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アップサイドダウン・シーキング〜空母ミッドウェイ博物館

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空母「ミッドウェイ」のフライトデッキ訪問、この辺で
回転翼機のご紹介に移りたいと思います。

まずは名作対潜ヘリコプター、

SH-3 シーキング(Sea King )シコルスキーエアクラフト

20年以上にわたって、シーキングは海軍にとって最も有能な
対潜ヘリコプターとしての位置を締めてきました。

ユニークなボートシェイプ機体は、非常時にはたとえ平坦でない
洋上のポンツーンへの着地も可能としました。

パワーがあって安全性に富んだシーキングは、その用途の可能性を
大きく広げ、本来の任務である救難救助や掃海の他にも、
大統領専用ヘリ「マリーン・ワン」に指定されたり、あるいは
アポロ計画で宇宙飛行士を回収するという場面にも活躍しました。

右舷?から見たシーキングのノーズ。

強力なタービンエンジン双発の大型機に変わったことで、これまで
捜索役と攻撃役の2機(ハンター/キラーチーム)で行っていた対潜作戦が
これ一機でで行えるようになった画期的なヘリコプターです。

開発段階で艦載機を想定していたため、メインローターブレードや
尾部のテイルブームなどは折りたたむことができる構造です.

この写真には写っていませんが、胴体の左右には「スポンソン」という
物入れにもなる部分があり、そこには膨らませるとドラム缶2個くらいの
大きさのエアバッグと、酸素ボンベが入っています。

万が一海に落ちた場合はエアバッグが膨らみ、しばらくは浮いているので、
その間に脱出するのです。

「ミッドウェイ」ではシーキングがタキシングの時にタイヤのブレーキが
故障して止まらなくなり、仕方なく浮上したら、次にローターが止まって
海に墜落するという事故が起こったことがあります。

乗員(4人)が海に浮いた機体から脱出するためにローターの止まるのを
待っていたところ(ローターが回ったまま機体が傾いたら危険)、
機体がくるりと回転して逆さまになってしまい、乗員はすぐさま離脱、
全員が別のヘリにホイストされて助かりました。

パイロットには全く責任のない機体の故障による事故です。
先般墜落した陸自のアパッチ・ロングボウ(貴重なアパッチが・・)の場合も、
目撃証言によるとローターが分離したとということで、
操縦ミスではないらしいことになっていますね。

機体の不具合で起こるミスによる乗員の死亡は、
自分ではどうしようもないことだけに、整備や点検の段階で
防ぐことはできなかったのかと残念でなりません。

チャック・スマイリー、という名前からコメディアンしか想像しなかったのですが、
意外とこんな人でした。

この写真は、スマイリー少佐が海に着水したカプセルから
アポロの宇宙飛行士を回収した時のものらしいです。

写真では確認しにくいですが、ヘリのノーズには「66」と書かれています。
敬意を評してのペイントでなく、ここにあるヘリが、これだけの
アポロ計画で着水したカプセルから宇宙飛行士を回収したのです。

機体にはアポロ13と記されたカプセルも描かれています。

日本では海上自衛隊が三菱によるライセンス生産で対潜哨戒機HSS-2を
1964年から「ちどり」という名前で運用していました。

先ほど事故の話をしましたが、日本で運用していた間にも、
HSS型ヘリは決して少なくない回数の事故を起こしています。

SH-3シーキング Wikipedia

最初の事故の1967年から1996年までの間に通算20回、
21名もの尊い命が失われました。

昨今のヘリの事故の多さ、そして安定した機体と言われた
シーキングにおけるこの殉職者の数を見ると、ヘリコプターが
決して一般人の交通手段として広く普及しない訳がわかります。


HO3S ヘリコプター シコルスキーエアクラフト

戦後すぐの1946年から海軍はこのHO3Sを最初の海軍機に指定し、
広範囲の任務に導入をし始めました。

固定翼機のようにカタパルトを必要とせず、ピンポイントで
洋上の船舶にも降りられることから、空母だけでなく
戦艦や巡洋艦にも航空機を搭載することができるようになったのです。

これはもう海軍にとって天の恵みという他ない進化で、
ヘリをそれでも使用することは決して少なくない事故の確率を考慮しても
それを補って余りあるメリットがあったということでもあります。

このHO3Sは海軍向けに作られたR-5の派生形で、
全部で88機生産されたうちの一機です。

にしても、なんだか変なキャノピーだなと思いません?
これではパイロットは外が見えないではないの。

なんの説明もないので想像するしかありませんが、展示に当たって
キャノピーの破損した機体しか残っていなかったので、
仕方なくこんなカバーを制作したのかもしれません。

多用途ヘリ HUP レトリーバー(Retriever)

HO3Sの形と似ていますが、こちらはパイアセッキ社です。
このころのヘリコプターというのは黎明期だったせいか、
結果として同じような形になってしまった感があります。

「パイアセッキ」という名前については前にもお話ししたことがありますが、
創業者のフランク・パイアセッキから取られたもの。
ポーランドにある名前で正確には「ピアシェキ」と発音するようです。

そしてこの名前のレトリーバーって犬の種類なんじゃ?と思った方、
その通りで、この名前は猟犬を意味するレトリーバーからきたものです。

1949年に採用され、救難や輸送などの目的で空母に搭載されました。

エンジンは、M4中戦車シャーマンと同じ

Continental R975 C4
4ストローク星型 9気筒空冷ガソリン
400 HP

が搭載され、パワーを重視した作りです。

パイアセッキ社はその後「バートル・エアクラフト」と社名が変わり、
さらにボーイングに買収されて「ボーイング・バートル」になりました。

自衛隊でも装備されていたおなじみ「バートル」はこの会社の製品です。

「ミッドウェイ」に関わった艦載機パイロットなどの
名前と共にちゃんと装備を身につけたマネキンがコクピットにいて、
現役時代が想像できるように展示されているのがさすがです。

今まで見てきた中で、もっともお金と手が掛かっている博物艦だと思います。

マネキンが座っている位置を見て、レトリーバーが他のヘリと違う、
ともし思った方がいたら、あなたは大変ヘリに詳しい方です。

 HUPレトリーバーはご覧のように左側にパイロット席がありますが、
(普通のヘリはそうではないらしい)レスューハッチが
コクピットにある関係でこうなっているのだそうです。

確かP-3Cは左がパイロット席だったと思いますが、
ヘリは違うんですかね。

1960年代には後継機としてUH-2シースプライトに、
そしてHUPの成功により評価を得たタンデムローターは
のちのCH-46シーナイトに受け継がれていくことになります。

中が良く見えるように公開してくれていました。
背中のシートがキャンバス地を貼っただけって・・。
CH-47に乗ったことのある方が「決して乗り心地は良くない」と
断言しておられましたが、その意味がよくわかります。

でたー!おにぎり!・・・じゃなくて、

対潜ヘリ H-34 シーバット(Seabat )

ノーズの下部に布が貼っていますが、これも修復の跡かな。

対潜水艦にヘリを使う、という思想は当然戦後生まれですが、
その中でも対潜武器としての嚆矢となったのが当機です。

1950年代からヘリコプターを対潜に用いることが試みられ、
任務に耐えうる強力なエンジンとして選ばれたのが

ライト社製 R-1820 ピストンエンジン サイクロン9

でした。
B-17フラインングフォートレスなどの大型機やドーントレス、
ワイルドキャットなど戦闘機にも搭載された第二次大戦中のエンジンです。

対潜用のシーバットにはディップソナーも搭載されています。

かっこいいかと言われると答えに困る、どちらかというと不気味なシェイプです。
なんかの稚魚みたい。

シーバットはマーキュリー計画の時に宇宙飛行士を海から回収して
有名になったそうなので、おそらくその時のパイロットが
ジム・カーソン大佐なんだと思いますが、海軍にはこの名前の大佐が
たくさんいると見えて、検索してあまりにもたくさんの人が出てくるので
特定は諦めました。

カマン・エアクラフト SH-2 シースプライト(Seasprite) 

シコルスキー、パイアセッキときてカマン。
ヘリ製造会社の有名どころから、代表的なヘリが一つづつ出揃いました。
これにヒラーが加われば完璧なんですが。

ところで皆さん、スプライトの意味が「小鬼・ゴブリン・妖精」だったってご存知でした?
わたしは子供の時からスプライト=清涼飲料水のイメージしかなかったのと、
スプラッシュという言葉のせいもあり、

スプライト=「しゅわしゅわっとした泡的なもの」

だと思い込んでいました。

シースプライトはつまり「海の妖精」です。
(ゴブリンかもしれないけどここは綺麗にまとめて)

ジェット・タービンエンジンを積んだヘリのパイオニアで、
最初から海軍のために設計・製造されました。

多用途ヘリとして開発されたシースプライトですが、対潜用ソノブイ、
レーダー、磁気検出器(magnetic detector)、魚雷を装備することができ、
そのコンパクトな機体は駆逐艦に搭載することで、機動部隊の
対潜防御に大きな役目を果たしました。

ちゃんとここにも人がいます。
シースプライトの場合は操縦席は右側になるはずですから副操縦士?


しかしこのコクピットは狭そうだ・・・・。

多用途ヘリとしてシースプライトシースプライトの主たる役割は、
対潜戦のほか、対地戦闘、および対艦ミサイルからの防衛と敵艦の監視など。

また、その他にも、救急輸送、捜索救難、人員や貨物の輸送、
小型艇の撃退、水陸両用作戦の援護、火砲の目標指示、機雷の発見、
攻撃成果の評価など、多岐にわたる役割をこなしました。

 

続く。

 

 

 


「フリート・エンジェル(艦隊の天使)」ヘリ部隊〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」フライトデッキ上の艦載機、
前半に引き続きヘリコプターをご紹介しています。

CH-46 シーナイト(Sea Knight) ボーイング・バートル

この辺になってくると、現行のCH-47にそっくりになってきます。
解説には Vertical Replenishment Helicopterとありますが、
これを直訳した「垂直補給」とは、ヘリからロープで荷物を牽引し、
そのままそれを他の艦船などに積むような補給法のことで、

VERTREP(ヴァートレップ)

と簡単に呼ばれているそうです。
ヘリなら当たり前のこの方法ですが、ヘリコプターが登場した後、
この補給方法は船と船を接舷しなくてもできる画期的なものだったのです。

コロンブスの卵というのでしょうか、この当たり前だが画期的な方法を
最初に試みたのはUSS「サクラメント」で、1964年のことでした。

この時「サクラメント」は2台のCH-46 シーナイトを導入し、
燃料や弾薬を「サクラメント」から最大100マイル離れた他の船に
配達することが可能となりました。

ヘリコプター戦闘支援艦隊8号機の「ドラゴン・ホエール」搭載の
MH-60Sナイトホーク・ヘリコプターが、USS 「ハリー・S・トルーマン」と
弾薬船USNS 「マウント・ベイカー」の間を飛行し、VERTREPをしているところ。

誤解のないように断っておきますと、ヘリがたくさんいるのではなく、
これは分解写真で一機のヘリの動きを表しています。
海上の様子を見るとどちらもが航行中であることがわかりますね。

 

VERTREPによる補給は従来の方法と比較して、操縦の自由度が高く、
吊り下げのためのラインを補強しさえすれば、時間の損失は最小限ですみます。

冷戦時に行われたあるVERTREPによる補給作業は、受け取る側の駆逐艦が
ソビエト潜水艦との接触を維持している間に達成されたということです。

このCH-46シーナイトはVERTREP用に開発されたので、
わざわざこんな名前がつけられているのだと思われます。

エンジンは、重量のある積荷を航行中の船舶に
補給するのにパワーアップしたものが2基搭載されました。

中を公開しており、内部に入って座ることもできます。
折しもちびっこの団体が搭乗中だったので遠慮しておきました。

シーナイトは人員輸送のための「フリークェント・ビジター」として
頻繁に空母に着艦を行いました。

クルーは3人、17名までの乗客を運ぶことができます。
シートの赤は元々の色でしょうか。

時間があったら中に乗って、コクピットの写真を撮ったのですが。
次に訪問することがあったらぜひその時には・・・。

後ろのハッチだけでなくコクピット側の入り口も階段がつけられ、
入っていくことができるようになっていました。

日本では川崎重工業が1965年(昭和40年)からライセンス生産し、
各自衛隊でKV-107として採用された他、警視庁や民間向けに販売し、
政府による武器輸出三原則が発表されるまで海外への輸出も行っていました。

自衛隊向けの機体は「しらさぎ」との愛称が付与されていましたが、
ほとんど「バートル」と呼ばれていたようです。

陸上自衛隊で導入したバートルは日本航空123便墜落事故にも出動し、
生き残った乗客を救出する姿が報道され、有名になりました。

この後継機が現行のCH-47J/JAです。

航空自衛隊は最も最近まで「バートル」を運用してきました。
UH-60Jに置き換えられることになり、2009年、平成21年11月3日、
浜松救難隊の最後の一機が入間基地の航空祭でラストフライトを行ない退役。

ちなみに2008年公開の映画「空へ-救いの翼 RESCUE WINGS-」では
この機体が飛行・離着陸を行なっているシーンが見られます。

海自も9機だけ、機雷掃海ヘリコプターとして導入しています。
MH-53E シードラゴンに置き換えられ1990年(平成2年)全機除籍されました。

父ちゃんが子供にヨタ教授(たぶん)をしているの図。
よくしたもので、たとえ間違っていても子供は片っ端から忘れてくれます。

ところで、この機体もうすっかり既視感があるんですけど。
陸自のUH-1ヒューイそっくりではないの。

と思ったらそれもそのはず、UH-1ヒューイそのものでした(笑)
説明の看板には

UH-1 ヒューイ ガンシップ 攻撃ヘリコプター

とあり、HA(L)-3、「シーウルヴス」(海の狼たち)
というヒューイ部隊のマーク(よく見ると青い狼)がノーズに描かれています。

このマークは、著作権の関係でここには載せられませんが、ドイツのビール
レーベンブロイのライオンを参考にして作られました。
レーベンブロイとは向きが違いますが、ちょっとだけ似ています。
ちょっとプジョーのマークにも似ていますかね。
青い狼が携えているのは海軍を表す「トライデント」(もり)です。

 

ところでちょっと待って、ヒューイってアメリカ軍はアメリカ軍でも
陸軍のヘリだよね?
なんでここにあって、海軍の部隊が運用しているの?
と思った方、あなたは鋭い。

 

ここで、「ガンシップ」なるものについて説明をしておきます。

ところで「ガンシップ」というとどんなヘリを想像します?
やっぱりAH-1コブラの名前が筆頭に上がるのではないでしょうか。

陸上自衛隊でもヒューイは多用途ヘリとして認識されており、
決してガンシップと呼ばれるものではないことはご存知の通り。

もともとガンシップとは読んで字のごとく、「砲艦」を意味する海軍用語です。
現在海軍では大型河川などに配備される喫水の浅い軍艦を指しますが、
どちらかというと攻撃用ヘリという意味でよく使われているようです。

攻撃用ヘリ=ガンシップの定義は、

「輸送機の機体を流用して開発した局地制圧用攻撃機」

ということになり、ベトナム戦争がきっかけで生まれた概念です。
朝鮮戦争で本格的に導入され始めたヘリコプターですが、あくまでも輸送が目的で、
ベトナム戦争初期もその役割は輸送と偵察の他、

VERTREP(ヴァーティカル・リプレニッシュメント、垂直補給)

SAR(サーチアンドレスキュー、救難)

MEDEVAC (メディカル・エヴァキュレーション、負傷者搬送)

などに止まっていました。
程なく海軍は対潜戦にヘリコプターを導入すると同時に
魚雷の搭載を始めますが、対地攻撃に対しては固定翼機にお任せの状態でした。

1965年ごろ、戦線が激化したためメコン川などの作戦に参加することになった
アメリカ海軍は、

「ブラウンウォーターネイビー(河川などで戦う海軍)」

となることを(行きがかり上)余儀なくされます。

最初、ブラウンウォーターネイビーとなったアメリカ海軍は、
ガンシップヘリを所有する陸軍第145大隊の支援を受けていました。

この陸海共同軍は「ジャック・ステイ作戦」で、メコン川流域の
南ベトナム解放民族戦線のゲリラ討伐を一応成功させはしました。

しかしながら終わってみれば、やはり餅は餅屋っていうんでしょうか、
たとえば昼夜を問わず艦船に離着艦を行うような場面では、
陸軍のパイロットとエアクルーにはそれちょっとキツイ、
みたいなことが多々あったらしいんですね。

それは陸軍のパイロットとクルーが艦船を使ってのミッションの専門的な訓練を
全く行っていなかったことからくる問題だったようです。

そこで生まれたのが、ヘリコプターガンシップを運用する海軍航空隊、
ヘリ戦闘支援第一部隊(HC-1)、通称「フリート・エンジェル」でした。

使用したのは2機の陸軍のUH-1Bヒューイ、もちろんガンシップ仕様です。

「ミッドウェイ」フライトデッキ上の「艦隊天使」は、当時の武器を搭載した
ガンシップ仕様のUH-1がそのままに展示されています。

これらガンシップはブラウン・ウォーター・ネイビーを近接航空支援し、
迅速なる敵地攻撃を効果的に行いました。

需要が飛躍的に増えたガンシップ部隊を海軍は増強し、当初のHC-1部隊は
4つの部隊に分割され、

ヘリコプター戦闘支援部隊3(垂直補給)

ヘリコプター戦闘支援部隊5&7(救助)

そして

ヘリコプター攻撃部隊 (Light) 3

つまりHAL-(3)、シーウルブスとなったというわけです。
シーウルブス結成にあたり、海軍は海軍内にパイロットの志望を募りました。
志望者の中から80名が選ばれ、ベトナムに1年後から配置されています。

シーウルブスのデビュー戦?は1966年10月31日、
まだ部隊が分割される前のことで、ベトコン兵士を搭載した
80隻以上のボートに遭遇した2隻の海軍艦船の指揮官が要求した
緊急航空支援(CAS)にこたえた時です。

シーウルブスはスクランブル発進して約15分以内に現場に到着すると、
たちどころに16隻のボートを沈没または破壊したとされています。

HA(L)-3はその後も偵察、医療避難(MEDEVAC)、あるいは
ネイビーシールズの輸送と撤収というミッションをこなしました。

1972年3月16日に解隊となるまでの間、ベトナムとカンボジアでの
シーウルブスの飛行任務は実に12万回に及びました。

これらの戦闘を通して200人以上のシーウルブス隊員が負傷し、
そのうち44人が戦死しています。

コクピットドアに書かれた LT JG MARTIN COYNE、コイン中尉は、
ラインオフィサー(実務に関わる士官)たるパイロットとしてHAL-3、
おそらくMEDIVACを行なっていたシーウルブスののパイロットだったのです。

海軍の物故者名簿には、彼が2006年に64歳で亡くなったこと、
「Other Comments:」として、2007年1月、彼の妻は
カリフォルニアのサンディエゴに繋留してある「ミッドウェイ」の
シーウルフUH-1Bの機体に夫の名前を記した、と書かれています。

 

ところで、最初に海軍が運用しだしたヘリ部隊の名前、「艦隊の天使」
=「フリート・エンジェル」は、やっぱりヘリのローターを
「天使の輪」に見立てたネーミングなんでしょうね。

 

続く。

 

わたしのワシントンD.C.滞在

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今回、東海岸にいる間にワシントンに一泊してきました。

ワシントン空港到着。
ボストンに住んでいた頃来て以来ですから、ほぼ空港の記憶なし。

当時はレンタカーのゴールドメンバーなどではなかったので、
レンタカーを借りるのも、その都度カウンターに並んだものです。

今ではカーロットの「プレジデント・サークル」に並んでいる
選り取り見取りの車から、契約したクラスの値段で借りられる身分に。

契約はいつもカローラ・クラスでしますが、大型車があればそれを借ります。
今回も一泊ですがトヨタのハッチバックを選びました。

空港から市内に向かう途中、虹が出ていました。

これを見るとワシントンにやって来た、と思うワシントン記念塔。
高さ約70mあって、内部は上まで登れるそうです。
(調べてませんがまさかエレベーターなんてないよね?)

そしてたった今知った情報によると、ペリーが日本から持って帰った函館、
下田、琉球の石がどこかに使われているんだとか。

ワシントンでのホテルもいつものレジデンスイン・マリオットにしました。
一泊なので料理は多分しませんが、キッチンがあると何かと便利です。

次の日、早速わたしたちは3人でホテルを出ました。
目的はスミソニアン博物館。

というか、スミソニアンのためにだけワシントンにやって来たようなものです。
もちろんこれはわたしの強い希望によるものです。

アメリカの貨物列車は気が遠くなるほど車輌の列が長いのですが、
この時に遭遇した列車も丸々5分間は続いて行きました。

合衆国国会議事堂が工事現場の向こうに・・・・・。

おお、これが夢にまで見たスミソニアン博物館。
しかし誰も前にいないのはなぜ?

TOが開館時間を勘違いして1時間早く来てしまったのですorz

「じゃホテルに帰ろうか」

「わたしスターバックスで時間潰していく」

そのまま二人は帰って行ってしまい、結局博物館には現れませんでした。
その理由は、この後大雨になったからです。

ドワイト・D・アイゼンハワー記念館を作るつもりと判明。
施工許可者と言う意味か、トランプ大統領の名前が一番上に見えます。

こんな巨大な建物をアイゼンハワー一人のために・・・・?

と言うわけで、少し戻ったところにあるスターバックスに到着。
ただしこれはそこにあったシアトルの第一号店の写真です。

スタバ第一号店にはシアトル旅行の時に行って見ましたが、
ほぼ全員が観光客で、全員が店内の写真を撮りまくっていました。

開館10分前に行って見ると結構な列ができていました。
スミソニアンに行く予定のある方、開館30分後に行けば
行列は解消していてほとんど並ばずに入れます。

飛行機に乗る時のように金属探知ゲートを通り、
荷物はX線検査を行います。
アメリカの空港のように靴までは脱がされませんでしたが。

スミソニアンといっても、ここはたくさんの博物館のうちの一つに過ぎません。
正式名は、

国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)

といいます。
スミソニアンの展示については、また例によって、
「ビニーリサイニーリ」方式で何日にも分けてお話しして行くつもりです。

歴史的な航空機の本物があるのはもちろん、宇宙関係は
ほとんどが実際に宇宙から帰って来たものだったりするのがすごい。

写真はマーキュリー計画でジョン・グレン飛行士が乗ったカプセル。
これを回収したのは「ミッドウェイ」艦上にあったヘリコプターです。

一目でわかるこの形、この色。

当ブログでもベルX-1、「グラマラス・グレニス」の前に立つ
チャック・イエーガーの絵を掲載したものですよ。

人類初めて音速を超えたロケット機がここにあります。

黎明期に空を飛んだ(あるいは飛べなかった)飛行機の数は数知れず。

ジェット機は胴体をそのまま輪切りにして中を見学できるようになっています。

歴史的な偉業を成し遂げた飛行機は言うに及ばず。
これは北極圏を飛んだ飛行機、ノースロップ・ガンマ・ポーラスター。

お父さん、すっかり疲れてベビーカーの見張りをしつつ休憩です。

零式艦上戦闘機、もちろん本物です。

空母コーナー。
この巨大な模型は空母「エンタープライズ」です。

ここは展示室全体が空母のハンガーデッキと同じ作りになっていて、
個人的にはすごく馴染みました。
ここで見たものをご紹介できるのが楽しみです。

空中にもびっしりと航空機が展示されていて圧巻です。

アポロ計画の月面モジュール。
これが本当に月に行ったのか・・・と感慨に浸れます。

ここにある中である意味もっとも歴史的に価値のある展示かもしれません。

なぜか館内のIMAXでミッション・インポッシブルの新作が上映中。
わたしたちはアメリカに出発する前日に皆で観に行きました。

「アルビオン」を見学したその日の夜だったので、
寝落ちするかと思ったら、案外面白くて最後まで観てしまいました。

一人で写真を撮り歩き回ってお腹が空いてしまったので、カフェで休憩。

広いテーブルスペースの手前に食べ物のケースが並んでいて、
そこでピックアップしたものをお勘定して食べるというシステムです。

大きなモッツアレラチーズ入りターキーサンドとフルーツ。

アメリカの生んだ偉大なパイロットたちについても多くを学べます。
右側の女性はリンドバーグ夫人。彼女自身も有名な飛行士でした。

初めて見るのに初めて見る気がしない。なぜだろう。
マリー・アントワネットもこれが飛ぶのを見たというモンゴルフィエ兄弟の気球。
ここにあるのは模型だそうです。

夕方まで一回の休みだけで駆け回り、腱鞘炎になる一歩手前になるまで写真を撮って、
ホテルに帰って来たら、一日の歩行距離は2万歩でした。

外は激しく雨が降っていたので、お土産ショップで傘を買いました。
ショップの一隅にはワシントンということで「桜」コーナーあり。

出口で見かけた素敵なTシャツのお父さん。

ワシントンの中心部には100年越えの建物と新しい建物が混在しています。
こちらは新しい方ですが、砂漠の中にありそうな雰囲気。

国立アメリカインディアン博物館だそうです。

こちらは古い方、スミソニアン産業博物館です。

航空宇宙博物館の周りには郵便博物館、聖書博物館などがあり、
どちらもこんなものをわざわざ観に行く人がいるのかと思ってしまいましたが、
車で通りかかるたびに誰か人が入って行くのをみました。

ワシントン滞在は二泊。スミソニアンだけが目的です。
にも関わらず、初日航空博物館に全く脚を向けなかったTOとMK。

彼らにしてみれば、スミソニアン航空宇宙博物館も
わたしにとっての聖書博物館みたいなものなのでしょう。


飛行機に乗る前に空港近くにあるスミソニアン別館には流石に
一緒に行くことになりました。

空港に向かう途中、息子に適当に風景を撮ってもらいます。

記念塔の根元は星条旗と柵で囲まれていますが、これは
1982年、反核派の男が核武装に抗議し爆博物を仕掛けたとして
立てこもり射殺された事件以降になされたという話です。

反核派が戦闘的というのは世界的な傾向だったりするのね。

あのリンカーン記念堂のプール(フォレスト・ガンプとジェニーが入った池)
はこの木立の向こう側にあります。
今走っているのはコンスティチューション通りです。

観光バスから降りる観光客は絶えることはありません。

ポトマック川に渡るアーリントン・メモリアルブリッジを臨む。

「あー!今撮って!あれ撮って!」

と騒いで撮らせたレイセオン社(ファランクスなどを作っている)のビル。
でって言う。

そして約30分後、空港併設のスミソニアン別館に到着。
どちらかと言うとわたしはこちらがメインだったんですよね。

なぜって、ここには旧日本軍機やドイツ軍機などのコレクション多数。
何と言っても冒頭写真のB-29を直にこの目で見たかったからです。

博物館は空港から近く、飛行機の時間待ちに見学もできます。
空港からは頻繁にホテル提供のシャトルバスが往復しているようです。

まあわたしは飛行機の待ち時間ではとても時間は足りなかったですけどね。
全部見終わるのにたっぷり5時間かかってしまいました。

ワシントン空港に着いた途端、雷雨になってしまいました。
これは一旦止んでからの写真ですが、出発は遅れるとの通知。

ワシントンのダレス空港では、このようなバスがターミナル間を往復しています。
バスはほぼまっすぐにしか進まず、ターミナルで乗り込んだ客を、
向かいのバゲージクレームまで載せて行きます。

これは「モービルラウンジ」というもので、2本の筒は柱だそうです。
これを天井にはめると車体がラウンジの高さに応じて上下する模様。

わたしたちの飛行機は遅れに遅れました。
一回乗り込んでまた降ろされ(荷物もピックアップ)、
結局いつになるかわからない出発をラウンジで待つことになりました。

アメリカ人は慣れているのか皆平然としています。
まあ、誰しも落雷の危険をおしてまで飛んで欲しくないですよね。

その辺が北海道の空港で暴動を起こした某民族との違い。

結局離陸したのは予定時間の4時間後でした。

わたしにとってのワシントンDC滞在はイコールスミソニアン、
しかも航空宇宙博物館のみ。
そして街一番と評判の、しかしその割にいまいちだったイタリアンの夕食、
それが全てでした。

しかしその二日でいっぱいブログネタができたので大満足です。
またそのうちここでお話ししていくつもりですので、よろしくおつきあいください。

 

 

 

タグボート「ヘラクレス」と戦艦「オクラホマ」の沈没〜サンフランシスコ海自博物館

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帆船「バルクルーサ」の次に見学したのは、蒸気タグボート「ヘラクレス」です。
タグボートの名前が「ヘラクレス」というのは実にぴったりですが、
同じタグボートである彼女の姉妹船もすごくて、

「Goliah」(ゴリア、ゴライア)

これはまず間違いなく「ゴリアテ」(Goliath)からきていると思われます。
どちらの名前にも共通する印象は「強い」「力持ち」でしょうか。


ただし、ヘラクレスは力は強いがカッとするとキレる単細胞が災いして
一生その力をいらんことに使い、「ヘラクレスの選択」といえば
「あえて苦難の道を選ぶこと」と同義になっているそうですし、
かたや英語で「ゴライアス」と発音するところのゴリアテは、
巨人兵でありながら小兵であるダビデにやられちゃうんですけどね。

まあその名前に深い意味はなく、あえていえばその力も使いこなせば役に立つ、
と言いたいのかと。

「ヘラクレス」は1907年、ニュージャージーのカムデンで建造されました。
最初からサンフランシスコでの任務のために建造されました。

「ヘラクレス」の姉妹船「ゴライア」は1849年に建造され、
彼女とは建造年月日に58年も違いがあります。

岸壁を挟んで向かいの「バルクルーサ」甲板から見る「ヘラクレス」。
真っ黒な船体に刻まれた「ハーキューズ」という名前がいかにも強そうです。

牽引を行うという任務のため、艦橋は船体の割に高いところにあります。

白黒写真ではわかりませんが、当時から彼女はこのような
鮮やかな赤と黒の船体をしていたのでしょうか。

上部構造物の階段を上った最上階には、「ホイールハウス」と呼ばれる
操舵室があり、昔ながらの舵輪が備えてあります。(ここは非公開)

喫水線から上の部分だけなんども塗装をやり直しているように見えます。

甲板からのアルカトラズ島の眺め。
甲板デッキまで船体と同じ赤に塗られていました。

キャプスタンの上覆いには名前と建造した船会社の名前、

 John H. Dialogue and Son

などが刻まれています。
この会社は第一次世界大戦の頃経営に失敗して廃業していますが、
1876年に行われたナショナルシップ「コンスティチューション」の
大改築には参入し、その保存修復作業を行なっています。

こちら「ヘラクレス」の最も大事な機関、トウイング・マシーン。

このトウイングマシンで戦艦「カリフォルニア」を牽引する「ヘラクレス」。

「カリフォルニア」は1921年から20年間の長きにわたって
太平洋艦隊の旗艦を務めた戦艦です。

 

機械と木製の内壁の取り合わせがなんだかミスマッチ。
一階下にあるのは「ヘラクレス」の強い心臓、エンジンです。

このエンジンは

Triple expansion steam engine (三重膨張蒸気エンジン)

といい、蒸気機関車などに搭載された複式機関と同じものです。
ここにあるのは日本語では

「3シリンダー3段階膨張複式機関」

で良いかと思われます。
見る限り、シリンダーは大2、小1の組み合わせのようです。

エンジンルームの横がいきなり船員のキャビンでした。

「ヘラクレス」には船長、、二人のメイト、(幹部?)3人の消防士、
3人のオイルマン、機関長と2人の機関士、コック、そして
3人のデッキハンター(deck hunter)が乗員として乗り込んでいました。

つまり全部で乗員は15名です。

ところでデッキハンターって何かしら。

ところどころ床がこんなすのこ状です。
エンジンが蒸気式なので、少しでも通気をよくする必要があったのかもしれません。

構造物と構造物の間が通路になっています。
木枠の窓に窓ガラスは、そこだけ見ると普通の家みたい。

ボイラー室は見学することができないので写真で説明です。

この時代ほとんどの船が石炭を燃料としていた中、「ヘラクレス」は

「オイル・ファイア方式」 (oil-fired system)

つまり石油燃焼型で、当時は大変珍しい船でした。
西海岸は石炭より油の方が潤沢なので、ここでの勤務に向いていたと言えます。

上記にはそのメカニズムが書いてありますので、ご興味のある方は
英語ですが読んでみてください。(面倒だから丸投げしているのではありません)

この写真に、海事博物館のボランティアたちは、ボイラーを修復する仕事をした、
とありますが、それはつまりこの船は稼働できるということなのでしょうか。

上でお湯を沸かすことができるストーブ。

ちょっと1960年代ふうのモダーンな雰囲気が漂っている気がしますが、
船の形に合わせて無理やりテーブルを作ったらこうなっただけかもしれません。

船長とオフィサーが食事をするキャビンです。

同じ場所で撮られた写真。
左から船長、船長の妻、メイト、機関長(適当)

これが一人部屋で、どうも寝台のようです。

ある二等船員がパナマで仕事をした時の思い出です。

「私の部屋はボイラーの真上だった。
その暑いことと言ったら!
横たわると耳元に水がいつも流れる音が聞こえてくる状態で、
眠ることはなかなか難しい。
ある日乗員はデッキの上にマットレスを運んでいった。
彼らはそこで快適な夜を楽しんでいたんだが、
突然土砂降りになって・・・皆走り回ることになったよ(笑)」

 

「ヘラクレス」は巨大なケーソンを牽引して、それを
パナマ運河に持っていくという仕事をしたことがあり、
彼の思い出はその時の航路途中のことであったと思われます。

閘門式であるパナマ運河のどこにケーソンが使われているのか
調べてみましたが、結局わかりませんでした。

キッチンらしきものは見当たりませんでした。
もしかしたら見学コースには含まれていなかったのかもしれません。

水を組み上げるポンプがシンク横にあります。

「ヘラクレス」では一度巨大なウミガメを捕まえたことがあり、
彼らは毎日のように「ウミガメのスープ」と「ウミガメのステーキ」を
堪能したそうです。

甲板の上はくまなく歩くことができます。
船首部分には・・・・・

錨の揚げ降ろしをするための巻き上げ機(らしきもの)がありました。
ただし、冒頭写真でお分かりのように、錨はない状態で展示されています。

サンフランシスコから北上しようとする船は、付近の風が強いこともあって、
必ずといっていいほど牽引を「ヘラクレス」か、あるいは彼女の姉である
「ゴライア」に依頼していたということです。

それにしても姉妹でこの名前はどうなのっていう。 

手すりのついたデッキは、ここからワッチを行うこともあったのでしょうか。

1924年、「ヘラクレス」は「西太平洋鉄道」( Western pacific railroad )
に買い受けられ、「カーフロート」と言って、列車ごとはしけに乗せて、
それを引っ張る仕事をしていました。

ニューヨークのハドソンリバーを航行するカーフロート。
「ヘラクレス」はアラメダやオークランドとサンフランシスコの間を往復していました。

 

 

甲板船首側から操舵室のある船橋を見上げたところ。
高くそびえ立つ船橋はまるで灯台のようです。

1947年には、「ヘラクレス」と「モナーク」という2隻のタグボートに
スクラップになることが決まった戦艦「オクラホマ」を牽引するという使命が降りました。

戦艦「オクラホマ」が真珠湾攻撃で損壊し、戦争が終わるまで湾内に
横転着底のままで放置されていたことは、あまり知られていません。

海軍のプロパガンダ映画でも、「オクラホマ」の修理はすぐにすんだ、と
言い切っていましたが、実質ずっと沈没したまま放置されていたのです。

一応1943年3月にサルベージが行われて浮揚し、
修理の上大改装による戦列復帰が計画されたのですが、あまりに損傷が激しく、
結局修理は断念され退役扱いのうえスクラップになることが決まりました。


武装や上部構造を撤去した後、カリフォルニア州オークランドの会社に売却され、
1947年5月17日、2隻のタグボート、「ヘラクレス」と「モナーク」に曳航され
サンフランシスコに向かう途中、彼女ら一行は真珠湾から540マイルの海域で嵐に巻き込まれます。

「オクラホマ」はたちまち浸水し、艦体が大きく傾斜を始めました。

連絡を受けた海軍本部は、真珠湾に引き返すように指令しましたが、
もはや事態はそのようなことができる状況にはありませんでした。

「オクラホマ」の沈没が始まった時、「モナーク」は曳き綱を早々に放しましたが、
「ヘラクレス」は、「オクラホマ」が沈没する最後の瞬間まで綱を引き続け、
もう少しで「オクラホマ」と共に海に沈むところであったと伝えられています。

「オクラホマ」の沈没場所は現在に至るまで特定されていません。

「オクラホマ」は、スクラップとなるより、あえてそのままの姿で
太平洋の海底に残ることを自ら選んだのではなかったでしょうか。

 

「ヘラクレス」はその後エンジンを換装し、フェリーとして1975年まで現役で活躍し続け、
その後はカリフォルニア州立公園ファウンデーションに乞われるかたちで
ここ海事博物館の展示の一つに加わり、かつての「タグボート魂」を今日に伝えています。

 

 

 

フラッグ・オフィサーズ・アイランド〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」のフライトデッキを時計回りに艦載機を
見学してきて、ちょうど艦橋の根元にたどり着きました。

甲板と同じレベルにはフライト・デッキ・コントロールがあります。
海軍で「ウィジャボード」(コックリさん)と呼ばれている
ボードでデッキの機体のステイタスを把握するところです。

そこから見学路が下に続いていたので階段を降りていきました。

おお、ブルードレスも凛々しい海兵隊員がお出迎えだ。

海兵隊というのはつまり水陸両用部隊で、乱暴な言い方をすれば
文字通り「殴り込み部隊」だと思ってください。

海軍と海兵隊は独立した別組織ですが、案外皆が知らないことは
どちらもが海軍省の隷下にあるということです。
海軍の艦艇に海兵隊が乗っている、というのは、例えば海上から
小型ボートや水陸両用車などで輸送されて、敵地に上陸のは海兵隊の役割です。

先日ご紹介した映画「マスター・アンド・コマンダー」には
制服の違う「マリーンズ」が乗り組んでいるのが描かれていましたが、
帆船時代からこの分業は行われてきたのです。

海軍は水上艦同士で砲撃戦が行うのが仕事ですが、戦争には
敵の陸地に上陸して陸上戦を行うという必要性が出てきます。

しかし敵地に上陸後自軍陣地を構築したり、
敵地に侵攻するということは全くの専門外。

そこで艦船に搭載して敵地に送り込む専門の部隊が生まれました。
これが後の海兵隊の始まりです。

しかし、「ミッドウェイ」に揚陸部隊が乗っているって変じゃない?

と思った方、現代の海兵隊と海軍の関係は昔とは違います。
大型艦艇に乗り込んでいる海兵隊員の役割は「警備」なのです。

皆さんはホワイトハウスの警備を海兵隊員が行なっているのをご存知でしょうか。

ホワイトハウスの内側:海兵隊歩哨

日本語字幕がついているのでぜひご覧いただきたいですが、
ホワイトハウスには4人の海兵隊員が30分交代で歩哨に立ち警備を行います。

海兵隊全員の中からたった4人しか選ばれない大変名誉な仕事で、
おそらく厳しい審査があるのだと思われます。
歩哨に立っている間は、たとえ「鼻が痒くても掻くことはできない」し、
ビデオにもあるように強風でクリスマスツリーが近くで倒れるような
アクシデントがあっても微動だにしないのが歩哨の任務です。

在外公館の警備も海兵隊がいわゆる在外公館警備対策官として
本国から派遣されて行います。

それでは「ミッドウェイ」艦内の海兵隊員は何を警備するのでしょうか。

空母の艦内には、特殊兵器の貯蔵庫や極秘文書など、24時間体制で
警備をしなければならないポイントがあります。
海兵隊が警備を任されているのはそういった重要なものが収納されている
部屋そのものだったりします。

そういった部屋はたとえ「ミッドウェイ」の乗員に対しても
厳に秘匿されているのが普通で、下士官兵、もしかしたら士官も
一部を除き何が中にあるのか全くわからない部屋、というのがあり、
外からは覗きこむこともできないように窓を黒塗りにしてあったりするのです。

結構大きな窓なので、好奇心の旺盛な水兵などが、

「中に何があるんだろう」

などとガラスにおでこをくっつけて中を見ようとすると、
たちまち中からガラスがドーンと叩かれ、

「こらあっ!すぐにそこをどけえっ!」

とものすごい勢いで怒鳴りつけられるのです。
大きなガラスは警察の面通しで使うワンウェイミラーになっていて、
ガラスの内側では海兵隊員が外を見張っているからです。

彼らは警備に当たるときがっつりと武装しています。

空母では航海中何らかの緊急事態が起こった時には
「セキュリティ・アラート」が発令され、対処します。

理由は様々で、秘密文書が紛失したとか、入港中に
不審者が侵入していたのがわかったとかですが、そうなると、
乗組の海兵隊員は全員がM-16自動小銃やガバメント45拳銃を持ち
艦内を走り回ることになります。

セキュリティ・アラートが発令されると、艦内の一切の作業は一旦停止。
しかし、何があったのかこそこそ話し合ったり、走り回っている海兵隊に
何があったの?とか聞くことは断じて禁止されています。

そんな時に何の関心も持つなという方が酷な気もしますが、とにかく
セキュリティ・アラートの放送があり、対象になった周辺では、
好奇心どころか全員床にうつ伏せに体を横たえなくてはなりません。

作業をしていた場所がどこかは全く関係ありません。
シャワーを浴びていれば裸でシャワーブースの床に、
トイレに入っていればズボンを下ろしたままでトイレの床に、
発令が解除されるまで長い時には數十分もの間、ずっと
「死んだふり」をしなくてはいけないのです。

それも大変ですが、セキュリティ・アラートが発令になる、つまり
緊急事態でもあるので、海兵隊員も全員がそれまでやっていたことを
一切切り上げて任務に当たらなくてはなりません。

ですので、必ずといっていいほどパンツ一丁にブーツだけ履いて、
武器を持って走り回っている海兵隊員が出てくるのだそうです。

空母に転勤してきたばかりで、そんな光景が珍しく、寝ているときに
つい頭をもたげて見てしまったり、最悪笑ったりするとさあ大変。
殺気立った海兵隊員にまたしても物凄い勢いで怒鳴りつけられてしまいます。

ちなみにセキュリティ・アラートの時の「ダイ・インの掟」は
全ての人に平等に適応され、将官であろうがチーフであろうが、
大人しく床にうつ伏せになってこれをやり過ごさなければなりません。

ホワイトハウスほど厳密ではありませんが、海兵隊員は
艦隊の中でも「要人警護」を任務とすることがあります。

また海兵隊員は「オーダリーズ」と呼ばれ、例えばアドミラルに
伝令を行うなどという任務を行うこともあります。

この海兵隊員が警備しているのは、ここ「アドミラルズ・カントリー」。

「ミッドウェイ」の中でも、将官が生活する区画です。
右に入っていくと、そこは「フラッグ・オフィサー」のキャビン。

冒頭写真の光景が広がっております。

”Flag Officer”というのはアメリカ海軍と海兵隊においては

「少将以上」

のランクで、これらの位を「フラッグ・ランク」と呼ぶこともあります。
関係ないですが日本だと袖の金線が太くなるので「ベタ金」とか言いますよね。

つまり、その人が乗艦したらその階級を表す旗が揚げられる位が、
「フラッグランク」というわけ。

部屋には入れないようになっています。
軍艦の中なのにベッドはキングサイズ。
蚕棚みたいなところで寝ている人もいれば、一人で
枕を二つ並べてどんな場所でも寝放題な人もいるのが軍艦。

洗面所は流石にリッツ並みとはいきませんが、(むしろしょぼい)
ホテルの部屋のようにベッド両脇にはベッドチェストまで。

ベッドの上部に飾っている細い旗は、

「コミッション・ペナント」「マストヘッド」「ロングナロー」

などと呼ばれるものです。
あえて日本語に訳すと「就役旗」という感じでしょうか。
自衛隊では単に「長旗」といっているようです。
長旗がどうしてこんな形をしているかというと、英蘭戦争の時に
確か英国軍の艦長が、相手を「鞭で打ってやる」みたいな挑発をするため、
わざわざ作らせたとか理由があるそうですが、本当のところはわかりません。

司令官が乗艦しているときにそれを表すために揚げられ、
例えば司令官が戦死した場合には航海中この旗が半旗で掲揚され、
その遺体を運ぶボートでも、棺の葬列にもこれを用いなくてはなりません。

公式にではありませんが、この旗は実質その司令官専用のものとして、
任務が終われば個人に与えられるという慣習があるようです。

この額入りのコミッション・ペナントは、(近くで見られないので想像ですが)
おそらくかつてこの部屋の住人だった「ミッドウェイ」の司令官個人所有のもので、
博物艦となるにあたって寄贈されたものと思われます。

ペナントの星の数は、長いものだと13個あったりした時代もあったようdすが、
この写真のものは7つ星で、1800年代にボート用にコンパクトになったものだそうです。

戸棚の中にテレビとラジオがセットされているというのが軍艦ですね。
壁収納で実に部屋がすっきりしております。
これだけ引き出しがあれば、どんな衣装持ちさんでも大丈夫。

クローゼットの中にある制服から、この部屋の主がリア・アドミラル、
少将であったらしいことがわかります。

コーヒーメーカーがあったり、現役のゴミ箱もあるので、
今でもよく使われている部屋みたいですね。

「ミッドウェイ」では他の展示軍艦のように一人っきりになれることは
滅多になく、いつも見学者がどこにいってもウロウロしています。

アメリカにも上座という概念があるのかどうかは知りませんが、
部屋の奥中央に偉い人が座ることになっているようです。

星二つのカバーのかかった椅子は、少将専用・・・?

それから近くで写真を撮るのを忘れましたが、後ろの絵は一体・・・?
シルエットはなんとなく輸送機のC-130っぽいですが・・・。

ところでこの部屋は何かと言うと、CTF77、つまり
(キャリア)タスクフォース77、第77任務隊の司令部です。

現在は「第7艦隊隷下の機雷戦部隊であり常設ではないようですが、
創設以来、第二次世界大戦、朝鮮戦争、冷戦、ベトナム戦争、
湾岸戦争、イラク、アフガニスタンと任務を行ってきました。

第77任務隊が「ミッドウェイ」を旗艦としていたのは、ベトナム戦争後、
1973年10月以来、FPS(Forward Deployed Naval Force)として
日本に展開した頃です。

湾岸戦争では第77任務隊は「砂漠の盾」「砂漠の嵐」作戦に参加しました。

1990年、イラク侵攻から再び「ミッドウェイ」を旗艦とした第77任務隊は、
「ミッドウェイ」の他、「レンジャー」「セオドア・ルーズベルト」
「ジョン・F ・ケネディ」「サラトガ」「アメリカ」などでペルシャ湾に展開しています。

大佐の制服があるので、艦長かエアボスの部屋ではないかと思われます。

エアボスは艦長と同等の位で、フライトオペレーションの全責任者。
フライトオペレーションの開始とともに空母全体が彼の指揮下に入るのです。

ちなみに、艦長とエア・ボスは共に「寝ない」のだとか。
エア・ボスの子分?に当たる役職は「ミニ・ボス」といい、
中佐の配置で、ミニ・ボスはエア・ボスが不在の時、その権限を
任されることになっているのですが、エア・ボスが寝ないので
滅多に出番がないのだそうです。

じゃミニボスはいつも何をしてるんだ、って話ですが、おそらく、
エア・ボスがいなくなるのを待っているのではないでしょうか。

この部屋のソファーはどうやらベッドになるタイプのようですが、
果たして寝ない艦長あるいはエアボスの部屋であれば、
このソファーが使われることはあまりなかったのでは・・・。

ちなみにソファーの上に黒いカバンが置いてありますが、これリアル。

自衛隊でも、これと全く同じようなカバンを副官が持ってますよね。
いつも中に何が入っているんだろうと思いながら見ています。

偉い人たちの食事を用意するキッチンがありました。
後ろ向きの従兵?が、左腕にナプキンをかけて
何やらサーブの用意をしているようです。

分厚いビーフステーキにポテト丸々一個、バター乗せ。
司令部はそんなにたくさん乗っているわけではないので、
小さなキッチンで食事を皆用意できるのだろうと思われます。

初級士官ですら食事の時にはサーブが付くくらいですから、
フラッグ・オフィサーともなると大変な格式で食事をするのでしょう。

余談ですが、アメリカ海軍では階級による待遇の違いが大きいせいか、
士官と下士官兵の雰囲気というのは歴然としていて、

「風貌が我々下々の者とはちょっと違っていて、
たとえジョギングウェアでもなんとなくそれとわかる。
肌が綺麗で髪が整い、無意識のうちに気取っているのか・・・・。
きっとそのように訓練されているのだろう」
(『空母ミッドウェイ』 )

だそうです。

 

続く。

 

NTDS (海軍戦略情報システム)〜空母「ミッドウェイ」博物館

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艦載機を見ながらフライトデッキを時計回りに周り、
艦橋までやって来たのでそこから中に入ったら、ハンガーデッキの階に
フラッグ・オフィサー(将官)アイランドがありました。

さらに進んでいきます。

説明がないのでわかりませんが、「制限区域」として
許可された者以外の立ち入りを厳しく禁じている部屋がありました。

中にはタイプを打っている人が一人だけ。

艦隊司令の執務室が近いことから、情報処理室ではないかと思われます。

艦隊司令部の執務室の一つではないかと思われます。
後ろの壁全面に地図が貼られていますが・・・、

 

左はバグダッドの市街図、右はペルシャ湾の地図です。
向こう岸がイラン、こちらの上に突き出した半島がカタールとなります。

ところで、MKが卒業してすぐ、音楽を洗濯していた生徒のグループで
音楽ツァーと称して学校からウィーンに行ったのですが、
飛行機代を安く上げるために、なんとカタール航空を使ってドーハまで行き、
そこで乗り換えをしました。

まさにこの地図の半島の先っちょでトランジットしたわけですが、
わたしなどいつまでもこのころのイメージが抜けないので、
カタール航空?ドーハ?大丈夫なの?とつい心配になったものです。

ちなみに帰ってきた息子に聞くと、

「空港は全然普通、とにかくカタール航空最高!」

でした。
全席が丁重に扱われるらしく、異常にサービスが良かったそうです。

  誰か偉い人のフライトジャケットが永久展示してありました。
キャップを見る限り艦隊司令官の(少将)もののようです。 ワッペンを見て行くと、胸に   第7艦隊 第70ー77機動部隊   「砂漠の嵐」航行記念   ちなみに現在のCTF70は司令部を「ロナルド・レーガン」に置きます。
「砂漠の嵐」とは、空母「ミッドウェイ」「アメリカ」「ルーズベルト」
そして「レンジャー」の4隻で示威行動として行った作戦をいいます。   そして左腕には、     下は、「ミッドウェイ」が横須賀を去るときの記念じゃないですか?!
「LAST MAGIC」 1973−1991 SAYONARA GOOD BYE   とあります。(ちゃんと撮っておけば良かった)

  艦隊司令部のコマンドルームはここにありました。
窓がない部屋にステイタスを表す機器がずらりと並びます。     この頃の実際のステイタスが残されています。
空母「ミッドウェイ」「レンジャー」、原子力空母である
CVN「ルーズベルト」。   ミサイル巡洋艦であるCG(guided-missile cruiser)「バンカーヒル」、
「レイテ・ガルフ」「プリンストン」「フォード」。 強襲揚陸艦にはLPH 「オキナワ」というのがありますが、これは
「イオージマ」級の2番艦で、3番艦は「ガダルカナル」です。 (どうも『日本と戦った戦地シリーズ』らしいですね)   そしてLCC「ブルーリッジ」の下を見てください。 あるでしょ?   戦艦 BB「ミズーリ」   が。
いやー、この当時ミズーリを知っている人はびっくりだったんだろうなあ。
  「ミズーリ」は朝鮮戦争の後予備役入りをして展示艦になっていたのですが、
先日もお話しした海軍の「600隻艦隊構想」によって   33年ぶりに現役に復帰   し、ここに名前があるというわけです。
いくら「数のうち」とはいえ、下手したら一つの艦が進水してから
退役するまでと同じ時間現役を離れている船を引っ張り出してくるとは。   前回も言いましたが、この600隻艦隊構想でモスボールから復活したのは   「アイオワ」「ウィスコンシン」「ミズーリ」「ニュージャージー」   の4隻。
そのうち「アイオワ」はその功績を称えるため(だと思います)、
ソ連が崩壊してその必要がなくなり今度こそ現役引退した際、
ロスアンジェルスで博物館展示されることになり、今もそこにいます。   実はですね。
わたくし、今回しっかりと「アイオワ」も見学してまいりましたので、
「ミッドウェイ」シリーズ終了後にまたお話ししたいと思います。   このボードには「ウィスコンシン」の名前も見えます。     このコンソールの説明がありました。   NTDS (NAVAL TACTICAL DATA SYSTEM )   海軍戦略データシステムは、コンピュータ化した情報処理システム。
1900年代においては、初めて軍艦や航空機に搭載されたものです。  

その開発のきっかけはなんと、日本軍が戦争末期に行った特別攻撃でした。

特攻がアメリカ海軍にもたらしたものは精神的な破綻だけではありません。
空からの攻撃に対する軍艦の対処能力はレシプロエンジン機に対しても
ギリギリ限界であり、より高速のジェット機が同様の攻撃をかけてきた場合、
システムの破綻は不可避であることを何より思い知ったのです。

 

そこでアメリカ海軍は艦対空ミサイル、ターター、テリア、タロスの
「3Tファミリー」を開発し、その一方、攻撃手段に対して指令をあたえる
「頭」の情報処理能力の向上も求められていた。

特攻機の迎撃にあたっても、問題となったのは攻撃能力というよりむしろ
情報処理能力だったのです。

前にも書いたことがありますが、情報を統合処理する戦闘情報センター (CIC)
をもってしても、「紙と人と声」に頼っている限り、同時に処理できる目標は
せいぜい12機程度が限界で、20機の目標に対しては、完全に破綻することが
イギリス海軍の実験によってわかってしまったのです。

 

そこで情報の処理を自動化することにしました。
まずアナログコンピュータによる

武器管制システム (WDS)

続いてデジタルコンピュータ使用による

半自動式防空管制組織 (SAGE)

続いて

海軍戦術情報処理システム (NTDS)

各艦が同様の情報処理システムをもち、これらをデータリンクによって連接することで、
艦隊全体の防空を統合することができるようになりました。

モックアップで運用の訓練を行なっているところ。
上で見張っている人の机が事務机なのと電話の形が和みますね。

NTDSというのは一言で言うと、

「コンピュータを本格的にCICに持ち込む」

と言う時代の先端をいくという革新的なものでした。
しかし、探知情報の入力や目標割り当てはマニュアル式で、
自動化といっても案外人の手が必要だったので
現場での評判は必ずしもよくなかったということです。

しかし、大東亜戦争の日本軍の攻撃から生まれたNTDSは
ベトナム戦争における北爆で大きな進展を遂げることになります。

E-2の空中戦術情報システム (Airborne Tactical Data System, ATDS)と
連接されたNTDSは、攻撃機の管制において多大な効果が得られたのです。

この実戦経験からソフトウェアの開発も進められ、対空戦のみならず
のちには対潜戦、対水上戦にも対応するようにシステムは発展します。

コンソールの上には「IFF」敵味方判別のためのアイコンがあります。

洋上目標 NTDS ship blue.PNG NTDS ship red.PNG NTDS ship yellow.PNG NTDS ship green.PNG 航空目標 NTDS air blue.PNG NTDS air red.PNG NTDS air yellow.PNG NTDS air green.PNG ミサイル NTDS msl blue.PNG NTDS msl red.PNG     ヘリコプター NTDS helo blue.PNG NTDS helo red.PNG   NTDS helo green.PNG 潜水艦 NTDS sub blue.PNG NTDS sub red.PNG NTDS sub yellow.PNG   魚雷 NTDS torp blue.PNG NTDS torp red.PNG     地上目標 NTDS grnd blue.PNG NTDS grnd red.PNG   NTDS grnd green.PNG

自動化されたといってもこういうのを書き込むのも人だし・・・。

CV61 の「レンジャー」とCV41「ミッドウェイ」の
艦載部隊とそのコールサインが書かれています。

なになに、 VA185のイントルーダー部隊「ナイトホークス」は
コールサインが「Maverick」(一匹狼)だって?

「ミッドウェイ」と「ミズーリ」「ウィスコンシン」は同じユニットでした。

さて、コンピュータ付きのCIC、NTDCを通り過ぎると、
次に表れたのは通信関係の施設です。

 

 

続く。

 

ピッツ、コルセア、キティホーク〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の展示について
いよいよお話する時がやってきました。

予告編?でもご説明した通り、スミソニアンの
航空宇宙博物館はワシントンの中心部にある本館と、
ダレス空港の近くにある別館で構成されています。

どちらも訪問してみて、当ブログ的には何と言っても
第二次大戦時の世界の航空機が充実している別館から
お話するべきだと思いました。

空港から約15分の距離にある別館。
昔は本館と別館の間をシャトルバスが運行していたそうですが、
今では空港と別館の間だけになっています。

こちらの建築についての言及は見つかりませんでしたが、
本館の建築を設計したのはギョウ・オバタという日系人建築家です。

経歴だけ見ても蒼々たる有名建築を手がけているのがわかります。
2018年現在95歳でまだ健在だそうです。

別館は15年前の2003年にオープンしました。
正式名は

スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター
(Steven F. Udvar-Hazy Center)

といい、スミソニアン協会に6500万ドルを寄付した人物の名前です。

ここを開けると、すぐに金属探知機があり、荷物検査を受けます。

ウドヴァー・ヘイジー氏はハンガリーのブダペスト生まれ。
12歳の時に家族と移民してアメリカにやってきて、
長じて飛行機のリースを専門とする

インターナショナル・リース・ファイナンス・コーポレーション (ILFC)

を創立し、CEOを勤めていた人物です。

別館のエントランスをまっすぐ進んでいくことにしましょう。
このエントランスの右手にはIMAXのシアターがあります。
ここで出発前に「空母のお仕事」というとてもわたし好みの映画を観ました。

正面には

BOEING AVIATION HANGAR(ボーイング航空機格納庫)

とあり、その上に皆様をお迎えするべく紅白の
非常におめでたい柄の飛行機が展示されています。

こ、これは・・・まるで旭日旗ではないですか。
さあ、旭日旗柄とみれば太陽にも文句をつける何処かの反日国の人、
スミソニアン博物館別館に今すぐ電話するんだ!

というのはもちろん冗談ですが、(あの人達は冗談通じなさそう)
当時ももちろんこの色柄で空を飛んでいたわけですね。

白黒写真のコクピットに女性の姿があります。

ピッツ・スペシャル S-1C リトル・スティンカー


スティンカーって・・・「臭い奴」って意味だよね?
もしかしたらスカンクとかを意味するのかしら。

それでは説明を読んでみます。

現存する中で一番古いピッツ・スペシャル「リトルスティンカー」は、
カーティス・ピッツによって作られた二番目の飛行機です。
ピッツが最初のS-1を世に出したのは1945年で、この一番機は
1960年代から1970年大の曲芸飛行のシーンで有名になりました。

その理由は機体が小型で軽量、回転半径が小さく、敏捷だったからです。
この後継型は現在でもエアロ飛行の現場で基本となっており、
その頃よりさらに進化した曲芸のトレーニングにも対応しています。

ところで、この写真の女性は誰でしょうか。

Betty Skelton Frankman Erde (June 28, 1926 – August 31, 2011) 

ベティ・スケルトン(フランクマンとエルデは彼女の二人の夫の名前)は

「初めてのファーストレディ」(First lady of firsts)

というあだ名を持つ記録マニア、いやホルダーでした。
見ての通り飛行機での記録だけでなく、テストドライバーとしての記録、
そして曲芸飛行士であり、スタントマンであり、ナレーターであり、
編集者であり、GMの広告のディレクターであり、
宇宙飛行士のテストも受けたという・・・・。

つまり、スピードに関するものならなんでもおk、という
文字通りのファスト(fast)レディだったというわけです。

彼女は宇宙飛行士の適性テストに合格しており、当時女性はまだ
宇宙飛行士に採用する計画がなかったので実現はなりませんでしたが、
マーキュリー計画の宇宙飛行士たちとは大変意気投合したようで、
彼らから「マーキュリー7」をもじって、

「マーキュリー7½」

と呼ばれていたといいます。
おそらく彼らからも「一目置かれていた」のではないでしょうか。
頭のいい人ならではのユーモア溢れる人物だったようで、
「リトルスティンカー」という名前も彼女の命名だろうと思われます。

ベティ・スケルトンはこの飛行機を1948年に購入し、49年度、
ならびに50年度の国際女性エアロバティック・チャンピオンシップで
見事優勝を果たしています。

彼女の飛行技術とその完成度はピッツのデザインと機能を
大いに世間に知らしめることになりました。

「リトル・スティンカー」は1951年に一度売却されましたが、
彼女と彼女の夫はこれをスミソニアンに寄付するために買い戻しました。

ボランティアが5年がかりでこれをレストアし、ここにあるというわけです。

ちなみにベティ・スケルトンは機体がここに展示された2001年、
看病中の最初の夫を亡くしましたが、2005年、79歳で、
海軍で外科医をしていたアラン・エルデ博士と再婚しています。

共に80代の夫婦は余生をフロリダのホームで過ごし、彼女は
髪の色と同じ赤いコンバーチブルを85歳で死ぬまで運転していたそうです。

「ミッドウェイ」のハンガーデッキの機体をご紹介したことがありましたね。

ヴォート F4U-1D コルセア

コルセアは、エントランスをまっすぐ進んで行くと目の前に現れます。
スミソニアン別館は、二階から入って行く作りになっていて、
このようにまるで空中を駆けているかのような状態で牽引されている
コルセアに目を奪われて歩みよると、いきなり眼下には
最初に来る人ならあっと声を出してしまうくらいたくさんの航空機が
所狭しと並んでいるという仕組みです。

誰が考えたか知りませんが、心憎い演出だと感心しました。

右手はこんな感じ。
わたしが思わずこの眺めに嘆声したのもお分りいただけますでしょうか。

しかもスミソニアン別館、この反対側にはこの約二倍のスペースが広がり、
正面にはそれと同じくらいのスペースシャトルの展示場が広がっているのです。

果たして飛行機の出発時間までに全部見終えることができるのか?
驚くと同時にに不安になってしまいました。

この画面でもお分かりのように、ハンガー状の展示場は、両脇に
緩やかなスロープになったデッキが設えてあり、地面の高さからだけでなく
上から航空機を眺めることができます。

さて、ここにあった説明を読んでみました。
いきなりV-J Day(対日戦勝利の日)という言葉が出てムッとします(嘘)

1945年9月2日のV-Jデーまでに、コルセアパイロットの日本機に対する
キルレシオは11:1というものでした。

ムッとはしませんが、どうしてもこういうのを見ると日本人としては
完全に平静ではいられない心のざわめきを感じてしまうの。

キルレシオというのは1機に対する彼我の損失率で、つまりこれは
コルセア1機で日本機を11機撃墜したという意味です。

 機体の独特かつ独創的な逆ガルウィングのデザインは地上高が高く、
3枚のブレードを持つハミルトン・スタンダード・ハイドロマチックプロペラは
4メートル以上の巨大なものでした。

プラット&ホイットニーR-2800エンジンとハイドロマチックプロペラの
組み合わせは、これまでで最も大きく、史上かつて存在した機体で
これほど強力な動力を搭載していた戦闘機は他にありません。

あのチャールズ・リンドバーグは、海兵隊エア・グループ31にいた時
太平洋上の日本軍の拠点に対し、このコルセアで爆撃を行っています。

そうだったんですか!?

リンドバーグは戦争でアメリカ軍兵士が行った酷い所業を見たらしく、
それを告発するような発言をしていますし、ドイツに知己が
(最近DNA鑑定でドイツに子供が三人いたことがわかった)いたせいか、
思想がドイツ寄りだったせいで、彼の戦功らしきものは現在のアメリカで
全くなかったことにされているんですよね。
アメリカのユダヤ人団体が運動したからだとか。

ところで今wikiを見てびっくりしたのですが、リンドバーグさん、
1970年の大阪万博の時に来日していたそうです。

戦前から二度目の来日だったことになります。

この飛行機は1944年7月当時、USS「エセックス」にあった、
海兵隊の近接航空支援戦闘機隊の「サンセッター」仕様にペイントされました。

近接航空支援(close-support fighter)とは、火力支援目的に
行われる航空作戦のことを指していいます。

そういえば、ここでご紹介したオヘア空港の名前になった
チャールズ・オヘアは、

「F6FはF4Uの相手にならない。F4Uこそが海軍最高の戦闘機だ」

と言ったとか言わなかったとか。

では『風が吹けばオヘアが儲かる』と言ったのは誰?←内輪受けネタ

冒頭写真に一緒に写っている関係でもう一機ご紹介しておきます。

カーティス P-40E キティーホーク

しかし、いろんなところでこのサメペイントを見ましたが、
さすがはスミソニアン別館、ここにあるキティちゃんの顔、
他のどこよりもちゃんとしていて上手いではないの。

手描きなので結構デッサン狂った不器量な子もいるんですよね。


ところでこのカーティスのP-40には「キティーホーク」の他に

「トマホーク」「ウォーホーク」

がその型番ごとにあるのを皆さんはご存知でしょう。
トマホークはご存知のようにインディアンの武器だった斧のこと、
そしてウォーホークは「タカ派」のこと。
それでは、キティーホークとは?

わたしなどにゃんこ関係か?とつい考えてしまったのですが、
なんのことはない、キティーホーク、地名です。
地名は地名でも、ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばした場所ですが。

語尾を「ホーク」で統一しようとしたけど案外ネタがなくて、
そうだ、ライト兄弟の初飛行のあそこ、ホークがつかなかったっけ?
みたいなノリで決まった名称という気がします。


このホーク三兄弟は、いずれも航空機として第二次世界大戦の
前半期における成功を収めたと言ってもいいでしょう。

シャークマウスのトマホークは、中国大陸で日本軍と戦った
クレア・リー・シェンノート元帥の「フライング・タイガース」機として
最も大戦中有名になった機体です。

P-40のパイロット、ボイド・D・ワグナー大尉は、1941年の12月中旬、
フィリピンで日本機を6機撃墜して初めてのエースとなりました。

アメリカの媒体で「フライングタイガース」の記述を見ると、いつも
それが「真珠湾以前だった」ことが書かれているかチェックするのですが、
ここの展示も含め、それに言及されているのを見たことがありません。
意図的にそれはアメリカでは触れないことになってるみたいですね。

それから、あのジミー・ドーリットル少佐は自分専用機として
シェンノートにP-40を所望し、移動に使っていました。

ついでに「紫電改のタカ」のジョージの兄トマス・モスキトンも、
黒いウォーホークで滝城太郎に復讐するために・・って誰も知らないか。


機体としてはごく平均的で変わったところのないのが特徴といえば特徴、
というP-40でしたが、その普通さが大量生産を可能にし、その結果
戦地に安定して送り出すことができたのも成功の一因のような気がします。

アメリカ人にはもしかして当たり前だったのかもしれませんが、
日本軍がこの飛行機を鹵獲しておそらく内心ショックを受けたのは、
飛行中にトイレができるように外に出せる蛇腹の管がついていたことだそうです。

戦闘機について詳しい方は、そのあたりの生理的なことを
日本機は全く顧みていなかったことも当然ご存知ですよね。

パイロット本人たちの生理的な苦痛もさることながら、
帰投してきた機の整備(掃除)をする整備員の苦労はいかばかりだったか。

最低限の人間工学を無視していいはずはないのですが、やっぱり
日本はそれどころではなかった、ってところに帰結するんでしょうか。

なんかやりきれんなあ・・・。

ここにある機体は1946年まで第111航空隊、カナダ空軍、
アメリカ空軍、個人と所有が移り、1975年にレストアされて
第75戦闘機隊、第23戦闘機群、第14空軍で飛び続けました。

最後の第14空軍は、空軍予備役の部隊です。


さて、この階段を降りていったところに、最後の写真にもちらっと見える
あの航空機が、その存在感も禍々しく(ごめん)存在しています。

 

続く。

伝説の黒い鳥 SR-71 ブラックバード〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン博物館別館ことスティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターに
入っていって最初に皆が目を奪われるのが、SR-71、ブラックバードです。

制作したのはロッキード社。

はて、そういえば、博物館に入っていってエントランスを進んで行くと、
そこに「ボーイング航空機ハンガー」とサインがあったはずなのに、
最初に出てくるのがピッツとヴォートとカーティス、そしてロッキード。

一つもボーイングなんてないんですが?

と不思議に思うわけですが、これはつまりこのハンガーそのものに
ボーイングが出資するなりして名前をつける権利を買ったのかもしれません。



ブラックバードは見るからに尋常でないスピードが出そうなイメージですが、
マッハ3の超音速で、しかも高高度飛行をする為に生まれた機体です。

戦略爆撃機として核を搭載するために計画された「ビジランティ」が、
冷戦が終わったので偵察機になった、というのを、わたくし、物知らずのため
無茶扱いしてしまいましたが、偵察機というのは速ければ速いほど、そして
高ければ高く飛べるほど都合がいいので、機体は大きいことは強みにもなるのです。

さて、前回も書いたように、「ブラックバード」はエントランスをまっすぐ進むと、
階段の降り口から真下に冒頭写真のように展示されています。

この黒い鳥が放つただならぬオーラに心奪われぬ者はおそらくいないでしょう。

以前、キャッスル航空基地跡にある航空博物館で、博物館の外、
誰も他に人のいないところに無造作に放置してある機体を見たのが、
わたしとブラックバードの最初の遭遇となりました。

感激して写真をそれなりに撮りまくり、ここでもご紹介しましたが、
所詮地面に置いてあるのを人の背の高さで見るしかない展示では、
いまいちその全容をお伝えすることができずもどかしい思いをしたものです。


が、さすがはスミソニアン、わかっていらっしゃる。
ブラックバードは上から見てこそ、その姿形に心から感動できるというもの。

ブラックバードに限らずとも、全ての航空機を、地上目線と上空からの目線、
両方で見ることができるのは、航空博物館多しと雖もここだけではないでしょうか。

SR-71はここの目玉の一つなので、展示の仕方も効果的です。
この特殊な形の航空機の機体に合わせて、床にライティングのための照明を取り付け、
こうすることで、黒い機体の下部も鮮明に見ることができるというわけです。

機体の横にもあるようですが、二階デッキから見る人のためにも説明がありました。

歴史的に見ても、グローバルに操作され、敵航空基地にとって完璧に
ノーマークであった偵察機はSR-71をおいて他にないと言えましょう。

完璧にノーマーク、これはこの機体に追求されたステルス性によるものです。

まず、この機体の色。
ブラックバードの名の通り黒ですが、黒は黒でもなんというか、
全体的にザラザラした、粉っぽい感じを受けると思いませんか?

この粉っぽさの原因は、塗料に含まれた鉄粉です。
フェライト系ステンレスというのは腐食しにくく、
かつ強磁性があり、放熱効果をもたらします。

この強磁性と機体の表面の鋸状、そして独特のヌメッとした外見は
レーダー電波を乱反射させる効果のために開発されました。

内側に傾いた垂直尾翼、機首のチャイン(船舶用語で張り出し、ボートの形)
なども、ステルス性を高めるための工夫の一つでした。

また、機体のどこを取っても曲面だけで構成されており、
かつ薄くて平たい形状をしているので、レーダーに発見されにくくなります。

エンジンの噴射煙もレーダー反射するので、ブラックバードは、
燃料に噴射炎を抑える添加剤を加える、という徹底ぶりで、
当時としては画期的なステルス性を誇りました。

ブラックバードが沖縄に配備され、ハブ(蛇のあれ)というあだ名で
現地の人たちに呼ばれていた頃、しばしばブラックバードは
離陸してすぐに那覇空港のレーダーシステムから消失しました。

とはいえ、全く姿を消してしまうというわけでもないので、
ソ連からは結構な回数地対空ミサイル施設からレーダーロックされ、
実際にも4000発以上のミサイル攻撃を受けていますが、その運用期間、
ブラックバードは一機も被害を受けず、かすり傷一つ負いませんでした。

コクピットからミサイル攻撃を受けたあるパイロットは、
SR-71の速さと高さに追いつかず、遥か下方で爆発をするミサイルを見て、

「爆発というより縮小しているように見えた」

と語っています。

世界最速のジェット推進機として、ブラックバードの性能とオペレーション実績は、
冷戦時代の航空技術の頂点に達したといっていいでしょう。

ほとんどの航空機が、コストの関係で熱にさらされる部分だけしか
チタンを使用していないのに対し、SR-71は85%チタンです。
マッハ3で飛ぶと飛行機は高熱にさらされるからです。

ちなみに速度マッハ3というのが公称ですが、パイロットはしばしばこの
『スレッド(橇、ブラックバードの内輪の愛称』の限界を試し、
マッハ3.5までは出るということが確認されています。

 

ロッキード社は、機体のコストを抑えるために、より低い温度で
機体の素材を柔らかく合成する技術を開発することに成功し、
このことは会社の素材技術を大幅に発展させる結果になりました。

それだけではありません。
1機1機手作りするための専用の工具・製造工程をまず研究開発し、
その他にも耐熱燃料、オイル、油圧フルード(油圧駆動液)・・・。

全てが40機のブラックバードのためだけにゼロから開発されました。


飛行機がマッハ3で飛ぶと、飛行機はひどい高温に晒され、
翼の前縁は300℃に達しますが、その際、
ブラックバードの柔らかい機体は数インチは膨張したそうです。

熱された機体を冷却するのは、チャインのチタン表面の後ろ側で
燃料を循環させるという方法で行いました。
チタンが熱を持つので放熱効果のあるフェライト系の塗料が使われたというわけです。

継ぎ目の境界部にはゴム糊のようなシーラント(封止剤)が使われましたが、
ブラックバードの機体がマッハ3で飛んで一旦膨張してしまうと、
駐機しているときはもちろん、亜音速で飛ぶときも継ぎ目から燃料が漏れました。

しかももう一つ厄介なことに、チタンを溶接した継ぎ目部分は塩素に弱く、
機体を洗浄するのには蒸留水でないとだめだというのです。

つまりブラックバード、マッハ3で飛んでいる以外はずっと垂れ流し。
名実ともに実に不気味な飛行機だったということです(ごめん)。

というか、マッハ3で飛んでいる時がブラックバードの「本当の姿」で、
その他は仮の姿だった、ということができるかもしれません。

wiki

ここでブラックバードのコクピットをどうぞ。
後ろの背景から、スミソニアン別館のこの機体だとわかりますね。

ブラックバードはタンデム式で、あの大きな機体に定員2名です。
数だけ考えればコスパが悪すぎますが、悪いどころか、この二人には
育成のために莫大な国家予算が惜しげもなく注ぎ込まれていたので
費用対効果はまさしくプライスレスだったと言えます。

前席がパイロット、功績がフライトエンジニアで、操縦席と後席の距離は1.2m。
後席のエンジニアはカメラ、ラジオ、電子ジャミング機を操作します。

ブラックバードはたった40機しか製造されず、
このコクピットに座って操縦した者は史上33人しかいません。

あれ、数が足りないけど、一人で2機操縦した人がいたのかな?

ブラックバードの近くに、SR-71乗員のフライトスーツが展示されています。
コクピットは与圧されていますが、それでも高高度すぎるので、
乗員は加えて高度与圧スーツを身につける必要がありました。

万が一、機外に射出されることになった時のためでもありますが、
ブラックバードでベイルアウトなんて、どっちにしても助からなさそう。

ブラックバードはNASAでも研究のために所持していましたが、
そのスーツはまるでNASAの宇宙飛行士の着るようなものです。

スーツを一人で着ることはできず、着用には必ず介助を必要とし、
シートベルトすらも自分で付けることはできません。

しかも、着脱の際、急減圧が起こると、体外の空気の減圧により気泡が生じ、
血液の流れが阻害される潜水病と同じ「空気塞栓」が起こる可能性があるので、
潜水艇に乗り込む時にも同じようなことをしますが、SR-71乗員は
搭乗前に充分な時間を掛けて100%の純酸素を呼吸し、
血液中の窒素を追い出してからスーツを着用しました。

前にも書きましたが、一人で脱ぎ着できないスーツなので、
当然ながら生理的な問題はおむつで解決するしかありませんでした。

大戦中に「それ」を処理する管を機体に備えていたP-40の話をしたばかりですが、
アメリカの知恵を結集したこれだけの高性能の航空機であっても、
その問題を解決することには無関心だということです。

ただ、ブラックバードに乗組むような優れた人たちが、
生理的なサイクルを意思でコントロールできないはずはありません。

何十時間も飛ぶ飛行機ではないのだし、その問題なかった・・・・はず。

ブラックバードの乗員には特別なフライトスーツが与えられていました。
第1戦略偵察隊と名付けられたSRー71は、カリフォルニアにある
ビール航空基地から最初の飛行を行っています。

ご存知と思いますが一応言及しておくと、SRとは、

strategic reconnaissance(戦略偵察)

の頭文字で、空軍参謀総長だったあのカーチス・ルメイが、それまでの

reconnaissance/strike (偵察爆撃)=RS

という案を退けて命名したという経緯があります。

機体の形がプリントされたオリジナルスカーフ、胸には
「TOM ALISON」の名前とウィングマークも誇らしく。

トム・アリソン氏は、SR-71のオンライン・ミュージアムで、
講演会を行った1999年現在のお姿を見ることができます。

USAF Col. Tom Alison, SR-71 pilot

ちなみに現役時代のコロネル・アリソン。

ちょっとウケたのは、SR-71オンライン博物館のアドレスが

www.habu.org

であることです。

ブラックバードが最初に配備されたのは、沖縄の嘉手納基地でした。
米軍基地から飛び立つ異様な黒い飛行機を、地元の人が

「ハブ」

と呼んでいたという話は、おそらく彼らをひどく喜ばせたのでしょう。

SR-71は、嘉手納基地から北ベトナム、ラオスなどに週1-2回飛び、
偵察任務を行っていました。

ベトナム戦争が激化した1972年にはほぼ連日運用されていたといいます。

しかし、これだけ特殊性を持つ金食い虫(というか鳥)のブラックバードは、
アメリカ議会の槍玉に上がり、仕分けの対象になって実戦での運用から引退します。
この頃、人工衛星がそれに変わる偵察手段として主流になっていたことも、
ブラックバードの必要性に疑問が持たれる理由となりました。

その後、ブラックバードは1NASAで各種研究に使用されていましたが、
1998年に正式に退役が決まり、1999年10月9日最後の記念飛行が行われました。

この時、アポロ計画の時の「フライ・ミー・トゥーザ・ムーン」の向こうを張って、
NASAと海軍の関係者が

「バイバイ・ブラックバード」

を歌ったり演奏したかどうかは定かではありません(笑)

Julie London - Bye Bye Blackbird

ブラックバードの元パイロットはこのように「スレッド」を賞賛します。

「敵ミサイル、ミグ戦闘機を一機残らず振り切って、
我々をいつも無事祖国まで連れ帰ってくれた。
有人飛行開始から100年、これほどの名機はほかにない」


ところで朗報です。

ブラックバードを世に出したロッキード社の一部門であるスカンク・ワークスは、
現在、マッハ6で飛ぶSR-72を開発中で、完成は2030年になるという話です。

マッハ6って、これ、人間が乗る必要ある?なんて言っちゃおしまいか。


SR-72もやはりブラックバードの名を受け継ぐどうかはわかりませんが、
(今度は”ハブ”なんていいんじゃないかな)
何れにしても次世代の伝説の誕生を楽しみに待ちたいと思います。

 

続く。

 

 


X線機械と非破壊検査機器〜メア・アイランド海軍博物館

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メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館には、工廠にあった器具や
そこで扱った艦艇などの装備品などが、アトランダムに展示されています。

見ていてあまり面白いとは思えないのですが、それが案外たくさんあって、
かなりの展示室のスペースを占めていたりするので、ここはひとつ
全く説明できないのを顧みずご紹介しておこうと思います。

 

Statifuxというのは、非破壊検査を行うための溶剤で、
原子炉や付属品などのピンホールを発見するためのものです。

表面にガラス加工を施したものは、機械的または熱的ストレスを受けた場合、
目視検査またはスパーク試験では検出できない小さな破損が生じることがあります。

Statifluxは、目に見えないほど小さな欠損部分を、表面にスプレーすると
それだけで見つけ出すことができます。

これが吹き付けるためのガンで、後ろに見えている筋の入った物質は、
目に見えない傷がスプレーした粉によって浮き上がったところです、

原子炉の様な、少しの傷も許されない容器に対し、訓練を受けた技術者は、
現場に行ってStatifluxのテストと分析を行っていました。

訓練用、とありますが、この機器はオシロスコープと思われます。(説明なし)

オシロスコープとはオシレーションという電気の振動を視覚化させ、
画像で見ることができ、その用途は主に電気系統の故障を解析したり、
回路の解析を行って誤動作の原因を探ることです。

このタイプはアナログで、ストアージという拡張機能を備えていて、
通常のオシロスコープでは1秒以内に減衰するトレースパターンを、
数分以上スクリーンに残すことができたと思われます。

左側に並んでいるのは、チューブでカバーされたコイルです。

X線のユニットです。
奥のブルーのケースは鉛の線、手前は鉛の数字。
おそらくX線を撮影するときに認識のために一緒に撮影する
数字の形をした鉛なのだと思われます。

手前は撮影フィルムのカセット、その向こうは鉛の脚台で、
いずれもレントゲン撮影に必要な道具です。

FAXITRONというのは現在キャビネット型のX線機器製造を専門とする会社で、
会社設立は1960年となっていますが、HPによると、
「FAXITRON」という会社名の起源は物理学者のジョセフ・ヘンダーソン博士が
それ以前に発明したこのキャビネット型X線から取られています。

現在同社は乳癌を対象にした医療機器メーカーとして
デジタルX線システムや生検のツールなどを開発しています。

このシステムの画期的だったのは、フィルムに現像することなく、
検査箇所の画像をリアルタイムで見ることができたところでした。

昔の医療機器というのは(当時のステレオもそうですが)どうしてこう、
木目にこだわるのか、と思いませんか。

これは

 KODAK  FILM PROSESSOR "B"

X線のフィルムの現像は手でやると50分はかかりますが、
この機械だと15分前後しかかりません。
ちなみに机の下にあるブルーと白の機械も現像器です。

フィリップスの

NORELCO 

というX線機器です。
フィリップスはオランダの企業ですが、舶来ものの好きだったうちの父が
ドイツ製品とこのフィリップスの信奉者だったため、
なぜかうちにあるアイロンはこのフィリップス製です。

独立したときに家にあるのを持ってきたのですが、
不気味なくらい頑丈でいまだに一度も故障したことがありません。

それはともかく、このX線の機器は150キロボルトの高圧で、
狭いスペースでも使用できるようになっています。

ちなみに今フィリップスのノレルコ、で検索すると、
男性髭剃り器が出てきます。

こちらもオシロスコープだとおもいます。
BRANSONの縦長型は、デスクの上において使える設計。

ブランソン社は現在エマーソン・ブランソンと名前を変え、
測定機器の幅を腐食や圧力、ガスなどの測定、
ワイヤレスインフラに広げています。

ドイツのKRAUTKRAMER社の超音波ユニット。
(バッテリー駆動なので)延長コードをプラグに繋がなくても良くなりました。

これがアメリカで生産された初めてのバッテリー超音波ユニットで、
スペリー社(現在ユニシスの一部)とブランソン社がが製作しました。

これも超音波機器です。
病気(シックネス)の診断ではなくThickness、つまり
壁や艦体などの検査を行う専用の超音波検査器です。誰うま。

いずれも小型で、検査する人が現場に持ち運びできる大きさです。

こちらもブランソン製品。
超音波の瑕疵検査器です。

メア・アイランド海軍工廠では手持ちの材料でフレームを作って
簡単に持ち運びできるように工夫していました。

ブランソン社の関係者がメア・アイランドに視察にきて、
この工夫を自社製品に取り入れたという話があります。

この土管のようなものも超音波検査器です。

Blacklight inspectionといって、これで材料表面の開口欠陥(クラック)と
表面直下の欠陥を探し出す非破壊検査を行うことができます。

磁粉探傷検査といい、磁化させた材料に蛍光磁粉を含んだ検査液を掛け、
ブラックライト(紫外線灯)を当てると、もしクラックがあれば
磁粉模様が形成されるのでわかる、というわけです。

ちなみにこれが現代の磁粉探傷検査機械。
輪っかのところで材料を磁化させます。
ここにある機械との共通点が全くないのですが・・・。

軽量型のX線検査器です。

ここはドライドック。
まさにこの検査器で艦船(多分潜水艦)の外殻の検査をしているところです。

機械からのばした延長コードで検査チューブの先端を外殻に設置しています。

雰囲気を出すために額を飾っているのではなく、これは
X線で撮影した花です。

花びらが透き通って写るので実に幻想的な写真になります。
日本では「レントゲンフォト」などという呼び方があるようで、
X線フォト専門のアーティスト、なんていうのもいるようです。

部屋全体が写るように写真を撮ってみました。
昔の海軍工廠は、煉瓦造りで窓もフランス窓だったりします。

床はコンクリート。
よく見るとドアの下には隙間があるし、寒さの厳しい地方なら
いくら工場でも労働者には大変辛い環境ですが、
ここメア・アイランドはサンフランシスコの北にあり、
霧の出ないサンフランシスコのような感じで、夏は寒く冬は少し寒い、
といった1年間の気温変化があまりない気候です。
労働者はおそらく一年中同じような格好をして働いていたと思われます。

そう、この写真に写っているおじさんのような・・・・。

 

ところで、ここにこれだけの各種破壊検査、
超音波検査機器がある理由は、ここが海軍工廠だったからで、
例えばこのおじさんがやっているように、艦艇の外殻などに対し、
非破壊検査の必要が日常的にあったからです。

ちなみにこのおじさんは潜水艦の船殻に使用される
I-ビーム(I型鋼)の検査をしているところです。

 

さて、一応検査機器関係のご紹介は全部すみましたが、
個人的にあまり興味のない分野なので不承不承?始めたところ、
案外面白くて調べるうちに少しは検査なるものの概要がわかりました。

この頃に製品を作っていた会社は、そのほとんどが現在も健在で、
今はその発展した形の機器を扱っているというのもちょっと感動しました。

やっぱり技術を扱う企業というのは息が長いものですね。

 

 

続く。

 

 

 

 

リメンバリング9/ 11〜ボストンニュース雑感

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息子の入寮を無事に見届けた後も、わたしは元気で東海岸にいます。

いるついでに調べておいたミリタリー系の博物館に行ったり、
いつもの場所で散歩したり、買い物したりしています。

今いるボストン郊外は、3日前まで昼間は日差しが強く、
日向にいると苦痛なくらい暑かったのですが、2日前の夕方、
こちらの言い方で言う「猫やら犬やらが降ってくる」ほど強い雨が
雷を伴って振って以来、いきなり秋になってしまいました。

昨日は昼前から1日雨が振っていて、気温は14度。
二日までの服がもう来られなくなるのでは?と思うくらい寒かったのに、
今日は日差しが復活して途端にまた蒸し暑い天気が復活。

寒い時にはコートを着ている人もいますが、次の日はノースリーブ。
アメリカ人に「衣替え」の習慣はないのに違いありません。


さて、こちらではネタ探し(笑)とニュースがどう報じられているのか
チェックするために、部屋にいるときにはテレビを流しっぱなしにして、
画面を写真に撮ったりしているのですが、今日はそれをご紹介します。

まず、大坂なおみ選手の全米オープン優勝での事件。
日本ではどう報じられてますか?

画像は、無敵の女王の自分が小娘に歯が立たなかったのでヒステリーを起こし、
それを審判のせいにしただけでなく、後から「セクシズムへの抗議」にすり替えて
殊勝な顔でコメントするセリーナ・ウィリアムズ選手。(だってそうでしょー?)

感情を爆発させてやりすぎ、聴衆を味方につけて場を無茶苦茶にしておいて、
後から尤もらしい言い訳をするなんて、傲慢以外のなにものでもありません。

この人が誰かチェックするのを忘れましたが、

「このオーサカと言う若い女性は、彼女の研鑽の結果を発揮した瞬間を
いわば盗まれたのと同じようなことになってしまったんです」

としてセレーナを激しく非難していました。
(これはセリーナが審判を『泥棒』と罵ったこととかけている)
審判への非難を性差別にすり替えたのも、ダブルスタンダードだ、
ともいっていました。

CBSはセリーナを擁護している、と言う日本のネットの噂も見ましたが、
少なくともわたしが見た限り、コメントを言う立場の人は
なべてセリーナに厳しく、試合当日の夜これを報じたキャスターは

「彼女も、ナオミにブーイングした彼女のファンも、
テニスというスポーツにもっと敬意を払うべきだ」

ときっぱり言い切っておりました。

後から知ったのですが、大会主催者も、これは我々が望む結果ではなかった、
みたいなことを言ったらしいです・・・これ酷すぎない?

夢叶って憧れの選手と決勝戦、四大大会の一つで優勝し夢を果たしたのに、
誰も自分の勝利を讃えてくれないどころか四面楚歌。
これじゃ二十歳の彼女が泣いてしまっても仕方ないと思います。

ところで、表彰式でナオミに観客がブーイングすると、いきなりいい人ぶって(笑)
皆にブーイングをやめるようにと叫ぶセレーナ選手ってなんなの一体。

こんなことになったのはそもそも誰のせいなんでしょうか。

「彼女は悪くない」

と言ったらしいですが、そもそもあなたの苛立ちは当初若い選手に向けられてたでしょ?

この言い訳くさいセクシズムへの講義のすり替えについては、大坂選手が
もしハイチ人と日本人とのハーフでなかったから、もっと強力な、
「人種差別」カードが使えたのに残念だったね、という辛辣な意見さえあります。

違和感があったのは、どこの局も、セレーナの暴言とラケットを折った映像ばかりを流し、
大坂なおみ選手の圧倒的だった試合運びについては全く触れずにいることです。

セリーナのペナルティがなくてもおそらく彼女の勝利は動かなかっただろうということも言及なし。

聞いていた限り、大阪選手が日本人であることに特に言及した局もゼロでした。
日本だと、おそらくお愛想でも勝者の健闘を讃えるような言辞が
誰かから出るものだと思いますが、なんだか不思議な感じです。

まあ、あれだな、アメリカ人としては本心ではセリーナに勝ってほしかったのね。


わたしがアメリカに行く直前、ジョン・マケイン議員が亡くなりました。

アメリカに到着すると、街のそこここの国旗が全て半旗になっており、
しかも約1ヶ月くらいはそのままになっていたと記憶します。
アメリカにとってのマケイン議員がいかに大きな存在だったかを知りました。

CNNなどは民主党寄りをほぼ公言していて、トランプを親の仇のように報じますが、
流石にマケイン議員に対しては丁重な扱いだったように思います。

ベトナム戦争で捕虜になり、自殺を試みるほど酷い拷問から生還した
マケインは右左関係なくアメリカの英雄なのです。

全ての海軍艦艇が艦尾の国籍旗を半旗にしていたそうです。
横須賀の第七艦隊でも同じようにしてマケインに弔意を表していたはず。

この時に番組に出てマケイン氏の思い出を語っていた政治家は、
海軍兵学校でマケイン氏と同期だったということです。
話しているうちに、目に光るものがあったのが印象的でした。

 

海軍といえばですね。

昨日、ついに?「ラストシップ」の最終シーズンが始まりました。

作業をしながら横目で観ていたところによると、米海軍艦隊、
フリート・ウィークつまり一般公開の時に敵機来襲があり、
チャンドラー艦長の艦もズタズタにやられてしまっていました。

散々だった1日が済んで鎮魂の喇叭が演奏されています。
喇叭手の軍服もボロボロです。

Huluで早く続きが観たい・・。

ところでこれを制作しているのは9月11日、そう、セプテンバーイレブンです。
テレビでは、事故の時間に行われているトレードセンタービル跡での
慰霊式での様子を中継しながら、当日の映像を流し続けています。

実はわたしは明日西海岸に移動することになっており、当初
カード会社は9月11日のフライトを提案してくれていたのですが、
事故当日、ボストンからサンフランシスコへの便がハイジャックされた、
ということを思い出してなんとなく一日ずらしてもらいました。

縁起が悪いとかそういうことではなく、空港もその日は
何となくいつも通りではないのではないかと思われたからです。

映像を司会するスタジオの女性アナウンサーが、

「わたしの祖父もパールハーバーで亡くなっている」

と言い出したときにはあんた何言い出すの?と思いましたが。
言っとくがなあ、真珠湾攻撃は「テロリズム」じゃないんだぜ!

昔WTCの跡地グラウンドゼロに瓦礫が残っている状態の時
見に行ったことがありますが、ご存知の通りその跡地は
現在慰霊のモニュメントがあるだけになっています。

国旗の先頭に立つ音楽隊はバグパイプ。

音楽隊はニューヨークのファイアデパートメントと、
ニューヨーク警察の合同メンバーで構成されていました。

事故の後、現場に飛び込んでいった多くの消防士と警察官が
ビルの倒壊に巻き込まれて殉職しています。

国旗を敬礼で見送るのは警察と消防士たち。

左の女性警察官は、911で父親を亡くしています。
この若さから見て、幼いときに殉職した父と同じ道を目指したのだと思われます。

遺族が自分の家族と、その他の犠牲者の名前を読み上げています。
右側の少女はおそらく事故当時赤ちゃんだったのではないでしょうか。

ペンタゴンでもシャンクスビル(飛行機の墜落したところ)でも、
同じような慰霊式が行われています。

ところで、遺族が読み上げた犠牲者に日本人の名前があったのですが、
同時に字幕をタイプする人には聴き取れなかったらしく、
どこの国の人だよ?みたいな妙な綴りになってしまっていました。

ペンタゴンでは海軍の喇叭手が「ラストシップ」と同じく鎮魂の譜を奏で、
純白の軍服に身を包んだ海軍のコーラス隊が、「ゴッド・ブレス・アメリカ」を
ハーモニーも荘重にアカペラで歌い上げました。


今日一日、アメリカの全国民が一つの事件を想い、こうべを垂れ、
17年前の今日失われた三千人以上の犠牲者(いまだに正確な犠牲者数は
特定できていない)の魂のために祈りを捧げます。

おそらく今日、アメリカは星条旗を半旗にしてその弔意を表すでしょう。




東海岸の軍事博物館見学予告編

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さて、息子が大学に残って夫婦二人になってから、東海岸近辺の
めぼしいミリタリー系博物館に行きまくりました。

それらについては、今後時間をかけて観たものをじっくりと
ここでお話ししていくわけですが、今日は東海岸でどんなところに行き、
何を観てきたか、予告編を兼ねてざっとご紹介します。

まず、ニューヨーク州北部にあるエンパイアステート航空博物館。
地元の空港に併設された航空博物館で、全く期待していなかったのですが、
屋内の博物館展示も、外側の飛行機展示もなかなかの充実でした。

なんとびっくり、博物館内にはこんなものもありました。
巨大な「赤城」の模型です。

これについてもまた詳しくお話ししますので、乞うご期待。

実は・・・こんなところにも行ってしまったのだった。
当ブログ的には先にアナポリスに行きたかったのですが(笑)

というわけで、アメリカ合衆国陸軍士官学校、ウェストポイントです。

ちょうど学内ツァーの時間に間に合い、バスで学内を観ることができました。

ツァーではかつてイギリスの艦隊を防ぐため、ハドソン川に渡した
いわゆる「チェーン」と、そのチェーンを渡したポイントを見ながら
解説を受けることができます。

この鎖の一部はコーストガード・アカデミーにもあったので、
そちらを見学した時に書いたことがありましたよね。

未来の陸軍士官たちのピチピチした生の姿を垣間見ることもできました。

学内ツァーが終わってからウェストポイントミュージアムも見学。

日本軍の武器や制服、降伏調印式のサイン入り実物もここにあります。

昼ごはんを食べ損なったので、士官候補生御用達のマクドナルドへ。
ここの大きな星条旗も半旗になっていました。

とにかくこの地方は日差しが厳しくて蒸し暑かったです。
こんなところで候補生たちは大変だなあ・・と心から同情しました。

まあ、それをいうなら我が自衛隊の士官養成のための厳しい訓練も、
日本というとんでもない暑い国で行われているわけですがね。

おそらく日本では全く知られていないと思われる軍事遺産、
駆逐艦「スレーター」の見学にも行きました。

ニューヨークの州都アルバニーのハドソン川沿いに係留展示されています。

TOが帰ることになり、出発前ローガンのヒルトンに一泊しました。
ヒルトンにはフィギュアヘッドがロビーに飾ってあります。

最後の夜を懐かしのオールドボストンで過ごすことにしました。

ハーヴァード・スクエアは、夜になって一層人が集まってくるようです。
いつ来てもストリートミュージシャンの演奏がありますが、
ここで演奏するにはオーディションを受けないといけないそうです。

ここ出身で有名になったミュージシャンも多数。

TOが本を買いたいというのでザ・クープに来ました。
ここも懐かしいなあ。
実店舗の本屋がAmazonに押されて姿を消しているアメリカですが、
ここだけは今後も決して無くならないでしょう。

階段を上ったところにはティールームになっています。

ブランソープ・スクウェアには人がいっぱい。
ボストンはこの頃昼間暑いですが、夜になると爽やかです。

わたしたちがこの日夕ご飯を食べたのは、画面左の二階にある、
インド料理「マハラジャ」。

ボストンに住んでいた時、TOの同級生だったインド出身の
ラマナンドさん夫妻に初めて連れて来てもらいました。
あれからもう17年経つのに、変わらず盛況です。

サラダとチキンコルマ一つを二人で食べてちょうどでした。

マハラジャからの眺め。
アメリカの古い街並が夜になってクリーム色の街灯に照らされる様子は
胸が締め付けられるくらい美しく、懐かしい感じがします。

向かいにはジェラート屋さんができていて、アイス好きのアメリカ人が
夜にも関わらず詰め掛けていました。
この日は日曜だったせいで、夜ですが子供も結構います。

お父さんがコーンを食べているのを見ている子供の顔が・・・(笑)

わたしたちより先にこの近くのメディカルスクールに留学した友人が、
色々とボストンでの学生生活をレクチャーしてくれたことがあります。
その彼が

「あそこはいかにもニューイングランド、って感じで好きだった」

と言っていたスターバックスが、ここ。
ちょっとエドワード・ホッパーみたいです。

TOを空港で見送り、わたしは一人になって、
毎年来ているいつものホテルに投宿し、いつもの公園に歩きに来ました。

この日はレイバーデイの次の日で、レイバーデイに休めなかった人が、
休みが取れたのでバーベキューをしようと支度をしていました。

レイバーデイは「勤労感謝の日」ですが、そんな日にも
働かないといけないサービス業の人たちはいるわけで・・。

わたしが朝歩きにくる時間にはほぼ人はいません。
たまにすれ違う人とは必ず挨拶をします。

ここアメリカで挨拶をすることは、相手にとって自分が危険ではない、
と知らせる意味もあるのだと聞いたことがあります。
特にこんな人の少ないところでは必要かもしれません。

車を停めたところから約一時間歩いて、この堤防の上の
一本道を通って帰ってくるという、もう何年も歩いている同じコースです。

一人になってすぐ、ふらっとバトルシップコーブにやって来ました。

中には入らず、外から眺めるだけ。
どれも、皆さんに詳しくお話しして来た艦船です。

USS「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」。

戦艦「マサチューセッツ」と「ライオンフィッシュ」。

「ライオンフィッシュ」の横にはソ連で建造された「ヒデンゼー」
その流転の人生についてはぜひ当ブログ記事をお読みください。

「ケネディ」が一番かっこよく見える場所から。

そういえば一眼レフでバトルシップコーブを撮るのは初めてだった・・。
「マサチューセッツ」をハリネズミのように守る砲の列。

こんな遠くからでも「ライオンフィッシュ」にペイントされた
日の丸と旭日旗がくっきり写ります。

ところで、インターネット時代になって?改めて検索してみたら、
今まで毎夏来ていた所にミリタリーミュージアムがあるのを知りました。

ここが結構今回の目玉というか、面白いものを見ることができました。

第二次世界大戦博物館、という名前の通り、その時代のアメリカ、日本、
ソ連、ドイツのものを集めて展示してあります。

これらについてもそのうちお話しさせていただきますので、
どうかよろしくお付き合いください。


ラジオ受信解析センター〜空母「ミッドウェイ」博物館

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それまでのCICに、防空を目的にコンピュータによる情報処理能力を
搭載したのが、この頃「ミッドウェイ」に導入された

「ネイビー・タクティカル・データ・システム」

でした。

艦隊司令部が配置されていた艦橋真下のハンガーデッキ階には、
このNTDSを始め、(艦ではなく)艦隊の頭脳部分となる施設が
集まっているというわけです。

冒頭写真にも赤で「制限区域」という札が見えますが、
乗員であっても関係者以外立ち入りを禁止されているのがこの区域。

まずこの画面右側の前面にインストールされているのは

NAVMACS 
Naval Modular Automated Communications System

海軍モジュール式自動通信システムです。

船舶同士、または船舶と陸の間の通信を処理します。
また、船舶内のさまざまな場所にあるターミナルやワークステーションと
やりとりすることができます。

最初にNTDSが導入されることになった時、試作品として、あの
シーモア・クレイが発明したコンピュータの使用が検討されました。

最初に搭載されたコンピュータシステム、

AN/USQ-20(UNIVAC CP-642)

は、「たかつき」「たちかぜ」型、「しらね」型にも搭載されています。

ここに搭載されているのはその何世代か後になる

AN/UYK-20 Data Processor

で、1970年代に普及した小型タイプとなります。
技術者たちはこれを「Yuck=ヤック20」と呼んでいたとか。

気持ち悪いものなどを見たとき、アメリカ人は頻繁に

” Yuck! "(おえー、とかゲー、とかうえー、とか)

と言いますが、UYKを無理やりそう読ませる何かがあったのでしょうか。

部屋のこちら側にあった非常ベルのようなもの。
各ベルからパイプがあちらこちらに伸びていて、伝声管のようになっているのかな。

右側から

AN/USQ-60 データ中継セット

AN/USH-26 録音再生セット

AN/USQ-61 データ中継セット

といったコンソールの並びとなっています。

今となってはレトロな当時の最新鋭コンピュータ機器の数々。

ひな壇のようなコンソールからは紙に印刷されたデータが
随時プリントアウトされて出てくる仕組みになっています。

ロール紙が黄ばんでまだ残っている部分もありますが、
最後にここから情報が取られたのはいつのことだったのでしょうか。

各ロールをちぎる部分には、

CLEANED UP TO AND INCLUDING TOP SECRET

トップシークレットを含め、情報を残さないように、
としつこくしつこく何枚もテプラが貼ってあります。

一番右のコンソールは

TT-192C/UG

で、(こんな型番日本にいながら瞬時に調べられる時代・・・)
アメリカン・テレフォン・アンド・カンパニー(今のAT&T)製の

Reperforator, Teletypewriter

「レペーフォネーター」というのはテレタイプ伝送のための
受信穿孔(せんこう)機のことです。

と言われても何のことですか?という人が(わたし含め)多いと思いますが
この頃コンピュータの情報を記録するためには、自動パンチ機で
テープに穴をあけて情報を打ち込んでいたのです。

ここには「テレタイプライター」とあるので、コンピュータ以前の
テレタイプ受信穿孔機のことだと思われます。

1970年代のSFアニメなどでコンピュータが作動している場面には
オープンリールデータレコーダと共にテープが描かれていたものです。

ちなみに、穴あきのテープを見るだけで当時のコンピュータ技師は
だいたい何が書かれているかわかったそうです。

現在紙テープは規格のものが販売されていますが、記録媒体としては
使われませんし、これからも使われることもないでしょう。

テレタイプでしゃオペレータがタイプしたメッセージは
紙テープに格納され、その紙テープを使って送信されます。

通信速度は75WPMで、一般に1つの75WPMの回線に対して、
3人かそれ以上のオペレータがオフラインで作業していたと言います。

また、受信局で受信したメッセージも紙テープに鑽孔されるので、
それを使って別の局に中継することも可能。

読み取るのもコンピュータで、コンピュータは最高で
毎秒1000文字の速度で紙テープを読み取ることができました。

ただし、この媒体が「紙」であるということは結構な問題で、
テープの巻き戻しの際引き裂いてしまう危険がありましたし、
データが大きすぎると物理的にテープには記録が不可能です。

紙なのでちぎれたり擦り切れたりすれば全て、
あるいは一部が読み取れなくなる可能性もありました。

ただし、同時期の磁気テープは磁気に影響を受けやすく、
確実に経年劣化し、そうなるとデータは取り出せなくなるので、
紙の質によっては紙テープの方が耐久性はあったのです。

逆に紙は廃棄しやすいことも、暗号などに使われた理由でした。

先ほどの向かい側の壁にはほぼ同じコンソールが並びます。
一番左にある

TT-333A/UG

もテレタイプの機器でした。

ちなみに、当時の乗員の証言によれば、これらの機器のある部屋は
人間様より機械を大事にする観点から、夏場に冷房が入っていて、
そうでないところで働く者たちの羨望の的だったそうです。

CY-4516 A/S CABINET ELECTRONIC EQUIPMENT

が壁のように立ち並んでおります。
ここ全体を

「ラジオ・メッセージング・プロセッシング・センター」と言います。

海軍は大変広範囲の通信を無線ネットワークに頼って行います。
この部屋ではそのメッセージを受け取り、処理して各部署に伝達します。

メッセージの派出はラジオ・テレタイプを使って行われ、
受け取る方はそれを穿孔機で記録していました。

 ところで、MARS (Military Auxiliary Radio System)
補助軍用無線システム、というものがアメリカにはあります。

軍の活動に理解のあるアマチュア無線の資格を保持する民間人が
艦船や沿岸などで非常時、緊急時に通信を協力して行うシステムで、
ここミッドウェイには現在も MARSのステーションがあるのだそうです。

ミッドウェイのモールス信号デモンストレーターです。

ここには「MORSE CODE」とあるので、一瞬それが
「モールス」ということに気づかず『?』となってしまいました。

サミュエル・フェンレイ・ブリース・モールスはアメリカ人なので、
「モース」と英語圏では発音しているわけですが、当時の日本人が
律儀に「R」を発音することにしたので、こうなってしまったのです。

ここでは体験型展示として、コンポーネントを解放し、実際に
モールス信号を打たせてくれる企画などもあるようですが、
この時は人手がないせいか、ケースで覆われたままでした。

皆が勝手に触ると壊してしまうからかもしれません。

ある通信士の思い出から。

「しばらく航海していると、通信を傍受しただけで、
誰が打電しているかわかってくるんだよ。
なぜかって、通信士には打電の癖みたいなのがあって、
コードを送るのにも一人一人違うスタイルだからさ」

こちらはテレタイプのオペレーター。

「現役時代、僕はモールス信号は覚えなかったね。
なぜって、テレタイプライターはモールス信号のトンツー
(dits and dahs)をテキストに替えて
プリントアウトされたものを受け取っていたから」

トンツーのことを英語でdits and dahsというんですね。

モールス信号は "dots=・" と "dashes=ー"を使うのですが、
ドッツよりディッツアンダースの方が言い易いのでこうなったのかな。

日本で「ドッツ」がトン、「ダッシュ」がツーで「トンツー」です。

 「私たちはまるで電話会社のそれのようなスィッチボードを使って、
メッセージの送受信を行っていました」

「1日に何百ものメッセージを受け取るために、我々は
艦の周波数がその時々に応じて正しくチューニンングされているかどうかを
いつも確かめることが必要でした」

テレタイプライターを打っている皆さん。

「コードをタイプするより早く読むことが僕は得意だったんだ。
ただし時々夢の中でもコードが出てきたよ」

今では全く必要のなくなった技術であり、彼らの努力も今では
コンピュータの発展によって過去のものになりました。

しかし、この時にはこれが確かに「最先端の通信技術」であり
これ以上ない最善の方法でもあったのです。

 

 

続く。


真珠湾攻撃を見た水上機〜スミソニアン航空宇宙博物館

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SR-71、ブラックバードを観てから、わたしは正面から見て右手の
緩やかな傾斜になっているデッキを歩いていきました。

手前から紹介していきます。

リパブリック F-105D サンダーチーフ

どこかで見たような気がするのですが、初めてかもしれません。
F-105は超音速の爆撃戦闘機としてデザインされたもので、
核あるいはそれ以外の爆弾を搭載することができました。

いわゆる全天候型の機体で、モノパルスとドップラーの両方のレーダーを
夜間、または悪天候の時のオペレーションのために装備していました。

ウェポンベイは基本核爆弾を運ぶために密封され、
密着型の燃料タンクを装備していました。
(通常の飛行機は空中給油を想定した燃料タンクを持っている)
爆弾は機体にマウントされたウェポンラックや翼のパイロンに牽引されます。

F-105が初飛行したのは1959年で、610機が製作されました。

ここにある機体は、1967年のベトナム戦争時代に製作され、
タイのコラットに配備されていた空軍基地第388戦略戦闘機隊、
第42戦略戦闘部隊の所属でした。

サンダーチーフ、Thunderchiefはその最初の綴りから、『Thud』
(サッド、ドスンと落ちるという意味。擬音)と呼ばれました。

「ローリングサンダー」作戦

「スティール・タイガー」作戦

「バレル・ロール」作戦

などの「コンバット・ツァー」に参加し、その後は
コロンビア地区のナショナルガード空軍に所属していましたが、
1981年に当博物館に譲渡されたものです。

SA-2 ガイドラインミサイル

てっきりサンダーチーフが運んだことがあったのかと思ったら、
なぜかソ連のミサイルなんだそうです。

ソ連ではこれをDvina (ドヴィナー)と呼んでおり、SA−2は
NATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。

ちなみに、ドヴィナーは1960年、アメリカの

U-2 ドラゴンレディ

というスパイ偵察用の飛行機を撃墜したことがあります。
その時U-2のパイロットだった

フランシス・ゲイリー・パワーズ大尉

はソ連に拘束され、その後人質交換で帰国しています。

この記事を読んで驚いたのは、スパイとして拘束された時、

「パワーズ大尉は自決するべきだった」

(CIAから自決用の薬も渡されていた)という世論が
アメリカ社会に起こり、それはいまだにあるらしいということです。

アメリカ人って人命尊重が第一なので、そういう精神論はないと思ってました。
いや、精神論というより、機密を漏らしたことがいかんかったんでしょうけど。

ちなみにU-2は今でもバリバリの現役で、ISILの掃討作戦にも参加してます。

ベル AH-1F コブラ

とってもよく見慣れた機体を見てつい懐かしさを覚えるのだった。
というか、日本では富士重工業がライセンス生産しているので、
コブラの製造元がベル・エアクラフトだと改めて知ると新鮮です。

これがあのヒューイからの派生形であることもここで初めて知りました。

コブラは、初めてガンシップを目的に生産されたヘリコプターで、
1967年、南ベトナムでデビューして以来、AH-64アパッチに置き換えられる
80、90年代まで陸軍の攻撃機として君臨しました。

今でも海兵隊ではコブラの発展バージョンを運用している他、
世界の様々な国で使われています。

ええ、そこはよく存じ上げておりますですよ。

コブラは1993−4年、ソマリアに展開した陸軍第10山岳部隊、
タスクフォース・レイブンでも使用されました。

これも陸自でおなじみ、

ベル UH-1H イロコイ

ヒューイの愛称で知られるイロコイがデビューしたのは1956年、
H-13メディバックに置き換えられることが決まってからのことです。

20世紀が終わるまでに、ベルは他の軍用機を圧倒する数
(1万6千機以上)のヒューイを生産しています。

現地の説明には

「ただしB-24コンソリデーテッドのぞく」

と書いてありました。
派生型も含めてB-24は1万8千機以上作られていますから。


ヒューイは空中機動力にたいへん優れ、救難任務に活躍し、
ベトナム戦争といえばヒューイ、ヒューイといえばベトナム戦争、
という具合に、ある意味ベトナムのシンボルでもありました。

特に1966年から1970年までの間におけるベトナム戦争で
傑出した働きを挙げた出動はそれこそ数え切れないほどでした。

本体に書かれている『スモーク・シップ』の字は、強襲作戦の煙幕の中でも
このイロコイが難なくミッションを果たしたことを意味しています。

ツインローターの海兵隊のヘリコプターは

ボーイング -バートル CH-46E シーナイト

型番から想像するに、CH-47の前の形ですね。(←得意げ)
これを主要攻撃ヘリとして運用していた海兵隊では
『Phrog』(プローグ?)と呼ばれていたそうです。

運用が開始されたのは1966年。
海兵隊の「殴り込み」的任務に最高に適したヘリと言われ、
その後も、ほぼすべての主要な米軍の任務、災害救援に始まって
大きなミッションとしては大使館人員の避難などにも使われました。

ここに展示されているヘリの独特な緑色は、(カーキではない)
引退する前年度に参加したベトナムでの特別任務の際施されたのと
同じ歴史的なペイントをそのまま再現しています。

このミッションで、ヘリ部隊はネイビークロスを授与される働きをしました。

またプローグは、2004年にアフガニスタン、2007年から2009年にかけては
イラクでの最も激しい戦闘の時期にも参戦しています。

ところで、この列の端に、一際目を引くボロボロの水上機がありました。
ほぼ全ての航空機が、歴史的な意味を持つバージョンに塗装されている
このスミソニアン航空博物館で、一種異様な空気を放っています。

シコルスキーJRS-1

写真ではこれでもそうでもないですが、実際に目にすると、
おどろおどろしいその姿からは「呪いの飛行機」という言葉さえ
ふと脳裏をかすめるような・・・。

それにしても、どうしてスミソニアンはこの飛行機を全くレストアせず
そのままの姿で展示しているのでしょうか。

スミソニアンのHPを検索すると、一応スミソニアンではこの飛行機を
2014年現在で将来修復させるつもりをしていることがわかりました。

Museum technician Patrick Robinson talks about restoration plans
for the Sikorsky JRS-1 in the Mary Baker Engen Restoration Hangar
during the Udvar-Hazy Center's 10th Anniversary Open House on January 25, 2014.

なので、今はあくまでも「仮の姿」なのだと思われます。
しかしもう4年も経っているのに、作業が始まっている様子もないなあ・・。

まるで障子紙のようにベラベラに破れまくっています。

「呪いの飛行機」という言葉が浮かんだのですが、
この飛行機には因縁らしいものがあるといえばあります。

実はこの水上機、あの1941年12月7日にハワイ州パールハーバーにいました。

スミソニアン博物館のあまたの航空機の中で、JRS-1は、
真珠湾を「目撃」した唯一の存在なのです。

真珠湾攻撃が始まったとき、このJRS-1は海軍基地にいました。
未曾有の攻撃を受けた海軍は、直ちに無事だった非武装の飛行機に
敵の艦隊を捜索するために出動を命じています。
その一機が、このJRS-1(1937-1944年使用)だったのです。

民間機にシコルスキーS-43「ベイビー・クリッパー」がありますが、
これはその軍用バージョンです。

真珠湾当時、当機は非常にカラフルな塗装を施されていました。

機体のほとんどはシルバー、底部は黒、尾部の表面はグリーン、
そして胴体後方には周りに赤い帯が巻かれており、そして
操縦席の側にダイヤモンド形の飛行隊の記章が描かれていたそうです。

真珠湾攻撃の数日後、「非常時」に突入したということで、
地上員はカラフルな塗装を青で塗りつぶして目立たなくしました。

しかし、ここにある機体をよく見ると、表面の青が風化して
元の塗料が透けて見えます。 

JRS-1がこのようになってしまったのは、長年、
外部に放置しておいたことによる劣化だそうです。

先ほども書いたように、スミソニアン博物館は飛行機の保全と復旧を
今後予定しているようですが、飛行機というのは放置しておくとこうなります、
ということがある意味ものすごくよくわかるので、
これはこのままで置いておいたほうが展示としてよろしいのでは・・・。
いかんいかん、廃墟好きの血が騒いでしまった(笑)

ちなみに、上に貼り付けたwikiには、ここのJRS-1の写真とともに

「スティーブン・F・ウドバー・ハジー・センターでの復興中のシコルスキーJRS-1」

として、こんな写真が載っていますが、

このわたしが、2018年9月現在、全く作業に取り掛かる様子もなく
ボロボロのまま展示されていたことを力強く宣言しておきます。

・・・もしかしたらご予算の関係かなあ。

 

続く。

「長き灰色 (グレイ)の列」〜陸軍士官学校 ウェストポイント

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予告編でもお伝えした通り、今回ウェストポイントに行ってきました。

ニューヨーク州の田舎にある航空博物館と、州都にあった駆逐艦
「スレーター」に行った勢いで、この際ウェストポイントにも行こう!
と我が家で唯一の免許保持者であるわたしが強く主張し実現したものです。

前にも言ったかと思いますが、日本はもちろんアメリカで
一家を乗せてハンドルを握るのはわたし。

運転が苦にならないタイプなので、代わってくれる人がいればなあ、
と思ったことは全くありませんが、こういう体制でよかったと思うのは、
自分の行きたいところに人にお願いすることなく行けるということです。

もちろんうちのTOという人は、妻の行動を制限したり咎めたりはせず、
むしろわたしが探し出してくるミリ系観光に喜んで同行してくれるので、
一人の時も家族といる時もわたしの乗る車の行き先はわたしの意のままですが。

そんなわたしの家庭事情はどうでもよろしい。
というわけでこの日、車はニューヨーク州のハドソン川沿い、広大な敷地をもつ
U.S. ミリタリーアカデミー、通称ウェストポイントに向かいました。

ナビの通りにフリーウェイを降りたら、そこはなぜかこんな街。
街全体がゴミゴミしていて薄汚く、看板の半分以上がスペイン語。
どうもヒスパニック系のエリアのようです。

言いたくないけど、移民街というのはどこもどうしてこう、
荒れ放題のシャビーで汚らしい雰囲気になってしまうのでしょうか。

他人の国に来てその経済の恩恵にあずかろうとしているだけの移民は、
そのほとんどが、移民先の国家の文化へのなんの敬意も遠慮もなく、
住んでいるところに自国の貧しさからくる混沌を持ち込む。

もともとの住民は眉をひそめてそこから逃げ出し、より一層
「外国化」が彼らの住み着いた地域を蝕んでいく・・・・。

これはアメリカに限ったことではありません。
わたしは最近、17年前に2年連続で訪れ、いずれもアパートを借りて
月単位で住んだパリの街が、路上生活をする移民のせいで
目を覆うばかりの惨状になっているのを見て心から悲しく思っています。

日本でもそういう地域がそろそろ出て来ているようですね。


それにしても、軍施設、特に士官学校のある地域というのがこれ?
と違和感を感じながら進んでいくと、ある瞬間から急にそこは
上品な雰囲気の漂う落ち着いた、しかし質実な街並みに変わりました。

そうそう、陸軍士官学校の近隣はこうでなければ、と頷きながらなおも進むと、
「ウェストポイント・ゴルフコース」という案内が山間部の道路に現れました。

地図で見るとわかりますが、ウェストポイントが所有している地域は
総面積64.9 ㎢ で、千代田区、港区、新宿区、渋谷区を足したより広いのです。
その中にはハドソン川や山林を含むとはいえ、これだけ面積があれば
そりゃゴルフコースが一つや二つあっても不思議ではありませんね。

というわけでウェストポイント正門に到着。
エイブラムス・ゲートと名前がついています。

ここに来る手前にそれらしい門があったので、入っていこうとしたら、
そこは陸軍の関係者の住居区か何からしく、警衛ボックスにいた一人の軍人さんが、
すわ!という感じでこちらを睨み据えているので、慌ててバックしました。

その表情から見て、おそらくウェストポイント見学に来た人が皆同じ間違いをして、
車で入って来るのに結構うんざりしているんではないかと思われました(笑)

そこからすぐ先に戦車がある正門を見つけたというわけです。

このゲートの「エイブラムス」というのは、

クレイトン・W・エイブラムス・ジュニア将軍(1914-1974)

の名前から取られています。
エイブラムス将軍は1936年陸士卒業、戦車大隊の指揮官を経て
最終的には陸軍参謀総長を務めた軍人でした。

わざわざ台座に「戦車に登ってはいけません」という注意書き。
いたんだろうなー、過去若気の至りでやらかした士官候補生が(笑)

エイブラムスの名誉は、第二次世界大戦の時のヨーロッパ戦線で
パットン将軍を刮目せしめるほどの優れた戦車隊の指揮によるものです。

彼は装甲と攻撃力に優れたドイツ軍の戦車隊を破り、

「バルジの英雄」

と讃えられました。

サンダーボルト、Thunderbolt VII、 M4 A3E8 シャーマン

第二次世界大戦中、エイブラムスが搭乗した最後の戦車だったそうです。

エイブラムス・ゲートから足を踏み入れると、ウェストポイント博物館が
このように威風堂々の佇まいをたたえ現れます。

一般人の見学はオールウェイズ・ウェルカム。
エイブラムス・ゲートは、むしろ広報のために解放されているという感じ。
「本当の」ウェストポイントへの入り口はこの先にあり、そこから先は
一般人は指定の見学バスに乗ってでないと入ることはできません。

しかしここもよく見ると「ビジターセンター」ではなく、

「ビジター・コントロール・センター」

であるのが、観光地ではなく軍の施設であることを物語っています。

ビジターコントロールセンターは入るとすぐロビーになっていて、
そこからは全面ガラス張りの窓を通してハドソン川が臨めます。

窓に近づいて下方を撮影してみました。
こんな小道も舗装して傾斜には階段と手すりをつける至れり尽くせりな感じ。

とにかくアメリカの教育機関の中で最高にお金がかかっているのが
各種士官学校であることは間違いありません。

ハドソン川を眺める窓際には歴史的経緯の説明が設置してあります。

ウェストポイントはかつてイギリス軍に対する防衛の拠点(ポイント)でした。
1780年に、ジョージ・ワシントンがここに設置した要塞が

「フォート・アーノルド」(のちのフォート・クリントン)

です。

そして1778年、完成したもっとも広い要塞、

「フォート・パットナム」(Fort Putnum)

の跡地が、現在の陸軍士官学校となります。

ここには、訪れた人々に陸軍士官学校の歴史と現在を紹介するための
ミュージアムがスクール・ショップと併設されています。

そのミュージアムのエントランスが、これ。

士官学校卒の五人の将軍の候補生時代の肖像が掲げられています。
左から、

ユリシーズ・グラント(1843年卒)

ここにいる人たちは全員元帥位まで昇進した陸士卒の軍人です。

グラントは南北戦争で北軍に勝利をもたらした司令官で、
アメリカ人なら「グラント将軍」を知らない者はいません。

面白いのが、グラントの元々のファーストネームは「ハイラム」なのですが、
陸士に提出するときに間違ってミドルネームがファーストネームで記載され、
本人はそれを気に入ってこちらで通したという話です。

確かに「ユリシーズ」の方がかっこいいよね。

我が日本の西郷従道が、明治政府の太政官記録係に名前を聞き間違えられ、
本名の

「隆興」=「りゅうこう」→「じゅうどう」=「従道」

にされてしまったのを気に入り、それを本名にしてしまった話を思い出します。

グラントはのちに合衆国大統領となりましたが、政治家としては評価されておらず、
それどころか彼を「史上最低の大統領」に推す人も結構いるようです。

 

ジョン・ジョセフ・パーシング(1886年卒)

もっと正確にそのAKAを加えた名前を書くと、

ジョン・ジョゼフ・“ブラック・ジャック”・パーシング
(John Joseph "Black Jack" Pershing)

ブラック・ジャックとは手塚治虫の漫画の医師のことではなく、
法執行官が持っている棒のことです。

パーシングは「バッファロー大隊」の起源となった黒人ばかりの部隊を率いて、
戦果を挙げていますが、その後陸自で教鞭を取ったとき、
あまりにも学生に厳しいので、怖れられ嫌われると同時に、

「ニガー・ジャック」

と黒人部隊の指揮官だったことを揶揄するあだ名で呼ばれていました。
(人種差別が当たり前だった時代ですから)
その後、パーシングを取材した記者が、「ニガー」という言葉はあんまりだ、
と考えたのか、一応公的には書くのが憚られたからか、あだ名を勝手に

「ブラック・ジャック」

に変えて報道し、こちらが歴史に残っているというわけです。


ダグラス・マッカーサー(1903年卒)

説明はいりませんね。
マッカーサーが若い時って、こんなにイケメンだったんだー!
とちょっとびっくりしてしまいました。

奇跡の一枚かもしれないと思い、他の写真も調べてみました。
やっぱり男前・・・だけでなく実にノーブルな面持ちの青年ですね。

これなんかもヘアスタイルが今風でいいじゃないですか?

ちなみにマッカーサーの陸士での成績はレジェンドともなっていて、
首席で入学し、全学年首席で通し首席で卒業という凄まじいものでした。
彼以上の成績を取った生徒は史上まだ二人しかいないそうです。

元帥になったからといってクラスヘッドばかりではなく、グラントなどは
どちらかというと後ろの方(人数も少なかったけど)だったそうですが。

ところで昭和天皇陛下と並んで撮った写真のあの人って、
本当にこの美青年の成れの果て?

うーむ、時の流れというのは人を変えるものだのう。

マッカーサーの母はいわゆる「ボミング・マザー」で、彼を溺愛し、
小さいときには女の子の格好をさせ、ウェストポイントに入学したら
息子心配のあまり学校の中にある(今でもある)ホテルに、
彼の卒業まで住んで彼を監視、じゃなくて見守っていたそうで、
このため、彼は

「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」

とからかわれることになったということです。
すごいなこのカーチャン。


ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(1915年卒)

昔「将軍アイク」というテレビドラマがあったそうです。

平時に16年も少佐のままだったパッとしないアイゼンハワーの軍歴は、
第二次世界大戦がはじまり、連合国の最高司令官になったことから、
わずか5年3ヶ月の間に大佐、准将、少将(同じ年に)中将、そして
大将に続いて元帥にまで昇進するという、アメリカ陸軍史上、
空前のスピード昇進記録を打ち立ててこちらもレジェンドとなっています。

その後彼が合衆国大統領になったのもご存知の通り。

ちなみにアイゼンハワーは原爆の使用には絶対反対の立場で、
トルーマンにも強硬に反対を進言していたそうです。


オマール・ネルソン・ブラッドレー(1915年卒)

この人誰だっけ?とわたしが思った唯一の一人。
卒業年がアイゼンハワーと同じで、つまりこのクラスは二人元帥を出しており、

「星が降りかかったクラス」”the class the stars fell on"

とまで言われたそうです。

歩兵出身の彼はヨーロッパ戦線で野戦部隊を率いて「マーケット・ガーデン作戦」
「バルジ作戦」などを戦いました。


さて、エントランスの写真をもう一度見てください。
五人の元帥の上部に、士官学校の帽子が見えますね?

そう、卒業式のこの瞬間の白い帽子を表現しているのです。
そして、肖像の下の

「THE LONG GRAY LINE」

は、ウェストポイント・アカデミーの変わることないグレイの制服に
身を包んだ、過去から現在に連なる卒業生たちの列を表します。

 

というか、この制服、ブルーじゃなくてグレーだったのか・・・。


次回はこのセンターのなかにあった展示についてご紹介します。

 

続く。

陸軍指揮官の条件〜合衆国陸軍士官学校 ウェストポイント

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アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントにはミュージアムがあって、
誰でも見学できるらしいということで見学を決めたわたしですが、
例によってそれ以外のことを全く調べずに現地に着いてみれば、
バスに乗って学内を見学するツァーがあるらしいとわかりました。

『合衆国ミリタリーアカデミーはあなたを歓迎します』という言葉が、
大々的に壁に刻まれているのが、このビジター・コントロールセンター。
立派なロビーにカウンターがあり、そこでは左のバナーにもある
「ウェストポイント・ツァー」を受け付けています。

「参加してみようか」「時間が合えばいいけど」

カウンターで聞いたところ、ツァーには一時間コースと一時間半コースがあり、
なんと15分後に一時間コースのツァーが出発するとのこと。
なんてラッキーなんでしょう。

一人12ドルくらいの(正確には忘れた)フィーを払って、出発まで
「The long gray line」 のエントランスから入るミュージアム
(これはいわゆるウェストポイントミュージアムとは違い最近できたもの)
の見学をして待ったというわけです。

ウェストポイントの歴史、士官候補生たちがどんな訓練を行なっているのか、
というようなことを体験的に知ってもらいましょう、というのがここの目的です。

創立から今日に至るまで、国防の軍を率いる指揮官を育成してきた
陸軍士官学校は「国の宝です」と言い切っています。

当たり前ですよね。

防人と彼らを育てる教育機関が国にとって宝であるのは当然です。

それが普通の国の考え方であることを、普通の国でない日本に住むものとして
こんな表現からもつい思わずにいられないのですが、それはともかく。


上段左から二番目の、

シルヴァナス・セイヤー(Sylvanus Thayer )1875-1872

は、陸軍士官学校の父というべき人です。
彼自身も陸士を出ていますが、ジェファーソン大統領の命により、
セイヤーが取り入れた教育方針や軍人になるための躾などが
彼の監督時代に体系化して現在もそれが受け継がれています。

防衛大学校もそうですが、士官学校では工学を重んじ、
教育のコアにエンジニアリング(土木含む)を据えています。

左から三番目の写真は建造途中のワシントン記念碑ですが、
これにも多くの陸軍士官学校卒業生が加わった、と書いてあります。


最初に起こった大きな戦争、南北戦争への参加をはじめとして、
世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、卒業生のステージは
常にアメリカが行なってきた戦争とともにありました。

ウェストポイントを訪れた内外からの賓客のサイン。
上から主な人物を書き出すと、

1842 チャールズ・ディケンズ

1860 イギリス国王エドワード七世 ウェールズ公

1872 日本使節団

1862 アブラハム・リンカーン

1863 ラルフ・エマーソン

1881 マーク・トゥエイン

1895 ウィンストン・チャーチル

1902 セオドア・ルーズベルト

1916 ウッドロー・ウィルソン

1872年の日本使節団は咸臨丸を連れて行ったあの全権団です。

 Japanese Embassy Delegation

の文字(上から五番目)は几帳面で美しく、
いかにも日本人の書いた文字だなと思わせます。

ところで冒頭にもあげたこの4本の柱は、ウェストポイントの
指揮官に必要なものが刻まれています。

まず「リーダーの資質」と上にあり、柱には左から

Academic (学術)

Military (軍事)

Physical(身体)

Character(人格)

それを土台で支えるのが、

Duty(義務)Honor(名誉)Country(祖国)

なるほど。

しかし言うては何ですが、これだけのことを言うのに、
こんな大掛かりな舞台装置みたいなのをわざわざ作るって・・・。

士官候補生を教育し、訓練し、啓発することで、ここを卒業した者が
Duty、Honor、Countryの価値を踏まえた指揮官の資質を備えること。
そして秀でた専門知識を備えたキャリアを育て、国家に奉仕する
アメリカ陸軍の将校となるための準備を行うこと。

下手な訳ですみませんが、これが陸軍士官学校の「ミッション」です。

右手を上げる仕草は、士官候補生が晴れて任官する際の誓い、
自衛隊でいうところの服務の宣誓とともに行います。

 

「私、〇〇は、米国憲法を支持し、国内外ののすべての敵から
米国憲法を守ることを誓い、それをここに厳粛に宣言(または肯定)します。

同じくそれに真摯であり忠誠を負い、なんらの心裡留保も
忌避の目的もなく、また対価を求めずその義務を果たし、
誠実かつ十分に、自らに与えられた任務を果たすことを誓います。

神よご加護を。」


これもなかなか下手な翻訳で失礼いたします。
陸軍士官学校のOath (宣誓)には、

「any mental reservation 」

「purpose of evasion」

という、自衛隊の宣誓でいうところの

「事に臨んでは危険を顧みず」「身を以て責務の完遂に努め」

に当たるところに、英語圏の者でないと少し理解しにくい、
この二つの言葉が使われています。

メンタル・リザーヴァションを「心裡留保」と訳してみましたが、
これは、

はっきりした疑いではないが、心の底から信じることを妨げる何か

というときに使われます。

芥川龍之介の自殺の理由みたいですね。

日本語で「一点の曇りもなく」とよく心情説明のときなどに言いますが、
この場合も"without" を伴って同じように翻訳するのが良かもしれません。


これを読んで思ったのは、自衛隊の宣誓はその対象が「国民」ですが、
こちらは「米国憲法」となっていることです。

かの国では国民と憲法は一義であり、日本のように乖離した存在ではないことを、
こんなことからも感じ取ってしまうのですが、それはともかく。

指揮官養成のためのシステムについての紹介です。

学術的にも肉体的にも、鍛錬され、錬成されてこそ指揮官、
ということで、徹底的に厳しい47ヶ月のプログラムが組まれています。

特に軍事演習については、状況判断と意思決定の能力と、
的確で私心のない命令を下せることに訓練はフォーカスされます。

「個の集まりは個より偉大である」

切磋琢磨と言いますが、共に学び刺激し合い、協力することで
より一層そのリーダーシップを強固に培うことができるのです。

どう行動し、どう振る舞い、どう真実を撰び取るか。
指揮官は部下と言葉と行動で意思疎通をはかり、
モラルと尊厳ある立ち居振る舞いで任務を果たさなくてはいけません。

指揮官の人格は陸軍の価値に直結し、部隊の士気に直結します。
そのため指揮官はしなやかで強靭な肉体を備えていなければなりません。

そして、柔軟性のある精神が的確な判断力と独創を生むのです。

「責任の重みを感じること」

いやー、なんというか、軍隊指揮官の養成というのは、
おそらく世界どこに行っても同じような言葉を使うものですね。
「指揮官の条件」というのは古今東西共通なのに違いありません。

学生は「学生隊」(Corps Of Catdets)を組織し、そして
シニア(最高学年)の優秀な生徒から隊長が選ばれます。

夏の野外訓練では小隊が組まれ、上級生が下級生を指導します。

そして指揮官としてのステージが上がると同時に責任も大きくなります。

陸軍士官学校の学生隊の階級について説明しています。

下から

1年 カデット・プライベート

2年 カデット・コーポラル

3年 カデット・サージャント

4年 カデット・オフィサー

どうも乱暴な進級ですね(笑)
各学年の呼ばれ方とその目標は、

1年 (プリーブ pliebe)チームメンバー ついていくことを学ぶ

2年 (イヤーリング yearling)リームリーダーになる 下級生の指導

3年 (カウ cow )リーダーシップスキルの向上とスタイルの洗練

4年 (ファースティ Firstie)士官として学生隊を指揮する 常に考え、創造せよ


「プリーブ」はそのものが陸士の1年生のことを指します。
「イヤーリング」は一般的に動物の1歳児のことです。

「カウ」は文字通り牛ですが、「イヤーリング」の牛が、
3年になってやっと大人になったということなのかもしれません。

まあ、大人になったと言っても牛なんですけどね。

「ファースティ」は「ファースト」から来ています。

海軍兵学校でも4年生が「1号生徒」だったでしょ?

卒業生の紹介コーナーです。

まず左、2006年に卒業した、ルカズ・デーダ君。

ニューヨークはクィーンズの出身で、ポーランドから10歳の時やって来た
移民の息子さんです。
彼はやはりウェストポイントに在学していた長兄を訪ねて
ここにやって来たとき、

「この場所に恋してしまった」

ということです。
なんか当ブログ的に親近感が湧きます。

専攻はドイツ語。
はてポーランドの人ってドイツを死ぬほど嫌ってると思ってたけど・・。
かつての敵を知る、という意味があるのかな。

彼は今航空士官として活躍しています。

 

右は女性、2007年卒のレネー・ファラーさん。

インディアナ州出身の彼女がウェストポイントに入ったのは、
9・11同時多発テロ事件がきっかけでした。

「世界にある悪くなっていく物事を自分の力で変えることができ、
その変える力の一部になりたいと思ったんです」

在学中は英語専攻、フェンシングをし、弦楽合奏団にも参加していたという彼女、
今では陸軍の武器科にいるということです。

 

さて、次回はこの展示から、ウェストポイントの毎日についてお話しします。

 

 

 

 


海軍の街・サンディエゴを歩く

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東海岸での滞在を終わり、西海岸に移動しました。
息子の入学をアシストする仕事が終わったら実はもう用事はないのですが、
そこはそれ、せっかく行くのだから色々見学もしてきたいわたしとしては、
サンフランシスコの前に無理くりサンディエゴ訪問の予定を入れました。

アメリカ国内の移動、特に大陸横断は飛行機代が高いのですが、
幸い今回はユナイテッドのポイントだけで

ボストンーサンディエゴーサンフランシスコ

の移動代が皆まかなえてしまう上、カードのポイントが溜まって
去年泊まったミッドウェイ近くのホテルがそれもポイントで泊まれます。

今回も窓際の席を取ったので、これを見ることができました。
ネバダ砂漠の真ん中に作られた人口ファーム、センターピボットです。

なぜ丸いかというと、中心からスプリンクラーが時計の針のように回って
全体に散水しているからです。

地下水をくみ上げて砂漠に農地を作ってしまう、というのは、
誰が考えたかは知らないけど、さすがアメリカ人、という感じです。

一つの円が大きいもので直径1kmはあるらしいのですが、
おそらくこれらを管理しているのは一つの会社かまたは一つの農家。

拡大してよく見ると、円の外側に家があります。

日本の農家とは同じ農業とは思えないほどの違い。
たとえて言えば家内制手工業とプラントという感じでしょうか。

たまたま窓を開けたら、前に移動した時と同じフィヨルド?みたいな地域が見えました。

グランドキャニオンの少し北、ユタとアリゾナ州の州境にある
パウエル湖から出ている河の支線だと前に調べた時にわかりました。

全体的に赤いですが、「赤い河の谷間」という歌にも歌われた
「メサ」が連なっている地域だからです。

メサがあるこの地域に溜まった水はこのような湖の形を作り上げるのです。

ローガン空港を飛び立って6時間、西海岸に到着です。
サンフランシスコ空港近くの塩田が見えてきました。

夏場雨が少ないこの地域では長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

というわけでサンフランシスコに到着。
時間の関係で、サンディエゴに行くのにサンフランシスコで
乗り換えをしなければいけない便しかなかったのです。

窓から外を見ていると、脱出シュートみたいなものが
飛行機に乗り込むための移動しきゲートから出ているのに気がつきました。

まさか本当に非常時脱出用?

と思ったら、飛行機に載せる荷物をここに放り投げて滑り落としていました。
まじかよ。

アメリカの国内便は小さいので、手荷物でも乗り込む寸前に預けたりしますが、
まさか、パソコンの入ったトランクも、こんなことして積み込んでたの?

軽くショックを受けつつ、それでも投げ落としていたのが
(比喩表現ではなく本当に投げていた)数個だったので、
もしかしたらギリギリにきた人の荷物かもしれないと思い直しました。

そうであってくれ。

というわけでサンフランシスコを離陸。
本当の?雲の下に、サンフランシスコ名物にもなっている
霧を降らせる冷たい雲が二重に出ているところが見られました。

この雲の向こう側は太平洋となりますが、この地域はいつも
このようなクリームのような雲がかかっています。

サンフランシスコからサンディエゴまでは1時間半くらいで到着です。
海軍基地が見えてきました!

これは飛行機が空港を通り過ぎてから海軍基地を左に見る位置で
旋回するため太平洋が左に見えるのです。

画面上方に見えているのは、本土から海軍基地のある
コロナドに伸びている長い砂州で、これを右側に行くと基地です。

思いっきりズームしてみました。
自衛隊のヘリ搭載型護衛艦のようなのが2隻見えます。

苦労してアイランドの文字を読み取ってみたところ、
これらは強襲揚陸艦で、向こうから

LHA-6 「アメリカ」USS America

LHD-4 「ボクサー」USS Boxer

であることがかろうじてわかりました。
「アメリカ」は「アメリカ」型のネームシップ、
「ボクサー」は「ワスプ」級強襲揚陸艦の4番艦となります。

うおおおおこれは・・・・!
真ん中辺に見えるのって、これ、

サン・アントニオ級ドック型揚陸艦

なんじゃないですか?

こちらはドックで新造艦建造中と思われ。
一番右など、完璧に覆いで形をわからないようにしてあります。
確かに上空からは丸見えですので。

右から4隻目も「サン・アントニオ」級かな?
サンディエゴ基地には「サンディエゴ」以外に4隻も同級がいます。

飛行機は左に旋回し、滑走路へのアプローチを始めました。
最近までお話ししてきたサンディエゴ海事博物館の帆船や、
「ミッドウェイ」がこんな角度で見えます。

今回前半はヒルトン系のキッチン付きホテル、「ホームスイート」。
地名を「ホテルサークル」といって、今まで何もなかったところを
切り開いて各社ホテルを建て「ホテル村」となっている一角にあります。

ここもほぼ新築で、インテリアもセンスがいいし、ロビーラウンジには
ご覧のような中庭が繋がっていて、今流行りの「テーブルファイヤー」が楽しめます。

この大きなチェス盤は、たまーに真剣に勝負している人がいましたが、
ほとんどは子供の遊び場になっていました。

週2回くらいは「ソーシャルナイト」といって、ロビーラウンジで
ちょっとした食べ物屋飲み物が出されるのも共通。

こんなにお得感がありながら、5つ星の半額くらいのお値段で泊まれるのが
キッチン付きスイートのありがたいところです。

朝食付きも売り物ですが、どこに行っても所詮アメリカなので、
卵料理にポテト・ベーコン、パンケーキなどにフルーツ、ヨーグルトだけ。
野菜はなぜか絶対に出てきません。

三日後、去年泊まった「ミッドウェイ」近くのホテルに移動しました。
チェックインの時に、

「実は去年もこのホテルに泊まったんです」

と言うと、ウェルカムバック!といってアップグレードしてくれました。
カードのポイント利用で取ったホテルなのに、なんか申し訳ない。

「高層階と低いところとどっちがいい?」

と聞かれたので、

「ハイヤー・イズ・ベター!」

と言って15階にアサインしてもらいました。
窓からは「スター・オブ・インディア」と空港が見えます。

そして・・・・。

また逢いに来たよ、ミッドウェイ。

コロナドの岸壁には去年と同じ「カール・ヴィンソン」が。

その隣に「セオドア・ルーズベルト」がいるのも同じ。
艦体のあちらこちらに白い「バンデージ」をつけて修理中です。

次の朝。
6時に起きて外を見てみたら、埠頭沿いの道はたくさん人が歩いたり
自転車で通ったりするトレイルになっていたので、わたしも歩くことにしました。

アメリカについてから、毎日1万歩から多い時で2万歩歩いています。
航空博物館や買い物、モールに行くだけでもたくさん歩くことになるので、
アメリカに行くとわたしは体の調子がとてもよくなるのです。

景色のいい道が近くにないホテルでは、ジムのトレッドミルを利用します。

さすがサンディエゴは海軍の街だけあって、
GIフィルムフェスティバルなどと言うものを街ぐるみでやってしまう。

「スター・オブ・インディア」の帆が朝日を受けて。

こちらは映画「マスター・アンド・コマンダー」で使われた帆船。
後ろにはソ連の潜水艦もいます。

海事博物館の展示の中心となっている蒸気船「バークレー」で
弦楽四重奏の奏でるハイドンを聴きましょう、という企画。

カクテルも出るようです。
特等席は50ドルで、日本の感覚だとこれでも安いですが、
学生と軍人はなんと10ドル。

アメリカでは普通にミリタリーサービスに就いている人は優遇されていて、
例えば飛行機などでもプライオリティシートの前に搭乗することができます。

ここでもお話しした実験潜水艦「ドルフィン」には、

WORLD'S MOST DEEPEST SUBMARINE
(世界で最も深く潜水した潜水艦)

と看板がありました。

あれ?こんなのあったっけ・・・?
去年も一昨年も気づきませんでした。

PCF 816

PCFとは「パトロール・クラフト・ファースト」のことで、
ベトナム戦争で哨戒を行った時には「スウィフト・ボート」と呼ばれていました。

このボートは一度アメリカ海軍からマルタ海軍に貸与されていたのですが、
マルタからサンディエゴの博物館に寄贈されて今日に至ります。

PCF-816, Vietnam Riverine boat passes USS Ronald Reagan, Oiler, and pleasure craft on San Diego Bay.

かつてメコン川を哨戒していたボートが元気にサンディエゴ湾を航行しています。

 

さらに海沿いを歩いていきます。
この辺りには個人がヨットを繋留するヨットハーバーがあります。

ここは向かいのコロナドが防波堤の役目をするため、
全く波がない、ハーバーには最適の場所となっているのです。

ヨット越しに空母が見える、これがサンディエゴ。

歩いていくと、沿岸警備隊の飛行隊基地が現れます。
ゴミが散らかり放題ですが、この辺にはホームレスも多く、
彼らの生活の残渣がそこここに散乱しているのです。

気候が穏やかで街が豊かだと、当然のようにホームレスが集まってきて
観光地でも御構い無しに、いやだからこそ住み着いてしまうんですね。

緑のボックスに落書きをしたのも彼らだと思うのですが、

”UFCK”

ってなんだよ・・・(笑)
結構文盲の人も多いっていうからなあ・・・。

U.S. COAST GUARD SECTO SAN DIEGO

セクトって新左翼か?と思ったら、単にSECTORの「R」が
白く塗られていて見えなくなっているだけでした。

コーストガードは、所在地の前に「セクター」をつけて、
陸上のオペレーション基地を、

「コーストガード・セクター・サンフランシスコ」

などと称します。

何か有名なカッター(コーストガードの艦船)のスクリューかと思ったら、
横のプレートには非常にわかりにくい亀の甲文字で

「 SEMPER PARATUS ALWAYS READY」(常に備えあり)

という沿岸警備隊のモットーに挟まれて、
1790年に始まった歴史が200年目を迎えた1990年、
この間に沿岸警備隊で任務に就いた人々を讃えるために、
このモニュメントが作られた、と言うことが書いてありました。

 

わたしはこの日ここでちょうど30分歩いたので、折り返すことにして、
ホテルに帰り、この日は3度目になる「ミッドウェイ」見学に出かけました。

続く。



海軍の街・サンディエゴを歩く その2

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東海岸から西に移動し、サンディエゴの街を一人で楽しんでいます。

このホテルを選んだのは、ホテルグループのメンバーであるからけでなく
ウォーターフロントにあって「ミッドウェイ」まで歩いて行ける距離にあるから。

向かいの敷地は去年工事中でしたが、今年はもうホテルが完成して営業しています。

去年家族で夜、「ミッドウェイ」の電飾を眺めながらアイスクリームを食べた場所には
大きなソファと、炎のでるテーブルが新しく設置されていました。

table fire で検索すると、いろんな商品が出てきます。
前のホテルにもあったし、この一年で流行しているようですね。

さて、沿岸警備隊基地で折り返し、帰り道でこんなものを見てしまいました。

サンディエゴの海沿いには、携帯を持っていればスキャンして使える方式の
自転車や脚蹴り式スクーターが普通に置いてあります。
使用していないのでわかりませんが、時間が決まっていて、
それを過ぎたら動かなくなるとか言う仕組みなのでしょう。

まあ、自分のものにできないので盗っても意味がないのです。

ただ、押して動かすことだけはできるらしく、一度自分の荷物を載せて
自転車を押しているホームレスを見ましたし、こんな風に
重たいのをわざわざ持ち上げて使えなくしてしまう人も存在します。

こんな風に、ステーションでないところに放置する人もいるし・・。

ところで、控えめに写真を撮ったのでわかりにくいですが、
赤いシャツの人はベンチに座ったホームレスになにやらお説教してます。
横を通りかかったとき、

「That's the reason I told you so.」

と聴こえてきたのでそう思ったのですが、もう少し歩くと、
別のホームレスとこの人の連れらしい人が話しているのを見ました。

おそらく彼らはボランティア団体で、ホームレスの人たちに
シェルターに戻るように説得しにきたのではないかと思われました。

ところで、わたしがサンディエゴに滞在することにした理由は
「ミッドウェイ」だけでなく、ここから1時間ほど行ったところに
アメリカに住んでいた時代からの友人と会うためです。

彼女とその夫がサンクレメンテに2年前買ったという、
「海の見える丘の家」に始めてお邪魔してきました。

眺めを遮らないようにベランダの柵は透明です。

リタイアメントした人がこういうところに住みたがるらしく、
隣人のほとんどは老人で、前の住人も奥さんに先立たれ、
ホームに入ったため空きになったということでした。

「近所に、若いときNASAにいて、アポロ13の打ち上げに関わった、
っていうお爺さんがいるんだけど、とてもそんな風に見えない」

羨ましいと思うのはこういう家が普通の人にも買えること。

彼女とは夏アメリカに行くたびに会い、お互いの娘息子の話に始まって、
アメリカや日本の現状や政治問題にも話がおよび、いつも話題がつきませんが、
今回先ほどのホームレスが話題になりました。

「いくらシェルターを用意しても、出てきてしまう人が多いんだって」

「ドロップアウトした人には人間関係がわずらわしかったりするのかな」

彼女によるとサンフランシスコではホームレスが激増していて、
学校の通学路でドラッグをしていたりするそうです。
とはいえわたしも、そういう光景を17年前に都市部で見ましたけどね。

どうやって充電しているのか、携帯を持っている人もいるし、
彼女の妹はホームレスにコーヒーを買ってやったところ、

「人工甘味料じゃなくて砂糖にしてくれ、不味いから」

と言われて呆れた、という話をしていました。

ホームレスを「好きでやっている」人が増えたという感じです。

帰ろうとしたら、彼女の夫が会社から帰ってきました。

「すごい!ポルシェ買ったの?」

「うん・・休みの日は4時間くらいかけて洗車してる」

彼女の夫は日本でも有名なゲームを出している会社の
ビジュアルアーティストをしています。

理想の家に念願の車、22歳の時に移民してきたという彼の
夢(ドリーム)が今にして叶った、というところでしょうか。

さて、サンディエゴの散歩に戻ります。
前には気づかなかったフィギュアヘッドに注目してみました。
さすが映画でイギリス海軍の軍艦を演じただけあって、
女神は剣を持ち兜を身につけています。

こちら「スター・オブ・インディア」のフィギュアヘッド。
この女神もアラスカに行ったのでしょうか。

さて、埠頭の散歩はもう一日、今度は前回と逆に行くことにしました。

ホテルを出て左側、「ミッドウェイ」の方向に歩いていくと、
なんといきなり陸軍の迷彩服姿を目撃!

風景を撮るふりして写真を撮っていると、なおも二人登場。
これは・・・この辺りに軍施設があって出勤してきたんだな。

と思って彼らが歩いて行った方向を探してみると、ありました。
しかし陸軍じゃなくて海軍のオフィスが。

やっぱり海軍で連絡係をしたりする陸軍の人かしら。

「ミッドウェイ」を右手に見ながら歩いていきます。
向こうに見えているのは「セオドア・ルーズベルト」。

「ミッドウェイ」を通り過ぎてすぐ、左手にモニュメントが現れました。

十万にも及ぶ水兵たちが第二次世界大戦で海での戦いに赴いた

おそらくアメリカ合衆国がもっとも一丸となった出来事だったといえよう

これらの若きアメリカ国民は、それぞれの希望や願望を顧みず
家族も、故郷も、仕事も全て投げ捨てて彼らの祖国を守り、
彼らの信じるもののために自らを犠牲として戦った

USS「サンディエゴ」(CL53)の乗員は 
歴史的な困難において勝利を納めるために戦った
全ての人々をここに記憶する

モニュメントそのものは「サンディエゴ」の碑、となっています。

何枚かのパネルのように建てられた石碑には、そのうち1枚に
軽巡「サンディエゴ」のスペックと艦歴が記されています。

壁の4面には戦いに斃れた若い水兵たちの名前が刻まれていました。

地面には第二次世界大戦で戦場となった太平洋の戦場名が記されています。

コロナド側の対岸の眺め。
一番右は「カール・ヴィンソン」で、これはホテルからも見えましたが・・、

こちらまで歩いてきて初めて見えてきた給油艦は、
「ヘンリー・J・カイザー」級の14番艦、「グアタルーペ」。

給油専門艦というのがさすがアメリカ海軍です。

あまり見たことがない給油パイプの配列なので拡大してみました。
なんでこんなにたくさんホースがあるんだろう。

「グアタルーペ」に艦尾を向けて繋留してあるのも給油艦で、
T-AO-202の「ユーコン」です。

ロック・バランシングというのはそれだけでアートになっています。
ここにあるのは素人のお遊びですが、プロになると
ものすごいバランスで石を積んでしまいます。

マイケル・グラブのロック・バランシング

海で亡くなった民間船船員たちの慰霊のために建てられた碑。

・・・・なんですが、なぜ部分的に濡れているのか。

「セオドア」の艦首がこんなに見えてくるところまで歩いてきました。

前方には朝もやでかすかに曇るコロナド・ブリッジが。
到着時飛行機から見た工廠はここをまっすぐ行ったところにあります。

 

遠目からもそのクリーム色の艦体で民間船だとわかります。
Dole atlantic という名前の通り、
バナナやパイナップルを作って売っている会社の所有コンテナ船ですね。

写真を撮ってから三日後の今、船の位置を調べてみると、
サンディエゴを出航してメキシコ沖を南下していました。

ドール・アトランティックはバハマ船籍です。

C-Tractor というのはタグボートだそうです。
日本の民間や海自のタグより大きいので調べるまでタグだと思いませんでした。

わーい!海軍の哨戒ヘリだ!
全く朝早くから(7時すぎ)ご苦労様なことであるのう。

我が海上自衛隊でも運用しているSH-60の米軍型「シーホーク」だと思われます。

今度は海軍の哨戒艇が現れました。
沿岸のパトロールは一人で行うようです。
どうでもいいけどものすごくラフな格好で任務を行うものですね。

沿岸でダイバー二人を使って何かしている船に近づいて
臨検・・・までいきませんが、チェックをしているようです。

特に問題はなかったようで、哨戒艇はすぐに離れていきました。
この後も観察していると、哨戒艇の乗員は時々虫網みたいなので
海面からしょっちゅう何かを拾い上げているのが見えました。

ゴミ拾いしているんじゃないとしたら、不審物検査かな。

ドールの船の手前で折り返し、帰ってくると
「ミッドウェイ」がこんな風に見えます。

水兵さんの頭に鳩が止まっていてなんかお間抜け(笑)
タイムズスクエアのキスの像は、正確には

「UNCONDITIONAL SURRENDER STATUE」(無条件降伏の像)

っていうんですよ。
誰か知らんがセンスのない名前をつけるものだと思いました。

「ミッドウェイ」の艦尾側は、できるだけ近くから見られるように
木製のデッキを後から増設したようです。
ここを歩いていて、朝日に照らされた「ミッドウェイ」の艦体が
激しくデコボコしているのに気がつきました。

まるで障子みたいですね。
補修していない部分は経年劣化でこうなってしまっているのでしょう。

さて、というわけでサンディエゴの海沿いを二日にわたって歩き、
海軍の街の眺めを堪能しました。

部屋に帰ってテレビを見ていたら、なんとあのトニー・ベネット大先生が、
ダイアナ・クラールと「Nice Work IF You Can Get It」を歌っていました。

トニー・ベネットってそういえばまだ生きてたのね。

最近はレディ・ガガやマイケル・ブーブレなど、実力派とデュエットすることで
いうてはなんですが年齢による声の衰えをカバーしてきた感がありますが、
今回もダイアナとアルバムを出したのでテレビ出演となったようです。

正直この時のスタジオ生演奏も、声の質の残念な感じはぬぐえませんでした。
もちろん92歳と思えば立って歌ってるだけですごいんですけどね。

最後に。

「ジャパニーズ・ビリオネアが付き旅行を計画」というニュース。

ジャパニーズビリオネア、Maezawaとしか言わないので、
あとでネットのニュースを見るまでZOZOタウンの社長だとわかりませんでした。
実はZOZOタウンが何かもわたしはこの時まで知らなかったんですが。

スタジオでは

「どうですか?この話」

「いやー、夢があっていいですねー」

などと話し合っていましたが、かすかに呆れているような、
揶揄するような・・・・、何で稼いだか知らんがなんで今月旅行なのよ?
みたいな調子がが含まれているような気がしたのは
きっとわたしだけではないと思います。

 

 

 

チェンバース艦長の決断〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」の艦橋の真下に当たるデッキには、
「フラッグオフィサー」、つまり自分自身の指揮官旗を持つ
偉い人たちの居住区があります。

この指揮官旗というもの、海軍に入って艦隊勤務になれば、
自分一人のために揚げてもらえる訳で、最初にその配置になり、
自分のためにはためく旗を見ることは、軍人として

「俺もついにここまで来たか・・・」

としみじみするものらしいですね。
自衛隊でも同じことで、配置が変わり、旗が揚がったのを見て
感激した、という話をわたしは当の自衛官から聞いたことがあります。


あと「俺もついに」の感慨を起こさせるイベントというのは何でしょう。

自分のためにサイドパイプが「ホヒーホ〜〜」と吹かれたとき?

自分のために副官が配置されることになったとき?

艦内で一人部屋がもらえ、自分のためのお風呂があるのを見たとき?

色々ありましょうが、何と言っても海軍軍人がもっとも感慨深いのは
「艦長」(発音は艦↑長↓ではなく、艦→長→で)と呼ばれた日ではないでしょうか。

アメリカではご存知のように艦長は「キャプテン」あるいは「スキッパー」です。
いうまでもなくその船で絶対の最高権力者であり、
航海で起こり得るすべての責任者となります。

アメリカ海軍では「コマンディング・オフィサー」とかCOと言われることもあります。

艦長室も近いこの一角には、海兵隊員に守られるように、
歴代艦長の実に立派な写真コーナーが設置されています。

上段中央には、ここでもお話しした、ベトナムからの脱出劇、
歴史的に言うところの

「頻繁な風作戦」(オペレーション・フリークェント・ウィンド)

で「ミッドウェイ」上空に飛来したセスナに着艦許可を出した

「ローレンス・”ラリー”・チェンバース」艦長

がいます。

今回サンディエゴに行って「ミッドウェイ」を再訪し、
前回見残したところと、疑問だった部分などを
現地の説明も聞いて確認して来ましたので、今日はもう一度、
このベトナム戦争時に行われた民間人脱出作戦について、お話ししておきます。

脱出までの経緯については、当ブログですでにお話ししておりますので、
ご存知ない方はぜひそちらをお読みください。

四月のホワイトクリスマス〜空母ミッドウェイと「頻繁な風」作戦


当時「ミッドウェイ」にサイゴンから往復40分のフライトで
ヘリが次々に難民を輸送していました。
定員12名のヘリコプターから80名の難民が降りて来たこともあったそうです。

そのうち「ミッドウェイ」甲板には、ベトナム軍の飛行機が無許可で降り始めました。
救出劇が始まって、収容された難民の数は3000名を超えたそうです。

「ミッドウェイ」の艦長が救出の命令を受けたのは、
脱出が始まった4月29日の2:30のことでした。
空軍の飛行機はすでにサイゴンと「ミッドウェイ」を往復して、
脱出するアメリカ人とベトナム人をシャトル飛行で運んでいました。

もちろん「ミッドウェイ」の艦載機もこの搬送に加わり、
1000人以上の脱出者たちを運んで来ています。
不眠不休で働いていながら、水兵たちは自分の寝床を子供達に提供しましたし、
6000食が脱出して来た人たちに振舞われ、その時には
「ミッドウェイ」の医療施設は難民のためにフル稼働しました。

最初の日に甲板に降り立った人々に対し、乗員たちは簡単な審査を行い、
「ミッドウェイ」のゲストとしてできるだけ心地よくいられるよう心を砕きました。

特に、同じ年頃の子供を祖国に残しているクルーは、
ベトナム難民の子供たちに大変シンパシーを感じ、
心を動かされた様子だったといいます。

翌日4月30日。

難民たちを他の艦に移す前に、「ミッドウェイ」は新たな任務のために
その航路を西に向けました。

タイの沿岸沖に52名のベトナム人兵士を乗せたジェット機が
サイゴンから脱出する途中で海面に不時着していると知らせを受けたのです。

この任務に向かう途中にも、「ミッドウェイ」は漁船から84名を
救出してもう人員はオーバーもいいところでした。

しかし、「ミッドウェイ」はベトナム人たちを全員を掬い上げたのみならず、
彼らをグアムまで送り届けています。

こんな「思わぬ和解」こともありました。

脱出が始まる前、左上の写真のように、
空母に着艦したことがない空軍のヘリパイロットなどは、
前もって着艦の練習をしてそれに備えました。

右下の写真は「ミッドウェイ」艦上でかつての呉越同舟、しかし
同じ困難に立ち向かう仲間として和気藹々の空軍&海軍のパイロットたち。

いうまでもありませんが、空軍と海軍航空隊は平和な時には犬猿の仲です。

 

かくのごとく難民とアメリカ国民が「ミッドウェイ」に運ばれ、
アメリカ大使館を守っていた海兵隊員が最後に「ミッドウェイ」に着艦した
その1時間後、大使館は北ベトナム軍によって占拠されました。

そこに現れたのがベトナム軍人ブワン軍曹と妻、六人の子供を乗せたセスナだったのです。

上空に飛来したセスナからは

「着陸許可をくれ。飛行機のガソリンはもう少ししか持たない」

と書かれた紙が落とされました。

南ベトナム空軍の士官は、ブワン軍曹のように自分の家族を
航空機で脱出させようとしましたが、侵攻してきた北ベトナム陸軍兵士に
殺害されるということもあったのです。

直ちにこれを許可した「ミッドウェイ」ではセスナを着陸させるための準備に入りました。
飛行機の進路に対し艦体を順行させ、艦上のヘリなどを海に投棄する大決断が行われたのです。

WestPac 1975 with Operation Frequent Wind

17:30くらいから、ヒューイを投棄するためにパイロットが海に飛び込み、
その直後機体がその真横に墜落するシーンが見られます。

パイロットですから自分の落下水面にヘリが落ちてこないように
ある程度コントロールしてから飛び込んだのだと思いますが、
ローターの長さもありますし、見ているだけで背筋が寒くなります。

 

セスナに着艦許可をためらいなく出し、甲板から何機ものヘリを捨てることを命じ、
そしてテールフックのついていない機体のために、艦首を風上に向けて
全速力で「ミッドウェイ」を航行させることを選んだのが、
チェンバース艦長と当時のエア・ボスでした。

歴史的な脱出作戦について語るチェンバース元艦長。

この容姿からは日本人にはあまりわかりませんが、チェンバースは
アフリカ系アメリカ人です。
海軍兵学校を卒業したアフリカ系アメリカ人は彼が二番目で、
のみならず、アフリカ系としては

● 初めて海軍空母部隊(VA-67)を指揮

● 初めて空母の艦長となる(ミッドウェイ)

● 初めて搭乗員出身の中将となる

● 初めて艦隊指揮官となる(第三艦隊)

という初めてづくしのレジェンド軍人でした。

そして当時の「ミッドウェイ」エアボス、ヴェーン・ジャンパー氏。

ビデオでは、二日目の脱出作戦の日に起きたセスナの着陸について
「ミッドウェイ」艦上で語っている映像が流れていました。

着艦を成功させた「ミッドウェイ」乗員の何人かは涙ぐんでいたそうです。

「アメリカン・ドリームが叶う」

というタイトルで、こう書いてあります。

避難民はその後グアムに移送され、それからカリフォルニア、アーカンサス、
ペンシルバニア、フロリダに設置されたキャンプにまず移住しました。

そこで彼らは英語を学習し、仕事ができるように技術を学び、
アメリカ合衆国の国民になるための準備を行いました。

最終的には13万人以上のベトナム人がアメリカ人となっています。

この写真は、難民としてアメリカに来たある大家族の現在。
白黒の写真は、アメリカに来てすぐ、キャンプで撮られた写真です。

今は全員がアメリカ市民となっています。

ちなみにこの家族の孫は、アメリカ空軍士官になりました。


最後にこの写真をご覧ください。

VIETNAM WAR HERO’S FLIGHT TO FREEDOM REMEMBERED

後ろのアロハがチェンバース、飛行機のコクピットにいるのが

家族を乗せてセスナを操縦していたブワン・リー軍曹、
二人の間にいるのはリーの妻で、あとは娘、息子と孫という写真。

リー氏ももちろんのこと、「フリークェント・ウィンド」のあと
アメリカに移住し、その家族はアメリカで根を生やしているのです。


「ミッドウェイ」の「オペレーション・フリークェント・ウィンド」の
展示コーナーでオーディオによる解説を聞くと、音声では
この時にセスナで「ミッドウェイ」に降り立った六人の子供のうちの一人、
アメリカ名「ステファニー」さんが、このセスナと再会した時のことを
こう語っています。

「わたしは飛行機の前から4時間、動くことができませんでした」

彼女は今、「ミッドウェイ」のボランティアとして、自分の経験を
見学者に語ることもあるそうです。


歴史的な決断が守った命、そして未来に繋がっていく命。

ブワンの子孫に囲まれたチェンバースは実に満足そうです。

チェンバースは英雄ですが、エアボスのジャンパー中佐や、エアクルーたち、
身を粉にして難民たちのために働いた水兵たち・・・。

「ミッドウェイ」乗員全員の力と意思があってこそ、あの歴史的な偉業を
成し遂げることができたことは、チェンバース自身が一番よく知っていたでしょう。


続く。


 

スキッパー(艦長)は眠らない〜空母「ミッドウェイ」博物館

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前回、伝説の艦長ラリー・チェンバースについて話をしましたが、
今日はその艦長室からご案内します。


ブルーを基調というのは全世界の海軍の標準仕様。
ベッドの枠が真鍮なのと、サイズがクィーンという豪華なものです。
(微妙に艦隊司令室のより小さいところが海軍的年功序列)

足元のマットには燦然とマークがありますが、
自衛隊でも隊のマークをあしらったマットを見たことがあるので、
海軍的にはマークを踏むことはあまり問題にはならないようです。

壁には艦長とその家族の写真がいまだに飾られています。
どの艦長の写真かはわかりませんが、女性の服装と髪型から
1980年代ではないかと想像されます。

 

艦長のベッド、いかにも寝心地が良さそうですが、
実は空母にはこんな伝説?というか神話があるのです。

「艦長は寝ない」

いつ寝ているかわからない、ではなく艦長は本当に寝ないのだそうです。

我が海上自衛隊潜水艦の現役艦長とお話しした時、この
「艦長は寝ない」という噂について伺ってみたところ、

「寝ないというより寝ていられません」

とおっしゃっていました。
一つの艦、総員の命を預かる責任者ともなると、乗艦中は
気が張って一瞬たりとも緊張が解けないのに違いありません。

たとえ仮眠を取っても夢の中で艦を指揮しているのかもしれません。


ちなみに、空母におけるフライト・オペレーションの責任者で、
艦長と同位のエアボスも、「寝ない」そうです。

特権階級の艦長室といえどもシャワー室しかないのがアメリカ式。
かろうじて洗面台はデコラの大理石風だったりしますが、
あとはパイプむき出しで艦位を示すペイントがあって何だか殺伐としています。

黄色いペイントはここが艦のどこに当たるのかを示す「地図」ですが、
これについてはまた後ほど詳しくお話しするとして、注目して欲しいのは
この最後に「HEAD104」とあることです。

なんども申し上げているようにヘッドとは海軍用語のトイレ。
このトイレの番号は104番です、と書いてあるのです。

考えたことはなかったですが、空母にトイレはいくつくらいあるんでしょうね。


ところで、これもなんども書いていますが、日本人ほどお風呂フリークで
かつ「お湯に浸かる」ことを重視する国民はいないでしょう。

アメリカのバスはお湯を溜めてもほとんど真横に寝なければ全身が浸からず、
非常にフラストレーションのたまるものなのですが、そもそも
アメリカ人はお湯に浸かるということを基本しない民族なので、
一流ホテルでも普通にシャワーブースしかなかったり、
バスタブの栓がなくお湯が貯められなかったりはしょっちゅうです。

ちなみに今サンディエゴに滞在していますが、今の部屋
(去年来たと言ったらフロントの人がアップグレードしてくれた)
にも当たり前のようにシャワーしかありません。

ただ、こちらのお風呂には洗い場というものがないので、
結局お湯を落としてしまわなければ体を洗うことができず、
そんなのなら別に無くてもいいや、とわたしは割り切っています。


我が海上自衛隊自衛艦の特権階級である艦長室にも、特権として
艦長だけが使える一人用のバスタブが備えられているのですが、

「ゆっくり湯船につかったことなど一度もない」

と現役護衛艦艦長が証言しておられました。

世界で最も民主的な海軍である海上自衛隊には、従兵などいないので、
艦長もお風呂に入りたければ自分でお湯を入れるようですね。

艦長の「ポートキャビン」と書かれ、その説明として、

「ミッドウェイの艦長は、艦内でも
最も居心地のいい艦上生活をエンジョイしていました。
独立したバス、書斎、そして特別応接室での食事は、
彼自身のためだけのギャレーで専用シェフが調理しました」

とあります。

まあ、その「エンジョイ」と差し引きしても決してお釣りが来ないほど
重い責任と重圧が、艦長一人の肩にのしかかっているわけですが。

ところでこの部分、ドアがまんま和風の引き戸なんですよ。

温泉旅館によくある外側の引き戸とか、うどん屋ののれんの内側とか・・・。
まさにあれと同じものがなぜか「ミッドウェイ」の艦長室の入り口に!

なんかここだけが人んちの玄関ぽくて、和むわー。

日本に配備されていた時代に現地施工者にやってもらったのかもしれません。

革張りのソファーに高い腰板をあしらったオーセンティックな応接室。
ソファの後ろの絵は・・・えーと、えふはちえふ?(小声で)

ホワイトドレスがガラスケース入りで飾ってありました。
おそらく大佐職である艦長かXO(副長)のものだと思われます。

XOはもちろん、空母艦長は航空出身なのでウィングマークをつけています。

ソファを挟んで反対側には対のようにブルードレスも飾ってありました。
おや、カウンターの向こうに誰か偉そうな人がいるぞ。

テーブルの向こうまで行くと急におじさん、喋り始めました。
どうも人が近づくとスイッチが入るセンサーが仕掛けてあるようです。

このカウンターの中にいる偉そうな人はラリー・エルンスト艦長。

若き日はトップガンで、なぜかハーバード大学にも行っており、
92年から3年の4月まで「ミッドウェイ」艦長を務めた・・・
ということは「ミッドウェイ」の最後の艦長ということになります。

Captain Larry L. Ernst of The USS Midway - The USS Midway Museum sits proudly in San Diego Bay

右向きに何か書いていたかと思うといきなりこちらを振り向いて「ミッドウェイ」の
艦長職について一言で言うと過酷な仕事である、というようなことを言っております。

これがなんかものすごくリアル。
どれくらいリアルかというと・・・、

シワとか産毛とか、首のイボまで再現されているんです。(襟の上)
これは本人的にどうなんだろうという気がしないでもありません。

とはいえラリー、若い時はなかなかかっこいいので、ぜひ見てあげてください。
その割にあだ名が「パピー」(子犬)って、可愛らしいじゃないですか。

Captain Larry L. Ernst 

このページの奥さんと娘たちの写真から、寝室の家族写真はエルンスト艦長のだとわかりました。

毎日の艦長の食事を作るギャレー。
たった一人のためのキッチンって、いくら空母でもすごいですね。

もちろん艦長がゲストを呼ぶときにはその分もここで賄うのでしょう。


ただし、艦長という職は決して「孤高の人」でばかりいるわけにいきません。
たまに天上界から下界、つまり兵員のギャレーにふらっと降りていき、
下々の連中と一緒に食事を取ることがあるのも前に書いた通り。

これは、シーマンの士気を高めるため、相互理解を深めるため、
そして彼らの食事の状況を自ら体験して把握するという目的で行われます。

もちろん前もって予告などないので(多分艦長がその気になれば行われる)
ふと見たら隣に艦長が!みたいなことになるのですね。

しかしそこはアメリカ、こういうときにはどちらも弁えていて、
基本無礼講で話に花が咲いたりするそうです。

この「下々の連中との交流タイム」は初級士官にも半ば強制されていて、
時々彼らは報告も兼ねて水兵たちの食堂で食事を取るのですが、
若い士官はあくまでも「ノルマ」としてしろと言われているからしているので、
水兵たちと会話をするでもなく、報告のシートにあれこれとコメントを書いて
はい終わり、という事務的に終わらせることが多いそうです。

士官の方も、自分よりベテランの下士官に話しかけるのは気が重いでしょうし、
話しかけられた方の水兵の煩わしさを思うと遠慮してしまうのでしょう。

アメリカ海軍の(心理的)階級差というのは、もしかしたら
我が海上自衛隊より大きいものなのかもしれません。

食器棚の扉がガラスのスライド式で、お皿を留めるための
ストッパーらしいものもありませんが、こんなのであの
伝説の傾斜角(Tシャツができたという)を体験したとき
一枚も割れることはなかったのでしょうか。

お皿にはミックズベジタブルとポテトが乗せられ、今
調理員が料理しているメインを乗せれば出来上がりです。

ステーキソースが載っているので、多分お肉ですね。

と思ったらその近くにいきなり艦内監獄?のような扉が。

独房に収監されるための条件?は

「脱柵」「上官への不敬罪」「窃盗」「暴行」(体罰含む)
そして

「AWOL」(Absent Without Official Leave )
公的な理由のない欠席、つまり船に乗り遅れる

となります。
収監されたらもれなく階級はBUST(バスト)、降格となります。

士官はブリッグスに入れられることはありませんが、その代わり監督者の元、
一挙一投足を監視されて区画から出られないという罰を受けます。

しかし、「ミッドウェイ」の本当のブリッグスはもっと下の方にありましたし、
これはもしかしたら高官待遇の収監者ってことは・・・。ないか(笑)

この写真があったのは、赤で矢印がある部分の甲板下になります。

実は「ミッドウェイ」の艦体は黄色い線の部分で連結されているのです。
この繋げている部分は「エクスパンション・ジョイント」というのですが、
このボードの左右には、ジョイントが走っているのが確認できます。

右側。床のラインがそのジョイント部分です。

左にも。
万が一の時にはここで艦体がポッキリと・・・となるわけですかい。


最後に余談ですが、「ミッドウェイ」艦長の仕事でもっとも粋だと思ったのは、
ペルシャ湾への任務で度々、

「今日は気象条件がいいからGreen Flashが見えるぞ。
手の空いているものはフライトデッキから観察することを勧める」

などと艦長自らアナウンスしたという話です。

Green Flashとは、太陽が水平線に沈む瞬間、ほんの一瞬
ピカーっと緑色を放つ現象で、よく見ていないとわかりませんが、
この時の航海では合計38回、これが観測できたそうです。

我が自衛隊の艦乗りの皆さんはGreen Flash、ご覧になったことはありますか?



続く。

 

 

 

X-35Bの「ミッションX」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館別館の「ウドバー・ヘイジー・センター」に
展示されている航空機のご紹介をしています。

まず冒頭写真の

グラマン F14 D (R) トムキャット

艦載機仕様(deck-launchedと紹介されている)で、超音速。
可変後退翼を備えた戦闘機です。

前にもお話ししたようにグラマンは猫的名前を連続して
戦闘機につけていましたが、この戦闘機には

シーキャット

とつけようとしていたと言われています。
シーキャットって猫じゃなくて魚(ナマズ)だし。

しかし、この戦闘機の採用を推していたのが

トム・コノリー大将

で、そのことからトムの猫(Tom's cat)→トムキャット、
となって、そのほうがこれまでの猫戦闘機と釣り合いがとれるよね、
ということになったのではないかと推察されます。

英語のwikiにははっきりと、

「コノリー大将に敬意を払うために名前がつけられた」

とも書いてあります。

可変翼の動きが猫の耳のようだというのでつけられた、
という話は、わたしに言わせると、どうも後付けっぽいんですよね。

これももちろん後付け(笑)
機体にペイントされていたフェリックス猫。

搭乗するのはパイロットとRIO(Radar Intercept Officer)。

このレーダー・インターセプト・オフィサーというのは
普通のナビゲーター・オフィサーとは違う職種で、

武器兵器の現状をモニター
BVR(beyond visual range視覚範囲外)への攻撃
レーダーによる他飛行体や異常のチェック
他飛行機の戦術分析
無線通信の取り扱い
ナビゲーション機器の取り扱い
電子戦および関連装置の取り扱い
周囲の観察と敵の発見
ミッションの実行と統制

などを任務とする士官です。

万が一パイロットに異常があった場合に限り、
RIOは操縦の装置にアクセスすることができ、
飛行機を無事に着陸させる訓練だけは受けていますが、
パイロットのように操縦することはできません。

ところでこんなものもありました。
「リアル・トップガン」のフライトスーツとヘルメット。

「トップガン」は正式には

The Fighter Weapons School(海軍戦闘機兵器学校)

といい、1969年、ミラマー基地に創設されました。
アグレッサーを演じることでより進んだ戦闘機と戦略攻撃を
海軍のパイロット達に戦闘メソッドを通して叩き込む、
というのがトップガンの使命であり、
4週間のコースを受けると受講者は艦隊に戻り、彼らの部隊に
学んだことを伝えていくのです。

ここにある私物は海軍のトップパイロットのうちの一人、
クリストファー・”ブーマー”(Boomer)・ウィルソン大尉のものです。

彼は現役時代に VF-211に所属し、ベトナム、ラオスなどで
少なくとも150回に及ぶ戦闘に参加し、6個のメダルを授与されました。

戦後はF-14が登場したときの最初のパイロットとして
この機体を艦隊運用に紹介するために大きな働きをしたという人物です。

ウィルソン大尉がトップガンだったのは1982年から1984年まで。
F-14の最初の操縦者全てが彼の薫陶を受けています。

その後も彼はトップガンのテクニカルアドバイザーとして現場に残りました。
28年間のパイロット人生でその飛行時間は5400時間を超え、
三十種類もの航空機を甲板から離発着させるレジェンドだったのです。

真ん中のインシニア、徽章は「兵器学校」つまりトップガンのマークです。
写真の上が彼が実際に使っていたフライトバッグとマニュアル、地図など。

このマニュアルは、F-14に彼が乗っていた時のものです。

前方の車のナンバープレート(アメリカではライセンスプレート)は
ウィルソン大尉のオリジナル?ナンバーで、

 XTOPGUN1

となっています。

これを許可したアイダホの免許局もさすがアメリカ、話がわかるというか。
ただ、アイダホに生まれたからには、どこまでも

「FAMOUS POTATOES」

という言葉がまつわってくる運命が・・。

「トップガン」と「ポテト」って、ある意味反対語みたいなものかも(笑)

 

カーチス SB2C-5 ヘルダイバー

展示は一応年代を追うように並べてあるので、実は前回の
ボロボロの水上機の横にあったのはこの「ヘルダイバー」ですが、
ブログエントリの構成上後先になったのをお許しください。

 

第二次世界大戦の間、期間としては1943年から終戦まで、
海軍は対日本戦にこの航空爆撃機ヘルダイバーを投入し、
普及後は、海軍の30の部隊、13隻の空母で運用されていました。

しかし、 艦隊戦術、技術、そして急降下爆撃のための爆弾の製造、
それらの変化に伴って急降下爆撃の方法そのものが廃れていったため、
結局ヘルダイバーはカーティス製では最後の急降下爆撃機となったのです。

ところで、このヘルダイバーは躯体にほとんど凹みや傷がなく、
修復したといっても綺麗すぎるのですが、それもそのはず、完成後、
2〜3ヶ月で終戦になってしまったため、戦闘を経験していません。

1945年の12月から空母「レキシントン」の爆撃部隊に組み入れられ、
占領下の日本で初めてまともに飛行することができたようです。

このノーズのおちょぼ口を見ただけでセイバーだとわかってしまう(笑)

ノースアメリカン F-100D スーパーセイバー

セイバーというと、われわれ日本人にはブルーインパルス、
東京オリンピック開会式、というイメージがありますね。

航空自衛隊が採用していたのはF-86戦闘機ですが、
後継型のこれも、同じようなノーズインテイクをしています。

こうして真正面から撮るとすごく大きな口に見えますね。
空中給油口がその口の前に突き出しています。

F-100は海軍にとって初めての実用超音速機でしたが、
機体に何か余計なもの(例えば爆弾とか?)がついているだけで
超音速にならない、など性能的にはいまいちだったせいか、
後発に押されてあっという間に陳腐化してしまいました。

この機体は1957年の使用開始以来21年任務を果たし、
飛行時間は6,159時間、という記録を持っています。

その現役中にはキューバ危機に出動し、のちに日本に配置され、
そこから南ベトナムで任務に当たっていましたが、ベトナムでは
対空砲を数回受けています。

どうして対空砲を数回「ヒットされ」ても無事だったのかは謎ですが。

機体中央にサイコロのマークがペイントされていますが、これは
あのテト攻勢の時に当機が所属していた、第90戦略戦闘部隊のものです。

我が自衛隊のF-86の次期戦闘機候補にF-100が挙げられたことがあります。

これをライセンス生産するという案は一度は具体化されそうだったのですが、
岸信介首相に対する説明で「戦闘爆撃機」という単語を使ったところ、

「日本に爆撃機は要らない!」

と一喝され、沙汰止みとなったという話があります。

なるほどねえ。
あまり考えたことはありませんでしたが、爆撃するというのは
「相手の国に行って領土を攻撃する」とイコールなので、
専守防衛を旨とする我が自衛隊には必要ないと。

じゃあミサイルならいいのか?

って話ですが・・これはいいんだな、きっと。

とにかく「爆撃」というのは言葉だけの問題で、F-100は
制空戦闘機として採用します、といえば良かったんじゃないかと思いますが、
先ほど述べたようにF-100の出来は決して良くなかったということなので、
自衛隊としてはこのとき岸首相の一喝に救われたのかもしれません。

ロッキード・マーチン X-35B STOVL 

形も見たことないし、名前も初めて聞くわけだが?と思ったら、
ロッキード・マーチンが開発した試作機なんだそうです。

直にこの目で見ていた時にはなんの感慨もなかったのですが、
この試作機が史上初めて一度のフライトにおける垂直着陸、
水平飛行での音速突破、そしてショート・テイクオフ、これらの
「ミッションX」を成功させた歴史的な功労機であることを知りました。

他の機体は他の航空博物館でも見られるものが多いですが、
これだけはここでしか見ることはできません。当たり前か。

ところでこの「STOVL」とは、

Short Take-Off and Vertical Landing aircraft、
短距離離陸垂直着陸機

のことであり、垂直離着陸機のVTOLとは、離陸時に短距離を滑走し、
着陸時に垂直着陸する、という違いがあります。

X-35Bの試験プログラムは2001年6月23日から2001年8月6日までと
歴史的に最も短い運用期間でしたが、そのわずかな期間に挙げた功績は
その後の航空史に貢献する最も偉大なものだった、といわれています。

X-35Bに搭載されていたエンジンも、ピカピカの状態でここにあります。

このエンジンは「リフトファン方式」を採用していました。
垂直機に使われてきたリフトエンジンの代わりに開発されたものです。

リフトファンから噴出される空気は熱を持たないので、
エアインテークからエンジンに熱い空気が入り込むのを防ぎます。

この時の「ミッションX」の飛行ではホバリング試験時、
エアインテークの温度は周囲の外気よりも3℃高かっただけでした。

X-35の機体には、採用されているエンジンF-119の

「プラット&ホイットニー」

のマークとロールスロイスのマークがありました。
このX-35で得た実験結果から生み出されたのが、あのF-35です。

 

続く。


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