防衛省エリアにある海自幹部学校所蔵の書、
鈴木貫太郎の
「天 空 海 闊」 。
これは、心が広々として度量が大きく 何のわだかまりもないことという意味です。
「海闊」は大海が広々としていることで、「天空」は空がからりと晴れ上がってどこまでも広いこと。
「闊」は「濶」とも書き、「海闊天空かいかつてんくう」とも言います。
鈴木貫太郎の書、というとわたしとしては思い出さずにはいられない話があります。
「鈴木貫太郎と安藤大尉」というエントリで扱った話で、
鈴木の居にしばしの対話を求めて訪れた2・26事件の首魁である安藤輝三大尉が、
鈴木の人格に触れこれに私淑し、所望した鈴木の揮毫を事件の日まで自宅に掛けていた、
というエピソードです。
このときに、鈴木はどのような書を揮毫し安藤大尉に与えたのでしょうか。
それはどこにも伝わっていませんが、安藤大尉が鈴木との面会後に同行者に言ったという
「鈴木閣下は、話に聞いたのと会って見たのとでは、大変な違いだ。
今日は実に愉快に、頭がサッパリした。ちょうど風呂に入って出たときのようだ」
「あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」(ウィキペディア)
という人物評は、鈴木がこの揮毫の表す文字そのものの人物であったということでもあります。
ところで、鈴木貫太郎についてのウィキペディア記事で、
鈴木が蜂起した陸軍の反乱軍にもう少しで暗殺されそうになった2・26事件の項に、
わたしは決定的な間違い(と思われる記述)を見つけてしまいました。
鈴木は午前5時頃に陸軍大尉・安藤輝三の指揮する一隊に襲撃される。
はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。
鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。
1、血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。
2、安藤が軍刀を抜くと、
部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが
「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。
3、どうしても必要というならわたくしが致します」
と気丈に言い放った。
4、安藤はうなずいて軍刀を収めると、
「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。
そしてたかの前に進み、
「まことにお気の毒なことをいたしました。
われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、
国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、
女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。
以上がウィキペディアの記述です。
わたしがかつてアップしたエントリによると
1.倒れた鈴木の生死の確認をしたのは下士官で、とどめをさしましょうか、
というのも下士官同士の会話である。
2.安藤は全く鈴木の前に姿を見せず、部下が鈴木を襲撃している間女中部屋にいた。
3.たかの証言によると、たかが命乞いをしたのは下士官に対してであって安藤ではない。
次の間で拘束されていたたかは、その場から「止めはやめてください」と懇願し、
これを聴いた下士官は対応に困って、初めて安藤を呼びに行っている。
4.安藤大尉は一度も鈴木に向かって刀を抜いていない。
女中部屋にいて、部下に呼ばれて初めて鈴木の前に立ち、ただ
「止めは残酷だからやめよ」といって捧げ銃を命じた。
ということになっています。
え?
ウィキペディアより自分のエントリを正しいと言い切るのか、って?
言い切りますともさ。
いや、それどころかどうしてウィキがこのように記述しているのかがまったくわかりません。
わたしは、自分のエントリに書いたこの時系列にかなり自信を持っています。
なぜなら、わたしが参考にした、この事件の模様は、ほかならぬ
鈴木貫太郎自身が、事件後水交会の講演で語ったことそのものであり、
これを文章に聞き書きしたのは、そのときに講演を聴いていた海軍軍人だからです。
この文章はそのまま水交会が発行した「海軍の記録」という著書(一般書ではない)として、
図書館などでは見ることもできるはずなのですが・・・。
鈴木に私淑していた安藤大尉が、心ならずもその鈴木の命を取ることになったとき、
いかに逡巡し苦悩したかについてはもう余人の知るところではありません。
しかし、このとき、鈴木の前に姿を見せず、殺戮を部下に任せて自分は女中部屋にいたことを、
わたしはこの苦悩に因果付けて推理をしてみました。
もしウィキに書かれている
「中隊長殿、とどめを」
と下士官が言い、妻が命乞いをしたので安藤は鞘を納めた、というのが本当なら
たかが聞いたという、
「止めは残酷だからやめよ」
という安藤の言葉の意味が全く通らなくなってしまいます。
わたしはやはり、安藤大尉は最後まで鈴木と対峙するのを避けて
最後まで刀を抜くことが無かったとするこの記述が正しいと信じます。
鈴木は事件後、生死の境をさまよいましたが、治癒してこの講演を行うにあたり、
妻のたかからその時の状況を詳しくあらためて聞きだしたでしょう。
「止めは残酷だからやめよ」
という言葉が、間違って妻から伝えられる可能性は全くないのではないでしょうか。
そもそも、下士官たちが最後に安藤にとどめをさせようとした、となっていますが、
実際にそのような立場に追い込まれた安藤が、決行隊の指揮官として
止めをさすことを止めることなど、いくら妻が懇願したからと言ってできるものでしょうか。
実はわたしはこんな推理をしています。
安藤大尉の腹心の部下である下士官が安藤の苦悩を慮って、
自分たちだけで全てを行い安藤大尉の手を汚させまいと決めて決行に臨んだのではないか。
しかし、すべてを済ませたつもりが、とどめをさす段階で妻の命乞いがあった。
このため下士官だけではその後を決定できなくなり、
そこで初めて安藤大尉が呼ばれたのではなかったか。
というようなことですが、もし、ウィキペディアの記述が正しい、という資料をもしご存知の方がいたら、
ぜひご一報いただければ幸いに存じます。
さて。
鈴木はこの襲撃のあと、生死の境を彷徨いました。
タクシーで日本医大に運ばれた鈴木は出血多量で顔面蒼白となり、
意識を喪失し、心臓も一時停止しています。
総力を挙げて蘇生術が施され、その間妻のたかは枕元で鈴木に呼びかけ続けました。
腰、胸、肩(かすっただけ)そして頭に4発の銃弾を受けて、
しかもその頭への一発は頭蓋を貫通して耳の後ろから出ています。
これで死ななかったというのは奇跡以外の何物でもないでしょう。
頭部貫通した銃弾が脳をそれたこと、胸部も銃弾も心臓をわずかに逸れたこと、
このことと、たかの命乞いにより安藤が止めをささなかったことが鈴木を救いました。
ちなみに鈴木の命を救った夫人のたかですが、病死した前妻の後添えで、
乞われて昭和天皇、秩父宮、高松宮の皇孫御用掛(養育係)をしていたという女性です。
鈴木が何より昭和天皇の御信任篤かったのは、このこともあったと言われています。
鈴木貫太郎という人は、その生涯、2・26を含め二回の暗殺から九死に一生を得ています。
二回目が終戦の日、8月15日朝の宮城事件で、陸軍大尉・佐々木武雄を中心とする
国粋主義者達に総理官邸及び小石川の私邸を襲撃され、警護官に間一髪救い出されています。
このほかにも、3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、
海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたり。
もしかしたら、八百万の神はこの人物に、戦争の泥沼に陥った日本国を終戦に導く
役割を与えるために試練を与えては救いたもうたのではないかと思われるほどです。
事実、鈴木は何度も死の淵から帰ってきた自分の人生の最後の奉公として
終戦時の総理大臣を引き受けたと言われ、その就任の辞は
今日(こんにち)、私に大命が降下いたしました以上、
私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、
まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。
国民諸君は、私の屍を踏み越えて、
国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、
謹んで拝受いたしたのであります。
というものでした。
そして国運の打開のために鈴木が選んだ道は「終戦」だったのです。
最後の仕事を終えた鈴木は、戦後公職追放される形で表舞台から姿を消し、
終戦後3年目の昭和23年4月17日、肝臓がんで82歳の生涯を終えています。
日本を終戦に導き、もう戦火にまみえることもなくなった祖国を見届け、
人生最後の瞬間、鈴木の心は、信条たる「天空海闊」の境地にあることができたでしょうか。
死後荼毘にふされた鈴木の遺灰からは、2・26のときに受けた弾丸が出て来たということです。
目黒・防衛省見学〜「天空海闊」鈴木貫太郎
オークランド航空博物館〜USSメイコンの二人の犠牲者
このオークランド航空博物館は、何度か言ったように、
ハンガーに飛行機をただ並べただけのぞんざいな展示なのですが、
そのそっけなさというか放置されたままの感じが、
よりここにある飛行機たちとの距離の近さを感じさせて、非常に印象深いものでした。
「Don't touch」と書いてあっても、見張っている人もいないし、
極限まで近寄って、心ゆくまで機体を眺めることができるのですから、
飛行機好きの人にはまさにサンクチュアリのようなところです。
下を見て歩いていないと翼にぶつかってしまうから、と言うことでこのように
目立つ色のシールをこれまたぞんざいにテープで貼ってあるだけ。
飛行機と飛行機の間も決して広くないので、うっかりしていると体が当たってしまいそうです。
キャッスル航空博物館の方はこんなことはなかったので、アメリカだからというより
こういった「おらが空港のミュージアム」ならではの大らかさなのでしょう。
Sparrowhawk Mk II
スパローホークで調べると、これとは全く違う形のカーチスの戦闘機が出てきます。
これはカナダのバンクーバーにあるエアロダイナミクス社の制作した
ツインブーム・テイルのナセル・コクピットデザインの飛行機。
こう見えて?非常にコントロールしやすいということです。
カーボンファイバーとケブラー樹脂の混合された素材は、軽量でかつ丈夫とのこと。
この機体はキットをオーナーが組み立てるというものです。
ドゥーイットユアセルフの飛行機ですね。
ツインブームのテールなので、
こんなところにプロペラがついているのですがこれがなんともかわいい。
プロペラのカバ‐を白と水色のストライプにするなど、オーナーのこだわりですね。
サイドバイサイドで二人乗り。
操縦するのは車と同じで左座席だけです。
しかし、この助手席に乗るのはご遠慮したいものです。
わたくし何を隠そう、グランドキャニオン行きのセスナで終始生きた心地がしなかったくらい、
こういう小さな飛行機に乗るのは怖いのです。
これは自分で操縦しないからで、車でも助手席に乗っていると高速などは怖くて仕方ありません。
相手を信用しているとかいう以前に助手席にいるより運転席が長いと、
どうしてもこうなってしまうように思われます。
たぶんですけど、こういう飛行機も自分が操縦するのなら平気なんですけどね。
North American Aviation T-39 Saberliner
ノースアメリカンと言えば、このブログ内で語ったT-6「テキサン」、F-86「セイバー」など、
傑作飛行機を作った航空機製造会社ですが、このNAが初のビジネスジェット機として
自費開発したのがこの「セイバーライナー」です。
NAで開発が始まったちょうどそのとき、米空軍に汎用練習機の試作計画が起きました。
Utility Trainers Experimental、つまりUTX計画です。
これに呼応したNA社に空軍が付けた注文が
「翼と尾翼は『セイバー』と類似性を持たせてほしい」
そこで、NAは、このジェット機に「セイバーライナー」と名付けたのでした。
この機種は空軍が1959年に配置した後、空軍と海軍どちらにも配備されました。
この機体の認識番号はCT-39A、60-3504。
これは、輸送(Cargo)と人員輸送(Personal Transport)に従事するためにデザインされたもので、
1960年に就航した、という意味があります。
ところで、この写真を撮っていたエリス中尉の目は、ある物を見つけてきらりと光りました。
なんと、このセイバーライナー、ドアが開いているではありませんか。
もしかしたら、この日はこのセイバーライナーを公開する日だったのかもしれません。
単にドアが壊れて開きっぱなしだっただけなのかもしれませんが。
これは中に入ってもいいってことよね?
それでは、と中に入り込みました。
写真は撮りませんでしたが、搭乗口から三段ほどの階段が降ろされています。
これは機体に据え付けられたもので、少し高いですが、簡単に機内に入れます。
お邪魔します。
コクピットには二人、乗務員は一人、キャビンには6人が乗れます。
こうして写真にとると狭いように思えませんが、なにしろ狭いです。
頭をかがめないと歩けません。
ちゃんとカーテンがあったり、もう撤去されていましたが写真の左側には昔トイレがあった形跡が。
左に見えているのはシンクで、水道の蛇口のようなものも見えます。
コクピットはどちらも操縦桿付き。
当時使っていたヘッドフォンがそのまま置いてありました。
シートベルトは肩から回して股のところで留める三点式です。
そしてずいっと奥まで入ってみると・・・・・・。
窓が・・・外れたままになっている・・・・・ORZ
まあ、この辺は雨が降らないんですけどね。
でも、やっぱり外気にさらされっぱなしというのは保存の観点からいかがなものか。
その気になればここからも入れたわね。
それはどもかく、この右側のシートに、星が一つあるカバーが掛けられていますね。
これは、ここがアメリカ的に「上席」というやつで、ここに一度だけですが
彼女は空軍のお偉いさん、星ひとつのジェネラルつまり准将(Brigadier General)を
乗せて飛んだことがあるのだそうです。
言ってはなんだけど准将でもこうやって「記念」を残すんですね。
そして問題の・・・・・・これ。
これ、何なんでしょう。
デコイ・ミサイルを「子供用のレプリカ」などと勘違いしてしまったエリス中尉ですが、
説明を読んでもこれが何なのかさっぱりわかりません。
Multipurpose Servicing Unit RCPP
充電と空冷のサポートをする、と説明には書いてありました。
パイロットの耐圧スーツのためのホースとか予備燃料のためのアクセスとかありますから
航空機の非常電源とか、燃料とかが搭載された「便利グッズ」なんでしょうけど、
これはマルチ・パーパスになった現代の増槽?
こういうものの通称、どうやって使うかご存知の方おられますか?
これも説明板が見つからず、なにか正確にはわかりませんでした。
ただ、形からどうもメイコン飛行船のモックアップのようなものではないかと考える。
もしこれがUSS Maconだとしたら、これは偵察任務に使用することを目的に
アメリカ海軍によって建造され、使用された硬式(公式ではない)飛行船のことです。
実は「スパローホーク」で画像を検索したら、このメイコンが出てきたのですが、
メイコンは空中母艦として軽いスパローホークを5機まで牽引できたそうです。
機体が金属にもかかわらずヘリウムガスで揚力を得ていたという、
素人目に見てもいかにも危なっかしい機構のものですが、
案の定というか予想通りというか、二年も経たないうちに、強風に煽られて
モントレー湾(今いるところの近く)に沈んでしまいました。
比較的天候の穏やかなカリフォルニアだからこそ、2年もの間無事故だったとも言えますね。
この時の事故で、メイコンの機体は海上には非常にゆっくり落下したため、
乗員乗客のの70人はライフジャケットとボートで生還することができました。
この事故における犠牲者は二人。
一人は何を思ったか、事故発生直後に高高度から海面に飛び降りて即死、
もう一人は一旦脱出できたのに、私物を取りに船体に近づき、沈没に巻き込まれて死亡。
どちらも本人次第で防げた犠牲です。
先日のアシアナ事故で、乗客の何人もがカートまで持って脱出していましたね。
これはすべてたまたま延焼が遅かったからできたことで、ただ、運が良かったのです。
このような恣意的な行動は、本来脱出の手助けをする乗務員によって全て制御されるべきで、
もし事故機がガソリンが少ない状態で墜落したのでなければ、
この乗客たちのエゴによって死傷者は倍増していたものと思われます。
東北の大震災でも、自宅に貴重品を取りに帰って津波に巻き込まれた人が多くいたといいますが、
お金も大事なものも命に代えられるものではありません。
昔読んだ「大事故、自然大災害から生還した人々」という本の一節に、
たとえば常日頃瞑想をするなど、精神統一を欠かさない人はこういう時に
結果的に生還する確率が高い、という印象深い報告がありました。
このようなひとたちは一般的に精神性を重んじ、物欲を排除しようとする傾向にあるので、
いざとなったときにそういった欲に支配されることもなく、
過たず判断し、かつ行動することができるということなのかもしれません。
また、逆に大災害を経験した者は物に執着しなくなる、という話もあります。
いずれにしても物への執着や過った状況判断によって命を失うほど虚しいことはありません。
せいぜいいざというときのために、この二人がなぜ犠牲になったかを肝に銘じたいと思います。
メイコンはモントレー湾の海底深く、ダイバーも到達できない場所に沈みました。
最近調査委員会によって機体の一部が引き揚げられたりしましたが、
自然保護区であるため、これ以上の引き揚げは今のところ不可能であり、
メイコンの眠るこの海の底は「アメリカ海軍の墓場」の一つとなっています。
http://www.sanctuaries.noaa.gov/missions/2006macon/welcome.html
宮崎駿監督の"The Rock And The Hard Place"(四面楚歌)
皆さん、スタジオジブリ制作、「風立ちぬ」ご覧になりました?
収益的にはもののけ姫に続くヒットであるとのことで、ネットではすでに
感想やら批判やら影響を報じるニュースが飛び交っています。
宮崎監督が零戦設計者の堀越二郎をモデルにした映画を制作中、
というニュースを知ったとき、わたしは「少しだけ」期待しました。
これまでのジブリ作品、特に「紅の豚」に見られる「戦い」・・・・・、
空中戦をしながら誰も死なない、海賊なのに人を決して殺さない、悪役が悪人ではなく皆善良、
最後の決着は「女を取り合って殴り合い」・・、
おとぎ話としては設定が穏やかでなく、飛行機で戦うという題材の割にはおめでたすぎる。
しかもこういう配慮がありながら、子供に向けたものというわけでもなく、
大人向けのアニメであると制作者自らがいう立ち位置。
底意地の悪い目で見れば、あざとい甘さがにつくのが宮崎作品の特徴です。
わたしは作品としての「紅の豚」を決して嫌いではなく、むしろ好きといってもいいほどですが、
この世界観を設定した宮崎駿監督という人の戦略だけに限って焦点を当てると、
映画を観終わった後の文句なしの「後味の良さ」が、まるで人工甘味料の甘さのように
時間がたつと次第に変質して妙な「エグ味」になるのを感じていました。
しかし、零戦製作者の堀越二郎という実在の人物を取り上げたということは、
多くの宮崎作品に共通する、「飛ぶことへの憧れ」に少しは現実を加味したものになるのではないか、
という期待をつい感じさせずにはいられないニュースであり、
この映画の公開を(というかこの映画に対する評価を)心待ちにしていたのも事実です。
いよいよ公開となった注目のこの映画ですが、
わたくし、いまだに観ておりません。(爆)
なぜなら観ようにも日本にいないからで、にもかかわらずわざわざエントリを挙げて
話題にしようとしたのには訳があります。
それは監督の宮崎駿氏が、この映画に先立って「政治的発言」をし、
それがインターネット世論に舌禍をして捉えられたことと、
それが故に氏が陥った「The Rock And The Hard Place」について、
少し述べてみたいと思ったからです。
以下、宮崎監督の書いた問題の「論文」から要約します。
1.戦後の自虐的な文章でいろいろと知るうちに日本が嫌いになった
ただし、自分は思い込むタイプなのでもう少し早く生まれていたら軍国少年になっていたはず
父親は軍需工場の工場長だった
大局観のない人間だった
半藤一利の昭和史でいかに日本がひどい国であるかを知った
親の話を聞いてさらに日本人が嫌いになった
政界のトップは歴史観がなく、勉強もしていない
そんな連中が憲法改正するなんてとんでもない
ヨーロッパから帰ってきたときに日本を見直した
ただしそれは自然が豊かだという点に対してであり日本と日本国民に対してではない
2.いまの政治家は本音を漏らして大騒ぎになると「そんなつもりではない」などという
これも彼らに歴史観がないせいだ
こんな考えのない連中が憲法を改正するのは反対だ
アベノミクスも根拠はないが早晩ダメになるに違いない
3、9条と自衛隊は矛盾するが、職業軍人なんて役人の大群でくだらなくなるものだ
どこにいっても一発の銃弾を打たずに帰ってきた自衛隊は素晴らしい
だから国防軍など反対だ
もし戦火が起こるようなことがあったら、ちゃんとその時に考えて、
憲法条項を変えるか変えないかはわからないけど、
とにかく自衛のために活動しようということにすればいい
立ち上がりは絶対に遅れるけど、自分からは手を出さない、過剰に守らない、
そうしないとこの国の人たちは国際政治に慣れていないから
すぐに手玉にとられてしまう
もし戦争になるにしてもその方がまだましだ
4.「(日本は)悪かったんですよ。
慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、
きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」
領土問題は、半分に分けるか、あるいは両方で管理すべき
5、かつて日本が膨張したように膨張する国もあるが、そのたびに戦争するわけにいかない
中国の矛盾は中国の問題だから日本が軍備を増強しても関係ないことだ
だから日本の軍備拡張は反対である
マーケット中心の日本の産業構造からは、必ず徴兵制をやれという馬鹿が出てくる
そういうやつはまず自分が行くべきだ
あるいは自分の息子、いなければ娘を兵隊に行かせろ
こんな日本のような立て込んだところで戦争などできない
だから徴兵制は反対である
とほほ・・・・そうではないかと思っていたら、宮崎監督ったら典型的な団塊左翼だったのね。
どの発言も酷い、というか時々まったく意味が分からないのですが特に最後・・・・。
「日本は狭くて立て込んでいるので戦争はできない」
って、誰が誰に向かって言ってるの?
スポーツじゃないんだから狭いとか広いとかの問題ではない気が。
だいたい今時の戦争が市街戦で行われることを前提にするっていったい・・・・。
先日元ジャーナリストが、ツィッターで批判され「私にケンカを売るとは10年早い」
と論破されたのを認めようともしないで言い放ったのが話題になっていましたが、
どうしてこの年代の人たちって自分と異なる意見を持つ人たちに向かって
「勉強していない」「歴史認識がない」
とか決めつけますかね。
どこかで聞いたと思ったら、まるで「お隣の国」の言い分ではないですか。
この手の意見に共通するのは戦後、日本がいかに悪かったかを叩き込まれ、その後
どのような歴史関係の資料を見てもそのインプリンティングから「日本原罪論」
の視点からしかすべてを見られなくなってしまっているということでしょう。
ジブリのプロデューサーの鈴木某という人物も同じ媒体にやはり論文を上梓していますが、
これがまた宮崎監督に輪をかけて・・・・・な人物。
「僕、憲法9条を持っているって、海外の人はほとんど知らないと思う。
だって自衛隊があるしね。そっちを知っているわけでしょう。
だから日本が世界にアピールするとしたら、9条ですよね。
これだけの平和は、9条が無ければありえなかったわけですから。
日本には美しい森林もある。
自分の国は自分で守るという考え方もあるでしょうが、
平和憲法を持ち、森と水がきれいな国をね、みんな侵せますか。
そこへ侵略する国があったら、世界の非難を受ける時代でしょ。
現代って、一国の暴走に世論がブレーキをかける時代なんです」
いやはや。
いい歳のおっさんが、この少女のような夢見がちなお花畑発言。
あまりにもおめでたすぎて、頭がくらくらしてきそうです。
きりがないのでいちいちまともに取り合うのはやめますが、この鈴木さんによると
「『紅の豚』は国のために戦ってその虚しさから豚になった男がテーマ」
なんだそうで。
へー。道理で後味が悪いと思った(笑)
さて、この映画公開に先立ち、韓国の記者会見で宮崎監督が同じようなことをに述べたところ、
韓国人たちは狂喜し、その時は宮崎を絶賛する意見が溢れたと言います。
なぜ、宮崎はわざわざ韓国に向かってこのような政治発言をする必要があったのでしょうか。
それはなんといっても、それが日ごろからの監督の政治信条であるという以上に、今回、
「風立ちぬ」が、韓国で日本に遅れること一か月後に公開される予定があったからでしょう。
どこの国でもやったことのないジブリ展も先駆けて催されました。
これは、今回の主人公が日本の戦闘機を設計した実在の人物である、ということで、
予め「反省する良心的日本人」としての自分の立ち位置を韓国人にアピールして
映画の公開に好意的な感触を得ようという宮崎監督の「商業的戦略」だったと思われます。
ところが、案の定、日本のすることすべて憎く、なにに対しても「戦犯」という言葉を
ぶつけなくては最近収まらなくなっている態の韓国では、
宮崎監督の思惑に反して、盛大なバッシングと上映反対の声が起こり始めました。
このような内容です。
「どんなに美化しても堀越二郎は自分が作ったゼロ戦が日本軍の大勝に寄与したことに
自負心を持った人物という点には変わりなく、これに対する批判と反省が見られない」
「戦争惨禍を扱う映画なのにその原因については徹底して沈黙する。
明白な日本自国民の自衛用右翼映画だ。
過去の謝罪発言をしたからといって宮崎のこういう欺瞞的態度への免罪符にはならない」
などなど。
宮崎監督はさぞ面食らったでしょう。
韓国人というのがどういうメンタリティの国民か、あの年代ならよく御存じだと思うのですが、
ここまで政治的に歓心を買う発言をしたのに「右翼」呼ばわりされるとまでは
さすがの左巻き脳でもおそらく想像すらできなかったのかもしれません。
本当にざま・・・・いや、ご苦労様なことですが、とりあえずあわてて、
監督は再び記者会見を(わざわざ)開き、弁解にこれ努めました。
「戦争の時代を一生懸命に生きた人が断罪されてもいいのかと疑問を感じた」
そしてさらには
「堀越は軍の要求に抵抗して生きた人物だ」
などという我田引水の嘘八百な言い訳まで・・・。
韓国の人たちはね。
どう生きた人物であろうが、日本人である限り我々を、そして我々の父祖までもを断罪するんですよ。
過去も現在も、ついでに未来永劫、日本を否定し続けるつもりなんですよ。
知らなかったんですか監督?
日本人には、決着済みの歴史問題に対し謝れとか領土を半分くれてやれなどと言って
嫌われ、韓国人にはそれでも右翼だ戦争美化だと弾劾され、
これが本当の”The Rock And The Hard Place"(板挟み)ってやつ?
「シンプソンズ」を観ていて、
ホーマー・シンプソンがこんな目に合っているシーンを観ていたら息子が
「The Rock And The Hard Placeって成語なんだよ」と教えてくれ、
またもやどうでもいい英語のボキャブラリーだけが増えてしまったわけですが、
まさにこれが宮崎監督の今の状況だなあと微笑ましく思った次第です。
まあそもそも、煮しめたような団塊左翼のくせに兵器オタクというのが矛盾なんですよね。
この人の場合。
公開が始まる前、読者の方が、宮崎作品の「兵器へのこだわり」について、
こんな一文を寄せてくださっています。
子供の頃見た「あの」NHKアニメ「未来少年コナン」で表現される機銃・艦砲の発砲シーンに
発射される「弾」を、ちゃんと「弾」として表現しているのを見て「この人・・・出来る!!」
とこれが最初の宮崎さんへの記憶でした。
「ギガント」(解ります?)の機体各所銃座の射撃シーンなど、
「おぉー、WW2の爆撃機の銃座みたい!」と、更に氏への賞賛を高めた記憶が有ります。
わたしにはさっぱりわかりませんが、そうなのだそうです。
さらに、
ネット等で見かける映画のポスター、
主人公「次郎」と共に描かれている正面からの機影(逆ガル翼)は、
この映画の主役ともいえる?、十二試艦戦「零戦」の前の、
「96式艦戦」、の試作型「九試単戦(昭和9年度発注だったかな?)」ですね。
と言う事は、発注者は当然、「帝国日本海軍」。
なるほど。筋金入りですね。
兵器オタクの宮崎さんとしては、人生最後に自分の夢であった兵器が
(背景とはいえ)バンバン出てくる映画を作りたい。
しかし、それを作るには戦争を、そして結果として、兵器というものが
いつも自分が言っているところの「酷いこと」をするための道具であることを無視できない。
全くの二律背反なのですが、出発点ですでにこの人物は矛盾してたんですね。
マスコミはこのことに決して触れませんが、若いころは東映動画の労組の委員長。
筋金入りの左翼活動家であったというのですから。
そして本人には不本意でしょうが、堀越二郎の
「美しい飛行機を作りたい」「そんな重い飛行機じゃだめだ」という理想主義が、
零戦の、防備のない、搭乗員の命を失わせる仕様につながった、という矛盾と
宮崎監督の嗜好と思想の矛盾は、まるで同じ構図に思われるのです。
ところでタイトルの"The Rock And The Hard Place"が板挟みという意味なら
(四面楚歌)という訳はおかしくないか、と思ったあなた、あなたは正しい。
この映画、上映が始まってすぐに
「子供を連れて行ったら退屈して泣き出した。
トトロのようなキャラが出てこない」
という従来のジブリから勝手に「アニメだから子供向き」と思い込む人たちの
批判があがりました。
それが収まったと思ったら今度は思わぬところから矢が飛んできます。
なんと日本禁煙学界からの
教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、
高級リゾートホテルのレストラン内での喫煙場面など、数え上げれば枚挙にいとまがない。
主人公が病室で結核患者の妻の横で喫煙するシーンや、
学生が“もらいタバコ”をするシーンは特に問題だ。
さまざまな場面での喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できない。
というクレームで、良くも悪くもジブリ作品の持つ世間への影響の大きさを感じましたが、
まあ、こちらも「そういう時代だったから」「表現法の一つ」ってことにしないと、
画面が煙で真っ白な昔の映画など子供に見せられないってことになっちゃいますよね。
どちらも少しジブリにはご無体な批判ではあるのですが、ともかくこれで
前門の「従来の『トトロ』ファン」
後門の「日本禁煙学界」
右手の「保守派右派つまり団塊左翼以外」
左手の「韓国国民」
きれいな四面楚歌状態です。
いったいこの映画を評価するのはどういう人?
ってことになってしまいそうですが。
ついでに声優を嫌い、わざわざ素人の庵野監督を使って声優オタクにも嫌われ、
戦闘シーンもろくにないため飛行機オタクにも嫌われ・・・・。
さあどうする宮崎監督?
(答え:何もしない。どうせマスコミと信者の力で十年もたてば『名作』になっているから)
淡々と写真を貼る〜あるサンフランシスコの一日
今滞在しているところはサンフランシスコから1時間弱南に下った、
ロス・アルトス市というところです。
ここはサンフランシスコとは違って夏らしい陽射しが降り注ぎ、
しかし日蔭は涼しく夜になると品やると冷たい空気が心地よい、とても過ごしやすい気候です。
しかし、かつてサンフランシスコに住んで「I left my Heart、(心を置いてきた)」わたしとしては、
快適なロス・アルトスにあっても何度となくサンフランシスコに足を向けてしまいます。
というわけで今日はわたしの「サンフランシスコの休日」をお送りします。
まず、息子をスタンフォードのキャンプに送りとどけてから、車で北に向かいました。
30分くらい走りフリーウェイ(カリフォルニアはブリッジ以外基本無料、つまりフリー)から降りると、
以前住んでいたところが現れます。
アメリカには「タウンハウス」といって、町の一角全部が同じ住宅会社の経営による賃貸住宅があり、
短期赴任の外国人などもこういうところを利用します。
ここは昔ゴルフ場だった一帯で、戦後すぐできた古いタウンハウスです。
ここは隣にサンフランシスコ州立大学があるので、学校関係者も多いようです。
PARKMARCEDとかかれた建物は、リーシングオフィスにあるジム。
登録すれば住人に限り使うことができます。
住んでいる間、毎朝必ずここで運動するのが日課でした。
そして画面手前がMUNIというサンフランシスコのコミューター。
当時TOはダウンタウンで仕事をしていたのですが、毎日これで通勤しました。
MUNIのステーションを撮ったら、なんだか絵になるホームレスが・・・。
若くて元気そうなのに、なぜ仕事がないんだろう。
クルマの中から走りながらシャッターを切ったのですが、気づいたらしくカメラ目線です。
スタンフォードは晴れていたのに、このあたりに来るとこの通り。
霧の多いサンフランシスコの中でも特に朝は深い霧に閉ざされる地域です。
(住居を決めたときは夕方で晴れていて知らなかったので(-"-)
これもサンフランシスコならでは、「ハーモニカ長屋風住宅」。
ボストンから移り住んだとき、このくっつきあって建っている家が実にみすぼらしく見え、
心底がっかりしたものです。
今いるロスアルトスは、こういう家はまずなく、一軒一軒がボストンほどではないにせよ
独立した庭を持っている「アメリカの家らしい家」なのですが、
今日知り合いに聞いたところによると、このシリコンバレー地域は
住宅が高いといわれるサンフランシスコよりずっと家も土地も高価なのだとか。
ちなみにこのような「ハーモニカ住宅」、中に入れば奥にうなぎの寝床のように長く、
地下室があり裏庭もあって、日本の建売住宅なんかよりずっと広い面積があります。
今日はマリーナ方面で降りて歩こうと思ったのですが、
去年からの工事がまだ終わっておらず、開通していません。
ゴールデンゲートブリッジの方からクリッシーフィールドに行くことにしました。
プレシドというヒストリカル・エリア。
ウォルト・ディズニー記念博物館があったりします。
昔はここで日系人のインテリジェンス部隊が訓練を受けていたそうです。
どこかにその痕跡もあると聞いたのですが、まだ調べがついていません。
いつもここに来たらするように、ゴールデンゲートブリッジの下に車を停めました。
もちろんタダです。
サンフランシスコは駐車料金が高いので有名ですが、こういうところや公園などは
ほかのアメリカの地域と同じく料金を取ることはありません。
ここに咲いていたツツジの種類・・・・・・
だと思いますが、見たことのない植物です。
ちょうど観光バスが停まってここでトイレ休憩をしていました。
この女性はタンクトップですが、アメリカ人は寒いのが平気な人が多いので
コートを着込んでいる人とこんな格好の人が並んでいたりします。
わたしはこの日は長袖のパーカを着用していました。
クルマを置いて歩き出し、振り返ったところ。
今日は特に霧が濃く、ブリッジが見えません。
行きかう船の汽笛がしょっちゅう響いていました。
この辺の主、カモメ。
このカモメの写真を撮っていたら・・
ポーズを取ってくれました。
かわいい///
以前にも一度エントリに挙げたことがありますが、これは日本海軍の本土攻撃があった後
作られた防空壕。
防空壕だけど立ったまま入れる、というのがアメリカっぽい。
こんなの、直撃すればひとたまりもないと思いますが・・。
このクリッシーフィールドは昔、飛行機黎明期に滑走路というか、
飛行機を飛ばすためのフィールドがありました。
ハンガーもこのようなものがあり、当時の看板だけが記念に残されているようです。
この看板には「メンテナンス」と書かれています。
かつて飛行機が走っていたフィールドは今ただの芝生に覆われ、
いつもは何もないところですが、今はこのような作品の展示を行っていました。
テリムクドリモドキの雌ではないかとここ数年疑っているのだけど、
いまだに種類がはっきりしない鳥。
カメラ目線。
そのテリムクドリモドキ。
いつも一緒にいるのですが、雌と雄にしては人相が違いすぎるんですよね。
漁を終えて帰ってきた釣り船か漁船。
頭に寝癖がついていますが、おそらくダイサギだと思います。
これはもしかして・・・・・・すずめ?
灰色の頭のすずめとは別の種類ですね。
この地帯ではよく子供のキャンプが行われるので、
それに子供を連れて行くお母さんかもしれません。
子供は張り切ってはしゃぎまくりでしたが、お母さんの表情が暗い(-"-)
丸いドームの建物は原子爆弾を発明したあのオッペンハイマーの基金で作られた「エクスプロラトリウム」。
世界的に有名なサイエンスミュージアムです。
三年前前までは、ITキャンプ以外にここのサマーキャンプにも息子を行かせていました。
エクスプロラトリウム近景。
映画「ザ・ロック」で、追手から逃げたショーンコネリーが娘(だったかな)と会っていた場所です。
このあたりには大量にいる「犬の散歩業者」。
犬を飼ったら自分で散歩させろよ、と思うわけですが、
こういう業者が多量に成り立っているということは、休日にしか自分で散歩させられない
「エグゼクティブ」がいかに多いか、ということでもあります。
犬は友達と一緒で楽しそうですけどね。
このボクサーは日本ではお目にかかれない巨大サイズでした。
ワイルド・グースは群れを作って飛びますが、
必ず飛びながら「アー、アー」と鳴き交わしています。
これを見ると、
Wild geese that fly with the moon on their wings
These are a few of my favorite things
という「マイ・フェイバリット・シングス」の歌詞をいつも思い出します。
写真を撮りながら歩いていると、向こうから来たポインターがなぜか向きを変えて
ずんずんとこちらにキター!(AA省略)
と思ったらそばにたたずんで一瞬匂いを嗅いだ後行ってしまいました。
なんだったんだ、君・・・・。
カリフォルニアの若者は、なぜか皆上半身裸でジョギングします。
スタンフォードの中もこういうスタイルの男性が多数走り回っています。
わたしなどいろんな意味でシャツぐらい着た方がいいのに、と思うのですが、
どうもこれは「ファッション」であるらしいことが最近分かってきました。
おなかの出た人や歳を取った人でこういう格好をしているランナーは皆無ですから、
要するに「俺のイケてるカラダを見てくれ!」みたいなアピールなのかと。
ついでに気のせいか、顔もイケている男性が多いような気がします。
ナルシストが多いとか?
さて、ここからは新しくできているバイパスのトンネルの上に、このような墓地が見えます。
これが、国立墓地。
つまりアメリカの戦死した軍人の墓所です。
帰りにその門のところを通ったので写真を撮りました。
サンフランシスコを出て南に向かう高速沿いにももう一つ国立墓地があり、
そこを通るたびに国旗を見てしまうのですが、かなりの割合で半旗になっており、
それは今日戦死した軍人のお葬式が行われるという印なのです。
イラクの時にはいつみても、という感じでしたが、撤退した今でも、
たとえば今日(8月17日)も半旗になっていましたから、いまだにアメリカ軍人が
何らかの形で戦死をしているということなのです。
しかも彼らの戦死はニュースになることもありません。
広大な芝地に、それこそ隙間もないほど立ち並んだ墓石の一つ一つの下に
かつて「ジョン」とか「スティーブ」という名だったアメリカ青年が眠っていると思うと、
いつも何とも言えない気持ちになります。
クリッシーフィールドを1時間ほど歩いて、ブリッジの見納めをしました。
歩いていたら後ろから来たおじいさんが「おはよう」というので返事をしたら、
「旅行中?」と話しかけてきて、しばらくの間この人と一緒に会話しながら歩きました。
なんでも仙台で仕事をしていたことがあり、東京と神戸にも行ったことがあるとかで、
こちらに全く質問させずに自分のことだけをしゃべりまくるおじいさんでした。
いるよね。自分のことをしゃべりたいだけの人。
まあ、わたしも楽しかったからいいんですけど。
別れるときおじさんは「See you!」と言って去っていきましたが、
二度と会えないことが分かっていてもこう言うのが、アメリカ人でもあります。
さて、一時間歩いたらお昼になりました。
朝ごはんも食べなかったのでおなかがペコペコです。
このプレシドにはわたしの好きな郵便局があって、(客層がいいのでおおむね局員も感じがいい)
いつもそこで日本への小包を出すのですが、帰国に備えて荷物を送る時期にはいったため
この日も大きな箱を持ってきてここで送りました。
そして隣のカフェでお昼ご飯を取ることにしました。
前に来たときは、白いテーブルクロスのかかった、ウェイターのいるカフェだったのに、
カウンターで注文する「普通のカフェ」に変わっていました。
サラダもあまりおいしくなかったし、店員の態度もあまり良くなくかなりがっかりです。
インターネットがタダなのは、アメリカでは当たり前とはいえ、うれしかったですが。
このあたりの建築物はどれも非常に古いものが多いのですが、
こうやって保護してリノベーションして、また普通に使用されます。
昼食の後は、ダウンタウンに向かいました。
昔車のキャディラックのために造られたビル。
おそらく1930年ごろの建築だと思われます。
キャディラックの紋章に身をもたせ掛けるローマの戦士のような男性二人、
各々が、タイヤと、クルマのパーツのようなものを支え持っています。
ここは、今はAMCというシネマ・コンプレックスビルになっているのですが、
アメリカでは古いビルを決して壊さないので、昔の名残もこのように残っているのです。
わたしはここで何回も映画を見ているのですが、今日たまたま前を通りかかって写真を撮り、
こうやって引き伸ばしてみて初めて、これがキャディラックのための装飾だったことを知りました。
キャディラックという車そのものが、今やアメリカでもめったに見られることがありませんが・・・・。
ダウンタウンに向かう途中、夜になると非常に「怖い」地域があります。
昔車で夜通りかかったところ、道端で注射器を持っている人を見たことがあるくらいですが、
昼間通過する分には何の心配もありません。
この怪しい看板の店は、何をするところか全くわかりませんが、
「ワイルドガール」がいるそうです。
そして、目的地、ユニオンスクエアに到着。
この公園の下は、地下3階くらいまでの巨大な駐車場になっています。
このあたりは路上に駐車するのはとても難しいので、
このあたりに用事のある人は皆最初からここに車を入れてしまいます。
わたしの用事というのは、このスクエアの隣にある「DSW」、
デザイナーズ・シューズ・ホールセールで、安くて楽な靴を買うこと。
アメリカから帰ったらすぐに秋田で花火大会に行く予定なのですが、
去年いい加減なサンダルを履いて行って足がズタズタになってしまったため、
「何時間歩いてもいいような靴を探すこと」
とTOから厳命されているのです。
でも、なかなかないんですよね。
「何時間歩いても平気なサンダル」なんて。
あきらめて、非常にぞんざいに置かれているグッチのバッグの写真だけ撮って帰ってきました。
しかし、いかにブランド物といえどもこんなディスプレイでは売れるものも売れない気が・・・。
全くありがたみのない売り方ですよね。
今日は金曜日、夕方には週末のお出かけをしようとするアメリカ人が
仕事もそこそこに帰路に就くので、非常に車が渋滞します。
靴はあきらめてさっさと帰ることにしました。
今日は息子のキャンプも最後で「参観」があります。
パーキングに戻るために信号待ちをしていたらケーブルカーが来ました。
サンフランシスコの中心となる通り、マーケットストリート。
この右側のビルで昔TOは仕事をしていました。
二年前くらいにできた日本のスウィーツ専門店。
いつも行ってみたいと思いながら、通り過ぎるだけです。
スタンフォードに到着。
ここに大量のPCを並べてITキャンプは行われます。
一週間の成果をわが子に説明してもらう父兄の群れ。
驚くことに、お母さんより父親が来る家庭の方が多いのですね。
このあたり、日本のお父さんとは(おそらく仕事の形態も)違うなあと思います。
よくわかりませんでしたが、息子がプログラミングしたゲーム。
だそうです。
「いつも家でやってるのとほとんど同じじゃない」
「だから俺、作るのもものすごくうまくいって、皆に褒められたんだよ」
はい。
スタンフォードのオフィス。
ホールにピアノが置いてあります。
写真は昔のスタンフォードの学長、トレシダー教授。
この日はこのあたりには珍しく少し蒸し暑かったので、
このビルの1階にある「ジャンバ・ジュース」を飲んで帰ることにしました。
行ってみると長蛇の列。
なのに、働いているのはこの人一人だけ。
何人かのレジを打って注文を受けて、自分で黙々と作っています。
いつもレジとジュース作り二人の三人体制なのに、何があったのでしょうか。
しかも、キャンプを終えた学生が涼を求めて並ぶ列は伸びる一方。
20分くらい並んでようやく順番がきました。
しかしみな。空港のハーツレンタカーの列に並ぶ人と違って、
文句ひとつ言わずこうやって順番を待っています。
ああいうところの大人と違って皆すれてないからだわね、きっと。
木陰で冷たいジュースを口に含むと急に風がさわやかに感じられ、
今まで暑かったのが嘘のようでした。
カリフォルニアにいると、「夏を楽しむ(エンジョイ・サマー)」という言葉を
こういうときに実感します。
日本の夏は「楽しむ」というより「耐える」という言葉の方が相応しいですから・・・。
こんな快適な環境にいると、日本に帰るのが嫌になってくるのが困りものです。
ヒラー航空博物館〜早熟の天才スタンリー・ヒラー・Jr.
それでなくてもどこかに行けば「重爆の隅」を(これ、気に入っちゃった)突くように
何日も何日もデレデレと、気の付いたこと関心の赴くままに語り続ける、
それが当ブログの特徴であります。
しかるに今回の滞米でたくさんの「軍・航空関係」の資料を見てきて、
今年中にすべてをお話しすることができるだろうか、と不安になる中、
またもやダメ押しで行ってまいりました。
サンフランシスコ国際空港から少し南に下ったサン・カルロスという市にある
ヒラー航空博物館(Hiller Aviation Museum)。
実はここには息子がまだ4歳くらいの時に連れてきたことがあります。
ブルーエンジェルスのコクピットに座らせて写真を撮り、
ここのギフトショップで買ったトップ・ガンのパイロットスーツは、しばらくの間
息子のお気に入りになったものです。
しかしいかんせんその頃は、わたし自身航空機に何の知識もありませんでした。
まあ今だってたいしてあるわけじゃありませんが、当社比でいうと格段の差です。
そして今となってはどんなものが展示されていたのかも全く記憶にも残っていないため、
見学すれば前とは違った発見があるのではないかという期待があります。
というわけで出発。
今いるロスアルトスからはわずか車で10分です。
入口の前には冒頭画像のようなモニュメントがありました。
航空機黎明のころのグライダーですね。
この大きな二枚羽の翼は木と布でできていたのでしょうが、
それにしても、それをただ手で持って走り、丘の上から飛ぶ、といういかにも危険そうな仕組みです。
「空を飛びたい」と人は昔から翼をもつことを憧れ続け、ついにそれを可能にしたわけですが、
そこに至るまでにはこのような無謀なことにあえて危険を承知で挑戦する、
命知らずの冒険者がいたからこそでしょう。
ここはヒラー・Jr.を記念する博物館ではありますが、黎明期の飛行機野郎たちのスピリッツは、
ヒラーの「飛びたい」という気持ちの原点でもあったからこそ、
それを顕彰する意味でこのようなモニュメントがあるのだと理解しました。
エントランスの前はこのような記念碑があります。
マーチンが1935年に就航させた大型飛行艇が三機ありました。
それがM-130で、
1番機 チャイナ・クリッパー
2番機 ハワイ・クリッパー
3番機 フィリピン・クリッパー
この碑は、事故で墜落した三番機のフィリピン・クリッパーの慰霊のために建てられたもので、
このように記されています。
太平洋で8年間就航したのち、1941年12月8日、ウェーキ島上空で
日本軍の航空機に低空からの掃射を受けたことがある。
フィリピン・クリッパーは1943年1月21日朝、悪天候をついて降下中
この地に墜落した。
真珠湾を出発、オアフ、ハワイ島からの9人のパンアメリカン航空のクルー、
そして10人の海軍軍人を乗せていた。
生存者はいなかった。
なんと。
このマーチンM-130について検索すると、
「フィリピンクリッパーはサンフランシスコで墜落事故により失われ」
と書いてありますが、それがまさに「この地」だったということなのです。
サンフランシスコ湾に着水しようとして風に流され失敗したのでしょう。
この比較的気候の温暖なサンフランシスコで「悪天候」とは・・・。
しかし確かに墜落事故の起きた1月は、実はこの地域は「雨季」でもあります。
わたしがここに住んでいた年のクリスマスは大雨と暴風雨で、
25日の朝外に出ると、そこらに折れた木切れが散っているという「台風一過」でしたから、
おそらくこのような季節の悪天候にに運悪く見舞われたものでしょう。
この文の下には死亡した全員の名前が書かれています。
合掌。
・・・・それにしても「日本軍の低空掃射」って、この短いヒストリーに必要かい?
さて、入館料は15ドル。
ギフトショップのレジがそのまま入館受付を兼ねています。
お金を払うと「手を出して」と、手首に紙のリストバンドをはめてくれました。
これがあると、いったん外に出ても再入館可です。
いよいよ中に入っていきます。
この広いアトリウムには天井にたくさんの航空機がつるして展示してあります。
外のグライダーよりは少しだけ後期のものだと思いますが、
!903年のWRIGHT FLYER(ライトフライヤー号)(レプリカ)
「初の動力付きで、パイロットが搭乗して継続的に飛行し、
機体を操縦することに成功した、空気より重い空飛ぶ機械」
あるいは、
「最初の継続的に操縦を行った、空気より重い機体での動力飛行」
「空気より重い」「動力」にこだわっているのは、それまで気球やグライダーが、
既に人類の飛行を可能にしていたからです
よく見るとちゃんと操縦士が。
操縦士は腹ばいに搭乗し、操縦しました。
ちなみに動力は「ライト兄弟自製のガソリンエンジン1基。
直径2.6mのプロペラ2つを推進式に配置し、ローラーチェーンによって駆動しました。
プロペラのトルクを打ち消すために、2つのプロペラは相互逆回転で駆動します。
それにしてもこのパイロットのスタイル。
時代とはいえ、こんなことをするのにネクタイ付きのスーツとは。
このころは機能的な洋服などなかったのかもしれませんが、
現代のあまりにラフすぎるアメリカ人の先祖とは思えません。
さて、アトリウムからメインギャラリーに進んでいくと・・・・・
スタンリー・ヒラー・Jr.の開発した「フライング・プラットフォーム」。
この名前を検索しても、日本のウィキぺディアでは「ヘリコプター・デザイナー」
という一文だけしか記載されていないのですが、英語のウィキとここでの展示を見る限り、
このヒラーという人はヘリコプターの歴史に大きな足跡を残しているというべき業績をあげているのです。
ヒラーは一種の天才で、1939、15歳の時になんと世界初の同軸ヘリコプターを発明。
この時すでにUCバークレイの学生であったヒラーのこの発明は、
ワシントンを通じて米陸軍が採用しています。
17歳の時にはワーキングモデルである
「ヒラコプター」を
「ヒラコプター」を
「ヒラコプター」を
デザインしています(あまりにもツボったので三回言いました)。
この「フライング・プラットフォーム」は、1955年の発明で、
チャールズ・ツィマーマンの「フライング・シューズ」という飛行機械のプロトタイプです。
気持ちよさそうな「フライング・プラットフォーム」の飛行。
ヒラー47歳の時の発明です。
ツィマーマンが提唱した理論、人間の重量と運動能力でコントロールを可能にできるという
Kinesthetic(運動感覚性、造語)を利用して作られたこれ、
空飛ぶセグウェイといった感じですね。
なぜ普及しなかったかというと、理論の「運動感覚性」は、つまり操縦には「誰がやっても安全に動く」
わけではいという特殊性と、何と言っても事故になった時に人体への被害が大きいからでしょう。
ヒラーの会社は、片手間に?あるいは本命である「飛ぶもの」の開発に
資金を得るために、このような製品を制作販売していたようです。
子供のままごと用のフライパン、スカートハンガー。
これもひとつの「発明」ですね。
ATOM RAY GUNというのは、微粒子のウォータージェット、つまり洗車用ノズル。
ガラス下には、「コメット」というモデルカーがあります。
ヒラーコメットのポスターに登場しているのもご本人。
商業モデルではないのでポーズの取り方がぎこちない(笑)
これはどう見ても17,8歳というところでしょう。
会社の社長でもあったんですね。天才恐るべし。
ローターサイクル(ROTERCYCLE)
なんと豪気な。
本当かどうかはわかりませんが、英語のページには「ディスポーザル」、使い捨てとありました。
米軍マリーンコーアで、 墜落しパラシュートで落下した搭乗員を救出するためにデザインされたものです。
40馬力のネルソンエンジンを搭載しており、50マイル(80キロ)を飛行することができます。
救出した人間の担架を搭載しており、現場から滑走路や広い場所に移送するのに十分な距離を想定して作られています。
しかしこの状態で80キロ飛行するのはかなり辛いだろうなあ。
Hiller Hornet(ヒラー・ホーネット)
ホーネットという名前をアメリカ人は飛ぶもの飛ばないものに限らずやたらつけたがりますが、
この小さなヘリコプターも「スズメバチ」の名がつけられています。
1949年の製作で、高度はこれで6000(180m)フィートに達し、
この結果を受けてすぐ陸軍との契約が進んだのですが、上手くいかずキャンセルされています。
原因は、陸軍の技術陣が先を越されて面白くなかったことにあるとかないとか・・・・。
軍のメンツが潰されたってわけですね。
うーん、どこにでもありそうな話ですなあ。
ヘリコプター・トレーナーDHT-2
フレームだけのヘリ。
電子チェロというのは、必要最小限だけのフレームを弦のある指板に付けてありますが、
どうもそれを思い出してしまいました。
アメリカの「デル・マールエンジニアリング(デルマールはイタリア語で『海の』)」が制作し、
1950年から60年までの間、兵器の実験やヘリパイロットの訓練に使われました。
訓練生にすれば、こんなむき出しの竹馬みたいなものに初めて乗るのは
なんとなく普通のヘリより怖かったのではという気がしないでもないのですが、
デルマール社の広告。
こんなのだとみんなと一緒でなんとなく安心だし、第一楽しそうでいいですね。
「はいみなさんご一緒にホバリングしましょう〜!」
MED-EVAK(救難ヘリ)DH-20
なんと、ツインローターです。
パイロットと負傷者が二人のることができます。
従来のヘリコプターより折りたたむことができ小さい空間で運用することができるようになりました。
HA-2M スポーツスター
Hiller 360
ヒラーは1949年、カリフォルニアからニューヨークまで、
初めてヘリコプターによる大陸横断飛行を成功させました。
ちなみに初めて戦場でヘリが使われたのは、仏印戦争のときです。
ドクター・ヴァレリー・アンドレ(女性)がこのHiller 360で脱出しました。
ところで、ヘリコプターというものに少しでも詳しければ「ベル」という会社の名を聞いたことがあるでしょう。
「ベル・エアクラフト」のラリー・ベルは、ヘリコプター制作の若いライバル、ヒラーの
軽量ヘリについての見通しを信頼しており、それがため、
ベルの開発したローターブレードをヒラーの新しいヘリに使うことを許しました。
1948年のことです。
10年もの間ヒラー360はヘリコプター、たとえば朝鮮戦争で使われた救難ヘリや、
水陸両用のヘリの、いわばテンプレートとなりました。
このミュージアムは非常に展示に工夫が行き届いており、たとえばこのように
マネキン人形に当時の衣装を着せて、見る者が当時を彷彿とできるような演出がなされています。
この女性も、実在の写真の人物からの再現です。
テールのところにはエンジニアが。
これはもしかしたらヒラー本人かもしれません。
彼のつなぎの背中には「HILLER」とネームが書かれています。
というわけで、ベル社のベル氏にも認められ、陸軍技術部には嫉妬され、
初めてヘリで大陸横断し、15歳の時からヘリを発明してきた男。
なのに、どうしてヘリコプターの歴史に名前が出ていないのでしょうか。
これだけの業績を挙げているのに、しかもその発明と技術はことごとく
軍が採用したりしているのに、どうして日本のウィキペディアでもその名がないのでしょうか。
どなたかこの理由をご存知の方がおられたら、ぜひ教えていただきたく存じます。
オークランド航空博物館〜ハリアーとオスプレイ
TAV-8A Harrier
VTOL機、Vertical Take-Off and Landingという言葉を最近ニュースで聴いた、
という方はおられるでしょうか。
これは、垂直離着陸機の意味で、ヘリコプターのようにピンポイント着陸ができ、
滑走がいらない、つまり艦船上で運用できる機種のことを言います。
このハリアーは、名前は有名ですが、作った方のホーカー・シドレーという会社は
あまり聞いたことがありません。(わたしが)
しかし、デ・ハビランド社という、蛾とかハチなど虫の名前ばかり飛行機に付けている会社の名前なら、
第二次世界大戦中に活躍した飛行機が多いのでご存知でしょう。(わたしも)
このデ・ハビランドを吸収したのが、ホーカー・シドレーです。
なんでも世界で最初にできたものは凄いですが、このブイトールを採用し、
ヘリコプターの機能を持ちながら固定翼機の高速、長距離航行が可能にした
このイギリスの会社は、これだけで航空史上に金字塔を打ち立てたといってもいいでしょう。
ハリアー、という名前は、虫以外に小型の鳥の名前を採用しているホーカー・シドレーらしく、
タカ科の小さな猛禽類「チュウヒ」のことです。
会社は違いますがオスプレイもタカ科の猛禽類「ミサゴ」から取られたというのに、
なにか統一性のようなものを感じますね。
因みに、開発者はホーカー・シドレーですが、マクドネル・ダグラス社が、「ハリアーII」として
揚力強化装置を加えより洗練された後継機を造りました。
本家のイギリス軍ではもう使用されていませんが、アメリカ、スペイン、イタリア軍で運用されています。
日本にも導入計画があったそうですが、政治的な理由は勿論のこと、
運用するにも空母をもたないとか、高いとか、イギリスから購入できないとか、
そういった理由で見送られました。
あれ?
NASAのマークが尾翼についています。
これは、この機体がサニベール(この近く)にあるNASAの武器研究部門で
使用されるために所有権が移っていたからなのだとか。
その前にはマリーンコーアに配置されていました。
こういう機体が何のために使われるかというと、大きな目的は人員の揚陸だったりしますから、
海兵隊を持たない日本がこれを当時は必要としなかったというのは当然かもしれません。
ところでついでだから書いておきましょう。
オスプレイと聞くと「軍靴の足音が聞こえてしまう」タチの方々が、
今日も反対運動に血道を上げております。
8月になって起こった米軍ヘリの墜落を受けて小泉進次郎氏が
「あれはトモダチ作戦に使われた救難ヘリ。
日本国民はまず犠牲になった方に哀悼の意を示すべき」
と言ったところ、
「米軍の肩を持つのか。本当の友達なら出ていくべきだ」
などとわけのわからない屁理屈で攻撃したり、
沖縄の小学生にわざわざ首相官邸の安倍首相を差し向けて
「オスプレイも撤退させてください」
と言わせたり・・・うーん、そこまでするか、左翼。
ぎりぎりの事故を想定しての訓練で墜落したことには触れもせずただ「危険」
東北への支援に対し感謝ひとつせず「出ていけ」
おまけに子供を政治の矢面に立たせて己の思想のスポークスマンにするとは。
そこで、です。
たとえばオスプレイで検索すると「未亡人製造機」という文句が出てきたり、
子供を楯にしたりする方は「世界一危険な飛行機」などと言ったりしていますが、
それではオスプレイは本当に危険なのか?
ウィキペディアを引くと、些細な事故(整備士が台から落ちたなど)も入れて
配備後58件の事故が起きており、この数字を以て反対派は「危険」と主張しているわけです。
確かに数字だけからは事故ばかり起こしているように見えますが、内容はというと、そのうち大きなものは
MV-22がクラスA事故2件(うち墜落1回)、
CV-22がクラスA事故3件(うち墜落2回)、計5件です。
さらに、事故理由を見ると、
1、ガソリン切れ(おいおい)
2、自然保護区に緊急着陸したら、エンジンの排気熱で草が燃えだしアチチチ
3、夜間の着陸失敗で横転、完全にパイロットのミス
と、三件は完全に人為ミス。
2012年の2件の事故においても機体の異常ではなく操作ミスではないかという調査結果に落ち着きそうです。
製作段階では確かに事故が相次ぎ、アメリカの新聞は
Flying shame(空飛ぶ恥)
などと辛辣なあだ名を付けたそうですが、しかしみなさん。
先日このブログでも語った、辛坊治郎氏を救出したUS-2の試作段階から初期の
事故による殉職隊員の数を思い出してください。
40人もの犠牲者を出したあの救難飛行艇に対し、左翼の皆さんはなぜ何も言わなかったのか。
ちなみにオスプレイの飛行10万時間あたりにおける事故率は1.93%。
CH-46・・・・・1,11%
CH53D・・・・4,51%
AV‐8B・・・・・6,76%
他の軍用機と比べて決して傑出して高い数字などではありません。
どうでもいい事故や人為ミスによる事故まで加えた事故率まで上げて、
どうしてオスプレイを彼らが目の敵にするのか。
非常にわかりやすくこの理由を説明しているニュースを抜粋します。
アメリカ・カリフォルニア州で日米共同の離島防衛訓練が始まりました。
この訓練には日本の陸・海・空の自衛隊が参加しますが、 それに合わせて、
初めてアメリカ軍の輸送機オスプレイが日本の護衛艦に発着艦する訓練も
予定されていることから注目されています。
(中略)
今回は初めて日本の陸・海・空、3自衛隊のおよそ1000人が参加、
離島防衛を想定した統合作戦の訓練を行います。
実戦さながらの訓練ができる海外で3自衛隊が一体化して訓練をするのは初めてです。
訓練をめぐっては米中首脳会談を前に
中国側がアメリカ側に対し中止要請を行いましたが、
訓練は当初の予定通り行われる見通しです。
TBSニュース
はい、どんな方々がオスプレイに反対しているのかよくわかりますね(笑)
この写真を撮っているときにはこの機体の特殊性に気付かなかったので、
このミサイルを中心にしてしまったのですが、それではなく、ミサイルの先の
黒いブラインド様の空気穴のようなものを観てください。
これがエンジンノズルと言い、この向きを0度(後方)から98,5度(真下より少し前)に動かすことで
垂直離陸を可能にしている装置です。
このノズルの向け方によっては、低速のときならわずかにバックできるのだそうですよ。
(車の運転が好きで、『車の運転の方が好きだ。車は飛行機と違ってバックできるから』
と言っていた元戦闘機パイロットの坂井三郎氏に聞かせてあげたらなんと言ったでしょうか)
実はエリス中尉、夏前に知人から沖縄にご招待を戴いていて、その誘い文句が
「オスプレイが見られますよ。来ませんか」というものだったのです。
いろいろと忙しくて実現しませんでしたが、帰国したら見てみたいな。
岩国基地のスーパーホーネット搭乗員との面会が実現したら、
もしかしたらオスプレイも見られるかもしれません。
上手くいきますように・・・・・・。(-人-;)
しかし、どちらかというと、かなわぬことながらこのハリアーの飛行を見てみたい。
オスプレイは固定翼とはいえ、形態がどうみてもヘリに近いけど、
こちらはこうやって地面に置かれているのを見ただけでは、
まさか垂直離陸できるなんて夢にも思いませんでしたからねえ。
と思ったら、やっとまともな映像が見つかりました。
岩国基地のフレンドシップデーの展示が何件かyoutubeに上がっていたのですが、
どいつもこいつも(笑)飛行機ばかり超ズームして動画を撮るから、
これじゃ何しているのかさっぱりわからないじゃないか!
と画面に向かってつぶやくこと数回。
ちゃんとパンして周りの風景を入れて撮影した動画が。
2012年岩国フレンドシップデー・ハリアー
うーん。実にシュール。
ホバリングしたりじわじわバックする戦闘機。
これ、実際に見てみたいなあ。
知り合いの案内ではおそらくこれ見られないだろうから、
来年5月は岩国基地だ!
さて、それではおまけとして、このオークランド航空博物館のThe ZONZAI展示を。
ドアは空きっぱなしで、中に乗って座るのもOK。
シートはつやつやで、しょっちゅう誰か坐っている様子でした。
これなんだろう。
組立飛行機のキットなら、水平尾翼に見えるけど。
全く別のところにあったリパブリックRF-84 サンダーフラッシュ
の尻尾である、にわたしはブログ人生のすべてを賭ける。
いや、あくまで状況からの判断ですが。
伏見宮博恭王〜大鑑巨砲主義の「宮様元帥」
幹部学校で見学した海軍軍人の書の中でも、個人的感想ですが、
もっともこの伏見宮博恭王の
「儲 材 鎮 洋」
という書はのびやかでかつ雅な典雅さを持っているように思われました。
「儲材鎮洋」 ちょざい・ちんようとは、おそらく伏見宮の創作した語で、
人材を儲え、海を鎮めるという意味です。
決してお飾りの軍人ではなく、この、艦長や艦隊司令長官を務め、黄海海戦では
旗艦「三笠」乗り組みで負傷もしたという、最も実戦経験の豊富な「最強の皇族軍人」
伏見宮博恭王に相応しい言葉であると言えましょう。
左に「伏見若宮の御軍服」という字が見えますね。
これは記念艦三笠内に展示されている、負傷時に着用されていた軍服。
伏見宮(当時は庶子である宮はまだ伏見ではなかった)は当時少佐で、
二年前から三笠の分隊長を務め、黄海海戦に参加されたのですが、
「三笠」右砲の砲身内膅発が原因で、右半身を負傷。
この作業服を見ると、右腹のあたりが割けているのがわかります。
伏見宮は海軍兵学校を中退し、ドイツの海軍兵学校に留学、これを卒業されました。
どうしてわざわざ兵学校を中退されねばならなかったのかというと、想像ですが、
伏見宮はご自身が海軍に「水が合う」ことから、この世界でやっていくことを決め、
だからこそ兵学校の超絶優秀な同級生と正面から競うことを避けられたのではないでしょうか。
もっとも、たとえどんなに出来が悪くても皇族となれば無条件で卒業時は恩賜の短剣組です。
もしかしたら、こういう「特別扱い」の後で指揮官として彼らの上に立つことに
忸怩たるものを感じられたのかもしれません。
ドイツ留学後、帰ってきた伏見宮は、
巡洋艦「厳島」、「松島」、「富士」、
装甲巡洋艦「浅間」、「出雲」、「日進」、戦艦「朝日」「三笠」、
防護巡洋艦「新高」、「浪速」、敷設艦「沖島」などを経て
防護巡洋艦「高千穂」「朝日」、巡洋戦艦「伊吹」
では艦長を務めるなど、たっぷり潮気のついた叩き上げの海軍軍人畑一直線。
当時の海軍の慣例では、大佐昇進から少将昇進には6年かかりました。
しかし大佐として、もし主力艦(戦艦・正規航空母艦)の艦長を務めれば、
1年後に少将へ昇進することができるというものでした。
伏見宮の場合、戦艦「朝日」がその主力艦に相当したようで、大佐任官から
一般より三年も早い3年目に少将に昇進しています。
そして海軍大将任官は1922年(大正11年)。伏見宮なんと47歳。
山本五十六が56歳、井上成美57歳、「大和」艦長の伊藤整一(特進)でも55歳。
だいたい「大将の任官年齢」の平均は56歳であることを考えると、異様ともいえる早さです。
皇族としての特別扱いのみならず、これだけの艦隊勤務をこなし、
実際に「名誉の負傷」もしていますし、何といっても本人がやる気満々でおられたので、
このスピード昇進も当然と言えば当然のことであったかもしれません。
当時、伏見宮は、東郷平八郎元帥とともに
「宮様、神様」
と呼ばれ、海軍内でも一種神格化されていました。
口だけでなく体を張ってフネを渡り歩いてこられた宮様です。
経験豊富なだけあって実際の操艦技術もなかなかのもので、知性人柄の点で
評価の非常に高かった山梨勝之進大将が、実は「操艦下手」で、
入港のときは皆が息を飲んでハラハラしながら見ていたというのと対照的に、
こちらは難関と言われた関門海峡でも難なく航行をさせることができ、
その技術は現場の者ですら信頼を置いていたと言いますから本物です。
しかも、地位に驕ることなく、けじめをはっきりさせる公明正大なお人柄で、
その面長すぎる御かんばせをしてあだ名が「長面くん」。
結構親しまれる面もお持ちだったということのようですね。
ところが。
なまじこの権力者が、潮気たっぷりすぎる海軍軍人だったことが、
日本のその後の選択に若干の変化をもたらしたと言われています。
1930年のロンドン軍縮会議を巡って、海軍内は条約を受け入れるべきとする「条約派」
(財部彪、谷口尚真、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉、下村正助)
と、大鑑巨砲主義の上に立ち条約妥結反対する「艦隊派」
(加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉、南雲忠一、神重徳)
に分かれ、その対立は後に統帥権干犯問題に発展します。
この「艦隊派」の先頭になったのが伏見宮であり、またシンボルとして担がれたのが東郷平八郎でした。
つまり「神様」と「宮様」がいずれも属していた「艦隊派」は、このご威光ゆえ「有利」だったと言えます。
艦隊派の後ろ楯であった伏見宮は
「私の在任中でなければできまい。是非やれ。」
と後押しし、このツルの一声で軍令部の権限強化策が断行され、
「条約派」の面々はすべて「大角人事」によって予備役に追いやられてしまいます。
つまり、マイルドに粛清されたということですね。
このように、対立する派閥を追いやって来たことで戦後の評価は芳しくありませんが、
伏見宮には一方で「大局に建つ視点」も備わっていたようです。
たとえば日米開戦についても
「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。
ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、
日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」
という、考えをもっておられた、と嶋田繁太郎は日記に記しています。
この考え、どこかで聞いたことはないですか?
そう、山本五十六聯合艦隊司令長官が言ったことと全く同じですね。
山本は「条約派」で、伏見宮とは意見を異に相対する陣営にいたのですが、
こういう面を見ると、伏見宮は山本と同じリアリストであったということなのかもしれません。
(この考えが、実行不可能な『現実』であったことは今はさておきます)
大佐時代の井上成美はこの軍令部の権限強化に対して職を賭けて激しく抵抗しました。
「艦隊派」の尖峰、南雲忠一には何度も「殺すぞ」と脅迫と圧力をかけられています。
このため井上は危うく更迭の末、予備役編入ということになりかかっていましたが、
それをすんでのところで救ったのが、井上が非難した当の伏見宮でした。
伏見宮は
「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。
自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。
次は良いポストに就けてやるとよい」
と井上をかばい、その甲斐あって井上は「比叡」の艦長に就いたのですが、
その後大将になるのも、この時の口添えが無ければ実現しなかったことになります。
このときに井上成美を抹殺しなかったことは、伏見宮が艦隊派の推進力の中心として
条約派を追いやったことによる「日本の国益の損失」を少しは挽回する結果となりました。
なぜなら、井上成美という最後の海軍大将がもし存在しなかったら、
戦後の日本の在り様が少しならず変わっていたのではないかと思われるからです。
確かに、井上や、井上の指名した高木惣吉の活動は、
結果として、日本の終戦を早めることは出来なかったかもしれません。
しかし、少なくともあの時期にそのような日本軍人がいたということは、
それだけで終戦後の日本にとって、対外的にも一点の「良心」となりえたのです。
これが日本の復興にとって、どれだけ救いになっただろうかとわたしは思うのです。
思えば日清日露戦争を経験した海軍軍人たちが「大鑑巨砲主義」に拘るのは当然で、
ましてや伏見宮のような実力のある軍人であればなおさらのことでしょう。
伏見宮を「頑迷に陋習に囚われて結局日本を戦争に追い込んだ悪」と決めつけるのは
そこにいなかった後世の人間の傲慢にすぎません。
そして、伏見宮がこの典雅な書でいうところの
「儲材鎮様」
という、いかにも自信に満ち溢れた海軍軍人らしい文言の前半二字、
優秀な人材、将来に有益な人材を育てるという部分は、敵対する陣営の井上の資質を
高く買って、かつ潰すことをしなかった慧眼をそのまま言い表しています。
伏見宮は開戦前の1941年4月には軍令部次長を辞職され、また元帥として国政に携わられますが、
日本の戦況が悪化した昭和19年6月頃のご発言で
「特殊な兵器」(特攻を示唆するという説あり)を早急に開発使用すべき、と述べられています。
その前年の昭和18年8月、伏見宮は、通信隊司令部として前線に赴いておられた
第四王子の博英王を、セレベス島上空での乗機被撃墜により失われました。
我が子を失ってなお戦争は完遂されるべきというお考えは変わることはなかったのでしょうか。
おそらく傷心のままに終戦を迎えた伏見宮は、終戦わずか一年後、
博英王の後を追うかのように、焼失した旧伏見宮邸近くの旅館で薨去されました。
享年71歳。
57年前、昭和21年8月16日のことです。
オークランド航空博物館〜コステロ大尉のコルセアII
Douglas NTA-4J Skyhawk
日本には販売されなかったので、国内で見ることはできませんが、
このスカイホーク、非常に軽量、小型、空力的洗練を実現した高性能な機体で、
その使い勝手の良さから派生型も多く、また安価であることから海外にも多く輸出されました。
どうしてこれが日本に導入されなかったのかどなたかご存知ですか?
いや、性能が良くて安いのなら、買えばいいのにと思っただけなんですが。
もしかしたら、日本ってお金持ちだと思われて足元見られてた、とか?
で、やたら高いF15を「イーグルピース計画」で売りつけられた、とか?
それはともかく、このスカイホークは、アメリカ国内ではその使いやすさと頑丈さから
練習機として使用されることが多かったようです。
トップガン(アメリカ海軍戦闘機兵器学校)でも、ミグ17のシミュレートとして使われ、
映画トップガンでも登場しましたね。
ちなみに現在、トップガンで訓練機として使用されているのはF/A18ホーネットだそうです。
この機体は「レディホーク」と名付けられており、カリフォルニアの「チャイナレイク海軍航空武器基地」
で、武器開発のためのテスト機として使用されていたようです。
ペイントがすべて塗りつぶされたのっぺらぼうになっているのはそのせいなのですね。
こういうのもつけたままペイントが剥げるに任されています。
せっかく異常接近できるのだからと、爆弾を牽引する部分をアップしてみました。
この鍵は一応開けられるようで、紛失しないように博物館がタグを付けていました。
祝祭日にはどの機にも一応コクピット体験ができるということなので、
そういう時には中を見せてくれるのかもしれません。
しかしわたしは行儀のいい日本人観光客なので、立て看板に「No Touch」とあれば
決して触らず、写真を撮るだけにしました。
テスト機になると、アメリカ軍のマークは外されてしまうのでしょうか。
Bede BD-5B
マイクロジェット、で検索すると、このビード始め、小型のジェット機が
いくつか出てきますが、この超軽量ジェット機は4540キログラム以下の機体を言います。
まるで弾丸に羽を付けただけのようなシンプルな機体。
「ホンダやマツダなどの小さなエンジンからパワーを得ている」と説明在り。
そのホンダは、いまホンダジェットというビジネスジェット機を展開しています。
カッコいいですね。
ちなみにこのビードは開発中止になってここに寄贈されたもののようです。
LTV Corsair II
鹿児島の海上自衛隊基地で、野外で雨ざらしになっている機体に対し
「劣化は避けられないので何とかするべきでは」
と苦言を呈してみたのですが、あれに文句を言うならここはどうなる、というレベルで
コルセアが放置されています。
日本の展示は屋外であっても周りを立ち入り禁止にし、さらにはしょっちゅうメンテナンスして
非常に良い状態をそれなりに保っているのが、訪問時にも塗装している様子からわかりましたが、
ここでは、機体の部分がこのように地面に放り出されていて、
博物館というよりは「飛行機の墓場」という雰囲気すら漂います。
コルセアの隣の小さな機体、これもいったいなんでしょうね。
コルセアIIは上記の「スカイホーク」の後継機として開発されました。
退役はもう22年前の1991年で今ではギリシャ軍、タイ海軍しか運用していませんが、
就役中はリビア爆撃、グレナダ侵攻、パナマ侵攻などに投入されています。
こういう事実とか、アメリカにはそこここにある軍兵士の墓地とか、
2年前まではときどき見た、一般家庭の庭先に掛けられた黄色いリボンなどを見ると、
全くアメリカというのには「戦後」と呼べる時期は無いのでは、と思ってしまいます。
それはともかく。
このコルセアIIの特徴と言えば、ノーズの下のエアインテーク。
口を開けながら飛んでいる鳥に見えて、ついつい
宮沢賢二の「よだかの星」を思い出してしまったわたしです。
エアインテークの中を撮影することに今回こだわってみたわけですが、
これ、なんでこんなところにつけたんでしょう。
まあ、どこにあろうがバードストライクは同じ確率で起こるし、
そういう意味で言えば二つあるよりは一つなら確率的には2分の1になるわけですが・・。
実はこの巨大なエアインテークは、鳥よりも問題は蒸気を吸い込んで
コンプレッサーストールを起こしてしまうことにありました。
コンプレッサーストールとは急激な姿勢変更などをするとエンジンに入る気流が乱れ、
異常燃焼や出力低下を起こす現象のことで、圧縮機失速の英語です。
コルセアIIの場合には、カタパルト発進のときにエアインテークが蒸気を吸い込んでしまい、
同じ現象が起こったようで、地上は勿論、艦上でこれはパイロットはさぞ怖かっただろうと。
この問題解決のためには、エンジンを変えるしかなかったようです。
コルセアIIのラストミッションは1973年の5月25日。
第354戦略戦闘機隊のジェレミア・F・コステロ大尉がカンボジアでの任務において
砲撃を受けた機体からベイルアウトすることができず、大尉は戦死。
その遺体は修復後本国に送られて、ワシントンのベトナム戦争犠牲兵士墓地に葬られました。
コステロ大尉は、ベトナム戦争における最後の戦死者です。
ここにある機体は、コステロ大尉をトリビュートする迷彩カラーに塗装されているということです。
このJeremia K Costelloで検索すると、ベトナム戦争犠牲者のページが出てくるのですが、
その中のThe wall of facesというコーナーでは戦死者の写真とプロフィールを見ることができます。
ベトナムの戦地で上半身裸の写真があったり、どう見ても学校の卒業写真だったり、
あるいは写真が無い人もいたり、他に写真が無かったのか、子供の時のスナップだけの人もいます。
ベトナム戦争に対するアメリカ国民の忌避感は大変なもので、学生運動もヒッピームーブメントも
こういうところから広がっています。
ここに見られる死者たちも、自分が無益なことのために死んでいったとは言われたくないでしょう。
しかしこんなに多くの人々が命を失ってまで、果たしてアメリカの正義は担保されるべきものだったのか。
そんなことを他国民の目から見ると、あらためて戦争は人類の行う愚挙の最たるものであり、
国家の対話方法としての戦争をいとも簡単に選択する、このアメリカという国の行先は、
やはりどこかが間違っているのではないかとしか言いようがありません。
なごむリス、戦うリス、転がるリス
時間のあるときには1時間半かけて一周しましたが、ほとんど毎回、
ニコン1を肩から下げていきました。
地面で草の実を食べているくらいのリスはもう珍しくもなんともないので、
リス以外の動物が現れないかと期待してのことですが、
今年は不思議なくらい何にも遭遇することはありませんでした。
去年はジャックラビット、モグラ、野兎など盛りだくさんに現れたのですが。
それでもあたりを視力2・0の鋭い目で見まわしながら何か異変がないか、
あたかもゴシップ週刊誌のカメラマンがネタを探すように、
特にケンカなどやっていないかを期待して歩くうち、
主になごむリスの写真が大量に撮れましたので、淡々と貼ります。
遠くにいたのでシルエットだけになってしまいましたが、
針金に立って懸垂のようにつかまっています。
各区画に一匹ずつ。
テリトリーでも決まっているかのように等間隔に並んでいます。
夏枯れの植物の多いこの地域では緑のものは貴重です。
大きく口をあけてビタミン補給。
このリスは、目の前で「砂浴び」を始めました。
リスは体の虫を取るためか、時々地面(必ず砂の上)を転がります。
気持ちよさそう・・・・・。
目をつぶって寝ているリス。
かわいくない(笑)
トレイルから見える山並み。
この山を越えると、太平洋沿いの町ですが、いつもこの部分には
まるでお菓子にかかったクリームのようにそこだけ霧が溜まっているのです。
ところでその後一回だけですが、遠くでケンカをしているのに遭遇しました。
まず小手調べから。
相手の動きを冷静に見極めている。(多分)
決定的瞬間。
手前のリスの左わき腹にキックが食い込む。
「ちぇすとお!」
どごおおぉぉぉっ!
「ぐえっ!」
ニコン1の機能であれば、もしスピードシャッターモードにしておけば
このケンカの様子も鮮明に撮れたはずなのですが、いかんせんその時は
焦点を重視した設定にしていました。
このケンカをちゃんと取れなかったことに反省し、その後は何を撮っても
必ず6000分の1くらいのシャッタースピードに設定を戻して歩いたのですが、
残念なことにこれ以降一度もそのような状態に遭遇することがありませんでした。
岩の斜面に体をもたせ掛けて憩うリス。
サイズがちょうどで、「お気に入りの岩」なのかもしれません。
午前中は日差しがそう強くないので、リスたちは一通りおなかがくちくなると
こうやって日向ぼっこを始めます。
わたしが歩きだす9時には、早朝からエサ探しをしていたリスたちは
たいてい食事を終えてしまっていて、あまり活動的ではないのです。
昼間の激烈な太陽のもとではリスたちは日蔭か穴の中に隠れてしまうようです。
日向ぼっこするときは必ずこのように太陽に向かってじっと立ちます。
おなかを日光浴させるのが目的かもしれません。
太陽に背を向けて立っているリスは見たことがありませんでした。
片手でワイヤをつかみ、片手をひっかけて、
この姿勢でなぜくつろげるのかという感じですが、
こういった場所でなごむのにはわけがあって、
広場にいると上空から狙ってくる猛禽類も、こういうところから
獲物をさらっていくことはまずできないのをリスたちは知っているようです。
ところで、夏の間このカリフォルニア・ジリスはオスだけが夏眠するので、
ここにうろうろしているのは皆雌である可能性がある、と
前エントリで書いたのですが、少なくともこの写真を見る限り違うような気がする(笑)
両手でつかんでいて、いまから懸垂でも始めるかのよう。
木の部分にいると保護色となって上空から見つかりにくいのを
知っているのかもしれません。
リスは7〜8年生きるのですが、きっとこのリスはまだ子供でしょう。
手に緑の植物を持って食べています。
そうかと思えば(笑)
この、顔に傷のある「スカー・フェイス」の貫録のあるリスは、
アスファルトの日蔭が冷たくて気持ちがいいのか、
このように寝転んでいましたが、私が近くでカメラを向けても
ぎりぎりまでこの恰好のまま、眼で警戒するだけ。
少し逃げるふりをしましたが、わたしが通り過ぎると元通りのスタイルで
何事もなかったようにくつろいでいました。
リスも年季が入ってくるとこれだけ厚かましくなります。
胸に手を当ててわたしもいろいろと反省しようっと。
穴から出てきたところを見つけて撮りました。
じっと太陽の方を見つめて動かないリス。
立つときは何かにつかまった方が楽みたいですね。
何度もお見せしているスタンフォードのフーバータワー。
またここに訪れる日まで、リスたちにもしばしのお別れです。
オークランド航空博物館〜フライング・タイガースと宋美齢とシェンノート
オークランド航空博物館で、デコイ・ミサイルを「子供用のレプリカ」だと思ったのは、
隣にこのミニチュアのP-40-Cトマホークが展示してあったからです。
これは紛れもなく、子供用の「フライング・タイガース」機。
幹部学校の見学記もそうですが、ひとつの写真を取り上げてはでれでれと語り、
話題を詰め込みすぎでなかなか先に進まないというのが当ブログの特徴とはいえ、
今日のタイトルはいくらなんでも詰め込み過ぎではないか、と思ったあなた。
あなたは正しい。
しかし、この「フライング・タイガース」という航空隊のことを語るとどうしても
もれなくこの二人の名前を出して来ずにはいられないのです。
本当は「アクタン・ゼロ」もタイトルに入れたかったのですがこれはまたいずれ。
と言いながら話を遠くから始めますが(笑)、この一月に台湾に行ったとき、
街を救うために乗っていた戦闘機を用水池の傍に落とし、そのため戦死し、
現地の人々から神様として崇められている海軍搭乗員の廟、「飛虎将軍廟」の記事をアップしました。
「飛虎」と言うと、たとえば中国人でも「飛ぶ虎?」と思ってしまう人がいるそうですが、
実はこの二文字で戦闘機のことを指します。
「飛虎」、つまり「フライング・タイガー」です。
この「フライング・タイガース」という部隊はアメリカの義勇軍航空隊ですが、おそらく、
「飛虎」が中国語における「戦闘機」であることを知った命名者が一も二もなく、
「かっこいいから、これでいこうZE!」
と英語の直訳を部隊名にしたのだと思われます。
1937年の盧溝橋事件、続く第二次上海事変によって日中戦争が勃発しました。
あっという間に日本側の航空機爆撃と海上封鎖で不利になった中国軍は
最初の頃ソ連から供与された飛行機で日本軍となんとかやりあってきたものの、
海軍が零式艦上戦闘機を投入したときから全く勝てなくなりました。
蒋介石は日本の脅威に対してその前から武器兵器を海外から購入し、さらには
アメリカから軍事顧問を雇い入れるなどしていたのですが・・・・。
そこで、出てくるのがこの人物。
蒋介石夫人である宋美齢です。
せっかく以前描いた絵があるので出してきました。
この派手ないでたちを見ていただきたいのですが、西洋風のジャケットの下に、
宋美齢は同じ仕立てで中国服を着ていますね。
ボストンに滞在したときに写真をご紹介した名門女子大学、ウェルズリーを卒業、
英語が堪能で、海外在住が長い宋美齢ですが、現存するどの写真を見ても彼女は
アメリカに住んでいるのにもかかわらず中国服、あるいは中国風の仕立ての服しか着ていません。
これは(わたしの考えですが)宋美齢の「戦略・勝負服」というものだったのではないでしょうか。
なぜなら彼女はアメリカに支援を求める中国そのものを代表してそこにいたからです。
日中間の関係悪化に伴って、宋美齢はアメリカに対し、中国への支援を求めて活発に運動を始めます。
タイトルのもう一人の人物、クレア・リー・シエノーを中国軍の軍事顧問にしたのも彼女です。
シエノー、というのは日本で「シェンノート」とされている人物の名前。
スペルは
Claire Lee Chennault
なので、フランス系であったことを考えるとシエノール、さらに厳密にいうと
シェンノー、シエノーが正しいと思うのですが、ここでは日本での慣例通りシェンノートと記します。
(どうも日本人「はフランス系のアメリカ人の名を、英語読みにしてしまいますね。たとえば
黒人人権運動家のDuboisなども、『デュボイス』ではなく、どう見ても『デュボワ』なのですが)
この宋美齢と言う女が、国際的オヤジころがしの達人(笑)。
達者な英語と自慢の美貌、そしていつも身に着けるニューヨーク仕立ての中国服、
ふんだんに宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジ。
「かわいそうな中国」を象徴する女性として当時アメリカ人には絶大な人気があり、
ファンクラブまであって、信奉者からの貢物は絶えなかったとか。
宋美齢は蒋介石の通訳、という立場でしたが、また
「国民党航空委員会秘書長」の肩書も授けられていました。
航空委員会、ですよ。
そう、ここでその、アメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート大佐に交渉し、
この人物を、現在の1200万円の月給で国民軍に雇い入れることに成功するのです。
このほかにも宋美齢は。駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルなどにも
陸軍への協力を取り付けています。
つまり中国軍は、このシェンノートを通じて、
「アメリカの派兵、すなわち日本と戦わせること」
をすでにここで約束させたということになるのです。
どうですかこのオヤジころがしの真骨頂っぷり。
国家的交渉を携わる人物が、楽しそうに軍事顧問と夫の腕にぶら下がって。
彼女はこの後国際間における存在感を増していき、ついにはルーズベルトやチャーチルと共に
カイロ会談に出席するのですが、そのとき出席したルーズベルトの次男・エリオットは、
彼女についての感想をこのように書いています。
「蒋介石夫人は男の歓心を得ることばかりに長く従事したので、
いまやそれが第2の性格のようになったような印象を受けた。
本来の性格はたぶん恐ろしいもののように思え、正直言って怖かった」
また、ジャーナリストで作家のセオドア・ホワイトはその作家の鋭い目で彼女を
「冷淡でいわゆる愛人タイプの女性だった」
とも酷評しています。
アメリカ人も転がされて喜んでいる男ばかりではなかったということですね。
ちなみに、このシェンノート、高校時代の同級生であった妻との間に
7人もの子供を作っておきながら、中国勤務になったとたん現地の女性
(もしかしたら宋美齢が手配した?)と深い関係になっていまい、糟糠の妻を離婚し、
この若い中国人女性と再婚しています。
また、その中国人女性と言うのがテレビ局のレポーター上がりで、
シェンノートと結婚した後はワシントンでロビイストになったという、
まるで「プチ・宋美齢」みたいな女性だったということです。
よっぽどこの写真のときに手懐けられたのか根っからの「転がされ好き」だったのか、
それとも宋美齢のおかげですっかり中国人女性好きになったのか。
軍人としては優秀な人物だったのでしょうけど、こういう「サイドストーリー」を知ってしまうと、
特に女性の立場からはその人物評価に点が辛くなってしまいます。
さて、当時アメリカは日本と水面下ではともかく、表向き敵対していたわけではありません。
しかし国際的には中立であらねばならないのにもかかわらず宋美齢の甘言に乗って
(乗ったふりをして?)中国に肩入れして資金を出し、日本と戦うことを決めたのです。
真珠湾が攻撃されたとき、アメリカはいかにも「全く予想もしていない攻撃だった」
などと驚いたふりをしましたが、実はそのずっと前に中国軍の皮を被って戦争していたんですよ。
自分は直接関係ない他国間の戦争に首を突っ込むという形でね。
真珠湾を卑怯だと言うなら、こちらは中立国として明確な国際法違反であり、
はっきり言ってよっぽど卑怯なんじゃないかね?
え?アメリカさんよ。
着任したシェンノートは、さっそく現状を視察し、まずは中国軍が脅かされている
零戦の脅威についての報告をしますが、
アメリカ人は全くそれを信じず、検討委員会では
「シェーンノートのような最高の専門家の言っていることは信じたい。
しかし、これが本当だとすれば、その“ゼロ”とかいう戦闘機は、
アメリカの計画中のいかなる戦闘機よりも優秀だってことじゃないか。」
一同はそれでワッと笑い、それでお開きになったそうです。
アメリカ戦争省は(そんなのあったんだ・・・)このレポートを
「実に馬鹿げている。空気力学的に不可能だ」
と一蹴し、肝心のシェンノートの部隊でも採用係官は
「日本人は皆眼鏡をかけているので操縦なんてまともにできない」とか
「日本人の作る飛行機なんて性能が悪いので任務は楽勝」
などと言って人集めをしたため、優秀なパイロットが当初はいなかったくらいです。
しかし実際にふたを開けてみると米軍の航空隊は零戦の優秀さに当初は手を焼き、
などの「三つのおやくそく(Three "NEVER")」をお触れとして出したのはまた別の話。
シェンノートがルーズベルトの後ろ盾を受けて結成したのは、
100機の飛行機、100人の搭乗員、200人の地上員を目標にした
AVG(American Volunteer Group)、アメリカ義勇軍です。
このAVGが、中国語の「飛虎」から名称を得て、「フライング・タイガース」となります。
何が義勇軍だよ、実態はアメリカ軍の派兵じゃないか、と思ったあなた、
あなたは正しい。
実は、その実態を証明する、忘れられた「作戦計画」があったのです。
なんとフライング・タイガース率いるシェンノート少将が、この頃おそらく宋美齢にそそのかされて
日本本土を奇襲攻撃しようとしていたというものなのですが、
それについては次回エントリでお話しします。
オークランド航空博物館〜フライング・タイガース、幻の日本奇襲計画
日中戦争の頃、宋美齢がアメリカで話をつけ、中国軍に引っ張ってきたシェンノート。
そのシェンノートが作ったフライング・タイガースについて語っています。
ここで機体の一部、このフライング・タイガースのマークをご覧ください。
このデザインは、ロイ・ウィリアムズという
ウォルト・ディズニー・スタジオのイラストレーターが
制作しました。
まったくよおっ。(笑)
いくらウォルト・ディズニーが白人至上主義で日本人を憎んでいたからとはいえ、
ミッキーマウスに旭日旗のついた日本機を殲滅させたり、こんなことに手を貸したり、
どんだけ露骨に政治というか、軍事協力してるんだよディズニー。
アメリカだって国を挙げて国の信じる正義のために戦っているのだから、
あらゆるアメリカ国内の企業体がそれに協力するのは当たり前。
だが、子供に夢を売るアニメーション映画作成会社のディズニー、てめーはダメだ。
戦後は戦後で「パール・ハーバー」みたいな馬鹿映画を巨額の製作費を投じて作るし、
この二面性があるから、ディズニー・ランドそのものやミッキーマウスの造り上げる「夢の世界」
とやらが胡散臭くてだいっっっっきらいなんだよ!
と、何度も息子をディズニーシーに連れて行ってしっかり楽しんでいるわたしが言ってみる。
思うに、子供に対して展開する世界と、現実の世界とは矛盾することが多すぎるのです。
「友達と仲良く」とか、「人をだましてはダメ」とか、そもそも「命を大事にしましょう」
なんて、いくら現実に戦争している大人が言ったって説得力もへちまも無い。
さて、このフライング・タイガースそのものについて話すと、やはり
加藤隼戦闘機隊との死闘について触れなくてはいけなくなるので、
その詳細は、いつか映画について書くときに置いておいて、ここではフライング・タイガースの
使用していた戦闘機については
●カーチス・P40C・トマホークを使用していた
●特に零戦と比べると大した性能ではなかったが、とりあえず丈夫だった
●一撃離脱法を徹底したので時には勝てた
ということだけ書いておきます。
いずれにせよ、1937年からシェンノートの結成したフライング・タイガースは、
4年後には日米間に戦争が正式に始まってしまったので、その存在理由である
「義勇軍」と言う言葉が意味をなさなくなり、軍からの解散命令が出され、
1942年7月には解散することになりました。
解散のときに、宋美齢は目の前に居並ぶ隊員たちを「フライング・タイガー・エンジェル」
と褒め称えたと言われています。
皆さん、前回からお話ししてきてこれだけのことを初めて知った方もそろそろ思いませんか?
「もしかして日米戦争って、宋美齢が煽って実現させたようなものじゃないの?」
と。
そう、わたしは、まさしくこの悪女が米国世論を焚きつけ、「日本撃つべし」
の空気をアメリカ国内で作り上げていった張本人だと思っています。
歴史の影に女あり、ではありませんが、フライングタイガースを作ったシェンノートを口説いたのは
他ならぬ宋美齢ですし、そのフライングタイガースが実は
真珠湾攻撃前に日本空襲を計画していたことがある
と言う話を知るに至っては、日米開戦は彼女の悲願であったことを確信せずにはいられません。
そう、当時シェンノート率いるフライングタイガースによる
1941年9月下旬のロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画
計画が出され、ルーズベルがこれにサインしているってご存知でしたか?
英語版のウィキペディアからです。
Chennault developed an ambitious plan
for a sneak attack on Japanese bases.
(シェンノートは日本本土への奇襲計画に対する野心を推し進めていた)
His Flying Tigers would use American bombers and American pilots,
all with Chinese markings.
(彼のフライング・タイガースは、中国軍のマークを付けながら、パイロットも爆撃機も
全てアメリカのものだった)
The U.S. military was opposed to his scheme, and kept raising obstacles,
but it was adopted by top civilian officials including Henry Morganthau
(the Secretary of the Treasury who financed China)and especially
President Roosevelt himself, who made it a high priority to keep China alive.
(米軍は彼のたくらみに否定的で反対の立場であったが、ヘンリー・モーガンソウ
(中国に出資していた会計であり秘書)を含む最高議会、そして何と言っても、
中国を優先する順位は高いとしてルーズベルト自身がこれを受け入れた)
By October, 1941, bombers and crews were on their way to China.
However the American attack never took place:
the bombers and crews arrived after Pearl Harbor
and were used for the war in Burma,
for they lacked the range to reach China.
(1941年の10月までには爆撃機とクル−は中国にむかっていた。
しかしながらアメリカの攻撃は決して起こることはなかった。
どちらもが到着したのはパールハーバーの後だったし、
それらはビルマ戦線に投入され、中国周辺に配備されることもなかった)
そう、
真珠湾の三か月前に、東京と大阪、つまり民間を奇襲することを計画していたんですよ。
シェンノートとフライングタイガースは。
この計画の出所は勿論蒋介石ということになっているようですが、
これまでのフライングタイガースと宋美齢の関係、成立の経緯を知ってしまうと
「これ絶対ダンナじゃなくて女房の要望だろ」と思えますよね。
どうしてこの空爆計画が立ち消えになったのかと言うと、
「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地に、9月を過ぎても
肝心の爆撃機も搭乗員もたどり着けなかったからです。
そのままその年の暮れになっても届かず、そうこうしている間に、12月7日、
真珠湾に日本海軍の機動部隊が空襲をかけ、日米の戦争が始まってしまったんですね。
上の英語版のウィキでも
「クルーと爆撃機が到着したのは真珠湾の後だった」
となっています。
歴史にもしもは無いけどあえて考えてみる。
この時に計画がうまくいって、先に奇襲をかけたのが中国軍(中身はアメリカ)だったら?
「昭和16年の敗戦」という項でも書いたように、当時の日本の有識者によるシミュレーションで、
どうあっても状況は日本が負けることになっていたので、こんな形で開戦してもおそらく
戦争が長引けば日本が物量戦で敗北するという結果に変わりはなかったでしょう。
しかし、敗戦から現在に至るまで日本だけが負けたことの責任を負い咎を受け、
「侵略国」の汚名を着せられて内外から侮辱されるという結論からは少しは変わっていたのかな、
という気がしないでもありません。
カイロ会談のときには、たかだか元首婦人ごときがVIP扱い、それどころか傍からは
「男の歓心を買うことが第二の性格になった、実は冷淡な愛人タイプの女」
と観察されるまでの媚びぶりで、国家元首のおじさま方にもちやほやされ得意の絶頂であった宋美齢ですが、
その後引き立ててくれたルーズベルトが死去すると、少しずつその「ドラゴンレディ」ぶりにも
陰りが見えてきます。
蒋介石は、後任のトルーマンに、さっそく中国国内での毛沢東共産党との戦いに
アメリカの支援を取り付けようとすり寄りますが、
蒋介石にもましてやこの毒婦にもなんの思い入れもないトルーマンは
露骨にこの夫婦を胡散臭がって、遠ざけてしまいます。
このため、蒋介石の国民党は毛沢東率いる中国共産党に内戦で敗北し、
その後蒋介石夫婦は国民党と共に敗走の果て、台湾に逃げることになるわけですが、
さすがかつてのオヤジころがしの名人宋美齢も、この頃には年のせいで
効力が薄れていたんでしょうか。
さて、蛇足になりますが、最後にちょっとした「イフ」をもうひとつ。
戦後、フライング・タイガースのメンバー10人が有志となって運送会社を興しました。
「フライング・タイガー・ライン」
という会社名ですが、日本人は「フライング・タイガース航空」と呼んでいました。
この会社は在日アメリカ軍へのサービスを行っていたので、堂々と?日本に就航していたのです。
かつて日本軍と死闘を繰り広げたこの航空隊の名前を、
向こうが気を遣って少し変えているのに(笑)わだかまりなくそのまま呼び続けるのが日本人。
良くも悪くもあっさりした国民なんだなと改めて思ってしまうのですが、
1941年の秋にもしフライングタイガースの輸送が上手くいって、
幻の日本空襲が成功していたら?
「ドゥーリトル」「ルメイ」「ニミッツ」とともに「フライング・タイガース」は日本人にとって
忌むべき敵の象徴としての名前となり、戦後、さすがにお人好しの日本人にも
その名前が受け入れらることはなかったに違いありません。
「フライング・タイガース」と言う名と彼ら元隊員たち自身のその後のことだけ考えれば、
計画が潰えたことはある意味幸運だったと言えるのかもしれません。
2013年大曲花火大会に行った(教訓付き)
引き剥がされる思いで先日アメリカから帰国しました。
息子の学校が始まるぎりぎりまで快適なスタンフォードでリスを撮りながら
暮らしていたいのはやまやまですが、わたしには日本に帰らねばならぬ
大事なイベントが待っていたのでございます。
それがこの秋田県大曲で行われる年に一度の花火大会。
花火というものは 日本が世界に誇る音と光の芸術であり、
花火師というのは芸術家であり真に憧れているいうくらい花火を愛するわたしにとって、
「日本一の花火大会」であるところのこの大曲花火は即ち
「世界一の花火大会」。
きっちりとこの花火大会に間に合うように飛行機を定め、
まだ地獄のような暑さの羽田空港に降り立ったのでございます。
その荷を解く間もないまま花火大会当日となり、飛行機は羽田発10時35分。
少し早目に家を出て高速に乗った途端、目を疑いました。
そこには渋滞でうんともすんとも動かないクルマの群れが。
「しまったあああああ!」
どこかの馬鹿者が(非情と言われようが言わせてもらいますよわたしは)事故を起こし、
空港の手前にそのための渋滞がきっちりとできていたのです。
窓ガラスが割れ、車体がぐちゃぐちゃになるほどの大事故で、
ちょうど事故処理に入ったばかりだったため、渋滞の列は「歩くより遅く」
ほとんどセンチ刻みの進行。
チェックインの期限は出発15分前です。
じりじりしながらやっと事故現場を通過した時には10時ちょうど。
空港までの距離は飛ばせば10分少しの地点です。
走行車線と追い抜き車線を華麗にクリアしながら、空港に近づいたとき
わたしは家族にきっぱりとこう言いました。
「わたしはもう乗れないから二人で行って!後の飛行機で追いかける!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ちょっと待て。
確か去年の大曲花火大会の記事で全く同じことを書いてなかったか?
そう思われた昨年以来の読者の方々、あなたは正しい。
そう、去年は駐車場が満杯という理由の違いこそあれ、車を運転している
わたしだけが乗り遅れ、二人が予約の飛行機に乗るという、
まったく同じ轍を、学習しないわたしどもは 見事に踏んでしまったのでございます。
しかも今年は去年のように一時間遅れなどではなく、空席があったのは4時近く。
もうどうにでもして、な気分で家に帰り、前日雷のせいでいきなり切断された
インターネットの回復をしてから「えきねっと」で新幹線「こまち」を予約し直し、
洗濯などして虚しい時間をつぶしました。
教訓その1:夏休み期間の土日に車で空港に行くのはやめましょう。
ともあれ、すでピークを過ぎてガラガラの秋田行きに乗って現地に近づきます。
昼花火を見るための人々はすでに移動も終わり、秋田駅も人はまばら。
とはいえ新幹線は結構な混雑でした。
暑い昼花火はあきらめて夕方から行く人も多いのかと思われます。
この日東京はうだるような暑さだったのに、秋田は涼しく秋の気配が感じられました。
ほっと一息つく気分です。
ああ・・・・日が暮れていく・・・・。
今頃会場では昼花火とともにみんなお弁当食べたりしてるんだろうなあ・・・。
皆が写真を撮りまくっていた新幹線「こまち」。
名前もいいですが、このカラーがいいですね。
ポスターによると「ジャパン・レッド」。
新幹線に関してはなんでも絶賛するファンのわたしにも大納得のネーミングです。
そして、大曲駅に到着。
TOが迎えに来てくれていたのですが、途中までタクシーに乗れることが判明し、
行きから体力消耗することなく会場にたどり着きました。
ちょうど升席に向かうときに夜花火が始まり、結局、わたしは完璧に間に合ったのでした。
今年のお席は、審査員席の並び。
つまり、去年に引き続き特等席です。
それもこれも予約してくださった地元企業が大スポンサーであったからこそ。
というわけで、今年の主眼は去年のデジカメではない、ニコン1で花火を撮る、
ということに集約されていたわけですが、どうですか。冒頭写真の出来は?
こういうのを見ると、「どうやってこうなるように仕込むんだろう」と、
心から絶賛するとともに不思議で仕方ないのですが、それはともかく、
去年とは格段の違いがあると思われませんか?
その理由は・・・・・
三脚を使ったからです(爆)
「花火を撮るのに三脚なしとはな」
と去年アップしたブレブレの各画像を観てこのように思った常識のある方も多かったと存じますが、
今年はこの基本中の基本を押さえるため、わざわざサンフランシスコで
軽量かつ平衡目盛のついている秘密兵器を購入しておいたのです。
しかし好事魔多し。
到着したのが暗くなってきたところだったため、三脚を組み立てるのに
どこがどうなっているかわからず悪戦苦闘。
買ってきたときに一度取り付け方を確かめただけだったので、
取り外しレバーの位置が分からないという・・・・・撮影以前の問題ですね。
教訓その2:機材は事前に使い方を確かめて暗闇でも扱えるようにしておきましょう。
ともかく、出遅れたもののその中のまともな写真を淡々と挙げつつお話しします。
花火撮影の基本は、新幹線「こまち」の中でインターネットのサイトを見ながら
頭に叩きこみ車内でカメラの設定したという、つまり付け焼刃もいいところです。
しかも、花火の撮影って「練習」ができません。
何かの意匠になる仕掛けも多く、これは「ピースマーク」。
なんだっけ・・・・金太郎は足柄山だし・・・・。
座敷童?
こういう、どちらかというと幻想的な印象画のようなものが多く撮れました。
これは三脚を動かしてしまったため、このような「立体的」な物体に。
着物の模様のようです。
花火を観る楽しみは、どんなイメージを花火師が持っているか、
音楽によって知ることです。
その時その時で選曲には「傾向」があるようですが、定番は
「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」
「誰も寝てはならぬ」
「YOU RISE UP」
で、かならずどこか一チームが使用します。
今年はNHKのあの似非応援ソングであるところのあれ、が
「花」をテーマにしたあるチームによって使われていました。
で、改めて聴くと、いい曲なんですよねこれが。
いや、わたしもあの曲そのものに文句をつけているわけでは・・・・
つけてましたねすみません。
でも、あの曲への批判分析をお願いします、と言ってこられた方だって、
「似非応援ソング」と言いながらしっかりご自分の楽器(フルート)で
演奏するつもりで練習しているとおっしゃっていましたし。
ふと、先日のこのブログ上での「紅の豚は好きだが映画製作者の意図はうざい」
という話を思い出してしまいました。
芸術は結果良ければすべてよし。
感覚的な好き嫌いは、また別の次元の話です。
音楽の問題点があるとすれば、これは競技大会なので、
各花火会社には既定の時間が決められているということ。
自由演技の時使う音楽がいいところでぶつっと終わってしまうのです。
というかそれがほとんどなんですが、曲によっては
「これからいいところなのに」とそれが気になってしまうのです。
「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」のときに、わたしも
「ああ、ここで終わるかな〜」
と残念な気分になったのですが、その時絶妙のタイミングで息子が
「終わろうよ・・・・」
と言ったので周りが爆笑しました。
皆同じように感じていたのかと思われます。
このジレンマを克服するために「手作り」した曲を使用しているチームがありました。
バッハの「イタリア協奏曲」の第一楽章を、おそらくピアニストに電子ピアノの
チェンバロモードで、しかも途中省略して演奏させたもので、花火終了とともに
ちゃんと終止和音が来たので、これは気持ちよかったです。
花火の技術そのものがどんな評価だったのかはわたしにはわかりませんでしたが。
同行の方々はもう数年来の常連なので、観方も通のそれです。
「ここはいつもうまいねえ」
「真ん丸にきれいに上がるけど危なげないねえ」
回を重ねて観ていると自然と評論家のようになってしまうようです。
四角や三角の形になるように上げることももちろん可能。
観て「きれい」かどうかは別の話ですが、「面白い」というポイントもあります。
こういった「小花模様」も規定にあるのですが、ここのはうまいと思われます。
乱れ咲く菊の風情が見事に表現されている一発。
花束。
花火、というのは昔から「花」を表現してきたのだと改めて感じます。
この花束が投げられて・・・・・
散っていきます。
この演技だったと思うのですが、「男たちの大和」のエンディングテーマ、
長淵剛の「クローズ・ユア・アイズ」を使用したチームがいて、このタイトルが
「英霊たちへの挽歌」(確か)でした。
「あのテーマ」とともに始まった「ミッション・あ」。
「秋田の魅力を解説するのが君の使命だ。
例によって君のメンバーがこの任務により死亡あるいは負傷しても
当局は一切感知しないからそのつもりで。
なおこの録音は自動的に消滅する」
同時に花火開始、という意匠のチームは受けていました。
翌日の秋田の新聞の一面も、この解説による写真だったかと思います。
写真は「なまはげ」。
あとは「秋田杉」「秋田犬」などなど、ご当地の名物をそれぞれ形に打ち上げる趣向です。
確かに楽しめましたが、
「花火として綺麗かどうかはまた別」
とは息子の辛辣な一言。
消えかかっていて済みませんが、これが秋田犬(多分)
われわれをご招待くださった企業は、大スポンサーの一つで、
去年の優勝チームに「企業花火」を上げさせていました。
ライバル会社と呉越同舟での共同出資です。
なぜこういうことにするかというと(たぶん)張り合うことを防ぐため?
花火師さんたちにすれば「張り合わせてほしい」というところかもしれませんけど。
ちなみに去年やたら威勢の良かった「ド●モ」さんですが、いろいろと反映してか、
去年の大量じゅうたん爆撃のような無茶苦茶な勢いは全くなりをひそめ、
むしろ去年圧倒されたわれわれ企業に後れを取っている感がありました。
その年の企業の勢いが花火の内容で窺い知れる。
変な観点ですが、花火にはこういう楽しみ方もあります。
ここだけの話ですが、同行の方が
「組んだ相手が悪かったかなあ」
とつぶやいたのが印象的でした。
去年この大曲花火のエントリをご覧下さった方の中にはもしかしたら
「カールツァイスレンズ搭載とはいえ、デジカメの花火モードで撮ったものと
今年のカメラの画像にはかなりの違いがみられるではないか」
と思ってくださる方もおられるかもしれません(だといいな)。
取りあえずこのニコン1には花火モードなんちゅうお手軽なものはついていないので、
マニュアル撮影にすべてプログラムしておかなくてはいけませんが、
全てにおいてぎりぎりまで何もしない傾向のあるエリス中尉、なにしろ
秋田駅から大曲に向かう「こまち」の30分の間にすべてを叩き込み、
絞り値もシャッタースピードも、シャッターの押し方すら文字通りの付け焼刃で臨んだわけです。
しかも現場が真っ暗で、カメラのダイヤルを合わせるのも一苦労。
まあ、レンズをのぞいていればわかるんですけどね。
それでもなんとか去年よりましな画像が撮れたのは、
これもひとえにミラーレス、じゃなくてレンズ交換式アドバンスドカメラ、ニコン1の実力。
(ステマ)
決してわたし自身の技術ではないということだけ宣言しておきます。
ちなみに設定ですが、絞り値はf/11〜14までをうろうろ、
シャッタースピードは1/1.3〜1/2で、この値は「サイレント撮影」のモードにしていないと
得られないため、シャッターを押したときのあの「パシャ」っという音が全くなく、
非常に気持ち悪かったです(笑)
カメラに詳しい方は笑止かもしれませんが、連写は全くダメでした。
あとは長秒時のノイズ低減モードはオフ。(取り込みに時間がかかるため)
手ブレ補正もしない方がいいということでオフにしました。
確かこれがわが桟敷の「大スポンサー様」の出資した企業花火だった(気がする)。
ところで、写真を見て初めて気づいた趣向もありました。
これ、薄の野を表現しているのですが、この草むらの丸い光をご覧ください。
ほら、次の瞬間立ち上っていきます。
これ、蛍だったんですね。
観ていた時には全く気付かなかったのですが、後で画像をチェックして、
この表現に気が付いたとき思わず感動してしまいました。
すごい。
やっぱり日本の花火は真の芸術です。
ところで、この日大曲に行かれた方、読んでらっしゃいますか?
大変でしたよね?あの、雨(笑)
いやもう、会場に向かう途中で雨粒が二三滴あり、「あれ?」と思った瞬間、
わきにある露店に雨合羽と雨傘が売られているのに気づいたんですよ。
そのときにふと「もしかしたら、今日夕立の予報でもあったのかしら」
と感じた嫌な予感は花火の中盤で見事にあたり、バラバラっと来たと思うと
いきなり集中豪雨になってしまったのです。
しかし誰も座を立つ人はいません。当たり前ですが。
ここであわてても雨を防ぐ場所など会場を出なくてはないし、
立ち上がったところでパニックになるだけです。
皆我々と違って予想していたのか、キャーキャー言いながらも粛々と傘を広げ、
ある者は傘を差し、合羽を着て、行われる花火を観ています。
気の毒だったのは豪雨の中のコンテスタントで、
雨が降っても花火というのはちゃんと上がるのだということはわかりましたが、
なにしろ観客の集中が全くない状態だったので、おそらくそれは審査員にとっても同じで、
かなり出来が良くても賞を取れるほどの感動を与えられたかどうかは疑問です。
「勝負は時の運」
という言葉が浮かびましたが、この大曲花火、今まで一度だけ天候を理由に中止されたそうです。
この一年のために存在するこの大曲という町が、その中止(延期なし)によってその年
どれだけの損害を被ったのかは想像に余りあります。
被害と言えばわたくしごとですが、わたしは現地に遅れて到着したため、
ホテルですべての準備を整える時間がなく、なんと、わたし以外にはどうでもいいことですが、
現地にエルメスのバッグを携え、布のトートで外側を覆っていました。
全ての形あるものはいずれ朽ちる運命と言えども、エルメスを豪雨に晒して尚泰然としていられるほど
わたしはまだまだ現世の物欲から解脱しても悟りきってもおりません。
取りあえず雨が降り出したときに、わたしは後ろから神の恵みのように渡された
主催者の傘でとりあえず自分の頭とカメラを守り、日除けの帽子、シート、その他
あらゆる「雨よけ」になると思われるものをバッグの上に幾重にもかけました。
その甲斐あって豪雨が嘘のように過ぎ去ったのち、シートすら水が溜まっている悲惨な状況でも、
バッグだけは一滴の水も吸わず、その周りだけは完璧に乾燥した状態で、
つまりエルメスのバッグだけは守り切ったのです・・・・・・・・
・・・・・・・まあ、こんなもの花火会場に持ってくるのが間違っていますが、
全ては飛行機に乗り遅れてバッグをホテルに置いてくる時間がなかったからです。
教訓その3:花火会場に濡れて困るものは持っていかない
花弁の角度が皆違うのですが、ちゃんと「咲いている」ように見える。
これなど、まるで絵に描いたようです。
ちゃんと花芯の花粉まで表現されています。
これは、右下に陰影が来るように仕込まれているのですね。
地味ですが、花の角度が気に入って。
ところで、わたしがニコン1で激写している間、息子はすべての花火を
ipod touchで動画に収めていました。
そして後から動画再生し、それを止めてキャプチャしてそこそこの画像を撮り、
まわりの大人に感心されて得意満面です。
まったく、下手なカメラよりずっとこっちの方が性能がいいんじゃないかと思います。
わたしが撮り損ねたものも即座にメールで送ってもらいました。
かえる。
さる。
BGMは「アイアイ」でした。
まあ、こうして見ると、やはり画質はニコン1の足元にも及びませんけどね。
(と思いたい)
わざとぼうっとぼかす表現もあるようです。
歪まない画像が撮れただけでも進歩したといえましょう。
三脚のおかげですがね。
たった一輪の花。
こういう趣向も粋ですね。
左は消えかけていますがなんか動物だったような。
猫かな?
ネズミ。
右下に猫らしき影。
というわけで、大会終了。
終了と同時に何万人もの人が同じ方向(駅)に向かいなだれのように進みます。
大曲駅まで帰ってきましたが、花火のモードのまま撮るとこの通り。
明石の将棋倒し事故なども階段でのことでしたが、大曲はこの日警察を総動員して
警備に当たり、階段の前では交通整理して一時せき止めたりして、
事故が起こらないように細心の注意を払って人員整理をしていました。
なんと、始まって以来、この大曲花火競技会は一度も大事故が起きたことがないそうです。
素晴らしい。
去年も書きましたが、この駅前の「ホテル・ルートイン」。
この週末の二日だけ一泊10万円になります。
ホテル・ルートインなのに。
そして、宿泊客はそのまま一年後の予約をして帰るため、すでに来年は満室。
この町ははっきり言って「花火だけの町」ですので、この大会にかける意気込みは大変なものです。
「事故を起こさない」
というのは簡単なことではありませんが、今まで無事故という結果は何よりもその表れで、
この町の人々の運営にかける努力は賞賛に値します。
新幹線も夜中まで何本も臨時停車しますが、ホームで事故が起こらないように、
外で乗客は待機。
アナウンスがあればその時に列のままホームに上がっていきます。
「こまち」以外の臨時列車にはそれぞれ
「スターマイン」「ナイアガラ」
など、花火の名前が付けられています。
そして、「こまち」車内。
全席指定ですが、この日は特別なので立って帰ろうとする人を乗せます。
30分くらいは通勤で慣れている方も多いのでしょうが、
席に着くなりがっくりと眠ってしまう人がほとんどで、皆疲れ切っているのに、
立ったままは大変だなあ、と思いながら見ていました。
かなりの人たちが立ったまま寝ていましたが、これもすごい。
ところで、この日の花火、上席で観られたのですが、上席ならではの「被害」が。
風があり、しかも河原からこちらに向かう風だったので、花火の燃えカスが
いちいちバラバラと頭の上に落ちてくるのです。
わたしなど遅れて暗い中到着したため、用意していただいていたホテルの会席弁当を
「何を食べているのか口に入れるまで分からない」
闇鍋状態で、ときおりスダチやレモンをかじってしまったりしながらいただいたのですが、
この消し炭の雨のたびにお弁当に蓋をせねばなりませんでした。
しかも、雨でぬれた衣服の上にかかりますから、明るくなってお互いを見ると、
いたるところ消し炭の炭が点々と洋服に・・・・。
「相撲の砂被りと一緒で、花火の『消し炭被り』もいい席で観た証拠」
つまり名誉の被害です。
しかし、今日洗濯しても、消えないんだ。消し炭。
教訓4:花火会場にいい服は着ていかない
息子の頭に落ちてきた大きなスターマインの残骸。
6センチ×9センチの大物です。
疲れ切ってホテルに到着し、シャワーを浴びて倒れるように全員討ち死に。
次の日目覚めたら12時半でした。(もちろん昼の)
一度も起きずに昼まで寝たなど、高校生の時以来かもしれません。
空港で主催の方にお礼の電話をしたところ
「もし来年も、というご希望でもあればご主人にお伝えくだされば・・・」
そのお申し出に
「いえ、今ここで希望を出させていただきます。
ぜひぜひ来年も参加させてください!」
と言下に口が動いてそう答えていたわたしでした。
「大空のSAMURAI!1」
ああ、わたしは荒れた大地の結び目を滑り
笑い声を上げる銀の翼の上で 空のダンスを踊った
太陽に向かって登り 歓喜の宙返りに加わった
おまえは夢見たことはないだろう―太陽の満ちる高みへ
着陸し 舞い上がり スウィングし そしてそこでホヴァリングすることを
叫ぶ風と共に飛び 振り落とされ
逸るわたしの機は床のない空の舞踏会場を通り抜ける
高く ただどこまでも上に向かって 無我夢中で 燃えさかる青の中へ
わたしは酒々楽々と 風が吹き払った高みに君臨する
ヒバリも 鷲でさえも飛んだことのない場所へと―
そして 静寂が わたしの心を支え上げて
まだ誰も通り抜けたことのない高みを闊歩するとき
わたしは聖なる空間にこの手を差し入れ
神の御かんばせに触れるのだ
ジョン・G ・マギーJr. 少尉
アメリカ人パイロット
ザ・ロイヤル・カナディアン・エア・フォース所属
1941年11月11日、空戦戦死
訳:エリス中尉
昨日は8月26日。
「大空のサムライ」として有名になった元零戦搭乗員の坂井三郎氏の誕生日でした。
「大空のサムライ」は読んだことはあっても、アメリカで、いや世界中で出版されている
「SAMURAI!」を原書で読んだことがある人はあまりいないかと思います。
因みに冒頭の詩は「大空のサムライ」には決して登場しないもので、
この「SAMURAI!」前書きの前ページに掲げられたものです。
エリス中尉の素人訳でも、原詩の雰囲気を汲み取っていただければ幸いです。
空戦で戦死したパイロットの詩をこうやって冒頭に挙げることで、
このストーリー全体によりいっそうドラマチックな彩りが与えられています。
以前、その「SAMURAI!」から、作者のマーティン・ケイディンがドラマチックに脚色した、
「坂井三郎が日本の病院で、ラバウルの戦友が次々と死んだことを西澤広義に聴くシーン」
そして、「笹井中尉がまるで聖人のような描かれ方をしている箇所」を抜粋して、
なんどか記事にし語ってきました。
「SAMURAI!」の作りというのは、これらを読んでいただくとおわかりかと思いますが、
「I」=坂井三郎が語るという形を取ってはいますが、明らかに本人が語ったことを元に
構成し、肉付けし、創作をふんだんに加えた、「自伝風小説」となっています。
アメリカ人のマーティン・ケイディンが、坂井氏へのインタビューを元に、
その中から汎世界に共感を得る部分を、さらにアメリカ人の感覚で解釈し、
劇的要素を加えてまるで見てきたかのような場面を展開するのです。
それは、たとえばあまりにも多すぎる台詞に現れています。
日本で出版された「大空のサムライ」ですら、初版「坂井三郎空戦記録」に比べると、
台詞や、あまりに情緒的な創作が増えすぎている、と読み比べて感じるのですが、
この「SAMURAI!」は、たとえばこんな具合です。
私は直立不動で笹井中尉と中島少佐に敬礼した。
「報告します」
私は息を詰まらせた。
「司令のところに連れて行って下さい」
「義務なぞ糞喰らえ」
中島少佐は私に雷を落とした。
「待ってろ。病院に連れて行くから」
私は報告しに帰ることを声をからして言い張った。
次の瞬間、西澤が立ち止まり、私を肩の下で支えた。
太田が左肩の下に滑り込み、二人の搭乗員は私を指揮所に運んでいった。
西澤はずっとつぶやいていた。
「馬鹿めが。どんな状態かわからんのか。
狂ってる。こんな状態なのに」
面白そうだと思いません?
誤解を恐れずに言うと、この「SAMURAI!」、
はっきり言って大空のサムライより、面白いです。
「こんなこと坂井三郎が言うわけないし」という突っ込みも含めて。
この小説が世界に受け入れられたのは、日本人のある零戦パイロット、
まるで自我のない「闘う機械」であるかのように思われていた日本軍の兵士が、
人間として我々(主にアメリカ人)と共通のものを持っていた、という「カルチャーショック」が
基本になっていると思うのです。
価値観の全く相容れない、下手すると獣のように通じ合う部分のない、
別の生き物であるかのようにすら言われていた日本人が、実は我々のように。
戦い、悩み、苦しみ、そして決して完璧な人間などではなく、ときには酷く失敗し、
友と笑い合い、そして恋をする。
なんだ、俺たちと一緒じゃないか、と。
・・・・え?
坂井三郎が恋をするなんて表現、大空のサムライにあったっけ、と思われた方。
あるんですよ。
いや、「大空」になくても「SAMURAI!」にはあるのです。
日本で出版された「大空のサムライ」には、不思議なくらい女性が出てきません。
あの本に書かれた期間に、坂井氏は女性に出逢い、別れ、結婚し、と
結構波瀾万丈な私生活を送っているわけなのですが、この小説は全く
「女っ気ゼロ」です。
「坂井三郎空戦記録」は、当初の目的が
「ある飛行搭乗員が、あの戦争をどう戦ったか」
を淡々と、ときにはドラマチックに、ときにはユーモラスに語ることにあったので、
そこに惚れたはれたが絡んでくると読者の対象が絞りにくくなる、
おそらく出版社はそのように考えたものでしょう。
日本ではその後、それが火付け役となって青少年の間に
「零戦ブーム」が起こり、原作を少年が読むようになったのですから、
対象年齢がいっそう幅広くなり、さらにその必要性はなくなったのだと思われます。
その後何回もの改訂や派生本、シリーズ本が出ても、それのどれ一つとして、
坂井氏の女性関係について書かれたものはありません。
しかし、それは「活劇と友情だけで満足できる」日本だけのこと。
ましてや、坂井氏の「交情」は、女性よりむしろ本田兵曹や笹井中尉などとの
「男性同士の疑似恋愛的友情」としてのみ描かれているので、むしろ
女性の存在は「邪魔」だったのだとも言えます。
アメリカで「SAMURAI!」を出版することになったとき、坂井氏は1956年、
本の序章のためのインタビューでこう語っています。
「戦後、わたしは飢え、貧困、病気などの倒せない敵と戦わなければならなかった。
占領軍に公職に就くという収入の道を絶たれてしまったこともある。
二年間土方の仕事をし、ボロにくるまって食うや食わずの最低の暮らしをしていた。
最も打ちのめされたできごとは、最愛の妻ハツヨを病で失ったことだった。
彼女は戦時中の爆撃からは生き延びたが、この新たな敵からは逃げられなかった」
本にはこのハツヨさんの初々しい日本髪の写真がページいっぱいに掲載され、
ストーリーの要所要所には、ハツヨさんとのロマンスが盛り込まれているのです。
日本ではそれでよくても、世界基準で、若い男性を描いた本に女性が全く出てこない、
というストーリーなど問題外です。
それに、ハツヨさんはこのようにアメリカ人から見ても魅力的な日本女性なのですから、
彼女を登場させないで話を進めない手はありませんね。
相対的にこの「SAMURAI!」は、フィクション性の多いノベライズとして仕立てられており、
主人公が、ちょっとアメリカ風の言い回しで会話し、涙し、
そしてときには男同士でも名前で呼び合って抱き合うという、なんというか
「やり過ぎ」が目立つのですが、しかし、おそらくこうでなければこのストーリーは
これほど世界の共感を得ることはなかったのではないかと想像します。
次回から「SAMURAI!」における坂井三郎のロマンスについて、
その部分だけを書き抜いて何回かのシリーズをお届けしたいと思います。
「大空のSAMURAI!2」フジコとサカイ
やたらドラマチックな坂井三郎と登場人物の会話を翻訳しながら、
これは映画化決定だなあとふと思いつき、キャスティングしてみました。
残念ながら坂井三郎を演じられる若い俳優の名を思いつかず、さらに
「息をのむほど美人」なニオリ・フジコを演じられる20歳くらいの女優も、
わたしには何のアイデアも思い浮かばなかったため、
年代的に少し無理のある配役となりましたが・・・。
因みにニオリ・フジコの漢字は正しいものではなく、当てずっぽうです。
ご了承下さい。
前回お約束したように、今日は淡々と、SAMURAI!における
坂井三郎のロマンスについてお話ししていきます。
ハツヨは、坂井が九州佐賀県の田舎から青山学院に進学したとき、
東京での下宿先となった叔父の家の娘でした。
坂井は青山学院での成績が芳しくなく、素行不良で退学処分となり、
叔父をがっかりさせた上、逃げるようにまた故郷に戻ります。
このとき、彼とハツヨとの間は単なる「いとこ同士」でした。
この後、坂井が操練を首席で卒業し、中国戦線で活躍し始めたころ、
ハツヨから、手紙を受け取ります。
「あなたからの手紙を、クラスのみんなは待ちわびています」
ハツヨは若い飛行機乗りのいとこを皆に自慢しており、
また当時の女子の憧れ「ネイビーのパイロット」である坂井は
クラスのアイドルのようになっていたのでした。
その中で特に坂井に夢中になった女性がいました。
彼女の名はニオリ・ミキコと言います。(丹織?仁折?)
「手紙を見せたクラスの皆の中で、一番興奮し、そして
あなたに紹介してくれと頼んできたのは彼女でした」
ハツヨはクラスで一番美しく一番聡明で、神戸大学の教授を父に持つ
このミキコと坂井を結びつけようと、写真を送ってきたのです。
写真にも明らかな彼女の美貌に坂井も惹かれますが、
かれ自身気づいていない気持ちがありました。
自宅でモーツァルトを弾いてくれた、ハツヨの姿がいつの間にか
ひっそりと心の隅に住みついていたのです。
さらにしばらくして、またハツヨから手紙が届きました。
なんとミキコが交通事故で突然亡くなったという知らせでした。
「わたしは神様を恨みたく思います。
なぜ、なぜミキコのような素晴らしい女の子が、わずか16歳で、
何の落ち度もないのに・・・」
そして、その手紙にはミキコの母からの手紙も同封されていました。
「ミキコはあなたからの手紙の返事をもらう前に逝ってしまいました。
どんなにか心残りだったことでしょう。
どうか、彼女の棺に入れるための手紙を送っては下さらないでしょうか。
わたしたちはミキコの魂が、あなたを敵の銃弾から空で護ってくれることを
神様にお願いしています」
ミキコの母親に慰めの長い手紙と香典を送った坂井に、ある日、
ミキコの姉という「フジコ・ニオリ」から手紙が届きます。
手紙に対する真摯なお礼と共に、それにはこんなことが書かれていました。
「あなたの手紙を見るまで、わたくしは戦闘機搭乗員とは暖かい真心や
感情など持たず、戦闘にしか興味の無いものだと思っていたのです。
あなたの手紙はわたくしの考えを変えました。
もしよろしければお友達になっていただけませんでしょうか」
添えられた写真を見て、坂井はすぐさま返事を書きます。
二人の間にせわしなく手紙が往復し、坂井は一日のほとんどの時間を使って
彼女に手紙を書き、彼女から来た手紙を何回も何回も読み直すのでした。
昭和14年の11月、操練を恩賜の銀時計で卒業し中国戦線で活躍する坂井は、
故郷で英雄のように迎えられ、大いに照れます。
次いで大阪で展覧飛行をすることになったことを坂井は急いでフジコに伝え、
フジコは両親と共にそれを観に行くことを約束しました。
展覧飛行の後、大阪ホテルの一室に戻った坂井はおろしたての軍服に着替え、
颯爽と下に降りていきます。
「坂井搭乗員!早く来たまえ!婚約者が階下で君を待ってるぞ!」
皆は笑い、喝采しながらわたしが出て行くのを促した。
フジコ・ニオリは衝撃的に美しかった。
わたしは思わず階段の途中で立ち止まり、ただ彼女を見つめ、息をのんだ。
彼女は美しい着物をまとい、両親と共にそこでわたしを待っていた。
わたしは何もしゃべることもできず、しかし彼女から目を離すこともできなかった。
ただ呆然としながらお辞儀をした」
あらあら。
坂井さん、フジコさんに一目惚れしてしまいました。
しかし、この両親というのが、坂井を婿にすることをすでに考えていて、
坂井は「彼らはわたしに好意的であったが、わたしは息子の婿に相応しいか、
試験をされているようで何か違和感を」感じます。
確かにフジコは美しく、心奪われたのは事実だが、いきなり結婚とは・・・。
これらの逸話が、「全く根も葉もないフレッド・サイトウとマーティンの創作」とは
とても言い切れないリアリティを感じるのがこの部分です。
Increasing my anguish was the knowledge that Niori family was
the one of the most distinguished in Japan,
that they came from one of the outstanding Samrai groups
in in the country,and that Fujiko's father had attained eminence
as a college prifessor.
(ニオリ家が日本でも名家の一つであり、彼らは地方でも名だたる士族の家系の出で、
フジコの父親が著名な大学教授としての地位にあるなどということを知るにつけ、
わたしの苦痛はさらに増した)
坂井の家はこの本の紹介文にもあるように
「impoverished samrai family=貧しい士族の出」ですから、この時代の男として
かれが苦痛を感じたのも当然のことと言えます。
しかも、当時の坂井はまだ搭乗員としても駆け出しといってもよく、
郷里で英雄扱いされたことを、「何者でも無い地位の自分」が
過剰に評価されていると感じかえって意気消沈しているわけですから、
おそらくこれは実際そのような状況であったのかと思われます。
なんと言ってもこのころ彼はまだ22〜3歳ですからね。
男女の結婚話が当事者の承諾を全く得ないで行われていたこの時代でも、
さすがに戦争中の搭乗員が相手では話はここで途切れ、
ましてやこの時代であるからこそ、当事者の間に何も起こるはずはなく、
坂井はフジコさんに心を残したまま戦地に帰っていきます。
戦地で、坂井はフジコから
「ハツヨさんと一緒に駅前であなたのために千人針を集めました」
という手紙を読みつつ考えます。
「これをおなかに巻いていたら、敵の弾が当たらないのだそうです」
フジコの手紙はわたしにある考えを起こさせた。
その夜初めてわたしは、撃墜した敵のパイロットもまた、
わたしと同じ人間なのだと考えた。
それは奇妙で、わたしを落ちこませもしたが、しかし、殺さねば殺される、
これもまた戦争の真実なのだ。
ハツヨさんはいったいどうなっているのか、って?
そうなんです。
会えばいつでも温かく迎えてくれるこのいとこを好ましく思っていますが、
フジコに心を奪われた坂井さんにとって、今のところハツヨはアウトオブ眼中。
なんと言っても彼女はいとこですからね。
この後どうなるのか?
続きはまた後日。
「大空のSAMURAI!3」フジコとの別れ
以前に一度使用した「ガダルカナルから傷ついて生還した坂井三郎」の絵です。
いとこのハツヨの亡くなった同級生の姉であるフジコとの出会い。
美しいフジコに、坂井は心惹かれながら戦地に出て戦い続けます。
そして、坂井のいる台南航空隊は、最も過酷な戦いに突入していきます。
ガダルカナルまで数時間飛行し、そして空戦して同じ距離を帰ってくる。
精強と言われた台南空の搭乗員はこの戦いで消耗していくのですが、
その初日、8月7日に坂井はドナルド・サザーランドとの空戦の後、
米軍機「ドーントレス」の機銃掃射の前に右頭部をやられ、視力を失いながらも気力だけで
四時間の飛行ののちラバウルに帰還します。
着陸の瞬間ガソリンはゼロになり、これは坂井が着陸のためにあと一回基地上空を旋回したら
おそらく四時間飛び続けた零戦は燃料切れで墜落していたと言われています。
負傷後も残って闘うと言い張る坂井は、斉藤司令、中島少佐の説得により日本に帰国します。
そして、横須賀の海軍病院で手術を受けます。
わたしは医師の言うとおり電球を見つめ続けた。
その電球がわたしの目に満たされた血で真っ赤になっても見つめ続けた。
医師の手が視界を遮り、そしてその手の先のとがった金属片が徐々に、徐々に近づいてきても。
わたしは叫んだ。
まるで気が違ったように恐怖と苦痛に声を張り上げた。
一瞬たりとももう我慢できない。
ついにはこの激痛が止められるならもうどうでもよくなった。
もう一度飛ぶこと、もう一度目が見えるようになること、そんなことはもうどうでもいい。
わたしは坂野医師に向かって金切り声を上げた。
「やめて下さい!もうやめてもう目玉をほじくり出して下さい!
もう何もしなくていい、止めて下さい!」
わたしはメスから逃れようともがいた。拘束バンドから滑り出ようとした。
しかしそれは堅く締め付けられており、医師はわたしが叫ぶたびに怒鳴り返した。
「黙らんか!」彼は吠えた。
「我慢しろ!目が見えなくなってもいいのか。騒ぐんじゃない!」
拷問は三十分以上続いたが、わたしにはそれが百万年にも思われた。
全てが終わったときわたしには指一本動かす気力すら残っていなかった。
しかもこれだけの苦痛を伴う手術の結果、医師から
「右目の視力は完全に戻ることはないだろう。左は大丈夫だが」
と告げられます。
医師の言葉は、わたしにとって死の―生きながらの死の宣告のように轟いた。
隻眼の飛行機乗りだと?
わたしは医師が去った後自嘲した。
そんなむなしさと共に病床にある坂井の元に訪問者があります。
フジコとその父親でした。
大阪で展覧飛行をした晴れがましい夜から、十八ヶ月ぶりの邂逅です。
通り一遍の見舞いの言葉と手紙を出せなかった非礼を詫びる
儀礼的応酬がすみ、父親がさらに怪我の様子を尋ねます。
それに対し、坂井は右目の視力は戻らないと言うことを答えると、
わたしの返答はフジコを固まらせた。
彼女は急に口を押さえ、その目は大きく見開かれた。
「本当です。わたしは二つの道を失いました。
わたしはもう健常者でもなく、目を失ったからには飛行機乗りとしても終りなのです」
ニオリ教授は遮った。
「しかし・・・それではあなたは海軍を除隊されるおつもりですか」
「いえ、そう思ってはいません。
あなたはおわかりでないかもしれんが、この戦争は、
怪我をしたからといって家で療養していいようなものじゃないんです。
わたしは除隊など全く考えておりません。
おそらく海軍は教官か何か地上勤務にわたしを配置してくれるでしょう」
フジコはわたしに向かって頭を振った。
彼女は明らかにわたしの儀礼的な返答に気分を害していた。
彼女は何か言おうとしたがそれは言葉にならず、遂に、傍らの父親に向かって叫んだ。
「お父様!」
彼女の目は何かを訴えていた。
ニオリ教授は深くうなずき、咳払いをすると切り出した。
わたしをまっすぐ見て、
「いつ隊に戻られるのですか?
私どもは結婚式の・・・三郎さん、勿論あなたさえ良ければだが・・・、
準備に取りかかりたいと思っておるのですが」
「な・・・・何ですって?」
わたしはしわがれ声で叫んだ。結婚の準備だと?
「なんと・・・・なんとおっしゃいましたか、教授?」つい声に出た。
「許して下さい、三郎さん。
わたくしどももあなたがこんなときに、とは思っております」
老教授は沈痛な様子で言った。
「三郎さん、娘をフジコをあなたの妻にもらってやっては下さらんか。
これには一通りのことを教え、どこに出しても恥ずかしくない女性に育てたつもりです。
あなたが申し出を受け入れて下さって、お義父さんと呼んでくれれば、
わたしはこんなうれしいことはない」
わたしは息をのんで押し黙った。
教授の声はまるで天に響く鐘の音のように聴こえた。
フジコはわたしが目を見張っている様子を紅潮して見つめていた。
そして膝を見るようにして頭を深く下げた。
不意に涙が溢れ、彼女から壁に目をやった。
なんて皮肉だ。この同じ壁をわたしは何日の間絶望しつつ眺めただろう?
やっとのことでわたしは声を取り戻した。
しかし容易にしゃべることはできなかった。
わたし自身の声は締め付けられて出てこなかった。
「ニオリ教授、わたしは・・・あなたのお申し出を光栄に思っています。
そうなればどんなにうれしいかしれません。しかし・・・」
わたしは振り絞るように、涙を隠そうとして言った。
「わたしは―わたしにはできません。お申し出をうけることはできません」
ああ、終りだ。言葉が出てしまった。言ってしまった。
「何ですって?」信じられないと言う声だった。
「あなたは―どなたかとお約束がおありだったのですか?」
「違います!断じて!お願いですからそんなことまで考えないで下さい!
自分がどうのという問題ではなく、そうしなければならん理由があるのです。
ニオリ先生、わたしにははいと言うことなどできないのです!
見て下さい先生、このわたしを!
わたしはフジコさんに相応しくない。この目!」
わたしは泣いた。
「わたしは片眼なのです!」
かれの表情に安堵感が浮かんだ。
「三郎さん、何をおっしゃいます。
あなたは必要以上に自分を卑下しておられる。
怪我をしたくらいで、今まで積み重ねてきたものを否定しないで下さい。
それはあなたの価値を下げるどころか、名誉の負傷じゃないですか。
あなたは自分がどういう立場にいるか、まるでおわかりでないのですか?
日本中があなたを賞賛し、褒め称えていますよ。
偉大な撃墜王として、我が国の英雄として。わかりませんか?」
「ニオリ先生、あなたは分かっておられない!
わたしはただ本当のことを言っているのです。分かっていないのはあなたです。
わたしは謙遜してるんじゃありません。
英雄扱いなんていっときのことです。その瞬間作られるようなものです。
そしてわたしは英雄ですらない!
わたしは飛べない飛行機乗りだ。片眼の搭乗員なんです!
もはやそんなものは飛行機乗りじゃない。
英雄?それをおっしゃるならば日本には特別の英雄なんていないのです。
皆が闘っているんだ」
かれはしばし沈黙した。
「こんなときに拙速だったかもしれません。三郎さん」かれは続けた。
「しかし分かっていただきたいのですが、このことは昨日今日決めたのではない。
わたしと妻はあなたに初めてお目にかかった日からあなたと決めていたのです。
あなたの気持ちはよく分かるが、このことだけは理解していただきたい。
わたしと家内はフジコを幸せにしてやれるのはあなたであると考えてのことです。
これは我々の、あなたに対する信頼であり、フジコも同じ気持ちでしょう」
わたしはその言葉に崩れ折れそうになるのを感じた。
この聡明な人格者が、わたしが何を操縦しているのか分からないとでも言うのか?
「どうやって一度会っただけでわたしを理解なさったのですか?」わたしは泣いた。
「どうやってそんなにたやすくこんなことを決められるのです?
フジコさんの生涯の幸福を一度会っただけの男に?
あなたのお考えが理解できない―
そのお言葉はこの身に余る光栄には思っていますが」
わたしは激高して両腕を広げた。
「わたしなどよりずっとフジコさんに相応しい若い男性がいます。
何千人だって、完璧な学歴や資産を持つ男が。
わたしが娘さんに何をしてあげられますか?ニオリ先生?
何を与えられますか?
お願いですからわたしをもう一度別の明かりで見て下さい、さあ!
今のこんなわたしにどんな未来があるっておっしゃるのです?」
フジコは黙っていなかった。顔を上げ、わたしをじっと見た。
わたしは部屋から逃げ出したくなった。
「あなたは間違っているわ、三郎さん。」彼女は静かに言った。
「ええ、間違っていますとも。
あなたはご自分の目のことで混乱なさっているのよ。
あなたが片眼だろうがそうでなかろうが、わたしには全く関係ありません。
一緒になりましょう。
誰と結婚したところで長い人生の間にはあなたに起こったようなことが
起こらないとも限りませんわ。
もし必要ならば、三郎さん、わたくしにお手伝いさせていただきたいの。
目がどうだから、などとおっしゃるあなたと結婚するのはいやだわ」
「間違っているよ、フジコさん」わたしは言った。
「君は勇気がある。言っていることも本当だろう。
しかし君がそういうのは感傷からだ。
一時の感情で一生のことを決めるべきじゃない」
「いや、いや、いや!」彼女は頭を振った。
「どうしてそんなに分かって下さらないの?
これは一時の感傷なんかじゃあないわ。
こうやって会えるのを何ヶ月間指折り数えてお待ちしていたか!
わたくしの言う意味がおわかりですか?」
こんな会話はもうごめんだった。
随所で崩れ折れそうになる恐怖を感じながらわたしは言った。
「ニオリ先生。フジコさん」否応もない調子を声に表した。
「わたしは自分を卑下しているのではない。
交渉でどうにかなる話ではないのです。
何度も言いますが、先生、今夜身に余る光栄のお言葉をいただきました。
しかしわたしにはあなたのお申し出を受けることはできない。
フジコさんと結婚することはできないのです。
その理由は・・駄目なものは駄目なのです」
わたしは教授の言葉を聞くことを拒否した。
かれは何度も説得しようとしたが、わたしもまた何度も同じ言葉を繰り返し、
フジコは泣き崩れた。
彼女は父親の腕に縋って声を上げて泣いた。
わたしはこれほどの悲しみを彼女に与えた自分自身を殺したくなった。
しかしわたしは間違ってはいない。わたしのしたことは彼女の為なのだ。
わたしとの結婚は一時的に彼女を幸せにするだろうが、
何年かしたら苦しむことになるのは彼女なのだ。
彼らが出て行った後をどのくらい見つめていたであろうか。
わたしは無力感と絶望感にベッドに崩れ落ちた。
なんと言うことをしたのだ?わたしは千回も自問した。
そして千回とも同じ答えが反ってきた。
こうしか方法はなかった、
しかしこの答えはわたしの気分を全くマシにしなかった。
わたしはこの人生で得た最も美しいものを投げ捨てたのだ。
(エリス中尉訳)
ところどころ意訳しておりますので、もし興味がありましたら原文をチェックして下さい。
こんなわけで坂井はフジコさんとの別れを自ら彼らに告げてしまいます。
いよいよ、このあとハツヨさんとどうなるか、続きをお楽しみに。
って言うか・・・・坂井さん、かわいそうすぎる・・・・・。
「大空のSAMURAI!4」ハツヨとサカイ
膨大な「SAMURAI!」からちょこちょこっと坂井さんのロマンスを書き出すつもりが、
意外と表現がしつこくて(笑)なかなか先に進みません。
ようやくハツヨさんとサカイが結ばれるところまで来たわけですが(ぜいぜい)、
挿絵が足りなくなったので一枚に描いた絵を分割して掲載しております。
わりと本気で言うのですが、内容、ネタ共に枯渇しているらしい昨今の日本映画界は
「大空のサムライ」ではなく、こちらの「SAMURAI!」の方を映画化すればいいと思います。
というか、どうして一度映画化された「大空のサムライ」で、どうして実話ベースのこの話が
かけらも出てこず、変な創作(本田の姉と搭乗員Aの衝動的な恋愛)をわざわざしたのは
いったいなぜだろうと、今日首をかしげざるを得ません。
・・・・もしかして、誰も読んだことなかったのかな。英語の「SAMURAI!」。
さて、勝手に映画化をエリス中尉がもくろんでいるだけの「SAMURAI!」。
この映画は坂井三郎のロマンスがメインテーマなので、ラバウルでのことは
ほんの説明程度にしか出てきません。
ですから、笹井中尉が登場するのも、坂井の回想シーンにちょっとだけ。
しかし、我ながら伊勢谷=笹井中尉はぴったりの配役ではないかと、
絵を描きながら別の意味で自画自賛しておりましたがいかがなもんでしょう。
さて、敵の銃撃によって帰国、手術の甲斐なく右目は失明することになった坂井。
病院で結婚を切り出したフジコとその父親に、自ら破談を申し渡します。
というか、婚約にすら至らず、フジコとの関係は終焉を迎えてしまいました。
二人との話し合いの二日後のこと、ハツヨが病院にやってきました。
横須賀海軍病院に週一度彼女は花を持って見舞いに来ていたのです。
しかし、このたびの彼女は険しい表情をしていました。
「三郎さん、あなた何したの?」
彼女はベッドの脇に来るなり言った。
「フジコさんをどんなに傷つけたか、あなた分かってる?」
あの後、二人は坂井の叔父宅を尋ね、坂井を説得することを頼んでいったのです。
ハツヨさん、坂井を説得しようと意気込んでやってきたというわけです。
「自分たちの言葉があなたを不快にさせたからではないかっておっしゃっていたわ。
父もわたしもあの方たちのことはよく知っているの。
あんなに素晴らしい人たちに向かって、なぜあんなことを?」
「ハツヨ、分かってくれ」わたしは彼女に言った。
「きみは小さいとき何年かとはいえ一緒に育ったんだし、俺のことを知ってる。
言わなければならんことを言って傷ついたのは俺も同じだし、
俺は自分のした選択を後悔していない。
俺は正直に言って彼女によかれと思って、彼女自身の幸せのために
ああいう風にしたんだ」
「怪我のせいであなたが申し出を拒んだんだっておっしゃってたわ」
「それだけじゃない。それは理由のたった一つに過ぎないんだ。
俺はフジコさんを最初に逢ったときから本当に好きになった。
俺の彼女に対する気持ちはちっとも衰えていない。
ラエとラバウルにいた何ヶ月もの間、フジコさんは俺にとって永遠の女性だった。
わからないか?俺は彼女を愛するからこそあの話を断ったんだ」
「三郎さん、そんなの変よ。おかしいわ」
「聴いてくれ。外地にいた期間、太平洋にいた間一時だって、
フジコさんが俺の心から離れることは、無かったんだ。
俺は彼女に俺を誇りにしてもらいたかった。俺がそうであるように。
・・・・・・こんなこときみに話すべきではないのかもしれないが、
ハツヨ、この際言ってしまうよ。
ラバウルは軍の主要基地だから一万人以上が駐留している。
加えて陸軍の師団もずっと一緒だ。
男というものが故郷を離れ、女っ気無しのところにいればどうすると思う?
横須賀にもあるように、ラバウルにだって慰安所というものがあった。
ラエからラバウルに休養のために行くと、多くの搭乗員は慰安所に入り浸りっきりになる。
勿論全てではないが、少なくもない。
しかし、俺はそこへは一度も行っていない。プライドが許さなかったんだ。
俺はフジコのためにできる限り清い身体でいようと思った。
彼女の手を取って、結婚を申し込むその日のために。
負傷するまで、俺は恐れを知らぬ海軍搭乗員として、
自分は彼女に結婚を申し込むのに相応しい人間だと思っていた。
しかし今はどうだ?違う!」
わたしはハツヨに向かって叫んだ。
「哀れまれたくないんだ!
彼女に同情されるのは我慢ならないと言うことがわかるか?」
ハツヨはわたしを強く抱きしめるとうなずいた。
「わかった。わかったわ」
彼女はささやいた。
彼女はわたしの目をのぞき込んだ。
「わたしはあなたのことよく知ってるの。三郎さん。
あなたが思っている以上にあなたのことを知っているのよ。
もう一度飛びたいという気持ちからなのね。
でもわたしにはフジコさんをどうしてもお気の毒に思わずにはいられない」
「彼女にはその方がいいんだ。彼女には・・・・」
しかしハツヨはわたしの首に回した腕で強くわたしを抱きしめ、次を言わせなかった。
「可哀想な三郎さん!
希望を持つのよ・・・・・信じるの。
あなたはまた飛べるわ。
わたしはあなたのことを、よく知っているの・・・・」
実際にはこのようなドラマチックではないせよ、ニオリ家との結婚話を、
負傷した坂井がそのために断ったという話はどうやら本当のことに思われます。
それにしても、「大空のサムライ」には全く出てこない「戦地での性」を示唆する部分、
慰安所について述べた部分は、日本の読者には衝撃的ですね。
こういう表現にならざるを得ないから、フジコさんとハツヨさんの部分は、
日本では全くカットせざるを得なかったのでしょうか。
膨大なこの小説の「ハツヨさん」部分だけ書き出してみましたが、これでようやく?
フジコさんとの関係が終わったばかり。
この後フジコさんとどうなるのか、もうすこしだけエリス中尉の拙訳におつきあい下さい。
「大空のSAMURAI!5」ハツヨとの結婚
傷の癒えた坂井は昭和18年大村航空隊に、
昭和19年には横須賀空で教官職に就きます。
ハツヨの両親、坂井の叔父夫婦はいつもかれを歓迎しました。
招かれたある日の夕食後、ハツヨは坂井をからかいます。
「ねえねえ、『お兄様』、お兄様はどうしてまだお独りなの?
良き旦那様として選ばれるのには何が問題なのかしら?」
叔父夫婦は花火をやめ、我々を笑って眺めた。
叔父はわたしたちをからかって言った。
「ふたりとも好みにうるさいからなあ」
わたしは微笑んだ。
「ハツヨさんにもらい手がないのが不思議ですよ。
この辺じゃまるで映画女優みたいに綺麗だって言われてる。
おまけにピアノの達人だなんて豪語できる女性が何人いるでしょう」
わたしは彼らと、そしてハツヨを見ながらこう言った。
「きみは素晴らしい旦那様を選ぶよ、きっと」
叔父夫婦はわたしの論評に微笑んだが、ハツヨはわたしを睨み目をそらした。
「どうしたの、ハツヨさん」
彼女は知らん顔していた。
怒らせてしまったか。わたしは驚いて話題を変えた。
「ハツヨさん、お願いがあるんだけどな。ピアノを・・・・。
もう長いこと独奏会を聴かせてもらっていない」
彼女はもの問いたげにわたしを見た。
「俺が初めて学校に上がったころのこと、覚えてる?
きみはあれを・・・ええっと何だっけ・・・ああそうだ、モーツァルトだ。
それを弾いてくれたんだ。
また弾いてもらえないだろうか?」
ピアノを弾いているハツヨについてはまた別の項でお話するとして、
彼女のピアノを聴きながら、坂井はどうしたわけか突然ハツヨを女性として意識しだします。
ハツヨとわたしが?
この考えはわたしを動揺させた。
しかし彼女はもう子供ではない。
目を覚ませ、坂井、お前は馬鹿だ!
彼女は女で、今、この瞬間、お前が好きだと言っているではないか。
わたしには彼女の気持ちが分かった。性急なその感情が。
答えてやりたい。
いやそれはだめだ。わたしは自分に向かって言った。
しかし、それは他ならぬ、ハツヨだ。
お前は彼女が好きになってしまったんじゃないか、この馬鹿者。
しかもお前はこれまで彼女の気持ちにさえ気づいていなかった。
病院でのことが思い出された。
彼女がわたしに腕を回し、泣きながらもう一度と飛ぶのよ、と言ったことを。
彼女はわたしを愛していたのだ。
わたしがそのことを想像もしていなかったころよりずっと昔から。
不思議なことだが、わたしはそれを知った瞬間、わたしも恋に落ちたのだ。
彼女に。
しかし坂井は、自分がフジコを拒否したからには、同じ理由で
ハツヨの物言わぬ訴えをも受けいれるべきではないのではないか、
そのように苦悶します。
フジコを拒否した理由は、なんと言っても戦闘で片眼を失ったこと。
こればかりはどんな奇跡が起きてももうどうしようもない事実なのだから。
坂井はハツヨの気持ちに対し知らぬふりをすべきだと決意します。
その後、坂井三郎は周知のように硫黄島防衛に隻眼のパイロットとして加わることになります。
その激戦の合間を縫って東京の叔父のうちを尋ねた坂井は、
叔母が自分をもてなすために闇市に行っている留守宅でハツヨと二人っきりになります。
当たり障りのない会話がひと段落した時・・・・・
そのとき突然、彼女はわたしの話を遮った。
「三郎さん」彼女は静かに言った。
「フジコさんが結婚なすったのをご存じ?」
勿論知らない。
「あの後ね、フジコさんはパイロットと結婚したの。飛行機乗りよ。あなたと同じ」
彼女の調子は挑戦的だった。
わたしが何か言いかけると彼女は遮った。
「三郎さん、どうしてまだ結婚しないの?あなたはもう若くもないわ。
もう27歳じゃないの。もう士官になって一人前だわ。奥さんをもらうべきよ」
「しかしハツヨ、俺はどんな女の人が好きかなんてことも自分で分からない・・」わたしは逆らった。
「フジコさんを愛していたんでしょう?」
なんと言っていいか分からなかった。
不器用な沈黙がわたしたちを支配した。
ハツヨはわたしを居心地悪くさせた。
よそ見することを許さずわたしの目をまっすぐ見た。
わたしはいらいらして話そうとしたが、どもるばかりだった。
坂井はいらだち、自分が結婚しない理由をこう説明します。
「俺は飛行機乗りだ。
空に上がるっていうのはもう帰ってこられないかもしれないということだ。
しかもそのときは遅かれ早かれやってくる。遅かれ早かれ!
今日日のパイロットで死なずに済むやつなんかいないんだ。
もうそんな戦況じゃないんだ。技術なんて何の役にも・・・」
「子供みたいなしゃべり方をするのね、三郎さん」
怒りで目を輝かせながら彼女は言った。
「ぺらぺらしゃべってばかりで自分の言っていることも分かっていない。
あなたには女の心が分からないのよ。
あなたは飛ぶことをそうやって話す。死ぬことを話す。
三郎さん、あなたの言うことには何もないわ。
あなたは生きていくことについて何も話そうとしないのだから」
「わからんー俺が間違っているのかもー・・・しかし・・・
どうしていつも君はそんな風にしか話せないんだ」
「わたし長生きなんてしたくないの!意味なく空虚に生きるのなら。
飛行機乗りだって明日死ぬかもしれないとわかっていて飛ぶわ。
―そうでしょ、三郎さん。
女の幸せはね。
ただ、彼女を愛してくれる男性と一緒にいることなのよ。
たとえそれが数日しか与えられなかったとしても」
彼女の言葉に呆然と立ちすくむ坂井。
返事をできないまま隊に戻った坂井にある日面会人が訪れます。
ハツヨと叔母でした。
坂井が部屋に入るなり、ハツヨはいすから立ち上がり、こう坂井に告げます。
「来たわ、三郎さん。お嫁さんにしてもらいに来たわ」
押しかけ女房、キター!(AA自重)
なんと煮え切らない坂井の気持ちを推し量り、母娘で急襲してきたのです。
わたしはドアのところで凍り付き、口も聞けずにいた。
「もし三郎さんに死ぬ用意ができているのなら、わたしも同じよ。
もし一週間しかないのならその間だけでも一緒にいましょう。
それが神様の思し召しなのだったら」
「ハツヨ!」
わたしは泣いた。あり得ない。こんなことがあるはず無い。
自分から言い出せなかったハツヨへの思い。
ハツヨがこうやって押しかけてくれたおかげで、坂井は
ようやく意中の人と結ばれることになったのです。
照れながらわたしが中島司令に報告すると、司令は相好崩して喜んだ。
すぐに電話を取り上げるなり、新居にする家の手配を指示した。
そしてそれらの気前の良い提案に対し、一切の異論を差し挟ませなかった。
ハツヨとわたしは昭和20年の2月11日、紀元節に結婚した。
式には親族と、終りの方には隊員たちが顔を見せた。
夕刻空襲警報が鳴って、邀撃の待機のため何人かが去ったが、
胃の腑が縮むような警報サイレンが結婚行進曲になるとは思わなかった。
式のあと、灯火管制で真っ暗な中、わたしたちは神社にお参りした。
勿論時節柄ハネムーンなどは叶わなかったが、次の日曜日には
搭乗員たちを五十人招待して披露宴をした。
彼らはあの「警報結婚行進曲」を話題にして大笑いした。
搭乗員は自分のできる楽器―ギターやアコーディオン―を持ち寄り、
やたら陽気な結婚行進曲を演奏してくれた。
わたしはその日、世界で一番幸せな男だった。
隊員たちは何度も何度も新婦の美しさを褒め称えた。
素晴らしい、忘れがたい夜だった。
宴会では叔父夫婦が特別に用意したごちそうに皆舌鼓を打ち、
ハツヨのピアノに皆がおのおのの楽器で即興演奏をするなど、
日本の宴会にはあまりないような盛り上がりを見せます。
わたしはハツヨから目をはなすことができなかった。
夢から現実になった女性、輝くばかりの美しいおとぎ話の姫。
それが、わたしの妻だった。
最終回に続く。
「大空のSAMURAI!6」モーツァルトと月光
実はこのシリーズを制作したのは一年以上前。
なんとなくシリーズゆえ出しそびれて今日に至るわけですが、
前回絵を描いてから今回までの間に女優さんのイメージが「北川景子さん」に変わったので、
そこだけ配役を変更してポスターを制作してみました。
SAMOURAI!と表記しているのは、こういうのもありかな、と思ったからで他意はありません。
煽り文句とか、すべてジョークですからね!お断りしておきますけど。
と言いながらこの画像を保存するときに思わず「映画」フォルダーに入れていたエリス中尉である。
と言うわけで結婚した坂井とハツヨ。
この小説、「SAMURAI!」は、結婚式の後もう一度戦地に戻り、
終戦になって自宅に帰った坂井とハツヨの姿で終焉を迎えます。
「あなたは―もう二度と戦わなくていいのよ」
彼女はささやいた。
「終わったの。もう終わったのよ」
彼女は突然帯の下から短刀を引き抜き投げ捨てた。
「もう二度と、ごめんだわ!」
床の上でそれは火花を散らした。
短刀はカランカランと音を立てて部屋を横切り、部屋の隅で止まった。
さあ、これが世界中で読まれている「SAMURAI!」のラストシーンなのです。
が・・・・・。
ちょっといいですかー?
坂井さんの留守を守っていたハツヨさんは、いったいどんなうちに住んでいたのでしょう。
おそらく畳の部屋の、典型的な日本家屋ではないかと思います。
投げ捨てた短刀が火花を上げカランカランと鳴るような床のあるような作りではないでしょう。
さらに、そこが玄関のたたきでもない限り、投げ捨てたとたん部屋の隅ではなく、
タンスかちゃぶ台にそれは当たるのが普通ではないかとも思うのですが、いかがでしょうか。
帰ってきた坂井三郎ではなく、ハツヨの「戦争はもうごめん」という言葉で終わるあたりが、
所詮?世界基準の好みに合わせて書かれた小説であると思います。
当時の日本人はいきなり「戦争が終わってよかった」というよりはただ呆然としていた、
というのが大半のところではなかったでしょうか。
勿論誰もが同じ考えであったわけではないでしょうが、この無難な結論が、
終戦に対するが日本人の総意であったかのような「お手盛り的」なエンディングには、
若干割り切れぬ思いが残ります。
それはともかく、いきなりですが、この一説をお読み下さい。
軽快に鳴りだしたピアノの音は明るく美しかった。
しかし、すぐに西澤はあることに気づいてはっ!とした。
「あの曲だ!あの曲と同じ曲だ!」
廣義がが小学校の講堂でたまたま耳にした、あの美しい先生が弾いていた
美しい音楽に間違いなかった。
なんという偶然だろう。
玉を転がすように、音階が重なって、昇っていっては降りてきて、また昇っていく。
まるで真珠のネックレスのようだ。
武田信行著「最強撃墜王 零戦トップエース西澤廣義の生涯」の一説です。
この「最強撃墜王」が聴いたこの曲、いったい何だと思います?
モーツァルトのピアノソナタ、ハ長調、K.545。
この曲ではないでしょうか。
わたしはこの曲を小学校三年の時発表会で弾いた記憶があります。
軽やかな音階の上下が印象的な、誰もが知るこの名曲を、おそらく作者は、
西澤廣義の物語の彩りとして採用したのでしょう。
実際に西澤の心を寄せた女性が本当にこの曲を弾いていたのか、ことに、
小学校の先生が本当にこの曲を弾いていたのかは、限りなく可能性の低い話です。
昭和9年当時、田舎の国民小学校にピアノがあって、
さらにそれでモーツァルトを弾くような女教師がいたかどうか、と言う意味で。
これは「最強撃墜王の恋」を、音楽という無条件に美しいもの―しかも女性が奏でる―
その対比によっていっそうその儚さを強調するための演出です。
この手法が、この「SAMURAI!」にも取り入れられています。
マーティン・ケイディンの創作には汎世界的な価値観がちりばめられ、
それ故に世界から受け入れられた、ということを何度か語ってきましたが、
ラストシーンで投げた短刀が床でカランカランと鳴る、という表現のように、
やはり所詮はアメリカ人、日本と日本人について全く分かっとらんじゃないか、
と思うシーンはそれ以上にあったりするわけです。
坂井の叔父がピアノを自宅に持つほど裕福であったかどうかはともかく、
たとえば二人の披露宴シーンで、
ハツヨが弾くピアノに
坂井の部隊の隊員が即興で楽器を合わせてセッション三昧、
というようなことは、
戦時下のこの日本ではありえなかったという気もします。
しかし、登場人物に音楽を絡ませ、それを演奏する、あるいはこれを聴く、といった
表現の中に心情を込める、といういわばありふれた手法は、だからこそ効果的で、
作者が創作に当たって、つい手を出してしまってもこれは仕方が無いことかもしれません。
さて、坂井がハツヨのピアノを最初に聴いたとき、彼女はまだピアノを習い始めて三年目でした。
しかしそのとき彼女が弾いた
「モーツァルトのソナタ、緩徐楽章」は、
わたしには十分美しかった。
さて、この曲は何でしょうか。
ハツヨさんの進度はかなり早かったようです。
習い始めて三年くらいでは、せいぜいソナチネというのが一般的ですから。
ただし、撃墜王西澤が感激した、同じピアノソナタの二楽章であれば、
おそらく三年目の初心者でもでも弾くことはできると思われます。
モーツアルト ピアノソナタハ長調 K.545第二楽章
さて、皆で食事をし、花火をした夜、坂井がハツヨさんに
「モーツァルトを弾いてよ」
と頼みます。
返事の代わりに黙ってピアノに向かったハツヨ。
彼はそのとき千マイル離れた太平洋で行われている戦争について考えます。
目を閉じると、滑走路でタキシングする戦闘機や爆撃機から出るちかちかした排気、
ほこりや小石が後から舞い上がるのが見えた。
それは力を「クレッシェンド」しながら離陸し、夜のしじまに消えていき、
そうしてその多くが戻らなかった。
わたしはこうやって東京の郊外で息子のように愛してくれる人々の、
心づくしのもてなしを受け、胃の腑を暖かいごちそうで満たしている。
しかしあそこでは彼らは死んでいく。奇妙な世界だ。
音楽は止まった。
ハツヨはしばらくピアノの前に座ったまま奇妙な表情でこちらを見た。
その目はもの問いたげに開かれ、柔らかな声音でこういった。
「三郎さん、わたし、あなたのために弾いてあげたい曲があるの。
良く聴いて頂戴。
この曲にはわたしの言えない言葉が込められているのよ」
音楽はピアノを転がり落ち、次いで静かに持ち上げられて部屋を漂い、
かと思えばつぶされたり、舞い上がったりした。
わたしは彼女を見た。よく知っている少女だ。
しかしわたしは彼女のことを全く知らなかった。
こんなハツヨを今まで一度も見たことがなかった。
で、彼女が自分のことを愛している、と坂井は気づくわけですが、
では、この曲は何だったのでしょうか?
この答えは、坂井さんが自ら後ほど、敵機に立ち向かう寸前、
このように明かしてくれています。
私は頭を振り、頭から霧を振り払った。
音楽だ!聴くんだ!
ピアノ・・・ムーンライト・ソナタ・・・・ハツヨが私のために弾いた・・・
「ハツヨ、愛している!」
私が今まで言ったことのない言葉。
私は泣いた。
誰も知ることはない。
私たった一人だ。
そこには硫黄島と果てのない海があるばかりだった。
正解は月光ソナタ。
モーツァルトを多用していたこの「戦記物における音楽」界ですが、
ここに来ていきなりベートーヴェンが出てきました。
しかし、
転がり落ち、次いで静かに持ち上げられて部屋を漂い、
かと思えばつぶされたり、舞い上がったり
この部分に相当するのは、有名な一楽章
ではなく、どうやら三楽章ではないかと思われます。
しかし、この三楽章より、もっとこの表現に近い曲があるとエリス中尉は思います。
ベートーヴェンの、ピアノソナタ、「悲愴」の第一楽章。
もしかしたら、こちらの曲をケイディンは「ムーンライトソナタ」だと勘違いしていたのか、
ふとそのように思ってしまいます。
有名な二楽章と共にお楽しみ下さい。
いろいろと文章からそこに流れる音楽を推察してみましたが、
文章から曲を想起し、それがどのように使用されているのか推測するのは、
なかなか味のある本の楽しみ方かもしれません。
皆様もよろしかったらどうぞ。
というわけで「大空のSAMURAI!」シリーズ、これをもって終了です。
お付き合いいただきありがとうございました。
オークランド航空博物館〜ドゥーリトル・ルームのルフトバッフェ
「ドゥーリトル」という名前の道がある、このオークランド航空博物館周辺。
アメリカ人にとってドゥーリトルはあの大戦での英雄である、ということを
前エントリでお話ししたわけですが、一体なぜこの人物がそれほど神格化されているのか。
それは何と言っても、緒戦敗退続きだったアメリカが巻き返しのために
中国本土から日本の本土を攻撃する「ドゥーリットル空襲」の指揮官であったからでしょう。
ここオークランド航空博物館には「ドゥーリトルルーム」がありました。
ジェームス・H・ドゥーリトル准将の偉業を讃えるコーナーです。
ここオークランドには名門大学UCバークレーがありますが、ドゥーリトルはここの卒業生。
MIT、マサチューセッツ工科大学で航空工学の博士号を取っていますから、
優秀な人物であったことには間違いないでしょう。
左はベルリン空爆を指揮したヘンリー・マムフォード少佐。
第二次大戦の空爆ブラザーズですね。
ところで。
日本ではとかく後半の旗色の悪くなってからの戦況だけが日米戦だと思われがちですが、
実は真珠湾に続きしばらくの間、日本は実は勝っていたのです。
伊潜を使った西海岸への本土空襲は、今まで自国を空襲されたことのないアメリカ政府と
国民にとって衝撃でした。
そこで、国民の士気を高め、流れを変えるための象徴的な「一発逆転」が必要になった政府は、
日本の本土、しかも首都東京を航空隊によって空爆することを計画します。
この計画は、空母から艦載機で東京を空襲し、その後は中国大陸まで逃げてくる、
という、非常に無茶な作戦でした。
これは成功すれば勿論その勇気を称え、たとえ失敗してもその犠牲を元に、
敵国への憎しみを煽り国民に闘争心を掻き立てることができる、
いわば「スケープゴート」のような作戦だったとわたしは思っています。
U.S.S ホーネット
1942年4月18日、
ジミー・ドゥーリトル少佐率いる80名の乗員を乗せた16機の陸軍機B‐25は
ここから飛び立った。
最初に成功した東京爆撃である。
先日アラメダの「ホーネット」を見学してきましたが、このアラメダは
偶然ですがドゥーリトルの出生地です。
ところでこのホーネットはドゥーリトル隊を輸送したということばかり語られますが、
どうもその後日本の手で沈められたということがほとんどクローズアップされません。
まあ、「ドゥーリトルの偉業を語るコーナー」なのでそれも致し方ありませんが、
そもそもアラメダに停泊している「8代目ホーネット」でも、7代目の最後については
ほとんど展示物では触れられていません。
アメリカ人は沈没したフネそのものをアツく語ったりはしないみたいです。
むしろ、あまり面白くないので必要でなければ触れずにおこうという感じ。
日本人が「大和」を伝説にし、神格化しているとすら思われるほどの
畏敬の念をもって今日も彼女のことを語り続けているのとはだいぶ違いますね。
冒頭写真は、由来はわかりませんが、ホーネットの模型の上の意味ありげな旭日旗。
どうやらこれを以て「ホーネットは海軍に轟沈された」と言いたいのか・・・。
しかしアメリカ人には全くわかっていないようですが、
これは海軍旗ではありません(爆)
写真とドゥーリトルを扱ったテレビ番組のお知らせ。
左はそのものズバリ、「ドゥーリトル空襲」。
右は映画にもなった「東京上空30分前」。
そういえばあの映画で片足?だか両足を失って帰った主人公は
ローソン大尉といいましたっけね。
あれは生存者の書いた本をもとに作られていたのか。
道理で大甘だと思った(笑)
昔「東京上空30秒前」の映画の感想をこのブログでお話したことがあります。
なにしろこの作戦、中華民国の国民革命軍の支援を受けましたから 、
露骨に中国人を称えあげ「それに比べて日本人は」といった調子の描写が続き、
戦争している当の相手である日本の印象を貶めるために、あえてこういう
対比するかのごとくあてつけがましい表現がされ、
われわれ日本人にとっては当然のことながら非常に不愉快な内容となっています。
アイラ・C・エーカー中将。
B-17編隊を率いてドイツ占領下にあったフランス・ルーアン爆撃を指揮しました。
ドイツ軍とルーアン市民にとっては日本人にとってのドゥーリトルのような軍人だと見た。
A-T6テキサン・トレーナー 。
おそらく隊員の持ち物。
映画でおなじみ陸軍の軍帽。
どういうわけかアメリカ軍人は軍帽を斜めにかぶりますね。
上のエーカー中将(退役後大将)くらいになるときっちりとまっすぐですが、
若い将校は間違いなく斜め被りです。
ああいう「はずし」「くずし」がアメリカの若者にはオシャレとか粋だったんですね。
わが日本軍においても、若者はそれなりに「いいかっこう」をしたがりますから、
たとえば軍帽のひさしを一生懸命山形にしたり、つぶしたりして、
決められたルールの中でも少しでも着崩してできるだけベテランに見せていました。
わたしは日本人であるせいか、やはり軍服はきっちり厳正に、が美しいと思ってしまうので、
軍帽を斜めにかぶっているアメリカ軍人を見ると
「真っ直ぐに被れ!真っ直ぐに!」
と言いたくなります。
帽子の前の小冊子は「スコアブック」。
ライフル(M1903とM1、そしてブローニング自動小銃M1918A2)の成績表です。
航空機種類の早覚え表。
窓のところには
翼の位置・・・・・・・・・・ミッドウィング
エンジンの数・・・・・・・2
翼の形・・・・・・・・・・・・後退翼、テーパード(だんだん狭くなる)丸型
ランディングギア・・・・引き込み式(retractable)
尾翼と方向舵・・・・・・方向舵2つ
機種のタイプ・・・・・・・ロングノーズ、テーパード
という情報がシルエットの下に書かれています。
おそらく、裏には正解が出てくる仕組みではないでしょうか。
ところで、この情報とシルエットで機種がわかる方は・・・・
まさかいませんよね?(挑戦的)
同じ敵として戦っていても日本軍の資料がほとんどないのにもかかわらず、
この充実したドイツ空軍関係の資料のコーナーを見よ。
なーにが「ざ・ルフトバッフェ(マーク)」だよっ。(笑)
まあ、ドゥーリトルは東京空襲の後二階級特進し、准将に昇進した後、
北アフリカ戦線の司令官に任ぜられていますから、もちろん関係はあるんですがね。
何の説明かと思ったら
「ドイツ空軍の士官の長上着である。
ブルーのウールは秋冬に使用された。
赤いパッチは階級と所属を表す。
左胸ポケットののバッジは鉄十字章、
シルバーのバッジ(パープルハートのような)、
対空砲撃部隊の印である。
右胸の鉤十字が金色なのは戦闘での功績があったことを表す」
だそうです。
やはりアメリカ人、ナチスの制服って実は美しいと思ってます?
ドイツ空軍の軍帽鉄兜。
いちばん右、黄色いパイピングにも意味があるそうですが、
ちょうどガラスが光ってしまって、字が読めません。
ドイツ軍機。
どこかのブログで、プラモデルが趣味という方がここを訪れてその感想にいわく
「作りが雑だ」
どこで調べたのか、作っているのが退役した軍人さんで、趣味にしているらしい、
という話まで書いておられました。
素人のわたしにはこのモデルのどこがいけないのかあまりわかりません。
まあ、ときどき飛行機、傾いていたりするのは気づきましたが。
低速時のエンジン推進力が弱い、コクピットから着陸の際地面が見えない、
燃費が悪く旋回が機敏にできないのでドッグファイトに引き込まれると墜とされる。
そんな欠点満載にもかかわらず操縦するパイロットによっては最大限の武器となった
メッサーシュミットMe 262。
ミグ15について書いた時に、この機体の研究がミグに生かされた、という話をしましたが、
このことと、当初のベテラン搭乗員で十分に能力を引き出すことができたこの機体も大戦末期に
未熟なパイロットが乗って多くの命が失われたことなどと読むと、位置づけとしては
Me262はドイツ軍にとっての零式艦上戦闘機のようなものではないか
とふと思いました。
「空の騎士を名乗っていたドイツ空軍のパイロットはフリーガーブルーズと言い、
グレイの布を裏あてにしたシャープな皮ブルゾンを着用していた」
ドゥーリトルルームなのに気合を入れてドイツ軍ファッションの解説をする
オークランド航空博物館。
あんたらやっぱりドイツ軍の軍服に対して(略)
「襟章はなく、肩に航空隊所属搭乗員の黄色い認識章がある。
この星は「Oberleutnant」(中尉)である。
ドイツ軍では事情の許す限りネクタイを着用することが個人に要求された」
ほう、この辺がアメリカ軍の士官に求められたのと同じであると。
日本海軍だって第三種ではネクタイ着用だったんだぞ。
張り合ってどうするって話ですが。
この小説は、
「インゲ・ベルガーの救難飛行報告書」
ではないかと、大学時代3か月だけドイツ語をやったエリス中尉が翻訳してみる。
ドイツ空軍の若き女性を主人公にした、当時のラノベではないかと思われます。
違っていたらすみません。
そして若き士官が母親の肩に手を置いている写真。
川のほとりの家は自分の生家でしょうか。
このようなものを空軍のパイロットは携えていた、ということです。
なんかね。
こういうのを見ても、戦争中在米ドイツ人には日系人のようにゲットーに入れたりされず、
さらにはドイツに原爆を落とすことは計画にもなかった、ということを見ても、
同じ白人種の国に対しては戦争をしても徹底的に相手に対する視線が違うんですよ。
一次大戦の時のように「敵ながらあっぱれ」的なスポーツのような、
敵として戦っても「殲滅」は思いもよらない、という「情け」が見えるというかね。
つまり有色人種として白人種にたてついた最初の人種である日本人は
こういった白色人種至上のそれまでの世界秩序を打ち壊したってことなんですよ。
そういうことを言うと「右翼」なんていう人もいるみたいですけど、これ事実でしょ。
アジアの多くの国が日本のそういう立ち位置を認めてくれているのに、
世界で最もそれを理解していない国が、日本を含む極東4か国だと思います。
異論は認めません。
というわけで、ドゥーリトルルームなのになぜかルフトバッフェのことばかり、
で始まってしまいましたが、この項後半に続きます。
オークランド航空博物館〜ドゥーリトル・ルーム「我が敵ドイツ」
オークランド航空博物館の「ドゥーリトル・ルーム」について、続きです。
せっかくですからドゥーリトル空襲について少し補足しておきますと、
空母ホーネットから
横須賀・・・・・・7機、
東京・・・・・・・・3機
横浜・・・・・・・・3機
名古屋・・・・・・2機
神戸・・・・・・・・1機
計16機が爆撃に飛来しました。
このうち1機を除く15機が曲がりなりにも空襲に成功。
その1機は、陸軍の要撃機に多数取り囲まれ、爆弾を捨てて離脱しました。
この時の日本の被害はというと。
死者87名、重軽傷者466名、家屋消失262戸。
ドゥーリトル隊長機は陸軍造兵廠を目標にするも、攻撃場所を間違えて一般人を2名死亡させ、
学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認し、
日本機だと勘違いして手を振った小学生に掃射を加えたり、あるいは
陸軍施設を狙ったつもりが隣の?病院に爆撃してしまった機もあります。
このことから日本側はこの攻撃を「悪逆非道の振る舞い」とし、中国大陸に逃げたものの
間違えて日本軍基地に降下してしまった機の搭乗員のうち三名は
「国際法違反」として処刑し、残りのメンバーは捕虜として収監しますが、彼らは獄死します。
しかし彼らを庇うわけではありませんが、民間人とわかって意図的に攻撃した機は16機のうち
16番機の一機だけであったようです。
生まれて初めて戦闘行動で上空を飛ぶ異国の、どれが軍事施設でどれが学校なのか、
はっきりいってテンパっている彼らにはわかりかねたのかもしれません。
このときに間違えて日本軍基地に降下し、捕虜になった爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーは
1945年8月20日に解放されたあとキリスト教の伝道者となり、来日して布教活動を行っています。
真珠湾攻撃の飛行隊総隊長を務めた淵田美津雄中佐が、戦後キリスト教伝道者となったのは、
ディシェイザーの冊子を読んで、キリスト教に興味を持ったからだと淵田本人がその著書で述べています。
ここに展示してあるので「む、これで東京空襲を行ったのか?」
と思ったのですが、惜しいところで違いました。
これはB‐24、コンソリデーテッドのリベレーター。
後ろにあるのはパイロット用の無線マニュアルです。
光ってしまってちゃんと写っていませんが、左上はP‐51搭載の
マーリン・エンジンのなぜかバルブだけ。
で。それが何か、って感じの展示ですね。
すっかり退役軍人の趣味のプラモ発表の場となっているここドゥーリトル・ルームです。
飛行機が傾いているじゃないか!と思ったら、これは
「P‐47がクラッシュ・ランディングしたの図」
ほう、それで地面がえぐれてプロペラがねじ曲がっていると。
力作ですな。
このB‐17フライングフォートレスもクラッシュランディングして翼が曲がったんですねわかります。
・・・・・え?塗装の途中だって?
向こうにあるのは、ラッパの先です。(嘘)
P‐38ライトニング。
日本軍の搭乗員からは「ぺロハチ」とか「メザシ」とか呼ばれていました。
ぺロハチは、「3」を「ろ」と読んで、また最初のころは海軍航空隊にとって
「ペロッと食える」というところからつけられたようです。
B‐26マローダーによる1944年3月3日のローマ空襲の様子。
この爆撃について調べましたがインターネットでは何もわかりませんでした。
しかし、この空襲でもたくさんのローマに住む民間人が亡くなり、たくさんの民間家屋が
爆撃によって焼失倒壊したんですねわかります。
つまりここはドゥーリトルに限らず、アメリカが行った空爆の功績を称えるコーナーであると。
この一連の展示からそのように理解しました。
左上から
「ミッション・ブリーフィング」
「爆弾投棄用地」
「爆弾の積み込み」
「B‐24のターゲットに向けたフォーメーション」
左下から
「軍医とフライトメディックが負傷者救護のために待機」
「負傷した搭乗員が搬送される」
「敵機の20ミリ砲による被害」
「赤十字の看護婦が負傷者の手当てをする」
む、この、「20ミリ」とはまさしく零式戦闘機の弾痕?
ちょっとこの写真だけアップにしてみましょうか。
弾痕ではなく、破裂している感じですね。
20ミリは破孔が大きいので、いったん当たるとこのようになってしまうのです。
機体の下方にも弾痕があることから(こちらは小さい)、この機は
空中戦で零戦と会敵してこれだけ銃弾を受けたものと思われますが、
はたして搭乗員は無事だったのでしょうか。
ところで、前回エントリでも少し言ってみましたが、全体的にここはドイツ軍については
やたら細かくいろいろと資料を用意して説明するくせに、当初結構な脅威であったはずの
日本機については全く触れようとしないんですよ。
全く、ここの展示だけ見ていたら、あんたらいったいどこと戦争してたの?
と思わず聞きたくなるくらい見事に「スルー」なんですよ。
この弾痕の残る機体もどこにやられたとか全く書いていないんですが、
このスルーっぷりを見る限り、もしかしたらこれはフォッケウルフにやられた痕だったのかも。
まあ、戦争ですから相手のことまで言い出したら展示にもきりがないとは思いますが、
少なくともドイツ空軍くらいの扱いはあってもいいんじゃなーい?
ドゥーリトル中将からブロンズ・スター・メダルを受ける、
メアリー・ディクソン中佐。
この名前を検索してみましたが全く見つかりませんでした。
ブロンズスターとはアメリカの戦功章で、
「英雄的あるいは価値のある功績をあげたもの」
に対して与えられる勲章です。
メアリー・ディクソン中佐、すべての写真に登場しています。
真中はエリザベス女王をアテンドしているのがディクソン中佐。
どんな戦功を立てたのかはわかりませんが、たまたまそれが美人だったので
当時は陸軍の「顔」としてもてはやされていたようですね。
しかし、今日ではアメリカのインターネットサイトでも全く名前が上がらないという・・・。
アイゼンハワー・ジャケット、というやつですね。
陸軍戦闘服で、アイゼンハワーが着用したことからこの名が付きました。
しかし、これを日本語で画像検索すると、比較的、というかかなりもっさりした、
着こなしと着る人によっては。平日の昼間に馬券売り場にいるよな人種に見えてしまう、
非常に危険なデザインのジャケットが出てきました。
いわゆる「アイゼンハワージャケット」と、日本でそういわれているところの「ジャンパー」
にはずいぶんデザイン的に違いがあるような気がするのですが・・・。
P-38 設計図。
関係ないですが、わたしが所蔵している戦艦大和の設計図もこのように黒地に白抜きです。
もともと白地だったのを、印刷の時に逆にしていただいたのです。
この大和設計図、額装して部屋に飾るつもりだったのですが、あまりにも巨大で、
しかも俯瞰と側面の二枚があり、それを飾ろうと思ったら廊下の壁をくりぬかないといけない、
というくらいなので、いつかこれを飾る豪邸を建てたときのために大事に保存してあります。
双眼鏡は第二次大戦と朝鮮戦争でも使われたものだそうです。
奥にあるのが六分儀。
手前の帽子は、航空兵のキャップ。
BOMBS AWAYとあります。
といえば「爆弾投下」だと思うのですが・・・・。
この黒い部分には
「希釈型酸素調節器」
と書いてあります。
これが何をするものかはこれだけではわかりませんでした。
増槽ですが、グラファイト(黒鉛)がしみこませてあるので塗装しないように、
と表面に書いてあります。
グラファイトは燃料パッキンに使われるくらいですから、もしかしたら
引火性を抑えた仕様なのかもしれません。
右は無線のダイヤルセッティングの数値表。
ダイアルと周波数の早見表のようです。
ノルデン爆撃照準器。
映画「メンフィス・ベル」で、雲間から見える軍需工場をこれで覗きながら
「That's it! That's it!」(あれだ!あれだ!)
とヴァルという名の爆撃手がつぶやくシーンがありました。
これは陸軍航空隊(USAAF)にて採用されていた当時の最高機密で、
爆撃機のの搭乗員が正確に爆弾を投下するために補助する照準器です。
本土を空襲したB‐29や広島、長崎に原子爆弾をを投下した「エノラ・ゲイ」「ボックスカー」には
もれなくこれが取り付けられていました。
爆撃照準器が無いそれ以前の高高度爆撃の目標物の破壊率はとても低く、
簡易爆撃照準器もまた同じだったのですが、問題のドゥーリトル隊の機には、
当初つける予定だったのが直前にはずされて簡易照準器に変えられてしまったそうです。
そうか・・・・それで、目標を外しまくったのか・・・・あいつらは。(嫌味)
それはともかくその理由とは、万が一同隊の飛行機が撃墜されたときに
この照準器が敵の手に渡ることを懸念したから、だったそうで・・・・・
うーん・・・。
これってさ。
つまり、わたしがかねがね言っているように、ドゥーリトル隊ってやっぱり、
あまり生還の見込みはないと見られていた
ってことでOK?
やっぱり「スケープゴート」だったのよね。
まあ、成果はともかく生きて帰ってきて一躍ヒーロー扱い、ご本人たちも
アメリカのために命を賭して任務を果たし自分を誇りに思ってるわけで、
誰もこの構図に疑問を感じていなかったからには、今更何をか言わんやですが。
それはともかく、このノルデン照準器。
機密を守るために、隊員は必ず秘密の守秘を宣誓させられ、さらには
いざという時に破壊するための特別の武器を持たされていましたし、
これを持って移動するときには、ご丁寧にもカギ付きの箱に入れ銃を携帯したそうです。
君ら、誰を相手に戦ってると思ってる?
この厳重な警戒にも関わらず、しっかり日本軍はB-25から現物回収し、同じものを作っていました。
全く同じ試作品も、昭和19年の2月には完成していたといいます。
さすがはコピーと改良にかけては世界一の国民、日本人。
だがしかし、技術はあってもお金がない、この悲しい事情のため、
量産できず、そうこうするうちに戦争は終わってしまいました。
とほほほ。
火を噴くMe262のコクピットからは搭乗員が脱出しようとしています。
横に貼られた絵の解説の写真を撮り忘れたので、詳細はわかりませんが、
有名な空戦だったのでしょうか。
そして、今回はどうしてもこのような考えに至ってしまうのですが、この脱出したドイツ人に対し、
この米軍機は機銃掃射などは加えなかったのではないだろうか、と、
何の根拠もなく思ってしまいました。
広島と長崎に二種類の原子爆弾を落とすことをためらわなかったアメリカが、
同じ対戦相手のドイツとイタリアにそれをすることを全く考えなかった、その同じ理由から。