ワシントン空港近くにある通称スミソニアン博物館別館、
正式名称スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターを
ワシントン行政区画部にある本館より先にご紹介したかったのは
日本ではもう見られない帝国陸海軍の航空機があったからです。
博物館を入理、右回りに展示を観ていくと、前回お話しした
Me162「コメート」に続き、ナチスドイツと大日本帝国、つまり
かつての枢軸国の軍用航空機コーナーに出ます。
といってもアクシスパワー・トリオのうちの二カ国だけ。
ここでも「今回はイタリア抜きで」は生きております(笑)
中島飛行機 J1N1-S 月光 ”アーヴィング”
"gekko" と書かれますと、アメリカ人は自動車保険会社の
「ガイコ(GEICO)」のキャラクターを思い出すんじゃないでしょうか。
アメリカでも「商品とあまり関係のない不思議なコマーシャル」
と言われているらしいこの会社のCMには、その名もガイコという
gekko(イモリ類)のキャラが登場します。
なので、ここでも
gekko=「ムーンライト」
と翻訳しておいてくれないと、アメリカ人にはこの飛行機が夜間戦闘機であった、
というイメージが全く伝わらないんですがね。
ついでにスペルも ”gekko" ではなく "gekkou" とか "gekkoh" にして欲しいかな、
という文句はともかく、これがまさに、現在世界で一機だけ現存する「月光」の実物です。
現地の説明をそのまま翻訳しておきます。
1941年に中島飛行機が3人乗り戦闘機として設計したIRVINGは、
1943年5月に夜間戦闘機として改造され、
B-17爆撃機を2機撃墜するほどの能力を有しました。
月光を意味するGekkoは、再設計の際二人乗り座席にしたことで、
通信士の席だったところに上向きの発射銃2丁を取り付けることができました。
第二次世界大戦中、プロトタイプの他、邀撃、偵察、そして
夜間戦闘機を含む約500のJ1N1機が建造されています。
戦争末期にはかなりの数がカミカゼとして特攻に使われ、
戦争で生き残った少数の機体は連合国によって廃棄されました。
まず上向きの発射銃、というのはここに来る人ならご存知の
小園安名大佐(戦後階級を剥奪されたらしいですがここでは一応)が
考案した「斜め銃」のことです。
小園安名のバイオグラフィによると、小園がこの銃を発案し提唱していたのは
台南空司令時代からのことだったとあります。
理論的には有効と思われたアイデアでしたが、小園の日頃の評判、
(奇行が多く、神がかり的で、一度いい出したら絶対に自説を曲げない頑固者)
のせいで、周りの雰囲気は
「まあやってみればー?」
という冷淡なものだったようです。
大型機の下を航過しながら機体を銃撃する。
この画期的な方法を試験飛行したアメリカ軍が、B-17を二機も撃墜した
この兵器をどう評価したのかはわかりません。
後述しますが、この斜め銃を最初に考案したのは小園ではなく、
第一次世界大戦時には上向きに銃口を向けることのできる銃が
イギリス軍の飛行機に搭載されていたそうですし、ドイツでは
偵察用の夜間戦闘機に上向き銃を採用していました。
そしてそれは一定以上の効果があったことが言われています。
しかしかつての枢軸国の技術を敗戦後、良いものは貪欲に取り入れ
自国を発展させてきたアメリカがこれに類する武器には
全く興味を示さなかったらしいということだけは確かです。
アメリカ軍は本土空襲時の戦果を元に、すでに硫黄島占領の頃から
後方と下方への警戒と反撃を徹底させていましたし、
月光を捕獲した時には彼らにとって珍しい戦法でもなんでもなかった、
というのが実際のところだろうと思います。
そもそも大型機への後下方からの攻撃、というニッチな目的
(日本にすれば切実でしたが)のために、小さな航空機に重い銃を積むのが
汎用性に甚だ欠けるものであったことは、B-17撃墜に気を良くした小園が
「雷電」にも大型化した銃を搭載しようとして嫌がられたという
エピソードが表しているような気がしないでもありません。
「月光」と斜め銃。
実は、わたしが今回ここに来ることを実行したきっかけがこれでした。
今年の渡米前、文京区で行われたソリッドモデル展で見た「月光」。
斜め上銃と斜め下銃を再現したその模型について調べていて、
世界に現存する最後の「月光」がスミソニアンにあることを知り、
すぐさまワシントンに行くことを思いついたのです。
調べたもの・ことを実際に自分の目で見たいと思ったとき、
わたしは人よりも多少行動的であることを自負していますが、
今回のこれなどはそのわたしの行動の中でも特に迅速だったと思います。
つまり、この「月光」を観るために、わたしはここに来たといっても過言ではありません。
「月光」は夜間戦闘機として改装される前「二式」という偵察機だったように
夜間戦闘機には夜間偵察を兼ねられるものが多いのです。
「月光」の下部には「斜め下銃」はなく、この機体が
後期に制作されたものであることを表していますが、
偵察用の窓があるのが確認できます。
「昼間戦闘機」に対してそれでは「夜間戦闘機」とは何ですか、って話ですが、
夜だけ活動するのではなく「夜にも」活動することができる、という意味です。
その特色としては
乗員が複数名 強力な武装 充実した通信設備や相応の航法能力 黒・グレー・濃緑など、暗めの迷彩塗装 機上レーダーの搭載であり、日本海軍の場合は「強力な武装」がつまり
「月光」の場合は斜め銃を含む重武装だったということですね。
ちなみに先ほど述べたドイツの夜間戦闘機搭載の斜め銃ですが、
「シュレーゲ・ムジーク」 Schräge Musik
つまり「斜めの音楽」という意味の名前が付いていました。
日本のネット界では、明後日方向で的外れの意見や行動のことを
「斜め上」
といいます。
特にかの国の行動がこう言い表されることも多いわけで、最近では
一連のP-1事案についてのこの国の対応はまさに「斜め上」と呼ぶにふさわしい
不可解さと予測不可能な不条理さに満ち満ちているわけですが、それはともかく。
そして「おかしな事」を斜め上と感じるこの感覚は古今東西同じらしく、
ナチスドイツはアメリカのジャズをバカにし揶揄して「斜め音楽」=変な音楽、
と名付け、国民に退廃したアメリカ文化というイメージを喧伝していたのです。
なんでこれが機関砲の名前になったのかその経緯はわかりません。
わたしの想像ですが、単に最初「斜め銃」=「シュレーゲ・ピストル」
(ピストルはドイツ語)とかいう普通の名詞で呼んでいたのが
ドイツ軍に皮肉屋さんがいて、ナチスの宣伝でしょっちゅう言われていた
「シュレーゲムジーク」というあだ名をつけたのでしょう。
「シュレーゲ」が一緒なだけじゃん!ムジーク関係ないじゃん!(ドイツ語)
とならなかったのは、みんながこの響きを気に入ったってことなんでしょうね。
終戦になって日本に進駐したアメリカ軍は、本土を占領した後、
彼らの関心を引いた145機の陸海軍航空機を接収し、それらを
3隻の空母に搭載して
アメリカに送りました。
(その3隻の名前はUSS『バーンズ』以外はわかりませんでした)
この接収された航空機のなかに4機の「月光」がありました。
このうち3機が厚木で1機は横須賀から接収されたもので、
この横須賀からの機体番号7334には、外国機を表す番号
FE3031(後にT2-N700に変更)
が与えられました。
記録によると、接収後、「月光」はまず米海軍パイロットの操縦で
USS バーンズに着艦した後、アメリカ本土まで運ばれました。
米海軍の航空情報担当者は1945年12月8日、
バージニア州ラングレーフィールド基地に”Gekko 7334”を割り当て、
その後1946年1月23日、今度はペンシルバニア州ミドルトンの
倉庫である航空機材倉庫(Air Materiel Depot)に移されました。
ミドルタウンの海軍航空隊整備部門は、まず「月光」のエンジン
(零戦と同じ生産先でさらに同じモデル)を改造し、換気システム、無線、
および一部のパーツを飛行試験のためにアメリカ製に置き換えました。
このときメカニックはこれらの作業をわずか3ヶ月で終了させています。
この後海軍は6月初旬、月光7334を陸軍に移していますが、
この2ヶ月間で、海軍内での試験飛行を終わらせたのかもしれません。
海軍から機体を受け取った陸軍のテストパイロットによって
「1946年6月15日、月光7334を約35分間飛行させた」
とこの時の記録には残されていますが、
テストが行われたのはどうやらこの1回だけであったようです。
アメリカまで輸送した4機のうち1機を大改装までして35分のテストを一度だけ、
しかも残り3機はそのまま廃棄とは、さすが金持ち、勝者の余裕ですな。
(もちろん皮肉です)
その後月光7334は陸軍空軍の手によってイリノイ州の
ダグラスC-54を作っていた工場に運ばれました。
おそらくここでテストのために付けた機材を取り外したのでしょう。
それから3年後の1949年、月光7334はスミソニアンに寄贈され、
一旦イリノイ州パークリッジの倉庫に保管されました。
ところがパークリッジ倉庫はその後、朝鮮戦争で鹵獲した飛行機など、
60機あまりでいっぱいになってしまい、月光7334は
1953年には修復工場の外に押し出されるように投棄され、
1974年に修復スペースが利用可能になるまで雨ざらしになっていました。
さらにその5年後の1979年、NASM(スミソニアン航空宇宙博物館)は
やっとの事で月光7334を修復の対象にし、その作業に取り掛かったのです。
現物を見ればわかりますが、ここにある世界唯一の「月光」の機体は
その修復技術の高さと美しさで他の航空機と比べても目を引きます。
1976年に修復された当博物館所有の三菱零式艦上戦闘機に次いで、
月光7334は、 スミソニアン博物館の復元技術者の熟練の技を
世界に知らしめることになった二機目の日本機となりました。
月光7334の修復作業は、機体が20年間外気に晒されていたため、
各部分が(深部まで)完璧に腐食してしまっており、その当時、
NASM修復技術部門のメンバーがそれまでに手がけた中でも、
最大かつ最も困難な航空機修復プロジェクトとなったと言われています。
正確には作業が開始されたのは1979年9月7日、
終了したのは1983年12月14日。
細心の注意とふんだんな資金をかけ、述べ1万7千時間を投入し、
復元作業は行われました。
さすがは歴史的遺物の維持に理解がある金持ち国アメリカです。
(これは皮肉ではありません。心から感謝しています)
そうやって心血注いで修復が行われた月光7334は、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターに、
その完璧、かつ世界唯一の姿を今後も後世に伝えていくことでしょう。
ところで本日のタイトルは、「月光」と「ムジーク」の
「組み合わせの妙」にツボってしまったので、つけてみました。
どこからかベートーヴェンが聴こえてきませんか?
・・・おっと、このこじつけはあまりに「斜め上」だったかな(笑)
続く。