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2013観閲式〜車両部隊行進と観閲官退場

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昨日、この車両行進のときに鳴っていた「祝典ギャロップ」を検索したときに、
陸自の式典曲を集めたページが見つかったのですが、そこに

鬼軍曹は今日も往く

という、思わず嬉しくなってしまうようなタイトルの曲を見つけました。
ハートマン軍曹のテーマソングか?と思ったら、日本人の作曲でした。
曲調も少しアメリカの軍歌っぽいんですけどね。

さて、情報科部隊に引き続き、戦闘部隊です。
冒頭写真は

西部方面普通科連隊。
ついでに西部方面隊歌をどうぞ。 

こういうのを聴くと、昔の軍歌そのままで、いわゆる「軍歌調」というのは、
まだまだ日本人のDNAに刻み込まれて健在であると思ってしまいますね。

我が国を北部(北海道)東北、東部(関東甲信越)、中部、西部の
5つの地域に分けたとき、西部は九州地方の防衛の要所となります。



この西部方面隊だけがゴムボートを積んだ装備を展示していました。



空自ペトリオット部隊

デジタル迷彩の色が少し陸自のよりブルーがかっています。
マフラーも空自らしい奇麗なスカイブルーです。

近くに座っていた人が、

「ペトリオット?パトリオットだよね」

と笑っていたのですが、これは英語読みに忠実なんですね。
ネイティブの発音をそのまま書くと

「ペイツリオッ」

になります。 
パトリオットミサイル、という言い方は日本のメディア等が慣例的に始めたもので、
元々米国製のpatoriotミサイルを運用する部隊なのですから、
原語とかけ離れないように空自がこう決めたのも当然のことなのです。 

「パトリオット」はいわばネイティブに通じない「日本語英語」なんですね。
theme「シーム」(シは舌を上前歯に当てる)が日本では「テーマ」になるようなものです。

もっとも、なんでも省略する日本人にかかっては「ペイトリオット」が「長いのでペトリオット」
さらに、内部では「ペトリ」になってしまっているようです。



弾道ミサイルを撃墜する能力を有する迎撃ミサイル、
PAC3を有するのもこのペトリオット部隊です。
それにしても、迎撃ミサイルを運用するのが、陸自ではなくなぜ空自なのか、
ふと気になったのですが、これ、なぜなんでしょうね。
やっぱりミサイルを識別するのが航空レーダーだから?
そもそもこの部隊、空自なのに陸自基地にあるんですよね。

PAC3のデータのソフトウェアは、あたかもアップル製品のように日々更新されており、
ミサイルの種類(”ミサイル”も英語では”ミッスル”よね)が巡航ミサイルか対レーダーか、
UAV(無人飛行機)かを識別することが出来ます。




これもペトリオット部隊の装備ですが何か分からず。



高射特科部隊。
対空戦闘部隊として侵攻する航空機を要撃し、対空情報活動を行う部隊。
職種標識色は「濃黄」。
指揮官飯田二等陸佐。
指揮官の階級は部隊によって一佐から三佐まで違いがあるみたいです。 

昔の陸軍砲科は、現在 野戦特科とこの高射特科に大別され、前者は
火力戦闘部隊として大量の火力を集中して地域制圧を行います。



93式近距離地対空誘導弾。近SAMといいます。
略称はSAM-3、愛称はクローズドアローという、やっぱりそこはかとなく
中二的なかっこいい系の名前がつけられているわけですが、
隊員にはきっと「きんさん」って呼ばれてるんだろうな。

ちなみにこの車体はトヨタで、システムの生産は東芝がやっております。

射撃姿勢は、目標物に対して車を横向きに停め、
発射装置をぐいっと90度動かして目標空域を向けます。
隊長はヘルメットについた目視照準具で目標を決め、
助手が助手席に在るジョイスティックで方向を定め、
テレビカメラや赤外線センサーで目標を確認したらレーザーで照準。
あとはジョイスティックの発射ボタンを押して「ファイアー!」



87式自走高射砲(の後ろ姿)。
接近する敵航空機を射撃します。

高射特科部隊は、その他中距離地対空有用弾中隊、150ミリ榴弾砲FH−70中隊、地対空ミサイル中隊などが行進。



野戦特科部隊。



155ミリ榴弾砲FH70(を引っ張るトラック)。
手前に例のイケメン自衛官がさり気なく入っているのだった。

というか、この隊員の立っている場所のせいで、どうしても入り込んでしまうんですよ。



地対空ミサイル中隊。
88式地対艦誘導弾が群れをなして・・・・!

地対空、ではありません。地対艦、です。
おそるべきことに「シーバスター」なんて愛称だそうです。

日本は周囲を海に囲まれているので、艦船に対する侵攻に備える必要があり、
1970年代から対艦ミサイルの開発が行われてきました。
航空自衛隊が先駆けて80式空対艦誘導弾を配備していましたが、
これを基にして陸自が運用する対艦ミサイルとして開発されたのがこれです。



中隊の指揮官の紹介はありませんでした。



155ミリ自走榴弾砲中隊。





戦車部隊。
さすがにトリを務めるだけあって、車両部隊の花形と言った感じです。
轟音を響かせながら隊列を組んで疾走してくる戦車を見て、
興奮を感じない人間が果たしているでしょうか。(アオリ風)

これは74式戦車。





90式戦車(の上部分)。

これを持ちまして、観閲行進は全部隊を終了いたしました。
続いて国旗降納です。



観閲台の上の安倍首相、小野寺防衛省、そして防大校長。



国旗に対し敬礼する各駐在武官。
ところで写真に撮れなかったのですが、海自の行進が前を通り過ぎたとき、
駐在武官の何人かが自衛艦旗に対して立ち上がって敬礼していました。

外交プロトコルから、世界の海軍儀礼はほとんど共通の形を取るからです。
船で外国を訪れるというその特性上、海軍というのは昔から外交において一端を担ってきました。
そして、定められた共通の礼式にしたがって、各国海軍軍人は忠実にそれを行使しますから、
軍旗である海上自衛隊旗は、世界の軍人に取って国旗と同じく敬礼の対象となるのです。

 

そして、閉式です。
特別儀仗隊が入場して栄誉礼が行われたのち、観閲官は退場。
この間、観客はそのまま席についているように求められます。

安倍首相は外国武官の前を通り過ぎたのですが、何人かは敬礼を送りました。
そのうち一人に首相は一瞬立ち止まって特別の挨拶を送ったように見えたのですが、
気のせいかな。



その外国武官が退場のためバスに乗り込みます。
なぜか客席の女性?をガン見している(らしい)インドネシアっぽい軍人さん。



海自の自衛官と名刺交換してます。



駐在武官の奥様のファッションも見所。
ゼブラ柄のコートにハットが気合い入ってます。
我が自衛隊の駐在武官夫人ならダークな色一色になってしまうかも・・。
少なくとも真っ赤なドレスはないだろうなあ。
髪が明るい色なので、奇麗な色でも派手にならないんですね。



一番後ろは、もしかしておフランス軍かしら。
奥様が超ファッショナブルなんですけど。
ここぞとお洒落して来た様子ですね。

というわけで、観閲式は無事終了。
一週間前の波乱を感じさせる雨が信じられないくらいの晴天でした。

ちなみにこの観閲式、観閲官は総理大臣、
主催者は防衛大臣なんですよ。


さて、観閲式、このあと観客に向けた音楽演奏などが行われました。

(続く)



 


自衛隊フィリピン派遣と戦艦「伊勢」の物語

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フィリピンを襲った台風30号は前代未聞の災害を齎し、
死者行方不明者、負傷者を含め、少なくとも950万人が被災するという
国家非常事態となっています。

続々と入ってくるニュースによると、レイテ島、サマール島は壊滅的な被害で、
低地はことごとく高潮に飲み込まれ、高台も土砂崩れで崩壊。
この世の地獄と化した現地は、すでに食べ物の争奪を巡って人々が暴徒化し、
略奪を警察も見ない振りをするといった悲惨なものとなっているそうです。

日本はさっそく緊急援助金をはじめ医療チーム、調査チームを派遣し、
小野寺防衛大臣は海自の最大艦であるヘリ搭載護衛艦「いせ」、
輸送艦「おおすみ」、 補給艦「とわだ」を派遣することを決定しました。

この「いせ」は、昨年度行われた観艦式で、ヘリ離艦の訓練展示を行いました。
そのときの写真です。







わたしがこのときに乗艦していたのは「ひゅうが」。
「いせ」は「ひゅうが型」の二番艦です。

「いせ」は東北大震災のときは就役直前(就役は5日後の16日)で派遣できなかったため、
これが彼女にとって、初めての実戦任務ということになるのでしょうか。

日本には警視庁機動隊など、現地体制の援助無しで独自に活動できる部隊も他にありますが、
自衛隊はこの点において規模も装備も桁違いに大きく、
これらの救出活動を的確に行うスキルの練度を持つ組織は他にありません。

憲法違反だから失くせなどと言っている左巻き共の口を塞ぐ意味でも、
統制の取れた軍行動を見せることが敵対国に対する抑止力となる、という意味でも、
こうした派遣を通じてその存在感を大いに高めてくれることを期待したいとします。


ところで、旧軍艦の熱心なファンの間では、

「伊勢」が「レイテ沖」に「出航」

という言葉からあのレイテ沖作戦を彷彿としたり、あるいは

「伊勢」が「物資輸送」

という(実際は『おおすみ』の役目でしょうが)言葉から、
「北号作戦」という言葉を思い出して感慨に耽る向きも多いのではないでしょうか。



戦艦「伊勢」。
伊勢型の一番艦で、今と同じく「日向」の姉妹艦です。
今はどちらもがヘリ搭載型で、「ひゅうが」が一番艦、という違いはありますが。

何よりも留意いただきたいのがこの名前です。
今年式年遷宮を迎え日本中からの参拝客を集める伊勢神宮。
その、日本の神のおわすところである地から取った名前である「伊勢」、
そして天孫降臨の地から取った「日向」。

(ところで『いせ』『ひゅうが』に、先日進水し、2015年に就役が予定されている
やはりヘリ搭載型、出雲の国の『いずも』が加われば、
『神の国』の名を持つ三姉妹が完成するというわけですね。
うーん、なんだかゾクゾクしますね。)


さて。

「日向」と「伊勢」、この二姉妹は、共に大東亜戦争を最後まで戦い抜き、
終戦直前の7月24日には日向が、その4日後の28日には次いで伊勢が、
呉軍港の空襲によって共に大破着底しました。

まさに神の国の名のその言霊が乗り移りうつりでもしたかのような壮絶な生涯ですが、
元々彼女らはその燃費の悪さゆえ「投入の場所無し」として無聊を託っていた老姉妹でした。
にもかかわらず最後まで働き続けたきっかけは、姉妹同時に施されたある改装だったのです。

この改装にはこんな(トホホな)事情がありました。


当時、世界の列強、とりわけアメリカが、潜在的な力を秘めた日本の「武力」を殺ぐために、
軍縮会議で日本に対し大幅な新造艦の中止を決め、日本は従うことになりました。
結果、軍事予算、特に造船のための予算が大幅に削られてしまいます。
彼女らはこの、予算不足の中生まれた多くの「欠陥艦」のうちの二艦だったのです。


さらに逼迫する予算の中、新造艦が作れなくなった海軍は、既存の艦を改装して使うことを決め、
この不良品であった二姉妹を、修理ついでに改装してしまおうということになりました。


「いせ」と「ひゅうが」は「ヘリ搭載型護衛艦」であって「空母」ではありませんが、
(空母だ!と騒いでいる国があるそうですが)
奇しくも同じように、「伊勢」「日向」は共に空母ではありませんでした。

空母を必要とした海軍は、「大和型」三番艦の「信濃」、
そして「伊勢」「日向」を空母に作り替えることにしました。
しかしもともとこの二姉妹は艦橋が真ん中にあって、空母にするために必要な広さがありません。
そこで、後甲板だけを滑走路に使うことにして、名称を「航空戦艦」としたというわけです。


そして生まれ変わった「伊勢」「日向」はレイテ沖海戦に投入されました。

 
当時、搭載するべき航空機が全て失われていたため、
二姉妹はせっかく改装されたのに航空機をまったく載せずにレイテに出撃しています。
しかしこの海戦において、彼女らは意外なほど?気を吐きました。

瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田という空母が一度に失われるというこの海戦で、
「大物」が全て沈んだ後、敵機は彼女らに集中攻撃を加えてきたのにもかかわらず、
巧みな航空攻撃回避術で相手を避けながら、逆に襲いくる敵航空機に攻撃を加え、
ほとんど被害を受けないまま、航空機多数撃墜の戦果をあげて日本に帰国しているのです。


わたしは、この戦歴について知ったとき、海上自衛隊が新たに建造するヘリ搭載艦に
なぜ「ひゅうが」「いせ」の名を与えることにしたか、そのわけに気づきました。

そしてフィリピンに派遣された「いせ」の任務と、
彼女の先輩である「伊勢」の、レイテで見せた活躍のある一致にも。

「伊勢」は、敵航空機の集中攻撃を「弾幕射撃」と操艦で悉くかわしただけでなく、
戦闘の最中にエンジンを止め、海面に漂流する「瑞鶴」の乗員を救助しているのです。


このたびレイテに海自の護衛艦が派遣されることになったとき、

「かつての戦いの海で、死闘を演じたアメリカ海軍と、日本海軍の末裔が、
協力し合って人命を救助する作戦に携わる」

ということに、ひとかたならぬ感激を持った方は多かったのではないでしょうか。

わたしはさらに、かつて、その海で行き脚を止めて戦火の中乗員を救助した「伊勢」の末裔が
69年の時空を超えて、同じ場所で人命を救う任務に就くことに、感動を覚えずにいられません。


「ジパング」の「みらい」の乗組員のように、70年前にタイムスリップした自衛官が、
かつての帝国海軍軍人にこのことを教えることが出来たら、彼らはどのように思うでしょうか。


こうしてレイテ沖を生き延びた姉妹は、1945年、昭和20年の2月に行われた

「北号作戦」

という輸送作戦に参加しました。
呉に帰って来てからカタパルトを取り外され、航空戦艦としての役目を
(そもそも載せる飛行機も無いので)終え、連合軍制海下の南シナ海を強行突破し、
国内で不足する石油とゴムを輸送してくるという任務です。

帰路、幾度となく潜水艦に攻撃されていますが、徴用された民間船と違い、
彼女らは腐っても元戦艦、ことごとく避退しながら、そしてときには
命中寸前の魚雷を高角砲で迎撃しながら、驚くことにこの作戦中
全く無傷で日本に物資を輸送することに成功しているのです。

元々全滅も覚悟の上の「決死作戦」であったため、無事帰還を知ったとき、
軍令部は驚きのあまり歓声を上げて沸き立った、と言われています。

改装後「航空戦艦」となった両艦ですが、カタパルトから発進はできても着艦はできないので、
(『離艦は出来ても着艦は出来ません!』ですね、またもや)
「伊勢」「日向」から飛び立った飛行機は、全て空母に着艦することになりました。
もし、全機無事で帰還したら空母だってそのためのスペースは全くなくなるわけですが、

「どうせ何機かは墜とされるわけだから」

軍令部はこのように割り切っていたそうです。
飛行機乗りが聞いたら全く絶望しそうな話ですが「戦死を想定する」のが
冷徹でも何でも無い、このころの現実だったのですから仕方ありません。

しかしながら、その「損失予定」を大きく裏切ったのがこの作戦で、
それゆえ「キスカ撤退作戦」と同じく「奇跡の作戦」と呼ばれています。

奇跡を起こすための役者は揃っていました。
旗艦は「日向」。
彼女の妹「伊勢」もちゃんと加わっています。
指揮官は、レイテで彼女らを生存せしめた操艦法と攻撃法の発案者である
松田千秋少将。

戦後、松田少将が第七艦隊の米海軍参謀にこの作戦に対する米側の評価を聞いたところ、

「いや、あれはすっかりやられた」

というものであったそうですが、この作戦に運をもたらしたのは、
誰あろうラッキーガールズの「伊勢」「日向」姉妹だったのではないかと言う気がします。


しかしながら、そんな彼女らにも最後の日が訪れます。

日本の敗戦があと20日に迫った、昭和20年7月下旬のこと。 
せっかく石油を命からがら日本に運んで来た殊勲艦だというのに、
彼女らは石油不足のため、呉鎮守府予備艦(浮き砲台)となっているところを空襲に遭い、
日向は24日に、伊勢は28日に、米航空機の直撃弾を受けて大破着底しました。

攻撃を受ける「伊勢」wiki

「伊勢」の最後は凄まじいまでに「戦艦」の矜持に満ちたものでした。

すでに着底し、多くの乗員が(死者573名)海に飲まれつつあるそのとき、
彼女の主砲は突如火を噴いたのです。

群がる米軍の航空機に向かってまるで咆哮するように、「伊勢」は、最後に—
—それは、帝国海軍、そして日本という国にとってもまさに最後のものとなったのですが、
轟音を響かせ・・・・・そして、永遠に沈黙しました。

神のおわす国の名を持つこの戦艦が、死の直前に撃ったのは、
負け逝く祖国への弔砲であったかもしれません。




そして68年が経ちました。

フィリピンには、かつてと同じあの旭日旗が、そこで果敢に戦った「伊勢」と
同じ名前を持つフネの掲げる護衛艦旗が、再び翻ることになったのです。
今度は、一人でも多くの人命を救うための尊い任務を帯びて。


「いせ」始め、各艦乗員の自衛官の皆さん、そして派遣された方々、
たとえ困難な任務であっても、海上自衛隊ならそれができるとわたしたちは信じています。


武運長久祈念と日本国自衛隊への敬意を。
そして、「神の国」のご加護が貴艦らにあらんことを。
 


 



自衛隊音楽祭りと防大記念祭(怒濤の週末予告編)

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毎週何かしらこのブログ的にアップしなくてはいけないイベントが続きますが、
先週末はまさに怒濤のイベント続きでした。

陸海空自衛隊音楽まつり(at武道館)と、防大開校記念祭。
しかも、音楽まつりは事情があって2時からと6時からの部、
どちらも参加。

防大記念祭から帰って来て写真を取りあえずパソコンに落とし、
何枚かをセレクトして今週末いかに充実していたか、お伝えしたいと思います。

ただし、結構疲労困憊しているので、文章は最小限で(笑)



以前にも少し自慢がてらご報告しましたが、この音楽まつり、
わたしは初参加です。
初めてなのに1日に二回も連続してチケットが手に入った、というところにご注目。

2時からの部は、「青少年チケット」。
つまり、29歳以下の青少年が同伴であれば三人までが入れるというもので、
防衛省のお知らせにも「少し当たり易い」などと書いてあったので申し込みました。


申し込んだのですが、どうせ当たりっこないと思い込んでいたためか、
わたしは実は当選のはがきが来るまですっかり申し込んだことを忘れていました。

その記憶が蘇ったのは、ある方からチケットを頂き、そのチケットが送られて来たときです。
てっきりその方が青少年チケットを手配して下さったのだと思い込み、
「1日に二回もありがとうございます!」とお礼を申しあげたところ、なんと、

「わたしではありません。どなたか別の方ではありませんか」

というお返事。
背筋を寒くしながら、記憶をまさぐったところ、自分で応募したことを
ようやく思い出したのでございます。

というか、自分で申し込んだことくらい覚えとけよエリス中尉。

しかし、初参加にして1日2回公演に参加。
これは快挙です。
一回だけ観るのとはまた違った発見もあるはずだし、席を取るにも
きっと一回目をたたき台にしたフィードバック効果があるはず。 

というわけで1回目公演は、息子と二人で参りました。



フラッシュを焚かなければ写真撮影OKのコンサート。
さすがは防衛省の広報活動である音楽会です。



一度目は、フォーメーションを観易いのではないかと、二階席に並びました。
武道館は広いので、どこに座っても「見えない」ということはまずありません。
まあ、何度も来ていれば真横から見ても面白いのではないでしょうか。



米海兵隊の錨のマーク。



自衛隊の歌手というと三宅三曹が有名ですが、人材豊富な海自は
とんでもないボーカリストを繰り出してきました。
詳細はまた後日。



一階に座った二回目公演よりもこういったフォーメーションは奇麗に観ることが出来ました。
海自の錨マークは人数が多いので迫力です。



陸海空合同で描く「空自の飛行機」。
ちゃんとジェットの炎が赤い旗で表現されています。
海は「護衛艦」。陸は「戦車」でした。



自衛太鼓、女子部。
このピンク色の袴が格好よかった・・・・。



選曲の点でわたしが個人的に非常に評価した、空自演奏。





東京オリンピックのファンファーレで終幕です。



二回目公演は、一階のVIP席横で観ることが出来ました。
そのときの事件?についてもまた後日。

ステージが、近い!



去年も好評だった『米海軍の歌姫」も健在。



後ろのスクリーンの映像が、また、効果的でねえ・・・。

ときおりあまりの音楽との調和に、涙が出てしまったのはわたしだけ?



防衛大学校儀仗隊の演技も堪能できました。



今年の海外軍ゲストはタイ王国。

なんと、ムエタイの音楽とともにこのような演武を・・・。



すでにオーラが違う、という雰囲気。
海自の歌姫、三宅由加莉三曹。


そして、日曜日。
コンサートの興奮を味わう間もなく、防大記念祭に参戦。



記念祭は土曜日日曜日の二日行われました。

わたしはこの日曜日に何が何でも行かなければならない訳があったのです。
そう、コメントをご覧の方はご存知かもしれません。
去年の記念祭でパラシュート部の降下を観て、それをエントリにしたのですが、
何と、そのときに二番降下した部員さんから直々にコメントを頂き、
さらにこの日、4番目に降下するというお報せまで頂いたのです。

これが行かずにいられようか。
義を見てせざるは勇無きなり。ちょっと違うかな。

去年のんびり観閲行進少し前に学校に来たため立ち見しか出来なかった、
という苦い経験を生かして、この日は早起きして開門前に到着している
・・・・つもりだったのですが、さすがのわたしも前日の感動のせいか、
はたまた疲れが溜まっていたのか、いつもは目覚まし無しできっちり6時に起きるのに、
この日目が覚めたら7時半。

寝坊しちまった・・・・。orz

まあいいや、今日の目的は防パラだけだから。
別に観閲行進の写真が撮れなくてもいいから。

と、やる気のない態度で現地到着。

ところが、芝生席中央に、スマートな人間なら座って脚を伸ばせるくらいの
格好の隙間を見つけてしまいました。

この日は最後までここで見学。
昨日今日、まったく気合いを入れずともなかなかラッキーだわ。
無欲の勝利ってやつでしょうか。




サーベルが朝の光を受けて光った瞬間。





学生は防大校長の挨拶の後一旦左手に移動して、観閲行進準備。

ここで悲しいアナウンスがありました。
第一空挺団の空挺降下が、

上空が強風のため 

上空が強風のため 

上空が強風のため 

中止になったというのです。
周りの皆は観閲式のときほど落胆していませんでしたが、
実は彼らの何倍もこの結果に落胆し、かつ不安にかられたのはこのわたしです。

だって、空挺団が降りられないくらいの風なのに、
我が防大パラシュート部は午後に降りることが出来るのか?



それはともかく、航空機が記念祭のために上空を飛行します。

でも、はっきりいってこれも去年と比べるとずいぶん機数が減ってました。
うーん、やっぱり、今「非常時」ってことなんですか?
それとも前にも予想したように、民主党のせい?



そんなことはどうでもよろしい。

チヌークとこのヘリのローターを見て下さい。
お父さんやりましたよ!
お父さんじゃないや、婆娑羅大将、やりました。
ちゃんとローターに動きを出すことに成功です。
動きを出しすぎて機体も少しブレてるのが問題ですが。

これ以上やると機体がボケそうなので、これが限界でした。



P−3Cも一機だけ・・・。



C−1も一機だけです。



音楽隊から観閲行進開始。



この行進の様子は本エントリでアップしていきたいと思います。





儀仗隊は音楽まつりで近距離から写真を撮ったので、
あまりちゃんと撮っていません。



さて、行進が終わり、観閲官の訓示が終わったら、終わりです。

少し構内を歩いてみました。



留学生コーナーは盛況でした。
これはモンゴルの「パオ」。



「小原台の青春編」もアップ予定。

さて、3時からは棒倒しです。



あれ?靴を履いている人がいる・・。



第三大隊。
こちら側が攻撃隊で、向こうが守備隊です。



緑のチームと守備隊の色が同じなので見分けにくいですが、
シャツが緑が攻撃で、ズボンが緑の方が守備。



場外乱闘もあり。
相変わらず凄い迫力でした。

これらの様子も本エントリでお話しします。
さて、問題の防パラはどうなったかというと・・・・。



体育館の中にあったパラシュート部のコーナー。
ここで、わたしは衝撃的な事実を知ってしまったのだった。

「(空挺団ですら中止になったほどの)上空の強風により、
パラシュート部の降下、本日中止」


なんだとおっ!(笑)


 









 

自衛隊音楽まつり〜陸自音楽隊「桜と、デイゴと、大島椿」

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当日の様子はネット配信されたそうですね。
勿論、ヘタな席に座るならこちらの方がずっと細部まで見ることができるわけですが、
音楽というのは再現性の無いその瞬間、生の音を聴くことが全てです。

どんなに演奏者が豆粒のようでも、そのときにそこで聴くのが一番。
ネットの映像は後でも見られますしね。

という訳で、チケットを手配して下さった方と、青少年参加券を下さった
自衛隊広報のどなたか存じませんが係の方に心の中で手を合わせんばかりの思いで、
この日、わたしは九段に向かったのであります。

いざ靖国、じゃなくてその隣の武道館。

休みの日で寝坊したいところを叩き起こし、

「ちょっとでもいい場所で見たければ、早く並ぶのよ!」

と叱咤する母に向かって、息子はノンビリと

「聴こえるなら、ちょっとくらいいい場所でなくていい」

それを聴くなり、今日二回の公演チケットを持っているわたしとしては、
それもそうだ、と納得してしまい、車を停めた後にこれまたゆったりと
スープストックトウキョーで昼ご飯など取ってから武道館に向かいました。



武道館に入場する列は、1、2、3の列に分かれており、
列の最後尾にはこのように係の隊員さんが看板を持って立っています。
行けども行けども最後尾にたどり着けず、これだけの人が入れるのか?
と心配になるほど。



しかも、並んだとたん後ろにもあっという間に列が伸びて行きました。



この日の北の丸公園は素晴らしいお天気でした。
音楽祭り最終日にふさわしい秋晴れです。



人員整理係の海自隊員。
この日は陸海空から多くの隊員が供出され?警備や整理をこなしていました。
不思議と、整理係は全て陸自か海自からで、空自の制服は一人も見ませんでした。

二回目の公演の入場の際、わたしはこの水兵服の隊員さんに
大変お世話になることになります。(予告)



武道館に近づいて空を見上げると、雲一つない空。
小さく飛行機が見えています。



席は、二階の場合前列と真ん中から順に埋まって行きます。
もう少し上なら真ん中もあったのですが、ここに落ち着きました。
初めてにしてはまあまあの成果じゃないでしょうか。



二階客席部分。
後から思ったのですが、

「二階の最前列」

が、この音楽祭りに関しては最上席ではないでしょうか。
そこそこ客席に近く、フォーメーションもきれいに見られるからです。



今年のテーマは「力」。
パワーフォーピースつまり平和のための力です。

平和を維持するための防衛力は、つまり「武力」。
武力と聴くだけでヒステリーを起こす手合いにも、ひとつ冷静になっていただいて、
その力を平和のために行使するための組織、
それが自衛隊の存在意義であるということを改めて理解していただきたい。
と思って広報はこのようなテーマを決めた訳ではないとは思いますが、
まあいわば1足す1は2くらい当たり前のことでもあるんですね。

さらにぶっちゃけたところを言ってしまえば、

「戦争は常に平和を目的に行われる」

というのが有史以来の真実。
そして、ミリタリーパワーの不均衡は必ずそこに「戦争を生む」のです。

わたし個人の考えに過ぎないかもしれませんが、日本が戦争に突入していった、
その布石になったのは、軍縮条約で日本の武力が大幅に殺がれ、
世界のミリタリーバランスが不均衡をきたしたことでもあるのですから。

・・・という話に突入する前に(笑)コンサートの模様に戻ります。



まず、演奏会に先立ち各制服の音楽隊員たち一人ずつが1列にステージに並びました。
伊豆大島の災害でお亡くなりになった犠牲者、そして、
先日お話ししたフィリピンの台風被害で亡くなられた犠牲者の霊に対し、
全員で黙祷を捧げることから始められたのです。

客席も起立してしばしの祈りを捧げました。





そしてオープニングセレモニー。
国旗入場と国歌斉唱です。
ここにいる儀仗隊員は、第302保安警務中隊と言います。

陸上自衛隊の各方面警務隊直轄の警務科部隊で、この第302中隊は、
市ヶ谷の東部方面警務隊直轄です。

外国の国賓の来日の際儀仗を行うのがこの中隊で、その際、
特別儀じょう隊(仗という当用漢字が無いので、公文書ではこのように表記する)
を編成します。



国旗は掲揚されないので、国旗に対する栄誉礼が行われた後退場です。
儀仗隊長は兵藤幾太郎2等陸尉。

皆ほれぼれするほど姿勢が良く、かっこいいですね。
この儀仗隊員になるには、身長に条件があります。
見たところ、172センチプラスマイナス1センチくらいかな。





この後のオープニング演奏を聴くなり、息子が大興奮。
自衛隊の映像に乗せて流れて来たのは「英雄の証」

なんと「モンスターハンター」の曲です。
この曲ご存知ですか?
映像と音楽があまりにも合いすぎて、いきなりテンションがマックスになりました。



演奏会は4章による構成で、

第1章「大地」、
第2章「大海」、
第3章「烈火」、
第4章「大空」。

まずは陸自音楽隊中心の「大地」からスタートです。

ところでこの形、何に見えますか?
そう、桜の花びらですね。

演奏するのは陸自東北方面隊。曲は大河ドラマ「八重の桜」のメインテーマ。

 

あくまでもイメージですが、陸自音楽隊はおじさん隊員が多い。(イメージですよ)
こういったおじさんが軽やかにステップを踏むドリル演奏。

写真を撮ってみると、一人一人の体型とか顔とかを見てしまいますが、



全体の醸し出す統制美というのは、厳しく訓練された自衛隊ならではです。

この、横一列になって皆で歩んでくる隊形、これが始まると
ぞくぞくして鳥肌が立ってしまうのってわたしだけでしょうか。

この東北方面音楽隊が最初の演奏を行ったのは、震災被害に遭った地だからでしょうか。
背後のスクリーンには壮絶なまでに美しい桜の花びらが降り注ぐ映像が流れました。



そして、例えば海自や空自なら、若い女性隊員にやらせるであろう
旗ふり演技を、おじさんにさせてしまうのが、陸上自衛隊。
(単に女性だけで隊が組めるほど数がいないんだったりして)



別の衣装で旗を投げたりする隊は、若い男性です。



見よこのおじさん隊員たちの華麗なる演技を!

というか、この人たち、音楽隊員じゃないんだとしたら、
一体どこの部署から引っ張って来たんだろう・・・。


この演技をしたのは陸自西部方面音楽隊。
西部、つまり九州、沖縄を統括する方面隊です。
沖縄、つまり諸島部を含むわけで、この演技は「島唄」に乗せて行われました。

「島唄」。
勿論元から沖縄音階(ドミファソシド)を使った名曲中の名曲ですが、
改めて、この曲の良さ、すなわち今まで気づかなかったドラマティックな面を、
この日の演奏でわたしは見た気がします。



これですよ。このとき。

先ほども言いましたが、ドリル演奏でもし「見栄を切る」という部分があれば
まさに、皆が横一列で進んでくる、この隊形だとわたしは思うのですが、
(必ずこの隊形はクライマックスで行われる)
歌詞で言うと最後の「島唄よ風に乗り」の部分です。

わたしの近くに座っていたおばちゃんたちが、やはり同じように感じるのか、
この隊形で進んでくる部分ではなぜか歓声を上げて盛大な拍手をしていました。

・・・・まあ、気持ちは、よくわかる。


「島唄」の歌詞の本当の意味は沖縄戦の悲惨を歌ったものである、
という話を知っている者に取っては、自衛隊音楽隊の演奏するこの曲、
そしてデイゴの花を表すのであろう真っ赤な旗にも意味があるように見えて、
実に複雑な感興を呼び起こされてしまいました。

深読みすれば、東北の桜も、沖縄のデイゴも、かつてそこに在った人々、
そこに在ったがゆえに命を奪われた人々への鎮魂のしるし、と思えます。

この日のプログラムには椿の花の画像に、この日のテーマ曲でもあった
「花」の歌詞が書かれていました。
椿、それは伊豆大島の「大島椿」です。

「花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に」


わたしは思うのですが、自衛隊音楽隊の存在とは、ただセレモニーの合間に、
皆に慰安目的の音楽を還元するためだけのものではありません。

伊豆大島で亡くなった人々への黙祷からこの演奏会が始まったように、
自衛隊が護るべきこの国土にある人々の心を励まし慰めること、
それ以上に、この国に在って救いの手も及ばぬ非業によって命を失った人々の、
その魂をも慰撫する役目を担っているのが、彼ら音楽隊なのです。

この二曲の始まりによって、わたしは深いメッセージを受け取ったような気がし、
そして、災害派遣で泥にまみれ雨に濡れながら任務を果たす陸自隊員たちにも、
あらためてその存在に感謝したい気持ちになりました。





しかし(笑)、いい意味で息抜きというか、楽しませてくれたのが、
合間に入ってくる米軍の音楽隊の演奏です。

昨日「海軍の歌姫」と書いてしまいましたが、間違いで「米陸軍の歌姫」でした。
去年真っ白なロングドレスで歌っていた人ですよね?

今年は「歌姫」一人だけでなく「歌王子」との息の合ったデュエットを聴かせてくれました。
曲は「スリラー」に始まり、「ユーアーノットアローン」。
マイケルジャクソンの名曲です。(わたしの大好きなナンバーです)

アメリカと日本の関係、というのも色々とあるのかもしれませんが、ここは単純に
「トモダチ」であることをお互いに感謝し合おうじゃありませんか。

少なくともあの大災害の後、アメリカは、そしてアメリカ軍は

「君は一人じゃないよ」

というメッセージを送ってくれ、日本人は皆感謝しました。
ここで彼らの演奏を聴いていると、それでいいのだ、と思えます。 
 


 

なんと、最後にはEXILEの「ライジングサン」を日本語で歌い、観客大興奮。



続いては陸上自衛隊中央音楽隊。

第302保安警務中隊の儀仗との競演です。
曲は映画「バックドラフト」から、「ショウ・ミー・ユア・ファイアー・トラック」。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」のハンス・ジマー作曲です。
実にヒロイックな曲と、儀仗との競演。

ひらひらと旗を振る女性のトワラーや歌手を繰り出して「スマートな空自」「粋な海自」
という印象であったこの日の演奏会で、陸自はそのイメージ通りどちらかというと
質実剛健、男臭く、無骨な印象すらありましたが、わたしはむしろそれらを
「陸自らしい」と感じ、その陸自カラーにかえって安心感を感じました。 


しかし。

その陸自音楽隊が演奏するは、花の名に秘めた慰霊の歌。
「強くなければ陸自ではない」、「優しくなくては陸自ではない」というモットーそのままです。




そして純白の衣装を纏った儀仗隊の「粋」、そして「スマートさ」。

これぞ陸自、これぞ男、(女性隊員も多いですが、イメージですよ、イメージ)というステージで、
わたしはすっかり陸自ファンになってしまったのでした。


(第2章『大海』に続く)











 

平成25年度自衛隊音楽まつり〜海自音楽隊の「歌手」

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11月16日に行われた陸海空自衛隊音楽まつりの様子をお伝えしています。

この演奏会には「休憩」がありません。
基本演奏中の席の出入りは自由ですし、飲食も周りの迷惑にならないようなら可能、
何と言っても写真ビデオ撮影大歓迎、という太っ腹。

何と言っても国民の税金に支えられている自衛隊音楽隊ですから、
その演奏会は日本国民であれば著作権など関係無しに広めていただいて結構、
いやむしろ、写真、映像、そしてブログで宣伝して頂ければ大変嬉しい。
そのような自衛隊広報の声が聞こえてきそうな「ゆるさ」です。

その心の広さに甘えて、思いっきり内容をここでお伝えしてしまう当ブログです。



4章に分かれているこの日のプログラム、第二章の「大海」の始まりです。
ということは、当ブログ的に最も張り切ってお伝えしたいところの海自音楽隊登場。

と思ったのですが、この章は防衛大学校のファンシードリルから開始。

陸海空問わず未来の指揮官を育成する防衛大学校なのに、なぜ「海」なのか。
その理由は、わたしの勝手な独断で説明しますと(笑)、防大というのは
表向きにどういうことになっていようとも、その元々は「海軍兵学校」なのです。
異論は認めません。


この日の映像でも紹介された防大生必須の東京湾遠泳。
海軍兵学校の伝統であったこの遠泳を防大では恒例として行うことから、
「大海」の章に防大を投入した、ともとれる説明がありましたが、
防大が海軍兵学校から受け継いでいるのは遠泳だけではありません。

開校記念祭でも行われた「棒倒し」。
細部を少し替えただけの短いジャケットのネイビーブルー、夏は純白の制服。
そして、上級生が下級生を一対一で指導する「対番制度」。
全学年が一つの「隊」として上級生が下級生を指導する制度。

違うのは鉄拳制裁の有無だけ、というくらいです(昔も一応禁止されていたんですがね)。

というわけで、海自が旧海軍の流れを強く引き継いでいると言われているように、
防大も実は「海軍兵学校の末裔」であるというのが、海自内の暗黙の了解です。(たぶん)









この次の日、わたしは全く同じ演技を防大グラウンドで見ましたが、
そのときも、誰一人としてミスをしませんでした。
今まで見た防大儀仗隊の映像によると、失敗率0。

もしかしたら、去年の開校記念祭で見たミス(銃を落とした)は異例だったのかも。







この「銃くぐり」を見ると、いつも映画「パイレーツオブカリビアン」の最後の海戦で、
ベケット卿が破壊されて行く英海軍艦船の階段を、スローモーションで降りるシーンを思い出します。

記念祭の演技のとき、隣にいた女性たちが(どうも防大生の母親のようだった)

「あれ、当たったら痛いよね」

と真剣に心配していましたが、三枚目の写真からも予想されるように、
重さ4・7キロの銃がもし顔面直撃したら、痛いではすまないでしょう。





前にも書きましたが、防大の儀仗隊は「クラブ活動」などではありません。
彼らは防大所属の「儀じょう兵」であり、儀礼、警備のために天皇・皇族・大臣・高官、
あるいは外国の賓客などにつけられた兵隊という位置づけでもあります。

彼らが行うファンシードリルは、全ての儀仗隊が行うものではなく、国内では
陸上自衛隊少年工科学校、陸上自衛隊44科普通科連隊、そして防衛大学校儀仗隊だそうです。




眉目秀麗な学生さん。
ちょっとイメージフォト風に加工してみました(笑)

 

指揮は第4学年の川上北斗学生です。



さて、この音楽まつりでは、毎年米軍以外の外国軍楽隊をゲストバンドとして招聘します。
会場のスクリーンでは、開始までの長大な時間(早くに会場になるので、たっぷり1時間はある)
観客に向けて自衛隊の活動広報映像を見せたり、これまでの音楽まつりの様子を紹介していました。

それによると、今までに出演したゲストバンドは、シンガポール軍、インド陸軍、
オーストラリア陸軍、韓国陸軍、同じく空軍。

どうも近場ばかリのような気がしますが、招聘するからには旅費も防衛省が持つので、
ヨーロッパや南米からは呼びにくい、ということなのかもしれません。
というわけで、今年はタイ王国陸軍軍楽隊です。

どうしてこのゲストバンドが「大海」という、海自の受け持ち部分に入っているのかというと、
その理由は、わたしの勝手な独断で説明しますと(笑)、

海外から来る→海を渡ってくる→「大海」

ってことだったんだと思います。


正直、バンドとして、あるいはドリル演奏だけを見ると、自衛隊が素晴らしすぎるのか
少しその部分に関しては見劣りしないでもありませんでした。

が。



このタイ美人が登場して、思わず皆から笑いが漏れた、
「変な音の笛」を吹いたときから、タイ王国軍楽隊、本領発揮です。



楽団員が皆でリンクを形作り、おそらく隊員が二人、
ムエタイの選手となって擬似格闘を音楽に乗せて行いました。



背中と腕に本物の入れ墨があり、とても「偽選手」には見えません。

ムエタイは「最強の格闘技」とも言われタイの伝統的な武術ですが、賭けの対象であるため、
ムエタイをするのは、「身体しか資本が無い」貧困層の若者だけなのだそうです。
しかし、世界では「タイ=ムエタイ」という国家的イメージが強いため、
タイの人はえてして海外に出て初めて、その評価を知ることになるのだとか。

このたびはタイ王国軍楽隊、そのイメージを前面に押し出して、音楽というより
パフォーマンス重視で攻めて来ました。



型だけとはいえ、迫力です。



そして模擬試合が終了。
全員が最後の曲の演奏を始めました。
曲は「ソング・フォー・ジャパン」。

このタイトルではトロンボーンのチャリティしか見つからなかったので、
おそらく軍楽隊の方が作曲されたのではないかと思われます。
そして、日本人のわたしたちにとってじんと来るような演出がありました。



楽隊員一人と、ムエタイのプレイヤーが二人で、
この曲の流れる中・・・・・、

 

両国の国旗を・・・・。

「素晴らしい」

隣に座っていた方がつぶやきました。
わたしもつい目頭が熱くなりました。

こういう国とこそ仲良くしていきたいですね。
というか、相手の国旗に敬意を表する、これが「普通の国」なんですけどね。




さて、「大海」なので、続いては・・・米海兵隊。

・・・・・ん?

海兵隊が、「大海」って、ちょっと違わないか?
確かに水陸両用部隊ではあるけど、「海の真ん中」というより
どちらかというと海兵隊の仕事は沿岸警備とか水際作戦とか・・・、

まあでも今年は海軍が出演していませんので細かいことは抜きでいきましょう。
本人たちも最初の曲に

「海の男たちの歌」Song of Sailor and Sea(R.W.Smith作曲)

を選んでいることでもあるし。
この曲は、いわゆる吹奏楽界では有名な曲で、作者はまだ50代。
アメリカ海軍の委託作品です。
原語は「水兵と海の歌」なんですけど、なぜか日本語訳の段階で「男たち」になりました。

このYouTubeを見ていただくと分かりますが、どうも先ほどのタイ軍隊といい、
米陸軍といい、演奏そのものはともかく、フロアードリルのステップに
全体的にキレがないというかなんと言うか・・・・。



こういうフォーメーション(とも言えない効果)を多用するし・・・(笑)
これはこっちが普通で、我が日本国自衛隊のドリル演奏が素晴らしすぎるってことですか?

さて、海兵隊バンドからのプレゼントは、なんとNHKの朝の連続テレビドラマ、

「あまちゃん」

オープニングテーマ。
見ている見ていないにかかわらず、半年間毎朝流れる曲なので、
皆知ってるらしく、最初では笑いが漏れました。
わたしも一回も見ていないのになぜか知っていたなあ。なんでだろう。

そして、リパブリック讃歌、海兵隊賛歌と続きます。



手前のクラリネットの眼鏡っ子お姉さんは後で歌も歌ってしまうのだった。
ただし、このときには出番はありませんでした。



海兵隊退場。
いつ見てもこの海兵隊の制服はかっこいいですね。

そ・し・て!



海上自衛隊東京音楽隊、キター(AA省略)!




どうですかこの、「時の人」ならではの貫禄。

今や国民的話題となった三宅由佳莉三等海曹の歌うのは

「海のお母さん」

宮崎駿のアニメ「崖の上のポニョ」の挿入歌です。

彼女は最近CDを発売し、ニュースでも取り上げられるなどして有名になってしまったので、
その結果毀誉褒貶を免れないというか、他の隊員のように演奏会で「一隊員」として歌い、
それだけを評価されるというわけにいかなくなったわけで、これも「有名税」
というやつだろうか、と少し心配ではあります。

実際のところ声量、音程、音域、表現力、彼女の歌は
クラシックのフィールドからは決して図抜けたものではないのは事実ですが、
わたしはそういう観点からの評価を彼女に加えるのは筋違いだと思っています。

自衛隊員らしいきりりとした清潔感を漂わせた歌手が、皆の聴きたい歌を歌ってくれる。

それが存在意義であるとすれば、彼女は十分に自衛隊の歌手として職責を果たしており、
かつ十分魅力的なので、自衛隊歌手としてはこれ以上の人材はいないと断言できます。

しかし彼女の存在価値は、そこに限定されるべきで、個人的意見ですが、
海自広報は決して今以上のバリューを彼女に負わせるべきではないとわたしは考えます。

始球式で君が代を歌う、これはよろしい。
しかし、芸能界にどっぷり浸かったような歌手と一緒くたにして、
NHKの番組に出演させる、(『あの』紅白にでも出すつもりですか?)
これはいかがなものだったでしょうか。

自衛隊のイメージアップに、彼女が大きく寄与しているのは間違いの無いところです。
しかし彼女「個人」をあまり強調しすぎると、自衛隊という温室ではありえないような
世間の、端的に言うとマスコミの好餌となって脚を引っ張ろうとする輩もいるかもしれない。

考えすぎだったらいいのですが、わたしはこの日、彼女の、
他の自衛隊隊員歌手とは全く違う「練れた自意識」のようなものが見えて、
少し今後に不安を感じずにいられなかったのでした。

それは、この日「歌手」としてステージに上がった何人かの歌手たちの
比較において感じたことでもありました。

さて、ここで言明しておきますが、この日のステージで歌を歌った隊員たちは
いずれも劣らぬ素晴らしい歌手ばかりでした。



「海のお母さん」に続き、海自はまたもボーカル投入です。
男性デュオ。
右側は、自衛隊音楽ファンにはもうすっかりおなじみ、持ち歌「宇宙戦艦ヤマト」の
宮品いさおさん・・・・って言うんですか森くまさん?
報告によるとこの瞬間ニコ動では「宮品キター」の嵐だったそうで(笑)

チャゲアスか?それともまた「ゆず」でも歌うのか?
と思ったら、

イージス2〜輝ける盾

ってこれは・・・もしかして、あの自衛隊作曲家河邉一彦二等海佐の、
あの、「イージス」の続編?
それにしても、この左側の歌手、どこかで見たことあるなあ・・・・
と思ったら!



河邉軍楽中佐ではありませんかー!

いやビックリしました。
わたしの周辺で少なくともビックリしていたのはわたしだけだったと思いますが。

「イージス」は河邉二佐の作品ですが、どうもこの「そーうーさイージース♪」
という歌詞の入った曲をお作りになったのも河邉隊長の模様。(ですよね?)

つまり、自作自演です。

それにしても、お上手なんですよ、歌が。

わたしは音大を出たからといって、さらに音楽をやっているからといって、
全員が歌がうまい訳ではないというのを良く知っているのですが(笑)、
河邉隊長って、管楽器出身だと思っていたけど、もしかしたらウタ科だったっけ?
と一瞬ですが考えてしまったほどです。




隣の宮品隊員?も安定の歌唱力。
この曲の、ちょっと「ヤマトっぽい」調子(『イージス』のフレーズが随所にあり)に、
朗々としたお二人の声がぴったりマッチし、さらにスクリーンには



この映像。
そしてその盛り上がりはそのまま行進曲「軍艦」へと・・。

しかも、「軍艦」のあのややこしい部分、わたしが個人的に「音楽的欠陥」
と思っているあの「海行かば」の中間部分はすっ飛ばして、すっきりと終止に持って行く、
なんともブラボーな大岡裁き(ちょっと違うかな)的エンディング、
これも河邉隊長の編曲ですね!

さすがです。河邉二佐に敬礼。

さて、「軍艦」をもって海自だけの演奏は終わった訳ですが、
このあと突入した第三章、「烈火」の第一部、

「平和への道」

で、最初に陸海空自衛隊音楽隊の「火星」(ホルストの惑星より)に続き、

「空の精鋭/陸軍分列行進曲/海をゆく」

が空、陸、海の曲として演奏されました。
「海をゆく」は宮品?三宅両隊員によるデュエットです。



「海をゆく」。

「海行かば」ではありません。

海上警備隊発足のときに古関裕而が作曲し、歌い継がれたメロディですが、
歌詞が現代にそぐわないということで、自衛隊発足50周年の記念の際、
あらためて公募され、採用された歌詞となっています。

明け空告げる海をゆく

歓喜沸き立つ朝ぼらけ

備え固めて高らかに

今ぞ新たな陽は昇る

おお堂々の「海上自衛隊」(じえいたい) 

海を守る我ら 



このときの三宅三曹は、帽子を目深に被り、口元を引き締めて、
わたしがソロのときに不安を感じたあの「芸能人スマイル」は
すっかり影を潜めていました。

もしかしたらこれは別の隊員かも、と思ったくらいです。

しかし、この「一自衛隊員としての歌」の方が、
抑制されたその凛とした佇まいも相まって、遥かに好ましくわたしには感じられました。



ドリル演奏の間、ずっとライトで指揮(楽員はいつも指揮者の方を向いていないので)
をしていた音楽隊員。
なんと指揮者が死角になる部分、三方にこの「指揮補助」がいました。

こうした、陰で進行を目立たず支える隊員の力が集まって、
この日の素晴らしい演奏会は形になっているのです。

逆に言うと、自衛隊に「スター」は必要ありません。

「海をゆく」

の三宅三曹を見て、わたしの懸念はどうやら杞憂に過ぎないらしい、
と安心してもいいような気もしないでもありませんでしたが・・・。



東京音楽隊の演奏では「歌手」となった河邉二等海佐。
今日の驚きは実は隊長の力によるところが大きかったと思います。



というわけで、ますます海自音楽隊のファンになったわたしでした。


 

 

平成25年防大開校記念祭〜観閲行進

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たかがコンサートの感想といえ、他でもない自衛隊音楽隊の鑑賞記ゆえ、
根をつめすぎて一日に一つエントリを制作するのが精一杯、
普通のテーマで写真の多いものは、多いときには一日に三日分くらい
「書きだめ」していたのですが、最近それどころではなくさすがに少し疲れました。

音楽まつりの後半エントリ制作に備えて、今日は開校記念祭の観閲行進写真を、
淡々と挙げることで(わたしの)息抜きとさせていただきます。

 

記念祭当日、タクシーで学校に到着。
ご存知の通り、小原台の丘陵に学校はあるわけですが、ここまでの
坂道を結構駅から歩いて登っている人たちがいるのに驚きました。

その昔、江田島の海軍兵学校の学生は、学校から小用の港まで
バスに乗っていいのは上級生だけと決められていたようですが、
防大の学生さんは一年生もバスに乗っていいんですよね?

江田島など比べ物にならないくらい歩いて登るのは大変そうなので、
少し心配してみました。



来場者はこのようにまとめて一つの道を歩かされます。
右側は車両が通るので、危険防止ですね。

周りの人が

「車に乗って来られるのって、学生の家族とか?」

などと言っていましたが、たぶん違う。
あとで芝生に落ち着いてみると、周りは「学生の関係者ばかり」。
というか当日のグラウンドの客ほとんどが学生の「身内」だったのですから。



交通整理&道案内&リーフレット手渡し係。
冊子のパンフレットは有料で500円。
後ろの人が「高いなあ」とぼやいていましたが、



なかなか今年のパンフは豪華です。
去年も確か有料で500円だった気がするけど。
それにしてもこの写真はなかなか防大生の凛々しさを捉えていますね。



去年のんびりと来すぎて、観閲行進を立ち見することになってしまい、
さらに遅くに到着した今年は最初から座ることを諦めて、
せめてよく見えるところに立とうと正面左手を歩いていると、
前にもお伝えしましたが、1人分の隙間ハケーン。

こんなとき、一人で来てほんとうによかったと思います。
「すみません」「おそれいります」攻撃でシートの隙間を飛び、
脚を伸ばせる場所をしっかりと確保しました。

まあ、だいたいこんなもの1人で見に来ている物好きもあまりいないので。





向こうのパイプ椅子は来賓関係者の専用シート。

左手を伸ばしているおばちゃんは陸自のアーミーキャップを被っています。
うーん・・・・似合って・・・・いない。



観閲行進のための学生隊入場開始。

この警備の隊員は、一日同じところに立っていました。
顔を動かしたり欠伸をしたりせず、ずっと2時間あまり同じ場所に起立。

見ていると何でもないことのようですが、結構大変なんじゃないでしょうか。
暇な人たちがこうやってしょっちゅう写真を撮ったり、
一挙一動皆の視線に晒され続けるわけですからね。



この自衛官も。

見たところ特に鍛えていたり行軍をしょっちゅうしているようには思えない
フツーのおじさんっぽい自衛官ですが、基礎体力あるんでしょうね。




学生隊が国旗を先頭に入場。

「国旗が通過する際はご起立下さい」

というアナウンスがあり、皆普通に立ち上がっています。
しかし、ここでなぜか立たない奴がいるんだな。



わたしの横にいた団塊夫婦。
あなたたち、なんで立たないわけ?
何をふんぞりかえって座ってるの?
もしかしたら、国旗とか見ると気分が悪くなるタイプ?
それとも、単に夫婦揃って無精を決め込んでるだけ?

そのわりに、行進の写真をコンデジでパチパチ撮りまくり、
前を人が通っただけで聞こえもしないのに

「邪魔するな!座れ!」

って毒づいたりするくらい熱心なのはなぜ?
まさか、こういう人たちが防大生の親であるとは考えたくありませんが、
いったい何のためにここにいたのか。




と、朝っぱらからエリス中尉が無益な義憤にかられている間に(笑)、
全部隊入場完了。



と、なにやら自衛官やら背広やらが走ってきました。
陸海の三人は手に手に何か持っています。



何のことはない、マイクロバスから降りてくる関係貴賓のために、
足元に置くための台を運んでいたのでした。

で、まず学校長國分良成氏の訓示。
今年のテーマ”succeed”が、「成功」と「継承」であるということで、
成功を目指すには先達の求めたものと勝ち得たものを継承することにある、
みたいな(適当)お話でした。



そして、観閲官は、安倍・・・・じゃなくて、小野寺・・・でもなくて、
え?もしかしたら佐藤正久?でもないし・・
・・・防衛副大臣?誰だっけ。

いや、皆さん今忙しいですからね。
とくに防衛省関係は。

去年は確か民主党最後の防衛大臣、森本氏が来ていたと思いますが。 

ところでこの森本大臣は、民主党がやった人事で唯一まともだった閣僚でしたが、
自衛隊からはどう見られていたんでしょうかね。

前にも少し書きましたが、わたしの眼には「最低」とうつった北澤防衛大臣、
漏れ聞く幕僚内の評価によるとこれがなかなか高かったらしい、
という話を聞いて、意外だったということがあっただけに、
元自衛官である森本氏を現場はどう見ていたのか、興味があります。



「巡閲の譜」が流れる中、車での巡閲が始まりました。
まあ、ご時世がご時世だけに副大臣巡閲は致し方なかったのかもしれませんが、
観客の間にも「誰?」というビミョーな空気が流れていたのはここだけの話。

車はこのあとUターンして、学生隊の前を右から左に通過します。



そして、それがすむと学生隊は観閲行進のため一旦左手に移動してそこで待機。

昔はこの行進のことを「分列行進」といいました。
シャルル・ルルーの「陸軍分列行進曲」はまさにこのために作曲されたわけですね。

ちなみに観閲式、と言っているのは我が国だけで、諸外国のそれは
「観兵式」と称します。
我が国は「兵」という言葉は使えませんからね。
勿論もともとは軍の内外への示威目的で行われたものですが、
我が国ではどちらかというと「記念行事」としてやるという面を強調している気がします。

旧陸軍の観兵式もまた「観兵」と「分列行進」で構成され、
その次第は現在も全く変わっていないということです。



 



防衛大学校の場合、女子学生を別の隊として分けないので、
このように普通に男子学生に混じって歩いてきます。

これも、多くの例を知っているわけではありませんが、
もしかしたらこれも世界では特異なことなのではないでしょうか。

学生が全員左方に移動したところで、航空機が上空に飛来(祝賀飛行)します。





必ず指揮官、その他防大出身者が搭乗している場合は、
何期卒の誰々二等海尉、という風に紹介があります。

この写真も、ちゃんとローター回ってるでしょ?



ニンジャを先頭に、コブラ二匹。
OH−1とAH−1です。

 

C−1が飛んで来たとき、なぜか周りで見ていた中から

「かわいい〜!かわいい〜!」

という叫びが女性の、しかも結構年配の方の声で聞こえました。
「かっこいい」じゃないですよ。「かわいい」です。
うーむ、このかわいさを理解する感性を持った女性がわたし以外にもいたとは。



何度も写真に撮っているP−3Cなので、今日は、
ソノブイの発射孔(っていうのかどうか知りませんが)にこだわってみました。

うー、いつ見てもトライポフォビアにはきついわ。
おまけに、機体後部に突き出した伸びたヒゲみたいなのは何?



F−15も全員防大卒パイロットの操縦によるものです。

ところで、こういう行事は、何もなくて暇を持て余す時間が結構多いのですが、
何となくぼーっとしていたら・・・



赤とんぼが前に敷かれた新聞に止まりました。



アップ。
本当に全身が赤いですね。

などと暇をつぶしているうちに・・・。



いよいよ行進が始まりました。



先頭に立つ指揮官は、出身高校まで紹介されます。
この生徒さんではなかったと思いますが、いちど
「鹿児島ラサール」の放送があったとき、周囲が軽くどよめきました(笑)

後、多かったのは「少年工科学校」より「海上自衛隊生徒」出身。
この「海空自衛隊生徒」制度は、2011年の3月をもって廃止されていますから、
「最後の自衛隊生徒」は現在防大の3年生ということになります。






実はわたくし、こういったブログを長年(っても三年半ですが)運営していますと、
自衛隊各方面、しかも本当の「中の人」から情報を頂くこともしばしば。

最近ついに防大関係の方から生徒生活の片鱗を教えていただくという僥倖に恵まれまして、
この行進に参加しているのが「防大生全員ではない」ということを知りました。

まあ、これをやっている間も屋台でお好み焼きを売っている生徒だっているわけで・・・
え?さすがにその間は屋台は営業しないだろうって?

とにかくこの行進も、理由があれば「免除」という形で参加しないらしいのです。
そして、たとえばこの前日に行われた訓練展示を選び、
そちらに参加する、というような意思決定ができるということでした。

防大というと何が何でもがんじがらめの厳しい生活、
というのを外部のものは得てして想像してしまいがちですが、
現代の指揮官養成学校は、決してそういうものではないようです。



もしわたしだったら・・・・うーん、訓練展示も楽しそう(?)だけど、
やっぱりどちらか選べと言われればこちらかな。
特に、前で抜刀する人をやってみたい!










観閲行進の音楽は防大の音楽隊が

「陸軍分列行進曲」→「軍艦」→「空の精鋭」

と順番に演奏します。
以前、「防大音楽隊から自衛隊音楽隊に入れる可能性はあるのか」
と書いたところ、即座に現役自衛官から「それはない」と言われました。

採用の冊子によると、必ずしも音大出身者に限らないし、
たまに地方音楽隊には「一般隊員から試験に受かって音楽隊員になった」
という隊員もいるようなので、可能性としてはあるのかと思ったのですが。


因みにわたしは、自衛隊音楽隊に入りたくて防大に入学し、
進路決定のときにそれができないことを知って大変ショックを受けた、
という経験をお持ちの現役自衛官の方を存じ上げております。



最後にまたしても国旗入場。
国旗が前を通り過ぎてだいぶ経ってから

「国旗が前を通過する際はご起立下さい」

とアナウンスがあったのですが、皆真面目に立っていました。
当然よね。
相変わらず立たない人たちもいましたけどね。



そして、観閲官の訓示がいつの間にか終わり(笑)、
全学生退場。
その後は儀仗隊の演技です。

わたしの前にいたおばあちゃんたちが大興奮で、

「わたしこれ好きなんよね〜」(関西の人らしい)
「うわ、かっこいいわ!」
「すごいなあ」

などと大はしゃぎ。
わたしの近くには防大生のお母さん同士らしく、やたら
「陸は入った後どうのこうの」「海はねえ」
などと、気になる子息の就職先のうわさ話に花を咲かせていました。

儀仗隊の演技のときに、この教練は一応皆やらされるのだけど、
儀仗隊に入るかどうかはそのときの適性を見られるため、

「うちのはあかんかってん」(なぜかここも関西弁)

ということらしいです。色々あるのね。
 



空砲の音は前日の音楽まつりと違って予告されていましたが、
広いグラウンドで響くとかなりの音がして、
前のお婆ちゃんたちは大声で笑いながら

「あああびっくりした」

楽しそうで何よりでした。


さて、当ブログはしばらく音楽まつり、横須賀米軍基地、観閲式(まだ終わってない)
岩国海兵隊基地、防大開校記念祭と行きつ戻りつしながらお話してまいります。


さすがに自分でも混乱してきた(笑)



 

岩国米海兵隊基地潜入記2〜”マリーンズベースで昼食を”

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なんだかハンバーガーの写真が続くなあ、と思われた方、あなたは正しい。
アメリカ人と言えばハンバーガー、ハンバーガーと言えばアメリカ人。
先日の横須賀ネイビーバーガーに続き冒頭を飾る本画像は、岩国海兵隊ベース、
オフィサーズレストランで出されている本格的なアメリカンバーガー。

実際にアメリカで食べるハンバーガー、サマーキャンプが始まる前とか、
仲間が集まってするバーベキューのハンバーガー。

わたしはこれ、実は結構好きです。

某マクドナルドのハンバーガーなどはっきりいって食べ物だと思っていないので、
この人生で思い出せるほどしか食べたことがないのですが、
あれとはまた違うんだな。この「バーベキューのハンバーガー」は。

まず、 パテが固い(笑)。

なぜ固いかというと、おそらくですが、ネイビーバーガーのレシピと同じく、
パテの肉がビーフ100%だからです。
それにお好みにもよりますが、レタスの葉っぱ一枚、
トマトのスライス一枚、なまタマネギの輪切り、スライスチーズを乗っけて、
ケチャップとマスタードを付けて食す。
バンズは、勿論のこと真っ白でフワフワした、あれ。
カロリーだけは高く、栄養素などほとんどなさそうな、つなぎとしてのパンです。

はっきり言ってケチャップやマスタードがなければ食べられたものではないのですが、
これにピクルスなども挿んで豪快にかぶりつきすべてを一度に味わえば、
何ヶ月に一度は食べたくなる、くらいの味にはなるのです。 


さて、前回、岩国空港でアンジーと落ち合い、海自の売店でカレーを買い、
P3−C(正確には違うけど)の基地を横目で見ながら、
ベース内のオフィサー専用レストランまでやって来たところまでお話ししました。

アンジーの説明によると、F-18ドライバーのブラッドは土曜日、しかも雨が降っているというのに、
(雨が降っているから、という説もありますが)シュミレーターに入っているとのこと。
うーむ、さすがは戦闘機パイロット。
お休みの日もトレーニングをかかさないのだわ。

「あとであなたたちにも(こっそり)やらせてあげるっていっていたわよん」

ほ、ほんとですかー?
いや、わたしに戦闘機パイロットの適性があるとは全く思ってないけど、
それでもちょっとならやってみたいじゃないですか。

ブログネタにもなるし。 

というわけで、ブラッドが来るまでの間、レストランでランチを食べながら待つことにしました。



JDのグリル。という、実にアメリカンぽい佇まいのお店です。
ここはドレスコードがあるらしく、このような表示がありました。



何でもないですけど、これ、結構シリアスなんですよね。
後半の文によると、あなたがたは一人一人がアメリカ合衆国の信用を担って
日本にいるわけだから、いつも日本勤務のときは一人一人が大使のつもりで
プライドを持って欲しい、みたいなことを、基地司令の名で厳命しています。

シャツをタックインしないときは、シャツは裾がちゃんとまっすぐにカットされていて、
外に出して着るようにデザインされたものならOK、だそうです。



どっちかっていうとこっちの方がアメリカではよく見るような気がするけどな(笑)

ちょっと面白いので全部訳してみますね。

●緑、白、茶のユニフォーム用の下着、あるいは下着用にデザインされたTシャツは、
ユニットのロゴが有る無しに関わらず、適切ではなく、禁止です。

●タンクトップタイプのTシャツ、袖のない『マッスル』シャツ、スケスケのメッシュやネットのシャツ、
アメリカンスリーブ(肩が大きくえぐれている、あるいは無いホルタータイプ)、
チューブトップ(肩の無いトップ)は不適切です。

●淫らだったり刺激的、挑発的なトップス、露出が多くお腹を見せるデザインのもの厳禁。

●タンクトップ、ダブダブの大きな服、カットオフスリーブ(袖をハサミで切ったもの)禁止。

●カットオフしたショーツ、短パン、水着は問題外。

あとはおのおのの写真に「正しくなく被った帽子」とか「ベルト無し」などの禁止理由が。
アメリカではまるで夏の間の国民ファッションのような「シャワーシューズ」、
つまりビーチサンダルもここでは「シャワーシューズ」とされ、禁止です。

これははっきりいって普通のアメリカ人には結構厳しい規則かも。
夏の間ボストンやカリフォルニアで見る人たちって、ほとんどは下と同じようなスタイルなんですよ。

「ここはアメリカじゃないんだからくれごれも気を遣えよ、
俺たちそれでなくても色々と見られているんだからさ」という軍上層部の声が聞こえてきそうです。



メニューはほとんどアメリカのレストランと同じ。
・・・というかアメリカのレストランなんですよねここは。

「エイジアン・フェイバリット」のコーナーには焼き飯、野菜炒め、
そして「トラディッショナル・ヤキソバ」が。

オーダーを取りに来たのはフィリピン系のおばちゃんでした。



飲み物を聞かれたので、アメリカ人がよくやるようにアイスティーを注文。
アンジーも同じものを頼みました。
日本ではあり得ない大きさのグラスに注がれたアイスティを、
お砂糖を入れずに飲む人(特に女の人)が多いのです。

彼女が「ピクルスのフライ、食べる?」と聞くので、
そんな食べ物は初耳だった我が家全員は「は?」
ジョージア出身の彼女ですが、南部では非常にポピュラーなのだとか。
お母さんが作るような料理ではないそうですが、どこのレストランでも食べられるそうです。
彼女の好物だというので、来たのをつまんでみました。



ピクルスを小麦粉で挟んで揚げてあります。
ピクルスそのものが加工品なのに、さらにそれをフライ・・・。
確かに日本にもたくあんをコロッケに入れたりする店がありますが、
はて、これは面妖な。

しかしね。これ、なかなかいけましてよ。
ピクルスの歯触りをかりっとした衣で包んでいるので、ビールのおつまみに最適。
ピクルスが好きではない、という人もこれなら食べる、かも知れない。

冒頭のネイビーならぬ「マリーンコーアバーガー」は、TOが頼みました。
なぜかアメリカでは蓋をする前の状態で持ってこられることが多いです。



息子が頼んだサーモン・テリヤキジャパニーズ風。
ライスの上に照り焼きを乗っけるあたりがアメリカ。
この、醤油を使った甘い「テリヤキ」ソースが彼らは大好きです。
スーパーでは普通に「テリヤキソース」が売っています。
大抵チャイニーズが作ったもので、「何か違う」って味なのですが。

息子が「これ美味しい」と盛んに食べていました。



わたしは日本ではあまり食べられないターキーハムのクラブハウスサンドイッチを。
必ずベーコンとハムというダブル攻撃で来られるので、
わたしはこっそりいつもベーコンを外してしまいます。
外したベーコンは息子が食べました。

こう見えてものすごいボリュームがあり、わたしは半分食べてギブアップ。
ウェイトレスが、「テイクアウトしますか?」と聞いてくれたのですが、
持って歩くわけにもいかないのでお断りしました。



日本独特の缶ミカンを使用したココナッツ・チキンサラダ。
アンジーとブラッド、どちらもこれが好きだそうで、彼女はもうすぐ来る夫のために、
これを注文してあげていました。

いろんな話で盛り上がっていると、隣のテーブルが食事を終えて立ち上がり、
しきりの上からアンジーを見て声をかけてきました。
全員見るからにパイロットの雰囲気。
アメリカ人のパイロットって、身長制限は無いみたいです。
これは、ブラッドと同じスコードロンの同僚だわ!と判断したエリス中尉、
耳をダンボにして彼らの会話を聞き取ろうとしたのですが、
どうも同僚はブラッドのことを「ブラッド」と呼んでないんですね。
で、わたしが話が全く読めないまま会話は終わり、彼らは行ってしまったのですが、
アンジーに「彼らはブラッドのことなんて呼んでたの?」と聞くと、

「ハップよ。かれのTACネームなのよ」

と教えてくれたというわけです。
自衛隊のパイロットがTACネームを公然と名乗るのは、米軍の風習を輸入したんですね。
なんというか、いかに現代と言えども、日本人としてはこれ、恥ずかしくない?

チャイニーズやコリアンがアメリカで「レイチェル・チャン」とか「リチャード・キム」
とか名乗っているのすらはたで見てよくやるよな、と顔を赤らめるのが日本人の感性なのに、
自分で、しかも公式に「ライトイヤー」とか「ジョー」とか「無頼」とか名乗っちゃうんですぜ。

あとでアメリカ人パイロットのTACネームの実例を挙げて行くつもりですが、
本家はどちらかというと「ネタ」が多く、かっこよさよりも「互いのコミニュケーションのため」
という本来の目的に沿ってつけられている気がします。


そんな話をしていると、長身で肩幅の広い体躯をベージュの海兵隊つなぎに包み、
軍帽を被った男性が颯爽とレストランに登場。

キター*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!

現役の戦闘機パイロットを間近で見たのは初めてです。
形のいい頭を坊主刈りにし、物腰は柔らかでにこやかだけど、決して眼が笑っていない。

アメリカでも戦闘機のパイロットになるのは簡単なことではないと思いますが、
一旦なったとしても脱落することもあり、大変厳しいものだそうです。
そんな中で現在進行形でどこに攻撃を命じられるか分からない状態。
彼が一種凄みを感じるほどの眼の光を持つのも当然かもしれません。

彼の所属中隊はしょっちゅう太平洋地域の要所を移動していて、
日本に帰ってきてもしばらくしたらまたどこかに行ってしまうのだそうです。
現にこの後、つまり今頃は移動になっていて日本にいないそうですが、
(これはどこか聞いたけど内緒) 彼女は、結婚して三年にもなるのに、
久しぶりに会った夫の顔を見て「あれ?こんなひとだったっけ」と、
不思議な気持ちになるのだ、と笑っていました。

自衛官の妻、というのもそうだと思うのですが、彼女はいつも夫が
危険と隣り合わせの任務をしていることについては
「あまり考えないようにしている。心配しても仕方が無いから」
と割り切って、夫のいない生活をせめて中隊の同僚の妻同士で
「日本観光」をしたりしてすごしているのだそうです。

この食事中、彼女に写真付きのメールが来ました。

「いま、YOUME(ユメ、という中国地方一帯でポピュラーなモール。
呉の大和ミュージアムの近くにもあった)にいて、ランチにラーメンを食べてるんだけど、
これ、何だと思う?」

という内容です。

「わかんないわ。これ、なんなの?」

彼女が見せたのは、ラーメンの上に乗ったカマボコ。
ピンクのカマボコが、折り畳んで花の形になっています。

「フィッシュケークだよ」
「ええ?そうなの!面白いわ」

彼女は笑いながら返事を送りました。
TOは

「MSGとか気にする人なら食べない方がいいって言ってあげて」

なんて余計なことを付け足していました。
ま、いいんじゃないですか。一度食べるくらいは。
アンジーの話によると、彼女もパイロットの妻なのだとか。

眼が笑っていないブラッドですが、アメリカ人の知的な人らしく、
非常に如才なく会話をし、息子にもサマーキャンプのことなど聞いて、
和気あいあいです。

そして、結婚三年になるというのに実質あまり一緒にいられない妻については
愛しくてしょうがないらしく、わたしたちの前でも時々惚気ては抱き寄せ、
アツアツぶりを見せてくれました。

そして、わたしがさり気なく観察をしていた所によると、さすがは肉体労働者、
しかもアメリカ人の若い男性。
食べるのが早い!
先ほどのココナッツチキンサラダは、アンジーのですら凄いボリュームなのに、
さらに妻は夫のためにその1・5倍の「大盛り」を注文し、ブラッドはそれを
遅れて来たのにも関わらず誰よりも先に平らげてしまいましたからね。


さて食事が終わり、

「じゃ、ビルディングの中から案内しようか」

と立ち上がったブラッド。
あわてて食事代を払おうとしたTOに

「いいですよ。せっかくここまで来てくれたのに」

と彼は財布を出させません。
ありがたくごちそうになることにして、レストランを出ました。



こっそり後ろから彼らを隠し撮り。
ブラッドが左手に持っているのは伝票です。
うしろのアンジーがベルトをしているのにご注目。

アメリカでこのようにきっちりとウェストマークの服を着て、
しかもちゃんと胴がくびれている一般人は少数派です。
東部有名大学の大学院で勉強したほどの人で、
なおかつ金髪のスマートな美人ですから、
「マッチョなフライング・オフィサー」
なんて、アメリカ女性が眼の色替えて追いかけ回すようなタイプであるブラッドが
「一目惚れで射止めた」
というのもうなずけるというものです。



レストランを出たところで、もう一度チュールレースを巻いた仏陀にご挨拶。
よく見るとこの仏陀、ネックレスまでしてるし。



飛行機の模型部分をぐるぐる回して尾翼を壊した奴がいる・・・。
因みにこの下部分でファイティングポーズをしているブルドッグですが、
これが実は「海兵隊」を表します。
ドイツと戦争していたときには、ブルドッグがダックスフントを追いかけ回して
噛み付いているポスターなどが描かれたりしました。
翼があるのは「海兵隊航空隊」という意味です。 



アメリカの航空博物館でもこういうのを見ましたが、米軍というのはどうも、
いちいちこのような木彫りのメモリアルを製作するのが慣例になっているようです。
誰が作るのか知らないけど、その数が半端じゃない。

至る所に飾られ、あるいは彫刻されたこれらの記念板を見せてもらいました。

大尉の名前が、TACネームを頭に刻まれています。

「Rusty」錆びた、「Rude 」横柄な、「Meat」「Big Guns 」「Blacky」・・・

これだけでどんなパイロットなのか想像できそうですね。
アイリッシュ系のO'hara少佐は「Asia」というあまりありがたくなさそうなネームをつけられています。

部隊名「チェッカーボーズ」。

「ブレード」「ファルコン」なんてかっこいいTACネームを付けてもらった人もいますが、
「ファイター・クヮック」(ガーガー戦闘機?)、
「Fungus」(菌類)「バッドニュース」とか、変なのもありますね。

名前が似ている、というだけで
「Mocio」さんが「Macho」になったり
「Hoover」が「Hooter」、「Hautara」さんが「Hut」、
「Giacoma」は名前を省略して「Coma」。

移民の国でいろんな変わった名前があるので、結構それをネタにしてしまうと見た。



こんな風に、部隊の使用飛行機と爆弾に名前を書いて、非常に凝る年もあるようです。



やっぱり入り口にあったのはA-4みたいですね。
部隊名はバンブルビーズ。ハチさんです。

モットーは・・・「究極のベスト?」
ベストの中のラスト、つまり最上級だと思うのですがどうでしょうか。



ところせましとかざってあるこのボード、
今後はどこに飾るのか心配になるほどです。
毎年増えて行っているわけですしね。



にゃんと、木製のテーブルに彫り込んでしまったりとか。


ここはオフィサーズクラブ。
将校用の社交場で、夜はバーになるようです。
しかし、ここはアメリカですから、建物の中の喫煙は許されません。

休憩しているのは皆日本人で、どうやらここのスタッフのようでした。



おお、そういえばマローダーなんて飛行機もありましたね。
で、それが「将軍」「武」ねえ。
全くラバウルでマローダーと死闘を繰り広げた海軍飛行隊の皆さんに、
是非聞かせてあげたいものだ。
今やこんなものを日本の国内で見る時代なんですからね。

そしてこういったものをイケてると彼らは認識しているらしい。




勝手にお酒を飲まれないように?バーカウンターはクローズ状態。
酒保開けは毎晩でしょうか。
ん、しかし、タバコのパッケージがあるような気が・・・。
喫煙所が外にあるのかな。



かっっこいいい!

この、旭日旗がデザインされたボードは、部隊名「黒羊」
なんだかイマイチな気がするけどまあいいや。
逆さまになっているのはこれもA-4と向こうは・・・まさかバッファロー?



そして、ジャーン!

このコウモリがシンボルの部隊が、
何を隠そう”ハップ”ことブラッドのスコードロンマークなのだった。

Mors ex Tenebris。
ラテン語で意味は「暗黒よりの死を」。
んもー、中二病満開なんだから。
でも、コウモリがどうにも可愛らしすぎると思ってしまうエリス中尉であった。


この部隊VMFA AW 242部隊のことに触れながら、基地潜入記を続けます。






 


 

平成25年自衛隊音楽まつり〜「Hey和への道」と自衛太鼓

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今回が生まれて初めての自衛隊音楽まつり経験だったわたしには、
今年の出来が例年と比べてどうだったのか、比較しようがないのですが、
一言で言って普通の演奏会、とくにクラシックの音楽会と比べると、
老若男女全ての層に広く受け入れられるだけの「楽しさ」を強く感じました。

オペラもそうですが、音だけでなく視覚に訴えるものは無条件で万人に好まれるものです。

一年間、関係者が練りに練った計画、アイディアをテーマに合わせ、
あたかも一つのメッセージであるかのような構成にまとめあげる。

わたしはなまじ音楽関係者なので、こういう出し物をみると、
その「企画」そのものの出来にどうしても注目してしまうのですが、 
プロの製作会社の手を借りず、これだけのものを作り上げる企画力であるとか、
時代や世相に敏感でありながら、かつ自衛隊という組織の「本分」をわきまえた
メッセージ性のあるステージを造り上げる力には感嘆しました。

毎年恒例の行事なので、ある程度のテンプレなどはあるとしても、です。


さて、第三章は「烈火」。

烈火、というとその中心となるのは烈火のようにアツく燃える、
そう、自衛太鼓です。

がその前に、やはりアツい、陸海空、そして海兵隊、タイ陸軍軍楽隊の、
合同演奏が行われました。
組曲「惑星」より、「火星〜戦争の神」。



東京音楽隊の演奏では「歌手」となった河邉二等海佐がタクトを振りました。

そして、



空自の行進曲、「空の精鋭」、



陸自の「陸軍分列行進曲」、そして海自は前回お話しした「海をゆく」が
人で描いたモチーフと共に演奏されたのです。

ちなみに、飛行機、戦車はステージを往復しますが、
戦車は砲口のところに儀仗隊の隊員がいて、最後に空砲を撃ちました。

そして、同じくホルストの「金星〜平和を運ぶもの」へと・・。


つまり、

「火星」(戦争)→陸海空自衛隊(の活躍)→「金星」(平和)

というストーリー仕立てになっているというわけです。
この一連には「平和への道」というタイトルがつけられていました。
ちょっとベタですが、まあいいでしょう。


ここでちょっと、いいですか〜?(また始まった)

だからわたしも先日言ったんですよ。
戦争は常に平和を目的に行われるってね。

愚かな人間は有史以来戦争と平和を交互に繰り返して来たわけで、
そりゃ誰だって平和のままでずっといられたらそうしたいのは山々だけど、
この世にはありとあらゆる紛争の種があって、

「それを解決し、平和を取り戻すためには戦わねばならない」

と有史以来そのように考えた人々が実際に戦争を起こしてきた、
いうのが現実なのです。

この単純なストーリーは、そういうこの世界の真理を実に端的に表していて、
「戦争が平和を前提に行われる」というスタンダードから、いくら平和ボケの日本と言えど、
逸脱することはできないという現実を説いてくれているというわけです。
(もちろんこれはわたしの独自の解釈ですが)

防衛力を持たずに平和を継続できる、なんていうのは
はっきりいっておとぎ話の世界だけのこと。
武力を備えるのは「戦争をしたいから」ではなく「戦争を避けるため」なんですよ。
左翼の方、アンダスタン?

そしてこの「平和への道」ですが、終曲は

ゆずの「Hey 和」(笑)

最後までベタベタで押し通してくれました。



今年度のテーマである「力」、パワー。



そして、力で守る「平和」を人文字で表し・・・、



その「Hey和」を、陸海空からの4人のヴォーカリストが歌います。

この人選は良かったですね。
「ゆず」が男性のデュオなので、海自から男性二人、
そして、それ以外から女性が1人ずつという配分。

そして全員が堂々たる歌手ぶりでした。
全員が他の楽器担当で、いわば「副業」のはずですが、
コーラスのハモリもなかなかどうして、たいしたものです。





この宮品隊員は「ヤマト歌い」として絶大な人気があるそうですが、
彼だけにあらず。



どうですかこのアップにも十分に耐える清潔なイケメンぶりは。
声も歌い方も今どきの雰囲気で、もしかしたら本家の「ゆず」より歌はうま(以下自粛)

海自は世の女性向けにこの隊員で次のプロモーションを行ってはどうか。
キャッチフレーズは「海自の歌王子」。(顰蹙)

というのは勿論冗談ですが、(冗談なんですよ)
自衛隊の良さをアピールできる人材を傑出した1人に限らず何人も抱えておく、
というのは、とかくありがちな世間の度が過ぎる注目とか、メディアの鬱陶しい持ち上げとか、
得てして身内に起こりがちな妬み嫉みを一人に集中させない、
という意味では、いいかもしれません。

うわさによると、来年には「歌姫2号」の売り出しもあるかもしれない、とのことですが、
いずれにしても海自広報にお願いしたいのは、自衛隊として節度を持っていただきたいということ。
そして、隊員を守って欲しいということです。

原文を全部読んだわけではないのですが、
朝日新聞は彼女の記事を書いた際、彼女を

「海上自衛隊 歌手 三宅由佳莉 さん」

としか紹介しなかったそうですね。

自衛隊員として紹介しているのにも関わらず断じて「三等海曹」と階級を付けない、
これは常識としてどうですか?

海上幕僚長を紹介するのに
「海上自衛隊 幕僚長 河野克俊さん」って書くんですか朝日は?
いったい何に「配慮」して、わざわざさん付けにしたんですかね。

この朝日の実に清々しいばかりのマスゴミっぷりにも呆れますが、
あれはもう病膏肓のレベルなので仕方がないとしても、
こういうことをメディアにさせないようにきっちりするのが広報の仕事でしょ?

そもそも、これがおかしいと思わないのが、おかしい。




第三章のメイン、自衛太鼓が始まりました。

この自衛太鼓ですが、自衛隊員としての任務は別にありますから、
いわばクラブ活動のような形で練習を行っている有志なのだそうです。

ですから、たとえば航空自衛隊の「ジュニア」のように、
隊員がポケットマネーを出し合って太鼓やユニフォームをそろえているのだとか。

しかし、日本の「タイコドラム」は世界的にも高い評価ですし、
それこそ自衛隊のイメージアップ、ひいては日本文化の継承という意味でも、
その活動はもっと注目されてもいいと思います。

たとえば・・・・、紅白歌合戦に出るとかね(笑)



観閲式でも朝霞の振武太鼓が出演していましたが、
女性が、しかもこんなたくさんいるとは知りませんでした。

皆きりりとしてかっこいいです。



女性が叩くのはこの小さな太鼓、と決まっているようです。



全国にこれだけの自衛太鼓があります。
朝霞の「振武」という名前は、おそらくあの「振武隊」からだろうなあ・・。
入間は「修武台」がありますから、そこからの命名でしょう。

滋賀の「十戦太鼓」はもしかしたら戦車隊?
と思ったのですが、近くの人の話によるとどうもピンポンらしいです。



このあと、ステージの右部分と左部分で、交互に各太鼓隊が、
全軍演奏を行います。
一瞬たりとも音が途切れません。



そして全員の演奏するフィナーレへと。
これだけの大小の太鼓が同時に響き渡ると、広い武道館が
まるでそれ自体太鼓の皮のように共振し、振動し、
地鳴りに身体がつつまれているようになりました。

太鼓の音というのは実にプリミティブな音楽経験をさせてくれます。
楽器演奏というものが太古の昔、太鼓から始まったように、
人間の原初的な感覚を呼び覚ましてくれるようです。

その振動に、圧倒的な音の波に身を任せるうちに演奏終了。

太鼓を打ち鳴らす隊員たちのしなやかで強靭な筋肉の躍動を
惚れ惚れと観るという喜びも加わって、
これを聴くためだけにもここに来る価値はあった、というくらいでした。


自衛隊まつり、最終章「大空」へと続きます。






 


平成25年自衛隊音楽まつり〜「スピットファイア」と「ひこうき雲」

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さて、この陸海空自衛隊の音楽の競演。
実はわたしがご招待いただいた方は海自に属しておられ、終わった後に

「身びいきだと思いますが、海が一番良かったように思われます」

という感想をお寄せ下さっていました。
わたしも身びいきかもしれませんが(何の関係もありませんが)海自は特に素晴らしかった、
と言わせていただきましょう。

海自の強みというのは、まず隊長さえもその気になれば歌ってしまう、
というほどの歌い手の「層の厚さ」。
今朝いただいたM24さんのコメントで判明したのですが、



ゆずの「Hey和」を「海自王子」とともに(勝手にあだ名付けてるし)と歌った
この歌手は、河邉隊長とデュオをした方とは別人だったということが判明しました。

川辺隊長デュオしたのは宮品隊員ではなく、
プロコのPコンをブラスに編曲した川上良司一曹だったそうです。

あの編曲は大した仕事であったとわたしは東京音楽隊のコンサートの後
記事に書いたのですが、歌もお上手だったとは。
もしかしたら、河邉隊長の後継者ですか?


そして、ここぞ!というときに繰り出して満座を圧倒することのできる最強の行進曲、
「軍艦」があることもまた海自の「強み」だと思います。
どんなカードで勝ちにくるか、これを選曲とすれば、
海自はロイヤルストレートフラッシュがいつでも出せる、という状態。


しかし、今回、わたしはこのポーカーハンドにかけては、続く空自中央音楽隊も
「ストレートフラッシュを立て続け」くらいの快挙であったと言わせていただきたい。

海自が「軍艦」を持っているように、空時の強みは何と言っても
「飛行機」というものがイメージとして非常に音楽と親和性があることだと思います。

冒頭の映像は演奏中映し出されたご存知ブルーインパルスの演技「キューピッド」。
これをいざというときに出してこられるのは、空自だけなんですからね。

これを始め、



こんなのとか、



こんなのとか、



こんなのとかを後ろでばんばん音楽といっしょに流した日には、
選曲がよければ、相乗効果でもう無条件に感動してしまいます。
ただでさえ、「空飛ぶ広報室」で大注目中の「旬」ですしね。

で、その選曲なのですが、もう今回はわたし、エリス中尉の個人的なツボにはまりまくりました。



まず、小編成でのアンサンブルに合わせて、空自の三人娘が歌う
「翼をください」。

空を飛ぶことをテーマにした音楽はおよそこの世に数えきれないくらいありますから、
空自はこういうときに、逆に何を選ぶべきかの選択肢が多すぎて困るんじゃないでしょうか。

その星の数ほどもある「空」をテーマにした歌の中から選ばれたのが、これ。
左の隊員はHey和のときにソロを歌っていた人だと思いますが、
両脇のクラリネットが歌も楽器も受け持つという、何とも省エネなステージです。

それにしても、やはり管楽器専攻でかつ歌える人というのは歌の音程も正確なのね。
両脇は主にコーラス担当でしたが、三人のハーモニーがとてもきれいでした。

そして、後ろのスクリーンでは、スローモーションで鷲が空に羽ばたく映像が・・・。
うーん、心憎い演出をするではないか。
わたしはこれを見たとき心が思わず熱くなるのを感じました。



さて、続いて大変評価したところのドリル演奏。
何をどう評価したかを説明する前に、当ブログの黎明期の記事を少しご覧下さい。

「スピットファイア 前奏曲とフーガ」〜サー・ウィリアム・ウォルトン

何と2010年5月といいますから、ブログ開設から一ヶ月くらいですかね。
文章が今と比べて三分の一くらいの短さです。(笑)
このころ、このくらいの文章ですら自分でも「長いなあ」と思っていたのですが、
いったい三年半の間にわたしに何が起こりどうなってこうなったのか。
しかもこの頃のエントリを読むと、まるで別人が書いているみたいで恥ずかしいっす。

えー、そんなことはどうでもよろしい。

何が言いたいかというと、わたしがブログ開設早々、アツーくその魅力について語った
この「スピットファイア・プレリュード」が空自のドリル演奏に使われたのです。

ええ、早い話、それくらい好きな曲をやってくれたから嬉しい、ってだけの話なんですが、
空自が「スピットファイア」の演奏、でしょ?
もうこれだけでわたし的にはツボなんですよ。
加えてこの、「大英帝国的国威発揚音楽」とわたしが位置づけたところの、
曲そのもののかっこよさを聴くがよい。

Spitfire Prelude and Fuga  

この演奏は実にたくさんのバージョンがありますが、何より、
スピットファイアの実写映像、そして男前のパイロットたち、
なんといっても一緒に写っている犬がとてもいいので、
あえてオルガンで演奏しているものを貼ってみました。
ブラスバージョンが聴きたければ、上記YouTubeの右側のリンクに出ていますので
ポチッとしてみてください。


ところで余談ですが、わたくし、最近ようやく寒くなってやる気が出てきた乗馬で、
今度試合に出ることになりました!
なんのことはない初心者向けの簡単な演技なんですけど、ちゃんと試合用に
黒の乗馬ジャケットと白の乗馬パンツ、白スカーフのシャツなんかも揃えてしまいます。
何でも形から入るタチなので。
でも、ジャケットは調達が間に合わないので、
今まで持っていたドルチェ&ガッバーナの黒いスーツの上着、(裏地は真っ赤)
ブーツは黒いサルトルで代用。

で、何が言いたいかというと、この演技用の音楽を自分で選曲するのですが、
これをこの「スピットファイア」にしようと考えているのです。

今のところ曲にふさわしく演技できるのははっきり言って

「演技前と終了後の敬礼だけ」

という状態なんですが(笑)せめて曲のかっこよさについていけるように、
あえてこの曲を選んでみました。

というか、音楽まつりでこの空自のステージを観たとたん、
BGMはもうこれしかない!と思い込んでしまったんですね。
というわけで、練習中もずっと頭の中でこの曲が鳴っている状態です。

そしてそのスピットファイアの間に挟むように挿入されたのは

「ひこうき雲」。

うむ、今年は「空飛ぶ広報室」、そして「風立ちぬ」で、
飛行機といってもとくに戦闘機が注目された年でしたしね。
(永遠の0って、もう終わったんですか?
なんだかあまり話題になってないみたいだけど)

この曲は歌手に歌わせることなくインストで演奏され、

「空に憧れて 空を駈けて行く」

ここだけがスクリーンに字幕で表されました。
これは賢明な判断で、というのは歌詞をご存知の方ならお分かりでしょうが、
この曲は若くして病気で亡くなった少年を歌ったもので、この後は

「あのこの命は ひこうき雲」

と続くため、非常に気まずく(?)なってしまうからです。
でも、メロディがいいからいいや、ということで話題の曲として選んだのでしょうね。



この、スカートにベストの旗を振るダンサーたちも自衛官らしいです。
昔、女性の自衛官そのものが少なかった頃には、歌手ですら
宝塚歌劇団から借りてきていたのだそうですが、今や専属歌手もいるし、
楽器をこなしながら歌もうまいというような人材が隊内に増え、その必要がなくなったのですね。



空自のドリル演奏はそのあと「フライト」という曲、
そのあとまた再びスピットファイアに戻ってエンディングです。



陸自のここぞというところで「見栄を切る」隊形や、海自の錨のマークに比べると、
空自のドリル演奏は旗振りガールが花を添えて大変華やかではありますが、
フォーメーションそのものは抽象的な対称形が多く、
何かを形作ってそれで見せる、という趣向ではありませんでした。

そしてその後、陸海空自衛隊合同で演奏したのは

「サイコフィールド」。

この曲はどうやらガンダム関係らしい。
それにしても、わたしはこの曲で実感しましたね。
この日本社会のほとんどは「アニメ・ゲーム世代」が占めつつあるということを。
だって、オープニング曲は「モンスターハンター」ですよ。
エンディングは「ガンダム」なんですからね。


そして、フィナーレ。
全部隊が出演して、かつて当ブログでさんざん批判した()応援ソング、

「花は咲く」

の大合唱へと・・・。



部隊の前には8人のボーカリストが出てきてリードを取ります。



なんと、陸空からも男性ボーカルが供出されているではないですか。
つまり、陸海空から男女二人ずつです。



そして米軍を代表して、海兵隊から女性、陸軍から男性が。
海兵隊は歌ものはやりませんでしたが、クラリネット奏者を歌手として出してきました。



当然ですが二人とも完璧な日本語でこの歌を歌います。



客席の階段には、いつの間にか自衛太鼓を叩いていた隊員たちが、
このように立って、客席と一緒に歌っていました。



でも、わたしは客席を見て思いましたが、企画の人が思ったほど
この曲を知っていて、かつ歌える人というのはそういなさそうでした。

まわりが誰も歌ってないので、わたしも歌わなかったくらいで(笑)

だから、わたしも以前当ブログでさんざん批判したときに言ったように、
確かにいい曲ではあるんだけど、童謡や唱歌のように、
老若男女だれもが口ずさむような曲ってわけじゃないんですよ。これは。

そもそもこれは、こういう場面にふさわしい美しいメロディと感動的な歌詞。
震災で亡くなった人を思って未来に向けて歌われる歌、
・・・というものを作りましょう、という企画の上に作られた「企画ソング」ですからね。

なんというか、言葉に言霊があるように、歌にもそういう魂が宿るものなのだとしたら、
少なくともこの曲にはそれほどの思いは今のところこもってない、
っていうことなんじゃないかと思います。残念ですけどね。

自衛隊が今年の音楽まつりにこの曲をテーマとした、そのこと自体は大変よかったと思います。
ただ、この曲が有名で、この場にふさわしい「いい曲」であるということと、
その曲をここに集う全ての人々が声を合わせて歌うことができる、という段階の間には
ずいぶん乖離があると思うんだな。

企画した方は音楽関係者なので、おそらく「これだけ有名なのだから皆歌えるに違いない」
と思われたと思うんですが、音楽関係者は得てして一般人の「音楽レベル」を、
自分と同じような感覚で判断してしまうきらいがあるものです。
大抵の人間は「良く聴く曲だけど、歌うことはできない」ものなんですよ。

皆で歌うなら、やはり「ふるさと」とか「蛍の光」とか・・・。
いずれにしてもNHKの「応援ソング」はやめた方がよかったかもしれませんね。



後ろの方でなぜかここだけ不思議な動きをしていた防大儀仗隊の皆さん。



なんかノリノリの君がいますね。

そして、客席からは全く歌声が響かないまま、しかし感動的に歌は終わりました。



と、会場の明かりが消え、浮かび上がったトランペット隊。
2020年の東京オリンピック開催を祝して演奏されたのは、
1964年の東京オリンピックのファンファーレ。

このときの映像には、かつてのブルーインパルスが描いた五輪の輪が映し出されました。



そしてそのまま東京オリンピックマーチに乗って、全部隊退場。



と思ったら、空自のフルート4管だけで、
名残を惜しむかのように再び「花は咲く」がリフレインされ・・・。



その音が消える前に、隊長が敬礼。
この瞬間のためだけに音楽隊長をやってみたい・・・・。
と思う人はたぶん多いに違いない(笑)



こうしてこの日の演奏会は終了しました。
画面にはずっと伊豆大島で災害のために派遣されていた自衛隊の映像が流れていましたが、
全てが終わったときに、この大島椿の花が鮮やかに浮かび上がりました。



音楽まつりについては後一回、会場での雑感などを書いてみたいと思います。

 

 

平成25年度音楽まつり〜ステージを支える隊員たち

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皆さんに、これをお見せしてしまいます。

 

警備とか、そういったことに関わってくることでもあるので、
拡大しても字が読めないようにしたものですが、これは
今回わたしがこの演奏会にご招待いただくにあたって

「少しでもよく見える席奪取作戦」

の作戦資料として送っていただいた、自衛隊内の資料です。
これを見て驚いたのですが、全席には細かく区分けがなされ、
その区分けごとに「統幕管理(予備自)」「統幕管理(武官団)」とか、
あるいは「内局分」「統幕長分」「大臣招待」などと割り振ってあります。

しかし、これはそのブロック全てが関係者席という意味ではなく、
そこに若干の指定席があって、それ以外は列を作って並んだ一般客が
入場順に埋めて行くという意味らしいです。

因みにわたしは一回目の公演では統幕管理(記者・オピニオン)席、
二回目は大臣招待席の区画で鑑賞しました。



二回目の席です。
卒塔婆のように?制服が階段に立ち並んでいますが、実はここは大臣VIP席。
「よい席作戦」は、作戦司令が本物の軍人であったこともあって、
これ以上望むべくもないベストの席を奪取し、見事状況制圧を果たしたわけです。

その大臣VIP席に一体誰が来るのか?と興味津々でウォッチしていたのですが、
開演前になっても一向に空き席が埋まる様子がない。
席の周りは卒塔婆がガードしていて、誰か座っていたとしても全く見ることはできません。

防衛省としては、各大臣とかに招待状を送らないわけにはいかないけど、
激務であればあるほど、このような催しに大臣が来る可能性は低く、
しかし、来ないと判断して席を埋めてしまったところ始まってから遅れて来てしまった、
などということになったら、大臣担当官の首が飛ぶので、空席にしておくしかないんですね。
(たぶん) 


さて、一回目の公演が終わったとき、観客が武道館を出ると、



そこにはずらりと制服の自衛官が直立しており、
一人一人に「ありがとうございました」と声をかけています。
入場のときに手荷物検査とボディチェックをしていた隊員たちは、
演奏会の二時間の間公演を見ることは勿論なく、外で待機して警備にあたり、
そして出てくる観客にこうやって挨拶を送っているのです。

自衛隊に理解がある、あるいは身内であるということもありますが、
挨拶を受けた人たちはほとんどがそれに挨拶を返していました。

いつも思っていたのですが、こういう自衛官たちはどこの隊から集められるのか。
この答えを元自衛官の方に伺ったところ、

「一つの部隊ではなく、いろんなところから少しずつ出されます。
一つの部隊を全部出してしまうとそこが機能停止してしまうので」

というごもっともな返事でした。
会場内では、至る所に整理係の自衛官が立って、離れて二つ空いている席を
人をつめさせて二人用に確保したり、離れたところから空き席かどうか確認し、
「あそこが空いていますよ」
などと誘導するなどして混乱にならないように務めていました。

ところで、一回目公演の後、息子を外まで送ったときに、
ここ北の丸公演内に、こんな石碑を見つけました。





近衛歩兵第一連隊跡記念碑。
近衛兵というと、その末裔はこの演奏会にも出演した第302保安警務中隊なのでしょうか。



それから、吉田茂のブロンズ像も。
アメリカに行く前にはこの比較的近くに住んでおり、TOの職場も近いので、
この公園には赤子だった息子を連れてよく遊びに来ていたし、その後も
コンサートで何度となく訪れていたのに、この碑と銅像の前を通ったのは初めてです。
単に今までは気づかなかっただけなのかもしれませんが。



さて、実際のところわたしは事前に

「走りやすい靴で行った方がいい」とか
「(席を取るために)放り投げられるバッグで行った方がいい」
「修羅場を見るかもしれない」

などと、経験者から思わず不安になるような前知識を得ていたのですが、
場内では言ったように整理係があれこれと目を配り、
場内アナウンスではしょっちゅう「危ないので走らないように」などと、
注意を喚起していたせいか、場内は至極粛々としたものでした。

しかし、こういうときに「少しでも自分が損しないように」と焦る人というのはいて、
そう言う人の言動によって若干の不愉快な出来事もありました。



実は今回二回目の公演に関しては家族分のチケットをいただいていたのですが、
肝心のウチの家長は、地方出張の全国ツァー中で参加ができなかったので、
このプラチナチケットを、元自衛官の知人の方に譲り、行っていただくことにしました。

一回目の公演が終わってもう一度中に入る列に並ぶことになったとき、
わたしは一度目公演の会場の様子から、どの列に並べばいいのかを報告し、
情報をメールで送信しておいたのです。

そしてその方は二度目公演の列の第一集団に並ぶことに成功し、
わたしは、そこに合流するという運びになりました。

ここまではよかったのですが、最先端集団というのが、
すでに手荷物検査台の前に陣取る団子のようになった一団。

その一段の後ろに立って携帯で知人と連絡を取ったところ、
前方で手を振っておられます。
しかしそのカタマリの中へ、手刀と「すみません」で切り込もうとしたわたし、
たちどころに意気沮喪しました。

「知り合いがいるのですみません」
という言葉に無言で鋭い非難のまなざしを投げつけて来たり、
「なんなの?」と厳しい声で不服をいうおばさん。(おばさんなんですね必ず)
肩で行く手を阻まれたような気もしたり。

こういうとき非常に気弱になってしまうわたしは、それ以上切り込んで行く勇気が出ず、
早々にそこから避退して、外からもう一度電話しました。

「あの・・・無理です。なんか顰蹙買うみたいなので、わたし外で待ちます」

すると、どうしてそういう発想が即座に出てくるのだろうと驚くほど言下に
その方は、

「後ろにセーラー服の自衛官がいるでしょう。
『前に連れがいるから』といって先導してもらって下さい」

おお。それはナイスアイデア。
厳しい視線と非難の一声も、この水兵さんを先に立てれば、
取りあえずは先にそっちに集中するに違いない。(笑)
水兵さんすみません。
しばし専守防衛の盾となり、殺気立った人々の悪意からわたしを守ってください。

「すみませ〜ん。
前にお連れさまがおられる方がいるので通して下さ〜い」

叫びつつ集団に突入して行く指揮官、じゃなくて自衛官。
ああ堂々の海上自衛隊(じえいたい)。
その意気や今(人)波を切って敢然とゆく。
彼の航跡に滑り込むように後について行きながら、
国民の自衛隊のありがたさに改めて感謝しました。

でも、やっぱりいるんだな。

先導してもらっていることをはっきりと咎める人(おばちゃん)が。
「いやっ!ちょっと、なんなん?」(大阪弁で)
だから自衛官がわざわざ状況説明しているんですがな。
どうしてそういう一言を言わずにはおれないかね、おばちゃんという人種は。

わたしも年齢的には立派なおばちゃんだけど、
こういう一言多いおばちゃんには決してなるまい。(自戒)

それにしても、トップ集団はざっと見たところ4〜50人。
そんなに押し合いへし合いしなくても、おそらくこの集団は最上席を
難なくゲットできるのは間違いないのに、なぜ皆こう苛立つ。

そして、ゲートがオープン、各馬一斉に・・・
走り出すには前が手荷物検査で詰まっているのですが、後ろからは
おかまいなしで人がじわりじわりと押してきます。

ああ押さないで・・・前は進んでないんだってば。
押されて右に右に流されて行くエリス中尉。
知人は左の手荷物検査場に進みます。
一緒の検査場に行こうと、左に身体を向けたのですが、
右と左を分ける鉄の柵にバッグが引っかかって進めません。
すると後ろのおばちゃんがまたもや
「ちょっと、急に向きを変えたら怖いわ!」
と大声で要らん一言。
急じゃないんですよ。さっきからずっとそうしたいんです。
でもバッグが、バッグがあああ。

バッグをフェンスに引っ掛けたまま人に押され、
ぐらりと上体のバランスを崩したわたしを、さすがは元自衛官、
知人の方は素早く支えてくれ、こと無きを得ました。

もしあそこで転んでいたら、大惨事の原因となってたかもしれません。
そんなことにでもなっていたら、自衛隊の応援団を自ら以て任ずるはずのこのわたしが、
その自衛隊に大変なご迷惑をかけてしまう。
いや、全く冷や汗ものでした。



しかし、戦いすんで陽が暮れて。
なんとかこのような席に座ることができたというわけです。
走ったりカバンを投げたりはなかったですが、それなりの修羅場でした。

もう一件は、第一回目公演のときのこと。

わたしの隣に座った男性は、来るなり荷物を二つの席に置き、
始まりまでその真ん中の席に座っていました。
空いていそうな席は、整理係の自衛官が必ず「空いていますか」と聴きますが、
大きなバックパックを置いているので、後から連れが二人来るのだろう、
と思われたのか・・・・・最後までそこは空いたままでした。

そのうち一つはわたしの横だったので、結果広々と座っていられたのはよかったですが、
(武道館の席は非常に狭い)後から考えると、その人はつまり、
ゆったり座るために「連れがいるふり」をしていたのかなあ、と・・・。

「あれ、どう思った?」

後で息子に聞くと、

「ペンフレンド二人にチケット送ったけど、二人とも来なかったんじゃね?」

そういやここは武道館。

「ぺンフレンドの 二人の恋は〜」




ところで、一回目公演が終わって、赤絨毯を片付けているのは、
迷彩服を着た陸自隊員たち。
彼らは、例えば空自の旗振りお嬢さんたちに旗を渡したり、



オープニングではこのようにステージを探照灯で照らす、
というような「下働き」でステージを支えて来ていました。



面白い効果だなあ、と思ってみていたのですが、
これはあえて陸自隊員に「目立つ」仕事をしてもらったという感じです。



最後にフィナーレのために赤絨毯を敷いて準備をし終わったとき、
アナウンスが彼らの紹介をしました。



華やかな音楽隊員たちのステージをこういう地味な任務で支える隊員たち、
という紹介であったかと思います。



隊長の敬礼。
皆惜しみない拍手を彼らに送りました。



陸海空、いずれ劣らぬレベルの高いステージを心行くまで満喫したこの日、
目に届かないところでも実に多くの隊員が、(警備や整理を含めて)
一つの演奏会を形にするために、自分たちの割り当てられた任務をこなしていました。

しかし、説明にもありましたが、こうしている間にも彼らの同僚自衛官は
災害地にあって被災者救出の任務にあたっているのです。

自衛隊という組織の大きさ、頼もしさ、そしてありがたさをあらためて知った一日。
音楽まつりが終わったあとには、始まる前より自衛隊が一層好きになっていたかもしれません。


興奮の余韻がまだ身体を満たしているままに武道館の外に出ると、
そこには一回目と同じく、ずらりと並んだ自衛官たちが全ての観客に向かって
「ありがとうございました」と丁寧に声をかけているのでした。

「本当にありがとうございましたと言いたいのはこちらですよ」

隣の方がつぶやき、わたしは深くその言葉に頷きました。



 

 

 

平成25年防大開校記念祭〜棒倒し・前編

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つい先日、海軍兵学校卒の親族をお持ちの方からコメントを頂きました。
その伯父さまに当たる方について、期数を検索していて当ブログにたどり着いたとのこと。
ご自分が生まれる前に戦死してしまった伯父さまについて何か分からないかと
インターネットで検索したところ、wikiとほとんど同時に当ブログが出て来たそうです。

そこで「伯父の所属していた期についての雰囲気を聞きたい」
というご要望を頂いたY氏への私信となるのですが、わたしなりにその方の痕跡を辿り、
近いうちにお返事としてエントリにしたいと思っております。
しばしお待ち下さい。


さて、このように、一つのテーマについて三年半も毎日何かしら発信していると、
その方面からの連絡、アドバイス、情報、感想を頂くこともしばしばです。

ことに自衛隊、防大のイベントには「東西奔走」と言われるほどまめに参加し、
しかも微に入り細に入り写真をあげてご報告して来たため、
最近一層関係者、ないし関係者の身内の方からの連絡が増えました。

個人が特定されるようなコメント主に関しては配慮して一切公開しておりませんが、
その頂いた情報はありがたくエントリ文中に反映しています。

今回の防大開校記念祭、略称防大祭の写真の中にも身内が写っていたということで
連絡を頂き、その際、「中の人」しかわからないような情報を頂きました。

いずれもわたしが写真とともに垂れ流した?「素朴な疑問」に対する回答と訂正なのですが、
まず本日のお題である開校記念祭関連についてここで少し披露させてください。

まず学校までの坂道を歩いてくる人たちを見て「遠そうな坂道をこんなにたくさんの人が」
と驚いた件ですが、防大最寄りの馬堀海岸駅から歩くと25〜30分ほどで、
当日は駅前のバスタクシー乗り場に長蛇の列ができるため、
歩いた方がよっぽど確実に早く行けるという状態なのだそうです。

かなり先の駅(名前を忘れた)周辺に車を停め、
ほとんど待たずにタクシーに乗ったわたしに死角はなかった。

そして、観閲行進の観閲官は、わたしも言われてみればそう聞いた気がしたのですが、
何しろ全く知らない名前だったので当てずっぽうで「副大臣」と書いたところ、
あれは政務官の一人、若林さんという方だったそうで、失礼いたしました。

てっきり政務官は「ヒゲの隊長」だった佐藤正久議員だったと思っていたため、
「じゃ副大臣あたりだろう」と思い込んだための間違いです。
あらためて調べたところ、佐藤議員は9月30日をもって任期を終えていました。

うーん・・・・防大の観閲官、やりたかったんじゃないですかね・・・佐藤議員は。
ヒゲの隊長なら自衛隊関係者なら知らない人はいないし、おそらく、
おそらくですが学生たちも嬉しかったんじゃないかと勝手に思うのですが。

わたしも個人的に佐藤議員の観閲官、見たかったなあ。(実はファン///)


ところで観閲官なんて誰がやってもも一緒だろう、なんて思うのは第三者だけで、
観閲される側の気分と言うかムードは、ずいぶん変わるものらしいですね。

民主党政権時に、初代総理鳩山は「観閲を拒否」し、
そのときに代理で観閲した菅直人が首相就任後にも、2年続けて観閲官となり、
かろうじて最後の観閲官は父親が自衛官だっただけが取り柄の野田佳彦であった、
というまるで悪夢のような観閲式が三回続いたわけですが、
菅のときには「拍手がなかった」というくらい、自衛隊の士気は目に見えて下がり、
そして今回関係者から漏れ聞く話によると、防大においても、同じ観閲を受けるのも

「自民党に変わったのでよかった」

なんて感想を持っている生徒さんもいるということらしいですから、
民主政権がいかに日本にとって無益を通り越して有害であったかが、知れるというものです。

やはり全軍の士気を高めるような最高指揮官(つまり総理)でないと、ダメですよ。


さて閑話休題、本日のお題は「棒倒し」です。

冒頭、伯父様が兵学校卒であったという方は「その学生生活の雰囲気を知りたい」
ということで当ブログに連絡を下さったわけですが、
この棒倒しをご報告することは、同時にそのご要望にもお答えすることにもなる、
とわたくし思っております。

防衛大学校とは、つまり海軍兵学校の末裔である。

音楽まつりの儀仗隊について少しご報告したときに、
遠泳、対番制度、分隊制度、そのときには書き漏らしましたがカッター競技、
そしてこの棒倒しが当時のまま引き継がれているということを以て、
このことを断言させていただきました。

この棒倒しも、当時からルールはほとんど変わっていないということなので、
この防大祭の棒倒しの画像から、かつての兵学校の学生生活を想像していただけると幸いです。



まずはセレモニーから。
前年度優勝の優勝大隊と書かれた板を返還します。

去年わたしは途中まで見学したのですが、さすがに身内がいるわけでもない身、
雨が強くなっても地面に座り続けるだけの根性もなく、途中で帰ったため、
結局どの大隊が優勝したのか、見届けることはできませんでしたが、
どうも優勝したのは赤の第一大隊だったようです。





最初の試合はそのディフェンディングチャンピオンの第一大隊と、第四大隊の対戦。 



守備隊は全員カーキのパンツ着用ですが、チームカラーのたすきを駈けています。
入場後気合いを入れているの図。



このように脇には応援団が立ち、旗を振り声を枯らして声援を送ります。



しかし、対戦前に「お爪のチェック」があります。
皆神妙に審判に手の甲を見せ、危険がないかを点検されるのです。



足の爪もチェックされますが、彼らのほとんどが足にテーピングしていますね。
後半の写真を見ていただくと分かりますが、伸ばした爪が例えば目に当たったり、
なんてことも普通にあるくらいの乱闘になりますからね。



攻撃隊が気合いを入れる間、防御隊はフォーメイションを作ります。



このように守備隊の棒の上に一人が乗ります。
これは思うに防大になってからできたルールのようです。

「イギリス人の見た兵学校」

という戦前に書かれた本の、棒倒しのルールについて述べた部分を紹介したことがありますが、
それによると上に一人乗るということは全く書かれていなかったからです。



ふと客席を見ると、防大生とその家族発見。
右側に4人固まっているのがそうで、左端が防大生。

こうやって家族と同級生の棒倒しを見る学生もいるらしい。
話は全く聞こえませんでしたが、色々と解説しているのかもしれません。



始まる前の暇な時間、空を飛ぶ鳥さんなどを眺めていたのですが、
あるときカラスの飛ぶのを目で追っていると、グラウンドを照らすライトの横の巣に帰って行きました。
わたしがこれを撮影していると、なぜか周りの何人かがつられて上を見上げ、

「あ、あんなところに巣がある」

と話題にしていました。
ライトの点検も定期的に行われるのだと思いますが、この巣は
置いてあげているんですね。 (*´д`*)
(単に知らなかっただけで、これがきっかけでトリ払われたりしませんように) 



オレンジの第四大隊も、気合いを入れています。 
この防護マスクは、勿論兵学校時代にはありませんでした。
ですから、脳震盪とか鼻血くらいは日常茶飯事だったようです。

ある兵学校生徒が実家に当てて書いた手紙には

「危険なことは何もなく、せいぜい脳震盪か鼻血くらいです」

とあったのですが、そのどちらも戦後、防大的には十分
「危険」ということになっているみたいですね。

 というわけで、この試合は内容を割愛しますが、(おい)
赤の第一大隊が勝ちました。



意気も盛んに雄叫びをあげつつ退場。
この先頭を走るのは棒倒しの「責任者」という役職。
142小隊航空要員、硬式野球部所属、地球海洋学科、
(こんなことまでプログラムには書いてあります)
湯澤進也学生です。



次の対戦のために皆迅速にグラウンドを駈け去ります。

 

シャツを掴んで引き回したりは当たり前なので、
このようにオフショルダーになってしまったり、



完璧に破れてしまったりすることは珍しくありません。
この辺り、江田島の教育参考館で見た「棒倒し用シャツ」は、
ごわごわした固い木綿のもので(柔道着のような感じ)
あれなら絶対破れることはないと思われましたが、
まあ、あれはお洗濯のことを考えると乾きにくいし、汚れも落ちないし、
メンテナンスが大変なんでしょうね。
伸縮性も悪そうだし。

因みに、昔は襟にVの紺色の線がある方が表、
ないのが裏で、リバーシブルで敵味方を識別していたようです。

それにしても、この競技、一回負けたらもうそこで終わりですから、
第4大隊はここで終了。
特に後ろから二人目が「負けた・・・」という哀愁を漂わせています。



続いて第2試合。

青の第二大隊と緑の第三大隊の対戦です。
それぞれの大隊には色とともにシンボルがあり、
この第二大隊は「ペガサス」、第三は「獅子」。
第一は「龍」で第四は「鷲」らしいです。



審判は全部で10人。

兵学校では週一回(土曜日だったかと)行われていた棒倒しですが、
防大では年一回だけ。
その一年に一度の勝負が、これです。

各大隊は「棒倒し優勝」の栄光を手に入れるため、一年間かけて計画、
そして訓練に励むのだそうです。
どんな訓練をするのだろう?
とわたしも思っていましたが、構内を歩いたときに、こんな光景を目撃。



たまたま訪れた第二大隊の中庭のようなところで、
折しも棒倒しの攻撃隊が最後の調整をしていました。



人垣を走ってきて乗り越え、棒に取り付く係を「突攻」と言うそうですが、
スクラムと呼ばれる係が敵のサークルに突っ込み、踏み台になると、
その踏み台をこのように駆け上る攻撃なので、このような練習をしているのです。



続いてお爪の検査〜。
皆が足に手を伸ばしていますが、これは何のためかわかりませんでした。

足のバンデージはほとんどが爪を覆うようにカバーしていますが、
全員がそうしているわけでもありません。



つい手前に立っている学生さんをアップにしてしまいました。
観閲行進に参加するのは全員ではなく、各中隊から二分の一弱くらいだそうです。
儀仗隊を含む、色々なイベントや係、後は校友会と言われるクラブ活動で、
対外試合に出たりする学生は参加しないということのようですね。

この棒倒しも勿論「有志」。
演劇祭や茶道部、詩吟同好会(!)の発表をする生徒さんもいるわけですから、
勿論ここで棒倒しをしているのはごく一部の学生ということになります。
しかし、こうして見ると凄い大人数に見えます。



先端に登るのは「上のり」と呼ばれる係。
身が軽くてバランス感覚のいい人でないと務まりませんね。
背が高いのもダメそう。



この青の第二大隊は、どうも「突攻」のジャンプ力というか
「取り付き力」に作戦の重点を置いているように見受けられました。
待機の時間にも、あっちこっちでピョンピョン跳ねて準備運動をしています。

 

ほらね。
しかしいいバネしてるね君。



特に後ろに位置する人たちがピョンピョンしていますが、
これは、前列に「スクラム」がいて、突攻は後から走って行くからです。



試合開始。



こちら側には緑の第三大隊が攻撃に来ました。
彼らには分かるのでしょうが、こちらから見ていると色が同じなので見分けがつきません。
上に乗っている守りの4人を、去年のエントリで勝手に「四天王」と呼んだところ、
防大の学生さんらしいコメントで実際にもそう呼ばれている、
というようなことを教えていただきました。

四天王の一人が攻撃隊にケリを入れています。



あるはずのないところに足が・・・。
後ろに見えている観客は全員笑い顔です。

彼らの激突が真剣で勇壮であればあるほど、誰しもその激しいぶつかり合いを

「おお、すごいなあ、がんばってるなあ」

という微笑ましい気持ちで讃えずにはいられないのですね。






方や第三大隊の陣地。
脚を抱えて攻撃を妨害する者、シャツを引っ張る者・・・。



後ろで行われている騒ぎには全く無関心の風。
もう心はここにあらずな顔の警備係。

「あー眠てえ」



二人掛かりで一人をやっつけている間にも、
突攻係はサークルに飛び込む勢いを付けるために外側に走って行きます。



同じところから突入している様子。
しかしこの「とっこう」という名前の響きの

凄まじさ。



地面ではくんずほぐれつ。



あああ、四天王の一人が引き摺り下ろされている。



次々と同じコースから突入するという作戦のようです。



こちらではまったくサークルとは違うところで大乱闘に。
プロテクトマスクが取れてしまった人あり。

場外で熱〜くタイマンで取っ組み合う二人あり。
観客の目はみんな二人に注がれている・・・・気がする。



しかし、こんな場外で乱闘している場合なのか。

乱闘をよそに、やはりこちらの突攻も走って攻撃です。
ちなみに、ここで乱闘している、敵を妨害する係のことを
「キラー」というそうです。

武闘派がアサインされるんですねわかります。



こちらにもマスクを取られた人が。

兵学校ではマスクがなかったため、「この間だけは下克上」で、
下級生は上級生を殴ってもいい、というルールをいいことに、
日頃の恨みを存分に晴らしたりしたものですが、現代はこのマスクのため、
ほとんど誰と戦っているか分からないままに終わるのではないでしょうか。

いや、そもそもその恨みの原因である「鉄拳制裁」がないのだから、
下級生の「仕返し」なんてありませんよね。

・・・・・・ありませんよね?




さて、第二大隊と第三大隊の熱い戦いは続いていますが、
エントリアップの時間が近づいたので、続きはまた明日。

今年、優勝の栄光を勝ち取るのはどの隊なのか!
待て次号!

 

平成25年防大開校記念祭〜棒倒し・中編

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こういった棒倒し競技は、観客席からは全体を見るしかなく、
行われている最中は、特にカメラを構えていると撮るだけで精一杯。
あとから画像を確認して、

「こんなことになってる・・・」

というような場面を発見する喜びがあります。

というわけで、「あれも載せたい、これも見てもらいたい」とばかり
画像を大量アップした結果、昨日は

「どれほどスクロールしても一番下までたどり着けず、
内容もさることながら写真を撮り文章を繰られる
この熱情はどのあたりにあるのか、と、

呆然とする思いがしました」

というお便りまでいただいてしまいました。

本当にね・・・どのあたりにあるんでしょうね。
自分でも全く呆然とするくらいの長さになってしまいました。

ところでYさま、わたしをどう呼んでいいのかお尋ねですが、HN通りに

「エリス中尉」

とお呼び捨て下さいませ。
旧海軍では階級に「殿」は付けない、という慣例の通りで結構です。
「殿」を付けてコメントを下さる方も多くおられますが、
例えば陸軍軍人や一般人は、海軍軍人を呼ぶとき「殿」を付けていたように、
そういった場合には相手が

「陸軍、あるいは一般の方である」

ということに(自分の中で)しています。




全体を写しておいて、後で拡大すると、
そこには若者たちのエネルギーの爆発というべき躍動の瞬間が留められており、
画像処理をしながら見入ってしまったため、今回は時間がかかって大変でした(笑)

画面右手には、サークル(防御のために棒を取り巻く一団)に駆け上り、
中央に迫ることができそうな生徒が写っています。

真ん中の引っ張られたシャツがこの後破れるのは確実(もう裂け目ができている)、
そして左の取っ組み合いではリアルORZになっている人あり。



こっちでも破られてます。
突攻という攻撃隊が、サークルの外側から人を引きはがそうとするので、
このような惨事になってしまうようですね。

おお、ついに突攻が棒付近制圧しそうな状況へと。
上に見えているのは三人とも攻撃隊ですね。

それとは関係なくサークルから全く外れた外場で取っ組み合いをしている二人もあり。

そしてその熱い戦いをよそに、 

「今日ウチに帰れるの何時かなあ・・・。
日曜日だから少しコドモと遊んでやりたいけど無理かな」

などと思っている(かもしれない)海自の警備係。
任務とはいえずっと観客席の方を向いたままの監視、ご苦労様です。



ついに棒の先に手が延びた!



こちらでも攻撃隊が頂点制圧をしたようだが・・・・?

あ、右側で先ほどマスクを落としてしまった人が拾って被っている模様です。



敵味方入り乱れてダンゴ状態。
それにしても、防大のグラウンドは出来たときからこういう鑑賞を想定してか、
周りの芝生部分が程よい傾斜になっており、どこに座ってもよく見えます。

グラウンドはこのように生徒たちが裸足で走り回るため、
危険なものが持ち込まれたりしないように、終日立ち入り禁止となっていました。

でも、少しの間トラックで競争をしていた子供たちもいましたので、
もしかしたら子供なら見逃す、という暗黙のルールがあるのかもしれません。







乱闘の合間も避退ー突撃を繰り返す突攻。



向こう側の椅子席は確か医務班のもののはず。
グラウンド脇に立っている白いジャージの女性は、
医務官か看護師でしょうか。
いざというときに「ドクターストップ」をかけられるように、
場内の様子を監視しているようです。

今回は遠かったので写していませんが、彼女の後ろには救急用の担架や、
一切の医療道具が揃えられているのです。
あらかじめ負傷が予想されるような危険な学校行事を行うことができるのも、
防衛大学校ならではです。

一般の大学は勿論、中学高校では、最近特にこんなことをする学校はないでしょう。
怪我人が出ただけでやれ管理責任だの、訴えるだの騒ぐような
モンスター・クレーマー&モンスター・ペアレンツを恐れて
学校はそんな「冒険」がいつの間にかできなくなってしまったのかもしれません。



攻撃隊が棒を奪ったようですが、第二大隊の方が若干制圧が早かったか?
 
 



「ああ、今日の陽が沈んで行く・・・・」

と物思いにふけるミスター警備の後ろでは、なんと!
この瞬間勝負がついたようで、審判が黄色い旗をあげました!

でも・・・・。

見ている者には「どうなったら勝負あった」か、いまいちわからないんですよ。

昔は柱の先に旗を立てておいて、その旗を先に取った方が勝ち、となっていました。
今はご存知のように先には「上のり」がしがみつく場所として細い棒があり、
取ることは出来ないようなので、このルールは謎です。

当たり前のことだと思っているのか、防大のパンフレット、
今年は特に豪華な出来で500円という高額だったため売れ残ったという
内部告発のあったところの(笑)パンフの説明でも、肝心の

「どうなったら勝ち」

ということが書かれていません。
来年のパンフ制作者は、ぜひこの辺りを明記していただきたい。

それはともかく、状況からの想像ですが、

「細い棒の先に手が触れたら勝ち」

で、審判員はそれを見ているのではないでしょうか。
どうでもいいことにやたらこだわるのが身上のこのブログとしては、
ぜひこれが正解かどうかを世に広く問いたいと思います。



というわけで、何をしたかわからないけど第二大隊勝利。

喜んでる喜んでる。むっちゃ喜んでます。
抱き合ってる人たちすらいますね。

うーん。熱い。
熱いぞ防大生。



第二大隊の応援団も喜びに頬を綻ばせつつ退場。
よく見ると彼らは多くが棒倒し用のパンツ着用ですが、
彼らはもしかしたら補欠兼応援団かもしれません。

 

「今夜奥さんは晩ご飯何作ってくれるんだろう・・。
カレーは家ではあまり食いたくないんだけど・・」

などとたそがれるミスター警備の後ろでは、決戦まえのひととき、
応援団の演武が行われています。

防大応援団。
もうこの響きだけでものすごいバンカラ臭が、男の汗臭さとともに
漂ってくる気すらいたします。
一人で観衆一杯のグラウンド中に響き渡るほどの声を出す
応援団長の声量にも驚きましたが、
(わたしは中学生のとき市合同体育大会の女子応援団長を押し付けられ、
学ランを着て三三七拍子を演武したという恥ずかしい過去があるので、
これがいかに大変なことかよくわかります)
この風にあおられる巨大な応援旗を支え続け、
一度は地面の位置から高々と持ち上げた旗手には、満場が拍手を送りました。

   

第二試合は第二大隊が勝利を収めました。

四つの大隊の中で勝ち抜き戦の勝利を決めようとすれば、
行われる試合は三回だけです。

つまり、次の勝負で今年の勝者が決まるわけです。
このエントリで最後まで行けるかと思ったのですが、写真が多すぎるので、
その決戦の模様は次回お伝えすることにします。

今年、優勝の栄光を勝ち取るのはどの隊なのか!
こんどこそ待て次号! 



 

平成25年防大開校記念祭〜棒倒し・中編の後半

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先日、またもや防大生のご父兄からコメントを頂きました。
当日開校記念祭にわざわざ遠隔地から来ておられたそうです。

このグラウンドにいる人々の少なくない人々が防大生の父兄である、
というのは、わたしも現地に座っていて周りの様子からわかりましたが、
実にこの日、我が子、孫の成長を見るために全国津々浦々から肉親が
小原台にやってきていたのだということを改めて実感しました。

わたしは勿論そういう親御さんたちの気持ちを推し量るしかない立場ですが、
国防の第一線に立つ我が子のためにも、この社会が平和裏に安定し、
自衛隊が盾となるも決して戦火を交えるようなことが起こらないように
心から祈り、願っているのは誰よりもまずこの人たちではないかと思います。


「軍人ほど戦争が嫌いな人種はいません」


わたしの知るある将校が講演で述べられた一言ですが、その軍人の家族もまた、
—普通大学に学ぶ子を持つ親とは比べ物にならないくらい—
我が国の政治、何より国際情勢、近隣諸国とのあれこれについて関心を寄せ、
子を案じるが故にその行方を注視して見守り、この国の安寧を願っているのではないでしょうか。

さて、閑話休題、本日は棒倒しの最終回の予定です。

周りに詰めかけた肉親たちも、さすがにこのマスク着用した集団の中から
我が子を見つけることは不可能だったのではないかと思いますが、
せめて息子の所属する大隊に声援を送り、勝ったら喜び、負ければ残念がる、
というように試合を観戦されたのではないでしょうか。

ところで前回、前々回と「優勝するのはどの大隊か!」
などと行きがかり上アオってみたわけですが、実際の話、
棒倒しでどこの大隊が優勝するかなどということは、
縁もゆかりもない第三者にとって、紅白歌合戦でどちらが勝つかくらい
どうでもいいことかもしれませんね。



どうでもいいと言えば、去年、わたしがこの防大祭に来るきっかけとなったのは、
前校長の五百籏頭真氏の講演を聴きに来たことでした。
その講演については、かなーり批判的に(笑)エントリにアップしております。

防大校長五百籏頭真とシビリアンコントロール

五百籏頭真と防大生の士気


この人物の、わたし的には突っ込みどころ満載の講演の内容は、
防衛大学の歴史的成り立ちと世相との関係についてでしたが、
その中でついでに言ってみた風の、

「明日は棒倒しがありますね。どの大隊が優勝するのか楽しみですね」

という一言が、ほんっっっっとうに口先だけ、って感じがしましたね。
まあ、第三者ならどこが勝利してもどうでもいい話ですから、
いかに氏が防大や自衛隊に冷淡だったとはいえ、
この発言までを責めるのは「坊主憎けりゃ袈裟まで」かもしれませんが。
 

 

決勝戦の第一対第二大隊の熱戦は続いています。
ご覧のように、第二大隊は隊舎で目撃した「特訓」にも窺えるような、
「助走付けてジャンプしサークル中央に取り付く」
という作戦を律儀に実行しているように見えます。



ちょうど両袖が引っ張られ、シャツを脱がされてしまった人。
ここでチラ見えしていますが、彼らの下着って、こんな濃色なんすね。
これも官給品なんですか?

そう言えば防大生は、制服以外での外出を認められていないそうですね。
海軍兵学校のように、入校第一日目、バスに入って「娑婆っ気を落とし」、
そのあと軍服に着替えて私服を故郷に送り返してしまう、なんてことはしないのかな。

例えば帰郷するとき、彼らはやはり制服で交通機関を利用するのでしょうか。




こちらは第二大隊の陣地。
第一大隊の攻撃法は第二大隊のそれとは少し違うようです。




防御のサークルが手に手に持っている大隊カラーの紐は、
これを見ると分かるように、左手と胴に巻き付けて結束するためのもののようです。
サークルが崩されないように縛り付けてしまっているんですね。
これも写真を見て初めて知りました。

真ん中で右手を上げている人が見栄を切っているみたいですが、
空いた右手で攻撃してくる敵と戦うということらしいですね。

棒の左にいる人のシャツが裂けています。




第二大隊陣地の場外。



破られた人あり、全部脱がされた人あり。
上半身裸でもなお突進して行くこの意気を見よ。
後ろで見ている、どう見ても防大生のお母さま方らしい一団が、
「あらあらー///」
って感じでどよめいています。
しかし何も着ずに敵中突進して大丈夫なのか君。



かと思えば、ズボンがまくり上がって太腿があらわになった人あり。
左では青シャツがヘッドロックかけてます。



脚を取られたのか、それともケリが決まったのか。

審判は手を上げていますが、あまり過激だと指導がはいるんでしょうか。




ここもヘッドロック。
「ぐ、ぐるじいはなせ」

でも、なんだかちょっと仲良さそうに見えますね。

オレンジの審判員の向こうにいる人は、
すっかりシャツを破られてしまったようです。




しかしすごいなあ。
よくこれで皆怪我しないものです。
動物同士の喧嘩と一緒で、こう見えても、「酷く傷つけないように」
という配慮が自然と働くのかもしれません。
そういう「さじ加減」を学ぶのも、この棒倒しの教育効果でしょうか。

しかし、ヘッドギアと呼ばれるプロテクターマスクをつけるのは、
その「無意識の手加減」に、ブレーキがかかりすぎないように、という効果もあるようです。
つまり、手加減さじ加減が覇気を奪ってしまうことのないようにってことですね。

勿論「不慮の事故」防止というのが主目的なのだとは思いますが。



兵学校でも予科練でも、棒倒し中の事故で重傷を負ったり亡くなる事故はありました。
たとえば予科練の死亡事故は、棒を支えていた支柱の学生
(当時は二人が下に座って棒を抱えた)が圧死したというものでした。

当時でも大問題になったのですから、防大でそんなことがあったらおそらく大変なことになります。
連綿と続いて来た棒倒し競技が廃止になるのは勿論のこと、
学校の管理体制や日頃の指導についても責任が問われることになるかもしれません。

ご存知のように、自衛隊という組織は何かと世論を先読み深読みして、
突っ込まれる前にその芽を摘んでしまおうという「要らん配慮」が、
そのあちらこちらに散見されるわけですが、それというのも、
自衛隊という組織に自分たちが生まれてもいない70年前の旧軍を重ね合わせ、
その痕跡らしきものを鵜の目鷹の目で見つけ出しては大騒ぎする、
まるでお隣の国(笑)の国民のようなメンタリティの人たちの執拗な攻撃に
組織そのものが萎縮したまま今日まで来てしまったということが原因でしょう。

防衛大学校という組織はそんな中にあって、わたしなどつい感心してしまうくらい、
旧軍の海軍兵学校の行事やしきたりを受け継いでいるものだと思います。

しかし、実は当の防衛大学校の学生ですら、戦後はいわゆる
「旧軍パージ」「旧軍バッシング」の洗礼を受けたともいえる
「ニュータイプ」が、伝統に反発するという出来事もあったようです。

「今こそ知りたい 江田島海軍兵学校」(新人物往来社)には、元防大教授、
平間洋一氏がこのようなエピソードを書いています。

●海上自衛隊を担う新しい幹部は、とりあえず兵学校の卒業生に呼びかけて確保した(中略)

●海上自衛隊の幹部候補生学校が認可されたのは陸自より三年遅れの昭和32年、
しかも32年度概算要求の復活段階で認められるほどの難産で、
開校も4月1日には間に合わず、開校式典が五月にずれ込むなど波高き開校であった。

●翌33年4月には兵学校の生徒館( 通称・赤煉瓦)が第一術科学校から
幹部候補生学校に引き渡されm兵学校出身の教官は張り切ったが、
防衛大一期生は冷たいもので、

「新しい海軍は俺たちで作る。敗軍の将、兵を語るなかれ」

と無視、棒倒しを強制されると

「帝国海軍は棒倒しで負けた、俺たちは棒起こしをしよう」

などと、『幹部候補生学生新聞』に書いて
教官を烈火の如く怒らせていた。

自衛官には実は左翼思想を持つ人物が多(かったらし)い、ということと、
この「旧軍への反発」は、どこかでつながっているものでしょうか。

いずれにせよ、ニュータイプが反発したにもかかわらず、
「棒倒し」は、その後「棒起こし」になることもなくいつの間にか復活し、
伝統行事として、今日も防大生の間で熱〜く行われているというわけです。


さて。

こうなると自分でも呆れてしまいますが、またしても最後までたどり着きませんでした。
次こそ本当に最終回です。

今年、棒倒し優勝の栄光を勝ち取るのはどの隊なのか!
おそらくその勝敗に部外者は誰も興味はないし、
そもそも興味のある人はもう知っているとは思うが、

取りあえず待て次号! 

 

 

 

平成25年防大開校記念祭〜棒倒し・本当の最終回

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防衛大学校棒倒し競技会レポート、ようやく最終日にこぎつけました。

画像は第一大隊の隊舎(って言うんですか)入り口に掲げられていた
棒倒し応援旗。

日章旗の白部分に必勝!とか「戦闘用意!」「死んでも負けるな!」とか寄せ書きされています。
朝日新聞あたりが

「自衛隊指揮官となる防衛大学生が、いくら棒倒しという児戯にも等しい行事の応援とはいえ、
先の大戦で出征兵士に送られたような国旗への寄せ書きをするのはいかがなものだろうか。
さらに、日章旗に記された好戦的な文言は『かつて来た道』を思わせ、
専守防衛を任ずる自衛隊の在り方にすら疑問を抱かせかねない。
特に、領土を巡って近隣諸国との関係が冷え込んでいる中、
かつて日本に侵略されたそれらの国々の、集団的自衛権の問題に注がれる目は厳しい。
そんな折、軍靴の足音すら聞こえてきそうなこれらの言葉が、社説子には薄ら寒く感じる。

しかしその中の『優勝は優しく勝つと書くんだよ』という言葉が目を引いた。

優しく勝つ、つまりお互いを思いやり、譲るべきは譲り、譲歩するべきは譲歩し、
妥協すべきも妥協し、相手のナショナリズムを尊重し、土下座するべきは土下座して、
相手の振り下ろす拳をすら優しく握れる者が真の『勝者』とは言えないだろうか」


という社説のネタにしそうです。
「肉豚」とか「お米食べろよ」は勿論無視してね。

(こんなおふざけばっかりしているからエントリが一つですまないんですねわかります)



さて、第一大隊と第二大隊の熱い戦いは続いています。


これくらいアップ画像だと、ヘッドギアをつけていても誰かわかりそうですね。
足元で転がっている選手、痛そう・・・。 

それにしても実際にご覧になった皆さん、これだけの若者が
これだけの激しい乱闘を繰り広げている割にはグラウンドが静かだったと思いません?

この写真で顔が見える人の口元を見ていただきたいのですが、
全く口は開いていない、つまり皆無言で行っているのが分かります。

兵学校のときもそうだったように、棒倒し競技中、私語は厳禁されているようです。
攻撃のときについ「おんどりゃああ!」「あちょおお〜ッ」などと
雄叫びをあげてしまうなんて、競技じゃなくて唯の乱闘ですからね。

それに「山田あ〜!後ろ危ない!」とか「作戦B隊形とれ!」とか、
口頭であれこれと指示を出すような棒倒しだと、一層カオスとなってしまいます。
 

脚にしがみついて攻撃や防御の邪魔をする、というのも、
棒倒し競技の「正式技」。
でも、脚で蹴るのはもしかしたら反則技となっているかもしれません。

この競技は、ただ無秩序に相手の陣地に突進して行き、無闇に戦って棒に到達する、
というようなものではなく、作戦を立て、情報を収集し(スパイですね)それを解析し、
作戦実行のための訓練計画を立て・・・、

と、まさに模擬戦闘さながらに戦略が錬られるものなのだそうです。
棒倒し、というのは単に体育会系の競技というものでも、
兵学校から続く「伝統行事」だから継承しているのでもなく、
つまり「戦術教育」の一環であると考えるのが良さそうです。




医療班のコーナーにいるのは、もしかしたら防衛医大の学生でしょうか。

皆笑って微笑ましく見ていますが、当の学生たちは、実戦さながらの真剣さで入念に準備し、
当日に望むものなのだそうで、それを思ってあらためて彼らの様子を見ると、
そこには無力さややる気のなさ、ふざけた様子などは微塵もないのに気づきます。


冒頭の日の丸への寄せ書きは、丹念に読んでみるとずいぶんとあれな書き込みがありますが、
これは本人たちのものではなく、「出征兵士に送る寄せ書き」。
第三者のものならではの気楽さが感じられるわけです。


ところで昨日、わたしは直前練習の様子を写真に撮りましたが、敵大隊の練習を撮影する
諜報活動もお互いに行われ、それを防ぐためにブルーシートで現場を隠蔽する「保全」など、
本番に向けて丁々発止の神経戦も行われるというのです。
ちなみに他大隊のスパイは見つけ次第突攻のタックルにあい、しかるべき目に遭う(どんな?)とか。

国際法でも捕虜と違ってスパイは銃殺と決まっています。
棒倒しスパイがどういう目に遭うのかは、想像にお任せしましょう。

・・って、わたしもどうなるのか知らないんですが、
なんか怖いので、もし来年練習を見かけても写真撮るのはやめようっと。



この右側でも「足止め」していますね。

ちなみに攻撃側には先輩が過去編み出した多彩な作戦があり、
それらには通称、というか作戦名がついています。

「どんぴょん」「観音開き」「モグラ」「テポドン」「壁」・・・。

参謀局は、それらの作戦を対戦相手によって組み合わせたりして繰り出してきます。




おおっ!
ついに第二大隊、棒に取り付いた。
この選手のマスク、壊されてますね。




もうほとんど「ごんずい玉」状態。
しかし青が棒に手を伸ばしたときに、いきなり試合終了。

えっ・・・・?


何と、赤の第一大隊にレフェリーが勝ちを宣告したのです。
いつの間に・・・。



昨日「どうなったら勝ちなのかいまいち分からない」と書いたところ、
正しい情報がさっそく手に入りました。

なんと、この競技、制限時間2分の間に、相手方の棒を、

傾斜角30度以上で3秒以上倒せば勝ち

だったのです。
制限時間がたった2分、というのにも驚きましたが(見ているともっと長く感じる)
もし2分で決着がつかなければ再試合が行われます。
それでも勝負がつかなければ、代表者のじゃんけんで勝者を決めるそうです。

一年間錬成に錬成を重ねてじゃんけんで負けたら、がっかりなんてもんじゃありませんね。



戦いが終わって整列。表彰式が行われます。

棒倒しの人数は78名以上、と決まっているそうです。
一個大隊の構成人数が150名ほどですから、全体で言うと半分強の生徒が参加するわけです。

彼らは「大隊の名誉を賭けて」戦うわけですが、
現代は防衛大学校生徒と言っても全員がこのような「武闘派」ではありませんから、
この競技に対するモチベーションにはかなり生徒によって「温度差がある」というのも事実だそうです。


二週間に一度、全員必須参加で棒倒しが行われていた兵学校時代との大きな違いは、
実はこの辺りかもしれません。




わたしは去年、このヘッドギア着用の学生さんが走っているのを比較的近くで見ましたが、
素材は伸縮性のあるポリウレタンでできていると思われました。
近年、新素材が次々と開発されたことで、このような安全性にすぐれ、
衝撃を受けにくく、しかも軽くて装着に無理がないプロテクターの着用が可能になったようです。

ある読者の方から頂いた情報によると、約30年前くらいまではヘッドギア無しで行われており、
10数年前から、布製の耳を防護するものが現れ始めたということです。
今のタイプが現れたのは数年前からだそうで、最初は布の耳当てと併用していたようです。

ラグビーや空手の選手のように「耳がつぶれる」というようなことを避けるため、
布の耳当てが登場したのだと思われますが、この耳当ては終わった頃には
ほとんどが外れてしまっていたそうで、意味がなかったのだとか。

ですから、今のヘッドギアだけで試合を行うようになったのは、
かなり最近になってから、ということになります。

やはり科学の発達というのはあらゆるものの在り方をかえていくものなのですね。

ちなみに幹部、参謀は早くから決まり、一年かけて作戦を練るそうですが、
それ以外の全体メンバーの練習が始まるのは案外ぎりぎりで、10月に入ってからだそうです。




惜しくも負けた第二大隊ですが、皆晴れやかな顔をしていますね。

棒倒しの指揮官を「棒倒し責任者」といいますが、なんだってこんな「火元責任者」や「危険物取扱責任者」
みたいな名前になっているのかというと、案の定、世論に対する過剰配慮というやつで、
元はと言えばこの責任者は「棒倒し総長」という呼称であったそうです。

変更された理由というのが「暴走族を連想するから」だったそうですが、全盛期ならともかく、
暴走族が絶滅危惧種(わたしは別に危惧してませんけど)となった今では、総長、という言葉から
東大総長を思い浮かべる人はいても、暴走族のリーダーを連想する人なんてまずいないと思います。

総長、そろそろ復活させてもいいんではないかしら。

その他「世論に配慮して」廃止されたものは、応援団の着る法被や応援の纏だそうで、
これはなぜなんだかわたしにはさっぱり理解できません。

これらも、昔の火消しを想像しても、ヤクザを想像する人はいないと思うのですが。






さすがは防大生、たとえビリビリに破れたシャツでも、袖を通し、
出来る限り居ずまいを正そうという努力をしておられます。

旧海軍において「身だしなみ」はオフィサーの重要な厳守事項でしたから、
現代の士官候補生もまた、身だしなみを整えることを口うるさく指導されるそうです。

ちなみに、この写真で防御隊が着用している「カーキ色のパンツ」ですが、

「これを『カーキ色のパンツ』などと言ったら、上級生から有難いご指導を頂けると思われます」

だそうです。
官給品の名称は正確に。
これは棒倒し用のユニフォームなどではなく、『作業ズボン』なのです。
しかも、エリス中尉、今回、防大ではこの作業ズボンにも

アイロンをかける

アイロンをかける

アイロンをかける

という恐ろしい事実を知ってしまいました。
普通、こんなワークパンツ(っていうんですよファッション用語的には)に
アイロンなんてかけないよ?
洗って、パンパンってしわを伸ばして、干しておけば主婦仕事としてはOKよ?
だいたいどう見てもアイロンがかかっているようにみえないぢゃあないですかこのパンツ、
じゃなくてズボンは。

改めて防大カルチャーの特殊さの片鱗を見た気がいたします。

そもそも、大学生が自分で洗濯やアイロンがけ、ボタン付けをする組織、
ということひとつ取ってみても特異なんですけどね。 

そして今書きながら気づいたのですが、この慣習も海軍兵学校はじめ、
旧軍の教育施設のものをそのまま踏襲していますよね。

さて。 

シャツを破られるほど指揮官率先で活躍したらしいこの第二大隊の総長、
じゃなくて危険物取扱、でもなく棒倒し責任者、
パンフレットによると斎藤豪生徒(陸上要員、ボクシング部、電気電子工学科)
ということになっているのですが、どうもこの写真の人とは顔が違います。
パンフの人はなんだか眉剃り込みで、雰囲気からして別人なんですが・・・。



ね?

まあいいや。写真写りがいちいち違って見える人かも知れません。 

ともあれ、この責任者は、棒倒し戦争における総司令官。
勝利のために隊を指揮統率するわけですから、統率力はもちろん、
判断力、決定力、そして交渉力も必要となります。
そして、隊員の士気を高めることの出来るカリスマ性のある人物でなくてはならないそうです。



表彰式の準備が始まりました。
優勝した大隊には一年間、優勝カップ、優勝旗、看板が授与されます。
学生たちはこの「優勝という看板」を手に入れんと錬成に励むのだそうです。

さて、防大棒倒し競技を、兵学校のそれと比較しつつお話ししてきました。

兵学校時代と同じく、防大は例えばカッター競技なども隊対抗ですし、
これだけでなく防大では年間を通じて数種類の競技会が行われます。
つまり、この棒倒し競技だけが彼らの関心事ではありません。

しかし、棒倒しのような特殊な行事を通じて、彼らは自衛隊の指揮官としての資質を
向上させて行く機会を得ているわけで、決してこれが「学生時代の良き想ひ出」
だけに留まっていないというのも確かでしょう。

今日、自衛隊という組織の職務も、昔と比べると一層の多様性を見せています。
よって個人の資質にも同じだけの多様性が求められることになり、
その方向性もまた先ほど言ったように「一方向」ではなくなってきました。

たとえばIT関係の分野などには、従来の防大生のステロタイプには全くはまらない、
いわゆる「ナードタイプ」の指揮官などもすでに現れつつあるのでしょうか。



これらの「防大らしい」行事に我が子が自主意思で参加しなかったという親御さんの中には、

「うちの息子は棒倒しや観閲行進に参加しなかった。
せっかく防大にいるのに、これらの行事で我が子を見られなかったのは残念だ」

という微妙な感慨を持った方もおられるのかもしれません。

しかし、多様性が許される今日、生徒一人一人にとっての
「ベストの思い出」は、彼の選択した学生生活にこそあるはずです。
「棒倒し」を「棒起こし」にしようといって教官を激怒させた頃の防大生たちと違い、
「棒倒しを選ばない自由」も彼らには許されていることをこそ祝福してやるべきでしょう。


 


 

海自音楽隊の歌手〜海自王子と同型艦(官品に関する訂正追加)

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本日は、棒倒し競技の大量写真&文章アップの疲れを、
さらっと癒すためのミーハーネタとまいります。


先日、長年の念願かなってついに参加させていただいた自衛隊音楽まつり。
その感想をいくつかに分けてエントリにしたわけですが、その中で
海上自衛隊音楽隊の強みは歌手の層の厚さである!
と断言したエリス中尉でございます。

最近では国民的ともいえる知名度を誇る、海自の歌姫こと三宅三曹はもとより、
東京音楽隊の音楽隊長が自らマイクを握り、朗々とした声を披露したり、
あるいは同一人物だと思っていたら全く別の二人だったり、
首から下を私服に替えれば男性ボーカルとしてCDが出せそうなイケメンがいたり。


さて、今日は、まずこの男性歌手についてです。
当方が勝手に「海自王子」と名付けたこの男性歌手の身元が判明しました!

とはいえ、インターネット検索で分かったのではありません。
何なら試してみられるとお分かりになるでしょうが、

「海自 歌手 男性」

と検索しても、出てくるのは話題の三宅三曹のことばかり。
因みに「男性」というのは、

「理想の男性のタイプは北島康介さん。
自衛官にも素敵な人は多いです」

という三宅三曹のインタビューに対する答えが引っかかりました(笑)
ちょっとこの件で余談ですが、いろいろとメディア的に持ち上げられれば、
三宅三曹に対する質問は、ほとんど予想できるお定まりのものがこの、

「つき合っている人はいますか」

なんですが、これ、聞く方は本気で聞いてるのかしら。
芸能人に同じことを聞いてもおそらく同じ答えが返ってくるでしょうが、
特に彼女の場合は、公務員ですよ?
たとえいたとしても、

「はい、同じ音楽隊の先輩とおつき合いしています」

なんて答えるわけがないと思うんですけど。
(いや、仮の話ですよ。念のため)

そして、その次には

「自衛隊をやめてソロ歌手としてデビューするということもあるのだろうが」

ですって・・・。
実に馬鹿げた質問だとは思いますが、本人も

「絶対にありません」

と言下に否定しているようで、安心しました。
自衛隊の歌手として世間に顔を出しているということの意味を
賢明な三宅三曹は良くご存知のようですね。




さてその話はそこそこにして、今回教えていただいた「海自王子」についてです。
この隊員は勿論「兼業歌手」でして、(三宅三曹以外は全員そうです。一応念のため)
本業はトロンボーン。
呉音楽隊所属の道本和生三曹とおっしゃる方だそうです。

呉音楽隊というところは、歌手の層の厚いと言われる海自音楽隊の中でも、
特に人材が抱負であるようで、音楽隊内でアカペラグループを結成し、
フジテレビ系列のバラエティ番組のコーナーのひとつである
「ハモネプ」の地方予選で決勝まで行ったといいます。
「音楽を職業にしている」ということで結局惜しくも出場は叶わなかったそうですが。

わたしはテレビを見ないので全くこの言葉を聞くことすら初めてだったのですが、
ご存じない方のために説明しておくと、「ハモネプ」の「ネプ」とは、
司会の「ネプチューン」のネプだそうです。
(皆様ご存知ですよね、たぶん)

「たかがバラエティ」と一言で馬鹿に出来ないなあ、と思ったのは、
今回、そのことを調べるために、YouTubeでそのハモネプのいくつかの映像を観たときです。

わたくし実は「ハモり」の血中濃度において日本人にはヨーロピアンに及ばない、と思っていたのですが、
こんな「素人」が次々と、しかも全国大会を勝ち抜いてでてくる時代になっていたとは・・・。
もしかしたら、こと音楽に関しては日本人って「進化」しているのだろうか、と考えを新たにしたものです。


この番組は、2001年からの一年間定期放送され、以降は不定期に放送されているそうで、
呉のユニットが参加したのは、この頃のことではないかと思われます。

そういう歴史的下地があるせいか、呉音楽隊はその後も「兼業歌手」を多出していて、
特にこの道本三曹の歌手としての存在感はその中でも「光っていた」ということです。

わたしが「この層の厚さは海自の強み」と、豪語したのは正しかったのね。
あながち身びいき(無関係なんですけど一応)や思い過ごしではなかったと。



さて、道本三曹が判明したところで、この左側の歌手です。
コメント欄で、「ヤマトを歌う人、HEY!和の人、隊長とのデュエットの人、



そして三宅三曹と『海をゆく』を歌った人。
もしかしたら全部別人で同型艦4隻か?」と騒然となった(わたしとM24さんの間だけで)のですが、



この、自衛隊のコンサートでしか観られない不思議な構図(笑)の、
右側の方は、川上さんと仰る方である、というご報告がありました。

 

プロコフィエフのPコンを、ブラスに編曲したという
川上良司一曹、この方は、



この方とは同形ではあるものの確かに別人。



じゃ皆さん、この歌手、どちらだと思います?

この画像は、東京の未来館で「サンダーバード展」をしたとき(何をするやら)
なぜか自衛隊がそこで「宇宙戦艦ヤマト」を演奏したという(何で?)
YouTubeの映像をキャプチャしたものなんですが、
この歌手は、そこで「宇宙戦艦ヤマト」を歌っています。

2011年、震災の年の音楽まつりには、海自東京音楽隊は、
「イージス」(河邉二佐作曲)〜「宇宙戦艦ヤマト」〜「軍艦」
という、海上自衛隊が演奏するのにもうこれ以上望むべくもない
「本家本元シリーズ」を演奏したわけですが、その映像を見直すと、
このときに「ヤマト」を歌っているのは川上良司隊員。

ということは、「ヤマト歌い」は川上一曹、これは確定でいいですね。

ついでに分かったのですが、川上一層の本職はホルンだそうです。
つまり、何が言いたいかというと、この音楽まつりには、
同型艦が最低二隻登場していたということのようです。

因みにコメントにあった「宮品」という名前を検索しましたが、
このブログしか出てきませんでした。(笑)



この方がそれでは宮品さんでしょうか。
どなたかこの隊員さんのお名前と所属ご存じないですか?
前述の道本三曹は、もう一人の三曹とデュオで出演することもあり、
そのレパートリーの中でも

「コブクロなどは絶品で固定追っかけファンもいたくらい」

という内部情報をいただいております。
それがこの方なんでしょうか。

(註・アップ後、また追加の情報を頂きました。
呉音で道本三曹とデュオを組んでいたのは、トランペットの藤沼直樹三曹、
もしくはトロンボーンの伊能広胤三曹であるとのことです。
現在、藤沼三曹は横須賀音楽隊、伊能三曹は東京音楽隊に所属していて、
やはりボーカルでも活躍しておられるとのことです)


情報によると、追っかけが「いた」と過去形になっていますが、きっと今もいるんじゃないかな。
それとも、その後道本三曹が結婚してしまって、追っかけは解散してしまったとか?


それにしても、「ある意味本家」とタグのつけられたこの2011年の海自の演奏、
三曲ともまごうかたなき「本家」の貫禄で圧倒されました。
まだご存知でない方は是非どうぞ。

海上自衛隊による「宇宙戦艦ヤマト」


追加訂正:


今朝コメント欄を見たら「森のくま」さんからこのようなコメントをいただいてました。

官品とは(かんぴん)人の名前ではありませんのよ〜

1.「制服、装備・カ」 国から支給される物品を指す言葉。
   制服・徽章類から弾薬にいたるまでさまざま。
2.「人物・隊内隠語・カ」
   自衛官同士が結婚し、その夫婦の間に生まれた子供のこと。

川上一曹の場合、海自で準備した官品「ささきいさお」という意味です。
要するに自衛隊内で使われる隠語です。

もう1人の方は
玉泉春雄三曹かも・・・


なんてこった。

音楽まつりエントリにいただいたコメントの
「官品いさお」を

「宮品」つまり「みやしな・いさお」さん

という隊員だと思ってました。
昔、大阪大丸の靴売り場で「領収書手書きでお願いします」と頼んだとき、
「宛名はなんとお書きしますか」
と若い女性店員が聞くので、

「『上』で結構です」

というと、丸々としたマンガ文字で、

うえだけいこ様

と書いて来たのを思い出しました。
(今にして思うと、どうして彼女はどう漢字を書くのか聞いてこなかったんだろう)


官品、つまり官給品でしたか。あっはっは。
・・・道理で「宮品」で調べても当ブログしか出てこないはずだ。
 

しかし、森のくまさんの「官品解説」の2番によると・・・・
実に味わいのある隠語ですね。
また自衛隊について(無駄に)詳しくなってしまったぜ。







 


「JAPANデビュー問題」NHK番組訴訟で原告逆転勝訴

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以前もまとめとしてエントリをアップした「NHK集団訴訟問題」に、
逆転原告勝訴の判決が出ました。

もしこの裁判について詳細をご存じないようでしたら、
そのエントリをご覧になれば、ここでまとめてあります。

「JAPANデビュー」問題に置けるNHKの問題点

産經新聞が、これを受けて台湾パイワン族の指導者たちの声明をこう報道しています。

「本当に安心しました。民族の誇りを大切にするわれわれの気持ちが認められた」。
踏みにじられた名誉を取り戻そうと訴えた原告の台湾先住民族パイワン族らの思いは、
敗訴した昨年12月の1審判決を経て、2審でようやく通じた。

台湾から東京高裁の判決を見守った原告の一人でパイワン族の指導者、
華阿財(か・あざい)さん(75)は逆転勝訴の知らせを受けて、
「取材を受けた本人が、全く不公平な番組だと主張していた。
早く関係者に知らせたい」と声を弾ませた。

問題となった番組では、日英博覧会にパイワン族が出演したことを「人間動物園」と表現。
訴訟では、この表現が博覧会出演者の一人だった男性とその娘の名誉を傷つけたかが争われた。
NHK側は「取材時には『人間動物園』という言葉を使わなかったが、
趣旨を説明し、恣意(しい)的な編集はしていない」としていた。

華さんは「『人間動物園』といわれ、パイワン族は本当に傷ついた」と振り返った。

 

この二審の東京地裁での判決文を、法律的な言い回しを安易に替え、
分かりやすくリライトしてみました。
まず、原告側の主張から。


NHKは「見せ物」と「人間動物園」は同じ範疇の概念であるかのように強弁するが、
「見せ物」は「珍しいもの・曲芸・手品などを人に見せる興行」
「多くの人に面白がってみられること。またそのもの。」
であって、価値中立的な言葉であり、演劇もスポーツも一種の見せ物である。

ところが「人間動物園」は、人間を動物として展示するということであり、
「見せ物」とは次元をことにする概念であり、人種差別的なものである。

NHKが日英博覧会におけるパイワン族の展示を「見せ物」だと言うのなら、
パイワン族集合写真の字幕を「見せ物」とすればよかったのである。
「見せ物」では平凡すぎて番組の衝撃度が少ないから、あえて
「人間動物園」としたところにNHKの主張の破綻がある。

NHKはこの二つの言葉を使い分けて、パイワン族の一員である
高許の父親を侮辱するとともに、その子である許進貴をも侮辱したのである。

控訴人は、100年前、父親がイギリスで屈辱的な経験をしたという認識を
取材前には持っておらず、取材時にそのような説明を受けてもいなかった。

それにも関わらず、NHKは、番組において高許の父親が
「人間動物園」として展示され動物扱いを受けたことを「悲しい」と述べた、
と理解するように狡猾な編集をして、高許に精神的打撃を与え、
控訴人高許のプライバシーの権利を侵害し、事故の情報をコントロールする権利を
根底から否定したのである。 


また、彼女に対するこのような侮辱は、パイワン族全体に対する侮辱である、
としています。


これに対し、第二審の出した判決はこのようなものです。

「NHKの行為は、高許の社会的評価を低下させ、その名誉を侵害するものである。

本件番組は、日本の台湾統治が台湾の人々に深い傷を残したと放送しているが、
本件番組こそ、その配慮のない取材や編集等によって、台湾の人たちや
特に高士村の人たち、そして、79歳と高齢で、無口だった父親を誇りに思っている
控訴人高許の心に、深い傷を残したというべきであり、
これに上記認定のとおり、本件番組の内容や影響の大きさ等の一切の事情を斟酌すると、
控訴人高許の被った精神的苦痛を慰謝するには100万円をもって相当というべきである」


この裁判で問題になっている「人間動物園」という言葉については、
第一審でわたしが当ブログにも書いたように、NHKが、

「2万6千冊の台湾総督府関係のの資料を丹念に読み解いた結果、
後年学者の間で(スタンダードとして)使用されている言葉だとわかった」

というような主張をしていたわけですが、この判決文による「人間動物園」の出典とは、

東大社会情報研究所助教授の吉見俊哉が、パリ博覧会で行われた
模造の集落の中で原住民を生活させ展示させるという企画について、
「大衆動員に結びつく博覧会の目玉を求めていた万博主催者たちが
この『人間動物園』の人気に目を付けないはずはなかった」としている


つまり、「人間動物園」を造語したのは、他でもないこの吉見教授であり、

一人の学者の恣意的な便宜的定義

にすぎないというのが現実なのです。



判決文における放映までの経緯はこのようなものです。

NHKの制作担当者濱崎および島田は、事前調査で、日英博覧会に
当時の日本がパイワン族を連れて行き、その暮らしぶりを
「見せ物にした」と考えるに至り、そのことを取り上げることを前提に
パイワン族への取材を決めました。

彼らは取材した高許に対し、そのときのパイワン族の写真を見せながら
彼女の父親が日英博覧会の会場で「見せ物」にされていたと説明しました。

しかし、彼女は父親からイギリスに行ったことはあるとは聞いていたものの、
博覧会に出演したことは知りませんでした。

濱崎、島田は、この取材のときにはまだ「人間動物園」という言葉があるのを
知らなかったのですが、その後上記のような記述があるのを知り、
その番組でこの言葉を大きく取り上げることにし、このようにそれを使用しました。

そして、彼女が父親の博覧会出演を知らなかったことを、
あたかもそのことが父親にとって語りたくない辛いことでもあったように

「父親は生前、博覧会について子供たちに語ることはありませんでした」

と意味有りげな説明を加えて(判決文より)報道したのです。



番組でこの言葉がどのような位置づけであったかは以下の通り。


【導入部分】

「世界の一等国に上り詰めた日本は、何故坂道を転げ落ちて行ったのか」
という問題提起の後
「台湾、日本の最初の植民地となった場所です」
「その原点はこの地にあります」
というナレーションで、元台湾人日本兵であった人たちの映像が流れ、
その後、画面に民族衣装で正装したパイワン族の写真が映し出され、
その写真の下部に「人間動物園」という文字が映し出される。

日本は台湾をアジア進出の拠点として激しい抵抗運動(日台戦争)
を武力で制圧して進出したが、統治が混乱したため、
後藤新平を民政局長に起用してあめとムチの政策を推し進めたと続く。

【日英博覧会に関する説明】

台湾領有から15年後の明治43年、日英博覧会が行われた。
これは日本とイギリスの友好関係を祝う催しとして企画された。
日本は、

台湾統治の成果を世界に示す絶好の機会と捉えて

パイワン族の暮らしぶりを見せ物にしたと言う説明。
イギリスやフランスでは当時植民地の民族を盛んに見せ物にしており、
日本はその「人間動物園」を真似た、と説明する。

【パスカル・ブランシャールの映像と発言】

当時西欧列強は植民地の人間を「野蛮な劣った人間」と考えていた。
番組は、日本が自らを「民族の階層の頂点にある」と考え、
その下にアジアの他民族がいるという世界観を持つにいたった、とする。

ブランシャールの発言、として番組は、
西欧列強と日本は植民地を差別していた、と何度も強調する。


【控訴人許進貴と高許の紹介】

台湾南部高士村の映像に
「連れて行かれたのはこの村の出身者たち」
というナレーションが被せられる。
許氏が写され、
「展示された青年の息子、許進貴さん」

高氏は何かを見ながら笑みを浮かべて
「かなしい」と日本語で述べる。
さらにナレーションは
「父親は生前博覧会について子供たちに語ることはありませんでした」


【まとめの部分】

日本が世界の民族自決の動きに逆行して差別と同化政策を推し進め、
台湾議会開設の請願を認めず、この地を日本のアジア進出の拠点として
軍部が南方の海洋国家を目指した、とし、
再びパイワン族の写真にブランシャールの言葉としてナレーションが
「今も残る日本統治の深い傷」などと締めくくって番組は終わる。


うーん。


濱崎と島田とやらは「日本の植民地支配は悪」という大前提に立ち
これを番組で糾弾することだけしか見ておらず、実は戦後台湾の歴史、つまり
国民党が大陸から入って来て日本が出て行った後のこと、
白色テロの時代のこと、これらを全く知らなかったとしか見えませんね。

もし台湾の人間が未だに「歴史的傷を持っている」としたら、それは日本統治ではなく、
228で台湾人を殺害し、その後言論統制を敷いた、民主化に至るまでの
国民党の政治のほうだと思うのですが・・・・。

それはともかく、問題の日英博覧会の「展示」にしても、吉見教授とやらの造語がまずありきで、

「植民地経営がうまくいっていることを誇示するためにパイワン族を
西欧に対し一段劣った人間として『人間動物園』で晒しものにした」

というストーリーを勝手に組み立てた上で番組を作って、
家族への取材は最初から

「人間扱いされなかった父親の身を思って心を痛めた」

という創作の補強に使うことを前提にしていた、というのは明らかです。

裁判長は、この部分に対し判決文で

「実際に当時はまだ『人間動物園』という言葉はなかった。
『人間動物園』というレッテルを貼られることによって、その展示の対象とされた者は、
人間ではなく動物と同じように扱われていたのではないか、との意味を含むことになり、
結果的にその人格をも否定することにつながりかねないところに、
この『人間動物園』という言葉の過激性があることは明らかである」

と述べています。
さらに、こう言っていいのかどうかためらわれるところですが、
わたしが個人的に快哉を叫んだのがこの部分。

「島田らは、日本を代表する報道機関のディレクターとして、
全ての人に人間の尊厳を認め、公平かつ平等な報道を心がけるべきであり、
報道によって徒に人の心を傷つけることがないよう細心の注意を
払うべきであるにもかかわらず、

一部の学者が唱えているにすぎない
「人間動物園」いう言葉に飛びつき、

その評価も定まっていないのに、その人種差別的な意味合いに配慮することもなく、
これを本件番組の大前提として採用し、
上記のパスカル・ブランシャールを番組の随所に登場させて内容を組み立て、
1910年の日英博覧会に志と誇りをもって出向いたパイワン族の人たちを
侮辱しただけではなく、好意で取材に応じた控訴人高許を困惑させて、
本来の気持ちと違う言葉を引き出し、『人間動物園』と一体のものとして
それを放送して、父親がパイワン族を代表してイギリスに行ったことがある
との思いを踏みにじり、侮辱するとともに、彼女の社会的評価
(パイワン族を代表してイギリスに行った人の娘という)を傷つけたことは
明らかである」


「高許らパイワン族の間では、父や父祖の世代の人たちがイギリスに行ったことは、
良い想い出として語り継がれており、だからこそ、NHKは彼らを捜し出すことができ、
高許らも、そのような前提で島田の取材に応じた」

「もし、島田が事前に、
『父親が人間動物園で展示され動物と同じように扱われたことについて取材したい』
と申し入れたなら、誰一人としてこれに協力したり、放送に同意したりはしなかったであろう」

「(コーディネーターの陳は)こんな批判的な内容になるなどとは全く考えず、
純粋に日本に対する好意に基づいて協力したものである。
それにもかかわらず、このような内容となり、陳は、高許に対してだけではなく、
高士村の人たちに対しても申し訳ないような、肩身の狭い思いをしている。
そのような好意を裏切った島田らの行為は、報道に携わる者としてのマナーに反する」


原告の訴因には、番組の

「日本は台湾に対する加害者であり、台湾には今も日本統治の深い傷が残っている」

とする番組の主旨に対する台湾の人たちの「不快な思い」というのもありました。

しかし、これに対しては判決文は

「理解できないわけではないが、憲法によって認められている表現の自由は
民主主義の健全な発展にとって欠くべからざるものであり、
さまざまな立場による報道も十分に尊重されるべきであるから」

とするにとどまっています。

ただ、その手段として、その言葉の持つ差別的意味合いや不快な響き、
あるいはこれによって傷つく人たちが入るかもしれないという配慮など、
十分な検討や検証を経ることもなく

「刺激的な真新しさに飛びついて『人間動物園』という言葉を使用して
表現したことは、日本を代表する報道機関の看板番組の一つとしては
軽率であり、批判されても致し方ないものではある」

としながらも、番組の主旨が

「日本の統治を非難したもので、パイワン族を野蛮と報道したわけではない」

ということで、控訴請求の一部を退けています。


この判決に対しNHK広報局は
「主張が一部認められず残念。今後の対応は判決内容を十分検討して決める」
とのコメントを発表しました。
NHKは判決を不服として控訴するんでしょうか?

そんなことより、前エントリから言っているように、この件を
クローズアップ現代で取り上げて下さい。
タイトルは・・・そうだなあ。

「JAPANデビュー裁判—ディレクターたちは何故暴走したのか」

なんてのがいいんじゃないでしょうか。
ぜひご検討くださいませ。

☆ チン  〃   ∧_∧
 ヽ___\(\・∀・)
   \_/    ⊂ ⊂_)
  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
 |淡路たまねぎ|/


 






横須賀米軍基地〜防空識別圏問題と民主党政権

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この基地見学ツァーに参加したのはもう一ヶ月近く前のことになるのですが、
ご報告すべきイベントが目白押しで、こんな時期にエントリをアップすることになってしまいました 。

いやこれね。

もしツァーが先週だったら、中止になってたんではないかしら。
というのも、こんな出来事がありましたからね。

中国「防空識別圏決めたからこっから入って来たらお前ら撃墜アル」
日本「何それこわい」
米軍「B52二機飛ばしたが何か」
中国「え・・・・・」
空自「黙ってたけどその前にF15飛ばしてたよ」
中国「・・・・な・・・・」
海自・米海軍「♪合同演習♪合同演習」
人民軍「こ・・・こっちは皆把握していたアルよ!スクランブルかけたアル!」
防衛省「中国機が接近する等の動きは全くありませんでしたー」
日米「『エアー』・フォースかw」「ぷークスクス」
世界「調子こいてるんじゃねーぞ中国」
中国「・・・・ぐぬぬぬ」
韓国「・・・・・防空識別圏拡大したニダ」
日本「どさくさにまぎれてうちの識別圏に来てんじゃねーかコラ♯」
オーストラリア「次はうちも行っちゃおうかな。中国の抗議うざいし」
中国「 ・・・・」

ええ、すっかり度胸試しの場と化している東シナ海でございますが、
中国が防空識別圏設定を言い出した日はさすがに緊張が走りましたからね。
その後の沖縄での日米合同演習をどうするかなど、
米海軍としてはやはり「基地見学ツァーどころではない」
となっていた可能性もあったのではないか、と今にして思います。




さて、見学ツァーにからめて時事ワンポイント解説ができたので、
一石二鳥の有効な出だしとなりましたが、前回、
横須賀駅を10人単位の小グループに分かれて、観光しながら
ヴェルニー公演からドブ板通りを抜け、海軍基地の前までやってきたところ、
正面の陸橋から「写真禁止」を言い渡されたところまでお話ししました。

なぜ陸橋までが写真撮影禁止なのかというと、そもそもこの陸橋は
同時多発テロのあとできた「バリケード代わり」だから。
ここに陸橋があることでどういう想定に対し防御となるのか、
軍事の素人であるエリス中尉にはさっぱり分かりませんでしたが。


陸橋を渡ったところには団体が溜まれるほどのスペースがあり、
グループはここに集合して、全員でまず挨拶をかわします。
ここで、まず行程1の「セレモニー」が行われるのです。
セレモニーといっても、海軍儀仗隊の栄誉礼とか国旗掲揚とか、
そう言ったものではなく、基地司令の挨拶がメインです。
お忙しい中基地司令が時間を割いてやってきて、
歓迎の挨拶の辞を述べる、というものなのですが、その前に

「司令は日本語を勉強しておられる段階なので、
たとえ変に聞こえたりしてもくれぐれも笑ったりしないでください」

という、まるで小中学生に向かってするような注意を受けます。
だれもそんなことで笑ったりしませんよ〜。
というか、今までそんな失礼な日本人がいたのかしら。

待つことしばし、やっと出て来たのは、在日米海軍司令。
紙を出して、おそらく英語で読みを振り、日本語がわかるスタッフ相手に
何度か練習したらしい日本語で、このツァーで米海軍を理解していただき、
日米の友好を深めたい、というようなことを挨拶しました。

そしてその後は全員が点呼を受け、名簿順に列を作り、
パスポート等の身分証明書を確認してから、出発。
ゲートは、団体見学用に開けてもらったところをできるだけ列をつめ通過。
ここで米兵によるチェックはしません。



かなりの樹齢を経ていると思われるイチョウの大木が目を引きます。
ゲートを入ってすぐに見える景色です。



意外なくらい手つかずで残されている自然の部分に少し驚きます。
しかし、この中の歴史的建造物はほとんどが旧海軍の横須賀鎮守府時代のものなのです。
ただ「米軍基地を見学」するのではなく、日本人が昔建造し、
実際に海軍が使っていた建築物を見る歴史ツァーも兼ねているからこそ、
人気なのですね。

「日本人の歴史的遺産が日本人に公開されないのは
いくら米軍基地内とはいえ昔と違って占領しているわけでもないのだしおかしい」

というような意見が出た結果生まれたツァーかもしれません。


基地内の行動は全て規制され、例えば道を渡るのも皆一緒。
見学行程の2番であるこの「関東大震災の碑」ですが、
このときには近くに行くことすら許されませんでした。

遠くて分かりませんが、この球体の部分は正面に時計が刻まれ、
地震発生の11時58分を針が指しています。



アメリカ国内と全く同じ仕様の通りを書いた表示板。
アメリカというところは住所をブロックではなくストリートで表示します。
それはいたってわかりやすく、道路の一方に偶数、反対側に奇数のナンバーの家があるので、
全く初めての場所でも簡単に住所から場所が確定できるのです。

どんな小さな私道にも名前がついていて、一つのシティに同じ名前の通りは二つありません。

向こうに見えているのは、第七艦隊のレーダーとアンテナ塔で、
アンテナ塔の立っている建物は窓がないそうです。



そうかと思えば、こんなバス停も。
なぜ日本語なのかもなぞですが、それよりこの
「定期バス停」とは何なのか。






ここにもあったよ。鳥居代わりの道路標示が。

アメリカ軍がこれをやるのは単に

「ここは日本だから、日本文化の雰囲気をちょっぴり拝借してみました」

といったリスペクトアピールを兼ねて便宜上使っているだけで、
実質深い意味があってのことではないのは明らかなのですが、
日本人としても、そんなことに目くじらを立てるような大人げないことはしません。

しかし今回、横須賀海軍基地のことを調べていて、こんな不愉快な記事を見つけてしまいました。

”横須賀基地見学記 米軍の意外な日本への軽蔑的態度”

これは、中国環球時報の記者が、

日本の国会議員の協力のもと←注意

ジョージワシントンに乗り、基地を見学し書いたある記事のタイトルです。
ちょっと面白いので、それを全文掲載します。
(URLを貼るのはなんか怖いからやめます)



日本の議員の協力の下、環球時報の記者は8月28日に横須賀基地訪問を申請、
同月31日に許可が下り、中国に最も近い米軍空母「ジョージ・ワシントン」に乗船した。

◇日本を象徴する神社は米軍にとって飾り

在日米海軍が直轄する6つの基地のひとつである横須賀海軍司令部の建物は
かつての旧日本海軍の「横須賀鎮守府」の所在地だ。
建物のロビーには両国の重要な海軍将校の肖像画が掛けられている。

ネイランド事務官は19世紀の日本海軍の肖像画を指差し、
「彼らは友だちだ」とし、その横の太平洋戦争時代の日本海軍の将校は「悪人」扱いした。


基地の食堂の前には1941年の皇太后の基地訪問を記念する記念碑と、
日本海軍が東京の方角を確認し、皇居に向かって敬礼するのに使った羅針盤があった。
これらの歴史がつまった遺物はすでに米軍施設の飾りとなっていた。

日本人にとって非常に神聖な神社でさえそれは同じだった。
佐世保基地の入り口や横須賀基地の一部の門は神社の鳥居の形になっている。
記者がネイランド事務官に何か特殊な意義があるのか聞くと、
いや、何も。ただの装飾品だ」との答えが返ってきた。


記者は横須賀基地入りする前、沖縄のバーにいる在日米軍と接触、
彼は意外にも日本に対して軽蔑的な態度を示した。

スティーブンというこの若い軍官は、

「日本の自衛隊の実力なんてたかが知れている。沖縄の8%の経済は米軍基地に関係している」

と指摘、

「数年前に米兵が沖縄の少女を暴行してから、彼らは我々を追い出そうとしているが、
本当にいなくなったら誰も物を買わなくなる。
そのときになって我々の前に跪いて、早く戻ってきてくださいと懇願するだろう」と語った。


「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年9月5日


いやいやいやいや(笑)。

日本のメディアというのも大概だと思いますが、
中国の記者って言うのは、さらにどうしようもないですね。
明確な日米離反工作を行うという目的があるわけですからね、

そもそもこの記者、横須賀にわざわざ取材に行って、
ジョージワシントンにも乗ったのに、そのことには一言も触れず、
鵜の目鷹の目でただひたすら
「在日米軍の日本に対する悪感情の発露」を探してるんですから。

しかも、横須賀基地を取材したと言いながら、最後の
「日本に対して軽蔑的な米兵」
というのは沖縄基地所属で、しかも「バーでの取材」(笑)
まあ、こんな風にクダを巻くアホなアメリカ兵もバーならいるでしょうけどね。

鳥居がアメリカ人にとって「ただの飾りだ」というのは日本人が良く知っているわけで、
そう言ったネイランド事務官の意図も、それ以上でもそれ以下でもなく、
別に「軽蔑している」ということではないと思いますよ?

それと、沖縄の酔っぱらった若い兵隊スティーブンの意見がなんで米軍の総意になってるの?

確かに、沖縄の米軍基地では、過激派の左翼が(ポスターはハングルらしいです)
米軍軍人に酷い嫌がらせをしている、というのが最近ニュースになったけど、
その糸を後ろで引いているのは、沖縄から米軍を追い出したい中国共産党だと
かねてからわたしは思ってるんですけどね?

まあ要は、この記事も、日米安保を破棄させ米軍を日本から追い出す、
という共産党から指示された工作の一環だとわたしは思います。

それよりも、冒頭の一文ですが、

「日本の議員の協力のもと」

って、何なのこれ?
日本の議員って誰なの?

記事の書かれた日付をみると、

2011年9月5日

ああ、民主党政権下ですね。納得。
民主党の議員が中国の新聞記者を米軍基地に手引きしたってことですね。

もちろん自民の議員である可能性だってないではありませんが、
民主党には当時帰化人政治家が半数くらいいたという噂もありますし、
今から考えると信じられないことですが、もっと見えないところでは
いろいろ手引きや情報の垂れ流し、売り渡しなんかがあったんでしょうね。



ここで冒頭の話に戻るのですが、皆さん、今回の防空識別圏問題、
もし民主党政権下で起こっていたらどうなっていたと思います?

そう、まず間違いなく身内が中国に権益を持つイオン岡田が、
中国の防空識別圏には絶対に入らないことを自衛隊、海保に求め、
民間航空会社には航行計画を提出させ・・・・。

要するに中国のやりたい放題にさせていたことは火を見るより明らかです。

本人は否定していましたが、この男には尖閣での中国船衝突事件の後、
中国側に異常な「配慮」をした前科がありますからね。

当時、民主党は米軍と自衛隊とで行われるはずの離島奪還訓練を中止させましたが、
その提言をしたのは当時の副総理であった岡田克也であり、
それは中国でのAEONの収益を見据えてのことであったと言われています。
さらに、
『民主党政権下で海上自衛隊の艦船と中国軍艦の間に十五海里、
28キロの距離を置くことを決めていた』

と、産經新聞に記事を書かれたわけですが、当時の国会答弁によると
(当ブログでは『ブーメラン戦隊ジミンガー』というタイトルで記事にしました)
安倍首相に、

「政権交代後、事務方から聞いた『ファクト・事実』である」

と言われて岡田は沈黙してしまいましたっけ。(捨て台詞付きで)

その後、岡田が産經新聞を訴えた様子もないし、これやっぱり本当だったんですね。
あのとき、民主党政権は、日本は殴られても蹴られても「中国様」に叩頭します、
というサインを中国に対して出してしまったのです。

中国は次はより強硬な策に出て来るだろうと思わせるに十分な売国行為でしたが、
案の定今回のような事態になりました。

(まあ、結果として中国は今回盛大に自爆してしまったという気はしますが)

中国をここまでの「モンスター国家」にしてしまったのは、
丹羽元中国大使や岡田克也のような親中侮日の商売人や政治家であり、
さらに現下の危機を招いたのは、この国が戦後七十年間、
自らで国家の独立や安全を維持すると言う事を考えず、
軍事的にはアメリカの完全な属国として生き続けてきてきたことのツケが、
一挙に回ったためであると言わざるを得ません。


そして、日米同盟を破棄させたい中国さんの策略というのは、
逆に日本を覚醒させ自衛を強化させることにしかならないとわたしは思います。

今回のことでもわかるように、同盟の有る無しに関わらず、
アメリカは日本のためではなく自国の利益のために列島線を死守するわけですから。
あの地域で日本を叩けば、アメリカがもれなく出てくるってことを、
近平ちゃんは想定していなかったんでしょうか。



というわけで、案の定時事問題になだれ込んでしまい、どこが基地ツァーだ、
という内容になってしまいましたが、長くなったので今日はここまで。


 

 

横須賀米軍基地ツァー4〜百年前の景色

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さて、昨日はついつい米軍つながりで時事問題を語り始めたのはいいとしても、
それだけに留まらず、民主党政権下、日本の議員に手引きさせて米軍基地に入り込み、
基地司令からネガティブな言葉を引き出したうえ、それを一方的な記事にして、
侮辱したいだけ日本を侮辱しただけでなく、おそらく共産党の意を受けて日米離反工作、
ついでにジョージワシントンの機密を何とか盗もうとしたに違いない中国人の書いた記事に
つい我を忘れてしまいました。
(説明っぽいな)

基地主催のフレンドシップデーには、一般人であっても日本人以外立ち入り不可だというのに、
反日中国人をわざわざ米軍基地に送り込んだ売国議員。
この議員は、おそらく民主党が政権を取ったとき、小沢一郎にくっついて
「朝貢外交団」として中国で「接待されて来た」にわたしは100人民元賭ける。

しかし、我々がが思う以上に民主政権下では日本は「危ないところだった」ようですよ。

民主党福山議員「機密文書が34000件も無断で破棄されてるんですよ」 
自民党小野寺防衛大臣「34000件のうち30000件は民主党政権で無断で破棄されてました」 
民主党福山「・・・・」

なんて、ブーメラン戦隊ジミンガーシリーズのネタも最近ありましたし、
何と言っても内閣府の「中の人」からつい先日伺った証言によると

「民主時代には見るからに人品卑しからぬい悪相がいるはずのないところにいた」

そうですからね。
人は見かけではない、といいますが、一目でわかるものもあるってことですよ。


こんな話をし始めると、またもやエントリのスケジュールが進みません。
今日は出来ればその話題にならないようにいきたいと思います・・・が、
昨日ワンポイント解説した韓国の防空識別圏拡大の件で、
こんな続編が飛び込んできました。


韓国「・・・防空識別圏拡大したニダ」
日本「どさくさにまぎれて中国側じゃなくて日本側に拡大してんじゃねーかコラ♯」
アメリカ「何してんだ韓国! 皆が何で中国非難してるのかわからんのか」
世界「何しれっと中国と同じことしてるんだよ」
  「空気読めや」 
中国「 中立を守るとか言ってたアルな。どちらにつくつもりアルか」
アメリカ「そもそも防空識別圏の線引きしたのって誰だと思う?それは、わ・た・し!」
韓国「ガクガクブルブル」 

なーんかキャラがはっきりしすぎ。
中国=ジャイアン、日本=のび太、韓国=スネ夫、アメリカ=きれいなジャイアンで。




911同時多発テロのモニュメント。

「ビルディング倒れるとも、自由はいまだそびえ立つ」

どこかで聞いたなあと思えば
「板垣死すとも自由は死せず」ですね。

アメリカから遠くはなれたここ日本の米軍基地で、彼らが事件をどのように見、
どのように心を痛め、どのように悼んだのか・・・。
中には親族や知人が犠牲になったというアメリカ人もいたかもしれません。

右の黒曜石の二本の柱は、倒壊した貿易センタービルです。
モニュメントが五角形をしているのは「ペンタゴン」でしょうか。 





古めかしい建物の前に金色の錨が。




ここは昔、横須賀工廠の庁舎として使われていました。
横須賀工廠は幕末にここに建設された「横須賀製鉄所」が源流です。
このツァー参加記でもお話しした、フランス人技師ヴェルニーの総指揮によって
日本はここに近代化の足がかりとするための製鉄所を設け、
その後1871年(明治元年)に「横須賀造船所」と改称されました。
日本の軍備拡張が本格的になったため海軍省の管轄下におかれ、
この地で軍艦の建造・修理を中心に稼働しました。

ここにある「1号ドック」はこのときに完成。
当ブログでも以前お話しした初の国産軍艦「清輝」は、
この5年後、1876年にここで竣工されました。


黒船を作ってしまった日本




現在は米海軍の「CPOクラブ」となっています。
CPOとは「チーフ・ペティ・オフィサー」、つまり下士官のこと。

軍組織というのは階級によって立ち入る施設がはっきり分かれています。
将校と下士官、そして下士官と兵というのも厳密にその間に線が引かれ、
例えば旧海軍では、士官がその妻に、

「下士官の妻と親しくしないように」

とわざわざ言い渡すほど、個人的な交わりは禁じられていました。
軍隊という組織の指揮系統が「情」で乱れるようなことがあってはならないからです。

これは世界的なスタンダードです。
我が日本国自衛隊においても士官と曹、そして士の施設はきっちり分かれています。






こう言っていいのかどうか分かりませんが、わたしは「建築物」
という観点だけで考えた場合、ここが米軍のものになって良かったと思うのです。

アメリカに住んでいるとよくわかりますが、アメリカ人というのは一般に
一旦建った建物はよほどのことがない限り、そのまま手入れをして長年使い続ける、
という文化を持っているので、このように100年前の建物でも、
外壁はしょっちゅう塗り替え(ペンキ塗りを趣味にする人も多い)、
中は定期的な改装を繰り返します。

新しく家を買って、そのまま何も改装せずに住むということは
彼らにはまずあり得ないことで、自分好みに全て(しかも業者を頼まず)作り替え、
自分らしいインテリアを作り上げることにこだわる人が多いのですが、
だからこそその「入れ物」である家については、築何年であろうが気にしません。


ここも、現存する往時の建物のおかげで鎮守府時代そのままに時間が止まったようで、
だからこそ我々日本人は、歴史ツァーなどと称してわざわざそれを見に行くわけですが、
彼らにしてみれば、「相手に敬意を払って」などという特別の意識ではなく、
「アメリカでも普通はそういうものだから」
建物を使い続けているに過ぎないのだとわたしは思います。




もしここが日本の、私企業などの所有地になっていたら、
たちどころに古い建物は新しく建て替えられ、
しかもそれが耐久性がないので建て替えのサイクルも早かったでしょう。

「アメリカ軍で良かった」と言うのは、つまり、
100年経った今、戦前と同じ景色を見ることができるのも、
アメリカ人のこの住居に対する慣習のおかげであると思うからです。





こういう壁の飾りも、おそらく建ったときのままなのでしょう。
年月がその彫刻をぼやけさせ、線を不明瞭にしても、決して手を加えず、
ペンキでトリミングまでして保存しています。

江田島の海軍兵学校の建物は、アメリカは占領後使うことを予定していたため、
決して建築物を破壊させなかったそうですが、この横須賀鎮守府も、
どうやら米軍は占領後の軍施設にしようと計画していたらしいですね。



昔は国旗掲揚台だったのではないでしょうか。



倒壊する可能性があるから近寄れないようにしているのでしょうか。
この不安定な碑は、横須賀工廠の建物が関東大震災で倒壊した後、
新たに作った新庁舎が完成した記念に建てられました。

柵越しに見えるレンガの部分は、建物に使われたのと同じ素材。
このレンガはフランス人が作ったとのことで、黒い黒曜石の部分には
フランス語で

année 1871


と書かれ、上には「明治明治辛未年建」と彫られています。



今にも倒れそうで、危険なのはこれを見ても分かりますが、
補修などの手をつけるわけにも行かず、仕方がないので
日本人なら絶対に作らないような無粋な柵を設けたように見えますね。

件の中国人記者ならこういうのを見ても

「アメリカ人が日本を軽蔑している証拠」

と嘲るのでしょうが、これはどちらかというと、

「こういう領域にはできるだけノータッチでいる方が無難」

というアメリカ海軍の配慮であるような気がします。




手前の建物はアメリカの駅などで良く見るタイプ。
向こうの立体駐車場とこの売店らしきのに挟まれて、
海軍工廠時代の庁舎は未だ健在です。



建物は100年前と同じですが、こんな人たちが闊歩することになろうとは。
海軍工廠や横須賀鎮守府の人たちがタイムスリップしてこれを見たら、
さぞかし驚くでしょうね。

それを言うなら、

「中国が日本を侵略しようとするのをアメリカの恫喝で食い止めている」

という今の世界情勢を見たら、彼らはもう一度憤死してしまうかも。


横須賀米軍基地ツァー、まだまだ続きます。


 

横須賀米軍基地ツァー5〜慶応三年のドライドック

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このツァーの前半のクライマックスとでもいうべき見学は、この
ドライドックでした。
ドライドックとは、船舶の建造、修繕、船底清掃等のため、
フネを引き入れて排水し、フナ底を露出させることの出来る施設です。

驚くべきはこの施設が慶応3年(1867)に着工し、4年後に竣工していたことです。
プロジェクトは慶応元年から始まりました。
慶応年間というのはたった3年で明治に変わったとはいえ、
日本人がまだちょんまげ結って着物を着ていた江戸時代ですからね。

大政奉還により江戸幕府は倒れ、明治新政府へと変わったわけですが、
慶応元年に横須賀製鉄所として立ち上がった施設の建造を新政府は受け継ぎ、
日本の近代化に向けてこの計画を一層強く推し進めました。


さらに驚くのは、ここには全部でドライドックが6基あるのですが、
この江戸末期から作られ始めたドライドックは、
現在も米海軍と海上自衛隊の艦艇修理に現役で使用されているということです。


このドライドックの建設は、即ち日本が近代化への一歩を踏み出した
最初の一大国家プロジェクトであったわけで、当時の世界的規模から見ても
列強に勝るとも劣らない規模のものでした。

日本は世界にデビューするなり海国としてトップを目指したのです。
そして、そういう道筋を作った人物の一人が、ここに製鉄所を作ることを
計画した小栗上野介忠順(オグリン)でした。



当時幕府は、外国から購入した故障の多い船に要する修理に頭を悩ませていました。

小栗は国内で修理をするため、早急なドライドック建設の必要性を説きましたが、
幕府は当初財政難を理由に決定を渋りました。

小栗はそれを押し切る形で了承を取り付けます。

江戸幕府の命を受けてこの事業に取りかかった小栗ですが、
その後、彼は統幕後の江戸城開城のときに徹底抗戦を唱えたため、
維新政府によって斬首されてしまいました。

つまり彼は「明治」の夜明けを見ぬまま、というかそれに反逆して死んだことになりますが、
彼が中心となった製鉄業の勃興は、他でもないその明治新政府が遺志を受け継ぎ、
日本をその後、重工業国と成していったというわけです。

なんともこれは、歴史の皮肉という他ありませんね。



ドライドックが現役であるので、当然こういった建物も、
毎日ではないでしょうが現役で使用されているのでしょう。
うーん、中が見たい。

建物のA-7、というのはAドックの7番の建物、という意味でしょうか。





まさにドライドックが現在進行形で使われていることを証明する、
この甲板。

「横須賀造修補給所ドックハウス」。

造船・修理のことを造修と称しているのですね。

自転車立てがあり得ない角度で屹立していますが、
この不便そうな自転車立てにちゃんと駐輪してあります。

場所が場所なので、放置してはいけないことに決まっているのでしょうか。 



見よこれが日本で最初にできたドライドックだ。

設計は小栗が招聘したフランス人技師ヴェルニーによって行われました。
このときなぜフランス人にこの依頼がいったかというと、なんと、
小栗が江戸幕府の勘定奉行に就任したときの目付というのが、
フランス帰りでフランス語ペラペラの栗本 鋤雲だったから、ということです。

勿論、江戸時代にフランス語がしゃべれる人がいても不思議ではないのですが、
この修行僧みたいなおじさんが「コマンタレブー?」「トレビア〜ン」
なんて言っていたことを想像するのは少し難しい気がします。




ん?
なにやら英語と日本語を使った標語が、妙な取り付け方をされた看板に。



STOP/立ち止まる

LOOK/見直す

ACT/行動する

LISTEN/聞く

REPORT/報告する

これらを「スター計画」(STAR PLAN)と称するようです。
なんと言うかごもっともすぎて何の突っ込みようもないのですが、
当たり前のことをあらたまって標語にするのが、日本の職場というものです。

ここは米軍接収後も、進駐して来た米軍にそれに相応する組織がなかったため、
戦中に従事していた従業員がそのまま米軍のために仕事を続けました。
つまり、一度も米軍に取って代わられたことがない職場なのです。

このような「標語体質」が見えるのも、一度もその本体が
「アメリカ型」にならなかったからではないでしょうか。





この全く同じ大きさに切り出された石は、
新小松石といって、真鶴から熱海にかけて産出されたものだと推定されます。

当時の工事ですから、これらの石を運んだのはおそらく牛車であったでしょう。



140年まえに造られたドックの向こうに見える現代のショッピングセンター。

この一号ドックは昭和10年〜11年に渠頭部分を延長しています。



この写真の右側手前の部分をご覧下さい。
他の部分が石積みなのに対し、コンクリート部分が見えますね?



その境目アップ。

このコンクリートで造られているのが、後に延長された部分です。
手すりのある階段の部分も、そのときに作られたように見えますね。
手すりがぐにゃりと曲がっていますが、ドック入りしていた船に潰されたのでしょうか。

つまり、




この石は、建造当時のままのものなのです。(感動)

関東大震災でもこのドックはびくともせず、液状化現象も起きませんでした。

この理由はヴェルニーのドック候補地選定や石などの素材を見る目の確かさ、そして
技術の高さに加え、利権を求めて群がる有象無象には見向きもせず、
自分の目で確かめて機械や技術者を選定する真摯な態度などにあったといわれます。




知れば知るほど、このヴェルニーという人は、すごいんですよ。

横須賀市観光局は、もっとヴェルニーの功績を讃え、
ゆる(くなくてもいいけど)キャラ化でも何でもして、郷土の、のみならず
日本の近代化の恩人として、その名前を国民に知らしめるべきだとわたしは思います。



向こう岸の様子は様変わりしていると思いますが、
おそらくこちら側は何も変わっていないはず。
ちょっと雰囲気を出してモノクロームで加工してみました。



冒頭の写真と同じものですが、これは第2ドック。
三つの中で最も大きなドライドックです。
1884年に竣工しました。

第一号が出来てから9年後、ヴェルニーは退任し帰国していたので、
やはりフランス人技師のジュウエットが、途中まで指導し、
あとの施行はここで研鑽を積んだ日本人が手がけました。
つまり初めての「日本人製」のドライドックということになります。




第2号ドックを海側から見たところ。
船が入るときはこのBと書かれた部分が上がり、海水が湛えられたのち、
修理をする船舶が入ってきます。
その後、ポンプで海水を排出し「ドライドック」にするのです。




ふと向こう岸に目をやると、今朝朝ご飯を食べたスターバックスと、
以前参加したことのある「軍港巡り」の船が見えます。
ちょうど今から客が乗り込むところですね。
ガイドさんによると、この軍港巡りができるのは日本でここだけだそうで、
非常に人気があり、週末はなかなか乗ることができないそうです。

でも、このクルーズ、とても楽しかったですよ。
前もって予約してでも、是非一度経験されることをお勧めします。
参加したこのわたしが、価値があったと太鼓判を押します。
 



これ、なんて言うのでしょう。
ウィンドラス?
船の係留をするものには間違いないと思うんですが。




ツァー参加者と、特別参加の米海軍軍人さん二人。
友好ムードを盛り上げるために米軍からお借りして来たボランティアです。

男性よりこの女性の方が階級が上なんだろうなあ、と思っていたのですが、
ツァーの道すがら二人が世間話をしているのに耳をそばだてると、
女性の方は本国で弁護士事務所で働いていたことのあるロイヤー。
水兵さんの方は、サンフランシスコ生まれで、カリフォルニアの
海軍基地から赴任して来たと言っていました。

軍人がたくさんいる上、彼らは階級が全く違うので、
どうもこの日が初対面であったらしく、

「どこの生まれ?」とか
「ここに来る前なにしてたの?」
「アメリカでわたしこんな仕事してたんだけど」

みたいな初対面同士の会話をしていました。

左の青いジャージは通訳ですが、ツァーの皆さんはシャイで、
軍人さんたちに写真を一緒に撮ることは要求しても、
話しかけたりすることがなかったので、二人は思いっきり
「時間つぶし」という感じで同行していました。



おそらく昔から変わらない石畳。
小さく書かれた数字は何を意味するのでしょうか。




確か2番ドックのブリッジを通過するときに、下に降りるためのはしごを見つけました。
どうしてこんな囲いをはしごにつけなくてはいけなかったんでしょう。
万が一ドックに船がいるときに上り下りしていて地震が起こったとき、
船体に身体を挟まれないため・・・・?かなあ。




ところで、このドック見学の間、ここにトイレ小屋?があり、
トイレ休憩となったのですが、この仕様がアメリカ式。
つまり、個室のドアが下部30センチくらい開いている、あれだったんですよ。

このときに利用していた女性陣が、
「ドアの下が開いている!」
と結構盛り上がっておられました。
アメリカでは公衆のトイレは全てこれなので、わたしは何とも思わず、
皆がそう言っているのを聞いて「ああそうだっけ」と思いだしたくらいでしたが。




お?
海自専用の建物あり。
すわ、とばかりに一応写真を撮ってみましたが、
"BY Y-RSF"の意味が分かりません。

もしかして・・By yourself? 




三つ並ぶここのドライドックで一番小さな第3号ドック。

実は、こちらの方が第2号より10年も先、1874年に出来ています。
第1号から左に並んでいる順番に番号をつけたため、これが第3号と名付けられたんですね。
まだこのときはヴェルニーがおり、彼が設計を手がけました。

この一番小さなドックでも、当時海水を排水するのに4時間を要したそうです。
現在のポンプは、この第3号ドックで1時間半で排水を完了してしまうそうですが、
現在の技術でどんなに急いでもそれだけかかるのなら、
130年前の4時間って案外凄くありませんか?






Wikipediaから拝借した航空写真。
一番下に見える第1号ドックはドライのまま。
第2号ドックには船舶が入れられ、ドライ、つまり現在修理中です。
一番左にあるのが小さな第3号ドックでここにも小さな船が入っていますが、
今からドライにするのか、それとも出て行くのか、海水が満たされた状態です。

これを見て初めて気づいたことがあります。

この見学ツァーはこのドックを見るのが大きなイベントなのですが、
少なくともここにフネがドック入りしている時には、
船舶の国籍日米問わず、一般人が至近距離でそれを見ることは出来ないはず。

ツァーが定期的に行われないのも、この第1〜3号ドック入りのスケジュールを
考慮して日程を設定しないといけないからだったんですね。

現にこの日も、一つのドックには艦艇が修理中だったため、
そこだけは見学できないということになりました。





というわけで、ひょんなことからこのツァーの企画における
関係者各位の御苦労のようなものが垣間見えた気がします。

これだけの価値あるツァーを、ボランティアだけで無料で運営してくれるなんて、
横須賀市観光協会と米海軍にあらためて、多謝。







 

岩国米海兵隊基地3〜「白人航空隊」とトガリネズミの謎(NHK問題少々)

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海兵隊の戦闘機ドライバーであるTACネーム”ハップ”ことブラッドに、
岩国海兵隊基地を案内してもらっております。

士官用のバーの壁を埋め尽くすほど掲げられた部隊章。
というか、このアメリカ軍特有の彫刻されたこの看板ですが、
正式名称は何なのでしょう。
ご存知の方おられますか?
相当する単語がどう検索しても出てこないので、先日から困っています。

今日もこの彫刻されたボードの話に終始しそうなので。

ところで、冒頭画像、凄いでしょう。



一富士戦鷹三なすび。
禁止マークが空母らしきシルエットに被せられてるのはなぜ。

戦鷹ってボード下部の「ウォーホークス」の直訳なんですね。

ところで昔、戦闘機操縦者のことを、日本軍というのは「鷲」と称したじゃないですか。
「荒鷲」とか「海鷲」とか、「陸鷲」とか。

そのなかでも学徒飛行士官のことを「学鷲」(がくわし)なんて言いましたけど、
なんとも言えず無理矢理な感じの言葉ですよね。

この「戦鷹」も「せんたか」?
と読めば読めないこともありませんが、見た目はともかく妙な語感です。
アメリカ人だから別に語感はどうでもいいのだと思いますが。



 

前にも書いたように、海兵隊のシンボルアニマルはブルドッグ。
そのブルドッグが甲冑の兜を被っています。
ブルドッグの上下には「サムライ」「ブシドー」。
犬の足元の白い部分には、分かりにくいですが「侍」と漢字が書かれています。

そして、下の標語ですが・・・なんて訳しましょう。

「チクショー!俺らイケてるぜ」・・・とか。

イケてるのはわかったけど、たぶんこれ、飾りの飛行機が取れちゃったんですね。

 

右から二番目のが、有名な「レッドデビル」。 
レッドデビルズのトレードマークですね。


"アメリカ海兵隊岩国基地は2012年3月17日に、
第232海兵戦闘攻撃飛行隊(VMFA-232)レッド・デビルズが、
カリフォルニア州ミラマー海兵航空基地から岩国に到着したと発表しました。
VMFA-232はF/A-18Cホーネットを約10機装備する約200人の部隊です。"


というニュース記事が見つかりましたが、赴任する航空隊って何年かで交代するんですね。 
このボードによると、その10年前にもレッドデビルズはここ岩国基地に赴任していたようです。


 


これはほかでもないブラッドの部隊であるVMFA(AW)-242。
もう14年前の部隊なので、もちろんブラッドの名前はありません。
その頃、現在28歳のブラッドはまだアメリカ南部に住む中学生で、
「将来はエンジニアになりたい」と夢見る優等生だったそうです。

このボードの仕様は、「海中に投下された瞬間の爆弾」かな。





CH-46シーナイトの部隊、HMH263。
ヘリ部隊のボードで、こんな凝ったのはこれだけでした。

この部隊なんですが、
「SHITPANTS」なんてとんでもないTACネームをつけられてしまった人がいます。
 これは酷い。
隊長は「ハリウッド」がTACネームで、ファミリーネームが「シズル」(SHIZURU)。 
もしかしたら日系アメリカ人かもしれません。

そこでふと気になったのですが、今回ここで海兵隊ドライバーの皆さんや、
あるいは過去のチームの写真などを見ると、メンバーは見事に全員コケイジャン、
つまり白人男性(海兵隊のパイロットには女性もいますが彼女も)なんですね。
名前を見るとアングロサクソンとイタリア系、ドイツ系でほとんどを占めています。

たとえば



この十字軍をモチーフにした力作の中隊ですが、

パワーズ、ベル、ゲイトリー、グリフィス、ジョンソン、キング、ワッツ、マッカーシー。

このような典型的なアングロサクソンネームの中に、

カウファー、ショーンベック、ハウツ、のドイツ系、
オルセンの北欧系、
アンドラスのスペイン系(メキシコではないと思われる)

と、見事なまでに白人系国らしい名前が並びます。
おかしいなあ。
「アイアンマン」とか、アフリカ系が白人部隊の隊長になっている、
という映画はいくつも観たような気がするんだけど・・・・(棒) 

差別とかなんとかいうより、はっきりと「住み分け」って感じですね。
「アメリカに制度上人種差別はない」
という建前でも、有色人種がルーツのアメリカ人があえてここに入ってくることがない、
という厳密なラインが引かれている、といった感じ。

閉め出している、のではなく、最初から皆「入ってこない」と言った方がいいかな。


ここで、少し恒例の時事問題を語ってしまうわけですが(笑)

少数民族にごね得の特権を与え、それを「逆差別だ」と糾弾すると、
メディアがこぞってそれをレイシズムだと非難する昨今の我が国ですが、
白人国家というのは最初から可能と不可能がはっきりして、
ここから先は絶対にダメ、というオフリミットの「聖域」があるんですよね。

どんなに運動神経が良い黒人でも水泳選手にはならない、とか。

ヨーロッパだと乗馬競技にアフリカ系はいはい、とか。



先日の国会でNHKの経営体質や偏向報道が訴状に上がり、維新の会の議員が、
外国籍を持つ職員がNHKには何人いるのか、と訪ねたところ、NHKは

「把握していません」

と答えたのですが、たちまち三宅議員に

「そんなわけあるか!」

と一喝されていましたよね。
帰化した職員であっても違う国民の立場からはその報道姿勢に影響が出るのは当然で、
どこの国の放送局も、通常職員には国籍条項が設けられているはずです。

が、日本ではそうではない。

外国籍を持ったままの人間が日本の政治や歴史番組に関わることができるなんて、
そんな異常なことが許されているばかりか、その実態を糊塗しようとする公共放送局。
これははっきりと異常事態であり、国会でこれが取り上げられたことは、
画期的な第一歩ではなかったかとわたしは思っています。

先日「JAPANデビュー問題」について一項を設けましたが、
あの裁判が敗訴したのと同時にNHKは、

「テレビの有る無しに関わらず全国民から視聴料を徴収する」

という盗人猛々しいとでも言うべき傲岸な方針を提出した、
というニュースを耳にしました。

三宅議員の

「不払いしているのは払えないとか勿体ないからではなく、
NHKのその体質や偏向報道に対し『払う価値がない』『払いたくない』
と考えている人がほとんどだと思いますよ」

という言葉に、深く頷いたわたしです。
国民全員から課金?
よくぞヌケヌケとそんなことを言えたものだ。

三宅議員が言うように、NHKは一度解体して職員を全員日本人にしてから出直すべきです。

 

相変わらず、ちょっとしたネタから時事問題に流れ込んでしまう当ブログですが、
次に参ります。

凝っているような手抜きのような。
槍に太平洋地域の同盟国と部隊旗をつけただけ。




戦闘機のノーズアートのノリですね。
この夏、あちこちの航空博物館でこのノーズアートをもつ航空機を観ました。
いちど、ノーズアート展をやる予定です。

で、セクシーポーズの女性が描かれたノーズアートが多いのですが、
どれもこれも、酷いんだなこれが。

もう少し絵心のある人がせめて一人くらい部隊にいなかったのだろうか、
と絶望的になるようなブサイクな女の人ばかりで、
こんなので搭乗員たちは「やる気」が無くなったりしなかったんだろうか、
と心配になるくらいです。



アップにするとさらに酷い(笑)
「セクシーさ」だけはなんとか伝わってくる気がしないでもありませんが。




テーブルにこの部隊記念を彫り込んだ例を前回お見せしましたが、これを見て驚け。
なんとドアに直接彫ってしまいました。

超大作なんですが、この時には一体何を表すのか全く分かりませんでした。
この写真をまじまじみてもわかりません。

「これ、どこの地図だと思う?」

頭が柔らかく発想のフレキシブルなはずの息子に聞いてみると、



「こうじゃない?」

おおおお、さすがはダテに若くはない。
やっぱり若いって素晴らしいですね。
彼は、これが環太平洋の地図であることを南アメリカの形からわかったそうです。

で、これ、例の「ブラックシープ」の部隊記念ボードなのですが、
地図にいろんなことが書かれてあって、



SOMEDAY WE HOPE TO SEE HERE
「いつの日かここを見たい」

いやだからここあんたらの基地ですから。

VMA-214航空隊、通称ブラックシープの本拠基地はアリゾナ。
矢印はここを指しています。
何のことはない彼らの故郷なのですが、「帰りたい」を
こういう風に言うのがマリーンコーア流。
 
ONE OR TWO DAYS HERE
「一日か二日ここで」

はい、ここはハワイですね。
ハワイでの休暇。一日二日じゃすまない気もしますが、
彼らの言う「一日二日」は、ここに海軍基地があることを指しています。 
 

HOPEFULLY WAKE HERE 
「ここで起きられたらいいな」

これ、意味が分からなかったんですよ。
で、その辺りをグーグルマップで探してみたところ。

WAKE ISLANDが・・・・。

ここを旧日本軍は「ウェーキ島」と言っていたようですね。
大東亜戦争中、ここは日本軍が占領していたのはご存知ですか?
そのときの名前は「大鳥島」となっていました。

あまり知らされていませんが、実はこの「ウェーク島の戦い」で、
日本軍は勝利し、この島を終戦まで統治していました。

ここで海兵隊の彼らがわざわざここをポイントしたのは、
ここで海兵隊が日本軍と戦ったからだろうと思いますが、
ここに駐留していた日本軍が補給を絶たれどんな悲惨な目にあったか、
それを考えると、日本人に取っては実に暗い気持ちにさせられる場所です。

ウェーク島の戦い




WE SAW IWO JIMA HERE
「ここで硫黄島を見た」

はいそうですね。
我々日本人はよく知ってます。
「父親たちの星条旗」にも描かれた、「海兵隊の6人」は、
あの戦闘のみならず第二次世界大戦の最も有名な写真となりました。 
 

TOO MUCH SOREX HERE(沖縄)

A LITTLE HERE(変だけどたぶん九州)

これは悩みましたよ。

なんでこんなものを解明するのにこんなに悩むのかって話ですが。
そもそも、写真が鮮明でないため、これがSODEXなのかSOREXなのかわからないのですが、
もしSOREXで合っているとすれば、これは「トガリネズミ」。



かわいいじゃないかおい。
ドアのところに置いておいて、靴の泥を落とすブラシみたい。

たしかに沖縄にトガリネズミ、いるらしいですけど、
なぜここにわざわざ書くことかわかりません。
考えられるのは、沖縄には海兵隊の基地があるので、これが何らかの隠語で、
それを指しているということ。

そして、なぜか、九州を指して

「ここに少しいる」

 これはもしかしたら佐世保の海軍基地のこと?
 トガリネズミが何の隠語か、ご存知の方おられたら教えて下さい。

あ、ちなみにこのトガリネズミが、お母さんを先頭にして、
小ネズミが連なって歩く「キャラバン 」は萌え死に必至っす。

JAPANESE WILD ANIMALS←ご参考までに

そして、

NOT ENOUGH HERE
「ここに居足りない」

どこに居足りないかというと・・・グアム。
グアムにもあるんですよね。マリーンコーアベース。

ブラッドはこの直前までグアムに行っていたらしいですが、
家族同伴が出来ないので、奥さんは岩国でお留守番。

「ちょっとしたリゾート地だから一緒に行けたら良かったのにね」

そんなことを言っていましたが、
他のマリーンコーアたちもここでは「長居したい」と思うようです。




その他、ドアに彫り込んでしまった大作にはこんなのもありました。







昔のボードは、実に地味です。
だんだん仕様がエスカレートして来てるんですね。



ボードでは飽き足りなくて?鳥居のレプリカを利用した中隊も。
だからそこは看板を掛けるところではないと何度言ったら(略)

貯金箱のようにお金を入れるスリットがないかと探してしまいそうです。




じゃーん。

これを見ていただきたかった。
これは、海上自衛隊製作の、第8航空隊の寄贈。

ドイタカシ、コウシンスミオ、ヒラタアキフミ、
クラモトケンイチ、フジタミチカズ、

これらの歴代司令(コマンディング・オフィサー)の名が書かれています。
(鷲さん、もしかしたらどなたかご存知ですか?)

飾るところが無くなって、床の近くにかけられているのが残念な感じではありましたが、



まあ、こんなことになってしまっていますし、年々増えていくわけなので、
飾る場所に文句は言えないかもしれませんが。

そもそもこの岩国基地の海兵隊には、第1海兵航空団の第12海兵航空群が駐留していますが、
ブラッドの部隊であるVMFA (AW)-242以外の部隊は、
基本的に6ヶ月のローテーション配備が行われているため、
時期によって岩国基地に所属する飛行隊が変わっていくわけです。

で、その駐留ごとに一枚ずつこの看板が増えて行く・・・・と。 



さて、ここを出て、わたしたちはいよいよハンガーに。
ブラッドの愛機であるF/A−18戦闘機を実際に見るときがやって来たのです。

続く。

 

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