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ラッキー「O」のジャガイモ事件〜駆逐艦「オバノン」DD-450

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先日、メア・アイランド工廠で艦体の修復を行い、
テニアンに日本に落とすための原子爆弾して出撃し、
日本の伊号潜水艦に撃沈された「インディアナポリス」について、
ここメア・アイランドの博物館の展示を受けて書いてみました。

 

今日は、同じく博物館の展示から、

駆逐艦「オバノン」USS O'Bannon, DD/DDE-450

についてお話しすることにします。


画像は当メア・アイランド海軍工廠沖を航行する
「オバノン」で、戦後1951年に撮影されたものです。

「オバノン」はフレッチャー級駆逐艦の何番艦かで(笑)
(175隻あるのでナンバーはなし)1942年の6月に就役しました。

 

 

「フレッチャー級」は従来の駆逐艦より大型化された艦体を持ち、
大変汎用性もあったので大量生産されただけでなく、戦後は
我が海上自衛隊にこのうち2隻が貸与され、

ありあけ DD-183
(USS DD-663 ヘイウッド・L・エドワーズ)

ゆうぐれ DD-184
(USS DD-664 リチャード・P・リアリー)

として運用されていたこともあります。

ちなみに「ありあけ」は戦後日本の海上自衛隊が所有することになった
最初の駆逐艦となりました。
建造された時にDD-663に命名された

ヘイウッド・L・エドワーズ

は、第二次世界大戦の戦死者第一号である海軍士官の名前です。

フレッチャー型駆逐艦は、基本

「艦長や指揮官の名前」

であることが多いのですが、エドワーズは戦死した時中尉でした。

兵学校時代のエドワーズ

エドワーズ中尉の乗務していた、

USS「ルーベン・ジェームス」DD-245

は1941年10月31日、大西洋上で船団護衛中Uボートに撃沈されました。

なぜ艦長でもない中尉の名前が駆逐艦に残ったかというと、
彼がレスリングの選手として1928年のアムステルダムオリンピックに
出場し、4位入賞していたからではないかと思われます。

「ゆうぐれ」となった「リチャード・P・リアリー」は海軍少将で、
南北戦争と米西戦争の指揮をとった人物でしたが、戦死はしていません。

 

「エドワーズ」も「リアリー」も、大戦中太平洋戦線に投入され、
日本軍と戦った経歴を持ちます。

特に「ゆうぐれ」はエニウェトク環礁およびサイパン、ペリリュー島上陸支援、
レイテ島の戦いに参加していますし、あのスリガオ海峡海戦では
戦艦「山城」に魚雷を発射し、敵機1機を撃墜するという戦果を挙げています。
その後もルソン島、硫黄島、沖縄とガチンコで日本軍と対峙してきた艦でした。

海自の所有する潜水艦第一号「くろしお」となった「ミンゴ」もそうですが、
これらの米軍艦は、アメリカ海軍にとって古くなって必要がなくなったので
同盟国となった日本に貸与されたわけです。

言うなれば日本人をたくさん殺めた軍艦なのですが、
これに乗り組み運用することが、旧海軍軍人がまだまだ存在していた自衛隊で、
どのようにとらえられていたのか、つい考えてしまいます。

 

さて、寄り道が長くなりました。
「フレッチャー級」駆逐艦「オバノン」についてです。

「オバノン」とは、第一次バーバリー戦争で活躍し、
「ダーネの英雄」と異名をとる

プレスリー・オバノン海兵隊大尉

であり、この名前を持つ艦としては3隻のうちの2番目となります。

オバノン大尉

「海兵隊讃歌」ではその活躍が歌詞になっているという軍人です。

「オバノン」は第二次世界大戦において17個の従軍星章と殊勲部隊章を受章した
大変な殊勲艦でした。
この記録は第二次大戦中のアメリカ海軍駆逐艦では最多で、
海軍艦艇全体でも三番目に多い記録です。

しかも第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争全てを経験しているのに、
パープルハート章(名誉死傷章)を受章するような戦傷者を全く出していません。

このため、彼女は「ラッキー O」(Lucky O)の愛称を与えられました。


冒頭写真は、ベララベラ島の戦いで損傷した「オバノン」(右)と、
同じく「セルフリッジ」の損傷した姿です。

「オバノン」はベラ湾で上陸援護、日本の増援輸送とその護衛の阻止、
敵機への防空任務に従事していました。
第二次ベララベラ海戦では、「オバノン」は「セルフリッジ」(DD-357)、
「シャヴァリア」(DD-451)と共同で駆逐艦「夕雲」を撃沈しています。

しかし「シャヴァリア」「セルフリッジ」が被雷し、「オバノン」は
「シャヴァリア」の後方に接近しすぎていたため避けきれず艦尾に衝突し、
艦首を破損してしまいました。

しかし、負傷者はゼロ。
「オバノン」はこののち損傷した2隻の僚艦を護衛し基地に帰還しました。

 

さて、以前、

「米海軍アイスクリーム事情〜ハルゼー提督とアイスクリーム艦」

というエントリで、これも余談として、「オバノン」と帝国海軍の潜水艦の
ちょっとユーモラスな遭遇について少し触れたことがあります。

航行中ばったり帝国海軍の呂潜と遭遇した「オバノン」乗員が、咄嗟に
相手にジャガイモを投げつけたのを、呂潜の乗員は手榴弾と勘違いして投げ返した、
という心温まる?戦時中の逸話ですが、もう少し詳しいことがわかりました。

 

1943年4月5日の夜。

第21駆逐隊の僚艦と共に沿岸砲撃任務から帰投中だった「オバノン」は
ラッセル諸島付近で日本の潜水艦呂34の姿をまずレーダーで発見し、
接近して潜水艦が充電中なのか海上に浮上しているのを認めました。

呂34の乗員は就寝中で、甲板上に横たわる青い帽子をかぶった乗員の姿を
発見した「オバノン」の乗員が確認しています。

「オバノン」に装備されていた「ラム(衝角)」を使って相手を沈めようと、
潜水艦に向かっていった艦橋の士官たちは、衝突直前、叫びました。

「いかん!これはマインレイヤー(機雷敷設艦)だ!
衝突したら搭載した機雷が爆発して巻き込まれるぞ!」

 

急転舵を行なったその結果、「オバノン」は「バツの悪いことに」(本人談)
呂34の真横にきっちり艦体を平行にして並んでしまいました。

予想外の展開に、両者は至近距離で暫しお互い相手を呆然と見つめ合いました。
呂潜甲板で寝ていた乗員は、なぜこの駆逐艦が攻撃もせずにいきなり
真横に艦体を付けてきたのか、全く理解できず、さぞ混乱したことと思われます。

「みすぼらしい青い帽子をかぶり、ダークな色のショーツをはいた呂34の乗員は、
いきなり隣にやってきた(ように見える)アメリカの駆逐艦に
不躾に眠りを覚まされてさぞ驚いたことだろう」

と元乗員はこの瞬間について後に語っています。

 

にらみ合った次の瞬間、先にアクションを起こしたのは呂潜の乗員でした。
甲板の three-inch deck gun(8インチ高角砲)に飛びつき、操作しようとしたのです。
体当たりしてラムで相手を沈めようとしていた「オバノン」側は、
近すぎて主砲は使用することはできず、さらに小火器も持っておりません。

その時一人の乗員が、咄嗟に近くの保存容器に入っていたジャガイモを投げつけました。

次の瞬間、今にも銃撃しようとしていた呂34の乗員は銃から手を放し、
投げつけられたジャガイモを素早く拾って投げ返してきました。

「オバノン」乗員は後からこの時のことを

  Apparently the Japanese sailors thought the potatoes were hand grenades. 

と書き残していますが、駆逐艦から何かが投げつけられたら、
最初は誰でも手榴弾だと思いますよね。
まさかここに書かれているように、投げ合いをしている最中にもそれが
手榴弾だと思い込んでいるような日本人がいるはずないのですが。

さらに不思議なことに、当事者の記録によると、その後

 A potato battle ensued. (ポテト戦争が勃発した)

つまり、しばし両者の間でジャガイモの投げ合いがあった、というのです。
どちらもポテトだと知って投げ合っていたってことになります。

 

この時の銃手が、ジャガイモの投げ合いに応じることなく
銃座に戻り銃撃を継続していれば、「オバノン」に打撃を与え、
その後「ラッキーO」は生まれなかった可能性はあります。

しかしジャガイモといえども、ヒットすれば結構なダメージですから、
元野球選手なんかが「オバノン」にいて、正確に銃手に当ててきたのかもしれません。

呂潜の銃手が手を取られているその間に「オバノン」は
射撃可能な距離にまで艦体を離して呂34を攻撃し、まず艦橋に損傷を与えました。

呂34はこれで動揺したのか、潜航するという最悪の選択をしたため、
結局「オバノン」から投下された爆雷によって撃沈されてしまったのです。

 

「USSオバノンの士官と兵を顕彰して」

このプラーク(記念銘板)にはこう書かれています。

1943年春、彼らが今や我々の誇りとなったポテトを使い、
ジャップの潜水艦を「撃沈した」、その発想の妙を讃えて

このふざけた銘文を作ったのは、他でもない
ジャガイモの一大産地メイン州のジャガイモ生産者協会でした。

この「ポテト・インシデント」(ジャガイモ事件)が起こってから
2ヶ月で、こんなものを作っていたと見えます。

このプラークは、その後「オバノン」のクルー・メス・ホールに、
皆がいつでも見られるように掲げてあったということですが、
それほど有名な話でもなく、歴史に埋もれていたのを、誰かが
リーダーズダイジェストに掲載されていた元乗員の座談会の記事から
見つけだしてきたということです。

その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争の期間を通じて銘板はずっと
兵員の食堂に掛かったままになっていましたが、「オバノン」の乗員は
誰一人としてこの内容に興味を持たず、その意味を知ろうとする者は
誰もいないようだった、と言われています。

この記事を書いた人は、それをこんな風に解釈しています。

「駆逐艦のクルーは歴史を作ることに興味があるが、
過去の歴史に固執することには全く関心はないのだろう」

最後に、当の現場の人たちには全く関心を持たれなかったこの事件ですが、
日本の萌え系はこのストーリーを見逃さず、きっちり食いついております。

戦艦少女wiki 「オバノン」

・・・・・・・・・エプロンにジャガイモ持ってるし。

 

 

 

 


”MAN OVERBOARD!"(人が落ちた!)〜空母「ミッドウェイ」博物館

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今年の夏、ついに三年連続3度目の「ミッドウェイ」見学を果たしました。

当ブログでは3年前に始まった「ミッドウェイシリーズ」がいまだに
だらだらと続いているのを幸い(笑)以前の訪問から製作したエントリに、
今年の新しい写真と情報を付け加えながらお話ししていこうと思います。

「ミッドウェイ」左舷から艦首方向を見るとこんな風に見えます。

これが「ミッドウェイ」最終形、つまり現在と同じ形となりますが、
上の写真はミッドウェイを右向きのイルカのシェイプに喩えると、
おでこのあたりに立って嘴をのぞいていることになります。

航空機が発着する甲板の脇にあり、待機したり避難するための
この部分をキャットウォークCat walk と呼びますが、軍事用語ではなく、
単に機関室や橋の片方にある細い通路のことを意味する言葉です。

ファッションショーでモデルが歩く通路のこともキャットウォークと言いますね。
先日トルコで行われたファッションショーで本当にキャットがウォークしていましたが。

Cat crashes runway at Turkey fashion show, goes viral on Instagram

観客が平然と観ているのが何やらシュールです。

それはともかく、「ミッドウェイ」の方のキャットウォークに
緑のジャージを着た人が立っていますが、彼はLSE、つまり

Landing Signal Man Enlisted

の一員で、兵隊としてのランクはE-4かE-5です。

アメリカ軍では「スペシャリスト」と呼ばれる階級で、
E-4から始まって最高はE-9です。

彼は甲板に着陸する航空機に信号を送るメンバーの一人です。

キャットウォークは平坦でなく、船の構造によっては途中にこのような階段があり、
舷側に沿ってくねくねと曲がっています。

見た所そんなに高さもありませんし、手すりもいい加減なので、
階段の上から落っこちるなんてこともたまーにありそうです。(これ伏線)

キャットウォークには各種長いモノ巻き取りのための
リールがこんな風に設置されています。

さらに歩いていくと、カタパルトの延長を示す白い線に合わせて、
甲板の「ツノ」が海面に向かって突き出しています。

上の甲板の間取り図?を見ても、
この艦首から突き出した部分が
カタパルトの軌道延長線上にあることがお分かりかと思います。

これが「ブライドル・レトリーバー」。
または「ブライドル・アレスト・スポンソン」

通称「ホーン」(ツノ)。

かつて、

「このツノが何かわからない」

とつぶやいて、お節介船屋さんにそれはもう説明ずみだ!馬鹿者!
(脚色しています)と怒られたわけですが、念の為もう一度調べました。

航空機射出機、カタパルトの実用化初期には、それを利用する航空機に
専用の牽引装置が備わっていなかったため、カタパルトのシャトルと
航空機の主翼基部や胴体とを連結する

「ブライドル」「ブライドル・ワイヤー」

と呼ばれる装具が使用されていました。

そして最初の頃、ブライドルは航空機の離艦のたびに海に投棄していました。
いくらアメリカが金持ち国でも、それはあまりに勿体無い、ということになり、
カタパルトの延長線上、フライト・デッキの端から突き出す形をした

「ブライドル・レトリーバー」

と呼ばれるブライドル回収用の網が取り付けられるようになった、

というのが存在理由その1。


ちなみにそのブライドルですが、検索したら自分のブログが出てきました。

「ホーネット」で元パイロットのヴェテラン・ボランティアが、
空母から飛行機をカタパルトで射出する仕組みを説明してくれた時の記事です。

ブライドルはカタパルトのレールと航空機の機体とに引っ掛け、
飛行機を引っ張ってぶん投げるように射出し、
飛行機に引っかかったまま一瞬宙を飛ぶのが普通だったようです。

この写真をご覧ください。
折しも航空機がこのホーンの上を飛び立とうとしています。
この説明も翻訳しておきます。

これによると「ブライドルが勿体無い」という理由より、
より切実な事情があったらしいことがわかります。


1980年代までの艦載機は、機体をカタパルトの軌道上で牽引する
ワイヤケーブルまたはブライドルを伴って空母から発艦していました。

軌道の終わるところに来ると、機体からブライドルは離れ、
それは空中を飛来して艦首部分に落下します。

機体から離れたブライドルが振り落とされて飛行甲板に跳ね、
それが機体に当たるのを防ぐため、

「ブライドル-アレスト・スポンソン」

という各カタパルト軌道の終点、甲板の延長に下向きに角度をつけたものを
航空機が落としたブライドルがちょうど当たるように設置しました。

今日、空母の艦載機が発進するのには機首の「ノーズギア」で牽引され、
ブライドル−アレスティング・スポンソンは不要になっています。

しかしながら「ミッドウェイ」では空母艦載機の創成期の名残として
いまだにこの「ツノ」を目の当たりにすることができます。

今は展示用に柵がつけられていますが、写真にも見られるように
昔はもちろんブライドルを受けるためのネット以外はありませんでした。

もしかしたら蛮勇を競う乗組員たちが肝試しで飛び込むこともあったかも・・。

と思ったら、流石にそんな人はいませんでしたが、この時
初めて聴いたオーディオツァーでやっていた、

「人が落ちた時」Man Overboard

によると、このブライドルシステムができた当初は
結構ここから人がよく落ちたのだそうです。

海上自衛隊では、自衛艦から人が落ちた時には

「人が落ちた、実際」

というとかなんとか聴いたことがありますが、
(自衛隊の人ではなかったので確かな情報ではありません)
アメリカ海軍では、

「Man Overboard!」

がその際全艦に直ちに布告されます。

Man Overboard

これはアメリカ海軍の人が落ちた時のための訓練ですが、

"This is the true, true, ture, man overboard、
man overboard、man overboard、port side!"

左舷から人が落ちた、と言っています。
大事なことだから3回ずついうんですね。

別のビデオでは

”This is the true."

を三回繰り返していましたし、ロイヤルネイビーのドリルでは
繰り返していなかったので、決まった形はないのかもしれませんが。

 

人が落ちたコールがあるとすぐさま赤い紙風船みたいなバルーンが落とされ、
荒波になれた乗員たちが何かに捕まらなければいけないほど急激に
左に舵を切り、Uターンを行なっています。

NAVY: Man Overboard Drill

こちら、無駄に高画質なFOXのニュース映像。
取材されているのは「エイブラハム・リンカーン」で、艦長は

「冷たい海の中で耐えられる時間は決して長くないので
15分以内に助けることを目標としている」

と言い切っています。
空母の場合、ボートとヘリコプターのどちらもが出動し、
艦もUターンを行います。

U.S. NAVY MAN OVERBOARD PROCEDURE FROM SUBMARINE TRAINING FILM

ついでにこちら1953年の潜水艦による訓練の映像。
海軍内で観る教育用に制作されたようです。
無駄に男前な艦長は乗員の報告にニッコリと微笑んでます(笑)

ここで映像に写っているのはガトー級の「デイス」です。

「落ちる役」の水兵は、艦載砲の手入れをしていて不自然に柵の間から
海に落っこちてしまい、さあ大変。

"Man overboard!"

もしそれが右舷からなら、艦長は浮き輪を落ちた乗員に向かって投げ、

「ストレイト・バッキング・メソッド」

と呼ばれる航法で落水者に近づきます。(3:32から)
映像を観てもらうとわかりやすいですが、右舷から人が落ちたとすると、
面舵に転舵し、少し行き足で進んでからバックで戻ると、
ちょうど要救助者の手前で潜水艦が止められるというわけ。

左舷から落ちた場合には

「プライマリー・サークル・メソッド」

といって円を描くように、とか、とにかくターンのやり方がたくさんあり、
観ているだけで楽しめます。(流石に最後は飽きましたが)

潜水艦は救助艇がないので、艦体をとにかく救助者のところまで
いかに早く持っていくかが勝負なんですね。

ところで今の潜水艦でも同じようなメソッドで救助するのかしら。

え?

そもそも今の潜水艦は航行中デッキに出ないから大丈夫?

さて、その「人が落ちる」元凶になっていたホーン部分。

皆このように甲板の先に来ると必ずここでこの妙なステイを楽しみます。

これは今年の写真。
ホーンの根元をふさいでしまえば楽なのに、わざわざこうやって
先まで行けるような展示の仕方をしているあたりがさすがです。

 

向かいに停泊している空母をちょっとでも近くから撮ろうとしている人。

これが今年の「セオドア・ルーズベルト」。

給油艦を真横から見ると、朝よりスッキリした印象なので、
何が違うのかと思ったら、給油のホースが収納されている状態でした。

それはともかく、向こう岸の艦であれば、艦尾から撮っても
スポンソンの先っちょで撮ってもあまり変わらないような・・。

まあ、気持ちはわかります(笑)

それにしてもこのセーフティネットをつける工事、
どのようにして行われたのでしょう。

レトリーバーを受けていたネットとは全く違う形なので、
展示が決まってから設置されたものだと思われます。

ちなみに今年は何があったのか、左舷側のホーンは閉鎖されていました。

これが去年の左側ホーンの写真。

先っちょで写真を撮る人が列を作って順番を待っていました。

今写真を撮ってもらっている親子ですが、このしっかりした体つきの息子、
もしかしたら海軍志望だったりするのかな。



続く。


『大国の萌芽此処に在り』〜メア・アイランド海軍工廠と咸臨丸

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このブログでも咸臨丸については一度、横須賀の博物館で
資料展示を見たことをご報告したときに、その概略と、
なぜか咸臨丸に敵意を持っている団体の存在まで紹介した記憶があります。

メア・アイランド海軍工廠という名前をそのとき記憶したことが、
今回のヴァレーホにある工廠跡の博物館訪問につながりました。

ここで、まさかの咸臨丸展示を発見しました。

「 KANRINMARU」の横にある「JAPANESE INFLUENCE 」、
「日本の影響」というボード。

まず、アメリカ側からの記述による咸臨丸のサンフランシスコ到着について
全て翻訳しておきます。

以降、青文字は全て当博物館の記述となります。


咸臨丸の航海

サンフランシスコ到着 1860年3月17日

咸臨丸は少量の銃を搭載した百馬力の小さなコルベット船である。
港湾においては蒸気推進による小さなプロペラを動力とした。

1859年、太平洋探検調査ミッションのために日本近海に来ていた船が
難破するということがあり、その船長であったジョン・ブルック大尉は
その後横浜で幕府海軍の指導をしていたが、ちょうどその頃、
幕府はアメリカに咸臨丸を送る計画をしていたので、彼は
アドバイザーとして咸臨丸に乗り込むことになった。

ブルック大尉

日本政府はアメリカ行きのために熟練の乗員を必要としていたので、
ブルック大尉は9名のアメリカ人を難破した船の船員から、
そして、もう一人、E.M.カーンという民間の製図工を選んだ。

ブルック大尉は船の名前をちゃんと「カンリンマル」と言っていたが、
スペルは

「Candin-marruh」

と綴っていたと言われる。

まあアメリカ人がこれを読んだら確かにカンリンマルになります。

咸臨丸はドイツで建造され、日本に1857年に回航されてきた。
この時の航海では、日本からカリフォルニアから37日かけて、
ノンストップで渡っている。

日本人乗員の一人、木村喜毅(よしたけ、のちの芥舟 かいしゅう)は
武士であり、公的任務で船に乗り込んでいた。

木村のタイトルは提督に相当する

「Magistrate of Warships 」(軍艦執政官=軍艦奉行)

でありながら、同時に地方の執政官摂津守を務めていた。

咸臨丸の艦長は勝麟太郎、帝国海軍の「チーフアーキテクト」
(海軍伝習重立取扱のことと思われる)であった。

ただし、勝は航海の間中船酔いで倒れていたため、
操艦などは初級士官が実際に行なっている。

それまで日本には「水兵」というものは存在していなかった。

一行が横浜を離れた途端、大きな嵐が船を見舞う。

公式通訳として乗り込んでいたナカハマ・マンジロー(ジョン万次郎)

彼はマサチューセッツで教育を受けた人物であるが、捕鯨船でとはいえ
航海の経験があったのはこのマンジローただ一人だったのである。

しかしながら、彼が漁師の息子であったため、日本人たちは
彼から命令を受けることを良しとしなかった。

おいおい。

海の上で身分なんて言っている場合ではないと思うんですが。
あの福沢諭吉先生もおっしゃっているではないですか。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、況や海の上においてをや。

最後はちょっと独自に付け足してみましたが、実はこの船には
若き(25歳)福沢先生も乗っていたりするんですねー。



この写真はあまり若くは見えませんが。

まあとにかく福沢先生も後年こんなことを言っている割に、
漁師の息子の命令を受けるのはプライドが許さなかったと見えます。

そこで、ブルック大尉はジョン万次郎にまず船乗りの掟と、
海の上での儀礼、つまり世界共通である「シーマンシップ」を、
サンフランシスコに到着するまでの間に叩き込み、彼から皆に
その旨通訳して伝え、感化させることにしました。

ちなみにブルック大尉は彼の日誌で万次郎のことを高く評価しています。

「オールド・マンジローは夜もほとんど寝ていなかった。
彼は自分の人生について満足しているようだった。
昨夜は彼が自分の人生についてのストーリーを歌を交えて語るのを楽しんだ。

マンジローは私がかつて見た中で最も印象深い人物だ。
船上の日本人たちの中で唯一彼だけが、将来日本海軍が
どう変わっていくべきかについての明確なアイデアを持っていた」


さて、万次郎経由でご指導ご鞭撻を行なった後、

ブルック大尉は、以降日本人たちが自分たちで
船をマネージすることができた、と報告を上げている。

あ、もしかして福沢先生のあの名句はこの時の反省から生まれたとか?

福沢はのちに近代日本の進歩的知識人として世界的に知られるようになる。
彼は日本という国がその独自の文化を西欧の技術と結合してこそ、
強い国家になると信じていた。
彼はのちに東京にある慶應大学を創設することになる。

木村と咸臨丸の乗組員は、日本の世界的なランクの低さを考慮した。
彼らは東京に本拠を持つ軍事組織の長である将軍の全権大使であった。

故に彼らはサンフランシスコでは熱心に市内をみて回った。
日本という国の初めての大使としての使命をもって。

福沢は文化の違いに目を見張った。
”アメリカでは馬に車を引かせている。
アメリカ人は部屋中に敷き詰められたカーペットの上を靴で歩く”

木村は木村で、カリフォルニア知事が紹介もなしに飛び込みで
訪れた彼らに会ってくれたのに、大いに驚いている。

彼らの知識の吸収を助けたのは、ブルック大尉の力も大きかった。

市内視察の間、日本様ご一行はフェリー船「シェリソポリス」が
ここメア・アイランドで建造されている様子を見学しています。

この時の彼らの様子をアメリカ人は大変興味深く描写しています。

当時はカメラもありませんから、日本人たちは船について詳細を学び、
構造など全てを測量し、スケッチを行い、
このスケッチを持ち帰った彼らは日本で同じものを建造したのですが・・、

この時日本人たちは船の細部までメジャーで測りまくった。
近代になって、サンフランシスコに団体旅行で訪れる
好奇心旺盛な日本人観光客たちは、細かいところを
測る代わりに観たもの全てを熱心にカメラで撮りまくっている。

いや、あのね(笑)

それこそ細かいところをこれでもかと撮りまくっている最中のわたしは、
この文章の前で思わず赤面してしまいましたよ。

というか、あっちこっち目の色変えて巻き尺で測りまくる日本人に、
さぞアメリカ人は異様なものを感じたんでしょうね。


サンフランシスコのレディたちは、皆この変わった客人たちに会いたがり、
異国からやってきたこの船に乗ることを希望した。
しかし木村は彼女らを咸臨丸に乗せることそのものを拒否した。
木村の基準では彼のほうが女性たちより「身分」が上であるため、
「礼儀は自分に払われるべき」と信じて憚らなかったのである。

女性は船に乗せない、ということになってたんじゃなかったですか?
日本では。


日本人たちはサンフランシスコで大歓迎を受けた。

レセプションが現地の関係者によって開かれ、彼らは正装で参加した。
通訳は、とにかく日本紹介を全部通訳しなくてはならず大変だった。

彼らはまた、ここまで連れてきてくれたブルック大尉とアメリカ人乗員に
手厚くお礼を言ったという。
いわれている方は日本語はさっぱりわからなかったが、とにかく
彼らが大変礼儀正しいということは十分に伝わった。


そして日本人たちはアメリカ海軍の設備について大変興味を示した。

また食べ物についてもこだわりなく、コールドターキー、
サラダ、甘いものやシャンパンなどを喜んで食べた。

咸臨丸のメア・アイランドでの修復は至極順調に進んだ。
しかしながら、二人の水兵が航海中に病気に罹り、これが元で
この地に到着してから死んだため、彼らはコルマに葬られた。

コルマには現在でも日本人墓地が残されていて、
このときに亡くなったという峯吉、源之助、富蔵の3名は
勝海舟の名前で建てられた墓に眠っています。

源之助は享年25歳、富蔵は27歳という若さでした。
残りの一人、峯吉は病気で動けなくなってしまい、やむなく咸臨丸は
彼を現地の病院に残してサンフランシスコを出発したのですが、
その後彼はやはり回復せずにやはり亡くなっています。

咸臨丸一行がメア・アイランドに着いたとき、ロバート・カニンガム司令は
彼らに咸臨丸をドライドックで無償で修理することを申し出ました。
日本とアメリカとの友好を深めたいという善意からだったということです。

修理の間日本人たちは二つのレンガの建物に士官と水兵に分かれて住んだ。
咸臨丸は5月までここにとどまったため、乗員たちは
サンフランシスコにしげく通い、芝居を見たり買い物をしたりした。

お金はやっぱり日本の全権ということでたくさん持ってたんでしょうか。
というか、日本のお金をどういう計算でドルに変えたのか・・・。

5月8日、新しく付けた二本のマストにこれも新しい帆を張り、
内外の塗装も真新しい咸臨丸は、日本に向けて出発した。

船が出航するとき、21発の礼砲が撃たれたという。

ただし、乗員のうち10名は入院していたため現地に残った。
彼らは一名を除き全員回復して8月に帰国している。

この一人というのが先ほどお話しした峯吉のことです。

咸臨丸に乗っていた5名のアメリカ人船員は、全て
冒頭に示した難破事件で生き残った人たちで、ベテランばかりでしたが、
最終的に日本人たちは全ての航法も操艦も、彼らの手を借りず
自分たちだけで行うことができるまでになっていました。


彼らはハワイに5月23日に到着し、その一ヶ月後日本に帰国を果たした。
福沢は生涯サンフランシスコでの暖かいもてなしを忘れなかったといい、
アメリカからもっと多くのものを学べると信じていたという。

遠い日本からアメリカにやってきて、帰っていった日本人たちは、
実に正確な眼で、正しく我らの国(アメリカ)を見ていた、といわれる。

日本がいつの日か、国力的にも、軍事的にも、
我が国を脅かすほどの競争力を持つことになろうとは
この時アメリカ人の何人たりとも予想していなかったが、
その萌芽はここにあったのである。

 

誰が書いたのか知らないけど、なんか、ありがとう(笑)

 

続く。

 

 

万延元年の日本人〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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さて、咸臨丸がサンフランシスコに訪れ、当時の人々、ことに彼らを
立場上近くで見る機会のあったアメリカ人たちに、

「あの時の日本は世界的に後進国であったが、彼ら訪米団の
アメリカでの立ち居振る舞いや態度には、この国がいずれの日にか
大国になる萌芽が表れていた」

という印象を残したらしいことがわかった、というところで前回を結びました。

訪米団の礼儀正しさや吸収力などは、アメリカ人の目から見ると
明らかに他の後進国の一行とは趣を異にするものではあったでしょうが、
流石に彼らもそれからわずかその44年後、彼らがやってきた極東の小国が
支配国側だった白人の大国ロシアと戦って勝つとは夢にも思わなかったでしょう。

1860年にはアメリカにやってきて見るもの聞くもの珍しく、
文字通り世界規模でのお上りさんに過ぎなかった日本。
その後恐るべき速度で文明開化を成し遂げ近代国家に生まれ変わり、
軍備もあれよあれよと増やしていってこの結果です。

世界が日露戦争の衝撃的な勝利に目を見張る一方、アメリカ人たちは
咸臨丸の日本人たちの、特異ではあるが誇りに満ちた態度振る舞いを思い起こし、

「やっぱり日本人というのは最初から他の民族とは違っていた」

と頷きあったのだと思うのです。


出る杭は打たれるという諺がよその国にあるのかどうかは知りませんが、
特にアメリカは、白人との戦争に勝った新参国に同時に警戒を抱きました。

それがいわゆる「オレンジ計画」そして36年後のガチバトルに繋がっていくわけです。


そして、その戦争で連合国側は日本を叩きのめしたかに思われました。

しかし、敗戦国日本を煮ても焼いても自由、ということになったときも、
アメリカは日本を植民地にすることはできませんでした。

大東亜戦争で日本が立ち上がったことがきっかけで、戦後世界では
次々に植民地が被支配から独立し、「時流にそぐわない」ということもありましたが、
何と言っても実際に戦争してみてつくづく日本人というものの底知れなさ、
恐ろしさをアメリカ自身が思い知ったからではないでしょうか。

「武力で人心まで押さえつけられる民族ではない」

「追い詰められたら何をやるかわからない」

(その捉えがたさの源流を、占領軍は「神道」のせいにし、
神職を排斥してみたりしましたが、それは全くの勘違いでした。
そもそも日本人は一神教ではなく宗教原理主義とは対極にいる民族です)

しかし彼らの日本という国に対する密かな「畏れ」というものは、
干戈を交える前から連綿と続いており、その源流をたどれば
この時の遣米使節から始まっていたとわたしは思うのです。

さて、メア・アイランド博物館の展示に戻りましょう。

この景色は遣米使節がサンフランシスコ訪問をした頃のヴァレーホです。
対岸から川越しに半島となっているメア・アイランドを見た角度となります。

このリトグラフで家がポツンポツンと建っているこちら岸は、
現在完璧に護岸工事されて公園になっており、レストランが立ち並びます。

この絵の中には当時のドックに建造中の帆船がいるところが表されている他、
ホイールシップや蒸気船の姿も描かれています。

さて、咸臨丸のトップは、前回もご紹介した木村摂津守です。
木村がメア・アイランド司令官であったカニンガムに当てた手紙がありました。


(おそらく翻訳して渡されたのだろうと思われ)展示されていました。

 

この日本語?を翻訳してみます。

1860年3月4日(Luna Calender)

アメリカ合衆国海軍 カニンガム司令官 

親愛なる司令官:

我々の蒸気エンジン戦艦咸臨丸に修理の必要があることを知り、
閣下にその手配をお願いいたしましたところ、
閣下は我々の願いを快くお聞き入れくださった上、
全く遅れることなく作業を完了させてくださいました。

閣下がお取りくださった措置に対し心からお礼を言うとともに、
マクドゥーガル大佐、そしてその他の閣下が指揮された
士官の皆様にも厚くお礼を申し上げます。
あなた方の為した作業が大変満足いくものであったことは確かです。

私は、修理やそのために必要となった機材や道具など、様々なものが、
おそらくは大変な経費を必要としたことを理解しております。
それにかかりました金額は全てお支払いさせていただくつもりですので、
あなたの部下の士官に、合計金額を明らかにしていただき、
いくらお支払いしたらいいか、わたしに教えていただければと思います。

わたしは(I am)

アドミラル 木村 摂津守


どうですかこれ。

お礼をきっちりと言いつつも、それは儀礼として謝礼を述べたのであり、
手紙の本題は、「いくら払ったらいいのか教えてくれ」ですよ。

丁重に礼を言いつつ、しかも相手に請求させる前に、

「こちらはどんな高くとも払う用意があるので、いくらか言ってくれ」

と自分から申し出ているのです。

まあ、同じ日本人からすれば、きっと我々でもこう言う風に書くだろう、
と言う文章そのままで、なんの違和感もありませんが、世界的にはそうでもなく、
アメリカ側は日本人の礼儀正しさに感嘆したのではないかと想像されます。

 

 

ところで、メア・アイランド海軍工廠は当時のアメリカでも最新の設備、
ドライドックを備えていました。
咸臨丸のメンバーにとって、もっとも刮目して見たのは、
わたしの予想ですが、このドライドックの仕組みだったのではないかと思われます。

その後すぐさま、日本政府はフランスから技師ヴェルニーを招いて、横須賀に
日本第一号となるドライドックの建造に着手しますが、それもこれも
この時の見学が土台になっていることは間違いありません。

この時に咸臨丸にドライドックで施された修復内容については、
ここメア・アイランドの資料にはちゃんと残されています。

それによると、船体に施された銅には全く問題はなかったが、
いくつかの部分で修理が必要であった、ということで、
まず帆を全部張り替え、外殻と内側の塗装を全部施し、
二本のマストを新しく付け替えた、ということです。

 

ところで、手紙で木村摂津守が聞いているところの修理代です。

この時、咸臨丸はメア・アイランド海軍工廠にいくら払ったのでしょうか。
これについては驚くべき一言が資料に付け加えられていました。

メア・アイランド海軍工廠は修理を無料で行なったというのです。

そしてその理由とは、木村摂津守の手紙にも出てくるカニンガム司令によると、

「わたしは日本との間に友好な関係を築きたかったからだ」

ということでした。

穿った考えかもしれませんが、日本全権団の礼儀正しさ、
修理代を先回りして聞いてくるような心遣いに、カニンガム司令も感じ入り、
アメリカ軍人として敬意をもって応えたのではなかったでしょうか。


さて、この少女とおっさんの写真、どこかで見たことある方はおられますか。

なんと、右側は当時25歳の福沢諭吉です。
左の少女はセオドラ・アリス。
ここには何の説明もありませんが、写真屋さんの娘だったらしいですね。

サンフランシスコで写真を撮りに行ったらそこに可愛い少女がいたので、
一緒に撮ろうよ?ってことになったんじゃないでしょうか。

どちらも真面目くさった顔をしているのでなんともわかりませんが。


福沢はここでウェブスターの英語ー中国語辞典を手に入れています。
それで彼は英語を本格的に勉強し、のちに彼自身の英日辞典を著しました。

日本人一行は二つの煉瓦造りの建物に分かれて住んでいました。
一つは庭に囲まれていて、提督と彼の側近などが、片方は
水兵たちの宿舎となっており、それは画面右側の二階建てのアパートでした。

士官や水兵たちは大変活動的ににここでの余暇を過ごしていたといいます。
例えば日曜になると、彼らはメア・アイランドの周囲を走り、
美しい野生の花を愛でたり、対岸のヴァレーホに行ったりしました。

彼らのレセプションは 当時、サンフランシスコのジャクソンストリートにあった、
(モンゴメリーとカーニーの間)できたばかりの、エレガントな
「インターナショナルホテル」で行われました。

日本人たちはアメリカ人が高価な絨毯を床に敷いているのにも関わらず
その上を靴で歩くことに驚いた、とこの説明にあります。

この「インターナショナルホテル」は、その後その名の通り移民が住み着くようになり、
(創立時はそういうつもりで名付けたのではないと思いますが)
1977年の都市再生計画で結局取り壊しになりました。

立ち退きを迫られた居住者がデモを起こし、警察に排除されるという騒ぎになったといいます。

ポウハタン号 USS POWHTTAN

ポウハタン号はサイドウィールの蒸気フリゲート船です。
このちょっと変わった名前はヴァージニアに実在した
ネイティブアメリカンの酋長の名前で、アメリカ海軍にとって
最後のパドル式フリゲート艦でした。

ノーフォークの海軍工廠で当時の78万5千ドルで建造され、
起工は1852年、1886年の除籍後はスクラップとなりました。

「ポウハタン」は1854年、ペリーが艦隊を率いて東京湾に入った時、
旗艦を務めた船です。

その後日米親和条約(Convention of kanagawa)が締結されたのは
皆様もよくご存知の通りです。

万延元年の遣米使節のメインは、実は咸臨丸ではなくてこちらだったのです。

この全権団の正使であったのがこの写真の新見正興(にいみただおき)です。
咸臨丸はいわば、「ポウハタン号」に何かあった時の保険として
随行したらしい、というのが現在明らかになっています。

咸臨丸が日本に帰国した後も使節団一行は日本からアメリカまで同行した
「ポウハタン」号でパナマへの親善のため航海を続けました。



全権団一行はできたばかりのパナマ鉄道で大西洋側まで抜け、
船をUSS「ロアーノク」に乗り換えてワシントンDCに到着しました。

一向到着後、ホワイトハウスでの晩餐会始め、いくつかの歓迎会が持たれました。
その時のホワイトハウスの主は、ジェイムズ・ブキャナン大統領です。

使節団はその後ニューヨークに向かい、大西洋からインド洋を経由して
日本への帰路に着きました。

ニューヨークを発ったのが6月30日。
一行を乗せたUSS「ナイヤガラ」は

ポルトグランデ、カーボベルデ島(アフリカ)
サン・パウロ・デ・ロンデ(現在のルワンダ)アンゴラ、
バタビヤ(ジャカルタ)、ジャワ、香港

を経由し、ついに11月8日東京湾に帰港することを果たしました。

鮮明な写真がwikiにあったのでこちらをどうぞ。
この写真は前にもこのブログでご紹介したことがあります。

前列右から三人目の新見正興があののちの絶世の美女、
柳原白蓮のおじいちゃまであったというネタで(笑)

新美は遣米使節の功績を認められて取り立てられたものの、
42歳で何をやったのか知りませんが、伊勢守を免職になったため、
娘のうち二人は芸者になって身を立てました。

柳原前光伯爵に妾として囲われたそのうちの一人の娘が
白蓮の母親だった、というわけです。

ところでこの写真の前列右から二人目はあの小栗上野介忠順です。
(横須賀的にオグリンといわれています)

このオグリンについては当ブログでも何度も書いてきたので
ここではどういう人物かは省略しますが、みなさん、
この写真のオグリンをよ〜〜〜く見てから、この下の写真を見てください。

こんな写真でもイケメンな新見正興ではなく、オグリンの姿勢にご注目。

どうも右に傾いてしまう人だったみたいですね。

ちなみにオグリンは、この時に行われた日米通貨交渉で、
不平等な通貨比率をなんとか是正すべく、孤軍奮闘しました。
彼の主張は全く正当なもので、アメリカ側は彼のタフ・ネゴシエイターぶりに
内心感嘆したといわれています。

結果としては合意に至りませんでしたが、冒頭の修理の件に加え、
小栗もまたアメリカ人の日本人に対する評価を高めたことは間違いないでしょう。

 

海外在住の日本人ならもしかしたら皆一度ならず経験することかも知れませんが、
わたしもまた、アメリカ滞在中、日本人であるというだけで安心されたり、
信頼されたり、褒められたり、災害のお悔やみを言われるようなことがあります。

その度に、わたしは日本国の先人たちの高貴な振る舞いをありがたく思い、
彼らの評判の恩恵をこうむる自分もまた日本人としてかくあろうとするのです。

 

先ほど、アメリカ人が最初に接した日本人である咸臨丸の人々が
彼らにとっての「畏れ」の源流となったのではなかったかと述べましたが、
それはまた言い方を変えれば「信頼の源流」でもあったのです。

今日日本人の受ける信頼の連鎖をもし逆に手繰っていったとしたら、
その一番最初には、彼ら万延元年の日本人たちがいるのではないでしょうか。


続く。

 

メッサーシュミットMe 163 B-1a ”コメート”〜スミソニアン航空宇宙博物館

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昔々、三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所資料室で見た
ロケット戦闘機「秋水」について調べた流れで、当然のように
「秋水」の原型であったドイツ・メッサーシュミット社の

Me163 (Messerschmitt Me 163 ”Komet")

についても知ることになり、そのシェイプ、ロケット推進による
画期的な機体がたどった運命に心惹かれたものです。

あれから幾星霜、今回ワシントンのS・ウドバーヘイジーセンター、
スミソニアン航空宇宙博物館訪問で、まさかその実物と
初対面ができるとは全く思っていませんでした。

ウドバーヘイジーセンターで、真正面のブラックバードに目を奪われ、
そのあと右回りにアメリカ軍のウォー・バード、そしてソ連軍の
MiG戦闘機などを見ていくと、ベトナム戦争に参加した一連の飛行機の次に
現れるのが、これです。

リパブリック・フォード JB-2 ルーン(Loon)

JB-2はアメリカが所有することになった最初の無人誘導弾で、
あの、ナチスドイツのV-1を模倣したものだったのです。

わたしたち日本人はこのミサイルについてほとんどの人間が
その名を知ることもありませんが、もし原爆の開発が何かの理由で遅れて
1945年夏に投下されることがなかったとしたら、その代わりに
日本本土に投入され、多くの日本人の命を奪っていたのは
こちらであった可能性が高いのです。

開発されたのは1944年であり、アメリカは原爆製造が間に合わなければ
決行するつもりだった本土への侵攻作戦(ダウンフォール作戦)
に、このルーンミサイルを使おうとしていました。

ナチスドイツ軍がV-1という新兵器を編み出したことを知ったアメリカは
同じジェット推進の爆弾を開発することを決定し、すぐさま
ノースロップ社に開発を命じました。

ところが開発している最中に、ドイツ軍はイギリスをV-1で攻撃します。

アメリカの凄いところは、破壊されたV-1をイギリスから輸送して
技術を復元し、それでこのJB-2をすぐさま作ってしまったことでしょう。

ドイツが降伏してしまったため、日本への本土侵攻に際し、
上陸作戦に先駆けて雨あられと降らせるつもりで製造したミサイルですが、
8月6日と9日の核兵器使用と同時に配備を終了することになります。

 

ルーンミサイルの制作がドイツ技術のスパイから生まれたことが表すように、
戦前、アメリカはドイツ技術に遅れを取っているという劣等感を持っており、
なんとかこれを打開せんとしました。

そこで考えたのが移民大国の強みを生かして、マンパワーを
直接導入するという作戦です。

といえば聞こえはいいですが、第二次世界大戦末には

オペレーション・ペーパークリップ

を発動し、ドイツ技術を科学者ごと強奪するという阿漕な真似をやらかしています。

肝心のドイツは戦争中、惜しげも無く?優秀な科学者を徴兵して
戦線で歩哨や炊事部隊、トラックの運転手をさせていたのですが、
流石に独ソ戦が長期化して苦境に立たされるようになってきてからは
彼らを一人でも多く呼び戻して研究開発に復帰させようとリストを作っていました。

アメリカが利用したのがこのリストで、(オーゼンベルグ・リスト)
この筆頭に名があったのが、V-2ロケットの製造にも関わっていたロケット工学者、

ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977)

でした。

ブラウンはこの作戦でアメリカに渡り、

PGM-11 レッドストーンミサイル

などをクライスラーで手がけましたが、彼の最終目標は自分のロケットが
平和的に使われることを夢見て、人工衛星の開発に転身し、
NASA誕生後は初代所長としてアポロ計画でそれを実現させたのです。

アメリカがソ連との宇宙戦争に勝ったのは、ブラウンを移民させたことが
大変大きな要因であったと言えるのではないでしょうか。

さて、メッサーシュミットのMe-163コメートです。

この展示に添えてあった説明の写真は、どうもドイツでの一般公開らしく、
周りに自転車の人や一般人、女性の姿も見えますね。

説明をそのまま翻訳しておきましょう。

第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの時代にヴンダーヴァッフェン
(ワンダー・ウェポン=不思議な武器)が製造したもっとも印象的な、
ザ・メッサーシュミット Me 163コメート(コメット=彗星)は
史上最初の、そして唯一の無尾翼式ロケット推進迎撃機でした。


同盟国日本では同じ設計図から「秋水」を作っていたわけですが、
この説明によると、つまり全く存在しなかったことにされています。
まあ試作で終わってしまったので数に入れてもらえないのは
仕方ないことなのかもしれませんが。

ドイツ軍が運用したその他の「アドバンスな」兵器と同じく、
第二次世界大戦の最後の年、Me 163はわずかな効果がありましたが
戦況を変えるというほどのものにはなり得ませんでした。


アメリカ軍がドイツの科学者を引き抜くという手段にまで出たのは、
終戦間近でもう国内はボロボロのはずなのに、こういった
バカにできない技術を生み出してくるドイツの技術力に
脅威を感じていたから、というのは間違いのないところでしょう。

そして何と言っても彼らが同じ白人種だったからです。
同じことはソ連でも行われ、米ソの間では戦後、ドイツ人の技術者、
科学者をいかに引っ張り込むかの争奪戦となった時期がありました。


そして戦争が終わってアメリカをはじめ連合国がドイツと、
そして日本にしたことは、軍事研究につながる航空機はもちろん
自動車生産など開発事業の全面禁止でした。

川西航空機(現在の新明和)は最悪の時期、
あられ(食べるやつ)を売っていたこともありますし、BMWですら、
戦前に設計開発した図面や工作機械まですべてが没収されて、
一時は鍋や釜などの製造で糊口を凌いでいたといいます。

おっと、話が逸れました。翻訳の続きです。


これが開発され、配備された状況を考慮しても、Me 163は
特異な技術力の成果であることは疑いようがありません。


実際に Me 163がどんな風に飛び、敵を撃墜したか。
このフィルムを観ればその片鱗とはいえ、わかります。

ドイツ空軍 LUFTWAFFE メッサーシュミット Me 163

フィルム後半の急上昇の凄さもさることながら、
いったい誰が撮影したのか、コメートに攻撃された(らしい)
爆撃機(B-26?)とB-17らしき映像が挿入されています。

他のアメリカのウォー・バードがほとんど当時の塗装を施され、
綺麗に保存されているのに対し、コメートは当時のままの塗装です。

保存のために手を加えていないので、翼も自重で下がらないように
両側につっかえ棒がかまされています。

(博物館の柱が撮影の邪魔なんだけど、場所ここしかなかったのかな)


Me 163 の製造計画は30年代後半に起きました。
ロケット推進は、当時のナチスの航空計画者にとって魅力ある研究だったのです。

この推進方法は燃料消費量が高く、当初設計不可能と思われましたが、
(事実この点を完成品は最後までカバーできなかった)
それにもかかわらず、ナチスドイツはロケットエンジン設計者、
ヘルムート・ヴァルター(戦後イギリスに連れて行かれた)と契約を交わし、
まず、

Heinkel He 176

を開発しました。
その後研究はメッサーシュミットに移譲、名前もMe 163に変更されました。

最初のMe 163 Bプロトタイプ、Me 163 V3は1942年4月に完成しました。
導入されたエンジンは

Walter 109-509Aモーター

でした。

このエンジンは航空機に素晴らしい上昇力をもたらしましたが、
時折空気が入り込んでキャビテーションを起こし、
モーターの始動時に破局的な爆発を引き起こすことがありました。

他にも機体の抱える問題は多く、例えば着陸の際、
スキッドが適切に伸びないせいで地面へのタッチダウンに失敗し、
これにより多くのパイロットが負傷(たぶん死亡も)することになりました。

スキッドが適切に作動して着陸成功した後も、機体が柔らかい地面で転覆するので
操縦士は細心の注意を着陸のたびに行わなくてはなりません。

しかも着陸の失敗はしばしば機体の爆発を引き起こし、
または燃料を被った操縦士はまず助からないと言われていました。

これだけの一連の事故や爆発を起こせばそれは普通失敗なのですが、
彼らがどうしてもこの運用を諦められなかった理由は、
ロケット推進エンジンの見せた恐るべき成果でした。

1941年10月2日、Me 163 V1は1,004.5キロメートル(623.8マイル)
の世界最高速度記録を達成しています。

その後このMe 163の改良版として、着陸装置を変更した
さらなるプロトタイプが生まれます。

ところで、この一連のコメートさんの憂鬱については、
かつてわたしが一度漫画で描いたのでとりあえずもう一度載せておきます。

「秋水くんとコメートくん」








コメート部隊は1944年8月16日、連合軍の爆撃機を迎撃して失敗、
この戦闘経験により、Me 163が効果的な武器になり得ないことがわかってきました。

この漫画にも描いたように、搭載していたMK 108 30ミリ砲2基は
本来3〜4発ヒットさせれば大型爆撃機を撃墜することができるはずでしたが、
砲の低速に対し、コメートそのものが高速すぎてタイミングが合わなかったのです。

コメートは結果的に撃墜記録をたった9機しか挙げていません。

高度1万2100メートルにわずか3分30秒以内で到達しましたが、
問題は8分間しか燃料が保たなかったことです。

個人的には8分しか飛べないのにそれでも撃墜9機って
十分すごくね?と思うんですけど、まあ採算悪すぎるか。

そしてこれも漫画でいっているように大きな問題のもう一つは、
1回または2回ロケットを点火させた後、機体は推進力を失うので、
パイロットは連合軍の戦闘機がまだうようよしている空域を、
ゆったりと基地に向かってグライダー滑走するしかなかったのです。

ある意味日本の特攻兵器より非人道的だったんじゃ・・。

これを見て、

修復を行うと、ルフトヴァッフェのマークはともかく、尾翼に描かれた
ナチス・ドイツのハーケンクロイツも描き直さなければなるので
博物館としては歴史的な資料として手を加えずに残すことにしたのでは?

と思ってしまったわたしは考えすぎでしょうか。

しかしこれ・・・・塗装が剥げて読めなくなってしまった字、
よくよく見ると英語なんですけど。

戦後、ドイツからアメリカに接収されて運ばれたMe 163 は5機。
この機体はそのうちの1機で、ステンシルの英語はなんらかの実験に
使われた際に描かれたものだと思われますが、博物館でも
この機体の由来ははっきりとわかっていないのだそうです。

コメートくんの外観を一層愛らしいものにしているこのプロペラ。
発電機を回すためのものです。
Me 163にはあってなぜその「コピー」である「秋水」に
なかったのかというと、機体にそれをつける手間を省いたのだそうで、
それでは発電はどうしたのかというと、無線用蓄電池で行なっていたとか。

それを載せるスペースを節約するためにプロペラ(風力エコ発電)
にしたのじゃないのかなあ、ドイツは。

機体の下部にあるこの丸い跡は何?
と調べてみたら、なんと

牽引棒取り付け点

であるらしいことがわかりました。
自力で地上を動けないので、ここに棒をつけて引っ張ったんですね。
とほほ・・・。

機体下部に出ている部分はスキッドで、これが着陸時
「そり」になって地面を滑走します。
って無茶苦茶不安定な着陸方法じゃないですか。

これに乗って生き残ったパイロットってよっぽど優秀だったんだろうなあ。

と思ったら、コメートのテストパイロットだった人が
語っているナショジオの映像を見つけました。

Messerschmitt Me 163 Komet

ワーグナーの「ワルキューレの騎行」アレンジ版が妙に合ってます(笑)
離陸してすぐ、コメートが車輪を捨てる様子、そして
グライダー飛行して基地に帰る様子も見ることができます。

最後に、

「コメートは戦況になんらの変化を与えることもできなかったが、
("Too little, too late."とか言われてんの)
ブリリアントな設計と素晴らしい効果でその存在が近代航空史そのものである」

みたいな評価をされているところがやっぱりねという感じです。
ていうかこのナレーション、スミソニアンの文章をほとんどぱくっとるやないかい。

でもいいよねコメート❤️
どこかの物好きが同じ機体で別の動力を積んだリバイバルを作ってくれないかな。

 

続く。

 

 

国旗入場〜平成30年度自衛隊音楽まつり

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今年も自衛隊音楽まつりの季節がやってきました。

「挑戦」というテーマで行われた今年の素晴らしいパフォーマンスを
またここでお話しできることを心から嬉しく思います。

 

今年は訳あって、武道館のある北の丸公園にはあまり人の通らない
清水門から入場しました。

重要文化財として残されていながら、この手付かずな感じ。
ここを歩くと、いかにもかつての侍たちが、ここを歩いて
城に出退勤をしていたのだと思わせる風情が残ります。

どれだけ手付かずかというと、階段がこの通り。
昔のままだとしたら、裃の侍は登り下りにどれだけ苦労したか(笑)
特に下りは、通常の階段の軽く2段分の高さがあるので、
飛び降りるように降りていかねばなりません。

向こうに見えるのは映画「シン・ゴジラ」で「ヤシオリ作戦」が
その屋上を使って展開されたという設定の科学館です(伏線)

まだ自衛官がほとんど出勤してきていない朝の武道館(笑)
この左側は自衛隊用の駐車場になっていて、ここにいると
バスから降りてきた各自衛隊の隊員たちの出勤姿を見ることができます。

朝早く並ぶと、同じ物好き同士、連帯感というか親近感が生まれ、
前後の人に挨拶したり、世間話が始まったりするのですが、
今年は特に近くにいた方が元自衛官で、しかも自衛太皷の経験者、
ということで興味深い話を伺うことができました。

入場はだいたい「開場時間」とされている時間の30分前に早まる、
と認識していたのですが、朝一の場合はさらに早まることがあります。
今回、10時公演のために並び始めてしばらくして、わたしはなんと

車の中にチケットと財布を忘れてきたことに気がつき

駐車場まで取りに行って帰ってきたら、すでに列が動いていました。

その時には同行の知人がいたので、列のほぼ先頭の
その人のところまで行こうとしたら、行く先々で整理係の自衛官に

「みなさん並んでるので!」(怒)

と声を投げかけられ、その度に

「知り合いがいるんです!」

と言い訳しながら列の外側を回って知人のいるところまでたどり着きました。

「なんか怒られてしまいましたよ」

ぼやいていると、やはり知り合いのところにたどり着いた女性が

「なんかみんなに割り込みしないでくれとか言われちゃった」

と苦笑しながら同じことを言っていました。
並んでる列に強引に割り込む日本人なんてそういないと思うんですけどね。

え?います?

というわけで入場して、いい場所に席を取れたら一安心。

今年は前回とは違う形状のスクリーンが設置されています。
どの席からでもスクリーンが正面に見えるように変えたんですね。

スクリーンではいつもの自衛隊広報ビデオの他に、自衛隊プレゼンツの
「生活の知恵」みたいなシリーズを放映していました。

自衛官にも実は「隠れメタボリックシンドローム」がいる!ということで、
オススメの「誰でもできるメタボ解消トレーニング」をご紹介・・・

・・・していたんですが、その内容が、

「マジの腕立て伏せ」「マジの腹筋」「マジの(忘れた)」

で、やっている自衛官が汗だらだら流してるんですよ。

「きつそうですね」

「こんなの一般人がやると思います?」

「これができるような人ならメタボなんてなりませんよ」

と冷笑しながら観てました。すみません。

あとはなぜか平泳ぎとクロールのコツとか、服のまま水に落ちた時の
対処の仕方とか。それからもっとも謎だったのが・・・

「土嚢の上手な積み方」

土嚢を作るための専用木槌を使って台形に土嚢を作り、
隙間がないように・・・って誰に向かってレクチャーしてんのこれ。

そうこうしているうちにハープ奏者がチューニングを始めます。
ご存知ないと思いますが、ハープという楽器は本当に繊細で、
自分で調律をその度にしないといけないのです。

今回も一回だけお見かけしました。不肖宮嶋茂樹氏。

招待公演の日には客席に誰が来ているか見るのも音楽まつりの
ちょっとした楽しみの一つ。

佐藤正久議員とその向こうには飯島勲参与。

若宮健嗣議員。
なんと真紀子と真紀夫・・・じゃなくて真紀子さんと田中元防衛大臣。

田中真紀子さんは大臣時代ニューオータニで見たことがありますが、
その時は全然思わなかったのに今回ちょっとお綺麗だと思ってしまいました。

日の丸の旗をつけた自衛官用のジャンパーを着ているのは、
今をときめく防衛政務官、鈴木貴子議員です。

周りは割と誰も気づいていないようでした。
後ろにいる黒いスーツの女性がSPです。

各国武官が多かった日、開演前に客席を回って挨拶する河野統幕長。

河野統幕長の手を握って「はは〜」な挨拶をする人。

やってくる政治家にレンズを向けまくる報道席のカメラマンたち。

「宮嶋さんが何故政治家なんか撮ってるんですかね」

「カメラマンの習性というやつじゃないですか。
脊髄反射で撮ってしまうんですよきっと」

岩屋防衛大臣のご挨拶。

そしてそれを撮るカメラマン。

こちらは挨拶を原田賢治防衛副大臣が行なっています。
しばらく聴いていて、文章が防衛大臣の時と同じと気がつきました。

「なんか防衛大臣と全く同じこと言ってません?」

「使い回してるんですよ」


さあ、いよいよ開幕です。

木管中心の曲前奏に続きカーテンから現れたのは
陸上自衛隊中央音楽隊の歌手、松永美智子陸士長。

彼女が歌う物悲しく悲痛なメロディを耳にするや、

「あれ、これなんだっけ?ものすごくよく知ってる!」

わたしがこの曲がなんだったか忙しく考えているうちに、
5小節目からを舞台左側から登場した海上自衛隊東京音楽隊の
三宅由佳莉三等海曹が歌いました。

となると次は空自です。
森田早貴一等空士がこのメロディを引き継ぎました。

なんだっけこれ?知ってるだけでなくすごく好きだった・・・。

その日一日思い出せず、家に帰る車を運転しながらハッとしました。

「シン・ゴジラだ!」

シン・ゴジラ(悲劇(Who will know) 訳詞付)

ああなんてツボなの。
いきなり琴線に触れまくりなこの選曲、嫌でも期待が高まります。

 

印象的な太鼓の音の後、陸海空自衛隊がドラゴンクエストの

「勇者の挑戦」

を演奏します。
なるほど、本日のテーマが「挑戦」だからですね。

今度は空自のトランペット奏者が一人で登場。

「♪ドーソードソドミード ミードーミドミソー
ソッソソーミドソミドソー ソッソドーミドソミッミドー
ソッソドー ソッソドー♪」

そう、消灯ラッパです。

陸海の奏者がそれぞれ横に立ち、消灯ラッパを・・。
この海自の奏者は、確か去年クリスマスコンサートで三宅三曹と
「美女と野獣」をデュエットした、とても歌の上手い方。

消灯ラッパには全部隊の演奏する美しいハーモニーが重なります。

これは真島俊夫氏が陸上自衛隊の「勇者たち」のために書いた
「勇者達の夢」という曲の一部です。

この曲には消灯ラッパの音階がモチーフとして使われています。

続いて国旗が入場します。
このとき、一切音楽はありません。
会場には全員起立するように求められます。

両側に銃剣を担う警衛を従え、国旗が後方から壇上に上ります。

赤の台は清水門の石段ではありませんが、それくらい高さがあり、
音楽隊長の中には登り降りに少し苦労している方もちらほらお見受けしましたが、
第302警衛中隊のすらりと背が高く脚の長い隊員なら大丈夫。

と思っていたら、国旗を持った人が台の高さのせいか、脚を台に引っ掛け、
会場がその瞬間息を飲むというアクシデントを目撃しました。

しかしさすがは常日頃死ぬほど超鍛えている警衛部隊の自衛官、
大きな国旗を持っているのにも関わらず、すぐに体勢を立て直しました。

大臣列席の日だったので周りも肝を冷やしたでしょう。
(ちなみにこの写真の日ではありません)

続いて国歌斉唱が行われます。

去年、ワンフレーズを前奏がわりに演奏した記憶がありますが、
今年はまた、従来のように

「前奏はありませんのでご来場のみなさまも演奏と共にご唱和ください」

という謎のアナウンスが行われました(笑)

だからですね。
元東京音楽隊の隊長だった方も言っておられるように、
指揮者の合図でジャストに歌い出せる人なんて、
会場には数人くらいしか(多分)いないんですよ。

というわけでまたもや、今回の君が代斉唱は、

「・・・・・・みーがーよーは」

という歌い出しになってしまいましたとさ。

前奏をつけるということに対し何か問題でもあったんでしょうか。

国歌斉唱の間、儀仗隊は捧げ銃をしています。
終了すると、儀仗隊長の紹介が行われ、隊長はそれに応えて
「儀礼刀の敬礼」を行います。

第302警務中隊儀仗隊長は三等陸尉です。

警務中隊の写真をいかように撮っても、その隊列に乱れや狂いの類は
全く見つけ出すことはできません。

我々には想像できないくらい厳しい訓練と精神的緊張の成果だろうなと思います。

こうして写真に撮ってみると個人の容貌や体型の違いなどはありますが、
行進を実際に見ているときには全員同じ人に見えるくらい(笑)

日章旗が退場します。
旗を持つ隊員と旗を護衛する隊員の制服だけは、
国旗に合わせて上下白のものを着用しているのに気がつきました。

この制服はまさにこの時のためにデザインされたのだと思った瞬間です。

 

続く。

 

陸自と海兵隊員のハイファイブ〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

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平成30年度自衛隊音楽まつり、オープニングセレモニーが終わりました。

退場時に演奏されたのは「君が代行進曲」。

この曲を作曲した吉本光藏はいずれも政府の音楽お雇い外人だった
エッケルト(君が代に和声をつけた)とフェントン(初代君が代を作曲)に
学んでいて、ある意味君が代を知り尽くした男です。

ゆえに君が代のメロディーに「つなぎ」を加えて行進曲にする、という
誰がやってもうまくいきそうにない難題をクリアし、
そこそこまともな曲にしてしまうこともできたのでしょう。(適当)

 

そういえば小学校5年生のとき、運動会か何か忘れましたが、
鼓笛隊行進で不肖このわたくしもベルリラ(縦型鉄琴)を演奏し、
この「君が代行進曲」の演奏に加わったことがあります。

あの時は子供ながらにつまらん曲だなあと思ったものですが、
自衛隊音楽隊が合同で演奏すると、あれと同じ曲とは全く思えないほど
格調高く立派な曲に聴こえるから不思議です。

小学校の時の演奏が多分ひどかっただけで元々格調高く立派な曲なんですけどね。

ここからが第1章です。

陸の挑戦〜芽生える、大地からの鼓動〜

つまり日米陸軍が結集するわけですねわかります。
まず最初は陸上自衛隊東北方面音楽隊。

陸上自衛隊東北方面隊は所在地が宮城県仙台市です。
仙台といえば?そう、七夕です。

伊達政宗公の時代に、

「婦女に対する文化向上の目的で」

奨励されたことからこの地での盛んな年中行事となったわけですが、
あの時代「女性の文化向上」を施策として謳った為政者伊達政宗は
もしかしたらものすごい先取的なフェミニストだったのでは・・。

というわけで東北方面音楽隊のテーマはがっつりと「七夕」にフォーカス。

まず「お星様」つながりでモーツァルトも変奏曲にした「きらきら星」が
童謡「たなばたさま」に変わると・・・、

ここから音楽は吹奏楽経験者なら知らぬものはない名曲、

「Seventh Night Of July〜たなばた〜」酒井格

 

につながって盛り上がっていきます。

斬新なデザインのコスチュームに身を包んだカラーガードの女性隊員が、
最初から最後まで鮮やかな旗で演奏をより一層華やかに彩ります。

間に「ささのはさらさら〜」のメロディを盛り込み、
フラッグを高く投げ上げて対面で受け取るとき、ブルーの旗が
宙を舞いますが、当たり前のようにカラーガードは全員ノーミスでした。

と言っても今まで音楽まつりでカラーガードが旗を落としたのを
一度も見たことがありません。

開演前の紹介ビデオでは練習中の様子も紹介されていましたが、
まだ暑い頃からかなりの訓練を行うようです。

しかも皆さん何と言ってもこう見えて自衛官ですので、その辺の女の子とは
元々体力とか体幹とかが基礎から出来が違うのかも。

七夕祭りらしく浴衣の女の子が二人登場してきました。

もしかしたらこちらは男の子という設定かもしれません。

会場の隅には彼女らが頻繁に取り替える旗各種が用意されており、
迷彩服の自衛官が手渡したり回収したりして支援を行っていました。

ブラスバンドのクライマックスにはカンパニー・フロントといって、
最大の見せ場に全員で一列に並び前進して歩いてきますが、
この時カラーガードは仙台七夕でいうところの七夕「七つ飾り」の一つ、
吹き流しを振りながら一緒に行進を行いました。

この時の曲は壮大に?アレンジされた「たなばたさま」。

吹き流し飾りは、七夕のヒロイン、織姫の織り糸を象徴しているのです。

そしてその織姫様が登場。

「たなばた」でエンディングを迎え、人の列が二列に「川」を形作ると、
その川に投影された橋を、織姫さまがひらひらと舞いながら渡ってくるのです。

皆がペンライトでとりどりの星を表す七夕の夜、織姫と彦星は
天の川を渡り、一年に一度の逢瀬をするのでした。

めでたしめでたし。

つまりこれ、彦星は自衛隊音楽隊に所属するユーフォニアム奏者として
日々忙しく、しかも単身赴任で織姫とは一年に一度七夕の夜にしか会えない、と。

そういうことなんですね(涙)

北に続いては南から参加の陸上自衛隊西部方面隊。
九州と沖縄の守りを担う部隊です。

こちらは

「西郷どん」、「軍師官兵衛」、「武蔵 MUSASHI」

のテーマ、とNHK大河ドラマシリーズで。

トロンボーン奏者がソロで「西郷どん」のテーマを演奏しています。

わたしは大河ドラマそのものを全く観ていないのですが、
「八重の桜」のOPテーマのように自衛隊音楽まつりで初めて聴いて
好きになる曲もあります。

今回三曲聴いてみて、特に良いと思ったのが「軍師官兵衛」でした。

「西郷どん」のテーマに乗ってカンパニーフロントを行う西部方面音楽隊。

ところで、この日気が付いたのですが、東部西部共に、
各陸自音楽隊はまだ新制服ではなく旧型を着用しています。
もしかしたらまだ調達が日本列島の端まで行き届いていないのかもしれません。

しかしあらためて最後かもしれないとなると、この背中に羽のついた
従来の制服が無くなってしまうのはなんとも惜しいと思わずにはいられません。

演奏が終わった西部方面音楽隊の一人が両手両足で

「どんどんパン、どんどんパーン」

というリズムを刻みました。
といえばもうクィーンの「We Will Rock You」しかありませんよね。

「どんどんぱーん」に乗って次の演者米海兵隊音楽隊が登場。
非常にラフな感じで演奏しながら入場です。

ところでこの中心になっているアフリカ系のクラリネット奏者ですが・・・、

別角度から撮った回にもちゃんと狙っていました。
撮っているときは何も考えていないのですが、なんとなく一団の中で

「絵になりやすい人」

というのをいつの間にか選別していたんだなあと感心した次第です。

曲が終わると呼び込んだ西部方面音楽隊は彼らとハイファイブしながら退場。

米海兵隊の軍服は創立時から全く変わっておらず、アメリカの軍博物館でも
この制服で日本軍と戦ったという歴史的資料によくお目にかかります。

それだけに、わたしはこういう光景を見たり、何年か前のように海兵隊が
沖縄の「島唄」を取り上げたりするようなシーンに遭遇すると、
両国の現在に至るまでの相剋から宥恕、和解に至る歴史を思い、
つくづくいい時代に生まれたとあらためて思わずにいられません。

このユーフォニアム奏者もなかなか絵になる人。

彼らは正確には米海兵隊第3海兵機動展開部隊音楽隊です。
沖縄県うるま市のキャンプ・コートニーに駐留しており、
海兵隊所属の12の部隊の中で唯一アメリカ以外に根拠地を置く音楽隊です。

先ほどの話でないですが、彼らの所属する第3海兵遠征軍の前身は
かつてサイパン、そして硫黄島、沖縄で日本軍と激戦を繰り広げました。

海兵隊軍服がデザインされたのは南北戦争のときです。

当初は知名度がなく、誰も入隊してくれないので、酒場で若者を酔い潰し、
その場で契約書にサインさせて強制的に入営、ということをしていたくらいで、
ほどんどがなんの技能もない移民だったり、士官も酒場の経営者だったりと
まるではぐれ軍隊(おまけにブラック)のようだったということですが、
軍服だけは当時からイケてるデザインだったんですね。

海兵隊の制服はアメリカでもスーツ型デザインが主流となっている中で
唯一の詰襟ですが、その部分の素材は昔防護上の理由で革製でした。

今でも海兵隊のことを別名「レザーネック」というのはそこから来ています。

打楽器隊のことをマーチングバンド用語で「ドラムライン」、
あるいは「バッテリー」ということもあるそうです。

海兵隊のドラムラインはいつも卓越した腕を披露するパートを持ちます。

本日の演奏曲は「エスコーピオン」(Escorpion )。

今回この曲についての詳細はわかりませんでした。
ラテン系のリズムでとにかく派手というか、テーマ通り海兵隊が
この曲に「挑戦」しているらしいのはよくわかりましたが。

ギターとサックスのインタープレイ。
奏者が互いにインプロビゼーションを繰り返し、触発しあったり
フレーズを受け継いだりして緊張感のあるセッションを行うことをいいます。

後半はリフ(決められたメロディ」をユニゾンで。
いつの間にか全員がそれに加わります。

アメリカ人もステージの上では普通にお辞儀をしますが、
ここまで深くすることはまずありません。

ここはやはり日本の観客ということで最敬礼をしているのでしょう。

海兵隊バンドで目を引いたのがこの女性のドラムメジャー。

帽子を深々とかぶり目元を隠しているのが彼女をよりクールに見せています。
長いメジャーバトンを扱うドラムメジャーは上背を必要とするせいか、
男女混合のバンドで女性が選ばれることは滅多にないように思いますが、
彼女の場合はアメリカ男性と比しても遜色ないのでこの役を任されたのでしょう。

わたしももし彼女がシニヨンを結い、女性マリーンの軍服を着ていなければ
女性とは気がつかなかったかもしれません。

フィナーレの部分でこの女性ドラムメジャーはメジャーバトンを高速回しし、
エンディングと同時にピタリ!と止めて、それはそれはかっこよかったのですが、
なぜか最後に名前をコールされたのは、前で微動だにせず立っていただけの、
「バンドマスター」という仕事してない人だったのがわたしには納得いきませんでした。

そこでプログラムで確認したところ、ドラムメジャーは
ケイディ・A・ミラー2等軍曹という名前であることがわかりました。

ちなみに指揮者は上級准尉、その仕事しないバンドマスターは上級曹長です。
調べてみるとこの海兵隊における上級曹長とは、

Master Gunnery Sergeant (MGySgt) 

といい、海軍で言うところのMACPO。(つまりえらい)
下士官の中では最上級のE-9ランクじゃないですか。
つまり二等軍曹であるミラーさんより三階級も上なわけです。

なるほど・・・それで、普通ならドラムメジャーが紹介されるところ、
しかもプログラムにもミラー軍曹の名前が書いてあるのにも関わらず、
この何もしとらんおっさんの名前が優先的に紹介されたわけか・・・。

ていうかバンドマスターってなにする人?

何れにせよやっぱり軍隊というのは階級至上主義ってことなんだと思いました。

 

さて、続いて登場するのはアメリカ陸軍音楽隊です。

ちなみに海兵隊は水陸両用部隊というその性質上、当音楽まつりにおいて、
プログラムの構成によっては「海」のパートに入れられることもあるのですが、
今回は陸にカテゴライズされていたってことになりますね。

コウモリは鳥か獣か?の話をなぜか思い出してしまいました(笑)


続く。



「祖国」〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

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海兵隊に続いて登場したのは米陸軍軍楽隊です。

彼らが所属する神奈川県キャンプ座間には、在日米陸軍司令部、
「リトル・ペンタゴン」、またの名を「ワンオーワン(101)」
が存在します。

音楽まつりの常連で、防衛大臣(と副大臣)の挨拶によると、
彼らの出演は今年で連続18回目になるということでした。

去年、一昨年とマケインに似た管楽器奏者が達者すぎる歌を披露しましたが、
今年はマケインが亡くなったこととは多分関係なく(そらそうだ)
新しいボーカリストを立ててきたアメリカ陸軍。

この歌手、プロ並みに上手いかというと決してそこまでではないですが、
何と言っても英語の発音が上手いんですよ。

え?アメリカ人なんだから当たり前だ!って?

ノンノン、英語が喋れるからって英語の歌が上手いとは限らないのよ。
上手くないアメリカ人の歌を何度も聴いたことのあるわたしに言わせると。

ネイティブの英語でも、フレーズに「音楽的に」はまらなくては
英語そのものすら上手に聞こえない、というのが歌の怖いところなのです。

その点日本人の発音は壊滅的に英語に向いていないので、
どんなに声がよく音程が良くても、英語の歌を歌うと、
あら残念、となってしまう人が多い気がします。

今回、

「テーマはChallenge ってことでよろしく」

と自衛隊から伝達されたアメリカ陸軍音楽隊は、

「チャレンジ?だったらやっぱりロッキーじゃね?」

という安易な考えで、映画「ロッキー」のテーマだった

Eye Of The Tiger

を歌手に歌わせることにしました。(多分ね)

ワンコーラス終わってすぐ、歌はディズニー映画「ヘラクレス」のテーマ、

Go The Distance(オリジナル歌:マイケル・ボルトン)

へと代わりました。
なぜヘラクレスのテーマなのかはよくわかりませんが、おそらく、

「挑戦」→ロッキー・バルボア=ヒーロー→ヘラクレス

と解釈が移り変わっていった結果ではないかと想像されます。

続いて待ってましたの「ロッキーのテーマ」。
この曲が

Gonna Fly Now

という題であることを初めて知りました。

ところで米陸軍音楽隊が演奏中のスクリーンには、次々と
このような胸にくる映像が流されて目を引きました。

日米合同訓練の様子などです。

メディックの腕章を付けたのは自衛隊ですね。

東日本大震災で被災地の子供たちのために慰問演奏を行なっているらしい
日米陸軍合同音楽隊。(ってあえて言い切っちゃう)

あのトモダチ作戦では音楽隊もまたこのような活動をしてくれていたのですね。

「U・S・A! U・S・A !」(AA略)

ロッキーのテーマでインタープレイを行うギターとサックス。
このギターがビル・エヴァンスに見えてしょうがなかったわたしでした。

ギターは通常マーチングに加わることはなく、常日頃ステージ隅で
ドラムやキーボードと一緒に地道に演奏しているのが身上なので、
この機会はビル・エヴァンスに取って千載一遇の
「チャレンジ」だったに違いありません。

アフリカ系がサックスを吹いていると、それだけで上手く見える(笑)
ちなみに彼は入隊して15〜7年といったところです。

階級はサージャント・ファーストクラス、1等軍曹。
陸上自衛隊だと2等陸曹に相当します。

フィナーレは皆が富士山のシルエットを囲んでぐるぐる回り、
ヴォーカルのエドワーズ軍曹(名札が読めた)がシャウトすると、
日本とアメリカの旗が陸軍の星を挟んで浮かび上がるという仕掛け。

ちなみに、エドワーズ軍曹の名札には

EDWARDS エドワードス

と書いてありました。ドンマイ。

 

 

続いてはわたしが個人的に待ち望んでいた、陸自中央音楽隊と
陸自第302保安警務中隊の合同演奏です。

中央音楽隊と特別儀仗隊の組み合わせ、これをわたしは
かつて、

「ただ儀仗隊を華として行う質実剛健のマーチング」

と評したことがありますが、この日のナレーションで、
この恒例のコラボレーションのことを

「挑戦するのは、ミリタリーバンドとしてのミリタリースタイルの追求」

「飾らない動きの中にある格式と伝統の音」

と解説していたので我が意を得たりの感を抱きました。

 

最初に聴いたとき、スネアドラムの「タン・タン・タンタンタン」で
わたしはゾワゾワ〜っと全身に鳥肌が立ちました。

この段階でこの曲が黛敏郎の作曲であることがわかったのは、
自慢ではないですが、この武道館の中でもブラバン関係者以外では
わたしだけだったのではないかと思っています。

祖国(March "SOCOKU")

そういえば、国賓が訪れる時には中央音楽隊の演奏によって
栄誉礼が行われますが、あの

「♪ソ ドッドドドッドッソ〜〜〜〜(ソ ドッドドドッドッソ〜〜〜〜)」

で始まる栄誉礼の曲を作曲したのはまさにこの黛敏郎。
栄誉礼の曲が、正式には

栄誉礼「冠譜」及び「祖国」

というタイトルであることを知る人は多くありません。

「祖国」の最初の部分を聴いた方は、この写真の

「膝を曲げずにつま先までまっすぐに歩を進める」

という歩き方がなんと相応しいのかと思われることでしょう。

ニ短調の民族音楽的な冒頭部分が終わるまで、待機している保安警務中隊。

曲が変ロ長調に転調し、明るい曲調に転じると同時に、
保安警務中隊が倍速で行進を始めました。

原曲のA-B-A'-C-A''という構成部分でいうとCの部分。
Bを抜き、一気にCに進んでステージ用に短くアレンジしてあります。

銃を地面と平行にしての行進ですが、M1銃の白く見える部分は
銃のストラップ(というのかどうか知りませんが)です。

ある時期までは特別儀仗隊は「サイレントドリル」という
音無の演技をマーチングとは別に披露していたと記憶します。

わたしも音楽まつりに参加するようになって一、二度見たような
記憶がありますが、最近はサイレントドリルは行わず、
中央音楽隊との共演の中でドリル中心の見せ場を与えられる、
といった形式が続いているようです。

前回、

「一人一人の容貌体型にはよく見ると差異があるのに、儀仗隊として
行進や儀仗を行なっている時には全員同じ人間に見える」

と書きましたが、選び抜かれた候補者からさらに選抜されて
競争率6倍をくぐり抜けた、

身長170〜180cm

端正な容貌であること

骨格も規格に外れていないこと

という条件の超エリート隊員は、そこから先、精神的にも肉体的にも
ミリ単位の違いも細かく調整していくような厳しい訓練を受け、
容姿の個人差などは全く目に見えないレベルにまで所作を磨き上げて
この完璧な統制美を作り上げていくのです。

観閲式などの行進は見ていると完全に同じ動作をしているように見えますが、
写真に撮ってみると必ず手の上げ方や首の向きに狂いがあります。

しかし、第302保安警務中隊の特別儀仗隊はどんな動きを写真に撮っても
恐ろしいほどに全員の姿勢がシンクロしているのです。

 

 

保安警務中隊は英語で

スリーハンドレッドセカンド・ミリタリーポリス・カンパニー

と紹介されていました。
この日音楽まつりに「MP」という腕章を付けて警備を行っていたのと
同じ警察任務が彼らの本来の存在意義です。

ちなみに「MP」の腕章を見て、わたしが

「ミリタリー・ポリスのことですよ」

というと、連れは知らなかったのか大いに驚いて、

「そんなこと言ってもいいんですか」

いいも悪いも、じゃなんていうんだよ。
「ディフェンスフォース・ポリス」か?

そうなると腕章は「DFP」・・それは広告サーバーや。
「DP」だと、さらにここにはとても書けない意味もありますし。

だいたいそれじゃ海外から来た人には理解してもらえませんよね。

保安警務中隊がまだ保安中隊であったときには、ファンシードリルも
広報活動の一環として行っていたそうですが、保安警務中隊になってからは
おそらく、この音楽まつりが唯一の音楽に乗せてのドリルの披露の場でしょう。

曲のクライマックスには、他の音楽隊のようにカンパニーフロントではなく
儀仗隊のドリルが行われます。

ウェーブのように滑らかな動きは列の右から左、そして左から右へ
連続して行われ、まるで一つの生き物の動作のようです。

常日頃、自衛隊の、というか日本国の代表として、この国が
いかに精強な軍隊を持っているかを海外にアピールするために、
彼らが行っているのはただの捧げ銃や行進の練習ではないといいます。

体力錬成に加え警察組織としての武道、銃剣術など。
おそらくは座学もみっちり行われるのでしょう。

しかも今日出演しステージに上っているのは全隊員101名のうち
5分の1の22名だけ。

ここにいる隊員こそが精強オブ精強のつわものなのです。

中国軍のマニアックなまでの統率された行進は、膨大な人数の中から選ばれた
同じ身長、容姿端麗(特に女性)な者だけで行われているようですが、
今日のメンバーも身長をかなり厳密に規定しているらしいことがわかります。

誤差せいぜい2センチくらいでしょうか。

ところでこれを書くためにあだちビデオ制作の密着番組を見たとき、
一番不条理だと思ったのは、新入隊員8名くらい?の研修期間がすみ、
最終試験を経て本採用される際、

「そのうち一人でも不合格なら全員不合格」

であると言い渡されているところでした。

そうすれば全員が緊張し助け合うだろうという親心?でしょうが、
もし万が一、本当に誰か一人のせいで全員不合格になったら、
その原因となった人は自衛隊をやめてしまうのではないか?
いや、生きていけるのだろうか?

と心から心配になりました。

ついでに言えば、儀仗隊を写真に撮った時に目をつぶっている人も滅多にいません。
これは本番儀仗の時には

「瞬きはするな」

と言われているからです。
生理的現象ですら訓練でコントロールしてしまう部隊。

やっぱり不条理だ。

「祖国」のエンディングは「右へ倣え」で隊列を整え、捧げ銃をして顔をあげます。

必ず演奏することになっている「陸軍分列行進曲」は、今回
「祖国」のあと、

「我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ」

で始まる「抜刀隊」の部分から導入を行いました。
なるほど、ここから始めれば、「分列行進曲」で終わることができます。

哀愁を帯びた短調の行進曲、「祖国」と「陸軍分列行進曲」、
この二曲の選択そのものに、中央音楽隊と第302警務中隊の
自らの任務への強い自覚を見たような思いがします。

今回、昔の音楽まつりを知っている方が、

ふた昔前の音楽祭りは、「またスーザかい」なんて
🎶ブンチャカの行進曲パレードだったのに隔世の感があります。

とメールを下さったものです。

女性専用歌手の投入、カラーガードに工夫を凝らした演出、と、
年々ショウアップされてわたしたちを楽しませてくれる音楽まつりですが、
おそらく中央音楽隊と特別儀仗隊のステージは、その頃から
基本的な構成はほとんど変わっていないのではないかと思われました。

しかし、外国軍音楽隊を含め、ひらひら&キラキラした華やかなステージの中にあって、
日本で唯一特別儀仗を行う中央音楽隊と第302保安警務中隊だけは、
自らも標榜するようにこの質実剛健なスタイルをどこまでも貫いていってほしい、
とわたしは切望してやみません。

 

続く。

 

ところで最後に超余談ですが、これを製作している時、軽い地震がありました。
地震発生から20分後、窓の外の空を二機の陸自ヘリコプターが
通り過ぎていくのを初めて目撃しました。

地震発生に伴う警戒偵察のようです。
自衛隊の皆さん、いつも本当にありがとうございます。

 

 


「絆」と「日本」〜平成30年 自衛隊音楽まつり

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音楽まつりについてここでお話しするのは楽しいのですが、
楽しすぎて案の定なかなか先に進まないのが困りものです。

三日目にしてまだ第1章も終わっていないわけですが、
この後最終章を入れて全部で5章あるというのに・・・・。

まあ、これが当ブログの避けられない定めと諦めてお付き合いください。

陸自と第302保安警務中隊の演奏が終わったあと、再び
海兵隊と陸軍、つまり在日米軍合同のトロンボーンセクションが出てきて
フランス国家の冒頭部分をファンファーレ風に演奏しました。

お、フランス海軍に忖度したのか?と思ったら続きがありました。

ALL YOU NEED IS LOVE

日本でこのビートルズの曲が最初にリリースされた時、
「愛こそはすべて」というタイトルだったようですが、今では
普通に英語題でこの曲だと皆がわかります。

それだけ人口に膾炙しているということなのですが、実はこの曲、
4/4拍子と3/4拍子を組み合わせた7拍子のメロディという
ポップスには画期的な曲なんですね。

複雑な変拍子のメロディがポップスとして世界を席巻したという
そのこと一つとってみてもすごい。
これを30分で作ったジョンレノンってやっぱ天才だと思います。

それはともかく、最後をハートシェイプで締めくくったこの曲、
わたしは全く知りませんでしたが、東日本大震災の復興ソングとして
日本を代表する30名のミュージシャンがカバーしたと紹介されました。

一応どんなものだったか貼っておきますと

JAPAN UNITED with MUSIC - All You Need Is Love

発起人は坂本龍一大先生だそうですがこのアレンジ・・・(´・ω・`)

ちなみに出演ミュージシャンは

AI、今井美樹、EXILE ATSUSHI、EXILE TAKAHIRO、Crystal Kay、Kj(Dragon Ash)、
小泉今日子、小林武史、桜井和寿(Mr.Children)、
Salyu、JUJU、SUGIZO(LUNA SEA / X JAPAN / Juno Reactor)
Superfly、トータス松本、東京スカパラダイスオーケストラ(GAMO、北原雅彦、NARGO、谷中敦)
ナオト・インティライミ、難波章浩(Hi-STANDARD)、VERBAL(m-flo)、一青 窈、
藤巻亮太 (レミオロメン)、布袋寅泰、BONNIE PINK、miwa、屋敷豪太、
YMO(坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣)の25組30名

だったそうです。(コメントなし)

続いて東北本面音楽隊、そして西部方面音楽隊が楽器を持たずに現れました。
この東西の両部隊が同じ音楽まつりのステージに上がるのは、
あの東日本大震災、そして5年後の熊本地震の後、初めてということです。

 ピアノのイントロに重ねた、

「被害を受けられた方、そのご家族、関係者の皆様に心から
お見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます」

というナレーションに続いて日米の全陸軍音楽隊が登場し曲が始まりました。

ピアノ伴奏だけで歌い出したのは「明日へ」。

「明日へ」という題名の曲はWikipediaに掲載されているだけで
じつに22曲もあるわけですが、これはMISIAの歌です。

在日米軍の音楽隊員も、歌える人は歌っているように見えました。 

明らかに口パクしているらしい人もいることはいましたが、
昨日今日日本に赴任してきたなんて人なら、歌えなくても仕方ないよね。

東北方面音楽隊のカラーガードのお嬢さん方は
にこやかな表情でステージに立つことが任務(たぶん)

会場のスクリーンには、目を覆うばかりの悲惨な災害現場の様子が
災害派遣された陸上自衛隊の隊員と被災者たちの姿とともに
歌詞を伴って次々と映し出されました。

曲の後半、舞台中央床には「絆」「愛」「勇気」「希望」などの言葉と
自衛官たちの姿が投影されました。

「明日へ 明日へ 明日へと歌おう」

というサビの、実に耳馴染みのいい曲で、一度聴いただけで
メロディを完璧に覚えてしまうくらい平易です。
いわゆる震災復興ソングではないと思いますが、歌詞が
復興支援にこの上なく相応しいのでこの場に選ばれたのでしょう。

後半は楽器を持っている在日米軍は伴奏を行います。
シンプルだけどしみじみとした、いいステージでした。

 

さて、ここからが第2章になります。

バガット・ド・ラン=ビウエ軍楽隊 ( Bagad de Lann-Bihoué )

一度聴いただけではとても覚えられなさそうな名前の
軍楽隊がフランス海軍から来日しました。

何度か音楽まつりに参加していますが、フランス軍楽隊は初めてです。
昔セーラー服について調べたとき、フランス軍の制服も絵に描いたことがありますが、
実際に目にしたのはもちろんこれが最初でした。

この制服とか、フランス海軍のマークとか

を見ると、ああ、やっぱりモードの国だなあと頷く思いがするんですよね。

 

バガット・ド・ラン=ビウエ軍楽隊は、フランスはブルターニュ地方にある、
ラン=ビウエ海軍航空基地所属のブルターニュ伝統のバグパイプバンドです。

バグパイプというとスコットランドでしょ?と思われた方、
ノンノン、実はバグパイプはスコットランドのもの、というものではなく、

「ケルト民族のもの」

なんですね。
つまり、ケルト民族が住んでいたところにはバグパイプの伝統が残っており、
ブルターニュもその一つなのです。

ヨーロッパではそのほかにもスペイン北部、ブルガリア、ボヘミア地方、
ポーランド、チェコスロバキアにバグパイプが形を変えて存在します。

ちなみにこのバンド名の「Bagad」とは正確には「ヴァガドゥ」と発音し、

バグパイプ

ボンバール(円錐形のダブルリード笛)

ドラム(スネア・ドラムを含む)

から構成される楽団、を意味します。
つまりこのバンド名は

「ラン=ビウエのバグパイプバンド」

という意味で、ヨーロッパで最も有名なバガドウの1つなのです。

同軍楽隊は人手不足や財政難などで実質二度解散の憂き目にあっており、
それを克服するために海軍所属でありながらプロのバンドとなって
アルバムを出したり、他のミュージシャンのレコーディングに参加し、
隊員は3年ごとに更新する契約制となって存続しているのだそうです。

隊員は軍人というより軍属の扱いなのかもしれません。

一番右にいる下士官は音楽隊長なのですが、おそらく
この人は本ちゃんのフランス海軍軍人で、
バガドウの監督というか、顔として据えられているんだと思います。

たぶん楽器は何もできないと思います。(できたらごめん)

面白かったのがこの手前の指揮者で、手はあまり動かさず、
左足でパタンパタンとリズムを刻んで指揮をしていました。

曲の終わりには足を少し高く上げる、とか独特の決まりがあるようです。

会場では「ブルターニュのオーボエ」と紹介されていましたが、
この二人が演奏しているのが「ボンバール」(bombarde)です。

Quiberon: Bombarde Cornemuse musique Bretagne 

プログラムには「Azerty」という曲名しか書かれていなかったのですが、
二曲めにはボンバールをフィーチャーした曲を演奏しました。

この曲はピアノ伴奏を東京音楽隊のピアニストがつとめ、何より旋律が
日本の曲っぽかったのですが、プログラムに記載がありませんでした。
どなたか2曲めの題名ご存知の方おられませんか。

わたしはこの曲、ラン=ビウエが日本の観客サービスとして急遽
即席アレンジして持ってきたのではないかと思っています。

なぜかというと、ピアノのアレンジがところどころものすごく変だったんです(涙)
太田海曹は絶対これ変、と思いながら弾いていたとわたしは思います。
しかしほとんどぶっつけ本番だったのと、英語が通じないので、
訂正できなかったのではないかとまで想像しているんですが、どうでしょう。

 

演奏中は何もせずに立っていた音楽隊長は、その名も

パスカル・オリヴィエ上級上等兵曹(CPO)

おお、フランス人!というお名前(当たり前だ)。

フランス海軍の敬礼を生で見たのもこれが初めてです。
なるほど、手のひらは完璧に外に向けるわけね。

 

さて、続いての外国招待バンドはシンガポール軍軍楽隊。

第2章は「海の挑戦」ということで、最初にフランス海軍所属の
ラン=ビウエが登場しましたが、シンガポール軍楽隊は
Armed  Forces、つまり陸海空統合の音楽隊だそうです。

しかし、シンガポールは海に囲まれた日本と同じ島国なので、
この章に登場ということになりました。


詰襟にエポーレット(房付きの検証)、肋骨服と
正統派軍楽隊スタイルといった感じの制服のシンガポール軍楽隊。

登場するやいなや、絢爛豪華な色合いの衣装を身につけた
ダンサーが走り寄ってきて絡みます。

なるほど、この路線か・・・・。

しかもダンサーは一人ではなく、男性ダンサーも投入してきました。
とにかく派手。きらびやか。

シンガポールはあらゆる民族の複合国家ではありますが、中華系が多数派なので、
やはりこういった色彩はタイガーバームガーデン的なセンスですね。

ダンスも派手。飛んだり跳ねた回転したりバク転したり。


ところで今回検索していて、防衛省がこの音楽まつりに備えて、
シンガポール軍楽隊の宿舎を一般競争入札していたという公告が見つかりました。
さすが防衛省、そんなことも入札で決めていたんですね。

彼らは結局どこに泊まっていたのでしょうか。

シンガポールで有名なヒット曲「Love at first sight」に始まり、
演奏曲は8曲からなるメドレーです。

中には、建国記念として作曲された「五星が昇る」という曲もありました。

Five Stars Arising

その間ダンサーはスカーフを振ったりリボンを振ったり、
あらゆる振りものを投入してくるので、軍楽隊のフォーメーションより
ついそちらに目が奪われてしまいます。

このジャンプ!
軍楽隊とは別にプロのダンサーを雇ったようですね。

リボンに続いてはついに孔雀の羽の扇子まで登場。
やっぱりこの辺は中華圏ですな。

 

アップテンポの一連の曲が終わると、雰囲気が一気にスローになり。

オーボエ奏者の歌う「涙そうそう」が日本の観客を喜ばせます。
音楽まつりで外国軍楽隊はしばしば日本語の歌をサービスで歌ってくれますが、
特に東南アジアの人たちは日本語の発音が皆うまいですね。

「会いたくて 会いたくて」

のところからは後ろのメンバーがコーラス。


こんな時にもカップルで踊りまくっていたダンサー(笑)

相手をを抱え上げてそのままボディスラムへと!

ということはありません。

 

わたしたちへのサービスとして日本の曲はもう一つありました。
「涙そうそう」からなんと!いきなり

「進撃の巨人より 紅蓮の弓矢」

が始まったのです。
そういえばイントロの時など「あれ?これって・・?」
とわかる程度に「進撃の巨人」のフレーズが入り込んでいて、
なんとなくそんな予感はあったのですが。

そこで張り切って出てきたのがドラムメジャー。
このドラムメジャーは、ダンサーがいなかったらさぞ
目を引いただろうと思うくらいド派手にバトンを回しまくっていましたが、
どうもメジャーバトンを振らせたら俺の右に出る者ナシ!
みたいな名物メジャーらしく、他の音楽隊が決してやらない、

バトンを高く投げ上げて受け止める(しかもなんども)

という技を披露して会場を沸かせました。


冒頭写真は彼がどのくらい投げ上げていたかがわかる瞬間ですが、
これを見るとほとんど二階席(彼から見ると三階)まで投げ上げています。

このキャラの立ったドラムメジャーの名前は

ジャッシュ・チュア・ケン・ウィーア1級上士

一等上士はアメリカ軍でいうとPO1、一等兵曹に相当します。

指揮者は、

イグナティウス・ワン・ケヴィン上尉

上尉は大尉で自衛隊なら一尉。中華圏では尉官は上から

上尉 中尉 少尉

となっています。

ウィーア1級上士のバトンとダンサーのひらひらに目を奪われていると、
軍楽隊がまず人文字で「SG」と描きました。

シンガポールのことかな、と思って見ていたら、あれよあれよと
人文字は「日本」に・・・・・。
こういうのって普通に嬉しいものですね。

招待バンドが舞台で自分の国の国旗を出したりするときには、必ず対で
日本の国旗も揚げてくれるのが礼儀というか、友好を深めるために
ほとんどの国がそうしてくれるのですが、そういえば過去唯一、
自国の巨大な旗だけををステージで広げていった国がありましたわ。

いや、どことは言いませんけどね。


とにかくありがとう、シンガポール軍楽隊のみなさん。

 

 

続く。

 

「S・E・A」海の護り〜平成30年 自衛隊音楽まつり

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平成30年度音楽まつりはここでだいたい約半分が終了し、
「繋がる、希望の海」と名付けられた第2章は、外国招待バンドに続き
愈々海上自衛隊東京音楽隊の出演となりました。

朝、外で列に並んでいたとき、後ろの中年女性が、

「今日もほら、あの歌の人出るの?」

と話していました。
早くから並んでいる割に音楽隊のことについて何も知らない風でしたが、
そういうレベルの人でも存在くらいは知っているのが、
三宅由佳莉三等海曹です。

彼女が前代未聞の自衛隊音楽隊専属歌手として活躍を始めてから、
メディアが一時大きく扱ったこともあり有名になって以降、
自衛隊音楽隊の歴史は彼女の存在によって大きく変わることになります。

専属歌手としての彼女の好評を受けて、いくつかの音楽隊が専属歌手を採用し
コンサートやイベント、自衛隊の儀式などにも歌を披露することになったのです。

今回三宅三曹と共演した横須賀音楽隊所属の中川麻梨子三等海曹も、
そのようなムーブメントの中で採用されたヴォーカリストでした。

海上自衛隊に存在する二人の歌手の初共演。
曲は「この星のどこかで」。

今回音楽まつりでこの曲を聴かれた方、これが
この映画のテーマソングだということをご存知でしたか。

映画ドラえもんのび太の太陽王伝説 主題歌「この星のどこかで」

作曲は今ニューヨークでジャズピアニストになってしまった
大江千里、歌っているのは由紀さおりと祥子姉妹です。

歌い方も発声も全く違う二人の歌手の共演。
選曲の妙もあって、うっとりするようなデュエットです。

ただあえて言わせていただければ、三宅三曹が本格的に
クラシックの声楽を学んだ中川三曹との違いを明確に出そうとしたのか、
声を可愛らしく作りすぎているようだったのが残念でした。

個人的には2年前の「アフリカン・シンフォニー」の時のような、
ああいうまっすぐな歌い方でもいいような気がするのですが。

ただそれは瑣末なことで、二人の声は完璧に溶け合い、
素晴らしいハーモニーとなって会場を魅了しました。
(ここだけの話ですがオリジナルの二人より良かったと思います)

二人の歌はプロローグで、ここからが海自のマーチング開始です。

「海峡の護り〜吹奏楽のために」

この曲は今年の二月に行われた東京音楽隊の定期公演でも行われました。

 

現音楽隊長の樋口好雄二等海佐が横須賀音楽隊の隊長だった頃、
作曲された委嘱作品だということです。

いつものカラーガード隊が東京音楽隊のバナーを先頭に行進を行い、
総員が敬礼をしてからいよいよマーチング開始。

演奏の間、会場スクリーンにはこのような映像も現れました。
海の上で見る旭日旗、こんな美しい軍旗は世界のどこを探してもありません。

海上自衛隊の音楽まつりでの「定番」に、ドラムラインのソロがあります。

例年音楽まつりの後に「東京音楽隊のドラムラインが神!」とかいうタイトルで
動画が上がるおなじみのシーン。

今年もご覧のようなかっこいいセッションが聞けました。
バッテリーはバスドラムとシンバルそれぞれ1、スネアドラム6という陣容です。

スネアドラムの真ん中の人が掛け声をかけているっぽい。

曲が終了したとき、人文字で「SEA」が描かれました。

これにはちょっと深い意味があって、演奏した「海の護り」という曲は
海を意味する「SEA」の綴りを音名にした、

S(Es)=ミ♭

E   =ミ

A =ラ

という連続音が音群として表れ、曲のモチーフになっているのです。

海上自衛隊の委嘱作品ならではの「仕掛け」なんですが、
ここまで知っていると、より一層演奏が楽しめるというわけです。

ドラムで隊列を組み替えると、いつもの錨のマークが現れました。
行進曲「軍艦」です。

錨の頭の丸い部分を形作るのはカラーガード隊です。

ステージの最後の錨が半回転するこのステージは、おそらく
これも昔から変わらず引き継がれてきたものではないでしょうか。

20年前の音楽まつりをご存知の方にぜひ聞いてみたいものです。

本日の指揮は副長(さすが海自、副隊長じゃないんだ)、
石塚崇三等海佐。

ドラムメジャーは田村二朗一等海曹でした。

東京音楽隊が退場するとき、退場する隊員に帽子を渡して
無帽になったトランペット奏者が一人、会場に残りました。

ソロで次の曲「なんでもないや」のアカペラ部分を演奏します。
「なんでもないや」は映画「君の名は。」の劇中歌でRADWIMPSの曲です。

 

ところで今回冒頭に「シン・ゴジラ」の曲が演奏されていたので思い出したのですが、
この両映画は同時期に封切られ、興行成績は「君の名は。」が少し上でした。

かつて岸恵子&佐田啓二の「君の名は」が昭和28年に公開され、
この時も同時に初代「ゴジラ」が上映にされていたそうですが、
「ゴジラ」は「君の名は」の集客数にはやはり及ばなかったという話です。

もっとも当時の「君の名は」の人気は凄まじいもので、三部作目は
黒沢の「七人の侍」をぶつけても勝てなかったとか・・・・・。

現在の映画そのものの評価が当時の人気の通りではないことは
後世の知るところですが、半世紀後、「君の名は。」と「シン・ゴジラ」、
どちらが歴史の評価に耐える作品として残っているでしょうか。

という話はともかく、トランペットソロにシンガポール軍楽隊が加わります。

そこにバガドウ・ラン=ビウエのバグパイプソロとドラムがソロで。
なんとバグパイプで演奏する「なんでもないや」です(笑)

バグパイプの仕組みは簡単にいうと袋に溜めた空気を押し出して音を出すもので、
息継ぎのために音が途切れることがありません。

この演奏を聴いていた方は、ずっとメロディの他に下の方で音が鳴っている
(通奏低音・オルゲルプンクト)のを覚えておられるかもしれません。
これもまたバグパイプらしさですが、バグパイプの何本かあるパイプのうち、
この通奏低音を奏でるパイプを「ドローン」といいます。

メロディの他に通奏低音も鳴らすためには、
常にバッグの中を息で満たしている必要があるので、
バグパイプの演奏にはそれはそれは大変な肺活量を必要とします。

全出演部隊の合同演奏を指揮するのは東京音楽隊隊長、
相変わらずかっこいい指揮を見せてくれる樋口好雄二等海佐。

 

ドラムのブレイクの後曲調はアップテンポに転じ、
まず陸自合同部隊が参加します。

曲はやはり「君の名は。」から「前前前世」。

ワンコーラス終わったとことで、在日米軍グループが舞台右袖から登場。

左からはまだ出演していませんが、空自中央音楽隊が。
先頭を歩いているクラリネット奏者はこの後ソロを取る予定です。

その音の性質上他の楽器と一緒に演奏できないバガドウにも
ちゃんと単独で演奏して活躍させてあげるという配慮に満ちたアレンジです。

樋口隊長は指揮台を降りてバガドウの指揮者と日仏友好状態。

指揮をしていた人はジェローム・アラニックPO3(三等兵曹)。
プログラムには「ペン・ソノール」と紹介されていましたが、
ブルターニュオーボエ「ボンバール」奏者のことをソノールというからです。

もう演奏者が国境をこえて友好しまくり。
東京音楽隊とシンガポール軍楽隊が入り乱れております。

会場はリズムに合わせて手拍子を取り、楽しさ最高潮。

いつの間にか、ステージ両側には東北方面音楽隊のカラーガードと
ステージを影で支える演技支援隊の迷彩服の隊員たちまでいます。

 

ステージ奥のピットには東京音楽隊の打楽器セクションが、
よくよく見ると一部ノリノリで演奏しているではないですか。

マリンバと鉄筋奏者が特にハジけておられました。
楽しそうで何より。

エンディングにはバガドウに最終音を取らせるという気遣い。
アレンジをした人は、この特殊な楽器を演奏するバンドに配慮をして
彼らが空手にならないように、花を持たせるように気を遣っています。

ラン=ビウエの隊員たちは、おそらくそんな気遣いを含め、
音楽まつりを、日本のステージを楽しんでくれたのではないでしょうか。

第二章、「海の挑戦」はこのステージをもって終了。
続いて、お待ちかね、防衛大学校儀仗隊、そして自衛太皷のステージです。

 

続く。

 

 

 

防衛大学儀仗隊 ファンシードリル〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

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平成30年度自衛隊音楽まつり、第3章のテーマは

飛翔、昇りゆく挑戦。

で、これから自衛隊指揮官という世界に挑戦すべく
飛翔せんとしている防衛大学校から、儀仗隊の登場です。

今年の音楽まつりに登場しているのは60期から63期まで。
防大儀仗隊のホームページはいつまでたっても鋭意工事中なので、
詳しいことは全くわかりませんでしたが(忙しいんだろうな)
出場しているのは全員ではなく、卒業生中心の選抜メンバーだと思われます。

63期は音楽まつりが終わったら引退して後進に道を譲ることになっています。

演技前、会場のアナウンスでは

「防衛大学校は国際士官候補生会議などを通じて国際的視野をも涵養しています」

と紹介されました。
国際士官候補生会議?
アナポリスやウェストポイントとも交流があるのか?
と興味を持ってHPを開いてみたら、それは防大内に設置された

International Cadets' Conference

通称ICCなる組織のことでした。

これは防大に諸外国の士官候補生を招へいして国際会議を実施し、
国際情勢及び安全保障に関する討議等を行い、各国と我が国の将来の
安全保障につながる相互理解と信頼関係の促進を目的とするものです。
(とHPに書いてありました)

この会議は

米、英、伊、印、インドネシア、豪、カナダ、韓国、シンガポール、

タイ、中国、チュニジア、独、仏、フィリピン、マレーシア

等の国の士官候補生を招へいし、8日間程度の日程で行われ、
その目的とは

1.学生に対する国際交流の機会の付与(国際感覚の醸成)

2.学生の国際的視野の拡大、

3、国際情勢認識

4、語学力の向上

4は特に日本の士官候補生には大事なことですよね。

さて、演技です。
始まるなりキビキビと隊形を卍に整え、しばしドリルを行ないます。
投げ上げた銃が完璧に地面と平行なのにご注目。

まず放射状となって回転するマーチング。

小さな十字はだんだん人を巻き込んで大きな十字となって回転します。

馬てい形のフォーメーション。

何年か前には近くに座ったおばちゃんたちの軍団が、彼らの一挙手一投足に
「かわいい」「かわいい」ときゃあきゃあしていたものですが、
こういう年頃の息子を持つ身になってみると、その気持ちがわからなくもありません。

年頃のお嬢さん方なら「かっこいい!」と目が❤️になるところ、
わたしどもはとにかく「かわいい!」となってしまうわけです。

高校野球の選手が「大人」から「お兄さん」になり、「同世代」、
「年下」となっていつの間にか息子の世代になるようなもんですね。

彼らが「孫」に見える日ももう目前です(しみじみ)

馬てい形となってからのドリルは、左から右、右から左と銃回しや銃投げ、
膝をついたりが目まぐるしく移り変わっていきます。
まあこれは文章など読んでいないで映像を見てこられるのが一番です。

最後に、一番端の隊員は一人で敬礼しつつ連続で銃を回し続けます。

これがまず会場を沸かせます。

この技のことを「夢幻」というそうですが、やはり

「延々と回し続ける」=「無限」

からきているのかな。
防大儀仗隊のドリルは彼らが主に米海兵隊のドリルを参考にして取り入れ、
名前をつけて代々受け継がれている技で構成されています。

前にも書いたことがありますが、防大に儀仗隊ができたのは開校して
3年後ということなので、初代儀仗隊だったOBはもう80代になっているのです。

無限を行う時、敬礼しながら会場をぐるりと見回すのもお約束。
この「美味しい役」はおそらくこれを最後に引退する
4年生に与えられるのでしょうね。

というか、演技をしているのは袖の桜を見ると4年生中心のようです。

第302保安警務中隊のと違いこちらは「ファンシー」なドリルなので、
動きが華やかで、銃を投げる動きは頻繁に行われます。
しかし、これも今までの音楽まつりで銃を落としたのを見たことがありません。

取り回しがしやすく美しいため儀仗に使われているM1ガーランド銃は
4.3kgとそれなりに重く(というか普通にかなり重いよね)特に
白い手袋をしていると取落すなど精度も下がると思われるのですが。

会場の隅に立っている二人の隊員が(おそらくこちら側にも二人)
銃を持っているのは、演技者に何か起こった際渡すためでしょうか。
しかしこの銃が実際に機能したことなど、過去の防大儀仗隊の歴史には
一度もなかったのではないかと思われます。

右端の隊員にも「見せ場」があります。
最後に思いっきりジャンプしながら銃を投げ上げて・・・、

高々と宙を舞う銃をしれっとキャッチ。

「今年は女子が多いですね」

リズムを担当するドラムラインを見て連れが呟きました。
言われてみると確かに。
大太鼓が女性だとすればメンバーのうち半数近くの四人が女子生徒です。

しかも皆さん楚々として可愛らしい方ばかり。
このお嬢さん方が自衛隊指揮官として将来護衛艦の艦長になったり、
これからは戦闘機パイロットとなる可能性だってあるわけか・・。

それどころか、この学年が将官を輩出する将来には、もしかしたら
すでに初の女性幕長だってすでに生まれているかもしれません。


ところで余談ですが、うちのTOはよく最近の学生や若い社会人を評して

「みんなのび太君としずかちゃんみたい」

と言っております。

この意味は、なべて最近の青年はおっとりしすぎて覇気がなく、
出世したりのし上がってやるぞ!というギラギラした野心が見られない反面、
女子は皆きちんとやることをやり、優秀な人が多いという傾向だそうです。

一般的に優秀な女性が社会に出て頭角を現すため、こう見えるのは
最近に限ったことではありませんが、特に最近、
TOのいる業界でも男性の「総のび太君化」が著しいのだそうです。

一般論として自衛官になろうとする青少年に覇気がないわけがないので、
男性「のび太君化」は自衛隊には関係ない話だと信じたいですが、
一方これから自衛隊という職場に、しずかちゃん的女性が今まで以上に
増えてくることは間違いありません。

自衛隊が女性自衛官の登用を一層推し進めている理由の一つに
深刻な人手不足があるというのも厳然たる事実なので。

ということはどういうことかというと、これからは相対的に
真面目で優秀な女性自衛官が増え、そのいずれかは
自衛隊のトップにのし上がる可能性も無きにしも非ず、ということです。

おっと、話が逸れました。

儀仗隊演技の途中には、会場が真っ暗になった瞬間発砲する場面があります。
わたしは火花が出る瞬間を撮ろうと、待ち構えていて会場が暗くなった瞬間
シャッターを切ったのですが、タイミングが合いすぎて画面が真っ白になっていました。
ISO感度の下限を設定していたので露出オーバーになったんですね。

しかも次のチャンスに全く同じことをして、真っ白な写真をまた撮りました。
うーむ、全く学習しない奴。

ファンシードリル演技最後のクライマックスに行われる
「銃のトンネルくぐり」。
正式になんというのかは知りません。

HPのメンバー紹介によると儀仗隊への入隊動機のほとんどが、

「防大でないとできないことをやってみたかった」

そして

「かっこいいから」

この二つのどちらかです。

かっこいいといえば、ただ指揮刀を持ってまっすぐ歩くだけの
この時の指揮官ほどかっこいい存在はありますまい。

きっとこれがやりたくて儀仗隊を目指す子もいるよね。

隊長だけがつば飾りのついた佐官クラス風の帽子をかぶるのを許されますし、
何年か前の端正な容姿の儀仗隊長など、その年の音楽まつりの顔として
DVDのパッケージに大アップを飾ったというくらい目立つ存在です。

とにかく彼らの親御さんは嬉しいだろうなあといつも思いながら見てます。

音楽まつりの最終日最終回、このトンネルをくぐりぬければ、
儀仗隊長の儀仗隊生活は終わりを告げます。

他の儀仗隊メンバーの4年生たちにとっても、彼らの4年間は
これで終えて悔いのないものであったことを願って止みません。

全員が「夢幻」をしながら敬礼、隊長は抜刀し敬礼。

全ての演技を完璧に終え、防大儀仗隊退場です。

指揮官は松高諒典学生。

ドラムメジャーはシンガポールからの留学生、
ジョエル・ン・ジア・ジュン学生でした。

儀仗隊に留学生が加わっていることはたまにあるようですが、
ドラムメジャーとして名前を呼ばれたのは、わたしの知る限り
彼が初めてです。

彼は今回招聘バンドだったシンガポール軍楽隊の人たちと交流できたでしょうか。

 

続く。

自衛太鼓・彼らは如何にしてここまで来たか〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

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第3章のタイトルは、

飛翔、昇りゆく挑戦。

です。
「君の名は。」方式というのか、最近タイトルに「。」を打つのが
ほんのりと流行っているようで、ここにもその傾向がありますが、
不思議なのは、序章の

「挑戦、始まる。」

と第3章以外は「海の挑戦〜繋がる、希望の海〜」とか
「終わらぬ挑戦」といった具合で統一されておらず規則性が全くないことです。

「。」も 何らかの意図があって用いているなら、
そのつもりで全部これを貫いて欲しい。と思いましたまる。

さて、重爆の隅をつつく(お約束)ような苦言は読み流していただくとして、
続いては自衛太皷です。

自衛隊音楽まつりでしか聴けない、大人数での太鼓の連打。
この地鳴りの中にあるような太鼓の響きに心を揺さぶられない人はいません。

今回、TOはわたしと同じ日に、地方防衛団体の会長でありながら
音楽まつり初体験という方とご一緒したそうですが、その人も
自衛太皷にいたく衝撃を受け、あれが一番感動した!と言っておられたそうです。

自衛太皷は北海道の幌別駐屯地を根拠に置く
「北海自衛太皷」が中心となって行われます。

この理由を、わたしは当日の朝、早くから開場を待つ列に並んでおられた
元自衛官という男性から初めて聴きました。

このかたは自衛官時代、自衛太皷で毎年音楽まつりに参加していたそうです。

そもそも太皷を自衛隊に導入したのは北海自衛太皷です。

もともと登別には、個人が祖となって起こした「北海太皷」という
太鼓の流派がありました。

昭和38年、北海道登別在住の大場一刀氏が「奥越太鼓」を基に編み出し、
太鼓チームを結成し、北海道の荒々しい風土と雄大さを表した郷土芸能が、
この「北海太皷」です。

北海流れ打ち

これが北海太鼓の代表的作品です。

程なく、大場氏の地元登別にある陸上自衛隊幌別駐屯地の自衛官有志が、
地元住民との交流のツールとして、そして隊員の士気高揚に役立てたい、
と、創始者である氏に直接手ほどきを受けて始めたのが

「北海自衛太鼓」

だったのです。

「北海太鼓」を演奏するため発足した北海自衛太鼓は、
その後太鼓が全国の基地駐屯地に波及し、その指導という役割を担うようになっても
自衛官としての任務とは別の、余暇活動という位置付けです。

楽器や衣装など、地元の寄付がある場合もあるのかもしれませんが、
基本自分たちで賄いながら活動しているのが現状だそうです。


北海自衛太皷が生まれたのは、創始者の大場氏が
北海太皷なる流派を編み出してからわずか2年後のことでした。

「北海太皷」と「北海自衛太皷」は共に歩んできた歴史があり、
両者はそれぞれのオリジナルを数多く世に出してきました。

2017年 りっくんランドオータムフェア  北海自衛太鼓 SL

例えば原野を走るSLを表した、こんな作品も。

その後自衛隊の和太鼓チームは全国の基地駐屯地に次々と誕生し、
今では200あまりもの太鼓クラブが存在しています。

如何に自衛太皷が一同に集まる音楽まつりといえども、
全チームを出場させるわけにいきません。

どうするかというと、毎年、出場を決める選考会があって、
それを突破したチームだけが、日本武道館にくることが出来るのです。

うーん・・・これって何かに似ている。

そうだ、甲子園だ(笑)

今年はチームごとに演奏しているところを正面から撮ることができたので、
全チームを順番にご紹介していくことにしましょう。

八戸陣太鼓

海上自衛隊の八戸基地に行ったとき、飛行場を挟んで
向こう側に陸自の駐屯地があったものです。

ちなみに八戸陣太鼓のハッシュタグの中にこんなのがありました。

♯みんなでかます

元自衛太鼓の方によると、たくさんの中から選考をくぐり抜けてくるチームには、
甲子園の強豪校のように連続出場を可能とする「常連太鼓」があるそうです。
朝霞駐屯地の朝霞振武太鼓もその一つ。

朝霞振武太鼓は、もともと第31普通科連隊に所属していましたが、
平成14年から第1施設大隊に引き継がれました。

彼らを指導する「北海自衛太鼓」も実は幌別駐屯地の第13施設隊です。

これまでの音楽まつり(といってもわたしが参加するようになってからですが)
で初めて見る名前のような気がします。

名寄朔北太鼓

名寄。
確か札響の道内ツァーに付き合ったとき、車で通り過ぎた覚えがあります。
(そんなことでもなければ一生行かないだろう稚内とか猿払なんてところにも)
近くの士別というところでご飯を食べていたら、お店の人に

「どこからきたの?札幌?やっぱり都会の人は違うねえ」

と好奇心満々で話しかけられたというくらい、とにかく人のいないところでした。

北海道中部で、名寄駐屯地の海外派遣以外の主要任務はバイアスロンではないか?
(しかも連戦連勝)というくらい雪深い地域です。

調べてみるとわたしの予想通り、朔北太鼓が音楽まつりに出場したのは
平成18年以来二回めでした。

善通寺十五連太鼓

香川県善通寺にある善通寺駐屯地。
戦前は陸軍の師団が置かれ、当時の煉瓦造りの歴史的建造物が残ります。

最近のツィッターによると、

「新しく入った人もいる中で、日本武道館に立つことが出来ました! 」

やっぱり武道館に来られるだけで嬉しいんですねえ。

はっぴの職人風、柔道着風と様々なユニフォームの中で、
紺色の袴着用なのは

小倉ひびき太鼓

北九州の小倉駐屯地に所属するチームです。

滝ヶ原雲海太鼓

静岡県御殿場にあって、自衛隊総火演ではおなじみの滝ヶ原駐屯地。
当チームが発足したのも平成14年のことです。
やはり立ち上げに際しては総本山の北海自衛太皷に指導を受けました。

信太菊水太皷

信太山駐屯地は、西南の役や日清日露戦争に名を馳せた
旧陸軍野砲兵第四聯隊が大阪から移駐して創設された
旧軍跡地にあり、ここは戦後アメリカ軍に接収され、
その期間は海兵隊の下士官養成学校に使われていたそうです。

旧将校集会場など旧軍時代の建物も多く残るとか。
うーん行ってみたい。

現在では第37普通科連隊とその支援隊が駐屯しています。
夏の広島豪雨災害では、呉市などに展開し、活動を行いました。

この体勢は腹筋のない人には無理(笑)

陸自駐屯地がほとんどの太鼓クラブですが、これも常連の
入間修武太鼓は、唯一の空自基地所属太鼓チームです。

ところで海自には自衛太皷のチームはありません。(たぶん)
どうしてかというと海上自衛隊という「基礎が海の上」である業務の形態上、
太鼓を練習するという場所がなく、そもそも人が揃わないことが多い、
つまり練習ができないということではないかと思います。

さらに入間では空挺隊員を降下させるC-1の運用という点で
陸自とつながりがあることから発足したのではないかと想像されます。

チーム別の演奏のトリを飾るのはいつもの総本山、北海自衛太鼓。

音楽まつりの太鼓演技は当たり前ですが毎年内容を変えなくてはなりません。

演技を創作し構成するのが北海自衛太鼓の役目であり、それを全出演チームに
指導するのも、彼らのトップの責任なのだそうです。

元自衛太鼓の人とたまたま話をするきっかけがあったので、わたしは
此れ幸いと兼ねてから気になっていたことを聞いてみました。

「どうやってこの大人数であそこまでぴったり音が合わせられるんですか」

そのとき聞いた話をそのまま書いておきます。
今現在その通りかどうかは裏を取っておりませんので念のため。


まず、出演チームが決まるのは9月頭頃。

全国すべてのチームが応募してくるとは限りません。
人数不足で出演希望する段階に行かないチームもあるようです。

出場決定チームはオーディションのような形で決めるそうですが、
その際、万が一、隊員に誰か一人でも

不祥事を起こした人がいたら

出演は取り消されるのだそうです。

「うーん・・・やっぱり甲子園だ・・・・」

出演が決まったチームはいえええい!と快哉を叫び(たぶん)、
張り切って、代表者一人を登別の士幌駐屯地に送り込みます。

この代表者が北海道で演技内容を叩き込まれて帰って来るので、
チームのみんなは、それを元に練習をするわけです。

各チームは11月までに代表者が教わった通りの演舞を
体に叩き込んで覚えます。

「全員の音合わせは武道館が初めてなんですか」

「いやいや、そんなんじゃあれだけ合わせることはできませんよ」

そこで全員が集まることができるどこか(富士山の駐屯地だったかな)で
一週間の特訓を行い、朝から晩まで太鼓漬けになって演技に磨きをかけます。

「ちょっと待ってください。一週間ということはその間仕事は」

「しません」

「てことは公務扱いなんですね」

「公務です」

すげー!

自衛隊は、この太鼓演技を一般への広報活動と位置付け、
その完璧な仕上がりを任務達成目標としているってことなんですね。

でも、公務として太鼓合宿なんて、きっと皆楽しいだろうな。

・・・いやそんな甘くないか。バチを落としたり酷いミスをしたら、
腕立て伏せとあグラウンド3周とか、厳しい罰則がありそう。

陸自だし。

写真に撮って太鼓を打ち鳴らす各自の「面構え」といった面持ちをみていると、
ほとんど全員が額を汗でびっしょり濡らしているのに気づきます。

しなやかな腕の筋肉が躍動し、鍛えられた肢体は自在にその形を変え、
何と言ってもその眼差しは炯々と、獣のように鋭く一点を見つめています。

一年に一度のこの時期、武道館で彼らの太鼓が織りなす雷鳴のような響きに
身を委ねるたびに、同時にこの一人一人が、実は国を護る自衛官であることを思い、
なんと頼もしいことか、と、わたしはいつも感動にうち顫えるのです。

決して大げさでなく。

続く。

「君を乗せて」空自中央音楽隊〜平成30年 自衛隊音楽まつり

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前回、「出演太鼓チームの写真を全部上げる」としておきながら、
大変失礼なことに掲載漏れがありましたので追加しておきます。

 

この名前を付けた人はセンスがある、といつも思う、

松本アルプス太皷

長野県松本駐屯地は第13連隊が所属します。
この7月の人事で、同駐屯地からは12年ぶりとなる
普通科部隊の特技過程(前線を担うための武器使用訓練)に
女性自衛官二人が加わることになったという地元ニュースを目にしました。

市民タイムス記事

「迫撃砲を撃つしおりとさくら」って、もうこの字面だけで萌えそう(笑)

姫路城の別名「白鷺城」からその名をとった

姫路 白鷺太皷

名前といい、白に紫の襟をあしらった衣装もまた美しい。
この名前もよくお見かけするから常連チームかな?

彼らが所属する姫路駐屯地は、レンジャー部隊などが出動して

姫路城天守閣の清掃

を行ったとき、「まるでニンジャなんだけど」と
世界的な話題となったことがありました。

白鷺太鼓のメンバーにも、この時忍者呼ばわりされた
清掃作戦参加隊員がいるんじゃないでしょうか。

後掲載していないのは熊本西連太皷の写真なのですが、
前方からの写真に失敗してしまいました。

熊本西連太皷は西部方面特科連隊に所属するチームです。

 

ちなみに太鼓名を書いた幟を持つ隊員ですが、よく見ると
この長くて大きな幟をまっすぐ立ててそれを保ち続けるだけでなく、
この写真の全員による演舞の時には、幟の下方を持って
全員で、あるいはウェーブのように右から左に順番に
はためかせたりして、ものすごく仕事をしていました。

地味で当人は目立たないけど結構力がいる大変な任務だと見た。

 

さて、ここからが第4章、テーマは

「空の挑戦〜広がる、明日の空へ〜」

スクリーンにはF-35Aが映し出され

「我が国の防衛に多大なる貢献が期待されます」

というアナウンスが行われました。

自衛太皷の演奏が終わった後、中央に太鼓セットが残り、
空自音楽隊とのコラボ演奏が始まりました。


太鼓の総本山となる北海自衛太皷がその役を果たすのは当然ですが、
空自のステージということで、入間修武太鼓の奏者も加わっています。

太鼓は宮崎駿監督映画「もののけ姫」の戦闘シーンに使われた
久石譲作曲、

タタリ神

から始まりました。

久石譲のオリジナルスコアには和太鼓が指定されています。

『タタリ神』もののけ姫より

パリ公演でもちゃんと和太鼓が登場しています。
音楽まつりでの演奏はこのためにアレンジされたものですが。

自衛太皷を用いた導入は意外で、今年は趣旨替えをしたのかな?
と思ったら、その次からおなじみ白と青の衣装が登場。

同じ宮崎映画の「天空の城ラピュタ」のファンファーレ、

「ハトと少年」

に乗せて二人のカラーガードが白い旗を靡かせます。

どういう基準で選ぶのかはわかりませんが、カラーガードは
音楽まつりでの空自のシンボル的存在です。
毎年、北は北海道から南は宮古島まで、全国の航空自衛隊基地から
選ばれたたった20数名が、この音楽祭のステージを飾ります。

選考の方法はわかりませんでしたが、きっとオーディションとか
選考会とかを経て決まるんではないでしょうか。

左はソロでファンファーレを演奏するトランペット奏者。
トップを飾ったカラーガードのうち一人は、どうやら
体操部出身者ではないかと思われます。

左手に旗を持ったまま残りの片手をついて回転。
バク転ではありませんが横転でもありません。

やったことがないからわかりませんが、多分旗を持って
回転するのは持たないより難しいと思います。

主人公のパズーが城壁の上でトランペットを吹くシーンの音楽です。

メロディは原曲とは少し面持ちの違う行進曲風に代わり、
これも空自のシンボルであるストレートラッパ隊が登場。

ストレートラッパは装飾用のバトンのようなラッパのことで、
この女性演技隊をこのように呼んでいます。

ちなみに今回こんな入札情報を見つけました。4年前ですが。

航空自衛隊ストレートラッパ隊の衣装外

これも入札して外注しているんですね。
入札を執り行っているのは市ヶ谷なので、普段この衣装は市ヶ谷に
格納されているのかもしれません。

にしても衣装「外」ってどういう意味なの。

 

このマーチングの間、後ろのスクリーンにはずっと
ブルーインパルスの演技が映し出されています。

そうか、彼女らの衣装はブルーインパルスを表していたんですね。

「ゴンドアの思い出」で静かなメロディをリコーダー(多分)のソロが拭いた後、
曲は「ロボット兵」に代わり、ただならぬ騒然とした雰囲気に。

この時、後ろのスクリーンではスクランブル発進するF-15の様子が
緊迫感のある雰囲気に乗って映し出されていました。

全体の照明は赤、カラーガードが使用するフラッグも赤基調のもの。

白とブルーの爽やかなひらひらした雰囲気だけが空自ではない!
と言わんばかりの変化に満ちた構成です。

「天空の城ラピュタ」という題材そのものが空自にぴったりですし、
その中から短時間に次々と移り変わるアレンジにも感心しました。

ストレートラッパ隊の二人がその中を決然と歩んでくるこの部分のクライマックス。
この二人は戦闘機、そしてスクランブルで国籍不明機は撃退されたと(たぶん)

この後はバンドが作る円の中を白と青がひらひらと踊りまくります。

今年は下手なことをするのを一切やめ、プログラムオートにして
シャッター速度もISOもカメラさんにお任せしたのですが、
シャッター速度は1/30〜1/250の間で適度にブレてくれました。

わたしのようななんちゃって一眼持ちには実にありがたい賢さです。

これなどピントが甘すぎるとは思いますが、おかげで
ストレートラッパの回転軌跡が綺麗に出てくれました。

ヘリコプターの写真を撮る時、ローターの回転を撮るために
シャッタースピードをあえて落とすようなものですね。

この時の曲の名前がどうしても出てきません。
うちで引いている有線の「どんぐりの森のメロディ」(笑)というチャンネルを
ずっとつけていたらそのうちわかると思うのですが。

ピアノソロで「君をのせて」が始まりました。
「天空の城ラピュタ」の音楽について詳しくなくとも、
この曲を耳にしたことがないという人は少ないのではないかと思います。

バンドが風車の形を象り(難しそう)それが回転するステージを
黄緑色の旗を持った二人が縦横無尽に走り回ります。

ところで、この部分のピアノを弾いていたのは
空自の歌手森田早貴一等空士だったのに気づかれましたか?

彼女のプロフィールを改めて見ると、

「ヴォーカル&ピアノ担当」

ということで、どちらも専門として音楽隊に所属しているようです。

卒業大学は愛知県芸、つまり横須賀音楽隊の中川麻梨子三曹と同じ、
(中川三曹は確か大学院も出ていたと思いますが)
専攻は声楽なのでピアノは副科ですが、お上手だったんでしょうね。

音楽大学というところは、たまに副科も本科並みに上手い人がいるものですが。

そういえば東京音楽隊の新しいキーボーディストも確か県芸だった記憶が。
県芸、何が起きているのだ・・・。

「君を乗せて」はセンチメンタルなマイナーのメロディで始まりますが、
「さあ、出かけよう」の転調の部分から雰囲気が明るく
前向きなものに変わります。

これは、やはり宮崎作品「母を訪ねて三千里」のテーマソング、
「さあ、出発だ 今 日が昇る」の部分と同じコンセプトです。

つくづく「さあ、」って転換に便利なフレーズね。

ここで一瞬ですがカンパニーフロントを持ってくるのが心憎いじゃないですか。

後はクライマックス一直線で、今年も空自らしいスマートな中に
結構硬派なマーチングで魅せるステージが終了しました。

おっと、まだ終わってなかった。

最後に飛行機の形を作って「空の精鋭」を後半だけさらっと演奏。

いつもの「全員の上をブルーインパルスが航過」という演出はなくなり、
その代わりこの「航空機」が滑走路を飛び立つ様子が投影されました。

あのフラッグが通り過ぎる「お約束」もいいものでしたが、
この演出もなかなかスマートな空自らしくて(・∀・)イイ!!と思いました。

空自中央音楽隊が捌けると今回会場に最初から鳴っていた
「藁の中の七面鳥」(なぜこの曲?と思ったけど最後で謎が解けた)
のメロディの中、陸自の支援隊が赤絨毯を敷く作業に入りました。

これも音楽まつりの恒例として、裏方である支援隊が紹介されるのです。

まるで演技のように全員の動きは美しく揃っています。

この絨毯敷き作業も、練習やリハーサルを行うのでしょうか。

「立場は違えどこの音楽まつりに挑戦する思いで
この音楽まつり進行を陰で支えてまいりました」

紹介のアナウンスにもさりげなく今年のキーワードをちりばめて。

東部方面隊から編成される演技支援隊、敬礼です。
音楽まつりというイベントが、そもそも陸自が毎年主導で行な割れているそうです。

演技支援隊を指揮するのは第32普通科連隊の二等陸曹。

彼らが聴衆に敬礼すれば、音楽まつりはいよいよ最終章を迎えます。

 

続く。

 

 

「ふり向けばきみがいる」〜平成30年度 自衛隊音楽まつり

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各章毎にお話ししてきた今年の自衛隊音楽まつりも、ついに
最終回を迎えました。

演技支援隊が隊長の号令により駆け足でステージを去った後、
アナウンスは、次の章の最初の曲が、今年行われた冬季オリンピックの
フィギュアスケートで金メダルを取った羽生結弦の曲、

SEIMEI

であることを告げ、全体指揮の空自中央音楽隊長、
松井徹生二等空佐が登場しました。

本日のテーマを羽生選手の終わりなき挑戦と結びつけています。

演技曲の通り、太鼓と横笛(鞨鼓と篳篥?)をイメージする雅楽風な出だしを
ピットに上がった中央音楽隊の奏者が演奏します。

「SEIMEI」は楽曲の名前ではなく、羽生選手のスケートプログラム名で、
陰陽師「安倍晴明」のことだそうです。

(なるほど、それで羽生選手はそういう衣装を着ていたのか)

音楽は夢枕獏原作の映画版「陰陽師」のサウンドトラックより、
楽曲を計7曲を繋ぎ合わせて、羽生選手が編曲を自分で行ない、
このタイトルも自らが名付けたということでした。

題名をローマ字にしたのは

「外国人にも親しみやすいように、また『せいめい』という
日本語の単語は複数あるため、それぞれの意味を込めたかった。」

・・・・「生命」「晴明」「姓名」「聖名」、

こんなところでしょうか。

Yuzuru HANYU 羽生結弦 2015-2016 FS - SEIMEI

いやー、何度見てもすごい。羽生選手はまさに日本の誇りですわ。

「SEIMEI」のテーマに乗って行進してくるのは
陸上自衛隊第302保安警務中隊。

上下青と白を組み合わせた制服での登場です。
この楽曲の和風の(しかし今や世界的に認知されている)メロディと
保安警務中隊の姿のなんとしっくりと合うことよ。

儀仗隊が赤絨毯を挟んで向かい合うや、本日出演部隊の
国旗を掲げた四名、そしてそれを警衛する儀仗隊員が
奥のステージから登場し正面に向かって進んでいきます。

正面より向かって左側の位置に整列し、最終章の間
彼らはここで国旗を守って起立し続けます。

全出演部隊がステージに整列を行いました。
中央に二手に分かれた空自中央音楽隊、その両側に海自と陸自、
防衛相直轄の音楽隊が、そしてその外側には外国の軍楽隊が並びます。

陸海空自衛隊の専属歌手五名が一列に入場してきました。

陸自中央音楽隊が参加した軍楽吹奏楽の祭典、
ロイヤルエジンバラ・ミリタリータトゥで振袖を着て
「アニーローリー」を日本語で歌った松永美智子三等陸曹(左)
そして先般行われた陸自観閲式では君が代独唱を行い、
CDもリリースした鶫真衣三等陸曹。

ところでこのエジンバラでのミリタリータトゥがすごく良かったので
youtubeを上げておきます。

陸上自衛隊中央音楽隊 エディンバラ・ミリタリー・タトゥー・2017

陸軍分列行進曲に続く「アシタカ攝記」、こういうのに弱いわたしは
冗談抜きで(´;ω;`)状態になってしまいました。

マーチのリズムで松永三曹が歌い上げる「アニーローリー」は圧巻。
転調してからのカンパニーフロントではまた涙が・・・。

一番最後の「アシタカ囁記」に戻るところで形作っているのは
侍の兜ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 五人のアカペラによる「ジュピター」が始まりました。

真ん中でリードしているのが空自中央音楽隊の森田早貴一等空士。
森田一等空士が艶やかな振袖姿で「ふるさと」を歌っている、
ドイツでの国際軍楽祭の映像もどうぞ。

航空中央音楽隊 ドイツ国際軍楽祭

和太鼓演武で横笛を吹いているのは、冒頭のフルート奏者(多分)です。

「果てしない時を超えて 輝く星は〜」

森田一士のソロ。

各音楽隊が海外での軍楽音楽祭に出演する際、歌手が着物で
歌を歌うというこの流れに先鞭を付けたのも、東京音楽隊
三宅由佳莉三等海曹の功績と言えるのではないでしょうか。

というわけで、これも当然張っておかなくては。

【音楽】海上自衛隊 東京音楽隊 バーゼル・タトゥー2016 参加記録

最後にも三宅三曹は「アメイジング・グレイス」を歌っています。

2コーラス目からは全員が参加しての「ジュピター」。
海外のバンドの人たちは、どうしてホルストの「木星」に
日本語の歌詞が付いているのだろう、と思ったかもしれません。

今年は横須賀音楽隊の中川麻梨子三曹(中央)が参加して
三宅三曹とのデュエットを聴かせてくれました。

 

そして「ジュピター」エンディングからカウントが入り、曲は

「みんながみんな英雄」

に。

メロディは何のことはない「藁の中の七面鳥」(Turkey In The Straw)です。
会場で最初からずっとこれが鳴っていたわけがわかりました。
(このBGM演奏、明らかに途中間違えていたけど何だったんだろう)

何と最近の日本のポップスシーンではホルストなどのクラシックのみならず
こんな曲までカバーしていたということを初めて知った次第です。
きっとアメリカ陸軍と海兵隊の人たちは「なんで?」と思ったと思う(笑)

 

だいたいわたしなど「ターキー」と聞くと、パブロフの犬的反射で
ミッドウェイ海戦という言葉が真っ先に浮かぶというくらいで、
こんな曲、高校の時のフォークダンス(なんてのがあったのよ)
以来、まともに初めて聞くような気がします。

フォークダンス・・・。

男女が◎状態で逆回転しつつ侵攻(パートナーチェンジ)していくので、
気になる異性と手と手が触れ合う瞬間をドキドキして待ったり、そうかと思えば
ギリギリで音楽終了してしまったり、悲喜こもごもだったもんですよ。
同級生が子供にしか見えなかった生意気高校生のわたしには無縁の話でしたが。

そんな太古の話はともかく、この曲、AIさんという歌手が歌ってます。
わたしはこの人のことも全く知らず、

「エーアイ」

と読んでいました。それは人工知能や。

手拍子を会場に促すカラーガード、ストレートラッパの女性演技隊。
バグパイプにボンバール(ブルターニュ・オーボエ)、太鼓という
特殊な響きを持つフランス軍楽隊所属ラン=ビウエのバガドウには
ソロでメロディーを取っていただきました。

しかしバガドウの「藁の中の七面鳥」、妙にしっくりくる(笑)

自衛太鼓の皆さんも、決められた振り付けを真面目に行なっております。

ラン=ビウエの人たち(フランス人)を見て思うのは、日本人や
アメリカ人ならおそらくそうするであろう、こういう時空気読んで
楽器をやっていなくとも楽しそうなふりをするという忖度はあまり
彼らの文化にはないのではということです。

総員が楽器をやっている間、実に手持ち無沙汰な顔をしていました。

陸自の旗振りお嬢さんのことを紹介する時に「カラーガード」と
書いてしまいましたが、実はこれは空海(特に空自)の名称で、陸自では
「フラッグ隊」と称するということを検索していて知りました。

謹んで訂正させていただきます。<(_ _)>

空自中央音楽隊カラーガード隊。

姫路白鷺太皷とアルプス太皷、支援隊の迷彩服も見えます。

ところで、彼女らが顔をあわせる時にはやはり同じ三曹でも
「先任」とかがあるわけで、ということは階級的に上下があって、
どちらが先に敬礼するとか決まってるんでしょうか。

彼女ら実は「軍人」なんですよね。
松永・鶫三曹は「サージャント」、
三宅・中川三曹は「ペティ・オフィサー・サードクラス」
そして森田一士は「エアメン・セカンドクラス」なのです。

「みんながみんな英雄」

うん、確かに皆すごくいい顔してる。

知りませんでしたが、これAUのCMに取り上げられてたんですね。

「みんながみんな英雄」 フルver AI【公式】

ところでなんでガラスの靴やねん。(つっこみ)

アメリカ陸軍軍楽隊、そして東北方面並びに西部方面音楽隊の皆さん。

彼女に密着したドキュメンタリーも制作されるほど、今や大人気の鶫三等陸曹。
中央音楽隊ではなく中部方面隊音楽隊の所属なので、観閲式で
君が代を独唱したのは「大金星」というものではなかったでしょうか。

歌手全員が専属の専門職となった今回、相対的なレベルが
いやが応にも上がったといっても過言ではないと思います。

技量もさることながら歌手としてのステージングもプロならでは。

ところでふと気になったのですが、彼女らは退官までずっと
現役歌手でいるという契約なのでしょうか。
確か音楽隊員は階級に関係なく60歳が定年だったはずですが。

 

シンガポール軍楽隊は演奏中。ラン=ビウエは待機中。
フランス海軍の水平の帽子に付いているボンボンが、

「狭い船内で頭をぶつけても怪我しないように」

であるというご報告は目から鱗の情報でしたが、それでは
手前の海自カラーガード隊の帽子のような「長い羽飾り」は
何か由来があるのでしょうか。

偉い人(天皇陛下などがこんなのを被っておられた記憶が)が
馬車に乗ったりするときに頭をぶつけないため・・・とか?

ここまで壮大に演奏されると「藁の中の七面鳥」って実はいい曲だったんだ、
と思わされてしまったこの日の最終章でした。

特に細かいところをいうと、

「走って転んで寝そべって」

という歌詞の部分、原曲はコード進行はトニックのまま動きませんが、
このアレンジではE♭メジャーで

Cm7-Gm7-A♭△-Adim

と細かく分割してあるのがちょっとした「仕掛け」だと考えます。
AIさんの原曲がそうなっています。 

歌手は皆さんお綺麗ですが、いつ写真に撮っても
歌っている姿が絵になっている松永三曹。

この二人も笑顔が自然で素敵。
中川三曹は今回特別参加という形でしたが、音楽まつりのステージでも
その圧倒的な歌唱力を遺憾なく発揮しておられました。

いや、三宅三曹とともに、圧倒的ではないか我が軍は(笑)

というわけで、曲が終了しました。

国旗を先頭に全出演部隊の退場です。
この時の音楽は、

「栄冠は君に輝く」

古関裕而大先生が作曲されたところの高校野球のテーマであります。
昭和23年、戦後学制が改定されて、この年から

全国中等学校優勝野球大会」が「全国高等学校野球選手権大会」に

改正されることになったことをきっかけに生まれた曲だそうで、
もう70年間甲子園の象徴となっています。

皆が楽しげに手を振る退場において、第302保安警務中隊だけは
きりりと表情を引き締めたままいつも通りの端正さを崩さず。

右と左手に退場していく音楽隊、そして歌手の皆さん。

アメリカ海軍、陸自方面隊音楽隊。

海上自衛隊東京音楽隊。

防衛大学校儀仗隊メンバーは両手バイバイで退場。

ドラムラインにいた女子学生の姿も見えます。

これを最後に引退する4年生の皆さん、悔いのない武道館でしたか?

シンガポール軍楽隊のみなさん、紅蓮の炎、良かったよ!

さりげなくみんなと一緒に踊っていた演技支援隊。

オープニングと同じ形式で行うエピローグは再び消灯ラッパです。

最終章を指揮した空自中央音楽隊隊長の敬礼。
スポットライトが消えると、本当の本当に音楽まつりは終了です。

会場外の地本コーナーには東京地本マスコットの
トウチくんが熱心にお仕事をしていました。
去年はこれに本部長が入っていたということで、
一部騒然となったものですが、今年はどうでしょうか。

先日ある会合で自衛官が、

「今は世の中が景気が良く(仕事があるので)自衛官の募集が厳しい」

と本気モードで嘆いておられました。
が、この音楽まつりはこれから世の中に出ていく青少年に
自衛隊に興味を持ってもらうための最大の広報イベントでもあります。

今年も、この期間に何人もの若い人たちが、自衛隊という世界に
「挑戦」する気になってくれたことを心から祈りつつ、
本年度の自衛隊音楽まつりの報告を終わります。

 

 

 

うさぎの国のエリス〜瀬戸内海大久野島 毒ガス製造工場跡

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週末、わたしは呉地方総監部で行われた
「海将を囲む会」のご招待を受けて行ってまいりました。

諸般の事情によりそのご報告は10日ほど後にさせて頂きますが、
そのお知らせを頂き、またしても呉に赴くための計画を立てているとき、
わたしはものすごくいいことを思いついてしまったのです。

「海将を囲む前にうさぎに囲まれるというのはどうだろうか」

コメント欄で話題になった「うさぎの島」こと瀬戸内海に浮かぶ
小さな島、大久野島は呉より広島空港から近いのです。

というわけで、思い立ったが即実行、直前になって大久野島内にある宿泊施設、
大久野島休暇村の予約を取り、朝一の飛行機に乗りました。

なんども竅の飛行機に乗っていますが、このマークを見たのは初めて。
エンジンはロールスロイスだったんですね。

空港で車を借り、ナビを入れてたどり着いたのは忠海港。
最近観光客が激増しているのか、このような案内所がありました。

中でフェリーの切符を買おうとすると、

「大久野島は島内車で走れませんよ」

「車は停めておけるんですね。休暇村までは」

「シャトルバスが出てます」

「じゃ車で行きます」

いつも持ち歩いているカートでフェリーに乗るのはちょっと、
と思いそう告げたのですが、

「フェリー代がかかりますよ?」

そりゃ普通かかるだろう。
どうも、ほとんどの人は忠海に車を置いていく模様。
しかしわたしは何とかして車で行かせまいとするおばちゃんを振り切り、
2000円くらいのフェリー料金を払って車で行くことにしました。

「囲む会」出席のため着替えのガーメントもあったりして、
とにかく荷物が多かったのです。

車なしで行く人たちのための小舟に乗り込んでいくのは
何とインド人の一家。
お父さんは子供達に全て日本語で話しかけていました。

ホワイトフリッパー(白いヒレ)という名前の船です。
フェリーが来るのに30分くらいここで待ちました。

フェリー到着。
「忠海ー大久野ー盛」とあり、本土と大三島をつなぐ便です。

乗り込むと係りの人に

「一番前に停めてください」

と言われました。
なんと、大久野島で降りる車はわたしのだけだったのです。
(この後一台バイクがきた)

ダッシュボードに「大久野」という札を置くように言われ、
デッキに上がっていると、何と5分も経たないうちに到着のお知らせ。
船着場に着いた後も目にも留まらぬ早業でブリッジが架けられ、
気がついたら大久野島に到着しておりました。

フェリー発着場はすでにうさぎパラダイスとなっております。
ここに来る人たちの目的はうさぎなんだね。

っていうかこの島にはうさぎと毒ガス工場跡しかないわけだが。

うさぎは人を見ると寄っていく習性が・・・ある訳ないだろ。
つまりここのうさぎは人に餌をもらって生きているらしいことが早くも判明。

休暇村行きのバスに乗り込むと、バスの運転手さんの上着が・・。
兎人と書いて「うさんちゅ」と読む。

ホテルのロビーには「うさんちゅコーヒー」もあり〼。

カフェも食堂も充実していますが、それもそのはず、
この島には食べ物屋さんというのは休暇村の中にしかないのです。

ホテルに荷物を預けて散策に出ましたが、チェックインの時

「禁煙お二人ですね」

「いえ、一人ですが」

「(一瞬の沈黙)」

やっぱりこんなところに一人で泊まる人って珍しいんですかね。
「囲む会」には合流する予定のTOですが、今日はどうしても仕事で、
結局わたし一人で来ることになっちゃったんだよう。

この沈黙に何か言わなければいけない気がしてつい、

「事情がありまして」

「はあ・・・・そうだったんですか」

いや、あまり深く考えないでね?

さあ、それでは気を取り直してうさぎに囲まれにGO!

ホテルの前にはすでにうさぎがよりどりみどり状態。
知らなかったんですが、うさぎって窪みに寝るのが好きなんです。

島のあちこちにはこのような窪みがあるのですが、これは
うさぎどもが落ち着くために掘りまくった穴。
見ているとあっちこっちで新しい採掘作業をしていました。

わざわざキャベツ持参でやってくる人たちもあり。

大久野島が昔毒ガス製造工場だった頃の遺跡が残っています。
防空壕を埋めた跡なのかな?などと思ったのですが・・・。


フロントで聞くと1時間あれば島内歩いて一周できるとのこと。
早速一周してみることにしました。

うさぎきたー。

ちょっと歩くと、うさぎが足元に走り寄ってきます。
フェリーの切符を売っていたところで、専用のうさ餌を売っていて、
観光客がそれを与えるほか、ボランティアがしょっちゅう訪れては
世話をしていくので、皆野生の精神を忘れたうさぎに成り下がっているのです。

そこで、わたしは

「5袋買うと1袋おまけ」

というセールス文句にまんまと乗って買った6袋のうさ餌のうち、
最初の一袋を最初に近寄ってきたうさぎに与えることにしました。

休暇村の隣には毒ガス資料館があります。
かつては村上水軍の末裔が住んでいたと言われ、明治時代には
4軒の家があるだけで全人口26人だった島は、
その後逓信省の灯台島隣、さらに日露戦争に備えた芸予要塞となって
島の各地に砲台が作られました。

そして、昭和4年以降は、大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造される
「地図から消された島」となっていたのです。

この資料館には島内に残されていた資料や写真、遺物が展示されており、
入場料は100円です。
館内は一切撮影禁止。
この訳がよくわからないのですが・・・著作権とかの問題じゃないだろうし、
小冊子も売っているのになぜ写真を公開してはいけないんでしょう。

ここで製造されていたのは

血液剤催涙剤びらん剤嘔吐剤

の4種類の毒ガスでした。
また戦争末期には風船爆弾の製造も行われており、館内には
その素材も展示されていました。

「戦争の悲惨さを 平和の尊さを 生命の重さを」

訴える平和の島、というキャッチフレーズは、経年劣化により
ほとんど肉眼では読むことができなくなっています。

決して間違いではないけど、実のところこういう左翼的ウェットさが
わたしはあまり好きではありません。
ただ淡々と史実を隠さずに展示するだけで十分伝わると思うのですが。

問題提起をするなら、展示物も海外の博物館のように写真公開可にするべきです。

中に展示しきれなかった毒ガス製造用の陶磁器器具が外に置いてありました。

例えば左奥は塩酸や硫酸のタンク、右側の孔のたくさん空いた円盤は
イペリット(ルイサイト、マスタードガス、日本ではきい剤)を作る
素材を塩素化する釜の蓋です。

毒ガス製造にはこのように薬剤の影響を受けにくい陶磁器が多く使われました。

ちなみに「きい剤」というのは文字通り「黄」のことで、
陸軍では当時、一般向けに

ちや(茶) 血液剤 シアン化水素(青酸) 
みどり(緑) 催涙剤 クロロアセトフェノン 
きい(黄) びらん剤 マスタード(イペリット)
あか(赤) 嘔吐剤 ジフェニルシアノアルシン
あを(青) 窒息剤 ホスゲン
しろ(白) 発煙剤 トリクロロアルシン

などと色の名前で毒ガスを呼んでいました。
このうち青と白だけは大久野島では生産されていなかった薬剤です。

島内の毒ガス製造工場で働いていたのは最盛期で2000人、
延べ6000人弱と言われています。
工場の資材などをすべて植樹で覆い隠していたため、
米軍の偵察機もここに軍需工場があるとは最後まで気づかず
結果として一度も空襲を受けることはありませんでしたが、
島内には防空壕跡が残されています。

この比較的大きな防空壕は「幹部用」ということです。

現地派遣の陸軍将校や工場幹部だけが使用を許された防空壕。

中はコンクリートのかまぼこ型でそのトンネル状の壕には土が被せられています。
内部は高さ2m、幅2m、長さ約5mと結構な広さでした。

地下に掘られた防空壕の反対側出入り口。
左右どちらからでも逃げ込むことができました。

ちなみに従業員の待避壕は、奇遇というのかタチの悪い冗談とでもいうのか、
今ここで生息しているウサギが自分用の穴を掘るように、
地面に1mくらいの穴をいくつか掘っておいて、万が一の時には
逃げ込んでから上に草木を被せることになっていました。

通称「たこつぼ」というこの退避壕、実際に空爆されていたら
ほとんど防御の意味をなさなかったに違いありません。

その前に工場が破壊されて有毒ガスが流れ出す可能性もありました。
何れにしても攻撃されていたら島は壊滅していたのです。

つまり島内の斜面に見られるこれらの石垣は、防空壕の跡などではなく、
昭和30年代にここをリゾート地にする計画ができ、
休暇村が建設された頃に斜面の補強のために作られたもののようですね。

今現在、この海岸は海水浴場になっています。
うさぎの島となったのは2015年からのことで歴史は浅いですが、
現に観光客のほとんどがうさぎをモフるためにきているので、
島の方も思いっきりうさぎをフィーチャーしています。

 

しかし、戦後この近海では、投棄された毒ガスのボンベなどを拾った
周辺の漁師が被害に遭い死亡するなどという事件も起こっています。

戦後、毒ガス工場の痕跡を消す作業はまず旧日本軍が行いました。
敗戦後一週間にわたって、周辺海域にボンベや製造機械を何でもかんでも
投棄したそうですが、中止命令が出ました。

10月に改めて占領国となったアメリカ陸軍の化学処理部隊がやってきて
ガスの一部と発射筒を焼却、やはりほとんどを海中投棄しています。

イペリットやルイサイトも瀬戸内海のどこかに投棄しようとしたのですが、
機雷の掃海作業が始まっていたため、それは断念したそうです。

ついで処理にやってきたのは中国・四国地方を管轄していたイギリス連邦占領軍でした。

アメリカ陸軍の少佐が指揮をとったこの作業は、瀬戸内周辺の毒ガスを集めて
焼却、土佐沖での海中投棄の後、島全体に次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)
を巻くというものでした。

この時、帝国人絹(帝人)はこの島にあった

「海水から塩を作る機器」

を帝人工場に転用する契約を結んだため、処理に参入して最前線で作業を行なっています。

この時指揮を執ったアメリカ陸軍の「ケミカル・エキスパート」、
W・E・ウィリアムソン少佐(右)は作業をするうちルイサイトに被災し、
体調を崩していっとき戦線離脱しましたが、

「イペリット遺棄作業はイギリス連邦占領軍の敵兵器処理班の手に負えない」

という考えから(信用してなかったんですねわかります)
回復してから復帰して作業をやり遂げています。

さて、こんな感じで遺構を眺めながら、そして道中好みのうさぎがいたら
バッグに隠し持ったうさ餌をやろうと思い、一本道を歩いて行くことにしました。

すると見るからに美貌の(うさぎにも美醜あり)白うさぎが出てきたので、
餌をまいてやりました。

すると後ろから大人うさぎが突進してきました。
仲良ししているのではなく、大人が子供の餌を横取りしようとしているのです。

穴掘り作業中のうさぎ。
ところでうさぎの目ってこんな怖かったっけ?

船が通行する大三島との海峡を望む海岸には、
スコープを覗いて船の速度を調べる方法が書いてありました。
大三島の端から端まで通過する時間を計り、距離とされる
850mを秒で割って時速を出す。

よっぽど暇ならやってみてもいいけどなあ・・・。

この最後に書いてある1999年のギネス記録によると、
世界で最も速い船の速度は時速511kmってのがすごい。
新幹線の二倍って、これなんの船?

海岸の次にはキャンプ場がありました。
キャンプ場には柵があって中にうさぎが入れないようになっています。
テントの周りにうさぎがうろうろしていると可愛いですが、
やっぱり落とすものを落として行くのでね。
(ただし兎の糞は外気にある以上ほとんど無臭、踏んでも問題なし)

このうさちゃんはキャンプ場外のバーベキューテーブルの近くで寝そべっていました。

フェリー発着場まで来ると、高校生の集団とすれ違いました。
近隣の高校が校外学習とかに来ているんでしょうか。
その辺にたむろってうさぎを構い出します。

その中で女の子に「可愛い〜!」と言われまくっていた白うさぎ。
うさぎは白くて当たり前、なんですが、なぜかここでは希少種です。
確かにこの子は茶色や黒のアナウサギとは別の種類で、オーソドックスな
赤い目の「普通のうさぎ」でした。

アナウサギは実は侵略的外来種ワースト100の一つだったりします。

ところでてっきりわたしはここにうさぎがいる訳を、

「毒ガス工場で実験用に使われていたうさぎの生き残り」

だと思っていたのですが、実は実験用のうさぎは戦後、
おそらく毒ガス処理の際に殺処分されてしまい、生き残りも
当時の食糧難のあおりを受けて人々に食べられてしまいました(-人-)ナムー

現在ここにいるウサギは、1971年当時ここにあった小学校で
飼われていたうさぎ8羽の子孫だと言われています。

国民休暇村になった時、マスコット的な動物を入れることになり、
サルやシカなどが検討されたそうですが、結果この8羽を祖として、
現在では鼠算式に増えた結果、700羽になっています。

フェリー乗り場までやってきて自分の車の横を通り過ぎたら
下でうさぎが寝ているのに気がつきました。
明日車を動かす時に下にうさぎがいないか気をつけよう、
と考えながらわたしは島を海岸に沿って歩いて行きました。

 

続く。

 


米軍進駐の事実をなぜ伝えないのか〜うさぎと毒ガス工場跡の島 大久野島

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広島県は瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大久野島が
「うさぎの島」として脚光をあびるようになったのはごく最近、
2015年頃からのことです。

前回も書いたように、うさぎは昔からいましたが、
近年大久野島は完全に寂れた観光地となっていたのです。

わたしも今回初めて休暇村という名前のホテルに泊ってみて、
明らかに昭和30年代のセンスが随所に窺える建物内部、
昔は大学のサークルが合宿などで訪れた名残らしいテニスコート、
温泉浴場の天井がカビで黒ずんでいるなど、
没落の痕跡が隠しようもなく残っているのに気がつきました。

テニス合宿をあてにしたらしい人工芝のコートもご覧の通り。

この島が「うさぎ島」として注目され、今や海外からの観光客も訪れる
ちょっと特殊な観光地になったきっかけはやはりソーシャルメディアの発達で
うさぎだらけ画像が世界にばら撒かれたことにありました。

卯年だった2011年にメディアが紹介し、旅行会社が商品を売り出したこと、
(卯年にうさぎに会いにいく旅とかなんとかいうツァー)
海外のメディアが取り上げたことでちょっとしたブームが起こり、
外国からも物好きな人たちが訪れるようになったのです。

わたしが訪れたこの時も、アジア系はもちろんのこと、
欧米系、インド系などの海外からの客の姿が見られました。

この動きを受けて、島は少しずつ観光客向けに再整備を行なっています。
ブルーシートの向こうは護岸工事中。
そのほかにも最近整備されたらしいところ(沿岸線中心)がありました。

さて、わたしは島を左回りに一周することにしたわけですが、
フェリー乗り場を通りすぎて数分行くと今度は桟橋が現れました。

現地の看板も新しいのに変えていただけると助かるのですが・・・。

雨ざらしになって劣化した画面が見にくいですが、これは
写真の桟橋を逆の角度から上っていく人たちの後ろ姿が写っています。
大久野島に毒ガス工場が開所したのは昭和4年でした。

開所式に出席する陸軍軍人の後ろ姿、堵列を作って
敬礼しながら来賓を迎えている兵たちの姿が確認できます。

この桟橋は、日本が日清戦争後、来るべき日露戦争に向けて
対ロシア海軍用に急ピッチで島を要塞化した時に整備されました。

毒ガス工場開所の日はこのように人が上陸していますが、
その後はほとんど資材の陸揚げのためにしか使うようになりました。

ただ、この桟橋の位置は本土に面していて良く見えたので、
毒ガスの材料など秘匿しなくてはいけない搬入作業のために
大三島からも本土からも見えない位置に桟橋を建設しています。

桟橋から上がっていくと、まっすぐこのトンネルをくぐる道に繋がります。
建物が島の外側から見えないように前部を小高い丘で覆い隠しているのです。

トンネルをくぐろうとしたら門番のように黒いうさぎが出迎えてくれました。

「ククク・・ウェルカム・トゥ・ザ・ダークサイド」

みたいな?

説明によるとここには発電所があったということですが・・。

トンネルの中には「喫煙許可」の文字があり。

「落書スルコト」というのはおそらく「禁ズ」という赤文字が
消えてしまったのだと思われます。

よくよく見ると、「落書スルコト」の下に、うっすらと英語で

「SMOKING PERMITTED IN THIS AREA」

と書いてあるのが見えるではないですか。

わたしの想像ですが、この喫煙許可のサインは、終戦後毒ガス処理に進駐した
アメリカ軍とイギリス連邦軍、そして日本人作業員が
その移住場所として発電所を利用したときに書かれたのではないでしょうか。

ガス処理という作業上、建物内でも喫煙は固く禁じられていた彼らが
一服できる唯一の場所が空気の貯まらないここだったのでは・・・・。

「おおお〜・・・・」

思わず声が出てしまったほど見事な廃墟。
窓ガラスのほとんどは割れて逸失し、ドアも残っていません。

そしてわたしの目は壁にうっすらと残る

「MAG2」

の文字に吸い寄せられました。

「MAG」とは間違いなく軍用の弾薬庫を表す「マガジン」。
やっぱりここは米軍の弾薬庫になっていた建物なのです。

それと、2があるってことは1もあるよね。どこか別のところに。

わたしはこれを見るまで、アメリカ軍がここを接収後、
昭和30年まで軍用施設にしていたことを全く知りませんでした。

そして例の左翼くさいメッセージを掲げた資料館を具に見学した時、
わたしはなんとなく胡散臭いものを感じたのですが、ここにきて
その正体が見えてきた気がしたのです。


資料館では、元の所有者こそ日本軍だけど、結論として誰が棄てたか
はっきりしていない中国の遺棄毒ガスによる人的被害だけは
妙に克明に展示をしてありました。

それはまるで大久野島の毒ガスだけが中国に遺棄されたような書きぶりでした。


ところで中国での遺棄された毒ガス問題ですが、

中国の毒ガスについて、誰が遺棄したのか? 西村眞悟

西村氏の説によると、当時の村山政権(プラスあの河野外務大臣)が
事実を明確にしないまま政治利用して中国に媚びた、というものです。

その考え方の是非はともかく、わたしとしては、
ここ大久野島の資料館は日本が加害者となる問題にはやたら熱心な割に、
アメリカ軍がここに貯蔵した爆弾を朝鮮半島で使用していた、
という史実に全く触れていないということに意図を感じました。

つまり、アメリカ軍の軍事利用などは

「日本が悪うございました。懺悔いたします」

という資料館のテーマから外れるから触れる必要はない、ってこと?

 

辛うじて木製のドアが形をとどめている例。

三階建ての高さがありますが中は全くの吹き抜けとなっています。

発電所として使われていたときの内部の様子を見ると、
当時からガラス窓はほとんどが割れていたらしいことがわかります。

明治時代、あるいは毒ガス製造し始めた頃建てられた普通の建物から
発電所になった1929年の段階で床を取り去ってしまったのかもしれません。

この写真に写っているディーゼル発電機は重油を燃料にしたもので、
全部で8基設置されていたということです。

あれ?立ち入り禁止のはずなのに内部は落書きだらけ・・。

呉高専の古川さんとか、広島県三原市にある益谷建設(株)の
社員さんなんかが立ち入り禁止の構内に入って落書きしたわけですね。

後世に馬鹿を晒してどうするよって話ですが。

ところでこの「広三塗装」という文字の部分見ていただくと、
「EXIT」が「非常口」より上に書いてある、
明らかに進駐軍時代のペイントがうっすら見えます。

発電所の敷地内にあった蔦の絡まる小さな建物。
何に使われていたものかは説明がありませんでした。

金属が腐食して外れてしまった窓枠がなぜかぶら下がっています。
肉眼で見ただけではどうしてこんな状態なのかわかりませんが、
写真を拡大してみたら、内側から窓を開ける支え棒だけ残っているためと判明。

こちらも同じ仕組みで落ちずにぶら下がっています。

島内のそこここにはボランティアの人たちが用意したらしい
うさぎ専用の水飲み桶がありました。

その一方、行政側が立てたらしい

「夏は蚊が発生するので水は置かないで」

という立て札もあったのがなんとも不思議です。
もし水飲み場を無くしてしまったらうさぎは川も池もないこの島で
どうやって水を飲むのか、って話ですよ。

ボランティアは蚊が発生しないように毎日水を取り替えていたのかな。
どちらにしてもそういう活動をボランティア任せにせず、
もう少し行政の方でなんとかするべきなんじゃないのかしら。

うさぎあっての大久野島なんでしょう?

山頂や火薬倉庫に続く参道はことごとく通行止めとなっていました。
あとでホテルの人に聞いてみると、水害発災以来、環境省の指示で
安全調査が済むまで立ち入り禁止となっているとのことでした。

山頂の中部砲台跡、火薬倉庫、展望台。
これらを見ずして帰って来なければならないとは・・・・。

もう一度行く理由ができてしまったじゃないかー。

海岸に沿った岩壁の上を通る道は舗装されています。
あまり人通りがないのですが、ここのうさぎたちも近づいてきます。

違う毛色のうさぎが四種揃って撒いた餌を食べているところを上から。

人を見ると逃げるうさぎもいます。
餌はどうしているんだろう。

人情として、人通りの多いところより、こんなところで会ううさぎにこそ
餌をあげたいと思うのですが。

そういえば夏目漱石の「三四郎」にそんなエピソードありましたよね。

「乞食もこんな賑やかなところにおらず、
山中の寂しいところにいたら可哀相に思って皆ものを恵むだろうに」

「その代わり1日待っていても誰も来ないかもしれない」

みたいな。

ツーフェイスうさぎ。

「このこ靴下穿いてるね^^」

とみんなに餌をもらっていた灰色うさぎ。

島の北部の高台に到着しました。
ここには北部砲台観測所跡があります。

加農砲、というのは「キャノン砲」のこと。

斯加式十二糎速射加農砲(しかしきじゅうにせんちそくしゃかのん)

は帝国陸軍が1890年から輸入したシュナイダー製砲で、

斯式=シュナイダー式 加式=カネー式

という意味です。
シュナイダー社のギュスターブ・カネーが開発したので
斯加式、というわけですね。

ちなみに山側の地下兵舎跡付近も立ち入り禁止でした。

地図によるとこれが砲側庫。

砲側って何かしら。
陸自の装備に「87式砲側弾薬車」なるものがありますが、
弾薬と人員を運ぶというものなので、もしかしたら砲員のこと?

中はドームになっていて、天井に空気穴が空いています。
雨水が入り込むので、少なくとも弾薬庫ではないと思うのですが。

斯加式十二糎速射加農砲跡。
地面には、砲座を移動させたらしいレールの跡も見えます。

アメリカで砲台跡を今年たくさん見てきたわたしですが、
どうして日本にはこういう遺跡が残っていないのだろう、などと
思ってしまってすみません。

立派な砲台跡がほとんど手付かずで残っているではないですか。

こんなところにもうさぎ穴が(笑)

芸予要塞として砲台が稼働していたのは22年間です。

廃止の理由はまず要塞砲の機能が向上して射程距離が変わったこと、
第一次世界大戦で初めて戦争に航空機が登場したことにより、
国防方針が変更になって新たに大分の豊予海峡に要塞ができたことでした。

大正13年(1924年)、芸予要塞は一度も用いられないまま廃止となりました。

北端を歩いていると、うさぎがはっとこちらに気づき・・・、

早速駆けつけて靴を舐めます(文字通り)
そうか、そうまでして人間から餌が欲しいか!

駆けつけてきた一族の中に黒うさぎの双子がいました。
うさぎの家族意識とか対兎意識ってどんなんなんだろう。

群で暮らし集団行動を取ると言っても、実はうさぎ、
結構縄張り意識が強く、親族以外のうさぎに対しては
あからさまに敵対意識を持って攻撃もするんだとのこと。

道の脇にこんな感じのものがゴロゴロしてるんですが、これって
毒ガス作っていた施設の一部なんじゃないのかしら。

 

 

続く。

 

島は完全に無毒化されたか〜広島県 大久野島

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週末、阪神基地隊で行われた恒例餅つき大会をちょっと覗いてきました。

その時、たまたま基地隊司令ご夫妻との話題が大久野島になったのですが、
司令夫人が幼い時、何かのきっかけで大久野島に遊びに行こうとしたら、
お祖母様から

『あんなまだ毒ガスの残っているところに行くものではない!』

と断固として止められたということを聞きました。

また、その日ご紹介頂いたあの『J-Navy World』のHARUNAさんも、
その時同席しておられて、広島在住経験者としておっしゃるには

「あそこが観光地になってるなんて信じられません」

うーん、特に最近のうさぎの島というイメージ戦略を、
近隣の人々、昔から大久野島を知っている人はかなり奇異なことに思っている?

やはり大久野島=毒ガス島のイメージがあまりに強く、
特に司令夫人が小さい頃にはまだ汚染が明らかに残っていて危険、
ということになっていたのだと思われます。

「なっていた」じゃなくて実際そうだったんですけどね。

 

ところで大久野島について書いてすぐに、いつものKさんから、
大叔父に当たる方が彼の地に勤務していたことについて以下のメールを頂きました。

実は大叔父が戦時中配属されていました。
階級は曹長(私は遺品から軍曹だったのではないかと疑問を持っていますが・・)。
多くの戦友と同じぐ喉頭癌&肺癌で亡くなりました。
鼻のなかに穴が開いてこそ一人前と言われた化学班でした。
戦後の闘病だ大変だったようですが、
島内での待遇は良かったと聞いています。
直に聴く機会もあったのですが、此の頃は私もガキっちょでしたからね。

 

Kさんの大叔父さんとその戦友がそうであったように、
毒ガス製造工場で働いていた者の多くが同じ運命を辿りました。
疾病の90パーセント以上が気管支炎などの呼吸器疾患だったそうです。

 

戦後進駐軍は(その後武器庫として使うのが目的で)島内の
防空壕を密閉し、海水とさらし粉を注入、
毒ガスの腐食を促進して無毒化するという処理をしました。

wiki

この写真に写っているのはウィリアムソン少佐。
チューブでさらし粉を注入しているところです。

wiki

これは埋設前のあか箱(くしゃみ剤)の箱ですが、写真には
指揮をとったらしいオーストラリア軍人の姿が見えます。
前回、ウィリアムソン少佐は

「連邦軍には危険な薬剤の処理を任せられない」(`・ω・´)

といってガス剤被災の病気から回復するや現場に復帰した、
という話をしましたが、どうやら連邦軍はウィリアムソンのいない間、
他のものに比べると比較的被害の軽微な嘔吐剤については
埋めてはいおしまい、という結構いい加減な処理をしていたらしいんですね。

資料を見ると、休暇村オープン計画に際し行われた1961年の
自衛隊調査以来、2009年まで8回に渡って島内や近隣海域で
このあか筒が継続的に発見されていますし、1995年の調査では
環境基準を大きく超えるヒ素による土壌汚染が確認されているのです。

そしてそれは防空壕に埋設処理されたくしゃみ剤あか筒の化学物質が
腐食により土壌に流出したものではないかと言われています。

そりゃ埋めただけなら何十年も経てば土壌に流れ出しますわ。
司令夫人の「おばあちゃんの知恵袋」正しすぎ。

ちょ、ちょっと待って?
これもしかしたら中になんか埋まってたりする?
防空壕跡を掘り起こして処理したという話はないようだけど((((;゚Д゚)))))))

だいたい、今宿泊施設の土壌と水は本当に安心なの?

と、泊まってから心配になってしまった訳ですが(笑)
ご安心ください。
土壌の対策工事は1997年には終了し、周辺海水のモニタリングによると
ヒ素の存在は検出されていない上、休暇村で使われている水は全て、
船で島外から運んできたものを使っているそうです。
(ところで、あの『温泉』っていうのは一体なんだったのか)

 

実は、パイプで島まで水を送る事業を環境省が計画したこともあったそうですが、
2009年にあか筒が23本も島の北側に投棄されているのがわかり、
工事はこのために中止になってしまいました。

ここは1969年に海上自衛隊が近海を掃海した時の対象外区域だったそうです。

大久野島の西北端は地図で見てもお分かりのように、飛び出した
ツノ状の半島があり、その部分は立ち入り禁止になっています。

グーグルアースで確認すると砂浜には護岸後、テラスのような
階段のついたテラスのように整備された痕跡があります。
これも想像ですが、あか筒が見つかったため遊泳禁止とし、
この部分を資材置き場にしているのではないでしょうか。

島の西岸部分を「長浦地区」と言います。
ここには巨大な毒ガス貯蔵庫跡が残されています。

ご覧の通り、左右に3部屋ずつ、合計6つの縦長の区画がありました。

wiki

稼動時の同じ長浦貯蔵庫。
6つの区画にはそれぞれ縦に長い100トンタンクが収納されていました。

この「堅型毒物貯蔵槽」は直径4m、高さ11m、容量85トン。

写真は貯蔵槽を焼却する準備をしているところで、中の毒物を
抜き取った後、横に倒して天板を四角くくり抜いた様子です。

横倒しになっていて縦長の頭頂が見えているというわけです。

貯蔵庫のあったコンパートメントの壁はいまだに真っ黒です。
これはタンクと貯蔵庫そのものを火炎放射器で焼却処理した痕です。

wiki

ガスマスク着用の作業員が火炎放射器で建物を「滅菌」しているところ。
どうやらこれは発電所の建物ですね。

なるほど、それで発電所のガラスが一枚も残っていなかった訳がわかりました。
米軍はその後発電所をそのまま手を加えず武器貯蔵庫にしたのでしょう。

 

貯蔵庫跡から数分南に歩くと、毒ガス工場があった時代のトイレ跡があります。

ニーハオトイレじゃないので(日本ですから)昔はちゃんとした
個室になっていたと思われますが、一つの区切りがとても小さい。

中には入っていけなかったのでこれが限界でしたが、
便器の部分をアップにしておきます。
さすが陶器製の便器、完璧に原型をとどめているのに驚き。

通路反対側には男性用便器が並んでいた痕跡が。
左端に手洗い場がありましたが、どうしても写真が取れませんでした。

島内サイクルラリーという企画のために立てられた「クエスト」。

この大久野島は「毒ガス工場」ができるまでどんな島だったでしょう。

1、七戸の農家があった静かな島

2、700件の(原文ママ)民家があったにぎやかな島

3、海賊たちの秘密の隠れ場所

太古に遡れば、「3」も間違いではなかった時期があったようですが。

半分だけ埋められた状態の毒ガス貯蔵庫。
下の通路からはこんな角度でしか見ることができません。

かつての同じ場所、貯蔵庫内のタンクには、最も危険なイペリット、ルイサイトといった
毒ガス液が一つにつき10トン、貯蔵庫全体で80トン貯蔵されていました。

この写真は、タンクが横倒しにされて焼却された後に撮られたものでしょう。

危険なため、ウィリアムソン少佐が「連邦軍には任せられない」として
自ら指揮を執った作業がこれだったと思われます。

ただし、最前線で焼却処分を行ったのは日本人作業員でした。

西側の海岸沿い一帯にはテニスコートがなんと14面も作られていますが、
そのうち稼働しているのはどう見ても2〜4面といったところでした。
人工芝を敷き詰めたコートなど見るも無残に腐食しています。

「Kさんの大叔父さんの話にも「待遇は良かった」とありましたが、
島内には日本庭園も作られていました。

石橋などの痕跡が山中に転がっています。

今現在、休暇村で働く人たちは基本的に船で本土や別の島から通っているようですが、
毒ガス工場当時、労働者たちは中で生活をしていたのでしょう。

余暇の時間を過ごす場所、せめてもの潤いは与えられていたのだと思います。

おそらく昔は鯉などがいたに違いない池も。

5月には藤の花が咲き誇るであろう藤棚、そしてこの右側には
当時からあったに違いない桜の大きな木が枝葉を延ばしています。

この前面には広大な空き地が広がっていますが、もちろんここにも
かつては工場がありました。

日本庭園跡近くを歩いていると、走り寄ってくるうさぎがいました。
足下で立って手をかけてくる様子は実にいじらしいものです。

最初からうさぎにやるつもりで新鮮なキャペツなどを
持ってくる観光客も結構います。

フェリー着き場で売っているうさ餌ではどうも水分が足りないので
彼らにはありがたいことに違いありません。

このへんにいたうさぎの一族は皆薄茶に白の柄でした。

休暇村の建物のすぐ脇に、三軒家毒ガス貯蔵庫跡があります。

柵は一応ありますが、簡単に乗り越えられるもので、中に入り込んで落書きする人多数。

これは貯蔵タンクが乗せられていたクレイドルです。
いくら無効化されているとはいえ、猛毒のびらん性ガスイペリットが貯蔵されていた
貯蔵庫内に長居したいとはわたしにはとても思えないのですが・・。

当時の地図にも、この真横に「仏式黄」工場があった、と記されています。

クレイドルには10トンタンクが設置されていました。
横の工場で生産された「きい剤」は、腐食を防ぐため内部を銅で保護した
パイプを通ってここにあるタンクに直接送り込まれていたのです。

休暇村の前方にあたる部分にはプールがありました。
写真を検索する限り、夏場は観光客で賑わっているようです。

プール脇の機械室にカメラを入れて撮らせてもらいました。
プールの水まで本土から船で運ばれているということは考えにくいので、
海水を浄化して使っているのではないかと思われます。

昔を知る人たちは眉をしかめるかもしれませんが、周りの海からは
汚染はすでに確認されていないということですので、こちらも安心して良さそうです。

安心していいんですよね?

1960年代にできたという休暇村の部屋は、よくある和室に籐椅子をおいた
廊下、風呂なしトイレ有りという典型的な温泉宿の作り。
今時の客に合わせて延長コードを設置してあり、wi-fiも完備でした。

朝夕二食付きで一人12800円、これは安いと言わざるを得ません。

眼下にはうさぎを追いかけて遊ぶ子供達の姿がありました。



彼らが遊んでいるその場所は、この写真でいうと真ん中の通路に当たります。
広場はかつて「くしゃみ剤=赤」の工場があったところでした。

 

続く。

 

海上自衛隊阪神基地隊 年末行事(餅つき大会)

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昨年に続き海上自衛隊阪神基地隊の年末行事、通称餅つき大会に行ってまいりました。

開催日は土曜日、わたしはいつも通り日帰りの時には必ずそうするように
飛行機の変更不可切符を少し前に取りました。

チケットが変更不可の場合、断じて乗り遅れるわけにいかないので、
駐車場が猛烈に混雑する週末の羽田発に乗る時には、わたしはいつも
まだ空いている早朝の飛行機で行って向こうで時間を潰すことにしています。

この日も4時に起きて5時に家を出、いつもの駐車場のだいたい同じ場所に
車を停めることができたので、まずほっと一安心。
小さな達成感を感じながら(笑)ANAの空港ラウンジに到着し、
これもいつもの「青汁のミルク割り」(わたしオリジナル)を飲んでいると、
窓の外はちょうど朝日が上って空港の飛行機を朝焼けで染め始めています。

これもいつものようにカメラのチェックを兼ねて撮っておこう、と思い
肩に掛けたカメラを点検すると・・・・。

電池が入っていませんでしたorz

ふっふっふ、またやってしまったぜ。

「OPERATION・電池の入っていないカメラは漬物石にも劣るただの重石」

を。

同じことをしでかした今年の陸自降下始めの時には、不幸中の幸い、
ニコ1+望遠レンズを持ってきていたのですが、今回はこれ一本だけ。

幸いそんなこともあろうかと(嘘だけど)この日は伊丹から
レンタカーで動くことになっていたので、こうなったら、向こうに着いてから
家電量販店を探し、電池を買って阪神基地隊で充電させてもらおうかしら、と
実に厚かましいことを考えながら伊丹につきました。


調べてみると、阪神基地隊の極近いところにサンシャインワーフという
モールがあって、そこにヤマダ電機があることがわかりました。

とりあえずすることもないので11時まで前の道で開店を待ちました。
それにしてもこの辺も変わりましたなあ。

わたしが神戸に住んでいた頃には阪神電鉄より浜側は
人の住んでいない化外の地、じゃなくて工場しかない地域でしたが、
今ではサンシャインワーフの前にウォーターフロントを売りにした(多分)
大型集合住宅まで建っているではありませんか。

さて、車の中で映画を見て時間を潰し、オープンと同時に入店したヤマダ電機、
カメラ売り場で聞いてみると、たまたま今D810用バッテリーはないとのこと。

「仕方ない、iPhoneで撮ろう・・・・」

今日は拡大したり動くものを撮ったりするイベントもないし、
イベントといっても所詮餅つきだし、たまにはカメラを持たずに
身軽に参加するのもいいか、と気持ちを切り替えました。

そして阪神基地隊に到着。

受付は11時開始ですが、餅つき大会会場である体育館に入れるのは
開始時間の直前なので、皆それまで掃海艇を見学します。

確か去年は潜水艦も来ていましたし、サマーフェスタには
潜水母艦や護衛艦、陸自装備なども気前よく公開していましたが。

しかしあとで伺ったところによると、もともと餅つき大会というのは
自衛隊とその内輪でひっそりと行われてきたような行事で、
年々参加人数が激増してきている最近がむしろ「異常」とのことでした。

ところでこの餅つき大会、阪神基地隊だけでなく、基地隊隷下の

由良基地分遣隊(和歌山県日高郡由良)

仮屋磁気測定所(兵庫県淡路市東浦町)

でも日を別にして行われているそうです。

あまりみなさんがご存知ないかもしれないこの二つの基地について
ちょっと説明しておくと、まず、由良基地分遣隊とは、海軍時代には
大阪湾口の警備及び紀伊半島から四国南岸を警備する艦船の寄港・補給基地で、
当時は紀伊防遣隊という名称でした。

現在でもその地勢から与えられた役割は同じですが、それに加え、
神戸で建造される潜水艦の海上公試等の支援を実施しています。

仮屋磁気測定所は主に掃海隊の艦艇の磁気測定業務を実地する専門の基地で、
磁気探知装置など磁気兵器から艦艇を守るために磁気測定、
そして消磁作業を実施している施設です。

所長は二等海佐、由良の分遣隊長は三佐をもって充てられます。

展示公開されていた掃海艇は「なおしま」と「つのしま」、
第42掃海隊を編成するのはこの二隻です。

ちなみに、先ほどの仮屋磁気測定所の話をすると。

掃海艇は今新しいのから随時FRP素材に変わっていっていますが、
FRPでも時間が経つにつれ、地磁気の影響により、
艇体が自然に磁気を帯びてくるので、磁気信管機雷の感応を防ぐため、
船体の消磁を行う必要があるのです。

このやり方は、水深の浅い海底にセンサーを等間隔に並べ、そこを
掃海艦艇を一定の速度で何度か通過させることによって、
もしセンサーが磁気を感知したら解析し、船体の磁気を帯びた部位と
その強度が測定される仕組みになっているのです。

消磁作業は、艦艇乗組員が行います。

この浮き輪から顔を出して写真を撮った人がこの日いたのかどうか。

「つのしま」のアイコンは「つの」のあるユニコーンです。
つのに機雷を突き刺して多分無力化しています。

これがオリジナル。
絵の上手い乗員が描いたのでしょうか。

上の黒板の絵を描いた人もさりげに画力高し。

信号旗は7旒揚げられ海から吹き上げる風にはためいています。
7文字ということは・・・当然、

「WELCOMEですか?」

近くの隊員に聞いてみるとその通りでした。

第42掃海隊の司令は今年の人事異動によって、前司令下窪剣三佐から
畑中政人三佐に交代しています。
餅つき大会会場では畑中三佐にご挨拶をさせていただきました。

「つのしま」に乗艇すると、ちょうど自衛官に案内されていた一団があり、
その人たちに向けてバルカン砲を動かして見せていました。

掃海艇には機雷処理のための銃が装備されています。

甲板には水中処分員のアクアスーツが展示してありました。
どこから着るのか聞いてみたところ、背中の肩甲骨部分にまっすぐ一文字に
ファスナーがあり、そこから「入っていく」とのことでした。

そこからラッタルをおりていくと後甲板を見学することができます。

掃海艇の後甲板にはオロペサ型係維掃海具(白いの)
掃海具などが収納されています。

国産型掃海具S-10の前の型である PAP104。
こちらはフランス製です。

掃海艇と機雷処分具はラインで繋がれているだけなので、
それが切れてどこかに行ってしまった、ってことはないのか、
一度どこかでこっそり聞いてみたことがあります。

それによると(以下略)

米軍が敷設した機雷を引き上げている我が海自の掃海艇。
作業は常に後部甲板で行うので船尾に揚げられた自衛艦旗が写り込みます。

さて、年末行事が始まりました。
携帯で撮る写真の限界を感じたのが室内です。
暗いので少しでも手が動いたり対象が動くとブレてこの通り。

開式に先立ち、阪神基地隊司令深谷一佐がまず挨拶。
今年は呉地方隊の警備区域内で多くの災害が起こり、それに対して
どんな活動を行ったかの報告が主な内容です。

また、本日テーブルに並んだ食事は、全て隊員の手作りによるものだと紹介。
会費徴収はなく、全くのお振る舞いということになります。

司令の挨拶が終わる前に、すでにカレーの前には人が並んでいました。
大阪で行われた練習艦隊の壮行会でもそうでしたが、今回もまた
乾杯の発声を待たずにテーブルの料理を皆が食べ出しています。

お行儀という点ではなかなか捌けた土地柄なんでしょうね。

後で司令から伺ったところによると、阪神基地隊の後援は
遡れば阪急の小林さんとか田崎真珠の田崎さんとか、
とにかく関西の錚々たる財界人で、かつ海軍「贔屓」だった
大物たちが立ち上げた組織が元になっているということでした。

壇上での餅つきは政治家が法被を着て行います。
もちろんその前に政治家らしく挨拶をするのが主な目的。

今杵を持っているのは衆議院議員佐藤章氏。

基地司令は餅をつく人が杵を振り上げるために
「よいしょ!よいしょ!」ととにかくよいしょするのが仕事です。

政治家の餅つきは、内輪の行事っぽかった昔から行われてきたとのこと。

ベトナムとアメリカからの招待者もいました。(領事とかかな)
ベトナムの方は通訳同行で来て、結構長々と挨拶を行っておられました。

おお、ベトナムとアメリカ、かつての敵同士が一つの臼を杵でつく。
よく考えたらなかなか感動的な光景が見られました。

前方には自ずと政治家などが集まっていたわけですが、その中に
夏に防衛シンポジウムを行ったご当地アイドルの姿がありました。

もし一般行事であれば、アイドル目当てに早朝から場所取りで並ぶ
ドルオタのおじさんたち(本当に!おじさんばかりなんです・・)が
目の色変えて周りにつめかけるところですが、この行事に来ている客で
彼女らが何者なのか知っている人は見たところ皆無。

というわけで、彼女らも普通の女の子として料理をパクつくことができます。

お揃いの制服を着ているので、もしかして歌でも歌うのかなと思ったのですが、
防衛ディスカッションもステージも紹介もなし。

おそらく営業活動の一環として参加していたのだと思いますが、
少なくともアイドルにとってあまり面白いイベントではなかったかな。

政治家先生の餅つきが終わってから広島カープとタイガースの
ユニフォームを羽織って、司令と副長が登場。
司令は広島出身、副長はlここ阪神地方出身ということで。

副長が近々退官するのでその紹介を兼ねて一緒に餅をつきます。

後で副長室の前を通りかかったら、このユニフォームがかかっていたので、
一緒にいた基地司令副官に

「本当にタイガースのファンでらっしゃったんすね」

というと、

「本当です。もう一枚あって、私それを着て一緒に甲子園に行きました」

「もしかして無理やりなんてことは」

「いえ、私もファンですので」

「それなら良かったです」

カープファンに虎のユニフォームを着せて応援に連れ出す、
なんてことがあったらそれは立派なパワハラです。

壇上の餅つきが終わったら、今度は希望する人誰でも参加できる餅つき大会が
ステージ脇で行われるというのもいつも通り。

ご当地アイドルの皆さんも一人ずつ参加。

この会の参加者は名札をつけることになっているのですが、驚いたのは
「自衛隊を〇〇〇〇〇会」という感じの団体がものすごく多かったことです。
応援する会、防衛を考える会、(自衛官を守る会はありませんでしたが)etc.
とにかく、自衛隊行事にバスを連ねてくる規模でそういう人たちがいっぱい。

自衛官の家族中心のもの、防衛団体、水交会以外にもとにかく人多すぎ。

これも、餅つき大会が年々たいそうなことになっている原因かと思われます。

ついた餅・・・と言いたいところですが、餅をつき始める前から
テーブルに並んでいたので、おそらく前もって作ってあったのでしょう。

きな粉餅が食べてみたくて一皿手にとってみましたが、
とにかく一個が大きくて、食べ終わるのに時間がかかりました。

閉会後、司令官室に表敬訪問を行い、司令夫人、司令のご親族、
そしてHARUNAさんなどをご紹介いただき、しばし歓談させて頂きました。

内容はわたしがブログで取り上げた大久野島についての噂、そしてHARUNAさんが
呉市のカレースタンプラリーを完食されたという豪快な話など、参加している
メンバーがメンバーだけに面白すぎて時間の経つのもあっという間でした。

ちなみにカレースタンプラリー、わたしもシールの一枚や二枚はもらってみましたが、
まさか全部完食することが人類に可能とは思っていなかったので、
思わず根掘り葉掘り聞いてしまいました。

「だってあれ、どう考えても無理なゴルフ場のレストランにあったりするでしょう」

「郷原っていうところのゴルフ場に行きましたよ。途中で道がなくなってて。
そうそう、瀬戸内の小島にあるレストランにも行きました。
そこに行くためには橋を渡る料金を払わなければいけないんですが、
食べに行ったら帰りの高速代をくれるんです」

「しかしなんだってそんな難易度の高いところに」

「カレースタンプラリー、達成する人が予想より多くて、
運営が賞品を出す関係でもう少し達成しにくくしようと思ったようです」

はあーそれでゴルフ場とか離れ小島とかか。

「例年どのくらいの人が完食してるんでしょうね」

完食してもらえる賞品(カレー皿かなんか)には
シリアルナンバーがついていて、HARUNAさんがもらった賞品には
No.37と刻印されていたんだそうです。

ということは、36人がこれを達成したと・・・(絶句)

 

話題は海上自衛隊について、陸自の新制服がどうもイケテナイ、
前の方がいいという話(ごめんね陸自の人)、此処を先途と
わたしが行う質問(笑)など多岐にわたりましたが、司令がふと
わたしがかつて書いた、潜水艦の

ウィリアムソン・ターン

について触れたため、話題はさらにディープに(潜水艦だけに)

「なんでそんな話になったんですか」

なんでだったかな・・・・・。

あ、そうだこれこれ。これですよ。

「溺者救助のことを書いてたんです」

ちなみに「つのしま」の溺者人形には顔がありません。
いろんなところで溺者人形をチェックしてきましたが、顔のないのは初めてです。

というか、こっちが普通のはずなんですけどね。

その後わたしはレンタカーで伊丹空港まで実に楽に到着。
阪神基地隊に行くのはこれが一番楽、と改めて実感しました。

レンタカーを返して空港まで送ってもらうバスの運転手は
朝迎えに来てくれたのと同じ人だったのですが、バスに乗り込むと

「早かったですねー。お仕事だったんですか」

「神戸まで行ってお昼の会合にでただけでしたので」

「神戸・・・ファッション関係ですか」←注目

「いえ、自衛隊の行事です」

「はー」

あまりに予想外だったのか、おじさん無言になってしまいました。

羽田について家に帰っても一人なので軽く夕食を済ませてしまおうと
飲食店を探していたら、メルセデスカフェなるデリとエッグタルトの店発見。

ショウルームとロゴグッズを販売しているお店を兼ねたカフェです。

エッグタルトは美味しかったんですが、デリのチキン、キャロット、
サラダのドレッシングはほぼ味がありませんでした。

薄味=ヘルシーってことで納得しつつ心して頂きました。
多分二度と食べないけど。

 

と、取り留めもないご報告になりましたが、阪神基地隊年末行事、
餅つき大会の参加記を終わります。

ご招待頂きました阪神基地隊の皆様方に心よりお礼を申し上げます。

 

ところでこの日、実はカメラを忘れてやる気を無くしていたのに、
家で写真をチェックすると一部を除いて普通に写っているのにショック。
行事系ならiPhoneでもあまり不都合ないことに気が付いてしまいました。

重たい一眼レフの存在価値が、わたしの中で今猛烈に問われています(笑)

 

終わり。

 

 

皇軍兵器の何たるかを彼らは知っていたか〜大久野島 毒ガス工場跡

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瀬戸内海に浮かぶ小島、大久野島。

昨今の「うさぎの島」のイメージはまるで取ってつけたようなもので、
実はその実態を昔から知る地元の人たちにとっては、おどろおどろしい
「毒ガスの島」という負の面だけが語られて来たらしいことを、
わたしは島を訪問し、現地の遺跡を目の当たりにすることで知りました。

阪神基地隊司令夫人やHARUNAさんら元地元民の証言もまた、
それを裏付けるものとなって、わたしはある仮定に行き着きました。

それは、

「うさぎの島というのはあくまでも客寄せのための”方便”で、
実は毒ガス工場があったという『負の歴史遺産』を見せるのが
大久野島の真の目的なのではないだろうか」

つまり、

「うさぎが目当てでやって来た客が否が応でもここの凄惨な歴史に気づき、
目を向けることになるのを」

誤用でない方の確信犯的に期待しているのではないかということです。

オウム真理教の地下鉄サリン事件を経験した我が国は、
ハーグに本部を置く化学兵器禁止機関(OPCW)の査察を積極的に受け入れ、
査察局長には陸上自衛隊第101化学防護隊長出身で、オウム真理教の
査察を統括した経歴を持つ秋山一郎氏をノーベル平和賞授賞式に出席させたこともある
「化学兵器廃止問題の優等生国家」でもあります。

大久野島の展示を見る限り、ここがOPCWの深謀遠慮によって
その負の歴史を語り継ぐ役割を負わされているようにはあまり見えませんでしたが、
少なくとも生きた歴史の語り手として、その高邁な理想に向かって
物言う立場を担っていることは間違いないことに思われました。

さて、島を一周歩いたら、部屋に入って時間になったら食事に出かけ、
温泉に入るしかすることがないこの島での一夜が明けました。

わたしは旧型の温泉宿客室で一人で眠るのは、高松の掃海隊追悼式以来
人生で二度目だったのですが、実はちょっと、というかかなり怖かったです(笑)
シティホテルやビジネスホテルならなんでもないのに、床の間付きの座敷が
なぜこんなに怖いのか、ちょっと自分でもその理由がわからないんですが、
枕元の灯を消す直前までiPadを見て平常心を保ち、いよいよ眠くなってから、
えいやっと電気を消し数分以内に寝るという方法で一夜を乗り切りました。

休暇村内に温泉は二ヶ所、つまり廊下の端と端に男女浴室が一つづつあり、
わたしはせっかくなので夕食前と翌朝早くにどちらも行ってみました。
ちょうど湯船に浸かった目の高さに開閉自由の窓があり、開けてみたら
日が暮れて暗いというのに大量のうさぎが走り回っていたのには驚きました。

うさぎって夜行性だったのか?

すぐさま調べてみると、以下のことが判明しました。

うさぎは正確にいえば薄明薄暮性(はくめいはくぼせい)の動物で、
明け方(薄明)と夕方(薄暮)など、昼や夜ではないこれらの時間帯に
行動が活発になる生き物なのだそうです。

まったくの夜行性ということではなく、夜行性に近いと表現されることもありますが、
とにかく犬や猫と同じく、日中は基本じっとしていることが多いとか。

翌朝は、朝ごはんを食べてからチェックアウトの時間まで
島内の昨日行っていないところを歩いてみることにしました。

ホテルを出ると、明け方で行動が活発化したうさぎが
懸命にビニールシートを喰いちぎり引きちぎっております。

まさかとは思うけど食べてるんじゃないよね?

島の南西部分の小高い山部には展望台と灯台があるというのを
フロントで聞いて、そこに行ってみることにしました。
この階段はそこに続いている道の一つなのですが、昔からあるらしい
この舗装された階段を登り切ってしまうと、あとはとんでもない
未舗装の山道が続いています。
それこそ清水門の二倍くらいの高さに脚を上げなくては
登れない階段があって、小柄な人には無理じゃないかというくらい。

そんな山道を登っていくと、まず東屋が現れました。
向こうに浮かんでいるひょっこりひょうたん島みたいなのは
「小久野島」(こくのしま)という名前の周囲1.6kmの無人島。

その昔、神功皇后が三韓征伐へ向かう途中、床浦神社に戦勝と航海安全を祈願し、
ご自分の冠と沓(くつ)を海中に投じられました。
その時、神功皇后は冠が流れ着いた所を冠崎、沓が流れ着いた島を大沓島、
横の小さい島を小沓島と名付けられたという故事があるそうですが、
後にそれが大久野島と小久野島になったと伝わっています。

さらに続く道沿いに進んでいくと、夜明けで活発化したらしい
うさぎさんたちに早速遭遇しました。

わたしが急に現れたせいか、なんかすごく驚いているんですが。

このびっくりうさちゃん、わたしが通り過ぎてから慌てて道に出てきました。
餌をくれそうな人だと判断したのかもしれません。

それともカバンの中の餌の匂いを嗅ぎつけたかな。

振り向いてカバンに手を入れると、タッタッタ、と駆け寄ってきます。

ういやつじゃのう。餌を遣わす。

おねだりした子にうさ餌を撒いてやると、そっくりの兄弟がやってきて
一緒に食べ出しました。

仲間と群れずに一匹だけでいた孤高のうさぎ。
なぜかこのうさぎだけは餌をねだってくることもしませんでした。

大三島の尻尾と本土が見えるこの高台には、昔探照灯が設置してありました。

巨大な探照灯をこの円形の部分に置いて海上を照らしたようです。

毒ガス工場時代より前の、芸予要塞時代のことです。
ここを「探照所」と呼んでおり、台座の半円部分は探照灯の可動域です。
この写真に写っているのは肩章からもわかるように陸軍軍人ですね。

明治時代とはいえこのような大掛かりな仕組みになっていました。
見にくいですが、「電灯井」(でんとうい?)というのは
英語で言うところのエレベーターで、探照灯そのものが
地下の収納庫に出し入れできると言うものです。

操作は下で行ったようですが、人力で動かしていたようですね。

背中を反らして背筋を鍛えているうさぎ。

朝一番の訪問者だったのか、人の姿に走り寄ってくるうさぎ。
皆が足元でお愛想を始め、そのうち争うように
ストールやバッグに手をかけようとしてぴょこぴょこし始めます。

うむ、これが本当の

”うさぎぴょこぴょこみぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ”

というやつか・・・。

(審議中)

柵を超えればそこは崖。
崖から落ちたらそこは海。

そんな誰にでもわかることをわざわざ看板にするのは
世界広しといえども日本だけだとわたしは断言します。

サンフランシスコのソーサリート、GGB付近の自然公園は
一歩踏み出せば真っ逆さまのところにベンチは作りますが
柵はもちろん危ないとか命を大切にとか命のホットラインとか、
そういう余計な看板の類は一切作りません。

訴訟天国で何かと無茶な訴えをする人が多い割には
日本のように先回りした警告などは無駄だと思っているようです。

フランスでも思いましたが、これは「自己責任」の問われ方の違いです。
政府が行くなというのに危険地帯に行って人質になるのは
世界的に見ても自己責任で処理するべき事案であって、
むしろあれに同情したり英雄扱いする層が現れる国が異常なんだと思います。

 

話がそれましたが、このお節介な立て札の向こうに見えるのは大三島。
中学時代「少年の船」団員に学年から二人ずつ選ばれて
(基準はなんだったのかいまだにわからず)瀬戸内海クルーズした時、
大三島に寄港して現地の中学生と交流行事したことがありましたっけ。

あの時に仲良くなった女の子、まだこの島に住んでるのかな・・・。

明治27年に初めて点灯したという石造りの灯台があります。
当初は石油を使用して点灯していましたが、大正年間にアセチレンガスに、
さらに昭和11年になって電灯式に変わっていき、昭和33年、
無人化されて現在は呉海上保安部が管理している、とありますが、
なんとこの灯台は2代目で、平成4年に竣工したばかりのものだそうです。

初代の灯台は高松の四国村(博物館)に移設されているのだとか。

光達距離は25km、光度は8500カンデラ。

灯台の光り方を灯質ということを初めて知りました。


灯台に立って真後ろを振り向くとお地蔵様の祠がありました。
木の立て札には由来が書いてあったのかもしれませんが、
すでに何も読めない状態になっていました。

灯台からは下り坂になり、反対側の海岸に出られることが判明。
石段と木の階段を降りていくと、「大久野島燈台」の石碑が埋もれていました。

夏の間はここが海水浴場になるそうです。

海岸に面した山裾には昔病院がありました。
建物は撤去され、その跡はただ空き地になっています。

もしかしたら戦後島内を無毒化作業した時、被災した患者を収容していた
病院もまた焼却処分してしまったのかもしれません。

かつての病院。

白い長い裾の白衣を着ているのは看護婦、しゃがんでいるのは
着物を着た女性患者ではないかと思われます。
写真を撮るためにイメージフォト?的に絵になる二人を配したのかもしれません。

毒ガスを扱っていた工場ではその作業中事故が起こり、それによって死亡したり、
明らかに障害が出た例もあったわけですが、当時は被害が出るたびに
対処する安全対策が取られたため、年々障害は少なくなっていたという証言があります。

ただしそれは直接的な事故による被害者のことであり、当時何もなくとも、
毎日そこで作業してガスで汚染されている空気を毎日長期間吸うことで
のちに起こってくる恐ろしい障害とは全く別の話でした。

大久野島の工員を募集するとき、軍は毒ガスという言葉を一切使いませんでした。

「化学を応用した皇軍兵器」

それが毒ガスのことであるのは、工員という立場になってみれば
誰にでもわかったわけですが、その時には彼らは厳格な機密保持を誓約させられ、
軍人のみならず非軍人も、男も女もすでに秘密兵器を製造する
軍の組織の末端に組み込まれていたのです。

 


事故による毒ガス被害に遭った人(死亡第一号は建設会社松村組からの転職者だった)
その後の経過は、当時実験台にされていたうさぎの辿った死に至る経過そのもので、
人々はその死に様を、ただ凝然と見守ったそうです。

彼らが息を引き取っていった病棟のあった場所には、何も建てられず、
ただこの水栓だけが当時を知る痕跡として遺されています。

 

 

続く。

 

化学兵器は「ただちに」廃絶することができるのか〜大久野島 毒ガス工場跡

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大久野島休暇村の、いかにも60年代に建てられたホテルの
典型的な和室での一夜は一人で宿泊したこともあって怖かった、
と書いたところ、unknownさんが

「こんないわく付きの廃墟の島でお泊りしたら怖いでしょう」

とコメントして来られたわけですが、わたしはこれを読んで、
あっ、とあの訳の分からない恐怖の原因に合点が行ったのです。

全く自慢にならないのですが、わたしは何をするにも事前に下調べをして
これからの体験に備えるというまめなことを一切行いません。

何も知識のない真っさらな感性のアンテナが新しく体験する事象、
あるいは物事に触れる時に生まれる何かを大切にしたいから・・・

というのは全くの嘘で、基本無精者だからです。

今回も、島の歴史は勿論、実際にどんなことがあったのかについて、
島の大きさすら、wikiを見ることすらせず現地に赴きました。

到着するなり毒ガスについての展示を丹念に観て、その結果
ここがどんなところであったかが初めてわかってきたのですが、
それでもその夜、一人で床の間の和室でパソコンに向かいながら
何やら得体の知れない気味の悪さを終始感じていたのにも関わらず、
今ならはっきりと感じるであろう、この小さな島に漂う
毒ガス製造に携わって不慮の死を遂げた人々の怨念については
不思議にその気味の悪さと結びつけて考えることをしませんでした。

帰宅後こうやってここでご報告するために調べるにつけ、
じわじわと遅まきながらその凄惨さに気づくことになり、

「よくまああんなところに一人で泊まったなあ」

と自分の無精さにむしろ感謝している、というのが正直なところです。
無知とはなんと怖いもの知らずであることよ。

今では跡形も無くなっていた病院跡を通り過ぎると、
もう既に廃社になり、御神体の無くなったらしい神社の跡でした。

ちなみにこれが更地にされていた病院全体の建物です。
左に灯台に続く山道の階段が見えます。
建物の前庭が真っ白ですが、これは進駐軍が撤収後、まず
病院を「無毒化」するためにさらし粉を撒いたのでしょう。
おそらくこののち建物は倒壊処分にされたのだと思われます。

さて、神社の鳥居前には

「皇化隆興」「萬邦威寧」

皇国の隆盛がいや増し、全ての地が
天皇陛下のご威光によって安寧でありますように。(たぶん)

という石碑が建てられています。

毒ガスを作るための工場しかなかったこの小さな島に、
いや、だからこそ祈りの場が人々には必要だったのでしょう。

現地の説明には、

毒ガス工場が開所された際、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とし、
1932年に現在地に移転しました。

とだけありますが、これではあまり意味がわかりません。
それまで神社はどこにあって、なんという名前だったのでしょう。

鳥居の注連縄はもう右側が外れかけているのですが、
何も対処している様子がありません。

「忠海兵器製造所 従業員一同」

と鳥居の寄進者名が刻印されています。
毒ガス工場の正式名称は

陸軍造兵廠 火工廠 忠海兵器製造所

でした。

昭和八年二月吉日、と寄進した年月日が反対側に。

陶器で作られたらしい狛犬は完璧な姿で残っています。
備前焼のような土の色をしていますがどうでしょうか。

参道をまっすぐ進んでわたしは思わず息を飲みました。
神社がここまで廃墟になってしまっているのを初めて見ます。
いつ崩落しても不思議ではない状態なので、立ち入り禁止になっていますが、
どうして取り壊しにしないのでしょうか。

拝殿は閂をかけ、扉を閉めていたものと思われますが、
雨風に打たれて扉は破れ、天井の板が剥がれて落下しています。
破れた扉越しに見える本殿の銅製の階段だけが当時の形を残しています。

 

かつてここに工場があった頃には、神職が神事を執り行い、
元旦には島に住む人々が初詣にやってきた神社。

説明には

境内では様々な行事(毎月8日の大詔奉戴日、四大節、式など)
が行われました。

とあります。

戦中は大東亜戦争が始まったのが12月8日であることから
毎月8日は「大詔奉戴」の日として神事が行われていたのです。

また、四大節とは元旦、紀元節、天長節、明治節。
式というのは学童の入学式、卒業式です。

 

神社が正式に取り壊されなかった理由とはなんだったか考えてみましょう。

敗戦となり、工場の関係者と陸軍軍人たちが最初に行ったのが
製造していた毒ガスを主に海に投棄することで、その後は
進駐軍が毒ガスの廃棄作業、そして朝鮮戦争の期間、実に十年も
ここにいたわけですから、その期間を通じて誰かがこの神社の
御神体を持ち出したりすることなど全く不可能だったことは確かです。

ただ、進駐軍は研究所や発電所などを残して他の建物を毒ガスと一緒に
焼却処分にしてしまったものの、流石に神社に火を放つことは、
おそらく畏れもあってそれを行うことはできなかったのでしょう。

ということは、この神社は本殿のご神体ごと、ずっと放置され、
長い年月そのままになっていたのではないでしょうか。

島が日本人の手に戻った時、ご神体をどこかに合祀した、
という話は今回どこを検索しても出てきませんでした。

鳥居を奉納した一ヶ月後、全従業員の名前を刻んだ石碑が建てられました。

裏表合わせてだいたい150名くらいの名前が彫られています。
工場が稼働を始めた最初のメンバーの有志だと思われます。

神社の境内に当たるところに殉職碑があるのに気づきました。
こちらも神社と同じく、今ではその役割を失ってしまっているようです。

神社はわかるとしても、殉職碑まで・・・・。
奇異な思いを抱きつつも思い切って後ろにまわってみました。

殉職者の名前が刻まれているでもなく、ただ

昭和十二年三月建之(これを建てる)

とだけあります。

おそらく最初に死者を出したのは、最も危険だったイペリットの
製造工場だったでしょう。

毒ガス資料館のパンフレットより。

製造工員はゴム製の防毒マスク、衣服、手袋、長靴などで
体を防護して作業を行いましたが、イペリットガスはその隙間から浸透し、
皮膚、目、咽頭を犯して結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎を引き起こしました。

しかし、当時は有効な治療法を持たず、火傷の手当と同じことをしていたそうです。

赤と言われたくしゃみ剤は名前はいかにも軽微なようですが、
これを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺してしまうのです。

緑である塩化アセトフェノンは吸い込むと肺組織をおかし、
肺水腫状態となって死に至るというもので、比重が重いため、
窪地や洞穴に流れ込んで人体に深刻な害を与えました。

昭和15年には、特殊工を養成するため技能者養成所が島に開校しました。
この入学式が行われたのも神社の境内です。

写真は昭和18年、青年学校修了者と養成工の合同卒業式の様子です。

挨拶しているのは陸軍軍人。軍人は右手に階級順に並んでおり、
左の椅子に座っている紋付の一団は家族であろうと思われます。

工員服の青年と一緒にいる女子卒業生たちは、おそらくこの後
風船爆弾の気球部分を作らされたと思われます。


神社の参道から海を望む景色は、昔のままに違いありません。

慰霊碑が放置されていたことに不思議な思いを抱きながら
歩いていくと、「本物の」慰霊碑が現れました。

昭和60年になって新たに建立された慰霊碑は、元の慰霊碑で
鎮魂されていた死者を含め、戦後にガス障害で亡くなった
全ての死没者の追悼のために建立されたものです。

竹原市長の「化学兵器廃絶宣言」兼慰霊文です。

化学兵器は無差別かつ広範囲に人間を殺戮することでは
核兵器・生物兵器と同じであるから、直ちに廃絶されねばならない。

「直ちに」という言葉になんかものすごい嫌な思い出があるのは
わたしだけではないと思いますがそれはさておき、これを、

「現実世界においてこんなことをここで言っても全く意味をなさないんじゃ」

と思ってしまうわたしってひねくれ者?
広島の原子爆弾犠牲者慰霊碑の、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

に通じるものを感じます。

 

現状としては、CWCの禁止条約が締結された後も、

イラン・イラク戦争中に、イラクが、マスタードやタブン、サリン16を使用

クルド人に対する弾圧の手段として、化学兵器が使用される

シリア・ダマスカス郊外において、サリンが使用された

北朝鮮はCWCに加盟せず、現在も化学兵器を保有している

地下鉄サリン事件

米国における炭疽菌入り郵便物 リシン入り郵便物事件

金正男氏の殺害事件ではVXが検出された

など、主にテロ組織側によって化学兵器は非常に「魅力的な」
兵器であることが窺える事案が相次いでいます。

ちなみに大久野島の資料館では、イランへの医療支援として、
イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦を
そのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたことが縁で、
その関連資料も展示しているということです。

新たに建立された慰霊碑の銘文は広島大医学部の教授によって書かれました。

西本幸男氏は第15代学部長であり、専門は呼吸器内科学。
難治性喘息や気管支喘息の重症化要因を研究テーマにした学者です。

戦後は広島大学が中心となった組織が、毒ガス障害者への健康診断や
後遺症の研究を継続して行っているということです。

昭和17年に陸軍造兵廠忠海製造所従業員診療所だった
呉共済病院忠海病院は、被災者の指定医療機関となっています。

いわゆる「平和学習」で千羽鶴を持ってくる学校が多いのでしょう。
専用の「千羽鶴奉納所」が設けてあります。

「これからも戦争について学び、平和の大切さを僕たちから広めていきたいと思います。
そして争いのない平和な世の中を作っていきます。」

そうですか。

「それでは平和とはなんですか」

と聞くと、多分この子からは、

「戦争しないこと」

という答えしか返ってこないんだろうと思われます。

決してバカにしていうのではありませんが、自分のその頃を思い出しても
子供の考える(学校で考えさせられる、ということもできる)平和なんて、
まあせいぜいこんなものでしょう。

ただ、慰霊碑に刻まれた竹原市長の碑文がこれとほぼ同じレベルである件。

おそらくこういうのって、

「戦後日本人の考える平和の希求のあり方」

のスタンダードなんだろうな。
間違っていないけど、具体的なことは何も言っていないというね。

崖の上に、誰でも見たらわかる「危険」という看板を立てるのは日本人だけ、
と先般書きましたが、こういう当たり前すぎて意味のないことを子供から大人まで
異口同音に公言する傾向にあるのも、世界で唯一日本だけのような気がします。

なんて言ったら真面目な人たちに非難されちゃうかしら。

昨日見送った「ホワイトフリッパー」が突堤に到着するところを目撃しました。
朝早いのにたくさんの人が乗り降りしていましたが、この一団は
ほとんどが休暇村で働いている人たちのようです。

島に一つあるインフォメーションセンターの近くまでやってくると、
「自動交換機室跡」とだけ説明のある防空壕的な建築がありました。

何を自動交換するのかの説明がなかったのですが、電話かしら。

レンガで脚を組んだ藤棚は一部倒壊の恐れがあるらしく
内部に立ち入り禁止の札がかかっています。

wiki

毒ガス資料館の前を通り過ぎ、休暇村が見えるところまで帰ってくると
そこには毒ガス工場時代の研究所だった建物がありました。

実はこの建物があまりに近代的なので、わたしはてっきり
休暇村建設時代のものかと思い写真を撮らなかったのを後悔しています。

この内部の写真も検索すれば出てきますが、昭和2年に作られたとすれば
当時としては超ハイテクモダーンな建築様式だったはずです。

毒ガスの研究と薬品庫として使われていました。

その隣にあったのがこちらは昭和2年と言われても全く驚かない、
検査工室。

毒ガスの製品検査をする施設があった、ということはここで
動物実験などが行われていたと考えていいのかと思います。

同じ検査工室の建築中写真。
山の斜面を大幅に切り開いてその場所に作ったことがわかります。

それから90年が経ち、山肌は鬱蒼とした木々で覆われています。
驚いたのはこの建物と休暇村の間の空き地が自転車置き場になっていて
休暇村で働いている人が普通に周りに出入りできるらしいということです。

建物の脇には当時からあったらしい「歩行中禁煙」の木の注意書きが見えます。
進駐軍はなぜか検査工室を焼却処分にせず、何かに利用していたようです。

右手の山肌の見えている斜面の麓に今休暇村があります。
三軒家工場群では「あか」(くしゃみ剤)が製造されていました。

激症を引き起こすイペリットが製造されていたのはこの山の
向こう側の中腹あたりになります。

チェックアウトは10時。
歩いてフェリー乗り場まで行くとちょうどフェリーが到着しています。
前で切符を見せているのは昨日同じフェリーに乗っていた人だと思われます。

この人も休暇村で一人宿泊したんですね。

島で最後に撮影した大久野島うさぎ。

ところで大久野島シリーズの2回目以降のタイトルである疑問形は
この歴史の証言者となっている島に滞在して沸いた様々な心の声です。

「疑問」=「不思議」→「不思議の国のエリス」\(^o^)/
と言いたくてわざわざ疑問形のタイトルにしてみました。

その答えが得られたものもあり、永遠に解決されないと
わかって書いているものもありますが、何れにせよ、
「不思議の国のアリス」のように、うさぎに導かれてここにきた人々もまた、
各自の感受性の程度や方向性の違いこそあれ、この島に滞在して
何の疑問も感じずに帰っていくということはないと思われます。


元来わたしは「平和」「人権」などと大声で叫ぶある種の層に対して
徹底的な不信感と胡散臭さを感じるという、自他共に認める捻くれ者ではありますが、
人類が兵器を持つことを止める未来など決して来ないとわかっていても、
たとえそれが大海に投じる一滴の真水のようなものであっても、
声を上げ続ける大久野島のような「犠牲者」が有る限り、人類の終末は
少しでも先に延ばすことができるという希望を捨てていないのもまた事実です。

(お断りしておきますが、それは『平和』とは別次元の話です)

というわけで、

「平和」「化学兵器廃絶」

などという左翼ワードをポエムのように瀬戸内海に向かって叫ぶ、
などというヌルいやり方ではなく、化学兵器の違反使用国はバシバシ制裁する
役割を持つと言われるOPCWで、もっと「被害者」としての立場から
ガンガン声を上げ、テロリスト側を締め上げていく方向に向けた「具体的行動」を、
活動家のみなさんには心から期待しつつ、大久野島シリーズを終わります。



「大久野島~不思議の国のエリス」シリーズ 終わり

 

 

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