

それにしてこのキャタピラ付きの巨大な車、用途はなんでしょうか。

海兵隊員のバックパックが手すりに鈴なりに吊ってある眺めは圧巻です。
もちろん日常の荷物ではなく、戦地に展開する際に必要な物が入っているのでしょう。

甲板のどこかにこの背嚢が置いてあったので、ふと手をかけてみましたが、
片手ではぴくりとも動かなかったので多分10キロ以上はあると思います。
きっと鍋釜一式とかも入っているんじゃないかしら。

筒のように見えるのは簡易寝具だと思います。

しかし、この収納場所、確かに場所を取らずにいいかもしれないけど、
ここに吊ったり外したりなんて、人の力でできるんでしょうか。

まあでも。
こういう人を見るとできるかもしれないという気もしますね。

今回初めてロイヤルマリーン、ロイヤルネイビーの兵士たちを間近見ましたが、
人種が様々なアメリカ人より平均して背が高いように思います。

それと、制服の階級章がなぜか体の真ん中にあることも大きな違いです。

 

一体このヴァイキング、何台搭載できるのでしょうか。

ちなみに搭載できる海兵隊員は最大で710名です。
今回は非常時ではないのでその半分くらいかもしれませんが、
300人以上も海兵隊員がいるってことなんですね。

これだけいれば何人かは酒癖悪い人もいるはずなので、
前回ご紹介した佐世保の事件みたいなのが起きてしまうわけです。

「そういうことするのは絶対海兵隊」というコメントがありましたが、
わたしも海兵隊には悪いけどすごく納得してしまいました。

今まで見聞きしたニュースでも、台風の日とか、増水している川で泳いで
行方不明になるのは必ず海兵隊員だったという記憶です。

なんて言うんでしょうか、ネイビーより「脳筋」の多そうな感じ?

この部分に、もう一つウォータークーラーがあり、しかもそれは
信じられないくらい冷たくて、汗を大量にかいた身体に染み渡るほど美味しく、
わたしはつい夢中で2杯立て続けに飲み干し、暫し息をつきました。

現場に待機している「アルビオン」の乗員は皆が水筒を持参していましたが、
そういえば先日の阪神基地隊での「サマーフェスタ」で、あの猛暑の中
自衛官の皆さんはウォーターボトルなんて持ってなかったよなあ、と思い出し、
改めて色んな意味で彼らの立ち居振る舞いに頭が下がる思いがしました。

この日はテントでカバンと金属チェックをしていましたが、いつもは
舷門でこのようなプレートを掲げてチェックを行うようです。

わたしたちが出口になっている舷門から降りる時の光景。
まだまだ列は解消しそうにありません。

舷梯の下にはいつも自衛隊の艦艇公開でおなじみのネットがありますが、
このネット、実は一般公開と関係なく、主に
酔っ払って帰ってきて脚を踏み外す乗員のために張ってるんですって。

わたしがこのことを聞いたのは元自衛官ですが、この方の場合、
現役時代に最低数回は海に落ちた乗員を拾ったことがあるそうです。

自衛隊は規律がしっかりしてるからそんなことは絶対に起こらない!

と思っていた、そんな時代がわたしにもありましたが・・・。

まあとにかく自衛隊でもあるんだから、アメリカやイギリスの海兵隊なら、
一晩に一人ペースで海に落っこちてそうです。

この二人は舫を杭に巻きつけて浮き台を岸壁に近づけていました。
なぜこんな時間にこの作業をしていたのかはわかりません。

朝ここを通りかかった時にはその珍しさに目を輝かせて写真を撮りまくった
水陸両用車「ヴァイキング」ですが、一通り見終わって出てきてみれば、
「アルビオン」の中ではそれこそスズメ並みに珍しくありませんでした。

「うらが」の見学する人はいないわけではありませんが、
1時過ぎで数えるくらいしか甲板に人影がありません。

乗員にとっては稀に見る楽ちんな一般公開だったんじゃないでしょうか。

というわけで女王陛下の海軍艦「アルビオン」見学を終わりました。

われわれが日頃目にする機会のないアメリカ以外の艦というだけでも
暑さの中出かける価値は大いにありましたし、何と言っても、
ロイヤルネイビー&ロイヤルマリーンの佇まいとか立ち居振る舞いは、
「装備より人」に興味のあるわたしにとっては眼福というべきもので、
この日、心から満足し、一種の達成感すら感じながら帰途についたのでした。

 

終わり。

MiGマスター・クルセイダー〜空母「ミッドウェイ」博物館

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もう一度空母「ミッドウェイ」フライトデッキ上の航空機紹介に戻ります。

ご覧のように、艦橋をバックにしたナイスな角度で写真が撮れる位置に、

Vought F-8 「クルセーダー」Crusader 

があります。

アラメダ旧海軍基地跡に展示繋留してある空母「ホーネット」上で
初めてこの飛行機にお目にかかった時以来、この名作機について
その誕生がチャンス・ヴォート社の「救世軍」となったことなど、
色々とお話したきたものです。

クルセーダーに何かしら歴史的な意味があるとすれば、それはこれが
世界最初の音速艦上戦闘機であったことでしょう。

「ミッドウェイ」から発進しようとしている2機のF-8。
どちらもカタパルトから発進するためのワイヤーが下部に見えていますね。
当時「ミッドウェイ」のカタパルトはパワーアップしたばかりでした。

F-8が「ミッドウェイ」にいるということは、これはベトナム戦争の頃です。
このころの「ミッドウェイ」戦闘機隊は

F-4B(ファントムII)戦闘飛行隊
F-8C/D(クルセイダー)戦闘飛行隊

だった、と過去の自分のブログに書いてありました(笑)

ただ、「ミッドウェイ」の場合、ファントム部隊のMiGバスターぶりが凄すぎて、
同じ時期に「ミッドウェイ」から発進して戦闘をしていたF-8部隊は
残念ながら少し霞んでしまったのか、検索しても記述が出てきません。

 

記録によると、最初に北ベトナム軍のMiGと戦ったF-8はUSS「ハンコック」
搭載部隊のクルセーダー部隊でしたが、この時の対戦はMiG17の勝利でした。

ファントムIIが爆撃と戦闘機どちらの機能も持ち、空対空ミサイルを
空戦に使うことができたので、ドッグファイトの時代は終わりを告げ、
相手に接近することなくミサイルを放つファントムIIの戦闘スタイルが
対空戦闘の主流になる、と当時の専門家たちは予測していました。

しかし、北ベトナムでMiGとクルセイダーとの間で繰り広げられた
空戦の結果を見る限り、少なくともドッグファイトの能力からいって
F-8はMiGと互角に戦うことができる当時の最高の戦闘機だったと言えます。

搭載されていた20ミリ機銃のみによる勝利こそありませんでしたが、
機敏性に優れた機体を持つF-8のパイロットたちは対MiG戦で結果を出しました。

今の戦闘機のシェイプから見るとあまりに牧歌的すぎて(失礼)
この航空機が超音速ジェットだったというのがなんとなく不思議な気がしますが、
それはともかく、ベトナム戦争中MiGを撃墜したF-8搭乗員の名簿を貼っておきます。

CDR Harold L. Marr VF-211 MiG-17 12 June 1966
LT Eugene J. Chancy VF-211 MiG-17 21 June 1966
LTJG Philip V. Vampatella VF-211 MiG-17 21 June 1966
CDR Richard M. Bellinger VF-162 MiG-21 9 October 1966
CDR Marshall O. Wright VF-211 MiG-17 1 May 1967
CDR Paul H. Speer VF-211 MiG-17 19 May 1967
LTJG Joseph M. Shea VF-211 MiG-17 19 May 1967
LCDR Bobby C. Lee VF-24 MiG-17 19 May 1967
LT Phillip R. Wood VF-24 MiG-17 19 May 1967
LCDR Marion H. Isaacks VF-24 MiG-17 21 July 1967
LCDR Robert L. Kirkwood VF-24 MiG-17 21 July 1967
LCDR Ray G. Hubbard, Jr. VF-211 MiG-17 21 July 1967
LT Richard E. Wyman VF-162 MiG-17 14 December 1967
CDR Lowell R. Myers VF-51 MiG-21 26 June 1968
LCDR John B. Nichols VF-191 MiG-17 9 July 1968
CDR Guy Cane VF-53 MiG-17 29 July 1968
LT Norman K. McCoy, Jr. VF-51 MiG-21 1 August 1968
LT Anthony J. Nargi VF-111 MiG-21 19 September 1968
LT Gerald D. Tucker VF-211 MiG-17
(pilot ejected before combat 22 April 1972)

ドッグファイトで21機という結果。
自分で以前書いておいてすっかり忘れていましたが、クルセイダーは
対MiGでキルレシオ8対1という成績を上げており、

「MiGマスター」

と渾名されていたんでした。

ただしブルーのマーキング、タッカー大尉はMiG17を撃墜したことになっていますが、
・・パイロットは戦闘の前に脱出した・・・?

パイロットが脱出したからにはMiGは撃たなくても落ちたわけですよね。
それがどうしてタッカー大尉の撃墜記録になるのかが謎です。

そういえば、あの戦記小説「大空のサムライ」の中で、主人公の
坂井三郎氏をモデルとした撃墜王坂井三郎が
(色々と大人になった今ではこんな風にしか思えなくなりました)

「対戦する前にパラシュートで逃げてしまった敵がいたけど、
これって撃墜記録になるんでしょうか?」

と上官(笹井中尉)に尋ねるシーンがありましたっけね。
これはこのパターンをそのまま地で行ったケースのようですが、
撃墜記録は一応対峙したというかそれを見ていたとタッカー大尉に付きました。

本人はかなり微妙だっただろうなあ。

ちなみに、ベトナム戦争中の海軍パイロットのエース(5機撃墜)は

デューク・カニンガム大佐

ウィリアム・P ・ドリストル大佐

の二人のF-4パイロットです。

左から二番目(カニンガム)と三番目(ドリストル)。
手に持っているのはF-8 の模型?

ベトナム戦争中生まれた5人のエースのうち、3人が空軍で2人が海軍でした。
そのうち4人はエースの資格を満たす5機撃墜記録を持っています。

唯一空軍のチャールズ・デベルブ大佐だけが6機撃墜の記録を持っていますが、
これは5機目を撃墜した同日にもう1機撃墜したからで、アメリカ軍では
5機撃墜してエースになったら自動的に名誉除隊することになっていて、
5機以上の撃墜は本来記録としてあり得ないのだそうです。

 そして黄色いラインで印をつけた「MiGマスター」の名前を今一度見てください。

展示機のコクピットに乗っている人物のヘルメット、この、
もし一部韓国人が見たら発狂するというホットな旭日旗柄は、他でもない、

VF-111  SAN DOWNERS「サン・ダウナーズ」

のクルセイダーであることを意味しています。
黄色でマークしたトニー・ナージ大尉は、サンダウナーズが
空母「イントレピッド」艦載部隊であった時、サイドワインダーでMiGを撃墜しています。


当ブログで、「イントレピッド」見学についてアップした記事で
このナージ中尉について書いた直後、東から移動してサンフランシスコで
アラメダに繋留されている空母「ホーネット」の見学をしたのですが、
その艦橋見学ツァーの解説をしていたベテランが元クルセイダー乗りでした。

そこで彼に二人になった時、

「もしかしたらアントニー・ナージ大尉って知ってます?」

と聞いたらなんとびっくり、ご当人と一緒に勤務したことがあり、
向こうもびっくりしたでしょうがこちらも驚いたということがありました。

こらこらおっさん、サイドワインダーを手で触るんじゃない。

機体上部、可変翼の付け根上に「サンダウナーズ」と文字があるのがお分かりでしょうか。
ちなみにこの可変翼ですが、折りたたみ式になっています。

翼はこのまま上に跳ね上げる形。
着艦してタキシングしながらすでに翼を畳んでいるせっかちさんです。

そういえば某エリア88という漫画では、風間真さんが飛行中に翼を畳んで
敵の罠を突破するシーンがありましたっけね。

もちろん飛行中に翼を畳むことはできないのですが、その逆、
F-8のパイロットが翼を広げ忘れたまま飛び立った、というのは

少なくとも7−8回!!

本当にあったと報告されています。
そのうち1960年の例は、空中で翼が伸びていないことに気がついたパイロットが
 (#`Д´)ノノ えーい!と次々燃料を捨て、24分後無事に帰還したというものでした

この時の離陸写真。確かに翼がない(笑)

翼は空中で伸ばせないので、気がついたら一刻も早く帰るしかないのですが、
搭乗員の技量のせいか、F-8の機能が優れているせいか、
翼を伸ばし忘れて飛び立った飛行機で墜落した機は一機もなかったそうです。

機体に記された3人の軍人の名前は、いずれもベトナム戦争で戦死した
「ミッドウェイ」艦上機時代のクルセイダーパイロットのものです。

リン中佐

ドイル・リン(DOYLE W. LYNN )中佐は、サンダウナー、
VF-111のパイロットで、北爆が始まった1965年5月27日、
「ミッドウェイ」から出撃をし、撃墜されました。
パラシュートは目撃されず、遺体も見つかりませんでした。

ラ・ヘイ中佐

ジェームズ・ラ・ヘイ(JAMES D.LA HAYE )中佐は、同年5月8日、
北ベトナムの沿岸で乗っていたG-8が撃墜され、機体は海に墜落、
パラシュートは開かず、戦死しました。

ゴラホン中尉

ジーン・ゴラホン(GENE R. GOLLAHON)中尉は、
「ブラック・フライデー」と言われた海軍飛行隊最悪の日、
北ベトナム軍の地対空ミサイル (SAM)に撃墜された
3人のパイロットのうちの一人でした。

撃墜された彼のF8は地上で爆発し、パラシュートは認められませんでした。
彼の遺体は9年後の1974年、本国に返還されています。

「ミッドウェイ」時代のサンダウナーズの戦死者はこの三機のみとなります。

そして1966年の6月から7月までに北ベトナムで12回行われた空戦で、
クルセイダー全体の損失率はMiG17の4機に対して2機。
ベトナム戦争を通してのキルレシオは19:3で、これは全アメリカ軍の
機体の中でベストの数字だということです。

この19機の内訳はMiG-17が16機、MiG-21が3機。

そしてこれも戦争にはありがちなことですが、アメリカ側の記録によると
ベトナム戦争中空戦で失われたF-8はわずか3機であり、
その他すべての撃墜は対空砲によるものだとなっていて、
VPAF(ベトナム人民空軍)側の主張は11機の F-8をMiGが撃墜した、
というものだそうです。

ベトナム戦争の間に170機のF-8クルセーダーが喪失しましたが、
そのほとんどが地対空砲によるものか、あるいは事故によるものです。

F-8は当時の陸上機をも凌ぐ高性能を誇りました。
例えば同じエンジンを搭載した空軍のF-100戦闘機の最高速度はマッハ1.3、
本機はマッハ1.7と、エンジンの性能が最大限に生かされています。

これはエアインテークの上から前方に突き出したコーン状の機首が、
偶然ショックコーン(エアインテークの手前で空気の衝撃を吸収する)
の役目を果たすことになったからだということです。

偶然って・・・じゃ何のためにわざわざこの変な形にしたのよ。

 

続く。

 

 

「アイアン・チンク」(鉄の中国人)〜帆船「バルクルーサ」 サンフランシスコ海事博物館

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帆船「バルクルーサ」の甲板から一階したに降りると、
そこはすでに荷積みしてある貨物を搭載しておくデッキです。

建造以来、何度かジョブチェンジをした「バルクルーサ」は、
雇い主によって様々な貨物を運んで航行してきました。

1886年から1930年まで大きく分けると三種類の違った任務に就いた船、
ということで、このフロアではそれらの任務を船内を三つに分けて紹介しています。

1、イギリス船籍だった頃の「バルクルーサ」は13年間、木材、
麦などをアムステルダムやアントワープ、インドから運び(黄色)

2、アメリカの船主に買われてからの3年間、サンフランシスコを起点に
太平洋、主にオーストラリアとの間を往復し(緑色)

3、28年間アラスカでサケ漁を行っていました。

こうして見ると、一番過酷だったサケ漁に携わっていた時間の長さが目を引きます。

 

1899年頃、木材の運搬を行っていたことがあります。
「ランバージャック」というのは木こりのことで、アメリカのアニメの翻訳で

「たーおれーるぞー」

と言っている木が倒れる時の掛け声は、英語では

「ティ〜ンバ〜〜〜!( Timberrrrr!)」

と言います。
これだけをやって生計を立てていた人たちの写真がありますが、
木が巨大なほど危険も増えたと・・・でっていう。

切り倒した木は加工しなければなりませんが、それがまた
大変危険な仕事だったんですよ、っていう。

前回船の中で航路途中に生まれた「インダ・フランシス」の話をしましたが、
その頃「バルクルーサ」がインドからサンフランシスコに持ち運んでいたのは
ジュート布でした。

カリフォルニアの農家が穀物袋に使うために輸入していたそうです。

手前の箱はイタリアから輸入するオリーブオイルのようです。
「BERIO」はフィリッポ・ベリオが創始したオリーブオイルの会社で、
現在でも世界中で製品を買うことができます。

わたしが思わず色めき立ってしまったコーナー。

「ピアノがある!」

「LIVING IN STYLE!」

というボードには、当時のサンフランシスコでは、デパート
「W. & J. SLANE 」に並ぶビクトリア朝の最新型のファンシーな家具、
そして陶器に夢中になって、こぞって買い求めたことが書かれています。

デパートがあったとされるマーケットストリートは、現在でも
古くからの建物と最新型のビルが混在するビジネス街で、デパートもあります。

「コールマンズ・マスタード」のマスタードは、創業200年のイギリス企業です。
アメリカではS&Bが主流ですが、コールマンも時々見ます。

フランスから輸入されたスピリッツの木箱。

アメリカの建築業界では当時西海岸の建築物に使う窓ガラスやセメントを
ベルギーからの輸入に頼っていました。

「バルクルーサ」が1889年、アントワープから2万2千ケースのガラスを
積載して運んできたという記録があります。
ガラスは右側の図のように積み重ねて運搬しました。

右側の会社は「バルクルーサ」が運んできたガラスを売っていました。

こちらは船内で使用されていた道具など。
真ん中はストーブですね。

そしてアラスカでサケ漁をしていた頃の展示です。
後ろの木箱は完成形で、手前の積み重ねられた木材は木箱の素材です。

サーモンのオイルというのは、最近オレイン酸やDHA/EPAが取れる
サプリメントとして需要がありますが、この頃はそんな健康志向はありませんから、
普通に魚油としてマーガリン、ショートニング、あるいは固形石鹸の原料、
製革用油、重合油、ボイル油、低級塗料用油としても利用されたのだと思われます。

トマト、もも、チェリー、サヤインゲンなどの缶詰がありました。
これはもしかしたら船員の食事に使われたものかもしれません。

アラスカ・パッカーズという缶詰会社のためにサケ漁をしていた時、
漁師として乗り込んでいたのは、主にノルウェー人とイタリア人でした。

彼らに対して、アラスカ・パッカーズはまともな食事を出していたからです。

例えば、チキン、やぎ、豚など、船内のオリで飼われていた家畜は、
外人部隊である漁師と船の上層部のクルーの口にしか入りませんでした。

彼らは一日三回の食事をすることができたと言います。

しかしながら、船には「下層」の乗組員がいて、ほとんどが中国人でした。
彼らを雇うのも中国人の請負人で、中国人の他には日本人、フィリピン人、
アラスカ原住民、メキシコ人に黒人といった人種がこのクラスでした。

彼らは錆びたブリキの食器などで1日二回食事をしましたが、

「バター、フルーツ、デザート、みずみずしい野菜やミルクなどは
決して口に入らなかった」

イタリア人とスカンジナビア人の漁師たちが自由に食べられた、
ジャムとバターなどが欲しければ、彼らは自分で買わねばなりませんでした。

そして、船尾の一部分のこの寝台で寝起きをしていました。
実際にこの場に立ってみると、風は防げず、おそらくアラスカでは
さぞ劣悪な環境であったと今でも思われます。

辮髪をした船員もいます。
キャンバスのカーテンのようなもので寒さを防ぎ、
皆で身を寄せ合うようにして固まって生活していたのでしょう。

もちろん風呂など航海中は一度も入れるわけがありません。
おまけに彼らの仕事はは採れた鮭をほとんど手作業で捌くような
いわゆるダーティジョブだったため、おそらく彼らの居住区は
悪臭紛々かつ酸鼻を極める状態であったでしょう。

「奴隷よりほんの少しだけマシな生活」

彼らの扱いはそのようなものでした。

ここで働いていた者が「錆びたブリキの食器」で食べていたといっているのですが、
ここには中華風の箸や食器がおそらく雰囲気を高めるために置いてあります。

彼らがこのように自分の食べたいものを自分で作れるような立場ではなかったことは
残されている証言からしても明らかなのですが。

彼らは嘘しか言っていませんでした。
あなたは、もし我々がここでの実態を知っていたら、
それでもここにやってきたと思いますか?

想像してください。
船の船首部分の隅には100個くらいの寝床の棚があって、
労働者は人種によって分けられているのです。
空いている寝床はほとんどありませんでした。

この寝床は「チャイナタウン」と言って、最初の頃は、缶詰め労働者は
中国人であったことを表しました。

左の写真は、天気のいいある日、中国人労働者通称『チャイナ・ギャング』が
船首付近で賭け事をしている様子です。

どんなに劣悪な労働環境であっても、ここで働くしかない人たちが
ここにはたくさんいたのです。

横からしか見られないので中身がイマイチよくわかりませんが、
これは、

「サーモン・ブッチャリング・マシーン」 (鮭処理機械)

です。
残酷なことに、この機械の正式名称は、

「Iron Chink」(アイアン・チンク、鉄の中国人)

と言ったそうです。
チンクとは、もちろん中国人の蔑称です。

エドムンド・スミスという人物が特許を取ったこの機械は、
先ほどの中国人居住区「チャイナタウン」の真横に置かれ、
四六時中ここで中国人労働者が鮭の解体を行っていました。

当時でさえ、このあまりに人種差別的な名称は世の顰蹙を買ったため、
1912年に名前は

「スミス・ブッチャリング・マシーン」

に変えられました。

メーカーの触れ込みによると、操作に必要なのはたった二人で、
しかし機械の性能は15人分の働きに相当する、というものでしたが、
中国人労働者の賃金の目を覆うばかりの安さを考えると、
あまりコストカットにはならなかったかも・・・

あ、それを中国人に操作させていたのか(苦笑)

しかも、この機械でできることは限られていて工程の一部に過ぎず、
頭を取ったり、ヒレや内臓を取り除いたり、という仕事は
全部手作業で行わなくてはいけません。

というわけで、こちらの仕事には

「鉄でない中国人(ノン・アイアン・チンク)」

がやはりたくさん必要だったというわけです。

差別意識とかいう以前に、当時のアメリカ人は、有色人種を
言葉が通じて人間の仕事ができる動物程度に思っていた、ということです。

日本が日清・日露戦争に勝ち、国際的に台頭してくるのを
苦々しく思い、何が何でも日本を潰そうとしていた彼らの意識の中には
この船の中の白人種とそれ以外の扱いの違いに表されるような

「そもそも有色人種は我々と同じ人間ではない」

という価値観からきた、恐るべき傲慢さと驕りが、国家首脳から
末端の民衆に至るまで拭い難く染み付いていたということなのです。

 

あまりの労働環境のひどさに、流石のアメリカでも問題になったという
当時の有色人種船員の扱いが偲ばれるこの部分の展示を見ていて、
わたしは何やら陰鬱な、やりきれない気持ちになってしまったのでした。

 

続く。


ピッツバーグで大学見学をする

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今回のアメリカ滞在、次なる目的地はペンシルバニア州ピッツバーグです。
ニューヨークとシカゴの中間くらいにあって、比較的五大湖の一つ
エリー湖に近いという位置にあり、昔は鉄鋼の街として有名でした。

空港で車を借りて市街に向かう途中、もう廃線になっているらしい
汽車の鉄橋の下を潜り抜けました。

ピッツバーグが造船業を最初にして鉄鋼産業を発展させたのは
1800年代初頭だといいます。
もしかしたらこの鉄橋も当時できたものかもしれません。

ピッツバーグというところは渓谷が多いので橋が446箇所にあるそうです。

List of bridges of Pittsburgh

この街を訪れた最大の目的は大学見学です。

ピッツバーグは大学の街でもあり、特に鉄鋼王と言われた
カーネギーが作ったこの大学が有名です。

アメリカの大学設備はどこも広い敷地にあらゆる目的に応じた施設があるのが普通で、
この大学も広いキャンパスに体育館ほどの大きさのジムがあり、それだけでなく
室内で楽しめるスカッシュのコートばかりの階があって圧倒されました。

キャンパスの一隅で目を引いた変なモニュメント。

なんかこんなコンセプトのアート、岡山の三井造船近くで見たなあ。
まあ、なんというか自己満足ですわ。

説明によると、

「評判が悪く、皆の顰蹙を買っている」

とのことです。

工科系の大学ですが、実は案外有名なのが同大学の演劇科。
そのレベルは世界でもトップレベルと言われているということです。

「ピアノ・レッスン」で聾唖の主人公を演じたホリー・ハンター、
「ヒーローズ」のサイラーを演じたザッカリー・クイントのほか、
アメリカでは有名な俳優が多数ここの卒業生です。

なんだか変な柵が見えてきました。

「これがこの大学二つ目の顰蹙です」

アメリカの大学にありがちな「受け継がれている変な風習」。
ザ・カットと呼ばれるこの柵は、昔はカーネギー工科大学と女子大を分けるものでしたが、
いつの間にか、在校生によって毎日(夜中や日の出前)塗り替えられ、ギネスブックにも

「もっとも頻繁に塗り替えられた柵」

として載っている「ネタ」になってしまいました。
この写真だと大変な分厚い柵のように見えますが、本体は細いもので、
その厚みのほとんどがペンキによるものだそうです。

ちなみに2006年のフェンス。こんなにスマートです。
どうやら日本人の先輩が書いたらしく、富士山にスイカ、祭りの団扇、

「富士ひとつ うずみのこして 若葉かな」

の句。(達筆)
ちょっと日本語が喋れるくらいのアメリカ人には理解できないと思うがどうか。

この建物が建てられたのはまだカーネギーが存命の頃。

内部は坂に沿って長い傾斜の廊下になっており、その両側に教室。

「大学を作った時、もし経営が失敗したら鉄鋼工場にしようと思ったようです」

傾斜になっていると引力を利用したラインができたということなんでしょうか。
まあ、ここが一度も工場に転用されることがなくて何よりです。

その当時の工学部ではこんなことをやっていました。

1906年、レンガ積み。

1910年、はんだ付け?

1920年、鉄鋼成型?

なんだか工学部というより工場でやってることって感じ・・・。
ちなみに創立は1900年、当時は「技術学校」と言っていました。

さすが鉄鋼王の作った校舎だけあって、スチールで補強された柱や廊下のアーチ、
丈夫そうなのは半端ありません。

そしてこれが「第三の顰蹙」なんだそうです(笑)

この学校を卒業した中国人の実業家だかなんだかの銅像で、
比較的歴史の浅い大学のせいか、権威的なものを嫌い基本銅像がない
(学校創立者の銅像すらない)この大学のキャンパスに、
札束で頰をひっぱたくようにして無理やり自分のを建てさせたのだとか。

まあ、これは説明してくれた人によると、と言っておきましょう。

キャンパスには、新旧取り混ぜてあらゆるタイプの建築がありますが、
中にはビル・ゲイツが寄贈したコンピュータ工学の建物もあるそうです。

続いて、研究室を見学させてもらいました。
まず、ドローンでのチェックシステムを研究しているゼミ。

日本の会社からの研究員がおられました。

この他にも、ブロック工法で作られた船舶の船殻を、
非破壊検査するロボットを日本の造船会社と共同で研究しているところで
詳しい映画を見せてもらいましたが、企業秘密なので公開不可です。

このドローンの実物大。
河川の突堤などのひび割れを無人でチェックするという研究でした。

3Dプリンターの特殊な成型機械。
DENSOのロゴがあります。

ここで成型しているのはこういうもの・・・ですが何に使うかは秘密。

移動の時にバナナの研究をしている人発見。

と思ったら娘と遊んでるだけのお父さんでした。
学校の課題を手伝ってるのかな?

この2倍の大きさの部屋いっぱいに工作機械が並びます。
この右側に並ぶ機械はシャープ製だったりします。

今の3Dプリンタで、人の顔の皮が作れるという話をしていて、ふと、

「ミッションインポッシブルみたいですね」

というと、まさにあれだそうです。
あれほど短時間で作れるかどうかはともかく、あのようなものを作ることは
今の技術的に全く不可能ではないというお話でした。はえ〜〜。

この研究室では、工学と医学をコラボしたテーマの研究が中心です。

例えばこれ、英語では「クラブフット」(蟹足)と言っていましたが、
日本語で言うところの先天性内反足を矯正するための器具なのです。

先天性内反足を矯正するには、夜寝る時に器具をつけて少しずつ足を
ねじって動かしていくというやり方があるのですが、その器具の開発には、
このように骨の模型にさらに透明の筋肉をかぶせた模型を使って
実際に動かしていくということを行います。

なんのことはないリサイクル用の紙置き場(笑)

さっきの足の模型のように、骨の形にほとんど筋肉と同じ感触の
透明の樹脂をかぶせ、さらに皮膚をかぶせてあります。

人体のパーツ模型があちこちにゴロゴロしてます。

足型を作るための原型を切り出したもの。
お花を挿す給水スポンジのオアシスみたいな材質ですかね。

医療現場でトレーニングに使うための模型も研究しています。
例えば太って脂肪の多い人が多いアメリカでは静脈を探しにくいので、
こういうのの「太った人バージョン」で針を刺して練習したりします。

脊椎の湾曲に対して矯正を行う器具。

こういうのを見ていてふと、

「脊髄液を取る時にする脊椎穿刺の練習用なんてないんですか」

と聞いてみると、それは聞いたことがない、という返事でした。

この大学には医学部はないのですが、冒頭写真の、ギネスブックに載っている

「世界で一番古くて高い建物」

を持つ同市内の大学の医学部や、イエール大の医者と提携して
研究を行うことが多いという話でした。

「特に脳外科医とかになると、エリート意識が高くて
『プリンス』みたいな人が多く、やりにくいことも多い」

というのはここだけの話です。
日本でも脳外科医や心臓外科医が、という話をよく聞きますが
これって世界的な傾向だったのね。

最後に見せてもらったのが教授の部屋。
日本の大学、例えば東京にある私学大学の教授室の4倍くらい広い部屋でした。

ここでも一連のスライドを見せていただいて、息子の参考にさせていただきました。

というところで学校の見学はおしまい。
今日は教授のお宅での夕食にご招待されています。

ピッツバーグの街並みは、イギリス風の建物が連なる、古き良きアメリカという感じです。
教授のお宅は山手にあるのですが、車で坂を上っていくと、どんどん家が立派になり、
そして家と家の感覚がとてつもなく広くなっていくのでした。

到着。
外側から見ても素敵ですが、中は吹き抜けの居間に客用ダイニング、
裏の森に向かってテラス兼サンルームを備えた日本規格で言う所の豪邸でした。

「今日はテラスでバーベキューをする予定だったのに、
雨が降ってしまったので予定変更です」

バーベキューになれば、活躍するのは一家の主人である教授のはずだったのですが。
(アメリカの家庭では、バーベキューは男の仕事、と決まっています)

夕食が終わってアメリカ人の家庭を訪問した時の恒例「ハウスツァー」が始まりました。
客間その2にいくと、古いアップライトピアノが置いてあったので、
急遽わたしと息子さんのセッションが始まってしまいました。

彼は学校のジャズクラブでトランペットをやっていますが、ヴォーカルも得意で、
好きなアーティストはチェット・ベイカーだということです。

「Ain't Misbehavin’」「La mer」「Don't Get Around Much Anymore」

などの歌とトランペットにわたしがピアノで参加。
レパートリーのコード譜は前もってiPadに打ち込んであるので、
彼はわたしの伴奏のためにそれを即座に出してくれます。
さすがは今時の高校生。


ところで、この写真はその後のハウスツァーで地下室に行った時、
彼が楽器コレクションを見せてくれているところです。

高校生がフリューゲルホーンを含め4本も楽器を持っているなんて、
贅沢すぎないか?と日本の人なら思うかもしれませんが、
彼は状態のいい中古を上手に安くebayで探してくるのだそうです。

そういえば我が家の息子も、学校のドミトリーのルームメイトを、
フェイスブックか何かで条件をつけて募集して、感性の合いそうな同居者を
早々に見つけていたことに驚かされたばかりです。

今時の学生には、アナログ時代に学生生活を送った旧人類には想像もつかない、
ネットを媒介とした情報処理の方法があり、ごく自然にそれを活用しています。

この息子くんは音楽だけでなく絵も得意で、この地下室(総鏡張りのスタジオが隅にあって、
そこだけでも10畳くらいの広さがあった。前の住人がジムにしていたらしい)
に、プロ用の天板に傾斜のつけられる机を設置してそこで絵を描いているそうです。
車でホテルに送っていただく車の中、

「クリエイティブなお子さんをお持ちで将来が楽しみですね」

というと、父親である教授は

「わたしとしては科学者になって欲しいのですが」

と実に世間一般の親らしい希望を漏らしておられました、

 

 

 

フライトオペレーションと空母「フォレスタル」の事故〜「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」飛行甲板の展示をご紹介しています。

正面から見るとピエロの顔みたいでいまいちかっこよくない、

A-7 コルセアCorsair II

は、アメリカ海軍が初めて導入した軽爆撃機(艦上攻撃機)です。
1967年以来ベトナム戦争から1991年の「砂漠の嵐作戦」まで活躍しました。

この独特なデザインのため、いろんなあだ名があったと言います。

「ザ・ハーレー(The Harley)」

「スラッフ(SLUF )」

「ザ・ゲーター(The Gator)」

SULFは Short Low Ugly Fellow、「チビのアグリーな奴」の意味で、
これがパイロットの間では一番ポピュラーな愛称だったようです。

「誰がSLUFって呼んでるって?」

あるコルセアIIのノーズ(ボディかな)ペインティング。
ハーレーというのはあのハーレーダビッドソンのことでしょうか。
「ゲーター」はアリゲーターのことで、甲板のスタッフが主にこう呼んでいました。

確かにコルセアII、どことなくワニを思わせるシェイプをしています。

wiki

ノーズ下のインテイクという発想はF-8「クルセイダー」からきています。
自慢ではありませんが、機体音痴のわたしなどは今でも時々両者を混同します。

見分け方は、インテイクが分厚いのがコルセアII、薄いのがクルセイダー。

機体の近くにボマージャケットが夏場にも関わらずかかっていました。
音響装置のようなので、ボランティアでトークをするベテランの私物でしょうか。

もしかしたらもうすぐイベントが始まるところだったのかもしれません。
テントの下には何人かがトークショーの始まりを待っているようでした。

残念ながらわたしは時間がないのでイベント関係は全てパスです。

このコルセアIIは、空母「コンステレーション」CVA-64の
艦載機であったことがペイントでわかります。

コンステレーション(Constellation)というのは星座という意味ですが、
アメリカ国旗の星を表す言葉でもあります。
事実上「アメリカ合衆国の旗艦」だった「コンステレーション」の
艦載部隊だったVA-97「ウォーホーク」のテールコード「NH」が見えます。

テールコードとはアメリカの軍用機の垂直尾翼に記される
機体認識のためのイニシャルで、2つのアルファベットからなり、
機が所属する基地と、部隊マークからなる所属部隊を表す形で構成されます。

例えば横田エアベースの所属機は「YJ」で、「J」はおそらくジャパンを意味します。
二文字で基地を表さなくてはならないため、法則はかなりランダムで、
例えば、

AF エア・フォース・アカデミー

RA  ランドルフ・エアベース

のようにそのものがあれば

NV レノ・タホー (ネバダ)
OH  スプリングフィールド(オハイオ)

のように州名からの二文字のこともあります。
そうかと思えば

SA ロックランド・エアフォースベース(テキサス)

のように一体どこから取ってきたのか謎(多分TECKI-SA-S)なものも。

この「NF」は、VFA-97が海軍航空基地(NAS Lemoore)所属ということで
「ネイビー」とエアフォースの「フォース」から取ってきたのではないかと
わたしは推測してみたのですが、本当のところは知りません。

どなたかご存知でしたら是非教えてください。

 

ウォーホーク部隊はコルセアIIでベトナム戦争に参加し、ここでもお話しした、
アメリカ人とベトナム人を崩壊時のサイゴンから救出する大作戦、

「オペレーション・フリークェント・ウィンド(頻繁な風)」

に参加し、その支援を行なっています。

wiki

空母「ミッドウェイ」乗組で横須賀勤務も経験したアメリカ海軍下士官、
ジロミ・スミス氏の著書「空母ミッドウェイ」には、ある日ミッドウェイに着艦した
物資輸送のヘリから「ものすごい美人」なパイロットが降りてきて、
彼女がトイレを使用している間、前に立って見張りをしていたという話が出てきます。

今では普通に女性軍人が勤務している米海軍空母ですが、当時は男だけでした。
しかし、輸送艦などにはすでに女性の乗員が勤務していましたし、
コルセア IIの戦術電子飛行隊にはご覧のように女性パイロットもいました。

彼女らの後ろは間違えようのないインテイクの形をしたコルセアIIです。

ところでコルセアIIはよく見るとカタパルトに乗った状態で展示されています。

カタパルトとはご存知のように航空機の射出機ですが、
これは甲板に二箇所設置されている油圧式のH4-1型の一つとなります。

カタパルト発進するF/A-18

F/A-18 Hornet Catapult Launch - USS Nimitz

現在の空母上でのフライトオペレーションの様子です。
ところで、これも観ていただけますか。

Foreign Object Debris Walk-down On Supercarrier USS George H.W. Bush

色とりどりのシャツを着た人々が、甲板の上をぞろぞろといった感じで歩いて行きますが、
これは決して朝の朝礼に向かうところでも、ウォーキングしているのでもありません。

「FOD Walk Down」(フォッド・ウォークダウン)

といって FODとは

「Foreign Object Debris」

つまり簡単にいうと、ゴミ拾いのために甲板を歩いているのです。
空母ではフライトオペレーションの準備として必ずこの作業を行います。
フライトの前に、数十人から100人単位が、フライトデッキの艦首から艦尾まで
一列になって(この映像では参加者が多いので三列以上になっている)
下を見ながら歩いて落ちている小さなゴミを拾って歩く作業です。

どんな小さなゴミ、例えばネジ一本でも、耳栓でも、コインでも、
残っていて艦載機のエンジンに吸い込まれると大事故に繋がるからです。

このウォークダウンには、声がかかった時に甲板にいる者が
問答無用で全員参加しなくてはなりません。
天気が良いと、ウォークダウンは一休みの口実になるので、
フライトデッキ以外からも集まってきますが、寒い日や雨や雪が降っていると
誰も出て来ないので艦長が直接命令をする羽目になることもあります。

こういう時には、イエローのシャツを着た「ハンドラー」(航空機の移動を取り仕切る)
のためのパシリである歩兵部隊の水兵たちが、目の色を変えて
艦内を除いて周り、参加していない人たちを引きずり出して参加させるのです。

ちなみにこのパシリは「ハンドラー」から絶対の権限を与えられ、
ハンドラーの命令以外では一歩も動かず、やたらと威張っていたとか。


着艦では機体が甲板にタッチダウンした途端、フックがアレスティングワイヤーに掛かり、
艦載機が驚くほど急激に停止する様子がご覧になれます。

タッチダウンの瞬間、艦載機はパワーをフルにします。
ワイヤーは全部で3本ありますが、その全部をミスしても、
すぐにもう一度飛び立ち再びアプローチに向かえるようにです。

しかしほんの稀に、このパワーを失速させてしまい、
フックをかけることもできずに海に墜落する事故も起こります。
今は知りませんが、少なくとも「ミッドウェイ」では、
夜間着艦アプローチをして着た早期警戒機E-2がフックを引っ掛けず、
何を思ったかその瞬間パワーを落としてしまったため、
夜間の海に墜落するという事故が起こったことがあります。

E-2「ホークアイ」はご存知のように背中に大きな円盤を背負っており、
海に落ちた時、海上にはこの円盤だけが見えていたそうです。

おそらくこの円盤の浮力だけで機体は数十分浮いており、この間
プレーンガードのため飛んでいたヘリがホバリングを続け、
「ミッドウェイ」からはSAR(サーチ・アンド・レスキュー)隊員が
飛び込んで救出作業を行いましたが、7名の乗員のうち2名は
機体と共に暗闇の海に消えていったということです。


ビデオでは着艦の後、発進のシーンが見られます。
2:18~で、発進するF/A-18の後ろに鉄板が立ちあがります。

これはジェット・ブラスト・ディフレクター、JBDといい、
「ミッドウェイ」の時代にも同じように稼働していたものです。

フライト・オペレーションでは次に飛ぶ艦載機は後ろで待機していて、
前の機が発進しJBDが閉まるとカタパルトまで移動し、発進を行います。

 

この映像ではそんな風に見えませんが、昔も今もフライトオペレーションは
大変危険な事故が起こりうる時間で、たとえどんなに完璧にオペレーションが
行われたとしても、事故を完全に防ぐことは不可能だといわれています。

 

例えば「ミッドウェイ」でも、まさにこのカタパルトからF-4が発進した時、
先端のウォーターポンプが破損し、同時に艦先端がすっ飛んで
カタパルト前部がめちゃめちゃに壊れたという事故がありました。

この時に破損して飛び散ったデッキの破片がインテイクに吸い込まれ、
そのせいで「ファントム」は海に真っ逆さまに落ちていったそうです。


しかし、空母のフライト・オペレーション史上、最大かつ最悪の事故は
1967年7月29日、
空母「フォレスタル」で起きた「F-4誤射事故」でしょう。

発進を待つ「ファントム」から、なんと誤ってミサイルが発射され、
デッキの反対側にいた A-4「スカイホーク」の燃料タンクに命中、
大爆発を起こし、燃料満載で待機していた他の艦載機に誘爆してしまいました。

ちなみにこのスカイホークはあのジョン・マケイン大佐の機だったそうです。
機体にミサイルが命中したのによく大丈夫だったなと思うのですが、
マケインはすぐさま脱出し、爆発と火災が広がっていたので、
治療を受ける前に爆弾を海に投棄する手伝いを行なったと自伝で述べています。

(あかん・・・・)

この時のドキュメンタリーがヒストリーチャンネルで制作されています。

USS Forrestal Fire 1967 (extract from History Channel Documentary)

F-4のパイロットがスイッチを入れた途端、ちゃんと装着されていなかった
セイフティピンが外れて、(強風で外れることがあった)ミサイルの発射装置が
アクティベイトされ、A-4に命中。
燃料が甲板に広がり、爆発の瞬間、27名が死亡しました。
その中には、消火活動を行なっていた消防隊の指揮官も含まれていました。

それから4分の間に6つの爆弾が爆発し、火災を引き起こして、
さらに91名が死亡。
18人の遺体はついに見つからなかったということが述べられています。

こちら海軍が製作した長めのドキュメンタリー、というか「啓蒙ビデオ」。

Trial by Fire: A Carrier Fights For Life (1973)

4:00くらいから実際の甲板上の映像、爆発の瞬間と火災、
その凄絶な現場が淡々と映し出されます。

12:20ごろには総員による必死の消火作業が写っていますが、
小爆発を繰り返す地獄のような甲板で、ホースを抱えて
突進していく乗組員たちの姿には涙が溢れてしまいました。

このタイトル「ラーン・オア・バーン」(学ぶか燃えるか)は、
消火活動を行う部隊の教育のために作られ、海軍では全員が
必ず観ることを義務付けられています。(多分今でも)

一次火災を消火するために現場にいた消防士が
ほとんど最初の爆発に巻き込まれて死亡してしまい、
残りの消火活動は訓練が十分でない乗員が行うしかなかったこと、
火災の消火のために水を掛けたため、それによって燃料が広がり、
火災を下の階に広げたことなどが教訓として残されました。

「フランクリン・ルーズベルト」

この事故を受けて、全てのアメリカ空母には「デッキ・エッジ・スプレー」、
全甲板を水、あるいは泡で洗い流す消火システムが搭載されました。


それから蛇足ですが、この事故の原因がなぜかA-4のパイロットであった
マケイン大佐の「ウェットスタート」のせいであり、父親が提督であった
マケインのミスを隠すために海軍が情報を捏造したという説が流れているそうです。

どうしてミサイルをぶつけられた艦載機のパイロットに責任があるのか、
全くこの事故に詳しくなくとも理解できないデマの類だというしかないのですが、
どうもマケイン・シニア議員を貶めたい民主党支持派が流しているようですね。

北朝鮮のミサイル発射は安倍首相がやらせている!に始まって、
獣医学部がオープンするのも、官僚がセクハラを行うのも、
ポストが赤いのも、安倍が悪い!アベガー!
と主張している人たちをなんとなく思い出してしまいました。


防衛団体で以前「ロナルド・レーガン」を見学した時、
引率をしてくださった元海幕長が、

「過去幾度となくあった事故を教訓とし、困難を乗り越えて、
アメリカ海軍は今日の空母を作り上げた。
空母はその知恵と、努力と長きにわたる研鑽の賜物です」

と言っておられたのが忘れられません。

敗戦によって断絶した我が国の空母の系譜ですが、今後「いずも」が
カタパルトを先端に搭載した固定翼機艦載空母となった時、
その運用技術のほとんどは、アメリカが何十年もの間に亘り血の汗を流して
築き上げてきた「先人の知恵」に多くを負うことになるのでしょう。

その時にはそれを真摯に受け止め、アメリカ海軍の空母史において
安全の礎となった軍人たちの犠牲にもぜひ思いをいたしてほしいと思います。

 

 

続く。

シューターと「ウィジャボード(コックリさん)」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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自衛隊の練習艦隊遠洋航海は、必ずアメリカ西海岸でサンディエゴに寄港します。
ここには西海岸最大の海軍基地があり、米海軍との交流が行われるからですが、
現地で我が練習艦隊の皆さんはサンディエゴ埠頭にある海洋博物館や、この
「ミッドウェイ」を見学するのが定番の観光となっているようです。

そんな訓練幹部たちは街に繰り出す時も制服着用だったりするわけですが、
白い制服の幹部が「ミッドウェイ」艦上で、この有名な「シューター」と
同じポーズで撮った写真を見たことがあります。

ミスターシューターのポーズは、この通り。
左手を後ろに組み、右手で二本指をまっすぐ甲板と平行に伸ばす。

カタパルトから艦載機を「シュート」するときの定番ポーズです。

Shooting Ted's boots

テッドって誰だよ、って感じですが、転勤が決まったので、
恒例の「ブーツシューティング」が行われています。

このユーチューブで注目していただきたのが、ブーツをシュートするときの
黄色いベストの人のポーズ。
一瞬ですが、ちゃんとこれと同じことをやっていますね。

Shooter Stu

ついでにこちらも。
途中からいちいち吹き出しで状況を説明してくれているのが超親切です。
1:00からはなぜか凸凹コンビ二人でやっています。
タイトルからしてメンターと新人かな?

轟音の中の作業なので身振り手振りでのサインが共通言語となっていて、
吹き出しを読みながら見ると大変新鮮ですので是非ご覧ください。

例えばシュートの前に左手をひらひらと振るポーズですが、

「Takes control, signals for military.」

それに呼応してパイロットは離艦の許可を得るための敬礼をします。
シューターは最終のチェックのための動作を行い、それからしゃがんで
ランチシグナル(発艦)をパイロットに与えるのです。

このサインが出なくてはそもそもカタパルトも動きません。

いやー、こんなの見るとシューターやってみたい!って思ってしまいますよね。
だってかっこいいもん。

というわけで、フライトデッキの「シューター」は同じポーズを決めて写真を撮る人で大人気。

大人も子供も、一緒にシュート。

わたくし、我が自衛隊の訓練幹部がシュートくんと撮った写真を
家族の方から携帯で受けとったことがあるのですが、
てっきり人形ではなく本物だと思い込んでいました。

ちょうどアメリカで「ミッドウェイ」を見て帰ってきたばかりだったのですが、
その時の見学は推定年齢68歳の老人と一緒だったのでフライトデッキまでたどり着けず、
甲板にはこんなコスチュームのボランティアがいたんだと勘違いして、

「きっと海自の制服だったので、
”ヘイ、そこのエンスン、やってみなYO!”
と誘われたのでは・・・」

などと返事に書いてしまたたものです。

それくらいリアルに見えたのですが、この角度で見ると
どうも左足がねじれすぎて不自然な気がするの。

とにかくこのシュートくん、「ミッドウェイ」のシンボル化していて、
あちこちの写真に登場する人気者です。

シューターが黄色いシャツを着ているということを広報するのに
こんな効果的なマネキンはないのではないでしょうか。

ちなみにこのシューター、階級でいうと大尉が中心だそうです。

艦載機の発艦準備完了を確認し、キャット
(CAT=キャタポルト=カタパルト)を作動担当者に
このポーズでスタートの合図を送るのが彼の任務。

シューターの合図を受けると、キャット担当者がボタンを押すことで
初めて発艦!となります。

どこの空母でも甲板でフライト・オペレーション行う色シャツの
役割と名前を説明しているのですが、ここのはパネルが用意され、
大変わかりやすい展示となっています。

黄色シャツが可愛い女性のモデルだったりしてサービスも。
と思ったら、このパネルの皆さん、「ニミッツ」の本物の乗員なんだとか。
こりゃびっくり、「美しすぎる海軍軍人」だ。
よく見たら結婚指輪をしています。

黄色ジャージは「ボースン」と呼ばれていて、エアボス
(フライトオペレーションの最高責任者。艦長と同階級の大佐の職で
『寝ない』と言われるすごい人)やハンドラー(フライトデッキとハンガーベイの
責任者で中佐)の歩兵というか、手足というか、手先。

日夜フライトデッキを走り回ってオペレーション全体に目を光らせる
現場監督のようなもので、中尉や少尉が務め、

LDO(リミテッド・デューティ・オフィサー)

と呼ばれています。
この女性は違うと思いますが、下士官のチーフ出身が多く、
兵学校出身の士官よりベテランである分知識も多いけれど
大体が恐ろしい存在なんだとか。

 

紫ジャージはそのものズバリで「グレープス」と呼ばれており、
ジェット燃料の補給係です。
E−3からE-6までがいて、艦載機に補給できるのは彼らだけです。

茶色ジャージはプレーン・キャプテン。

それぞれの艦載機部隊に大体10人が配属されます。
機体の検査、オイルや油圧駅の補給を行う係で、重労働だとか。

だれでもできる仕事ではないので、優秀な人が配置されるそうです。

白色ジャージはセーフティ。

安全=白というイメージは世界共通。
艦載機部隊に所属し、昼間、夜間一人ずつフライトデッキに上がって
安全面のチェックに目を光らせる役目です。

またはLSO(ランディング・シグナル・マン・オフィサー)

フライトデッキ左舷後方に設置されているLSOプラットホームに立ち、
着艦するためアプローチしてくる艦載機の体勢(高度、スピードなど)
をパイロットに無線で指示する係。

この白色ジャージもヘルメットを脱いでいますが、実際にも
LSOはフライトデッキで唯一ヘルメットを付けず、

「それがかっこいいと思っている節がある」

ということです。
大尉中心のパイロットが、艦載機部隊から順番に任務に就きます。

赤色ジャージ、レッドシャツは武器取り扱いスペシャリスト。

緑ジャージはLSE(ランディング・シグナルマン・エンリステッド)

ヘリが着艦するとき、ハンドシグナルを行い着艦点を指示する係。
発艦の時もヘリコプターのパイロットはLSEの指示に従う。
LSEのほとんどはヘリ部隊から出され、優秀な人が多いとのこと。

キャットウォークにグリーンシャツの人がいましたが、
本当にこんなところでヘリ着艦の指示をしていたの?

またはトラブルシューター。

艦載機部隊の整備員も緑のジャージを着ています。
このパネルの人はLSEだと思いますが。
トラブルシューターはフライトオペレーションが始まると
部隊から一人ずつデッキに待機して、機体にトラブルが起きると
文字通りそれを解決する役目です。

臨機応変にやらなくてはいけないので、経験豊富な
ベテラン整備員がトラブルシューターに充てられます。

青色ジャージは「ブルーシャツ」。牽引車の運転手です。

イエローシャツの指示に従って艦載機を移動する牽引車を運転する、
という役目ですが、モタモタしていると、イエローシャツという人たちは
直接牽引車に乗って仕事を奪っていくので要注意です。

艦載機用のエレベーターを操作するのもブルーシャツ。
場合によってはメッセンジャーのお仕事もします。

一番右の「レッドシャツ」は「ファイアーファイター」。
消防士です。
火を消すだけでなく、ダメージコントロールのスペシャリストです。
この配置に就くためには大変厳しい訓練を受けなくてはなりません。

 

ブリッジの甲板階、つまりフライトデッキと同じ階に、
ハンドラーが陣取るフライトコントロールルームがあります。

ハンドラーとは先ほども書いたように、フライトデッキと
ハンガーベイの責任者で中佐の職となります。

黄色いシャツの「ボースン」たちを駒のように使い、
艦載機用エレベーターもハンドラーの許可がなくては作動しません。

時間がなくて細部を撮りませんでしたが、ここにはご覧のような
上下デッキ(上はフライトデッキ、下はハンガーデッキ)を表す
二段のテーブルがハンドラーのために設置してあります。

コントロールルームで現在状況を聴きながら模型を動かしています。
奥にいる人がハンドラーで、模型を動かすのは若い衆にやらせます。(中佐ですし)

各艦載機の形をした模型を配置して、それぞれの機の現在地、
整備、燃料、給油、移動の状況などを表すボードです。

模型の上にはナットやネジなどを置いて表示することもあるそうです。

このボードを「OUIJA Board」(ウィジャボード)と呼ぶそうですが、
これはもともと降霊術もしくは心霊術を崩した娯楽のために用いる文字盤のこと。

ウイジャ(Ouija)とは、フランス語で「はい」を意味する Oui と、
ドイツ語で「はい」を意味する Ja から作られた造語です。
(どうりで変な言葉だと思った・・・・)

ところでこのウィジャボード、複数人で文字盤を囲み、参加者全員が
文字盤の上に置かれた「プランシェット」に手や指を添え、
誰かが質問をすると、プランシェットが勝手に?動き出し、
回答を文字で指し示すという・・・・そう、まさにこれは西洋版

コックリさん。

あちらでもプランシェットが動く科学的な理由は解明されていないそうですが、
洋の東西で全く同じことが行われているというのは興味深いですね。

アメリカ海軍では、このボードや机上演習盤(スポッティングボード)のことを
「ウィジャボード」と呼んだりするそうです。

ある日・・艦載機の上に皆で手を置いたら模型がひとりでに動き出し、
それと共に誰も乗っていない艦載機が

「勝手に動き出した」

という話が・・・・((((;゚Д゚)))))))(嘘)

 

 

続く。

ニューヨークの一日〜ミュージカル、極上鮨、そして渋滞

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「今ニューヨークで一番ホットで人気がある店だって」

息子がネットで見つけ出して来た鮨屋情報に文字通り食い付いたのは
休暇を取って日本から来ているTOでした。

早速インターネットで予約を取り出したのですが、

「水曜と金曜の6時が空いてるけどどっちがいい?」

と相談している間に金曜日の予約が取られてしまいました。

「よっぽど人気があるんだね」

「というか、カウンターが8席しかなくて、板前が八人同時に握るらしい」

ほー、それは期待できそう。
せっかくニューヨークに行くんだからミュージカルも観ようということになり、
カードデスクが顧客のためにキープしてあった「アナスタシア」の
S席(オケピットの4列後ろ、ほぼ真ん中)を取ることができました。

用意も万全に整えて、さあ、いざ紐育へ。

しかしハドソン川を渡る手前から、恐ろしい渋滞にかかってしまいました。

それにしてもこれ見てくださいよ。
トールゲートがほとんどEZパスというこちらのETC対象なのはいいとして、
10個のゲートがその先で3車線に合流するんですよ?

「これ考えた人もしかしたらばかじゃないの」

「こんなの混むに決まってるよね」

その合理性にはよく感心させられるアメリカですが、時々
このように首を捻らざるを得ないシステムに遭遇します。

3車線になっても延々と続く渋滞。
かつて渋滞は無人料金所化すれば解消すると思われていたようですが、
いくら料金所を通り抜けても車線が少なく車が多ければ同じことです。

ロスアンジェルスの恒常的な広範囲の渋滞、日本でも
平日の都心部に向かう渋滞はどこも酷いものです。

これは世界中の大都市が持つ同じ悩みといえましょう。

気が遠くなるほどノロノロと進んで、ようやくハドソン川を渡ります。
ブリッジを渡りきったところで分岐があるのでまたここでも激混み。

橋の途中でニューヨーク市に変わるようですね。
かのビリー・ジョエル大先生も、アレンタウンの田舎から
グレイハウンドに乗って同じ橋を渡ったわけです。

♪ "I'm just takein' a grayhound on the Hudson River line...."

そのころはこんなに渋滞してなかったと思いますが。

ブリッジを渡ると、少しですが車が動くようになって来ました。

ハーレム川沿いを走っているとマコムズ・ダム橋が見えてきます。
この向こう側にはヤンキースタジアムがあります。

というわけで、なんとかまずホテルの近くまでたどり着きました。

映画などでご存知かと思いますが、案外緑が多いのがニューヨークの街路です。
ここなど、木々がまるでアーケードのように道路に日陰を作っています。

100年越えのビルディングが現役なのも、ここに地震が起こらないから。

1910年代初めから30年代初めまで、ニューヨークは高層ビルの建築ラッシュで、
現在のニューヨークで最も高い82のビルのうち、16はこの時代に建造されたものです。

ところどころに緑の多い公園があって、人々の憩いの場になっています。
これは公立図書館の隣のブライアント・パークです。

渋滞だけでなく、ドライバーのマナーも酷いものです。

イエローキャブの運転が無茶苦茶なのは当たり前ですが、
とにかく幅寄せをして威嚇するように割り込んでくる車の多いこと。

東京では滅多にクラクションを聴きませんが、ここニューヨークでは
しょっちゅう誰かがブーブー(文句を言うために)鳴らしています。

この写真は左のバスにグイグイと幅寄せされた白い車の運転手(女性)が
窓を開けてバスの運転手に怒鳴りつけているところです。
バスの方も負けておらず、わざわざステップドアを開けて、お互い
しばらく罵り合っていました。

それでなくても、ミュージカルの開演時間が刻々と迫ってくるのに。

この辺りではマチネーが一斉に始まる2時の前には大混雑になります。
わたしたちも少し遠くに停めて歩いて行かざるを得ませんでした。

おなじみタイムズスクエアを信号を待つのももどかしく駆け抜けて・・・。

劇場の前にたどり着いた時には2時だったので、もうだめだ!と思ったのですが、
先に行ってチケットをピックアップしてくれたTOが
まだまだ大丈夫、というので安心しました。

どうやら、開演時間というのは余裕を見て設定してあるようです。

「アナスタシア」はもちろんロマノフ王朝の末娘が生きていた、という
あの話をミュージカルにしたものですが、予想より面白かったです。

カード会社デスクは、「フローズン」(アナ雪)とどちらがいいか、
と聞いて来ていましたが、わたしは文句なくこちらを選びました。

音楽も初めて聴きましたが、意識したロシア風のメロディがなんとも切なく、
日本人好みのミュージカルだと思われました。

Anastasia

帰る時後ろを振り向いたら、二階席のバルコニー下にオケピットのモニターがありました。
もしかしたらこれ、出演者が視線を落とさずにに指揮者を見るための仕掛け?

ミュージカルが終わると、出演者が挨拶するドアの前に人が群がり、
さらにそれが道まで溢れるので、さらにこの付近は渋滞します。

というわけで自転車移動する人も多し。

インド人運転手が多い(イエローキャブもなぜかインド人率高し)
人力タクシーも、急いで移動したい人のために走り回っています。
車で来ていなければちょっと乗って見たい気もしました。

チェイス銀行が一階にあるこの古めかしいビルは、1918年に建造され、
当時は男性だけが使用できる社交クラブ、ラケット&テニスクラブだけがあり、
今は複合ビルになっていますが、まだクラブはあり、
二階に掲げられた旗にはテニスラケットが描かれています。

できた時には三つのダイニングルーム、ビリヤードルーム、図書館、ラウンジ、
ジム、4面のスカッシュコート、2面のテニス(リアルテニス)コート、
2つのラケットコートがあったそうで、実は外からは想像もできませんが、
今でも内部には4つの国際スカッシュコート、1面のダブルスカッシュコート、
1面のラケットコート、2面のテニスコートがあります。

同じ名前のカフェ、確か六本木ヒルズとかにもありますよね。
調べてびっくり、日本のあのHERBSがニューヨーク進出してたのでした。

そういえばいきなりステーキも最近ニューヨークに進出したという噂です。
調べてみたらお店の名前は「Ikinari Steak」でした。

今日の目的地、寿司望(スシノズ)はHERBのほぼ隣にありました。

見ていると、オーナーシェフらしき方が出て来て暖簾を掛けました。
いよいよ開店です。

入り口脇に掛けられたこの風鈴は・・・・

海自の艦艇ごとに作る金属の銘板を制作しているということで
わざわざ富山県まで工場見学しに行った、あの工房の作品ではないですか。

職人が全員を前に調理を行うという形式の関係上、時間ギリギリまで
待合所で待たされることになりました。

そして、いよいよ予約時間となり、8名全員が揃ったところで初めてカウンターに案内されます。
わたしたち三人は真ん中で、左側は男性二人、右側は女性一人を含む三人組。

ここでは黙って座ればまず「おつまみ」が、続いて寿司が出て来ます。

まず板前が出て来て挨拶をし、桶に入ったご飯に
黒酢を混ぜてすし飯を作るところから目の前で行います。

完璧に目で見て楽しむエンターテイメント系寿司。

左半分が「おつまみ」ですが、これはアメリカ人のために
便宜上そう言っているだけで、入魂の一皿が次々と続きます。

牡蠣、きんき、鮑、鰹。ダンジネスクラブ、鰻、
と素材だけ聞けば普通ですが、例えば蟹味噌をだいたいおちょこ一杯の
ご飯と混ぜた、まるでドリアのような舌触りの料理とか。
とにかく只者でない感じの工夫された小料理ばかり。

ようやく寿司に入った頃には実はわたしはかなり満腹で、
ご飯を少なくしてもらうことにしました。
寿司は、白いか、皮剥、高部、赤身、中トロ、大トロ、
鯵、石垣貝、雲丹、イクラ、赤ムツ、炙りトロ、穴子、
金目鯛の白味噌仕立て、そして玉子でおしまい。

 

特に炙りトロは、真っ赤に焼けた炭を乗せた金網を
並べたトロの上にかざして焼くという凝りに凝った方法で、
雲丹もそのままの形では苦手な人も多いアメリカ人のためにか、
ご飯に混ぜて食べさせてくれるというもの。

両側のアメリカ人は全員が白人で、時折聞こえてくる会話によると
どちらもが日本には行ったことがあり、日本文化が大変好きな模様。

TOの隣の人は、中国にも日本にも行ったことがあるが、中国人はどうも
食べ物は食べ物に過ぎないというか、鶏一つとっても頸がゴロンと入ってたり、
すごくぞんざいに扱うようだが、日本の焼き鳥なんか見てると全く違う、
彼らには食べ物に対する敬意がある、ということを力説していたそうです。

もちろん街の清潔さの絶対的な違いについても熱く語っていたとか。

コストパフォーマンスは、そういうことに詳しいTOに言わせると、
銀座で同じものを食べたらおそらく片手では済まないレベルだそうですから、
かなりお得に美味しいものを食べられたと言っていいと思います。

もしニューヨークで美味しいお寿司を食べたい方は是非どうぞ。

SUSHI NOZ

その日はマンハッタンの「ベストウェスタン・プラス」に宿泊。
パリのベストウェスタンでは酷い目に遭った思い出がありますが、
ここはおそらくその部屋の5倍くらいの広さで、キッチン付き。

窓から見える景色もニューヨークらしい(笑)

しかしニューヨークという街は夜も眠りません。

一晩中クラクションの音が鳴り響き、暗いうちから近所で工事が始まって、
工事人が大声で怒鳴りあうのが窓を通して聴こえてきてうるさかったです。

次の日のランチはニューヨークの知り合いのご招待でした。
有名なステーキハウス「エンパイア」で待ち合わせです。

これも確か同じ名前のが六本木にあったわね。

ここは昔ナイトクラブでステージがあったそうで、
壁にはエディット・ピアフがここで歌っている写真がありました。

確かめてませんがシナトラも出演したことがあったかもしれません。

しかしランチはデザート付きコースで22ドルと大変お手頃でした。
フィレミニヨンステーキはとろけるように柔らかかったです。
大きくて全部食べられませんでしたが。

パーキングで車が出てくるのを待っている間、横で遊んでいたスズメ。
アメリカのスズメは頭に黒い模様がありません。

MKが紀伊国屋に行きたいというので、またしても混雑する時間(2時前)に
ブロードウェイ付近を通り抜けるという最悪の選択をせざるを得ませんでした。
センチ刻みでしか動かない車列、さらに横からグイグイと割り込んでくるわ、
逆に車線変更しようとしてもウィンカーだけでは入れてくれないわ・・・。
(あ、それでみんな割り込むのか)

全く車でニューヨークを運転すると、心がささくれ立つような気分になります。

車が動かず暇なので車の窓から写真を撮って時間つぶし。
ここではキャロルキングのミュージカルをしていました。
キャロル・キングとジェームス・テイラーとの喧嘩シーンとかもあるのかな(笑)

ばったり街角で知り合いと遭遇しておしゃべり。
ニューヨークのマダムは結構なお歳でもピンヒール現役です。

歩けば2〜3分のこの道を通り抜けるのに20分はかかりました(涙)

ナスダックってもしかしてあのナスダック?

やっと車を停めて紀伊国屋まできました。
紀伊国屋は、日本人らしき人、日本文化が好きな人で賑わっていました。
漫画やアニメ、キャラクターグッズは普通に人気があります。

さて、というわけで帰ることになったのですが、またここからが大変でした。
一つのブリッジにニューヨークの数カ所から車が集中して来るのですから。

車窓から見た巨大な公文のビル。
そういえば公文もアメリカにはすっかり浸透してるんですよね・・。

あららー。

このトラック、右側車線を走っていてよそ見していたらしく、
まっすぐに路側の溝に落っこちてしまったようです。

何を運んでいるかにもよるけど、きっと運転手はクビだな・・。

ダメなところ、嫌なところもたくさん目についてしまうのですが、
うんざりしながら後にしても、しばらくするとまた行ってみたくなるのは不思議です。

それだけ人々を惹きつける魅力にあふれた街なのでしょう。

 


アルカトラズインディアン占拠事件〜サンフランシスコ海事博物館

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さて、しばらくお話ししてきた帆船「バルクルーサ」見学記も今日で終わりです。

甲板下のデッキでかつての積荷と彼女の活動についての展示を見て
甲板に上がり、明るい陽射しに照らされた時、わたしはかすかにホッとしました。

アラスカで鮭漁を行い、船上で捌いていた時代、キツくて汚い仕事を
暗い船内で行い、おまけにその横でずっと寝起きしていた外国人労働者の
ほとんど奴隷に近い労働環境についての展示を見てきたからです。

その時代の中国人に同情したとかそういうことではありませんが、
貧しい国に生まれてくるというのはそれだけでこの世における劫罰なのだなと
なんだかやり切れないような切ない気持ちになったのかもしれません。

階下での見学が終わり、この部分から外に出てきました。
階下に続く階段があるので、風雨が入り込まないような構造物があります。

船尾甲板ではボランティアらしき人が展示物のペンキを塗る作業をしています。

ビナクルが甲板の真ん中にポツンという感じで設置されています。

このビナクル(Binnacle)という言葉、わたしはマサチューセッツの
バトルシップコー部に展示されているその名も「マサチューセッツ」艦内で
その名前で説明されているのを見て知ったのですが、少なくとも日本では
ビナクルと言う言葉は一般的ではないらしく、「ビナクル」で検索すると
船舶関係の会社のHPと辞書以外ではわたし自身のエントリが出てきます(笑)

この項でわたし自身が書いていますが、日本ではこれを「磁気コンパス」、
この台そのものを「羅針儀架台」と呼ぶからです。

せっかくなので自分の書いたことを引用しておくと、

ビナクルはナビゲーションを素早く見るためのもので、
内部にジンバルを備え、これによって波の動揺などの干渉を受けず
磁石を保持する仕組みになっている

左右にあるボールのことをイギリスでは「ケルビンのボール」、
アメリカでは「ナビゲーターズ・ボール」と呼んでいる

二つのボールの中には補償磁石が内蔵されている


補償磁石を入れるのは、木造の船の時は問題がなかった磁気が
船の素材に鉄を使うことで発生し磁石が狂ってしまうからです。

その役割を考えると、木製の帆船である「バルクルーサ」になぜ
ケルビンのボールを持つ磁石が必要なのかと言う気がしないでもないですが、
荷物を積むために「バルクルーサ」にはドンキーエンジンも搭載していた磁気があり、
こういった機器が磁石を狂わせることがないように導入したのかもしれません。

あるいは置いてある位置から見て、展示されるようになってからの

「単なる装飾」

の可能性もあるかと思います。

甲板左舷から見たサンフランシスコ湾の模様。
海事博物館の中の突堤ですが、普通に漁船や観光船がいます。

向こうに突き出た突堤からは、湾内観光船が出ているようです。

意義がわの一本煙突の船は、タグボートだった蒸気船「ヘラクレス」。
名前がタグボートにふさわしいですね。

この観光船は今からゴールデン・ゲート・ブリッジの下を潜りに行きます。
船に乗って、真下から GGRを見るというのもなかなか一興かも。

「バルクルーサ」甲板から眺めると、波消し突堤の向こうに
かつて「監獄島」だったアルカトラズ島が見えます。

 

「バルクルーサ」のリグ越しに見るアルカトラズ島。

ちなみに「軍艦島」で知られる長崎県の端島は0.63平方キロメートル、
アルカトラズ島の面積は0.089平方キロメートルと少し大きいだけです。

どちらの形も船状だし、この際姉妹島提携でもしてはどうかな(提案)

あ、そんなことすると、軍艦島を「監獄だった」と印象付けたい国に
いらん燃料を与えてしまうか・・・。

あまりない機会なのでアルカトラズ島もう少しズーム。

監視塔の右側に、朽ち果てた屋根のない建物の残骸が見えますでしょうか。
これは刑務所閉鎖後起きた「インディアン占拠事件」の名残です。

1969年11月から約1年半、ネイティブアメリカン、いわゆるインディアンが
この島を占拠してアメリカ政府に対する抗議活動を行いました。

この5年までにも5人のインディアンが4時間だけアメリカ政府に
人権保護を訴える活動のためにやはり同じアルカトラズを占拠したこともあります。

占拠事件ではインディアンたちは「モンテ・クリスト」号で島に渡り、
この土地が法的根拠に則りインディアンのものであると宣言することから始まり、
その後なぜかカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の学生約80人を含む
インディアン約100人が島を占拠して自治生活を始め、同時に政府に対し、
ここで暮らす権利と施設の補充を要求しましたが、当然政府は受け入れません。

ありがちなことですが、そのうち事態の膠着に伴って占拠メンバーの中に
仲間割れが起き、内部で分裂が始まったので、FBIも沿岸警備隊にも
政府は手を出させず、事態を見守っていました。

1970年、連邦政府側が電力と水の供給をストップする強硬手段を取った
その3日後、火災が発生していくつかの古い建物は焼けてしまいました。

今ここに残っている建物はその時の残骸です。

1971年に入り、派閥争いなどの内部の混乱が続く中、
連邦所有建物からの金属材の窃取や暴力事件が伝えられるに従い、
当初は占拠側に好意的だった世論の支持も失われていきました。

そういった世論の傾きを待って。政府側はリチャード・ニクソン大統領の命令下、
1971年6月10日、在島者の少ない時を狙って、武装した連邦保安官、FBI特別捜査官
及びカリフォルニア州警察特殊部隊が島を急襲し、5人の女性、4人の子ども、
6人の非武装の男性を立ち退かせ、これによって占拠は終了したのでした。

この占拠事件そのものは失敗に終わりましたが、これは歴史的に見ても初めての
少数民族インディアンの初めての抗議活動となりました。
これがその後のインディアンの人権を訴える「レッドパワー」運動につながり、
連邦政府がインディアンの権利を尊重した政策をとるきっかけになったことは確かです。


この時代に「インディアン」と呼ばれていた彼らが、公式に

「ネイティブ・アメリカン」

となったのもこれ以降のことになります。

事件の首謀者であったリチャード・オークスはビリヤードのキューで殴打され、
一ヶ月の昏睡に陥ったこともあり、常に命を狙われている状態でしたが、
最後は銃を持った白人の男に射殺されて30歳の若い命を閉じています。

影下には倒壊した家の残骸がそのまま放置されています。
観光客の姿があちこちに見えていますね。

サンフランシスコ湾にはよくこのようにペリカンが群れを作って飛翔しています。
「アルカトラズ」という名前も、元々はスペイン語の「ペリカンの島」という意味の

"La Isla de los Alcatraces"  (ラ・イスラ・デ・ロス・アルカトラセス)

からきています。

甲板に立って艦首側を望む。

さて、見学を終わって船を降り、岸壁と船の間にふと目をやると・・

「何かいる!」

一頭の雄アシカが、岸壁と船体の間に顔を出したのでした。

早速シャッターモードをスピード優先にして、熱心にアシカを撮り始めると、
たちまち周りのアメリカ人たちがなになに?とばかりに集まってきました。

皆がワイワイいいながら写真を撮ったり、子供が指差して叫んだりしているのに、
アシカは一向に去ろうともせず、潜ってはこのように海面に出ては
ジャンプするということをなんども繰り返すのです。

「これ、絶対見られてるのを楽しんでるよね」

「わーい、見て見て〜!って感じ」

こうやって水面に出た後は、しばらく姿を消すのですが、次に
全く違うところから顔を出すので、皆がキョロキョロするのを
案外彼は皆がら楽しんでいたのかもしれないと思ったり・・・・。

 

黄色い泳いでいる人の看板があったので「遊泳禁止」だと思い込んでましたが、
写真に撮ってよく見ると、

「ワッチ・フォー・スイマーズ」

でした。

泳いじゃいけないんじゃなくて、遊泳している人が溺れていないかとか、
急に沈んだりしないか、注意して見てください、ってことか。

これも写真を拡大して初めてわかったのですが、その向こう側に
本気のクロールをしてる人がいるのがなんかシュール。

 

海事博物館シリーズ、続く。

 

 

タスキーギ・エアメン・メモリアル〜ピッツバーグ空港

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ピッツバーグ空港には、ウェイコ9「ミス・ピッツバーグ」の復元機が展示されています。

胴体に「メイル」の字が見えるように、郵便局の飛行機でした。
この郵便を運ぶための飛行機会社は、業務を拡大し、
今はユナイテッド航空の一部地なっています。

また、この空港のTSA(空港検査員)は、元軍人が多いそうです。
四人に一人が元軍人で、誇りを持って仕事をしています、とあります。

空港の一角にミリタリーラウンジなる部屋もあるくらいですし、
アメリカでは退役した軍人を積極的に雇用し、そのことが
企業のイメージアップにもつながるという土壌があります。

そしてこのように、普通に白人と黒人が並んでいる今のアメリカ。
しかしここに至るまで、黒人には長きに渡る迫害された歴史がありました。

 

飛行機を降りてバゲージクレームに向かうとき、
ムービングウォークで通り過ぎるところに冒頭写真のコーナーがありました。

「ごめん、ちょっと写真撮ってくるね」

家族に断って、少し逆戻りし、コーナーに入って行きました。

昔、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍にあった黒人ばかりの航空隊、
タスキーギ・エアメンについて、映画を紹介しつつ話したことがあります。
その時の記憶によると、タスキーギというのは南部アラバマにあったはず。

どうして五大湖に近いここピッツバーグ空港に展示があるのかな。

ここにあった説明によると、ピッツバーグのセウィクリーというところにある墓地に、
アメリカで最大規模ののタスキーギ・エアメン・メモリアルがあるからだそうです。

ここには全ての戦争のベテランの墓が約100基くらいあり、
その墓の主の人種はそれこそ様々だということでした。

「彼らは身体検査と適性検査で選定を受け、合格した者は
航空士官として採用され、単一エンジン、のちに双発エンジン機の
操縦士、ナビゲーター、そして爆撃手としての訓練を受けた」

 

最初にお断りです。
アメリカでは黒人を「ブラック」ということはまかりならず、
アフリカ系アメリカ人といわないといけませんが、ここでは
(日本語に差別的意図はないとして)単純に黒人、と表記します。


アメリカでの黒人の人権は公民権運動に至るまで全く顧みられていませんでした。

国体を揺るがす戦争となっては、有色人種も戦力として取り込みたいが、
しかしながら白人の部隊に黒人を混ぜることは都合が悪い。
ということで、アメリカ軍は「セグレゲート」、有色人種だけの部隊を作ります。

日系人ばかりを集めた部隊もそうですし、黒人女性だけの部隊、
そしてこのタスキーギ飛行隊などを作り、白人の指揮官を置きました。

特に特殊技能を要するパイロットに黒人を採用したのは
この「タスキーギ・エアメン」が初めての試みでした。


アメリカでは1917年に一度だけ、アフリカ系の男性が陸軍で
航空偵察員を希望したことがあるそうですが、当然拒否されています。

アメリカにいる限り黒人が航空機に乗ることは不可能だとして、貨物船で密航し、
フランスに渡ってパイロットとなったアフリカ系アメリカ人がいました。

ユージーン・ブラード(Eugene Jacques Bullard )

この人の経歴を見たとき、昔当ブログで扱った、ジャン・フランコ主演の

「フライボーイズ」

という映画を瞬時に思い出してしまいました。

ラファイエット基地に集められたアメリカ人ばかりの外人部隊の中に、
一人スキナーという名前の黒人青年がいたという設定です。


ラファイエット基地に外国人の航空部隊があったのは史実で、
このユージーン・ブラードはどうやらスキナーをモデルにしているようです。

スキナーが、アメリカでは飛行士になれないからフランスにやってきた、
という設定であったように、ブラードはアメリカでは果たせない空飛ぶ夢を
フランスで叶えるために密航までしてやってきたのでした。

第一次世界大戦の時、彼は勇気ある任務に対し、レジオン・ドヌール始め、
クロワ・ド・ゲールなど数々の勲章を授与され、

ブラック・スワロー・オブ・デス(l'Hirondelle noire de la mort)

「死の黒燕」という厨二的な渾名を与えられました。

ただ、撃墜に関しては、20回以上の空戦に参加して、1機、あるいは2機の
ドイツ軍機を撃墜したとされますが、公認記録ではありません。

戦争が終わってからはパリのジャズクラブのオーナーになり、
名士だった彼の店は、黒人歌手ジョセフィン・ベーカーや
ルイ・アームストロングなどが出演する超有名な社交場になりました。

第二次世界大戦が始まったとき、彼は早速外国人航空隊に志望しますが、
事故で背中を負傷していたこともあり、選ばれたのは白人でした。

非番の時にフランス人将校と口論になって罰せられたこともあって、
失意のうちに彼は帰国しましたが、アメリカでかつての名声は全く通用せず、
「ただの黒人」となった彼は、セールスマンや警備員、通訳などの仕事で
糊口を凌ぎつつ余生を送りました。

66歳で亡くなった時、彼の身分はロックフェラーセンターの
エレベーターのオペレーターで、晩年、テレビ番組に出演した時には
エレベーターボーイの制服を着てインタビューを受けたそうです。

不遇の余生を送った彼ですが、1994年になって名誉回復が行われ、
死後33年経ってからアメリカ空軍の中尉に任官されることになりました。

 


さて、アメリカ軍がアフリカ系をパイロットに登用することは、
必要性から生じただけではなく、有色人種側の熱い希望でもありました。

のちに公民権運動を指揮する全米有色人種地位向上委員会のウォルター・ホワイト
労働党のフィリップ・ランドルフ、連邦判事ウィリアム・ハスティなどが
それを実現するために運動を行なった結果、1939年、アフリカ系アメリカ人の
パイロットを養成するための予算法案が議会を通過しました。

これまで「バッファロー連隊」とあだ名される黒人だけの歩兵部隊は
第24、そして第25歩兵連隊、偵察部隊として第9、第10騎兵隊が存在しており、
新設される航空隊も、これらと同じ「分離方式」で編成されることになりました。

黒人にとって航空職種携わるための門戸となったこのシステムですが、
あまりにも選択に制限があったため、航空士官になれたのはごくわずかで、
1940年の時点で全米でたった124名だったそうです。

それだけに実際にタスキーギ航空隊員となれた一握りのアフリカ系は、
最高レベルの飛行経験を持ち、かつ高等教育を受けたエリート集団であり、
全体のレベルは下手すると白人の一般的な部隊より高かったといえます。

さらにその上で、米陸軍航空隊は、厳密な適性検査でスクリーニングを行い、
機敏さやリーダーシップなど個人的な資質をふるい分け、
パイロット、爆撃手、ナビゲーターと職種を決定していきました。

のちに彼らが精鋭部隊となったのも当然といえば当然だったのです。

 

後年タスキーギ・エアメンについていろんな媒体が取り扱いましたが、
そのうちHBOの「タスキーギ・エアメン」をこのブログでも取り上げたことがあります。

この中で大統領夫人エレノア・ルーズベルトがタスキーギ航空隊を訪問して、
首席指導員だったアルフレッド”チーフ”アンダーソンの操縦で空を飛んだ、
という実際のエピソードが語られます。

映画では、おばちゃんが気まぐれで飛びたいと言い出し、主人公である
ローレンス・フィッシュバーンを「ご指名」してお偉方大慌て、という
アクシデントとして扱われていましたが、実際は航空隊の宣伝活動として
前もってこのフライトを行うことは決まっていたそうです。

だからこそ、教官として何千人ものパイロットを世に送り出してきた
アンダーソンが選ばれたのですが、大統領夫人、飛行機から降りて、

「なんだ、ちゃんと飛べるじゃないの」"Well, you can fly all right."

と言い放ったという話を本欄でご紹介しました。

彼女が内心黒人パイロットをどう思っていたかが窺える一言ですね。


1941年7月、Chanute飛行場で271人のパイロットの訓練が始まりました。

ただし全員が黒人だったわけではありません。
教えている技術が非常に専門的で特殊なので、完全に分離することは不可能でした。

この通称「タスキーギ・プログラム」はタスキーギ大学での座学に始まり、
タスキーギ陸軍飛行場で実地に操縦訓練を行うことになっていました。

64キロしか離れていないマックスウェル飛行場は白人パイロット専用です。

その中でも図抜けて優秀だったパイロット、キャプテン・ベンジャミンO.デイビス,Jr
は黒人の部下の上に立つ指揮官となりました。

デイビスはのちに黒人初の4スター空将(事実上の最高位)になりました。

その後、アメリカ空軍の歴史において何人かのアフリカ系、二人の女性の
空軍大将が誕生してきましたが、2018年現在、アメリカ空軍の最高位は

チャールズ・ブラウンJr.

この人もまたアフリカ系アメリカ人です。

 

徹底した分離政策をとったため、黒人航空隊であるタスキーギでは、
例えばフライト・サージェオン(医師)なども黒人で揃える必要があり、
そのため、アメリカ陸軍初の黒人医官が誕生するというメリットもありました。

しかし、あまりにも厳しいスクリーニングで弾かれた人員の「捨て場所」に
当局は実際のところかなり頭を悩ませたようです。
これらの人員は、管理部門や調理に回されることになりました。

パイロットにも同じような難しさがありました。
あくまでも現場は白人優先だったので、訓練を受けた黒人航空士官ではなく、
相変わらず黒人部隊の指揮官には白人士官がアサインされることになりました。
ブラウンJr.などは超例外中の例外です。

史上たった一人の空軍元帥、あの差別主義者”ハップ”・アーノルドはこう言っています。

「黒人パイロットは、現在のところ我々の航空隊に使うことはできない。
社会的状況が変わらない限り黒人士官に白人の指揮をさせることは不可能だからだ」

タスキーギ航空隊のデビュー戦は1943年5月。

シチリア攻略のシーレーン確保のために地中海の小さな島を爆撃し、
この成功後も、同盟国からその飛行機の赤い尾翼から

「レッド・テイルズ」「レッドテイルズ・エンジェル」

と呼ばれた彼らは、次々とその優秀さを発揮しました。

デイビス中佐が第332航空隊を指揮して行ったダイビング航空攻撃では
予想以上の戦果を挙げ、また第99戦闘機隊は、イタリアのある空戦で
わずか4分の間に5機を撃墜するという記録を作っています。

また、強敵であるメッサーシュミットとコメートと対峙し、
3機を撃墜したことがありました。

332航空隊が戦争中に受けたフライトクロスの数は実に96に上ります。

 

これら戦闘機部隊の成功を受けて、黒人爆撃隊の組織が計画されました。
陸軍に対し人権向上委員会や市民団体からの突き上げもあったと言います。

その結果、1943年にB-25ミッチェル60機を擁する第617爆撃航空隊が組織されました。

ただし、新しい指揮官となったロバート・セルウェイ大佐というのがまた差別主義者で、
航空基地内で白人と黒人の映画館での区画を分けたことで反乱が起こり、

フリーマン飛行基地の反乱

その責任を取ってやめさせれたりしています。

この反乱では162名の黒人将校が逮捕されることになりましたが、
結果として、軍隊の分離政策を廃止した完全統合に向けた第一歩となりました。

それでも一般世間よりはずっと黒人の待遇はましだったと言えるかもしれません。
基地周辺の白人経営によるクリーニング店では、ドイツ人捕虜の洗濯は引き受けても
黒人士官たちの洋服を預かることは拒否したと言われています。

ちなみに、分離政策を取っていた時の黒人専用クラブの名前は
マダム・ストウの同名の小説をもじって

「アンクル・トムズ・キャビン」といいました。

余談ですが、公民権運動以降、「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」
「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味しました。

ジンバブエのムガベ大統領がアメリカのライス国務長官を“アンクル・トムの娘”
と罵倒したことは、その蔑称としての意味をよく表している例です。

さらに、黒人と同じく合衆国の被差別民族であるインディアンたちは、
「白人に媚を売るインディアン」を「アンクル・トマホーク」と呼び、また、
中国系アメリカ人は同様に、「白人に媚を売る中国系アメリカ人」を
「アンクル・トン」(Uncle Tong)と呼んでいるのだとか。

アメリカ(特にニューヨーク)に行くと、アメリカ人にはヘイコラしているのに
日本から来た観光客となると偉そうにする日本人飲食店主が結構いるのですが、
これなどさしずめ「アンクル・トミタ」?(全国のトミタさんごめんなさい)

992人のパイロットが1941〜46年にタスキーギで訓練をうけ、そのうち
355人が海外に配備され、84人が事故や戦闘で命を落としています。

犠牲者の内訳は、戦闘や事故で死亡したのが68人。
訓練中の事故による死亡が12名。
戦争捕虜として捕らえられた32人のうち死亡した人がその内訳です。

 

パンテレッリアというのは、最初にタスキーギ航空隊が爆撃した地中海の島です。
アメリカの象徴ハクトウワシが、黒い鳥が島に向かって飛んでいくのを

「頑張ってこい息子よ、お前はもう自分でやれる」

と言いつつ見送っているという図。
黒い鳥には

「初めての黒人航空部隊」

と説明があります。

映画を紹介した時、最後のキャプションで、こんなセリフがありました。

「332航空隊は護衛した飛行機をたった1機も失ったことはない」

この記録については、異議を唱える後世の研究も存在し、
ある研究者は少なくとも25の爆撃機が彼らの護衛中失われた、とし、
また別の研究者はそれは27機だった、とする報告を挙げています。

確かに前線で一機も爆撃機が撃墜されたことがない、という話には
かなり盛っている感が拭えないので、神話は神話に過ぎない、
というしかありませんが、それをもってタスキーギ航空隊の名誉が
貶められたということにはならないと思います。

同じ時期、同じ場所で戦っていた航空隊の爆撃機の喪失は
平均46機であったという記録もあるのですから。


このように、高く評価されたタスキーギ・エアメンでしたが、
戦後は普通に人種差別を受ける運命が待っていました。

4スターの空将になったもう一人のタスキーギ隊員、

ダニエル”チャッフィー”ジェイムズJr.

や、NORADとNASAで通信に携わったマリオン・ロジャースのように
その実績と資質を認められて活躍した者は極めて少数だったと言えましょう。

2012年、ルーカスが製作した映画「レッドテイルズ」が公開された時、
ロジャースはセレブレーションに招待されて、その席でインタビューを受け、
このように語っています。

“Our airstrips weren’t as nice as the ones shown in the film. ”

「我々の滑走路はこのフィルムに描かれたような良いものではなかった」

 



 

 

 

平成30年度陸上自衛隊総合火力演習

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今年も総火演の季節がやって来ました。

ただし、2018年8月26日日本時間現在、わたしはまだアメリカにおり、
今回は、遠く離れたアメリカで現地のライブを観ながらエントリ制作をする、
という画期的なご報告をすることにします。

 

例年総火演の行われる8月下旬は帰国している時期なのですが、
今年は滞在のちょうど半ば頃にかかってしまうことになりました。

今回チケットがいただける話を頂いた時には、
途中で一度帰国して総火演に参加後、もう一度とんぼ返りをする、
ということも真剣に考えていたのですが、そんな企みも
息子の大学のオリエンテーションと当日が重なってしまい砕け散りました。

しかもここだけの話ですが、春頃、某所から来賓扱いで
本番を観戦させていただくというお話をいただき、
お受けしておいてもしダメなら代理ではダメか、と聞いたところ、

「これはご招待なので本人でないと駄目です」

と言われ断腸の思いで断念したという経緯がありました。

頂いたチケットも紫だったし、どうしてこんな年に限って・・・(涙)

 

しかし、その代わりと言ってはなんですが、いつも自衛隊イベント関係で
お世話になっているKさんが予行演習に参加し、
その時に撮った写真を送ってくださったのです。
というわけで、頂いた写真を見ながらお話していこうと思います。

これは今見ている画面のキャプチャ。

それにしても本番の富士演習場、激しく霧で曇っていますか?
体感的には暑くなくていいかもしれませんが、これじゃ見えないのでは・・。

 

さて、前段演習は、装備紹介です。
遠距離、中距離、近距離火力、ヘリ火力などを順番に紹介していきます。

特科火砲の実演は、155ミリ榴弾砲、FH70の入場に始まります。
この火砲を40キロ平方の島に一つ配置すると、島全体をカバーすることができるそうです。

この予行演習の時にはご覧のように裾野が欠けてしまいました。

そして今行われている現地の曳火射撃の結果・・・・
集中砲撃も、富士山も、な〜〜〜んにも見えません。

現地で観戦している人とリアルタイムで会話したところによると、

「全滅でした」

何も見えなかったってことでよろしいか?

続いて迫撃砲部隊。
これは、実際に見るより射撃準備がわかりやすくていいですね。
81ミリ、120ミリ迫撃砲の砲撃合図を行なっていたのは女性でした。

つまり隊長は女性であるということでよろしいか?

しかしこの時もニコニコのコメントでは「弾着なう」「見えない」「霧が」・・。
これは本番というのに、いまいちというかかなり盛り上がりには欠けるかも・・・。

 

87式対戦車誘導弾。
これはインターネットで見ている人だけが見られる角度。
こんなことして撃ってたのね。

ただし、現地の報告によると、各種誘導弾は

 

「目標が見えないので軒並み射撃してません」

 

だったそうで・・・。


続いて近距離火力など。

狙撃手の大アップもライブ映像ならではです。

当たったかどうかも肉眼よりよくわかる。
狙撃はちゃんと行われ、見事窓を撃ち抜いたようです。

WAPC96式装輪装は頂いた写真になかったのでキャプチャ画像でどうぞ。

出たー!これが今年の目玉、16式機動戦闘車。
総火演初お目見えのはずです。これ見たかったなあ・・。

後進高速走行しながらの砲撃に会場は湧いているようです。

ヘリAH-1Sの対戦車弾発射。
ニコニコのコメントでは「おじいちゃん無理しないで」という声が・・・。 

今年、アパッチは姿を見せませんでした。
佐賀で墜落事故があったからだということです。

フライング・エッグは偵察で顔を出しますが、OH-1も
ここのところ総火演には来たことがありません。

10式戦車が射撃が行う頃には会場は晴れて来たように見えましたが・・。

この日、本番で一台、的を外した!という声がコメントに上がっていました。
これはあとで正座反省会コースかな・・・。

後進しながらの一撃。

続いて90式戦車。
90式は後退射撃は行いません(行えません)。

特筆すべきは、最後だ最後だと言われながらも去年まで参加していた
74式戦車の姿が今年見えなくなっていたことです。

74さん、ついに・・・・(´;ω;`)。


さて、ここまでで前段演習が終了しました。

休憩後、後段の演習は名付けて「電磁スペクトラム作戦」。
島嶼奪回作戦という言葉は今年はなくなり、その代わりより具体的な
内容を表す作戦名になったということですね。

警戒、監視を行うP-1が会場に進入してきました。

・・・ただし本番の行われている画面上、音はすれども姿は見せず。
雲の上を飛んでいたような気配は確かにありましたが。

 

電磁スペクトラム作戦というのは電子戦で、新型の装備で電波情報を収集し、
情報を共有し、電子戦部隊が相手を叩く電子攻撃を実際に行います。

電波攻撃は敵のレーダーを縮退し、電磁優勢を獲得するのが目的ですが、
こればかりは総火演でいくら何かをしても、何もお見せするものはありません。

「電波攻撃を実施せよ!」「了解!発射!」「攻撃成功!」

とか言われても、へーそうですかとしか・・・。

レーザーJDAMに寄よる対地攻撃でレーザー照射したところが無事爆発。

「ミッション、サクセスフル!」

F2が来てるってアナウンスがいうんですが、もちろん見えません。

「F-2が飛行しています!」

ごおおおおおおお。

どかーん。

って感じ。

この後も電子戦は継続されます。

ドローンとか。

ボート持って走る人(情報小隊)とか、初めて見るものも多数。
あー、行きたかったなあ。

ネイ恋的におっ!と思ったのは、この時情報部隊から情報を受けた
護衛艦「てるづき」が「シルバームーン」という英語名で交信していたこと。

となると、あとの「つき」型護衛艦は
「オータム・ムーン」「ウィンタームーン」そして「クールムーン」?

水陸両用車AAVが真っ白に煙幕を張るのも初めて見ました。

AAVから降りて来た「アンフィビアン」部隊。
みなさん重い装備を担いで信じられないほど俊足です。

こ、これがMCV、16式機動戦闘車の攻撃ですか!

写真がまたすごいわ・・・。
ちなみにKさんの武器はキヤノンの60Dでレンズは18-300mmだとか。

これ、ライフル砲ならではの曳火なんでしょうね。

ところでMCV、時速は100キロ出るそうです。
タイヤを装着し、市街戦を想定しているということでしょう。

続いて敵前地の施設小隊による障害処理が始まりました。
まず発煙弾で支援を行い、もともと霧がかかっている上、先ほどAAVが煙幕を張り、
ただでさえ白い周囲をさらに真っ白にしてから地雷原処理ロケット弾を発射します。

MCV、施設小隊を支援するため、陣地変換の走行しながらの射撃です。

ヒトマル式が総出演で一斉射撃。

これは最後の総攻撃をしている90式。
90式もかなりのお歳ですが、まだまだこの先も活躍しますよね?
自衛隊は物持ちがいいから・・・。

 

さて、無線機が電子戦で妨害されたのに対し、こちら側は
通信衛星「きらめき」から敵の部隊の所在位置を味方に送り、
その後誘導弾の火力で相手をやっつけます。

もうこの頃には現場は自然の霧と煙幕により、山など何も見えません。

シャレになっとらん。

そして最後の「状況終わり」のナイアガラの滝。

本番では流石にこれはそれなりに見えていましたが、
やはりこの写真の日に比べるといまいちの効果だったと思います。

Kさんの参加された予行日は気温も30度まで上がらない
比較的涼しい日で、楽な観戦だったようです。

フィナーレ。

Kさんが行かれたのは19日で、予行は予行でも陸自広報のご招待、
人の少ない日だったらしく、真ん中に誰も座ってません。

Kさんのご報告にもありましたが、本番の総火演を見ていて、
これからの主役は完全にMCV、そして電子戦と水陸両用部隊に移行したと思われました。

ヒトマル式戦車が陸自装備の「主役」だった頃、

「戦車の出番がある頃には日本はもう終わり、って聞くし、
確かにすごい装備だけど、専守防衛の日本で、いつどこで使うんだろう。
ってかそもそも戦車って抑止力になるんだろうか」

というかすかな不安というか疑問がないではありませんでしたが、
時代はすでに水陸両用部隊を必要とする段階に来ていたのです。

防衛省は陸上イージスの取得に具体的に動き出しましたし、
より実践的な装備こそが国防の現場に求められているということでしょう。

 

ところで今回の総火演、Kさんに言わせると、

「4回程予定されている予行・本番のうちで19日は最初の予行の為か、
曳火射撃での富士山模様は裾野部分が欠けたり、戦車小隊の一斉射撃は
バラついたり、状況終了!は自衛隊らしくない15分遅れだったりして、
相当の修正が必要と感じました。」

ということですが、現状を鑑みた結果、前年度から訓練の内容が
ガラッと変わったことも、これらの不手際の一因だったのではないでしょうか。

何れにしても、水陸機動団と電子戦が、これからの陸自の
中心になっていくことが如実にわかった総火演でした。

 

ともかく、Kさん、現地で観戦された皆さん、お疲れ様でした。
そして、74式戦車さん、長い間お疲れ様でした。

あなたの遺志はMCVが引き継ぎます。
沖縄前知事と同じく遺言の音声データは公開出来ませんが。
安らかにお眠りください。 R.I.P.

涼しいアメリカで画面だけを見ているのは楽は楽でしたが、
空気の振動も、耳栓も必要のない総火演なんて!と、
去年のあの現地での感覚を懐かしく思ったのも事実です。

来年は参加できるといいなあ・・・。

 


バック・トゥ・スクール〜子離れの季節 in アメリカ

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ついに大学が始まり、息子が旅立っていきました。

この場を借りてアメリカの大学と、またこの季節の風物詩ともいえる、

「バック・トゥ・スクール」

についてお話しようと思います。

アメリカの私立大学はどこでも、入学に際して学生本人に対してだけでなく
親に対しても、大々的なオリエンテーションを行います。

しかも、1時間2時間というものではなく、丸々二日かけ、合間には
ランチ、ディナー、学長主催のパーティ、その他ソーシャルを含んで
あらゆる角度から学校の紹介と、新入生の親の不安を解消するための
アプローチでより一層学校に理解を深める一大イベントです。

新入学生のオリエンテーションは日本の大学でも普通に行いますが、
親を対象にここまでするとは、と日本人の我々には驚きです。

アメリカの大学、特に私学はそれ自体がビジネスなので、
大金を出してくれるスポンサーに説明するのは当たり前かもしれません。

この期間にわたしたちは広大なキャンパスをあちこち歩くことになり、
かなり学校内の地理に詳しくなりましたが、それでもまだ行ってないところもあります。


この日は学生センターを探検してみました。

 

卒業生の寄付らしいスタンウェイのピアノが学生ユニオンのラウンジにあったので、
誰もいないのをいいことにショパンのエチュードを一曲弾かせてもらいました。

調律などはされていないらしくひどい状態でしたが、周りにはソファもあり、
このコーナーは防音装置で囲まれています。

キャンパスに必ずピアノがあるのもアメリカの大学の特徴。

広大な部屋の半分にビリヤード台が置かれていました。
こういうのもおそらく卒業生の寄付によるものでしょう。

男女兼用床屋の広さは自衛隊基地のそれくらいの感じです。
5分でも遅れたら予約はキャンセル、とアメリカにしては厳しいです。

ユニオンにはスクールショップがあります。
アメリカの大学は、学校の名前のロゴを入れた洋服やカップ、
その他小物を中心に、学生生活に必要なものを売っている売店を備えていますが、
その店内、ロゴ入りトレーナーのラックに飾ってあった昔の当大学学生の写真。

1900年初頭のケミストリー専攻学生という感じですかね。

売店では各種パソコンも現物販売しています。

売店の本棚で見つけた「トランプ塗り絵本」。
皆が見るのに誰も買わないという「ネタ本」扱いです。

どれどれ、中身は・・・?

本当にあるのかどうか知りませんが、別売りで、

上「トランプ 侮辱の数々」

「ばか」「ロウレベル」「メンタル・バスケットケース」・・・
彼がやらかした数々の暴言事件に楽しく色をつけましょう。

下「ロック・ハー・アップ!(彼女をぶちこめ!)」

クリントンと彼女の夫にまつわる疑惑の数々が数十ページにわたり掲載。
トラベルゲート、ホワイトウォーター、モニカ・ルインスキー・・・。
今蘇る思い出深い事件をあなたの感性で彩ろう!

・・・みたいな?

アンクルサムの他にも、名画に描かれた人物や、プレスリー、
ワシントン(の彫像)に扮したトランプが続きます。

ミサイルをぶっ放しているUSS「トランプ」はわかるとして・・・。

なになに、下にキノコ雲、飛行機はエノラ・ゲ(略)

 

この日の売店は、お土産にロゴグッズを買う新入生と親で大混乱。
息子娘が行っている学校を世間様に自慢したい親のために、

「〇〇〇(学校名)Dad、〇〇〇Mom」

というグッズまで販売されていました。
わたしは買ってませんが。

学内はスターバックスは必須として、アイスクリームのメーカーも参入しています。
ダイニングも構内にいくつもあり、例えばその一つでは入り口で8ドル払うと、
中にあるものは何をどれだけ食べても構いません。

ケースの中にはアイスクリームまであってこれも食べ放題。

息子に言わせると、

「あれは罠だよ。
タダだからって好きなだけ食べるなんて最低」

大学からしてこうだから、アメリカ人って皆太るんですね。

スクールユニオンを出ると、にゃーと声がして猫が走り寄ってきました。
日本でもよくあるのですが、わたしのもつ「動物アンテナ」に感応したようです。

これが本当の猫まっしぐら。

しゃがんで写真を撮っているとずんずん近づいてきて、
たちまちピントが合わなくなりました。
猫氏の目的は、自分を可愛がってくれる人物にスリスリすること。

日本では見たことがないグレイのふさふさした尻尾を持つ猫でした。
首輪にお魚の形のタグをしているので、学校の誰かの猫でしょう。

トウブハイイロリスは普通にあちらこちらにいます。
(今住んでるホテルでは朝ゴミ箱に侵入してるのをよく目撃する)

何か見つけて食べだしました。

わたしがこの様子を激写していると、インド系の学生らしい男の子が
横に来て一緒にスマホで写真を取り出しました。

きっとリスのいない国から来た留学生なのね。

こちらのリスさんは頬袋に食べ物を貯蔵したままこちらを窺ってます。
やっぱり大きなカメラは怖いんでしょう。

今回カメラはニコンの一眼レフ一台、レンズもオールインワンで乗り切ります。

いよいよ息子が入寮のために荷物を運び込む日がきました。
ただし、何かの手違いで実際の入寮は次の日からということがわかり、
この日は荷物を運んで部屋の掃除をしてやることにしました。(TOが)

ドミトリーの個室は二人一部屋です。
三人一部屋のドミトリーもあるそうですが、二人でよかったかな。

「友達が嫌な奴だったらどうするの」

「ルームメイトは友達じゃないよ」

「だったら尚更、こいつウゼーとかなったらどうする?」

「どうもしない。ルームメイトだから」

息子は案外人間関係にクールなところがあるのですが、
この辺の感覚はすでにアメリカ人的になっているようです。

今回ルームメイトは前もってSNSで自分の好みと傾向を公表し、
募集して応募してきたアメリカ人(近郊出身)だそうです。

到着してからこの日まで、ベッドリネン類から始まって、
あらゆる学生生活に必要と思われる品々を揃えるために、
毎日のように大型店に日参することになりました。

どんなものが必要かは、SNSによる先輩のアドバイス、
例えばすぐに寒くなるから冬の装備はもう持ち込んでおけとか、
(その心は学校が始まると忙しいので買い物に行っている間がない)
暖房器具があると朝助かる、とかいうのを参考にします。

LLビーン、ベッド・バス&ビヨンド、ターゲット、ベストバイ・・。

アメリカの便利なところは、全米どこに行っても同じ名前の大型店があり、
ほとんどが同じ店の作りで何をおいているかも共通なので、
不慣れな地で欲しいものを探すのに店を探しだす必要がないことでしょう。

わたしたちも他のアメリカ人のように、リネンを買うために「バスビヨ」、
電化製品のためにベストバイ、シャワーに必要な小物のために
ターゲット、冬用衣類のためにLLビーン、と毎日走り回りました。

今の時期、お店ではどこに行っても

「バック・トゥ・スクール・セール」

と銘打って学生生活に必要なものを集めたコーナーがあります。

そして、どこの店でも、お父さんお母さんと新入生らしい子供、
くっついてきた下のきょうだいという組み合わせがうろうろしています。

到着すると早速拭き掃除をして、ルームメイトのところまで
ブラインドを掃除しておきました(TOが)

息子はダストアレルギーがあるので、これに加え、ベストバイで
ダイソンの温熱&空気清浄機付き扇風機を購入して万全の態勢です。

この日と次の日の荷物運び込みは、インターナショナルスチューデント、
海外からの学生と、遠隔地からの学生に限られていたため、
廊下で荷物を運ぶ人と鉢合わせするということもなく、
掃除もしっかりしてやれた(TOが)のはラッキーでした。

後から知ったところ、遠隔地組のオリエンテーションは宿泊の関係で
入学日に一番近いギリギリですが、東海岸の近郊の出身学生の回は
すでに7月から始まり、5回に分けて行われていたということです。


わたしたちが荷物を運び込んだのはオリエンテーションの始まる2日前。

アメリカの大学には入学式というものはなく、それらが終わり、
寮に(新入生は必ずドミトリーに入寮しなくてはならない)残る息子娘と、
彼らを残して家に帰る両親とが抱き合って別れを惜しむのが
入学式のセレモニーといえばセレモニーとなっているのです。

学校は入ってくるものに対してはこれからの生活の指針を与え、
つつがなく学生としてやっていけるようにスタートアップするだけ。

そして全米で、ほぼ同じ時期に新入生が大学生活を始めるにあたり、
家族と別れるための準備に始まって入寮に至るまで、
新入生の数だけ別れを惜しむ家族があり、泣いてしまう母親があり(笑)
これからの自分の生活に不安と期待でそれどころではない学生あり、と
同じ光景が繰り返されるのが、バック・トゥ・スクールの季節なのです。

 

ちなみにわたしは、流石に息子が寮に入った次の日には
いろんな思い出が走馬灯のように巡ってしんみりしたものですが、
この後二日にわたり行われたオリエンテーション行事を経て、
何か一つ、「正しい子離れ」をしたような気がしています。

アメリカの大学は、生徒に対する親離れより、親に対する子離れロスに対して
ここまで手厚くケアしてくれるのだと驚かされた、その、
オリエンテーションイベントについて、後半でお話ししましょう。

 

ボミング・マザーにならないで〜アメリカの大学入学オリエンテーション

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息子が入寮した次の日、大学のオリエンテーションが始まりました。

オリエンテーションはこの大学のホールで、朝早くから行われます。

日本の市民会館の大ホールくらいの規模ですが、実はここは小ホール。
同じ建物に大ホールもあり、東京のオペラシティと同じくらいです。


ここで、学生生活に関わる各部門のディレクターによるレクチャーが
午前中いっぱい使って行われました。

学生生活一般、健康、安全、経済・・。

安全についてはスクールポリスのヘッドが、

「我々は万が一学校内で銃撃事件が起こった時の訓練も受けています」

学内をスクールポリスのパトカーが四六時中パトロールしており、
彼らはFBIとの連携を常にとっているということでした。

健康について、特にマインドの問題は専門のセラピストを設け、
LGBTQの問題についても対処しているというのですが、

「はて、L(レスビアン)G(ゲイ)B(バイセクシャル)
T(トランスジェンダー)はよく聞くけどQって何?」

と思い、家に帰ってから調べてみると、Qとは

Queer or
Questioning

クイアとは同性愛者を含むセクシャルマイノリティーの総称で、
とにかく「大多数の外にあるもの」という定義でしょうか。
はっきりとはしないが「クエスチョンズ」でもあるように、
ぼんやりとしたマイノリティという意味かもしれませんがわかりません。

この写真は、ボランティアであるソフォモア(二回生のこと)四人が
一つの質問に1分以内で答えていく20問、というコーナー。

「授業をスキップしたことがありますか?はい最初の人」

「イエス、アイムギルティ、バット・・・」

「はい次の人」(ドッと笑いが起こる)

骨折したとか、よほどの理由があれば仕方ありませんが、
一回でも授業を休むとリカバーするのが大変だ、ということです。
代返なんてことはアメリカの大学には起こりえません。
困るのは本人ですし、そんな犯罪行為に誰も手を貸してくれません。

また、1時間の授業に対し最低2時間から4時間のホームワークが必要だとか。

ちなみに、学業についてのレクチャーで、

「この学校に入ってきた皆さんのお子さん方は、ほぼ全員がハイスクールの
上位10%におり、その多くが首席か次席だったという優秀な生徒ばかりで、
しかもSATの成績、特に数学は満点で入ってきている人の方が多いのです!」

といきなり親たちの親ばか心をくすぐりまくった後に、

「しかし、皆が優秀なので、そんな生徒が
最初の試験でBとかCの成績を取ってショックを受けます」

あー、それは知ってますよ。

戦前の日本で、地元では神童とか天才とか言われていた青年が、
海軍兵学校のハンモックナンバーでいきなり最下位になってしまい、
ショックを受けるという話みたいなもんですね。

「それでメンタルを壊してしまう生徒も少なくありません」

日本のノーベル賞受賞科学者の息子がMITに入ったものの、
入学してすぐに自室で自殺していた(しかも一週間気付かれなかった)
という痛ましい話があったのをご存知の方もおられるでしょう。

彼の場合はいきなり英語の環境に放り込まれたことも原因かもしれませんが、
アメリカ人学生でも学業についていけずに自殺する、という事件は
名門校ほど頻繁に起こるというのが定説です。

学校としては自殺されるのは一番困りますから、なんとしてでも
そうなる前に専門家に相談してくれ、と声を大にして言いたいところでしょう。

「よくあるコミニュケーション」としてディレクターと学生の間で
ちょっとした寸劇が行われました。

1、男子学生と母親 2、女子学生と父親 3、単位を落としそうだと報告するメール

1と2はも日本でもありそうなやりとりでしたが、最後は、

「お父さんお母さん、落ち着いて聞いてね。
わたし、実はボーイフレンドの子供を妊娠してしまったの。
彼にはちょっと病気があるけど大丈夫、産んで育てるわ」

と言った後に、

「今のは嘘。ちょっと脅かしただけ。
わたしは妊娠どころかまだボーイフレンドもいないから安心して。
でもね、一つ単位を落としそうなの・・・」

親に、なーんだ、そんなことか、と思わせるためのテクニック紹介?でした。

アメリカの大学は専攻を途中で変えることができます。

つまり入学した時には何をするのか決まっていない学生もいますが、
一旦選んでから変えるのよりはギリギリまで迷うのもありらしいですね。

このガイダンスは、専攻を決めるにあたって、というテーマ。

また別の部屋で行われた学生への質問など。

驚いたのは、こんなステージを持つ小ホールが別のところにもあったことです。
この調子では、他にも後いくつかホールがありそうです。

この日はランチもディナーも申し込んで学校で食べることにしました。
ディナーは学校の一部にある「アラムナイ・ハウス」つまり
卒業生同窓会クラブのソーシャルルームで行われることになっていました。

この建物は学校の横にあった、いったい築何年?という古い家。
軽く150年くらいは経ってそうです。

大学のあちこちには、歴史に名を残した卒業生を讃えるコーナーがあります。
海軍士官の姿をした写真を見つけて目を輝かせて近づいていくと、
海軍にいた時代があった科学者でした。

アラムナイセンターにあった卒業生コーナー。
装甲艦、USS「モニター」の本がありますが、写真を撮り忘れたので
卒業生がこれを作ったのか、それとも海底から発見したのかわかりません。

右側は軍用航空機の開発者で、コンベアのB-58ハスラーなども手がけた
卒業生の紹介として本が飾ってあります。

アポロ計画時代、NASAのトップをしていた卒業生もいたようです。

なんと!あのリバティシップを大戦中740隻作り、効率性の点で
海軍と造船の現場に大変な効率性をもたらした人が卒業生にいました。

この他、シービーズで指揮をとった土木工学専攻の卒業生もいるなど、
軍事研究にも多数の卒業生が関わっていることがわかりました。

サラダとチキン、白身魚のビュッフェがこの日のディナー。

同じテーブルになった人たちと話しながら食事するのですが、
わたしたちの隣に座った男性は、なんとコロラドから、三日かけて
車で馬を乗せてここまでやってきた、と語り驚かされました。

なんでも彼の姪がどうしても愛馬を連れてきてほしい、と頼んだからだとか。
近隣の乗馬クラブに預けたりするつもりなんでしょうか。

それにしても、アメリカの金持ちはやることが豪快だわ。

息子と最後にこの食堂でランチを食べました。
冒頭写真の建物の内部がこれです。
外側は思いっきりロマンチックなのに、中は普通のダイニング。

入り口で8ドル払えば中で好きなだけ食べても構いません。
もちろん時間制限もありません。

学内を歩いていて東部の学校だなと思った貼り紙。

「建物の外側を歩くと上から雪が落ちてきて危険ですから
必ず内側を歩いてください」

さて、オリエンテーションも二日目になり、いよいよ最後です。

オリエンテーションの最後は親と子が一緒に受けることになり、
ロビーでコーヒーを飲んでいると、「よお」といって息子が近づいて来ましたが、
あとはずっと同級生と楽しそうに話をしていました。

もう友達になったのかしら。


ロビーには栄養について専門知識を持つ栄養士がアドバイスをするコーナーや、
学生専用銀行のコーナー、そして・・・・

なぜか海軍のコーナーがありました。

せっかくなのでパンフレットだけもらってきました。

まだ詳しく読んでいないのでわかりませんが、ちらっと見たところ、
海軍が月々2,000ドルくらいを出資するバカロレアディグリーで、
工学系大学で原子力や医学につながるバイオロジーなどを勉強し、
卒業後、海軍の原子力エンジニアや軍医、航空士官、軍艦乗組、
そして原子力潜水艦の乗組になってくれんかね、というブースのようです。

どちらにしてもアメリカ市民でないとダメらしいですが。

海軍のブースには三人もいましたが、陸軍と空軍は
テーブルが用意されていただけで誰も来ていませんでした。

いよいよクロージングセレモニーの始まりです。
それにしてもたかが一つの大学のホールなのに、この立派なこと。

セレモニーではディレクターの一人が今年の入学生の「優秀さ」について語り、
去年の入学生がこの一年どんな学生生活を送ったか、学生が製作したビデオを放映したあと、
スクールソングを皆で歌っておしまい。

息子の部屋には後から思いついたものを買って来て放り込みました。

他の生徒たちは今日が本格的な引越しです。
前の車が荷物を降ろし終わるまで、後ろは動けません。

近隣から来ている彼らは、荷物をバラバラで持って来ているのが特徴。
スーツケースなど一切持たず、ハンガーにかかった服を持ち込む男子学生もいました。

皆が買ったばかりの電子レンジ、掃除機、温熱器、
コーヒーポットやダイソンなどの箱を抱えています。

 

オリエンテーションのレクチャーではこんなことを言っていました。

自分たちで何もかもやろうとせず、ましてや子供を
「ダチョウ」のように何かあった時に殻に閉じこもらせず、
できるだけ我々を信頼して外部の専門家を頼ってください。

ただでさえ、大学というのは最低でも週32〜36時間の
勉強をしないと単位が取れないので、95パーセントの学生が
大変な思いをして時間を捻出しているのです。

だそうです。
アメリカの大学は入るより出るほうが難しいとはよく聞きますが、
とにかく皆猛烈に勉強させられるようですね。

親としては、私の子供は親元を離れて大丈夫かしら、と心配になるものですが、
そんな時に決して「爆撃型」「ヘリ攻撃(バラマキ)型」ペアレンツにならないで、
とこの講師は語りました。

愛情の爆撃、心配のヘリ攻撃、何れにしても大人になりかかっている
彼らには、負担にしかならないのは事実です。

わたしは皆さんも薄々お分かりの通り、興味の対象が子供にだけ向いている
ボミングマザーだったことはないという自信はありますが、
(ボムはボムでも本当の爆撃関係にこそ興味があるので、と言うのは冗談)
それでも息子からすれば、自分を信じていないと思われるような心配や小言が
疎ましく思われることだってなかったわけではないでしょう。

そんな点からいうと、親元から離れての学生生活は、子供の側にとっては
誰でも持つ「親の煩わしさ」からの解放であることは間違いありません。
逆に、離れて初めて気づく親の有難さに気づく機会であるとも言えます。

親にすればそうであってほしい、といいますか。

週一度程度のスカイプ、用事がある時のメール、せいぜいメッセージと、
この時代ならではの便利なツールを活用して適度なコンタクトを取りつつ、
遠い日本から保護者の務めを果たしていこうと思います。

息子が自分の人生を親の助けなく歩いていけるようになる日まで。

 

 

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