Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2815 articles
Browse latest View live

「月光」の”シュレーゼ・ムジーク”〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

ワシントン空港近くにある通称スミソニアン博物館別館、
正式名称スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターを
ワシントン行政区画部にある本館より先にご紹介したかったのは
日本ではもう見られない帝国陸海軍の航空機があったからです。

博物館を入理、右回りに展示を観ていくと、前回お話しした
Me162「コメート」に続き、ナチスドイツと大日本帝国、つまり
かつての枢軸国の軍用航空機コーナーに出ます。

といってもアクシスパワー・トリオのうちの二カ国だけ。
ここでも「今回はイタリア抜きで」は生きております(笑)

中島飛行機 J1N1-S 月光 ”アーヴィング”

"gekko" と書かれますと、アメリカ人は自動車保険会社の
「ガイコ(GEICO)」のキャラクターを思い出すんじゃないでしょうか。
アメリカでも「商品とあまり関係のない不思議なコマーシャル」
と言われているらしいこの会社のCMには、その名もガイコという
gekko(イモリ類)のキャラが登場します。

なので、ここでも

gekko=「ムーンライト」

と翻訳しておいてくれないと、アメリカ人にはこの飛行機が夜間戦闘機であった、
というイメージが全く伝わらないんですがね。
ついでにスペルも ”gekko" ではなく "gekkou" とか "gekkoh" にして欲しいかな、

という文句はともかく、これがまさに、現在世界で一機だけ現存する「月光」の実物です。

 

現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

1941年に中島飛行機が3人乗り戦闘機として設計したIRVINGは、
1943年5月に夜間戦闘機として改造され、
B-17爆撃機を2機撃墜するほどの能力を有しました。

月光を意味するGekkoは、再設計の際二人乗り座席にしたことで、
通信士の席だったところに上向きの発射銃2丁を取り付けることができました。

第二次世界大戦中、プロトタイプの他、邀撃、偵察、そして
夜間戦闘機を含む約500のJ1N1機が建造されています。

戦争末期にはかなりの数がカミカゼとして特攻に使われ、
戦争で生き残った少数の機体は連合国によって廃棄されました。

 

まず上向きの発射銃、というのはここに来る人ならご存知の
小園安名大佐(戦後階級を剥奪されたらしいですがここでは一応)が
考案した「斜め銃」のことです。

小園安名のバイオグラフィによると、小園がこの銃を発案し提唱していたのは
台南空司令時代からのことだったとあります。

理論的には有効と思われたアイデアでしたが、小園の日頃の評判、
(奇行が多く、神がかり的で、一度いい出したら絶対に自説を曲げない頑固者)
のせいで、周りの雰囲気は

「まあやってみればー?」

という冷淡なものだったようです。

大型機の下を航過しながら機体を銃撃する。

この画期的な方法を試験飛行したアメリカ軍が、B-17を二機も撃墜した
この兵器をどう評価したのかはわかりません。

後述しますが、この斜め銃を最初に考案したのは小園ではなく、
第一次世界大戦時には上向きに銃口を向けることのできる銃が
イギリス軍の飛行機に搭載されていたそうですし、ドイツでは
偵察用の夜間戦闘機に上向き銃を採用していました。

そしてそれは一定以上の効果があったことが言われています。

しかしかつての枢軸国の技術を敗戦後、良いものは貪欲に取り入れ
自国を発展させてきたアメリカがこれに類する武器には
全く興味を示さなかったらしいということだけは確かです。

アメリカ軍は本土空襲時の戦果を元に、すでに硫黄島占領の頃から
後方と下方への警戒と反撃を徹底させていましたし、
月光を捕獲した時には彼らにとって珍しい戦法でもなんでもなかった、
というのが実際のところだろうと思います。

そもそも大型機への後下方からの攻撃、というニッチな目的
(日本にすれば切実でしたが)のために、小さな航空機に重い銃を積むのが
汎用性に甚だ欠けるものであったことは、B-17撃墜に気を良くした小園が
「雷電」にも大型化した銃を搭載しようとして嫌がられたという
エピソードが表しているような気がしないでもありません。

「月光」と斜め銃。

実は、わたしが今回ここに来ることを実行したきっかけがこれでした。
今年の渡米前、文京区で行われたソリッドモデル展で見た「月光」。

斜め上銃と斜め下銃を再現したその模型について調べていて、
世界に現存する最後の「月光」がスミソニアンにあることを知り、
すぐさまワシントンに行くことを思いついたのです。

調べたもの・ことを実際に自分の目で見たいと思ったとき、
わたしは人よりも多少行動的であることを自負していますが、
今回のこれなどはそのわたしの行動の中でも特に迅速だったと思います。

つまり、この「月光」を観るために、わたしはここに来たといっても過言ではありません。

「月光」は夜間戦闘機として改装される前「二式」という偵察機だったように
夜間戦闘機には夜間偵察を兼ねられるものが多いのです。

「月光」の下部には「斜め下銃」はなく、この機体が
後期に制作されたものであることを表していますが、
偵察用の窓があるのが確認できます。

「昼間戦闘機」に対してそれでは「夜間戦闘機」とは何ですか、って話ですが、
夜だけ活動するのではなく「夜にも」活動することができる、という意味です。


その特色としては

乗員が複数名 強力な武装 充実した通信設備や相応の航法能力 黒・グレー・濃緑など、暗めの迷彩塗装 機上レーダーの搭載

であり、日本海軍の場合は「強力な武装」がつまり
「月光」の場合は斜め銃を含む重武装だったということですね。

ちなみに先ほど述べたドイツの夜間戦闘機搭載の斜め銃ですが、

「シュレーゲ・ムジーク」 Schräge Musik

つまり「斜めの音楽」という意味の名前が付いていました。

日本のネット界では、明後日方向で的外れの意見や行動のことを

「斜め上」

といいます。
特にかの国の行動がこう言い表されることも多いわけで、最近では
一連のP-1事案についてのこの国の対応はまさに「斜め上」と呼ぶにふさわしい
不可解さと予測不可能な不条理さに満ち満ちているわけですが、それはともかく。

そして「おかしな事」を斜め上と感じるこの感覚は古今東西同じらしく、
ナチスドイツはアメリカのジャズをバカにし揶揄して「斜め音楽」=変な音楽、
と名付け、国民に退廃したアメリカ文化というイメージを喧伝していたのです。

なんでこれが機関砲の名前になったのかその経緯はわかりません。

わたしの想像ですが、単に最初「斜め銃」=「シュレーゲ・ピストル」
(ピストルはドイツ語)とかいう普通の名詞で呼んでいたのが
ドイツ軍に皮肉屋さんがいて、ナチスの宣伝でしょっちゅう言われていた
「シュレーゲムジーク」というあだ名をつけたのでしょう。

「シュレーゲ」が一緒なだけじゃん!ムジーク関係ないじゃん!(ドイツ語)

とならなかったのは、みんながこの響きを気に入ったってことなんでしょうね。

終戦になって日本に進駐したアメリカ軍は、本土を占領した後、
彼らの関心を引いた145機の陸海軍航空機を接収し、それらを

3隻の空母に搭載して

アメリカに送りました。
(その3隻の名前はUSS『バーンズ』以外はわかりませんでした)

この接収された航空機のなかに4機の「月光」がありました。
このうち3機が厚木で1機は横須賀から接収されたもので、
この横須賀からの機体番号7334には、外国機を表す番号

FE3031(後にT2-N700に変更)

が与えられました。
記録によると、接収後、「月光」はまず米海軍パイロットの操縦で
USS  バーンズに着艦した後、アメリカ本土まで運ばれました。

米海軍の航空情報担当者は1945年12月8日、
バージニア州ラングレーフィールド基地に”Gekko 7334”を割り当て、
その後1946年1月23日、今度はペンシルバニア州ミドルトンの
倉庫である航空機材倉庫(Air Materiel Depot)に移されました。

ミドルタウンの海軍航空隊整備部門は、まず「月光」のエンジン
(零戦と同じ生産先でさらに同じモデル)を改造し、換気システム、無線、
および一部のパーツを飛行試験のためにアメリカ製に置き換えました。

このときメカニックはこれらの作業をわずか3ヶ月で終了させています。

この後海軍は6月初旬、月光7334を陸軍に移していますが、
この2ヶ月間で、海軍内での試験飛行を終わらせたのかもしれません。


海軍から機体を受け取った陸軍のテストパイロットによって

「1946年6月15日、月光7334を約35分間飛行させた」

とこの時の記録には残されていますが、
テストが行われたのはどうやらこの1回だけであったようです。

アメリカまで輸送した4機のうち1機を大改装までして35分のテストを一度だけ、
しかも残り3機はそのまま廃棄とは、さすが金持ち、勝者の余裕ですな。
(もちろん皮肉です)

その後月光7334は陸軍空軍の手によってイリノイ州の
ダグラスC-54を作っていた工場に運ばれました。
おそらくここでテストのために付けた機材を取り外したのでしょう。

それから3年後の1949年、月光7334はスミソニアンに寄贈され、
一旦イリノイ州パークリッジの倉庫に保管されました。

ところがパークリッジ倉庫はその後、朝鮮戦争で鹵獲した飛行機など、
60機あまりでいっぱいになってしまい、月光7334は
1953年には修復工場の外に押し出されるように投棄され、
1974年に修復スペースが利用可能になるまで雨ざらしになっていました。

さらにその5年後の1979年、NASM(スミソニアン航空宇宙博物館)は
やっとの事で月光7334を修復の対象にし、その作業に取り掛かったのです。

 

現物を見ればわかりますが、ここにある世界唯一の「月光」の機体は
その修復技術の高さと美しさで他の航空機と比べても目を引きます。

1976年に修復された当博物館所有の三菱零式艦上戦闘機に次いで、
月光7334は、 スミソニアン博物館の復元技術者の熟練の技を
世界に知らしめることになった二機目の日本機となりました。

月光7334の修復作業は、機体が20年間外気に晒されていたため、
各部分が(深部まで)完璧に腐食してしまっており、その当時、
NASM修復技術部門のメンバーがそれまでに手がけた中でも、
最大かつ最も困難な航空機修復プロジェクトとなったと言われています。

正確には作業が開始されたのは1979年9月7日、
終了したのは1983年12月14日。
細心の注意とふんだんな資金をかけ、述べ1万7千時間を投入し、
復元作業は行われました。

さすがは歴史的遺物の維持に理解がある金持ち国アメリカです。
(これは皮肉ではありません。心から感謝しています)

そうやって心血注いで修復が行われた月光7334は、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターに、
その完璧、かつ世界唯一の姿を今後も後世に伝えていくことでしょう。

 

 

ところで本日のタイトルは、「月光」と「ムジーク」の
「組み合わせの妙」にツボってしまったので、つけてみました。

どこからかベートーヴェンが聴こえてきませんか?

・・・おっと、このこじつけはあまりに「斜め上」だったかな(笑)

 

続く。



係船堀岸壁の「帽振れ」〜護衛艦「かが」乗艦

$
0
0

平成31年度最初の自衛隊訪問に行ってまいりました。
昨年末に「かが」がドック入り前の体験航海を行うということで
呉地方総監部を通じて参加させていただくことになったわけですが、
前日から当日の午後まで目一杯スケジュールを入れて、その結果
海事関係3箇所(体験航海含む)陸自1箇所訪問、人との面会一件を
ぎうぎうに詰め込むという恐ろしいまでに充実した一泊二日の旅。

どこからお話しするべきか迷いましたが、今回は「かが」体験航海から始めます。

前日の予定を終えたのが夜9時半。
呉地方総監部での集合時間は0730です。
投宿先の阪急ホテルの朝食開始が7時からということで、
朝食付きプランなのに食べられないかも?と心配したのですが、
少し早めに入らせてくれたため、軽く腹ごしらえをすることができました。

ヨーグルトを取りにいって帰るとき、ばったりunknownさんに遭遇!
コメントでは毎日のようにお世話になっておりますが、実際お会いするのは
一体何年ぶりでしょうか。
伺えば、「かが」の後援会で参加しておられるとのこと。

unknownさんのみならずこの時間ご飯を食べていた人たちは、
ほとんどが体験航海参加者ではないかと思われました。

タイトな予定と移動を含む今回の行軍では、機動力向上のため
レンタカーを借りてフルに活用しました。
阪急ホテルからは数分で呉地方総監部表玄関側に到着です。

広いグラウンドがあるので楽勝で皆が停めることができます。

前回ここに来たのは自衛隊記念日に伴う殉職自衛官追悼式でした。
テントと献花がなければ同じ場所とは思えません。

追悼式には参加したことがなく、この場所に来るのも初めてである
TOを誘って、慰霊碑に黙祷を行いました。

慰霊碑の隣には、前呉地方総監が着任直後から整備を進めた
旧海軍時代の地下作戦司令壕が位置しています。

去年の観桜会のときには辛うじて入り口に立って中をみることができました。
今回伺ったところ、あれから内部の整備はさらに進んで、今では
中に入って、二階に上ることもできるようになったそうです。

「二階はものすごくカビ臭かったです」

教えてくださった自衛官はそのようにおっしゃっていました。
そのうち地下壕だけでなく地下通路も完成するかもしれませんが、
そうなればこれは呉の歴史遺産として観光の大きな「目玉」となるかもしれません。

広場で今日エスコートしてくださる自衛官にご挨拶すると、
その方がさりげなく、

「インターネットで見させていただきましたが」

という言葉を会話に挟まれるのです。
TOが一緒だったのであえてその言葉の意味を聞き返すことはしませんでしたが、
それってもしかしてこのブログのことだった・・・んでしょうか。

世間の噂と、わたし自身が少々経験したところによると(笑)、特に
情報保全に関わる記事があると、すぐに削除と訂正を申しいれてくるというくらい、
自衛隊はネットにおける警邏活動をこまめに行なっているようなのですが、
その任務の一環として、例えば実際の人物とSNSやブロガーを
照合させることなどもやっていたりするんだろうか、とふと思いました。

ま、まさかね(震え声)

 

そのうち岸壁まで行くバスが到着し、中で出発を待ちました。

バスの窓ガラスには横から見てもわかるように小さな自衛艦旗が。

「かが」に乗艦する係船堀に到着する前に、ご存知「大和の大屋根」と
ドックが見えるJMUを通過します。
前回わたしが朝散歩で歩いたところを、通勤中らしき人が歩いています。

ドックには現在「いかづち」らしい護衛艦とその他一隻が入渠しており、
援護係の自衛官の説明によると、本日「かが」は、体験航海後、
この二隻のさらに左側に着岸するであろうとのことでした。

JMUの係船堀寄りにはIHIがあります。
近くに座った人が、

「IHIってまだあったんですか」

と聞いていましたが、そりゃありますわな。

IHIの中のアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドがユニバーサル造船と合併し、
ジャパン マリンユナイテッドつまりJMUが発足しただけですからね。

その質問に自衛官が答えていた通り、ここでは主に航空・宇宙事業関連を扱っています。

朝の体操を部署ごとに行う(ラジオ体操かな)IHIのみなさん。
あ、そういえば自衛官も朝「自衛隊体操」という、5分間だけど
結構やってみればハードな体操をするんですよね。

海上自衛隊 第一体操

陸空にも体操はありますが、海自体操のポイントは

「狭いところでできる」

これに尽きます。

バスは係船堀という不思議な名前の海自軍港?に到着しました。
岸壁に向かうバスの向かいから、遠目にもピカピカの水兵さんたちが
隊列を組んで歩いているのに遭遇しました。

この日は「かが」の艦内でも行われた「昇任認証式」、つまり階級が上がり、
それが承認されるとともに服務の宣誓をする式がある日だったのです。

一団が行き過ぎてから、後ろから何人かが追いつくために
急いでいる海士くんたちを、バスの中の人たちは、

「お、走ってる走ってる」「頑張れ」

などと孫を見るように目を細めていました。

「係船堀」というのはもはやここの地名となっている模様。
共済組合、売店のほかトレーニング室や浴室も完備しています。

営業時間は10時から18時45分までと結構ゆるゆるです。

一つのバスで到着した団体は、基本この日一緒に動くように、
とバスの中で注意がありました。
加賀塗りを模した「かが」の旗のある岸壁を皆で一緒に歩いていきます。

ここに来るのは「いせ」が佐世保に転勤するのをお見送りした時以来です。
その後「呉港クルーズ」では外側から何回か見ていますが。

潜水艦の岸壁には「そうりゅう型」が(向こうはしお型かな)。

潜水艦の乗員かその向こうの自衛艦(むろととか?)の乗員かはわかりませんが、
朝の作業が始まったところです。

岸壁の右側には訓練支援艦「くろべ」、そしてそのバックには、
ここのところすっかり目が慣れてしまった(嘘)蛍光ピンクの「ONE」が。

「かが」はこの日JMUにドック入りしたのですが、入港した岸壁の
真向かいが、まさにこれを造っている真っ最中でした。

造船会社内は撮影禁止、と固く言い渡されていたため、写真はありませんが、
「かが」が入港作業をしていた時、まさに向かいのピンクの船は
ブロック工法の「最後のピース」を左舷上方にはめようとしているところでした。

その後、案内してくれていた自衛官と話をしているうちに、いつの間にか
ピースが隙間なくピタリと合わさっていて、作業の早さに驚いたものです。
ツギハギされたピースの境目はグレイの塗料で埋められ、その上から
もう一度ピンクを塗り直して完成、ということになっているようでした。

「大きいなあ」

見ればわかることですが、とりあえず皆このように口に出して感嘆せずにはいられない
「かが」の巨大な艦首越しに見えるのは、手前が掃海母艦「ぶんご」。
そしてその向こうが輸送艦「おおすみ」。

そしてその向こうが「ONE」です。(見ればわかる)

ちなみにONEジャパンのHPは、ピンク。ピンク。ピンクだらけ。
あくまでもピンクが基調となっています。
コンテナまでピンクだよ・・・。

「かがの隣にいる船は何?」

TOに聞かれて、

「給油用のホースがあるから補給艦だと思う」

と答えたのですが、正解でした。(ほっ)
補給艦「とわだ」です。

ところで、この岸壁の手前に「メザシ」になっていた外側の護衛艦で
ちょうどこんな光景が見られました。

敬礼しながら乗員の前を歩いていくのは三等海尉。
後ろ姿を見る限り若いので、退官する部内幹部ではなく
転勤で下艦するところでしょうか。

前を通り過ぎたとき、乗員は敬礼を返していきます。

それにしてもこの写真であらためて思うのですが、こういう状況で
敬礼をしなければならないこともあるので、海軍式敬礼は
肘を張らずに立てる方法がスタンダードになったんですね。

今舷門を(と言ってもメザシなので隣のフネと繋がっているラッタル)
降りる幹部に、全員が帽振れでお見送りしています。

この後、内側の船越しに降りてくるところを見たかったのですが、
皆が先に進んでしまったので残念ながらここまでです。

わたしたちと同じバスの人たちはわたしたち以外全員が
個人名でなく会社単位で名前を点呼されており、
なぜかその中に航空自衛隊の制服の方が二人もおられました。

いよいよ乗艦となり、湾巡りツァーでもいつも大変目立つ
立派な「かが」のバナーが掲げられたところを入っていきます。

「ひゅうが」「いせ」と同じく、岸壁から入るとそこは格納庫。

控え室となる士官室にまず連れて行ってもらうため、皆で
甲板まで直通となる艦載機用エレベーターに乗り込みます。

閉じていた天井から神々しく一条の光が差し込んだと思ったら、
艦載機エレベーターがおりてきました。

さて、エレベーターに乗る瞬間からいよいよ「かが」体験の始まりです。


しかし、もうこれって空母そのものだよね。
防衛省的には「多用途運用護衛艦」だそうですが。

たかが空母という言葉に何を遠慮しているのかって話ですが、
「防御型空母」という言葉に公明党が反対したからとかなんとか。

防御型空母ってのもなんだかですが、とにかく「空母」という言葉がダメなんだとか。

P-1事案で「ジャパンネイビー」という言葉に噛み付いたのと
同じ人種が馬鹿馬鹿しい言葉狩りをやっているというわけですな。
どうせ英語では一言で「キャリアー」となるんでしょうに、
何をこんなつまらんことで引っかかってんだか。

「多用途運用護衛艦いずも」「多用途運用護衛艦かが」

それなら「空母いぶき」も「多用途運用護衛艦いぶき」か(笑)
もう・・・なんというか、士気が上がらんなあ(個人的感想です)

「空母 いずも」「空母 かが」

美しい。これで何が悪いの?

 

 

続く。

 

平成31年度陸上自衛隊 第一空挺団 降下始め ダイジェスト

$
0
0

平成最後の降下始めに行ってきました。

「かが」体験航海を含む怒涛の中国地方自衛隊イベントから中一日で、
朝3時半に起きて寒いところに座りっぱなし。
今死ぬほど眠たいので、とりあえず写真だけ駆け足で上げていきます。

なお、記憶だけで調べず確かめずに書きますので、機種など間違ってたらすみません。

恒例の指揮官降下。第一空挺団長からです。

今年も降下中心だったため、降下させられる指揮官は一尉までいました。
アメリカ軍の指揮官も降下を行います。

指揮官の場合、必ず副官などが飛び降りた後のお世話をしてくれます。

海自のP-3Cキター。

高高度からの自由落下は今年すごいことになっていました。

見よ落下傘空を行く。
フリーフォールの傘がこんなにたくさん降りてくるのをみるのは初めて。

初めてといえば今年初参加のもの、それは・・・。

C-2です。

先輩のC-1とは塗装が違うだけで随分重量感が違って見えます。

2回目ですっかり見慣れたアメリカ軍空挺隊の落下傘。

空自のC-130Hからも降下。

C-2からは両側のドアから。

日米の違った種類の傘が混じり合って降りてきます。

今回は島しょ奪回のシナリオに沿って展示が行われました。

偵察のギリースーツを運んでくるUH-1。

直接地面に飛び降ります。

チヌークからリペリング降下。

狙撃兵が乗っています。

カラビナ無し(腕だけ)でリペリング降下。

最初に現れた装甲車的なものは水陸機動団のAAVだったという。

ロープに3人まとめて吊り下げられた狙撃兵。

FH-70を牽引してきたCH-47。

水陸両用車に続いて、16式機動戦闘車MCVが。

戦車はかろうじて(と言ってはなんですが)10式のみ。

エフエッチを組み立ててドンパチが始まりました。

今の状況で本当に必要なのか。空自ペトリオット。

歩兵と高射、MCVとAAVで相手を制圧してしまった後、
おもむろに発射態勢に入る中SAM。

丘の上では近接戦闘の展示も行われました。
わたしのところからは肉眼では見えないくらいでしたが、
優秀なカメラと70−300ミリのおかげでこの通り。

防衛大臣の訓話をもって本日の降下始めは終了。
この後フィールドでは装備展示が行われた模様ですが、
わたしは今回もパスして会場を後にしました。

明日以降、また細かくお話ししていきたいと思います。

 

 

出航準備〜護衛艦「かが」体験航海

$
0
0

さて、陸自降下初めはちょっと後回しにして、「かが」に戻ります。

「かが」の繋留してあるバース、ここはかつて佐世保に転籍前の「いせ」がいました。
ここで呉を離れる「いせ」をお見送りしたのは2017年3月22日のことです。

「かが」は就役と同時に第二護衛隊群第二護衛隊に編入され、「いせ」と交代。
それ以来ここ呉を定係港としています。

同じバスで案内されてきた一団は「かが」の前で集合し、
エスコートの自衛官と共に乗艦、ハンガーデッキから
エレベーターに乗ることになりました。

パレットに乗ると、全く振動なく、スムーズな動きでせり上がっていきます。
エレベーター内部の壁はあちこちが手すり状で後ろは通路になっていました。

「ひゅうが」「いせ」で経験したエレベーターよりも乗降の速度が
かなり速くなったような気がしたのですが、どうでしょうか。

ところで「かが」「エレベーター」といえば、思い出さずにいられない、

「見学者がエレベーターの端っこを覗きに行って落ちた事件」

がありましたよね。

一般常識的に見て、「かが」側には落ち度はないと思われる事案でしたが、
やはり当人が骨折までしてしまったので、検察が動かないわけにいかず、
書類送検と、どちらにとっても後味悪い結果になってしまいました。

その事故の反省に鑑み、「かが」ではおそらく、より安全性の配慮した結果、
ご覧のように、エレベーターパレットに柵を巡らせ、端っこに近づくことも、
下を覗き込むこともできないようにしたようです。

甲板の広さは、感覚的に、アラメダで博物館となっているアメリカ海軍の
空母「ホーネット」よりちょっとだけ短いかな、という感じです。

この甲板、両舷にキャットウォークが備わっているのだとか。
「ひゅうが」「いせ」のキャットウォークは片側だけです。


外付けのエレベーターを搭載したことからも、最初から「いずも」「かが」が
空母にすることを将来的に睨んで設計されていたということがわかります。

左側に写っているのは乗員とその家族。
若い隊員の家族が来ることが多いらしく、赤ちゃんや幼児を
制服で抱っこするパパの姿があちこちで見られました。

艦橋右舷側の窓は飛行甲板が全部見えるように下向きになっています。

日本の護衛艦で初めて見ました。
搭乗員用のブリーフィングルーム。

アメリカ海軍の空母のように誰がどこに座るかちゃんと決まっていて、
うっかり上官の椅子に座ったら大変なことになる、というような
「空母文化」があるのかどうかは外からは確認できませんでした。
少なくともアメリカのようにコーヒーホルダー完備はなさそうです。

机にペットボトルを置いて講義を聴く生徒は落第させる、
というようなことを公言する大学教授がいるお国ですからね。

艦長室に架けられた札は杉の手彫りで、

「金沢の間」?

と添えられています。
「かが」、もちろん加賀百万石の加賀なので、艦名ゆかりの
金沢に寄港した時には高い関心を集め、大変な見学客の数になったそうです。

確か、パレットから転落事件が起こったのもこの時・・・・・。

わたしたちは士官室に案内されました。
ここに荷物を置いて、待機などもここで行うようにとのお達しです。

「行き足ってなに?」

TOが聴くので

「船が停止した後もそのまま勢いで進むことかな」

言葉の意味はそんな感じですが、海軍兵学校などでは元気のいい、
あるいはキビキビして行動力のある生徒を

「行き足がいい」

と称していたと元海兵生徒の書いたもので読んだことがあります。

シーマンならばこの言葉を額にしている理由が理解できるのでしょう。

「かが」のトレードマークが加賀塗り仕様であることはご存知の通り。
なんと金糸縫取りで仕上げてあります。

左の「加賀」は、前田利家の子孫の方の手による書(たぶん)

「かが」艦内神社である白山比咩神社の宮司、村山和臣氏による書。
たおやかでのびやか、ひらがなの感銘表記もいいものだと改めて思います。

「かが」マークをあしらった太鼓も地元由来の贈り物でしょうか。

さて、この士官室で注意事項を受け、本日統率の副長のご挨拶と
自己紹介、簡単な出航準備についての説明がありました。

「出航準備の際には艦内の扉を閉鎖します。
まずないと思いますが(笑)万が一の場合に備えて浸水を防ぐのです」

その通り、自衛艦は停泊時、艦内通路の扉をオープン状態にしていますが、
出港時には一部の扉を除き大部分の扉は閉鎖されます。

出港後に予測されるあらゆる事態に対応するため、艦内扉やハッチは
所定の役割にしたがって閉鎖あるいは開放が行なわれるのです。
(ググったら自分で書いたこの文章が出てきたのでコピペします)

 

「出航準備を艦橋で見てもいいでしょうか」

と援護課長にお聞きしたところ、

「あとでご案内します」

移動中後ろを振り返るとそれに付いてきた人がいっぱい。
これは艦橋はラッシュアワー状態かもしれないなあ、と思いましたが、
皆外の景色を見たいらしく、デッキに出て行ってしまったため、
案外楽に見学位置に立つことができました。

「かが」艦長は防大32期の水田英幹一等海佐です。
海自では、イージス艦や大型艦(補給艦など)の艦長は一佐職となります。
ヘリ護衛艦、それから練習艦隊旗艦の「かしま」艦長も一佐ですね。

ロープで区切られた一番端に立ち、ふと右舷側の見学者を見ると、
そこにはunknownさんの姿が!

観艦式などで艦橋の中に立っている人たちの中には、このように
中の人OBがいて、出航作業を見張っている?ものなのです。
万が一下手なことをすれば、その日どころかリアルタイムで、
全国のOBネットワークにその様が発信されてしまう、という事例を
わたしは前回の観閲式で目の当たりにしたものです。

さて、「かが」の出航作業、unknownさんの感想やいかに?!(答えは次号)

暇なので立っているところの後ろにある「安全守則」を撮ってみました。

「無用に電気装置に触るな」

「裸体または汗で濡れたまま電気機器を使用するな」

などという超当たり前のことから書いてあります。

出港前の艦橋。
言葉が飛び交う秩序立った喧騒のひとときは
いつその場にあっても心が湧きたちます。

この日のように一般の見学者がいても、意識の隅にもかけない無関心さで
いつもやっているのと同じことを粛々と行う姿は、彼らの訓練された
徹底した自己放棄から来るもので、畏れにも近い気持ちを抱かずにはいられません。

艦長が右舷(着岸している方の舷)デッキに立ち、次々と指示を行います。

モニターでは呉港内の艦船の現在位置が確認できる模様。
本日の航路は、呉港を一歩も出ず、中をぐるっと就航して
JMUのドックに入るというもので、実質1時間くらいの航海と聞きました。

艦橋内では次々と状況が報告され、出航に向けた準備が着々と進みます。

操舵席に立つのは2等海曹です。
艦橋窓の上部に金刀比羅宮のお札がありますが、これ」を見つけたTOが
案内の自衛官に艦内神社の御祭神を訪ねてもらったところ、
さすが「かが」の乗員だけあって「白山比咩神社」と即答していました。

「船の神様」金比羅さんでも安全祈願のお札を頂いてきたんですね。

そして愈々出航ラッパが吹鳴されました。

♪ドミソドー、ドミソドー、ドミソドーミソッソソ〜♪

ラッパで吹く音程としてはこの音型はかなり難しいので、
特に一般公開でギャラリーが多かったり、下手したら?
youtubeにアップされてしまったりする可能性のある日には
出航ラッパの係はちょっと緊張するのではないかと思っています。

ここだけの話ですが、初めて自衛艦に乗ってから今日まで、
全く音を外さなかった出航ラッパをわたしは一度も聴いたことがありません。

ゆっくり吹けば確実に音は出ると思いますが、いざ出航、という時なので
ちんたら吹いていたら上から怒られたりするのかもしれません。

艦橋で巨艦を動かす艦長は「男なら一度やってみたい仕事」といわれます。
そして一般人が見ることのできる「艦長が最も輝くとき」は、この出入港作業でしょう。

インカムを付けた乗員の双眼鏡を覗く横顔の凛々しさよ。
やっぱりこういう姿を家族や恋人にこそ見せてあげて欲しい。

今回艦橋でこんな光景を見ました。

自衛隊の艦艇は速力指示の増減を「赤黒」で表すのはご存知かと思います。
海軍からの伝統で、エンジンの回転数を10増やす指示は「黒10」、
逆に10減らすときには「赤10」と言ったりするわけですね。

回転数なのでフネによって違ってくるのかなと思ったりするわけですが、
現代で例えば10だと1ノットくらいに相当するそうです。

写真の乗員は、後ろから送られてくる「赤黒」の指示を復唱しながら、
同時に手にしたパネルの針を動かしていきます。

それを艦橋の開けた窓越しに、艦長が目と耳で確認しているのです。

裏側から操作できるように両面仕様になっているこの装備。
珍しいなあ、と思い、右側におられたunknownさんに、

「これご存知でした?」

と訪ねてみると、unknownさんも初めて見るとのこと。

「便利ですよね」

と感心しておられました。

通常は伝言ゲームのように繰り返して音声を伝えるわけですが、
なるほど、これだと視覚的な補助によって情報が確実に伝わります。

「かが」のアイデアマンが発明したオリジナル兵器でしょうか。

出航してから右舷側に喇叭手が二人立ち、喇叭譜の吹鳴、そして
デッキに立った乗員が岸壁に向かって敬礼しています。

え、誰に敬礼しているの?

ここぞとunknownさんに聴いてみました。
こんなときに限って近くに指南役がいるなんてなんてラッキーなんでしょう。

「第4護衛隊群司令に敬礼しているんです」

この日のブリーフィングで見たスライドより。

「かが」の所属する第4護衛隊群には第4、第8の護衛隊があり、
第4護衛隊は「かが」「いなづま」「さみだれ」「さざなみ」から成ります。
その第4護衛隊司令は西山高広一等海佐。

先般、東良子一佐が女性として初めて第1護衛隊司令に任ぜられましたが、
こちらは「むらさめ」「いかづち」「はたかぜ」「いずも」の4隻を束ねます。

第4護衛隊と第8護衛隊群(佐世保)を隷下に持つ第4護衛隊群司令は
福田達也海将補とありますが、12月の人事で西脇匡史海将補に交代しています。

ちなみに、前司令はこんな方でした。

第4護衛隊群司令と「しまかぜ」艦長の爆笑トーク♪阪神基地隊ウィンターフェスタ2017

しゃべくりが関西芸人そのまんま、さすがは防大落語研究会漫才出身です。

「もらいます」(I have the conn.) は耳ダンボにしていても聴こえませんでした。
ここに立っていれば操艦中、だと理解していたのですが、そうじゃないのかな。

海上自衛隊は息子娘や配偶者、親戚や彼氏彼女に自分の働く姿を
ありのまま、リアルタイムで観てもらえる職場でもあります。

ところで先日、ある自衛隊基地のある「偉い人」が、

「一般公開では外から来てくれるお客が大事だから、
隊員は家族を呼んだりしてはいけない」

というおふれを出して、基地の隊員は任期中不満を募らせていたのだが、
その人の次に来た「偉い人」はそれをやめさせたので皆喜んでいる、
という噂を小耳に挟みました。

当たり前のことに改めただけなのに、前がちょっと異例すぎたせいで、
後任者の評判が爆上げになってしまったという事例です。


この日、体験航海には多くの乗員家族が参加し、艦内には妻子や父母などに
自分の職場を案内している乗組員たちの姿が見られました。

「家族を案内している間は仕事しなくてもいいんですね」

引率の自衛官に伺うと、その答えは

「家族を案内して中を見せるのが、今日の彼らの仕事なんですよ」

なるほど!

 


続く。

 

指揮官降下〜平成31年度 陸上自衛隊第一空挺団 降下始め

$
0
0

今日は陸上自衛隊の降下始めを例によって最初からお話しします。

今回もとりあえず座って観戦するために、開門前に並びました。
毎年毎年言っていることですが、とにかく降下始めは面白いけど
極寒の中でじっと座っていなければならないという過酷なものです。

一年に一度この行事に参加するようになってから、わたしはこの日のために
今まで息子のものしか買ったことがなかったアウトドアのブランドで、
出来るだけ暖かい衣類を見つけては慎重に検討し買い集めるようになりました。

その結果、今年は、裏が「オムニヒート」という銀色の素材
(まあ魔法瓶の原理ですね)でできているコロンビアのジャケット、
上に一枚重ねるだけでまるで部屋の中にいるように暖かいオーバーパンツ、
(多分スキー用)、靴の中には羊毛の中敷きと足の甲には靴の中カイロ、
布製マスクに帽子を被ってジャケットのフードを被るという、歴史上
最も暖かい格好で臨み、おかげでほとんど寒さは感じませんでした。

確かに暖かいですが、例えば第一空挺団に彼氏がいる、
という未婚女性ならおそらく決してしない重装備です。

これも降下初めの時だけいつも投入する、椅子内蔵のバックパックに座って観戦中も
さらに脚全体をキルトでくるんで風を防ぎ、寒さ対策はほぼ完璧と思われましたが、
唯一じっとしていたせいで足先だけがジンジン冷えたのが今後の課題です。

去年ずっと座っていたせいで終わった時に脚の感覚が無くなっていたので、
今年は時々立ち上がって足首を回したりして血行を良くしました。

写真は開場前から並んで待つほどの熱心な方々ですが、
流石に全員防寒には大変気合を入れておられます。

やっとのことで開場となり、去年とだいたい同じような場所に落ち着きました。
朝一の演習場にはすでに散水車が出て、水を撒いています。
広大な会場なので水を撒くのは来賓が降り立つチヌークの着陸予定場所のみ。

この状況で脚立が必要なのかという気もしますが。

報道用の一角でも各社の間でいいカメラの位置を取り合ったりするのかな。
わたしのところからは報道席は遠く、こんなところまで不肖宮嶋氏が来られているか
確かめることはできませんでした。

水タンク車ではないかと思いますがわかりません。

かまぼこ型のバラックの近くには、水陸両用車AAVが。
隊員がもうすでに準備を始めているようです。

「74式だ」

近くにいる人の中から声が上がりました。
総火演にはついに出場せず、先日の観閲式にも行進しなかった
74式戦車がなんと元気に稼働しているではないですか。

実は先日、わたしはある陸自駐屯地で、始めて旅団長を表敬訪問したのですが、
その短い会談時間の中で、旅団長(陸将補)に

「74式戦車はもう終わってしまったのか」

と尋ねたところ、

「終わったどころか、まだはっきり言って実質主流といってもいい」

という衝撃的な返事を聞いたばかりでした。
この会談についてはまた話をする機会もあるとは思いますが、
ちょっと戦車というものの一般人の思い込みが払拭されるような
目からウロコのお話だったとだけ予告しておきます。

陽が高くなってきましたが、この日は向かい風が強く、寒さ的には
だんだん強くなってきているという感じでした。

向こうにデカ白レンズを高く掲げた三脚がありますが、
状況が進むうち、いつの間にか無くなっていました。
人垣越しに撮らなければいけないならともかく、降下はじめでは
航空機が目まぐるしく航過するので、三脚に固定するのは得策ではありません。

わたしも隣の人もそうでしたが、望遠を手持ちし、状況によっては
広角レンズのカメラに持ち替えるのが降下はじめの「基本」だと思います。

いつも来賓と場合によっては防衛大臣を乗せたヘリが降りる地点は
入念に現場を点検することになっています。

空自のペトリオットには専用カバーが掛けてあります。

開始までの間、会場では「本日は晴天なり」などのマイクのテストと
出演部隊の紹介などはありましたが、音楽がガンガン流れることもなく、
モニター搭載車が自衛隊紹介ビデオを流すこともなく、
何か粛々とした感じが漂って、規模のダウンサイジングを感じました。

11時ごろの指揮官降下に先立ち、まず「試験降下」が行われます。

この日の天候に問題がないか身をもって試験台となる降下員。
一体どんな人がこのお試し要因に選ばれるのでしょうか。

きっと部隊の中でもレンジャーとか持っているレジェンドなんだろうな。
まさかくじ引きで当たった人、ということはないと思いたい。

向かいから冷たい風が吹き付けていたこの日の朝方でしたが、
この頃にはほとんど降下に影響を及ぼすような風は収まっていたようです。

おそらくベテランの空挺隊員にとっては酔っ払って3階から飛ぶより
ずっと楽勝なコンディションだったのではないかと思われます。

この日の事前のアナウンスでも言っていましたが、このタイプの傘での降下では
2階から飛び降りるのと同じ衝撃があるので、楽勝といっても着地後は
こうやって一回転して衝撃を逃していました。

お試し降下の人はいつも一人で降りて一人で傘を素早く片付け、
一人で退場していくことになっています。
着地とほとんど同時に立ち上がって、索の根元を持ち、地面の傘が
索と絡んだりしないように捌く作業を。

そして背泳のような動作で索を手繰り寄せ、まとめます。

 

畳むのもそこそこに、傘を抱えて全力疾走。

そのあとしばらくして、迷彩の一団が演習場に駆け足していきます。
むむっ、この中に一人アメリカ陸軍軍人が混じっているぞ。

ということはあれだな。副官軍団。

広い演習場ですが、暇に任せて観察していると肉眼では見えないところで
何かと作業を行なっている隊員さんの姿が見えたりします。

この人は、藪をつついて蛇を出そうとしている?

いつの間にやら会場の隅にはMCVの姿が。

状況開始に先立ち、会場では説明が始まりました。
でも、アナウンスが風に流れ、しかもわたしの近くの人たちが
ものすごく大きな声で可笑しくもない話でえらく盛り上がっていたため
何をいっているのかよくわかりませんでした。(−_−#)

とにかくここが黄色です。

そしてここが赤です。見ればわかる。

第一空挺団長戒田重雄陸将補を皮切りに、指揮官降下の始まりです。

去年と同じく、今年も米陸軍空挺の降下が行われます。
在アラスカの第25師団第4空挺旅団戦闘団、そして在沖縄から
第1特殊部隊群の空挺団。

そのいずれかの指揮官が二番目に降下を行いました。

三年前から指揮官降下に大量の指揮官が投入され、
副官を持つような偉い人たちが皆の前で飛ぶことになりました。

もれきく話によると、かつては全ての指揮官が即応精強というか、
臨戦態勢にあるとは限らず、中には天候不良で効果中止となり

「天はわたしに味方した」

とのたまった指揮官もいたということですが、少し前から
陸自では指揮官率先をわかりやすく形にすることにしたので、
そういう立場に任命された自衛官は日頃から覚悟を決めて鍛錬を行なっているのでしょう。


そういえば、陸将や陸将補がジャージを着てランニングしていると、
日頃の「神」のオーラが消えているので、下々の隊員はつい
欠礼してしまうことがある、とトッカグンの芸人さんが言ってたな(笑)

「陸将はランニングするときに『今から走ります』とアナウンスしてほしい」

だそうですよ。

傘が一部開くのが遅かったりするとやっぱり心配になるんですね。
開傘の確実性には研究を重ねた藤倉降装の落下傘だから大丈夫ですよ。

アメリカ軍指揮官の傘が陸自の傘の合間に落ちていきます。

さて、最初に地面に到達した指揮官。
到達地点に向かってまっしぐらに駆けていく人影があります。

 

そう、先ほど指揮官降下前に一足先に会場入りして待機していた副官ですね。
広い会場のどこに落りるかわからない自分のボスの降下地点を見定め、
全力疾走していく姿こそが指揮官降下での見所だとわたしは思っています。

アメリカ陸軍の指揮官は随分向こうに流れていってしまいました。
副官の走距離はかなりのものになったと思われます。

これは確か第一空挺団長。

別のところでもボスの落下地点にまっしぐらな副官の姿が。

アメリカ陸軍の指揮官は観覧席のはるか向こうに降下するようです。
左のグラウンド端から現在副官疾走中(のはず)。

指揮官降下の際には一人一人の官姓名と年齢までがきっちりコールされました。

「こんなお歳でも頑張っています!」

というアピールの意味があるのかもしれません。

最初にランニングしていた支援軍団の数から見て、6人の副官付きが飛んだことになります。
そのほかにもコールされていた指揮官は一尉までいました。

支援の副官は、指揮官のお身体を気遣うためだけではなく、いやむしろ、
パラシュートを手早くまとめるために出動しているのです。

ですから、ボス本体には見向きもせず(ってこともないですが)彼は
傘の先端に向かって駆けていきます。

傘の先端から出ている器具をまず捕まえています。
傘が開くときに「錘」となって開傘を補助するものだと思われます。

そしてそれを持って時計と反対回りにぐーるぐる。

この傘は現在空挺団で696MI12傘と併用されている、25年度デビューの
13式空挺傘であろうかと思われます。

この傘は気流の強い部分を活用して形状を保持させるために、
エアーポケット機能、さらには万が一傘同士が接触した場合、
離反してから変形した部分が早期に回復するような仕組み、
「デルタパネル機構」を設けることでより安全性を確保しています。

この支援者は、指揮官落下の補助のお手本のような動きです。

指揮官は索を持って立っているだけで、副官がまとめた傘を持ってきてくれます。
一口に副官といっても、海上自衛隊のそれは「セクレタリー」という印象ですが、
陸自ともなるとこういう業務が入ってくるわけですね。

去年に引き続き今年も指揮官降下の数は結構多かったと思います。
6人の補助者が他の人の傘の片付けを手伝ったかどうかは確認していません。

こちらも13傘かと思われます。
13傘はたくさんの人員が降下する際の安全性確保のために改良されました。

人の傘とぶつかったときに急激な圧力変化を発生させないように、
12傘には孔がいくつか空いていますが、13傘は孔は最小限で、その分
空気透過度の異なる複数の布を用いて傘全体から空気を透過させているそうです。

(藤倉航装株式会社研究陣報告による)

 

お手伝いが来ない指揮官は自分で傘をお片づけします。

飛行機から降下したあと、無事に傘が開くまでの瞬間まで
何回降下経験のある自衛官も緊張するものなのに違いありません。

全ての指揮官が降下したのち、いよいよ地上展示を含む模擬作戦の開始です。
降下部隊の着上陸の前にその前段階として偵察が行われるのです。

次の準備が行われるその前に、来賓の入場があるわけですが、
その準備の間にフィールドから退場する指揮官とその副官たち。

手前を走っているのは降下後、ヘルメットを帽子に替えて
身軽になった指揮官です。

 

続く。 

 

来賓入場と小西議員の呆れた挨拶(の裏側)〜平成31年度 降下始め

$
0
0

今日はちょっと昨日参加した団体で仕入れたネタがあるので、
またしても陸自第一空挺団の降下始めの話題にします。

unknownさんからリクエストがあったので、当日のいでたちを再現し
鏡に向かって自撮りしてみました。
前回言い忘れましたが防寒パンツもオムニヒートで、しかも内側には
謎の保温素材がジュラ紀の化石でも発見されかねないくらい多層をなしており、
人体と外側の関係はまさに「安いエビ天の中身と衣」。

でも、この衣と中身の間の空気が強力な保温力となるのです。

上はアメリカのMサイズで少し余裕のあるサイズですが、素晴らしいのは
こちらは下に重ね着せずとも十分暖かいところ。
いずれも昨年の夏、ボストンのコロンビアアウトレットで安く購入したものです。

タウンユースではフードなど飾りにすぎませんが、実際に
酷寒の天候下にあると、フードのなんと暖かいことか。
写真のように帽子の上にフードをかぶるとほぼ完璧に寒さを防げます。

ふと気になって周りの人々を観察すると、フードつきジャケットの人は
全員もれなくフードを被って観覧していました。

さて、指揮官降下も無事に終わり、並み居る降下指揮官は
立派にその任を果たした、というところまでお話ししました。

演習展示が始まる前に、会場には来賓を乗せたCH-47が二機やってきました。

チヌークが着地するときには必ず後ろのハッチから乗員が
ご覧のように下を確認するため体を乗り出します。

もちろん落ちないように体は安全索を装着しているのだと思いますが。

最初に着地したヘリからは一般人の来賓が自衛官に混じっておりてきました。
ヘリに乗る人には、迷彩のジャケットを貸してもらえます。

左側に着陸するもう一機のチヌークに向かって、二人の自衛官が
まるで宙を飛ぶように駆けていきます。

降下初めの時に貸し出されるのは観察したところ防寒用迷彩。
陸自隊員の迷彩とは合いが違います。
防寒着は言うなれば枯葉色で、習志野駐屯地演習場においては見事な保護色です。
降下始め式典中に敵から襲われた場合の視認性を考慮しているのです(嘘)

2機のチヌークのローターが巻き上げる枯れ草が観客席まで飛んできました。
このヘリに乗ってきたのは防衛省関係でしょうか。

画面手前を走っているのは指揮官降下を行なった副官の付かない指揮官と思われ。

2機目のチヌークからおりてきた一団の中にはアメリカ陸軍の軍人さんが一人。
最後尾で陸自隊員と会話しながら歩いているようです。

3機目のヘリの窓を確認したのですが、将官が乗っていることを表す
星などは確認できなかったにも関わらず、降りてきた中には統幕長がおられました。

自衛官と防衛省職員のグループのようです。

先日、河野統幕長は「もう法律的に年齢が限界にきているので」
もうすぐ退官されるだろう、と聞きました。
2014年10月からですから、まる4年と3ヶ月統幕長でおられるわけですが、
こんなに長く統幕長を務めた自衛官は、戦後初めての自衛隊で
統幕長の前身だった統合幕僚会議議長を10年間務めた内務官僚出身の
林敬三陸将を除けば河野海将が初めてとなります。

話が横道に逸れますが、戦後の自衛隊が警察予備隊時代、日本国が
軍のトップに内務官僚出身者を宛てたこと、つまり「文官統制」は、
いわば間違った「文民統制」解釈の結果だとわたしは思っています。

一度ここでも書いたことがありますが、この「文官統制」を
文民統制の本来の形に改正すべく、制服組と背広組が対等に防衛大臣の補佐を行う、
という形になったのが、2015年の防衛省設置法第12条改正です。

軍人が軍隊のトップになれない、つまり内部部局が軍をコントロールする、
というのは間違った文民統制の解釈の表れでしたが、その後実に65年もの間、
統幕長がを自衛隊出身者が務めるということになってからも組織によくない
(とあえて言います)影響を及ぼしてきた、これが戦後の自衛隊だったということです。

もひとつついでに言うと、わたしは防衛大学校の校長を、軍人ではなく
民間出身の学者が務めることも、戦後体制に基づく誤った文官統制だと思ってます。

その話はさておき。

これまで見た全ての降下始めでは、防衛大臣はヘリで来場していました。
レンジャー出身の中谷元元大臣はもちろん、小野寺元防衛大臣も、
確か初回には、同伴の夫人もヘリに同乗されていたと記憶します。

2年前の降下始め当時防衛大臣だったのは稲田朋美元大臣ですが、
後から知ったところ、稲田氏は降下始めには参加しなかった模様。

まさかルブタンのハイヒールが履けないから辞退した・・ってことはないよね?

 

さて、ここで本日の本題と参ります。

タイトルでも薄々お分かりのように、この日の演習終了後に行われる
野外での祝賀会(野宴)で起こった、小西ひろゆき議員のやらかし事案についてです。

わたしは祝宴にご招待されておらず、そこから隔離された場所で観戦し、
終わるや否や暖をとるために帰宅したので、この目で見たわけではないのですが、
その日のうちにこの事件はネットを通じて全軍布告状態になりました。

わたしはこのURLをunknownさんに送っていただきすぐさま知ったわけです。

第一空挺団新年初降下における、小西ひろゆき議員の残念な振る舞い

日本国自衛隊データベースの管理人さんはわたくしよりも穏健な方なので、
「残念な振る舞い」という穏やかな表現をされておりますが、
こちらに詳細がある通り、コニタンは新年早々「やらかしちまった」のです。

「最悪のタイミングで最悪の選択をする」

というのは「いわゆる徴用工問題」「レーダー照射事件」などで、
最近日本にとっていよいようざい存在になりつつある某国を
表す言葉であるようですが、小西議員の今回の振る舞いもまさにそれ。

なぜこういう時にこういう場所でそういう選択をする?

をピンポイントでやっちまう、それが小西議員なんだな。

ところでいきなりですが、この写真をご覧くださいませ。

降下始めの直後に行われた地球防衛団体(仮名)の賀詞交換会での写真です。
宇都隆史議員を中心に、小野田紀美議員、地方防衛会長、3K新聞の記者の方、
そしてエリス中尉(仮名)というメンバーで撮ったものです。


実はこの会の始まりに際し、恒例の出席している政治家先生の挨拶が
与党防衛関係→与党その他→野党
と進み、最後に野党の番になって、かの長島昭久先生が登壇しました。

「野党で出席させていただいているのはわたし一人なんですが」

長島先生、民主党を離党し無所属になった時にも

「やっと堂々とこの会に来ることができるようになりました」

などと結構自虐ネタで場を笑わせる一面をお持ちなんでございますが、
その長島先生、なんとこんなことを仰いました。

「先日の陸上自衛隊の降下始めのおめでたい席で、野党の跳ねっ返りが
場を読まず失礼なことをしたようで、わたしからも謝罪させて頂きます」

事情を聴き知っている会場の人々から笑いが漏れましたが、それより、
わたしはその直後に代理人出席議員の紹介で

「小西ひろゆき様代理、なんとか様」

と皆に大注目されながら手を挙げた小西議員の秘書がちょっと気の毒でした(笑)

しかし、降下始めが行われてすぐだったこともあり、現役自衛官と、
ネットをチェックしていた人、出席していた人以外は長島議員のいうところの

「野党の跳ねっ返り」

が誰で、何をやらかしたんだろうと首を傾げていた人も結構いたのです。
その後ご挨拶した人々にわたしは僭越ながら事情を知っているか尋ね、
知らないとおっしゃる方には事の次第を懇切丁寧に教えて差し上げました。

 

小野田議員とお会いするのは何度目かというところですが、
挨拶もそこそこにわたしたちは「女子会トーク」状態。

彼女もこの件はすでにご存知で、

「現場では帰れ!とか怒号がすごかったみたいですよ」

「何考えてるんでしょうね。
小野田さん、いつだったか小西議員に野次飛ばしてませんでした?」

「国民の敵〜!って野次ってしまいましたw」

キャッキャウフフと話に興じていると(笑)そこにやってきたのが宇都隆史議員。
あけおめのご挨拶を終えた後、

「今降下始めの時の小西議員のあの話をしてたんですよ」

と話を振ると、宇土議員、

「コニタンはね・・・・もう仕方ないですね。
まあ、山◯太◯と同じと思っていればいいというか・・・」

山◯太◯!といえば。

小野田さん、こんな汚らわしいものを見るような目つきで山◯太◯のことを・・・。

わかる。わかるよー。
わたしも練習艦隊の艦上レセプションなどでHSK議員とニアミスした時には
いっつもこんな顔になってると思う。
もしここにいて山◯太◯の質疑を聞いていたらやっぱりこんな顔になるだろうし。

パヨク連中が顔が怖いのなんのとこの表情を槍玉に論っていたけど、
つまり小野田さんはまだ議員になって長くないので、他の政治家のように
政治家には標準装備のポーカーフェイス、蛙の面に水が身についてないんですよ。

つまり、彼女は一般国民の山◯太◯に対する嫌悪感を代弁してくれているのです。


さて、わたしと小野田議員の話に加わった宇土議員、実は降下始めには
毎年参加しておられ、今回もあの時小西議員の隣に座っていたのだそうです。
そこで、こんな話を聞かせてくださいました。

おそらくこれは、唯一の「壇上から見たあの日の小西」証言となるはずです。
一字一句は正確に再現できないのですが、出来るだけ思い出してみます。

「実は挨拶の席で僕、コニタンの隣に座ってたんですよ。
僕はいつもキミちゃんにもいうんだけど、政治家は個人的な好き嫌いを
外に出してはいけないと思っているので、コニタンに対しても大人の対応だし
普通に会話もするんです。

で、話していると、

『挨拶することになってるんですけど、どんな風にすればいいですか』

と聞いてくるので(!)僕は、

『普通に思ったことをご挨拶にすればいいんじゃないですか』

と言ったわけです。するとコニタン、背広の内ポケットから紙を出して

『そうですね。それでは』

と・・・・」

「で、それがあの自衛官の”反省文”だったわけですか」

先ほど貼り付けたブログから引用させていただくと、

小西議員はマイクを握ると、まず最初に、

「自衛官から罵声を浴びせられた小西です」

と自己紹介。


うーん、ここからの持っていきよう、例えば長島議員式自虐テクで
笑いに乗せて相手の立場を思いやる発言をしていれば、あるいは
汚名返上できたかもしれないのですが、残念ながら小西選手、
ここでそのチャンスを永久に失ってしまいます。

なんだろうな・・・きっと頭が悪いんだと思う(迫真)


さらに小西議員の驚きの発言は続きます。

「それではここで、暴言事件について防衛省が発表した
調査結果を読み上げさせて頂きます」

という趣旨を述べて、ポケットから紙を取り出す。
そして、自衛官の反省文などを朗読し始めます。

とほほ・・・宇土議員の証言によると、寸前まで小西議員、どう挨拶するか、
つまり他の議員先生のように(野田さんとかね)場をわきまえた常識的なものか、
爆弾となりかねない事件へのエクスキューズぶちかますか、
ギリギリまで迷っていたようなポーズを取っています。

無難にその場を収めることと、あくまでも自分の恨みを晴らすこと、
この二つを天秤にかけた結果、執念深いコニタンは、この場を借りて
私憤を晴らすことの誘惑にどうしても勝てなかったのだと思われます。

この執念深さ。

あの自衛官のいわゆる「国民の敵」事件で、その場ではあろうことか

「武士の情け」

という言葉を使ってまで許すと思いきや、次の瞬間
後から蒸し返して大ごとにし、防衛大臣の罷免まで要求したんでしたっけ。

ついパーソナリティ障害、という言葉さえ浮かんできますね。

小野田議員は

「議員が目の前で帰れとか言われているのを初めてみた」

と言っていましたが、上記ブログの方は、そんな小西議員に対し
拍手を送ったのは自衛官とその家族で、それはむしろ

「自衛官をなくせと言っている人でも救うのが自衛隊」

という彼らの崇高な精神が図らずもあらわになったと考察しておられます。

しかし、わたしはこのブロガーの方のように心が広くないので、

「小西議員のような存在も必要」

とは(もちろん皮肉の類だとは思いますが)死んでも言いません。
わかりやすいヒールとして国民の敵という名のダーツの的となることで、
最近の某国の斜め上のように

「もっと派手にやって無関心な者の目を覚ましてやってくれ」

とは思いますがね。

自国の防衛組織に向かって

「(この法案成立によって)自衛隊員は他国の子供を殺傷する恐怖の使徒になる」

と捨て台詞を吐き、すでに何十年も使われている軍旗を
「大日本帝国の軍旗だから」と否定する議員。
「国民の敵」と自衛官に面と向かって罵られるような議員。

実は、こんな輩に議席を与えている我々こそが
どんな人間でも国民である限り守る、という彼らの悲しいまでに尊い決意に
あまりにも甘え過ぎているのではないでしょうか。

もうそろそろいい加減にした方がいいと思います。

 

 

続く。

 

 

空母?の底力を真水消費量から知る〜「かが」体験航海

$
0
0

「かが」体験航海が続いています。

艦橋で出航作業を見ていたら、艦橋窓越しに海保の船が通過しました。
PM13「くろせ」、第6管区呉所属の500トン巡視船です。

さて出航作業も一段落したことであるし、艦橋の上に出てみるかな。
ってところから見下ろす「かが」の甲板。

皆思い思いに見学タイムを過ごしておられますが、この日の500名の見学者も
流石にこの広い甲板と艦内に散ってしまうとこの通り。

この日は1月とはいえ好天に恵まれ気温もさして低くならず風もなく、
体験航海で甲板に出ていても寒さは全く感じませんでした。

わたしの出たのは艦橋の一階上、信号員の職場でもあるデッキです。
「かが」の文字と海上自衛隊のマークが刻まれた時鐘を発見。

現在の軍艦で時鐘が昔のように定期的に鳴らされることはありませんが、
相変わらずシンボルとして昔ながらの場所に飾られているようです。

果たしてこの鐘が実際に鳴らされることはあるのでしょうか。

さすが艦体が大きいと探照灯も大きい(気がする)。
なんだか変な探照灯だなと思ったら、こちらは裏側でした。
案外単純な仕掛けだったりするのね。

狭い階段を持つ艦内は基本一方通行になっていて、階段も左舷側から登り、
右舷側から降りてくると、艦橋デッキ右舷に戻ってきます。

ここにあるのも探照灯ですが、上のデッキにあったものに
後ろ側のカバーがついて操作できるように取っ手が付いているバージョン。

1時間で着岸、というのはわたしたちが思う以上に艦橋では
仕事のしっぱなしではないかと思われます。

ところでわたしたちが艦橋デッキ右舷に降りてくると、そこに
unknownさんがおられたので、早速うかがってみました。

「いかがでしたか?『かが』の出航作業は」

「上手ですよね」

「それはどういうところでわかるんですか」

「全てが流れるようにというか・・さすが『かが』だけのことはあります」

なるほど、リズムですね。
わたしたちにはわかりませんが、艦橋での仕事に携わったことがあれば
そのリズムの良し悪しもわかってくるということなのでしょう。

その後、わたしたちを案内していた自衛官のうち一人が

「昼食の前に士官室に集合してください」

と声をかけに来られました。
先ほど座った席にもう一度座ると、副長プレゼンツの

「かがのすべて」

のスライドが始まりました。

「かが」の進水式は2015年8月27日、JMU磯子で行われました。
敬礼当時の海幕長、武居智久海将が敬礼する姿が写真に写っています。

引き渡し、つまり就役は2017年3月22日。
初めて自衛艦旗が掲揚竿に上がり、「かが」に命が吹き込まれました。

艦内編成で他の護衛艦と違うところはないかと思いますが、
「かが」の場合搭載ヘリが多いので、飛行科の人数は充実しているはず。

平成27年に地元防災組織と共同で行われた訓練状況。
右下写真の衛生科の乗員が緊張しつつご案内している女性は、
確か副長の説明によると看護師だったと思います。

ゼッケンをつけた乗員は被災者ということで訓練に参加。

ホワイトベース「かが」の誇るのは大量の車両を輸送する能力。
4トン半の車両なら60台、10トン車は30台搭載することができるそうです。

宿泊を要する人数なら500名、輸送するだけなら数千人を載せることができると。
ちなみにトイレは34箇所もあると書かれているわけですが、士官室から
一度お手洗いに連れて行ってもらったところ、長い廊下の突き当たりの、
さらに反対側の舷側に女性用(普段は男性用)があって、気が遠くなるほど遠かったです。

案内してくれた女性自衛官が

「なんか壮大な旅になってしまいましたねー」

と労って?くれましたが、あれもしギリギリだったら絶対やばかったな。
34箇所もあるとはとても思えなかったんですが・・。

ついでにunknownさんが送ってくれた

「この日の真水消費量!!」

さすが元艦乗り、目のつけどころがちょっと違います。
これが何を意味するかと言いますと・・・・

空母(笑)の底力を思い知りました。

真水消費量74トン。

節水を促すために書いてあったのだと思いますが、科員食堂に書いてありました。
この凄さををわかりやすく説明すると;

潜水艦では毎日の消費量は2トン。航海中の洗濯は不可。
汚れものはすべて持ち帰りです。

DDでは10トン。航海中の洗濯は、バケツで手洗濯で週一回です。

DDHは毎日機械洗濯(洗濯機)許可です。 

これぞ空母の底力です(笑)

だそうです。
うーん、潜水艦の37倍、駆逐艦の7倍強・・・。
空母の底力を洗濯機のあるやなしやで測るとは(笑)

「インヴィンシブル」という名前のフネは英米海軍にあり、
ロイヤルネイビーには6隻あったりするわけなんですが、この比較画像の
一番上にあるのは2010年に除籍になった空母のことなんでしょうか。

この「インヴィンシブル」は除籍後競売にかけられたそうですが、その際
香港在住の中国人実業家が入札を行なっており、落札したらそれを
人民海軍が航空母艦にしかねなかったため、この実業家の手には落ちなかった
(おそらく意図的に外された)とか。

普通そうするよね。
中国人が日本の土地を買い漁れるあまちゃん国家日本なら、心配しながら
オークションを馬鹿正直に行なって中国人に落札させてしまいそう。

フランスの「CDG」は空母「シャルル・ド・ゴール」のことで、これは現役。

この表を見て気がついたのは「かが」は帝国海軍の「加賀」とほぼ同じ大きであることです。

「ひゅうが」型との比較画像もありました。
大きな違いは舷側に設けられた艦載機用エレベーターでしょう。
これは「いずも」型が最初から空母化を睨んで設計されたことを表します。

空母なので、主砲などを持たない「いずも」型ですが、機関砲である
ファランクス CIWSの他に、ミサイルを発射するSeeRamを2基備えています。

形はそっくりですが、R2D2の乗っている部分に大きな違いがあります。
日本の場合は確か色もグレイだったはず。

今回は団体だったため甲板の端っこまで見学に行くことができず、
搭載武器を近くで見ることができなかったのが残念でした。

今の所ヘリ搭載型護衛艦である「かが」の主流は対潜哨戒ヘリと多用途ヘリ。
MCHはアグスタ・ウェストランドのAW101の海上自衛隊仕様ですが、
MCHのMって「マイン」(掃海ヘリだから?)のMだとこの時聴きましたが、
改めて調べてみると、防衛省のページにこんな表がありました。

輸送 C

特別電子装備 E

戦闘 F 

空中給油 K

連絡 L

掃海 M

観測 O

哨戒 P

偵察 R

対潜 S

練習 T シ

救難、捜索又は多用途 U

SHは対潜ヘリ、MCHは掃海・輸送ヘリということですね。

降下初めでおなじみCHは輸送ヘリ、MHは掃海ヘリ、ではオスプレイは?

もともとオスプレイはV-22、つまりブイトール(垂直離着陸)を意味するVですが、
それにMがつくとこちらは「多用途」のマルチロールの意味でしょうか。

「かが」は昨年夏の中国地方を襲った水害でも、被災者支援を行いました。
被災者を収容し、入浴支援を行なったという話に、不謹慎ながら
「かが」に収容されるなんて羨ましい、という声が上がったとか・・。

右下では、当時の呉地方総監池海将が安倍首相に「かが」で説明を行なっています。

2018年にはインド・太平洋方面に派遣され、各地の海軍と親善訓練を行いました。
アメリカ、イギリス、フィリピン、インドネシア、シンガポール、
インド、そしてコロンボとくまなく太平洋・インド洋の国々を網羅しています。

フィリピン帰国の折にはドゥテルテ大統領が乗艦しました。
あとでその際に大統領が残した自筆のサインを見せていただきました。

 右下は岩屋防衛相に見えますが・・・。
日の丸と並んで掲げられている旗はシンガポール国旗ですね。

さて、そうやって「かが」についての知識を深めたあと、
士官室グループは食堂に移動することになりました。

士官室から食堂は、一旦甲板階に上がり、それからエレベーターで降りて
ハンガーデッキからまたさらに降りて到達します。

この日乗艦前から予告されていたお昼ご飯は、「かが」カレー。
ラッキーなことにこの日はちょうど金曜日だったのです。

 

続く。

 

 

「かが」カレー喫食!〜護衛艦「かが」体験航海

$
0
0

「かが」ドック入り前の体験航海、いよいよお楽しみのカレー体験です。

士官室で「かが」についてのレクチャーを受けたのは、つまり
食堂がオープンする時間調整だったらしいのですが、何事も
ミリミリで動く自衛隊らしい時間配分の仕方だと思いました。

引率された全員でエレベーターに乗り、一挙に移動!

ヘリ搭載艦型の護衛艦が一般公開に向いているのは
大人数を引き連れて狭いラッタルを上り下りさせる必要が
最小限に抑えられるというところでしょう。

もっともあの事故ではそれが仇になってしまったというわけですが。

エレベーター内部の構造物は全体的に真っ黒な塗装をされております。
エレベーターパレットの下降の動きは独特で、一度停止位置より高く浮き上がって
甲板から数センチ高いところで停止してから、スルスルと降りていくという感じ。

そのことをいうと、案内の自衛官は

「台を支えるための何か(爪のようなもの?)を外すのだと思います」

この写真を見ると、「かが」があの事故以来、どれだけ一般客の安全に
慎重すぎるほど慎重な対処をしているかおわかりいただけるでしょう。

白い線のパレットの端っこに対して張られた柵が思いっきり内側。
この一段外側に柵を張っても十分安全なんじゃないかって気もしますが。

これならたとえ走り幅跳びして柵を越えようとする人がいても、
エレベーター端に到達する前に自衛官が捕まえることができますね。
てかしねーよ普通。

カレーをいただく予定になっている食堂は、一旦こうやってハンガーデッキに降り、
この右側にある通路から(確か)1階分下がったところにあったりするわけです。

右側に見えているのは白に赤のラインですが、消防車でしょうか。

ラッタル滑りますの注意書きポスター。一般見学者向けでしょうか。

西日本豪雨災害の際の「かが」の活躍に感謝する記事が壁に貼ってありました。

「かが」は呉港に停泊して呉市、江田島市の被災者に入浴施設を解放し、
救援物資輸送を行なった、という紹介なのですが、これはどこの記事かというと

「艦内に当社の神様を御分霊した『かが神社』をお祀りし、
乗組員の方々は日本国の防衛、世界の平和と安寧を日々お祈りされています」

とあることから、おそらくは白山比咩神社の社報(神社でもこういうのね)
であることは間違いないと思われます。

記事には、艦内では被災者の慰安のために呉音楽隊が演奏を行ったことも書かれています。

この社報のコピーは「かが」艦内神社の下に貼ってありました。

ところで、最初に「ひゅうが」に乗ったとき、艦内神社の近くにいた乗員に
やはり乗組員はここで手を合わせたりするのか、と聞いたところ、
その乗組員が知らなかったのか、艦内神社というものに全く関心がなかったのか、

「そんなことをしているのは見たことがない」

とまるで無関心そうな返事をされたものです。
それから、どの艦だったかは忘れましたが、艦内神社の近くにいた乗員に
艦内神社のお賽銭はどうするのか聞いたら、

「溜まったらジュースを買ったり・・・」

と聞いたこともありました。
今回案内してくれた自衛官と一緒にいたTOに何気なく後者の話をすると
二人とも目を丸くして、自衛官は

「そんなのとんでもない!
お賽銭ですから、ちゃんと溜まったら本社に納めにいくものです。
ジュースなんて言っている乗組員が知らなかっただけですよ」

と呆れたように言われました。
TOも、

「そんなことしたらバチが当たるって」

と・・・。
うーん・・・あの艦・・・その後大丈夫だったかな。

艦内神社をその辺にいる隊員に尋ねても即座に解答するような
我らが「かが」に限っては、お賽銭がジュースに化けることもないでしょう。

神社のガラスの扉が開けられていたので、わたしたちはお賽銭を入れ、
「かが」が無事に日本の防衛に当たることができるようにお祈りしました。

ほとんどの自衛艦は、科員食堂のすぐ近くに艦内神社を祀っています。
案の定、神社を通り過ぎたらすぐキッチンが現れました。

ここは一部だろうと思いますが、このキッチンで日頃は4〜500名の
乗員の食事をまかなっているのです。

被災者を招待した時にはそれに約450名が加わったはず。

わたしたちは前もって、パウチされたこんな喫食券をいただいていました。
朝、バスに乗る前、私服の関係者らしき方にカレー代は支払い済みです。
確かとっても安かった記憶がありますが、いくらか忘れました。

喫食開始時間が1045とえらく早い時間だったわけですが、
すぐに港に着いてしまうのと、お昼の時間は乗組員が食堂を使うのでこうなります。

食堂の入り口に到達すると、係が喫食券を持って立っていたので渡そうとすると、
なぜか

「そのままどうぞお持ちください」

というので、ありがたく乗艦記念にパウチされたカードをいただき、
紙皿に福神漬けと共に盛り付けたカレーを受け取ります。
そして、その隣で牛乳をいただけるという流れになっていました。

カレーと牛乳、海上自衛隊ではいつからか切っても切れない関係です。

スプーンも使い捨てで、紙カップが倒れないようにテープで固定してあります。
ご飯茶碗8分目くらいのカレーは小腹が減った時向けで、決して多くありません。
ご飯は少し硬めに炊いてあり、具がほとんど溶け込んだルーとマッチしていました。

「んー、さすが!これは美味しいですね」

「ミルクを飲みながら食べると一層美味しい!」

わたしたちのテーブルに来られた案内係の自衛官氏によると、

「クレイトンホテルの『かがカレー』も食べましたがあれより美味しいです」

ほう、呉では一、二を争う高級ホテルのダイニングよりうまいとな。

「実際にレシピをわたして、作り方をこちらの者が指導に行くのですが」

どれだけ手間暇かけて渾身のカレーを作ってるんだ海上自衛隊。

「もしよろしかったらおかわり自由ですよ」

そう言われて、早速TOはもう一杯おかわりを取ってきて食べていました。
二杯で普通のカレー一杯分くらいの量なので、お代わり組は多かったかも。

ご飯を食べた後は喫食券にも書いてあるように、あまり長居できないので、
早々にもう一度士官室まで戻ることになりました。

廊下の展示物もまめに撮影しながら歩いていて、ふと気がついたのは
不肖宮嶋茂樹氏の撮影した、

「踊る立入検査隊 マラッカ海峡を封鎖せよ!?」

という記事。
先ほど行われたレクチャーでも写真を見せていただいた

平成30年度インド太平洋方面派遣訓練部隊

に宮嶋氏は同行されたようです。
護衛艦「いなづま」の立入検査隊は男性ばかりですが、
「かが」のには2名のWAVEが含まれると書かれています。

そうそう、これは自慢になりますが、昨年ある会合で不肖宮嶋氏にお会いし、
名刺交換したら、「不肖宮嶋茂樹」のお名前で賀状をいただきました。

ブログで散々お名前を連呼していることは内緒です。

どこの海自基地でも、自衛官が制作した啓蒙ポスターを見ることができます。
左は薬物に手を出さないように、右はとにかく違反をしちゃダメ、というポスター。

ところで、フランクで見知らぬ人にはやたら愛想のいいアメリカ人は
単なる通りすがりの人ですら、何かしらを褒めてくるものです。

わたしにも、駐車場で隣に停めた車の持ち主が、いきなり近づいてきて

「あなた素敵ねー!」

となぜか激賞してきて、一緒にいたTOもMKもびっくり、
ということが普通にあったりするわけですが、褒めてくるのは女性に限らず、
スタバのカウンター越しに男性店員に服装などを褒められることも珍しくありません。

しかし今の日本では男性が女性の服を「可愛いね」というだけで
セクハラになってしまうということなんですわね。これによると。

しかもそう感じるかどうかを決めるのは言われた方、となると、
故岡田真澄でもない限り、どんなに相手を褒めたくなっても、
余計なことは言わず黙っていた方がいい時代になったってことなんですね。

セクハラについては男女雇用機会均等法にすでに規定されていて、
この春からはパワハラの方も本格的に法制化されるとか。

ちなみにわたしが今まで見た自衛官制作のポスターで最高傑作だと思ったのがこれ。
海上自衛隊八戸航空基地の隊員が描いたものと思われます。

嫌な思いをする人が一人でもいる限り、その人の人権に配慮しましょうってことか。
物言えば唇寒し、という句がつい浮かんでくるご時世です。

機関室も公開していましたが、団体行動だったので見学できませんでした。

「あきづき」の時にもオリジナルグッズが欲しい人が、先任海曹室で
あれこれお買い物をしていましたっけ。
乗艦記念に何か欲しい(できればカレー付きの帽子など)ところでしたが、
ここも引率されている身では横目で見ながら通過するしかできず・・。

退艦時には真新しい「かが」のキャップを被っている人もいました。

ちなみに、海曹室にある木の箱の中には自衛艦旗が予備の分も含めて収納されています。
なんでわたしがそれを知っているかは秘密です。

わたしたちは解散を許されず、そのままもう一度士官室に戻ることになりました。
さっききた道の逆に、ハンガーデッキをエレベーターに向かいます。

エレベーターの稼働を行うのは飛行科の隊員であることが
この人のヘルメットのシールでわかりました。

ところで写真を見て気がついたのですが、デッキの上部通路に
白い幕が張ってありますね。
これはなんのために、つまり何かの目隠しをしているようなのですが、
この後ろ側には何があるのでしょうか。

それとも単に見栄えを良くしているだけなのかな。

わたしたちはカレーを一緒に食べてからずっと一団を案内する自衛官のかたと
ご一緒する形になっていたのですが、その方が気を遣ってくださって
せっかくだからとまっすぐ士官室に戻らず、甲板に留まって、
ピンクの船が近づいてくるのを見ながら色んな話をうかがいました。

その方が援護業務課の勤務だったことと、たまたまわたしたちが今回
自衛官の再就職について深く考えさせられる事例に遭遇したことから
勢い話はそれらのことになったのでした。

自衛官として制服を着ていられる時期は短いですから、再就職先に
夢が持てないとなると、実利的な学生は就職先として
自衛隊を選択肢に入れることもしなくなるわけです。
実は再就職支援というのは自衛官募集にも関わってくるというわけですね。

 

ところで超蛇足ですが、知人のさらに知り合いの現役自衛官という人が、

「退官したらヒモになる」

と嘯いていると聞きました。
(こんな自衛官が実際にいるのかとちょっと驚きですけど)
そのことをTOに話したところ、

「ヒモを甘く見たらいけない!
女性に自分から貢がせる優しさと口先三寸のとさじ加減、なによりまず
自分に貢いでくれそうな女を嗅ぎ分ける才能がなくてはダメ。
自衛隊で全ての部下に慕われるよりあるいは難しいかもしれない」

いや、真剣に答えるなよ(笑)

 

続く。

 


昇任伝達〜護衛艦「かが」体験航海

$
0
0

 

食堂でそれはそれは美味しい「かがカレー」を堪能し、一旦待機所となった
士官室に帰る前、少し甲板を案内の方と話しながら歩きました。

「かが」の甲板。
そこにいるときには特になんの感慨もなかったのですが、
これが今現在日本でもっとも大きな軍艦の甲板です。

全長248m、幅38mの甲板は「ひゅうが」型と比べて縦50m、横5m大きくなっています。

自衛艦旗のはるか手前に立ち入り禁止の柵が張られています。

カレーを食べていてわかりませんでしたが、どうやらいつの間にか
「かが」はJMUのドックに入港を済ませたようです。

車両やヘリなどを繫ぎ止めるための◯に十字の装置、
航空機静止索孔のことを「眼環」と言いますが、この眼環、
帝国海軍の空母にはだいたい1.5m間隔に空けられていたとか。

「かが」の眼環もだいたいそんな間隔で穿ってあるように見えます。

ヘリコプターや車両などを固定する索をここに繋ぎ、固定します。

そのときあらためてTOのネクタイの柄に気がつきました。
うーん、狙ってきたね。

柵のギリギリまで行けばキャットウォークを見ることができたのか・・・。

1時間航海して帰って来れば、朝向かいに見えていた補給艦「とわだ」と
輸送艦「おおすみ」が左舷側になっているのでした。

隣には「せとゆき」がいます。
東良子一等海佐が艦長就任中、遠洋航海に出たのを見送った覚えがあります。

士官室に帰ると、またしても時間調整のためか、一連のニュースが放映されました。
これ、ご存知でした?
wikiには艦歴としてこのように書かれている事案です。

2018年8月26日から10月30日まで行われるインド太平洋方面派遣訓練に
護衛艦「いなづま」、「すずつき」とともに参加し、インド、インドネシア共和国、
シンガポール共和国、スリランカ民主社会主義共和国、フィリピン共和国を訪問する。

9月13日には南シナ海で潜水艦「くろしお」と合流し、対潜戦の訓練を実施した。

9月26日にはスマトラ島西方海空域において「いなづま」とともに
南シナ海へ向かうイギリス海軍フリゲート艦「アーガイル」と日英共同訓練を実施した。

10月11日〜10月15日にかけてインド海軍との共同訓練「JIMEX 18」を実施した。

同月18日、訓練最後の寄港地となるシンガポールに入港、
シンガポール海軍と訓練を行う。

その後は再び南シナ海に入り、
中国人民解放軍海軍の駆逐艦「蘭州」の追尾を受けつつ行動。

米海軍補給艦「ペコス」から10月25日に、「いなづま」とともに海上給油を受けた。

 

このときたまたま?「かが」にNHKのスタッフが取材で乗り込んでいたことから
ニュースで報じられたようです。

ご覧になった方も多いかと思いますが、映像では「かが」の通信士が
「蘭州」と通信を行う様子が一部紹介されました。

中国が領有主張をますます強めつつある南シナ海に日本の軍艦が現れたので、
向こうとしても任務として監視を行ったというところなのですが、
このことを、香港の新聞サウスチャイナ・モーニングポストは、
NHKの報道を引用する形で次のように伝えました。

「事件は先月末、中国のリューヤンII級ミサイル駆逐艦『蘭州』が、
日本の駆逐艦『かが』を発見した時に起きた」

「発見後、蘭州の乗員は無線で
『おはよう。お会いできてうれしいです』
という内容のメッセージを送った」

「中国軍が8月、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島の上空で
米海軍の対潜哨戒機P-8Aポセイドンに対し、
『すぐに立ち去れ』と警告したのとは対照的だ」

お会いできて嬉しいです、ってつまり

"Good morning. Nice to see you."

って英語で言っただけの話だと思うんですが、日本語でいうと
なんかものすごく好意が溢れている印象ですよね。

この報道がネットに流れたとき、わたしも見ていましたが、コメントの中には

「かがの通信士が女性だったから」

という穿った(笑)ものもありました。
もちろん動画を見るまでもなく、「かが」通信士は男性です。

さらに記事では香港のテレビ局の軍事評論家(日本の伊藤提督のような立場の人?)
が、日中の軍艦の遭遇についてこんなことを言ってるらしい。

「中日関係が全面的に回復し、両国の軍隊が仲良くできることを示している」

いやいやいやいや(笑)
中日関係回復してないよ?全くしてませんよ?
強いて言えばトランプにボコられた分、日本に諂ってきているだけ。

あの国はその点、背中で匕首を抜きながら平気で笑顔で握手してくるからね。

それにしても、この香港の伊藤提督(宗さんといいます)、
軍事評論家のくせに全く海軍軍人同士の独特の連帯感をわかっとらん。

軍隊というものは、国同士が仲良くしているから仲良くするのではなく、
互いに干戈を交えるその瞬間までは友好的であるのがスタンダードなんですね。

佐藤正久議員が今回、

「韓国海軍のレーダー照射とは対照的に思えるのは佐藤だけではないだろう。
外交関係の影響もあろうが、南シナ海という敏感な海域でも
無線での挨拶はシーマンシップ」

とツィートしておられますが、「蘭州」乗組員が海軍軍人だったというだけのこと。
それに、香港の伊藤提督(宗さんだってば)は、その次の瞬間、

「中国海軍は、日本の艦艇が敏感な地域になく挑発的でもなかったので、
友好的なメッセージを送ったにすぎない」

 と、前言と矛盾することを言っています。
まあ、こちらが考察としては真っ当だと思われますがね。

日本の排他的経済水域で哨戒に来た軍用機にレーダーを照射し、
佐藤正久議員に中国軍とさえ比べられてしまった韓国海軍ですが、
今回の事件まで、自衛隊でははっきりと

「国同士はともかく我々は韓国海軍と非常に仲がいいんですよ」

と宣言しており、わたしも何人もの自衛官の口からそう伺いました。

練習艦隊で韓国に寄港したときに、現地の海軍軍人が岸壁で
両手を振って自衛隊を歓迎している写真を見たことがありますし、
前回の観艦式で横須賀に寄港した軍艦の乗員たちなどは、非常に友好的だったと聞きます。

仲が良かったはずの韓国海軍が今回このような暴挙に及んだことを、

「北の抑えがなくなった」

賀詞交換会では、現役の海上自衛官からも同じようなことを聞いたのですが、
つまり、南朝鮮は、もう北は南に責めて来ることはないのだから、
今の敵ははっきりと日本であるという認識でいる、というのです。

つまり国がそう(日本を敵だと)定めたからには、
当然のことながらそれに呼応するべく行動するのが軍というものだからです。


世界の海軍では、

海上衝突回避規範
(CUES:Code for Unplanned Encounter at Sea)

という不測の事態から衝突を防ぐための規範に合意しています。

その主な内容は、

他国船と予期せぬ遭遇をした場合、無線で行動目的を伝え合う

射撃管制用レーダーを相手艦船に一方的に照射しない

などの取り決めで、世界の21カ国が同意表明しています。

今回の中国軍と自衛隊の通信は前者に則り正しく行動した例で、
後者を破ったのが先日の韓国海軍ですね。

もちろん韓国海軍はこのキューズに合意していますよ。


さらにこのニュースにある海空連絡メカニズムとは、キューズに加え、
日中防衛当局間で

(1)日中両国の相互理解及び相互信頼を増進し、防衛協力を強化するとともに

(2)不測の衝突を回避し

(3)海空域における不測の事態が軍事衝突または政治外交問題に発展することの防止

のために昨年覚書が交わされたもので、条約を昔から愚直に遵守する
自衛隊は当然として、今回は中国人民軍も、普通にその合意に則る行動をとった、
ということになります。

ところで、韓国海軍の照射について、元自衛官の中には

「皆が思っているほど軍隊は統制が取れていないので、あれは
”韓国のアスロック米倉”が勝手にやったんではないか」

と言っている人もいるようです。
もしそうだとすれば、軍の統制という点で彼の国は
中国人民軍にも劣っているということになりますね。

ところで、乗艦してすぐ、本日昇任した海曹・海士がそれを認証される式、
昇任伝達が行われることをわたしたちは聞いていました。

士官室で中国軍とコンタクトする「かが」のニュースがすんだあと、
ハンガーデッキでその式が行われるので移動しましょう、ということになり、
その階にいる人たちが一斉に左舷側の通路に移動を始めました。

全員が一列で進んでいくので案の定すぐ渋滞になっています。
この分ではいつハンガーデッキに到達することやら、と思ったら、
案内の自衛官がこちらから行きましょう、と右舷側の通路に
エスコートしてくださったため、誰も来ていないうちに現場到着。

まだ昇任を認証される海曹と海士しか来ていません。

真後ろに出てきてしまったのでこの時間に前に移動すればよかったのですが、
なんとなくこの場から見学することになりました。

「今日昇任認証される人たちはギャラリーが多くていいですね」

「家族の方にも見てもらえますしね」

今列の右側に見えている女性はおそらくどなたかの家族だと思われます。

「かが」も気を遣って、認証される隊員の家族が前で見られるように
呼び寄せていましたが、結局この一人だけでした。

体験航海に家族の職場を見たくとも、あまりに遠方だったり
仕事があったり(この日は金曜日)で、中々叶わないものかもしれません。

結局この位置から昇任伝達とやらを見守ることになりました。
昇任する隊員とその階級を呼び、呼ばれた人は「はい!」と返事します。

女性の自衛官も二人か三人いたようでした。

続いて、全員が手にした「服務の宣誓」を一斉に朗読します。

「宣誓!
私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、
日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、
常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、
政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、
事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、
もつて国民の負託にこたえることを誓います。」

自衛官はその自衛官人生で、何度この宣誓を行うことになっているのでしょうか。

unknownさんにあとで伺うと、この服務の宣誓には驚いたとのことです。
ご一緒されていた先輩自衛官も「前はやっていなかった」とおっしゃったとか。

そもそも「日本国憲法を遵守し」という言葉は、あの三島事件が起きてから
宣誓文に付け加えられているそうですし、
どういう時に宣誓を行うかは時とともに変わっているのでしょう。

昇任の宣誓を終えてホッとした風の皆さん。
昇任伝達を行う隊員だけが白手袋まではめた儀礼用の制服です。

そしてほとんどすぐ、退艦が始まりました。
乗組員と家族はここで最後に別れを惜しみます。

艦を一歩降りればそこはもうJMUのドック内。
ということで、退艦者にはもれなく安全のためのヘルメットが渡されます。
そして、ドック内では写真撮影は行わないでください、という注意事項が伝達され、
この日の体験航海は終了です。

ところで、奥の壁にこんなものが貼ってあるのをわたしは見逃さなかったのだった。

DDH-184 KAGA

航空母艦「加賀」

よく見ると加賀さんの前垂れがさりげなく「84」に・・・。

1日も早く空母「かが」の勇姿を見たいものです。

 

最後になりましたが、今回の体験航海で終始丁寧に案内をしてくださった
呉地方総監部の皆様、「かが」乗員の皆様に心からお礼を申し上げます。

 

体験航海シリーズ終わり。

 

 

「我敵艦ニ必中突入中」〜USS「ヘイゼルウッド」と特攻

$
0
0

メア・アイランド海軍工廠で撮られた駆逐艦「ヘイゼルウッド」の画像です。

画面に添えられたキャプチャでもお分かりのように、「ヘイゼルウッド」は
1945年4月29日、沖縄で特攻機の突入を受けて壊滅的な損傷を負いました。

この特攻機は同同日2事34分に鹿屋基地を発進した西口徳次海軍予備中尉の
零式艦上戦闘機であることが今日日米双方の記録から明らかになっています。

鹿屋基地には西口中尉の零戦から同5時34分に

「我敵艦に必中突入中」

と打電があったのを最後に通信が途絶えたため、これをもって
突入に成功したとされていたのが、戦後にアメリカ側の映像が公表され、
情報の称号の結果、事実と認定されました。

わたしが所有している特攻隊資料によると、西口中尉は大阪出身。
関西大学出身の13期卒で、第9剣武隊特攻隊員の一員として
菊水四号作戦に出撃し、沖縄北端120度60哩で戦死したとあります。

大正11年生まれの西口中尉は散華した時22〜3歳だったことになります。

 

「ヘイゼルウッド」は特攻機突入後ウルシーの基地に帰還し、
そこで応急手当を受けてから1ヶ月半かけて真珠湾に到着、
(6月14日)その後ここメア・アイランド海軍工廠で修復作業が行われました。

これが特攻機突入直後とされる「ヘイゼルウッド」の写真です。

「ヘイゼルウッド」は、1943年、サンフランシスコのベツレヘム造船所で建造され、
就役後すぐにタラワに展開、ウェーキ島の攻撃機動部隊に加わります。

その後スプルーアンス提督の指揮する第52機動部隊に加わり、クェゼリン、
ペリリュー、フィリピンと転戦を続けてきた彼女は、1942年10月20日、
レイテ湾において、初めて激しい日本軍の航空攻撃の洗礼を受けることになりました。

次の週からは、敵の空襲と、艦隊の動きが活発となります。

「帝国海軍がフィリピンからアメリカを追い払い、
制海権を得るために、最終的だが無駄な努力をしたため」

と英語版のwikiにはいかにもアメリカ側の言いそうな言葉で
この辺の経緯が説明されています。


歴史的にはレイテ湾海戦として知られるこの戦いで、帝国海軍は3隻の戦艦、
4隻の空母、6隻の重巡洋艦、4隻の軽巡洋艦、9隻の駆逐艦、および、
多数の航空機を失い、事実上ほとんど壊滅することになります。

そして「ヘイゼルウッド」自身も、この時に少なくとも2隻の特攻機を
撃墜した、と記録されています。


その後彼女はレイテ湾に拠点を置いた哨戒に続き、
ウルシーでの訓練と砲撃に従事。

あのジョン・マケイン副提督(昨年亡くなったマケイン上院議員のお祖父ちゃん)
の空母打撃群の一員として攻撃に加わり、1945年1月3日から7日にかけて
琉球列島、台湾、沖縄、中国沿海部の大規模な空襲を行なっています。

その後2月19日に始まった硫黄島の上陸を支援するために南に向かった彼女は、
日本軍の特攻機などから絶え間なく攻撃を受け続けることになりますが、
無傷でここまで戦い続けました。

 

そしてレーダーピケット艦として沖縄に配置されていた
「ヘイゼルウッド」の所属する空母部隊が、低い雲から突如現れた
特攻機部隊に襲われることになる、運命の4月30日がやって来ます。

  「ヘイゼルウッド」に搭載されていた全ての銃が、一斉に火を噴きました。
かろうじて2機を撃ち落としましたが、雲間から現れた3機目の零戦が、
唸りをあげながら艦尾に向かって突っ込んで来ました。   一斉射撃の銃弾を機体に受けながらも、特攻機は構造を保ったまま、
「ヘイゼルウッド」の左舷の第二煙突に突入、激突して爆発しました。
マストが衝撃で倒れ、前方に搭載された銃座を押しつぶした時、
デッキとバルクヘッドに飛散したガソリンが炎上し火災が発生しました。   この攻撃で、わかっているだけで司令官を含む10名の士官と
67名の下士官兵が瞬時に死亡し、36名が行方不明、つまり
遺体すら見つからなかったといわれています。   3機目の零戦が機銃掃射をしながら突入して来た、という目撃証言から、
戦後、突入したのは機銃掃射が可能だった西口中尉の機と特定されることになりました。   「ヘイゼルウッド」ではこの攻撃によって、瞬時に、艦長はじめ
上層部が全滅してしまったため、今や最先任となった予備士官の機関中尉、
C.M. ロックが指揮を執ることを余儀なくされます。   彼は負傷者の救出とダメージコントロールを乗組員に指示し、
「ヘイゼルウッド」を5月5日、ウルシーに帰還させるために
粉骨砕身の奮闘を行いました。     説明にはAAguns(アンタイ・エアクラフトガン、対空砲)
も、特攻の攻撃によってなぎ倒された、とあります。   この時予備士官だったロック中尉と、同じく予備士官のリーガス中尉は、
二人で兵員を指揮して1時間半後に火事を消し止めることに成功。 同じ機動部隊の他の艦が、5本の消火ホースで周りから水をかけ、
支援したことも消火につながりました。   ところで、この写真とその上の写真、上部構造物の一部に
「目隠し」がかけられていますが、当時の海軍工廠で撮られた写真なので、
おそらくレーダーのアンテナが機密扱いされていたのではないかと思われます。

さらにここメア・アイランド工廠で最終的な修復を受けるために、
「ヘイゼルウッド」は上部構造物を取り払ったまま太平洋を運ばれました。

写真は修復で構造物を積んでいるところ。
現地の説明によると、

「太平洋から日本軍を追い払うために必要とされていた彼女は
1日も早く一線に復帰するために40万のマン・アワー
(一人1時間あたりの仕事量、つまり述べ40万時間分の労働)
と、総労働者のうち60パーセントに熟練の技術者を投じた修復作業を施され、
元の姿に戻されました。

これもアメリカ海軍の公式写真です。

細部を見ると、甲板で作業に当たっている水兵の姿が見えますが、
修復が終了した「ヘイゼルウッド」の姿だと思われます。

 

ところで、「ヘイゼルウッド」に突入した特攻機が
西口中尉のものであると特定された、という記事が
産経新聞に掲載されたのは今年の5月のことでした。


「我敵艦に必中突入中」打電後、米駆逐艦が大破炎上 
米の映像で特攻の最期特定 京都の慰霊祭で上映

という見出しで、次のような記事でした。

鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機で出撃した特攻隊員の
西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、
沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドに突入した直後に同艦が大破、
炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。

27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映され、
遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。

西口中尉の妹前田かよ子さん(80)=兵庫県芦屋市=は

「まさか今になって見られるとは。見つけてくださりありがたい」

と見入った。

遺族から依頼を受けた大分県宇佐市の市民団体
「豊の国宇佐市塾」が、米国立公文書館で映像と関連資料を発見。
遺族が持っていた旧海軍の出撃に関する記録と照合し、一致した。

調査した同塾の織田祐輔さん(31)は

「旧日本軍の記録は処分されたものも多く、日米双方の記録から
特攻隊員の最期を特定できた珍しい事例だ」

としている。

映像はモノクロで、救難するため駆け付けた米艦船から
従軍カメラマンが撮影したとみられる。
攻撃を受けたヘイゼルウッドが煙と炎を上げ漂流する様子や、
消火活動に当たる場面を記録。
艦橋部分は大破し、甲板上で走り回る乗組員の姿も捉えていた。

西口中尉のゼロ戦の残骸は確認できなかった。

 

検索してみたのですが、その映像はまだyoutubeにはあがっていません。

西口中尉は大阪市出身で43年9月に13期海軍飛行予備学生、
つまり学生出身の飛行士官に任官しました。

戦死した45年にはもう中尉に進級していたわけで、
この「スピード出世」は当時の戦況の厳しさを思わせます。

西口中尉が出撃したのは神雷特攻隊。

もちろん「神風特攻隊」ではないのですが、アメリカでは
特攻隊イコール「カミカゼ」なので、正式な文書でもそう記してあります。

特攻戦死後、西口中尉は慣例に従い、海軍少佐に昇進しました。


産経新聞にはフィルムを鑑賞した西口少佐の遺族について、
以下のように書かれています。

これまで知っていたのは、兄が沖縄近海で特攻を試みたという事実のみ。
3人の妹は、西口徳次中尉の特攻で炎を上げる米艦船の映像を
固唾をのんで見守った。

「ぶつかったとき、どんな気持ちやったろか」。

兄の最期に思いをはせ、涙があふれ出た。

9人兄妹の長男だった西口中尉は、勉強熱心で几帳面な青年だった。
親に内緒で海軍に志願し

「僕が死んでも、良くやったと褒めてください」

と家を出た。
帰ってきたのは、名前の書かれた紙が入った箱だけだった。

幼かった一番下の妹杉山智恵子さん(75)=大阪府寝屋川市=は、
兄の記憶がほとんどない。ただ、亡くなった母が

『厳しく育てすぎた。かわいそうなことをした』

と泣いていたのが、忘れられなかった。

兄のことを知りたいと考え、数年前、厚生労働省や
鹿屋航空基地史料館に問い合わせ、特攻時に打った
モールス信号の記録などが見つかった。
今回、米側の資料と結び付き、突入した艦の映像が特定できた。

強くハンカチを握りしめながら映像を見た三女西口さよ子さん(78)は

「いつも兄を思い出して、負けたらあかん、と自分を奮い立たせていた。
最期が見られて良かった」

としみじみと話した。

 

流石に産経新聞だけあって、朝日毎日新聞なら間違いなく

「若い人が兄のような目にあうような戦争は二度としてはならない」
と訴え、アジア諸国との摩擦が絶えない現状で、歴史的な反省もないまま
戦争ができる国になりつつある今の日本に強い懸念を表明した。

とかいう結論に落とし込みそうですが、遺族の言葉も
おそらくあまり加工せずに、そのまま記事にしているようです。

 

莫大な費用と人員を投入して渾身の修復をここメア・アイランドで
行い、ほぼ元の姿に戻された「ヘイゼルウッド」ですが、
修復を行っている間におそらく終戦を迎えることになったのでしょう。

戦線に復帰することなく、そのままリザーブ・フリートと呼ばれる
予備役艦隊の仲間入りをすることになり、1946年から5年間、
サンディエゴでモスボール保存されていました。

1951年、彼女は朝鮮戦争の開始に伴い再就役で現役復帰します。

そのため、かつて死闘を繰り広げた国、日本に向かい、
そこから韓国沿岸の哨戒任務に就くことになりました。

 

昔当ブログで駆逐艦「JPケネディ」について書いたとき、
「ケネディ」が搭載していた無人ドローンへりのDASHの動画を
紹介したことがあるのですが、それは他ならぬ「ヘイゼルウッド」の映像です。

Drone Anti-submarine (DASH) helicopter on the deck of USS Hazelwood (DD-531)

懐かしいので?もう一度貼っておきます。

「ヘイゼルウッド」はキューバ危機の時には支援艦として参加していますし、
1963年、潜水艦「スレッシャー」が沈没するという痛ましい事故の後には
事故海面に展開し、研究者とともに事故原因の究明に当たるなど、
65年に再び予備艦隊入りするまでフルで活躍を続けました。

そして、第二次世界大戦中、実に10個のサービス・スターを受けています。

 

ところで、西口少佐が最後に打電した言葉に、わたしは思いを致さずには要られません。

「我敵艦に必中突入中」

ぶつかった時どんな気持ちやったやろか、と遺族が常に想像するところの
最後の瞬間、この一言から想像する限り、彼は自分の特攻が成功することを
もはや確信し、達成感に高揚していたと考えられます。

自分の生がわずか23年で終わること、死への本能的な恐怖、
出撃まで苛まれていたに違いないそれらの苦悩はその時全てかき消え、
至福のうちに西口少佐は現世の門をくぐって逝かれたのではないか。

不遜といわれようが、わたしはそうであったことを寧ろ祈っています。

 

 

先遣隊降下!〜平成31年度 第一空挺団降下始め

$
0
0

「かが」体験航海記も終わったところで、降下始めに戻ります。

指揮官降下、来賓の入場が終わると、いわゆる「地上展示」の始まりです。
この展示は三段階に分かれ、まず

着上陸準備

として偵察部隊の派遣が行われるのです。

演習に先立ち、地形の説明などが行われました。

黄色や赤の旗を振っている部分がなんなのか聞き逃しましたが(おい)
この演習場、事前に配られたパンフレットによると、

「習武台」「まむし森」「馬頭塚」「高津森」

などの地名が付いているそうです。

ついでに、アナウンスでは、習志野という地名のいわれを

「大演習での陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘された
天皇陛下の「篠原に習え」という言葉が元になった」

(習篠原→習志野原)

という言い伝えを紹介していました。

ふと演習場端を見ると、水陸両用車がスタンバイしている様子が。

AAVの出番は第二次目標線の確保なので、まだまだ先です。
どうやら丘の陰、皆から見えないところで待機する模様。

着上陸準備に先駆けて、まず航空偵察が行われます。
海上自衛隊の哨戒機P-3Cが敵地の偵察を行っているという設定。

拡大したらグーグルをつけたコパイの顔が見えました。

航空偵察の2機目に投入されたのはLR-2。
確か前回、航空機につけられる頭文字の解説をしましたが、
それによるとLは連絡、Rは偵察。

陸自唯一の固定翼機であるLR-2はその通り連絡偵察機です。

偵察部隊の派遣の次段階は先遣隊の投入。
CH-47が高高度を通過しました。

よく見るとヘリから自由降下、つまり生身の人間が飛び降りています。

生身で飛び降りて地表近くで開傘することで敵に視認されにくくするのです。
それにしても・・・・・。

これまでの自由降下は特に選ばれた精鋭四名でしたが、
今回の傘の多いこと。

こんなにたくさん自由降下の傘が空を舞うのを見たのはここ何年かで初めてです。

パラシュートはアメリカのパラフライト社のMC-4という製品で、
スポーツ用で操作性が非常に優れているということで選ばれたそうです。


降下中もっとも怖いのが互いの傘が絡まることなので、
こういう事態になった時には遠目にも真剣な様子が伝わってきます。

阿吽の呼吸で互いに接触を避けるのでしょうか。
下の隊員が脚を大きく開いているのは、
体をよじることで傘の操作をしているからかもしれません。

遠目にも彼らが互いをしっかりと見つめあっている様子がわかります。

風で傘が流されるような状況でもなく、皆当たり前のように両脚着地です。

先に降りた人のわずか数メートル横にピタリと着地。
向こうの隊員さんの顔をアップにすると笑顔です。

「いやーちょっと近づきすぎちゃってヒヤッとしましたよ」

とか?

傘の片付けを行う自由降下隊員。
こうしてみると、ほぼフルフェイスのヘルメット(顎付き)をしています。
落下傘の事故にヘルメットなどほとんど役に立たないような気もするのですが、
それより内蔵されているインカムとレシーバーが主目的なのかも。

快心の降下始めだったのか、精悍な彼らの顔も心なしかほころんでいます。
しかし、あんな高いところからの自由降下、きっと達成感すごいよね。

走りながら退場していく隊員たちが皆演習場奥に降りる傘を見ていますが、
同じCH-47から降りたアメリカ軍の空挺隊の降下ぶりを観察しているのだと思われ。

同じチヌークに乗り込んで、降下までの間、彼らが中でどんな様子だったのか
交流はあったのかを、隠しカメラで見てみたいと思うのはわたしだけ?

アメリカ軍の傘も同じ形ですが、少しだけ色が違うかも。

あんなに高いところから降りたのに、皆ピンポイントで同じ場所に降りてくるのが凄い。

アメリカ軍といえば、グリーンベレーが行うHALO(ヘイロー)降下、
高高度降下低高度開傘は

高度10,000メートルから降下

高度300メートルで開傘

で、もちろん酸素マスクと防寒スーツ着用で行います。

気象班(というのかどうか知りませんが)もお仕事中。
降下前にはグレイの気球がいくつか空中をふわふわしていました。

スモークを焚いているのは降下地点であることを伝えるため。

ここでシナリオでは、海自の自衛艦からの艦砲射撃が行われ、
それに伴ってAH-1S2機がヘリによる事前制圧を試みるとあります。

上にもうすでに飛来しているC-2から降りてくる先遣部隊が
地上から狙われないための制圧だと思われます。

C-2登場。
すでに開けられたドアには第一陣の先遣隊が降下を始めようと姿を見せています。

C-2は航続距離に問題のあったC-1の後継機として川重と技本によって開発されました。
つまりメイドインジャパン🇯🇵です。
今後もC-1と置き換わる形で30機まで配備予定だそうですが、
今のところ就役しているのは9機だけです。

この機体は207なので、C-2を表す200番台の7番目と考えればいいのかな。

搭載量半端ない巨体なのにブルーグレー塗装のせいでスマートに見えますね。

固定翼機からの降下は基本両側のドアから同時に行われます。

「降下降下降下!」

で間を空けずにドアからは降下員がこぼれ落ちてきます。

両側のドアからは同時に降下することが決まっているようです。
ちょっと時間をずらした方がいいのではないか、というのは素人の考えですかね。

C-2の機体下部に着陸灯が点灯しています。その理由は?

このC-2は確か美保基地から来たとアナウンスされていたと記憶します。
美保基地でのC-2のあだ名は「Blue whale」(シロナガスクジラ)。

確かに「青いクジラ」だ!

先遣隊は偵察に必要な装備を途中で落下させ、それを錘のようにして降下を行います。

自由降下した米軍人がまだいるところにも降下降下降下〜!

C-2が降下始めに登場したのは今回が初めてです。
おなじみのC-1がやってきましたが、実は先遣隊はここまでで、
このC−1から降下するメンバーが、主力として前進を行います。

ここからが全部で三段階のうちの第二段階である、

「海岸堡の設定」

彼らが海岸線にベース、つまり第一次目標線を構築するというわけです。

まるで鏡に映ったように同時に降下した二人の動きがシンクロしてるー。

ドアの外にはステップがつけられています。
ジャンプ前に傘が自動的に開くように、傘の先の道具を
機体のバーに固定し、それが引っ張られて傘が出てくるわけです。

ところでこの写真で初めて気がついたのですが、空挺隊員もメイクするの?

C-1から降下した落下傘の上を、今度はC-130が航過。

次の空挺部隊をばらまいていきます。
実はこのC-130Hがいまだに陸自では主力らしいですね。

このC-130Hには日米の空挺団が合同で乗り込んでいます。
今年のアメリカ参加部隊は在アラスカ第25師団第4空挺旅団戦闘団と、
沖縄の第1特殊部隊群に所属する空挺団です。

実はアラスカの戦闘団は去年も参加しております。

ただし、去年は盛んに流されていた空挺歌の「ライザーの血」という
啓蒙ソング(リングを掛け忘れて飛んだら死ぬよ的な)、メロディは
「太郎さんの赤ちゃんが風邪引いた」または「ヨドバシカメラの歌」の
あれは今回全く鳴らされませんでした。

最後の挨拶で岩屋防衛大臣が「近所の人にご迷惑をかけたことを」
わざわざ謝っていたくらいなので、騒音配慮でカットしたのかもしれません。

いや、確かにうちの近所の学校も、運動会の前後に近所の皆さんに謝ってますが、
これって運動会じゃないんだからさ。団歌くらい流しましょうよ。
アメリカ陸軍の皆さんをリスペクト&歓迎する意味でも。

ついでに、岩屋さん、あなたねえ。今回のレーダー事件のことだけど、
未来志向とか真摯に対応とか、此の期に及んでヌルいこと言ってんじゃないですよ。

なんでそんなにいちいち腰が引けているのかしら。
防衛大臣だけにディフェンシブ?ってか。笑えんわ!

というわけで真剣な模擬戦だからという表向きの理由のもと、
団歌を鳴らしてもらえないまま、米陸軍の降下は続きます。

豪快に落ちてきてるうー!

同じタイミングで飛び降りた二人は得てして空中でコリジョンを起こすのですが、
これにちゃんと対処しないと傘が絡まってしまって大事故になります。

それこそ「ライザーの血」ですな。(ライザーとは傘と体を繋ぐ部分)
わたしのカメラは、今回こんな決定的シーンを捉えていました。

まず、接近して体が接触しそうになった二人の米空挺隊員あり。

体を離すために、相手の頭をキックしております!

あとで

「てめーやりゃーがったな」

「ああしてなけりゃどうなったと思ってんだこのあほんだら」

「いーや、あのキックには悪意がこもってた。お前わざと頭蹴っただろ」

みたいな諍いになっていないといいのですが。

一つ言えるのは、同じアメリカ軍同士でよかったね、ってことです。
こう両軍いり乱れているようでは、何が起こってもおかしくない。

降下地点が同じなので、危うく傘の上に落ちそうになる(画面右)人も。

遠目に見る静かなカオス。

しかし全ての降下員は粛々と傘を回収し、あっという間に退避しました。
この主力部隊はいつの間にか目標線を確保することに成功したようです(棒)

 

続く。

 

 

 

へリボン部隊による第2次目標確保〜平成31年第一空挺団 降下始め

$
0
0

わたしが本年度の降下始めについて、例年になくその展示を
専門っぽい用語で説明できているのには訳があります。

今年は朝演習場に入場したとき、途中で参加者にA4用紙を二つ折りにした
カラーのパンフレットが配られたからで、そこに記された
タイムテーブルと写真を照合して紹介しているからです。

これまで何度か降下始めに参加してきましたが、こんなパンフをもらったのは
今回が初めてで、おそらく配るのも初めての試みではないかと思われます。

特に去年は広い演習場でいきなりサバゲーが始まり、特に一般席で観ていると
説明が聴こえずに何が起こっているかさっぱりわからないまま終わったので、
今年はもう少し丁寧に説明しましょう、ということになったのでしょうか。

というわけで、いわゆる「地上展示」の「フェーズ2」(とは書いてませんが)は、
フェーズ1によって準備された着上陸を済ませた部隊が海岸堡を設定する段階です。

第1次目標線を確保するために投入された主力の日米混合空挺部隊が降下し、
フェーズ2の第2段階は

「へリボン部隊および水陸機動団による第2次目標線の確保」

となりました。

そこで多用途ヘリUH-1Jがドアを全開にして飛来します。
ヘリからは狙撃手が銃を構え地上の敵の掃討を試みます。

へリボン(Heliborne)という言葉は「ヘリ」と運ばれるという意味の「ボーン」の造語で、
ヘリで部隊を輸送することをいいます。

空挺は「エアボーン」ですが、「エア」「ボーン」で「空中輸送」。
旧陸軍がエアボーンを「空中挺進」という造語で表したので、その後
自衛隊でもこの「空挺」という言葉が引き継がれています。

まずプログラムによると「へリボン(狙撃)」から。
なんかものすごくかっこいいギリースーツ軍団が乗ってます。

ヒューイが地面に降りる前に、すでに狙撃兵たちは
銃を持ったままスキッドに立っています。

ヘリパイの練度も半端なさそう。

ヘリは着陸せず、狙撃兵だけを降ろして離脱する気満々。
狙撃兵のヘリボーンの時、いつも機上から錘のようなものが降ろされます。

これはおそらくですが、飛び降りることのできる高さを機上から測るためで、
目視で飛び降りられると判断しても草が深かったり沼だったり、
飛び降りて安全かどうかを確かめているのだと思われます。

非常時でも安全には慎重に。

錘が地面に届くだけの高さをキープしてホバリングしたヘリから
ヘリボーンされてきた狙撃兵たちが一斉に飛び降ります。

右の人、着地失敗して転んでしまったのか?と思ったら・・

そうではなく、着地するなり地面と同化するため匍匐の姿勢になったのでした。
敵がどちらにいるかわからないので、とりあえず全周を警戒します。

そして海岸の第2次目標線まで身を隠しつつ潜入。

どうもこの丘の上が目標線らしいです。

しかしいつも思いますが、降下始めの狙撃兵は夏の総火演で
大変なぶん、ちょっと役得(ギリースーツがあったかい)なのでは。

今年は車を草の葉で偽装した「モフ車」の出演がなかったので、
このギリースーツがかろうじて「モフ的な存在」となりました。

なぜだ。なぜあのハートウォーミングな偽装車を出さない?!
毎年あれを楽しみにしているファンも決して少なくない(はずな)のに。

続いてへリボンされてチヌークから降りてきたオート(バイク)の偵察隊。
何年か前は観客の前に来て銃を構えて見せてくれたものですが、
今年は草葉の陰にこっそり降ろされて、遠くをただ走り去るのみ。

もうちょっとギャラリーにサービスしてくれてもいいのよ?

続いては「ヘリ火力戦闘」です。
次に行われる兵力の投入の前に「露払い」するという意味があるかと。

戦闘ヘリ AH-1Sコブラが2機やってきましたよ。

なるほど、これが火力戦闘中なうってことか。
ものすごい角度で飛びまくるコブラと観客のまったり感のコントラストがシュール。

あ、そういえば今年は攻撃ヘリの「アパッチ」の姿を見なかったな。
今12機しかいないので、温存しているのでしょうか。

プログラムによると次は

「エキスト卸下(しゃが)」

となっていますが、はて「エキスト」とは?

去年電池を入れるのを忘れ、完全にカメラをただの重石にしたわたしにとって、
降下始めを一眼レフで撮るのは実は初めてのことになります。

ニコ1の望遠レンズは優秀だと今でも思っていますが、それでもやっぱり
70−300の望遠を付けた一眼には敵わないと思いましたね。
チヌークの後ろハッチから一番最初に降りる隊員の表情まで写っています。

ところで、この隊員の装備を見ると、これはリペリングではなく、

ファストロープ降下

といわれる方法だと思われます。
つまり25mのロープを短時間に何人もが両手両足だけ使って降りる方法です。

まず後部ハッチからロープが降ろされます。
もしかしたらこれをエキスト卸下と称しているのでしょうか。

カラビナと呼ばれるロープを通す器具なしで降りています。
事前事後に準備と片付けがいらないので、素早く部隊展開できるのです。

必ず手袋を着用し、両手と両足を使ってロープを降ります。
この訓練は最初命綱を付けて行いますが、最終的には高所から
短時間で、もちろん命綱無しで、しかも武器を持っての降下を
最低10回はこなさなくてはなりません。

簡単に見えているようですが、ここに到るまでに厳しい訓練の積み重ねがあります。

またもやヒューイがやってきました。
乗っているのはギリースーツではなく戦闘服の一団です。

ドアの端に座っている二人をよく見ると、命綱が見えますね。
降下する予定の人は小銃を持ち迷彩メイクを施しています。

ところでこのメイクパレットは官品として支給されますが、
メイク落としは自費で購入しなくてはいけないのだそうです。

迷彩メイクは濃いのでウェットティッシュタイプは一度に4〜5枚使ってしまい、
さらにオイルのメイク落としと兼用する人が多いとか。

というわけでコンビニでメイク落としとストッキング(靴磨きに使う)を
買う短髪の男性がいたら、まず間違いなく陸上自衛官です。

ファストロープ降下より細めのロープが降ろされました。
リペリング降下が行われます。

ファストロープとの大きな違いは、脚を使わず両手だけで降りることです。
彼らの体に付けられたカラビナと呼ばれる装具にロープを通し、
命綱のようにして両手で調節しながら降りていきます。

これを懸垂下降といいます。

登山などではこれを使って岩肌を後ろ向きに歩いて行くように降りるわけですが、
ヘリから降下するときにはほとんど一気に滑らせていきます。

これも見ているほど簡単ではなく、訓練せずに行えるものではないということです。

しゅたっ!しゅたっ!しゅたっ!どすっ!(左の人)

という感じで4名がほぼ同時に着地を行いました。

まるで戦隊ヒーローものみたいなのでアップにしておきます。

ファストロープと違って、こちらは着地後ロープをカラビナから外さなければなりません。

皆素早く外し、目標線に向かって駆けていきます。
腕章した人はメディックですか?

「水陸両用車上陸」!

上陸、ということはここは島嶼部だったのね、と気づくわけですが、
それでは海岸はどこかというと、演習場の左の建物のあたりらしいです。

先ほど自衛艦からの艦砲射撃が行われたのもその辺からです。

「エキスト吊下・離脱」

とプログラムにあります。
吊下をなんと読むのかわかりませんが「つりさげ」でしょうか。

つまりこういう状態のものを「エキスト」だということはわかりました。
「エキスト」・・・エクステンションのことかしら。

実際に戦地でこのエキスト係になったらきっと怖いと思うんだが。
この三人、ギリースーツは付けているけどほぼ無防備。

相手に見つかるより先に攻撃をすることで防御となす!というわけか・・。

あれれ、ヒューイが攻撃を?

と不思議だったのですが、あとでプログラムを見たところ、これは

「地雷散布」

をしていたことが判明しました。

プログラムには

「ヘリ機内外搭載」

と今ひとつよくわからない書き方をしてありますが、これは
ヘリの機外にこの120ミリ迫撃砲、内側に車両、人員を搭載している、
という意味だと思われます。

 

さて、ここまでで地上展示のフェーズ2、「海岸堡の設定」は終了し、
平成31年度降下始めは最終段階へと突入していくのでありました。

 

続く。

 

 

最終フェーズと岩屋防衛大臣の訓示〜平成31年度 第一空挺団降下始め

$
0
0

平成31年度降下始め地上展示は、いよいよ最終段階へと差し掛かりました。
フェーズ2で「海岸堡の設定」を目標とした我が軍は、これに成功し、
ヘリ火力と狙撃、そして地雷の散布によりある程度敵を撃破した、
というところでフェーズ3になります。

海岸堡設定に続くフェーズ3、それは・・・・

「海岸堡設定以降の攻撃」!

それはそうだろう、というしかないわけですが。

というわけで「海岸堡建設以降の攻撃」です。

つまり前段に続き、後続部隊による残存した敵を撃破し、
海上と航空における優勢を確保するという目標に向かってGO!

チヌークからは野戦特科部隊が降りてきました。

ヘリで輸送されてきた特科部隊が展開した場所は、わたしの見ているところから
遠くで、なおかつ草むらの向こうだったのですが、彼らが
陣地構築のための道具を持って物陰から物陰に向かってダッシュするのは確認できました。

カゴに入っているのは偽装網、棒は偽装網テントのための骨でしょう。

ヘリの内外に搭載した人員と物資を降ろし終わり、
素早く離脱していくチヌークさんたち。

フェーズ3の第一段階は、プログラムによると「即機連」となっています。
これは

「即応機動連隊」

のことで、即応機動連隊主力によって師団を掩護し、
態勢を確立させることを第一段階の目標としているのですが、
それに先駆けて真っ先に上陸を果たした水陸両用車が、
車両戦力の先駆けとなって攻撃を試みます。

水陸両用車の火砲の火花など初めてシャッターに収めることができました。

水陸両用車AAV7の主武装は

12.7mm重機関銃M85

40mm自動擲弾銃Mk.19

となっているので、これは後者が火を噴いているのだと思います。
違ってたらごめん。

いや、もしこれが擲弾銃だとすれば、

「銃口のフラッシュハイダー(発火炎抑制装置)の効果と
発射ガスの少なさから射撃位置の秘匿性に優れている」

という説明はこの画像に当てはまらないような気が・・・。
そもそもこんなに黒煙をもくもく上げては秘匿性などないですよね。

やっぱり1分に4〜500発発射するという重機関銃の方でしょうか。

次の段階は「師団火力戦闘部隊による突撃支援態勢の確立」です。

遠距離から掩護を行う155mm榴弾砲と、手前には
93式近距離対空誘導弾が進入してきました。

偽装網をかけたところから発砲される120mmも陣地構築済み。
そこに即応機動連隊主力である16式機動戦闘車、MCVがやってきました。

この角度から見て初めて気がついたのですが、MCVのタイヤホイールの色、
本体と合わせている生で綺麗に前から緑・茶・緑・茶になっています。

おっしゃれ〜!

 

ところで、先日表敬訪問して20分だけ旅団長と懇談した陸自駐屯地では
将来的にはMCVが入ってくる「予定」なのだが、まだまだ先になりそう、
と旅団長自らがおっしゃっていたのを思い出しました。

この会話になったのは呉で行われた「海将を囲む会」席上だったわけですが、
この時会話していたのは、旅団長、わたし、TO、海自基地司令の四人。

旅団長と基地司令は防大の同期とかで仲良しなんだそうです。

旅団長がこの話をした時、MCVがなんであるか知っていたのはわたしだけで、
TOと基地司令が

「え、えむしーゔぃーって何?」(・Д・)(・Д・)

な反応だったのが印象深かったです。
TOが知らないのは当たり前としても、本当に陸海空って
お互いのこと、特に装備なんてほとんど何も知らないのね、と思った瞬間でした。

さて、そのMCVですが、AAV7が頑張っている海岸堡に駆けつけ、
さらなる掩護態勢を確率すべくずずーいっと前にしゃしゃり出てきました。

「待たせたな!こっからは俺たちに任せといてくれや!」

みたいな。

即応機動連隊の戦力には軽装甲機動車も含まれます。

海岸堡にこれから大量突入する予定の歩兵が伏せて待機する中を
2台のラブ、ライトアーマーが疾走していきます。

草むらと同化している人たちを弾いてしまわないかちょっと心配(笑)

師団火力戦闘部隊によって突撃支援態勢を構築したところで、
いよいよ戦車などによる目標奪取が試みられます。

10式戦車が乗り込んできました。
島嶼部であるというここまでどうやって来たのかという気もしますが、
海岸線から上陸して来たということは、海上輸送されて来たはず。

「おおすみ」とかに積めるんでしょうか。

何年か前、降下始めに初めて10式戦車が登場した時は、
観客のほとんどは降下より新しい戦車見たさに来ているように見えましたが、
流石に配備されてから6年目、配備台数も93両(平成30年度現在)なので、
皆見慣れてきて全く驚きはありません。

演習場のあちこちからは後方から支援を行う火砲の煙が上がります。

水陸両用車とMCVが頑張っていた前線に10式戦車が到着しました。
流石にここでは総火演のように10式が砲撃を行うことはありません。
なので大変わかりにくいのですが、これにより我が軍は目標を奪取し、
さらなる優勢を確保したということになっているようです。

つまり地上における敵はこれをもちまして撃破してしまったことになります。

フェーズ3の最終段階が仕上げとして行われます。
「方面隊等」となっているその攻撃は、

「対空、対舟艇、および対艦戦闘部隊による
海上・航空優勢の確保」

これは PAC3、ペトリオットミサイルで「対空」です。

PAC3は昔説明したように「ミサイルは空を飛ぶから」という理由で
陸自ではなく航空自衛隊の装備ということになっています。

ご覧のように運用している隊員の迷彩は空自迷彩。
地対空ミサイルで運用する人が地面にいるんだから
迷彩が空自のままではまずいんではないかという気がしますが
空自は頑としてこの迷彩を変えることはしません。

ペトリオット部隊はここ習志野にも配備されているので、
空自が駐屯地の一部を「間借りしている」という状態なわけです。

そして空自の装備であるという理由で迷彩塗装をしません。

ペトリオットミサイルの前には、03式中距離地対空誘導弾、
通称中SAMが配備されました。

手前の隊員は99式多目的誘導弾が構築するのを掩護しています。

うい〜〜〜んと地対空誘導弾が発射筒を立てるころには、


実はとっくに、

「状況終了!」

♪ソードソードミードミード そみどソッソミ〜〜〜♪

となっておりました。

この最終段階に投入する対空、対艦、対舟艇の戦力は他に

99式多目的誘導弾システム

多連装ロケットシステム

地対空誘導弾

12式地対艦誘導弾

などです。

ちなみに、10式以外の74式戦車、そして96式装輪装甲車、
そして87式偵察警戒車などは、わたしたちの目には見えませんでしたが、
事前制圧の艦砲射撃、そしてフェーズ2のヘリ火力戦闘の時に
どこからともなく火力支援を行なっていたことになっています。

丘の上では最後の大臣訓示のための準備が始まっていました。
各幕僚長などが立つ位置に印をつけ、名札を配置し、
岩屋大臣が立つための「習志野演習場特性お立ち台」を設置。

訓示を受ける隊員たちが走って入場です。
丘の上では近接戦闘の展示が始まっていますが、これは次回お話しします。

背広の上に防寒用の貸し出された迷彩を着た一般人と、
海上自衛隊、航空自衛隊の迷彩を着た各幕僚長が定位置につきました。

海自は河野統幕長が出席しているせいか、海幕長の姿はありません。
そして、統幕長としての河野海将の姿を降下始めで見るのもこれが最後となります。

岩屋防衛大臣が壇上に立ち、総員敬礼用意。

陸上自衛隊中央音楽隊による黛敏郎作曲、「栄誉礼冠譜」及び「祖国」
の演奏が始まりました。

ソ ドッドドドッドッソ〜♪ ソ ドッドドドッドッソ〜♪

で始まる栄誉礼です。

この後の岩屋大臣の訓示は、右へ倣えしたメディアによって一様に

岩屋防衛大臣は訓示で宇宙やサイバー空間など新しい防衛力の整備を強調しました。

「すべての領域の能力を融合させた真に実効的な防衛力である、
多次元統合防衛力の構築に向けた取り組みを始めることになります」

と報じられましたが、わたしは前にもいったように、
近隣の人たちにわざわざ騒音を謝るなど、防衛大臣が自衛官を前に今いうことか?
とも思える「お気遣い」から、否が応でも例のレーダー事件における
対応の生ぬるさを、思い出したくもないのに思い出してしまい、
思わずイラっとしたことを正直に申し上げておきます。

防衛大臣を辞任した時涙した小野寺さんだったら今回どうしていたか、
わたしはつい考えずにいられないわけですが、たとえ稲田さんでも、
いや、稲田大臣であれば、国民が今岩屋大臣に抱いているほどの不満は
感じずに済んだのではないかとさえわたしは思っています。
(入国拒否されたこともありましたし、韓国には厳しい人でしたからね)

岩屋大臣は日韓議連でこそないですが、パチンコチェーンストア協会所属だとか。
レーダー映像の公開にも反対したそうだし、こういう防衛大臣の元では
はっきりいって自衛官の士気は上がらないのではとさえ思ってしまいます。

韓国がまともな対応をできない異常な国であることはもうわかったけど、
岩屋大臣の言うこともいちいち的が外れている気がするんですよね。

「威嚇飛行していない。なぜなら哨戒機は駆逐艦より弱い(?)」

なんて一生懸命言い訳して(つまり相手の挑発に乗って)どうするの。
そもそもレーダー照射の話はどこにいってしまったんですか(笑)


続く。



近接格闘訓練展示〜平成31年度 第一空挺団降下始め

$
0
0

お話ししてきた平成最後の降下始め参加記も最終回になりました。
前回、防衛大臣訓示のところまでお話ししたわけですが、
少しだけ時間を戻して、今日は招待者観覧席前で行われた
近接戦闘訓練のデモンストレーションについてです。

状況終わりとなってから、訓示が行われるフィールドで整列が始まりました。
隊員がたくさんいるので、わたしてっきり今まで、訓示には
「訓示要員」として、今日の仕事はこれだけで終わり、なラッキーな隊員が
参加しているのだと思っていました。
だって皆迷彩メイクしてないんだもん。

でも、ギリースーツの狙撃班は流石に実際に参加した人たちか・・・。

そしてこの丘の上の方では、こんなことが行われていました。

近接戦闘訓練展示です。

招待席の前で行われるので、わたしは近接で見たことがありません。
これまでは完全に丘の向こうで行われていたため、
その片鱗すら覗くこともできなかったわけですが、今年はなぜか
ちょっとだけこちらよりでやってくれたおかげで、優秀な望遠カメラがあれば
なんとかその様子を写真に撮ることはできました。

手持ちなので限界はありますが、それでも画素数が大きいので、
なんとかここでご紹介することができます。

 

さて、自衛隊の格闘術ですが、自衛官は白兵戦や徒手格闘の戦技として
編み出されたものを日々訓練によって身につけています。

自衛隊の格闘術というのもそれなりの歴史がありまして、
それは「平成19年前」とそれ以降に分けられます。

平成19年に何があったかというと、それまでは昭和34年に制定された

自衛隊徒手格闘

自衛隊銃剣格闘

自衛隊短剣格闘

などが廃止され、「新格闘」というものに改変されたのです。
ただし、新格闘になっても「武器技術」という形で後者二つは残っているので、
昔も今も自衛官は銃剣格闘的な訓練を行うものなのだそうです。

陸上自衛官であれば、二佐以下は必ずこの教練を受けることになっており、
海自、空自では警衛などの格闘術を必要とする部隊で取り入れられています。

なので、陸上自衛官あるあるとしては、私服のときに傘を持つと、
気がついたらついつい銃剣術の型をやってしまっているのだとか。

サラリーマンが駅で傘でゴルフをやるみたいなもんですかね。


新格闘はそれまで武道色が強かった格闘を、つまりは
より実戦的に自己を守り、相手を倒すための技術として再編したものですが、
基礎技術は基本的にそれまでと変わったことはないようです。


何度も言いますが、格闘展示が行われていたのは座っていたところから
はるかに遠いところで、肉眼ではほとんど何も確認できない距離です。

そちらにレンズを向けて何枚も連写し、あとで拡大して見てみたら
一人の「主役」的な隊員(この写真でこちらを向いている)が、
次々と襲い来る敵を格闘技で撃退するというシチュエーションのようでした。

ちなみに、画面右側に立っている人は防衛大臣SPだと思われます。

相手の腕を取り、逃げ場を塞いでから急所を攻撃。
これはわたしが息子に付き合って少し体験したイスラエルの軍格闘技
クラブ・マガにしょっちゅう出てきたパターンです。

この短い経験から申しましても、格闘技のデモンストレーションは
やる方もやられる方も大変危険なものです。

クラブ・マガでは男女混合でその都度ペアになって練習しますが、
攻撃側となった時、どこまで「当てるフリ」をするのかが問題です。
特に自衛隊の新格闘などもおそらくそうだと思いますが、武道と違い
相手の急所を躊躇いなく非情かつ冷静に攻撃することが主眼なので、
こちらは少し体が触れただけという認識であっても、

「うっ」

と対戦相手の男性が固まってしまわれたことが二度ほどありました。

クラブ・マガでは本格的になるとプロテクターを付けなくてはなりませんが、
自衛隊ではミズノ社製の軽量かつ着装しやすい防具を採用しています。
これは、従来の防具よりも安全性を高め、肉体の損傷を防止しつつ、
訓練の痛みだけを与えることができる新機軸に基づいて
開発されたそうですが、

それでも怪我人は絶えない

とwikiには書かれています。

ナイフ対ナイフの戦闘。
これは新格闘のジャンルでいうと短剣格闘です。
自衛隊の短剣格闘は旧軍が採用していた古武道の短剣術ではなく
アメリカ軍のナイフ格闘をベースにしているそうです。

銃を持った相手もこの通り。

ナイフを持った手の肘を確保するやり方も確かクラブマガと同じ。
このあと相手の背後に周り後ろから動きを封じてしまいます。

 

ところで次々とやってくる敵を迎え討つヒーロー役の隊員ですが、
おそらく徒手格闘術で段位があれば最有段者、教官のような立場の人でしょう。

しかし特に人よりいかつい感じでもなく、背丈も普通で、
一人だけ鉄帽をかぶったその面持ちは遠目にも優男に見えます。


展示は、周りで片膝ついて待機している無帽の隊員たちが
順番に彼を襲っていく、という形で進んでいるようです。

あっ、短剣を持っただけの彼に対し、敵は銃を突きつけてきました!
もう絶体絶命か・・・・・・・!

「ナイフを捨てて向こうを向け!」

相手が体を小突いてきたらその時が反撃のチャンス!
武器を再び構えるまでの瞬時の隙を突けるからです。

あっという間に相手を組み伏せ優位に立ってしまいました。

やられた人は片膝で待機に戻るので休憩できますが、とにかく主役は
最初から最後まで次々とやって来る敵と格闘しっぱなし。

この写真でも待機していた人が加勢に駆けつけようとしていますよ。

2対1の戦闘も相手の力を自分の力に変える見事な動きで圧勝。

いかにも悪そうな人(ごめんなさい)が棒持って襲ってキター。

スキンヘッドってだけですごい迫力です。
これでどすの利いた声で第一空挺団所属です、とか言われたら
悪いことしてなくてもビビっちゃうよね。

そういえば噂によると、習志野ではタチの悪いヤクザ屋さんも
第一空挺団だけは一目も二目も置いているとか。

空挺団の人が団体で歩いていたら、チンピラ風情では太刀打ちできず
尻尾を巻いて逃げ出してしまいそうです。

でもこんな人たちも、自分の階級章などを制服に付ける時には、
お裁縫セットを使ってチクチクお針仕事してたりするんですぜきっと。

やられると見せて、実は武器を持っている手を取りにいってます。

そして腕を取りいつの間にか武器を奪って床に叩きつけ・・。
しかし左から次の敵が襲って来る気満々。

「仲間のかたき!」

やられた人たちは地面に静かに横たわり、目を瞑って暫しの休息(嘘)

後ろから敵が不意打ちにサンドイッチ攻撃しにくるようです。
うーんこの卑怯者。

キックしてくる脚を取って一人を退治中、後ろから・・・。

しがみ付いてきたー。

あべし!

「んがっ!」

どうっ!(倒れる音)

「ふ・・・・また人を殺めてしまった・・・」

「状況終了〜〜」

というわけで格闘展示の終了。みなさんお疲れ様でした。

プログラムの一番最後には「飛行展示」とあります。
左のほうで待機していたヘリが展示飛行を行いました。

まず攻撃ヘリAH-1Sコブラ。

今日は主に人員輸送で活躍、多用途ヘリUH-1J ヒューイ。

空挺に始まり車両輸送、人員輸送、装備牽引と出ずっぱりだったCH-47チヌーク。

本日登場した装備はこのあと演習場に展示され、近くで見ることができました。
演習場に降りてみたい人、装備を見たことが無い人などは、
このあと全ての装備が定位置に展示されるまで、ここでずっと待っていたようです。

わたしは最初と次の年に見学してからその後はパスしています。

地本のテントの前には、空挺降下している隊員が描かれた顔出しパネルがありました。

顔出しパネルのクォリティが無駄に高い(笑)
おそらく第一空挺団のアーティストによる製作だと思われます。

地本のコーナーで、高校生男子とその母らしい二人が説明を受けていました。
こういう光景を見ると、ヨシッ!と心の中でガッツポーズしてしまいます。

今年は何の説明もなく(デビュー時は”これは痛車ではありません”と言い訳付き)
ひっそりと置かれていた千葉地本の痛車、じゃなくて地本車。

車右舷後方の、目を回しているかけるくんが可愛いっす。

展示で使った装備を片付け中。
FH-70は今日出ていたと思いますが、わたしのいたところからは遠かったです。

このあとは、陸上自衛官が自動車教習を行う所を通り退出します。
ふと目を留めた「当直室」の札。

当直室・・・・ここに寝泊まりするのか・・・・。

ここに・・・・・。
確かに一応冷暖房は完備してそうではあるが、何というか
すごいデンジャラスな雰囲気の建築物であるなあ。
向こうの建物はどう見ても昭和30年代に建てられた築60年越えのビンテージだし、
こんな設備で任務に就いている皆さんには本当に苦労をおかけします、
と国民の一人として思わず頭を下げずにいられません。

 

さて、というわけで、今年の降下始めも終了しました。
新しい年号のもとで行われる来年の降下始めに参加するかどうかは
終わったばかりの今は何とも言えませんが、またその時になれば
今年よりバージョンアップした装備を身につけていっちゃうんだろうな(笑)

 

降下始めシリーズ終わり。

 

 

 

ヘイゼル・イン・リー〜航空名誉殿堂入りした中国系女性

$
0
0

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館の展示を見ていて、
海軍工廠に関係のある女性について紹介するコーナーに、

マギー・ジー(Maggie Gee )

という中国系女性パイロットの写真を見つけました。

大戦中、女性ばかりのパイロットサービス部隊、WASPがありました。
WASPの設立については、

ジャクリーヌ・コクランナンシー・ハークネス・ラブ

という二人の女性パイロットが立ち上げに関わった、ということを
このブログでもお話したことがあります。

そのWASPには二人の中国系女性パイロットがいました。

その一人がここで紹介されているマギー・ジーです。

ここに書いてあることをご紹介すると、彼女はカリフォルニア生まれ。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、物理学者として
ローレンス・リバモア国立研究所に勤め、晩年は政治にも関わったようです。

バークレー大学在籍中にここメア・アイランドで製図を手伝っていた彼女は、
さらなる刺激をWASPに求めた、とあります。

製図課にいた二人の同僚と一緒にお金を貯めて飛行機のレッスンを受け、
ラスベガスに送られてからは、戦地から帰ってきた男性に
計器飛行証明(Instrumental Rating)を取らせるための教官をしていました。

計器飛行とはご存知のように計器だけを頼りに操縦することです。

「力が与えられた、という気がしました。
女性が自分自身で生きていける自身が与えられたというか」

彼女は戦争についてこう語っています。

「男性に依存する必要がないんですから。
もちろん主婦になるというのも立派な仕事ですが。
社会に出た女性も男性の補助に過ぎないと感じずにすんだのよ」

WW II WASP Pilot Maggie Gee

彼女の亡くなる前のインタビューがありました。

ちなみに右側の写真の女性二人ですが、マギーとは関係ありません。

これはメア・アイランドでの進水式の一コマ。

ミセス・エマ・ヤムは「出資者」。
ミセス・リリー・チンは「マトロン・オブ・オナー」、すなわち、
進水式でシャンパンを破る光栄を担ったということになります。


そして、WASPにはもう一人、中国系アメリカ人女性がいました。
マギー・ジーと同じくアメリカ生まれの

ヘイゼル・イン・リー(李月英)

で、本日冒頭イラストに描いたパイロットです。

彼女はオレゴン州ポートランドで、移民の家庭に生まれ、
広東省からきたという父親はアメリカで商売をしていました。

当時は中国人に対する人種差別も公然と行われていましたが、
彼女は7人の兄妹と共に、幸せな子供時代を送ったようです。

活発だった彼女は水泳やハンドボールに興じ、10代ですでに運転ができました。
おそらく、彼女の父の商売はうまくいっていて、裕福だったのでしょう。

1929年に、彼女は高校を卒業し、ポートランドのダウンタウンにあるデパート、
リーベスでエレベーターガールの仕事を始めました。
エレベーターガールは、この時代中国系アメリカ人の女性が持つことのできる
数少ない仕事の一つだったのです。

1932年、彼女は友人と行った航空ショーで初めて飛行機に乗り、
それ以来空を飛ぶことの魅力に取り憑かれるようになります。

当時、パイロットそのものが少なく、さらにその中の女性となると
わずか1%未満、有色人種となると一人いるかいないかでした。

ポートランドには中国系が経営していた飛行クラブがあったので、
彼女はそこに入会して、有名な男性飛行士に訓練を受けました。

彼女の母親はもちろん娘が飛行機に乗ることに大反対でしたが、
彼女の妹、フランシスによると

「姉は飛ばなければならなかったのです。
それは、彼女が何よりも好きになったことだったから。
中国系女子が誰もやったことのない危険を楽しんでいたのです」

そして1932年10月、ヘイゼルはパイロットの免許を取得した
初めての中国系アメリカ人女性の一人になりました。

飛行機の操縦という大胆なスポーツに参加することで、
彼女や他の中国系女性は、大人しく受け身という自らのステレオタイプを壊し、
男性優位の分野で競争するだけの能力があることをを証明したのです。

彼女はポートランドで、将来の夫である "クリフォード"・イム・クンに会いました。

 

マギー・ジーはアメリカ生まれですが、二世によくあるように、
父母の祖国である中国には当初帰属意識はなかったようです。

彼女の中国に対する愛国心が燃え上がったのはウィキによると1933年、

「日本が中国に侵攻した」

というニュースを知ったから、となっていますが、
満州国の成立を指しているのでしょうか。

とにかく彼女は、いてもたってもいられなくなり(たぶん)
パイロットとして中国空軍に加わるため、中国に向かいました。

しかしもちろん当時女性操縦士が入隊することは不可能。
挫折した彼女は広東に住んで、数年間は民間航空会社の操縦士をしていました。
もちろん当時、彼女は中国における非常に少数の女性パイロットの1人でした。

1937年に、盧溝橋事件が起き、日中戦争が激化します。

(彼女についてのWikipediaを製作しているのは
まず間違いなく中華系アメリカ人などであろうと思われるのですが、
日中戦争について『日本が侵略』『日本人に人々が殺され』など、
感情的な書き方がされているので、正直あまり気分が良くありません。

中国空軍の空爆によって民間人に多大な犠牲者が出たこと、通州事件、
蒋介石の漢奸狩り、大山事件、そんなことをいちいち書けとは言いませんが、
戦争なのでお互い色々あったということを少しは考えて欲しいです)

 

さらに、彼女はここで友人たちのために避難所を探し、おかげで
彼女の知人は全て爆撃から生き残った、などと言う友人の証言が
あったりして、そりゃ本当によかったねって感じです。(投げやり)

彼女はもう一度中国空軍に参加する努力をするのですが、失敗します。

ってかもう諦めろよ。女は載せない戦闘機って歌もあっただろうが。

なので香港経由でニューヨークに逃れ、中国政府のために
軍需資材(ウォー・マテリアル)の買い付けを行い祖国に奉仕?しました。

 

そうこうしているうちに真珠湾攻撃が起こりました。

ここでも「それによってアメリカは第二次世界大戦に引き込まれた」
と被害者目線で書いてありますが、相変わらず中国戦線の
フライングタイガースのことには全く触れておりません。

最近のアメリカの博物館は極めて中立な視点から、真珠湾攻撃についても
両国が利益を求めてぶつかった、というような描き方の元に、
特攻についてもリスペクトした紹介を行なっているところが多いと感じますが、
もちろんそうでない考え方のアメリカ人もいるってことです。

特に最近は、どうでもいいような博物館展示にも、よくよく見ると
中国系の入れ知恵的解釈が加えられ、日本を貶め、中国をアメリカの
同胞として讃える、という工作がじわじわ進んでいるのを肌で感じます。

つい最近、サンフランシスコにも日本を糾弾することを目的にした
戦争博物館が中華街に出来たばかりです。

 

さて、戦争が始まって男たちが戦場に出てしまうとどうなるかというと、
国内で業務を行う飛行士が圧倒的に足りなくなってきます。

そこで陸軍司令官ハップ・アーノルドの提唱のもと、
女性サービスパイロット、つまり "WASP"が、あの女性パイロット、
ジャクリーン・コクランを司令として1943年に創設されました。

熟練した女性のパイロットがこぞってWASPへの参加を熱望し、
続々と集まってきました。

WASPのメンバーは、テキサス州のアベンジャー・フィールドで6ヶ月間、
トレーニングプログラムを履修します。
ヘイゼルはアメリカ軍のために飛行する初めての中国系女性となりました。


訓練中、彼女は一度九死に一生を得る事故に遭いました。
教官が、彼女を乗せて飛行中、いきなり予想外のループを行なったため、
ちゃんとシートベルトを装着していなかった彼女は機外に放り出されたのです。

しかし彼女はパラシュートで野原に着陸することに成功し、
その後はパラシュートを引きずって部隊に帰りました。

(というかこの教官いろんな意味で酷すぎね?)


当時、WASPの女性操縦士は(軍に飛行指導されていたのに)軍人ではなく、
民間人として分類され、給与体系も公務員として扱われていました。

それを言うなら、憲法にその存在を記されていない現在の
日本国自衛隊の自衛官がまさにその通りの扱いなわけですが、
これは日本という国が異常だからこれを当たり前とするのであって、
この頃の女性飛行士の扱いは、後世の世界基準による評価でいうと

「非常に差別的なものであった」

となります。

差別的とはどういうことかというと、まず、彼女らに対しては

いかなる軍事的な利益も、提供されません。

例えば・・・・これは実はしばしばあったことなのですが、
WASPのメンバーが職務中に死亡、つまり殉職した場合にも、
軍人が受けられる軍の「オナー」を伴う葬式は行われません。

儀仗隊による 弔銃発射も、国旗を棺に掛けてもらうことも、
もちろん特進も、勲章もありませんでした。

その割に、WASPには、しばしば、風通しのいい操縦室の飛行機で
冬のフライトを行うなど、あまり望ましくない任務が割り当てられたり、
また男性の部隊指揮官が航空機を運送する役目を女性がすることを
あからさまに嫌って嫌がらせをするというケースもあったそうです。

 

さて、トレーニングプログラムを終了し、彼女はミシガン州にあった基地の
第3輸送グループに派遣されました。

そこでは戦線のために自動車工場で大量に製造されていた航空機を積み込み、
必要な地点まで空輸するのが彼女らの役目で、航空機はそこから
ヨーロッパと太平洋の戦線に送られていきました。

ここでの仕事は大変過酷だったようです。
彼女は妹への手紙の中で「休業時間の少ない週7日制」と説明していますが、
アメリカでも月月火水木金金だったんですね。

この頃の彼女についてWASPのメンバーが何か聞かれたら、
彼女らはヘイゼルの口癖を必ず付け加えるでしょう。

「わたしはなんだって運んで見せるわよ」

パイロット仲間は、彼女の操縦はいつも冷静で、たとえ強行着陸の際も
恐れを知らず大胆に行う、と高く評価していました。

彼女の初めての緊急着陸はカンザス州のコムギ畑へのそれでした。
着陸してくる飛行機のパイロットを見た農夫は、彼女を日本人だと思い込み、
干し草用のピッチフォークで武装して、叫びました。

「日本人がカンザスにせめてきただ!」

そして、飛行機から降りた彼女をフォークを構えて追いかけ回し、
彼女は農夫の攻撃を回避しながら必死で自分の身分を訴え、
自分が日本人ではないことを説明しなくてはならなかったそうです。

 

この逸話そのものがまるで漫画のようですが、彼女自身も、
いたずら好きな一面を持っていたようです。

彼女は自分の口紅を使って、自分の飛行機や同僚の飛行機に
漢字でいたずら書きをすることがあったそうですが、
ある太ったパイロットの飛行機に、彼にはわからないように
「ファット・アス」を意味する漢字を書いたという話があります。

「アス」はもちろん英語で言うところのあの「アス」ですが、
フランス語でエースパイロットのことを「AS」と言うのと
引っ掛けた「ちょっと小洒落たジョーク」のつもりだったようです。

ただ、いずれにせよどちらかと言うとこの話は悪質で、そもそも
本人の身体的特徴をからかって何が面白いのかと言う気もします。

彼女は 『RON』(Remaining Overnight)といわれる任務にも
満遍なく出動していましたが、大都市でも小さな町でも、
どこに行こうが、彼女は中国人のやっているレストランを探しては
厨房に入り込んで「監督」し、自分でやおら料理を始めるのが常でした。

それほど料理が好きだったのでしょうけど、いきなりズカズカ入ってきて
あれこれ言いながら厨房を乗っ取る客なんて迷惑以外の何ものでもありません。

彼女のWASP仲間のうち一人は

「ヘイゼルは、何も知らないわたしに
異文化を学ぶ機会を与えてくれました」

と語っていますが、こりゃかなり間違った文化が伝達された可能性もあるな。


1944年9月、彼女は選抜されて戦闘機を操縦する訓練を受け、
P-63 KingcobraP-51ムスタング、そしてP-39 Airacobra
米軍のために操縦することができる最初の女性になりました。

しかし、この誇らしい任務に選ばれたことが、彼女の人生を
わずか32年で終わらせることになります。

 

1944年11月10日、ニューヨーク州のベル・エアクラフト工場から
モンタナ州グレートフォールズに P-63 「キングコブラ」を輸送すべし、
と言う命令が降りました。

これは、実はレンド・リース計画に基づく計画の一つで、
当時アメリカは同法を制定して以来、連合国に(ギブアンドテイクで)
膨大な量の軍需物資を供給していたのですが、この戦闘機は
ソ連軍が受け取りに来るアラスカまで輸送することになっていました。

東から西海岸の端までの輸送なので、補給のため中間地点まで機を空輸し、
そこからは男性飛行士がアラスカまで回航、アラスカからは
ソ連軍の搭乗員が操縦して自国に持ち帰るのです。


それはサンクスギビングの朝でした。

彼女の機が、目的地のグレートフォールズに着陸を試みたとき、
同時に同じP-63の大編隊が空港に近づいてきました。

このとき、運悪く管制室と彼女の機の間での通信の混乱が起こり、
次の一瞬、編隊のうちの一機と彼女のP-63が空中で衝突しました。

墜落して瞬時にして航空機は炎で包み込まれ、救急隊が燃える飛行機の残骸から
彼女の身体を引っ張り出したとき、着用している飛行ジャケットは
まだくすぶっていたといわれています。

その2日後、1944年11月25日に、彼女は全身火傷により死亡しました。

 

彼女の家族にとって不幸はこれで終わらず、彼女の死のわずか3日後、
陸軍の戦車隊の一員としてフランス戦線に出征していた彼女の兄、
ビクターが戦死したという公報を続けざまに受け取ります。

家族はポートランドに彼らの墓地を購入したのですが、
墓地側は、そこが「白人区画」であるという墓地の規則を楯に、
家族が選択した場所に兄妹を埋葬することを拒否しました。

遺族は墓地側と裁判で争い、長年の闘争の末結果として勝利を収めましたが、
その間兄妹の遺体はどこに仮埋葬されていたのでしょうか。

彼女は今、ウィラメット川を見下ろすリバービュー墓地の丘の上の
「非軍人」すなわち一般人の区域に兄と共に眠っています。

 

その後30年以上にわたり、戦争が終わった後も、WASPのメンバーと支持者は、
女性パイロットの軍事的地位を確保するための運動を行い、
ついに1977年3月、連邦議会の公法95-202の承認に基づいて、
女性空軍パイロットの功績と、その軍事的地位が認められました。

WASPのパイロットとして大戦中の困難な時期、自国のために奉仕し、
殉職した女性は全部で38名であり、彼女はその最後の一人です。

2004年、ヘイゼル・イン・リーは、オレゴンの
エバーグリーン航空宇宙博物館内にある「名誉航空殿堂」入りしています。

ここにはガダルカナルで台南航空隊と戦ったことでも日本人には有名な、
マリオン・カール大将(上段左から2番目)も殿堂入りしています。

ヘイゼルは中段の左から4番目。
この中で彼女はただ一人の女性であり、そして唯一のアジア系です。

 

 

 


国旗降下を江田島で〜海上自衛隊幹部候補生学校訪問

$
0
0

旧海軍兵学校跡、現海上自衛隊第一術科学校、通称江田島。

海軍に興味を持つようになって初めて知ったこの地に
わたしはこれまで何回訪れたことでしょうか。
ざっと頭で数えたら、海自OBによって行われる一般向けのツァー2回、
元自衛官と一緒に参加したツァー1回、海軍兵学校の同窓会で
それまで見たことがない高松宮邸まで見学したのが1回。

これに部内と幹部候補生の卒業式が各1回ずつ、計6回ですが、
今回は、これまでのどの訪問とも違い、正道ど真ん中の「表敬訪問」です。

どうしてそうなったのかという詳細を公表するのは差し控えますが、
とにかく、海軍兵学校跡というわたしにとっての「聖地」に、
いつの間にか曲がりなりにも「客」として訪問することになったのです。
「単なる海軍ファン」から始まって以来の来し方を思えば、
その感慨にはあまりあるものがあります。

この度の呉でのホテルも、最初に来た時と同じ呉阪急ホテル。
ロビーに飾ってあった製菓部制作の「大和」はいつの間にか無くなりましたが、
お正月月間ということで、「千福」の酒樽が飾ってありました。

最近の訪呉では安くて朝食付きのコンフォートホテルが多かったのですが
今回久しぶりに阪急ホテルに泊まってみたら、部屋がいつの間にか改装済みでした。
特に水周りも全部新しくなっていて、大変快適なステイでしたよ。

呉訪問に合わせて、元自衛官の方と夕食をご一緒する機会もありました。
食事するところをお任せしたら、ここに。

もしかしたら呉では自衛官御用達(ちょっと高級の部)の料理屋さんかな。

入り口にのぼりがあったように、ここはカレーラリー参加店の一つらしく、
潜水艦「もちしお」カレーを扱っていました。

認定証にはその時の艦長が

「これはうちのカレーだ!」

(呉海自カレーパッケージの説明文よりそのまま採用)
と認定したという印が捺されております。

「もちしお」と認定証をお店に授与する艦長の記念写真も。
「もちしおカレー」は少し甘めの牛肉と野菜のカレーで、
トッピングに目玉焼きを載せているのが特徴だとか。

なぜ目玉焼きかというともちしおは漢字で書くと「望潮」、
つまり「満月時の満ち潮」を意味する艦名だからですって。

なるほど、それで艦のマークが「月と人魚」なのか・・。

ところで余談ですが、今もちしお のエンブレム画像を探していて、
ヤフオクでこんなものが出品されているのを見つけました。

海上自衛隊海将補制服セット

もちろん本物なのですが、こんなの買う人いるんだろうか・・。
元海将補だった人くらいしか欲しいと思わないよね。

さて、幹部候補生学校に訪問することになり、レンタカーで
岩国から旅をしてきたわたしたちの車は、途轍もない渋滞に巻き込まれ、
やっとの事で呉にたどり着きました。

おなじみの「瀬戸内バル 五十六」がようやく見えましたが、
ここから江田島までは結構遠いんだよ。

運悪く、フェリーのない時間なので、音戸の瀬戸経由、
早瀬大橋を渡ってぐるーっと迂回していくしかありません。

しかも一本道で、帰宅時に重なったこともあり
車の進むのが遅いこと遅いこと。     やっとの事で術科学校に到着。
前もってレンタカーのナンバーを向こうに告知しておいたせいか、
降りて入場の手続きをさせられることもなく、
そのまま駐車場に停めるように言われました。
  懐かしいなあ。   一般の見学ツァーを申し込むと、ここの一階で待機し、
ここから出発を行います。
食堂は見学者でも利用できるので、二度ほどカレーを食べた覚えあり。     駐車場に停まっている車はほとんどが軽。
地方の幹線道路(大抵二車線道路)を走っている地元ナンバーの車は
軽自動車が多いのですが、こういうところは一家に2〜3台車があって、
各自が通勤に使うからではないかと思います。   とはいえ、今回敷地内で外国製スポーツ車も目撃しましたが。 車の後ろには、自衛隊の基地駐屯地ではどこでも見るパイプ。
お風呂などの水パイプではないかと思っているのですがいまだにわかりません。   到着したことを担当の自衛官に電話したところ、駐車場まで
お迎えに来ていただけました。   前の予定が押してしまった上、予想を上回る渋滞に巻き込まれ、
約束時間に海軍5分前どころか大幅に遅れての到着。
わたしは、かつて将官まで務められた方が、   「私は時間に遅れてくる人を信用しない」   と書いておられたのを読んだ後、その方とお会いすることになった時には
いつも以上に遅れることを警戒して、1時間前には現場に着くように
家を出たものですが、その方の   「信用しない」   という声が脳内にリフレインする状態での江田島到着、誠に恐懼する思いです。     暗くなる中歩きながら撮ったのでボケていますが、
この「頑張ろう江田島」のバナーは、
昨年江田島が見舞われた大水害の後、復興支援を行う中
ここでも何らかの受け入れを行ったらしく、その時に
被災者たちを励ます意味で作ったものだそうです。     歩きながらわたしはこの光景に感動せずにはいられませんでした。
昔はガス燈であったに違いない大講堂脇の灯が点っています。     いつ来ても、いつ見てもその威容に感銘を受けずにいられない
堂々たる建築の大講堂をこの時間に見ることそのものが、
わたしにとって記念すべき初体験でもあったからです。     「まるで京都のお寺のような目立てがされてますね」   TOが砂地を見て感心していうと、エスコートの自衛官が   「毎朝候補生がちゃんと筋目をつけるんです。
そのあとは御構い無しに歩くので夕方にはほとんど筋が無くなりますが」   幹部候補生が桜の花びらも一枚一枚つまんで(!)取るのだ、
という話を初めて聞いたTOは目を丸くして驚いています。

  幹部候補生学校の前に立つと、また再びこの光景がわたしを感動させました。
この人生で、夜の灯が室内に点っている赤煉瓦を見る機会が訪れるとは。   しかも、赤煉瓦内に灯る明かりは、全国津々浦々の自衛隊の建物が
そうであるような寒々しい蛍光灯などではなく、昔の通り、
電灯色の電球を採用していて何と美しいことか。   アメリカやヨーロッパでは日本のように蛍光灯を実用以外に使いません。
わたしも昔から蛍光灯が嫌いで、部屋の灯りは電球色にしていますが、
その理由は、蛍光色は顔色が悪く見えるし、食べ物を美味しく見せないからです。   全体を「艦」に見立てているがゆえにドアがない、と言われる
赤煉瓦の入り口の外側には、自衛官が立っております。     今回は幹部校長閣下への表敬訪問ということで、通していただいたのは
この階段を上がったその正面の部屋になります。   階段の踊り場に設えられた鏡は、候補生たちが身だしなみを
点検するためのもので、海軍時代からの伝統です。 男が鏡をまじまじ見るということすら、当時の日本では
画期的な(かつ文化的な)ことだったのに違いありません。
海軍は常に「時代の先端」だったのです。   階段の腰板などは、大改装の時に新しくされたものですが、
当時のままに残された部分もたくさんあり、手すりなどもその一つです。   真鍮の唐草模様は精緻でレースのように美しいですね。     そしてここが今回会談を行った応接室。
外から見ると赤煉瓦正面右側の部屋になろうかと思われます。
飾り棚の中やその上に色々と面白そうな?ものがあったのですが、
こちらが遅れて会見時間が短くなったことと、遠慮もあって撮れませんでした。     天井の照明器具も改装の際に新しくされたようですが、
よく見ると一つ一つに錨のマークが刻まれていました。   天井に埋め込まれたダウンライトに混じってよく見ると
スプリンクラーも備え付けられています。   井上茂美が、草鹿任一が、あるいは遡って鈴木貫太郎が
海軍兵学校の校長であった時も、その来客はここに通され、
ここで会談を行ったわけですが、その同じ場所に、わたしが・・・。  

ブレてしまいましたが、応接室の壁には昔からあったらしい
「咸臨丸」の航海を描いた油絵が掛けてありました。   目黒の幹部校長たる海将に幹部校のメダルをいただいたことがありますが、
そのモチーフはまさにこの絵から取られていたと思います。   さて、会見に至った経緯をお話しできないので中身も
お話しできないのが残念ですが、ともかくその会談中のことです。   この日の日没時間になり、窓の外から喇叭譜「君が代」の
最初のサウンドが聴こえてきました。

前に「かしま」に乗艦し、舷側を歩いている時に喇叭がなったので
エスコートしてくれている自衛官に、   「立ち止まらなくていいんですか」   と聞くと、   「任務遂行中はしなくてもいいことになっています」   と答えて、彼はその時行なっている任務、つまりわたしの案内を
最後まで遂行したということがあります。
実はそのとき、わたしは会場に入ることなどより、
君が代の時に自衛官と一緒に気をつけしたかったので、後から   「今度同じことがあったら国旗への礼をしてもらおう」   と堅く誓ったのでした。
そして、よりによって赤煉瓦の二階にいるときにその「今度」が来たのです。

部屋にはわたしたちと幹部校長の他にも自衛官がいましたが、
彼らは一般人であるわたしどもに遠慮?してか、それまで通り
会話を続ける様子を見せかけるので、わたしはここぞと   「いえっ!・・・・なさってください」   と他の人が聞いたらなんのことかわからないけど、
自衛官が聞いたらなんのことかわかる言い方で、彼らがいつも通り
国旗に対して敬意を評する姿勢をすることを促しました。   ♪ドーソードドミー ドーソードドミー ミミソーミミソー ミードミソーソ ミードドドー ソーソソソーソ ミードーミードーソ ーソソソーソ ミードーミードー ドーソードドミー ドーソードドミー ミミソーミミソー ミードミソーソ ミードドドー♪   この間、応接室の椅子に全員が座ったまま姿勢をただし、
握った拳を膝に載せたままラストサウンドまで気をつけ。   わたしは猛烈に感動しました(笑)   他ならぬここ、旧海軍兵学校の赤煉瓦で自衛官と共に
喇叭譜君が代を聴きながら瞑目する日が来ようとは。   遅れてしまったため短い会見時間となってしまいましたが、
わたしはこの体験のためだけにここに来たような気すらしました。     時間通りにこちらから会談を切り上げ、下まで送っていただきながら
赤煉瓦一階の床が軍艦「金剛」の甲板であったことなども説明してくださいます。   わたしには周知の事実ですが、自衛官の口から聴くことに意味があります。     エントランス上のガラスが当時からのもので、古いガラス(左から二番目)は
昔のガラスであるため歪んで見えることも教えていただきました。     そして、この幻想的な大講堂の佇まいをご覧ください。
おそらく自衛官くらいしか、こんな時間の構内の様子を見ることもないでしょう。 わたしは心の中で呟きました。   「これで後は、深夜の江田島を見れば完璧だな」( ̄ー ̄)+   深夜の幹部学校・・・どうやったら見れるかなー(棒)     幹部候補生や術科学校生の生活が行われている場でもあるので、
建物はどこも灯りが窓から漏れています。   何度振り返ってもそこには自衛官が起立して
いつまでも見送ってくれているのに感激しながらわたしたちは
赤煉瓦を後にしました。       急いでフェリー乗り場に行き、待っていた最終便に乗り込むや否や、
船はすぐに岸壁を離れ始めました。   さようなら、江田島。またすぐ会いましょう。  
終わり。      

戦艦「カリフォルニア」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

$
0
0

メア・アイランドには、ここで建造されたとか、改修を行っていたとか、
資料が残っている艦船が紹介されています。

亀の甲文字で読みにくいですが、これは初期の潜水艦、

USS「グラムパス」SS4

USS 「パイク」SS6

が並んでいる写真。
どちらも

プランジャー級潜水艦

です。
ところで、アメリカのホテルに泊まっているとほんの時々必要になる
「プランジャー」(Plunger)と言う単語。
ニューヨークのホテルなんかは部屋に備え付けてありましたが、
これ、排水管が詰まった時に使うゴムのラバーカップのことです。

アメリカ旅行では必要になることもあるので覚えておくと便利ですよ。

「プランジャー級潜水艦の一号艦、プランジャー」って?
と幾ら何でも不思議に思って調べてみると、プランジャーには
「飛び込む人」転じて潜水夫という意味もあるのだとか。

潜水艦に「潜水夫」という名前をつけてみたというわけか。

しかし流石にこの名前は変だとアメリカ海軍も思ったらしく、
1911年、就役して8年目に「A-1」という名前に変えられました。

「プランジャー」級の二号艦以降は、海洋生物の名前がつけられました。
のちにそれが潜水艦の命名基準になりますが、この時は
「グラムパス」(イルカの一種ハナゴンドウ)も「パイク」(カワカマス)も、
「プランジャー」→「A-1」に倣い「A-3」「A-5」と名前を変えられました。

A-3となった「グランパス」は1906年、サンフランシスコ大地震が起こった時に
被災者の救援に大活躍した、という記録が残っているそうです。

この写真で2隻が繋留されている場所、葦の茂みがあったりして、
まるでボート漕ぎ場にしか見えないわけですが、実はこれメア・アイランドの
「インディペンデンス・ドック」で1904年の4月に撮られたものです。

なぜ「インディペンデンス・ドック」という名前かというと、ここは
初代「インディペンデンス」(帆船)が1857年から1914年まで
ずっと繋留されていた母港だからです。

写真の潜水艦の右側に、家のようなものが見えますね?
これ、実は「インディペンデンス」の艦尾なのです。

これが帆船「インディペンデンス」の晩年の姿です。
メア・アイランドで1890年代に撮られた写真だそうですが、これを見ると
どうして艦尾が「家みたい」なのか、お分かりになりますね。

ここには「インディペンデンス」の展示もあったので別の日にご紹介します。

「カール・ヴィンソン」CVN-70の

写真はサンフランシスコの市街をバックに航行する「カール・ヴィンソン」ですが、
メア・アイランドにいつ立ち寄ったのかまではわかりませんでした。

閉鎖するまで彼女はサンフランシスコのアラメダ基地を母港としていたので、
その間のドック入りはメア・アイランドで行なっていたのかもしれません。

1963年の写真なので白黒でよくわかりませんが、これは
原子力潜水艦「パーミット」SSN-594が、搭載していた
SUBROC(核弾頭搭載の対潜用ミサイル)を撃ったところです。

この画面の右上に写っているのは、もしかしたら
潜水艦の中の時計ではないでしょうか。

サンマテオブリッジらしき橋が見えるのでおそらくアラメダだろうと思われます。

現在のアラメダは海軍が撤退した後も開発されず、当時の建物が
そのままにあってゴーストタウン化しています。

ここからはUSS「カリフォルニア」のコーナーです。
歴代艦長の名前が記されたボードは、艦内にあったものでしょう。

「カリフォルニア」は1916年10月25日にメア・アイランド海軍工廠で起工しました。
写真左は「キール・レイイング」と呼ばれる起工の儀式。
船の「背骨」となるキール(竜骨)ができた時をもってキール・レイドを行います。

現在の軍艦からはキールそのものは無くなったのですが、
慣習的にキールと呼ぶ部位・場合も残っているということです。

1919年11月20日に進水を行いました。
進水台を滑り降りて、ナパ川の沖に「船出」した「カリフォルニア」。
ナパ川の川幅はあまり広くないのですが、進水後対岸にぶつかる心配はなかったようです。

下はシャンパンの瓶を舳先で割ろうとしている瞬間です。

進水式の写真が当時にしてはたくさん残されている理由は、
シャンパンを舳先で割る役目をした「スポンサー」である知事の娘が
自分でも写真を撮っていたからだそうです。

進水の後タグボートに押される「カリフォルニア」。
進水する艦を上から写した写真は初めて見る気がします。

日本では支鋼切断に槌を使い、これが進水式の記念となりますが、
画面の木槌は「Gavel」といい、裁判長が打ち付ける木槌にもこの言葉を使います。

「カリフォルニア」が解体される時に、デッキの木材で作られたそうです。

画面下のサーベルのような金属には「USS CALIFORNIA」と刻印がありますが
説明がないので何かはわかりませんでした。

「解体された「カリフォルニア」の艦体の金属で作ったものかもしれません。

 

艤装の段階で戦艦である「カリフォルニア」にとって、最も重要な
主砲を取り付けている最中の珍しい写真も残されていました。
「マサチューセッツ」のように、巨大なバーベットを備える主砲は14インチ、
艦首側に6門、艦尾側に6門の計12門を備えていました。

「アウトフィッティング」、つまり艤装中の「カリフォルニア」。
左の写真は艤装を完成して艦飾を施しているように見えますがどうでしょうか。



1921年8月10日に初代艦長H・J・ジーグメイアー大佐の指揮下就役。
就役後は太平洋艦隊の旗艦となりました。

写真が不鮮明で人が豆粒にしか見えませんが、主砲にびっしりと
水兵が座っているのにご注目。

機関室。
ボイラーの前に立つ下士官の帽子が昔風です。

ジェネレーターエンジン。

兵員の食事を作るギャレーです。

「ファイン・ダイニング」というのは、司令官あるいは艦長、
士官たちのためのテーブルクロスにシルバーのカトラリーを並べた
正式なダイニングキッチンです。

もちろん彼らも毎日ファインダイニングで食事をとるわけではありません。

ファインダイニングで使用されていたシルバー。
クロスに描かれている熊は「カリフォルニア」のシンボルです。

就役後、太平洋艦隊の旗艦になった「カリフォルニア」が
サンフランシスコを出発するところ。

「カリフォルニア」のマスコットベア、「プルーンズ」さん。
1920年には本当に艦上で熊を飼っていたことがあるのはわかっているそうですが、
その後いつどうなったのかについては不明だそうです。

「カリフォルニア」が熊をマスコットにしているのは、
カリフォルニア州旗に描かれた熊のシンボルにあやかってのことです。

これがカリフォルニア州旗。
カリフォルニア・グリズリーは今では絶滅しています。

USS「カリフォルニア」は代々その艦旗に熊を採用します。
1974年に就役した原子力巡洋艦 CGN 36「カリフォルニア」は
原子を表すマークと熊さんのコラボレーション。

現役の「カリフォルニア」、原子力潜水艦 SSN 781の熊は
大迫力すぎて怖いレベル(笑)

戦艦の上で幾ら何でも熊を飼う余裕というか場所があったとは
とても思えない・・・と思ったら犬もいたらしい。

画面上から、「カリフォルニア」進水式のプログラム。

真ん中の黄色い本は「カリフォルニア」記念写真集。一冊25セント。

その下は「カリフォルニア」」乗艦記念パンフレット。

右側上の真っ黒に錆びてしまった金属にリボンが付いたものは、
青い箱の中の錆びていないメダルと同じものだと思われます。
メダルの上部にスリットが入っていてリボンを通すようになっていますが、
これが何を表すのか、わかりませんでした。

メダルには「カリフォルニア」のシンボル、州旗と同じデザインの
熊が刻印されています。

当時アメリカの政党だった自由党(リバティ・パーティ)の議員たちが乗り込んで、
何か政治的なイベントを行ったようですね。

自由党は1950年代には消滅した政党です。

「カリフォルニア」の艦歴にとって最も重大な記事は、
真珠湾攻撃で炎上する「カリフォルニア」とそれを伝える新聞の見出し。


「カリフォルニア」はパールハーバーで『バトルシップ・ロウ』の
一番端に繋留していたため、他の弩級戦艦と共に日本海軍の攻撃を受けた。

当時『カリフォルニア』の防水は完全ではなく、大きな損害を受けた。
08:05に爆弾が命中し対空砲の弾薬が誘爆、およそ50名が戦死した。
もう一発の爆弾は船首部分に命中した。
懸命なダメージ・コントロールの努力にもかかわらず、
カリフォルニアは浸水し水面上に上部構造を残して着底した。

この攻撃で乗組員の98名が戦死し61名が負傷した。

 

「カリフォルニア」は浮揚されたあと乾ドック入りし、
そこで自力航行できるまでに修復されてから
ピュージェット・サウンド海軍工廠に向かいました。

 

廃棄されるまで、艦内の毀損部分に掲げてあったらしい銘板です。

「1941年12月7日 0758、
USS カリフォルニアはフォックス3バースに繋留されていたが、
敵の放った2発の魚雷が左舷に命中した時、同じ左舷に爆弾があり、
その穴から海水が浸入した為ゆっくりと三日後に沈んだ」

「カリフォルニア」はピュージェットで装甲強化、安定性向上、
対空砲増設および火器管制システム装備の大改修を受け、
なんと戦線復帰を果たしています。

真珠湾攻撃で着底した戦艦をなんとしてでも生き返らせることは、
アメリカの意地と矜持がかかっていたというところかもしれません。

  

 

海上自衛隊 岩国基地訪問〜米軍基地の半旗と事故報道

$
0
0

「かが」の体験航海のために呉に行く際、どうせそちら方面に行くのならと
わたしたちは海上自衛隊岩国基地への表敬訪問を計画しました。

例によって朝の空港ラウンジからお話しします。
いつもANAに乗るときには、エントランスから近いところで
いつもの青汁ミルク割りを一杯ご馳走になり、
早めに搭乗口まで向かうのですが、この時は時間があったので
ずずーいっと一番奥のラウンジまでやってきました。
近くに飲み物のカウンターもあるし、何より他が混んでいるのにガラガラです。

これからここでゆっくり過ごそうっと。

窓際の席を取りました。
飛び立つとすぐに見えてくる京浜工業地帯。
いつもJMUの磯子工場に何か護衛艦らしきものが見えないかと探すのですが、
見つかったことがありません。

寒い日で、富士山は裾まで全部冠雪して真っ白でした。
カメラを向けて撮ろうとしたら次の瞬間雲に隠れてしまい失敗。
これはフォッサマグナの通っているあたりの山脈だと思います。(適当)

今回飛行機の窓から写真を撮るつもり満々だったのは、
岩国というあまり行かない空港に到着する便だったからです。

これは四国のどこかでしょうかね。

場所は特定できませんが、尾道から今治までの瀬戸内海のどこかだと思われます。
改めて瀬戸内海って誰も住んでいない小さな島が多いんだなと驚きます。

これ、拡大してみたらリゾートホテルみたいなんですけど、
どこかわかる方おられますか?

テニスコートに「 ALOHA」とあり、敷地のいたるところにソテツが植えられています。

 

さて、岩国空港が近づいてきたとき、機内アナウンスがありました。

「岩国錦帯橋空港内はアメリカ海兵隊基地との協定により撮影が禁じられています」

そうだったそうだった。
今回の目的地は海上自衛隊岩国基地ですが、前回岩国に来た時には、
海兵隊の戦闘機パイロットの夫妻のご招待で米軍基地内を案内してもらったのでした。

民間航空の利用が途絶えていた岩国空港で、定期便の就航が再開されたのは
2012年だったわけですが、前回の訪問はそれからすぐだったことになります。

錦帯橋といえば、一般人には普通絶対に見せないシミュレーターに乗せてくれた
ホーネットドライバーのブラッドは、シミュレーターのオペレーターに頼まれて
錦帯橋の下を潜るチャレンジをして見せてくれたものですよ。

わたしたちはブラッドの指示を聴きながらの操縦だったので、
英語リスニングの能力(息子>TO>わたし)順に素早く殉職してしまいましたが、
ブラッドは2回墜落したものの、3度目のチャレンジで見事錦帯橋の下を
ホーネットで通過することに成功しておりました。

 

さて、到着してとりあえず一階に降り、連絡を取ると、すでに現地には
岩国基地から広報の自衛官がお迎えに来てくれていました。
小型のバンに乗って、ゲートを通る時、前にもそうしたように入り口の
検問所のような小さな部屋でパスポートを確認されました。

ゲートは前に来てから改装工事が行われ、新しくなっています。
ゲートのところに立っている海兵隊の警衛に挨拶すると、
案外愛想よく返事をしてくれました。

海兵隊の警衛はアメリカ海軍にも怖がられているらしいと聞いてから
実物を見るとわたしもちょっと怖かったりするのですが、
そこはそれ、同盟国の一般人に対してはやっぱりアメリカ人です。

前回海兵隊側のゲストとして入った時には、写真を撮っていけない場所は
アテンドしてくれたブラッドの奥さんの指示に従いましたが、
今回はいちいち尋ねず、基地内は写真禁止と心得ました。

前回来た時との違いは、ものすごい勢いで基地内が整備され、
居住区らしいスペースが増えていることです。

「厚木の海軍部隊の大規模な移動がありましたので、施設が随分できました」

この訪問の少し前、わたしは南関東防衛局主催の防衛セミナーに参加し、
その際配られたパンフレットによってそのことを知ったばかりで、
「答え合わせ」ができたような納得感がありました(笑)

アメリカ軍は単身赴任ということを艦乗り以外はやらないので、
部隊が移転すれば家族も揃って引っ越ししてくることになります。
そのため、居住区といっても、単身用から家族用、その中でも士官用と下士官兵用は別、
とか、事細かに用意しなければならなくなるわけです。

ところで、こういう移転にかかる費用って、日米のどちらが出してるんでしょうか。
やっぱり「思いやり予算」からかな。

そういう移転とかに対して基地反対運動は起きなかったんですか、と広報の方に聞くと

「あまりなかったようですね」

でも、今ちょっと調べてみたら、「あまりなかった」レベルとはいえ、
子供に「怒」と書いたプラカードを持たせて行進している人たちもいるにはいたのね。

そういう運動をしている人が運営している「岩国基地監視記録ブログ」を
怖いもの見たさでちょっとのぞいてみたら、もう感心してしまいました。

結構高性能なカメラで、スーパーホーネットの編隊飛行なんかをバリバリ撮って、
もちろん撮影禁止の岩国空港の滑走路でも、遠くに見えるオスプレイなんかを

「こんなに近くにオスプレイガー」

というために熱心に撮ってせっせとアップしているのですが、文章がなければ
それはどう見てもミリオタのブログにしか見えないわけですわ。

何月何日、スーパーホーネットの何番機と何番気が離陸、とかC-2Aが旋回したとか。
何月何日までに戻ってきた空母艦載機52機、メンテ中5機とか。

一度、自衛隊イベント友達が

「左翼の人ってむちゃくちゃ武器装備や飛行機艦船に詳しいんですよ」

といっていたことがあったけど、なるほどこれがそうか(笑)

一番笑ったのは、

「2015年12月2日みさご(英名オスプレイ)は魚を食べ終わったよう」

と、川の堤防で魚を食べていた鳥の写真を得意げに上げていたこと。
なんだろう・・・だからオスプレイはいかんのだ!ってことかな。

 

さて、ゲートを通過し、わたしたちは海上自衛隊の建物内に案内されました。
全国どこにいっても同じ作り、正面に階段があり、それを登っていくと
3階か4階の右側に一番偉い人の部屋がある、というおなじみのタイプです。

廊下を歩きながら、案内の方が奥の部屋を指して

「今昇任試験が行われています」

それを聞いて、わたしたちは足音にさえも注意を払って
忍び足で群司令の部屋に入りました。

海上自衛隊の昇任試験。
一体どんな問題が出るんでしょうか。
全ての職種の人に平等になるように、専門的なことではなく
一般的な設問があるのではないかと想像しますが、わかりません。

さて、部屋に入ると、間も無く第31航空軍司令がご登場。
群司令たる海将補は、P-3Cパイロット出身。
いかにもウィングマーク持ちらしい、スマートな航空士官でいらっしゃいます。

一口に海自の航空基地といっても、ここは色々な意味で特殊であり
オンリーワンといっていいほど特別な任務が付されています。

まず、PS-2に代表される水上艇の基地であること、そのほかにも
電子戦を行うP-3Cの派生である各種固定翼機を所有すること。
しらせの飛行隊が所属していることもですが、何と言っても
ここは民間航空の飛行場もあり、米軍と共同使用している航空基地です。

わたしたちは司令のお話を伺ってから、準備されていた
岩国基地の沿革についてのスライドなどによって理解を深めました。

その歴史においては、旧海軍の飛行場に始まり、戦争が激化してから
大量に入学者を増やした海軍兵学校の分校が置かれたこともあります。

冒頭写真はこの基地所有の救難艇、US-1Aが東京都下における
急患輸送を100回行なった時の記念として、知事から贈呈されました。
日付は昭和58年3月18日とありますから、つい最近引退したUS-1が
救急搬送を行なった回数はこの2倍にはなったのではないでしょうか。

「時を刻むことと同様に、安全なる飛行を積み重ねてほしい」

という願いが込められているそうです。

1997年1月、島根県隠岐の島沖で発生した
ナホトカ号重油流出事故で、岩国基地は災害派遣部隊を派出しています。

油が漂着した岩場は小さな油回収船も含め機械に頼った回収作業が不可能だったため、
ボランティアによる人海戦術が繰り広げられたのですが、改めてwikiを読むと、
そのトラブル問題も色々とあったようで・・・。

ナホトカ号重油流出事故

真ん中はゴラン高原への部隊派遣に対する感謝の印。
UNDOFとは

「国際連合兵力引き離し監視軍」

つまり平和維持軍です。

右は海幕長から送られた海上自衛隊第31航空隊に対する第2級賞状です。

 

ところで、この日基地の中を車で回っていて気づいたことがありました。

「米国旗が半旗にされていますね」

「先月の戦闘機と空中給油機の事故を受けてのことです」

米軍戦闘機と給油機が墜落、2人発見 高知沖 日経新聞

米海兵隊、高知県沖の墜落を「クラスA」認定 「最も重大な」事故に 産経新聞

ニュースで見て知っていた事故でしたが、目の前に翻る半旗で
改めてここに勤務していたアメリカ人の命が多数失われたことを実感します。

二つの記事は事故直後、事故の経緯を伝えたものですが、その後、
(といってもわずか5日後)共同通信の記者によるこのような
「米軍悪玉論」が展開されております。

まず、

高知県沖の事故では、KC130空中給油機から伸ばした給油ホース(ドローグ)が
FA18に当たって、どちらかがバランスを失い接触した可能性も指摘される。

このタイプでは給油ホースの先端が開きかけたパラソルのような形状になっており、
通常はFA18側の方が近づいていき、自機の給油ノズルに挿入するように操縦するやり方だ。
今回、FA18のパイロットがどのように給油機にアプローチしていたかは
原因を知る上で、一つのポイントだ。

 

接近する際には編隊飛行と同様に、
「水平」「前後」「垂直」の3点のレベルを合わせて双方がくっつく。
航空自衛隊F15戦闘機も空自KC767空中給油機に接近していく基本は同じだが、
接続の方式が違う。
KC767のオペレーターが最終的に給油ホースの位置を調整して、
給油機側がF15の給油口に合わせて操作するようになっていると、
空自パイロット経験者は語る。

なんとなく読んでしまいますが、ちょっと考えると

「日米の空中給油のやり方の違いってこの際なんの関係もなくね?」

ということに気づきます。
単に記事としての体裁を整えるために行数を埋めているって感じ。

続いて

事故は午前1時40分の未明。
夜間帯は本来、暗視装置も完備して、接続部分もライトで照らし出されるようになっている。
当時は悪天候だったとされ、限られた条件下で続けられた訓練中に何らかの不具合、
乱気流などが生じた可能性、あるいは操縦面での人的ミスも否定はできない。
「昼間より夜間は距離感がつかみにくく、視野も狭くなる」
(自衛隊パイロット経験者)。

うーん・・・なんかもう、犬が西を向きゃ尾は東を読まされてる感。

「事故は深夜の悪天候下で起こった」

の一行で済む話ですよね。
「自衛隊パイロット経験者」なんかに聞かなくても。

この後記事は「トップガン」など引用しつつ(笑)、なぜパイロットの一人が
椅子に座ったままだったのか、

「そこに事故の原因を知る上でのポイント」

などと割と当たり前のことを述べ、
(”一人は救出された時椅子に座ったままの状態だった”で済むかと)
いよいよ記事の本題に入ります。

事故の直接的要因ではないが、米海兵隊岩国基地は
在日米軍再編に伴う部隊の移転で過密な飛行状況になっているとされる。

今年3月までに米海軍厚木基地(神奈川県)から原子力空母の艦載機や
米海兵隊のF35、普天間飛行場のKC130も移駐している。
岩国の米軍機全体で倍増の120機となっている。

極東最大は沖縄県の米軍嘉手納基地だが、岩国基地も
「極東最大級」と言われるほど、米軍にとってより大きな拠点基地になりつつある。

岩国基地の滑走路の運用時間は原則、午前6時半から午後11時までだが、
時間外のケースでは米軍が岩国市に連絡するよう決められている。
岩国市には、12月1日から約1週間、時間外に運用する可能性があると伝えられた。
米軍の動向をウオッチしている市民団体によると、
11月ごろから運用時間外の飛行が常態化していたという。

「選択と集中」とも言える部隊の大再編の中で、
米軍が難度の訓練を続けていこうとする気運の中で、
今回の事故は起きたと言える。

あらら、ここでいきなりさっきのミリオタ市民団体の名前が。
オスプレイ憎けりゃミサゴも憎い、あの人達のことですよね。

くどくどと字数を稼いで事故の原因を端的にいうこともせず(つまりわかってないから)
結局、事故のわずか五日後に出してきた結論がこれですよ。

厚木からの移転は、つまり日本との協定で都心部の基地負担を
岩国に分配しようという流れの中で起こってきたことと理解していますが、
つまり共同の記者はそれが気に入らんのだな。

「事故の直接的原因ではないが」

と一番最初に書いているけど、これ一言で言えば

「部隊大再編で岩国が過密になったから事故が起こった」

っていう記事ですよね。
特に最後の、

「米軍が難度の訓練を続けていこうとする気運の中で事故は起きた」

ってなんなの。馬鹿なの死ぬの?
「難度の訓練」「気運」って、アメリカで空中給油がいつから始まったと思ってんの?

つまり共同の柴田という記者は、「怒」と書いたプラカードを子供に持たせて行進する
プロ市民と同じ立ち位置から記事を書いている、ということになるのですが、
そもそも報道って、そういうやり方でするものなんですかね。

なんか「報道」がゲシュタルト崩壊してしまいそうだわ(笑)

ちなみに同じ事故を報道しても、まともな記者の記事はこちら。

米軍機墜落、なぜ亡くなった操縦士は「座ったまま」だったのか 

いや、もういっそここまで突き抜けるなら(笑)

基地強化危険増す 岩国米軍機接触墜落
空中給油訓練何度も事故 しんぶん赤旗

 

 

と、思わぬところでマスゴミの糾弾に熱くなってしまいましたが、
この後は案内していただいた資料館についてお話ししようと思います。

 

続く。

 

「宜しい」と第六潜水艦煎餅〜海上自衛隊岩国航空基地史料館

$
0
0

岩国基地に訪問し、まず群司令との会談に続き、レクチャーを終えたのち
一旦司令に挨拶をして車に乗り込みました。
見学ツァーの最初は、岩国基地にある資料館です。

あ、ところで忘れないうちに書いておきますが、群司令との会談中、
ふと部屋の隅を見ると、以前呉地方総監伊藤海将表敬訪問の際と同じく、
何やらメモを取っている自衛官がいました。

公式の訪問ですので、そこでどんな質問が出てどんな会話になったか、
自衛隊では逐一記録に残すことになっているのは知っていましたが、
あまり変なことを言ってそれが記録として残るにはしのびず、
ちょっと緊張したことをご報告しておきます。

 

さて、資料館見学は岩国基地見学に必ず含まれるコースのようです。
決して大きなものではありませんが、旧軍時代の資料と自衛隊になってからの
二箇所に分かれた、非常に充実した資料館でした。

 

ここ岩国があの佐久間大尉の第六潜水艇殉難の地だったこともあり、
資料館の最初の部分には第六潜水艦関連の資料が展示されています。

冒頭写真は、事故後建立された慰霊碑の実物だと思われますが、
劣化しやすい材質の石碑だったらしく、文字が解読不可能になり、
その後取り替えられたためここにあるのではと思われます。

掠れて読めなくなった文字を書き起こしたパネルが横にありました。

ホランド級潜水艦を改造した第六潜水艇は、事故を起こした時、
安全上から禁止されていた「ガソリン潜行実験」の訓練を行なっていました。

このパネルには「半潜行訓練」とありますが、つまりガソリンエンジンの
煙突を海面上に突き出して潜行運転を(シュノーケル状態?)していたのです。

沈没は、何かの理由で煙突の長さ以上に艇体が沈んでしまったのに
運悪く閉鎖機構が故障していたため、手動で閉鎖するも間に合わず、
着底してしまったということになっています。

この資料館を見て初めてわたしも知ったのですが、第六潜水艇の沈没位置は
ここ岩国港の至近距離だったそうです。

岩国基地を辞去した後、わたしは車を運転して国道二号線を呉に向かいましたが、
その途中、道路脇に「第六潜水艇記念碑」の看板を見つけました。

岩国の水交会などが殉難の地を見下ろす丘に、記念碑を建てていました。

第六潜水艇記念碑

事故後潜水艇が引き揚げられ、愈々ハッチが開けられることになった時、
内部の阿鼻叫喚の様子を想像した人々は、そこに、全員が持ち場を守り、
最後まで自分の職責を全うして死んでいる潜水艇乗員の姿を見た・・・。

何度も物の本や資料で読んだこのストーリーも、遺品を目の前に
自衛官から説明されると、新たな感動と彼らへの敬意が起こらずに要られません。

実はこの呉訪問でお会いした元自衛官とも、偶然ですが第六潜水艇の話になり、
さしものわたしも知らなかったこんな話を伺いました。

「今でも海上自衛隊は『よろしい!』という言葉を使いますが、
それは第六潜水艇の事故以来海軍で使われてきた言葉なんですよ。

最初に第六潜水艇の中を確認した基地司令が、整然と持ち場で死んでいる
乗員の姿を認めたとき、滂沱の涙を流しながら敬礼しつつ
『宜しい!』と言ったのが、その最初だったそうです」

海自の「宜しい」は、例えば

「気を付け!」「敬礼!」「直れ!」

まで言った後、「よろしい!」そして「着け!」というように使います。
上から下への「グッド」という意味ではなく、ここでは
「できました!」みたいな状況で下から報告する時に使うのですが。

昔から「宜しい」は実に海軍らしい言い方だなと思っていたのですが、
第六潜水艇が「事始め」だったとは知りませんでした。

潜水艇の中にあった佐久間大尉の洗面器(真っ黒)や
副長だった?長谷川中尉の制帽の箱までが展示されています。

第六潜水艇の乗員が殉職していた位置図です。
全員が各自の持ち場にいただけでなく、そうでなかった二人は
故障箇所にいて、最後まで艇を何とかしようとしていたそうです。

佐久間艇長は最後までこの図で見る「艇長腰掛け」に座って
あの遺書を書き認めていたようですが、絶命してから落下し、
その真下の床に横たわっていた、とされています。

自筆ではなくコピーですが、佐久間大尉の遺書もありました。
これは艇内で絶命する瞬間まで書き連ねたあの遺書ではなく、
両親に向けて送られた「武人の覚悟」ではないかと思われます。

全世界にその見事な死に様を賞賛された佐久間大尉とその乗員たちですが、
事故の原因については、

「母船が異常を報告しなかったのは、日頃から佐久間大尉が
母船との打ち合わせを無視しがちで、さらに異常を報告して
何もなかった場合、佐久間艇長の怒りを買うことを恐れたから」

とか、

「佐久間大尉は過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたため
禁じられていたガソリン潜行の実施を行い、しかも母船に報告していなかった」

という調査結果が出されています。
この辺は命を預かる艇長として責任を問われるべきだと思うのですが、
その従容と死に向かった姿が全てを白紙にした感があります。

岩国名産「六号煎餅」。
煎餅に潜水艦か佐久間艇長の顔が焼いてあるとか?

呉の鯛乃宮神社には第六潜水艇殉難者之碑があり、毎年、事故のあった日に
海上自衛隊主催で追悼式が行われているそうですが、平成29年度は
1日早い14日だったようです。

 

さて、続いてのコーナーは「予科練」です。
岩国では飛行予科練の教育が昭和16年から18年にかけて行われていました。

岩国での一期生は1,200名だったそうです。
最初に着隊して被服を支給され、憧れの「七つボタン」を受け取りますが、

「ヘエーこりゃダブダブだ服に体を合わせろ!」

「服に体を合わせろ」というのは、上から言われた言葉だそうです。

タスキをかけ、脚絆を巻いて錦帯橋まで行軍訓練(右)
座る時には膝を広げ、両手を拳にして膝に乗せる。

現在も海上自衛官は(陸海空全員かな)同じ姿勢です。

飛行服姿の記念写真(左)。
休んだ人は右端に大アップで写真が残ります。

右は宮島まで行軍した時の記念写真。
よく見ると前に鹿がいますが、皆ニコリともしておりません。

海軍兵学校の岩国分校があった時期もありました。
終戦近くなり、なぜか大量に増やされた海軍兵学校の生徒。

わたしはこの措置を、

「もう勝つことがないと戦局を冷静に判断した海軍首脳が
負けた後国を興すための人材を大量に養成しようとした」

という理由によるものと考えていますが、その是非はさておき、
いわば「疎開」状態だった岩国分校の生徒は大変だったようです。

終戦時には75期生から最後の77期生まで、
3校で1万名を超える海軍士官の卵が学んでいた。
入校式で吊る憧れの短剣は輸送途中に空襲で焼失、借り物で済まし、
純白の夏制服は緑色に染められ、酒保・甘味品もなし。

確か、食べ物もなく病気が多数発生したという話も。

兵学校で使われていた教科書が残されていたようで紹介されていました。
「ジュットランド」とありますが、これは「ユトランド沖」のことですね。

確か模型展覧会の見学の時にお話ししたと記憶しますが、第1次世界大戦で
あの「インヴィンシブル」「クリーンメアリー」などが沈んだ海戦でしたね。

物理の教科書。
「爆撃の弾道」とか、科目も実に実践的です。

物理の教科書には赤ペンで書き込んだ持ち主の計算式が・・。

予科練出身で「瑞鶴」飛行隊勤務になった人の寄贈した写真。
二列目真ん中で椅子に座っているのが士官で、その真ん中が
飛行隊長であろうと思われます。

にしても皆若いですね。

この後、構内を車で回っていて、古い建物を指さされました。

「あの入り口で撮られた有名な連合艦隊司令部の写真があります」

真珠湾攻撃の前、11月12日に作戦会議が行われた建物は
今でも岩国基地構内にあって米軍が使用しています。

前回、米海兵隊のパイロットであるブラッドとその妻に
構内を案内してもらった時、零戦の掩体壕の中を見せてもらいました。

これによると、岩国基地には零戦22型が配備されていたようです。

新聞による連載記事で、ここ岩国にあった
旧海軍第11航空廠岩国支廠を、「地下飛行機工場」について
現状(昭和62年当時)に始まり、開設に至るまでの経緯、
農家を強制的に接収し、呉の設営隊を千人投入して掘削を行い、
小・中学生まで夏休みに駆り出して作られた、ということが書かれています。

ここでは「彗星」「紫電改」などを生産していたのですが、
機体が完成する前に終戦になってしまい、結局生産するには至らなかったと。

終戦となった空廠では、進駐軍に備え証拠を隠滅する作業が行われました。
戦後の食物不足の時にはここで豚飼育が行われ、子供達には
格好の遊び場となっていたとか。

戦後トンネルが崩落仕掛けて上にあるトンネルに亀裂が走り、
放置してあるのは「行政の怠慢だ」という住民も登場します。

最後にはこの遺跡を残す地元民の声が紹介されています。
証言している人々はどちらかというとノスタルジーから「青春を懐かしんで」いるのに、
新聞は相変わらず「悪夢の遺跡、後世に残すべき」と平常運転。

海軍時代の看板がそのまま残されています。

「呉海軍施設部 岩国施設工事 藤生愛宕分遣所」

海軍空廠が建設されていた頃、呉から施設隊が派遣されていたようです。

 

現在の空廠の跡は、「悪夢の遺跡」として公開されることなく、
在日米軍の弾薬庫となっています。

 

 

続く。

 

二式大艇からPS-2まで〜岩国航空基地 史料館

$
0
0

海上自衛隊岩国基地内にある史料館は、かつてここにあった
海軍時代の史料の紹介と、戦後の接収を経て海上自衛隊が
アメリカ海兵隊と共同使用するようになってからの史料、
二つに別れています。

現在の岩国基地のジオラマ模型があり、ここで基地の歴史などの説明を受けます。
昭和13年から帝国海軍が軍用飛行場として運用を始め、
主に教育隊、練習隊の航空基地となり、前回にもお話ししたように、
予科練と海軍兵学校岩国分校がありました。

戦争末期には連合国の空襲を受け、多くの施設が被害を受けています。
前回見学した零戦の掩体壕にも、空襲の跡の銃痕が生々しく残っていました。

戦後海兵隊により接収されてイギリス連邦占領軍が駐留し、
占領解除と共にイギリス連邦軍は日本に返還したのですが、
どっこいアメリカ軍がこれを返そうとせず、しばらく空軍の所有に。

日米同盟が締結されたので、5年後には日米の共有基地となり、
アメリカ軍は再び海兵隊が駐留することになりました。

 

車で基地内を案内されながら、

「ここが旧滑走路です」

と説明された広大な地帯がありました。
移転は、旧滑走路の延長に石油コンビナートがあったこと、そして
岩国市商店街や住宅街に隣接しており騒音公害が問題となったからです。

もともと飛行場の施設は全て日本の税金によって賄われているので、
滑走路の移設も全て日本政府がまかなっています。

海側に埋め立てて作られた滑走路が運用を始めたのが2010年。
同時に旧滑走路は閉鎖されましたが、今は空き地になっているだけで、
どう使用するつもりかはわかってないようでした。

さて、ここからが「海自資料コーナー」です。
何かワケありげな柱時計が目についたので、

「これはどこかに飾られていたものですか」

と聞いてみましたが、特に意味はないそうです。

部品や写真などがガラスケースに展示されておりますが・・。

目を引いたのがあの海軍の飛行艇、「二式大艇」でした。
二式については、当ブログでもかなり詳しくお話ししたことがあります。

川西航空機が製作した、当時世界才能の性能とまで言われた傑作機、
川西 H8K 二式飛行艇は、ご存知のようにその後、系譜が受け継がれていきます。
まず新明和 PS-1。

鹿屋に展示されていたものだと思われます。
呉地方総監部で行われる殉職者追悼式で、わたしは総監から

「PS-1の事故での殉職者は皆ここの管轄になるので多いのです」

と聞いたことがあります。
PS-1は退役までに6機が事故に遭い、37名もの乗員が殉職しています。

 

そして新明和 US-1。

つい最近全機退役したUS-1ですが、実は対潜哨戒機として開発された
PS-1に救難機器を設置、救難飛行艇化したものです。

そして現在活躍中のUS-2へ。

二式はこれらの「二式の系譜」を受け継いだ救難水上艇を生みました。
岩国基地は救難艇を運用する第71航空隊が所属しております。

じ・つ・は !

今回の基地表敬訪問に当たって、アレンジをしてくださった司令副官が、

「訪問の際特に見学をしたい飛行機はありますか」

と聞いてくださったわけです。
例によってその辺のことには全く無知であるTOが、その電話の後、

「と言ってくださってるけど、どの飛行機」

「US-2!」

TOは先方にこのように返事をしました。

「即答でUS-2だと言っております」

この後、US-2の見学をさせてもらうことに決まっていたわたしは
特にこの部分をワクワクしながら見ておりました。

 

二式大艇のマニュアル複写です。

橋口義男氏は海軍造船大尉出身で、広工廠勤務の時には
日本で初めてとなる一五飛行艇の設計主務者として開発し、さらには
その後川西航空機で紫電改の設計を行っています。

川西航空機で二式の設計陣であった橋口氏は、老後も
新明和のお膝元関西で過ごしたらしいことがこのプロフィールから伺えます。

そういえば、わたしの関西の実家近くには新明和の寮があったので、
小さな時からその名前を知っていました。

発動機の部品のほんの一部が展示されています。
これは水の中から引き上げたものではないでしょうか。

皇太子時代の天皇陛下ご夫妻がUS-1に御登場賜られたことがありました。

その時限り(だと思いますが)機内には赤絨毯が敷き詰められ、
なぜか靴べらまで用意されたようです。

天皇陛下ご夫妻のために特別に用意された茶器や菓子皿。
透明の皿は水菓子でも供されたのかもしれません。

救難機ではない、つまり朱色の塗装がないPS-1は
哨戒機としての機体です。

右側の風向計は実際に機体に付いていた本物。

こうして改めて見ると、背中のシェイプがユニークですね。
おそらく重量を減らすための工夫ではないかと思われます。

モックアップと言うのでしょうか、風洞試験用の模型もありました。

戦後二式大艇を持ち帰り試験飛行したアメリカの航空機会社はその性能に驚き、
新明和興業(川西航空機)に新飛行艇を作らせたのですが、中でもグラマンは
設計者の菊原静男に自国の飛行艇UF-2をポンと気前よく与えました。

「これを元に試作品を作りたまえ」

そうして開発されたのがUF-XS。
試験用に作られた機体で、この実験結果から新明和は
US-1そしてUS-2を生み出して行くことになります。

 UF-XSの本体は、現在かがみはら航空宇宙博物館に展示されています。

また、元になった「アルバトロス」については、わたしはかつて
アメリカの航空博物館で見学したものをここで扱ったことがあります。

なんだか恐竜のようなノーズですね。

UF-SXの実験飛行が成功し、防衛庁における対潜哨戒を目的とした
新型飛行艇の開発が始まりました。

1966年、新型飛行艇開発第1号機、PX-Sの開発プロジェクトが立ち上がります。
PX-S開発の目的は「波高3メートルの荒海で離着水可能であること」でした。

1968年、PX-1は海上自衛隊に引渡しを完了し、
1970年10月に同機は、海上自衛隊の制式機として承認され、
「PS-1型航空機」とよばれることとなりました。

PS-1型の航空機計器板。
「PS」とは「Patrol Seaplane」の意味です。

壮観!PS-16機による編隊飛行です。
これを撮影した飛行機は何だったんだろう・・。

ところでPS-1の横にあったこれ、何だったですかね。
現地でもこれなんですか、と聞いて、さらにはブレード状のものを留めている
理由まで質問した覚えがあるのですが、どうしても思い出せません。

設計図の上にPS-1やらPS-2、二式大艇の模型が。

左上と右上は「晴嵐」とかかもしれません(適当)

水上艇は海の上を飛ぶので、たとえ海面に降りなくても
飛行のたびにこうやってシャワーを浴びなくてはならないそうです。

さて、と言うところで資料館の見学を終え、わたしたちはもう一度
群司令と合流して、お昼ご飯を基地食堂でいただくことになりました。

「隊員と同じメニューを食堂で召し上がっていただきます」

何が食べられるのか、もうワクワクドキドキです。

 

続く。

Viewing all 2815 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>