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映画「海と毒薬」と九大「生体解剖」事件

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1987年作品です。
デイブ・スペクター氏が深夜再放送されていたこの映画を観て、何かに
「日本はお金が無いときの方がいい映画を作っていたみたいだ」
書いているのを読んで、思わず
「渡辺謙と奥田瑛二もわからんのかこの埼玉県出身のアメリカ人はっ!」
と突っ込んでしまったわけですが、デイブ・スペクターは、この映画を戦後すぐの白黒作品だと
思い込んでしまい、日本人俳優を見分けられなかったのかもしれません。
お金がないどころか日本がバブル経済に突入したころにこの映画は製作されたわけですが。


手術シーンにはスタッフの献血によって集められた血を実際に使い、
それだけではなく心マッサージのシーンに、保険所から譲り受けた屠殺予定の犬を使い、
それがため、動物愛護団体その他から抗議が殺到したというこの映画。
アメリカであの写実医療ドラマ「ER」が撮られる前に、医療シーンの映像リアリズムにおいて
この映画はすでに世界の先端をを行っていたわけですが、
つまりそのシーンがあるために、カラー映像の生々しさを避けたのかとも思われます。

原作は遠藤周作の「海と毒薬」。

ある男が自然気胸の治療のため寂れた医院を訪れる。
腕はいいが、なぜか虚無的な医師の様子に、男は興味を持つ。
ある日、男は、医師が街の紳士服店のウィンドウの前に佇んでいるのを見かける。

医師が凝視していたのは、外国人男性を模した、マネキンだった・・・・。


こんな出だしで始まる小説は、大戦中、本土を攻撃し撃墜されたB29の搭乗員が、
九州大学の医学部において「生体解剖」された、という実際の事件をモチーフにしています。

東京裁判についての本を読んでいると
「巣鴨にはこの生体解剖の手術に立ち会った看護婦が、唯一の女性戦犯として収監されており、
戦犯たちは興味しんしんで、中には塀越しにからかう者もあった」
などという記述があったりして、派生的にこの事件に興味を持ちました。
上坂冬子の「生体解剖 九州大学医学部事件」を読んだのも、この流れです。

勿論、この映画は文学作品がベースになっていますから、ノンフィクション的な手術の経過や
軍と大学の間にどのようなやり取りがあったかについては触れられません。

医学部の学生であった二人の青年が、この事件となる実験に立ち会い、戦後、戦犯容疑で
GHQの取調官から尋問を受ける過程で、生と死、そして罪と罰について考える、
その煩悶のさまがストーリーの焦点となっている文学作品です。

今や世界のナイス・ガイ、ケン・ワタナベも、このころは神経質そうな優男。
奥田瑛二は、本人いわく
「遅れてきた新人といわれ、当時、女の子にキャーキャー言われていた僕の、
俳優としての転換点ともなる作品だった」
つまり、かれが今日第一線の俳優として活躍している原点がここにあったと。
たしかにここでの奥田は、さらさらの長髪をしょっちゅうかきあげて悩ましげに海を見たりする、
いかにも女の子受けしそうな甘いマスクの二枚目ですが、
この立場に慢心しなかったのが、この人の賢明さではなかったでしょうか。

因みにわたしは、俳優、奥田瑛二のファンです。


この事件が世間の耳目を集めたのは、「生体解剖」という言葉の衝撃的な響きでしょう。
文字通りそれを解釈すれば
「人体を、その生命がまだあるうちに、つまり生きながら解剖した」
という、猟奇事件のようなまがまがしさを感じさせます。

世間には「生体解剖事件」として知られ、上坂氏の著書のタイトルにもなっているのですが、
事件当時、医学生として九大におり、手術を目撃していたためGHQの尋問を受けたという、
医師で作家の東野利夫氏は、
「汚名 九大生体解剖事件の真相」
という著書で、その「生体解剖」という言葉そのものに真っ向から異論を唱えています。

無差別攻撃を行い、軍事裁判にかければ死刑になるのが確実、とされたB29の搭乗員
6人の捕虜は、陸軍の命を受けて九大に送られ、実験的治療を施されて死亡に至った。

これが事件の概要です。
つまり、実際に行われたのは「生体解剖」(ヴィヴァセクション)ではなく「人体実験」です。
実際には研究途中であった代用血液としての海水の注入、肺の切除、心臓を停止させるなどの
「生還の不可能と思われる治療」がなされ、被験者は全員死亡したわけですが、
生身を切り刻んで「生体」解剖をした、という事実は全くありません。

東野氏は事の真相そのものを遥かに凌駕する誹謗や、はては「捕虜の肝臓を食った」などという
冤罪を投げかけられ、戦後の長きにわたって着せられた彼らの「汚名」を濯ぐために
この本を書いた、とその前書きで語っています。


この件は「BC級戦犯裁判」でその罪が問われました。
つまり、裁いたのは戦勝国側です。
アメリカ人の捕虜が軍事裁判を受けずに実験的手術の末死亡した。
東京裁判そのものが「戦勝国側の報復」であったという定義の上で語れば、
この件は「報復に値する犯罪」でしょう。
しかしながら、その東京裁判の定義そのものに果たして「正義」はあったのか。

死亡した搭乗員たちが、その前に本土爆撃を何度も行い、
無辜の市民がそれによって何万人も死亡していたという事実をどう考えるのか。

正式な裁判を経ずに殺したのが犯罪なのだとしたら、裁判どころか、無抵抗の日本兵を
捕虜にもせずその場で殺戮した連合国の兵士の行為はどうなのか。

米軍飛行士たちの死体を、臓器の収集のために解剖したということが犯罪なのならば、
沖縄で日本人の頭部を切断し、釜でゆでて骸骨を作成し、「記念」として自分の恋人に送った
アメリカ兵たちの行為はなぜ人道的な犯罪として問われないのか。

同じ戦争を戦ったのですから、叩けば埃の出るのは自分たちも同じなのです。

そこでアメリカと言う国が日本の戦争行為を糾弾するときの常套手段ですが、
自分たちの戦争犯罪を僅少なものにし日本のそれの方が悪質であったと主張するために、
事件に色をつけたり、数を捏造したり、という脚色を行うわけです。

この事件におけるそれが
「被告たちは捕虜の肝臓を料理し、それを宴会で食べた」というものでした。

この手術に携わった大森卓という陸軍の見習軍医が、捕虜の血を持って帰り、
「シラミ退治の薬に混ぜる」と言ったこと、そして遺体からなぜか肝臓を切り取って持ち帰ったこと。
大森軍医はその後無差別爆撃によって死亡するのですが、この行為からGHQが
「偕行社病院での宴会で皆が肝臓を食った」
という仮定を導き出し、尋問においてそれが厳しく各被告に問われたのです。

この検事の論告は「生体解剖」そして「人体嗜食」という、まるで猟奇事件のようなイメージを
マスコミに報道させることになり、案の定世間はこの誘導にまんまと引っ掛かります。

「悪魔の科学者」

これは、この事件で裁かれた人々に向けられたものではありません。
松本サリン事件直後、確証もなくマスコミが一個人を犯人だと決めつけていた頃に
あるスポーツ紙の見出しになったアオリです。
ムードと状況で結論ありきの決めつけをするマスゴミのセンセーショナルな報道によって、
一つの事件は時として推定有罪となることがありますが、この事件がまさにそうでした。

独立国となった平成の世においてもそうなのですから、進駐軍占領下のジャーナリズムに
この件を公平かつ冷静な「裁判」として報じることなど全く不可能であったでしょう。
果たせるかな、占領軍が、自国の犯罪の数々は棚に上げて捏造したとも言えるこの食肉事件を、
その占領軍の意を受けた当時のマスコミは大げさにリードしヒステリックに言い立てたのです。

この件で最初容疑をかけられた人々の供述書には、
「二つの皿があり、一つはご飯、一つには野菜、そして人間の肝の入っている皿があった。
看護婦が人間の肝臓を回した。肝臓は薄く切って醤油で煮てあった」
などという、実に真に迫った描写ががなされています。

しかし、このGHQの尋問を受けた者の証言によると、このやり方とは、

「脅迫的な自白を強要され『人間の肝など食べさせられていたら吐き出していただろう』
と言ったことを、本当に食べたように調書を作成させられた」
「肝を食ったとしても大した罪にはならないが、偽証するともっと長い重労働の刑になる
といわれて家族のことを考え口述書に署名した」
「肉体的脅迫の結果、精神的苦痛に耐えかねて虚偽のことを述べた。
後から撤回しようとしても聞き入れられなかった」

精神的な拷問による自白の強要の末、その証言を都合良くつなぎ合わせて調書を作成し、
それに強制的にサインさせる、というものでした。

この訴えは弁護人によって裁判に提出され、結局食肉事件の容疑者は全員無罪となったのです。
連合国による裁判がちゃんと法に則って機能していた、というのが唯一の救いといえます。

しかし、センセーショナルに騒ぎたてられ、世間に刷り込まれた猟奇事件としてのイメージは
いつまでも消えることなく、関係者はその残りの人生を懊悩と煩悶のうちにすごし、
人目を避け世間から身を隠すように生きなくてはいけませんでした。



この映画は、大学病院内の権力闘争を絡ませ、地位と今後の権力掌握を狙う教授が、
重要なオペに失敗した失点を挽回するために軍の要請を受ける、という設定になっています。
ここで大学関係者の関心は権力闘争の一点にしかありません。
食肉に関しては陸軍の野卑な軍人たちが冗談で
「肝を食ってみようかい」
と手術前に笑ったのを、まるであてこするように、医学生の渡辺謙が膿盆に乗せた肝臓を
「ご所望のものです」
と彼らの前に差し出し、軍人たちは鼻白む、という表現がされていました。


元をたどれば、この「生体解剖事件」は、陸軍軍令部の某が
「どうせ有罪で銃殺刑になる予定の捕虜たちだから、それなら、
戦時下に必要とされる研究の実験台にすれば、一挙両得、
捕虜にとっても銃殺されるより安楽な死に方ではないか」
と考えたことに端を発しています。

そうして陸軍がその話を大学病院に持ち込み、持ち込まれた医学者たちは
「どうせ処刑になるのだから」という言葉を免罪符にかねがねやりたかった人体実験を行い、
医学者なら普通にそうするように、遺体から標本のための臓器等を切除したのでした。

当時のジャーナリズムが猟奇的、野蛮、非人道的、残虐非道といった、
非道徳性の弾劾の側に立ってそれを報じた事件の裏には、しかしながら、
今日、どこをどう見ても個人的に裁かれなければいけないほどの悪人は存在しません。

この事件においては、確かに当初から科学者の良心が厳しく問われました。
しかし、裁く側のアメリカはさておいて、彼ら関係者が当時戦争の狂気のもとにあったことがまず、
糾弾するジャーナリズムの論旨から全く抜け落ちていたことを、我々は考慮するべきでしょう。

あの時代、あの切迫した状況で、
例えばあのB29の搭乗員の手によって日本人が毎日のように死んでいく中で
取捨選択の余地もなく、ただ目の前に突き付けられた出来事に対し、
それでも科学者としての良心そして倫理を堅持することは、果たして可能なのか。

そこにあるのは、ただ戦争の悲惨と、愚劣と、不条理。
そして、その不条理の中に在った者を、そこに無かった者が断罪することの虚しさに尽きましょう。

このB29の搭乗員に、たった一人生存者がいます。
そのマービン・ワトキンス氏(B29機長)に、東野利夫氏がインタビューをしています。
ワトキンス氏が語った最後の言葉は次のようなものでした。

「この事件の関係者の中で、まだ胸を痛めている方がおられたら伝えてください。
わたしは決してその方たちに悪い感情など持っていないということを。
死んでいった部下は可哀そうだったが、ナチスがやったような残虐な殺され方でなく、
麻酔をかけられて分からないようになって死んでいったのがせめてもの私の救いです」


虚無的な医学生戸田(渡辺)が、勝呂(奥田)が親身になって診ている学用患者の
「おばはん」について、こんなことを言います。

「おばはんが空襲で死んでもせいぜい那珂川に骨なげこまれるだけやろ?
けど、オペで殺されるんなら本当に医学の生き柱や。
おばはんもいずれは仰山の両肺空洞患者を救う道と思えば以て瞑すべしや」

「新しい実験するのに猿や犬ばかり使うてられへんよ。
そういう世界をもうちょいおまえも眺めてみいや」

ここで戸田の言う「どうせ死ぬ命なら、医学の礎として利用すべきである」という論理は、
ドストエフスキーが「罪と罰」で問うた強者の倫理とも言うべき合理主義です。

生命をその手で扱う医師が、ともすればそれを無機的に見ることは仕方の無いことかもしれません。
だからこそ医師とは、生命への畏れを人一倍持たずには携わるべきでない職業であるとも言えます。
しかしひとたび戦争のような異常な世界に置かれたとき、ただでさえ摩耗しがちなその良心を
それでも屹立することはやはり誰にとっても簡単なことではないでしょう。



ところで、この映画について調べてから、あることがずっと気になっています。
この映画の手術シーンで、保険所から譲り受けた犬が解剖された、という事実です。

映画の製作者は「どうせ保険所で殺処分される犬だから」という理由を言い訳にしたのでしょう。
「どうせ処刑される捕虜だから」
この事件の関係者たちの弁明と全く同じであることに、スタッフの何人が気づいたでしょうか。




空母ホーネット探訪〜「怒りのフューリー」

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航空機に興味を持ち出したのがここ三年で、おそらくこれを見ておられる方々の誰より
航空機の知識にかけては未熟者であるエリス中尉ですが、
アメリカでこうやって歴史的な飛行機を生で見ることができる、という強みだけはございます。

自衛隊機についてはとりあえず一通りは実際に観たかな、というところでアメリカに来て、
いちどきに大量の米軍機、自衛隊で運用されているもの以外もかなりの数見ることができました。

自衛隊機はほとんどがアメリカ製なので知っている機体も多かったのですが、
日本では決して見ることのできない、かつて日本軍と戦った航空機などを見ると
ひとしおならぬ感慨を持ちます。

いや、本当に平和っていいですね。

さて、USS「ホーネット」には、空母ですから各種艦載機が展示されています。



U.S.S. ホーネット CVS-12 航空隊

これらの航空機は、かつてそれらが製造されたような方法で復元されているが、
それはパイロットがそれらを飛ばし、整備士がそれらを整備し、
かれらクルーがひび一つないまでにしており、
並はずれて優秀な作業であったとしかとしか言いようがない。
それはかつての乗員が残したままである。
純粋にこれは尊敬に値し、これらを顕彰するものである。

って感じでしょうかね。ちょっとこの翻訳自信ないんですけど。
まあ、意味は間違ってないと思うので細かいところは見逃してください。

母艦乗りの日高盛康少佐が戦後残した手記では、自分が事故を免れたり
戦後まで生き残ったことを幾度となく

「天佑神助と整備員のおかげ」

と言い切っていましたが、飛行機乗りは自分の命を乗せて飛ぶ飛行機を
整備してくれる整備員に常に感謝し、畏敬せずにはいられないものです。

整備員が自分の整備した飛行機にかなしいまでに責任を感じるのは今も昔も同じで、
たとえばその機が整備不良で事故を起こしパイロットが死亡した場合には、
自殺してしまう者すらいるものだそうです。

T-33の入間での墜落事故の際も、射出高度が足りないのにもかかわらず
乗員の二人が最後にベイルアウトしたのは、整備員に気を遣ってのことだったのではないか、
(故障で射出できなかったからではないかと彼らが気に病むから)という話もあるくらいです。

この大きな垂れ幕は、ここに展示するための飛行機を整備したクルーを
改めてねぎらっているのですね。



UH-34 SEA HORSE

おにぎりのようなシェイプがかわいらしいシーホースですが、
ベトナム戦争時代に活躍した飛行機です。
シコルスキーのS-8のアメリカでの運用名の一つで、もともと
「チョクトー」という名前だとか。
チョクトーはチヌークやアパッチ、シャイアン、イロコイと同じく、
ネイティブアメリカンの部族の名前です。

「菅直人」が「カンチョクト」と呼ばれていたのを思い出してしまいましたわ。
どうでもいい話ですが。

アメリカ軍がネイティブ・アメリカンにまつわる単語を機種や部隊名にするのは
かつて殺戮した種族でもこのころは彼らもアメリカ国民として戦争に貢献しており
また、航空機産業の発祥の地がたまたまネイティブアメリカンの居住地に囲まれていた、
という経緯も若干は関係しているようです。

「ブラックホーク」というのも実は有名なソーク族の酋長の名前だそうです。




ホーネットにエントランスから入っていくと、そこはハンガーデッキです。
かつてのように航空機が並べられて展示してあります。

展示飛行機はレストアされたり増えたりしていつも同じではない、ということでした。



管制室には黄色い制服を着た乗員のマネキンがいます。

ホーネットでは乗員の持ち場に応じてユニフォームの色を変えていました。
赤、黄色、白、青、緑、茶色、紫で、黄色は「ハンドリング」つまり飛行機の誘導をする部門です。



これが全部ホーネットの搭載機?

あまりにも多くて驚いてしまうのですが、
左上から縦に(面倒なので愛称だけ)

ヘルダイバー、トムキャット、ドーントレス、ディバステイター、ミッチェル。

コルセア、ベアキャット、ヘルキャット、ヘルダイバー、アベンジャー、スカイレイダー。

スカイホーク、フューリー、バンシー、パンサー、サベージ。

トラッカー(E1B)、トラッカー(S2F)、シースプライト、シーキング、シーホース。

浜松の航空博物館などに比べると、実に素朴というか、プロにはない
この何とも言えない手作り感が微笑ましく感じます。
絵の得意な関係者がボランティアで描いたという感じですね。



米軍艦船のマークもこのように。
このドナルドダックはきっと軍需産業ウォルトディズニーの篤志でもらったデザインに違いない。
だからディズニー、てめーは(略)

レキシントンは、昔ボストンに住んでいた時に近かったので何度か立ち寄りました。
あ、レキシントンという町のことですね。
ここは独立戦争の時に大きな戦闘があったところなんですよ。
だからマークも、独立戦争時の兵士がモチーフでしょ?



いちばん右の「Bon Homme Richard」ですが、なぜかフランス語で、
「ボノム・リシャール」と読みます。
直訳すれば「善人リシャール」ですが、実は「お人よしのリシャール」ってとこですかね。

超余談ですが大学時代音楽学(そんなもんがあるんですよ音大というところは)の授業で
フランスの古典の民族的歌謡の講義を受けたんですね。
その時に教授が使った資料に確か
「うちの亭主はお人よし」(Mon mari es bon homme)という戯れ歌がありましてね。
もちろんフランス語の歌詞なんですが、最後に
「うちのニワトリが鳴いている、コキュ、コキュ、コキュ(COCUE)」という一文。

そこで教授、
「フランス語専攻している学生、手を挙げて・・・はい君COCUEとは何か」 
「知りません」
「それでは君」(エリス中尉に)

「はい、それは妻を寝取られた夫のことです!」(きっぱり)

ええ、高校時代にフランソワーズ・サガンをとりあえず全部読んだわたしですもの、こんなの即答ですわ。

教室は静まりかえり、ややあって教授、(この教授の専攻はドイツ語だった)

「・・・・・・・・・・・よう知っとる・・・・・・・・・・」 

知っていると思って聞いたんじゃないのかよ。
ともかくこの「ボノミ」にはどちらかというと「お人良し・間抜け」という揶揄が含まれています。


閑話休題。

モットーの「I Have Not Yet To Fight」、これは単にわたしの想像ですが、
「You ain't heard nothin' yet!」から来ているのではないかと思います。
つまり、「お楽しみはこれからだ」ならぬ、

「戦いはこれからだ!」

「Don't Tread  On Me」は「私を踏みつけるな」ですから、おそらく

「わたしをあんまり怒らせない方がいい」(AA省略)

でしょうか。
艦名はお人よしだが、なめてもらっちゃ困るぜ!みたいな言い訳感満載のシンボルです。




下段真ん中の「キアサージ」にご注目。

もともと「キアサージ」だったCV-12を、日本に沈められた「ホーネット」の名に変え、
その後新しく生まれたCVS33を「キアサージ」にした、という話をしましたが、
そのキアサージの観光地の看板風の艦章があります。

IN OMNIBUS PINNACULUM

この意味はよくわかりませんでしたが、艦の後ろに三つそびえる「ピーク」が、
オムニバス、つまり連なっていて「連山」ということだと勝手に理解しました。
キアサージとはカリフォルニアのシエラネバダ山脈にある山の名前なので、
このように連なっているのでしょう。


上真ん中のWASPもこのHORNETと同じく、ハチさんですね。
ワスプはスズメバチで、ホーネットもなぜかスズメバチです。

よく見ると、ハチが敵艦船を刺している。
ハチは一刺しするとその後死んでしまうんだけどそれはいいんだろうか。



US-2B TRACKER

2000年からこのホーネットに展示されているトラッカーです。

うーん・・翼のたたみ方が、雑だ(笑)

 

トラッカーは読んで字の通り「追跡者」。

しかし、この「無理やり機体をたたんでいる感」はすさまじいですね。

と思ったら案の定、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
搭乗員たちからは不満続出だったということです。



ん?お尻に見えている突起はMADブームかな?
これが伸びるんだろうか・・・・・・。

そういえば、ニコラス・ケイジの映画に「コンエアー」ってありましたけど、
あれ、囚人が飛行機で搬送中反乱を起こして、って話でしたよね。
「コンエアー」って、もしかしてこの機種の派生型「コンエアー」のことだったんだろうか。


それにしても、作業が途中のような雑然とした感じでしょう。
これは、しょっちゅうどれかの飛行機に手を入れてメンテナンスを続けているからなんですよ。


 

こちらもメンテ中でございます。
航空博物館といっても裏手に持っていくわけでに行かないので、展示スペースで
すべてをやってしまおうとすると、どうしてもこういうお見苦しいところを
見学者に見せてしまうことになるのですねわかります。

こういうのも興味のある人間にはありがたい眺めなので歓迎ですが、
日本の施設ならもう少しこぎれいにして展示すると思うんですけどね。
いずれにしてもアメリカ人というのは良くも悪くも雑駁な国民性であるなあと思います。

このコブラさん、鼻の下にバンソウコウを貼っています。
あれ?もしかして、ローターありませんか?



FJ-2 FURY

この「フューリー」って、

激怒, 猛威, 激情, 憤激, 怒気, 鬱憤, 腹立ち, 加害, 立腹, 余憤, 欝憤

っていう意味なんですよね。
なんだってこんなネガティブな名前を付けたんだろうノースアメリカン、いやアメリカ海軍。
だから本日のタイトルは単に語呂がいいからちょっとやってみました。
意味はありません。反省してます。

同じフューリーでも、FJ-1とこのFJ-2は翼の角度からして全く別物で、
というのもこちらはF-86セイバーの派生形なんですね。
なんですかね、ご予算的に新型飛行機じゃなくて改良型ですよ、と言い訳する必要があったのかしら。

そしてこの製造の影にも実はアメリカ海軍の悪い癖、

「空軍が持ってるならおいらも」

があったのだった(笑)

実はこの前にF-86が空軍において素晴らしい性能を発揮したのを見て、
海軍も艦載機としてこれが欲しい!空軍が持ってるんだからうちも欲しい!
というわけでセイバーに改造を施しさらに機銃を搭載したものを採用したんですね。
後退翼になっていることからしてFJ-2とは全く別系統の飛行機を作らせたのです。

ところがこの型は離着艦性能に難があるということがわかってしまいました。

アメリカ海軍、人と同じものを欲しがる前にちゃんと自分とこで運用できるかどうか調べろよっていう。
それで海軍はこれを全て海兵隊で使用することに決めたというわけ。
この機体に「マリーンズ」と大きく書いてありますね。



インテークの穴は展示の時だけふさぐのだと思いますが、この「蓋」、
ちゃんとカラーコーディネートがされていておしゃれです。

このように翼をたたんだ状態で展示してくれる方が、特性がよくわかっていいですね。
さきほどのトラッカーの無理無理感とは違って、実にスマートに羽をたたんで(立てて)います。

このフューリーが海兵隊の所属でどのように実戦に投入されたのか、今回はわかりませんでした。


というわけで、またもや寄り道が多くて冒頭のトム猫さんの話にたどり着けませんでした。
次回に続く。





ナヴォイ劇場のオペラ「夕鶴」

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小学生のころ、「ワシリイの息子」という題の子供向けの本を読みました。

ある日、少年の家にやってきたロシア人の少年。
少年たちの父親は、その昔シベリアで知り合いだった。
抑留されていた父と、コサック兵として囚人の見張りをしていたロシア人ワシリイ。
極寒のシベリアで重労働をする日本人に同情を寄せるワシリイは、
次第に少年の父と心を通わせていく。

戦争が終わり、日本に帰っていった亡き父の友人をはるばる日本に訪ね、
「ワシリイの息子」は、何を伝えようとしたのか―。

この童話によってわたしはシベリアに抑留されていた日本兵のことを知りました。
そこの受労働が過酷なもので、たくさんの日本人が劣悪な環境のもと、
二度と日本の土を踏むことができなかったことを。

この抑留による死者数は事実上34万人、名簿があるのはわずか数万人。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した
ポツダム宣言に背くものでありました。
ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、

「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」

と表明しています。

その抑留中に日本人が造った建築物が話題になったことがありました。
中央アジアに位置するウズベキスタン。
8 月末に首都タシケントにある「ナヴォイ劇場」で、
團伊玖磨作曲の「夕鶴」が上演されたときです。
このときに、当時抑留者としてタシケントにいた元陸軍軍人が、
日経新聞に手記を寄せていますので、ご紹介します。


私は客席で感無量の気持ちを抑えきれずにいた。
ナボイ劇場は戦後、旧ソ連軍の日本人捕虜だった我々が
建設に従事したオペラ・バレエ劇場だ。
そこで日本人が作曲したオペラを聞ける時が
80 歳の今日になって来るとは、信じられない思いだった。

ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル、
観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築物である。
1947 年に完成し、同地の大震災の時もほとんど被害がなかったという。

 

航空修理厰(しょう)の陸軍技術大尉だった私が
約240人の仲間と第四ラーゲリ(収容所)についたのは45年10月。

まだ25 歳だったが少佐以上の将校が別の場所に送られたため、
私が「タシケント第四ラーゲリー」の隊長となった。

後に収容所の人数は増え450人を超えた。


ナボイ劇場は第二次世界大戦中、建設工事が中断していた。
戦後、現地のウズベク人、ロシア人などが劇場建設を再開し、
捕虜のドイツ人は所内で靴修理に従事していた。


劇場建設に関わった我々の作業は、土木、煉瓦積み、彫刻、鉄工、
配線、大工、左官、電気溶接、測量など多岐にわたっていた。
朝六時に起き、八時から昼の十二時まで作業。
午後は一時から五時まで働き、夕食後から消灯の九時までは自由時間だった。


隊長としては皆が無事に帰国するまで絶望せず、
肉体的にも衰弱せずに過ごすよう気を配らねばならなかった。
将校は私も含め大学や専門学校卒業直後に入隊した20 歳代前半の者が多く、
労働や食事なども仲間と同じだった。


我々の隊は元来飛行機の修理が仕事である。
機械、電気、板金、エンジン、計量器、配管、溶接と専門家がそろっていた。
中でも若松律衛君という大卒の建築技術者がいろいろアドバイスし、
ソ連側も一目置いていたようだ。
私は仲間に以心伝心で疲れぬように働けと伝えたつもりだったが、
それでもソ連側の期待以上に作業は進んだ。


気晴らしの道具もすぐに見つかった。
作業上の床板などで麻雀(マージャン)牌、将棋の駒、碁石などを器用に作った。
麻雀のレートは千点で配給の砂糖小さじ一杯分だった。


さらに現場の資材の利用で舞台、幔幕(まんまく)、衣装、
バイオリンをはじめ楽器類なども作った。
本職の役者がいて演技指導し、「国定忠治」や「婦系図」などを上演した。
こうなるとソ連軍将校が関心を持ち「次は何をやるか」と聞いてくることもあった。


無論,不幸なことに変わりはない。
食事は常に不足して、私も栄養失調で歩くのがやっとの時期があった。
南京虫には悩まされ、月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れた。
冬は建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたが、
後にばれて厳禁となった。
二人の仲間が事故で亡くなった。


それでもシベリア労働などに比べれば恵まれていた。
現地の人々と風ぼうが似通っていたこともあり、
作業現場では人種差別もなく片言で会話を交わし、良好な関係だった。

47年の完成間近に,バレエなどの練習を見せてもらった仲間もいたという。
ナボイが完成するとみな別々のラーゲリに分かれ、
やがて帰国した.私は 48年7月に舞鶴に到着した。


ウズベキスタンと日本の関係が近くなったのは同国が91年に独立してからである。
民間の日本ウズベキスタン協会が発足し、昨年(平成12年)は
羽田孜元首相とカリモフ大統領との会談がきっかけで夕鶴公演の話が進んだという。

今年(平成13年)5月になくなった團さんも,生前大いに乗り気だったという。
私もかつての収容所仲間とともにタシケントを訪れ、一週間滞在した。
演出家の鈴木敬介氏はナボイ劇場の歴史の重みを感じ、涙混じりでリハーサルをしたという。



当日は一、二階だけではなく普段は入らない三階席まですべて埋まる盛況ぶりだった。
鶴の恩返しをテーマにしたオペラだから、現地の人々にも理解しやすかったのだろう。
最初に10人近くのウズベキスタンの子供たちが日本語で歌を歌う場面があり、
強く心を揺さぶられた。

フィナーレでは観客が総立ちになって拍手していた。


戦争終了後異国で強制労働に従事させられ、
青春の数年間を抑留生活で失ったことは、取り返しのつかぬ損失と思っている。
しかし、今回戦友の墓参りが出来、またナボイ劇場で、
我々の建設当時とほとんど変わらぬ姿であることを確認できたのは大きな喜びだった。
完成時に劇場の庭に植えたポプラやプラタナスの若木が20メートル以上になっていた。
この木が枯れぬよう友好が続いてほしいと願っている。

 (元タシケント第四ラーゲリ日本軍隊長 永田行夫陸軍技術大尉)

 日本経済新聞,平成13 年9月26日版    

タシケントは人口約250万人の大都市で、政治、経済、商工業の中心です。
1966年4月26日にここで大震災が起こりました。
この震災では町の建物のほとんどが瓦礫と化してしまいました。

ところが、ナボイのオペラ劇場など、
第2次世界大戦後シベリアに抑留されていた日本人が
強制労働で建設した建物だけが、この震災に耐え、びくともしませんでした。
  この地には日本人の敷いた道路が何キロにもわたって町を走っています。
何キロにもわたって、舗装の下には煉瓦の敷き詰められた道路です。
それだけではありません。
未だに人々が使用している建物、学校だったりアパートだったり。 運河も日本人の手によるものです。

そしてこの地方のどこを訪れても、日本人が働いていた様子が語り継がれており、
日本人は勤勉で規律正しい人達だだった、嘘をつかない人々だったと
人々は口をそろえて言うのだそうです。

あるウズベキスタンで生まれ育った人の話です。

「子供の頃、日本人が入っていたラーゲリ(収容所)の近くに住んでいた。
日本人は毎朝、挨拶をし隊列を組んで仕事場に出かけていった。
夕方また隊列を組んで戻ってきた。
ある時お腹が空いていることだろうと思って、
友達とラーゲリの垣根の壊れたところからパンと果物を差し入れた。
そうしたら二、三日後に、手作りの木のおもちゃが置いてあった。

親から、『日本人は規律正しい人々だ。
勤勉で物を作ることがとても上手な人達だ。
そしてお返しを忘れない律儀な人々だ。
あなたも日本人を見習って大きくなりなさい』と言われて育てられた」



タシケントの日本人墓地には強制労働で亡くなった方のうち、
氏名が判明した79名が今も眠っています。

そして劇場敷地内にある記念碑には、
日本語で次のような言葉が刻まれているのです。

「1945年から1946年にかけて極東から強行移送された
数百名の日本兵士が、この
アリシェル・ナヴォイ劇場建設に参加し、その完成に貢献した」


苦しい抑留生活の中でも規律正しく、優しさと日本人としての誇りを失わず、
その高潔な振る舞いで現地の人々に尊敬された抑留兵の方々。

日本人として心から敬意を表し、感謝を捧げたいと思います。



 


 

アメリカのデブ救済番組「エクストリーム・ウェイトロス」

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アメリカ人にデブが多い理由はシンプルです。

白人種(ヒスパニックも)は体質的に太りやすい
食生活
車中心の生活

太りやすい体質の人間が、朝からパンケーキにシロップとクリーム(チューブのあれ)かけて、
昼はマクドナルドのハンバーガーにコカコーラ、夜は食後にアイスクリーム1パイント、
そして移動は車がないとどこにも行けないので朝から歩く距離はごくわずか。

むしろこれで太らない人はいったいどういう体質なのかと聞き質したくなるほどです。

ですからどの辺からデブという基準が非常に高く、多少太っているというくらいでは皆気にしません。
しかし、それを上回る巨大なデブが多数生存する、それがアメリカ。
テレビでは毎日のように

「10分だけ毎日運動すればこんなに!」とか、

「飲むだけで代謝を良くしてやせる!」

などと、劇的に変身を遂げた人が「これでわたしは人生変わりました」
とにっこり微笑んでポーズを取るというCMがしょっちゅう流されます。

しかしたかが一日10分の運動とはいえ、効果が出るまでそれを毎日欠かさずできるような人、
そこまで意志の強い人なら最初からそこまで太ってしまうわけがないのです。


「誰かトレーナーがついてくれて、ずっとダイエットを指導してくれれば、
意志の弱い私だって痩せられるのに・・・・・」

こんな大多数の人々の声を形にした番組があります。

「エクストリーム・ウェイトロス」(Extreme Weightloss)。

これは、ある日突然、手の施しようもないほどのデブの前に、
あたかも天使が降臨するようにウェイトロス・トレーナーが現れ、手取り足取り叱咤激励し、
あるときは慰めあるときは一緒に喜び、時には一緒に泣いてくれながら、
何か月間かの間に目標とする体重までウェイトロスを手伝ってくれる、という

(デブにとっては)夢のような番組。


去年、そして今年と、この番組をウォッチしてきましたのでご紹介します。
去年の画像はブレが多く見辛いものとなっていますことをご了承ください。

 

彼女の名はアシュリー。
ご覧の通りの「百貫デブ」。





いかにデブの多いアメリカ人でも年頃の女の子(23歳)がこれでは、
悩ましいことと思われます。
しかも、



彼女の姉弟(4人)で太っているのは彼女だけ。
突然変異のように同じものを食べていたのに彼女だけが膨張してしまったのです。



そんな彼女の前に突然番組のトレーナーが降臨します。



「もしあなたがやる気なら、これから私と一緒に頑張って体重を減らしませんか?」



彼女が全くあずかり知らぬうちに、周りが応募したのでした。
そんな事とは知らない彼女、トレーナーが現れる直前にも、このように
パーティに出されたご馳走を大皿に取って食べまくっていたのです。



本人も驚きですが、お母さんもびっくり。
それにしても、ちゃんとそこを聞いていなかったので誰が応募したのかはわかりません。



少なくともこの金髪の妹でないことは確かです。
どういうわけか彼女は姉のためにチャンスが訪れたことを喜ぶどころか、
何か面白くなさそうな表情を隠しません。
内心馬鹿にしていた姉がどんな形でも脚光を浴びたのが面白くないのかもしれませんが、
なにしろこの娘だけは最後までこんな感じでした。



最初に現在の体重を量り、目標値を決めます。
ガウンを着てにこにこしている彼女ですが・・・



ガーン。

410パウンド。(185kg)

何を食べたらこんな体重になってしまうのだろうか。



貴方の年齢の健康な女性なら、もっと体重は少なくあるべきです。
って当たり前のことですね。



これだけの水(1ガロン)をいつも抱えて歩いているようなものですよ。



そして具体的なダイエットプログラムが提示されます。
カーディオ・トレーニングは持久力運動ですね。



思わず天を仰ぐアシュリー。
そんな生活がわたしにできるのかしら?



体重を測ったこともなかった彼女が突き付けられた数字は過酷でした。
絶望のあまりつい泣き出すアシュリー。



四の五の言わんとトレーニング開始じゃい!



いきなり坂道を走らされます。
いつもこの番組を見て思うのですが、こんなデブにいきなり走らせたら、
心臓に負担がかかって急死してしまうのではないかと・・・。
ウォーキングくらいから始めた方がいいのではないかと思うのですが、
必ず最初から走らせたりハードな運動をさせるんですよね。



ボクシングも定番。
これは、被験者が、トレーナーに向かっていきながら自分の心をさらけ出し、
「太るに至った原因」をここで突き止める、といういわばお約束の展開が待っています。
人によってはここで涙を流しながらトラウマになっていることなどを吐き出し始めたりします。



彼女の場合は、両親が離婚しており、ほとんど父親と会うことなく今日まで来た、
そのことが心にのしかかっている、というのですが・・・・


それとデブとは関係ないんじゃないかい?

まあ、太るというのは一種のメンタルの不健康というものですから、
こじつければどんなことも太る原因につながらなくはないわけですが、
これもきっとスタッフが彼女にいろいろ家庭環境などを聞き出すうち、

「小さい時に分かれた父の面影を求めて、彼女の満たされない心は
食べ物を摂取することでその欠損を埋めようとした」

みたいな定型にあてはめたのではないかな、とつい意地悪く考えてしまうのですが。



This abandonmenntというのが、「父に顧みられなかったこと」を意味します。
ボクシングの途中で感極まって泣き、トレーナーはこれを慰めるため
二人は抱き合います。

これもほとんど毎回のお約束です。



76日、つまり二か月半がたちました。
それなりに体重は減ってきています。

51IBS減らしたということは23キロ減量したということ。
23キロというとすごいですが、もともとのレベルがレベルなので、これくらいでは
全く見た目の変化はありません。

それでも、おなかの段が少し減っているようには思われます。



90日目。

243IBS、つまり110kgにまで体重は減りました。
「大台突破」まであと10キロです。

こういう体重の人がその気になったら、面白いくらい体重は減っていきます。



よく頑張ったね、と成果をねぎらうトレーナー。
しかし、これは単なる途中経過にすぎないのです。

本当の地獄はここからだあ!



今回の軽量で30キロ減量したアシュリーさん。
首が出現しましたね。

 

ここで自分から提案して、精神科医のセラピーを受けます。
アメリカ人は薬を飲むように精神科医の診察を受け、メンタルヘルスをケアしますが、
「悩みを聞いてもらう」ことを医療行為だとはっきりカテゴライズしてるんですね。

彼女はダイエットを進める段階で、父親のことを誰かに聞いてほしくなったようです。

 




しばらくトレーナーのもとを離れ、自主トレに励んでいたアシュリー。
久しぶりに会ったトレーナーは、すっかり成果の出た彼女に驚嘆し、抱き合います。





このクリスというトレーナーは、いつもこうやって被験者の「やる気のツボ」を心得た
アメとムチで、ダイエットを成功に導くのですが、毎回毎回、
大幅に体重を減らした被験者を見ては心から驚き、時には涙まで流し、
決してビジネスライクではない(テレビだから当たり前かもしれませんが)その接し方が
もはや「芸風」と言ってもいいくらいです。



アシュリーも、クリスが心から驚き感嘆してくれるので、実に幸せそう。



うん、これくらいの太った人なら、アメリカでは決して「太っている」とは言わない、
というレベルにまでなっていますね。



そしてまた体重を計測。


 
うれしさが隠せないアシュリー。
こうなると皆そうでしょうが、より一層弾みが付きますよね。

しかも、この後は自然の中でマンツーマンの訓練が待っています。

 

とりあえず目標に近づいているということで、今はそれを楽しんでください、と
気分をリラックスさせるように持っていくクリス。



ここで、回によっても違いますが、トレーナーは被験者に今までやったことのない、
少し人生観が変わるようなアスレチック体験をさせることがあります。

今回は、滑車で谷渡り。
これ、気持ちがよさそうだなあ。

でも、最初アシュリーは怖がって脚が離れません。
トレーナーに後押しされて、

 


ぎゃああああああああ。

 

でも、のど元過ぎれば「貴重な体験だったわ」。



さて、198日が経過。
ん?
なんとなく美人っぽい面影になってきたような・・・・。



しかし・・・



まだおなかはこんな感じ。

この辺でテレビ的には彼女のトラウマである父親との再会を計画します。



すっかりきれいになったわが娘に父親は驚愕。
「なんてきれいなんだ」

褒められて微笑むアシュリー。

この再会と、やせた自分を父に見てもらたことは、彼女の心を癒したのでしょうか。



というところで体重は、179lbs。
81キロです。
なんと、当初から100キロの体重を減らしたんですね。



しかし、こうなってくると一つ問題が。

左のダルダルの体の人が、右の体重に減らした場合、
それがたとえ9か月かけてであっても、「皮」が余ってきます。



そう、アシュリーさん、服を脱ぐとこの状態。



少しわかりにくいですが、二の腕もこの通り。

この番組の大きなイベントとして、整形外科でこの急激に余った皮膚を
切除してしまう、というのがあるのです。



マリナ・デル・レイは、カリフォルニアのハーバーで、意味は「王のマリーナ」。
その名の通り、リッチな人々がヨットを係留している港のある町です。
そういえばここのリッツカールトンに泊まったことがあります。

そういう町で、美容整形外科医としてやっているのですからおそらく腕もいいのでしょう。

 

しかし、手術ができるかどうかは、患者の状態によって医師がOKを出してからです。
中にはここで「できません」と断られることもあります。
脂肪の量によっては「もう少し痩せてから来なさい」ということになってしまうのです。

どちらにしても、日本ではあまりやる人もいなさそうな手術ですね。



「スキンサージェリー」と言っていますね。
これは、「脂肪切除」ではないのです。



そこでお母さんが登場して、なぜか懺悔めいたことを・・・。
彼女なりに娘にしてやれなかったことに思い至ったのかもしれません。
アシュリーが肥っていた時には、突き放すような言動をしていた母親、
こういう展開になってそれが後悔となってあふれ出てきたものと思われます。


「わたしはこの一年でうんと成長したのよ」



わたしは人生をあきらめないわ。



わたしは愛を感じたことも、自分が強いと感じたこともなかった。でも・・・。



わたしの最後の計量を見ていて頂戴。 



わたしはその時本当に変身するの。

さて、手術を終えたら、彼女のダイエットは「完成」です。
そのお披露目は、彼女の家族はもちろん友人知人を招き、盛大に行われます。



会場ではかつての彼女の姿を実物大のパネルにしたものが用意され、
そこに大変身した彼女がドレスアップして現れるという趣向。



クリスが皆に彼女の頑張った過程について総評を述べます。
そしてその頑張りに自分がどれだけ感動したか、などということを。



おおおお。きれいになったアシュリーさん、登場。



もうこんなになってますから。



驚く知人その1。



驚くガッツ石松その2。



高々とチャンピオンのように彼女の手を挙げるクリス。



どう?昔の君だよ?



そして、かつて自分が肥っているときのみじめさを回顧することから始めるアシュリー。



これ、どうやらお父さんですね。



そしてわたしは何も変えようとしなかった。





一年前は鏡を見るのも恥ずかしかったの。



二の腕の下に手術の縫い目が・・・・。

われわれなら少したじろいでしまいそうですが、そもそももとの大きさが大きさなので
それを減らすためならこれくらいの小さい傷などなんでもないといったところでしょうか。



すべてが終わっても決してやせているとは言い難いですが、
それでも一年前に比べたらものすごい変化です。



これが・・・



これですから。
164パウンドというのは74キロ。
背も高い人なので、(170センチはあると思われる)アメリカ人としては十分です。

それに、彼女はこれからも体重を減らすのではないかと思われます。



楽しくエアロビクス教室に通う彼女。
すっかり外交的な性格になり、外に出るのが大好きになったようです。
そして、町で男性に声をかけられるまでになりました。



この番組のスポンサーはウォルマート。
エクストリーム・ウェイトロスを達成した出演者には、ウォルマートのカード、
5000ドル入りがプレゼントされます。



ところで、わたしはこの一番左の妹が気になりました。
最初からそうですが、姉が大変身し、皆に賞賛されているこの会場で、
彼女はずっとこんな顔をしていたのです。
ちょっとしたショットですが、明らかに彼女が「面白くなさそう」にしている様子が
捉えられているのです。

嫉妬でしょうか。
こんな場合に姉を嫉妬する、というのも、他の家族が心底うれしそうにしているだけに
違和感を感じます。
なんか、姉妹同士、いろいろとあったのかもしれないですね。



とにかく、この番組によって人生が変わったアシュリーさん。
まだ若いのですから、これからいくらでも彼女の人生には楽しいことが増えていくのでしょう。

わたしたちは「変身」が大好きですが、ただ洋服やメイクを変えたり、ましてや
整形手術で顔を変える、というものではなく、このよう自分の今までの心の重りを
脂肪と一緒に脱ぎ捨てて生まれ変わる、このような変身ものは、実に後味のいい爽快さすら感じます。

この番組がアメリカ人に非常に人気のあるわけがわかるような気がしました。


 

空母ホーネット〜「F-14のグローブベーン=DAR-SOCK」

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前回冒頭にトムキャットのメンテ中の写真を挙げたのですが、
今日のはもうちゃんと直っている、と気づいた方、あなたは鋭い。

実は、あれからもう一度行ってまいりました。
休暇でうちの所帯主が一週間来たときにホーネットのことを話すと
「ぜひ行ってみたい」
と言ったから・・・・・ではありません。

「今日、ホーネットにもう一度行きたいんだけど。
この間はツァーに参加できずに艦橋が見られなかったから。
あ、それとあのとき売店で見たDVDやっぱり欲しくなったから買いに行きたい」

我が家唯一の国際免許保持者のこのような有無を言わさぬごり押しによって、
その日の観光はいつの間にかホーネットになったのでございます。

そして、念願の「艦橋ツァー」に、途中まででしたがとりあえず参加できました。
このペースではいつになるかわかりませんが、そのうちアップしますのでお楽しみに。

ただ「欲しかったDVD」というのが・・・・・・・・。

実は、こちらのテレビ番組で「ゴーストハンターズ」という、廃墟や噂の霊スポットに
「ゴーストハンターズ」を名乗る数人の男たちが(女もいたかな)乗り込み、
ビデオを撮ったり音声を録音してあれが見えたのこれが聞こえたのと、
本当かウソかわからない幽霊探しをするという番組があるのですが、そのホーネット版があったんですよ。

前々回、
「でるんですよ。あれが」
と思わせぶりに予告したのは、これを見ていっちょうエントリをでっちあげてやろう、
とそのときに思いついたからで、そのためにもホーネットの売店にあったこのDVDを
なんとしてでも手に入れる必要があったのです。

が。

たしか最初に訪れた時には三枚はあったと思うのですが、一週間後にTOと行くと、
それらは売り切れてしまったのか棚には無くなっていました。

ほかのまともな(?)ホーネットものや、ヒストリーチャンネルのDVDなどは全部そのままで
どうしてこんなものが(それを買おうとしていたわけですが)真っ先にに売れてしまうのか。

仕方なくアマゾンでホテルに配達させようと検索したら売り切れ。

しかも、その動画が観られるというサイトでダウンロードのクリックをした途端、
コンジットという「ブラウザハイジャッカー」にコンピュータを乗っ取られ。
グーグルを出そうとしたら変なコマーシャル付きの聞いたことのない検索エンジンが出てきて、
おまけにブラウザが異常に重くなり、字が打てなくなり・・・・・。

息子が「ヒットマン」と「アンチ・マルウェア」を入れて3時間かけて退治してくれましたが、
「これ有名なマルウェアだよ。なんでも気軽にダウンロードしちゃダメじゃない」と叱られ、
これが本当の負うた子に教えられってやつか?

それもこれもすべてホーネットの売店のDVDが売り切れていたのが悪い。

しかしこの「ホーネットの霊現象」。
観光客的には人気ありそうなネタですよね。
そのうちお話ししますがわたしも実際に少し「?」な体験をしたので、見てみたかったのに・・・。

さて、というわけで最初に見たときのトムキャット。



もいちど改装後。



黒のペイントだけ塗りなおしたみたいですね。

最初の時にボランティアの解説係のおじさんが話しかけてくれて、
「何か聞きたいことがあったら何でも聞いてね」

と言ってくれたのですが、専門用語の聞き取りに甚だ自信のないエリス中尉、
このトムキャットの稼働翼についてくらいしか質問できませんでした。
まあ、それも予備知識があって大体のことがわかっていたから聞けたんですけどね。

そのときに、「メンテナンスはどれくらいに行われるのですか」と聞くと、
「いつもどれかしら必ずメンテしています」という返事。

ついでにおじさんは戦争に行ったのか、つまり「ベテランですか」と聞いたのですが、
とてもきまり悪そうに「行ってません」と答えました。
艦橋ツァーの解説員はかつてホーネットに乗っていた元海軍さんだったので、
ベテランでないということはこのおじさんにとって引け目だったりするのかな、
とこの反応に少し驚き、聞かなきゃよかったと思ったものです。



それではお約束、トムキャットF14のエアー・インテイク。

トムキャットはエンジン二つ搭載した「双発エンジン」ですが、このエンジンが離れており、
エアーインテイクから取り入れた流入空気を整流するのが容易でした。



ご覧のとおりのTF-30エンジン。

また、エンジンが離れていると一方が欠損してももう一つが影響を受けにくい、
という物理的な利点もありますよね。

しかし、もし一発が停止したとしたら、推力軸線と機体軸線とのずれが大きくなるため、
それを操縦するのはより困難なことになってしまいます。

ETOPS 120と言って、一般に双発機はエンジン1基が停止すれば操縦ができなくなるので、
最寄の空港から120分以上離れたところ、ましてや大洋を飛ぶことは許されなかったくらいです。

F-14は二基のエンジンの場所を離して、この間にはミサイルの搭載場所を確保しています。



エンジンノズル。
TF-30は、故障や事故が多く10億ドルを超える損害被害が出るほどの気難しいエンジンで、
このためF401-PW-400が開発されましたが、こちらも開発中に技術的な問題が噴出。
おまけにこのF-14、機体が高価なので、そのせいでこのAに続くF-14Bの計画はお流れになってしまいました。

先日お話しした「サンダウナーズ」はVF‐111でしたね。
このVF-101はGrim Reapers つまり「死神」というニックネームを持つ
朝鮮戦争から続く要撃航空隊の使用機です。

いや、読者のリュウTさんのお話にもありますが、アメリカの軍用機軍艦船のネーミングは、
こういう「中二病」、あるいはD.Q.N?なセンスのものが多いとは思っていましたが、
これもまた思いっきりですね(笑)

翻って我が日本軍は、たとえば同じ想像上の存在でも「鐘馗」ですものね。
格が違う。格が。

それはともかく、彼ら「死神部隊」がこのトムキャットを採用していたのは1976年からのことです。
この隊とトムキャットの相性はきわめてよく、機体の燃費を向上させ、
さらには事故を起こさなかったことで安全章という賞を表彰もされていたようです。 



ミサイルもちょっとだけ搭載して見せてくれています。
F-14は最大でAIM‐54を6発搭載できるということですが、この状態では離艦はできても着艦できません。

「離艦はできても着艦はできません!」

映画「連合艦隊」で瑞鶴から出撃する幼い搭乗員のセリフみたいですね。
・・・・というのはこのブログを長年読んでくださっている方にならわかる話ですがそれはともかく、
この場合は瑞鶴搭乗員の「着艦訓練していないから」という理由ではなく、着艦重量のオーバーです。



ははあ。

ミサイルに「レイセオン」とあるから、これは中距離空対空ミサイルである
AIM-7 スパローのようですね。
自衛隊でも使われていたミサイルです。

調べていたら、このF-14が機体試験中のことですが、スパローミサイルを発射した時に

自分に当たって墜落した

という話を知ってしまいました。
自分で自分を撃墜してしまったと。
サッカーでいうとオウンゴールだけど、戦闘機でこれははめったにないことなのでは・・・。

というか、これどういう状況だったのかご存知の方いますか?
ディズニーシーの「ストームライダー」のように発射したミサイルが途中で向きを変え、
「ウソだろ〜!」(by キャプテン・デイビス)という間もなくヒットしてしまった、とか?


このミサイルはベトナム戦争、湾岸戦争にも使用されています。

ところで、これ見ていただけます?



修理中のトム猫さんですが、翼をたたんでいるので、
なんか肩をすぼめたみたいに見えますね。

このF-14の大きな特徴が可変翼といって翼の角度を変えられるのですが、



この写真の左上、スリットのところから、グローブベーンという小さな翼が、
どうやら速度にに呼応して出てくるそうなのです。

マッハ1.4以上になると自動的に主翼付け根前縁から出てきて、
超音速飛行で揚力中心が後退するのを打ち消す目的でつけられたのだとか。

マッハ1.0〜1.4では手動で(ぐるぐるハンドルを回すのか?)出すことができ、
また、空戦モードにしておくと空戦フラップと連動して迎角とマッハ数に応じて作動、
つまり「出たり入ったり」?

それは面白い。

さらには後退角55度の爆撃モードでは全開。


まあ、いろいろ考えて付けたわけですが、このグローブベーン、

実はあまり意味がない

実は意味がない

意味がない

ことが

そのうちわかってきて、後続の飛行機からは廃止されています。

理論上役に立つはずだから良かれと思って形にしたけど、
実はあまり役に立たなかった、ってものは世の中にたくさんありますよね。


役に立ちそうにない20世紀始めのころの発明

射出装置付きヘリコプター(ロシア陸軍用)など

作ったけど実は意味なかった、つまり「蛇足」というやつです。
作るにも至らなかったものも多いですけどね。

ただまあ、

役に立たなかったということが分かったということが、
次の開発に役に立った

ということもできますからね。


人類の科学の進歩というのはグローブベーンのような蛇足の集合体の上に
成り立っているといっても過言ではないでしょう。(適当)





 

目黒・防衛省〜山本五十六の「遺書」

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今回の幹部学校訪問では所蔵するすべての書を見たわけではありません。
どうも、わたしが案内していただいたのとは違う階にもいくつか展示があって、
勝海舟や島村速雄などのものは見ることができなかったようです。

わたしとしては東郷平八郎の「聯合艦隊解散之辞」さえ見せていただければ
もう目的は果たしたと言った感があったのですが、もう一つ、
この山本五十六の「辞世」も、なかなか感慨深いものがありました。




征戦以来幾萬の忠勇無雙(そう)の将兵は

命をまとに奮戦し護国の神となりましぬ 

あゝわれ何の面目かありて見(まみ)えむ大君に

将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

身は鉄石にあらずとも堅き心の一徹に

敵陣深く切り込みて日本男子の血を見せむ 

いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を

華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ

昭和十七年九月末 述懐


七五調でつづられたこの内容は、

「開戦以来、幾万もの比類なき忠勇の将兵たちは
命を的に奮戦し、護国の神となっていった
ああ、私は天皇陛下に面目が立たぬ
将官たちや戦友の家族に告げるべき言葉もない

我が身は脆いものだがこの堅い一徹な決心で
敵陣深く切り込んで日本男児の血をみせてやろう
若者たちよ、死を覚悟した最後の戦いをしばし待つがいい
私もまた華々しく戦って後を追うから」


エリス中尉の現代語訳ではこのような内容となります。

うーん・・・・。

確かに言いたいことは痛いほどわかります。
この実質的に「遺書」とされている山本五十六の言葉にを
あれこれ言うのは実に心苦しいのですが、それを割り引いても
なんだか・・・・・言わせてもらえば、陳腐な文章じゃないですか?

七五調でおさめるにももう少し気の利いた文章というか言葉選びがあるような・・・。
内容そのものも当たり前すぎて、つまり「わたしも後を追う」という一言を言うために
ありがちな文句をつなぎ合わせただけ、と言った感があります。

名文として名高い「聯合艦隊解散之辞」の後にこれを見ると、
まるで大人と子供くらいの文章としての成熟度の違いを感じてしまいます。
(と最初は思った、というマクラとしてお読みくだされば幸いです)

それはともかく。

そもそも、この書ですが、どういういきさつで世に出たのでしょうか。

幹部学校によって付記された説明によると、これは
「旧海軍関係者より寄贈された」となっています。



山本五十六聯合艦隊司令長官は、1943年4月18日、
ブーゲンビル上空で乗っていた機を米軍機に撃墜され戦死しました。
この戦死を「海軍甲事件」といいます。

いきさつを簡単に述べておくと、海軍が1943年4月7日ソロモンで行った「い」号作戦が一応成功し、
山本長官は自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになりました。

その際、前線の各基地に、4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知されたのです。
その暗号はアメリカ軍によって解読されていました。


・・・・しかし、後からなら何でも言えるとはいえ、いくら暗号でも「分単位」の計画を通達。
スケジュール通り襲ってくださいと言わんばかりの迂闊さに、今さら唖然としてしまいます。

一人くらい暗号が解読されている危険性を考える関係者はいなかったのでしょうか。
と思ったら、一人、城島高次という航空戦隊司令官が、

「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」

と当時から憤慨していたということで、少し安心しました。
わたしがいまさら安心してもしょうがないですけどね。

しかも、海軍の微笑ましいまでのうっかりさんぶりはこれにとどまらず。
最近アメリカの資料で分かったことによるとこの暗号を討つ二週間前、
海軍は暗号を変更していたのにもかかわらず、
この長官の行動だけが変更前の古い暗号で打電されていたというのです。

だとしたら、これははっきりと打電を命じた「武蔵」の責任者と、新しい暗号を使うのが面倒で?
古いのをそのまま使った通信関係者の責任ということになりませんか?



ところで少し余談ですが、今回あるサイトで、

「アメリカは山本司令長官を真珠湾の立案者として憎んで処刑した」

と、何やら非常に感情的な復讐劇のようにこの撃墜を記述しているのを見ました。
まあ、確かにアメリカは真珠湾を「スニーキーアタック」として、国民にも憎しみを掻き立て、
戦意を高揚させていましたから、「憎んでいた」というのもあながち語弊では無いと思います。

しかし仮にも軍の戦略行動に対し「憎んで処刑した」はどうでしょうね。

憎むも憎まないも、前線に敵の最高司令長官が来ているというニュースが伝わり、
さらにある日、詳細な視察計画が暗号解読されたとしたら、
戦争している相手が、これを襲撃しようとするのは当たり前だと思うのですが。


ニミッツは「い号」作戦の前線視察の際にこの電文を受けて

「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。
どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」

と言って殺害計画を進めさせたと言います。
もっとも戦争というのは国家の憎み合いには違いはないのですが、戦争の作戦遂行にいちいち
「憎んでいたから」と解釈を付けて意味づけする必要があるのかって話ですね。

このサイトはある地方大学の教授がまとめているようでしたが、この真珠湾攻撃の部分は
やたら「プライドが」「誇りが」「憎んで」「復讐」などという煽情的な文言が多く、
分析というにはあまりにもアメリカ側の「感情」に立ちすぎた「感想文」としか思えませんでした。
少なくとも「歴史」じゃないだろ、っていう。


というのは全くの余談ですが、というわけで、戦艦「武蔵」の電信員あたりがこの件の
「戦犯」ではないかと思われる徹底的なミスを犯したせいで、山本長官は戦死しました。


海軍はこの件を当初秘匿していました。

鈴木貫太郎がこれを聞いて驚き、嶋田繁太郎海軍大臣に
「それは一体いつのことだ」
と聞いたところ、嶋田が
「「海軍の機密事項ですのでお答えできません」
と官僚のような答弁をしたもので、普段温厚で寡黙な鈴木が
「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」と
大声で嶋田を叱責したという話があります。


このことから想像するのですが、むざむざ司令長官を殺された責任を誰が取るのか、という点で
海軍内ではいろんな思惑が乱れ飛び、政治がそれを回避するために、
情報を抑えたり、あるいは報告の際、微妙に調整されたりしたのだと思われます。

そのため、山本長官の死亡状況すら軍医の検視結果でも明らかにされず、
報告が本当にそうだったのかすら歴史の謎になってしまい、いまだに

「即死だった」
「しばらく生きていた」
「第三者に撃たれた」
「自決した」
「機上戦死を演出するために遺体が撃たれた」


など、諸説が生きているありさまなのです。

その一因として、現場における検証で遺体の軍服を脱がせることすらさせなかった参謀がいたり、
軍医も粗雑な書類で単なる形式処理しかさせてもらえなかったという事実がありました。

日本の官僚的縦割り社会の悪いところが集約されているような話ですね。


さて、山本長官戦死後、遺品の整理のために「武蔵」の長官室の机の引き出しが開けられ、
そこから親しい者たちに宛てた「遺書」が見つかりました。

しかし、それがこの書であるかどうかは全くわかりません。

山本は、三国同盟締結の頃、つまり海軍次官の頃にもこの「述志」を認(したた)めており、
それが5年前、同級生の堀悌吉の子孫の家からみつかったという話もありました。
この頃は、三国同盟に反対し、国内での暗殺の危険があったためとされますが、
つまり、山本五十六は、海軍での人生を通じ、

しょっちゅう遺書を書いていた

ということのようです。



おそらくこの筆から数々の「遺書」は生み出されたのでしょう。

三国同盟の頃、つまり昭和14年に書かれた「述志」は、
この「述懐」より少し文言に装飾がみられます。



述 志

一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、

豈戦場と銃後とを問はむや。

勇戦奮闘戦場の華と散らむは易し、

誰か至誠一貫俗論を排し斃れて後已むの難きを知らむ。


高遠なる哉君恩、悠久なるかな皇国。

思はざるべからず君国百年の計。

一身の栄辱生死、豈論ずる閑あらむや。

語に曰く、

丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と。

此身滅す可し、此志奪ふ可からず。

昭和十四年五月三十一日  於海軍次官官舎 山本五十六


これに比べると、冒頭の遺書には言いたいことだけを言うという
切羽詰まった感じが表れていると言えないこともありません。

なかでも、

将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

という一説は、山本がいつも戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、
場合によっては自ら墓参に訪れたり、空母「赤城」艦長時代に、
艦載機1機が行方不明となった時は食事も通らず涙をこぼし、
搭乗員が漁船に救助されて戻ってくると涙を流して喜んだという逸話を知ると、
ただ単にありきたりの言葉を選んだだけではないということがわかります。

山本はまた、戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していました。
手帳には万葉集、歴代天皇の詩歌や自作の詩がぎっしりと書き込まれており、
戦死者への賛美と死への決意で満ちていたということです。

終始一貫、この人物は戦争で死なせた部下たちのためにもいつかは自分も死ぬ、
と覚悟を決めていたのでしょう。


その死に対し、山本五十六を知る周りの人間は、愛人であった河合千代子なども、総じて
「敗戦を見ず、軍事裁判にかけられることもなく死んだのは本人にとって幸い」という評価でした。

たしかにもしこのとき戦死しなかったとしても、終戦後の極東軍事裁判でアメリカは、
おそらく司令長官として山本に、真珠湾の責任を命で償うことを要求したでしょう。

いずれにしても死は免れないと知ったとき、すでに「何度も死んでいた」山本五十六は
ためらいなく自ら命を絶ったのではないだろうかという気がします。














Puttin' On The Ritz Half Moon Bay

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ここのところエントリを一つ制作するのに時間がかかるものばかりで、
さすがに少し息切れしてきたので、この辺でこのブログの「夏休み」を取らせていただきます。

というわけで、カリフォルニア滞在中、
必ず一度は家族で訪れる我が家お気に入りのホテル、
リッツ・ハーフムーン・ベイの写真と、お料理の写真を淡々と貼っていきます。 

ちなみに表題の「Puttin On The Ritz」は、フレッド・アステアの曲です。

この世で最もタキシードの似合う男、アステアの、画像処理なしの
超絶技巧タップとステッキ捌きをご覧ください。

 Puttin' On The Ritz   Fred Autaire

それでは参ります。

 

このホテルには去年も訪れて買ったばかりのソニーRX‐100で写真を撮り初めしたので、
もしかしたらご記憶の方もおられるかとは存じますが、今年の画像は、ニコン1によるものです。

ここには住んでいたころから何度も訪れており、帰国してからは二度ほど宿泊もしています。
最初に来た時にはまだできたばかりで、この中庭にはほぼなにもありませんでした。

「プールでも作ればいいのに」

などと、この辺の気候を熟知しない我々はとんでもないことを言っていたわけですが、
ここは真夏でも昼間に暖炉をたくような、まるでスコットランドのような気候なのです。



この眺めがまたそれっぽい。

リッツは、ここにホテルを作ろうと考えたとき、この地形とこの気候を最大に生かし、
「まるでスコットランドの海岸沿いにあるゴルフコースのような世界」
を再現したのではないかと思われます。



連なっているゴルフコースがホテルの真正面に。
向こうに見えているのはゴルフのクラブハウスと、室内プールのある棟です。

リゾートホテルですからプールは不可欠なのですが、 外気温が年間を通して
20度を超えることがないため、 (そのかわり冬は10度くらいでそう寒くない)
非常に豪勢な室内プールを持っています。



バレー(配車係)の制服が、クラシックなゴルフスタイル。
ハンチングにアーガイルのベスト、ニッカーボッカーという本格的なものです。



わかりにくいので去年の画像を引っ張ってきました。
またそれが似合ってしまうんですね。アメリカ人には。






建物もイギリス風。

中庭では皆が火を囲んで憩っています。
ここは昔はそうではありませんでしたが、要望が多いせいか、今回来たら
注文して軽食が取れるようになっていました。



去年の画像。
椅子だけです。



今年はテーブルが置かれていて、鳥さんたちが大喜びしてます。
客が立ち去るのを待ちかねて、残り物をついばみます。





この鳥はすずめのようなちょんちょん歩きではなく、千鳥のように走るみたいですね。



ホールにはリッツカラーの旗が立っています。

コースの真ん前にこのような中庭があって人がたくさんいるので、
ものすごく下手な人が客のど真ん中にボールを打ち込んでしまうかもしれないという危険性もあります。
何かとそういうことに対してディフェンシブな日本ではまずこういう仕様にはしないと思われますが、
そこはアメリカ。

「そんなに下手なら来なくてよろしい」

って感じで、さらにもし何かあってもうちとこは関係ありませんからね、という態度です。

どちらにしてもこのホールでは、中庭の客の目が自然とプレイに注がれてしまうので、
あまり下手だと恥ずかしくてそもそもこういうところには来られないようにも思います。

さて、わたしたちはゴルフをしませんので、ここでの楽しみはなんといっても食事です。



隣の「ナビオ」は予約でいっぱい。
こちらのカフェでは少し待てば予約なしで入れました。

ここに来ると、その年のアメリカ人の消費傾向みたいなものが読めるようなところがあります。

何年か前までは「こんなので大丈夫か」というくらい人がいなかったのに、
去年あたりからまた人出が増えてきて、さらに今年は近年まれにみる賑わいでした。
これもシェールガスのおかげかしら。


そんな無粋な話はこっちに置いておいて。

リッツに来て、この「ブルーグラス」が並んでいるのを見ると
今から楽しい時間の始まり!という予感でいつも胸がわくわくします。



わたしの頼んだハリブー、つまり「オヒョウ」ですね。
アメリカでシーフードを出す店に行くと、必ずと言っていいほどこの
Halibutがメニューにあります。
白身だけれど適度に脂がのっているので、わたしの好きな魚です。

それがチーズリゾットの上に乗って出てくるのですが、ここでなぜかさらにその上に
ブドウを乗せてくるというあたりが少し日本人にはないセンス。



息子の頼んだクラブハウスサンドイッチ。
正式な?アメリカンクラブハウスサンドイッチとは、
トーストしたパンにチキン又は七面鳥、ベーコン、レタス、
トマト、卵焼きの5つをはさみます。

ここではターキーハムが使用されており、卵焼きはありませんでした。



パニーニサンド。



そしてデザート。
去年これと同じものを頼んでえらくおいしかったので、もう一度頼んでみたのですが、

 

去年の画像。

・・・・・もしかしてこの一年でかなり簡略化されてますか?
フィリングのリンゴの量とか、パイケースのたたみ方とか、
そもそもそのパイケースの層(レイヤー)も薄くなっている気がするし、
仕上げの上に乗せられた金箔とか、ソースとか。


今年もおいしいことはおいしかったのですが、去年ほどの感激はありませんでした。
残念ながら。

 

気を取り直してほかのデザート。
これは確かタルトの上にアイスが乗っていたような・・・。



このチョコレート・フォンダンはフォークを入れると暖かいチョコレートが中から
とろりと溢れてきて、大変結構なお味でした。
息子が頼んだのですが、親子三人一口ずつでおしまいです。

いずれにしてもデザートはおいしいものを少量いただくのがいいですね。

 

食事が終わったので少し外で海を見てから帰ることにしました。



この芝生の部分では奥のガゼボを利用してときどきウェディングが行われます。
なにもないときにはこうやってクリケットの道具が置いてあります。

これもまた「イギリスらしさ」を醸し出すための演出の一つでしょう。



こんな遊具もおいてありました。
両側にボールの付いた紐を投げて、バーに引っ掛けるだけ、
という単純なものですが、これが面白そう。

この男の子はわたしたちが観ている前でこの青い紐を
見事にひっかけて見せてくれました。
思わず拍手して歓声を送ったら、その後はこちらを意識して緊張してしまったのか
一つも成功しなかったので、少し悪いことをしたかなと思っています。



今回も相変わらずのリッツ健在で、わたしたちとしては非常に満足したのですが、
ただ、できた頃から知っているものとしては、あまりにも雰囲気が最近変わってしまったなあと・・・・。

そう、理由は、あふれかえる中国人。
横を見ても、前を見ても、どこにいても目に入る中国人の団体。

そして彼らはどこでもここでもこんな感じで「記念写真」を撮りまくり、
団体で行動して騒ぐので、あまり言いたくはありませんがおかげで「雰囲気ぶち壊し」なんですの。

一流ホテルに宿泊や食事に来ているはずなのに、
全然着ているものとか雰囲気とかだいたいたたずまいがイケてないんですよ。
だいたい、いつも一流ブランドを買い漁っているくせにどうしてこういうところに着てこないのか?
と不思議で仕方がありません。
画像にも見えていますが、こんなところにいい大人がパックパックで来てたりしますからね。

・・・・あ、これ、もしかしたら一流ブランドなの?




まあしかし、それもこれもそのときの「アメリカの顔」。

さて、来年はどんな顔を見せてくれるのでしょうか。


 

開設1000日記念漫画ギャラリー第四弾

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陸戦の「神様」中村虎彦




海軍陸戦隊で、陸軍が手をこまねいていた適地を攻略し、
あっぱれ陸戦の神様と称えられた海軍将校がいました。

日中戦争のおり、蒋介石軍に届く物資の流れを阻止するために
日本軍は南シナ海の要所を占領する作戦に出ました。

その陸戦に駆り出されたのが陸軍三個師団と海軍一個師団。
おそらく陸海軍間の、たぶん

陸「今回の作戦はフネ使わないんだから海軍からも陸戦隊出せ」
海「なにおーぅ」

みたいなやり取りののち、(たぶんですよ)
陸戦隊を出すことになった帝国海軍。
こんなときの常としてノーと言えない若い大尉に指揮が任されました。

これは漫画としてストーリーを勝手に弄ったものではなく全くの実話で、
中村大尉が
「(この命令を受ける代わりに)司令部の名刀を貸せ」
と条件を付けて背中にこの大刀を指揮刀代わりに背負っていたのが、
幸いしたと言えば幸いしたのでした。

馬鹿でかい真剣を目の前ですらりと抜かれた日には、
命令をよく聞かずに飛び出してしまっても仕方ないかもしれません。

「人の命令最後まで聞けよ!」

と可愛い部下の身を案じて後を追った中村大尉が振り向くと
残り全員必死の形相でついてきていたので、そのまま突撃し、
めでたく敵基地を攻略してしまったと。

中村大尉はこの大戦果を以て「神様」にまつりあげられたのだそうですが、
これだけなら神様とは少し違うんじゃないか?
部下の勘違いが一番の要因だし、と思ったあなた。
確かにわたしもそう思いました。

しかし、中村少佐(のち)は実はその人格を部下に慕われる名隊長でもあったのです。
なので、これらの人物評価も相まって「神様」といっても誰からも文句が出なかった、
というところではないかと解釈しています。




「海軍望楼vs.都留大佐」




都留大佐は海軍内のいわゆる名物男でした。
日露戦争のときこの人物、陸海軍が合同で当たった作戦中、
陸軍軍人に対してあまりにえらそうなので、陸軍さんたちは
この人物を偉いのかそうでないのか判じかねて「上官待遇」していたら、
式典のときに階級章を見たらなんと中尉。

「あんにゃろー!中尉の分際でエラそうにしよって」

陸軍の中尉以上の軍人さんたちは皆心の中で地団駄踏んだのですが、
実は都留中尉が中尉に昇進したのはその一週間前。

中尉ではなく、少尉だったんですねー。
もしそれを知っていたら陸軍さんたちの怒りは倍増したでしょう。


そんな都留大佐、海軍時代の逸話は数知れず。
今日に残っているだけでも結構ありますから、さぞ現役時代は
何かと言うと酒の肴にその武勇伝が語られたのに違いありません。

勿論ヘル談(ヘル=ヘルプ=助=助平、つまり猥談)にも事欠かないのですが、
そこは海軍、「面白い」のポイントがなかなか上品なものが多い。

この漫画に描いた逸話も、ただの会話なら面白くもおかしくもないのですが、
このやりとりを海軍の公務として通信手にやらせると言うあたりがウケたのでしょう。


ちなみに望楼とは、海峡などに設けられた「見張り所」です。



「オペラ格下指揮者事件」




たまたまこの頃観に行ったオペラの主演歌手が当日キャンセル、
しかも、代理の歌手が一幕で崩壊してしまった事件に立ち会い、
「こんな場合に訴える人っているのかしら」
と調べてみたところ、法律関係者の間では有名な
「オペラ格下指揮者事件」
という案件があることがわかりました。

代理でドタキャンした指揮者の代わりに振ったのが「格下」だったから、
というのがその訴因だった、という案件です。


少し説明すると、わたしが観に行ったこの日、主演が
娘の病気で講演をキャンセル。
ところが代打で登場した歌手は、
おそらくプレッシャーで崩壊ともいえるミスをやらかしてしまいました。

しかし(笑)

その歌手の間違いにほとんどのこの日のNHKホールの客は
気付いていなかったのでございます。

この聴衆の音楽レベルの悲しい現実を見たエリス中尉は、

「こういう場合はコンマスが指揮者の代理をするから、
もしそうと通告されなかったらたとえ前に掃除のおじさんを立たせても、
観客のほとんどはわからなかったのではないか」

と、「訴える人」をちょい皮肉ってみました。
ちなみに「格下識者事件」ですが、この裁判は原告敗訴となりました。

というか、よくこれ不起訴処分にならなかったなあ。




「取り締まられ」





たまたま二回立て続けに「取り締まられ」たので、
うっぷん晴らしに(←嘘)漫画にしてみました。

丁度この頃APECがあって、首都圏を他府県ナンバーの
パトカーが走り回っていました。

皆パトカーを見ると急にスピードを落とし、
追い越さないように左車線にはいったりしてやり過ごすのですが、
そのとき見たパトカーが沖縄県警だったので
安心して追い越しました。

追い越す瞬間、上のような妄想をしてしまったので
それをそのまま描きました。


「善行賞」




まだ海軍の階級にあまり詳しくなかった頃、
善行章について調べたことをそのまま書いております。

軍隊ってのは階級社会ですからね。

しかも、その階級も単純に年功序列だけでもない、
だからといって、「何年海軍の釜の飯食ってるか」
みたいなことが実はモノを言ったりする社会なわけですから、
そのヒエラルキーの中で兵隊さんたちはさぞかし
現実の厳しさみたいなものを思い知ったのではないでしょうか。

まあ、階級社会の厳しさを言うなら
戦前の軍隊に限ったことではありませんが。

この漫画は、特別善行賞(何か表彰の対象になることをした)
一本の下級兵、つまり目下に向かって、
しなくてもいい敬礼をしてしまったいかつい兵隊さんの
悔しさを表現してみました。

何がそんなに悔しいのか、と傍から見ると思いますけど、
軍人さんにとってはとても大事なことだったんですよ。たぶん。










シリコンバレーのレストラン〜「猿も木から落ちる」の謎

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アメリカやイギリスには美味しいものはない、なんて誰が言ってるんでしょうか。

食べ物で評判の悪いイギリスですが、イギリス人の知人二人が結婚し、
築1000年の古城で結婚式を挙げたのに出席をしたとき、
泊まった田舎のホテルのレストランでは、とんでもなく美味しい鳥料理を出しましたし、
逆に何を食べても美味しかったフランスで、とんでもなく不味いものを出す店もありました。

どんな国にも、探せば美味しいものも不味いものもあるということなんですが、
アメリカ、とくにここ西海岸はジャンクフードも溢れている代わり、
カリフォルニア産のおいしい野菜や果物がふんだんにありますし、
センスのいい料理店も、雰囲気のいいレストランも山のようにあります。


わたしたちはアメリカ滞在中ほとんど外食しません。
美味しいレストランは高いのが当たり前ですし、さらにチップを加えると、
日本のちょっとした食事と全く変わらない値段になってしまうので。
(その点安くておいしいものがあって、しかもチップなどで「評価」しなくていい日本は
あらためていい国だと思ったりします)


というわけで滞米中の外食は日本からTOが来たときと、現地の友人に会う時だけです。
まだこのシリコンバレー地区には土地勘すらないので、通りすがりによさそうなレストランを見つけては
入ってみただけなのですが、そのどれもが「アタリ」でしたのでご紹介します。



クラシックなリッツとは対極のモダンな雰囲気は、
「フォーシーズンズ・シリコンバレー」。
東京丸の内のフォーシーズンズとはわりと雰囲気が似ています。
こちらは東京の5倍くらいの面積はありそうですが。



夕方まだ明るい時間だったので、誰もいません。
机が一列に並んでいますが、団体の予約が入っていました。
いかにもIT企業の社員、という雰囲気の団体でした。





インテリアも実にシリコンバレーっぽい。
息子はリッツの「古臭い」雰囲気よりこちらが好きだそうです。





待ち時間にipadを見なければいけない用事があったのですが、
アメリカのほとんどの飲食施設と同じく、wifiはフリーです。
キャッシャーに行って、フロントのお姉さんにパスワードをもらいます。



前菜の「桃のサラダ」。

これはサラダというよりデザートではないのか、と思ってしまいそうですが、
食べると甘くないのでやっぱりサラダなんですね。

息子はラテックス・アレルギーで、桃を食べると耳がかゆくなるのですが、
にもかかわらず食べてしまいました。
我慢してでも食べたいくらい美味しかったようです。



これは冷たいスープ、ビシソワーズです。
白い塊は甘くないクリーム。
しつこそうですがそれが実にあっさりとしたお味で絶品。

アメリカ、とくに東海岸でレストランに入ると、サラダと言えば日本の5倍の大きさで出てくるので
とても食べきれない、ということが多々あるのですが、ここシリコンバレーでそのような
「野暮」なお料理の出し方は決していたしません。

このお皿のくぼんだ部分に、少ししか盛り付けられていないので、まさに一口サイズ。
ちなみに浮き身のように見えるのは、ジャガイモなどという無粋なものではなく、
なんとブドウでございます。

アメリカ人は果物をほとんど野菜のように扱う傾向があります。



これも前菜。
グレープフルーツの乗ったイベリコハム。
生ハムと果物って合うんですよね。



メインはこれもほんの少しのニョッキ。
たしか中身はカニだったような。



もう一つのメイン、イカ墨のスパゲティ。



そして、家族三人で一皿だけ頼んだデザート。
これも桃がメインのブラマンジェかムースです。
見た目が美しい。

「リッツよりセンス良くない?」
「俺こっちの方が好き」(息子)
「さすがはIT長者なんかが利用するホテル」



食事が終わってロビーに出ると、ジャージの団体がうろうろしていました。
背中に書かれた字を見て

「ユベントスって・・・・・聞いたことあるけどなんだっけ?」(エリス中尉)
「サッカーチーム」
「どこの?」
「イギリス」

お恥ずかしい話ですが、サッカーに全く興味のないわたしは
ユベントスと言われてもすぐにはぴんと来なかったわけですが、
なにしろそのユベントスの選手がここに泊まっていたというわけです。



もしかしたらこのジャージの男が世界的に有名な選手なのか?



この二人も、サッカーファンならサインをねだってしまうのか?

しかし、実際に実物を見て思ったんですが、サッカー選手って意外なくらい
皆背が低いですね。

昔一時の気の迷いで通っていたトータルワークアウトで、
トレッドミルの上をものすごいスピードで延々と走っている背の低い男性が
あの「キング・カズ」であると知った時には

「わたしと背丈が変わらないんじゃ・・・・」

とびっくりした覚えがあります。
ついでにここにはやたら有名人の客がいるジムだったのですが、
一度、あの清原選手もお見かけしました。
この人はなにしろでかかったです。
体面積が無駄にでかい、という感じで、圧迫感ありまくりでした。

それはともかく、ユベントス、親善試合にでも来ていたんでしょうかね。
ちなみにアメリカ人は総じてサッカーには全く興味を持ちません。


さて、ここスタンフォードで、一度朝ごはんを紹介した、
「メイフィールド・カフェ」。

スタンフォードの教授らしい人たちが両側に座っていたあのカフェですが、
去年初めて行って以来、あまりにも美味しくて雰囲気も気に入ったので、
今年は朝、昼、晩と三回別の日に行ってきました。

時間によって全く雰囲気が変わり、出すものも変わります。



夜に行ったとき。
去年夕食を外で食べて寒さに震えあがったので、今年は室内をリクエストしました。



ここの自慢は生産者と契約して送ってもらう美味しい野菜と自家製のパン。
この野菜は日本ではあまり見たことがありませんが、アメリカではポピュラーで、
「アルグラ」という香草です。
癖があって好き嫌いもあるせいか、このようにアルグラだけで出すところはあまりありません。
しかし、ここのアルグラサラダは、桃のコンフィと合わせて出してきて絶品でした。

向こうはカボチャのスープです。



わたしが頼んだ、「今日のおすすめ」、
アトランティックサーモンのグリル。



そして、家族三人で一つ頼んだデザート、パンプディング。

これは美味しかった!

さすがはベーカリーカフェ、もともとのパンが美味しいのですから、
こういうものが美味しいのも当然かもしれませんが、
何しろ、何を食べても甘すぎるアメリカで、奇跡のように「甘さ控えめ」の日本人好みの味。


ところで、このお食事の時、TOはまだ日本から来たばかりでした。
さあ食べよう、というころ、ちょうど日本はビジネスアワー。
しかもちょうど食事が始まったころ、日本から仕事の電話がかかってきてしまいました。

美味しいお料理が、外で国際電話をし続けるTOの席でどんどんと冷めていきます(´Д`;)

「テイクアウトの箱に詰めましょうか?」

お店の人が見かねて気を遣ってくださる始末。
結局、ぎりぎりになって戻ってきて、いったんつめた箱から出して温めてもらい、
それを食べていました。

いくらなんでもこれでは全く味が落ちてしまったと思われるがどうか。


さて、もう一度ここに訪れたのは、アメリカの友人がLAから会いに来てくれた時です。
このときはランチタイムでした。



にぎわう店内。



お昼には外で食べる人もたくさんいます。



ここはなんといっても「ベーカリーレストラン」という名前が付いているだけあって
パンが自慢。



隣にはパン屋さんが併設してあります。
ランチの後デザートにケーキを買って帰って部屋で食べました。
ケーキは少し甘すぎだったかな。



「TISAN」というのをメニューに見つけました。
フランス語では「チザーヌ」と言いますが、これは生のハーブティーです。
農薬が使えないので、オーガニック農家と契約しているところしか
こういうものを出すことはできません。

ところで、友人と話をしながらわたしは店内を忙しく動き回る一人のウェイトレスの脚に
目が釘付けになってしまいました。



彼女の脚線美に、ではありません。
彼女が左足に入れていたタトゥーです。
それを見た途端

「これは写真に撮るしかない!」

彼女に気づかれないように、カメラをさりげなく向けるのですが、
客のアテンドをしているためなかなかじっとしてくれません。



こんな感じで何枚も隠し撮りをしていたら、知人が、

「もう頼んで撮らせてもらったら?『あなたのタトゥー、クールね』とか言って」

 しかし、この日、日曜日のブランチタイムで外に何組も客が待っている状態、
それをさばくのに文字通り脚を止めるのも時間が惜しいという風情の彼女に
声をかけることは、気の弱い日本人にはとてもできませんでした。

そして、幾多もの失敗を経て、ようやく・・・・。



なぜ彼女がこの文句を選んだのか。
彼女にこのタトゥーを奨めた彫り師は、何人で、意味をちゃんと説明したのか。
なぜこの文句なのに図柄が桜の花なのか。


日本人としては聞きたいことが山ほどありましたが、
日本人だからこそどうしても聞けませんでした。 


 

おまけ*ホール・フーズの日本食品コーナーで見つけたなごみ商品。

中身によって招き猫の色が違う・・・・。

 

おまけその2*
ホールフーズで見つけた豆腐コーナーのサイン。
牛や豚肉みたいに、「部位別」の名前がかいてあります。 



 



 

 

旅順港閉塞作戦〜「広瀬中佐は死したるか」

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「坂の上の雲」の放映によって、主人公の秋山兄弟以外に注目されたのが
なんといっても広瀬武夫中佐(戦死後)でしょう。

海軍から派遣された留学先のロシアでロシア軍人の娘と恋に落ちたこと、
現地で最も愛された日本軍人であったこと。
そしてその魅力的な人間性と、軍人としての死にざまが今日も共感を呼ぶのでしょう。

本日タイトルの「広瀬中佐は死したるか」
この言葉は、二曲作曲された軍歌「広瀬中佐」の有名でない方から取りました。

因みにこの軍歌はこのようなものです。

1.
一言一行いさぎよく
日本帝国軍人の
鑑を人に示したる
広瀬中佐は死したるか

2.
死すとも死せぬ魂は
七たびこの世に生れ来て
国のめぐみに報いんと
歌いし中佐は死したるか

この軍歌、この後も情景を語りつつ14番まで(!)延々と続きます。
巻末に残りを記しておきますので、興味のおありになる方は読んでみてください。



広瀬を演じた役者の配役の妙もこの傾向に輪をかけたと思われます。
(今調べて、この藤本隆宏が元オリンピックの水泳選手だということを知り、
驚いてしまったわけですが)


さて、近代になっての最初の軍神が、この広瀬武夫です。

日本の軍神と呼ばれる軍人たちの死にざまを見ると、
敵を壊滅させたり大戦果を挙げた人物ではなく、たとえ佐久間大尉のように
事故における死において、指揮官として恬淡と、莞爾とその途に就いた者、
加藤健夫少将のように技量もさることながら非常に人徳があり慕われていた者、
何と言っても象徴的な犠牲となった者(真珠湾の九軍神、関行男、松尾敬宇)
そして決死隊と自らなった者(肉弾三勇士)、そしてこの広瀬武夫のように

「自らの命を顧みず、部下を案じ気遣った」

つまり、That others may live を地で行くような、
他のために殉じた死に軍神の名が与えられています。
他の国の軍神が(あるのかな)どんな場合に認定されるのかわかりませんが、
このあたりが実に日本的であると思われます。



さて、冒頭写真ですが、記念艦三笠に保存されている広瀬中佐の直筆の手紙。
「松島」艦長の川島令次郎大佐に、第一次作戦と第二次作戦の合間、
おそらく第二次作戦の決行のために訓練をしていた福井丸船上でしたためられています。

第一次作戦に続き、第二次作戦に参加する心境を綴ったものですが、
文中自分のことを「武夫ハ」、川島大佐のことを「大兄」と称していることから、
「朝日」の副長であった川島と、乗り組み士官の広瀬は、もしかしたら
兄弟のような親しい付き合いをしていたのかもしれません。

この書簡は3月22日、第二次作戦の5日前に記されましたが、
最後となる3月27日の作戦決行前、福井丸に乗船する際家族に宛てて書かれた絶筆には

「再び旅順港閉塞の挙あり。
武夫は茲(ここ)に福井丸を指揮して武臣蹇々(けんけん)の徴(しるし)を到さんと欲す。
所謂一再にして己まず、三四五六七回人間に生まれて
国恩に酬いんとするの本意に叶ひ、踴躍(ゆうやく)の至に不堪候。
今回も亦天佑を確信し。
一層の成功を期し申候。

七生報国 七たび生まれて国に報ぜん

一死心堅 一死 心堅し

再期成功 再び成功を期し

含笑上船 笑みを含みて船に上がる

時下、母上様、叔父上様始め、各位のご自愛を望み、一か親籍の
倍倍の繁栄を祈り居申候也。

再拝 武夫」


と書かれています。

含笑上船、を自分で四文字熟語にしてしまっているあたりに、
諧謔が垣間見え、自分の死を恬淡とこのように語ることで
家族に心配をかけぬようにする気遣いすら見えて、

「崇高な義務心に満ち満ちた玲瓏玉のごとき快男児」

(広瀬と親交のあった帝大の政治学者小野塚喜平次博士の広瀬評)

という広瀬の人間性がこの文章と、のびやかで美しい筆致から覗えます。




これは作戦に参加する人員名簿。

第二閉塞隊は指揮官広瀬武夫を筆頭に名が連なっていますが、
名前のあとのカッコ内は所属の艦船が書いてあります。
さらに、あの杉野孫七上等兵曹は、指揮官附き、つまり
広瀬のアシストのような役目を帯びて乗船していたことがわかります。

そして皆さんもご存知の通り、自沈させる福井丸を、部下である
杉野孫七兵曹の名を呼びつつその姿を探し求めた広瀬は、
部下に促されて船艇に乗り移りますが、砲弾の直撃を受け、
「一片の肉片を残して姿を消した」とされます。


ここで、当時の資料の間違いらしき部分を発見してしまったエリス中尉です。



この作戦の四名の戦死者は広瀬、杉野のほかは、この資料の
3月30日、つまり作戦3日後に朝日艦長によって作成された報告書の資料によると

「菅波政次 二等通信兵曹」
「小林吉太郎 一等機関兵曹」(赤で囲んだ一番左)

となっています。
(防衛庁資料室所蔵、『第二回閉塞作戦ニ関スル報告書』より)

しかし、「坂の上の雲」ではどうしたわけか、
この最後の一人、広瀬の乗っていたカッターでやはり砲撃されて戦死するのが

「小池幸三郎 二等機関兵」

となっていました。
NHKの考証係が間違えたのか、
それとも原作の「坂の上の雲」がそうなっているのか、と思ったら・・・・・



この写真。
以前、やはり記念艦三笠でその写真を撮ってきて、
説明が無かったのでてっきり日本海海戦後の写真だと思っていたのですが、
棺の上に書かれた戦死者の名前をご覧ください。

海軍一等機関兵小池幸三郎の棺

海軍一等信号兵曹長菅波政治の棺

菅波政治は閉塞作戦の戦死者の名前です。
そう、これは紛れもなく広瀬の乗った福井丸の乗組員の、
寄港直後の写真なのです。

そこで、棺の名前が「小池幸三郎」で、報告書とは違うということがわかります。
福井丸の乗員が戦死者の名前を間違うことはありえないので、
朝日の艦長が戦死者の姓名と傷病者を間違えた、と考えるのがよさそうです。

ところで。

この写真、以前、第一次記念艦三笠見学記において
「目も上げられないほど、戦友を失った悲しみに打ちひしがれている」
と、全くモノを知らない状態であったエリス中尉、このような
適当なことを書いてしまったわけですが・・・・。

ここに写っているのは真ん中で簀巻きになっている者を合わせると13名。
両端の棺に入っている人を加えると15名。
広瀬少佐と、杉野上等兵の体は、ここにはありません。

しかし、福井丸に乗り組んだ下士官兵たちは、何とか二人を写真に加えようとしました。

それが、前列右側の目を伏せる兵が両手に持つ、ちいさい白木の箱です。

彼の左手の箱には作戦前に遺した杉野兵曹の遺髪が、そして右側には
広瀬少佐が船艇に遺した「一片の肉塊」が入っているのだそうです。


そう思うと、この兵のみならずここに写っている全員の、悲壮な表情の意味は
随分と重いものを伴って胸に迫ってくるのを感じずにはいられません。


広瀬中佐のことについて、もう少し話をつづけることにします。



広瀬中佐

3.
われは神州男子なり 穢れし露兵の弾丸に
あたるものかと壮語せし ますら武夫は死したるか

4.
国家に捧げし丈夫の身 一死は期したる事なれど
旅順陥落見も果てぬ 憾みは深し海よりも

5.
敵弾礫と飛び来る 報国丸の船橋に
わすれし剣を取りに行く その沈勇は神なるか

6.
閉塞任務事おはり ひらりと飛乗るボートにて
竿先白くひらめかす ハンカチーフに風高し

7.
逆まく波と弾丸の 間に身をばおきながら
神色自若かえり来し 中佐の体はみな肝か

8.
再度の成功期せんとて 時は弥生の末つ方
中佐は部下ともろ共に 勇みて乗り込む福井丸

9.
天晴れ敵の面前に 日本男子の名乗して
卑怯の肝をひしがんと 誓ひし事の雄々しさよ

10.
かくて沈没功なりて 収容せられし船の内
杉野曹長見えざれば 中佐の憂慮ただならず

11.
又立ちかえり三度まで 見めぐる船中影もなく
答うるものは甲板の 上までひたす波の声

12.
せん方なくて乗り移る ボートの上に飛びくるは
敵のうち出す一巨弾 あなや中佐はうたれたり

13.
古今無双の勇将を 世に失ひしは惜しけれど
死して無数の国民を 起たせし功は幾ばくぞ

14.
屍は海に沈めても 赤心とどめて千歳に
軍の神と仰がるる 広瀬中佐はなほ死せず

旅順港閉塞作戦〜広瀬武夫の「最後の言葉」

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旅順港閉塞作戦で壮烈な最期を遂げた広瀬少佐と杉野兵曹長の像が、
東京秋葉原の万世橋、以前交通博物館のあったあたりに立っていました。



それがこの写真と同じ意匠のものです。

万世橋駅と周辺

この東京絵葉書によるとかなりおおきなものだったようです。
この像は終戦後になってGHQによって撤去されてしまいました。
当時「軍人を称える」ということがGHQ的にはアウトだったので、
このようなものが次々と消えて行ったわけですが、戦後70年、
「坂の上の雲」で人気が出た?こともありますし、広瀬中佐の偉業は
むしろ「人を思いやって命を失った」ということにありますから、
戦後レジームからの脱却が成ったあかつきにはこの広瀬中佐像も
もう一度復活させてもいいのではないでしょうか。

秋葉原に置くのですから、せっかくなら「萌え」風で・・・・(顰蹙)


さて、今日は改めて広瀬中佐の最後についてお話ししてみます。




防衛省資料室に残る戦死状況報告書。

軍船朝日第五回戦闘詳報附録
福井丸決死隊員死傷及び救助の状況

一 戦死の状況
      軍艦朝日水雷長海軍中佐 廣瀬武夫

右は福井丸に指揮官として本月27日午前4時15分頃
旅順港口に突入し同船を予期の位置に沈浸せしめ
部下一同を率い、同船を退去せんとするにあたり
兵曹長杉野孫七在らざるを以て船内を三度捜索したるに見当たらず

而して海水は暫時進入し仝船(どうせん)上甲板を浸入し至りたるを以て
瑞艇(ずいてい)に移乗し艦長と相並(あいならび)て位置を占め
港外に向かて退去の途中に墜落し、救わんとしたるも及ばず
戦死せられたり


というのがこの報告書に見える文言です。
これだけだと、確かに巷間伝わる「広瀬中佐の最後」そのままです。

これをもう少し詳しく補足していきます。


広瀬武夫海軍少佐の乗った閉塞船「福井丸」には、
ロシア艦隊の駆逐艦「シーリヌイ」の魚雷が命中し、
徐々に沈み始めていました。



「福井丸」の乗員は広瀬少佐含む18名。

閉塞船を沈没させた後は、乗員は手漕ぎの短艇(カッター)で港の外まで脱出し、
第三船隊に救出される予定となっていました。

広瀬少佐は総員退去を命じ、短艇に乗り込んで点呼を行ったところ、
杉野孫七兵曹長がいないことが判明します。

広瀬少佐は船内に戻り(報告書によると三度短艇と船内を往復した)
杉野兵曹長を捜索しますが、探し当てることはできませんでした。

しかし沈んでいく「福井丸」の甲板にはもう海水が迫ってきており、
ロシアの攻撃は地上の砲台からも、海上の駆逐艦や水雷艇からも、
「福井丸」に集中し、このままでは全員の生命も危険です。

やむなく広瀬中佐は短艇に乗り移り、「福井丸」から離れるように命じました。

その直後。

敵の陸上砲台の放った一発が、広瀬少佐らの乗った短艇を襲い、
何人かに負傷を負わせ、広瀬少佐を直撃します。

この時の負傷者は報告書によると

海軍大機関士 機関長 栗田富太郎
海軍一等機関兵 中条政雄

の二名。
別の記録によると負傷者三名」ということなので、
前回問題にした、報告書で死亡扱いになっていた「小林吉太郎一等機関兵」
は、負傷者でしょう。


これによると、福井丸に乗り組んでいた階級の
上位から三人全てが戦死あるいは負傷したことになります。

これは、短艇に乗り込むときに彼らが「階級の順列」に則っていた、
ということの証明でもあるかと思われます。

 

またまたこの写真を出してきます。
真ん中の簀巻きがどうも栗田機関長のようです。
もう二人の負傷者は、軽傷だったのかこの写真からはわかりません。

右の写真には囲み写真がありますが、広瀬少佐にはどうしても見えません。
アップにしてみると、軍帽が士官のものに見えないのですが、着ているのは
どうも通常礼服のようですし・・・。

このころの写真は修正しまくるので、人相が変わってしまったのかもしれません。

そして、右の写真を左と比べると、囲み写真の下に人影が見えます。
彼らを揚収した第三艦隊の水兵であろうかと思われます。
棺と広瀬少佐の肉塊を入れるための小箱はすぐさま用意されたのでしょう。

負傷者が病院に収容されていないこと、そして小箱を持った兵の表情から、
これはまさに27日中に撮られた写真であるらしいことがわかります。

さて。

皆さんは「坂の上の雲」の「広瀬、死す」をご覧になりましたか?




短艇上の広瀬がふと空を仰ぐ。
彼の命を次の瞬間奪うことになる砲弾が空を切ってくる気配に。

最後の瞬間、彼の脳裏をかすめたのがこの光景だった。

「あれはなんていうの?」
「・・・アサヒ」

二人の手が重なったとたん、広瀬の体と、その記憶は消滅する・・・・。



好いシーンでしたね。

今までの、たとえば加山雄三が演じた広瀬爆死のシーンは、
淡々とその事実を描くことに終始していましたが、
この「坂の上の雲」の場合、広瀬はほとんど準主役のような位置づけですし、
この、ロシア海軍の将軍の娘であるアリアズナとの淡い恋愛が、
いわばこのドラマの白眉ともいえる部分ですから、念入りに感情表現がされたわけです。


だがしかし(笑)


事実は若干趣の違うものであったようです。
第二回作戦に参加した高橋吉太郎、旧姓小林吉太郎
(報告書で死んだことになっていた人)が、その後語ったところによると、


総員退去し、短艇を漕ぎだしたとき、
頭上を飛び交う砲弾の音の凄まじさに
誰もが顔をこわばらせていた。

そんな水兵や機関兵の顔をみた広瀬少佐、

「睾丸握れ。睾丸。皆睾丸は二つあるか」

皆の気持ちを落ち着かせるべくこう言ったのであった。


・・あれ?


このエピソードも、確か「坂の上の雲」には登場しましたが、
作戦前に、広瀬が皆に檄を飛ばすシーンでしたよね?

しかし、小林機関兵の証言によると、実際はこうです。

広瀬少佐のこの言葉に、皆が勇気づけられる思いでカッターを漕ぎ出した。
次の瞬間、砲弾が直撃して少佐は爆死してしまった。


つまり、


「これが広瀬武夫の人生最後の言葉」


だったということなのです。

ロシアに遺してきた永遠の恋人との美しいひとときを走馬灯にめぐらせたのではなく、
「二つあるか」が実は広瀬少佐の「遺言」であったと・・・・。


確かに「坂の上の雲」のこのシーンは美しく、切なく、
この手の「狙った感じ」には非常に冷淡なエリス中尉ですら、
思わず涙がじわりと浮かんでしまったのですが、案の定NHKは
こういうシーンを「お約束仕立て」していたんですねー。


しかし、実際に部下の心を落ち着かせるために言ったこの人間臭い言葉こそが
廣瀬武夫という人の最後に相応しいとは言えませんでしょうか。
少なくともNHKの創作したきれいごとなどより、わたしはこのような真実にこそ胸を打たれます。

もし、「坂の上の雲」映像化に当たって伝わっているこの話どおりに廣瀬の最後を描いてみせていたら、
きっとわたしはNHKをいろんな意味で見直していたと思います。

そんなことには今後も決してならないのはわかっていますが。





 

海上自衛隊東京音楽隊第48回定例演奏会 前半の部

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「一度ちゃんとした海自音楽隊の演奏をコンサートホールで聴いてみたいものだ」

と思っておりましたが、早くもその機会が訪れ、冗談抜きで天にも昇る心地で
東京音楽隊の定例演奏会に参加してきたエリス中尉です。
いつもであれば、どうやってこのようなプラチナチケットを、しかも最近、
専属歌手や専属ピアニストの採用によって一般にも非常に関心の高い
東京音楽隊のコンサートチケットをどうやって手に入れたのか、
繰り返しますがいつもであれば嬉々としてここにご報告(ついでに自慢)してしまうところですが、
今回はいろいろと配慮すべき面がございまして、そのあたりはさっくりと割愛いたします。

ただ、このコンサート鑑賞実現に対しご高配賜った関係者の方には感謝してもしたりないほど、
素晴らしい一夜となったことに対し、せめてこのブログで海自音楽隊の素晴らしさを
喧伝させていただくことでせめてものお礼に代えさせていただきたいと存じます。


 

さて。

2013年9月14日、すみだトリフォニーホール。



開場は一時間前。

わたしは万が一のことがあってはと早めに現地に到着しました。

手配していただいたのは「招待券」でしたので、窓口で何の苦も無く
座席指定券と交換していただけましたが、一般応募の方は
当日窓口で座席指定券と交換ということをするシステムのようです。

実は、このコンサートには息子を二人分の席を用意していただいていました。

人数が少ないため高等部のミュージカルに応援のためにチェロ演奏で駆り出されて、
最近より一層音楽好きになった息子は、非常にこのコンサートを楽しみにしていたのですが、
当日に急にそのミュージカルの練習が入ってしまったのです。
本人も泣く泣くあきらめ。結局わたし一人の参加となりました。

兼ねてからお世話になっていて、歌手の三宅由佳莉三曹にも興味をお持ちの方を
ぎりぎりになってお誘いしてみたのですが、さすがにぎりぎりすぎて
(会場に向かう車からメール)「今東京にいないので無理」との返事。

わたしは全く気付いていなかったのですが、三連休の初日だったんですね。世間的には。

一般申込客は上の写真のように、一時間前から座席交換のために列を作り始めています。
開演10分前に所用で外に出たら、列に並ぶ人たちに、整理係の自衛官が

「ただ今満席状態で、ここにお並びの方は入場できない可能性もあります」

とアナウンスしていました。
普通のコンサートのようにチケットを利用しなければそこは空き席になってしまうのかと、
非常に心苦しい思いをしていたわたしはこの光景を見てホッとした次第です。



すみだトリフォニーホールは初めて来ましたが、ホテルが併設されており、
例によって(笑)立派すぎるほど立派なホールでした。
中村紘子氏が「全国どんな地方にも不思議なくらい立派なホールがある」
と感嘆したところの、日本のハコもの地方行政の成果とでも言いますか。
(非難してるんじゃありません)



この日、息子のチェロの練習の譜読みにずっと付き合っていたので、
昼ごはん抜き状態のおなかにホールの併設バーでサンドイッチを入れました。

不思議なくらい美味しいサンドイッチでした(笑)

やるなあ、すみだトリフォニーホール。
もしかしたら隣の東武ホテルの経営かもしれません。



食べ終わっても開演まで時間があったのでロビーで売っているCDを見に行きました。
やはりここにもある自衛艦旗。



このデスクではこのような東京音楽隊の広報パンフを配っていて、
前に立つと、自衛官が

「お持ちください。CDも付いています」

何っ?!



本当だ。
さすがは親方日の丸の自衛隊音楽隊。
入場が(当たり前ですが)無料であることや、CDを来た人全員に配るというのも、
他の団体主催のコンサートではありえません。

改めて思うのですが、こういう活動というのはすべて、
税金という形で彼らを支えている国民への還元という意味があるのですね。

ちなみにこのCDですが、写真にも少し見えるように、「君が代」に始まり「軍艦」で終わる、
海自音楽隊ならではの選曲となっています。

以前このブログでご紹介した音楽隊長の河邉和彦二佐の作曲した「イージス」や、
今超話題の三宅三曹の「われは海の子」、そしてなんと、ベルリオーズの「幻想交響曲」から、
「断頭台への行進」「ワルプルギスの夜」が収録されており、お値打ちです。




プログラムから転載、音楽隊長、指揮者であり作曲家でもある河邉二佐。

驚いたのは、入隊後、三年に亘って一般音大で指揮の勉強をしていたこと。

そういえば、昔、横須賀に集められたいわゆる「エリート音楽隊員」は、
東京藝大で芸大生と席を並べて研修をした、という話をエントリに書いたことがあります。
河邉二佐の場合は少し特殊な例だったのではないかと思われますが、
旧軍と同じやり方で、こうやってスキルを高めることを今でもやっているんですね。



開演前のホール客席。
正面に据えられたパイプオルガンは地方ホールの「実力」の証です。

ご覧のように、一階の20列、という、音楽を聴くにはベストともいえる席です。
そして少し左側、つまりピアニストの手許が見える場所。
しかも、前が通路で前列に座高の高い人が座って視線が遮られ、
わずかにイライラすることもまずない、完璧な場所です。

どれくらい完璧かというと、もしどこでもいいから好きな場所に座りなさい、
と言ってもらえたら、わりと迷うことなくこの席を取っていたというくらいです。


客層は年配の男性がいつもより多い気がしました。
しかも彼らの多くが客席で「お久しぶりです」というような挨拶を交わしあっていて、
やはり元、そして現海自関係者が招待されているのかなと感じました。


さて、コンサートが始まりました。

セルゲイ・セルゲービッチ・プロコフィエフ ピアノ協奏曲第三番ハ長調作品26
ピアノ独奏 太田紗和子二等海曹



最近、当ブログに来る方の検索ワードで一番多いのが、この
太田佐和子二曹の名前だったのですが、その理由は、
このコンサートで彼女がプロコフィエフのピアノコンチェルトを演奏するからだったらしい、
ということに遅まきながら気づいたエリス中尉でございます。


この日のコンサートの前半は、太田二曹のプロコのPコンのみ。
そして後半がいかにも自衛隊らしいビッグバンドのレパートリーや、
河邉二佐のオリジナルだったわけで、もうこれは東京音楽隊のコンサートでしかありえない、
レアな演目だったといえましょう。

この、プロコフィエフという作曲家は、特にピアノが「打楽器」であることを
改めて認識させられるような曲を書く人で、このコンチェルトもその典型であると思うのですが、
だからといって聴く方に難解というわけではなく、この曲もその打楽器的な部分が、
複雑なリズムに慣れた現代人には、むしろ「面白い」と認識されるのではないでしょうか。

そんなに長大ではなく、しかも見た目にもヴィルトオーゾ好みのいわば派手な演目なので、
ピアニストにも人気があり良く取り上げられる曲です。

このプロコフィエフという人は、革命の後ロシアからアメリカに亡命しているのですが、
その亡命の経路が、シベリアから日本を通過するというもので、つまり彼は
日本にしばらくの間滞在していたということになります。


このピアノ協奏曲第三番の最終楽章には、「越後獅子」が流用されたと言われる部分があり、
たしかにイ短調の三拍子のメロディはそう聴こえないこともありません。
コンサートのプログラムには必ずこのことが書かれ、
この日の東京音楽隊のプログラムにもそう書いてはありますが、実はこれは
はっきりと日本の民族曲を採用したプッチーニの「蝶々夫人」などとは違って、
単なる「噂」である、とされる説もあります。

音列は完璧に一致していませんし、もしかしたらプロコフィエフが「日本で聴いたあのメロディのような」
というイメージだけを取り入れた可能性はあるかもしれないとは個人的に思いますが。


長々と解説しましたが、この曲を選ぶとは何と意欲的な、と思ったのは、
この曲はピアノ協奏曲と言いながら、オーケストラが非常に密度が高いことで、
つまりどういうことかというと、ピアノとオケの力配分がほぼ同等であるからです。

しかも、東京音楽隊は本来弦5パートが付随しているオケ部分を、
ブラスバンドの編成でやってしまっているあたりが、凄いと思いました。
プログラムによると、この編曲をしたのは川上良司一等海曹。

そう、つまり自衛隊内ですべてをまかなってしまっていると。

とてつもなく下世話な疑問ですが、たとえばこのような快挙(とわたしは思います)を
成し遂げた川上一曹には、編曲代は別に出るんでしょうか。
ついでに言えば、ピアノコンチェルトを弾いた太田二曹には?

さて、その太田二曹ですが、実物を見ると非常に小柄な女性で、もし外国人なら
「こんな小さな女の子が・・・」
と真面目に言いそうなくらいのキュートな体格。

しかし、彼女の演奏家歴を見ても、この曲を弾きこなすに不足はなく、
現に、成熟したテクニックで難なくこの難曲を聴かせて聴衆を沸かせていました。


ただ、この日ここにいた聴衆が「日ごろクラシックのコンサートには行かない層」であるらしいことを、
コンチェルトの楽章ごとにいちいち巻き起こる拍手が表していました。
昔、あるオケの地方公演に事情があってついて行ったことがあるのですが、
そこがいわゆる「僻地」であればあるほど、この「楽章間の拍手」は普通に行われ、
それがその土地の「文化習熟度音楽の部」を知る一つの目安となっていたものです。

楽曲というのは楽章全部で一曲なので、特に演奏者は、その間も緊張を維持しますから
これを嫌う人は実は多いのです。

太田二曹は、正統派のクラシック畑を歩んできた人ですが、自衛隊に入隊した時点で、
彼女の音楽を聴く「層」が微妙にスライドしていることをどのように考えるか、少し気になるところです。

しかし、それは第三者から見ると「クラシック界」というフィールドから、より多くの層に向かって
開かれた世界の架け橋になっているということでもあり、それはとりもなおさず
太田二曹がそうなることを自ら希望した選択の結果でもあったのでしょう。

以前このブログで「率先して当直に立ち、特別扱いされることなく、一隊員であることを優先」
と彼女のことを書いたところ、「クラシック畑」の方からはこの事実自体が不評だったようです。
そういう「苦労話」を喧伝することが演奏家の扱いとしてはいかがなものか、
という観点からのご意見ではなかったかと思います。

しかし、歌手の三宅三曹についてもいえることですが、太田二曹の「価値」というのは
純粋な音楽家としてのそれに加えて、彼女が「自衛隊員」であるということなのです。

ソリストなのにカッターの練習をし、譜面台運びもして、その名には必ず階級付けで呼ばれ、
そして、ピアノコンチェルトを演奏するというのに、いかにも肩の動かしにくそうな、
自衛隊音楽隊の演奏服を着ることしか許されない、(ですよね?)つまり、
「自衛隊付き」の音楽家として、彼女は初めて評価されているわけです。

もしかしたら彼女には失礼な言い方になるかもしれませんが、
その「タイトル」を取ったところに、今現在彼女に向けられる「注目」はなかった、
と、わたしは厳然たる事実を以て断言します。

もちろん(ここからが本題ですよ)、その世界の中で彼女がこれからどう伸びていくか、
それは彼女次第であるし、自衛隊員というフィルターなしで演奏そのものが評価されるかどうかも、
全て彼女の実力次第であると思われます。

そして、この日のプロコフィエフは、そういう彼女の意気込みが感じられる選曲でした。

ただ一つ。

ピアノとオケのバランスがときおりピアノを埋没させてしまう結果になっている気がしました。
これは決して彼女の演奏が線が細いというわけではなく、編曲の限界というか、
弦を使わないオーケストレーションのため、どうしてもこうなってしまうのかと解釈しましたが。


ともあれ、溌剌とした演奏は、自衛隊音楽隊の演奏を言う枠にとらわれず、
聴衆に与える喜びだけでない、可能性の広がりを感じさせて秀逸でした。

つまり一言でいうと、よかったです(笑)



長くなってしまったので後半については次回お話しします。 






 

海上自衛隊東京音楽隊第48回定例演奏会 後半の部

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9月14日、東京はすみだトリフォニーホールで行われた。
第48回海上自衛隊東京音楽隊定例演奏会についてお伝えしています。

プロコフィエフのピアノ協奏曲3番という「渋い」演目で前半を終了し、
後半には打って変わって、というか自衛隊音楽隊の本領発揮というべきプログラムが
ゲストを迎えて息つく間もなく演奏されました。

INTO THE LIGHT〜光へ〜/河邉一彦二等海佐

これは、プログラム三番の

BLUE SUNSET ブルーサンセット

とともに 「自衛隊作曲家」である河邉二佐のオリジナル作品です。

ともに、まったく先入観なしで聴いても「海」を感じさせるテーマを内包しており、
以前ご紹介した「イージス」が、ラッパ譜のモチーフがメロディとオブリガート、
あるいは通奏低音のように絡んでくるという、「自衛官にしか書けない曲」であるように、
これらもまたそういう意味では特異なジャンルに属するのではないかと思われます。


ところでわたしは、この日ロビーで三宅由佳莉三曹のアルバムを購入しました。
このCDを聴いても、たとえば久石譲などの聴いても 思うことですが、
「ああ、日本人の曲だなあ」
とすぐ分かってしまう佇まいの音楽があります。

たとえば息子が聴いている、ゲーム音楽ばかり集めたアルバムでも、
明らかに日本人の手による音楽には「日本人らしさ」が節回しにはっきりとあって、
すぐにそれとわかってしまうのです。
たと西洋音楽の理論によって書かれ、ジャズやサンパのリズムであっても、
メロディだけは不思議と「日本人らしさ」を隠せないことが多いのです。

一昔前、それこそ1970年代ごろ書かれた軽音楽には、この「日本人らしさ」が、
どちらかというと洗練されていない臭味のように感じられるものが結構あるのですが、
昨今ではそれらはソフィスティケートされているうえに、
その日本らしさこそがユニークな味付けとして世界にも受け入れられているといった感があります。

河邉二佐の手による曲にはこの「日本人の血あるいはDNA」の存在が非常に濃く感じられ、
たとえば「交響組曲《高千穂》」のように、民族情緒と西洋音楽が融合し、
そこに「大衆に膾炙するポビュラリティ」がほどよく塗されていると言えましょう。

しかも(笑)

東京音楽隊には、「最終兵器」である歌手、三宅由佳莉三曹がいて、
ヴォーカルを曲のごく一部にだけ加える、ということが可能なのです。

本日演奏されたこの二曲でも、曲の途中で彼女が登場し、一節歌って引き上げる、
という、普通なら考えられない贅沢な?構成がなされていました。

皆さまもすでにご存じ、この三宅三曹は、4年前に自衛隊初の歌手として入隊した、
今注目のヴォーカリスト&自衛官ですが、彼女をソロ・ヴォーカルとして歌わせるだけでなく、
ヴォーカルをこのように楽団の一つのパートとして扱うという、ある意味非常にユニークな音楽形態を
日本国海上自衛隊は新境地として編み出したといっても過言ではないでしょう。

曲の途中に、すらりとした彼女が爽やかな風のようにステージに現れる。

それだけで会場の空気さえさっと変わるほどの存在感は、
最近彼女に対する世間の注目が非常に高いことと無関係ではないでしょう。
それは「時の人」の持つ独特なオーラと言ってもいいものでした。


ココベリ /エリック宮城(みやしろ)



ここでゲスト登場。

出てきた途端、空気が変わったのはこの人も同じでしたが、それはなんというか
「自衛隊」とこの、金髪を肩まで垂らした堂々たる体格のトランペッターの
「違和感」によるとことが多かったのではないかと思われます。

しかし、この金髪おじさんが、凄かった(笑)

上の経歴を見てもその実力がお分かりだと思いますが、
トランペットの演奏はもちろんのこと、この「ココベリ」という、
アメリカ先住民族の精霊の名をつけたオリジナル曲や、

ロッキーのテーマ/ ビル・コンティ

の編曲の巧みさにも唸ってしまうほどでした。
ロッキーのテーマは、ご存知のように冒頭の

「パー パーパパパーパパパーパパパ パー パーパパーパーパパーパーパパパ

パーパパパーパパーパーパーパー パーパパパパーパーー」

のあと(分からない人すみません)メロディに入るわけですが、
ここをメロディに入る!と思わせて古典ファンファーレ風終止をするようなアレンジをしており、
「おお、やるな」と思わせました。

エンターティナーとしてもキャラの立った人で、見ていて本当に楽しいステージ運びをします。
アンコールでは、

「マリア」ウェストサイド・ストーリー/ レナード・バーンスタイン

をしてくれたのですが、作曲者のバーンスタインから直接聞いた話として
作曲におけるバーンスタインのこだわりを聞かせてくれました。
少し専門的な話になるのですが、面白かったので書いておきます。

「まり〜あ〜」

というこの曲のメロディは、Bフラット、変ロ長調のキイで

「シ♭ミ〜ファ〜」

という音を充てます。
B♭の基本三和音というのは、シ♭・レ・ファでできていますから、「マリーアー」は、
第一音と第五音のシ♭とファに、不協和音をなす「ミ」の音が入っているわけです。

バーンスタインに言わせると、この

「シ♭はトニー、ファはマリアを表す」

では、この、B♭の和音でいうと減5にあたる「ミ」の音は何かというと、
「二人の間に横たわる障害」を表すのだそうです。

エリック氏もこの時に言っていましたが、昔、古典の時代、音楽そのものが
神に対する讃歌であり貢物であった時代には、不協和音というのは「悪魔の響き」であり、
それを使うことは「異教」にも通じる罪悪だとされたのです。

ちなみに、いまメジャー7と呼ぶところの第七音なども厳禁されていました。
その「悪魔の音」である♯11th(第11音)を、全く禁じられていない現代において、

バーンスタインは「ネガティブなもの」の象徴としたというわけです。


一音一音に実は宗教的な意味があった昔はもちろん、近代、現代の作曲家が
音列や音名にある「意味」を込めることは珍しくありませんが、この「マリア」に
そういう意味があったことは知りませんでした。


フォー・ブラザーズ/ジミー・ジェフリー

この曲を、男女4人のジャズ・コーラスグループ、マンハッタン・トランスファーの演奏で知った、
という方もおられると思いますが、もともとはビッグバンドのための曲で、
この「四人兄弟」とは、ソロを取るサックスのホーンセクションの粋な兄さんたちのことです。

ビッグバンドジャズではそれぞれのボックスがあってそこに立ち上がってソロを取るのですが、
海自音楽隊においては、いちいち前に出て来てアドリブ演奏をします。

アドリブはコーラスパートをワンコーラスずつ受け継いでいくのですが、終わった時
観客はソロ奏者に対してねぎらいの拍手を送ります。

しかしこの日の観客は、その拍手のタイミングが「始まるのが遅く、終わるのが遅い」
つまり、皆が拍手するのを聴いてから拍手を始めるため、
次の奏者のソロが始まっているのに拍手が続いてしまっている状態でした。

こういうのを見ると

「ジャズ”も”あまり聞き慣れていない客層なんだな」

と考えずにはいられませんでした。
しかしそれは決して否定的な意味ではなく、クラシックにおける「楽章間の拍手」の件でも言ったように、
「そのジャンルに精通していない人たちにももれなく楽しみを提供する」
という本来の音楽隊の使命がちゃんと果たされていることでもあると思った次第です。

この曲が始まった時、小柄な、しかしネクタイの激しく「玄人っぽい」(つまり派手)、
年配の男性が、団員に混じりました。



日本のビッグバンド界の長老というこの方が、自衛隊音楽隊に、ビッグバンドのレパートリーを
アレンジ提供し続けてきた方のようです。

この後演奏された

フリーダム・ジャズ・ダンス/エディ・ハリス

スペイン/チック・コリア

など、ジャズのナンバーの編曲はこの方の手によるものだということがわかりました。
このスペインは、フュージョンのプレイヤーならずとも、ジャズプレイヤーならおそらく
一度は演奏したことがあるのではないかと思われるスタンダードとなっています。
わたしもセッションではよく取り上げたものです。

ところで、この際だから少し言っておきたいことがあります。

自衛隊演奏の「スペイン」、これ、違うんですよ。オリジナルと。
いつも思っていたのですが、そしてオリジナルを知っていて、かつ実際に演奏する人間には
とても気持ち悪く聞こえるのですが、



 

これがオリジナルの譜面です。
おせっかいにも数え方を赤で記しておきました。

「出だしのユニゾンに続く二回の『たーたったー』 。
この数え方は、本来「3拍+4拍」(+一拍休み)なのですが、自衛隊の演奏は、
わたしがitunesでも持っているものもこの日の演奏も、ここのところが

「タータッターーー」(4拍)
「タータッターーー」(4拍)

なんですよ。
普通というか、安易というか、当たり前のリズムに変えられてしまい、オリジナルの
この激しい変拍子の緊張感が全く無くなってしまっているんですね。

ちなみに後のユニゾンのところ、




ここのところも、オリジナルとは微妙に違うのでいつもキモチワルイです。
面倒くさくなったので解説は省きますが、譜面の読める方はこれと自衛隊演奏の
リズム(一部メロディも違う)を比べてみてください。

海上自衛隊「スペイン」

パイレーツオブ・カリビアンの「彼こそが海賊」の2拍3連の演奏でもそうですが、
海自音楽隊の演奏レベルを考えれば、ここを安易にする必要も全くないのに、
簡単な(しかもつまらない)リズムにしてしまっているのはなぜだろうと、
わたしはかねがね不思議&不満に思っていたのですが、この日、謎が解けました。

↑この方のアレンジがそうなっているってことだったんですね。

もしかしたら、この方は、これをアレンジした時にオリジナル譜面からではなく耳コピーして、
そのためリズムを勘違いしたのか、という疑惑すら芽生えてしまった次第です。

その疑惑がさらに深まったのは、この方が隊員の中で演奏していて、そのスペインで
一回だけアドリブ・ソロを取ったときでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

いや、ここで何かを言明してしまっては、自分の耳で判断できない方々が
「そうなのか」
とこのときの演奏に対して簡単に手厳しい評価を加えてしまいそうなので、これを言うにとどめますが、
つまり、なんというか、「日本の」「古い時代」のジャズの人、なんですね。
アレンジャーとかビッグバンドのバンマスとしては多分力のある方なんだとは思いますが。

以上です(笑)

でも、もし自衛隊音楽隊がこのおじさんに「義理立て」してこの譜面にこだわっているのなら、
ご本人が健在のうちにオリジナル通りに直してもらった方がいいと、わたしは個人的に思います。

そしてどんな理由があったとしても、原曲のメロディをこんな風に変えちゃいけないと思うの。


それから、パンフレットにももうひとこと言わせてもらえば、
「日本のビッグバンドの水準を初めて国際レベルに引き上げた」のは、この人ではなくて
シャープス&フラッツの原信夫ではないでしょうか。
ニューポートジャズフェスティバルで「また日本軍が攻めてきたぜ!」とディジー・ガレスビーに言わせた
海軍軍楽隊出身の原信夫を、海上自衛隊ともあろうものが忘れていただいては困る。


さて、この日の記念に、わたしはロビーで販売されていた三宅三曹のCDを買って帰りました。
特典として超特大ポスターが付いてきましたが、これ、どうしよう(笑)





とにかく今、これを聴きながらタイピングしていますが、いいですよ〜。
まだ購入されていない方は是非。(ステマ)

中でも、河邉二佐が、三宅三曹のヴォーカルを想定して作曲した
記念すべき最初の作品である「交響組曲《高千穂》」の一曲、

仏法僧の森

は、いい曲過ぎて鳥肌がたってしまいそうです。
そして、以前このブログ中「歌のためのメロディではない」と酷評した
某公共放送の応援ソングも、この人が歌うとあら不思議、何の違和感も、
何の無理も感じさせず、原曲の不備を補ってあまりあるすてきな曲に。

「世の中に駄作はない。どんな曲も演奏家によって名作になる」

という言葉はある程度本当だと納得させられてしまったほどです。

彼女が歌手として人気が出たのは、その声ののびやかさと透明感のある音色によるところが
大きいのですが、それだけでなく、何と言ってもご本人の魅力でしょう。

なんというか、出てくるだけで目が釘付けになり、歌が始まったら文句なしに耳を惹きつけ、
そして歌い終わった彼女に対してつい笑いかけずにいられないスター性、もっと言えば
カリスマ性すら持っていると、実際ステージの彼女を見て思いました。

なんといっても、一緒に演奏している団員がみな彼女が歌い終わる度に口元を緩め、
ニコニコと見守っているんですよ。
ああ、これはきっと、一緒に演奏している隊員たちも彼女が好きなんだな、
と彼女の愛される人柄まで見ているだけでわかるような気がするのです。

このCD、発売に際しては結構大きなニュースになり、さらには今現在、クラシックの
CD売上が第一位なのだそうですが、海上自衛隊はまったく得難い人材を得たと改めて認識しました。


彼らはもちろん位置づけとしては「プロオケ」なのですが、この日のコンサートを見て思ったのは、
プロにしてはあまりに彼らは音楽をすることそのものが楽しくて仕方がないようです。
もちろんどんな音楽家も音楽をすることが楽しくないわけがないのですが、
いわゆる普通のプロオケにはない、そう、例えればアマオケとか、学生オケのような、
晴れ舞台に対し、構えたところや衒いの一切ない素直さが溢れだしているというか。

それは聴いているものにも十二分に伝わり、それゆえ演奏会が終わった後、
自衛隊音楽隊の大ファンにならずにはいられないというくらい、その演奏の魅力を倍増させていました。



そして、昔から国民に音楽を通じて貢献してきた自衛隊の姿。



「肩のこらないコンサート」に少しウケてしまいますが。
いや、あなた方のコンサートで肩の凝るものってあるのかしら、みたいな(笑)



1964年の東京オリンピックの写真を見て思い出しましたが
2020年の東京オリンピックが決まりましたね。
ファンファーレはもちろん東京音楽隊がするのでしょうし、
各場面で自衛隊音楽隊が陸海空問わず大活躍するのだと思われます。

そこで!

開会式の国歌独唱は、ぜひ7年後の三宅三曹(そのころは一曹かな)にしていただきたい。

みなさま方もそう思われませんか?




 

記念艦三笠〜海軍音楽隊かく戦へり

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週末は海上自衛隊音楽隊の演奏を堪能したわたしですが、
続けて、今日は旧海軍時代の軍楽隊の話題と参ります。


かねてから読者の方から日本海海戦に三笠乗組で参戦した
元海軍軍楽隊長・河合太郎氏の「軍楽隊員かく戦えり」
という手記を戴いていたので、これをご紹介させていただきましょう。

河合太郎氏は明治17年生まれ。
日露戦争当時、三笠乗り組みの三等軍楽手としてコルネットを吹いていました。
朝8時と日没に君が代を演奏し、戦闘中は戦闘員として無線助手をしたり、
伝令を務めていたそうです。

それではどうぞ。




「軍楽隊員かく戦えり」

5月27日、全艦隊は根拠地鎮海湾を出発、対馬海峡へ向かった。
私たちは出陣の晴れ着にと、戦闘服から褌にいたるまで、
みな新調品に取り替えた。
原籍と自己の戦闘配置を記した小型の木札を肩から掛け、
少量の毛髪と爪とを私用の小箱に納め、死を覚悟して戦いに臨む準備をした。

艦隊は対馬海峡を南下しつつあった。
正午過ぎ「総員甲板に集合」の号令が艦内に伝わった。
揺れ狂う甲板の上では足を支えることも困難なくらいであったが、
みな緊張して後甲板に走った。

「一同に訓示する」

館長伊地知大佐は12インチ砲塔の中段から、
やがて声を新たに厳然として訓示を始められた。
67年を経た今日でも、私はこれを暗唱できる。

「本官は最後の訓示をする。
諸子もすでに承知の通り、今から一、二時間の後には待ちわびた敵
バルチック艦隊といよいよ雌雄を決戦とするのである・・・」


艦長の癖であった右指一本で小鼻を撫でてはにじむ涙を拭き、つづけた。
その終わりの言葉はこうだった。

「諸子の命は本日ただいま、本官が貰い受けたから承知ありたい。
本官もまた、諸子と命をともにすることはもちろんである。
いまからはるかに聖寿の無窮を祈り、あわせて帝国の隆盛と
戦いの首途(かどで)を祝福するため、諸子とともに万歳を三唱したい」と―。




艦長伊地知大佐の訓示が終わってから数時間後、
煙突を黄色に塗った敵艦が姿を現した、
そのとき一人の水兵が大きな声で叫んだ。

「おい、金玉はだらりとしているか。硬くなっている奴は臆病者だぞ」

みな自分のものを点検して大丈夫だといったが、わたしのは平常より
ややという気がしないではなかった。

間もなく戦闘ラッパがなり、もうこれで逢えないぞ、元気で頑張れと
各自の配置に飛んで行った。
いまでもときおり想い出しては、独り笑いをすることがある。



そしていよいよ戦いが間近に迫ったとき、

「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」

この訓示が私の伝声管に響いてきた。
すぐ砲塔無いはもちろん、各伝声管に伝令した。
下甲板の弾庫で鬨の声があがった。
今こそ命を、国に献(ささ)げるときが来たのだ。
いいあらわし難い感激が若い私の総身をふるわせたことを忘れられない。



太陽は没し暗夜の海を全艦隊は追撃を続けていた。
いたるところ弾痕の刻まれた上甲板で、私は無事であったことを不思議に思った。
中、下甲板は負傷者であふれていた。
浴室に運ばれた戦死者が、まるで鰯でも積み重ねたように見える。
合掌して、冥福を祈った。

水兵たちは明日の戦闘の準備に余念がない。
私たち軍楽隊の健全なものは、負傷者の看護に夜を徹した。
私は二人の重傷者を受け持った。
一人は東北出身の福岡二等水兵。
彼は右足を膝から下と左足首を失っていた。
艦内の温度が高いため折り重なった肉体からはすでに臭気が発している。
耳元で「しっかりしろ。何か言うことはないか」と叫んだが、
彼は目を閉じたまま「遠い、遠い」とつぶやいただけであった。
何が遠いのか、敵艦との距離か故郷か旅路か、今でもわからない。

もう一人は岐阜県出身の吉田菊次郎一等水兵で、
上甲板右舷6インチ砲の射手であった。



激戦中敵弾が命中し、村瀬水兵以外は全員死傷。
彼は両脚をひざ下からもぎ取られ、おびただしい出血で死を約束されていたが、
ときどき大きな声で

「なにくそこの野郎、あっ、命中!弾を早く持ってこい」

と怒鳴った。
それも次第に弱くなり青ざめていた。
「何か言うことはないか」
と聞いても、相変わらず戦いのうわごとである。

急いで軍医長を迎えに行くと、鈴木軍医総監が来た。
色を失った彼の唇がヒクヒク動き、かすかに

「テッ、テッ、テッ・・・・」

ときこえた。
砲撃のうわごとかと思った。
しかし、かれが言いたかったのは

「天皇陛下万歳」

の一言だったのである。
息絶えた骸(むくろ)に私たちは暗然として頭を垂れた。



バルチック艦隊は全滅した。
が、まだ戦時体制である。
聯合艦隊は九州方面の沿岸警備についていた。
9月9日、第一艦隊は佐世保に入港。
東郷長官は秋山参謀その他の幕僚とともに陸路上京された。
兵員は予定作業を終えると、夕刻から半舷上陸外泊を許された。

ひさしぶりに土を踏む喜び。
10日は残りの兵員。
在艦の兵員は、昨夜の思い出を語り合った。
その夜、十時過ぎ、大音響とともに火薬庫が爆発、三笠は爆沈した。


三笠軍楽隊の先任下士官一等軍楽手河野定吉は
九日上陸し佐世保の自宅へ戻った。
かれは大のウナギ好きであった。
夫人はそれを良く知っていたが、満足してくれそうな鰻が見つからず、
明後日の上陸番にはおいしいものをたくさん買っておくことを約束した。
いささか不満ではあったが、かれは夫人の気持ちを察し、山海の珍味で祝杯を挙げた。

翌日帰艦し、その夜、かれは爆死した。

生き残ったかれの親友が自宅を訪れたとき、夫人は真っ赤に泣き腫らした瞼をおさえ、

「ごめんなさい、どんなにか鰻が食べたかったことでしょう。
こんなことになるんだったら諫早まで出かけても買ってくるのでしたのに、
勘弁してください」

と遺骨の無い仏前に泣き伏してしまった。
仏前に供えられたたくさんのかば焼き、その匂いと立ち昇る香の匂いとが混じりあい
悲惨だった、とその友は話してくれた。

三度の爆発で水中に沈んだ三笠は、
満潮時に煙突の半分、干潮時になると上甲板が見えた。
艦の引き揚げ作業に従事しているたくさんの船には、
『三笠引揚御用船』と書いた立札がたっていたが、
何回引き揚げようとしても沈んでしまうので、口の悪い兵隊スズメは、
三笠引揚御用船ではなく三笠引揚用船(ようせん、よう出来ないの意)
とやじった。

その三笠も、いまは横須賀港の岸壁に記念艦として保存されている。

(文芸春秋臨時増刊 昭和47年11月号)



河合太郎氏は戦後呉に在住し、
昭和51年に92歳で亡くなるまで吹奏楽の普及に尽くしました。

91歳の時に瀬戸口藤吉作曲「日本海海戦」を指揮して、
レコード録音を残しています。

現在海上自衛隊呉音楽隊が練習室として使用されているのは
「桜松館(おうしょうかん)」といい、旧海軍が下士官兵集会所に隣接して建てたものです。
ここには小さいながら「河合太郎のコーナー」があり、
河合太郎が使用していたタクトや叙 勲の勲記・勲章、著作物などが展示されているそうです。


亡くなる直前、「日本海海戦」という瀬戸口藤吉の楽曲の録音に
91歳の河合はタクトを取りました。
しかしそのときの演奏が気に入らず、ついには「だめだ!」と叫んで
椅子から立ち、楽団員をはたと睨み据えました。
そのときの河合の姿は海軍軍楽隊長そのもので、軍楽隊の経験を持つ何人かの隊員が
昔を彷彿とし、かつ威儀を正さずにはいられない気迫に満ちていたそうです。



映画「ライト・スタッフ」〜空の男のRight Stuff(資質)とは

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ここのところ、アメリカの航空博物館で展示されていた女流飛行家たちの写真に
いろいろと触発されて、しばらく「女流飛行家列伝」シリーズを制作しています。

その中で、日本では全く無名であるがアメリカでは知らぬものはない女傑、
飛行家パンチョ・バーンズを取り上げました。

日本語で検索してもフィギュアの宣伝くらいしか出てこないので、英語で検索していると、
もれなく「ライトスタッフ」という映画の検索に辿り着くのでさらに調べたところ、
この、「最初の宇宙飛行士たち」の映画にパンチョ・バーンズが実名で描かれていることが判明。

しかもこの映画、

実話がベースになっている
男たちが皆で何かをやり遂げる
登場人物が実在のパイロットである

と、エリス中尉の好きな映画のパターンをことごとく押さえているのです。
こりゃあもう観るしかないじゃないか!

いやー、渋かったですよ。名作です。
このブログに来られる方ならきっと感動すること請け合いです。

映画はまず、「音速の壁を破ろうとしているテストパイロットの飛行」
から始まります。



ね?

・・・・ってなにが「ね?」なんだって話ですが、ベルX−1の実写ですよ。

このテスト機のパイロットでこの映画に登場するのがご存知チャック・イェーガー。
後に空軍の准将にまで上り詰める「音速の壁を最初に破った男」です。

アメリカの宇宙開発の黎明期、最初に宇宙飛行士になった男たちを描くのに、
どうしてチャック・イェーガーが出てくるのか。

そこがこの映画の奥の深いところです。
両者を結ぶのが元女流飛行家で、アメリカで最初に飛行スタントをした女性である
パンチョ・バーンズの酒場、というわけなのですが、宇宙と音速の壁という違いはあれど、
同じ「パイロット」と呼ばれる彼らが命を賭けてまで目指したのが「初」という称号であること、
ここにこそ作品のテーマがあるのです。

パンチョの酒場、「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」に集うテストパイロットたち。
皆腕に自信のある若者ばかりですが、いくらいきがっても、パンチョにかかっては



ひよっこ扱い。

テストに成功したパイロットはパンチョのおごりによるステーキが振る舞われます。
しかし、一枚の写真が壁に追加されるとき、そのパイロットは殉職したということなのです。


アメリカの野望、それは「宇宙」でした。
冷戦構造の中でソ連と宇宙開発競争を繰り広げていたアメリカは、
ソ連が人類初の無人による人工衛星を打ち上げることによってこの競争の先を越され、
なんとしても有人飛行を成功させようとしていました。

それではどんな人間をその「飛行士」にするかです。
そもそもどんな人間が宇宙に行くのに「正しい資質」(ライト・スタッフ)を備えているのか。


スプートニク打ち上げのショックの中で、そこでは宇宙飛行士に相応しい能力を
どんな職業の者が持っているか、という話し合いがもたれていました。
今聞けば笑い話にしかならないのですが・・・・・・・・。

サーファー(着水が巧み)
レーサー(メカに強くヘルメットを所有、炎に包まれるのも慣れている)
綱渡り芸人(平衡感覚に優れ中耳が発達して性格が穏やか、従順である)
空中ブランコの芸人(上に同じ)
ロケットから打ち上げられるサーカスの男女ペア(欲求不満がない)←
炎のプールに飛び込む芸人(今月はヒマ)←

こんなのを見ていると、初のロケットに乗せる人間は運動能力さえあれば
あとは何でもいい、つまり「チンパンジー代わり」
という観点で選ぼうとしていたらしいという気がします。

このフザけているとしか思えないプレゼンを見て当然ワシントンは渋い顔をし、
「テストパイロットを使え」と指示するのですが、 当初反対したのは技術陣でした。


その理由は・・・・・・扱いにくいから。

しかし、いくら扱いにくかろうが、最も宇宙飛行士の「資質」を備えているのは
間違いなくテストパイロットであろう、というところで技術者は折れ、
彼らを使うことに話がまとまります。
そこでパンチョの店「ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ」に現れるNASAのスカウトたち。

最初に秒速の壁を破る男チャック・イェーガーと、後にマッハ2を破る民間パイロット、
アルバート・スコット・クロスフィールドは、彼らに徹底的に反発します。




「人間の缶詰やモルモットになる気はないぜ」
とばかりチャックとこのスコットは宇宙飛行士への道を頭からはねのけます。



頭からつれなくされるスカウトマンですが、彼らにとっても「トップエース」はお呼びではありません。

「イェガーはダメだ。学歴がないし、クロスフィールドも民間人だから身元がどうたらこうたら」


しかしこの酒場にいたテストパイロットで、「それも悪くない」と考えた三人が、
飛行士の選抜試験を受けることになります。



ガス・グリソム、”ホットドッグ”ゴードン・クーパー、ドナルド・スレイトン。
つまり空軍代表選手です。



そして、海兵隊代表の無着陸大陸横断の勇士、ジョン・グレン少佐。(エド・ハリス)



そして海軍代表。
海軍兵学校卒、母艦乗りの戦闘機ドライバー、アラン・シェパード中佐。
海軍では「パイロット」と言わず「ドライバー」というらしいです。
この時のスカウトマンが船酔いでゲロゲロになりながら言ってました。




空軍三人組に「海軍はダサい」と言われて彼らをにらむ、
ウォルター・シラー海軍中佐。
F‐84でミグ15を撃墜したこともある母艦戦闘機乗りです。



そして、海兵隊のグレンとは「おつむの硬さ」では一二を争う、
M・スコット・カーペンター少佐。
ただしこの「硬いおつむ」は非常に優秀な頭脳でもありました。
カーペンターは海軍大学で航空士官としての訓練を受けた後、
名門コロラド大学で航空工学を治めた秀才です。

この映画ではあまり出番はありませんが、このマーキュリー計画の
7人の宇宙飛行士の中では、後年最も有名になった人物です。
2013年8月現在、88歳で、92歳のジョン・グレンとともに健在です。


集められ50人の候補者から選ばれるのは7人なのですが、その選抜の様子、
これが面白い!
実に映画的な面白味があります。



この肺活量競争で最後に残るのがグレンとカーペンターなのですが、
この二人が奇しくも現在まで生き残って健在であるという・・・・・・・。

ほかの皆も比較的最近まで生存していたようですが、肺活量の強さって寿命と関係あるんですかね。

また、本人にはまったく何のためにされるのかわからない医学的実験もあります。

直腸になにやら薬を注入され、その器具を持たされたまま、全裸にエプロンで、
大男のメキシコ系看護人に廊下を首根っこつかまれて連れまわされる「それなんてプレイ」状態。

エリートの自尊心ズタズタです。




とくに左のアラン・シェパードは当時はやりの芸人ビル・ドナの持ちネタである
「ホセ・ヒメネスの真似」をしているところをこのゴンザレスに睨まれたばかり。

よりによってこんなぎりぎりの場面でこの相手に全てを委ねなければならんとは。

「あのときはどうもすみませんでしたあ〜ああ許してもうダメ!」状態。



「ホセ・ヒメネス」は、いわば1950年代、今ほど差別問題にピリピリしていなかった
アメリカで流行った、要するに「訛り」を面白がるという人種差別ネタですから、
当のメキシコ系はさぞかし不愉快に思っていたんでしょうね。

でも、シェパードが、トイレに行きたいのをこらえながら、ここでなぜか

「おれの成績は?」

と聞くと、ゴンザレスは

「あんたは宇宙飛行士になれるよ」

と太鼓判を押してくれます。
ゴンザレス、お前はいいやつだ。


このシェパードを演じるスコット・グレンが好演です。
名優ぞろいのこの映画の中でも特にユーモアで光っています。
シェパード飛行士は、アメリカ人で初めてカプセルによる宇宙飛行をしました(16分)。
スコットは「浣腸事件」に続き、このときも
たった15分の予定なので誰も想定していなかった尿意を催すという
「下ネタ」続きの役なのですが、宇宙服の中でしてもよろしい、と許可を得たときの
何とも気持ちよさげな至福の表情や、我慢の限界の苦衷の表情が何とも・・・。

しかしながら、同僚が宇宙に行くときに管制センターで声をかける時のきりりとした表情。



かっこいい。

そういえばスコット・グレンは「羊たちの沈黙」では、思いっきり7・3分けにして
ジョディ・フォスター演じるスターリングの上司を演じていましたが、覚えていらっしゃいますか?

ゴンザレスに連れまわされているのを見ると小男みたいですが、
実は一番7人の中で背が高いんですよね。

ちなみに、カプセルの中に入るというミッションのため、
身長が180cm以上、体重82キロ以上のものは検査ではねられました。

ここで、最終決定までの過程を書いておくと、

●当初、110もの軍関係の飛行士の集団からアイゼンハワー大統領の意向に沿って
大学卒の候補者を69人選抜。

●身長が大きいので6人脱落。(最初から外してやれよ・・・)

●33名が第一検査で失格。

●体位変換台、ウォーキングマシン、氷水に足を長時間浸すといった試験を拒否した
4人(宗教上の理由かな)が失格になる。

●第一検査でさらに8名が脱落

●残りの18名の中から最終的に7人が選抜される



こうして「正しい資質」(ライト・スタッフ)を備えた7人が選抜されたのでした!パチパチパチパチ


ちなみに、当初マーキュリー計画は飛行士を6人と決めていました。
69人の参加者の中から選抜していき、最終的に7人が残った時、
もう一人脱落させようとしてふと気づけは、この時のメンバーは、

海軍三人、空軍三人、海兵隊一人。

つまり、どこを削ってもバランスが、ということで、ここで三軍の面子が重んじられ、
この7人に決定したという経緯があるようです。

しかしどこの国でも、軍の間っていろいろとあるんですね。いろいろと。 
我が陸海空自衛隊は、お互いうまくいっているのであろうか。

ふと心配になってしまうエリス中尉であった。 




そして宇宙飛行士お披露目の記者会見で、ほかのメンバーがおずおずする中、
一人目をキラキラさせて清く正しく美しい大正論で演説をぶちかますグレン。

ほかのみんなは最初こそ毒気を抜かれてぽかーんとしていますが、
グレンの演説が大うけなのでだんだんその気になって・・・・・

「誰が最初に宇宙へ?」



「は〜い」「はい俺」「俺俺」「わたし」「拙者」

世間が自分たちに何を期待しているかがようやく理解できたと言ったところです。

ちなみに、このジョン・グレンは、後に上院議員になりました。
この時の「演説」は、その未来を彷彿とさせます。

また、グレンは1998年、77歳でスペースシャトルディスカバリーに乗って
もう一度宇宙に行き、最年長記録を作っています。
この時のディスカバリーには、日本の女性宇宙飛行士、
向井千秋が乗り込んでいました。

そしていまだ健在。全く元気な爺さんですこと。

そして、アメリカの「ヒーロー」となった彼らは、メディアの前に
そのように振る舞うことを要求されます。












しかしながらこのころアメリカのロケット打ち上げは失敗につく失敗続き。
ソ連に先を越されて焦る一方で、数か月ロケットが上がらないのを
飛行士たちはじりじりと見守るのみ。

 

気持ちも盛り下がる一方です。

妻とも引き離される生活の中で、無聊を託ち、ロケットは飛ばないばかりか、
NASAの科学者とはその扱いを巡って衝突ばかり。
そんな生活におかれた若い血気盛んな男のすることは・・・・・・・。



「(7人のうち)4人は陥落よ。あと3人」
などと、地元の遊び人のターゲットにされて喜んじゃったりとか。

そこで、カタブツのグレン飛行士が
「貴様らはたるんどる!」とか言い出して険悪に。
それでなくても海軍空軍間のいろいろや、性質の違いによる齟齬、
それに焦りと苛立ちが加わって、一即触発です。



さて、冒頭にもお話ししたように、アメリカの宇宙計画そのものが「ソ連に負けまい」として
政治主導で起こされた国力の顕示であったわけです。
そして、この宇宙開発の実績をあわよくば自分の政治基盤に役立てようと
なりふり構わず利用しようとする政治家の欲望が渦巻いていました。

この映画には当時副大統領で、ケネディ暗殺を受けて大統領になったジョンソンが、
実名であちらこちらに「暗躍」している様子が描かれています。

「わたしは共産主義者の月の光で寝付く気はないね」

「人工衛星を上げたのは抑留されたドイツ人科学者か」
「違います。我が国のドイツ人の方が優秀です」

「共産主義者の奴らはロケット開発をしてそのうち我が国に核爆弾のを降らせる気だ
彼らに先を越されるとは何事だ」

「我が国は航空機で国威を上げた。これからは宇宙を支配する者が世界を制する」


これがジョンソンのセリフとして語られるのです。

つまり、純粋な科学発展や真理の追究なんてものではなく、この計画の根底にあったのは
ただ大国アメリカの国威とプライドのかかった競争、という構図だったというわけです。


アメリカ人初の宇宙飛行士になるという夢を持って集まってきた彼らは、
その準備の段階で、垣間見える政治家の欲望、そして自分たちに課された任務の意味に疑問を持ち、
だんだんとバラバラの状態から一致団結して、それらと「対決」していくことになるのですが、
このことについては後半でお話しすることにします。


それにしても、「モルモット」になることを拒み、あくまでも自分の目標である
「音速の壁を破ること」への挑戦を続けたチャック・イェーガーは、
彼ら宇宙飛行士を見てどのように思っていたのでしょうか。

そして、すっかり忘れがち(笑)ですが、チャック・イェーガーの空への挑戦は・・・。



 

 


映画「ライト・スタッフ」〜妻たちのマーキュリー計画

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夫が宇宙飛行士に選ばれた後、彼らの妻には

「宇宙飛行士の妻」

という役割が与えられます。

夫と同じように関心を持たれ、夫の栄光を協力者として分かち合うのが
何事も夫婦という単位で人を見るアメリカ人の考えるところの「英雄の妻」なのですから。


ところで、昔、「奥様は魔女」というドラマがあったのをご存知でしょうか。
このドラマは、宇宙飛行士のアンソニー(トニー)が、カプセルで着水し、
流れ着いた南の島でひろった魔法の壺にはジニーという魔女が入っていて・・・、
という内容のホームコメディ?ですが、このネルソン少佐が劇中、
航空宇宙局にお勤めしているという、当時の「最新流行の」シチュエーションでした。


このドラマが制作された1965年ごろは、アメリカはジェミニ計画を着々と進め、
ケネディが言ったように「1960年代には人類を月に送る」ための準備をしていました。
「マーキュリー計画」のときに物珍しい存在だった「宇宙飛行士の妻」は、
このドラマ制作時には「憧れの職業の夫を持つセレブリティ」という風に若干変わっており、
だからこそこのような設定のドラマが制作されたのかと思われます。

彼女ら「ミセス・マーキュリー・セブン」は、こうやって一堂に集められ、
全員の写真をメディアに広められるなど、有名人の扱いだったわけですが、
全員が全員とも、高く盛り上げたヘアに何人かは流行のパールのネックレス。

これは、当時絶大な人気のあったケネディ大統領夫人、ジャクリーヌが流行らせた

「ジャッキー・ルック」

です。
この映画でも、夫の栄達の「ご褒美」として、ジャッキーに会えるというセリフが出てきます。 


この映画「ライト・スタッフ」(適正な資質)は、空に、宇宙に、
映画のアオリでいうと「人類の限界への挑戦に命を懸ける男たち」が主人公ですが、
映画導入部は、テスト飛行の実写に続き、そのパイロットが事故死し、
若い妻がその報せを聴くという悲劇から始まります。

つまり、この映画のサイドテーマは

「死を顧みぬ任務に出かける夫を待つ妻たち」

でもあるのです。



「救急車の音や大きな衝撃音のたびに、身がすくむ思いがするわ」

空軍のテストパイロット、ドナルド・スレイトンの妻。
まだ宇宙飛行士に夫が選ばれる前です。



「同窓会に行ったら企業勤めの夫を持つ友達はこんなことを言っているけど、
彼女らに聞いてみたいわ。
夫が生きて帰らない確率が4回に一回だったらどうするかって」

タフな男、あだなが「ホットドッグ」で、口癖が「最高のパイロット?目の前にいるぜ!」の
ゴードン・クーパーの妻。

ちなみにこの「ゴードン」という名前は、「サンダーバード」にトリビュートされて使われています。



「男なんて・・・・・As〇H〇leよ!」

思わずダーティ・ワーズを口にして首をすくめる、ガス・グリソムの妻。

彼女の夫、ガスは最初のミッションで、アメリカで2番目の弾道飛行を成し遂げたものの、
司令船リバティベル7の着水時ハッチが開くのが早すぎたために、
海水が船内や宇宙服の中に入り込んでしまい、溺れかけ、ヘリに救助されるという
「失態」を犯してしまいます。



ハッチは彼の誤操作ではなく、ひとりでに飛んだ、というグリソム飛行士の訴えは
受け入れられず、彼のミスとして片づけられてしまった結果、



その勲章授与式は寒々としたわびしいものとなります。

アメリカとNASAは彼を実に冷淡に扱ったのでした。
授与式のためにあてがわれた貧乏くさいモーテルの一室で、妻の怒りが爆発します。



「ワシントンのパレードは?」「ない」
「ケネディ大統領の勲章授与は?」「ない」
「ホワイトハウスの晩さん会は?」

「んなもんあるかいぃぃぃっ!」



「わたしだってジャッキーとおしゃべりしたかったのおお!」

アラン・シェパードの妻と比べて我身の不幸を涙ながらに訴えるグリソム妻。

おいおい、夫が無事で帰ってきてくれればそれでいいんじゃなかったのかよ。
それじゃ命を賭けて任務に就き、技術ミスで挙句の果て溺れかけた夫の立場がないよ。

宇宙飛行士に夫が選ばれた時から、メディアは妻たちをクローズアップし、
写真を撮ったり、手記を求めたり。
「朝起きたら有名になっていた」というような「持ち上げられ方」をされて、
彼女たちにも「欲」が出てきた、というところでしょうか。

それにしても、この「ハッチ事件」は、ある不幸な結末につながっています。

後年、このガス・グリソム飛行士はアポロ1号計画の訓練中、
爆発炎上による火災で、アメリカ宇宙計画最初の犠牲者になったのですが、
最初のリバティベル7の水没事故を受けて、NASAはそのあと、
宇宙船の内部からハッチが開かないように機構を変更しました。

結局この変更が、グリソム自身の命を奪う一つの要因になったのです。

「即死した」
というNASAの発表に対し、ベティ・グリソム夫人は法廷で
遺族が独自で行った調査からその報告が虚偽であること、
夫は火災の中で少なくとも15分は生存していたことを証言しています。



さて、海兵隊出身のカタブツ男、ジョン・グレンの妻、アニー。
彼女は重度の吃音で、人前でしゃべることができません。
しかし、そのことを知らないゴードンの妻は、当初、彼女に話しかけて
返事がなかったのに気を悪くし、

「変わっているわ、なんてスノッブなの!」

と陰で非難したりします。

しかし、幼馴染で結婚した、重度の吃音症であるこの妻を、
マッチョで頼もしい夫であるグレンはこよなく愛しているのです。



ソ連のチトフがまるまる一日の弾道飛行を成功させたため
焦ったアメリカは、準備不足のままグレンを打ち上げることを決定。

打ち上げの決まった飛行士の自宅にはなぜか全員の妻が集まり、
そこでテレビの放映を見るというお約束が用意されています。
詰めかけた報道陣はその家に来るおむつの配達人まで追いかけまわす、
というような狂態ぶりを見せるのです。

まあ、洋の東西を問わずマスコミはマスゴミであるということですね。

アニーはカメラの前での副大統領ジョンソンとの会見を拒みます。
吃音で人前で話したくないアニーにはとんでもないことだからですね。
最初こそ「お高くとまって」などとアニーを非難していたゴードンの妻トルーディですが、
今やすっかり妻同士で団結し、グレン家のドア越しに報道官をぴしゃりととはねつけます。

「ノー、よ!」

このころになると、夫たちがNASAの上層部に対してパイロット同士で結束していたように、
妻たちもスクラムを組んでお互いを守りあっていた、という表現です。

ところが、ここは何としてでも全国放映で自分の姿を国民にアピールしたい
ジョンソン副大統領、



・・・・と激昂し、NASA上層部に圧力をかけて
グレンから妻を説得させようとします。

汚いさすがジョンソン汚い。

打ち上げ中止になったその悲劇を慰める図を撮らせてまで
自分の政治宣伝に使おうをするジョンソン。
打ち上げ中止になったカプセルから降りてきたグレンに
妻を説得させようとします。

こんなときになにをやっているんだ、という感じですが、
そうまでしてもこの機会をなんとか利用しようとするんですね。

やっぱり政治家ってAs〇H〇leですよね。うん。

この映画制作時、ほとんどのマーキュリー・セブンの飛行士たちはまだ生存していて、
しかしリンドン・ジョンソンはその少し前に亡くなっていますから、
カウフマン監督は心置きなくジョンソンを「悪役」にすることが出来たのでしょう。



それはともかく、ジョングレンの妻、アニー。

「ジョンソンが・・・・・わたしを・・・・テレビに;;」

切れ切れに夫に訴えます。

彼女を説得させるために電話に呼び出される夫。
ところが・・・・



さすがは愛妻家のマッチョ男。

「グレン飛行士がそう言ったといってやれ!」

怒りを隠せないNASA最高責任者。

「言うことを聞かせないと飛行の順番を後回しにするぞ!」

ついつい脅迫めいたこともいっちゃったりするものの、途端に
7人に周りを囲まれ、

「おう、おもしれえな」
「やれるならやってみろよ、え?」

とすごまれ、すごすごと引き下がります。


いや、このエド・ハリスはかっこいいですよ。
女から見てこんな頼もしい男はいない、という感じ。
こんな旦那さんだったら、奥さんはもう頼り切っちゃいますね。

それに、このアニーという奥さんであれば、たとえジャッキーとおしゃべりできなくても、
夫が無事で帰って来てくれさえすれば、それだけでいい、って感じです。
いかにも欲がなさそうだし。

こんな女性だからグレンは何をあっても守ってやりたかったのか、
人一倍タフで男らしい男だったから彼女のような女性を選んだのか。 

どちらが先かはわかりませんが、いずれにせよ、
こんな二人は実にお似合いだと思ってしまいました。
夫婦の形は夫婦の数だけありますから、

「吃音で対人恐怖症の妻など、社会生活もろくに営めないに決まってるから
どんな美人でも俺は御免こうむるよ」 

とおっしゃる男性も世の中には少なからずおられるとは思いますがね。

さて、いよいよフレンドシップ7号によるグレン飛行士の初飛行が始まります。



地球を弾道に乗って7周する、というミッションでしたが、
二周目に耐熱シールドがはがれかかっていることが判明し、
三周回ったところで再突入することが決められました。

それがねえ・・・。

NASAが本人に故障を伝えようとしないんだよ。

管制室では皆顔を真っ青にして大騒ぎしているのに、
本人はのんきに「きれいだ」とか「一日が早い」とか、
シールドから出る火花を「生物体か?蛍みたいだ」なんて言ってるんですよ。

同僚のシェパードが

「かれは飛行士だぞ!なぜ知らせないんだ」

と怒りまくるんですが、三周で再突入を命じた後理由を尋ねるグレンに

「こちらの判断だ」

って、もうまるで飛行士をチンパンジー扱いなんですよ。
しかし、これがもしチンパンだったら、再突入の際の手動操作などできなかったわけ。
つまり、サルには決してできないミッションだったということなんですけどね。

今でこそ宇宙飛行士は、心技体バランスのとれたスーパーマンのような
優秀な人物にしかなれない究極の憧れの職業ですが、
このころの宇宙技術者というのは、「人間にできること」を
実に過少に評価していたとしか言いようがありませんね。




息をのんで電離層間の断絶状態を見守るNASA管制室。
このときの世界の注目度は第一回、第二回を大きく上回るものでした。

この任務達成を以て、アメリカは後れを取っていたソ連に追いつくという
歴史的快挙ともなったのです。



順番とはいえ、グリソム飛行士のときとのこの違い・・・・。
グレン飛行士とその妻は一躍アメリカのヒーローです。
あちらこちらに引っ張りだこ。

そして、ヒューストンのあるテキサスは、あのジョンソンのおひざ元。

グレンを中心とした飛行士メンバーを、「大バーベキュー大会」ご招待。
 


「わ・た・し・が この地に招待しましたあ!」


全くこのオヤジはよお・・・(笑) 

そこで、いろいろと飛行士の名声を利用せんとする有象無象が彼らにまとわりついてきます。
飛行士の家庭は地元建築会社によってもれなく無料で家を建ててもらえ、
さらに地元デパートが全て内装をあなたのお好み次第に。

まあこれ、奥様的にはもう願ってもない役得じゃなくって?

そして、この宣伝臭紛々の、欲望に塗れた、そう、まるで応援集会のようなパーティ、
佳境に入って、なんとこんな妖しい出し物まで・・・



大きな二枚の羽で巧みに体を隠しながら踊るヌードダンサー。
いくら隠してもそこはそれ、時々チラリズムもあり。



どん引きする飛行士その1。カーペンター飛行士。
マーキュリー計画の飛行士の中で最も有名になった人物です。



どんびきする飛行士その2。シラー・Jr.飛行士。
彼は結局、マーキュリー、ジェミニ、アポロの宇宙計画すべてに参加した
たった一人の飛行士となりました。

シラー飛行士は海軍出身だったので、2007年に亡くなった後、
海軍の補給艦に功績を称えて「ウォリー・シラー」と名付けられています。




どんびきその3。空軍のテストパイロット出身、ドナルド・スレイトン。
このあと心臓の欠陥が見つかり、マーキュリー計画では宇宙に行っていません。

しかし、航空宇宙局で新人飛行士の訓練に当たってきたある日、
自分を指名して、アポロ・ソユーズテスト計画のパイロットとして初めて宇宙に行きます。

最初に宇宙飛行士に指名されてから実に26年後の初搭乗。
これは宇宙計画の一つの「新記録」だそうです。

でも、願えばいつかそれはかなう。よかったよかった。



あまりのことに固まっている夫人と、そんな彼女に気を遣うグレン飛行士。
全く、彼女のような女性には耐えられない出し物だったかもしれません。

この変な出し物だけではありません。
誰一人この奇妙なパーティをこころから喜んでいるわけでもないのです。

彼らがそのミッションの成功(まだ成功させてない飛行士が半分以上ですが)
に対して手に入れた名声の正体とは、いったいなんだったのか。
この世界はいったいどうなっているのか。



彼らの得た「宇宙飛行士」という肩書にまとわりついてくるものの正体の不可思議さに
ただためらいつつこのエロチックなショウを眺めているちょうどそのとき、

一人の男がまた人類の限界を破るべく空に挑戦しようとしていました。





(終わらなかったので、最終回に続く)


 

映画「ライト・スタッフ」〜空に挑んだ男たち

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唐突ですが、わたしはアメリカという国が嫌いです。
毎年訪れ、住んでいたこともあり、ほとんどのアメリカ人には好意を持つことの方が多く、
なによりもあれだけの国を築き上げたパワーと知力には心から賞賛を惜しまないのですが、
あの正義の側に立ったふりをして、実は利権と大国の驕りが全ての行動原理となっている、
あのアメリカという国家が大嫌いです。

この映画「ライト・スタッフ」に描かれる、当時の副大統領リンドン・ジョンソンの、
宇宙計画を利用して国力を高揚させるとともに自らの政治宣伝に利用しようとするあさましい姿は、
ある意味「忌むべき大国アメリカ」の象徴であり、7人の宇宙飛行士たちが戦ったのも、この
「国家の欲望」からくる不条理であったと言っても過言ではないと思います。

さて、当初は互いを牽制しあい、空軍海軍海兵隊の枠の中から互いを批難しあっていた彼らですが、
ある時から「敵はお互いではない」ということに気づきだします。

宇宙に行くのに「正しい資質」(ライト・スタッフ)を持っているのは、言われたことを間違いなくやり、
しかも従順で逆らわないチンパンジーである。

従って人間より先に猿をマーキュリー計画に使う、
という噂がたったとき、一番反発したのが当の飛行士たちでした。

そりゃそうでしょう。

「俺たちがさせられるのはサルにもできることなのか」

誰だってそう思いますよね。当事者なら。


このころアメリカが後れを取っていたソ連においても最初にスプートニクで
打ち上げられたのは犬でした。
アメリカが「サル」を選んだのは、犬より高度な作業を教え込むことができたからですが
まったくソ連と同じことをしたくない、という意地からではなかったかという気がします。

「犬猿の仲」って言うくらいだし・・・・いや、英語では犬猿の仲のことを
cats-and-dogsていうのよね。
猫を宇宙に射ち上げたのはアメリカじゃなくてフランスか。

その話はともかく、アラン・シェパード飛行士の弾道飛行に先立つこと4か月、
アメリカはチンパンジーの「ハム」を、マーキュリーカプセルに乗せて弾道飛行を行います。

「ハム」の写真はライフ誌の表紙を飾り、世間は大喜びでしたが、
宇宙に行くことを良しとせずテストパイロットに留まったチャック・イェガーの周囲は、
この結果と「猿に先を越された」宇宙飛行士候補たちを嘲笑します。

しかし、自らが何回も死の淵のミッションから生還しているチャックはこういうのでした。

「命を捨てる覚悟で任務に就く男は立派だよ」


アメリカという国は嫌いですが、アメリカにはこういうカッコいい男を生み、
こういったカッコよさを素直に英雄として称える、いい意味での単純さがあります。

これがわたしの好きな「アメリカ」です。

チャールズ・”チャック・イェーガー。

ウェストヴァージニアの貧しい家の出で、航空整備士から空軍准将まで登りつめ、
「世界最速の男」と呼ばれた伝説のパイロットです。

このイェーガーを演じるサム・シェパードが、
孤高の一匹狼のような殺気と哀愁を漂わせ凄味すらあって大変よろしい。

このサム・シェパード、こう見えて?俳優は副業、本業は脚本家。
あの名作「パリ・テキサス」なども手掛けています。 



最初の回にお見せした、女流飛行家パンチョ・バーンズの店。
ここに、NASAの採用担当の「凸凹コンビ」(この二人、最高!)がやってきます。

イェーガーも、そして元エースで後にマッハ2を破るテストパイロットの
スコット・クロスフィールドも、宇宙飛行士になることを

「人間ミサイルや人間の缶詰になる気はない」

とにべもなく断った、というのもお話ししたと思いますが、



「イェガーはダメだ。学歴がないし、クロスフィールドも民間人だから身元がどうたらこうたら」

こんなことをこそこそ言い合う二人に後ろから忍び寄る目つきの鋭いオヤジ。
これが、なんと特別出演の

チャック・イェーガー本人。

イェーガーはテクニカルアドバイザーとして参加していたそうですが、画面では

「ウィスキーを付き合うか」

それが昔人類で最初の秒速を破った男のセリフです。




そして、スコット・ウィルソン演じるアルバート・スコット・クロスフィールド。

D-558-IIで人類で始めてマッハ2を記録した、イェーガーのライバルです。
クロスフィールドはその後X-15でマッハ2,98、ほぼマッハ3に迫っています。

ちなみに、このクロスフィールドは2006年に84歳で亡くなりました。
彼の操縦していたセスナは雷雨に見舞われ消息を絶ちましたが、
ジョージア州で機体の残骸の中にその遺体が発見されたということです、

84歳にして自分で飛行機を操縦していたというのにも驚きますが、
それも彼の生涯を思えば以て瞑すべしとでもいいますか。

誤解を恐れず言えば、空の男は空で死ねて本望だったのではないでしょうか。



空で死ぬといえば、この「ライト・スタッフ」には、
最初にX−1のテストで殉職したパイロットの告別式のシーンがあります。

実写のX-1の映像に続き、そのテスト機が墜落し、パイロットは殉職。
黒い服の陰気な顔をした空軍の「まずいこと宣告係」(従軍牧師かも)
が彼の妻を訪ねてくるのですが、若い妻はすぐにそれを悟り

"No.........! Go away!"

と叫びます。

この陰気なおじさん、映画の要所要所で顔を出しているんですが、
イェーガーの飛行前や、あるいはマーキュリー計画の打ち上げの前にその不景気な顔を見ると、
どうも縁起が悪いというか、すわ、フラッグか?と思ってしまいました。

思わせぶりに登場して、いたずらに観ている者を不安にさせないでいただきたいと思います。



実際はX−1のテストで殉職者は出ていないので、映画上の創作です。





その上空を飛来する航空隊が「ミッシングマン・フォメーション」と呼ばれる
葬儀や追悼イベントで行われる航空運動を見せてくれます。

これは「ミッシングマン・フライバイ」とか「フライパスト」(Flypast)とも呼ばれ、
夕刻、編隊の一機が離れて上昇していくとき、その一機は離脱後、
夕日に向かって消えていくのが正式の行われ方であるということです。

この映画では構図を考慮した結果だと思うのですが、夕日とは逆に飛んで行っています。


ところで冒頭の絵は、白黒写真を参考に描いた、イェーガーと彼が音速を超えたベルXS−1。

XS‐1の色は映画から類推しましたが、ヘルメットの色とか、エビエイタースーツの色等、
全くの想像ですのでご了承ください。

機体に描かれた「グラマラス・グラニス」は、彼の最初の夫人の名前です。
グラニスさんが本当にグラマラスであったかどうかというより、
単に語呂がいいのでこうした、という感じのネーミングですね、

イェーガーは74歳になる97年の10月14日、「グラマラス・グラニスIII」と描かれたF-15Dに乗り込み、
50年前に音速記録を打ち立てたのと全く同時刻の10時29分に、
史上最年長のイーグルドライバーとして音速を突破しています。

ちなみにこのときにはすでにグラニス夫人は亡くなっていて、イェーガーは67歳のとき
36歳下の当時31歳の女性と再婚しています。
歳の離れた女性と結婚してあらゆる面で悲惨な目に合っている(らしい)コメディアンと違って、
きっとイェーガーなら、名声遺産目当てなどではない女性と結婚した・・・・と思いたい。

いくらなんでも前夫人が亡くなって一年で再婚ってどうよ、と思う向きもおられましょうが、
この年齢になると「自分に残された時間の少なさ」を考えずにはいられませんからね。




さて、この「ライトスタッフ」で、宇宙飛行士になったテストドライバーたちのその後と、
イェーガーの「空への挑戦」は、ほぼ並行して語られます。


オリンピックの標語ではありませんが、つねにより高くより強く、そしてより速くを求める
アメリカにおける当時の航空界の最大の目標は、

「世界で一番先に音速の壁を破ること」

でした。

有人飛行機で音速の壁をやぶるX−1での高速飛行計画を、
NASAの前身であるNACAが立ち上げます。

それでまず、”スリック”、チャルマーズ・ユベール・グッドリンに白羽の矢を立てたのですが、
映画でも描かれていたように、彼は危険を理由に空軍に15万ドル、さらに、
マッハ0.85以上で一分飛ぶごとに加算金額を要求しました。

映画ではこのスリックの金銭要求を決して否定的には描いていません。

「そこには悪魔が住み、レンガの壁が存在する(らしい)」

と言われていたマッハ1の世界は、それこそ当時の宇宙並みに
生身の人間が到達するには困難なものと考えられていましたから、
スリックの要求は彼が家庭を持ちパイロットであると同時に夫であり父であれば
当然のことであると誰にも思われるからです。

むしろ、

「空軍から給料を(月285ドル)もらってるからいらないよ」

と、危険をむしろ歓迎し挑戦することそのものに価値を見出すチャックのような人間は
ほんの一握りであるといえます。


「危険なのか?それなら志願する」

NASAの採用担当に、宇宙飛行士に志望した海軍パイロットのシェパードもこう言いましたが、
即ちこの映画は、人類の経験したことのない危険だからこそ挑戦する意味がある、という、
まことにアメリカ人らしい価値観を持った一握りのアメリカ人たちの物語と言えましょう。



さて、チャックの「無欲さ」にほっと胸をなでおろした(笑)空軍幹部、
さっそくテスト飛行の交渉に入りますが、

”When?"「テストはいつする?」
”Tomorrow."「明日」
”I'll be there."「行くよ」
"I'll see you there."「じゃそういうことで」 


これはさすがに映画上の創作で実際はそうではありません。 

しかし、初めて音速を突破するためのテスト飛行の前日、彼は落馬して肋骨を骨折しており、
同僚のジャック・リドレイ大尉が箒の柄を切って渡し、

「これで中からドアをしめれば前かがみにならなくてもいい」

とアドバイスするシーンがありましたが、こちらは実話です。
グレニスを馬で追いかけて落馬した、というのは多分創作だと思いますが。

そして、劇中なんども、華やかに脚光を浴びる飛行士たちの報道を
物言いたげな風情で聞くイェーガーの姿があります。

宇宙飛行士とテストパイロット、命の危険に置いてはどちらも同じですが、
テストパイロットが死んでもせいぜい「パンチョの店」に写真が貼られるだけ。
逆に成功したところでパンチョがステーキを奢ってくれるくらいのものです。


しかし、「ヒーロー」である宇宙飛行士たちには、
危険な任務に対する有形無形の報酬が与えられます。
それだけでなく、彼らを利用せんとする有象無象が周りに群がってくるというわけです。

たとえばこの映画で描かれた、野心に満ちた政治家、ジョンソンが
自分の政治的権力顕示のために開いた欲望の渦巻くバーベキューパーティ。

ここで、宇宙飛行士(この時点で宇宙に行ったのは三人だけ)とその妻が、
怪しげなダンサーの踊りに唖然としているそのとき、

またしても「空の壁」に挑戦しようとしているイェーガーの姿がありました。



「数年前にあれがあったらな」

とイェーガーが言う、この「見たことない飛行機」。



これは・・・・・なんですか?





見たことない機種だ。

いや、わたしは見たことあります。
これはロッキードF-104スターファイターですよね?

ジョン・グレンが地球を弾道ロケットで三周したのは1962年。
映画によるとその翌年行われたパーティのさなか、イェーガーが乗り込むこの飛行機がNF-104。

これは史実に照らしても正しく、このときイェーガーは音速ではなく「高度記録達成」に挑戦しました。

しかし空軍のかれが1954年に初飛行のスターファイターを1963年現在「見たことがない」というのは
なんだか時期的におかしいような・・・・・。


・・・・・・・・ま、まあいいや、これは映画。そういうこともあるよね。





とんだところで映画のセリフのおかしなところに気づいてしまいましたが、
とにかく、挑戦が始まります。


・・・・というところで前回も前々回も終わり、次回に引っ張ってしまったのですが、
このイェーガーの挑戦と、イェーガー夫妻のこと、
そしてやっぱり宇宙飛行士のことをもう少し書かねば、終わるわけにいかない!


・・・・ええ。すっかり気に入ってしまったんですよ。この映画。


というわけで本当の最終回に続く。

 

映画「ライト・スタッフ」〜世界最高のパイロット

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やっとのことで映画の最後のシーン、チャック・イェーガーの高高度の限界挑戦まで漕ぎつけました。
監督のフィリップ・カウフマンが、最後になぜこのシーンを持ってきたか、なんですが、
わたしが考えるに理由は一つ。

今まで「音速の壁」を破って記録を達成してきたこのイェーガーが、この時は

「どこまで天高く、宇宙に近づけるか」

という挑戦をしたからです。

戦闘機がどこまで上昇できるか、ということには実用的な意味はほとんどありません。
「高高度飛行」とは通常50000フィート(15.24km)以上を言いますが、
高く飛んだからと言ってミサイルは高度20キロくらいまでの対象物は撃ち落とせますし、
それより高高度に上昇していくことそのものが機体にとって危険極まりないことだからです。

イェーガーのこの挑戦は、この時に使用したNF-4の性能限界を試すためであり、
まさに「挑戦のための挑戦」としか言いようのないものでした。



イェーガーの妻、グラニス。

「飛行機なんて嫌いよ」

「パイロットは不安を取り除く訓練をするけど、だれも妻の不安など気にかけない」

彼女は夫の命を奪うかもしれない任務を受け入れることはできませんが、
しかし、その一方もし夫が挑戦することをやめてしまったら夫を捨てる、というような女。

「わたしはあなたがもし昔話にすがって生きていく男になったら、家から出ていくわ」

うーん。この男にしてこの妻あり。
言ってはなんだが、マーキュリー7の妻、特にジャッキーに会えないからと言って
それでなくても任務に失敗し失意の最中にある夫をなじったりするガス・グリソムの妻に、
爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ。

グリソムの妻が本当にガスをなじったかどうかは知りませんがね。

そんなオトコマエの妻に、この最強のパイロットは言うんですね。

「俺は死を恐れたことはないが、いつもお前が怖い」

この妻に意気地のない男として軽蔑されることは死ぬより怖いと。


そもそも、この二人、最初の登場の時も変なんですよ。

夫が飲んでいるパンチョの店に女一人でやってくるグラニス。
お、いい女!
マッハ2を突破したあのクロスフィールドが(パイロットって、もしかして女好き?)
目を輝かせて彼女を見たりするんですが、実はとっくにチャックの妻なんですね。

夫婦なのにバーで初めて会ったような顔をしてダンスしたり、あるいは

「私の馬に追いついた男はいないわ」

などと挑発して夫に追いかけさせたり。
これ、もしかしてプレイの一種かい?

ともかくその挙句、テスト飛行の前の日に落馬して肋骨を折ってしまう夫。
あまりにも生活臭がないので、最初に見たときには本当に
これが二人の出会いだったのか?と思ってしまいましたよ。
 



このときイェーガーは40歳。
NASAと空軍のパイロット養成学校の校長を務めていました。

しかし、そこいらのパイロットと違って「生涯現役」のイェーガーですから、
普通の人間がそろそろ引退を考えだす年齢に、限界に挑んじゃったりします(笑)



かっこいいのでもう一度出してくる、スターファイターとサム・シェパードのシルエット。
実際のイェーガーはそんなに背が高くは見えませんが、もしこれが
本当のイェーガーだったら、マーキュリー計画の飛行士採用担当はまず身長で失格させるでしょう。

カプセルは小さいので、身長制限が180センチと決まっていたそうです。 



派手な壮行会も世間の注目も何もない、テスト飛行への出発。



観ているのは関係者と妻、そして女流飛行家で「パンチョの店」のオーナー、
フローレンス・”パンチョ”・バーンズ。

このおばちゃんについては、そのキャラ立ちまくりの人生と活躍についてエントリを制作しております。
また後日お読みください。

さて、この映画、この伝説のパイロットが「宇宙を目指して飛んでいく」のと同時に、
宇宙飛行士たちを招いて行われたジョンソン副大統領主催のパーティがオーバーラップするのですが、



その席上、ジョンソンがわざわざ「宇宙飛行士たちのために捧げます」
として上演される、この「ファン・ダンス」。

このダンサー、本当にいたらしいんですよ。



なんちゅうキャッチフレーズだ、とお読みになった方は思われたでしょうか。
バーレスク・ショウ(お色気ショウ?)の立役者、実物のサリー・ランド嬢でございます。

この映画のおかげで、こんなどうでもいい知識まで得てしまいました。
この、大きな羽を二枚使って巧みに隠すところを隠しながら踊るダンスは、
一世を風靡して、日本にも当時このようは「チラリズム」が輸入されたようです。

そして、このダンスを観る宇宙飛行士たちの顔を以前ご紹介しましたが、
最初は唖然と観ていた彼ら、下を向いて首を振りため息をついたりし始めます。

そして、ただ茫然と観ている風の夫人たちの傍らで、飛行士たちは次第に
互いの目を見やり、互いの目と目でその心情を語り合うのでした。


そして。

彼女の体を包む白い羽は、まさに空に、いや宇宙に疾走していくイェーガーの機が
切り裂いていく純白の雲にいつのまにか置き換わり、いまや全く別の世界、
目指すものもそれによって得られるものも、何もかもが違ってしまった
テストパイロットと宇宙飛行士たちを交互に映し出していくのです。




栄達も世間の喝采もない、たった数人の見送りによる挑戦。
それによって彼に与えられるのは、ただ挑戦したという事実のみ。



彼の乗ったスターファイターは、ただどこまでも真っ直ぐ、成層圏を突き進み
宇宙へ向かって駆けていきます。
そしてひとりごちるイェーガー。

「まだ行ける・・・・・もう一息で4万3000メートル」

しかしその瞬間、機は失速して今まで登ってきたところを錐もみしながら墜落していきます。
あたかも舞台でくるくると舞うサリー・ライドのように(笑)



煙が出ているのはイェーガー自身が燃えてるんだろうか?(郷ひろみ禁止) 
これは、ベイルアウトの時に炎が座席から噴出し、彼に燃え移ったということのようです。



それにしても、これらを見守る空軍の同僚、リドレー大尉がまたいいんですよ。
いつもイェーガーに

「ガムあるか?帰ってきたら返すから一枚くれ」

とミッション前にねだられ、いつも

「いいよ」

と快く渡してやる、二人三脚の相棒。
実際にもイェーガーとリドレー大尉はこのようにコンビでともに記録に挑戦してきたそうです。
このときも、救急車で現場に駆けつけるんだけれども、全然心配してないの。
もう、イェーガーが死ぬわけない、と心の底から信じきっている人の気楽さで、 

「ほら、生きてた」



このリドレー大尉の役をしたのはリヴォン・ヘルムと言いまして、なんとあの伝説のロックバンド
”ザ・バンド”のギター&ヴォーカルなんですよ。
”ザ・バンド”はイギリスのグループですが、このリヴォンだけがアメリカ人なんですね、

俳優としても活躍し、たくさんのドラマに出演したようですが、喉頭癌のため、
2012年つまり昨年の4月、72歳で亡くなりました。

合掌。



そして、このリドレー大尉本人ですが、空軍の航空エンジニアとして
テストパイロットの経験を生かし、イェーガーの飛行に協力しました。

そして、この人物のことを検索していてこんな事実を知ってしまいました。
「在日米軍機の墜落事故」というページを見ると、

1957年3月12日羽田空港を離陸したC-47輸送機が10時40分頃に新潟市の上空から
位置報告したのを最後に消息を絶つ。
この飛行機は後日長野県の白馬岳に墜落しているのが発見され乗員4
名全員が死亡しているのが確認された。
(ウィキペディア)

とありますが、この4人のうち一人が、リドレー大尉だったということです。

ですから、1963年にイェーガーが高高度に挑戦した時には、
リドレー大尉はとっくにこの世にいなかったということになります。

ですがまあ、これも映画上の創作というやつです。
しかし、テスト飛行ではなく輸送機での墜落死は、さぞ無念だったでしょうね・・・。

合掌。 




そして、事故現場から意気揚々とすら見える風情で生還するイェーガー。
まるで花道を引き揚げる千両役者のように傲然と顔を上げて歩いてきます。
凡人ならスターファイター一機ぶっ潰しておいて、まずこんな堂々とは帰ってこれませんな。

劇中「テスト機を失ったらテストパイロットはクビだぜ」
という会話があったりするのですが、このころのチャックはすでに「伝説の男」
ですから、多分おとがめなし。たぶんね。

いずれにしてもこちらも渋さ満点です。 
 


映画は、この後、「ホットドッグ」ゴードン・クーパーの乗った「フェイス(Faith)7号」が、
人類で初めて一日以上の宇宙滞在を果たす飛行のために打ち上げられるシーンで終わります。

屈託なく大口開けて笑う無邪気さ、やんちゃ坊主のようで微笑ましいこの「ホットドッグ」
を演じるのはデニス・クェイド。
黒沢の「七人の侍」でいうと、三船敏郎の役どころですかね。

打ち上げ前のカプセルの中でグースカ居眠りをしてグレン飛行士に起こされたりします。




この打ち上げが実質「マーキュリー計画」最後のミッションとなりました。



この報道レポーターは最初からかなり宇宙飛行士の取材で活躍?していましたが、
最後にこんな大役をもらっています。
関係者かしら。



この、ガス・グリソムが4年後アポロ1号の火災で死亡するということ、そして

「つかの間の一瞬
彼は文字通り世界最高のパイロットだった」

というナレーションが入ります。


パイロットが「世界最高」になれるのは、たとえどんな功績でもつかの間の一瞬。
それにもかかわらずその頂点を目指す男たちを称えて、映画は終わります。



世の中には、自分の義務を果たし結果を出すことが
金銭よりも、栄達よりも、ときには自分の命よりも大切なことであり、
だからこそ挑戦する意義がある、と考える人間がいます。

イェーガー自身は自分の功績についてこう語っています。

「その飛行機が音より速く飛ぶかどうかなんて私には関係なかった。
私はテストパイロットとしてその飛行機を飛ばすように命じられ、
自分の義務を果たしただけだ。」


わたしは、この「宇宙に行くことを拒んだテストパイロットたち」のことを考えると、
つい、生物の進化の段階で最初は海にいた、特に進んだ知能を持つ二種類の生物の話を思い出します。

「陸に上がることを決めた人類、そして海に残ることを決めたイルカ」です。

海に残って太古のままの暮らしをしているイルカと、陸に上がって文明を築き上げた人類、
どちらの選んだ道が幸せだったのか。

そんな問いに決して答えが出ないように、
テストパイロットとして歴史に名を刻んだ男たちと宇宙飛行士として歴史に名を遺した男たちの
どちらの功績が人類にとって偉大で、どちらをより褒め称えるべきだったかなどは、
それを問うことそのものが全く意味をなさないことなのです。


チャック・イェーガーは2013年現在、90歳。
2012年10月14日には89歳でF-15Dに乗り、65年前の音速突破の再現を果たしています。




 

「われは海の子」〜我は護らん海の国

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先日、海上自衛隊東京音楽隊の定例演奏会に行き、
会場で無料のCDをいただいてきました。

収録されている曲は次のようなものです。

1、君が代

2、イージス〜海上自衛隊ラッパ譜によるコラージュ

3、われは海の子

4、ブルー・サンセット

5、アンヴィル・コーラス(ヴェルディ)

6、幻想交響曲「断頭台への行進」

7、幻想交響曲「ワルプルギスの夜」

8、行進曲「軍艦」 

2番と4番は東京音楽隊隊長である作曲家の河邉一彦二佐の作曲。
幻想交響曲は、言わずと知れたベルリオーズの名曲です。

これを手に入れてから車の中で聴いていますが、
選曲の妙で、何回リピートしても飽きません。
特に、河邉作品は、どちらも心憎いほど「いい曲と感じるツボ」をおさえた名曲です。


そして、今話題の海自の歌姫、三宅由佳莉三曹はこのCDで一曲だけ、
「われは海の子」で参加していました。

「浜辺の歌」や「ふるさと」のような、自衛隊音楽隊のレパートリーの中の
日本の唱歌の一つとしてこの曲が選ばれ収録されているのだろうと、
わたしは何も考えずに当初彼女の気持ちのいい声に耳を傾けていました。

・・・・と。

今まで聞き知った一番と二番に続き、間奏を挟んで三番になったとき、
「もしかして・・・これは・・・・」

と耳をそばだて、もう一度この曲だけをリピートしました。
三回繰り返して聴いたとき、不覚にも鼻の奥がつんとして、
運転しながら涙で視界がぼやけました。
最後の歌詞はこうだったのです。


いで軍艦に乘組みて

我は護らん海の國。



ああ、「海の子」とは、そういう意味だったのか。

そして、彼女が歌い、海上自衛隊東京音楽隊を紹介する曲の一つとして
ここに収めることを決めた自衛隊の「誰か」に感謝したのです。


「われは海の子」は、1910年、明治43年に尋常小学読本唱歌に発表されました。

長年、作詞者不詳とされてきましたが、1989年になって、児童文学者であり翻訳者でもある
宮原晃一郎の娘が、宮原が文部省の新体詩懸賞に応募し、佳作当選した「海の子」
であると主張し、宮原の故郷である錦江湾には碑が建てられました。
しかし国文学者で学士会院の芳賀矢一の義理の娘もまた義父の作であると主張し、
結局決定的な証拠がないことから、いまだに作詞者不詳のままになっています。

2007年には、それまで「とまや」「ゆあみ」などの言葉が難解であるとされ、
姿を消していたのですが、この年に「日本の歌100選」に選ばれています。 


皆さんがなじみがあるのはおそらく二番までではないでしょうか。

一、我は海の子白浪のさわぐいそべの松原に煙たなびくとまやこそ我がなつかしき住家なれ。

二、

生まれてしほに浴(ゆあみ)して浪を子守の歌と聞き千里寄せくる海の氣を吸ひてわらべとなりにけり。



とまや(苫屋)とは苫で屋根を葺(ふ)いた、粗末な家のことです。
この二番までは小学校で習った方もおられるかもしれません。

三、

高く鼻つくいその香に不斷の花のかをりあり。なぎさの松に吹く風をいみじき樂と我は聞く。




「不断の花」とは、「フダンソウ」と呼ばれる花のこと。
自分の育った海の情景描写が続きます。

四、

丈餘(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて行手定めぬ浪まくら百尋千尋海の底遊びなれたる庭廣し。

五、

幾年こゝにきたへたる鐵より堅きかひな(腕)あり。吹く鹽風(しおかぜ)に黒(くろ)みたるはだは赤銅さながらに。




海を庭のように櫓をこぎ成長した彼は、
赤銅色に日焼けし、鉄のようなたくましい腕の持ち主に成長しました。

「丈餘(じょうよ)のろかい」とは一丈(3メートル)あまりの櫓のこと。 

この4番以降は、1947年以降、教科書から姿を消しました。

六、

     浪にたゞよふ氷山も

來らば來れ恐れんや。海まき上ぐるたつまきも起らば起れ驚かじ。



このあたりから、戦後の「自虐派」が眉をひそめる表現が出てきます。

海辺に育ち、海を住処としてたくましい腕を持つ青年に成長した彼は、

「氷山も竜巻も、来るなら来い、恐れはしない」 

とその蓄えた力を誇示するかのように豪語します。
そして最終段の

七、

いで大船を乘出して我は拾はん海の富。いで軍艦に乘組みて我は護らん海の國。 



に、彼の人生は集約されています。
波の揺り籠で育ち、巨大な櫓を操って鍛え上げた鉄の体は、
即ち海の国である日本の護りに捧げるためのものであった、
というのがこの「海の子」の大意であったというわけです。


戦前は、この歌詞は当然のように7番までが歌われ、
教科書にもそのように書かれていました。

当然です。

「海の子が海の国を護る」

これが作詞者のこの歌で言いたかったことだからです。

ところが、戦後GHQが全ての軍歌を禁止し、そして唱歌であっても
「軍国主義的」とみなされたものは歌詞を代えるなど、
徹底的な「旧軍色パージ」を行いました。

たとえば「めんこい仔馬」という歌は、もともと陸軍省選定の映画
「馬」(ストレートなタイトルありがとうございます)の主題歌でしたが、
愛唱歌として普及していたため、作者のサトウハチローは、
GHQ的に問題のあった、

紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を
    ハイド ハイドウ お話を

明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
    軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ
    ハイド ハイドウ してやるぞ


という部分だけを改変させられています。

そしてこの「われは海の子」の7番もまた、どういうわけかついでに削除された
4番以降とともに、世間からは姿を消すことになります。


しかし、これらを見て思うのですが、

「仔馬との別れを惜しむ」
「国を護る」 

という歌詞の意の、いったいどこが軍国主義的だというのでしょうか。 
いずれも「軍馬」「軍艦」という「禁止ワード」だけをガイドラインに、
ともかく「軍の付くものはみんなダメ」ということにしてしまった感があり、
あの時代のGHQの行ったことは、じつに性急で雑駁な、
そして荒々しい「思想弾圧」にすぎなかったとの認識を新たにします。 


しかも、これらの作業をすべてアメリカ政府の代行であるGHQがやったのか、
というと、わたしは非常に残念ながら「そうではなかった」と言わざるを得ません。

微にいり細にいり、このような重箱の隅をつつくばかりの言葉まであげつらって、
それに対してこまめに「禁止」「改変」「削除」という作業をしたのは、
実は昨日までの敵であるアメリカの手先となることを良しとした当の日本人だったのですから。

昨日まで教壇に立って「お国のために」「兵隊さんありがとう」と言っていた教師が
次の日には「日本は悪いことをしました」と、自分もずっとそちらに立っていたかのように言い、
国民は国民で「日本人は騙されていた」と刷り込まれた頭で、何も自分で判断することもなく、
情熱をこめて昨日までの日本人を糾弾し罵倒する。
戦争に行った軍人を「戦犯」と呼び、特攻で死ななかった人を「特攻崩れ」と蔑み・・・。

日本は戦争に負けたときに国を分割されたり植民地になることはありませんでした。
戦勝国から「見せかけの独立」を与えられ、それでもその勤勉と精勤で見事に経済と国力を復興させ、
奇跡ともいえる発展を遂げ、繁栄を満喫してきました。

しかし、実はその代償として、もっとも大切な「日本人であることの誇り」
を見事に抹殺されてしまったのです。
極端な言い方をすれば、それは精神的なジェノサイトでした。


「われは海の子」の7番は、1949年以降なかったものにされ、さらに、
「7番だけを削除するという不自然を糊塗するため」だと思われますが、
さしたる不都合もなさそうな4番以降をすべて割愛してしまいました。


しかし、いったん人の口端にのせられ歌われた歌は、そして、
海軍軍人を歌ったこの歌詞の「言霊」は、この世から消えてしまうことはなかったのです。


自衛隊を理解し、感謝し、その音楽を愛してくれる人々、という限定で配られる
このCDに、まことに「ひっそりと」、収められている、この7番。

「われは護らん海の国」

この一節がこれほど胸に迫ったのは、その演奏が日本の海を護る
海上自衛隊の一員によるものであるからだったにほかなりません。



 





 

2013観閲式〜車両部隊行進

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2013年観閲式、飛行部隊の展示が終わり、
続いては車両部隊の行進となります。

陸自主催の観閲式において、普通科部隊の行進と、戦車を含む
この車両部隊の行進は、観閲行進のハイライトとでも言うべき最後に行われます。



車両行進は、軽快な

「祝典ギャロップ」

に乗って始まりました。
誰が考えたか、いかにも車両行進にふさわしいスピード感あふれる選曲。
というか、陸自の「音源ページ」に載っていたくらいなので、もしかしたら
最初から車両行進用に作られたのかもしれませんね。

この曲が鳴ったとき息子が

「あ!これ知ってる」

と即座に言いました。
母親のiPodにかなり昔から入っていて、何度も聴いている曲だからですね。
というか、どんな母親だよ。





国際派遣の際先遣隊をになう中央即応連隊。
装輪装甲車、軽装甲機動車など16両でなる車両連隊です。

指揮官はアベ一等陸佐。
うーん、指揮官、渋い。苦みばしっている。

最初に行進してくるのは「国際貢献部隊」。

自衛隊の国際貢献は、主に

「復興・後方支援」

「PKO・国連平和維持活動」

「難民救援」

「国際緊急援助隊」

「海賊対処」

「遺棄化学兵器処理」

「能力構築支援」

などです。
災害に対する派遣で記憶に新しいのはハイチ地震やパキスタンの洪水でしょうか。
平和維持活動では現在も南スーダンに派遣部隊が継続して派遣中です。



偵察部隊。
ちなみに指揮官はモトヨシ二等陸佐です。



バイク軍団は、座っていた位置の関係でほとんど見えませんでした。





87式偵察警戒車「RCV/ブラックアイ」

これも偵察部隊の運用車。

装甲車の定義とは(素人はこういうところから始めるんですよ)、
つまり敵弾の飛び交う中、生身の人間の盾になり、より安全に移動をするための車両。

現在は装輪式と装軌式の2タイプが運用され、戦闘のサポート車両、
そして前線での司令車両の役割を担っています。
このブラックアイを装輪装甲車といいます。



普通科車両部隊。

主目的は兵員の移動ですが、移動中の事態に備えるための武器も装備しています。
砲塔の両側面には、発煙弾発射筒も装備しています。
ちゃんとこの写真にも写ってますね。




89式装甲車中隊。







35ミリ砲、対戦車ミサイルを備えつつも軽快に走行。
96式装輪装甲車中隊。



高軌道車中隊。




即応予備自衛官部隊。
予備自衛官とは自衛隊の予備要員で、有事・訓練等の際に召集され、自衛隊における各任務に就きます。

「即応予備自衛官」は、自衛官としての勤務経験が1年以上ある者、
又は予備自衛官に任用されたことがある者から選抜され、
第一線部隊の一員として運用し得るよう、従来からの予備自衛官よりも高い練度が要求されます。

分野は通信、衛生、情報処理、語学、建設などの分野にも亘ります。
待遇は公務員で、階級は例えば「二等海尉」のように称し、一般の自衛官と同じです。

 

 

現段階の予備自衛官は定員に対して下回る数しかおらず、
現役よりも予備役の方が多いアメリカ軍などとは大きく違います。

民主党のあの悪名高きマニフェストには、最初


「予備自衛官の拡充」

が謳われていたようですが、当然のように実際のマニフェストからは割愛されました(笑)



予備自衛官部隊。

指揮官はマツオカ予備二等陸佐。

予備自衛官の階級にはこのように「予備」がつきます。
そして予備自衛官の「宣誓」は、通常の自衛艦宣誓とは少し違います。


私は、予備自衛官たるの責務を自覚し、常に徳操を養い、心身を鍛え、
訓練招集に応じては専心訓練に励み、防衛招集、国民保護等招集及び災害招集に応じては
自衛官として責務の完遂に努めることを誓います。

 


予備自衛官部隊は、大型トラックなど9両からなる編成でした。








施設科大隊。
指揮官の顔が敬礼で隠れてしまいましたが、旗手の表情が凛々しいです。
スカーフはえび茶です。



陣地の構築などで戦闘部隊を支援する部隊です。
92式地雷原処理車(MCV/マインスイーパー)など、
10両編成の部隊です。





ブルーの隊旗は通信科部隊。

後ろにアンテナのついた通信車両が見えます。



指揮官は奈良二等陸佐。




無線発信監督装置など8両による部隊。



何にするのか分からないけどきっとこのブームはレーダーに違いない(笑)




化学科部隊。
マフラーの色は金茶です。



放射線物質やサリンなどの化学物質の対応と除去を行う、
化学防護車。(CRV)
地下鉄サリン事件で出動し物質の特定を行ったのもこの車です。

その他、NBC偵察車など、核(N)、生物(B)、化学(C)物質に対応する車両も。




衛生科部隊。
指揮官山田三等陸佐。

旧陸軍の軍医部です。
防衛医大とか看護学院を出た隊員がいるわけですね。





この敬礼の仕方は、陸軍というより海軍式に見えますね。



おおお、道理で見るからに頭脳明晰そうな隊長だと思った。
軍医殿でしたか。

率いているのは野外手術システムなどの車両です。
この日、これらの医療システムは展示場で公開され、全て中に立ち入って見ることが出来ました。






需品科部隊。

旧陸軍では「輜重」と称したところで、各部隊の後方支援が主な任務です。
災害派遣では入浴、給食で活躍する第一線部隊で、あの
「野外炊具1、2号、(1号改)」「入浴セット2型」もここの装備です。

「野外入浴セット」の導入のきっかけは、日航機墜落事故でした。
ボランティアである製作会社から提供を受けたところ、
隊員の維持、向上に著しい効果が認められ、装備としての導入、制式に至りました。



指揮官、サワヤ二等陸佐。



情報科部隊。
指揮官若林一等陸佐。

指揮官の雰囲気というのは、自ずとその隊の任務を彷彿とさせます。
この情報科とは英語で言うとミリタリー・インテリジェンス。
中期防衛力整備計画に基づき2010年に職種になりました。
陸上自衛隊開隊以来、職種の新設はこれが初めてだったそうです。

情報科の特技とは以下の通り。(wiki)

語学:国賓に対する通訳支援・諸外国からもたらされた出版物等の翻訳に従事(基礎情報隊の任務) 地誌:公刊情報の収集・整理等(情報処理隊の任務) 地理空間情報:測量・地図作成(地理情報隊の任務) シギント:電波情報の傍受(情報本部通信所、方面通信情報隊等) スパイ・防諜:情報保全隊の任務 ヒューミント:現地情報隊(中央情報隊隷下部隊)の任務

陸軍中野学校の流れでしたか・・・。



この車両の上についている葉っぱみたいな形のものは何?
これがもしパラボラアンテナなら、

衛星単一通信可搬装置 JMRC-C4
(えいせいたんいつつうしんかはんきょくそうち ジェイエムアールシーシーフォー)

かな?
無人偵察機などで編成されている、というアナウンスはありましたが・・・。



これは何か分かりませんでした。

各部隊はただそのときは目の前を次々通り過ぎて行くだけでしたが、
こうやって後から写真を見ると、指揮官や隊員の雰囲気に
それとわかる特色が歴然とあって、わたしのような自衛隊ファンには、
(繰り返しますがハードではなくソフトに興味があるのよ)
非常に多くの収穫がありました。

車両部隊行進、もう少し続けます。



 



 

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