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スタンフォード "ザ・ディッシュ”を歩く〜シリコンバレー

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大久野島で散々うさぎの話をしたので、今日は思い切って気分を変えて
リスと遭遇したアメリカの思い出話をします。

え?全く気分が変わっとらんって?


リスといえば当ブログ的にはもうおなじみ、シリコンバレーの
スタンフォード大学近くにあるスタンフォード・ディッシュです。

正式名称は「The  Dish」。

スタンフォード大学横の小高い丘(標高46m)で、
1961年にスタンフォード大学のリサーチセンターが開設しました。

Dishとはレイディオ・テレスコープ、日本語で言うところの電波望遠鏡のアンテナを
英語ではお皿に見立ててこのように称するのです。

当時4億5千万の費用をかけて作られたものですが、この金額は
アメリカ空軍の出資によってまかなわれたということです。

元々の設置目的は大気圏の化学組成を調査するというものでしたが、
のちにザ・ディッシュは宇宙ロケットや衛星などとの通信用になりました。

そして現在も米国政府の管理下で学術や研究の目的のために使用されています。

NASAの衛星と通信を行っていた時はおそらく非公開だったと思うのですが、
現在、ディッシュのあるこの一帯には3.5マイル(5.6km )のトレイルがあります。

小道以外には立ち入ることもできませんし、バーベキューもピクニックも禁止、
犬の散歩も厳禁ですが、毎日1500〜1800人は訪れる人気のコースとなっています。

さて、その1500人の一人となるべくやってきたディッシュ入り口。

電柱には、いなくなった黒猫を見つけてくれた方には
賞金を出しますという飼い主の切実な訴えが貼られていました。

7月22日からいなくなってこの時すでに2ヶ月経過しています。
どこかの家で保護されているといいのですが・・・。

午後の予定に備えて歩き出したのは、8時ちょうどぐらいでした。

シリコンバレーは9月下旬でも昼間は猛烈に暑いので、
歩くのは朝方がいいと思うのですが、やはり夏休みが終わったので
よそから来ている人が大幅に減ったということなのでしょう。

それと、残念だったのはリスがあまりいなかったことです。

何年か前に初めてきた時には足元がリスだらけで感動したものですが、
今回門の周りには1匹もおらず、延々と歩いていってやっと一匹目に遭遇しました。

10月近くなってすでに冬眠期にでも入ったのかな?と思ったのですが、
後でしらべるとカリフォルニアジリスは、冬がそう寒くない地域では
冬眠せず結構一年中活発に活動しているということでした。

単にまだ彼らの食事時間には早かったのかもしれません。

「ディッシュ」が近づいてきました。

ちなみにこの中は公園ではないので、設置されているのは道だけ。
ピクニックテーブルもベンチも、もちろんトイレもありません。

トイレといえばこの付近は日本のようにコンビニもレストランもない住宅街で、
もしその必要性にかられたらみんなどうしているんだろうと心配になります。

しかしディッシュ側は研究施設を公開してやっているだけでそんなもん知らんがな、
という態度なので、今後もそういう設備の設置は行われないでしょう。

ディッシュが近づいてきて初めて2匹目のリス発見。
本当に今年は変な感じです。

給水設備なのかわかりませんが、白い土管に
ちょこんと後ろ姿が見えました。

手前にいたリスはこちらを見ると向きを変え・・・、

白い土管に向かって走っていきます。

友達のいる土管の淵に駆け上りました。

気のせいかこちらを見ているような・・・。
この辺りのリスはとにかく警戒心が強く、カメラを向けるだけで
何事かを察知して逃げてしまいます。

上空からは定期的に肉食の猛禽類が狙っていますし、
アライグマ、キツネ、イタチ、蛇などに捕食されるので、
敵に囲まれて生活しているとこうなるでしょう。

尻尾を友達のとくっつけると安心感があるのかも・・。

標高46mの円形コースは、右左どちらからいっても必ず一回か二回、
「心臓破りの坂」が待ち受けています。

その一つがこれ。
とはいえ、普通に歩いているぶんには心臓が破れることもありません。

何度もここにきていますが、霧がかかっているのは初めて見ました。

霧は大抵の山より低いところに筋のように立ちこめることもあります。

というわけで、ディッシュの前を通り過ぎるところまでやってきました。
ここでだいたいコースの半分くらいです。

ここから一旦下り、また坂を登っていきますが、この日は
コースにも霧が立ち込めていました。
8月に歩くのとはやはり気温もかなり違います。

ところで、この直後、向かいからやってきたおばあちゃま二人のうち
一人がわたしを呼び止め、

「ちょっと、あなたそんな大きなレンズ持ってるんだからあれ撮ってみて」

とおばちゃん特有の唐突さで命令してきました。

言われるがまま撮った電信柱の上。
肉眼では風速計や風向計と見分けがつかなかったのですが、
シャッターを押して、モニターを彼女に見せると、

「あら、そんなに拡大できるのね。
じゃ一番大きくして。
いいえ、それじゃなくてもっと右を見せてちょうだい」

画面に鷹が写っていることを確認した彼女は、連れに

「だからいったでしょ?あれは鳥だって」

と嬉しそうに宣言しました。

「もう一回ちゃんと撮ってみます。
それにしても良い目してらっしゃいますね」

と振り返って声をかけると、

「そうなのよー」

本当に肉眼ではわたしの2.0の視力でも見えなかったんですよ?

杭ごとに1匹ずつリスが乗っていたこともあるこの一帯にも
全くその姿はなく、ようやく見つけた1匹。
むしろこんな時にこんなところに一匹でいるリスって一体?

地面に平行に伸びた木の幹で腕立てのようなエクササイズを
実行している女の人。
先ほども言ったようにコースから逸れることは禁じられていますが、
彼女はためらうことなくスタスタと脇道に入っていったので驚きました。

ところでうちの近所の公園で毎朝木の枝にぶら下がってエクササイズしている
おばさんがいるんですが、いつか枝が折れるんじゃないかと思って見てます。

公園もあるんだからそこの鉄棒にぶら下がれよ。

朽ち木と電信柱とディッシュ。
基本ディッシュの中は道路以外いっさい手をつけず自然のままです。

今回、そこここに巣を張っていたのがクモ。
レース編みのような綺麗な巣に思わず目を奪われました。

よく見ると蜘蛛の糸はくまなく朝露がビーズのように連なって、
まるで精緻な首飾りのようです。

水色の軀をしたクモの美しさとともに自然の芸術を見た気がしました。

ここまで来るとあとは下りだけです。
スタンフォード大学のフーバータワーが右手に見えています。

かつてのリス地帯には山鳩が餌を探して歩いているだけ。

と思ったら、最後にやっと見つけた呑気なリスさん。
猛烈にお食事中です。

片手で草の茎を抑えてもう片方の手で実を刮げて口に入れています。

この麦のような草の実は彼らの大好物なのでしょう。
カリフォルニアジリスも他の齧歯類と同じく、
ほほ袋にできるだけ溜め込んで巣に持って帰り貯蔵する性質を持ちます。

両手で一生懸命口に食べ物を入れる様子はいつまで見ていても飽きません。

出口まであと少しという時、目の前をリスが横切りました。

 

草地にたどり着いてホッと一息。

というわけで、ちょうど1時間半かけて門まで帰ってきました。

スタンフォード・ディッシュは9月から2月までは6時半にオープンし、
夜7時半に閉門します。
wikiによると冬場の閉門は以前は17時だったようですが、

「それでは仕事が終わってから運動できない!」

みたいなクレームが出たのかもしれません。

しかし、冬場、夜の7時にここに入るのはかなり勇気がいると思う・・・。

この写真にも「警告」としてマウンテンライオンが出ます、
というポスターがありますが、これは正確にいうと、

「マウンテンライオンがどこかにいるはず」

というお知らせなんだそうです。

実はここでマウンテンライオンが実際に目撃されたことは一度もなく、
2011年、マウンテンライオンが通った形跡が見られた、
という程度のことだそうですから、たまたま迷い込んだ個体が
残した痕跡に過ぎないのかもしれないし、っていうか、
それは何か他の動物の間違いだったのでは?とも考えられます。

ちなみに、マウンテンライオンというと別種のようですが、
実はピューマのことです。

ピューマか・・・確かにピューマと出くわしたら怖いよね。

今年も一周走破(歩き、だけど)を果たした「ザ・ディッシュ」、
リスの姿もこの「草ソムリエ」みたいな子が見納めとなりました。

「うーん・・・陽を浴びた草の香り、コクのあるボディ、いい仕事してますねえ」


ちなみにカリフォルニアジリスの寿命は6年だそうです。
みなさん、また会いに来るからねー!

 

 

 


海上自衛隊 東京音楽隊 第59回定例演奏会「ハートウォーミング コンサート」前編

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平成という時代の最後の年末、異常な暑さのあとにいきなりやってきた
信じられないくらいの寒さに関東一円が震え上がった12月の週末、
第59回東京音楽隊定例演奏会に行ってまいりました。

この時期「ハートウォーミングコンサート」と銘打って行われる
すみだトリフォニーホールでの演奏会は、例年時節柄、
クリスマスの曲を交えて観客を楽しませてくれるのが慣いです。

最近東音関係の印刷物で見る、八分音符の連符が
可愛らしい音楽隊員で表されているロゴのように、
今回も心温まるハートウォーミングな演奏会となりましたので
ご報告させていただきたいと思います。

 

入場すると、パイプオルガンの演奏席のあるデッキに譜面台が
セッティングされています。

「ファンファーレ的な曲で始まるんだな」

と予想していたら、案の定そこに並んだ金管楽器奏者によって

トランペット・ヴォランタリー(J・クラーク)

を演奏するという幕開けになりました。

中世イギリスのセントポール大聖堂のオルガン奏者、ジェレマイア・クラークが
アン女王の夫だったデンマーク王室のジョージ王子の行進のために作曲したものです。

Jeremiah Clarke, Trumpet Voluntary-Trompeta Voluntario.

この題名についてちょっと説明させてください。

「トランペット」と題名にあり、その通りトランペットで演奏されている曲ですが、
元々はクラークが自分が演奏するために書いたオルガンの曲なのです。

それにしても「ヴォランタリー」というこの題名、「ボランティア」と同じ
「自発的に」という意味ですが、不思議なタイトルだと思いませんか?

 

超どうでもいい知識ですが一応説明しておくと、ヴォランタリーとは音楽用語で、

礼拝の前後に演奏されるオルガン曲の総称なのです。

「ご詠歌」みたいなもんですかね。ちょっと違うか。

とにかく、英語圏では元々の題名に関係なく、そうした曲を全て
「ヴォランタリー」と呼ぶことになっているのです。

そして驚くことに「トランペット・ヴォランタリー」も元々は固有名詞ではなく、
パイプオルガンの専門用語です。
詳細はこのエントリ全部紙面が必要なので省略しますが、とにかく、

「パイプオルガンのトランペットというストップ(音色を選択する装置の一つ)
を使って、礼拝前後に演奏するオルガン曲」

という一般名詞であり、この曲の本当の題名は「デンマーク王子の行進」とそのまんまです。

元々トランペットの曲でもないのに、なぜ現在この「デンマーク王子」という
トランペット・ヴォランタリーだけが独立して、しかもそういう題名になり、
オルガンでなくトランペットで演奏されているかと言いますと、
後世になってヘンリー・ウッド卿という指揮者が、トランペット、弦楽、
そしてオルガンでこの曲をアレンジしたからなのです。

 

同曲は、チャールズ王子とダイアナ妃の結婚式にも使われ、
また現在でも、従軍牧師ばかりからなる陸軍部隊、

イギリス王立陸軍牧師部隊

の公式曲とされています。
同じ曲ですが貼っておきます。

Royal Army Chaplains' Department March (British Army)

編曲がより軍隊調な行進のテンポであることにご注目。

しかしさすがはキリスト教国家、英国には牧師さんの部隊があるんですね。
日本でも「救世軍」がありますが、元々はこの「サルヴェーションアーミー」も
聖職者の軍隊から派生している組織です。

ロイヤル・チャプレンズ・アーミーの司令官は将軍位であり

「チャプレン・ジェネラル」

という階級が与えられています。

というわけで、音楽解説をしているつもりが、ついつい
ミリタリー系の方向にそれてしまいましたが、次行きます。

 

ところで冒頭写真は、わたしの座っていた席から撮ったのですが、
2階席のど真ん中という絶好の場所でした。
おまけに隣には旧知のコアな音楽隊ファンである元将官。
音楽隊の「中の人」しか知り得ない情報も教えていただけるという、
超スペシャルお得なお席です。

『近年自衛隊音楽隊には、普通に音楽大学を出て入隊を希望する人が
オーディションを受けに来るのだけど、とても残念なことに
日本の音大には得てして専門が良ければ学力は大目に見るところもあるらしく、
オケは落ちたけど自衛隊なら就職楽勝!とばかりに意気揚々と受けにきた音大卒でも
一般学力が基準に達しない場合にはお帰りいただくことが結構ある』

という笑えない話を聞かせてくださったのもこの元将官です。

そのミスター元将が、

「今日はハープの荒木さんが協奏曲をやりますよ」

とおっしゃるので改めて部隊を見ると、部隊中央に
神々しくも美しい楽器、ハープが燦然と鎮座しています。

音楽まつりで開演前に調弦しているその様子を、今まで
せっせと写真に撮ってご紹介してきたところの荒木美佳3等海曹は、
東京藝術大学を卒業後、自衛隊初のハープ奏者として東京音楽隊に入隊しました。

今回は彼女が協奏曲のソリストとしてステージに乗った最初の日だっただけでなく、
ハープ協奏曲が行われた自衛隊史上初の出来事だったのではないでしょうか。

ハープ協奏曲 変ロ長調 G・F・ヘンデル

世の中にハープ協奏曲はそんなにたくさん残されていませんが、
この「音楽史上初めて作曲されたハープのための協奏曲」は、
誰でも一度くらいはどこかで聴いた事がある、と思うかもしれない、
というくらい有名な曲です。

Marcel Grandjany - Handel Harp Concerto

2:10からはカツラをかぶっていない「ありのままのヘンデル」のお姿がみられます。
なんでわざわざこんな絵を描かせて後世に残しちゃったかね。

さてそのヘンデルやバッハ、モーツァルトなどの時代、
協奏曲というのは、終始の直前、カデンツァと言いまして、

「演奏者が自分で作曲し、自分の卓越したスキルを見せびらかす」

という聴かせどころを持っていました。
この伝説のハープ奏者グランジャニのカデンツァを、8:15から聴いてみてください。


指揮者が指揮をする手を降ろし、ハープのソロになる部分からは
全て奏者が作曲したオリジナルなのです。

荒木三曹のカデンツァは典雅ながら華やかな聴かせどころを持ち、
緩急のバランスの取れたものだったと思います。

そういえばわたしは生でハープ協奏曲を聴くのは初めてでした。
会場のほとんどの人もこの楽器が真ん中にあり、後ろには
ハープシコードが通奏低音(これも通常奏者の’裁量’で演奏される)
が奏でる様子を見るのは初めてだったのではないでしょうか。

ちなみに冒頭写真は休憩時間に撮ったもので、真ん中にあった
ハープシコードを皆で片付けているところが写っています。

残念だったのは吹奏楽でアレンジされていたため、
ただでさえ聴こえにくいハープシコードの通奏低音が
増幅させてもほとんど聴こえてこなかったことでした。

そもそもハープシコードは広いコンサートホールで演奏するのには向きません。

 

ヴォカリーズ セルゲイ・ラフマニノフ

荒木三曹が「一仕事」(本人談)しなくてはいけない前半は、
彼女がいつも担当している司会のお仕事を、男性隊員が行いました。

その司会によって「ラフマニノフの作品で最も有名な曲」と紹介された
「歌詞のない歌」=ヴォカリーズを、三宅由佳莉三等海曹が歌いました。
おそらく彼女がこの曲を取り上げるのは初めてだったのではないでしょうか。

知らない方のために、同じ吹奏楽アレンジの本田美奈子バージョンを貼っておきます。

Vocalise / 本田美奈子. (Vocalise / Minako Honda.)

高音が出なかったのか、吹奏楽のアレンジなのでそうなったのかはわかりませんが、
原曲の嬰ハ短調を半音落としてハ短調にしており、キリ・テ・カナワやフレミング、
キャスリーン・バトルのような声のビブラートを駆使したB#音のトリルには
トライしていないようですが、そういうことは差し置いても十分美しいと思います。

この人、上手かったんだなあ・・・。惜しい人を亡くしたものです。

三宅三曹のヴォカリーズは低音がアンサンブルにかき消される瞬間も
あるにはありましたが、編成を考えるとそれもまた宜なるかなと。

おなじヴォカリーズを太田佐和子二等海曹のピアノ伴奏でぜひ聴いてみたいものです。

 

ルイ・ブルジョワの讃歌による変奏曲 C.T. スミス

Variations on a Hymn by Louis Bourgeois : Claude Thomas Smith

クロード・トーマス・スミスというアメリカの作曲家は、
陸海空、夜戦陸軍軍楽隊のために必要以上に難しい曲を書いています。
別名難曲メーカーと異名を取っている(かもしれない)ことと
若い時に陸軍軍楽隊に所属していたこととの間には何か関係があるのでしょうか。

いや、ないと思いますが、作る側の立場になって考えてみると、
初見ですらっと合わせられてしまう曲を書くことはプライドが許さない、
みたいなことを考える人だってね、いるわけですよ。

「演奏者いじめ」みたいな超絶難しい曲を書いて、

「ふひひひ、皆苦しむがいい、特にホルンとトランペットな」

と内心ほくそ笑むような人だってね。いるわけですよ。
スミスがそうだったとは言いませんけどね。


ところで同じスミスの難曲シリーズ「華麗なる舞曲」Danse Folâtreに
東京音楽隊隊長、樋口二佐はかつて横須賀音楽隊長時代にチャレンジしており、
個人技難易度C続きのともすればカオスで終わってしまいかねないこの曲を
打楽器奏者らしいキレのいい棒で見事にすっきりと聴かせていたのを思い出しました。

本作は「華麗なる舞曲」のようなパワー系の出だしでまさにスミス節ですが、
0:58から、変奏のテーマとなるルイ・ブルジョワの詩篇が始まります。

詩篇ってナーニ?という方向けに、一応貼っておきます。
キリスト教のご詠歌ってところですね。これも。

Old Hundredth-Bourgeois All-Parts.wmv

わたしはこの曲を生で聴くのは初めてだったのですが、
2:19から始まるオーボエのソロとそれに続くアンサンブルが好きすぎて・・・。

スミスの曲は、個々の楽器の見せ場が多く、(しかもそれが難しい)
特にこの曲もトランペットが大活躍。

6:09からのトランペットソロはよくよく聴いていただくと
二人で掛け合い演奏しているのがお分かりになると思います。

クライマックスは「詩篇」のメロディが各楽器に現れ、
フーガのように聞こえる壮大なもの。

しかし賛美歌を素材に使いながらこれほどアメリカーン!な色で仕上げてしまう、
やっぱりアメリカ人の作った曲だなあと思いました。

それと普通のメロディを普通にやればいいのに(笑)
あえて随所に不協和音を多用することについては、ある評論家も

「スミスは晩年になればなるほど不協和音を使用する頻度が増えていったが、
この側面は彼の音楽のより広範な特徴になっている」

と書いています。


前半のプログラムはファンファーレ的「トランペット・ヴォランタリー」
に始まって、全て個人の演奏をフィーチャーしたものが続きましたが、
最後のこの曲こそ、東京音楽隊みんながソリスト!な曲だったというわけ。

曲が終了後、頑張ったトランペット、ホルンセクション、オーボエなどは
指揮者にコールされて盛大な拍手を受けていました。


そうそう、この曲を依頼したのは英語ウィキによると
米海兵隊音楽隊指揮者、作曲家であった

ジョン・R・ブルジョワ大佐

だったそうです。
フランス系のブルジョワ大佐、もしかして、詩篇を作曲した
ルイ・ブルジョワが自分のご先祖だった、なんて事情でもあったのかな?

 

後編に続く。

 

 

 

海上自衛隊 東京音楽隊 第59回定例演奏会「ハートウォーミング コンサート」後編

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東音の定例演奏会が行われるのはいつもクリスマスが近づき
街がイルミネーションで彩られ、華やぐ頃です。
冒頭写真は表参道を通り抜けたら全ての街路樹がライトアップされていたので
iPadで撮ったもの。
こんな時に限って信号が赤になってくれず、これが撮れたのは青山通り手前ですが、
表参道ヒルズあたりの車道からの眺めはもっとすごかったですよ。

すみだトリフォニーホールのロビーにもツリーが飾ってあります。

この、ピアノを弾いているらしい人の彫刻、なぜピアノがないんだろう?
てっきりわたしは、ピアノと一緒に飾ってあるのが本来の姿で、
今ピアノが貸し出されるかなんかで出払ってるのだと解釈していたのですが、
何回来てもこの状態なので何の気なしに調べたところ、
ピアノは最初からなかったことがわかりました。

船越桂という彫刻家の作品で、作品名は「エアーピアニスト」。
・・・・じゃなくて「彫刻」だそうです。

この人の作品、「永遠の仔」の表紙に使われてましたよね。

船越桂 作品

見る人に想像してもらうために床にピアノの影だけがあります。

 

ジングル・ベルズ in Swing ピアポイント/ヘンデル

さて、第二部からはぐっと楽しい雰囲気に。

Jingle Bells in Swing / James Pierpont, George.F.Handel  龍谷大学吹奏楽部

ジングルベルで始まり、「もろびとこぞりて」「赤鼻のトナカイ」(部分)
の合間に各パートがソロを披露するというお祭りっぽい盛り上がりで始まりました。

音楽隊長の樋口二佐はパーカッションセクションの中に紛れ込み、
クリスマス仕様の(多分違うけど)赤いスティックで演奏に参加です。

第2部からは「司会業」に復帰した荒木三曹が、

「日本で最初にクリスマスを祝ったのは1551年、山口県で
宣教師が日本人信徒を招待してミサを行ったのが事始め」

と紹介して演奏されたこの曲、ジングルベルはピアポイントという人が
なんと1857年には作曲していたんですってね。

ちなみにピアポイントは牧師で、あのモルガン財閥の創始者、
ジョン・ピアポイント・モルガンの叔父さんです。

プログラムに「G・F・ヘンデル」と書いてあるのは、途中でてきた
「もろびとこぞりて」の作曲者という意味だと思うのですが、
正確には「もろびとこぞりて」の作曲者はヘンデルではなく、
アメリカ教会音楽の第一人者、

ローウェル・メーソン Lowell Mason (1792- 1872)

であることをちょっとお知らせしておきたいと思います

確かにヘンデルのメサイアにはイントロ・ドンをやったら間違えそうな
出だしのものがあり、これから取られたのではないかという説もありますが、

Handel Messiah: Lift Up Your Heads

これぐらいで作曲者呼ばわりするのだったら、童謡『春が来た』は
「トランペットヴォランタリー」を参考にした!とか、
「上を向いて歩こう」はベートーヴェンのP協奏曲「皇帝」!とか、
「北の宿から」はショパンのピアノ協奏曲とか、ドラえもんは
チャイコの交響曲5番!とかいうのはどうなるのって話ですよ。

これは元々の編曲者がクレジットにヘンデルと書いているようですね。
ここでこっそり訂正を要求しておきたいと思います。

 

デイ・バイ・デイ / ストーダール&ウェストン サミー・カーン

このクレジットもプログラムには間違いがありました。
プログラムには作曲者の「ストーダールとウェストン」しか名前がなかったのですが、
このメンツで一番有名なのは作詞のサミー・カーンだったりするわけです。

えー、どれくらい有名かというと、ディズニーのピーターパン挿入歌の
作詞をしたとか、「ダイハード」で有名になった「Let it snow×3」とか。


それにしても東京音楽隊というのはなんたる人材の宝庫、と唸ったのが
このデイ・バイ・デイの演奏でした。

「宇宙戦艦ヤマト」や音楽まつりでの「海をゆく」「軍艦」「われは海の子」
などを歌ったホルンの川上亮司一曹、そして去年は三宅三曹と「美女と野獣」を
披露し、音楽まつりでは海自代表で冒頭の「消灯ラッパ」を吹いたトランペットの
藤沼直樹三曹、この東音専属男性歌手二人に加え、いずれも管楽器の二人が加わり
合計4人で「男性コーラス」を披露してくれたのです。

ここで絶賛してもその素晴らしさは到底伝わらないと思いますが、
とにかく軽快なラテンのリズムに乗せた四人のハーモニーは完璧。
流石に全員管楽器奏者だけあって、ピッチが気持ちいいくらい合う合う。

「Day by day  I’m fallin' more in love with you」(日に日にあなたへの愛は増してゆく)

で四人がドライブ感満載のリズムに乗ったコーラスで歌い出し、続いて川上一曹が

「There isn't any end my devotion」(私の献身は終わることがない)

と渋い低音でキメるわけです><

Jazz Vocals with Swing! The Four Freshmen- Day By Day

世界一有名な男性4人コーラスといえば?
そう、ダークダックス・・じゃなくてフォーフレッシュメンですね。
今回のアレンジに一番似ていると思われる彼らの演奏をお聴きください。

しかしこんな素敵な男性コーラスが手持ちのメンバーでさらりとできてしまう、
これほどお得でかつ応用自在の音楽団体が他にあるでしょうか。
(あったら是非教えてください)

個人的には『I find that』の前の休符の時、真ん中の人が
いちいちビシ!っと宙を指差すイケメンポーズにシビれました(笑)

 

ところで「人材」で思いだした余談ですが、隣に座ったミスター元将情報によると、
東京音楽隊にはシエナ・ウィンド・オーケストラから来た人もいるんですね。
誰だろうと思って調べてみると、Wikiには「シエナの創設メンバー」とありました。

こういう人も普通に学科試験を受けたんだろうか?と不思議な感じがします。

見上げてごらん夜の星を / いずみたく 永六輔

このクレジットにも作詞者の永六輔が書かれてていなかった件。
坂本九の不朽の名曲を三宅三曹が歌いました。

素直で、人の心に真っ直ぐに届く歌声。
こういう曲を歌うときの三宅さんは自然で微塵も外連味がなく、
彼女のキャラクターともあいまって最高に素晴らしい。

君の瞳に恋してる Can't Take My Eyes Off You 

いくら原題が日本人には覚えにくいからといって、「君から目が離せない」を
「君の瞳に恋してる」という解釈はないだろうと思うのですが、
とにかくそういう題で日本でもヒットしたボーイズタウンギャングの曲です。

元曲はもっと古くからあったのですが、BTGがディスコ調でリバイバルさせました。
吹奏楽バージョンもyoutubeで見つけましたが、この日の演奏は
こんなにネムい感じじゃなかったなあ。(でも一応貼っておきます)

《吹奏楽ヒット》君の瞳に恋してる


チム・チム・チェリー シャーマン兄弟

(Richard M. Sharman/Robert B. Sherman)

メアリーポピンズの原作ではあまり出てこない煙突掃除屋の
バートが、ディズニー映画では思いっきり主人公っぽくなって、
この歌をメアリーと並んで歌うわけです。

メアリーポピンズの原作、小さい頃大好きで何度も何度も読んだものです。

この東京佼成ウィンドの演奏はとにかく熱田公紀氏のアレンジがよろしい。
この夜の演奏も同じ楽譜で行われていたと思います。

後半に選んだ曲はヴォーカルの二曲以外は、随所で奏者がアドリブソロや
ソリ(複数の同種楽器がソロを取る)を発揮できる曲ばかりで、この曲も、いかにも
ビクトリア朝時代のロンドン!(原作の舞台はもう少し後ですが)といった雰囲気の
「ドンぱっぱ」な三拍子からいつの間にかジャズワルツになり、
そこで何人かが、ここぞ!と立ち上がりソロを聴かせていく、という構成です。


しかし、自衛隊の音楽隊って、(一般のオケもそうですが)ー〜二昔前とは
個人の技術が段違いに高くなっているよなあとこれを聴いて思いました。

わたしが持っているCDの奏者のソロなんかと比べても、
その技術何よりセンスには明確な差があります。


アヴェ・マリア グノー

再び三宅三曹の歌声でクリスマスならではの「アヴェ・マリア」。
この曲はバッハの平均律クラヴィーア曲集第1集ハ長調の前奏曲の上に、
それを伴奏となるようにシャルル・グノーという19世紀半ば、
フランス音楽の基礎を築いたという噂もある作曲家がメロディをつけたものです。

バッハが聴いたらどう思うかは謎ですが、このアイデアは秀逸です。
音楽界のアイデア賞です。

どうしてもメロディとバッハの原曲が合わないところを1小節、
原曲の方を削ってごまかしていますが、それはさておき、
グノーの「アヴェ・マリア」はシューベルト、カッチーニのとともに
「三大アヴェ・マリア」と言われるくらい有名です。

ちなみにわたしは聴きすぎて好きも嫌いもないシューベルトとグノーより
カッチーニの「アヴェ・マリア」に心惹かれます。
この作曲者が実は実在したバロック時代の作曲家カッチーニの作品ではない、
という逸話も含めて。

寺井尚子(Naoko Terai)  Ave Maria /Caccini ( Vavilov )

実はこの曲、近代どころか最近の1970年、ソ連の作曲家
ウラディーミル・バビロフという人が、すい臓がんで困窮のうちに没する
死の直前に作曲した曲だということがわかっています。

道理でこんないい曲なのについ最近まで聴いたことがないと思った。
なぜかいつも自作を古典作曲家の名前で発表する癖のある人だったみたいですね。

なぜそんなことをするのかほとんどの人にはわからないと思いますが、
彼の専門が古楽器であったこと、「作曲家」が近代において
古典風の作品を発表するのは第一線では認められていないという
音楽界の風潮がさせたことではなかったかとわたしは思っています。

 

閑話休題、ところで隣のミスター元将と音楽まつりの話になり、

「海自のステージでの三宅さんと中川さん(横須賀音楽隊の中川麻梨子三曹)
のデュエットは素晴らしかった」

という意見で二議一決を見ました。

「中川さんはとにかく上手い。三宅さんは可愛い感じ。
二人とも全く違うタイプだからこそいい」

また、これもこっそり聴いたところ、この日は三宅由佳莉三曹の
誕生日だったそうです。
帰りに駐車場のエレベーターに同乗した人たちも
関係者に聴いたらしくこの話をしていました。

「でもお誕生日おめでとう!とかはなかったね」

まあ・・・色々考えてもそれはしないでしょう。

アレルヤ!ラウダムス・テ A・リード

吹奏楽に興味がある人でアルフレッド・リードの名前を知らない人はいません。
1960年以降日本で行われるようになった吹奏楽に道筋をつけたのは
リードの作曲した卓越したコンクール曲の数々であり、そのほかにも来日して
洗足音楽大学で教鞭をとり、アマチュアバンドを指揮した功績により、
「現代日本の吹奏楽の父」といっても過言ではない働きをしたからです。

「エル・カミーノ・リアル」(カリフォルニアに同じ名前の道路がある)
「アルメニアン・ダンス」「春の猟犬」など、名曲を多く残している彼も
また陸軍航空隊軍楽隊で副指揮者やライブラリアンをしていた経験があります。

アルフレッド・リード/アレルヤ!ラウダムス・テ


「アレルヤ!ラウダムス・テ」とはラテン語で
「ハレルヤ、我ら主をほめたたえん」という意味。

ファンファーレの後はクラリネットのソロによって
内省的な祈りを感じさせる美しいメロディが続きます。

ところでこのダラス・ウィンドシンフォニーの演奏のyoutubeが
パイプオルガンの写真であることにご注目ください。

オリジナルスコアでリードはそのクライマックスに
パイプオルガンを指定しているのです。(4分少し前から)

この日のステージに電子ピアノが置かれているのでわたしは
何に使うんだろう、と注目していたのですが、
曲のクライマックスで突然パイプオルガンの音が聴こえてきたので、
合点がいきました。

しかし同時にこのすみだトリフォニーホールの立派なパイプオルガンを
なぜ使わないのかと一瞬ですが非常に残念に思ったのも事実です。

まあ簡単に言いますが、パイプオルガンは昨日も話に出たように、
各種ストッパーの操作など、わかっていないと音も出せない楽器ですし、
第一ホールを借りる料金にオルガン使用料まで含まれていないとなれば、
キーボードでパイプオルガンの音を出すしかなかったのでしょう。

ただなあ・・・これ実際のパイプオルガンで聴いてみたかったなあ・・。


さて、プログラムの曲が全部終わり、聴衆がアンコールをリクエストすると、
なんといきなり

行進曲 「軍艦」瀬戸口藤吉

が始まってしまいました。
はて、海上自衛隊的にはこの曲が演奏されたらそこでも今日は終わり、
ということになるはずですが・・・?

スミスとリードで練習時間を使い果たしてアンコールの余力がなくなったのか、
とわたしが失礼なことを考えていると、「軍艦」が終わってから
ジングルベル in Swing調のジャズっぽいクリスマスソングが演奏されました。

イントロとかまるで「Sing、Sing、Sing」(ただしメジャー)なので、
なるほど、これと引っ掛けたのか、と思ったら、ロビーのボードに

「本日のリクエスト」

軍艦  シング・シング・シング

と書いてあって目を疑いました。
そ、そっちがメインだったの〜?

ちなみにこの日ご一緒したのは某携帯大手会社勤務という方で、

「御社はFウェイ大丈夫なんですか」

と一応聴いてみると

「うちは大丈夫です。わたしが過去入り込むのを撃退しました」

「おおすごい。もしかしたら今正義は勝つ!って思ってます?」

「いやいやw」

「もしかしてザマーミロとか」

「いえいえw」

こちらの方も本日の演奏会には大変感動されたようで、口々に

「相変わらず楽しいコンサートでしたね」

と言い合いながら外に出ました。


ところで今日、郵便物の中に、来年二月にサントリーホールで行われる
東京音楽隊定期演奏会のお知らせを発見したので、プログラムをチェックすると、
なんと予定曲に

「華麗なる舞曲」C・T・スミス

の曲名が・・・・・。

うーん、やる気ですね、隊長!

今から俄然楽しみになってきました。


というわけで、ハートウォーミングな今年の定例演奏会のご報告を終わります。
最後になりましたが、演奏会参加にお気遣いを頂きました皆様に、
心よりお礼を申し上げます。

 

 

バッテリー・ボウテール〜ゴールデンゲート 防衛の要所

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先日我が日本にも大久野島の砲台跡のような遺跡があったことを知り、
もう一度、アメリカで観た砲台跡のご紹介をすることにしました。

アメリカから帰ってずいぶん経ちますが、今更アメリカ旅行記です。


今回、秋の気配が見えた東海岸からまた灼熱の?サンディエゴに行き、
暑いのか寒いのかわからないサンフランシスコで最後を過ごして、
その1週間には思いつく限りの「もう一度行きたい場所」を隈なく制覇しつつ、
元地元民ならではのショッピングを楽しむことも忘れませんでした。

今回、サンフランシスコ空港のハーツレンタカーで選んだのがこれ。
一人なので大きな車である必要はないのですが、なぜかここには
好きな車を選んでいい「プレジデント・サークル」に大型車しかなかったのです。

その中でも比較的小型の日産ローグを選んだのですが、これがまたいい車でした。

まず、シフトが軽い。アクセルも反応が良く、サンフランシスコの急傾斜も
なんのそののパワーで、全くストレスがありません。

おまけに、追い越してくる車があれば室内の左右のランプで
こちらから来ますよ、と警告してくれるだけでなく、運転中、
車線変更しようとウィンカーを出した時に、その後ろから車が来ていると、
ピンピン!と警告音を出してくれるのです。

どんなに左右確認をしていても、ちょうど車が死角にいる場合、
車線変更でひやっとした経験は誰でもあるかと思いますが、
この車だけはこのアラームが付いていたのでとても楽でした。

今年101を走ったら楽天のビルが高速沿いにできていました。
ソフトバンクも同じサイドのもう少し南側にありますが、
後ろに回ってみればまるで書き割りのように人気がないビルでした。

まあ、ここにビルを建てるのは看板みたいなものですから、
実態はそんなになくてもいいのかもしれませんが。

今年も一応クパチーノのアップル本社に一度だけ行ってみました。
去年はショップが工事中だったので、見るだけ見ておこうと思ったのです。

ここでしか買えないアップルのティーシャツも、様変わりしていましたが、
なんというか、あまりセンスがいいシャツがないという感じ。

昔のようにパーカや帽子、赤ちゃんのよだれかけまで揃っていることはなく、
本当にTシャツとカップくらいしかもう売っていません。

息子用とわたし用に買ってみましたが、ユニセックスであるためか、
きつかったり余ったりするところがあって女性にはいまいちな着心地。

この日に限らず、サンフランシスコでの日々は、ただ心の赴くまま
行きたいところにハンドルを向けていたので、午前中クパチーノにいて、
午後からゴールデンゲート自然公園にいるというような毎日でした。

クパチーノの外にいるだけで辛くなるジルジリと日差しの強い地域から、
1時間走れば風の冷たく寒いランズエンドに行けてしまうのです。

というわけで今年もまたやってきたオーシャンビーチ。

この日はナイキ・ミサイル・サイトに行こうと思っていたので、
現地がオープンする12時半まで時間を潰す必要があったのです。

この辺りにもホームレスがいるらしいのにちょっとびっくりしました。
ずっとここにいるので皮膚が厚くなって寒さが平気なのでしょうか。

他の地域では明らかに見ることのない植物などもあります。

市内観光のバスのルートになっているようです。
わたしが通りかかった時、ちょうどバスから人が降りてくるところでした。

丘の上から温水スパ、サットロ・バスの遺跡が見られるところに来ました。
海水の溜まっているところが本当にバスだったかどうかは確かめてません。

ここにあったサンフランシスコ観光局作成の案内ボードより。

うーん、見れば見るほど左奥の鳥居が謎だわー。

それはともかく、今緑が青々と覆っている右側の山の斜面は、
こんな風に山を切り崩し、道路も鉄鋼線を入れて作っていたのね。

奥にある建物は今のクリフハウスと同じですが、この写真は
1922年に撮られたもので、前の建物が火事で焼けた後再建したのです。

ところで、これ、覚えておられます?

1924年の我が海軍兵学校遠洋航海のアルバムに、
「金門公園の海岸に建てられたる家」というキャプション付きで
掲載されていた写真なんですが、この建物は1907年に消失したはず・・・、
つまり、行ってもいない景色をあたかも見たかのように載せている、
と鬼の首を取ったように当ブログで摘発したことがあったんですね。

実際、練習艦隊が金門に訪れた時にはおそらく上の工事も終わり、
クリフサイドは今現在とほぼ同じ状態になっていたはずです。

この文章にある「Yelamu Ohlone」(イエラム・オーロン)とは、
サンフランシスコのこの一帯に住んでいた300人足らずの
ネイティブ・アメリカン(俗にいうインディアン)のことです。

彼らはスペイン人がここにやって来た頃に改宗したりして、
いつの間にか吸収されてしまいました。

1860年ごろ、最初のアメリカ人たちがここにたどり着き、
やったことは徹底的な「山野の彫刻」でした。

土地を削ったり形作るだけでなく、彼らがしたことは
人工的に緑地帯、森林を作ることも含まれていたのです。

1880年代にはあのアドルフ・サットロ(Adolf Sutro )が
この一帯を「プレジャーグラウンド」として開発しました。

そのサットロがここに作ったのが、「サットロ・バスズ」でした。
夏も寒くて海で泳げないサンフランシスカンのために、
サットロはなんと、巨大な温水プールを作り上げたのです。

その後経営が思わしくなくなると、なぜか都合よく建物は全焼し、
サットロは巨額の保険金を手に他の地方にトンズラした・・
かどうかは知りませんが、まあ、そういうことです。

今でもこの地域にはその遺跡を見に来る観光客が絶えず、ある意味、今も
サットロの企画した「プレジャーグラウンド」となっていると言えます。

お風呂だった部分には海水がたまり、更衣室かシャワー室だったらしい
小さく区切りのついた部分はまるで路上アートの展示ブースみたいです。

写真の上半分は全盛期のサットロ・バスで水遊びに興じる人々。
泳いでいるのを見ている人がいっぱいいますが、この時代
温水プールというものが物珍しかったのだろうと思われます。

その下の

「勝利を定義するものは何か?」

という記事は、ジョン・ハリスというサンフランシスコ在住の男性が、
新しくオープンしたサットロ・バスズを友人たちと訪れ、入場料の
25セントを払ってから、アフリカ系だった彼だけが入場を拒否された、
という差別を法の場に訴えたという事件を表しています。

カリフォルニアでは1880年には州法として、ディブル民権法
(写真右がそのヘンリ・ディブル)が制定されており、
ハリス氏の訴訟の拠り所はこのディブル法でしたが、
実際問題としてアフリカ系をバスに入場させると、その他全員の
白人客が嫌がって来なくなるため、どうしてもそうせざるを得ない、
という経営側の主張に妥協するような形で、結局裁判は
ハリス氏の訴えである「損害賠償金1万ドル」とは程遠い、

「ハリス氏を二回拒否した賠償金50×2=100ドル払うこと」

という判決が出されました。

制定されたばかりのディブル法が「試された」形になったこの裁判、
確かにハリス氏は勝訴しましたが、タイトルの言うように
これが本当の勝利だったのかどうかは誰の目にも明らかでした。

クリフハウスには何回も来てご飯も食べ、
そこに温水プールがあったことはよく知っていましたが、
そんな人種差別事件があったことをこの看板を見るまで知らなかったので、
まだまだ知らないことがたくさんあるものだと嘆息しながら、
ナイキ・ミサイルサイトに向かったわたしでしたが、
その欄でもお話しした通り、site を sight と間違ってナビに入力したため、
ブリッジをまた戻って来てしまいました。

しかし、怪我の功名というのか、ブリッジを渡った後、
もう一度ナビを入れ直そうと適当なところを探して車を停めたら、
そこは何と、今まで知らなかった旧砲台跡だったのです。

去年、ブリッジの向こう側のフォート・ベイカーで、偶然
砲台跡を見つけて調べたところ、その昔、ここには
本土を防衛するため、それこそ針山のように、バッテリー、
砲台が設置されていたことを知りました。

ここは「Battery Boutelle」(バッテリー・ボウテール)という砲台です。
どうも響きがフランス語ぽいですが、フランス語の「瓶」(bouteille)とは
惜しいところで少し綴りが違うみたい。

1899年にフィリピン近郊で活動していたボウテール中尉の名前だそうです。

かつてここには5インチ砲が3基設置されていました。

このグーグルマップをご覧ください。
赤いマークがわたしがたまたま車を停めたバッテリーですが、
全部でこの画面だけで見える7つのブルーのマークは、
全て砲台が3基単位で存在し、今も遺跡として残されている部分です。

「針山のように」というのは決して大袈裟な表現ではないのがお分りいただけるでしょう。

この一帯をフォート・スコットといい、完成は1900年ごろです。

上グーグルマップの一番上の「バッテリー・クランストン」で
1915年に撮られた砲兵の写真です。

一つの砲台にはこれだけの人員が配置されていたということですね。

どの写真も砲身の位置が低すぎないか?
と実は不思議だったのですが、謎が解けました。
ピラーマウントは「ピラー」(柱)というだけあって、それ自体が
高さを変えて、砲身そのものを持ち上げることができたのです。

これもクランストン砲台の写真です。

 

1912年、つまり現役時代のここバッテリー・ボウテール。
不鮮明ながらピラーマウントには砲が設置されているのが確認できます。

砲は飛距離7マイル(11.265km)、1分間に30発連射することができました。

1900年から1917年まで、砲台は稼働していたようですが、
第一次世界大戦が始まった時、砲は取り外されました。
野戦砲兵隊の任務に使われたからです。

CANONの落書きが・・・(笑)
中には砲のカートリッジなどを収納したのかもしれません。

石段を上がってみました。
ピラーマウントだけが残されています。

これは一番右側の砲座跡。

三つある真ん中の砲座跡。
とにかく誰でも立ち入ることができ、保護されてもいないし
見張りもいないので、落書きし砲台、じゃなくてし放題。

砲台には砲を接続するためのリングが壁に据え付けてありますが、
こんな落書きをする人も・・・上手いのか下手なのか判じ兼ねますが、
とにかくこれがカウであることはよくわかる。

半地下にあり、窓には鉄格子。
これは弾薬を収納していた弾薬庫に違いありません。

ナイキミサイルを見に行こうと思っていたため、これ以上は
進みませんでしたが、この海側は

バッテリー・ゴットフリー(Battery Godfrey)

と呼ばれる砲台跡で、そこはボウテールの2倍以上大きな
新しい12インチ砲をテストするために作られたものでした。

この写真でも、砲がまだ完成したばかりでテスト中らしいことがわかります。

「ゴールデンゲート・オーバールック」と名付けられた
ちょっとした高台に登るとこんな景色が見えます。

ボウテール砲台はこのさらに右側に1基、
全部で4基の砲台になる予定でしたが、何かの都合で中止され、
結局廃止されるまで3基のままでした。

兵士たちが休息を取るために隊舎もありました。
ただしそれは自分の割り当ての砲台のすぐ近くで職住一体だったそうです。

士気を高めるために、フォート・スコットフィールド(この横にある)
では、行進などの訓練も行われました。

軍隊の基本ってどこでも行進なんですね。

近くで見ると気がつきませんでしたが、真ん中の砲台は
完璧にヒビが入っていて、今度地震でも来たら崩れるかもしれませんね。

1943年、アメリカ戦争省はこの砲台をこの地域にある他の12の砲台と共に
遺跡として残すことを決定したといいます。

1943年といえば、第二次世界大戦が激化していた頃だと思いますが、
わざわざそんなことを政令として決める余裕があったということですね。

フォートとバッテリーがこの地域にどれだけあったかを示す地図。
赤い四角は全てバッテリーの所在地です。

スペインの領地だった頃、1900年から1915年にかけてのバッテリー、
そして冷戦時代のナイキミサイル発射場と、時が移ろうにつれ武器を変えつつも、
ここランズエンドは常にサンフランシスコ防衛の要所であったのです。

 

 

 

 

海将を囲む会〜呉地方総監のラストダンス

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 大久野島でうさぎに囲まれた翌日、わたしは車を西に約2時間走らせ、
呉市内のホテルで行われた「海将を囲む会」に出席しました。

会場となったのはクレイトンベイホテル 。
この秋の自衛隊記念日で感謝状の授与対象ともなった当ホテルでは
海上自衛隊お膝元のホテルとして、その広報活動に大いに協力しています。

護衛艦「かが」カツカレー(ひじき、黒ごま、大豆使用)

補給艦「とわだ」カレー(りんごピューレ、チーズ入り)

練習艦「かしま」牛タンカレー(セロリ・トマト入り)

などの海自カレーがホテル内の全てのレストランで提供されています。

ところで、この日囲ませていただく予定の海将とは誰かというと、
それはもちろん、会場となったクレイトンベイホテルのロビーラウンジの
提供メニュー、「がんすバーガー」に使われている「愚直たれ」で
就任いらい全軍とその周辺の話題を集めた池太郎海将その人でございました。

実はわたしがこの会に参加したことをご報告するのを控えていたのは、
12月14日、防衛省の人事で池海将が退官されるということが
公的に発表され任期を終えられるのを待っていたからだったのです。



まだ辞令が降りてはいませんでしたが、この「囲む会」は
実質、「呉地方総監の離任・退官を祝う会」という名目で、
ホテルの大宴会場を借り切り、盛大に催されました。

開場時間となり、受付をすませると、自分の割り当てテーブルに案内されます。
テーブルには「とわだ」「かが」「せとゆき」「あぶくま」「しまゆき」
から掃海艇の「ながしま」まで、海自艦艇の名前がついています。
ちなみにわたしは「おおすみ」でした。

ステージ前には、有志一同によって池海将に贈呈する記念の
帽章や肩章、ウィングマークに防衛記念章、そして呉地方隊隷下の
部隊章があしらわれた額縁が飾ってあります。

わたしが見てそれとわかるものは

音楽隊、業務隊、教育隊、造修補給処、衛生隊、
仮屋磁気測定所、由良基地分遣隊、阪神基地隊、
同じく第42掃海隊「つのしま」「なおしま」、
呉水中処分隊、陸警隊、港務隊、
佐伯分遣隊、そして多用途支援艦「げんかい」。

皆このプレートに刻まれた

自 平成28年7月4日 至 平成30年12月19日

という日付を眺め、

「やっぱり退官されるんですねえ」

と互いに頷きあっていました。

自衛隊の人事というのは、別の元将官に伺ったことがあるのですが
本人にもどうなるのか大抵直前まで全くわからないものだそうですね。
いきなり退職を勧告されることがあるかと思えば、池海将のように
本人のご意思と予想に反して任期が延びることもあるようです。

それにしても会場となった宴会場の広いことにわたしは驚きました。

「囲む会」というからてっきりこぢんまりと円卓を囲むような
パーティをわたしは予想していたのですが、聞いたところ、
この日の「囲む会」の出席者は全部で500名くらい。

さっきまでわたしが囲まれていた所の大久野島のうさぎより
ちょっぴり少ない数の人数で海将を文字通り囲むことになっていました。
今更ながら池海将のご勇退を惜しむ人々の数の多さと、
それからうかがえるご本人の人望の厚さに感じ入った次第です。

いよいよ開会となりました。
呉地方総監部を代表して、幕僚長の小峯雅登海将補の開会の辞。

最初に挨拶をされたのはご存知衆議院議員寺田稔先生。

通称大和ミュージアム、呉海事歴史科学館の開館に際しては
大変尽力されたということを聞いてから支援しているのですが、
先般ある防衛団体で、寺田議員の憲法改正論をうかがい、
その方向性にわたしの考えとの類似性を見出すとともに、
なんと明晰に物事を分析しそれを自分の言葉で平易に語ることができるのかと、
その弁を裏打ちする学識の豊かさにも感じ入ったものです。

続いて呉市長新原芳明氏。

呉地方隊指揮官として海将が地下司令室の一般公開など、
呉の観光事業にも大きく貢献されたことの感謝を述べつつ、
呉音楽隊定期演奏会で池海将が「恋ダンス」を披露したことを
空気読まずに「ネタバラシ」してしまわれました。

おっと、それは今日のサプライズのはず(笑)

 

挨拶の後歓談となりましたが、この間海将夫妻は海将旗と一緒に
全員と写真を撮って声を交わしてまわります。

とにかくテーブルが沢山あるので終えられるのに莫大な時間がかかりました。

わたしたちのテーブル担当の配膳係の女性は、実に甲斐甲斐しく
料理をお皿に綺麗に盛り付けては持ってきてくれます。

同じテーブルの招待客とは自然と社交が始まり、自衛官を含む
何人かと名刺交換をし、現場のお話として

「今は景気が良いので自衛官の募集には苦労している」

という内情などを聞かせていただきました。
後、中国地方の陸自駐屯地でMCV(装輪装甲車)が配備予定なるも、
それはいつになるかわからない、というお話とか・・・。

その方は司令官クラスなので新制服に身を包んでおられましたが、

「うちは調達がまだ進んでおらず、これを着ているのはわたしだけです」

そういう話になると周りの人が一斉に

「従来の制服の方が・・・・」「わたしは前の制服の方が・・」

と言い出すのはいつもと同じ、もはや様式美とでもいうべき最近の傾向です。

この時にうっかり?

「是非一度基地においでください」

とお誘いしてしまわれた基地司令官がおられました。 ( ̄ー ̄)☆キラリ
ふっふっふ、わたしにその言葉を放ったが最後、
万難を排しても行ってしまいますよ?

海将夫妻が全てのテーブルを回り終え、しばしの歓談後、
ついに本日の「囲む会」のメインイベントが始まりました。

知っている人は皆知っている、今年2月の呉音楽隊演奏会における
呉地方総監自らがステージに立ち踊った35秒の奇跡。
海将池太郎より皆様への総監として最後のプレゼンツ、「恋」ダンスです。

ところでその様子をお伝えする前に、こちらをご覧ください。

職場の上に立つ「名物ボス」を紹介したテレビ番組、
「Dear ボス」をご覧になった方はおられますでしょうか。

芸人さん二人が呉地方隊に潜入し、総監にインタビュー、
ついでに「海上自衛隊ではこんな仕事をしている」と紹介するため
体験取材としてダメコンまでやってしまう、というものです。

ちなみにうちにはテレビがないため、これを見るため都内のホテルに一泊しました。
(ただし翌日早朝、近くで用事があり、かつホテルはサービスチケット使用)

その後編で、池総監が官舎に部下を呼び手料理を振る舞うシーンがあります。
なんと官舎では「池や」ののれん、オリジナルはっぴ着用の総監がお出迎え。

背中に書かれたモットーは「諦めず、侮らず、欺かず」の
「三つのあ」をもじって

閉店まで諦めず、注文を侮らず、隊員を欺かず。

総監自らが工夫を凝らした天ぷらと唐揚げの並ぶ豪快な食卓。
たれには焼酎を混ぜるという工夫の天ぷらは、池海将がイギリス王立国防大学に
留学中、日本文化を知ってもらうために披露したのが最初だったとか。

エビ天も整列休め状態に真っ直ぐな姿勢で揚がっています。

その時お呼ばれしていた隊員さんが池総監の「恋ダンス」のことを
暴露したのがきっかけで、全国ネットでダンスを披露することに。

自分でも口ずさみながら踊る総監ですが・・・・・

2月から時間が経ち忘れてしまったのか途中でブレイクダウン。

納得いかないのでもう一度最初からやり直し。

そうなんですよねー。天ぷらの工夫にもそれを感じます。
何しろ愚直たれがモットーの方ですから。

しかし二度目もあえなく失敗・・・。

しかし、この大舞台で総監として最後のステージに立つことになり、
ストイックな池海将がその後どれだけ血の滲むような練習をされたか、
想像に余りあります。

パートナーを務めるのは、呉音楽隊の同じメンバー。
右から2番目は呉音楽隊きっての踊り手で、きっと総監は
この隊員からビシバシ厳しい指導を受けたのではないでしょうか。

呉音楽隊の演奏会でもそうでしたが、あえてサプライズのため、
ヒーローの登場は途中から。

出てきた池総監を見て皆が軽くどよめいたのは、総監が
おそらくこの場にいるほとんどが初めて見るフライトスーツ姿だったからです。

P3-Cパイロットである海将のフライトスーツ姿、わたしも初めてです。
海将補時代に年次飛行で飛ぶこともがあると伺ったことはありますが、
流石に呉地方総監になってからは飛行機を操縦することはなかったはず。

(奥様が『もう周りも飛んでもらっては困りますよね』とおっしゃっていたので
そう解釈したのですが違っていたらすみません)

しかしフライトスーツの肩にはちゃんと三つ桜の階級章が、
左胸のネームタグには燦然とウィングマーク、その下には

「T. IKE  PILOT JAPAN NAVY」

の文字があるではないですか。

ところで今気づいたんですが、池さんの名前って、英語読みでは
「アイク」(アイゼンハワーの愛称)となります。

さらに見ると、靴は流石にピカピカの普通のものですが、手袋は
布手袋ではなく、皮のフライト用をつけておられます。

細かいところまでこだわりますなあ。

「Dear ボス」ではここまでは順調だったのですが、確か
このあたりで二回とも失敗してしまったんですよね。

さて今回は?

お?おお?

おっとお、難なくクリア!
やりましたね。

ここさえ突破すればあとは勢いで行ってしまいましょう。

しかしわずか35秒のダンスが見ていてどれだけ長く感じたことか。

テレビ番組でもそうでしたが、こういうことをしていても
愚直に完璧を目指そうとしている様子が全身から溢れ出てます。

全然おふざけに見えないんですよね。

これぞまさに愚直たれの真髄。生ける愚直たれ、いや踊る愚直たれ。

無事に恋ダンスが終わり、共に踊った隊員たちからも拍手を受けますが、
池海将、もうすでに次の行動を考えているのがお分りいただけますか。

それは何か。
自分をステージに乗せて踊りを伝授し、一緒に汗をかいてくれた
部下に対し、厚い感謝とともにその労をねぎらうことです。

真っ先にダンスリーダー(かどうか知りませんが)に振り向き握手。

女性隊員は両手でそれに答えます。

三人全員にあまりある熱い気持ちを込めて全身全霊お礼を言う総監でした。


海将を囲む会、この後は池総監のこれまでの歩みが紹介されました。

続く。

 

海将を囲む会〜「ひこうき雲」

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というわけで自衛隊人事も発令になり、呉で「海将を囲む会」が
行われてから約20日後、池総監は三十余年に亘る自衛官生活を終え、
呉地方総監部を去って行かれました。

このことはNHKとRCCのニュースでも報じられました。
自衛隊の歴史の中でも、地方総監の退官がこれほど
大々的に報じられたというのは初めてだったのではないでしょうか。

Yahoo!ニュース

 

レンガの地方総監庁舎から出てくるところから離任式の映像は始まりました。

教育航空群司令官時代、わたしは司令室の「愚直たれ」という自筆の額を
ここでご紹介させて頂いたことがありますが、その後「愚直たれ」が
呉地方隊でこれほど有名な言葉となるとはその時にはまだ思いませんでした。

池海将の最後の任地が呉地方隊であったことが、池海将と「愚直たれ」を
これほど有名にしたと言えるでしょう。

「愚直たれ」のアイデアはご本人ではなく、呉地方総監部から
就任直後に起こってきたものなのです。

愚直たれは呉地方隊の隊員食堂でも愛用されています。
あれ?この右側の隊員さんって、音楽隊の方じゃないですか?

池総監は当初2018年の3月の退官を考えておられたようです。
(奥様と『夏服はもう着ないね』と話しておられたと聞きました)
鉄のくじら館で提供されていた「愚直たれドック」も任期終了まで、
となっていたのですが、ご存知のように任期が延び、従って
愚直たれ提供期間も延ばされることになりました。

「愚直たれを置き土産に」

とテロップにあるので、少なくとも呉地方隊の隊員食堂には
愚直たれが記念に残されるのかもしれません。

そしてその次の人事異動の季節、7月には広島を大災害が襲いました。
このため総監の離任はもう一度延期されたのかもしれません。

地元復興の願いを込めて、ご当地名物である「がんす」を
取り入れた「愚直たれがんすバーガー」が生まれたのはこの後です。


さて、わたしが出席した「海将を囲む会」に戻りましょう。
呉地方総監が総監として最後に踊った「恋」ダンス終了後、
会場のスクリーンには「 Dear ボス」のお笑いコンビ、三四郎の二人が
総監を「池ちゃん」呼ばわりしながら労いの言葉を贈りました。

そして本邦初公開、池ちゃんの生い立ちとその歩みのスライドです。

お父上は大学で教鞭を取っておられたと聞いています。

岡崎市の小学生がジャイアンツのファンだった・・・だと?
ところで編集した人、勝手に帽子をカープに変えるんじゃねー。

だからカープに変えるなと何度言ったら(略)

両手に猫と犬。
奥様とはもうすでにこの頃からのお知り合いでした。

頭が良くてスポーツもできて、そして真面目そう。

高校では柔道部!硬派です。

自衛官になろうと思ったきっかけは、小学校の時の艦艇公開。
その時に案内してくれた自衛官(防大生だったかな)のお兄さんに、
学校の授業で手紙を書いたのがきっかけで文通を続けるうち、
海上自衛官になりたいと思うようになったそうです。

ちなみに、池海将と防大で同期だった元陸自戦車部隊だった方から

「みんなが遊ぶことと女の子のことばっかり考えている時に、
池だけは自費で英語のタイムズなどを取り寄せて読んだりしていた。
本当に真面目で偉い奴だと尊敬していた」

と当時の池学生について聞いたことがあります。

幹部候補生時代。右端が池太郎候補生です。

海上要員になった頃は、影響を受けた自衛官のこともあって
海上艦乗組を希望していたそうですが、結局P3-Cパイロットに。

お子さんは男・女・女の三人。
幹部自衛官の宿命とはいえ、単身赴任は仕方ないことなのですが・・、

どこの赴任地でも子供達のために毎週帰省していたそうです。
これは口で言うほど簡単ではなく、八戸基地で、実家は島根県という方に

「毎週ご実家に帰るんですか」

と聞くと

「遠すぎてとても無理です」

とおっしゃっておられました。
確か池海将には八戸勤務時代もあったはず。
毎週岡崎まで東北から帰るのはかなりの強い意志が必要です。

基地で働く姿を見せるのも父親の役目。
あとで一人ずつ家族の方々がメッセージを述べていましたが、
全員が父親を深く尊敬していることがよくわかりました。
お嬢さんの一人は

「授業参観の後『かっこいいお父さんだね』と言われ自慢の父でした」

と・・・。

家族思い、もちろん愛妻家です。

若き日の池海将、爽やかイケメンです。

そして2016年7月、呉地方総監に就任。

「愚直たれ」で名物海将になるのはまさに呉総監就任後のことでした。

広島の水害の際、視察に来た安倍総理に指揮官として解説を行う総監。

会場は静まり返って紹介される池海将の歩みを見つめています。
そしてまたそれを見ながら何を思うのか、感慨深げな海将夫妻・・。

ここからは、池海将を司令官と仰いだ部下のみなさんからのメッセージ。
池やではぼたん鍋も扱っていたんでしょうか?

池海将の愚直たれに続くもう一つのモットー、「三つのあ」にかけて。

飛行隊員、という紹介に思わず目がいってしまいました。

気持ちはわかるが”愚直たれ”は飲まないほうがいいと思う。

いかにも「押忍!」が似合う凛々しい自衛官。

知らんがな。

前呉地方総監部管理部長、現第二航空群司令、瀬戸海将補。

次の「池や」はいつになるのでしょうか。
もし許されるならばわたしも「池や」の客になってみたいです。

ここで第一術科学校長の中畑泰樹海将補が壇上の総監夫妻と向かい合いました。

防大時代、池海将の「部屋長」に対し中畑将補は「部屋っ子」という関係です。
防大では1年から4年までが部屋という少数単位で共同生活を送りますが、
4年生の「部屋長」「サブ長」に対し、下級生を「部屋っ子」と称するのです。

この独特な用語をここで聞いてもわたしが完璧に理解できたのは、
ひとえに「あおざくら」を愛読していたからです。

(余談ですが、「あおざくら」最新号で、棒倒し隊長としての思い出を
巻末で熱く語っている三等海尉は、何を隠そう、
わたしが練習艦隊走行会の時にそこでも棒倒しについて熱く語ってくれ、
その様子をこのブログで紹介したまさにその人です。)

「防大を卒業し、何年経っても池総監とは部屋長と部屋っ子の関係です」

この時にはにこやかにお話を聞いておられるご夫妻ですが・・。

中畑海将補からは会場に飾ってあった記念額が贈呈されました。

挨拶の最後からは総監にも熱いものがこみ上げてきたようです。

パイロットの池総監には熟知の世界ではないかもしれませんが、
さすがは海軍、舫の結び方見本額も贈呈されました。

幹部学校校長だった池海将には江田島の写真も送られました。
左下には池校長が卒業式で「帽振れ」をする姿が写っています。

呉地方総監部の代表から花束贈呈。

そして最後に池呉地方総監が挨拶をされました。

そして皆への感謝ののち、和子夫人に心からの「ありがとう」を述べられました。

壇上から降りると、そこにいた中畑海将補と思わず抱き合います。
向こうで写真を撮っておられるのはミカさんことふりかけそーすけさん。

就任以来総監を撮ってきた写真班のカメラマンも、二人の姿にシャッターを切ります。
見ているわたしたちも目の奥が熱くなってくるのを感じました。

万雷の拍手に送られて、池太郎海将と夫人が会場を後にします。
そのとき会場に流れていた曲はこの曲でした。

 

それから18日後の平成30年12月19日、
第43代呉地方総監、池太郎海将は呉地方総監部の「表門」から、
総監として2年余を過ごした呉を、総員の帽振れによって送られ、
第二の人生へと旅立ってゆかれました。

前途を祝すような小春日和の日差しを受けて、最後の帽振れを行う池海将。

長い間お疲れ様でした。
第二の人生においてもまた座右の銘の通り、何事にも愚直に全力で取り組まれ、
その卓越した能力と指導力で一層社会に貢献されんことをお祈り申し上げております。

しかしその前に、まずはゆっくりとお身体を休ませて、
夫人とお二人での水入らずの時間をお過ごしください。

 

 

小栗のまなざし - 明治150年記念防衛セミナー/南関東防衛局主催

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知人から横須賀で防衛セミナーが行われることを教えていただきました。
PDFで送っていただいたポスターというのがこれ。

南関東防衛局が主催する防衛セミナーで、明治150年を記念し、
横須賀と海軍、横須賀と近代技術についての講演がメインですが、
人を集めるために東京音楽隊の演奏を後半に行うことにし、
ポスターには大々的に歌手の三宅由佳莉三等海曹の写真を載せてます。

うーん、三宅さんで客を引こうってか。あざとい。主催者あまりにあざとい。

まあもっとも、この二つの講演だけであったら、いかにこのテーマに
興味があるわたしでもわざわざ横須賀まで行く気になったかどうか。

わたしをこのセミナー参加に駆り立てた決めては

♪ 小栗のまなざし- 小栗上野介公に捧ぐ- ♪

という楽曲が演奏されるという情報だったのは確かですから。

この小栗とは咸臨丸シリーズでもお話した幕末の天才、小栗忠順のことです。


小栗は維新後、高崎市の水沼河原で新政府軍の手によって斬首されました。

共に処刑された部下と共にその遺体が葬られている東善寺は
「小栗上野介の寺」と自称しており、この「小栗のまなざし」という曲も
東善寺の委嘱によって作曲されたものなのだそうです。

ちなみに、公演中、小栗の功績についてひとしきり説明した演者が
会場に来ておられた小栗の子孫という方(女性)に声をかけました。

「(小栗上野介については)こんなところでよろしいですか」

「だいたいそんなところです」

「小栗のまなざし」は聴いていただければお分かりのように、
大河ドラマのテーマソングを思わせる壮大でドラマチックな内容です。
(ところでNHK大河ドラマが小栗忠順を取り上げる日は来るでしょうか)


というわけで、今日はこの日、客寄せが目的で後半に催された
東音ミニコンサートの曲目解説を挿入しながらお話ししていくつもりです。

 

さて、セミナーの行われた横須賀のベイサイド・ポケットに到着すると、
受付に向かう階段で、まさに偶然ばったり、本日の主催である
南関東防衛局事務官である旧知の方とお会いしました。

所属する防衛団体の米軍基地見学をアレンジしてくださって以来のご縁です。
この偉い人がわざわざ案内くださって、前の方に座ることになりました。


ところで今回セミナーの主催者である「南関東防衛局」について、
あまりご存知ないかもしれないので説明します。

これらのセミナーも演奏会も、南関東防衛局の任務の一つであり
広報活動の一環だったのです。

防衛局というのは防衛省の地方支部局で、防衛大臣直轄の組織です。
会社でいうと「支店」ですね。

南関東防衛局はここにも書いてあるように、
神奈川県、山梨県、静岡県が管轄区となっています。

組織のトップは防衛事務官たる南関東防衛局長がつとめており、
現職の堀地透氏はこの日のセミナーで最初に挨拶をされました。

横須賀地方総監部で行われた練習艦隊壮行会にも来ておられたので、
「かしま」艦上で名刺交換させて頂いたことがあります。

防衛局の重大な役割の一つが、地域住民と自衛隊、そして
在日米軍との架け橋となる防衛行政を実施することで、
具体的には米軍基地の一般公開を企画調整したり、あるいは
基地周辺の防音工事の補助金を出すなどして、基地と地元の関係が
円滑に進み理解が得られるように図るのが防衛局の仕事です。

 あ、それで米軍基地見学の調整などということをして頂けたのか。
(今頃になって気づいたわたしである)


ところで2017年以降、厚木飛行場のアメリカ軍部隊は順次岩国基地に
移転しているのをご存知だったでしょうか。
これも閣議決定後、防衛局の調整によって具体的に動いている一例です。

また、防衛局は、自衛隊や在日米軍に必要不可欠な防衛施設の工事について、
その計画や発注、監督などを行うこと、つまり地域に存在する
民間の防衛産業と両軍との間に立つという役割も負っています。


ところでここまで書いてきてふと気になったのですが、
米軍と民間の調整役がその任務であるというなら、それを現在進行形で
沖縄で行なっている沖縄防衛局って、全国の防衛局の中でも
最前線というべき大変なことになっているのではないかと
改めてその視点から最近の記事を探してみると・・・・。

辺野古工事、重機に接着剤=器物損壊容疑で県警捜査-沖縄防衛局

防衛局、問題発覚までの7年間説明せず 高さ制限超える建物358件

沖縄防衛局係長が酒気帯び容疑 「車で寝て抜けたかと」

おお、やられてるやられてる。
まるで親の仇のように沖タイ、あさピーから集中砲火ですわ。

また、実際に左翼の襲撃なども受けているのですが、産經新聞が

辺野古反対派に押し倒され防衛省職員が大けが 被害届提出 嘉手納署が傷害事件で捜査

と報じるニュースを、琉球新報は

沖縄防衛局で座り込み 「聴聞」の対応巡り

当たり前のように「報道しない自由」を行使しております。
警察の操作どころか怪我のことには一言も触れておりません。


南関東防衛局はキャンプ・ハンセンの実弾射撃訓練場所を御殿場に移設するなど、
沖縄基地負担軽減のための協力も行なっていますが、これなども
沖縄二紙と朝日・毎日、共同新聞が報道することはまずないことに違いありません。

 

 

セミナーに先立ち、三宅由佳莉三等海曹の国歌独唱が行われました。

わたしにセミナーの情報をくださった元自衛官は、このとき
つい習慣で、三宅さんと一緒に大声で歌い出してしまったそうです><

「自衛隊だと大声(笑)で歌い出すものなのですが、一般の人はそうではないんですね」

そういえば、わたしも以前元自衛官の方と一緒に音楽まつりに行ったとき、
国歌斉唱の声が桁外れに大きいのでびっくりした経験があります。

 

ところで国歌といえば、この日のコンサートで「小栗の」の他に、
わたしにとって大変勉強になったもう一つの曲がありました。

Hail Columbia (higher quality)

♪ ヘイル・コロンビア、「コロンビア万歳」♪

アメリカ合衆国の初代国歌で、ペリーが浦賀に黒船とともに来日したとき、
軍楽隊が日本の地で行進しつつ演奏したのはこの曲だったといわれています。

因みに現在の国歌「スター・スパングルド・バナー」がフーバー大統領のもとで
正式に制定されたのは1931年とごく最近のことになります。

南関東防衛局長と横須賀市長の挨拶に続き、
本日のメインとなる講演会が行われました。
といっても二人が30分ずつの講演で、一般人には大変聴きやすいものでした。

まず、現役自衛官であり、安全保障分野における研究において
日本防衛学会から「猪木正道賞」を受賞した金澤浩之三等海佐の

「明治150年と日本の近代海軍建設」

この内容をごくごく圧縮していうと、

「日本海軍建設は、経験値と人材養成において近世から近代にかけて明らかに
連続性が見られ、いきなり明治維新によって近代海軍が生まれたのではない」

という(圧縮しすぎかな)ものだったと思います。
中でも興味深かったのは、日清戦争における両軍の首脳部の
「経験値」の違いを並列して比較した表でした。

日本側は海軍軍令部長樺山資紀を始め、連合艦隊司令長官伊東祐亨、
相浦紀道、坪井航三、鮫島員規、東郷平八郎(浪速艦長)に至るまで
ほとんどが薩英戦争、戊辰戦争、阿波沖海戦など実戦経験者なのに対し、
清側は水師提督丁汝昌が太平天国の乱の経験者であるだけで、
全員海軍での実戦経験がなく初陣だった、という話です。

日本の海軍第一世代の軍人たちは、すでに水軍から連なる
連続性の中で海軍形成時には育成が「済んでいた」というわけですね。


♪ 維新マーチ 宮さん宮さん ♪

「宮さん宮さん」の宮さんとは有栖川宮熾仁親王のこと。
以前「皇族軍人」の松平保男海軍少将を紹介した時にアップした動画の
「エルフェンリート」の前に流れるのがこの「維新マーチ」です。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

有栖川宮は親王家なので、英語では「Prince」という称号になります。

金沢三佐の講演では、カレーの話も出ました。
ちなみにこれは、わたしが開演前にメルキュールのカフェで食べた「ゆうぎりカレー」。
柔らかく煮込まれた牛肉と辛さが絶妙でなかなかのお味でした。

このカレーについても、世間一般では

「明治時代海軍が脚気防止のために発明した」

という説も流布されているわけですが、金沢講師によると、
1852年から62年にかけて、つまり江戸末期に長崎にいたオランダ軍の軍医、

ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト

は、本人が言うところの「夢のような」日本での生活で、

「魚介類、カレーソースがライスに乗ったもの」

つまりシーフードカレーを食べた、と書き残しているのです。
カレーだっていきなりできたわけではなく、この頃にあったらしい、
ということなんですね。

(ここで会場の調味商事の社長?が紹介されましたが、
海軍カレーを謳っている会社にとってはこの説は微妙かも)

 

因みに、ポンペが日本で初めて解剖実習を行った折には、
シーボルトの娘、あの楠本イネがそれを見学しています。

金沢講師は、その講演の終わりを松尾芭蕉の言葉、

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

という言葉で締めくくりました。

 

続いて、二人目の演者、安池尋幸氏の講演は、これも一言で言うと、
日本海海戦で日本がロシアに勝利したのは情報戦のおかげであり、
造船所、製鉄所に加えて電信所を作り、海底ケーブルを引いたこと、
三六無線を生み出した横須賀は日本の工業力の発信の地である、
と言うようなことでした。

日露戦争時代の無線電信機の写真ですが、左後ろの掛け軸は、
帝国海軍の名参謀秋山真之が日露戦争終結後、三六無線を発明した
木村駿吉に贈った感謝状なんだそうです。

いかにこの無線の存在が勝利に寄与したかを、誰よりも
天才秋山真之が大きく評価していたかがわかりますね。

というわけで、日本海海戦、秋山真之といえば?
そう、「坂の上の雲」ですね。

♪ スタンド・アローン 「坂の上の雲」より ♪

『Stand Alone』 NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」 三宅 由佳莉 海上自衛隊 東京音楽隊

この日もこの曲を三宅三等海曹が熱唱しました。
「坂の上の雲」というドラマについては、色々と問題があり、その
偏向した表現や解釈などについて随分ここでネタにしたものですが、
久石譲作曲のテーマソングはただ名曲です。

そして、あのドラマの中で作り手のバイアスによって史実が
歪められていなかった唯一の登場人物が、廣瀬武夫だったとわたしは思っています。

♪ 廣瀬中佐 ♪

軍神『広瀬中佐』海上自衛隊東京音楽隊 第35回防衛セミナー

参加した方がyoutubeに上げてくださっていました。
川上良司海曹長の「分厚い歌声」、素晴らしすぎ。

ところで、司会の荒木三曹が、万世橋駅前に昔あった
廣瀬中佐と杉野兵曹長の像のことを話していますが、それが
カラーの動画で見ることができるユーチューブを見つけました。

カラー映像で蘇る東京の風景 Tokyo old revives in color

こんなに大きな銅像だったんですね・・・。
よく見ると、銅像の横を野良犬が歩いていたりします。

ドラマ「仁」のテーマソングも最高なので、ぜひ最後まで観てください。

ところで、日本海海戦の話も出たのに、会場におられたという
東郷平八郎の孫、東郷宏重氏はなぜか紹介されませんでした。
主催者側は誰も気づいていなかったのかな。


安池氏の講話で興味深かったのは、

「日本海海戦の時に三笠にはイギリス海軍の駐在武官が乗り込んでいて、
戦闘終了後、本国にこれからの海戦は三笠レベルの軍艦では戦えない、
と報告し、それが英国にあの弩級戦艦『ドレッドノート』保有を決意させた」

という話でした。
そういえば「三笠」はイギリスの造船所バロー・イン・ファネス製でしたね。
『恐れ(ドレッド)』が『ゼロ(ノート)』という名前のこの戦艦は、
誕生前に建造中の世界中の戦艦を全て「旧式化」してしまい、
世界はこの誕生を「ドレッドノートショック」(レボリューションとも)
と呼び、その後大鑑建造競争に舵を切った世界が「海軍休日」を経て
海軍力の均衡を巡って緊張を強めていくのは歴史の知るとおりです。

ところでみなさん、こんなニュースをご存知だったでしょうか。

世界が諦めていた無線変調方式の革新に新方式を提案

神奈川県立横須賀高校の生徒が学会にて発表

携帯電話“速度10倍”実用化狙う

県立横須賀高校の2年生2人が携帯電話など無線通信の新技術を発明し、
東京都足立区で開かれた電子情報通信学会で研究結果を発表した。
現役高校生の同学会での発表は初めての快挙。
新技術が実用化されれば通信速度が飛躍的に向上するといい、
2人を指導してきた横須賀テレコムリサーチパークの太田現一郎・工学博士は
「画期的な発見だ。2人はどんな数式にも動じず逃げなかった」
と新発見に目を細める。

論文タイトルは「第6世代移動通信に向けた変調方式の研究」で、
同校の瀧川マリアさんと原佳祐さんがまとめた。
現在の高速データ通信技術「MIMO方式」は、複数のアンテナから
同じ周波数で送信した電波が障害物で乱反射し、
波形がゆがんだ状態で受信される。

しかし、2人はあらかじめ周波数や振幅を変化させ
「模様」をつけた状態で送信する独自理論を展開。
瀧川さんの名前にちなみ「MARIA方式」と名づけた。

 

この技術が完成すれば、光回線などよりも早い通信速度で
(ほとんどリアルタイム)情報が送れるようになります。

安池氏は、この快挙が横須賀発であることは決して偶然ではなく、
三六無線など近代工業技術発祥の地横須賀ならではだと語りました。

 

そんな横須賀での防衛セミナーを締めくくったのは
東京音楽隊の最後の演奏

♪ 行進曲「軍艦」♪

でした。
「海行かば 水漬く屍」からの部分を川上海曹長と三宅三曹が歌います。

記念艦「三笠」のある三笠公園には「行進曲軍艦の碑」があります。
横須賀は日本海軍の軍歌、海上自衛隊の公式行進曲となっている
「軍艦」発祥の地でもあるのです。


わたしが到着して席に座ったとき、開演前の会場では、
ドラマ仕立ての横須賀紹介ビデオが流れていました。

主人公の少女に、ペリー来航以来の横須賀の歩みを説明する役の
芥川龍之介のような風体をした着流しにカンカン帽の男性は、
最後に少女の前から姿を消し、いつの間にか小栗上野介の姿になって
小高い山から横須賀港を眺めているというエンディングでした。


その卓越した知性と慧眼、そして何よりも国を想う心をもって
横須賀、ひいては日本の技術と国力の発展に大いなる道筋をつけ、
この世を駆け抜けていった小栗上野介忠順の「まなざし」は、
現在の横須賀を、そして日本をどう見るでしょうか。

 

 

 

 

フェリー「ユーリカ」ー栗林中将のダッジーサンフランシスコ海事博物館

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サンフランシスコ海事博物館の展示、最後にフェリー「ユーリカ」をご紹介します。

「ユーリカ」は1890年に建造されたパドル式ホイールの蒸気フェリーで、
元々はサンフランシスコとティブロンという西海岸の街を往復していた貨物船でした。


現存する世界最大の木造船であり、また、唯一の木造のフェリーでもあります。

戦隊に大きくマークされた

「ノースイースタン・パシフィック」

は、最後の彼女のオーナー会社です。
それまで「ユカイア」という名前で貨物を運んでいた彼女は、同社に買われ、
フェリーして「ユーリカ」という名前をつけられ改装されました。

この頃、アメリカでは自動車が広く普及を始めていたのですが、人々は
「海を横切って運転」("drive across the bay". )することを欲し、
ノースイースタン・パシフィック鉄道者はすぐさまそれを叶えました。

冒頭写真を見ていただくと、車で「ユーリカ」に乗りこむ為の
ゲートの上に「ハイドストリート・ピア」という文字があります。

サンフランシスコのハイド・ストリートをまっすぐ港に向かって降りてくると、
その先端は「バルクルーサ」などが係留展示してあるこの突堤なのです。

また、ルート101の看板がありますが、ゴールデンゲートブリッジがなかった頃には、
ゴールデンゲート海峡を渡るフェリー航路がすなわちルート101でした。

海の上のフェリー航路が正式にルート101となったのは1922年のことです。
その航路そのものを「レッドウッド・ハイウェイ」と呼んでいたようですね。

サンフランシスコに住んでいた頃、どうしてルート101はロンバードストリートで
急に直角に曲がっているのか不思議に思っていたのですが、これで謎が解けました。

1937年、GGBが開通したので、まっすぐ港に向かっていた101を
無理くりブリッジを通る道につなげなければならなかったからです。

ブリッジの開通とともに、フェリーは即刻廃止されることになりました。

それでは、かつては車が乗り降りしていたランプを登って中に入っていきます。
ランプの坂にはかつて「ユーリカ」に装備されていた錨が展示されています。

ランプは車用のものだと思うのですが、はて、車はどこに乗り込むのか・・。

「ユーリカ」はダブルエンドのデザイン、つまり船の両端で車の乗り降りができますが、
どうもこの場合、船の左舷側に車は誘導されていたようですね。

そのまままっすぐ進んでいくと、かつてのように車がたくさん停まっていました。
いずれも当時の型式の車ばかりで、タイムスリップしたようです。

向こうに超高級車ロールスロイスがいるような・・・。

手前の車は1931年製のシェビー「ウッディ」ですが、
「Depot Hack」(デポ・ハック)という呼び名が一般的です。

なぜデポ(貯蔵庫)ハック(意味不明)なのかは英語の人にもよくわからないそうですが、
ハックは馬車馬の種類であった「ハックニー」から転じた馬車の意味、とする説があります。
ここでは

「ドライバーが乗客を様々輸送貯蔵庫(つまり待合所)から
市内の彼らの最終目的地まで送り届けるから」

となっています。

「今日では明るい色のキャブが同じサービスのプラットホームになっています」

1930年に発売されたダッジのセダン。

確か、栗林忠道中将がアメリカに武官として行っていた時期、
息子の「太郎くん」への手紙にこれと同じような車のパンフレットを
切り抜いて貼って、それに自分の絵を描き加えていたような・・・。

ほらこれ。同じ車じゃないですか?
栗林中将が購入したのはダッジだったんですね。

ホイールまでボディと同じ青に塗装したおしゃれな車は、
やはりダッジの1924年製エクスプレスワゴン。

 

車で引っ張るワゴン、これはサンフランシスコのチョコレート、ギラデリのマーク入り。
創業者はイタリアから移民してきたドメニコ・ギラデリさんです。

このサンフランシスコ海事博物館のすぐ近くに、ギラデリの巨大なレストラン付きショップがあります。
わたしはそもそもアメリカのチョコレートは全く評価しておらず、
ギラデリのチョコレートも味見くらいしかしたことがありませんが、
一応サンフランシスコ土産ということになっているようです。

農作物などを運搬するカーゴばかりが並んでいます。
実際にフェリーを利用する車両は、貨物が結構あったのではないでしょうか。

例えば、この右側のトラックはドロハー・コールという石炭会社の社用車で、
向こう側は郵便物を運搬する車です。

今現在のフェリーというのもそうですが、乗客のデッキは車の階の上にあります。
車を停めたら皆航行時間を過ごすためにこの階段を上がって行ったのです。

というわけでここを上っていくことにします。

外側に面したベンチの一角があります。
サンフランシスコから向かいのサウサリートまでここで過ごすのも可。

木に鋲で皮革を貼り付けた堅牢な作りのベンチが並ぶ客室。
昔を描いた映画の一シーンで見たような光景ですね。
座席の下にはライフベストが収納してあります。

広々とした明るい船内は天井が大変高く、開放感のある雰囲気。
椅子の下に見えているのはヒーターのようですね。

「ユーリカ」は1990年代に放映されていたドン・ジョンソン主演の警察ドラマ、
「刑事ナッシュ・ブリッジス」のロケに使われました。

この客室の中央に売店があります。
タイムなど雑誌や新聞、ミントやタバコ、キャンディーなど。
商品のホコリを取るための羽箒も健在です。

棚の右側にあるミントですが、浮き輪の形をしていて、
製品名が「ライフセイバーズ」(笑)

ものすごく凝った装飾の施されたレジスター。

近隣には当時からヨットハーバーが点在しているので、ヨット雑誌があったり、
ファーストエイドのハンドブック、映画スターの話題などつまりゴシップ誌なども。

乗客は最大で2,300人が乗ることができ、
車は120台搭載可能だったと言います。

平均乗客数は2,200人だったといいますから、いかにこのフェリーが
通勤や運送にサンフランシスコの人々の役に立っていたかがわかります。

サンフランシスコから対岸までわずか5分15秒のトリップでした。

 

内部を見ることもできます。

どこの部分かわかりませんが、機関部分。

サンフランシスコからの始発は0650、最終便は2325です。

料金は車一台にドライバー一人が40セント、バイクと三輪車が20セント。
車一台のドライバー以外の乗客は一人につき5セントとなります。

水飲み場のシンクはホーロー製だったせいで腐食してしまっています。

このフェリーを運営していた会社は鉄道会社であり、鉄道とフェリーで
マリンカウンティとサンフランシスコを繋いでいました。

シングル・エンダーというのはダブルエンダーのフェリーができる前の
通り抜けられない車のデッキをもつ船のことで、この時代から
つまりブリッジができるまでの80年間、フェリーは
マリーン郡で交通の手段として活躍を続けました。

「ユーリカ」にはレストランもありました。
大して長い時間でもないのに、ディナースタイルの食事を食べ終わることができたのか、
という気もしますが、この写真を見る限り、ほとんどの人がファストフードです。

1940年8月14日水曜日のメニューによると、

スープ

ビーフスープライスとともに 10c

チキンヌードルスープ  13c

トマトクリームスープ  15c

冷たいトマトスープ 10c

サラダ

レタスとトマトのサラダ 10c

レタスサラダ 13c  ポテトサラダ  10c

飲み物

フレッシュオレンジ  13c

グレープフルーツジュース  13c

レーニア・エール(商品名)  20c

パブスト・カンド・ビール  25c

フンボルド、アクメ、グレース兄弟、

レーニアビール(ボトル)20c

今日のスペシャル 55c

ビーフスープ(ライス入り)

ボイルドショルダーポーク、キャベツを添えて

レバーとベーコンのフライ

グリンピース、ポテト

デザート:パイ

コーヒー、紅茶、あるいはミルク

 

今日のスペシャルメインディッシュ

ポットローストビーフマカロニ添え 45c

クラブステーキフライドポテト添え 30c

ハンバーガーステーキフライドポテト添え 35c

チップステーキトースト 20c

トマトソーススパゲッティ 25c

ホットローストビーフサンドイッチ 30c

マカロニチーズ、クリームソース 25c

ホームメードコンビーフ・ハッシュ 25c

ラビオリ 25c エンチラーダ 25c

ベイクドビーンズ 25c チリコンカン 25c

デザート

カンタロープメロン、ハーフ 10c

パウンドケーキ 10c

ハーフグレープフルーツ 10c

スライスしたハワイアンパイナップル 15c

パイ各種 カット 10c

イチジクのコンポート 10c

プルーンのシチュー 10c

 

1940年の1ドルは当時の4.2円ですから、例えばパウンドケーキは
だいたい4銭くらい。
物価指数はかける2000くらいですから、現在の80円といったところです。


これによると、スペシャルディナーが2000円強というところで、
なかなかリーズナブルな値段で食事できたということになりますね。

 

続く。

 


メア・アイランドを訪れた『スター』たち〜海軍工廠病院と看護師部隊

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メア・アイランド海軍工廠は1海軍がここヴァレーホにある
メア島(正確には根元で繋がっているので島ではありませんが)
を購入し、西海岸に初めて作った海軍造船所です。

1870年年に操業を開始し、1996年に閉鎖されたわけですが、
島全体を買い取った海軍は、ここに海軍病院を作っていました。

海軍病院も閉鎖され、跡地は廃虚のままです。

Abandoned Navy Hospital Mare Island

廃墟となっている病院の建物の前には今でもグーグルマップで行くことができます。

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館には、海軍病院のコーナーがありました。
今日はその展示をご紹介して行くことにします。

海軍病院創成期に病院に関わった医学者たち。
医者ですが同時に海軍軍人となったので「オフィサー」です」。

ジョン・ミルズ・ブラウン大将 (1831−1894)

英語のタイトルは「Suejeon general」軍医総監となっています。
ハーヴァード大学卒業後、軍医としてUSS「ウォーレン」乗組から
キャリアを始めたブラウン博士は、1869年から2年間、
メア・アイランド海軍工廠で勤務していました。

海軍病院は1869年竣工、1870年開業となっていますので、
ブラウン博士は病院の「艤装艦長」的役目を務めたということになります。

その他USS「ウォーレン」USS「ドルフィン」USS「コンステレーション
USS 「キアサージ」USS「ペンサコーラ」などにも乗り組んでいます。

 

ジェームズ・アルバート・ホーク中将(1841ー1910)

ペンシルヴァニア大学で博士号を取ったホーク中将の一族は医者一家で、
息子も二人の娘婿も全員が医師です。

南北戦争では志願して軍医をしていましたが、除隊後海軍に入り直し、以来14年間、
海軍軍医としてずっと太平洋、大西洋を高校する海の上で過ごしました。

ポーツマスで黄熱病の治療に当たった跡、ホーク博士は
USS「インディペンデンス」でメア・アイランドにやってきます。

ここで海軍病院の司令官(つまり院長)として1903年まで勤務し、
この時に中将に昇進しています。

「ファースト・ホスピタル」

として、1869年に建築がスタートしたことを記念するプラーク(銘板)。
さらに、「コーナーストーン」が置かれたのは1869年10月12日、
竣工したのは1870年とあります。

コーナーストーンとは礎石のことで、日本のビルの「定礎」です。

海軍工廠の歴代軍医長。
なぜか1903年から1908年からは「Not Known」不明とあります。

メディカル・オフィサーというのは院長という意味じゃないんでしょうか。
幾ら何でも「誰かわからず」ってことはないと思うのですが・・・・。

ここで気がつくのは、メディカル・オフィサーは全員キャプテン、
大佐のタイトルなのですが、1916年までのオフィサーには
「サージェオン」(外科医)としかタイトルがないことです。

外科医と大佐の過渡期であるニールソンさん一人「コマンダー」Cdr.で、
これが「指揮官」を意味するのか「中佐」なのかはわかりません。

おそらくこの時期に何か改編が行われたのだと思われます。

うっかりして写真が切れていまいましたが、左上は「ウォーレン」と
「インディペンデンス」です。

ブラウン大将もホーク中将も乗り組んでいたという両艦ですが、
実はこの2隻、当時の病院船のような扱いだったということです。

右上は、サンフランシスコ大地震で倒壊したあと新築された病院。
冒頭のグーグルマップの画像と同じもので1900年の竣工です。

外見は全く変わっておりません。
右下は病院勤務のオフィサーたちの官舎です。

左は「マリナーズ・クロス」。

Mariner's cross

Though I take the wings of the morning and fly to
the utter most part of the sea even there thou are with me

これは詩編の139にほぼ同じ文章を見ることができます。

If I take the wings of the morning,
and dwell in the uttermost parts of the sea;

マリナーズクロスは、アンカーの形を十字架と重ね合わせたもので、

海に生きる人々のためのクロスです。

「さりながら私がその朝翼を得て海原の完璧な一部となるために飛んで行くときも
あなたは私とともにおられる」

って感じでしょうか。(聖書の英語には自信がないのですみません)

右側のプレートは今もメア・アイランドにある聖ピーターズ教会。

可愛らしい教会です。
こんな小さな教会ですが、内部のステンドグラス窓のデザインをしたのは

ルイス・カムフォート・ティファニー


あの宝飾ブランドティファニー創業者チャールズ・ティファニーの息子で、
アール・ヌーヴォーのガラス工芸作家です。

ティファニー作ステンドグラス

 

聖ピータース教会は今でも結婚式などで人気の教会だそうです。
もちろん海軍工廠の人々のために1901年に創建されました。

ちなみにメア・アイランドは結構な広い面積をゴルフコースが占めており、
そこは今でもゴルフコースを営業しているのですが、これは
ミシシッピ以西で最古のゴルフ場となります。

病院で使われていた装飾いり義足。
綺麗な花の絵が彩色されていますが、男性用だそうです。
左の膝から下を戦傷で失くした男性のために、靴のサイズを
右足と同じにして義足が作られました。

 

もしかしたら彩色も本人の希望だったかもしれません。

これらの義足はメア・アイランドのbrace shopで作られました。
ブレースというのは歯科矯正のブレース、などと言いますが、
元々は( )の形をしたもの、というのが語源です。

挟み込むもの、という解釈で、義足も「矯正する」=ブレース、
と英語では言っているらしいことがここの説明でわかりました。

写真は1954年のもの。

つまりこの義足を必要としていた人というのは、第二次世界大戦で脚を失った戦士です。

 

これらの義足や、義足をつけた人の写真は、病院に保存されていたものです。
病院が閉鎖されることになった時、この大量の義足や写真をどうするか、

関係者は大変困ったことと思いますが、結局全てワシントンD.Cの
公立図書館が資料として保存することが決まりました。

これはメアアイランド海軍病院コーナーとして展示されている写真です。

歯科で使用していたEMESCO社のベルトドライブ式リューター。
歯医者用のドリルです。

「ミッドウェイ」の歯科シリーズで書きましたが、
ベルト式で歯を削られたらさぞ痛かったことでしょう。

「歯医者は痛いもの」という定説を作ってきた元凶?がこれですね。

第二次世界大戦の時メディックが個人で携帯していた医療器具一式。
左の冊子は

「戦傷に対するファーストエイド/あなたは彼の命が救える」

 

左の茶色い瓶は重炭酸ナトリウム、つまり重曹です。
錠剤になっていますが、胃薬にでも使うんでしょうか。

包帯、ガーゼ、ゴム手袋、液薬を入れてスプレーするアトマイザーなど。

ここには看護師部隊、ナースコーアがありました。
開戦前、海軍のナースは1400名しかいませんでしたが、
真珠湾以降志願者が増え、最終的には11,000人になっています。

昔このブログでも「聖なる20人」という最初の海軍看護士について
書いたことがあるわけですが、最初に海軍のために女性が看護師として
奉仕をしたのは1908年のことでした。

 ナースコーアの制服の一つにマントがあります。

わたしがイラストを気に入っているアメリカ海軍の制服紹介ページの

アメリカ海軍の制服1905-1913

アメリカ海軍の制服1941

いずれにも看護師のマントが登場しています。

1943年に制作されたネイビーナースコーアの求人ポスター。
マデリーン・デイビスという実在のモデルがいるそうです。

 

メア・アイランド海軍病院には大戦中有名人の慰問が相次ぎました。

まず、コメディアン、ボブ・ホープ。
ホープの軍慰問は1939年にヨーロッパ戦線に始まり、第二次世界大戦、
朝鮮戦争、ベトナム戦争、レバノン、イラク、イラン、ペルシャ湾まで
生涯で60回もの戦地訪問を行なっています。

もちろんこのような病院への慰問はそれに数えられません。

最初の慰問で「サンクス・フォー・ザ・メモリー」という自分が映画で
歌った歌の替え歌でウケたので、それをネタにすることが多かったようです。

U.S.O. Bob Hope Troupe entertains U.S. soldiers on Bougainville during World War ..

このフィルムでも、何人かの出演者と一緒に「サンクス」の替え歌で場を沸かせています。

彼はその功績を讃えられ、一般人としては異例なことですが、

車両貨物輸送艦「ボブ・ホープ」 T-AKR-300

にまだ生きている時に名前をつけられています。

西部劇俳優のハリー・ケリーと女優アン・ラザフォード。

ラザフォードは「風と共に去りぬ」でスカーレットの妹、
キャリーン・オハラを演じた人です。
映画では地味に見えましたが、流石に女優、オーラが違う。

慰問されている兵士は、照れているのか・・微妙な表情ですね。

こちらは和気藹々、片足を負傷した兵士を見舞うマール・オベロン。
「嵐が丘」でキャサリンを演じ、有名だった女優さんです。

こうして素の顔を見ると母親がインド人というのがよくわかりますね。

わたしは小さな時からこの人の名前を知っていたのですが、
母が若い時にマール・オベロンに似ていると言われたことがある、
という今にして思えばほんまかいな、な本人談のせいでした。

わたしが思わず「おっ」と声を出してしまったこの写真。
作曲家のアーヴィング・バーリンです。

と言ってもこの名前を知っている方はあまりおられないかもしれませんが、
この人の作曲したこの曲を知らない人はまさかおられますまい。

「ホワイト・クリスマス」

ね?

「ゴッド・ブレス・アメリカ」は第二の国歌のようになっていますが、
彼自身は実はロシア生まれの移民一号です。

God Bless America 

この曲を聴くと、このシーンしか思い出さないわたし。

どこにでも神出鬼没のエレノア・ルーズベルト、やっぱりここにも来ております。

1943年に撮られた海軍病院ナース・コーアの全員写真。
足をクロスさせるのが写真を撮るときの基本だったようです。

ちなみに、わたしは海自のカメラマンに写真を撮られる時に

「脚は少し斜めに流すと綺麗に見えます」

とポーズをつけられたことがあります。

最後にちょっとロマンチックな展示を。

アクリルのカバーが反射してわかりにくいのですが、
マリーンの男性用制服が、海軍のナースコーアの制服を
後ろから抱きしめるように重ねて展示してあります。

これはここ海軍病院に患者としてやって来て看護士と恋に落ち、
その後結婚したロバートとパトリシア・ベニング夫妻の制服なのです。

出会ったばかりのベニング夫妻のお熱いショット。

お節介ながら彼らの座っていたベンチも特定してやりました。
冒頭の病院正面の前庭にいくつかあったらしいベンチの一つを
グーグルマップで見つけてキャプチャーしたものです。

 

放置された海軍病院の建物は、時々わたしのような廃墟好き、肝試しや
ゴーストハンターなどというテレビ番組のクルーが入り込んでくる以外は
森閑として、かつて若い兵士と看護師が恋を語らったベンチは
座るものもなく、ただカリフォルニアの日差しに照らされています。

 

 

続く。

 

フェリー客船「ユーリカ」 30分×2の社交場〜サンフランシスコ海事博物館

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サンフランシスコ海事博物館についてお話しするのも最後となりました。
今日はフェリー「ユーリカ」の続きです。

「サンフランシスコからマリン郡まで5分では無理」

と前回コメントを頂き、調べてみたら今のフェリーでも30分かかることがわかりました。
ゴールデンゲートブリッジを車で走ったらあっという間なので、
船でも5分くらいで行ける気がしていましたが・・<(_ _)>

さて、1848年、メキシコがアメリカにカリフォルニアを譲渡した後、
ジェームズ・マーシャルなる人物がアメリカン・リバーで金塊を発見して以降、
ゴールドラッシュが起こり、ベイエリアの人口は爆発的に増加しました。

1850年にフェリーサービスが生まれ、当時のサンフランシスコのフェリーターミナルは

「世界で一番忙しい旅客ターミナル」

となります。

ノースイースタン・パシフィックの「タマルペ」(Tamalpais)は
ベルベデア島を就航していた当時最新鋭のフェリー船でした。

二基の巨大なパドルホイールを持ち、1300馬力の
two cilinder compound steam engine を搭載していました。

当時のベイエリアのフェリーターミナル。
ターミナルには汽車が連結していて、ここで乗り継ぎをしていました。

1901年、相変わらず霧の濃いサンフランシスコで、「サンラファエル」号が
アルカトラズ島を後ろに航行している様子です。

この写真では、船の上部にダイアモンドの形の梁のようなものが確認できますが、
これが「ユーリカ」も採用していた

「ウォーキング・ビーム・エンジン」

です。

ウォーキング・ビーム・エンジンは外輪船のエンジンの型式で、
エンジンが嵩高いので、荒れた海では不安定になることもあり、
軍用には使用できませんでしたし、海での運用は嫌われましたが、
ベイエリアのような浅い海岸線や内陸水路では重宝されました。

技術的に時代遅れになってもアメリカではこのエンジンが作り続けられた理由は、
まず一つに、製造に精度を必要とせず、簡単にできて木材を使うことができたこと、
そしてウォーキング・ビームが動いている様子は人々に人気があったことです。

革新的なことの好きなアメリカ人ですが、こと船に関しては
いつまでも旧式の船を使い続けるような一面も持っていたということです。

霧の中サンフランシスコに入港しようとしている「サウサリート」号。

先端には今から降りる車が3列に並んで到着を待っていますが、
特に転落防止などのロープはなく、到着寸前と思われます。

徒歩で降りようとする人の姿もデッキには見えていますね。 

フェリーの歴史には悲惨な事故が起こったこともありました。

霧の中での操船は昔も今も事故が起こりやすいわけですが、
「サウサリート」は1931年11月30日、アルカトラズ付近で
霧から出た途端に現れた「サン・ラファエル」の船腹に衝突しました。

(それくらいこの地域の霧は濃いことがあるのです)

沈みかけた「サン・ラファエル」から渡された細い板を歩いて
「サウサリート」に乗り込もうとしていた人のうち3名が死亡し、
「オールド・ディック」という「サン・ラファエル」に乗っていた
貨物馬車の馬は、どうしてもその板を渡ることを拒んだため、
かわいそうに船と一緒に海に沈んでしまったということです。

写真はその時「サン・ラファエル」の船長だったジョン・マッケンジー。

少なくともこの人の操舵していた「サン・ラファエル」は
霧の中慎重にマリン郡へと向かっていたということです。

彼が船を後にしたのは、乗客が全て退船し終わるのを見届けてからで、
最後の退出者となりました。

事故後、両船の船長はいずれも資格停止になっていましたが、
マッケンジー船長に対しては彼の勇敢な行為を見ていた乗客が
署名運動を行い、その結果船長職に復帰することができました。

ずらりと椅子が並んだ客室を前回お見せしましたが、このように
立ったまま過ごせるキャビンもあったようです。

運行時間はサウサリートーサンフランシスコ間だとそんなにかかりませんので、
特にアメリカ人は通勤電車で立つように立っていたのだと思われます。

階段の手すりを利用したベンチ。
今日のようにお天気のいい日には外で過ごす人も多かったことでしょう。

左側に、上に通じる階段があるので登ってみました。

一番上の屋根の部分はこんな感じ。
ちなみにここは立入禁止となっています。

フェンネルの周りに前後に向けて4本の大きな管が設置されています。


船体は随分きれいですが、1994年2月、ドライドックで修復を受けたからです。

このとき、45人の熟練した職人の乗組員が作業に携わり、
2.5マイルの板張りの縫い目をかしめ、9000個以上の8インチ鋲が打ち込まれ、
タールが塗られ、フェルトが敷かれ、1万2千平方フィートの銅が塗装されました。

その時主甲板の端はすでに腐敗しており、船体間のコーキングは軟化、
パドルホイールとそのケースを支えている巨大な梁は劣化していたため、
新たなスチールに置き換えられました。

フェリーの両端部分もまた修復されました。
腐敗の再発を防ぐために、新しい木材のすべてにホウ酸塩棒を設置しました。

これは、当博物館独自の技術で開発された最先端の船舶保存技術で、
作業後、時間が経つと雨水侵入によって棒が溶解し、ホウ酸塩が木材に浸出し、
これが腐敗を防ぐというわけです。

本来なら雨は乾性腐敗の主な原因なのですが、それを逆手にとって
保存作用を促進させるという画期的な方法です。

しかし、たかが(といってはなんですが)一隻のフェリー船の歴史的保存に
これだけの労力と何よりお金をかけられるというのがアメリカの凄いところ。

その意欲と意思、技術があっても、最後の「お金」の段階で
全てを諦めざるを得ないことの多い日本から見ると羨ましい限りです。

上部構造物の中は船員たちの居住区となっていた部分です。

二段に分かれたベッドも設えてあり、ここで寝泊まりすることもできた模様。
皮のトランクは雰囲気を出すための装飾です。

操舵室にやってきました。
ここに立ってみると随分高いところから操舵していたのだなと感じます。

舵輪の大きさはほぼ成人男性の背丈くらいあるように見えます。

写真は同じような場所で操舵をする、
1941年当時の船長、ヴィクター・ヴェルデレット氏。

しかしこの写真、どこを見ても舵輪がないんですが・・・・。

この説明は

「当時船長かあるいは一等船員(ファーストメイト)が
操舵室の前方から操舵を行なっていて、あなたがいるところは
サンフランシスコの終着点である」

つまりここは舵輪のある側で、写真に写っているのは
公開されていない船の反対側にあるという理解でよろしいでしょうか。


二つのホイールハウスはそれぞれでコントロールが可能で、(当たり前?)
レバーは蒸気ステアリングエンジンに連結していました。

エンジンルームテレグラフは、例えば

「フルアヘッド」(前進全速)「スロー・アスターン」(徐行後退)

などといった命令をメインデッキのエンジニアに送ります。
ここにもあるテレグラフの目盛りを見るとわかりますが、

ヘッド(前進)アスターン(後退)

とあり、その速度が速いものから順にストップを挟んで

フル、ハーフ、スロー

と三段階に分かれているというわけですね。

ほとんど手動だった当時の大きなフェリーは操舵に技術と経験が必要です。
ここの操舵手たちは毎日、毎回、毎時、流れの速い波はもちろんのこと、
雨期に降る激しい雨や、サンフランシスコの霧と戦っていました。

同じ日でも朝と夕方では全く条件が変わることもここでは珍しくないのです。

操舵室から見たサンフランシスコの市街地。

お馴染みコイトタワーやダウンタウンの高層街、はるか向こうには
ベイブリッジが一望できます。

この眺めの良さも、高いところにある操舵室からならではです。

船からの眺めも乗客の楽しい時間つぶしになるのは、
ここがサンフランシスコという街だからに他なりません。

通勤でフェリーに乗る人は、一日2度、同じ航路を往復することになり、
自然と「お気に入りの場所」に座ることになります。

そうすると顔見知りもできてきて、おしゃべりが始まったり、
いつもポーカーをするグループができたりするわけです。

いろんな階層の人たちが利用しますが、勤め人たちと、
いわゆるエグゼクティブは別の場所に集い、自然と分かれたそうです。

レストランに現れる顔ぶれもほとんど毎日同じ。
読書家は本を読み、あみ物好きは必ず固まって編み針を動かしました。

フェリーから眺める波間に珍しい鯨の姿が見えることもあり、
そんな時には船客が撮った写真が新聞を飾ったりしました。(右上の絵)

ゴールデン・ゲート・ブリッジができて船の通勤がなくなったこと、
束の間ではあるけれど気楽な社交場がなくなってしまったことは、
ベイエリアに住む人々にとって便利になったと喜んでばかりでもない、
一抹の寂しさを感じさせる時代の変化だったに違いありません。




舷側には、現役時代に救命ボートが牽引されていたデリックが直立しています。
こちら側の海面には個人所有の小さな船が中心に係留されています。

Annunciator(アナンシエーター)というのは電光やブザーにより
信号の発信元などを示す装置のことをいいますが、この場合は
各デッキのスプリンクラーの設置場所を示しています。

改装したときにこのような消火設備を新たに付けたようですね。

加山雄三さんのヨットではありませんが、船、特に世界でも稀な
木造の巨大な船である「ユーリカ」が不審火によって消失する、
ということなどあっては大変な文化財の損失になってしまいます。

というわけで、見学を終え、かつて「ユーリカ」がサンフランシスコに
到着したとき、車でない人が歩いたのと同じ光景を見ながら退出です。

海事博物館のあるフィッシャーマンズワーフから車でピアを見ながら走っていくと、
ベイブリッジが見えてきます。

その近くの突堤には、ビルかと見紛うような巨大な客船が停泊していました。
かつて海上交通の発展形として生まれたフェリーが繁く行き交った同じ湾に、
今ではこんな輸送力を持った客船が錨を下ろしているのです。

100年前のサンフランシスカンがこれを見たら如何に驚愕したでしょうか。

 

 

サンフランシスコ海事博物館シリーズ 終わり

 

「空軍に行っちまえ!」〜空母「ミッドウェイ」博物館

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サンディエゴの岸壁に未だその姿を残す空母「ミッドウェイ」。
今日はこの巨大空母の甲板の風景などをご紹介します。

これは今年の写真。
9月の半ばですが、サンディエゴの昼間はまだまだ強烈な暑さです。
ただし夜になると途端に震え上がるほど寒くなります。

甲板の端にこうやって立つと、後ろの高層ビルと甲板が溶け合って
なんとも不思議な構図になります。
昔はなかったベンチもいたるところに設置されて。 

これは去年の写真。

艦橋の近くの部分は、ここで行われるイベントのために
テーブルと椅子がスタンバイしており、夕方ホテルに帰って
甲板の上を見ると、アフター6の盛大なパーティが開かれていました。

ところでテーブルクロスが陸軍迷彩なのは何故なのか。

 今年は冒頭写真をご覧いただければわかりますが、テーブルは一切出ていません。

この日は朝10時のオープンを待ちかねてやってきたので、
甲板に上がった時にはご覧のように誰もいない瞬間がありました。

他の軍事博物館ならともかく、「ミッドウェイ」ではこの時間だけです。

艦首のブライドル-レトリーバー、通称「ホーン」まで
本来ならばカタパルトのレールが繋がっていますが、
展示艦になってからは途中から全部カバーを被せてしまっています。

女の人の足元にあるのが航空機を牽引するシャトルで、
「ミッドウェイ」は油圧式のH‐4‐1を採用していました。
全長50mで、12,700kgの機体を144km/hまで加速させる能力があります。

朝早くからデッキの上の人形「シュータくん」は人気者。
基本皆同じスタイルで写真を撮りたがります。

「今日の信号旗をどう読むか」

というコーナー。
マストに掲揚されている信号旗を、右側の資料をもとに読み解きましょう。

正解は「WELCOME ABOARD」でした。

飛行甲板上のベンチには、寄贈した人がプレートをつけることができます。
これで多いのが、亡くなった人の想い出のために、という言葉とともに
その人の名前を刻むというパターン。

このプレートには、海軍軍人で2017年に亡くなった方の名前と、

「昨日は去った;明日はまだ来ない。
だから今を生きようじゃないか」

(Yesterday is gone; tomorrow isn't here yet.
So, Let's live in the now.)

という言葉が刻まれていました。

空母の甲板はこんな角度からも観ることができます。

ウィップアンテナ(ホイップと読む媒体もあるけどここは英語に忠実に)

の列。

甲板で構造物の上部に動くものを発見したのでよく見ると、
今から補修工事を行う工事人らしい人の姿でした。

もう一人。
やっぱり安全索をつけて作業していますね。

だって、この作業、矢印のところでしてるんですよ。

しかもさらに上に登ってるう!
これは高所恐怖症には務まりません。

しかしさすが「海軍の宝」だけあって、しょっちゅうメンテしてるんだなあ。

 

右舷から艦橋の後ろを覗き込んでいます。
画面左手に見えている黄色い建物がこの時泊まったホテルで、
その前の道が、かつて「グレイト・ホワイト・フリート」の水兵さんが
華々しく行進を行った、ブロードウェイピアです。

 

こちらは「ミッドウェイ」左舷側からコロナド・ブリッジ方向を見たところ。
実際に車でブリッジを渡った時、随分橋桁の高いブリッジだなと思いましたが、
これでも空母は通過することができないのだそうです。

今見ているあたりが、昔カーチスが自分の水上機飛行場を持っていたところだと思われます。

 

その昔、首からカメラを提げて歩いているのは日本人、とアメリカ人は
揶揄していましたが、スマホでのセルフィーが行動基準となった今となっては、
アメリカ人は皆こんな感じでどこに行っても写真を撮りまくっています。

「ミッドウェイ」はいたるところに撮影ポイントを用意してくれています。

 

「ミッドウェイ」の艦番号は41。

当たり前のことですが、かのアメリカ海軍空母第一号の「ラングレー」は
CV-1で、それから41隻目の空母となるわけです。

甲板には空中から感を間違えないように、大きく41が書かれていますが、
ところがどっこい、極限状態のパイロットにはこの字を読む余裕すらないらしく、
自分の艦を間違えてアプローチしてきたという話もありましたね。

これは戦争中、敵味方の間にもしばしば起こったそうです。

有名なところでは、珊瑚海海戦の時に、敵空母に着艦しようとした
帝国海軍の艦爆がいて、既の所でどちらもが気づき回避したのですが、
アメリカ海軍ではそれ以降、アプローチしてくる機に敵か味方か認識する
「フレンド・オア・フォー」のお作法が決まったと言います。

「ミッドウェイ」もそうですが、それでは敵ではないけれども
自分の艦を間違えてよそ様に着艦してしまったら、どうなるかというと、

リンチが待っております(笑)

尾翼の「F」に付け足して

FOULED UP →ヘマしやがって・・・

NAVY → お前なんか海軍じゃねえ

MUST BE AIR FORCE → 空軍になっちまえ

エアマン・アダムズ報告『私はウバンジになりたい』

(ウバンジとはアフリカの土着部族)

 VF-62 ガードメール オリジナル・コーラルシー優先

どうやら間違えて「コーラルシー」におりちゃったんですね。
「空軍に行け」というのは、自分の降りる艦を間違えるようなパイロットは
海軍の資格無し、陸に降りるしか能のない空軍に行きましょう、ってことです。

 

こっちもすごい。
パイロットはニコニコしながら写真におさまってますが。

いっぱい書かれすぎて読めないんですが、その中に

「この子はお宅の迷子さんですか?」

とか、給油口にわざわざ

「ガスにはコニャックを混ぜといたでー」

と書いてあったりします。

しかし、艦を間違えた!と気づくと同時に、ペンキの缶を持った甲板の乗組員が
ニタニタしながら駆け寄ってくるのって、パイロットにとって一生のトラウマだろうな・・・・。

 

そして全身にペイントされた情けない機体でしょんぼりと帰還を試みるパイロット。

「二度と来るんじゃないぞ〜」

まるで刑期を終えてムショの門を出て行く時のような
生暖かい声援が、機体に浴びせられているのでしょう。

そして、この後自分の艦に戻ってから、その屈辱的な落書きを消す
機体メンテナンス係に思いっきり嫌な顔をされる運命が待っています。

さて、というわけで甲板をいよいよ降りることにしました。
退出口は艦尾の1箇所からです。

この一つ一つがライフボートなんですよね・・・。
最初に見学していたなかったら「米俵」?とか思ってしまったかもしれん。

このまま階段を降りて行けば外に出られますが、ちょっとだけショップをのぞいて見ることにしました。

ミッドウェイTシャツに混じって、さりげなくグラマンロゴのがあるぞ。

ジョリーロジャースのTシャツめっけ。

 

ところで今年、甲板の隅でこんなイケてるお掃除車を見つけました。

機体のペイントをするノウハウを取り入れております。

続く。

 

 

咸臨丸の子孫〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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先日、横須賀で防衛局主催の防衛セミナーでも結論づけられていたように、
横須賀は近代日本の技術の発祥の地であったことは誰もが知る事実です。

そしてその技術の基礎を打ち立てたのは、公式にアメリカを訪れ、
先端後術を驚くほど柔軟に吸収して持ち帰り、ついでに?アメリカ人たちに
その振る舞いと能力で驚きを与えた「最初の日本人」、遣米使節団でした。

サンフランシスコにあるメア・アイランド海軍工廠跡にある博物館は
遣米使節団の咸臨丸を受け入れ、その修理をしたという縁から、
展示の一部に「咸臨丸コーナー」を設けて、かつて日本人が何の目的で
ここにやってきて、どう振る舞い、どういう印象を与えたかを説明しています。

今日はこの展示から、ここメア・アイランド海軍工廠が
戦後遣米使節団との交流を行ってきたということをお話しします。

 

さて、万延元年の遣米使節団、というと世の中の人は咸臨丸、と連想します。
海上自衛隊の幹部学校長からいただいた記念メダルにも咸臨丸の姿が描かれており、
日本が外洋に出て行く姿の象徴のようになっているわけですが、
前回も少し触れたように、実は、咸臨丸というのは、あくまでも、
使節団を運んだ「ポウハタン号」の補助で付いていったというのが真実です。

世の中にはなぜかこれ(咸臨丸ばかりが持て囃されること?)を大変不満として、

「教科書から咸臨丸の名前を外せ!」

と訴えている人もいる、ということを以前ここでもお知らせしたことがありますが、
咸臨丸が兎にも角にも、初めてアメリカに渡った日本の船だったことに違いはありません。

たとえ咸臨丸の日本人船員が使い物にならなかったとしても、
日本側の「船長」だった勝海舟が船酔いでほとんどの航海中死んでいたとしても、
彼らが初めて日本から、日本の旗を揚げた咸臨丸で太平洋を横断したことは
動かしようのない歴史的事実なのです。

ゆえに、世の中の人々は、使節団の正使や首脳を乗せていた
「ポウハタン号」
を知らなくとも、咸臨丸の名前だけは知っているわけです。


当初は全く使い物にならなかった日本人船員も、アメリカ海軍軍人、
ブルック船長のご指導ご鞭撻で技術的な操船や、シーマンシップを学び、最終的には
自分達だけで全てを行うことができるようになったばかりでなく、勝海舟が創設した
海軍伝習所でそれを伝えましたし、その勝海舟もこの時の滞在で学ばなければ
その後日本で海軍を興すという大事業そのものが立ちいかなかったでしょう。

この白黒二色の三角旗は、咸臨丸に揚がっていたのと同じもの。
レプリカで、「咸臨丸子孫之会印」と印が押してあります。

ここ、メア・アイランドには咸臨丸乗員の子孫で組織された
「咸臨丸子孫の会」が訪問したことがあるのです。

この水茎も麗しい(英語にもいうのかな)筆記体で書かれたのは
当時のサンフランシスコ領事がメア・アイランド工廠に出した感謝状です。

今はこんな手書きの手紙を書くこともないのかと思われますが、
昔の領事や大使は、こういう教養も必要だったのですね。

この手紙には、咸臨丸が「ポウハタン号」のエスコートをして
最初の日本海軍の軍艦として太平洋を渡り、ここメア・アイランド海軍工廠で
修理を受けたこと(しかも工廠司令官の好意で料金は無料となった)
出航をする際に日本人を乗せた艦隊は礼砲を持って送られたこと、
日本人を迎えた最初の街として、両国の友好の扉を開けてくれたことを、
感謝している文言が連ねてあります。

この一番最後に、定型句とはいえ

「メア・アイランド海軍工廠のこれからのご発展を祈ります」

みたいなことが書いてありますが、ご存知のように
メア・アイランド海軍工廠はこのそう遠くない後、1996年に閉鎖されています。

この書簡に認められたサインから当時の日本領事である

「Yasasuke Katsuno」

という名前を検索したところ、サンフランシスコのゴールデンゲートパークにある
日本庭園に、このカツノという人が領事をしていた1953年当時、
日本から寄付された多数の灯篭を設置したという記事がかかって来ました。

咸臨丸がサンフランシスコを訪問してから93年目のことです。
きりの良い数字ではありませんが、この頃咸臨丸の渡航記念式典が行われたようです。

ちなみにこの日本の灯篭というのはは、まだ戦後の傷が癒えていない頃、
日本の子供たちに募った寄付を基金として贈られたということです。


この手紙を見てもわかるように、おそらくこのカツノさんという方は
終戦後日米の関係がやっと回復し、色々と難しかった時期の在米領事として、
ただ日米の友好を願い、そのために仕事を全うされた仕事熱心な公僕だったのでしょう。



アメリカから日本に帰国してから、咸臨丸は日本海軍の戦艦として活動しました。
1868年には戊辰戦争に投入され、新政府軍と戦っています。

この時の咸臨丸は、戦闘時の暴風雨に苦しんだ末、新政府軍に捕らえられ、
乗組員の多くは戦死、あるいは捕らえられて捕虜になっています。
以下その経緯など。

8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として
江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。

8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。
救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。

9月11日 (旧暦)、蟠竜丸は先に出航。
咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。
新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。
逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。
山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。

次郎長親分って、本当に義侠に溢れた博徒だったんですね。

咸臨丸はその後北海道に移住する予定の藩士たちを輸送中、
台風により1871年沈没しましたが、その後も次郎長親分は
清水の寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しているのです。

次郎長親分ってなんて良い奴!

咸臨丸が遭難したのは北海道の木古内町沖で、この時の沈没は
一説ではアメリカ人船長の操船ミスと言われています。

この地図は1990年1月16日に「新咸臨丸」がオランダのロッテルダムを出発し、
サンフランシスコを経由して横浜に到着するまでの航路です。

ところで新咸臨丸とはなんぞや。

調べてみたのですが、新咸臨丸という名前の学生のプロジェクトが
出てくるばかりで、この時実際に海を渡ったらしい咸臨丸が
何だったのか、ついに詳しいことはわかりませんでした。

これだけの大事業だったのに、何の資料もないというのも不思議です。
咸臨丸子孫の会が結成されたのも、この後のことだったようですし・・。


この時には領事主催で盛大な歓迎パーティがサンフランシスコで行われ、
咸臨丸乗員の子孫たちも出席したということです。

左の写真にちらっと見えている白い帽子は咸臨丸の野崎船長。
サンフランシスコでメディアに取り囲まれています。

右写真の左が野崎船長、真ん中の人は勝海舟のつもり(多分)

野崎船長の名前で検索してみると、経歴が出てきました。
ずっと「飛鳥」の船長を務めてこられた日本郵船の船乗りだったそうですが、
その記述に

90年1~4月にかけてレプリカ帆船「咸臨丸」
(小型帆船・オランダのロッテルダムにて建造)の横浜までの航海を指揮

とあります。

オランダ村がオランダの造船会社に発注したレプリカということですか。
しかし当時はバブルだったせいか、日本もすごいことをしますね。

今回も咸臨丸は航路途中でトラブルが起き、修理を要する事態になりました。
ただし今回はエンジンです。

というわけで、ホノルルに寄港し修理を行いました。

その後咸臨丸はアクシデントに見舞われつつも、
1990年4月25日、無事に横浜に到着しましたとさ。

 横浜市長から花束を受け取っているのが野崎船長だろうと思われます。


そしてそれからさらに13年後の2005年、

「咸臨丸の子孫」

がアメリカを訪れた、という記事がここにあります。

「145年前、日本で最初に近代的な戦艦に乗って、
太平洋を越えた咸臨丸乗員を祖先に持つ日本人の一団が、
彼らを率いて航海を行った海軍士官、ジョン・ブルックの孫である
ジョージ・ブルック氏に謝意を表明した。

三十四名からなるその団体のほとんどは咸臨丸の子孫である。

彼らは90歳になるジョージ・ブルックに、彼の祖父の指導がなければ
おそらく彼らの祖先は生きては太平洋を渡ることはなかっただろう、
と語った。

咸臨丸は1858年の遣米使節派遣において、正式にUSS「ポウハタン」の
随伴としてアメリカに送られたものである。

「ポウハタン」はマシュー・ペリー提督の指揮下にあったこともある。

ジョージ・ブルックは、彼らにアメリカ人船員によって「引っ張られる」
日本人船長の写真を見せた。」

「日本人船長」というのが、木村摂津守のことなのか、それとも
勝海舟のことかはわかりません。
ブルック家に伝わるこの写真も世間には出回っていないようです。

「一行は1860年の祖先たちと同じコースを回った。
彼らは大阪市が1860年の訪問から100年経ったことを
を記念して寄贈したモニュメントを見学した」

「彼らはサンフランシスコ市長に宛てた横須賀と大阪市長のメッセージを携えており
日米両都市の友好を推し進めたいと語った」

「咸臨丸」ばかりが有名になってほとんど知られていない「ポウハタン」号。 

「彼らはまた、サンフランシスコで客死した咸臨丸の三人の水兵の墓を訪ねた。
日本にある彼らの故郷である島から運ばれた小さな石で作られた暮石である」

石碑のお返しにサンフランシスコが日本側に送った石碑です。
目には目を。石碑には石碑を。

咸臨丸の子孫たちがメア・アイランドの博物館を訪ねた時の様子。
咸臨丸子孫の会のHPによると、この時の訪問はこう記されています。

咸臨丸サンフランシスコ入港150周年の一環として、コルマ墓地で
加州日系人慈恵会主催の記念式典が計画され、水夫子孫の出席要請があったため、そ
の時期にあわせて子孫の会のツアーを行った。
参加者16名。
29日、墓地にて慰霊祭と顕彰碑除幕式が行われ、富蔵の子孫ほか4名で除幕、
Kさんは法衣をまとって読経に加わった。
碑文の「日米親善永遠なり」は徳川家18代恒孝氏揮毫による。

またジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターの
第20回日米草の根交流サミットが開催中で、その集会にも参加した。
そのほかメアアイランド史跡公園、リンカンパークの咸臨丸入港碑、
ヒルズボローさんによる市内歴史ツアーなど充実の旅だった。

遣米使節団の一員として、その後の日本にあまりに大きな功績を残した小栗忠順。
通商交渉の時にアメリカ側は彼のタフネゴシエイターぶりに驚嘆した、
と前に書いたことがありますが、百田尚樹氏の「日本国記」にはこの時のことが

小栗もまたアメリカ人たちを驚愕させていた。
実は小栗は一両小判とドル金貨の交換比率を定める為替レート交渉という
任務を負っていたのだが、造幣局において、彼はアメリカ人技師たちの前で
小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測ってみせる。
彼らはまず小栗が使った天秤の精密さに驚き、次に小栗の算盤による
計算の速さと正確さに舌を巻いた
(アメリカ人の筆算よりも小栗の算盤の方が何倍も速かった)。(日本国記)

と書かれています。

ちなみに「タフ・ネゴシエイター」というのは、ここメア・アイランドの
海軍工廠資料を編纂したキュレーターの文章に出てくる言葉です。

子孫のうちの一人が著した本がメア・アイランド博物館に贈呈したものです。

「幕末遣米使節 小栗忠順 従者の記録 名主 佐藤藤七の世界一周」

ジョイス・ジャイルスというのは、当博物館の館長でしょうか。

このブルーのカーディガンがジャイルスさんだと思われます。

咸臨丸と勝海舟がカットされたグラスも、日本側からジャイルス氏に贈られたもの。

咸臨丸入港150周年を記念する銘板は、サンフランシスコの
エンバーカデロ、ピア39の歩道に刻まれているそうです。

 

次にサンフランシスコに行ったら咸臨丸の名残を探してみるのも良いかもしれません。




 

 

 

平成30年度 年忘れお絵かきギャラリー

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早いもので、2018年、平成30年も終わろうとしています。

今年は出席したイベントも多く、私生活も何かと忙しかったこともあり
絵を描く余裕があまりなかったので、1日だけとなりますが、
今年一年に発表した挿絵を、恒例年忘れギャラリーと称して
振り返っていこうと思います。

まず冒頭は、4月27日から4日間にわたって連載した映画、

「深く静かに潜行せよ」

から。

潜水艦映画の名作としてその名前を知らない人はない、
とまで言われている本作を取り上げると決めたからには
かなりの覚悟で具に観ていったわけですが、進むにつれて
戦争映画としては決定的な「これじゃない感」に苛まれたという作品。

その時もかなりツッコミましたが、その違和感というのがまず主人公の
クラーク・ゲーブル扮する潜水艦艦長リチャードソン少佐という軍人の描き方です。

リチャードソンは自分の乗っていた潜水艦を撃沈した駆逐艦「秋風」とその艦長、
豊後ピート(もちろんあだ名です)への復讐心に燃えるというのですが、
この大前提がそもそもおかしすぎませんかね。

戦闘の結果敗北したからといって、特定の一駆逐艦に復讐心を燃やす、
というこの艦長の動機は、軍人としてかなり歪すぎて、

「お前はアナポリスで何を学んできたんだ」

と説教したくなるレベルの指揮官失格だと思うわけです。


個人的な復讐心に突き動かされ、リチャードソンは、すでに着任が決まっていた
新艦長ブレッドソー大尉(バート・ランカスター)を汚い手で引き摺り下ろし(笑)
潜水艦「ナーカ」の艦長におさまったかと思えば、いきなり強権を発動し、
訓練は駆逐艦をターゲットにしたものばかり、潜水艦は遭遇しても無視。

同じタイプの駆逐艦が現れると目の色変えてやっつけ、
憎き敵を叩くために独断で危険な豊後水道に乗り込んでいく。

一般に、二枚目俳優が演じる軍人のあらまほしき姿というのは、
身も心もイケメンで勇ましく正義感に溢れ、公正中立。
そして何より指導力に優れているというもののはずなのに・・・・。

実際の潜水艦乗りが原作を書いたということですが、彼とても
こんな公私混同の指揮官が実在するとは思っていなかったでしょう。

もう一人の主人公、ブレッドソー大尉は普通に「良い軍人」。
艦長の席を奪われた恨みを持ちながらも、それはそれ、これはこれ、
と私心を任務に持ち込まない公明正大なタイプです。

リチャードソン艦長ときたら、任務に私情を加えまくるのみならず、
いよいよ「秋風」と対決!という戦闘中に、司令塔からなぜか
被害を受けた魚雷発射室をわざわざ見に行って、そこで転倒。
戦闘が終わってからもう一度同じ魚雷発射室に、一言「どうだ」というために
のこのこ出かけていって昏倒。結果脳挫傷で死亡。

お前はいったいアナポリスで何を学んできたのかと(以下略)

 

そして調べていてこんなことがわかりました。
クラーク・ゲーブルは、クランクインしてから
リチャードソン役を拒否し、撮影現場をボイコットしていたという事実を。

映画「風と共に去りぬ」で、スカーレットの永遠の相手、無頼な南部の伊達男、
あのレット・バトラーを演じ、大スターとなったゲーブルにとって、
わかりやすいピカレスクならまだしも、こんな中途半端な、

「悪人ではないけれど、軍人としては資質無し」

みたいな弱い人間を演ずることは耐えられなかったのだろう、とわたしは推察しました。

そういう裏の事情を踏まえて観ると、ただの戦争映画ではない、
人間ドラマの範疇に加えられるこの映画の複雑さが読み解けてきます。

というわけでこの映画、ある意味「名作」ということには間違いありません。
「戦争映画の名作か」といわれると、思いっきり否定しますが。

「深く静かに潜行せよ」のこれらの挿絵は、最初にゲーブルの顔を
真面目モードで描いてしまったため、4回とも同じタッチで
制作することになってしまい、大変な思いをしました。

特にこの三日目のゲーブルとランカスターの絵は、字入れ直前に
ソフトがクラッシュするという悲劇に二回見舞われたため、
完成した時にはほとんど肩で息をしている状態でした。

でも、回数を重ねるごとに選択するペンの種類や手法などに
前回の教訓を活かすことができたため、だんだん要領が良くなって
時間は短縮されていったということはあります。でっていう。

 

それから、名作中の名作といわれるこんな映画でも、
笑ってしまうような荒唐無稽な設定や細かいミスが満載で、
ツッコミどころ多すぎイ!であることをあらためて確認しました。

特にこの映画で観ていて辛かった(嘘)のが日本人俳優たちのセリフです。
冒頭の潜水艦艦長は比較的まともな日本語を喋っていましたが、
それでも聞き取れないところがあったり、まあ笑わせてもらいました。

豊後ピート

「秋風」との対峙

宿敵「秋風」撃破

伊潜との対決

 

映画「イン・ザ・ネイビー」

「はみ出し者たちのスティング・レイ」

こちらも潜水艦映画、「ダウン・ペリスコープ」を取り上げました。
邦題の「イン・ザ・ネイビー」は、この映画の最後に、
同名のヴィレッジ・ピープルの歌が流れることからついたようです。

 

こちらは優秀なのに、過去の操艦ミスのせいで、いつまでも
艦長になれない潜水艦隊のはぐれサブマリナー、ダッジ。

彼は”あること”をして、グラハム少将に蛇蝎のごとく嫌われていますが、
サブマリナーとしての実力はかなりのもので決断力もあるため、
潜水艦隊司令のウィンスロー中将は彼を高く買っています。

そんな上層部の思惑がぶつかり合った結果、ある将官会議を経て
彼はついに念願だった潜水艦の艦長職を拝命するのですが、その潜水艦とは
第二次世界大戦時のディーゼルエンジン潜水艦、「スティングレイ」でした。

しかも悪意を持って少将がわざわざ選んだ乗組員は、潜水艦隊の「問題児」ばかり。
彼らを率いて模擬演習(ウォーゲーム)で原潜の港に進入できたら、ダッジは
晴れて原潜の艦長にしてもらえるということになり・・・。

原子力潜水艦隊バラオ級潜水艦

個性豊かな変人サブマリナーたちの描写だけでも楽しめるこの映画。
彼らを率いる艦長も、気に入らない副長を「処刑」してしまったり、
明らかにディーゼルボートの限界を超えて潜行して皆をビビらせたり、
あーこれは出世できませんわ、という規格外れの軍人として描かれます。

ところで、わたしの好きな映画のタイプに

「男性の集団が目的に向けて皆で努力し栄光を勝ち取る」

という条件を満たすもの(例:炎のランナー、ほとんどの戦争もの)
があるのですが、この映画もある意味その範疇に入ります。

第二次世界大戦中にディーゼルエンジンの潜水艦に乗っていた
ハワードというおっさんが、ダッジ艦長の統率の下、
タンカーの下に潜り込んで原潜のソナーを逃れたときに

「生きててよかったぜ、DBF!」

と叫びます。
このセリフはDVDではちゃんと翻訳されなかったのですが、
興味を持って調べてみたところ、このDBFには日本にも若干関係ある
あるストーリーがまつわっていることがわかりました。

「ディーゼルボート・フォーエバー!」

わたしなんか、DBFのバッジまでアメリカのミリグッズ店で買っちゃったもんね(笑)

ウォーゲームの勝利

ところで、劇中、

「雲が厚くて哨戒機に見つかりにくい」

という設定のはずだったのに、原潜がドルフィン運動をしているシーンでは
雲もない真っ青な空になっていて、なんぞこれ、と思ったのですが、
そういえばこれと同じことがつい最近ありましたよね?

とある国の海軍駆逐艦が隣国の哨戒機に火器管制レーダーを向け、
向けられた方が政府レベルで抗議をしたところ、当初

天気が悪く波が高かったので
レーダーが空に向いて偶然哨戒機に「当たってしまった」

と言い訳をしていたはずなのに、映像が公開されてみれば、
そこは波一つないいいお天気だった、なんて事例が。

映画でこのわたしごときにツッコミを入れられているのと全く同じことを
実際の軍がやっているっていったいなんなのよって話ですが、
ともかくこの話、年の瀬にワクワクする展開となっていますよね。

韓国海軍が次々と見え透いた言い訳をし、それを日本側が
瞬時に論破していくという展開からもう目が離せません(笑)

  ところで、わたしは映画の挿絵を描く場合、通常   1、真面目なタッチで劇中の1シーンあるいは登場人物を描く   2、省略したタッチで登場人物を象徴的なセリフを添えて描く   3、映画のストーリーを漫画仕立てで語る   という3種類のどれかを選択しますが、「深く静かに」は1、
「イン・ザ・ネイビー」は2、そしてもう一つの潜水艦映画

「ペチコート作戦」   は3、と意図したわけではありませんが、結果的に皆違う方法になりました。   「社交界の人気者、潜水艦に乗る」

ある潜水艦出身の自衛官にオススメされた映画です。

コメディー仕立てなのだけど、本職から見ても
潜水艦戦闘シーンなどがちゃんとしているということでした。

しかしその割に当ブログではきっちりコメディ部分だけにフォーカスしてます。

潜水艦乗りが見て「ちゃんと描かれている」としても、
悲しいことに一般人からは他の潜水艦映画と何が違うのか、
その肝心なところまではわからないんですよね。

「看護師部隊、潜水艦に乗る」

第二次世界大戦中の潜水艦に、イケメンというしか取り柄のない
(と思われた)中尉(トニー・カーチス)が、ケーリー・グラントが艦長を務める
潜水艦に乗り込んできて、そいつが島で拾ってきた看護師部隊が
男だけの潜水艦に乗り込んでくることからてんやわんやの大騒動。

みたいなわかりやすいコメディで、本当に楽しんで絵を製作しました。

ドジっ娘(死語?)でことごとく艦長の神経を逆撫でする娘が
結局艦長の妻に、逆玉狙いのイケメンダメ士官は、その後覚醒して
原潜の艦長に、その妻も看護師の一人というお約束のエンディングです。

乗り込んできた看護師たちは、結局全員潜水艦乗員とくっつく?のですが、
その相手は、当初いがみ合ったり殴ったり殴られたり、
騙されたの騙されないのと揉めたりする相手であるのがポイント。

タイトルの「ペチコート作戦」は原題どおりなのですが、
ただし作戦の核心となるブツの名前をマイルドに言い換えております。

当ブログでは、その下着をネタにしたこの映画の「オチ」にも
鋭く突っ込み、

「この時代に日本の女はその頃まだ”それ”を使用していない」

という重大な映画のミスを追求しております。
わたしがこれまで追求し、解明した映画の矛盾の中でも
ベスト3に入るほどの快挙だったと自分では思っています(嘘)

そう、ペチコートというより、題名はこちらがより正確です。

「オペレーション・アンダーガーメント」




二人の艦長〜インディアナポリス轟沈と伊号58

映画についてのツッコミや感想がメインではなく、
メア・アイランド海軍工廠跡の博物館で見つけた

「インディアナポリスが原子爆弾を搭載したメア・アイランド」

という観点からの展示を中心に、原子爆弾搭載の様子、そして
「インディアナポリス」の艦長と彼女を撃沈した伊58の艦長、
二人のこと、軍事裁判などについて語ってみました。

この絵は参考にしたニコラス・ケイジ主演の映画

「USSインディアナポリス 勇気ある者たち」
(邦題は『パシフィック・ウォー』)

のラストシーン、現世では実現しなかったマクヴェイ2世と
橋本以行、二人の艦長が敬礼を交わしあう姿を描きました。

「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

ノブレス・オブリージュという概念がそのまま西欧から持ち込まれ、
日本の貴族階級の男性はよほどのことがない限り軍人を志しました。

貴族は特権階級なので、兵学校や陸士などでも成績は非公開で
自動的に上位、その後の昇進もエスカレーター式だったので、
もしこの人物が華族でなければ、少将にまでなることはなかったでしょう。

(貴族は大学に無試験とはいわないけど下駄を履かせてもらえて入学できた)

戦争が始まって戦線に赴き、戦死した貴族階級軍人もいましたが、
松平少将は日露戦争に「鎮遠」の分隊長で参戦した以外は
平和な時代に副長、艦長などを勤め、成績がそこそこだったのが幸いして
その後に現場に立つことなく、敗戦を知る前に他界しました。

このエントリ制作であらためて知ったのは、貴族がその血を維持するためには
妾や養子の制度があってこそだったという事実です。

そうしたことがタブーとなってしまったため、結果として
皇統が危機に瀕しているという事態があるわけですよね。

 

スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

今年7月24日、元王立空軍の輸送部隊でファースト・オフィサーだった
女性パイロット、メアリー・エリスさんが亡くなりました。

同名のよしみでと読者の婆娑羅大将に教えていただいたのをきっかけに
彼女をはじめとする

ATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)

の女性パイロットについて勉強させていただきました。

「スピットファイアー・ガール」というのは、彼女らが航空機を
工場や基地から別の航空基地に輸送する任務を負っていたからで、
輸送した航空機中最も「キャッチーな」スピットファイアが選ばれたのでしょう。

エリスさんは90歳過ぎて、女性パイロットの後部座席に乗せてもらい、
一瞬操縦桿を握っただけでなく、宙返りされても豪快に笑っていました。

そういえばあのチャック・イェーガーも今年で96歳になると思いますが、
2012年、89歳の時に音速越えを再現しています。

パイロットが短命、なんて噂は全くあてにならないってことですね。

ジョセフ・ヒコ〜彼レ如何ニシテ亜米利加人トナリシカ

濵田彦藏、のちのジョセフ・ヒコ、通名アメリカ彦藏。
アメリカ市民。

サンフランシスコのメア・アイランド海軍工廠跡博物館で、
咸臨丸コーナーの近くにあったヒコの紹介を読み、
ここであらためてその生涯を辿ってみました。

日本に再入国するために日本人であることを捨て、
アメリカ人になるという辛い選択をした彼が、二つの祖国の狭間で
いかに自分のアイデンティティに苦悩したか。

彼の辿った道から想像できるそんなことについて語ってみました。

 

絵を描くのは楽しいのですが、何しろ時間が取られるので、
取り掛かるにもえいやっと思い切らなくてはならないのですが、
来年はもう少し頑張って見てもらえればいいなと思っています。

 

それでは皆さま、良いお年を。

 

 

 

明けましておめでとうございます

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平成最後の元旦を迎え、皆様に新年のご挨拶をさせていだだきます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

P-1の画像を選択した理由は、皆様のご想像通り。

わたしも、あの動画を見て、クルーの冷静さに胸が締め付けられる思いでした。
彼の国は

「火器管制レーダーを投射されてあんなに冷静でいられるわけがない」
(だからP-1搭乗員の証言は嘘)

と言ったそうです。
レーダー照射を確認した後、ごく僅かですが声が緊張していたのが
彼らには平然と聞こえたのでしょうか。

ともあれ、あの動画が公開されたことによって、我が自衛隊の
練度の高さが図らずも世界中に発信されることになりました。

トップダウンで公開を決定した首相の決断をわたしは支持します。

 

エリス中尉

平成30年度想い出アルバム〜 自衛隊イベント編 1

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お正月の特集編として、昨年1年間に参加した自衛隊での
イベントなどを駆け足で振り返ってみることにします。

あらためて写真を掲載するために画像フォルダを
次々と検索しながら、よくもまあこれだけ参加したものだと
その頻度に我ながら驚いてしまいました。

まずは年明けに行われた陸上自衛隊第一空挺団の「降下始め」から。

毎年習志野駐屯地訓練場で1月10日前後に行われる「降下始め」。
文字通りその年の安全を祈願し、一年に先駆けて精鋭集団である
空挺団の士気を高めるための伝統的なイベントです。

一年で一番寒い日の午前中に吹きさらしの中のイベント。
この年の寒さは特に厳しく、終わった時には体が硬直して
脚がふらつくくらいでしたが、大変見ごたえがありました。

大変な思いをするだけの価値はあると思います。

以前のように戦車が走り回ることはなく、サバゲーのような模擬戦、
そして空挺降下をフィーチャーした降下始めでした。

2017年の降下始めからは、アメリカ陸軍の特殊部隊、
グリーンベレーが参加して共同で降下訓練を行うようになりました。

ちなみにこれはアメリカ軍の指揮官です。

このには一眼レフに電池を入れるのを忘れたのですが、ニコン1の
優秀な望遠レンズはグリーンベレーの女性隊員のシニヨンを捉えていました。

降下にフォーカスしただけあって、惜しげなくふんだんに落下傘がばら撒かれます。

固定翼機、ヘリと飛び降りてくる航空機も様々。
ついでに、今までせいぜい空挺団団長だけだった「指揮官降下」ですが、
いつからか下は二佐くらいまで参加させられるようになった模様。

アメリカ陸軍特有のパラシュートで降下してくる女性グリーンベレー。

観客が騒然としたこんなアクシデントもありました。
右側の隊員の傘が左の傘に絡まってしまったのです。
絡ませた方はすぐさま補助傘を開き、この状態で無事に着地しました。

今年の降下始めは1月13日、8時30分より習志野駐屯地で開催です。


海上自衛隊 東京音楽隊第57回定期演奏会 シンフォニックコンサート 2月18日

この日は小野寺防衛大臣のご来臨を仰いだコンサートとなりました。

NHK大河「真田丸」に出演した俳優の村上新悟さんが司会。
プログラムの目玉はレナード・バーンスタインの楽曲でしたが、
個人的には歌手の三宅由佳莉三曹とTr.の藤沼直樹三曹の「美女と野獣」に
ハートを鷲掴みにされました。

海上自衛隊 呉音楽隊第48回定期演奏会 2月24日

呉音楽隊のサプライズプログラムは、呉地方総監が踊る星野源の「恋」です。

 

海上自衛隊 横須賀音楽隊 第52回定期演奏会 3月2日
東音と同じバーンスタインで攻めたこの日の横須賀音楽隊。
バーンズの「詩的間奏曲」といい、チャイコフスキーのメドレーといい、
横須賀音楽隊の選曲にはいつもやるなと思わされます。   中でも世界初演となった八木沢教司氏の   「烏山頭」〜東洋一のダム建設物語    八田與一の台湾での生涯とその死、夫人の自死までを表現した
吹奏楽には大変感銘を受けました。     海上自衛隊 潜水艦「せいりゅう」引き渡し式 3月12日

2月はイベントが一つもなく、3月に入って出席したのは
三菱重工神戸造船所で行われた「せいりゅう」の引き渡し式でした。

川崎ではそうでもないですが、三菱重工では制限が厳しく、
埠頭では一切写真を撮ることができないので、宴会を撮るしかありません。

そこで引き渡し式会場の配置図を適当に描いてみました。

「せいりゅう」は「そうりゅう」型の9番艦です。

潜水艦「せいりゅう」入港式典 横須賀地方総監部

引き渡し式から役約1ヶ月後、「せいりゅう」が横須賀に入港しました。
この式典にも参加させていただくことができ、横須賀でお迎えをしました。

「せいりゅう」は第2潜水艦隊群第6潜水隊に配備されました。

「せいりゅう」が沖に姿を現し、着岸して乗員が上陸したのち、
彼らが岸壁で待っていたそれぞれの家族や知人と
邂逅する様子を目の当たりにし、感動したものです。

できたばかりの潜水艦でも水垢が付いているんだと思いました。

海上自衛隊 練習艦隊歓迎のゆうべ @大阪港 3月19日

江田島の幹部候補生学校を「表門」から出航した後、
我が海上自衛隊の練習艦隊は内地を巡航して周ります。
彼らが大阪港に寄港したときの一連の壮行行事に参加させていただきました。

まずホテルでの「歓迎の夕べ」。

練習艦隊司令官泉海将補の名言は、

「彼らにここ大阪ではユーモアのセンスを教えてやってほしい。
マナーは東京で学ばせます」

大阪での祝賀会は食べ物が猛烈な速さで無くなると実感した夜でした。

 

海上自衛隊 潜水艦救難艦「ちよだ」引き渡し式 3月20日

練習艦隊壮行会の次の日、わたしは岡山の玉野にいました。
玉野造船所で行われる「ちよだ」引き渡し式に参加するためです。

わたしは「ちよだ」の進水・命名式にも参加しております。
進水式、命名式に続き引き渡し式に立ち会うことができると、
その艦の誕生の瞬間と独り立ちを見届けた気がして大変嬉しいものです。

「ちよだ」の引き渡し式では忘れ得ぬ事件が起こりました。
自衛艦の引き渡し式では、艦に「命を吹き込む」べく、
乗員乗艦に先立ち、自衛艦旗が授与され、それは副長の手で
艦内に「初めて」持ち込まれ、艦尾に揚げられる、というのが
海軍時代から続く儀礼的慣習であるはずなのですが、
その受け取るべき自衛艦旗が用意されていなかったのです。

で、どうしたかというと、呉地方総監部の管理職が
全力疾走して海曹室の自衛艦旗収納ボックスから取ってきたと。

後から聞いたところ、自衛艦旗はもともと海曹室の箱の中にあり、
式典用に出しておかなくてはならなかったのだそうです。

「初めて艦に自衛艦旗が授与される」

というストーリーだったんですね。
中から取ってきた自衛艦旗が無事に艦長に授与されています。

そして「初めて」自衛艦旗が「ちよだ」に乗艦する瞬間・・・。
ここに写っている全ての自衛官は、おそらく同じことを考えていると思う。

この後に行われた祝賀会で、村川海幕長は

「我々に取って自衛艦旗がどんなに大切なものかが改めてわかりました」

とスピーチして皆を笑わせ、前代未聞のミスに暗くなっていた(某自衛官談)
自衛隊側は、この瞬間救われた気がした、ということです。

さすがは海軍伝統のユーモアを旨とする海上自衛隊の長、とわたしは驚嘆しました。

そうして「ちよだ」は玉野を出航し、横須賀に配備されました。

就役直後の5月1日には、「ちよだ」は伊東で
プレジャーボートから転落した男女5名を救難しており、また
6月には米海軍「マーシー」と衛生共同訓練を行うなど活躍しています。

海上自衛隊 練習艦隊「かしま」艦上レセプション 3月20日

同日夕刻、わたしは大阪にとんぼ返りしておりました(笑)
昨夜大阪のホテルで行われた歓迎会に続き、自衛隊の方が招待する
艦上レセプションに参加するためです。

さすが大阪、街角にビリケンさんがいるぞ。

驚いたのは、このレセプション会場では、今朝の「ちよだ」引き渡し式の
自衛艦旗事件がすでに話題になっていたことです。

これは、朝玉野にいて、夜大阪に移動した人が官民問わず多かったためです。

「大阪では食べ物が減るのが異常に早い」

ということも実証されました。

皆が乗艦するなり乾杯の発声を待たずものを食べ出すということも・・。


海上自衛隊 呉地方総監部 観桜会 3月30日

3月末には恒例の呉地方総監部の観桜会にご招待いただきました。
この時には特に意識していませんでしたが、この写真を改めて見て
例のピンク色の船が写っているのに気がつきました。

観桜会は2回目ですが、この前年度、呉は季節外れの雪に見舞われ、
教育隊の体育館が会場となったため、(もちろん桜は咲いていない)
旧鎮守府庁舎の前庭で、満開の桜を見ながらの観桜会に感激しました。

この時には、呉地方総監肝いりで整備された鎮守府時代の
旧海軍の地下作戦壕が公開されており、わたしも見ることができました。

中は危険なので、入り口のところに立ってこうやって眺めるだけですが、
それでも戦後ずっと放置されてきた旧軍の遺産を整備し、
一般人が見ることができるようにした地方総監の尽力には頭が下がります。

夕刻から日が沈んだ後まで行われた観桜会。
素晴らしい夕焼けに照らされる満開の桜と、最高の一日でした。

日が沈んだ後のライトアップまでが観桜会です。

旧鎮守府庁舎がライトに浮かび上がって幻想的な一夜でした。

海上自衛隊 呉潜水艦教育訓練隊見学

観桜会の前に、潜水艦教育訓練隊の施設見学をさせていただきました。
まずその前に、「てつのくじら館」に連れて行っていただき、
「愚直たれ」を使った呉総監ドッグを喫食体験。

呉地方総監部の自衛官であっても潜水艦でなければ入ったこともない、
この通称「潜訓」で、潜水艦士官にエスコートしていただきながら
内部を見学させていただきました。

空襲を受けなかったため旧軍時代の建物をいまだに使用しています。
向こうにあれ怒らす児島と潜水艦基地が見えています。

ここで体験したのが「そうりゅう型」の潜行訓練装置。

好きに触っていい、と言われてぐいーっとレバーを押したら、
あっという間に床が傾いてすごいことになりました。
こんなレバーひとつであの大きな潜水艦が簡単に動いてしまうとは、
と驚きの体験でした。

 

続く。


平成30年度 想い出アルバム〜自衛隊イベント編2

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関東地方は晴天に恵まれ素晴らしい陽気の元旦でしたが、
皆様はどのようにお過ごしになりましたでしょうか。

わたしは日の出の時間にいつも歩きに行く公園で初日の出を迎えました。
いつもは誰もいない公園の芝生広場にご来光を拝みに来た人がいっぱいです。

ちなみに息子は鎌倉の高校の同級生のうちに泊まりにいき、
鶴岡八幡宮に二年参りに行ったそうですが、あまりにも参拝客が多く、
拝殿にたどり着くことができなかったと言っていました。

おせちはいつもの東京駅前ホテルの加賀料理の店で。
お雑煮は薄味かつおダシの鴨入りでした。

初詣は靖國神社で昇殿参拝に上がり、御祭神の皆様に
これからの日本の安寧と、ついでに家内安全をお願いしてきました。

境内では奉納芸能や獅子舞が催され、昇殿参拝に上がる人々で賑わっていました。


さて、2018年度に参加した自衛隊イベントご報告の二日目です。

海上自衛隊練習艦隊壮行会「かしま」艦上レセプション5月11日

東京湾晴海埠頭にて行われた「かしま」艦上レセプションにご招待いただきました。

金子純一「かしま」艦長が挨拶中。
練習艦隊司令官泉海将補(右)は、このレセプションでも

「三つのC(うれCおいCうつくC)」

を練習艦隊の目標にしたい、と皆を湧かせました。

「かしま」艦上でのこの日の自衛艦旗降下。

日が沈んで夜の灯りに包まれた「かしま」を退艦したその翌日は、

練習艦隊体験航海「まきなみ」乗艦 5月12日

で、同じ晴海から横須賀に移動する練習艦隊に座乗することになりました。
自分で書いていてハードなのにちょっと驚いています(笑)

晴海埠頭を出航した後、レインボーブリッジ下を潜ります。

艦上ではSH-60ヘリのローターを回す展示などが行われました。

「まきなみ」を追い抜いていく練習艦隊旗艦「かしま」。
この追い抜きがこの日の体験航海に参加した人たちにとってある意味
最大のイベントといえたかもしれません。

追い抜かす時に、「かしま」との間では発光信号が交わされました。

横須賀港に到着すると、「かしま」は一足先に入港作業を行なっていました。

自衛隊のイベントではありませんが、このこともお話ししておかなくては。

海上保安庁の観閲式、

海上保安制度 創設70周年記念観閲式および総合訓練 5月19日

に参加しました。
もちろん海保のイベントに参加したのは初めてです。

乗船した瞬間から下船まで、とにかく海自との文化の違いに
驚かされっぱなしの観閲式でした。
同じ海の安全を守る団体でありながら、運用はもちろん全てが全く別物です。

特に驚いたのが出航作業で、革靴に真っ白な手袋をつけた姿で
舫を手に持って捌いていく海自の出航を見慣れた目には、
甲板のウィンチで淡々と舫を巻き取る海保の方法は寧ろ斬新でした。

「海自が出入港作業をほとんど海軍時代と変わらぬ方法で行なっているわけは、
おそらく、彼らが乗っているのが海軍時代とおなじ「軍艦」だからです。

古より干戈を交えた時代を経て代々受け継がれ、研ぎ澄まされてきた作業は、
恐ろしく合理的で、武器を搭載することが第一義の甲板で行うことを考えれば、
これが最良の方法であり、それがゆえに変える理由もないのでしょう。

かたや、船の甲板を埋め尽くす機械で舫を処理する海保のやり方は、
安全で確実な出入港のために考えられた最善の手段であり、むしろこちらが
『普通』なのだということを、わたしは眼下の光景を見ながら思っていました。」

とこの時のわたしは観察しております。なるほどね(笑)

乗船していた船医どのは民間人。
お祖父さんの時代から「海保の船医」だそうです。

海保の観閲式はとにかく見ていて楽しいの一言です。
招待された船舶が色付きの水を放水するなんて、信じられます?

「飛龍」という名前が海保の放水船に既に取られていたことを知りました。
しかもひらがな表記で「ひりゆう」。

海保の救難訓練展示は「本気」と書いてマジモードでした。
ケミカルタンカーから転落した人をへロー降下して救出、
その後消火活動を行う、という筋書きで展示が行われます。

ただし水はかけるフリだけ。

訓練展示でもっとも観客が湧いたのが海賊船対処訓練でした。
トッケイと呼ばれる特殊警備隊が行う高速機動連携訓練。

不審船の周りをトッケイのボートが警告(という名の威嚇)しながら
円を描いて足止めを試み、その後色々あって強行接舷、乗り込んで海賊確保。

わたしの見た日には強行接舷と乗り込みは省略されていたようですが、
その壮絶さは訓練といえども顕で、海保の皆さんが日頃どんな現場にいるのか
片鱗なりとも知ることができた貴重な機会となりました。

あのP-1の動画公開で、自衛官が日々どのように任務を行い、
いざ、という時にいかに沈着に対処しているかに初めて触れた人々から
驚嘆と賞賛の声が上がったことは、あの事件の思わぬ副産物かもしれません。

日本の平和は実はこのような人々の日々の研鑽と、
危険を顧みない任務行動によって守られているということです。

アメリカ合衆国からもコーストガードのカッターが参加し、
海上自衛隊からは護衛艦「はたかぜ」が招待されて加わりました。

白と青の船列に加わるたった一つの「鉄(くろがね)の城」。
実際は灰色ですがそれはともかく、これがどんなに頼もしく強そうに見えたか。

この日参加した知人の全てが全く同じことを言っていました。

警備区の特色を生かした最後の「フェアウェル」も、
海自の観艦式では決して見ることのできない和やかな展示です。

わたしはこのおかげで「宮古島まもる君」の存在を知りました。

高知の警備に当たる第五管区「とさ」には坂本龍馬が写真のポーズで立っています。

個人的に注目した警視庁のピーポくん(怖い)


海上自衛隊練習艦隊遠洋航海出航 横須賀 5月21日

一連の出国関連行事に一通り出席させていただいた今回、
約半年にわたる遠洋航海に出発する練習艦隊を、いよいよ
横須賀地方隊の岸壁より見送る日がやってきました。

岸壁を離れる「かしま」の艦上と岸壁とで交わされる帽振れ。

海軍時代の練習艦隊もまた、全く同じしきたりの上に行われていたことを、
わたしはこの年紹介した大正15年度練習艦隊記念アルバムで確認しました。

わたしはこの後単身車で観音崎まで駆けつけ、そこから練習艦隊を見送りました。

護衛艦「いずも」横浜大桟橋寄港

「いずも」が大桟橋に寄港したという知らせを受け、
一眼レフでの夜間撮影の練習を兼ねて、
三脚持参でライトアップの写真を撮りに行きました。

くじらのせなかから見る「いずも」。
ポートタワーと「氷川丸」の電飾を背景に。

ちなみにこの「くじらのせなか」は、年明けの時には周りの船舶が
一斉に汽笛を鳴らす中、愛を誓い合うカップルで満載になるそうです。


海上自衛隊 掃海隊殉職者 追悼式 5月26日

毎年5月の最終週に金比羅神社で行われる、海上自衛隊掃海隊殉職者追悼式。
ここのところ、わたしは前日の立て付けから見学させていただいています。

立て付けが始まる前に、指揮官が金比羅神宮参拝を行うのが恒例で、
これを外から見届けるために本殿までの長い石段を上っていたら、
後から来た自衛官の集団にあっという間に抜かされました。

今年初めて拝殿に向かう呉地方総監、掃海隊司令以下の写真を撮ることに成功。

次の日の本番ではわたしは来賓席での参列となり、そこから
写真が撮れないので、立て付けの時だけ儀仗隊の前から撮影しました。

追悼式のために高松港に寄港している掃海母艦「うらが」では
毎回恒例の艦上レセプションが行われます。

「うらが」で自衛艦旗降下を行った一人は女性乗組員でした。
掃海艇はようやく女性の艇長が生まれたかどうかというところですが、
掃海母艦には女性隊員が普通に乗り組んでいます。

ライトアップされた「うらが」退艦後、掃海隊の撮影がライフテーマである
カメラマンのミカさんと高松名物うどんを食べに行きました。

翌日、追悼式の本番です。
参道にいきなり現れた白いセーラー服の儀仗隊に参拝客は目を見張ります。

この日の弔辞で元民進の小物議員小川某が掃海隊への弔辞に見せかけて
モリカケ疑惑をあてこすった安倍総理批判を「言い逃げ」し、
出席者のみならずその日のうちに全国的な顰蹙を買った、
ということを除けば、粛然としたいつも通りの追悼式典でした。

艦内帽を被った一人の出席者の後ろ姿が印象的でした。

 

続く。


平成30年度 想い出アルバム〜自衛隊イベント編その3

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お正月の三が日、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。

わたしは海保観閲式で歩いた、横浜の港に行きました。
かつて引き込み線だったレールの跡をそのまま残した歩道を
跨ぐように建つホテル「ナビオス横浜」。

ここは知る人ぞ知る「海員会館」でもあります。

新年のあけおめメールをある元海上自衛官に送ったところ、
お正月をここで過ごすのを恒例にしていると写真付きで返事が来ました。

山下公園も久しぶりに歩いてきました。

氷川丸を繋留している鎖は決して揚げられることがないため、
ゆりかもめたちがお行儀よく整列して止まっています。

「かもめの水兵さん」

という歌が浮かんできました。

このあと、TOと映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観ましたが、
満席状態で、日本人はクィーン好き、という噂を裏付けていました。

よかったですよ〜〜〜!

男同士のラブシーンは観ていてなかなか辛いものがありましたが、
特に最後の20分間、ライブエイドのシーンは圧巻で涙が溢れました。
猫好きにもおすすめ(笑)

 

さて、昨年一年で参加した全ての自衛隊イベントを振り返って、三日目です。
自分でもよくまあこれだけ駆け回ったもんだとちょっと驚きました。
その全てについてこれだけ事細かに報告しているわけですが、
仕事でもなければしがらみがあるわけでもなく、ここで詳細に報告しても
なんの報酬があるでなく、ただひたすら好きでやっているというのがね(呆)

この熱意はどこから来るのだろうと自分なりに分析してみたところ、
やはり根源はこの組織で働く人々への興味なのだろうと思います。

そして彼らが任務に当たる姿から一般人の視点で感じたことを、
共有したいという思いから当ブログでの発信を続けています。

その際、必要以上に皮相的な賞賛をしたり、或いは浅い知識で批判したり、
ましてや良かれと思って代弁者を気取るなどという態度は厳に慎む、
というのが、自衛隊に関わる一般人としての最低限のマナーだと思っております。

 

海上自衛隊八戸基地見学 5月某日

 

先般のレーダー照射事件で世界の注目を浴びることになったP-1は、
厚木の第4航空群所属で、警備区は事件のあった
能登半島近海のFEZにも及ぶわけですが、この第二航空群は東北にあって
日本海北部、北海道周辺海域を中心とした監視活動を行なっています。

この基地見学では、基地をあげての「見学コース」をご用意いただき、
P-3Cのエンジン換装の瞬間を整備室で見せていただくことができました。

後から別の自衛官に聞いたところ、わたしたちが見学する時間に
ちょうどこの瞬間が行われるべく時間調整して下さっていたとのこと。

また、P-3Cの内部見学はもちろん、ボムベイの中を見ることもできました。

航空基地で重要なのは航空火災に備える設備。
というわけで消防車に乗って放水経験などもさせていただきました。

管制塔、地下司令室など、撮影不可の部分にも潜入したぞ。

この時、哨戒中のP-3Cをモニターできるところがあったので、
今どこにいるかリアルタイムで教えていただいたのが忘れられません。

今にして思えば、先般の能登半島沖の事案って、厚木の基地はもちろん、
米軍ともリアルタイムで共有し、経過観察していたってことですよね?

うーん・・・韓国海軍、そのことも知っていながらなぜしらばっくれる?

ついまた画像をあげて羨ましがらせてしまう、八戸基地の喫食体験。
あのね、みなさん、もう本当にお世辞抜きでマジおいしかったんですよ。

聞けば士官と曹士の間に食事内容の差別は存在しないということ。
(違うのは来客用に設えられた立派な食器だけ)

三つ葉たっぷりの二色丼、煎餅の混入した八戸名物せんべい汁、
山菜の天ぷらなど、下手な料理屋よりずっと美味しくて・・。

ここの賄い食べるためだけにもう一度八戸に行きたいくらいです。

海上自衛隊阪神基地隊 サマーフェスタ 7月21日

もうとにかく異常に暑い一日でした。
しかし炎天下で行われるステージに出演するアイドルのために
開門前からファンが列を作って並んでいたというこの日のサマーフェスタ。

鉛筆細密画の菅野泰紀氏の作品展で展示されていたP-1の絵。

韓国側が今回のレーダー照射事件で、

「神風のように低空飛行してきた。日本は謝れ」

と言ってきているそうですが、つまり心象的にはこんな風だったってことですか。
なんでも韓国側では反論のための証拠動画を鋭意製作中とのことですが、
いっそ素材としてこの画像を使っては如何か(煽りまくり)

この日の阪神基地隊プレゼンツ防衛セミナーはなんとパネリストに
神戸のご当地アイドルを大抜擢しての開催となりました。

はっきり言ってかぶりつきのアイドルのファンたちにとって
内容はどうでも良さそうな風情ではありましたし、
そもそもアイドルがアイドルらしく全くの無知だったのも何でしたが、
正直、下手に小賢しく政治に首をつっこむモデルなんかより
芸能人としてはよっぽど分をわきまえていて好感が持てました。

自衛隊の防衛イベントとしては異色でしたが大成功だったと思います。

潜水艦救難艦「ちはや」の一般公開を行っていました。
潜水艦救難艦は実に見学のしがいがある自衛艦です。

DSRV、潜水艦救難艇やその電池のための専用の電池室(冷房入り)
だけでも、大抵の人には初めて見るものとなるはず。

この時「ちはや」が行ったえひめ丸の遺体収容活動についても語ってみました。

護衛艦「さざなみ」も岸壁に繋留されていました。
格納庫ではAEDの使い方や人工呼吸のやり方を教えるコーナーあり。

とにかく暑くて、甲板に上がるのも躊躇われるほどでしたが、
そんな自分に鞭打って一通り見学を終了。

基地構内のプールでは、模型潜水艦の展示も行われていました。
オーナーはラジコン模型を水中で操縦することが目標です。

陸上自衛隊総火演

例年これも艱難辛苦を乗り越えて見学している総火演。
今回は実際に行ったわけではなく、バーチャル参加です。

ちょうど開催日に息子の大学のオリエンテーションが重なってしまい、
せっかくのチケットを友人に譲って、アメリカからリアルタイムで
譲ってあげた人に強制的に報告をさせながら、ライブ映像を見ていました。

写真は実際に参加された方のものをお借りしました。

2018年は、陸自がその主装備を水陸両用車と装輪装甲車のMCVに切り替えた、
歴史的転換点だったかもしれません。

海上自衛隊潜水艦「おうりゅう」命名・進水式

高松行われた「しらせ」の艦上レセプションが台風で中止になり、
アメリカ帰国後最初の自衛隊イベントは「おうりゅう」の進水式でした。

三菱重工業で行われる式典は写真の撮影を厳しく禁じられているため、
式典の途中の経過をここでお知らせすることはできません。

ちなみに三菱での進水式は滑り降り式ではなく、注水式なので、
「日本三大がっかり」の一つ、という人がいたくらい肩透かしでした。

注水式とは、注水された船渠に潜水艦を3時間かけて沈めるので、
ずっとそれを見ているわけにはいかないのです。

自衛隊記念日 観閲式 

今年の観閲式総合予行は体育の日に行われました。

本来なら観艦式の予定でしたが、オリンピック開催の際に陸自駐屯地が

資材置き場となるため、順番を入れ替えたという説明がされました。 

陸自主体の観閲式はとにかく行進がメインです。

スペクタクル性には欠けますが、わたしはこの全軍が
行進してくる姿に軍隊の「練度」が表れるということもあり、
つまらないなどとは一度も感じたことがありません。

軍服での行進、その統制美にとにかく心が湧き立つのを感じます。

観閲式のためだけに結成され、行進の訓練を受けるという女性部隊。

落下傘降下、航空展示も予定通り行われました。
F-35の展示、オスプレイも本番にはやってきたようです。

そしてこの観閲式でも最も注目度の高買ったのが水陸両用車部隊でした。
待ち時間には新しく作曲された「水陸起動団の歌」も披露されました。

歌詞の後半は予想通り、「すーいりーくきーどうーだん〜〜」
となっていました。

アメリカ海兵隊の水陸両用車と陸自のそれが並んで祝賀車両行進をしたのも
今年の観閲式のクライマックスでした。

海兵隊部隊からは第3強襲水陸機動大隊が参加。

 

そして今年の関越を通して強調されていたのは

「クロス・ドメイン(領域横断作戦)」

という言葉でした。

簡単にいうと、宇宙、サイバー、電磁波といった新たな領域を
防衛という軸中心に横断して実現する体制の構築です。

観閲式本番には別のイベントが入り、参加は叶いませんでした。


続く。


平成30年度 想い出アルバム〜自衛隊イベント編その4

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平成30年度に参加した自衛隊イベントを振り返っています。
わたしの場合基本的に参加のほとんどが海自のイベントなのですが、
その中でたったひとつあった航空自衛隊のイベント。

航空自衛隊芦屋基地航空ショー 10月13日

所属する防衛団体の研修旅行という名目で参加しました。
それまで航空ショーといえば入間の航空祭しか知らなかったのですが、
芦屋基地の航空ショーはそれと比べれば圧倒的に人が少ないため、
いろんな意味で楽な見学となりました。

空自の元中の人に聞いたところ、その点1番の穴場は
例年11月中旬から下旬に行われる岐阜の航空基地だそうですよ。

今年は岐阜に出没してみようかな。

入間と芦屋ではその内容もちょっと違います。
芦屋は入間ほど所有する航空機が多くなく、入間のように
近隣の陸海軍からの応援がないため、随分シンプルな展示となります。

その分、救難訓練などは、救難員の落下傘降下から、彼らが
要救助者を搬送して自分たちがヘリに乗り込むまでを
じっくりと見せてくれるという丁寧なものとなります。

訓練機T4部隊の編隊飛行展示は基本。
この展示は訓練部隊の教官によって行われるので、どこのT-4部隊も
「ロートル部隊」とか「シルバー部隊」などと呼ばれています。

両手バイバイしているその姿はとてもおじさまには見えません。

練習機の展示の後いきなりF-2が出てくるという驚きの展開です。
しかもこの後はF-15。

この日はどちらの戦闘機もベイパーを綺麗に引いていました。

皆のお待ちかね、ブルーインパルスは午後からでした。
午前中は真っ青な晴天だった空が、この時に限って曇りに・・・・。

曇ると当方のカメラテクニックではピントを合わせるのさえ苦労しました。

唯一ラッキーだったのは何も考えずに写真を撮っていた場所が、
コークスクリューの真正面だったことでした。

この旅行では、見知らぬおじさんと同行することになり、
おじさんのおじさんたるおじ臭さに若干閉口することになりました。

呉地方総監部 殉職隊員追悼式 10月26日

毎年この時期に行われる自衛隊記念日。
その一環として、必ず全国の自衛隊では殉職者追悼式が行われます。
わたしはここ何年か連続して呉地方隊で殉職者の霊に感謝し申し上げ、
その御霊の安寧を願って頭を下げることが恒例となっています。

呉地方総監部 自衛隊記念日式典

自衛隊記念日には、各自衛隊基地駐屯地で、その一年に貢献があったとされる
一般人、一般団体に対し感謝状が贈呈されます。

この時ももちろん感謝状贈呈式が行われましたが、話題の中心は

何と言ってもそのあとの祝賀会で振舞われた、愚直たれと地元名産
「がんす」なるもののコラボバーガー、

「愚直たれがんすバーガー」

でした。
右側の海曹さんは、

「愚直でがんす!」

とポーズをキメています。

呉地方総監池海将の指導方針「愚直たれ」を具現化したタレ、「愚直タレ」と
がんすを使ったバーガーは、この夏に広島・岡山を襲った水害のあと
災害救難活動に活躍した呉地方隊が、

「地元を少しでも元気付け、盛り上げるために」

考案したというものだそうです。

海上自衛隊 練習艦隊帰国 11月30日

一連の行事を見届けた平成30年度練習艦隊が、いよいよ
約半年の遠洋練習航海を終えて横須賀に帰ってきました。

「かしま」から下艦していく新任幹部一人一人を敬礼で送り出し、
「かしま」の乗組員が降りていった後、舷側で帽振れを行う
泉博之練習艦隊司令官、「かしま」艦長、そして「まきなみ」艦長。

退艦する乗組員を自衛艦旗を振って激励する「かしま」乗員。

自衛隊音楽まつり 11月

ついこの間だった気がします。自衛隊音楽まつり。

音楽まつりには連続出場をしているアメリカ海兵隊軍楽隊。
ドラムメジャーは女性でした。
音楽まつりで女性ドラムメジャーを見たのは初めてかもしれません。

陸自中央音楽隊と第302保安警務中隊のプログラムで印象的だった
黛敏郎の「祖国」。
保安警務中隊の鍛え抜かれたドリルの美しさは圧巻でした。

今年の招待バンドは、まずフランスから、バグパイプとブルターニュのオーボエ、
「ボンバール」のバガッド・ラン=ビウエ。

全体演奏で彼らが活躍できるようにアレンジをした人、ご苦労様でした。

絢爛豪華なダンサーの衣装に大技を繰り出すドラムメジャーが印象的だった
シンガポール軍楽隊。

文字通り「SEA 海の護り」という曲を演奏した海上自衛隊東京音楽隊。

今年は入場前、自衛太皷経験者という元自衛官の後ろに並んでいたため、
自衛太皷が音楽まつりに出場するまでの秘話を色々と伺い、
音楽まつりに出てくる自衛太鼓のチームはまるで甲子園に出場する
高校野球のように「センバツ」されて来ていることを知りました。

長年謎だったこの防衛大学校儀仗隊のフォーメーションが

「蹴り渡せ」

という名前であることを知った記念すべき年となりました。
技の名前などについては儀仗隊のツィッターをフォローしていれば
ちょくちょく紹介してくれているようです。

空自は恒例のストレートラッパ隊(真ん中の人たち)と、
カラーガードの妙技に、ジブリシリーズというキャッチーな選曲。

陸海空の歌姫たちが、ついに「専属歌手」ばかりになる日がやってきました。

海上自衛隊呉地方総監池太郎海将を囲む会 12月2日

まさについ先日お伝えしたばかりですが、12月の将人事で勇退された
呉地方総監池太郎海将が人事発令の少し前に開催された「送る会」。

とりあえず公式発表前だったので「囲む会」というタイトルで行われました。

海軍時代から繋がる海上自衛隊の歴史上、退官記念パーティでダンスを踊った、
初めての、そしておそらく最後の海将となるのではないかとわたしは思います。

おうま

一人の自衛官が目の前でその自衛官人生を終わる姿というのを、
一般人のわたしはこの時初めて目の当たりにした気がします。
それは実に感動的なものでした。    

海上自衛隊 阪神基地隊年末行事 12月8日

阪神基地隊の年末行事は「餅つき大会」です。
サマーフェスタのように艦艇が多数来隊するという訳ではなく、
隷下の掃海隊の掃海艇が一般公開されるという感じですが、

そのメイン行事は餅つき。

お餅はもちろん、この日振舞われたお料理は全て隊員の手作りだったそうです。

海上自衛隊東京音楽隊 第59回定例演奏会「ハートウォーミングコンサート」12月14日

今年最も印象的だったのはなんといっても東京音楽隊専属
ハープ奏者荒木美佳三曹がソロを取ったハープ協奏曲(ヘンデル)でした。

滅多に生で聴けない楽曲を聴くことが出来るのも自衛隊音楽隊コンサートならでは。

南関東防衛局主催防衛セミナー 12月18日

これ自体は自衛隊のイベントではありませんでしたが、自衛隊の所属する
防衛省の主催で、東京音楽隊のコンサートを
客寄せ目的で後半に催してくれたので、このカテゴリにあげておきます。

なんといっても、この年のイベント紹介の最後は
行進曲「軍艦」を歌う川上良司海曹長と三宅由佳莉三等海曹の姿で
飾るのがよろしいかと・・。

 

ご紹介してきたように、昨年もたくさんの自衛隊イベントに参加して
色んな体験をさせていただきましたが、今年もまた変わらず
皆様に見たもの聴いたことをのんびりとお伝えできればいいなと思います。

どうか今年もよろしくおつきあいください。

 

 

 

 

伊勢神宮参拝

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みなさま、初詣はどちらにお参りされたでしょうか。

年初めには、まずは地域の氏神にお参りし、感謝を述べて
しかるのち伊勢神宮などの有名な神社に行くのがいいとされていますね。

我が家はわたしとTOが靖国神社、息子はこれも恒例の
鎌倉の友人宅で大晦日を過ごすので鶴岡八幡宮といつも通りでしたが、
息子が帰ってきて言うには、

「あんまり人が多すぎて本殿に近づくことすらできなかった」

なんでも途中でこりゃダメだと諦めて、「ヤクザの店」(笑)を
冷やかして歩き、適当に何か買い食いして帰ってきたのだとか。

「じゃあまだ初詣できてないんだ。どうする?」

「どうするって・・・伊勢神宮行くんじゃなかったの」

あーそうでした。
今年三が日を避けて旅行かたがた伊勢神宮に参拝する予定だったんだ。

まずは新幹線で名古屋下車。
なぜここで降りたかというと、元々は愛知県在住の知人と
名古屋駅前のホテルで食事をする約束をしていたからでした。

3年前に新築された後もその名前を踏襲した「大名古屋ビルヂング」。

昔、名古屋には何もない、という世間の評価があり、いかに何もないかが
訪問した人によって面白おかしく語られていた頃(今もそうですか?)

「駅前に『大名古屋ビ・ル・ヂ・ン・グ』だってwww」

とバカにされていたこの名称を、堂々と新型ビルに使っているわけですが、
大名古屋ビルヂング、一周回ってむしろ無茶苦茶センスいいですよね。

実は約束の相手に退っ引きならない所用ができてしまったのですが、
レストランの予約そのものはキャンセルしなかったため、
結局家族三人で食事を食べるために名古屋で降りたというわけです。

名鉄グランドホテルの中華料理のコース、美味しゅうございました。

次の日は早朝から参拝と寝るだけなので、駅前ホテルを取りました。

駅前ホテルといってもそこは志摩ですから、フロントに生簀があって
(ホテルの人によると昔は噴水だったらしい)
そこには明日をも知れぬ命の伊勢海老が食卓に乗る順番を待っています。

テェックインの手続きの間眺めていると、フロントの人が、

「ここに超特大の伊勢海老がいます」

と物陰に隠れていたのを棒で引きずり出して見せてくれました。

「大きくなりすぎてもう絶対に食べられることはありません」

お客の中には、いくら出したら食べさせてくれるんだ、という人もいるそうですが、
この5分の1くらいの伊勢海老で4千円という値段だそうですから、
万が一ホテルが彼を身売りする気になったとしたら何万円という値段になるんだとか。

「こんな大きくなったら美味しくないでしょう」

「伊勢海老は大きくなっても大味になったりしないんです」

それじゃいつか、金に糸目をつけない客によって食べられてしまうのかしら。

翌朝7時。
地元で毎日伊勢参拝をしている「達人」が車で迎えにきました。
まず内宮からまわるため、周辺の駐車場に車を入れることになりましたが、
近くの駐車場はお正月の間は関係車両しか利用できないので、
五ヶ所ある駐車場がことごとく満車となっていました。

深夜から早朝にかけて参拝する人もいるので、車の動きはあります。
20分くらい待ったら中に入ることができました。

停まっている車のナンバーを見てびっくり。
三重ナンバーを筆頭に、近畿圏はもちろん、岡山や九州、
関東だと品川、横浜ナンバーもちらほら。

鶴岡八幡宮の参拝者も例年より多かったようですが、
やはり平成最後のお正月で御代がわりを控えていることが
人々が神社に足を向ける理由となっているのかもしれません。

駐車場から参道に向かう交差点には地下道が設置されていました。
地下道通路には伊勢参りを描いた絵巻や写真などが展示されています。

おかげ横丁の人手がこんなにガラガラなのを初めて見ました。
流石に早朝だけのことはあります。

おかげ横丁の物販店はもちろんですが、銀行や郵便局なども
参道の雰囲気を壊さない造りとなっています。

黒いポストには「書状集箱」、ATMは「現金自動預払」。

赤福の本店には、列を作って赤福を買おうとする人々が。

「でも赤福というかぎりは、京都のお◯べみたいに本家争いとかないですよね?
皆同じ工場で作ってるんですよね」

「何処で買っても同じです」

「でもここに並んで買うんだ・・・・」

ちなみに赤福は新幹線の名古屋駅のホームでも、その日に作られた
新しいものが買えるのですが、やはり本店で買うことで
ありがたみを感じるんでしょうな。

このおかげ横丁の整備は赤福の子会社「伊勢福」が出資し、
運営も全てこの会社が行なっているそうで、整備されたのは平成5年とか。

江戸時代にはお蔭参りが大流行して、庶民の憧れの街だった門前町も
高度成長時代にすっかり寂れてしまったため、赤福は子会社を設立、
江戸風の実在した建物を再現し、街ごと作り変えて現在に至ります。

日本棋院の支部もありました。
将棋では藤井聡太七段(16)の話題が日本中を席巻していますが、
囲碁界にも藤井七段に劣らない“天才少女”が誕生しましたね。

最近の日本には各界にスーパースターが矢継ぎ早に誕生しているといった感があります。

干物屋さんの秋刀魚の丸干しのディスプレイも、
昔のお店を再現したものなのでしょうか。

冷蔵ケースと水槽以外は皆木でできています。

猫さん体のお手入れ中。食事は済んだものと思われ。

この茂みの植え込みには猫が生息していたという覚えがあります。
餌をやるのを禁止するポスターですが、雰囲気からいって
先ほどのトラ猫も、何処かのお店の人が餌をやっているのでは・・・。

おかげ横丁を抜けるとそこは内宮の鳥居となります。
鳥居から五十鈴川を渡る欄干の橋は、真ん中に仕切りを置いて
右側通行となっています。

鳥居をくぐったら真ん中は神様の通り道だから歩くな、
という人もいるようですが、これじゃ歩こうにも物理的に無理。

わたしたちが早朝に来たのは、この日8時から行われる
お神楽を奏上申し上げることにしていたからです。

神楽を奏上する神楽殿はこの御饌殿(みけどの)の向こう。

御饌殿とは、神饌(神様に備える食物、つまり神様のご飯)を
用意するところで、お神楽の申し込みはこの左側の窓口で行います。

神楽は前にも説明したことがありますが、祈祷の後、
我々人間がスポンサーとなって神楽を催し、それをもって
神様に楽しんでいただくという意味を持ちます。

神楽に払うお金にはランクがありますが、大金を叩いてもお志だけでも、
特にお正月期間には同じお神楽を一緒に観ることになります。

何で区別をつけるかというと、まず祈祷の際に神職が名前を呼ぶ順番。
たくさん出した人から順番に名前がコールされます。
そして、特典として、皆が入れない塀の中の神殿近くで参拝することができます。

それだけですが、つまりそれで自分のスポンサーとしての神様への
貢献度が高いと、それだけ神様が喜んでくださるということなのです。

 

申し込みが済むと、神楽殿の右手の待合所から靴を脱いで入場。
中は大変広いですが、床暖房が施してありました。
(靖國神社も2年くらい前から床暖を入れるようになって随分楽になりました)

とはいえ畳に座るという観覧方法は変わらないので、正座の苦手なわたしは
周りの男性のようにあぐらをかく訳にもいかず、祈祷以外の時には
横座りして耐えました。

全員が揃うとお祓いを受け、神職が「スポンサー」の名前を読み上げます。
TOがいくら奉納したのかは聞きませんでしたが、名前が呼ばれたのは
最初から2番目だったので、おそらく奮発したのでしょう。

ひっつめで額を露わにし、髪を熨斗のような紙で巻いた巫女が六人、
笙や琴などの雅楽を奏する人たちが四人、
巫女たちはお供え物を受け渡し、正面に捧げるなどを、驚くほど
素早い動きで執り行い、それを見ているだけでちょっとしたアトラクションです。

巫女たちは中学生くらいに見えましたが、長い裾を踏まずに歩く
独特の足の運びといい、躊躇いのない舞のような動きといい、
相当修行を積んでいるとお見受けしました。

何より彼女らを見ていて、昔、人に頼まれて、ホテルの結婚式場で
巫女のアルバイトをしたのを思い出したのですが、改めて、
こんなインチキ巫女のお仕えで祝言をあげた方々には申し訳なかったと反省しました。

【伊勢神宮】神宮のご祈祷 御神楽 ISE-JINGU

この動画はわたしたちのお神楽と全く同じ内容となっています。
最後の蘭陵王という赤い着物で狐面の舞は、「唐舞」というのだそうです。

伊勢神宮に高々と伸びる木々は、それこそ長い長い時を経て、
どれも神木というくらい神々しく天に向かっています。

太い木の幹に参拝者が群がって触りまくっている光景を目にしましたが、
伊勢神宮の達人によると、

「なんの意味もないのでやらないほうが良いです」

とのことでした。

伊勢参りは広大な伊勢神宮に在わす神様の社を次々とめぐって
お参りをするという、言うなれば江戸時代の一大アミューズメントパーク。
お神楽を上げて一つ一つお参りをしていったら、午前中いっぱいかかります。

お神楽をあげるといただける袋の中には「黄色いチケット」が入っていて、
このチケットがあると、正宮である皇大神宮の塀の中に、
神職に連れられて入りそこで参拝することができます。

わたしたちは同時に来られた男女二人と合計四人で、
(息子はネクタイをしていなかったのでアウト)玉砂利を踏んで中に入り、
緊張しながら二礼二拍手一礼を行いました。

社殿の横にはこのような空き地と小さな小屋のようなものは、
現在の社殿に遷宮される前に社殿のあった場所で、遷宮して6ヶ月だけは
古殿地と呼ばれ、その後は「新御敷地」(しんみしきち)となります。

つまり、「次に社殿が立つ予定の御敷地」となるのです。

小屋のあるのは以前御正殿があった場所で、中には太さ30cmの
「御柱」と呼ばれる「御木」が埋まっているのだとか・・。

こちらが現在の「御正殿」で、「御敷地」には注連縄がされ、
もちろん立ち入ることはまかりなりません。

五十鈴川の近くにある瀧祭神(たきまつりのかみ)は、
伊勢神宮の達人曰く「大変強い」神様で、上空には
龍が舞っているということですが、そのお参りを終えると、
五十鈴川の御手洗場まで、この人通りの少ない道を歩いて行くことになります。

御手洗場にはどういうわけかお金がたくさん落ちていましたが、
達人に言わせるとこれもあまり意味がない、とのこと。
手を清めるところにお金を投げるというのもなんだかね、ってことです。

お金を投げ入れるともう一度帰ってこれるトレビの泉と一緒にしてないか?

わたしたちが出口に向かう頃、向こうからはものすごい数の参拝客が。

「これでも三が日よりはだいぶ少ない方です」

もう一度五十鈴川にかかる欄干の橋を通ると日の丸が見えます。

ところで、わたしたちが参拝した前日は政治家が参拝したそうです。

「午前と午後で自民と野党は別々に参拝するんです」

「野党・・・まさか共産党は来ませんよね」

「共産党は来たことないですねー」

野党が与党とは別に(公明党もこないらしい)伊勢参拝するのは
恒例の行事となっていて、ずっと行われていることなのですが、なぜか
パヨク連中が激怒し(笑)猛抗議するという騒ぎになっていました。

「ドン引きしました」

「もうパートナーズやめます」

「まさかどういう神社か知らないわけじゃないですよね」

「伊勢神宮なんかに行かず辺野古に行くべき」

「これ靖国神社に参拝する会と同じ構図ですよ」

「まさか再戦とか投げて日本会議の資金源に協力してないだろうな」

「右派支持者取り込み作戦ならここだけでなく
キリスト教会や寺院にもいかないと支持者のバランスが
取れないし一宗教団体との密着関係を疑われる」

阿呆なのかこいつらは。(ペッ)

いやーしかし、近所の神社に参拝したことをツィートして
皆に突っ込まれた小池晃といい、民進党の皆さんといい、
変な主張の人たちに支持されないと政治家でいられない人たちって
ほんと大変そうで心から同情します(思いっきり棒)

おかげ横丁は先ほどと同じ場所とは思えないほどの人出でした。

朝見た猫さんは屋根の上に避難してお昼寝。

屋根瓦にお猿さんがいる店もあります。

百田尚樹氏の「日本国記」にも書かれていましたね。
自分が行けないご主人が飼い犬にお蔭参りをさせた話。

お伊勢参りをする犬を「おかげ犬」というのを初めて知りました。
ここではこんな可愛い「おかげ犬サブレ」を売っています。

お土産に買い、我が家用にも一つ買って食べてみましたが
土産菓子にしては出来過ぎというくらい美味しいお菓子でした。

注連縄つけた犬が可愛い!

箱の赤い鳥居のマークには、おかげ犬が
後ろ向きに、つまり鳥居をくぐる様子が描かれています。

おかげ犬・・・お伊勢参りする人々が、ちゃんと本殿まで連れて行って
お札を買ったりして世話してあげたってことなんですよね・・・。

ちなみに現在では犬は散歩はもちろん、中に入ることもできません。

この後は猿田彦神社に参拝。

「さるめ神社」は芸能の神様だそうです。
奉納されたのぼりには「南海キャンディーズ」からのものがありました。

外宮に向かう道で見つけたマンホールの蓋。

休憩中の巫女さんが携帯を熱心に見ているという、今ならではの図。

駐車場から出たところに、社殿を作るためのヒノキを浮かべている池があります。

伊勢神宮では、1300年のあいだ、20年に一度、社殿や神宝類、
ご装束類のすべてを一新する式年遷宮がおこなわれています。
この20年の繰り返しによって技術や匠の技が脈々と伝えつづけられています。

20年毎に遷宮しつづけるという仕組みは、日本でも他に例がなく、
この周期は、最初に遷宮を始めた天武天皇が定めたそうです。

遷宮に必要な木材の準備には4年をかけます。
伐採後2年間貯木池に沈める「水中乾燥」を行い余分な油を抜くのですが、
今その作業をここで行なっているというわけです。

ちなみに木材はその後1年間、野ざらしにし、自然条件に木を慣らして
そして1年間で製材をし、和紙をかけて遷宮の時を待つのです。

さて、わたしたちはこの後、知人の運転する車で
今回の旅行のもう一つの目的地である志摩に向かいました。

英虞湾を臨む温泉リゾート、アマネムに一泊するためです。

 

 

続く。


AMANEMU(アマネム)でのお正月

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初日の出を見て帰り道、家の近所でこんな光景を目撃しました。

ところで、今連鎖反応的に思い出したのですが、昨年の一般参賀は
例年以上の人出だったため、7回ものお出ましであったということですね。

平成最後であり今生陛下にとっても最後の一般参賀となるため、
わたしも是非行きたかったのですが、当日どうしても外せない所用があり、
泣く泣く諦めました。

今回の伊勢参拝で同行してくれた神宮の達人(祝詞も読める)は
参拝の後、車で志摩のアマネムまで送って下さったのですが、
同行中、天皇陛下の「御威光」について、いわゆるオーラが見える人が、

「陛下が乗っておられるセンチュリーが近づいて来たら、
車の天井を突き抜けるように光が立ち昇っていた」

と証言していたという話をうかがいました。

わたしはスピリチュアルな話をむやみに信じる方ではないのですが、
もしそういうものが可視化できるなら、天皇陛下のオーラとは
当然特別なものであるだろうと思っているので、納得して聞いていました。

さて、そんな話をしながら渋滞を避けて海沿いの信号のない道を小一時間。
いきなり現れたうえあまりにも小さくて見過ごして通り過ぎてしまった
「AMANEMU」の看板のある小道を入っていくと、セキュリティゲートが。

宿泊者以外は何人たりとも立ち入らせない構えです。

二人いる守衛に名前を告げると、おもむろに門が開きました。
確か24部屋しかないのに、この人たちは一日、
滅多にない戸の開け閉めのためにここにいるわけか・・・。

ゲートを入っていくと、道案内されずともいきなり現れるのがこのパビリオン。
あまりそんな風に見えませんが、ここがフロントとなります。

パビリオンの椅子で歓迎のオリジナルティーをいただきながら、
ホテルの支配人(女性だった)のご挨拶を受けました。

日本で二つ目のアマンリゾートホテルの支配人になるくらいですから、
さぞかしキャリアのあるホテルマンなのだろうと思われますが、
女性ならではの柔らかな物腰からは、まるでモダンな温泉旅館の若女将
(もちろん社長兼)にお迎えされているような気がしました。

アマンリゾートのホテルを手がけて来たオーストラリア人の建築家、
ケリー・ヒルの建築によるものです。
大変な日本びいきで、生涯に80回以上来日をしていたヒルですが、
昨年の8月、亡くなったということです。

その作品群からは、いずれの作品もシンプルでモダンでありながら
土着の文化に寄り添う懐の広さがあるように感じられました。

合歓の郷にあるから「アマネム」と名付けられたここもまた、
伊勢志摩の海沿いにあって全く違和感なく日本の村に溶け込んでいます。

作品を通じて共通する印象は「連続する縦の線」「黒に近い茶色」でしょうか。

英虞湾を眺めていると、中華な色合いの遊覧船が繁く行き来します。

「賢島エスペランサという遊覧船です」

失礼、中華ではなくエスパーニャでしたか。
エスパーニャといえば、確かこの辺に「志摩スペイン村」なるものがあった気が・・。

「まだあのパルケエスパーニャってあるんですか」

「なんとか生き残ってるようですよ」

ところでなんだって三重県がスペインなのかというと、
この理由は、カルメン、ドンファン、闘牛、ドン・キホーテ等が、
日本人に馴染みがあるからとかいろんなことが言われていますが、
結局のところ実利的な理由、

「ほかではあまり取り上げられていないから」

「明るい太陽と海辺というイメージのこじつけ」

というあたりで深い意味はないそうです。
これと同じく、地中海と地形が似ていなくもない、という理由で、

「瀬戸内のエーゲ海」

などと自称するセンスはもうバブル期の終焉とともに終わった感があります。
今にして思えば、気候風土が全く違うのに、ちょっと似ているというだけで
なぜ「何処かの国」を名乗らなくてはいけないのかと思いますが、
(全国にあった〇〇銀座と同じ発想?)もはや今は外国人の建築家が
日本のイメージを取り入れて造ったAMANEMUが持て囃される時代です。

テラスにくり抜いたようなソファとテーブルのスペースがあります。

端っこのものをてっきりアメリカのホテルのような暖房器具だと思い、
ここで暖まりながら満天の星を見よう!と盛り上がったわたしたちでしたが、
ホテルの人に「これつけてください」と頼んだところ、
暖房ではなく単なるライト(しかも故障中)であることがわかり断念しました。

この夜は恐ろしいほど空気が澄んで都会では決して見られないほどの星空。
もしその気ならバーには天体望遠鏡が置いてあったので、
それで天体観測と洒落ることができたと思うのですが、いかんせん寒すぎました。

ライブラリの蔵書は部屋に持ち帰ることもできます。

チェックイン時間にはまだ早かったのですが、達人を囲んで
ランチをいただくことにしました。

伊賀で作っているから「忍ジャーエール」。
名前が面白いからというだけで注文しました。

ランチはTOがホテル予約の時に4種類別々のものを注文してあり、
それぞれ自分の食べたいものを主張して出て来たものを取ることに。

達人はこの、あまりにも具の多い海鮮チラシを選択。

わたしは息子に「松坂牛ビーフカレー」を取られたので、
中華膳かひつまぶしの二択になり、散々迷った末後者にしました。

後半は出汁をかけてお茶漬け?にして食べることができます。

松坂牛カレー。

いずれのお料理も「外国人サイズ」でした。

食事の後はこの建物、バーに移動。

デザートは升に入った和風パンナコッタを息子と半分ずつ。
何が和風かというと、金箔と黒豆が載っているところ?

食事が終わり、達人をお見送りしているうちにチェックイン時間になり、
カートで荷物と一緒に部屋まで運搬してもらいました。

ホテル内の敷地はカート移動、というとバリのブルガリホテルを思い出します。
そういえばパビリオンもブルガリと似ているなあ。

「ブルガリホテルみたい」

ふと呟くとカートを運転していたホテルマン(女性)が

「スタッフには先日までブルガリホテルで働いていた者がおります」

ブルガリホテルは同じお正月でも天候は真夏と同じでしたが、
こちらは寒いのでカートは幌付き。
乗ると外からファスナーを閉めてくれますが、それでも
隙間から風が入って寒いので膝掛けをかけてしのぎます。

一棟につきふた部屋が並んでいる仕組みで、これと同じのが
12棟あるということになります。

聞けばこの日は稼働率は50パーセント(つまり12組くらい)で、
そういう時には一棟に1滞在客しか割り当てないことになっているようです。

24部屋の大きさは皆同じで、値段の違いはロケーションのみ。
目の前が海、という部屋が一番高いのだとか。

部屋は広いのでエキストラベッドをおいてもなお余裕たっぷり、
木のフロアは床暖房入りで裸足でも歩けます。

隣は棟続きの部屋なので庭には出られません。

蛇口の一つからは60度くらいの温泉が出て来ます。
前面ガラス張りで、外を見ながら温泉に浸かれるというわけですが、
ただし夜になると外は暗闇となり、夜景を見ながらというのは不可能。

最初鏡張りかと思った向かい合わせの洗面台。
部屋のいたるところにミネラルウォーターのボトルがあり、
冷蔵庫のアルコール類以外のソフトドリンクは無料です。
(というか宿泊代込みというべき?)

地元のみかんやおかき、みかんジュースに牛乳なども備えてありました。

ベランダにはソファがあって、寒いけど無理やりくつろぎました。

昔ここはゴルフ場だったそうですが、山中ゆえ夏場は虫が出るようで、部屋には
各種虫除けの他にムカデキラーと、外国人客のために英語で
「これがムカデです」という写真入り注意書きまで備え付けてありました。

ホテルの人によると鳶の害はままあるようですが、ブルガリホテルの猿のように
流石に部屋までは来ないので、ベランダで朝食というのも悪くなさそうです。

チェックイン後部屋で休憩してから、スパ棟を見学させてもらいました。
立派な機材を備えたジムはもちろん、ヨガ教室も随時行われています。

そしてここがアマネム自慢のスパ。温泉です。
水着をフロントで借りて入ります。

浴槽?は場所によって温度が少し変えてあり、

「交代にどちらも入ることで血行が良くなります」

プールではないので浅く、全周囲が階段なので泳げません。

夜、スパでオイルマッサージをしてもらい、部屋で一人温泉に浸かっていると
息子とTOがこの露天風呂から電話してきて、

「野外温泉おいでよ。絶対に来ないと損だよ」

というので、部屋のお風呂からこちらにやってきましたが、
彼らのいう通りで、ここにきてこのお風呂に入らなければ
来た甲斐がないと思ったほどでした。

三人でお湯に浸かりながら星を眺め、いろんな話をしましたが、
特に留学中の息子の来夏のインターンシップについて
本人の意向と方向性について会話できたのが良かったと思います。

明けて翌朝、お楽しみの朝食です。

アメリカンブレックファーストを選択すると、こんな美味しそうな
テーブルに乗ったサラダと果物がやって来て、取り分けてもらえます。

それにしても食材のことごとく贅沢なこと。

昨日の達人が地元で聞いた話によると、ホテルができる当初、
取引を申し込んだある業者がいて、その業者はうちと契約すれば
これだけ安く食材を納められますよ、という切り口でセールスしたのですが、
ホテルの返事はなんと、

「うちは安くなくてもいいので、とにかくいい食材を入れたい」

で、業者はしおしおと引き下がった、ということでした。

メニューに「ホワイトオムレツ」と書かれていたホテルは初めてです。

TOが注文した和食は、鯛茶漬けの具付き。
ご飯は「熊野古道米」で、こちらも聞けば、ごく少量丁寧に作った米だそうです。

こういう「縁のないプール」、世界中で流行していますよね。

この後はホテルアンドリゾーツ?だかなんだかの特典で、
4時までのレイトチェックアウトだったため、
息子とベッドて跳ねたり、温泉に浸かったり、パソコンしたり音楽聴いたり、
思いっきりのんびり時間いっぱいまで部屋を楽しみました。

チェックアウト後は宿泊者全員、ホテル所有のレクサスで駅まで送ってもらえます。
荷物を車に積むとき、

「ホテルからのプレゼントです」

と、『AMANEMU』と刻印の入ったラゲッジタグ(こちらの名前入り)
をいただきました。

わたしとTOには二人で一つでMr.and Mrs.なんとかだったのに、
息子は彼の名前だけが書かれたタグを別にもらい、ご満悦でした。

送っていただいた鵜方から名古屋まではビスタカーで。
鳥羽を通りかかるときには御木本真珠島(橋の向こう側)が見えます。

 

神宮参拝に次ぐAMANEMU。
気持ちを新たにし、かつ清々しく気の良い場所に身を置いたことで、
旧年の憂いはすっかり清められ、今年も良い年になりそうな気がします。




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