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空挺館〜バロン西と「愛馬の別れ」

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靖国神社の遊就館には、戦争で亡くなったスポーツ選手のコーナーがあります。
その一番最初の部分に、西竹一陸軍中佐の展示があり、
ガラスケースの中には、愛用の乗馬用鞭、ベルリンオリンピックで贈られた
ドイツ馬術最高徽章のメダル、そして愛馬ウラヌスの蹄鉄が2本飾られています。

乗馬用鞭は、戦車隊長だった西中佐が硫黄島での最後の日々、
エルメスのブーツを履き、必ず手には乗馬用の鞭を持っていた、
という話を思い出すのですが、この鞭は取っ手のところが僅かに亅状になっていて、
滑り落ちない工夫がしてあり、しかもその部分は象牙でできていて、
彼が常に贅沢な乗馬用具を使っていたという逸話をあらためて思い出します。


以前「高貴なる不良・バロン西の血中海軍度」というエントリで、
一度は書きたかった伝説の馬術家、西竹一中佐のことを語ったことがあります。

その頃のわたしはつゆ知らなかったのですが、ここ空挺館、
つまり昔陸軍騎兵学校の「御馬見所」であった建物を利用した展示には、
バロン西についての資料があることがわかり、感激した次第です。

西竹一陸軍中佐。

騎兵師団の将校であり、ロスアンジェルスオリンピックの優勝者でありながら、
騎兵隊廃止後、編入された戦車連隊の隊長として硫黄島で戦死。



その悲劇的な死から、常日頃軍人らしくなく、奔放だった西中佐を疎んだ陸軍が、
懲罰的人事として硫黄島に、つまり死地に追いやった、とか、酷いものでは
LAの次のベルリンオリンピックで落馬したことに対する懲罰であったとか、
いずれにしてもバロン西の物語で語られる陸軍の役どころはろくなものではありません。

しかしわたしはこれも、戦後の「軍叩き」の一環みたいなものではないかと思っています。

硫黄島を死守するのは要地防御の観点からも日本の悲願であり、いくらなんでも陸軍が

「どうせこの島は取られるのだから、死んでもいいような奴を追いやってしまえ」

という島流しのような配置をしたはずはないからです。
指揮官の栗林中将も、それまで指揮官としての知名度があったわけではなく、
硫黄島の指揮官になり、米軍を感嘆させたからこそ有名になった軍人ですが、
軍部は本土防衛の最前線としての司令部を父島に置こうとしていたわけですから、
決して「左遷」人事であろうはずはないと思います。


確かに今日の感覚では

「オリンピックの功労者、しかもメダリストを激戦地に配置するなんて」

ということになりますが、これは繰り返しますが「今日の感覚」にすぎません。

だいたい帝国日本軍というところは、中国戦線で水泳のオリンピック入賞者を、
武器を帯びたまま泳いで敵地まで偵察に行かせようとしたこともあるくらいで、
むしろ

「メダリストだからこそ戦功をも立てるべきである」

って考えなんですよね。



この写真、説明がなかったのですが、どれがバロンかお分かりですか?

後列右から三番目が中尉時代の西竹一であろうと思われます。
小学生にして男爵を継ぎ、有り余る財産をカメラやオートバイにつぎ込み、
このころもアメ車を取っ替えひっかえ乗り回していたバロン。

当然ですが、この軍服も特別誂えでございます。

そこんところを考慮した上で写真を今一度見ていただくと、まず、
他の中尉クラスよりは遥かに仕立ての良さそうな、
変なところにしわの全くない、ドレープすらエレガントな
上質生地を使っていそうな軍服を着ているのにお気づきかと思います。

さらに帽子をご覧下さい。

前にも一度説明しましたが、西中尉の軍帽だけがまわりの軍人より大きく、
横に張り出している形をしています。
これを「西式軍帽」と言いました。

因みに、この前列真ん中の皇族軍人にも注目。

確信はありませんが、この方は21歳の

北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)

ではないかと思われます。
バロンより8歳年下ですが、この宮様が陸軍砲兵少尉に任官されたとき、
つまり1931年にはバロンは29歳で中尉でしたから計算が合います。
バロンがかなり童顔で若作りだったみたいですね。

永久王であるとしてお話ししますが、王のスタイルにも注目して下さい。
西中尉のと殆ど同じ割合というくらいに軍帽が大きいのがお分かりでしょうか。

従兵と(略)していたというスキャンダルのあった閑院宮春仁王もそうでしたが、
当時の若い皇族軍人たちは皆一様に伊達男ぞろいで、さらに特別仕立ての、
瀟洒で工夫を凝らした粋な軍服を身につけていました。



帝国陸軍の青年将校文化の中でも特に瀟洒なスタイルであり、
軍帽(チェッコ式)の襠前部や襟は極めて高く、
襟章・肩章・雨蓋の造形美には凝り、ウエストは強く括れた細見でタイトな仕立て
wiki

「西式軍帽」はつまりもともと「チェッコ式」だったんですね。
チェッコ、とはチェコスロバキアのことで、当事のチェコ軍が
このような軍帽であったのかもしれません。
帽子の大きさは、ナチスドイツのものに酷似しているように見えますが、
チェコ軍がナチス風を真似たのが間接的に日本に伝播したのでしょうか。

いずれにせよそれはトップを大きく、高くしたもので、
この頃の若い軍人にとってはそういうのがイケてる、と思われてたんですね。
西中尉のような男爵や、中々の好男子ぞろいでもあった陸軍在籍の「若様連」が
こぞってこのような軍服で身を飾ったため、流行というのが作られたのでしょう。

そしてこれが大正末期から昭和初期にかけて、陸軍の青年将校の間で大流行。
皇族の若様やバロンは軍人の「ファッションリーダー」でもありました。

(この部分ファッションタグ)


話のついでに北白川宮永久王のその後について触れておきましょう。

王は任官後砲兵連隊の中隊長を経て陸軍大学に学び、
卒業後は参謀部附としてモンゴルに赴任しておられましたが、
演習中に不時着してきた戦闘機の右翼先端に接触し、重傷を負われ、
病院に運ばれたものの8時間後に薨去するという悲劇的な死を遂げられました。

事故による殉職ですが、世間的には「戦死」とされ、世には
王の死を悼むこんな歌も、二葉百合子によって歌われています。

嗚呼 北白川宮殿下   ニ荒芳徳 作詞  古関裕而 作曲

一 明るくアジヤの大空を護る銀翼はげまして 大御光を天地に 
輝かさんと征でましし  嗚呼若き参謀の宮殿下

ニ 日本男児の意気高く超低空の射撃すと 命を的に急降下 
莞爾と笑みて統べませる  若き参謀の宮殿下

北白川宮家は初代智也親王がわずか17歳で薨去し、2代能久親王は台湾で戦病死。
三代成久親王は自動車事故で薨去されたりしたため、悲劇の宮家と言われることもあります。 

永久王も、わずか31歳の生涯でした。

やはり遊就館には、順路の中程に巨大な白い北白川宮の彫塑があり、
元近衛野砲隊の部下が、隊長であった永久王を慕って製作したという説明があります。



さて、空挺館一隅には、騎兵学校時代に使われていた馬具などもあります。
乗馬を少々嗜むわたしとしては、この鞍の形状にも注目してしまいますが、
鞍って、基本的には全く変遷しないものなんですね。
あぶみの長さの調節方法も、今と全く同じのようです。

サドルの先端に付いている突起が謎ですが、今の鞍には、
ここにはハンドルが付いているものが殆どです。
キャンター(駈歩)の練習のときに、時々このハンドルを持たされますが、
このヘラみたいなものは一体何に使うのか・・・・?



この鞍の上にあった騎兵連隊の写真。
こういうところでも最近はつい馬の方に注目してしまいます。
手綱が”はみ”から二本ずつ出ていますが、これは馬に頭を「上げ下げさせない」ため。

それにしても、乗馬をする前と今では、こういう写真に対する感想もまるで違ってきます。
映画「戦火の馬」も、今観ればきっと泣いてしまうんだろうな・・・。



今でこそ馬は競走馬、趣味としての騎乗馬、農耕馬、
あとはお肉になるくらいですが、
1900年初頭までは、馬は戦争には欠かせない兵器でした。

その頃の日本にも「馬政」と言う言葉があり、国の調査委員会を持ち、
そこからの発令で戦争に必要な馬の生産数を計画したり、
また品種の改良なども業界への奨励と言う形で行なわれたのです。

「罵声」じゃなくって「馬政」として出されたおふれとしては

一、100万頭の5歳〜17歳馬を内地に保有する
一、馬の質を上げ、軍用馬の鍛錬に耐えられるように、競技会を実地する
一、競馬法による公認競馬は、馬の改良に必要な種馬の能力を検定するために実地する

こんな感じです。



学芸会で馬の役をする人が被りそうな感じですが、これは、馬用の「防毒覆」。
毒薬が敵によって散布されたときを想定したマントです。

目の部分が大きいのは、馬によって目の位置が多少違うからでしょうか。



どうも目の部分だけ革のお椀状のものを付けている模様。



そして実験中。
わざわざこんな高い脚立を用意して、

「空から毒物が振って来たという想定」

で、訓練用の薬を撒いています。
馬上の人物も防毒衣を付けていますね。
それにしても思うのは、こんなもの被せられ、目隠しまでされて、
よくこの馬さんはじっとして立っているなってこと。
騎手との信頼関係ができていないと、まず無理なことに思われます。

騎乗していて、馬がちゃんと動いてくれたときに乗り手が
「よくやった」と首をぽんぽんしてやることを、乗馬用語で
「愛撫」というのですが(時々コーチから指示が出るくらい大切なケア)
きっとこのあと騎手はこの子を愛撫しまくってやったんじゃないでしょうか。



さて、バロン西です。
かれがこのようにクルマを跳躍している写真は二つあり、
一つはwikiに載っている、ロスアンジェルスオリンピックの「ウラヌス」、
こちらはわたしの記憶に間違いがなければ「福東号」という馬です。

乗馬をするようになってあらためてこういう写真を見ると、その凄さがわかります。
ウラヌスもこの福東号も非常に大きな馬で、おそらく普通に駈歩しただけで
乗っている方はかなりダイナミックな躍動感があるとおもうのですが、
その大きな馬で車を飛び越すと言うのは、もうほとんど空を飛ぶ感覚でしょう。

それにしても車の横に立っている人、怖いもの知らずなのか、
超高級車が心配な運転手なのか。



このアスコツトと書かれた馬ですが、この名で検索すると
ちゃんとページで紹介されているので驚いてしまいました。

アスコツト

オグリキャップかディープインパクトか、というくらい強かった競走馬で、
馬術競技に転向し、西が乗ることでさらに有名になった名馬、となっています。
最初に「ベルリンでは失敗」と書いたのですが、このとき実際は、
初日に西が落馬したものの、続く耐久と障害で順位を上げ、
最終的には50頭中12位の成績を納めています。

さらに「バロン西懲罰人事説」は可能性が無くなります。
西以外の騎兵隊から参加した4人の選手は、入賞にかすりもしなかったのですから。



これは写真を撮ったものの誰か分かりませんでした。
上の写真で北白川宮の右隣に居るのと同一人物であるように見えますが。

 

馬が三頭こっちを見ている、なんだかシュールな写真ですが、
謡曲か浪曲か・・・、
いずれにしても内容は、習志野騎兵隊で愛馬と別れるという内容です。
そんなこと言われんでも分かる、って?

戦争の形態が代わり、騎兵による戦いは過去のものとなり騎兵隊が廃止になったときに、
機甲となり馬の代わりに戦車に乗ることになった彼らは、それまで自分の愛馬だった馬と
別れなければいけなくなったはずです。

おそらく浪曲か謡曲かは知りませんが、この曲は、
そんな愛馬との別れの辛さを歌っているのだろうと思われます。

バロン西の愛馬であるウラヌスは、東京の馬事公苑の厩舎で
メダリストの功労者としての余生を送ることを許されましたが、
「普通の馬」は習志野から一体どこにやられてしまったのでしょうか。
世の中は競馬どころではなく、さりとて農耕馬にもなれず、時節柄、
愛玩動物として馬を養う場所もあろうはずがありません。

やはり、別れた後の馬たちは・・・・・。

写真の馬たちの運命を考えただけで、今のわたしは涙さえ浮かべてしまうのですが、
騎兵隊の将兵たちの哀しみはそれどころのものではなかったでしょう。


西竹一中佐は、機甲師団の隊長として転戦中、
乗っていた船が米国の潜水艦に撃沈され、戦車が沈んでしまったため、
補充のために一度東京に戻った際にウラヌスに会いにいったそうです。

厩舎につながれていたウラヌスは、バロン西の足音を聞きつけただけで狂喜し、
首を摺り寄せ、愛咬をしてきたということです。
これは、馬にとって最大限の愛情の表現です。

この出会いは彼らにとって今生での最後の邂逅となりました。
7ヶ月後、バロンは硫黄島で 戦死しましたが、
ウラヌスはその一週間後、彼の主人の後を追うように静かに息を引き取りました。
 

西竹一は、生前、

 「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」

と言っていたそうです。

これも、馬と言う動物を少し知っていれば、深く頷くことの出来る話です。
言葉が通じないのに、ではなく、言葉が通じないからこそ感じる「何か」が
互いを理解させてくれる瞬間を、わたしのような初心者ですら感じるときがあるのです。



人間が馬を乗りこなそうとすれば、そこに馬との「人間的なふれあい」が生まれます。
また、そうでないと馬と言うのは中々思うように動いてくれないのです。

騎兵隊という軍隊であっても、人と馬の間には我々が思うよりずっと緊密な交流があり、
そういう馬を兵器として戦地に投入することに何の痛痒も感じないなど、
まともな情の持ち主であればありえません。
 
だからこそ人はたかが畜生であるはずの軍馬の魂を悼んでやるのです。

靖国神社やここににある軍馬の慰霊碑は、
戦火に斃れた馬たちを愛すればこそ、その犠牲に心を痛め、
さらに彼らに感謝する心から建てられました。

今となっては、これらの慰霊碑に込められた馬を愛する人々の気持ちが、
わたしは痛いほどわかります。




 


   

 


空母「ホーネット」〜空母「ワスプ」メモリアル

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「空母ホーネットの空母ワスプ」ってなんですか?

といぶかしく思われること必至のタイトルですが、
つまり、博物館になっている空母「ホーネット」の展示コーナーの中に、この

「空母ワスプ メモリアル」

があったということです。
先日「ワスプ」というのが「ホーネット」と共に「スズメバチ」を意味するということで、
コメント欄では「スズメバチの鬼畜?さ」について盛り上がったりしたことがありますが、
今日はその「ハチ繋がり」で、ホーネット博物館の仲のワスプ展示部分をご紹介します。

冒頭画像はハンガーデッキに飾ってあった、アメリカの艦船のマークから、
空母「ワスプ」のものをアップにしてみました。


ワスプ (USS Wasp)はアメリカ海軍の航空母艦で、エセックス級空母の8番艦。
その名を持つ強襲揚陸艦もありますが、ここに展示されているのは「最後のワスプ」
である、CV-18。
第二次世界大戦中に建造され、1970年に退役になった空母の記念の品の数々です。



ハンガーデッキを歩いていると、このような掲示板が。
ハンガーデッキの一階下の住居区を記念コーナーにしているようです。



どれどれ、下に降りてみましょうか。
しかし、あいかわらずフネの中というのは狭い。
階段の幅が異様に細いんですよ。
アメリカ人には、30センチはあるんではないかというくらい巨大な足の人がいますが、
のぼりはともかく降りるときはいったいどうやっていたんでしょうか。
日本の護衛艦に最初に乗った時も驚きましたが、アメリカの軍艦でも
全く同じ、いや、「ひゅうが」と比べるとむしろこちらの方が狭いのではと思われました。

いずれにしても太っている人間に艦隊勤務は務まらないということですね。



こういう記念館には必ず巨大なモデルシップが飾られています。
後ろ側が見やすいように鏡張りになっているので撮影者が写っていますが気にしないでね。

時計も上のコーヒーカップも、「ワスプ」の意匠入りの特別仕様。



額に入っているのは、元乗組員によるこのような詩です。


仲間の絆はたとえようもなく強い

ワスプが台風に突き上げられバンク(寝床)にしがみつきながら

彼女のフライトデッキが軋み唸り声をあげるのを自分の痛みのように聞いた


仲間の絆はさらにたとえようもなく強い

仲間にキャンバスの覆いをかけ「さようなら」とつぶやき

彼らは静かに波間へ滑り落ちていく

仲間と一緒にMOG MOGに座って「地上はどのくらい静かなんだろう」と思う時

仲間の絆は永遠に強くなる


そして今俺たちは老い、思い出に生きてる

しかしいまだに俺たちは仲間だ

俺たちは俺たちの物語を語る そしていまだに夢をみる

誰かがこう言って笑うだろう「何年も経っているのに」

しかしわれらの仲間はそれに頷き、彼らに我々の物語を語るだろう

俺たちの絆は永遠だからだ

たとえ老いて思い出の中にだけ生きているのだとしても





これもワスプの刻印を入れた銀器。
下段にはWASPと書かれた当時のキャップがあります。

それにしてもここにある「警棒」のようなものはなんでしょうか。
アメリカにも「海軍精神注入棒」に相当するものがあったのかしら。


海軍はじめ日本軍の「体罰体質」は、元を言うとイギリス海軍をお手本にしたからで、
なんと本家のイギリスでは体罰が普通になされていたそうです。
アメリカの体罰事情はどうだったんでしょうね。


映画「頭上の敵機」で、赴任そうそう仕事をバックレてバーにいる先任士官を、
グレゴリーペックがいきなり憲兵に逮捕させて、そのあと
「生まれたことを後悔させてやる!」
などと厳しすぎる叱責をするのですが、その飛行隊長は

「あなたを訴えます」

なんて言っちゃったりしているんですね。
アメリカ軍では下級の軍人が上官を訴えることもできたのか・・・・。

根性注入棒なんてとんでもないですね。

・・・・・だったら、これはなんでしょうか。



ホーネット仕様の食器。

んまあ、これなんというかオシャレじゃなくって?
お皿の真ん中が手書きでブルーに塗ってあるあたりが気が利いてるわ。
自由が丘のイデーショップあたりで買えそう。



アップにしてみるとわかる、空飛ぶ艦載機から見た海上のワスプ。
まわりに散りばめられたマークは6種類。
金の縁取りが高級感をアップしています。
高級将官用の特別仕様でしょうか。






サンフランシスコで配られた真珠湾攻撃を伝える記事。おそらく号外でしょう。
この時点で死者は6人で負傷者21人となっています。
第一報はどんな大事件でもそんなものですよね。 



艦上機のパイロットたち。
全員が航空帽を飛行メガネを着用していますから、帰投してきたばかりかもしれません。
後ろで翼をたたんでいるのはTBFアベンジャー?



おそらく艦長はじめワスプの偉い人。

後ろの壁に描かれているのは左から航空機、アイランドつまり艦橋が撃沈した艦船。
ちなみにワスプは、ウェーク島、南鳥島の攻撃を行ったことがあります。

航空機の撃墜は、艦船ほど正確ではなく、戦後になって両側の記録を比べたら
どちらも「自軍が圧倒的に勝っていた」
とするケースが非常に多いのだそうです。
我方が優勢であった!と思いたいのはいずこも同じというわけですね。
ですから、いわゆる撃墜数なども、本人がそう思っているだけで実は落ちてなかった、
というようなこともかなりあったのだろうなと思われます。




1945年の3月に艦内で行われた追悼礼拝のプログラム。

第81航空群と、216,217部隊のメンバーのため、とあります。

「彼らエアメンに、自由と正義の敵を殲滅する英雄的な仕事を賜った神に感謝する」

とか、

「彼らエアメンは、われらと共にあり、 われらを神の御意志の元に守ってくれる」

「幾人かの行方不明の者たちが、 神のナビゲーターの与えるチャートによって、
愛する者の元に戻れるように我々は心から祈りたい」

このような文の後、聖書の一節が書かれ、亡くなった26人の名前が記載されています。
艦載機が一挙に敵に(ってそれは日本軍であるわけですが)撃墜されたのですね。


 

1944年6月19日、ジャップの航空機に急降下爆撃を受けているワスプ。
だそうです。
もう普通に「ジャップ」だもんなあ。
もう少し遠慮しようよ。戦争終わったんだからさ。



ダイブしているジャップの航空機はジュディ、と書いてありますから、「彗星」ですね。
(えへん、これは覚えていたもんね)
 
・・・・・・・あれ?

1944年6月19日と言えば・・・・・・。

 マリアナ諸島侵攻作戦に向けて、南鳥島の攻撃をした、と先ほど書いたその日です。
このときにワスプの艦船は日本軍の激しい対空砲火に晒された、とありますが、
それでは先ほどの「慰霊礼拝」されていたのは、この作戦による戦死者であったと考えられますね。

 

戦時中にワスプ艦上で催された、クリスマス会・・・・・・
みたいなんですが、なぜか「戦術的進化」という副題が・・・。
ちょっとわかりにくいのですが、真中の絵は、ハチが「ワスプ」に乗って、
四つの手にボクシングのグラブをはめているのですが、
それを取り囲むのがクリスマスのリース。

パーティなのか、戦略会議なのかよくわかりませんね。
もしかしたら戦略会議ついでにクリスマスパーティもしましょうってことだったのかしら。



右はサンクスギビングの特別メニューですね。
描かれている絵は、七面鳥と、右側はカボチャです。

アメリカにいると、サンクスギビングというのが非常に重要な行事であることを実感するのですが、
必ず彼らはどんなに遠くても故郷に帰り、親族がターキーローストとパンプキンの食卓を囲みます。

故郷に帰ることを許されない将兵のために、ワスプのダイニングは腕を振るったのでしょう。

それにしても、テンプレートでも使ったのか、カボチャの大きさが変ですね。


左は、レイティング・デスクリプションつまり評価説明です。

航空兵の飛行評価だと思うのですが、肝心の評価のところ、
A.O.Mの意味がどうも分かりません。

それはいいのですが、日付が・・・・。

そう、1945年8月15日。
日本が降伏した日ですね。
戦争が終わったとは知らずに飛行評価テストをワスプではしていたってことでしょうか。



はい、戦争に勝ちましたね。よかったよかった(投げやり)

ワスプ内で配布されたアメリカ勝利のお知らせ。



あんまり調子に乗ってんじゃねえよ、と思わず毒づきたくなる、
「戦勝記念ディナーメニュー」。

戦争までしておきながら、この期に及んで中国と日本の違いがわかっとらんという・・・。






戦争が終わってワスプがサンフランシスコに帰ってきたというお知らせ。
もしかしたら、母港はアラメダの海軍基地だったのかもしれません。



帰還後港で妻や恋人と抱き合いキスをするワスプの乗員。
それにしてもこれ、1952年のことなんですよ。
戦後何年間もいったい何をしていたのか、ワスプは。

その理由が、これ。




千葉県館山にあった館山航空隊のことが書かれています。
これはおそらく 、終戦後、昭和20年の9月になって、
アメリカ軍が4日間にわたって直接占領し、本州において
唯一軍政が敷かれたことがあったのですが、そのためのチャートではないかと思われます。

8月31日にまず海兵隊の先遺隊が235名上陸し、占領部隊の主力である
アメリカ陸軍第8軍第11軍団麾下第112騎兵連隊戦闘団約3,500名その三日後上陸しました。



これも、円の中心は館山です。

 

東京湾から日本を眺めているらしいワスプ乗員。



これも日本の光景ですね。

ところでさあ。
ホーネットもそうだけど、このCV-18ワスプの先代、CV-7ワスプって、


日本軍に沈められたんですよね?


どうして、アメリカ人って、沈められたフネのことは無かったことにして、
全く語ろうとしないのかしら。
ここにメモリアルを作るんであれば、一緒に日本軍に沈められた先代ワスプのことも
すこしは触れてあげましょうよ。


CV-7は、1942年の9月に、伊号19の魚雷3発で海の藻屑と消えてしまいました。
そういえば、かわぐちかいじのSF戦記マンガ「ジパング」では、ワスプを沈没させたのは
伊潜ではなく、護衛艦「みらい」のトマホーク一発だということになってましたね。

詳しいいきさつは忘れましたが(おい)、伊19に乗り込んでいたのが、滝少佐だったような。

水雷長の菊池二佐が、沈みゆくワスプを凝視しながら、

「たった一発であの巨大なワスプが・・・。
きっと中には脱出できなかった人間が百人、いや千人単位でいたかもしれない」

といいながら茫然としていましたっけ。


しかしながら実際はもっとすごくて、伊19号は、この時航空母艦に対して撃つことを許されている
最大限の魚雷数6本を(律儀に国際法を順守して)撃ち、そのうち三つが命中。

しかも。

ワスプを逸れた残りの3発のうち一発は10キロ先を航行していた戦艦ノースカロライナに、
もう一発は駆逐艦オブライエンに命中し、オブライエン大破沈没、ノースカロライナは
修理に6か月を要したそうです。

なんと、命中確率6分の5。

「みらい」のトマホーク(巡航ミサイル)より伊19の水雷長の方がこの場合優秀だったってことですね。


 

NIKON1で撮るシリコンバレーの小鳥(カフェ駐屯部隊)

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などというタイトルをつけると、まるでNIKON専属のカメラマンみたいですが、
もちろんこれは見てその通り、ニコン1で撮ったというだけの映像です。



ここシリコンバレーマウンテンビューにあるベイショアパークは、
何度かお伝えしているように自然保護区域なので、大きなカメラを持ち込んで
本格的に写真を撮っている人がたくさんいます。

わたしも、ここに来るときには必ずデジカメではなくこちらを携え、
あわよくばナイスショットを、と思うのですが、たとえば前回のペリカンも、
実際のところかなり遠くの被写体を狙うことになるので、どうしても
ナショナルジオグラフィックのような写真にはなりません。当たり前ですが。




こうなると欲が出て、「もっと倍率の高いレンズが欲しい・・・」
となり、人間の欲望のメカニズムを端的に見る気がしていたものですが、
最近ついにその欲望に負けてしまい、
空挺団降下始めのときに望遠レンズを買ってしまったのはいい思い出。


さて、ここにはこれも前回お話ししたヨットスクールのあるクラブハウスがあって、
カフェが併設されています。



レイクサイドカフェ。
ここは前年来てクロワッサンが美味しかったので感激し、
何度か訪れて野菜たっぷりのサラダとともに朝ごはんを楽しみました。

TOが休暇でやってきたときにここで食べるのを楽しみにしていて、
さっそく朝の散歩かたがた寄ってみたのですっが、どういうわけか、
サラダがメニューから姿を消し、卵とハムとか、そういう
「普通のアメリカ人の朝食」メニューに変わってしまっていました。

余談ですが、アメリカ人って、本当に「野菜だけ」を食べないんですよ。
日本のホテルの朝食バッフェでは当然のようにある生野菜のサラダ、
これがアメリカではめったに見られません。
さすがに夜になるとバッフェにはシーザーサラダみたいなのを並べますが、
朝はかたくなに野菜を食べようとしないのがアメリカ人。
かれらにとっては「フルーツジュース」が野菜がわりのようです。

ポテトフライ食べて「今日は野菜食べたから大丈夫」なんて言ってる人達ですから。

それで、ここのカフェでもメニューからなくしてしまったのではないかと。
かなりがっかりしましたが、クロワッサンとカフェオレという、
フランス式の朝ごはんで我慢することにしました。




うーん。クロワッサンの味が少し落ちたような・・・・。
いや、気のせい気のせい。
カフェオレもミルクの量が少なすぎて異様に苦いし・・・。
これも多分気のせい気のせい。

最近歳のせいか?濃いコーヒーが「しんどい」と感じるようになってしまって、
めったにコーヒーを飲まないのですが、これだけ苦いと問題外。
何口か飲んであとはギブアップしました。

 

とはいえ、色とりどりの花が咲き乱れる湖畔のカフェで、
水面に遊ぶ人々を眺めながらゆっくりと朝のひと時を過ごすのが
楽しい時間でなくてなんでしょうか。

爽やかな風に吹かれながらクロワッサンを味わっていると、



足元にいつものテリムクドリモドキが。

 

カフェの横の草地には、このようにむくどりもどきとグースが共存していて、
ケンカすることもなく平和に暮らしています。



まるで放牧場のようなグースの集団。

座り込んだまま餌をついばむ不精なグース。

一本足で立っていることもあるのですが、
このように片方を地面にたらすこともあるようです。
こっちを見て「何撮ってんのよ!」と文句言いたげなグース。



カフェ駐屯部隊の鳥たちのお目当ては、外のテーブルの客がこぼしたパンのかけら。
これは隣の一人で来ていた女性のテーブルで、じつはまだ座っています。
コーヒーカップがないのは彼女が今飲んでいるからで、
目の前に鳥がやってきても追い払わないため、だんだん調子によって
テーブルに大集合してきています。





隣のテーブルのマフィンの包み紙をつつく鳥。

むくどりもどきとは別の種類のカフェ駐屯部隊偵察兵。
下のテーブルに客が付くなり、伝令に走り、仲間が集まってきます。



ふと視線を感じるので横を見ると、じっと見られていました(笑)



テリムクドリモドキといつも一緒にいるため、勝手に「雌認定」している茶色い鳥。
いまだに種類が判明しません。



そばの椅子に座って物言いたげにひたむきな視線を投げかけられると、
日本に残してきた「すずめ食堂」のすずめどものことが思い出されました。

「いまごろどうしているのかな」
「もう忘れてるんじゃない?鳥だし」
「餌が無くなってもしばらくは探しに来てたんだろうねえ」
「ダメ押しで猫がテーブル占領したから、もう来ないと思うよ」

そんな話をしながらも、ついついかけらを下に落としてしまうわたしたち。


「鳥には絶対にエサをやらないでください」
と立札まであるというのに、期待されるとこういうことをしてしまうんですね。

ちゃんとした餌でもダメなのに、こんなバターたっぷりのクロワッサンのかけらや、
砂糖たっぷりのマフィンのくずをやるのはもっといけないことだと思うのですが・・・。




この鳥さんはしかも、片足が使えないようでした。
片足でしか立てないので、じっとテーブルの上で待機。

まさかこれ、糖尿病(鳥の)とかじゃないよね?

気のせいか、ここに常駐しているらしい鳥さんには「足腰の立たなさそうな」
つまり、生きている虫などをとらえる能力のなくなったものが多いような・・・。

我々としては鳥が糖尿病になるほど餌をやったわけではなく
量的にも彼らの期待に添えたとはとても思えないのですが、
ふとカフェの隅にある「食器置き場」に目をやると・・・
 

鳥その1。

鳥その2。



その1その2配置図。

下げられたお皿の一時置き場のごみを漁っているんですね。




人間が温情でパンくずをやらなくても、勝手にごみを漁っているのでした。

ところで、夏の間休業していたすずめ食堂ですが、帰って来て少ししてからふと思い立って、
お皿にお米を入れておきました。
驚くことにお米は一ヶ月以上手つかず(すずめだからくちばしつかず)で放置され、
雨風にさらされたので、仕方なく廃棄することになりました。

その後、例のネコが遊びに来たので煮干しをやったりしているうちに、
さらに危険ゾーン認定されてしまったようです。

すっかり諦めたまま、いつの間にか年が明けてしまいましたが、
先日ふと思い立って冷蔵庫の中の賞味期限切れのごまをおいてみました。
優秀な偵察隊の斥候が気づくのは何日目か、今観察中です。

というか、すずめって、ごま、食べるんでしょうか。






 

女流パイロット列伝〜ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」

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ボストンの離れ小島、マーサス・ヴィニヤード。

「マーサのブドウ園」

という名前を持つケープコッド近くのこの島は、国内の著名人が多く住み、
生活費は国内平均の60%高く、住居費はほぼ国内平均の二倍。

ジェームス・テイラー、ポール・マッカートニーなどの住人や、
クリントン夫妻のように夏の間だけの住人となる有名人は枚挙にいとまがありません。

ケネディ家の別荘があり、かつてエドワード・ケネディが事故を起こしたり、
JFKの息子ジョンの操縦する小型機が墜落したり、
あるいはジョン・ベルーシの墓があって墓参りする信奉者が住民の不興を買ったり、
何かと派手な事件や話題にもことかかない島です。

わたしはここに一度遊びに行きましたが、エドガータウンは見事に統一された雰囲気の
「白い家」ばかりで、おそらくこれは住民の間で暗黙のルールとして決められた色なのだろうと
感心しながら話し合ったものです。
町中がそのようなセレブリティの矜持と排他性を感じさせる空気に満ちており、
美しくはあるが決して「よそ者」を受け付けない町、そのような印象を持ちました。


1976年、このセレブリティの住む町で、一人の女性が亡くなりました。
ナンシー・ハークネス・ラブ。
本日画像は彼女の写真をもとに制作しました。 

今まで何人かの女流パイロットをモデルに漫画タッチで描いてきたのですが。
この画像では、実は目の大きさ以外ほとんどデフォルメしていません。
細面の顔、くっきりした二重まぶたは、ほとんど写真の通りです。
いや、実に漫画的な美貌でいらしたようですね。

あまりこの図からは想像できませんが、彼女はエアフォース・オフィサー。

タイトルはルテナント・コロネル、つまり空軍中佐です。
彼女は、先日エントリに挙げたジャクリーヌ・コクランと並んで、
最初に米軍軍人となって空を飛んだ女流飛行士でした。



ナンシーは1914年、ミシガン州の裕福な医師の家庭に生まれました。
ニューヨークの名門女子大
ヴァッサー・カレッジとマサチューセッツ・ミルトンアカデミー
に学んだ「才媛」でしたが、早くから飛行機に憧れ、
16歳の時には飛行機の免許を持っていました。

どうもいたずら好きのお転婆だったらしく、ミルトン在学中のある日、飛行機で
近隣の男子校の上空を「急襲」し、低空飛行でグラウンドの上を飛び、
チャペルを避けるために急上昇などをして皆を驚かせています。

びっくりしてこの若い女性の「狼藉」を観ていた一人が機体のナンバーを書きとめ、
近隣の空港に通報して、誰が操縦しているかが突き止められました。

皆の注目を浴びていい気持ちで学校に帰ったナンシーを待っていたのは学校関係者。
しかし、彼らは彼女が飛ぶことをやめさせることはできませんでした。

確かに学校側は当時、生徒の車の運転を固く禁じていましたが、
「飛行機を操縦しないこと」というルールはどこにもなかったからです。

彼女はしかも後年、ミルトンの学生に飛行機を貸してそれで商売までしています。
ミルトンはどうやら「飛行機操縦禁止」を彼女の「飛行問題」以降も
学校の規則に加えることはしなかったようですね。



1936年、彼女は当時陸軍航空隊の少佐であったロバート・ラブと結婚します。
プリンストンとMIT(マサチューセッツ工科大学)というこちらも名門校の卒業生でした。

それにしても、「LOVE」という名前が存在するというのには少し驚いてしまいますね。
映画「タイタニック」に、「ラブジョイLovejoy」という名前の人物がいましたが、
これはそのものズバリです。

この結婚によって彼の名前に変わったナンシーは、後に三人の娘を設けました。

パイロット同士の夫婦は、共同で飛行機会社をボストンに設立し、
彼女は自社のテストパイロットとして飛び、会社は受けに入ります。

1940年5月、彼女は陸軍航空隊の輸送部隊を設立したロバート・オールズ中佐に、
女性パイロットによる航空機輸送部隊を作ることを提案する手紙を書きます。
次いで彼女は49名の、飛行時間を100時間超える女性パイロットをリストアップし、
それを提出しましたが、オールズ中佐の上官ハップ・アーノルド准将はこれを却下。

理由は、どうやら、彼女たちに向けられる世間の偏見を体面上気にした、というところです。
「同性愛者か、そうでなければ商売女のようなあばずれの集団」
と言われるようでは、軍にとっても面子は丸つぶれだと考えたのでしょう。
(これはとりもなおさず、彼自身の偏見であったということなのですが)

しかし、意外なところから活路は開けます。
真珠湾攻撃以降、彼女の夫はワシントンの任務に転勤になり、彼女もそれに付き従うのですが、
会社のオフィスはボルチモア州のメリーランドにあったため、毎日そこまで自家用機で通勤しました。

そんなある日、夫のロバートが、輸送部隊のロバート・ターナー大佐と(どうでもいいけど、
この話の登場人物はどうして名前が皆ロバートなのか)雑談していました。
以下エリス中尉の妄想です。

「グッドモーニング、サー」
「モーニン、ボブ。毎日時間に正確だね」
「はあ、うちの家内の通勤の関係上、家を出る時間がいつも早いもので」
「ああ、会社を持っていたんだったな。それが遠いんだね」
「ええ、ボルチモアです」
「What a heck! そんな遠くまで毎日列車通勤しとるのか」
「No way! (笑)飛行機ですよ。彼女が自分で操縦していくんです」
「Holy Moly! なんだって?ユアワイフは免許を持っているのか」
「持ってるなんてもんじゃありませんよ。彼女はうちのテストパイロットです」

「・・・・・・・・ボブ、その話をもう少し詳しく聞かせてくれないか」

ちょうどターナー大佐は運輸専門の人員を集める任務にあたっていたからですが、
さらにナンシーのパイロットとしての技術を確かめるに従い、彼女が当初立案した
「女性だけの輸送航空隊」を本格的に始動させようと動きます。

パイロットを集めるのも彼女の仕事でした。
そのリクルートに当たって、彼女はパイロットたちにくれぐれも世間の目を気にするよう、
たとえばこんなことを言っています。

「WAFSが成功するもしないも、あなたたちが世間の偏見をはねのけられるかどうかです。
くれぐれもスキャンダルだけは起こさないでください。
男性パイロットと同乗することも避けるように。
WAFSが男性と一緒に飛んでいるところを世間が見たら、それはきっと
公費を使って一緒に部屋で過ごしているようなものだと思うからです」

今から見ると、考えすぎだよ、という気もしますが、もともと計画が立ちいかなかった原因を
彼女はよく認識しており、そのリスクをできるだけ排除したかったのでしょう。

それでなくてもマスコミと世間の彼女たちに対する注目は大変なもので、
ナンシー・ラブのことは

「今最も注目されている『脚の美しい六人の女性のうちの一人』」

などという揶揄交じりのセンセーショナルな記事がライフに載ったくらいでしたから。

これからわずか数か月後、

女性補助輸送部隊(Women's Auxiliary Ferrying Squadron)
WAFSが誕生し、ナンシーはその部隊29名の隊長として任命されます。


前回お話ししたジャクリーヌ・コクランは、
いわばナンシー・ラブの「ライバル」と見られていました。

二人が女子航空輸送部隊の設立を、しかも同じオールズ中佐に訴えていたのは、
その経緯を見る限りどちらが先かはわからないのですが、
コクランがルーズベルト大統領夫人に手紙を書いたというのが40年の9月。

どうもわたしはこのコクランという女性の、特に前半生は、妙に功名心だけが先走っているせいか、
「女子部隊設立」に動いたのも、どこかでナンシーのことを聴きつけた彼女が、

「彼女が失敗しても、わたしならきっと成功させられるに違いない。
なんといっても夫は富豪の名士だし、ルーズベルトとも知己があるのだから」

と競争心を燃やしたのではなかったかと思えて仕方ありません。

しかし、同時に二人の有名な飛行家が同じ土俵に立った結果、
結論として陸軍が最初に「顔として採用した」のはエリート軍人を夫に持つラブでした。

これは、どうやらコクランにとっては屈辱であったらしく、
WAFSの初代司令がラブに決まったということを聞いた途端、
それまでイギリスで現地の女子航空部隊を視察して、帰国したばかりであった彼女は
すぐさま再びイギリスにもどっています。

そして、さらにイギリスで巻き返しを図り?、帰国後は別の女性部隊
女性飛行練習支隊(Women's Flying Training Detachment)、
通称WFTDを作り、めでたく?その司令となったのでした。

よかったですね(棒)


陸軍という男の掌の上での二人の女の戦い、みたいな構図ですが、
彼女らがお互いについてどう思っていたのかについて記されているものはありません。

1943年にはコクランとラブの二つの部隊は統合され、
空軍女性サービス・パイロット(Women Airforce Service Pilots)
WASPになります。


ナンシー・ラブは、WASPの輸送部隊のヘッドとなり(本日のタイトルはここから付けました)
その指揮下で、第二次世界大戦中アメリカ軍が使用した航空機のすべてを
1944年の解散までの間に輸送する任務に携わりました。

ちなみにラブが輸送にフォーカスしたので、コクランがWASPの司令になっています。

あくまでも動機は「地位と名声」であったコクランに対し、ラブの「女子部隊創設」は、
純粋に飛行家として自分ができることを追求した結果だったという気がします。
(わたしがコクランに点が辛いことを考慮してお読みくだされば幸いです)


あくまでも現場で飛ぶことにこだわったラブは、
P-51ムスタング戦闘機、C-54スカイマスター輸送機、
そしてB-25ミッチェル爆撃機を操縦した最初の女性となりました。

戦闘には決して加わらない、という前提で創設された女性部隊ですが、女性飛行士の効用は
こんな点にもありました。

つまり、女性特有の慎重な操縦によって、未知の、あるいは評価の決まってしまった航空機さえも、
安全に乗ることができるということをデモンストレーションできたのです。

ターナー中佐によると、

「男性パイロットに『空飛ぶ棺』と言われていたP-39の評価を変えたのも
彼女たちによるところが多い」

ということです。

とはいっても、やはり女性の輸送部隊を戦時中に運用することは、何よりも
もし敵機に彼女たちの機が撃墜された時に巻き起こる非難を恐れて、
軍の上層部はそれを積極的に推し進めることは結果的にできませんでした。


英国から要求されているイギリス内地へのB-17の輸送を行うことになった時です。
ターナー大佐は、ナンシー・ラブにそれを行う最初の女性になることを命令しました。

彼女と副操縦士がセットアップをしているときに、ある人物がこの話を聞きつけました。

最初に「女子部隊なんて」とこれを排除した、ハップ・アーノルド長官です(笑)

まさにエンジン始動をしようとしていたラブは、タキシングの停止命令を受け、機を止めました。
翼の下に走ってきたジープから、長官命令を書いた紙が彼女に渡されました。

"CEASE AND DESIST,
NO WAFS WILL FLY OUTSIDE THE CONTIGUOUS US"

「停止せよ WAFの海外への航行はない」

初めての女性飛行士によるB-17離陸の歴史的瞬間を写真に収めようとしていたカメラマンは、
不承不承B-17から降りてきた二人のパイロットの写真を撮るしかなかったのです。

このB-17のニックネームは、奇しくも「クィーン・ビー」と言いました。

ナンシー・ラブ(左)とベティ・ギリーズ

戦後、彼女と彼女の夫は戦時中の功績に対し、同時に軍から殊勲賞を授与されています。



さて、月日は流れて1976年。
もう一度舞台はマーサスヴィンヤードに戻ります。

戦後、公的生活を退いてからこの島で三人の娘を育て、彼女は穏やかな生活を送ってきました。
現役を離れてもWASPにいたときの部下たちは彼女を慕い、生涯の友となった者もいます。

彼女が亡くなった時、かつての「クィーン・ビー」は62歳。死因は癌でした。


その遺品の中には、彼女が30年に亘って手元に置き続けた小箱がありました。
そこには、かつて彼女が司令として指揮を執り、その命令遂行中殉職した、
WASPの部下たちの写真が何枚も収められていたそうです。
 






空母ホーネット乗艦記〜飛行甲板

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お正月明けに映画「ハワイ・マレー沖海戦」について集中してエントリを上げたため、
いつの間にか空母に詳しくなってしまった(当社比)エリス中尉です。

空母と言えば、わたしは昨年夏、アメリカで実際に空母に乗って来たんだったわ。
映画の空母について書くときに、一度たりともこのことを思い出さなかったのは残念。

このときに参加した艦橋ツァーでも、結構色んな話を聞いたような覚えがあるのだけど、
いかんせん早く記事にしなかったせいで記憶も薄れがち。
というわけで、一念発起してまたホーネットについてお話しようと思うのです。



というわけで久しぶりなので、フネに入っていくところからもう一度。



通路の扉が閉まっていても金網にしがみついて忍び込む輩防止。
そんなやつ、いるか?と言う気もしますが、ここはアメリカですから。

高校生が幽霊が出るという噂のホーネットに夜中入り込んで
「肝試し」したりするかもしれないですしね。アメリカですし。



空母の広大さは、艦橋がこんなに小さく見えることからもお分かりいただけますでしょうか。





飛行甲板に上がっていこうと思えば、皆がこのエスカレーターに乗ります。
展示にあたって作られたのか、あるいは元からあったのかはわかりませんでした。



Lockheed S-3B Viking


以前、飛行甲板のことを書こうとしたら、ヴォート社の社運をかけた「クルセイダー」、
F−8につい入れ込んで(笑)一項を割いてしまったわけですが、
今日は我慢してさくっと紹介するだけにします。

ロッキードS−3Bバイキングは、4席の双発ジェット機で、
海軍の対潜追跡用として開発されました。

イラク戦争のとき、ブッシュ大統領がUSSアブラハム・リンカーンに着艦した
VS−35バイキングのCOパイロット席から降り立ち、
イラク戦争の主要な戦闘の終了を宣言する言葉として

”ミッション・コンプリート”(任務完了)

と言う声明を出しています。

軍用機がこのように使用されるとき、アメリカ海軍では慣習的に大統領のコールサイン、

「NAVY 1」

を使用します。
「ネイビー1」。なんか映画になりそうですね。
ブッシュはおそらく自分のこの演説が歴史に残ると踏んで色々考えたのでしょうが、
そもそもイラク戦争はブッシュと愉快な仲間たちによって仕掛けられた「やらせ」
であったという印象があまりにも強く、この言葉もアメリカではともかく、
歴史に残ると言うほどのインパクトを持たなかったのはざまあ、いやお気の毒です。



お、テキサンか?

と思ったら違いました。
これは

T-28 TROJAN North American

テキサンに似ていると思ったら、初等練習機として後継型であるとわかりました。
空軍だけでなく海軍も導入していたようです。

トロージャンは「トロイ人」の意。



トロージャンの後ろからアラメダの埠頭を臨む。
こちらが艦首方向になります。
海上に見えるのは高速道路です。

この埠頭は昔は海軍基地があったので、要所要所に施設らしき建物が放置されているのですが、
全く壊してその後に何か作ろうという気がないようで、地域一帯がゴーストタウンみたいでした。
施設しか無かったので人の住むような環境とはいえず、再利用のしようがないのでしょう。

バス停も無く、車でないと移動は不可能で、舗道を歩いている人間など一人も見ません。
こんなところでも土地に余裕のある国は違うなあと感心してしまいます。



SH-2 Seasprite

Anti-submarine & anti-surface threat Helicopterつまり、
対潜&対艦ヘリとして生まれたのですが、そのうち、
哨戒&救助ヘリとして使用されました。



艦内の航空機は全て定期的にメンテナンスが行なわれていますが、
破れた窓まで修理することはご予算の関係でしない模様。
大きな透明のテープを貼って雨風をしのぐつもりが、
あっという間に破れてしまっております。



これは・・・・ファ、ファントム?

メンテナンスの途中かと思ったら、ネットで見つけた三年前の他ブログ記事写真でも全く同じ状態でした。
どうも全く何かをしようというつもりもないままにここにあるようです。

F−4 Phantom II

この飛行機が開発された頃、アメリカは宇宙計画のみならず航空に於いても
ソ連と張り合ってあれやこれやと新記録を出そうと躍起になっていました。
映画「ライトスタッフ」についてもかなり入れ込んで書いたのですが、
このときに映画で語られた「宇宙計画」並びに「テストパイロットの挑戦」は、
いずれもアメリカの「国威発揚」としての事業であったと言えましょう。

競争の構図というのは国内にもありました。
これも「ライトスタッフ」で仄めかされていたことですが、
空軍と海軍も当時お互いこの記録競争にしのぎを削っていたのです。



制動性能の優れたファントム IIはそのテストに引っ張りだこだったそうです。
このころ行なわれていたテスト(つまり空海対決)にはこんな名称までがついていました。

● トップ・フライト・・・高度記録。
   このときに出た最高高度は31,513km。

● LANA計画・・・・アメリカ大陸最速横断記録。
 最短時間は2時間47分。

● セージバーナー・・・3マイルの区間をマッハ1以上の平均時速で飛ぶ。

●ハイジャンプ・・・指定された高度までの上昇による到達時間を競う。


こんなことを一生懸命やる民族って、世界でもアメリカ人だけじゃないかしら。
日本人はこういう「性能への挑戦」より、技術の昇華を極める方に向かうように思います。

これらの計画で、両軍ともにテストパイロットの殉職も出しているわけですが、

「にもかかわらず挑戦する」

というのが彼らアメリカ人のフロンティアスピリッツみたいなのをくすぐるんでしょうか。


ちなみに、ファントムII はブルーエンジェルスの機体に使用され、
これで日本にも一度来ています。
しかし、付近住民の騒音に対する苦情が殺到したため(おい・・・・)
メンバーは激怒し、

「二度とこんなS●●Tな国になんか来てやるか!」

と言ったとか言わなかったとか。
おそらくそのせいで、ブルーエンジェルスの演技はその後一度も日本に来たことはありません。

住民のクレームなんかわざわざパイロットに伝えるなよ、と思うのですが、
日本の組織ってそういうところは律儀だからなあ・・・融通が利かないというのか。



ブルーのシャツを着ている子供たちは、幼稚園の「フィールドトリップ」、
小遠足で、男女二人は一人は先生、一人は親の付き添いでしょう。
(アメリカの幼稚園や小学校では、こういうとき親の付き添いを募ることがある)

アメリカの幼稚園で制服のあるところはおそらく存在しませんが、
園外にお出かけするときだけは、園児であることが目立つように、こういうお揃いの
Tシャツやバンダナを身につけさせ、それには幼稚園の名前が書いてあったりします。

ネイビー色のトレーナーに黄色いシャツの男性はここの解説員。
団体で来る見学者には、申し込んでおけば解説員がついて案内してくれます。

向こうには以前熱く語ったクルセイダーが。

というか、幼稚園の遠足で軍艦を見ちゃったりするのねアメリカっていうところは。
この日、学校の遠足らしき子供の団体を他にも見ましたし、
(日系アメリカ人部隊のトリビュートされた部屋で会った)
こういうことに目を見張ってしまうのって、わたしも日本人なんですね。



ふと上を見ると、艦橋に人影。
一日に何度か行なわれる艦橋ツァーの人々です。
ちょうど見えているベースボールキャップの男性は、これもボランティアの解説員。

このツァーには、この次の日参加したので、また別のエントリでお話しします。



USAと書かれたTシャツ、ショートパンツに大きなお腹。
ある意味、典型的ともいえるアメリカ人のスタイルです。

彼が眺めているのはアイランドへの通路のある壁にかかれた
「空母に於ける最初の、そして最後の注意事項」。

「ジェット噴射と回転翼に注意」




アイランドにはこのようなカラフルな洋服が干してあります。
レインボーカラーってことは、あの手の趣味の旁(かたがた)への配慮?

ではなく、ホーネットでは、勤務する部署によって「カラー」が決まっていました。
ひと目で役職を認識するための配慮です。

青・・・・プレーン・ハンドラー、航空機用エレベーターの操作員、
     トラクターのドライバー、メッセンジャー、電話交換手

緑・・・・カタパルト操作員 航空機メンテナンス 貨物操作、
     着艦ロープのフックを渡す係、写真班のアテンド ヘリ着陸誘導係


黄・・・・航空機操作士官 カタパルト操作士官 航空管制官

赤・・・・砲手 墜落機サルベージ係  爆薬処理班

茶・・・・航空士官と着艦誘導下士官

紫・・・・航空燃料係

白・・・・飛行中隊監査 航空機移動士官 安全確認係 医療班 着艦合図士官


紫の燃料係は「グレープス」と呼ばれていたそうです。



茶色、すなわち着艦誘導士官のヘルメットには大きなイヤフォンがついています。
勿論轟音から耳を守るためなのですが、日本軍の整備員がこのようなものを
しているのを見たことがありません。

彼らはかなりの確率で難聴になったのではないかと心配になりますが、
・・・・それどころではなかった、ってことでしょうか。



サンフランシスコのダウンタウンを一望。
手前に見えているのがベイブリッジです。



ツァーの始まるのを待っている間、身を乗り出してホーネットの砲座を撮りました。
この砲座は両舷に位置し甲板より一階下にありますが、ここに行くのにはさらにもう一階下から。

のんびりしたこの光景からは想像し難いのですが、実はこの砲座は、
そしてホーネットは、我々日本人に取って複雑な思いを抱かせる「戦果」を上げています。

1944年6月、マリアナ沖海戦で、のちに「マリアナ沖の七面鳥撃ち」という屈辱的な名で呼ばれる
日本軍機の多数撃墜、それを補助したのが何を隠そうこの5インチ砲でした。

6月11日、このときホーネットはテニアンとサイパンへの攻撃をまず行ないました。
翌12日にはグアム及びロタ島への爆撃。
6月15、16日には硫黄島および父島日本軍基地への攻撃を行っています。

マリアナ沖海戦でまたホーネットの艦載機は、日本の空母艦載機が到来する前に
地上基地の航空機をできる限り破壊するための攻撃を行いました。

ベテランが次々と失われていた日本軍において、その殆どのパイロットは若く経験不足でした。
対するアメリカ空母艦載機のパイロットはベテランばかり。

というわけで日本機はほとんどが撃墜され、後に
「 The Marianas Turkey Shoot」と語られたのです。



しかし、このホーネット自身名前をついで8代目となりますが、
先代ホーネット(CV-8)は、1942年10月、南太平洋沖海戦で戦没しているのです。
このフネは当初「キアサージ」として作られていましたが、
ホーネットが沈んだため、急いで「ホーネット」に名称を変えられました。






着艦誘導のためのマーカー塔(と言うのかどうか知りません)
かつてわたしは、この左に見えている丘陵地帯の向こうの市に住んでいました。



着艦誘導のための「うちわのようなもの」(元母艦パイロットによる表現)。
たかがうちわのくせにすごく凝った造りなんですが、これは
風の強い甲板で振るので動きに支障がないように、風が抜ける造りになっているようです。

ここまで気配りされているとは・・・。
日頃大雑把なアメリカ人ですが、こういうところは神経質なくらい工夫をします。
良くも悪くも極端なんでしょうね。



アイランドツァーのときの写真ですが、入ったところにこんなポスターが。

空母の艦載機がどのように甲板に出され、離着艦するのか図解で説明しています。



そういえばこんなものも展示されていました。
航空機が甲板に着艦するときに機体のフックを引っ掛けて行き脚を止めるロープです。



前述の旧海軍の母艦パイロットは、確か日本の航空母艦では、着艦ロープは張られていて、
ロープの端の器具を両端で立てることでフックに引っかかり易くなる、
と言っていたように思われますが、やはりアメリカとは若干システムが違うようです。

緑のジャケットを着た「フックランナーズ」という係が、その都度ロープを両側からコネクトさせています。



実はこれらの写真を撮っていたのは、アイランド・ツァーが中々始まらないため、
時間潰しをしていたのでした。
同じツァー参加者の人たちが甲板を歩き回る元気もなく座り込むようになった頃、
悠々というかんじで、というかもったいつけて解説員登場。

どうしてこの解説員がこんなに偉そうに遅れてくるのかというと、
おそらく彼がホーネットのベテラン、つまり実際にここで勤務していたからであろうと思われます。

さて、彼が集合場所に向かっているので、わたしたちもそちらに向かいましょう。
 



 

エリス中尉名誉の負傷により一時前線撤退

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当ブログ読者の皆様方へ

 

本人事故による負傷につきブログ更新を暫くお休みさせていただきます。

二階級特進には至りませんでしたがタイピングに支障をきたす程度には重傷でした。

音声入力か左手だけのタイプしかできないため一ヶ月くらいはエントリ製作できませんが、

その間書き溜めてあったエントリを少しずつアップしていきます。

コメントへのお返事は滞るかもしれませんがなにとぞご了承ください。

事故についての詳細は前線復帰のあかつきにさせていただきますので、

どうぞお楽しみに(自虐?)お待ち下さい。

エリス中尉 拝

御礼ならびに事故ご報告少しだけ

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当ブログ読者の皆様方へお知らせ 続き

音声入力での書き込みをしております。

皆様に暖かいご心配のお言葉をいただき、決して修辞的表現ではなく涙にむせんでおります。

諜報部からの情報の錯綜により、先日の雪で転倒し、骨折に至ったと一部では伝えられているようですが、

腐ってもエリス中尉を名乗る身、

転んで骨折したことが年齢とともに新聞沙汰になるような日に

わざわざ好んでそのような危険な作戦を展開する愚は犯しません。

簡単に申しますと乗馬中の事故で、手綱なしの練習中、

馬が自然現象に驚き、立ち上がって暴れたそうです。

直後は気を失っていたせいで記憶がなく、後から聞いた話ですが。

 

 

 

明日は手術です

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読者の皆様方へ

乗馬クラブオーナーの運転で自宅まで帰って来て、

生まれて初めて119にコールし、自分でも初めて救急車に乗ったエリス中尉です。

救急隊員に状況を聞かれたものの、全くそのときの記憶がないのに愕然としていたら

同行してくれたオーナーが代わって説明してくれました。

「ヘイリー(そのときのコーチ)が言ってたんですか」と聞くと、

なんと馬場まで乗り入れた車に自力で乗り込んだわたし自身がしゃべっていたとのこと。

こわい。

人間の脳っていざとなると痛みとか恐怖をすっぽりそこだけ排除してしまうんですね。


次の日レントゲンで要手術かどうか判断していただき、侍医、じゃなくって主治医に

「手の外」専門医、つまり音楽家の手の外科手術をおやりになる先生をご紹介いただきました。

これでピアノが弾けなくなるのは当方ちと、ではなくかなり困りますので。

最近話題の偽作曲家みたいに障害を売り物にする方も世の中にはおられますが、

(わたしは今回騒動になって初めて知りました。テレビで見ていたら大笑いしていたでしょう。

ゴーストライター以前に、いかにもNHKのやりそうな感動お涙頂戴の胡散臭い番組じゃないですか) 

ピアノが弾けなくなるくらいは世間的には障害とは言えないし、

そもそもピアノがはなから弾けない作曲家はわたしの恩師始め結構いますしね。(ちょっと時事ネタ)


というわけでエリス中尉、外科手術で完璧に折れてスライドしてしまっている骨を元の位置に戻し、

切断部をチタンで留める手術を受けることになります。

これも生まれて初めての外科手術体験で今からワクワク、とまではさすがのわたしもいいませんが、

せめてブログネタくらいにはしてやろうと転んでもタダでは起きない構え。

転んでもっていうのが文字通り過ぎてシャレになってませんけど。

とか書いていたら早速コメント欄でmizukiさんに叱られました。


手術は明日です。

それでは皆様方、往ってきます。


♪ 讃えて送る一億の 歓呼は高く天を衝く 

いざ往け つはもの 日本だ〜ん〜じ〜 ♪ (BGM 出征兵士を送る歌)

 

業務連絡:次回ブログ更新は2月14日、バレンタインデー記念として、

陸軍落下傘部隊のパレンバン降下作戦をテーマにお送りします。 

 


 


空挺館〜パレンバン降下作戦

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ところで、大東亜戦争中日本軍が行なった空挺作戦のうちでも
落下傘を使用した急襲作戦は何回行われたかご存知ですか?

メナド、クーパン、パレンバン、レイテ。

陸海軍ともに二回ずつ合計4回です。

ここ空挺館は陸軍の空挺隊が前身となっている陸自が管理しているため、
海軍落下傘部隊については誠に残念ながら申し訳程度にしか触れられていません。
戦前戦中ならともかく今は陸海の垣根を越えて、同じ落下傘部隊の
海軍の二つの降下作戦に付いても展示するべきだと思うのですが・・・。

それはともかくここでは、陸軍の降下作戦、ひいては空挺作戦についてが、
作戦に携わった将兵の遺品も含めて展示説明されています。


それではここの展示写真とともに、陸軍の落下傘降下作戦である
パレンバン降下作戦からお話ししましょう。
今日2月14日は、この降下作戦が実地された日でもあります。



そもそもどうして陸海軍ともに降下作戦を選択するに至ったのか。
パレンバン作戦は、陸軍参謀本部が、まだ落下傘部隊が出来る前から
ここにある大規模な精油所を確保することを目標に計画されていました。

川をさかのぼる方法でオランダ軍に侵攻を察知されれば
精油所は破壊されてしまう怖れがあったため、ここで落下傘を使った
降下作戦が模索されたのでした。

前回、藤倉航空工業という会社が24時間態勢で女子挺身隊による作業を行い、
空挺作戦に間に合わせるために落下傘を製作した、という話をしましたが、
参謀本部にとっての第一の懸念は、作戦発動までにいかに早く準備が整うか、
ということだったということが、この件からも窺えます。

映画「空の神兵」は、1941年の12月に撮影されたものであることが分かっていますが、
驚くことに、陸軍が第一挺進団を動員したのが12月1日付け。
12月19日には、第一挺進団から挺進第一連隊が輸送船で日本を発っているのです。

つまり第一連隊はわずか18日の訓練後、実戦に投入されようとしていたことになります。

しかし、彼らの乗った船は航行中火災を起こし、沈没してしまいます。
このとき、護衛には海軍の駆逐艦が就いており、全員を救出したのですが、
肝心の落下傘、そして武器などの必要品は全て失われてしまいました。
そこで、まだ編成作業中であった第二連隊をすぐさま派遣することが決められます。

陸軍はこれらの作戦準備の段階から後の宣伝のことまでちゃんと計画していたらしく、
映画「空の神兵」は第一連隊の開隊の訓示から始まっています。

わたしはこの映画について書いたエントリの最後を

”このとき初降下を果たし、喜びに顔を輝かせた兵たちが、
その後過酷な訓練に耐え、1943年2月14日のパレンバンの空を
「純白の花負いて」舞い降りたのでしょうか。”

とかっこよくキメてみたのですが、どうやら違ったみたいですね〜。

残念ながら降下作戦参加の栄誉を第2連隊に譲ったかれらは、
パレンバン降下作戦が戦果をあげたのち、彼らに湧きおこった国民の賞賛の声を、
もしかしたら悔し涙で枕を濡らしながら聴いたのかもしれません。

第一部隊の無念についてはいかなる関係資料も触れてはいませんが、
こういうことに拘る当ブログとしては、彼らに測隠の情を覚えずにはいられません。


 





さて、1942年1月15日、挺進第二連隊は門司港を出航しました。
このとき降下作戦に参加した飛行隊は飛行九十八戦隊、第12輸送飛行中隊。
空挺作戦の成功は、落下傘降下した人員に、いかにタイミングよく
武器を航空機が投下し、使用させることができるかにかかっています。

降下部隊だけでなく、飛行部隊に取っても任務は重大でした。

プノンペン到着から作戦発動までの日々、彼らは落下傘の折りたたみ、
そして投下する装備品の梱包に明け暮れ、
明日はマレー半島に移動になるという日には、全員に
「最後の晩餐」
として、寿司と酒が振る舞われました。



100式輸送機に乗り込む空挺隊員たち。
背負っているのは一式という最初の型の落下傘であることから、
パレンバン作戦のときの写真ではないかといわれています。 


このときの攻撃計画は、飛行場とムシ河ほとりにある精油所の二カ所。
もともと南方作戦の目標は石油資源にあったので、
ここでも精油所の奪取が最重要目標とされました。



「もろともに死なんといさむつわものは
どくろの朽つまでつとめつくすと」

これはこのときパレンバンの精油所を攻撃することを命じられた
長谷部少尉の詠んだ辞世の句です。
「どくろ」は冒頭写真の空挺隊に与えられた旗の意匠で、
「髑髏旗」は、もともと陸軍近衛兵第5連隊、第3大隊、第12中隊に対し、
連隊長より授与されたものです。

彼らの目標である精油所はオランダの民間会社による経営でした。
しかし飛行場にも精油所にも、 オランダ軍、イギリス軍砲兵隊。
そしてオーストラリア空軍が常駐しています。

日本軍は飛行場と精油所、二回に分けて5カ所に降下し、

飛行場、240名(第二次部隊90名)
精油所、99名

による降下作戦が実地されました。

上の句を書いた長谷部少尉は、冒頭の旗に髑髏の絵を描き、
全員に寄せ書きをさせました。
この絵を見る限り、長谷部少尉はかなり絵が得意だったようです。
義烈空挺隊の同姓の飛行隊長、長谷部大尉も大変達者な絵を残していますが、
日本人というのは一定数いれば必ずそのなかに一芸に秀でた人物がいますね。

アメリカの航空機のノーズアートの殆どが落書きレベルなのをみると、
もしかしたら民衆の平均レベルは日本人って高い?
とつい自画自賛してしまいます。
それはともかく、長谷部少尉は部下にこう言いました。

「よいか。降下したらこの旗の下に集まれ。
死んでも戦うぞ!」

パレンバンの石油の生成量は、当時の日本が年間必要量の60%です。
ここを奪取することは日本に取って命綱を得ることともなりましたが、
そこを長谷部少尉以下たった39名で奪取しようというのですから、
長谷部少尉がこのように奮い立ったのも当然のことでしょう。

長谷部少尉は作戦にあたって、当番兵の山下一等兵にこう言いました。

「この旗のように髑髏をムシ河畔に晒す覚悟だ。
もしお前が生きていたら、片腕を切り落とし、郷里別府の墓に納めてくれ。
郷里に帰るのは片腕だけで良い」

長谷部小隊が降下したのは精油所の南側で、深い沼地でした。
しかも彼らのうち2名は、いきなり敵の防御陣地の前面に降下してしまいます。
彼らは銃撃を受けながらも2人で敵8人を倒し精油所を目指しますが、
その後一人が銃撃を受け負傷したので引き返しました。


長谷部少尉の降下した地点は直線道路で遮蔽物もなく、
彼らは道路沿いに進撃するしかありません。
何とかして小隊が精油所100メートル手前のところまで進み、
長谷部少尉が突入の機会をうかがおうと身を乗り出したところ、銃弾が彼の頭を貫きました。

「小隊長どのお〜!」

走り寄った山下一等兵も銃弾を受け、その場に倒れました。

精油所奪取がなった後、戦死者を荼毘に付すことになりましたが、
山下一等兵は同僚に体を支えられながらやってきて、

「長谷部少尉殿の腕を切って自分にいただきたくあります! 
少尉殿は自分に言われました。
腕を故郷に持って帰ってくれと・・・・!
この山下に!突入前にお頼みになったのであります!」

「うーん・・・しかし、今から荼毘に付すわけだから」

「お願いします中隊長どの!
少尉殿は・・・少尉殿は故郷の墓に腕を葬ってくれと自分に仰ったのであります!」
自分はなんとしてでも少尉殿とのお約束を果たさねばなりません!」

「腕を切ってそれをどうやって持って帰るつもりなのか」

「しかし少尉殿は故郷に帰るのは腕だけで良いと・・・!」

「腕一本だけより、全身の骨を持って帰る方がいいのではないか」

「あっ・・・」(納得)


(たぶん)こんな具合に、山下一等兵を説得するのは大変だったそうです。
なんだか少しシュールな話なんですけど、健気な部下の一途さに打たれますね。
中隊長に説得された山下一等兵は、涙を流しながら病院に運ばれていったのでした。



ここには、飛行場に降下した蒲生中尉の遺品もあります。
蒲生中尉の小隊は草原地帯に降下すると聞かされていましたが、
実際にはそこは草丈が2メートル近い葦の密生地で、見通しが効かず、
降下後の兵の集結も、物料箱の回収も不可能となり、
拳銃と手榴弾のみで進撃をするしかなくなってしまいました。

蒲生中尉は16人の部下を集め進むうちに敵の対空砲陣地に行き当たります。

「突撃!」

号令と同時に手榴弾を手に走り出した蒲生中尉は、機関銃の銃撃を多数受け、
戦死を遂げました。



ここにある遺品は、蒲生中尉が最後に身につけていた軍服、時計、拳銃ホルスター、
そして、家族に当てて自分の死を嘆かぬよう慰めるハガキです。

この後飛行場に侵攻した空挺隊を驚かせたのは、
午後2時にはまだ350人のオランダ兵がいたはずなのに、その3時間後、
もう一度偵察に行ったら今度はもぬけの殻になっていたことです。

よほど慌てて逃げたと見え、料理用のストーブには鍋がかかっている状態で、
これまで最低限の圧搾口糧(爆弾アラレと呼ぶ膨張玄米を主食とし、副食として 
乾燥した鰹節や 乾燥梅干 、砂糖を別々に圧搾して缶詰にしたもの。昭和13年に制定)
しか口にしてこなかった挺進兵たちは驚喜したということです。

これは「陸軍落下傘の神兵」と題された子供向けの絵本です。
漢字が少なく送り仮名がついているのでおそらく小学生用でしょう。

精油所を急襲した第一中隊と精油所の敵とは、50メートルの距離を挟んで
接近戦となり、銃弾がパイプに開けた孔から出た石油に引火、
戦闘は夜通し続きました。

このとき最後尾で降下した鴨志田軍曹は道に迷って戦友と合流することが出来なかったので
精油所社宅区域にたどり着き、拳銃で敵を倒しながらたった一人で事務所に突入しました。
機銃弾を受けながらなおも戦い続け、最後の手榴弾を敵に投げた後、
拳銃で自分の頭を撃って自決します。

この挿絵はその鴨志田軍曹の最後の姿です。

作戦終了後、中隊は行方不明の鴨志田軍曹を捜索していましたが、
軍曹が死闘を繰り広げた事務所で働いていた華僑が日本兵を埋葬した、
という情報を聞きつけ、新しい盛り土を見つけて掘り起こしたところ、
鴨志田軍曹が体に18発の銃弾を受けながら戦っていたことがわかりました。


それにしてもこの華僑は、急襲された精油所の人間でありながら、
散乱するオランダ兵の遺体を差し置いて、どうしてこの日本人の亡骸だけを埋葬したのでしょうか。



その少し前、降下してから1時間40分後の1310時、
徳永小隊の徳永中尉が敵を引きつけている間、徳永中尉の指示で
10名の兵隊が施設内に侵入して、常圧蒸留設備(トッピング)を確保し、
中央のトッピング塔に日章旗を掲げることに成功しました。

このときに旗を立てたのは、この絵本によると(笑)
小川軍曹と勝俣伍長の2人であったようです。

オランダ軍は退却に際して遅延信管つきの爆薬を仕掛けていき、それが
翌朝0600時に爆発し、続く火災によって、精油所施設の約8割が消失しましたが、
より大規模なもう一方の精油所は無傷で残り、この作戦は成功裡に終わりました。




じつはこの後、パレンバンを制圧した挺進第二連隊は、船の火災によって
装備を失い涙をのんだ第一連隊と合流し、ビルマのラシオにおいて
合同で空挺作戦を展開しようとしていたそうです。

しかし、4月29日の決行日、付近上空の天候が悪化したため、
これは「幻の空挺作戦」のままで終わってしまいました。


開戦前、防諜上の理由から彼ら空挺隊の存在は秘匿され、彼ら自身、
自分の所属を家族にも言うことを禁じられていました。
しかし、作戦に成功し、南方資源地域を獲得した彼ら挺進隊は、
「空の神兵」としてマスコミにもてはやされ、国民は熱狂しました。


それにしても、皆さん、こんな疑問を感じたことはありませんか?
どうしてこんな成功を収めた空挺作戦が、戦争中たった4回しか行なわれなかったのか。

事実「空の神兵」以降、挺進部隊はその成功を受けて増設されるはずだったのですが、
この年の末あたりから日本は防戦一方になったため、
落下傘部隊を投入する機会すらない状態に追い込まれた、というのがその理由です。

もっとも1944年、昭和19年のレイテにおいて、日本軍は米軍を排除するために
多大な犠牲を払って高千穂空挺隊の投入による侵攻作戦を行ないますが、
これも敵勢力を脅かすには至りませんでした。

つまり簡単に言えば、オランダ軍と違ってアメリカ軍は手強かったと、そういうことでしょうか。
(簡単すぎ?)


パレンバン空挺作戦において、連合軍側の犠牲は飛行場530名、精油所550名。
対して挺進部隊の損害は、戦死29名、重傷37名。
これは作戦に投入された全隊員の12%にあたります。

29名の死者のうち2人は、落下傘の不開傘による墜落死でした。

 

次回は陸軍が行なった降下作戦、レイテ空挺作戦についてお送りします。



 



 

 

右橈骨遠位端骨折の手術

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レントゲン写真を晒すなんて恥ずかしいのですが、

お約束しましたので手術前の状態を公開します。

右橈骨遠位端単純骨折で、プレートを埋めました。

不幸中の幸いは単純骨折で破片がめり込んだりしていなかったことでした。

 

M24さんのコメント通り、ヘラのような形をしたロッキングプレートを

骨のカーブに添って固定しネジで数カ所留める手術を受けることになりました。

術前、ヨードでの消毒を見ようと目を開けたら

「目に入ったら大変ですのでつぶっていて下さい」と注意され、

顔の右側にブロッキング麻酔手術のとき専用らしい衝立てを置かれました。

左にシャウカステンのような画像板があり、刻々と右腕の骨に起こっていることを

リアルタイムで見ることが出来ます。

ただ、麻酔が効いている右腕の肩から先は、感覚としては、

まるで肘を曲げて指先で肩に触れているような感じしかしません。

確かに指があるという感じはするんだけど・・。

こういうのも幻肢というのかしら。

医者の指示でiPhoneの音楽をイヤフォンで聴いていたので、

どんなことをしているのか詳細には聴き取れませんでしたが、

無影燈にちゃんと伸ばした腕と術野が小さく映っていたのでそれを見ていました。

こんな機会でもないと自分の腕を開けたところなど見る機会はありませんからね。


「気分はどうですか」

ナースに聞かれたときにはぐいぐい腕を肩に向かって押されているような感覚があり、

「変なんですけど、なんだか腕全体を肩ごと押されているような気がします」

というと先生が

「押してます、今押してます。変じゃありませんよ」

先生、何してたんだろう・・・・。


左の画像にいつのまにかがっつりネジが留められ、骨が串刺しになったのが見え、

「これだけ金属が入っていたら自衛隊イベントと空港の金属検知器は・・」

とつい心配になりました。

再手術でチタンを取り出すのは半年後です。


取りあえず手術は成功し、神経の損傷も全くないと太鼓判を押していただきました。

ただ、リハビリは慎重に、決して腕を急激に捻らないこと、とのこと。

ピアノを弾くのは勿論、タイピング動作も御法度です。

エントリ製作できない間、本も読めないので、HULUと今までに買い貯めたDVDを見て、

せいぜい再開に備えて知識を貯えておきます。

左手一本ならタイプも可能なので、現状報告くらいならできそうです。

時間もかかるし実に不本意ではありますが・・。

(おまけに両手が使えず行が詰められないので、

まるで『行間空ける系ブログ』みたいになっていて我ながらキモい)

 

次回書き溜めていたエントリからのアップは明後日、

テーマはパレンバンの次のブラウエン挺進です。


どうか


お楽しみに

 

お待ち下さい

 

 

空挺館〜レイテ・ブラウエン降下作戦「桜剛特攻隊」

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レイテ島におけるブラウエン降下作戦に投入された高千穂部隊の隊員たちです。

おそらく猛訓練の後、あるいは映画か写真撮影のついでに撮られた記念写真で、
隊長である竹本中尉を真ん中に囲んでいます。

若々しい筋肉の付いた身体、引き締まった表情、
まるでスポーツ合宿の合間に撮られたかのような全員の快活な微笑みの表情。
全員が神々しいくらいの美男に見えるのはわたしだけの思い込みではありますまい。 


彼らはこの直後この作戦でブラウエンに落下傘降下し、
全員が生きて戻ることはありませんでした。


前回、海軍に続いてパレンバンに降下を行い、
精油所を奪取した陸軍の「パレンバン空挺作戦についてお話ししました。
今日は、1944年から終戦までに行なわれた空挺作戦を取り上げます。

その前に、ここ習志野駐屯基地の資料館「空挺館」には、
海軍落下傘部隊の資料がほとんど無い(『もう一つの』扱い)ので、
少しだけ海軍落下傘部隊について触れておきます。

【海軍特別陸戦隊】

海軍の落下傘部隊は、1940年11月に実験部隊が設置され、一度お話ししたように
翌年1月15日には実際の人間で落下傘の降下実験に成功します。
陸軍もそうですが、このころの落下傘は緊急脱出用のものを使用しました。

海軍では慣例的に編成地となった基地の名前が部隊に付けられます。
(ex.上海陸戦隊、台南航空隊)
よって、海軍落下傘部隊の名称は

「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊」

というものになりました。

2年以上の軍務経験を有する30歳未満の志願者1500名を隊員とし、
1941年の6月から始められ11月末までに 訓練完了を目標に、
こちらもハードなスケジュールが組まれます。

いずれの訓練生も、一週間から二週間の準備期間、
体操2時間、ブランコと跳び出しの練習1時間、落下傘の整備3時間、
そして降下に関する理論実習を1時間、という訓練を行ない、いきなり実際の降下訓練。 

陸軍第一部隊の18日には到底及ばぬものの、どう考えても無茶な促成ぶりです。

自分で折り畳んだ傘にダミー人形をつけて降下させ、不安を払拭する、
という最低限のケアが あったのは救いと言えば救いだったでしょうか。

この訓練は、現在海上自衛隊館山基地のある千葉県館山で行なわれましたが、
海に面し、風が強い地形のため、数名の訓練生が強風にあおられて墜落したり、
あるいは海に墜ちるなどして殉職しています。 




【滑空歩兵連隊】

さて、陸軍に話を戻しましょう。
陸軍は滑空機を使用した空輸部隊を持っていたことがあります。



日本国際航空クー七真鶴試作輸送滑空機。

Gunder、雄のガチョウ転じて間抜け、とアメリカ軍にコードネームをつけられた
このグライダーは、双胴型を採用したことにより大きな四角い貨物室を確保することができ、
これにより32名の兵員か7,600 kgの貨物、又は軽戦車さえ搭載することができたそうです。


見かけによらないですね。



ク-7は強力な曳航機を必要とし、これには百式重爆撃機四式重爆撃機が充てられましたが
じっさいにはこれらの機体は配備数が少なく、エンジンを装着した
「キ-105 『鳳』」
が二機だけ製造されました。


陸軍は、敵陣への強襲作戦のために、兵員と軽戦車を搭載したクー7を目的地まで曳航し、
ワイヤを切り離した後、滑空機だけが目的地に強行着陸する、
という方法を模索していたようですが、実現には至りませんでした。




【昭和19年11月26日 薫空挺隊】

以前、台湾の先住民族「高砂族」からなる遊撃隊、

「薫空挺隊」(かおるくうていたい)

についてお話ししたことがあります。
落下傘を使った空挺作戦ではありませんが、これについても少し述べます。 

薫空挺隊は、勇猛果敢なことで知られ野外での行動術に長けた
高砂族の志願者に、陸軍中野学校卒の隊長を冠したゲリラ部隊で、
1944年、昭和19年の11月にレイテ島のブラウエン飛行場強襲に投入されました。

上の写真は、疾走する高砂兵。
彼らは、やはり作戦に投入された高千穂部隊の精鋭がとても及ばぬ程、
とくにジャングルでの動きが俊敏であったと言われています。



もともとの写真が白黒で大変分かりづらいのですが、これは、
日本軍の兵士の切り込みを描いた油絵です。

なんと、作者は藤田嗣治、レオナール・フジタ。

ご存知かもしれませんが、藤田は陸軍美術協会の会長でもあり、
戦争中は中国戦線にその任務で取材に行くなどし、多くの戦争画を描いています。
戦後、これがため戦犯呼ばわりする世間と画壇、何より
GHQの執拗な追求に嫌気がさした藤田は日本を捨て、フランスに行ってしまいます。

つまり、戦後日本社会のバッシングゆえに、世界的な画家、
「レオナール・フジタ」は生まれたと言えないこともありませんが、
結果的に藤田はこれがため日本を捨て、フランス人になってしまったのですから、
本当に左翼の軍パージってつまりろくなもんじゃないなあとしか言いようがありません。


それはともかく、この分かり難い絵ですが、真ん中で敵を突き刺している人物は
白たすきを胸前でバッテンにかけており、これは薫部隊の将校であること、
そして右側の兵が持っているのは高砂族特有の蛮刀、義勇刀であることから、
このときの作戦の様子を描いたものだと言われているそうです。


しかしながらこの作戦は、彼らを運んだ零式輸送機4機のパイロットが
おそらく機位を失い目標とは違う場所に着陸してしまったことから、
まとまった作戦行動がとれず失敗に終わったとされています。

このとき日本軍がレイテを強襲することになったのは、その一ヶ月前の
10月26日、レイテにアメリカ軍が上陸したのを受けてのことです。
薫空挺隊の失敗にもかかわらず、なんとしてでもレイテを制圧したい日本軍は、
再び飛行場の奪取を計画します。




【昭和19年12月6日 ブラウエン・和号、テ号作戦】




搭乗直前の高千穂部隊降下隊員。

カメラのレンズに気づく様子もなく、あらぬ方を放心したように見やる隊員。
確実に迫り来る死の運命を悟り、すでに彼の心はこの世にないかに見えます。

彼の背負っているのは最新式の四式落下傘。
パレンバン降下作戦のとき、人員降下と物料の投下を別にしたため、
武器を手にすることが出来ず拳銃と手榴弾だけで突入した隊もあったことから、
この作戦では人員が武器と物料とともに降下するということになりました。

彼の足許に見える長い袋の包みは2式テラ銃といって、分離可能になっており、
この写真でもわかるように彼らは

二つに分け包んだ銃を両足に縛り付けて降下しました。

携行する装備の重さは50キロに及び、一人では輸送機にも乗れなかったそうです。
装備には爆薬や、防毒マスクも加えたため、予備傘も無しでかれらは降下したのです。



物料降下用のパラシュート。
パレンバンで用いられたタイプであろうと思われます。 

落下地が背の高い草地だったため、この回収ができず蒲生小隊は苦戦を強いられました。


 

出撃直前、内地に帰る新聞記者に託す手紙をしたためる高千穂部隊の兵士。
向こうの三人の前にはビールらしき瓶が見えます。

前回「空の神兵」というタグで空挺館についてお話ししたとき、
空挺館の階段踊り場にある



この「神兵」の像があまりにも静謐な様子を湛えているので
いったいこのブロンズ像はいかなる経緯で製作されたのか、と書いたのですが、
あのエントリを制作してからすぐ、遊就館に立ち寄った際、
わたしはこれより少し大きめの、全く同じ造形の作品を見つけました。
像に付された作品名は

「特別攻撃隊空挺隊員の像」。

寄贈は竹田恒徳氏、となっており、これは恒徳王であった竹田宮のことでしょう。
竹田氏は、特別攻撃隊慰霊顕彰会の会長であったので、
おそらくその関係でこの像を所持していたのかと思われます。

「特別攻撃隊」となっていますが、空挺作戦の特攻というのは作戦としては存在しません。
しかし、パレンバンやメナドはともかく、このレイテにおけるブラウエン降下作戦は、
隊員たちに取って実質特攻であったといえます。

この彫塑は、まさしく高千穂部隊隊員の姿を表したものと見て間違いないでしょう。

この像の「仏像のような穏やかな表情」は、
すでに彼の魂が現世を離れ幽界に彷徨い出していることを表すのでしょうか。
そして全く同じ「無」とでも呼ぶべき一種の解脱を、
上の写真の輸送機に乗り込む直前の降下兵にも見ることが出来ます。



ブラウエンで守備に当たる米軍第11空挺師団の頭上に、テ号(挺進の”テ”)作戦の
日本軍の輸送機が姿をあらわしたのは12月6日の1800のことでした。

飛行場の上空で次々と落下傘が開花し、彼らは滑走路の連絡機に到達して
手榴弾を投擲し、物資集積所に火を放ちました。

しかしこのとき降下して戦ったのが空挺を専門とする第11師団であったことは、
高千穂部隊にとって相手が悪かったとしか言いようがありません。
一時的に飛行場を制圧したものの、米側の援軍が到着し、ここで半数の兵力は失われます。



このときブラウエンに60名を率いて降下した白井恒春隊長。(中央)
最終的に残った10人の隊員とともにカンキボット山中の軍司令部にたどり着きますが、
1月末、黄疸を発症していた白井少佐はそこで病死しました。

右側にいるのは副官の河野大尉。
降下後も白井隊長と行動を共にしていましたが、
他の高千穂隊員を捜しに5名の部下を連れて出たまま不明となります。

このときの戦闘の様子は戦時中には不明となっていましたが、白井少佐は
戦闘行動の合間に手記をしたためていたため、戦後それが明らかになりました。


カンキポットには、薫部隊の生き残りや落伍兵などを加え、
挺進兵は1月の時点で400名はいたということが伝えられていますが、
その後セブに大発で移った司令部を除き、高千穂部隊の隊員は100名が
レイテに残ることになり、誰一人として戦争を生き延びることはありませんでした。

セブには56名が渡り、生きて終戦を迎えたのはそのうち17名です。






高千穂部隊の竹本中尉による遺書。
冒頭写真の真ん中で腕を組んでいる人物です。



23歳とは信じられないくらいの鮮やかな達筆で、家名を汚さないように戦う覚悟や、
姉の結婚相手に誰がいいとか、祖母にはこのことは言わないで欲しいとか、
あるいは「自分は死んでも時計は残るから」と遺品について述べたりしています。

さらにこれを具(つぶさ)に見ると、

 「有り難くも特攻隊滑空部隊の桜剛隊と言ふ隊名を戴いて出ます」

という文言が目につきます。
特攻隊全史などをあたったり、この言葉を検索しても、
この遺書にある隊名は特攻隊としてどこにも見当たりません。
おそらく、公式なものではなく(公式にも特攻ではないのですから)、
作戦関係者の中から彼らへの激励と慰撫の意味を込めて生まれた
名称であるのかとも思われます。

「新聞ラジオが報道するだけの戦功を立てねばなりませんから」

あるいは

「新聞ラジオで見た人に(私が?)桜剛隊ということを言って見るよう頼んでおきなさい」

という文には、彼が自分の死後、自分の名とともにこの特攻隊の名が
「新聞ラジオで」華々しく伝えられることを夢見ているらしい様子が窺えます。
 死に往く彼らに取って、それが大いなる慰めと励ましになったのでしょうか。





高千穂部隊が出撃していった後、彼らの駐留していたレイテ島
サンフェルナンドの宿舎の壁には、このような句が書かれていたそうです。

花負いて 空射ち征かん 雲染めん

       屍はなく 我等散るなり





 

入院していた病室を公開する。

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昨日手術後の初検診でギプスを外しました。

その間何人もの読者の方々からお見舞いと激励のコメントをいただき、
励まされたり勇気づけられたりするにつけ、mizukiさんのおっしゃったように
怪我したのが「頭でも、首でも、背骨や骨盤でも」なかったことに
今更ながら我が身の幸運を信じる次第です。

このエントリは、軽い打鍵ならなんとか出来るようになった右手指で
同時にキイを押さえることができるようになったため、
「行間が空いてしまう問題」だけは回避しつつ打っていますが、
いかんせん仕事率は当社比で従来の5分の1になってしまっているため、
今までのように毎日更新することは当分無理でしょう。

三月に当ブログ的には最大級ともいえる大事な自衛隊イベントがあり、
その参加において取りあえず写真を撮るまでに復帰することが目標なので、
無茶をせず養生したいと思っています。

この場をお借りして、お見舞い下さった皆様方にお礼を申し上げる次第です。

ありがとうございました。
 

 


さて、メールでやり取りしている読者の方に、

「負傷しています、と言いながら大して普段と変わらぬように見えるブログ運営・・・
どこまで得体が知れないんだこの上官」

と畏れおののかれてしまったエリス中尉でございます。

右手首骨折して入院手術したばかりの状態でも
その辺の更新しない人よりはずっとこまめに更新しているというこの事実。
詐病を装って同情を買っていると思われても仕方がありますまい。

まあ、音楽家の詐病というと、今流行の話題だったりするわけですが、
わたしがここで詐病を装っても何の得にもなりませんし、
せいぜい毎日の更新締め切りに追われることも無く、家事も放棄して

「銃殺 226」「愛機南に飛ぶ」「海軍」「あゝ零戦」「白痴」(黒沢)
「水兵さん」「南海の花束」「今日も我大空にあり」「12人の優しい日本人」
「あゝ海軍」「間諜未だ死せず」「SEX&ザ・シティ」(テレビ3シリーズ全部)
「プリンセスダイアリー1&2」「 君こそ次の荒鷲だ」「ブラックホークダウン」

これだけを中断せずに全て鑑賞することができたというのが、
メリットといえばメリットでしたでしょうか。 

というかこうして見ると無茶苦茶なラインアップですな。 


さて、手術で入院した日、たまたまデジカメをバッグに入れていたため、
病室の写真を撮ってきました。

決してブログに載せようとかそういうことを考えていたわけではありません。
あくまでもそこにカメラがあったから撮ってみただけです。

 

わたしたちの第一声。

「広ーい」
「すごいね、応接セットと日本製()テレビがある」 

「キッチンと冷蔵庫も・・・冷蔵庫何か入ってる?」
「ホテルじゃないんだからホテルじゃ」

「お風呂まであるよ!」
「品川プリンスのツインの3倍は広いな」
「しかしただの個室にしては豪華だね」

するとナースさんが

「ここは特別室です」

紹介者のご威光と担当医がここの院長代理であることから、
病院側が気を利かせてアップグレード(?)してくれたのかと思ったら

「今日はここしか空いていなかったんです」

わーい、ラッキー!・・・っていうのも何か違うな。
ここに泊まってる時点で十分アンラッキーってことだし。

本来特別室にお入りになるべき万俵家の一族などと違って我が家の付き添いは一人。
見舞いは息子だけ。
無駄に広い部屋ベッドにたった一人。

だいたい病院に寝るのがただでさえ怖いのに、広すぎるのは困るんだよ。

しかも、二面もある窓のカーテンが、一つレールから端が外れていて、
夜になって閉めても20センチくらい空いたままなの。
家でも怖いのに、病室でこれは怖い。怖過ぎる。 

(本人)

ふと窓を見るとこんな髪の毛の人が外から覗いていたら、
(ここはちなみに8階)もうわたしそれだけで泣く自信ある。


というわけで恐がりのわたし、結局枕灯を点けたまま寝たわけですが(笑)
「万が一何か見たら話のネタに・・」という下心から枕元にカメラを置いておいたので、
その浅ましいブロガー根性に幽霊も呆れて、出るものも出なかったのではないか。
という気がしないでもありません。


 続く。

 

雪の日の退院と怪我人ファッション

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皆様の地域では雪はいかがでしたでしょうか。

退院して来た日、わたしの住む地域は大雪になりました。
金・土と降り続ける雪を部屋から眺めていましたが、不思議なもので、
都会の大雪というのは大変大変と口では言いながらも、どこか子供の頃のような
ワクワクする気持ちが沸き起こってくるものです。

いつもとは全く違う、まるでスキー場の宿から見るような外の景色に、
「一年に一度くらいならこの景色と引き換えに不便を耐え忍ぶのも悪くない」
などと、豪雪地帯の住人が聴いたらさぞ気を悪くしそうな考えも浮かんだりします。

しかしながら、今回の雪はわたしにとって痛恨の一撃ともいえる骨折への言わば追い打ちで、
おかげで大変重要なイベントを二つ逃すことになったのでした。

まず日曜日、つまり2月17日ですが、この日に

海上自衛隊東京音楽隊定期演奏会

が新宿で行なわれ、これにわたしはご招待をいただいていて、
聴きに行くのをそれはそれは楽しみにしていたのです。

何としてでもこの演奏会に行かねばならなかったそのわけとは、
音楽隊長である河邉一彦二等海佐が、 新曲を発表すると共に、この日の演奏をもって
自衛隊を退官されるという重要なコンサートであったからでした。

ゆえに、たとえギプスを装着していても、家からタクシーに乗ってでも、
何としてでも駆けつける意気でいたのですが・・・・この雪です。

当日はすっかり雪は止み、空はまるで河邉隊長の今後を祝福するかのように快晴でしたが、
いかんせん一歩外に出れば道路はガチンコに固まっていてギプスをした腕をかばいながら
歩くことはさすがのわたしも躊躇われました。

しかしコンサートホールにたどり着いたら今度はホールの階段という難関が待ち構えている。

かの佐村河内さんは杖を付きサングラスをかけてホールの階段をを鮮やかに降りていましたが、
あのコンサートホールの階段というのはどこのでも大抵急で、ハイヒールだと怖いくらい。
杖をついた人があんなにさっさかと降りられるわけがないのですが、まあその話はさておき。


そして二つ目は本日武道館で行なわれるエリッククラプトン来日公演。
ギプスも外れているので、こっちは何とか行けるかと思ったのですが、
一人で行くつもりをしていたので、付き添いを連れて行くこともできません。

「骨折して手術をした人が武道館のロックコンサートなんてとんでもない」

とTOには一蹴されてチケットを取り上げられてしまいました。
たしかにコンサートホール以上に武道館の階段は怖い。

「絶対に転んだりしないでくださいね」

先生に言われるまでもなく、そうなったときはわたしの音楽人生、ブロガー人生、
乗馬人生、ついでに益体もないその他色々な人生が終わります。
何としても転ぶわけにはいきません。

しかし馬から落ちたのも不可抗力だったように、どんなに注意をしていても
事故というのは起こるときには起こる。
つまりこれはどう考えても無理ゲーというやつです。

河邉二佐の現役最後の公演。
そしてクラプトンも日本に来るのは今回が最後になるだろうと言われており、
そのどちらをも聴きのがしたのが今回の事故でもっとも悔しく悲しかったことでした。

(本人)

さて、前回「窓から覗かれていたら怖いと思う女性の髪型の一例」として
この写真を挙げたわけですが、月曜日の再診のあと、
ヘアサロンに立寄り、カットとシャンプー、ヘッドスパをしてきました。
やっとなんというか「人間らしい」気分になりました。

何しろ、事故発生以降、それどころではなかったとはいえわたしの風体は酷いもので、
ろくにブロウしていないザンバラ髪をまとめもせずに振り乱していたのでございます。
 女性の皆様のためにお教えしておくと、片手が使えなくて地味に困ることは

「髪の毛をまとめることができない」

ってことです。
バレッタやピン、ゴムで留めることすらできないって知ってました?
おかげでこんな貞子さんヘアーに病院では時節柄着用必須のマスク、手には包帯。
不審人物過ぎる。
まだ曇りの日でサングラスが必要なかったのが幸いだったといえましょう。
着ている服だって、セレクトするもしないも、

●袖がギプスを通す程度に太い
●前が空いている
●自分で脱ぎ着できる

この条件を満たすものがこれしかなかったというだけのこと。
このカーディガンに去年買ったエトロのマフラーを合わせてみたら、
同じピスタチオグリーンの織り糸がぴったりマッチすることがわかったのは
嬉しい収穫と言えましたが。

明けて月曜、再診に出かけることになってクローゼットを開けたら、あらうれしや、
落ち着いて探せば、七分の筒袖のシャネルのセーターなどというアイテムが見つかりました。
診察のときにまくり上げる必要もなく、これに大判のスカーフの端を結び、
三角巾がわりにして腕ごと包帯を人の目から隠し、
さらに上からバーバリーのケープタイプのマントを羽織れば完璧。

怪我しているのに病院に行く服装にお洒落をするなんて、と思われた方、
そういうときだからこそまともな外見を整えるだけでかなり気分はよくなるものだと、
わたしは今回あらためて認識したような気がします。
たとえ男性の方でもおそらく同じだと思うんですけどいかがなものでしょうか。

(この部分ファッションタグ)


さて、手術は3時に終わり、部屋で夜を過ごしました。
iPhoneでHULUを観たり、ネットを見たり。

一昔前の入院なら本が読めない今回の入院はただ苦痛を耐えるだけの
不毛で無為なものとなったに違いありませんが、いい時代になったものです。



ただ、こういう袋に腕を入れて、ずっと腕を吊られているのがつらかったです。
麻酔が切れてくると同時にビリビリした痺れ、それに続く鈍痛。
見てもお分かりのように、指がパンパンに腫れています。
おまけに肘が回転しないようにがっつりとギプス固定され、
そのギプスの端が肉に食い込んで痛い・・・。


しかし。

手術中も考えていたことですが、麻酔もないのに手術を受けなくてはいけなかったり
そもそも手当も受けられず苦痛に耐えつつ亡くなっていった旧日本軍の将兵のことを思えば、
これしきの痛みでへこたれていては罰が当たる。

レイテのブラウエン挺進について調べ、彼らのカンキポットでの篭城における
壮烈な最後について知ったばかリだったので、どうしても考えはそちらにいってしまいます。

最先端の高度な治療を安全で清潔な環境で受けられるという、
いわば「平和の恩恵」を被ることのありがたさ。
それを思うだけで痛みはどこかに行ってしまったような気がしました。

と無理矢理ブログテーマに絡めたところで続く。


次回更新は明日、丹波哲郎主演の映画「パレンバン奇襲作戦」を取り上げます。

 

映画「パレンバン奇襲作戦」前編

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先日、パレンバン降下作戦について一項を投じ詳しく書いたのですが、
その検索の過程でなんとこんな映画があることがわかりました。

パレンバン降下作戦はその成功後国民の喝采を受け、ドキュメンタリー
「空の神兵」は大ヒットしたそうですが、この作戦そのものを描いた映画はなく、
昨年暮れにお話しした「あゝ陸軍隼戦闘隊」、あるいは「加藤隼戦闘隊」に、
その一部としてこの作戦が挿入されているだけです。

この映画タイトルを見つけたとき、「もしかして唯一の降下作戦を映画にしたもの?」
と、かなり期待して観てみたのですが、違いました。
主演が丹波哲郎であるあたりで、おかしいとは思っていたんですが。
だって、どう見てもこの人、降下作戦に参加した軍人なんてタイプじゃないし。

結論から言うと、この映画は降下作戦を扱ってはいるものの、

「パレンバン降下作戦が成功したのは、実は本隊突撃の前に
5人の陸軍軍人と軍属の丹波が精油所に忍び込み、
オランダ軍の精油所爆破を防いだからであった」

という ストーリー、つまり全くの創作です。
99%の嘘じゃなくて創作にに史実を絡めて深みと彩りをつける、という
「紫電改のタカ」商法(エリス中尉命名)とでもいうべき、あれです。

戦争映画としてこの映画があまり有名でないのも、どちらかというと
丹波哲郎主演のアクション映画、という色合いが強いせいかと思われました。

つまりこのブログ的には、わざわざ掘り下げつつお話する価値はないらしい、
ということは出だし5分くらいで判明しましたが、せっかくですので、
こんな映画があることすら知らなかった方のために、今日はこの作品を紹介します。



1962年、東映作品。

シナリオは「陸軍残虐物語」の棚田吾郎、
監督は「暴力街」の小林恒夫、
そして撮影は「殺人鬼の誘惑」の星島一郎。

こうやって並べると実に殺伐としたタイトルの作品群ですね。
つまりこの映画もこの範疇?
小林監督は落下傘部隊並びに陸軍ものが多く、 

「第八空挺部隊 壮烈鬼隊長」
「八月十五日の動乱」
「二・二六事件 脱出」
「陸軍諜報33」

などの作品があります。
この壮烈鬼隊長って、ちょっと観てみたいですね。
ちょっとストーリーを調べたのですが、「第八空挺部隊」とは、

習志野に駐屯する空挺団の仮名

のようです。




さて、大東亜戦争初頭のマレー半島、日本軍基地。
この映画の特撮は、出演機がすべて輸送機なので、
あまり粗もなく無難にやっております。

ただ、陸軍の輸送機には1式、100式などがあり、
パレンバンでのみ投入されたのはキ56貨物輸送機である1式だそうですが、
これがどちらにも見えないのが困りものです。
ちなみに劇中、丹波哲郎が

「日本陸軍にはこんなおんぼろ飛行機しかねえのかい!」

と憎まれ口を叩いています。



連絡機で現れた陸軍参謀本部の岸田中佐(佐藤慶)。
飛行機の尾翼に空挺団のマークに注目。



南方作戦の目的は資源確保、つまりパレンバンの精油所を奪取することが
日本に取って最重要事項である、と言う岸田中佐。
そして、降下作戦を直ちに決行するべしと檄を飛ばすのですが、



なぜかこのけだるい様子の小畑中佐(神田隆)が

「敵の反撃も凄まじいので爆撃機でもっと敵を叩いて欲しい。
このまま降下しても効果は薄い」

などと反発します。
つまり「無茶を言う陸軍参謀」vs.「現状を考慮して渋る現場」という
よくある構図です。

勿論実際は、先日当ブログでお話しした降下作戦実地に至る過程を
見てもお分かりの通り、このようなやり取りは存在しません。

 

若い中尉たちも参謀に向かって影で「威勢がだけはいいな」とこそこそ反発。
右側は、若き日の梅宮辰夫。 
左は小林作品でよく出演する(らしい)南廣という俳優です。
ちなみに第八空挺団の鬼曹長を演じています。

なかでも野尻中尉(江原信二郎)は参謀に反発し、叱られついでに、

「本作戦の前に、少人数編成の特攻部隊が潜入し、
オランダ軍が逃走の際に精油所を爆破するのを阻止する」

という作戦を進言します。
それこそがこの映画の主眼であり、100%創作の部分です。

「君は自信がありそうだな。
しかし失敗したらどうする。本降下にも影響があるんだぞ」 



そういわれて意気を飲む野尻中尉。
言い出したからには自分が部隊を組織していくつもりです。
早速部下の鬼軍曹武内(織本順吉 )に人選させ、4人のメンバーを決めます。

まず、酔っぱらって基地の慰安所で暴れている村越伍長(山本鱗一)。



病院で看護にセクハラ真っ最中の堀江上等兵(潮健児)。
そして並河兵長(今井健二)。
堀江上等兵は何で選ばれたのかまったくわかりません。
メンバーにバラエティを持たすためだと思われます。 

ともかく、精油所の爆破装置をストップすることを目的に
作戦を立て始めるのですが、現地の様子が皆目分からず行き詰まります。

そこに運良く、昔パレンバン精油所で働いていた、現「大陸浪人」、
砂見(丹波)が見つかります。



「どうしてやめたんだ」
「野暮な質問するな勝手に戦争なんかおっぱじめやがって。
いられるわけねーじゃねえか!」

丹波哲郎キター。

パレンバン作戦は1942年の2月に行なわれています。
つまり、開戦から三ヶ月後。
丹波の言うことを信じるならば、この技師はわずか三ヶ月の間に
仕事が無くなって「大陸浪人」になったということになります。

そりゃ身を持ち崩すのが早すぎないかい?


というツッコミはともかく、わたくし、以前なんとエントリ二つを投じて
「俳優としての丹波哲郎」「軍人俳優としての丹波哲郎」と、
やたら軍服が似合うが実は陸軍軍人としてはダメダメだった、
この丹波哲郎問題についてアツく語ったこともあるんですね。

「大俳優丹波哲郎」

なんて本もわざわざ買ったくらい興味のある俳優ではあるのですが、
よく考えたら若い頃の丹波哲郎の映画を観たのはこれが初めてかもしれない。

で、あらためてこれを観て丹波哲郎には感動しました。
もう、完璧な造形。好みとか好みでない以前に、この世のものとも思えない美貌です。
陸軍時代は女性の面会者が分刻みで基地に訪れ、戦後は世界中で美人女優と浮き名を流した
というその水も滴る男ぶりを、この映画でもたっぷり堪能することが出来ます。

そして美形役者は大根という通説もありますが、案外この人演技もうまいんですね。
こういうセリフなんかも、殆ど台本を無視して、自分でやっているんじゃないか、
というくらい普通の演技で、自然です。

そして野尻中尉に「オランダ語はしゃべれるのか」と聞かれて、
ペラペラとしゃべり出すのですが、これがうまい。
わたしは勿論オランダ語はわかりませんが、それでもそれが
いい発音であるらしきことくらいはわかります。

アメリカでの撮影で発音だけはあまりにいいので、
英語が堪能であると思い込まれて酷い目にあった、というエピソードを
「大俳優」で読みましたがそれを思い出します。

とにかく、いきなり野尻中尉は砂見を軍属として採用し、
本人の意向を全く無視して降下訓練を受けさせます。



草原を延々とでんぐり返しで移動とか。
本当に降下兵はこんな訓練をやっていたのでしょうか。



いやがる砂見をうしろから蹴飛ばす鬼軍曹。
飛行機の降下口を模したところから飛び降りるおなじみの訓練ですが、
この映画のセットは実際のものよりもかなり低くしてあります。
実際が二メートルなら、これはせいぜい1メートルちょっとくらい。

そんな必死に抵抗するほどの高さではないわよ砂見さん。 



おそらくこんな砂見ですから降下させるのは大変だったと思うのですが、なぜか省略。
いきなり降下したあと落下傘に地面を引きずり回され、
鬼軍曹に殴られたのに腹を立てて殴り返したりします。

このシーケンスには終止ユーモラスなタッチの音楽が流れ、
他の隊員たちはニヤニヤ笑いながら見ているという具合で、
この映画の唯一「笑えるシーン」のつもりで挿入したようですが、
ふてくされながら訓練を受ける砂見はともかく、実際なら観ている方に取っても
笑っている場合か?って気がします。

だって、パレンバンに特攻隊が飛び降りるのは今夜なんですぜ?
そもそも当日にでんぐり返しなんかしていったい何の役に立つのか。
砂見に精油所の内部について詳しく聞くとか、見取り図を書かせるとか、
そんなことよりすべきことがいっぱいあると思うのはわたしだけ?



というわけで丹波、脚を引きずっています。
すでに筋肉痛のようですが、こんなことで今晩大丈夫なんでしょうか。

「やめたやめた!俺にサーカスの芸を仕込もうったってダメだぜ!
戦争ごっこは軍人だけでやってくれい!」

と隊長に言いにいったら、



「さっき軍曹を殴ったから、内地に送還されるか、
作戦に同行するか二つに一つ、どちらか選べ」



「軍の機密を知られた以上生きて返すわけにはいかん」

とピストルを突きつけられ脅迫され、選択の余地無し。
っていうか、このときまで砂見は自分が何のために陸軍軍属になったのか
全く知らされていなかったと言う・・・。

いくら陸軍でも一般人にそんなことさせますかね。



そして夜。
彼らを乗せた輸送機が飛び立ちます。



緊張の面持ちの面々。
ふてくされる砂見。筋肉痛は治ったのか砂見。

そのとき地上からの高射砲が輸送機を狙います。



高射砲によってエンジンが片発やられてしまいます。
すぐさま全員は降下しますが、輸送機の運命は・・・・

降下前、機長は野尻中尉に向かって微笑みつつ

「侵入します・・・!ご成功を祈ります」
「ありがとう・・・・忘れんぞ!」

ちょっと感動シーンなのですが、野尻中尉は機長の肩を叩き、
敬礼もせず、そしてなぜかコクピットの扉をばたんと音させて閉めていきます。

・・・・なんか緊張感ないけど・・まあいっか。



輸送機は夜のジャングルに墜落してしまいます。合掌。

しかし全員、夜のジャングルにしかもピンポイントで同じ場所に降下。
傘が木に引っかけた砂見でさえも、脱出後軽々と皆に合流。
近隣の学校グラウンドに流されて降下してしまう第一空挺団の隊員には
爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいの超絶技量です。

てか、どうやってこの暗闇の中彼らは集合することが出来たのか。



ところが砂見が自分の傘を始末してこなかったため、敵に発見され追われ逃走するうち、
一行は土民(放送禁止用語)部落に遭遇します。



因みにここに出演しているインドネシア人たちは、
日本に留学していたインドネシア留学生協会の皆さんです。
地面を転がる変なダンスをしています。

さらに驚くことに、ここでダンスをしている左の女性は、
わざわざクレジットに『部落の踊り娘』と出ている日本人女優です。( 富士あけみ)

なんと彼らは闇夜に乗じてこの見物の輪に加わり、原住民のふり。
いくらなんでも見たことのない日本人がいたら、こんな小さな村ではたちどころに
大騒ぎになると思うのだけど、皆顔を見合わせてニコニコしています。
女好きの堀江上等兵は、女性の横に座り込み、土民女性を見てニヤニヤ。

なんなのこの展開は。

そして彼らが次に忍び込んだ高床式住居は、なんと独立解放軍の秘密基地。



飛んで火にいる夏の虫。
彼らを見逃す代わりに日本軍の武器をよこせ!と言い出します。
確かにインドネシア解放軍が武器を欲しがっていた、というのは実話ですが、
こんな少人数相手に武器よこせとか、そんなこといっているあいだに、
こんな敗残兵みたいな6人くらいころすけしちゃったほうが話は早いんではないか?

そこで、野尻中隊長が

「日本軍は開戦布告以来大東亜民族の解放を約束している。
我々の任務遂行はとりもなおさず君たちに独立の保証を与えることになるんだ」

というと、リーダーが



「独立は与えられるものではない。
自分たちの血で獲得するものだ」

ここぞと決め台詞。
ここからの流れははっきりいって無茶苦茶です。

インドネシア人「我々に真意の証を見せろ。さもなければオランダ兵に渡す」

→日本、怪我をした村越伍長を人質に置いていこうとして仲間割れ

→イ「仲間が裏切った!オランダ兵と一緒にやってくる」

→日「なに〜!?」

→イ「君たち、日本人、ニゲロ!成功を祈る!」

→日「えっ」

→インドネシア人とオランダ軍の間で銃撃戦となる

→日本人たち、逃げる

ここで、仲間を逃がすために村越伍長が犠牲になります。
ジャングルを逃走する彼ら5人を、戦車2台投入して追いかけるオランダ軍(笑)
その間も「戦意を喪失させるようなことを言うな!」などと争う砂見と曹長(笑)

逃走の間に堀江上等兵が怪我をして敵の手に落ちそうになり、
武内が手榴弾で殺したりして犠牲を出しつつ、彼らが迷い込んだのは、村の教会。



シスターにフランソワーズ・モレシャンが扮しております。
「尼僧物語」(59年度作品)の影響なのか、ヘプバーンと同じ眉を描いています。

知ってますか?モレシャンさんって。

外国人タレントの走りとでもいう人で、このころはNHKのフランス語講座で
講師をして人気が出ていた頃です。
おしゃれアドバイザーとしての著書が多いのは、一旦帰国し、
シャネルの美容部長として再来日して以来。
勿論映画俳優ではありませんが、外人が必要なシーンに時折出演していたようです。

ところで「大俳優・丹波哲郎」で丹波自身が重大発言をしているのですが、
モレシャンは丹波に惚れ込んで、一時熱狂的に追いかけ回していたことがあり、
なんと一時外国のロケ先まで会いに来ていたのだそうです。
この映画を観たとたんその話を思い出したのですが、
そのきっかけはおそらくこの共演にあったのではないでしょうか。

それを知った上でこの映画を見ると、確かに彼女が丹波を見る目には、
何やらアツいものが感じられます。

このときシスターは「神に仕える者以外は入れません」と言っていますが、
神の子を等しく迎え入れる教会のシスターならば、普通こんなことは言いませんねー。

『キリスト教信者の特攻隊員に上官が聖書を踏めと命令する』というシーンのある
「ザ・ウィンズ・オブ・ゴッド」でもそうですが、日本人は、時折こういう
他信教に対する無知を晒してしまうのは良くないね。

そのシスターに対し、中隊長は

「We expect to danger, we need help.」

と滞在を求めるのですが、この簡単なセリフを言うとき、
江原信二郎はカンペーを読んでいるらしく、視線があさってを向いています。

モレシャンの顔に紙を貼れば良かったのではないか。というかこれくらい覚えろよ。

モレシャン扮するシスターの起用は、パレンバン空挺作戦という、どこを取っても
女性とか色気のからむ必然性のないこのストーリーにとっての
「映画的彩り」という目的でなされたことだと思いますが、さすがに尼さんなので
丹波と恋に落ちるなどという不謹慎なサイドストーリーはなくそこは評価します。
(モレシャンさん的には望むところだったかもしれませんが) 

それはともかく、このシスターのセリフにこういうのがあります。

「Anyway, there is no justification of war. The sin of war be feard.」

戦争に善悪はありません。戦争の罪をこそを恐れるべきです。
これは、この映画で唯一わたしが感動()したセリフで、当ブログでも常に言っていることであり、
日本だけが罪を犯したと言って憚らない近隣諸国と国内の自虐派に向けて贈りたい。

映画制作者がわたしと同じ意味でこのセリフを書いたのかどうかはわかりませんが。

さて、ここでとんでもない展開です。
精油所の技師が集まるバーに、変装した砂見が送り込まれるというのです。
誰でもいいから技師を一人拉致してくるというのが砂見の任務。
それまでの、オランダ兵から奪った軍服からぱりっとした白麻のスーツに着替え、
砂見は繰り出していきます。

教会なのにどうしてこんなぴったりサイズの衣装が揃ったんだろう(棒)

バーにたまたまいた砂見の元同僚、欄印ハーフの技師、ケッスラー(岡田真澄)。
ちょうどいいので、丹波はケッスラーを教会に無理矢理連れてきます。
都合良く日本語が話せる技師がバーにいたもんだ。


と、細かく突っ込み出すと映画のとんでもなさが次々と浮き彫りになってくるのですが、
めげずに後半に参ります。

(すでに少し疲れつつ続く)

映画「パレンバン奇襲作戦」後編

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話が相変わらず一日で終わらず、冒頭にアップする絵のネタも尽きたので、
昔描いた丹波哲郎の絵を引っ張り出してきてリサイクルしております。

パレンバン降下作戦に参加する陸軍人には到底見えないけど、
こういう怪しげなシチュエーション(海軍軍人の美貌の妻に懸想し計略を謀る陸軍軍人)
だと、とたんにこの軍服が似合ってしまうという不思議。

日本人の俳優は大抵が・・・勿論年齢と恰幅によって位の違いはあれど、
陸軍なり海軍なりの軍服が似合ってしまうのですが、若い頃の丹波も役者として、
たとえば潜水艦の先任将校なんかやらせてもそれなりです。

ただ、丹波さん、どうも坊主頭にすることだけは拒否したらしく、
そのせいで似合ってはいるけれど「何か違う」妙に隠微な雰囲気が漂っております。
皇族の若様軍人たちも、バロン西始めLAオリンピックの乗馬選手たち(全員騎兵)も、
長髪のままでしたが、「陸軍軍人は坊主」というのはどこまで強制だったのでしょうね。



さて、この映画における丹波哲郎の役どころは、元精油所の技師で、
日本が戦争を始めたためそこから追い出されてしまった「大陸浪人」。

たいりくろうにん、とは映画の中で彼を説明するために憲兵がそういったのですが、
この「大陸浪人」とはwikiによると

明治初期から大東亜戦争終結までの時期に中国大陸、ユーラシア大陸、シベリア、
東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人

ということなので、放浪はともかく、単にふてくされて現地で喧嘩をしていただけの
砂見という男は、全くそのカテゴリに当てはまりません。
おそらく脚本家が大陸浪人の意味を知らずに使ってしまったのでしょう。

因みに大陸浪人の有名どころでは

宮崎滔天、児玉誉夫、川島浪速、二葉亭四迷、里見 甫(はじめ)

などがいます。

さて、そういう間違いはさておき、続きと参りましょう。



精油所近くのバーに、粋なスーツ姿にサングラス、というスタイルで潜入した砂見。
どこでそんな衣装を調達したのか、などとは言いっこ無しです。
技師時代の同僚であったケッスラー(岡田真澄)にこれも偶然出会い、
爆破装置の場所を聞き出すためにかれを潜伏先の教会に連れてきます。

ケッスラーはオランダとインドネシアの混血児(放送禁止用語)で、
オランダ人から蔑まれているという設定です。


ところで不思議なのですが、この映画の大前提は、
「オランダ軍が精油所を爆破する」ということです。
日本軍が攻めて来たら、オランダ軍は何をおいても精油所を爆破して逃げる、
ということを確定事項としたうえに話が成り立っています。

実際のパレンバン作戦において、日本軍の侵攻に対し逃走したオランダ軍が、
退却の際に精油所に火をつけていったのは確かですが、 
当初両軍の間には激しい銃撃戦も起こっているわけです。
施設を爆破して逃げたのは結果に過ぎません。

この映画がなんとなく見終わってすっきりしない、というか、
なんかもやもやした納得のいかない後味をもたらすことの一つは、
この映画の主題となっている特攻作戦に、このような結果論から逆にひねり出した
後付けの理由しかないことにあると思われます。

もちろんそれだけではありません。(笑)
シーケンスとシーケンスのつながりで説明がなかったり、
登場人物の言動の真意が不可解であったり。

たとえばこのケッスラー。

「父の国(オランダ)を悪く言うな」

などと言ってなぜか爆発物のありかを
日本人に言うのを断固として拒むのですが、野尻中尉の

「君の国(インドネシア)で取れた石油は君たちのものじゃないのか」
「君の父の国(オランダ)は母の国(インドネシア)に何をしてくれた」

という言葉には返すことがもありません。
しかし日本がインドネシアの独立を約束をするという言葉を全く信用しておらず、
したがって爆発物の在処も頑として言おうとしない、という設定です。

よくわからないんだけど、日本にプラントを取られるなら
爆破させた方がまし、って考えているってことなんでしょうか。

「僕インドネシアの人間違う。オランダ人でもない。僕故郷ない」

そういうケッスラーに、砂見は

「ある!あの精油所が故郷だ。それをオランダ人が爆破しようとしている」

と畳み掛けるのですが、精油所がケッスラーの故郷だというのもなんか変だし、
オランダ人が爆破しようとしている、というのも違いますよね。
日本軍が侵攻しなければオランダ人だって精油所を爆破する必要もないわけだし(笑)

とにかく断固スイッチの在処を吐かないケッスラーに業を煮やし、
今まで何人もの人間を同じ理由で手にかけて来た軍曹がナイフを抜いて
「我々の計画を知られてしまったからには」と殺めようとするのを、

シスター「ここは神聖な場所です。許しません!」
砂見「・・・・じゃ外(庭)に出よう。おれがやる」
シスター「・・・」

庭ならいいのかモレシャンさん。

しかも、軍人でもない砂見、もっと神聖なはずの庭の聖像の前で
ケッスラーに向かって銃を一発。
一日で銃の使い方も教えてもらったんですかね。



勿論わざとはずすというお約束なのですが、
打ち合わせもしていないのに阿吽の呼吸でケッスラーは死んだふり。
シスターもケッスラーに祈りを捧げるふり。
中隊長も軍曹もなぜかケッスラーの死体を確かめもせず納得します。

おいおいおい。 

そして、案の定この銃声を聞きつけて教会にオランダ軍がやってきます。
彼らはさっそく納屋に車が止まっているのを発見し、ここに日本人がいたことを
確信するのですが、その足許に日本タバコのパッケージが落ちていたので、
シスターは足で踏んで彼らの目から必死に隠すのでした。
すでに車が見つかってしまった今では、その行為は全く意味がないのが残念です。

シスターは裏口から彼らを逃がし、ケッスラーと二人で窓の外を眺めます。



「あの人たちの成功を祈ってやりたいと思います」

とケッスラー。
そう思ってるなら、言ってやれよ。爆破スイッチの場所を。

さて、オランダ軍の基地に忍び込むことに成功したご一行様、
行動開始一分後に囲まれて捕らえられてしまいます。
もしかしたら、わざとかな?



そのころ日本軍基地ではパレンバンに降下する挺進隊が準備完了。



捕まった野尻中尉たちは全員がむち打ちの拷問を受けます。

「あと20分頑張れ。味方がやってくるから」

時計も無いのにどうして分刻みでスケジュールを予想できるのか。

しかし、オランダ軍は人道的なので拷問が済んだらソファーのある応接室で休憩でき、
見張りもついていないので皆でひそひそ打ち合わせることも可能。
手も足も縛られていないので、行動は自由です。



中隊長はなんとソファに横になることまで許されております。
やはり一番階級が上だからでしょうか。

とか言っていたら、基地のサイレンが鳴りました。



いよいよ上空に日本軍が飛来して来たのです。



あとはここから無事に逃げるだけ。
ま、イージーモードですけどね。



案の定オランダ軍は彼らを縛りもせず、二人の見張りを付けて
鍵もかけない応接室に残したまま全員がいなくなります。



なので、銃を持っている二人の見張りを4人で簡単にやっつけて、
なぜかそこにおいてあった四人分の、サイズぴったりのオランダ軍の制服を着て脱出。
この写真を見ればわかりますが、全ての窓は明けっ放しになっています。

そして、脱出成功した彼らはたまたま通りかかった列車に乗って精油所に侵入するのでした。
日本軍の飛行機が補足されているにもかかわらず、列車のダイヤは通常運行で助かりました。



砂見の手引きで爆破スイッチのある施設まで近づく一行。
っていうか、こんなに簡単に特定できるのならケッスラーに聞く意味ってあったのかしら。

「あろー!」

オランダ軍の服を来て、オランダ語で挨拶をすれば
日本人もオランダ人に見えてくる、てか?

誰ひとり並河兵長がオランダ人であることを疑いません。



ナイフでここのオランダ人全員を殺したところで腹部を撃たれてゲームオーバー。



そして、鬼の軍曹、武内も、たった一人で敵を食い止め、
弁慶の立ち往生よろしく目をかっと見開いたまま戦死。
ただし、ご予算の関係で銃痕などの目に見える外傷は全くありません。

砂見と中隊長が爆発スイッチのある部屋に入ると、なんと
そこには砂見が殺したはずのケッスラーが!



なんと、彼はたった一人でスイッチを押すことを阻止するつもりです。
中隊長も、なんでケッスラーが生きているのか疑問に思っている様子がありません。
いろいろあったんで忘れてしまっているのかもしれません。
二人の前でケッスラーはオランダ人の司令によって撃たれて死んでしまいます。

砂見と野尻中隊長、二人でそこにいるオランダ人と大立ち回り。
砂見は敵の司令を深々と突き刺した血まみれのナイフを
直後に口にくわえるという豪快さんぶりです。



彼らの仕事は任務成功の証に精油所のトッピングに発煙筒をつけること。
砂見が銃弾を体に受けつつ、トッピングに登っていき、発煙筒を焚くのですが、
こんな小さな発煙筒じゃ上空からはたぶん見えません。



おまけに凄腕のスナイパーがトッピングの上の砂見に一発お見舞いし、
なんと二発目も見事命中、砂見は高所から地上に落下。



「すなみ〜〜〜!」

駆け寄る野尻中尉。
スナイパーがまだ近くにいるというのに・・・。



驚いたことに三発銃弾を受け高所から落下したのに、まだ生きてます。

「砂見、よくやったぞ!立派だ」
「よしてくれ。照れくさくていけねえや・・。
さっきの話(生きて精油所で働くこと)はやっぱりお預けだ」

そういって安らかに目を閉じる砂見。



「すなみ!
・・・・お前まで・・・お前まで殺してしまった・・・

許せ!」

砂見の亡骸を抱きしめて嗚咽する野尻中尉。



爆撃が終わった後、空の神兵(予定)を乗せた輸送機がやってきます。



オランダ軍の反撃も熾烈になってきました。



トッピングの発煙筒を認めた空挺部隊。
「位置に付けえ!」



そして、降下が!



これ、実機なんですが、もしかして第一空挺団協力?



そして、突如鳴り響くのは・・・、そう、

「空の神兵」!

♪ 藍より青き〜大空に 大空に

たちまち開く 百千の〜♪ 



♪ 真白き薔薇の 花模様 〜

見よ落下傘 空を往く 見よ落下傘 空を往く♪



下界の景色はどう見てもインドネシアのジャングルではなく日本の田園。

だけど、まあいいか。

実は、わたくしそれまでこの荒唐無稽なアクション映画を
鼻で笑いながら見ていたのですが、この曲が高らかに鳴った瞬間、
恥ずかしながらなぜかうるっと来てしまいました。

音楽の力って、偉大だなあ・・・。



しかし、二番の最後にエリス中尉の「センサー」が作動。

「世紀の華よ 落下傘 落下傘
その純白に 赤い血を 捧げて悔いぬ」

次、ご存知ですよね?

「大和魂」(やまとだま)です。
ところがこの後の歌詞は

「二十歳」

に変えられてしまっていました。

にじゅっさい・・・・orz

何が「赤い血を捧げて悔いぬにじゅっさい」だよ!
あっているのは語呂だけで、全然意味わからないし。

大和魂の何がいけない!一体何のために、誰に向けての配慮なのか。
そもそもこんなセンスのない改変をして、作詞者の許可は得てあるのか。
著作権法は・・・・1962年当時には無かったのかもしれないけど・・・。



それはまあいいとして(よくないけど)

♪ この山河も敵の空 この山河も敵の陣 ♪

ってことで、オランダ軍も猛烈に撃ってきます。



この戦闘シーンは映像的にもなかなかちゃんとしていて感心させられました。
なんと、落下傘降下して来た自衛隊員(多分)、河の中に何人も降下したり。

降下して来た空挺隊員と地上のオランダ兵との熾烈な死闘もちゃんと描かれており、
この写真のようにプラントに向かって「伏せ」と「突撃」を繰り返しながら
進撃していく様子は、実際のパレンバン進撃について調べた後の目で見ても、
もしかしたら実際もこうだったかもしれない、と思わせる迫力がありました。



そして、砂見が命をかけて発煙筒をおいた同じトッピング塔には、
鮮やかな(白黒ですが)日の丸が翩翻と翻ったのでした。



死屍累々の精油所。
たった一人生き残った野尻中尉は、隊長に戦死報告を・・・。

「陸軍伍長、村越茂夫、スカラン部落において、戦死!
陸軍上等兵堀江誠一、パレンバン市郊外において、戦死!
陸軍軍曹、武内一、陸軍兵長、並河喜一・・」



「・・・陸軍軍属、砂見勝男、当精油所にて、戦死!」



教会の鐘の音が流れてきました。

「我等に罪を犯す者を我等が人に許すごとく、彼らの罪を許したまえ 」

シスターが彼らの死を悼み魂の平安を願って鳴らす鎮魂の鐘の音が・・・。


糸冬

 






 


 


あの雪の日、すずめ食堂緊急開店した話。

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しかし、こんなことになって皆様から頂くコメントに
ご本人あるいはまわりの方が骨折して、というものが大変多いのに驚きました。

かくいうわたしも、身近ではTOの仕事関係の知り合いである霊能編集者が、
娘さんの幼稚園の運動会で父兄参加の徒競走で見事脚を骨折し(多いそうですよ)
その体験談を今回TOに語ってくれたそうですが、わたしはまず、
人の未来に起こることを結構な確率で当てる能力を持っているこの人が、
どうして自分の事故を察知できなかったのかが不思議でなりませんでした。
何でも、自分に起こることは全く読めないのそうです。

そんな能力、たとえ持っていても何の得になるのかって感じですが。

それはともかく、退院して帰って来た日、猛烈に雪が降りました。
窓から外を眺めていると、雪空に鳥の影が。

「雪で食べるものがないのかもしれないね」

こんな日だからといって何も食べないわけにはいかず、餌を探しているのでしょう。
そこでふいに思いついて、すずめ食堂を緊急開店しました。
賞味期間切れのごまは全くくちばしを付けられぬまま上に雪がつもり、
ごまを食べるかどうか以前に全く隠れてしまっています。

(右側がごま)


まだ痛みの遺る左手でサッシを開け、お米を撒いてやりました。
すると、すずめだけでなくムクドリや百舌が代わりばんこにやってきて、
雪に足跡をつけては食べていきました。(冒頭写真)



カメラを左手で逆さまに構え(その方がシャッター押し易いので)ると、
さっと飛び退いて近くの木の枝に避退しますが、
とにかく彼らに取っては随分有り難かったようです。

雪がやんだら、後にはお礼の落とし物がたくさん・・・。

あまりの雪なのでしょっちゅう外を見ていると、そのうち、
時々遊びにくるクロネコが雪の中歩いて来て、お米をチェック。

別種のお客様来店です。
客種が変わったのでメニューもお米から煮干しに変え、
雪の中せっかく歩いて来たネコのためにも食堂を緊急オープンしてやりました。



黒い毛に白い粉雪を点々と乗せて、とっても寒そう・・。

このクロネコは同じマンションの住人によると、この地域に住む
二匹のクロネコきょうだいのうちの一匹で、この辺りの家々で可愛がられていて、
けっこうちゃんと餌を貰っているのだそうです。
そのせいか今までの観察によると避妊手術済みで、野良なのに人に慣れている様子です。
「黒1号」「黒2号」と名前がついているそうですが、わたしはいまだに見分けられません。

野良猫の寿命は平均2年、すずめは1年といいますが、
それも餌を探しながら苛酷な生活をしているからで、クロネコきょうだいや、
すずめ食堂に来る鳥たちはもう少し長生きするかもしれません。


 

映画「銃殺 2・26の反乱」〜蹶起

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先日の大雪の日、腕を骨折したわたしは家でおとなしく映画を観ていました。
そのときに観た映画リストにこの「銃殺」があったわけですが、
(おっと“Sex & The City"については何も聴かないでやってくれたまえ)
たまたまその日、226当日を思わせる大雪が降っていたことから、
やはり今年の2月26日にもこのことを書こうと思いました。

226事件と言えば、わたしが最初にそれを知ったのは、我が家にあった
「まんが 日本の歴史」 でした。
事件の後、通りすがりのおじさんが

「青年将校たちは結局上に利用されたのではなかったのか」

というようなことをつぶやくシーンが子供心に強烈な印象を残したものです。

このまんがの初版発行は今調べたところ1968年のことで、監修は和歌森太郎。
80年代まで版を重ねたというもので「まんがで学ぶ」の先駆的名作です。

内容については神孫降臨に始まり古代史にウェイトが置かれていたように思いますが、
南京大虐殺もこのころは歴史にまだ登場していませんでしたし(笑)、
東京裁判についても比較的淡々と述べているに留まり、以前にも書いた
与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」でかなり左っぽいところが垣間見えるものの、
今にして思えば、子供に与える歴史まんがとしては
まあニュートラルなほうだったのではないかと言う気がします。

そのまんが日本の歴史で226が「青年将校が利用された事件」とされていたことは、
とりも直さずその一言が後世の、この事件に対する総括でもあったからではなかったか、
とわたしはあれから幾星霜たっても信じていました。

そして去年、事件の首謀格の一人であった安藤輝三大尉と、
彼が襲撃した海軍軍人である鈴木貫太郎侍従長の関わりを語った
鈴木自身の講演記録を見つけ、それについてエントリを書いたのをきっかけに
この事件をあらためて見たとき、その思いは確信に変わりました。


そのときに鈴木の語った安藤大尉のみならず、歴史の史料に垣間見る事件の首魁将校は、
いずれも私利私欲とはいずれも無縁の高邁な理想の上に革命を夢見て決起したと思われ、
彼らの純粋さを、それでは利用したのは誰だったのか、ということを
わたしなりに確かめておきたいと思い、今回、数ある226映画の中でも
「比較的人間ドラマに流されていない」
ように思われたこの映画を観ながら考えることにしました。



1964年、東映。

偶然ですが、前回お話ししたパレンバン奇襲作戦と同じ小林恒夫監督です。
小林監督、丹波哲郎を気に入っていたのか、この映画でもしょっぱなから
丹波を「相川中尉」として起用しています。

菊の御紋をここに使ったのは、天皇、そして皇室(秩父宮)の存在が
この事件には実に大きな意味を占めているという暗示でしょう。
決起を起こす動機、そして決起後、天皇がこの事件に対しどう対処されたか。
それによって実はこの事件の方向性が決定づけられることになったと言えるからです。



昭和10年、8月12日に起きた「相沢事件」から映画は始まります。
ついかっこいいブーツに見とれてしまいますが、これが丹波哲郎。



劇中では「相川中佐」となっています。
この映画は、登場人物たる反乱将校始め登場人物の名を、

相沢→相川 安藤→安東 栗原→栗林 野中→野田 丹生→新木 

といった具合にわざわざ誰だかわかるような偽名を使っているのが不思議です。
もしかしたら当時は殆どが生存してたこれら若い将校たちが残していった
妻や彼らの子供たちに対する配慮のつもりだったのでしょうか。



さて、映画の相沢中佐事件に戻ります。
小林監督は「パレンバン」でも使った丹波をお気に召していたためこの採用となったようですが、
基本的に面倒なことの大嫌いだった丹波、最初にかっこよく登場して、
一言もセリフを言わずにすむ役だから引き受けたのかなどと勘ぐってしまいます。
(さすがに一シーンだけ、法廷での供述をしているところがありますけど)

本来ならちょい役でいいのに、わざわざ丹波。
相変わらず無駄ににかっこいいので、ファンとしては()嬉しいですが。



相沢事件を冒頭に持って来たのは、彼相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省で統制派である
永田鉄山軍務局長を殺害したことが、その後の皇道派青年将校たちの決起の呼び水となった、
ということを端的に説明しています。


満州事変勃発後、

●軍閥が実権を握った政界では、皇道派と統制派の主導権争いが起こった

●その一方で農村が疲弊し農民は凶作に苦しんでいた

●政界、財界には疑獄事件が相次いで起こった

これらを憂えた青年将校たちの動きを察知した陸軍上層部の統制派は
最初は懐柔していたものの、そのうち士官学校事件をでっち上げて青年将校たちを弾圧し、
さらに皇道派の真崎甚三郎を追放してしまいます。

その張本人であるとして、相沢少佐は
「天誅を加え昭和維新を達成するために」永田を殺害したとされます。

このとき永田に免官された村中孝次、磯辺浅一らもと陸軍軍人は、
半年後2・26で中心的な役割を果たしました。

「相沢中佐に続け!」

を合い言葉に青年将校たちの決起への気運が高まっていったことを思えば、
この映画のイントロは非常にツボを得たものであるといえましょう。



安東(安藤)大尉、右。鶴田浩二が扮します。
青年将校たちが、相川(相沢)中佐の公判について語り合い、
今後の決起を決議していくシーン。



「まず我々が決起して維新革命を断行、
国体破壊の元凶である元老、衷心、腐敗する政治家、財閥を排除する!」

磯野浅二(磯部)は元陸軍主計。眼鏡を掛けています。
殺害した永田軍務局長に免官され、現在は民間人となっています。
演じるのは佐藤慶。


そして小林監督お気に入りの江原真二郎がまたしても。

江原の役どころは、栗林(栗原)中尉。
若い頃の江原はどちらかというと美青年で、実際に

「女性のように整った顔」

と言われていた美少年風味の栗原とは少しタイプを異にするのですが、
本作品出演俳優の中では最もそれを意識した配役です。

226の関係者の画像を検索すると、必ず「腐女子」の描いたと思しき
かなり変な萌え絵やマンガが多々引っかかってくるのですが(すみませんなんて言うもんか)
それもこれも、この事件に関わった青年将校にはこの栗原中尉、そして
中橋基明、坂井直などなど、耽美派がネタにせずにはいられない美形、
美青年が多かったということなのだと思います。

で、実際には陸軍マントの裏を緋色に仕立て、「赤マントの中橋」
と呼ばれていた中橋基明中尉などは映画のキャラクターとしては
最も重要視されそうなのですが、この映画には出てきません。

わたしの予想ですが、美形キャラが被るため、より主導的な役割だった
栗原中尉だけを取り上げることにし、江原一人にイメージを負わせたのでしょう。

さて、安藤大尉は実際には最後まで決起に積極的ではなかったということですが、
その理由として

「時期尚早だから」

とここで言わせています。



「したい放題の特権階級がある一方、労働者や農民は
いくら働いてもその日の飯さえ食えない!」

まるでセリフだけ聴いていると、戦後の労働者集会みたいですが、
このとき、皇道派である青年将校たちは事実そう考えており、
その原因は腐敗した上層部と政財界にあると信じていました。

これを取り除き、天皇陛下の下に新しい秩序を打ち立てる、
戦後労働者と違うのがこの点だっただけで、「革命」は彼らの悲願であったのです。

磯部の後ろにはドラクロアがフランス7月革命のために描いた

「民衆を率いる自由の女神」

が掛けられていることにご注意下さい。
 



「軍主流部の考えは、戦時体制を強化し、国内政策の行き詰まりを
対外戦争によってすり替えようとしている」

青年将校たちの中でも、急進派と陛下の軍隊を犠牲にする危険を憂う反対派との間に
激しい議論が起こります。

煮詰まった空気の中、とっとと座を立つ安藤大尉。
と思ったら店を出るなり山上閣下(山下奉文)のところに行き
またもや話し合いシーンが始まります。


うーん・・・。

随分硬派な作りの映画だけど、おそらくここまでも難しすぎて、
開始10分で退屈してしまった観客はかなり多かったと思われます。
226について全く知識がない人はそもそもまず見ないとは思いますが、
かといって生半可では、なかなか話に付いていけないというか。

・・・も、もちろんわたしは大丈夫でしたよ。
でも226について知りたいという意欲と関係なく、純粋に映画を楽しむためだったら、
きっとこの映画は観なかったと思うな。


さて、ここで山下奉文は将校たちに向かって

「事が先に起こったらその方が早くていい。
岡部(岡田)総理?岡部なんぞぶった切るんだ!」

などと乱暴なことを言ってけしかけ、皆をその気にさせます(笑)
おいおい。
しかし、どうもこれは本当にこう言ったらしいです。
おそるべし山下。




こちらは矢崎(真崎甚三郎)もと教育総監邸で茶を点ててもらいつつ
真崎少将の意向を確かめる青年将校たち。

殺害された永山に更迭された人間ですから、そりゃ

「まず何か起こらねば片付かんし起これば手っ取り早い」

などと言うでしょうさ。
まあ遠回しな煽動ってやつですな。
しかし、山下少将と同じく、決して具体的にはっきりとは言わないのがミソです。

実際の真崎は、意向を問う 磯部に対し、

「このままでおいたら血を見る。
しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」

と語ったそうで・・・これも煽動ですよね。


しかし安藤はなかなか決心に至ることが出来ません。
その理由の最も大きなものが、「兵隊を巻き込みたくない」というものでした。



そんな安藤の決心を促すべく、お宅訪問で安藤の弓の稽古を邪魔する栗原。
弓と的の間に立ちふさがって決起を迫ったりします。

しかしこのころの江原真二郎って、超イケメンだわ。



お茶を持って来て固まる安藤の妻、文子。
安藤夫人の本名は房子です。

226の首謀者17人が全員処刑という判決を下され、
いよいよ明日が処刑という夜、安藤大尉は房子さんに宛てて

「我が妻よ 思はつきず 永遠に永遠に私は護らん
良き妻よ 良き母たれ 幸多く永き世を    汝の輝三」

「我が妻よ 我には過ぎたり 美しく優しき妻よ あゝさらば」

(『妻たちの二・二六事件』澤地久枝著より)

という遺書を書いています。

この映画における房子役の岸田今日子は実に清楚で愛らしく、
安藤大尉のこのまっすぐな愛情を受ける妻を清冽な印象で演じています。

わたしは今まで観たどの映画に出ている岸田今日子より、
この映画の彼女が美しく見えると思いました。



そんなある日、安藤大尉の歩兵第三連隊で、盗難事件が起こります。
困窮する田舎の家族に仕送りするために同僚から5円盗んだ兵。
安藤大尉は取り戻した金をこっそり返させ、かわりに
自分のポケットマネーを同封して封を元通りにして送ってやりました。

またある別の兵隊が脱柵してまで病気の母のために家に帰ろうとしていたのを知り、
安藤大尉はまたしてもポケットマネーを出し、彼の帰郷を公用待遇で許します。



ところが帰郷した彼は母と妹を絞殺し、自ら首を吊って死んでしまいます。
妹が吉原に身売りされることを苦にしての心中でした。
そのとき

「なまじ帰ってこなければ妹の身売りも知らずにすんだのに」

とそこにいた女がいらんことを言ったので安藤大尉ショック。
俺のせいかよ!とそこを飛び出します。


「農村の貧困が招いた悲劇」が部下の身に相次いで起こったことによって、
迷っていた安藤大尉が決起に加わる、という動機付けです。


安藤大尉は平生から部下を大変可愛がる隊長だったと言われています。

「憂国の士」というよりはどちらかというと文学青年のタイプであった彼は、
将校室にいるよりは兵隊と接し彼らと話すことを好み、
たとえば家に相談に訪れた除隊後の兵隊には帰りの切符を買ってやったり、
あるいは演習のあと部下を富士五湖巡りに自費で連れて行ったりはしょっちゅうで、
いつも妻には半額分しかない給料をすまなそうな顔でわたすのが常でした。


それほど部下思いであった安藤大尉に、もしこんなことが実際に起こっていれば
それは間違いなく決起参加への強い動機となりえたでしょうが、
残念ながら今回これが本当にあったことかどうか確かめることは出来ませんでした。

磯部浅一が獄中でしたためた手記によると
安藤大尉が実行の決心を問いただされるのは2月10日夜のことです。
それに対する答えが安藤の決起参加表明となります。

「いよいよ準備するかなあ」 



兵の自殺現場から出て外に呆然とたたずむ安藤大尉に久米曹長(井川比佐志)は、

「個人の力には限りがあります。
たとえ中隊長が一生懸命やっても何千万もの兵を救うことは出来ません。
今の政治ではそれが当たり前だと思います」

などと、今現在の安藤大尉の苦悩を見透かしたようなことを言います。
ていうか、曹長が大尉に向かってこんなこと言いますかね実際。

ともあれそれがだめ押しとなり、安藤大尉は皆の前に姿を現し、

「皆に心配かけたが、俺は決心した。
やるよ!兵隊のために俺はやる」

と決然と宣言するのでした。



続く









 

映画「銃殺 2・26の反乱」〜襲撃

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この映画は最初に言ったように、登場人物が実在の人物とすぐわかる
劇中名をつけられており、安藤大尉は「安東」となっています。
映画を観ているだけでは漢字の違いなどわからないので、

「なぜ安藤大尉だけが本名なのだろう」

と不思議に思った人もいたかもしれません。
人物を仮名にすることで、劇中のフィクション部分を強調する意図もあったでしょうか。
いずれにしても「あんどう」始め、どの人物も事件を少し知っている者には
わかってしまうことなので、あまり意味はないという気がしないでもありません。

そして安藤大尉を演ずる鶴田浩二ですが・・・。

造形的にもイメージ的にも、あまり安藤大尉らしくないのが困りものです。
いろんな軍人役の鶴田浩二をスクリーンの上に観てきましたが、
実在の人物を演じる場合、この人の場合はやはり海軍軍人の方がしっくりくるというか。

バブル時代に巨費を投入して創られた映画「226」で安藤大尉を演じたのは
三浦友和でしたが、こちらは納得させられるキャスティングと個人的には思えます。

実際の安藤大尉は、痩躯で端正な好男子であったといわれ、決して鶴田浩二が正反対のタイプ、
というわけではありませんが、決定的なのが「安東大尉」が眼鏡をかけていなかったこと。
確かに鶴田に眼鏡はしっくり来ず、 このキャスティングを仮名にしたのには 
案外こんなところにもあるのではないかという気がしました。




さて、安東が決起を決意した日、この映画ではこんな家族の食卓を映し出します。
なんと誕生日をお祝いするバースデーディナー。
2月25日。
決行の一日前ですが、この日は安藤輝三の31歳の誕生日でした。
ただし安藤夫妻がこの映画のように誕生日の膳を囲んだという話は創作です。

というのは、安藤大尉は2月22日の朝、真意を確かめに来た磯部浅三に

「磯部安心して呉れ、俺はヤル、本当に安心して呉れ」
(『磯部浅三 行動記』)

と答え、そのまま週番勤務の歩三に出勤していったからです。

ともかくこの家族にとって(映画的には)最後の夕餉となった夜、
外には雪が降り出したのでした。



次の日、つまり誕生日の翌日なら2月26日当日ってことになってしまいますが、
安東大尉、悠長に庭で雪だるまを作っております。

前半の硬派な展開を全く無駄にするかのごとき創作ですが、
まあ、映画ですからこれくらいは良しとしましょう。
さすがに226の当日であったという設定は無理があるので、
誕生日を早く祝ったということにしたようです。



出来た雪だるまに自分の軍帽を被せ、息子を抱いて

「マサキ、これはお父さんだぞ」

実際には安藤大尉は、決行を表明する前の1月20日ころには
家庭でも深く考え込むような様子を見せるようになったといいます。

ある晩、房子夫人に向かって冗談のように

「これをやろうか」

といって、テーブルに三本線を書き、4本目を途中で止めて
「三行半」を匂わせたり、あるいは12月に安藤大尉らの第一聯隊は
満州への転勤を命ぜられていたのにもかかわらず、夫人の

「極寒の地なのだから用意しなければ」

という心配に対しては「いい、いい」と答えるといった風に。

さて、この夜(映画的には2月24日)、蹶起将校たちの作戦会議が持たれます。
各襲撃場所の確認のため紙を読み上げていた栗本(栗原)中尉。
最後に

「豊橋(陸軍教導学校)の梅島(竹嶌)、相馬(対馬)への連絡も頼むぞ」

と言われ、

「任して下さい。約束の実砲に千発ももう用意してあります。
偽装のため女を連れて行きます」

と答えたところ

「恋女房と言えよ!」

とからかわれ、頭を掻くシーンがあるのですが、ここでわたしは
はっとしました。

平成になって制作された2・26映画、「226」でベースになったのが
何度か引用している澤地久枝著「妻たちの二・二六事件」であるわけですが、
これに、ここだけ仮名の「A中尉」のこととして、この話の真実が書かれていたのです。

獄中から妻に狂おしいほどの熱情をこめた手紙をおくっていたその人は、
蹶起前、弾薬の運搬の仕事をかねて打ち合わせに偽装のための女を連れていましたが、
それは実は結婚前から関係のあった愛人だった、ということが。

A中尉自身が彼女とのことを「焼け木杭に火がついた」と仲間に語っていたそうで、
夫人は、夫の死後そのことを本人の日記で知ってしまったのでした。

澤地がこの作品を書いたのは1975年。
この映画「銃殺」はそれよりも11年も前の制作ですから、
このとき銃弾を運んだのが栗原中尉であることを隠していません。

しかし、関係者の間では連れていたのが妻ではなかったことは周知のはずなのに、
あえて「恋女房」と言わせたあたりに、映画制作側の配慮が感じられます。

それがたとえそれが妻に不穏な部分を悟られたくない、あるいは
危険な目に遭わせたくないという配慮からであったとしても、
夫が元の愛人と事件前に一緒であったという事実に妻が、
しかもその夫を失ってから知り、打ちのめされたことは想像に難くありません。


本を読んだときにわたしも人並みの好奇心から、A中尉は誰なのか考えを巡らせてみたのですが、
何とこの映画であっさりと分かってしまったという・・・・。



その晩、安東家に従兵が安東の新しい長靴を取りに訪れます。
封を切られた給料袋を託され、代わりに・・



神棚からお守りをわたす夫人。
安藤輝三は、処刑のとき「家族の者が安心しますから」と言って
松陰神社のお守りを身につけて撃たれた、と記録にはあります。




2月26日払暁4時。
喇叭とともに雪の闇の中、男たちが行動を起こしました。
安東大尉率いる歩三連隊は、麹町の鈴木貫太郎邸を襲撃します。



整列した兵たちの敬礼を受ける安東。

それはともかく、この映画の安東大尉の軍帽が・・・。
あまりにも細長く屹立していて、他の軍人の軍帽とも違い、
なんだかわたしは気になって仕方がありませんでした。
なんというか・・・まるでボートみたいにみえるのです。

鶴田浩二の好みでもあったのでしょうか。

蹶起部隊は、総理官邸(岡田総理)、陸軍大臣官邸(に突入を始めます。



そして大蔵大臣官邸・・・・えっ、これが高橋是清?
全然似てなくない?



教育総監は渡辺錠太郎。
次女をかばって撃たれましたが、憲兵は二階に行ったきりで渡辺を護らず、
ここで犠牲になったのは一人で応戦した渡辺総監だけだったそうです、



内大臣官邸。
斎藤三郎内大臣は殆ど蜂の巣という状態になるまで銃弾を体に撃ち込まれましたが、
斎藤の妻はそれを見るや前に立ちふさがり

「撃つなら私を撃ちなさい!」

と夫をかばいました。
銃口を掴んで引き寄せたため腕に銃弾が貫通したそうです。
彼女はその後回復し、昭和46年、98歳まで生きました。




そして鈴木侍従長邸。

去年、巷間伝えられる鈴木貫太郎襲撃の様子と、実際に鈴木が
夫人から聞き回復後に話した様子には若干の食い違いがあり、
それについて去年エントリにしてみましたので、
もしまだならぜひお読み下さい。

鈴木貫太郎と安藤大尉

とにかくこの映画では、一般的に伝わっている通りの描写がされています。



しかし、鈴木が「お前たちはどこの部隊の者か」
と尋ねるのに対し、下士官が

「時間がありません。撃ちます」

と引き金を引く部分は同じです。
それにしてもこのときに鈴木の横にいる妻のたかを演じる女優(桧侑子)に
全く緊張感がなく、ほぼ平然としているように見えるのが残念。



撃たれた鈴木に安東がとどめをさそうと軍刀を抜いたところ、
たかは

「お許し下さい。どうせ助からぬ命です」

と命乞いをします。

このときとどめをさすかどうかを下士官では決めかねて安藤大尉に伺ったところ、
安藤大尉自身が

「とどめは残酷だからやめよ」

と言った、という話を鈴木自身が後日語っています。



たかが鈴木の体に覆い被さる、という構図は戦後の映画で
ほぼ定番のように使用されてきましたが、実はたかは次の間で、
別の下士官に体を押さえられた状態で、

「とどめ云々」

の会話があったときに声を上げて命乞いしたというのが真実だそうです。
しかし、事件後たか夫人は夫を救った妻の鑑として世間に讃えられたので、
いつの間にかこのドラマチックな構図が好まれる形で一般に膾炙したのでしょう。





たかの捨て身の命乞いに心動かされた(という設定の)安東大尉。
実際の状況は安藤大尉は女中部屋にいたので、命乞いを聞いていたかすら
疑わしいと思われるのですが、もちろんそれではドラマになりません。



「侍従長閣下に捧げ〜銃!」

鈴木に対して捧げ銃をしたのは事実ですが、実際は立ってでなく
膝を片方立てた折り敷きの姿勢を全員が取ったということです。
何が違うのか、と思われるでしょうが、日本人の感覚では
横たわっている人物に少しでも近い姿勢を取る方が礼に適う、
ということでそうしたのかもしれません。

このあと、たかが

「お差し支えなかったらお名前を」

というのに対し、安東は

「歩兵第三連隊、第6中隊長、安東大尉です」

と答えますが、ここの成り行きは鈴木自身の言によると
安藤大尉が

「我々は閣下に対し毫も恨みを持つものではありませんが、
躍進日本に対して意見を異にするため余儀ない次第であります」

と言ったのに対し、たかが

「それはまことに残念に存じます。なにとぞお名前を伺わしてください」

と問うと、かれは容(かたち)を改めて

「安藤輝三」

と名前だけを称し、整列して引き揚げて行ったということです。


実際のこのときの安藤大尉の様子の方が、ずっと映画の演出より
緊張と切迫と、何よりも安藤大尉の決意のようなものを映し出している
と思うのはわたしだけでしょうか。

 

こちらは陸軍大臣官邸。
矢崎大将(真崎仁三郎)が事件を受けて陸軍大臣に対処を相談に来たのです。
実際は真崎はこのとき加藤寛治海軍大将を伴っていたと言われます。



陸軍大臣官邸で待機中の将校たちは、伯爵牧野伸顕を襲撃して巡査に撃たれた
病院の天野(河野)と話し、

「こちらはうまくいっていますから気を大きくして早く治って下さい。
天野さんが退院する頃には世の中は一変していますよ」

などと和やかにお茶を飲んだりしています。
牧野伯爵が襲撃の目標とされたのは、天皇の側近にありながら
欧米との協調主義を唱えていたからでした。 
牧野は旅館逗留中に襲われ、宿の主人の背に負われて逃げ、助かっています。

河野は事件失敗を悟った3月6日、入院先の病院で自殺しました。



こちらは川島陸相からの

「蹶起の主旨においては天聴(てんちょう)に達せられあり」

という告示を山下奉文から受け、盛り上がる青年将校たち。


ここで告示を読み上げた山下は、青年たちの行動について言明を避け、
さらに自分の意見を問われても

「俺の意見は陸軍大臣告示通りだ」 

とキョドりながら逃げるように去っていきます。



皆で清酒「雄叫び」を飲みつつ、

「てーんに代わりて不義を討つ〜♪」

と気勢をあげる下士官兵たち。
世間では将校らを指示する声も盛んであり、この時点で将校たちが
自分たちの革命は成功したかに思えていたとしても不思議ではありません。

ちなみにこの「雄叫び」は、実際に蹶起部隊に差し入れられ、
皆がこれを口にしたと言われています。



さて、こちらはこれらの対応に頭を痛める陸軍のお偉いさんたち。

彼らが頭を痛めるのももっともで、このとき既に陛下は青年将校たちに対し
激烈な怒りを表明され、彼らを逆賊とまで御呼びになっていたからです。

こりゃー山下奉文が挙動不審になるのも無理はありますまい。

本庄武官長の記した日記によると、
事をお聞きになり軍服に御着替えあそばされた天皇陛下は、

「朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん」

とまで激しい怒りをお隠しにならかったということで、

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、
真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」

とまで仰せだったのです。

とにかく、ここに集まった陸軍関係者はただおろおろと、
責任の押し付け合いをするのみ。
ここには荒木貞夫陸軍大将もいます。
荒木は一時

「皇道派のシンボル」

として青年将校たちに絶大な人気がありました。
真崎が更迭されたときには武藤彰の引き立てでそれを免れ、
逆に栄転となって東京駅に帰って来たときには青年将校の出迎えで溢れ、
さながら凱旋将軍のようであったと言われます。

そもそも荒木と真崎のまわりに集まって来た者たちをして
「皇道派」と呼びならわすことになったのですから、
核心的人物であることは勿論、創始者といってもいいでしょう。


しかし、 荒木自身が陸相の座を自分の息のかかった者で固め、
その専横ぶりが「統制派」との対立を深めるにつれ、
自ら青年将校たちを保身のためもあって押さえにかかったあたりから、 
一時は絶大な信奉者であった青年将校たちはその元を去ることになります。

つまり、 荒木は自分で育てた皇道派の若手を制御できなくなったといえます。

 
天皇の御勅を受けて翌日戒厳令が発令されました。
蹶起将校たちが、天皇の下に新しい、公明な社会を作ろうとして起こした革命は、
外でもない、その陛下の御言葉によって「反乱」と転じ、
彼らは以降「逆賊」と呼ばれることになります。



続く 

 

台湾・高雄の「二・二八事件」

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ここ何日か「226」ならぬ「228」の検索が多いらしく、
このエントリに閲覧数が増えています。
今日は2月28日ですので、映画「銃殺」をベースにした2・26事件シリーズにはさみ、
台湾旅行で見学した228博物館について書いたこのエントリを再掲します。

ちょうど怪我療養中で毎日アップできなかったので・・・(あ、この手があったか)。 

 

さて、台北に続く台湾第二の都市が高雄です。
打狗(ターコウ)、犬を叩くという現地人の音から統治時代に日本人が命名し、
以降「たかお」、戦後は国民党政府によって「ガオション」になりました。

戦後、日本の統治が終わって大陸から来た中国国民党によって、
台湾には政治的腐敗や社会的無秩序が運ばれました。
「旧日本パージ」とともに自分たちの利益だけを貪り肥え太ろうとする蒋介石始め
国民党幹部の姿が、それまで台湾人が知っていた公明正大で規律を重んじる
日本人のそれとば真逆であり、彼らは大きく失望するとともに、そのやり方に
不満と不安を抱いていました。

そんな中、起こったのが「2・28事件」です。

わたしは、今回の台湾旅行では大まかな計画として

「日本が統治時代に建設し現存する建築物をこの目で見る」

というテーマを決めていました。
同じ統治国であった朝鮮半島や日本にさえあまり残っていない、日本政府手による
戦前の建築物が、台湾ではいまだにあちこちで使用されているのです。

また後日このテーマでお話ししようと思っていますが、そんな「旧日本の名残」
である建物の一つが、ここ高雄にもあることがわかりました。



高雄は、大きな川沿いに比較的海岸に近く開けた都市で、中心部には
このようなウォーターフロントがあります。
川沿いには高級ホテルや住居、テレビ局などがあり、この日はヨットに興じる市民の姿がありました。



これが旧日本統治時代に市役所であった建物で、今は博物館です。
ここにきてわれわれは「引き寄せの法則」ともいえる偶然に驚愕しました。



台湾の悲劇、「2・28事件」が、ここで特集展示されているのに気づいたのです。
この展示は一年前にオープンしたということでした。

わたしは恥ずかしながら今回台湾に来てからくわしく知ったくらいで、
一般的にも日本であまり有名な事件ではありませんが、実はこの228、
日本にもある意味深くかかわっている、戦後の台湾史上もっとも有名な悲劇なのです。

一言でこの事件をを説明すると、それは

「戦後大陸から来た国民党政府が台湾人を殺戮した」

ということになるのですが、「日本とのかかわり」というのはどういう意味かというと、
統治政府によって、日本式の社会を与えられていた台湾人に、
大陸の外省人である国民党が中国式の迫害を加えたという部分です。

統治するには民衆は愚昧で在らねばならぬのに、国民党にとって残念なことに、
日本統治後の台湾の文明は、中国本土が及ばぬくらい先に進んでいました。

民度においても同じでした。
金さんとともに台湾でお話を伺った蔡焜燦さんですが、国民党が来てから、
警察官は無実の人間に難癖をつけて警察に引っぱり、釈放金を要求したり、
ちょっとした財が築けるくらい先生は生徒から賄賂を貰うのを常としていたり、
とにかく社会全体が「腐り果てていた」ことを著書で述べています。

そんな大陸人の政府が恣意的で放埓な統治を行うのですから、ただでさえ
日本語や台湾語を禁止されていた台湾人の不満は日に日に膨れ上がりました。

そんなある日、1947年の2月27日のこと。
密輸取締りの警官が、煙草を売っていた未亡人を銃の台座で頭部を殴り、
それを批難した群衆に発砲してけが人が出ました。
群衆はこれに怒り、警官の引き渡しを求めて専売局の前に押しかけたのですが、
専売局は二階バルコニーに警備兵を立たせ、丸腰の彼らに機銃掃射を加えたのです。

この暴挙によって台湾人の国民党政権に対して燻っていた怒りが爆発しました。

台北市内から台中、そして台南、ここ高雄にも人々の抗議と行動は飛び火し、
「打倒国民党」を叫ぶ人々が声を挙げましたが、これに対し、
国民党政府の取った行動は大量虐殺とそれに続く弾圧だったのです。

この博物館でこの展示をやっていると知り、すぐさま見学を決めたわたしたちは、
この日本統治時代の建物に入って行きました。



この建物がなぜ「歴史博物館」となっているのか、その意味を全く知らずに。

何気なく入って行ったわたしたちですが、気のせいかそこにいた人たちが
わたしたち日本人に対して、何か物言いたげな風を見せるのに、
とくにそういう雰囲気についてはわりと敏感であるわたしは気づきました。
入り口で入館料を査収する館員、そして展示室の入り口にいる係員が一様に、
そういった何とも言えない空気を湛えてこちらを見るのです。

これをわたしは「外国人、ことに日本人に対して理解と同情を求めている」
という風に解釈してみたのですが・・・・。


展示室は三部屋に分かれており、決して広いものではありません。
最初の部屋にはパネルとモニターがあり、この事件の概要と流れについて
説明があり、ここで内容をほぼ理解できるようになっています。




日本が去り、国民党政府が台湾にやってきたとき、人々はこの
同民族政府を歓迎しそしてこれから始まるその治世に期待しました。
すぐにそれは失望と怒りに変わることになります。



高雄地区は国民党政府が本土から軍を派遣する前に国軍の鎮圧を受けた場所で、
それは事件全体の広がりに対し深刻な影響を与えました。



司令部から軍隊が侵攻してきた様子。
市役所と中学に向かったのは、制圧する対象を
「日本の教育を受けたインテリ層」に特定していたということでしょう。
高雄駅は、人の出入りを防ぐために制圧されました。

先日台北で金美齢さんとお会いした話をしましたが、金さんの亡夫で、
台湾大学から東大に留学し、その後東京理大の教授であった周英明氏は、
この高雄の出身で、高雄中学の一年生でした。

周氏はその日、通学途中で三人の中学生が銃殺されてトラックで運ばれてきて、
その遺体が高雄駅前の路上に見せしめとして放置されたのを見たそうです。



高雄駅。
ご覧のように日本が造った駅舎で、一部今もそのまま残っています。



この駅舎は今移築保存が計画されていて、使われていません。
前に停められているのは工事関係者の車。
現在高雄駅は改装工事が進められ、すべてが超近代設備に置き換えられつつありますが、
どうやら駅舎は歴史的遺産として後世に遺してくれるようです。



これは台南駅の地下道ですが、同じような地下道が高雄駅にもありました。
たまたまこのときに駅にいた人々は、地下道に銃で追われて詰め込まれ、
動乱の広がりを抑えるために長時間拘禁されていました。
身動きしたりどこかに行こうとする者は容赦なく銃で撃たれたということです。



高雄で犠牲になった人々の姓名。
死亡、失踪、負傷、拷問、財産を失ったり名誉棄損された人々・・。

この死亡欄の下から二行目、一番右に「顔再策」という名前があります。
この名前を、わたしは、昨日読んだ金美齢さんの著書の中に見つけました。

周英明氏が高雄で目撃した「両足首を縛られ両手を後ろに括られていた死体」。
その括った手首に「顔再策」の名前が書かれた札が付けられていたのでした。
他の二人の銃殺された少年たちと同じく、彼もまた高雄中学の生徒でした。


このような説明展示を胸が塞がれるような思いで見学していたわたしたちは、
ここにきて愕然とあることに気付きました。

今いるこの建物が、惨劇の一つであった当時の市役所庁舎であることに。



説明を一通り見終わって次の部屋に進んだわれわれは息を飲みました。
そこには巨大なジオラマによって、この惨劇が再現されていたのです。



「ここで在ったんだ・・・・・228・・・・」

わたしたちは信じられない思いでただジオラマに見入りました。

















国民軍が侵攻してきたとき、高雄中学の生徒は自衛軍を組織したそうです。
しかしそれにしても、なぜ彼らは虐殺されねばならなかったのでしょうか。

今、大陸の中国共産党が現在進行形で行っているさまざまなこと、
天安門事件、チベット虐殺に始まって法輪功への弾圧、そして
国民に対しても全く人命を顧みない人権無視の上に立ったあれこれ、
また民間においても暴動や日本に来て起こす凶悪犯罪の手口を知る我々は、
このような殺戮を同民族に対して加えることに対し何とも思わないのが
まさに彼の国の人間であると誰もがこのように理解しています。

つまり、これが民族の特性なのです。





しかし、当時ほとんどの台湾人はそれを知りませんでした。
その民度の低さに眉をしかめながらも「まさかこれほどとは」
と信じたくない思いが働いていたのかもしれません。

翻って、国民党がなぜここまで残虐な手段で暴動を鎮圧したのかというと、
彼らがもともと大陸でこのような統治方法を取っていたからでした。
基本武力と弾圧による恐怖政治によって対立する力を捻じ伏せる、という従来のやり方が、

「日本統治により進んだ文明社会を享受していた台湾人へのコンプレックスと恨み」

によってさらにいっそう拍車がかけられた結果がこの虐殺だったと言えます。











対して、台湾人はそれまで受けてきた日本統治により、メンタリティが
すっかり日本式の「性善説」に成り立っていた、ということもできます。

暴動が起きた当初、旧日本軍の軍服を着るなどして武装をし、
放送局を占拠して「君が代」や「軍艦」を流しながら日本語で
「台湾人よ立ち上がれ」
と呼びかける本省人(台湾人)たちの蜂起に対し、
中華民国の長官府は劣勢を感じ、一時対話を呼びかける姿勢を見せました。

しかし、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、その呼びかけに対し本省人が
対話に応じようと騒乱を一時休止するや、大陸の国民党政府に向かって援軍を要請しました。

陳儀が援軍を求めて蒋介石に打った電報にはこのように記されています。
(その電報の写真もここには展示されています)

「台湾人が独立を求めて組織的に反乱を起こした。
これを武力で鎮圧すべきである」

すっかり油断していた台湾人に向けて、国民軍の容赦ない殺戮が始まります。

つまり、日本の統治を受け、日本式の常識や道徳が身についていた彼らは、
まさか同じ民族である中国人が非武装の民衆を無差別に殺戮することなど、
全く想定に無かったのでしょう。
身についた「性善説」が最悪の想定を遠ざけ、つまり、
援軍を呼ぶための時間を国民党に与えてしまったとも言えます。

全てを観終わって重苦しい気持ちで展示室を後にした我々は、
もはやさっきと同じ気持ちでこの建物にいることができなくなっていました。



 

左は、外から見ることができないので写真で展示されているジオラマの「室内」。
細部まで驚くべき緻密さで造られているジオラマは、1年前から展示されています。
おそらく資料に残る惨事ができるだけ忠実に再現されているのでしょう。

「この階段とか大理石の床って、そのままだよね」
「柱は一緒だね。床はもしかしたら変えたかもしれないけど・・」

 

どちらにしても、これだけの惨劇の起こった建物を壊さず、
そのまま使い続けていることは「負の歴史から目を背けない」という姿勢に通じます。

現在の台湾は、政府は勿論マスコミにもいわゆる「大陸人」が占めていて、
国民党に対して都合の悪いことは報道しないというような
「報道機関が占拠された状態」が続いているそうです。

どこかの国のようですね。




戦後40年にわたる弾圧政治、戒厳令下の「白色テロ」時代には、
日本統治のことを「過酷であった」などと教えさせようという動きもあり、
いまでも反日的な言動をする台湾人のほとんどが、大陸人である外省人だと言われています。

しかし、この事件の在った当時、おそらく台湾語と日本語で生活していた本省人にとって、
北京官話という「外国語」を話す外省人が同胞を殺戮する姿は
どんなにか恐ろしい獣のように見えたことでしょう。

その獣に、自分の身内が虐殺されたり、いまだに連れ去られたっきり行方も分からない、
という台湾人たちが、そんな情報操作に騙されるわけがありません。
外から見えれば同じ台湾に住む台湾人としか認識されないこの国に住む人々の心には、
実ははっきりとした、決して晴らされざる怨恨と深い対立がが横たわったままでいるのです。
たとえ当事者が死に絶えても、その子孫に未来永劫引き継がれるであろうルサンチマンとして。

台湾には今日も228にまつわる展示が開催され、街には慰霊碑が立ち、
決してこうしたことがここでは忘れられていないということがわかるのですが、
しかし一方では、巨大な蒋介石像や、その聖地化された居住跡や、
さらには「台湾の靖国神社」であるところの慰霊廟などもまたそれ以上にあり、
この国の歴史の複雑さを感じます。

台湾人として自分のアイデンティティに深く悩むことを、たとえば金美齢さんは
この国に生まれたものの「宿命」だと考えているようです。

彼女のような人間に言わせると、日本人として生まれてきた瞬間、
我々はそのアイデンティティに悩まなくて済む権利を与えられているのです。
それがいかに幸せなことであるかを、わたしはこの台湾で複雑な思いとともに確認しました。

わたしたちをあの何とも言えない、理解を訴えるような眼で迎えた受付の女性、
切符を渡して「写真を撮ってもいいか」というと、何度もうなずいたボランティアらしい老婦人、
彼女らは、もしかしたらずっとこの地に住んで、変わりゆく台湾を見てきて、
あるいは自分につながる誰かや仲の良かった誰かを不幸にして動乱で失ったか、
あるいはそのような話を語る親族や知人を持つのかもしれません。

台湾という国が現在も置かれている「主権不在の状態」を知るとともに、
この記念館の見学はわたしの心にひどく重たいものを残したのです。





金さんの夫である周英明氏は、弾圧時代の台湾で受験勉強中、
古本屋で日本の学生にもおなじみである数学の「赤本」を手にしました。

ぱらぱらとめくっていって、裏表紙に書かれた以前の持ち主の名前に、
周氏ははっとして目を見張りました。

「高雄中学 顔再策」

あの日殺害されて高雄駅前に遺体を転がされていた青年の名前。
その遺体にくくりつけられた紙に書かれていた、その名前です。

周氏はこの本を買い求めました。
学業半ばで命を絶たれた青年の遺志を継ぎ、彼の無念を引き受けるかのように、
兵役に就いているときも、大学で助手になってからも、いつもその本を傍らに置き、
ひたすら勉強をつづけたということです。




*おまけ

台湾で製作され昨日公開された「KANO」予告編。
統治時代甲子園で準優勝した台湾の高校野球チームの実話ベースのお話。
映画には八田輿一(大沢たかお)も登場します。
高砂族の生徒もいたということですが、NHKの皆さんにはぜひ観ていただきたいですね。

  

 《KANO》六分鐘故事預告 

映画「銃殺 2・26の反乱」〜鎮圧

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関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。
その日に、二・二六事件というものが起った。
私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。
実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。
激怒に似た気持であった。
プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。
狂人の発作に近かった。
組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。
馬鹿とも何とも言いようがない。

「苦悩の年鑑」太宰治


わたしは太宰治という作家を今日に至るまで好きと思ったことはないのですが、
「苦悩の年鑑」で太宰が糾弾するところの2・26事件についての論評は
この、一人で死ぬことも出来ずその度にキャフェーの女給だの愛人を道連れにするような、つまり

「自分の人生は自分のためにのみ浪費する、ましてや他人の人生をや」

とばかり清々しいほど利己的で人生ロックで、ナルシズムの塊である小説家であれば、
おそらくこのようにいうのが当然かもしれないと妙に感心してしまったものです。

特に「プランがあるのか。組織があるのか」という彼の誹りは
ある意味この事件の本質を突いており、それこそがこの事件について
大方の感じる初歩的な疑問でもあるかもしれません。

しかし太宰はあくまでも結果だけを見てこう言っているわけで、
実際のところ、青年将校たちは無策と言い捨てるほどでもなく、
彼らとて決して何の公算もなく始めたわけではなかったのです。
少なくともそこには一定の期待値が当初はあった事は確かです。


それが何だったのか、少しこのことについて思ったことをお話ししてみます。



映画の出だしが実はこの菊の御紋であったことは、
この事件の大きなキーワードが「皇室」であることを象徴している、
と前々回書いたのを覚えておられますでしょうか。

天皇陛下の周りに巣食う奸臣軍閥を排除し、天皇親政を実現する。
彼らの目指したのはここであり、それがために事を起こしたわけですが、
肝心の天皇はこれに激怒され彼らを逆賊と御呼びになった・・・。
このことは決定的な彼らの誤算でした。

事さえ起こせば維新は成功し、それが必ず天皇陛下の御意に適うと信じ込んで
この挙に及んだオプティミズムというべき信念は何に支えられていたのか。

太宰が言うところの「何も無かった」はあくまでも結果であり、
「結果として何も無かった」と書き換えられるべきで、
それでは彼らの目算とはどこに根拠を置いたものであったのか。

ここに、秩父宮、つまり天皇陛下の弟宮の存在が大きく関わってくるのです。

検索していただければお分かりですが、

『秩父宮と二・二六』『秩父宮と青年将校』

このようなタイトルの本を始め、世には秩父宮と事件の関わりを記した文が
あまりにも多いのにお気づきでしょう。

 陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから2・26の際、
反乱軍将校が秩父宮擁立を画策していたとする風評が生まれた(wiki)

このような噂の元となったのは、秩父宮が

●陸軍歩三におられたころ、国家改造に理解を示され、決起将校のひとり坂井中尉に
「蹶起の際は一中隊を引率して迎えにこい」と仰せになった (中橋中尉の遺書)

●陸士の同期生であった首魁の一人西田税が改造の断行を力説したところ、
それに対して理解を示された(西田の自伝)

といったことだとされます。
2・26への宮の関与は勿論ありませんでしたが、つまり青年将校たちは行動に際し、
秩父宮を通じて天皇に自分たちの真意至誠が必ず伝わる、と信じていた節があるのです。




彼らが世を憂い、いざ立つべきとそのときを窺っていたとき、相沢事件が起こりました。

士官学校事件を契機に行なわれた「統帥権干犯の波及」として起こったこの事件。
青年将校たちは公判を熱心に公聴し、「中佐一人にそれをさせておくわけにはいかない」
といった義憤から彼らの中に蹶起への気運が高まります。

そのとき、第一師団(安藤中尉始め多くが所属する)は満州への派遣を
三月に控えているという状態でした。
これも、若手将校たちの動きを察知した軍首脳部が画策した
「島流し」的措置であったことは明らかです。
つまり彼らのなかに

「今しかない」

という焦燥が瞬間風速的に高まり、行動を現実にしてしまったのでしょう。


「巨悪を排除し新しい世界秩序を打ち立てる昭和維新」

という題目は、彼らの中では何人たりとも非難する余地のない理想であり、
若く一途でいわば世の汚れを知らない彼らは、これが正義であるならば
必ず全ての人々にに受け入れられると信じていた節があります。。

事実、世間では彼らの無謀さを非難する声と同じく、
その意図に一定の理解を示す擁護論が当時の社会にも起こりました。
彼らの挙が私利私欲に基づくものではなく、世を憂えてのことであり、
人々はそこに信念と殉教を見い出したからでしょう。

しかし、その行為を

「それは只だ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」

と一言に断罪した人物がいます。
他ならぬ、昭和天皇その方でした。



困った困ったと鳩首会談する陸軍首脳部。

困るのは当然、青年将校たちは自分たちの挙が「天聴に達した」と聞いただけで
自分たちが義軍だと認められたと勘違いしている(させたのはこの人たちですが)
のにも関わらず、陛下は彼らを「逆賊」と御呼びになっておられたからです。

この御怒りの凄まじさは、本庄武官長が陛下に

「彼ら将校としてはそのようにすることが国家のためであると考えたのだと思う」

と彼らをかばうようなことを奏上すると、

 「それはただ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」

という、まるでピシャリと鞭で打つような非情の一言が返って来たというくらいでした。
因みに事後、この本庄武官長は反乱軍を弁護したという理由で職を解かれています。



「矢崎(真崎)さん、あんたは彼らの尊敬を集めているのだからその責任を」
「責任?わたしは今は一参議官にすぎん!」

はい、お偉いさんたち、全員で責任の押し付け合いモード入りましたー。



しぶしぶ蹶起部隊の前に現れた真崎は(もう本名でいいよね)、
彼らに取りあえず原隊復帰を勧めます。

史実によればこれは27日の2時のことで、

真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ原隊復帰をすすめた。
相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
(wiki)

となっています。
それにしても、この映画では荒木や真崎を必要以上に矮小化して描くことで

「実はそそのかした本人のくせに、全く責任を取らなかった」

という説を強調しているように見えます。

彼らを利用したのは真崎であり荒木である、ということをこのような演出で補強するやり方は
やはり所詮は映画であるという気がします。
そういうことにしておけば、非常に分かり易い「構図」に事実を収めることが出来る、
このような意図をも感じないでもありません。



日本人は「忠臣蔵」が好きです。
赤穂浪士が大石内蔵助を討ったのは法律的には犯罪であるが、
身を呈して主君の仇討ちをするというその行動の義はあっぱれであるという理由からです。
実際はそう悪人でもなかった大石内蔵助を必要以上に「悪」とすることによって、
さらにこの物語は典型的な日本人の判官贔屓のメンタルにフィットしたといえます。

それと同じく、2・26事件において、

「蹶起部隊が行なったことは犯罪には違いないが、
この若い純粋な青年たちを四十七士に対するように理解してやりたい」

という心情からそこに分かり易い悪の存在を求めたとき、それが真崎であり荒木であったといえます。

わたしが幼い頃読んだ「まんが日本の歴史」で、通りすがりのおじさんが言った

「彼らは利用されたのではなかったか」

の一言にも、こういった日本人の性向が表れているような気がするのですが、
これはわたしだけの考えでしょうか。

ちなみに、わたし個人は、彼らを太宰のように馬鹿と切り捨てることはもちろん、
私利私欲や名誉欲の為に事をしでかした犯罪人であると罵倒することは到底できません。

そして彼らを「利用した」のは皇道派だけではなかったとも思うのですが、
それについては最後の項でお話ししようと思います。




この日から安藤隊は山王ホテルに宿舎を移すことになります。

「西洋料理食ったことあるか。
ハンバーグステーキ、ビーフステーキ、今にこんなもの毎日食えるようになる」

下士官と兵が食い物の話題で盛り上がっていると、妙にハイテンションのウェイトレスが
支配人の差し入れとしてキャラメルとおせんべいを差し入れてきます。

実際の山王ホテルの従業員の証言によると、彼らの雰囲気は暗いもので、
広間に置かれていた酒を飲み、歌を歌い続けていましたが、なかには
「こんなことになって」と泣き出す兵もいたそうです。



このころから戒厳令の御勅を受けて、戒厳司令部が組織され、
首都東京に蹶起部隊を鎮圧する為の兵力が集結を始めました。



海軍は東京湾に第二艦隊を集め、「長門」始め各艦はその砲を
全て反乱部隊の駐留地に定め、築地には陸戦隊が上陸しました。

しかし、これ本当に戦闘になっていたらどうなっていたんでしょう。
都内に戦艦の主砲がドンパチ撃ち込まれ、その破片が降り注ぎ・・・。
いかに「脅し」のためであったとはいえ、どこまで海軍は「やる気」だったのか・・・。



山王ホテルも囲まれております。

反乱部隊を鎮圧すべし、との奉勅命令が出されたのでした。
そのことが青年将校たちに伝わるシーンですが、

「今朝我々に対して奉勅命令が出されたそうです」
「奉勅命令?なんだそれあ」
(姿勢を正す)「陛下から」
(全員姿勢を正す)「我々を鎮圧せよとのご命令が下ったんです」

この、「陛下」「畏れ多くも」のあと、全員がバネ仕掛けの人形のように
姿勢を正して言葉を継ぐ、ということをこの映画は逐一几帳面にやっています。
戦後の映画では天皇の御名を口にしながらふんぞり返ったままのものがありますが、
ここではテーマがテーマなので、神経質なくらいその表現にはこだわっているようです。

その直後山下奉文が詰め所を訪れ、奉勅命令をあらためて彼らに伝えます。
そして隣のドアをいきなり開けたら、そこには・・・・



じゃ〜ん。(BGMもこんなかんじ)

なんとびっくり、人数分取り揃えられた自決セット一式が。
おいおい、いつのまにこんなものホテル側が用意したって云うのよ。

この自決セットのようなものが手回しよく揃えられていたというのは本当で、
それは事件が集結を見て彼らが武装を解かれ、捕縄がかけられたとき、
白木の棺、白木綿などの用意がされているのを彼らも見たと言うことです。

「死んでもらうのが一番好都合だったのである」(澤地)

ということでしょうか。

この映画は28日の正午と29日の山下訪問での出来事ををあえて混同しています。
28日、栗原中尉は

「反乱部隊将校は自決するから、その代わり自決の場に
天皇陛下から勅使を派遣してもらいたい」

と提案しています。
しかしこれを伝えた武官長は、またしても陛下の峻烈な怒りの御言葉に息を飲むことになります。

「(彼らに)勅使を賜り死出の栄光を賜りたく」

こう伝えた武官長に、陛下は

「自殺するなら勝手に為すべく、この如き者に勅使など以ての外なり」

と切り捨てられたというのです。。
それにしてもなぜ天皇陛下は「余人の誰も見たことが無いほど感情を露にして」
この事件の首謀者を憎まなくてはならなかったのでしょうか。

理由の一つとされているのが、鈴木侍従長が襲われたということで、実は
鈴木の安否を確かめる為に陛下は受話器を取られ、事情を知る所轄交番の
一警官に御自ら容態をお尋ねになっておられるのです。
その警官は最初に電話をかけて来た人物に
「これから日本で一番偉い方がお話しになる」とだけ云われ、その後、自分のことを
『朕』と呼ぶ人物が侍従長の容態を尋ねたので体が震え気が動転したということです。
鈴木の妻が皇室の養育係であったことも、鈴木を特別に気をかけられた要因でしょう。

しかし、このときの御怒りはそれだけの理由にしては畏れながらいささか異常ともいえます。
ここに、秩父宮の存在、つまり「天皇家の兄弟同士の相剋」を見る説があるのです。

このことについて、次回少しお話ししてみたいと思います。

 


さて、映画に戻りましょう。
まず原隊復帰を受け入れた野中四郎大尉が訪れ、

「引き上げようと思う。兵隊がかわいそうだ」

と決心を告げますが、安藤大尉は断固それを拒否します。
安藤大尉は最後まで蹶起には消極的でしたが、一旦事を起こした後は
誰よりも強行に事を完遂することを主張しました。



こんな写真、確か教科書に載っていましたよね?
アドバルーンと言うのが今にして思うと当時の最も分かり易い
メッセージの伝達法であった、ということです。

このとき、戒厳司令部発表の「兵に告ぐ」という放送が流され、
さらに「下士官兵に告ぐ」というビラがまかれました。

下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    二月二十九日   戒嚴司令部



蹶起部隊の将校たちにも動揺と憔悴が見えてきました。



そんな折り、野中四郎大尉が自決したとの報が入ります。
磯部がそれを受けて「兵を帰そう」と言い出しますが、

「俺は最後まで兵と行動を共にする!
維新革命はどうなったんですか!」

と安藤大尉はあくまでも反発します。
実際安藤はこのとき磯部に向かって

「僕は僕自身の意志を貫徹する」

と答えたそうです。
そんな中も戒厳本部からは矢の催促のように

「自決するか、投降するか二つに一つしかない」

などと言ってきます。



ここにいきなり新キャラ登場。

新キャラ「皇軍相打つことだけは避けねばならん」
安藤「陛下は我々に死ねと仰るのですか」
新キャラ「そうだ。今帰れば下士官兵は咎められん」

このとき安藤大尉は「そんなの信用ならん」と言うのですが、
実際その言葉は正しかったのです。

2・26に参加した下士官兵たちはその後もれなく前線に送られ、上からは

「軍機を汚したのだから白骨となって帰国せよ」

などと云われ、満州での戦役そのものが懲罰となっていたという事実があります。
特に安藤隊にいた下士官兵はその殆どが最前線で戦死させられているのです。


この「君一人は死なせはせん。俺も死ぬ」と言っている人物は
おそらく第3連隊付の天野武輔少佐であるという設定かと思われます。
天野少佐もまた、説得失敗の責任をとり、29日未明に拳銃自殺しています。




そしてついに安藤大尉が第六中隊の下士官兵を集めます。



「皆はこの中隊長を信じてよく付いて来てくれた。
満州に行っても体を大切にしてしっかりご奉公してくれ」

安藤は大勢が決したと知ったとき、一度自決を図っていますが、
そのときは磯部に羽交い締めにされて止められています。
磯部は安藤を「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と説得し、
その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうとしますが、第6中隊の結束は固く、
全員が安藤大尉と一緒に死ぬつもりであったということです。

しかしその安藤大尉がついに決断したのです。



安藤大尉は最後の訓示を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じました。
この映画では、彼らのテーマソングでもあった「昭和維新の歌」が歌われます。

曲が


映画では歌が続く中、一人ホテルの部屋に入り、ピストルを発射、
おかしいと思い付いてきた久米兵曹に抱きかかえられ瀕死の状態で遺書を遺す、
となっていますが、実際の安藤大尉は歌の終了と同時に発砲しています。




続く
 





 

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