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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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岩国海兵隊基地〜F/A-18レガシーホーネット

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岩国の海兵隊基地にご招待いただいたのは、
F/A−18ドライバーのブラッド(仮名)を夫にもつ、TOと同じ大学を卒業した妻、
アンジー(仮名)のお誘いによるものです。

見学者を案内して戦闘機を見せる、というのは、 自衛隊ではおそらく禁止でしょう。
しかし、それは自衛官から一般人に対する「個人的な利益供与」
を禁じるという観点からの規則になっていると思われます。

しかし全ての機体は国民の税金により賄われているわけですから、
日本国民である限り、わたしたちにはその実物を見る「権利」があるわけで、
自衛隊は大変な警備体制を敷き、全基地隊員を動員してでも、
定期的に航空祭などを開催し、広報活動として装備を公開します。

しかし、日本に展開しているアメリカ軍の軍人が、
日本人にこのような個人的便宜をはかることは果たして許されているのか?


今回の写真をアップするにあたって、まず考えたのがそれです。

インターネットを当たると、このホーネットの写真、山ほど出てきますし、
過去行われた岩国基地のフレンドシップデーなどのものもあり、
取りあえず機体の写真をアップすること自体はまずいことではなさそうです。

何事にも慎重なTOは
「ブラッドがもしこっそり見せてくれていたのだったら、立場が悪くなる」
と言うのですが、建前のないアメリカで、もし本当にダメなら、
最初から一般の日本人に基地を案内することからして禁止になるはずです。

そして今回、ブラッドは最初にわたしにこう言いました。

「撮ってはダメなところはそういうから、撮らないでね」

因みに彼が「ここはダメ」と言ったところは、

●整備のために機体から外されたエンジン。
周りをメカニックが囲んでいた

●ハンガーに入る経路

●シュミレータ棟の出入り口、その外観

●シュミレータ棟内部全部、勿論シュミレータは厳禁

●滑走路に駐機したオスプレイ(これはアンジーが言った)

以上。
「撮っていいよ」と言ったところは、つまり「機密ではない」と。
このように解釈しました。



そもそも、「絶対に秘密」という部分は、
このように立ち入り禁止になっているわけで。

これ、今更ながらに見れば見るほど怖いですね。
ここには一体何があるのか。
そして、もし入っていったら、どうなるのか。
スパイ疑惑で尋問はまず間違いないでしょう。



という殺伐とした?話題は置いておいて、
前回一項を割いてお送りした「部隊記念ボード」シリーズで、
ご紹介しそびれたハートウォーミングなこのボードをご覧下さい。

「俺たちイケてるぜ」感を出そうとするあまり、ついつい
中二っぽい方向へと突き進んでいる感のある最近の部隊章ですが、
そういう傾向に背を向けて、この部隊は・・・。

まるで黒板のような・・・って、これまさに黒板なんですね。
なんてシャレが効いてるのこのスコードロンは。

しかしずらりと並ぶ「生徒たち」の名前には・・・・
ん?

TACネームがない。

さらによくチェックすると、書かれた名前が、まず教頭先生が
「シャノン」。
女性ですね。

生徒たちは

ワンダ、クレア、ナンシー、キム、ローリ、ゲイル、ダイアン・・・。
お、「ヒデコ ナガイ」。

男性もいますが、ほとんどが女性です。
そこで真ん中の「部隊章」を見ると、

DODEA

Department Of Diffence つまり、国防総省がやっている
Education Activity、教育プログラム。すなわち
在外米軍の家族の教育のために基地にある学校。

シャレじゃなくて本当に学校の先生だったんですね。
失礼しました。



バーの片隅にあった不思議なゲームボード。
「これはなに?」と聞くと、実際にやってみせてくれました。
これはすなわち「ミニカーリングボード」。

向こうからカーリングを投げ、白い砂を敷いたボードの上を滑らせ、
横にあるブラシで滑走面を擦ってその行き先を調整します。
日本なら卓球テーブルを置くところですか。

そしてゲーム機と壁に挟まれて、やはり何枚もの部隊章が・・・。 



建物を出るときに通り抜けたボールルームには、
ハロウィーンパーティの準備らしき飾りつけが。



わたしたちはずっと全員がアンジーの車にのり、
ブラッドは自分の車で、二台連なってこのあと移動しました。

どちらも国産車で、アンジーの説明によると、こういう車は、
赴任が終わりどこかに移動が決まると、新任の誰か、知り合いなどに売っていくので、
いずれも何万円単位で手に入れたのだと言うことです。

そう言えば我々がアメリカにいたときも、その年に卒業して日本に帰る人から
安く譲り受けた車に乗っていました。
そのトヨタカムリには、どでかいへこみ傷があって、前の持ち主は、

「これはわたしたちがつけた傷ではない。前年度の誰それだ」

と言い訳していましたっけ。

このときも岩国は雨が降ったり止んだりで、わたしたちは傘をさしましたが、
ブラッドはご覧のように軍人ですから傘無しです。

「制服じゃないときくらいさせばいいのに、ささないの」

とアンジーは呆れていました。
でも、軍人に限らずアメリカ人は、
よっぽど土砂降りでないとささない人が多いんですよ。

雨傘でもそうなのですから、日本女性なら夏の必需品である日傘など、
きっとものすごく奇異な目で見られるでしょう。



決定的瞬間。

と言うほどのものでもありませんが、
ハンガーに続く回転ドアの向こうから出て来た女性下士官が、
士官である(大尉です)ブラッドに敬礼した瞬間。
アンジーの陰に隠れて見えませんが、ブラッドも敬礼しています。

このドアは、ご覧のようにIDカードを指したあと、
一回転しか動かないようになっています。
つまり、カードを持っている本人しか入れない仕組み。

こう言うときどうするかというと、ブラッドが一回カード挿入、
一人突入、またカード挿入、もう一人突入、という具合に
人数の分だけその作業を繰り返して全員を中に入れてくれました。



全員が中に入ったので、最後に自分のためにカードを入れるブラッド。

一旦入った人間がなんども繰り返しカードを使う、
ということに関しては、問題はないようです。

そして、このゲートをくぐり終わってから、まず最初にブラッドの

「しばらく写真禁止ね」

という注意がありました。
そして、ハンガーの中の確か4機のホーネットを見せてもらい、
説明を受け、むき出しのエンジンを撮らないようにもう一度言われてから、

「こっちから向こうのは撮ってもいいよ」

言われて撮ったのが冒頭の写真。
因みに、うちの(軍)モノを知らないTOは、わたしに

「スーパーホーネットなんだって」

と前もって言っていたのですが、これはスーパーホーネット、
つまりライノといわれるF/A-18E/Fはなく、F/A-18の、
いわゆる「レガシーホーネット」です。

余談ですが、この人は、一応米国の、ちっとは人に知られた大学を出ているくせに
ときおりとんでもない単語を間違えたり知らなかったりします。

ましてや軍事関係の、すなわちわたしの詳しい分野においては、日本語であっても
時々とんでもないことを言い出して驚かせてくれるのですが、 
アンジーがこの岩国行きについて彼とやりとりをしていて、

「彼のスコードロンは11月には別の基地に行ってしまうので」

という一文を書いて来たところ、それをわたしに伝えるときに

「アンジーの旦那さんの飛行機って、ホーネット以外にも別の愛称があるみたいよ」

(しかも覚えていないし)と言ったくらいです。

「あのー・・・スコードロンって、飛行中隊のことなんですけど」
「初めて見たもんこんな単語」

うーん、確かに 

squadron

という単語は、航空機の愛称と言われればそんな感じがしなくもないが・・・。
メガロドンの烏賊バージョンのことだと言われても信じるかもしれないなこの人は。


さて、そんな「一部」モノを知らないわたしの連れ合いの話は置いておいて、
スーパーホーネットと、レガシーホーネット、どこで見分けるのか。



「一緒に撮ろうよ」

と、見かけによらず愛想のいいブラッドが言ったので一緒に撮ってもらった写真。
携帯の待ち受け画面にしたい写真ですね。しませんけど。
急に言われたのでマフラーがほどけてだらんとしているままです。

ブラッド大尉とエリス中尉はともかく、そのうしろ、
ホーネットのエアインテークの形を見れば、これが「スーパー」ではなく
レガシーの方である証拠に、楕円をしているのがわかります。

この変更は、ステルス性を高めるためなのだそうです。

あと、ライノとレガシーの違いは機体の大きさ。
全長が17.07mから18.38mへと1メートルも延長されたほか、
レドームや翼も一回り大きくなっています。

ここにある機体は2000年に海兵隊のものとなり、以降は生産されていず、
「最後のレガシー」ということになるのでしょうか。



複座なので、このタイプはF/A-18Dといいます。
この、全体のバランスの割に翼が横に張っていず、
この角度から見ると凄く翼が短く見えるのは艦載機だからだと思われます。

複座というのはパイロットと後席にもう一人が乗務します。
現代の戦闘機は仕事が多いので、二人1チームで役割を分担するのです。

映画「エネミーライン」で、スーパーホーネットが地対空ミサイルを避ける際、
後ろの航法士が操縦士に指示を与えるシーンがありましたね。


ここで相変わらずどうでもいいことが気になるエリス中尉、ブラッドに、

「ペアを組むのはいつも同じ人?」
「いや、いつも違うよ」
「こいつだけは合わない、とか嫌な奴、とかいる?」
「いないよ〜(笑)」



機体にはこのようにパイロットの名前とTACネームが書かれます。
ベイルアウトのための装置ですが、ブラッドによると、

「ベイルアウトするときには、同時に熱線でコクピットが爆破されるから、
脱出そのもので失敗することは絶対にないけど、
そもそもベイルアウトするということはもう終わり(That's it)のとき」

終わり、つまり脊椎損傷とか・・・どちらにしても、一生に一度あるくらい。
なぜならそのあとは死ぬか動けなくなるかってくらいのことだから、とのこと。


そう言えば昔、隣国空軍の少将だかなんだかが、自分で脱出レバーを引いて、
自分自身をラストチャンスのときに打ち上げた事件がありましたが、
今にして思えばよくこの人無事だったですねえ。

こんなことをしでかしておいてその後現役で元気に仕事をするなんて、
(しかも学校の校長だったらしいので、士官に訓示をしたりとか)
そんな恥をさらすくらいなら、軍人としてこのときに再起不能になっていた方が
ずっとましだったのではないか?

と人ごとだと思って簡単に言ってみる。



エアインテークの専用カバーには、
部隊の印コウモリ君と稲妻のワンポイント入り。

カバーをつけたまま飛んだりしたら、どうなるかはわかりませんが、
少なくともエアーがインテークしないわけだから(当たり前だ)、
たぶん飛行機は落ちると思います。

というわけで、飛ぶ前に、というかエンジン始動前に絶対これ外せよ、
という警告を、目立つ赤いリボンに書いてつけてあります。

こんなもの忘れる人はいないだろう、と思うでしょうけど、
案外人はとんでもないミスをしてしまうものですからね。

ピトー管のマスキングを外すのを忘れたまま離陸した民間機が
それが原因で自分の機位を見失い、墜落した、という事故もありましたし。
(アエロペルー機墜落事故)



で、またまたいらんことが気になるエリス中尉、
このペイントを見て

「どうしてこんなに薄い色なの?
やっぱり相手から識別し難いように?」

と聞いたところ、意外な返事が。

「灰色のペンキは安いんだよ」

「灰色のペンキは安いんだよ」

「灰色のペンキは安いんだよ」



・・・・本当か。

米軍よりもっとお金の使えない(はずの)自衛隊機が、
赤いペンキで日の丸を描いているのに?

この話を音楽まつりの日に同行していただいた元自衛官にお聞きすると

「それは、嘘ですね」(きっぱり)

そうなの?
全く真面目な顔で言っていたけどなあブラッド。
からかわれたの?わたし。

やっぱりこれはわたしの予想通り、ステルス性のためなんでしょうね。


あと、機体に乗り降りするはしご。
写真は撮れなかったのですが、
コクピットの外にはしごを出してぐいっと引っ張ってのばすだけ。

科学の粋を集めた戦闘機(レガシーだけど)でも、
どうでもいいところは思いっきり原始的でした。




エンジンの周りにいたメカニックの一番偉い人(士官)に、
ブラッドが頼んでシャッターを押してもらいました。

ホーネットの鼻先が写ってないけど、まあいいか。



続く。




 

 


特定秘密保護法案成立〜日の丸のない反対デモ

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2013年12月7日未明、特別秘密保護法案が成立しました。

この法案にはメディアと民主党、そして「市民」が大反対を唱え、
絶対阻止を合い言葉に深夜というのに国会の周りを取り囲むなどの、

「かつて来た道」

が見られました。
かつて来たというのは、つまり古くは自衛隊の設立、日米安保に始まって、
成田空港や自衛隊の海外派遣などで反対を唱えたのと全く同じ、
「サヨクと野党、そして左派メディアによる狂乱の反対ぶり」
が再び見られたということです。

このとき国会を取り囲んだ「市民」には、団塊世代が多かったということですが、
冒頭写真の籏に見られる今回の反対デモの

「革マル」「民青同盟」(この若い人たちはバイトであるという噂もある)

の一員としてかつて安保闘争に参加し、

「就職が決まって髪を切って来たときもう若くないよと君に言い訳」

した人たちが、ノスタルジーにかられて

「いちご白書をもう一度」

とばかりに最後の力を振り絞っている、の図、かも知れません。


しかし、今回は報道の偏向ぶりが一段と酷かったですね。
ほとんど「情報操作」のレベルで、各メディアは一斉にこの法案に反対していました。

産經新聞、読売新聞以外の、大手では朝日毎日、そして
それと主旨を同じくする地方新聞、そしてエネーチケーを筆頭とする
在京テレビ局の報道からこの法案についてを知ったとしたら、
おそらく、彼らの印象誘導によって、まるでこの法案によって国民の知る権利が失われ、
目と耳を塞がれる暗黒の社会へと突入するかのように思ってしまい、
それゆえ気分的反対派になっている人がいるかもしれません。

今日はそんな方にこそお読みいただきたい。


以下、中日新聞の記事からの抜粋をお読み下さい。

正しい情報を与えられない国民は、正しい判断ができないことをよく示している。
この状態は日露戦争にとどまらず、太平洋戦争に至るまで引きずる。(略)

個人個人が政治や社会を動かしていくために、「表現の自由」が定められている。
国民が正しい判断をするには、正しい情報を得る「知る権利」が欠かせない。
報道もその一翼を担う。

「報道は民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、
重要な判断の資料を提供し、いわゆる知る権利に奉仕するものである」
と、最高裁判例にある。

特定秘密保護法は、この原理の基本である「知る権利」に絶対的にマイナスに作用する。
いわゆる「沖縄密約」など、政府の違法秘密も隠蔽(いんぺい)できる。
秘密にしておきたい「核密約」などの情報も意図して「特定秘密」に指定し、秘匿化できる。

「安全保障上の支障」というだけで、国会への情報提供もブロックされる。
司法権の監視も受けない。
判断権はすべて行政府が握る仕組みは、三権分立からの逸脱に等しい。
まさに行政権に白紙委任する“装置”である。
重要情報を独占する官僚制はやがて独善に陥り、暴走する。

中国や北朝鮮などを眺めても、正しい情報が伝えられない国民が悲劇的であるのは明らかだ。
言論統制が敷かれた戦前の日本も同じ状態だった。

罰せずとも検挙するだけで効力は抜群だった。
今回の法律も特定秘密に接近しようとしただけで処罰の規定がある。
「話し合い」が共謀に当たるのだ。
容疑がかかるだけで、家宅捜索を受け、パソコンなどが広く押収されうる。

しかも、「主義主張を国家や他人に強要する」活動が、テロリズムと解せられる条文だ。
どのように法律が運用されていくのか、暗然とするばかりだ。

国連の人権高等弁務官が
「表現の自由への適切な保護規定を設けずに法整備を急ぐべきでない」
と懸念を表明したのに、政府は無視した。
国内の研究者や文化人らの反対にも聞く耳を持たない。

安倍首相は
「民衆の強硬な意見を背景にして有利に交渉をすすめようとするのは、
外交ではよくつかわれる手法だ」とも書いた。

国家は民衆の声すら自在に操る力を持つわけだ。
国民主権が空洞化する懸念を持つ。

  これだけ読むと、まことにごもっともな「暗黒法案」への懸念に見え、
ことに権威たる新聞が冷静に判断することを呼びかけているように
思う読者はおそらくたくさんいるのでしょう。

しかし、ちょっと待って欲しい(笑)。

これ、戦後の民主主義の「権利」についてを述べ、その権利が脅かされることだけを
センセーショナルな脅し文句で煽っていますが、たとえば

「国家は民衆の声すら自在に操る力を持つわけだ」

民衆の声を自在に繰ることができるのは・・・・・それ、まさに国家というより

メディアのことなんじゃないんですか?

この記者は「国家」と「民衆」を相対するものとしてしか認めていないわけですが、
そもそも日本は民主主義国家で、選挙制度によって政府を選ぶことができ、
施政を担う政府というものが、民衆によって選ばれている、という大前提を
全く無視して物事を語っています。

そして、決定的に説得力が無いのは、この麗々しい文章の中に、

一つもこの法案に対する具体的な敷衍がなく、「特殊な例」を「誰にも起こりうること」
と勘違いさせるギミックに満ち満ちていること。

「話し合いが共謀になるのだ」

って、なんなんですかこれは・・・。
昔、オランダ統治下のインドネシアでは、300年というもの、道ばたで
三人以上のインドネシア人が話をするのも禁じていましたが、
それと同じことをこの法案はしようとしているとでも言うのでしょうか。

だいたい、今回のこの法案についている「特定」という言葉について、
メディアは意図的に触れず、それが誰にでも適応されると意図的にミスリードしています。


さて、それでは、エリス中尉はこの法案についてどう考えるのか、
とお尋ねがあったような気がしますので明言しておくと、
わたしはこの法案は、戦後になってほとんど初めて生まれた、
日本をまともな国にするための画期的なものだと思っています。

先進国では当たり前になっている、国家機密に関する情報の漏洩に対する罰則が
日本には今まで存在していなかったのですよ?
それができた、ということなのですから。

国の中枢に入り込んで、情報を流出させる可能性のある役職に、
思想信条、バックグラウンド、国籍、帰化か否か、そして経歴、
このようなことが全く問われぬまま就くことができていた、
今までの日本が異常だっただけのことです。

今回、この法案がいかに「人権を脅かすものであるか」を、各新聞は、
知恵を絞って、愚民にもわかるように()具体的な記事にしてくれています。

その例をご紹介しましょう。
前もって言っておきますが、飲食しながら読まないで下さいね、
あまりのあまりさに吹き出してしまうかもしれませんから。


 ★【静岡】特定秘密とは隣り合わせ 自衛官の胸騒ぎ 

(中略) 

◆法律施行なら 日常会話にも影響 

特定秘密保護法案が成立すると、秘密に携わる公務員の一家は、
日常会話にもこれまで以上に神経をすり減らすことになる。

例えばこうだ。
四歳の息子と妻、そして自衛官の夫の三人家族はつつましやかに暮らしていた。 

 夫  「パパは明日から出張に行ってくるからね。いい子にしているんだよ」 
 息子 「えっ。パパ、明日からいないの? どこ行くの?」 
 夫  「ごめんな。言えないんだ。お土産もこれからはないから」 
 息子 「なんで?」 
 夫  「だって、お土産で行った先が分かってしまうだろ」 
 妻  「あなた、出張先も言えないの? 前は教えてくれたじゃない。
     本当に出張なの? まさか…」 

隠されたショックと両親の険悪な雰囲気に息子が泣きだした。 
仕方なく自衛官の夫は言う。

「パパはね、明日からハワイ沖でアメリカ人のお友達とおしゃべりをしてくるんだ」− 

ハワイ沖での任務が特定秘密に指定されていた場合、
家族が誰かに話したら処罰対象になる可能性がある。 

国会審議の中で、森雅子担当相は

「特別管理秘密を取り扱うことができる職員数は
警察庁、外務省、防衛省でおよそ六万四千五百人」

と答弁。

「都道府県警察職員のほか、契約業者も対象になる」と述べている。 

多くの公務員とその家族の間では、これまで普通だった会話さえ、
躊躇(ちゅうちょ)することになりかねない。 

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20131204/CK2013120402000091.html 


これをお読みの自衛官、特に海上自衛隊の皆様、ご感想はいかがなものでしょうか。
おへそがお茶を沸かした方、思わず

「ふざけるな、こんな自衛官の妻がいるか」
「何がアメリカのお友達とハワイでおしゃべりしてくるだそんなこと子供が知りたがるかアホ」

と毒づいた方、呆れて開いた口が塞がらず地面についてしまった方・・・。
一般の企業にお務めの方、公務員、そして医師弁護士のかたがたは

「この中日新聞の記者は『守秘義務』という言葉を聞いたことがないのだろうか」

と、記者の学歴や出自国籍までもを疑ってしまうかもしれませんね。

この暗黒法案が施行されたら、自衛官は家庭不和を避けるために
あえて守秘義務を漏らし、それがばれて犯罪者となる、
一家の主は職を失い家庭は崩壊。
妻は夜の仕事、子供はグレて犯罪グループへと・・・、

ってか?
中日新聞さんたら、いつもは自衛隊に冷淡なのにこんなときだけ妙に優しいのね。涙が出ちゃう。


さあ、次参ります。
今回の法案可決を最も「恐れていた」と見え、その発狂ぶりは度を超していた、
朝日新聞。 

朝日の記事をイラスト付きで今日の昼は見られたのですが、見られなくなっているので、
それを揶揄した(って言ってもいいよね)産經新聞の記事を。


大まじめに書かれた新聞記事を読んで笑う、
というのは天に唾するようなものだが、久々に大いに笑わせていただいた。 
朝日新聞(6日付)に載った「規制の鎖 あなたにも」と題する
特定秘密保護法の危険性を、イラスト入りで解説した記事にである。

▼防衛産業で働く男が、「あまり知られていない」発射に失敗して
海に落ちた北朝鮮ミサイルの軌道について 同窓会で話し、
その内容を同窓生のA子がブログにアップしたら、
捜査機関から取り調べを受け「有罪」になった、 というお話。

怖い話だが、実際にはこんなケースはあり得ない。 
(略)
▼第一、抄子の同級生や知人に「防衛産業で働く男」が何人かいるが、
飲み会で機密をペラペラとしゃべる者は誰もいない。
危険性を熱く語るのも結構だが、大げさなつくり話は、読者を鼻白ませるだけである。 

▼むろんこの法律は、小欄も書いてきたように、もろ手を挙げて賛成できる代物ではない。
重要法だという割に 担当大臣は危なっかしく、
毎日のように急ごしらえの「新機関」が登場する始末だ。 

▼それでも賛成せざるを得ないのは、あの国やこの国のおかげで
東アジア情勢が急激に緊迫しているからである。
情報の「官僚独占」を許さない仕組みや不十分な点は、次の国会以降、どんどん改めればよい。
付け 加えると、この法律が施行されて畏縮するような記者は小紙にはいない。

ちょっと格好良すぎるが。 


産經新聞抄子氏、最後で「なんちゃって」と照れてます。
後半の賛成理由にはわたしも同感で、法案の不備は国会で改めればよろしい。
そのための国会であり、そのために選挙があるのですから。

朝日も中日も「いかに酷い法案であるか」を説明する段になって、
それまでの抽象的で高邁な理想論からはがくっとレベルを下げて、
この法案が恐ろしいものだという説得力が無くなってしまっています。

逆に国民のほとんどが、

「いやこれ、罰則必要だろ?
むしろ今までどうしてこれに対する法整備がなかったの?」

と不思議に思ってしまうでしょう。

ここで、当ブログのサービスとして、分かりやすく(新聞社が分かりやすくないので)
法案のポイントをまとめてみます。

「特定秘密とは、なんですか?」

【防衛】

●防衛、警備等に関する計画
●防衛に関し、自衛隊が収集した画像情報
●自衛隊が通信内容を秘匿するために用いる暗号
●潜水艦のプロペラの材質や形状、戦車などの装甲厚 ●誘導弾の対処目標性能、潜水艦の潜水可能震度

【外交】

●領域の保全に関する外国との交渉のための対処指針
●北朝鮮による核・ミサイル・拉致問題に関するやりとり
●外国が弾道ミサイルを発射した場合に取る措置の方針
●特定の国の外交方針について友好国政府から提供を受けた情報
●公電に用いる暗号   【スパイ防止】

●外国からの不正アクセスによる政府機関の情報窃取防止のための防護装置
●大量破壊兵器関連物質の不正取引を防止するための計画
●外国の情報機関から提供を受けた大量破壊兵器関連物質の不正取引に関する情報
●情報収集活動の情報源

【テロ対策】

●重要施設警備の実地計画
●重大テロが発生した場合の治安機関の対処方策
●外国の情報機関から提供を受けた国際テロ組織関係者の動向
●情報収集活動の情報源


もうお分かりですね?

これらを「知る権利」が、どうして一般国民に必要だっていうんです?
そして、どうしてそれを知りたいんです?

わたしはたまたま渡部昇一さんのお話を聞く機会があったのですが、
渡部氏ははっきりとおっしゃっていましたよ。

「よほどこの法案が都合が悪い人たちがいるんですね」

都合の悪い人たち。
つまりこういう情報を切り売りして利益供与を受けている、あるいは
日本ではない別の国家に忠誠を誓っている・・・・?

反対派というのは要約すると

国民の知る権利を奪うことは、戦前の情報統制の再来であり、
日本が再び『戦争する国』になることである

という理由から反対しているのですが、わたしは彼らに聞きたい。
「都合の悪い人たち」ではなく、その尻馬に乗って「いちご白書をもう一度」をしている人に。 この「特定秘密」の「特定」の意味を本当にわかって反対していますか?


今回、この法案に対する「立ち位置」を、自分たちの意見でバイアスをかけた
曖昧な報道しかしようとしないメディアからは、その公平な視点がわからず、
どうしていいか決めかねている国民も多いと思います。

しかし、わたしはシンプルに考えて下さい、と言いたい。
今回の反対デモの写真を見ればよろしい。

「人間の鎖」「ダイイン」「官邸の壁に落書き」「国会に靴を投げ込む」・・・・

どれもこれも、普通の日本人なら違和感を覚える行動ばかりです。
そして、決定的なのは、彼らのデモには

「日本の国旗が全く見当たらない」

ということです。
もう、反対しているのがどんな連中であるか、これだけでお察し、です。
ね?シンプルでしょ?


わたしは産經新聞の抄子さんの記事、
「今のところ不備不足ゆえ万全とは言えないが、
しかし、今の日本の置かれた危機的状況を考えると」という部分に同感で、
この法案が傍目には拙速と言われる(わたしはそう思いませんが)状況でも
とにかく可決になったことで、ひとまず現下の危機は逃れられそうだと安堵しています。

「不備不足」についても同じで、それらが正しく運用されるようにしていくのが国会であり、
その国会に代表者を送り込むのが我々国民なのですから。

しかし今回の可決はある意味諸刃の剣とも言えます。
つまり今後二度と、民主党のようなのに政権を取らせてはいけないということです。

刃物は持たせる相手を間違ったら、その刃は敵ではなく確実に自分に向くからです。


可決から1日、メディアの発狂ぶりは、もう大変なことになっています。
曰く、

「独裁」「国民の声を無視」「国民のほとんどが反対」・・・

しかし、メディアにはまだわかっていない。
いや、わかりたくないのかな。
民主党が前回の選挙で「引き摺り下ろされた」のはなぜなのか。

今回は大々的にこの法案の反対意見ばかりを報じているメディアが、
民主党がこっそり通したかった悲願の「人権擁護法案」「外国人参政権」
については「報道しない権利」を振りかざして全く情報を遮断したにもかかわらず、
国民はこれらの法案とそれを通そうとする政権に対し、ノーを突きつけたからですよ。


もし、朝日やNHKが言うように「国民のほとんどが反対」
しているのならば、次期選挙で自民は与党の座を失うはずです。

しかし、国民は「民主というババ」を掴ませたメディアの口車にはもう乗せられないでしょう。
マスコミが今回のことを奇貨としていくら国民を煽っても、
「日本国旗の嫌いな人」以外、誰も踊ることはないとわたしは思いますが。






 

軍神の床屋さん〜真珠湾特殊潜航艇・古野繁實少佐

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古野繁實海軍少佐。
海軍兵学校67期、昭和16年12月8日、
特殊潜航艇乗組としてハワイ真珠湾の攻撃に参加、戦死。
死後二階級特進。

今日は12月8日。
真珠湾攻撃から今年で72年が経ちました。
このときに行われた航空機動部隊による攻撃は様々な媒体で語られますが、
そのときに真珠湾に突入した特殊潜航艇5隻の戦果は、
はっきりしたことが未だにわかっておらず、学者の研究対象になっているほどです。
それらは真珠湾を語るとき海面での戦闘に比べて語られることはありません。

しかし当時、このときに潜航艇で突入した潜水艦部隊の9人は、
生きて捕虜第一号となってしまった酒巻和男少尉を除き、
「真珠湾の九軍神」
として何よりも大々的にその功績を喧伝されました。

わたしは、時折情報チェックのために聴く、我が家の「ゆうせん」の
「軍歌・戦時歌謡」チャンネルで、「大東亜戦争海軍の歌」の二番、

あの日旅順の 閉塞に
命捧げた 父祖の血を
継いで潜つた 真珠湾
ああ 一億は みな泣けり
還らぬ五隻 九柱の
玉と砕けし 軍神(いくさがみ)

というのを聴くたびに、

「これがもし酒巻少尉も戦死して軍神が10人だったら、この歌詞は
どうなっていたのだろう。
九柱は語呂がいいけど、十柱は「とばしら」とでも読ませたかな」

など、とてつもなくどうでもいいことをつい心配してしまうのです。

結果に過ぎませんが、「9人」というのは据わりがいいというか、
「軍神の数」としては10人より「様になる数字」ではないかというか。

さて、今日お話しするその九軍神のうちの一人、古野繁實少佐は、兵学校67期です。
特殊潜航艇のこのときのメンバーは、隊長岩佐直治中佐が、65期。
66期がなく(松尾敬宇中佐は66期)古野少佐と横山正治少佐が67期、
広尾彰大尉と捕虜になった酒巻少尉が68期です。


特殊潜航艇のチームは、開戦時、大尉、中尉、少尉、という、
軍隊的には「実働隊」と言うべき若い士官が指揮官となりました。


その67期に、わたくしエリス中尉の敬愛する笹井醇一少佐がいることもあり、
このクラスについては当ブログで何度か記事にしてきました。
あるとき、兵学校67期であった親族をお持ちだという方、Y氏が、
インターネット検索によってそんな記事から当ブログを探し当て、

「海兵67期がどんな環境で学んでいたか教えていただけないか」

というご依頼をしてこられました。

その親族に当たる海軍軍人とは、潜水艦勤務で、ラバウルで戦死した
越山澄尭海軍大尉と仰る方なのですが、まず、越山大尉とクラスメートである、
この古野少佐の物語を、真珠湾攻撃の日に再掲させていただくことにします。

越山大尉の親族であるY氏は、67期の潜水艦乗りが、開戦までの間どうすごしたか、
そして同期の「軍神」になった同じ「どんがめ仲間」の古野中尉の戦死を
どのように見たのかの片鱗を、拙文より読み取っていただけますと幸いです。

なお、越山大尉について、一項を設けてその戦歴と級友の回想から、
在りし日の大尉の面影らしきものに迫ってみました。

近々アップしますので、これもご笑覧ください。



1941年12月8日。

真珠湾攻撃が航空機を主力とする機動部隊によって行われたとき、
同時に五艇の特殊潜航艇が湾内に突入しました。

生きて捕虜になってしまった酒巻和男中尉を除いた九人の戦死者をだれが言い出したか
(海軍当局の発表には軍神の文字はない)
「九軍神」
とマスメディアは高らかに謳い、国民は熱を帯びたように彼らを讃え、憧れ、世に言う
「軍神ブーム」が起こりました。

人々は競って、学校の生徒は教師に引率されて軍神の家に詣で、礼拝しました。
新聞記者は遺族に頷けばいいだけの問いを投げかけ、その答えが麗々しく紙面を飾り、
その家族は涙を見せることもできなかったといいます。




まだまだ実戦には不備が多く、時期尚早というほかないこの潜水艦での攻撃を
よく言われるように

「最初から戦果が期待されず、かつ生還を期さない特攻作戦で、
戦争突入の象徴として死んで軍神となる」

ことが目的だったということを、
当の彼らがどのくらいその覚悟の裏に感づいていたかは今となっては謎です。

なぜならこの計画を生みだしたのは彼ら自身とも言えるからです。





古野繁實中尉は福岡県遠賀に生まれました。
実家は里山を抱え込んだ広大な屋敷を持ち、代々庄屋をつとめた旧家。
六人兄弟の三番目で親の期待を一身に受けていました。

兵学校を卒業し潜水艦に配せられた古野少佐は、
同じ「どん亀乗り」の仲間と呉で下宿を始めました。
67期のほとんどがそうであったように、このとき少尉だった彼らは人生でおそらく
「最も楽しい時期」を過ごしたのでしょう。
航空ほどではなかったかもしれませんが、開戦前の六五期前後の若い海軍士官は
どこにいってもММ(モテモテ)だったといいますから。

呉で下宿を探し始め「その辺のたばこ屋のおばさん」に聞いて
紹介してもらった家に住み始めた彼らは、そのたばこ屋の隣にあった
「ナイスな女床屋さん」のいる床屋のお得意客となりました。

このきれいな床屋さんを、古野少尉はいたく気にいっていたようです。
同期の松下寛氏の戦後の回想―

「開戦前のある日、呉の床屋で古野君と会った。
彼は床屋の彼女に思し召しがあったらしく、
彼女の理髪する順番が廻ってくるまで、いつまでも待っていた」


古野中尉が特潜に行ったのは昭和16年の春のことでした。

潜航艇のメンバーの一人、酒巻少尉は、
受け取った転勤命令が暗号電報だったことに驚きます。

「たかが一海軍少尉の転勤に・・・」

そして、士官10人、下士官12人の

「その存在そのものが秘密兵器である甲標的搭乗員」

は、帽振れで送られることなく、元の配置から密かに姿を消したのです。
軍艦千代田に集められたその中には「平和への誓約」の主人公、
シドニー湾に特殊潜航艇で突入し戦死した松尾敬宇大尉の姿もありました。

真珠湾への甲標的突入は、当初訓練にいわば「無聊をかこつ」日々の中で、
搭乗員岩佐大尉を中心に自然に発生し、それを彼らが若さの情熱で具申し、
司令部詣でを繰り返した末受け入れられたということです。


生還の望みがないことを理由に、山本五十六司令長官は、
最初甲標的の参加を許可しませんでした。
さらには主力を自負する機動部隊方面からは

「甲標的にうろうろされては相手に気づかれるおそれがあるし、
もしそうなれば急襲が難しくなる」

という理由で、作戦そのものに否定的な意見が出されます。

しかし死を覚悟で作戦への認可を訴える若者の情に、
山本長官は最後にはついに
「ほだされた」
ということになっています。

この特殊潜航艇について全ての人が持つのは
「なぜ」
「何のために」
十人もの人間の生命と引き換えにするにはあまりに杜撰で無謀な、
かつ戦果の見込めない突入が行われ、
かつ機動部隊の華々しい成功者ではなく彼らが軍神となったのか、
という単純な疑問ではないでしょうか。


ここで思い出すのが「天一号作戦」、大和特攻を伊藤中将に説得した草鹿中将の言葉です。

「一億特攻の魁となっていただきたい」

成功の見込みの無い無謀な作戦に首を縦に振らなかった伊藤中将が
この一言で作戦を受諾したのです。

冷徹な作戦遂行の結果敗して死するのと、象徴としての死を最初から目的に戦うのと―
同じ死するのでも後者の死により意義があるという選択でしょうか。

死ぬことで後に続くものの精神的支柱、殉国の象徴となる、というのは
殉教者の真理であり、あるいはこれが当時の軍人の理想であったのかもしれません。



古野中尉は自分の任務についての一切を同居のクラスメートに語りませんでした。
新配置について一カ月後、かれは下宿を引き払います。

「当時はまだ真珠湾の計画はできていなかったと思われるので
彼自身に運命の切迫感を感じさせるものはなかったであろうが・・」

同居していたクラスメートの今西三郎氏はこう懐古します。

しかし、甲標的の何たるかと、その性能や目的などを目にしただけで、
おそらく古野中尉の中にはある覚悟と確信―
―自分は近々確実に死ぬであろうという確信が
芽生えていたことは想像に難くありません。

「貴様らのように命は永くないよ」

古野中尉がこうつぶやくのを今西氏は耳にしています。


そして、その言の通り古野少佐が軍神となってからのことです。

松下氏は前線帰りの髪を刈りにいつもの床屋に出かけました。
古野中尉がお気に入りだった美人がいる床屋です。

古野中尉が

「いつまでも自分の髪を刈ってもらう順番を待っていた」

のは、任務に就く直前のことだったのでしょうか。
それとも下宿を引き払う時だったのでしょうか。

いずれにしても、そのとき、古野中尉は気に入っていた女床屋さんに、
心の中でひそかに別れを告げたに違いありません。


その女性が、松下氏を見るとこう話しかけてきました。

「十二月八日真珠湾に攻撃をかけた特別攻撃隊の九軍神の中に
古野という名がありましたが、
わたしがいつも頭を刈っていたあの古野さんと同一人物なのですか」

そうだ、と松下氏が答えると、彼女は今更のように自分の手をじっと見つめ、
思いだそうとするかのようにしばし瞑想し、その後こう呟きました。

「あの人がねえ」









映画「燃ゆる大空」〜失われた『名場面』

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最近、何かを語りだしたらあちこち寄り道せずにはいられない傾向が高じて、
映画一つ語るのに一回のエントリに収まりません。
何の気なしに始めた「燃ゆる大空」も三回目となってしまいました。 

しかも三回目にしてやっとストーリーのヤマ場にさしかかったという(笑)


さて、山村の生還祝いの夜、

「佐藤は決して不時着はせん!」

と切らなくてもいい大見得を切ってフラグを立ててしまった佐藤の運命やいかに。



といいながら、前回出しそびれた陸軍機の写真を。



キ30九七式軽爆撃機

評価の高かった九七式偵察機の構造を踏襲して三菱重工が制作しました。
実用性が高く、多くの戦場で重用されましたが、この機体を見ても分かるように、
胴体内の爆弾倉が中央にあったため、前後の座席が離れ過ぎ、
そのため

「乗員同士連絡が出来ない」

という問題があったそうです。
きっと彼らは機内で手信号を使ったので無問題。不便だったとは思いますが。

このシーンは訓練という設定なので、一人しか乗っていません。



さて、いよいよ佐藤が九七式重爆で出撃です。
今回のミッションは西安飛行場の攻撃。



機長は山本大尉の同期である奈良大尉。
佐伯秀男という俳優さんで、きりりとした顔の男前です。
2001年に91歳でなくなる直前まで

「現役最高齢のファッションモデル」
「現役最高齢のボディビルダー」

として一部で知られていたとか。



灰田克彦演じる佐藤兵曹長。
出撃前に戦闘機の山村、行本のところに行き、またもやタバコを回し飲み。

「しっかりやろうぜ!今夜夕飯後遊びにいくぞ」

あああ〜佐藤(略)

この攻撃のブリーフィングを、爆撃隊、攻撃隊ともにちゃんと描いています。



この出撃シーンですが、爆撃隊は本物なのに、なぜか戦闘機隊は模型。

と、敵戦闘機出現!



九五式戦闘機

コードネームはペリー。
戦闘機のコードネームは男性の名前が多いのですが、爆撃機は女性名です。
たとえば九七重爆は「サリー」、九七軽爆は「アン」、彗星は「ジュディ」ですね。

それはともかく、この九五式がこの映画では中国軍の飛行機に扮しています。
ポリカルポフI-15、というソ連製で、似ていると言えば似ていますが、
一番の特色である翼の形(ガルウィング)が違うので、惜しい!という感じ。



これが本物。
日本では捕獲した機体を運用していたようです。

この後空中戦あり爆撃シーンありなのですが、
どう見ても模型に思えた空中戦が本物で、爆弾投下シーンは模型なのだとか。



機体のノーズにガラスドームがあって、ここに配置されるのが機銃手のようです。
九七式の乗員は7名。
正副機長、爆撃手、射撃手二人、通信員、ナビゲーター、でいいですか?

佐藤は副操縦士です。



これも模型なんですかね。
というか、思いっきり市街地に落としてないかこれ・・・。



しかし、奈良機は右タンクに銃弾を受けます。



「右タンクを敵弾に撃ちぬかれたるも全員士気旺盛!
帰還の途に着かんとす!」

通信員に打電を命じる隊長。





それを聞く乗員たちの表情・・・・・・。

そして・・・・・・



場面が変わったらもう飛行機墜ちてるし。

円谷英二、仕事しろ(笑)



雨だれで意識を取り戻す佐藤。
やっとの思いで体を起こすと、そこには飛散した機体と倒れて動かぬ仲間が・・。



一人一人の名前を呼び、遺体を揺り動かす佐藤。



「中隊長殿!佐藤であります!」



呼びかけにかろうじて眼を開ける奈良大尉。



そして、重傷の大尉を背負って山中を歩き出す佐藤。

「佐藤、水を飲ましてくれないか」

そう背中で訴える奈良大尉に

「はい、探します」

そういってよろめきながら歩んでいく佐藤の後ろ姿。



そしてシーンは変わり、仁礼部隊。
帰らぬ奈良機を待つこと4日、
地上部隊から奈良機の乗員が全滅したことを山本大尉から聞く、山村と行本。

二人の死体が事故機から4キロ離れて見つかったことや、死亡した奈良大尉を
骨折しなかった右手だけで葬り、拳銃自殺した佐藤の最後が語られます。


どうもあっさりしすぎてないか?


特に、奈良大尉を担いで佐藤が歩くシーンが少なすぎる。
と思ったら、wikiの映画評でこんな記述を見つけました。

「瀕死の隊長を担ぎながら歩く佐藤が
『故郷の空』を口ずさむシーンは、女性たちの紅涙を誘った」

ですよね?

前半既出のこの歌、佐藤の最後の夜にも歌われるのですから、
こういうシーンにも出てくるのが映画的お約束というものです。
ところが、この、おそらく最も戦後の感覚で言うところの「泣かせどころ」が、
現在発売されているバージョンからはごっそり抜け落ちているのです。

なぜか。

散漫な情報をかき集めて推測したのですが、現在のバージョンは、
その昔、戦地慰問用に尺を短くして編集したもので、オリジナルはもう既に
この世には存在しないということのようなのです。

戦地慰問用の映画、というのはつまり、日中戦争ではなく大戦の戦地向けでしょう。
移送のため、尺を短くしてフィルムを軽くするという目的もあったと思います。

たとえば少飛の訓練のシーンで、大日向伝の山本大尉が

「最近焦燥の様子が見える」

と説教するのですが、全くそれに該当するシーンがなく「?」と思った、
と昨日書きましたが、つまりここもカットされてしまった部分で、
実はその前に佐藤なり山村なり田中なり行本なりがなにかミスをしたり、
あるいは全員がポカをやらかすシーンがあったのだと思われます。

しかしこのカット、ただ単に映画を短くする、というのだけが目的ではありますまい。

戦地で鑑賞されるためには、この映画が製作された当時よりもっと明らかな
「戦意の高揚」が映画に求められたはずです。

果たして戦地の将兵たちに、「女性が紅涙を絞るような」シーンを見せることを
日本軍の軍部が許可するでしょうか。


しかし・・・・惜しまれますね。このシーン。

というわけで、無情にもカットされてしまった幻のシーンを
エリス中尉が勝手に再現してみます。



山中のぬかるみを、奈良大尉を負った佐藤がよろめきながら歩く。
佐藤の口から、いつの間にか歌が漏れる。

「ゆうぞらはれて・・・あきかぜ・・・・ふき・・・」

佐藤は天を仰ぐ。
霞む彼の目には行本の、山村の、そして山本大尉の顔が浮かぶ。

行本、山村、待ってろよ。
食事の後の約束には遅れるかもしれんが、俺は必ず帰る。

山本大尉、大尉の戦友の奈良大尉は佐藤が命に代えても連れて戻ります。

そして田中・・・。どこかで見ているなら俺に力をくれ。


「おもえば・・・・とおき、こ・・・きょうの・・・
あ!中隊長殿!水があります!水がみつかりました!」

奈良大尉からは返事は無かった。
彼はすでに佐藤の背中でこと切れていた。

「ちゅうたいちょうどのぉ〜〜!」

しばらく呆然と奈良大尉の死に顔を眺めていた佐藤は、
決心したように、右手だけで雨に濡れた山中の土を掘り始める。

隊長の遺体を敵の目から隠すために、
そして、奈良大尉を埋めた土の上で自ら命を絶つために・・・。








しかし続く。



 



映画「燃ゆる大空」〜死生一如と軍人勅諭

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さて、いつの間か一つの映画を語るのに一日では終わらなくなったわけですが(笑)
いくらなんでも今日を最終回としたいと思います。



「お前たちは佐藤と一番仲良しだったな」
「ハイ、自分たちは、田中と、佐藤と一番仲良しでした」

軍人同士の会話なのに「仲良し」という言葉が出てくるのが何とも切ない。

彼らは決して死を恐れているようには見えませんが、仲間の死には
人目を憚らず涙を流し、

「馬鹿野郎!佐藤のやつ死んじまいやがって」

 と叫んだりします。
国のために命を捧げた戦友を「うらやましくあります」
と言いながら、やはり慟哭せずにはいられない。

この映画は、国策映画でしかも陸軍省の検閲済みですが、それでもなお、
人間の感情の普遍性を決して否定しているわけではありません。 

軍人としての覚悟は覚悟として、決して非人間的な冷徹を強要するものではない。
もちろんこれは映画ですから「建前」もあったとは思いますが、
それを考慮しても日本軍が決して「非情の部隊」ではなかったらしいことを、
わたしはこういった表現の数々から汲み取るものです。


佐藤兵曹長の死に様は「戦意を殺ぐ」という理由でカットされたのではないか、
と前回のエントリで大胆にも推測してみました。
かたや、山本隊長と残された二人が英霊に黙祷するシーンは、
セリフも音楽もないにもかかわらず、結構な長尺で残されています。
これもまた「陸の荒鷲の英霊に捧ぐ」という映画の主眼にそった選択でしょう。

もう一つ気づいたことがあります。

佐藤、そして田中の死を語るときにも、彼らは決して自分の敵
(この場合は中国軍ということになりますが)について決して触れようとしないのです。

「今頃極楽で『武士の本懐だ』と皆で祝賀会をしているよ」

そのようなことを言いこそすれ、敵に対する恨みや復讐に言及しない。
これは、かれらを当時の日本軍の「理想たる軍人」として描いたからでしょうか。 

 

航空兵同士の雑談中の、

「敵の操縦士が仰向けになっているとかわいそうになってなあ」
「武士の情けってやつでな」
「俺たちがやられたとき敵がお前をかわいそうだと思ってくれるっていうのか?」
「しかし俺もいつか落下傘で降りてくるのをどうしても撃てなかったよ」
「お前ら、落下傘で降りてくるのは操縦士なんだから、
そんなこといってるとまた舞い上がってお前たちの土手っ腹に風穴あけるんだぞ」

とか、

「佐藤は元気者だから、案外シナさんの飛行機ぶんどってるかもしれんぞ」

などと言うセリフからは、相手に対する敵愾心は殆ど感じられません。
むしろ、妙に淡々として(これは自らの死についてもそうですが)、戦争と言っても
自然災害のように飄々とそれを捉えていると言った感があります。 


その時代を知っているわけでも、ましてや戦ったわけでもないので憶測ですが、
彼らの戦争に対する向き合い方は「武士の覚悟」の上に立った
柔らかな現実逃避のようにすら見えるのです。


佐藤の死が判明した夜、二人は木の根に腰掛けて歌います。
あの、「故郷の空」を・・・・。

そこにやってくる稲葉特務少尉。

「泣いとったなお前たちは・・・。
泣くな。佐藤は死んじゃおらん。
我々軍人は七たび生まれ変わってお上にご奉公申し上げるんじゃ」

「よくわかりました」

考えようによっては全く科学性に欠けるこの言葉が、
不思議と聞いているものには大いなる真理のように心にしみます。

なぜか。

「死生一如」(しせいいちじょ)というのは荘子の言葉です。
生ずれば滅し滅すれば生ずる。

次のような言葉を、前半で山本隊長がこう述べます。

「死に様を良くしたいのは誰にとっても願うところであるが、
良く死ぬということはまた良く生きるということである」

つまり死生一如の四文字こそが、この映画に貫かれているテーマであり、
すなわち当時の日本軍人の理想たる武士道的死生観でもあったからです。

死と生とは持続する一つのものであり、表裏一体のものである、
死を迎えた命は、生に何かを与え、生として再び蘇る。

稲葉少尉が「佐藤は死んじゃおらん」と言ったのは、つまりそういうことなのです。


そしてその次の日、敵戦闘機を迎え撃つため、攻撃隊は出撃していきます。





現れる中国軍戦闘機(に扮した九五式戦闘機)。
ちゃんと中国人パイロットに扮する役者も用意してあります。

この空戦シーンが、どうも分からないんですよ。
ドッグファイトがどう見ても本当に高高度なの。
下界の景色なんかも書き割りじゃないんですよ。
もちろん、見るからに特撮、といういうコマもあるんですが、
実際にスタントをやって空戦に見せている部分が結構あるんですよね。

何回か見ているうちに、これはとんでもなく貴重な歴史的資料なんではないか、
と思えてきましたよ、この映画。
だって、実際の九七戦の航空運動が、鮮明に残されているのですからね。

さて、中国空軍との熾烈な空戦において、ついに行本が撃たれます。



あ、これは行本ではなく、中国軍パイロットですけどね。
この空戦シーンで、山村が行本がやられるところを見ていて

「ゆきもとー!」

と叫ぶのですが、エンジンのうなり声しか聞こえてこず、
ただその口がそう言っているのが確認されるだけ。

冒頭画像も、行本機を襲撃する中国人パイロットの咆哮するシーンですが、
その声はやはり聞こえず、エンジン音があたかも彼の叫び声のように重なるのです。

阿部豊監督の演出の素晴らしさです。

戦前戦後通じて、日本の軍人の描き方が一貫してブレなかったこの監督の映画には、
随所にこのような心をつかむ表現がなされていて、決してただの国策映画に終わっていません。



空戦後、攻撃隊は行本機一機を残して帰還します。

帰還した航空隊の報告が行われます。
たった一機、帰還しなかったのが行本機であることを聞き、
山本中隊長始め一同は沈痛な面持ちで絶句し、



行本曹長機の帰還を、ただ空を見つめて待ち続けます。



燃料が切れる時間になり、捜索機を飛ばそうとしたそのとき、
基地の上空に爆音が聞こえてきます。
行本機でした。



瀕死の行本が、飛行機を基地に返すという執念だけで飛んで帰ってきたのです。



しかし、墜落シーンは割愛。
円谷英二、だから仕事しろとあれほど(略)
場面が変わったらいきなり飛行機が逆立ちしています。
おそらく、九七戦の向こうにはクレーンがあって、機体をささえていて、
前に置いてある自動車はそれを隠すためのものであると思われます。
それにしても墜落した飛行機が直立したままって、どんな状況?


それはともかく、担ぎ込まれた瀕死の行本を見守る隊員たち。
女性集客目的でキャスティングされた長谷川一夫が演じる大橋大尉が
輸血を命じると隊員たちが必死で、

「大橋軍医殿、なんとか助けてやってください!
私の血液型はA型です!」
「私の血を採ってください!私もA型です!」
「私はAB型です!」「私はA型です」「B型です」

一通り言い終わるまで流し目しながら黙って聞いています。
一刻を争う事態にこの悠長さはいかがなものか。

そしてなぜかこの部隊には行本と同じO型が山本大尉一人だけという不思議。




場の重圧に耐えきれず一人病室から外に出る稲葉少尉。

この眞木順さんという俳優は、無名ですが、結構いろんな映画で
バイプレーヤーとして顔を出していたようです。
この佇まいが特務士官にぴったりハマって適役です。

ここで行本が昏睡からさめて皆の顔を眺め、
自分が三機撃墜したこと、そしてそのうちの一機は

「胴体に白赤緑の三本筋をつけていました。
敵二大隊の林(りん)大隊長と確認します」

というのですが、そんなことわかるのか?
だいたい、出血多量で今から死のうって人が、意識はっきりしすぎてやしないか?

「機銃は撃ち尽くして、弾が一発もありませんので体当たり戦法でいってやれと、
どこまでも追いかけまして、地上に叩き付けてやりました。
あまりいい気になって800メートルばかり上空にいた6機に気がつきませんでした。
囲まれて覚悟を決めました。
中隊長殿、先には奈良大尉以下6名が戦死され、今度は自分がまたこんな姿で帰ってきて、
士気に及ぼす影響を考えると誠に申し訳ありません。
自分は命が惜しくて帰ってきたのではありません。
中隊長殿がいつも言われるように戦闘操縦者として撃墜の汚名を着たくなかったのであります。
しかし、いよいよだめなら、いつでも突っ込む覚悟でいました。
でも敵に戦果を許したくありません。
敵に醜い死に様を見せたくありません。
なんでもかんでも飛行機と一緒に帰るのだと自分を励まして帰って参りました」

一気にこれだけを言い終える行本。
声もやたら元気だし、これだけしゃべれれば多分命に別状ないのでは、という気もします。






最後に二人だけで話をしたい、という本人の希望で、
行本の遺言を聞く山村。

「しっかりせい、傷は浅いぞ」

いや、だから浅くないって。



そしてあの名場面、今際の「軍人勅諭」。

軍人勅諭の全文は主文に続き五箇条の項目からなり、全文唱えると、
さすがの行本も言い終えないうちに死んでしまいかねないくらい長いので、
五箇条だけを唱えます。

因みに、飛行学校のシーンで、この行本が死んだ佐藤の髪を
バリカンで刈ってやるとき、佐藤がぶつぶつつぶやきながら目を通しているのが
この軍人勅諭全文であろうと思われます。

一、(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
一、(ひとつ)軍人は礼儀を正しくすべし。
一、(ひとつ)軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし。
一、(ひとつ)軍人は信義を重んすへし。
一、(ひとつ)軍人は質素を旨とすへし。


「武士は」と言い換えても通用しますし、人の道を説く教えとしてみても、
「忠節」「武勇」ということを広く解釈すれば、一般にも広く膾炙すべき内容です。


教育勅語もそうですけどね。
戦後日本は、「軍」がGHQによって悪者扱いされたことからすっかり洗脳されて、
軍と付けば何でもかんでも廃止して来たわけですが、この勅諭、
現在自衛官が入隊時にする服務の宣誓、

これと一緒ですよね?

私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、(信義)
日本国憲法 及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、
常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、(質素、礼儀)
政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり(忠節)
事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、(武勇)
もつて国民の負託にこたえることを誓います。(忠節)

つまり国の防人の精神的な訓育なんて、戦前戦後、その根本に
何ら変わることはないわけですよ。
戦争中であっても戦う者の理想は「軍人勅諭」に見える「武士道精神の完遂」であり
決して相手に対する敵愾心や殺戮が目的ではなかったというのと同じです。

以前も書いたように、亡き小沢昭一氏なども脊髄反射で
「教育勅語」の精神を現場に復活させようとした当時の首相に(福田首相だったかな)

「正体観たりである」

なんて青筋立てて非難していますが、もう本当にこの世代の人たちって、
隅々までGHQと戦後左翼の洗脳が行き渡って、
DNAレベルの軍アレルギーになってしまっている人が多かったんですね。

そもそも、軍人勅諭も教育勅語も、誰一人としてその内容について言及せずに
とにかく「軍国主義的」だもんなあ・・・・。

これって、特定秘密保護法案の内容を全く吟味することなくいきなり一足飛びに
「戦争が始まる!」って叫んでるのと全く同じ匂いがしますね。
というか、昔からサヨクのやり方はこの「レッテル貼り」パターンだったのか・・・。




さて、映画「燃ゆる大空」シリーズ、今日で終わったつもりでしたが、
あと一回、あと一回だけ(笑)俳優や監督についてどうしても話したいことがあります。

続く。 

 

 

 

映画「燃ゆる大空」〜ヘンリーとジャック

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「燃ゆる大空」やっとのことで最終回となりました。
「しかし、なんだか本編と関係ない画像だなあ」と思われた方、あなたは正しい。
しかしあとで説明しますのでちょっとお待ち下さい。

映画のデータをここで上げておきますと、制作費は当時の115万円、
劇中登場する航空機は述べ947機、使用キャメラ15台、
空中撮影128時間、使用ネガ9万フィート。

これらは現代の映画界でも実現不可能なスケールの大きさです。

前回お話しした航空機に取り付けたカメラ撮影ですが、
九七式軽爆は機関銃座にキャメラを、さらに戦闘機は翼に取り付けました。
戦闘機のキャメラのスイッチは操縦者(つまり軍人)が押したそうです。

そしてなんども当ブログで「仕事しろ」と叱咤した円谷英二ですが、
この映画では実機での撮影がメインであるため、あくまでも
「補助としての特撮」に留まっており、この映画での経験は、
そののち「ハワイ・マレー沖」「南海の花束」で開花することになります。


ところで、この「燃ゆる大空」には「ああ、あの」という俳優が出演しています。 



基地で彼らを迎える爆撃隊の面々。


どこかで見たことのある顔が・・・・・。
そう、あの藤田進じゃないですか。

藤田はこの頃東宝のニューフェースとして、ようやく大部屋から
主演映画を得るようになっていた時期でした。
ですから、この映画でもほんの端役程度の演技しかさせてもらっていません。
注意して観ていたのですが、最後までセリフが一つもありませんでした。
至る場面でこのように他の隊員たちと一緒に黙って立っているだけの簡単なお仕事です。

どの俳優もエキストラとはいえ、一応俳優ですから、
この画像を見ても中々の男前ばかりなのですが、
その中でも藤田は存在感が際立っています。

このときはセリフ無しの端役でしたが、後年有名になったので、
現代の映画解説ページには、ちゃんとクレジットがあります。
大スターにはなるものですね。

余談ですが、川戸正次郎というかつての戦闘機操縦者で、
海兵隊エースのボイントンと対決したというのでその方面に有名な人物がいます。
彼は、戦後も空自と民間でパイロットとして活躍し、あまりに家庭を放棄したせいか、
夫人に「わたしか飛行機かどちらか選んで下さい」
と詰め寄られ、あっさり飛行機を選んだという「空に魅入られてしまった男」ですが、
その川戸の空自時代に、映画の撮影で藤田が基地にやってきたことがあったそうです。

川戸の追想によると、空自の制服を着て司令室のデスクに座った藤田の姿は


「本物の航空団司令より遥かに司令らしかった」


ということで、なかなか説得力のある話です。
この頃は、高級軍人の似合う俳優がたくさんいましたよね。
今の俳優も、若いうちは軍服が似合う人は多いのですが、
将官クラスになるととたんにいなくなってしまう。

「連合艦隊司令長官 山本五十六」

などを見るとその傾向ははっきりしていて・・・・、
だって、山本五十六があれだもの。
役所広司という俳優はわたしは好きでも嫌いでもありませんが、
うーん、なんて言ったらいいのかしら。
逆に言うと、昔の「五十六俳優」は、藤田進もそうですが、
戦争映画以外の仕事でも、あまりかけ離れた役をしていなかった気がします。
少なくとも
「失楽園」
なんていう、「三文エロ小説」(知人の某大手出版社編集いわく)
の映画版みたいなのには、いくら仕事が来ても出ないんじゃないかなっていうね。


さて、自衛隊での撮影後、かつての「零戦エース」(しかも本物)と、
軍人専門俳優は連れ立って夜の巷に繰り出したわけですが、
この分野で元エースは俳優の超絶MMの足元にも及ばなかったということです。

わたしももし藤田進を実際に見たらきっと色めき立ってしまったでしょうね。
夜の巷のお姐さんがたとは全く違う意味で(笑)


ところで、最近次々と昔の映画がDVDで発売されていて、
少し前ならそんな映画があったことすら知らないままであっただろう
マイナーなものも、簡単に手に入れることが出来るようになりました。
歴史的にも貴重なもの、たとえば兵学校生徒を描いたドキュメンタリー
『勝利の礎』
なども、戦後GHQに破棄され、あわや幻の映画となるところを、
たった一本だけアメリカに資料として保存されていたフィルムが見つかり、
それをDVDにして映像を後世に残すことが出来たのです。

この「燃ゆる大空」も映像のデジタル化が無ければ、
おそらくこうやって観ることは叶わなかったわけで、
そのことには大変感謝します。

だがしかし。

当時の常識、当時の世相、そういったものがそのまま観られるからこそ、
こういった昔の映画は見る価値があると言うのに、
DVDでの再販に際して、どう考えてもこれを、現在の「規範」に照らして、
勝手に編集してしまったらしい部分があるのです。


前々回、戦地での慰問鑑賞用に、
佐藤が奈良大尉を負って山中を彷徨するシーンがまるまるカットされていた、
という話をしたのですが、ここでいう「編集」は、大したものではありません。

ありませんが、ある意味、悪質でわたしなど
「許せん!」
と思わずつぶやいてしまうものです。


最後に、中国軍との空戦で相手を撃墜するも被弾し、
飛行機を部隊に持って帰るという執念だけで飛行機を駆って、
基地にたどり着いた行本の臨終シーンがあります。

とても瀕死とは思えない正確さで長文を噛まずに(笑)しゃべり終えた行本。
その後、意識が混濁したり、同じことを繰り返したりして、
いかにももうろうとしている様子を脚本は出そうとしているのですが、
いかんせん本人の演技力の問題で、
「もうろう」という感じが全くしないのが困りものなのです。
でもまあいいか。
「いかにも」というあざとい演技よりも、こういう映画の場合、
これくらいの方がリアリティがあっていいかもしれない。

さて、とにかく朦朧としながら僚機の行方を案じた行本に、まず山村が

「俺は二機落としてきたぞ」

といい、隣にいる僚機の操縦者が

「俺も二機」

といいます。
最初、作業をしながら走り読みならぬ「走り観」していたときには気づかなかったのですが、
ちゃんとこのエントリのために観たところ、この部分で、
「二機」の後の音声が消されていることに気づきました。
戦中の検閲や慰問用のカットではなく、明らかにDVD化されたときに加工されているのです。

そこで何度もシーンを戻して口の形を見たのですが、どう見ても

「やっつけたぞ」

と言っているようにしか見えないのです。
その後の行本のセリフが

「そうか、よかったな」

ですので、「やっつけた」=「よかった」がまずい、という判断でしょうか。

まったくよお・・・・・(笑)

変な配慮してんじゃないよ。
だいたい何に対して配慮してるんだか。

先日のニュースで、法務省が今年度から実施している、
チャーター機を使った不法滞在外国人の一斉強制送還で、

「予定されていた中国国籍の不法滞在者の中国への送還を取りやめ、
別の国の不法滞在者に変更した」

とあり、その理由というのが

中国の一方的な防空識別圏の設定などによる日中関係の悪化に配慮

って云うんですが、これに匹敵するくらい意味不明な配慮ですよね。
(説明っぽいな)

ついでにこれ、ひとこと云わせてもらいますが、

中国が防空識別圏を設けたことなどで日中関係が険悪化し、
別の国籍者の一斉強制送還に変更された

って本当に意味分からんのですけど。

「悪化したからこそ強制送還」

でしょ?普通は。
まったく、日本人って、特に日本のお役所って、事を荒立てたくないがために、
ときおりとんでもない「配慮」を勝手にやりますよねえ。
わたしは、これは日本人の愚かな部分だと思いますよ。はっきり言って。

このDVDの音声抹消も、どうせ、担当者が責任を取りたくないから

「何か言われて問題になる前にその原因を取り除いてしまう」

というお定まりのパターンでしょ?

それでなくてもこのDVD復刻版、最初に

「不適切な表現がありますことをご了承ください」

とお断りがあり、この暴挙が版元のつまらん配慮からであることを証明しているのですが、
わたしに言わせてもらえば、このお断りによってこの映画を観る人は
「不適切な表現をご了承」した上で観てるということになるのだから、
ご丁寧にもわざわざ音声を消す必要は全くないはずなのです。

だいたい、後世の人間が、勝手に創作物を改変しちゃだめでしょ。




さて、最後に二人だけで話をしたい、という本人の希望で、
行本の遺言を聞く山村。

「しっかりせい、傷は浅いぞ」

いや、だから何度も言うけど浅くないって。
でも、これはどうやら当時の「決まり文句」らしく、
行本が担ぎ込まれて来たときに皆が口々にこれを言います。

そしてこのあと、あの「軍人勅諭シーン」となるわけですね。


さて、それではそろそろ冒頭画像の説明と参りましょうか。

そのまえに今日表題にした「ヘンリーとジャック」ですが、これは何かというと、
この映画に出演している二人のハリウッド映画出演経験者のイングリッシュネームです。

一人は、この上の写真右側の、山村曹長を演じたヘンリー・大川。
この人の経歴については初回に説明しましたが、それではジャックは誰かというと、
他でもない監督の阿部豊その人のことなのです。


冒頭のポスターを見て下さい。

主演俳優が

JACK ABBE

ジャック・アッベになっていますが、これが若き日の阿部豊。

阿部は、ジャック・アベという芸名でハリウッドの無声映画に10本出演した後、
向こうで演出などを勉強し、帰国後監督に転じたという経歴の持ち主です。

ついでに、この上の写真で「傷は浅いぞ」と言っている、
ヘンリー大川は、





ご覧の通りの水も滴るいい男。
前にもお話ししたように、かれは飛行機のスタントをしていたましたし、
もともとは名門コロンビア大学で経済学を勉強し、実家も名家で資産家。
パーフェクト過ぎて逆に女性が引いてしまうレベルの男性でした。

阿部も大川もバイリンガルでしたから、それぞれその特性を生かして
映画界で有名になったのですが、こんな話があります。

昭和16年12月8日、マキノ雅広はロケ先で誘われ、初めてゴルフというものを経験しました。
マキノが打つと阿部が「ナイスショット!」と大声を出して近づいてきました。
マキノはその意味が分からず挨拶がてら尋ねてみると
「うまい打ち方で、よく飛んだってこと」と彼は答えました。
そのまま三人でゴルフを楽しんだわけですが妙に人がおらず、
三人でライスカレーを食べていると、ゴルフ場の人たちが変な目つきで見てくるのです。
三人が首を傾げていたのですが、帰り道で号外を拾って読んでみて、
日本が米国に宣戦布告したことを初めて知ってびっくりしたということです。(wiki)

「ナイスショット」はまずかったかもしれませんねえ・・。

作品のひとつ「あの旗を撃て」はマニラ、バターン半島、コレヒドール島で撮影されました。
このときの阿部監督は、少将待遇で軍服を着用していたようですが、
その様子も「どこかアメリカ軍将校のようなスマートでダンディだった」とのことです。

そして、当時の映画監督は撮影時のかけ声に「ヨーイ、ハイ!」と言っていたのに対し、
阿部監督は「アクション、キャメラ!」でした。


このような逸話や、そもそもこの陸軍省制作の国策映画の監督と主役が
「ハリウッド出身」であることを知ったとき、
わたしは不思議さとわずかな違和感を感じずにはいられませんでした。

しかしこれはつまり陸軍という組織はそれを諒とした、ということでもあるんですね。
もしかしたら、帝国陸軍には、思っていたほど融通の利かない人間ばかりではなく、
むしろ海軍で言うところの「フレキシブルワイヤ」が多数いたのではないか、
と見直すような気になったのです。

阿部監督は

「海国大日本」「あの旗を撃て」「南海の花束」「燃ゆる大空」

を戦中に制作しました。
いわゆる「国策映画の大家」という位置づけであったわけですが、
戦後、多くの映画人のようにいきなり保身のための左傾化をすることもなく、
1952年にはあの名作「戦艦大和」を制作しています。

戦中であっても戦後であっても、その戦争と軍人の描き方に変わりは見せず、
思想や政治的立場を超越して、戦争を描きながらも変わらない人間社会の真理を追求する、
その軸足は、一貫してブレることがありません。

作品というフィールドを踏み出したところで、語らなくてもいい幼稚な政治思想を語り、
挙句は、自らの思想に表現したいものすら制限されてしまった感のある、
あの某アニメ監督には爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらい、
阿部監督の創作に対する姿勢は、しなやかでしかも自由です。


同じく、ハリウッド仕込みの国際感覚で広く活躍したヘンリー大川とともに、
その視点は、もしかしたら、若き日に日本という国を外から見たことで養われたものでしょうか。


 


 


防大祭「小原台の青春シリーズ」〜儀仗隊

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最近、検索の過程で、自分のブログが全く当方の与り知らぬところで、
他のブロガーによって紹介されているというのに何度か遭遇しました。

中でも、兄上が戦闘機操縦者であったというかなり年配と思しきブロガー様の

「愛国者だし、世界観もしっかりしている。
こういう若い人たちがいることが頼もしいと思っている」

というご評価には面映さとともに思わず身の引き締まる思いをいたしました。
そしてブログの(読んでおられますか?)一節に

「自衛隊のものが一番読んでいて面白い」

とあり、やはり消滅してしまってそれを知る人が少なくなりつつある旧海軍よりも、
こちらの方が「現在進行形」の生きた情報としてウォッチしているからかな、
と自分なりに分析した次第です。
何と言っても特に最近、関係方々との交流も増えましたもので。

まあ、「時事問題を楽しみにしている」というコメントを頂いたこともありますし、
「映画エントリが好き」とか、スズメの生態とか、稀にはファッションとか、
何を目的に読んで下さっているのかはその方によっていろいろだとは思いますが。

最近は「防大もの」を楽しみにしてくださっている読者もおられるようです。
というわけで今日も防大開校記念祭の様子をどうぞ。




さて本題、防衛大学の開校記念祭が終わってすでにもう一ヶ月以上が経ちますが、
この日激写してきた防大生たちの様子をアップせず年を越すわけには行きません。

・・・・というほどのことはないのかもしれませんが、何と言っても、
去年アップした「小原台の青春」は、未だに閲覧記録数の上位に上がる人気ログ。

その存在は決して秘匿されているわけではありませんが、それでも外部には
こんな機会でもないとその片鱗すら目にすることもない、

「秘密の花園」。

それが、防衛大学校生の実態並びに生態なのです。

というわけで、今年も堂々とこの日潜入した機会に撮った大量の写真を
「小原台の青春シリーズ」として淡々と上げて行きたいと思います。

自衛隊音楽まつりのときに儀仗隊の写真をかなり詳細に上げた直後で、
この開校祭のときには儀仗隊演技については殆ど取り上げませんでしたが、
冒頭写真は、彼らの入場してくる様子。

遠目に見ると動きが揃っていてまるで玩具の兵隊さんのように「皆同じ」
に見えますが、こうしてアップにしてみると、結構身長差があるのに気づきます。

で、一人一人の顔がかなり詳細に写っているのですが、これも、
遠目の、しかも演技をしているときからは意外なくらい、皆幼く見えますね。

 

儀仗隊について述べたときに読者の方から少し教えていただいたことを
差し障りのない程度に披露しますと、このドリル演奏の指揮官は、
各イベントによって4年生が交代で行うことになっており、
音楽まつりと開校祭のグランドフィナーレ(この写真ではありません)は、
必ず隊長が指揮官を担当することになっているのだそうです。

ですから、平賀工廠長さまがご覧になった訓練場でのドリル、そして
この写真で指揮をしているのは、音楽まつりで指揮をした隊長とは
別の学生であったということなんですね。



そして、このグランドフィナーレ、あるいは音楽まつりの指揮が、
毎年その学年の儀仗隊隊長にとっての文字通りフィナーレ、
最後の演奏となるそうで、つまり本年度隊長の川上北斗学生は、
防大祭のグランドフィナーレの指揮を最後に引退したということになります。



校舎裏でのドリルは、8〜12人で行われ、
このような遠目から観て全体の統制美を表現するドリルと違って、
まさに目と鼻の先で彼らの技を楽しむことができるのですが、
これは昔、学生舎の前で行われていたそうです。
見物の人垣が出来て通行の妨げになるので、昨年から訓練場で行うことになりました。

平賀工廠長さまがこれをご覧になって感想をブログに書いておられましたが、

平賀工廠 防大儀仗隊

「通」はこれを見逃すまいと前もって場所を取るので、後から行っても
至近距離の平面で行われる儀仗は人垣の外からはまず見えないようです。

しかしそのブログにもありましたように、終わったあとの彼らの表情(ガッツポーズとか)
が間近で見られるそうなので、来年はそれを見るために少し(かなり?)頑張ってみようかな。




あと、以前書いた儀仗隊についての情報で訂正追加あれこれ。

●銃の重さは4.3kg

●ドリル中に銃を落とすことは稀にある(わたしも目撃しました)
 落としたときに銃床(把)が折れることもさらに稀だが、ある
 そういうときのために、交換用の銃を持って隊員が2名待機している

●国内でドリルを行っている団体で防大以外は

  陸上自衛隊高等工科学校
  第44普通科連隊
  海上自衛隊航空学生
  航空自衛隊航空学生

最後の情報は防大儀仗隊のHPをそのまま書いたら、これが間違っていたらしく、
めりさんを始め2名の方からご指摘を受けました。ありがとうございます。
今更ですが、訂正いたします。



さて、ここからは、観閲行進を挿んで、その前後、
校内を歩きつつ撮った写真を貼って行きます。

 

今から観閲行進。
昔の軍人がもし見たら激怒しそうなくらいリラックスして和やかにおしゃべりしていますが、
よく見ると銃の持ち方だけは非常に慎重かつ気を遣っているようです。
左の学生は前の学生の帯を直して上げているのでしょうか。



校内で同じ学生に会っただけなのですが、帽子を取って挨拶?
しかも挨拶している方は袖にマークが3つ、ということは4年生です。

そういえば、校内の学生同士の敬礼は見ませんでした。
海軍の艦船内と一緒で、すれ違う上級生にいちいち敬礼していては大変なので、
校内では省略、と決められているのでしょうか。

因みに兵学校では敬礼は省略されていませんでしたから、学生は
教官等にもかならずすれ違いざま立ち止まって敬礼することになっていました。

名物教官、英語の「平賀源内」(あだなです)先生は、本職にも褒められるほど
堂に入った海軍式敬礼を率先して行ったため、生徒内では

「源内先生に会ったら早く敬礼しないと先にやられるぞ」

と申し送りができていたということです。

この写真、実は左のカップルを後ろから撮ろうとしていました。
このカップルは、お互い少し照れているのか、それとも親密すぎて慣れているのか。
二人の距離が微妙です。

え?どうでもいいことを妄想するなって?




このテントは、地本、つまり自衛隊リクルート部隊?のコーナー。
自衛隊の活動に興味を持ってもらい、ついでに前途有望な若者に
入隊を勧誘する機会を虎視眈々と狙う(ひと聞きが悪いな)、
考えようによっては日本国自衛隊の成り立ちの根幹をなすともいえる重要な部署です。

ですから、ノルマもあります。



この芝生の上に立っている二人は、自衛隊リクルート活動の先遣隊である
地本協力本部から送られて来た精鋭の隊員である。
ここに立ち、体育会系の若者には

「君、いい身体してるね!君みたいなガッツのありそうな若い人にはぴったりの職場があるよ」

いかにもオタクでニート系の若者には

「自衛隊にも、君みたいなタイプが活躍できる場所があるって知ってる?」

と猫なで声で近くにあるテントに連れ込むのが彼らの任務なのである。
ちなみに、ここは神奈川県なので、彼らの腕章には

「神奈川県地本」

の文字が。
そういえば朝霞で行われた観閲式には「埼玉地本」の「サイポン」と、
東京地本の「トウチくん」が送り込まれていたな。

この日一日こうやって網を張って、果たしてどれだけの若者が
彼らの言葉巧みな勧誘によって人生を誤っていくことか・・・。
(ごめんなさい、悪質な冗談です)

それはともかく、その成果はあったのだろうか、と次に通りかかったときに
テントを何となくチェックしたら、




これは、自衛艦やらヘリやらの写真の前に立って、自衛隊帽を被り記念写真撮りませんか?
というコーナー(だと思う)なのですが・・・・

・・・・・・・

・・・・・・・

どうして一人の女性に三人が集っている?

この二人って、芝生でアミ張ってた地本の人だよね?
地本の人、このお嬢さんをリクルートしたのか?

お嬢さんが遠目に見ても中々の別嬪さんらしいことと、
この三人の熱心な様子は決して無関係であるまい、と
エリス中尉は彼らのやに下がっているに違いない表情までを確信したのであった。

どう見てもこのお嬢さんが防大生の未来のお嫁さんになる可能性こそあれ、
自衛隊に入隊する可能性はあまりないようにも思えますが。

「いや〜、長い目で見て親しみを持っていただければいいんです自衛隊に」

ってか?

最後に事務連絡をひとつ。

BS朝日で12月22日に、この日の防大祭のイベントであった
防大棒倒しの様子が放映されるそうです。

このHPを教えていただいたのですが、番組の宣伝文句がすごいのよ。

一本の棒を倒すことに全力をかける男たちの熱き戦い…。
スクラムを組んだ男たちが棒をめがけて押し寄り崩しにかかる。
それを土台にし棒をめがけて次々と跳びかかる者も…。
防御する者は棒を倒されまいと必死に体を張って守る。
棒に近寄る者を蹴落とし、駆け寄る相手を引きはがす壮絶な体と体のぶつかり合い…。
毎年、ケガ人も続出。救急車もスタンバイしている世紀のイベント。
屈強な男たちが、そびえ立つ一本の棒を目指し激しくぶつかり合うその攻防は、
まさに国を守る闘いそのもの。それが防衛大学校の伝統行事"棒倒し"だ。

毎年11月に行われる、防衛大学校の開校記念祭のメインイベントとも言われるのが、
4大隊対抗の「棒倒し競技会」。
戦前の海軍兵学校時代から受け継がれている伝統競技である。
1大隊から150人の精鋭が選抜され、4大隊でトーナメント戦を実施。
制限時間2分以内に、相手方の棒を倒せば勝利となる。
棒が3秒間30度傾いた時点で勝敗が決まる。

しかし、ただの「棒倒し」ではない。
彼らが行っているのは、いかに攻撃し、どう防御するか、
勝利の為、日夜問わぬ激しい訓練。
相手方に潜入し行動を調べ上げる諜報活動、夜な夜な練り上げられる秘密会議・・・
防衛大生たちが行っている棒倒しは、実戦さながらの戦闘訓練そのものなのだ!
この棒倒し競技で優勝することは、各大隊の名誉。
そのために学生たちは一年間、心身共に鍛錬を積んできた。

将来の国防を担うエリート自衛官候補生が
大隊の意地と名誉をかけて真剣勝負を繰り広げる「防衛大の棒倒し」。
男たちの熱き闘いが今年も始まった。
番組では昨年に引き続き今年もこの「伝統ある世紀の決戦」に密着!
その全貌とは…。


テレビをお持ちで、BSが観られる方は、ぜひ22日の朝5時半にBS朝日にチャンネルを!

そういえば、今年はテレビカメラが入っているなあとは思っていたんですよ。
それにしても朝5時半、しかもわずか30分番組とはいえ、こういう題材を取り上げてくれる
テレビ媒体もあることにわたしは少し安堵しました。
こんなことでなんで安心するのかという気もしますが。


(訂正が入りました。
放映時間は朝ではなく

12月22日、夕方5時30分

だそうです。
BS朝日をお見逃しなく!)

さて、次回は留学生展示についてお話しします。
そして相変わらず時事問題へとなだれこんでしまうのだった(笑)


 

 

防大祭「小原台の青春」〜留学生展示と「ASEAN共栄圏」

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防衛大学校開校記念祭の見学記をお送りしております。

人気の留学生模擬店コーナー。
留学生は観閲行進には参加しないようですし、
この機会に自国文化の紹介に務めるのが使命、ということなのか、
各模擬店の民族料理コーナーはどこも力が入っています。

特にここ、大人気のタイ留学生屋台。
お昼時だったこともあって、食べ物を求める人が長蛇の列。



これです。

わたしはこの日サンドイッチ持参で来たのですが、
飲み物をどこかで買わねばならず、うろうろしていたら、
この眼鏡くんが、

「ジュースだけなら並ばずに買えますよ〜」

と声をかけてくれたので、ライチジュースを買いました。
と〜〜〜〜〜〜〜っても甘かったです。

 


各国留学生が民族料理の屋台を出しているテント脇。
まず、「何故こんなところにスーツで?」と、
その素性をあれこれ想像してしまうような手前の2人組と、
向こうにはただ者ではない雰囲気の男性たち。
背丈もありますが、どう見ても恒常的に「身体を使っている」、
つまり現役の軍人さんに見えます。
しかもどうも全員日本人じゃないみたい。
左の制服もどこかの国の軍人さんですよね。



こんな夫婦が普通に歩いていたり、防大祭は実にインターナショナル。



体育館の中で行われているのは各国留学生たちによる文化紹介展示です。



タイは王国なので、国王夫妻の「御真影」を掲げます。
この国に於いては軍隊は「国の象徴であり主たる国王を守る」、
ひいては国を守るものとして位置づけられているのです。


そういえば、前防衛大校長の五百籏頭真という人物のこんな逸話を思い出しますね。

ひとりの学生が、海外からの留学生との交流から知ったこととして、
「タイ軍からの留学生が『王様のために戦う』というはっきりした
信念を持っていたということに感銘を受けた」
というと、これに対して校長である五百籏頭氏は、
「戦前の士官学校生もそうなんですね。
頼もしいといえば頼もしいが、
問題は視野狭小になって暴走しないかということなんです」と「水を差した」

という話。

この人物の香ばしいほどの左翼臭(しかも自分のことを左翼だとは思っていないらしい
本来の意味での『確信的左翼』)については何項か割いてお話ししましたが、
自分の思想に合わない外国の現行国家体制を、戦前の日本を攻撃したいがために平気で非難する、
この発言など、左翼学者の真骨頂という感じですね。

そもそもその前に、留学生当人が不在とはいえ、タイ王国から来ている軍人の国家理念に対して、
同校の校長としてこんな失礼な言い方があるでしょうか。

左翼って、平和とかリベラリズムとか、とにかく自分の理念のためには、
それによって誰がどう傷ついても、極端な場合は傷ついても死んでもおかまいなし、
みたいな独自の暴論を展開しますが、これこそがご本人も言う

視野狭小になって暴走

そのままじゃないですか。

ご本人、「他国のナショナリズムを尊重する」ということを度々仰っているようですが、

あなたのおっしゃる「他国」とは、何処(と何処)のことかしら?

改めてお聞きしてみたいものでございます。



留学生たちはこの日は各国の軍服や、民族衣装でブースに立ち、
訪れる人の質問に日本語で答えます。
彼らは生活全てを日本語で行っているわけで、当たり前ですが、全員日本語が達者。



ベトナムコーナー。
男性もアオザイ着るんですね。




タイのコーナーには七夕のように、願い事を書いて枝につける、
という木がおいてあり、子供たちが軍人さんに短冊(とはいわないか)
をつけてもらっています。

この後ろ向きの留学生二人とも、ちゃんと短剣佩刀していますね。
これが世界の軍服の基本なんですよね。

自衛隊の「短刀のない軍服」は、即ち自分の意志で国が「戦う力」を奪われていることの
象徴のように思えてしまいます。


ところで、タイという国は、戦前の日本と並んで
「一度も他民族に支配されたことがない」国なんですよね。
王朝があって主権たる王を頂いていたことと、この事実には
五百籏頭さんがなんといおうと重要な関係があるとわたしは思います。

そして音楽まつりの国旗でも思いましたが、タイ国、真の親日です。
その親日度を表してか、展示も非常に気合いが入っていました。



しかし、気合いにかけてはこの国も負けてないよ。
モンゴル。



何しろこれですから。
モンゴルの学生さん、こんなのどうやって持ち込んだの?
婆娑羅大将のブログによると、これが夜になると

婆娑羅砦のブログ〜夜のパオ

まるで全体がランタンのようになり、幻想的です。
こういうものをわざわざ苦労して展示して見せてくれると言う、
彼らの心意気が実に嬉しいですね。



ぶれてしまいましたが、フィリピンの軍服で「記念撮影要員」として
にこやかに立っていたイケメンくん。




タイ軍団はどうも屋台でも渾身の料理を供した模様で、
イートインコーナーにおかれたホワイトボードには、

「アロイ!」(美味しい)「世界一うまい」「まいう」「馬」
「いいね!」「Good job!」

など激賞のコメントが並んでおります。



ここは、カンボジアブース。
ちょうど民族音楽の演奏を始めるところで、人垣が出来てしまい、
頭上からカメラを出して写真を撮りました。 



ここで、いきなりですが恒例の時事放談の時間です。



先日、安倍首相が緊急会見を行い、

「これからの日本はASEAN諸国と連携を深め、
中国の脅威に防衛面で協力し合いたい」

つまり一言でいうと

「大東亜共栄圏」(中国・韓国抜き)

構想を声明として出しましたね。
民も官も、わざわざ反日で法律すら信頼の理由にならない、
すなわち互恵的どころかこちらだけがリスクの大きい中・韓と無理してつき合うより、
親日で信頼のおけるASEAN諸国と仲良くしていくことに舵を切ったのです。
安倍自民が誕生してから、この動きははっきりと見えていましたが、
今回のことでこの方針は正式に声明として発表されたのです。

これは、まさに歴史的な出来事だとわたしはこの報道に注目しました。。


しかし相も変わらず、この記者会見でのマスゴミ記者連、酷かったですね。
このときの会見、とくにフジテレビの政治記者の質問、ご覧になりましたか?
左手を腰に当て、右手をポケットに突っ込んだまま、

「民間航空の中国に対する飛行プランを提出させるのか?
韓国は出しているが」

その他の社の質問も

「集団的自衛権についての憲法改正」
「北朝鮮ナンバーツーの処刑をどう思うか」
「拉致問題をどう考えるか」

ええつまり、誰も「ASEAN」のAすら口にしなかったんですよ。
ASEANとの連携について具体的に質問したのはロイターの記者のみ。
報道機関って、もしかしたら、自分の会社の懸念事項だけを確認するため、
あるいは安倍首相の失言狙いだけが目的でここに来ていたのかしら。



ともかく、この体育館で非常にフレンドリーに展示を行っていたアジアの国々、
それはそのままその国の日本に対する「親近感」を表していました。


そこで、ふと気になったことがあります。

国を挙げて反日教育を行い、日本には常に「反省」を迫り、

「日本は我が国を植民支配して苛酷な統治下におき、
何万もの無辜の女性を拉致して慰安婦にした」


と主張し、
竹島に不法占拠しているくせに国際司法裁判所に決して出てこず、
何かと言えば竹島の領有を大声で世界に吹聴している、あの「お隣の国」。

ここからも防大には留学生が来ているわけです。

考えてしまったというのは彼らの日本に対する考え方。
同盟国ということなので当然留学生の受け入れもしているわけですが、
政府と国民が反日なのに、韓国軍人だけが「親日」なんてこと、ありませんよね?

防衛省が主導する日韓の交流は、防衛相レベルの会談が行われたのはもう二年半前、
部隊間交流ももう二年行われておりません。
同盟国としての防衛連携にしても、その締結する日、たしか、お隣は当日だか前日だかに
いきなり断ってきましたよね?

友達との約束ですら当日理由もなくドタキャンなんて、
その日を限りに絶交されても仕方ないくらい失礼なのに・・・。

幹部学校に見学に行ったとき、エレベーターの前に、
秋山真之の立派な彫像があり、日本国旗が掲げられているのですが、
そこに、日本国旗と全く同じ扱いで、全く同じ大きさの韓国旗があるのを見ました。
不思議に思って

「どうしてここに韓国の旗があるんですか」

と訊ねると、韓国からの留学生がいるから(一人だったか複数かは分からず)
という返事でした。
留学生に対する敬意の表し方にしては、正直、少し仰々しすぎないかなあと思いました。
そうでもしないと向こうから文句でもでるんでしょうか。


だいたい、向こうで日本国旗を同じように扱ってくれるんですか?
国会議員が皆で日本国旗を踏みながら歩いている写真を見たことありますし、
民主党政権での日韓会談のとき、会談の場に日本国旗だけがありませんでしたよね?

たとえ自国の国旗を踏んだり焼いたりする国に対しても、こちらは礼節を崩すことは決してしない、
わたしはそんな日本の公明正大さが好きですし、そんな日本人のひとりで良かったと思います。

しかし、仄聞によると、

「現場の自衛官たちの『お隣の国』に対する感情は、
もはや積み重なって限界に来ている、らしい」

確かめようもないながら、このような噂があるのも事実です。



この日の展示に話を戻しまして、前回紹介した「平賀工廠長さまのブログ」によると

「おとなりの国はほとんどお客がいませんでした」

と、この防大開校記念祭のレポで書いておられるんですね。
わたしはこれを読んで「はて、そんなのあったっけ?」と首を傾げました。


上記のような両国間の摩擦を日頃からウォッチしているわたしとしては、
もしここに「おとなりの国」の展示があれば、特に念入りに観察し、
留学生の様子を報告していたはずなのですが、それらしい展示すら全く気がつかないままでした。

もしかしたらわたしが行った頃には、展示を撤去していたとか?
どちらにしても、これらのアジア諸国出身の留学生とは違って、
韓国留学生には全くこういうアピールをしようとする意欲も熱意もないらしいのはわかりました。


日本人というのは基本お人好しですから、もし彼らが

「自国の文化紹介や両国の友好のためのイベント」

に参加しようという気さえあれば、この国が反日であることや自分の中の「忌避感」はさておいて、
目の前の留学生に対してだけは非常に親しみを持ったと思うんですけどね。
そして日本人たちが「国はああでも、個人は別だ」と考えるいいきっかけにもなったでしょう。

しかし、留学先で一般の日本人と触れあう唯一の機会に全く何もしようとしなかったというのは、
彼らが所詮、

「軍からの命令で仕方なく留学し」

さらに「仮想敵国」の偵察でもしているつもりでいるからなのか。


安倍政権がパククネ大統領に対し

「対話のドアはいつでも開いている」

と声明を出しているのにも係らず、頑として日本との首脳会談を要請せず、
それどころか大統領は世界中で日本の悪口をいう「おばさん外交」を繰り広げました。

そして、つい先日、韓国は

「日本の集団的自衛権の中止を求める決議案」


を採択しましたが、


でって言う(大笑)

どこの世界に、自分の国の領土を不法占拠している国の国会決議を
はいそうですかと採択する「敵国」があるというのか。
また、

「日中韓3国間の間に共通の歴史認識を」

などという、物理的にも不可能な話をこの国は真面目に訴え続けているわけですが。
だいたい、そんなことを言い出すなら、そのまえに戦後起こった
「朝鮮戦争」で、中国との共通の歴史認識をまずまとめてから言え、といいたい。




今までは日本の中の寛大な政治家が、感謝するどころか
「支援額が少ない」とか「遅い」とか「援助されなくても困らなかった」
などと虚仮にし続ける相手に対して売国的利益供与をはかって来たわけですが、
あまりにも分かりやすく大統領が「反日」を炸裂させたため、
今まで黙っていた『実は韓国嫌い」な日本人たちが、堂々と、

「だって1000年恨むんでしょ」

「あの天皇侮辱発言だけは許せない」

「面と向かって非難ならまだ我慢できたが、悪口外交は堪忍袋の緒が切れた」

などと公言できるようになり、空気を読む日本の雑誌も「嫌韓ネタ」は売れるため、
パク大統領を紙面で「今週の馬鹿呼ばわり」までするご時世になってしまいました。

辛抱強い、というより「言えないことも周りの目を気にしていえなかった日本人」が、
堂々と非難できる空気が蔓延するきっかけを、パク大統領は与えてくれたというわけです。


こんな稚拙な外交しか出来ない国家指導者を戴くこの国は、つまり精神的に全く
「子供国家」のままなのです。
そして時代を担うこの国の若者たちもまた、未成熟な国家のドグマと現実の二律背反にあるらしいことが、
たかが文化祭の展示から透けて見えた気がしたのでした。

彼らの不幸とは生まれる国を選ぶことができなかったことかもしれません。
ふと、「原罪」という言葉が思い浮かびました。




大好評の料理が全て売り切れてしまい、店じまいのため

「ありがとうございます」

と表示を出したのだけど、それでは「もうおしまい」ではなく
「いらっしゃいませ」
という意味であることを日本人学生に教えてもらって初めて知った(らしい)
インドネシアからの留学生たち。

「ありがとうございますました」

と表示を直して、店じまいです。

日本語難しいね〜。


さて、防大祭シリーズ、もう少しだけ続きます。


 



 


平成25年防大開校記念祭〜小原台の青春

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さて、防大開校記念祭、いよいよ「小原台の青春シリーズ」です。
今年もシャゼンの芝生に置かれた石に陣取り、前を行く防大生を
激写してまいりました。

 

観察スポットはここ。
お誂えむきに、ここに腰を下ろせるベンチのような石がありましてね。
おそらく学生さんはこんなところに座ってのんびりなどしないのでしょうが。



おっとその前に、第二大隊の校舎内で行われていた棒倒しの秘密練習を。
この日は全館が一般解放されており、生徒に混じってカーチャンらしい女性が
間近で見学している(ただの野次馬?)姿あり。
皆窓越しに物珍しそうに観ています。



総じて防大生たちは、こんな日に外部の好奇心にさらされても、
見られることを意に介さないというか、ちらっとも外野に視線を向けません。

兵学校に映画「勝利の礎」を撮影に行った映画クルーも、
彼らの日常をカメラに収めた写真家真継氏も、口を揃えて言うのは
「兵学校の学生の娑婆の人間の視線に対する冷徹なまでの無関心」でしたが、
現代の兵学校学生であるところの防大生もまた、
「観られ、注視されることに慣れきった」ゆえの動じなさがありました。

それはいいとして、この中庭に出て、訓練中の学生の横でタバコを吸う人たちって、
なんなのこれ?(怒)

もしかしたら、ここに学生用の灰皿でもあるのかしら。
そういえば、防大生の喫煙って、どうなってるんでしょうね。
法律的には兵学校でもそうだったように二年生から吸えるわけですが。 




この特訓をしていた中庭の横にあった「洗濯物干場」。
恐ろしいくらいきれいに片付いて、というか何もありません。

防大生は全て自分の衣服を自分で洗い、ここに干して、
自分でプレスするわけです。
兵学校を描いた映画を観ると、洗濯は手洗いで行い、
さらにそれを外に干していたようで、さすがに今は洗濯機がありますが、
アメリカとは違い「何でもかんでも乾燥機」というまでは省略化されていませんから、
それなりに大変だろうとおもいます。

余談ですがアメリカの場合はそもそも洗濯物を「干す」という習慣がもう無いんですよね。
彼らにとって庭は決して「洗濯物を干すところ」ではありませんし。
ついでに言うと、日本人が窓やテラスの外壁に布団を干す習慣、
あれを欧米でやろうものなら、必ず付近住民がクレームを言ってきます。




隊舎の掲示板には儀仗隊のこのようなポスターもありました。
前回書き忘れたのですが、儀仗隊の制服、これは

「冬制服の上着に夏制服のズボン、夏帽子」

なんですね。
言われてみてなるほどと思いましたが、元々の制服のイメージとは変わるものです。
しかももし夏上着に冬ズボンだったらと思うと・・・・
なんだかボーイさんみたいですものね。
よく考えてあると思います。


それから、わたしも去年の写真で気づきましたが、儀仗隊、女子学生がいるんですね。
めりさんは見学のときにその情報を女性自衛官から聞いたそうです。
全体的にあまり突出して背の高い隊員はいないようですし、(平均168くらい?)
配置で目立たないようにしているのか、女子学生が混じっていても全く遠目には分かりません。


ところで皆さん。特別情報です。
今回、防大生が着用している下着についてのマル秘情報まで得てしまいました。

防大では下着まで指定がないため、どんな色・形のものを着用してもいいのですが、
夏の白ズボンのときは下着の色や線が出るので、それを隠すため、
上に一枚(おそらくベージュの何か)を着用するそうです。

昔の兵学校学生にその心配は無用でした。
なぜって、その頃は皆下着として褌を着用していたからです。
これなら夏の白いズボンでも、ラインが出ることはありません。
しかも、重ね履きの必要もなく、暑い夏には快適。

サイズフリーでさらに丹田を締めることで気合いも入る。
今の感覚で「かっこわるい」ということを除けば、実用的だと思うのですが、
防大で復活は・・・・ないでしょうね。






壁の写真で女の子が品定め?をしていました。
こんなこともあるのだから、プロフィール写真は真面目に撮っておけとあれほど(略)



いやだから、わざわざこういうアピールの場があるというのに、
どうして写真を貼らずに「ここに写真を貼りましょう」の人をそのままなぞるかな。
これじゃプロフィールを読んでも防大生の彼氏が欲しいお嬢さん方には
興味の持ちようがないっていうか。

好きな映画は「トイストーリー3」。
特技はお手玉で趣味は将棋。
今一番欲しいもの、「金」。
好きなタイプは「やさしい人」。

個人的にはこんなセンスの男の子、好きですけど、まあわたしに好かれてもねえ。




警備か案内か、何かの任務で来ていた海自の自衛官を捕まえて話を聞く男性。
こういう団塊世代の男性を、自衛隊イベントでは実にたくさん見ます。

防大生のお爺ちゃんか、さもなければ「勉強熱心な人たち」?
一般の大学等とは違って、普段その内部を知ることがないだけに、皆興味しんしんです。

この日は防大生たちも「見られている」を意識して振る舞うのでしょうか。



これは・・・・学生服でナンパ?

現代の防衛大学校とはいえ、特殊な公務員である彼らに職務中そう言うことは許されるのだろうか。
と思ったのですが



この女の子たちの遠目にも明らかなはしゃぎぶり、そして、
必要以上にオーバーなリアクションを見る限り、
防大生たちは「アンケート」とか「勧誘」のために女の子を呼び止めただけで、
彼女らの方が制服のイケメン二人に声をかけられて舞い上がっているように見えました。

案の定、このあと、何事も無かったように彼らは別れました。


さて、防大生の彼氏がいる女の子が友達を連れて来て、
彼氏の友達を紹介してもらう、ということもあるようです。


その実例。




「あ、ちょっとちょっと、山田こっち来て」
「え?何」(ニヤニヤ)



「紹介するわ。俺の彼女のマイと大学の友達二人、
なおちゃんとともこさんな、
これは僕の同じ大隊の友達で、山田」



「初めまして。ともこです(背は高いわね)」
「なおみです。(ちょっとタイプだわ)」
「(でもどっちに紹介するつもりかしら)」

「というわけ。今度田中も誘って三対三でどっかいこうぜ」
「いいね〜(ともこさんがいいなあ)」

などという青春模様が目の前で展開しました。
このあと山田はともこさんとうまくいくのか。

お断りしておきますが、この会話はフィクションです。


いずれにしても微笑ましい。
大学祭で出会っておつきあいが始まるなんて、なかなか楽しそうではありませんか。
若いっていいなあ。(遠い目)

それに、防大生は日頃女の子と触れ合う機会があまりないとのこと。
勿論防大には女子学生もいるわけですが、何と言っても彼女らは「同僚」なので、
どうしても外に目が向いてしまうのかも知りません。

自衛隊に入ったらさらにその機会がなくなるということなので、
せいぜいこんな機会にガールフレンドを確保しておくのがいいかもしれませんね。

それにしても、自衛官はモテないなんていわれた時代もあったそうですが、
防大生だけは、昔も今も結構な「女子の憧れ」なんじゃないんでしょうか。

わたしは適齢期のとき、この世に防大生という人種がいることすら知らなかったわけですが、
もし当時、観閲行進とか、特に儀仗隊の演技とか、
一目見る機会があれば「かっこいい!」って目がハートになっていたと思います。


だって何といってもこの制服ですよ。
旧海軍兵学校の学生のモテ原因もそうだったようですが、制服マジックって、ありますよね。

前にも一度書きましたが、リチャードギアの映画「愛と青春の旅立ち」は、
原題"An Officer and a Gentleman"「士官と紳士」言いまして、
つまり、この映画の主旨を一言で言うと

「海軍士官の制服に惚れない女はいないぜ。
でも制服しか見てない女とつき合うと制服を脱いだときフラレて自殺するはめになるぜ」

(ぜんぜん一言じゃないけど)

というものなんですね。
ええ、アメリカは特にこの「士官の制服」にはそれだけで女の子が群がってくるんです。
アメリカでは日本と違って海軍士官の妻は「玉の輿」ですからね。

日本はアメリカほど軍人をちやほやする国ではないため、たとえ士官でもさすがに
「玉の輿」というまでにはいきませんが、それも考えようによっては、
「制服マジック」の落差、つまり「制服を着たときと脱いだとき」のギャップが
アメリカほど無い、と言うことも出来ます。


いずれにせよたまたまですが、入間の航空祭でも同じような光景を目撃しましたし、
もしかしたら自衛官って、同僚の彼女にその友達を紹介、というパターンで
お嫁さんを見つける人が多いのかもしれないですね。

兵学校では、クラスメートの「妹」の写真を見せてもらって好きになり、
休暇に押し掛けていって実物を見て写真と相違なければ結婚申し込み、
というのが結構多かったようです。

士官の結婚は当時海軍の許可が必要でしたが、相手が兵学校の学生の妹であれば
その素性に間違いないわけで、調査も必要なく、合理的だったのかもしれません。




この二人は一緒に棒倒しを観戦していました。
ハイヒールでこの芝生の傾斜を歩き、さらに座るのは大変だったと思うがどうか。

しかし、めったに会うことの出来ない彼、しかも普段見ることない一種軍装姿の彼に、
一番素敵な自分を見て欲しい。
その女心が8センチのヒールを選ばせ、この日だけはそれを苦とも思わないのですね。
わかるわかる。




女の子の荷物を全部持ってあげているやさしい彼。
二人の様子から、付き合いは長いと見た。
高校の同級生かな?



これも彼女とその友達(学友に紹介予定)パターンか。




隊舎の前に、なにやら掲示板がありました。
お、これは入間基地でもやっていた「推しメン選挙」かな?



どうやらこれも自己アピールコーナーのようです。
しかし、真面目にアピールしようと言う気があるのか君たちは。
自分のちゃんとした写真を貼っているのは半数くらい。

誰だよ

本人に似てるのか?

こんな防大生がいるかああああっ!



関心のある人はこんなに一生懸命に見ているというのに・・・。



ネコの防大生がいてもいいじゃないか。
ネコ好きの女性ならこれだけで興味持ってしまうかもしれません。 



さて、勿論、開校記念祭で防大生は彼女と会うことばかり考えているのでありません。
(たぶん)

この日のために全国津々浦々から駆けつけて来た彼の家族。
お父さんお母さんお爺ちゃんお婆ちゃんきょうだい、
かれらに大学を案内する学生さんの姿もたくさん見られました。



両親と妹。
お母さんは大胆にも娘と同じ丈のミニスカート着用だ。



両親とお姉さんかな?
ピンクのフード付きがお母さんのようです。




芝生の観覧席に敷いたシートに座り、
お母さんと話をする学生。

かれはこのあと棒倒しを家族に解説しながら一緒に観戦していました。

棒倒しが始まるまでシートで寝る人も多く、
画面左下のカップルは女性の身体を枕に熟睡する男性と、
枕になっているその連れ。
因みに、元画像ではこの女性がカメラを凝視していて、怖いです。

あなたがたを撮ろうとしたんじゃないんですすみません。




これは女子学生。
普通大学に進学した友達と歩いている様子ですが、
防大の制服を着た学生を見て、友達はどのように感じるのでしょうか。




女子学生二人連れ。
右側の学生さんに写真を撮っているのを気づかれました。



この日、防大では「防大ツァー」が催されます。
何人かを公募して、学生の説明を受けながら校内を巡るのです。
去年、知り合いの方がこれを勧めてくれたのですが、
定員に達していてもうすでに受付は締め切られていました。



「こちらがグラウンドでございます〜」


去年の「小原台の青春」に、防大生ならではの悩みや挫折について書いたのですが、
やはり国の防衛を預かる軍組織の指揮官を養成する機関が厳しくないわけがなく、
「どうしても合わない」と辛さに耐えられずやめてしまう学生がいるかと思えば、

「毎日が楽しくて仕方がない」

という学生もいるらしい、というお話を読者の方とのやり取りで教えていただきました。
あくまでも個人の性格、いい友人や先輩に恵まれるなどの環境にもよるとのことですが。

どんな組織についても言えることですが、どちらかといえば楽天的な性格の学生の方が、
どんな環境にもうまく順応して自分の居場所を見つけやすいのかなと言う気がします。


因みに、震災後自衛隊への好感度が急激に上がったことに伴い、
応募もそれだけ増えたのか、というと実質はそれほどでもなく、
尖閣情勢の変化のせいもありますが、その理由のひとつは、親が

「3Kだから我が子にはやらせたくない」

と言う理由で止めるというものだそうです。
看護師を描いた漫画、「おたんこナース」で、主人公のユキエが受け持ち患者に

「看護婦さん、いつも大変だねえ。ありがたいよ。
こんな仕事、わたしの娘には決してやらせたくないよ」

と言われて愕然とするシーンがありますが、ついそれを思い出しました。
有り難いし、尊い仕事だとおもう、大変な仕事には賞賛を惜しまない。
しかし、


自分はやらないし自分の家族にはやらせたくない。


こういう人が、やはりいるんですね。






思わずしみじみと見てしまった写真。
お母さんはこの日のためにやって来てどこかにホテルを取ったのでしょうか。
そのキャリーバッグを引いてあげる息子。

「訓練は辛い?」
「普通や」
「何が普通やの」
「だから普通にやってるって」
「あんたちゃんとアイロンがけとか洗濯とかできてるの」
「やらなあかんもん」
「お母さん信じられへんわ。あんたが自分でボタン付けしてるやなんて」
「そんなん誰でも教えられたらできるわ。俺得意やで。
・・・・・そんなことええけどお母さん、今晩気いつけて帰りや。
 見送り行かれへんけどごめんな」

「・・・・・ありがとう」


(´;ω;`)ウッ←エリス中尉


繰り返しますがこの会話はフィクションです。





二日間のクリスマス特別エントリを挟んで続きます。







 



 

クリスマスのターキー・レシピ

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少し画像が大きすぎましたかね。

というわけで、今年もクリスマスにターキーを焼きました。
去年、mizukiさんのレシピに忠実にやってみようとして、
そんなつもりはないのに、結果、抱腹絶倒のドタバタ劇となってしまったわけですが、
今年は、去年の轍を踏むことなく、慎重にことを運んだつもりです。

その甲斐あって、冒頭画像のような素晴らしいクリスマスのごちそうに!
先に結果からご報告しますと、お味も大成功でした。

今年は、去年いただいたmizukiさんのレシピと並行して、
その過程をご報告していきます。





まず、去年のコメント欄でmizukiさんのレシピの部分を出して来て、
キッチンにセット。 
慎重でしょ? 


●実家のレシピをご紹介いたします。
ターキーは冷蔵庫で一週間くらいかけてラッピングのまま解凍します。



今年も紀伊国屋で、一週間前にターキーを買っておきました。
紀伊国屋はアメリカ産の大きいのと、このフランス産の小さいの、
二種類を仕入れていて、去年と同じく小さい方を選びました。
気になるお値段ですが、この大きさで2800円。
家族三人で食卓を囲み、スープに、残りをチャーハンにと三食分は活躍するので、
このお値段は決して高いものではありません。

小さいので、解凍時間は冷蔵庫に三日で十分でした。

●前日にラッピングを開き、ドリップを捨ててペーパータオルでよく水分をふき取ります。
中の水分も良く拭いて、ペーパータオルで覆ってラップをかけて再び冷蔵庫に。



解凍時間が短かったので、この過程はさっくり省略しました。(てへぺろ)
朝、こういうところに置いて血が滴らなくなるまで放置。
その後、ペーパータオルで丁寧に表面を拭います。

というところで、いきなり気分転換に一息ついて休憩。



考えたら朝ご飯も食べてなかったんだわ。
いつも朝ご飯代わりの紅茶をここでようやく淹れることにしました。
今日はマリアージュ・フレールの「ウェディング・インペリアル」にします。



卵形のストレーナーに茶葉半分。



いつもは甘み無しですが、今日はマヌカハニーを入れることにしました。



アメリカでも愛飲しているイーデン社の豆乳を投入。
カップはこの夏アップルの本社で買ったものです。
あまりちゃんとした品質ではないらしく(中国製ではないけど)、
リンゴに早くもヒビが入っています。



●さて、いよいよロースト当日ですが、焼く1時間くらい前に冷蔵庫から出して室温に慣らします。
岩塩とブラックペパーをまぶし、中にもしっかりと。



こういうのを見ると、Mr.ビーンをやっぱり思い出してしまうのだった(笑)
たっぷりと塩胡椒を振りかけます。

ところで、料理開始前、キッチンのストックにこんなものを見つけました。




無印良品のローストチキンソース。
本来、チキンとこのソースに漬け込んで焼くもので、
無印良品というのは最近こういった「お料理便利シリーズ」を次々と出しており、
わたしは取りあえず新しいのを見るとどれも試してみます。
ここの食品には、「アミノ酸等」がないので、その点安心。

今日のターキーにはこの市販のソースを使ってみることにしました。



刷毛でペタペタ。
まんべんなくカバーし、残りは全部内部に塗り塗り。

さて、塩こしょうに加え、ニンニクベースのこのソース。
今年はどんなお味になりますことやら。



背中が上でよかったんだっけ。



それともこっちだったかな。

去年は、デロンギのピザオーブンに入れようとしたら小さくて入らないことに
直前に気づいて、急遽家に備え付けてあった古いオーブンを使いました。


「あたかも戦艦ミズーリを使うことを決意した『バトルシップ』の主人公のように」


とそのとき表現したくらい、古色蒼然たるオーブンでしたが、この夏、
戦艦ミズーリのドアがついに外れてしまい、退役。
買い替えを余儀なくされた我が家は、「ヘルシオ」というウォーターオーブンを購入。
前のオーブンがミズーリなら、こちらは最新鋭イージス艦みたいなものです。

しかし、オーブンを使うような凝った料理をせずに日々の料理をてきとーに作っている
「手抜き主婦」のエリス中尉、オーブンとして使用するのはこれが初めて。

「失敗するとしたらオーブンの使い方だと思う」

とmizukiさんには一応言い訳をして予防線を張っていたつもりですが、なんとびっくり。




科学の進歩とはなんて素晴らしいのでしょうか。
このオーブンのメニューにはちゃんと

「ごちそう焼き物」

というメニューの火加減がインプットされておりました。
ごちそう焼き物、それはまさに「鶏の丸焼き」のことなのです。 
オーブンを前もって暖める必要もなく、ただタンクに水を入れ、
時間をセットして(22分だった)トリを放り込むだけ。

この「ヘルシオ」ですが、「ヘルシー」、つまり減脂、ビタミン保持、
あらゆるパターンを想定してメニューがインプットされています。
「減る塩」というその名の通り、どういう仕組みか分からねど減塩する機能もあるというのですが、 
必要最小限の料理しかしないエリス中尉にとってはわりと猫に小判。
機能のほとんどを使うことなく今日まできたわけです。

なんと勿体ない・・・・・。


でも、たぶんこれからもそんなに使わないんだろうなわたし。





いよいよ焼きます。




首っ引きになるとおもわれたオーブンの解説書(ドアに映り込んでる)は、
メニューを設定する方法を確認するだけに終わりました。

まるでSFものの未来の家庭で料理をしているシーンみたいです。
ぴぴぴ、とボタンを押せば、もうオーブンは仕事を始めていました。

mizukiさんのレシピには

●天板にお湯を張り、ブレストを上にしてターキーがぬれないように網に載せ、
ついでにポテトも周りにずらりと。
溶かしバターを万遍なくかけて、余熱で暖めたオーブンに!

●ターキーは、途中で何度か溶かしバターをかけてあげます。
大きさにもよりますが、1時間ほど焼いたら、裏返して40分、また裏返して20分、
大体2時間くらいで焼きあがります。

とあるわけですが、そもそもこのオーブン、ロックがかかり途中でドアを開けることができません。
わずか22分の間、ひたすらオーブンが仕事をし続けるためです。
勿論、完璧にこげないような「火加減」がセットされていて、途中でひっくり返す必要もありません。


●ターキーの中に、ネック、砂肝、レバー、ハートが処理されて入っていますので、
これらを出してグレービーに使います。
焼けるまでの間にグレービー作りです^^玉ねぎ、セロリ、ニンジンを小さく切り、
とっておいたネック、レバー、砂肝、ハートと一緒にバターで焦げないように炒めます。


 

ネックは固くて刻むことは出来ませんが、煮込むと跡形もなくなります。



グレービーの野菜はタマネギと人参。
セロリは買うのを忘れました。 

お湯を注ぎ、コトコトと煮ていきます。



ここで、相変わらず手抜きに走るエリス中尉。
圧力鍋で否が応でも食材を短時間で煮込んでしまうという暴挙に出ます。
ターキー本体がたった30分ほどで焼けることが分かったので、
こちらも時間を短縮する必要があると思ったからです。


ターキーがオーブンの中、ソースは圧力鍋にお任せ。

●そうそう、ターキーに刺さっているターキーピンはあてになりませんので、
はじめに抜いておきましょう。
ピンが飛び出すまで焼くと、とても悲しいターキーになります^^;

最初のパッケージの写真の横にピンが写っていますが、これは最初から使えませんでした。
一応ちょっと刺してみることも考えたのですが、そもそも

どこに刺していいかわからなかったのです。


●腿の内側にお箸をさして、透き通ったジュースが出てくれば出来上がり。


・・・・腿の内側?
腿って・・・・



ここかな?
何か脇の下みたいに見えるけど・・・。

うん、一応焼けたみたい。



完成じゃあ!

左手・・・じゃなくて左の手羽がなんか怖いことになっている・・・。

そしてジャガイモが殆ど生のように写っていますが、生です。
ジャガイモを最初に入れるのを忘れていて、今置いたばかりだからです(爆)

ターキーはこの時点でしっかり焼けていたので、ジャガイモは
グリルオーブンの方に移動願いそこで焼くことにしました。

●できあがったターキーはホイルで覆って10分ほど休ませると、
切っても肉汁が流れずにジューシーです。

この過程もするのを忘れました。
しかし身を切っても肉汁は全く流れなかったので、このターキーには必要なかったと思います。
去年も思いましたが、アメリカのターキーよりこれは脂肪分がさらに少ないみたいなんですよね。


●さてさて、天板にはバターとターキーのジュースがたっぷり!
これをネックたちを取り出したストックに混ぜ、バーミックスでギュンギュンとすりつぶしていきます。
ニンジンや野菜がちょうどいいつなぎになりますが、
とろみが足りないときは水どきのコーンスターチを加えます。
塩で味を調えますが、お醤油を数滴混ぜるのが母の裏技^^
あっという間にグレービーの完成です!



バーミックス(もどき)ですりつぶし中。

水分を多めにしたのですが、これはこれで大変美味しかったので、
つなぎは無しでこのままかけることにしました。



フランス産のターキーはあまりぼてっとしていないせいか、
こういう風に置くと、いかにも

「よーい、ドン!」

で駆け出して行ってしまいそうですね。



グレービーも出来上がり。
さあ、いよいよ切り分けていただきます。

●さあ、ここからはTOさんの出番です!^^



はい、ちゃんとTOが切り分けてくれましたよ!
付け合わせはなんとか間に合った(というか少し焦げた)ポテトと、アリコベール。
グレービーの味付けは殆ど何もせず、塩こしょうだけでしたが絶品となりました。

 

オーブンの使いかたも、簡単で間違えようもなく、あっという間に美味しいターキーローストの出来上がり。
去年のクリスマス、春先に一度チャレンジしましたが、
間違いなく今回のターキーが一番美味しく出来ました。

・・・まあ、わたしがやった、というよりオーブンがやってくれた、って感じですが。



食後の紅茶は、戴きものの「梅の紅茶」を淹れます。



クリスマスケーキをデザートに戴きました。
ケーキの土台の色が濃いのは、小麦粉が「全粒粉」だからです。
漂白していない小麦粉でケーキを作ってくれるのは、今のところここしか知りません。

口の中で雪のように溶けてしまう軽いクリーム、そして、
小麦の味わいのあるスポンジケーキ。
クリスマスにしか手に入らないのですが、このケーキが好きで、
ここ数年、毎年ここに注文しています。

そして、その日の夕食は、



残ったターキーの身を全て剥がし、刻んでナシゴレンを作ることにしました。
ちなみにエリス中尉、手抜き主婦なりにこだわっているのが「ご飯」。
うちには電気釜はなく、胚芽米を土鍋で炊きます。
画像の発芽玄米は圧力釜に水を張り、そこに小さな土鍋釜を入れて蒸気で炊いたもの。
こうして玄米を炊くと柔らかく、モッチリとした食感になります。



スープは勿論、ターキーのガラで出したものです。

ターキーならずとも、チキンでも、丸焼きというのは意外と簡単にできるものです。

なんといっても皆で囲む「ごちそう焼き物」の食卓は、話題も弾み、
美味しいだけでなく、とても楽しいものですよ。
 




 

クリスマス IN ディズニーシー

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クリスマスの雰囲気が好きで、息子の学校が冬休みになってすぐ、
例年ディズニーシーにいくことが我が家の恒例行事となっています。
我が家と申しましても、この時期ただでさえ忙しい平時の2割増くらいで
忙しくなるTOがこれに参加したことは殆どなく、いつも母息子の二人連れです。

息子も大きくなって来て、そろそろ「母親とテーマパーク」という歳でもなくなり、
ここ一年は今回が最後かもしれないと毎回思いながら来るのですが、
先日、雨の降った平日に思い切って行ってきました。

朝起きると窓の外はいかにも冷たそうな雨がひっきりなしに降る最悪のディズニー日和。
しかし、我が家は、このような天気こそを歓迎するのです。
なぜなら、全日から予報は雨、平日、そして冬休み前。

こんな日はディズニーリゾートと言えども人が少なめで、
子供連れもおらず、ベビーカーの家族も激減します。
ディズニーシーはそれでもディズニーランドよりは「風情」を求めて
デートのカップルは多いですが、それでも「ガラガラ」という状態です。

「よし、行こう!」

号令一下、雨対策のために服装を整え、車に飛び乗ります。
着いたのは11時半ですが、パーク内の駐車場、しかも3階に停めることができ、

「やっぱり今日は空いてるみたい」

なかなかいい出だしです。にっこり。

 

雨といっても霧雨になることもあり、以外と傘なしで、歩く人が多い。
この4人はお揃いの合羽を買い込んでここで待ち合わせのようです。



ディズニーシーの好きなのは、写真の撮りがいのあるポイントが多いこと。
そういえばニコン1を買ってからシーに来るのは初めてです。
というわけで、本日も淡々と写真を貼って行きます。



対岸の人の少なさをご覧下さい。
これでお昼ちょうどくらいです。



キャッスルの「宝探しイベント」、「レオナルド・チャレンジ」。

今日も勿論やっていましたが、雨が降る中傘を差してうろうろするのは
誰しも好まないらしく、並ぶひとは一人もなし。
係員が所在なげにたたずんでいました。 



着くなりまず「センターオブジアース」のファストパスを取り、
お昼を食べることにしました。
さっそく「何食べよう?」の楽しい相談が始まります。

シーの場合、どのレストランもそれなりに美味しいのでいつも迷います。
ここのところ、息子がやたら中華に凝っていて、
いつもボルケーノのところの中華料理に行っていたのですが、
今日は趣向を買えて和食「サクラ」に行くことにしました。

お昼時なので、お店の前で列を作って30分くらい待ちました。
待っている間に周りを撮って時間つぶし。

今はiPadもiPhoneもあり、こういう待ち時間が全く苦にならなくなりましたよね。
周りの皆も、おしゃべりしていない人たちはこういうデバイスを見て時間を潰します。



わたしはずっと傘を差しましたが、息子はフードを被って一日傘無しで歩きました。
それでもたいして濡れなかったので、この日はいい感じに「人減らし」の雨となり、
わたしたち的には絶好の「ディズニー日和」となったわけです。
しかも、それほど寒くもなりませんでした。



やっと店内に入りました。
ここのシチュエーションは

「アメリカに移民した日系人がやっている和食のお店で、ニューヨークにある」

というもの。



「自分の氷を使って下さい」

これは、魚を仕入れる業者の道具のようです。



本当に使っていないと思いますが、扇風機。
写真を撮っていると

「この形は『隠れミッキー』なんですよ」

とウェイトレスさんが教えてくれました。
ディズニーシーは、造るときからいたるところに「ミッキーマウスのマーク」
をこっそり仕込み、「隠れミッキー」と称してそれを探す、
という非公開の「遊び」を編み出したのですが、これもその一つだと・・・。

まあ、そう見えないこともありませんが・・・・どうなんだろう。



お料理は、わたしも息子も即決でこの「チキン照り焼き」に決定。
このレストランでは昔(エントリにしたことがありますが)お正月に、
おせち料理を食べに来たことがあります、
このおせちが驚くほど美味しかったのですが、今日のお料理も非常に結構でした。
チキンが多かったので息子に二切れ食べてもらったくらい、ボリュームもあります。



「デザートいいや」

息子は言ったのですが、この


「きな粉のブリュレ」

という響きが気になって、一つだけ頼んで二人でシェアしました。
ちょうど真ん中にきな粉で線が引いてあるので分けやすかったです。
息子はとても気に入っていました。





レストラン外側。
ここから火山を望む眺めは、いつ見ても絵になります。




スィーツを売っているブースの屋根に、このような看板。
前にも説明しましたがしつこくもう一度。

「かみさんが掘建て小屋の前でメシを配っているが、
わしはここを回った後ろでエンジンを直してる」

で、後ろには





こういうのがあるのです。
ディズニーシーはいたるところにこういうちょっとした「仕掛け」があり、
ただぶらぶら歩いているだけでも楽しいので、カップルのデートに好まれるんですね。





寒そう・・・。




コロンビア号の方へ向かって歩くと、クリスマスツリーがあります。
ディズニーランド、もう30周年になるんですね。



ツリーの前には、列ができていました。
真ん前に立って写真を撮ろうとする人たちの列です。
キャスト(ディズニーリゾートでは従業員のことをこういう)が、
シャッターを押す係をしています。

自分の写真を撮ることにあまり興味のないわたしとしては、
どうしてそうまでして、とつい思ってしまうのですが・・。 




コロンビア号の前ではショーがありますが、その舞台もクリスマス仕様です。

 

最初にディズニーシーに来だした頃は、この「タワーオブザテラー」が工事中でした。
ちなみにアナハイムのディズニーランドには、やはりタワーブザテラーがあります。
わたしは一度一人で乗って、髪の毛が逆立つくらい恐怖を覚え、それっきり乗っていません。

ジェットコースターなら平気なのですが、これはフリーフォールで、
もう、筆舌に尽くし難い感覚です。







このあと何かイベントがあるせいか、連絡船はお休み。

知り合いの方の息子さんがこれの操縦をしていることをこの間知りました。
なんでもそのお宅はディズニーの年間パスポートを持っていて、
その息子さんも小さいときからリピーターだったわけですが、
長じてディズニーリゾートに就職してしまうくらいだとは・・。

しかし、ここのキャストと言われる人たちは、本当にディズニーが
好きで好きで仕方がない人たちなんでしょうね。

そうそう、思い出しましたが、今回、入場料金が値上がりして、
大人とジュニア(この区分けも前はなかったような気が)で、1万円を超しました。




コロンビア号をこの角度からちゃんと見たのは初めてかも知れません。

で、気づいたのですが、タグボートが今からコロンビアを押そうとしているんですね。
なるほど、そう言うストーリーがあったのか・・。




ケープコッドの灯台。
毎夏訪れるボストンからケープコッドまでは車で簡単に行けるので、
わたしたちもすんでいたときには何度か遊びに行きました。
お洒落なインや、クラムチャウダーなど、シーフードのおいしいレストランがたくさんあります。

ここにある灯台と同じ形のものもちゃんとあります。







ケープコッドの岬を泳いでいた鴨。
鴨なのに(笑)
この深い海の色は、どうやら着色しているらしいのですが、
さすがに鳥にいうことを聞かせるわけに行かないので、
鴨さんたちはおかまいなしにこういうところで集い、これが
潮水でないことをあらためて確認させてくれます。




ファストパスを取り、時間を待つ間、
いつも空いている海底二万マイルで時間潰し。




この向こうにあるフードコーナーの餃子は中々美味しいです。




これもどうやらクリスマスの飾り付けらしいのですが、
下にあるボタンを押すと、「ちゃりらり〜ん」と音が鳴り、
このゴミ箱と風船がキラキラ光ります。


「なぜ、ゴミ箱・・・・」


息子が悩んでいるので、わたしが勝手に解釈し説明をしてやりました。

「ディズニーランドは、お掃除をする人も『キャスト』なの。
お掃除する人も、この『おとぎの国』を演出するという役目を負っているの。
『モップで何を集めているんですか』と聞くと『星のかけらです』とか答えたりするわけ。
だから、ディズニー的にはこれは『ゴミ箱』じゃなくて『星のかけら箱』なのよきっと』
「そうか〜・・・納得」


それが正しいかどうかについて当方はいっさい責任持ちません。

さて、この日は、本当に何年かぶりでビッグバンドショーを見ることが出来ました。
入ってすぐ、「抽選コーナー」にいき、鑑賞のチケットが当たったのです。
今まで何度もトライしてきましたが、このシステムになって当たったのは初めてです。




ここにショーの宣伝がありますね。

いやー、凄かったですよ。
息子が友達と直前にiPodでおしゃべりしていて、
「トランペットの人がM(同級生)の先生なんだって」
という話をしていましたが、ビッグバンドは全員日本人、
しかし、メインのダンサーと歌手は本場物です。

本場物と言っても、失礼ながら日本の東京ディズニーくんだりに来ているくらいですから、
本国では超一流というわけでもないのでしょうが、やはりアメリカとは
エンターテインメントの先進国だけのことはあります。

全員、巧い!

まず、アフリカ系と白人の男性歌手が出て来て

「スイングしなけりゃ意味がない」

に始まり、そして、女性歌手とダンサーが加わって

「チャタヌガ・チューチュー」
「ブルース・イン・ザ・ナイト」

など、スウィングジャズの名曲が次々と演奏されます。
わずか35分のショーですが、後半はクリスマスの曲が中心、

そして、昔見たときにも感嘆した、ミッキーマウスのドラム。
これもう、本気でうまいんですよ。

ビッグバンドのドラマーとツインドラムで掛け合いをするのですが、
まず、あのマスクを被ってドラムを叩く、というのが
物理的に難しいんではないかと心配してしまいます。

え?中の人などいない、って?

そして、さらに驚いたのは、ドラムを叩きまくっていたミッキーが、
最後には皆と一緒にダンスをすることで、
どんな人が入っているのか・・・・あ、中の人はいないんですね。

ファストパスの時間が来たときには暗くなり、ショーが行われていました。






場所取りしなくても、橋の上から楽々通りがかりに観ることが出来ました。
大晦日に来たときには、人垣が何重にも出来ていた上、
立ち止まっただけでキャストに叱責されたものですが・・・。



さきほどドラムを叩いていたミッキー、こんなお高いところで、
ショーを仕切っています。
アメリカ人のミッキー(え?ミッキーは一人だって?)を観たときも思いましたが、
やたら動きがかっこいいんですよ。

ミッキーの中の人はバックステージでは「特別扱い」だそうですが、
やはり特別のオーディションが必要なんでしょうかね。

しかし、最近この「中の人」は、昔と違って全員女性になりつつある、
という話を聞いてしまいました。
理由がまたげんなりするのですが「セクハラだといわれるおそれがあるから」なんですって。

中の人なんていない!んじゃなかったのかよ〜(笑)



さすがはニコン1、こういう花火の渦巻きもちゃんと撮れました。
コンパクトデジカメだと、調整せずに写すと、こういうのは全滅でしたから。



しかも、感度もいい。
この景色はファインダーをのぞくと真っ暗だったのに、画像にするとこの通り。






雨粒が反射してちょっと幻想的な写真が出来ました。



360度ループ回転のジェットコースター、レイジングスピリッツも一回乗りました。





「眼鏡はダメ」ということになっていますが、息子は何も言われません。
眼鏡を取ると何も見えなくなる人もいるからですね。



360度回転するとき、一瞬ですが、フワっと「浮く」瞬間があります。
おそらくフリーフォールの瞬間なのだと思うのですが。
今回は一瞬たりとも目をつぶるまいとずっと後ろを見ていました。

確かに面白かったですが、心臓がピクリともスリルを感じなくなったのが、哀しい・・・・。



一応(笑)シンバッドの冒険にも乗りました。
バナナの出てくるシーンではバナナの匂いがしてくるのですが、
それ以外のところでも匂いは遠慮なく漂って来ていました。

というところで、晩ご飯。



きょうの晩ご飯はアラビアンコーストのカレー。
これはビーフ、チキン、シュリンプのセットです。
ナンとご飯がどちらもついてきます。

スポンサーはカレールーで有名な「家」食品。



ご覧のようにガラガラです。

わたしたちが食べていると、スタッフ(偉い人)が、
「すみません、少し椅子を前に動かして下さい」
なんと、園内で倒れた人がいて、ストレッチャーが後ろを通ってバックに入って行きました。

倒れたのは若い女の子で、友達何人かと一緒のようでした。
彼女らはストレッチャーに付き添って全員が裏に入って行きましたが、
一人は心配して泣いていました。

大事になっていなければいいですが、付き添いの友人たちは、
こんなことでもないと決して観ることの出来ない「ディズニーの裏」を見られたわけです。

(羨ましい・・・・・とは言えませんが)

「偉い人」は、あとからわざわざ我々のテーブルに謝りにきました。
さすがディズニー、こういうところにみじんも遺漏はありません。



ところで、この日、夕方にファストパスで乗る予定だった
センターオブジアースが、点検のため一時ストップになっていたのですが、
カレーを食べて時間を潰したあと行ってみると再開していました。

並んで待つところにある「地質研究コーナー」を表した展示。

わたしたちは、不幸にも高校生男子の集団と一緒に乗り合わせたので、
それはそれはやかましかったです。

「いえええええええッ!」
「ひゃっはああ〜っ!」
「さみーよ、ここさみーっ!」
「冷てえええ!雨ふってるしぃぃぃ!」

息子は少し年上のお兄ちゃんたちの騒ぎぶりに、興味津々でした。




先ほどのショーでミッキーの帽子だった三角が、ツリーになっていました。



わたしたちも十分楽しみましたが、とくにこんな日の恋人同士は、
雨も寒さも全く苦にならなかったに違いありません。
傘も一つで十分ですしね。


メリークリスマス。





 

平成25年防大開校記念祭〜パラシュート降下中止

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さて、今年の開校記念祭について何日かお話ししてきましたが、
シリーズ最終回です。

本題に入る前に、読者の皆様にご報告があります。
ブログ開設苦節3年半にして、当ブログのランキングがついに
ブログ総数196万7千640中(すごい数ですよね)、

4位

になりました!

くるねこ大和、伊勢ー白山 道、そして厳選!韓国情報に続く堂々の4位。
畏れ多くも「でぶアメショと愛の無い生活。」を差し置いての上位ランク入りです。
種明かしをすれば、何のことはない、過去にアップしたエントリのリンクが
まず2ちゃんねる、そしてこの日今話題の「艦これ」に貼られ、
その他艦これ系ブログにも波及し、
瞬間風速が最大値に達しただけなんですけどね。

ちなみに、これ。

嗚呼!陸軍潜水艦「まるゆ」

嗚呼陸軍潜水艦〜マル秘のまるゆ

嗚呼陸軍潜水艦〜戦艦大和の答舷礼


なんにせよ、当ブログが熱く語って来た「ネイビーブルー愛」に
最近「萌え業界」が急激に追いつき?この度の快挙となったわけで、
年も明けぬうちからまずはめでたいことでございます。

その証拠写真。





 
さて本題。


わたしが今年の記念祭に何をおいても参加する気になったのは、
何を隠そう「防大パラシュート王子」のお誘いがあったからです。

「パラシュート王子」というのは以前コメントをくれた防大生。
非公開でやり取りをしている(実は結構たくさんおられます)当ブログ読者のお一人で、
防大父兄でもある方が、当ブログを見ていて彼にそう命名され、
わたしもそれが気に入ったので名称を使わせていただいているわけですが、
そのやり取りを逐一書くと、一発で彼が身バレしてしまうので、
この一連の彼のコメントを改めて記すことは控えます。

んが、王子直々の「僕の降下をぜひ見に来て下さい」とのお誘いに対し、
感激のあまり「必ず行きます」と返事したわたし。
防大パラシュート部の降下日には何をおいてもそれを見逃すわけにはいかないという
責任感および悲壮な決意とともに(←修辞的表現)小原台に向かったわけです。


気候は晴天、素人目には絶好の降下日和、と思えたのですが、
午前中の陸自第一空挺団の降下が上空強風のため中止になってしまいました。

あの小原台というところは、それでなくても上空は風が強いらしく、
パラシュート王子のコメントにも

防衛大学校は丘になっておりまた海風が強い傾向にあるので
降下場としては非常に難しいです。

と書いてありました。
ただでさえ難しいのに、空挺団が降下中止になるほどとなれば、
いくら午後になって風が弱まっても、無理じゃないかな。
わたしに限らず殆どの観客がこのように思ったに違いありません。


さて、午前の観閲行進が終わり、芝生のシートで場所を取ったまま、
校内を歩き、体育館の展示を見に行ってみました。
先日お伝えした留学生の各国文化紹介展示の他、
クラブ活動に関する展示、それから研究発表等もあります。



山岳部のコーナー。
山登りに使う道具が全て展示されています。
が、やったことのない者には、何に使うのかさっぱりわからない
謎の道具が殆ど。
手前の赤黄青のバーなども何に使うのか見当もつきません。



各道具の下には説明の紙が置かれていますが、部員が控えていて、

「質問があったらご遠慮なくお尋ね下さい」



これは体育館入り口に展示してあったゴーカート?
ゴーカート部なんてあるんでしょうか。



このクラブの名前は・・・模型製作動向会。




かねてから思っていたんですよ。
自衛隊にはやっぱり「兵器オタク」がいるのか?
昨年参加した観艦式では、海上自衛隊の自衛官と言えども
艦影から瞬時に艦名を答えられるわけではないらしいということや、
兵器名を正式に言えない人もいるらしいということを知ったのですが、
やっぱりこういう趣味をお持ちの防大生もいるわけだ。

つまり、自衛隊といえどこういう趣味傾向に関しては「世間の縮図」なのね。



研究論文が置いてあるコーナーもありました。

個人的に時間があれば手に取ってじっくり読んでみたいのもありましたよ。
手前の装丁も素晴らしい論文は

「ナチスドイツにおけるプロパガンダ研究」

これはドイツ映画とゲッベルスの関係始め、わたしもずいぶん興味を持ったテーマです。
その他は

「北朝鮮の主体『チュチェ』思想」

旧社会党の信奉する思想で、現在も日教組に引き継がれているあれですね。
敵を知るのは大切。

「韓国キリスト教〜抵抗と成長の歴史」

・・・・・・ん?
韓国キリスト教というのは統一教会のことですか?
タイトルを見る限りずいぶん好意的に見えますが、
日本女性に贖罪させるというあれですよね?
何に抵抗しどう成長したのか、そこのところをぜひ読んでみたい。

「開戦決定に至る日本海軍の政策決定の変遷過程」

おおこれも面白そうですね。
わたしの興味のあるテーマとまさに一致しています。

「ゾロアスター教における儀礼とその思想的背景」

全く知識がないので、知りたい気がしないでもない。

「魔女狩りに見る心理何とか?の推移と権力闘争」

高校生のとき岩波新書で「魔女狩り」読みました。
中世ヨーロッパに生まれなくて本当に良かったと思いました。



なんと、防大では硫黄島実習があるんですね。

一般人には訪れることの出来ない硫黄島。
防大生たちは3年のときに行くそうですが、交通手段は自衛隊機。
C−1やC−30に乗って行き、現地でかつての激戦の痕跡を目におさめるのです。

沈んだままの艦船、錆びた大砲、擂鉢山、そして壕。
壕の中は冬でも60度以上の地熱で異様に熱いそうです。

自衛隊の未来の指揮官は、かつてここで圧倒的な米戦力の前に
日本を守備するため散って行った二万人の将兵たちに慰霊の黙祷を捧げます。


島を去るとき、教官はポケットを確認させ、靴の中の砂を落とさせ、 

「決して石や砂を持って帰らないように」

と厳重に注意するのだそうです。

なぜか。

昔、ここで拾った奇麗な石を持って帰り、自室に飾っていたところ一週間後に急死
(心臓マヒだったとか)した学生がいたということもありますが、
かつてそのいたるところを埋め尽くした日本軍の将兵の遺骨が
波や風雪に洗われて、石や砂になっている可能性もあるからだというのです。



知り合いの自衛官は、

「硫黄島に行ったことがあるが、取り立てて何も起こらなかった」

と言っておられましたが、これも「人による」そうです。
一般的には駐留している自衛隊員がテーブルについていると、
目の端に同じテーブルについている人影が映るが、いざそちらをちゃんと見るといない、
などということはしょっちゅうで、
「見える人」はそのうち慣れて怖くなくなってしまうくらいだそうです。

ただ、天皇陛下が慰霊のため行幸あらせられた間だけは、
そういった現象はぴたりとなくなったという話もあります。

ところで、たった今気づきました。

このエントリを作成しているのは12月13日なのですが、
防大の関係資料によると、

3年生が硫黄島に研修に行くのは毎年12月の第2週目

だそうで・・・・・・・・・。

つまり今行っているってことですか?




おそらく美術同好会の作品と思われ。



さて、ここで、午後の降下が行われるかどうか気になる、防大パラシュート部、
略称防パラのコーナーに立ち寄ってみましょう。
一人ずつ丁寧にプロフィールの紹介がされています。

このなかにパラシュート王子がいるのね・・・・。

と言いつつ実はどの隊員が防パラ王子か、HPからとっくに調べが付いているのですが、
やはりこのあたりは彼のプライバシーみたいなことに配慮して、
それはひ・み・つ・にします。

この隊員自己紹介、個人的には



これが気に入りました。(『月に来た』)




文学者と同じ名前の部員がいますね。

「飛ばない人はただの人だろ」

はい。そのとおりです。




アメリカ遠征に行ったようですね。

空中で5人?がくっつくフォールに挑戦した様子です。
高度が合わないとか、空中で衝突とか、安定しないとか、
数々の失敗を克服してこのとき成功したとのこと。
これを5ウェイというそうです。

ただ空中で五人が手をつなぐ、このことがこんなに難しいとは。



防大のグラウンドに降りるには、太平洋上でイグジットしなくてはいけないようです。



こんな感じ。
この画像からはしょっちゅう海に落ちても不思議ではないように素人には思われますが、
やはり一番危険なのが水上に落ちることだそうです。

ちなみにこの映像は、去年の防大祭のときの降下者が、ヘルメットにつけていたカメラ。
このコーナーに置いてあったパソコンでずっと流れていました。



わたしはこのグラウンドの画面下付近で去年これを見ていました。
「2番降下者の着地を確認」
という文字が見えますが、この少し前、ヘルメットにつけたカメラが右に左に動き、
降下者がきょろきょろと当たりを見回しだしました。
その映像につけられた説明が

「2番降下者を心配しています」

「2番降下者を心配しています」

「2番降下者を心配しています」


そういえばそう言うこともありましたね。(遠い目)


わたしがこれを見ていると、部員がこれを持って来ました。



「強風の為降下は中止デス m(_ _)mスミマセン」

すみませんですむかあああっ!

とは勿論言いませんが、かなりがっかりしました。
だって、わたしゃ今日それを見るために来たと言っても過言ではないのよ。



ところで平賀工廠長さまのブログでこの中止について

体育館で、パラシュート部の部員に記念降下はと聞いたところ、
精鋭の空挺団が中止になったので、我々はできませんと残念そうでした。

というのを読みましたが、この隊員の返事は

「精鋭の空挺団ですら中止せざるをえない天候なので、
ましてや我々が出来るはずがない」

ということでしょうか。

「精鋭の空挺団が中止になったからには、
我々はたとえ天候が許しても(空挺団のメンツを潰すので)
するわけにはいかない」

というようにも解釈できるのですが、それはやっぱり考えすぎかな。

いずれにしても、一つ大いに安心したことは、当方の調べによると
件の隊員さんは、来年まだ卒業していないらしいことです。

つまり、来年の記念祭降下が天候でまた中止にならない限り、
パラシュート王子のリベンジが見られるかもしれないということなんですね。
 
その他「シャゼン」の儀仗隊演技を前列で見るという宿題もありますし、 
いや〜、これは何をおいても来年の防大開校記念祭には行かなくてはいけないなあ。 


 

 

 

米海軍ベース歴史ツァー参加記6〜ナウマン象と「オレゴン」の鎖

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さて、またもや話題をベース歴史ツァーに戻しましょう。

ここ旧横須賀海軍鎮守府のドライドックについて前回お話することで、
ここ横須賀がいわば日本の重工業の始まりであることをあらたに知りました。

つまり、日本はアメリカの黒船という「武力」によって国を開かされ、
世界の荒波に漕ぎ出していくわけですが、その後の国力の発展はすべてすなわち
「武力に対抗する武力の充実」によって購われてきたということです。
日本に限らず、これは古今東西、世界の常識です。

大国主義が終わった現在も、世界が弱肉強食であることに変わりはありません。
自国を守れない国は他国に侵略され、チベットやウィグルのようになるだけなのです。

この構図を考えると、「日本の右傾化を懸念する」というもっともな理由で、日本が
武力を行使できる国になることを反対する国というのは、明らかに日本の国力を殺ぎ、
パワーバランスで優勢を占めようとしている国でもあるというのがおわかりでしょう。



さて、今日は時事問題になだれ込んでいる場合ではないので()さくさくと次にいきます。

前回1.2.3号のドライドックについてお話ししましたが、いくつかの
この米軍基地ツァーに参加された方のブログを見たところによると、
たとえばドックに船が入っていても、一応見学はできるらしいことがわかりました。

ただ、その際「絶対に写真は撮らないように」と注意されるのだとか。





次の見学に行く途中にあった医療所。
これも、旧軍時代からの建物だそうです。




夢窓国師がここに5年住んでいたという史実から、
昭和45年になって日本と米軍が協力して建てた碑。

このモニュメントに見える三重塔が昔ここにあったそうです。

「夢窓国師って良く聞くけど、なにした人だっけ?」

と言う方は、

「室町時代に西芳寺(苔寺)」始め多くの寺を設計した臨済宗の僧侶」

というひとことだけを覚れば十分でしょう。(適当)



ここから山の斜面を見ると、怪しいトンネルが。


昔、政府が雇ったお雇い外人の一人、

ハインリッヒ・エドムント・ナウマン

は明治初期にここで発見された(つまりここを開発する過程で)象の化石を
研究、報告しました。

ナウマンといえば我々に取ってはすぐ「ナウマン象」と言う言葉を思い浮かべますが、
ナウマン自身が自分で化石に命名したのではありません。
それから約40年後、静岡県浜松市で見つかった象の牙などがそれと一致したため、
京大の槇山次郎助教授が、ナウマンにちなんで「ナウマン象」と名付けたのです。

ところで皆さん、わたしは、この歴史的事実の中からあることに気づき、
ちょっとした感動をおぼえたのですが、それを聞いていただけますか?

それは、もし槇山助教授が自分の名前をその象につけていたら、彼の名前は
「マキヤマ象」
として未来永劫歴史に残ったであろうということです。

学者であれば自分の名前が古代の遺跡や化石の名前になって残ることは
名誉であり憧れでもあったはず。
なのにかれなぜそれをしなかったのでしょうか。

ナウマンという人物は、21歳の若さで日本政府に招聘された、いわば「お雇い外人」でした。

この「お雇い外人」の中には、「海のものとも派」や、本国では実力的にも評価されなかった
「一旗揚げてやろう派」なども混入していて、日本が西洋文明を取り入れる段階で、
しばしばその「いい加減な仕事」が真面目な日本人に正しいこととして受け入れられてしまった、
という例が、少なくともわたしの専門である音楽についてはいくつかあります。

ナウマンもまた、日本に招聘されたときには海のものとも山のものともわからない、
未知数の学者でありながらいきなり東大教授となったわけですが、
かれが日本の地質学に残した功績は大でした。
日本の地質研究の基礎を立ち上げ、伊能忠敬の業績を検証する形で日本全土の地形調査をし、
しかも関東大震災のときには焼け落ちた東大図書館に自分の蔵書を寄贈しています・

こんなナウマン博士に対し、槇山博士はじめ日本の考古学者は心から感謝し、
かつ深い敬愛を注いでいたからこそ、彼の名をこうやってリスペクトしたのか。
わたしはそんな風に思ってみます。
 

「ナウマン象」の命名は1921年、まだハインリッヒ・ナウマンは存命中でした。
日本の学者が、古代の象に自分の名前を付けたことを彼が知ったのは亡くなる6年前のことです。

若き日、10年の間に祖国に対してなした功績をいつまでも忘れず、このような形で感謝の意を捧げた
東洋の小さな国の学者たちに対し、彼はその晩年、どのような感慨を持ったでしょうか。




先ほどの夢窓国師の泊船庵の碑にも書いてありますが、
横須賀工廠の前身である横須賀造船所をこここに造るとき、
かなり当時の自然はこの工事によって姿を変えてしまったそうです。



山をくりぬいて、トンネルを造り、物資を貯蔵したそうですが、
このように塞がれてしまった壕の跡はあちらこちらに見られます。

現在も米海軍によって利用されている壕もあります。



それが、これ。
壕を利用すると言っても、倉庫にしたり牢屋にしたり、という使い方ではなく、
完璧にアメリカ風の建物の仕様で、レストランなどもあったりするそうです。

さすがはなんでも内側を改装して長年使い続けるアメリカ人だけのことはあります。
昔日本人がそこで何をしていたか、なんてあんまり気にしないのかもしれないなあ・・。




ここで停泊している艦船を埠頭からさっと見学。
これは・・・確か駆逐艦カーティスウィルバー?



第7艦隊のマークと、この下にあるマークで見当をつけました。
(解説の人の話を実はあまり聞いていないエリス中尉である)

しかし、余談になるのですが、カーティス・ウィルバーで検索して、とんでもない団体のページを
見つけてしまいました。

つまり、「自衛隊と米軍の軍事一体化許すな!」とかまあその他色々、
とにかく米軍艦がどこかに入港するという情報を聞きつけては港で

「帰れ」

「平和の港に軍艦は要らない」

とか騒いで、米軍軍人に嫌がらせをすることを至上目的にしている人たちのサイト。
「岩国のデモ大成功!」
なんてあるので、知り合いもいることだし、どれどれ、と見ると


「怒」とかかれた紙を全員が持って基地の近くで座り込み


怖いよ君たち怖いよ。

岩国基地の艦載機がこれで活動をやめたとでもいうのなら大成功なんでしょうが、
何をもってこの人たちは「大成功」と言っているのか。

もしかしたら


「嫌がらせしたったわ!今日はこのくらいにしといたるわ!」


ってこと?

そう言えば、海兵隊のホーネットドライバー、ブラッドも

「来るよ〜(笑)そう言う人たち」

とぼやいてましたっけ。
嫌がらせが最終目標なら十分それは大成功なんでしょうけど。


ちなみに彼らがカーティスウィルバーの入港に反対する理由は以下の通り。

米第7艦隊の駆逐艦カーティス・ウィルバーは
巡航ミサイル・トマホーク90基と劣化ウラン弾3100発を搭載し、
イラクで無法な侵略戦争にも直接参戦しています。

いま、世界中どこへでも「殴り込み」をかけるための「米軍再編・基地強化の計画」で
日本全国で文字通り、自治体・住民ぐるみの反対闘争が発展しています。

今回で3回目を迎える同艦の大阪港入港が、「日米合意文書」で
「米艦船による一般商業港使用」も明記しているこうした米軍再編の動きと一体のものであり、
民間港の軍事使用拡大そのものであることは明白です。

罪のない多くのイラク国民の命を奪ったこのような軍艦の入港を認めることはできません。

そして、入港のために日本の旗を振ってお迎えしている地元の幼稚園児を

「幼稚園児まで動員されて『日の丸』を振らされて』

とばかり憎々しげに写真を撮ってサイトにさらしています。

悔しかったら自分たちも日本の旗、振ってみい。
・・・え?振れない?

・・・・・振れない。

そりゃまったしつれいしました〜。




人影発見。
並行して泊まっている小さなフネとの間にわたされたラッタルを
ひょいひょいと行き来していますが、
これ、結構怖くないか?



万が一脚を滑らせたときのためにネットが張ってある・・。
ということはやっぱり時々落ちるんだ・・。









しかし、この人たちって、港や基地前や、やったところでどうしようもない
(つまり物事の解決にならない)場所でしかこういうことをしないのね。

わたしは不思議でたまりません。

だいたいこういう軍の配置を決めるのは第7艦隊でもましてや一駆逐艦でもなく、
アメリカ本国でしょう。
命令に従っているだけの現場の軍人に、セコい、しかも全くの安全圏に立った嫌がらせなんぞしていないで、
ワシントンのホワイトハウス前でやっておいで。

うん、ペンタゴン前でもいいかな。
せめて日本国内なら東京の米国大使館前でやるくらい、根性見せてみい。


ところでサイトによるとこの活動、2008年くらいから全くなりを潜めております。
なるほど、今この人たちは、「原発反対」グループと
「オスプレイ反対」グループにわかれて活動しており、そして最近のトレンド物件は

「特定秘密保護法案反対」

なのですね。わかります。



はて。

なんだって、こんなところに「戦艦オレゴン」の記念碑が?

オレゴン(USS Oregon, BB-3/IX-22)は、1890年に竣工し、
その後米西戦争に参加、サンフランシスコを発ってから66日間航海を続け、
記録を讃えられた戦艦ですが、1919年に退役しました。

その後なぜか1956年、ここ横須賀で解体されたため、碑があるようです。

この日のツァーでオレゴンについての説明は全くありませんでしたが、
インターネットで調べた所によると「オレゴンの鎖」がここ横須賀にあるという話です。

もしかしたら・・・・これかな?




埠頭から歩いて行くと、正面に6号ドライドックが見えてきました。
今まで見たドライドックとは違って、巨大な塔が屹立しています。


続きます。










米軍基地ツァー参加記7〜チェスター・ニミッツとペリリューの碑

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横須賀の米海軍基地ツァーシリーズです。



パーキング棟の前にあったやたら立派な植え込み文字。

Ship

Rpair

Facility

アメリカ海軍の船舶補修施設のことです。
ドックを使用するような団体がこの辺りに集中してあるということですね。



「艦隊映画館」。
あまりにも寂れた雰囲気なのでもう営業していないかと思いました。
よく見たら映画のポスターがあるので、おそらく週末だけやっているのだと思われます。

手前の

SECOND HAND ROSE

というのは、

バーブラ・ストライサンド等も歌っているアメリカのポピュラーソングの題名で、
内容は、

家がセカンド・ハンド(中古ショップ)をやっていて、
小さい頃から服は勿論、靴も、パジャマでさえも違うイニシャルが入っているものを
着せられ、あだ名が「セカンドハンド・ローズ」になってしまった女の子。
指輪さえも中古で、結婚した相手はご丁寧にも再婚だった。
たまにめかしこんだつもりでリッツに行けば、「わたしのお古を着ているわ」と
他の女の子に指差して言われてしまう・・・。

という悲惨なものなのですが、この「セカンドハンド・ローズ」
は時々アメリカのリサイクルショップの名前になっています。
ここのも間違いなく、米海軍基地内のリサイクル品を扱っているお店でしょう。
 

NAVSUPとは

Naval

Supply

Systems 

Command


つまり海軍補給部隊。
補給科というのは地味な部署に思われがちですが、
実は補給というのは戦線に取ってまさに命綱であるわけで、
彼らもその使命に誇りを持っています。

その気概がよく表れているかっこいいNAVSUPのHP。
このページのウェルカム・ビデオで彼らのかっこよさを観て下さい。



消防車がサイレンを鳴らして行くのに遭遇しました。
消防車の仕様も日本のとは全く違います。
消防士もアメリカ人なのでしょうか。

車の交通に関しては、混乱を避けるため基地内でも左通行です。




おお、見慣れたアメリカの郵便システム、USPSのポストが!

 

オリエンタル、つまり日本やもしかしたら中国の製品のバザールがありますよと。
キモノや和風の家具などを日本在住中に買い求め、
本国にもって帰るアメリカ人のための催し?

このバナーにUSOとありますが、



United 
Service 
Organizations

つまり、アメリカ軍軍内部向けサービス機関のことです。
一時、息子がDJ風に

「ユー・エス・オー、USO!」

とか

「エム・アイ・エス・ティー、MISO!」

となんでもスペルをいうのが流行っていたことがあり(というか今でも言う)
これを見るとどうしても「U・S・O、ウソ!」と読んでしまいます。


ところで、本日冒頭画像は、皆さんも薄々お気づきのように、

チェスター・ウィリアム・ニミッツ(1985〜1966)海軍元帥の若き日の姿です。 



というのも、この基地内でこんな住所を見ましたもので。

いざ来いニミッツ・マッカーサー
出ないと地獄に逆落とし

なんていう面白い?歌(比島決戦の歌・西条八十作詞)が戦時中あったのをご存知ですか?
映画「日輪の遺産」では、この曲を「醜い歌」と言いたいばかりに、
全編に渡って8回くらい登場人物に歌わせ、げんなりしたものですが、
寄り道ついでにこの歌詞を挙げておきます。

決戦輝く亜細亜の曙 
命惜しまぬ若桜 
今咲き競うフィリピン 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

陸には猛虎の山下将軍 
海に鉄血大川内 
見よ頼もしの必殺陣 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

正義の雷世界を震わせ 
特攻隊の往くところ 
我等一億共に往く 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

御陵威に栄ゆる兄弟十億 
興亡分かつこの一戦 
ああ血煙のフィリピン 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

ニミッツとマッカーサー、この歌で並べられているのは「米海軍」「米陸軍」
と言いたかったからだろうと思われます。
実はこの二人、ミッドウェイ海戦のあと、太平洋に置ける指揮権を巡って
いずれもその全権を主張してかなり仲が悪かったんですよ。

その仲の悪さは子供じみてすらいて、マッカーサーはニミッツを「ニーミッツ」と呼び
(ドイツ系の名前であることを強調する発音。アメリカ人がよくする『民族差別』)
ニミッツはニミッツでマッカーサーの写真を執務室に置き、

「こいつの顔を見て謙虚になるべきだといつも自分を戒めているのだ」 

などと公言していたそうです。

日本もそうですし、陸海軍の仲が悪いのは世界的傾向ですが、
米陸海軍の場合はこの二人の不仲も多いに関係ある、とわたしは思っております。 



マッカーサーについては、日本人の一人として正直わたしは決して好意的ではいられませんが、
現在トミー・リー・ジョーンズがマ元帥を演じた「EMPEROR」(終戦のエンペラー)を観ているので、
この映画の出来によっては、またマッカーサー個人について見直す点もあるかもしれません。

しかしその人物功績に毀誉褒貶あるマッカーサーはさておき、ニミッツは、
戦後、特に日本人にとってはどちらかというとその名は好意的に取られています。

その理由の一つは、彼が 若き日に東郷平八郎に憧れたため、
戦後、戦艦三笠の保存や、東郷神社の存続に尽力した、ということにあるでしょう。




アナポリス時代のニミッツは、かなりのハンサム。
この制服を見てあっと思ったのですが、海軍兵学校の制服と
当時のアナポリスの制服はまったく上半身は同じだったんですね。
海軍は英海軍をお手本にしたことから、全てが英国からの輸入だと思っていましたが、
錨のマークの襟章とか、テープ式の前立てとか、
おそらくネイビーカラーであることも考えると、まさに瓜二つです。



冒頭写真は海兵隊時代の若きニミッツですが、任官後からもうご覧の通り。
のちに奥さんになる女性は彼を一目見て

「こんなハンサムな人は見たことがない」

と恋に落ちてしまったとか。
しかも愛妻家で、子供たちは喧嘩をしている夫婦を一度も見たことがなかったそうです。

わたしがニミッツという軍人に対し、イメージ的に好意を持ってしまうのは、
一体何故だろう、と今回改めて考えてみたのですが、
まずやはり前述の三笠に対する尽力の件でしょう。

日本海海戦にした日本は、戦勝祝賀会を行ったのですが、そのときたまたま、
少尉候補生であったニミッツが乗り組んだ「オハイオ」が横須賀に寄港していました。

その祝賀会に他の候補生とともに招待されて参加したニミッツは、

東郷平八郎大将を他の候補生と一緒に胴上げ

し、その後10分ほど当たり障りのない会話を楽しみました。




ちょうどそのころ、士官候補生のニミッツです。

東郷は若い頃イギリスに留学していましたから、その英語は流暢で、
アメリカ人が密かにコンプレックスをいだくところの「キングスイングリッシュ」。

おそらくですが、彼はこのことにも非常に感銘を受けたのだろうと思われます。
(たった10分の会談ですから、ファンになる理由なんて第一印象だけでしょう)

占領後の(他ならぬアメリカのせいですが)三笠の荒廃を知ったニミッツはこれに激怒しました。

自分の権限で海兵隊を三笠の歩哨に立たせ、それ以上の「東郷元帥の軍艦」への陵辱を防ぎ、
その後「文芸春秋」に「三笠とわたし」という一文を寄稿し、
その原稿料を、まず全額三笠の保存のために寄付することを表明します。
ポケットマネーを出しただけでなく、米海軍を動かして廃艦を寄付させて日本に運び、
そのスクラップ代を復興費の一部(それだけで2割くらいの予算になった)に充てさせることもしています。

「いざ来いニミッツ・マッカーサー」

という歌でしかその名前を知らなかった日本人が、こんな米軍人、
いや、アメリカ人もいるということを知ったきっかけが、この「三笠復興運動」だったのです。

「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」 

という、三笠復興記念に三笠公園に植樹された月桂樹の木に
添えられた文言は、おそらく本人の偽りのない言葉だったのでしょう。

そして、空襲で消失していた原宿の東郷神社の再建にも、晩年のニミッツは
東郷を偲ぶ文章を上梓し、印税をアメリカ海軍の名で寄付しているのです。
 

そういった断片的な情報が、詳しくは知らないままに、ニミッツ元帥への
漠然とした好意となっていたわけですが、最近、
パラオのことを調べていてここでもその名前を発見することになりました。

スティーブン・スピルバーグ監督で、トム・ハンクスが製作をし、大変話題となった
アメリカのテレビドラマ「ザ・パシフィック」が、12月31日に動画配信サイト
「HULU」で観られなくなってしまうというので、今集中的に観ています。
ご存知かもしれませんがこのドラマは、米海兵隊の太平洋地域での戦闘つまり

日本軍と戦っていた


アメリカ兵士(下士官)たちの、リアルな戦闘を描いたもので、トム・ハンクスは
ここで、かつて主演した「プライベート・ライアン」をさらに進化させた
「戦場のリアリズム」を表現したかったのかと思われます。

つまり、米軍兵士たちをヒロイックに描き、日本兵を醜悪に描くことで、アメリカ人の
贖罪意識から目を背けさせるような従来の戦争映画とは違い、
戦場での異常心理から残虐行為を行うアメリカ兵の真実もきちんと描いています。

もしHULUを申し込んでおられる方は、もうすぐ配信が切れるので(HULUは月一定レート)
ぜひ観てみて下さい。

さて、その「ザ・パシフィック」ですが、今ちょうどわたしが差し掛かったのが
「ペリリュー」。


大東亜戦争末期、日本軍はこのペリリュー島を、米軍のフィリピン侵攻の防御線として、
そしてグアム・サイパンの後方支援基地として死守していましたが、
米海軍は

「 マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖し、
アメリカ陸軍航空隊による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」

という計画を立てており、これを立案したのがニミッツ提督でした。

両軍は1944年9月15日から二ヶ月に亘って激しい戦いを行い、
兵力にも物量でも劣る日本軍は最終的に全滅します。
最後の万歳突撃前に、守備軍は玉砕を伝える

「サクラサクラ」

という電文を打電しました。

上陸前、米軍の師団長は

「このような小さな島であるから2・3日でかたはつくだろう」

と豪語したのですが、実際は日本軍の激しい抵抗に戦いは長引き、
アメリカ軍も多量の戦死、戦傷者、そして精神に異常をきたした者だけでも
8千人に上ると言う甚大な被害が出ました。

(『ザ・パシフィック』でその辺りをどう描くかが楽しみです)

このときに、ペリリューの島民に被害が殆どなかったことから、

島の男たちが日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時
「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に懇願したところ
「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂された。
今までの好意は偽物だったのかと落胆しながら彼らは島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。
若者たちその瞬間、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。 

という美談?が生まれました。

これが事実であったのかどうか、今となっては確かめるべくもありません。
しかし、少なくとも戦後もペリリュー(今のパラオ共和国)の人々が、
日本という国を敬愛してくれているらしいことは、1982年になって、
ここに「ペリリュー神社」を日本が創建したとき、
パラオの人々がそれに多大な協力を惜しまなかったことにも表れています。

ペリリューの戦いで命を失った1万695人の日本軍将兵の魂を慰める
(おそらく日本人のことであるから、そこには米軍の戦死者も祀っているにちがいありません)
ために創建されたこの神社の境内には、このような文言の碑があります。


"Tourists from every country who visit this island
should be told how courageous and patriotic were
the Japanese soldiers who all died defending this island.
Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"

この文章の出所は先ほどの島民の語る美談のように、長らく不明でしたが、
もと陸軍中佐で、戦後空幕長になった浦茂氏が、アナポリスを訪れ、
教官から「ニミッツの詩である」として、全く同じ文章を提示された、という話もあります。

いずれにせよ、これに類する資料は米国の公文書にあるわけではなく、
米国の公刊戦史に、ニミッツ提督の言葉としてこんな文章があるそうです


“ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、
最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。

既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が、死傷者併せて
一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、
今もって大きな疑問である。

━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より

○一行空白○

旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、
ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本の為に全員忠実に戦死せりと”

 

 

 

 

米軍基地ツァー参加記8〜6号ドックと空母「信濃」

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前回、たかが「ニミッツ」の名前が付けられた道路標示一つで、
延々とニミッツ元帥について語ってしまいました。

マッカーサーとニミッツは歌で一緒くたにされていたのにも係らず
天敵というくらい仲が悪かった、という話もさることながら、
東郷元帥との話、ペリリュー島の日本将兵に捧げた言葉、
どれも一度は書いておきたかったので、ここぞとこじつけてしまったのです。


相変わらず、自分でもイベント関係のエントリについては進捗状況が読めない
ブログですが、そこのところはご了承下さい。


さて、もうずいぶん前になりますが、明治元年に完成した1号ドライドック、
その後程なく完成した3号、ついで2号のドライドックについてお話ししました。
本来、このツァーは1、2、3号の後は、6号ドックを見る予定です。

この6号ドックは、日本に軍艦の建造の制限を(アメリカの保有数の6割)押し付けられた
ワシントンの軍縮会議を脱退し、ようやく「海軍休日」から抜け出した海軍が、
排水量65000トンクラスの大和型戦艦の建造を決定したものの、
それだけの大きさのフネを修理する施設が当時呉工廠だけだったため建設されました。

しかも今までの修理専用とは違って、こんどは「大型艦建造」もできるドックです。

完成は昭和15年。
ドックの完成と同時に戦艦「信濃」の起工式が行われました。
「信濃」といえば最近当ブログでこの戦艦に少し触れたのを覚えておられますでしょうか。

航空戦艦としてカタパルトだけをつけられ、「発艦専門」の空母として改造された
「伊勢」「日向」。
空母を要していた海軍は、ここで建造された「信濃」を同じく空母に作り替えました。

その理由も思い出していただきたいのですが、それはミッドウェー海戦で、
聯合艦隊が一度に4隻もの空母を失ってしまったことにあります。

「信濃」は、もともと大和型の戦艦として起工しました。
しかし海軍が空母を可及的速やかに必要としていたこと、そして何と言っても、

呉から大和型の46サンチ砲を運んでくる予定の専用輸送船である
「樫野」が、潜水艦によって撃沈されてしまった

ため、信濃を「大和型」にすることが物理的にもできなくなってしまったのです。


というわけで7割完成していた「信濃」は、急遽空母に設計を変更されます。

その頃には多くの熟練工が徴兵で駆り出されていたため「信濃」の建造には

民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒は勿論、学徒勤労報国隊で集められた
文系など他の学部の生徒、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊

までがかかわりました。
「武蔵」に19ヶ月かかった艤装を、わずか三ヶ月でしてしまうという突貫工事ぶりで、
動員された者たちの「愛国・憂国の敢闘精神」がこの急造を可能にした、
と当時は美談で語られたものだそうです。


さて、話が佳境に入ってきましたが(笑)、
どうして、その6号ドックの写真がないのか、って?
それは、この日は6号ドックが

工事中だったからですよ。




自転車置き場に物々しく「自転車の放置厳禁」とあったように、
この付近では「自転車」を非常に敵視しているらしいことが分かりました。
人が乗っていて万が一ドックに転落する事故とか、何かの弾みで自転車が落ちるとか、
まあ、そう言う事故に対する予防ではないかと思われます。



たしかにドックの淵にあるクレーン?はあるものの、
ドックらしいくぼみがない・・・。



平面からなのでどこがドックなのか全く分かりません。
黄色いチェーンの向こう側でしょうか。



もしかして、建設以来初めての大改修工事で、
「信濃」を作ったときのドックの内装はもう失われてしまったのでしょうか。
だとしたら、工事前に一度観ておきたかったな。



解説員の話をぼーっと聞きながら、現場に鳥がいるのを見つけたので激写。




さらにクレーンの上のカラスの夫婦を激写。



アップにするとわかりますが、残されたカラスが「カアー」と
鳴いております。

「一人にせんといてくれ〜!」(なぜ大阪弁)

かな。




そして一人ぼっち・・・・って何撮ってんだ。

ちなみにこの6号ドック、ここには戦前から使用され続けていたクレーンが存在したのですが、
平成15年(2003年)までには全て撤去され、これはあたらしいものです。


というわけでわれわれツァー参加者は「信濃のドック」を撮ることができませんでした。
「写真を撮らないで下さい」といわれたのは、遠くに見えている海自の潜水艦だけで、
これも言ったように対岸からは撮り放題なのですから、
この6号ドックを「撮ろうにも撮れない」という状況であったわけです。


ところで、このツァー参加者に対する「撮影禁止」の件ですがね。


昔のこのツァーに参加された方のブログなんかを見ると、
たとえ艦船がドック入りしていたとしても、

「写真を撮らないように言われた」

なんて書いてあって、取りあえずそれでもツァーの過程として、
ちゃんと見学することだけはできるようなんですよ。

ところが、あるブログによると、

このあたりから同じグループの中で数名、
「撮影してはいけない」と言われた場所に納得できず
「なんでダメなんだよ!!!」と大騒ぎしたり、注意されているにもかかわらず、
(盗撮ってこうやってやるのね…)と思わず見入ってしまうような手段で
強引に写真を撮ろうとしている方が目立ち始めた。
正直見てて気分の良いものではない。

というようなこともあったようなんですね。
このブログの書かれた日付を見ると、わたしの参加したツァーのわずか一ヶ月前です。

「撮らないで下さい」と言われれば撮らない。
そういう信頼のもとに、米軍も自衛隊もこういう施設を公開してくれているのに、
盗撮したりガイドに食ってかかったり、そんな奴らのせいで、
基本的に見学者のモラルが信用されなくなってもし

「ドック入りしているときには一般人には見学させない」

などということになったら、こういう振る舞いは万死に値する、
とさえ思います。

たかが写真くらいいいじゃないか、アップしなきゃいいんだろ?
スパイにみせるわけでもないしけち臭い。

そんな風に思うような人はきっと「特定秘密保護法案」にも反対するんだろうな。

と何の根拠もなく言ってみる。




ドックの向こう側に見えていた何かの焼却場。



おそらく昔のままの木の電柱。



ケーブル等のパイプでしょうか。
一般の土地ならば地中に埋めてしまうところですが、
おそらくここでは関係者しか通行しないという特殊な場所であるため、
地中ではなくこのように「空中」に渡しているようです。
たしかにこの方がメンテも簡単で費用もかからないのでしょうね。





このケーブは立ち入り禁止になっていました。
使われていないから立ち入り禁止になったわけではなく、
現役で使われているときにすでに「危険」と大書きされたドア。
木の枝で覆われて見難いですが、ドアの上部には

「禁煙 敷地内指定場所のみにて喫煙すること」

とわざわざ書かれていますので、おそらくここは爆薬やオイル、
弾薬、その他「火気厳禁」なものの倉庫であったか、その調整室だったようです。



「岸壁」と書かれた碑。

ここには、昔岸壁がありました、ではなく「岸壁を作った記念」です。
このあたりの海のことを「小海海岸」と言ったそうですが、明治14年(1881年)から
埋め立て工事が始まり、横須賀海軍工廠の拡充に伴ってここ小海海岸の港湾施設は
急速に整備されていきました。

この大正4年に完成した岸壁というのは、小海東岸壁のこと。
この碑は、2005年に小海東岸壁を改修工事したときに発見されたものです。



今この碑は、12号バースの、アメリカ艦船を望む埠頭にひっそりと建っています。

さて、それではやはり最後に、ここで建造された「信濃」のその後について
お話ししておかなければなりません。

「日向」「伊勢」の姉妹は、艦橋が中央にあったため、「空母」といっても

「離艦は出来ても着艦の出来ない」

航空戦艦になるしかありませんでしたが、この「信濃」は、
もともと「大和型」の三番艦ですから、甲板の広さは十分です。
何しろ、大和型の戦艦は内部を「地下街」と称し、伝令は自転車で移動していたくらいです。

その大きさは、戦後16年後の1961年に、米海軍の原子力空母「エンタープライズ」が
表れるまで、史上最大の排水量を持つ空母でした。

それだけの巨大艦を、極限まで工期短縮して竣工を急いだ結果、進水式のときに
海水の注入の段階で事故が起こり、技術士官が海に投げ出され、ドック壁面に
艦体が激突して破損、という惨憺たる出だしとなりました。

この誰が見ても不穏を感じさせる進水式は、その後の「信濃」の運命そのものでした。

そもそも、それだけ急いで空母を建造しても、「伊勢」「日向」もそうでしたが、
海軍はすでに乗せるべき航空機をもう失っていたのです。

「伊勢」「日向」は、航空戦艦として一度も使われず、前にもお話ししたように
「北号作戦」という輸送作戦に投入されますが、もしこの「信濃」が
実戦に赴くことがあれば、海軍はこの巨大艦をどうやって使うつもりだったのでしょうか。

やはり載せる航空機がなかった空母「雲竜」は、表向きには「緊急重要物資」の輸送、
実は特攻兵器「桜花」「震洋」を積んでマニラに向かう途中、米潜水艦に撃沈されました。

「信濃」もまた、最後の航海となった呉への回航の際、「桜花」を積んでいました。
竣工と言っても、まだいたるところにケーブルが放置されたままで、
「未完成の」のままの回航です。

「雪風は死なず」

という当ブログの漫画付きエントリで、幸運艦の雪風に対し、不運艦の一つとして
この「信濃」の話をあげたのですが、ここにも書いた通り、
「桜花」を積んでいたことから、

「信濃の回航が特攻にならなければいいが」

という冗談をいうものがいました。
横須賀を発ってわずか17時間後、パラオ級潜水艦「アーチャーフィッシュ」の
執拗な追跡に続く攻撃によって沈没。
建造が急がれすぎた結果、「信濃」には防御区画に不備があり、しかも、
一度も訓練をすることなく外洋に出たため、沈没を免れなかったと言えます。

艦長の阿部俊男大佐は、総員退艦を命じた後、艦と運命を共にしました。

海上には、「信濃」から流出した特攻兵器「桜花」が浮かび、
「信濃」の多くの将兵たちはそれに掴まって命を長らえたということです。



「ここで建造された『信濃』は呉に回航される途中で、沈没してしまいました」


ボランティアの解説員がこのように「信濃」の運命を説明すると、
横にいた男性が

「なんともったいない・・・」

とため息とともにつぶやきました。



 

 


 


米軍基地歴史ツァー9〜ネイビーベースで昼食を

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基地ツァーの解説は、横須賀市観光協会のボランティアの方々です。
全行程の米軍、そして歴史についての知識もさることながら、
ことカメラを持つと決していつも大人しく言うことを聞くわけでもない(らしい)
時として非常識な見学客相手を率いて、無償で奉仕する方々の熱意には誠に頭が下がります。

しかし、この「無償の行為」については、当ブログにも同じことが言えます。
この、人によっては「呆然とするほどの」長文を、毎日アップし続け、
しかもその代償どころか毎月サイト維持料まで払って何のためにやっているのか。

先日、当ブログを通じてご縁を戴いた方から、わたし、エリス中尉が当ブログ、
「ネイビーブルーに恋をして」を運営している「動機」に関する考察を戴きました。

自分を表現したい、ということだと思うのですが、
自分を表現したい、という熱情だけではここまでには至らないのではないかとも思う

時々、激烈に、自分は生きている、ということを感じなければ 自分が自分で無い、と感じる人間もいる

そしてわたしがそういう人間の一人である、というご意見です。

自己表現。

それは全くその通りで、インターネットという言論空間で何かを発する人々の
動機というのは、わたしに限らず誰でも「自己表現」であると思います。

ネットという手段が無い頃は、自分の頭で考えたことと世間の接点は一方通行で、
ただそれをインプットするのみであったのが、今の時代はそれをアウトプットし、
同時にオーバーフローすることをリアルタイムで実感できます。
一言でいうとメディアが「インタラクティブ」に変わったのです。

つまりだれでもインタラクティブ・メディアを通じて自己発現が可能になりました。

たとえばこのgooブログだけで190万人以上が自己のブログを持っており、
毎日数百の単位で増え続けています。
ブログという媒体で何かを訴えようと思う人がここだけでもこんなにいるのです。

しかもその内容には法律的なもの以外の制限は何も無く、
いかに他愛も無い、稚拙な、あるいは低劣な、さらに常識派が目を背ける内容であってもOK。
そしてインターネット空間に「垂れ流された」情報には必ず受け手が表れ、
何らかの反応があります。

昨今ツィッターで始終自分の居場所ややっていることを報告し続けているうち、
それが「世界に発信されている」という自覚のないままにプライバシーや、
あるいは企業秘密の暴露、守秘義務違反などの法を超えてしまい、
文字通り「人生オワタ」になる若い人がいるそうです。

このことからツィッターは「バカ発見器」「バカッター」と言われることもあります。
つまりこれはたとえどんな情報であっても、必ず「どこかで誰かが見ていて」
かつ「それに対するリアルな反応が(良くも悪くも)ある」ということでもあります。

さて。
わたしことエリス中尉は 

「なぜ一文にもならない文にこれだけの熱意を注ぐのか」。

わたしと当ブログに対する考察を戴いた方は、

自分が何事かに感じた時に心が躍るのみならず、
他に共鳴者を得た時に、震度が格段に高まる人でおられるのではないか

とおっしゃいました。


自己発現の一手段としてのネットでの発言は、
ツィッターのように内容の如何を問わず、必ずなんらかの手応えがあるわけですが、
わたしは必ずしもその手応えが、「共鳴」とイコールであると思うほど
おめでたい考えは持っておりません。
しかし、一定の閲覧数や、エントリのツィートなどのソーシャルメディアの動きから、
「共鳴者」がいるのを察知することはできます。

わたしは一般人であり、世間的には無名の市井の一個人で、
しかも「エリス中尉」という架空の存在として発言している限り、

「実社会における自分自身をこのように思われたくて表現している」

という三次元的な欲望はそこにまったくありません。


一つのエントリを書くために勉強し、調べ、写真を撮り絵を描いて、
一方では読者の方と会話しつつ、そうやって作成したブログという
「自分の世界」がインターネットに生み出され外の世界と交わる。
そしてそこに「共鳴者の存在」を感じる。

それだけです。

考えようによってはこんな時間の無駄、あるいは単なる自己満足はないと思うのですが、
どうしてこの時間潰しの道楽によって、わたし個人が、
エリス中尉という架空の存在を通して与えられる喜びは、なかなかに得難いものがあります。

つまり金銭的には無償でも、精神は計り知れない充足を得ているというわけです。

ここで歴史ツァーのボランティアの方々の話に戻ります。
この日一日ツァーに参加して、解説員たちの様子を見る限り、この方々も、
わたしがブログで得られるのと同じような充足をこの仕事の糧としておられるのではないか、
そのように感じた次第です。


・・・とここで終わってしまってもいいのですが、ついでに話を続けます。
(この『ついで』が、当ブログの長文の元凶なんですねわかります)





さて、ツァーは朝に始まりお昼を挿んで全行程約6時間(だったかな)。
ツァー参加者への注意事項として、

「決してツァーの列を離れて単独行動しないで下さい」

というのがまず一つ。
基地内にはこの看板のような、「オフリミット」、つまり立ち入り厳禁の場所が
いたるところにあって、うっかり迷い込んだら銃殺されても文句はいえない
というまではいかないまでも、スパイ容疑で拘束されかねないからですね。

それから、

「長距離を歩きますので、くれぐれも歩きやすい運動靴等を履いて下さい」

という注意事項もありました。
わざわざことわるだけのことはあって、この行程の移動距離は大変なものです。
団体でぞろぞろとあっちこっちを歩くので、決して激しい運動ではありませんが、
ボランティアの解説員は予定を時間通りに消化するという目的があるので、
どうしても先導が早足になってしまう傾向にありました。

普段身体を使っていない人なら、午後には脚が痛くて辛い、というレベル。
つまり、歴史を知り在日米軍の現状を垣間見ると同時に、

「身体を鍛えることが出来る」

という得難いイベントであるといえます。

さて、こんな基地の内部を(前を通れないなりに見ながら)午前のおよそ3時間を歩き通したあと
ボランティアが

「皆さんお待ちかねの昼食とさせていただきたいとおもいます」

といったときには、わたしも少しほっとしました。



今年の3月、まだ少し寒いころに「フレンドシップデー」に参加しました。
その頃はちょうど早咲きの桜が満開で、この芝生の地帯にたくさん出店が並び、
その合間をそぞろ歩く人々の頭上には花びらが舞っていました。

ここにある東屋で、今から食事をするフードコートについての説明を受け、
集合時間を言い渡されたのち約45分の自由時間です。



説明を聞きながらふと目に留まったのは・・・。
そう、防衛大学校の学生さんの姿。
誰に見られていると思っているわけでもないのに、姿勢がいいですね。
自衛官は総じて私服のときでも姿勢がいいのでわかる、と、
アニメ「レスキューウィング」で言ってましたっけ。

自衛官の方にこの話をしたところ、基地内に自衛隊の関連部署があって、
そこに用事でいくのだという話です。 
 
さて、フードコートに入ってみました。
雰囲気はまさにアメリカのフードコートそのまま。
このツァーの日は土曜日で、軍服を来た軍人よりも、彼らが家族で訪れ
昼ご飯を食べている姿を多く目にしました。

日本でもおなじみとなった「サブウェイ」などもあります。
わたしがアメリカに行った頃、つまり12年前は、信じられないでしょうが
東京都内でもまだスターバックスがこれから急増していこうという頃で、
禁煙のコーヒーショップというのがまだ珍しかったくらいです。

勿論サブウェイなど当時の日本には影も形もなかったので、アメリカで最初に
サブウェイの注文をしたときには、順番が来るまでドキドキしていたくらいです。
なにしろその頃は、こういう店で最初に聞かれる

「To go?」(テイクアウトですか?)

の一言の意味を知ったばかりで、テーブルのレストランと違い、
カウンター越しにぞんざいな英語で度々質問が飛んでくるこの対面式の飲食店は、
アメリカに行ったばかりの日本人にとってキョーフのひとときでもありました。

そのサブウェイで「野菜は何を入れますか」と聞かれたとき、
あまり何も考えず、

「All  vegetables please」

と言ったところ、無神経なアメリカ人にハラペーニョを入れられたことがあります。

今でこそこのハラペーニョも、特に都市部ではメキシコ料理が一般的になり、
これが「殺人的に辛いメキシコ唐辛子」であることをご存知の方も多いと思いますが、
当時は「JALAPENO」という単語もどう読むかわからなかったころで、
ましてやその破壊力など極東の日本にはまだ伝わっておりませんでした。

それはマイアミ旅行中のことです。
運悪くそのときうちの家長は、腰を痛めて移動中の車の中で動けないままでした。
わたし一人でサブウェイに食料を調達にいき、激辛のハラペーニョ入りと知らずに
車に戻り、まずお腹をすかせた息子に一口食べさせたら、彼は

「からい〜!」

と大泣き。
本場物のハラペーニョは、まさに幼児なら火がついたように泣くくらい辛いのです。
勿論わたしもTOも一口食べて「うっ・・・・」。

以降、サブウェイでは

「ハラペーニョだけは入れないで下さい」

と断るのが習慣になりました。



何にしようかと思いましたが、日本でも今や食べられるサブウェイはやめて、
この「中華もどき」にしました。
これもアメリカでは「パンダエクスプレス」などの有名どころに代表される、

「やたら甘い酢豚みたいなものやソテーした野菜、プラスチャーハンかそば」

これらをチョイスするシステム。
金額によって選べる品数が変わります。

ところで、ツァーの説明によると、店員さんは日本語が通じるということになっていました。
この「マンチュー・ウォク」(wokは中華鍋のこと)に並んだ参加者は多く、
わたしの前後の人たちは日本語でオーダーしていましたが、残念ながら
店員さんあまり堪能とは言えない日本語の対応に四苦八苦しており、
わたしが英語で注文したらわりとほっとしていたように見えました。

そして、これも説明によると「日本円は使えます」とうことで、
わたしの前後はやはりお代金を日本円で払っていたのですが、
まずレジにレートを入力して、それからレジを打つので、時間がかかるかかる。
しかも返ってくるおつりはドル。

「おつりはドルで返ってきますのでご了承下さい」

そう言えばこんな注意もあったわね。
そんなこともあろうかとわたしは抜かりなくドルを持ってきているのよ。

「12ドル40セントです」

ふむ。
こんなときには住んでいたものの強みで、ささっと12ドルを札で、そして
クォーター1つ(25セント)に小さな10セントダイム、茶色い1セントを5つ。
瞬時にしてこれだけをトレイに並べたわたしに店員さん、

「Sorry, we don't accept 1-cent coin」
(すみません、ここでは1セント硬貨は扱ってないんです)

なんと日本では1セントは流通していなかったのか。
全てのモノの値段は切り上げか切り捨てなのね。
というわけで代わりに5セント硬貨を出しました。



オレンジチキンと野菜炒め、そしてチャーハンをセレクト。
お味は・・・
やたら甘い酢豚風チキン、妙にパサパサしたチャーハン、全く火を通さないブロッコリ、
まさにアメリカのショッピングモールの中華もどきそのままです。
ある意味ここまであのチープな味を異国で再現できるのはすごい。
シェフは天才ではないだろうか。

わたしがアメリカを懐かしみながら()この中華もどきを味わっていると、
隣のテーブルのツァー参加客が、フードコートの中の「シナボン」で、
冒頭写真のシナモンロールを食べているのに気づき、何となく

「それ、おいしいですか?」

と訊ねてみました。

空港でこの「シナボン」があると、辺り一帯がシナモンの匂いに満たされるのですが、
これまで一度も食べたことがありません。
食べなくても十分想像できる味ですし、日本人としての感性がその味を一度も欲しなかったからです。

ところが、この日、ツァー参加客がこの問いに対し「美味しいですよ」と答えたことで、
ふとこの「シナボン」を食べてみる気になりました。



外側からロールを剥がして、おそるおそる食べてみます。
一番外側からかなりの甘さで、それでもなんとか制覇しましたが、
上からたっぷりと得体の知れないクリームがかかっている中心部分に入ったところで限界。

結局外側を剥がしたところで状況終了です。
この擂鉢山は、日本人の状況制圧を断じて阻む手強いものでした。

結論:二度と食べない


 

 

続きます。

開設1000日記念ギャラリー〜安倍首相靖国参拝と従軍慰安婦問題

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早いもので、今年もまた大晦日となりました。
毎年三ヶ月くらいの体感速度で一年が過ぎていくような気がするのですが、
このブログも本日で1352日目。
今年の一月に始めた「開設1000日記念ギャラリー」も、最終回となりました。

本日は、ブログ開設初期頃に「中指」で描いた画像ばかりを集めました。
初めてこの「中指画像」という言葉を聞く方のために説明しておきますと、
まだ絵画ソフトを導入していなかった頃、当時の絵は、gooブログに付属している機能
「おえかきツール」
というのを使って描いていました。
画面に絵画パッドが出るので、ノートパソコンのホイールパッドを指でなぞり、
あの直径役4センチ程の円の中だけで絵を描くわけです。
わたしの場合中指が一番安定した線が描けたので、使うのはこの指のみ。
一作描きあげたあとには腱鞘炎になりそうなくらい指が攣ったものです。

で、今更のようにそうやって描いたこの絵を見ると、自分でも驚いてしまいますね。
とくにこの絵は、

「沈み行く戦時徴用船」

 というエントリのために描いた、

「本船と運命を共にした『ぶら志る丸』の大野船長」。
 
大久保一郎画伯が描いた幻の戦争画を、靖国神社の図書館でコピーして持って帰り、
縮尺線を引く等の苦労をしておえかきツールで描きあげたものです。

全く、久しぶりに自分のこういう「才能の無駄遣い」
(おえかきツールで絵を極める究極の無駄な努力という意味です)
を目の当たりにすると、昨日の「講評者」さまではありませんが、

「何の役にも立たないこんなことにこれだけを注げる情熱というのは
一体どこから湧いてくるのだろうか」

と自分のことながら不思議で仕方ありません。

ただ、一つ確かなことは、この絵を図書館で見つけたとき、
文字通り心が震え、彼らを悼む気持ちと戦争の悲惨さに対する憎悪で
涙を抑えることが出来ないほどの衝撃と、
これほどの力を持つ絵でありながら秘匿されていたゆえに誰も
それを観ることを許されなかった、ということに対する義憤が、

「ならばこのわたしがどんな方法であってもそれを再現してみせる」

という無謀な努力への原動力となった、ということです。
それは、同じエントリのために描いたもう一つの絵、

「沈没寸前に日の丸を揚げる『瑞穂丸』」

  

についても言えることで、この船が軍艦ではなく、徴用された民間会社の船であること、
つまりここで従容と死に往こうとする海の男たちが、軍人ではないということに
わたしの衝撃の原点がありました。

舳先で万歳をする船長も、身体を波にさらわれながら「瑞穂丸」に国旗を揚げようとした船員も、
そして沈み往く船の艦橋で佇む人影も・・。

日本という国が戦争をすることになったとき、戦うことを定められた軍人のみならず、
こうして名も無い日本人たちもまた、自分の任務を完遂することによって「戦死」していきました。

そこで是非お話ししたいことがあります。
今、日本のマスコミと中国韓国が大騒ぎしている安倍首相の靖国参拝。

産經新聞以外のマスコミ始め反対派はそこに何が祀られているかすら知らず、知ろうともしないで、

「ヒトラーの墓」

などと気の利いたことをいったつもりになっているタレントキャスターと
大同小異の確信犯的無知をさらしています。
(自分が間違っているとは夢にも思っていない、といういみの確信犯ですよ)

安倍総理が、

「中国や韓国を傷つけるつもりは無い」

と発言したという報道がありましたが、これも元発言を聞かないうちは、新聞社が
安倍発言の中から自分たちの主張に都合のいい部分だけを抜き出したに違いない、
とつい懐疑的にみてしまいます。

が、もしこれが本当なら、参拝するという決断をし実行した安倍総理は、
『相手に餌を投げ与える』がごときこのような発言はやめていただきたいと思います。

わたしが今後の安倍政権、日本政府にしていただきたいのはつまりこういうことです。

靖国神社にどういう人々が祀られているのかを世界に向けて周知させる。

これを読んでいる方々の中にも、もしかしたら靖国には、大東亜戦争で亡くなった将兵の御霊だけが
祀られていると思っている方がおられるかもしれないので、ここではっきり書いておきましょう。

大東亜戦争よるずっと昔の、明治に創建した「東京招魂社」が基である靖国神社には
戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒、
軍属・文官・民間の方々も数多く含まれているのです。


つまり、この絵に描いた徴用船が沈められた際波間に散った民間人の魂も、
ここには祀られているのです。

さらに、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者や
シベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、そして大東亜戦争終結時に
「戦争犯罪人」として処刑された方々などの神霊も祀られています。

繰り返しますがわたしが日本政府に広報をお願いしたいのは、

「靖国神社の目的とはなんぞや」

それはすなわち、

「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰するその一点にのみ」

にある、ということをあらためて世界に告知させていただきたいのです。

身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)
その数246万6千余柱は、すなわち

「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」

でありこの絵に描かれた海の男たちも、その御霊として靖国におわします。


このような場所であることを知ってもまだ靖国を「戦犯の墓」などと言い募る人間は、
おそらくたとえ国籍が日本人あっても精神まで日本人ではないのでしょう。

逆に、たとえ日本人ではなかったとしても、もしそういった事実を知れば、
むしろ首相が参拝できない方が異常であり、
その問題は単に国家間の戦略に起因するものにちがいない、

と大抵の人間は真実に気づいてくれるだろうと思われます。


日本人というのは権謀術数を「卑怯なこと」として蔑む傾向にありますが、
そんな武士道的正々堂々さは、国家間の利益の奪い合いにおいて全く通用しません。

日本政府には、こういうロビー活動を、情報戦を戦うつもりで
公費をそのために歳出してでも真剣にやっていっていただきたい。

安倍首相の参拝は「快挙」でしたが、問題はこのあとです。

決して首相の行為から日本政府が「梯子を外す」ようなことにならないように、
しっかり日本を内外の敵から守るために掩護していってほしい、とわたしは思います。


 軍人さんの奥さん





今年、靖国神社参拝とともに近隣反日国に利用されたのが、
「旧日本軍従軍慰安婦問題」です。

この話も実にシンプルで、古今東西どこの軍にもあった「慰安施設」を、
女性の人権を無視して非統治国から拉致して従事させた、という風に
曲解捏造して騒いでいるというだけの話。

日本国政府が関与したかどうかの問題について証拠は無く、
慰安婦の実態とは普通に貧しい親が娘を女衒に売ったというだけのことなのですが、
まず朝日新聞がこれに「火をつけ」、「煙を煽って」、
その煙が海を渡り、韓国がここぞと大騒ぎを始めたという構図です。
この騒ぎの元凶となった記事を書いた植村記者の義母は在日韓国人であるとの由。

韓国というのは昔中国、統治前と統治下は日本、そして戦後はアメリカ、
風向きを観ては中国と、何れにしても節操無く事大を繰り返して来た国です。

韓国はアメリカの議会に「国際的問題」としてこれを認めさせ、
さらには全く日韓に関係のない米国の都市に、日本を非難するために、
慰安婦のモニュメントや像を建て、つまり外圧からも反日させようとしています。
これも「トラの威を借るキツネ」たる韓国の「事大」です。
このため、在米韓国人が異常なくらいの熱意を注ぎ込んで、
アメリカ国内にはその手の記念碑がいくつかすでに建っています。

大抵のアメリカ人はそんなことに無関心ですし、たまに関心があると思えば
要するにそれは韓国系のコロニーで票が欲しい政治家だったりするので、
日本政府の消極的な姿勢をいいことに、すでにあちこちに像が建つ事態になってしまいました。

ところが、アメリカ人にもやはり、そういった他国間のいざこざが
アメリカ国内に持ち込まれるというのを非常に不快だと感じたり、
あるいはもう少し深化した情報を知り、その慰安婦というのが全くの捏造で、
そもそもアメリカの最高裁ではその存在をとっくの昔に否定されている、
ということを知る人たちも出てきました。

このたび、そのような「無関心ではいられないアメリカ人」の一人、
トニー・マラーノさん、通称テキサス親父がホワイトハウスのサイトに、

グレンデールの慰安婦像を撤去するための誓願

のための署名を集めています。
また、今日のニュースですが、
慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」をめぐり、
日本維新の会が年明けに河野談話の撤回と、
河野氏の国会への参考人招致を求める署名運動を全国で展開するそうです。

談話の根拠となった韓国での元慰安婦への聞き取り調査報告書は
「ずさん」だったことが産経新聞の報道で明らかになっており、
維新は署名運動を通じ見直しの機運を盛り上げたい考えです。

安倍政権誕生後、いろんなことが少しずつですがまともになっていく、
すくなくとも機運らしきものが高まりつつあります。 



反日国である中国と韓国は勿論、日本が白人の世界支配を終焉させたことを
実は遺恨にしており「日本が戦犯だった」ということにしておきたい国は、
このことを「右傾化」「平和への逆行」などと非難していますが、
日本はそんな「鏡を見ろ」と言いたくなる国の批判なんぞに怯んではいけません。

だれがなんと言おうと、我が国は戦後70年間戦争をせず、逆に世界に手を差し伸べる国として
その実績をつみあげてきたではないですか。
どこかの国のように現在進行形の虐殺もしなければ、戦争もしていない。
戦後のどさくさに他国の領土を不法占拠するというどこかの国のような無法を働いたわけでもありません。

今回の件でアメリカ大使館が

「日本の指導者が近隣諸国との 緊張を悪化させるような行動を取ったことに、
米国政府は失望している」

という声明を発表しました。
これは靖国参拝そのものを批判するつもりはないが、緊張が悪化することがわかっているのに、
なぜ今やるの?今まで我慢してくれてたじゃない?という意味だと思うのですが、
参拝に反対する日本のマスコミと中韓は「それ見たことか」
とこの発言を大きく取り上げて批判の材料にしています。

しかし、たちまち大使館のFBは日本人からの抗議の声で埋まったそうです。
曰く

「イミョンバクが竹島に上陸したときには 
あんたたちは何か声明でもだしたか?
大人しく物分かりが良い日本だけに我慢させるな。
日本国民の大多数は 我慢の限界だからな。」

 
すでに日本人は、黙って耐えるだけでもなくなってきたみたいですね。
ただ、今回はこのFacebookで文句を言っている人は少し落ち着いて最後の文章を
じっくり読んでみることも必要かもしれません。
でないと、マスゴミの「切り取り。印象操作」の手に乗ってしまったことになる。

「米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する」

 

「短現オールド・ネイビーの涙」




元エントリを読んでいただければ分かりますが、
一昔前の政界には、軍人出身の政治家がそれなりにいました。

海軍出身の短期現役主計士官たちは当時も帝大出のエリートがなったので、
戦後も政府の要職に就いた者が多かったということなのですが、
国会会館で行われたネイビーの会で、元短現士官が見せた涙の意味は・・・。

という内容のエントリなのですが、今日はこの元短現士官の中でも
もっとも「出世」した中曽根康弘首相のことを取り上げます。

というのは、今日のテーマである「靖国参拝が問題になってしまったきっかけ」
は、何を隠そうこの中曽根首相が作ったからです。

1985年、それまで日本国の首相は春秋の例大祭に靖国参拝をしてきましたが、
中曽根首相はこの年の8月15日に靖国参拝をしました。
その日は何の声明も出さなかった中国が、まず朝日新聞が「御注進報道」をしたことを
受けて非難声明を後日出します。

翌年、中曽根首相はその動きを事前に察知して、参拝を取りやめてしまいました。
これは本人が「仲の良い胡耀邦が失脚しそうだったから」とどこかで言ったそうですが、
先日お話を伺った石平氏は、

「それはウソですね。
胡耀邦の失脚はもうそのとき既に決まっていたのですから、靖国とは無関係だった」

と仰っていました。
つまり、これは中曽根首相の言い訳に使われただけだったようです。
実際は国内事情なのかなんなのか、とにかく中曽根首相は参拝を取りやめ、
中国はそれをすかさず「日本は過ちを認めた」としてしまったわけです。

つまり、日本のアキレス腱は歴史問題で、これを持ち出すと日本政府は折れる、
日本の総理大臣は圧力をかけると引く、つまり自分たちが強く出れば良い。

そのような経験則を中国に与えてしまったのです。
ですから、わたしは戦後の日中日韓との関係を拗らせた「A級戦犯」は、

「村山富市」「河野洋平」に加え 、この

「中曽根康弘」

を挙げさせていただきます。

よりによって海軍士官であったという中曽根氏にこのような厳しいことを言うのは
わたしとしても大変心苦しいのですが、もし中曽根首相がこのとき強気に
当時最貧国で、日本の技術や資本を喉から手が出るほど欲しがっていた中国に

「日本の支援が欲しければ戦死者の慰霊に文句を付けるな。内政干渉だ」

と一言ピシャリと言っていれば、おそらく彼らは黙ってしまったでしょう。
そういう国家間の駆け引きもできず、情実に流されて将来に禍根を残すことになった
この中曽根首相の外交は、全く国益を失うものであったとしか言えません。

さて、それではこれからこの非難に対し、安倍政権はどう立ち向かうか。

もしかしたらわたしの意見を聞きたいと思ってくれている方がいるかもしれないので、
簡単に述べておくと、わたしは「小泉方式」をリメイクすればいいと思います。

7年前、小泉首相が参拝したあと、中国も韓国も反発しましたが、
中国の場合はむしろ「メンツを潰された」ということが問題であって、
その後の参拝するしないのかけひきについてはずいぶん振り回されて
「いちいち反応するのに疲れてしまった」といった感がありました。

つまり、靖国カードの主導権を持っていたのは、中国ではなく、小泉首相だったのです。
むしろ、メンツの問題だけであった当時の中国としては
裏でこっそり頭を下げてでも「行かないで欲しい」と言いたいところだったでしょう。

福田政権になって、このプライドだけは高い首相が
「近所の人が嫌だということはしない」
などと、まるで町内会の会長のような発言をして参拝せず、
さらに第一次安倍政権で安倍氏は靖国に行きたいと口では言いながら、
就任してすぐに北京訪問をし、ここでも完璧に誤ったメッセージを出すことになります。

思い出したくもない民主党政権では、靖国参拝などまずされる心配もなくなり、
中国は図に乗って中国船の領海侵犯始め、尖閣への欲望を露にしだしました。


中国韓国に配慮して靖国参拝を取りやめた7年間で、
両国の日本に対する反発は年を追うごとに露骨になっていき、
尖閣問題、竹島へのイ大統領の上陸、天皇陛下侮辱発言等々、
土下座せんばかりに中韓に配慮していた民主党政権下では
最悪の状態にまでなってしまいました。

つまり、7年前の小泉首相のときが今よりも両国との関係はマシだったということでしょ?

崖っぷち経済で自分が転がり落ちていくのを踏ん張りながら反日している
韓国という国のことはこの際放っておいて(笑)、
中国に対しては、小泉さんのときのように「根負け」させればいいのです。

具体的には、もう一回参拝してしまったのですから、
春秋の例大祭は勿論、終戦記念日、就任記念日、
政権獲得記念日、自分の誕生日、奥さんの誕生日、
病気が治ってカツカレー食べたカツカレー記念日、
なんでもいいから月一回ペースで行けばいいんです。

毎朝ジョギングでもしてついでに参拝するっていうのもいいかも。

あ、それから、小泉式のリメイク、というのは当然
前半に述べたところの


「靖国神社の存在意味を世界に英語で発信する」

ということを、政府の仕事としてお願いしたい。
半ば冗談ですが、わりと本気ですればいいと思ってます。


来年こそ靖国の英霊の皆様が安心して眠れる日本になりますように。

それでは皆様も良いお年を。






長野県松本〜レトロとモダンと虫食と

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皆様、明けましておめでとうございます。

我が家は一足お先にお正月気分を満喫してきました。
今回の旅は、長野県松本市。

松本というところは、昔家族旅行で善光寺とか青木湖に
来たことがあるような気もしますし、冬には何回かスキーに来たことが
あるような気がする、というくらいで、
わたしにとって「かすかな観光の想い出」しかない県なのですが、
今回ご縁があって、松本にある温泉旅館とその系列のレストランを訪ねてまいりました。

土地のおいしい料理と上質な温泉、洗練されたお・も・て・な・しを楽しむ旅。



朝8時に家を出て、お昼前には松本駅に到着。
松本駅の駅舎はすでにこのような超モダンなものになっていました。
というか、前にはどんな駅だったのか全く記憶がありません。



長野県の観光資源というのは「日本アルプス」でもあるんですね。
駅前からタクシーで、お昼ご飯をいただくレストランに移動します。



松本市というのは、いまだにこのような旧家屋がたくさんあります。
地震もなく、戦災にも遭わなかったからでしょうね。

このレストランも、このような商家だったらしき家をそのまま、
ただし水回りなどは超モダンにしてそのまま利用しています。



お店の看板も、いかにも今風。
こういう、「和と最新モダンの融合」みたいなお店が、
今地方都市にも現れているんですね。

地元の農家を通じて手に入れた新鮮な食材を、一流のシェフが料理し、
日本の古い家屋をそのまま利用したインテリアの雰囲気を楽しみながら
お料理を楽しむ。

このレストランも、そういったフュージョンを取り入れた話題のお店です。





唐傘の隣にある振り子の時計は、百年以上経っているとのこと。
百年の間時を刻み続けていた時計。



お昼は和食をいただきました。
わたしが選んだのはそば。
ただ「そば」を頼んだだけなのに、いろいろとお惣菜がついてきます。
天ぷら、刺身、そして・・・・・



こ、この、顔を隠して横たわっているお方は・・・・!

そう、ここは長野県。
日本でも特に昆虫を食する文化のあるお土地柄。
あまり何も考えずに「佃煮だ〜」と思って一口。(というか一体)
甘くて歯触りはカリカリ、決して悪いものではありませんでしたが、
こうやって写真に撮ったりしていると、やはりなんといいましょうか、
少し食べるのに勇気がいるような気がしてきてしまいました。

「こういうのって皆好きで食べているのかな」
「好きとか嫌いとかじゃないんじゃない?長野では普通に食卓に乗ってるもので」
「はあ、お正月の昆布の煮しめみたいなもんですかね」
「その心は」
「好きな人なんていないけど、そういうことになっているから食べる」

食卓に乗っていれば食べるかもしれないけど、長野の主婦はわざわざ
イナゴだのザザムシだのの死んだのを買って来て煮付けたりするんだろうか。
もしかしたら、長野県人は総じて虫には耐性があって、台所に何か出て来ても、
他府県の主婦のようにキャーキャー騒いだりパニクったりしないのだろうか。

狭い日本と言えども、こういうときはいろんな文化があるなあと考えてしまいます。



ご飯がすんだ後は、今夜泊まるホテルに移動。
東京の丸の内ホテルと系列なのかと思ったら、全く無関係で、
「お城があるところはどこでも丸ノ内っていうんだよ」
そういえば名古屋にも丸ノ内ってあったような気がするな。



ホテルからの眺め。
町並みの向こうに連なる山々が、ここは盆地であることを改めて感じさせます。

ところで、ここに着いたときから、わたしと息子はわたしの持っているwifiが、
大変つながり難くなったことに閉口していました。
さらに、ホテルの部屋のインターネット回線は有線で、macは使用不可能。
わたしの場合、一日1エントリをアップするという使命があるので、
貯め置いたエントリが一ヶ月分あるとはいえども、こういう時間のあるときに
インターネットが使えないというのは辛い。

「うーん・・・遅い」
「ママ、iPhoneのテザリング申し込まなかったの?」
「しなかった。auの人がいつでも出来るっていうから」

そこでふと「いつでもってことは今できるってこと?」と思い立ち、
ホテルの部屋でパスワードを思い出しながら苦労してテザリング機能を追加申し込み。
あっという間に機能は追加され、試してみると全てのデバイスがするっとつながります。

「やったー早い」
「最初から申し込んでおけば良かったね」

しかし、この後訪れる山間の温泉はwifiどころか電話すら通じない閉ざされた空間であるということを
このとき喜んでいる二人は知る由もなかったのである。
おそるべし長野。

そんなことをしているうちに、夜の食事の予約時間となりました。



本日のディナー会場でございます。

なんだか昼の和食レストランと似ているなと思った方、あなたは鋭い。
このレストラン、昼間の和食レストランの隣にあり、同じお店。
地元の素材(イナゴ含む)を使った伝統的な和食を出し、
この隣では、新進気鋭のフレンチキュイジーヌのシェフが、創作料理の腕を奮うのです。



フレンチキュイジーヌのエントランス。
偽物の電気暖炉などではなく、本物の練炭が燃えています。



なぜか黒板に書かれた謎の文章。



エントランスを抜けると、中庭を敷石を渡りながら歩いていきます。
この蔵は、無形文化財に指定されています。





同じように旧家を使っていますが、この建物は昼間のレストランの、
庭を挟んで向かいに建つ別の家屋です。



ふと上を見上げれば、柱にはこの建築を請け負った大工の棟梁の名前が、
墨痕も鮮やかに黒々と書かれています。

この署名は、上棟式という建物の無事を祈って行われる祭祀で行われるもの。

この梁(うつばり)は、このように改築される前はおそらく天井裏にあり、
従ってこの棟梁のサインも人の目に触れることはなかったに違いありません。
おそらく百年は経過していると思われるこの墨が全く色あせていないのは、
陽の当たらない闇に長らくあったからではないかと思われます。

百年後、日本人の建築に対する意識が変わり、よりによってインテリアとして
自分の名前が人目にに晒されるとは、伊太郎棟梁も夢にも思っていなかったに違いありません。



食事の始まる前に、お店からシャンパンのプレゼントが。
この日はクリスマスの特別ディナーだったのです。
なんと、皇室御用達のシャンパンだそうです。

我が家は示し合わせたようにわたしもTOもお酒が飲めず、
一口でも飲むと、TOは眠くなり、わたしは顔が真っ赤、という下戸夫婦。
フランス人は、ワインも飲まずに料理を食べるということが信じられないらしく、
オーダーのとき「お酒飲めないから水」と言おうものなら
「カエルかよ」
と陰口を叩くらしいのですが、「下戸」というのが蛙の鳴き声と同じというのは
何とよくできた話なのでしょうかげこげこ。



しかし、お店(というかこの会社の一番偉い人)の好意を
「飲めませんからげこ」
と断る勇気を、わたしもTOも、日本人として持ち合わせておりません。
今宵はクリスマス、飲めないなりに飲んだふりをして、
この上等のシャンパンの「ずっと消えない」という泡を目で楽しもうではないか。

因みにわたしはシャンパンの味は大好きで、
このグラスで2センチ水位が減るくらいは飲んでみました。
飲んだってより啜った、という方が正しいですが。

そのおかげで、食事中、ずっと赤い顔をしていました。
おまけに自覚はないままに会話の内容が明らかに酔った人のそれになっていて、
家族に「飲み過ぎ」と注意されてしまいました。



二皿目のプラチナサーモン。
泡は、それそのものがゆずの味で、ドレッシングのようになっています。



フォアグラのポワレ。

付け合わせは大根。
フォアグラというものはそのまま出されると苦手なのですが、
あの独特の「肝臭さ」が、ソースによって絶妙の旨味に昇格していました。



スズキの真空料理。
スズキというのもヘタな料理人にかかると、パサパサしたものになって、
せっかくのディナーが文字通り味気ないものになってしまうのですが、
この、真空パックによって魚身の旨味を閉じ込め、外側をパリッと焼いて、
香ばしさで蓋をするというお料理は絶品でした。 




伊達鴨のロースト。
我が家は全員牛より豚、豚より鶏、鶏より鴨、という順で鴨が好きです。

チキンも地鶏なら身が締まった美味しいものもありますが、それより
脂肪がすくなく、身に旨味がぎゅっと詰まっているからです。

またしても泡が料理を覆っていますが、これもソースの役目。



デザートはフレンチトースト。

この日は地元のミュージシャン(ヴォーカルとギターのデュオ)の楽しいライブが入っていて、
クリスマス気分を満喫しました。



明けて次の日。
ホテルをチェックアウトしたあと、ランチまでの時間、
少し松本の町を歩いてみることにしました。

敷石がきれいに舗装されている、ここは門前町で、
お正月の注連縄を売る店や、土産物屋が立ち並んでいました。



思わず「おお」と見とれてしまったレトロな珈琲店。
時間があれば入ってみたかったです。
まるも、というのは、この家のもとの印から取っている店名のよう。

こういった家屋が普通に観られるので、観光客は町歩きをするだけで
十分な旅行情緒を味わえます。
わたしは昔ここに来たことがあるはずなのですが、こんな家屋に全く記憶がありません。
子供でその風情が理解できなかったせいでしょうか。

この辺りには、外国人観光客の姿が目につきました。
見た目外国人とわからない外国人も結構いると思われます。
古い家屋なのに、英語の看板をあげている宿屋もあり、
外国から来た観光客にはこういう情緒が非常に喜ばれるのでしょう。




このお店は、佃煮屋さん。
長野の主婦は自分で虫類を調理せずとも、このようなお店で
売っているお惣菜を買ってくる人が殆どだと見た。

ここは佃煮の他、やまめやイワナの甘露煮、そしてワインも扱っており、
地ワイン、ボジョレーヌーボーの貼り紙もあります。 

そして気になる「虫系の佃煮」は、

さなぎ
いなご
ざざむし
はちのこ

うーん・・・ざざむしって何かしら。

フランツ・カフカの「変身」で、主人公がある日目覚めたら
変身してしまっていたというあの虫のことかしら。

節子それざざむしちゃう、グレゴール・ザムザや。←自己ツッコミ

ざざむしの正体がわからんので、取りあえずwikiってみました。
ざざむし、という虫はおらず、



カワゲラ



トビゲラ



蛇蜻蛉(ヘビトンボ)

の幼虫のことを、「ザーザーした水にいるから」ということで
ざざむしと総称しているそうです。

「気色の悪いもの見せるな!モノ食べてるのに」

と思われた他府県の皆様、これは「食べ物」ですからね。

まあ、虫は良質のタンパク源で、海無し県の長野人に取っては、
貴重な栄養であったことは重々理解しますが、それにしても
最初に食べることを考えた人はチャレンジャーだよなあ・・・。

「普通に蛇の生裂きを食べてますが何か」

節子それチャレンジャーちゃう。レンジャー隊員や。



と新春早々くだらんシャレと閲覧注意画像が炸裂してしまい、
まことに今後に不安を感じる当ブログでございますが、次参ります。

このざざむし屋の向かいには、薬屋さん。

「いいねいいね〜」
「まるで黒井健の『手袋を買ひに』みたい」

代々薬局を営んでいる家らしく、軒には「薬」と書かれています。
この他、写真は撮れませんでしたが、まるで

「イシャはどこだ!」

のつげ義春「ねじ式」に出てきそうな眼の看板の眼科もありました。

そうやって時間を潰し、昨日のレストランと同じ会社がやっている
創作和食のお店に、昼食をとりに参りました。

ここで丼ものを頼んだら、その後仲居さんが来て、

「当店の板長が、もし差し支えなければお任せいただきたいと申しております」

昨夜のワインといい、お昼なのにお任せといい、
それもこれも我が家とここがちょっとしたご縁があることから、
計らって下さっているわけですが、ありがたいことです。
謹んでお受けしたところ、



馬刺しがでてきました。

「なにこれ」(息子)
「馬」
「馬?」
「だからホース」

そこで、博学のわたしが、昔文禄、慶長の役当時、
補給線を絶たれ食料が底をついた加藤清正軍がやむを得ず軍馬を食したのが
馬食の始まりであることを説明してやりました。

ついでに、当時全く反響のなかった渾身の写真馬漫画、
「チッチとサリーの物語」
を読んで下さると嬉しいです。

 

そしておつゆと焼き物。
量も多すぎず、大変結構なお昼ご飯でした。

このあと、このビルの向かいにある丸善の「軍ものコーナー」が、
異常なくらいの充実ぶりだったのでついかぶりつき、
移動の途中だというのに本をしこたま買い込んで、夜の目的地、
山間の温泉に向かいました。



タクシーでわずか20分。
そこにはまたもや「つげ義春」のような世界が?


続く。
 



靖国神社に初詣〜安倍参拝効果

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あらためて、明けましておめでとうございます。

昨日の「あけおめ」は、年末に作成したエントリなので、
実際に今年初めてのエントリ作成になります。

例年海外に旅行に行ってしまう我が家ですが、三年に一度くらいは
日本で迎えており、その際には都内にホテルを取ってそこから初詣に参ります。

 

今年大晦日に年越しのために泊まったホテルは、カウントダウンパーティがありました。
わたしは部屋でエントリを作成するのに忙しかったのですが、
息子が興味があるというので降りてみました。



思わず「晩ご飯食べなきゃよかった」と思うほどの豪華なお料理が
迷うくらい並んでいます。
息子はどうも小腹が空いていたらしく早速サンドウィッチをパクリと。

しかし、時間はと言うと12時10分前。
いつもなら飲んだり食べたりは厳として慎む時間です。

「うーん・・・・美味しそうだけどな」

と迷っているとTOが

「明日の朝のお節とお雑煮を美味しく食べたいならやめといたら?」

そうそう、朝はここの和食のお正月膳を予約していたんだったわ。
いつもはそういった理性を働かせることなく、目の前にあるものを
なんでも頂いてしまうTOも、こういうことになると怖いくらい自制心が働きます。

勿論わたしも言われていつもの自分を取り戻し、素直にウーロン茶だけを啜っていました。



カウントダウンには音楽も入っていました。
なんとお洒落な。
アコーディオンとヴァイオリンのデュオで、アストル・ピアソラの
「リベルタンゴ」「オブリビオン」、和製タンゴの「奥様お手をどうぞ」
などのレパートリーをもつ女性二人(しかも見た目もオシャレ)が、
年を越すにはぴったりに思われるライブ演奏をしていました。



カウントダウンが始まる前に、シャンパンが配られます。



20秒前からカウントダウンは始まり・・・・



2014年、日本の年明けぜよ。

というわけでその瞬間、わたしはカメラのシャッターを押していましたが、
皆様はどのようにお過ごしでしたでしょうか。



起きて目覚めると、初日の出が・・・・・。

といいたいところですが、ここは東京のビル街。
太陽も素直に出てきません。
初日の出のように見えるのは、じつはビルのガラスにうつった「にせ日の出」。



昨夜、カウントダウンの後部屋でいろいろと仕事をしていたので、
睡眠時間は短くなりましたが、目覚めは爽やか。
美味しいお正月のお膳をいただく予定の前には、眠気も吹っ飛びます。



すっかりお正月のしつらえをした和食レストランに赴くと、
皆さん「あけましておめでとうございます」とご挨拶をしてこられます。

うちや海外で迎えるお正月もそれなりですが、こういう朝を迎えると、
やはりお正月は日本で迎えるのが一番いいかな、と思います。



食事の前にはお屠蘇が出てきました。
甘くてかすかな薬草のような香りがして、食欲が進みそう。
ただ、わたしはこの後着物を着ると言う大事業が控えているので、
顔を赤くするわけにはいきません。

残念ですが、一口まねごとだけ頂きました。



お待ちかねのお雑煮。
すまし汁の京風で、何と鴨肉が底から出てきました。



そしておせち。

しんじょや紅白蒲鉾、黒豆に数の子、ごまめ。
どれも関西風のあっさりした味付けです。



窓の下には東京駅舎。
この美しい駅舎を見るたび、往時のままに建築を保存してくれた関係者に
心から感謝したい気持ちに鳴ります。

食事のあと、少しだけ時間があったのでラウンジでお茶を一敗いただいて
部屋に戻ろうとすると、ロビーでなにやらにぎやかな音が。



獅子舞が来ていました。
写真を撮るためだけにロビーに降りて見ていたのですが、
このおかめひょっとこの無言劇が、なかなか面白く、
思わず見入ってしまいました。
宿泊している外国人観光客は実に興味深そうに写真を撮っていましたが、
お正月に日本に観光に来る外人は日本人ですら今やみることのできない
こういった伝統芸能を見ることが出来て、ラッキーですよね。



エレベーター前で獅子舞チームとばったり。
カメラを構えたとたん皆でポーズしてくれました。

さて、このあとは初詣に備えて着物の着付けと髪を結ってもらいました。
着物を着る、というのは、特に普段着慣れない人間に取っておおごとで、
用意から始まってすべてを人に頼まないといけないため、
わりとやる気というか気力が要ります。

しかし、わたしには今年着物を着なければいけない理由(わけ)があったのです。



そのわけはこの帯。
鳳凰と獅子の紋様が金糸銀糸で織り込まれたものです。



金は糸を着色したものですが、銀は箔。

し・か・も!



獅鳳瑞彫文 たつむら

と書いてあります。
「龍村の帯」。
これは、着物に詳しい方ならご存知かもしれません。
三越ならばとんでもないお値段で売っている「ブランド品」。

この帯、実はTOが某クラブの忘年会のくじ引きで当てたものなのです。

年末のある日、立派な桐の箱を抱えて帰って来たTOが、

「くじ引きで一等賞品の帯当たった!」

去年、奇しくも当ブログで最近わたしはくじ運がいいみたいなので、
年末ジャンボ宝くじでも買ってみようか、と書いたことがありますが、
昨年のくじ運のよさは留まるところを知らず。
ついにTOの運までが本人のTOではなくわたしに向いてしまったと見えます。

某クラブの忘年会賞品はよほどどれも豪華なものだったらしく、一等とはいえ、
このようなものがいただけるなんて。

まことに暮れから?縁起がいいわい。

せっかくこんな素晴らしい帯が手に入ったのだから、
この帯を締めるためだけにもお正月は着物を着ましょう。

というわけで、久しぶりに着物を着て初詣にいくことになった我が家でした。



三年前にもご披露しましたが、わたしの(唯一の)着物は貝紫。

かいむらさき、とは文字通り貝から抽出した紫色のことで、英語名はロイヤルパープル
(王の紫)、またはティリアンパープル(Tyrian purple)とも言います。

この名前は、この色がもともとプルプラ貝という巻貝の鰓下腺(パープル腺)
から得られた分泌液を化学反応させて染色に用いたことに由来します。

貝紫染料は10㎝ほどのプルプラ貝12,000個からわずか1.5gしか採れません。
ですから、貝紫を部分ではなく、総身に使ったこの着物は大変希少なものなのですが、
これも何となく初めて着物を買うことになったときわたしの元にやってきました。

この話にも帯の話にも言えることですが、わたしは分不相応なものやことが、
人のご縁のおかげで手に入るということがわりとよくあります。


こういうのを「棚ぼた体質」とでもいうのでしょうか。 




朝、部屋に着付けと髪結いの方に来てもらい、支度が整いました。
かんざしは組紐でできています。
昨日お話しした長野の温泉旅館のショップで購入したばかリ。



ホテルのフロントロビー。



車に乗る前に、ホテルのお嬢さんたちと皆で記念写真。
成人式の振り袖を自前で持ち込み、朝着付けをしてもらうのだそうです。
ただし、誰でもきることができるのではなく、フロントとかゲストリレーションとか、
『目立つ係の従業員だけ」なのだとか。

勿論真ん中がわたしですが、やはり若いお嬢さん方の振り袖とは
なんと言うか落ち着き方が違うっていうか。


わたしにもかつてこんな煌びやかな大振り袖を着た日がありましたが。(遠い目) 




タクシーで靖国神社に向かいます。
これは、丸ノ内にある「三菱系」のビル。
ここは皇居から東京駅にかけて「国粋企業」の一つである三菱系が
がっつりと皇居を守るかのように取り囲んでいます。

何でも皇居の周りに「外国企業」を置かせないためだとか。

そして靖国神社に到着。



ハイヤーをチャーターしたので、駐車場で待ってもらおうとしたのですが、
それどころではありません。
駐車場を待つ車は靖国通りに延々と列を作り、
とてもではないけどわたしたちが参詣している間に入れそうにありません。
仕方ないので運転手さんには電話番号をもらい、適当なところで
待機してもらうことにしました。

うーん・・・・それにしても今年は以前と何やら様子が違う・・・。



なんと。
参拝の順番を待つ団体の長い列ができています。

手を洗う手水場より遥か後ろ、二の鳥居のあたり。
ここから約20人くらいが横一列の大変な列です。

それは8月15日の靖国と全く同じような混雑ぶりで、
三年前のお正月に訪れたときとは全く違った眺めがそこにはありました。

「何これすごい」
「前、こんなに混んでなかったよね」
「これってもしかしたら・・・・安倍さんが参拝したから?」
「ああ・・・そうなのかも」

一週間前に安倍総理が靖国参拝をし、それを新聞やテレビが大騒ぎしたこと。
それを「平和への逆行」だの「近隣諸国(じつは二カ国)への配慮がない」だの、
実にくだらぬ非難をすればするほど、多くの日本人が

「靖国神社とはなんなのか。
日本のメディアがなぜこんな大騒ぎをするのか」

と考えるきっかけとなり、そういった人たちがテレビや新聞でなく、
インターネットによってメディアの「魂胆」を知ることになったのかもしれません。
そして、その結果多くの人こうやって靖国神社を訪れ「日本人の意思」を
一人一人が表明しようとしているのではないか。



もし中国や韓国が言うように実際「日本が右傾化している」のだとすれば、
それは日本をそうやっていわれの無い非難で貶める中韓と、
またその中韓におもねる主要メディアによって気づかされたせいで、
外圧に対する反感が「憂国」へと変わったからではないのか。

そんな皮肉な因果関係を思い、わたしは内心苦笑いする思いでした。




三人で代わる代わる手を洗ってその後も並び続け、
ようやく山門のところまで来ました。

そこでわたしがふと、靖国神社から送られて来ていた
「福引き券」に「昇殿参拝」ができるということが書いてあるのを思い出したのです。

「もしかしたら列にこのまま並ぶより、いっそ昇殿参拝した方がいいんじゃない?」


何のために毎年更新して崇敬奉賛会に入っていると思っていたのか。
こんなときに昇殿参拝できるという「会員特典」をわたしはすっかり忘れていました。

というわけで、列を離れ、昇殿参拝を申し込むために、
わたしたちは参集館に移動しました。

そして、そこでわたしは非常に印象深いある光景を目撃したのです。




続きます。


 

靖国神社に初詣〜新藤総務大臣の靖国参拝

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靖国神社に着いて、今年の参拝客の人出に驚いたわたしたちです。

「毎年、明治神宮や伊勢神宮の参拝客の人数を新聞が発表するけど、
 靖国神社の人出を報告した方が、ある意味日本の『世相』ってものがわかるけどな」
「今年は安倍首相の参拝もあって例年の三倍の人出でした、って?
産經新聞以外そんなこと書くわけないじゃない。
朝日新聞の今朝の第一面なんか『韓国済州島の英語教育の試み』だよ」
「元旦の第一面が?・・・どこの国の新聞だ」
「日本じゃないことは確か」




靖国の話を語りだすと、話はどうしても「マスコミ批判」になります。
靖国を問題にしたのは他でもない朝日新聞であり、中国にしても韓国にしても、
自国の利益のために渡りに船とそれに乗っかっただけに過ぎません。

今回の首相参拝も、中国はなにやら考えることがあるのか、年末年始で
それこそ前のようなデモに発展させるわけにいかないせいか、
非難はあっても政府の見解としては想像より「おとなしめ」であると感じます。

韓国も思ったよりは大統領本人からの激しい非難がありませんし、
むしろ、この問題に火をつけ例によって大騒ぎにしたいと一番望んでいるのは、
日本のマスコミではないかとわたしには思えてなりません。

それにしても、この国のマスコミは日本をどうしたいんだろう・・・。



境内には獅子舞が来ていました。
帰りに見たとき、小さな子がお獅子に噛まれてギャン泣きしていました。
お獅子に噛まれると一年無病息災、というので噛んでもらったのですが、
彼には少しハードモードだったようです。
お獅子で泣く子供って、実は多いんですよね。
わたしも小さいときには怖かったのでよくわかります。




境内の舞台では、代わる代わる伝統芸能的な出し物が。
つのだ☆ひろさんもよくここで奉納ステージを務めるとか。
一度聴いてみたいなあ。(実は結構好き)



入り口で受付をすると、封筒の上に名前と住所を書き、
さらに神主が名前を読み上げるので、必ずふりがなを振るようにいわれます。

封筒の中には祝詞代?を入れますが「お一人2000円以上であとは篤志」。

下限はあっても上限は無い、このあたりが神社らしいところ。



申し込みをしたら、何人かまとまって参拝するので、アナウンスがあるまでここで待機します。
ジュースの自動販売機もありますし、お茶のディズペンサーもあり、
さらに席には社務所の方が熱いお茶とお菓子をもって来てくれます。



こうやって待っているとアナウンスがかかり、皆で本殿の手前にある拝殿まで移動。
昇殿参拝したことのあるかたはご存知かと思いますが、
拝殿に行く前に手水場があり、ここで手と口を清めます。

言ってはなんですがこんなことに全く興味を持っていなさそうな、
茶髪ロングヘアの若い男の子が同じ集団におり、手洗いのお作法を知らないのか
柄杓に直接口をつけて水を含んでいました。

まあでも、昇殿参拝にまでわざわざやってきたわけで、それだけで全て許す。
何度か来るうちに周りを見てマナーも学んでいけばいいんじゃないでしょうか。

拝殿にぎっしりと並び、清めのお祓いを受けた後、神職が
しばらくお待ち下さい、と告知をしました。

しかし、大鏡のある本殿には人影がなく、わたしはそのときに

「今から誰かが参拝に来るのでは」

とぴんときました。
目を凝らして見ていると、いかにも位の高そうな神職が先頭に立ち、
モーニングの男性と和装の女性、子供二人を率いて右手から入ってきました。
(本来は拝殿から出て本殿には左から入り右から退場するので、
本来とは違う特別参拝であることがわかった)

神職の後ろの背の高い男性を見たとたん、それが新藤義孝総務大臣であることがわかり、
となりのTOに

「新藤総務大臣」

と囁いたのですが、国会中継を見ず、テレビも見ない人が知っているわけがありません。
案の定後で、

「新藤総務大臣って名前知ってた?」

と聞くと、

「知らなかった」 
「新藤大臣って、栗林中将の孫なのよ」
「栗林中将ってだれ」
「硫黄島で玉砕した軍の司令官」
「・・・渡辺謙の?」
「そう、ケンワタナベがやった人」


たまたま彼が「硫黄島からの手紙」を観ていたので
ここまで話が行って初めて理解してもらえました。やれやれ。

新藤大臣の後ろには白地の遠目にも美しい着物を纏った夫人、
そしてまだどちらも幼児といっていいほどの一男一女の子供たち。

家族は立ったまま神職の挙げる祝詞を受け、
二拝二拍手一拝をして本殿を去りました。

あっというまに、という言葉そのままで、おそらく新藤家の人々が
本殿にいた時間というのは数分以内といったところだったでしょう。

しかし、靖国神社から帰るタクシーの中でスマートフォンを見たわたしは
ニュースの見出しに

「新藤総務相が靖国神社参拝」

と出ているのを見て驚きました。
わかってはいましたが、ニュースにするほどの参拝はたった3分の出来事なのです。
しかも新藤大臣は例大祭など、就任以来一年の間に6回靖国に参拝しているそうで、
まさにわたしの言う「何かにつけて参拝」をそのまま実行されています。

祖父が陸軍軍人で、靖国神社の英霊となっている方であれば、
公人だろうと私人だろうと、そこにお参りするのが当然のことですよね。

三分間の参拝を直後に大ニュースにするマスコミっていったい何?
とやはり安倍総理のときのような単純な疑問を感じずにはいられませんでした。

しかもです。


帰ってからそのニュースを読んでみると、

 参拝を終えたあと、新藤総務大臣は記者団に対し、
「自分の心の問題として、私的な参拝をさせていただいた。
戦争で命を落としたたくさんの方々に対し、尊崇の念を込めてお参りした。
また、二度と戦争が繰り返されないように、平和への思いを新たにした」

と述べました。また、新藤大臣は安倍総理大臣の靖国神社参拝について、
「諸外国に、きちんと説明していく必要はあると思うが、
どの国でも、自分たちの国のために命をささげた方々に対し、
同じような行為がなされていると思うので、とりわけ問題とは思っていない」

と述べました。(NHKニュース)


なぜわざわざ「私的な参拝である」ということをあえて強調せねばならないのか。
たとえ新藤大臣がそのように言ったのだとしても、

「諸外国にきちんと説明していく必要」

などと、あたかも参拝が疾しいことのような書き方をなぜしなくてはいけないのか。

そしてまるで参拝が「犯罪」であるかのような報じ方。
そもそも「きちんと説明していかねばならない土壌」を作ったのは、
どこの誰だったか?ということをこの記事を書いた記者に聞いてみたい。

「心の問題」「私的な」

こういう新藤大臣の言葉を「諸外国への言い訳」のように思わせる手口は
あいかわらず自分の都合のいいように物事を解釈し報道するマスコミですね。

たとえばもし、

新藤総務相の祖父は第二次世界大戦における硫黄島の戦いで
陸海軍守備隊の総指揮をおこなった栗林忠道中将。
栗林中将もまた、ここ靖国神社に英霊として祀られている。

という事実をこの参拝報道の最後にに付け加えたとします。

これで、ずいぶん受け手の新藤大臣の参拝に印象というのは
違ったものになってくるでしょう。

関係のない諸外国の人々は勿論のこと、
たとえ靖国神社に反対するという考えの人間であっても、

「お祖父さんが祀られている場所に私的な思いで参拝すると言っているのだから、
たとえ大臣であっても誰にも文句を言われる筋合いはないよなあ」

とは思いませんかね?
朝日新聞、毎日新聞、そしてNHKほかマスゴミの皆様、
なぜこのことをあなた方は断じて報じようとしないのでしょうか? 

しかも、ついこの何日か前、新藤大臣は、記者会見において
「参拝が諸外国の批判を浴びているが」といつもの調子で切り出した朝日新聞の記者に

「諸外国ってどこですか」
「中国とか韓国とか」
「中国と韓国以外にはどこが非難しているんですか」
「・・・・・二カ国だけですけど」(くっ・・・悔しいニダ)

と鮮やかに釘を刺したばかリ。
(実はもう一国非難している国があるはずだけど、
この人はなぜその国の名前を言わなかったのかしら)


新藤大臣のいう、

「諸外国への説明」

が、マスコミの報道するような「言い訳」という意味ではないことは、
大臣の普段の政治信条やこのような言動を見れば
誰にだってわかっていると思うのですが、あえてそれを「言い訳」と感じるような手法で報ずる。

やっぱりマスコミってゴミだなあ、と新年早々実感するニュースでした。 



新藤大臣の家族が参拝を住ませた後、我々は本殿に移動しました。
つまり、わたしは新藤大臣の次に参拝した、ということになります。


本殿では一人一人の名前を祝詞に読んでいただきます。
我が家はこと靖国に関してはわたしが権限を持っているので、
わたしの名前を代表として読んでいただきました。

退出の渡り廊下で巫女さんの盃でお神酒を受け、
もう一度三週間でお供物のお裾分けを頂き昇殿参拝終了。



大事な用事が済んだので、福引きをしました。

 

「一等景品ってなんだろう」
「ハワイ旅行とか」
「パールハーバーで英霊を追悼するツァーにご招待!」

人に聞かれたら顰蹙間違いなしの与太話をしながら並びました。
景品は小さな家電が多いように見えました。
フィリップスの電気フライヤー(油無しで揚げ物が出来る)、
ちょっと欲しかったのですが、年末にとんでもなくくじ運を使ってしまったため、
不思議なことに当たる気がまるでしません。


予想通り三人で4回くじを引き、全員が6等(はずれ)でした。



4等があたっていたらこのDVDつきの「零戦21と堀越次郎」
をもらっていたと思います。



広場には出店が並んでいました。



遊就館の前で記念写真。



軍犬の像が今日ははちまきをしてもらっています。
「必勝」とか「報国」とかだったらどうしよう(ってどうしようもないですが)
とおもったのですが、「合格」でした。



鳩もなにか巻いてもらっていますが、ここからはわかりませんでした。



甘酒が振る舞われており、いただきました。
「振る舞い」といいつつ前には篤志をつのるトレイが置かれており、
そうなるとただ小さな紙コップ一杯の甘酒に100円玉を出すのが日本人。
お金を置かずに甘酒だけもらう人は見たところ一人もいませんでした。



そのまま待たせたタクシーに乗るために出口に向かったのですが、
門のところでいつも写真を撮っている写真館のおばちゃんが目に留まりました。

「今日は撮ってもらおうか」

ついそんな気になり、聞いてみるとポラロイドなら一分でできるとのこと。



菊の御紋をバックに家族で一枚撮ってもらいました。
写真をもらうとき、おばちゃんにTOは

「別嬪さん捕まえてよかったねえ」

とお愛想を言ってもらったそうです。
明らかに着物マジックというやつで、馬子にも衣装だと思いますが。



この時間になってもこれから拝殿に参拝しようとする人はこの通り。



さっきより列が明らかに長くなっています。
安倍参拝効果恐るべし。



間の道路には機動隊の皆さんや警察車両が待機。
本当に警視庁の皆さんにはお正月はありません。

ここに警察車両が止まっていたせいで、
いつもここに止めている菊の紋を付けた右翼の街宣車が今日はいませんでした。

ふと思い出したんですが、安倍首相が参拝した日、
靖国にトルエンで放火しようとした韓国人の裁判があったんですね。
あのトルエンを来日したばかりの外国人に渡したのは、
いったい誰だったのか、裁判では明らかになったのかしら。

それと、あの騒ぎになったとき、いつも意味なくたむろしている右翼の皆さんは
靖国を守るために韓国人を袋だたきにしようとかしなかったのかしら。

右翼って、靖国神社を反日勢力から守るためにあそこにいるんだと思ってたわー(棒読み)



さて、というところで参拝は終わりました。
明治神宮と掛け持ちしよう、などと当初考えていたのですが、
次の日に参拝した明治神宮では、正面にたどり着くのに二時間を要しました(笑)



法務省の前を通ったので一枚。
この日はホテルを移動です。



この日の遅いお昼ご飯。
なんと「すしの天ぷら」です。
マグロを巻いた巻き寿司をそのまま天ぷらに。

スシ・テンプラというと、ガイジンが真っ先にかんがえるところの
日本の代表的料理ですが、その二つを合体させてしまうとは・・・。

あ、お味は大変結構でした。
日本人にとっては寿司でも天ぷらでもないものになっていましたが。



部屋に用意してあったウェルカム・フルーツ&まんじゅう。



なぜ眉毛がある・・・。


ところで、次の日も明治神宮のために着付けをしたのですが、
その着付師さんは、帯をこのようにされました。



左上はバラの花びら、下部分は「千鳥」を表すそうです。
「龍村」の帯の名前を出すのは、昨日の方によると

「大阪の方は名前を見せたがるが、江戸っ子はそういうのを嫌う」

そこで、ネームを折込んで縫ってしまうのだそうですが、
昨日は何しろ帯を箱から出して印すら外さずもって来たものですし、
ましてや着物の知識のないわたしにそんなこと知るすべもありません。 

この着付師さんは、

「勿論名前を出すのは野暮です。
でも、 締め方によっては銘を出さずにできるんですよ」

やっぱりね。
昨日の「名前見せ」は、仕方ないとはいえわたしも野暮だと思っていたの。

何が粋で何が野暮か、はその道に明るくなければわかりにくいこともあるけど、
共通する「美意識」というのはやっぱりありますよね。

傍目にも野暮な帯の締め方で昇殿参拝をしたのは少し心残りでしたが、
まあこれも一つの勉強。
来年は(日本にいるならだけど)今年より着物をもう少しましに着こなして、
靖国神社にお参りしたいと決意をあらたにしました。 





 

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