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映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜予科練生活

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年末、旅行と大掃除とエントリ制作の合間を縫って、
ようやくこの映画を観ました。

陸軍省が紀元2600年記念に創った「燃ゆる大空」もそうですが、
この映画も、きっかり半分ずつ二部構成になっていて、

前半は予科練生活の紹介

後半は真珠湾攻撃とマレー沖海戦

となっています。
「燃ゆる大空」もまた、前半が少年飛行兵の生活、後半に戦闘シーンがありますが、
海軍はこの映画を真珠湾攻撃からきっかり一年後に「記念」として作るにあたり、
どうも陸軍の「少飛の生活紹介ついでにリクルート」という方式を
真似たのではないかと思われます。

開戦一年後と言えば、海軍は航空機搭乗員を大量採用していた頃で、
当初少なくてせいぜい200人だった予科練生は一期の採用人数が三万人にも上りました。

これはもう、あからさまに飛行兵欲しさの勧誘です。

というわけで、後半は真珠湾攻撃とマレー沖の大成功を謳い、
前半は友田義一少年の予科練生活を描く。
何しろ国策映画で予科練の宣伝が目標なので、登場人物は当然ながら
誰も本音らしいことを言いません。

最初から最後まで理想を絵に描いたような(ってそのとおりですが)
人物ばかりが登場し、実に清々しく勝ち戦で終わる。
おそらく当時これを観た日本人は、まさか日本がその三年後、
泥沼の敗戦を迎えるとは夢にも思わなかったのではないでしょうか。

同じ海軍制作の国策映画「雷撃隊出動」は、敗戦も明らかになったころ、
飛行機が無いということを映画の中で訴えるために作られたので
(制作が竹槍事件の直後であったことからわたしがそう思っただけですが)
しかも主人公たちは自爆して戦死する、といった具合。

こちらの方は、とてもこれを観て日本が勝利するとは思えなかったでしょうから、
「雷撃隊」で海軍はもしかしたら「日本の死に体」を国民に啓蒙したかったのか、
などと考えてしまうのですが、その話はともかく。

今日はこの映画の前半、予科練生活の部分についてお話しします。



なぜ中国語で字幕が?

これはですね。
以前「乙女のいる基地」でも説明したのですが、この映画を
鳥浜とめさんの娘の話を読んで観たくなり八方手を尽くして探したところ、
非常に入手が難しく、台湾にあるショップからようやく取り寄せることが出来ました。
それが「ハワイ・・」「野戦音楽隊」を含む三枚一組のセットだったのです。

台湾と日本はリージョンが同じですから問題なく観ることができるのですが、
当然もれなく中国語の字幕がついて来て、しかも消せません。
中国人が日本語をどう解釈しているのかが結構面白いので、
要所要所で字幕もチェックしながら観ていましたが、これが間違いが多いのよ。

「野戦音楽隊」のトップの

「撃ちてし止まむ」

に「射撃停止」という字幕がついていたときはお腹を抱えて笑わせてもらいましたが、
この「ハワイ・・・」も、かなりのものです。
翻訳はどうやら中国人らしく、「ようそろ」とか「奮励努力」なんて、
通常の現代日本語で使わない言葉になるとトンデモ訳になってしまっています。

それもまたおいおい紹介します。



陸軍省の制作だった「燃ゆる・・」に対して、こちらは海軍の「後援」。
撮影のセットを作るのに参考にする実際の軍艦を見せてくれないなど、
制作者からしたら「どこが後援じゃ!」と毒づきたくなるほど
実はこのときの海軍は制作に非協力的だったそうですが、その話もまたいずれ。



企画は大本営の報道部でしたか。
やはりこれは予科練の宣伝(略)



情報局とは、昭和15年に発足し、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと
思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸海の情報事務を統合して
設置されたものです。

国内の情報蒐集、戦時下における言論・出版・文化の統制、マスコミの統合、
文化人の組織化、銃後の国民に対するプロパガンダを目的に作られました。

つまりこの映画はの制作に当たっては、映画会社が海軍報道部の意を受け、
情報局のお墨付き映画(つまりプロパガンダ)に「参加」したという構図ですね。

 

「燃ゆる大空」もそうですが、台湾から三枚組で取り寄せた国策映画はどれも、
このような英霊への追悼の一文が捧げられています。 



映画は、風光明媚な田舎の一本道を、
一人の兵学校の学生が帰郷してくるシーンから始まります。

この田舎が、どこであるかはわかりません。
少なくともこの地方に住む人たちのしゃべる言葉は、全員そろって
東京の山の手言葉だからです。
そういった設定の甘さゆえこの映画の登場人物が住む世界にはリアリティがなく、
この映画が「官品」であることをあらためて感じさせます。

青年は立花忠明。
村一の秀才と誉れ高かったのであろうこの眉目秀麗の青年は、憧れの兵学校に入学し、
夏休暇を取って颯爽と帰郷してきました。

彼が身を包んだ純白の兵学校軍服は、この長閑な夏の風景にあたかも一陣の風のように
涼と凛とした空気を齎(もたら)します。

流れる音楽は、やたらテンポよくアレンジされた

「ふるさと」。




「ただあきさん!」

鄙には稀すぎる美女が藁篭抱えて登場。
これが、(一応)主人公となっている友田義一の姉、きく子。

いかなる遺伝子の突然変異によるものか、この美人の姉は、
義一少年とは姉弟には全く見えないどころか、母とも妹のうめ子とも
とても血のつながりがあるようには見えません。
これも、この映画のリアリティの無さの一因です。

あまりにも浮世離れしすぎて、最初は「ねえね」(姉さん)と義一が彼女を呼んでも、
実の姉ではなく「近所のお姉さん」だと思ってしまっていたくらいでした。

それにしても原節子の美しさというのは、古今東西の美人映画女優、
全部ひっくるめてもそのトップに堂々と位置を占めるレベルです。

兵学校の忠明さんも、実はこの村でも評判の美人に憧れており、
実は兵学校学生姿のかっこいい自分を見てもらうことが、この帰省の
一番の目的であったに違いありません。

戦後の映画なら少なくともそうなったはず。


しかし、そこは官製、忠明さんはきく子に声をかけられても、
さして特別の感情を見せず、ただ爽やかに敬礼するのみ。
むしろ、その姿をうっとりと見送るきく子の方が、この青年に対して
憧れを持っているかのように描かれます。

戦後の映画ならこれも、きく子が戦地の忠明の身を案じて百度参りしたりとか、
手紙を送ったりするシーンにほとんどが費やされると思われます。




畑から忠明の荷物を持つために飛び出して来た義一ですが、
涼しい顔をして汗もかかず忠明が携えて来た荷物を受け取るなり、
その重さによろめきます。

「兄さん、汗かいてませんね」
「水を飲まない訓練をしているんだ。船に乗りこむときに困らないように」

自分を律して訓練に励む海軍軍人をここでも強調。

忠明青年の実家は、この田舎でも特に立派な門構えで、下男がおり、
父親は彼が帰宅したときには何やら書道をしております。

この青年士官の卵が村では特別な存在であり、だからこそ義一少年も
飛行兵になると決めたときに同じ海軍に行きたいと思ったという設定。

実際、兵学校の制服と短剣姿は世の憧れで、夏冬の帰郷の際は
兵学校生徒はその姿で母校に「凱旋講演」し、海軍への志願を勧誘しました。 
こうしたかっこよさに憧れ兵学校受験を決めた軍人の中に、井上成美がいます。



字幕を見ればお分かりの通り(笑)忠明に向かって
搭乗員になりたいということを相談する義一。

どうしてこの二人は川で泳ぐのにこんな水泳帽を被っているのでしょうか。

 

それはともかく、海軍少年飛行兵になることを母親に説得してくれ、
と義一は忠明に懇願します。

この忠明を演じているのは中村彰。
実に聡明そうな白皙の青年ですが、 成蹊学園創設者の中村春二の息子として生まれ、
父と同じく東京帝国大学を卒業して映画界に入ったという「初めての学士俳優」。



俺についてこい!と水に飛び込む忠明。
このとき中村は26歳のはずですが、若々しい筋肉を持つ肢体は、
鍛えている兵学校学生のそれといっても全くおかしくありません。

頭脳明晰、身体壮健。
スマートを標榜する海軍がこの俳優を士官役として抜擢した理由がわかりますね。

そこでバイオグラフィをあたってみると、この人なんと

「加藤隼戦闘隊」「燃ゆる大空」

にも出てるんですね。
全然気づきませんでしたが。

 

「燃ゆる大空」より。藤田進の左後ろが似ているような気もしますが・・。



崖から自分が飛び降り、義一があとに続くことを躊躇わなかったら
母親を説得する、というテスト。



この崖はヘタしたら岸壁に激突の危険さえありそう。
代わりに飛び込んだスタントも、結構なスリルだったに違いありません。



テストに合格したので、義一の母親に少年飛行兵への入隊の許可を
説得している忠明。



次の瞬間義一は予科練に入ってしまいますが、実はこうなるまでが大変で、
開戦前の予科練はこの映画公開のときよりはるかに「少数精鋭」でしたから、
大変な競争を勝ち抜いた者しかここに来ることは許されませんでした。

しかし、映画の尺の関係でその辺の苦労は一切省略。



この映画の貴重であるのは、こういった実際の予科練の内部が映し出されていることです。
ここからは、海軍報道部の意向通り、予科練生活の描写です。

ここから始まるBGMは、「我は海の子」をアレンジしたもの。
この最後の歌詞が

「いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」

であることから、海軍のテーマソングとしても使われていたのでしょう。



これも本物の予科練生。
まるで納豆みたいですが、陸(おか)の上でもハンモックで寝るのが海軍式。
慣れたら寝られるものだと思うのですが、わたしはきっとダメだな(笑)



起床喇叭が鳴るなり跳ね起きて「吊り床上げ」。
ハンモックにかかれた楕円のなかには「ハンモックナンバー」が書いてあります。

これから転じて海軍での成績順を「ハンモックナンバー」と称します。



吊り床の利点は省スペース。
寝ていたところがあっという間に何も無い空間へと。
ハンモックは一段高い棚に収納したようですね。



起きるなり総員駆け足で整列。



きっとこの予科練生も、本物・・・。

こういう、はつらつとした若い人たちを見ると「このうち戦後生き残ったのは何人だろうか」
なんてことをつい考えてしまうのはわたしだけでしょうか。



義一練習生の予科練生活、明日に続きます。






映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜理想世界と白いリボン

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念願かなって入隊した土浦の予科練習生生活。
朝の総員整列の続きからです。




司令に「並びました」という係。
ただし、本物っぽすぎて(というか本物なので)何を言っているのかわかりません。
整列しているのは喇叭手です。



ここで全員が「あ〜〜〜」と言い出したので、発声健康法か?
と思ったらそうではなく、明治天皇御製の

「あさみどり 澄みわたりたる 大宮の
      ひろさを おのがこころともがな」

を皆で吟じているのでした。
これは、国民学校国語教科書『初等科國語』にも載っていたようです。
小学生がこれを吟じていたとは・・・。



続いて海軍体操。

これを考案した海軍の堀内豊秋大佐(最終)は、デンマーク体操から着想を得て
この海軍体操を考案し、海軍省から表彰されています。

堀内大佐はインドネシア・メナドへの海軍落下傘部隊を指揮しましたが、
戦後、部下の罪を被って戦犯として連合国に処刑されます。
現地住民は助命嘆願を出し、亡骸の埋葬された場所には慰霊碑を建てたそうです。

江田島の旧海軍兵学校の教育参考館には、バリ島在住であったドイツ人画家
ストラッセル・ローランドによる、メナド降下作戦の堀内大佐の肖像画があります。



時鐘を鳴らす兵。
朝六時だから・・・・4点鐘かな?



ここでいきなり藤田進登場。
予科練の教官で分隊長である山下大尉という役どころで登場します。

ここで山下大尉がする精神訓話というのも、
当たり前すぎて全く記憶に残らないくらいの(失礼)ものなのですが、
そういう1たす1は2、みたいなこともちゃんと言の葉に乗せてみることが、
実際の精神教育には有効なんでしょうね。たぶん。



入隊して一ヶ月が経過したところで、改めて訓育です。
当てられた友田義一が教官の質問に答えると・・・。



「友田の言うことは正しいか?」

何人かが手を上げていますが(そう思わない生徒もいるってことですね)皆拳をグーにしています。
これは海軍独特の挙手の方法で、なんと最近読んだ本で、
現代の自衛隊でもこの方式で手を挙げるのだそうです。

うっかり外でグーの手を挙げてしまうので、自衛官だとばれてしまうとか。



漢文の時間を思い出して読んでみましょう。
この予科練生は、「はやし」と呼ばれているのですが、字幕では「隼人」になっています。



最後四文字は「敢闘精神」のこと。

この人は、全般的にセリフの言い回しが稚拙な俳優ばかりのこの映画で、
特に素人っぽいしゃべり方をしていたのですが、もしかしたら
俳優ではなく、予科練の中から選ばれて「特別出演」したのかもしれません。



さて、訓練の最も海軍らしいのがカッター訓練。

カッター訓練は、旧軍以来の伝統で防大でも行われますし、
海自の教育隊ではつきものです。

ちなみにこのカッター訓練、防大では一ヶ月の集中訓練をするらしく、
剥けるのは手の皮だけではなく

「互いのお尻にバンドエイドを貼り合う」

男たちの美しい姿が夜な夜な見られるのだそうですが(防大出身者談)、
そのような厳しい訓練を経たあと、防大生は文字通り

「一皮むけた」

として、飲酒喫煙、廊下のソファ使用、浴室の風呂椅子使用の権利が
与えられるのだそうです。

それまでは、お風呂で膝をついて身体を洗わなくてはいけないんですって。
うーん。それは辛いものがあるな。

しかし、旧軍のカッター訓練はそんな「ご褒美」があるわけではなさそうです。



上画像の中国語は「オール上げ」の意味だと思われます。



ダビッドに短艇を吊って訓練終了・・・なのですが、
声を枯らして短艇をリードしていた班長?が、
短艇競争で負けたことを「気合いが足りん!」と叱咤。

あの、二艘で競争すれば必ずどちらかが負けることになってるんですけど。



しかしそんな当たり前のことを言って通る世界ではありません。
負けた罰直にグラウンドを縦横無尽に駆け回らされます。

「たるんどる!」

とか言いながら、さすがは指揮官先頭の海軍、 言った本人が先頭に立って
一緒に走りまくります。

 

最後は直線にダッシュし、銃剣動作をして終了。
これはいかに「若い元気な予科練」でもかなりキツいと思われ。



「どうだ、きつかったか?俺もきつかった!
しかし辛いことを我慢せんと戦争には勝てんからな」

とにこやかに訓示。

実際はこんな映画のような(って映画なんですが)面はごく一部で、
裏には様々なドロドロしたものが蔓延していたのかもしれませんが、
理不尽や陰湿な苛め、体罰や時として死者を出すほどの訓練、
そういった面を海軍制作の映画で描くわけがそもそもないのです。

自衛隊などにも言えることですが、およそこの世のいかなる団体も、
現実は映画やお話のようにはいきません。

全てのものには光があり影があるのですから、
ましてやこの時代の国策映画が、理想に終始してウソっぽくなるのは致し方ないでしょう。

ただ、いまだにこの映画が「名作」と言われている意味を、
エントリのシリーズ終了までにきっちりと見極めてみます。

人間の姿をありのまま本音で描いたものや芸術作品だけが映像作品として
価値があるのか、という根本的な問いがそこには生まれてくるに違いありません。




この映画の訴える「海軍の精神主義」を表すもう一つのシーン。
兵学校では当時の人気力士の相撲部屋などが表敬訪問し、
学生はプロの力士に手も無く捻られた、という話を書いたことがありますが、
これもどこの教育部隊でもやった訓練のひとつ、相撲。




ここで、友田練習生は「勝つまで土俵を降ろしてもらえない」
というしごきに耐え、次々と級友と対戦し続けます。




なぜか友田に肩入れし、応援する山下隊長。
加油、というのは中国語で「頑張れ」です。
油を加えることが頑張ること、というのは納得ですね。

藤田進はこのとき30歳。
デビューが遅く、照明係などの下働きをしていた時期があり、
東宝ニューフェースとして大部屋に入ったのが27歳。
「燃ゆる大空」で突っ立っているだけの役をしたのがデビューの翌年です。

ですから、30歳と言っても達者という演技では決してありません。

というか、この人は軍人の役が多かったため何とか様になっていたようなもので、
戦後の映画ですら何を見ても同じような調子。
決して名優とか演技派ではないのですが、このころはまだデビュー三年目、
この頃の演技はすでに後年の演技と同じです。
というか、後年の演技もこのころをあまり変わっていません。


丹波哲郎がデビューの頃周りからあまりにも偉そうなので
顰蹙を買っていたそうなのですが、当時の丹波を知っていた同期の某男優が

「どれくらいデビューしたころの丹波さんは偉そうだったんですか」

と聞かれたのに対し、

「今(亡くなる少し前)と全く同じ」

と答えた、という話を思い出します。
三つ子の魂百までといいますが、人間根本的なものって変わらないんですね。

つまり、藤田進はこの容姿でなければ俳優としては全くだめ、とまでは言いませんが、
そもそも俳優にもなっていなかったのではないかと思われます



この中国語は確か「のこった、のこった」?

せっかくこの試合で上手投げで勝ったのに、隊長は友田に
土俵を降りることを許してくれません。

「技で勝とうと言う心構えがいかん!」

ってよく意味わからんのですけど。
藤田進は「姿三四郎」でブレイクした俳優ですが、嘉納治五郎曰く

「柔能く豪を制す」

じゃなかったんですか。
小兵が技で身体の大きな相手に勝つ柔道精神は、予科練では通用しないどころか
卑怯なこと、っていうニュアンスですね。

「娑婆の相撲とは違う!」

つまりそういうことですか。



さらに、この大学リーグチャンピオンとの試合のあとも、
山下隊長またしても意味不明な訓示。

「点数では負けたが気力では勝った!」

いや、負けは負けですから。
言いたいことは痛いほどわかるけど、これじゃたとえが悪いですがまるで

「日本の勝利は恥ずかしい勝利」

などと日本に負けるたびにケチをつける某国みたいじゃないですか。
さすがに相手を卑下する某国のそれとは全く意味合いが違うとはいえ。

スポーツは結果ではなく、その精神がどうであったかである。これはわかる。
しかし、

「相手は大学のリーグ優勝校で、お前たちより5歳上だから仕方ない」

という言い訳もそうだけど、
それでは「精神では勝った」って、何をもってそう言っているのか?

これも「娑婆のラグビーと予科練は違う!」ってことなんでしょうか。



お待ちかね、食事タイム。
食事が済んでから、友田練習生、箸でツートンし、

「しるこが食いたい」

すかさず僚友が何か答えますが、これはわたしには何と言ったのかわかりませんでした。



「実際お前らは食べることしか考えとらんな」

でました「実際」。
兵学校67期について書いたときもこの流行言葉について述べましたが、
この「実際」は当時の流行語です。
その他、山下隊長が

「手荒なこともしたが」

と訓練について言いますが、これは海軍独特の言い方で「すごく」の意味だったり、
「厳しく」だったり、決して現代の「手荒なこと」つまり殴ったりすることではありません。

実際は予科練の訓練というのは「軍隊式」ですから、
罰直は必ずバッターで殴られ、何かと言うと拳骨が降り、
そういう意味では本当に「手荒かった」のは事実なんですけどね。


・・・・あ、

「手荒なこと」って、本当に殴ったということを映画的に穏便に言っただけだったのか。



さて、ここで不可思議な演出があります。

友田練習生が疲れきって眠りにつき、夢を見ます。
音楽は最初に出て来た「ふるさと」の、妙に怪しげなアレンジ。

夢には、ありありと隅々まで思い出すことの出来る実家の内部、
彼の視線が母を探して彷徨っていると、頭に白い大きなリボンをつけた
姉きく子と妹うめ子が笑いながら並んで正座しています。

「二人ともそんなリボンなんかして、まるで気違いみたいじゃないか」

この頃の映画ですから、今なら一般人すら言わない放送禁止用語で
こんなことをいいます。
するときく子とうめ子は

「立花の忠明さんがお手柄を立てたらその勲章のために使うのよ」
「けがをしたら包帯にしてあげるのよ」

うっわー、怖いよ君たち怖いよ。



そして仏壇に向かう母に呼びかけても母は全く聴こえない様子。

確かにこのようなシュールな夢を見て後から「なんだったの」と思うことって
実際にはありましょうが、この前半は精神主義的、後半は我が海軍の
華々しい初戦の勝利を自慢かたがたご報告、という構成の映画には
この夢がいったいどういう意味を持つのか謎です。


そこでわたしなりにここを解釈してみたのですが、
「忠明さんのための白いリボン」は、そのうち忠明が戦傷を負うという暗示で、
母親が仏壇で一心に拝んでいるのは、もしかしたら・・・・・

・・・・・・義一自身?

義一の声が母親に聴こえないのは、彼がすでに幽界を彷徨っている存在であるから?


厳しい訓練に精神訓話、国に捧げた命を惜しむものではないけれど、
義一の深層心理には実は「既に戦死してこの世からいなくなる自分」が予感されていた

・・・・・という意味なのでしょうか。

もしこのわたしの仮定が当たっているとすれば、この映画の
表面的な理想世界に相対する「闇」の部分を
このシーンは間接的に表現しているということであり、もしそうなら、
この映画に対するわたしの印象は、当初より少し複雑なものになってきます。







 

映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜九段の母

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「ハワイ・マレー沖海戦」についてです。

日中戦争のさなか陸軍によって制作された「燃ゆる大空」に対し、
これは真珠湾攻撃から1年を記念して海軍によって創られた国策映画です。

ここで、いきなり当ブログ名物、

「その一言にこだわるコーナー」

です。
今日のお題は「国策映画」。

この映画の映画評などをいつものようにざっと当たってみたところ、
殆どの映画評が

「国策映画」

つまり戦意高揚映画であることに言及し、それを評論の足がかりにしている、
ということに気づきました。
「国策」という言葉は、それだけであれば文字通り

「国家の政策」

であり、「国策映画」となると、その政策をプロパガンダする映画、
という定義が成り立つでしょう。

そこで、この映画を論評するのに「国策映画」であることは、
映画としての価値そのものの評価を揺るがすものであるか?
ということに、今日もこだわってみたいと思うのです。

わたしが当ブログでしょっちゅう言うことですが、戦争と言うものが
悪であることは絶対の真理だとしても、日本が戦争をしたことは悪ではありません。
こういうと普段から「戦犯」という言葉を日本に被せたがる人たちが

「侵略を正当化するのか!」

と口角泡を飛ばして反論してくるでしょうが、そういう、戦勝国の価値観を
日本だけが引き受けたままで脳硬化を起こしたような自虐的な似非平和主義者には、
まず「歴史に善も悪もない」という言葉を理解することから始めていただきたい。

たとえばフォークランド紛争において、アルゼンチンとイギリス、
どちらが善でどちらが悪であるかをあなたは断言することができますか?
イギリスが領有権を主張するサウスジョージアに最初に踏み込んだアルゼンチンか?
それとも話し合いでなくいきなり武力を行使し取り返したイギリスか?

全く対岸から眺めると、

「そんなの唯の領土紛争じゃん。いいも悪いも権利のぶつかり合いだろ?」

と全うな評価ができるのに、こと自分の国のこととなると、なぜか

「全て日本が悪いのだ」

となってしまう脳硬化患者のなんと多いことよ。
何度も言いますが、日本が反省する点があるとすれば、それは負けたことです。
勝った国が負けた国を事後法で裁いた野蛮な極東軍事裁判が、
日本が戦争をしたことそのものを「悪」と断罪したからそういうことになっているだけです。

戦争をした日本を卑下しなければいけないという気持ちから

「国策映画であるが」いい映画で

「国策映画とはいえ」映画としては素晴らしい

などと、言い訳しながら評価しなくてはいけない理由などないんですよ。
そもそも、そういう言い訳をしている人、

「国策映画だったら何がいけないんですか」

と聞かれて答えられます?

日本が間違っていたから?
戦争は悪いことだから?


レニ・リーフェンシュタールがベルリンオリンピックを記録した
「民族の祭典」「美の祭典」は、ナチスドイツのヒトラーお気に入りだった彼女が作った
国策映画のようにいわれることもあります。
実際彼女は戦後、ドイツのメディアには「ヒトラーの協力者」として冷淡に扱われたそうですが、
この映画はオリンピックの記録映画としてはいまだ世界の最高傑作であり、
これに次ぐ「オリンピック映画の名作」である市川昆の「東京オリンピック」は、
まぎれもなくリーフェンシュタールの手法を受け継いでいるということをご存知でしょうか。



さて、この辺で一般的な意見を見てみることにしましょう。
ざっとインターネットで拾ったこの映画に対する映画評はこんな感じです。


●戦意高揚映画なので、映画の出来を良し悪しで採点するのは難しいのですが

●なるほどこれが第二次大戦中の戦意高揚映画だったんだ、って感想を持っただけで
貴重な文化資料的価値はあるかもしれないが、今全編観せられてもちょっと困る

●戦時中の戦争映画なので勝って終わるという高揚映画なんだけどいいです。

●プロパガンダ映画なので点数をつけるのもどうかと思いますが・・・。

ふむ。

皆さんまるで「戦意高揚映画」だったらちゃんとした評価をすることや、
映画そのものを「いい」と思うことは疾しいみたいな言い方なさるのね。
また、はっきりと国策映画を嫌悪する人もいて

●戦意高揚ものなので、友人の墜落死もあっさり描きすぎだし、
帰る事を想定して(燃料で)悩むなと言われて、部下が笑顔で
燃料は敵の攻撃には充分ありますと答えるなど、
軍部の思想統制にはやはり嫌悪感が湧く。

思想統制ねえ・・・・・。

細かいことを言うようですが、これ、思想統制という言葉の定義が間違ってませんか?
こういうのって、このころの軍人なら普通にそうだったという描写のような気がするけどな。
「軍のプロパガンダにはやはり嫌悪感が湧く」と言うならわかりますが。


●プロパガンダ映画とはこういう映画だという見本。
見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
せこい特撮も効果倍増!
こんな映画見て喜んでいる人間の顔が見てみたいね・・・全く

と、口をきわめて罵っている人もいます。
これにもこまめに突っ込んでおくと

「この映画を観て喜んでる人」

なんて世の中にいるんでしょうかね。
こういう映画があった、という事実を受け止め、感想を述べることはあっても
「喜んで観る」
ほど皆おめでたくも単純でもないと思うけどな。

ただ、この意見のその直後に感想を書いた人が

●こういう単純な人がいちばん情報操作に騙されやすくて、
大本営発表にも一喜一憂するんだろうね。

とごもっともなコメントを寄せていて思わず笑ってしまいました。

●プロパガンダというものは「悪」を一方的に仕立て上げ
それを叩くというスタイルが基本だが、この映画は「鬼畜米英」ではない。
天皇のために、同輩のために、相手に勝つために、
いかに自分を磨くのかということからスタートしている。
プロパガンダもここまで優秀に出来ていると逆に感嘆する。
 
この人の言うことは一見気が利いているようで、実は
プロパガンダの何たるかが全くわからず書いておられるようです。

遡れば「上海陸戦隊」「陸軍軍楽隊」「乙女のいる基地」
陸軍制作の「燃ゆる大空」、海軍制作の「雷撃隊出動」、
そしてこの「ハワイ・マレー沖海戦」。

これらの国策映画を通してもし共通項を見いだすならば、そこには
戦争と言う国体の危機に自らの命惜しまず、

「敢闘精神」
「無私の心」
「忠義」

を以て赴く軍人の姿、そしてそのための精神的修練の肝要さ、
そういった理想が描かれていることでしょう。

「鬼畜米英」などと相手を憎む姿を軍人が出てくる国策映画をわたしは寡聞にして知りません。

「燃ゆる大空」のときにも同じことを言いましたが、
「軍人勅諭」「教育勅語」が、戦時中の精神訓話であったからその内容も間違っている、
という考え方を信じ込まされた人々は、これらの精神的鍛錬もまた、
目的が戦争であるがゆえに間違っている、と断罪するのかもしれません。

しかし、たとえそれが、つまり国が戦争を完遂するために、
国民に戦うべき者の覚悟や心得を解くことが間違っていたとしても、
なぜそのため、映画を映画として論評することを
こんなに疾しく思わなくてはいけないのか、ってことなのです。


繰り返しますが、これは国策映画で、ここに出てくる人物は
ある意味戦時下の国民の理想を抽出したような存在です。

そこには国家の大義に疑問を抱く者もなければ、死ぬのが怖くて
泣きわめく者(笑)も勿論なく、予科練の少年、そして彼が憧れる兵学校生徒、
彼の家族も、教官も上司も、全てがまるで教科書通りの言動をします。

この映画には主人公というものがおらず、予科練の友田義一少年も、
隣の立花忠明も、そして藤田進演じる山下大尉さえも、この「理想世界」
を支えるエレメンツの一部として、決して「私」を出すことをしません。


ところが、わたしに言わせると一人例外がいます。
予科練の少年の老いた母です。
「老いた」と形容詞で表されているものの、義一が18歳、原節子演じる姉の
「きく子」がせいぜい22〜3とすればせいぜい四十代のはずなのですが、
昔の母親というものはこんなにも早く老けてしまったのだろうか、と、
この母親の背中を丸めた姿を見ると思います。

それはともかく、この母親については


義一「お母さん、そんなこと(戦争が始まること)聞いて心配してないかな」
きく子「それがね。よっちゃん。平気なの。
   こないだもある人がね、『お宅じゃ大変でしょ』って言ったら母さん、
   いいえ、もうあの子はうちの子じゃないと思っとりますからなんて言って。
   落ち着いたもんなのよ」


というシーンでその「軍国の母」ぶりが描かれます。
この映画についてエントリを描く、と予告したときに、ある読者の方から

「国策映画だからしょうがないですが、そのような母ばかりではなかったと思います」

というコメントをいただきました。
また出ましたね。「国策映画だからしょうがない」が。
それじゃたとえばこのシーン、戦後の戦争映画ならどうなりますかね?

1「義一っ!世間じゃ大戦争になるっていういうじゃないのっ!
もう飛行機に乗るなんて危ないことやめて帰ってきなさい!」

2「義一・・・お母さんを一人にしないでおくれ。
たった一人の息子にもし何かあったらお母さん生きていけないよ(さめざめ)」

3「大変だ、世間じゃ大戦争になるって言ってるよ!
さあ、今すぐ荷物をまとめて山に逃げるんだよ!お母さんがお前を隠してやるから!」

パターンとして考えられるのはこんな感じですが・・・・・・

・・・・・・うーん・・・・・・

これじゃ国策映画は勿論、普通の映画だったとしてもどうもサマになりませんねえ(笑)


母が自分のことを「もう息子じゃない」と言ったことを姉から聞いて、
義一は感動し、

「そうか・・・・偉いなあ」

と言います。

しかしね。
このDVDをお持ちの方、この母親と息子のシーン、もう一度ちゃんと観て下さい。

「お休みがあるかどうかなんて考えたこともない。
どうせあの子はうちの子じゃないんだもの」

と言った直後に「ただいま」と息子が玄関を開けたときの母親の表情を。

信じられないものを見るような呆然とした表情が崩れ、
ようやく息子と会えた喜びが溢れ出すその顔を。

息子のために用意した袷の裾が思っていたより短く、
その短い着物の裾からたくましい脛がにょっきり出ているのを、
火鉢越しに凝視する母親の眼を。

わたしが、なぜ彼女が「例外」だと言うのかお分かりいただけるかと思います。


もし「うちの子じゃない」と言ったことを以て
「こんな母親ばかりではない」というのなら、確かに上に上げた
3つのセリフに近いことを実際に言う母親もおそらく現実にはいたでしょう。

しかし、この母親がそれをどんな覚悟と諦めのもとに
自分に言い聞かせていたのか、この母親を演じた英百合子の演技が
それを物語っているじゃないですか。

もし、戦後の戦争映画ではっきりした反戦の意思をもって、
旧軍を批判するために戦争を描くのだとしても、このようなシーンで、
母親が慌てふためいて

「お前を山に隠す!」

と騒ぐのと、この映画のように口では「うちの子じゃない」と言いながら、
愛しい息子の姿をこれが見納めとばかり貪るように凝視するこの演技とでは、
どちらがより戦争の悲惨を感じるでしょうか。

だからわたしは「燃ゆる大空」のときにも言ったんですよ。
戦争の悲惨というのは国策映画ですらその大前提として存在していると。


この映画の、息子を見つめる母の表情は、この「私」のない映画で唯一、
登場人物が感情を露にした部分であったといってもいいくらいです。 

 
この映画で描かれる「理想の人物」のなかでも、この母親ほどリアルな
「軍国の母」はいないのではないか、とわたしは思います。
おそらく息子が士官学校や兵学校、そしてこの予科練に行くような軍人の母であれば、
内心はともあれ大なり小なりこういう態度で息子を送り出したのでしょう。

そこで母親としての本音がどうであったかなどと、問うのが愚かというものです。


先日亡くなった島倉千代子さんが歌った
「東京だよおっかさん」の2番の歌詞の一部は次のようなものです。

やさしかった 兄さんが
田舎の話を 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん あれがあれが九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

老いた母が田舎からわざわざ東京にやって来たわけは、
他ならぬ靖国神社に居る息子と会うためであった・・・。

NHKは、この二番を島倉さんが紅白で歌うことを最後まで許しませんでした。

うちの子じゃない、と自分に言い聞かせながら息子を戦地に送り出す母も、
その息子が遠い戦地で亡くなったという報を受けたときには人目を忍んで慟哭したでしょう。

だから母は、九段の桜の下で待つ息子に逢いにいくのです。
英霊となって戻って来た息子に。


確かにこんな母親ばかりではないでしょう。
が、こんな母親が実際にたくさんいたのも確かです。
 

国策映画でありながら、息子への眼差しに、我が子を失いたくない母の
万感の思いを込めた演技をさせた制作者と、
またそれを否定しなかった海軍情報局の担当者にわたしは敬意を表します。
 

 


 



長野県松本〜雪と温泉と靖国参拝(その1)

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年末のお正月旅行?、長野県松本の温泉についてもう少し。
実はこの温泉、去年TOが訪れ、大変気に入って
「妻子とお正月三が日泊まれないか」と聞いてみたのだそうですが、全くダメ。
こういうところで正月を過ごしたい人、リピーターによって、前年の1月、
つまり一年前から予約が埋まってしまっていたのだそうです。

というわけでTOは年末の仕事を、一週間家に帰らずに大車輪で片付け、
本来師走でもっとも忙しい頃にもかかわらず、この時期の旅行となったのでした。 



松本市内から車で約20分走ればそこはもう人里離れた雰囲気の鄙びた温泉。
実はここには「温泉ブーム」のころまであと2つくらいの温泉旅館があったそうですが、
ブームが去っていずれも淘汰されてしまい、ここだけが生き残ったという構図。

しかし、生き残るにはそれなりの理由があり、それはこの旅館が従来の温泉旅館から
現代の人々にも訴えかけるホスピタリティと、洗練された設備をもつ「リゾート・スパ」
に方向転換をしたことに理由があるようです。 
 



二泊して一泊ずつ別の部屋を楽しんだのですが、どちらにも内風呂がついていました。
夜は勿論、折から積もった雪を眺めながらの朝風呂は最高です。

画像を撮ることが出来なかったのは残念ですが、ここには露天風呂を含む浴場が4つあり、
そのうちひとつ「立ち湯」は、立ったまま浸かれる深い浴槽が、
浴場の一つの壁が切り取られ窓も何もなく外に向けられている「半露天風呂」で、
少しぬるめの親湯は、いつまでもそこに遣ったまま外を見ていられます。
冒頭の景色が浴槽からの眺めとほぼ同じで、渓流のせせらぐ様を眺めながら、
冷たい空気に顔のほてりを鎮められつつ入る温泉はまさに「命の洗濯」といった感がありました。



TOが思わず「買って帰ろうよ」と口走った、備え付けの丹前。
女性客用にこのような真っ赤が選ばれていましたが、実にいい色です。

泊まり客はほぼ100%これを着て館内をうろうろしますが、
若い人は勿論、おばあちゃまが着ても不思議と可愛らしく映る色でした。



殆ど「外」にしつらえられた休憩所。
まるで絵画のように外の景色を眺める一角です。
温暖な気候のときには長居が可能ですが、この季節は無理。
皆、写真を撮りに出てくるくらいでした。



さて、温泉旅館といえば夕食の時間が決められ、時間になれば大広間に行って、
(部屋に持って来てくれるのはマシな方)すっかり冷え冷えになった刺身ばかりのお料理に
一人一つ小鍋がついて来て湯豆腐だの寄せ鍋だの、そういった「温泉的ゴージャス」な、
どこにいってもわりと同じような料理がでてくるものと相場が決まっています。

着物を着た仲居さんが愛想よくしゃべくりながら、ライターで火をつける様子は、
もはやどこの温泉での夕食だったか判然としないくらいよくある温泉風景です。

が、この温泉は少し様子が違う。



レストランは二つあり、そのうち一つはこの「マクロビオティック的創作フレンチレストラン」。

「創作」というのも、その昔のペンションなどでは素人のフランス料理もどきに使われ、
すっかりご利益のなくなった響きですが、ここのは本物です。
腕利きのシェフがセンスよく仕上げた料理は、素材よし味付けよしセンス良し。



「マクロビオティックなのにどうして肉が出てるんだ?」

と仰る方、あなたは鋭い。
マクロビというのは基本穀物菜食でアニマルフード(動物の身体から出たもの)
を使わないというのが身上です。
わたしは一度ボストン郊外の「クシ・インスティチュート」という、マクロビの創始者である
久司道夫氏の「マクロビオティック道場」(合宿所)に泊まったことがありますが、
こういった厳密なマクロビオティック料理とここの料理は全く違います。

ここの道場ではマクロビ道場を「ウェイトウォッチャーズ」だと勘違いしたのか、
「やせる!」と固い決意をして乗り込んで来た太ったアメリカ人が、
まるで修行のように我慢しながら青い顔して野菜の山と格闘する姿が見られ、
わたしたちは

「山を下りたら(タングルウッドという人里離れた山中にあった)この人たち、
絶対その脚でマクドナルドに行くだろうな」

などといっていたものです。

つまりここのシェフは「正食」といわれるマクロビの調理法を学び、
その手法をこのようなフレンチに生かしているだけのようです。



温泉旅館なんて、ご飯と温泉に浸かるしか楽しみがないのですが、
その「ご飯」というのを、ただの「温泉会席」ではなく、都会のグルメをも
唸らせるものにするというこの旅館の戦略は功を奏していると思われました。

温泉は覚えていても、宿の食事なんて、いくつか行けばどこがどこだったか、
わからなくなってしまうくらい画一的なものだからです。

朝ご飯もまたしかり。

ここの朝ご飯は、夜と同じ場所で食べることになっており、
そのレストランも着物ではなく白いシャツに黒のエプロンをきりりと締めた、
ソムリエ風のお洒落な制服を着た若い女性が給仕します。



各テーブルには、いつでも鍋物が出来るような設え。
窓の外の景色が見えるように、下までガラス張りにしてあります。



朝食は和食と洋食から選ぶことが出来、どちらを選んでも
二日目は湯豆腐がついて来ました。



洋食は具たっぷりのスープがメイン。
小皿がいくつもついて野菜たっぷりの健康的なものです。

見たところ、奥さんが日本人であるドイツ人、やはり奥さんが日本人の
こちらはアメリカ人の宿泊客を目撃しました。
来日が長い学者とか、そういった知的職業に就いている人に思われました。


そういう外国人にとってはこの旅館は、日本の文化のよさを体現していると同時に
西欧風に慣れた人でも不足ないと感じるサービスや清潔さがあり、
大変居心地がいいと思われるのではないかとふと思いました。


ところで、ここに到着したとたん、まだ電話での仕事の指示が残っているTOは
外に電話をしにいきました。
なんと、この中では携帯電話の電波が通っていないのです。

急遽追加申し込みをしたテザリングは勿論わたしの携帯Wi-Fiも通じる気配なし。
ここで三日間過ごすというのに、それはわたしにとって非常に辛いものがあります。

「たまに温泉にいるときくらいインターネットも電話もなしで過ごせんのか」

という至極全うなご意見もあろうかと思いますが、
わたしにはこのブログの毎日エントリをアップするという重大な使命があるの。

自分で勝手にやってるだけとはいえ。



さて困った、と館内をうろついてみると、なんと一階に書斎が。
ここに置かれた一台のパソコン。

「ここならもしかしたらWi-Fiが通っているのでは・・・」

そう思ってデバイスをチェックすると・・・・ビンゴ。
ちゃんとフリーのWi-Fiが通じているではありませんか。

以降、温泉とご飯の合間にはMacとiPadと電源一式と本を入れた愛用のバッグを
(皆さん、このカバンの優れているのは、とてつもない丈夫さにあって、
これだけ一式入れて持ち歩いても全く型くずれすることがないのです。
だてに安藤優子氏が『これでいつも漬物石でも運んでいるのか』と言われたわけではないのよ)
抱えてこの部屋に入り浸るエリス中尉の丹前姿が見られるようになったのであった。

しかし、先ほどの「外座敷」とはただガラス戸で隔たっているだけのこの書斎、
ストーブの近くにいても長時間の作業には脚が冷えて大変でした。 



ふと本棚を見るとそこにはなにやら懐かしいものが・・・。
これは初版ではなく、復刻版だと思われます。
うちにもそういえばこれあったなあ。

 

ここには「三回訪れたお客様だけが使えるクラブラウンジ」もありました。
わたしは初めてですしTOも二回目なのですが、そこはそれ、
いろいろあって、二日目に使わせて頂くことになりました。

ちょっとした食べ物が置かれ、お酒も飲めます。

本棚には児童書を含む蔵書があり、その中にわたしが小さいときに読んだ
「エレン物語」という少女童話を見たときには懐かしさのあまり驚きの声がでました。
パラパラと読んでみると、殆どの内容というか一字一句に覚えがありました。
小さい頃の記憶って強烈なものですね。



このクラブのデスクにはその日の新聞が読めるように置かれていたわけですが、 



そこにあった新聞の第一面は・・・・・・!


続く。


 

長野県松本〜雪と温泉と靖国参拝(その2)

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そう。


この日は12月27日。
安倍首相が靖国参拝した次の日だったんですね。

信濃毎日という新聞は、一部「支那の毎日」と言われている、まあなんというか
御本家の毎日新聞と意趣同じくする思想の新聞であるわけですが、
たまたまここ長野にいて、ここのメイン新聞らしい信濃毎日を見、
わたしは思わずTOと新聞を指差して笑ってしまいました。

「現職小泉氏より七年ぶり」の次にくるのが

「中韓に『直接説明したい』」ですよ。
これは、

「中国様、韓国様、安倍が靖国参拝しやがりましたぜ!
ささ、早く非難を!とっちめてやってくださいまし!」

というメッセージを持って作られた一面だといえましょう。 



はい、同じく信濃毎日三面。

「なぜ今」

じゃねーっつの。
なぜも何も、じゃいつならいいのよ。

政権を取って一年の間春秋の例大祭、終戦記念日と、安倍首相は配慮して
参拝を見送って来たけど、この一年中国の尖閣に対する動きは露骨さを増し、
韓国の大統領は世界中に日本の悪口を言って回る「告げ口外交」を行い、
その他「徴用した企業」とか「仏像」とか、「慰安婦の像」とか、
もう日本人が我慢の緒をぷつんと切るくらい好き勝手してきたではないですか。

「なぜ今」

じゃないんだよ支那の毎日。
ここで安倍首相が参拝してくれなかったら日本人はどうなっていたかっていうくらい、
言わばぎりぎりのタイミングで、遅過ぎるといってもいいくらいなんですよ。




「中国、強烈な憤慨表明」
「韓国、強硬な対応は必死」
「米国も刺激の懸念」
「中韓との亀裂深まる」

大変だ。中国様と韓国様がお怒りになるぞ!

しかもお怒りになる前から煽ってますねえ。
中国と韓国中国と韓国。(ときどき米国)

もういい加減にしてちょうだい。

あんたらマスゴミがこうして煽るから中韓がその尻馬に乗って来たんでしょうが。
中国と韓国との亀裂深まる?
何を今更。
じゃこれまでの亀裂とやらは靖国参拝してもいないのにどうしてできたの?

「総理が靖国参拝しないことは配慮とは思わない、関係ない」

ってあなた方の大好きなパク大統領がおっしゃったばかりではないの。
してもしなくても同じなんだったら、日本の政治家が多数日本国民の意向を反映して
靖国参拝をすることになんの不思議があるのか。



A級戦犯あがめて「不戦の誓い」では理解得られぬ
安倍総理の靖国参拝

「対話のドアは常にオープン」はまやかしか。
自ら閉ざした隣人との関係

この短い文章で色々と物語っておりますなあ。色々と。

ツッコミどころが多すぎるのですが、一つわかったことは、
この「豆らんぷ」を書いた記者はどうも日本人ではないらしい。
少なくとも「日本の立場」から記事を書いているのではありませんね。

まずこの記者は「A級戦犯」というものが何を意味しているのか、ご存じないらしい。
そして靖国参拝が「A級戦犯を崇める行為」だと言い切るのは、まさに中韓の視点。

いまだに靖国に東条の墓や位牌。ヘタすると遺骨があると思い込んでいる
中国人や韓国人とまるで同じようなことを言っているということですよ。

次の一文にも言わせてもらえば安倍首相が

「対話のドアは常に開いている」

といっているのに、
「その必要はない」と対談を申し込んでこなかったのは他ならぬ中韓ではないのか。
ドアを開けていたけど全く入って来る様子もない。
そんな折たまたま懸案だった靖国参拝を年内にしてしまおう、ということだったわけでしょ?

どうして開いているドアから一向に入ってこようとしない者に配慮して、
いつまでもドアを開けてしかも腰を屈めて待つようにと日本だけが強いられるのか。
どうして日本だけが、今年色々あった両国からの仕打ちに一言も非難めいたことすら言えず
戦争で亡くなった方の慰霊すら両国から禁じられなくてはならないのか。

さらに不思議なのは日本人(だとしたらですが)でありながらそれを中韓と一緒になって
日本人に強いるマスコミです。
もしかしたら日本のマスコミのほとんどは日本人ではないのではないだろうか、
わたしはこの「豆らんぷ」という囲み記事にまでもれなく反日ぶりを展開する
この「信濃毎日」を読まされる長野県人に心から同情しました。

まあ、大抵の人々はインターネットでその欺瞞と偏向ぶりを検証し、
わたしとTOがそうしたように紙面を指差して笑っているのだと信じたいですが。



この館内は主にヴォーカル中心のジャズが流されていましたが、
その柔らかい音が流れて来たのがこれ。
なんと真空管アンプによるオーディオセット。
一階のロビーにもこれが使われていました。

いたる隅々にまで配慮が行き届いています。



温泉宿は基本的に連泊が少ないので、昼食は出さないところが多いのですが、
ここは希望者には予約すればおそばを出してくれます。

わたしは空腹を感じなかったので頼みませんでしたが、TOについていったら
「おざんざ」
という名前の納豆を錬り込んだそばを出していて、
美味しそうだったので追加して食べてみました。

そば粉とつなぎのソバよりもツルツルで、弾力のある食感。
もしかしたら、ソバよりもこちらが好き、という人もいるのでは、
と思うくらい美味しかったです。

そして、二日目のディナーとなりました。
会場は朝ご飯を頂いたレストラン。

ここにもジャズが流れていましたが、どうしたことか、
ガーシュウィンの「ポーギーとベス」という黒人ばかりのオペラの、
「I loves you, Porgy」(なぜか一人称にSがつく)というアリア?の
ピアノ演奏がエンドレスでずっと鳴っていました。

ごくわずかな音量なので、おそらくわたし以外のだれもそんなことに
気がついてさえいなかったと思いますが・・。

いずれにしても、同じ一曲の繰り返しは、音楽関係者としてかなり精神に来ました。 



「こういうものが出て来て美味しいと思ったことがない」

という代表のようなロブスター料理。
さすがにこれも「美味しい!」と唸りはしませんでしたが、
ハーブで味わいを深めたソースは、「まあまあ美味しい」くらいまで
評価できるものとなっていました。

どちらにしても、美味しくないよね。こういうのって。 

 

出て来たとき一瞬パニーニかと思ってしまいましたが、
アワビの(トコブシだったかな)からの上に塩で蓋を作り、
蒸し焼きをしたもの。

この塩の蓋は、工業用塩なので食べられません。



普通の温泉旅館なら着物の仲居さんがガスライターで時間が経ったら消える固形燃料に
シュボっと小鍋の火をつけるところですが、ここではそんな野暮なことはいたしません。

ちゃんと練炭の熱したのを持って来て、こうやって鍋物の前にくべてくれます。

 

この日のメインは土鍋で焼く肉と野菜。
決して牛肉が好きではない我が家ですが、これは全員が
その美味しさに舌鼓を打ちました。

TOも息子も獅子唐がダメ(アレルギーらしい)なので、わたしのところには
三人分の獅子唐が集まりましたが、これを焼くのが大変。
ご覧の通りドーム型の焼き皿に乗っけると、灰の中に転がり落ちそうです。

「落としたらお取り替えします」

とお店の人はわざわざ最初に断ったくらいですから、落とす人は結構多いのでしょう。



こういうところに二泊すると大変なのは食べ過ぎてしまうこと。
この、最後に作ってくれた雑炊も、わたしたちの誰一人手が出ませんでした。

ああもったいなや。



開けて次の日。
前日部屋を変わったので、内風呂はこんな感じ。
ちなみにこの開いているのは窓ではなく下半分にガラスがはまっています。



お酒でも飲めたらここで朝酒朝湯を決め込むのでしょうが・・。
朝起きて真っ先に切り裂くような冷気に満たされた浴室に飛び込み、
こんな雪景色を見ながら首まで熱い湯に身を浸しました。



はあ極楽極楽。(ばば臭っ)



しかしわたしの息子も14にして「温泉楽しみだなあ」という
立派な爺むさい子供に育って、温泉好きのDNAはしっかり受け継がれております。
息子は温泉が好きすぎて、露天風呂で長湯して逆上せ、倒れかけたそうです。 


 

インテリアか実用かはわかりませんが、干し柿が。



これは角茄子という植物なのですが、見ての通りキツネみたいなので
「フォックスフェイス」とも呼ばれています。
いちいち顔が書いてあるのは、新しい干支の馬のつもりかも。



じつは、この下に見えているのは「露天風呂」。
7時半から9時半までは女性専用となっているので、
わたしも一度行ってみました。
ちょうど雪に変わる前の雨が降っていて、ふとみやると菅笠が置いてあったので
それを被って浴槽に浸かり、それもまた風情がありました。



さて、ここに着いたとき、いわゆるドアマンにあたるお迎えの人が
黒いフェルトの帽子に同じく黒の「トンビ」といわれるマントを着ていたので

「中原中也がいる!」

と家族で盛り上がったのですが、これもなんというかここの「演出」のようです。
チェックアウトの日、中原さんはおられませんでしたが、もう一人、
グレーのトンビの方がいたので、写真を撮らせてもらいました。

見送りの女性が

「一緒にお撮りしましょうか」

というのを「いえ、わたしはいいんです」ときっぱり断り

「すみません、このバス停の横に立って下さい・・・。
あ、視線は左に。もう少し上を見て」

モデル撮影会じゃないんだからさ。
でも、なんかそういう写真に撮りたくなる風情だったんですよ。



ね?

松本市内まで戻ってくると、あら不思議、雪は跡形もありません。
どうやら全く降らなかったようです。

電車に乗る前に見つけた野良ネコ。
もしもし、舌しまい忘れてますよ〜。

というわけで、ご当地マスコミの実態をとんだ形で知った長野の旅でした。
ちなみにインターネット界における「信濃毎日」のランクは、

今一番神に近い新聞 : 東海新報 
神のお膝元にある新聞 : 伊勢新聞

を頂点とするヒエラルキーの第4段目。

諸悪の根源:朝日新聞 共同通信
誤惨家 : 沖縄タイムス

とランクを同じくする「早く消えて欲しいあの世」カテゴリでした。

さもありなん。
 

 

 

映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜日中開戦

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少し間にお休みを挟みましたが、映画「ハワイ・マレー沖海戦」の続きです。

冒頭の画像は、すでに予科練を終え、下士官となった義一が「最上の名誉」と自ら言う、
「母艦機乗り」として母艦に向かうランチの中、決意に燃える眼差しを捉えたカット。

この映画の監督は、この、決してハンサムとは言い難い、
世間的には素朴な容貌をした俳優の、最も凛々しく美しい瞬間を捉えるのが巧く、
無名のまま招集されて戦死してしまったこの伊東薫という俳優にとって、
本作は餞(はなむけ)でありほとんど唯一の「俳優であった証」になっています。



さて、この友田義一が予科練に入隊したのは昭和12年(1937)という設定です。
彼が予科練で厳しい訓練を受けている間に、世界は激動し、日本という国が
戦争に突入していくわけですが、この映画はさすが官製、
当時において歴史の流れを見る人にわかりやすくポイントで解説してくれます。

飛んだり跳ねたり泳いだり剣道したりツートンしたり、という予科練の実際の訓練映像に、
日中戦争開始から2年間の主な出来事をタイトルにしてくれているんですね。

これはとても親切。

まず7月7日の盧溝橋事件を報じる新聞を予科練生が見ることに始まり、
「上海事変」の字幕が現れ、続いて



特に1937年(昭和12年)に勃発した第二次上海事変において、
海軍が上海租界の海軍陸戦隊や第三艦隊、現地の居留民を支援するために行った長距離爆撃を
渡洋爆撃の名でセンセーショナルに報道されて以後有名となりました。

・・・ということは義一が予科練入隊したのは遅くとも昭和11年?



上海事変が拡大するとき、通州事件が起こりました。
広安門事件とともに日本人の犠牲者が出、民間人を含む230名が惨殺されたため、
交戦は拡大されたとされます。

最近また南京攻略のときの日本軍による中国人殺害が10万単位で増えたそうですが(笑)
中国や南京に博物館を建てた日本の左翼にはこの事件について何かコメントを聞きたいですね。



日独伊防共協定は、1937年イタリアの加入によって日独二カ国から三国に拡大した、
「反ソ」「反共」を目的とした協定。

この後「南京陥落」、そして昭和13年、徐州会戦。
国民党軍とのあいだで徐州を勝ち取ったこの戦闘には、
前にも書きましたが、東久邇宮 稔彦王が参戦しています。


若き日フランスではモネに絵を習ったり愛人との生活に耽溺するなど自由奔放で
度々その行いにより臣籍降下を自ら願い出たり検討されたり、
あるいは戦後「一億総懺悔」を唱えて自由主義者と言われたこの皇族軍人ですが、
このときは陸軍大将として第二軍の指揮をしました。

フランス留学のときにクレマンソーに米国が日本を潰そうと野望を持っていることを聞かされ、
帰国してから日米開戦を留まるようを関係各所に説いて回ったそうですが、
西園寺公望以外はだれも耳を傾けてくれなかった、というエピソードがあります。

そして

「ミュンヘン会議」

「バイアス湾敵前上陸」

「広東陥落」

バイアス湾とは中国南部、南支那海に面する湾で、もともと海賊がおり、
中国の軍部が割拠する地域でしたが、日中戦争中の1938年、
陸軍がここに上陸を成功させました。
続いて

「汪兆銘和平」 

「日英会談」

汪兆銘は、蒋介石ら中国首脳陣が奥地に逃げてしまった時期に、
実質的な行政を行った人物で、犬養道子さんがその想い出で語るように
知日派で、日本と平和的な解決を求めて交渉に努めた良識的な政治家でした。

しかし戦後、中国の平和を想い日本との架け橋となっていたおかげで
「漢奸(漢民族を裏切り他国のために尽くした賊の意)」の汚名を着せられ、
つい最近まで「皆が唾をかけたり蹴ったりして辱めるための屈辱的な銅像」
があったそうです。

近年、彼の評価が変化しつつあり銅像は2002年に撤去されました。

杭州でも誰か忘れましたが夫婦で罵られている銅像があり、観光客が
蹴ったりしているのを見たことがありますが、日本人にはどん引きする光景でした。

やっぱりこの人たちとはつき合えんわ。(結論)




ノモンハン事件は1939年日ソの間に発生した国境紛争。


これらを紹介しながら、義一の予科練生活が過ぎていったことを暗示します。
そして・・・。



友田善一の実家にはお手伝いが来て正月の用意。
父親はすでにいませんが、決して貧農というわけではなさそうです。



お正月に備えてついた餅をこねる姉妹。
前回「九段の母」でお話しした、

「どうせあの子はうちの子じゃないんだもの」

という母の言葉を聞いて眉を曇らせる妹うめ子。
このうめ子を演じているのは加藤輝子という女優ですが、
目の大きな可愛らしい顔立ちはこうして並ぶと原節子の妹と言っても
そうおかしくはありません。
「原節子が美人すぎて全く似てない」
なんていってごめんなさい。



とかなんとか言った瞬間タイミングよく義一が帰宅。
義一は扉を開けるなり奥を探すような仕草をしますが、
これもまず真っ先に「母親の居場所を確かめた」という演技でしょう。

そして、彼が帰省に着ているのはジョンベラといわれる水兵服ですが、
これが当初予科練の制服でした。
「飛行士官になれるというから入ったのに、予科練の制服がジョンベラだった」

というのが、一時予科練生の間では大いなる不服でした。
もちろんそれだけじゃありませんが、あまりにも反発が大きく、
ストライキを起こす期生もいたりして、あわてて海軍が
取りあえずこのジョンベラを廃止したのは1942年(昭和17年)11月。

友田練習生が予科練在隊中に帰省するのは1941年、つまり「ハワイ・マレー沖海戦」
より前のことであるので、こういう姿なのです。



「お母さん、ただいま帰って参りました!」

敬礼する息子の姿を信じられないものを見る目で見ていた母は、
そののち顔を綻ばせ、ようやく微笑みを浮かべます。

「まあ・・・・・良く帰って来たね」
「はぁ」

答えた義一は、まるで涙が出るのを見せまいとするかのように、母親からくるりと背を向けます。



息子のために用意した着物が短すぎたのを
感慨深げに眺める母親。

「こんなに大きくなるとは思わなかったものねえ」

もう息子さん二十歳なので成長も止まっていると思うんですが・・・。



息子のお土産は霞ヶ浦のワカサギ。
有り難そうに押し頂く母親。




義一のこれまでの予科練生活は基礎訓練で、
彼が念願の飛行機に乗ることが出来るのはこの後なのです。

「まだ飛行機乗ったことないの?」
「ないさ。予科練だもの」
「あら変ね。これには航空隊って書いてあるのに」

なぜか帽子のペンネントを義一にではなくカメラに向けるうめ子。
ペンネントには霞ヶ浦海軍飛行隊と書いてあります。



霞ヶ浦の練習航空隊の桜。

白黒のフィルムでもその満開の桜の美しさが偲ばれます。
いよいよ航空訓練が始まるのです。



この映画が貴重なのは、他の国策映画同様気前よく実機の映像が出てくること。

九三式中間練習機

通称赤とんぼです。
もしカラーであれば赤というよりオレンジに機体が塗られているのがわかるのでしょう。



前に友田練習生が乗って指導を受けています。
このシーンは、地上での撮影と、実際の飛行機からの撮影を組み合わせ、
本当に訓練風景を撮影しているようにしています。

機上からの映像にはしっかりと筑波山が映っています。

「筑波山に向かえ〜」
「筑波山に向け〜」

と指示、応答しているシーンの字幕は

「向著山前進」

となっていて、中国人翻訳者が「筑波山」を聞き取れなかったらしいことがわかります。
翻訳するなら少し予科練について調べれば筑波山くらいすぐ分かるのに・・・。
ついでにこのあと友田が「よーそろ〜」といいますが、これも中国語字幕では

「対準目標」

となっていて「宜しく候」が変化した「ようそろ」が理解できなかったようです。
「ようそろ」をもし外国語に訳すなら、英語なら「go ahead」、
あえて日本語でいいかえると「そのまま〜」でしょうかね。
それを考えると「対準目標」でも間違ってはいないか・・。

 

そして着陸するのですが、そのさいバウンドし、見ていた教官が

「あんなのは着陸じゃないぞ」

とあざ笑います。





この分隊長は、何が気に入らないのか、報告のやり直しを命じます。
着陸のワンバウンドはともかく、わたしにはこの報告のどこがいけないのか分かりませんでした。
何だ何だ、パワハラか?

この後も、

「飛行作業さえ出来れば一人前の操縦者になれると思うのは大間違いだ!」

とおなじみの精神論が待っています。



叱られながら、上級者の編隊飛行を皆で眺めるの図。

「早くあんな風に飛びたいなあ・・・・」



家族が義一からの手紙を読むシーンが度々現れ、これによって彼の訓練の進捗状態の説明がなされます。

「わたくしの役目は魚雷を抱いていって敵艦にぶつけるのが専門です」

つまり義一が艦爆か艦攻を専攻したということがわかりますね。
というわけで彼は母艦に着任し、そこで母艦パイロットとしての訓練が始まるのですが・・・・。





続く。 

平成26年度第一空挺団降下始め〜状況終了!

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さて、状況終了すれば撤収のち大臣訓示です。



片付けの必要のない隊員は整列を始めています。
ところで、この隊員のもっている旗は、前回敵地で振られていたもの・・・。

ということは、あれは「敵の白旗」ではなく、こちらが
向こうの本拠に旗を立てることに成功した、ということだったのか。

つまり硫黄島における擂鉢山のアメリカ海兵隊状態だったのか。
だったら・・・・・・

なぜ日本の旗を振らない? 

おいおい、頼みますよ自衛隊、いやさ防衛省。
白旗の配慮よりこれはある意味問題ですよ。 

「海を越えて外国に渡る」というような歌詞を気を遣って歌わせない
軍歌の扱いのように「日本が戦争する」ということを異様に覆い隠して
それでこの配慮なんでしょうが、じゃあなたたちは、もう一度聴くけど
誰と戦っているという設定だったの?

第一空挺団の隊旗を敵地奪回の印に振ったって言うことは、
この訓練は自衛隊部隊対抗師団長杯かなんかの模擬戦闘だったんですか?

全く、こんなだから外国に

「自衛隊は軍隊じゃない?軍隊と何が違うんだ。
なんでちゃんと軍隊であると表明しないんだ」

と呆れられるんですよ。

「専守防衛つまり外国の軍隊が攻めて来たときのためだけに存在する防衛軍」

であることは、理屈では納得できないことはないけれど、だからといって
自国の旗を訓練で使うことを明らかに配慮しているこの空気、ってなんなんですか?

彼らが守るのは、日本であり、日本国民であり、日本の旗、じゃないんですか?




(閑話休題)



などとわたしがここでいちいち怒ってみても、それは決して自衛隊のせいではありません。
根本の原因は全て戦後憲法にあるのです。

と言い切ったところで、次参ります。

武器装備をもっていた人は、そちらの片付けが先です。



両手に無反動砲?を一本づつ持って走る隊員。
後ろの人の持っているのは小さいけどきっと弾のケースだから、
ものすごく重たいのではないかと想像します。



偽装網のところではちょっと和みモード。



偽装メイクの隊員たちも服装をあっという間に整えて駆け足集合。



整列の後ろにギリースーツや荷物を置いて身だしなみを整えるの図。



色々と脱ぐものが多くて大変です。
防弾チョッキも脱ぐんですね。
鉄兜の下にニットキャップを被っているひともいます。



銃の置き方に注目。
万が一のことがあっても?人に被害がないように外側を向け、
さらには銃口を決して地面につけないようにスタンドで立てています。



整列の横には陸自中央音楽隊がスタンバイ。
去年は音楽隊の展示として喇叭の紹介をしていたものですが、
今年は一切そういうイベントはありませんでした。
「空の神兵」は鳴っていましたが、総じてあまりBGMが聴こえてこない一日でした。

(でも『あの』福島ソングだけは何度もやってたなあ・・・・。
歌の意味や震災と絡めてはともかく音楽的観点から見て○○だからわたしは苦手)



整列が終わった後、左手上空でホバリングしていたヘリたちが、
二機から三機の単位で挨拶をするように旋回していきました。

まずは一機ずつ投入されていたOH-1ニンジャとフライング・エッグ、カイユースOH-6。
OHつながりで一緒に行動します。



AH-1コブラもAH-64Dアパッチ・ロングボウも、何機か投入されましたが、
ここは「カーテンコール」みたいなものなのか、代表者が一機ずつ通過しました。



チヌークCH-47だけは・・



三機でご挨拶。



さて、丘の上には防衛大臣が訓示のために移動を始めました。

「こちらにお進み下さい」

人はなぜ明らかに間違えようのない状況でもこういう仕草をするのか。

それはともかく、歩いている人の姿勢を見て下さい。
遠目にも制服とそうでない人たちとは全く違います。
自衛官って腰から上がまっすぐなんですね。




小野寺防衛相訓示。

・・・・なんですが・・・・。

この日ここにいてこの訓示が聴こえた方、いますか〜?
いたら手を上げて下さい〜。

いませんね。
それでは「かすかに聴こえた」と仰る方〜。

そう、何のミスか、このときの防衛大臣訓示は観客席に聴こえませんでした。 
仕方がないので、産經新聞をちょっと当たってみましょう。

小野寺五典防衛相は「厳しい安全保障環境の下、領土や領海を守り抜く」と訓示した。 

こんだけかいっ(笑)
で、他の新聞社の記事を検索してみたのですが・・・。
ないんですよ。
朝日も毎日も、中国韓国のご機嫌を損なうような記事は載せてはいけないのか、
今年の降下始めの記事はネットには引っかかってきません。
2010年には朝日もかなり詳細に写真を掲載しているのですが・・・。



中SAM越しに訓示風景。

テレビは軒並み映像を出したようで、NHKのニュースによると

小野寺防衛大臣は
「きょう、尖閣諸島で中国公船による領海侵入がことし初めて起きるなど、
わが国を取り巻く 大変厳しい安全保障環境の下、
第1空挺団の役割はこれまで以上に重要になると考えている。 
今年1年訓練に励み、国民の信頼と期待に応えてほしい」
と訓示しました。 

と伝えたそうです。
なるほど。そういえばそんなことを言っていたようにも聴こえたな。

とにかく新聞社は産経以外もう取材に来なくていいよ。
どうせ記事にしないんだし。



音楽隊の演奏による「巡閲の譜」が鳴るなか、皆で敬礼。
自衛官は敬礼、自衛隊員であるところの小野寺大臣始め防衛省関係者は右手を胸に。
後ろの自衛隊員に一人女性がいますね。

それから小野寺大臣の右斜め後ろ、まったく見えませんが、ここにいるのが
小野寺防衛大臣の令夫人であろうと思われます。
後ろで見ていた女性二人が「小野寺さんの奥さんのカバンが派手」とか言っていたのを思い出し、
今この写真を拡大したら、ピンクのトリミングをしたグッチのトートでした。

大臣の奥さんともなるといろいろ言われてしまうんですね。
万が一TOが政界に乗り出すとか言い出したら、何としてでも阻止せねば。



これらの装備は訓示が終わってから片付けに入ります。
走って戻り、さっそく片付けに入っている隊員たち。
ちなみにここには銃もあるので、訓示の間一人が歩哨に立っています。



こちらでは迫撃砲の取り外しにかかりました。



無駄に大きくしてしまった装輪装甲車、96式ライトタイガー。
現在配備中の装甲車の中で一番新しいタイプがこれです。
コンバットタイヤは中央タイヤ圧システムと呼ばれる空気圧調整装置を持ち、
状況に応じて空気圧を変えることができるそうです。

これまでの装甲車よりもこのため高速の移動が可能になったのだとか。



運転している隊員さんを分かり易くアップにしてみました。
車内は多くの部分にクッションが貼られたので、居住性も防音性もよいそうです。



96式40ミリ擲弾銃と、重機関銃M2を装備することができます。
ところで戦車の最高速度って、ご存知ですか?
この「速い」といわれる装輪式の96式で最高速度役毎時100キロ。
10式戦車で最高時速約70キロ。
74式になると最高でも時速50キロ少ししか出せません。



カメラ用決めポーズ。

・・ではないとは思うのですが、こういう日こそ思いっきり視線を浴びて、
注目されるべきですよね。自衛隊の皆さんは。



地味に歩いて引き上げる隊員たちも、今日はおつかれさまでした。
今日に限らず、国民はあなたたちを見ていますよ。



あれ?いつの間にか10式の偽装が無くなってる。

と思ったのですが、ここに来ているのはこの後の展示公開用。
先ほどの状況には展開されなかった別の車体のようです。



一旦どこかに行ったと思ったヘリが一機ずつ戻って来て
フィールドに着陸を始めました。

この後の展示公開用に所定位置に駐機を始めたのです。



この写真を見たときに一瞬変な装備のコブラだなと思ったのですが、
ちょうど向こうに車が通っただけでした。



ニンジャも展示のために定位置に降りようとしています。
去年とはまったく違う場所で展示するつもりのようでした。



好きなので(笑)ついニンジャの写真ばかり撮ってしまうわたし。



榴弾砲もお片づけ。
砲身の両側からロープで引っ張っているように見えますが、
これは何をしていたのでしょうか。
駆動していないときはロープで動かせるの?

さて、というわけで一応これで全行程が終了。
去年はこのあとフィールドに降りてヘリの写真を撮ったりしたのですが、
今年はそれをしていては空挺館の解放時間に間に合わないので、
泣く泣く演習場を後にしました。



暖かいものを飲んだり食べたりしている時間も勿論ありません。

まだほとんどの人たちが残っているように見えたので、出口まで
バスに乗れるかと思ったのですが、とんでもない(笑)
列の後ろにいる隊員さんに何分で乗れるか聴いたら

「40分ですね」

歩いてもせいぜい20分だっつーの。
迷うことなく歩き出したエリス中尉でしたが、長時間、
しかも痺れるような脚の冷たさに耐えつつ座っていたせいか、
途中で二度ほどつまづいて転びそうになりました。
(脚が無感覚になっていたんです)



途中でナイキミサイルが見えたので写真を撮って・・・。



この道の右側を皆が歩いて外に向かいます。
ここはまだ駐車場の手前ですからシャトルが通りますが、この先、
外に向かおうとするクルマはこの時点でもうびくとも動いていませんでした。
やっぱり歩いて来てよかったかも。

この上に乗っている隊員さんは皆に手を振られて愛想よくそれに答えていました。
止まったときに、

「戦車って免許いるの?」

と歩いていた人に聴かれて

「特殊免許が要ります」

と答えていました。
そのために自衛隊では隊内に教習所も持っているのです。



それがこれ。
みすぼらしい(失礼)建物に、燦然たる空挺団のマーク。
このギャップが人々の興味を誘うのか、この教習所の入り口、
異常なほどの写真撮影スポットとなっていました(笑)

自衛隊では業務上(戦車を動かすとか)、
各種車両運転免許の取得が必要となる場合があるので、
ここで教習を行なうわけですが、これも彼らにとっては訓練の一環。
なので教習、ではなく「錬成」と言うのだそうです。

ですから正確には教習所ではなく「自動車錬成所」のはずなのです。



この日女性隊員を一人も見なかったのですが、ここで初めて目撃。
男性隊員と並んでちょっとした撮影会のモデルになっていました。

というわけで平成26年度陸自第一空挺団降下始めに参加して一言。

「来年も(行けたら)行くぞ!」


空挺館についてはまた別シリーズを挟んでお送りします。



 

映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜「接吻映画」と映画界の左翼化

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さて、案の定こういう「歴史的戦争映画」というお題を得たが最後、

微に入り細に入り、何度も咀嚼し「重爆の隅」をつついて止まないこのブログですが、
「皇国の興廃」以来、中々真珠湾攻撃に突入することが出来ません(笑)

とくに本日のタイトルを見てまたかよ、とかすかにうんざりされたかたも
読者の皆様方のなかにはおられるかもしれませんが、
こういう映画を見ると、監督や役者の戦後の在り方というものにまで
深く考察せずにはいられないのが習い性となっているゆえご容赦下さい。



出撃前夜。

飛行兵の部屋では明日に備えて田辺飛曹長が、「鑑名当てシルエットクイズ」をやっています。



シルエットでわかっても実際のフネでわかるものだろうか、とつい思いますが、
それを言ってはだめ。



「えーと、これはですな・・・えーと・・これはですな」

この俳優の名前がわかりません。
wikiにある「谷本二飛兵」の沼崎勲か、古い映画雑誌の「斎藤二等兵曹」の河野秋武か。

これに対し、飛曹長は

「なんじゃ自分の嫁さんの名前忘れてどうするんじゃ!
これはお前の目標じゃろうが!」

・・・・・何?

日本海軍では戦時中艦の「擬人化」ついでに「萌え化」を行ない、
さらに敵艦を「艦娘」化していたのか?


「みんなせっかくハワイに婿入りするんじゃけん、
自分の嫁さんの名前くらいしっかり覚えとけよ。
そうでないと水臭いちゅうてふられるぞ」

と飛曹長。

「艦隊これくしょん」みたいに、女の子のキャラだったら、
みんなあっというまに覚えられると思うけどな。
自分が婿入りする相手ならばよりいっそう愛着もわくというものです。


さてこれは出撃してからなのですが・・・・



臨時治療室に仕立てられたのは、士官の食堂兼休憩室のようです。



ここで艦の「インテリ」である主計長と軍医がまた何やら・・。
ラジオのチューニングをハワイからの周波に合わせると、
軽快なリズムとともにDJのおしゃべりが聴こえてきました。



途端に

「おれ内容わかっちゃったもんね」

とばかりに得意げにニヤニヤする主計長、津村少佐。
ええそりゃあんたは帝大出の短期現役ですからわかるでしょうさ。

津村少佐を演じているのは北澤彪(きたざわ・ひょう)。

なんだかこの字面に見覚えがありますね。
戦後バイプレーヤーとしていろんな映画やドラマに出演しましたが、
特にまげを結った時代物の姿に見覚えがあるような気がする俳優です。

若い頃はインテリタイプの優男役が多かったそうですが、それもそのはず、
与謝野晶子らによって設立され、当時の流行の発信地でもあった文化学院の卒業です。
多くの著名人、文化人、芸術家を輩出した当時の「憧れ」の学校だったとか。



英語の分からない士官が「なんですか」と尋ねると、
こちらもインテリの軍医長が解説してあげます。

なんと、ハワイでは海軍軍人も加わってキャバレーでどんちゃん騒ぎ、
それをラジオでは実況放送していると。

実際の真珠湾攻撃で第一攻撃隊が出撃したのは夜中の1時半。
それなら週末は夜通し遊ぶアメリカ人ならない話ではありません。

ところがこの映画の設定は、朝5時に総員起こしをして、それから
なんだかんだあって出撃してからなのでどんな早くてもせいぜい6時。
いかに週末のタフに遊ぶアメリカ人と言えども、朝の6時に
キャバレーから実況をするほどは遊びませんって。
この日は日曜で、みんな教会に行かないといけないんだしさ。

とツッコミどころ満点ですが、このニュースはあっという間に艦内を駆け巡ります。



早速このニュースを聞きつけて来た飛曹長、大喜びで

「おい、ハワイじゃ今海軍さんたち何をしとるか知っとるか?
これよ。これをやっとるんじゃ!」

とダンスのマネをして皆大笑い。

「夜通しオナゴと抱き合うて踊っとるそうじゃ!」

また皆爆笑。

今からそこに奇襲を掛ける、という日本軍がこんなことを言って笑っていた、
ともしアメリカ人が知ったらさぞかし腹が立つでしょうなあ。
まあもっとも、マイケル・ベイはこの部分も観てなかったと思いますがね。

この部分を観ると、この頃の日本人の道徳というのは今とかけ離れていたと感じますし、
アメリカ機のノーズペイントのことを、日本の少年たちは

「アメリカ人は飛行機に裸の女を描くんだと」
「嫌らしい奴らだ。そんなので戦争に勝てるもんか」

などと笑っていた、という話を思い出します。

この映画で、この飛曹長の言葉に皆どうしてこうウケるのか。
これは今から攻撃する敵がこんなに油断している、ということで
作戦成功が予想されることに心が浮き立って、ということでしょうが、
それより、当時の日本人がアメリカや西欧的な愛の表現を
生理的道徳的に受け付けなかった、ということを物語っています。

日本映画映画に男女のキスシーンが登場したのは戦後になってからです。
『はたちの青春』で、主演の大坂史郎と幾野道子がほんのわずか唇をあわせただけ。
それでも話題を呼び、映画館は連日満員になりました。

このキスシーンですが、実はGHQによって入れることを強要されたと言われています。
当時、映画製作もGHQの検閲下にあり、民間情報教育局(CIE)のコンデが、
完成した脚本がその前に見せられたものと違うことを指摘した上、
接吻場面を入れることをわざわざ要求してきた、というのです。

この意図、お分かりですか?

戦後、GHQは、物資を日本に供給すると同時に東京裁判による「リンチ」で
日本人の憎しみを嘗ての国家指導者に向け、
彼らが裁かれる様子をまるで見せ物のように楽しませる、
「パンとサーカス」 の手法を用い日本人をコントロールしました。

これは世界権力の大衆コントロール法
「3S政策」
のアレンジでもあります。
3Sとは「Sports,Screen,Sex」の3つを使う手法のことです。

大衆が興味を持つこれらの刺激を与えて日本人をコントロールするため、アメリカという国は
占領早々に日本映画にわざわざキスシーンを導入させたのです。

これは、洗脳であると同時に、このときの飛曹長のように

「おなごと抱き合うとる」

と自分たちの文化を馬鹿にしていた日本人への価値観を
モラルから覆す一種「復讐」のようなものでもあったとわたしは思っています。


許せん鬼畜米(笑)
 


そんな下士官兵を笑いながら見守る山下隊長始め士官連中。

さて、そんなこんなでいろいろ訓示とかもあって出撃。 



映像は、母艦「赤城」ということになっているらしい実は「鳳翔」の甲板と思われます。

実物大の艦橋を備えたセットを地上に作り上げてしまった(ただし米海軍母艦を参考に)
この映画のスタッフですが、このシーンはどう見ても飛行機が本物であるうえ、
明らかに海上での撮影となっているからです。

前々回「活動屋は信用ならん」という理由でスタッフは母艦を見せてもらえず、
この「最初から空母として建造して完成した艦」、
つまりは旧式艦しか見ることを許されなかった、という話をしましたが、
そこで撮影まで行なわれたのかどうかは謎です。

因みに「世界最初の空母」はイギリスの「フューリアス」ですので誤解なきよう。


海軍がフネを見せてくれないので苦心して「ライフ」を見ながらセットを作ったら、

「こんなもんは我が帝国日本海軍のフネではな〜い!」

ととある皇族が(わたしの予想では『最強の皇族海軍軍人であるあの方』)激怒し、
あわや映画は上映禁止になりかけ、監督は「はらわたが煮えくり返った」と
そのときの想い出を語った、という話をしたときに

「そういう軍の『しょせん活動屋風情』という扱いがため、
戦後の映画人は左翼になってしまった者が多かったのだろうか」

とテキトーなことを書いてみたわけですが、今日たまたま俳優の津川雅彦氏が

「戦後の左翼思想が日本映画をダメにした」

といっているニュースを目にしたので、ちょっとだけこのことを書きます。

「聯合艦隊司令長官山本五十六」を観に行ったとき、日本の映画はどんどん幼稚になっている、
どこかで自分が観ていいなと思ったものを
「カタチを変えて真新しくする」ことしか考えていないので、最初から最後まで
「分かり易すぎる」、と書いたことがありますが、津川氏も同じようなことを言っています。

「映画は目に見える部分は30%で、70%は観客の想像力を喚起させよ」

たとえばマキノ雅広監督はこのようなドラマ作りをしていたそうです。
ところがそういった極意はいつの間にか「見えるものしか理解しないですむ」
テレビ的エンターテインメントによって全く失われてしまった、と津川氏は言います。

それでは「左翼が映画界をダメにした」とは具体的にどういうことかというと、
津川氏の説ではいまひとつすっきりしないのでわたしが代わりに説明すると、
戦後の、たとえば「大日本帝国」「戦争と人間」などに代表される
強烈な左翼映画全盛の頃に、左翼映画人がはりきって我が思想を映画に盛り込みすぎて、
まあ要するにそれがはっきりいってつまらなかったんですね(笑)

で、その頃から映画自体がすっかり衰退してしまったと。


ついでに言うと、わたしはその思想が日本に呼び込んだ「獅子身中の虫状態」が、
今、映画界どころか一般の日本人を「強く怒らせている」と感じます。

ちっとも「具体的に」言ってませんけど。言わずもがなってやつなのでご理解下さい。
津川氏も「具体的」には言っていませんが、きっとこのことは痛感しておられるでしょう。



で、話を戻すと、この映画の監督である山本嘉次郎の戦後。
このことを書いている古い映画雑誌を古書店で見つけました。

「連合艦隊」「潜水艦イー57降伏せず」「太平洋の翼」「人間魚雷回天」

これらを創った松林宗恵(まつばやし・そうえ)監督の話です。
松林監督の本名は「釈宗恵(しゃく・そうけい)」。
海軍予備士官であったと同時に僧籍にもあった人物ですが、
松林は昭和17年に東宝に入社し、翌年予備士官として『学徒出陣』しました。

21年、戦争が終わって東宝に帰って来たのですが、そのときの社内の空気は

「右から左へと急旋回」

していたのだというのです。

「昨日まで”撃ちてし止まん”と叫んでいたのが労働組合の先頭に立って
”資本家を倒せ!”と声を張り上げていた。
変わりぶりがあまりに節操がない。
山本嘉次郎さんにそのことを話し、
”2.3年山にこもって情勢を見られたらどうですか?”
と尋ねたら、

”君ね、われわれ映画監督はオポチュニストでいいんだ。
時代を先取りして、時流に合うようにすればいいのだから、
そんなに深刻に考えることはない”

一つの考えとして耳に留めましたが私自身そうなれなかったですね」

松林監督は結局10人くらいのスターを中心にした「スト破り」、
つまり労働騒動と対立した演出部の中心となりました。


要は、敗戦によって昨日までの「聖戦の意義」が瓦解し、一夜にして思想転向し、
昨日までの自分を否定しついでに行くところまで行き過ぎてしまうという、
日本中で演じられていたあの茶番劇が映画界でも起こったというだけのことです。

「ハワイ・マレー沖海戦」は東宝の制作です。
この有名な国策映画を手がけたことで東宝は「戦争協力者の汚名」を着ました。

わたしなどは不思議で仕方ないのですが、それでは一体誰がその糾弾を行なったのでしょう。

戦争中の日本国民は須く国策に忠実に、戦争に赴き銃後を守り、
つまり皆が戦争に協力して来たではないですか。
きっと勝つと信じて耐え忍んでいたこと、つまり
戦時下の日本で良民として生きていたことがすなわち「戦争協力」ではないですか。

そもそも「戦争協力者」であることをなぜ疾しく思ったのか。

そう、それが戦後の日本を覆ったGHQ主導による「日本悪玉論」、
「懺悔派」といわれる元軍人たちが醸成した「自虐」です。

その自虐論ゆえ敗戦した日本国民がその怒りのはけ口を「軍」「日本」
に求めるようになりました。
そのとき戦争中非常にわかりやすい「協力者」となっていたマスコミ、
映画等のメディア、芸術家や思想家に至るまで・・・、
彼ら表現者は自分が糾弾されるまえに戦時のアリバイを証明し、
「心ならずも協力した」という釈明をする必要があったのだと思われます。

(『空の神兵』の作詞者、高木東六氏などがそうでしたね)



それもこれもつまりは戦勝国に押し付けられた「日本罪悪論」の賜物であったと
今になって見れば歴然とわかることなのですが、哀しいかな当時の日本人には
そんな「神の目」を以て日本と我が身を見ることなど不可能でした。

というわけで当時の映画界にいたのは、

1、一夜にして「撃ちてし止まん」から「資本家を倒せ!」に変わり身した者

2、山本監督のように時流に流されるオポチュニストであることを良しとして動じぬ者

3、松林監督のように変節を潔しとせず流行の「赤化」を断固拒んだ者
 

というような当時の揺れ動くこの時代の日本の象徴のような人たちでした。
終戦から3年ほどの日本の縮図がここにあったといえましょう。

おそらく「燃ゆる大空」の阿部監督は、2と3の混合のような立場をとっていたのではないか、
と思われますが、じつはこの世界に一番多かったのが1番。
この変わり身の早さはある意味日本人が日本人らしさを発揮したともいえますが、
ともあれ、映画界の現在に至る「左翼化」にはこんな事情があったのです。


日本人が戦後一年にして初めて日本人同士のキスをスクリーンで観るのと、
その映画界が見事に「左翼化」したことには、辿ればそこに
「GHQ」という日本に対して壮大な社会実験をした組織の存在が見えてきます。








 


映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜真珠湾攻撃と・・

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「ハワイ・マレー沖海戦」、ようやく真珠湾突入です。



搭乗員たちが飛行機に乗り込みます。
本物の海軍のシーンではないかと思うくらいリアル。



これは「取りかじにあげ〜」のあと「よーそろ〜」
といっているシーンなのですが、「微速」になっています。

まあ・・・細かいことはしょうがないね。



なんと言う名称の装置かわかりませんが、これでフネが風を立てているのを見ます。
これを確認して、航海士が

「風が立ちました」

と艦長に報告しました。
それを聞くと艦長はデッキに出ておもむろに飛行長に向かって

「出発!」

の司令を出します。
(男なら一生に一度はやってみたい仕事以下略)

 

それをきいた飛行長が合図の旗を振り、車輪止めが外されると、
飛行機はするすると動きだし、



皆が帽振れで見送る中次々と発進して行くのですが、
このシーンがどう見ても海の上の母艦。
しかもしっかり艦橋が左舷にあります。

ということはこの空母は「赤城」か「飛龍」ということになりますが、
これ、どちらも撮影は勿論取材すら拒否されたんですよね?

うーん・・・どう見ても本物の空母で撮影されたとしか思えんのだが。

そこでしらみつぶしに情報を拾い集めたところ、このシーンは
「タッチアンドゴー」のときに使った同じ実物大セットで、にゃんと、

「海に向かって建造されていた」

ことが判明。

これすごいですね。
当時はそんなことに使えるような空き地がいくらでもあったってことなんですよね。
実物大の甲板セット。
もし今後日本の戦争映画でそれをやれば(とくに大和もの)きっと映画史に名を残せるけど、
今の日本の土地事情ではまず無理だな。
特撮の方が安く済む、ということになっちゃう。

そしてこのカット、カメラアングルも完璧で、海の上であるとしか思えません。

こりゃすごい。
もしかしてこの映画が「名作」とされるのはこういう無茶な凝り方にもあったのか。


しかし、写真に撮れませんでしたが、発艦する九九式艦攻には
ときどき「K」の尾翼マークのものがみられます。
はっきり写っているのがK-315ですが、アルファベットの後は機種を表し、

戦闘機なら「1」
艦爆なら「2」
艦攻なら「3」

つまりこの機は「艦攻の15番機」ということになります。

ちなみに「赤城」だった場合、尾翼はAI-三桁数字、となるのですが、
Aは赤城の意味ではなく、一航戦(Bは二航戦)の意で、
続くアルファベットIは一番艦の赤城(IIは『加賀』)を意味します。

ですのでこの「K−315」はそのころ廃止されていた「加賀」の
艦載機の尾翼ナンバーをつけているということになるのですが・・・。

どなたかこの辺に詳しい方、ご存知でしたら教えて下さい。 







ハンモックで囲まれた艦橋デッキで帽振れする大河内艦長。
この人、本当に貫禄ありますわ。
演技もいい感じに「普通」。
艦長だからって帽振れのときにやたら悲壮ぶって眉根を寄せたりしません。
適当に帽振れをさぼったりしてそれが妙にリアル。

周りの軍人役もそのものにしか見えません。
まあ最も、このころは海軍軍人が映画の制作をずっと「見ていた」わけで、
少しでもおかしな所作があったり、海軍のしきたりが間違っていたら
即座にご指導ご鞭撻が入ったのでしょう。

現代の映画やドラマは、軍隊を見たどころか生まれてもいなかったものが
テキトーに聞きかじりの知識だけで考証し、おそらく諸般の事情とやらで間違いをろくに指摘もできず、
その結果、とんでもない映像になったと思われる例を散見します。

津川雅彦氏に言われるまでもなく、全てが「安く」なり、
「所詮映画」「所詮ドラマ」として消費されるだけのものになった、
ということなのでしょう。

それを「堕ちた」とするかどうかは別として。



雲の多い中索敵中、義一の乗った艦攻の様子が描かれます。



友田善一の操縦するのは指揮官淵田美津雄中佐と同じく九七式艦攻。
なんと友田、後ろに教官の田代飛曹長を乗っけています。
そして、相変わらずハワイからのラジオ放送を傍受しては

「まだラジオをやっとるぞ」
「そうですか。いつまで続けるんでしょうか」
「こっちがやっつけるまで踊るつもりじゃろう」

などと呵々大笑しますが、いやそれいくらなんでもライブじゃないから。
唯の音楽番組だから。



因みに藤田進演じる山下分隊長は、別の艦攻に乗っています。
この人物が 雲の切れ間から真珠湾を発見します。



そして、周りの飛行機に指差し動作でそれを教えます。



降下して山中を縫うように進む編隊。

この構図は、以降の真珠湾攻撃を描いた映像物の雛型となり、
連綿と繰り返される日本軍機侵攻のイメージとなります。



そして山下隊長が目を見張るその眼下には・・・・。



真珠湾が。
勿論模型なのですが、白黒が幸いして本物にしか見えません。



人間が本物に見えるので、こちらは明らかに実機。
尾翼にはク−320、胴には報国。
これはおそらく「呉空」の「報国号」(民間に寄付された機体のこと)。

皆さんの お志によっていただいた飛行機も活躍しましたよ!
という海軍の報告とお礼をかねた1シーンではないでしょうか。

映画のちょっとしたシーンにスポンサーに配慮したものやことを入れこむ、
そういったマーケティング手法はこのころからあった? 



さっそくこの「報国号」が、どうみてもこちらは模型の駆逐艦に雷撃。
ここで見ていただきたいのは海面。
フネの大きさから考えて、決してそう大きなセットとも思えないのに
海面のような小さな波が立っています。

これは、本物の海に見せるために寒天を使用した成果でしょう。



命中。
そのあと田代飛曹長が「やった!」と快哉を叫びます。

僚機が爆雷に成功したので我もと張り切る友田機。



そしてさらに次の獲物を求めて進む友田機。



「ヨーイ・・・てーっ!」



「どうだ!行ったか?」



後ろの機銃手が

「行ってます!行ってます!行ってます!」



「やったあ!やったあ!やったあ!」



「太棒了」

が「やった」なのか・・・。
と中国語にも詳しくなってしまうこのDVDです。



続いて円谷特撮監督渾身の真珠湾攻撃シーンが
次々と展開します。


勿論今の特撮やCGと比べれば稚拙さはいかんともし難いのは確かですが、
それでもこの時代、ここまでのものを作り上げたことは凄い。
戦後のGHQには本物の攻撃の実写フィルムだと思われ、
東宝は提出を強要されたという笑い話のような実話があったくらいです。


この映画がプロパガンダであるということから坊主憎けりゃとばかり

「セコい特撮も効果倍増で見ているこちらが恥ずかしい」

と特撮にまで噛み付いている映画講評者がいましたが、この人には
あんたは精魂込めて力を注ぎ、結果を為したと自信を持って言えることが一つでもあるか、
と是非聞いてみたいですね。
ましてやこの特撮のように「歴史に残る何か」を残したことがあるか、と。



義一らの雷撃隊が外側をやったあと、水平爆撃隊が内側を攻撃。

 

こうして詳細な画素の写真に撮ると、確かに模型っぽいですが、
大きな画面の映画で観た者は特撮であるとは思えなかったでしょう。
GHQが観たのもフィルムの大画面での上映だったのですから、
彼らが本物だと勘違いしたのも宜なるかなといったところです。

デジタル化され、高画質の画面に映し出されれば特撮の粗は隠せません。
現代の科学の恩恵を受けてこれが普通だと思い70年前のこの映像を一言、
「セコい特撮」などと言い放つ現代人は、過去そのものに対してあまりにも傲慢でしょう。

 

 

 

わたしが特に凄いと思ったのがこの映像。

日の丸の見えた飛行機の翼越しに爆撃される真珠湾が見えます。
この翼と特撮を合成しているのは明瞭ですが、それにしても、
映し出されている真珠湾の風景があまりにもリアル。

続いて、艦爆による急降下爆撃が始まりました。

 

艦上爆撃機攻撃は、水平に航行しながら投弾する艦攻と違い、
急降下して目標に爆弾を「投げつけるように」爆撃します。
「連合艦隊」の脚本家須崎勝彌氏が、

「艦爆乗りは気性が荒い者が多い」

と言うように、悍馬を乗りこなすような気質の者が多かったのでしょうか。
この艦爆隊の隊長は高橋赫一少佐、雷撃隊隊長は村田重治中佐です。

続いて戦闘隊。



マイケル・ベイも、「パールハーバー」のときにこれを観ていれば・・・。

あの映画では、21型と52型と、ついでに艦爆が一緒に編隊を組んでいましたが、
今考えるととんでもない構図ですね。

当時考えてもとんでもなかったですが。

ところで、これは特撮ではありません。
それにしても変わった仕様の零戦だなあと思われません?

21型は飴色だのなんだの、未だに議論になったりしますね。
(わたしはその『飴』が何色なのか、という定義がないので、
この件はいずれにせよ非常にもやもやしたものを感じずにはいられないのですが)
しかし、この零戦は白黒映像であることを考えても「飴色」には見えません。

これ・・・・・・薄いグレーじゃないんですか?

カウリングも黒じゃないし、じゃこれ一体なんなのよ、
とwikiを観ると、

「試作機の飛行映像が流用されている」

な、なんだって〜!(笑)

それは凄い。
そういえばこの零戦、試作機だからか翼に日の丸がないし、爆装もなし。

しかしある意こんな貴重な映像があろうか。
試作機の飛行映像なんて、もともとのフィルムはとっくに消滅しているでしょう。
しかし、この映画に流用しておいたので、こうやって後世に残っているのです。

素晴らしい。素晴らしいぞ「ハワイ・マレー沖海戦」。
知れば知るほど、この映画の歴史的価値が明らかになっていく。

 

そして零戦隊は水上基地の攻撃を・・。
ここはヒッカム飛行基地。



以及、というのがどうも「ヒッカム」と読むらしい。

昔香港に行ったとき、ロバート・レッドフォードの
レッドフォードが「烈福」で大笑い、
台湾ではイーサン・ハントのイーサンを「伊森」と書くので、
映画よりそちらが気になって仕方がなかったことを思い出します。



ホイラー飛行場。

 

艦爆も激しく攻撃。

それにしても、これみんな軍事施設ですよね?

「パールハーバー」で「真珠湾の仕返し」としてドゥーリトルの「東京空襲」が
行なわれた、ってことにして、東京の軍事施設を攻撃したと言い張ってましたが、
ドゥーリトル隊が攻撃したのは早稲田とか小学校だった、って
アメリカ人は知ってるんですかね?

最近中国が、靖国問題で日本に対していきなりトーンダウンしたアメリカに

「アメリカはパールハーバーを忘れたのか」

なんて共同戦線を貼ろうと挑発したということがありましたが、
アメリカは靖国参拝にうっかり口を出して予想外に日本人の逆鱗に触れ、

「これ以上日本をつつくと、原爆や東京大空襲のことをこっちが言われるぞ」

ってどうやら一部のお利口な人たちが気づいたんでしょうね。


軍事施設を攻撃した真珠湾に対し、「民間人殺戮」はアメリカの脛に傷。
それを糊塗するために日本を「悪者」にしておきたい、というのがアメリカ始め
「戦勝国」の本音ってやつですからね。

アメリカさん、きっと中国には

「いい加減空気読んでくれよ・・・」

と言いたいだろうなあ。



こちらは空母「赤城」(仮)。

「我奇襲に成功せり」

この報を受け、軍医長と主計長はほっとして腰を下ろします。
と・・・。



「パールハーバーは攻撃されている。訓練にあらず」

慌てた調子の放送が始まりますが、どうにもこの英語の発音がヘタすぎ。
戦時中ですから日系二世に声優をさせたというのが丸わかりです。

さて、この後、アメリカ側の反撃も激烈になるということで



ご予算の関係で一機だけアメリカ陸軍の航空機が出てきます。
この航空機はたちまちやられて火を噴き墜落。

ここで、あの飯田房太大尉の自爆シーンが、
「尊き犠牲」
という字幕ののちに再現されます。

全攻撃シーンを通じて、BGMの入るのはここだけです。



僚機に自爆するということを告げる飯田大尉。
この前後は模型による特撮ですが、このシーンは地上で撮影したらしく
人間がちゃんと手を振っています。

90度首が自動で動く人形を操縦席にくっつけて、それこそ「せこい特撮」をした

「ああ陸軍 加藤隼戦闘隊」

の特撮チームは少しこれを見て反省していただきたい。

栃林CGでさえ「人間の特撮はまだ無理」っていってるのに、
人形を人間に見せる特撮なんて、百年早い。

 

カネオヘ飛行場に突っ込み自爆した飯田大尉の最後。
しかしこの映画は「実録」ではありませんから、
明らかに飯田大尉のことであっても名前は無しです。 

というわけで真珠湾のシーンはここで終わるわけですが、
最後に皆さんに少し鑑定してもらいたいものがあります。
もしかしたら閲覧注意画像ですが、そうでないかもしれません。

それは飯田大尉の自爆シーンの合間の特撮映像なのですが

 

もともとのフィルムをデジタル化する際、フィルムについていたゴミが
はさまれたまま映像に映り込んでしまったようなのです。
もしDVDをお持ちの方がいたら、わたしのPCより鮮明なモニターで
この映像を確認していただきたいのですが、

このゴミって・・・・・・・どう見ても・・・。

(((((( ;゚Д゚))))))ガクガクブルブル

最後でとんでもないもの(たぶん)をお見せしてすみません。
クレームはこの映画をDVD化した会社にぜひどうぞ。





映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜敵艦隊見ゆ

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映画「ハワイ・マレー沖海戦」、いよいよ最終回、
マレー沖海戦部分についてです。

真珠湾攻撃とマレー沖海戦を作戦的に見ると、真珠湾でアメリカと開戦し、
その翌日、連合国である英艦隊のフネを沈めたということになります。

真珠湾を受けて翌日の仏印基地。
シンガポールを出た敵主力艦を日本の潜水艦が発見したという報を受け、
索敵に立つ我が海軍攻撃隊。

ざっざっと土を踏みしめる搭乗員たち。
ここは全くセリフも音楽もなく進行しますが、
却ってそれが緊迫感を盛り上げます。



エンジンをかける九六式陸上攻撃機。



腕を後ろに回して見ている整備員たちが実に本物っぽい。



この司令部は、実物大のセットであろうと思われます。



帽振れのあと飛び立つ96式。
実機を6機登場させ、全ての離陸シーンを収めています。

ところで、この映画の前半に主要人物として登場していたのは、
真珠湾攻撃に艦攻のパイロットとして参加した友田義一、そして、
彼が海軍に入るきっかけとなった同じ村の兵学校卒業士官である
立花忠明でした。

「もうお前とは会うこともないかもしれないが」

故郷で語り合ったときに立花はこのように友田に言いますが、
彼もまた奇しくも開戦のとき、マレー沖の開戦に臨むべく、
この96式陸攻の隊長としてここにあったのでした。



「センスイカン テキヲ ミウシナウ」

部下からのメモを受け取り眉を曇らす立花隊長。
友田役の伊東薫もそうですが、この忠明役の俳優、中村彰も、
飛行服でいる姿が最も凛々しく男前に見えます。

今公開中の「永遠の0」の評判は上々で「超ヒット」なのだとか。
空挺団の降下始めに行ったとき、後ろの若い女性二人が

「永遠の0、観た?」
「観た」
「どうやった?」
「よかったで・・岡田准一かっこよかった」

という会話をしていましたが、わたしは「図書館戦争」で主演した
この俳優さんの感じから、あの主人公宮部久蔵は適役だろうなと思っていました。

理由の一つは身長。
「図書館戦争」でもやたら「チビ」と言われていた岡田ですが、
当時の搭乗員が背が低いという傾向にあったことを考えると、
180センチくらいのイケメン俳優がやるよりずっとそれらしいのではないかと思われます。

いずれにせよ、この飛行服を着ると、どんな日本人俳優でも男っぷりがあがる。
背は低いがイケメンの岡田准一がこの衣装を着て格好よくない訳がない、
とまだ観ていませんがそのように思った次第です。


ちなみにこのシーンの陸攻内はセットが作られそこで撮影されています。



12月9日、この日は伊65潜水艦のZ部隊発見の報を受け、
潜水艦隊旗艦の軽巡洋艦「由良」などから艦載機が捜索を続けましたが、
見つけることはできませんでした。

このとき「由良」からの水上艇が索敵の際、未帰還となっています。



その夜の司令部。


「やっぱりシンガポールに引き返しているらしい。
あそこに逃げ込まれるとことだなあ」



「シンガポールならまだいいですが、
スラバヤ辺りに逃げ込まれたらもう手が出ません」

ちなみに「Z部隊」の陣容とは以下の通り。

戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ 巡洋戦艦:レパルス 駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、テネドス、ヴァンパイア(オーストラリア籍)
 



明朝も出撃のために整備員が朝もまだ明けぬうちから
飛行機の整備をします。
このとき時間は3時半という設定。 



待機する飛行隊の隊長たちに伊潜からの報告が。

「サイゴンから真南へ逃走中であります!」
「本当か!」

しかし、またすぐに「逃げられた」との報告。
シンガポールに向かい南下中、ということで、
つまり史実通りなかなかZ艦隊を補足することができなかったのですが、
ここでいきなりこの命令が下されます。

「敵主力艦隊を撃滅せよ」

え・・・・・?

うーん・・・・これは、つまりとりあえず行くだけ行って、
索敵機の報告受けながら攻撃してこいと、こういうことでしょうか。

しかもこのときの司令の命令というのが、

「敵がどこにいるのかわからないので帰ってこられないかもしれないが、
十分自重して適宜なる処置を取るように」

「自重して適宜なる処置」ってどういうことかしら。
さすがにこういう命令で

「生きて帰ることは諦めて任務を完遂せよ」

などとは、さすがの帝国海軍も言えないし、そこは空気読んで下さい、
というような言い回しですね。




索敵機は放射状に捜索網を張り、Z艦隊を探しました。
画像は索敵機三番機の谷本少尉。

この人、お猿さんを肩に乗せて「坊さん」と言われてた人です。
あのときの「おっさん臭い」様子と、この姿が全く一致せず、
わたしはコメント欄でこの俳優について知るまで同一人物だとは思っていませんでした。

谷本少尉はおっさんじゃなくて、しかも予備少尉。
士官たちから

「変わった奴ですよ。
坊主の大学に行っていたのに飛行機に夢中になって
大学に飛行機部を作ってしまったんだそうです」

などと言われていたことからも、まだ学生上がり、という設定だったのに。
ですからこの場面で初めて出て来たキャラだと最初は思っていました。

その後、こんなことがわかりました。


実際にマレー沖海戦で索敵三番機に乗って艦隊を発見したのは
帆足正音予備少尉です。

この帆足予備少尉の履歴というのが、

「浄土真宗光琳寺の住職の息子に生まれ、龍谷大学を卒業、
海軍予備航空団で教育を受け、卒業して僧籍を取り、航空予備学生に」

つまり、劇中の谷本少尉は帆足少尉をモデルにしたということです。

実は帆足少尉はこのマレー沖海戦のわずか三ヶ月後、
このときのほとんど同じクルーとともに台湾方面で消息を絶ち、戦死認定されています。

この映画が制作された頃、谷本少尉のモデルとなった帆足少尉は
すでにこの世にいなかったということです。

一時は帆足少尉のことは、教科書にも載っていたといいます。
映画製作時、スタッフと海軍はこの若くして戦死した(享年23歳)
マレー沖の殊勲者に特に餞としてこの配役をしたのだと思われます。



そしてここで流れ出すワーグナーの「ニーベルングの指輪」より「ワルキューレの騎行」。
映画の最初もワーグナー(ローエングリン前奏曲)で始まっています。

「ワルキューレ」の流れる中、鋭い目で索敵しながら操縦する
谷本予備少尉こと柳谷寛の演技が素晴らしい。
彼が操縦桿を握る機内には、窓にお守りの人形が揺れていて、
こんなシーンからもこの作品の細やかさを感じることができます。 




こちらは、捜索機の「敵発見」を待たずに攻撃に出された陸攻。
義一のおさな馴染みである立花大尉が隊長を務める機です。



「索敵機から電報ないか?」
「ありません」

下手するとそのまま燃料切れで帰ってこられないかもしれないのに、
索敵機の報を待ちながら飛ばなくてはなりません。




このシーンはおそらく実機だと思うのですが、
それにしてもこれだけの96式をこのご時世にどうやって飛ばしたのか・・・。

もしかしたら、模型ですか?



敵の姿を追い求めながらも、時間は刻々と過ぎてゆき、
そして燃料もどんどんと減っていきます。
司令が言うところの「自重して適宜なる処置」を決定するときが来ました。

そのとき部下から「もう燃料が基地に帰る分しかない」と聴いた立花隊長は・・・




続きます。(最終回とかいいながら終わらなかった・・・)


 


 

映画「ハワイ・マレー沖海戦」〜Z艦隊轟沈

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基地に帰る燃料がない、と部下から聞かされた立花大尉。



ほんの一瞬だけ目を下に落とすも、次の瞬間眉根をきりりとよせ、

「基地に帰ると思うな」

という一言を。



「ハイ、わかりました。それなら十分あります」

晴れやかに答える部下。
前にも書きましたが、このシーンに対し

「当時の思想統制を感じて嫌悪感が湧く」

という感想を書き込んでいる人がいました。
これは思想統制ではなく、言わば国策映画ゆえの国威発揚である、
とこまめに言葉尻に突っ込んでおくついでに、この方にはこの部分が

「思想統制を狙って作られたのか、それともこれが、
実際にあの日マレー沖に在って戦った者たちの現実だったのか」

ということを考えてみるのもいいのではないかと提言したいと思います。

真珠湾攻撃も勿論そうですが、軍人としてそこに在った者たちの証言によると、
戦後も異口同音に

「男子の本懐ここに極まれり」

と思った、とその感激を語っています。
実際にこのとき索敵に出て帰ってこなかった飛行機もありましたが、
この機のパイロットもおそらくその本懐に殉じたのでしょう。

いつも思うのですが、戦後の、平和な時の価値観で戦時のあれこれを判ずるのは
全く意味のない、しかも卑怯なことでもあります。

自分の生きている時代の価値観で過去を見て、まるで劣ったもののようにこれを批判する人。

こういう人は、おそらくもし戦時中に生まれていたなら、
その時代の最も正しいと思われる価値観の王道を、何の疑うこともなく大手を振って歩き、
戦争を煽り、大本営発表に一喜一憂し、勝った勝ったと提灯行列をしておきながら、
戦後は戦後で素知らぬ顔で昨日までの自分を棚に上げて、
「真相はかうだ」を聴いては戦犯を罵るようなことをするに違いありません。




索敵中の谷本機。
谷本機長が部下を捕まえて聴きます。

「おい!あれは何か」

雲間に見える艦隊。

「敵にしては落ち着いておるぞ。味方じゃあるまいな」

確認のため高度を下げると・・・・



ビンゴ。

まるで信じられないものを見るように海面を見つめる谷本少尉。

「おい。これは本物たい。少し話がうますぎるぞ」



「敵主力艦見ゆ。
北緯4度。東経103度55分。
旗艦はプリンス・オブ・ウェールズ」

中国語の字幕が変ですが、気にしないで下さい。



このとき、下に広がる雲海に飛行機の影が映っているという芸の細かさ。
・・・・てことは本物かな。



模型にしては凄すぎるんですが・・・・これはどっち?
もし本物なら凄い技術です。



雲の下に必ずいる!と全機下降してみると、そこには目指す敵が。



艦隊を確認するや、思わず

「わあ〜、すごい!こいつを沈めるのか!」

とはしゃぐクルー。



獲物を狙う鷹のような目で艦隊をにらむ立花分隊長。



これは模型丸出しのプリンス・オブ・ウェールズとレパルス。



向こうもただやられてはいません。
猛烈に撃ってきます。

この攻撃で日本は一式陸上攻撃機2、九六式陸上攻撃機1を喪失。
一式陸攻1不時着、偵察機未帰還2機の被害でした。




爆撃を命ずる立花大尉。

この演技をする俳優もある意味「男子の本懐」であったのではないでしょうか。



「発射よ〜い・・・・」
「てええええ〜〜!」



雷跡を描いて進み・・・



命中。

太平洋艦隊上空に現れたのは、実際には96式8機。
元山航空隊の雷装と、美幌航空隊の爆装でした。



レパルスに命中したのは、美幌陸攻隊、白井義視大尉の水平攻撃による爆雷だったことから、
この立花忠明のモデルは白井大尉であると考えて良さそうです。



こういっては何ですが、真珠湾のシーンより模型がちゃちな気がするのですが、
気のせいでしょうか。



マレー沖海戦には人類の歴史に取って大きな意味が二つありました。

その一つは、航空機の攻撃によって作戦行動中の戦艦を沈めることができる、
ということが初めて証明されたことであり、これは大鑑巨砲主義の
本格的な終焉の幕開けともなったできごとだったということ。

そして、白人支配であったそれまでの世界が崩れさる序章であったことです。



前にも一度書きましたが、アーノルド・トインビーが
このマレー沖開戦について新聞に書いたことを挙げておきます。

 「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、
特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。
それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。

何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、
この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。

1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、
1967年のベトナムに明らかである。」



レパルス轟沈のあと、次の攻撃隊が17機上空に到着。
プリンス・オブ・ウェールズには4本〜5本の爆撃が命中しました。

戦後の調査でわかったことで、当時の攻撃隊は「7本命中」と
申告していたようです。



最後に谷本少尉に向かい、部下が他の駆逐艦のことを

「どうしても沈みません!」

と報告すると、谷本少尉は口惜しげに

「ちいっ・・・・ここまでやって・・・ここまでやって・・・」

と歯ぎしりします。
そしてしばし唇を噛み締めるかのように小刻みにふるえ、
宙をにらんでいたと思ったらやおら冷静になって

「ヒトヨンゴーマル、プリンス・オブ・ウェールズ撃沈!」

と報告を・・・。

いやあ、この人の演技、いいですなあ。
比較的生硬な演技をする俳優の多いこの映画で、
この谷本少尉役の演技は実にいぶし銀のように光っています。



そして、大本営発表を皆で正座して聴く義一と忠明の家族。
なぜ両者の家族が皆同じところにいるのかは謎です。

「昭和16年12月10日、午後4時5分。
帝国海軍は開戦劈頭より英国東洋艦隊、特にその二隻の主力の動静を
注視しありたるところ、昨九日午後、帝国海軍潜水艦は敵主力艦の出動を発見。
以後、帝国海軍航空部隊と緊密なる協力の下に捜索中、
本10日午前11時半、マレー半島東岸沖において再び我が潜水艦
これを確認せるを以て、帝国海軍航空部隊は機を逸せず。



これに対する勇猛果敢なる攻撃を加え、午後2時29分、
戦艦レパルスは瞬間にして轟沈し、同時に最新式戦艦、プリンス・オブ・ウェールズは
たちまち左に大傾斜、暫時遁走せるも間もなく午後2時50分、
大爆発を起こし遂に沈没せり。

ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は
殲滅するに至れり。
終はり」 



この一番左には、山下大尉を演ずる藤田進もいます。
大河内伝次郎扮する艦長が立ち上がり、

「いや、おめでとう」

とあっさりお辞儀をすると、皆座ったままで頭を下げます。



「ハワイ・マレーの両戦果が相まって、初めて今回の
大作戦の意味を全うした」


これだけ言うと、いきなり画面には行進曲「軍艦」が鳴り響き、

 

実際の戦艦が波を切る超貴重な映像がエンドタイトルとして流れます。
これゆえこの映画が好きだ、という方もおられるかもしれませんね。

 

これらの映像から鑑名当てクイズをするのは、「艦これ」ファンでもない
わたしには勘弁していただくとして、実際に使われた艦は、

 

赤城、陸奥、長門(?)伊勢、山城。

こんなところだそうですが、長門が出演しているかどうか
はっきりしないようです。

 

なんと砲をドンパチやっているところが映像に残っているとは・・・。
すごい。
すごいぞ「ハワイ・マレー沖海戦」。

 

観艦式のときでも撮った映像があったのでしょうか。

 

 

 

これらの実際の映像はフィルムを写真に撮ったものなどより、
迫力に満ちて圧倒的です。

しかも、ここに登場した全ての艦は、終戦までに全て戦没しました。
山城の運命は思わず落涙するくらい苛酷なもので、
伊勢も以前書いたように終戦間際、敵機の空襲にやられ、
沈みながら最後の主砲を撃ち、波間に消えてゆきました。

それらの最後を知って観るこの最後の在りし日の艦の姿は、
勇壮でありながら胸が締め付けられるほど悲壮な「白鳥の歌」に思えて来ます。

「主人公らしい主人公がいない」

と書いたこの映画「ハワイ・マレー沖海戦」ですが、あえて言うなら
主人公とはこれら失われた艦が象徴する、もうこの世に無い
日本帝国海軍そのものであったのだとあらためて最後に思いました。







習志野第一空挺団・空挺館

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空挺団の降下展示が終わり、フィールドには使用ヘリが展示のために並びました。
去年のわたしはフィールドに降り、そこで時間を遣ってしまったので
この空挺館の開館時間に間に合わなかったのです。

今年は何が何でも、と演習場から第一空挺団に向かいました。
演習場と第一空挺団は道を一つはさむ形で隣り合っているので、
一旦演習場を出て、信号を渡り、結構な距離を歩いていかねばなりません。
計ったわけではないのですが、座っていたところからは30分くらいかかったでしょうか。

 

去年はここにたどり着いたときにはもう入門が禁じられており、
涙をのんで向かいのスパゲティ五右衛門に入ってレモンクリームスパという
キワものっぽいスパゲティを食べて帰ったのでした。

今年は間に合ったぞ。

門をくぐると、隊員さんが元気な声で挨拶してくれます。



駐屯地の案内板。
赤い印が空挺館・・・・・と思ったらとんでもない。
赤い印は降下塔。
昔、「空の神兵」という陸軍挺身隊のドキュメント映画を観たことがありますが、
あれで傘をつり上げてフリーフォールさせていた練習のためのタワー、
あれと同じものがここにもあるらしいのです。

見てみたい・・・。


空挺館は左下の三角の緑地帯の左斜め上の小さな□。
実はこことんでもなく広いようです。

赤い降下塔の上にある緑地帯は

「跳出塔・レンジャー訓練場」

うわー、これも見てみたいなあ・・・。
何だろう。アメリカの地獄の訓練みたいに、塀とか登ったり、
ロープで滑り降りたり、高いところから飛び降りたりするんだろうか。

そして異常に広い室内プール!
やはりここでは水の上に落下したときの対処とか訓練するのかしら。

そして、食堂とかやたら大きな駐屯地医務室とか(!)普通の自衛隊にありそうなもの
以外では

「落下傘整備工場」

なんてものがあるんですね。
かつての空の神兵は、全てそういうのも自分でやっているようでしたが、
現代では専門の部署がそういうことをちゃんと請け負っているようです。
隊員は傘のことは心配せずに体を鍛えたまえ!ってことでしょうか。

しかし、飛行機の整備と一緒で、ここで任務に就いている隊員は、
空挺隊員の命を預かる傘を調整するのですから、さぞかし真剣に、
どんな不備も見逃すまいという気合いで日々やっているんでしょうね。



敷地内に入ると、テーブルがあり、二人の隊員がそこにいて、
代表者一名の名前を記入させていました。
写真を撮るのを忘れたのですが、そのテーブルに立てられていた幟には

「空挺団創立百年」

と書かれており、今更ながら第一空挺団が陸軍挺進連隊から続く
伝統の部隊であることを思い出させました。



三分ほど歩くと、まるで神戸の異人館通りか、横浜の山手通りにありそうな
洋風建築の建物が見えてきました。
窓のさんが空色で、こだわりを感じさせるカラーリングです。

これが空挺館。

コロニアル様式による建築ですが、軍施設であったので装飾は極力省かれています。

 

館内は土足厳禁で、皆外で靴を脱ぎ、靴下での入館です。
わたしが着いたときにはすでにたくさんの靴が並び、かなり遠くで脱がなくてはならず、
人の靴の間をピョンピョン飛んで階段を上がりました。

年に何度かしか公開されないので、こういう機会には人が詰めかけます。

 

まるで神社仏閣の説明板みたいですが、ここには空挺館の簡単な説明があります。

この建物は明治天皇の「御馬見所」として、
明治44年に東京目黒の騎兵学校内に建てられ
明治天皇が修業式に行幸され学生の馬術を展覧された由緒ある建物です

大正五年騎兵学校がここ習志野に移転した際、同時に移築され
迎賓館として使用されておりました

昭和三十七年に空挺館と命名され、空挺精神の伝統継承の場として
旧陸海軍及び自衛隊の空挺資料並びに、
騎兵資料などの展示館として現在に至っております


乗馬を嗜み、また落下傘部隊に大変な関心を寄せるわたくしにとって、
この空挺館に訪れるのはまるで「聖地巡礼」のようなもの。
心して見学させていただこうではないか。



この手の西洋建築にありがちな、入ったところにホールがあり、ホールの真ん中に階段がでーんと、
という造りとなっております。



階段を上ると、両側の階段に続く踊り場に空挺隊員の像が。
「精鋭無比」
という、はっきりいってうまいのかどうなのか分からない字を書いたのは、

南敬 あるいは 南敬題

という人物で、丙寅の秋、ということは1926年に書かれたものです。
「無」という字の下4画が同じ4画でもあえて「火」に変えられているのは、
それが「燃える火のように熱い」挺進連隊の標語であったからだろうと思われます。



壁沿いの階段の手すりの欄干。
これはどう見ても落下傘のモチーフなのですが、建物が出来たときには
空挺とは全く関係がなかったので、偶然かも知れません。



建物に趣があるので、中から窓越しに見る風景もなかなかです。
このとき手に手にカメラを持った女性の三人組が同じように写真を撮っていましたが、

「ゴミ集積所が惜しい、って感じー」

ときゃっきゃしていました。
ふーん。
若い女の子三人で空挺団の降下始めを撮影に、ねえ。
世の中には物好きというか、色んな趣味の女性がいるものですね。

という突っ込み必至のボケをあえてかますエリス中尉である。
 

それはともかく、この自衛隊内の建物、全体的にご予算の関係なのか、
古い建物は古いままで、それは非常にいい感じなのですが、
風情というものを一切考慮せず建築する傾向があるので、新しいものは
いかにものプレハブの簡易住宅みたいなのばかりです。



踊り場から両側に階段があり、センスのないソファが観覧者用に置いてあります。



吹き抜けのランプもパラシュート状のかたちをしているような気がするのですが、
こちらはおそらく建物が改装されたときにあらたに付け替えたものでしょう。

あ、電球が一つ切れている(笑)


因みに端っこに写っているのは、この日見張りに立たされていた隊員で、
後で分かったのですが、畏れ多くもレンジャーバッジ保持者である。
心して見るように。



そしてこれが彼の足許である。

皆に靴を脱ぐことを要請しているぐらいなので、土足厳禁なのですが、
何しろ隊員はいざ!というときにそのまま二階から飛び降りたりしなくてはならず、
そのいざ!というときに長靴の紐を結んだりしている場合ではないからです。

ゆえにこのようなシャワーキャップみたいなオーバーシューズをはめているのですが、
特筆すべきはこれが自衛隊の官品であり、ちゃんとOD色をしているということでしょう。

おそらく、このような気配りグッズを装備としてをわざわざ支給するのは、
世界広しと言えどもわが日本国自衛隊だけにちがいありません。




御馬見所は「おうまみどころ」ではなく「ごばけんじょ」と読みます。
ちなみにごばけんじょ、を変換すると「御馬券所」になります。
高貴なお方が馬券を御買いになるところみたいですね。

皆が靴を脱いでいる入り口の看板の「空挺館」という文字の下には

「旧御馬見所」

と書かれています。

御馬見所は、馬術の練習や競馬などを見るために設けられた見物施設のことです。
「競馬」などというものが無いころの言葉ですので、皇室の方々が天覧するところ、
というだけの意味でもなさそうです。

しかし、この習志野の御馬見所は、実質天皇陛下の御行幸のためにありました。



昔は深紅であったと思われる絨毯に菊の紋章。
当初目黒に在った騎兵実地学校の訓練を見学するために
このバルコニー様の一室が作られました。

手前に置いてある椅子は、こういうところのものにしては少し簡易すぎないか、
と思ったのですがやはりそうではなく、津田沼駅の「皇族用」だそうです。

津田沼駅というのは明治40年に開業したのですが、
騎兵学校などのある習志野練兵場の表玄関だったので、
しょっちゅう皇族の方々が利用しました。

ところで、昭和20年8月15日、日本の敗戦後、進駐して来たアメリカ軍が、
ここ習志野にもキャンプを設置し、

「キャンプ・パーマー」

と呼ばれていました。
パーマーと言うのは、1945年に戦死した第8騎兵師団の
ネルソン・ パーマー二等兵の栄誉を称えて付けられたのだそうですが、
このネルソンが一体何をしたのか、英語でさえも検索できませんでした。

駐留は8年に亘り、その間この空挺館は、米軍司令官の執務室、
あるいはラウンジとして使用されていました。


空挺館は平成4年、船橋市指定文化財に一度登録されたのですが、
防衛庁(当事)の働きで2年位で解除されてしまったといいます。

・・・・・なぜ?

現在、保存に向け修復計画が進行中ではあるようです。




平成23年、一部の市民の寄付と協力によって補修工事が行われたということです。
それまではこんなに朽ち果てた感じであったのですね。



その修復のときには、木材が劣化した部分をこのように剥がし、
基礎からやり直したので、当分は大丈夫でしょう。

ただ、アメリカの博物館などがよくやるように、こういう日に
補修と維持のための募金を行なうわけにはいかないのでしょうか。

防衛省の管轄、ということでその辺りは難しいのかもしれませんが・・・。

 

改修のとき、瓦や樋、戸車など、必要でなくなったもの、
そして屋根裏から出て来たビールの空き缶を空挺館は「所蔵」しています。 


屋根裏・・・・・。

どこかからか屋根裏に入り込んだ兵隊が、こっそりくすねたビールで酒盛りしたのか。
それとも8年の間に何らかのメンテナンスが必要となり、
そこに立ち入って作業の合間にこれもこっそりビールを飲んだのか。

いずれにせよ、缶を持って降りられないような「こっそり」した事情で、
空き缶は屋根裏に残され、そしてなぜか60年後に再び陽の目を見ることになったわけです。

まさか酒盛りの犯人たちも、自分の飲んだビールの空き缶が
歴史的資料になるとは夢にも思っていなかったにちがいありません。



ここで見学した内容については、またテーマを絞って何回かにわけてお送りしようと思います。

何しろ、ここの見学はわたしに取って大変に意義のあるものでした。
奥山道郎大尉の「義烈空挺隊」そして乗馬の「西竹一大佐・バロン西」。

並々ならぬ思い入れを持ってエントリを書いたテーマにここで遭遇することになろうとは。



 

映画「ハワイ・マレー沖海戦」付録〜軍艦写真解説

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というわけで「ハワイ・マレー沖海戦」シリーズ、堂々終了したわけですが、
行進曲「軍艦」に乗って映るエンドタイトルの軍艦写真について、
詳しい方から解説を頂いたので補遺として載せておきます。

 

艦名まではわからないが、間違いなく「重巡」。
「高雄」級とも違うようだが「妙高」級かも。
主砲塔形状に特徴あり。



「高雄」級。
大きな艦橋形状に特徴あり。

 

間違いなく「高雄」級。
イージス艦「たかお」に艦橋の形状が似ていますね?

(ということです)



これも間違いなく重巡。
艦名までは判明しない。
この砲塔は20センチ主砲塔である。


 

艦名までは判明しないが、特型?級とかの駆逐艦。
「雪風」と同型艦ではないか。


  

「長門」あるいは「陸奥」の主砲発射の瞬間。



20センチ砲塔の並び具合から、多分重巡「利根」または「筑摩」。
後甲板に主砲はなく、その代わりに水偵多数を搭載している。

「航空巡洋艦」「偵察巡洋艦」など「萌え」な呼ばれ方をしている。
写真の上部に見えるマスト形状も「利根」級の特徴である。


以上です。
もしお願いしたら残りの写真も全部解説してくれそうでしたが、
取りあえず頂いた情報だけ、特にこの映画のファンの方のためにアップしておきます。

ちなみに、「これくらいは基本中の基本」なんだそうで、あらためて物事には
何にでも「通」という方がいるのだなあと感心した次第です。
下手なピアノアレンジなんか聴いていて、連続5度とかとか導音下降とかDS進行とか、
和声のの間違いに我々がすぐ気づくようなもんですかね。

この方は「赤城」の甲板傾斜について、当時の日本の空母の発艦・着艦について
知っている範囲での薀蓄を書いて下さっていたというのですが、
ふとした弾みで消してしまった、とのことです。

うぁぁあぁ〜。とのことです。   「要は、飛行機は飛び上がるのに、速力が必要です。これに尽きる。 甲板の風向指示装置等も、現在の米空母のカタパルトもこれを得る為に必要なのです」
まあ、いくらなんでもこれくらいはわたしにもわかります。

万が一気力を取り戻すという奇跡が起こったらで結構ですが、空母の離着艦について、
そのうちぜひお話を伺いたく存じます。   




米軍基地ツァー参加記10〜オネイダ号の悲劇

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横須賀の米軍基地歴史ツァー、まだまだ終わってません(笑)
ようやくお昼ご飯が済んで、後半に突入しようというところなのですが、
お昼ご飯を食べた後の集合地になっている桜並木のゾーンには
気がつくとこのようなメモリアルがありました。

ご存知ですか?

「米艦船 オネイダ号の悲劇」を。

この碑には英文でこう書かれています。

 

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War 
and foughtbravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.

It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew 
earned 8 Medals of Honor.

During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States 
and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising
near Osaka.

This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives
were lost in the service of their country.

May her legacy continue to inspire all Sailors;
past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.

"Greater love has no one than this; to lay down one's life for his friends."

John 15:13

Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer's Mess

Erected 2007

 
オネイダ号は、南北戦争始め幾多の功績を挙げた栄誉ある船でしたが、
1870年1月24日、滞日のあと東京湾を出航したとき、
横須賀沖でイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈没しました。

碑の最後の言葉は、

「友のために命を投げ出すより偉大な愛:何物もこれに如かず」

ってとこでしょうか。
”ジョン”が、15:13に記した、おそらく最後の言葉。
最後を悟り、急いで鉛筆でしたためられた紙が遺体から見つかったのか・・。
ついそんなことを想像します。


水兵、海兵隊員、そして中国人を含む115人の全乗組員は死亡し、
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであったそうです。
その三名のうちの一人が「ジョン」であったということなのでしょう。 



全員の名前が記されたモニュメント。

最後の言葉を残した”ジョン”が誰なのだろうと探してみたのですが、
この中にざっと見ただけで”ジョン”は1ダースいました。

さらに碑の右下には中国人船員の名前も一応記されているのですが、
名簿にも残っていなかったのか、名前を呼ばれる必要もないので誰も知らなかったのか、
全員がなんと、Ahという名前にされてしまっています。

Ah Wang 、Ah Tang 、Ah Chang・・・・。

「亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、
歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである」

とありますが、少なくとも当時の中国人船員たちは「個人」としては
扱われていなかったってことみたいですね。


ともあれ、この碑が2007年に建てられたときには、なに人であろうと
その魂を悼むため、とにかくも彼らの名前は記されることになったようです。

海の男たちが安らかに眠らんことを。



集合時間を待っていると、時間差で前の団体が集合を始めました。
セーラー服の水兵さん二人が待機してます。



わがツァーも集合時間になり、全員が集まったところで

「米海軍軍人とのふれあいターイム!」

今まで何をするでもなくツァーの列にくっついて来ていた海軍軍人二人。
おそらくツァー客の狼藉がないかどうか見張る役目であろうと思われます。

見張りというと参加者もあまり気持ちがよくないだろうと関係者が気を回し、
彼らは、日米親善のために米海軍を代表して、日本人たちと交流を深めるため
こうやって付き添っている、ということにしたのです。たぶん。

つまりこのふれあいタイムは、アリバイ作りというか、ソフトな偽装!

・・・・・・・・・。

・・よい子のみんなはこんな裏ばかリ見る心の汚い大人になっちゃだめだぞー。



さて、ふれあいタイム開始。
真ん中にいるのが通訳で、これから参加者の質問を受け付けます。
ただし、

「政治的に微妙な問題に関しては質問は絶対にご遠慮下さい」

いたんですかね。
唯の見学のふりして参加し、いきなり

「イラクで罪も無い人たちを殺戮したカーティスウィルバーは
平和な日本にいるべきではありません」

とか

「憲法9条がある限り日本は戦争にならないのだからアンタたちは必要ない帰れ」

とか言い出した人が。

このグループは、撮るなと言われた写真を盗撮する人もいなければ、
(このツァーでは禁止だったのは自衛隊の潜水艦だけでしたが)
文句を言う人もおらず、カップル一組を除いては全員が時間厳守、
この質問コーナーでも、

「どうして海軍にはいったんですか」
「日本でお休みにはどうして過ごしていますか」

などの無難なもので、至極和気藹々のうちに終了しました。

そんなものかと思っていましたが、たとえ「米軍基地反対」と思っている人でも
日本人である限り参加する資格はあるのだし、
このツァーガイドのボランティアの皆さんの最大の苦労というのは、
実はこういう可能性にまで配慮しなければいけないということにあるのかもしれません。

あらためて、この方々の奉仕精神に感謝する気持ちになりました。






NEX NAVY EXCHANGE

基地に在留するネイビーたちの生活必需品、たとえば車とか家具とか、
日本での任務が終わって移動になるときに不要になるものを引き取ってくれて、
あらたな赴任者が必要なものを購入する、というシステムだと想像します。
日本人の留学生や赴任者も、同僚や知り合いの中でこういうことをしますが、
アメリカ人はこの点じつに合理的なので、それを業者が商売にしているのです。



ランチタイムが終わってまた移動が始まります。
先頭を切っているのが解説員の方。
解説員はここでも目立つ赤いジャケットを着用しています。



「サスケハナ」(Susquenhanna)

というのはどうも「佐助と花」みたいで、おそらく当時の日本人には
非常に親しみ易かったのではないかと思います。
我々の祖先が「黒船」と呼んだ ペリー提督のあのフネ、
あれが「サスケハナ号」だったんですね。

もともとはペンシルバニアを流れる「サスケハナ川」から取られていて、
その名はネイティブアメリカンの言葉で「広く深い川」の意味です。 

 

病院の看板を見つけました。

 

このときはサンクスギビング前でした。
ターキーのディナーをテイクアウトできますよ、という食堂のポスター。

アメリカ人が一年のうち唯一「食べ物」そのものにこだわるのが
このサンクスギビングかもしれません。
皆日本の盆正月のように郷里に帰って、お母さんの作った
ターキーやパンプキンパイのディナーを食べるのです。

アメリカから遠く離れたここ日本でも、故郷と変わりなくターキーを食べたい、
そんな海軍軍人たちにとって有り難いサービスかもしれません。 





さて、あまりにも前のことで前回の「米軍基地ツァー」
がどうだったか、もう皆さんは忘れてしまったと思うので、
一応繰り返して書いておくと、米軍軍人が利用するダイナーで
ドルを使用して中華もどきを食べ、その後、何を思ったか

「シナボン」

という、おそらく使用している角砂糖をそのまま横に並べたら、
本体よりも大きな山ができるのではないだろうかと思われるくらい
甘いシナモンロールの擂鉢山に果敢にも挑戦し、そして破れたエリス中尉。


ああひでえ目にあった、と水を飲みながら周りを見回すと、
そこには悩めるアメリカ海軍軍人の姿が。
雨が降っているのに傘もささず(あ、軍人は傘ささないんだっけか)、
濡れたベンチに座って何事かを考えている風。


何があったかしらないけど、思い詰めるなよお若いの。


 

 

女流パイロット列伝〜ジャクリーン・コクラン「レディ・マッハ・バスター」

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女流飛行家と言えば?

世間一般の人、特に航空に興味を持たない人なら

「アメリア・イヤハート」

を最初にして最後の名前にあげるでしょう。


以前取り上げたリディア・リトヴァクは、日本の萌業界でもどうやらおなじみで、
一昔前よりは名前くらいなら聞いたことがある、という人が増えているようです。

しかし、一般に名前は膾炙していないが、賞をもっとも獲得しており、
最多記録保持者である女性パイロットをアメリカ人でもし一人だけ上げるとすれば、
この人ではないでしょうか。

ジャクリーン・コクラン。

1938年までには、彼女はアメリカ国内最高の女性パイロットの地位を獲得していました。
1934年からレースに参加を始め、1937年にはベンディックス・レース、
つまり北米大陸横断の長距離飛行レースで、
唯一の女性参加者でありながら優勝をさらってしまいます。


このときの使用機は、なんと当時最新型の軍用機、

セバスキーP-35.

陸軍が採用した最初の軍用機とされているものです。



このレース終了後、コクピットから降りる彼女の写真が残されていますが、
スマートな体をぴったりとした航空服に包み、純白のマフラーを風になびかせる様子は
まるで映画女優のようです。

さぞかし彼女に憧れる世の男性は多かったのではないかと思われるのですが、
そのあたりの話は後回しにましょう。


彼女はこの男性ばかりの競技者を差し置いて「最速記録」とともに「最高高度」も記録しました。
その後、

「爆撃機を操縦して大西洋を横断した最初の女性」

となり、幾多の実績に対し、
優秀な飛行士に対して与えられる

「ハーモン・トロフィー」

を通算五回受賞しています。

そして、「スピード・クィーン」、
あるいは「レディ・マッハ・バスター」などと呼ばれました。
これは戦後、女性として史上初めて音速を超えたことからつけられたニックネームです。


それにしても、1930年代後半、女性が飛行機に乗るというだけでも珍しいのに、
最新鋭の、しかも軍用機でレースに参加するなんて、いったいこの女性は何者なんだ?
と読まれた方も、そしておそらく彼女の競争者も思ったでしょう。




ジャクリーン・コクランは1905年、フロリダ州に生まれました。
生まれたときの名前はベッシー・リー・ピットマン。
父親は水車の修理工で、家は決して裕福ではありませんでした。

ジャッキー、いやベッシーはなんと14歳で海軍基地の整備員であるロバート・コクランと結婚。
結婚式の4か月後に男の子を出産します。
早すぎる結婚にはこの理由があったということのようですが、
この子供は5歳の時に裏庭で一人で遊んでいて自分で服に火をつけてしまい、
悲劇的な死を遂げています。

子供の妊娠がきっかけで結婚したに過ぎない二人がもはや一緒にいる理由はなく、
すぐに離婚になりますが、「コクラン(Cocklin)」というフランス系の名前が気に入っていたせいか、
彼女は離婚後も名前を変えることはしませんでした。 


ひとりになった彼女は美容師として働きだし、ニューヨークに上京します。

・・・・なんというか、典型的な「野心のある女性の下積み時代」のような経歴ですが、
実際彼女は非常に上昇志向が強かったらしく、サックス・フィフスアヴェニューにある名門サロンで
働くためにその積極的なパーソナリティと、なんといっても美貌をフルに利用しました。

さらにそこで働きだしてからは、明確に「成り上がる」ために 自己研鑽に励みます。

そしてベッシーという比較的もっさりした響きの名前から、
この時期にいつの間にかどこからか引っ張ってきた名前、ジャクリーヌを名乗るようになります。

ケネディ大統領夫人ジャクリーヌの旧姓はブーヴィエといい、フランス系移民の家系でしたが、
フランス系移民はファーストネームもフランス風発音にこだわるところがあります。
やはり同じ名前のイギリス人ジャクリーヌ・デュ・プレもそうですね。

彼女も結婚によって得たフランス系移民の名字に、ファーストネームまで変えて、
つまりルーツをフランスであるかに見えるように「細工」をしたということです。
このあたりの彼女の「自己演出」にも、その野心家の面影が彷彿とします。

そして、ついに彼女の作り上げた「ジャクリーヌ・コクラン」という撒き餌に超大物がかかりました。

アトラスコーポレーションの創立者でCEOのフロイド・ボストウィック・オドラム。
世界で長者番付のトップ10には入るといわれる大物です。

14歳年上のオドラムはジャッキーに夢中になりました。
すっかり骨抜きになってしまった男に、彼女はさっそくおねだりをします。

「化粧品会社をやらせてくださらないかしら?」


相手が超富豪ともなると、同じ「お店」でも銀座のホステスなんかとは桁が違います。

ちなみにこのときオドラムには妻がおり、つまり二人は不倫関係でした。
こののち、ジャッキーは同じ調子で

「飛行機を操縦してみたいの」

とおねだりして飛行機免許を取り、それが飛行家になるきっかけとなったわけです。



やってみたら思っていたより面白いのでのめりこみ、
男の財力にものをいわせて新型戦闘機を買ってもらい、それでレースに出たというわけですね。


こういう事実を知ってしまうと、受賞の数々は彼女の実力というより単に

「彼女の使用機が高額で高性能だった」

おかげではなかったかと、つい意地悪な考えが浮かんでしまいます。
レースの競技者たちも、彼女の正体を知ってからは

「そりゃー最新型軍用機が買えたら、誰だって優勝できるさ」

と鼻白んだのではなかったかとふと考えてしまいました。

オドラムはその後彼女のためにそれまでの妻と離婚し、1936年、二人は晴れて結婚しました。
オドラム44歳、ジャッキー30歳の時です。

よかったですね(棒)


「ジャッキー・コクラン」を作り上げた後、彼女は徹底的に出自を隠しました。
つまり、自分の過去と、それにまつわる実際の家族の存在を生涯否定し続けたのです。

家族を愛していないわけではなかったらしく、再婚後所有したあちこちの土地の一つである
牧場に家族の一部を呼び寄せ、金銭的な面倒は見ていたといいますが、家族は
「他人にはあくまでもわたしとの血縁関係はないと言うように」と彼女から言い渡されていました。


フランス系の名前を持つ富豪の夫人、
マリリン・モンローを(もちろん夫のつてで)顧客に持つ、化粧品会社の若く美しい女社長、
自社製品「ウィングス」という化粧品ラインのイメージガールで、自らがその宣伝のために空を飛ぶ。

こんな女性が実はフロリダの貧しい田舎の水車職人の家の出身、となれば世間的に大変なダメージです。


うーん・・・・なんて言いますかね。


彼女がこの後飛行家としてなした実績の数々も、こういうバックを知ってしまうと、
お金と彼女の夫のコネと口利きでで何とかなることばかりに思えてきてしまうんですが。

当時の女流飛行家のほとんどが女性であることを

「一見ハンディ、しかし実はプライオリティ」

としていたことを差し引いても、素直に「実力ある飛行家だ」と思えなくなってきます。


さて、そんなこんなで、飛行家としての実績よりこの玉の輿ストーリーと、
彼女の野心的で冷淡な面ばかりが前半生では目につくのですが、
1940年ごろから、少し様相は変わってきます。


すでに「フライング・タイガース」の投入によって実質的には日本と
航空戦が行われていたアメリカでは、航空戦力の確保拡大を推し進めていました。
そんな中、もうすっかりセレブリティとなった彼女は、
エレノア・ルーズベルトに手紙を書き、
女性パイロットによる飛行師団の設立を提案します。

陸軍婦人部隊Women's Army Corps (WAC)の始まりです。
1942年には、戦闘を行わない、輸送を中心とした女子飛行師団を含む部隊が
陸軍の補助部隊として設立され、翌年には独立した組織となりました。


また、コクランはバトル・フォー・ブリテンという女性飛行部隊で、
アメリカからイギリスに航空機を輸送する部隊として、イギリスまで爆撃機の輸送をしています。

これが最初に書いた、

「初めて大西洋を爆撃機で横断した女性」

のタイトルとなった任務でした。
そのままイギリスで現地を視察し帰国したコクランは、女子パイロットの育成にあたりました。

彼女はその後、戦争への協力を讃えられ殊勲賞と航空十字賞を叙勲されています。

ちなみにWAC初の女性指揮官は、テキサスの有力な政治家夫人であり
法律家、新聞編集者でもあるオヴィータ・カループ・ホビーでした。


そもそもの創設のきっかけを作ったパイロットのコクランなのに、
彼女が初代指揮官になれなかったことの理由には「彼女の出自」があったからではないか。

富豪と結婚した美容師上がりの美貌の女。
数々の彼女の栄光の陰で、やっかみ半分のこんな揶揄が彼女にはまつわっていたのではないか。

そんなこともふと考えさせられてしまいました。



さて、アメリカではいまだに各種記録保持者であるらしい、この女流飛行家、
ジャクリーヌ・コクランですが、この人の後半生、 

「レディ・マッハ・バスター」

が、その前半生の

「貧しいが美しく野心のある女の華麗なるサクセスストーリー」

のせいで、すっかり眉唾なものになってしまいそうな嫌な予感。
はたして彼女のパイロットとしての実力はそのタイトルに相応しいものだったのか。

彼女のタイトルの中で最も人目を引くのはなんといってもそのあだ名の所以となった

「世界最初に秒速の壁を破った女性」

というものでしょう。

ちょうどそのころのコクランの勇姿。
音速を超えたF-86の翼の上に立っていますが、
左側の男性は誰あろう世界で最初に音速を超えたと(も)言われている、チャック・イェーガー。
おそらく1953年、彼女が音速に挑戦したころの写真と思われます。

イェーガーが音速を超えたのはこれに遡ること6年前のことですから、
日進月歩の航空界そのものにとってはそれほどすごいことではなかったともいえます。

しかし、F-86セイバーのスペックは最高速度570ノット、1,105 km/h。
この時彼女が出したセイバーの 平均時速は1,049.6km/hというものです。

飛行機の操縦については全くわかりませんが、いくらセイバーの性能が良くても、
この数字が誰にも出せるものではないことくらいはなんとなくわかります。



ましてや音速を超えたこの女性が当時47歳であったというのは、 どんなに僻目でみても
素直に賞賛するしかない快挙であるということも。




この写真はまさにその記録を破ったセイバーの操縦席のコクランとイェーガー。

イェーガは彼女より17歳も年下ですから、 記録達成のときは31歳のはずですが、
少し31歳にしては老けすぎのような気もするので、(コクランも) 
後日撮られたものかもしれません。

この17歳違いの「音速を破った男女」は生涯を通して大変親しい友人だったそうです。
彼女が音速を超えた飛行の時、イェーガーは右翼上を伴走?していました。

しかし、この写真のコクランを見る限り、若い時の
「美貌を利用し成り上がった女」という風情とは全く違う、
「航空人」としての面構えになっているとおもうのはわたしだけでしょうか。

 


大富豪で、実業家でもある有名人の彼女が、これを見る限り当時普通に行われていた
セレブリティには不可欠のしわ取り手術の類を一切していないらしいことに、
逆に不思議な気さえしてしまうのですが、どうやら二次大戦のころ軍にその能力を奉仕し、
戦後中佐にまで昇進したころから、彼女はそういう意味での「女」を捨てたのではないかという気がします。

逆に言いますと、もはや彼女は男を利用する必要は何もなくなったわけで。

そして、ひょうたんから駒ではありませんが、「当時の流行」から、
あるいは自己表現の一つの手段としてのめりこんだ航空の世界は、
いつの間にか彼女にとって彼女の世界そのものとなったのではないかという気がしてなりません。


さて、彼女は、また「初めて母艦に離着陸をした女性」のタイトルも持っています。

これは、もう本物でしょう。
離艦だけでも熟練を要するのに、着艦もやってのけているのですから。

さらに「レディ・マッハバスター」と呼ばれるようになったのは、ただ一度マッハ1を破っただけでなく、
その後、ノーストロップ T-38タロンで、

マッハ2

に到達したという実績をあげたからなのです。
このときいったいいくつだこのおばちゃん。

戦時中に女性で初めて爆撃機で大西洋横断をした、という話をしましたが、
ジェット機による大西洋横断の女性初のタイトルも戦後取っており、
そして、わたしは心底驚いてしまったのですが、彼女は男女関係なく、

この世でブラインドランディング(計器による)を行った最初のパイロット

の称号も持っているのです。
その他、

●史上初のFAI( Fédération Aéronautique Internationale )、
国際航空連盟の女性会長

●固定翼によるジェット機で酸素マスクを使用し、大西洋を2万フィートの高度で越えた最初の女性

●ベンディックス・トランスコンチネンタル・レースに参加した初めての女性


などのタイトルを持っており、もしかしたら彼女にとって「初めて」のタイトルコレクションは
生涯の「趣味」だったのではないかとも思えてくるのですが・・・。

その他、彼女の出した記録の中にはいまだ男性パイロット、もちろん女性にも
破られていないものがいくつもあるのだそうです。

おそるべし。

さて、月日は流れて。

先日実に4日分のエントリを費やして、このイェーガーとマーキュリー計画の飛行士を描いた
映画「ライトスタッフ」について語ったわけですが、このマーキュリー計画は
実質マーキュリー9号までが実地され、予定されていた12号までの三計画は中止されました。

張り合っていたソ連が女性飛行士テレシコワを宇宙に打ち上げたため、
これに続くマーキュリー13号の打ち上げに、NASAは女性を打ち上げることを考えました。
コクランがマーキュリー13のスポンサーであったため、これを推したのかもしれませんが、
その辺の経緯についてはわかりません。

この計画は、マーキュリー7の飛行士ジョン・グレンとスコット・カーペンターが反対の立場をとり、
さらにコクラン自身がその女性飛行士たちの統括をするにはすでに彼女自身に操縦士として
知名度がなく、世間の関心を得られないであろうこともあって、立ち消えになりました。


ついで彼女は政治に意欲を見せだします。

今まで培ったコネクションの中にアイゼンハワーとの知己、というものがありましたが、
彼女は夫の全面協力による選挙運動と、アイクとのコネクションを武器に、
1956年、音速を破ってから三年目のことですが、共和党からカリフォルニア議員に立候補します。

しかし最終的な総選挙で彼女は敗れ、政治への挑戦は失敗に終わりました。

 


彼女は晩年まで、この落選について気に病んでいたそうです。

今までやることなすことすべてがうまくいき、挫折を知らなかった彼女が、
マーキュリー計画に続き初めて世の中には自分の思い通りにいかないこともある、
と知った苦い経験だったに違いありません。

まあ、普通の人間はもう少し早くに経験するものだと思うんですけどね。





彼女の物語を始めるにあたって、

「なぜ彼女の名はアメリア・イヤハートと違って歴史に残らないのか」

と書いたのですが、両者の大きな違いは、

飛行家としてのピークで夭逝したか、

山ほど記録や賞を得たが、ピークを過ぎ、晩年はその実績どころか
存在そのものが世間から忘れられてしまったか、

ということに尽きるでしょう。
イヤハートの飛行家としての実績は、はっきり言ってこれでもかとばかり長くに亘って
飛び続けたコクランには遠く及びません。

しかし、生きて目の前で記録を出し続けるよりも、絶頂で消えてしまった方が
人の記憶には残るというのもまた人の世の不思議な真実でもあるのです。


コクランは全く無学であったにもかかわらず、天性のカンでビジネスをし、
それは実にうまくいっていました。
パイロットとしてもこうやって延々と語ってきたように、超一流です。

しかし、わたしも前半に言ったように、彼女の業績の多くが、超富豪である夫の
有り余る資産ゆえに達成可能だったと見る向きは世間においても同じで、
the rags-to-riches (ぼろ布からリッチへ)成り上がった生まれそのものが
彼女の能力そのものによるものでなかったことは、その評価に味噌をつけた
(この場合妥当な表現ではないような気もしますが)と言えるのかもしれません。

晩年の彼女は有り余る資産を慈善事業に費やし、社会事業を行いました。


自分のことを「ベッシー」と呼ぶこの世で唯一の両親、
しかし彼女が生涯その存在を隠し続けた肉親に対して、
どのように遇していたかまでは彼女のヒストリーには残されていません。






 


 

 


空挺館〜帝国陸海軍空挺隊、読売遊園の対決

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当空挺館の展示は、主に第一空挺団の前身であるところの
挺進連隊、つまりかつてドキュメンタリー映画「空の神兵」で語られた
落下傘部隊についての資料が展示されていますが、
その前にこの空挺館が「御馬見所」、つまり騎兵学校の施設であったことから、
陸軍騎兵についての資料、そして現在の自衛隊の資料、空挺館そのものの建築的資料、
そのようなものが展示されています。



館内に入り、もし一階の右室から見学を始めたら、目に入ってくるのは・・・・・。
そう・・・・、海軍旭日旗。

ん?

なんか変だと思ったら、実は見学順路は左室からで、
つまり自分が順路を逆行していたということに気づきました。

間違えてこの「海軍落下傘部隊」のコーナーから見てしまったのは、
わたしが表示板を全く見ずに見学路を逆行する粗忽者だったからというよりは、
きっと海軍好きの血がこの旗の存在を前もって鋭く察知したせいに違いない。



と相変わらず我田引水のエリス中尉です。

「もう一つの落下傘部隊」

もう一つの・・・・・・って、わたしは海軍落下傘部隊のことを先に知ったんですけどね。
その理由はこの人物。



旧兵学校である第一術科学校が管理している教育参考館を見学すると、
この堀内豊秋大佐の巨大な油絵が非常に目を引きます。
目を引くのは、その絵が大きいからだけではありません。
一目見て、なんというか・・・これを描いたのは絶対に日本人ではない、という印象。
それだけ日本人らしくない変わった風貌にこの人物が描かれているせいだと思われました。


描かれているのは、メナド降下作戦で指揮官自ら降下し、
メナドのカラビラン飛行場に降り立った堀内大佐。
大作戦の隊長として真っ先に降下し、これから戦闘を指揮するところだというのに
その飄々とした表情、不思議なくらい闊達な様子・・・。

おそらくバリ島に在住していたドイツ人画家ストラッセル・ローランドは、
堀内大佐と実際に面識があり、その人物の穏やかで万人に慕われ、
またユーモアもあったという人格をこのように捉えていたのだろうと思わされます。

実際堀内大佐(当時中佐)が部下を率いて降下作戦を行なったのは41歳のとき。
実に世界最高齢の空挺隊長でした。

しかし、その気力、体力、俊敏性、何よりも判断力は、親子ほども年の違う部下を
時としてしのぐほどで、さすがに「海軍体操」の発明者であると思わされます。


前にも書きましたが、堀内大佐はデンマーク体操を元にした
「海軍体操」の創始者としても名前を残しています。
ちなみに今の海上自衛隊体操は第一から第五までがあり、それは全て
この堀内大佐の「海軍体操」を戦後も改変したもの、ということです。

検索ついでに海自第一体操とこれもついでに自衛隊体操、フルでやってみました。
海自体操では「体が伸びて気持ちがいい」程度ですが、自衛隊体操は結構ハード。

最後まで全部真面目にやったら終わったとき少し、いやかなり息が弾んでいました。
って何やってんだわたし。



ランゴアンとは堀内隊が降り立ったカラビラン飛行場の別名です。
このときの降下ではオランダ軍の狙撃により、

「笹井中尉がMM(モテモテ)だった話」というエントリで、当地メナドには

「今はオランダ人に苦しめられているが、必ずそのうちに
天から白いものを被った天使が降りてきてわれわれを救ってくれる」

という伝説があったため、日本海軍軍人である笹井中尉はその予言の通り、
オランダの暴虐から解放してくれた恩人扱いで大いにモテたという話をしたのですが、
この言い伝えは「ジョボジョボ伝説」といい、

”ミナハサ地方には古くから、
「わが民族が危機に瀕する時、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる」
という言い伝えがあった”

という説もあります。
いずれが本当かはともかく、「白い落下物」が落下傘部隊を表していた、
とインドネシア人はこの伝説を解釈したため、日本軍を喜んで受け入れました。

特に堀内大佐の元にはたくさんの現地住民が集まりました。
もともとオランダの傭兵となっていたインドシナ兵ですら、投降して、
その後日本軍に協力するようになったということです。 

 



さて、日本に於ける挺進隊の創設についてですが、
陸軍と海軍、殆ど同時にそれを作戦に取り入れるため動き出したようです。
案の定お互いを敵視する体質のせいで、全く別々に落下傘部隊の設立と実験、
そして導入は並行して行なわれました。

昔ある海兵66期の海軍軍人の日記を紹介したことがありますが、その中に

「落下傘部隊が元で陸軍との仲が悪く、全く困る。
そのうちスリアワセ良好となる」

という記述があり、戦地においてさえ陸海軍の間でこんなことをやっていたのでは
とても戦争には勝てないのではないか、と思ったものです。

まあ、勝てなかったんですけどね。

こんなことからも、おそらくその開発に於いてはさぞかし陸海共に火花を散らし、
先を争うようにしてその導入を勧めたのであろうと予想されるのですが、
そこでふと興味を持って日付を確認したところ、降下実験についての進捗状況は

【海軍】

当初ダミー人形を使った落下傘試験にはじまり、
民間人に変装しての読売遊園落下傘塔体験、ブランコによる飛び出し訓練などを経て、
1941年(昭和16年)1月に最初の有人降下実験に成功した。

【陸軍】

浜松陸軍飛行学校に練習部を設置して機材や人員を徐々に整えた。
読売遊園落下傘塔での練習を経て、
1941(昭和16年)2月20日に初の有人降下に成功した 


惜 し い 〜 っ ! ()

一ヶ月海軍が早かったんですね。
しかしこの陸海の「落下傘事始め」を読んで何か異質な雰囲気に気づきませんか?

そう、『読売遊園」という共通のワード。

読売遊園の跡地にあった「ねこたま」「いぬたま」には、
日本帰国当初遊びにいったことがありますが、二子玉川に遊園地があったとは知らなんだ。
ずっと関東在住の方ならご存知なんですね。
1985年閉園といいますから。

どうもそこに、戦前には絶叫ライド?として「落下傘塔」があったらしいのです。

これ、調べてみたのですが、こんなことがわかりました。

二子玉川園の前身は,大正時代に玉川電気鉄道が開設した「玉川第二遊園地」でした。
その後1937年(昭和12年),読売新聞社が敷地と施設を借り受け「読売遊園」と改称します。
当時建設された「大落下傘塔」は,地上50メートルから

パラシュート降下が楽しめる超大型遊戯施設として,

パラシュート降下が楽しめる超大型遊戯施設として,

パラシュート降下が楽しめる超大型遊戯施設として,


人気を集めました。
上級コースは実際のパラシュート降下に近く,
陸軍の飛行学生たちがお忍びで通ったほどだといいます。
戦後「二子玉川園」として営業を再開。
遊戯施設を充実させたり「ウルトラセブン」のロケ地になるなど,人気遊園地となりますが,
土地の再開発の関係などから,1985年(昭和60年)に閉園します。
人々の注目を集めた「大落下傘塔」は,戦後江の島に運ばれ,平和灯台として生まれ変わります。
そして,2002年の江の島展望台のリニューアルに伴い,62年にわたる役目を終えました。

(創世社HPより)


HPの写真を見ていただければ分かりますが、これはまさしく落下傘降下棟。
「空の神兵」で見た、落下傘をつり上げて開いた状態で飛び降りる、
あの訓練何段階か目の、あれと全く同じものが遊園地にあった、というのです。

信じられん。

しかも、写真を見るかぎり、客は本当に落下傘降下、やってますよ。
こんなものが遊園地のアトラクションとして許されていたのか・・・。

というか、こういうものを禁じる法律や、事故が起こったときの管理責任どーたら、とか、
下半身不随または死亡事故で訴えられるかもしれない、などということを、
当時の日本社会というのは全く企業としても想像してもいなかったって感じですね。
まあ実際訴える人などいなかったんでしょうけど。 


今の超過保護社会から見ると、とんでもない(遊園地の)蛮勇にすら見えてきます。

ここで注目すべきは、陸海軍どちらの降下実験、並びに降下訓練も、
この読売遊園のお世話になった、ってことなんですね。


そこでもう一度開発事情をみると、「海軍 民間人に変装して」って・・・。
市民の皆さんが普通に楽しく、キャーキャーいいながら(多分男性だけだからワーワーかな)
落下傘降下をしているところに紛れ込み、降下訓練。

陸軍も特に記述はないけれど、遊園地の案内には「陸軍の飛行学生がお忍びで」
なんて書いてあるところを見ると、こちらもおそらく民間人に変装したんでしょう。

真剣な顔をした男が何人もずらずらと現れて、 にこりとも笑わずに何度も降下していたのなら、
おそらく遊園地にもまわりの客にもバレバレだったと思うがどうか。

そして、この陸海両軍の進捗状況を見ても、読売遊園で陸海降下員が
バッティングして火花を散らしていたことはほぼ間違いないのではないでしょうか。

「あいつら、また来ているな」
「あれ・・・・陸さんだろ?わかりやすっ」

「あれは海さんだな」
「あいつらいいなあ。坊主刈りしなくていいからこんなとき目立たなくて」

なんて互いにこそこそ言いながら、遊園地のアトラクションに黙々と並ぶ軍人たち。

シュールです。



降下作戦成功後、海軍落下傘部隊に感状が出されたというニュースです。
さりげなくこの東京日日の第一面には、

「マレー語大辞典」「上級マレー語」

の広告があるのにご注目。
欄印作戦が成功したので、これからかの地に進出しようとする人が増えるかも!
→マレー語習得の必要性があるかも!→マレー語の辞書発売、ちう流れですね。

分かり易い。

ところで、このメナド侵攻作戦は海軍単独で行われ、海軍落下傘部隊によって決行されました。
堀内中佐指揮の横須賀第一特別陸戦隊が、降下隊員334名が飛行場に空挺降下。
(うち銃撃による戦死20名、味方による誤掃射による墜落で22名殉職)

これは日本軍としては史上初の空挺作戦でした。

しかし、この作戦は、大成功であったにもかかわらず報道されませんでした。
当時のマスコミの「報道しない自由?」
それとも特定秘密保護?

これは、他でもない

「陸軍への配慮」

であったと言われております。
落下傘部隊をほぼ同時に創設し、おそらく互いに相手の様子を窺いつつ、
少しでも早く空挺部隊を形にしようとしのぎを削り、
読売遊園ではおそらく互いの降下をこっそり確かめ合って、

「うむ。こちらの方が皆ちゃんと降下しておるぞ」

と(たぶんですけど)頷き合っていた両軍。

ところが陸軍、
「初降下こそ一ヶ月遅れを取ったものの、我が軍こそが戦陣切って」
と勇んでいたら海軍に先を越されてしまったと・・・。

もし陸軍が先だったら報道はどのようになっていたのか、
当時の陸海軍の力関係、そして報道との関係を知るべくもないので
想像しかねますが、なにしろ、そういうことです。

メナド降下の1月11日からほぼ一ヶ月経った2月14日バレンタインデー。(関係ない?)
もともと予定されていた第1連隊は移送中の船火災で装備を失い、パラチフスが蔓延したため
陸軍挺進連隊第2連隊がパレンバンに空挺降下作戦を決行しました。

このとき、空挺隊の直掩隊の総指揮官であったのがあの
加藤建夫・加藤隼戦闘機隊長ですね。

パレンバン作戦についてはまた別の日にお話ししようと思うので、
このときの大本営発表を記します。

「大本営発表、2月15日午後5時10分。
強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、2月14日午前11時26分、
蘭印最大の油田地帯たる、スマトラ島パレンバンに対する奇襲降下に成功し、
敵を撃破して、飛行場その他の要地を占領確保するとともに、更に戦果を拡張中なり。
陸軍航空部隊は本作戦に密接に協力するとともに、
すでにその一部は本15日午前同地飛行場に躍進せり。終わり」


この大作戦の成功は、メディアなどでも大々的に宣伝されました。
またのちに公開、発表された映画、軍歌と合わせ、
空の神兵・陸軍落下傘部隊として国民に広く知られるようになります。

あらあら。
これじゃきっと海軍空挺隊の皆さんはかなりオモシロくなかったのでは。

前述の海軍軍人の回想記で、マカッサルにおける陸海軍が互いに

「仲が悪く本当に困った」

というのも、もともとのライバル意識に加えてこういう報道への不満なんかがあったのでは。




さて、海軍落下傘部隊の勲功者であった堀内大佐ですが、戦後オランダ軍による軍事裁判で
部下の罪を一人で被り、銃殺刑に処せられました。

残虐行為の責任を取らされて、という報はたちまち付近住民に広がり、
かつて涙で別れを惜しんだほどこの人物を敬愛していた彼らは、
皆で助命嘆願までしたのですが、しょせんオランダ人に取って「奴隷」である
インドネシア人の嘆願が聞き入れられることはなく、刑は執行されました。

裁判は形だけで、裁判官となったのが、なんと日本軍の攻撃で逃げ出した後に降伏し、
捕虜になったオランダ軍の守備隊長でした。
この戦犯裁判も連合国のそれと同じく、徹頭徹尾オランダの「報復」でしかなかったのです。


堀内大佐はその最後、目隠しを断り、銃殺隊の砲列を見据えつつ、
堂々とした態度で銃殺刑に服したということです。




 



 


 

米軍基地探訪記〜耐Gスーツとコーヒーカップ

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岩国の海兵隊基地に、ホーネットのパイロットブラッドとアンジー(仮名)
の夫婦にご招待を受け、行って来た話の続きです。

実はこの後厳に写真を撮ることを禁じられたシュミレーター室に行きました。

自衛隊はどうか知りませんが、少なくともアメリカ海兵隊の装備している
ホーネットドライバー用のシュミレーターというのは恐ろしく精密で、
 当たり前ですがその操作は実物と「全く同じ」なのだそうです。

シミュレータールームに入ると、部屋はコクビットを模したシミュレーター部分と、
それを別のブースで監視するコーナーに別れています。
そちらにはいかにもIT系らしい眼鏡をかけたエンジニアが配備しており、
我々が入っていきブラッドが声を掛けると、前もって聴いていたらしく
我々に愛想良く挨拶をしました。

まず、シートには息子が座りました。
シートのまわりはパネルのようなもので囲まれており、
座ってからそのパネルを閉じると360度スクリーンとなります。

その空間に大人4人と(殆ど同じ大きさだけど)少年一人が入り込み、
一人のシュミレーター操縦を至近で鑑賞することになりました。 

アンジーに前もって「やったことある?」と聴いたところ、
「やったことあるけど、すぐに墜落した」という返事。
何となくわたしもすぐに墜落しそうな予感がしていたので少し安心しました。

息子の機はテイクオフ。
横でブラッドがあれこれ口頭で指示するのですが、さすが息子は
その指示をちゃんと聴いてその通りに操縦桿を操り、中々うまい。
墜落することなくちゃんと着地も決め、得意げにシートを降りました。

「じゃ、次」

ブラッドがわたしに座れ、といいます。
しかし、座ったとたんわたしにはかなり問題があることが自分で分かりました。
息子はブラッドの指示を瞬時に理解しその通り操縦する、
ということができる程度に英語を理解しますが、わたしの場合、
英語を日本語に頭で翻訳して、そのあとその通りに動かす、
という具合に命令が操縦に反映されるのに彼よりも確実に遅くなるのです。
しかも時々、普通にしゃべっていれば「パードン?」と聞き返すような状況でも
聞き返せず、そんなことをしているうちにホーネットはどんどん高度を下げ、という具合。

つまり英語力の無さが操縦のミスにつながり何度も墜落する始末。

山口湾?に浮かぶ船を攻撃するように指示が出たのですが、全くかすりもしませんでした。
まああれは民間船だから、攻撃しちゃいけないですけどね。

そのあとブラッドは「じゃ次」とTOに振ったのですが、TOは
「いや、いいです」となぜか遠慮モード。

わたしが墜落を繰り返したのを見て怖じ気をなしたのかもしれません。
するとブラッドは

「いいんですか?たぶんこんなチャンス一生に一度だけですよ」

うーん。そんなもんかな。そんなものかもしれない。
というか、結構貴重な体験をさせていただいたということなのね。
その一言で俄然やる気になったTO、わたしに続いて操縦席に。

息子ほどではないけど、なかなかやるではないの。
少なくともわたしよりブラッドの指示がちゃんと聴き取れているってことね。

皆で会話していると、一番よくしゃべるのがわたし、TO、息子の順で、
一見わたしが一番流暢なのですが、実は英語の理解力はこの反対。
シミュレーターの成績もきっちりその順番でした orz

さて、楽しくシュミレーター体験の後は、ブラッドのスコードロンルームなど、
本来ならば日本人の見学者には絶対に見せてもらえないところにご案内だ。
その目的というのが耐Gスーツを着てみること!

いや、わたしじゃございません。

息子にこれを着せてあげる、と案内のブラッド大尉の大盤振る舞い。
航空隊のロッカールームにまず案内してもらいました。



まずカーキ色の、釣りのときにすっぽりと履くようなズボンを一番下に。
このズボンは、背中のところに大きなベルクロがあるのでそこで固定。
これなら瞬時に脱ぎ着できて便利です。
太ってもサイズフリーだし。



ポケットやらなにやら、いろいろ付いているものを
まず床において、



脚を入れ上に立ち、



一気に肩まで引き上げる・・・・・と。
これはベストの部分だったのか。





お尻に耐Gを加える必要はないんでしょうか。
それともトイレとか、そういう関係でこの部分はオープンになっているんでしょうか。
・・・・たぶんそうだろうな。
これをトイレの度にいちいち外したり降ろしたりは、絶対に無理。



ネックの後ろには衝撃で膨らむ救命クッションが出そうな感じですね。





ヘルメットとゴーグルもつけてフル装備。
部屋が狭かったのでかっこよくアオリで撮ってやれなくてごめんよ息子。
ヘルメットも迷彩のカバーが付いていました。



ヘルメットには変な落書きをしている隊員もいます。
わたしが

「洗濯って、する?」

と聴いたら、よっぽど意外なことを聴いたのかブラッドは

「え?」

と聞き返し、その後笑って、

「No・・・匂い嗅がない方がいいよ」



映画に出てきそうなブリーフィング・ルーム。
飛行機のシートそっくりのチェアのカバーには、
偉い人だけ?名前が刺繍されて専用席になっています。 



ホワイトボードの下にはブリーフィングで使うファルコンの模型に棒が付いたもの。
うーん、これミッションの説明なんかのとき便利そうですね。 


そして、さすがはアメリカの航空隊だなあと思ったのが、これ。



なんとポプコーン製造機が。
アメリカではホテルや、洗車場の待合室にこういうのが置いてあり、
自分で勝手に救って食べるようになっていますが、
航空隊のブリーフィングルームにまであるとは知りませんでした。

どうも機械の下には瓶詰めの調味料やなんかが装備してある模様。

ケースの表面になにか貼ってあるので見たら・・・



警告!

「怒りのコーン」は、内出血や他の深刻な症状を引き起こします



いやー、わたしはアメリカ人のこういう

「どんなときにもジョークを言っていないと死ぬ体質」

って結構好きですね。
ハリウッド映画でよくぎりぎりの場面、冗談をかましているのを見るけど、
あれは決して映画的な表現だけでもないみたいです。

このどでかいポスター、どこに在ったと思います?
ブリーフィングルームの隣には会議室が二つあるのですが、
その一つ「中国の間」に飾ってありました。

「これ、意味わかる?」

とブラッドに尋ねると知らない、というので

「American invaders must lose」

と翻訳して差し上げると、ブラッドは

「Oh・・・・」



これは説明する自信がなかったので黙っていましたが、
「越南」はベトナム、美帝はアメリカ政府?
右側はアメリカに対抗するために軍部の力を支持しましょう、
ということを言っている・・・・のかもしれません。

漢字だから中国のものかと思いましたが、どうやら
全てベトナムの作ったものであるようです。
しかし、少なくともここのアメリカ人たちはこれを中国製だと思っているようでした。

その証拠。



とほほ。
二つある会議室の一つが「チャイナルーム」。
ドアに巨大な五☆旗が・・・・。

「米国侵略者は必ず負ける」

って、ベトナム戦争ではその通りになったからなあ・・・。
知らないでやっているんだとすれば痛い。

と思ったらもう一つの部屋は・・・ 

「イラクの間」

・・・・・・・・・・・・・・・・。

わざわざこんなジョークをかますために、こんな大きな
敵国?の旗をドアに貼り付けられるアメリカ人に嫉妬。

自衛隊では100年経ってもおそらく見られないジョークでしょう。
嫌味をいうわけではないけど、

「敵国から日本の島を奪還するという模擬訓練」

ですら、日本の旗を出せなかったくらいですからね・・・。
こんなダイレクトすぎて逆に三回転捻りで元の位置みたいなジョークは、
おそらく日本人、とくに自衛隊には逆立ちしても、無理。

さて、中国とイラクの間の外には、コーヒーを飲まないと
これまた死んでしまう体質のアメリカ人のために、会議のときに
使用する「マイカップ」置き場がありました、



皆でお揃いのカップを作ったらしく微笑ましいのですが、
一つづつ名前が入っているので「マイカップ」です。

コンソールの上に置いてあるのはおつまみのストリングチーズ。

全く会議とか大学の授業とか、アンタらアメリカ人はちょっとの間くらい
ものを飲み食いするのを我慢することができんのか。

しかも、このカップですが、信じられんことに皆「洗わない」ようなのです。
コーヒーを飲み干したらどうもそのまま掛けてしまうようなのです。



証拠写真。

「げー、汚い〜」

内心わたしはつぶやきましたが、アンジーもこの光景にあきれかえって

「Boys・・・・・・」

ブラッドは

「いやぼくはちゃんと洗ってますよ」

と一生懸命言い訳しておりました。
アメリカ人、若い男、飛行機乗り。
とくればそういうことに構わなさそうなタイプ役満ってかんじです。

我が自衛隊の皆さんは世界でも傑出してキレイ好きな軍隊として有名なので、
まずこんなことにはならないと思いますが。 




もう一度ブリーフィングルームを通って外に出ました。



コクピットと同じシートがありました。
これもブリーフィングで必要になるのかもしれません。



廊下に飾ってあったコウモリの標本。
ブラッドのスコードロンはコウモリがトレードマーク。
彼らは自分たちのことを「Bats」と称します。
この標本には「Hairless bat」と種類が書かれています。 



そのコウモリを使ったスコードロンマークのグッズが廊下に並んでいました。
ここで購入することができるようです。
なんとわたしたちのためにブラッドはTシャツやカップホルダー、メダルなどと
ここでたくさん購入してお土産にくれました。



掲示板に見える様々なお知らせの中に

substance abuse

というポスターが。
何かと思ったらこれは「薬物乱用」を意味します。
そういえば「ひゅうが」に乗ったときに、食堂で薬物乱用に付いて
注意を促すポスターがあったな。

軍隊という組織の中では色々とストレスや鬱屈も在り、
こういった薬物の誘惑に抗し難い状況も、
人によっては数多く在るのかもしれません。



ところで、シミュレ−ターを我々が一通り体験し終わってから、
ぜひプロのシミュレーター操縦を見たいと思い、ブラッドに

「やってみせて」

と頼みました。
すると、モニター室にいたナビゲーターが出て来て、

「キンタイキョウ・ブリッジをくぐってよ」

とブラッドにリクエスト。

リアルな映像なので、錦帯橋に近づくと皆が息を飲み込んで見守ります。
一航過目・・・・・・失敗。

「やっぱり橋の下をくぐるって難しいんだね」
「複葉機でニューヨークのブルックリンブリッジの下をくぐった
女流飛行家がいたよ。名前は・・・エリノア・スミスとか」
「良く知ってるね〜」

そのときエリノア・スミスについて書いたばかリ(未公開エントリ)だったんですよね。

しかし、見事に二航過目、三航過目とブラッドは錦帯橋の下をくぐることに成功。

「すごい!さすがは現役ドライバー」
「ブラッド、次はこのフネ攻撃して!」

民間船だから攻撃しちゃいけないんじゃなかったのかよ。


最初にも書きましたが、このシミュレーターはほぼ実物と同じリアクションなので、
錦帯橋の下を通る操作に成功したというのは本当にくぐれたということらしいです。
しかし実際に錦帯橋の写真を見る限り、橋桁が特殊で、桁と桁の間が狭いので 
おそらく実際にくぐるとなればブルックリンブリッジより難易度が高いのは間違いありません。 

にしても、ブラッド、すげー。



(続く)




 

キャッスル航空博物館〜B-29「超天空の要塞」の搭乗員たち

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カリフォルニア内陸のアトウォーターにあるキャッスル航空博物館。
何度かお伝えていますが、軍用機のコレクションにおいては全米でも有数のミュージアムです。
大型機から無人機まで、大小計50機以上の軍用機が一同に集まっている様子は壮観です。

日本人のわたしには、生まれて初めて実際に見る軍用機ばかりだったのですが、
その巨大な機体の前に立ったとき、わたしも連れ合いも、思わず一瞬息をのむように沈黙し、
その後、

「これが・・・・」
「うん」

と言ったきりなんとも言えない気持ちで機体のマークを眺めていました。

B−29 スーパーフォートレス。

われわれ日本人にとってこの響きには特別の感慨が呼び起こされます。
戦争を知らない世代のわたしたちですら。
大東亜戦争末期の本土空襲を経験している者がまだそこここに健在であったときには、
空襲警報のサイレンの音、防空壕に防空頭巾、焼夷弾、
そしてB−29という言葉が彼らの口から必ず出てきたからでしょう。

B-29が画期的だったのはpressrized、与圧室を全面採用した最初の航空機だったことです。

高高度を飛ぶ場合、機内の気圧ないし気温は低下します。
B−29が登場する1942年までは乗員乗客全員が防寒着の着用と酸素マスクが必須でした。
この問題を、高度1キロと同等の空気圧に室内を保つ与圧室を装備することでクリアし、
機内でも苦痛無く快適に過ごすことができるようになったのです。



以前「頭上の敵機」という映画についてお話しする中で、
映画に登場するB−17爆撃機について触れたわけですが、このB−17は中型爆撃機として開発されました。
こちらは、最初から長距離渡洋爆撃を想定して設計してあります。

開発当時世界はすでにヨーロッパにおける戦争に突入していましたが、
真珠湾以前であったアメリカは「平時開発」となります。
しかし、渡洋攻撃がどういうシチュエーションを想定してのものであったかというと、
それは当然のことながら日本を視野に入れてのことであったのは間違いありません。

現に真珠湾以降、本土爆撃が始まってから、B-29はその卓越した能力を生かして
日本全国に総計147,000トンの爆弾をばらまきました。

本格的に爆撃が始まったのは昭和19年の11月からです。
マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムから8時間かけて飛来し、
そして日本の各主要都市に隈無く爆撃を加えました。

「頭上の敵機」についてお話ししたときには、アメリカがヨーロッパで行った
白昼ピンポイント攻撃について、

「それは決して人道的な観点からの戦闘行動ではなく、
単なる効率の問題である」

と位置づけてみたのですが、それが正しかった証拠に、B−29が本土爆撃開始後
一ヶ月も立たぬ間にアメリカはその目標を無差別爆撃に切り替えます。

このミュージアムのB−29の説明では、

「広島、長崎への原爆はこのB−29から落とされ、それによって日本は降伏した」

つまり原爆を落とすことによって戦争を終わらすことが出来た、という
つまり殆どのアメリカ人がそう思っているあのおなじみの解説が
当たり前のように書かれていて、日本人としては腹立たしい限りですが(笑)
実際は日本が戦意を喪失し、終戦工作が一部で模索されるなどという動きにつながったのには、
実は原子爆弾以前の、このB−29による無差別爆撃であったと言われています。

原子爆弾投下はいわばだめおしの無差別爆撃だったので、これがきっかけとなった、
とするのももっともですが、日本で降伏の動きがあるのを察知したアメリカは、

「なんとしても原爆を日本で実験したい」

という事情から放っておいても降伏する日本に原爆をわざわざ落としたのです。

許さん鬼畜米。


それはともかく、民間人攻撃についてはアメリカ軍内部でも国際法違反であるとして
当初反対の声が上がっていました。
しかしアメリカは、この問題をこのように独断(ちうかこじつけ)して解決したのです。

「日本では民間の家で軍服や簡単な軍需機材を作らせている。
つまり民家も軍需工場と見なされるから国際法には違反しない」

許さん鬼畜米。



この手のノーズペイントを今回たくさん見ましたが、
どれもこれも悲しくなるくらいヘタです。
プロ並みのノーズアートを施した飛行機を一度くらい見てみたいものです。
日本だと、例えばクラスが一つあれば必ずそのうち一人くらいは
人並み以上の絵を描く人間がいたりするものだと思いますが、
アメリカではよっぽど絵のうまい人が少ないと見えます。

それはともかく、この悪魔のお姉さんにつけられたネーム、
これどういう意味か分かります?
わたしもここで見たときには全く理解できなかったのですが、
これを音読みしてみると

「ラツン・ヘル」

この「ラツン」というのは全く意味はなく、つまり

「ラプンツェル」

のモジリなのではないでしょうか。
何回言っても語呂がいいとはとうてい思えませんが、
とにかく「ヘル」を使いたかったと見えます。



ここにある機体は、チャイナレイクに遺棄されていた三つの機体を使って組み立てられました。
上記マーキングは、朝鮮戦争で沖縄基地から発進していた第19爆撃隊のものを踏襲したのだそうです。

このノーズに記されたおびただしい投下爆弾が、日本本土に対するものではない、
と知って、なぜかほっとしてしまいました。
もちろん、これだけの爆弾が朝鮮戦争で奪った命の数について考えないないわけではありませんが、
「自国民の命が奪われた証拠」
に関しては、ただの「事象」として見ることがやはりどうしてもできないんですね。


B−29という機体に対する複雑な思いも、つまりはそういう小さな「ナショナリズム」
から発しているのかと、少し苦笑してしまいます。


 


この博物館には、同じスーパーフォートレスと言う名のB−50も展示されています。

B-50はB-29の改良型で、垂直尾翼が非常に大きくなっています。



「ラッキーレディ2」という名前のB-50が、1949年、空中給油を繰り返し、
世界初の無着陸地球一周飛行に成功しています。
テキサス州のキャスウェル空軍基地を西回りで94時間後、同基地に帰着しました。




この機体は、天候観察用としてカリフォルニアのマクレラン空軍基地の部隊で使用されていました。
しかしその前は、対ソ用の原子爆弾のテスト機であったそうです。




「薄気味悪いほどでかい・・・・」

確か戦記漫画で初めてB−29を見た搭乗員がつぶやくシーンがありました。
「紫電改のタカ」の久保一飛曹でしたっけ。

こうして見ると、側面から見ただけはわからない「異常なでかさ」が
改めて実感されます。
翼の端から端まで43メートル。
スーパーフォートレス、とは見ての通り「超要塞」の意ですが、
wikiによると

「超空の要塞」

誰なの?
こんな中二病かはたまたマンガ戦記シリーズのタイトルみたいな訳をしたのは。

さて、いつぞや映画「海と毒薬」を当ブログでご紹介しましたが、
この話で医学部の人体実験に使われ殺害されるアメリカ人捕虜は、
B−29でこの地方に飛来して、対空砲で撃墜され落下した乗員、という設定でした。

実際の「九大事件」で人体実験の末死んだ搭乗員も、やはりそうでした。
1945年5月、福岡県大刀洗飛行場を爆撃するために飛来したB−29は、
日本軍戦闘機の空中特攻によって撃墜され、女性を含む搭乗員12人が捕えられます。
特攻した飛行機のパイロットは、落下傘で脱出しますが、他のB−29の機銃掃射を浴び死亡。
12名のうち8名が死刑とされ、九大で実験台になったわけです。

B-29による高度精密攻撃を行っていた頃、たとえ搭乗員は不時着して捕らえられても
決して危害を加えられることが無い、とアメリカ軍では言われており実際そうでした。

しかし、その後、無差別爆撃で一般市民が犠牲になるようになると、事情は一変します。
つまり、降下してきたアメリカ兵に皆でリンチを加え、時には殺害してしまうことも起きました。

当初はB-29の搭乗員とて、安楽な気持ちで攻撃に来たのではありません。
当初サイパンやテニアンから飛んでくる途中で機体不調のため無帰還となった機体も多く、
米軍が多大な犠牲を払って硫黄島を奪取したのも、すべては、
B−29の発進基地を本土に少しでも近くにするためだったのです。

たとえ本土までたどり着くことが出来たとしても、そこには猛烈な対空砲が待ち受けていました。
対日戦争で米軍の喪失した航空機の、65%が、高射砲によるものだという記録もあります。
19年の夏頃には、陸軍の「屠竜戦隊」によって80機のうち29機が撃墜されていますし、
「雷電」や「鍾馗」など、B-29の天敵というべき危険な戦闘機も待ち構えていました。


去年の6月、静岡県で、静岡大空襲のときに空中衝突(つまり特攻でしょう)で
墜落死したB-29の搭乗員の慰霊祭が行われました。
日米の軍、自衛隊関係者と遺族会が出席し、共に戦死者の為に祈りを捧げ、
B−29搭乗員の遺品である、焼けこげた水筒を使って日本酒とバーボンが碑に注がれました。

この慰霊祭で、ジョン・ルース駐日大使と米軍横田基地司令官はこのような挨拶をしました。

「静岡空襲の生存者は米国人犠牲者も同じ人間として扱ってくれた」
「敬意と慈悲を持ってアメリカ人搭乗員と日本人犠牲者をともに埋葬していただいた」

このような「米軍兵士慰霊碑」は、静岡だけにあるのではありません。
丹沢や青梅の山中などにも、地元の人々の手による慰霊碑が現存しています。

生きたB-29搭乗員を目の当たりにすると、鬼となって復讐の殺戮をするのは、
戦争という異常な価値観の中で、さらに肉親を失った人々にとってある意味当然かもしれません。
救いは、そういったことが禁じられており、必ず憲兵や警察が阻止に入ったことです。
言い訳するわけではありませんが、これは世界の基準に照らしても、おそらく
スタンダードな群集心理の範疇であろうと思われます。


しかし、死んでしまえば「皆仏」として丁寧に弔い、死者を決して冒涜しないのは、
日本人の精神性の中でも美点と言っていいものではないでしょうか。

アメリカ兵はその点、復讐心からというよりは蔑む気持ちから、
日本兵の死体を加工して本国に「記念品」として送ったりしました。
人種差別と侮蔑が感じられ、とても感情的に受け入れられない事実ではありますが、
例えば戦艦ミズーリに特攻した日本兵の死体を丁重に、
しかも旭日旗で包んで礼砲を撃ち水葬させた司令官や、
あるいはシドニー湾に突入した潜水艇の犠牲者を儀仗付きで丁重に葬送を執り行った
オーストラリア軍の司令官もいました。

少なくともこういう人間としての「もののあわれ」を知ることの出来る国同士であれば、
戦争が終わってしまえば友好関係を築いていくことが可能でしょう。

日本人が、無学な民衆の末端に至るまで「死ねばほとけ」のあわれを知る
非常に希少な民族であることは、我田引水というものかもしれませんが、
戦った相手にとって大いなる驚きと慰めとなったでしょう。

お互いが自分の信じるもののために戦うのが戦争です。
そこで失われた命を悼み、恨みをすべて水に流し等しく慰霊することのできる、
惻隠の情、という「仁」を知る国に生まれたことを誇りに思います。



大戦中、日本本土の空襲に参加したB-29の死者、行方不明者は、
3041名。

この中には、収監されていた広島、長崎に落とされた原子爆弾、
そして各都市の捕虜収容所に収監されていてB-29の落とす爆撃で死亡した捕虜も含まれます。


 



 

習志野駐屯地・空挺館〜「空の神兵」

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空挺館の「空の神兵」についてまず書こうとしたところ、
いきなり「陸海軍読売遊園対決」という、エリス中尉好みのネタを掘り当ててしまい、
つい順序が後になってしまいましたが、今日は王道の「空の神兵」についてです。

ところでいきなり余談です。

空挺館初回で、「降下塔と跳出塔を見たい」と書いたのですが、検索の段階で、
習志野駐屯地の夏祭りに行けば、降下塔広場にお店が並び、
自衛隊員手作りの焼きそばを食べながら施設見放題、ということが分かりました。
ただし、例年夏祭りは8月第一週頃。
まずそのころ日本にいないわたしには当分無理なイベントです。

それにしても、写真を見て「跳躍塔」とやらが飛行機から飛び出すための訓練施設で、
見たところビルの三階位の高さは裕にありそうなのにびびりました。
下にクッションとか敷くんでしょうけど、生身で飛び降りるんでしょうか?


昔の空挺団の映画によると、跳出塔の下は砂地で、せいぜい(といっても高いけど)
2メートルくらいの高さから姿勢を正しく飛び出す訓練をしていましたが、
クッションの素材の開発に伴って跳び出し訓練の高さも上がっていた、ってことなんでしょうか。


さて、冒頭写真は空挺館の階段踊り場にある「空挺隊員の像」です。



だれの作品なのか、いつ作られたのか、どこを探しても見つからないのですが、
実際はとても小さなものです。
入り口にある「空の神兵の像」がポーズといい雰囲気といい勇ましいのに比べ、
この像は落下傘の器具を付けた降下兵は小さいでなく、
おそらく航空機のシートに座って降下の瞬間(とき)を待っているにしては
あまりにも穏やかな、まるで仏像のような佇まいをしています。

この像を作った作家の名と、なぜこのような像を造ったのかを知りたい・・。

 

空挺館一階の階段下部分には、こんな模型がありました。
これはどうやら旧軍の挺進連隊時代の訓練設備を、
空挺団OBなどが模型にして寄贈したのではないかと思われます。

4つまでの落下傘が降下きる塔に・・・、

 

映画で観た跳出塔。
そして・・



あれ?

今習志野駐屯地にあるのと同じ高さの跳び出し塔がある。 
ということは、クッションを敷いて飛び降りるためのものではなさそうです。

そこでよく見ると、この模型には日の丸のはちまきを付けたキューピーさんが、
なにやら紐を付けていまにも跳ぶ姿勢ですね。

・・・・・いや、 これがキューピーの基本姿勢なんですが、それはともかく、
紐を付けて飛び降りる?

バンジージャンプなら分からないでもないけど、1941年当時、バンジーに使えるような
弾力性のある素材はなかったはずだし・・・。

この疑問にたまたま(というかこのために)観たDVDが答えてくれました。

空挺団の訓練で、腰に紐を付けてこの跳出塔から隊員が 飛び降りると同時に
そのロープの端が二股につながれており、二方向から他の隊員たちが引っ張る、
というものをやっていたのです。

下にはクッションも網も何も敷かれていませんから、もし隊員たちが縄を放したら、
両手両足を開いて空中に跳び出した者は確実に地面に激突して死亡です。

事故のないようにロープを二本に分かっているのでしょうが、
跳び出す方はかなり最初は度胸が要るものだと思われます。


 

おそらく戦時中に描かれた戦争画の一つでしょう。
なんだか銃はさっき空挺団の訓練で見たのに似ているぞ。
挺進隊の銃は分解可能な二式小銃だと思っていたのですが、
ここでは九九式軽機銃を使っているようですね。

陸軍挺進隊の武装は、この九九式と、重機関銃では92式が基本でした。



官品の降下用帽子。
鉄兜では降下するのに重過ぎる、しかし降下後戦闘行動があるので防御性も必要である。
という観点から制作された革製の降下帽。
ラグビーボールのような縫い目で、なかなか凝っています。
今なら日本製・ハンドメイド・天然皮革で超高級品ですね。

この降下帽が最初に支給されたときの様子が、映画「空の神兵」にありました。

多分「やらせ」だと思うのですが、訓練のあと練習生が休憩室で
思い思いに過ごしているとき、

「降下服一式支給」

の号令がかかります。
この兵隊はそれまで髪を刈ってもらっていたので、肩にケープをかけていますが、
さっそく貰ったばかりの降下帽をかぶり、それまで使っていた鏡を覗き込み、
皆には

「おお、よく映るぞ」

と声をかけられています。
展示してある降下帽には耳当てもついているのですが、折り込んでいるので見えません。



「模範的な跳び出し」

飛行機を模した跳出口から跳び出す訓練。
降下の際の「よい姿勢」の見本は

「くの字状になるまで背をそらし、足はまっすぐ」 

であることがわかります。
現在の空挺においてもこれは踏襲されているのでしょうか。
それとも、これはこのころの落下傘の仕様に則した、
「もっとも事故の少ない」
跳び出し方なのでしょうか。



「空の神兵」より。

高さはやはり2メートルというところでしょうか。
見ていると簡単そうですが、二メートルの高さから全く下を見ずに跳ぶ、
というのはなかなか最初は怖いことのように思われます。 

 

旧陸軍空挺部隊に使用されていた落下傘の装具一式が展示されていました。

落下傘にも制式名がついていて、一式落下傘といいます。
予備傘がついていて、これで高い安全性を誇りました。

落下傘の操作は、肩に吊り帯が二本着いており、
これを操作して落下傘を操縦したり進行方向を変更しました。

この習志野駐屯地の地図を先日上げたときに、
敷地内に「落下傘整備場」があって、どうやら自衛隊では、
傘のメンテナンスや調整は専門の部署が行なうことになっているらしい、
と書いたのですが、映画「空の神兵」でも描かれていたように、
当時の落下傘兵は、一人一つ、自分の落下傘を与えられ、
それを自分で包装(たたむことをこういうらしい)したのだそうです。



傘を揃えるのにきっちりと定規を使ったり・・・



吊索は確実に絡まずにほどけるように、細心の注意を払って包装しています。


こういう話を聞くとつい考えるのですが、
飛行機の事故における整備のように、もし空挺団で落下傘の事故が起きた場合、
やはり傘の調整をする部署は原因がどうあれ責任を感じるのではないでしょうか。

割と最近、フリーフォールの訓練で傘が開かなかったという事故があったようですが、
これもなぜ予備傘までが開かなかったのか、などと考えると、
傘の整備調整に果たして不備はなかったのか、と整備する部署(部隊?)では
きっと気が気ではなかったでしょう。

その点旧軍は兵士一人に負担も責任も負わせていたということで、
良くも悪くも自己責任、で終わってしまっているあたりが凄い。

しかも、この傘、やはり開発当初の欠陥もいろいろとあったようです。

一式落下傘は、輸送機から跳び出すと真っ先に傘が開く、

「傘体優先方式」

だったため、傘が開いたときに受ける衝撃が大きく、また、後から放出される紐、
吊索(ちょうさく)が人体に絡まり、訓練中に死亡事故が起きました。

「空の神兵」より

これは最初の訓練生の降下訓練ですが、この写真を見ると、
背中からはまず真っ先に落下傘本体が出て来ていることがわかります。
この映画の頃はまだ傘は開発前で、事故も起こっていた頃だと思われます。

この事故は、2009年に自衛隊第一空挺団で起こったものそのままです。
死亡した隊員はヘリから飛び出した際、
ロープが首に巻き付いて宙づりになってしまっています。

ロープの端はヘリに固定されており、通常は飛び出した際の重みで傘が開き、
ロープもヘリから外れる仕組みであるはずなのですが・・・。

いずれにせよこの事故の原因は「先に傘が開いたこと」ではなく、なぜか
自動索が切り離されなかったことにあります。

現代の科学技術によって安全性を考慮された落下傘でもこんな事故が起こるのですから、
もしかしたら、黎明期の挺進部隊ではこのためかなりの殉職者を出したのかもしれません。

いずれにせよこの死亡事故を受けて、傘の開発は重ねられました。

 

それがこの図の「吊索優先方式」です。
最初に傘ではなく吊索が引き出されることによって、 
体に索が絡まる可能性を減らしたものです。



この落下傘を作っていたのは女性たちでした。

女子報国勤労隊と呼ばれる彼女らは、製造を一手に請け負った藤倉航空工業で、
24時間ノンストップ体制による作業による落下傘製造に携わっていました。

この藤倉工業という会社は昭和14年に創立されたばかりで、
翌年の15年に、陸軍からの依頼で落下傘の大量生産を始めました。
戦後は民需品の生産に転換していましたが、昭和26年からまた落下傘生産を再開。
現在はその名を「藤倉航装株式会社」として、第一空挺団の使用している
696MI(フランスのエアルーズ社のライセンス生産)、60式空挺傘(ろくまるしきくうていさん)
はいずれもこの会社によるものです。


さて、昭和17年3月、パレンバン空挺作戦が大成功を収め、世間は彼らを
「空の神兵」と讃えました。 
そのニュースを見て、ある意味一番驚いたのは、藤倉航空工業で連日連夜、
パラシュートの製作にあたった女子報国勤労隊の女性たちだったにちがいありません。

何しろ、彼女らは、自分たちが作っていたものが南方作戦でこのように使用された、
ということを、そのニュースを見て初めて知ったのですから。

 



 

空挺館〜陸軍騎兵学校と秋山好古(と閑院宮)

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「騎兵学校の資料もあるから、乗馬をするエリス中尉には興味深いのではないか」

という理由で空挺館の見学をおすすめされたわけですが、
なぜここが騎兵学校に関するものを所蔵しているのかを全く知らず、
行ってみて初めて空挺館そのものが騎兵学校の訓練を鑑賞するための

「御馬見所」(ごばけんしょ)

であることを知りました。
考えればもともとここには先に陸軍騎兵学校が出来ていたんですね。

当時の名称は「陸軍乗馬学校」あるいは「習志野騎兵学校」であり、
ここ習志野は「騎兵の町」であった歴史があるのです。



陸軍騎兵学校が出来たのが1988年。
陸軍乗馬学校として目黒に設立されましたが、その後習志野に移転しました。
写真は目黒に創設されたころの騎兵学校門です。


その移転に関しては街道の宿場町だったこの辺りが鉄道の開設によって
立ち寄る客が減少したため、いわば「町おこし」として、

「習志野を騎兵の町にしよう!」

と周辺住民が誘致した、といういきさつがありました。

習志野駐屯地付近住民の方々、ご存知でした?
あなたがたの先住者が陸軍をわざわざここに誘致したのですよ。

騎兵の必要性が薄れたたため昭和16年には、機甲師団となって馬に乗っていた陸軍将兵は
そのままどういうわけか殆どが戦車に乗ることになってしまいました。
そしてその戦車学校は千葉県穴川に移転してしまったため、ここ習志野には
昭和16年から空挺作戦に投入するための落下傘部隊が駐屯し、
それが第一空挺団の前身となって現在に至るというわけです。

つまりここに現在第一空挺団があるのも、元はと言えばこの辺りの当時の市民による請願、
ということなのですけど、そういう歴史を知らずとも、自分が生まれる前から
とっくにあった基地や駐屯地に対して、今更のように文句をつけるのが左翼の常套ってやつです。

今回、「赤旗」のサイト?でこんな微笑ましい記事を見つけました。

(解説)

ある日、空挺団の訓練のとき落下傘が近隣の高校に流されて降下してしまいました。
そのことを受けて地元の共産党員が第一空挺団に

「 グラウンドに人がおらず人的被害はなかったが、重大事態になりかねなかったと指摘。
面積も狭く住宅密集地で幹線道路も通るため、
降下訓練に最もふさわしくない演習場としてこれまで訓練中止を求めてきたにもかかわらず、
事故が起こったことに対し、「絶対に許すことができない」と抗議しました。
今年3月にも場外への降着事故が起こり、2004、06、08年と事故が繰り返されたことを批判。
「原因と責任を明らかにし、パラシュート降下訓練の中止を」と強く要求しました。

第1空挺団の広報は、事故の原因について隊員が風向きなど状況判断を誤ったこと、
上昇気流の回避行動が不十分だったこと、降着地域に降りることを優先しなかったことをあげ
「このようなことがないよう対策を講じていく」
としましたが、訓練は今後も行う考えを示しましたむ(←原文の間違いをわざと放置)

要請参加者は
「十数回も降下している隊員でも、演習場外へ降着してしまうことがある以上、訓練は中止すべきだ」
と改めて求めました」

というものです。


これまで述べたような歴史的経緯を鑑みても、いやたとえ鑑みずとも、
今更共産党が「やめろ」と言ったところで陸自が訓練をやめるとは到底思えんのだが。

だいたい「訓練」ですからね「訓練」。
皆が一発で思ったように降下できるくらい簡単なことなら、そもそも訓練いらないっつの。 

もう一つ突っ込んでおくと、空挺隊員が降りてくるって
・・・・この人たちが言うほど危険かなあ。 
わたしなど、日大グラウンドに降下してしまった隊員がパラシュートを抱え、
キャンパスをダッシュして脱出、などという時折あるらしいこの「事故」など、
ほのぼのニュースくらいに思っていたんですけどね。

降下始めのコメントに読者の方から頂いた

「そのころ駐屯地には柵がなく、子供たちは敷地内の原っぱで寝転びながら空を眺め、
落下傘が落ちてくるところに駈けてゆき、傘を畳むのを手伝った」

なんて昔の話を思うと、さらに嫌な世の中になったものだと嘆息せずにいられません。


だいたい、共産党の人たちだって自分たちが「訓練やめろ」といったら
陸自が本当に訓練やめるなんてまさか思ってないよね?

・・・・・・ないよね?




さて、習志野駐屯地に入っていくと、見事な松林と、妙に古い建物が目につきます。
正門から向かって成田街道沿いにならんだスレート葺きの建物は、
昭和16年(1941年)、戦車格納庫として急造されたものだそうです。

じつは駐屯地内にはこのような古い建物が他にもいくつかあるのだそうですが、
建物が新しく相次いで建てられ、保存が危ぶまれているのだそうです。
前回懸念した「趣のないプレハブ調の建物」に、これらが取って変わられるかもしれないと。

ただでさえそんな資金など逆さに振っても出てこない防衛省ゆえ、
歴史的な建築物を仕方なく壊してしまう、ということは避けられないことなのでしょうか。



空挺館の近くにこのような碑があります。
50周年記念。
何の50周年記念かと言うと、

「軍人勅諭下賜50周年記念」。

この形は紛れもなく砲弾を模しているものと思われます。
軍人勅諭が下賜されたのは明治15年のこと。
この碑は、それから50年後の昭和7年に騎兵学校によって建立されました。

このときは全国の軍隊で記念行事が行われ、各地に碑が建てられたそうです。

そして、この砲弾型碑の奥にあるのが、これ。



軍馬慰霊の碑。
この字は、日本騎兵の父であった秋山好古の揮毫によるものです。
言わずと知れた「坂の上の雲」の主人公で、秋山真之の兄。
秋山は第二代騎兵学校校長でもあります。

この碑は元からここに在ったのではなく、騎兵学校西側柵の、
小庭園に設置されていたものを移設したのだそうです。

道理で「砲弾の碑」が前を塞ぐ感じで、変な配置だと思った(笑)



その秋山好古、晩年時代。
最後の日々、秋山は故郷松山の中学の校長をしていた、ということは
映画「坂の上の雲」でもラストシーンとして描かれていました。

かつての陸軍大将が、除隊後校長先生をする・・。
当時の教職は「聖職」と言われ、名門中学の校長ともなると
生徒からの畏敬もかなりのものだったと思われますが、
今の教育界を考えるとまるで別の国のことのように思えます。

もっとも、これは当時としても異例のもので、
予備陸軍大将でかつて教育総監まで(陸軍三長官の一)務めた人物が
中学の校長になるということは、「格下人事」でもありました。

大将として予備役に編入されるにあたり、元帥位への昇進の話もありましたが、
なんと本人はこれを断っています。

このことだけを見ても、秋山好古が無欲で功名心のない、
高潔な人物であったかが窺えようと言うものです。



自己を必要以上に大きく見せることをしないその大物ぶりは、
たとえばかれが若き日、色白で目鼻立ちのはっきりした長身の好男子で、
故郷松山や留学先のフランスでは女性に騒がれるほどであったにもかかわらず、
本人は「男は容姿の美醜などに拘泥するものではない」という考えで、
そのことを意識する様子もなかった、というエピソードにも現れています。

ここに見える写真の「大尉時代」が、フランス留学の頃だということです。



フランス留学で騎馬戦術を学び、それを日本に持ち帰って騎兵学校の礎を築き
「日本騎兵の父」となった秋山ですが、その生涯で最も大きな功績は、
日露戦争で騎兵第1旅団長として出征し、
沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦ったことです。

このときの秋山の功績については、騎兵学校に来校したフランス軍人による

「秋山好古の生涯の意味は、
満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」

という賞賛にこれも尽きるでしょう。



冒頭に挙げたこの写真は、彼らの軍服から察するに明治時代の、
近衛騎兵連隊の写真。

皆凛々しいですが、特に「旗手の今村」が実にしゅっとした好青年ですね。

昨年秋の音楽まつりの際、会場となった武道館のある敷地に、
近衛第一歩兵連隊の碑があったのをご紹介しましたが、
この師団の特別なことは、東宮即ち将来の大元帥(天皇)となるべき皇太子は
必ずこの近衛第一歩兵連隊附になることが決まっていたということです。



右、皇太子時代の昭和天皇、左は・・・・
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)かな?(未確認)


ある読者の方とのご縁により海兵67期の越山清尭大尉のエントリをアップしたとき、
越山大尉の祖父がもともと西郷隆盛の近衛兵で、第一歩兵連隊となったこと、
そしてその歩兵連隊は全国でも特に選りすぐり俊秀であったことを書きました。

「禁闕守護」(きんけつしゅご・禁闕とは皇居の門のこと)の使命を帯び、
任務が東京であったこの近衛騎兵ですが、司令本部はここ習志野にありました。




陸軍騎兵学校の出身者には、この後お話しするオリンピックのメダリスト、
西竹一大佐・バロン西、そして玉砕した硫黄島の守備隊指揮官であった栗林忠道大将、
そして蒋介石などがいます。

写真は騎兵連隊附であった閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう)。
飛行服に身を固め、なかなかのイケメン若様です。

ここで超余談です。

この宮様は、戦後皇籍離脱後事業を起こし、元皇族の中でもかなり経済的に成功し、
余生も穏やかなものであったということなのですが、
戦後になって離婚した元夫人が、彼が軍隊時代男色家であった、とリークして、
マスコミの好餌となりスキャンダルになった、ということがありました。

夫人によると、陸軍の官舎は狭く、ベッドは二つであったのですが、
王は高級将校に必ず付いていた従兵と一つのベッドに寝ていました。
井上大将にも艦隊勤務時、そんな話がありましたが、これはその話と違い、
両者合意の上での同衾であったようです。

戦後になってもその従兵と夫妻は同居生活を続け、言い争いになると
元従兵が彼女を殴ったりする異常さに耐えかね、離婚に至ったとか・・・。




高級将校の従兵、特に宮様の従兵ともなると、人物は勿論、
容姿もかなり厳選考慮されたものだと思われますが、それゆえ
元々そういう性癖のお方としてはその色香に抗えず(?)そうなってしまわれたのでしょうか。

だとすれば秋山閣下とは対極に、宮様は

「男の美醜は(勿論)こだわる!(好みもあるけど)」

というポリシーをお持ちであったかもしれません。









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